1867年6月4日、フィンランド南西部にあるトゥルクで、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)は、父カール・ロベルト・マンネルハイム(Carl Robert Mannerheim)と母ヘドウィグ・シャルロッタ・ヘレネ・フォン・ユーリン(Hedvig Charlotta Helena von Julin)の富裕な家族の第3子として誕生した。1887年、ロシア帝国のニコラエフ騎兵学校に入学、1889年に卒業した後、1891年、エリート部隊であるアレクサンドル3世皇后のマリア・フョードロヴナ(Maria Fedorovnan)近衛騎兵として、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルク(Saint Petersburg:後のペトログラード、レニングラード)に配属された。1892年、マンネルヘイムはロシア貴族にして将軍の娘のアナスタシア・アラフォヴァと結婚している。
写真(右)1892年、ロシア帝国首都サンクトぺテルスブルク、皇后マリア・フョードロヴナ近衛騎兵として配属になったカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim):1891年、ロシア帝国軍エリート部隊である近衛騎兵として配属された。彼が、ロシア皇帝兼フィンランド大公、皇后マリア・フョードロヴナに忠誠を誓い、命を捧げる宣誓をしたのであれば、その後の彼が、皇帝を退位させた1917年のロシア革命を憎み、その支持者であるフィンランド人の赤衛軍を弾圧し、1939年のソ連共産党書記長(指導者)スターリンによるフィンランド侵攻「冬戦争」にも、1941年のフィンランドによる共産主義国家ソ連への侵攻「継続戦争」に積極的に始動したのは、軍人としての経歴から言って当然だった。 kornetti Mannerheim Chevalierkaartin juhlaunivormussa, Mannerheim palveli H.M. keisarinna Maria Fedorovnan Chevalierkaartissa vv. 1891-1904..
Subject place
Pietari (Saint Petersburg)
Subject date
1892
Subject actor
Mannerheim Carl Gustaf Emil
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Inventory ID
HK19600829:105
Photo info:
1892
Pietari (Saint Petersburg)
写真は,Museot Finna HK19600829:105 引用。
19世紀初頭、フィンランドは、スウェーデン領だったが、ロシア帝国に割譲され、フィンランド大公国(Grand Duchy of Finland)として、ロシア皇帝(ツァー)アレクサンドル2世を大公(元首)とする立憲君主制国家として、独自の議会と政府を有することが認められた。1816年に創設されたこの議会は、フィンランド元老院(Suomen senaatti:Senate of Finland)というべきもので、内閣と裁判所を名寝ていた。ロシア皇帝アレクサンドル1世は、フィンランド人(フィン人)の自治権を認めたため、フィンランド語が公用語し、民族叙事詩「カレワラ」の編纂などナショナリズムが勃興した。
写真(右)1908年1月以降、中国清王朝、蘭州、寺院の庭でカメラとノートとを手にしたマンネルヘイム:蘭州の炳霊寺は、支流の奇岩の中にあり、岩窟の石仏もある。マンネルハイムは、1906年から1908年に中央アジア・中国の探検調査を行い、長崎、舞鶴を経由して、ウラジオストクから鉄道でサンクトペテルブルクに帰国した。蘭州(現在は甘粛省の省都)は、黄河南岸に位置し、漢代からシルクロードの重要交易拠点だった。西域・中央アジアに通じる交易ルートの要衝だったために、イスラム教徒(回教徒)も多かった。五泉山の麓、黄河北岸には元代に建立され、明代に修復された白塔寺の仏塔もある。 Mannerheim kameroineen ja muistilehtiöineen pihalla. Subject place
Lanzhou, Kiina
Subject date
1906 - 1908
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Yleisetnografinen kuvakokoelma
Suomalais-Ugrilaisen Seuran kokoelma
Inventory ID
VKK269:1133
写真は,Museot Finna M012:VKK269:1133引用。
写真(右)1918年4月13日、フィンランド南東部、ヘルシンキ中央駅前のカイボ通り(Kaivokatu)、フィンランド内戦でヘルシンキを支配していた赤衛軍を捕虜にして引き立てるドイツ軍:赤軍兵士は、にわか仕込みの義勇兵が主力であり、小銃・拳銃などの武器を持ってはいたが、戦術や組織的戦闘の訓練は積んでいなかった。 punavankeja kuljetetaan Kaivokadun - Henrikinkadun kulmassa
Hoffmann, kuvaaja ; Wolff, kuvaaja ; Zimmler Fred, kuvaaja 1918 Subject place
Heikinkadun ja Kaivokadun kulmaus, Helsinki Subject date
1918
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti Collection
Historian kuvakokoelma
Inventory ID
HK19860105:1.18c
Measurements
12 x 16 cm
写真は,Museot Finna M012_HK19860105_1_18c引用。
マンネルヘイムは、フィンランドの白衛軍の指揮権を掌握することをペール・エヴィン・スヴィンヒュー(Pehr Evind Svinhufvud)首相に承諾させ、騎兵大将(Ratsuväenkenraali)となって白衛軍を指揮して、1918年4月にタンペレを赤軍から奪回した。実はこの時期に、リュディガー・フォン・デア・ゴルツ(Rüdiger Graf von der Goltz)将軍率いるドイツ軍1万名が、フィンランド湾の要衝ハンコ岬とヘルシンキの東部に上陸した。ドイツ軍は、ヘルシンキを奪回し、1918年5月16日、フィンランド内戦勝利を記念して、フィンランド国防軍・ドイツ軍は、ヘルシンキ市内で軍事パレードを開催し、市民の祝福を受けた。
