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◆フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
写真(上)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機 ;フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、6月27日にソ連に攻撃をかけた。カレリア地峡にしても、フィンランド東部にしても、ソ連国境付近は、森林や湖沼地帯が広がっていたために、フィンランド軍は、多数の航空監視塔を設け、女性も含めて多数の対空監視要員を動員した。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941. Kenraaliluutnantti Oesch tarkastaa joukot Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla. Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。



写真(上)1942年6月28日、ドイツ軍の支援を受けて建造したフィンランド空軍オランダ製フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI)
;1936年3月初飛行、胴体構造は鋼管溶接骨組みに前半は金属外皮、後半は羽布張り、主翼は木製、固定脚という堅牢な設計だった。当初は、発動機は、イギリスのブリストル マーキュリー(Bristol Mercury)VI S空冷星型9気筒エンジン 645馬力で、最高速力 395 km/h、航続距離 900 km。上昇限度 9000 m、兵装 7.92ミリ機銃4丁。フィンランドでの改良型は、発動機ブリストル マーキュリー(Bristol Mercury)VIII空冷星型9気筒エンジン 830馬力、最高速力 460 km/h、航続距離 930 km、上昇限度 11,350 m、上昇時間 6,000 m/7.5分、兵装 7.7ミリヴィッカース(Vickers)機銃4丁。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Content Type?Photo Organisation Military Museum
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-13129引用。

写真(上)1944年3月、フィンランド、フィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 双発爆撃機
;段なし風防はMk. I型、段付き風防はMk.IV型である。フィンランドは、イギリス製のブレンハイム爆撃機のMk.I型もMk.IV型も購入している。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Content Type?Photo Organisation Military Museum
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-13129引用。
写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )を被写体にプロパガンダの写真・動画の撮影をする宣伝要員たち ;女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Lahdenpohja 1942.07.11.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia304引用。

1.1939年11月30日-1940年3月13日、ソ連のフィンランド侵攻「冬戦争」(talvisota)

写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド南部、ヘルシンキ西方50キロ、ポルヴォー、ソ連機の空爆を受けて破壊された建物:フィンランドはソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けたが、拒否したため、スターリンの怒りを買った。ソ連軍は1939年11月30日、フィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発したのである。
talvisodan jälkiä Porvoossa Rácz István, kuvaaja 1939–1940 .
vaaka, mustavalkoinen Content Type Image.
Subject place Porvoo Subject date 1939 - 1940.
Organisation National Board of Antiquities - Musketti.
Collection Kansatieteen kuvakokoelma István Ráczin kokoelma.
Inventory ID KK5500:26995.
Measurements 17 x 18 cm.
Photo info: 1939 - 1940 Porvoo Rácz István, kuvaaja.
写真は,Museot Finna KK5500:26995用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になったが、ソビエト連邦は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に、レニングラードの安全保障のために、ソ連領としたいとフィンランドに申し出て、その代わりに北部コラ半島のソ連領を与える領土交換を提案した。しかし、フィンランド人居住地であり、産業的にも重要だったカレリア地方のソ連割譲をフィンランドは拒否した。

第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃Aerial bombing of cities)、民間人への空襲は行われていなかった。

1)民間人への無差爆撃indiscriminate bombingはテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)戦略爆撃Strategic bombing)、民間人への空襲は行われていなかった。

は報復爆撃を招聘し大損害を被る、

このように空爆air raidを考えた各国の政治的指導者は、都市爆撃を回避していたのである。

しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。ソ連は、ポリカルポフI-16戦闘機などの迎撃体制、高射砲による防空体制を過信して、レニングラードへのフィンランド空軍による空襲を防ぐことは容易であるとの自信があったのであろう。そして、第二次大戦当初のドイツ軍によるワルシャワ空襲で戦略爆撃の有効性を認識して、開戦劈頭にヘルシンキ空襲を実施し、即座にフンランドが降伏することを期待したようだ。

写真(右)1940年、フィンランド、タンペレ、フィンランド空軍が使用したソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov )I-16戦闘機:ソ連空軍時代は主翼に20ミリ機関砲を装備していたが、樹幹中の破損あるいは弾薬の欠乏のために、フィンランド空軍では、国営工場で改造され、主翼の機関銃はイギリス式の7.7ミリブローニング(Browning)機関銃に変換された。引込み式主輪ではなく、引込み式の橇を装備しているが、これは、雪原など極北戦線用の仕様だった。旋回性能など格闘戦は苦手だったようだ。
Neuvostoliittolais-valmisteinen Polikarpov I-16 sotasaalislentokone Polikarpov I-16:ssa oli alunperin siivissä 20 mm tykit. Valtion Lentokonetehdas vaihtoi koneeseen siipiaseiksi 7,7 mm Browning-konekiväärit
Aineistotyyppi Kuva Organisaatio Museokeskus Vapriikki
Kokoelma VAR Inventaarionro VAR:10210 Kuvaustiedot: 1940-1940 Härmälä, Pyhäjärvi Tampere, Suomi.
写真は,Museot Finna HK19751014:150用。


ソ連空軍ポリカルポフI-16(И-16:Polikarpov I-16)は、ソ連パリカールパフ設計局の開発になる低翼式引込み脚の高速単葉戦闘機で、出現当初は、最先端の設計を具体化したもので、20ミリ機関砲の実用化も早かった。試作機TsKB-12は1933年12月に初飛行し、搭乗員が手動でワイヤを巻き上げる引き込み脚、単葉の高速戦闘機で、同時期のイギリス空軍グラジエーター戦闘機、日本陸軍九五式戦闘機、ドイツ空軍ハインケルHe 51戦闘機は全て複葉戦闘機だった。第二次世界大戦以前から大量配備され、ソ連空軍の主力戦闘機となった。を務めた、世界最初の実用的な引き込み脚を持った戦闘機である。

ソ連は、独立していたバルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)に対して、ソ連軍の駐留要求を突きつけ認めさせた。そこで、フィンランドに対しても同様の要求を突き付けたが、拒否された。怒ったソ連指導者ヨシフ・スターリンは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連赤軍にフィンランドを攻撃させた。このソ連による侵略行為に抵抗してフィンランドは、愛国的な冬戦争(talvisota)を闘う決意をした。

スウェーデンもノルウェーも、冬戦争で苦しんでいるフィンランドにたいして、中立を口実にして軍事援助しなかった。これは、大国ソ連との戦いを回避して国内を戦争に巻き込まないための平和政策だったが、民主主義国フィンランドを助けるために、スウェーデンから義勇兵が戦いに参加した。冬戦争で、孤立無援となり敗北したフィンランドは、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、ドイツの同盟国としてソ連に侵攻した。そして、フィンランドはソ連に奪われたカレリア地方を奪回した。

第二次世界大戦緒戦にあって、西側で都市爆撃が回避されていた理由は、
1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、
と政治的指導者が考えており、それが軍事的に容易な都市爆撃を回避させていたのであろう。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自信があったのであろうか。

写真(右)1939年、フィンランド空軍VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機:フィンランド国営航空機工場(Valtion lentokonetehdas)が開発した羽布、ジュラルミンの木金混合構造の低翼単葉複座の練習機。1939年3月29日、工場のパイロット、中尉ジョルマ・ヴィサパによって初飛行したピリは、フィンランド空軍から1941年春に40機を飛行学校用に注文した。これらはPyry IIとして制式され登録コード:PY-2からPY-41。1944年、カウハバ空軍学校が訓練を受けた最初のチームというが、実用化までかなりの期間を要した。しかし、フィンランドの航空機業界で最高の機体とされ、約700人の軍のパイロットが訓練を受け、飛行時間は56000時間以上に及んだ。
Ilmavoimat tilasi tämän lentokoneen prototyypin vuonna 1937. Sen nimeksi tuli tuli VL Pyry I ja tunnukseksi PY-1. Koneen suunnitteli Arvo Ylinen, jonka työryhmässä toimivat lentokonesuunnittelijat Martti Vainio, Torsti Verkkola ja Edward Wegelius. Lentokoneen ensilennon lensi 29. maaliskuuta 1939 tehtaan koelentäjä, luutnantti Jorma Visapää. Toukokuussa ilmavoimat tilasi 40 koulukonetta, jotka valmistuivat ripeästi jo vuoden 1941 keväällä. Ne tunnettiin tyyppinä Pyry II ja niiden tunnukset olivat PY-2 - PY-41. Ensimmäisenä joukko-osastona Pyryjä sai Ilmasotakoulu Kauhavalla vuonna 1941. Koneella koulittiin lentäjiä 20 vuoden ajan. Se oli suomalaisen lentokoneteollisuuden parhaimpia tuotteita. Sillä koulittiin noin 700 sotilaslentäjää. Lentokoneilla lennettiin yli 56000 tuntia. Pyryn kärkisakkausominaisuuksia yritettiin parantaa trapetsisiivellä. Se asennettiin ensimmäisen kerran PY-24:ään 20.3.1941. Kokeilu epäonnistui ja koneeseen vaihdettiin elliptinen siipi. Ensimmäinen uhrin vaatinut onnettomuus Pyryllä tapahtui 15.6.1941, kun PY-3 ajoi suohon Hyvinkäällä ja Sk-ups. Osmo Meriluoto sai surmansa. Uusia trapetsisiipiä kokeiltiin Pyry PY-37:ssä 7. maaliskuuta 1943. Koelentäjänä toimi kapteeni Erkki Pohjanheimo. Kone putosi Koivistonkylään lähelle Lempälään johtavaa tietä. Pyryssä oli matkustajana kapteeni Akilles Järvinen. Molemmat lentäjät saivat surmansa. Trapetsisiipiä kokeiltiin kaikkiaan neljässä Pyryssä, PY-24 (1941), PY-37 (1943), PY-32 (1943) ja PY-1 (1944) ilman menestystä. Yhden hengen miehistöllä Pyry oli hyvinkin vakaa, mutta raskaamalla kuormalla pitkittäisvakavuudessa oli ongelmia. Huhtikuussa 1943 alettiin Pyryjen moottoritelineitä pidentää, jolloin koneen painopiste muuttui ja pitkittäisvakavuus palautui. Pyryn viimeiset lennot tapahtuivat Härmälässä: 7. syyskuuta 1962 lensivät kapteeni Veikko Hietamies PY-1:llä ja yliluutnantti Keijo Elio PY-27:llä. Koneen seuraaja oli Valmet Vihuri. Vähemmän Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma HM Staf Inventaarionro HM Staf:2:1816:1 Kuvaustiedot: 1939-1939 Härmälä, Lentokonetehdas Tampere, Suomi E. M. Staf, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna HM Staf:2:1816:1用。


フィンランドは、多様な外国軍用機を輸入して、自国の空軍に配備したが、自国で開発・量産した国産機もあった。これが、VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機で国営航空機工場(Valtion lentokonetehdas)が開発した羽布、ジュラルミンの木金混合構造の低翼単葉複座の練習機である。初飛行は、第二次大戦半年前の1939年3月29日、国営工場パイロット、ジョルマ・ヴィサパ中尉が試験した。名称のピリ(VL Pyry)とは、国営航空機工場(Valtion lentokonetehdas)で開発生産したとの誇りともなった。フィンランド空軍は、冬戦争に敗北してた後、国産機・航空兵力の必要性を痛感し、1941年春にはピリ40機を飛行学校用に注文した。これらはPyry IIと呼称され、登録コードPY-2からPY-41を与えられた。

しかし、VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機の実際の運用は、継続戦争が勃発したこともあった大幅に遅れた。戦時中は、国産機を新たに開発・生産するよりも、火急速やかに戦力化できる外国軍用機の輸入が推進されたのである。そのため、ピリによる飛行訓練は、継続戦争末の1944年、カウハバ空軍学校が訓練を受けたのが最初のチームといわれ、運用は継続戦争敗戦後の時期になってしまった。つまり、実用化までかなりの期間を要したVL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機の客観的評価は、時期を失した「傑作練習機」程度でしかない。にもかかわらず、フィンランドの愛国的立場からは、フィンランド航空機業界で最高の国産機と高く評価されている。VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機によって、700人の軍のパイロットが訓練を受け、飛行時間は56000時間以上に及んだ。

スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。


写真(右)1940年3月7日、フィンランド、タンペレ飛行場、ハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたスキー式降着装置のフィンランド空軍フォッカー D-21(Fokker D.XXI ) 戦闘機
;降着装置は、オランダで開発された時点では、固定脚のゴム車輪だったが、雪原や氷結した湖沼を滑走路にする場合、スキーも有効であると考えられた。そこで、降着装置をスキーとした試験機が行われた。D-21戦闘機は、国営航空機工場でスキー付きの機体が実験的に製造された。
Fokker D.XXI suksien koekoneena Lentokonetehtaan lisenssillä valmistama D.XXI suksien koekoneena. Aineistotyyppi Kuva Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma D/944 Inventaarionro 944:2:37 Kuvaustiedot: 1940-1940 Härmälä, Lentokonetehdas Tampere, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。


オランダで開発されたフォッカー D-21(Fokker D.XXI ) 戦闘機は、固定式脚のゴム車輪で離着陸していたが、フィンランドの冬は寒く、森林の合間にある雪原や氷結した湖沼を滑走路にすることがあった。そこで、開発当初の固定車輪を固定スキーに変換することで、使用範囲が広がると考えられた。そこで、オランダから輸入し、その後ノックダウン生産も行ったフォッカーD21戦闘機の場合も、降着装置をスキーに変更した実験機が、フィンランド国営航空機工場で試作された。そして、スキー付きのフォッカーD21戦闘機が誕生し、試験の結果有効性が確認できたために、スキー付きの機体が製造されるようになった。


写真(右)1940年3月7日、フィンランド、試験的に固定式スキー降着装置を付けたフィンランド空軍ブリュスター(Brewster) 239戦闘機
;ブリュスター(Brewster) 239戦闘機は、アメリカのブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)のフィンランド名である。輸入当初、ブリュスターF2Aバッファローの引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機が開発された。これは、フィンランドが極北戦線仕様に試作したものである。
Brewster 239 -hävittäjässä kokeiltu kiinteä profiloitu suksilaskuteline . Organisation Museokeskus Vapriikki Collection VAR Inventory ID VAR:10211 Photo info: 1940-1940 Härmälä, Pyhäjärvi Tampere, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・VAR:10211引用。


アメリカ海軍は、それまでの複葉、固定脚、開放式風防の艦上戦闘機を近代化するために、1936年に単葉機、折畳み式主翼、引込み脚、密閉式風防の仕様で競争試作の要求を出した。これに対して、老舗メーカーのグラマン、セバスキーとともに新興のブリュスターがB-139(Brewster model 139)を提示し、最も優れた性能を発揮した。しかし、ブリュスターにおける新型艦上戦闘機の生産は遅れたため、グラマンの新型機F4Fワイルドキャットが制式となり、アメリカ海軍の主力艦上戦闘機となった。それでも、アメリカ軍の制式戦闘機として、F2Aはイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されて制式となった上に、第二次大戦の勃発を恐れるベルギー、オランダでもF2Aを陸上戦闘機として購入した。また、フィンランドも、ソ連との戦争に備えて、F2A戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名して部隊配備した。


写真(右)1940年3月7日、フィンランド、出撃準備中のハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたフィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機
;機首は、操縦手と爆撃手が分離した段差のある初期型で、平面ガラスで覆われているが、操縦席からの下方視界が制限されていた。そこで、後期型の機首は段差のない一体型に改良され、視界を向上させている。
Bl-129 pommituskoneen bensiinin ottoa Tikkakoskella. Bl-129 pommituskoneen bensiinin ottoa Tikkakoskella. Kyseessä Bristol Blenheim Mk. IV pommikone. Lentolaivue 46:n tukikohta oli Luonetjärvellä Tikkakoskella. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1940-03-07
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。


ブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)は、当初、高速旅客機として開発され、1935年に初飛行した。このブレニムの原型機ブリストル142は、全金属製、単葉、引込脚という近代的な構造の高速機で、ドイツのハインケルHe111に相当する機体である。そこで、ブリストル142の高性能に着目したイギリス空軍は、ブリストルにブレニム Mk. I爆撃機の開発を命じたのである。これが、ブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)双発爆撃機で、1936年から生産され、1919年9月の第二次世界大戦勃発時には、イギリス空軍の主力爆撃機として配備されていた。最終的に、5000機以上も量産されたブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)爆撃機は、イギリスドミニオンのカナダでライセンス生産されたほか、フィンランド、ユーゴスラビア、トルコでも輸入機を配備している。

フィンランド軍は、1918年にハカリスティ(Hakarist)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。これは、ドイツの第一次大戦の敗北後、ワイマール共和国時代、反革命義勇軍(フライコール:自由軍団)が用いたスワスチカと同じで、反共産主義、反革命の意味がある。

ソ連は、「冬戦争」でフィンランドに侵略行為に及んだことで、国際連盟を除名され、フィンランド軍相手に戦術的失策を犯したが、何とか勝利することができた。フィンランドは、冬戦争で領土割譲を余儀なくされた。しかし、講和後、フィンランドは、ソ連に対して領土復活のための臥薪嘗胆を覚悟し、将来、ソ連に奪われた領土を奪回する復讐戦争を、マンネルハイム元帥の下に計画、準備した。


2.1941年6月25日-1944年9月19日、フィンランドのソ連侵攻「継続戦争」(jatkosota)

フィンランドは、1941年6月22日、ドイツによる「バルバロッサ作戦」ソ連侵攻について、中立を宣言していたが、実際には、フィンランド国内にドイツ軍を駐留させ、そこからソ連に対する空襲を黙認していた。そこで、ソ連空軍の報復攻撃を受け、それを参戦の口実にして、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を、かねてからの計画通りに遂行した。つまり、冬戦争の敗北を注ぐための、対ソ連反ボリシェビキ戦争の開始であり、割譲を強要された領土奪回のための愛国的戦争の始まりである。

フィンランドは、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を始め、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、8月中にヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、奪回した。

ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツてき立場は明らかであり、レニングラードに近いフィンランド国境にフィンランド軍が集中していることも、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。実際、フィンランド領内のドイツ空軍機がソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を掣肘するとして、フィンランドの軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃だったが、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告した。

写真(右)1941年8月25日、フィンランド、カレリア地峡、ドイツ製1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)を操作するフィンランド国防軍兵士たち:ドイツの対空機関砲2 cm Flak 30は、フィンランドでは20 ItK/30 BSWと呼称した。ドイツ製1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)は、ラインメタル社で生産期間1934–1939年、総重量890 kg 全長 225 cm、銃身長 130 mm (L/65口径)、弾薬Patruuna 20 mm x 138 B、発射速度 120 発/分から280 発/分、初速 830–900 m/秒、有効射程 1200 m。後に、モーゼル社が改良して1938年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 38)を開発した。
Ilmatorjunta kk. Saksalainen 20mm. Kuvassa on saksalainen 20 mm:n ilmatorjuntatykki vuodelta 1930 (20 ItK 30 BSW). Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: 1941-08-25 Vänrikki Pentti Nikulainen, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-72757引用。


写真(右)1941年8月25日、フィンランド、カレリア地峡、ドイツ製1937年式37ミリ対空機関砲(3.7 cm Flak 37:フィンランド37 ItK / 37 RMB:Rheinmetall-Borsig)を操作するフィンランド国防軍兵士たち:ドイツの対空機関砲3.7 cm Flak 37は、フィンランドでは37 ItK / 37 RMB(ラインメタル・ボルジ)と呼称した。ラインメタル社は、2 cm Flak 30を37mm口径に増強した3.7cmFlak 18を開発したが、大量生産されるに至らず、改良型の3.7 cm Flak 37、ついで 3.7 cm Flak 43が量産された。
Saksalaisia IT-tä. Kal. 37mm. Sijoitetaan lauttoihin niiden valmistuttua. Kuvassa on 37 mm:n saksalainen ilmatorjuntakanuuna vuodelta 1937, 37 ItK/37 RMB (Rheinmetall-Borsig), saksalainen nimike 3,7 cm Flak 37.ak 37.Content Type Organisation Military Museum Photo info: 1942-07-10 Sot.virk. C.G. Rosenqvist, valokuvaaja .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-38120引用。


ドイツの対空機関砲3.7 cm Flak 37をフィンランド軍は輸入して、37 ItK / 37 RMB(ラインメタル・ボルジ)と命名して、部隊配備した。この3.7センチ対空機関砲の原型は、ラインメタル社の2 cm Flak 30で、これを同社が37mm口径に拡大して3.7cmFlak 18を開発した。しかし、この機関砲は完成度が低かったために量産されずに終わった。そこで、ラインメタル社は、改良型の3.7 cm Flak 37を開発し、次いで量産性を高めた 3.7 cm Flak 43を完成させ、大量生産に入った。

1943年式3.7センチ対空機関砲(3.7 cm Flak 43)の諸元;
重量2,000 kg
銃身長3.626 m
操作員6–7名
弾薬 37 × 263 mm
弾薬重量 623–659 g
口径37 mm (L/57口径)
発射速度150 発/分
砲口初速770–820 m/秒
有効射程4,200 m。

