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ポリカルポフI-153チャイカ戦闘機 2022
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◆ポリカルポフ(Polikarpov)I-153(I-15 ter)チャイカ(Chaika)戦闘機 ◇ Поликарпов И-153
写真(上):1942年3月26日,フィンランド、飛行場を低空飛行するフィンランド空軍スキー式降着装置付きのポリカルポフ(Polikarpov)I-153「チャイカ」複葉戦闘機:1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻後にドイツが鹵獲したソ連空軍I-153を同盟国フィンランドに供与した機体。フィンランドは1941年6月25日から1944年9月19日に対ソ連「継続戦争」をたたかったが、ソ連・イギリスに降伏、講和した。
VH-tyyppinen hävittäjä nousee ilmaan Kotkan kentältä. Kone Polikarpov I-153 ``Tsaikka ́ ́. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-03-26 Luutnantti Jari Ilanko, valokuvaaja
写真は、 FINNA FL .sa-kuva-4971引用。


写真(上):1942年10月11日,フィンランド、飛行場を低空飛行するフィンランド空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-153「チャイカ」複葉戦闘機:1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻後にドイツが鹵獲したソ連空軍I-153を同盟国フィンランドに供与した機体。フィンランドは1941年6月25日から1944年9月19日に対ソ連「継続戦争」をたたかったが、ソ連・イギリスに降伏、講和した。
Viholliselta vallattuja hävittäjiä I-153 suomalaisten käytössä. Luutnantti Jori Ilanko, valokuvaaja Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-10-11 Luutnantti Jori Ilanko, valokuvaaja Subjects 1942-10-11
写真は、 FINNA FL .sa-kuva-43987引用。


写真(上):2013年8月以前,ソビエト連邦、ソ連空軍ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」複葉戦闘機
(引込み脚装備):1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対して、本機もや-16戦闘機、ツポレフSB双発高速爆撃機などを供与した。
Description English: Polikarpov I-15: И-15 Date 30 August 2013 Source Own work Author Doomych
写真はWikimedia Commons, Category:Polikarpov I-15 in Soviet service File:Polikarpov I-15 at the MAKS-2013 (01).jpg引用。

1.ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis/I-152複葉戦闘機

ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 ソ連は、スペイン内戦の時期、反ファシズム人民戦線戦術をとっていたが、1935年8月、コミンテルンが、中国共産党に対しこれまでの反蔣抗日ではなく、連蔣抗日の路線を勧告した。

蔣介石は外蒙古を衛星国化して新疆を「赤化」し北鉄(東支鉄道)を満洲国・日本に売却したソ連に対して、不信感を拭い去ることはできなかったが、日本の華北分離工作に対抗する上で、五か年計画を強行して重化学工業化と経済の軍事化を進めたソ連の航空機、火砲など兵器を中国に導入しようとした。

西安事件の衝撃を受けて、日本には対中政策の転換を図ろうとする動きが生まれたが、関東軍のように、それに反対する主張も根強かった。また、政策転換の実績を挙げるには時間が必要であった。そして、その実績が挙がる前に、1937 年6 月林[銑十郎]内閣は総辞職した。後継の近衛内閣の外相に就任したのは広田弘毅であった。(日中歴史共同研究2010年9月6日、報告書翻訳版:第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで:戸部 良一引用終わり)

写真(左):2009年8月、ロシア、モスクワ郊外オジンツォボ、ソ連空軍ポリカルポフI-15戦闘機:The Polikarpov I-15 (Russian: И-15) was a Soviet biplane fighter aircraft of the 1930s. Nicknamed Chaika (Russian: И-15 Чайка, "Lapwing") because of its gulled upper wings, it was operated in large numbers by the Soviet Air Force, and together with the Polikarpov I-16 monoplane, was one of the standard fighters of the Spanish Republicans during the Spanish Civil War, where it was called Chato (snub-nose) in the Republican Air Force, or "Curtiss" (because its resemblance to Curtiss F9C Sparrowhawk) in the Nationalist Air Force. The I-15 was used in combat extensively by the Republicans in the Spanish Civil War and proved to be one of the best fighter biplanes of its time. The I-15bis also saw a great amount of action in Manchuria and Battle of Khalkhin Gol in the various border clashes between the Russians and the Japanese. In 1937, I-15s in the hands of the Chinese Nationalist Air Force fought against invading Japanese, where the tough biplane began to meet its match in some of the newer, faster Japanese monoplanes. More than 1,000 I-15bis fighters were still in use during the German invasion when the biplane was employed in the ground attack role. By late 1942, all I-15s and I-15bis' were relegated to second line duties.
Date 21 August 2009, 12:04 Source Polikarpov I-15 Author Dmitry Terekhov from Odintsovo, Russian Federation
写真はWikimedia Commons, Category: Polikarpov I-15 File:Polikarpov I-15 (4321424501).jpg引用。


満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。

蒋介石満州が占領されてすでに6年、---今や敵は北京の入口である蘆溝橋にまで迫っている。---わが民族の生命を保持せざるを得ないし、歴史上の責任を背負わざるを得ない。中国民族はもとより和平を熱望するが、ひとたび最後の関頭に至れば,あらゆる犠牲を払っても、徹底的に抗戦するほかなし。

そして翌日7月19日、この最後の関頭の演説が公表されると,中国軍民の抗日交戦意欲が高まり、現地中国軍司令官と日本軍司令官とが妥協,停戦しても、戦争をとめる余地がなくなった。日中両首相(最高級の指導者)によって戦争が決定され,世界に公表された以上、停戦申し込みは,敗北を意味する。日中両首相の戦争宣言は、日中全面戦争の開始となった。

日中双方の世論とも,相手を軽蔑し憎むようになった,あるいは仕向けられた。愛国心に駆られた国民世論を背景に,日中戦争が開始されたのであれば,盧溝橋事件でどちらが咲きに発砲したかなどという陰謀説など取るに足らない契機に過ぎない。敵対的だった二つの軍隊が隣接して、北京にあったことが、問題だった。誰が発砲したかといった些細な事件を,全面戦争開始の口実みなすのは,戦争に至る全体像を,あるいは国民の敵対的世論を見失っている。友好関係にあれば、誤射で済ませられた。

中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清司令長官の率いる第三艦隊であり、第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあった。旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮し,内陸水運の中心となる長江下流域を押さえるためである。

写真(左):日本海軍航空隊の三菱九六式陸上攻撃機:1937年8月の第二次上海事変で,台湾,九州から南京,上海,杭州を「渡洋爆撃」した。これは,世界初の本格的な首都への長距離無差別爆撃である。スペイン内戦に派遣されたドイツ機によるゲル二カ爆撃(同年4月26日)から4ヶ月でアジアでも戦略爆撃が開始。しかし、洋上を渡る長距離爆撃では、搭載する燃料が多く爆弾倒産量が制限される上に、天候や故障による障害で未帰還が増えてしまった。そこで、爆撃機部隊も、上海の公大飛行場に進出して、都市爆撃を行うようになった。写真は、旧鳥飼行博研究室「日中戦争の序章」を原資料とした Wikimedia Commons, Category:Mitsubishi G3M File:Four Japanese Navy Type 96 Attack Bombers.jpg引用。

近衛文麿 リース・ロス(Frederick William Leith Rossは1887–1968)は、英国オックスフォード大学卒で、満州事変後の1932年から第二次大戦終戦の1945年まで、英国政府の経済顧問を務めた。戦前、中国やドイツとも国際金融にかかわる交渉し、1935年、中国の幣制改革のために、リース・ロス派遣団として赴いた。中国を半植民地化していたイギリス、ブランスなど列強は、日本が中国に特殊権益と称して植民地化することを大いに警戒していたのである。

大日本帝国首相近衛文麿の下で,戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大し、日本陸海軍航空隊と中国空軍による空襲や空中戦も本格化した。そしてて、南京占領後の1938年1月16日、近衛文麿首相は、「帝国政府は爾後国民政府を相手(対手)にせず、帝国と真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待し、これと両国国交を調整して再生支那の建設に協力せんとす」という声明をだした。

近衛文麿首相は、重慶に逃避し抗日戦争を継続する国民党蒋介石政権とは断交して、国民党が支配していない地域に親日政権、傀儡政権(puppet government)を樹立し、日本との和平を進めるという計画である。

第一次近衛声明 大日本帝国首相近衛文麿は、中国国民党の蒋介石の重慶政権を中国政府とはみなさず、「真に提携するに足る新興支那政権の成立発展を期待」するとして、日本の占領地に中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)などの自治政権が日本の援助で作られた。しかし、これらは傀儡政権に過ぎず、中国人の人望を集めることはできなかった。