マンネルハイムは、軍隊強化のために、1919年2月に徴兵法を制定、士官学校を設立した。1919年5月、フィンランド総選挙が実施され、フィンランドは大統領を頂く共和国となった。1919年7月に、初の大統領選挙が行われ、マンネルハイムも立候補したものの惨敗し、(カールロ・ユホ・ストールベリ(Kaarlo Juho Ståhlberg)が大統領に就任した。「白い将軍」マンネルヘイムは、ロシア帝国には肯定的な認識をもっていたため、反共産主義の立場から、ロシア・ソビエト政権はロシア白軍と共闘して弱体化させたり、イギリスの求めに応じて、フィンランド軍によってペトログラード攻撃を実施したりしようとした。マンネルハイムは、フィンランドの東カレリアの領土を拡大し、ロシア・ソビエト政権を弱体化させ、フィンランドの独立を一層強固なものにしようと、ペトログラード攻撃を説いたのである。ロシア・ソビエトに戦争を仕掛けるような強硬論には、独立を達成したばかりのフィンランドの国民も議会にも賛成しなかったのは当然だった。自分の主張が、フィンランドに政治的には受け入れられないことを知ったマンネルハイムは、公職から身を引いた。
写真(右)1921年5月、フィンランド首都ヘルシンキ中央駅前、鉄道駅前広場、軍事パレードに参加したフィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム( C.G.E. Mannerheim)大将、ローリー・マルンベルク中将:マルンベルク将軍の後ろは、1918年から1921年の国防軍司令官ハンネス・イグナティウス大佐。 Suojeluskunnan paraati Rautatientorilla. Edessä vasemalla suojeluskunnan ylipäällikkö (v.1921 läht.) kenraaliluutnantti Lauri Malmberg, oikealla C.G.E. Mannerheim. Mannerheimin takana eversti G.D. von Essen (suojeluskunnan ylipäällikkönä v. 1918- 1921. Malmbergin takana kenraali Hannes Ignatius. -- negatiivi, nitraatti, mv.
Subject place
Helsinki, Rautatientori.
Subject date
1921 mahd.
Organisation
Helsinki City Museum
Inventory ID
N39079
Measurements
10x15
Photo info:
1921 mahd.
Helsinki, Rautatientori.
Roos Rafael, Valokuvaaja Museot Finna HKMS000005:00000uyd引用。
写真(右)1937年6月4日、フィンランド首都ヘルシンキ、70歳の誕生日式典に出席するために家を出るフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:白いドレスの女性が花を撒いて、偉大な軍事的指導者の古希を祝福している。反革命、共産主義革命、ボリシェビキの反乱を鎮圧した軍人がフィンランドの英雄では、ソ連指導者スターリンは、フィンランドを嫌っていたに違いない。 marsalkka Mannerheim lähdössä kotoaan 70-vuotisjuhlallisuuksiin kukin koristeltua reittiä pitkin
Pietinen, kuvaaja 1937
ovesta tulossa järjestyksessä marsalkka Mannerheim, eversti Armas-Eino Martola ja majuri Sven Björkman
.
Subject place
Kaivopuisto, Helsinki
Subject date
4.6.1937
Subject actor
Mannerheim Carl Gustaf Emil
Björkman Sven
Martola Armas-Eino.
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Pietisen kokoelma
Inventory ID
HK19670603:16353
写真は,Museot Finna HK19670603:16353 引用。
写真(右)1937年6月4日、フィンランド首都ヘルシンキ、議会中央広場で70歳の誕生日式典でフィンランド国防軍を閲兵するカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:左からハラルド・オケルマン少将、ルドルフ・ヴァルデン少将、ヒューゴ・オスターマン少将、マーティン・ウェッツァー少将、アクセル・エリック・エインクス少将、アクネス・エリック・ヘインリクス少将、ヘンキース・イグナティウス少将、ヘンキース・ケンコーニ、マンハイム元帥。 kenraalit vasemmalta: kenraalimajuri Harald Åkerman, tuntematon, kenraalimajuri Rudolf Walden, kenraaliluutnantti Hugo Österman, jalkaväenkenraali Martin Wetzer, kenraalimajuri Walter Holmberg, kenraalimajuri Axel Erik Heinrichs, kenraaliluutnantti Hannes Ignatius, kenraalimajuri Heikki Kekoni, marsalkka Mannerheim ja kenraaliluutnantti Lauri Malmberg vaaka, mustavalkoinen.
Aiheen paikka
Senaatintori, Helsinki
Aiheen aika
4.6.1937 . Aiheen toimija
Mannerheim Carl Gustaf Emil
Wetzer Martin
Åkerman Harald
Walden Rudolf
Ignatius Hannes
Kekoni Heikki
Österman Hugo
Holmberg Walter
Heinrichs Erik
Malmberg Lauri .
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Pietisen kokoelma
Inventaarionro
HK19670603:16374
Mitat
6 x 9 cm
Kuvaustiedot:
4.6.1937
Senaatintori,Helsinki
Pietinen, kuvaaja 写真は, Museot Finna HK19670603:16374引用。
写真(右)1937年6月4日、フィンランド首都ヘルシンキ議会中央広場、カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍古希70歳の誕生日式典: Mannerheimin 70-vuotisparaati Senaatintorilla Helsingissä
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Kansatieteen kuvakokoelma
Uuno Peltoniemen kokoelma
.
