鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
フィンランド軍の対空火器◇Anti-aircraft fire 2022
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◆フィンランド軍の防空監視哨;鳥飼行博研究室◇Anti-aircraft Station
写真(上):1942年7月11日,対ソビエト連邦の継続戦争、フィンランド、対空監視哨塔デッキで双眼鏡を手に任務に就く民間防衛隊の女子監視員エレン・キウル・ラーデンポージャ
:彼女は、士気高揚の演出のために、写真だけではなく、動画撮影もされた。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Tiedot teoksesta Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 23.
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1942-07-11 Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真は FINNA.Fl sa-kuva-165691引用。


写真(上)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )を被写体にプロパガンダの写真・動画の撮影をする宣伝要員
:女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Lahdenpohja 1942.07.11.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia304引用。

1.冬戦争(talvisota)におけるソ連機のフィンランド空爆

ヨシフ・スターリン 第二次世界大戦の勃発から1ヶ月後、1939年10月11日、ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、外務人民委員(外相)ヴャチェスラフ・モロトフに指示して、フィンランドのユホ・クスティ・パーシキヴィを団長とする交渉団をモスクワに招かせた。そして、
1)フィンランド湾とフィンランド=ロシアを結ぶラドガ湖に挟まれたカレリア地峡Karjalankannas)の対ソ連防衛戦の撤去
2)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
3)カレリア地峡根元のレニングラードの安全保障のためにカレリア地(Karjalankannas)と北方の東カレリア領土の交換、すなわちソ連国境の30km前進(2200平方キロ)と東カレリア(5000平方キロ)の交換
という要求を突き付けた。

フィンランド軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥は、ソ連の要求受入れはやむを得ないとし、フィンランド政府も、カレリア地峡のソ連国境10km前進、フィンランド湾の島々譲渡は認めた。しかし、ハンコ半島の租借は拒否したため、交渉は決裂した。10月には、動員準備で、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急事態を認める共和国防衛法を布告した。

写真(右)1939年10月12日、冬戦争勃発1カ月前、フィンランド、ヘルシンキの鉄道駅、ソ連との雲行きが怪しくなり、空襲を受ける危険のあるヘルシンキから地方に疎開する民間人:フィンランドはソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けたが、拒否したため、スターリンの怒りを買った。ソ連軍は1939年11月30日、フィンランドに侵攻、冬戦争Talvisota)が勃発したのである。
väestöä lähdössä junalla Helsingistä maaseudulle mahdollisia pommituksia pakoon
Hufvudstadsbladet, painaja 1939 vaaka, mustavalkoinen
Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 12.10.1939
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK19391118:9 Kuvaustiedot: 12.10.1939 Helsinki Hufvudstadsbladet, painaja .
写真は,Museot Finna 19391118_9.tif用。


 ポリカルポフI-16タイプ10 32004 1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデルAimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をしたが、10月11日、ソ連の外務人民委員(外相)モロトフは、フィンランドのパーシビキを団長とする交渉団をモスクワに招き、
1)カレリア地峡の対ソ連防衛戦の撤去
2)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
3)カレリア地峡のソ連国境の30km前進(割譲2200平方キロ)と東カレリア(フィンランド東国境に面したソ連領5000平方キロ)の交換
という要求を突き付けた。フィンランド軍総司令官マンネルヘイム元帥は、ソ連の要求を受諾するしかないと考え、フィンランド政府も、カレリア地峡のソ連国境10km前進、フィンランド湾の島々の譲渡は受け入れたが、ハンコ半島の租借は拒否した。こうして、交渉は決裂し、双方とも10月には、動員を準備し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急事態を認める共和国防衛法を布告した。

写真(右)1939年10月20日、冬戦争の勃発直前、フィンランド、ソ連との外交関係が悪化し、一触即発の危機状態に陥ったフィンランドのタンペレでは、ソ連機の空襲を避けるためにフィンレイソン社の社宅 リトルパレスの住民が家財道具とともにトラックで疎開している。:フィンレイソン社は、ロシア帝国フィンランド大公国で1820年に創業されたフィンランド最古のテキスタイルブランドで、寝装品、ホームテキスタイルを中心とした高級品を販売している会社で、現在も存続している。
Finlaysonin Pikkupalatsin asukkaita evakuoidaan .
Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma D/682 Aamulehti Inventaarionro AL:3260:6 Kuvaustiedot: 1939-10-20 Keskusta I, Hämeenpuisto, Hämeenpuisto 7 Tampere, Suomi Eero Troberg, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna Inventaarionro AL:3260:6用。


1820年創業、フィンランド最古のテキスタイル・ブランドFINLAYSON(フィンレイソン)の日本語ページには、次のようにある。
「約200年もの長い歴史と伝統を持つFINLAYSON(フィンレイソン)は、寝装品、ホームテキスタイルを中心とした質の高い商品によって、国内外の人々に最高の住まい方を提供してきました。FINLAYSONの商品はフィンランド中のどの家庭でも見られるほど、信頼され広く愛用されています。
1820年、ロシア統治下のフィンランドにおいて、英国スコットランド出身のジェームス・フィンレイソンはフィンランドの第2の都市であるタンペレにおいて紡績工場を設立しました。工場敷地内には学校や図書館、教会などの各施設が作られ、タンペレはフィンランド最大の工業都市として発展を遂げました。フィンランド国民にとって、FINLAYSONは単なる一企業ではなく、国の発展に貢献してきたブランドです。」

写真(右)1939年10月20日、冬戦争の勃発直前、フィンランド、タンペレ(Tampere)、ソ連機の空襲を避けるために家財道具とともにトラックで疎開の準備をするフィンレイソン社の社宅 リトルパレスの住民:現在、フィンレイソン社は、北欧の自然や植物、四季の移り変わり、昔ながらのフィンランドアートなどをデザインした日本風の風呂敷<リバーシブルクロス>を販売し、包むだけでなく、インテリア工芸品として楽しむ発想を唱えている。北欧らしい落ち着いたデザインの1mのクロスは、リバーシブルなので、季節や気分に合わせて、テーブルクロスとして使用できる。また、リビングルームのソファーにかけたり、パーティションやカーテンの代わりに使うこともできる。小型のものは、ナプキン代わりや、ランチョンマットとして使うこともできる。
Finlaysonin Pikkupalatsin asukkaita evakuoidaan .
Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma D/682 Aamulehti Inventaarionro AL:3260:7 Kuvaustiedot: 1939-10-20 Keskusta I, Hämeenpuisto, Hämeenpuisto 7 Tampere, Suomi Eero Troberg, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna Inventaarionro AL:3260:7用。


ソ連=フィンランド戦争の終了直後の1940年3月29日、ソ連の外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ は、ソビエトで、次のように述べた。
「昨年 [1939 年]の10-11月、ソビエト政府は,悪化する国際情勢に鑑み、我が国、特にレニングラードの安全を守るうえに絶対に必須かつ緊急と考えた提案を,フィンランド政府と討議した。この交渉は,フ ィンランド側代表の非友好的な態度ゆえに実を結ばず、事は戦場で決されることとなった。もしもフィンランドが外国からの影響に屈しなければ、もしもフィンランドが第三国の煽動にのらずに、ソ連に対する敵対的態度をとらなければ、ソ連とフィンランドの関には昨秋平和裡に了解が成り立ち,事は戦争を経ずして解決されたはずである。ソビエト致府が要求を最低限の要求をしたのに,外交的な手段による解決はできなかったのである」
「議論の余地なく、昨秋に直面したフィンランド側の敵対的政策は偶然のものではなかった。ソ連に敵対する勢力は,フィンランドが,わが国、特にレニングラードに対する作戦のために基地を整備し、ひとたび国際情勢がソ連に不利となるや否や,帝国主義的な反ソ勢力および フィンランドの反ソ連同調者の計画にしたがって、行動を起こすことのことになっていたのである。」モロトフは, ソ連=フィンランド戦争の意義は,ソ連赤軍が,フィンランド国内のソ連攻撃の炒めの作戦基地の存在を明らかにし、基地を破壊して,「第三国が過去数年間にわたって企ててきたた反ソ計画を粉砕したことである」とした。

写真(右)1939年10月20日、冬戦争の勃発直前、フィンランド、ソ連との外交関係が悪化し、一触即発の危機状態に陥ったフィンランドのタンペレ(Tampere)では、ソ連機の空襲を避けるために避難船を手配して疎開するフィンランド人避難民を運搬した。:戦争の初期の頃、フィンランド政府は、市民を危険な地域から疎開させようと、避難列車、避難自動車、避難船を手配したが、子供たちが最優先された。
Tamperetta evakuoidaan .
Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma D/682 Aamulehti Inventaarionro AL:3260:8 Kuvaustiedot: 1939-10-20 Särkänniemi VIII, Mustalahti Tampere, Suomi Eero Troberg, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna Inventaarionro AL:3260:8用。


サンクト・ペテルブルグは、第一次大戦の勃発した1914年から1924年までは、サンクト・ピーテルブールフ(Санкт-Питербурх)とも呼ばれたが、1914年に第一次世界大戦でドイツと戦うことになるとドイツ語系の「ブルク」(城市)の名称が忌避され、ペトログラードと改名された。その後1924年に革命指導者レーニンが死去すると、革命家の名を冠して、ペトログラードとレニングラードと再び解消された。ソ連崩壊後、1991年には、ロシア共和国の主都として、旧名に復帰することになり、レニングラードの名称をロシア革命前のサンクトペテルブルグに戻している。レニングラードは、カレリア地峡Karjalankannas)の付け根にある大都市である。

フィンランドは1939年3月にソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けた。しかし、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、不当なソ連の要求を拒否し、フィンランドの尊厳維持を支持する国民の期待に応えた。しかし、ポーランドの東半分を、ヒトラードイツとの合意の下、保障占領していたスターリンは、バルト三国への圧力を強めており、ソ連の威信を失わせるような領土交換拒否というフィンランドを許さなかった、1939年11月30日、ソビエト連邦はフィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発し、12月1日に就任した新首相リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)の下で戦いうことになった。


写真(右)1939年11月30日、冬戦争の勃発初日、ソ連空軍機の空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ市街地
;すでに第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。
raunioita Helsingin pommituksen jälkeen vaaka, mustavalkoinen
Aineistotyyppi Kuva Aiheen paikka Helsinki
Aiheen aika 30.11.1939 Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK19780731:222 Kuvaustiedot: 30.11.1939 Helsinki
写真はMuseot Finna HK19780731:222用。


