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◆ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争
写真(上)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)、フィンランド軍がソ連から奪い返したヴィープリ解放式典 ;フィンランド軍第4軍団司令官カール・レンナルト・オシュ(Karl Lennart Oesch)中将ら軍首脳が、兵士に迎えられて解放式典の会場となった中央広場に向かっている。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941. Kenraaliluutnantti Oesch tarkastaa joukot Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla. Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。



写真(上)1941年、フィンランド南端、フィンランド湾のマキロウト(Makiluoto)島、フィンランド軍の沿岸砲8インチ重砲
;1941年秋に、ハンコ港を攻撃したソ連海軍艦艇を砲撃して、撃退している。
Mäkiluodon raskaan, 8 tuuman patterin tykeillä ammutaan syksyllä 1941 venäläisiä laivasaattueita, jotka evakuoivat Hangon alueen joukkoja. Mäkiluoto 1941.00.00Content Type Photo Organisation Military Museum
写真はFinnish Defence Forces・JSdia146引用。



写真(上)1942年6月28日、ドイツ軍の支援を受けて建造したフィンランド軍の対空砲台式水上艇
;8,8センチ高射砲、20ミリ対空機関砲を搭載している。乾舷は低く外洋航行はできないが、内陸湖沼では十分に機動力を発揮できた。
Saksan ilmavoimien (Einsatzstab Fähre Ost) raskas tykkilautta (Siebel-lautta, uppoumaltaan 143 tonnia) Lahdenpohjan edustalla pidetyssä paraatissa. Lahdenpohja, Laatokka 1942.08.13
写真はThe Finnish Defence Forces・JSdia173引用。


序.1939年11月30日-1940年3月13日、対ソビエト冬戦争(talvisota)における敗北


1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデルAimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をしたが、10月11日、ソ連の外務人民委員(外相)モロトフは、フィンランドのパーシビキを団長とする交渉団をモスクワに招き、
1)カレリア地峡の対ソ連防衛戦の撤去
2)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
3)カレリア地峡のソ連国境の30km前進(割譲2200平方キロ)と東カレリア(フィンランド東国境に面したソ連領5000平方キロ)の交換
という要求を突き付けた。フィンランド軍総司令官マンネルヘイム元帥は、ソ連の要求を受諾するしかないと考え、フィンランド政府も、カレリア地峡のソ連国境10km前進、フィンランド湾の島々の譲渡は受け入れたが、ハンコ半島の租借は拒否した。こうして、交渉は決裂し、双方とも10月には、動員を準備し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急事態を認める共和国防衛法を布告した。


写真(上)1940年5月19日、戦争英雄記念日、フィンランド南東部、北カレリア、ヘルシンキ北東ヨエンス、戦争英雄墓地で冬戦争で戦死した英霊を悼むフィンランド国防軍将校と市民
;戦争英雄記念日のこの日の式典にはクオピオ州グスタフ・イグナティウス知事も花輪を捧げた。第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)を闘い始めたが、1940年3月13日に降伏した。方面軍の将校や下士官兵も戦友の犠牲を悼んで花輪を捧げた。
Sankarivainajien muistopäivän tapahtumia Joensuussa 19.5.1940. Sankarihautajaiset. Joensuun sankarihautajaisista mustavalkoiset SA-kuvat 10348-10372, joista tiedot.
Organisation Military Museum Photo info: 1940-05-19 Kim Borg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-166435引用。


フィンランドは、ソ連の領土要求を拒否、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦した。ソ連は、「冬戦争」でフィンランドに侵略行為に及んだことで、国際連盟を除名され、フィンランド軍相手に戦術的失策を犯した。しかし、フィンランドは、独ソ不可侵条約(第三国と開戦した場合は第三国を支持せず、他国との連合に加わらない相互不可侵と中立義務を締結)を結んだドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができなかった。


写真(上)1940年5月19日、戦争英雄記念日、フィンランド南東部、北カレリア、ヘルシンキ北東ヨエンス、戦争英雄墓地で冬戦争で戦死した英霊を悼むフィンランド国防軍将校と市民
;戦争英雄記念日のこの日の式典にはクオピオ州グスタフ・イグナティウス知事も花輪を捧げた。第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)を闘い始めたが、1940年3月13日に降伏した。方面軍の将校や下士官兵も戦友の犠牲を悼んで花輪を捧げた。
Sankarivainajien muistopäivän tapahtumia Joensuussa 19.5.1940. Sankarihautajaiset. Joensuun sankarihautajaisista mustavalkoiset SA-kuvat 10348-10372, joista tiedot.
Organisation Military Museum Photo info: 1940-05-19 Kim Borg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165935引用。


第二次世界大戦緒戦にあって、西側で都市爆撃が回避されていた理由は、
1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、
と政治的指導者が考えており、それが軍事的に容易な都市爆撃を回避させていたのであろう。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。ソ連は、「冬戦争」でフィンランドに侵略行為に及んだことで、国際連盟を除名され、フィンランド軍相手に戦術的失策を犯した。

フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。


1.1941年6月25日、フィンランドによるソ連侵攻「継続戦争」勃発

写真(右)1941年7月11日、フィンランド、元来輸出牛を生産していた牧場を通過するフィンランド同盟国のドイツ軍のIII号戦車G型( PzKpfw III Ausf.G ):III号戦車G型G型は、ドイツで1940年4月から生産が開始された新型主力戦車で、1941年2月までに600両が量産された。
Saksalaisten tankit etenevät läpi viennankarjalaisten kylien. Panssarivaunu on tyyppiä PzKpfw III Ausf.G (Panzerkampfwagen).
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1941-07-11 Hedenstöm, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-83388引用。


フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い、フィンランド軍総司令官、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなかった。1940年3月12日、フィンランドはソ連の領土要求を受け入れて降伏し冬戦争で敗北し、領土割譲を余儀なくされた。この「冬戦争」の復讐戦が、1941年6月25日にフィンランドがソ連に侵攻した「継承戦争」である。

写真(右)1941年7月11日、フィンランド、フィンランド軍と同盟してソ連に侵攻したドイツ軍のIII号戦車G型( PzKpfw III Ausf.G )の砲塔:III号戦車G型の主砲は、長砲身42口径5センチ戦車砲で、当時のドイツ戦車としては、対戦車戦闘能力が最も高かった。全長:5.41m、全幅:2.95m、全高:2.44m、全備重量:20.3t、乗員:5名、発動機:マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリンエンジン(300馬力)、最高速力:40km/h(路上)、航続距離:165km、兵装:42口径5センチ戦車砲KwK(99発)、7.92ミリ機関銃(MG34)2丁(2,700発)、装甲:10〜30ミリ。
Saksalaisten tankit etenevät läpi viennankarjalaisten kylien. Panssarivaunu on tyyppiä PzKpfw III Ausf.G (Panzerkampfwagen).
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1941-07-11 Hedenstöm, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-83389引用。


フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。フィンランドは、冬戦争で領土割譲を余儀なくされた。日露戦争後の三国干渉を臥薪嘗胆した日本と同じように、フィンランドもソ連に対する復讐戦争を当然のことのように準備していたのである。

写真(右)1941年8月30日、フィンランド南東、ソ連国境ヴィボルグ(Вы́борг:Vyborg)の鉄道駅:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで侵攻した。
Ratapihaa ja aseman raunioita. Viipuri 30.8.1941.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia036引用。


フィンランドは、冬戦争で失った領土を奪回するために、愛国的戦争と見なして1941年6月26日、第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を開始した。つまり、冬戦争の続きとして、領土奪回のための継続戦争を仕掛けたのである。また、当時、ドイツは、イギリス供交戦状態にあったが、フィンランドはイギリスと戦うつもりは全くなく、イギリスの行為を得るために、ドイツ同盟国として、枢軸側に立って第二次世界大戦を戦う、ということではないとの弁明をした。あくまでも敵はソ連だけであり、これは世界戦争の一環ではなく、局地的な二国間戦争に過ぎないというのである。このようなご都合主義の参戦をイギリスは認めなかったた。フィンランドは、事実上、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したとみなされるのである。

写真(右)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)の中央広場、フィンランド軍がソ連から取り戻したヴィープリ:カレリア地峡では、歩兵部隊による戦闘、陣地戦が戦われていたために、解放した市街にも破壊の後はあった。しかし、ソ連軍は、ここを本土とは考えなかったのか、後年のスターリングラードのように激しい徹底抗戦を伴う市街戦はなかったようだ。
Tiedot värikuvien selosteesta. Kuvasta kaksi eri selostetta, joista toisessa ajankohdaksi merkitty lokakuu 1941. Saksalaisen kenttäsairaalan pesua. / Saksal. höyrykaappeja vaatteiden puhd. Alakurtti (Salla) 1941.09.26.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia036引用。


ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では、フィンランドは,ルーマニア同様、積極的な攻勢に参加することが期待されていた。ドイツは、フィンランド北部のぺツァモと近郊の希少資源ニッケル鉱床を保持するだけでなく、ソ連のレニングラードと北極海の不凍港ムルマンスクを結ぶ鉄道を遮断するために、ドイツは、既に全土を占領したノルウェー北部から、フィンランド北部にドイツ第21軍北方軍団を進駐させ、そこからムルマンスク方面を攻撃する計画だった。この極北でのソ連侵攻に、ドイツ軍とフィンラ ンド軍が参加し、さらにカレリア地峡のすべてを占領し、レニングラードを攻略するために、ラドガ湖周辺にもフィンランド軍が侵攻する計画だった。このようにしてフィンランドは、ドイツの対ソ戦争「バルバロッサ作戦」に組み込まれいた。特に、1941年1月には、ノルウェー派遣ドイツ軍は、極北戦線で「銀狐作戦」(Silberfuchs)によって、コラ半島のソ連軍を撃滅し,ムルマンスク鉄道に沿って、白海とフィンランド湾の間にあるカレリア地峡まで進出する計画を立てていた。

写真(右)1941年8月頃、フィンランド南東、ソ連国境レニングラード近く、フィンランド軍が奪回したヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri):1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。フィンランドはソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功した。
Tuntematon sotakuvaaja Karjalankadun ja Äyräpäänkadun risteyksessä. Viipuri 1941.00.00.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia036引用。


フィンランド側は、イギリス(アメリカ)には戦争を仕掛けたいとは思っていなかった。そこで、第二次ソ芬戦争とは、あくまで、ソ連に対して1939年の冬戦争で奪われた国土の回復を求めた防衛戦争であると主張した。しかし、ソ連がドイツの攻勢を一国で受け止めている状況で、イギリス(アメリカ)は、フィンランド側の言う「継続戦争」がイギリス・アメリカと戦う第二次大戦への参戦ではないという身勝手な論理を撥ねつけた。そこで、ヒトラーは、西側連合国と関係が悪化したフィンランドに対して、ソ連への軍事的攻勢を強化しても、これ以上、西側連合国が外交的圧力を加えることはないと、ソ連への攻撃を強化し、ソ連を打倒するように強く要請した。

写真(右)1941年8月30日、フィンランド南東、ソ連国境ヴィボルグ(Вы́борг:Vyborg):フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Ratapihaa ja aseman raunioita. Viipuri 30.8.1941.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia036引用。


ドイツ軍は、極北戦線での銀狐作戦にはフィンランド軍の参加が必要であると考えたが、早期にフィンランド側にソ連侵攻計画を打ち明けることは、ソ連に攻撃計画が漏れるリスクがあった。そこで、ドイツ国防軍総司令部総長ハルダー元帥は1941年1月末, フィンランド軍参謀総長へチンリクスに冬戦争に関する話し合いをベルリンで満ちたいと申し出た。そして1941年4月には、 ドイツは、フィンランドにバルロッサ作戦を伝えはしないが、参加可能なように軍事会談を開催することを決めた。こうして、5月20日, トイツはフィンランド大統領リュティに政治接触を図り、独ソ関係が悪化しており両国ともに安全保障上の措置をとっていること、戦争勃発の可能性もある事を伝えた。フィンランド大統領リュティは、この接触に対して、国防軍総司令官マンネノレへイム,首相ラン ゲノレ,国防相ヴァルデン,外相ヴィッテインクといった軍事・政治的指導者と話し合い、ドイツの提言から、ソ連侵攻に協力する方針を固めたのである。

写真(右)1941年8月頃、フィンランド南東、ソ連国境レニングラード近く、フィンランド軍が奪回したヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri):1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。フィンランドはソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功した。
Tuntematon sotakuvaaja Karjalankadun ja Äyräpäänkadun risteyksessä. Viipuri 1941.00.00.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia036引用。


フィンランド軍参謀総長へインリクスは,ドイツに空路訪れ、1941年5月25日から,国防軍作戦部長ヨードルらと会談し、レニングラード攻略と極北作戦について概説し,ラドガ湖周辺への攻勢、ムルマンスク攻略への協力、ハンコ租借地のソ連軍基地攻撃への参加を話し合い、情報交換をなした。こうして、フィンランドは、ドイツのソ連侵攻に際して、 軍事同盟の締結をしたわけではないが、フィンランド軍の動員、ドイツ空軍への基地提供など具体的な話題をも取り上げ、ドイツのソ連侵攻に併せて、フィンランドもソ連との戦争を始める決意があることを間接的に伝えていたのである。

フィンランド軍参謀総長へイン リクスは, ドイツに対し、1941年6月10日にフィンランドの動員が、6月28日には作戦準備が完了する伝えたがと通告した。他方、大統領リュティは、 6月14日に外交委員会を召集し、ドイツとの軍事的協力を承認している。準備万端の中、日本同様、フィンランドも6月17日、ドイツによる対ソ侵攻が6月22日に開始されることを暗示され、対ソ戦争の開始を固唾をのんで見守っていた。

写真(右)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)、フィンランド軍が奪回したヴィープリ解放式典:カレリア地方に侵攻したフィンランド軍は、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、8月中には、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、奪回したフィンランド軍兵士が正装隊列を組んで、軍旗を掲げて解放式典の会場となった中央広場に向かっている。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941 kauppatorilla pyöreän tornin edustalla. Paraatin vastaanotti kenraaliluutnantti Karl Lennart Oesch. Vasemmalla Pohjoismaiden Yhdyspankin talo. Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランドは、1940年3月に冬戦争でソビエト連邦に敗れたが、1941年6月にドイツと同盟して、二度目の対ソビエト継続戦争に入った。この時,フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ラジオ放送で国民にソ連侵攻を正当化して、次のように訴えた。
1)冬戦争の終結以来、ソ連はフィンランドに対して侵略的行為を重ねてきたが、これはフィンランドの独立を打ちこわし、フィンランド人を隷属化させる目的がある。したがって、自衛するための戦争は、フィンランド人の当然の義務である、
2)ソ連によるフィンランドに対する侵略行為は、1939年の冬戦争、第二次世界大戦の中の行為に留まらず、過去数百年にわたって断続 して行われてきたのであって、ロシアによるフィンランド侵略は、歴史的な宿命であり、東方からのこの脅威の状態は、次代の国民のためにも、最強国ドイツのソ連侵攻という現在、ソ連を粉砕する絶好の機会であり、これに乗じた自衛戦争が求められる、
と説いた。つまり、フィンランドは、歴史的にフィンランドを圧迫してきたロシア人・ソビエト連邦を弱体化し、フィンランドの独立を確固たるものにするために,予防戦争を仕掛けたといってよいであろう。

写真(右)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)、フィンランド軍がソ連から奪い返したヴィープリ解放式典:フィンランド軍首脳が、兵士に迎えられて解放式典の会場となった中央広場に向かっている。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941. Kenraaliluutnantti Oesch tarkastaa joukot Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla. Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


1941年6月25日、ソ連空軍がフィンランドを空襲したが、これはフィンランド展開するドイツ軍、ドイツと事実上の軍事同盟を結んだフィンランドへの当然の「自衛行為」とされた。独ソ開戦前にフィンランド北部にドイツ軍の大部隊が派遣され、北極海に臨むムルマンスクを占領する計画が立てられていたのであって、フィンランドはドイツ軍のソ連侵攻を積極的に支援していたのである。しかし、フィンランドは,これを戦争が仕掛けられたという口実にし、6月26日、対ソ宣戦布告をする。つまり、フィンランドにとっては、ソ連による侵略的軍事行動が繰り返されたことが、報復・復讐のための「継続戦争」を開始する理由とされた。対ソ戦争に巻きこまれるといった受け身の姿勢ではなく、フィンランドは1940年に敗北し、ソ連に割譲したカレリア地峡など「冬戦争」による失地回援を熱望していたのである。

写真(右)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)の中央広場、フィンランド軍がソ連から取り戻したヴィープリ解放式典の第4軍団司令官カール・レンナルト・オシュ(Karl Lennart Oesch)中将:軍楽隊も揃って、ソ連から奪還した郷土回復を祝った。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941. Kenraaliluutnantti Oesch tarkastaa joukot Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla. Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は,戦争遂行にあたって、イギリス・アメリカとの対決には至らないように配慮していた。そこで、1941年7月4日のアメリカ独立記念日に,フィンランドの戦争目的について、次のように釈明している。
1) フィンランドは, ドイツを軍事同盟国としてではなく、共同交戦国として、ソ連と戦争をしている。
2) 1940 年の冬戦争の講和は、フィンランドの戦略的な立場を大幅に低下させ、独立を危機に陥れた。そこで、自国の防衛を全うするためには、カレリア地峡の確保が必要である。ただし、ソ連のレニングラードの戦略的な立場を理解し、国境は1939年の冬戦争開戦時よりも東には進ませない。
3) ドイツの侵攻を受けたソ連の敗北は確実であり,ポリシェヴイズム・共産主義の完璧な粉砕は世界全体に利益をもたらす。

1941年6月末に始まった継続戦争に於て、ソ連に侵攻したフィンランド軍は、瞬く間に1939年当時の旧国境まで進軍し、1940年の冬戦争で失った国土を取り返した。そして、1939年の旧国境を越えて、引き続き弱体化しているソ連軍を追って進撃を続けた。フィンランドは,中東部の東カレリア地方では、旧国境を遥かに超えて占領地を拡大しており、これは当初の戦争目的である失地回復・国土奪回を超えた侵略的行為である。しかし、フィンランドは、占領地の拡大は、フィンランドの領土と国境を守るための正当な外延的防御線の移動であり、防衛的な行動であると弁明した。1941年8月21日、フィンランド外務大臣ヴィッティングは、アメリカ公使に対して、フィン ランド政府は,東カレリア地方の占領地拡大は、軍事戦略上、ドイツ軍によるレニングラード占領に重なるものであること、その時に、フィンランドは,ソ連と単独和平をすることはなく,1918年から1921年にかけてのロシア革命と反革命の時代と同じように、武装平和を維持する必要があること、を説いた。換言すれば、ドイツが対ソ戦争に勝利を収めれば、ソビエト連邦が崩壊し、共産主義ボリシェビキも壊滅させられるのであって、この将来構想を前提に、フィンランドの独立は、確固たる基盤を持つに至ると予言したのである。

