鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
フィンランド軍の対空高射砲◇Anti-aircraft gun 2022
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◆フィンランド軍の高射砲;鳥飼行博研究室◇Anti-aircraft Guns
写真(上):1943年6月19日、対ソビエト連邦の継続戦争、フィンランド、フィンランド軍のコンクリート製半地下対空砲陣地に据え付けられたフランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲(75 ItK 97/14 PK (Puteaux))
:周囲をコンクリートで覆われた掩体壕に、ドイツ軍がフランスで鹵獲した高射砲を据え付けらている。75 ItK 97/14 PKは、1940年にドイツ軍がフランスで鹵獲した沿岸対空砲で、1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)よりも短砲身で、冬戦争、継続戦争の当時、すでに旧式化していた。
76 mm:n ilmatorjuntatykki Suursaaren turvana. Tiedot värikuvien selosteesta. Kalustona 75 ItK 97/14 PK (Puteaux). Ase on muunnettu 75 mm:n kenttätykistä vuodelta 1897.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-06-19 Walter Jokinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-16038引用。


写真(上):1943年6月30日,対ソビエト連邦の継続戦争、フィンランド、イマトラ、第3重対空砲台(ItR 3)のイギリス製ビッカース・アームストロング1931年式76mm重対空高射砲(Vickers Model 1931; 76 ItK/34)
:背後には、ウトクンプオイの銅工場(燻製パイプ)が見える。ビッカース1931年式76mm重対空高射砲は、フィンランドでは1934年に導入されたため76 ItK/34と命名された。弾薬は75 x 495mm R、弾薬重量6.5 kg、砲口初速750 m/s (2,500 ft/s)、有効射程5 km。
Vuoksenlaakso. Raskas ilmatorjuntapatteri (ItR 3) Imatralla. Tiedot värikuvien selosteesta. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 132242. Kalustona 76 mm:n englantilainen raskas ilmatorjuntakanuuna vuodelta 1934, 76 ItK/34 (Vickers-Armstrongs). Kuvattu Imatran Mellonmäeltä. Taustalla Outokumpu Oy:n kuparitehdas (savuava piippu). Date 30 June 1943 Author Niilo Helander
写真は FINNA.Fl sa-kuva-165980; File:Vickers 76 ItK 34 V Imatralla 1943.jpg引用。


写真(上)2010年3月、フィンランド、ヘルシンキ沖5キロ、スオメンリンナ島要塞、対空砲として設置されたフィンランド軍の3門のスウェーデン製ボフォース1927年式76ミリ対空高射砲(Bofors 76 mm M1927)
:スオメンリンナは、18世紀以来の要塞の残る世界遺産で
English: A pair of 75 mm 50 caliber model 1891 Canet naval guns and Bofors 76 mm model 1927 anti-aircraft gun on Pikku-Musta island in Suomenlinna. Suomi: Kaksi 75/50 Canet tykkiä ja Boforsin 76 ItK 27 BK ilmatorjuntatykki Pikku-Mustan saarella Suomenlinnassa. Date 13 March 2010  Author MKFI, derivative work by Ain92
写真は,Finnish Defence Forces, Category:Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun File:75 mm Canet pair and 76 Bofors AA cropped.JPG引用。

1.冬戦争(talvisota)におけるソ連機のフィンランド空爆

ヨシフ・スターリン 1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデルAimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をした。第二次世界大戦の勃発から1ヶ月後、1939年10月11日、ソ連指導者ヨシフ・スターリンの指示で、外務人民委員(外相)ヴャチェスラフ・モロトフは、フィンランドのユホ・クスティ・パーシキヴィを団長とする交渉団をモスクワに招き、次の要求を突き付けた。

1)カレリア地峡の対ソ連防衛戦の撤去
2)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
3)カレリア地峡のソ連国境の30km前進(割譲2200平方キロ)と東カレリア(フィンランド東国境に面したソ連領5000平方キロ)の交換

フィンランド軍総司令官マンネルヘイム元帥は、ソ連の要求を受諾するしかないと考え、フィンランド政府も、カレリア地峡のソ連国境10km前進、フィンランド湾の島々の譲渡は受け入れたが、ハンコ半島の租借は拒否した。こうして、交渉は決裂し、双方とも10月には、動員を準備し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急事態を認める共和国防衛法を布告した。


写真(右)1939年11月30日、冬戦争の勃発初日、ソ連空軍機の空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ市街地
;すでに第二次大戦は始まっていたが、都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していた。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードに対するフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自信があった。
raunioita Helsingin pommituksen jälkeen vaaka, mustavalkoinen
Aineistotyyppi Kuva Aiheen paikka Helsinki
Aiheen aika 30.11.1939 Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK19780731:222 Kuvaustiedot: 30.11.1939 Helsinki
写真はMuseot Finna HK19780731:222用。


ソ連=フィンランド戦争の終了直後の1940年3月29日、ソ連の外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ は、ソビエトで、次のように述べた。
G-2 輸送機 「昨年 [1939 年]の10-11月、ソビエト政府は,悪化する国際情勢に鑑み、我が国、特にレニングラードの安全を守るうえに絶対に必須かつ緊急と考えた提案を,フィンランド政府と討議した。この交渉は,フ ィンランド側代表の非友好的な態度ゆえに実を結ばず、事は戦場で決されることとなった。もしもフィンランドが外国からの影響に屈しなければ、もしもフィンランドが第三国の煽動にのらずに、ソ連に対する敵対的態度をとらなければ、ソ連とフィンランドの関には昨秋平和裡に了解が成り立ち,事は戦争を経ずして解決されたはずである。ソビエト致府が要求を最低限の要求をしたのに,外交的な手段による解決はできなかったのである」

「議論の余地なく、昨秋に直面したフィンランド側の敵対的政策は偶然のものではなかった。ソ連に敵対する勢力は,フィンランドが,わが国、特にレニングラードに対する作戦のために基地を整備し、ひとたび国際情勢がソ連に不利となるや否や,帝国主義的な反ソ勢力および フィンランドの反ソ連同調者の計画にしたがって、行動を起こすことのことになっていたのである。」モロトフは, ソ連=フィンランド戦争の意義は,ソ連赤軍が,フィンランド国内のソ連攻撃の炒めの作戦基地の存在を明らかにし、基地を破壊して,「第三国が過去数年間にわたって企ててきたた反ソ計画を粉砕したことである」とした。

写真(右)1939年11月30日、冬戦争の勃発日、空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ、ソビエト空軍の空襲を受けて破壊された工科大学のビル家屋と消防救助活動に当たる兵士:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Teknillisen korkeakoulun pommitus Fremling F. E., kuvaaja 1939
vaaka, mustavalkoinen Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 30.11.1939
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK10000:4027 Kuvaustiedot: 30.11.1939 .
写真は,Museot Finna HK10000:4027用。


1939年11月28日、ソ連はフィンランドと1932年に締結した不可侵条約を破棄し、2日後の11月30日、ソ連赤軍レニングラード方面軍司令官キリル・メレツコフKirill Meretskov)大将隷下の兵力23個師団45万名、火砲1800門、戦車2300輌、飛行機700機がフィンランドを攻撃した。これが、フィンランドの言う冬戦争の始まりであり、対するフィンランド国防軍は、当初12個師団18万名で、総動員によって30万名以上の兵士を確保たものの、火砲700門、戦車20輌、飛行機130機で劣勢であった。カヤンデル首相は親ソ的とされ、1939年12月1日、カヤンデル内閣は総辞職し、後継にリスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)首相が任命され、ソ連と対決することとなった。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の勃発直後、空爆によって破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキの市街地:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
pommitettu Abrahaminkadun ja Lönnrotinkadun kulmatalo vaaka, mustavalkoinen
Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 1.12.1939
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK19721231i:1.
写真は,Museot Finna HK19721231i:1用。


 ポリカルポフI-16タイプ10 第二次大戦は1939年9月に始まっていたが、ドイツがフランス・イギリスと対峙する西部戦線では、1940年5月までは都市爆撃Aerial bombing of cities)、民間人への空襲は行われていなかった。

1)民間人への無差爆撃indiscriminate bombing)はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)戦略爆撃Strategic bombing)は報復を招聘し自国都市も空爆され大損害を被る、
3)都市への絨毯爆撃carpet bombing)に多数の爆撃機を投入するより、造船所・飛行機工場・飛行場・レーダー施設など重要な軍事目標を精密爆撃precision bombingするほうが敵の抗戦力を効果的に低下させる、

このように空爆air raid)を考えた各国の政治的指導者は、都市への無差爆撃carpet bombing)を回避していたのである。

しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。首都を爆撃されたフィンランドは即座に降伏すると楽観視し、さらにレニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲に対しては、ソ連はポリカルポフI-15戦闘機など迎撃態勢を整えていたので、防ぐ自信があったのであろう。

冬戦争 冬戦争でフィンランドを攻撃したソ連軍レニングラード方面軍の主力は、カレリア地峡に展開する第7軍20万名、ラドガ湖北に第8軍13万名、フィンランド中東部に第9軍と北部に第14軍の併せて12万名を配備した。他方、フィンランド軍は、カレリア地峡に主力の12万名、ラドガ湖に4万名、中東部・北部に1万6000名の配置であったが、総動員によって、兵力は暫時補充されている。

つまり、ソ連の大軍相手に少数のフィンランド軍が前線し世界に感銘を与えたというう「冬戦争」は、攻撃側45万名対防衛側25万名の戦いとなったが、攻撃側は防衛側の2倍の兵力でしかなく、森林地帯、それも厳冬の雪の中の戦いで、気象条件・地形条件は、頑丈な半地下式陣地を幾重も整備した防衛側に有利であった。

また、フィンランド軍将兵祖国防衛の信念を抱き、地形を熟知していて士気が高かった。それと対照的に、攻撃側のソ連赤軍下級兵士の戦意は、小国の侵略的戦争では、全く振るわなかった。独ソ戦で見せたような愛国心溢れる戦いは、一部の共産主義イデオロギーを妄信する将校以外は、期待できなかった。ソ連軍は、バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)の時と同じく、無血の武力進駐で終わると錯覚していたようで、進攻作戦も補給計画も十分に検討されてはいなかったと考えられる。

第二次世界大戦の終了後の1948年、ソ連の公式見解は、次のように、ドイツの侵略的陰謀を強調するものである。

「ソ連=フィンランド戦争は,フィンランド政府が国際反動を援けて,国内の様々な反ソ的冒険の手段に利用させる政策をとった一例である。すなわち、第二次大戦の脅威とヒトラ一派の侵略を自前に控えていたソ連政府は,フィンランドをソ連攻撃の基地とする帝国主義者の計画に無関心ではいられなかった。そこで, ソ連政府は、1938 年春、フィンランドに ソ連の西北国境ならびにフィンランドの安全を保障する相互援助条約を提案したが拒絶され,次に1939年10-11月に,ソ連邦の安全保障, とくにレニングラードの安全保障の問題を具体的に検討することを提案した。
しかし、帝匡主義列強の反動派の干渉したため,協定は合意できなかった……戦争煽動者らは,直ちに,手段をつくしてフィンランドとソ連の協調を妨害し始め.フィンランド政府に頑迷な態度をとらせ、最終的にフィンランドをソ連との紛争に追い込んだ。」11月26日,カレリア地峡のマイニラ村で砲撃事件が勃発、フィンランド首相は、ソ連の撤兵要求を拒んで、兵力の増強を続け、危機的状況に陥ったソビエト政府は, レニングラード軍管区の部嫁に対して,ソ連=フィンランド国境とレニングラードの安全を保樟する手段をとるようにとの命令を,止むなく発したのである。」