Inventory ID
KK5575:4945
Measurements
5 x 6 cm
Photo info:
1937
Helsinki
Peltoniemi Uuno, kuvaaja . 写真は, Museot Finna KK5575:4945引用。
写真(右)1937年7月30日、フィンランド首都ヘルシンキ、世界選手権の時のペール・エヴィン・スヴィンフヴュー(Pehr Evind Svinhufvud)元大統領、キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)大統領、カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍(右奥):ペール・エヴィン・スヴィンフヴューの大統領在任期間は、1931年3月1日 - 1937年3月1日。彼は、1917年11月にフィンランドの初代首相に就任するも、フィンランド共産主義革命のために一時亡命、反革命軍を組織し、1918年5月には、共産主義者・ボリシェビキを武力弾圧する白色テロルを指揮した。1930年から1931年まで首相、1931年から1937年まで大統領を務めた。キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)大統領は1922年から1937年まで度々首相を務め、1937年3月1日から1940年12月19日の間、大統領として在任。 presidentit Svinhufvud ja Kallio sekä marsalkka Mannerheim tulossa ammunnan MM-kisoihin
Saurén Gösta, kuvaaja 1937
vasemmalta: P.E. Svinhufvud, Kyösti Kallio ja C.G.E. Mannerheim vaaka, mustavalkoinen.
Aiheen paikka
Malmi, Helsingin mlk.
Aiheen aika
30.7.1937
Aiheen toimija
Svinhufvud Pehr Evind
Kallio Kyösti
Mannerheim Carl Gustaf Emil.
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK19910224:1
Kuvaustiedot:
30.7.1937
Malmi,Helsingin mlk.
Saurén Gösta, kuvaaja
写真は, Museot Finna M012:HK19910224:1引用。
写真(右)1939年5月16日、フィンランド首都ヘルシンキ、大広場(現在の上院広場)でフィンランド軍兵士を閲兵するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:共産主義革命、ボリシェビキの反乱に勝利した記念の式典であり、フィンランドの反ソビエト感情の表れと、ソ連指導者スターリンは思ったに違いない。 Mannerheim seurueineen tarkastaa suojeluskuntien paraatin 16.5.1938 Suurtorilla (nykyinen Senaatintori). .
Subject place
Helsinki, Senaatintori
Subject date
16.05.1938
Organisation
Helsinki City Museum
Measurements
5x8. Photo info:
16.05.1938
Helsinki, Senaatintori
Pohjanpalo Jorma, Valokuvaaja
写真は, Museot Finna HKMS000005:km0000ofue引用。
写真(右)1939年8月13日、フィンランド首都ヘルシンキ、中央広場で、内戦終戦20周年独立記念式典で退役軍人を前に挨拶するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:1918年、ロシア革命に乗じ独立したフィンランドでは、共産主義者・ボリシェビキがソビエト連邦への参加を画して内乱を起こした。これを、白軍を使って鎮圧したのが、マンネルハイムだった。写真中央手前に、この式典をラジオ放送するための放送客員がうつっている。共産主義革命、ボリシェビキの反乱に勝利した記念の式典であり、フィンランドの反ソビエト感情の表れと、ソ連指導者スターリンは思ったに違いない。 sotamarsalkka Mannerheim tervehtii vapaussodan veteraaneja sodan päättymisen 20-vuotisjuhlaparaatissa Kauppatorin laidalla Pohjois-Esplanadilla, marsalkka Mannerheim oikealla valkoisessa hatussa. Kuvan etualalla Yleisradion työntekijä radioi tapahtumaa.
Subject place
Pohjois-Esplanadi 1, Kauppatori, Helsinki
Subject date
16.5.1938.
Inventory ID
HK19670603:18520
Measurements
6 x 9 cm
Photo info:
16.5.1938
Helsinki
Pietinen, kuvaaja
写真は, Museot Finna HK19670603:18520引用。
アイモ・カールロ・カヤンデル (Aimo Kaarlo Cajander;1879-1943年1月21日)は、独立後フィンランドの国防大臣を1928年から1929年に努め、1937年3月12日には、中道連立内閣を組閣し、首相を務めた。外交上は、ソ連の圧力に対抗する必要上、ナチ党ヒトラーのドイツの政治力に注目し、ドイツ再軍備後は、ドイツの軍事力をフィンランドの独立に寄与させようとした。しかし、ソ連は1939年3月、レニングラードの死活的な交通路に当たるフィンランド湾内のフィンランド領の小島を租借し、カレリア地峡の割譲を、北部の東カレリアとの領土交換を要求した。フィンランド側は、1939年4月、カヤンデル首相がソ連の要求を拒否し、軍事的解決ではなく、平和による解決を望んだ。
フィンランド軍は、フランスのシュナイダー(Schneider)社から1917年式15口径152ミリ榴弾砲(152mm H 17)を、1924年に4門、1928年に8門をフランスから購入している。1917年式15口径152ミリ榴弾砲(152mm H 17)は、重量3300?、砲口初速:453m/秒、最大射程:10.3km、仰角:0度から42.3度、旋回:左右30度、性能的には1915年式15口径152ミリ榴弾砲(152mm H 15)と全く同じであるが、砲架の車輪が全金属製から空気圧式ゴムタイヤに変更になった。これは、自動化・高速機動のために必要な変更だった。フィンランド軍では、イタリア製のパベシ(Pavesi)トラクターを9輌導入して牽引させている。