写真(右)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)の中央広場、フィンランド軍がソ連から取り戻したヴィープリ解放式典:軍楽隊も揃って、ソ連から奪還した郷土回復を祝った。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941. Kenraaliluutnantti Oesch tarkastaa joukot Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla. Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


たしかに、1941年夏の継続戦争勃発当時、アメリカの軍事指導者の多くもソ連に侵攻したドイツ軍の進撃速度、100万をこえる捕虜の獲得、ソ連軍の壊滅的損害に目を奪われ、ソ連の崩壊は間近であると予測していたのであるから、フィンランドが同様に継続戦争に勝利するまで、戦争を闘い続けることは、十分予測できたのである。楽観視していたフィンランドは、対ソ連戦争勝利の後に、イギリス、その後参戦したアメリカと講和すればよいと考えており,ソ連との戦争途中の休戦や講和は問題外であるとし、強気の姿勢で外交に臨んでいたのである。


写真(上)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)の中央広場、フィンランド軍がソ連から取り戻したヴィープリ解放式典に参加したフィンランド国防軍の軍楽隊
:第4軍団司令官カール・レンナルト・オシュ(Karl Lennart Oesch)中将が現地指揮官らと握手している。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941. Kenraaliluutnantti Oesch tarkastaa joukot Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla. Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


写真(右)1941年9月5日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が継続戦争緒戦で鹵獲したソ連製1937年152ミリ榴弾砲(152 H 37)が輸送のために集められた。;鹵獲されたソ連軍の重榴弾砲が、整備、再使用するためにフィンランド本土に輸送されるのを待っている。白黒写真SA-picture45205などHeikki Roivainenの撮影になる写真にはカラー画像が含まれている。写真の説明によると、63枚の画像のうちの1枚。
Porlammin motista saaliiksi saatua raskasta tykistöä odottamassa poiskuljetusta. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 45205. Heikki Roivaisen nimellä löytyy värikuvaseloste ?Värivalokuvia Sommeen-Porlammin motista? 5.9.1941. Kuvaselosteen mukaan kuvia 63 kappaletta, tämä todennäköisesti yksi niistä. Kuvassa 152 mm:n neuvostoliittolaisia raskaita haupitseja vuodelta 1937 (152 H 37).
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1941-09-05 Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166343引用。


ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツの立場は明らかであり、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていた。フィンランドには、冬戦争で認めたソ連赤軍駐留軍とその同盟国ではあるが内心反目しあっているドイツ軍とがともに駐留していたのである。

実際、フィンランドはドイツと軍事同盟を結んでおり、動員令も発したから、フィンランドのソ連に対する敵対的行動は明らかだった。フィンランド南部のソ連国境からレニングラードまで100キロしかなく、ソ連に対する空襲は容易だった。ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を掣肘するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、ソ連にとって、当然の認められるべき防衛行動と考えられた。フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に宣戦布告した。

写真(右)1941年9月3日、フィンランド、フィンランド軍が継続戦争緒戦で鹵獲したソ連製1937年152ミリ榴弾砲(152 H 37)が輸送のために集められた。;1941年9月に鹵獲されたソ連軍の重榴弾砲が、整備、再使用するために牽引車を待っている。
Sotasaalistykkejä Porlammin motista. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 45205, josta aika- ja paikkatiedot. Kuvassa 152 mm:n neuvostoliittolaisia raskaita haupitseja vuodelta 1937 (152 H 37).
Organisation Military Museum
Photo info: 1941-09-03 Erkki Majava, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165915引用。


ソビエト軍は、1937年、開脚式砲架の1934年式152ミリM1910/34カノン砲を改良して、高仰角をとって榴弾砲としても使用できる新型の152ミリM1937榴弾砲(ML-20)を開発した。射撃の反動を抑えるため、砲口に多孔式のマズルブレーキを装備し、移動時には、砲身を後座位置で固定して、全長を短くすることができる。高速移動にも耐えられるように、砲架のサスペンションにはリーフスプリングがついており、新藤と衝撃を軽減している。車輪は、初期にはM1910/34と同じ金属製転輪のゴム張りだったが、後期には、金属製ホイールのゴムタイヤとして、自動車での牽引に対応した機動性を備えている。

写真(右)1941年9月5日、フィンランド、フィンランド軍が継続戦争緒戦で鹵獲したソ連製1937年152ミリ榴弾砲(152 H 37)が輸送のために集められた。;鹵獲されたソ連軍の重榴弾砲が、整備、再使用するために輸送されるのを待っている。
Sotasaalistykkiä hinataan Porlammin motista syyskuussa 1941. Heikki Roivaisen nimellä löytyy värikuvaseloste ”Värivalokuvia Sommeen-Porlammin motista” 5.9.1941. Kuvaselosteen mukaan kuvia 63 kappaletta, tämä todennäköisesti yksi niistä. Kuvassa 152 mm:n neuvostoliittolainen raskas haupitsi vuodelta 1937 (152 H 37).
Organisation Military Museum
Photo info: 1941-09-05 Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165915引用。


ソ連製1937年式152ミリML-20榴弾砲(152 H 37)の諸元
重量:7,270 kg(射撃時)、7,930 kg(牽引時)
全長:8.18 m(牽引時)
砲長:4,412mm(29口径、薬室を含む)
全幅:2.35 m、全高:2.27 m
弾薬:砲弾・薬莢分離式、口径:152 mm
砲架:開脚式
仰角:マイナス2度から65度、旋回角:58度
発射速度:4発/分、最大射程:17,230 m
生産期間:1937–1947、生産数:6,884門

写真(右)1941年9月5日、フィンランド、フィンランド軍の使用したスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))と野戦起動用の砲架車輪:ボフォース76.2ミリ高射砲は、ドイツの8.8センチ高射砲と似た形状であり、両者の開発のつながりが窺われる。ベルサイユ条約で新型兵器の開発を禁じられたドイツは、ひそかにスウェーデンやスイスで新型火砲など兵器開発を行った。1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけたフィンランドは、レニングラード近郊まで侵攻した。
Porlammin motista sotasaaliiksi saatu ilmatorjuntatykki. Heikki Roivaisen nimellä löytyy värikuvaseloste ”Värivalokuvia Sommeen-Porlammin motista” 5.9.1941. Kuvaselosteen mukaan kuvia 63 kappaletta, tämä todennäköisesti yksi niistä. Kyseessä 76 mm:n neuvostoliittolainen raskas ilmatorjuntakanuuna vuodelta 1931 (76 ItK 31 ss)..
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1941-09-05 Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166360引用。


写真(右)1941年9月5日、フィンランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連軍のBA-10装甲車:ポラムメン、BA-10装甲車は、ソ連が戦前からライセンス生産していたアメリカのフォード社のトラックAZ-AAを流用した装甲車で、大戦直前の1938年に開発された。ソ連では1941年までに3000輌が量産された。
Porlammen motista sotasaaliiksi saatu BA-10 panssariauto. Porlammi, Sommee 1941.09.05
Hedenstöm, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-83388引用。


1917年のロシア社会主義革命によって、ロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世は、1917年3月15日に退位した。そして、ロシア帝国の内紛とレーニン率いるボリシェビキの民族独立の方針に乗じて、フィンランド国会が設置され、11月15日にはフィンランド独立宣言が発せられ、共和制憲法の下で、独立国となった。新ロシア政府も1917年12月22日、フィンランドの独立を承認した。こうして、フィンランドが、革命後のロシアから独立したときに、レニングラード北西方のカレリア地方は、フィンランド領となった。その後、1939年に冬戦争が始まり、1940年の冬戦争敗戦を迎え、フィンランド領だったカレリア地方は、ソ連に奪われた。しかし、1941年8月、復讐戦となった継承戦争の緒戦で、フィンランドは攻勢をかけて、カレリア地峡をソ連から奪還した。フィンランドは郷土回復を祝ったのである。

写真(右)1941年9月26日,ソ連ムルマンスク州アラクルッチ、トラック輸送部隊と反航する薪を運搬する馬車:未舗装道路の周辺は、森林と夏場の雪解けの泥濘で交通は制約されているようだ。トラックや自動車もあるが、燃料制約や戦時における輸入の困難さ、森林・沼沢地の広がり、未整備道路の多いことを考えると、馬による輸送はフィンランドにとって重要な意味を持っていた。
SKotikosken länsirannan huoltotietä. Vankkurit saksalaisten kuormastoa. / Liikennettä Alakurtin tiellä. Alakurtti (Salla) 1941.09.26
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:38235670 引用。


フィンランドは、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を始め、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、8月中には、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、奪回した。

1939-1940年の冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。

愛国的な「冬戦争」では、フィンランドは善戦したが、これはソ連赤軍の指揮系統の柔軟性がなく戦術的な失敗を繰り返したこと、ソ連赤軍の兵士の士気が低いこと、ソ連製の兵器が時代遅れで旧式なものだったこと、が原因とされた。たしかに、フィンランドは、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で敗北し、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島の港湾をソ連租借地とするなど、領土割譲要求をのまざるを得なかったが、ドイツも連合国もソ連軍が弱体であるとの認識を確認するに至った。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したのではあるが、それは、ソ連軍が弱かったからであると考えられた。

写真(右)1941年9月26日、フィンランド北東、サラ、ソ連国境アラクルティ(Alakurtti)に侵攻したフィンランド軍の炊事車:煮炊きをする燃料には、フィンランドに産する木材を薪として打たために、駐屯地の周囲で燃料を現地調達することができた。このような炊事用の設備は、第一次世界大戦でも普及していたが、軍隊の移動速度が速くなり、電撃戦には追従できなくなった。ただし、極北戦線では、歩兵部隊による戦闘、陣地戦が戦われていたために、炊事車の活躍する場があったようだ。
Tiedot värikuvien selosteesta. Kuvasta kaksi eri selostetta, joista toisessa ajankohdaksi merkitty lokakuu 1941. Saksalaisen kenttäsairaalan pesua. / Saksal. höyrykaappeja vaatteiden puhd. Alakurtti (Salla) 1941.09.26.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia036引用。


当時のフィンランド大統領リュティ, 首相ランゲル(J. W. Rangell),外相ヴイツティング(R.J. Witting)は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻を歓迎したようだ。1943年にリュティ大統領の下で首相に就任したリユノコミエスは,回顧録の中で,独ソ戦争の第一報を受けた6月22日について、次のように述べている。「その時すぐに私は,フィンランドが戦争の埒外に留まることはない, と結論した。----私にとって、この成行きを拒否する態度はありえなかった。ドイツが比較的短期間にソ連を打ちのめし,それに伴って,あらゆる権利を踏みにじり、フィンランドから暴力でもぎ取ったカレリアを奪回する機会がフィンランドに訪れるのは礎実と思われた。」

写真(右)1941年10月12日、フィンランド北部、アラクルッチ、小さなカルマンランプを持ち、サウナから出てきたフィンランド軍の兵士:日曜日の太陽を楽しみ、トルカルマンラムの岸で温まっている。
Pieni Karmanlampi, sauna. / Sunnuntaisauna lämpiää Pienen Karmanlammen rannalla. Kuvattu 12.-13.10.1941. Alakurtti (Salla) - Vilmajoki 1941.10.12
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィンランド語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ロシア感情からか、小国・民主主義国フィンランドへの同情からか、フィンランド側の言う「継続戦争」の呼称を多用している。

写真(右)1941年10月13日、フィンランド北部ヴォル湖の近くサッラか、ロシア、ムルマンスク州カンダラクシャへの木製の渡河用架橋:水びだしになるような場所には、木製の渡河用道路が増設されている。森林地帯では、馬による移動や物資運搬も便利であるが、これはフィンランドのように石油を産しない国にとっては燃料節約になる。1941年8月中に、フィンランド軍は、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード近く、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を奪回した。
Sallan-Kantalahden maantie Voittojoelta (Voitajoki) Lyssajan rinteelle päin. Sallan-Kantalahden tie Voittojoen lähellä 13.10.1941. Alakurtti (Salla) - Vilmajoki 1941.10.13 .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランド軍とフィンランド派遣ドイツ軍の間には、連絡将校も配置され、協力関係が構築されていた。しかし、フィンランドは,レニングラードに対する積極的攻撃は行わなかった。これに対して,国防軍総長ヴィルヘルム・カイテルは、カレリア地峡(Karelian Isthmus)でフィンランド軍が有利な地位にあることから、 1941年8月下旬,フィンランド軍総可令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥に対して、北方からレニングラードを攻撃し、南方から攻撃するドイツ軍と挟撃することを提案した。フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は,レニングラードへの積極的な攻撃は、フィンランド国民からの支持を得られるとは考えておらず、なによりドイツ軍が独力でレニングラードを陥落させ、フィンランドはソ連崩壊の利益を享受できると予測していた。そこで、マンネルへイム元帥も、その意向を組んで、1941年8月28日、フィンランド軍によるレニングラード(Leningrad)攻撃は実施できないことをドイツ側に伝えた。しかし、このことは、フィンランド軍をカレリア地峡に展開し、間接的にレニングラード包囲網を構築することを放棄したものではない。

写真(右)1941年10月13日、フィンランド北部ヴォル湖の近くサッラか、ロシア、ムルマンスク州カンダラクシャへの道:水びだしになるような場所には、木製の渡河用道路が増設されている。森林地帯では、馬による移動や物資運搬も便利であるが、これはフィンランドのように石油を産しない国にとっては燃料節約になる。1941年8月中に、フィンランド軍は、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード近く、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を奪回した。
Sallan-Kantalahden maantie Voittojoelta (Voitajoki) Lyssajan rinteelle päin. Sallan-Kantalahden tie Voittojoen lähellä 13.10.1941. Alakurtti (Salla) - Vilmajoki 1941.10.13 .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツの立場は明らかであり、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。

実際、フィンランド領内のドイツ空軍機がソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を掣肘するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃である。しかし、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に宣戦布告した。

写真(右)1942年3月15日、フィンランド北部、ヴェリカヤ・ニバで乗馬やスキーをしている本土防衛隊:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。
Hämeen Ratsurykmentin (HRR) miehiä ratsain ja hiihtäen Velikaja Nivassa 15.3.1942. Velikaja Niva 1942.03.15
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北しており、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の際に、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。1941年7月、総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻した。

フィンランドは、「冬戦争」の敗北後、ソ連に対して領土復活のための復讐戦争を計画し、マンネルハイム元帥の下で、軍事力を強化した。特に、1940年に、ドイツ軍が、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、大陸を制覇すると、ドイツとソ連の対立が予期される状況になった。そこで、フィンランドは、ナチス・ドイツに接近し、ドイツとの同盟の元にソ連軍に対峙する姿勢を見せた。フィンランド軍は、10個師団以上を編成し、国民義勇軍として、女子や学徒も動員することで、総兵力50万人となった。

写真(右)1942年3月15日、フィンランド軍がソ連軍から鹵獲したマキシムM1931四連装対空機関銃:ソ連軍のマキシムM1910水冷機関銃を4連装とした対空機関銃で、ソ連軍の装備である。フィンランド軍は、ソ連軍のマキシム(Maxim)M1910機関銃を改装して、1932年にマキシム(Maxim)M/32あるいはM/33機関銃を開発した。
Partio-/hiihtokilpailut Äänislinnassa 15.3.1942. Partio 15. Äänislinna 1942.03.15
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許さなかった。

写真(右)1942年3月21日、フィンランド軍スキー部隊とマキシムM1931四連装対空機関銃:フィンランド軍の開発した1932年にマキシム(Maxim)M/32あるいはM/33機関銃は、毎分850発の発射速度で、ソ連軍のマキシムM1910機関銃の発射速度(毎分600発)よりも速かった。これは、新型の金属製給弾ベルト、マズルブレーキの採用によって可能になった。
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


「継続戦争」と称しているのは、フィンランドのみであり、これは第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いである。フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。

フィンランドでは、継続戦争開始後、 IKL (愛国人民同盟)、AKS(カレリア学徒会〉といった右翼団体は, フィンランド軍が新たにソ連の東カレリアまで進軍し、そこに住む同族のフィン人を併合して、ボスニア湾から白海にわ たる「大フィンランド」(Suur-Suomi) を建設することを提唱した。

写真(右)1942年3月21日、フィンランド、配置に着いたドイツ製1936年型3.7センチ対戦車砲(3.7 cm PaK 36)。同じ対戦車砲を採用したフィンランド軍は37 PstK / 36と命名した。:写真オリジナルのキャプションは「配置に着いたドイツの50mm対空砲」とあるが、これは5 cm Pak 38または50 PstK / 38の対戦車砲と解説されている。しかし、この写真に続く5センチ対戦車砲との認識は誤っている。写真は、重量半分以下の小型な1936年型3.7センチ対戦車砲(3.7 cm PaK 36: 3.7 cm Panzerabwehrkanone 36)で、1936年にラインメタル社が開発したもの。
Saksalainen 50mm ilmatorjuntatykki asemissaan. Alkuperäisestä kuvatekstistä poiketen kuvassa on 37 mm:n saksalainen panssarintorjuntatykki..
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1942-03-21 Sot.virk. H. Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive .sa-kuva-4353引用。


1941年6月11日のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では、ドイツ軍は、ソ連のT-34戦車、KV-1重戦車のような重装甲の戦車に多数対峙することとなり、3.7センチ対戦車砲では、敵ソ連戦車を撃破することができず苦戦した。そこで、1938年式5センチ対戦車砲(5 cm Pak 38)の生産に拍車がかかった。その結果、1940年-1943年にかけて9,568門が製造されることになった。

写真(右)1942年3月21日、フィンランド、配置に着いたドイツ製1938年式5センチ対戦車砲(5 cm Pak 38)。同じ対戦車砲を採用したフィンランド軍は50 PstK / 38と命名した。:写真オリジナル解説には「配置に着いたドイツの50mm対空砲」とあるが、このキャプションは誤りで、これは5 cm Pak 38または50 PstK / 38の対戦車砲と解説されている。
Saksalainen 50mm ilmatorjuntatykki asemissaan. Alkuperäisestä kuvatekstistä poiketen kyseessä on panssarintorjuntatykki 5 cm Pak 38 eli suomalaisittain 50 PstK/38.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1942-03-21 Sot.virk. H. Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive .sa-kuva-4356引用。


1938年式5センチ対戦車砲(5 cm Pak 38)は、1938年にドイツのラインメタル社が自損の3.7 cm PaK 36の口径を増大させ、装甲貫通力を向上した後継の対戦車砲として開発した。機械化部隊に同伴するために、ゴム製タイヤを採用、トーションバーサスペンションを装備して機動性を高めている。1938年式5センチ対戦車砲(5 cm Pak 38)が部隊配備されたのは、1940年以降で、ドイツ陸軍参謀本部は大口径・長砲身の対戦車砲の配備に熱心ではなく、既存の3.7センチ対戦車砲で事足りると考えていた。実際、西方戦役「黄色の場合」でフランスに侵攻した時も、重装甲のフランス軍ソミュア S35戦車、イギリス軍のマチルダ歩兵戦車に対しても、火力の集中と機動性で対処できたからである。つまり、開発はされ、生産は開始されてはいたものの、その生産数は少なく、部隊配備数は限られていた。