日中戦争は、1937年7月7日、盧溝橋事件を契機に、本格的な戦争として開始されるが、その前から、日中は衝突を繰り返していた。日中歴史共同研究2010年9月6日、報告書翻訳版:第2部第1章:満洲事変から日中戦争まで:戸部 良一参照。

 抗日戦争を継続する国民党蒋介石総統の重慶政権との断交を決定的にしたのが,1938年(昭和13年)1月16日の近衛文麿首相による「爾後国民政府ヲ対手トセズ」との言明で、これは第一次近衛声明にと呼ばれる。

 1938年1月14日,ドイツのトラウトマン駐華大使の仲介になるトラウトマン工作に関する中国政府の回答が日本へもたらされたが、それは講和条件の詳細な内容を照会したにすぎないと日本は判断した。

 1938年1月16日,第一次近衛声明「爾後国民政府ヲ対手トセズ」によって、近衛文麿首相は川越茂駐華大使に帰国命令を出し、蒋介石も許世英駐日大使を中国に召還した。こうして、日中の外交は断絶、国交断絶によって、日本政府は自ら戦争終結の手段を放棄することになった。

ポリカルポフI-15bis戦闘機・初期型 中国華南からの日本人居留民、邦人の引揚げがひと段落下後、日本は、引き続き抗日戦争を続ける蒋介石重慶政権に対して、鉄槌を加えることを発表する。これが、1937年8月15日の近衛文麿首相による「暴支膺懲の声明」である。

「帝国は、つとに東亜水遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に、力をいたせること、久しきにおよべり。しかるに南京政府は、排日抗日をもって国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と、 帝国の実力軽視の風潮と相まち、さらに赤化勢力と苟合して、反日侮日いよいよはなはだしく、もって帝国に敵対せんとするの気運を醸成せり。

 近年、いくたびか惹起せる不祥事件、いずれもこれに因由せざるなし。今次事変の発端も、また、かくのごとき気勢がその爆発点を、たまたま永定河畔に選びたるにすぎず。通州における神人ともに許さざる残虐事件の因由、またここに発す。さらに中南支においては、支那側の挑戦的行動に起因し、帝国臣民の生命財産すでに危殆に瀕し、わが居留民は、多年、営々として建設せる安住の地を涙をのんで一時撤退するのやむなきにいたれり。

ポリカルポフI-15bis地上攻撃機  かえりみれば、事変発生以来、しばしば声明したるごとく、帝国は隠忍に隠忍をかさね、事件の不拡大を方針とし、つとめて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方における支那軍屡次の挑戦および不法行為に対して、 わが支那駐屯軍は交通線の確保、および、わが居留民保護のため、真にやむをえざる自衛行動にいでたるにすぎず。

 しかも帝国政府は、つとに南京政府に対して、挑戦的言動の即時停止と、現地解決を妨害せざるよう、注意を喚起したるにもかかわらず、南京政府は、わが勧告をきかざるのみならず、かえってますますわがほうに対し、 戦備をととのえ、既存の軍事協定を破りて、かえりみることなく、軍を北上せしめてわが支那駐屯軍を脅威し、また肩口、上海その他においては兵を集めて、いよいよ挑戦的態度を露骨にし、上海においては、ついに、われにむかって砲火をひらき、 帝国軍艦に対して爆撃を加うるにいたれり。

ポリカルポフI-15bis戦闘機・後期型  かくのごとく、支那側が帝国を軽侮し、不法暴虐いたらざるなく、全支にわたるわが居留民の生命財産危殆におちいるに及んでは、帝国としては、もはや隠忍その限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、もって南京政府の反省をうながすため、今は断乎たる措置をとるのやむなきにいたれり

 かくのごときは、東洋平和を念願し、日支の共存共栄を翹望する帝国として、衷心より遺憾とするところなり。しかれども、帝国の庶幾するところは日支の提携にあり。これがために排外抗日運動を根絶し、今次事変のごとき不祥事発生の根因を芟除すると共に、日満支三国間の融和提携の実を挙げんとするのほか他意なく、もとより豪末も領土的意図を有するものにあらず。 また、支那国民をして、抗日におどらしめつつある南京政府、及び国民軍の覚醒をうながさんとするも、無事の一般大衆に対しては、何等敵意を有するものにあらず。」

したがって、日本の占領地に、日本の威光を背景に樹立された親日政権、中華民国臨時政府(1937年12月14日に北京で樹立)、中華民国維新政府(1938年3月28日に南京で樹立)が、日本の和平交渉相手になるいう、傀儡政権(puppet government)相手の滑稽な外交を展開するしかなくなった。その後、中国に作った傀儡政権が人望を集めることができないことを知った近衛首相は、1938年11月3日、第二次近衛声明により「東亜新秩序建設」が国内外に発表する。

◆ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗するために、1935年の、モスクワにおける第7回コミンテルン世界大会で、ドイツ・日本の全体主義や侵略に対抗するために、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズム人民戦線の方針を打ち出した。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明し、1937年7月の盧溝橋事件、8月の第二次上海事変が勃発し、日中全面戦争が始まった直後、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結した。こうして、中国は、アメリカ・ドイツだけではなく、ソ連からの軍事援助も受けて、日本との抗日戦争を戦うことができた。国際的支援を受けることができた中国国民党蒋介石は、日中戦争において、中国が日本に敗北することはないと確信できた。問題は、蒋介石が主導する中国を存続させることである。

ポリカルポフI-15bisT ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)bis 戦闘機 の諸元
全長: 6.29 m(6.33 m)
全幅: 9.13 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)
主翼面積: 12.9 平方メートル
自重: 1,012 kg
全備重量: 1,422 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(448 km/h)
実用上昇限度: 7,250 m、乗員: 1名
兵装: ShKAS 7.62mm機銃4丁
爆弾50kg2個またはRS-82ロケット弾6個

ソ連は,中国共産党にコミンテルンでは反ファシズム戦線の結成を謳い,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,西安事件で中国共産党も国共合作に合意し,蒋介石を釈放を認めている。そして,中国国民党への軍事支援を開始している。1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結したソ連は、1937年以降,ソ連製ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)、さらにポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。

写真集Album:ポリカルポフ(Polikarpov)I-15/I-152戦闘機を見る。


2.I-152後継機ポリカルポフ(Polikarpov)I-153(I-15ter)「チャイカ」(Chaika)戦闘機


写真(右):1928-1939年,ソビエト連邦、ポリカルポフ(Polikarpov)I-153(I-15ter)戦闘機:I-153戦闘機の試作機のようで、2翅プロペラを装備し、塗装は施されているが、国籍マークは記入されていない。主輪は引込み式で、収納部の覆いカバーが開いている。
Polikarpov, I-153 (I-15ter), Manufacturer: Polikarpov Designation: I-153 (I-15ter) Notes: Russia
写真は、SDASM Archives-Catalog #: 01_00086866引用。



写真(右):1928-1939年,ソビエト連邦、ポリカルポフ(Polikarpov)I-153(I-15ter)戦闘機の左側面:コックピット操縦席の出入りが下主翼を使ってしやすいように、開口部を大きく広げている。塗装は灰褐色系が施されている。国籍マークは、垂直尾翼と胴体構想側面に「赤い星」が記入されている。主輪は引込み式で、収納部の覆いカバーが開いている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939139 - Title:Polikarpov I-153 - Filename:16_007259.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は、SDASM Archives- Catalog:16_007259引用。



写真(右):1928-1939年,ソビエト連邦、ポリカルポフ(Polikarpov)I-153(I-15ter)戦闘機:I-153戦闘機の試作機のようで、2翅プロペラを装備し、塗装は施されているが、国籍マークは記入されていない。主輪は引込み式で、収納部の覆いカバーが開いている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939113 - Title:Polikarpov I-153 Petrov photo collection - Filename:16_007257.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は、SDASM Archives-Catalog:16_007257引用。



写真(右):1928-1939年,ソビエト連邦、ポリカルポフ(Polikarpov)I-153(I-15ter)戦闘機のスキー仕様:I-153戦闘機のゴム主輪式引き込み式降着装置を雪原で利用便利なようにスキー式引き込み式降着装置に変更した。スキー引込み式時の収納部の小型覆いカバーが開いている。固定脚の引き込み式のスキー変更は、ソ連、フィンランドで珍しくはないが、スキーの引き込み式降着装置は珍しい。2翅プロペラを装備し、塗装は冬季迷彩が施されている。「赤い星」国籍マークが記入されている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939127 - Title:Polikarpov I-153 Petrov photo collection - Filename:16_007258.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は、SDASM Archives-Catalog:16_007258 -引用。