第二次世界大戦の勃発から1ヶ月後、1939年10月11日、ソビエト連邦は、ソ連の外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ を通じて、フィンランドに、
1)ソ連国境に面したカレリア地峡の防衛戦の撤去、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方の東カレリア領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
を要求した。しかし、交渉は決裂し、国境で発生した武力衝突を理由に、1939年11月30日、ソ連はフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

写真(右)1939年11月30日、冬戦争の勃発日、空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ、ソビエト空軍の空襲を受けて破壊された工科大学のビル家屋と消防救助活動に当たる兵士:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Teknillisen korkeakoulun pommitus Fremling F. E., kuvaaja 1939
vaaka, mustavalkoinen Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 30.11.1939
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK10000:4027 Kuvaustiedot: 30.11.1939 .
写真は,Museot Finna HK10000:4027用。


ポリカルポフ U-2 1939年11月28日、ソ連はフィンランドと1932年に締結した不可侵条約を破棄し、2日後の11月30日、ソ連赤軍レニングラード方面軍司令官キリル・メレツコフKirill Meretskov)大将隷下の兵力23個師団45万名、火砲1800門、戦車2300輌、飛行機700機がフィンランドを攻撃した。これが、フィンランドの言う冬戦争の始まりである。

ソビエト赤軍に対峙するフィンランド国防軍は、当初12個師団18万名で、総動員によって30万名以上の兵士を確保たものの、火砲700門、戦車20輌、飛行機130機で劣勢であった。カヤンデル首相は親ソ的とされ、1939年12月1日、カヤンデル内閣は総辞職し、後継にリスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)首相が任命され、ソ連と対決することとなった。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の勃発直後、空爆によって破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキの市街地:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
pommitettu Abrahaminkadun ja Lönnrotinkadun kulmatalo vaaka, mustavalkoinen
Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 1.12.1939
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK19721231i:1 .
写真は,Museot Finna HK19721231i:1用。


第二次大戦は1939年9月に始まっていたが、ドイツがフランス・イギリスと対峙する西部戦線では、1940年5月までは都市爆撃Aerial bombing of cities)、民間人への空襲は行われていなかった。

1)民間人への無差爆撃indiscriminate bombing)はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)戦略爆撃Strategic bombing)は報復を招聘し自国都市も空爆され大損害を被る、
3)都市への絨毯爆撃carpet bombing)に多数の爆撃機を投入するより、造船所・飛行機工場・飛行場・レーダー施設など重要な軍事目標を精密爆撃precision bombingするほうが敵の抗戦力を効果的に低下させる、

このように空爆air raid)を考えた各国の政治的指導者は、都市への無差爆撃carpet bombing)を回避していたのである。

しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。首都を爆撃されたフィンランドは即座に降伏すると楽観視し、さらにレニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲に対しては、ソ連はポリカルポフI-15戦闘機など迎撃態勢を整えていたので、防ぐ自信があったのであろう。


写真(上)1939年12月上旬、冬戦争の緒戦、フィンランド、ヘルシンキ、ソ連機の空襲を避けるために、夜間、バスに乗って疎開するフィンランド人避難民
:バス正面の行き先表示板には、ヘルシンキ=ラハティと書いてある。ラハティは、ヘルシンキの北100キロ、現在はラハティ郡パイヤト=ハメ県の県庁所在地である。
Evakuoimista Helsingissä joulukuun alussa 1939.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-111019用。


フィンランドを攻撃したソ連軍レニングラード方面軍の主力は、カレリア地峡に展開する第7軍20万名、ラドガ湖北に第8軍13万名、フィンランド中東部に第9軍と北部に第14軍の併せて12万名を配備した。他方、フィンランド軍は、カレリア地峡に主力の12万名、ラドガ湖に4万名、中東部・北部に1万6000名の配置であったが、総動員によって、兵力は暫時補充されている。

写真(右)1939年12月2日、冬戦争の緒戦、フィンランド、ソ連地上軍の侵攻・ソ連機の空襲を避けるために貨物列車に乗車して疎開するフィンランド人避難民と、この貨物列車で移送されてきたと思われるフィンランド国防軍の兵士たち:戦争の初期の頃、フィンランド政府は、市民を危険な地域から疎開させようと、避難列車、避難自動車、避難船を手配した。
Evakuointia Karjalan kannaksella sodan alkupäivinä. Kuvassa isoisä Antti Siira ja lapsenlapset Tauno Kuosa ja Vilho Kuosa, isoäiti Aune Siira, lasten äiti Riitta Kuosa sekä hänen veljensä Antti Siira.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1939-12-02 Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-165485用。


つまり、ソ連の大軍相手に少数のフィンランド軍が前線し世界に感銘を与えたというう「冬戦争」は、攻撃側45万名対防衛側25万名の戦いとなったが、攻撃側は防衛側の2倍の兵力でしかなく、防衛陣地に対する攻撃を仕掛けるには、決して優勢とは言えない状況だった。もちろん、火力、航空兵力は、攻撃するソ連赤軍が圧倒的に有利だったが、森林地帯、それも厳冬の雪の中の戦いで、気象条件・地形条件は、頑丈な半地下式陣地を幾重も整備した防衛側に有利であった。

また、フィンランド軍将兵祖国防衛の信念を抱き、地形を熟知していて士気が高かった。それと対照的に、攻撃側のソ連赤軍下級兵士の戦意は、小国の侵略的戦争では、全く振るわなかった。独ソ戦で見せたような愛国心溢れる戦いは、一部の共産主義イデオロギーを妄信する将校以外は、期待できなかったのである。ソ連軍は、バルト三国の時と同じく、無血の武力進駐で終わると錯覚していたようで、進攻作戦も補給計画も十分に検討されてはいなかったと考えられる。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド、カレリア地峡、ライシャラ、ソ連地上軍の侵攻・ソ連機の空襲を避けるために馬の引く橇に乗って住み慣れた故郷を去るフィンランド人避難民一家:戦争の初期の頃のカレリア地峡から避難する人々。写真は、祖父Antti Siiraと孫Tauno KuosaとVilho Kuosa、祖母Aune Siira、子供の母親Riitta Kuosaと彼女の兄弟Antti Siiraである。
Evakuointia Karjalan kannaksella sodan alkupäivinä. Kuvassa isoisä Antti Siira ja lapsenlapset Tauno Kuosa ja Vilho Kuosa, isoäiti Aune Siira, lasten äiti Riitta Kuosa sekä hänen veljensä Antti Siira.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-111155用。


第二次世界大戦の終了後の1948年、ソ連の公式見解は、次のように、ドイツの侵略的陰謀を強調するものである。
「ソ連=フィンランド戦争は,フィンランド政府が国際反動を援けて,国内の様々な反ソ的冒険の手段に利用させる政策をとった一例である。すなわち、第二次大戦の脅威とヒトラ一派の侵略を自前に控えていたソ連政府は。フィンランドをソ連攻撃の基地とする帝国主義者の計画に無関心ではいられなかった。そこで, ソ連政府は、1938 年春、フィンランドに ソ連の西北国境ならびにフィンランドの安全を保障する相互援助条約を提案したが拒絶され,次に1939年10-11月に,ソ連邦の安全保障, とくにレニングラードの安全保障の問題を具体的に検討することを提案した。しかし、帝匡主義列強の反動派の干渉したため,協定は合意できなかった……戦争煽動者らは,直ちに,手段をつくしてフィンランドとソ連の協調を妨害し始め.フィンランド政府に頑迷な態度をとらせ、最終的にフィンランドをソ連との紛争に追い込んだ。」11月26日,カレリア地峡のマイニラ村で砲撃事件が勃発、フィンランド首相は、ソ連の撤兵要求を拒んで、兵力の増強を続け、危機的状況に陥ったソビエト政府は, レニングラード軍管区の部嫁に対して,ソ連=フィンランド国境とレニングラードの安全を保樟する手段をとるようにとの命令を,止むなく発したのである。」

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド、カレリア地峡、ライシャラ、ソ連地上軍の侵攻・ソ連機の空襲を避けるために疎開するフィンランド民間人:馬車が飼料の秣(まぐさ)を橇に積んで曳いている。その後ろにはやはり重要な家畜の牛が繋がれている。農業を営む一家の避難民であろう。
Evakuointia Räisälässä joulukuussa 1939.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-104739用。


ライシャラ(Räisälä)は、カレリア地峡のレニングラード北150キロに位置し、冬戦争ではフィンランドとソ連が争う戦場となった。現在、ロシア連邦領でメリニコヴォ(Мельниково)と呼ばれている。フィンランドはソ連に、カレリア地峡Karjalankannas)の割譲や海軍のハンコ港租借を要求されたが、拒否したため、ソ連の攻撃を受けた。冬戦争敗北後、フィンランドは、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に復讐戦争を仕掛けて、レニングラード近郊まで占領地を拡張した。

写真(右)1939-1940年、冬戦争、フィンランド南部、ヘルシンキ西方50キロ、ポルヴォー、ソ連機の空爆を受けて破壊された建物:フィンランドはソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けたが、拒否したため、スターリンの怒りを買った。ソ連軍は1939年11月30日、フィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発したのである。
talvisodan jälkiä Porvoossa Rácz István, kuvaaja 1939–1940 .
vaaka, mustavalkoinen Content Type Image.
Subject place Porvoo Subject date 1939 - 1940.
Organisation National Board of Antiquities - Musketti.
Collection Kansatieteen kuvakokoelma István Ráczin kokoelma Inventory ID KK5500:26994 Measurements 17 x 17 cm
Photo info: 1939 - 1940 Porvoo Rácz István, kuvaaja.
写真は,Museot Finna KK5500:26994用。


マンネルヘイム 第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡Karelian Isthmus)と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。

写真(右)1940年1月13日、冬戦争の末期、フィンランド南、タンペレ(Tampere)の市街地、ソビエト空軍の空襲を受けて炎上した家屋:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Ilmapommituksen tuhoja Tampereella.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 3331用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、いきなりヘルシンキなど都市爆撃を敢行し、レニングラード方面から、フィンランド湾とフィンランドとロシアを結ぶラドガ湖に挟まれたカレリア地峡Karelian Isthmus)に軍を進めた。この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。