しかし、ビッカースでの生産は遅々として進まず、フィンランドの発注した6トン戦車の配備は遅れた。1939年になって部隊配備されたビッカース6トン戦車F型(Vickers 6-Ton Mark F)が搭載した主砲は、隣国スウェーデンに発注したボフォース37ミリ戦車砲である。1939年-1940年の「冬戦争」にはビッカース6トン戦車F型(Vickers 6-Ton Mark F)13輌が、第4戦車中隊に配備された。冬戦争では、ビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)は、対峙したソ連軍T−26軽戦車の46口径45ミリ砲と比較して威力が弱かった。そこで、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲した46口径45ミリ砲をに変換されたが、このソ連戦車は、イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)を原型とした戦車だった。つまり、ソ連とフィンランドは同じイギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)で戦ったのである。
全長
4.56 m 、全幅 2.41 m 全高
2.16 m 乗員
3 名
総重量
7.35 t 懸架方式
リーフスプリング・ボギー式
最高速力(整地)
35 km/h 航続距離
160 km(路上)、90 km(不整地) 兵装
47 ミリ戦車砲1門 、車載機銃 7.7ミリ機関銃1丁
装甲:5-13 mm 発動機
アームストロング・シドレー空冷4気筒ガソリン(80馬力)
写真(右)1939−1940年、フィンランドの首都ヘルシンキ、ヘルシンキ大聖堂・元老院広場から西400メートルの三人の鍛冶屋像:1932年フェリックス・ニュルンド (Felix Nylund) 作「三人の鍛冶屋像」(Kolmen sepän patsas)は、ヘルシンキ中央駅から徒歩5分で、この通りは、後にマンネルヘイミンティエ(Mannerheimintie)と改称された。鍛冶屋像は、継続戦争中の傷跡も残っているが、現存している。 Kolmen sepän aukio ja Kolmen sepän patsas Aleksanterinkadun ja Heikinkadun (myöh. Mannerheimintie) risteyksessä
Subject place
Helsinki
Subject date
1939 - 1940, todennäköisesti 1939
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Börje Sandbergin kokoelma
Inventory ID
HK6869:6.1
Measurements
36 x 24 mm 写真は,Museot Finna musketti.M012:HK6869:6.1用。
1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をしたが、10月には、ソ連が再びフィンランドに領土要求、ソ連軍駐留権の要求を突き付けてきた。フィンランドは、ソ連による要求を拒否し、10月には、動員を開始し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急体験を認める共和国防衛法を布告した。1939年11月30日、ソ連がフィンランドを攻撃し、冬戦争が始まった。その後、中立的なリスト・リュティ首相が任命された。
写真(右)1939−1940年、フィンランドの首都ヘルシンキ南部、南港に面した市場広場:市場広場(Kauppatori 1939)は、ヘルシンキ中央駅から600メートル、この通りは、現存でも、ベリー・ニシン・サーモンなどの食料から、毛皮・帽子が売られている観光地で、屋台が並んでいる。 Kauppatori Aarne Pietinen Oy, kuvaaja 1939–1940 Subject place
Helsinki
Subject date
1939 - 1940
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Börje Sandbergin kokoelma Inventory ID
HK6869:10.22
Measurements
36 x 24 mm 写真は,Museot Finna musketti.M012:HK6869:10.22">用。
フィンランドは1939年3月にソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けた。しかし、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、不当なソ連の要求を拒否し、フィンランドの尊厳維持を支持する国民の期待に応えた。しかし、ポーランドの東半分を、ヒトラードイツとの合意の下、保障占領していたスターリンは、バルト三国への圧力を強めており、ソ連の威信を失わせるような領土交換拒否というフィンランドを許さなかった、1939年11月30日、ソビエト連邦はフィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発した。
写真(右)1939年11月30日、冬戦争の初日、ソ連空軍機の空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ市街地;すでに第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。 raunioita Helsinkiä pommitetaan talvisodan ensimmäisenä päivänä
Aineistotyyppi
Kuva Aiheen paikka
Helsinki Aiheen aika
30.11.1939 Organisation
National Board of Antiquities - Musketti Collection
Historian kuvakokoelma
Pietisen kokoelma Inventory ID
HK19670603:19389
Measurements
9 x 6 cm
写真はMuseot Finna HK19670603:19389用。
フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。
写真(右)1939年11月30日、冬戦争の初日、空爆によって破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキのヘルシンキ工科大学:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。 Teknillinen korkeakoulu talvisodan ensimmäisen pommituksen jälkeen Subject place
Helsinki
Subject date
30.11.1939 Organisation
National Board of Antiquities - Musketti Collection
Historian kuvakokoelma
Evert Johannes Nyströmin kokoelma
Inventory ID
HK19610401:209 . 写真は,Museot Finna HK19721231i:1用。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド中東部、ソ連空軍機による空爆で破壊されたクフモ(Kuhmon)村;クフモ (フィンランド語: Kuhmo)は、フィンランド、カイヌー県ケヒュス=カイヌー郡に属する。現在、人口は1万人でロシア国境に面している。19世紀から木材を蒸して抽出するタール(木液・乾留液)の生産が盛んだった。冬戦争に際し,ソ連軍の主力攻撃地点となったため、激戦地となった。