写真(右)1942年3月21日、フィンランド、配置に着いたドイツ製1938年式5センチ対戦車砲(5 cm Pak 38)。同じ対戦車砲を採用したフィンランド軍は50 PstK / 38と命名した。:写真オリジナル解説には「配置に着いたドイツの50mm対空砲」とあるが、このキャプションは誤りで、これは5 cm Pak 38または50 PstK / 38の対戦車砲と解説されている。
Saksalainen 50 mm ilmatorjuntatykki asemissaan. Panssarintorjuntatykki 5 cm Pak 38 eli suomalaisittain 50 PstK/38..
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-03-21 Sot.virk. H. Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-4354引用。


1938年式5センチ対戦車砲(5 cm Pak 38)に関してwikipediaは「1941年4月-5月のドイツ軍によるバルカン戦線介入が最初の実戦投入となった。同年6月のバルバロッサ作戦を契機に開始した独ソ戦においては、タングステン弾芯の硬芯徹甲弾Pzgr.40を用いる事でT-34中戦車に対抗可能だった」と、いかにも十分な数が戦線で使用されていたかのように書いているが、当時普及していた強力な対戦車砲は、チェコ製47ミリ対戦車砲だった。

写真(右)1942年3月17日、フィンランド、白色迷彩カバーを掛けて、配置に着いたドイツ製1938年式5センチ対戦車砲(5 cm Pak 38)の正面。同じ対戦車砲を採用したフィンランド軍は50 PstK / 38と命名した。:火砲を白色迷彩塗装することもしたフィンファンド軍だったが、雪景色の中で影のできないように隠匿するには、白色のシートで被うことは有効な対策になった。
Saksalainen 50 mm ilmatorjuntatykki asemissaan. Panssarintorjuntatykki 5 cm Pak 38 eli suomalaisittain 50 PstK/38..
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-03-21 Sot.virk. H. Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-4355引用。


フィンランドは、「冬戦争」の敗北後、ソ連に対して領土復活のための復讐戦争を計画し、マンネルハイム元帥の下で、軍事力を強化した。特に、1940年に、ドイツ軍が、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、大陸を制覇すると、ドイツとソ連の対立が予期される状況になった。そこで、フィンランドは、ナチス・ドイツに接近し、ドイツとの同盟の元にソ連軍に対峙する姿勢を見せた。フィンランド軍は、10個師団以上を編成し、国民義勇軍として、女子や学徒も動員することで、総兵力50万人となった。

写真(右)1942年4月、ロシア北部、ムルマンスク州ペチェンガ、フィンランド軍スキー部隊が、爽快な気分になろうと冷たい氷水で朝の洗濯をする。:雪原での行動では、雪が解ける山水で飲料から洗濯まで賄わなければならない。燃料節約のためには、冷たい氷水を利用する場合も多いであろう。
Aamupesu tunturipurossa virkistää. Erillinen Osasto P. Samasta tapahtumasta mustavalkoinen SA-kuva 82011, josta tiedot. Värikuvien selosteessa: Jääkylmä, mutta virkistävä aamupesu. Petsamo, Luttojoki (Er. Os. P.), huhtikuu 1942..
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166448引用。


写真(右)1942年4月12日、トナカイを使って物資輸送をするフィンランド軍:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。
Porotokka odottamassa lähtöä. Petsamo, Kukkesjaur 1942.04.12
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


1941年6月26日に始まった第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)では、ドイツ軍によってソ連軍が緒戦で大打撃を受けており、フィンランド方面に配備できるソ連軍は制限され、予備軍を充当するにも、レニングラード防衛が精いっぱいであり、ソ連軍はフィンランドに対する攻勢を仕掛けることができなかった。

写真(右)1942年4月13日、野営撤収準備をするフィンランド軍スキー・トナカイ部隊の兵士:トナカイに曳かせる荷物運搬用木製橇に、野営で使ったテントや寝袋などをきつく丸めて輸送する準備をしている。
Lepohetki ja teltan purkaminen huhtikuun hyökkäysvaiheessa. Erillinen Osasto P. Kuva liittyy todennäköisesti Petsamon Kukkesjaurissa kuvattuihin mustavalkoisiin sarjoihin 81887-81925, 81937-81941 ja 81956-82026. Roivaisen värikuvat kuvattu 13.4.-14.4.1942. Roivainen itse kuvassa 82010. Värikuvaselosteessa: Lepohetki ja teltan pur
Organisation Military Museum
Photo info: 1942-04-13 Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166315引用。


フィンランドは、1941年6月22日、ドイツによる「バルバロッサ作戦」ソ連侵攻について、中立を宣言していたが、実際には、フィンランド国内にドイツ軍を駐留させ、そこからソ連に対する空襲を黙認していた。そこで、ソ連空軍の報復攻撃を受け、それを参戦の口実にして、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を、かねてからの計画通りに遂行した。つまり、冬戦争の敗北を注ぐための、対ソ連反ボリシェビキ戦争の開始であり、割譲を強要された領土奪回のための愛国的戦争の始まりである。

写真(右)1942年4月14日、ロシア北部、ムルマンスク州ペチェンガ、フィンランド軍スキー部隊:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。
Hiihto-osasto matkalla. Vrt. mustavalkoiset SA-kuvat Petsamon Kukkesjaurista 14.4.1942 (kuvat 81993-82002). Kuvaaja Roivainen esiintyy itse kuvassa nro 82010.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166448引用。


フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーヤーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これになじんだ人々を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に協力している。


写真(上)1942年4月14日、フィンランド北部、トナカイを使って物資輸送をするフィンランド軍
:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。
Raito seuraa hiihtäjiä. Vrt. mustavalkoiset SA-kuvat 82006-82008, joista tiedot. Roivainen itse kuvassa 82010. Organisation Military Museum Photo info: 1942-04-14 Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166462引用。


1941年6月、フィンランド軍は第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)を始め、ソ連に侵攻した。この時、カレリア地峡に連なるラドガ湖、東カレリアのオネガ湖にまで軍をすすめ、占領地を拡大した。ラフデンポヒヤ(Лахденпо́хья:Lahdenpohja)は、ラトガ湖の北西端にある街で、大きな入り江の奥に位置している。現在、ロシア連邦カレリア共和国だが、フィンランド軍は、ラフデンポヒヤを占領し、ラトガ湖の水上交通を利用した防衛戦の拡張・強化を企図していた。

ウィエナ・カレリア(Viena Karelia)またはヴィエナ(Viena:Belomorskaya Karelia)は、ソ連バルト海西海岸、フィンランド東部国境の間の地域で、北はムルマンスク地方(北海に面する)、東はアルハンゲリスク地方(北海に面す)に及ぶ。現在、ヴィエナ北部は、ロシア連邦カレリア共和国にあるが、フィンランド側にも集落がある。現在のウィエナ・カレリアの面積は、6.7万平方キロで広大だが、人口は10万人程度ですくなく、人口希薄地域である。


写真(上)1942年4月14日、フィンランド北部、トナカイを使って物資輸送をするフィンランド軍
:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。
Raito seuraa hiihtäjiä. Petsamo, Kukkesjaur 1942.04.14
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia014引用。


1941年6月の第二次ソ芬戦争、継続戦争の緒戦、フィンランド軍は、ソ連に侵攻した。この時、フィンランド中東部からは、1917年の独立以来、フィンランド領となったことのなかった旧ロシア領・ソ連の東カレリアに軍を進めた。例えば、カルフマキ(Karhumäki:フィンランド語)は、オネガ湖最北岸の町で、レニングラードと北極海に面した要港ムルマンスクを結ぶ交通路に当たる。現在はロシア連邦カレリア共和国にに属し、メドヴェジエゴルスク(旧名メドヴェジヤ・ゴラ)と呼ばれるが、フィンランドはここを占領してフィンランド防衛拠点とした。これは、失地回復、固有の領土の奪還というのははるかに拡張された領土であるが、フィンランドは、歴史的に侵略を受けてきたロシア帝国・ソビエト連邦に対する恐怖から、彼らを弱体化、中立化し、フィンランドの防衛戦を国境よりも先に前進させて、予防的に防衛することが必要であるとした。


2.フィンランド海軍・水上艦艇の「継続戦争」

写真(右)1941年7月1日、フィンランド沖、迷彩塗装をしたフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」:左手前は、僚艦の装備したデンマーク製マドセン(Madsen)20ミリ60口径機関銃。艦名の「ワイナミョイネン」とはフィンランドの国民叙事詩「カレワラ」の登場人物の魔力を持つ賢者の名前。
""Väinämöinen"" Fred. Runeberg, valokuvaaja
Organisation Military Museum Photo info: 1941-07-01 Fred. Runeberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-89328引用。


フィンランド海軍の国産装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)は、前・後甲板にスウェーデン製ボフォース25.4センチ(10インチ)連装砲各1基合計4門、副砲のボフォース10.5センチ連装高角砲各1基合計4門を搭載している重火器戦闘管であるが、基準排水量は3,900トンと軽巡洋艦よりも小型である。このような外洋航海の困難な装甲海防艦は、北欧・ソ連のように、バルト海のような狭い海域を戦場と想定した海軍が建造している。

フィンランド軍の採用したデンマーク製 マドセン(Madsen)20ミリ60口径機関銃は、重量55キロ、全長2.5 m、銃身長(Barrel length)1.2 m、弾薬20 x 120 mm、弾薬重量0.29 kg (10 oz) APあるいは0.32 kg (11 oz) HE、口径20 mm、冷却方式 空冷、最高発射速度400発/分、銃口初速900 m/秒、有効射程500 m 、最大射程2,123 m (6,965 ft) 。

写真(右)1941年7月1日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」前甲板のスウェーデン製ボフォース25.4センチ(10インチ)連装砲1基2門、副砲のボフォース10.5センチ連装高角砲1基2門、艦橋脇にはデンマーク製マドセン 2センチ対空機関銃2丁を装備。
""Väinämöinen"" Päivämäärä epäselvä Fred. Runeberg, valokuvaaja
Organisation Military Museum Photo info: 1941-07-01 Fred. Runeberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-73735引用。


フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の主砲は、スウェーデン製ボフォース25.4センチ(10インチ)連装砲を前甲板と後甲板に各々1基合計2基4門を搭載し、副砲はボフォース10.5センチ連装高角砲4基8門で、ヴィッカース40ミリ滞空機関砲も装備すいるなど、小型戦艦並みの強力な火力を持つ。最高速力は僅か14.5ノットで商船並みの低速、航続距離も10ノットで700マイルと小艦艇以下でしかない。

写真(右)1941年3月11日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)舷側に装備されたボフォース10.5センチ連装高角砲と操作要員:後方には、弾薬が弾頭を上にして格納されている。砲塔は後方が開放されており、弾片・破片からの防御には不十分であるが、操作性、視界確保。弾薬運搬の観点から密閉式とはしなかった。
Panssarilaiva Ilmarisen ilmatorjuntatykki (105 mm:n Bofors). Tuntematon, valokuvaaja
Organisation Military Museum Photo info: 1940-03-11 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108712引用。


フィンランド軍の採用したイギリス製ヴィッカース 40ミリ39口径連装機関砲の原型はヴィッカースQF2ポンド・ポンポン砲(Vickers QF 2 pounder "pom-pom" gun)で、1892年に制式された初期型を発展させたMk.IIは、重量239 kg、全長95.6インチ(2,430 mm)、口径40 mm、銃身長1,574.8 mm (39.37口径) 、発射速度 200発/分、銃口初速2,040 フィート(620 m/s)、最大射程 6,220 m(6,800ヤード)。

フィンランド軍は、兵器の国産に固執しなかったために、優秀な外国製品を選んで装備することができた。

スウェーデンの代表的な兵器製造企業であるボフォース(Bofors)は、アルフレッド・ノーベルが鉄工所ボフォースを1894年に経営を引き継いでから火器・化学の開発部門を充実させ、世界的兵器メーカーに発展した。第二次世界大戦前にボフォース(Bofors)が開発した37ミリ対戦車砲、40ミリ対空機関砲、76.2ミリ高射砲などは、大戦時でも優秀な火器として認められており、フィンランド軍もこれらを輸入して部隊配備している。このように、外国兵器を採用したフィンランド軍は、日本軍やイタリア軍のように国産兵器に固執して、量産性や性能の上で引けを取った軍隊よりも、優秀な兵器を選択することに成功した。

イルマリネン級 装甲海防艦(Panssarilaiva )「イルマリネン」(Ilmarinen)は、1927年発注、フィンランドのクライトン・フルカン社トゥルク造船所で1929年9月に起工、1931年6月9日進水、1934年4月17日に就役した装甲海防艦で、基準排水量3,900トン、全長93メートル、全幅17メートルは駆逐艦並みの大きさ。 吃水は5メートルと浅くフィンランド湾のような内海での航行を前提にした海上移動砲台として構想されている。主砲は、スウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲2基4門で、副砲はボフォース10.5センチ連装高角砲4基8門で、小型戦艦並みの強力な火力を持つ。機関は、クルップ社ディーゼル電気機関4700馬力を搭載、最高速力は14.5ノット、航続距離も10ノットで700マイルと低速で行動半径も小さい。

写真(右)1942年6月20日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲の砲身清掃作業をする水兵: 小銃のライフル部分を洗浄・掃除する洗い矢と同じで、砲身内面の清掃を行うための棒ブラシ状の棒を砲口から挿入して砲身内部を清掃している。砲塔と砲身にも迷彩塗装が施されている。艦橋近く上部にはボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。
Tykkien jynssäystä. Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja ..
Organisation Military Museum Photo info: 1942-06-20 Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-12634引用。


フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の諸元
フィンランドのクライトン・フルカン社トゥルク造船所
1927年8月起工
1932年12月28日就役

基準排水量3,900トン
全長93メートル、全幅17メートル
吃水5メートル
主砲:スウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲2基4門
副砲:ボフォース10.5センチ連装高角砲4基8門
機関:クルップ社ディーゼルエンジン4基、電動モーター2基、4,800馬力
最高速力:4.5ノット
航続距離:10ノット/700マイル
搭載燃料:重油93トン
装甲: 舷側水線部:50-55mm、水平甲板:20mm
主砲塔前部:100mm、司令塔:120mm
乗員 410名

写真(右)1942年6月20日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲内部での25.4センチ砲弾の運搬・装填作業をする水兵:船体にある弾薬倉から、弾薬が砲塔にまで運搬されてきた。ドイツのポケット戦艦の主砲は、長砲身の28センチ(11インチ)三連装砲だった。
Ammushuoneesta ammukset nousevat tykkitorniin..
Organisation Military Museum
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-12595引用。


フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)は、フィンランドのクライトン・フルカン社トゥルク造船所で1927年8月に起工、1932年12月28日に就役した装甲海防艦で、基準排水量3,900トン、全長93メートル、全幅17メートルは駆逐艦並みの大きさ。 吃水は5メートルと浅いために遠洋航海は不可能である。

ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北していた。冬戦争に敗北したフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、今度は、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。

  ⇒写真集:フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」を詳しく見る。

1941年7月、フィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻しつつあった。

写真(右)1942年夏、フィンランド南西端、トゥルク南50キロ、クングスホルメン(Pelling)群島のペリング(Kungsholmen)の水上艦艇基地に配属されたフィンランド海軍の水上警備艇(VMV:Vartiomoottorivene)部隊員たち:1942年、フィンランドのペリング(Kungsholmen)水上艦艇基地は、警備艇(Vmv Laivuen:VMV)VMV 1、2、13、14、15、16の6隻で構成されていた。
ensimmäinen vartiomoottorivenelaivue ja henkilökuntaa Kungsholmenissa kesällä 1942, Huom: Alunperin kuvauspaikkatietona on ollut Suursaaren länsipuoli, mutta tietoa on epäilty virheelliseksi. Mahdollinen paikka Pellingin saaristo, Kungsholmen, johon liittyen museo sai sähköpostilla palautteen Finna-tietokannasta 10.2.2017. Tähän palautteeseen nojaten tiedot on muutettu Suursaaresta Pellingin saaristoksi. E P-K Vuonna 1942 ensimmäisen VmvLaivueen muodostivat VMV 1,2,13,14,15 ja 16. Olisiko tämä kuva siitä laivueesta? NR
Organisation Kymenlaakson museo
Collection Merivartiokokoelma Yleinen merivartiokokoelma
Inventory ID MVMMVMV51:8 Measurements 23 x 17 cm
Photo info: 1942 paperi (Pohjamateriaali) Exhibitions: Merivartiomuseo 2008
写真は,Finnish Defence Forces, Kymenlaakson museo M42:MVMMVMV51:8引用。


写真(右)1942年夏、南西端、トゥルク南50キロ、クングスホルメン(Pelling)群島のペリング(Kungsholmen)に初めに配備されたフィンランド海軍の水上警備艇(VMV:Vartiomoottorivene) :1942年、フィンランドのここの水上警備部隊は、警備艇(Vmv Laivuen:VMV)はVMV 1、2、13、14、15、16の6隻で構成されていた。フィンランド軍警備艇第1号型(Vartiomoottorivene 1)の諸元は、 乗員 8名 ドイツ・ブレーメンにて1930年建造 1950年退役 排水量 30 トン 全長 23,5 m 全幅 4,2 m 乾舷 1 m 最高速力 25ノット 発動機 ドイツ製マイバッハ(Maybach) V-12エンジン 最高出力 560馬力 巡行 100 馬力 兵装 デンマーク製マドセン(Madsen) 20ミリ機関銃1丁
ensimmäinen vartiomoottorivenelaivue Pellingin saaristossa Kungsholmenissa kesällä 1942, Huom: Alunperin kuvauspaikkatietona on ollut Suursaaren länsipuoli, mutta tietoa on epäilty virheelliseksi. Mahdollinen paikka Pellingin saaristo, Kungsholmen, johon liittyen museo sai sähköpostilla palautteen Finna-tietokannasta 10.2.2017. Tähän palautteeseen nojaten tiedot on muutettu Suursaaresta Pellingin saaristoksi. E P-K Vuonna 1942 ensimmäisen VmvLaivueen muodostivat VMV 1,2,13,14,15 ja 16. Olisiko tämä kuva siitä laivueesta? NR
Organisation Kymenlaakson museo Collection Merivartiokokoelma Yleinen merivartiokokoelma
Inventory ID MVMMVMV51:7 Measurements 23 x 17 cm Photo info: 1942 paperi (Pohjamateriaali) Exhibitions: Merivartiomuseo 2008
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


