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◆オランダのフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI)戦闘機
写真(上)1942年6月28日、ドイツ軍の支援を受けて建造したフィンランド空軍オランダ製フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI)
;1936年3月初飛行、胴体構造は鋼管溶接骨組みに前半は金属外皮、後半は羽布張り、主翼は木製、固定脚という堅牢な設計だった。当初は、発動機は、イギリスのブリストル マーキュリー(Bristol Mercury)VI S空冷星型9気筒エンジン 645馬力で、最高速力 395 km/h、航続距離 900 km。上昇限度 9000 m、兵装 7.92ミリ機銃4丁。フィンランドでの改良型は、発動機ブリストル マーキュリー(Bristol Mercury)VIII空冷星型9気筒エンジン 830馬力、最高速力 460 km/h、航続距離 930 km、上昇限度 11,350 m、上昇時間 6,000 m/7.5分、兵装 7.7ミリヴィッカース(Vickers)機銃4丁。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Content Type?Photo Organisation Military Museum
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-13129引用。

写真(上)1943年10月18日、フィンランド、ヘルシンキ東100キロ、キュメンラークソの飛行場で待機するフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機
;1941年の継続戦争勃発時には、第32飛行隊のフォッカー(Fokker) D.XXI戦闘機が、ヘルシンキとレニングラードの中間にあるキュメンラークソ地域の防衛に当たった。
Lentolaivue 32:n Fokker D.XXI -hävittäjät suojasivat jatkosodan alussa utin kentältä Kymenlaakson aluetta ja Kannaksen suuntaan keskitettäviä joukkoja. Erik Blomberg, valokuvaaja Lentolaivue 32:n Fokker D.XXI -hävittäjät suojasivat jatkosodan alussa utin kentältä Kymenlaakson aluetta ja Kannaksen suuntaan keskitettäviä joukkoja. Tiedot teoksesta Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 35.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166337引用。



写真(上)2012年6月、オランダ中部、ゼイスト(Zeist)、オランダ王立空軍博物館(Militaire Luchtvaart Museum)で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機
;第二次世界大戦前、オランダのフォッカー D-21は1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。第二次大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカーD-21戦闘機30機を配備。
Description Fokker D-XXI Date 11 June 2012, 20:47 Source Fokker D-XXI Author happy days photos and art .
写真は Wikimedia Commons, Category:Aircraft at Militaire Luchtvaart Museum File:Fokker D-XXI (7177526849).jpg引用。

1.オランダ陸軍航空隊フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機

写真(右)1939年頃、オランダ、舗装滑走路に整列した4機のオランダ空軍フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機試作1号機FD-322:機体番号FD-322は後にフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機となるフォッカー戦闘機試作1号機である。
Fokker, D.XXI Title: Fokker, D.XXI Corporation Name: Fokker Additional Information: Germany Designation: D.XXI Tags: Fokker, D.XXI.
写真は,SDASM Archives Catalog #: 01_00079813用。


フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機は、1934年11月14日、フォッカー社の自主開発で、オランダ陸軍航空隊向けに設計され、オランダのアムステルダム郊外のフォッカー工場で開発された。フォッカー(Fokker)D.XXIの前作のフォッカー C.X、フォッカー D.XVIIといったフォッカー戦闘機の流れを汲み、低翼単葉、密閉式コックピットを採用したが、降着装置は固定脚だった。

写真(右)1939年頃、オランダ、飛行するオランダ空軍フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機試作1号機FD-322:初飛行1936年3月27日、生産機数148機。オランダ本国よりもフィンランドが購入し、対ソ連「冬戦争」(talvisota)に投入され高い評価を得た。
Fokker, D.XXI Title: Fokker, D.XXI Corporation Name: Fokker Additional Information: Germany Designation: D.XXI Tags: Fokker, D.XXI.
写真は,SDASM Archives Catalog #: 01_00079811用。


フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機は、当初イギリス製ロールスロイスの発動機ロイス・ケストレルIVエンジンを搭載する予定で、飛行性能は、最高速力420km/h、航続距離888km、実用上昇限度10,000mだった。1935年初頭、オランダ陸軍航空隊は、このフォッカーの新鋭戦闘機試作機1機を承認し、オランダ領東インド、すなわち植民とインドセシアに配備する計画をしていた。

写真(右)1938年6月15日、オランダ、飛行するオランダ空軍フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機試作1号機FD-322:初飛行1936年3月27日、生産機数148機。オランダ本国よりもフィンランドが購入し、対ソ連「冬戦争」(talvisota)に投入され高い評価を得た。
Čeština: Fokker D-XXI (motor Merkur VI) Date 15 June 1938 Source Bulletin Walter, Letecké vzduchem chlazené motory Walter, Vol. 1938, No. 2 (June), 60 p., Publisher: Akciová společnost Walter, továrna na automobily a letecké motory, Praha XVII - Jinonice in Státní oblastní archiv v Praze (State Regional Archives in Prague), Archivní 4, 149 00 Praha 4, Fond Walter, a.s., No. NAD 1914.
写真は Wikimedia Commons,Category:Fokker D.XXI in service with the Royal Netherlands Air Force File:Fokker D-XXI (motor Merkur VI).jpg用。


1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

写真(右)1939年頃、オランダ、舗装滑走路に整列した4機のオランダ空軍フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機:イギリス製ブリストル(Bristol)・マーキュリー(Mercury)VI-S空冷星型9気筒エンジン (排気量24.9 L) 510 hp (380 kW)を搭載した機体番号212,213,214,215。フォッカーD.XXIと命名された試作1号機は、1936年3月27日に初飛行した。
Fokker, D.XXI Title: Fokker, D.XXI Corporation Name: Fokker Additional Information: Germany Designation: D.XXI Tags: Fokker, D.XXI.
写真は,SDASM Archives Catalog #: 01_00079812用。


オランダの世界的航空機メーカーのフォッカー社は、1934年11月に、オランダ陸軍航空隊に向けて、新戦闘機の開発案を提言し、フォッカー主任設計技師エリク・シャハトッツキが担当した。この新鋭戦闘機は、オランダ領東インド(蘭印)植民地防衛のために配備される予定で、1935年に試作機開発が認可された。

  後に フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機となるフォッカー戦闘機試作1号機は「FD-322」と命名され、イギリス製ブリストル(Bristol)・マーキュリー(Mercury)VI-S空冷星型9気筒エンジン (排気量24.9 L) 510 hp (380 kW)を搭載し、3翅2段可変ピッチプロペラを装備し、1936年3月27日、アイントホーフェンのウェルシャップ飛行場で初飛行した。

写真(右)1938年6月15日、オランダ、オランダ陸軍航空隊フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機の編隊飛行:機体番号212,213,215。イギリス製ブリストル(Bristol)・マーキュリー(Mercury)VI-S空冷星型9気筒エンジン (排気量24.9 L) 510 hp (380 kW)を搭載。
Nederlands: Fokker D.XXI 212, 213 en 215. 212 en 215 behoorden tot de 1e JaVA van het 2e Luchtvaartregiment op Ypenburg (Nl), 213 tot de 2e JaVA op Schiphol. Date 18 May 2020 Source Own work Author scan Ad Meskens.
写真は Wikimedia Commons,Category:Fokker D.XXI in service with the Royal Netherlands Air Force File:Fokker D.XXI 01.png用。


1937年、フォッカー(Fokker)D.XXIは、36機の発注を受け、1938年7月20日、オランダ陸軍航空隊向けの初の量産型 フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機が初飛行した。そして、1939年9月8日、量産型フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機36機が部隊配備が完了した。これは、ドイツのポーランド侵攻、英仏の宣戦布告で始まった第二次大戦勃発の1週間後のことである。

写真(右)1938年6月15日、オランダ、オランダ陸軍航空隊フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機(213、215.、215)の編隊に護衛されるフォッカー(Fokker)T.V爆撃機:機体番号212,213,215。
Nederlands: Nederlandse Fokker T.V geëscorteerd door twee Fokker D.XXI 213 en 215. 215 behoorde tot de 1e JaVA van het 2e Luchtvaartregiment op Ypenburg (Nl), 213 tot de 2e JaVA op Schiphol. T.V 852 werd niet aan de luchtmacht geleverd, maar stond bij de Duitse inval nagenoeg afgewerkt op Schiphol. De oorsprong van de foto is niet duidelijk. English: Dutch Fokker T.V escorted by two Fokker D.XXI 213 and 215. Date before 1940 Source Own work (scan) Author Ad Meskens.
写真は Wikimedia Commons,Category:Fokker D.XXI in service with the Royal Netherlands Air Force File:Fokker T.V escorted by two Fokker XXI.png用。


オランダ陸軍航空隊フォッカー(Fokker)T.V爆撃機は、イギリス空軍ブレニム(ブレンハイム)爆撃機と同様、攻撃力を兼ねた双発爆撃機として開発され、機首に20ミリ機関砲を装備し、当時強力な1000馬力エンジンを装備した。1937年10月16日初飛行し、1938年に部隊配備されたものの、生産機数は16機のみにとどまった。

フォッカー(Fokker)T.V双発爆撃機の諸元
搭乗員Crew: 5 (操縦士, 副操縦士, 爆撃手, 通信士, 銃手)
全長Length: 16 m (52 ft 6 in)
全幅Wingspan: 21 m (68 ft 11 in)
全高Height: 4.2 m (13 ft 9 in)
主翼面積Wing area: 66.2 m2 (713 sq ft)
空虚重量Empty weight: 4,650 kg (10,251 lb)
総重量Gross weight: 7,250 kg (15,984 lb)
最大離昇重量Max takeoff weight: 7,650 kg (16,865 lb)
発動機Powerplant: ブリストル(Bristol)ペガサス(Pegasus)XXVI 9気筒空冷星形エンジン 690 kW (930 hp)2基h
プロペラPropellers: 3翅可変ピッチ(variable-pitch)
性能Performance
最高速力Maximum speed: 417 km/h (259 mph, 225 kn)
巡行速力Cruise speed: 335 km/h (208 mph, 181 kn)
航続距離Range: 1,550 km (960 mi, 840 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 8,550 m (28,050 ft)
上昇時間Time to altitude: 5,000 m (16,404 ft) in 13 minutes 6 seconds
兵装Armament
1 × 20 mm (.38 in) Vliegtuigmitrailleur M.37 (Solothurn S18-350) 機関砲(機首)
5 × 7.92 mm (.31 in) Mitrailleur M.20 Vliegtuig (Lewis gun without jacket) 胴体後上方、左右、下方、尾部
爆弾最大搭載量Bombs: 1200 kg (2,645 ポンド)

写真(右)1939年頃、オランダ、舗装滑走路に整列した4機のオランダ空軍フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機:主翼左右上下と胴体側面には1937年に制定された赤、白、青のオランダ三色国旗(トリコロール)からとった国籍マークが描かれている。イギリス製ブリストル(Bristol)・マーキュリー(Mercury)VI-S空冷星型9気筒エンジン (排気量24.9 L) 510 hp (380 kW)を搭載。
Fokker, D.XXI Title: Fokker, D.XXI Corporation Name: Fokker Additional Information: Germany Designation: D.XXI Tags: Fokker, D.XXI.
写真は,SDASM Archives Catalog #: 01_00079812用。


1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻、理由は、スウェーデンの鉄鉱石を不凍港ナルビクNarvik)を通じて安定して輸入するためだったが、イギリスがノルウェーの機雷封鎖や保障占領を企図していることもあった。このノルウェー侵攻「ウェーゼル演習作戦」では、四発大型旅客輸送機ユンカースJu-90が、オスロに兵員を輸送した。デンマークは侵攻初日の4月9日、国王クリスチャン10世Christian 10)、デンマーク政府が即座に降伏したが、ノルウェーは、イギリス軍の支援を受けて、激しく戦った。しかし、ドイツ軍のフランス侵攻で、5月下旬にはフランスの危機、イギリスの孤立化が確実になったため、ノルウェーの連合軍は6月に撤退した。ノルウェーには傀儡ヴィドクン・クヴィスリングVidkun Quisling)政権が樹立され、ドイツ潜水艦Uボートの基地となった。

図(右)、オランダ空軍フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機の三面図 :第一次大戦中のフォッカー戦闘機以来、D.XXXIのようにローマ数字を形式名としていたが、1930年代後半にはD.21とアラビア数字を形式名とするように変更された。しかし、長らくローマ数字化されていたフォッカー機は、アラビア数字に変更後も、ローマ数字で表記されるのが普通だった。
English: Fokker D.XXI fighter Date 16 November 2010 Source Own work Author Kaboldy .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI File:Fokker D.XXI.svg引用。


フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機の諸元
乗員Besatzung 1名
全長Länge 8,20 m
全幅Spannweite 11,00 m
全高Höhe 2,95 m
主翼面積Flügelfläche 16,20 m²
空虚重量Leermasse 1450 kg
総重量Startmasse 2050 kg
発動機Antrieb:ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)VIII 空冷9気筒エンジン830 PS (610 kW)
最高速力Höchstgeschwindigkeit 460 km/h
上昇限度Dienstgipfelhöhe 11.350 m
航続距離Reichweite 930 km
兵装Bewaffnung:F.N.-ブローニング(Browning) M36 7,92-mm機関銃4挺

ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)は、1918年試作の ブリストル・ジュピター(Jupiter)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L) 550 hp (414 kW)の発展型で、1925年に試作機が完成し、その後、イギリス空軍ブリストル・ブレニム(Bristol Blenheim)双発爆撃機、グロスター・グラジエーター(Gloster Gladiator)戦闘機の発動機として採用され、総計で2万700台が生産された。 後継機はブリストル・ペガサス(Pegasus)空冷9気筒エンジンエンジン(排気量28.7 L)965 hp (720 kW) である。


0:02 / 0:37 Fokker D.XXI aircraft crew briefing and takeoff from Eelde airfield, 1939. (no sound)



2.オランダに現存するフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機

写真(右)2013年1月、オランダ中部、ゼイスト(Zeist)、オランダ王立空軍博物館(Militaire Luchtvaart Museum)で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機 :第二次世界大戦前、オランダのフォッカー D.XXIは1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。第二次世界大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカーD-21戦闘機30機を配備していたが、フィンランドも完成機7機、ノックダウン方式14機を購入しており、国営工場で21機を生産している。
Description IMG_7769 Date 3 January 2013, 02:17 Source IMG_7769 Author Clemens Vasters from Viersen, Germany.
写真は Wikimedia Commons, Category:Aircraft at Militaire Luchtvaart Museum File:Militaire Luchtvaart Museum D.XXI 030113.jpg引用。


第二次世界大戦前、オランダのフォッカー(Fokker)D.21は1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。第二次大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカー(Fokker)D.21戦闘機30機を配備していたが、フィンランドも完成機7機、ノックダウン方式14機を購入しており、国営工場で21機を生産している。


写真(上)2009年6月、オランダ中部、ゼイスト(Zeist)、オランダ王立空軍博物館(Militaire Luchtvaart Museum)で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機

Description Fokker D.XXI Source Own work Author Stahlkocher Permission (Reusing this file) This picture may have usage restrictions .
写真は Wikimedia Commons, Category:Aircraft at Militaire Luchtvaart Museum File:Fokker D.XXI Soesterberg.jpg引用。


第一次大戦中に多数の戦闘機を開発し有名になったフォッカー社では、D.XXXIのようにローマ数字を飛行機の形式名として採用していた。しかし、1930年代後半には、フォッカー(Fokker)D.21のようにアラビア数字を形式名称とするように命名システムを変更した。しかし、第一次大戦以降も長らくローマ数字で表記され世界中で有名だったフォッカー機のブランドは、命名法がアラビア数字に変更されて以降も、依然として、ローマ数字で航空機の形式を表記されるのが常だった。この慣用的なフォッカー機の表記方法は、なんと21世紀になっても引き継がれている。

写真(右)2012年6月、オランダ中部、ゼイスト(Zeist)、オランダ王立空軍博物館(Militaire Luchtvaart Museum)で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機 :第二次世界大戦前、オランダのフォッカー D-21は1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。第二次世界大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカーD-21戦闘機30機を配備していたが、フィンランドも完成機7機、ノックダウン方式14機を購入しており、国営工場で21機を生産している。
Description Fokker D-XXI Date 11 June 2012, 20:48 Source Fokker D-XXI Author happy days photos and art .
写真は Wikimedia Commons, Category:Aircraft at Militaire Luchtvaart Museum File:Fokker D-XXI (7177531195).jpg引用。


写真(右)2009年4月:オランダ北部、北ホラント州 ハーレマーメール(Haarlemmermeer)、オランダ飛行機墜落研究協会(CRASH Luchtoorlog- en Verzetsmuseum '40-'45 (CRASH = Crash Research in Aviation Society Holland))で保管展示されているオランダ陸軍航空隊フォッカー(Fokker)D-XXI戦闘機の前頭部 :第二次世界大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカーD-21戦闘機30機を配備していた。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 26 June 2009 Source Own work Author Ruuhinen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Museum CRASH '40-'45 File:Aalsmeer Museum CRASH 40-45 007.JPG引用。


写真(右)2011年5月:オランダ北部、北ホラント州 ハーレマーメール(Haarlemmermeer)、オランダ飛行機墜落研究協会(CRASH Luchtoorlog- en Verzetsmuseum '40-'45 (CRASH = Crash Research in Aviation Society Holland))で保管展示されているオランダ陸軍航空隊フォッカー(Fokker)D-XXI戦闘機の左側面:第二次世界大戦前、オランダのフォッカー D-21は1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。
Fokker D-XXI 229 reconstruction made with parts of crashed 229 seen at, CRASH Luchtoorlog –en Verzetsmuseum '40-'45 Fort bij Aalsmeer Aalsmeerderdijk 460 1436 BM Aalsmeerderbrug The Netherlands Date 7 May 2011, 17:59 Source Fokker D-XXI 229 Uploaded by Oxyman Author Joost J. Bakker from IJmuiden
写真は Wikimedia Commons, Category:Museum CRASH '40-'45 File:Fokker D-XXI 229 (1).jpg引用。


写真(右)2011年5月:オランダ北部、北ホラント州 ハーレマーメール(Haarlemmermeer)、オランダ飛行機墜落研究協会(CRASH Luchtoorlog- en Verzetsmuseum '40-'45 (CRASH = Crash Research in Aviation Society Holland))で保管展示されているオランダ陸軍航空隊フォッカー(Fokker)D-XXI戦闘機のプロペラとマーキュリー空冷星形9気筒エンジン部分左側面
Fokker D-XXI 229 reconstruction made with parts of crashed 229 seen at, CRASH Luchtoorlog –en Verzetsmuseum '40-'45 Fort bij Aalsmeer Aalsmeerderdijk 460 1436 BM Aalsmeerderbrug The Netherlands Date 7 May 2011, 17:59 Source Fokker D-XXI 229 Uploaded by Oxyman Author Joost J. Bakker from IJmuiden
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI File:Fokker D-XXI 219 (7334092682).jpg引用。


オランダ陸軍航空隊フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機は、発動機にイギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)を装備した。この空冷エンジンは、試作機が1925年に開発され、イギリス空軍ブリストル・ブレニム(Bristol Blenheim)双発爆撃機、グロスター・グラジエーター(Gloster Gladiator)戦闘機にも装備された信頼性のある発動機である。マーキュリー空冷エンジンは2万700台生産された。


3.フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機

写真(右)1939年、フィンランド空軍VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機:フィンランド国営航空機工場(Valtion lentokonetehdas)が開発した羽布、ジュラルミンの木金混合構造の低翼単葉複座の練習機。1939年3月29日、工場のパイロット、中尉ジョルマ・ヴィサパによって初飛行したピリは、フィンランド空軍から1941年春に40機を飛行学校用に注文した。これらはPyry IIとして制式され登録コード:PY-2からPY-41。1944年、カウハバ空軍学校が訓練を受けた最初のチームというが、実用化までかなりの期間を要した。しかし、フィンランドの航空機業界で最高の機体とされ、約700人の軍のパイロットが訓練を受け、飛行時間は56000時間以上に及んだ。
Ilmavoimat tilasi tämän lentokoneen prototyypin vuonna 1937. Sen nimeksi tuli tuli VL Pyry I ja tunnukseksi PY-1. Koneen suunnitteli Arvo Ylinen, jonka työryhmässä toimivat lentokonesuunnittelijat Martti Vainio, Torsti Verkkola ja Edward Wegelius. Lentokoneen ensilennon lensi 29. maaliskuuta 1939 tehtaan koelentäjä, luutnantti Jorma Visapää. Toukokuussa ilmavoimat tilasi 40 koulukonetta, jotka valmistuivat ripeästi jo vuoden 1941 keväällä. Ne tunnettiin tyyppinä Pyry II ja niiden tunnukset olivat PY-2 - PY-41. Ensimmäisenä joukko-osastona Pyryjä sai Ilmasotakoulu Kauhavalla vuonna 1941. Koneella koulittiin lentäjiä 20 vuoden ajan. Se oli suomalaisen lentokoneteollisuuden parhaimpia tuotteita. Sillä koulittiin noin 700 sotilaslentäjää. Lentokoneilla lennettiin yli 56000 tuntia. Pyryn kärkisakkausominaisuuksia yritettiin parantaa trapetsisiivellä. Se asennettiin ensimmäisen kerran PY-24:ään 20.3.1941. Kokeilu epäonnistui ja koneeseen vaihdettiin elliptinen siipi. Ensimmäinen uhrin vaatinut onnettomuus Pyryllä tapahtui 15.6.1941, kun PY-3 ajoi suohon Hyvinkäällä ja Sk-ups. Osmo Meriluoto sai surmansa. Uusia trapetsisiipiä kokeiltiin Pyry PY-37:ssä 7. maaliskuuta 1943. Koelentäjänä toimi kapteeni Erkki Pohjanheimo. Kone putosi Koivistonkylään lähelle Lempälään johtavaa tietä. Pyryssä oli matkustajana kapteeni Akilles Järvinen. Molemmat lentäjät saivat surmansa. Trapetsisiipiä kokeiltiin kaikkiaan neljässä Pyryssä, PY-24 (1941), PY-37 (1943), PY-32 (1943) ja PY-1 (1944) ilman menestystä. Yhden hengen miehistöllä Pyry oli hyvinkin vakaa, mutta raskaamalla kuormalla pitkittäisvakavuudessa oli ongelmia. Huhtikuussa 1943 alettiin Pyryjen moottoritelineitä pidentää, jolloin koneen painopiste muuttui ja pitkittäisvakavuus palautui. Pyryn viimeiset lennot tapahtuivat Härmälässä: 7. syyskuuta 1962 lensivät kapteeni Veikko Hietamies PY-1:llä ja yliluutnantti Keijo Elio PY-27:llä. Koneen seuraaja oli Valmet Vihuri. Vähemmän Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma HM Staf Inventaarionro HM Staf:2:1816:1 Kuvaustiedot: 1939-1939 Härmälä, Lentokonetehdas Tampere, Suomi E. M. Staf, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna HM Staf:2:1816:1用。


フィンランドは、多様な外国軍用機を輸入して、自国の空軍に配備したが、自国で開発・量産した国産機もあった。これが、VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機で国営航空機工場(Valtion lentokonetehdas)が開発した羽布、ジュラルミンの木金混合構造の低翼単葉複座の練習機である。初飛行は、第二次大戦半年前の1939年3月29日、国営工場パイロット、ジョルマ・ヴィサパ中尉が試験した。名称のピリ(VL Pyry)とは、国営航空機工場(Valtion lentokonetehdas)で開発生産したとの誇りともなった。フィンランド空軍は、冬戦争に敗北してた後、国産機・航空兵力の必要性を痛感し、1941年春にはピリ40機を飛行学校用に注文した。これらはPyry IIと呼称され、登録コードPY-2からPY-41を与えられた。

しかし、VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機の実際の運用は、継続戦争が勃発したこともあった大幅に遅れた。戦時中は、国産機を新たに開発・生産するよりも、火急速やかに戦力化できる外国軍用機の輸入が推進されたのである。そのため、ピリによる飛行訓練は、継続戦争末の1944年、カウハバ空軍学校が訓練を受けたのが最初のチームといわれ、運用は継続戦争敗戦後の時期になってしまった。つまり、実用化までかなりの期間を要したVL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機の客観的評価は、時期を失した「傑作練習機」程度でしかない。にもかかわらず、フィンランドの愛国的立場からは、フィンランド航空機業界で最高の国産機と高く評価されている。VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機によって、700人の軍のパイロットが訓練を受け、飛行時間は56000時間以上に及んだ。


写真(右)1940年3月7日、フィンランド、タンペレ飛行場、ハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたスキー式降着装置のフィンランド空軍フォッカー D-21(Fokker D.XXI) 戦闘機
;イギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)装備型。降着装置は、オランダで開発された時点では、固定脚のゴム車輪だったが、雪原や氷結した湖沼を滑走路にする場合、スキーも有効であると考えられた。そこで、降着装置をスキーとした試験機が行われた。D-21戦闘機は、国営航空機工場でスキー付きの機体が実験的に製造された。
Fokker D.XXI suksien koekoneena Lentokonetehtaan lisenssillä valmistama D.XXI suksien koekoneena. Aineistotyyppi Kuva Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma D/944 Inventaarionro 944:2:37 Kuvaustiedot: 1940-1940 Härmälä, Lentokonetehdas Tampere, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。


オランダで開発されたフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機は、固定式脚のゴム車輪で離着陸していたが、フィンランドの冬は寒く、森林の合間にある雪原や氷結した湖沼を滑走路にすることがあった。そこで、開発当初の固定車輪を固定スキーに変換することで、使用範囲が広がると考えられた。そこで、オランダから輸入し、その後ノックダウン生産も行ったフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機の場合も、降着装置をスキーに変更した実験機が、フィンランド国営航空機工場で試作された。そして、スキー付きのフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機が誕生し、試験の結果有効性が確認できたために、スキー付きの機体が製造されるようになった。

第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

写真(右)1940年、フィンランド空軍のフォッカー(Fokker)D-21 WASPD.XXI.)戦闘機(FR-92):第二次大戦勃発で入手困難なイギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)を、mだ中立だったアメリカ製アメリカ製プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535 ツイン・ワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)空冷星形14気筒エンジン(排気量25.2 L)に換装したのが、フィンランドで生産されたフォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP)戦闘機である。コックピット前面ガラス風防から筒型望遠式照準器、ガラス風防上面から無線支柱が伸びている。
Lentokonetehtaan lisenssillä valmistama Fokker D.XXI -lentokone Content Type Image Organisation Museokeskus Vapriikki Inventory ID TTM 1016:10 Photo info 1940-1949 Valkeala ?, Utti ? Kouvola ?, Suomi
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive 引用。