写真(右)1940年1月20日、冬戦争の末期、フィンランド南、タンペレ(Tampere)の市街地、ソビエト空軍の空襲を受けて炎上した家屋:冬戦争で、カレリア地方にソ連軍の侵攻を受けたフィンランド。ソ連軍は、レニングラード方面から進撃し、カレリア地方を武力の一部を武力占領した。
Pommituksen tuhoja Tampereella. Tampere 1940.01.20
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 4007引用。


1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻を契機に、すでに第二次大戦は始まっていた。ドイツは、ポーランドに対しては、ワルシャワ空襲を含め都市爆撃を遂行したが、フランス・イギリスと対峙した西部戦線では、まだ都市爆撃、民間人への空襲を実施していなかった。これは、フランス・イギリスも同様で、ドイツの諸都市へのプロパガンダ・ビラの当かは行っても、空爆は実施していなかったのである。

ソ連は、独立していたバルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)に対して、ソ連軍の駐留要求を突きつけ認めさせた。そこで、フィンランドに対しても同様の要求を突き付けたが、拒否された。怒ったソ連指導者ヨシフ・スターリンは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連赤軍にフィンランドを攻撃させた。このソ連による侵略行為に抵抗してフィンランドは、愛国的な冬戦争(talvisota)を闘う決意をした。

写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド中東部、ソ連空軍機による空爆で破壊されたクフモ(Kuhmon)村;クフモ (フィンランド語: Kuhmo)は、フィンランド、カイヌー県ケヒュス=カイヌー郡に属する。現在、人口は1万人でロシア国境に面している。19世紀から木材を蒸して抽出するタール(木液・乾留液)の生産が盛んだった。冬戦争に際し,ソ連軍の主力攻撃地点となったため、激戦地となった。
Kuhmon kirkonkylä palaa pommituksen jälkeen Veikko Kanninen, valokuvaaja 1939–1940 Organisation Museokeskus Vapriikki Collection D/748 Inventory ID 748:35 Photo info: 1939-1940 Kuhmo, Suomi Veikko Kanninen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna Inventory ID 748:35用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、フィンランドに攻め入った。この「冬戦争」では、ソ連軍は、1917年のロシア革命までロシア帝国領だった小国フィンランドの都市に対して、即座に爆撃を実施した。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自信がスターリンにはあったのであろうか。フィンランド軍カール・マンネルヘイム総司令官は、レニングラード報復空爆を実施する算段だったのであろうか。

写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド中東部、ソ連空軍機による空爆で破壊されたクフモ(Kuhmon)村;クフモ (フィンランド語: Kuhmo)は、フィンランド、カイヌー県ケヒュス=カイヌー郡に属する。現在、人口は1万人でロシア国境に面している。19世紀から木材を蒸して抽出するタール(木液・乾留液)の生産が盛んだった。冬戦争に際し,ソ連軍の主力攻撃地点となったため、激戦地となった。
Kuhmon kirkonkylä palaa pommituksen jälkeen Veikko Kanninen, valokuvaaja 1939–1940 Organisation Museokeskus Vapriikki Collection D/748 Inventory ID 748:33 Photo info: 1939-1940 Kuhmo, Suomi Veikko Kanninen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna Inventory ID 748:33用。


写真(右)1940年2月2日、フィンランド南西部、ポリ、ソ連空軍機による爆撃で完全に破壊された家屋:1940年2月2日、市内に対して、破壊的な爆弾攻撃が行われ、午前中に合計21人が死亡した。
Porin pommitukset talvisodan aikana; Varvinkatu 27 Karlsson Kurt K., kuvaaja 1940 Kortteli Varvinkatu 27 - Troilinkatu 23 (nyk. Itätullinkatu ) täydessä liekissä 2.2.1940. Tuhoisin kaupungin keskustaan kohdistunut pommitus tapahtui 2. helmikuuta 1940. Aamupäivän aikana sai surmansa yhteensä 21 ihmistä. Pori pommitukset talvisota sotatalvi ilmasota ilmasodankäynti pommit pommituhot tuhot vahingot sotavahingot sota pommiräjähdykset tulipalot palava talo vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva .
Subject place Itsenäisyydenkatu 55, Malminpää, Pori Subject date 2.2.1940, 1940, talvisota Organisation Satakunta Museum
Collection Kuvakokoelma Valokuva-albumit Inventory ID ALB100:36
Measurements 113 x 83 mm Photo info: 2.2.1940, 1940, talvisota Pori Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:36用。


写真(右)1940年2月2日、フィンランド南西部、ポリ、ソ連空軍機による爆撃で完全に破壊された家屋:1940年2月2日、ボリ市内に対して、ソ連空軍機による破壊的な爆弾攻撃が行われ、午前中に合計21人が死亡した。
Itsenäisyydenkatu 55 jossa rakennus tuhoutui täysin venäläisten pommituksessa ja tulipalossa 2.2.1940. Tuhoisin kaupungin keskustaan kohdistunut pommitus tapahtui 2. helmikuuta 1940. Aamupäivän aikana sai surmansa yhteensä 21 ihmistä. Pori pommitukset talvisota sotatalvi ilmasota ilmasodankäynti pommit pommituhot tuhot vahingot sotavahingot sota pommiräjähdykset tulipalot palava talo vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva.
Subject place Itsenäisyydenkatu 55, Malminpää, Pori Subject date 2.2.1940, 1940, talvisota Organisation Satakunta Museum
Collection Kuvakokoelma Valokuva-albumit Inventory ID ALB100:31
Measurements 57 x 43 mm Photo info: 2.2.1940, 1940, talvisota Pori Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:31用。


写真(右) 1940年2月3日、冬戦争の時期、フィンランド南東、カレリア地峡、ソルタバラ(Sortavala)、炎上するソルタバラ・ルーテル教会:ソルタヴァラは、カレリア、ラドガ湖の北端で、フィンランドが継続戦争で敗北後、再びソ連領となった。現在は、ロシア連邦カレリア共和国の南西部に位置する。1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。フィンランドはソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功した。
Pommituksen tuhoja Sortavalassa.Sortavalan luterilainen kirkko on tulessa. .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 4108引用。


写真(右) 1940年2月5日、冬戦争の時期、フィンランド南東、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri):フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドが冬戦争で敗北後、ソ連領となった。フィンランドは、継続戦争の初期にフィンランドはソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功した。継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、降伏後は、ヴィープリは再びソ連領になった。現在は、ロシア連邦カレリア共和国の南西部に位置する。
Viipuri 1940.02.05.Viipurin Tuomiokirkko pommituksen jälkeen.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 4130引用。


写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機を検分するフィンランド軍将兵:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Radioselostaja Pekka Tiilikainen tekemässä selostusta joulukuun alussa Viipurin lähellä alasammutusta neuvostoliittolaisesta pommikoneesta Tupolev SB-2M-100 (SB-2). Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111131用。


1917年、ロシア革命によって、帝政ロシア軍は、ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国との戦争の戦意を失いつつあり、戦争終結、撤退・帰郷を望むようになった。そこで、ロシア帝国の軍隊というより、新しい革命派の軍隊ということで、赤い星のマークが普及した。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100爆撃機の胴体の国籍マーク「赤い星」と爆撃回数マークを撮影するカメラを手にしたフィンランドのレポーター
Toimittaja valokuvaamassa alasammuttua neuvostoliittolaista Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikonetta.. Valokuva Organisaatio Valokuva Organisaatio Sotamuseo
写真は,Museot Finna sa-kuva-111134用。


ユダヤ人の象徴ともなったダビデの星は六芒星であり、そのイメージを引き継いだユダヤ系革命家が、共産主義者として赤い星(五芒星)を好んだという可能性もある。

ツポレフSB(Tupolev SB) ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾倉・翼下爆弾架 1トン

⇒写真集Album:ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)爆撃機を見る。

ソ連 スホーイ Su-2 軽爆撃機 フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になったが、ソビエト連邦は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に、レニングラードの安全保障のために、ソ連領としたいとフィンランドに申し出て、その代わりに北部コラ半島のソ連領を与える領土交換を提案した。

しかし、フィンランド人居住地であり、産業的にも重要だったカレリア地方のソ連割譲をフィンランドは拒否した。1949年、冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。

そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。


2.対空監視哨

写真(右)1939-1941年、フィンランド・ソ連国境、カレリア地方(?)、航空監視塔の女性航空監視員たちは、双眼鏡と電話通信を担っている。:極北戦線では、天候の変化が早く、霧や雷雨も発生したために、監視員は、気温や湿度、降雨量の計測の役割もあった。悪天候のリスクを避けて飛行するためには、フィンランド空軍の隊員たちの熟練だけではなく、高空監視員たちの持ち寄った情報とその判断が重要だった。
Lotat ilmavalvontatornissa Soukan Kasavuorella Content Type Image Organisation Espoo City Museum Collection Inventory ID valokuvat 2935:8 Photo info: 1939 - 1941 .
写真は,Espoo City Museum , Museot Finna valokuvat 2935:8引用。


フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーヤーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これになじんだ人々を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に協力している。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南西部、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、ロイモラ、気象観測・対空監視に従事する4人の民間防衛隊:冬季迷彩用の白色のガウンを着て、敵から見つからないように偽装している。一人は観測機を操作し、一人はノートに記録をとっている。残りは、指導員と訓練生のようだ。ロイモラは、現在、ロシア連邦領のカレリア共和国にある。
Säähavaintoja Loimolassa joulukuussa 1939.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-105030用。


写真(右)1939年12月、フィンランド南西部、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、ロイモラ、気象観測・対空監視に従事する民間防衛隊:冬季迷彩用の白色のガウンを着て、敵から見つからないように偽装している。一人は観測機を操作し、一人はノートに記録をとっている。二地点間で雲高を測定しているのであろうか。
Säähavaintoja Loimolassa joulukuussa 1939.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-105059用。


フィンランド南西部、カレリア地方、ロイモラは、ペトログラード北180キロ、フィンランド独立時は、フィンランド領で、 1920年代に林道が建設され、林業が発展した。それに伴い、製材所の操業が始まり、そこで働く人々が集まって人口も増えた。ロイモラ・ルター教会(Loimola Lutheran)教会も1932年に竣工している。しかし、フィンランドは1940年に冬戦争に敗れ、ロモイラ(Loimola)をソビエト連邦に譲渡した。しかし、1941年に始めた継続戦争で、再びロモイラを奪還、回収したが、1944年に継続戦争に敗れた、それを手渡すこととなった。ロモイラの建造物の大部分は戦争で破壊された。