マンネルヘイム空軍 ライシャラ(Räisälä)は、カレリア地峡のレニングラード北150キロに位置し、冬戦争ではフィンランドとソ連が争う戦場となった。現在、ロシア連邦領でメリニコヴォ(Мельниково)と呼ばれている。

フィンランドはソ連に、カレリア地峡Karjalankannas)の割譲や海軍のハンコ港租借を要求されたが、拒否したため、ソ連の攻撃を受けた。冬戦争敗北後、フィンランドは、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に復讐戦争を仕掛けて、レニングラード近郊まで占領地を拡張した。

第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡Karelian Isthmus)と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

写真(右)1940年1月13日、冬戦争の末期、フィンランド南、タンペレ(Tampere)の市街地、ソビエト空軍の空襲を受けて炎上した家屋:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Ilmapommituksen tuhoja Tampereella.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 3331用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、いきなりヘルシンキなど都市爆撃を敢行し、レニングラード方面から、フィンランド湾とフィンランドとロシアを結ぶラドガ湖に挟まれたカレリア地峡Karelian Isthmus)に軍を進めた。この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。

フィンランド軍 1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻を契機に、すでに第二次大戦は始まっていた。ドイツは、ポーランドに対しては、ワルシャワ空襲を含め都市爆撃を遂行したが、フランス・イギリスと対峙した西部戦線では、まだ都市爆撃、民間人への空襲を実施していなかった。これは、フランス・イギリスも同様で、ドイツの諸都市へのプロパガンダ・ビラの当かは行っても、空爆は実施していなかったのである。

ソ連は、独立していたバルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)に対して、ソ連軍の駐留要求を突きつけ認めさせた。そこで、フィンランドに対しても同様の要求を突き付けたが、拒否された。怒ったソ連指導者ヨシフ・スターリンは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連赤軍にフィンランドを攻撃させた。このソ連による侵略行為に抵抗してフィンランドは、愛国的な冬戦争(talvisota)を闘う決意をした。

第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、フィンランドに攻め入った。この「冬戦争」では、ソ連軍は、1917年のロシア革命までロシア帝国領だった小国フィンランドの都市に対して、即座に爆撃を実施した。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自信がスターリンにはあったのであろうか。フィンランド軍カール・マンネルヘイム総司令官は、世界各国の世論を味方につけることを優先して、ソ連のレニングラードへの報復空爆を実施する計画はなかったのであろう。

ソ連 スホーイ Su-2 軽爆撃機 フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になったが、ソビエト連邦は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に、レニングラードの安全保障のために、ソ連領としたいとフィンランドに申し出て、その代わりに北部コラ半島のソ連領を与える領土交換を提案した。

しかし、フィンランド人居住地であり、産業的にも重要だったカレリア地方のソ連割譲をフィンランドは拒否した。1949年、冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。

そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。


2.フランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲(75 ItK 97/14 PK)

写真(右)1942年秋、フィンランド、フィンランド軍の丸太で囲った半地下式対空砲陣地に設置されたフランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲(75 ItK 97/14 PK):縞模様の迷彩塗装を施しているが、短砲身で初速は低いために、射程も短く命中率もよくない。
1.Rask.R It.Ptri, Hanko, tykki 75 ItK/97/14PK. Kuvattu syksyllä 1942. Tykki on 75 mm:n ranskalainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1914, 75 ItK 97/14 P (Puteaux). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-49476引用。


フィンランド軍は、同盟国ドイツがフランスで鹵獲した高射砲を売却され、自国の防空に使用した。75 ItK 97/14 PKは、1940年にドイツ軍がフランスで鹵獲した沿岸対空砲で、1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)よりも短砲身で、冬戦争、継続戦争の当時、すでに旧式化していた。

写真(右)1942年秋、フィンランド、フィンランド軍対空砲陣地に据えるけられたフランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲(75 ItK 97/14 PK):周囲をコンクリートで覆われた掩体壕に、ドイツ軍がフランスで鹵獲した高射砲を据え付けらている。75 ItK 97/14 PKは、1940年にドイツ軍がフランスで鹵獲した沿岸対空砲で、1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)よりも短砲身で、冬戦争、継続戦争の当時、すでに旧式化していた。
1.Rask..R.It.Ptri, Hanko, tykki 75 ItK/97/14Pk. Kuvattu syksyllä 1942. Tykki on 75 mm:n ranskalainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1914, 75 ItK 97/14 P (Puteaux). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-49466引用。


写真(右)1943年6月19日、フィンランド、フィンランド軍コンクリート製半地下対空砲陣地に据え付けられたフランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲(75 ItK 97/14 PK (Puteaux)):周囲をコンクリートで覆われた掩体壕に、ドイツ軍がフランスで鹵獲した高射砲を据え付けらている。75 ItK 97/14 PKは、1940年にドイツ軍がフランスで鹵獲した沿岸対空砲で、1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)よりも短砲身で、冬戦争、継続戦争の当時、すでに旧式化していた。
76 mm:n ilmatorjunta tykki Suursaaren turvana. Tiedot värikuvien selosteesta. Kalustona 75 ItK 97/14 PK (Puteaux). Ase on muunnettu 75 mm:n kenttätykistä vuodelta 1897.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-06-19 Walter Jokinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-16028引用。


写真(右)1943年6月19日、フィンランド、フィンランド軍の丸太で組んだ掩体壕式の対空砲陣地に据え付けられたフランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲(75 ItK 97/14 PK (Puteaux)):周囲には、射撃した後の弾薬の空薬莢が積まれている。
76 mm:n ilmatorjunta tykki Suursaaren turvana. Tiedot värikuvien selosteesta. Kalustona 75 ItK 97/14 PK (Puteaux). Ase on muunnettu 75 mm:n kenttätykistä vuodelta 1897. Kalustona
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1943-06-19 Walter Jokinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165801引用。


フランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲(75 ItK 97/14 PK (Puteaux))は、1940年にドイツ軍がフランスで鹵獲した沿岸対空砲で、1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)よりも短砲身で、冬戦争、継続戦争の当時、すでに旧式化していた。そこで、ドイツは無償で鹵獲したフランスの高射砲を、同盟国のフィンランドに安く売却し、フィンランドの対ソ連防衛のための戦力強化を望んだようだ。

写真(右)1943年6月19日、フィンランド、フィンランド軍コンクリート製半地下対空砲陣地に据え付けられたフランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲(75 ItK 97/14 PK (Puteaux):周囲をコンクリートで覆われた掩体壕に、ドイツ軍がフランスで鹵獲した高射砲を据え付けらている。75 ItK 97/14 PKは、1940年にドイツ軍がフランスで鹵獲した沿岸対空砲で、1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)よりも短砲身で、冬戦争、継続戦争の当時、すでに旧式化していた。
76 mm:n ilmatorjunta tykki Suursaaren turvana. Tiedot värikuvien selosteesta. Kalustona 75 ItK 97/14 PK (Puteaux). Ase on muunnettu 75 mm:n kenttätykistä vuodelta 1897.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-06-19 Walter Jokinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165973引用。


写真(右)1943年6月19日、フィンランド、フィンランド軍コンクリート製半地下対空砲陣地に据え付けられたフランス製1914年式ピュトー75ミリ高射砲75 ItK 97/14 PK (Puteaux):周囲をコンクリートで覆われた掩体壕に、ドイツ軍がフランスで鹵獲した高射砲を据え付けらている。75 ItK 97/14 PKは、1940年にドイツ軍がフランスで鹵獲した沿岸対空砲で、1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)よりも短砲身で、冬戦争、継続戦争の当時、すでに旧式化していた。
76 mm:n ilmatorjuntatykki Suursaaren turvana. Tiedot värikuvien selosteesta. Kalustona 75 ItK 97/14 PK (Puteaux). Ase on muunnettu 75 mm:n kenttä tykistä vuodelta 1897. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1943-06-19 Walter Jokinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166444引用。



3.スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27(Bofors))

写真(右)1941年7月1日、フィンランド、フィンランド軍のスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27(Bofors)):継続戦争が勃発してすぐに、政府高官が対空陣地を訪問した。
It-patteri. Kuvassa vasemmalla 76 mm:n ruotsalainen raskas ilmatorjunta kanuuna (76 ItK/27 Bofors). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1941-07-01 Sjöblom, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-73842引用。



写真(上)1941年9月5日、フィンランド、フィンランド軍の使用したスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))と野戦起動用の砲架車輪
:ボフォース76.2ミリ高射砲は、ドイツの8.8センチ高射砲と似た形状であり、両者の開発のつながりが窺われる。ベルサイユ条約で新型兵器の開発を禁じられたドイツは、ひそかにスウェーデンやスイスで新型火砲など兵器開発を行った。1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけたフィンランドは、レニングラード近郊まで侵攻した。
Porlammin motista sotasaaliiksi saatu ilmatorjunta tykki. Heikki Roivaisen nimellä löytyy värikuvaseloste ”Värivalokuvia Sommeen-Porlammin motista” 5.9.1941. Kuvaselosteen mukaan kuvia 63 kappaletta, tämä todennäköisesti yksi niistä. Kyseessä 76 mm:n neuvostoliittolainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1931 (76 ItK 31 ss)..
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1941-09-05 Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166360引用。

写真(右)1942年春、フィンランド、ヘルシンキ近郊、フィンランド軍第103対空部隊の対空陣地に展開するスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))
103. Rask.It.Ptri, Helsinki, Pukinmäki, tykki 76 Itk/29B. Kuvattu keväällä 1942. Kuvassa 76 mm:n ruotsalainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1927, 76 ItK/27 (Bofors).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-49474引用。


日本陸軍は、日中戦争中に中華民国軍からで鹵獲したボフォース75mm高射砲を原型にライセンスを無視して、同型の高射砲を1943年(昭和18年)に試作し、1944年(紀元2004年)に四式七糎半高射砲として制式とした。生産は順調には進まず70門程度が生産できただけだったが、第二次大戦末期になって、戦前からあった高射砲を無断複製して新型砲として制式し、わずか70門の生産というのは、日本の工業技術力の力量の限界だった。

写真(右)1942年春、フィンランド、ヘルシンキ近郊、フィンランド軍第103対空部隊の対空陣地に展開するスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))
103. Rask.It.Ptri, Helsinki, Pukinmäki, tykki 76 Itk/29B. Kuvattu keväällä 1942. Kuvassa 76 mm:n ruotsalainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1927, 76 ItK/27 (Bofors).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-49477引用。


1929年式ボフォース75ミリ高射砲を原型とした日本新型高射砲四式七糎半高射砲は、日本の最新鋭戦車である、四式中戦車(チト)、五式中戦車(チリ)、試製七糎半対戦車自走砲(ナト)の主砲として搭載されることを決まっていた。もちろん、これ等の戦車は量産前に日本敗戦となった。日本独自の火砲を設計開発するより、諸外国の火砲を輸入したり、ライセンス生産したりするほうが、大日本帝国の軍備強化には有効だったであろう。