写真(右):1928-1939年,ソビエト連邦、大胆で珍しい迷彩塗装を施したポリカルポフ(Polikarpov)I-153(I-15ter)戦闘機の右側面:ゴム主輪式引き込み式降着装置で収納部の覆いカバーが開いている。固定脚の引き込み式のスキー変更は、ソ連、フィンランドで珍しくはないが、スキーの引き込み式降着装置は珍しい。2翅プロペラを装備し、「赤い星」国籍マークを垂直尾翼に記入している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939101 - Title:Polikarpov I-153 Petrov photo collection - Filename:16_007256.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は、SDASM Archives-Catalog:16_007256 -引用。



写真(右):1928-1939年,ソビエト連邦、下主翼下面に増速用のラムジェットエンジンを各々1基装着したポリカルポフ(Polikarpov)I-153(I-15ter)ラムジェット試験搭載機:I-153戦闘機の試作機のようで、2翅プロペラを装備し、塗装は施されているが、国籍マークは記入されていない。主輪は引込み式で、収納部の覆いカバーが開いている。
Polikarpov, I-153 (I-15ter), Manufacturer: Polikarpov Designation: I-153 (I-15ter) Notes: Russia
写真は、SDASM Archives-Catalog #: 01_00086870引用。


写真(右):1938−1941年頃、ソ連赤色空軍ポリカルポフI-15ter(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機:固定式主輪の複葉機のように見えるが、主輪の内側に引込み時の整形カバーが付いているので、I-153引込み脚式複葉機である。張線は少なく、エンジンカウリングから胴体への絞り込みも強く、空気抵抗の減少に大いに配慮している。原典説明では1934年とあるが、I-153試作機の初飛行は1938年8月である。
Polikarpov I-15B Title: Polikarpov I-15B Date: 1934 Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Soviet Aircraft Page #: 1 Tags: Soviet Aircraft, Charles Daniels,
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 15_002203引用。

1936年のスペイン総選挙で共和派人民戦線が勝利すると、スペイン陸軍を中心に王党派や教会擁護派が反乱を起こしスペイン市民戦争が勃発した。そのスペイン内乱に際して、アサーニャ率いる共和国政府軍側に立ってソ連軍が義勇航空兵が参戦した。ソ連はポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)複葉戦闘機のほか、当時の新鋭機ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika) 複葉戦闘機、ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機も派遣した。I-16戦闘機は、その主力戦闘機となった。

写真(右):1938-1940年,中国、中国空軍に配備されたソ連製ポリカルポフI-153(I-15ter)「チャイカ」(Chaika)複葉戦闘機:1937年8月の中ソ不可侵条約に基づいて、ソ連は日本軍に対抗できるように中国空軍に、ソ連空軍の制式軍用機を貸与した。ここには、I-153「チャイカ」(Chaika)戦闘機、I-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製の高速ツポレフSB双発爆撃機などが含まれ、日本の軍用機に十分対抗できた。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45939176 - Catalog:16_007262
Title:Polikarpov I-153 in China - Filename:16_007262.TIF
Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives PictionID:45939176 - Catalog:16_007262 引用。


ポリカルポフI-15bis戦闘機・スキー装着型 軍事力に関しても,1937-38年当事,中国に比して日本が優位であったというわけではない。もともと兵力は中国軍が数倍上回っている上に,米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れし,外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けてくる。

さらに,1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)が締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と江南地方で大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手できるるようになった。

1937年8月の中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)、中国国民政府の反共主義者の蔣介石とソ連共産党書記長のスターリンの間で締結された軍事同盟である。日中戦争が勃発したことで、日本からソ連への軍事的圧力が弛緩したk徐とに喜んだスターリンは、反共産主義者の蒋介石を説いて日本と中国の本格的な戦争を臨んだともいえる。他方、中国共産党は、長征の最中で、毛沢東の指導力は、益体化した中国共産党の内部にのみ及んでいる状況で、中国全土に対する中国共産党の指導力は低落していた。コミンテルンと中国共産党との連携が弱体化すれば、蒋介石に取っ手中国共産党よりも、日本軍のほうが強大な相手になったのであり、そのためにはソ連からの軍事援助が喉から手が出るほど欲しかったに違いない。さらに、中国国民党の反攻・西安事件後、抗日民族統一戦線を結成する世論が高まり、蒋介石もそれを無視できなかった。こうして、反共主義者の蒋介石は、スターリンとの提携、第2次国共合作に踏み切ったのである。  スターリンのソ連の軍事援助があればこそ、蒋介石は、日本軍によって上海、南京が占領されても十分な抗戦力を持ちえたのである。

写真(右):中国空軍のポリカルポフI-153(I-15ter)「チャイカ」(Chaika)戦闘機(1937年頃):ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できた。ソビエト連邦の航空機設計所の主任が、ニコラエヴィチ・ポリカルポフで、1944年7月30日に死去したが、設計局はラボーチキン設計局に吸収された。この他、ソ連にはミコヤン・グレヴィッチ設計局があった。長い間本拠地をモスクワの航空機工場#1(現Dux工場)においており、現在でもその建物を見ることができる。SDASM Archives Polikarpov, I-153 (I-15ter), Manufacturer: Polikarpov Designation: I-153 (I-15ter)
写真はSDASM Archives Catalog #: 01_00086862引用。


日独軍事同盟によって,東西を強力な軍事国家に挟まれたソ連はアジア方面の主敵日本に対抗するため,同じ反日の中国との友好を求めたといえる。そして,蒋介石の反共的性格を知りながらも,中国共産党にコミンテルンを通じて,国共合作を促し、1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を結んで蒋介石に軍事援助をし, ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)、それを引き込み脚化した後継機ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)など軍用機も供与した。イデオロギーに囚われずに,自国の利益を追求している。独ソ不可侵条約,日ソ中立条約,米英からの援助受け入れなど,まことにソ連外交は豹変する。

写真(右):中国空軍のポリカルポフI-153(I-15ter)「チャイカ」(Chaika)戦闘機(1937年頃):ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できた。ソビエト連邦の航空機設計所の主任が、ニコラエヴィチ・ポリカルポフで、1944年7月30日に死去したが、設計局はラボーチキン設計局に吸収された。この他、ソ連にはミコヤン・グレヴィッチ設計局があった。長い間本拠地をモスクワの航空機工場#1(現Dux工場)においており、現在でもその建物を見ることができる。
SDASM Archives Polikarpov, I-153 (I-15ter), Manufacturer: Polikarpov Designation: I-153 (I-15ter) Notes: Russia
写真はSDASM Archives Catalog #: 01_00086863引用。


ポリカルポフI-153チャイカ戦闘機・中期型 1937年7月11日、杉山元陸軍大臣は派兵を再度の求めた。理由は、5500名の天津軍、平津地方における日本人居留民の保護である。海軍は、派兵反対の立場を崩し、派兵に同意した。

海軍省は全面戦争への拡大することを懸念したがと考え、7月12日、海軍軍令部は「対支作戦計画内案」として、中国の第二十九軍を対象にした第一段の限定的作戦。次いで、中国全土を対象にした第二段の全面作戦とする構想を立てた。

他方、現地の第三艦隊は派兵を契機に日中関係を全面的に改定しようと、次のような具申を行った。

ポリカルポフ I-153 武力により日中関係の現状を打開するには、現中国の中央勢力を屈服させる以外、道は無く、戦域局限の作戦は期間を遷延し、敵兵力の集中を助け作戦困難となる虞大である。故に作戦指導方針に関し「支那第二十九軍ノ膺懲」なる第一目的を削除し、「支那膺懲」なる第二目的を作戦目的として指導されるを要し、用兵方針についても最初から第二段作戦開始の要がある。

中国の死命を制するためには、上海、南京を制するを最重要とし、日本陸軍からの上海派遣軍は五コ師団を要する。

海軍省にとって派兵の目的は日本人居留民保護を名目にしたが、そうであれば、華北だけでなく、華中・華南と中国全土の日本人居留民が問題となる。

カラー写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)チャイカ(カモメ)戦闘機の右側面:引込み式主輪だが、複葉戦闘機が1944年になっても残っていたのは、練習機として使用していたのであろう。垂直尾翼の方向舵ラダーの青白のストライプは、中華民国の青天白日の国旗から採用された国籍マークである。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P.7250, China a Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P.7250, China 引用。

長谷川清伝によれば、「当時長谷川司令長官が最も心を痛めていた問題は、揚子江の上流一、三五〇哩にある重慶をはじめとして、長沙、沙市、漢口、九江、蕪湖、南京などに在る在留同胞を万一の場合上海へ引揚げさせることであった。」というものであった。

日本人居留民を引き上げるという対策については、居留民の財産・権益を放棄することになり、困難である。また、日本の外務省は、華中の居留民引揚は「不必要な動揺」を与えることになるので、引揚準備に関して公開しないようにとの命令を出し、引揚の可否に関する裁量は現地に任すこととした。