写真(右)1939-1940年、フィンランド南西部、ポリ、視界の広いビル屋上に土嚢で対空監視哨を作り、対空監視に従事する民間防衛隊:冬季迷彩用の白色のヘルメット、白色のガウンに一人は電話通信機を操作し、もう一人は大型の双眼鏡を手にしている。
Porin väestönsuojelu talvisodan aikana; Poikien ammattikoulu Karlsson Kurt K., kuvaaja 1939–1940 VSS-keskuksen tähystäjät Hällsten ja Malve. Porin väestönsuojelukeskus jonka toimipaikkana oli Porin ammattikoulu, kuvia Porin väestönsuojelukeskuksen toiminnasta 1939-1940. väestönsuojelu Porin pommitukset talvisota ilmasota ilmasodankäynti sota kotirintama VSS-keskus ilmatähystäjä vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva .
Subject detail Poikien ammattikoulu Subject place Pori Subject date 1939 - 1940, talvisota Organisation Satakunta Museum Collection Kuvakokoelma Valokuva-albumit
Inventory ID ALB100:80 Measurements 112 x 84 mm Photo info: 1939 - 1940, talvisota Pori Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna ALB100:80用。


写真(右)1939-1940年、フィンランド南西部、ポリ、見晴らしのいいビル屋上に土嚢で対空監視哨を作り、対空監視に従事する民間防衛隊:冬季迷彩用の白色のヘルメット、白色のガウンに一人は電話通信機を操作し、もう一人は大型の双眼鏡を手にしている。
Porin väestönsuojelu talvisodan aikana; Poikien ammattikoulu Karlsson Kurt K., kuvaaja 1939–1940 VSS-keskuksen tähystäjät Eiriö ja Sumelius. PPorin väestönsuojelukeskus jonka toimipaikkana oli Porin ammattikoulu, kuvia Porin väestönsuojelukeskuksen toiminnasta 1939-1940. väestönsuojelu Porin pommitukset talvisota ilmasota ilmasodankäynti sota kotirintama VSS-keskus ilmatähystäjä vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva.
Subject detail Poikien ammattikoulu
Subject place Pori Subject date 1939 - 1940, talvisota
Organisation Satakunta Museum Collection Kuvakokoelma Valokuva-albumit
Inventory ID ALB100:78 Measurements 112 x 84 mm
Photo info: 1939 - 1940, talvisota Pori Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:78用。


1/48 ポリカルポフI-15bis戦闘機・初期型・ 1917年のロシア社会主義革命によって、ロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世は、1917年3月15日に退位した。そして、ロシア帝国の内紛とレーニン率いるボリシェビキの民族独立の方針に乗じて、フィンランド国会が設置され、11月15日にはフィンランド独立宣言が発せられ、共和制憲法の下で、独立国となった。

新ロシア政府は、少数民族の支持を得るために、1917年12月22日、フィンランドの独立を承認した。こうして、フィンランドが、革命後のロシアから独立したときに、レニングラード北西方のカレリア地方は、フィンランド領となった。その後、1939年に冬戦争が始まり、1940年の冬戦争敗戦を迎え、フィンランド領だったカレリア地方は、ソ連に奪われた。しかし、1941年6月、復讐戦として始めた継承戦争の緒戦で、フィンランドは攻勢をかけて、カレリア地峡をソ連から奪還した。フィンランドは郷土回復を祝った。

フィンランド空軍は、ソ連軍から鹵獲したポリカルポフ I-15Polikarpov И-15)戦闘機と並んで、ポリカルポフ I-152(Polikarpov I-15bis)戦闘機を使用した。ソ連空軍も同じポリカルポフ I-152戦闘機を使用していたので、同型機同士の空中戦も起こったのであろうか。

⇒写真集Album:ポリカルポフ (Polikarpov)I-15bis複葉戦闘機を見る。

ポリカルポフ I-16 タイプ18 (ノモンハン) ソビエト連邦の赤軍の国籍記章は、共産党の「赤い星」である。1917年のロシア革命時のボリシェビキ、のちに共産党も赤旗を採用し、それが新しいソビエトの赤軍に引き継がれて、赤い星の国籍マークが戦車、飛行機に描かれるようになった。のちに中国共産党の紅軍も「赤い星」を国籍マークとして使用した。

1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてポリカルポフ I-15Polikarpov И-15)戦闘機を開発し、制式したが、更なる改良型として、I-152が開発された。また、当時初めて出現した単発低翼の新鋭戦闘機として、それはポリカルポフI-16戦闘機を開発して大量生産した。つまり、ソ連空軍戦闘機は、不需要期と単葉機の併用だったのである。

ポリカルポフI-152複葉戦闘機に、引き込み式降着装置を採用して空気抵抗を減少させたI-153複葉機戦闘機が開発され、兵装には発射速度1,800発/分の7.62ミリShKAS機関銃機関銃を機首に4挺搭載した。

⇒写真集Album:ポリカルポフ (Polikarpov)I-16戦闘機を見る。

写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )::女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Tiedot teoksesta Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 23.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1942-07-11 Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165967引用。


フィンランドは、「冬戦争」の敗北後、ソ連に対して領土復活のための復讐戦争を計画し、マンネルハイム元帥の下で、軍事力を強化した。特に、1940年に、ドイツ軍が、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、大陸を制覇すると、ドイツとソ連の対立が予期される状況になった。そこで、フィンランドは、ナチス・ドイツに接近し、ドイツとの同盟の元にソ連軍に対峙する姿勢を見せた。フィンランド軍は、10個師団以上を編成し、国民義勇軍として、女子や学徒も動員することで、総兵力50万人となった。

写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )::女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Kuva Lahdenpohjan ilmavalvontatornista, jossa kuvattiin ilmavalvontalottia. Kuvassa ilmavalvontalotta Ellen Kiuru. Ks. teos Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 23..
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1942-07-11 Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165793引用。


1939-1940年の冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。

ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツの立場は明らかであり、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。

実際、フィンランド領内のドイツ空軍機がソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を掣肘するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃である。しかし、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に宣戦布告した。

写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru ):極北戦線では、天候の変化が早く、霧や雷雨も発生したために、監視員は航空機だけではなく、天候の観察にも注意を払った。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Lahdenpohja 1942.07.11.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia372引用。


フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これになじんだ人々を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に協力している。

写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )を被写体にプロパガンダの写真・動画の撮影をする宣伝要員たち ;女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Lahdenpohja 1942.07.11.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia304引用。


Po-2複葉機 1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許さなかった。「継続戦争」と称しているのは、フィンランドのみであり、これは第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いである。フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。

写真(右)1942年頃(?)、フィンランド・ソ連国境、航空監視塔の女性航空監視員:女性航空監視員が一人は双眼鏡で飛行機を探し、もう一人は電話で通信を担っている。女性対空監視員の多数のカラー写真が、フィンランド国防軍のアーカイブに収録されている。カレリア地峡でロシア方面からのソ連敵機を見張っているのであろう。気象観測も重要な役目だった。
Ilmavalvontalotat työssään. Hökkölän säähavaintoasema ja ilmavalvonta-aluekeskuksesta Hökkölän pappilassa, Jaakkiman pitäjässä. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: undated Carl Rosenqvist, valokuvaaja .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166423引用。


フィンランドは、冬戦争で失った領土を奪回するために、愛国的戦争と見なして1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を開始した。つまり、冬戦争の続きとして、領土奪回のための継続戦争を仕掛けたのである。また、当時、ドイツは、イギリス供交戦状態にあったが、フィンランドはイギリスと戦うつもりは全くなく、イギリスの行為を得るために、ドイツ同盟国として、枢軸側に立って第二次世界大戦を戦う、ということではないとの弁明をした。あくまでも敵はソ連だけであり、これは世界戦争の一環ではなく、局地的な二国間戦争に過ぎないというのである。このようなご都合主義の参戦をイギリスは認めなかったた。フィンランドは、事実上、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。

写真(右)1942年頃(?)、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸、ヤクキマ(ジャキマ)にあるホッケラ修道院ホールにある通信中継センターで勤務する女性対空監視員:2人の女性航空監視員が無線機を操作している。壁には呼び出し符号のようなチャートが張ってある。ヤクキマ(Яккима)は現在ロシア連邦カレリア共和国。カール・ローゼンクヴィストの撮影。
Lotat radiolaitteiden ääressä. Kuva todennäköisesti Jaakkiman pitäjän Hökkölän pappilassa sijainneesta ilmavalvonta-aluekeskuksesta, josta Carl Rosenqvist kuvannut useampia värikuvia.Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: undated Carl Rosenqvist, valokuvaaja .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165684引用。


ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北しており、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の際に、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。

写真(右)1942年頃(?)、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸、ヤクキマ(ジャキマ)にあるホッケラ修道院ホールの通信中継センターで勤務する女性対空監視員:2人の女性航空監視員が無線機を操作している。壁には呼び出し符号のようなチャートが張ってある。ヤクキマ(Яккима)は現在ロシア連邦カレリア共和国。カール・ローゼンクヴィストの撮影。
Lotat radiolaitteiden ääressä. Kuva todennäköisesti Jaakkiman pitäjän Hökkölän pappilassa sijainneesta ilmavalvonta-aluekeskuksesta, josta Carl Rosenqvist kuvannut useampia värikuvia. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Carl Rosenqvist, valokuvaaja .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166155引用。


1941年7月、総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻した。


3.対空聴音機と対空探照灯

写真(右)1944年9月12日、フィンランド、防空監視哨の対空聴音機を操作するフィンランド国防軍女性補助員たち:聞き耳を立てて、上下方向の間隔、左右方向の間隔を測る各々女性が、俯角と旋回角を決めることで、敵機の進行方向の位置表示ができる。そこを基準に、対空警報監視、対空射撃をする。
Naisia ilmatorjuntatehtävissä: hoitavat valonheittimiä ja kuuntelulaitteita Military Museum Photo info 1944-09-12 Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-133601引用。