写真(右)1939-1941年、フィンランド・ソ連国境、カレリア地方(?)、航空監視塔の女性航空監視員たちは、双眼鏡と電話通信を担っている。:極北戦線では、天候の変化が早く、霧や雷雨も発生したために、監視員は、気温や湿度、降雨量の計測の役割もあった。悪天候のリスクを避けて飛行するためには、フィンランド空軍の隊員たちの熟練だけではなく、高空監視員たちの持ち寄った情報とその判断が重要だった。
Lotat ilmavalvontatornissa Soukan Kasavuorella Content Type Image Organisation Espoo City Museum Collection Inventory ID valokuvat 2935:8 Photo info: 1939 - 1941 .
写真は,Espoo City Museum , Museot Finna valokuvat 2935:8引用。


フィンランドは、「冬戦争」の敗北後、ソ連に対して領土復活のための復讐戦争を計画し、マンネルハイム元帥の下で、軍事力を強化した。特に、1940年に、ドイツ軍が、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、大陸を制覇すると、ドイツとソ連の対立が予期される状況になった。そこで、フィンランドは、ナチス・ドイツに接近し、ドイツとの同盟の元にソ連軍に対峙する姿勢を見せた。フィンランド軍は、10個師団以上を編成し、国民義勇軍として、女子や学徒も動員することで、総兵力50万人となった。

写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru ):極北戦線では、天候の変化が早く、霧や雷雨も発生したために、監視員は航空機だけではなく、天候の観察にも注意を払った。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Lahdenpohja 1942.07.11.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia372引用。


フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーヤーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これになじんだ人々を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に協力している。

写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )を被写体にプロパガンダの写真・動画の撮影をする宣伝要員:女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Lahdenpohja 1942.07.11.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia304引用。


写真(右)1942年頃(?)、フィンランド・ソ連国境、航空監視塔の女性航空監視員:女性航空監視員が一人は双眼鏡で飛行機を探し、もう一人は電話で通信を担っている。女性対空監視員の多数のカラー写真が、フィンランド国防軍のアーカイブに収録されている。カレリア地峡でロシア方面からのソ連敵機を見張っている。気象観測も重要な役目だった。
Ilmavalvontalotat työssään. Hökkölän säähavaintoasema ja ilmavalvonta-aluekeskuksesta Hökkölän pappilassa, Jaakkiman pitäjässä. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: undated Carl Rosenqvist, valokuvaaja .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166423引用。


フィンランドは、冬戦争で失った領土を奪回するために、愛国的戦争と見なして1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を開始した。つまり、冬戦争の続きとして、領土奪回のための継続戦争を仕掛けたのである。また、当時、ドイツは、イギリス供交戦状態にあったが、フィンランドはイギリスと戦うつもりは全くなく、イギリスの行為を得るために、ドイツ同盟国として、枢軸側に立って第二次世界大戦を戦う、ということではないとの弁明をした。あくまでも敵はソ連だけであり、これは世界戦争の一環ではなく、局地的な二国間戦争に過ぎないというのである。このようなご都合主義の参戦をイギリスは認めなかったた。フィンランドは、事実上、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。

写真(右)1942年頃(?)、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸、ヤクキマ(ジャキマ)にあるホッケラ修道院ホールにある通信中継センターで勤務する女性高空監視員:2人の女性航空監視員が無線機を操作している。壁には呼び出し富豪のようなチャートが張ってある。ヤクキマ(Яккима)は現在ロシア連邦カレリア共和国。カール・ローゼンクヴィストの撮影。。。
Lotat radiolaitteiden ääressä. Kuva todennäköisesti Jaakkiman pitäjän Hökkölän pappilassa sijainneesta ilmavalvonta-aluekeskuksesta, josta Carl Rosenqvist kuvannut useampia värikuvia.Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: undated Carl Rosenqvist, valokuvaaja .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165684引用。


1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許さなかった。「継続戦争」と称しているのは、フィンランドのみであり、これは第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いである。フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。

写真集Album:フィンランド軍の対空火器を見る。


3.フィンランド空軍の使用したフランス・オランダ・アメリカ・イギリス機

1941年、冬戦争争に敗れたフィンランドは、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされた。そこで、1941年6月にドイツによるソ連侵攻が始まった直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、「継続戦争」と称して領土奪還のために進軍を開始した。


写真(右)1941年9月27日、フィンランド南東、カレリア地峡、未舗装のルンクラ基地、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機を押して移動する地上勤務整備員たち
;操縦席の風防には、眼鏡式照準器ではなく、金属製の環状照準器が付けられている。
BW lähdössä Lunkulan kentällä. Konetyyppi Morane-Saulnier.
Organisation Military Museum
Photo info: 1941-09-17 L. Johnsson, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・.sa-kuva-52738引用。


モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機の諸元
全長:8.15m、全幅:10.71m
全高:2.84m
主翼面積:16.0平方メートル
空虚重量:1,893kg
全備重量:2,720kg
発動機:イスパノ・スイザ 12Y31V12気筒液冷エンジン(860hp)
最高速力:486km/h、巡航速力:400km/h(5,000m)
航続距離:800km
上昇限度:9,500m
上昇率:5,000mまで6分
兵装:20ミリHS.404機関砲1門、7.5ミリMAC 1934機関銃2丁

1940年6月のフランス降伏で,ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、元帥より上位の国家元帥に昇進。1940年8月以降の英国本土航空決戦は失敗に終わったが,1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では東部戦線に兵力を集中させ,奇襲に成功,大戦果を挙げた。1941年6月21日,バルバロッサ作戦開始の前日のドイツ軍東部戦線配備兵力
兵員300万人,戦車3580両,火砲7184門,車両60万台,ウマ75万頭。航空機1830機.
この時は、ドイツ空軍が奇襲攻撃によってソ連空軍機を地上で多数破壊したために、制空権下のユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機は大きな活躍をすることができた。

1941年6月21日,バルバロッサ作戦で攻撃を受けたソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。
ソ連軍は,北方には30個師団,8個機甲旅団,中部に45個師団,14個機甲旅団,南部に64個師団,14個機甲旅団を配備

ソ連空軍は白ロシア(ベラルーシ)に6000機を配置。

1939年にソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、1940年にレニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。進撃は順調に進み、フィンランド独立以来フィンランド領となったことのなかった東カレリアやオネガ湖周辺にまで領土を拡大した。こうなると、失地回復のための継続戦争とは言えないが、フィンランドは、攻撃的なソビエト連邦から国土を防衛するためには、防衛戦の前進が必要であると主張した。

フィンランド空軍では、鹵獲したソ連空軍ラグLaGG-3戦闘機のクリーモフ M-105液冷V12気筒エンジン1,100馬力に変換しM.S.406戦闘機の性能を向上させた。最高速力は時速480キロから520キロに飛行性能が向上し、「メルケ・モラーヌ」(Mörkö Morane:幽霊モラーヌ)と呼ばれた。

フランスで1935年8月8日に初飛行したモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.405の発展型がM.S.406戦闘機で、低翼単葉・引込み脚・密閉風防と近代的な戦闘機で、第二次大戦前の1938年から1,000機以上量産された。機体は、全金属製ではなく、胴体後半は金属骨格・羽布張りで軽量構造だったが、第二次世界大戦勃発時のフランス空軍の主力戦闘機だった。搭載した発動機は、イスパノ・スイザ 12Y31V12気筒液冷エンジンで、850馬力は出力不足だったが、最高速力486km/h、航続距離800km、実用上昇限度9,500m、上昇力5,000mまで6分、兵装は20ミリHS.404モーターカノン1門 7.5ミリMAC 1934機銃2丁と、出現当初は強力だった。

写真(右)1942年3月17日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機
MS-hävittäjäkone (Morane-Saulnier) Viitanan lentokentällä. Äänislinna, Viitana 1942.03.17
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


雪原の飛行場は、巨大なローラーをトラクターで引いて転圧しているので、強度もあって滑走路として使用しやすかった。舗装滑走路で完全な除雪作業をするには、膨大な労力、エネルギーが必要になる上に、敵ソ連軍からも発見されやすくなるから、雪を圧延した滑走路は、理にかなった運用だった。

1941年6月26日に始まった第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)では、ドイツ軍によってソ連軍が緒戦で大打撃を受けており、フィンランド方面に配備できるソ連軍は制限され、予備軍を充当するにも、レニングラード防衛が精いっぱいであり、ソ連軍はフィンランドに対する攻勢を仕掛けることができなかった。

写真(右)1942年3月17日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地方チクシェオゼロ飛行場、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機 :雪原の飛行場は、巨大なローラーによって圧延されている。
MS-hävittäjäkone (Morane-Saulnier) Viitanan lentokentällä. Äänislinna, Viitana 1942.03.17 Lento matalalla kentän yli ja jyrkkä nousu kentän toisessa
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランドが民主国家であり、ナチス・ドイツと同じ卍(カギ十字)を採用していたことに反感を抱く人々は、両国のカギ十字を関連性がないと強弁しているが、これは完全な誤解で、反革命のルーツは完全に共通している。そのため、フィンランドが、ソ連との継続戦争に敗れ、ソ連と講和した後の1944年10月以降、この青色の「ハカリスティ」(Hakaristi)の国籍マークは廃止されている。これをみても、青色の「ハカリスティ」(Hakaristi)は、自由・独立を象徴しても、それはボリシャビキ、共産主義に反対する意味においてであることが理解できる。

モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機は、全備重量は2,720kgと戦闘機としては軽量であるために、発動機出力860馬力はやや低出力ではあるが、最高速力は486km/h、航続距離800km、上昇力は5,000mまで6分と飛行性能は高い上に、兵装も20ミリ機関砲をモーターカノンとして搭載しており、非常に強力である。当時ドイツ空軍のBF109戦闘機E型もモーターカノンの搭載を計画していたが、実用化は次のF型が出現する1941年以降に大幅に遅れている。

モラーヌ・ソルニエ (Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機は、第二次世界大戦緒戦のフランス制式戦闘機で、1934年に初飛行して以来、開戦時にはフランス空軍に600機が配備され主力戦闘機となっていた。この他、日宇ランス空軍にはアメリカから購入したカーチス・ホーク75(P-36)が配備されているが、どちらの戦闘機も冬戦争・継続戦争でフィンランド空軍が対ソビエト連邦の戦いに実戦投入している。スイスでは、MS406をD-3801戦闘機、D-3803戦闘⒮機と改名して生産していたが、これはドイツから購入したBf109戦闘機と並んで、第二次大戦中のスイス軍主力戦闘機となっていた。21世紀になっても、コレクターがモラーヌ・ソルニエ (Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機を復元し、飛行可能な状態に保たれていた。1935年8月初飛行(原型M.S.405)のフランス、モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機を使用した国は、フランス、フィンランド、スイス、トルコで総生産数は1,176機。

写真(右)1942年6月8日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地方チクシェオゼロ飛行場を低空飛行するフィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機 :冬には雪原の飛行場も、夏には草原のような未舗装飛行場となる。
Lento matalalla kentän yli ja jyrkkä nousu kentän toisessa laidassa. Tiiksjärven lentokenttä 1943.06.08
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 130080引用。


ドイツ軍はモスクワに次ぐソ連第2大都市レニングラードを900日近く包囲し、空襲、砲撃により破壊され、包囲された人々からは死傷者100万名がでたが、レニングラードは陥落しなかった。独ソ戦の緒戦で、ソ連軍は大敗北を続けたが、その士気は衰えなかった理由は、ソビエト人の意識や大ロシア意識といったアイデンティティー、共産党・スターリンによる鉄の規律、ソ連軍兵器の優秀性、極東配備のソ連軍の西方派遣も指摘できるが、レニングラードが包囲されても抵抗し続けたことは、ソ連の人々を勇気づけ、モスクワ陥落もあり得ないとの地震を付けさせることになった。1945年、スターリンは、レニングラードに英雄都市の称号を与えた。

ドイツのメッサーシュミットBf109戦闘機に比較して、フランスのモラーヌ・ソルニエM.S.406戦闘機は、エンジン出力不足で飛行性能は劣ったが、フランスのほかに、スイス・フィンランド・トルコにも売却され、使用された。特にフィンランド空軍では実戦使用された。また、継続戦争に際しては、鹵獲したソ連空軍ラグLaGG-3戦闘機から取得したイスパノ・スイザエンジン同型クリーモフ M-105液冷V12気筒エンジン1,100馬力に変換したモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機は、最高速力520km/h、実用上昇限度10,000mと飛行性能が向上し、「メルケ・モラーヌ」(Mörkö Morane:幽霊モラーヌ)と呼ばれ、好評だった。

写真集Album: モラーヌ・ソルニエM.S.406戦闘機を見る。

写真(右)1940年6月24日、フィンランド、林の中で枝葉で対空偽装を施したフィンランド空軍第24飛行隊第2中隊所属のブリュスター(Brewster) 239戦闘機;ブリュスター(Brewster) 239戦闘機は、アメリカのブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)のフィンランド名である。ブリュスターF2Aバッファローの引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機は、実用化されず、引込み式脚の原型が、フィンランド軍で採用された。フィンランド軍の国籍標識は、白丸に青のカギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)。
Ilmasuojassa olevia koneita vartioidaan. Kyseessä 2./LeLv 24:n Brewster (BW-352) hävittäjä Selänpään kentällä.;.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1941-06-24 Kivi, Kauko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-78443引用。


フィンランドは、ソ連との戦争に備えて、アメリカ海軍の制式F2A艦上戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名した。F2A戦闘機はイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されている。

1935年アメリカ陸軍航空隊の戦闘機競争試作において、名門カーチス社は、1935年5月15日、ライトXR-1760試作空冷エンジン(900馬力)搭載の試作機モデル75を初飛行させた。その後、モデル75の発動機を後に有名となるライトXR-1820空冷星形エンジン「サイクロン」に換装、モデル75Bを開発した。しかし、セバスキーSEV-7が競争試作に勝ち、P-35戦闘機として制式されてしまう1939年11月にソ連によるフィンランド侵攻で、冬戦争が勃発したが、最前線に数百機を投入できたソ連空軍に対して、フィンランド空軍は、試作から開発した国産機は配備されておらず、全て外国からの輸入機であり、多様な機体を少数ずつ配備するしかなかった。この冬戦争初頭の主力戦闘機が、40機配備されていたオランダ製フォッカーD21戦闘機である。

写真(右)1940年6月24日、フィンランド、林の中で枝葉で対空偽装をしたフィンランド空軍第24飛行隊第2中隊所属のブリュスター(Brewster) 239戦闘機;ブリュスター(Brewster) 239戦闘機は、アメリカのブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)のフィンランド名である。ブリュスターF2Aバッファローの引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機は、実用化されず、引込み式脚の原型が、フィンランドの極北戦線で実戦使用された。
Ilmasuojassa olevia koneita vartioidaan. Kyseessä 2./LeLv 24:n Brewster (BW-352) hävittäjä Selänpään kentällä.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1941-06-24 Kivi, Kauko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-78444引用。


アメリカ海軍は、それまでの複葉、固定脚、開放式風防の艦上戦闘機を近代化するために、1936年に単葉機、折畳み式主翼、引込み脚、密閉式風防の仕様で競争試作の要求を出した。これに対して、老舗メーカーのグラマン、セバスキーとともに新興のブリュスターがB-139(Brewster model 139)を提示し、最も優れた性能を発揮した。しかし、ブリュスターにおける新型艦上戦闘機の生産は遅れたため、グラマンの新型機F4Fワイルドキャットが制式となり、アメリカ海軍の主力艦上戦闘機となった。それでも、アメリカ軍の制式戦闘機として、F2Aはイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されて制式となった上に、第二次大戦の勃発を恐れるベルギー、オランダでもF2Aを陸上戦闘機として購入した。また、フィンランドも、ソ連との戦争に備えて、F2A戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名して部隊配備した。

写真(右)1941年9月18日、フィンランド、フィンランド空軍ブリュスター(Brewster) 239戦闘機;フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、白丸に青のカギ十字を描いた。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。反革命、反ボリシェビキは、ドイツのカギ十字スワスチカと同じ語源がある。
Brewster Nurmoilan kentällä. L. Johnsson, valokuvaaja
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1941-09-18 L. Johnsson, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・VAR:10211引用。


F2A-3 Buffaloの諸元
全長Length: 26 ft 4 in (8.03 m)
全幅Wingspan: 35 ft 0 in (10.67 m)
全高Height: 12 ft 0 in (3.66 m)
主翼面積: 209 sq ft (19.4平方メートル)
空虚重量Empty weight: 4,732 lb (2,146 kg)
最大重量Max takeoff weight: 7,159 lb (3,247 kg)
発動機Powerplant: ライト(Wright)R-1820-40サイクロン(Cyclone)9気筒空冷星形エンジン 1,200 hp
最高速力Maximum speed: 321 mph (517 km/h; 279 kn)
巡航速力Cruise speed: 161 mph (259 km/h; 140 kn)
航続距離Range: 965 mi (839 nmi; 1,553 km)
実用上昇限度Service ceiling: 33,200 ft (10,100 m)
上昇率Rate of climb: 2,440 ft/min (12.4 m/秒)

写真集Album:ブリュスター(Brewster)F2A バッファロー(Buffalo)戦闘機を見る。

写真(右)1941年7月12日、フィンランドの飛行場で、胴体前部燃料タンクに給油しているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機 :操縦席左側には、出入りを容易にするように大きな開口部がある。胴体側面には、開放したコックピット側面ガラス風防が垂れ下がっている。垂れ幕のように下がっているが、これを引き揚げて、風防を密閉し、離陸、飛行する。
Bensiinitankkia täytetään. Linnus Olavi, valokuvaaja Bensiinitankkia täytetään. Tankattavana hävittäjäkone Fokker D.XXI. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1941-07-12 .
Vrt. Nils Helanderin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat Nurmoilasta 18.10.1943 (esim. 141197, 141202). Värikuvien selosteessa ajankohtana 14.-17.10.1943.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-80068引用。


フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。

当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。

写真(右)1941年9月4日、フィンランド、ミッケリ飛行場、正面から見た固定脚のフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機 :3翅プロペラが回転している。ミッケリは、フィンランド南部、南サヴォ県し、首都ヘルシンキの北西200キロ、サイマー湖の湖岸に位置している。人口は2011年で4万8,824人。
Suomalainen Fokker starttivalmiina. Mikkeli 1941.09.04.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-59017引用。


第二次世界大戦前、オランダのフォッカー D-21は1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。第二次大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカーD-21戦闘機30機を配備していたが、フィンランドも完成機7機、ノックダウン方式14機を購入しており、国営工場で21機を生産している。1939年に勃発したソ連との冬戦争では、フィンランド空軍の主力機として活躍し、「フォッケル」の愛称で呼ばれた。1941年に勃発した継続続戦争では、第一線の戦闘機ではなかったが、1944年の終戦まで使用された。

写真(右)1941年9月4日、フィンランド、ミッケリ飛行場、フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機 :左右の固定脚には、漫画の笑顔と紳士の似顔絵マーキングが描かれている。固有の3翅プロペラが回転している。左主翼には速度を計測するピトー管、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁を、右主翼には小型探照灯、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁を装備しているが、これは第二次大戦中盤以降は、火力不足だった。
Suomalainen Fokker starttivalmiina. Mikkeli 1941.09.04.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-59017引用。


フィンランド空軍が、1939年の冬戦争、1941年の継続戦争に使用したフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機は、左主翼には速度を計測するピトー管、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁を、右主翼には小型探照灯、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁を装備しているが、これは第二次大戦中盤以降は、火力不足であり、固定脚で飛行性のガ低いことも、不利だった。しかし、森林や節減を活用した秘匿飛行場の未舗装滑走路では、固定脚のほうが稼働率が良く、使いやすい機体だったようで、1944年の継続戦争末期まで、固定脚の旧式戦闘機フォッカーD21は使用され続けた。

写真(右)1941年11月1日、フィンランド北東部、カレリア地方、ムルマンスク南350キロ、ティクスヤルヴィ(Tiiksjärven)飛行場(フィンランド語)、ロシア語(チクシェオゼロ:Тикшеозеро)飛行場、フィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機 :左右の固定脚には、漫画の笑顔と紳士の似顔絵マーキングが描かれている。左主翼には速度を計測するピトー管、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁が、右主翼には小型探照灯、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁が装備されている。固有の3翅プロペラが回転している。
Hävittäjää laitetaan taistelukuntoon Tiiksin lentotukikohdassa Kapteeni E.J.Paavilainen, valokuvaaja
Hävittäjää laitetaan taistelukuntoon Tiiksin lentotukikohdassa. Mekaanikkojen sormi ei saa palella vaikka pakkasta 26 astetta. Kuvassa Fokker D.XXI. Tiiksjärven lentotukikohta
Tiiksjärven lentotukikohta 1941.11.01.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-59017引用。


