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◆フィアット(Fiat)G.18旅客輸送機
写真(上)1936-1937年頃、イタリア、完成したばかりのフィアット(FIAT) G 18旅客輸送機
:垂直尾翼と胴体には国籍マークは描かれていない。男性1人が眺めているが、当時としては大型機であった。
Fiat G.12, transport. (Regia Aeronautica Photos).
写真は, Alchetron.com ~ Free Social Encyclopedia for the World Alchetron Fiat G.18引用。



写真(上)1936-1937年頃、イタリア、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属のフィアット(FIAT) G 18旅客輸送機(I-ENEA?)
:垂直尾翼にも胴体にも国籍マークはないが、イタリア航空(ALI)所属は描かれている。
Fiat G.12, transport. (Regia Aeronautica Photos).
写真は, Military History Books Italian Warplanes of the Second World War (Regia Aeronautica), Fiat to Macchi引用。


1.フィアット(Fiat)G. 18 双発旅客輸送機


写真(上)1935-1936年頃、イタリア、フィアット(FIAT) G 18輸送機(I-ENEA):
:垂直尾翼にも胴体にも国籍マークもイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属も何も描かれていないので試作機のようだ。
Fiat G.12, transport. (Regia Aeronautica Photos).
写真は, Military History Books Italian Warplanes of the Second World War (Regia Aeronautica), Fiat to Macchi引用。



写真(上)1936-1937年頃、イタリア、フィアット(FIAT) G 18輸送機(I-ENEA?)
:垂直尾翼にも胴体にも国籍マークはないが、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属は描かれている。男性1人が眺めているが、当時としては大型機であった。
Fiat G.12, transport. (Regia Aeronautica Photos).
写真は, Military History Books Italian Warplanes of the Second World War (Regia Aeronautica), Fiat to Macchi引用。


写真(右)1935年10月12-28日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、完成したばかりの新鋭フィアット(Fiat)G. 18 輸送機試作機:機首に”FIAT G. 18”と黒で記入されている。胴体下面には展示説明看板が置かれている。胴体左側面の昇降口にタラップが掛けられている。降着装置の支柱などの構造は、ダグラスDC-2/DC-3輸送機に酷似している。1935年3月18日初飛行で、生産数9機のみ。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/10/1935 - 28/10/1935
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo passeggeri Fiat G 18
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1935_SA_62 引用。


毎年恒例のイタリア、ミラノ・航空展示会が、1935年10月12-28日,開催された。そのフィアット社セクションには、ジュゼッペ・ガブリエッリ(Giuseppe Gabrielli)技師の設計で1935年3月18日に初飛行したばかりの新鋭機フィアット(Fiat)G. 18 輸送機試作機が展示された。その胴体下面に置かれた新鋭機の展示説明看板には、G.18の諸元が記入されている。また、18座席ある客室を見学できるように、胴体左側面の昇降口にタラップが掛けられて、見学者が内部を除くことができるように配慮されている。G,18の引込み式ゴム主輪と支柱など降着装置の構造は、アメリカのダグラスDC-2/DC-3輸送機に酷似している。しかし、G.18は9機しか生産されなかった。

写真(右)1935-1940年頃,イタリア、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属のフィアット(Fiat)G. 18 双発旅客輸送機(I-ENEA):フィアット A.59空冷星形9気筒エンジン750hpを搭載した初期型。
Fiat G-18 Manufacturer: Fiat Designation: G-18.
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00079165引用。


フィアット(Fiat)G. 18 双発旅客輸送機は、フィアット(Fiat)A.59空冷星型9気筒エンジン700 hp (522 kW) (排気量27.7 L)2基を搭載した双発輸送機で、アメリカのダグラスDC-2と外見が似ている。1937年2月26日に初飛行したが、発動機の出力が低かったため、換装してフィアットA.80空冷星型14気筒エンジン 1,000 hp(750 kW)(排気量45.72L)2基を搭載した発展型G.18Vが作られ、性能は上々だった。しかし、初期型G.18は3機、発展型G.18Vも6機が製造されただけで、少数が使用されただけだった。ただし、1943年年のイタリア降伏後も残った機体が使用されている。


写真(右)1935-1940年頃,イタリア、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 双発旅客輸送機(I-ETNA)
:フィアット(Fiat)G. 18の空冷星形9気筒エンジンを搭載した初期型は3基製造された。機体の胴体側面には9個のガラス窓が並んでいるが、主翼にも胴体にも国籍記章が描かれていない。
Italiano: Fiat G-18 con marche I-ETNA, numero si serie 3, della ALI Avio Linee Italiane; il velivolo compì il primo volo nel 1935 e rimase distrutto in un incidente di prova presso Milano il 16 novembre 1942 Date 18 September 2007, 18:13:46 Source Own work Author Paolobon140
写真はWikimedia Commons, Category:Fiat G.18 File:Fiat G-18 I-ETNA.jpg引用。


1935年3月18日に初飛行したフィアット(Fiat)G. 18旅客輸送は、乗客18座席のアメリカ製ダグラスDC-2輸送機のライバルである。発動機は、当初、フィアット(Fiat)A.59空冷星型9気筒エンジン700 hp (522 kW) (排気量27.7 L)2基を搭載し、3機が製造された。後期型G. 18 Vは、発動機をフィアット A.80 空冷星型14気筒エンジン 1,000 hp(750 kW)(排気量45.72L)2基に換装、出力を向上させたが、これがフィアット(Fiat)G. 18 V輸送機である。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送とイタリア空軍のフィアットBR.20爆撃機(手前の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機:まだユンカースJu-86K爆撃機は到着していない。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_560引用。


イタリア航空(Avio Linee Italiane:ALI)は1926年ミラノで設立、1928年5月に、ローマ=ミュンヘン間の運行を開始した。そして、1931年にはローマ=ベルリンの航路を開いた。運航を開始した運航を始めた。1938年には、ヴェネチア=ミラノ=ツリン=パリ=ロンドン (Venice-Milan-Turin-Paris-London)の国際航路を運航した。1939年のイタリア航空(Avio Linee Italiane:ALIの保有機数は、合計16機で、アメリカ製ダグラスDC-2 (I-EROS)が1機、フィアット(Fiat)G.18/G.18Vが6機,サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)S.73三発輸送機6機である。1952年末廃業。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送とイタリア空軍のフィアットBR.20爆撃機(手前の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機(中央上のファシスト国籍記章):中央奥には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_574 引用。


フィアット(Fiat)G. 18旅客輸送機は、ジュゼッペ・ガブリエッリGiuseppe Gabrielli)技師の設計でフィアット(Fiat)A.59 空冷星型9気筒エンジン[Pratt & Whitney R-1690 Hornet]750hpを装備した原型で3機製造された。その後、出力不足と判断され、発動機を強化したフィアットG.18Vは、フィアット(Fiat)A.80 空冷星型18気筒エンジン1,000 hp(750 kW )を装備し、6機が製造された。全金属製低翼機、引込み式降着装置を装備し、ダグラスDC-2に匹敵する斬新なデザインだった。フィアット(Fiat)G. 18輸送機は、イタリアの航空機開発技術水準の高さを示した。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(ION)とイタリア空軍フィアットB.50戦闘機(右上):フィアット(Fiat)G. 18 双発輸送機は、1935年3月18日初飛行で、生産数9機のみ。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo Fiat G 18 V delle Avio Linee italiane; in posizione sopraelevata aereo da caccia Fiat G 50
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_212引用。


イタリア空軍フィアットG.50戦闘機も、G.18輸送機と同じジュゼッペ・ガブリエッリGiuseppe Gabrielli)技師の設計になる。G.50戦闘機は、フィアット(Fiat)A.74 RC38空冷星形14気筒エンジン840hp (618 kW)搭載、1937年2月26日に初飛行する。1937年10月2-17日,ミラノ航空展示会に出品された時期には、試作機はあっても、初飛行前だったことになる。生産期間は1935–1943年で、683機が量産された。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(ION)とイタリア空軍フィアットG.50戦闘機(右上): br>Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo Fiat G 18 V delle Avio Linee Italiane
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_253引用。


1938年、ドイツは、チェコスロバキアのズテーテン割譲を要求し、英仏は戦争回避のために、ミュンヘン協定を結んで、チェコの犠牲の上に戦争を避けることができた。しかし、軍事力を増強し、周辺地域に勢力圏を拡張していたドイツは、英仏との対立を強め、依然として戦争の勃発のリスクが高かった。当時のイタリアの弱点は、大スト政権による国内統一によ拘わらず、軍事力が脆弱なことで、ドイツに比して空軍力は5分の1、工業生産力は12分の1の水準で、海軍力だけがドイツの2倍の水準で上回っていた。

イタリアは世界大戦の準備ができておらず、参戦するには軍備を増強する3年から5年の基幹の平和が必要だった。そこで、1939年5月22日のドイツとの軍事同盟、いわゆる鋼鉄条約を結んだ。これによって、ドイツの軍事力を背景に防衛力を育成し平和をしばらく続けようと企図したのである。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(ION)とイタリア空軍のフィアットBR.20爆撃機(左の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機(中央上のファシスト国籍記章):中央奥には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo Fiat G 18 V delle Avio Linee italiane; in posizione sopraelevata aereo da caccia Fiat G 50
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, 引用。


しかし、世界市場に売り込むにはフィアット(Fiat)G. 18 V輸送機の信頼性、価格が制約となったようで、アメリカ製ダグラスDC-2のように世界各国から発注を受けることはできなかった。生産機数は、フィアット(Fiat)A.59 空冷星型18気筒エンジン700 hp 搭載のG.18が3機、フィアット(Fiat) A.80 空冷星型18気筒エンジン1,000 hp搭載のG.18Vが6機、合計9機にとどまった。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送(左奥)、イタリア空軍のフィアットBR.20爆撃機(右奥の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機(中央上):右端には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)の左翼。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,P_1937_SA_297引用。


フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送は、原型の発動機フィアット(Fiat)A.59.空冷星型14気筒エンジン[(プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1690 ホーネット(Hornet)空冷星型18気筒エンジン]を換装してフィアット(Fiat) A.80 空冷星型18気筒エンジン(18-cylinder)1,000 hp (745 kW)に強化した。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送の左翼エンジンとイタリア空軍のフィアットB.50戦闘機、右奥のフィアットBR.20爆撃機(双尾翼):中央奥には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Note: In secondo piano, in posizione sopraelevata, l'aereo da caccia Fiat G 50 Misure: 18 x 24
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_354引用。


フィアット(Fiat)G. 18旅客輸送機の発動機プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)(R-1690 ホーネット(Hornet)空冷星型18気筒エンジン)を国産化したフィアット(Fiat)A.59 空冷星型18気筒エンジンを搭載した。

しかし、出力不足のため、フィアット(Fiat) A.80 空冷星型18気筒エンジンに強化・換装した発展型がフィアット(Fiat)G. 18 V輸送機である。G.18Vは、最高速力400 km/h (250 mph)、乗客用18席、航続距離:1,675 km (1,041 マイル)の高性能機で、アメリカのダグラスDC-2輸送機と比較しても遜色のない性能だった。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送(ION)と新生ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(輸送機)(D-ADAA):右奥のユンカースJu-86は、1934年11月4日初飛行で.1935年から1939年までに900機が量産された。Ju-86Kは、輸出仕様なので、アメリカ製プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1690ホーネット(Hornet)空冷星形9気筒エンジン740hp(排気量27.7L)2機を装備している。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo Fiat G 18 V delle Avio Linee Italiane
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_266引用。


ドイツは、 ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニBenito Amilcare Andrea Mussolini)の仲介で、1938年、ミュンヘン協定によって、英仏からズテーテン角上の合意を取り付けた。イタリアのベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)は、1938年のミュンヘン会談で英仏とドイツの調停役を果たしたのである。

しかし、その後も、ドイツ総統ヒトラーは、世界新秩序確率を目指し、ポーランドに対するダンチヒ回廊の領土要求や民族同一人の保護の要求を武力を背景に行った。これは平和ではなく、戦争覚悟の武力威嚇の外交であり、第二次欧州大戦の再来が危惧された。ヒトラーは、ミュンヘン協定で1938年10月にチェコスのズデーテン地方を併合したが、そだけでは満足せず、カルパティア・ルテニアのチェコ分離運動を煽動し、1939年3月にはドイツ軍を進駐させ、チェコ全土を併合してしまう。

イタリアのベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)が、1938年のミュンヘン会談で英仏とドイツの調停役を果たしたにも拘わらず、それを反故にするヒトラーのチェコ併合、それに続くポーランドへのダンチヒ併合など強硬な要求は、ムッソリーニを怒らせた。ムッソリーニは、1939年8月9日、娘婿の外務大臣チャーノに「戦争を局地的なものに限定することはもはや不可能であり、全面戦争がはじまれば、あらゆるものにとって壊滅的なである」と語り、8月11日、チャーノをドイツ外務大臣リンベントロップ、ついでヒトラーの下に派遣し、ポーランド侵攻に反対であることを伝えさせた。


写真(右)1936-1940年頃,イタリア、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ELIO)
:機体の胴体側面には9個のガラス窓が並んでいるが、主翼にも胴体にも国籍記章が描かれていない。
Description Avio Linee Italiane Fiat G.18
Date 1935 Source Giuseppe Gabrielli
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Fiat G.18 File:Fiat G.18 I-ELIO.jpg引用。


しかし、ムッソリーニとチャーノを待っていたのは、1939年8月23日の独ソ不可侵条約の調印だった。ドイツは、ソ連との不可侵条約によって、ポーランドを片付ければ東西に二正面作戦を心配することなく、戦争を進めることができるようになった。