カラー写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機の右側面:垂直尾翼の方向舵ラダーの青白のストライプは、中華民国の青天白日の国旗から採用された中国空軍の国籍マークである。ゴム首輪は引込み式で、引込んだ後収納部分のカバーが、胴体下面の車輪の間、脚の内側に開いている。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P.7250, China a Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary2引用。

1937年7月20日、広田弘毅外務大臣から川越茂大使宛の訓電には以下のようにある。

北支事変拡大し、万一長江沿岸居留民に引揚を命するの要あるに至る場合は、貴大使の裁量に依り、九江、燕湖、南京、蘇州、杭州各管内の居留民に付ては、上海総領事をして、又漢口上流の居留民に付ては漢口総領事をして、夫々出先領事及び軍側と緊密なる連絡を取り、時期を誤らす必要なる措置を採らしてめられ度く。引揚先に付ては機宜の指示を与えられ差支えなきも、一応下流は上海に、上流は漢口に収容するを適当と認む。本件が事前に洩るるに於ては一般居留民に不必要の動揺を与ふるの虞あるを以て最後迄貴大使及上海漢口両総領事限りの含みとせられたく。

1937年7月21日、第十一戦隊は、居留民の引揚を第三艦隊ならびに外務省へ要求している。この要求事項については引揚に関係する各地域から外務省本省にも連絡が行われており、特に上海においては第十一戦隊が第三艦隊にも引揚許可を求めていた。

久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」『創価大学大学院紀要』第32号, pp.385-397, )引用終わり。

カラー写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機の右側面:複葉戦闘機が1944年になっても残っていたのは、引込み式主輪で、練習機として重宝したからであろうか。垂直尾翼の方向舵ラダーの青白のストライプは、中華民国の青天白日の国旗から採用された国籍マークである。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P.7250, China a Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P.7250, China b引用。

カラー写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機が1944年になっても残っていた。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1引用。

1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。 ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を引き込み脚に改良を加えたI-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。

カラー写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機が1944年になっても残っていた。:垂直尾翼の方向舵ラダーの青白のストライプが描かれていない。
Polikarpov I-153, China, c44-45, Jack Canary Jack D. Canary Special Collection Photo Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1引用。

中国空軍は、1937年後半から、ソビエト連邦から輸入したポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を使用したが、これは複葉戦闘機で、固定脚だった。その後、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊も引き込み脚のポリカルポフ (Polikarpov)I-152戦闘機、I-16 戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。

カラー写真は、ノースアメリカン社から中国に派遣された技術指導員ジャック・カナリー(Jack Canary)の撮影になる一連のシリーズの一つ。ソ連から中国に供与後、既に4年以上は経過しているはずだが、1944年になっても、I-153複葉戦闘機が残されていたのは驚きである。歴戦のI-153を記念に保存していたのか、引込み脚なので、高等練習機として使用していたのか、どちらかであろう。

ポリカルポフI-153 チャイカ 中国国民党空軍 1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機として ソビエト連邦から輸入したポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたポリカルポフ(Polikarpov)I-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。ポリカルポフ(Polikarpov)I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。


3.ソ連空軍ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-15ter)チャイカ(Chaika)複葉戦闘機


写真(右):1940-1942年、ソビエト連邦、エンジン起動車によるプロペラ回転の準備のなったソ連赤色空軍ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機と飛行地図を検討する2人のパイロット
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939176 - - Title:Polikarpov I-153 in China - Filename:16_007262.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:16_007262引用。

1937年7月、盧溝橋事件が勃発、その後、中国の経済中枢の江南地方でも、第二次上海事変が起こり、日中全面戦争に発展した。この1937年8月、ソ連共産党書記長スターリンが中華民国の反共産主義国民党総統蒋介石と締結したのが、中ソ不可侵条約である。ソ連は、日本の軍事力をけん制するために中国に対する軍事援助を開始し、ポリカルポフI-152(I-15bis)、I-16戦闘機、ツポレフSB-2高速双発爆撃機を派遣した。しかし、まだ開発途上だったポリカルポフ(Polikarpov)I-153複葉戦闘機が派遣されたのは、かなり後、たぶん1942年以降だったようだ。

1939年、日本の傀儡国家満州と日本植民地朝鮮に配備されていた日本陸軍航空隊の航空機は、第二飛行師団の274機で、これらが1939年のノモンハン事件が勃発した際に航空兵力の主力となった。

1939年に勃発したノモンハン事件にすぐに投入可能だった航空兵力は、日本陸軍274機で、その内訳は、キ10川崎九五式戦闘機30機、中島九七式戦闘機105機、キ30三菱九七式軽爆撃機50機、キ32川崎九八式軽爆28機、イ式重爆18機、三菱九七式重爆撃機12機、キ15九七式司令部偵察機16機、九八式直接協力機8機、九四式偵察機4機などである。

ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)「チャイカ」戦闘機は、1939年から部隊配備され、1941年までに3437機が量産された。1941年には、ソ連空軍のMig3戦闘機の量産を図るために、I-153戦闘機の生産は中止になった。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランド空軍ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機:1939年11月から1940年3月の「冬戦争」ソ連=フィンランド戦争の時、フィンランド軍が鹵獲したソ連機を、失地回復のために開始した、1941年6月「継続戦争」で使用した。白色円の青のカギ十字は、反共産主義・反ソビエトのシンボルで、フィンランド軍の国籍マークとして使用された。
Venäläisen Curtiss-hävittäjäkoneen päälle maalattu meidän ilmavoimiemme hakaristimerkki. Alkuperäisen kuvatekstin tiedosta poiketen kuvassa on neuvostoliittolaisvalmisteinen Polikarpov I-153 `Tsaikka`.
Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-06-26 Ilanko Jori, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-78350引用。

フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、白円に青の鈎十字の「ハカリスティ」(Hakaristi)の国籍記章が採用された。

当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義、反ボリシェビキとソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。自由と平等の概念と青の鍵十字「ハカリスティ」(Hakaristi)が直接つながるのではなく、フィンランドで鍵十字を採用したために、自由と独立のシンボルともみなされるようになったのである。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」戦闘機:対空偽装のために樹木の枝を機体の上に置いて姿を隠している。。
Venäläinen pakkolaskun tehnyt hävittäjälentokone. Kyseessä Polikarpov I-153 hävittäjä, "Tsaikka".
Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-06-25 Ruponen, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

しかし、鍵十字の本質は、反共産主義、人種差別主義であり、第二次大戦末期、1944年にフィンランドが同つとの同盟を破棄してソ連、イギリスに降伏すると、すぐにこの青の鍵十字「ハカリスティ」(Hakaristi)の国籍マークは廃止された。その後、青白同心円ラウンデルの国籍マークに変更され、二度と「ハカリスティ」(Hakaristi)が復活することはなかった。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:対空偽装のために樹木の枝を機体の上に置いて姿を隠している。フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。灰白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

ソ連空軍ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機は、全幅 10.00 m、全長: 6.17 m、全高: 2.80 m、主翼面積: 22.14 平方メートル、空虚重量 1348 kg、離陸重量 1859 kg、過重重量 2009 kg、発動機空冷9気筒 M-62 (588 kW)、最高速力 366 km/h 海面上、444 km/h/高度 4600 m、上昇時間3000 mまで 3分、上昇限度 11000 m、航続距離 470 km、兵装 7.62ミリShKAS機銃4丁、82ミリロケット弾6発あるいは50キロ爆弾2発。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻当日、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機:ポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20616引用。

ソ連空軍ポリカルポフ I-15複葉戦闘機は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻の当日、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。
対空偽装のためにポリカルポフ I-153戦闘機の上に樹木が置かれている。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側につけている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20618引用。

写真(右):1941年夏、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、ドイツ軍の撮影した焼け崩れ逆さまになったソ連空軍ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機:引込み式降着装置が付いているので、I-15、I-152ではなく、I-153であることがわかる。
Title Russland, zerstörtes sowjetisches Flugzeug Info non-talk.svg Original caption Sommer 1941 Südabschnitt der Ostfront Description Information added by Wikimedia users. Русский: Сгоревший остов советского истребителя И-153. Depicted place Russia Date 21 June 1941 Collection German Federal Archives Current location Sammlung zum Rußlandfeldzug (Bild 169)
写真は Wikimedia Commons, Category:Polikarpov I-153 in Soviet service File:Bundesarchiv Bild 169-0915, Russland, zerstörtes sowjetisches Flugzeug.jpg引用。

写真(右):1942年3月26日、雪の滑走路上を低空で飛ぶフィンランド空軍ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。もとは、複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
VH-tyyppinen hävittäjä nousee ilmaan Kotkan kentältä. Kone Polikarpov I-153 ``Tsaikka ́ ́. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-03-26 Luutnantti Jari Ilanko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-4971引用。

ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機は、原形の複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機の発動機を換装し出力を強化し、エンジンを高馬力化したうえで、固定脚を引き込み脚に変更し、複葉の支柱を少なくして、空気抵抗を減少させ、さらに翼の付け根部分も斬新な形に変更した性能向上型である。

写真(右):1942年3月26日、雪で覆われた飛行機滑走路上を低空飛行するフィンランド空軍ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。もとは、複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
VH-tyyppinen hävittäjä nousee ilmaan Kotkan kentältä. Kone Polikarpov I-153 ``Tsaikka ́ ́. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-03-26 Luutnantti Jari Ilanko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-4972引用。

ポリカルポフI-153チャイカ冬季仕様
ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika) 戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m
全長: 6.17 m
全高: 2.80 m
翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg
全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右):1942年6月16日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻1年後、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(鴎)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。もとは、複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
Kuva moottoritorpedovenelaivueen toiminnasta, syvyyspommin pudottamisesta, yhteistoiminnasta lentokoneiden kanssa jne. Polikarpov I-153 hävittäjä lennossa. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-06-16 Vänrikki Arvo Ääri, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-11908引用。

写真(右):1942年7月9日、待機中のフィンランド空軍ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」戦闘機(IT-16):主輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されるが、尾輪は固定橇式である。
Kapteeni P. E. Ahonius hävittäjäkoneensa siivellä. Koneen peräsimeen maalattu 4 vihollisen moottoritorpedoveneen kuvaa ja 2 pystyviivaa vihollishävittäjien merkiksi. Tälläinen saalis on saavutettu tällä koneella. Lentokone on Polikarpov I-153 (tunnus IT-16). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1942-07-09 Luutnantti J. Ilanko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-6039引用。

写真(右):1942年7月9日、待機中のフィンランド空軍ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」(Chaika)戦闘機:尾翼には、機体番号6番と撃破した舟艇4隻の図柄が描かれている。1942年夏には、ソ連空軍のMig3戦闘機など敵機に比較して劣っていたたI-153は、地上襲撃や海上襲撃などに使用された。機体と上翼の付け根部分はガル形状で、開放式コックピット操縦席は、望遠式射撃照準器が付いている。操縦席左側は、コックピットの出入りを容易にする開閉式となっている。
Kapteeni Ahonius (oikealla) ja vänrikki Niemeier hävittäjäkoneen vierellä. Lentokone on Polikarpov I-153.. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1942-03-26 Luutnantti Jari Ilanko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-6040引用。

フィンランド空軍が鹵獲して使用したソ連ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機は、飛行性能が想定的に低くなってしまったために、戦闘機としての使用は中止され、偵察機や地上襲撃・艦船攻撃に使用された。機体と上翼の付け根部分はガル形状で、開放式コックピット操縦席は、望遠式射撃照準器が付いている。操縦席左側は、コックピットの出入りを容易にする開閉式となっている。

写真(右):1942年7月9日、待機中のフィンランド空軍ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」戦闘機の後部:尾翼には、機体番号6番と撃破した舟艇4隻の図柄が描かれている。br>Kesähelteellä on konepistoolilla aseistetun lentokentän vartijan pitänyt heittäytyä intiaaniksi. Hän on päässyt samaan kuvaan parin hävittäjälentäjän kanssa. Lentäjät ovat kapteeni Ahonius (oikealla) ja vänrikki Niemeier. Lentokone on Polikarpov I-153. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1942-07-09 Luutnantti J. Ilanko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-6041引用。

1942年夏には、ソ連空軍のMig3戦闘機など飛行性能的に劣勢になったポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)「チャイカ」戦闘機は、フィンランド空軍パイロットからも歓迎されなかったが、鹵獲機が空軍主力だったフィンランド空軍では、1944年の敗戦まで使用され続けた。

写真(右):1942年9月15日、待機中のフィンランド空軍ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」戦闘機の右前面:エンジンカウリングを外して、機首上面と側面の7.62mm機関銃を整備している。ポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
Venäläinen sotasaaliskone I 153, joka jo on meikäläisten käytössä. (Mekaanikko tarkastaa konetta).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1942-09-15 Sot.virk. A.Viitasalo, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-43700引用。

ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」(Chaika)戦闘機機体と上翼の付け根部分はガル形状で、白地に青のカギ十字卍の反共フィンランドの国籍マークがついている。この青のカギ十字の国籍マークは、1944年9月の敗戦後は廃止され、今日まで復活していない。ナチ党スワスチカと同じく、反ボリシェビキ、国家主義の象徴だからである。決して「幸運のカギ十字」として歓迎されるべきものではなかった。

写真(右):1942年9月15日、待機中のフィンランド空軍ポリカルポフ(Polikarpov) I-153 チャイカ(かもめ)戦闘機の右正面:エンジンの空気取り入れ口円盤式シャッターの構造がよくわかる。エンジンカウリングを外して、機首上面と側面の7.62mm機関準を整備している若い整備士。
Venäläinen sotasaaliskone I 153, joka jo on meikäläisten käytössä. (Mekaanikko tarkastaa konetta).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1942-09-15 Sot.virk. A.Viitasalo, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-43701引用。

1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継続戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。

写真(右):1942年9月15日、飛行場上空を低空で飛行するフィンランド空軍ポリカルポフ(Polikarpov) I-153 チャイカ(鴎)戦闘機の右側面:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、車輪を引込みまずに飛行しているが、引込み方式は手動で滑車を回すもので、片方ずつを引き上げたが、腕力と忍耐力が必要な作業だったために、しばらくは、車輪を出したまま飛行することになる。
VH-tyyppinen hävittäjä nousee ilmaan Kotkan kentältä. Kone Polikarpov I-153 ``Tsaikka ́ ́.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info 1942-03-26
Luutnantti Jari Ilanko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-43703引用。

写真(右):1942年10月1日、航空基地周辺を上空を低空飛行するフィンランド空軍ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。もとは、複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
Sotasaaliskone I 153 ilmassa,
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1942-10-01 Sot.virk. A.Viitasalo, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-4972引用。

写真(右):1942年10月11日、飛行場未舗装滑走路上空を上空を3機編隊で低空飛行するフィンランド空軍ポリカルポフ(Polikarpov) I-153 チャイカ(かもめ)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。
Viholliselta vallattuja hävittäjiä I-153 suomalaisten käytössä. Luutnantti Jori Ilanko, valokuvaaja
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1942-10-11
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-43988引用。

写真(右):1942年10月11日、飛行場未舗装滑走路上空を上空を3機編隊で低空飛行するフィンランド空軍ポリカルポフ(Polikarpov) I-153 チャイカ(かもめ)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機では、ゴム車輪を引込みむ作業をしているようで、まだ客が降りたままになっている。
Viholliselta vallattuja hävittäjiä I-153 suomalaisten käytössä. Luutnantti Jori Ilanko, valokuvaaja
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1942-10-11
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-43989引用。

写真(右):1942年10月11日、飛行場未舗装滑走路上空を上空を3機編隊で低空飛行するフィンランド空軍ポリカルポフ(Polikarpov) I-153 チャイカ(かもめ)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、脚の車輪は引込み式だが、電動式・油圧式で作動するのではなく、脚を滑車を使って腕で巻き上げるのに時間がかかるために、機体と主翼の接合部に降着装置を収納するには時間と体力が必要だった。
Viholliselta vallattuja hävittäjiä I-153 suomalaisten käytössä. Luutnantti Jori Ilanko, valokuvaaja
Kuvaustiedot 1942-10-11
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-43990引用。

ポリカルポフ I-153戦闘機は、尾部の尾橇は固定式だったが、ゴム製主輪は引き込み脚を採用した初期の戦闘機だった。しかし、車輪は、電動式・油圧式で引き込まれるのではなく、人力で滑車を回転させて、主輪を巻き上げ、機体と主翼の接合部に収納するために、時間と体力が必要だった。

写真(右):1942年10月11日、飛行場未舗装滑走路上空を上空を3機編隊で低空飛行するフィンランド空軍ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika:かもめ)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、脚の車輪は引込まれておらず、機体と主翼の接合部からの見て出たままになって飛行している。
Viholliselta vallattuja hävittäjiä I-153 suomalaisten käytössä.
Luutnantti Jori Ilanko, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1942-10-11
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-43991引用。