1939年の冬戦争で、フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦した。しかし、ドイツは、西方戦役の準備のため、1939年独ソ不可侵条約を順守し、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘するしかなかった。その結果、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れざるを得ず、フィンランドは降伏の道を選んだ。

フィンランドは、ロシア革命時期にその独立が定まった反面、その後のソビエト連邦の共産主義には、強い警戒感を抱いていた。フィンランド国内での共産主義革命の動きがあったからである。そこで、反共産主義の象徴として、白丸に青の鍵十字を描いたカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を用いるようになった。1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルとしてである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年の対ソ講和の時に廃止した。 このスワスチカが、対ソビエト連邦の戦い、すなわち1939年の冬戦争、1941年の継承戦争でも採用されている。

当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドのフォッカー(Fokker)D.XXIなどの軍用機や戦車に標識として描いている。

しかし、1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)はフィンランド大統領を辞職、新大統領カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥の下で、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を忌避するために唱えられた方便か、カギ十字を好む人物の誤解に基づく思い込みである。


写真(上)1940年、フィンランド空軍第24飛行戦隊(LLv.24)の製フォッカー(Fokker)D-21 WASP D.XXI.)戦闘機と記念撮影をするフィンランド軍第24飛行戦隊(LLv.24)の将兵
:。無線支柱が伸びている。
Lentolaivue 24:n (LLv.24) ohjaajia ja Fokker D.XXI -hävittäjiä todennäköisesti Joroisten lentokentällä talvisodan jälkeen. Ryhmän keskellä seisoo laivueen komentaja majuri Gustaf Erik "Eka" Magnusson ja hänestä toinen oikealle on vääpeli Eino Ilmari "Illu" Juutilainen. MORE Content Type Photo Organisation Finnish Aviation Museum Collection Luukkanen, Eino Inventory ID SIM VK 551:119 Measurements 9x7 cm Vedos Photo info 1940
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sim.M016-18884引用。


1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。

写真(右)1940年2月、フィンランド空軍第24飛行戦隊(LLv.24)のフォッカー(Fokker)D-21 WASP(D.XXI.)戦闘機とフィンランド空軍戦闘機パイロット撃墜王(エース)たち
Lentolaivue 24:n (LLv.24) ohjaajia Ruokolahden jäätukikohdassa helmikuussa 1940. Vasemmalta vääpeli Eino Ilmari "Illu" Juutilainen, luutnantti Tatu Mauri Huhanantti, vääpeli Toivo Weikko Johannes "Veka" Rimminen, (kuvan ottoajankohdasta riippuen joko) luutnantti tai kapteeni Eino Antero "Eikka" Luukkanen ja lentomestari Viktor "Vikki" Pyötsiä. Taustalla kaksi suksilaskutelineellä varustettua Fokker D.XXI -hävittäjää. MORE Content Type Photo Organisation Finnish Aviation Museum Collection Luukkanen, Eino Inventory ID SIM VK 551:117 Measurements 9x6 cm Vedos Photo info 1940-02
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sim.M016-18882引用。


共産党ボリシェビキ独裁のソビエト連邦は、第一次世界大戦後、帝政ロシアから独立していたバルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)に対して、ソ連軍の駐留要求を突きつけ認めさせた。そこで、フィンランドに対しても同様の要求を突き付けたが、拒否された。怒ったソ連指導者ヨシフ・スターリンは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連赤軍にフィンランドを攻撃させた。このソ連による侵略行為に抵抗してフィンランドは、愛国的な冬戦争(talvisota)を闘う決意をした。

写真(右)1939-1940年、フィンランド空軍第24飛行戦隊第3飛行中隊(3/LLv.24)のフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機コックピットのエース・パイロット(撃墜王)エイノ・アンテロ・ルーカネン(Eino Antero Luukkanen:1909-1964):コックピット前面ガラス風防には、光像式照準器が備わっている。左側面ガラス風防は出入りしやすいように大きく開放することができる。赤十字マークは緊急用キットの収納場所を示す。無線支柱がコックピット天井から伸びている。
Lentolaivue 24:n 3. lentueen (3/LLv.24) päällikkö luutnantti Eino Antero "Eikka" Luukkanen Fokker D.XXI -hävittäjän ohjaamossa talvisodan aikaan. Content Type Photo Organisation Finnish Aviation Museum Collection Luukkanen, Eino Inventory ID SIM VK 551:121 Measurements 9x12 cm Vedos Photo info 1939-1940 valokuvaaja Subjects Mannerheim-ristin ritarit
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sim.M016-18886引用。


フィンランド空軍エース(撃墜王)エイノ・アンテロ・ルーカネン(Eino Antero Luukkanen:1909-1964)は、「エイッカ」の愛称で占有に呼ばれた。1939年11月の対ソビエト連邦「冬戦争」では飛行中隊長、1941年6月の継続戦争では飛行戦隊長として活躍したエース・パイロット(撃墜王)である。撃墜総数は56機が公認されたが、これはフィンランド空軍第3位のスコアである。作戦出撃回数は441回と、フィンランド空軍戦闘機パイロット最多である。

フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になったが、ソビエト連邦は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に、レニングラードの安全保障のために、ソ連領としたいとフィンランドに申し出て、その代わりに北部コラ半島のソ連領を与える領土交換を提案した。しかし、フィンランド人居住地であり、産業的にも重要だったカレリア地方のソ連割譲をフィンランドは拒否した。1939年9月1日、第二次大戦は始まっていたが、ドイツがフランス・イギリスと対峙した西部戦線では、まだ都市爆撃、民間人への空襲は起きていなかった。

1939年11月にソ連によるフィンランド侵攻で、冬戦争が勃発したが、最前線に数百機を投入できたソ連空軍に対して、フィンランド空軍は、試作から開発した国産機は配備されておらず、全て外国からの輸入機であり、多様な機体を少数ずつ配備するしかなかった。この冬戦争初頭の主力戦闘機が、40機配備されていたオランダ製フォッカーD21戦闘機である。

写真(右)1940年2月、フィンランド空軍第24飛行戦隊第3飛行中隊(3/LLv.24)のフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機とコックピット左前方に集まった4人のフィンランド空軍パイロット:コックピット前面ガラス風防には、光像式照準器が備わっている。無線支柱がコックピット天井から伸びている。
Lentolaivue 24:n 3. lentueen (3/LLv.24) ohjaajia Fokker D.XXI -hävittäjän luona Ruokolahdella helmikuussa 1940. Vasemmalta (kuvausajankohdasta riippuen joko) luutnantti tai kapteeni Eino Antero "Eikka" Luukkanen, kersantti Jaakko Robert Dahl, vääpeli Eino Ilmari "Illu" Juutilainen ja kersantti Martti Aslak "Asmus" Alho. Content Type Photo Organisation Finnish Aviation Museum Collection Luukkanen, Eino Inventory ID SIM VK 551:129 Measurements 9x12 cm Vedos Photo info Xx.02.1940
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sim.M016-18894引用。


ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。それとも、第二次大戦当初のドイツ軍によるワルシャワ空襲で戦略爆撃の有効性を認識して、開戦劈頭にヘルシンキ空襲を実施したのであろうか。

第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自信があったのであろうか。

写真(右)1941年7月12日、フィンランドの飛行場で、胴体前部燃料タンクに給油しているフィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機 :操縦席左側には、出入りを容易にするように大きな開口部がある。胴体側面には、開放したコックピット側面ガラス風防が垂れ下がっている。垂れ幕のように下がっているが、これを引き揚げて、風防を密閉し、離陸、飛行する。
Bensiinitankkia täytetään. Linnus Olavi, valokuvaaja Bensiinitankkia täytetään. Tankattavana hävittäjäkone Fokker D.XXI. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1941-07-12 .
Vrt. Nils Helanderin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat Nurmoilasta 18.10.1943 (esim. 141197, 141202). Värikuvien selosteessa ajankohtana 14.-17.10.1943.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-80068引用。


フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。

当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。

写真(右)1941年7月12日、フィンランドの飛行場で、機首エンジンカウリングを外してイギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)を整備中のフィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機の左側面
Konetta huolletaan talvisodassa tuohoutuneessa myös siis vilpoisassa hallissa. Huollettavana hävittäjäkone Fokker D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-07-12 Linnus Olavi, valokuvaaja.
Vrt. Nils Helanderin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat Nurmoilasta 18.10.1943 (esim. 141197, 141202). Värikuvien selosteessa ajankohtana 14.-17.10.1943.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-80067引用。


フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機の装備した発動機は、イギリスの開発したブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)で、1925年に試作機が完成し、その後、イギリス空軍ブリストル・ブレニム(Bristol Blenheim)双発爆撃機、グロスター・グラジエーター(Gloster Gladiator)戦闘機の発動機として採用され、総計で2万700台が生産された。

しかし、フィンランドでは、第二次大戦勃発でブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)が入手困難になり、当時まだ中立国だったアメリカ製アメリカ製プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535 ツイン・ワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)空冷星形14気筒エンジン(排気量25.2 L)に換装したフォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP)戦闘機を生産した。

写真(右)1941年9月4日、フィンランド、ミッケリ飛行場、正面から見た固定脚のフィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機 :3翅プロペラが回転している。ミッケリは、フィンランド南部、南サヴォ県し、首都ヘルシンキの北西200キロ、サイマー湖の湖岸に位置している。人口は2011年で4万8,824人。
Suomalainen Fokker starttivalmiina. Mikkeli 1941.09.04.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-59017引用。


フィンランドは、フォッカー D-21オリジナルの発動機イギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)が輸入困難なために、中立国アメリカ製プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535 ツイン・ワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)空冷星形14気筒エンジン(排気量25.2 L)に換装したフォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP)戦闘機を生産した。

写真(右)1941年9月4日、フィンランド、ミッケリ飛行場、フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機 :左右の固定脚には、漫画の笑顔と紳士の似顔絵マーキングが描かれている。固有の3翅プロペラが回転している。左主翼には速度を計測するピトー管、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁を、右主翼には小型探照灯、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁を装備しているが、これは第二次大戦中盤以降は、火力不足だった。
Suomalainen Fokker starttivalmiina. Mikkeli 1941.09.04.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-59018引用。


1941年6月21日,「バルバロッサ作戦」で攻撃を受けたソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。
ソ連軍は,北方には30個師団,8個機甲旅団,中部に45個師団,14個機甲旅団,南部に64個師団,14個機甲旅団を配備

ソ連空軍は白ロシア(ベラルーシ)に6000機を配置。

写真(右)1941年9月25日、フィンランド、ミッケリ飛行場、フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D.XXI.戦闘機(FR-154)の胴体中央部コックピットに納まったパイロット左側面:操縦席は出入りしやすいように左側に折り畳み式切り欠きが設けられている。戦闘機(FR-154)の;操縦席のガラス風防を閉めようとする地上勤務員。ガラス風防は左側に開放されるので、パイロットが搭乗するときは常に左側から行う。風防上部に無線支柱マストが立っている。
Fokker-yhteistoimintakone lähtöhommissa. Lentolaivue 14. Kuvassa on Fokker D.XXI hävittäjä (tunnus FR-154). Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-09-25
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-53168引用。


フィンランド軍は、1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。これは、ドイツの第一次大戦の敗北後、ワイマール共和国時代、反革命義勇軍(フライコール:自由軍団)が用いたスワスチカと同じで、反共産主義、反革命、反ボリシェビキの思想が背景にある。

写真(右)1941年9月25日、フィンランド、ミッケリ飛行場、フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 WASP D.XXI.戦闘機10号機の操縦席で出撃準備のなったタピオ・ピハ中尉:パイロットは革製飛行帽を被りイヤーホーンを付けている。操縦席前方には、光像式射撃照準器が据え付けられているが、防弾ガラスは装備されていない。操縦席後方にも防弾装甲は設けられていないようだ。無線支柱が伸びている。
Lähikuva hävittäjälentäjästä joka istuu ””toosassa”” valmiina lentämään.
Luutnantti Tapio Piha, valokuvaaja Sotamuseo Lähikuva hävittäjälentäjästä joka istuu ””toosassa”” valmiina lentämään. Kuvassa Veijo Taina. Kone Fokker D-21 WASP. Lentolaivue 10..Kuvaustiedot: 1941-09-25
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-53012引用。


ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツてき立場は明らかであり、レニングラードに近いフィンランド国境にフィンランド軍が集中していることも、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。実際、フィンランド領内のドイツ空軍機が「バルバロッサ作戦」でソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を正中するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃である。しかし、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告した。

写真(右)1941年11月1日、フィンランド北東部、カレリア地方、ムルマンスク南350キロ、ティクスヤルヴィ(Tiiksjärven)飛行場(フィンランド語)、ロシア語(チクシェオゼロ:Тикшеозеро)飛行場、フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機:左右の固定脚には、漫画の笑顔と紳士の似顔絵マーキングが描かれている。左主翼には速度を計測するピトー管、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁が、右主翼には小型探照灯、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁が装備されている。固有の3翅プロペラが回転している。
Hävittäjää laitetaan taistelukuntoon Tiiksin lentotukikohdassa Kapteeni E.J.Paavilainen, valokuvaaja
Hävittäjää laitetaan taistelukuntoon Tiiksin lentotukikohdassa. Mekaanikkojen sormi ei saa palella vaikka pakkasta 26 astetta. Kuvassa Fokker D.XXI. Tiiksjärven lentotukikohta
Tiiksjärven lentotukikohta 1941.11.01.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-59017引用。