写真(右)1942年7月14日、フィンランド、海上を航行するフィンランド海軍の水上警備艇(VMV:Vartiomoottorivene)第9号(VMV 9):後甲板に20ミリ機関銃が搭載されているが、前甲板は小型の7.62ミリ機関銃なのか銃架も異なっている。1942年、フィンランドのペリング(Kungsholmen)水上艦艇基地は、警備艇(Vmv Laivuen:VMV)VMV 1、2、13、14、15、16の6隻が配属され、1941−1944年、フィンランド南岸、ヘルシンキ西150キロ、ハミナの沖合20キロのウルコ=タミオ(Ulko-Tammio)島西海岸の水上艦艇基地には、警備艇第9号(VMV 9)と少なくとももう1隻が配属されていた。
Vartiomoottorivene 9 (VMV 9) Somerin taistelun jälkeen, mahdollinen kuvausajankohta 14.7.1942.
Organisation Sotamuseo
Kuvaustiedot: ajoittamaton Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166149引用。


フィンランド軍警備艇第1号型(Vartiomoottorivene 1)の諸元
乗員 8名
ドイツ・ブレーメンにて1930年建造
1950年退役
排水量 30 トン
全長 23,5 m、 全幅 4,2 m
乾舷 1 m
最高速力 25ノット
発動機 ドイツ製マイバッハ(Maybach) V-12エンジン
最高出力 560馬力 巡航出力 100 馬力
兵装 デンマーク製マドセン(Madsen) 20ミリ機関銃1丁

1942年、フィンランド沖、フィンランド湾、ペリング(Kungsholmen)水上艦艇基地は、警備艇(Vmv Laivuen:VMV)VMV 1、2、13、14、15、16の6隻が配属され、1941−1944年、フィンランド南岸、ヘルシンキ西150キロ、ハミナの沖合20キロのウルコ=タミオ(Ulko-Tammio)島西海岸の水上艦艇基地には、警備艇第9号(VMV 9)と少なくとももう1隻が配属されていた。

⇒写真集:フィンランド海軍の水上警備艇(VMV)を詳しく見る。

3年2カ月に及ぶ第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)は、北限の死闘であり、雪・氷・霧による航空兵力・軌道兵力の使用が制限され、少数劣勢のフィンランド軍は、大群のソ連軍を相手に善戦できた。気象条件・地形が、大兵力の展開や機動戦を困難にしていたため、フィンランド軍にとって、兵士一人一人の能力を活かせる状況が生まれた。日米戦争で言えば、アリューシャン列島・樺太(サハリン)など北方戦線は、1943年5月のアッツ島攻防戦を除いて、1945年8月まで静謐だったことが思い出される。

フィンランド軍の対空砲台式水上ガンシップ(Siebelフェリー)は、双胴の艀の上に8.8センチ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)、1937年式3.7センチ対空機関砲37 ItK / 37 RMB)、20ミリ四連装機関銃のような強力な対空火器を搭載した移動式対空砲台である。吃水の浅い艀で、外洋航行は期待できないで、ラトガ湖のような波のない湖では、強力な対空火力を武器にして、水上を移動する対空砲台として臨機応変に活躍できたようだ。少なくとも3隻がラトガ湖において使用されている。


写真(上)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、ドイツ製1937年式37ミリ対空機関砲(37 ItK / 37 RMB)・20ミリ四連装機関銃を搭載したドイツ軍の対空機関砲搭載水上艇
;1937年式37ミリ対空機関砲は、ドイツ軍の3.7 cm Flak 37だが、フィンランド軍では、37 ItK / 37 RMB(Rheinmetall-Borsig)と呼称された。 ドイツ特別東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって撮影された一連の写真(104646-104659)。
Saksalainen lautta paraatissa Lahdenpohjan edustalla. Sama kuva kuin JSdia172. Mustavalkoisista SA-kuvista löytyy Carl Rosenqvistin kuvaama kuvasarja 104646 - 104659, joka samasta tilanteesta. Näiden alkuperäisessä kuvaselosteessa on kuvauspäiväksi/paraatin ajankohdaksi merkitty 13.8.1942. Diaan merkit.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1942-08-13 Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165706:JSdia172引用。


ラインメタル社は、1930年式2センチ対空機関銃(2 cm Flak 30)を37ミリ口径に強化した3.7cmFlak 18を開発したものの、大量生産はされず、改良型の1937年式3.7センチ対空機関砲3.7 cm Flak 37)、ついで1943年式3.7センチ対空機関砲(3.7 cm Flak 43)が量産されている。ドイツ軍の1937年式37ミリ対空機関砲(3.7 cm Flak 37)は、フィンランド軍では、RMB37ミリ機関砲(37 ItK / 37 RMB:Rheinmetall-Borsig)として採用されてエイル。
1943年式3.7センチ対空機関砲(3.7 cm Flak 43)の諸元
発射速度150 発/分、砲口初速770–820 m/秒、有効射程4,200 m。


写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、1937年式88ミリ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)を搭載したドイツ軍の対空砲台式水上ガンシップ(Siebelフェリー)
;ドイツ特別東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって撮影された一連の写真(104646-104659)。
Saksalainen lautta paraatissa Lahdenpohjan edustalla. Sama kuva kuin JSdia172. Mustavalkoisista SA-kuvista löytyy Carl Rosenqvistin kuvaama kuvasarja 104646 - 104659, joka samasta tilanteesta. Näiden alkuperäisessä kuvaselosteessa on kuvauspäiväksi/paraatin ajankohdaksi merkitty 13.8.1942. Diaan merkit.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1942-08-13 Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165706引用。


1941年6月、フィンランド軍は継続戦争を始め、ソ連に侵攻した。この時、カレリア地方でも進軍し、カレリア地峡に連なるラドガ湖、東カレリアのオネガ湖にまで軍をすすめ、占領地を拡大した。ラフデンポヒヤ(Лахденпо́хья:Lahdenpohja)は、ラトガ湖の北西端にある街で、大きな入り江の奥に位置している。現在、ロシア連邦カレリア共和国だが、フィンランド軍は、ラフデンポヒヤを占領し、ラトガ湖の水上交通を利用した防衛戦の拡張・強化を企図していた。

写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、ドイツ軍の対空砲台式水上ガンシップ(Siebelフェリー)艦上のレイズナー・ビアンチ―二(Leissner Bianchini)大尉らが乾杯をしている。;ドイツ東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって記述された一連の写真(104646-104659)。
Korvettikapteeni Bianchini, Leissner ja Siebel kohottavat maljansa.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1942-08-13 Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-18938引用。


写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、3.7センチ対空機関砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)と2センチ四連装対空機関銃を搭載したドイツ軍の対空砲台式水上ガンシップ(Siebelフェリー);ドイツ東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって記述された一連の写真(104646-104659)。
Kuva todennäköisesti Lahdenpohjassa pidetystä saksalaisen laivasto-osaston (Einsatzstab Fähre Ost) paraatista 13.8.1942. Tapahtumasta Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka selosteessa päiväys 13.8.1942. Kyseisistä lautoista (Siebel-lautta) kuvia myös muilta päiviltä (esim. 10.8., 11.8., 31.7.). Lautan it-tykit mallia 8,8 cm FlaK 37, suomalaisittain 88 ItK/37 RMB.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1942-08-13 Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165913:JSdia181引用。


⇒写真集:フィンランド海軍の対空砲台式ガンシップを詳しく見る。


3.1942年のフィンランド「継続戦争」

写真(右)1942年11月23日、フィンランド、フィンランド軍のスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))の夜間射撃の閃光:周囲はコンクリートで覆われた掩体壕に高射砲が据え付けられている。1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)は、冬戦争、継続戦争の当時、ドイツの8.8センチ高射砲と併存して使用された。
Ilmatorjuntapatteri ampuu. Kuva Helsingin Taivaskallion ilmatorjuntapatterilta (Bofors-kanuunat), josta Otso Pietinen kuvannut myös mustavalkoisen kuvasarjan 23.11.1942, vrt. SA-kuvat 117279 - 117289. Diaan merkitty vuodeksi 1942. Värikuvien selosteista löytyy Otso Pietisen selo.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-11-23
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165925引用。


写真(右)1942年11月23日、フィンランド、フィンランド軍のスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))の夜間発射時の閃光:周囲はコンクリートで覆われた掩体壕に高射砲が据え付けられている。1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)は、冬戦争、継続戦争の当時、ドイツの8.8センチ高射砲と併存して使用された。
Helsingin raskas ilmatorjuntapatteri (5. RaskItPtri) ”Taivas” ampuu sulkutulta taivaskallion torjuntasektorilla 76 ItK/27 (Bofors) -ilmatorjuntakanuunoilla. .
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-11-23
写真は,Finnish Defence Forces, F innish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165925引用。


1939年の冬戦争で失ったカレリア地方を奪還するために、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻をチャンスととらえたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、7月には、ナチスと同盟して、ソ連を敵として、第二次ソ芬戦争を開始した。これは、事実上、フィンランドが枢軸同盟国の一員として、第二次世界大戦に参加することを意味した。カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥指揮下のフィンランド国防軍は、ナチスと組んで軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開した。

写真(右)1942年夏、ソ連北部、フィンランド国境近く、東カレリア地方(Itä-Karjala)に向かう列車内のフィンランド兵士たち:パイプやタバコをふかしたり、食事を摂ったりして寛いでいる。
härkävaunussa (junassa) matkalla Kannaksella ylös Rácz István, kuvaaja 1942 pysty, mustavalkoinen
Subject place Itä-Karjala Subject date 1942
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Kansatieteen kuvakokoelma István Ráczin kokoelma
Inventory ID KK5500:27091 Measurements 19 x 17 cm Photo info: 1942 Itä-Karjala Rácz István, kuvaaja
写真は,National Board of Antiquities - Musketti M012:KK5500:27091引用。


フィンランドは、冬戦争で失った領土を奪回するために、愛国的戦争と見なして1941年6月26日、第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を開始した。つまり、冬戦争の続きとして、領土奪回のための継続戦争を仕掛けたのである。また、当時、ドイツは、イギリス供交戦状態にあったが、フィンランドはイギリスと戦うつもりは全くなく、イギリスの行為を得るために、ドイツ同盟国として、枢軸側に立って第二次世界大戦を戦う、ということではないとの弁明をした。あくまでも敵はソ連だけであり、これは世界戦争の一環ではなく、局地的な二国間戦争に過ぎないというのである。このようなご都合主義の参戦をイギリスは認めなかったた。フィンランドは、事実上、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したとみなされるのである。

写真(右)1942年冬、フィンランド北部、ビエナカレリア、犬を連れて警備に当たるスキー部隊:ウィエナ・カレリア(Viena Karelia)またはヴィエナ(Viena:Belomorskaya Karelia)は、ソ連バルト海西海岸、フィンランド東部国境の間の地域で、北はムルマンスク地方(北海に面する)、東はアヌス・カレリアの南、ルヴァ、キマス、そしてヌオッキャルヴィに面し、東はアルハンゲリスク地方(北海に面す)に及ぶ。現在、ビエナ北部は、ロシア連邦カレリア共和国にあるが、フィンランド側にも集落がある。現在、ウィエナ・カレリアの面積は、6.7万平方キロで広大だが、人口は10万人程度に過ぎない。
rajajääkäripartio koirineen Vienan Karjalan rintamalla
Organisation Kymenlaakson museo Collection Merivartiokokoelma Yleinen merivartiokokoelma
Inventory ID MVMMVMV51:7 Measurements 23 x 17 cm Photo info: 1942 paperi (Pohjamateriaali) Exhibitions: Merivartiomuseo 2008
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


ウィエナ・カレリア( Viena Karelia)またはヴィエナ(Viena:Belomorskaya Karelia)は、ソ連バルト海西海岸、フィンランド東部国境の間の地域で、北はムルマンスク地方(北海に面する)、東はアヌス・カレリアの南、ルヴァ、キマス、そしてヌオッキャルヴィに面し、東はアルハンゲリスク地方(北海に面す)に及ぶ。現在、ビエナ北部は、ロシア連邦カレリア共和国にあるが、フィンランド側にも集落がある。現在、ウィエナ・カレリアの面積は、6.7万平方キロで広大だが、人口は10万人程度に過ぎない。

写真(右)1942年冬、ソ連北部、フィンランド国境近く、東カレリア地方(Itä-Karjala)、カルフマキ(Karhumäki)、半地下式の陣地で食事を摂って寛ぐフィンランド軍兵士たち:厳冬期の雪上、氷上でも活動できるように羊毛の厚手の名が靴下を履いている。この上にブーツを履いて、凍傷にかかったり、寒さのために行動に支障がないようにする。電灯はないので、液体燃料を燃やす燈明を光源として作業している。周囲の兵士は、雑誌を読んだり、パイプを吹かしたりして寛いでいる。
sotilaiden lepohetki
Subject place Itä-Karjala Subject date 1942
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Kansatieteen kuvakokoelma István Ráczin kokoelma
Inventory ID KK5500:766 Measurements 6 x 6 cm
Photo info: 1942 Itä-Karjala Rácz István, kuvaaja
写真は,National Board of Antiquities - Musketti M012:KK5500:27021引用。


フィンランド側は、イギリス、アメリカには戦争を仕掛けたいとは思っていなかった。そこで、第二次ソ芬戦争とは、あくまで、ソ連に対して1939年の冬戦争で奪われた国土の回復を求めた防衛戦争であるとの立場を主張した。しかし、ソ連がドイツの攻勢を一国で受け止めている状況で、イギリスもアメリカも、フィンランド側の言う「継続戦争」であり、イギリス・アメリカと戦う第二次大戦への参戦ではないという身勝手な論理は受けつかなかった。これを梃子にして、ヒトラーはフィンランドに対して、ソ連への軍事的攻勢を強化するように強く要請した。

写真(右)1942年冬、ソ連北部、フィンランド国境近く、東カレリア地方(Itä-Karjala)、カルフマキ(Karhumäki)、半地下式の陣地で服を脱いで集ったシラミ(虱)を潰すフィンランド軍兵士たち:厳冬期の雪上、氷上でも活動できるように軍服のズボンの上に厚手のブーツを履いている。手にしているのは、金属製の飯盒で、その蓋を手持ち式の金属皿として使う。陣地の秘匿性、防御力を高めるために、半地下式の丸太材を重ねた頑丈な陣地を作った。
taistelu täitä vastaan teltassa Karhumäellä Rácz István, kuvaaja 1942 vaaka, mustavalkoinen
Subject place Karhumäki Subject date 1942 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Kansatieteen kuvakokoelma István Ráczin kokoelma
Inventory ID KK5500:27097 Measurements 17 x 20 cm Photo info: 1942 Karhumäki Rácz István, kuvaaja
写真は,National Board of Antiquities - Musketti M012:KK5500:27097引用。


ドイツもフィンランドも、ソ連に戦争を仕掛けた1941年の夏、短期間でにソ連が降伏すると考えていた。フィンランドは1939年11月の冬戦争を、一国で戦い続け、ソ連軍の侵攻を食い止めることができた。となれば、1940年6月にフランスを1カ月で降伏させた世界最強のドイツ軍の加勢を受け、第二次ソ芬戦争を闘えば、ソ連を速やかに打倒できると考えても不思議はない。1940年末、ドイツ軍はモスクワ攻略に失敗し、モスクワ前面でジューコフ将軍率いるソ連軍に大敗した。これは、極東方面に配置されていた対日戦争用の極東軍を配置転換し、兵力を増強できたこともあるが、基本的にソ連軍の予備兵力が膨大で、その軍需生産能力(エネルギーから兵器まで)が強大だったことが要因である。戦術的失敗のために、1939年の冬戦争ではソ連軍はフィンランド軍に苦戦したに過ぎなかった。

写真(右)1942年冬、ソ連北部、フィンランド国境近く、東カレリア地方(Itä-Karjala)、カルフマキ(Karhumäki)で砲塔を吹き飛ばされ撃破されたソ連軍T-34/76戦車の残骸:1941年6月の継続戦争の緒戦、フィンランド軍は、1917年の独立以来、フィンランド領となったことのなかった旧ロシア領・ソ連の東カレリアに軍を進めた。カルフマキ(Karhumäki:フィンランド語)は、オネガ湖最北岸の町で、現在はメドヴェジエゴルスク、ロシア連邦カレリア共和国にある。旧名メドヴェジヤ・ゴラ。
metalliromua Karhumäellä Rácz István, kuvaaja 1942
Subject place Karhumäki, Itä-Karjala Subject date 1942
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Kansatieteen kuvakokoelma István Ráczin kokoelma
Inventory ID KK5500:27023 Measurements 17 x 22 cm
写真は,National Board of Antiquities - Musketti M012:KK5500:27023引用。


1941年6月の第二次ソ芬戦争、継続戦争の緒戦、フィンランド軍は、ソ連に侵攻した。この時、フィンランド中東部からは、1917年の独立以来、フィンランド領となったことのなかった旧ロシア領・ソ連の東カレリアに軍を進めた。例えば、カルフマキ(Karhumäki:フィンランド語)は、オネガ湖最北岸の町で、レニングラードと北極海に面した要港ムルマンスクを結ぶ交通路に当たる。現在はロシア連邦カレリア共和国にに属し、メドヴェジエゴルスク(旧名メドヴェジヤ・ゴラ)と呼ばれるが、フィンランドはここを占領してフィンランド防衛拠点とした。これは、失地回復、固有の領土の奪還というのははるかに拡張された領土であるが、フィンランドは、歴史的に侵略を受けてきたロシア帝国・ソビエト連邦に対する恐怖から、彼らを弱体化、中立化し、フィンランドの防衛戦を国境よりも先に前進させて、予防的に防衛することが必要であるとした。

写真(右)1942年冬、ソ連北部、フィンランド国境近く、東カレリア地方(Itä-Karjala)、カルフマキ(Karhumäki)で撃破されたソ連軍のT-34/76戦車の残骸:2人の兵士が破壊されたソ連戦車の砲塔回転リングに座っているが、戦果を確かめに来て、記念写真を撮ったのであろうか。1941年6月の継続戦争の緒戦、フィンランド軍は、1917年の独立以来、フィンランド領となったことのなかった旧ロシア領・ソ連の東カレリアに軍を進めた。カルフマキ(Karhumäki:フィンランド語)は、オネガ湖最北岸の町で、現在はメドヴェジエゴルスク、ロシア連邦カレリア共和国にある。旧名メドヴェジヤ・ゴラ。
kaksi sotilasta istuu tuhoutuneen panssarivaunun päällä
Subject place Karhumäki, Itä-Karjala Subject date 1942
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Kansatieteen kuvakokoelma István Ráczin kokoelma
Inventory ID KK5500:761 Measurements 6 x 6 cm
Photo info: 1942 Karhumäki Rácz István, kuvaaja
写真は,National Board of Antiquities - Musketti KK5500:27023引用。