冬戦争の時から、フィンランドでは、舗装した飛行場は多くはなかったが、雪原や凍った湖沼を飛行機滑走路として利用することができた。雪原の場合は、トラクターで大型圧延ローラーを牽引して、雪を圧縮し固めて滑走路とした。極北のフィンランドでは、冬季には零下10から30度と厳寒となるため、湖沼の氷結、雪の氷化によって、簡易飛行機滑走路を整備する事ができたのである。また、固定脚の飛行機も、地上安定性が良く、雪や厳寒での整備性・稼働性を維持するのに有利だったために、フォッカーD21戦闘機のような固定脚で飛行性能が少将低下しても、稼働率の高さがそれを補っていた。

写真(右)1941年11月4日、フィンランド北東部、カレリア地方、ムルマンスク南350キロ、ティクスヤルヴィ(Tiiksjärven)飛行場(フィンランド語)、ロシア語(チクシェオゼロ:Тикшеозеро)飛行場、雪原を滑走するために、車輪に代えてスキーを降着装置としたフィンランド空軍第30飛行隊第3中隊所属のフォッカー(Fokker)D-21 WASP(D.XXI.)戦闘機:降着装置を、車輪からスキーへ変換する作業。チクシェオゼロは、現在はロシア連邦カレリア共和国に属している。
Tiiksjärven lentokenttä 1941.11.04
Lähikuva hävittäjälentäjästä joka istuu
””toosassa”” valmiina lentämään.
Lentolaivue 30:n 3. lentueen Fokker D.XXI -koneita. FR lentokentän laidassa.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-104197引用。


フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機の構造は、胴体は鋼管溶接骨組み、機体前半は金属外皮、後半は羽布張りで、イギリスのホーカー・ハリケーン戦闘機と同様だった。しかし、D-21の主翼は木製で固定脚が装着されており、空気抵抗が大きく、飛行性能は高くない。しかし、整備が容易で、未舗装の滑走路での試用にも便利だったため、稼働率が高く信頼性があった。

1939年11月にソ連によるフィンランド侵攻で、冬戦争が勃発したが、最前線に数百機を投入できたソ連空軍に対して、フィンランド空軍は、試作から開発した国産機は配備されておらず、全て外国からの輸入機であり、多様な機体を少数ずつ配備するしかなかった。この冬戦争初頭の主力戦闘機が、40機配備されていたオランダ製フォッカーD21戦闘機である。


写真(上)1943年10月18日、フィンランド、ヘルシンキ東100キロ、キュメンラークソの飛行場で待機するフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機
:1941年の継続戦争勃発時には、第32飛行隊のフォッカー(Fokker) D.XXI戦闘機が、ヘルシンキとレニングラードの中間にあるキュメンラークソ地域の防衛に当たった。
Lentolaivue 32:n Fokker D.XXI -hävittäjät suojasivat jatkosodan alussa utin kentältä Kymenlaakson aluetta ja Kannaksen suuntaan keskitettäviä joukkoja. Erik Blomberg, valokuvaaja Lentolaivue 32:n Fokker D.XXI -hävittäjät suojasivat jatkosodan alussa utin kentältä Kymenlaakson aluetta ja Kannaksen suuntaan keskitettäviä joukkoja. Tiedot teoksesta Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 35. .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166337引用。


1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。

wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を忌避するために唱えられた方便か、カギ十字を好む人物の誤解に基づく思い込みである。

写真(右)1943年10月18日、フィンランド・ソ連国境、ラトガ湖東岸、レニングラード北東200キロ、カレリア地方チクシェオゼロ飛行場で待機するフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機 :1939年に勃発したソ連との冬戦争では、フィンランド空軍の主力機として活躍し、「フォッケル」の愛称で呼ばれた。1941年に勃発した継続続戦争では、第一線の戦闘機ではなかったが、1944年の終戦まで使用された。
Nurmoila, Nurmoilan lentokenttä FR-kone konekorsunsa edessä (Fokker-hävittäjä). Lentorykmentti 1. Nurmoila, Nurmoilan lentokenttä 1943.10.18.
Vrt. Nils Helanderin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat Nurmoilasta 18.10.1943 (esim. 141197, 141202). Värikuvien selosteessa ajankohtana 14.-17.10.1943.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia598引用。


第二次世界大戦前、オランダのフォッカー D-21は1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。第二次大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカーD-21戦闘機30機を配備していたが、フィンランドも完成機7機、ノックダウン方式14機を購入しており、国営工場で21機を生産している。

フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI)戦闘機を見る。

写真(右)1943年10月16日、ソ連、レニングラード北東200キロ、ラトガ湖東岸のロデイノイェ ポリェ上空、フィンランド空軍のアメリカ製カーチス・ホーク(Curtiss-Hawk)CU-580戦闘機
Cu-koneita ilmassa (Curtiss-Hawk). Lotinanpellon yläpuolella. Kuvattu FK-koneesta. Lentorykmentti 1. Lotinanpelto 1943.10.16. Cu-koneita ilmassa (Curtiss-Hawk). Lotinanpellon Niilo Helander kävi kuvaamassa lentäviä CU-koneita
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166337引用。


競争試作戦闘機にセバスキーSEV-7に敗れたとはいえ、それまでアメリカ軍の主力機を量産してきたに名門カーチスを重視していたアメリカ軍は、P-35戦闘機と同じ発動機P&W-1830空冷星形エンジンに換装したカーチスY1P-36を追加試作機として3機発注した。これが、1937年に制式されたカーチスP-36A戦闘機で、「カーチス ホーク75」と呼ばれた。P-36A戦闘機は210機の発注を受ける。兵装は、機首に12.7ミリ機関銃と7.62ミリ機関銃と当時としては強力で、アメリカでの制式を契機に、フランスも大戦勃発前にホーク75の購入を決め、イギリスではカーチス・モホーク(Mohawk)として使用された。

写真(右)1943年10月16日、ソ連、レニングラード北東200キロ、ラトガ湖東岸のロデイノイェ ポリェ、フィンランド空軍のアメリカ製カーチス・ホーク(Curtiss-Hawk)CU-580戦闘機
Cu-koneita ilmassa (Curtiss-Hawk, CU-580). Lotinanpellon yläpuolella. Kuvattu Fk-koneesta. Lentorykmentti 1. Lotinanpelto 1943.10.16.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166337引用。


カーチス(Curtiss)ホーク(Hawk)75 A 戦闘機の諸元
全長Length: 28 ft 6 in (8.69 m)
全幅Wingspan: 37 ft 4 in (11.38 m)
全高Height: 8 ft 5 in (2.57 m)
主翼面積: 235.94 sq ft (21.92 平方メートル)
空虚重量Empty weight: 4,567 lb (2,072 kg)
総重量Gross weight: 5,650 lb (2,563 kg)
離昇最大重量Max takeoff weight: 6,010 lb (2,726 kg)
発動機Powerplant: プラット・アンド・ホイットニー( Pratt & Whitney) R-1830-17 ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン 1,050 hp (780 kW)
最高速力Maximum speed: 313 mph (504 km/h, 272 kn)
巡航速力Cruise speed: 270 mph (430 km/h, 230 kn)
航続距離Range: 625 mi (1,006 km, 543 nmi) /270 mph (230 kn; 430 km/h)
860 mi (750 nmi; 1,380 km) at 200 mph (170 kn; 320 km/h)
実用上昇限度Service ceiling: 32,700 ft (10,000 m)
上昇率Rate of climb: 3,400 ft/min (17 m/s)
兵装Armament:1 × 0.30 in (7.62 mm) M1919 ブローニング(Browning)機関銃、 1 × 0.50 in (12.7 mm) M2 ブローニング(Browning)機関銃

写真(右)1943年頃、フィンランド空軍のアメリカ製カーティスホーク75A(Curtiss-Hawk)戦闘機 :1939年11月にソ連によるフィンランド侵攻で、冬戦争が勃発したが、最前線に数百機を投入できたソ連空軍に対して、フィンランド空軍は、試作から開発した国産機は配備されておらず、全て外国からの輸入機であり、多様な機体を少数ずつ配備するしかなかった。この冬戦争初頭の主力戦闘機が、40機配備されていたオランダ製フォッカーD21戦闘機である。
Kuvasarja ``Neljän lentäjän arkipäivä ́ ́. Kone Curtiss Hawk 75A. Lentolaivue 32.
Organisaatio Sotamuseo.
Kuvaustiedot: ajoittamaton V. Willebrand, valokuvaaja .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-64228引用。


カーチス社モデル75Lは、アメリカ陸軍航空隊から210機の発注を受けた。このうち180機はカーティス(Curtiss) P-36A追撃機で、発動機にプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830-13ツインワスプ(Twin Wasp)空冷二重星型14気筒エンジン(離昇出力1,050馬力)を搭載し、兵装は機首上面左右にブローニングの12.7mm機関銃と7.62mm機関銃各1挺を装備した。

カーチス(Curtiss)ホーク(Hawk)75 A 戦闘機を見る。


写真(右)1941年9月4日、フィンランド、フィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 爆撃機前期Mk.I型と見送る地上勤務整備員をドイツ軍の宣伝部PK隊員が写真撮影している。
ブレンハイムの機首上面の出入り口から搭乗員が身を乗り出している。ブレンハイム前期Mk.I型は、段差のない一体型で、平面ガラスで覆われているために、視界に歪がなく、良好な視界を確保できた。段付き風防はMk.IV型である。
Saksalainen TK-kuvaaja Bankhardt työssä.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1941-09-14 Blomberg, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-58497引用。


イギリス製のブリストル・ブレンハイム (Bristol Blenheim) 爆撃機は、機首段なし風防はMk.I型、機首段付き風防はMk.IV型であるが、フィンランド空軍はMk.I型とMk.IV型の双方を購入し装備している。

機首は段差のない一体型で、平面ガラスで覆われているために、視界に歪がなく、良好な視界を確保できた。段付き風防はMk.IV型である。イギリス製のブレンハイム (Bristol Blenheim) 爆撃機の段なし風防はMk.I型、段付き風防Mk.IV型の双方をフィンランド空軍は購入し装備した。


写真(右)1941年9月4日、フィンランド、フィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機の飛行服を着た搭乗員にパラシュート(落下傘)を取り付けている地上勤務整備員をドイツ軍の宣伝部PK隊員が写真撮影した。
ブレンハイムの胴体後部・垂直尾翼・水平尾翼が見える。
Saksalainen auttamassa varjoa suomalaisen selkään..
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1941-09-14 Blomberg, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-58487引用。



写真(右)1942年9月4日、フィンランド、フィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機を背景にしたドイツ空軍兵士(左)とフィンランド空軍兵士
;後方にはブレンハイムの後上方動力銃座の7.7mmブローニング機関銃が見える。胴体には、フィンランド軍の国籍標識の青のハカリスティ(スワスチカ)、すなわちナチ党同様のカギ十字が見える。
Kapteeni Kokko ja saksalainen ohjaaja. Taustalla Bristol Blenheim.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1942-09-04 Sot.virk. Olavi Linnus, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35691引用。


ブリストル ブレンハイム(Bristol Blenheim)は、当初、高速旅客機として開発され、1935年に初飛行した。このブレニムの原型機ブリストル142は、全金属製、単葉、引込脚という近代的な構造の高速機で、ドイツのハインケルHe111に相当する。ブリストル142の高性能に着目したイギリス空軍は、ブリストルにブレンハイム Mk. I爆撃機の開発を命じたのである。これが、ブリストル ブレンハイム(Bristol Blenheim)双発爆撃機で、1936年から生産され、1919年9月の第二次世界大戦勃発時には、イギリス空軍の主力爆撃機として配備されていた。最終的に、5000機以上も量産されたブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)爆撃機は、イギリスドミニオンのカナダでライセンス生産されたほか、フィンランド、ユーゴスラビア、トルコでも輸入している。

第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィリピン語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ロシア感情からか、小国・民主主義国フィンランドへの同情からか、フィンランド側の言う「継続戦争」の呼称を多用している。


写真(上)1944年3月28-31日,フィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 双発爆撃機(Bl-koneen)Mk.I型
;イギリス製のブレンハイム (Bristol Blenheim) 爆撃機の段なし風防はMk.I型、段付き風防Mk.IV型の双方をフィンランド空軍は購入し装備した。;
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Content Type Photo Organisation Military Museum
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-13129引用.

写真(右)1944年3月28-31日,フィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 双発爆撃機Mk.I型。フィンランドではBl-koneenと称した。:1939-1940年の冬戦争でも使用されたブレンハイム (Bristol Blenheim) 双発爆撃機は、1944年段階では飛行性能が低い旧式機に成り下がっていたが、信頼性が高く、使い慣れていた機体だったため、フィンランド空軍は継続戦争末期の戦局が悪化した時期でも使用していた。
Bl-koneen (Bristol Blenheim) tankkaaminen. Täydennyslentolaivue 17. Kuvattu ajalla 28.-31.3.1944. Tikkakoski, Luonetjärvi 1944.03.00
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive, PictionID:38235670 引用。


フィンランドは、1939年に、バルト三国同様、ソ連から駐留軍の要求、領土の交換・割譲の要求を受けていたが、それを拒否したために、1939年11月30日、ソ連軍がフィンランドに侵攻した。これが、ソビエト連邦対フィンランド共和国の第1次ソ芬戦争(冬戦争)である。冬戦争の際にイギリス・フランスの市民は、フィンランドに同情したが、ドイツとの戦争が始まっている以上、両国指導者として、新たにソ連を敵としての戦いは、戦略的にはあり得なかった。幸いにも、フィンランドの隣国スウェーデンもノルウェーも、連合国の軍隊通貨の要求を拒否して中立を宣言していたから、連合国もそれを口実に冬戦争には不介入の立場をとった。また、当時のドイツは、独ソ不可侵条約により、西側のイギリス・フランスとだけ戦争を始め、東側のソ連とは静謐を保とうとしており、やはりフィンランドに対する軍事支援は行わなかった。つまり、フィンランドは、国際的に孤立し、大国ソ連の軍事力に力戦奮闘するしか選択の道は残されていなかった。

愛国的な「冬戦争」では、フィンランドは善戦したが、これはソ連赤軍の指揮系統の柔軟性がなく戦術的な失敗を繰り返したこと、ソ連赤軍の兵士の士気が低いこと、ソ連製の兵器が時代遅れで旧式なものだったこと、が原因とされた。たしかに、フィンランドは、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で敗北し、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島の港湾をソ連租借地とするなど、領土割譲要求をのまざるを得なかったが、ドイツも連合国もソ連軍が弱体であるとの認識を確認するに至った。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したのではあるが、それは、ソ連軍が弱かったからであると考えられた。

写真(右)1944年3月、フィンランド、フィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 双発爆撃機である。 ;イギリス製のブレンハイム (Bristol Blenheim) 爆撃機の段なし風防はMk.I型、段付き風防Mk.IV型の双方をフィンランド空軍は購入し装備した。
Bl-kone (Bristol Blenheim) laskeutuu Luonetjärven lentokentälle. Täydennyslentolaivue 17. Kuvattu ajalla 28.-31.3.1944. Tikkakoski, Luonetjärvi 1944.03.00
写真はThe Finnish Defence Forces・JSdia057引用。


ブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)は、全金属製、単葉、引込脚で、1936年当時は最先端の構造であり、爆撃機として旧式化した後でも、重戦闘機型、夜間戦闘機型、偵察機型が活動し続けている。第二次世界大戦緒戦、1940年にドイツ本土空襲を実施したほか、1942年5月22日、ビルマ南部アキャブ飛行場を空襲したブリストル ブレニムは、第64戦隊長加藤建夫中佐の一式戦「隼」をベンガル湾上で撃墜している。


写真(上)1944年3月28-31日、フィンランド南中央部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)飛行場(氷結したルオネ湖)、フィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機
;1944年当時は、氷結した湖沼をも滑走路として使用していたようだ。ニロ・ヘランダー撮影。
Bl-kone starttaa (keskiraskas pommikone) Niilo Helander, valokuvaaja Bl-koneita (Bristol Blenheim) Luonetjärven kentällä. Täydennyslentolaivue 17. Kuvattu ajalla 28.-31.3.1944. Tiedot värikuvien selosteesta.
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-166048引用。


スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。


写真(右)1943年12月11日、フィンランド、出撃準備中のフィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機の胴体爆弾倉への爆弾搭載作業
;エンジンカウリングに引き込む降着装置は、ゴム車輪の一部が露出する構造になっている。機首は段差のない一体型で、平面ガラスで覆われているために、視界に歪がなく、良好な視界を確保できた。爆弾層は、大戦初期の設計のため、小型爆弾を多数搭載できるような仕切りのある構造になっていたようだ。ニロ・ヘランダー撮影。
Pommeja siirretään koneeseen (BL) Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Pommeja siirretään koneeseen (BL). Kesäkuu 1944
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-1121139引用。



写真(右)1943年12月11日、フィンランド、出撃準備中のフィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機の胴体爆弾倉への爆弾搭載作業
;手前の黒いオーバーオールを着ている2人も、地上勤務整備員のようだ。段差のない平面ガラスで覆われているコックピットは、視界が良い。爆弾層は、大戦初期の設計のため、小型爆弾を多数搭載できるような仕切りのある構造になっていたようだ。ニロ・ヘランダー撮影。
Pommeja siirretään koneeseen (BL) Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Pommeja siirretään koneeseen (BL). Kesäkuu 1944
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-1211409引用。


3年2カ月に及ぶ第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)は、北限の死闘であり、雪・氷・霧による航空兵力・軌道兵力の使用が制限され、少数劣勢のフィンランド軍は、大群のソ連軍を相手に善戦できた。気象条件・地形が、大兵力の展開や機動戦を困難にしていたため、フィンランド軍にとって、兵士一人一人の能力を活かせる状況が生まれた。日米戦争で言えば、アリューシャン列島・樺太(サハリン)など北方戦線は、1943年5月のアッツ島攻防戦を除いて、1945年8月まで静謐だったことが思い出される。


写真(右)1943年12月11日、フィンランド、出撃準備中のフィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機初期型の燃料搭載作業
;胴体爆弾倉への爆弾搭載作業も同時に実施している。ブレンハイム爆撃機の初期型の機首構造は、操縦席と爆撃手席が分離している段差のあるガラス風防だった。そのために、操縦手の下方視界が制限されたために、後期型の機首は段差のない平面ガラスで覆われている一体型コックピットに改良され、視界が向上した。ドイツ空軍のハインケルHe111爆撃機やドルニエDo217爆撃機でも、初期型は段差のある機首ガラス風防だったが、後期型は一体型ガラス風防に変更されている。爆弾層は、大戦初期の設計のため、小型爆弾を多数搭載できるような仕切りのある構造になっていたようだ。ニロ・ヘランダー撮影。
Pommituskoneitamme valmistautuu sotalennolle (BL) Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Pommituskoneitamme valmistautuu sotalennolle (BL). Kesäkuu 1944.
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-1211409引用。



写真(右)1943年12月11日、フィンランド、出撃準備中のフィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機初期型へ乗り込む搭乗員たち
;機体後方には、動力旋回機銃があり7.7mmブローニング機関銃が搭載されている。ブレンハイム爆撃機の初期型の機首構造は、操縦席と爆撃手席が分離している段差のあるガラス風防だった。そのために、操縦手の下方視界が制限されたために、後期型の機首は段差のない平面ガラスで覆われている一体型コックピットに改良され、視界が向上した。ドイツ空軍のハインケルHe111爆撃機やドルニエDo217爆撃機でも、初期型は段差のある機首ガラス風防だったが、後期型は一体型ガラス風防に変更されている。爆弾層は、大戦初期の設計のため、小型爆弾を多数搭載できるような仕切りのある構造になっていたようだ。ニロ・ヘランダー撮影。
Pommituskoneitamme valmistautuu sotalennolle (BL) Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Pommituskoneitamme valmistautuu sotalennolle (BL). Kesäkuu 1944.
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-121137引用。


ブリストル・ブレニム(Bristol Blenheim)爆撃機を見る。


4.継続戦争でフィンランド空軍と戦ったソ連空軍機

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

写真(右):1939年11月30日-1940年3月13日、第二次世界大戦勃発後に起きた冬戦争で、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機をフィンランド軍がトラアックに乗せて回収している。:鹵獲したポリカルポフ I-16を修理して、フィンランド軍用に再使用したり、復元する部品パーツの回収に利用した。
Tuntematon, Valokuvaaja 1939 Kuorma-auto, jonka kyydissä rikkoontunut venäläinen hävittäjä Polikarpov I-16. Lentokone on mahdollisesti sotasaalis. Kuva on otettu talvisodan aikaan. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Lapin maakuntamuseo Inventaarionro 390:22 Kuvaustiedot 1939-11-30/1940-03-13 Suomi Tuntematon, Valokuvaaja.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

Polikarpov I-16 第二次世界大戦以前から大量配備され、ソ連空軍の主力戦闘機となったポリカルポフI-16(И-16:Polikarpov I-16)は、世界最初の実用的な引き込み脚を持った戦闘機である。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:対空偽装のために樹木の枝を機体の上に置いて姿を隠している。フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

ソ連空軍ポリカルポフ I-15戦闘機は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻の当日、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。
対空偽装のためにポリカルポフ Polikarpov I-153bis戦闘機の上に樹木が置かれている。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側につけている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20618引用。