写真(右)1939年6月,ポーランド、ワルシャワ飛行場、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ELIO)
:ポーランド北部グダニア(Gdynia:グダニスク)=ローマ航路の開業前、ワルシャワ空港でテスト飛行中のフィアット(Fiat)G. 18 。
Description Avio Linee Italiane Fiat G.18
Date 1935 Source Giuseppe Gabrielli
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Fiat G.18 File:Samolot włoski na lotnisku w Warszawie (1939).jpg引用。


1939年大戦勃発4か月前の1939年5月22日の鋼鉄条約は、民主主義国の英仏・米だけでなく、共産主義国のソ連をも牽制するファシスト全体主義国家の安全保障の意味があった。しかし、1939年8月23日の独ソ不可侵条約によって、ソ連ではなく、次の敵として、英仏との戦争が大きく懸念されるようになった。イギリスは1939年8月25日、予定通り、ポーランドとの軍事防衛協定を締結し、ヒトラーはこの日、ムッソリーニにポーランド侵攻を決意したことを伝えてきた。

1939年の第二次世界大戦勃発直線、ムッソリーニは、イタリアの戦争準備ができていなことを口実に、ドイツとポーランドとの局地戦争であれば、イタリアからドイツへの経済援助は可能であるが、英仏も含めた欧州大戦に発展した場合、英仏とイタリアとの戦争開始が懸念されるために、ドイツに対する軍事援助はできないことと返答した。実際、ファイスと党幹部もイタリア国民も多くは、第二次欧州大戦が勃発しても、イタリアは参戦しないことを望んでいたのである。

写真(右)1940年10月,第二次大戦参戦2カ月前、イタリア、ミラノ・航空展示会で、フィアット社セクションに展示の準備をするイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ENEI)
Fiera di Milano - Campionaria 1940 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Lavori di allestimento Non identificato
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 1940
Misure: 9 x 12
Note: Alcuni operai lavorano all'allestimento dell'aereo Fiat G. 18 V. delle Avio Linee Italiane S. A. nell'area espositiva all'aperto della Fiat in piazza Italia
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, N_LS_1936-1946_298引用。


フィアット(Fiat)G. 18 V輸送機の諸元
乗員:3名+乗客18名
全長:18.81 m (61 ft 9 in)
全幅:25.00 m (82 ft 1 in)
全高:5.01 m (16 ft 5 in)
主翼面積:88.3 m² (950 ft²)
空虚重量:7,200 kg (15,900 lb)
全備重量:10,800 kg (23,800 lb)
発動機:フィアット(Fiat)A.80 RC.41空冷星形18気筒エンジン 750 kW (1,000 hp)3基
最高速力:400 km/h (250 mph)
実用上昇限度:8,700 m (28,600 ft)
航続距離:1,675 km (1,041 miles)
上昇率:4.8 m/s (944 ft/min)

写真(右)1940年4月12-27日,第二次大戦参戦2カ月前、イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクションに展示準備をしているイタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ENEI):エンジンには保護カバーは掛けられていない。
Fiera di Milano - Campionaria 1940 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Folla di visitatori
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1940 - 27/04/1940 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 13 x 18
Note: Alcuni operai lavorano all'allestimento dell'aereo Fiat G. 18 V. delle Avio Linee Italiane S. A. nell'area espositiva all'aperto della Fiat in piazza Italia.
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, N_LS_1936-1946_299引用。


中東地域は、第一次大戦に戦勝国として進出してきた大英帝国の威光が及び、エジプトを保護領とし、整地エルサレム、スエズ運河と航海からインド洋への出口にあたるイギリス領ソマリランドを支配しており、国際的な影響力も大きかった。しかし、イタリアも、エジプト隣国のリビア、紅海からインド洋に出るエリトリアとソマリアを植民地とし、1935年10月にはエチオピア(アビシニア)に侵攻し1936年5月にはイタリア遠征軍総司令官ピエトロ・バドリオが首都アディスアベバを占領ている。そして、占領したエチオピアとイタリア領エリトリア・ソマリランドを合わせて、東アフリカ帝国が設立され、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世が東アフリカ帝国皇帝であることを世界に宣言した。

写真(右)1940年4月12-27日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ENEI):イタリアが参戦する2カ月前なので、民間国際航路も広範囲に就航していた。
Fiera di Milano - Campionaria 1940 - Area espositiva all'aperto della Fiat
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1940 - 27/04/1940 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 13 x 18
Note: L'area espositiva all'aperto della Fiat in piazza Italia con visitatori. Al centro l'aereo Fiat G. 18 V. delle Avio Linee Italiane S. A.
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1935_SA_93引用。


1939年9月1日に第二次世界大戦が、ドイツがポーランドに侵攻し、それを契機に、9月3日、英仏がドイツに宣戦布告して第二次欧州大戦がはじまった。当初、イタリアは、1939年5月22日のドイツとの軍事同盟、いわゆる鋼鉄条約を結んでおり、ドイツと行動を共にし、参戦するのではないかとの観測もあった。しかし、ムッソリーニは、英仏がイタリアを攻撃することはないと確信し、バルカン半島のユーゴスラビア、アルバニア、ギリシャに対するイタリアの影響力を保持したがった。また、英仏と戦っているドイツは、中立国イタリアがあってこそ資源エネルギーを輸入できるのであり、英仏によるドイツ包囲は、イタリアのために不完全なものであった。つまり、中立国イタリアは、ドイツにとっても、英仏にとっても味方にしたい国であり、国際政治上のムッソリーニ優位性が際立っていると考えられていた。

写真(右)1940年4月12-27日,第二次大戦参戦2カ月前、イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ENEI):フィアット(Fiat)G. 18 双発旅客輸送機は、1935年3月18日初飛行で、生産数9機のみ。
Fiera di Milano - Campionaria 1940 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Folla di visitatori Non identificato
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1940 - 27/04/1940
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 13 x 18
Note: Note: Folla di visitatori nell'area espositiva all'aperto della Fiat in piazza Italia. Al centro l'aereo Fiat G. 18 V. delle Avio Linee Italiane S.A..
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, N_LS_1936-1946_215引用。


イタリアのファシスト独裁政権の首相ベニート・ムッソリーニは、1939年9月に勃発した第二次世界大戦に1940年6月8日に参戦し、フランスを攻撃した。イタリアは、1940年5月のドイツによるフランス侵攻で、フランスが降伏する直前の1940年6月8日にイタリアは参戦し、フランスに勝利した戦勝国として、フランスの占領の利益を確保しようとした。

1940年6月8日、第二次大戦が勃発し、フランスがドイツに降伏する直前、ベニート・ムッソリーニは、娘婿で外務大臣チアーノ伯爵と一緒に、ミュンヘンに到着、アドルフ・ヒトラーと戦争の行く末について話し合った。西側連合国との戦争が始まっても、参戦していなかったイタリアの立場は、狡猾な外交と評価された一方で、戦争のできないファシストとして評判を下げてしまったと考えた。

写真(右)1940年4月12-27日,第二次大戦参戦2カ月前、イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ENEI):看板には「ファシストALI航空は世界を繋ぐ」とある。フィアット(Fiat)G. 18 双発旅客輸送機の初飛行は、1935年3月18日、総生産機数9機。
Fiera di Milano - Campionaria 1940 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Folla di visitatori
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1940 - 27/04/1940 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 13 x 18
Note: L'area espositiva all'aperto della Fiat in piazza Italia con visitatori. Al centro l'aereo Fiat G. 18 V. delle Avio Linee Italiane S. A.
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1940_316引用。


第二次大戦は1939年9月に勃発していたが、イタリア参戦は1940年6月でまだ中立国だった。1940年4月12-27日,イタリア、ミラノ・航空展示会は、中立国で平和だったイタリア最後の航空祭典だった。航空展では、フィアット社セクションに、イタリアフィアット社運航になるイタリア航空(Avio Linee Italiane:ALI)所属フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ENEI)が広場に展示された。展示広場の背後の大看板には「ファシストALI航空は世界を繋ぐ」と書かれていた。そして、拠点ローマから北アフリカ、バルカン半島を繋ぐ国際航路が、平時の偉業として、誇らしく図解されていたのである。

写真(右)1940年4月12-27日,第二次大戦参戦2カ月前、イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機(I-ENEI):エンジンには雨水や埃が入らないように保護カバーが掛けられている。子連れの婦人(左端)が見学に来ているが、子連れは珍しい。フィアット(Fiat)G. 18 双発旅客輸送機は、1935年3月18日初飛行で、生産数9機のみ。
Fiera di Milano - Campionaria 1940 - Area espositiva all'aperto della Fiat - Folla di visitatori
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1940 - 27/04/1940 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 13 x 18
Note: L'area espositiva all'aperto della Fiat in piazza Italia con visitatori. Al centro l'aereo Fiat G. 18 V. delle Avio Linee Italiane S. A.
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1940_317引用。


1939年9月から1940年4月まで、英仏独は大戦争の最中で、いくら「ファニーウォー」「座り込み戦争」とはいっても、ノルウェー戦や海上交通破壊戦のような激しい戦いもあった。つまり、中立国のイタリアは、英仏にもドイツにも貸しを作ることができる外交上優位な地位にあったといえる。1940年4月12-27日,第二次大戦参戦2カ月前、イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクションのG.18旅客輸送機の展示場所では、巨大な看板にローマを拠点にした空路が図解され、平時の民間航空の発達がよくわかる。

イタリアは、第二次世界大戦に参戦せず、中立を保持し続け、戦争をやり過ごすことができたであろうか。もし中立のままであれば、スペインのフランコ・ファシスト政権と同じく、イタリアのムッソリーニ(60歳)・ファシスト政権もさらにさらに長続きしたかもしれない。

ムッソリーニは、戦闘的ファシストとして、盛んにイタリアの国威発揚、戦争を辞さない強い精神力をイタリア国民に求めてきたにも拘わらず、戦争に怯えているのかと疑われ、屈辱的な思いをしていた。ドイツの西方侵攻で1940年6月初旬にフランスが大敗北する中で、ムッソリーニは、ドイツに大打撃を受けたフランスに侵攻し、その降伏を要求し、フランス南部を占領しようとした。しかし、フランス軍の抵抗のために、進撃は停止してしまった。そこで、ヒトラーに頼み込んで、フランスに対する過大な領土要求をしたのである。これを求めるために、ムッソリーニは、戦闘に勝利したヒットラーに会いに出かけた。

写真(右)1943-1944年頃,イタリア、無条件降伏後、連合国側で戦ったイタリア王立空軍所属のサボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-82(Canguro:Kangaroo)三発輸送機:イタリア三色旗トルコローレの緑、白、赤の同心円の国籍マークを描いている。1935年3月18日初飛行で、生産数はわずか9機のみ。
SDASM Archives Fiat G-18V Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


イタリアのバドリオ首相は、1943年9月に連合国側に降伏し、10月にも、同盟国だったドイツに宣戦布告した。そして、裏切ったイタリア王国空軍は、古いファッシの国籍記章を廃止し、イタリア三色旗トルコローレを模した緑、白、赤の同心円を国籍マークとして採用した。しかし、戦後イタリアの国民投票が実施され、イタリア王政は廃止され、国王・皇太子は国外追放されてしまう。イタリア国王は、戦争の惨禍は全てファシスト政権、ムッソリーニも責任であるとみなしたが、イタリア国民は、ファシストに政権を任せ、ムッソリーニを首相に任命した国王の仕業を放免しなかった。

アメリカのダグラス(Douglas)DC-2輸送機は、全金属製、引込み脚式降着装置を備え低翼式で、1934年5月11日に初飛行した。1年後、1935年3月11日初飛行のイタリアのG.18輸送機は、アメリカで1年前に開発されたDC-2と前後反対の低翼形状(空力学的には同様の効果がある)、同じ構造の引込み式降着装置と尾翼を備え、スケールも似ている。フィアットG.18は、このダグラスDC-2輸送機の技術を取り込んで開発されたイタリア機であると考えられる。

写真(右)フィアット(FIAT) G 18輸送機のコクピット操縦席:複列式操縦輪、舵を操作するフットペダル、計器盤が並んでいる。
English: Cockpit of the Fiat G.18 Српски / srpski: Пилотска кабина авиона Фиат G.18 Date 13 September 2018, 13:33:42 Source www.airwar.ru/image /idop/cww2/g18/g18-17.jpg Author anonimus.
写真は Wikimedia Commons, Category:Fiat G.18 File:Fiat G.18 cocpit.jpg引用。


飛行機の操縦桿を押せば、昇降舵(elevator)が動いて下に、引けば上に機体は動く。ただし、ハンドル(ステアリング)式の操縦桿なので、垂直尾翼の方向舵(rudder)にも連動している。操縦席の下にはペダルは、垂直尾翼の方向舵に連動していて、機体を左右に動かすものである。

写真(右)1935-1939年頃、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機の正操縦席(左側)の左脇の操作盤:双発機などで2個1組の操作レバーと計器が付いている。
Fiat G-18V Manufacturer: Fiat Designation: G-18V Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives  San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00079164引用。


計器盤には、機体の状態を示す水平儀、方向指示器、旋回計、速力計、高度計、発動機の状態を示す回転計、出力調整ブースト、燃料の状態を示す燃料計、降着装置の操作レバーなどがある。複式操縦の場合は、主要計器は左右の正操縦士と副操縦士に別々に設置されている。ただし、水平儀ジャイロなど効果で大型の計器は1個で、複式操縦の場合は正副操縦士の共用になる。

写真(右)フィアット(FIAT) G 18輸送機のキャビン客室:通路を挟んで両側に9席、合計18席が並んでいる。すべての客席には、ガラス窓が付いている。
English: Passenger cabin of the Fiat G.18 Српски / srpski: Путничка кабина авиона Фиат G.18 Date 13 September 2018, 13:32:29 Source www.airwar.ru/image/ idop/cww2/g18/g18-16.jpg Author anonimus
写真は, Alchetron.com ~ Free Social Encyclopedia for the WorldCategory:Fiat G.18 File:Fiat G.18 kab.jpg引用。