写真(右):1943年3月、雪原の飛行場で記念撮影をしたフィンランド空軍第30飛行戦隊の名パイロットのエイノ・アンテロ・ルーッカネン(Eino Antero Luukkanen:1909年6月4日-1964年4月10日)とタウノ・ベッコ・サーラスティ(1903年8月2日-1975年10月12日)。後方のポリカルポフ(Polikarpov) I-153 「チャイカ」(Chaika)戦闘機:厳冬の上空を半開放式のコックピットで操縦するので、分厚い飛行服を着こんでいる。
Lentolaivue 30:n (Le.Lv.30) Polikarpov I-153 -hävittäjä (IT-15?) ja ohjaajia Römpötin kentällä maaliskuussa 1943. Vasemmalta majuri Eino Antero "Eikka" Luukkanen ja luutnantti Tauno Veikko Saalasti.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Suomen Ilmailumuseo
Kokoelma Luukkanen, Eino Tunniste SIM VK 551:250 Mitat 9x9 cm Vedos Kuvaustiedot 1943-03
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sim.M016-19015引用。

エイノ・アンテロ・「エイッカ」ルーッカネンEino Antero Luukkanen:1909年6月4日-1964年4月10日)は、フィンランド空軍エースで、マンネルヘイム十字勲章受章者。1939-1940年のフィンランド対ソビエト連邦「冬戦争」では飛行中隊長として、1941年6月―1944年9月の「継続戦争」では戦隊長として戦闘機に搭乗して活躍した。撃墜総数56機は、フィンランド空軍第3位。出撃回数441回はフィンランド空軍戦闘機パイロットとして最多である。

写真(右):1941-1944年,フィンランド空軍の国籍マークを付けたソビエト連邦製ポリカルポフ(Polikarpov)I-153(I-15ter)戦闘機(機体番号5番)と飛行服のパイロット」:ソ連では、固定脚のポリカルポフI-15複葉戦闘機に続いて、I-153複葉戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機が開発された。
Polikarpov, I-153 (I-15ter), Manufacturer: Polikarpov Designation: I-153 (I-15ter) Notes: Russia
写真は、SDASM Archives-Catalog #: 01_00086865引用。


写真(右):1941-1944年,フィンランド空軍の国籍マークを付けたソビエト連邦製ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika:かもめ)戦闘機左後方:ソ連では、固定脚のポリカルポフI-15複葉戦闘機に続いて、I-153複葉戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機が開発された。
Polikarpov, I-153 (I-15ter), Manufacturer: Polikarpov Designation: I-153 (I-15ter) Notes: Russia
写真は、SDASM Archives-Catalog #: 01_00086864引用。


ポリカルポフI-153戦闘機・後期型 1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデルAimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をしたが、10月11日、ソ連の外務人民委員(外相)モロトフは、フィンランドのパーシビキを団長とする交渉団をモスクワに招き、
1)カレリア地峡の対ソ連防衛戦の撤去
2)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
3)カレリア地峡のソ連国境の30km前進(割譲2200平方キロ)と東カレリア(フィンランド東国境に面したソ連領5000平方キロ)の交換
という要求を突き付けた。フィンランド軍総司令官マンネルヘイム元帥は、ソ連の要求を受諾するしかないと考え、フィンランド政府も、カレリア地峡のソ連国境10km前進、フィンランド湾の島々の譲渡は受け入れたが、ハンコ半島の租借は拒否した。こうして、交渉は決裂し、双方とも10月には、動員を準備し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急事態を認める共和国防衛法を布告した。

ポリカルポフI-153戦闘機フィンランド ソ連=フィンランド戦争の終了直後の1940年3月29日、ソ連の外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ は、ソビエトで、次のように述べた。
「昨年 [1939 年]の10-11月、ソビエト政府は,悪化する国際情勢に鑑み、我が国、特にレニングラードの安全を守るうえに絶対に必須かつ緊急と考えた提案を,フィンランド政府と討議した。この交渉は,フ ィンランド側代表の非友好的な態度ゆえに実を結ばず、事は戦場で決されることとなった。もしもフィンランドが外国からの影響に屈しなければ、もしもフィンランドが第三国の煽動にのらずに、ソ連に対する敵対的態度をとらなければ、ソ連とフィンランドの関には昨秋平和裡に了解が成り立ち,事は戦争を経ずして解決されたはずである。ソビエト致府が要求を最低限の要求をしたのに,外交的な手段による解決はできなかったのである」
「議論の余地なく、昨秋に直面したフィンランド側の敵対的政策は偶然のものではなかった。ソ連に敵対する勢力は,フィンランドが,わが国、特にレニングラードに対する作戦のために基地を整備し、ひとたび国際情勢がソ連に不利となるや否や,帝国主義的な反ソ勢力および フィンランドの反ソ連同調者の計画にしたがって、行動を起こすことのことになっていたのである。」モロトフは, ソ連=フィンランド戦争の意義は,ソ連赤軍が,フィンランド国内のソ連攻撃の炒めの作戦基地の存在を明らかにし、基地を破壊して,「第三国が過去数年間にわたって企ててきたた反ソ計画を粉砕したことである」とした。




4.現存するソ連空軍ポリカルポフ (Polikarpov)I-153「チャイカ」(Chaika)複葉戦闘機


写真(右):フランス、パリ、フランス国立航空宇宙博物館(Musee de l'Air et de l'Espace)、展示されているソビエト連邦、ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika:かもめ)戦闘機の左側面:ゴム主輪は引込み式で、収納部の覆いカバーが開いている。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45939164 - Title: Polikarpov I-153 Musee de l'Air, France - Filename: 16_007261.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は、SDASM Archives- Catalog:16_007261 -引用。


ソ連のポリカルポフ(Polikarpov)I-15複葉戦闘機の上主翼は、胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルになった斬新な設計で、操縦席前面部分だけは上主翼がなく、前方視界を確保している。しかし、改良型の(Polikarpov)I-15bis(I-15第2型)、すなわちI-152では上主翼は保守的なパラソル翼に変更されている。

写真(右):1966年,ソビエト連邦、格納庫で展示されているソビエト空軍ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika:かもめ)戦闘機:1941年6月のドイツのソ連侵攻の緒戦で、固定脚のポリカルポフI-15複葉戦闘機、I-153複葉戦闘機、I-16戦闘機は、ドイツ空軍に果敢に立ち向かったが、ドイツ空軍Bf109戦闘機よりも最高速力が100km/h近く遅く、苦戦を強いられた。主輪引込み式の新鋭複葉戦闘機だったが、大損害を被ったI-153は、急速に退役することになった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939188 - Catalog:16_007263 - Title:Polikarpov I-153 in museum in Moscow, 1966 - Filename:16_007263.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation ---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives- PictionID:45939188 引用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、いきなりヘルシンキなど都市爆撃を敢行し、レニングラード方面から、フィンランド湾とフィンランドとロシアを結ぶラドガ湖に挟まれたカレリア地峡Karelian Isthmus)に軍を進めた。この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。

写真(右):フランス国立航空宇宙博物館(Musee de l'Air et de l'Espace)が保管展示するソビエト連邦ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-15ter)「チャイカ」(Chaika:かもめ)戦闘機:ソ連では、固定脚のポリカルポフI-15複葉戦闘機に続いて、I-153複葉戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機が開発された。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939164 - Catalog:16_007261 - Title:Polikarpov I-153 Musee de l'Air, France - Filename:16_007261.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives- Catalog #: 01_00086868引用。


フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

写真(右):2014年,フランス国立航空宇宙博物館(Musee de l'Air et de l'Espace)が保管展示するソビエト連邦ポリカルポフ I-15ter(Polikarpov I-153)「チャイカ」(Chaika:かもめ)戦闘機:ソ連では、固定脚のポリカルポフI-15複葉戦闘機に続いて、I-153複葉戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機が開発された。
Catalog #: 15_002216 Title: Polikarpov I-15 ADDITIONAL INFORMATION: Musee D'L' Aire Paris Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Soviet Aircraft Page #: 9 Tags: Soviet Aircraft, Charles Daniels, PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Date 17 June 2014, 14:11 Author SDASM Archives
写真は、SDASM Archives- Catalog #: 15_002216引用。


ポリカルポフI-153チャイカ 第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

1939-1940年の冬戦争で敗れたフィンランドが、ソビエト連邦に対して復讐戦を挑んだのが、1941年6月―1944年9月の継続戦争である。ドイツと同盟してソ連を侵略したフィンランドは、当初は占領地を拡大し「大フィンランド」の建国の足掛かりを得たものの、イギリスからも宣戦布告をされ、1944年9月、連合国軍に降伏することになった。


5.ソ連空軍ポリカルポフI-16(Polikarpov I-16)戦闘機

ソ連空軍ポリカルポフ I-16戦闘機4型(Polikarpov I-16 Type 4)はイギリス製ブリストル・ジュピターBristol Jupiter)空冷星形エンジンをソ連でライセンス生産したシュベツォフ M-22空冷星形エンジン(двигатель М-22 мощностью)480馬力を装備した初の量産型である。1934年41機、1935年464機、合計505機が量産された。兵装は陸戦用のM1910マキシム(Maxim)水冷式機関銃を空冷化した7.62ミリ口径PV-1 (Pulemet Vozdushny)機関銃2丁。