聴音機を使って、大気中の飛行機エンジン音を聞き取ることで、飛行機の侵入方向、侵入機数などの情報を算出する対空監視用の器材である。したがって、空中聴音機は、防空監視用の平気であり、攻撃兵器には向いていない。目視による防空監視との差異は、音による感知であるために、夜間、霧・雲などの天候・気象条件によって目視出来ない場合でも、飛行機の位置を特定可能である。

写真(右)1944年7月15日、フィンランド、防空監視哨の対空聴音機を操作するフィンランド国防軍女性補助員たち:聞き耳を立てて、上下方向の間隔、左右方向の間隔を測る各々女性が、俯角と旋回角を決めることで、敵機の進行方向の位置表示ができる。そこを基準に、対空警報監視、対空射撃をする。
Naisylioppilaita koulutetaan ilmatorjuntatehtäviin. Kuulosuuntimen kuuntelijakoulutusta. Kuuntelijat kuuntelijaharjoituksissa. Military Museum Photo info 1944-07-15 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-139700引用。


空中聴音機は音響探知装置なので、音を聞き分けるには、人間の聴覚に頼っている。エンジンが稼働している飛行機は、音響を発するので、それを聞き耳を立てて探知するが、音響の強弱で距離が、左右あるいは上下の音を同時に探知するとこで、飛行機の位置が測定できる。

写真(右)1944年7月15日、フィンランド、防空監視哨の対空探照灯の操作訓練をするフィンランド国防軍女性補助員たち:対空聴音機は、聞き耳を立てて、上下方向の間隔、左右方向の間隔を測る各々女性が、俯角と旋回角を決めることで、敵機の進行方向の位置表示ができる。そこを基準に、探照灯を照射する。
Naisia ilmatorjuntatehtävissä: hoitavat valonheittimiä ja kuuntelulaitteita Military Museum Photo info 1944-09-12 Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-133594引用。


防空用の空中聴音機は、飛行機の発する音響を探知するために、静寂が求められるが、戦場の砲火や自動車の騒音などは、音響探知に大きな障害になる。さらに、強風や雨など、空中聴音機に音を立てる気象条件も、音響探知の大きな制約となってくる。

写真(右)1944年9月12日、フィンランド、防空監視哨の対空聴音機を操作するフィンランド国防軍女性補助員たち:聞き耳を立てて、上下方向の間隔、左右方向の間隔を測る各々女性が、俯角と旋回角を決めることで、敵機の進行方向の位置表示ができる。そこを基準に、対空警報監視、対空射撃をする。
Naisia ilmatorjuntatehtävissä: hoitavat valonheittimiä ja kuuntelulaitteita Military Museum Photo info 1944-09-12 Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-139693引用。


空中聴音機は、自然の状態で、飛行機が発する音響を探知するが、人間の聴覚をより活用するには、音を拡大するマイクを使用する技術も存在する。飛行機の発する音響を受動的に探知するのであるから、遠方の飛行機の音を拡大すれば、それだけ遠距離で、正確に飛行機の位置を探知できるからである。

写真(右)1944年9月12日、フィンランド、防空監視哨の対空聴音機を操作するフィンランド国防軍女性補助員たち:聞き耳を立てて、上下方向の間隔、左右方向の間隔を測る各々女性が、俯角と旋回角を決めることで、敵機の進行方向の位置表示ができる。そこを基準に、対空警報監視、対空射撃をする。
Naisia ilmatorjuntatehtävissä: hoitavat valonheittimiä ja kuuntelulaitteita Military Museum Photo info 1944-09-12 Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-139691引用。


空中聴音機は、飛行機を対象に音響を探知することで、飛行機を発見、位置情報を計測する防空兵器である。空中聴音機は、第一次世界大戦で飛行機が兵器として大々的に活用され、都市爆撃、夜間爆撃が頻繁に実施される過程で、登場し発展してきた。その後、第二次世界大戦の時まで空中聴音機は使用されていたが、飛行機の速力が速くなり、航空を飛行するようになると、空中聴音機の有効性は非常に低下することになった。

写真(右)1944年9月12日、フィンランド、防空監視哨の対空聴音機を操作するフィンランド国防軍女性補助員たち:聞き耳を立てて、上下方向の間隔、左右方向の間隔を測る各々女性が、俯角と旋回角を決めることで、敵機の進行方向の位置表示ができる。そこを基準に、対空警報監視、対空射撃をする。
Naisia ilmatorjuntatehtävissä: hoitavat valonheittimiä ja kuuntelulaitteita Military Museum Photo info 1944-09-12 Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-139692引用。


空中聴音機では、二人の音響探知要員が、聞き耳を立てて、上下方向の間隔と左右方向の間隔を測ることで、聴音機と飛行機の位置までの俯角と旋回角を計測できる。敵機の位置と進行方向が分かれば、その情報から、飛行機に対する対空警報監視、対空射撃をする。

写真(右)1944年9月12日、フィンランド、防空監視哨の探照灯を整備するフィンランド国防軍女性補助要員たち
Naisia ilmatorjuntatehtävissä: hoitavat valonheittimiä ja kuuntelulaitteita. Suojalevy poistetaan valonheittäjästä. Military Museum Photo info 1944-09-12 Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-139700引用。


探照灯は、照空灯、サーチライト(searchlight)とも呼ばれる大型で強力な光源を持つ照明器具である。しかし、強い光源を拡散すると、遠方には届かなくなるために、照射する範囲は非常に限られたものになる。したがって、暗闇の中で、参議減の空間を高速移動する飛行機を的確に照射するのは非常に難しい。そこで、空中聴音機と組み合わせて、夜間に探照灯を使用するようになった。つまり、探照灯は、強力な光源から特定方向に平行光線を照射投射するために、光源の後背に反射鏡を置いて、前方に照射する光線をより強いものにしている。


4.フィンランド同盟国ヒトラー軍の防空要員

写真(右):1942年5月、ドイツ西部戦線、フランス、空軍の野戦司令部で長距離無線電話を操作するドイツ空軍の通信女性補助員(Nachrichten-helferinnen):敵機の位置・進行方向、気象条件を把握し、記帳して、その情報を指揮官に伝える。補助員たちは、イヤホーンの付いたレシバートと付けている。左腕にある記章は、電磁波の飛び散る様子を示した通信隊のもの。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-616-2524-08A Archive title: Im Westen, Frankreich.- Feldwebel der Luftwaffe und drei Wehrmacht-shelferinnen im Freien an Funkgerät; KBK Lw zbV Dating: Mai 1942 Photographer: Zwirner Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1942年、ドイツ西部戦線、フランス、空軍の司令部で長距離無線電話を操作するドイツ空軍通信兵が受話器を通じて出す指示を書き取る女子通信事務補助員(Nachrichten-helferinnen):敵機の位置・進行方向、気象条件を把握した指揮官が相手に情報を伝え、支持を出す。それを確認のため筆記するのが女子通信補助員の役目だったようだ。通信機の上奥にも、もう一つの受話器が置いてある。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-615-2499-11 Archive title: Frankreich.- Offizier und Nachrichtenhelferin in einer Funkstelle / Nachrichtenstelle; KBK Lw zbV Dating: 1942 Photographer: Lysiak, Bruno Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-616-2524-08A 引用。


写真(右):1942/1943年、フランス、パリ、ドイツ空軍の飛行管制センター(Flug-leitstelle)に勤務するドイツ空軍女性補助員(Luftwaffen-helferinnen)たちがタイプライターで作業している。英文タイプライターは、19世紀からQWERTY(クウォーティー)配列が一般的で、タイプの文字版(キーボード)最上段が、左からQ,W,E,R,T,Yの順番で並んでいる。これは、文字使用頻度や両手を使って文字を早く打つ、すなわち打鍵速度を上げるために勧化出され定着したもの。しかし、ドイツ語の場合は、英語と異なりQWERTZ配列になり、フランス語の場合はAZERTY(アザーティ)配列 が慣例。他方、日本では、ひらがな、カタカナだけでは文章が通りにくいので、幹事を混用する和文タイプが生まれた。但し、これは文字探し・植字に時間がかかり、聞き取ってすぐに文章化することはできない。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-356-1817-18A Archive title: Frankreich, Paris.- Flugleitstelle. Luftwaffenhelferinnen im Einsatz; KBK Lw 3 Dating: 1942/1943 Photographer: Speck Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-356-1817-18A引用。


写真(右):1942/1943年、フランス、パリ、ドイツ空軍の飛行管制センター(Flugleitstelle)に勤務するドイツ空軍女性補助員(Luftwaffen-helferinnen):通信機には、無線電話、有線電話、送受信機、テレタイプ通信など様々だが、日本軍の使用した通信機、特に小型通信機は、信頼性、性能の安定性がなかったようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-356-1817-11A Archive title: Frankreich, Paris.- Flugleitstelle. Nachrichten-Helferinnen (?) im Einsatz; KBK Lw 3 Dating: 1942/1943 Photographer: Speck Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-356-1817-11A引用。



5.フィンランド同盟国ヒトラー軍の対空聴音機

写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の対空砲女性補助要員(Flak-helferinne):飛行機のエンジン音を巨大聴診器で、方向、角度、大きさを聞き分ける。水平方向、垂直方向の各々に聴音機が向いており、水平方向と上下角度が計測できる。ただし、1気圧の下で音速は1秒間に340メートルなので、飛行機のエンジン音が届いたときには、すでに飛行機は移動しているため、正確な距離や方向を探知することはできなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-09 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferinnen und Soldaten am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-09 引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の防空女性補助要員(Flak-helferinne):飛行機のエンジン音を著大な聴診器で、方向、角度、大きさを聞き分ける。水平方向、垂直方向の各々に聴音機が向いており、水平方向と上下角度が計測できる。ただし、1気圧の下で音速は1秒間に340メートルなので、飛行機のエンジン音が届いたときには、すでに飛行機は移動しているため、正確な距離や方向を探知することはできなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-18 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferin am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-18引用。


1939年9月に、第二次世界大戦が勃発すると、ドイツでは、第一線に派遣される男性兵士が増加し、後方勤務を女性補助員で代替する傾向が強まった。こうして、戦争の拡大とともに、ドイツ軍の女性補助員は増加し、従来は男性兵士が勤務していた対空監視、防空警報、高射砲・高射機関砲など、後方とは言え、戦闘部隊に配備された。つまり、空襲から軍事施設、工場、交通機関、都市などを防空するための、戦闘部隊への配属が始まったのである。