フラップは、揚力を高めるために、主翼から開いて空気の流れを主翼の上下で調整する動翼である。主翼後縁のフラップを下げることで揚力が高まる。主翼には、エルロン、フラップ、スポイラーといった動翼が取り付けられている。また、水平尾翼には昇降舵(エレベーター)が取り付けられている。

図(右)イタリア空軍フィアット(FIAT) G 18輸送機の塗装:軍用仕様の迷彩塗装を施している。
Fiat G.18 Updated on Sep 03, 2022 Sign in Top speed 400 km/h Length 19 m Wingspan 25 m Designer Giuseppe Gabrielli.Aerobatics with a fiat g 18 v in flight simulator fs9 The Fiat G.18 was an Italian airliner developed in the mid-1930s. G.18 - original version with Fiat A.59 engines (3 built) G.18V - revised version with Fiat A.80 engines (6 built)
写真は, Alchetron.com ~ Free Social Encyclopedia for the World Alchetron あるいはAerobatics with a fiat g 18 v in flight simulator fs9 引用。


図(右)フィアット(FIAT) G 18輸送機の三面図:客席9座席左右2列18席分の窓ガラスがついている。飛行機旅行の楽しみは、空からの眺めだった。当時の飛行機の運用高度は、数千メートルなので、街並み、田園、山岳地、海岸など空からの景色は、旅客輸送に重要だった。胴体が箱形なのは、内部構造の余裕と使いやすさのためである。
English: Drawing of the Fiat G.18 plane in 3 projections Српски / srpski: Цртеж авиона G.18 у 3 пројекције Date 9.9.1936. Source www.airwar.ru/ image/idop/cww2 /g18/g18-1.gif Author anonimus
写真は Wikimedia Commons, Category:Fiat G.18 File:Fiat G.18 drawing.gif引用。


ダグラス(Douglas)DC-2フィアット(Fiat)G. 18 Vの比較
初飛行 1934年5月11日 1935年3月11日
全長: 19.1 m  18.81 m
全幅: 25.9 m  25.00 m
全高: 4.8 m  5.01 m
主翼面積: 87.3m2  88.3 m2
空虚重量: 5,650 kg  7,200 kg
総重量: 8,420 kg  10,800 kg
発動機:ライトR-1820サイクロン空冷星型9気筒(29.88 L)  フィアットA.80空冷星型18気筒(45.72 L)
出力: 730 hp (540 kW)  1,000 hp(750 kW)
最高速力: 338km/h  400 km/h
実用上昇限度: 6,930 m   8,700 m
航続距離: 1,750 km  1,675 km
乗客座席数: 14人  18人
生産機数: 198機  9機


2.DC-2原型ダグラス(Douglas)DC-1 輸送機

写真(右)1934-1939年前半、トランス・ワールド航空 (Trans World Airlines: TWA)ダグラス(Douglas)DC-1 輸送機(NC-C223Y):ダグラス(Douglas)DC-1試作機は、DC-2 輸送機の原型となった。実際にはDC-1とDC-2は同一機体の改造型といってよかった。
Douglas, DC-1 Title: Douglas, DC-1 Corporation Name: Douglas Aircraft Designation: DC-1 Tags: Douglas, DC-1 Additional Information: USA, Prototype developed into the DC-2 & 3.
写真は, SDASM Archives  San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00091384引用。


ダグラス(Douglas)DC-1輸送機は全金属製、低翼の旅客機で1933年7月1日に試作機が初飛行した。DC-1は、引込み式脚の降着装置で、ライト(Wright)ライト・サイクロン Wright R-1820-F3 サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒星型エンジン690 hp (510 kW)2基装備、12座席の旅客機で生産機数は1機のみである。

ダグラス(Douglas)DC-1は初飛行を1933年7月1日に成功させ、その後の試験飛行や改修作業が行われた。しかし、当時の世界の航空会社の主力旅客輸送機は、フォード トライモーター、ロッキード双発輸送機などアメリカ製が多かった。そこで、ダグラス社も世界の航空会社に対するDC-1/DC-2輸送機を喧伝し、売り込みを図った。イタリアのフィアット(Fiat)G. 18 Vの開発にも影響を与えたと考えられる。

ダグラス社は新型機DC-1の売り込みのために、DC-1/DC-2輸送の実機を使ったデモンストレーション飛行を行った。このようなDC-1のような金属製の斬新な巨体が軽々と飛翔する様子は格好の宣伝材料になったといえる。また、DC-1によるアメリカ大陸横断飛行も行われ、13時間5分の記録を作った。こうして、アメリカのトランス・ワールド航空は、エンジン出力の向上、搭乗客数の2席増員の注文を付けて、DC-1/DC-2を20機発注した。このTWA仕様DC-1改修型がDC-2と、新しい名称で新型機として登場したのである。

⇒写真集Album:ドイツダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機を見る。


3.フィアットG.18お手本ダグラス(Douglas)DC-2輸送機

写真(右)1935年、スイス西部上空、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港からロンドンに向かうスイス航空(Swissair )のダグラスDC-2(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITE)
Douglas DC-2 115-B, HB-ITA im Flug über dem Sundgau bei Mooslargue und Pfetterhouse, Dépt. Haut-Rhin, Blick nach Südwesten (SW) Photographer Swissair Dating 1935 Caption Links unten: Ortsteil Niederlarg von Mooslargue, rechts oben vor Flugzeugspitze: Pfetterhouse, über dem Flugzeug in der Ferne: Bonfol, Vendlincourt und Porrentruy in der schweizerischen Ajoie, diagonal von links der Mitte nach rechts unten: Flüsschen la Largue. Scheint anlässlich eines Fluges nach London entstanden zu sein Format: 2,4 x 3,6 cm
写真は, ETH-Zürich Metadata for image LBS_SR01-00184 引用。


アメリカの航空会社トランス・ワールド航空 (Trans World Airlines: TWA) は、DC-1に満足したが、エンジン出力向上、機体延長による2座席増の14座席の確保を要求し、この仕様で20機を発注した。そこで、ダグラス社はDC-1を原型に若干の回収を施し、これを新鋭機DC-2と命名して、生産した。したがって、DC-2 輸送機も、全金属製、低翼、引込み式脚の降着装置の旅客輸送機であり、胴体が延長され、発動機も同じライト・サイクロン Wright R-1820-F52 サイクロン(Cyclone) 710 hp (652 kW)搭載で、1934年5月11日に試作機が初飛行した。フィアット(Fiat)G. 18 Vは、その1年後の初飛行で、エンジン出力は向上されている。

写真(右)1935年、スイス西部上空、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港からロンドンに向かうスイス航空(Swissair )のダグラスDC-2(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITE)
Douglas DC-2 115-B, HB-ITA im Flug über dem Sundgau bei Mooslargue und Pfetterhouse, Dépt. Haut-Rhin, Blick nach Südwesten (SW) Photographer Swissair Dating 1935 Caption Rechts der Mitte: Pfetterhouse, leicht links über Mitte: Bonfol in der schweizerischen Ajoie, vom linken Rand unter der Mitte nach rechts unten: Flüsschen la Largue. Scheint anlässlich eines Fluges nach London entstanden zu sein Physical Description Fotografie : Nitratnegativ Square Format: 2,4 x 3,6 cm Colour schwarz/weiss
写真は, ETH-Zürich Metadata for image LBS_SR01-00182 引用。


写真(右)1935年7月8日、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機のコックピットの計器盤と複式操縦桿
Photographer Walter Mittelholzer (1894–1937) Blue pencil.svg wikidata:Q562310 Title Cockpit einer Douglas DC-2 der Swissar Date 8.7.1935 Is Part Of: Flug London, 8.7.1935. Reportage mit 63 Bildern Medium Fotografie : Negativ Dimensions 2,4 x 3,6 cm Collection ETH Library
写真は, ETH Library Record Name: LBS_MH02-43-0060 およびWikimedia Commons Category:Douglas DC-2 File:ETH-BIB-Cockpit-Weitere-LBS MH02-43-0060.tif引用。


写真(右)1935年7月8日、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機のコックピットの複式操縦桿と足元のフットペダル(方向舵操作)
Photographer Walter Mittelholzer (1894–1937)
Title: Cockpit einer Douglas DC-2 der Swissar
Dating: 8.7.1935
Is Part Of: Flug London, 8.7.1935. Reportage mit 63 Bildern (alle digitalisiert)
Format: 2,4 x 3,6 cm
Availability: Free download and use Copyright Notice: ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv/Stiftung Luftbild Schweiz / Fotograf: Mittelholzer, Walter / LBS_MH02-43-0061 / Public Domain Mark
写真は, ETH Library Record Name: LBS_MH02-43-0061 およびWikimedia Commons Category:Douglas D


ファシスト四天王、ムッソリーニの盟友でリビア総督イターロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥は、1938年にリビアの首都トリポリから30キロにあるこのカルテル・ベニート(を拡張し、軍用飛行場として整備した。そして、民間航路としても、ローマ=マルタ島=トリポリ(Roma - Malta - Tripoli)、ローマ=チュニス=トリポリ(Roma - Tunisi - Tripoli)、ローマ=トリポリ=ベンガジ(Roma - Tripoli - Benghazi)の国際空路が開かれた。

1939年にはローマ=トリポリ(あるいはベンガジ)=カイロ=ハルツーム=アシュマラ=モガディシオ(Roma -Tripoli (Benghazi)- Cairo - Khartoum - Asmara - Addis Ababa - Mogadishu)とエジプト、スーダン、ソマリアまで7000キロの国際航路の経由地にもなった。

写真(右)1934-1945年、ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(SP-ASK)の客室キャビンのエアホステスと乗客:客席7座席左右2列14席で、大きなガラス窓とカーテン付きで乗客の視界も確保されている。上部側面には、乗客用小物収納ネットがあり、その下の通風孔は回転式で風向きを変更できる。
Airhostess Heidi Oberholzer in der Kabine einer Douglas DC-2 der Swissair Date 1934-1945 Format: 6 x 6 cm Flight Attendants, Hostess, Reportage photography, Bord service, Cabin service, Aerodrome Dübendorf
写真は,ETH-Zürich LBS_SR02-10748 引用。


wikipediaでは「DC-2は優秀で近代的な旅客機として世界各国の市場から高く評価されたが、これをベースに機体サイズを拡大した後続モデルのDC-3が輸送力の面でDC-2以上の大幅向上を達成し、市場のニーズがそちらに移行したため、DC-2の生産数は156機にとどまった。 」とあるが、100機以上生産されれば、当時の航空産業ではベルトセラーに近い成功作である。イタリアのフィアット(Fiat)G. 18 Vは9機、後継機フィアットG.12は30機の生産に留まっている。

写真(右)1934-1945年、ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(SP-ASK)の客室キャビンでワインを準備するエアホステスと乗客:突き当りはWCで右側の丸窓がある部分が乗客の昇降用扉である。乗客の座席頭部にはクッションが用意されている。かつて飛行機旅行の楽しみは、空からの眺めだった。当時の飛行機の運用高度は、数千メートルで、夜間飛行や曇天の飛行はほとんどなく、街並み、田園、山岳地、海岸など空からの景色は、乗客たちの楽しみだった。
Airhostess Heidi Oberholzer in der Kabine einer Douglas DC-2 der Swissair Date 1934-1945 Colour: black and white Orientation: Square Format: 6 x 6 cm Flight Attendants, Hostess, Reportage photography, Bord service, Cabin service, Aerodrome Dübendorf
写真は,ETH-Zürich LBS_SR02-10746引用。


DC-2をアメリカ大陸横断飛行する夜間寝台機として改装する企画が持ち上がったが、客室キャビンに寝台を並列配置するには、胴体幅が狭かった。DC-2の乗客座席は、2列7行の14座席だったからである。そこで、胴体幅を拡張する大きな改造が実施され、DST(Douglas Sleeper Transport)が開発され、1935年12月17日に初飛行した。

写真(右)1935年、イギリス、ロンドン、クロイドン空港(Croydon Airport)、空港ビルを背景にしたスイス航空のダグラスDC-2(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITO) とKLMオランダ航空所属のDC-2輸送機(機登録コード:PH-AKS) (奥):
Douglas DC-2 115-B, HB-ITO und DC-2, PH-AKS (aus Polen) in London "Croydon Airport" Photographer Swissair Dating 1935-1948
Caption Die DC-2-115E mit der Registration PH-AKS gehört der KLM, das Kürzel "PH" in der Immatrikulation bezieht sich auf die Niederlande
Format 2,4 x 3,6 cm Colour schwarz/weiss
Categories ◾Reportagefotografien ◾Sachkatalog > Verkehrsmittel > Luftverkehr > Flugzeugtyp nach Hersteller > Douglas > Douglas DC-2 115-B, HB-ITO
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-02008-15引用。


写真(右)1935-1948年、スイス、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港の空港ビルとスイス航空(Swissair )のダグラスDC-2(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITE)(手前):DC-2は13年間もスイス航空に就航している。
Douglas DC-2 der Swissair am Boden in Dübendorf Photographer Swissair Dating 1935-1948 Caption Douglas DC-2 115-B, HB-ITE, Dübendorf, Aerodrome Dübendorf Physical Description Fotografie : Nitratnegativ Format 6 x 6 cm Colour schwarz/weiss Orientation Quadrat Categories ◾Sachkatalog > Verkehrsmittel > Luftverkehr > Flugzeugtyp nach Hersteller > Douglas > Douglas DC-2 115-B, HB-ITE
写真は, ETH-Zürich Metadata for image LBS_SR01-00120 引用。