Kuhmon kirkonkylä palaa pommituksen jälkeen
Veikko Kanninen, valokuvaaja 1939–1940
Organisation
Museokeskus Vapriikki
Collection
D/748
Inventory ID
748:33
Photo info:
1939-1940
Kuhmo, Suomi
Veikko Kanninen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna Inventory ID 748:33用。
フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。
写真(右)1939年12月16日、冬戦争の時期、フィンランド、クイツ(Kuitu Oy)合成レーヨン工場の上に据え付けられたマキシム09-09 口径7.62ミリ機関銃を操作するフィンランド軍兵士:クイツ(Kuitu Oy)は、1938年に設立された合成レーヨン繊維の製造工場で、人工シルク、フィルム、人工ウールを生産。この工場で使用する電気は、1937年に完成したロウヒアラ(Rouhiala)発電所から送電された。つまり、元のキャプションでは、大砲のように記述されているが誤りと。 Kuitu Oy:llä konstruoitu IT-tykki. Kyseessä ilmatorjunnassa käytetty Maxim 09-09 kal 7.62 konekivääri, eli ei alkuperäisen kuvatekstin mainitsemaa IT-tykkiä. Aineistotyyppi
Valokuva
Organisation
Military Museum
Photo info:
1939-12-16. 写真は,Museot Finna sa-kuva-164885用。
マキシム1905年型7.62ミリ重機関銃(Maxim m/1905)は、口径7,62 mm x 54 R、全長111 cm、銃身長72 cm、重量(銃単体で車輪・銃座等なし)28,25 kg 、発射速度500 - 600発/分、ベルト給弾方式(250 発)だった。大型車輪・坊楯など装備一式の総重量は 36 kg-45 kg、一般的には43.5 kgにもなった。しかし、信頼性が高く、連続発射にも耐えられた。
写真(右)1940年2月24日、冬戦争の末期、フィンランドの首都ヘルシンキ、港湾近くサルミサアリのアルコ社屋根、ソ連空軍機に備えるドイツ製1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)を操作するフィンランド国防軍兵士たち:ドイツの対空機関砲2 cm Flak 30は、フィンランドでは20 ItK/30 BSWと呼称した。ドイツ製1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)は、ラインメタル社で生産期間1934–1939年、総重量890 kg 全長 225 cm、銃身長 130 mm (L/65口径)、弾薬Patruuna 20 mm x 138 B、発射速度 120 発/分から280 発/分、初速 830–900 m/秒、有効射程 1200 m。後に、モーゼル社が改良して1938年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 38)を開発した。銃座の回転と銃身の上げ下げをするのに各々1名の操作手が必要で、この他、弾倉を運搬・装填するにも1名から2名の弾込め手が必要。機銃を指揮する指揮者1名を含め、4-5名で1基を操作することになる。
It.tykki Alkon varaston katolla. Tykkinä saksalainen 20 mm:n ilmatorjuntatykki vuodelta 1930 (20 ItK 30 BSW).
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-24
. 写真は,Museot Finna sa-kuva-115255用。
ドイツ軍の1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、フィンランド軍も20 ItK/30 BSWと命名して採用した。1930年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)は、ラインメタル社が開発したもので、生産期間1934–1939年と大戦前には改良したモーゼル社の1938年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 38)に更新されている。1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、総重量890 kg 全長 225 cm、銃身長 130 mm (L/65口径)、弾薬Patruuna 20 mm x 138 B、発射速度 120 発/分から280 発/分、初速 830–900 m/秒、有効射程 1200 m。
写真(右)1940年、フィンランド、タンペレ、フィンランド空軍が使用したソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov )I-16戦闘機:ソ連空軍時代は主翼に20ミリ機関砲を装備していたが、樹幹中の破損あるいは弾薬の欠乏のために、フィンランド空軍では、国営工場で改造され、主翼の機関銃はイギリス式の7.7ミリブローニング(Browning)機関銃に変換された。引込み式主輪ではなく、引込み式の橇を装備しているが、これは、雪原など極北戦線用の仕様だった。旋回性能など格闘戦は苦手だったようだ。 Neuvostoliittolais-valmisteinen Polikarpov I-16 sotasaalislentokone
Polikarpov I-16:ssa oli alunperin siivissä 20 mm tykit. Valtion Lentokonetehdas vaihtoi koneeseen siipiaseiksi 7,7 mm Browning-konekiväärit
Aineistotyyppi
Kuva
Organisaatio
Museokeskus Vapriikki
Kokoelma
VAR
Inventaarionro
VAR:10210
Kuvaustiedot:
1940-1940
Härmälä, Pyhäjärvi
Tampere, Suomi. 写真は,Museot Finna HK19751014:150用。
写真(右)1940年3月7日、フィンランド、試験的に固定式スキー降着装置を付けたフィンランド空軍ブリュスター(Brewster) 239戦闘機;ブリュスター(Brewster) 239戦闘機は、アメリカのブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)のフィンランド名である。輸入当初、ブリュスターF2Aバッファローの引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機が開発された。これは、フィンランドが極北戦線仕様に試作したものである。 Brewster 239 -hävittäjässä kokeiltu kiinteä profiloitu suksilaskuteline .