写真(右)1942年春、フィンランド、ヘルシンキ近郊、フィンランド軍第103対空部隊の対空陣地に展開するスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))
103. Rask.It.Ptri, Helsinki, Pukinmäki, tykki 76 Itk/29B. Kuvattu keväällä 1942. Kuvassa 76 mm:n ruotsalainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1927, 76 ItK/27 (Bofors).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-49479引用。


ポリカルポフ U-2 優秀な兵器を自国で国産するのが困難な小国は、優秀な兵器の輸入に躊躇しない。また、国防を効果的に実行しようという指導が強い先進工業国も、優秀で廉価な兵器を輸入することを厭わない。

自国の技術に誇りとプライドが高すぎるドイツ、日本のような技術大国の国軍は、素晴らしい兵器発明が可能かもしれないが、効果的に兵器を整備することができない欠点が露呈している。

現在でも、日本は高額な国産軍用機を開発・生産したり、外国機を輸入せずに、少数割高なライセンス生産をしたりしているが、これは輸入するのに比較して数倍の経費をかけており、国家財政の無駄遣いになっているようだ。世界第7位の国防予算を負担しても、兵器も人件費も高価なために、軍事力はそれほどでもないのである。


写真(上)1942年春、フィンランド、ヘルシンキ近郊、フィンランド軍第103対空部隊の対空陣地に展開するスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))

103.Rask.It.Ptri, Helsinki, Pukinmäki, tykki 76 ItK/29B. Kuvattu keväällä 1942. Kuvassa 76 mm:n ruotsalainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1927, 76 ItK/27 (Bofors).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-49469引用。


写真(右)1942年秋、フィンランド、ヘルシンキ近郊、フィンランド軍第5対空部隊の対空陣地、スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))への弾薬装填作業
5.Rask.It.-ptri:sta. Lataaja työssään. Syksy 1942. Tuliasemassa 76 mm:n ruotsalainen raskas vuodelta 1927, 76 ItK/27 (Bofors)..
Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-33647引用。


1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲の口径変更型1929年式ボフォース75mm高射砲の弾薬は、75 x 604mm R、弾薬重量 6.4 kg (14 lb)、砲口初速 850 m/秒 (2,800 ft/秒)である。

写真(右)1942年秋、フィンランド、ヘルシンキ近郊、フィンランド軍第5対空部隊の対空陣地、スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))への弾薬装填作業:木製板で囲まれたはh地下式の対空陣地には、扉がついている。これは、弾薬庫にアクセスするためのドアである。高射砲の砲尾は磨き上げられているが、これは宣伝写真用に清掃をしたためであろう。
5.Rask.It.-ptri:sta. Lataaja työssään. Syksy 1942. Tuliasemassa 76 mm:n ruotsalainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1927, 76 ItK/27 (Bofors)..
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-33646引用。


写真(右)1942年11月23日、フィンランド、フィンランド軍の半地下式対空陣地、スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))の夜間射撃の閃光
Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun"
76,2 mm Bofors it-kanuuna ampuu.
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1942-11-23
Luutnantti Otso Pietinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-45922引用。


スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲は、沿岸砲、対艦射撃も可能な対空砲で、口径が異なる1929年式ボフォース75ミリ高射砲とはほぼ同一の構造をもっていると思われる。光景が異なるのは、スウェーデンが各国にこの新型高射砲を輸出することを前提としていた。つまり、各国はインチ方式で3インチの76.2mm口径あるいはメートル方式で75mm口径と火砲の口径を決めていたので、その両者に合わせて、76.2ミリ高射砲と75ミリ高射砲との2種の口径を持つほぼ同一の高射砲を生産したのである。

スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲あるいは1929年式ボフォース75ミリ高射砲は、後のボフォース40 mm高射機関砲ほど有名ではなく、性能も際立っているわけでもない。しかし、第二次世界大戦中に、アルゼンチン、中華民国、オランダ(東インドシナ植民地)、フィンランド、ドイツ、インド、ギリシャ、ハンガリー, ペルシャも採用した人気のあった高射砲である。

写真(右)1942年11月23日、フィンランド、フィンランド軍の半地下式対空陣地、スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))の夜間射撃の閃光
Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun"
76,2 mm Bofors it-kanuuna ampuu.
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1942-11-23
Luutnantti Otso Pietinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-45925引用。


ドイツの8.8センチ高射砲(8.8 cm Flak 18/36/37/41)はスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲の改良型1929年式ボフォース75ミリ高射砲を部分的に参考に開発されたもので、中国軍が購入した1929年式ボフォース75ミリ高射砲を鹵獲した日本軍もこのボフォース高射砲を使用した。

スウェーデンの銃火器メーカーのボフォース社は、ドイツのクルップ社の関連企業である。そこで、第一次世界大戦に敗北した第二帝政ドイツが、1919年6月28日のベルサイユ条約で軍備制限を受け、新兵器開発ができなくなったために、クルップがスウェーデンのボフォースと共同して、ひそかに兵器開発を進めるようになった。こうして、敗戦国ドイツの兵器メーカーのクルップが、ベルサイユ条約の制限を受けないスウェーデンで開発した新型高射砲が1929年式ボフォース60口径75ミリ高射砲である。

写真(右)1942年11月23日、フィンランド、フィンランド軍の半地下式対空陣地、スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))の夜間射撃の閃光
Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun"
76,2 mm Bofors it-kanuuna ampuu.
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1942-11-23
Luutnantti Otso Pietinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-45926引用。


クルップは1929年式ボフォース60口径75ミリ高射砲を原型に、口径を8.8センチに拡大した1918年式8.8センチ高射砲(8.8 cm Flak 18)を開発した。この1918年というのは、第一次世界大戦末期であり、まだベルサイユ条約の適用を受けていない戦時中に開発した高射砲という意味である。

クルップの1918年式8.8センチ高射砲(8.8 cm Flak 18)が1918年に開発されたというのは、ベルサイユ条約の兵器開発規制を受けないための方便・欺瞞であり、1918年式8.8センチ高射砲(8.8 cm Flak 18)は、実際には1928年に開発された新型高射砲だった。

クルップ8.8センチ高射砲は、その後の改良型も含め、1933–1945年の間に2万1,310門もの大量生産がなされ、大戦後半からは対戦車砲あるいは戦車砲としての需要が増えている。

写真(右)1942年秋、フィンランド、ヘルシンキ近郊、フィンランド軍第5対空部隊の対空陣地、スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))右側の砲身仰角調整作業:後方から対空要員がハンドルを回転させているのがわかる。
5.Rask.It.-ptri:sta. Sivusuuntaaja työssään. Syksy 1942. Tuliasemassa 76 mm:n ruotsalainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1927, 76 ItK/27 (Bofors). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Luutnantti Otto Pietinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-33648引用。


写真(右)1942年11月23日、フィンランド、フィンランド軍のスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))の夜間射撃の閃光:周囲はコンクリートで覆われた掩体壕に高射砲が据え付けられている。1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)は、冬戦争、継続戦争の当時、ドイツの8.8センチ高射砲と併存して使用された。
Ilmatorjuntapatteri ampuu. Kuva Helsingin Taivaskallion ilmatorjunta patterilta (Bofors-kanuunat), josta Otso Pietinen kuvannut myös mustavalkoisen kuvasarjan 23.11.1942, vrt. SA-kuvat 117279 - 117289. Diaan merkitty vuodeksi 1942. Värikuvien selosteista löytyy Otso Pietisen selo.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-11-23
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165925引用。


写真(右)1942年11月23日、フィンランド、フィンランド軍のスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))の夜間発射時の閃光:周囲はコンクリートで覆われた掩体壕に高射砲が据え付けられている。1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(Bofors 76 mm M1927 anti-aircraft gun)は、冬戦争、継続戦争の当時、ドイツの8.8センチ高射砲と併存して使用された。
Helsingin raskas ilmatorjunta patteri (5. RaskItPtri) ”Taivas” ampuu sulkutulta taivaskallion torjuntasektorilla 76 ItK/27 (Bofors) -ilmatorjunta kanuunoilla. .
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-11-23
写真は,Finnish Defence Forces, F innish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165925引用。


1939年の冬戦争で失ったカレリア地方を奪還するために、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻をチャンスととらえたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、7月には、ナチスと同盟して、ソ連を敵として、第二次ソ芬戦争を開始した。これは、事実上、フィンランドが枢軸同盟国の一員として、第二次世界大戦に参加することを意味した。

 カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥指揮下のフィンランド国防軍は、ナチスと組んで軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開した。

写真(右)1943年6月30日、フィンランド南東部、イマトラ、ヴオクサ(Vuoksi)渓谷、フィンランド軍の対空陣地に展開するスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors)):十字砲架を折りたたんで、車輪を前後に1組ずつ取り付けると、牽引車で牽引して移動することができた。イマトラ(Imatra)は、ソ連のレニングラード北西200キロ、ヘルシンキ東方200キロ、フィンランドの軍事的要衝である。ヴオクサ(Vuoksi)川は、全長は156kmで短いか、カレリア地峡、ソ連のラドガ湖に流入する、カレリア地峡最大の河川である。
Vuoksenlaakso. Raskas ilmatorjunta patteri (ItR 3) Imatralla.
Imatra 1943.06.30 .Niilo Helander
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-166217引用。


スウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))は、十字砲架を折りたたんで、車輪を前後に1組ずつ取り付けることで、トラクターや牽引車で牽引して移動することができた。

写真(右)1943年6月30日、フィンランド、標的飛行機射撃訓練中のフィンランド軍の半地下式対空陣地のスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))の後方で操作説明を受ける少年兵たち
Sotilaspojat puhdistamassa ilmatorjunta tykkiä. Ruotsalaista 76 mm:n raskasta Boforsin ilmatorjunta kanuunaa vuodelta 1927 (76 ItK/27 Bofors) puhdistetaan. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finna sa-kuva-144671引用。


高射砲に限らず、火砲の弾薬には,第二次大戦後には焼尽薬莢が採用されるようになり、射撃後は底部を残して燃え尽きる。しかし、大戦中は、射撃後は空薬きょうを排出し、砲側に残って射撃の支障にならないように後片付けをすることが必要になる。つまし、発射後、空薬莢を捨てるあるいは回収する作業が必要である。

写真(右)1943年6月30日、フィンランド、標的飛行機射撃訓練中のフィンランド軍の半地下式対空陣地のスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))と砲身内部を清掃する少年兵たち
Sotilaspojat puhdistamassa ilmatorjunta tykkiä. Ruotsalaista 76 mm:n raskasta Boforsin ilmatorjunta kanuunaa vuodelta 1927 (76 ItK/27 Bofors) puhdistetaan. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finna sa-kuva-144672引用。


高射砲に限らず、火砲の射撃によって、燃焼に伴う煤が砲腔内に付着し,この煤が付着したまま放置すれば、砲身の腐蝕、ライフル損傷、射撃性能の低下を引き起こす。そこで、連続発砲を行った後、あるいは訓練等の時間を利用して、砲腔内に付着した煤煙垢・煤を除去するクリーニング清掃作業が必要になる。