写真(右)1935-1948年、スイス、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港の空港ビルとスイス航空(Swissair )のダグラスDC-2(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITE)(手前):DC-2は13年間もスイス航空に就航している。
Douglas DC-2 115-B, HB-ITE am Boden in Dübendorf Photographer Swissair Dating 1935-1948 Caption Douglas DC-2 115-B, HB-ITE, Dübendorf, Aerodrome Dübendorf Format 6 x 6 cm Quadrat Categories ◾Sachkatalog > Verkehrsmittel > Luftverkehr > Flugzeugtyp nach Hersteller > Douglas > Douglas DC-2 115-B, HB-ITE
写真は, ETH-Zürich Metadata for image LBS_SR01-00122 引用。


DST(Douglas Sleeper Transport)は、寝台14名分を二段ベットとして2列14寝台を配置した。DSTは、アメリカン航空で1936年6月25日に就航した。そして、DSTの寝台を乗客座席に変更したのがDC-3輸送機で、座席配置は3列7行21座席を確保することができた。DC-3輸送機もアメリカン航空によって採用され1936年9月に就航したのである。

写真(右)1935-1939年、スイス連邦、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港、スイス航空所属ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機(機体コード:115-B, 登録コード:HB-ITA)
Photographer: Swissair Douglas DC-2 115-B, HB-ITA am Boden in Dübendorf
Caption: Zeitgenössische Bildbeschreibung des Swissair-Marketings: "Im Hintergrund das Verwaltungsgebäude Dübendorf mit Restaurant"
Dating: 1935-1939 Is Part Of: Keuchhustenflüge, 1939-1944.
Douglas DC-2 115-B, HB-ITA, Dübendorf, Aerodrome Dübendorf
Impressum: Physical Description: Photography : nitrate-negative
Colour: black and white Orientation: Square Format: 6 x 6 cm
写真は, ETH-Zürich Record Name LBS_SR01-00123 引用。


DC-3は、DC-2の拡張型で、胴体幅が若干拡大され座席数は14席から21席に5割も増加したが、技術的にはDC-2と変わりがなく、燃費と製造コストはそれほど悪化しなかった。つまり、旅客機の乗客さえ確保できれば、DC-2よりもDC-3の方が経済効率が高く、収益を上げることができた。こうして、DC-3輸送機は、戦前から1941年6月の太平洋戦争勃発までに、アメリカのTWA、ユナイテッド航空、イースタン航空、デルタ航空のほかにも、スイス航空、KLMオランダ航空、日本航空輸送から採用された。

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)DC-2 輸送機輸送機を見る。


4.DC-2お手本ボーイング(Boeing)247輸送機

写真(右)1935-1939年頃、アメリカ、空港管制塔近くに駐機しているボーイング(Boeing)247 輸送機:胴体前部までゴムホースが伸びているので、給油作業をしている様だ。
Boeing : 247 Manufacturer: Boeing Designation: 247 Official Nickname: Notes: On the ground Repository : San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives  San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00061578引用。


ボーイング(Boeing)247輸送機は、全金属構造、引き込み脚の降着装置、低翼の最新技術を実用化した高速輸送機で1933年2月8日に初飛行した。当時は、金属骨格に木製あるいは羽布張、複葉、固定脚の飛行機が多かったことを思うと、民間旅客輸送機で、このような最新技術を実用化したのは、驚異的だった。

アメリカで国産され広く使用されていた1926年6月11日初飛行の肩翼式フォード・トライモータ(Ford Trimotor)三発輸送機の最高速力212 km/hだった。それに対して、ボーイング(Boeing)247輸送機は,それより100 km/hも高速で、航続距離820kmより長距離の1207kmを飛ぶことができた。乗客数も10名で、客室キャビンの座席は、2列5行の10席が確保され、アメリカ大陸飛行も可能だった。こうして、ボーイング(Boeing)247輸送機は、ユナイテッド航空によって採用され、60機が350万ドルで発注された。また、ドイツルフトハンザ航空(Lufthansa)が2機、中華民国が1機、コロンビアのアビアンカ航空(Avianca )が10機、を発注している。

ボーイング(Boeing)247輸送機の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney )R-1340 S1H1-G ワスプ(Wasp)空冷星形9気筒エンジン500 hp (370 kW) 2基である。プロペラは2翅可変ピッチだが、後期型は3翅に変更されている。

写真(右)1937-1940年頃、アメリカ、カリフォルニア州、ボーイング飛行機工場で生産中のボーイング(Boeing)247 輸送機の6機分の胴体:主翼は左奥で作られている様だ。
Boeing Model 247 monoplanes under contruction Date Created and/or Issued 1933-07 Contributing Institution California Institute of Technology Photo by Boeing Airplane Company, Seattle. von Karman Papers. July 1933.
写真は, Calisphere UC Libraries Identifierct1:8253引用。


1934年10月のイギリス=オーストラリア長距離(1万1,300マイル:1万8,200 km)マックロバートソン飛行レース(MacRobertson Air Race)に参加したボーイング(Boeing)247 D 輸送機レースナンバー5番(製造番号c/r:NR257Y)は、アメリカからイギリスまで大西洋を海路横断するときに、すでに垂直尾翼にレース参加番号5番、翼のついたボーイングのロゴ、製造番号c/r:NR257Yが記入されている。

写真(右)1933-1939年頃、アメリカ、ボーイング(Boeing)247 輸送機の客室キャビン:宣伝用の撮影であろうが、乗客1名ずつに日除けカーテン付きのガラス窓が設けられている。座席には、ひじ掛けがついている。キャビンは狭いので、上部天井に荷物棚はないが、上部に小型荷物用のネット、側面に帽子掛けはついている。短時間、少人数の乗客のであっても、一流のサービスを好む金持ち用に若い美人女性のスチュワーデスがついている。
Boeing : 247 Manufacturer: Boeing Designation: 247 Official Nickname: Notes: On the ground Repository : San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, SDASM Archives  San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00061578引用。


ボーイング(Boeing)247 輸送機の客室キャビンには、乗客1名ずつに日除けカーテン付きのガラス窓が設けられている。座席は、クッションとひじ掛けがあり、座席ベルトも備わっている。

ボーイング(Boeing)247の客室キャビンは狭いので、上部天井に荷物棚はないが、上部に小型荷物用のネット、側面に帽子掛けはついている。最後尾には、客室サービスのスチュワーデス用小型折り畳み椅子がついている。

⇒写真集Album:ボーイング(Boeing)247輸送機を見る。


5.フォッカー(Fokker)F.VIIb/F-10トライモーター

写真(右)1929年1月20日、アメリカ、アメリカ・フォッカー社飛行機工場で生産中のパン・アメリカン航空(Pan American Airways)所属のフォッカー(Fokker) F-10 スーパー・トライモーター(Super TriMotor)三発輸送機の機首と双尾翼式の垂直尾翼(右):奥には完成まじかなF-10 輸送機があり、手前には、降着用の車輪が2個一組で置かれている。右下には、写真を撮影した1929・01・20の日付が記入されている記録写真である。
View of Pan American Airways (Pan Am) Fokker F-10 Super TriMotor under construction on a factory floor, January 20, 1929.
Fokker (USA) : F-10  Manufacturer: Fokker (USA)
Designation: F-10
写真は,SDASM Archives Catalog #: 00066687引用、あるいはNational Air and Space Museum Archives Local number NASM-9A12204引用。


フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mは、単発型よりも主翼面積を若干拡張し、発動機出力も若干向上させ220馬力としたタイプで、乗客は12名を搭乗させることができた。これが、フォッカー(Fokker) F-10(F-X)スーパー・トライモーター(Super Trimotor)三発輸送機である。

フォッカー(Fokker) F-10(F-X)スーパー・トライモーター(Super Trimotor)三発輸送機の空冷星形エンジンから集合排気管が伸びているが、これは排気煙・炎で操縦士や乗客の視界を妨げないようにするためである。1920年代後半、プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)ワスプ(Wasp)R-1340空冷星形エンジン3基を装備し、アメリカのフォッカー社で合計65機が製造された。

フォッカー(Fokker) F-10(F-X)スーパー・トライモーター(Super Trimotor)三発輸送機は、ウェスタン・エクスプレス航空(Western Air Express)、アメリカン航空(American Airways)、TWA航空(Trans World Airlines)、ユニバーサル航空(Universal Airlines)、パンナム航空(Pan Am)などアメリカの航空会社のほか、メヒカーナ航空(Mexicana)、アメリカ陸軍航空隊でも使用された。軍用仕様は、フォッカーC-5,C-7Aの2種類がある。

1926年5月9日、スピッツベルゲン諸島から飛び立って、北極点上空を飛行したフォッカー(Fokker) F. VII トライモーター輸送機「ジョセフィン・フォード」"Josephine Ford"は、1925年製造で、材質は、木・アルミニウム混合、鉄鋼の骨格で、主翼や胴体には、羽布を張っていた。機体は、ダークブルー(Dark blue)に塗装され、胴体側面に機体名Josephineが白色で大きく記入されている。

エドセル・フォード(Edsel Bryant Ford )は、ヘンリー・フォードの唯一の子供で、1893年11月6日、フォード社の拠点ミシガン州デトロイトに生まれ、1919-1943年の間フォード社社長に就任した。その時に、アメリカ海軍士官リチャード・バードRichard Evelyn Byrd)の搭乗するフォード・トライモーターで、北極点飛行を計画、出資した。

1927年に大西洋を横断したフォッカー(Fokker) C-2 「アメリカ」 "AMERICA" (登録コード:NX206)三発輸送機(トライモーター)は、アメリカ陸軍仕様のフォッカー(Fokker)F.9三発輸送機で、ライト(Wright)・ウィールウィンド(Whirlwind)空冷星形9気筒エンジン200馬力 (150-kW)3基装備、搭乗員2人、乗客10人、生産機数は1926年に3機である。フォッカー(Fokker)F.9は、アメリカのアトランティック航空(Atlantic Aircraft Corporation)製造のフォッカー(Fokker)F.VIIB/3m三発輸送機で、原型よりも主翼が延長されていた。生産機数は、海外他社ライセンス生産を含めて154機。

フォッカー(Fokker) C-2 「アメリカ」 "AMERICA" (登録コード:NX206)は、オランダのフォッカー(Fokker)F.VII 三発輸送機をアメリカ陸軍用にアメリカが製造フォッカー(Foccker)F.9三発輸送機である。大西洋横断飛行用に航続距離を延長するために、増設燃料タンクを設け、航続距離は3,800マイル (6,116 km)に伸びている。装備している発動機は、ライト(Wright) J-5 空冷星形9気筒エンジン220馬力3基で、尾翼には登録コード NX-206を描いている。

1927年、リチャード・バードRichard Byrd)は、アメリカ陸軍仕様のフォッカーC-2三発輸送機の民間転換型「アメリカ」“AMERICA”三発機輸送機(トライモーター)を操縦して、オルティーグ賞の懸った大西洋横断飛行に挑戦しようとしたが、出発が遅れたために、実際の飛行は、リンドバーグによる大西洋横断飛行の1か月後の6月29日-7月1日だった。

写真(右)1928年4月13日、アメリカ、マサチューセッツ州、ボストン飛行場、フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」 "Friendship" 三発陸上輸送機を整備するウィルマー・スタールズ(Wilmer A. Stultz)正操縦士、ルイス・ゴードン(Lewis Edward Gordon)副操縦士・航法・機関士 :ライト(Wright)J-4ウィールウィンド(Whirlwind)空冷星形9気筒エンジン200馬力 (150-kW)3基装備。まだ車輪を付けた陸上型だが、基地の関係で二つのフロートを装備した水上機型に改造される。大西洋を横断した初めての女性、アメリカ人飛行家アメリア・イヤハートの乗機となる。
Wilmer Stultz (right), Lew Gordon (left) working on the plane Friendship. I. Gordon - machinist. W. Stultz - pilot of new Byrd Fokker to be used on South Pole trip. East Boston Airport. Creator/Contributor: Jones, Leslie, 1886-1967 (photographer) Date created: 1928-04-13 Physical description: 1 negative : glass, black & white ; 4 x 5 in. Genre: Glass negatives Subjects: Stultz, Wilmer L., 1899-1929; Gordon, Louis E.; Air pilots; Airplanes Notes: Title and date from information provided by Leslie Jones or the Boston Public Library on the negative or negative sleeve. Collection: Leslie Jones Collection Location: Boston Public Library, Print Department
写真は,Boston Public Library   File name: 08_06_002197引用。


1928年6月17日に、アメリカ女性アメリア・イアハートAmelia Mary Earhart:1897-1939)が同乗したフォッカー (Fokker)F.VIIb-3m三発水上旅客輸送機「フレンドシップ」 "Friendship" 三発水上旅客機は、カナダ東端、ニューファンドランド州、ニューファンドランド島トレパシー湾を離水した。1928年6月17日、大西洋を横断して、飛行時間21時間で、イギリスのにウェールズ、バリー・ポート沖に着水した。これが、女性による初の大西洋無着陸横断の記録である。この後、アメリアは飛行士として有名になるが、この大西洋横断はアメリカ女性アメリア・イアハートAmelia Mary Earhart)は、乗客として同乗したのであって、操縦士・航法士・機関士として搭乗していたわけではない。

1928年6月17-18日、アメリカ人女性飛行家アメリア・イアハートAmelia M. Earhart)は、車輪をフロートに変換し水上機化したフォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」 "Friendship" 三発輸送機(登録コード:NX-4204, 製造番号:c/n 5028)に乗客として搭乗、カナダから北アイルランドまで大西洋を無着陸横断した。

⇒写真集Album:アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)のフォッカーF.VIIによる大西洋横断飛行を見る。

写真(右)1932年、スイス、バーゼル近郊(?)、飛行するスイス航空所属フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m輸送機(登録コードCH-166 (HB-LAO):190):右翼下にCH、左翼下に166の登録コードが記入されている。1931年3月26日から1935年10月11日までスイス航空で使用された。その後、イタリア航空(Ala Littoria)航空に売却されI-ADUAで登録された。
Fokker F. VII b-3m, CH-166 (HB-LAO) im FlugPhotographer Photographer Unbekannt Dating ca. 1932 Caption Passagierflugzeug, Hochdecker, Swissair, Immatrikulation CH-166, Flugplatz Sternenfeld Basel Physical Description Fotografie : Silbergelatine-Abzug Format Spezialmass Special Size 11,5 x 16 cm .Schweiz > Basel-Landschaft > Birsfelden
写真は, ETH-Bibliothek Zürich Record Name Ans_05035-527引用。