1943年に入ると、イギリス本土や地中海の航空基地を飛び立ったアメリカ陸軍航空隊、イギリス空軍の爆撃機が、ドイツ本土を大規模に空襲し恥前田。アメリカはボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機・コンソリデーデットB-24リベレーター爆撃機がドイツの軍事施設や工場を昼間空襲し、イギリスのァブロ・ランカスター重爆撃機が都市を夜間空襲した。これら大型四発重爆撃機は、時には、援護の戦闘機を引き連れてくることもあったが、当時は全行程を援護できる長距離飛行可能な戦闘機はなかったため、ドイツ空軍は、援護戦闘機か帰還した爆撃機編隊を迎撃した。しかし、ドイツ本土の産業中枢、軍事施設への大規模空襲は、軍需工場の生産能力を減退させ、ドイツの国力は、弱体化するようになった。


写真(上左):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の対空砲女性補助要員(Flak-helferinne) Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-10 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferinnen und Soldat am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-10引用。
写真(上右):1943/1944年、ドイツ西部、対空聴音機で防空監視の任務に就くドイツ空軍の対空砲女性補助要員(Flak-helferinne)の女性兵士。 Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7757-11 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferinnen und Soldat am Horchgerät; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-10引用。



6.フィンランド同盟国ヒトラー軍の対空探照灯

写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯の脇に整列したドイツ空軍の女性補助要員(Flak-helferinne):第一次大戦で、夜間爆撃が始まると、夜間上空を飛行する敵機を捜索する対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)が採用された。これは、夜間上空を強力な光線で照らす照明器具で、(左右に回天、上下に仰角を取ることができる投光器で、敵機を直接照射する。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-29 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-29引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯の脇に整列したドイツ空軍の対空砲女性補助要員(Flak-helferinne):第一次大戦で、夜間爆撃が始まると、夜間上空を飛行する敵機を捜索する対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)が採用された。これは、夜間上空を強力な光線で照らす照明器具で、(左右に回天、上下に仰角を取ることができる投光器で、敵機を直接照射する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-30 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-30 引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯を操作するドイツ空軍の女性補助要員(Flak-helferinne):探照灯を水平方向に旋回させるには、梃子の原理を使って長い支柱を地表に平行に回転させる。探照灯の角度を上下させ、仰角を取るには、歯車を利用する回転ハンドルを回す。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-25 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7758-10A引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯の操作説明を受けるドイツ空軍の女性補助要員(Flak-helferinne):ドイツ軍は対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)をシャインヴェルファー(Scheinwerfer)と呼んだが、これは日本でいう自動車のヘッドライトと同じ意味である。対空用サーチライトは、日本では陸軍は照空燈(しょうくうとう)と呼称し、海軍は探照燈(たんしょうとう)と呼称した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7758-10A Archive title: Westdeutschland.- Soldat mit Flakhelferinnen bei Erklärung eines Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. z.b.V. Dating: 1943/1944 Photographer: Zoll Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7758-10A引用。


写真(右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯のカバーガラスを外して磨き上げ、再び探照灯に装着するドイツ空軍の女性補助要員(Flak-helferinne):ドイツ軍は対空用サーチライト(anti-aircraft searchlight)をシャインヴェルファー(Scheinwerfer)と呼んだが、これは日本でいう自動車のヘッドライトと同じ意味である。対空用サーチライトは、日本では陸軍は照空燈(しょうくうとう)と呼称し、海軍は探照燈(たんしょうとう)と呼称した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7797-11 Archive title: Reichsgebiet / Westdeutschland.- Flakhelferinnen mit Flak-Scheinwerfer; PK Eins. Kp. Lw. zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7797-11 引用。



写真(上左):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を照らす対空探照灯のカバーを装着するドイツ空軍の対空女性補助要員(Flak-helferinne) Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7798-04 Archive title: [Reichsgebiet].- Flakhelferinnen bei Demontage / Montage / Reparatur eines Teiles von einem Flak-Scheinwerfer; Eins.Kp. Lw zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7798-04 引用。
写真(上右):1943/1944年、ドイツ西部、飛行機を探す対空双眼鏡(Flakrichtgerät )配置のドイツ空軍の対空女性補助要員(Flak-helferinne) Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-674-7798-33 Archive title: Westdeutschland.- Flakhelferin am Flakfernrohr; Eins Kp Lw zbV Dating: 1943/1944 Photographer: Ketelhohn, Karl Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-10引用。

写真(右):1943/1944年、ドイツ、飛行機を探す対空双眼鏡(Flakrichtgerät )の配置についたドイツ空軍の対空女性補助要員(Flak-helferinne):日本海軍には、水平見張用双眼望遠鏡の口径は、8cmから18cmまで、対空見張用双眼望遠鏡の口径は6cmから12cmまでがあった。高角双眼望遠鏡は、俯視角は20度から70度である。太平洋戦争中に対空監視に活躍した日本軍の十二糎高角双眼望遠鏡は、口径12cm、倍率20倍、視界3度の45度対空双眼鏡で、光学兵器として生産された。野外で使用するために、堅牢かつ防水であり、海軍艦艇でも対空監視用のために艦橋に配備された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-677-8040-06A Archive title: Reichsgebiet.- Flakhelferinnen am Flakrichtgerät 40 A; PK Eins. Kp. Lw zbV Dating: 1944 Photographer: Linden Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-677-8040-06A 引用。



7.ドイツ空軍の戦闘管制室

写真(右):フランス(?)、ドイツ空軍夜間戦闘機を誘導する戦闘管制室で働くイヤホーンレシーバーとマイクをつけたドイツ空軍将兵とドイツ空軍補助要員(Helferinnen)の女性管制官:敵爆撃機をレーダーと地上監視哨の情報で捕らえ、そこにドイツ空軍の夜間戦闘機を無線誘導し、会敵、迎撃させる指示をマイクを使って夜間戦闘機搭乗員に伝える。テーブル上のカードで情報を整理する。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-680-8274A-15A Archive title: Frankreich?.- Flugleitstelle für Nachtjäger, Luftwaffensoldaten und Helferinnen mit Kopfhörern über Karte auf Tisch gebeugt; PK Einskp Lw zbV Dating: 1944 Photographer: Faupel Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-674-7757-18引用。


写真(右):1944年、フランス、ドイツ空軍の司令部で長距離電話・調整パネルを扱うドイツ空軍の通信補助員(Nachrichten-helferinnen)の女性管制官:敵機の位置・進行方向、気象条件を把握し、味方部隊や航空機にその情報を伝える。補助員たちは、イヤホーンの付いたレシバートとマイクを使っている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-615-2486-14A Archive title: Frankreich.- Nachrichtenhelferinnen an Vermittlungspult / Telefonanlage; PK KBK Lw zbV Dating: 1944 Photographer: Eisenhart Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-615-2486-14A 引用。


写真(右):1944年夏、フランス、パリ北方50キロ、グヴュー=シャンティリ、ドイツ空軍のコンクリート壕(ブンカー)式司令部で第II戦闘航空団の管理事務作業の一環として長距離電話の受信装置に聞き耳を立て、伝えられた情報を筆記するドイツ空軍の女子通信補助員(Nachrichten-helferinnen:signal-communication woman auxiliary ):。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-490-3259-07A Archive title: Frankreich, Gouvieux / Chantilly.- Stark getarnter Bunker der Luftwaffe (Gefechtsstand des II. Jagdkorps) in einem Wald.- Nachrichtenhelferin beim Abh&oauml;ren einer Nachricht (?); PK Lfl 3 Dating: 1944 Sommer Photographer: Güntzel
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-615-2486-14A 引用。


写真(右):1944年夏、フランス、パリ北方50キロ、グヴュー=シャンティリ、ドイツ空軍のコンクリート壕(ブンカー)式司令部で第II戦闘航空団の事務作業の一環としてタイプライターを打つドイツ空軍の女子通信補助員(Nachrich-tenhelferinnen:signal-communication woman auxiliary ):敵機の位置・進行方向、気象条件を把握し、味方部隊や航空機にその情報をタイプライターで伝えると、これが自動的にテレックス()として送信される。補助員たちは、イヤホーンの付いたレシバートを使っている。 テレックス(telex)とは、テレプリンター交換機(teleprinter exchange)の省略語で、電話回線で接続した通信装置で、活字を変換して送信し、受信者はそれを受けて、再び文字に変換して活字印刷できる。テレプリンターについている”Triumph”とは、勝利、成功の意味で、商標として相応しい。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-490-3259-03A Archive title: Frankreich, Gouvieux / Chantilly.- Stark getarnter Bunker der Luftwaffe (Gefechtsstand des II. Jagdkorps) in einem Wald.- Nachrichtenhelferin am Funkgerät und Schreibmaschine; PK Lfl. 3 Dating: 1944 Sommer Photographer: Güntzel Origin: Bundesarchiv
写真はBundesarchiv Signature: Bild 101I-490-3259-03A 引用。



8.フィンランド軍の対空火器

写真(右)1941年6月20日、冬戦争の時期、フィンランド、冬戦争の復讐戦「継続戦争」を始めたフィンランド軍兵士が操作する口径7.62mmマキシム(Maxim)M/32-33対空機関銃:このマキシム(Maxim)M/32-33機関銃は、ロシアが開発したM1910マキシム(Maxim)機関銃を原型に1932年にフィンランド仕様に改良された水冷式機関銃である。原型では給弾ベルトが布製だったが、雪や氷のある状況でも過熱して使用できるように、金属製給弾ベルトに変更されている。
It-konekivääri. Konekivääri Maxim m/32-33 ilmatorjuntakäytössä. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-06-20 Paavilainen E.J. kapt., valokuvaaja.
写真は,Museot Finna sa-kuva-86985用。


ペトリヤコフ Pe-2 ソ連は、独立していたバルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)に対して、ソ連軍の駐留要求を突きつけ認めさせた。そこで、フィンランドに対しても、軍事基地の租借、レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡Karelian Isthmus)と北方領土の交換など、同様の要求を突き付けたが、拒否された。怒ったソ連指導者ヨシフ・スターリンは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連赤軍にフィンランドを攻撃させた。このソ連による侵略行為に抵抗してフィンランドは、愛国的な冬戦争(talvisota)を闘う決意をした。