写真(右)1942年冬、ソ連北部、フィンランド国境近く、東カレリア地方(Itä-Karjala)、カルフマキ(Karhumäki)、死亡したソ連赤軍の兵士。履いていたブーツは、引っ張られて戦利品とされてしまい、ゲートルを撒いた足がむき出しになっている。:T-34/76戦車の随伴歩兵あるいは戦車搭乗員だった可能性もある。1941年6月の継続戦争の緒戦、フィンランド軍は、1917年の独立以来、フィンランド領となったことのなかった旧ロシア領・ソ連の東カレリアに軍を進めた。カルフマキ(Karhumäki:フィンランド語)は、オネガ湖最北岸の町で、現在はメドヴェジエゴルスク、ロシア連邦カレリア共和国にある。旧名メドヴェジヤ・ゴラ。
sotilaiden lepohetki
Subject place Itä-Karjala Subject date 1942 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Kansatieteen kuvakokoelma István Ráczin kokoelma
Inventory ID KK5500:766 Measurements 6 x 6 cm
Photo info: 1942 Itä-Karjala Rácz István, kuvaaja
写真は,National Board of Antiquities - Musketti KK5500:766引用。



4.フィンランド空軍の継続戦争

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘の整備作業をする地上勤務員;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。フィンランド空軍では、鹵獲したソ連空軍ラグLaGG-3戦闘機のクリーモフ M-105液冷V12気筒エンジン1,100馬力に変換しM.S.406戦闘機の性能を向上させた。最高速力は時速480キロから520キロに飛行性能が向上し、「メルケ・モラーヌ」(Mörkö Morane:幽霊モラーヌ)と呼ばれた。
Huoltotoimia lentokentällä. Huoltotoimien kohteena Morane-Saulnier M.S.406 -hävittäjä.Sot.virk. M. Wuorela, valokuvaaja
Aineistotyyppi Valokuva
Organisation Military Museum
Photo info: 1941-06-28 Sot.virk. L. Johnsson, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-86767引用。


フランスで1935年8月8日に初飛行したモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.405の発展型がM.S.406戦闘機で、低翼単葉・引込み脚・密閉風防と近代的な戦闘機で、第二次大戦前の1938年から1,000機以上量産された。機体は、全金属製ではなく、胴体後半は金属骨格・羽布張りで軽量構造だったが、第二次世界大戦勃発時のフランス空軍の主力戦闘機だった。搭載した発動機は、イスパノ・スイザ 12Y31V12気筒液冷エンジンで、850馬力は出力不足だったが、最高速力486km/h、航続距離800km、実用上昇限度9,500m、上昇力5,000mまで6分、兵装は20ミリHS.404モーターカノン1門 7.5ミリMAC 1934機銃2丁と、出現当初は強力だった。

ドイツのBf109戦闘機に比較して、モラーヌ・ソルニエM.S.406戦闘機は、エンジン出力不足で飛行性能は劣ったが、フランスのほかに、スイス・フィンランド・トルコにも売却され、使用された。特にフィンランド空軍では実戦使用された。また、継続戦争に際しては、鹵獲したソ連空軍ラグLaGG-3戦闘機から取得したイスパノ・スイザエンジン同型クリーモフ M-105液冷V12気筒エンジン1,100馬力に変換したモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機は、最高速力520km/h、実用上昇限度10,000mと飛行性能が向上し、「メルケ・モラーヌ」(Mörkö Morane:幽霊モラーヌ)と呼ばれ、好評だった。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻当日、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:ポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。
Venäläinen pakkolaskun tehnyt hävittäjälentokone. Kyseessä Polikarpov I-153 hävittäjä, "Tsaikka".
Organisation Military Museum Photo info: 1941-06-25 Ruponen, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-78309引用。

ソ連空軍ポリカルポフ I-15戦闘機は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

ソ連空軍ポリカルポフ Polikarpov I-153bis戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右):1941年頃、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻当日、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:ポリカルポフ I-16戦闘機戦闘機は、低翼単葉機、車輪引込み式降着装置で、高速の一撃離脱を得意とした戦闘機だった。操縦席には、半開放式だが、筒型眼鏡式の射撃照準器が備え付けられている。後方は、ドイツから購入したハインケルHe-115双発水上偵察機。
Venäläinen Lentokonetehdas. Polikarpov I-16.
Organisation Military Museum
Photo info: undated Kartto - Peronkoski, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-9797引用。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。


写真(上):1941年12月10日、エンジン始動車でプロペラを回転させ急速発進準備をするフィンランド空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機とハインケルHe-115双発水上偵察機
(後方):主翼に青のカギ十字のフィンランドの国籍マークが描かれている。フィンランド空軍は、ソ連=フィンランド戦争で、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16戦闘機を鹵獲し修理して使用した。
Lentokonetehdas. Polikarpov I-16:sta käynnistetään käynnistysautolla.
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66680引用。

1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)が締結されたが、この背景は、第一に、中国国民党の蒋介石が国共合作、一致抗日を認めたことである。中国共産党軍(紅軍)を国民党の国民革命軍に編入し、抗日戦争を戦うことは、ソ連にも有利だった。第二の理由は、ソ連にとって、極東における日本の軍事的脅威を緩和し、ヨーロッパ方面に軍事力を集中するには、日中戦争を戦う中国の軍事力増強が有利だったことである。ソ連が、1937年の日中戦争勃発に際して、日本に対する軍事的圧力を高めなかったのは、アジア・極東方面よりも、ヨーロッパ方面を重視する地政学的配慮のためであろう。日本の国力では、中国一国を降伏させることはできないと、スターリンは日本の中国侵略が、ソ連の安全保障に有利に作用することを見抜いていた。そこで、1939年の第二次大戦勃発で、バルト三国、フィンランドに対する軍事的圧力をかけ、ソ連の西部国境をさらに西に進めるような侵略的防衛行為を推し進めた。

写真(右):ソ連空軍の迷彩塗装を施したツポレフSB-2爆撃機:ソ連は1930年代から引込み式降着装置の付いた戦闘機、爆撃機を使用していたが、当時は、固定脚の戦闘機、爆撃機も普通だった。ソ連が中国に有償譲渡した新鋭機は、日中戦争で日本陸海軍航空隊と戦った。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45937787 - Catalog:16_007155 - Title:Tupolev SB-2 - Filename:16_007155.TIF.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007155 引用。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

1937年の遅くには、共産主義国ソ連から中国空軍に軍用機が供与された。中国軍は、ソ連空軍の制式だったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)など、当時の最新鋭機を手に入れることができた。このようなポリカルポフ I-16戦闘機、ツポレフ SB(エスベー)2爆撃機は、フィンランドとソ連が戦った1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でもソ連空軍の主力機だった。したがって、フィンランド空軍がイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、ドイツから輸入した戦闘機、爆撃機、水上機などは、敵対するソ連空軍の軍用機と、当初は同等以上の性能を誇っていた。そして、この飛行性能の良さと搭乗員の熟練度、天候・敵の動向に対する偵察能力の高さが、フィンランド空軍の数的不利を補って余りあった。

1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。

wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を忌避するために唱えられた方便か、カギ十字を好む人物の誤解に基づく思い込みである。

フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。

1930年にフィンランド空軍は、ドイツからユンカースW 34輸送機1機を購入し、さらにW43輸送機の水上機型のK 43水上機6機をスウェーデン空軍から購入した。1941年7月に、ソビエト連邦との継承戦争を戦うに際しては、長距離偵察・哨戒機として前線に送られたが、前線から傷病兵を後方に搬送する患者輸送機としての任務にも就役した。1944年春、フィンランド空軍は、さらに5機のユンカースW 34輸送機を購入したが、これらは訓練用の練習機として使用されたようだ。戦後にこれらユンカースW34/K43輸送機は、フィンランド国境警備隊で1950年まで使用された。

写真(右)1941年9月6日,フィンランド中西部・ソ連、北緯64.09度、西経 31.92度、ヘルシンキ‐ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、担架に乗せた負傷者を搬送する準備をするフィンランド空軍所属のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機(登録コード:tunnus; JU-128):手前の砂浜には、負傷者が横たわった担架が置かれている。コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備しており、白色塗装、赤十字マークも付けていないので、国際赤十字で定められた救難機・患者輸送機ではない。
Kuvassa on Junkers K 43fa vesilentokone (tunnus JU-128), joka on haavoittuneiden kuljetustehtävässä). Kuvaaja:Kapteeni E.J.Paavilainen
写真は,The Finnish Defence Forces・Kuvan numero 47734引用。


ユンカースK 43fa輸送機の諸元:
搭乗員: 2名、 乗客: 3-6名
全直:11,13m、全幅i: 17,75m
全高: 3,90m、主翼面積:44平方メートル
空虚重量: 1885kg、全備重量: 3200kg
発動機: 1× BMW 132
最高速力: 220km/h  巡航速力: 180km/h
航続距離: 1700km 上昇限度: 5300m

フィンランドが第二次ソ芬戦争、継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。

しかし、1944年、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を想起させるのを忌避する方便であろう。

フィンランド空軍の「継続戦争」:多国籍機を駆使した戦い を見る。


5.1942年6月、ドイツのヒトラー総統とフィンランドのマンネルハイム元帥の戦争協力

1942年6月4日は、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日だった。そこで、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、フィンランドに彼を訪問した。ヒトラーは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9に乗って、フィンランドのイマトラ空港に飛び、そこで、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)や駐フィンランド・ドイツ大使ヴァイぺルト・フォン・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士の出迎えを受けた。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥75歳の誕生日を祝うために、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラー・国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥[中央影]を出迎えたフィンランド駐留ドイツ国防軍司令官たち:ヒトラー専用機長"ハンス"・バウア("Hans" Baur)が操縦したFw-200輸送機の主輪から、煙が上がり、消火作業を行っているのが見える。これは、着陸時にブレーキが利きすぎて車輪が滑走路を擦り、摩擦熱で発火し、ゴムタイヤに火がついたため。
Hitlerin vierailu Suomessa. Tervehtimässä lähettiläs Water Hewel, keskellä kasvot kameraan päin Adolf Hitler. Taustalla sammutetaan lentokoneen palavaa rengasta.
Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:5引用。


1941年6月22日に、ドイツは、不可侵条約を保護にして、共産主義のソビエト連邦に侵略を開始した。すると、フィンランドは、1939年の冬戦争で敗北して失ったカレリア地方を奪回し、ソ連ボリシェビキに報復しようと、ドイツと同盟を結んで、1941年7月からソ連に侵攻を開始した。

フィンランド国防軍は、総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥の指揮の下、ソ連相手に善戦し、レニングラードを包囲し、住民を疲弊させ、北部の不凍港ムルマンスクを攻撃して、西側連合軍の補給物資がソ連に届かないようにする作戦を展開していた。つまり、ナチスとフィンランドは、連携して共産主義・ボリシェビキのソ連を屈服させるために共闘しており、密接な軍事同盟関係にあった。

1942年6月4日、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9で飛来したドイツ総統アドルフ・ヒトラーが、フィンランドのイマトラ空港に到着した。出迎えたのはフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥など、フィンランド最高指導者だった。当時、ナチスとフィンランドは、共産主義者Bolshevikの支配するソ連と戦う枢軸同盟国として軍事同盟を結んでいた。ヒトラーは、フィンランドに対して、ソ連に対する一層激しい攻勢をかけるように要望した。枢軸国が勝利するのは確実で、ヨーロッパ支配をする日も遠くないというのである。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とドイツ総統アドルフ・ヒトラーとが会談した。中央は、ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥。;ヒトラーは、マンネルハイムの75歳誕生日を祝う名目で、急遽、フィンランドを訪問した。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Aineistotyyppi Valokuva Kuvaustiedot: 1942-06-04 Aiheet 1942-06-04
写真はMuseot Finna・sa-kuva-16058引用。


1942年6月4日、ヒトラーのフィンランド訪問当時、フィンランド大統領は、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti:1889‐1956)で、彼はフィンランド銀行総裁を務めるなど実務家だった。リスト・リュティは、1939年11月、対ソ連防衛戦争「冬戦争」が勃発した翌日に首相に就任し、その後、1940年12月には、フィンランド第5代大統領に就任して、継続戦争末期までフィンランドの元首だった。

1942年6月4日、ヒトラーとフィンランド軍総司令官マンネルハイム元帥が会談した。ヒトラーは、フィンランドにソビエト連邦に対し、より強力な攻撃を仕掛けることを訴えたが、フィンランド側は、軍事的資源の不足を理由に、攻勢困難を訴えた。ヒトラーにとって、成果のない会談だった。

1942年6月4日、フィンランドのイマトラ空港からドイツ帰国するヒトラーの見送りには、マンネルハイム元帥、フィンランド大統領リスト・リュティだけでなく、フィンランド(ラップランド)方面のドイツ軍山岳兵団司令官エデュアルト・ディートル大将、駐フィンランド・ドイツ大使ヴァイぺルト・フォン・ブリュッヒャー博士も参列して、ナチス・ドイツ式敬礼で見送っている。当時のナチスとフィンランドは、ソビエト連邦を宿敵とする枢軸同盟国として、連携作戦を展開して戦った。ドイツと日本の連携作戦は事実上なかったから、フィンランドは、日独伊三国同盟を結んだ日本以上にナチスと親密な関係にあった。日本は、ドイツの要請にもかかわらず、ソビエト連邦との戦争を回避し、1941年4月以来、日ソ中立条約を順守していたのであるから。

写真集:フィンランド国防軍総司令官マンネルヘイム(C G E Mannerheim)元帥 を見る。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)[左奥黒スーツ]がドイツ総統アドルフ・ヒトラーを列車に案内し、フィンランド軍総司令官グスタフ・マンネルハイム将軍と対面した。;右奥は、ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥。ヒトラーは、マンネルハイムの75歳誕生日を祝う名目で、急遽、フィンランドを訪問し、このような列車でもてなされた。
Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04 .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-16052引用。


1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統は、列車の室内で会談、会食を行ったが、フィンランド側は、この会話を録音しようとマイクを据え付けていた。会談途中でマイクに気づいたドイツ側が、録音を差し控えるように要求した。

wikipedia日本語版の言う「冬戦争の際に連合国はフィンランドに介入しようとしたが、その援軍を隣接国のノルウェー、スウェーデンが通過させず、連合国もそれ以上の介入はしなかった」と誤解を招く表現をしている。これは、イギリス・フランス市民がフィンランドに同情的であったため、イギリス政府・フランス政府が、ソ連への圧力をかけない理由を他のスカンジナビア諸国の責任とした言い訳に過ぎない。両国とも、ドイツ打倒を第一の目標としており、北欧の小国のために、自国の安全保障を犠牲にするつもりはなかった。その証拠に、フィンランドが継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。

当時、フィンランドは、枢軸国のナチス・ドイツの同盟国であり、反ボリシェビキ(Bolshevik)を掲げて、共産主義のソビエト連邦と戦っていた。ヒトラーは、マンネルハイムに一層激しい攻勢をソ連に仕掛けること、特にぺツァモ(Petsamon lääni)からムルマンスク方面に侵攻してイギリス・アメリカから輸送船で運ばれる補給物資を発つことを強く要請した。しかし、マンネルハイムは、フィンランドの国力の低さ、作戦地域の地形や天候の要害を理由にして、攻勢をかけることの困難さを訴えた。マンネルハイムは、同盟国ドイツと運命を共にするつもりは全くなく、フィンランドの国益、すなわち独立の保障の最優先していた。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥75歳の誕生日に訪問し、帰国するドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)のため、イマトラ空港まで見送りに来て別れの握手をするマンネルハイム元帥。後方は、ヒトラーの乗機、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9。
valtakunnankansleri Hitler saapuu marsalkka Mannerheimin 75-vuotispäiville Immolaan.
Aiheen paikka Imatra, Immola
Aiheen aika 4.6.1942
Aiheen toimija Mannerheim Carl Gustaf Emil Hitler Adolf
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK19520417:4
Merkinnät kirjoitus kuvan käänt&oml;puolella vasemmassa yläreunassa
Puolustusvoimat N:o 89614 Kuvaaja: TK-Sj&oml;blom
Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:5引用。


フィンランドを民主主義国として、横暴な大国ソ連ボリシェビキ(Bolshevism)抵抗した勇敢な国家として、高く評価する識者が多いが、その一方で、ナチス・ドイツに積極的に出かけ、共闘していたフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の姿は、隠されている。1942年当時、アメリカは参戦したものの、ヨーロッパでナチス・ドイツの主要な軍事的圧力を受け、ドイツ軍と激しい戦いを繰り広げていたのは、ソビエト連邦であり、イギリスはドイツ軍をソ連に向かわせて安心して軍需生産に励んでいた。

ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルに第二戦を開くように要求したが、チャーチルは、脇道でしかない北アフリカで手いっぱいだとして、ヨーロッパ反攻を先延ばしして時間を稼いでいた。イギリスにとって、国益を守るためには、共産主義のソ連をドイツと正面から戦わせて、両者に犠牲を強いるのは理にかなったことであり、戦略として当然だった。

フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルへイム(Carl Mannerheim)元帥は、1917年、ロシア革命の時期にフィンランド独立のためにロシア人・フィンランド人から成る赤軍を粉砕した経験があり、反ボリシェビキ(Anti-bolshevism)・反共産主義のためならナチスとも同盟を厭わない、ナチスのイデオロギーについて批判しない人物だった。マンネルハイム元帥の反ボリシェビキの心情をのぞかせるのが、彼のヒトラー大本営「狼の巣」訪問というナチスへの軍事作戦協力の姿である。

1942年6月4日、ヒトラーはマンネルへイム(Carl Mannerheim)とフィンランドの列車で会談した。その1942年夏、ヒトラーもマンネルハイムも、ソ連の持つ生産力の高さ、予備軍の膨大さ、動員可能性の大きさを十分に認識していたはずだ。

にもかかわらずヒトラーは、イタリア軍の不甲斐なさをマンネルハイムに訴え、イタリア軍を支援するために、バルカン方面、北アフリカ方面に派兵したことで、対ソ連戦争への動員が不足したと言い訳をし、ソ連指導者スターリンの考えは、ヨーロッパのボルシェビズム(bolshevism)による支配・赤化であると述べて、その危険からヨーロッパを守ること戦いを、俄然として決意すべきだとした。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」の作戦室、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が統括する作戦会議に、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;左手前のドイツ国防軍総司令部作戦部長アルフレート・ヨーゼフ・フェルディナント・ヨードル(Alfred Josef Ferdinand Jodl)大将が前かがみになって、地図上で部隊の動きを説明している。左奥には、ドイツ国防軍参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)大将。ハルダーは、ソ連との戦争に悲観的になっているとして、1942年9月24日に参謀総長を解任、予備役に編入。ヒトラーの左手には、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が控えている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13204引用。