フォッカー F.VII(F.VIIb/3m)の諸元
搭乗員: 2名、乗客: 8名
全長: 14.60 m、全幅: 21.70 m、全高: 3.90 m
主翼面積:58.5平方メートル
空虚重量: 6,725 kg kg
総重量: 11,570 kg
エンジン: ライト(Wright)J-5 ヴィールウィンド(Whirlwind)空冷星型9気筒エンジン 164 kW (220 hp)3基
巡航速度:170 km/h
最高速力:185 km/h /1980 m
航続距離:1160 km
実用上昇限度:2600 m
生産期間:1925-1932年 283機
製造所:フォッカー(Fokker), オランダ(NL) ・アムステルダム(Amsterdam)

1928年6月17−18日、フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」"Friendship"に同乗したアメリカ人アメリア・イアハート(Amelia Earhart)は、カナダのニューファウンドランド島からイギリスのウェールズまで、大西洋横断無着陸飛行した初めての女性となったが、これはアメリカ人男性リンドバーグの大西洋単独無着陸飛行に続く世界史上に残るアメリカの快挙だった。このような高性能なフォッカーF.VIIb-3mトライモーターを、スイス航空は8機購入し、個別機体名称CH-162、CH-163、CH-164,CH-165,CH-166,CH-190CH-192、CH-193として、1931年から1935年まで使用している。

写真(右)1932-1935年、スイス、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ (Dübendorf)空港、スイス航空所属フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m輸送機(登録コードCH-166 (HB-LAO):190):後方には、空港ビルが見える。1931年3月26日から1935年10月11日までスイス航空で使用された。その後、イタリア航空(Ala Littoria)航空に売却されI-ADUAで登録された。
Fokker F. VII b-3m, CH-166 (HB-LAO) am Boden in Dübendorf Photographer Swissair Dating 1932-1935 Caption CH-166/HB-LAO war von 1931-1935 im Einsatz Physical Description Fotografie : Nitratnegativ Format 6 x 6 cm Colour schwarz/weiss .
写真は, ETH-Bibliothek Zürich  Record Name LBS_SR01-00262 引用。


アメリカ人飛行家リチャード・バードは、1926年5月9日 フォッカー F.VIIb/3m「ジョセフィーン」で北極圏までの往復飛行に成功し、1927年6月29日、アメリカの子会社で製造したフォッカー(Fokker)C-2「アメリカ」三発輸送機で大西洋横断に成功し、7月1日、フランスの海岸に不時着した。トライモーターは、オランダのフォッカー(Fokker)F.VIIb-3mでアメリカではフォッカーF.9としてライセンス生産された。このようにフォッカー F.VIIb3mトライモーターだけではなく、ユンカースG.24、G.31、Ju52/3mのような三発輸送機の興隆の歴史を見ると、イタリアの三発輸送機もその伝統技術を引き継いでいるのではないかと思われる。イタリアには、フィアットG.18双発輸送機もあり、イタリアには高出力エンジンないので三発機を作ったというのは誤解であろう。

⇒写真集Album:フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーターを見る。


6.フォッカー(Fokker)F.VIIa単発輸送機

写真(右)1930-1936年、オランダ南西部、ロッテルダムの外港、ワールハーフェン空港(Vliegveld Waalhaven)、フォッカー(Fokker)F. VII a単発輸送機(機体コード:KLM1 登録コード:PH-ADX):フォッカー(Fokker)F. VII a単発輸送機(機体コード:KLM1 登録コード:PH-ADX)Nederlands: Vliegveld Waalhaven, 1930s Date 1930s Source 1931 picture (found online at Geheugen van Nederland) Author Unknown author
写真は, Category:Fokker F.VIIAFile:ETH-BIB-Fokker F.VII a, HB-LBO am Boden in Zürich-Kloten-LBS H1-026560.tif引用。


写真(右)1939-1944年頃、スイス、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ空港、スイス航空所属フォッカー(Fokker)F. VII a単発輸送機(機体コード:CH-157 , 登録コード:HB-LBO)
English: Die Maschine war zwischen 1931-1950 im Europa-Einsatz. Anfängliche Immatrikulation CH-157. Die Fokker F VIIa kam 1927 als CH-157 zur Balair, 1931 zur Swissair. Sie wurde anfänglich hauptsächlich auf der Poststrecke Dübendorf - Le Havre - Cherbourg eingesetzt. 1933 Austausch des 420 PS Jupiter Motors gegen 500 PS Wright Cyclone. 1934 neue Immatrikukation HB-LBO. Im Winter 1938/39 wurde der 720 PS Cyclone Reserve Motor der 1936 am Rigi verunglückten Clark HB-ITU montiert, der Hecksporn durch das Heckrad der Clark ersetzt und die Haupträder mit Palmer Bremsen ausgerüstet, die 8 Passagiere Korbsessel mit 10 neuen Sitzen ausgetauscht. 1939-1948 Schul-, Rund- und Keuchhustenflüge. 1948 zu Farnerwerke Grenchen. 1950 ausser Betrieb genommen und im Bider Hangar Bern-Belp eingelagert. 1966 durch das Fokker Team restauriert. Seit 1972 im Verkehrshaus Luzern ausgestellt
写真は, Category:HB-LBO (aircraft) File:Fokker F.VII a, CH-157 (HB-LBO).jpg引用。


写真(右)1939-1944年、スイス、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ空港、百日咳治療飛行の子供患者とスイス航空所属フォッカー(Fokker)F. VII a単発輸送機(機体コード:CH-157 , 登録コード:HB-LBO):百日咳の子供を高度3000メートルの新鮮な空気の中を飛行させて帰って来る治療飛行で、白布巾で頭を覆った看護婦2人が同乗する。その後ろのスーツで身なり正しい婦人たちは、患者の母親で、同乗する子供に付き添って飛行機の昇降口までやってきた。しかし、同乗はしないで、飛行場で子供たちの治療飛行が終わるのを待ったのであろう。
Photographer: Swissair Keuchhustenflüge-Kinder beim Einstieg in die Fokker F. VII a, HB-LBO in Dübendorf Caption: Zeitgenössische Bildbeschreibung des Swissair-Marketings: "Keuchhustenflüge: werden von der Swissair vom Flugplatz Dübendorf Dating: 1939-1944 Is Part Of: Keuchhustenflüge, 1939-1944. Reportage mit ca. 40 Bildern (Auswahl digitalisiert, keine zusätzlichen Motive vorhanden) Impressum: Physical Description: Photography : nitrate-negative Colour: black and white Orientation: Square Format: 6 x 6 cm
写真は, ETH-Zürich LBS_SR01-02248引用。


スイス航空は、百日咳の子供患者の地用のために、高空の冷気を浴びせる治療飛行を実施した。治療飛行に使用されたスイス航空フォッカーフォッカー(Fokker)F. VII a輸送機(機体コード:CH-157 , 登録コード:HB-LBO)で、これは単発機であって、三発のトライモーターではない。飛行中に冷気を取り込み、百日咳の患者に吸わせるために、客室キャビンの窓ガラスを開くことができたようだ。単発の旧式なフォッカーF. VII a輸送機を使った理由は、低速、高度3000メートルの飛行場上空1時間程度の飛行であり、安全でリスクの低い飛行であると判断し、経費を抑えるために安価な旧式機を使用したのであろう。

写真(右)1939-1944年、スイス、チューリッヒ上空、デューベンドルフ空港を飛び立った百日咳治療飛行中のスイス航空所属フォッカー(Fokker)F. VII a単発輸送機(機体コード:CH-157 , 登録コード:HB-LBO) の客室キャビン:スイス航空のマーケティング用オリジナル写真解説:「百日咳の治療飛行:デューベンドルフ飛行場からスイス航空によって子供たちがキャビンの窓を開けた状態で高度3000 mを飛行し、長時間旋回した。患者6人が乗り込んだ場合、乗客1人あたり50.00スイス・フランのフライト料金が適用された。もし8人以上なら一人当たり40.00スイスフラン、2人乗りでの飛行なら1人1時間あたり45.00スイスフランである。百日咳治療のフライトは、好天時のみに実施される。医療統計によると、高高度飛行後の百日咳が対象症例の80%で改善または治癒されたことが確認できた。」
Photographer: Swissair Title: Kleiner Patient während Keuchhustenflug der Swissair Caption: Zeitgenössische Bildbeschreibung des Swissair-Marketings: "Keuchhustenflüge: werden von der Swissair vom Flugplatz Dübendorf aus durchgeführt. Die Kinder werden bei offenen Kabinenfenstern bis in eine Höhe von ca. 3000 m geführt, wo während längerer Zeit gekreist wird. Die Flugdauer beträgt ca. 1 Stunde. Bei einer Beteiligung von 6 Personen kommt ein Flugpreis von Fr. 50.- pro Passagier zur Anwendung, bei mindestens 8 Personen von Fr. 40.- oder mit einem 2-plätzigen Maschinentyp Fr. 45.- pro Person und Stunde. Die Flüge finden nur bei günstiger Witterung statt. Nach ärztlicher Statistik konnte in 80% der Fälle eine merkliche Besserung oder Heilung des Keuchhustens nach dem Höhenflug festgestellt werden." Dating: 1939-1944 Is Part Of: Keuchhustenflüge, 1939-1944. Reportage mit ca. 40 Bildern Colour schwarz/weiss Orientation: Square Format: 6 x 6 cm
写真は, ETH-Zürich Record Name 212740引用。


スイス航空所属フォッカー(Fokker)F. VII a単発輸送機(機体コード:CH-157 , 登録コード:HB-LBO)は、1931年から1950年の長期間、ヨーロッパ域内の航路に就役していたプロペラ単発機である。完成時にCH-157の初期登録をしたフォッカーFVIIaは、1927年にCH-157としてバレアに、1931年にスイス航空に到着した。この機体は、当初は、主にスイス連邦チューリヒ郊外デューベンドルフ=フランスのルアーブル=シェルブールの郵便輸送機として使用されていた。

スイス航空所属フォッカー(Fokker)F. VII aは、1933年に搭載エンジンを、420HPジュピターエンジンから500HPライトサイクロンに交換、出力を向上した。 1934年には、新規にHB-LBOと登録された。 1936年にリギで事故を起こしたクラーク(HB-ITU)の装備していた720 HPサイクロン空冷星形エンジンの予備が1938/39年の冬に取り付けられた。また後方の尾輪橇もクラークの尾輪に置き換えられ、主輪もブレーキも更新された。スイス航空所属フォッカー(Fokker)F. VII a単発輸送機(機体コード:CH-157 の客室キャビンは、乗客8人分のウィッカーチェアが10人分の新しいシートに交換された。 1939-1948年には、学校用、百日咳治療飛行のフライトに使用された。

写真(右)1966年6月26日、スイス、チューリッヒ北、クローテン(Zürich-Kloten)、格納庫前のスイス航空で使用されていたフォッカー(Fokker)F. VII a単発輸送機(機体コード:CH-157 , 登録コード:HB-LBO)
Photographer Werner Friedli (1910–1996) Blue pencil.svg wikidata:Q51777707 Title Fokker F.VII a, HB-LBO am Boden in Zürich-Kloten Depicted place Kloten Date 26 July 1966 Medium Fotografie : Negativ Dimensions 13 x 18 cm Collection ETH Library Blue pencil.svg wikidata:Q684773 Accession number ETH-Bibliothek_LBS_H1-026560
写真は, Category:HB-LBO (aircraft)File:ETH-BIB-Fokker F.VII a, HB-LBO am Boden in Zürich-Kloten-LBS H1-026560.tif引用。


スイス航空所属フォッカー(Fokker)F. VII aは、1948年に現役を離れ、1950年にはスイス航空から除籍された。そして、ベルンベルプの格納庫に保管されたが、1966年にフォッカーチームによって復元された。そして、1972年からスイスのルツェルン運輸博物館に展示された。

写真(右)1942年3月26日、対ソ連の継続戦争時のフィンランド、橇スキー式の降着装置を装備したフィンランド空軍所属のフォッカー Fokker F.VIIa単発輸送機(登録コード:FE-2):フィンランド軍は国籍記章として、白地の丸に青色の反ボルシェビキ、自由の象徴のスワスチカを描いて、同じスワスチカを採用したナチス・ドイツと軍事同盟を結んで、ソビエト連邦と1939-1940年の冬戦争とその復讐戦の1941-1944年の継続戦争を戦った。フォッカー Fokker F.VIIa輸送機の発動機は、機首に装備したフランス製ロレーヌ(Lorraine)12Eb液冷エンジン1基あるいはライト社(Wright)のヴィールウィンド(Whirlwind:旋風)空冷星形エンジン200馬力1基のみなのでエンジン3基搭載の「「トライモーター」ではない。
English: Fokker F.VII of the Finnish Air Force (SA-kuva 78777) Suomi: Suomen ilmavoimien Fokker F.VII Kotkan edustalla (SA-kuva 78777) ate 26 March 1942 Author SA-kuva
写真は SmugMug+Flickr,SA-kuva  SA-kuva 78777引用。


フォッカー社は、アメリカのフォード社がアメリカでも本機を導入しようと企画していることを知り、より機体の信頼性を高めるために、左右主翼下面にライト社(Wright)のヴィールウィンド(Whirlwind:旋風)空冷星形エンジン200馬力を各々1基、合計2基追加した三発輸送機を開発した。1920年代当時は、エンジン故障のリスクを配慮して、エンジン1基の単発機ではなく、エンジンが複数ある機体のほうが信頼性が高いと判断されていた。