砲腔のクリーニングは,長い桿パイプの先に繊維・布を巻いて、拭取材をつけた「洗浄棹」を使う。つまり、洗浄桿を砲口あるいは砲尾から砲腔内に挿入して、数人掛かりで洗浄棹を移動、擦る「煙突掃除」のような砲腔内の清掃が不可欠である。

写真(右)1943年6月30日、フィンランド、標的飛行機射撃訓練中のフィンランド軍の半地下式対空陣地のスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))と少年兵たち
Sotilaspojat maalilento harjoituksissa. Kuvassa 76 mm:n raskas ruotsalainen ilmatorjunta kanuuna 76 ItK/27 (Bofors) vuodelta 1927. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finna sa-kuva-144673引用。


高射砲に限らず、火砲の射撃によって、燃焼に伴う煤が砲腔内に付着するだけではなく、高圧の爆発にさらされる砲身・砲腔は常に摩耗することは避けられない。摩耗を減らすには、タングステンのような希少金属を混入させて材質を強化することである。

写真(右)1943年6月30日、フィンランド、標的飛行機射撃訓練中のフィンランド軍の半地下式対空陣地のスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))と少年兵たち
Sotilaspojat maalilento harjoituksissa. Kuvassa 76 mm:n raskas ruotsalainen ilmatorjunta kanuuna 76 ItK/27 (Bofors) vuodelta 1927. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finna sa-kuva-144674引用。


砲身を強化しても、射撃を重ねるたびに砲身を摩耗させる。したがって、一定回数の射撃を重ねた砲身は、命中精度が低くなり、暴発のリスクも生まれるので、古い砲身を新たな砲身に交換・更新することが必要となる。砲身交換できない場合は、第二戦線あるいは訓練用の火砲として使用される。


4.スウェーデン製1930年式ボフォース75ミリ高射砲(75 ItK/30 (Bofors))

写真(右)1944年5月17日、フィンランド、フィンランド軍のコンクリート製防空砲台、スウェーデン製1930年式ボフォース75ミリ高射砲(75 ItK/30 (Bofors))
Aseita huolletaan vetämällä suojaväri niihin. Tykki on ruotsalainen 75 mm:n raskas kiinteä ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1930, 75 ItK/30 (Bofors).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-05-17 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-132144引用。


写真(右)1944年5月17日、フィンランド、フィンランド軍のコンクリート製防空砲台、スウェーデン製1930年式ボフォース75ミリ高射砲(75 ItK/30 (Bofors))
Sotilaspojille pidetään kalusto-oppituntia tykkiasemassa. Tykki on ruotsalainen 75 mm:n raskas kiinteä ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1930, 75 ItK/30 (Bofors).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-05-17 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-132147引用。


写真(右)1944年5月17日、フィンランド、フィンランド軍のコンクリート製防空砲台、スウェーデン製1930年式ボフォース75ミリ高射砲(75 ItK/30 (Bofors))
Sotilaspojille pidetään kalusto-oppituntia tykkiasemassa. Tykki on ruotsalainen 75 mm:n raskas kiinteä ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1930, 75 ItK/30 (Bofors).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-05-17 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, From the front line to the home front 1939-1945 sa-kuva-132147引用。



5.ソ連製1931年式76ミリ高射砲(M1931 76mm高射砲)

写真(右)1944年4月25日、フィンランド南部、ヘルシンキ防空(33. Rask.It.Ptri)、フィンランド軍の土嚢を積み上げた対空陣地に設置されたスウェーデン製1933年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/33ss(Bofors)):M1931 76.2ミリ高射砲は、ドイツの8.8センチ高射砲を開発したラインメタルの高射砲であり、形状は似ていて、両者の開発のつながりが窺われる。
33. Rask.It.Ptri, Helsinki, Kasapelto, tykki 76 Itk/31ss. Kuvattu keväällä 1942. Kyseessä on 76 mm:n neuvostoliittolainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1931 (76 ItK/31 ss).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-131953引用。


ソビエト連邦のM1931 76.2ミリ高射砲は、ドイツの8.8センチ高射砲と似た形状であり、両者を開発した同じラインメタル社のつながりが窺われる。ベルサイユ条約で新型兵器の開発を禁じられたドイツは、ひそかにスウェーデンやスイスあるいはソ連で新型火砲など兵器開発を行った。

写真(右)1944年4月25日、フィンランド南部、ヘルシンキ防空(33. Rask.It.Ptri)、フィンランド軍の土嚢を積み上げた対空陣地に設置されたソビエト連邦1931年式76ミリ対空高射砲(M1931 76; ItK/31 ss)
33. Rask.It.Ptri, Helsinki, Kasapelto, tykki 76 Itk/31ss. Kuvattu keväällä 1942. Kyseessä on 76 mm:n neuvostoliittolainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1931 (76 ItK/31 ss)...
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-49478引用。


ソビエト連邦1931年式76ミリ対空高射砲(M1931 76; ItK/31 ss)76-мм зенитная пушка образца 1931 года (3-К))は、元来、第一次世界大戦後に世界から隔離された敗戦国ドイツと共産主義ソ連との秘密軍事協約で、ソ連でドイツが兵器開発や兵士の訓練を行ったことから生まれたラインメタル者開発の高射砲である。原型は、ドイツ・ワイマール共和国時代の1930年に試作砲が完成し、1930年8月28日からソ連で試作砲の試験審査が行われた。結果は優秀だったため、ソ連労農赤軍は、このラインメタル試作高射砲を実用化することとし、1932年に制式した。

写真(右)1944年10月29日、フィンランド南部、ヘルシンキ防空(33. Rask.It.Ptri)、板と土嚢を積み上げた対空陣地に設置されたソビエト連邦1931年式76ミリ対空高射砲(M1931 76; ItK/31 ss)
33. Rask.It.Ptri, Helsinki, Kasapelto, tykki 76 Itk/31ss. Kuvattu keväällä 1942. Kyseessä on 76 mm:n neuvostoliittolainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1931 (76 ItK/31 ss)...
Photographer Kapteeni Leo Vepsäläinen Title 6.Rask.It.Ptri, Viikin pelto: Tykkiasema. Description 6.Rask.It.Ptri, Viikin pelto: Tykkiasema.; 6.Rask.It.Ptri, Viikin pelto: Tykkiasema. Date 29 October 1944 Collection Sotamuseo; SA-kuva-arkisto Accession number sa-kuva.sa-kuva-153881 Source Permission (Reusing this file) SA-kuvat ovat lisensoitu Nimeä 4.0 Kansainvälinen (CC BY 4.0) -lisenssillä ja ne ovat vapaasti käytettävissä ja julkaistavissa. Kuvat ovat nähtävissä myös www.sa-kuva.fi -palvelussa.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-153881引用。


1931年式76ミリ対空高射砲(76 ItK/31 ss)の諸元
銃身長: 4.1 m
射撃重量:3,650 kg(射撃状態)
牽引重量: 4,820 kg(牽引状態)
操作要員:8名
弾薬: 76.2 × 558 mm
弾薬重量:6.6kg
仰角:-3°- 82°
旋回角 360°
発射速度: 10–20発/分
砲口初速: 815 m/s
最大射程: 9.3 km
製造期間 1932-1940年
製造数 3821門


6.イタリア製ブレダ1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda))

写真(右)1942年1月19日、フィンランド、フィンラン軍第2対空部隊(2.Rask.It.Ptri)のイタリア製ブレダ1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda)):対空陣地の兵士は冬季白色迷彩塗装の外套を着ている。
Raskas ilmatorjunta patteri. Kuvassa italialainen raskas ilmator juntakanuuna 76 ItK 16/35 BrK (Breda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1942-01-19 A.Vallinheimo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-100411引用。


写真(右)1944年4月25日、フィンランド、フィンラン軍第31対空部隊(31.Rask.It.Ptri)のイタリア製ブレダ1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda)):イタリアの1934年式46口径75ミリ対空高射砲(Cannone da 75/46)を購入したフィンランド軍は、ブレダ1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda))と命名して使用した。
31.Rask.It.Ptri: Ilmatorjunta tykin (m/Breda) miehistö suoralla suuntauksella ammuttaessa.
Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-131942引用。


写真(右)1944年4月25日、フィンランド、フィンラン軍第31対空部隊(31.Rask.It.Ptri)のイタリア製ブレダ1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda)):イタリアの1934年式46口径75ミリ対空高射砲(Cannone da 75/46)を購入したフィンランド軍は、ブレダ1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda))と命名して使用した。
31.Rask.It.Ptri: Ilmator juntatykin (m/Breda) miehistö suoralla suuntauksella ammuttaessa.
Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-131952引用。


写真(右)1944年4月25日、フィンランド、フィンラン軍第2対空連隊(2.Rask.It.Ptri)のイタリア製ブレダ1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda))とパンなど食料を運搬する兵士たち:21名の兵士が見えるが、対空陣地の要員たちであろう。
2.Rask.It.Ptri Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja 2.Rask.It.Ptri. Raskaan ilmator junta tykistön kiinteätä suojavarmistusta rakennetaan ( tykki m/Breda).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-131993引用。


写真(右)1944年4月25日、フィンランド、フィンラン軍第2対空部隊(2.Er.It.Psto.)のイタリア製1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda)):イタリアの1934年式46口径75ミリ対空高射砲(Cannone da 75/46)を購入したフィンランド軍は、ブレダ1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda))と命名して使用した。
2.Er.It.Psto. Raskas ilmatorjuntatykki m/Breda. Kuvassa italialainen raskas modernisoitu ilmator junt akanuuna vuodelta 1935, 76 ItK/16-35 (Breda).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-04-25 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-131942引用。


1934年式46口径75ミリ対空高射砲(Cannone da 75/46 C.A. modello 34)の諸元
Modello 34: 226門
Modello 40: 45門
総重量(牽引時): 4,405 kg (9,711 lb)
総重量(戦闘時): 3,300 kg (7,300 lb)
砲身長Barrel length 3.45 m (11 ft 4 in) L/46
全幅Width 1.8 m (5 ft 11 in)
全高Height 3.45 m (11 ft 4 in)
弾薬: 75 x 580 mmR
弾薬重量:6.5 kg (14 lb 5 oz) (HE)
口径Caliber 75 mm (3.0 in)
牽引方法Carriage:外装二輪着脱式
仰角Elevation –2° to +90°
旋回核Traverse 360°
砲口初速Muzzle velocity 750 m/s (2,500 ft/s)
最大射程Maximum firing range 13,000 m (43,000 ft)
最大射高8,500 metres (27,900 ft)

写真(右)1944年4月25日、フィンランド、第31対空砲台(31.Rask.It.Ptri: )、フィンラン軍のイタリア製1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda)):イタリアの1934年式46口径75ミリ対空高射砲(Cannone da 75/46)を購入したフィンランド軍は、ブレダ1935年式76ミリ高射砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda))と命名して使用した。
31.Rask.It.Ptri: Tykin (m/Breda) miehistö tehtävissään. Kuvassa italialainen raskas modernisoitu ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1935, 76 ItK/16-35 (Breda).
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1944-04-25
Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-131938引用。

イタリアの兵器メーカーBREDA(ブレダ)とは、ブレダ機械製作所、すなわちブレダ・メッカニカ・ブレシャーナ(Breda Meccanica Bresciana)のことで、イタリア北部、ロンバルディア州ブレシア(Brescia)県に本社が位置する。