1942年6月27日、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイムCarl Mannerheim)元帥は、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ空軍が派遣したフォッケウルフFw200 Fw 200 C-3/U9コンドル輸送機に乗って、1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルク(Rastenburg)飛行場に到着、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥の出迎えを受けた。そこから、ラステンブルク総統大本営「狼の巣」に向かい、作戦室でドイツ首相アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)総統が統括し、カイテル、ハルダーが出席した作戦会議に参加した。その後、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥の邸宅で会談した。カール・マンネルへイムCarl Mannerheim)元帥は、ゲーリングの邸宅で歓談の後、メルセデスでラステンブルク飛行場に行き、そこでドイツ空軍のフォッケウルフFw200コンドル輸送機に乗ってフィンランド、マルミ空港に帰国した。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。


6.1943年、フィンランドの対ボリシェビキ「継続戦争」の後半

写真(右)1943年4月10日、ソ連北西部、東カレリア地方(?)、電線の不備を探し出して修理する冬季白色迷彩服を着て、厚い手袋をしたフィンランド軍のスキー部隊;警護兵は、右の兵士はモシン・ナガン7.62ミリM1891小銃を、左の兵士はスオミ KP/-31短機関銃(拳銃用の9ミリ口径ルガー弾71発入りドラム弾倉を使用)を装備している。
Kuvasarja vikapartiosta. Linja korjataan huolella ja otetaan yhteys lähtöpaikkaan..
Organisation Military Museum
Photo info: 1943-04-10 Sot.virk. Uno Laukka, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133233引用。


スオミ KP/-31短機関銃(Suomi-konepistooli)は、フィンランドが開発し、フィンランド軍は1939年の冬戦争には、前線部隊に大量配備されていた。この短機関銃が使用する実包は、ドイツの開発になり第一次大戦時には大量配備された9ミリ口径ルガー(Luger)弾と同じ9x19mmパラベラム弾である。その名の通り薬莢の長さは19ミリで炸薬量は少なく、射程距離は短いが、その射撃の反動が小さく、連続射撃が可能になった。弾倉は、箱型弾倉の場合は20発から40発だが、ドラム弾倉なら71発を携行できる。

写真(右)1943年4月10日、ソ連北西部、東カレリア地方(?)、電線の不備を探し出して修理する冬季白色迷彩服を着たフィンランド軍のスキー部隊;厳寒の極北戦線では、指先が低温で障害を受けやすい。そこで、分厚い手袋を用意した。火器の引き金も、槓桿も、このような手袋をして操作することを前提に設計されている。警護兵は、左右の2人の兵士はモシン・ナガン7.62ミリM1891小銃を、手前の兵士は口径9ミリルガー拳銃弾を71発装填できるドラム弾倉を付けたスオミ KP/-31短機関銃を装備している。
Kuvasarja vikapartiosta. Linja korjataan huolella ja otetaan yhteys lähtöpaikkaan..
Organisation Military Museum
Photo info: 1943-04-10 Sot.virk. Uno Laukka, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133234引用。


スオミ KP/-31短機関銃(Suomi-konepistooli)は、射程は短く、狙撃中としては使用できないが、弾丸を連射できるので接近戦や襲撃部隊には重宝された。しかし、あくまでも短機関銃は、小銃の補助兵器としての役割を占めているに過ぎず、歩兵における主力火器は小銃だった。

写真(右)1943年4月10日、ソ連北西部、東カレリア地方(?)、電線の不備を修理した後に通話できるかどうかを試験している冬季白色迷彩服を着たて、電話通信装置を肩にし通話を試みるフィンランド軍兵士とそれを見守るスキー部隊の隊長(?);写真右奥の人物の写真が多く残されているのは、彼の階級が高くスキー部隊の隊長であるためであろう。その隊長が所持している火器は、モシン・ナガン7.62ミリM1891小銃ではなく、スオミ KP/-31短機関銃(9ミリ弾71発入りドラム弾倉を使用)である。
Kuvasarja vikapartiosta. Linja korjataan huolella ja otetaan yhteys lähtöpaikkaan.
Organisation Military Museum
Photo info: 1943-04-10 Sot.virk. Uno Laukka, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133235引用。


小銃に比較して、連続射撃可能な短機関銃の配備数は少なかった。そこで、歩兵部隊であれば、短機関銃は部隊の隊長に優先して配備された様だ。フィンランド軍の場合も、分隊長あるいは小隊長らしき兵士は、モシン・ナガン7.62ミリM1891小銃ではなく、スオミ KP/-31短機関銃(9ミリ弾71発入りドラム弾倉あるいは20-40発入りの箱型弾倉)を所持しているようだ。

写真(右)1943年4月10日、ソ連北西部、東カレリア地方(?)、基地に帰還するフィンランド軍のスキー部隊;ボッシェシャンネ Voznesenje(ロシア語 Вознесенье, フィンランド語 Syvärinniska)は、ソ連北西部、レニングラード北東300キロの、オネガ湖南岸にあるが、東カレリアを超えて、明らかにソ連領であり、こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘にあったことを物語っている。
Kuvasarja vikapartiosta. Tyytyväisenä vikapartio palaa kämpille. Linja on käyttökunnossa.
Organisation Military Museum Photo info: 1943-04-10 Sot.virk. Uno Laukka, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133237引用。


厳寒の極北戦線では、手足の指先が凍傷にかからないように、分厚い手袋やブーツを着用した。小銃や短機関銃も、このような厳寒の地に耐える構造で、さらに操作性の上でも、余裕を持ったつくりになっている。そこで、重量は過分になってしまったが、信頼性・操作の容易性を確保するためにはやむを得なかった。また、敵から発見されにくいように、雪景色に溶け込む冬季白色迷彩が採用された。これは、軍服の上に白色の外套やポンチョを纏い、ヘルメットを白色のカバーで覆うもので、その効果は高かった。

写真(右)1943年6月−8月、ソ連北西部、東カレリア地方(Eastern Karelia)、ヒモラ(Himola)の墓地軍で、フィンランド軍の従軍司祭ニーミネン(Nieminen)が住民の墓で祈りを捧げている。;ボッシェシャンネ Voznesenje(ロシア語 Вознесенье, フィンランド語 Syvärinniska)は、ソ連北西部、レニングラード北東300キロの、オネガ湖南岸にあるが、東カレリアを超えて、明らかにソ連領であり、こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘にあったことを物語っている。
sotilaspappi Nieminen siunaa haudan lepoon Himolan kalmistoon talvella haudattua vainajaa Kaukonen Väinö, kuvaaja 1943 .
Subject place Himola, Klyššinvaara, Porajärvi, Itä-Karjala, Neuvostoliitto (nyk. Venäjä)
Subject date 1.6.1943 - 30.8.1943 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Suomalais-ugrilainen kuvakokoelma
Inventory ID SUK475:251 Measurements 6 x 6 cm
写真はMuseot Finna・SUK475:251引用。


1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻、理由は、スウェーデンの鉄鉱石を不凍港ナルビクNarvik)を通じて安定して輸入するためだったが、イギリスがノルウェーの機雷封鎖や保障占領を企図していることもあった。このノルウェー侵攻「ウェーゼル演習作戦」では、四発大型旅客輸送機ユンカースJu-90が、オスロに兵員を輸送した。デンマークは侵攻初日の4月9日、国王クリスチャン10世Christian 10)、デンマーク政府が即座に降伏したが、ノルウェーは、イギリス軍の支援を受けて、激しく戦った。しかし、ドイツ軍のフランス侵攻で、5月下旬にはフランスの危機、イギリスの孤立化が確実になったため、ノルウェーの連合軍は6月に撤退した。ノルウェーには傀儡ヴィドクン・クヴィスリングVidkun Quisling)政権が樹立され、ドイツ潜水艦Uボートの基地となった。

写真(右)1943年6月−8月、ソ連北西部、東カレリア地方(Eastern Karelia)、ヒモラの墓地で、フィンランド人の老婆が親族のために泣いて祈りを捧げている。;ボッシェシャンネ Voznesenje(ロシア語 Вознесенье, フィンランド語 Syvärinniska)は、ソ連北西部、レニングラード北東300キロの、オネガ湖南岸にあるが、東カレリアを超えて、明らかにソ連領であり、こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘にあったことを物語っている。
kalmoilla käynti, nainen itkee haudan äärellä Kaukonen Väinö, kuvaaja 1943 .
Subject place Himola, Klyššinvaara, Porajärvi, Itä-Karjala, Neuvostoliitto (nyk. Venäjä)
Subject date 1.6.1943 - 30.8.1943 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Suomalais-ugrilainen kuvakokoelma
Inventory ID SUK475:249 Measurements 6 x 6 cm
写真はMuseot Finna・SUK475:249引用。


1941年6月のドイツのソ連侵攻に引き続いて行われた、フィンランドのソ連侵攻「継続戦争」において、開戦当初から、東カレリアへ順調に進軍を続け、当時のソ連領だった東カレリアの多くを1941年中に占領することができた。つまり、ロシア連邦カレリア共和国、当時はソビエト連邦だった東カレリアにまで、継続戦争の初期1941年にソ連に侵攻したフィンランド軍は侵攻し、東カレリアを占領し、調査員を派遣して、居住していたラップ人、フィンランド人の情報を収集した。これは、円滑な占領政策のためだが、フィンランドにとっては、ソ連領の併合、自国領土の拡張占領を念頭に置いた占領政策だった。

写真(右)1943年6月−8月、ソ連北西部、東カレリア地方(Eastern Karelia)、コントクキ(Kontokki)、アコンラティ(Akonlahti)、村の教会の建物と切り出して集められた材木;コントクキ(Kontokki)は、現在、ロシア連邦カレリア共和国、当時はソビエト連邦だったが、継続戦争の初期1941年にソ連に侵攻したフィンランド軍が占領し1944年まで占領下においた。 ソ連北西部、レニングラード北東300キロの、オネガ湖南岸にあるが、東カレリアを超えて、明らかにソ連領であり、こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘にあったことを物語っている。
kirkonkylän rakennuksia ja rannalle ajautuneita uittotukkeja Kaukonen Väinö, kuvaaja 1943 .
Subject place Akonlahti, Kontokki, Itä-Karjala, Neuvostoliitto (nyk. Venäjä)
Subject date 1.6.1943 - 30.8.1943 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Suomalais-ugrilainen kuvakokoelma
Inventory ID SUK475:270 Measurements 6 x 6 cm
写真はMuseot Finna・SUK475:270引用。


東カレリアとそれに接したソ連の領土は、1941年夏から1944年春・夏まで、フィンランドの占領下におかれ、そこの住民たちは、フィンランドによる統治を受けた。ソ連北西部、レニングラード北東300キロのオネガ湖から、北・東・南の方向にフィンランド領を超えた土地、明らかにソ連の領土まで占領した。こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘、領土・防衛戦の拡張にあったことを物語っている。

写真(右)1943年6月−8月、ソ連北西部、東カレリア地方(Eastern Karelia)、コントクキ(Kontokki)、アコンラティ(Akonlahti)、フィンランド軍兵士コウコーネン・ベイネ(Kaukonen Väinö)による住民(Huotarinen Anni)への聞き取り調査;コントクキ(Kontokki)は、現在、ロシア連邦カレリア共和国、当時はソビエト連邦だったが、継続戦争の初期1941年にソ連に侵攻したフィンランド軍が占領し1944年まで占領下においた。 ソ連北西部、レニングラード北東300キロの、オネガ湖南岸にあるが、東カレリアを超えて、明らかにソ連領であり、こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘にあったことを物語っている。
Väinö Kaukonen haastattelemassa Outi Nykästä tuvan pöydän äärellä Kaukonen Väinö, kuvaaja 1943 .
Subject place Akonlahti, Kontokki, Itä-Karjala, Neuvostoliitto (nyk. Venäjä)
Subject date 1.6.1943 - 30.8.1943 Subject actor Huotarinen Anni Kaukonen Väinö
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Suomalais-ugrilainen kuvakokoelma Inventory ID SUK475:305 Measurements 6 x 6 cm
写真はMuseot Finna・SUK475:305引用。


フィンランドは、1941年6月に継続戦争を開始、ソ連に攻め込んで、冬戦争に敗れて奪われた失地を回復するという戦争を目的を掲げた。しかし、東カレリア地方(Eastern Karelia)、コントクキ(Kontokki)、アコンラティ(Akonlahti)は、ソ連北西部で、現在、ロシア連邦カレリア共和国にあるが、1917年にフィンランドがロシア帝国から独立した時点でも、ソビエト・ロシア領だった。つまり、東カレリアの占領地によって、フィンランドは、国境を西側にずらして、固有の領土を防衛するための予防措置とした。換言すれば、共産主義・ボリシェビキの侵攻を防ぐ緩衝地帯であるとして、東カレリアの領有、支配を考えていたようだ。

写真(右)1943年6月−8月、ソ連北西部、東カレリア地方(Eastern Karelia)、コントクキ(Kontokki)、アコンラティ(Akonlahti)、進駐したフィンランド軍兵士コウコーネン・ベイネ(Kaukonen Väinö)による住民ニッケネン・オウチ(Nykänen Outi)女史への聞き取り調査;コントクキ(Kontokki)は、現在、ロシア連邦カレリア共和国、当時はソビエト連邦だったが、継続戦争の初期1941年にソ連に侵攻したフィンランド軍が占領し1944年まで占領下においた。 ソ連北西部、レニングラード北東300キロの、オネガ湖南岸にあるが、東カレリアを超えて、明らかにソ連領であり、こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘にあったことを物語っている。
Väinö Kaukonen haastattelemassa Outi Nykästä tuvan pöydän äärellä Kaukonen Väinö, kuvaaja 1943 .
Subject place Akonlahti, Kontokki, Itä-Karjala, Neuvostoliitto (nyk. Venäjä)
Subject date 1.6.1943 - 30.8.1943 Subject actor Nykänen Outi Kaukonen Väinö
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Suomalais-ugrilainen kuvakokoelma Inventory ID SUK475:284 Measurements 6 x 6 cm
写真はMuseot Finna・SUK475:284引用。


しかし、フィンランドは、軍事力を背景とした民族圧迫や資源収奪を優先するのではなく、住民生活の保障・安定にも配慮し、占領地に調査員を送って、情報収集に努めている。その様子は、ソ連領土に住んでいたフィンランド人に本土と同じ安定した生活を取り戻すといった「大フィンランド的思想」が投影したものだった。

写真(右)1943年4月23日、ソ連北西部、オネガ湖畔、ボッシェシャンネ(Voznesenje)、フィンランド軍スヴェンソン少将の指揮所の建物が被弾し破壊された。;ボッシェシャンネ Voznesenje(ロシア語 Вознесенье, フィンランド語 Syvärinniska)は、ソ連北西部、レニングラード北東300キロの、オネガ湖南岸にあるが、東カレリアを超えて、明らかにソ連領であり、こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘にあったことを物語っている。
Syvärinniska. Kenraalimajuri Svenssonin komentopaikka ja asunto on saanut täysosuman 23.4.1943.
Organisation Military Museum Photo info: 1943-04-21 Sot.virk. C.G. Rosenqvist, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-145670引用。


写真(右)1943年6月20日、フィンランド、継続戦争2周年記念を祝うフィンランド軍第10野戦砲連隊の兵士たち; KTR = Field Artillery Regiment(野砲連隊)
I/ KTR 10:n 20.6.1943 pidetyn 2-vuotisjuhlan hartaustilaisuus. Virrenveisuu käynnissä..
Subject Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-06-20 Sot.virk. G.Feldhoff, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122156引用。


1940年4月9日,イギリス軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

継続戦争は、1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドがソ連と戦った戦争である。戦争当事国の一方であるソ連は、フィンランドの侵入を受け、それを防いだ「大祖国戦争」の一環であり、すなわち第二次世界大戦の一部である。フィンランドは、国土を奪ったソ連とは戦うが、イギリスとは戦わないという釈明をした。

他方、イギリスは、1941年6月の独ソ戦開始前から、ソ連にドイツがソ連攻撃を計画していることを事前に連絡し、独ソ戦開始後も、直ぐにソ連邦への軍事援助を表明しているが、これはドイツ打倒を最優先し「ヒトラーを倒すためには、悪魔とも手を結ぶ」と公言していたW.チャーチル首相にとって、当然のことだった。したがって、イギリスは、フィンランドがソ連とのみ領土奪回の目的で、1939年の第二次大戦開始直前の「冬戦争」を継承しているのであって、イギリスと戦火を交えるつもりはないという方便を認めていない。

写真(右)1943年7月9日、フィンランド、タンペレ南20キロ、レンパアラの記念日パレードに参加したへーム騎馬連隊の第4大隊の兵士たち;JR = Infantry Regiment(歩兵連隊) Kev.Os = light detachment(軽分遣隊) Er.P = separate battalion(独立大隊) JP = Jaeger battalion(猟兵大隊) KTR = Field Artillery Regiment(野砲連隊) Rask.Psto = heavy art. battalion(重砲大隊) Psto / #.Pr = brigade art. battalion(旅団砲大隊) Psto = artillery battalion(山砲大隊) KT-Pr. = Field Replacement Brigade(野戦予備大隊) URR = Uudenmaa dragoon Reg.(竜騎兵連隊) HRR = Häme cavalry Reg.(騎兵連隊) PPP = bicycle battalion (自転車大隊)
Hämeen ratsurykmentin 4. eskadroona vuosipäiväparaatissa Lempaalassa
Organisation Lappeenranta museums Collection Ratsuväkimuseo RATSUVÄKIKOKOELMA Inventory ID RVMRVE933:56 Photo info: 9.7.1943, 1943
写真はMuseot Finna・M40:RVMRVE933:56引用。


第二次世界大戦中の1941年6月22日、ドイツは、バルバロッサ作戦を発動し、独ソ不可侵条約を保護にして、ソビエト連邦に攻め込んだ。それから3日後、1941年6月25日、フィンランドもソ連に侵攻した。これは、1939年の冬戦争でソ連に奪われた国土(カレリア)を奪回するための戦争だったが、ソ連は、イギリス・アメリカの軍事支援を受けていた連合国側になっていた。

 フィンランドは、イギリス・アメリカの反共産主義勢力を過大評価し、ソ連に対する軍事支援が、実際に大規模に行われるとは予測していなかったのかもしれない。あるいは、イギリスを孤立に追い込んでいたドイツの戦力を過大評価し、あえてソ連に戦いを挑む好機が到来したと読み誤ったようだ。日本ですら、関東軍を増強して特別大演習を実施し、ソ連を威嚇したものの、対ソ連戦争は開始しなかった。これは、中国と日中戦争を戦い続け、さらに南方を攻略してアメリカに対抗するという目的があったからだが、フィンランドにとっては、ソ連だけが仮想敵国だった。