1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi?Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ:Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。

1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。

wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性と区別するために創作された「幸運のカギ十字」神話プロパガンダである。

写真(右)1941年11月4日、フィンランド北東部、カレリア地方、ムルマンスク南350キロ、ティクスヤルヴィ(Tiiksjärven)飛行場(フィンランド語)、ロシア語(チクシェオゼロ:Тикшеозеро)飛行場、雪原を滑走するために、スキー式固定降着装置を装備したフィンランド空軍第30飛行隊第3飛行中隊所属のフォッカー(Fokker)D.XXI.戦闘機:固定式ゴム車輪に代えてスキー式降着装置に変更している。雪の照り返しのために、左主翼下面も鮮明に写っている。エンジンと主翼上面に雪と冷気を避けるカバーが掛けられている。
FR siirretään pyöriltä suksille. Lentolaivue 30:n 3. lentueen Fokker D.XXI -kone. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-11-04 Sot.virk. L.Johnsson, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-104201引用。


1939年にソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、1940年にレニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。進撃は順調に進み、フィンランド独立以来フィンランド領となったことのなかった東カレリアやオネガ湖周辺にまで領土を拡大した。こうなると、失地回復のための継続戦争とは言えないが、フィンランドは、攻撃的なソビエト連邦から国土を防衛するためには、防衛戦の前進が必要であると主張した。

写真(右)1941年11月4日、フィンランド北東部、カレリア地方、ムルマンスク南350キロ、ティクスヤルヴィ(Tiiksjärven)飛行場(フィンランド語)、ロシア語(チクシェオゼロ:Тикшеозеро)飛行場、雪原を滑走するために、車輪に代えてスキーを降着装置としたフィンランド空軍第30飛行隊第3中隊所属のフォッカー(Fokker)D-21 WASP(D.XXI.)戦闘機:降着装置を、車輪からスキーへ変換する作業。チクシェオゼロは、現在はロシア連邦カレリア共和国に属している。
Tiiksjärven lentokenttä 1941.11.04
Lähikuva hävittäjälentäjästä joka istuu
””toosassa”” valmiina lentämään.
Lentolaivue 30:n 3. lentueen Fokker D.XXI -koneita. FR lentokentän laidassa.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-104197引用。


冬戦争の時から、フィンランドでは、舗装した飛行場は多くはなかったが、雪原や凍った湖沼を飛行機滑走路として利用することができた。雪原の場合は、トラクターで大型圧延ローラーを牽引して、雪を圧縮し固めて滑走路とした。極北のフィンランドでは、冬季には零下10から30度と厳寒となるため、湖沼の氷結、雪の氷化によって、簡易飛行機滑走路を整備する事ができたのである。また、固定脚の飛行機も、地上安定性が良く、雪や厳寒での整備性・稼働性を維持するのに有利だったために、フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機のような固定脚で飛行性能が低下しても、稼働率の高さがそれを補っていた。

写真(右)1941年11月4日、フィンランド北東部、カレリア地方、ムルマンスク南350キロ、ティクスヤルヴィ(Tiiksjärven)飛行場(フィンランド語)、ロシア語(チクシェオゼロ:Тикшеозеро)飛行場、雪原を滑走するために、車輪に代えてスキーを降着装置としたフィンランド空軍第30飛行船隊第3飛行中隊所属のフォッカー(Fokker)D-21 WASP D.XXI.)戦闘機:チクシェオゼロは、現在はロシア連邦カレリア共和国に属している。
FR siirretään pyöriltä suksille. Lentolaivue 30:n 3. lentueen Fokker D.XXI -kone. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-11-04 Sot.virk. L.Johnsson, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-104199引用。


 1941年7月、フィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、ハカリスティ(Hakaristi)を再び掲げて、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻しつつあった。

写真(右)1941年11月4日、フィンランド北東部、カレリア地方、ムルマンスク南350キロ、ティクスヤルヴィ(Tiiksjärven)飛行場(フィンランド語)、ロシア語(チクシェオゼロ:Тикшеозеро)飛行場、雪原を滑走するために、車輪カバーを外して整備中のフィンランド空軍第30飛行隊第3中隊所属のフォッカー(Fokker)D.XXI.戦闘機:後方のドラム缶は機体後部を持ち上げ支えるためもののであり、ゴム車輪に代えてスキー式降着装置に変更している作業と思われる。エンジンと主翼上面に雪と冷気を避けるカバーが掛けられている。
TFR siirretään pyöriltä suksille. Lentolaivue 30:n 3. lentueen Fokker D.XXI -kone. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-11-04 Sot.virk. L.Johnsson, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-104215引用。


フィンランドは、1939年に、バルト三国同様、ソ連から駐留軍の要求、領土の交換・割譲の要求を受けていたが、それを拒否したために、1939年11月30日、ソ連軍がフィンランドに侵攻した。これが、ソビエト連邦対フィンランド共和国の第1次ソ芬戦争(冬戦争)である。冬戦争の際にイギリス・フランスの市民は、フィンランドに同情したが、ドイツとの戦争が始まっている以上、両国指導者として、新たにソ連を敵としての戦いは、戦略的にはあり得なかった。

写真(右)1941年11月5日、フィンランド、雪原の飛行場で、スキーの降着装置を付けたフィンランド空軍第30飛行戦隊第3中隊所属のフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機の胴体左後方 :正面ガラス風防内部に光影式射撃照準器が設置されている。左右の固定脚には、スキーを装着しているが、尾輪はゴム製車輪をそのまま使用している。
Lentäjät täysissä tamineissa koneille menossa. Lentolaivue 30:n 3. lentueen Fokker D.XXI, tunnus FR-140. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-11-04 Sot.virk. L.Johnsson, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-104218引用。


雪原の飛行場は、巨大なローラーをトラクターで引いて転圧しているので、強度もあって滑走路として使用しやすかった。舗装滑走路で完全な除雪作業をするには、膨大な労力、エネルギーが必要になる上に、敵ソ連軍からも発見されやすくなるから、雪を圧延した滑走路は、理にかなった運用だった。

写真(右)1941年11月4日、フィンランド、雪原の飛行場で、スキーの降着装置を付けたフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機の胴体左側面 :エンジンを雪と冷気から保護するためにカバー垂れ幕を掛けている。左右の固定脚には、スキーを装着。プロペラスピナー装着。
FR-lentue kentällä. Lentolaivue 30:n 3. lentueen Fokker D.XXI -koneita. -Sot.virk. L.Johnsson, valokuvaaja Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-11-04 Sot.virk. L.Johnsson, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-sa-kuva-104201引用。


愛国的な「冬戦争」では、フィンランドは善戦したが、これはソ連赤軍の指揮系統の柔軟性がなく戦術的な失敗を繰り返したこと、ソ連赤軍の兵士の士気が低いこと、ソ連製の兵器が時代遅れで旧式なものだったこと、が原因とされた。たしかに、フィンランドは、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で敗北し、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島の港湾をソ連租借地とするなど、領土割譲要求をのまざるを得なかったが、ドイツも連合国もソ連軍が弱体であるとの認識を確認するに至った。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したのではあるが、それは、ソ連軍が弱かったからであると考えられた。

写真(右)1941年11月4日、フィンランド北東部、カレリア地方、ムルマンスク南350キロ、ティクスヤルヴィ(Tiiksjärven)飛行場(フィンランド語)、ロシア語(チクシェオゼロ:Тикшеозеро)飛行場、雪原を滑走するために、車輪に代えてスキーを降着装置としたフィンランド空軍第30飛行隊第3中隊所属のフォッカー(Fokker)D-XXI WASP(D.XXI.)戦闘機(FR-148)と後方のフォッカー(Fokker)D-XXIの戦列:降着装置を、車輪からスキーへ変換する作業。チクシェオゼロは、現在はロシア連邦カレリア共和国に属している。
FR-lentue kentällä. Lentolaivue 30:n 3. lentueen Fokker D.XXI -koneita.
Organisation Military Museum Photo info 1941-11-04
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-104200引用。


フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機の構造は、胴体は鋼管溶接骨組み、機体前半は金属外皮、後半は羽布張りで、イギリスのホーカー・ハリケーン戦闘機と同様だった。しかし、フォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機の主翼は木製で固定脚が装着されており、空気抵抗が大きく、飛行性能は高くない。しかし、整備が容易で、未舗装の滑走路での試用にも便利だったため、稼働率が高く信頼性があった。

写真(右)1941年11月5日、フィンランド、雪原の飛行場で、スキーの降着装置を付けたフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機の胴体左下方 :エンジンを雪と冷気から保護するためにカバー垂れ幕を掛けている。左右の固定脚には、スキーを装着。プロペラスピナー装着。
FR kuutamossa. Sot.virk. L.Johnsson, valokuvaaja FR kuutamossa. Lentolaivue 30:n 3. lentueen Fokker D.XXI Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-11-05.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-104198引用。


フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

写真(右)1941年11月5日、フィンランド、フィンランド空軍オランダ製フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機の機首エンジンカバーの装着作業:開放されたコックピットに搭乗者はいない。
Ohjaajaoppilaita koneen kimpussa. Kuvan kone on Fokker_D.XXI, paikka Immola. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-11-15 Sot.virk. Pärttyli Virkki, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-102360引用。


1941年、冬戦争争に敗れたフィンランドは、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされた。そこで、1941年6月にドイツによるソ連侵攻が始まった直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、「継続戦争」と称して領土奪還のために進軍を開始した。

写真(右)1941年12月15日、フィンランド、雪原の森林に偽装隠匿されていたフィンランド空軍フォッカー(Fokker)D.XXI.戦闘機の発進:スキーを降着装置に変換している。
Koneita lähdössä tiedustelulennolle. Kuvan lentokone on Fokker_D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-12-15 Kapteeni E.J.Paavilainen, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-104215引用。


1939年の冬戦争で失ったカレリア地方を奪還するために、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻をチャンスととらえたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、6月22日には、ナチスと同盟して、ソ連を敵として、継承戦争Continuation War)を開始した。これは、事実上、フィンランドが枢軸同盟国の一員として、第二次世界大戦に参加することを意味した。

フィンランドは、ナチスと組んで軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開した。

写真(右)1941年12月15日、フィンランド、雪原の森林に偽装隠匿されていたフィンランド空軍フォッカー(Fokker)D.XXI.戦闘機の発進:スキーを降着装置に変換している。
Koneita lähdössä tiedustelulennolle. Kuvan lentokone on Fokker D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-12-15
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-99817引用。


しかし、1941年6月22日の継承戦争Continuation War)を始めたフィンランド側は、イギリス、アメリカには戦争を仕掛けたいとは思っていなかった。そこで、あくまで、ソ連に対して1939年の冬戦争で奪われた国土の回復を求めた防衛戦争であるとの立場を主張した。しかし、ソ連がドイツの攻勢を一国で受け止めている状況で、イギリスもアメリカも、フィンランド側の言う継承戦争Continuation War)であり、イギリス・アメリカと戦う第二次大戦への参戦ではないという身勝手な論理は受けつかなかった。これを梃子にして、ヒトラーはフィンランドのリスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti:1889-1956)に対して、ソ連への軍事的攻勢を強化するように強く要請した。

写真(右)1941年12月15日、フィンランド、雪原の森林上空を低空飛行するフィンランド空軍フォッカー(Fokker)D.XXI.戦闘機の2機編隊:スキーを降着装置に変換している。
Hävittäjiä matalalennossa järven yllä. Kuvassa suomalainen Fokker_D.XXI-pari.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info 1942-12-17
Kapteeni E.J.Paavilainen, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-99546引用。


ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北していた。冬戦争に敗北したフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、今度は、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。

冬戦争の2カ月前から、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っていない。そして、独ソ開戦となればドイツ同盟国フィンランドも連合国軍に敵対する存在として、宣戦布告を受けることになった。

写真(右)1942年1月23日、フィンランド、雪原の森林上空に囲まれた掩体壕に偽装網をかけて隠匿したフィンランド空軍第30飛行戦隊第2飛行中隊所属のフォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機:1936年3月27日初飛行、生産数148機。スキーを降着装置に変換している。
FR suojapaikassaan lentokentän laidassa. Lentolaivue 30:n 2. lentueen Fokker_D.XXI ("Waspi-Fokkeri). Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-01-23 Sot.virk. L.Johansson, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-99106引用。


第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。

写真(右)1941-1944年、フィンランド、雪原の森林に偽装隠匿されていたスキー式固定降着装置のフィンランド空軍フォッカー(Fokker)D.XXI.戦闘機2機:コックピットのガラス風防の後端が拡大されており、アメリカ製プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535 ツイン・ワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)空冷星形14気筒エンジン(排気量25.2 L)を装備したフォッカー(Fokker)D-21ワスプ D.XXI.戦闘機のようだ。
Fokker -hävittäjäkone Tiiksjärven kentällä Jänis, Pauli, kuvaaja 1941–1944 Aineistotyyppi Kuva Organisaatio Museovirasto Kokoelma Historian kuvakokoelma Valokuvaamo Jäniksen kokoelma Tunniste HK7744:722 Mitat 6,0 x 6,0 cm Kuvaustiedot valmistusaika: 1941-1944 Jänis, Pauli, kuvaaja Aiheen paikka Vienan Karjala, Tiiksjärvi Aiheen aika 1941-1944
写真は,Museot Finna, Finna.fi museovirasto. 182FF27FF9 E85B1E51C7E6C A8E4B9017引用。


しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィンランド語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ロシア感情からか、小国・民主主義国フィンランドへの同情からか、フィンランド側の言う「継続戦争」の呼称を多用している。


写真(右)1942年4月24日、未舗装滑走路上の枢軸国フィンランド空軍第12飛行戦隊第2飛行中隊フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機右側面
;オリジナルのイギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)搭載型で操縦席のガラス風防は開いている。コックピットのガラス風防は後端がガラスのない旧型である。パイロットが搭乗するときは、左側が開閉するので、左側から行う。風防上部に無線支柱マストが立っている。胴体側方と主翼上下に、ナチ党鍵十字と同様のハリスティカ(スワスチカ)の国籍マークを描いている。
Koneet lähdössä lennolle. Starttaamassa Lentolaivue 12:n 2. lentueen (2./LLv 12) Fokker_D.XXI. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1942-04-24 Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真は Finna.fl :sa-kuva-18100引用。


スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの青の鍵卍字を描いた。


写真(右)1942年5月25日、フィンランド、継承戦争時、掩体壕に待機している枢軸国フィンランド空軍第30飛行戦隊フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)"Waspi-Fokker"戦闘機
:戦時中にスウェーデン経由で輸入したアメリカ製プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535 ツイン・ワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)空冷星形14気筒エンジン(排気量25.2 L)を装備している。胴体前方と主翼をカバーで覆っているが、これは機械の保守と偽装を兼ねているようだ。 Sot.virk. V. Hollming, valokuvaaja Suomalainen Brewster-kone odottamassa lähtöä ryssien niskaan. Kuvassa Lentolaivue 30:n Fokker_D.XXI, "Waspi-Fokker". Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-05-25
Sot.virk. V. Hollming, valokuvaaja Suomalainen Brewster-kone odottamassa lähtöä ryssien niskaan. Kuvassa Lentolaivue 30:n Fokker D.XXI, "Waspi-Fokker". Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-05-25
写真は Finna.fl :.sa-kuva-15413引用。


飛行機用の掩体壕は、
(1)周囲に土手を築き、内側を木材で固めてあり、上空から地上に駐機する飛行機を発見できないようにする偽装の効果、
(2) 機銃掃射・爆弾などの空襲の被害を受けにくく防衛上の効果、
の2点が企図されている。


写真(右)1942年7月23日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機のブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)を点検する地上勤務員
;1918年に試作されたブリストル・ジュピター(Jupiter)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L) 550 hp (414 kW)
Moottoria kierretään käyntiin. Lentokone on Fokker D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-07-23 Olavi Linnus, valokuvaaja
写真は Finna.fl :sa-kuva-2297引用。


オランダ製フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機原型の発動機はイギリスのブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジンで、排気量28.7 L、1918年試作のブリストル・ジュピター(Jupiter)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L) 550 hp (414 kW)の発展型だった。しかし、戦時中、フィンランドでは入手困難になり、アメリカ製プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535 ツイン・ワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)空冷星形14気筒エンジン(排気量25.2 L)を輸入して、それを搭載したフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)"Waspi-Fokker"が生産された。

写真(右)1942年7月23日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機のコックピット操縦席に入ってブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)を点検する地上勤務員;1918年に試作されたブリストル・ジュピター(Jupiter)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L) 550 hp (414 kW)
Moottoria kierretään käyntiin. Lentokone on Fokker D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-07-23 Olavi Linnus, valokuvaaja
写真は Finna.fl :sa-kuva-2298引用。


第二次世界大戦前、オランダのフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機は、1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製単葉、固定脚という堅牢な戦闘機である。

第二次大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機30機を配備していたが、フィンランドも完成機7機、ノックダウン方式14機を購入しており、国営工場で21機を生産している。1939年に勃発したソ連との冬戦争では、フィンランド空軍の主力機として活躍し、「フォッケル」の愛称で呼ばれた。1941年に勃発した継続続戦争では、第一線の戦闘機ではなかったが、1944年の終戦まで使用された。

写真(右)1942年7月23日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機のコックピットに乗り込んだパイロットを補助する地上勤務者
Moottoria kierretään käyntiin. Lentokone on Fokker D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-07-23 Olavi Linnus, valokuvaaja
写真は Finna.Fl :sa-kuva-2299引用。


フィンランドは、1941年6月22日、ドイツによる「バルバロッサ作戦」ソ連侵攻について、中立を宣言していたが、実際には、フィンランド国内にドイツ軍を駐留させ、そこからソ連に対する空襲を黙認していた。そこで、ソ連空軍の報復攻撃を受け、それを参戦の口実にして、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を、かねてからの計画通りに遂行した。つまり、冬戦争の敗北を注ぐための、対ソ連反ボリシェビキ戦争の開始であり、割譲を強要された領土奪回のための愛国的戦争の始まりである。


写真(右)1942年7月23日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、滑走路の真ん中でエンジンを稼働しているフィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機
;機体前方には2名の地上勤務員がいて、連絡と誘導に当たっているのであろう。
Asemiehet ottavat vastaan saapuvan koneen. Olavi Linnus, valokuvaaja Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-07-23
写真は Finna.fl : sa-kuva-23001引用。



写真(右)1942年7月23日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機にドラム缶から燃料を給油する2名の地上勤務員
;機首の3翅プロペラにはスピナーが装着されていない。ブリストル(Bristol)・マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)は、排気量28.7 L、 550 hp (414 kW)。
Bensiinihuoltoa. Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1942-07-23 Olavi Linnus, valokuvaaja
写真は Finna.fl : sa-kuva-23003引用。


スウェーデンもノルウェーも、冬戦争で苦しんでいるフィンランドにたいして、中立を口実にして軍事援助しなかった。これは、大国ソ連との戦いを回避して国内を戦争に巻き込まないための平和政策だったが、民主主義国フィンランドを助けるために、スウェーデンから義勇兵が戦いに参加した。冬戦争で、孤立無援となり敗北したフィンランドは、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、ドイツの同盟国としてソ連に侵攻した。そして、フィンランドはソ連に奪われたカレリア地方を奪回した。

写真(右)1942年8月11日、フィンランド、未舗装滑走路でプロペラを回転させているフィンランド空軍第14飛行戦隊T.ヴォリネン(T. Vuorinen)中尉(Luutnantti)のフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機(FR-109)を誘導する地上勤務員:操縦席左側には、出入りを容易にするように大きな開口部がある。コックピットガラス風防は後端が透明でない旧式で、イギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)を装備している。胴体側面に、開放したコックピット側面ガラス風防が垂れ下がっている。
100:n sotalennon sankari luutnantti T. Vuorinen saapuu lennolta ja ottaa vastaan laivueen lahjan onnitteluineen. Lentokone on Fokker D.XXI. Lentolaivue 14.Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1942-08-11 Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-18973引用。


1941年6月26日に始まった第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)緒戦では、フィンランドは、ドイツと同盟し、優位に戦いを進めた。ソ連軍は緒戦で大打撃を受け、フィンランド方面に配備できるソ連軍は制限され、レニングラード防衛が精いっぱいな状況だった。ソ連赤軍相手に、反ボリシェビキの青カギ十字青色の「ハカリスティ」(Hakaristi)のを付けたフィンランド空軍は有利な状況で攻勢を仕掛けることができた。

写真(右)1942年8月11日、フィンランド、フィンランド空軍T.ヴォリネン(T. Vuorinen)中尉中尉(Luutnantti)はフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機で合計100回出撃をし、帰還した。:操縦席左側には、出入りを容易にするように大きな開口部があり、胴体側面に、開放したコックピット側面ガラス風防が垂れ下がっている。
Luutnantti T. Vuorinen on juuri saapunut 100:lta sotalennoltaan. Kuvan lentokone on Fokker_D.XXI
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Valokuva Organisaatio Sotamuseo 1942-08-11 Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja .
Vrt. Nils Helanderin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat Nurmoilasta 18.10.1943 (esim. 141197, 141202). Värikuvien selosteessa ajankohtana 14.-17.10.1943.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-19033引用。


写真(右)1943年5月18日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機コックピットのパイロット;コックピット全面ガラス風防には、筒型望遠式照準器ではなく、光像式照準器が装着されている。アンテナ支柱を装備。背もたれには薄い装甲板が張った有るのであろうか。操縦席のパイロットは座席クッションを兼用したパラシュートを装着している。
Luutnantti Ikosen 100. sotalento on päättynyt. Lentolaivue 14. Lentokone on Fokker_D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1943-05-18 Luutnantti V.Länsiluoto, valokuvaaja
写真は Finna.fl : sa-kuva-152706引用。


フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機コックピットのガラス風防左側は、外側に大きく開くことができるが、これでパイロットは操縦席に楽に乗り込むことができる。

フィンランドは、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を始め、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、8月中にヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、奪回した。

カラー写真(右)1943年10月18日、フィンランド・ソ連国境、ラトガ湖東岸、レニングラード北東200キロ、カレリア地方チクシェオゼロ飛行場で待機するフィンランド空軍のフォッカー(Fokker)D-21戦闘機(イギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)搭載型) :第二次世界大戦前、オランダのフォッカー D-21は1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。第二次大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカーD-21戦闘機30機を配備していたが、フィンランドも完成機7機、ノックダウン方式14機を購入しており、国営工場で21機を生産している。1939年に勃発したソ連との冬戦争では、フィンランド空軍の主力機として活躍し、「フォッケル」の愛称で呼ばれた。1941年に勃発した継続続戦争では、第一線の戦闘機ではなかったが、1944年の終戦まで使用された。
Nurmoila, Nurmoilan lentokenttä FR-kone konekorsunsa edessä (Fokker-hävittäjä). Lentorykmentti 1. Nurmoila, Nurmoilan lentokenttä 1943.10.18.
Vrt. Nils Helanderin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat Nurmoilasta 18.10.1943 (esim. 141197, 141202). Värikuvien selosteessa ajankohtana 14.-17.10.1943.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia598引用。


フィンランドは、冬戦争で失った領土を奪回するために、愛国的戦争と見なして1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を開始した。つまり、冬戦争の続きとして、領土奪回のための継続戦争を仕掛けたのである。また、当時、ドイツは、イギリス供交戦状態にあったが、フィンランドはイギリスと戦うつもりは全くなく、イギリスの行為を得るために、ドイツ同盟国として、枢軸側に立って第二次世界大戦を戦う、ということではないとの弁明をした。あくまでも敵はソ連だけであり、これは世界戦争の一環ではなく、局地的な二国間戦争に過ぎないというのである。このようなご都合主義の参戦をイギリスは認めなかったた。フィンランドは、事実上、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したとみなされるのである。

写真(右)1941-1944年頃、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機への燃料補給作業;エンジン左側に始動用イナーシャ回転ハンドルがあり、それを地上勤務員が回している。操縦席にパイロットが着席している。
MV. Pietinen, valokuvaaja Lentokenttä. Kuvassa hävittäjäkone Fokker_D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info V. Pietinen, valokuvaaja
写真は Finna.fl : sa-kuva-79770引用。


1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許さなかった。

「継続戦争」と称しているのは、フィンランドのみであり、これは第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いである。フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。

写真(右)1941-1944年頃、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、森林に隠匿された3機の枢軸国フィンランド空軍第30飛行戦隊第2飛行中隊所属フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI.)戦闘機;アメリカ製プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535 ツイン・ワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)空冷星形14気筒エンジン(排気量25.2 L)搭載型。未舗装滑走路の前。固定脚に鳥の足のような絵柄を白色で描いている。
V. Pietinen, valokuvaaja Lentokentällä. Kuvassa Fokker D.XXI -hävittäjäkoneita (2./Lentolaivue 30, Hyvinkää). Content Type Photo Organisation Military Museum
写真は Finna.fl : sa-kuva-79778引用。


継続戦争は、1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドがソ連と戦った戦争である。戦争当事国の一方であるソ連は、フィンランドの侵入を受け、それを防いだ「大祖国戦争」の一環であり、すなわち第二次世界大戦の一部である。フィンランドは、国土を奪ったソ連とは戦うが、イギリスとは戦わないという釈明をした。

写真(右)1941-1944年頃、未舗装滑走路をタキシングする枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機(FR-25);コックピット全面ガラス風防には、筒型望遠式照準器はなく、光像式照準器が装着されている。プロペラスピナーを装備。
Focker lähdössä. Kuvassa hävittäjäkone Fokker D.XXI. Fokker_D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info V. Pietinen, valokuvaaja
写真は Finna.fl : sa-kuva-79788引用。


ドイツでは、第一次大戦末期のドイツ革命に反発するフライコール(自由軍団)、すなわち民間義勇兵「エアハルト旅団」などが鉄兜にスワスチカを描いていた。ヒトラーのナチ党もこのスワスチカを党の記章とし、政権獲得後は、事実上、ドイツ共和国三色旗に代えて、カギ十字をドイツの国旗と支、航空機にもスワスチカを国籍マークとして書き入れた。フィンランド軍は、1917年のロシア革命後に独立したが、国内では共産主義・ボリシェビキ政権獲得の武力闘争が起きた。

1918年に、フィンランドの共産主義革命派はフィンランド軍に鎮圧されたが、この1918年に自由・独立を象徴する青色の「ハカリスティ」(Hakaristi)が、フィンランド軍の国籍マークとして採用された。つまり、ドイツ語の「スワスチカ」と同じく、反ボリシャビキ、反共産主義を意味しており、同じルーツを持っている。