ロンバルディア州ブレシアはイタリア有数の工業都市で、機械、製鉄が興隆し、中世以来、金属加工による武器製造が有名だったため、近代以降も兵器製造の拠点となっている。

イタリアの兵器メーカーBREDA(ブレダ)、すなわちブレダ・メッカニカ・ブレシャーナ(Breda Meccanica Bresciana)は、エルネスト・ブレダ(Ernesto Breda)が1886年にミラノに創設したメーカーで、当初は蒸気機関車や鉄道関連機械を製造していた。その後、イタリア北部ブレシアに兵器工場を設け、第一次世界大戦から第二次世界大戦までは、イタリア軍の火器から飛行機まで製造したイタリア最大級の兵器メーカーとなった。イタリア陸軍の制式銃であるブレダM30軽機関銃、ブレダM37重機関銃から、ブレダBa65軽爆撃機、ブレダBa88双発急降下爆撃機などを量産している。

⇒写真集Album:ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(76 ItK 16/35 BrK (Breda))を見る。


7.チェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)

写真(右)1941年7月1日、フィンランド、フィンランド軍のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)
It-tykistöä. Tuliasemassa 75 mm:n tshekko slovakialainen raskas ilmatorjunta kanuuna (75 ItK/37 Skoda).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1941-07-01 Sjöblom, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-73824引用。


チェコスロバキア(Czechoslovakia)の1937年式シュコダ75ミリ高射砲 は、最新鋭の高射砲だったが、ドイツが1939年3月にチェコスロバキア全土を併合したために、ドイツ国防軍(Wehrmacht)に使用されることになった。つまり、ドイツ軍は、この高射砲を 7.5 cm Flak M 37(t) と命名し、単にFlak Skodaとも呼んだ。

写真(右)1941年7月1日、フィ ンランド、フィンランド軍のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda):仰角を挙げて対空射撃姿勢をとっている。
It-tykistöä. Tuliasemassa 75 mm:n tshekko slovakialainen raskas ilmatorjunta kanuuna(75 ItK/37 Skoda).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1941-07-01 Sjöblom, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-73825引用。


ドイツ軍は、この高射砲を二級兵器とみなし、同盟国イタリアに売却し、イタリア軍は 49口径75ミリ高射砲(Cannone da 75/49)あるは50口径75ミリ高射砲と呼称した。しかし、イタリアは1943年9月に降伏した。

写真(右)1941年6月29日、継続戦争勃発直後、フィンランド、フィンランド軍のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda):メディアのインタビューを受ける。
M. Jukola haastattelee It-tykin miehistöä. Tykkinä 75 mm:n raskas tshekko slovakialainen ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937 (75 ItK 37, Skoda)..
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1941-06-29 Nikulainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-86746引用。


1939年3月にチェコスロバキア全土を併合したドイツは、チェコスロバキアの1937年式シュコダ75ミリ高射砲20門をフィンランドに1940年11月に売却した。フィンランドは、シュコダ75ミリ高射砲を75 ItK/37 Skodaと命名して部隊配備した。

写真(右)1941年6月29日、継続戦争勃発直後、フィンランド、フィンランド軍のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)
M. Jukola haastattelee It-tykin miehistöä. Tykkinä 75 mm:n raskas tshekko slovakialainen ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937 (75 ItK 37, Skoda)..
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1941-06-29 Nikulainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-86748引用。


チェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)は、半自動砲で、射撃直後に空薬莢は自動的に排出される。しかし、次弾は、人力で装填しなければならない。油圧反動復座システムと砲口制御装置(マズルブレーキ)を装備している。

写真(右)1941年7月1日、フィンランド、フィンランド軍のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)
It-tykistöä. Tuliasemassa 75 mm:n tshekko slovakialainen raskas ilmatorjunta kanuuna (75 ItK/37 Skoda).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1941-07-01 Sjöblom, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-73826引用。


写真(右)1941年7月10日、フィンランド、フィンランド軍のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)
Raskas it-tykki. Tuliasemassa tsekkoslovakialainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937 (75 ItK/37 Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1941-07-10 V. Koivumäki, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-83558引用。


写真(右)1941年7月20日、フィンランド、フィンランド軍のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)
It-tykistöä. Tuliasemassa 75 mm:n tshekko slovakialainen raskas ilmatorjunta kanuuna (75 ItK/37 Skoda).
Tykit toiminnassa. Kuvassa 75 mm:n tshekko slovakialainen Skodan raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937 (75 ItK 37).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot 1941-07-20 L. Johnsson, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-85589引用。


1937年式75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)の諸元

総重量Mass 2,800 kg
砲身長Barrel length 3.65 m (10 ft) L/48.7
弾薬Shell 75 x 656mm R
弾薬重量Shell weight 6.5 kilograms (14 lb) (HE)
口径Caliber 75 m (3.0 in)
仰角Elevation 0° to +85°
旋回角Traverse 360°
発射速度Rate of fire 10–15 rpm
砲口初速Muzzle velocity 750–775 m/秒 (2,460–2,540 ft/s)
有効射程Effective firing range 4,000–6,000 m (13,000–20,000 ft)
最大射程Maximum firing range 9,200 metres (30,200 ft)
充填火薬Filling weight 640 g (23 oz)

写真(右)1943年4月30日、継続戦争時、フィンランド、フィンランド軍のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)に弾薬を装填する砲手:右側にある束は、土嚢袋であろうか。
Ensimmäinen ammus menee putkeen. Kuvassa 75 mm:n tsekko slovakialainen raskas ilmatorjunta kanuuna (75 ItK 37 Skoda) vuodelta 1937.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1943-04-30 Sot.virk. Pärttyli Virkki, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-133485引用。


写真(右)1944年3月5日、継続戦争勃発直後、フィンランド、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)
108. Rask. H.Ptri tuliasemassa Herttoniemen kasapadolla: Miehistö tehtäviään suorittamassa tulitoiminnan aikana. Lähikuvia. Tuliasemassa tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-119573引用。


写真(右)1943年4月30日、継続戦争、フィンランド、フィンランド軍のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda):高射砲を旋回、仰角をとろうとする8人の対空要員たち。
Ensimmäinen ammus menee putkeen. Kuvassa 75 mm:n tsekkoslovakialainen raskas ilmatorjunta kanuuna (75 ItK 37 Skoda) vuodelta 1937. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1943-04-30 Sot.virk. Pärttyli Virkki, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-133484"引用。


写真(右)1944年3月5日、継続戦争末期、フィンランド、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda):弾薬を装填する対空要員たち。
108. Rask. H.Ptri tuliasemassa Herttoniemen kasapadolla: Miehistö tehtäviään suorittamassa tulitoiminnan aikana. Lähikuvia. Tuliasemassa tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-119569"引用。


写真(右)1944年3月5日、継続戦争末期、フィンランド、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda):高射砲を旋回、仰角をとろうとする対空要員たち。
108. Rask. H.Ptri tuliasemassa Herttoniemen kasapadolla: Miehistö tehtäviään suorittamassa tulitoiminnan aikana. Lähikuvia. Tuliasemassa tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-119570"引用。


写真(右)1944年3月5日、継続戦争末期、フィンランド、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)
108. Rask. H.Ptri tuliasemassa Herttoniemen kasapadolla: Miehistö tehtäviään suorittamassa tulitoiminnan aikana. Lähikuvia. Tuliasemassa tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-119571"引用。


写真(右)1944年3月5日、継続戦争末期、フィンランド、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda):高射砲を旋回、仰角をとろうとする8人の対空要員たち。周囲の木箱は、弾薬ケースであろう。
108. Rask. H.Ptri tuliasemassa Herttoniemen kasapadolla: Miehistö tehtäviään suorittamassa tulitoiminnan aikana. Lähikuvia. Tuliasemassa tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-119572"引用。


写真(右)1944年3月5日、継続戦争末期、フィンランド、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda):高射砲を旋回、仰角をとろうとする8人の対空要員たち。
108. Rask. H.Ptri tuliasemassa Herttoniemen kasapadolla: Miehistö tehtäviään suorittamassa tulitoiminnan aikana. Lähikuvia. Tuliasemassa tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-119573"引用。


写真(右)1944年3月5日、継続戦争勃発直後、フィンランド、ヘルシンキ、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)正面:夜間のイルミネーションに浮かび上がる対空高射砲部隊の演出写真。
Helsingin ilmatorjuntaa, Ilmatorjuntarykmentti 1 (It.R.1). 108.Rask.It.Ptri: Ilmatorjunta patteri yöllä. Tykki on tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-23 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-122535引用。


写真(右)1944年3月5日、継続戦争勃発直後、フィンランド、ヘルシンキ、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)正面:夜間のイルミネーションに浮かび上がる対空高射砲部隊の演出写真。
Helsingin ilmatorjuntaa, Ilmatorjunta rykmentti 1 (It.R.1). 108.Rask.It.Ptri: Ilmatorjunta patteri yöllä. Tykki on tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-23 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-122536引用。



写真(上)1944年3月5日、フィンランド、ヘルトニエミ・ダム、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)
:雪原の中なので、白色迷彩は施されている。周囲には弾薬箱が木製覆いに保管されている。
108. Rask. H.Ptri tuliasemassa Herttoniemen kasapadolla: Tykki tulivalmiina (75 Itk35/ Skoda). Alkuperäisestä kuvatekstistä poiketen kyseessä on tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-119567引用。


写真(右)1944年3月5日、フィンランド、ヘルトニエミ・ダム、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda):雪原の中なので、白色迷彩は施されている。周囲には弾薬箱が木製覆いに保管されている。
108. Rask. H.Ptri tuliasemassa Herttoniemen kasapadolla: Tykki tulivalmiina (75 Itk35/ Skoda). Alkuperäisestä kuvatekstistä poiketen kyseessä on tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda).
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-119568引用。


写真(右)1944年3月23日、フィンランド、ヘルシンキ、フィンランド軍第108対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda)の夜間訓練:砲身には迷彩塗装が施されている。
Helsingin ilmatorjuntaa, Ilmatorjunta rykmentti 1 (It.R.1). 108.Rask.It.Ptri: tykin miehistö tehtävissään torjunnan aikana yöllä. Tykki on tsekko slovakialainen 75 mm:n raskas ilmatorjuntakanuuna vuodelta 1937, 75 ItK/37 (Skoda). VÄHEMMÄN Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-03-23 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-122534引用。


写真(右)1944年10月21日、継続戦争の敗北後、フィンランド、ヘルトニエミ・ダム、フィンランド軍第101対空部隊のチェコスロバキア製1937年式シュコダ75ミリ高射砲 (75 ItK/37 Skoda):残雪を意識した白色斑迷彩が施されている。フィンランドが、継続戦争の同盟国だったドイツとのラップランド戦争を始めた時期。
101.Rask.It.Ptri, Riihimäki, kalustokuva, Skoda. Tuliasemassa on tsekko slovakialainen raskas ilmatorjunta kanuuna vuodelta 1937, 75 Itk 37 (Skoda). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-10-21 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-1539077引用。