フィンランド軍のマキシム(Maxim)09-09 口径7.62ミリ機関銃は、原型はロシア軍のマキシム1905年式重機関銃(7,62 mm Maxim m/1905 )あるい1910年式7.62ミリ重機関銃(7,62 mm Maxim m/1910)である。このロシア軍の優秀な重機関銃をフィンランド軍は、M/09-09 7.62ミリ機関銃の形式で呼称し、生産したのである。

フィンランドが開発した7.62mmマキシム(Maxim)M/32-33機関銃の原型は、ロシア製マキシム1905年式7.62ミリ重機関銃Museot Finnaで、1932年にフィンランド仕様として、原形の布製給弾ベルトを金属製リンク給弾に変更し、雪や氷のある状況でも対処できるように改良された。

写真(右)1940年2月24日、冬戦争の仕返し「継続戦争」開始3か月前、フィンランド、フィンランド軍の口径7.62ミリ1931年式7,62 Itkk/31連装対空機関銃の真正面:1931年フィンランド開発の連装機関銃は、M/31円錐支柱式あるいはM/40三脚式銃架に搭載される。1933-1944年に合計507挺が生産された。
Kotimainen 7,62 mm:n Ikaksois ilmatorjuntak onekivääri vuodelta 1931 (7,62 Itkk/31) Postitalon katolla Helsingissä. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1940-02-24 Tuntematon, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna sa-kuva-115229用。


フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。、スウェーデン、ノルウェー、デンマークといったスカンジナビア明邦から馳せ参じた義勇兵もあったが、フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に孤軍奮闘した。

ポリカルポフ I-16 第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、いきなりヘルシンキなど都市爆撃を敢行し、レニングラード方面から、フィンランド湾とフィンランドとロシアを結ぶラドガ湖に挟まれたカレリア地峡Karelian Isthmus)に軍を進めた。この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。

1939年11月30日、ソ連の侵略を阻止するために、カール・マンネルヘイムCarl Mannerheim)元帥の指揮下のフィンランド国防軍は、冬戦争(talvisota)を、しかし、独ソ不可侵条約を結んだドイツからも、スカンジナビア諸国からも、そして英仏からも大規模な軍事を援助を受けることができなかった。最終的には、ソ連赤軍に圧倒され、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、降伏し、ソ連の領土要求を受け入れた講和条約を結んだ。

1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁である。フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドのソ侵攻を許すことはできなかった。

第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。

しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィンランド語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ロシア感情からか、小国・民主主義国フィンランドへの同情からか、フィンランド側の言う「継続戦争」の呼称を多用している。

イリューシン IL-2 フィンランドでは、継続戦争開始後、 IKL (愛国人民同盟)、AKS(カレリア学徒会〉といった右翼団体は, フィンランド軍が新たにソ連の東カレリアまで進軍し、そこに住む同族のフィン人を併合して、ボスニア湾から白海にわ たる「大フィンランド」(Suur-Suomi) を建設することを提唱した。

1935年式ブレダ(Breda)20mm軽対空砲(20mm Breda M/35)の諸元
重量 330kg
全長 3.34m
銃身長 1,870mm
操作要員 3-6名
口径 20×138mmB弾(スイスのソロターン社開発の弾薬)
砲架 三脚式・脱着式二輪
仰角 -10°~+80°
旋回角 360°
発射速度 240発/分
銃口初速 840m/秒
有効射程 1,500m(航空目標)
最大射程 5,500m(地上目標)

写真(右)1943年8月26日、フィンランド南東部、イマトラ(Imatra)、ヴオクサ(Vuoksi)渓谷、イマトラ製鉄所の対空陣地、フィンラン軍のイタリア製ブレダ(Breda)1935年式65口径20ミリ対空機関銃(Cannone-Mitragliera da 20/65 modello 35(Breda)):ブレダ(Breda) 20/65 modello 35をイタリアから輸入したフィンランドは、1935年式ブレダ対空機関銃 (Breda m35)として制式した。
Italialaisvalmisteinen 20 mm:n ilmatorjuntatykki (Breda m35) tuliasemassa. Värikuvien selosteessa: 20 mm:n it-tykki. Suulajärvi 26.8.1943..
Organisation Military Museum Photo info 1943-08-26 Vilho Koivumäki, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-83388引用。


ドイツ軍の1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、フィンランド軍も20 ItK/30 BSWと命名して採用した。1930年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)は、ラインメタル社が開発したもので、生産期間1934–1939年以降に 8,000門が量産されている。

1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、第二次世界大戦後の1940年に改良型の1938年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 38)に更新され、二連装対空機関砲、四連装対空機関砲も含めて、1945年までに合計銃身ベースで4万門が大量生産された。

ラインメタル(Rheinmetall)1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)の諸元
重量 450 kg (992 lbs)
全長 4.08 m (13.38 ft)
銃身長 1.3 m (4.26 ft) (L/65口径)
全幅 1.81 m (6 ft)
全高 1.6 m (5.24 ft)
操作要員数 7名
弾薬 20×138mmB弾
口径 20 mm (.78 in)
仰角 -12° - +90°
旋回角 360°
発射速度 280 - 450 発/分 (最高値)-120-180発/分 (実用値)
銃口初速 900 m/s (2,953 ft/s)
有効射程 2,200 m (2,406 yds)
装填方式 20発箱形弾倉

写真(右)1941年7月10日、フィンランド、ガストロフ(Gustloff)対空監視哨の高射機関銃陣地、ドイツ製ラインメタル(Rheinmetall)1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)を操作するフィンランド国防軍兵士たち:夏の日差しの中を目標が視界に入ったことを確認する対空陣地に勤務するフィンランド軍兵士たち。
Maali näkyvissä. Kyseessä saksalainen ilmatorjuntatykki, 20 ItK/30 BSW. Military Museum Photo info 1941-07-02 Johnsson, L., valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-87297引用。


ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツてき立場は明らかであり、レニングラードに近いフィンランド国境にフィンランド軍が集中していることも、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。

実際、フィンランド領内のドイツ空軍機がソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を正中するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃である。しかし、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告した。

写真(右)1941年10月14日、フィンランド、バルト海沿岸(?)、対空陣地、ドイツ製ラインメタル(Rheinmetall)1938年式2センチFlak 38 対空機関砲(2 cm Flak 38 : 20 ItK/38 BSW)を操作するフィンランド国防軍兵士たち
Ilmatorjuntaa. Kuvassa 20 mm:n saksalainen ilmatorjuntatykki vuodelta 1938 (20 ItK/38 BSW)..
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-30878引用。


20ミリ単装対空機関砲の旋回、仰角、装弾、射撃と最低4名の対空機関銃要員が必要である。1930年型20ミリ機関銃とは異なって、1938年型20mm対空機関銃は円形銃架を採用しているの判別は容易である。



ドイツ軍 20mm Flak38 対空機関砲 第二次世界大戦の勃発後、ドイツのラインメタル(Rheinmetall)は、1930年式2センチFlak 38対空機関砲を原型に、その改良型を1940年に開発し、1938年式20ミリ Flak38 対空機関砲(2 cm Flak 38)と命名した。1938年式20ミリ Flak38 対空機関砲は、銃架に装備され、手動による旋回、俯角20度から仰角90までの射撃を、俯仰手、旋回手、装填手、射撃手の最低4名で操作できる。

また、ドイツでは、二輪トレーラー(Sd.Ah.51)に搭載して、牽引車で運搬できるほか、半装軌装甲車Sd Kfz 251の後部上面に搭載した自走対空砲にも使用された。また、2cm Flak 38は、Flak 30同様、ドイツ陸・海・空軍、武装親衛隊でも採用され、ドイツ軍とともにあらゆる戦場で戦った後半に使用されている。

ドイツ製ラインメタル(Rheinmetall)1938年式20ミリ対空機関銃は、ドイツ陸海軍だけではなく、フィンランド軍も1939年にドイツから50基の2センチ Flak 30を輸入し、20 Itk/30 BSWと命名して使用した。そして、1941年6月以降の継続戦争では、 113基の2センチ Flak 38を輸入し、20 ItK/38 BSW)と命名して使用した。

写真(右)1944年3月5日、フィンランド、ヘルシンキ、防空第一連隊(It.R.1.)、対空砲台に設置されたフィンランド国営銃器工場(VKT)L-40 1940年式20ミリ連装対空機関銃(20 ItK 40/VKT):フィンランドが独自に開発、生産した国産対空機関銃だが、成功作とは言えず、登場時期も1943年以降と遅かったために、生産数は200門以下と少なかった。
Helsingin ilmatorjunta: Ilmatorjuntarykmentti 1. (It.R.1.): 20 mm:n tykki tuliasemassa (20 Itk 40/VKT)..
Military Museum Photo info 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja Subjects 1944-03-05
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-119544引用。


フィンランド軍のL-40 1940年式20ミリ連装対空機関銃(20 ItK 40/VKT)(20 ItK 40/VKT)を開発、製造したフィンランド国営銃火器工場VKT (Valtion Kivääritehdas)は、1926年にフィンランド中南部内陸のユバスキュラ地方トルラに設立された銃火器の開発と製造を担う国営企業である。

フィンランド軍の1939年型L-39対戦車自動砲(ライフル)銃をフルオートの機関銃に改造し1940年の冬戦争の時期にはフィンランド国営銃器工場(VKT)L-40 試作機関銃が完成していた。1940年にフィンランド空軍が100門発注したが、生産は滞ったため、結局、1943年に155門、1944年に19門が生産されただけだった。1943年にL40 20ミリ連装対空機関銃が配備された。

ドイツの対空機関砲3.7 cm Flak 37をフィンランド軍は輸入して、37 ItK / 37 RMB(ラインメタル=ボルジッヒ)と命名して、部隊配備した。この3.7センチ対空機関砲の原型は、ラインメタル社の2 cm Flak 30で、これを同社が37mm口径に拡大して3.7cmFlak 18を開発した。

1941年6月末に始まった継続戦争に於て、ソ連に侵攻したフィンランド軍は、瞬く間に1939年当時の旧国境まで進軍し、1940年の冬戦争で失った国土を取り返した。そして、1939年の旧国境を越えて、引き続き弱体化しているソ連軍を追って進撃を続けた。フィンランドは,中東部の東カレリア地方では、旧国境を遥かに超えて占領地を拡大しており、これは当初の戦争目的である失地回復・国土奪回を超えた侵略的行為である。