写真(右):1935-1937年頃、ソ連、スキー式降着装置を装備してテスト中のソ連空軍ポリカルポフ I-16戦闘機5型(Polikarpov I-16 Type 5):ソ連やフィンランドでは、極地の雪原を利用した基地で使用することを想定して、スキー式降着装置が実用化されたが、実際に使用したことはほとんどなかったようだ。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46167732 - Title: Polikarpov I-16. T5 - Filename: 16_007277.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives - Catalog: 16_007277引用。

ソ連空軍ポリカルポフ I-16戦闘機5型(Polikarpov I-16 Type 5)は、I-153複葉戦闘機と同じアメリカ製ライと・サイクロンWright Cyclone)R-1820をソ連でライセンス生産したシュベツォフ M-25空冷星形エンジン(двигатель М-25 мощностью)730馬力を装備し、1932年に開発された7.62ミリ口径ShKAS((Shpitalny-Komaritski Aviatsionny Skorostrelny)機関銃2丁を搭載した。生産機数は、1936年861機、1937年1665機、1938年169機、合計2695機が量産された。

ソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)と同じ発動機、すなわちアメリカのライト(Wright)SGR-1820サイクロン空冷星形エンジンを国産化し搭載したが、大直径エンジンを収めるカウリングは、後年の空冷星形エンジン搭載の新鋭機と同じく、排気ジェットを活用した斬新な設計となっている。エンジン前面の扁平なスピナー、橇式固定尾輪は、1930年代半ばの飛行機では当たり前だが、尾翼や機尾の処理は、絞り込んでおり空力的に滑らかである。

1/32ポリカルポフ I-16U.S.S.R.エーセス[ハセガワ] ソ連空軍ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機は、複葉機戦闘機が配備されていた時期の1933年12月30日初飛行、片持式低翼単葉、モノコックの胴体、引込式降着装置、スライド式ガラス風防コックピット、エンジンカウリングに沿って配置された推力式単排気管など、後年の航空機が採用することになる新設計を取り込んでいる。特にアメリカのカーチス・ライト社(Curtiss-Wright)が開発したライト R-1820「サイクロン」空冷星形9気筒エンジンをソ連でライセンス生産したシュベツォフ(Shvetsov)M-62を装備したが、これはポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)「チャイカ」(Chaika)と同じ発動機と同じである。ただし、エンジンカウリングの処理は、後年のフォッケウルフFw-190戦闘機と同じように、単排気管から噴出する排気ジェットを推力と乱気流の排除に活用した先進的な構造となっている。ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機は、エンジン前面の扁平なスピナーや橇式固定尾輪はともかく、尾翼や機尾の処理は空力的に滑らかである。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。

写真(右):1939年11月30日-1940年3月13日、第二次世界大戦勃発直後に起きた冬戦争で、フィンランド軍が使用した鹵獲したソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:ソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は1937年11月、日中戦争の華中上空の航空戦に参戦している。大きな直径の空冷星形エンジンを搭載したが、エンジンカウリングの処理は、後年の空冷星形エンジン搭載の新鋭機と同じく、排気ジェットを活用した斬新な設計となっている。エンジン前面の扁平なスピナーや橇式固定尾輪はともかく、尾翼や機尾の処理は空力的に滑らかである。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。後方は、ハインケルHe115水上偵察爆撃機。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kartto - Peronkoski, valokuvaaja.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-9797引用。

ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機は、エンジン前面の扁平なスピナー、橇式固定尾輪など1940年時点では旧式化してしまう設計ではあるが、尾翼や機体尾部は細く絞り込まれており、経常的には空力的に優れた処理で、滑らかである。1936年勃発のスペイン内戦、1937年勃発の日中戦争にソ連から派遣され、共和国政府、蒋介石政権の空軍力を増強することに貢献した。ソ連兵士がパイロットとして参戦した場合は、ソ連軍義勇航空兵としの建前をとったがとったが、事実上ソ連の参戦だった。

ポリカルポフ I-16 ソ連空軍ポリカルポフ I-153複葉戦闘機と同じく、ポリカルポフ I-16.T5(Polikarpov I-16.T5)戦闘機はシュベツォフ M-25Shvetsov M-25)空冷星形エンジン700馬力(522 kW)を装備し、それまでの角張ったエンジンカウリングに曲面を取り入れM-62エンジンを搭載して試験され量産された。

シュベツォフ M-25Shvetsov M-25)空冷星形エンジン700馬力は、アメリカのライト R-1820-F3「サイクロン」空冷星形9気筒エンジンをソ連でライセンス生産したエンジンの名称である。アメリカではフィート・インチが使用されているが、それをメートル・ミリで合わせた設計となっている。

写真(右):1936年、ソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:空冷星形エンジンを搭載したが、エンジンカウリングの処理は、後年の空冷星形エンジン搭載の新鋭機と同じく、排気ジェットを活用した斬新な設計となっている。エンジン前面の扁平なスピナーや橇式固定尾輪はともかく、尾翼や機尾の処理は空力的に滑らかである。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46167693
Title: Polikarpov I-16.T5 of VMF photo from L. Andersson
Filename: 16_007274.TIF
- Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives - Catalog:16_007274 -引用。


ポリカルポフI-16 1939年制式のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Тип 24諸元
乗員: 1名
全長: 6.13 m
全高: 3.25 m
全幅: 9 m
翼面積: 14.5平方メートル
空虚重量: 1,490 kg
最大離陸重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形9気筒エンジン900馬力 (670 kW)
生産機数:1939年155機
1940年760機
1941年19機
合計934機

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機24型は,最高速力525キロに達する強力な兵装・防御力の最終量産型だが、ソ連軍は後継機を1938年から開発し、1939-1940年には、ラボーチキン、ヤコブレフ、ミコヤン、グレビッチらが設計した新鋭軍用機を登場させている。

ポリカルポフ I-16 タイプ18 (ノモンハン) 1939年制式のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Typ 24の性能
最高速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km
最大上昇限度:11,000m
実用上昇限度: 9,700 m
上昇率: 14.7 m/min
高度5000mまで5.8分
兵装: 7.62-mm-SchKAS機関銃2丁、 20-mm SchWAK機関砲2門
爆弾搭載量:50−10キロ爆弾2発
あるいはRBS-82空対地ロケット弾 4-6発

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機24型は,1937年に開発された空対地ロケット弾とそれを搭載・発射するランチャーRO-82を装備している。ソ連軍のロケット弾は、直径82ミリのRS-82(重量6.8 kg)と直径132ミリのRS-132(重量23.0 kg)の2種類がある。発射ランチャーは、レール式で空対地ロケット弾の進行方向・弾道を安定させる役割があるが、ロケット弾自体の弾道は、砲弾の弾道に比べて遥かに不安定なため、命中率は悪かった

しかし、空対地ロケット弾発射装置は、簡易構造で軽量だったので、命中精度の低さを多数のロケット弾を発射することである程度補うことができた。また、その一斉発射するによる弾幕の威力は、地上目標に対して大きな効果を期待できた。アメリカ軍もドイツ軍も空対地ロケット弾を第二次大戦後期になって実用化、実戦で使用したが、日本軍はロケット弾を実用化でき図に終わった。

ポリカルポフ I-16 タイプ17 ソ連空軍のポリカルポフI-16 (Tskb-3)(Polikarpov I-16)戦闘機は、主翼全幅よりも短い太い機体胴体で、アブのようなイメージであり、ソ連軍ではイシャク(Ishak:ロバ)、スペイン内戦ではモスカ(Mosca:ハエ)あるいはラタ(Rata:ネズミ)という愛称を付けられている。

ソ連空軍のポリカルポフI-16 (Tskb-3)(Polikarpov I-16)戦闘機は、エンジンカウリング上面に7.62ミリShKAS機関銃 2丁、主翼内に20ミリShVAK機関砲 2丁を装備していたが、これは日本、ドイツの戦闘機が装備していた7.7ミリ、7.92ミリ機関銃2丁よりも遥かに強力だった。さらに、世界初の対地あるいは対空攻撃用のロケット弾としてRS-82ロケット弾 6発を装備することができた。

ソ連空軍のポリカルポフI-16 (Tskb-3)(Polikarpov I-16)戦闘機は、引込み式の降着装置を装備していて、固定脚の機体よりも空気抵抗を減少させている。主輪を機体内に引き上げるには、パイロットが主導の滑車でワイヤを駆動し、引き込む方式である。このような最新の技術を導入したために、1935年の配備当初は、戦闘機として世界最高速力は、日本陸軍の九五式戦闘機、ドイツ空軍He 51戦闘機よりも遥かに早かった。