8.ソ連製85ミリ高射砲

写真(右) 1939年11月ー1940年3月、冬戦争の時期、フィンランド、冬戦争中のフィンランド軍に参加したスウェーデンの義勇兵が対空85ミリ高射砲を操作する。:この高射砲は、ソ連軍からフィンランド軍が鹵獲したソ連製85ミリ高射砲のようだ。冬戦争で、孤立無援となり敗北したフィンランドは、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、ドイツの同盟国としてソ連に侵攻した。そして、フィンランドはソ連に奪われたカレリア地方を奪回した。
ruotsalaisia vapaaehtoisia ilmatorjunta tehtävissä talvisodan aikana vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 34 x 24 c Content Type Image Subject date 30.11.1939 - 13.3.1940 Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19680902:63 Measurements 10 x 17 cm Photo info: 30.11.1939 - 13.3.1940
写真は, Museot Finna HK19680902:63引用。


スウェーデンもノルウェーも、冬戦争で苦しんでいるフィンランドにたいして、中立を口実にして軍事援助しなかった。これは、大国ソ連との戦いを回避して国内を戦争に巻き込まないための平和政策だったが、民主主義国フィンランドを助けるために、スウェーデンから義勇兵が戦いに参加した。

冬戦争で、孤立無援となり敗北したフィンランドは、第二次世界大戦のとき、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、ドイツの同盟国としてソ連に侵攻した。そして、フィンランドはソ連に奪われたカレリア地方を奪回した。


9.「継続戦争」フィンランド空軍のフランス・オランダ・アメリカ・ドイツ機

写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )を被写体にプロパガンダの写真・動画の撮影をする宣伝要員たち;極北戦線では、天候の変化が早く、霧や雷雨も発生したために、監視員は、気温や湿度、降雨量の計測の役割もあった。悪天候のリスクを避けて飛行するためには、フィンランド空軍の隊員たちの熟練だけではなく、高空監視員たちの持ち寄った情報とその判断が重要だった。女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Lahdenpohja 1942.07.11.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia304引用。


ドイツは1940年夏の英国本土航空決戦Battle of Britain)でイギリスを打倒できないまま、バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツてき立場は明らかであり、レニングラードに近いフィンランド国境にフィンランド軍が集中していることも、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。実際、フィンランド領内のドイツ空軍機がソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を正中するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃である。しかし、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告した。

フィンランドは、「冬戦争」の敗北後、ソ連に対して領土復活のための復讐戦争を計画し、マンネルハイム元帥の下で、軍事力を強化した。特に、1940年に、ドイツ軍が、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、大陸を制覇すると、ドイツとソ連の対立が予期される状況になった。そこで、フィンランドは、ナチス・ドイツに接近し、ドイツとの同盟の元にソ連軍に対峙する姿勢を見せた。フィンランド軍は、10個師団以上を編成し、国民義勇軍として、女子や学徒も動員することで、総兵力50万人となった。

写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru ):極北戦線では、天候の変化が早く、霧や雷雨も発生したために、監視員は航空機だけではなく、天候の観察にも注意を払った。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Lahdenpohja 1942.07.11.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia372引用。


フィンランドは、冬戦争で失った領土を奪回するために、愛国的戦争と見なして1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を開始した。この継続戦争Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許さなかった。「継続戦争」と称しているのは、フィンランドのみであり、これは第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いである。フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。

フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーヤーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これになじんだ人々を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に協力している。

写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )を被写体にプロパガンダの写真・動画の撮影をする宣伝要員:女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Lahdenpohja 1942.07.11.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia304引用。


フィンランドは、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を始め、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、8月中にヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、奪回した。


写真(右)1941年9月27日、フィンランド南東、カレリア地峡、未舗装のルンクラ基地、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機を押して移動する地上勤務整備員たち
;操縦席の風防には、眼鏡式照準器ではなく、金属製の環状照準器が付けられている。
BW lähdössä Lunkulan kentällä. Konetyyppi Morane-Saulnier.
Organisation Military Museum
Photo info: 1941-09-17 L. Johnsson, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・.sa-kuva-52738引用。


モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機の諸元
全長:8.15m、全幅:10.71m
全高:2.84m
主翼面積:16.0平方メートル
空虚重量:1,893kg
全備重量:2,720kg
発動機:イスパノ・スイザ 12Y31V12気筒液冷エンジン(860hp)
最高速力:486km/h、巡航速力:400km/h(5,000m)
航続距離:800km
上昇限度:9,500m
上昇率:5,000mまで6分
兵装:20ミリHS.404機関砲1門、7.5ミリMAC 1934機関銃2丁

1940年6月のフランス降伏で,ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、元帥より上位の国家元帥に昇進。1940年8月以降の英国本土航空決戦は失敗に終わったが,1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では東部戦線に兵力を集中させ,奇襲に成功,大戦果を挙げた。1941年6月21日,バルバロッサ作戦開始の前日のドイツ軍東部戦線配備兵力
兵員300万人,戦車3580両,火砲7184門,車両60万台,ウマ75万頭。航空機1830機.
この時は、ドイツ空軍が奇襲攻撃によってソ連空軍機を地上で多数破壊したために、制空権下のユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機は大きな活躍をすることができた。

1941年6月21日、バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)戦で攻撃を受けたソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。
ソ連軍は,北方には30個師団,8個機甲旅団,中部に45個師団,14個機甲旅団,南部に64個師団,14個機甲旅団を配備

ソ連空軍は白ロシア(ベラルーシ)に6000機を配置。

1939年にソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、1940年にレニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。進撃は順調に進み、フィンランド独立以来フィンランド領となったことのなかった東カレリアやオネガ湖周辺にまで領土を拡大した。こうなると、失地回復のための継続戦争とは言えないが、フィンランドは、攻撃的なソビエト連邦から国土を防衛するためには、防衛戦の前進が必要であると主張した。

雪原の飛行場は、巨大なローラーをトラクターで引いて転圧しているので、強度もあって滑走路として使用しやすかった。舗装滑走路で完全な除雪作業をするには、膨大な労力、エネルギーが必要になる上に、敵ソ連軍からも発見されやすくなるから、雪を圧延した滑走路は、理にかなった運用だった。

1941年6月26日に始まった第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)では、ドイツ軍によってソ連軍が緒戦で大打撃を受けており、フィンランド方面に配備できるソ連軍は制限され、予備軍を充当するにも、レニングラード防衛が精いっぱいであり、ソ連軍はフィンランドに対する攻勢を仕掛けることができなかった。

フィンランドが民主国家であり、ナチス・ドイツと同じ卍(カギ十字)を採用していたことに反感を抱く人々は、両国のカギ十字を関連性がないと強弁しているが、これは完全な誤解で、反革命のルーツは完全に共通している。そのため、フィンランドが、ソ連との継続戦争に敗れ、ソ連と講和した後の1944年10月以降、この青色の「ハカリスティ」(Hakaristi)の国籍マークは廃止されている。これをみても、青色の「ハカリスティ」(Hakaristi)は、自由・独立を象徴しても、それはボリシャビキ、共産主義に反対する意味においてであることが理解できる。

ドイツ軍はモスクワに次ぐソ連第2大都市レニングラードを900日近く包囲し、空襲、砲撃により破壊され、包囲された人々からは死傷者100万名がでたが、レニングラードは陥落しなかった。独ソ戦の緒戦で、ソ連軍は大敗北を続けたが、その士気は衰えなかった理由は、ソビエト人の意識や大ロシア意識といったアイデンティティー、共産党・スターリンによる鉄の規律、ソ連軍兵器の優秀性、極東配備のソ連軍の西方派遣も指摘できるが、レニングラードが包囲されても抵抗し続けたことは、ソ連の人々を勇気づけ、モスクワ陥落もあり得ないとの地震を付けさせることになった。1945年、スターリンは、レニングラードに英雄都市の称号を与えた。

フィンランドは、ソ連との戦争に備えて、アメリカ海軍の制式F2A艦上戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名した。F2A戦闘機はイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されている。

1935年アメリカ陸軍航空隊の戦闘機競争試作において、名門カーチス社は、1935年5月15日、ライトXR-1760試作空冷エンジン(900馬力)搭載の試作機モデル75を初飛行させた。その後、モデル75の発動機を後に有名となるライトXR-1820空冷星形エンジン「サイクロン」に換装、モデル75Bを開発した。しかし、セバスキーSEV-7が競争試作に勝ち、P-35戦闘機として制式されてしまう1939年11月にソ連によるフィンランド侵攻で、冬戦争が勃発したが、最前線に数百機を投入できたソ連空軍に対して、フィンランド空軍は、試作から開発した国産機は配備されておらず、全て外国からの輸入機であり、多様な機体を少数ずつ配備するしかなかった。この冬戦争初頭の主力戦闘機が、40機配備されていたオランダ製フォッカーD21戦闘機である。

写真(右)1940年6月24日、フィンランド、フィンランド空軍第24飛行隊第2中隊所属のブリュスター(Brewster) 239戦闘機が飛行場脇の森林に隠匿されている。;ブリュスター(Brewster) 239戦闘機は、アメリカのブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)のフィンランド名である。ブリュスターF2Aバッファローの引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機は、実用化されず、引込み式脚の原型が、フィンランドの極北戦線で実戦使用された。フィンランド軍の、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)、白丸に青のカギ十字が国籍標識として描かれている。
Ilmasuojassa olevia koneita vartioidaan. Kyseessä 2./LeLv 24:n Brewster (BW-352) hävittäjä Selänpään kentällä.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1941-06-24 Kivi, Kauko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-78446引用。


アメリカ海軍は、それまでの複葉、固定脚、開放式風防の艦上戦闘機を近代化するために、1936年に単葉機、折畳み式主翼、引込み脚、密閉式風防の仕様で競争試作の要求を出した。これに対して、老舗メーカーのグラマン、セバスキーとともに新興のブリュスターがB-139(Brewster model 139)を提示し、最も優れた性能を発揮した。しかし、ブリュスターにおける新型艦上戦闘機の生産は遅れたため、グラマンの新型機F4Fワイルドキャットが制式となり、アメリカ海軍の主力艦上戦闘機となった。それでも、アメリカ軍の制式戦闘機として、F2Aはイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されて制式となった上に、第二次大戦の勃発を恐れるベルギー、オランダでもF2Aを陸上戦闘機として購入した。また、フィンランドも、ソ連との戦争に備えて、F2A戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名して部隊配備した。

写真(右)1941-1943年頃、フィンランド、雪の積もった飛行場で250キロ爆弾を準備する毛皮の帽子を被った地上勤務員とドイツ空軍第1訓練(突撃)航空団(SG1)ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機B-2型(登録コード:L1+KV ):第1訓練航空団(LG 1)は、名称こそ訓練航空団だが、実際は実戦部隊で、第1突撃航空団(SG1)呼称された。
Pohjoisella rintamalla toimivat stukat lähdössä pommittamaan. Pommeja kiinnitetään. Kuvassa Junkers Ju 87 B-2, tunnus L1+KV ja yksikkö IV(St.)/LG 1.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: ajoittamaton Uuno Laukka, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA引用。


ソ連軍は,北方には30個師団,8個機甲旅団,中部に45個師団,14個機甲旅団,南部に64個師団,14個機甲旅団を配備

ソ連空軍は白ロシア(ベラルーシ)に6000機を配置。

フィンランドに駐屯したドイツ空軍第一航空軍アルフレート・ケラー司令官隷下、第54戦闘航空団(JG54)「緑のハート」(グリュン・ヘルツ)のメッサ―シュミットBf 109戦闘機F型。ドイツ空軍機は、1941年6月の対ソ連戦からフィンランドにも駐屯したが、ドイツ空軍機は、フィンランド軍にも貸与され、第1訓練(突撃)航空団フィンランド軍所属のBf109戦闘機もあった。