Organisation
Museokeskus Vapriikki
Collection
VAR
Inventory ID
VAR:10211
Photo info:
1940-1940
Härmälä, Pyhäjärvi
Tampere, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・VAR:10211引用。
アメリカ海軍は、それまでの複葉、固定脚、開放式風防の艦上戦闘機を近代化するために、1936年に単葉機、折畳み式主翼、引込み脚、密閉式風防の仕様で競争試作の要求を出した。これに対して、老舗メーカーのグラマン、セバスキーとともに新興のブリュスターがB-139(Brewster model 139)を提示し、最も優れた性能を発揮した。しかし、ブリュスターにおける新型艦上戦闘機の生産は遅れたため、グラマンの新型機F4Fワイルドキャットが制式となり、アメリカ海軍の主力艦上戦闘機となった。それでも、アメリカ軍の制式戦闘機として、F2Aはイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されて制式となった上に、第二次大戦の勃発を恐れるベルギー、オランダでもF2Aを陸上戦闘機として購入した。また、フィンランドも、ソ連との戦争に備えて、F2A戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名して部隊配備した。
フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。
写真(上)継続戦争勃発時の1940年6月29日、フィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察、校長から挨拶を受けるフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍 ;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。 Tuusulan lottakurssit, Mannerheim ja Fanny Luukkkonen
Pietinen, kuvaaja 1940
vaaka, mustavalkoinen
Aineistotyyppi
?Kuva
Aiheen paikka
Tuusula
Aiheen aika
18.6.1940
Aiheen toimija
Luukkonen Fanni
Mannerheim Carl Gustaf Emil
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Pietisen kokoelma
Inventaarionro
HK19670603:19519
Mitat
6 x 9 cm
Kuvaustiedot:
18.6.1940
Tuusula
Pietinen, kuvaaja
写真はMuseot Finna・HK19670603:19519引用。
写真(右)冬戦争敗北後、1940年6月29日、フィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察、フィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍に報告をする女子予備兵部隊指揮官ファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen) ;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。 Tuusulan lottakurssit, Mannerheim ja Fanny Luukkkonen
Pietinen, kuvaaja 1940
vaaka, mustavalkoinen Aineistotyyppi
Kuva
Aiheen paikka
Tuusula
Aiheen aika
18.6.1940 Aiheen toimija
Luukkonen Fanni
Mannerheim Carl Gustaf Emil
Organisaatio
Museovirasto - Musketti Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Pietisen kokoelma
Inventaarionro
HK19670603:19519
Mitat
6 x 9 cm
Kuvaustiedot:
18.6.1940
Tuusula
Pietinen, kuvaaja
写真はMuseot Finna・HK19670603:19519引用。
写真(右)1941年6月21日、フィンランド南西、ヘルシンキ北60km、リーヒマキ(Riihimäki)鉄道駅、「レニングラード - ヘルシンキ」の運航掲示のあるロシアの客車:この同じロシアの客車(ワゴン)の白黒写真も同じように撮影されている。リーヒマキは1862年にヘルシンキ - ハメーンリンナ間に建設されたフィンランド鉄道の駅としてリーヒマキ駅が開業した。1869年には、リーヒマキからロシア帝国首都のサンクトペテルブルクまでの鉄道が開業した。 Venäläinen matkustajavaunu, jossa kyltti Leningrad - Helsinki. Samasta vaunusta kuvattu mustavalkoinen SA-kuva 20331 Riihimäen asemalla 21.6.1941, samoin JSdia047 samasta tilanteesta kuvattu Riihimäellä. Teoksesta Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 31: Pikajuna Leningradiin lähtee.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1941-06-21
Erik Blomberg, valokuvaaja. 写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia036引用。
写真(右)1941年8月29日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、フィンランド軍が奪回したヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)の駅前の破壊の様子:カレリア地方に侵攻したフィンランド軍は、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、8月中には、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、8月31日に解放式典を中央広場で開催。 Viipurin aseman rauniot. Kuvattu todennäköisesti 29.8.1941. Samasta paikasta mustavalkoisia SA-kuvia (esim. 42966-42968), jotka kuvattu 30.8.1941. Niissä taivas puolipilvinen ja aseman raunioista ei nouse enää savua.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1941-08-29
Erik Blomberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166233引用。
写真(右)1941年10月13日、フィンランド北部ヴォル湖の近くサッラか、ロシア、ムルマンスク州カンダラクシャへの道:水びだしになるような場所には、木製の渡河用道路が増設されている。森林地帯では、馬による移動や物資運搬も便利であるが、これはフィンランドのように石油を産しない国にとっては燃料節約になる。1941年8月中に、フィンランド軍は、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード近く、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を奪回した。 Sallan-Kantalahden maantie Voittojoelta (Voitajoki) Lyssajan rinteelle päin. Sallan-Kantalahden tie Voittojoen lähellä 13.10.1941.
Alakurtti (Salla) - Vilmajoki 1941.10.13 .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。
写真(右)1942年3月17日、ロシア北部、ムルマンスク州ペチェンガ、フィンランド軍スキー部隊:スキー競技で勝利したパトロール(16番)の中尉が、勝利の後に参加した兵士と話をする。 Luutnantti Tyyskän voittoisa partio (n:o 16). Kenraaliluutnantti Oesch (oik.) tarinoimassa poikien kanssa voiton jälkeen. Äänislinna 17.3.1942.