初飛行が1933年12月30日のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、ソ連空軍のほか、スペイン共和国、中華民国、フィンランドで使用された。ソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、1933年11月生産開始、1934年3月から部隊配備され最終的には8,644機も大量生産された。

写真集Album:ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機を見る。

中国(中華民国)の空軍は、アメリカから輸入機と軍事・技術顧問を雇い入れてスタートしたが、国共合作(国民党と中国共産党との共闘)がなり、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)以降は、共産主義国ソ連から、ポリカルポフ I-15(Polikarpov И-15)複葉戦闘機だけではなく、全金属製・単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機を輸入して、空軍力を増強した。これは、国境を接する陸路あるいは黒によるものであり、アメリカから船積みした軍用機を日本の封鎖を突破しながら輸入するよりも迅速に行われた様だ。


6.ラボーチキン(Lavochkin)LaGG-3戦闘機

写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲され使用された第32戦闘飛行隊所属のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機:ソ連空軍のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機は、原型が1939年3月30日に初飛行した木製の機体で、重量が金属製に比べて重くなったために、性能向上のため高出力エンジンへの換装が要求されたた。改良型の初飛行は1940年3月28日で、生産は1941年からで6,258機量産された。
Ryssäläinen Lag-3 hävittäjä palvelemassa meikäläisiä uuden isäntänsä kanssa. Alkuperäisestä kuvatekstistä poiketen kuvassa Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3. Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1944-07-09 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-137034引用。


フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。

写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲され使用された第32戦闘飛行隊所属のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機:ソ連空軍のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機は、原型が1939年3月30日に初飛行した木製の機体で、重量が金属製に比べて重くなったために、性能向上のため高出力エンジンへの換装が要求されたた。改良型の初飛行は1940年3月28日で、生産は1941年からで6,258機 量産された。
Vihollisen hävittäjä on tehnyt Vihollisen hävittäjä on tehnyt pakkolaskun ruispeltoon ja säilynyt verrattain ehyenä. Lentokentältä on korjausporukka rientänyt paikalle, sillä kalliit osat on saatava nopeasti lentokentän varikolle, missä viholliskone kunnostetaan uudestaan palvelemaan uusia isäntiään. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1944-07-09 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-137034引用。


ソ連空軍のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3 戦闘機は、原型が1939年3月30日に初飛行した木製の機体で、重量が金属製に比べて重くなったために、性能向上のため高出力エンジンへの換装が要求されたた。改良型の初飛行は1940年3月28日で、生産は1941年からで6,258機も量産された。フィンランド軍は、継続戦争に際して、不時着したLaGG-3を修理・整備して3機を部隊配備した。これら3機は、LG-1, LG-2 ,LG-3と命名され迎撃機として使用された。第1号機のLG-1は、1942年2月初め、ラドガ湖氷上に不時着したラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機である。 第2号機のLG-2は、1942年2月20日に不時着した機体。 第3号機のLG-3は、1942年9月14日、第524戦闘航空連隊所属LaGG-3で、ヌーモイラに不時着した機体である。

ラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3 戦闘機の諸元
全幅:9.80m 全長:8.90m、全高:2.57m
主翼面積:17.5平方メートル
空虚重量:2,620kg
全備重量:3,300kg
発動機:クリーモフ M-105PF液冷V型12気筒1,180馬力
最高速度:575km/h
航続距離:650km
実用上昇限度:9,600m
乗員:1名
武装:ShVAK 20ミリ機関銃1丁、UB 12.7ミリ機銃2丁


7.ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機

写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲されたソ連製ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸し、比較的無傷のままに鹵獲された。高価な部品はすぐに飛行場倉庫に運ばれる必要があるため、作業は直ぐに開始された。そこでソ連空軍の戦闘機は新しい持ち主になったフィンランド空軍のために改装されることになる。
Vihollisen hävittäjä on tehnyt pakkolaskun ruispeltoon ja säilynyt verrattain ehyenä. Lentokentältä on korjausporukka rientänyt paikalle, sillä kalliit osat on saatava nopeasti lentokentän varikolle, missä viholliskone kunnostetaan uudestaan palvelemaan uusia isäntiään. Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1944-07-09 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141164引用。


写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲されたソ連製ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸し、比較的無傷のままに鹵獲された。高価な部品はすぐに飛行場倉庫に運ばれる必要があるため、作業は直ぐに開始された。そこでソ連空軍の戦闘機は新しい持ち主になったフィンランド空軍のために改装されることになる。
Vihollisen hävittäjä on tehnyt pakkolaskun ruispeltoon ja säilynyt verrattain ehyenä. Lentokentältä on korjausporukka rientänyt paikalle, sillä kalliit osat on saatava nopeasti lentokentän varikolle, missä viholliskone kunnostetaan uudestaan palvelemaan uusia isäntiään. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1944-07-09 Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141161引用。


写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲されたソ連製ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸し、比較的無傷のままに鹵獲された。高価な部品はすぐに飛行場倉庫に運ばれる必要があるため、作業は直ぐに開始された。そこでソ連空軍の戦闘機は新しい持ち主になったフィンランド空軍のために改装されることになる。
Vihollisen hävittäjä on tehnyt >Vihollisen hävittäjä on tehnyt pakkolaskun ruispeltoon ja säilynyt verrattain ehyenä. Lentokentältä on korjausporukka rientänyt paikalle, sillä kalliit osat on saatava nopeasti lentokentän varikolle, missä viholliskone kunnostetaan uudestaan palvelemaan uusia isäntiään. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.Aineistotyyppi
Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1944-01-07 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141162引用。


写真(右):1944年9月2日、フィンランドに強行着陸したソ連空軍ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸をした。この飛行機は、以前には登場していなかった新しい「JaK」タイプ、Jakovlev Jak-9である。
Pakkolaskun tehnyt venäläinen lentokone. Kone on uutta ``JaK ́ ́ tyyppiä, joka ei ole aikaisemmin rintamilla esiintynyt. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1944-09-02 Sot.virk. Tauno Norjavirta, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-140009引用。


写真(右):1944年9月2日、フィンランドに強行着陸したソ連空軍ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸をした。
Pakkolaskun tehnyt venäläinen lentokone. Kone on uutta ``JaK ́ ́ tyyppiä, joka ei ole aikaisemmin rintamilla esiintynyt. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9..
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1944-09-02 Sot.virk. Tauno Norjavirta, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-140008引用。


写真(右):1944年9月2日、フィンランドに強行着陸したソ連空軍ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸をした。この飛行機は、以前には登場していなかった新しい「JaK」タイプ、Jakovlev Jak-9である。
Pakkolaskun tehnyt venäläinen lentokone. Kone on uutta ``JaK ́ ́ tyyppiä, joka ei ole aikaisemmin rintamilla esiintynyt. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.
Content Type Photo Organisation
Military Museum Photo info: 1944-09-02 Sot.virk. Tauno Norjavirta, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-140011引用。



8.ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速爆撃機

写真(右):1944年1月、フィンランド、フィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103双発高速爆撃機:機首には7.62ミリShKAS機関銃2丁が装備されている。
Kone ennen lähtöä. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1944-01-08 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-137053引用。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

ドイツは1941年6月にソ連に侵攻し、その時にソ連軍から鹵獲したソ連のツポレフ(Tupolev)SB-2M103双発高速爆撃機を同盟国フィンランドに供与した。1944年1月7日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ツポレフ(Tupolev)SB爆撃機を実戦投入した。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。

ツポレフSB(Tupolev SB) ツポレフSBTupolev AHT-40)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾倉・翼下爆弾架 1トン

ソ連空軍ツポレフSBTupolev SB)爆撃機は、1936年勃発のスペイン内戦にポリカルポフ (Polikarpov)I-15、I-153複葉戦闘機、I-16低翼単葉戦闘機とともに投入され、ファシスト軍のドイツのハインケルHe-51複葉戦闘機、ユンカースJu-52/3m爆撃機などと戦った。当初、ソ連機は飛行性能上で上回っており、善戦した。


写真(上)1944年夏、フィンランド、非舗装滑走路、フィンランド空軍の使用した鹵獲したソ連製ツポレフSB-2M-103高速双発爆撃機(正面)と機首下面の搭乗員昇降扉下の移動式階段
:主翼左右のクリーモフ(Klimov) M103液冷V12型エンジン960 hpが稼働し3翅金属製プロペラが回転している。プロペラスピナー先端には、プロパラを動力車で回転させ駆動するカギが付いているが、普段は、内蔵している始動用モーターでエンジンを駆動する。エンジンナセルに引込まれる降着装置の構造が判読できる。
SB-2 -pommikone kentällä, moottorit käynnissä. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Niilo Helander, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-165875用。


写真集Album:ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速爆撃機を見る。



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ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
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開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
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