フィンランド軍は国籍記章として、白地の丸に青色の反ボルシェビキ、自由の象徴のスワスチカを描いて、同じスワスチカを採用したナチス・ドイツと軍事同盟を結んで、ソビエト連邦と1939-1940年の冬戦争とその復讐戦の1941-1944年の継続戦争を戦った。しかし、1944年9月にソ連・イギリスと講和したフィンランドは、このスワスチカの国籍記章を廃止している。

⇒写真集Album:ソ連フィンランド第二次ソ芬「継続戦争」を見る。


7.フィアット(Fiat) G.12 三発輸送機

写真(右)1939-1940年10月以前、イタリア、飛行機工場で製造中のフィアット(Fiat)G.12 C 輸送機試作機(MM.60649)と前方の量産中のフィアットBR.20双発爆撃機(双尾翼式): Fiat G.12 客室ガラス窓は片側6個並んでいる。垂直尾翼は取り付けが住んでいるが水平尾翼は作業中である。大きな主翼が左右脇に置かれて、取り付けを待っている。量産中のフィアットBR.20は、胴体後上方に回転式銃座を搭載している。
Il prototipo MM.60649 viene assemblato con Fiat BR.20 nel 1940.
写真はMilitary Story , Organizzazione Paladino Ispettorato Militare del Lavoro Aviazione Fiat G.12引用。


フィアット(Fiat) G.12 輸送機の試作機は、フィアット(Fiat)A.74 R.C.42空冷星形14気筒エンジン574 kW (770 hp)3基を装備し、1940年10月15日に初飛行した。フィアット(Fiat) G.12 輸送機の総生産機数は、30機と僅かであり、戦後になってイタリア航空が民間旅客輸送機として採用した。

フィアット(Fiat)G. 18旅客輸送機は、フィアット A.59空冷星形9気筒エンジン750hpを装備した原型で3機製造された。その後、出力不足と判断され、発動機を強化したフィアットG.18Vは、フィアット A.80空冷星形18気筒エンジン1,000 hp(750 kW )を装備し、6機が製造された。

イタリア参戦時の1940年6月時点では、既にサボイア・マルケッティSM.73、SM.85などの固定脚の輸送機、SM.75、SM82、SM.83など引込み脚の輸送機が完成しており、フィアット(Fiat)G.12は、イタリア参戦直後の1940年10月15日であったために、量産する意義は乏しかった。結局、944年年までに30機が生産されたにとどまった。フィアット(Fiat)G.12は、発展型のフィアット G.212の原型となり、第二次大戦後のイタリアの民間航空で活躍した。

wikipediaでは「DC-2は優秀で近代的な旅客機として世界各国の市場から高く評価されたが、これをベースに機体サイズを拡大した後続モデルのDC-3が輸送力の面でDC-2以上の大幅向上を達成し、市場のニーズがそちらに移行したため、DC-2の生産数は156機にとどまった。 」とあるが、100機以上生産されれば、当時の航空産業ではベルトセラーに近い成功作である。イタリアのフィアット(Fiat)G. 18 Vは9機、後継機フィアットG.12は30機の生産に留まっている。

フィアット(Fiat) G.12 CAの発動機は、アルファロメオ(Alfa Romeo)アルファ(Alfa)128空冷星形9気筒エンジン3基搭載の18人乗りの民間旅客輸送機で、戦後にイタリア航空に就役した。このイタリアのアルファロメオ(Alfa Romeo)アルファ(Alfa)128空冷星形9気筒エンジンの原型は、イギリスのブリストル(Bristol)ジュピター(Jupiter)空冷星形9気筒エンジンである。


写真(上)1940年10月以降、1941年頃、イタリア、フィアット(Fiat)G.12 C 輸送機試作機(MM.60649)の試験飛行
:垂直尾翼にも胴体にも国籍マークはないが、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)所属は描かれている。フィアットFiat A.74 RC.42空冷星形14気筒エンジン搭載で、当時としては大型機であった。
Il prototipo MM.60649 rulla sul campo di Torino-Caselle all’inizio dei test.
写真はMilitary Story , Organizzazione Paladino Ispettorato Militare del Lavoro Aviazione Fiat G.12引用。


イタリアには、イタリアには高出力エンジンないので三発機を開発したというのは、誤解であろう。イタリアには、フィアットG.18のような高性能な双発輸送機もあった。また、なにより1920年代から1930年代にかけて、世界ではフォッカー F.VIIb3mトライモーターが大活躍し、ドイツのユンカースG.24、G.31、Ju52/3mタンテのような三発輸送機も多数就役していた。こうした三発輸送機の伝統と歴史を見ると、イタリアの三発輸送機もそれを引き継いでいるのであって、決してエンジン制約のためではないことが理解できる。


写真(右)1939-1940年10月以前、イタリア、飛行機工場でのフィアット(Fiat)G.12 T 輸送機のコックピット
:左席の正操縦士、右席の副操縦士の複式操縦装置がついている。レバーや計器は原則左右対称である。左右の操縦桿には、ともに紐が結ばれて、動かないように固定されているが、昇降舵・垂直尾翼の方向舵の調整中に、取り付け位置を安定させるためであろう。
Cabina di guida di una Fiat G.12 T in costruzione.
写真はMilitary Story, Organizzazione Paladino Ispettorato Militare del Lavoro Aviazione Fiat G.12引用。


フィアットFiat A.74 RC.42空冷星形14気筒エンジンの諸元
気筒直径Bore: 140 mm (5.512 in)
気筒行程Stroke: 145 mm (5.709 in)
排気量Displacement: 31.25 L (1,906.9 cu in)
全長Length: 1,044mm (41.13 in)
直径Diameter: 1,195 mm (47.05 in)
乾燥重量Dry weight: 590 kg (1,246 ポンド)
燃料規格Fuel type: 87 オクタン(octane)

フィアット(Fiat) G.12 輸送機の胴体後方左側面に乗客用の昇降口の扉がある。そして、胴体後方右側面には、小型荷物の出し入れができるハッチがある。したがって、ドイツのJu90四発輸送機やJu252三発輸送機の持っていたような胴体後方下面の大型貨物積み降ろし可能な可動式ランプは備わっていない。

写真(右)1942年、イタリア領北アフリカ、リビア、トリポリ(Tripoli)30キロ、カルテル・ベニート(Castel Benito)基地、イタリア空軍第148輸送航空団第606a飛行隊所属のフィアット(Fiat) G.12 輸送機:胴体後方に白帯が描かれている。
Fiat G.12 del 606a quadrato, 148 ° Gr.T sul terreno di Castel Benito il 17 gennaio 1942...
写真はMilitary Story , Organizzazione Paladino Ispettorato Militare del Lavoro Aviazione Fiat G.12引用。


フィアット(Fiat) G.12 C 輸送機が装備したフィアットA.74 RC.42空冷星形14気筒エンジンは、1937年に開発されたばかりの新型エンジンで、フィアット(Fiat) CR.42 ファルコ(Falco)複葉戦闘機、フィアットG.50フレェッチア(Freccia)戦闘機などフィアット社の飛行機だけではなく、マッキ(Macch)C.200サエッタ(Saetta)戦闘機も搭載している。したがって、戦闘機用のエンジンを輸送機に搭載しているのであり、高性能は望めるが、エンジン価格が高くなるうえに、肝心の戦闘機へのエンジン供給が滞るリスクがあり、イタリア空軍戦力増強の視点では、賢明な選択とは言えなかった。

図(右)フィアット(Fiat) G.12 C輸送機(原型)の三面図
Piano 3 viste di una Fiat G.12 C.
写真はMilitary Story , Organizzazione Paladino Ispettorato Militare del Lavoro Aviazione Fiat G.12引用。


フィアット(Fiat) G.12 C輸送機(原型)の諸元
乗員:3名 (正副操縦士、通信士)
設計者:ジュゼッペ・ガブリエッリ(Giuseppe Gabrielli)
初飛行:1940年10月15日
就役開始:1941年
生産機数:30機
全長:20,16 m
全幅:26,80 m
全高:4,90 m
主翼面積:113,50 m²
空虚重量:8 890 kg
最大離昇重量:12 800 kg
乗客:14名
発動機: フィアット(Fiat) A.74 RC.42空冷星形エンジン3基 770 馬力 (566 kW)
最高速力:396 km/h
巡航速力:308 km/h
航続距離:1 740 km
実用上昇限度:8 000 m (26 247 ft)
兵装:12.7ミリ ブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃2丁

フィアット(Fiat) G.12 を設計したジュゼッペ・ガブリエッリGiuseppe Gabrielli)は、1903年2月26日生まれ、トリノ工科大学を卒業し、ドイツのアーヘン工科大学でも航空力を学んだ航空設計技師の一人であった。彼が設計した飛行機は、フィアット G.12輸送機以外にも、 フィアット G.18輸送機、 G.50戦闘機、G.55戦闘機など第二次世界大戦中に活躍したイタリア軍用機があり戦後も、1960年代に制式されたフィアットG.91戦闘爆撃機を開発している。1987年11月29日, イタリア トリノで死去。

フィアット(Fiat) G.12輸送機の諸元
乗員Crew: 4名
乗客Capacity: 兵士14名あるいは乗客 24名
全長Length: 20.1 m (65 ft 11 in)
全幅Wingspan: 28.6 m (93 ft 10 in)
全高Height: 4.9 m (16 ft 1 in)
主翼面積Wing area: 113 m2 (1,220 sq ft)
空虚重量Empty weight: 9,420 kg (20,768 lb)
総重量Gross weight: 15,000 kg (33,069 lb)
発動機Powerplant:フィアット(Fiat) A.74 R.C.42空冷星形14気筒エンジン 574 kW (770 hp)3基
プロペラPropellers: 3翅 恒速回転プロペラ3基

フィアット(Fiat) G.12輸送機の性能Performance
最高速力Maximum speed: 390 km/h (240 mph, 210 kn) at 5,000 m (16,404 ft)
巡航速力Cruise speed: 303 km/h (188 mph, 164 kn)
航続距離Range: 2,300 km (1,400 mi, 1,200 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 8,500 m (27,900 ft)
兵装Armament
7.7 mm (.303 in) ブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃3丁

1940年6月、第二次世界大戦にドイツ同盟国として参戦したイタリアは、1943年9月に連合国側に降伏し、10月には、ドイツを裏切って連合国側に立って参戦した。その当時のイタリア空軍の国籍指標は、ファシズムを否定、ファッシの国籍記章を廃止した。その代わり、胴体後方左右側面、主翼左右上下面にイタリア三色旗トルコローレを模した緑、白、赤の同心円を国籍マークとして描くようになり、21世紀の現在に至っている。

⇒写真集Album:フィアット(Fiat)G.12輸送機を見る。


8.フィアット(Fiat) G.212 三発輸送機


写真(右)1947-1949年前半,スイス、チューリッヒ、イタリア、フィアット(Fiat) G.212CP三発輸送機(I-ELCE )
:1949年5月4日、イタリア北部、トリノでサッカークラブ「ACトリノ」メンバーを乗せて墜落、失われた。
Italiano: SIAI S.82 transport-heavy bomber a Fezzan
Date 4.5.1949
写真はWikimedia Commons, Category:I-ELCE (aircraft) File:Fiat G.212CP, I-ELCE der Avio Linee Italiana am Boden in Zürich-Kloten 03.jpg引用。

フィアット(Fiat) G.212 G.P.三発輸送機は、発動機にアメリカ製プラット・アンド・ホイットニー (Pratt & Whitney) R-1830-S1C3-G ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星型エンジン794 kW (1,065 hp) 3基を装備した民間旅客輸送機で、乗客席は22席と少ないが、優美な形状の機体である。当時のライバルは、アメリカのダグラスC-54/DC-4四発輸送機で、大量生産されており、仕様機数も就役航路も格段に差を付けられていた。しかし、イタリアは、国産旅客機G.212を実用化することにこだわったのである。


図(右)イタリア、フィアット(Fiat) G.12 C 輸送機の側面図


Fiat G. 12 C a cura di Horvàth BALAZS e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio
図は,MINISTERO DELL' AERONAUTICA AEROPLANO FIAT G. 12 C (Motor FIAT A. 74 RC. 42 S) SRIE II, S.A. :AERONAUTICA D'ITALIA - TORINO ISTRUZIONE E NORME PER IL MONTAMENT 引用。


フィアット(Fiat) G.12三発輸送機の発動機を高出力のアメリカ製プラット・アンド・ホイットニー R-1830空冷エンジン3基に換装した戦後の民間輸送機がフィアット(Fiat) G.212 である。

フィアット(Fiat) G.12三発輸送機は、1940年10月15日初飛行の民間輸送機だが、1940年6月に第二次世界大戦に参戦し、戦時体制にあったイタリア空軍で乗客24名の輸送機として採用された。戦後に、民間旅客輸送機として活躍した。

フィアット(Fiat) G.212輸送機の諸元
乗員Crew: 3名
乗客Capacity: 乗客 34名
全長Length:23.06 m (75 ft 8 in)
全幅Wingspan: 29.34 m (96 ft 3 in)
全高Height: 8.14 m (26 ft 8 in)
主翼面積Wing area: 116.6 m2 (1,255 sq ft)
空虚重量Empty weight: 11,223 kg (24,742 lb)
総重量Gross weight: 17,436 kg (38,440 lb)
発動機Powerplant: プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney) R-1830-S1C3-Gツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン794 kW (1,065 hp) 3基
プロペラPropellers: 3-翅 恒速回転プロペラ3基

フィアット(Fiat) G.212輸送機の性能Performance
最高速力Maximum speed: 380 km/h (240 mph, 210 kn) 3,700 m (12,139 ft)
巡航速力Cruise speed: 300 km/h (190 mph, 160 kn)
航続距離Range: 3,000 km (1,865 mi, 1,620 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,500 m (24,600 ft)