Äänislinna 1942.03.17 写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。
写真(上)1942年9月10日、フィンランド中東部、フィンランド陸軍第14師団司令部の女性勤務者に挨拶、激励するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルハイム(Mannerheim)将軍;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。
Jänis Pauli, kuvaaja 1942
marsalkka Mannerheim tervehtii 14. divisioonan esikunnan lottia, kerrotaan, että Mannerheim hymyili erityisen maireasti kätellessään divisioonan esikunnan kauneimmaksi mainittua lottaa Marjaana Koskelaa
Aineistotyyppi
?Kuva
Aiheen paikka
Tiiksa, Vienan Karjala
Aiheen aika
10.9.1942
Aiheen toimija
Mannerheim Carl Gustaf Emil
Koskela Marjaana
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Valokuvaamo Jäniksen kokoelma
Inventaarionro
HK7744:328
Mitat
6 x 6 cm
写真はMuseot Finna・HK7744:328引用。
ポリカルポフ I-16戦闘機(Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m 翼幅: 9 m
翼面積: 14.5平方メートル 自量: 1,490 kg 全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分 兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁 20ミリShVAK機関砲 2門 RS-82ロケット弾 2-6発 生産機数:8,600機。
写真(右):写真(右):ソ連空軍の迷彩塗装を施したツポレフSB-2(Tupolev SB 2M-100)爆撃機:ソ連は1930年代から引込み式降着装置の付いた戦闘機、爆撃機を使用していたが、当時は、固定脚の戦闘機、爆撃機も普通だった。ソ連が中国に有償譲渡した新鋭機は、日中戦争で日本陸海軍航空隊と戦った。 Ray Wagner Collection Image
PictionID:45937744 - Catalog:16_007152 - Title: Tupolev SB 2M-100 - Filename:16_007152.TIF - Image from the Ray Wagner collection.
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog:16_007152引用。
1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。
ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北しており、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の際に、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。1941年7月、総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻した。
フィンランド軍は、総司令官
カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。
1942年6月4日、、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9で飛来したドイツ総統アドルフ・ヒトラーが、フィンランドのイマトラ空港に到着した。出迎えたのはフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥など、フィンランド最高指導者だった。当時、ナチスとフィンランドは、共産主義者の支配するソ連と戦う枢軸同盟国として軍事同盟を結んでいた。ヒトラーは、フィンランドに対して、ソ連に対する一層激しい攻勢をかけるように要望した。枢軸国が勝利するのは確実で、ヨーロッパ支配をする日も遠くないというのである。
1939年の冬戦争で失ったカレリア地方を奪還するために、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻をチャンスととらえたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、7月には、ナチスと同盟して、ソ連を敵として、攻撃を開始した。これは、事実上、フィンランドが枢軸同盟国の一員として、第二次世界大戦に参加することを意味した。フィンランドは、ナチスと組んで軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開した。
ヒトラを出迎えにイマトラ空港にきていたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)もこのヒトラー乗機の失態を目撃したに違いない。つまり、ヒトラー乗機の着陸鵜事故は、ドイツの威信を落としかねない大失態だった。しかし、ヒトラーは、タイヤの燃える匂いも、煙も気にせずに、平然として、フィンランドに降り立った。乗員たちは大慌てで、ヒトラーが出迎えを受けている間、携帯用消火器をつかって大急ぎで、Fw200輸送機の車輪の火災を消し止めた。
Fw-200コンドル輸送機を操縦していたヒトラー専属パイロットの"ヨハン・"ハンス"・ペーター・バウア(Johann "Hans" Peter Baur)にとって、ヒトラー乗機の着陸失敗は、大失態であり、これがフィンランド元首の目前で起こったことは、罷免・処罰されても当然な過失だった。しかし、ヒトラーは何事もなかったかのような態度で、降りてきて、フィンランド側の出迎えを受けた。
フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥が見守る中、これはドイツの威信を喪失しかねない大事件のはずだが、ヒトラーは何事もなかったかのような態度で、フィンランド側の出迎えを受けている。乗員たちは大慌てで、携帯用消火器を手にして、車輪の火災を消し止めた。Fw-200コンドル輸送機を操縦していたのは、ヒトラー専属パイロットのヨハン・"ハンス"・ペーター・バウア(Johann "Hans" Peter Baur)である。バウアーにとって、とんでもない大失態だったが、ヒトラーは、この件を不問に付し、バウアーには何の咎めもなかった。
写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)とが食堂車で会談した。中央は、ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥 ;ヒトラー乗機となったのは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード: KE+IX) マンネルハイム元帥は、第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Continuation War)を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドは枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥は、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を望んでいた。1942年6月時点で、ドイツはヨーロッパを支配しており、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムもフィンランド国民も、いまこそソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめた。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Aineistotyyppi?Valokuva Kuvaustiedot: 1942-06-04 Aiheet 1942-06-04 Content Type
Photo
Organisation
Military Museum Photo info:
1942-06-04. 写真はMuseot Finna・sa-kuva-15850引用。
フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日の1942年6月4日、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥と会談して、その日のうちに、空路、ドイツに帰国した。
フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ヒトラー到着時も帰国時も、イマトラ空港に送迎に出てきている。他方、マンネルハイムは、自分の75歳誕生日にヒトラーが訪問しに来たので、ヒトラーの到着時にイマトラ飛行場に出迎えには、来ていない。しかし、ヒトラーのドイツ帰国に際しては、イマトラ飛行場まで見送りにやってきている。
写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で対談するドイツ総統アドルフ・ヒトラー総統とフィンランド軍総司令官グスタフ・マンネルハイム将軍;ヒトラーは、マンネルハイムの75歳誕生日を祝う名目で、急遽、フィンランドを訪問し、列車で会談した。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Marsalkka Mannerheim ja valtakunnankansleri Adolf Hitler salonkivaunussa.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-04 写真はMuseot Finna・sa-kuva-16071引用。
写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ空港にリムジンで到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラーがフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥(75歳の誕生日)の見送りを受けている。;1939年9月1日、ドイツがポーランドに突如侵攻、3日には、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス・フランスがドイツに参戦して、第二次世界大戦が勃発した。その混乱に乗じたソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様に、フィンランドにも領土割譲の傲慢な要求をした。フィンランドは、領土要求を拒絶し、戦う道を選んだが、フィンランド内戦で赤軍を掃討した白軍のマンネルハイムとしては、ソ連に服従するつもりはなかった。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä
Hitler palaamassa juhlapaikalta ja nousemassa koneeseensa Focke Wulf FW 200 Condoriin. Marsalkka Mannerheim oli saattamassa Hitleriä lentokentälle.