ノルウェー駐留ドイツ軍とともに、ぺツァモ(Petsamon lääni)からムルマンスク攻略にも進撃した。にもかかわらず、フィンランドは、占領地の拡大は、フィンランドの領土と国境を守るための正当な外延的防御線の移動であり、防衛的な行動であると弁明した。

写真(右)1941年7月10日、フィンランド、カレリア地峡、ドイツ製ラインメタル=ボルジッヒ (Rheinmetall-Borsig)1937年式37ミリ対空機関砲(3.7 cm Flak 37:フィンランド37 ItK / 37 RMB:Rheinmetall-Borsig)を操作するフィンランド国防軍兵士たち
Saksalaisia IT-tä. Kal. 37mm. Sijoitetaan lauttoihin niiden valmistuttua. Kuvassa on 37 mm:n saksalainen ilmatorjuntakanuuna vuodelta 1937, 37 ItK/37 RMB (Rheinmetall-Borsig), saksalainen nimike 3,7 cm Flak 37.ak 37.Content Type Organisation Military Museum Photo info: 1942-07-10 Sot.virk. C.G. Rosenqvist, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-38123引用。


1941年8月21日、フィンランド外務大臣ヴィッティングは、アメリカ公使に対して、フィン ランド政府は,東カレリア地方の占領地拡大は、軍事戦略上、ドイツ軍によるレニングラード占領に重なるものであること、その時に、フィンランドは,ソ連と単独和平をすることはなく,1918年から1921年にかけてのロシア革命と反革命の時代と同じように、武装平和を維持する必要があること、を説いた。換言すれば、ドイツが対ソ戦争に勝利を収めれば、ソビエト連邦が崩壊し、共産主義ボリシェビキも壊滅させられるのであって、この将来構想を前提に、フィンランドの独立は、確固たる基盤を持つに至ると予言したのである。

たしかに、1941年夏の継続戦争勃発当時、アメリカの軍事指導者の多くもソ連に侵攻したドイツ軍の進撃速度、100万をこえる捕虜の獲得、ソ連軍の壊滅的損害に目を奪われ、ソ連の崩壊は間近であると予測していたのであるから、フィンランドが同様に継続戦争に勝利するまで、戦争を闘い続けることは、十分予測できたのである。楽観視していたフィンランドは、対ソ連戦争勝利の後に、イギリス、その後参戦したアメリカと講和すればよいと考えており,ソ連との戦争途中の休戦や講和は問題外であるとし、強気の姿勢で外交に臨んでいたのである。

写真(右)1941年6月25日、継続戦争の勃発時、フィンランド、ソ連空軍機に備えスウェーデン製ボフォース(Bofors)40ミリ対空機関砲を操作するフィンランド国防軍兵士たち:ボフォース40ミリ対空砲は、イギリス、アメリカでも広く使用された。日本も戦争末期にライセンス生産に踏み切ったが、実用化できないままに終わった。
It-patteri. ””Tulta”” Tuliasemassa Boforsin 40 mm:n ilmatorjuntatykki.
Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-06-25 Sjöblom, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-78148用。
スウェーデンの代表的な兵器製造企業であるボフォースBofors)は、アルフレッド・ノーベルが鉄工所ボフォースを1894年に経営を引き継いでから火器・化学の開発部門を充実させ、世界的兵器メーカーに発展した。

第二次世界大戦前にボフォースBofors)が開発した37ミリ対戦車砲、40ミリ対空機関砲、76.2ミリ高射砲などは、大戦時でも優秀な火器として認められており、フィンランド軍もこれらを輸入して部隊配備している。このように、外国兵器を採用したフィンランド軍は、日本軍やイタリア軍のように国産兵器に固執して、量産性や性能の上で引けを取った軍隊よりも、優秀な兵器を選択することに成功した。

ボフォース(Bofors)40ミリ対空機関砲は、第二次大戦勃発前、ポーランド、ノルウェー、フィンランドなどはすぐに輸入を決め、アメリカ、イギリスは自国生産を開始するなど、1939年までに18か国が使用するほど人気があった。

優秀な兵器を自国で国産するのが困難な小国は、優秀な兵器の輸入に躊躇しない。また、国防を効果的に実行しようという指導が強い先進工業国も、優秀で廉価な兵器を輸入することを厭わない。

自国の技術に誇りとプライドが高すぎるドイツ、日本のような技術大国の国軍は、素晴らしい兵器発明が可能かもしれないが、効果的に兵器を整備することができない欠点が露呈している。

現在でも、日本は高額な国産軍用機を開発・生産したり、外国機を輸入せずに、少数割高なライセンス生産をしたりしているが、これは輸入するのに比較して数倍の経費をかけており、国家財政の無駄遣いになっているようだ。世界第7位の国防予算を負担しても、兵器も人件費も高価なために、軍事力はそれほどでもないのである。

ボフォース40mm対空砲 ボフォース(Bofors)40mm機関砲の諸元 重量:1,981 kg (4,367 lb)
砲弾: 40x311mmR(1.57in)1,981kg
口径: 40mm L/60
砲架: 522 kg (1,151 lb)
仰角:-5°/+90°(55°/s)
旋回角: 360°
操作速度:50°/s
発射速度:毎分120発
銃口初速:881 m/s (2,890 ft/s)
最大射程:7,160 m (23,490 ft)

スウェーデン製ボフォース(Bofors)40ミリ対空機関砲(単装)は、砲の旋回(水平方向の回転)、銃身の上下(仰角・俯角の角度調整)、弾薬の装填(装弾クリップの装填)、照準(目視)、射撃管制指揮官の最低4名は必要である。さらに、4発装弾クリップを弾薬から運搬したり、中型の携帯用測距儀で目標との距離を計測したりと、補助要員も求められる。

⇒写真集Album:フィンランド軍の対空機関銃を見る。

写真(右)1943年6月30日、フィンランド南東部、イマトラ、ヴオクサ(Vuoksi)渓谷、フィンランド軍の対空陣地に展開するスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors)):十字砲架を折りたたんで、車輪を前後に1組ずつ取り付けると、牽引車で権威⒮ンして移動することができた。イマトラ(Imatra)は、ソ連のレニングラード北西200キロ、ヘルシンキ東方200キロ、フィンランドの軍事的要衝である。ヴオクサ(Vuoksi)川は、全長は156kmで短いか、カレリア地峡、ソ連のラドガ湖に流入する、カレリア地峡最大の河川である。
Vuoksenlaakso. Raskas ilmatorjuntapatteri (ItR 3) Imatralla.
Imatra 1943.06.30 .Niilo Helander
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-166217引用。


1931年式76ミリ対空高射砲(76 ItK/31 ss)の諸元
銃身長: 4.1 m
射撃重量:3,650 kg(射撃状態)
牽引重量: 4,820 kg(牽引状態)
操作要員:8名
弾薬: 76.2 × 558 mm
弾薬重量:6.6kg
仰角:-3°- 82°
旋回角 360°
発射速度: 10–20発/分
砲口初速: 815 m/s
最大射程: 9.3 km
製造期間 1932-1940年
製造数 3821門

⇒写真集Album:フィンランド軍の対空高射砲を見る。

フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は,戦争遂行にあたって、イギリス・アメリカとの対決には至らないように配慮していた。そこで、1941年7月4日のアメリカ独立記念日に,フィンランドの戦争目的について、次のように釈明している。
1) フィンランドは, ドイツを軍事同盟国としてではなく、共同交戦国として、ソ連と戦争をしている。
2) 1940 年の冬戦争の講和は、フィンランドの戦略的な立場を大幅に低下させ、独立を危機に陥れた。そこで、自国の防衛を全うするためには、カレリア地峡(Karelian Isthmus)の確保が必要である。ただし、ソ連のレニングラードの戦略的な立場を理解し、国境は1939年の冬戦争開戦時よりも東には進ませない。
3) ドイツの侵攻を受けたソ連の敗北は確実であり,ポリシェヴイズム・共産主義の完璧な粉砕は世界全体に利益をもたらす。


9.フィンランドのドイツ海軍水上対空砲台ガンシップ


写真(上)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、フィンランドで建造したドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー)
:88ミリ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)、20ミリ対空機関砲を搭載している。乾舷は低く外洋航行はできないが、内陸湖沼では十分に機動力を発揮できた。
Saksan ilmavoimien (Einsatzstab Fähre Ost) tykkilautta (Siebel-lautta) Lahdenpohjan edustalla pidetyssä paraatissa. Kyseisestä tapahtumasta löytyy Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka ajankohdaksi merkitty 13.8.1942. Vastaavia kuvia löytyy myös muiden kuvaajien kuvaamina mm. 11.8.1942 (ks. kuva 103772). Diaan merkittyi "Laatok
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-08-13 Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・JSdia173引用。


フィンランド軍の対空砲台式水上ガンシップ(Siebelフェリー)は、双胴の艀の上に8.8センチ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)、1937年式3.7センチ対空機関砲37 ItK / 37 RMB)、20ミリ四連装機関銃のような強力な対空火器を搭載した移動式対空砲台である。吃水の浅い艀で、外洋航行は期待できないで、ラトガ湖のような波のない湖では、強力な対空火力を武器にして、湖水上を移動する対空砲台として臨機応変に活躍できたようだ。少なくとも3隻がラトガ湖で使用されている。

⇒写真集Album:フィンランド海軍艦艇の対空火器を見る。


◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
◆2011年7月、『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(268頁,2100円)を青弓社より刊行しました。
【目次】 ドイツ・ワイマール共和国の誕生から第三帝国の崩壊まで/アドルフ・ヒトラーの第一次世界大戦/ドイツ革命とその反動/ドイツ・ワイマール共和国の混乱/共和国安定期から世界大恐慌へ/ナチ党ヒトラー独裁の始まり/ナチスの再軍備・対外膨張/第二次ヨーロッパ大戦の勃発/対ソビエト連邦ボリシェビキ戦争/ユダヤ人殲滅のための世界戦争/ヒトラー第三帝国の崩壊/ナチ・プロパガンダ神話の真実

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

2022年6月20日開設鳥飼行博研究室当サイトへのご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
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