写真(右)1943年8月15日、フィンランド南西、カレリア地方、ラドガ湖北岸、ソルタバラ、ソルタバラ司令官スヴェンソン少将が部隊を閲兵する。
Joukkojen katselmus ja ohimarssi Sortavalan valtauksen 2-vuotisjuhlapäivänä 15.8.1943. Katselmuksen suoritti ja joukot otti vastaan kenraalimajuri Svensson, Sortavalan kunniapormestari seurueineen.
Subject Organisation Military Museum Photo info: 1943-08-15 Luutnantti Pekka Kyytinen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122156引用。


1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドは、「継続戦争」を闘った。結果を知っているものの視点で見れば、無謀な対ソビエト連邦戦争を開始した。しかし、当時は、民主主義国イギリス・アメリカの軍事力を過小評価しており、第二次世界大戦に参戦したのではなく、冬戦争で失った国土を奪還するという目的で、イギリス(当時は中立国のアメリカ)と戦うのではないという言い訳が国際的に通用すると錯覚していた。結果から見れば、これはフィンランド外交の大失敗だった。

写真(右)1943年6月19日、フィンランド、フィンランド軍対空砲陣地に据えるけられたフランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲(75 ItK 97/14 PK):周囲をコンクリートで覆われた掩体壕に、ドイツ軍がフランスで鹵獲した高射砲を据え付けらている。75 ItK 97/14 PKは、1940年にドイツ軍がフランスで鹵獲した沿岸対空砲で、1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)よりも短砲身で、冬戦争、継続戦争の当時、すでに旧式化していた。
76 mm:n ilmatorjuntatykki Suursaaren turvana. Tiedot värikuvien selosteesta. Kalustona 75 ItK 97/14 PK (Puteaux). Ase on muunnettu 75 mm:n kenttätykistä vuodelta 1897.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-06-19 Walter Jokinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-16028引用。


写真(右)1943年6月27日、写真(右)1943年8月26日、フィンランド南東部、イマトラ、ヴオクサ(Vuoksi)渓谷、フィンランド軍の対空陣地に据え付けられたスウェーデン製が採用したスウェーデン製ボフォース40ミリ対空機関砲:後方には、イマトラ(Imatra)市街から南東2キロ、イマトラ第12区テッパナラ、イマトラ製鉄所は、数百人の従業員がいるフィンランドでも最大級の金属工場である。工場の煙がたなびいている。煙突から操業中の工場の煙がたなびいている。対空砲火は、このような産業施設を防衛するために据え付けられたのであろう。
Vuoksenlaakso. Ilmatorjuntatykki suojelemassa Vuoksenniskan rautaruukkia. Tiedot värikuvien selosteesta. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 132250. Kuvassa 40 mm:n Bofors-ilmatorjuntatykki. Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-06-27 Niilo Helander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 166421引用。


写真(右)1943年6月27日、写真(右)1943年8月26日、フィンランド南東部、イマトラ(Imatra)、ヴオクサ(Vuoksi)渓谷、イマトラ製鉄所を防衛する対空陣地に据え付けられたフィンラン軍のイタリア製ブレダ(Breda)1935年式65口径20ミリ対空機関銃(Cannone-Mitragliera da 20/65 modello 35(Breda)):イマトラ(Imatra)市街から南東2キロ離れているイマトラ第12区テッパナラにある、イマトラ製鉄所(フィンランド最大級の金属工場)で、工場の煙突が並び、そこから煙がたなびいている。対空砲火は、このような産業施設を防衛するために据え付けられた。
Vuoksenlaakso. 20 mm:n ilmatorjuntatykki asemissa Vuoksenniskan tehdasalueella. Tiedot värikuvien selosteesta. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 132255. Kuvassa etualalla Cannone-Mitragliera da 20/65 modello 35 (Breda) -ilmatorjuntatykki (Breda m35). Paikka Imatran Teppanalassa, Rautatehtaan eteläpäässä ja kiikarointisuunta Vuokselle Vallinkoskelle. Vallinkoski sijaitsee vajaan kilometrin etäisyydellä. Yhtiö on Oy Vuoksenniska Ab.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-06-27 Niilo Helander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166217引用。


写真(右)1943年6月30日、フィンランド南東部、イマトラ、ヴオクサ(Vuoksi)渓谷、フィンランド軍の対空陣地に展開するスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors)):十字砲架を折りたたんで、車輪を前後に1組ずつ取り付けると、牽引車で権威⒮ンして移動することができた。イマトラ(Imatra)は、ソ連のレニングラード北西200キロ、ヘルシンキ東方200キロ、フィンランドの軍事的要衝である。ヴオクサ(Vuoksi)川は、全長は156kmで短いか、カレリア地峡、ソ連のラドガ湖に流入する、カレリア地峡最大の河川である。
Vuoksenlaakso. Raskas ilmatorjuntapatteri (ItR 3) Imatralla.
Imatra 1943.06.30 .Niilo Helander
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-166217引用。


写真(右)1943年8月26日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡中央部、スラジェルビ(Suulajärvi)湖畔、フィンランド軍が採用したスウェーデン製ボフォース40ミリ対空機関砲への弾薬クリップ装填作業:カレリア地峡では、歩兵部隊による戦闘、陣地戦が戦われていたために、解放した市街にも破壊の後はあった。スラジェルビ(Suulajärvi)湖は、レニングラード北西120キロ、フィンランド湾まで40キロの位置にある。
Bofors-ilmatorjuntatykki tuliasemassa. Värikuvien selosteessa tieto: 40 mm:n it.tykki valmiina antamaan tulta. Suulajärvi 26.8.1943.Bofors-ilmatorjuntatykki tuliasemassa. Suulajärvi 1943.08.26.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166376;JSdia276引用。


フィンランド国防軍参謀総長へインリクスは,ドイツに空路訪れ、1941年5月25日から,国防軍作戦部長ヨードルらと会談し、レニングラード攻略と極北作戦について概説し,ラドガ湖周辺への攻勢、ムルマンスク攻略への協力、ハンコ租借地のソ連軍基地攻撃への参加を話し合い、情報交換をなした。こうして、フィンランドは、ドイツのソ連侵攻に際して、 軍事同盟の締結をしたわけではないが、フィンランド軍の動員、ドイツ空軍への基地提供など具体的な話題をも取り上げ、ドイツのソ連侵攻に併せて、フィンランドもソ連との戦争を始める決意があることを間接的に伝えていた。

フィンランド国防軍参謀総長へイン リクスは, ドイツに対し、1941年6月10日にフィンランドの動員が、6月28日には作戦準備が完了する伝えたがと通告した。他方、大統領リュティは、 6月14日に外交委員会を召集し、ドイツとの軍事的協力を承認している。準備万端の中、日本同様、フィンランドも6月17日、ドイツによる対ソ侵攻が6月22日に開始されることを暗示され、対ソ戦争の開始を固唾をのんで見守っていた。

写真(右)1943年8月26日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡中央部、スラジェルビ(Suulajärvi)湖畔、フィンランド軍が採用したスウェーデン製ボフォース40ミリ対空機関砲:カレリア地峡では、歩兵部隊による戦闘、陣地戦が戦われていたために、解放した市街にも破壊の後はあった。スラジェルビ(Suulajärvi)湖は、レニングラード北西120キロ、フィンランド湾まで40キロの位置にある。
Bofors-ilmatorjuntatykki tuliasemassa. Värikuvien selosteessa tieto: 40-millisen miehistö seuraa valppaana yläilmojen tapahtumia. Suulajärvi 26.8.43.Suulajärvi 1943.08.26.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165904引用。


1941年6月、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では、フィンランドは,ルーマニア同様、積極的攻勢をかけることが期待されていた。ドイツは、フィンランド北部、北極海に面したぺツァモと近郊の希少資源ニッケル鉱床を保持するだけでなく、カレリア地峡南端のソ連レニングラードと北極海の不凍港ムルマンスクを結ぶ鉄道を遮断する作戦を実行に移した。つまり、ドイツは、既に全土を占領したノルウェー北部から、フィンランド北部にドイツ第21軍北方軍団を進駐させ、そこからムルマンスク方面を攻撃する計画だった。この極北でのソ連侵攻に、ドイツ軍とフィンラ ンド軍が参加し、さらにカレリア地峡のすべてを占領し、レニングラードを攻略するために、ラドガ湖周辺にもフィンランド軍が侵攻する計画だった。このようにしてフィンランドは、ドイツの対ソ戦争「バルバロッサ作戦」に組み込まれいた。特に、1941年1月には、ノルウェー派遣ドイツ軍は、極北戦線で「銀狐作戦」(Silberfuchs)によって、コラ半島のソ連軍を撃滅し,ムルマンスク鉄道に沿って、白海とフィンランド湾の間にあるカレリア地峡まで進出する計画を立てていた。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車の超壕テスト
;現地に傾斜した壕を木材や石材を並べて試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。T-34戦車は、長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備しているので、砲塔を後ろに回転させて、砲身が壕にぶつからないようにして実験している。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122258引用。


フィンランド大使館「最近の出来事・お知らせ, 2012/06/07:フィンランド国防軍の記念日を祝って」によれば、「フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Emil Mannerheim)元帥の誕生日をフラッグ・デーと定め、軍事パレードが行われている。マンネルヘイム元帥は、冬戦争や第二次世界大戦時にフィンランド国防軍総司令官、戦後に第6代大統領を務めた。70回目となる今年のパレードは、フィンランドの首都ヘルシンキで開催された」とある。フィンランドがソビエト連邦に侵攻して、第二次大戦を始めたこと、ソ連と講和して、ドイツとの同盟を破棄して、攻撃したことについて、触れていない。重要なのは、フィンランドは、フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、ソ連への侵略戦争を始めたのではなく、「国土防衛」「民主主義」「自由」を貫いたということか。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車のトラップでの超壕テスト;壕の底に滑り落ちたT-34戦車だが、そこから反対側の壕の斜面に登ろうとしている。壕にかかったソ連戦車が自力で脱出できるかどうかの実地試験をしている。T-34戦車は、長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備しているので、砲塔を後ろに回転させて、砲身が壕にぶつからないようにして実験している。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122259">引用。


ドイツ軍の独ソ戦バルバロッサ作戦(Unternehmen Barbarossa)初期の主力戦車であるIII号戦車が5センチ砲、最大装甲50ミリだったのに対して、ソ連赤軍が配備していたT-34戦車は76.2ミリ砲、最大装甲45ミリ、傾斜装甲による避弾径始に優れていた。機動力の上でも、ソ連軍のT-34戦車はキャタピラー(履帯)幅を広くとり、地面との接地圧力を低く抑え、機動力を確保している。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の超壕テスト
;現地に木材や石材を並べて傾斜した対戦車壕を試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122260引用。



写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車のトラップでの超壕テスト
;壕の底に滑り落ちたT-34戦車だが、そこから反対側の壕の斜面に渡り、壕の上まで登り切った。つまり、この壕の傾斜では、ソ連のT-34戦車には有効な障害物となりえないことが判明した。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122261">引用。


写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車の超壕テスト;現地に木材や石材を並べて傾斜した対戦車壕を試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備した攻撃力,機動力,防御力のバランスのとれた戦車だった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122232引用。


1943年夏、フィンランド軍は、ソ連に侵攻して占領したラップランドで現地の石材や木材を利用して、対戦車障害物を考案し、対戦車壕を工夫した・そして、これらを実際に制作して、鹵獲したソ連戦車が乗り越えられるか、実際に現地で超壕テストをした。これを参考に、ラップランドでは、対戦車壕や対戦車障害物が構築されて、防衛戦を構成した。

対戦車障害物、対戦車壕を試験的に構築するなかで、傾斜した障害物上面に沿って戦車の車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを射撃すれば、3.7センチ対戦車砲や5センチ対戦車砲でも、ソ連軍の主力T-34戦車さらにKV-1重戦車でも撃破できることが判明する。

1941年6月に、独ソ戦が勃発する2年も前からソ連赤軍はT-34戦車のような攻撃力、防御力、機動力のバランスのとれた戦車を開発し、部隊配備していた。他方、ドイツ陸軍の戦車はソ連軍に比較して軽装甲、短砲身で対戦車戦闘能力は低かった。しかし、独ソ戦でソ連軍のKV-1重戦車やT-34戦車と遭遇すると、それに対抗できるよう、パンテルV号戦車を開発した。また、既に計画は進んでいたVI号戦車のプロトタイプにも強力な8.8センチ高射砲を搭載し攻撃力を強化することになった。これが、VI号ティーゲル重戦車である。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車の超壕テスト;現地に木材や石材を並べて傾斜した対戦車壕を試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。ソ連軍のT-34戦車の登場した当初の1940年初頭、76.2ミリ砲は戦車砲としては大型強力な火砲で、一般的な戦車は37ミリ砲や50ミリ砲が標準だった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122233引用。


T-34/ 1941年式 諸元
重量:26.5トン
全長: 6.68メートル
全幅: 3.00メートル
車高 2.45メートル
乗員: 4人(車長:装填手を兼務、操縦手,砲手,無線手:前方機銃手を兼務)
装甲 52ミリ
兵装: 76.2ミリF-34戦車砲,7.62ミリ機銃2丁
エンジン:12気筒ディーゼルV-2 500馬力(370キロワット),17.5馬力/トン
航続距離:400キロ
最高速度 時速53キロ

1939年の冬戦争当時,ソ連軍は命令を厳格に実行しようとするあまり,迅速な作戦変更ができなかったり,攻撃日程を墨守しようとするあまり、物資の補給が間に合わない状況でも進軍を続けたりして。戦術的欠陥をフィンランド軍に衝かれることがしばしばおこった。第二次大戦前,1937年のソ連軍内部のトハチェフスキ粛清によって,ソ連軍の軍事専門家の指導力は低下し,共産党による軍の管理,政治委員(政治将校)コミサールCommissarsによる介入が強いことが、攻撃計画や戦術の臨機応変な変更を困難にしていたのである。

しかし、1943年に入るとこのような戦術的欠陥はソ連軍にも少なくなり、フィンランド軍は、兵力不足を痛感せざる得ない状況に陥っていた。もはやフィンランド軍が巧妙な戦術で、ソ連の大軍を翻弄するような状況は稀になっていたのである。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車のトラップでの超壕テスト;ネットに偽装を施し地面のように見せかけた戦車落とし穴。急傾斜に滑り込んで自力脱出できなくする。こうすれば、戦車を生け捕りにして戦利品として鹵獲し、フィンランド軍戦車として再利用できるというわけだ。実際に鹵獲したT-34戦車を墜として、自力脱出できるかどうかの壕を超える実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122234引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルヘイム(Carl Mannerheim)元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;現地に傾斜した石材を並べて、鹵獲したT-34戦車を乗り入れ、越えられるかどうか、実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122253引用。


このようなフィンランドにおける対ソビエト「継続戦争」の戦意高揚を無視して、マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、ヒトラーとの共闘を臨んでいなかった、ヒトラーによる誕生日訪問を迷惑に思っていたなどと邪推するのは、見当違いであろう。1917年のロシア革命後、ボリシェビキ勢力が伸長し、赤軍を組織して共産主義革命を進めたとき、フィンランドでは、、ロシア共産党のボリシェビキに賛同したフィンランド共産主義者、共産党員、赤軍が政権奪取を図った。それに対して、反革命軍、白軍を組織して、革命派を武力鎮圧したのが、マンネルハイムである。この経緯を踏まえれば、マンネルハイムもヒトラーも、フィンランドもナチス・ドイツも、ともに反共産主義として、ソビエト連邦、ヨシフ・スターリンを警戒し、チャンスがあれば、彼らを無害化、中立化したかったに違いない。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;現地に傾斜したや石材を並べて試作して、その後、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れ、壕から脱出できるかどうか、実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Panssarivaunu on tyyppiä T-34 (vuosimalli 1942)..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122254引用。



写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;石材が車体前部中央にぶつかって先に進めなくなった。T-34戦車でも尖った石材を乗り越えることはできなかった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122255引用。



写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;先端の尖った石材が車体前部中央にぶつかって乗り越えられなくなったソ連軍主力T-34戦車。車体前方のハッチが開いているのは、乗員が車外に出て、状況を確認したためであろう。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122256引用。



写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の超壕テスト
;現地に傾斜した石材を並べて、鹵獲したT-34戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Panssarivaunu on tyyppiä T-34 (vuosimalli 1942).. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122230引用。



写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車の試乗テスト
;現地の石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122221引用。


写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車の超壕テスト;現地の石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越えられるか、実際に現地で超壕テストをした。これを参考に、ラップランドでは、対戦車壕や対戦車障害物が構築されて、防衛戦を構成した。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122226引用。


ソ連赤軍T-34戦車の搭載砲は,76.2ミリ(3インチ)砲で,砲塔は当初は,圧延鋼板溶接構造だったが,生産性の高い鋳造構造に変更された。また,砲塔は,ピロシキ形状で,傾斜装甲を全面採用し,車体周囲も傾斜装甲だった。T-34戦車は,全面的に避弾径始に配慮し,命中弾を横滑りさせて,貫通力を弱めることに成功した。装甲の厚さ以上に,防弾性能が優れていたといえる。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が構築した木製製対戦車障害物
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146659引用。


1943年7−9月に、フィンランド軍がフィンランド北部、ラップランドの防衛強化のために、対戦車障害物の有効性を実験した写真が多数残されている。現地の木材や石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃すれば、3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でもソ連重戦車を撃破できる。また、7.5センチ対戦車砲であれば、容易に重戦車の装甲の弱点を貫通し、完全に戦車を仕留めることができる、このように考えられた。

ソ連のT-34戦車は鋳造構造の避弾径始の考慮された砲塔に76.2ミリ戦車砲を搭載したが、1940年当時これは、世界最強の攻撃力を備えた量産戦車といえる。そして、1944年になると、小ドイツ軍の56口径8.8センチ砲装備のティーゲル重戦車、70口径7.5センチ砲装備のパンテル中戦車とも互角に戦うことができるようにソ連のT-34/76戦車の砲塔を大型化し、そこに85ミリ砲を装備したソ連のT-34/85戦車が部隊配備されるようになった。T-34/85戦車も避弾径始に優れている大型砲塔であり、量産性も十分に考慮されている。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が構築した木製製対戦車障害物;現地の木材や石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146679引用。


1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi?Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ:Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146683引用。