ソ連空軍ポリカルポフ Polikarpov I-153bis戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾
ShKASShpitalny-Komaritski Aviatsionny Skorostrelny)とは「シュピタリヌイ・コマリツキー航空速射機関銃」ロシア語のШКАС(Шпитальный-Комарицкий Авиационный Скорострельный)の略称である。

写真(右):1942年6月12日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻1年後、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。もとは、複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
Kuva moottoritorpedovenelaivueen toiminnasta, syvyyspommin pudottamisesta, yhteistoiminnasta lentokoneiden kanssa jne. Suomenlahti 1942.06.16
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:91680引用。



写真集Album:ポリカルポフ(Polikarpov)I-153複葉戦闘機 を見る。

写真(右)1941年9月8日、フィンランド軍に鹵獲されたソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機(UTI-4):樹木で隠蔽偽装された掩体壕に待機している。
Vänrikki J.Korpivaara, valokuvaaja Syvärin rannalla olevalta lentokentältä sotasaaliiksi saatu täysin kunnossa oleva ryssien hävittäjä metsän keskellä naamioituna. Kuvan lentokone on Polikarpov I-16 tyyppi 15 (UTI-4). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1941-09-08
写真は,Museot Finna M44:DKMDKKV2017002:108用。


ソ連空軍ポリカルポフI-16(И-16:Polikarpov I-16)は、ソ連パリカールパフ設計局の開発になる低翼式引込み脚の高速単葉戦闘機で、出現当初は、最先端の設計を具体化したもので、20ミリ機関砲の実用化も早かった。試作機TsKB-12は,1933年12月に初飛行し、搭乗員が手動でワイヤを巻き上げる引き込み脚、単葉の高速戦闘機で、同時期のイギリス空軍グラジエーター戦闘機、日本陸軍九五式戦闘機、ドイツ空軍ハインケルHe 51戦闘機は全て複葉戦闘機だった。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:中国空軍にのソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は1937年11月、日中戦争の華中上空の航空戦に参戦している。
フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:全金属製の主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66678引用。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。ポリカルポフ I-16は、1937年の日中戦争で中国空軍が使用し、日本海軍の九六式戦闘機と戦い、1939年のノモンハン事件ではソ連空軍が使用し、日本陸軍の九七式戦闘機と戦った。格闘性能では劣ったが、高速を活かして善戦したようだ。

Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66679引用。


ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機が搭載したエンジンは、アメリカのライト R-1820サイクロン(Cyclone)をコピーしたもので信頼性が高かった。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66680引用。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

1930年代後半、ソ連空軍戦闘機の主力戦闘機となったポリカルポフ I-16戦闘機は、1936年のスペイン内戦に共和国軍への軍事援助のために派遣され、ファシスト軍のドイツやイタリアの軍用機と空中戦を行った。そして、1937年の日中戦争にも、中国国民政府に派遣され、中国空軍戦闘機として、日本軍との戦った。特に、第二次上海事件に際して、江南上空で、新型の九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機、渡洋爆撃で喧伝された九六式陸攻など日本海軍機を攻撃して戦果を挙げた。

写真(右)1942年3月28日に鹵獲され、1942年8月1日に3 / LeLv 6に引き渡されたフィンランド軍に鹵獲されたソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機:この機体は、バルト海のフィンランド湾内、スールサーリ(Suursaari)島でフィンランド軍が鹵獲し、1942年3月28日に運び出され、1942年8月1日に第6飛行隊第3中隊(3 / LeLv 6:No. 6 Squadron)に引き渡され。機体の胴体横に登録コード:IR-101と描かれている。写真の下にある「Here Pyry」とは画像の飛行機の名称。フィンランド国営飛行機工場が製造したピリ"Pyry"ではなく、ソビエトのポリカルポフ(Polikarpov)社が製造した I-16戦闘機。この機体は、フィンランド語のスールサーリ(Suursaari)は、「大島」の意味で、ロシア語ではゴーグラント島(огланд)、スウェーデン語でフーグランド(Hogland)で「高地」の意味。現在はロシア領でレニングラード州に属する。レニングラード(サンクトペテルブルク)からは西に180km、フィンランドの海岸からは35kmに位置、島面積21k平方キロ、最高海抜176m。
Myllylä Ari, reprokuvaaja Lahden kaupunginmuseo
tunnistamaton lentäjä koneineen, ulkokuva, talvikuva, lentokone, kuvateksti: Asikkalan Suojeluskuntaa koskevan kuvakeräyksen satoa, henkilöitä ja konetta ei tunnistettu. Lentokoneen kyljessä tunnus: IR-101 Kuvan alareunassa lukee "Tässä Pyry"... kuvan lentokone ei ole Valtion Lentokonetehtaan rakentama "Pyry" vaan Neuvostoliittolainen Polikarpov I-16 (= i-16), lempinimeltään Rata (= rotta naapurimaan kielellä). Kone saatiin sotasaaliiksi 28.3.1942 Suursaaresta ja luovutettiin
Organisaatio Lahden kaupunginmuseo Kokoelma
Danielson-Kalmarin museo Danielson Kalmari huvilan kuva-arkisto Inventaarionro DKMDKKV2017002:108
Mitat 24 x 18 cm Merkinnät Tyyppi: merkintä (Merkinnän tyyppi) Tekniikka: käsinkirjoitus (Merkinnän tekniikka) Sijainti: Kuvapuolen alareunassa keskellä. (Merkinnän sijainti) Sisältö: Tässä Pyry. (Merkinnän sisältö) 3/LeLv 6:lle 1.8.1942 (asiakkaan viesti Finnnaan 12.11.2017).
写真は,Museot Finna M44:DKMDKKV2017002:108用。


写真(右)1941年8月24日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランドの装備したドイツ製ハインケル(Heinkel)HE 115 A水上偵察機、輸入したフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機 (MS-302)、鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-16戦闘機 (IR-101), ;1935年8月8日初飛行のモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機は、前作MS405改良型で、1938年から量産された。それ以前の複葉・開放型風防・固定脚の旧式戦闘機を刷新し、低翼単葉・引き込み脚・密閉風防を採用して、戦前のフランス空軍の主力戦闘機となった。全長:8.15m、全幅:10.71m、全高:2.84m、主翼面積:16.0平方メートル、空虚重量:1,893kg、全備重量:2,720kg、発動機:イスパノ・スイザ 12Y31液冷V型12気筒(860hp)、最高速力:486km/h、実用上昇限度:9,500m、上昇率:5,000m/6分、兵装:20ミリ機関砲1門、7.5ミリ機銃2丁。 フィンランド軍は、このほかアメリカ製バッファロー戦闘機、オランダ製フォッカー戦闘機など世界各国の軍用機を使用したが。
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Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Lentokonetehdas. Etummaisena Polikarpov I-16 (tunnus IR-101), sitten Morane-Saulnier M.S.406 (tunnus MS-302) ja viimeisenä Heinkel He 115 A (tunnus HE-115).
写真は Finna.fl : Identifier:sa-kuva-61929引用。


写真(右):1939年11月30日-1940年3月13日、第二次世界大戦勃発後に起きた冬戦争で、フィンランド軍が使用した鹵獲したソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。後方は、ハインケルHe115水上偵察爆撃機。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Lentokonetehdas. Polikarpov I-16:sta käynnistetään käynnistysautolla. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kartto - Peronkoski, valokuvaaja.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-9796引用。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機が搭載したエンジンは、アメリカのライト R-1820サイクロン(Cyclone)をコピーしたもので信頼性が高かった。

写真(右):1939年11月30日-1940年3月13日、第二次世界大戦勃発後に起きた冬戦争で、フィンランド軍が使用した鹵獲したソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:中国空軍にのソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は1937年11月、日中戦争の華中上空の航空戦に参戦している。後方は、ハインケルHe115水上偵察爆撃機。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kartto - Peronkoski, valokuvaaja.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-9797引用。

1930年代後半、ソ連空軍戦闘機の主力戦闘機となったポリカルポフ I-16戦闘機は、1936年のスペイン内戦に共和国軍への軍事援助のために派遣され、ファシスト軍のドイツやイタリアの軍用機と空中戦を行った。そして、1937年の日中戦争にも、中国国民政府に派遣され、中国空軍戦闘機として、日本軍との戦った。特に、第二次上海事件に際して、江南上空で、新型の九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機、渡洋爆撃で喧伝された九六式陸攻など日本海軍機を攻撃して戦果を挙げた。

wikipediaでは、ポリカルポフ I-16戦闘機「いずれの戦闘でも敵方により新しい高性能の戦闘機が現れたことで、不運にもある意味で「やられ役」を演じることとなってしまった」との感想があるが、これは初めての実戦投入1936年から5年以上も経過してからの第二次世界大戦の中盤の時期の出来事であことを忘れている。1943年には、ソ連空軍は、ラボーチキン、ミグ、ヤクの各新鋭戦闘機を前線に配備している。

写真集Album:ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機 を見る。

写真(右):1942年2月24日、強行着陸をし破損したソ連空軍のラグ(ラボーチキン・ゴルブーノフ・グードゥコフ)LaGG-3戦闘機(Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3)を応急修理し、フィンランド本国の航空機工場に輸送し、飛行可能な状態に整備する。:ラヴォーチキン(Лавочкин)、ゴルブーノフ(Горбунов)、グードゥコフ(Гудков)の三人の設計者に因み、ラグと簡易化される場合が多い。原型は1939年3月30日に初飛行した木製機のLaGG-1戦闘機で、この発動機を高出力に強化し、1941年に登場したのがラグLaGG-3戦闘機である。
Pakkolaskun tehnyttä ryssän hävittäjää pakataan korjattavaksi lähettämistä varten. Lentokone on Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3.
Organisation Military Museum
Photo info: 1942-02-24 Sot.virk. Viljo Pietinen, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-10591用。


ソ連空軍では、ラボーチキン(Лавочкин)、ゴルブーノフ(Горбунов)、グードゥコフ(Гудков)の三人の設計者が主導して、1939年3月30日にラグLaGG-1戦闘機を初飛行させた。そして、LaGG-1発動機の馬力を強化して、強度を高めた改良型が1941年に開発されたラグLaGG-3戦闘機である。

フィンランド軍は、不時着したラグLaGG-3戦闘機を本国の向上に運んで修理、整備して飛行可能な状態に戻し、部隊配備した。これが3機のラグLaGG-3戦闘機で、フィンランド空軍ではLG-1, LG-2 ,LG-3と固有名称を付けた。高速だが、飛行安定性が良くないために、フィンランド空軍は、LaGG-3戦闘機を緊急迎撃機として待機させていた。

写真(右):1942年3月7日、カレリア地峡、ラトガ湖西岸、ヌルモラ(Nurmoila)の森の雪原に不時着したソ連空軍のラグ(ラボーチキン・ゴルブーノフ・グードゥコフ)LaGG-3戦闘機(Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3):空中戦闘で被弾して雪原に不時着したが、破損の程度は少なく、回収、修理、再使用された機体と思われる。カレリア地峡、ラトガ湖西岸、ヌルモラ(Nurmoila)は、現在、ロシア連邦(Ну́рмолицы;Nurmolitsy;)カレリア共和国(Республика Карелия)に位置する。
Ilmatorjunnan pudottama ryssän hävittäjä Nurmoilan metsässä. Kone oli melko hyvässä kunnossa. Lentokone on Lavotskin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3..
Organisation Military Museum
Photo info: 1942-03-07 Vänrikki K. Borg, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-10591用。


写真(右):1944年7月9日、新たにフィンランド空軍に配備されたソ連製のラグ(ラボーチキン・ゴルブーノフ・グードゥコフ)LaGG-3戦闘機(Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3):フィンランド空軍にが鹵獲した破損したラグLaGG-3戦闘機を回収し、飛行可能な状態に修理・再整備してして部隊配備した。つまり、ソ連軍と同じ機種で敵対する状況が生まれた。ラグLaGG-3戦闘機である。
Ryssäläinen Lag-3 hävittäjä palvelemassa meikäläisiä uuden isäntänsä kanssa. Alkuperäisestä kuvatekstistä poiketen kuvassa Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-07-09 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-141152用。


ソ連製ラグ(ラボーチキン・ゴルブーノフ・グードゥコフ)LaGG-3戦闘機の諸元
全幅:9.80m、全長:8.90m
全高:2.57m、翼面積:17.50平方メートル
空虚重量:2,620kg、全備重量:3,300kg
発動機:クリーモフ M-105PFV型12気筒液冷エンジン(1,180馬力)
最高速力:560km/h
航続距離:650km
実用上昇限度:9,600m
乗員:1名
兵装:ShVAK 20ミリ機関銃1丁、UB12.7ミリ機関銃2丁
RS-82 ロケット弾6発

写真(右):ソ連空軍の迷彩塗装を施したツポレフSB-2爆撃機:ソ連は1930年代から引込み式降着装置の付いた戦闘機、爆撃機を使用していたが、当時は、固定脚の戦闘機、爆撃機も普通だった。ソ連が中国に有償譲渡した新鋭機は、日中戦争で日本陸海軍航空隊と戦った。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45937758 - Catalog:16_007153 - Title:Tupolev SB-2 - Filename:16_007153.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation

1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)が締結されたが、この背景は、第一に、中国国民党の蒋介石が国共合作、一致抗日を認めたことである。中国共産党軍(紅軍)を国民党の国民革命軍に編入し、抗日戦争を戦うことは、ソ連にも有利だった。第二の理由は、ソ連にとって、極東における日本の軍事的脅威を緩和し、ヨーロッパ方面に軍事力を集中するには、日中戦争を戦う中国の軍事力増強が有利だったことである。

ソ連が、1937年の日中戦争勃発に際して、日本に対する軍事的圧力を高めなかったのは、アジア・旭東方面よりも、ヨーロッパ方面を重視していた地政学的配慮のためであろう。日本の国力では、中国一国を降伏させることはできないと、スターリンは日本の中国侵略が、ソ連の安全保障に有利に作用することを見抜いていた。そこで、1939年の第二次大戦勃発で、バルト三国、フィンランドに対する軍事的圧力をかけ、ソ連の西部国境をさらに西に進めるような侵略的防衛行為を推し進めた。

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141380引用。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出撃数1000回の生還記念の花輪を地上勤務整備員からもらったクルー。1941年夏頃に鹵獲したと思われるソ連機を2年以上も使い続け、その結果、1000回出撃となった。出撃回数を使用期間で割れば、1日1回から2回は出撃したことが分かる。天候が急変しやすい極北の地での戦いは、精密なレーダー航法が困難だった時代、目標を見失い、不時着を余儀なくされることも珍しくなかった。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141387引用。

1937年の遅くには、共産主義国ソ連から中国空軍に軍用機が供与された。中国軍は、ソ連空軍の制式だったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)など、当時の最新鋭機を手に入れることができた。このようなポリカルポフ I-16戦闘機、ツポレフ SB(エスベー)2爆撃機は、フィンランドとソ連が戦った1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でもソ連空軍の主力機となっていた。したがって、フィンランド空軍がイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、ドイツから輸入した戦闘機、爆撃機、水上機などは、敵対するソ連空軍の軍用機と、当初は同等以上の性能を誇っていたのであって、飛行性能の良さと搭乗員の熟練度、天候・敵の動向に対する偵察能力の高さが、フィンランド空軍数的不利を補って余りあった。


写真(右)1944年6月2日、フィンランド、ソ連空軍から鹵獲してフィンランド空軍が使用したツポレフ(Tupolev)SB-2双発爆撃機の後方動力銃座に7.62ミリShKAS旋回機関銃1丁を装備
;SB-2双発爆撃機はソ連製の高速機で、1939年の日ソのノモンハン事件にも参戦しているほか、中華民国空軍にも貸与されている。
Teoksessa Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 161: SB-2 pommikoneen taka-ampumo 2.6.1944.
写真はThe Finnish Defence Forces・JSdia057引用。


写真(右)1944年6月2日、フィンランド、ソ連空軍から鹵獲してフィンランド空軍が使用したツポレフ(Tupolev)SB-2双発爆撃機のコックピット操縦席;手前はU字型のSB-2双発爆撃機の操縦桿。
Neuvostoliittolaisvalmisteisen Tupolev SB-2 pommikoneen tähystäjä, 2/PleLv 6:n päällikkö, kapteeni Veikko Härmälä sukellusveneiden etsintälennolla Suomenlahdella ennen suurhyökkäystä kesällä 1944 (vrt. JSdia 211). 1944.00.00
写真はThe Finnish Defence Forces・JSdia057引用。


中国(中華民国)の空軍は、アメリカから輸入機と軍事・技術顧問を雇い入れてスタートしたが、国共合作(国民党と中国共産党との共闘)がなり、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)以降は、共産主義国ソ連から、全金属製・単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機を輸入して、空軍力を増強した。これは、国境を接する陸路あるいは黒によるものであり、アメリカから船積みした軍用機を日本の封鎖を突破しながら輸入するよりも迅速に行われた様だ。


5.フィンランド空軍で患者輸送に使用されたユンカース(Junkers) K 43 fa水上機

写真(右)1941年9月6日,フィンランド中西部、ヘルシンキ=ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、負傷兵の後方空輸に任務にあたったフィンランド空軍のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機(登録コード:JU-127)の搭乗員と現地のフィンランド国防軍兵士。:コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備している。
Kornetti Hämäläisen kaukopartio lähdössä Tiiksjärvellä. Kuvan vesilentokone sotilaisjoukon takana on Junkers K 43 fa (tunnus JU-127).
Aineistotyyppi ?Valokuva Kuvaustiedot: 1941-09-06 Kapteeni E.J.Paavilainen, valokuvaaja Aiheet 1941-09-06
写真は,Museot Finna引用。


1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻、理由は、スウェーデンの鉄鉱石を不凍港ナルビクNarvik)を通じて安定して輸入するためだったが、イギリスがノルウェーの機雷封鎖や保障占領を企図していることもあった。このノルウェー侵攻「ウェーゼル演習作戦」では、四発大型旅客輸送機ユンカースJu-90が、オスロに兵員を輸送した。デンマークは侵攻初日の4月9日、国王クリスチャン10世Christian 10)、デンマーク政府が即座に降伏したが、ノルウェーは、イギリス軍の支援を受けて、激しく戦った。しかし、ドイツ軍のフランス侵攻で、5月下旬にはフランスの危機、イギリスの孤立化が確実になったため、ノルウェーの連合軍は6月に撤退した。ノルウェーには傀儡ヴィドクン・クヴィスリングVidkun Quisling)政権が樹立され、ドイツ潜水艦Uボートの基地となった。

写真(右)1941年9月6日,フィンランド中西部、ヘルシンキ=ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、負傷兵の後方空輸に任務にあたったフィンランド空軍のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機(登録コード:JU-127)の搭乗員と現地のフィンランド国防軍兵士。:コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備している。
Kornetti Hämäläisen kaukopartio lähdössä Tiiksjärvellä. Kuvan vesilentokone sotilaisjoukon takana on Junkers K 43 fa (tunnus JU-127).
Aineistotyyppi ?Valokuva Kuvaustiedot: 1941-09-06 Kapteeni E.J.Paavilainen, valokuvaaja Aiheet 1941-09-06
写真は,Museot Finna引用。


1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

継続戦争は、1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドがソ連と戦った戦争である。戦争当事国の一方であるソ連は、フィンランドの侵入を受け、それを防いだ「大祖国戦争」の一環であり、すなわち第二次世界大戦の一部である。フィンランドは、国土を奪ったソ連とは戦うが、イギリスとは戦わないという釈明をした。

写真(右)1941年9月6日,フィンランド中西部、ヘルシンキ=ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、フィンランド空軍のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機。負傷者を担架で搬送している。:湖の水深が浅いために、岸辺に座礁してしまうので、少し沖合まで木材で簡単な桟橋を作ったようだ。コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備している。
Vaikeasti haavoittunutta kannetaan lentokoneeseen, joka vie hänet Kajaaniin.
H.Tollet, valokuvaaja
Vaikeasti haavoittunutta kannetaan lentokoneeseen, joka vie hänet Kajaaniin. Vesilentokone on Junkers K 43fa (Junkers W 34).
Aineistotyyppi ?Valokuva Kuvaustiedot: 1941-09-09 H.Tollet, valokuvaaja
写真は,Museot Finna引用。


他方、イギリスは、1941年6月の独ソ戦開始前から、ソ連にドイツがソ連攻撃を計画していることを事前に連絡し、独ソ戦開始後も、直ぐにソ連邦への軍事援助を表明しているが、これはドイツ打倒を最優先し「ヒトラーを倒すためには、悪魔とも手を結ぶ」と公言していたW.チャーチル首相にとって、当然のことだった。したがって、イギリスは、フィンランドがソ連とのみ領土奪回の目的で、1939年の第二次大戦開始直前の「冬戦争」を継承しているのであって、イギリスと戦火を交えるつもりはないという方便を認めていない。

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相チェンバレンは,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

その混乱に乗じたソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様に、フィンランドにも領土要求をし、併合する構えを見せた。しかし、フィンランドは、この要求を断固拒否、そこで、ソ連赤軍は、1939年11月30日、フィンランド南部に攻撃を加えた。こうして、フィンランド冬戦争が始まった。

フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。

写真(右)1941年9月6日,フィンランド中西部・ソ連、北緯64,09度、西経 31,92度、ヘルシンキ=ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、フィンランド空軍所属のユンカース(Junkers) K 43fa水上機(登録コードJU-128)と出撃を見送るフィンランド軍兵士たち:コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備している水上偵察爆撃機型だが、負傷者空輸の写真がたくさん残されている。
Kovien taisteluiden aikana on haavoittuneita kuljetettava edestä lentokoneillakin taakse hoitoa saamaan
Kapteeni E.J.Paavilainen, valokuvaaja
Kovien taisteluiden aikana on haavoittuneita kuljetettava edestä lentokoneillakin taakse hoitoa saamaan. Koska pikainen apu on tarpeen ja satojen kilometrien taival maitse huonoilla teillä vie paljon aikaa. Kuvassa on Junkers K 43fa vesilentokone (tunnus JU-128), joka on haavoittuneiden kuljetustehtävässä).
Lisää
Aineistotyyppi Valokuva
Kuvaustiedot: 1941-09-06 Kapteeni E.J.Paavilainen, valokuvaaja
写真は,Museot FinnaMuseot Finna引用。


1930年にフィンランド空軍は、ドイツからユンカースW 34輸送機1機を購入し、さらにW43輸送機の水上機型のK 43水上機6機をスウェーデン空軍から購入した。1941年7月に、ソビエト連邦との継承戦争を戦うに際しては、長距離偵察・哨戒機として前線に送られたが、前線から傷病兵を後方に搬送する患者輸送機としての任務にも就役した。1944年春、フィンランド空軍は、さらに5機のユンカースW 34輸送機を購入したが、これらは訓練用の練習機として使用されたようだ。戦後にこれらユンカースW34/K43輸送機は、フィンランド国境警備隊で1950年まで使用された。

写真(右)1941年9月9日,フィンランド中西部、ヘルシンキ=ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、フィンランド空軍のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機。負傷者を担架で搬送している。:湖の水深が浅いために、岸辺に座礁してしまうので、少し沖合まで木材で簡単な桟橋を作ったようだ。コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備している。
Vaikeasti haavoittunutta kannetaan lentokoneeseen, joka vie hänet Kajaaniin. H.Tollet, valokuvaaja
Vaikeasti haavoittunutta kannetaan lentokoneeseen, joka vie hänet Kajaaniin. Vesilentokone on Junkers K 43fa (Junkers W 34).
Aineistotyyppi ?Valokuva Kuvaustiedot: 1941-09-09 H.Tollet, valokuvaaja
写真は,Museot FinnaMuseot Finna引用。


ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北しており、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の際に、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。1941年7月、総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻した。

写真(右)1941年9月6日,フィンランド中西部・ソ連、北緯64,09度、西経 31,92度、ヘルシンキ=ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、担架に乗せた負傷者を搬送する準備をするフィンランド空軍所属のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機(登録コード:tunnus; JU-128):手前の砂浜には、負傷者が横たわった担架が置かれている。コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備しており、白色塗装、赤十字マークも付けていないので、国際赤十字で定められた救難機・患者輸送機ではない。
Kuvassa on Junkers K 43fa vesilentokone (tunnus JU-128), joka on haavoittuneiden kuljetustehtävässä). Kuvaaja:Kapteeni E.J.Paavilainen
写真はThe Finnish Defence Forces・Kuvan numero 47733引用。


フィンランドが継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。

しかし、1944年、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を想起させるのを忌避する方便であろう。

写真(右)1941年11月2日,フィンランド中西部、ヘルシンキ=ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、フィンランド空軍所属のユンカース(Junkers) K 43 fa水上患者輸送機「ピッコ・ユノ」 ”Pikku-Junnu”(リトル・ジェンヌ;小さな娘)(登録コード:JU-124)。負傷者を後方に搬送するのに使用された。
Sairaskuljetusta lentokoneella. Uomala, valokuvaaja Sairaskuljetusta lentokoneella. Lentokone on Junkers W 43fa, ``Pikku-Junnu ? .
Aineistotyyppi:Valokuva (写真)
写真は,Museot Finna引用。


1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi?Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ:Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。

第二次世界大戦中の1941年6月22日、ドイツは、バルバロッサ作戦を発動し、独ソ不可侵条約を保護にして、ソビエト連邦に攻め込んだ。それから3日後、1941年6月25日、フィンランドもソ連に侵攻した。これは、1939年の冬戦争でソ連に奪われた国土(カレリア)を奪回するための戦争だったが、ソ連は、イギリス・アメリカの軍事支援を受けていた連合国側になっていた。


写真(右)1942年7月30日,フィンランド中西部・ソ連、カレリア地方、ケステニガ(Kiestinki)(?)、担架に乗せた負傷者をフィンランド空軍所属のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機(登録コード:tunnus; JU-124)に搬入するフィンランド国防軍兵士
:胴体右側の扉は、担架のまま負傷者を搬出入するには小さすぎるようだ。
Kuvaaja(撮影監督):Vänrikki H.Harrivirta(ハリヴィルタ) Lentokone on Junkers K 43fa, ``Pikku-Junnu´´. nimellä ”Pikku-Junnu”.
写真は,The Finnish Defence Forces: Kuvan numero 101880引用。


 フィンランドは、イギリス・アメリカの反共産主義勢力を過大評価し、ソ連に対する軍事支援が、実際に大規模に行われるとは予測していなかったのかもしれない。あるいは、イギリスを孤立に追い込んでいたドイツの戦力を過大評価し、あえてソ連に戦いを挑む好機が到来したと読み誤ったようだ。日本ですら、関東軍を増強して特別大演習を実施し、ソ連を威嚇したものの、対ソ連戦争は開始しなかった。これは、中国と日中戦争を戦い続け、さらに南方を攻略してアメリカに対抗するという目的があったからだが、フィンランドにとっては、ソ連だけが仮想敵国だった。

戦時にあっても、万国共通の攻撃対象外の機体として、戦争法規では、無武装で白色塗装の上に大きな赤十字を描いた患者輸送機・救難機を認めていた。これは、機体を白色塗装とし、大きな赤十字マークうを描くこと、無武装であること、兵員・軍事物資を搭載しないこと、前もって、航路を敵に知らせることを条件として認められた。


写真(右)1941-1943年頃,フィンランド中西部・ソ連、カレリア地方、レニングラード北600キロ、キマソゼロ(Kiimasjärvi )(?)、負傷者を運搬していたフィンランド空軍のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機
:コックピット後上方7.92ミリ旋回機関銃の銃座があり、そこから搭乗員が上半身を出している。
Haavoittuneita kuljetetaan karjalan korpimailta myös lentokoneilla Luutnantti M.Rossi, valokuvaaja
Haavoittuneita kuljetetaan karjalan korpimailta myös lentokoneilla. Paareilla lepäävää potilasta nostetaan kuljetuslentokoneeseen. Kuvassa oleva vesilentokone on Junkers W 43f.
写真は,Museot Finna引用。


しかし、敵の戦力を削減するには、このような患者・負傷者の輸送であっても阻止すべきである。また、患者・負傷者の輸送を偽って、軍事物資や要人・兵員輸送をしている違法行為かもしれない。1940年のバトルオブブリテンで必死の本土決戦を戦っているイギリス空軍も、ドイツ空軍の救難機を攻撃対象外とはしなかった。 ...コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備しており、白色塗装、赤十字マークも付けていないので、国際赤十字で定められた救難機・患者輸送機ではない。

写真(右)1943年8月21日,フィンランドフィンランド中西部・ソ連、カレリア地方、レニングラード北600キロ、キマソゼロ(Kiimasjärvi )(?)、負傷者を運搬していたフィンランド空軍のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機:コックピット後上方7.92ミリ旋回機関銃の銃座があり、そこから搭乗員が上半身を出している。
Junkers-vesikone Tiiksjärven rannassa. Sot.virk. A.Viitasalo, valokuvaaja
Aineistotyyppi ?Valokuva.
写真は,Museot Finna: Kuvan numero 135289引用。


1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドは、結果を知っているものの視点で見れば、無謀な対ソビエト連邦戦争を開始した。しかし、当時は、民主主義国イギリス・アメリカの軍事力を過小評価しており、第二次世界大戦に参戦したのではなく、冬戦争で失った国土を奪還するという目的で、イギリス(当時は中立国のアメリカ)と戦うのではないという言い訳が国際的に通用すると錯覚していた。結果から見れば、これはフィンランド外交の大失敗だった。

ユンカース(Junkers)W33輸送機/W34/K43f水上機を見る。


6.1941-1942年、フィンランド軍のドイツ製ハインケル(Heinkel)He59救難水上機

フィンランド国防軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Emil Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。

ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北していた。フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

冬戦争に敗北したフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、今度は、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の2カ月前から、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。

 1941年7月、フィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻しつつあった。

写真(右)1941年6月以降,フィンランド、迷彩塗装を施したハインケル(Heinkel)He 59双発水上救難機:ナチスのソ連侵攻に参加し、同盟国として参戦したフィンランドには、ドイツ軍が派遣された。 :手前には、搭乗員が乗り移るために、ボートをフロートに寄せている。
It:n alas pakoittama saksalainen kone Lauttasaaren rannassa. Sot. virk. E. Mäkinen, valokuvaaja Sotamuseo It:n alas pakoittama saksalainen kone Lauttasaaren rannassa. Kyseessä Heinkel He 59 meritoimintakone.
写真は,Sotamuseo 引用。


1941年6月22日に、ドイツは、不可侵条約を保護にして、共産主義のソビエト連邦に侵略を開始した。すると、フィンランドは、ナチスと同盟を組んで、1939年の冬戦争で敗北して失ったカレリア地方を奪回し、ソ連ボリシェビキに報復しようと、ドイツと同盟を結んで、1941年7月からソ連に侵攻を開始した。

フィンランド国防軍は、総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥の指揮の下、ソ連相手に善戦し、レニングラードを包囲し、住民を疲弊させ、北部の不凍港ムルマンスクを攻撃して、西側連合軍の補給物資がソ連に届かないようにする作戦を展開していた。つまり、ナチスとフィンランドは、連携して共産主義・ボリシェビキのソ連を屈服させるために共闘しており、密接な軍事同盟関係にあった。

1939年の冬戦争で失ったカレリア地方を奪還するために、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻をチャンスととらえたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、7月には、ナチスと同盟して、ソ連を敵として、攻撃を開始した。これは、事実上、フィンランドが枢軸同盟国の一員として、第二次世界大戦に参加することを意味した。フィンランドは、ナチスと組んで軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開した。

しかし、フィンランド側は、イギリス、アメリカには戦争を仕掛けたいとは思っていなかった。そこで、あくまで、ソ連に対して1939年の冬戦争で奪われた国土の回復を求めた防衛戦争であるとの立場を主張した。しかし、ソ連がドイツの攻勢を一国で受け止めている状況で、イギリスもアメリカも、フィンランド側の言う「継続戦争」であり、イギリス・アメリカと戦う第二次大戦への参戦ではないという身勝手な論理は受けつかなかった。これを梃子にして、ヒトラーはフィンランドに対して、ソ連への軍事的攻勢を強化するように強く要請した。

1942年6月4日、フィンランド軍総司令官カール・マンネルハイム元帥の75歳の誕生日に、ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、フィンランドにFw200コンドル輸送機で出かけ、マンネルハイムを祝福し、鉄十字章を授けた。その返礼に、1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港から、マンネルハイムは、Fw200コンドルに乗ってドイツ総統アドルフ・ヒトラーの訪問に敬意を表した。フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日、ドイツの東プロイセン州ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」を訪れ、そこで開かれていた最高指導作戦会議に出席した。マンネルハイムは、総統大本営のヒトラーを訪問しばかりではなく、引き続いて、列車でドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも馳せ参じて、彼の下で祝宴に参加している。

当時、フィンランドは、枢軸国ナチス・ドイツの同盟国であり、反ボリシェビキ(Bolshevik)を掲げて、共産主義のソビエト連邦と戦っていた。ヒトラーは、マンネルハイムに一層激しい攻勢をソ連に仕掛けることを強く要請した。しかし、マンネルハイムは、フィンランドの国力の低さ、作戦地域の地形や天候の要害を理由にして、攻勢をかけることの困難さを訴えた。マンネルハイムは、同盟国ドイツと運命を共にするつもりは全くなく、フィンランドの国益、すなわち独立の保障の最優先していた。

1944年6月のノルマンディ侵攻で、西側連合軍地上軍が西ヨーロッパでドイツ軍を圧倒し、ドイツの敗戦が確実になる中、1944年8月8日にエドウィン・リンコミエス首相(日本の勲一等旭日大綬章佩用)は辞任、後任首相には、アンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)が就いた。そして、フィンランド大統領フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)も辞職し、8月4日にフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥が後継の大統領に就任した。

1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したカール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1944年9月19日、モスクワ休戦協定を結んで、事実上、ソ連に降伏した。講和条件は、カレリア地峡・ペッツァモの譲渡、戦争賠償金の支払い、フィンランド国内におけるソ連軍の基地使用、ドイツ軍のフィンランドからの排除(事実上の対ドイツ戦争)である。

ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機を見る。


7.1941-1942年、フィンランド軍のドイツ製ハインケル(Heinkel)He 115 双発水上偵察機

1939年の冬戦争で、フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦した。しかし、ドイツは、西方戦役の準備のため、1939年独ソ不可侵条約を順守し、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘するしかなかった。その結果、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れざるを得ず、フィンランドは降伏の道を選んだ。

写真(右)1941年8月24日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランドの装備したドイツ製ハインケル(Heinkel)HE 115 A水上偵察機;ドイツからフィンランドに飛来、鹵獲したHe115水上偵察機を、フィンランド空軍が鹵獲し、第44飛行隊(LLv.44)に配属して輸送任務に投入した。
SA-kuvat ovat lisensoitu Nimeä 4.0 Kansainvälinen (CC BY 4.0) -lisenssillä ja ne ovat vapaasti käytettävissä ja julkaistavissa. Kuvat ovat nähtävissä myös www.sa-kuva.fi -palvelussa. Photo info: undated Kartto - Peronkoski, valokuvaaja
Kuvaustiedot: 1941-08-24 Lassi Hämäläinen, valokuvaaja
写真は Finna.fl : Identifier:sa-kuva-61917引用。


フィンランドは、ロシア革命時期にその独立が定まった反面、その後のソビエト連邦の共産主義には、強い警戒感を抱いていた。フィンランド国内での共産主義革命の動きがあったからである。そこで、反共産主義の象徴として、白丸に青の鍵十字を描いたカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を用いるようになった。1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルとしてである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年の対ソ講和の時に廃止した。 このスワスチカが、対ソビエト連邦の戦い、すなわち1939年の冬戦争、1941年の継承戦争でも採用されている。

写真(右)1941-1943年頃、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランドの装備したドイツ製ハインケル(Heinkel)HE 115 A水上偵察機(Fly nr 52);フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。
Lentokonetehdas. Lentokone on Hienkel He 115 A (tunnus HE-115).. Photo info: undated Kartto - Peronkoski, valokuvaaja
写真は Finna.fl : Identifier:sa-kuva-9800引用。


当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。

しかし、1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)はフィンランド大統領を辞職、新大統領カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥の下で、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を忌避するために唱えられた方便か、カギ十字を好む人物の誤解に基づく思い込みである。

ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機を見る。



8.1941-1942年、フィンランド戦線のドイツ空軍ユンカースJu-87急降下爆撃機B型

フィンランドは1939年11月30日にソ連軍の攻撃を受けたが、ソ連の侵略に対しては国際世論の非難が起こり、ソ連は、1939年12月14日に国際連盟から追放された。また、各国の義勇軍が、フィンランドに馳せ参じた。国民世論、国際世論の支持と、国際社会から購入した航空兵力の支援を受けて、マンネルヘイム元帥率いるフィンランド軍は果敢に抵抗し、ソ連軍を苦しめた。しかい、国力の劣るフィンランド軍は長期戦には適応できず、1940年2月にはソ連軍の重圧を受けて敗退を続けていおり、フィンランドの敗戦は決定的となっていた。フィンランド政府は、1940年2月末にマンネルハイムの意向を受け入れ降伏交渉に臨み、1940年3月12日、モスクワ講和条約に合意した。講和の条件は、フィンランドの国土面積の10%近い工業地帯のカレリア地峡の割譲である。

写真(右)1941-1943年頃、フィンランド、雪の積もった飛行場で250キロ爆弾を準備する毛皮の帽子を被った地上勤務員とドイツ空軍第1訓練(突撃)航空団(SG1)ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機B-2型(登録コード:L1+KV ):第1訓練航空団(LG 1)は、名称こそ訓練航空団だが、実際は実戦部隊で、第1突撃航空団(SG1)呼称された。
Pohjoisella rintamalla toimivat stukat lähdössä pommittamaan. Pommeja kiinnitetään. Kuvassa Junkers Ju 87 B-2, tunnus L1+KV ja yksikkö IV(St.)/LG 1.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: ajoittamaton Uuno Laukka, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA引用。


1941年6月21日,バルバロッサ作戦開始の前日のドイツ軍東部戦線配備兵力

兵員300万人,戦車3580両,火砲7184門,車両60万台,ウマ75万頭。航空機1830機.

対峙するソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。

フィンランドは、ロシア革命で崩壊したロシア帝国から独立した新興国だったが、ロシア革命の影響で、当初は共産主義者、ボリシェビキの勢力が伸長し、内乱も経験している。ボリシェビキを鎮圧して成立したフィンランド政府は、反共産主義の立場をとり、ヨシフ・スターリンの指導するソビエト連邦との国際関係は協調的とは言えなかった。ソ連は、1939年の第二次世界大戦勃発前、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を結び、秘密議定書で、独ソの勢力範囲に合意していたが、ソ連はバルト三国とフィンランドへの影響力をドイツから認められていた。そこで、ソ連指導者指導者ヨシフ・スターリンは、バルト三国への外交圧力を強め、軍事基地を提供させ、ソ連軍進駐を認めさせ、相互援助条約に合意するよう強要した。また、フィンランドに対しても、レニングラードに近いカレリア地峡とコラ半島の一部とのソ連領との交換を強要しようとたが、フィンランドはソ連の領土割譲の要求を拒否した。第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目、1939年11月30日に、ソ連軍は、フィンランドを攻撃し、「冬戦争」が始まった。

写真(右)1941-1943年頃、フィンランド、胴体下面に250キロ爆弾を搭載中のドイツ空軍第1訓練(突撃)航空団(SG1)ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機B-2型(登録コード:L1+KV ):主翼下面に50キロ爆弾を2発ずつ搭載、主翼付け根に機銃掃射用の7.92ミリMG17機銃。降着装置覆スパッツの付け根の「ジェリコのラッパ」と呼ばれた風車式威嚇音発生器は、後期型では撤去されている。
Pohjoisella rintamalla toimivat stukat lähdössä pommittamaan. Pommeja kiinnitetään. Kuvassa Junkers Ju 87 B-2, tunnus L1+KV ja yksikkö IV(St.)/LG 1.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Uuno Laukka, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA引用。


ソ連軍は,北方には30個師団,8個機甲旅団,中部に45個師団,14個機甲旅団,南部に64個師団,14個機甲旅団を配備

ソ連空軍は白ロシア(ベラルーシ)に6000機を配置。

フィンランドに駐屯したドイツ空軍第一航空軍アルフレート・ケラー司令官隷下、第54戦闘航空団(JG54)「緑のハート」(グリュン・ヘルツ)のメッサ―シュミットBf 109戦闘機F型。ドイツ空軍機は、1941年6月の対ソ連戦からフィンランドにも駐屯したが、ドイツ空軍機は、フィンランド軍にも貸与され、第1訓練(突撃)航空団フィンランド軍所属のBf109戦闘機もあった。

ドイツのソ連侵攻バルバロッサ作戦では、1941年6月22日早朝に攻撃が始まったが、北方軍集団の目標は、レニングラード攻略だった。レニングラードは、ソ連海軍バルト艦隊の基地であり、フィンランド湾、バルト海にあったソ連海軍潜水艦は脅威だった。また、ナチ党の反共産主義のイデオロギーの上で、ボルシェビキの本拠地と見なされ、ヒトラーは当初より、レニングラードの徹底的壊滅を指示していた。北方軍集団司令官レープ元帥隷下、第16軍司令官ブッシュ将軍、第18軍司令官キュッヒラー将軍ともにナチ党イデオロギーに心酔していた軍人だった。

写真(右)1941-1943年頃、フィンランド、雪の積もった飛行場で主翼下面に50キロ爆弾を搭載中のドイツ空軍第1訓練(突撃)航空団(SG1)ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機B-2型(登録コード:L1+KV ):地上勤務員は、毛皮の付いたオーバーオールと帽子を被っている。雪の量の多くはないが、気温は氷点下をかなり下回っており、風もあれば屋外作業は困難を伴う。
Pohjoisella rintamalla toimivat stukat lähdössä pommittamaan. Pommeja kiinnitetään. Kuvassa Junkers Ju 87 B-2, tunnus L1+KV ja yksikkö IV(St.)/LG 1. Rungon alla on 250 kg:n pommi ja kummassakin siivessä on kaksi 50 kg:n pommia.Aineistotyyppi
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Uuno Laukka, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA引用。


ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機を見る。


9.1942年6月、ヒトラー・マンネルへイムの乗機フォッケウルフFw200コンドル輸送機C3/U9

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と出迎えたフィンランド共和国リスト・リティ(Risto Ryti)大統領(黒コートにハット)。後方は、ヒトラーが乗っていたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);ヒトラーは、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日を祝いにドイツからFw-200コンドルに乗ってフィンランドのマルミ飛行場に到着した。コンクリート舗装された駐機場の奥には巨大な飛行機格納庫が見える。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Tasavallan presidentti Risto Ryti ja valtakunnankansleri Adolf Hitler..
写真はMuseot Finna・sa-kuva-129567引用。


1942年6月4日、フィンランドに、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が降り立った。フィンランド訪問の名目は、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日の祝いだった。ヒトラーは、ドイツ、ラステンブルク飛行場からドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に乗り、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港に到着した。それをフィンランド共和国リスト・リティ(Risto Ryti)大統領が出迎え、ヒトラーはフィンランド軍儀仗兵をリティと閲兵した。

リスト・ヘイッキ・リュティは、フィンランド独立後。フィンランド国立銀行総裁、1939年の冬戦争勃発翌日に首相に就任、1940年12月、フィンランド第5代大統領に就任、1941年6月、継続戦争を始めた。1944年9月にの継続戦争の戦局悪化の中、フィンランドの対ソ連単独講和を画策した。第二次世界大戦後、戦争犯罪者として、禁錮10年の処罰を受けた。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、ドイツに帰国するドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を見送るフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。ヒトラー乗機となったのは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード: KE+IX)
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Marsalkka Mannerheim (vas.) hyvästelemässä valtakunnankansleri Adolf Hitlerin. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15850引用。


フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Emil Mannerheim)元帥は、ソビエト連邦を相手に1939年に冬戦争を、1941年7月から第二次世界大戦時にソ連と戦ったが、その時期にフィンランド国防軍総司令官を勤めた。

1941年1月4日にフィンランド首相となったヨハン・ウィルヘルム・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻を契機として、ソ連に攻め入った。これは、1939年の冬戦争で敗れ失った国土カレリア地方を奪還するというのが目的だったが、共産主義者の反乱を鎮圧して独立したフィンランドは、当初からソビエト連邦を警戒、仮想敵としていたから、これは、脅威となっているソ連に対する弱体化の戦争とも考えられる。

1941年6月のドイツのソ連侵攻にあわせて始めた継続戦争だったが、1943年に入ると、明らかに戦局はフィンランド、ドイツに不利になってきた。ソ連に対しては、イギリス、アメリカが膨大な軍事物資を貸与しており、ソ連の生産力増強と相まって、フィンランド、ドイツは、ソ連軍の攻勢を防ぐことも困難になっていた。戦局が悪化する中で、1943年3月5日、フィンランド首相ヨハン・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は辞任し、新たにエドウィン・リンコミエスEdwin Linkomies)がフィンランド首相に就任したが、彼も、ソ連に降伏できない以上、ナチスとの同盟を堅持するしか選択肢はなかった。

フォッケウルフFw-200コンドルの諸元
エンジン BMW-Bramo 323 R-2 mit je 1000 PS (1200 PS mit MW-50-Einspritzung) 4基
全幅: 32,84 m 全長: 23,87 m 全高: 6,30 m
空虚重量: 14.180 kg 全部重量: 22.600 kg
乗員: 7 人,生産機数 276機
巡航速度: 384 km/h 高度 3970 m, 405 km/h 重量17.600 kg
上昇限度: 6600 m
航続距離: 3550 km (標準) C-3/U2 最大 6400 km
武装: 2基×MG 151/20 (20 mm), 5基×MG 15 (7,92 mm)
爆弾1000 kg (爆弾倉) + 主翼下面 1400 kg,最大搭載量1800 kg

ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)は、1867年6月4日生まれのフィンランドの軍人で、第二次世界大戦が戦われていた時期の1939年から1945年の間、フィンランド軍の最高司令官だった。当時、ソビエト連邦と戦い苦戦していた同盟国のドイツ総統ヒトラーとしては、フィンランドに対ソ戦を継続させる必要があった。

1941年6月26日にソ連侵攻「継続戦争」を指揮したフィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥だったが、戦局悪化の中、1944年8月4日、第6代フィンランド大統領に就任した。そして、1944年9月19日、ソ連と講和し、ドイツ軍を裏切った。フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥の誕生日(1867年)6月4日を「フラッグ・デー」と定めている。6月4日は、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥を記念して、軍事パレードが行われる。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ、東プロイセン、ラステンブルクに到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥をドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が出迎え握手する。マンネルハイムの乗機は、ドイツが派遣したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)。マンネルハイムは、この後、ラステンブルク総統大本営「狼の巣」でドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が統括する作戦会議に出席した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aiheet.
写真はSotamuseo ・sa-kuva-13185引用。


第二次大戦時のフィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の誕生日、1942年6月4日は、ヒトラーが空路お祝いに駆けつけ、マンネルハイム元帥自身が出迎えをした。フィンランドは、ソ連に奪われたカレリア地峡を奪還すると称して、1941年6月26日、「継承戦争」をはじめ、ソ連を攻撃した。

フィンランド政府は、1941年に始めた継続戦争についてソ連との冬戦争の続きであり、二国間戦争であるとの詭弁を弄した。つまり、第二次大戦へ枢軸国(ドイツ)側としてイギリスに参戦したのではないとの形式論を主張したのである。しかし、イギリスはドイツ軍の兵力のほとんどを相手に地上戦を戦うソ連を軍事支援しており、ソ連に対する政略の上からも、フィンランドがイギリス、アメリカとは戦うつもりがないとの一方的な宣言を認めなかった。

フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイムCarl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日、ドイツ空軍の遣わしたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機に乗って、東プロイセン州ラステンブルク大本営「狼の巣」にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統を訪問、作戦会議に出席した。
そして、1942年6月28日には、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥の下にも参じたフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイムCarl Mannerheim)元帥は、ナチスと共闘して、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合った。マンネルハイム元帥が、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連ボリシェビキの弱体化を真剣に望んでいた。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連赤軍・ボルシェビズムを敲く最良の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦した。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)で帰国した。;付き添ってきたドイツ軍将兵に対して、お礼を述べるマンネルハイム元帥(コート着用、後ろ向き)。 Fw-200コンドルC3/U9輸送機の窓には、カーテンがかかるようになっており。胴体上面には、無線支柱が立っており、その前方に動力回転式銃座に13.1ミリMG131旋回機銃1丁が防御用に装備されている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Organisation Military Museum
写真はSotamuseo ・sa-kuva-13135引用。


1942年12月3日(昭和十七年十二月三日)、大日本帝国は、フィンランドの「元帥フライヘル、カール、グスタフ、エミル、マンネルハイム外二名叙勲ノ件では 内閣総理大臣東条英機は、大元帥昭和天皇に対して、「ボリシェビキ(Bolshevik)政権打倒のため本邦との携帯政策を提唱し之がため誠意努力しつつあり」として、マンネルハイム元帥に勲一等旭日桐花大綬章の、ヨハン・ランゲル内閣総理大臣(首相)、ロルフ・ウィッティング外務大臣に勲一等旭日桐花大綬章の叙勲を、次のように上申している。

「フィンランド」国元帥「フライヘル、カール、グスタフ、エミル、マンネルハイム」外二名ハ孰モ同国ノ枢要ノ地位ニ在リテ、曩ニ満洲国ノ承認及ビ防共協定ニ参加スル等我国ニ対シ常ニ親善政策ヲ執リ来リタルガ、更ニ我国ノ大東亜新秩序建設ノ偉業ニ深ク共鳴シ、之ガ達成ヲ哀心翹望スル等日本及ビ「フィンランド」両国ノ親善関係増進ニ貢献セル功績顕著ナリトス、仍テ此際外務大臣[谷正之]ク奏各頭書ノ通叙勲被仰出可然哉此段允裁ヲ仰グ

日本外務省の国際日誌 第一号(1943年4〜6月)でも、芬蘭(フィンランド)の情報として次の記述がある。
1) 五月九日 瑞西(スウェーデン)ニテ保養中ナリシ「マンネルハイム」芬蘭元帥帰国ス(短波)
2)五月十日 芬蘭警察ハ在「ヘルシンキ」独公使館出入ノ一商人、往年ノ芬蘭共産党夫人(女流作家)及芬蘭新聞記者外三名ヲ敵探嫌疑ニ依リ逮捕セル趣ナリ(公電)
3)五月十七日 独立戦争二十五周年記念日ニ当リ「リンコミエス」芬首相ハ全国放送演説ヲ行ヒ芬国民ノ現戦争ニ対スル固キ決意ヲ表明

ヒトラー(Hitler)を訪問したフィンランド軍カール・マンネルへイム(Mannerheim)司令官のFw200コンドルC3/U9輸送機を詳しく見る。

 
10.1942-1943年、フィンランドに派遣されたドイツ空軍メッサ―シュミットBf-109戦闘機F型

写真(右)1942年8月11日、フィンランドに駐屯したドイツ空軍第一航空軍アルフレート・ケラー司令官隷下、第54戦闘航空団(JG54)「緑のハート」(グリュン・ヘルツ)のメッサ―シュミットBf 109戦闘機F-4型:1943年から、第54戦闘航空団(JG54)「緑のハート」(グリュン・ヘルツ)の第1、2、4飛行戦隊は、ドイツ軍の北方軍集団を支援するため、ラトビア、エストニア、クールラント、東プロイセン地域で戦った。Bf 109戦闘機F型機は、1941年6月の対ソ連戦からフィンランドにも駐屯したが、ドイツ空軍機は、フィンランド軍にも貸与され、フィンランド軍所属のBf109戦闘機もあった。モーターカノンには、F-3型までは15.1ミリMG151機関銃1丁(ベルト給弾200発)、F-4型以降は20ミリMG151/20機関銃(ベルト給弾150発)をエンジン後方に装備。機首上面の7.92ミリMG17機銃(2丁)は、初速840m/秒、発射速度1000発/分、ベルト給弾1丁当たり500発、合計1000発を装備した。モーターカノンを搭載した連合軍機は、アメリカのベルP-39エアコブラが37ミリ機関砲を備えていた。
Saksalainen hävittäjälaivue Petäjärvellä. Kommando I/JG 54, jonka kalustona olivat Bf 109 F-4 -hävittäjät. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-08-11.
写真はフィンランド博物館,MUSEOT FINNA引用。


メッサ―シュミットBf 109戦闘機F型は、枢軸軍では初めてモーターカノンを搭載した戦闘機で、モーターカノンには、F-3型までは15.1ミリMG151機関銃1丁(ベルト給弾200発)、F-4型以降は20ミリMG151/20機関銃(ベルト給弾150発)をエンジン後方の操縦席足元に搭載し、プロペラ軸を通して、プロペラスピナ先端の銃口から発射した。F型は機首上面に7.92ミリMG17機銃(2丁)は、初速840m/秒、発射速度1000発/分、ベルト給弾1丁当たり500発、合計1000発を装備している。

Messerschmitt Me 109 Fは,機首にモーターカノンとしてマウザー(モーゼル)15.1ミリMG151機関銃または20ミリMG151/20 機関銃,ラインメタル13.1ミリMG131機銃 2丁,主翼に機銃は装備しなかった。ダイムラー・ベンツDB601エンジン (1200馬力),最大速度630キロ, 航続距離 580キロ。

ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)のドイツ空軍第一航空軍Luftflotte 1)に属していたJG54は、1941年6月21日、バルバロッサ作戦初日,ヴィルヘルム・リッター・フォン・レープWilhelm Ritter von Leeb)元帥を司令官とする北方軍集団(レープ元帥)を支援し、フィンランド、バルチック海周辺、レニングラードで戦った。1941年から1943年には、JG54は、レニングラード包囲戦、イイリメニ湖周辺のソ連軍攻撃のために、フィンランドにも駐屯した。

第54戦闘航空団Jagdgeschwader 54 )「緑のハート」(グリュン・ヘルツ)は、それまでBf109戦闘機を装備していたが、1943年2月からは、JG54にもフォッケウルフ Fw190が配備されることになった。1943年の時点で、JG54第1飛行戦隊には、ヴァルター・ノヴォトニー大尉(257機撃墜)、ルドルフ・ラーデマッハ少尉(126機)などのトップクラスのエースを擁していた。

第54戦闘航空団Jagdgeschwader 54 )第1飛行戦隊は、第70戦闘航空団第1飛行隊として、1939年7月、ニュルンベルクで編成されたたため、エンブレムは、ニュルンベルクの紋章に由来する「緑のハート」となった。第54戦闘航空団第1飛行戦隊が成立したのは、第二次大戦勃発直後の1939年9月15日だった。

フィンランドに派遣されたドイツ空軍メッサ―シュミットBf 109戦闘機を詳しく見る。

 
11.1943-1944年、フィンランド空軍のメッサ―シュミット(Messerschmitt)Bf-109戦闘機G型

写真(右)1943年4月24日、フィンランド、フィンランド空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-2型:機首上面にはラインメタル社(Rheinmetall)7.92ミリ MG 17機関銃2丁、モーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を搭載しているのはF型と同じだが、エンジンをF型のダイムラーベンツDB601から改良型のDB605に換装、強化したために、F型と比較して、速力、加速性、上昇力など性能が向上した。しかし、その後のG型では、武装強化、防弾強化によって重量、抵抗増加があり、性能の向上は僅かに留まった。
MT:n radiota korjataan. Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja MT:n radiota korjataan. Konetyyppi: Messerschmitt Bf 109 G-2. Radion viritys käynnissä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1943-04-24 Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja Aiheet: 1943-04-24
写真はフィンランド博物館,Museot Finna引用。


写真(右)1943年4月24日、フィンランド、フィンランド空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-2型:すでにG-6型も最新とは言えない時期に、フィンランドはより旧式のG-2型を装備していた。しかし、対峙しているソ連空軍には、四発大型爆撃機による空襲をしなかったために、武装は20ミリMG151/20機関砲のモーターカノン1門、機首上面の7.92ミリMG17機関銃2丁でも問題なかったようだ。
MT:n radiota korjataan. Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja MT:n radiota korjataan. Konetyyppi: Messerschmitt Bf 109 G-2. Radion viritys käynnissä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1943-04-24 Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja Aiheet: 1943-04-24
写真はフィンランド博物館,Museot Finna引用。


写真(右)1944年1月7日、フィンランド、フィンランド空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-2型:スピナ先端には、プロペラ軸を通して射撃可能なモーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を、機首上面には7.92ミリMG17機関銃2丁を搭載している。
Saksalainen Messerschmitt 109 suojaa lauttaosastoa. MT-hävittäjiä lähtövalmiina. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja MT-hävittäjiä lähtövalmiina. Lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-2. Aineistotyyppi:Valokuva Kuvaustiedot:1944-01-07 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Aiheet:1944-01-07
写真はフィンランド国防省,Museot Finna引用。


写真(右)1944年1月7日、フィンランド、フィンランド空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G2型:機首上面には7.92ミリ MG 17機関銃2丁、モーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を搭載しているのはF型と同じ。その後のG型では、武装強化、防弾強化によって重量、抵抗増加があり、性能の向上は僅かに留まった。
Saksalainen Messerschmitt 109 suojaa lauttaosastoa. MT-hävittäjiä lähtövalmiina. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja MT-hävittäjiä lähtövalmiina. Lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-2. Aineistotyyppi:Valokuva Kuvaustiedot:1944-01-07 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Aiheet:1944-01-07
写真はフィンランド国防省,Museot Finna引用。


写真(右)1944年2月6日、フィンランド、フィンランド空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-2型:エンジンをF型のダイムラーベンツDB601から改良型のDB605に換装、強化したために、F型と比較して、速力、加速性、上昇力など性能が向上した。
MT-kone ilmassa Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja MT-kone ilmassa. (Messerschmidt) Lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-2. Aineistotyyppi:Valokuva Kuvaustiedot:1944-02-06 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Aiheet:1944-02-06
写真はフィンランド博物館,Museot Finna引用。


写真(右)1944年2月28日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ空港に駐屯したドイツ空軍第一航空軍アルフレート・ケラー司令官隷下のメッサ―シュミットBf 109G-6戦闘機の整備:主翼下面の20ミリMG151/20機関砲をガンポッドはに白系統の冬季迷塗装はしていないが、主翼の左右で色を違えているのは、敵味方識別のためと思われる。胴体下面に吊り下げた300リットル入りの金属製落下増加タンクには、燃料系統から零れ落ちた油汚れが目立つ。
Malmin lentokenttä Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Malmin lentokenttä. Saksalaisia hävittäjiä lämmitetään. Tyyppi: Me-109. Lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-6. Tämän aineiston tarjoaa . Kuvaustiedot:1944-02-28 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はフィンランド国防省,The Finnish Defence Forces引用。


ヘルシンキ・マルミ空港は、1930年代から首都ヘルシンキの国際空港として使用され、国内路線としても、極地のペツァモ(Petsamo)まで結ばれていた。1939年、ソ連との冬戦争が勃発すると、マルミ空港は、フィンランド空軍が接収し、軍飛行場となった。また、1941年6月からのソ連との継続戦争でも軍飛行場として、ドイツ空軍機も駐留した。しかし、1944年9月にフィンランドがソ連と休戦すると、マルミ空港はソ連軍の管理下に置かれることになった。

写真(右)1944年2月28日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ空港に駐屯したドイツ空軍の白系統の冬季迷彩メッサ―シュミットBf 109G-6戦闘機と後方のユンカースJu-52三発輸送機:主翼下面のガンポッドには、20ミリMG151/20機関砲を搭載している。胴体下面に吊り下げているのは、300リットル入りの金属製落下増加タンク。
Malmin lentokenttä Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Malmin lentokenttä. Saksalaisia hävittäjiä lämmitetään. Tyyppi: Me-109. Lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-6. Tämän aineiston tarjoaa . Kuvaustiedot: 1944-02-28 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はフィンランド国防省,The Finnish Defence Forces引用。


写真(右)1944年5月12日、フィンランド、ドイツ空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G型の操縦席:風防を閉じて、飛行準備をするパイロット。ガラス風防前面と操縦席頭上後方を防弾ガラスで守られた操縦席。ガラス風防の前端下側、機体の小型空気取入れ口は、操縦室の換気、曇り止めのためのもの。G型はモーターカノンは20ミリMG 151機関銃1丁あるいは30ミリMK108 機関砲1門を搭載している。
Kansi kiinni ja hävittäjä nousee torjuntalennolle. Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Kansi kiinni ja hävittäjä nousee torjuntalennolle. Kone Messerschmitt Bf 109. Aineistotyyppi:Valokuva Kuvaustiedot:1944-05-12 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Aiheet:1944-05-12
写真はフィンランド国防省,The Finnish Defence Forces Kansi kiinni ja hävittäjä nousee torjuntalennolle. Suulajärvi, HLeLv 24. 1944.05.12 引用。


写真(右)1944年5月12日、フィンランド、フィンランド空軍メッサ―シュミットBf 109戦闘機G型のパイロットのサーリネン中尉が緊急脱出用着の用パラシュート(落下傘)を着けるのを地上勤務整備員が手伝っている。:ドイツ空軍機は、1941年6月の対ソ連戦からフィンランドにも駐屯したが、ドイツ空軍機は、フィンランド軍にも貸与され、フィンランド軍所属のBf109戦闘機もあった。
Hävittäjälentäjiemme parista. Hävittäjälentäjä, luutnantti Saarinen pukee laskuvarjon päällensä mekanikkonsa avustuksella. Kone Messerschmitt Bf 109.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1944-05-12 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館,MUSEOT FINNA sa-kuva-131827引用。


写真(右)1944年6月15日、フィンランド、ドイツ空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型:操縦席前面風防には6センチ厚の防弾ガラスが埋め込まれている。また、パイロットの頭上後方も防弾ガラスで守られているが、この防弾ガラスは、ガラス風防の窓枠に取り付けられているために、風防を開放している場合、横倒しの位置になっている。
Mannerheim-ritari, majuri Luukkanen hävittäjäkoneessaan lähdössä hälytyslennolle. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Mannerheim-ritari, majuri Luukkanen hävittäjäkoneessaan lähdössä hälytyslennolle. Majuri Eino Luukkanen, Hävittäjälentolaivue 34:n komentaja. Lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-6. Aineistotyyppi:Valokuva Kuvaustiedot:1944-06-15 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Aiheet:1944-06-15
写真はフィンランド国防省,The Finnish Defence Forces Tyyppikuvia MT-koneesta. Suulajärvi, HLeLv 24.) 1944.05.08 引用。