写真(右)1941-1944年頃、森林に囲まれ隠匿された未舗装待機場所で燃料を積み込む枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機(FR-?)右側面と燃料補給車;コックピット全面ガラス風防には、筒型望遠式照準器はなく、光像式照準器が装着されている。プロペラスピナーを装備。
Polttoainetta otetaan. Kuvassa säiliöauton vieressä hävittäjäkone Fokker D.XXI. Fokker_D.XXI. Military Museum Photo info V. Pietinen, valokuvaaja
写真は Finna.fl : sa-kuva-79791引用。


イギリスは、1941年6月の独ソ戦開始前から、ソ連にドイツがソ連攻撃を計画していることを事前に連絡し、独ソ戦開始後も、直ぐにソ連邦への軍事援助を表明しているが、これはドイツ打倒を最優先し「ヒトラーを倒すためには、悪魔とも手を結ぶ」と公言していたW.チャーチル首相にとって、当然のことだった。

したがって、イギリスは、フィンランドがソ連とのみ領土奪回の目的で、1939年の第二次大戦開始直前の「冬戦争」を継承しているのであって、イギリスと戦火を交えるつもりはないという方便を認めていない。

写真(右)1941-1944年頃、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機と固定脚カバーの縞模様白色迷彩;コックピット全面ガラス風防には、筒型望遠式照準器ではなく、光像式照準器が装着されているようだ。左側の風防は外側に開放されている。操縦席にパイロットが乗り込んでいる。
Moottorin käyntiinpano. Kuvassa hävittäjäkone Fokker_D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum
写真は Finna.fl : sa-kuva-79770引用。


フィンランドが民主国家であり、ナチス・ドイツと同じ卍(カギ十字)を採用していたことに反感を抱く人々は、両国のカギ十字を関連性がないと強弁しているが、これは完全な誤解で、反革命のルーツは完全に共通している。そのため、フィンランドが、ソ連との継続戦争に敗れ、ソ連と講和した後の1944年10月以降、この青色の「ハカリスティ」(Hakaristi)の国籍マークは廃止されている。これをみても、青色の「ハカリスティ」(Hakaristi)は、自由・独立を象徴しても、それはボリシャビキ、共産主義に反対する意味においてであることが理解できる。

写真(右)1941-1944年頃、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機への燃料補給作業;コックピット全面ガラス風防には、筒型望遠式照準器ではなく、光像式照準器が装着されている。アンテナ支柱、プロペラスピナーを装備。兵士が手にしているのは、落下傘のと装着バンド一式である。操縦席にパイロットはいない。
Moottorin käyntiinpano. Kuvassa Studebaker-säiliöauton vieressä hävittäjäkone Fokker D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info V. Pietinen, valokuvaaja
写真は Finna.fl : sa-kuva-79772引用。


フィンランド空軍が、1939年の冬戦争、1941年の継続戦争に使用した フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機は、左主翼には速度を計測するピトー管、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁を、右主翼には小型探照灯、その内側に7.7ミリブローニング機銃2丁を装備している。フォッカー(Fokker)D.XXIは、第二次大戦中盤以降は、火力不足であり、固定脚で飛行性能が低いことも不利だった。

写真(右)1941年7月18日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機への燃料補給作業;コックピット全面ガラス風防には、筒型望遠式照準器ではなく、光像式照準器が装着されている。アンテナ支柱、プロペラスピナーを装備。兵士が手にしているのは、落下傘のと装着バンド一式である。操縦席にパイロットはいない。
Moottorin käyntiinpano. Kuvassa Studebaker-säiliöauton vieressä hävittäjäkone Fokker D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-07-18 H. Rantala, valokuvaaja
写真は Finna.fl : sa-kuva-79976引用。


しかし、森林や節減を活用した秘匿飛行場の未舗装滑走路では、固定脚のほうが稼働率が良く、使いやすい機体だったようで、1944年の継続戦争末期まで、固定脚の旧式フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機は使用され続けた。

写真(右)1941年7月18日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機への燃料補給作業
Moottorin käyntiinpano. Kuvassa Studebaker-säiliöauton vieressä hävittäjäkone Fokker D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-07-18 H. Rantala, valokuvaaja
写真は Finna.fl : sa-kuva-79977引用。


1937年に発注されたオランダ陸軍航空隊向けのフォッカー D.XXI戦闘機36機は、発動機に、イギリス製ブリストル・マーキュリーVIIもしくはVIII空冷星形エンジンを搭載していた。

しかし、フィンランドでは、第二次大戦が激化するとイギリス製エンジンの輸入はできなくなり、戦時中にスウェーデン経由で輸入したアメリカ製プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535 ツイン・ワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)空冷星形14気筒エンジン(排気量25.2 L)を装備したフォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機が生産されている。

写真(右)1941年7月18日、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍1937年、フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21 ワスプ(WASP-D.XXI)戦闘機と燃料補給トロリー車
Moottorin käyntiinpano. Kuvassa Studebaker-säiliöauton vieressä hävittäjäkone Fokker D.XXI. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-07-18 H. Rantala, valokuvaaja
写真は Finna.fl : sa-kuva-79978引用。


1937年、フィンランドが発注したフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機る7機を発注することとし、その後、フォッカー社からライセンス生産の権利を取得した。こうして、フィンランドは部品を輸入してのノックダウン生産をタンペレにある国営航空機工場(Valtion Lentokonetehdas)で開始し、1939年から1944年までに合計93機のフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機を生産した。

写真(右)1941-1944年頃、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機;コックピット全面ガラス風防には、筒型望遠式照準器ではなく、光像式照準器が装着されている。左側の風防は外側に開放されている。兵士が手にしているのは、落下傘の装着バンド一式である。操縦席にパイロットはいない。
V. Pietinen, valokuvaaja Laskuvarjo. Kuvassa hävittäjäkone Fokker_D.XXI ja Teuvo Ruohola. Lentolaivue 30. Content Type Photo Organisation Military Museum
写真は Finna.fl : sa-kuva-79770引用。


フィンランドのタンペレ国営航空機工場では、フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機をノックダウン生産し、冬戦争に投入したが、1940年3月の冬戦争敗北後も、既存機の修理。整備と並んで、1941年にフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機を50機発注したが、これらの機体は、イギリスからのエンジン輸入ができなかったために、アメリカのプラット&ホイットニーR-1535ツイン・ワスプ・ジュニア空冷星形エンジンを輸入し、装備した。これがフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)ワスピ戦闘機で「ワスピ=フォッカー」と愛称された。

写真(右)1941-1944年頃、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)戦闘機;コックピット全面ガラス風防には、筒型望遠式照準器ではなく、光像式照準器が装着されている。左側の風防は外側に開放されている。兵士が手にしているのは、落下傘のと装着バンド一式である。操縦席にパイロットはいない。
Moottorin käyntiinpano. Kuvassa hävittäjäkone Fokker D.XXI. Fokker_D.XXI ja Teuvo Ruohola. Lentolaivue 30. Content Type Photo Organisation Military Museum
写真は Finna.fl : sa-kuva-79771引用。


フォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)ワスピ戦闘機で「ワスピ=フォッカー」のコックピットは、視界改良のため延長され、二重星形空冷エンジンのために、機首カウリング部分が延長され、絞りが強くなった。また、機首付根下面に空気取り入れ口が設けられた。エンジン換装のために、従来機首上面に搭載された機関銃2挺は、左右主翼内部に移動された。他方、コックピット操縦席の防弾板など防御力向上、エンジン換装のために機体重量が増加した。そのため、プラット&ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1535 ツイン・ワスプ・ジュニア(Twin Wasp Junior)空冷星形14気筒エンジン(排気量25.2 L)空冷星形エンジン装備のフォッカー(Fokker)D-21(D.XXI.)ワスピ戦闘機は、従来のイギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)搭載型より飛行性能が低下した。


3.現存するフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機

写真(右)2009年6月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機 :イギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)搭載。第二次世界大戦前、オランダのフォッカー D-21は1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。第二次大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカーD-21戦闘機30機を配備していたが、フィンランドも完成機7機、ノックダウン方式14機を購入しており、国営工場で21機を生産している。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 26 June 2009 Source Own work Author Ruuhinen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 01.jpg引用。


1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相チェンバレンは,対独宣戦布告をした。その混乱に乗じたソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様に、フィンランドにも領土要求をし、併合する構えを見せた。しかし、フィンランドは、この要求を断固拒否、そこで、ソ連赤軍は、1939年11月30日、フィンランド南部に攻撃を加えた。こうして、フィンランド冬戦争が始まった。

フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。

写真(右)2009年6月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110) :第二次世界大戦前、オランダのフォッカー D-21は1936年3月に初飛行した鋼管溶接骨組み胴体の前半金属外皮、後半羽布張り、木製主翼、固定脚という堅牢な戦闘機である。第二次大戦緒戦で、オランダ軍はフォッカーD-21戦闘機30機を配備していたが、フィンランドも完成機7機、ノックダウン方式14機を購入しており、国営工場で21機を生産している。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 26 June 2009 Source Own work Author Ruuhinen.
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 02.jpg引用。


写真(右)2012年6月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110)のブリストル マーキュリー(Bristol Mercury) VII空冷星型9気筒エンジン(排気量28.7 L)
English: Bristol Mercury VII engine of Fokker D.XXI fighter (FR-110) in the Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI hävittäjän (FR-110) Bristol Mercury VII -moottori Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 2 June 2012 Source Own work Author MKFI
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseo 8.JPG引用。


イギリスのブリストル(Bristol)社がj開発したマーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジンは、1925年に試作機が完成している。ボア(Bore) 5.75 in (146 mm)、ストローク(Stroke) 6.5 in (165 mm)、排気量(Displacement) 1,519 in³ (24.9 L)、全長(Length) 47 in (1,194 mm)、直径(Diameter) 51.5 in (1,307 mm)、乾燥重量(潤滑油無し)(Dry weight) 966 lb (438 kg)、離昇出力612 hp (457 kW) /2,750 rpm、高度15,500 ft (4,730 m)で636 hp (474 kW)/ 2,750 rpmを発揮する。

写真(右)2022年4月、イギリス、ロンドン郊外、イギリス空軍博物館(RAF Museum)で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110)発動機と同型のブリストル マーキュリー(Bristol Mercury) VIIIA空冷星型9気筒エンジン(排気量28.7 L)
English: Bristol Mercury radial aero engine at the Royal Air Force Museum Hendon Date 11 April 2022, 12:26:27 Source Own work Author Nimbus227
写真は Wikimedia Commons, Category:Bristol Mercury File:Bristol Mercury VIIIA (46302817211).jpg引用。


ブリストル マーキュリー(Bristol Mercury) VII空冷星型9気筒エンジン(排気量28.7 L)は、イギリス空軍制式ブリストル・ブレニム(Bristol Blenheim)双発爆撃機、グロスター・グラジエーター(Gloster Gladiator)戦闘機の発動機として採用され、総計で2万700台もが量産された。

写真(右)2018年12月、イギリス、ロンドン郊外、イギリス空軍博物館(RAF Museum)で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110)発動機と同型のブリストル マーキュリー(Bristol Mercury) VIIIA空冷星型9気筒エンジン(排気量28.7 L)
Bristol Mercury VIIIA 825hp 9 cylinder air-cooled radial aero engine in Hanger 5 at the RAF Museum, Hendon, 4 December 2018. Date 4 December 2018, 16:14 Source Bristol Mercury VIIIA Author Hugh Llewelyn from Keynsham, UK
写真は Wikimedia Commons, Category:Bristol Mercury File:Bristol Mercury VIIIA (46302817211).jpg引用。


1941年6月22日、ドイツのソビエト連邦侵攻があったが、、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北しており、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の際に、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。1941年7月、総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻した。

写真(右)2009年6月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110) :イギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)搭載。降着装置は車輪に代えてスキーを装着している。奥左は、アメリカ海軍ブリュースター(Brewster) F2A バッファロー(B-239)戦闘機を原型にして、フィンランドが国産化し1944年8月8日に初飛行したVL フム(Humu)(HM-671)戦闘機試作機。奥右は、ダイムラー・ベンツ DB6051,475hp装備のフィンランド空軍Bf 109 G-6 戦闘機(MT-507)。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 26 June 2009 Source Own work Author Ruuhinen.
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 03.jpg引用。


フィンランドが継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。

写真(右)2009年6月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110) :降着装置は車輪に代えてスキーを装着している。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 11 August 2009, 16:29:06 (according to Exif data) Source Own work Author Ruuhinen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 07.jpg引用。


3年2カ月に及ぶ第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)は、北限の死闘であり、雪・氷・霧による航空兵力・軌道兵力の使用が制限され、少数劣勢のフィンランド軍は、大群のソ連軍を相手に善戦できた。気象条件・地形が、大兵力の展開や機動戦を困難にしていたため、フィンランド軍にとって、兵士一人一人の能力を活かせる状況が生まれた。日米戦争で言えば、アリューシャン列島・樺太(サハリン)など北方戦線は、1943年5月のアッツ島攻防戦を除いて、1945年8月まで静謐だったことが思い出される。

写真(右)2009年7月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110)の左側方:イギリス製ブリストル(Bristol)マーキュリー(Mercury)空冷9気筒エンジン(排気量28.7 L)搭載。赤十字マークには救急キットが収納された箇所である。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 4. heinäkuuta 2009 Source Own work Author Jukka Kolppanen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110).jpg引用。