⇒写真集Album:フィアット(Fiat)G.212輸送機を見る。


9.サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM 73三発輸送機

写真(右)1938年6月15日,イタリア、飛行中のイタリア航空(アラリットリオ:Ala Littoria)サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM 73三発輸送機(登録コード:OO-AGL):乗客 18 名 、主翼面積 92.97 m2、総重量 9,280 kg。 Bulletin Walter 1938年、p.60(発行元:Walter Joint-Stock Company)プラハより引用。
Čeština(チェコ語): Savoia-Marchetti S.73 a Walter Pegas
Date 15 June 1938
Source Letecké vzduchem chlazené motory Walter. Bulletin Walter. 1938, Katalog, p. 60. , Publisher: Akciová společnost Walter, továrna na automobily a letecké motory, Praha XVII - Jinonice in Státní oblastní archiv v Praze (State Regional Archives in Prague), Archivní 4, 149 00 Praha 4, Fond Walter, a.s., No. NAD 1914
Author neznámý (unknown)
写真はWikimedia Commons,Category:Savoia-Marchetti S.73 File:Savoia-Marchetti S.73 a Walter Pegas.jpg引用。


サヴォイア・マルケッティ Savoia Marchetti SM 73 三発輸送機の諸元
乗員Crew: 4名
乗客Capacity: 18 名 + 362.9 kg (800 lb)
全長:Length: 17.4435 m (57 ft 2.75 in)
全幅Wingspan: 23.99452 m (78 ft 8.666 in)
全高Height: 4.60 m (15 ft 1 in) 主翼面積Wing area: 92.97 m2 (1,000.7 sq ft)
空虚重量Empty weight: 5,788 kg (12,760 lb)
総重量Gross weight: 9,280 kg (20,460 lb)
燃料搭載量Fuel capacity: 3,950 L (1,040 US gal; 870 英ガロン)
発動機Powerplant: ピアッジョ(Piaggio)ステラ(Stella)P.IX R.C.空冷星形9気筒エンジン520 kW (700 hp)3基
試作機発動機フランス製グローム・ノーヌ(Gnome-Rhone)447.42 kW (600 hp) 空冷9気筒エンジン
プロペラPropellers: 3-翅 金属製可変ピッチ
最高速力Maximum speed: 330 km/h (205 mph, 178 kn) At 4,000 m (13,123 ft)
2基駆動での最高速力: 270 km/h (168 mph)
巡航速力Cruise speed: 280 km/h (174 mph, 151 kn)
失速速力Stall speed: 90 km/h (56 mph, 49 kn)
航続距離Range: 1,600 km (994 mi, 864 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,398 m (24,272 ft)
2基駆動での上昇限度 4,399 m (14,432 ft)
上昇率Rate of climb: 3.333 m/s (656.1 ft/min)
上昇時間Time to altitude:
2,000 m (6,562 ft) /10 分
4,000 m (13,123 ft) /20 分
6,000 m (19,685 ft) /33 分

サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM 73輸送機は、降着装置が固定脚のため、空気抵抗は引込み脚より大きくなるが、低速の輸送機であれば大きな問題ではない。それよりも降着装置が堅牢で信頼性が高いことの方が、民間輸送機としては重要だった。フォッカーF.VIIもドイツのユンカースJu-52も、三発固定脚輸送機だったが、信頼性が高く、世界中で活躍していた。

⇒写真集Album:サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti )SM-73輸送機を見る。



10.サヴォイア・マルケッティSM.75三発輸送機

写真(右)1940年6月-1943年6月以前,迷彩塗装をしたイタリア空軍サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM 75三発輸送機(610-6):水平尾翼には、白十字のイタリア空軍の国籍マークが描かれている。操縦席上部には、方向探知用のループアンテナとアンテナ支柱がありアンテナ線が張られている様だ。未舗装飛行場に待機中で、男性が一人立っているので記念撮影をしたのであろう。
Description Italiano: Aereo Savoia Marchetti SM.75 Marsupiale 2
Date before 1960 Author Unknown author
Péter Koroknai E-105, Magyar Királyi Honvéd Légierő. Lezuhant 1941.11.04
写真はfacebook Regia Aeronautica Savoia-Marchetti SM.75引用および Category:Savoia-Marchetti SM.75 File:R.A. - Savoia-Marchetti SM.75 Marsupiale 1.jpg引用。


サヴォイア・マルケッティSM 73輸送機の後継機が、同じ会社のサヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM 75輸送機であり、旅客と貨物の双方に利用する民間機として、イタリア航空(アラリットリオ:Ala Littoria)の要望に応えた機体で、設計はアレッサンドロ・マルケッティ技師である。前作のSM 73は、固定脚だったが、後継機SM.75では空気抵抗を減少させ、より高出力のエンジンを搭載して、引込み脚の降着装置を備えた。しかし、機体基本構造は、SM.73と同じく軽量化を優先し、SM.75でも金属鋼管フレームの骨格に羽布張り、合板の胴体・主翼表面のつくりとした。

サヴォイア・マルケッティ Savoia Marchetti SM 75 三発輸送機の諸元
乗員Crew: 4名+銃手1名
乗客: 24 名
全長Length: 21.594763 m (70 ft 10.1875 in)
全幅Wingspan: 29.69 m (97 ft 5 in)
全高Height: 5.0991 m (16 ft 8.75 in)
主翼面積Wing area: 118.55 m2 (1,276.1 sq ft)
空虚重量Empty weight: 9,480 kg (20,900 lb) ** (with Piaggio engines 9,779.5 kg (21,560 lb))
堂銃床Gross weight: 14,470 kg (31,900 lb) ** (with Piaggio engines 14,769 kg (32,560 lb))
発動機:アルファロメオ(Alfa Romeo)126 R.C.34空冷星形9気筒エンジン560 kW (750 hp)3基
ピアッジョ(Piaggio) P.XI R.C.40空冷星形14気筒エンジン(1000hp)3基
性能Performance
最高速力Maximum speed: 369 km/h (229 mph, 199 kn)
2基稼働 245 km/h (152 mph)
巡航速力Cruise speed: 325 km/h (202 mph, 176 kn)
航続距離Range: 2,279 km (1,416 mi, 1,230 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,000 m (22,960 ft)
上昇率Rate of climb: 3.7 m/s (730 ft/min)
上昇時間Time to altitude: 4,000 m (13,123 ft) /17分42秒

⇒写真集Album:サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti )SM-75輸送機を見る。


11.サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ(Canguro)輸送機

サヴォイア・マルケッティSM.82 サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-82カングロ(Canguro:Kangaroo)は、1938年10月30日初飛行の民間長距離旅客機で、爆弾4トンを搭載できる爆撃機としても生産された。総生産機数は875機。同じような仕様の輸送機フィアット(Fiat) G.12は、1940年10月15日初飛行の民間輸送機で、1940年6月に第二次世界大戦に参戦し、戦時体制にあったイタリア空軍で乗客24名の輸送機として採用された。総生産機数30機のみ。

サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-82は、前作SM-75旅客輸送機の後継機として、胴体を大型化して輸送力を増強した発展型だが、主翼、尾翼、降着装置などは前作SM.75輸送機を流用し、早期の実用化を図った。構造は。機首からコックピットまでは、金属骨格(モノコック)、でそのほかは、布張りを多用した。第二次大戦の始まった直後の1939年10月30日に初飛行した。

サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-82(Canguro:Kangaroo)三発輸送機の搭載量(ペイロード)7トンで、燃料のガソリン2200リットル、巡航速力250 km/h (160 mph, 130 kn) で 2,100 km (1,300 mi, 1,100 nmi)の航続距離があった。これは、太平洋方面では、長距離とは言えないが、地中海・欧州方面では十分な航続力である。貨物室には、航空機用空冷エンジンなら6基、分解した複葉戦闘機CR42、四輪乗用車などの大型貨物を積み込むことができた。これは、胴体中央にある貨物室に収納されたが、のの積み出し口は、胴体中央底面に設けられた観音開きの大型扉を用いた。胴体底面の大型貨物扉は、カンガルーという命名に相応しい。人員輸送の場合は、定員40名である。

サヴォイア・マルケッティSM.82 サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM82カングロ輸送機の諸元
発動機:アルファ・ロメオ(Alfa Romeo)128 RC21 空冷星型9気筒 950馬力3基
全備重量: 9,300 kg
全幅: 29.68m
全長 22.95m
全高: 6.00m
主翼面積: 118.60m2
空虚重量: 輸送機型 10,550 kg (23,259 lb) 、爆撃機型 11,200 kg (24,692 lb)
最大離昇重量: 輸送機型 18,020 kg (39,727 lb)、爆撃機型 18,410 kg (40,587 lb)
最高速力: 347-370Km/h(4,000m)
航続距離: 2,100 km-3,000km
実用上昇限度 6,000 m
乗客:40名

サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-82(Canguro:Kangaroo)の貨物室は爆弾倉に改造することができた。

サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-82(Canguro:Kangaroo)三発輸送機には、胴体左側に人員用の出入り口扉があがる 、大型貨物は、SM.82輸送機の胴体下面にもうけられた貨物室の大型扉から積み下ろしをすることができた。

⇒写真集Album:サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM-82輸送機を見る。


12.サヴォイア・マルケッティSM.79/SM.83輸送機

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクション、サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM 79輸送機
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand della Società italiana aeroplani idrovolanti "Savoia Marchetti" (SIAI) Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 18 x 24
Al centro dello stand l'aereo da bombardamento e ricognizione S 79
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_220引用。


サボイア・マルケッティSM-79は雷撃機として、胴体下面に航空魚雷を搭載するもできた。飛行性能は芳しくなかったが、実用性が高く、艦船攻撃にも成果を上げた。ファシスト独裁国家イタリアの国籍マークは、主翼上面と下面にファッシ(束ねた武器)、垂直尾翼にイタリア軍の国籍マークは、緑・白・赤の三色旗の三色旗を描いた。

サボイアマルケッティSM-79爆撃機 サボイア・マルケッティSM-79三発爆撃機(Savoia-Marchetti SM.79)は、元来はスピードレース参加用する旅客輸送機機として開発され、原型機は1934年10月に初飛行した。その高性能からイタリア空軍はSM.79輸送機を爆撃機として使用することを考えたが、これはドイツで民間機のハインケルHe-111輸送機、ユンカースJu-86輸送機、Do-17郵便機がいずれも双発爆撃機に転換されたのと同じである。サボイア・マルケッティSM-79爆撃機試作機が初飛行は、1936年7月に初飛行したが、1937年のスペイン内戦に実験的に実戦使用に投入され、その高い飛行性能と信頼性が高く評価された。

イタリア空軍サボイア・マルケッティSM-79Savoia Marchetti SM.79)三発爆撃機の原型は、三発高速旅客機で1934年10月に初飛行した。発動機は、競技用特別機ではピアッジョPIXRC2(1,000馬力)を搭載し、1935年、1000kmと2000kmのコースで世界最速記録を達成した。ここで三発のは、1000馬力級のエンジンがなく、双発機ではエンジンの馬力不足で飛行性能が低下してしまうためである。しかし、機首にエンジンがあることで、前方視界が制限され、爆撃手席も機首先端に設けることができなくなった。また、機首に防御用旋回機関銃を搭載することもできなかった。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア空軍ブレダ(Breda)Ba 65(Nibbio)(左単発機)とサヴォイア・マルケッティSM.83三発輸送機試作機(登録コード:I-LUCE)(左端、機体前半分):展示ドームの下には、企業別のボードが吊下げられている。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: Veduta di vari stand del settore italiano. Fra gli stand: Savoia Marchetti (Società italiana aeroplani idrovolanti-SIAI), Caproni Vizzola e Piaggio
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_238引用。


イタリア空軍ブレダ(Breda)Ba 65(Nibbio)地上攻撃機は、フィアット(Fiat)A.80 R.C.41空冷星形18気筒エンジン1基搭載、1935年9月初飛行、最高速力430 km/h (270 mph, 230 kn)、航続距離 550 km (340 mi, 300 nmi)、12.7 mm ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁、7.7 mm ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁、爆弾 500 kg (1,102 lb) 搭載。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティSM-83三発輸送機試作機(登録コード:I-LUCE):右端にブレダ(Breda)Ba 65(Nibbio)の左翼と機首。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Visitatori Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_181引用。


イタリアのSM.79輸送機は、イタリア軍の要請で軍用爆撃機として改造され、好成績をあげて、量産された。その後、サボイア・マルケッティ社は、高性能のSM.79を再び輸送機仕様に改造し、SM.83三発輸送機を開発した。この機体は、大量生産されなかったが、要人輸送機として使われた。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア空軍サヴォイア・マルケッティ SM.83輸送機:民間輸送機SM.79は軍用機に改造され量産されたが、これを再び輸送機仕様にしたのが、SM.83三発輸送機である。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Visitatori
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937

Misure: 13 x 18
Note: In primo piano l'aereo Savoia Marchetti SM 83 (Società italiana aeroplani idrovolanti-SIAI).
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_266 引用。


サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83は、全く新しい機体のように、形式名称は新規だが、主翼・尾翼の構造は原型のSM.79を流用して、発動機も同じアルファ・ロメオ126RC34(750馬力)3基である。イタリアにおける民間空路の需要は大きくなかったため、乗客数を増やすよりも、室内居住性の向上と高速化に重きを置いた高速輸送機として、小改造によって、イタリアの航空技術の優秀性を世界に喧伝すことを選んだのである。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ SM.83輸送機(登録コード:I-LUCE)と手前の推進式プロペラを搭載したエンテ型のアンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.3(SCAMM372)実験機
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Visitatori Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: In primo piano alcuni visitatori nel settore italiano del Salone. Sullo sfondo l'aereo Savoia Marchetti SM 83 (Società idrovolanti Alta Italia-SIAI).
写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_170 引用。


アンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.3(SCAMM372)実験機は胴体先頭機首でなく胴体後端機尾にエンジンを搭載し、推進式プロペラを装備し、水平尾翼は胴体前方に設けたエンテ型・搭載したエンテ型=カナード型(canard)の前翼飛行機で1937年初飛行。プロペラを機首に設けると、胴体・主翼・尾翼を速い速度で空気が流れ、空気抵抗が生じたり、機体の安定が損なわれたりするが、プロペラを機尾の胴体後方に設けた推力式であれば、プロペラ効率が向上する。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ SM.83輸送機(登録コード:I-LUCEと手前のアンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.3(SCAMM372)実験機 :後者はエンテ(Ente)型あるいは飛行機で、尾翼ではなく、主翼の前方に前翼(カナード)があり、機尾に搭載したエンジンで推進プロペラを駆動する。1937年初飛行。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Visitatori Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: In primo piano l'aereo SS3 "Anitra" della SAI (Società aeronautica italiana). Sulla destra particolare dell'aereo Caproni Ca 100 Caproncino.
写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_245 引用。


アンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.3(SCAMM372)実験機は、前翼(カナード)式で胴体後方のエンジンで推進プロペラを回転させ、1937年に飛行に成功した。そこで、この高効率の推進式プロペラをもつ戦闘機として、アンプロシー二(SAI Ambrosini)S.S.4が試作機され、1939年3月7日に初飛行した。日本、アメリカも前翼式飛行機を試作したが、飛行は4年以上遅いので、イタリアの航空技術の高さが示されたといえる。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ SM 79爆撃機(Sparviero)と奥のSM.79を流用したSM.83輸送機:イタリアのセクターのさまざまなスタンドが設けられている。右から左へ:、サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)、イタリアの水上飛行機会社(SIAI)、その奥にSM 79(Sparviero)が展示されている。アドリア海の造船所。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: Veduta di vari stand del settore italiano. Da destra a sinistra gli stand: Savoia Marchetti (Società italiana aeroplani idrovolanti-SIAI), con in mostra l'aereo SM 79 Sparviero; Aeronautica Lombarda; Cantieri Riuniti dell'Adriatico.
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_227引用。


サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-79は、乗客席8席の高速旅客輸送機で、第二次大戦前から爆撃機として量産されていた。そこで、このSM.79を原型に、再度、乗客10席の高速旅客機としたのが、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83旅客輸送機で、1937年10月2-17日に開催された,ミラノ・航空展示会で展示され、世界に向けてイタリアの航空技術の優秀性を誇示した。しかし、実際に、SM.83が初飛行したのは、ミラノ航空展示会終了後の1937年11月19日である。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ SM.83輸送機:イタリアのセクターのさまざまなスタンドが設けられている。右から左へ:、サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)、イタリアの水上飛行機会社(SIAI)、その奥にSM 79(Sparviero)が展示されている。アドリア海の造船所。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: Veduta di vari stand del settore italiano. Da destra a sinistra gli stand: Savoia Marchetti (Società italiana aeroplani idrovolanti-SIAI), con in mostra l'aereo SM 79 Sparviero; Aeronautica Lombarda; Cantieri Riuniti dell'Adriatico.
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_230引用。


写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、サヴォイア・マルケッティ SM.83輸送機:民間輸送機SM.79は軍用機に改造され量産されたが、これを再び輸送機仕様にしたのが、SM.83三発輸送機である。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano Non identificato
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Note: In primo piano alcuni visitatori nel settore italiano del Salone. Sullo sfondo l'aereo Savoia Marchetti SM 83 (Società idrovolanti Alta Italia-SIAI).
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_175引用。


したがって、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83輸送機の量産は、大戦前に43機であり、これにはイタリア空軍の発注13機も含まれる。しかし、イタリア以外にも、ベルギーのサベナ国際航空が4機を購入、ベルギー本土とアフリカ植民地領コンゴとの輸送用に使用した。また、ルーマニアも、民家航空用に3機を購入した。

写真(右)1938-1939年頃,イタリア、イタリア空軍サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83三発輸送機試作機(登録コード:I-LUCE; 製造番号 c/n 34001):1937年11月3日初飛行の民間長距離旅客機として開発されたが、当初は、外務大臣チアーノの専用機として使われた。その後、大戦中期、イタリア降伏の1943年まで、軍用輸送機として使用された。
Savoia-Marchetti SM.83 Savoia-Marchetti SM.83 (I-LUCE c/n 34001). The SM.83 long range civil transport stemmed directly from the famous bomber SM.79. The photograph depicts the prototype, registered as I-LUCE it was first flown on November 3, 1937. As I-E
-PictionID: 42002948 - Title: Savoia-Marchetti SM.83 Savoia-Marchetti SM.83 (I-LUCE c/n 34001). The SM.83 long range civil transport stemmed directly from the famous bomber SM.79. The photograph depicts the prototype, registered as I-LUCE it was first flown on November 3, 1937. As I-ESTE (from June 13 to August 8, 1939) this aircraft was used by Galeazzo Ciano (son-in-law of Benito Mussolini). Then, with the registration I-ESTO (from April 20, 1940) this aircraft was pressed in military service and was used until 1943 for special transport missions. - Catalog:15_003031 - Filename:15_003031.TIF - Image from the Charles Daniel's Collection Italian Aircraft Album.
写真はÖsterreichische Nationalbibliothek,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog:15_003031 引用。


1940年6月に、イタリアが第二次世界大戦に参戦すると、民間航路も軍の管理統制の下に置かれ、サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-83三発輸送機は、政府専用機とイタリア空軍輸送飛行中隊に編入され、高速人員輸送機としてしようされた。イタリア外務大臣チャーノの専用機は、SM-83三発輸送機(登録コード:I-LUCE; 製造番号 c/n 34001)である。

⇒写真集Album:サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti )SM-79爆撃機を見る。


13.ピアッジョ(Piaggio)P.108 T 輸送機

写真(右)1943年後半,イタリア南端、タラント(Taranto)郊外、グロッターリエ(Grottaglie)飛行場、鹵獲したイタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 T大型輸送機をアメリカ軍の国籍マークに塗り替えた。;垂直尾翼の白十字はファシスト・イタリア空軍の国籍記章を流用したまま塗り替えているようだ。
The Piaggio P.108B of 274thSquadriglia seized by the USAAF soon after its arrival at Grottagliefrom Foligno and Apulia. In the this photo the aircraft has acquiredUSAAF markings and is not ready for its next (and final) flight becauseof problems with the hydraulic system.
The Author of this page is Brendan Cowan Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真は, ADF-SERIALS Australian& New Zealand Military Aircraft Serials & History RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。


1941年3月26日に発注されたのがピアッジョ(Piaggio) P.108の軍用輸送機仕様で、試作機の初飛行は1942年9月7日と、イタリア降伏の1年前だった。この輸送機は、ピアッジョP.108T と命名され、胴体貨物室の容積は77 m³ (2,700 ft³)、兵士60名を搭載することができた。ただし、生産機数は12機のみ。

⇒写真集Album:ドイツピアッジョ(Piaggio) P.108T 輸送機を見る。


14.デハビランド(De Havilland)ドラゴン(Dragon)DH-89、DC-2/DC-3輸送機

写真(右)1937-1948年4、スイス、チューリッヒ郊外、デュードルフ空港の空港ビルから眺めたスイス航空(Swissair)のデハビランド(De Havilland)ドラゴン(Dragon)DH-89(登録コード:HB-APA)輸送機、DC-3輸送機(機体コード:226, 登録コード:HB-IRI) と奥のもう1機のダグラスDC-3輸送機(機体コード:216, 登録コード:HB-IRA)(最奥左):原典(誤)「DC-2 115-B, HB-ITA」⇒正「DC-3-216, HB-IRA」手前のフェンスのうち側では見送りや見物の人々が集まり、右には登場する乗客が待機している。ただし、右のDC-3の昇降口には乗客がすでに集まっている。
Zuschauerterrasse und die Douglas DC-2 115-B, HB-ITA, Douglas DC-3-216, HB-IRI und De Havilland Dragon DH-89, HB-APA auf dem Flugplatz Dübendorf
Photographer Swissair Dating 1937-1948
Caption Die Fracht ist vom Camion in die HB-IRO umgeladen worden
Physical Description Fotografie : Nitratnegativ Format 6 x 6 cm Colour schwarz/weiss
Orientation Square Categories Douglas DC-2 115-B, HB-ITA, Reportage photography, Dübendorf, Douglas DC-3-216, HB-IRA, Aerodrome Dübendorf, de Havilland Dragon Rapide D.H. 89A, HB-APA
写真は, ETH-Zürich LBS_SR01-01065引用。


2機のDC-3輸送機(機体コード:216, 登録コード:HB-IRA)と(機体コード:216, 登録コード:HB-IRA)は、1937年6月にスイス航空が1機当たり52万7000スイス・フランで新規購入した機体である。前者・後者ともに、1955年3月にアメリカのオザーク航空(Ozark Air Lines)売却された。オザーク航空は1986年10月にTWAに買収され、TWAは2001年にアメリカン航空に合併された。

デハビランド(De Havilland)ドラゴン(Dragon)ラピードDH-89複葉機は、1934年4月17日に初飛行した木製・複葉羽布張り主翼・固定脚という堅実な設計だった。全長10.5 m、全幅14.6 m、全高3.1 m、主翼面積32 m²、空虚重量1,460 kg、全備重量2,490 kgで、発動機製自社のデハビランド(De Havilland)ジプシークイン(Gipsy Queen)空冷6気筒エンジン205 hp (153 kW)2基を搭載し、乗客8名、最高速力253 km/h、航続距離920 kmだった。

wikipediaでは「ドラゴン・ラピードは主に近距離旅客機として運用され、戦時中は軍事用として運用された。またイギリスで1930年代に開発されたほかの航空機よりも操縦性に優れていたため、最も商業的成功を収めた機体であった。」と説明しているが、デハビランド(De Havilland)ドラゴン(Dragon)DH-89複葉機は、民間旅客機としては200機程度の生産で、その後、第二次世界大戦中はイギリス空軍にデハビランド・ドミニエ機上練習機として制式され、500機が生産された。つまり、民間旅客機と練習機と合計でデハビランドDH-89複葉機は、727機が量産され、1946年の生産終了後も堅牢な構造を生かして、長期間、世界中で活躍し続けた。


15.ビーチクラフト C-45 エクスペディター(Expeditor)

写真(右)1941年、アメリカ、アラスカ準州、マッキンリー山麓を飛行中のアメリカ陸軍航空隊ビーチクラフト C-45 エクスペディター(Expeditor)輸送機:全幅47 ft 8 in.、全長 34 ft 3 in.、全高9 ft 8 in.、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-985 ワスプ・ジュニア(Wasp Junior)空冷星型9気筒エンジン(排気量16 L) 450 hp (340 kW)2基搭載、全備重量9,300 ポンド、最高速力230 マイル時、実用上昇限度21,400 ft、航続距離850 マイル。ビーチクラフト モデル 18軍用仕様は、1,500 機が量産され、1950年代半ばまで広範に使用された。
Beech : C-45 Manufacturer: Beech Designation: C-45 Official Nickname: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Catalog #: 00044648引用。


ビーチクラフト(Beechcraft)社は、前作モデル17 スタッガーウィング (Model 17 Staggerwing) 単発輸送機に次ぐ双発輸送機ビーチクラフト モデル 18Beechcraft Model 18“Twin Beech”)の開発を1935年11月に開始した。機体は小型で、搭乗員2名、乗客6名で、企業や実業家の個人機として高速輸送、短距離地方間輸送を前提にした全金属製低翼単葉機で、引込み式式降着装置を採用した。

写真(右)1943年以降、アメリカ、雪化粧した舗装滑走路で2翅プロペラを回転するビーチクラフト C-45 エクスペディター(Expeditor)輸送機:民間仕様ビーチクラフト モデル 18A(Beechcraft Model 18)は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-985 ワスプ・ジュニア(Wasp Junior)空冷星型9気筒エンジン(排気量16 L) 450 hp (340 kW)2基搭載、1937年1月15日初飛行。この軍用仕様がビーチクラフト C-45 エクスペディター(Expeditor)である。民間、軍用合わせて、1937‐1970年に9,000機以上が長期量産された。
Beech : C-45 : Expeditor Manufacturer: Beech Designation: C-45 Official Nickname: Expeditor
写真はWikimedia Commons,San Diego Air and Space Museum Catalog #: 00012927引用。


ビーチクラフト モデル 18Beechcraft Model 18“Twin Beech”)試作1号機は、1937年1月15日にTWA(トランス・ワールド航空)操縦士ジェームズ・ペイトン、ビーチクラフト社副操縦士ランキンが行った。最高速力325km/hは、当時の戦闘機並みの高速であり、着陸時の失速制限速力は89km/hと極めて低速での進入が可能で、未舗装の小型滑走路での運用にも便利だった。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると中立国アメリカでも航空機大増産が開始され、1940年にはアメリカ陸軍航空隊から、ビーチクラフト モデル 18Beechcraft Model 18“Twin Beech”)を受注し、軍用輸送機仕様C-45 エクスペディターC-45 Expeditor)も量産に入った。1941年12月の太平洋戦争を契機にアメリカが第二次世界大戦に参戦すると、民間仕様を原型にして軍用仕様C-45 エクスペディター、航法練習機仕様AT-7 ナビゲーター(Navigator)、射撃手/爆撃手訓練機AT-11 カンザン(Kansan)が開発、量産に移行している。軍用仕様型モデル18は、5,000機以上が製造された。

⇒写真集Album:ビーチクラフト モデル 18(Beechcraft Model 18)/ C-45 エクスペディター(Expeditor)輸送機を見る。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇 ドイツ空軍 Ju88A
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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