写真(右)1944年6月15日、フィンランド、ドイツ空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型:操縦席前面風防には6センチ厚の防弾ガラスが埋め込まれている。また、パイロットの頭上後方も防弾ガラスで守られているが、この防弾ガラスは、ガラス風防の窓枠に取り付けられているために、風防を開放している場合、横倒しの位置になっている。
Mannerheim-ritari, majuri Luukkanen hävittäjäkoneessaan lähdössä hälytyslennolle. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
Mannerheim-ritari, majuri Luukkanen hävittäjäkoneessaan lähdössä hälytyslennolle. Majuri Eino Luukkanen, Hävittäjälentolaivue 34:n komentaja. Lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-6.
Aineistotyyppi:Valokuva Kuvaustiedot:1944-06-15 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Aiheet:1944-06-15
写真はフィンランド国防省,The Finnish Defence Forces Tyyppikuvia MT-koneesta. Suulajärvi, HLeLv 24.) 1944.05.08 引用。


 第二次大戦緒戦から終戦まで、ドイツ空軍の主力戦闘機メッサーシュミットBf109は戦い続けた。戦闘機の中では世界最多の3万機以上が生産された。世界最多生産の機体は、ソ連空軍イリューシン Il-2地上襲撃機(シュトゥルモヴィーク Il-2)で3万6,000機生産だが、Bf109は発展型、派生型の多さを軍を抜いている。そのBf109の中でも最多生産型がG型で、離昇出力1,475馬力のダイムラー・ベンツDB605液冷エンジンを搭載している。

  メッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型コックピット操縦席前面風防には6センチ厚の防弾ガラスが埋め込まれている。また、パイロットの頭上後方も防弾ガラスで守られているが、この防弾ガラスは、ガラス風防の窓枠に取り付けられているために、風防を開放している場合、横倒しの位置になっている。ガラス風防の前端下側、機体の小型空気取入れ口は、操縦室の換気、曇り止めのためのもの。パイロットの頭上後方を守る防弾ガラスは、ガラス風防の枠に取り付けられており、写真ではパイロットの顔の前に見えている。F型までの機首上面の7.92ミリMG 17機関銃2丁を13.1ミリMG131機関銃に強化したため、大型化した薬莢排出パイプを通すために操縦席前にバルジが突出している。モーターカノンの20ミリMG 151機関銃1丁あるいは30ミリMK108機関砲1門を搭載している。爆撃機迎撃用には、主翼下面に20ミリ機関銃を収容したガンポッドを吊るして搭載できるが、飛行性能は低下する。

写真(右)1944年6月30日、フィンランド、ドイツ空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型:操縦席前面風防には6センチ厚の防弾ガラスが埋め込まれている。また、パイロットの頭上後方も防弾ガラスで守られているが、この防弾ガラスは、ガラス風防の窓枠に取り付けられているために、風防を開放している場合、横倒しの位置になっている。機首上面の7.92ミリMG 17機関銃2丁は13.1ミリMG131機関銃に強化されている。大型になった薬莢を排出するパイプを通すために、風防前面の左右にバルジが突出している。操縦席前の空気取入れ口は、操縦室内の換気や曇り止めのために使用する。
Hälytys! Vääpeli Katajainen, (jolla on 29 ilmavoittoa) lähtee torjuntalennolle. Kuvan lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-8. Ohjaajana vääpeli Nils Katajainen, Hävittäjälentolaivue 24, 3. lentue.
Kuvaustiedot: 1944-06-30
Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真はフィンランド国防省,The Finnish Defence Forces sa-kuva-143498引用。


メッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型の機首上面の兵装は、それまでの7.92ミリMG17機関銃2丁から13.1ミリMG131機関銃に変換、火力を強化したが、G型のモーターカノンはF型同様、20ミリMG151/20機関銃1丁で、登場した1943年には火力不足だった。それでも、武装強化型を含めて、1943年2月から1945年2月までにメッサーシュミットBf109戦闘機の中でも、各型最多の1万3,000機が製造されている。

   ドイツ空軍メッサーシュミットBf109戦闘機G型は、機首に13.1ミリMG131機関銃を搭載したために、機銃保弾子の排出シュートが大型化し、機首側面にボイレ(バルジ:膨らみ)ができた。また、Bf109G型は主翼下面に20mm機銃ゴンドラ各1挺追加装備した火力強化型もあり、四発大型爆撃機の迎撃戦に投入された。メッサーシュミットBf109戦闘機G-6は、エアインテークに防塵フィルターを装備したTorop型もあり、東部戦線、西部戦線、地中海・バルカン戦線、極北・バルト海、フィンランド戦線など、ドイツ空軍のあるところすべての戦線に投入された。

写真(右)1944年6月15日、フィンランド、ドイツ空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-8型:機首上面の7.92ミリMG 17機関銃2丁は13.1ミリMG131機関銃に強化されている。大型になった薬莢を排出するパイプを通すために、風防前面の左右にバルジが突出している。操縦席前の空気取入れ口は、操縦室内の換気や曇り止めのために使用する。モーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を搭載しているのはF型と同じ。
Hälytys! Vääpeli Katajainen, (jolla on 29 ilmavoittoa) lähtee torjuntalennolle. Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Hälytys! Vääpeli Katajainen, (jolla on 29 ilmavoittoa) lähtee torjuntalennolle. Kuvan lentokone on Messerschmitts Bf 109 G-8. Ohjaajana vääpeli Nils Katajainen, Hävittäjälentolaivue 24, 3. lentue. Aineistotyyppi:Valokuva Kuvaustiedot:1944-06-15 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Aiheet:1944-06-15
写真はフィンランド国防省,The Finnish Defence Forces MT-kone ilmassa. (Messerschmidt) Malmin lentokenttä 1944.02.06 引用。


継続戦争末期になっても、ドイツは、フィンランドを枢軸国側の同盟国に繋ぎとめようと、当時の新型Bf 109戦闘機G戦闘機をフィンランド空軍に引き渡している。G後期型は、機首上面の7.92ミリMG 17機関銃2丁は13.1ミリMG131機関銃に強化されている。大型になった薬莢を排出するパイプを通すために、風防前面の左右にバルジが突出している。操縦席前の空気取入れ口は、操縦室内の換気や曇り止めのために使用する。モーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を搭載しているのはF型と同じ。しかし、その後のG型では、主翼下面に20ミリ機関砲を収容したガンポッドを吊るして武装強化しており、飛行性能は低下した。

写真(右)1944年6月30日、フィンランド、ドイツ空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型:胴体中央部下面に写真カメラを装備したのが、写真偵察用のBf109 G-8型。Me109戦闘機を、フィンランドではMT109と固有名詞で登録、使用した。機首上面の7.92ミリMG 17機関銃2丁は13.1ミリMG131機関銃に強化されているが、モーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を搭載しているのはF型と同じ。しかし、その後のG型では、主翼下面に20ミリ機関砲を収容したガンポッドを吊るして武装強化しており、飛行性能は低下した。
Vääpeli Katajainen starttaa MT 109 G.6-koneella. Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Vääpeli Katajainen starttaa MT 109 G.6-koneella. Konetyyppi: tiedustelukuvausversio Bf 109 G-8. Ohjaajana väjäpeli Nils Katajainen, Hävittäjälentolaivue 24, 3. lentue. Kuvaustiedot:1944-06-30 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Aiheet:1944-06-30
写真はフィンランド国防省,Museot Finna引用。


写真(右)1944年6月30日、フィンランド、不時着に成功したドイツ空軍のメッサ―シュミット(Messerschmitt)Bf 109戦闘機G-6型(MT-437):胴体中央部下面に写真カメラを装備したのが、写真偵察用のBf109 G-8型。Me109戦闘機を、フィンランドではMT109と固有名詞で登録、使用した。機首上面の7.92ミリMG 17機関銃2丁は13.1ミリMG131機関銃に強化されているが、、モーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を搭載しているのはF型と同じ。しかし、その後のG型では、主翼下面に20ミリ機関砲を収容したガンポッドを吊るして武装強化しており、飛行性能は低下した。
Onnistuneen pakkolaskun tehnyt suomalainen hävittäjä Konnunkylässä. Kuvassa Hävittäjälentolaivue 24:n Messerschmitt Bf 109 G-6 (tunnus MT-437). Aiheet:1944-06-30
写真はフィンランド国防省,Museot Finna引用。


ドイツでは、第一次大戦末期のドイツ革命に反発するフライコール(自由軍団)、すなわち民間義勇兵「エアハルト旅団」などが鉄兜にスワスチカを描いていた。ヒトラーのナチ党もこのスワスチカを党の記章とし、政権獲得後は、事実上、ドイツ共和国三色旗に代えて、カギ十字をドイツの国旗と支、航空機にもスワスチカを国籍マークとして書き入れた。フィンランド軍は、1917年のロシア革命後に独立したが、国内では共産主義・ボリシェビキ政権獲得の武力闘争が起きた。1918年に、フィンランドの共産主義革命派はフィンランド軍に鎮圧されたが、この1918年に自由・独立を象徴する青色の「ハカリスティ」(Hakaristi)が、フィンランド軍の国籍マークとして採用された。つまり、ドイツ語の「スワスチカ」と同じく、反ボリシャビキ、・反共産主義を意味しており、同じルーツを持っている。

写真(右)1944年7月9日、フィンランド、「将来のパイロット - 小さな男の子と飛行機」、背景はフィンランド空軍第24飛行隊第3中隊(3/HLeLv. 24)に引き渡されたドイツのメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型(MT-478):フィンランド空軍に譲渡されたばかりの機体であるために、胴体には鉄十字のドイツ空軍の国籍マーク(記章)が描かれたままで、フィンランド空軍は「ハカリスティ」(Hakaristi)に変更されていない。Me109戦闘機を、フィンランドではMT109との固有名詞で呼んだが、1機ごとに登録コードをMT-478のように割り当てている。継続戦争末期、ドイツは、フィンランドを枢軸国側の同盟国に繋ぎとめようと、当時の新型戦闘機をフィンランド空軍に引き渡している。アーカイブのキャプションには、「将来のパイロット - 小さな男の子と飛行機」とある。
Tuleva lentäjäkö?pikkupoika ja lentokone. Kuvassa taka-alalla huolletaan Saksasta tullutta Messerschmitt (MT-478) -konetta, joka luovutettiin 3/HLeLv. 24:lle. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: 1944-07-09 Sot.virk. Olavi Linnus, valokuvaaja
写真はフィンランド国防省,Museot Finna引用。


1944年6月のノルマンディ侵攻で、西側連合軍地上軍が西ヨーロッパでドイツ軍を圧倒し、ドイツの敗戦が確実になる中、1944年8月8日にエドウィン・リンコミエス首相(日本の勲一等旭日大綬章佩用)は辞任、後任首相には、アンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)が就いた。そして、フィンランド大統領フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)も辞職し、8月4日にフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥が後継の大統領に就任した。

写真(右)1944年夏、フィンランド、共にスワスチカを共通のマークとするフィンランド空軍(左)とドイツ空軍(左)のメッサ―シュミット(Messerschmitt)Bf 109戦闘機G型の編隊離陸:フィンランド空軍は主翼と胴体に、ドイツ空軍は垂直尾翼にスワスチカを描いで、共に反革命、自由謳歌、反共産主義を象徴させていた。
Messerschmitt-hävittäjiä ilmassa. Kesä-heinäkuu 1944.Luutnantti Jori ilanko, valokuvaaja Organisaatio Sotamuseo
写真はフィンランド国防省,Museot Finna sa-kuva-129891引用。


1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したカール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1944年9月19日、モスクワ休戦協定を結んで、事実上、ソ連に降伏した。講和条件は、カレリア地峡・ペッツァモの譲渡、戦争賠償金の支払い、フィンランド国内におけるソ連軍の基地使用、ドイツ軍のフィンランドからの排除(事実上の対ドイツ戦争)である。

写真(右)1944年夏、フィンランド、飛行場に待機しているフィンランド空軍メッサ―シュミット(Messerschmitt)Bf 109戦闘機G型のMT-441号機とMT-447号機:フィンランド空軍は。主翼と胴体に、ドイツ空軍は垂直尾翼にスワスチカを描いで、共に反革命、自由謳歌、反共産主義を象徴させていた。
Messerschmitt-hävittäjiä ilmassa. Kesä-heinäkuu 1944.Luutnantti Jori ilanko, valokuvaaja Organisaatio Sotamuseo
写真はフィンランド国防省,Museot Finna sa-kuva-129890引用。



写真(上)1944年夏、フィンランド、フィンランド空軍メッサ―シュミット(Messerschmitt)Bf 109戦闘機G型のMT-456号機(右手前)とMT-441号機とMT-447号機(奥)、間にドイツ空軍のBf109G戦闘機
:フィンランド空軍は。主翼と胴体に、ドイツ空軍は垂直尾翼にスワスチカを描いで、共に反革命、自由謳歌、反共産主義を象徴させていた。
Messerschmitt-hävittäjiä ilmassa. Kesä-heinäkuu 1944.Luutnantti Jori ilanko, valokuvaaja Organisaatio Sotamuseo
写真はフィンランド国防省,Museot Finna sa-kuva-129888引用。


写真(右)1944年8月31日、フィンランド上空を飛ぶドイツ空軍第一航空軍アルフレート・ケラー司令官隷下のメッサ―シュミットBf 109戦闘機F型またはG型:G型は、最高速力620km/h以上で、飛行中は機首が大きく、尾翼部分のシルエットは小さく見える。
Messerschmitt-hävittäjiä ilmassa. Kesä-heinäkuu 1944.Luutnantti Jori ilanko, valokuvaaja Organisaatio Sotamuseo
写真はフィンランド国防省,Museot Finna sa-kuva-129891引用。


ドイツ軍のソ連侵攻が始まった1941年6月、フィンランドもマンネルハイム将軍を先頭に立てて、1939年の冬戦争でソ連に奪われたカレリア地峡など領土奪回を目指し、共産主義ソビエト連邦に攻撃を仕掛けた。フィンランドはドイツの同盟国として、1941年6月から1944年9月までソビエト連邦と戦争状態にあったのである。これが継承戦争(継続戦争)で、1939年に始まり翌年敗北に終わった「冬戦争」の復讐戦だった。しかし、継承戦争は、1944年夏になると、フィンランド側が不利であり、フィンランドは密かにソ連との和平交渉を始め、戦争から抜け出そうと画策していた。


11.1944年、フィンランドに配備されたドイツ空軍ユンカースJu-87急降下爆撃機D型

写真(右)1944年、フィンランド、飛行するドイツ空軍第3突撃航空団(SG3)所属と思われるユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D-5型:主側下面のETC50ラックに50キロ爆弾、胴体下面のETC501ラックに250キロ爆弾を搭載して出撃中。ドラム缶の容積は1缶当たり200リットル、D型の機内燃料搭載量は1,370リットルであるから、Ju87は1機でドラム缶6本分の燃料を搭載する。
Syöksypommittajia (Ju 87).
Sot.virk.Niilo Helander, valokuvaaja
Content Type Photo Organisation Military Museum
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA sa-kuva-151354引用。


イギリス本土航空決戦(バトル・オブ・ブリテン)でイギリス空軍のハリケーン、スピットファイア戦闘機の反撃を受けてドイツ空軍航空部隊は、爆撃機も戦闘機も大損害を被った。特に低速で防御火器の貧弱なユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機は、Bf109戦闘機の護衛を付けていても際立って大きな損害を出した。ドイツ空軍は、ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機スツーカの後継機として、双発のMe210戦闘爆撃機を計画していたようだが、Me210は技術的失敗から実用性に乏しく、有効な後継機とはならなかった。そこで、ドイツ空軍は地上支援をするために、新機種を準備できず、Ju87急降下爆撃機スツーカを使い続けることになった。そこで、R形までのJu87を改良した新しいD型が開発されたのである。ユンカースJu-87Dは1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」直前の時期に試作機が完成しているが、これがJu87 V21からV25の試作機に相当する。

写真(右)1944年、フィンランド、3機編隊(ケッテ)を組んで飛行するドイツ空軍第3突撃航空団(SG3)所属と思われるユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D-5型:主側下面のETC50ラックに50キロ爆弾、胴体下面のETC501ラックに250キロ爆弾を搭載して出撃中。
Syöksypommittajia (Ju 87) Sot.virk.Niilo Helander, valokuvaaja
Content Type
Photo Organisation Military Museum
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA sa-kuva-151325引用。


ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)のドイツ空軍第一航空軍Luftflotte 1)に属していたJG54は、1941年6月21日、バルバロッサ作戦初日,ヴィルヘルム・リッター・フォン・レープWilhelm Ritter von Leeb)元帥を司令官とする北方軍集団(レープ元帥)を支援し、フィンランド、バルチック海周辺、レニングラードで戦った。1941年から1943年には、JG54は、レニングラード包囲戦、イイリメニ湖周辺のソ連軍攻撃のために、フィンランドにも駐屯した。

写真(右)1944年、フィンランド、飛行するドイツ空軍第3突撃航空団(SG3)所属のユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D-5型:主側下面のETC50ラックに50キロ爆弾、胴体下面のETC501ラックに250キロ爆弾を搭載している。ユンカース(Junkers)Ju-87は、前の形式であるB型・R型の発動機出力を200馬力強化し、ガラス風防(コックピット)の形状を山形に拡大し視界を向上させた。また、主翼の前方固定機銃を、7.92ミリMG17機銃2丁から、2センチMG151/20 機銃2丁に、コックピット後方の7.92ミリMG15機銃1丁から同口径MG81Z連装旋回機銃1丁に火力を大幅に強化した。爆弾搭載量も、それまでの500キロから2倍の1トンに引き上げられている。
Syöksypommittajia (Ju 87). Lentokone on SG3:n Junkers Ju 87 D-5.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: undated Sot.virk.Niilo Helander, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA sa-kuva-151325引用。


ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D型は、航空省の要請を受けて1941年に試作機の開発が始まった。D-1型の初めの試作機はJu 87 V 21試作21号機で登録コードは D-INRF、製造番号0870536である。既存のB型を改造した試作機V21の初飛行は、1941年3月1日である。Ju 87 V25試作25号機は、登録コードBK+EF、製造番号0870530でやはり既存のB型をベースに改造されD-4型の試作機となった。D-1型の量産は、1941年5月から1942年3月までに500機が生産された。その後のD-2型、D-5型なども併せてD型は1944年春の生産終了までにに3,300機が量産されたが、これはユンカースJu 87急降下爆撃機の総生産機数5700機の6割以上に相当する。

写真(右)1944年6月28日、フィンランド、未舗装の飛行場で250キロ爆弾を搭載しようとしているドイツ空軍第3突撃航空団(SG3)ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D-5型:爆弾の運搬、搭載、懸架に便利なように、ジャッキと車輪を備えた爆弾懸架装置がある。但し、多数の地上整備員がいる場合には、人海戦術のほうが迅速に対処できた。
Pommitusmatkan jälkeen mekanikot kiireesti kiinnittävät Stukaan uudet pommit. Kuvan lentokone on Junkers Ju 87 D-5.
Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-28
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA sa-kuva-143409引用。


ドイツ空軍は、重量別では50キロ爆弾、250キロ爆弾、500キロ爆弾、1トン爆弾などを多用した。爆弾の用途別・構造別種類には、SC(Splitterbombe Cylindrisch)破壊円筒型爆弾(通常弾)、SD(Spilitterbombe Dickwand)破壊散布爆弾(破片弾)、PC(Panzerbombe Cylimdrisch) 対装円筒型爆弾(徹甲弾)、AB(親子爆弾)、BT(Bomben torpedo)魚雷型爆弾などがあった。何れも信管、構造が堅牢であり、信頼性の高い爆弾だった。不発弾や対象物に命中して破損してしまうような日本陸軍の爆弾よりも遥かに有効性が高かった。

舗装されていない滑走路が一般的だった地中海方面や東部戦線では、エンジン内部に砂塵が吸い込まれて、エンジンが故障するリスクが高まった。そこで、砂塵がエンジン内部に入らないように、エンジンのエアインテークには砂塵除けのフィルターが装着されるようになった。先端部にあるの開閉式吸入口は開いている。低空でなければ、砂塵は少ないので、吸入口の扉は開けているが、地上では砂塵が多いので、口を閉じて円筒状のフィルター越しに空気を吸入する。

高速を出せば、風圧により空気取入れ口(エアインテーク)に流れる空気は、十分にあるが、ラジエーターが、風圧を利用して熱したエンジン冷却液を冷やすためには、大きく張り出すことが必要である。しかし、大きく張り出したラジエータの空気取入れ口(エアインテーク)は、空気抵抗が大きく、速度減少など飛行性能を低下させる。ラジエーターの空気抵抗を減らすためには、空気取入れ口の開口部を胴体や主翼の境界層の外に設けるのが効果的である。これは、境界面での空気の流れを妨げない工夫で、空気抵抗を減らす効果もある。

アメリカのノースアメリカンP-51 ムスタング戦闘機の空気取入れ口(エアインテーク)も、機体下部の中央部にあるが、境界層を乱さないように突出した形状になっている。他方、Bf109 戦闘機E形までは、エアインテークを境界層に設けており、境界層から離して吸入口を設けたのはF型以降である。日本陸軍キ61川崎三式戦闘機のエアインテークは、最後まで境界層に設けられていた。