ドイツのソ連侵攻バルバロッサ作戦では、1941年6月22日早朝に攻撃が始まったが、北方軍集団の目標は、レニングラード攻略だった。レニングラードは、ソ連海軍バルト艦隊の基地であり、フィンランド湾、バルト海にあったソ連海軍潜水艦は脅威だった。また、ナチ党の反共産主義のイデオロギーの上で、ボルシェビキの本拠地と見なされ、ヒトラーは当初より、レニングラードの徹底的壊滅を指示していた。北方軍集団司令官レープ元帥隷下、第16軍司令官ブッシュ将軍、第18軍司令官キュッヒラー将軍ともにナチ党イデオロギーに心酔していた軍人だった。

写真(右)1941-1943年頃、フィンランド、雪の積もった飛行場で主翼下面に50キロ爆弾を搭載中のドイツ空軍第1訓練(突撃)航空団(SG1)ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機B-2型(登録コード:L1+KV ):地上勤務員は、毛皮の付いたオーバーオールと帽子を被っている。雪の量の多くはないが、気温は氷点下をかなり下回っており、風もあれば屋外作業は困難を伴う。
Pohjoisella rintamalla toimivat stukat lähdössä pommittamaan. Pommeja kiinnitetään. Kuvassa Junkers Ju 87 B-2, tunnus L1+KV ja yksikkö IV(St.)/LG 1. Rungon alla on 250 kg:n pommi ja kummassakin siivessä on kaksi 50 kg:n pommia.Aineistotyyppi
Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: ajoittamaton Uuno Laukka, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA引用。



写真(右)1942年5月28日,フィンランド中西部・ソ連、カレリア地方、ケステニガ(キエスチンキ:Kiestinki)、カナナイネン(Kananainen:カナダ村)と称された水上機地に待機するフィンランド空軍所属のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機(登録コード:tunnus; JU-123;奥)に搬入するフィンランド国防軍兵士
:手前は K 43 fa水上機(登録コード:tunnus; JU-125)。
Potilaita kuljetetaan lentokoneilla, kuvattu Kananaisten kylästä. U. Laukka, valokuvaaja
Potilaita kuljetetaan lentokoneilla, kuvattu Kananaisten kylästä. Junkers K 43fa lentokoneita.
Aineistotyyppi Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-05-28 U. Laukka, valokuvaaja
写真は,The Finnish Defence Forces: Kuvan numero 101880引用。


第二次大戦時のフィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の誕生日、1942年6月4日は、ヒトラーが空路お祝いに駆けつけ、マンネルハイム元帥自身が出迎えをした。フィンランドは、ソ連に奪われたカレリア地峡を奪還すると称して、1941年6月26日、「継承戦争」をはじめ、ソ連を攻撃した。

フィンランド政府は、1941年に始めた継続戦争についてソ連との冬戦争の続きであり、二国間戦争であるとの詭弁を弄した。つまり、第二次大戦へ枢軸国(ドイツ)側としてイギリスに参戦したのではないとの形式論を主張したのである。しかし、イギリスはドイツ軍の兵力のほとんどを相手に地上戦を戦うソ連を軍事支援しており、ソ連に対する政略の上からも、フィンランドがイギリス、アメリカとは戦うつもりがないとの一方的な宣言を認めなかった。

写真(右)1942年9月4日,フィンランド、湖沼に不時着した迷彩塗装を施したハインケル(Heinkel)He 59双発水上救難機 :ヴィボルグ(Вы́борг:Vyborg)は、現在、ロシア連邦レニングラード州の都市でフィンランド語ではヴィープリ(Viipuri)、スウェーデン語ではヴィボリ(Viborg)の名で呼ばれていた。ドイツ語ではWiborg(ヴィボルク)と表記される。フィンランド湾に面し、カレリア地峡の北西端に位置し、レニングラードから北西130キロである。
Saksalainen lentokone Vuoksella pakkolaskun jälkeen; Kuvattuna Lankisten rannasta Lankinen Jalmari, kuvaaja 1942
Subject detail Kuvattuna Lankisten rannasta
Subject place Antrea, Viipurin lääni, Suomi
Subject date 1942 Organisation Lappeenranta museums
Collection Juha Lankisen kokoelma
Inventory ID LANKV31:12 Measurements 5 x 7 cm
写真は,Museot Finna、Lappeenranta museums M40:LANKV31:12引用。


ハインケル(Heinkel)He 59双発水上救難機は、複葉水上機で、西部戦線では低性能のために使途が制限されていたが、北極戦線では、ソ連空軍が非力だったためか、旧式機が投入されている。

写真(右)1941-1943年頃、ソビエト連邦と戦う継承戦争時、枢軸国フィンランドの装備したドイツ製ハインケル(Heinkel)HE 115 A水上偵察機(Fly nr 52);フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。
Lentokonetehdas. Lentokone on Hienkel He 115 A (tunnus HE-115).. Photo info: undated Kartto - Peronkoski, valokuvaaja
写真は Finna.fl : Identifier:sa-kuva-9800引用。


フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。

当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。

しかし、1944年、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を忌避するために唱えられた方便であろう。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ、東プロイセン、ラステンブルクに到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥をドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が出迎え握手する。マンネルハイムの乗機は、ドイツが派遣したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)。マンネルハイムは、この後、ラステンブルク総統大本営「狼の巣」でドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が統括する作戦会議に出席した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aiheet.
写真はSotamuseo ・sa-kuva-13185引用。


マンネルハイム元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。

このような対ソビエト戦争の戦意高揚を無視して、マンネルハイム元帥は、ヒトラーとの共闘を臨んでいなかった、ヒトラーによる誕生日訪問を迷惑に思っていたなどと邪推するのは、見当違いであろう。1917年のロシア革命後、ボリシェビキ勢力が伸長し、赤軍を組織して共産主義革命を進めたとき、フィンランドでは、、ロシア共産党のボリシェビキに賛同したフィンランド共産主義者、共産党員、赤軍が政権奪取を図った。それに対して、反革命軍、白軍を組織して、革命派を武力鎮圧したのが、マンネルハイムである。この経緯を踏まえれば、マンネルハイムもヒトラーも、フィンランドもナチス・ドイツも、ともに反共産主義として、ソビエト連邦、ヨシフ・スターリンを警戒し、チャンスがあれば、彼らを無害化、中立化したかったに違いない。

1944年6月のノルマンディ侵攻で、西側連合軍地上軍が西ヨーロッパでドイツ軍を圧倒し、ドイツの敗戦が確実になる中、1944年8月8日にエドウィン・リンコミエス首相(日本の勲一等旭日大綬章佩用)は辞任、後任首相には、アンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)が就いた。そして、フィンランド大統領フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)も辞職し、8月4日にフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥が後継の大統領に就任した。

写真(右)1944年1月7日、フィンランド、フィンランド空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-2型
Saksalainen Messerschmitt 109 suojaa lauttaosastoa. MT-hävittäjiä lähtövalmiina. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja MT-hävittäjiä lähtövalmiina. Lentokone on Messerschmitt Bf 109 G-2. Aineistotyyppi:Valokuva Kuvaustiedot:1944-01-07 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Aiheet:1944-01-07
写真はフィンランド国防省,Museot Finna引用。


フィンランド、フィンランド空軍のメッサ―シュミットBf 109戦闘機G-2型:機首上面にはラインメタル社(Rheinmetall)7.92ミリ MG 17機関銃2丁、モーターカノンの20ミリMG 151機関砲1門を搭載しているのはF型と同じだが、エンジンをF型のダイムラーベンツDB601から改良型のDB605に換装、強化したために、F型と比較して、速力、加速性、上昇力など性能が向上した。しかし、その後のG型では、武装強化、防弾強化によって重量、抵抗増加があり、性能の向上は僅かに留まった。


写真(上)1944年4月1日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場、フィンランド空軍第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )ユンカースJu88爆撃機A-4型 (JK-267)
:機首のダイヤモンド型風防の右半分には、黒のカバーがかかっている。機首上面のコックピットの側方にも黒のカバーがある。遮光のためのカーテンのようだ。主翼下面にカギ十字(スワスチカ)が見えるが、これは白地に青のハカリスティで、1928年にフィンランド空軍が独立する以前から用いられていた。Ju88はエンジン故障ではなく、燃料の節約の為か、エンジンを始動せずに、トラクターで牽引するために、ワイヤーが結ばれている。まだ、ワイヤーを牽引車に結んでいないので、手前の雪の上に、よれたワイヤーは垂れたままになっている。
Traktori vetää JK-konetta kiitoradalle. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Traktori vetää JK-konetta kiitoradalle. Junkers Ju 88 A-4 Luonetjärven kentällä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-04-01 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja.
写真はMuseot Finne・sa-kuva-123243引用。


フィンランド空軍ユンカースJu88爆撃機A-4型(フィンランド軍登録コード:JK-267、製造番号WerkNr. 3888、ドイツ軍登録コード DJ+TH)は、1943年4月11日に、ドイツ軍からフィンランド軍に譲渡された。機体の塗装は、ドイツ軍仕様だったので、ドイツの白の鉄十字国籍マークも薄く残っている。1942年5月3日設立の第44飛行中隊(LeLv. 44)に配属されたが、1944年7月29日、離陸に際して事故で損傷した。第44飛行戦隊[中隊:Squadron](LeLv. 44)は、1944年2月14日に、第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )と名称を変更した。

フィンランド空軍第44爆撃中隊(LeLv. 44)のユンカースJu88爆撃機A-14型(フィンランド軍登録コードJK-256)は、元はA-4型でゴンドラに樹幹中を装備したA-14型に改修された。1943年4月30日にドイツ軍のJu88A4/A14爆撃機(ドイツ軍登録コードGL+QM)が、フィンランド軍に譲渡され、登録コード JK-256を与えられた。

1941年7月から1944年7月まで、フィンランドは、継承戦争Continuation War)と称して、1939年の冬戦争に敗北して失ったカレリア地方を奪還しようとソ連赤軍と戦っていた。フィンランドは、アメリカ、イギリスとは戦うつもりがなかったが、ドイツ軍を一手に支えているソ連赤軍をドイツと同盟して攻撃した以上、西側連合国もフィンランドの対ソ戦は戦うが、対米英は中立だという詭弁を受け入れなかった。結局、フィンランドは、対ソ戦勝利が不可能である以上、大きな損害を蒙らないうちに、継承戦争Continuation War)を打ち切って、ソ連と講和するしかなたった。

写真(右)1944年6月12日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場、簡易舗装した駐機場でフィンランド空軍ユンカースJu88爆撃機A-4型;エンジンを駆動し、プロペラを回転させ、夜間出撃するのか。1トン爆弾懸架ラック、500キロ爆弾懸架ラックが明瞭に写っている。
JK-kone lähtövalmiina. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja JK-kone löhtövalmiina. Pommituslentolaivue 44:n 3. lentueen Junkers Ju 88 A-4. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-06-12 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はMuseot Finne・sa-kuva-120805引用。