1943年9月に、フィンランド軍がフィンランド北部、ラップランドの防衛強化のために、対戦車障害物の有効性を実験した。物資節約のために、現地の材木を切り揃えて束ねて考案した杭状の木製障害対戦車障害物、置き石の障害物、阪式の落とし穴などの有効性が、ソ連から鹵獲した戦車を実際に使って実験したんである。したがって、少なくとも、この地域では、現地の木材、石材を使って多数の対戦車障害物が準備されたものと思われる。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146686 引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、現地で調達できる材木や石材を材料として、何種類かの即製の対戦車障害物を作った。その対戦車障害物にたいして、ソ連から鹵獲したKV-2重戦車は、それに乗り上げて、傾斜し車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。その装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃すれば、3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でもソ連重戦車を撃破できる。また、7.5センチ対戦車砲であれば、容易に重戦車の装甲の弱点を貫通し、完全に戦車を仕留めることができる、このように考えられた。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;ソ連製戦車なので敵と間違われて誤射を受けないように、白に青十字のフィンランド国旗を掲げている。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146661引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作った。樹木の幹を切り揃えてワイヤーで束ねた杭状の木製障害対戦車障害物もその一つである。ここにソ連戦車が乗り上げれば、装甲の薄い車体下部が標的となり、対戦車砲で仕留めることができる、このように考えられた。現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;ソ連製戦車なので敵と間違われて誤射を受けないように、白に青十字のフィンランド国旗を掲げている。現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146662引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、実際に鹵獲したKV-2戦車を使って、障害物の実地試験を行った。ソ連から鹵獲したKV-2重戦車は、対戦車障害物にキャタピラで乗り上げて、傾斜するので、車体が持ち上がり、車体下面が晒されるようになる。その装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃すれば、3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でもソ連重戦車を撃破できる。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;ソ連製戦車なので敵と間違われて誤射を受けないように、白に青十字のフィンランド国旗を掲げている。現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを。対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146690引用。


 ドイツ軍のティーガー重戦車は、高射砲を改造した8.8センチ戦車砲を搭載し、パンター戦車も70口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載していたが、ソ連軍の主力戦車T-34戦車初期型、KW-1重戦車は、42口径の長砲身76.2ミリ戦車砲を、T-34戦車後期型は高射砲を改造した55口径85ミリ砲を搭載しており、互角の攻撃力を保持している。
 さらに、部隊配備・実戦投入の時期を比較すると、ドイツ軍のティーガー重戦車やパンター戦車は1943年夏のソ連東部戦線、シタデル(城塞)作戦の時期にやっとまとまった数が実戦投入されている。つまり、タイガーやパンサーといったドイツ軍の新鋭戦車は、戦争後期になってやっと登場し、活躍期間は戦争後期に限られる。他方、ソ連T-34戦車。KV-1重戦車の実戦投球の時期は、1941年夏でドイツ軍新鋭戦車よりも2年も早く実戦に大量投入され、第二次大戦初期から終戦まで戦い続けている。
 ドイツ軍新鋭戦車の生産台数は、ティーガー重戦車は1400輌、パンター戦車は5000輌であるが、これはソ連赤軍のT-34戦車が5万8,000輌、KW-1重戦車が4,500輌も量産しているのに比較すると生産台数10%程度でしかなく問題外である。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146661引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、実際に鹵獲したKV-2戦車を使って、障害物の実地試験を行った。大きな岩石を並べて、傾斜させた石に戦車を乗り上げさせる対戦車障害物もその一つである。ソ連から鹵獲したKV-2重戦車のキャタピラは、傾斜面に乗り上げ、車体を持ち上げる。そこで、車体下面が晒されるようになるので、装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃できるというわけである。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-14660引用。


ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、トハチェフスキー将軍による機動力を活かした気候旅団の創設を認めただけでなく、戦闘車輛の強化にも留意した。装甲化を進め、1941年6月にドイツがソ連に侵攻した時には、重装甲、強力な火力を装備したT-34戦車とKV-1重戦車を配備していた。T-34戦車は、火力、装甲、機動力のある世界的傑作戦車となるが、当初は、そのような高い評価を各国から得ていたわけではない。他方、KV-1重戦車は、火力はT-34戦車と同等だが、重装甲で、45トンもあったために機動力が高かった。重戦車のコンセプトは、重装甲だけではなく、大口径砲を搭載して、火力も強力する形で進化していった。それが、85ミリ砲を搭載したIS-1戦車、1943年に完成した122ミリ砲を搭載したIS-2戦車である。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト;現地の石材を木製枠に詰めた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146687引用。


1943年9月、フィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、ラップランドの防衛強化を図った。この時、鹵獲したソ連製KV-2戦車を使った実地試験を行った。大きな岩石を並べて、傾斜面に戦車を乗り上げさせてしまえば、車体下面が晒されるようになるので、装甲の貧弱な車体下面や下部に対して3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でも射撃するというわけである。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍の石製対戦車障害物に乗り上げた車体後方からみたソ連製KV-1B重戦車(障害物の有効性判定テスト試験の様子)
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146664引用。


 ソ連製KV-1B重戦車のキャタピラの幅は広く、重戦車の接地重量・圧力を軽減することができる。それでも、悪路で45トンの戦車の機動性を確保するのは困難である。そこで、ソ連製KV-1B重戦車の車体前面下部と車体後面下部には2個の牽引用の金具がついている。ここにロープやワイヤーを結んで、トラクターや牽引車、あるいは他の戦車に繋いで、悪路で立ち往生した場合、戦車壕などに落ち込んで自力脱出できなくなった場合に、牽引、曳航、脱出するのである。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍の石材製対戦車障害物に乗り上げた正面下方からみたソ連製KV-1B重戦車(障害物の有効性判定テスト試験の様子);ソ連で大量生産されたT-34戦車の搭載した76.3ミリ(3インチ)F-34戦車砲と同じ火砲である。現地の石材を木製枠に詰めた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja. Kuvassa Klim Voroshilov KV-1B..
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146669引用。


ソ連製KV-1重戦車が砲塔に搭載した火砲は、口径76.2ミリで初期型から後期型まで同じである。しかし、火砲の初速を高速化し、貫通力を増強するために、砲身が長くなっている。当初1939年型は30.5口径76mm砲L-11、中期1940年型は31.5口径76mm砲F-32、後期1941年型は41.5口径76mm戦車砲ZIS-5と、火力が強化されている。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146705引用。


ソ連軍のKV-1(KB-1)重戦車の"KV"とは、当時のソ連共産党国防委員(資本主義国の国防大臣に相当)だったクリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)の名を冠したもので、英語表記はKV、ドイツ語表記はKWである。1939年の第二次世界大戦勃発前に開発され、第二次世界大戦初期から中期にかけてソ連軍に配備された。重装甲で3インチ76.2ミリ戦車砲を装備しており、出現当時、世界唯一の量産された45トン級の重戦車だった。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト
Linnoitustoimiston-hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146707引用。


ソ連軍のKV-1(KB-1)重戦車は、重装甲で3インチ76.2ミリ戦車砲を装備しており、防御力も火力も、出現当時、けた違いに大きかった世界唯一の量産された45トン級の重戦車である。しかし、重い車体を動かすための、トランスミッションメカニズムが操作しにくく、信頼性、機動性に欠けていたため、稼働率が低くなったり、長距離移動に過分の整備負担がかかったりした。そこで、装甲の厚さは減じて、軽量・小型で、同じ76.2ミリ戦車砲を搭載するT-34戦車が、ソ連軍の主力戦車として大量生産されることになった。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146704引用。


ソ連軍は、KV-1(KB-1重戦車の砲塔を撤去して、車体に巨大な戦闘室を設けて、車体前面に152ミリ榴弾砲を搭載したSU-152自走砲を1942年に開発した。SU-152自走砲の生産は1942年3月1日から開始され、1945年までに700輌が量産された。全高は2.45mと低く、搭載した 152ミリML-20榴弾砲の威力は強力だったまた、「自走砲」の名称ではあるが、装甲は前面上部 75mm 下部 60mm 側面・後面 60mmと防御力も高く、事実上の「突撃砲」として対戦車戦闘にも投入された。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った石製対戦車障害物のテスト
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146703引用。


ソ連軍KV-1重戦車の諸元
全長(砲身を含む) 6.89 m、車体長 6.75 m
全幅 3.32 m
全高 2.71 m
重量 45 t
懸架方式 トーションバー式
最高速力:35 km/h(整地)/17 km/h(不整地)
航続距離 335 km
兵装 41.5口径76.2ミリZIS-5戦車砲(携行砲弾数98発)
7.62ミリ車載機銃DT3丁(携行弾数3024発)

ソ連軍KV-1重戦車の装甲
防盾90 mm 砲塔前面75 mm
砲塔側面・後面75 mm、上面40 mm 車体前面75mm、前面傾斜40 mm
車体側面・後面75 mm
車体上・底面30-40 mm
発動機:12気筒液冷ディーゼルV-2K(550 馬力)
乗員:5 名
車長兼装填手・砲手・操縦手・ 補助操縦手兼整備手・ 通信手兼前方機銃手

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、食事を作るフィンランド軍兵士たち;現地の石材を木製枠に詰めた対戦車専用障害物をテストしたのと同日の撮影なので、テストが終わった後の食事であろうか。
Lappia ja Lapin-sotaa 1943. Jänkämaiden partiomiehiämme taipaleella. Marssilepo...
Subject place 1943-09-03 Luutnantti Pekka Kyytinen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-158459引用。


フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Emil Mannerheim)元帥は、ソビエト連邦を相手に1939年に冬戦争を、1941年7月から第二次世界大戦時にソ連と戦ったが、その時期にフィンランド国防軍総司令官を勤めた。

1941年1月4日にフィンランド首相となったヨハン・ウィルヘルム・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻を契機として、ソ連に攻め入った。これは、1939年の冬戦争で敗れ失った国土カレリア地方を奪還するというのが目的だったが、共産主義者の反乱を鎮圧して独立したフィンランドは、当初から共産主義ボリシェビキのソビエト連邦を警戒、仮想敵としていたから、これは、脅威となっているソ連に対する弱体化の戦争とも考えられる。

フィンランド軍の部隊略称
JR = Infantry Regiment(歩兵連隊)
Kev.Os = light detachment(軽分遣隊)
Er.P = separate battalion(独立大隊)
JP = Jaeger battalion(猟兵大隊)
KTR = Field Artillery Regiment(野砲連隊)
Rask.Psto = heavy art. battalion(重砲大隊)
Psto / #.Pr = brigade art. battalion(旅団砲大隊)
Psto = artillery battalion(山砲大隊)
KT-Pr. = Field Replacement Brigade(野戦予備大隊)
RR = Uudenmaa dragoon Reg.(竜騎兵連隊)
HRR = Häme cavalry Reg.(騎兵連隊)
PP = bicycle battalion (自転車大隊)

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、食事を作るフィンランド軍兵士たち;現地の石材を木製枠に詰めた対戦車専用障害物をテストしたのと同日の撮影なので、テストが終わった後の食事であろうか。
Lappia ja Lapin-sotaa 1943. Jänkämaiden partiomiehiämme taipaleella. Marssilepo.
Subject place 1943-09-03 Luutnantti Pekka Kyytinen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-158462引用。


フィンランドは、ソ連に奪われたカレリア地峡を奪還すると称して、1941年6月26日、「継続戦争」をはじめ、ソ連を攻撃した。そして、フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の誕生日、1942年6月4日は、ヒトラーが空路お祝いに駆けつけ、マンネルハイム元帥自身が出迎えをした。

写真(右)1943年11月8日、フィンランド、カレリア地方、スオミ KP/-31短機関銃を構えるフィンランド軍ヘイクラ軍曹;約20回の小銃射撃音があり、警戒のためにフィンランド軍の野戦警護兵たちは、入り口にあるロシア式のモシン・ナガン7.62ミリM1891小銃を手に出動、塹壕で銃を構えながら敵ソ連軍の出方を伺った。
1.11.1943 ryssän tekemä hyökkäys Tora nimistä kenttävartiota vastaan, jossa parisenkymmentä ryssää kaatui: Kersantti Heikura, joka urheasti puolusti Kv:tä pienen joukkonsa kera ja ajoi vihollisen käpälämäkeen.
Subject place 1943-11-08 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134587引用。


スオミ KP/-31短機関銃の諸元
口径 9mm、 銃身長 314mm
全長 875mm
重量 4870g
発射速度 750~900発/分
銃口初速 396m/秒
有効射程 200m
使用弾薬 9mmパラベラム弾
装弾数 20発/40発/50発(箱型弾倉)

写真(右)1943年11月8日、フィンランド、カレリア地方、半地下式警備監視哨から出動するフィンランド軍兵士;約20回の小銃射撃音があり、警戒のためにフィンランド軍の野戦警護兵たちは、入り口にあるロシア式のモシン・ナガン7.62ミリM1891小銃を手に出動する。
1.11.1943 ryssän tekemä hyökkäys Tora nimistä kenttävartiota vastaan, jossa parisenkymmentä ryssää kaatui: Hälytys kenttävartiossa....
Subject place 1943-11-08 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134580引用。


フィンランド政府は、第二次大戦へ枢軸国(ドイツ)側として参戦したのではないとの形式論を主張したが、イギリスはドイツ軍の兵力のほとんどを相手に地上戦を戦うソ連を軍事支援しており、ソ連に対する政略の上からも、フィンランドがイギリス、アメリカとは戦うつもりがないとの一方的な宣言を認めなかった。

写真(右)1943年11月8日、フィンランド、カレリア地方、半地下式の警備監視哨から出動するフィンランド軍兵士;約20回の小銃射撃音があり、警戒のためにフィンランド軍の野戦警護兵たちは、入り口にあるロシア式の7.62ミリM1891モシン・ナガン小銃を手に出動する。
1.11.1943 ryssän tekemä hyökkäys Tora nimistä kenttävartiota vastaan, jossa parisenkymmentä ryssää kaatui: Hälytys kenttävartiossa.
Subject place 1943-11-08 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134581引用。


フィンランドは、1917年ロシア革命後に独立するまで、ロシア帝国フィンランド大公国として、ロシア軍が駐留していた。そこで、独立後も、ロシア軍式の兵器が継承され、1891年にロシア帝国が制式した7.62ミリM1891モシン・ナガン小銃を、フィンランド軍も採用した。7.62ミリM1891モシン・ナガン小銃は、ロシア帝国が1914年の第一次世界大戦で大量配備し、そのままソ連赤軍に引き継がれ、1939年の第二次世界大戦でも主力小銃として大量に配備されていた。したがって、1939−1940年の冬戦争、1941−1944年の継続戦争では、フィンランド軍もソ連軍と同じ7.62ミリM1891モシン・ナガン小銃を装備しており、敵味方双方が同一の主力小銃で撃ち合ったことになる。

写真(右)1943年11月8日、フィンランド、カレリア地方、フィンランド製スオミ KP/-31短機関銃,ロシア式モシン・ナガン7.62ミリM1891小銃など塹壕で軽火器を構えて、敵ソ連軍の襲撃に備えるフィンランド軍警備兵たち;約20回の小銃射撃音があり、警戒のためにフィンランド軍の野戦警護兵たちは、入り口にあ、モシン・ナガン7.62ミリM1891小銃、スオミ KP/-31短機関銃を手に出動したが、前もって写真撮影者を配置したプロパガンダ報道写真のようだ。
1.11.1943 ryssän tekemä hyökkäys Tora nimistä kenttävartiota vastaan, jossa parisenkymmentä ryssää kaatui: Kersantti Heikura, joka urheasti puolusti Kv:tä pienen joukkonsa kera ja ajoi vihollisen käpälämäkeen.
Subject place 1943-11-08 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134585引用。


写真(右)1943年12月1日、フィンランド、カレリア地方、ルカヤルヴィ湖畔(白海まで100キロ)、300メートル先の的を射る射撃競技会に挑むフィンランド軍兵士
Kilpailu 300:n metrin radalla käynnissä Ontrosenvaaran ampumakilpailuissa 1.12.1943...
Subject place 1943-12-01 Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134912引用。


1941年6月26日にソ連侵攻「継続戦争」を指揮したフィンランド国防軍総司令官マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥だったが、戦局悪化の中、1944年8月4日、第6代フィンランド大統領に就任した。そして、1944年9月19日、ソ連と講和し、それまでの同盟国ドイツを裏切ることになった。


7.1944年、ドイツと共闘した対ソビエト継続戦争の末期

写真(右)1944年7月30日、フィンランド南東端、カレリア地峡南部、ラッペーンランタ(Lappeenranta)北東50キロ、ブオサルミ(Vuosalmi)、フィンランド軍の本部に配属された偽装されたドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.);ブオサルミ(Vuosalmi)は、ソ連と激戦となったイマトラ北西20キロに位置する。;車体前面には、ナチ党・ドイツ空軍と同様の反革命・反共産主義・反ソ連の象徴スワスチカ(swastika:ハーケンクロイツ)、フィンランド語ではハカリスティ(Hakaristi)をフィンランド軍の国籍記章として誇らしげに描いている。
Rynnäkkötykki ja sen miehistöä.
Rynnäkkötykki ja sen miehistöä. Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1944-07-30 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133718引用。


43口径7.5センチ戦車砲を48口径に強化したドイツ陸軍III号突撃砲G型(Sturmgeschütz III:StuG III)後期型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III')では、48口径7,5cm戦車砲の防楯がザウコプ(豚の頭)と言われた曲面装甲を用いて避弾径始を考慮した構造で、防御力が向上している。フィンランド極北戦線には、このザウコプ(豚の頭)式のIII号突撃砲G型後期型は見られない。III号突撃砲は終戦まで1万輌とドイツ戦車(突撃砲・駆逐戦車を含む)の中では最多生産を誇る。

写真(右)1944年7月24日、フィンランド、フィンランド国防軍の兵士にドイツ軍から携行対戦車兵器の「パンツァー・ファウスト」(装甲拳骨)が貸与された。これは、射程60−100メートルの対戦車成形弾である。;配備時期がソ連の大攻勢直後だったために、実戦前、10分間の訓練を受けただけの対戦車襲撃班が編成された。
Panssarinyrkki valmiina toimintaan.
Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1944-07-24 Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-125133引用。


フィンランド軍第13歩兵連隊第2大隊のポール・レンバル(Paul Renvall)伍長とカート・エンマン(Kurt Engman)軍曹は、実戦前、10分間の訓練を受け対戦車襲撃班となった。二人は、1944年のカレリア地峡での対ソ連戦車戦闘で名を馳せた。ポール・レンバル伍長はパンツァーシュレック(Panzerschreck)を使ってソ連戦車4両を撃破し"Tali Tigers"(タリンのトラ)と呼ばれるほど称賛された。また、カート・エンマン軍曹もパンツァーファスト(Panzerfaust)を駆使して、"Tali Horror"(タリンの恐怖)と綽名されるほど活躍をした。

1941年6月のドイツのソ連侵攻にあわせて始めた継続戦争だったが、1943年に入ると、明らかに戦局はフィンランド、ドイツに不利になってきた。ソ連に対しては、イギリス、アメリカが膨大な軍事物資を貸与しており、ソ連の生産力増強と相まって、フィンランド、ドイツは、ソ連軍の攻勢を防ぐことも困難になっていた。戦局が悪化する中で、1943年3月5日、フィンランド首相ヨハン・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は辞任し、新たにエドウィン・リンコミエスEdwin Linkomies)がフィンランド首相に就任したが、彼も、ソ連に降伏できない以上、ナチスとの同盟を堅持するしか選択肢はなかった。

⇒写真集:1944年流血の夏、継続戦争末期を詳しく見る。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機

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