Messerschmitt Me 109 Fは,機首にモーターカノンとしてマウザー(モーゼル)15.1ミリMG151機関銃または20ミリMG151/20 機関銃,ラインメタル13.1ミリMG131機銃 2丁,主翼に機銃は装備しなかった。ダイムラー・ベンツDB601エンジン (1200馬力),最大速度630キロ, 航続距離 580キロ。モーターカノンには、F-3型までは15.1ミリMG151機関銃1丁(ベルト給弾200発)、F-4型以降は20ミリMG151/20機関銃(ベルト給弾150発)をエンジン後方に装備。機首上面の7.92ミリMG17機銃(2丁)は、初速840m/秒、発射速度1000発/分、ベルト給弾1丁当たり500発、合計1000発を装備した。モーターカノンを搭載した連合軍機は、アメリカのベルP-39エアコブラが37ミリ機関砲を備えていた。Ju87急降下爆撃機は主翼にマウザー(モーゼル)20ミリMG151/20 機関銃を装備して、地上襲撃能力を向上させている。

写真(右)1944年6月28日、フィンランド、離陸直前のドイツ空軍第3突撃航空団(SG3)所属と思われるユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D-5型:3機編隊(ケッテ)を組んでタキシング中で、主側下面のETC50ラックに50キロ爆弾、胴体下面のETC501ラックに250キロ爆弾を搭載している。
Ju 87 eli Stuka- syöksypommittajat lähdössä pommitusretkelle, Talin siltoja tuhoamaan.
Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-28 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA sa-kuva-130174引用。


ドイツ空軍のユンカースJu87急降下爆撃機部隊指揮官クルト・クールマイKurt Kuhlmey:1913-1993)は、ソ連と戦うフィンランドに1944年6月に派遣された増援部隊を率いた。特に、フィンランド南部の要衝カレリア地峡を攻撃してきたソ連軍に対する防衛の任務に就き、フィンランド軍カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム元帥の援軍となった。クルト・クールマイの航空兵力は、フォッケウルフFw-190戦闘機A-6とユンカースJu-87急降下爆撃機D-5であり、70機を擁していた。wikipedia日本語版は「タリ=イハンタラの戦いにおいてはフィンランドの限定的勝利に大きく貢献した。ソ連によるカレリアへの組織的な大攻勢は7月13日を以って下火になり、クールマイ戦闘団は8月14日にはエストニア方面へ撤収し解散した」と英語版を参考に訳している。

しかし、実際には、フィンランドはドイツ側に立って戦い続けることがアメリカ、いる義リストの対立を深めるだけであることを懸念しており、ソ連との戦争も講和したい状況にあった。フィンランドは、マンネルハイム元帥の承諾の下で、ドイツに秘密裏にソ連と和平交渉を始めており、1941年6月25日に始まった継承戦争は、事実上のフィンランド降伏で1944年9月4日に終戦となっている。そして、講和条件の一つとして、フィンランドはドイツに宣戦布告することになる。このような継続戦争の顛末を知れば、フィンランドが援軍にやってきたドイツ軍を積極的に歓迎したかどうか。wikipedia日本語版の言うように「クールマイは、フィンランドで現在もなお「救国の英雄」として称揚されている」というのは大いに疑義がある。

写真(右)1944年7月2日、フィンランドに駐屯したドイツ空軍第一航空軍アルフレート・ケラー司令官隷下、第54戦闘航空団(JG54)「グリュン・ヘルツ」所属フォッケウルフFw-190戦闘機A-6型の上空を飛翔するユンカースJu87急降下爆撃機D型の大編隊:1943年から、JG54の第1、2、4飛行戦隊は、ドイツ軍の北方軍集団を支援するため、ラトビア、エストニア、クールラント、東プロイセン地域で戦った。フォッケウルフFw-190戦闘機A-6型は、主翼付け根にプロペラ同調装置付きのは20ミリMG151/20機関銃(ベルト給弾250発)を搭載し、プロペラを通して発射した。
Maataistelukoneen mekanikko hoitaa isäntänsä lintua ``Stukien ́ ́ saapuessa pommitusretkeltä. Lentokone on Focke-Wulf Fw 190 A-6, taivaalla on Stuka -lentokoneita.
Vähemmän Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1944-07-02
写真はフィンランド博物館,MUSEOT FINNAsa-kuva-143670 引用。


第54戦闘航空団Jagdgeschwader 54 )第1飛行戦隊は、第70戦闘航空団第1飛行隊として、1939年7月、ニュルンベルクで編成されたたため、エンブレムは、ニュルンベルクの紋章に由来する「緑のハート」となった。第54戦闘航空団第1飛行戦隊が成立したのは、第二次大戦勃発直後の1939年9月15日だった。

第54戦闘航空団Jagdgeschwader 54 )第2飛行戦隊は、第138戦闘航空団第1飛行戦隊として、1938年のアンシュルス以降に、オーストリアで編成され、1940年4月に第54戦闘航空団第2飛行戦隊となった。


写真(上)1944年、フィンランド、ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D-5型のコックピットと7.92ミリMG81Z連装旋回機関銃
:ドイツ空軍第3突撃航空団(SG3)か。ユンカース(Junkers)Ju87DはBよりもエンジン出力を向上させ、主翼には20ミリMG151/20機銃を装備、地上機銃掃射能力を強化した。ドラム缶の容積は1缶当たり200リットル、44ガロン相当である。Ju87D型の機内燃料搭載量は1,370リットルであるから、Ju87は1機でドラム缶6本分の燃料を搭載する。
Syöksypommituskone huollossa. (Ju 87)
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: undated Sot.virk.Niilo Helander, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA sa-kuva-130173引用。


第54戦闘航空団Jagdgeschwader 54 )第3飛行戦隊は、プロイセンの第21戦闘航空団第1飛行戦隊が起源で、第二次大戦直前の1939年7月15日に成立した。1939年9月のポーランド侵攻には、第54戦闘航空団の第2飛行戦隊、第3飛行戦隊が参加している。この第54戦闘航空団は、1944年にフィンランドに増援部隊として派遣され、ソ連軍と戦うことになった。

1933年にルーマニア王立陸軍参謀総に就任したイオン・アントネスクIon Antonescu)将軍は、1937年には国防大臣を務めたが、国家主義的武装団体の鉄衛団と連携しようとして、反政府活動の容疑で投獄された。すぐに釈放されたが、今度は、ソ連の領土割譲要求を拒否すべきであるとの国家主義的立場をとり、国王カロル2世と対立し、再度投獄された。しかし、ドイツの働きかけで、イオン・アントネスクIon Antonescu)は、1940年に釈放されると、反ソ連の立場を明確にして、カロル2世を退位させ、自らが政府首班となった。ヒトラーを真似て、国民投票を行い、「国家指導者」という独裁的地位に就任した。

写真(右)1944年頃、フィンランド、飛行中のドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D-5型 (登録コード: S7+GK):胴体下面には250キロ爆弾、主翼下面には50キロ爆弾を搭載しているので対地攻撃に出動している最中であろう。
Syöksypommittaja (Ju 87). Kuvan lentokone on Junkers Ju 87 D-5 (tunnus S7+GK).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1944-06-28
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA sa-kuva-151321引用。


1944年1月、ドイツ軍を排除してレニングラード包囲を解いたソ連軍は、カレリア地峡を経てフィンランドへの圧力を強めた。この時期、イタリアは脱落してた枢軸軍の劣勢は明白であり、フィンランドはソ連との講和を考えていたが、カレリア地峡の割譲、駐留するドイツ軍の排除という要件は、フィンランド側には受諾するのは困難だった。イタリアは1943年に連合国に降伏したが、その直後に駐留ドイツ軍によって占領されていたからである。しかし、1944年6月9日に、西側連合軍が、北フランス、ノルマンディー海岸に上陸して大陸反攻が本格化すると、ソ連軍も攻勢を開始し、レニングラードからカレリア地峡への侵攻を開始した。フィンランド軍のカレリア地峡の防衛戦は突破されたが、フィンランドに6月22日に赴いたドイツ外相リッベントロップは、フィンランド大統領リュティの対ソ戦争継続の言質をとり、クールマイ率いる空軍部隊、第303突撃砲旅団を増援部隊としてフィンランドに派遣した。


写真(上)1944年頃、フィンランド、編隊飛行中のドイツ空軍第3突撃航空団(SG3)ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D-5型
:胴体下面には250キロ爆弾、主翼下面には50キロ爆弾を搭載している。三機編隊を組んでいる。ドラム缶の容積は1缶当たり200リットル、44ガロン相当である。Ju87D型の機内燃料搭載量は1,370リットルであるから、Ju87は1機でドラム缶6本分の燃料を搭載する。
Syöksypommittajat palaavat kotiin. Lentokoneet SG3:n Junkers Ju 87 D-5.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: undated Sot.virk.Niilo Helander, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA sa-kuva-151339引用。


ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D1型は、従来のユモJumo210液冷エンジンに代えて、排気量の大きく強力なダイムラー・ベンツDB 603液冷エンジンの搭載を計画していたが、このエンジンの量産能力は低く、ダイムラー・ベンツの液冷エンジンは新型のMe 410戦闘機用に優先配備されることになっていたために、D型にはユンカースJumo 211の出力強化型が回されることとなった。Ju 87 D型は、潤滑油冷却器(オイルクーラー)やエンジン冷却器(ラジエーター)の配置方式を変更し、視界を向上するためにガラス風防(コックピット)を大型化している。また、防御力を向上するために、後方旋回機銃を単装の7.92mm MG15機銃から、7.92mm MG 81Z 連装機銃へと強化し、発射速度も3倍となった。発動機は、出力を向上したユモJumo211J 1,420馬力(1,044kWp)に変換している。

ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機の爆弾搭載能力はB型では500キロだったが、D型では1トンに増大している。D型の機内燃料搭載量は1,370リットルであり、滞空時間は2時間以上あった。また、300リットル入り増加燃料タンク2個を搭載した状態では、滞空時間は4時間に延長可能だった。

写真(右)1944年頃、フィンランド、基地に帰投してきたドイツ空軍ドイツ空軍第3突撃航空団(SG3)ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機D-5型 (登録コード: S7+AK):胴体下面には250キロ爆弾、主翼下面には50キロ爆弾を敵地に降下した対地攻撃に出動したもであろう。
Kotikenttä on alla. Syöksypommittajat palaavat. Kuvan oikeassa reunassa SG3:n Junkers Ju 87 D-5 (S7+AK).
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: undated Sot.virk.Niilo Helander, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA sa-kuva-151321引用。


ヘルシンキ・マルミ空港は、1930年代から首都ヘルシンキの国際空港として使用され、国内路線としても、極地のペツァモ(Petsamo)まで結ばれていた。1939年、ソ連との冬戦争が勃発すると、マルミ空港は、フィンランド空軍が接収し、軍飛行場となった。また、1941年6月からのソ連との継続戦争でも軍飛行場として、ヘルマン・ゲーリングのドイツ空軍機も駐留した。しかし、1944年9月にフィンランドがソ連と休戦すると、マルミ空港はソ連軍の管理下に置かれることになった。

フィンランド派遣ドイツ空軍ユンカースJu-87急降下爆撃機を見る。


12.1944年、フィンランド空軍のユンカース(Junkers)Ju88爆撃機A-4型

写真(右)1944年4月1日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場、フィンランド空軍第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )ユンカースJu88爆撃機A-4型 (JK-267);エンジン故障か、燃料の節約の為か、エンジンを始動せずに、トラクターで牽引されて移動する爆撃機。
Traktori vetää JK-konetta kiitoradalle. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Traktori vetää JK-konetta kiitoradalle. Junkers Ju 88 A-4 Luonetjärven kentällä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-04-01 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja.
写真はMuseot Finne・sa-kuva-123244引用。


マンネルハイム元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。

このような対ソビエト戦争の戦意高揚を無視して、マンネルハイム元帥は、ヒトラーとの共闘を臨んでいなかった、ヒトラーによる誕生日訪問を迷惑に思っていたなどと邪推するのは、見当違いであろう。1917年のロシア革命後、ボリシェビキ勢力が伸長し、赤軍を組織して共産主義革命を進めたとき、フィンランドでは、、ロシア共産党のボリシェビキに賛同したフィンランド共産主義者、共産党員、赤軍が政権奪取を図った。それに対して、反革命軍、白軍を組織して、革命派を武力鎮圧したのが、マンネルハイムである。この経緯を踏まえれば、マンネルハイムもヒトラーも、フィンランドもナチス・ドイツも、ともに反共産主義として、ソビエト連邦、ヨシフ・スターリンを警戒し、チャンスがあれば、彼らを無害化、中立化したかったに違いない。


写真(上)1944年4月1日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場、フィンランド空軍第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )ユンカースJu88爆撃機A-4型 (JK-267)
:機首のダイヤモンド型風防の右半分には、黒のカバーがかかっている。機首上面のコックピットの側方にも黒のカバーがある。遮光のためのカーテンのようだ。主翼下面にカギ十字(スワスチカ)が見えるが、これは白地に青のハカリスティで、1928年にフィンランド空軍が独立する以前から用いられていた。Ju88はエンジン故障ではなく、燃料の節約の為か、エンジンを始動せずに、トラクターで牽引するために、ワイヤーが結ばれている。まだ、ワイヤーを牽引車に結んでいないので、手前の雪の上に、よれたワイヤーは垂れたままになっている。
Traktori vetää JK-konetta kiitoradalle. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Traktori vetää JK-konetta kiitoradalle. Junkers Ju 88 A-4 Luonetjärven kentällä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-04-01 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja.
写真はMuseot Finne・sa-kuva-123243引用。


フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。

当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。

しかし、1944年、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を忌避するために唱えられた方便であろう。

写真(右)1944年4月1日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場を発進するフィンランド空軍第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )所属のユンカースJu88爆撃機A-4型(フィンランド軍登録コード:JK-267、製造番号WerkNr. 3888、ドイツ軍登録コード DJ+TH ) ;胴体後方側面には、鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)が描かれているが、これは白丸に青の鍵十字を描いたフィンランド軍の国籍識別マークで、1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年の対ソ講和の時に廃止した。
Jk-kone ennen lähtöä. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Jk-kone ennen lähtöä. Junkers Ju 88 A-4 Luonetjärven kentällä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-04-01 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja .
写真はMuseot Finne・sa-kuva-123245引用。


フィンランド空軍ユンカースJu88爆撃機A-4型(フィンランド軍登録コード:JK-267、製造番号WerkNr. 3888、ドイツ軍登録コード DJ+TH)は、1943年4月11日に、ドイツ軍からフィンランド軍に譲渡された。機体の塗装は、ドイツ軍仕様だったので、ドイツの白の鉄十字国籍マークも薄く残っている。1942年5月3日設立の第44飛行中隊(LeLv. 44)に配属されたが、1944年7月29日、離陸に際して事故で損傷した。第44飛行戦隊[中隊:Squadron](LeLv. 44)は、1944年2月14日に、第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )と名称を変更した。

写真(右)1944年4月1日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場、フィンランド空軍ユンカースJu88爆撃機第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )所属A-4型;エンジンを駆動し、プロペラが回転しているが、記念撮影のために、コックピットにある操縦士の窓は開放されている。日本軍の爆撃機には、このような開閉窓は、重量軽減を優勢して採用されていなかった。
Jk-kone ennen lä.htöä. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Jk-kone ennen lähtöä. Junkers Ju 88 A-4 Luonetjärven kentällä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-04-01 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Lentäjäpojat. Lentäjäpojat. Lentokone on Junkers Ju-88 A-4.
写真はMuseot Finne・sa-kuva-123248引用。


写真(右)1944年4月1日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場、フィンランド空軍ユンカースJu88爆撃機A-4型;エンジンを駆動し、プロペラを回転させ、雪の飛行場をエンジンを最大出力の離昇出力で滑走し離陸する。第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )と思われる。
Jk-kone ennen lä.htöä. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Jk-kone ennen lähtöä. Junkers Ju 88 A-4 Luonetjärven kentällä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-04-01 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Lentäjäpojat. Lentäjäpojat. Lentokone on Junkers Ju-88 A-4.
写真はMuseot Finne・sa-kuva-123249引用。


1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi)が描かれている。ドイツでも、カギ十字(卍)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。

写真(右)1944年6月、フィンランド、大型の掩体壕に待機するフィンランド空軍第44爆撃中隊(LeLv. 44)ユンカースJu88爆撃機A-14型JK-256の機首;ゴンドラ先端の爆撃照準窓を20ミリMGFF機関銃の銃座とし、対艦船機銃掃射、対空砲火を沈黙させ、対艦船攻撃を意図した.。主翼の懸架ラックには、内側にSC 500キロ爆弾、外側にSC250キロ爆弾を搭載している。爆弾には、白ペイントで「ドクロと骨」落書きアートがしてある。このJu88は、元はA-4型でゴンドラに樹幹中を装備したA-14型に改修された。1943年4月30日にドイツ軍のJu88A4/A14爆撃機(登録コードGL+QM)が、フィンランド軍に譲渡され、登録コード JK-256を与えられた。1944年7月に、フィンランドはソ連と講和し、連合軍の一員として、ドイツと戦った。この機体は、1944年10月10日、ドイツ軍戦闘機によって撃墜された。
Syöksypommituskone Junkers Ju 88 (JK9, huomaa ``tatuoidut ? ? pommit. Kesäkuu 1944. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Syöksypommituskone Junkers Ju 88 (JK9, huomaa ``tatuoidut ? ? pommit. Kesäkuu 1944. Lentokone on Junkers Ju 88 A-4. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: ajoittamaton Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はMuseot Finne・sa-kuva-121050引用。


飛行機用の掩体壕は、 (1)周囲に土手を築き、内側を木材で固めてあり、上空から地上に駐機する飛行機を発見できないようにする偽装の効果、
(2) 機銃掃射・爆弾などの空襲の被害を受けにくく防衛上の効果、
の2点が企図されている。

写真(右)1944年6月、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場、フィンランド空軍第44爆撃中隊(LeLv. 44)ユンカースJu88爆撃機A-14型JK-256の機首;もとはドイツ軍のJu88爆撃機(登録コードGL+QM)で、1943年4月30日にフィンランド空軍に譲渡され、対ソビエト攻撃に使用された。ゴンドラ先端の爆撃照準窓を20ミリMGFF機関銃の銃座とし、対艦船機銃掃射、対空砲火を沈黙させ、対艦船攻撃を意図した。
Pommituskoneen nokka, edessä tykki Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Pommituskoneen nokka, edessä tykki. Tyyppi Junkers Ju 88 (JK). Kesäkuu 1944. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: ajoittamaton Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はMuseot Finne・sa-kuva-121050引用。


フィンランド空軍第44爆撃中隊(LeLv. 44)のユンカースJu88爆撃機A-14型(フィンランド軍登録コードJK-256)は、元はA-4型でゴンドラに樹幹中を装備したA-14型に改修された。1943年4月30日にドイツ軍のJu88A4/A14爆撃機(ドイツ軍登録コードGL+QM)が、フィンランド軍に譲渡され、登録コード JK-256を与えられた。

1941年7月から1944年7月まで、フィンランドは、継承戦争Continuation War)と称して、1939年の冬戦争に敗北して失ったカレリア地方を奪還しようとソ連赤軍と戦っていた。フィンランドは、アメリカ、イギリスとは戦うつもりがなかったが、ドイツ軍を一手に支えているソ連赤軍をドイツと同盟して攻撃した以上、西側連合国もフィンランドの対ソ戦は戦うが、対米英は中立だという詭弁を受け入れなかった。結局、フィンランドは、対ソ戦勝利が不可能である以上、大きな損害を蒙らないうちに、継承戦争Continuation War)を打ち切って、ソ連と講和するしかなたった

このフィンランドの裏切り・転向を決断し、実行したのは1944年8月4日、フィンランド大統領に就任したフィンランド軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥である。1944年7月に、フィンランドはソ連と休戦交渉していたが、新大統領カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥は、それを進めて、1944年9月19日にモスクワ休戦協定を結んで講和した。これは、事実上、体面を保った降伏だったが、講和条件の一つが、ドイツ軍の排除であり、フィンランドは連合軍の一員として、ドイツと戦うことになった。このJu88爆撃機JK256は、1944年10月10日、ドイツ軍戦闘機によって撃墜された。

写真(右)1944年6月12日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場、簡易舗装した駐機場でフィンランド空軍ユンカースJu88爆撃機A-4型;エンジンを駆動し、プロペラを回転させ、夜間出撃するのか。1トン爆弾懸架ラック、500キロ爆弾懸架ラックが明瞭に写っている。
JK-kone lähtövalmiina. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja JK-kone löhtövalmiina. Pommituslentolaivue 44:n 3. lentueen Junkers Ju 88 A-4. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-06-12 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はMuseot Finne・sa-kuva-120805引用。


フィンランド軍にとっても、白丸に青の鍵十字を描いたカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、軍の国籍識別マークで、1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年の対ソ講和の時に廃止した。

写真集:⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機 を見る。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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