1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したカール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1944年9月19日、モスクワ休戦協定を結んで、事実上、ソ連に降伏した。講和条件は、カレリア地峡・ペッツァモの譲渡、戦争賠償金の支払い、フィンランド国内におけるソ連軍の基地使用、ドイツ軍のフィンランドからの排除(事実上の対ドイツ戦争)である。

このフィンランドの裏切り・転向を決断し、実行したのは1944年8月4日、フィンランド大統領に就任したフィンランド軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥である。1944年7月に、フィンランドはソ連と休戦交渉していたが、新大統領カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥は、それを進めて、1944年9月19日にモスクワ休戦協定を結んで講和した。これは、事実上、体面を保った降伏だったが、講和条件の一つが、ドイツ軍の排除であり、フィンランドは連合軍の一員として、ドイツと戦うことになった。このJu88爆撃機JK256は、1944年10月10日、ドイツ軍戦闘機によって撃墜された。

フィンランド軍にとっても、白丸に青の鍵十字を描いたカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、軍の国籍識別マークで、1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年の対ソ講和の時に廃止した。

⇒写真集Album:フィンランド軍のフィンランド軍の防空監視哨を見る。



10.フィンランド軍の対空機関銃

ポリカルポフI-153複葉機 ポリカルポフ I-153(Polikarpov И-153)複葉戦闘機は、原形の複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機の発動機を換装し出力を強化し、エンジンを高馬力化したうえで、固定脚を引き込み脚に変更し、複葉の支柱を少なくして、空気抵抗を減少させ、さらに翼の付け根部分も斬新な形に変更した性能向上型である。

フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。、スウェーデン、ノルウェー、デンマークといったスカンジナビア明邦から馳せ参じた義勇兵もあったが、フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に孤軍奮闘した。

Po-2複葉機 1939年11月30日、ソ連の侵略を阻止するために、カール・マンネルヘイムCarl Mannerheim)元帥の指揮下のフィンランド国防軍は、冬戦争(talvisota)を、しかし、独ソ不可侵条約を結んだドイツからも、スカンジナビア諸国からも、そして英仏からも大規模な軍事を援助を受けることができなかった。最終的には、ソ連赤軍に圧倒され、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、降伏し、ソ連の領土要求を受け入れた講和条約を結んだ。

1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁である。フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドのソ侵攻を許すことはできなかった。

ポリカルポフ I-16第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。

しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィンランド語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ロシア感情からか、小国・民主主義国フィンランドへの同情からか、フィンランド側の言う「継続戦争」の呼称を多用している。

フィンランドでは、継続戦争開始後、 IKL (愛国人民同盟)、AKS(カレリア学徒会〉といった右翼団体は, フィンランド軍が新たにソ連の東カレリアまで進軍し、そこに住む同族のフィン人を併合して、ボスニア湾から白海にわ たる「大フィンランド」(Suur-Suomi) を建設することを提唱した。


写真(右)1941年6月27日、継続戦争の勃発直後、フィンランド、対空監視哨の防空陣地、フィンランド軍が購入したイタリアの1935年式ブレダ(Breda)20mm軽対空砲(20mm Breda M/35)
:フィンランド軍ではイタリア製20ミリ機銃を20 ItK/35.と命名している。
20 mm ilmatorjuntatykki toimii. Tuliasemassa 20 mm:n italialainen ilmatorjuntatykki vuodelta 1935, 20 ItK 35 Br (Breda)..
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1942-03-01 Kapteeni E.J.Paavilainen, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-2999用。


フィンランド南東部、イマトラ(Imatra)、イマトラ(Imatra)市街から南東2キロ離れているイマトラ第12区テッパナラにある、イマトラ製鉄所(フィンランド最大級の金属工場)で、工場の煙突が並び、そこから煙がたなびいていた。対空砲火は、このような産業施設を防衛するために据え付けられた。

ドイツ軍の1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、フィンランド軍も20 ItK/30 BSWと命名して採用した。1930年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)は、ラインメタル社が開発したもので、生産期間1934–1939年以降に 8,000門が量産されている。

1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、第二次世界大戦後の1940年に改良型の1938年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 38)に更新され、二連装対空機関砲、四連装対空機関砲も含めて、1945年までに合計銃身ベースで4万門が大量生産された。

イリューシン IL-2 ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツてき立場は明らかであり、レニングラードに近いフィンランド国境にフィンランド軍が集中していることも、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。

実際、フィンランド領内のドイツ空軍機がソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を正中するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃である。しかし、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告した。

写真(右)1941-1944年、フィンランド、バルト海沿岸(?)、対空陣地、ドイツ製ラインメタル(Rheinmetall)1938年式2センチFlak 38対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 38 BSW)を操作するフィンランド国防軍兵士たち:「ドイツとともに勝利に向けて共闘する」ことを讃える対空機関砲の陣地の宣伝写真。
Ilmatorjuntaa. Kuvassa 20 mm:n saksalainen ilmatorjuntatykki vuodelta 1938 (20 ItK/38 BSW). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-30874引用。


ドイツ軍 20mm Flak38 対空機関砲 第二次世界大戦の勃発後、ドイツのラインメタル(Rheinmetall)は、1930年式2センチFlak 38対空機関砲を原型に、その改良型を1940年に開発し、1938年式20ミリ Flak38 対空機関砲(2 cm Flak 38)と命名した。1938年式20ミリ Flak38 対空機関砲は、銃架に装備され、手動による旋回、俯角20度から仰角90までの射撃を、俯仰手、旋回手、装填手、射撃手の最低4名で操作できる。

また、ドイツでは、二輪トレーラー(Sd.Ah.51)に搭載して、牽引車で運搬できるほか、半装軌装甲車Sd Kfz 251の後部上面に搭載した自走対空砲にも使用された。また、2cm Flak 38は、Flak 30同様、ドイツ陸・海・空軍、武装親衛隊でも採用され、ドイツ軍とともにあらゆる戦場で戦った後半に使用されている。

写真(右)1944年3月5日、フィンランド、ヘルシンキ、第一対空連隊(It.R.1.)、対空砲台に設置されたフィンランド国営銃器工場(VKT)1940年式20ミリ連装対空機関銃(20 ItK 40/VKT):左側の兵士は、20ミリ機銃弾の入った箱型弾倉をもって、装填の準備をしている。
20 mm:n tykki (20 ItK 40/VKT) toiminnassa Vesilinnan katolla. (Lähikuva).
Military Museum Photo info 1944-03-05 Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja Subjects 1944-03-05
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-157441引用。


ラボーチキン La-5F フィンランド軍のL-40 1940年式20ミリ連装対空機関銃(20 ItK 40/VKT)(20 ItK 40/VKT)を開発、製造したフィンランド国営銃火器工場VKT (Valtion Kivääritehdas)は、1926年にフィンランド中南部内陸のユバスキュラ地方トルラに設立された銃火器の開発と製造を担う国営企業である。

フィンランド軍の1939年型L-39対戦車自動砲(ライフル)銃をフルオートの機関銃に改造し1940年の冬戦争の時期にはフィンランド国営銃器工場(VKT)L-40 試作機関銃が完成していた。1940年にフィンランド空軍が100門発注したが、生産は滞ったため、結局、1943年に155門、1944年に19門が生産されただけだった。1943年にL40 20ミリ連装対空機関銃が配備された。

1941年6月末に始まった継続戦争に於て、ソ連に侵攻したフィンランド軍は、瞬く間に1939年当時の旧国境まで進軍し、1940年の冬戦争で失った国土を取り返した。そして、1939年の旧国境を越えて、引き続き弱体化しているソ連軍を追って進撃を続けた。フィンランドは,中東部の東カレリア地方では、旧国境を遥かに超えて占領地を拡大しており、これは当初の戦争目的である失地回復・国土奪回を超えた侵略的行為である。

ノルウェー駐留ドイツ軍とともに、ぺツァモ(Petsamon lääni)からムルマンスク攻略にも進撃した。にもかかわらず、フィンランドは、占領地の拡大は、フィンランドの領土と国境を守るための正当な外延的防御線の移動であり、防衛的な行動であると弁明した。

スウェーデンの代表的な兵器製造企業であるボフォースBofors)は、アルフレッド・ノーベルが鉄工所ボフォースを1894年に経営を引き継いでから火器・化学の開発部門を充実させ、世界的兵器メーカーに発展した。

ボフォース40mm対空砲 第二次世界大戦前にボフォースBofors)が開発した37ミリ対戦車砲、40ミリ対空機関砲、76.2ミリ高射砲などは、大戦時でも優秀な火器として認められており、フィンランド軍もこれらを輸入して部隊配備している。このように、外国兵器を採用したフィンランド軍は、日本軍やイタリア軍のように国産兵器に固執して、量産性や性能の上で引けを取った軍隊よりも、優秀な兵器を選択することに成功した。

ボフォース(Bofors)40mm機関砲の諸元 重量:1,981 kg (4,367 lb)
砲弾: 40x311mmR(1.57in)1,981kg
口径: 40mm L/60
砲架: 522 kg (1,151 lb)
仰角:-5°/+90°(55°/s)
旋回角: 360°
操作速度:50°/s
発射速度:毎分120発
銃口初速:881 m/s (2,890 ft/s)
最大射程:7,160 m (23,490 ft)

スウェーデン製ボフォース(Bofors)40ミリ対空機関砲(単装)は、砲の旋回(水平方向の回転)、銃身の上下(仰角・俯角の角度調整)、弾薬の装填(装弾クリップの装填)、照準(目視)、射撃管制指揮官の最低4名は必要である。さらに、4発装弾クリップを弾薬から運搬したり、中型の携帯用測距儀で目標との距離を計測したりと、補助要員も求められる。

⇒写真集Album:フィンランド軍の対空機関銃を見る。


7.フィンランドのドイツ海軍水上対空砲台ガンシップ

写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、3.7センチ対空機関砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)と2センチ四連装対空機関銃を搭載したドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー);ドイツ東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって記述された一連の写真(104646-104659)。
Kuva todennäköisesti Lahdenpohjassa pidetystä saksalaisen laivasto-osaston (Einsatzstab Fähre Ost) paraatista 13.8.1942. Tapahtumasta Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka selosteessa päiväys 13.8.1942. Kyseisistä lautoista (Siebel-lautta) kuvia myös muilta päiviltä (esim. 10.8., 11.8., 31.7.). Lautan it-tykit mallia 8,8 cm FlaK 37, suomalaisittain 88 ItK/37 RMB.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1942-08-13 Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165913:JSdia181引用。


フィンランド軍の対空砲台式水上ガンシップ(Siebelフェリー)は、双胴の艀の上に8.8センチ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)、1937年式3.7センチ対空機関砲37 ItK / 37 RMB)、20ミリ四連装機関銃のような強力な対空火器を搭載した移動式対空砲台である。吃水の浅い艀で、外洋航行は期待できないで、ラトガ湖のような波のない湖では、強力な対空火力を武器にして、湖水上を移動する対空砲台として臨機応変に活躍できたようだ。少なくとも3隻がラトガ湖で使用されている。

⇒写真集Album:フィンランド海軍艦艇の対空火器を見る。


◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
◆2011年7月、『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(268頁,2100円)を青弓社より刊行しました。
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン イリューシン IL-2 シュトルモビク
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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