フィンランドは、ロシア革命で崩壊したロシア帝国から独立した新興国だったが、ロシア革命の影響で、当初は共産主義者、ボリシェビキの勢力が伸長し、内乱も経験している。ボリシェビキを鎮圧して成立したフィンランド政府は、反共産主義の立場をとり、ヨシフ・スターリンの指導するソビエト連邦との国際関係は協調的とは言えなかった。

写真(右)2009年6月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110)のコックピット左側の筒型望遠式照準器:照準器は汚れないように正面にカバーが付いていて、戦闘の時に手動でカバーを外す。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 26 June 2009 Source Own work Author Ruuhinen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 02.jpg引用。


ソ連は、1939年の第二次世界大戦勃発前、1939年8月23日に独ソ不可侵条約を結び、秘密議定書で、独ソの勢力範囲に合意し、ソ連はバルト三国とフィンランドへの影響力をドイツから認められていた。そこで、ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、バルト三国への外交圧力を強め、軍事基地を提供させ、ソ連軍進駐を認めさせ、相互援助条約に合意するよう強要した。また、フィンランドに対しても、レニングラードに近いカレリア地峡とコラ半島の一部とのソ連領との交換を強要しようとたが、フィンランドはソ連の領土割譲の要求を拒否した。第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目、1939年11月30日に、ソ連軍は、フィンランドを攻撃し、「冬戦争」が始まった。

写真(右)2009年8月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110)のコックピット左側 :赤十字マークには救急キットが収納された箇所である。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. 11 August 2009, 16:30:16 (according to Exif data) Source Own work Author Ruuhinen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 08.jpg引用。


スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。

写真(右)2009年8月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-XXI戦闘機(FR-110)のコックピットガラス風防前方に設けられた望遠式筒型照準装置 :赤十字マークには救急キットが収納された箇所である。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 11 August 2009, 16:28:37 (according to Exif data) Source Own work Author Ruuhinen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 06.jpg引用。


写真(右)2009年8月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-XXI戦闘機(FR-110)のコックピットガラス風防前方に設けられた望遠式筒型照準装置
English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 11 August 2009, 16:28:33 (according to Exif data) Source Own work Author Ruuhinen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 05.jpg引用。


写真(右)2012年6月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-XXI戦闘機(FR-110)のコックピットガラス風防前方に設けられた望遠式筒型照準装置
English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 11 August 2009, 16:30:31 (according to Exif data) Source Own work Author Ruuhinen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 09.jpg引用。


写真(右)2009年8月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-XXI戦闘機(FR-110)のコックピットガラス風防(右後方)と前方に設置された望遠式筒型照準装置 :右手前は、アメリカ海軍ブリュースター(Brewster) F2A バッファロー(B-239)戦闘機を原型にして、フィンランドが国産化し1944年8月8日に初飛行したVL フム(Humu)(HM-671)戦闘機試作機のコックピット上面と機首。
English: Fokker D.XXI (FR-110) in Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 11 August 2009, 16:55:34 (according to Exif data) Source Own work Author Ruuhinen .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) K-SIM 10.jpg引用。


ピョレミルスキ(Pyörremyrsky;旋風)戦闘機試作1号機(PM-1)は、フィンランド国営飛行機工場(Valtion Lentokonetehdas)が開発した木金混淆構造、ダイムラー・ベンツ DB 605液令12気筒エンジン1,475hp搭載の試作機で、1945年11月初飛行。総重量: 3,300 kg、最高速力: 650 km/h、上昇限度: 11,430 m、航続時間: 1.5 時間、兵装: 20 mm機関砲 ×1、12.7 mm機銃 ×2。試作機1機のみで終わった。

写真(右)2012年6月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110)の尾翼:垂直尾翼には白線で6機半の撃墜機数が示されている。
English: Fokker D.XXI fighter (FR-110) in the Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI hävittäjä (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 2 June 2012 Source Own work Author MKFI .
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseo 6.JPG引用。


写真(右)2012年6月、フィンランド中部、ユヴァスキュラ (Jyväskylä)、フィンランド中央航空博物館で保管展示されているフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Fokker)D-21戦闘機(FR-110):奥は、ダイムラー・ベンツ DB605液令12気筒エンジン1,475hp装備のフィンランド空軍Bf 109 G-6 (MT-507)と1945年11月初飛行のピョレミルスキ(Pyörremyrsky)PM-1 戦闘機試作機。右手奥は、アメリカ海軍ブリュースター(Brewster) F2A バッファロー(B-239)戦闘機を原型にして、フィンランドが国産化し1944年8月8日に初飛行したVL フム(Humu)(HM-671)戦闘機試作機、最奥後ろ向きは、ヴァルメト ヴィフリ(Valmet Vihuri:疾風)複座高等練習機で、 ブリストル マーキュリー VIII 9気筒 空冷 星型エンジン搭載、1951年2月初飛行、1959年までに51機生産されフィンランド空軍で使用された。
English: Fokker D.XXI fighter (FR-110), Messerschmitt Bf 109 G-6 (MT-507) hävittäjä fighter and Pyörremyrsky (PM-1) prototype in the Aviation Museum of Central Finland. Suomi: Fokker D.XXI hävittäjä (FR-110), Messerschmitt Bf 109 G-6 (MT-507) hävittäjä ja Pyörremyrsky (PM-1) prototyyppi Keski-Suomen ilmailumuseossa. Date 2 June 2012 Source Own work Author MKFI
写真は Wikimedia Commons, Category:Fokker D.XXI (FR-110) in the Finnish Air Force Museum File:Fokker D.XXI (FR-110) Keski-Suomen ilmailumuseo 3.JPG引用。


1944年、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を想起させるのを忌避する方便であろう。


4.フィンランド空軍のカーティスホーク75A(Curtiss-Hawk)戦闘機

写真(右)1941年7月12日、フィンランドの飛行場で、機首エンジンカウリングを外してエンジン整備中のフィンランド空軍のオランダ製フォッカー(Curtiss)ホーク(Hawk)75 A 戦闘機の正面
Lentokonemekanikot työssä. Kuvassa Lentolaivue 32:n Curtiss Hawk 75 A. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-07-12 Aavikko, valokuvaaja.
Vrt. Nils Helanderin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat Nurmoilasta 18.10.1943 (esim. 141197, 141202). Värikuvien selosteessa ajankohtana 14.-17.10.1943.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-80068引用。


競争試作戦闘機にセバスキーSEV-7に敗れたとはいえ、それまでアメリカ軍の主力機を量産してきたに名門カーチスを重視していたアメリカ軍は、P-35戦闘機と同じ発動機P&W-1830空冷星形エンジンに換装したカーチスY1P-36を追加試作機として3機発注した。これが、1937年に制式されたカーチスP-36A戦闘機で、「カーチス ホーク75」と呼ばれた。P-36A戦闘機は210機の発注を受ける。兵装は、機首に12.7ミリ機関銃と7.62ミリ機関銃と当時としては強力で、アメリカでの制式を契機に、フランスも大戦勃発前にホーク75の購入を決め、イギリスではカーチス・モホーク(Mohawk)として使用された。

写真(右)1941年8月25日、フィンランドの飛行場で、右主翼の被弾カ所を示すしているフィンランド空軍第32戦闘飛行隊のカーチス・ホーク(Curtiss Hawk)戦闘機パイロット :コックピットのガラス風防は、後方にスライドさせて開放する。これは、アメリカ軍、イギリス軍、日本軍の戦闘機が採用した方式である。
Vänrikki Aalto koneensa ääressä reikiä katsomassa. Vänrikki Mauri Aalto. Lentolaivue 32, kone Curtiss Hawk. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-08-25 Linnus Olavi, valokuvaaja.
Vrt. Nils Helanderin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat Nurmoilasta 18.10.1943 (esim. 141197, 141202). Värikuvien selosteessa ajankohtana 14.-17.10.1943.
写真は,Museot Finna, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-80068引用。


フォッカー(Curtiss)ホーク(Hawk)75 A 戦闘機の諸元
全長Length: 28 ft 6 in (8.69 m)
全幅Wingspan: 37 ft 4 in (11.38 m)
全高Height: 8 ft 5 in (2.57 m)
主翼面積: 235.94 sq ft (21.92 平方メートル)
空虚重量Empty weight: 4,567 lb (2,072 kg)
総重量Gross weight: 5,650 lb (2,563 kg)
離昇最大重量Max takeoff weight: 6,010 lb (2,726 kg)
発動機Powerplant: ライト( Pratt & Whitney) R-1830-17 ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン 1,050 hp (780 kW)
最高速力Maximum speed: 313 mph (504 km/h, 272 kn)
巡航速力Cruise speed: 270 mph (430 km/h, 230 kn)
航続距離Range: 625 mi (1,006 km, 543 nmi) /270 mph (230 kn; 430 km/h)
860 mi (750 nmi; 1,380 km) at 200 mph (170 kn; 320 km/h)
実用上昇限度Service ceiling: 32,700 ft (10,000 m)
上昇率Rate of climb: 3,400 ft/min (17 m/s)
兵装Armament:1 × 0.30 in (7.62 mm) M1919 ブローニング(Browning)機関銃、 1 × 0.50 in (12.70 mm) M2 ブローニング(Browning)機関銃


4.フィンランド空軍ブリュスター(Brewster) 239戦闘機


写真(右)1940年3月7日、フィンランド、試験的に固定式スキー降着装置を付けたフィンランド空軍ブリュスター(Brewster) 239戦闘機
;ブリュスター(Brewster) 239戦闘機は、アメリカのブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)のフィンランド名である。輸入当初、ブリュスターF2Aバッファローの引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機が開発された。これは、フィンランドが極北戦線仕様に試作したものである。
Brewster 239 -hävittäjässä kokeiltu kiinteä profiloitu suksilaskuteline . Organisation Museokeskus Vapriikki Collection VAR Inventory ID VAR:10211 Photo info: 1940-1940 Härmälä, Pyhäjärvi Tampere, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・VAR:10211引用。


アメリカ海軍は、それまでの複葉、固定脚、開放式風防の艦上戦闘機を近代化するために、1936年に単葉機、折畳み式主翼、引込み脚、密閉式風防の仕様で競争試作の要求を出した。これに対して、老舗メーカーのグラマン、セバスキーとともに新興のブリュスターがB-139(Brewster model 139)を提示し、最も優れた性能を発揮した。しかし、ブリュスターにおける新型艦上戦闘機の生産は遅れたため、グラマンの新型機F4Fワイルドキャットが制式となり、アメリカ海軍の主力艦上戦闘機となった。それでも、アメリカ軍の制式戦闘機として、F2Aはイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されて制式となった上に、第二次大戦の勃発を恐れるベルギー、オランダでもF2Aを陸上戦闘機として購入した。また、フィンランドも、ソ連との戦争に備えて、F2A戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名して部隊配備した。

フィンランドは、ソ連との戦争に備えて、アメリカ海軍の制式F2A艦上戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名した。F2A戦闘機はイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されている。

ブリュスター(Brewster)F2A-3 バッファロー(Buffalo)の諸元
全長Length: 26 ft 4 in (8.03 m)
全幅Wingspan: 35 ft 0 in (10.67 m)
全高Height: 12 ft 0 in (3.66 m)
主翼面積: 209 sq ft (19.4平方メートル)
空虚重量Empty weight: 4,732 lb (2,146 kg)
最大重量Max takeoff weight: 7,159 lb (3,247 kg)
発動機Powerplant: ライト(Wright)R-1820-40サイクロン(Cyclone)9気筒空冷星形エンジン 1,200 hp
最高速力Maximum speed: 321 mph (517 km/h; 279 kn)
巡航速力Cruise speed: 161 mph (259 km/h; 140 kn)
航続距離Range: 965 mi (839 nmi; 1,553 km)
実用上昇限度Service ceiling: 33,200 ft (10,100 m)
上昇率Rate of climb: 2,440 ft/min (12.4 m/秒)

⇒写真集Album:ブリュスター(Brewster)F2A バッファロー(Buffalo)戦闘機を見る。


5.フィンランド空軍モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機


写真(右)1941年7月25日、フィンランド南東部、ヨエンス空港(海岸)のフィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機部隊とドイツの前線特派員Oberleutnant Meyer
;ヨエンスは、現在、フィンランド北カルヤラ県ヨエンスー郡に属する。ソ連国境で、レニングラードの北350キロに位置する。
Saksalainen rintamakirjeenvaihtaja Oberleutnant Meyer Joensuun lentokentällä (rantahietikolla). Seloste epäselvä.
Organisation Military Museum
Photo info: 1941-07-25
Päiviö, Paavo (luutn.), valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-88419引用。


フランスで1935年8月8日に初飛行したモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.405の発展型がM.S.406戦闘機で、低翼単葉・引込み脚・密閉風防と近代的な戦闘機で、第二次大戦前の1938年から1,000機以上量産された。機体は、全金属製ではなく、胴体後半は金属骨格・羽布張りで軽量構造だったが、第二次世界大戦勃発時のフランス空軍の主力戦闘機だった。搭載した発動機は、イスパノ・スイザ 12Y31V12気筒液冷エンジンで、850馬力は出力不足だったが、最高速力486km/h、航続距離800km、実用上昇限度9,500m、上昇力5,000mまで6分、兵装は20ミリHS.404モーターカノン1門 7.5ミリMAC 1934機銃2丁と、出現当初は強力だった。

モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機の諸元
全長:8.15m、全幅:10.71m
全高:2.84m
主翼面積:16.0平方メートル
空虚重量:1,893kg
全備重量:2,720kg
発動機:イスパノ・スイザ 12Y31V12気筒液冷エンジン(860hp)
最高速力:486km/h、巡航速力:400km/h(5,000m)
航続距離:800km
上昇限度:9,500m
上昇率:5,000mまで6分
兵装:20ミリHS.404機関砲1門、7.5ミリMAC 1934機関銃2丁

モラーヌ・ソルニエ (Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機は、第二次世界大戦緒戦のフランス制式戦闘機で、1934年に初飛行して以来、開戦時にはフランス空軍に600機が配備され主力戦闘機となっていた。この他、日宇ランス空軍にはアメリカから購入したカーチス・ホーク75(P-36)が配備されているが、どちらの戦闘機も冬戦争・継続戦争でフィンランド空軍が対ソビエト連邦の戦いに実戦投入している。スイスでは、MS406をD-3801戦闘機、D-3803戦闘⒮機と改名して生産していたが、これはドイツから購入したBf109戦闘機と並んで、第二次大戦中のスイス軍主力戦闘機となっていた。21世紀になっても、コレクターがモラーヌ・ソルニエ (Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機を復元し、飛行可能な状態に保たれていた。1935年8月初飛行(原型M.S.405)のフランス、モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機を使用した国は、フランス、フィンランド、スイス、トルコで総生産数は1,176機。

⇒写真集Album:モラーヌ・ソルニエ (Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機を見る。


6.フィンランド空軍のブリストル ブレ二ム(Bristol Blenheim)爆撃機


写真(右)1941年9月4日、フィンランド、フィンランド空軍ブリストル ブレンハイム(Bristol Blenheim)爆撃機前期Mk.I型と見送る地上勤務整備員をドイツ軍の宣伝部PK隊員が写真撮影している。
ブレンハイムの機首上面の出入り口から搭乗員が身を乗り出している。ブレンハイム前期Mk.I型は、段差のない一体型で、平面ガラスで覆われているために、視界に歪がなく、良好な視界を確保できた。段付き風防はMk.IV型である。
Saksalainen TK-kuvaaja Bankhardt työssä.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1941-09-14 Blomberg, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-58497引用。


イギリス製のブリストル・ブレニム (Bristol Blenheim) 爆撃機は、機首段なし風防はMk.I型、機首段付き風防はMk.IV型であるが、フィンランド空軍はMk.I型とMk.IV型の双方を購入し装備している。

ブリストル・ブレニム (Bristol Blenheim) は、当初、高速旅客機として開発され、1935年に初飛行した。このブレニムの原型機ブリストル142は、全金属製、単葉、引込脚という近代的な構造の高速機で、ドイツのハインケルHe111に相当する。ブリストル142の高性能に着目したイギリス空軍は、ブリストルにブレンハイム Mk. I爆撃機の開発を命じたのである。これが、ブリストル・ブレニム (Bristol Blenheim) 双発爆撃機で、1936年から生産され、1919年9月の第二次世界大戦勃発時には、イギリス空軍の主力爆撃機として配備されていた。最終的に、5000機以上も量産されたブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)爆撃機は、イギリスドミニオンのカナダでライセンス生産されたほか、フィンランド、ユーゴスラビア、トルコでも輸入している。

ブリストル・ブレニム (Bristol Blenheim) は、全金属製、単葉、引込脚で、1936年当時は最先端の構造であり、爆撃機として旧式化した後でも、重戦闘機型、夜間戦闘機型、偵察機型が活動し続けている。第二次世界大戦緒戦、1940年にドイツ本土空襲を実施したほか、1942年5月22日、ビルマ南部アキャブ飛行場を空襲したブリストル ブレニムは、第64戦隊長加藤建夫中佐の一式戦「隼」をベンガル湾上で撃墜している。

⇒写真集Album:ブリストル・ブレニム(Bristol Blenheim)爆撃機を見る。


7.継続戦争でフィンランド空軍と戦ったソ連空軍機

ソ連空軍ポリカルポフ I-15戦闘機は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)ASh-62空冷星形9気筒エンジン(排気量29.88 L)1000馬力に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻当日、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:ポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20616引用。

ソ連空軍ポリカルポフ Polikarpov I-153bis戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機:シュベツホフ(Shvetsov)ASh-62空冷星形9気筒エンジン(排気量29.88 L)746 kW (1,000 hp)
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右)1940年、フィンランド、タンペレ、フィンランド空軍が使用したソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov )I-16戦闘機:ソ連空軍時代は主翼に20ミリ機関砲を装備していたが、樹幹中の破損あるいは弾薬の欠乏のために、フィンランド空軍では、国営工場で改造され、主翼の機関銃はイギリス式の7.7ミリブローニング(Browning)機関銃に変換された。引込み式主輪ではなく、引込み式の橇を装備しているが、これは、雪原など極北戦線用の仕様だった。旋回性能など格闘戦は苦手だったようだ。
Neuvostoliittolais-valmisteinen Polikarpov I-16 sotasaalislentokone Polikarpov I-16:ssa oli alunperin siivissä 20 mm tykit. Valtion Lentokonetehdas vaihtoi koneeseen siipiaseiksi 7,7 mm Browning-konekiväärit
Aineistotyyppi Kuva Organisaatio Museokeskus Vapriikki
Kokoelma VAR Inventaarionro VAR:10210 Kuvaustiedot: 1940-1940 Härmälä, Pyhäjärvi Tampere, Suomi.
写真は,Museot Finna HK19751014:150用。


ソ連空軍ポリカルポフI-16(И-16:Polikarpov I-16)は、ソ連パリカールパフ設計局の開発になる低翼式引込み脚の高速単葉戦闘機で、出現当初は、最先端の設計を具体化したもので、20ミリ機関砲の実用化も早かった。試作機TsKB-12は1933年12月に初飛行し、搭乗員が手動でワイヤを巻き上げる引き込み脚、単葉の高速戦闘機で、同時期のイギリス空軍グラジエーター戦闘機、日本陸軍九五式戦闘機、ドイツ空軍ハインケルHe 51戦闘機は全て複葉戦闘機だった。第二次世界大戦以前から大量配備され、ソ連空軍の主力戦闘機となった。を務めた、世界最初の実用的な引き込み脚を持った戦闘機である。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

⇒写真集Album:ポリカルポフI-153,I-16戦闘機を見る。

 
8.フィンランド空軍メッサ―シュミッサー(Messerschmitt)Bf-109戦闘機G

写真(右)1944年3月6日、フィンランド、フィンランド空軍メッサ―シュミットBf 109戦闘機G-2型:スピナ先端には、プロペラ軸を通して射撃可能なモーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を、機首上面には7.92ミリMG17機関銃2丁を搭載している。
Majuri Eino Luukkanen ja Messerschmitt Bf 109 G-2 -kone ilmataistelusta palanneena maaliskuussa 1944 Vihollisen La-5-hävittäjän kanssa 06.03.1944 ilmataistelun käynyt Lentolaivue 34:n (Le.Lv.34) komentaja majuri Eino Antero "Eikka" Luukkanen (keskellä) ja taistelussa 20 mm:n tykin osumia saanut Messerschmitt Bf 109 G-2 -hävittäjä (MT-201) Kymin lentokentällä. Finnish Aviation Museum Collection Luukkanen, Eino Inventory ID SIM VK 551:279 Measurements 9x6 cm Vedos Photo info 06.03.1944 Oy Foto Ab
写真はフィンランド国防省,Museot Finna引用。


メッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型コックピット操縦席前面風防には6センチ厚の防弾ガラスが埋め込まれている。また、パイロットの頭上後方も防弾ガラスで守られているが、この防弾ガラスは、ガラス風防の窓枠に取り付けられているために、風防を開放している場合、横倒しの位置になっている。ガラス風防の前端下側、機体の小型空気取入れ口は、操縦室の換気、曇り止めのためのもの。パイロットの頭上後方を守る防弾ガラスは、ガラス風防の枠に取り付けられており、写真ではパイロットの顔の前に見えている。F型までの機首上面の7.92ミリMG 17機関銃2丁を13.1ミリMG131機関銃に強化したため、大型化した薬莢排出パイプを通すために操縦席前にバルジが突出している。モーターカノンの20ミリMG 151機関銃1丁あるいは30ミリMK108機関砲1門を搭載している。爆撃機迎撃用には、主翼下面に20ミリ機関銃を収容したガンポッドを吊るして搭載できるが、飛行性能は低下する。

写真(右)1944年6月15日、フィンランド、フィンランド空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型:機首上面には13.1ミリMG131機関銃2丁、モーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を搭載している。 エンジンはF型のダイムラーベンツDB601から改良型のDB605に換装、強化されている。
Mannerheim-ritari, majuri Luukkanen hävittäjäkoneessaan lähdössä hälytyslennolle. Majuri Eino Luukkanen, Hävittäjälentolaivue 34:n komentaja. Lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-6. Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-06-15
写真はフィンランド国防省,Museot Finna引用。


 第二次大戦緒戦から終戦まで、ドイツ空軍の主力戦闘機メッサーシュミットBf109は戦い続けた。戦闘機の中では世界最多の3万機以上が生産された。世界最多生産の機体は、ソ連空軍イリューシン Il-2地上襲撃機(シュトゥルモヴィーク Il-2)で3万6,000機生産だが、Bf109は発展型、派生型の多さを軍を抜いている。そのBf109の中でも最多生産型がG型で、離昇出力1,475馬力のダイムラー・ベンツDB605液冷エンジンを搭載している。

  メッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型の機首上面の兵装は、それまでの7.92ミリMG17機関銃2丁から13.1ミリMG131機関銃に変換、火力を強化したが、G型のモーターカノンはF型同様、20ミリMG151/20機関銃1丁で、登場した1943年には火力不足だった。それでも、武装強化型を含めて、1943年2月から1945年2月までにメッサーシュミットBf109戦闘機の中でも、各型最多の1万3,000機が製造されている。

   ドイツ空軍メッサーシュミットBf109戦闘機G型は、機首に13.1ミリMG131機関銃を搭載したために、機銃保弾子の排出シュートが大型化し、機首側面にボイレ(バルジ:膨らみ)ができた。また、Bf109G型は主翼下面に20mm機銃ゴンドラ各1挺追加装備した火力強化型もあり、四発大型爆撃機の迎撃戦に投入された。メッサーシュミットBf109戦闘機G-6は、エアインテークに防塵フィルターを装備したTorop型もあり、東部戦線、西部戦線、地中海・バルカン戦線、極北・バルト海、フィンランド戦線など、ドイツ空軍のあるところすべての戦線に投入された。

1944年6月のノルマンディ侵攻で、西側連合軍地上軍が西ヨーロッパでドイツ軍を圧倒し、ドイツの敗戦が確実になる中、1944年8月8日にエドウィン・リンコミエス首相(日本の勲一等旭日大綬章佩用)は辞任、後任首相には、アンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)が就いた。そして、フィンランド大統領フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)も辞職し、8月4日にフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥が後継の大統領に就任した。

写真(右)1945-1954年、フィンランド、フィンランド空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-6型:1944年9月19日、、連合国に降伏後、ナチ党鍵十字と同じハリスティカのフィンランド国籍マークは、青白の同心円ラウンデルに変更された。しかし、ドイツから送られたBf109戦闘機は、そのままフィンランド空軍で1954年まで使用された。
Messerschmitt Bf 109 -hävittäjiä Porissa sodan jälkeen Messerschmitt Bf 109 -hävittäjiä Porissa sodan jälkeen. Tuntemattomia henkilöitä. Suomen Ilmailumuseo Kokoelma Paronen, Onni Inventaarionro SIM VK 603:168 Mitat 12,5x9 cm Kuvatiedosto Kuvaustiedot 1945-1954
写真はフィンランド国防省,Museot Finna引用。


1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したカール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1944年9月19日、モスクワ休戦協定を結んで、事実上、ソ連に降伏した。講和条件は、カレリア地峡・ペッツァモの譲渡、戦争賠償金の支払い、フィンランド国内におけるソ連軍の基地使用、ドイツ軍のフィンランドからの排除(事実上の対ドイツ戦争)である。

Messerschmitt Me 109 Fは,機首にモーターカノンとしてマウザー(モーゼル)15.1ミリMG151機関銃または20ミリMG151/20 機関銃,ラインメタル13.1ミリMG131機銃 2丁,主翼に機銃は装備しなかった。ダイムラー・ベンツDB601エンジン (1200馬力),最大速度630キロ, 航続距離 580キロ。モーターカノンには、F-3型までは15.1ミリMG151機関銃1丁(ベルト給弾200発)、F-4型以降は20ミリMG151/20機関銃(ベルト給弾150発)をエンジン後方に装備。機首上面の7.92ミリMG17機銃(2丁)は、初速840m/秒、発射速度1000発/分、ベルト給弾1丁当たり500発、合計1000発を装備した。モーターカノンを搭載した連合軍機は、アメリカのベルP-39エアコブラが37ミリ機関砲を備えていた。Ju87急降下爆撃機は主翼にマウザー(モーゼル)20ミリMG151/20 機関銃を装備して、地上襲撃能力を向上させている。

フィンランド派遣ドイツ空軍メッサ―シュミットBf 109戦闘機を見る。

 

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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