Aineistotyyppi:
Valokuva
Kuvaustiedot:1942-06-04
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15847引用。
フィンランド国防軍は、総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥の指揮の下、ソ連相手に善戦し、レニングラードを包囲し、住民を疲弊させ、北部の不凍港ムルマンスクを攻撃して、西側連合軍の補給物資がソ連に届かないようにする作戦を展開していた。つまり、ナチスとフィンランドは、連携して共産主義・ボリシェビキのソ連を屈服させるために共闘しており、密接な軍事同盟関係にあった。
1942年6月4日、ヒトラーのフィンランド訪問当時、フィンランド大統領は、リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti:1889‐1956)で、彼はフィンランド銀行総裁を務めるなど実務家だった。リスト・リュティは、1939年11月、対ソ連防衛戦争「冬戦争」が勃発した翌日に首相に就任し、その後、1940年12月には、フィンランド第5代大統領に就任して、継続戦争末期までフィンランドの元首だった。
1939年11月に始まった冬戦争で、フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦した。しかし、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、長期戦には耐えることはできなかった。
第二次大戦の勃発から1年近くたった1940年7月、ヒトラー総統大本営が密かにこの地に建設されることが決まると、急速に開発がなされた。これがいくつかある総統大本営のうち、最も使用された総統大本営「狼の巣」( the Wolf's Lair:Die Wolfsschanze)である。ここには、防空壕、バラック兵舎、発電施設、飛行場など200個の建築物から成っている。
ラステンブルク(Rastenburg)行場では、1942年2月8日、ヒトラーのフィンランド訪問4カ月前に、兵器弾薬大臣でトート建設機関の長であるフリッツ・トート(Fritz Todt)が墜落事故で死亡している。また、1944年7月20日、ヒトラーを総統大本営(Die Wolfsschanze)で爆殺したと信じたクラウス・フォン・主たウフェンベルク(Claus von Stauffenberg)大佐が、ラステンブルク飛行場をハインケルHe-11爆撃機輸送機仕様で出発し、ベルリンに到着後、ワルキューレ作戦を発動している。
写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とヒトラーと国防軍総長ウィルヘルム・カイテル元帥;ナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統のいる大本営では国防軍総長ウィルヘルム・カイテル元帥とも会談した。その後、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも参じて、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合った。マンネルハイムは、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Content Type
?Photo
Organisation
Military Museum. 写真はMuseot Finna・sa-kuva-3231引用。
1939年のソ連との冬戦争の際、フィンランド軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなく、長期戦となれば敗北は明らかだった。そこで、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。この復讐戦が、マンネルハイムが1941年7月に始めた「継承戦争」である。
写真(右)1942年6月28日、東プロイセン、ラステンブルク総統大本営「狼の巣」、作戦室でヒトラーの作戦会議に出席後、ドイツ国防軍参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)大将と立ち話をするフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)大将は、熟考型の参謀総長であり、ソ連予備軍の大きさに開戦後気づき、その侮りがたい兵力をヒトラーに警告し続けた。そのため、戦局に悲観的であるとして、ヒトラーの不興を買って、1942年9月24日に参謀総長を買うて地され、予備役に編入されてしまう。その後、1944年7月20日、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が主導したヒトラー暗殺未遂事件が失敗し、その捜査・尋問・取り調べの過程で、1938年チェコ危機に際して、ハルダーがクーデター計画に参画している疑いが発覚、ハルダーは逮捕され、フロッセンビュルク強制収容所に拘禁された。1945年1月、軍籍剥奪、イギリス・アメリカ軍のドイツ侵攻に伴って、はじめダッハウ強制収容所に、4月にチロルに移送された。ドイツ敗戦直前の5月4日、チロルでアメリカ第7軍に拘束からは開放されたが、すぐ逮捕され、捕虜となった。 Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9. 写真はMuseot Finna・sa-kuva-13204引用。
写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥の邸宅を去るフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥:二人とも元帥なので、会話の最中でも元帥杖を誇らしげに手にしたまま話そうとしない。マンネルハイム元帥は、ドイツ空軍のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機にのって、ドイツ、東プロイセン州のナチス・ドイツ独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。 Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Valtakunnanmarsalkka Hermann Göring saattamassa Suomen marsalkka Mannerheimia tämän vierailtua metsästysmajalla Itä-Preussissa
Lisää
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Sjöblom, valokuvaaja 写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA引用。
1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年11月、ヒトラー主導の武装蜂起「ミュンヘン一揆」(Beer Hall Putsch)は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。 1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉、1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉、1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥、1940年7月19日、国家元帥
1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将。
ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。 1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。 1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。
1941年1月4日にフィンランド首相となったヨハン・ウィルヘルム・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻を契機として、ソ連に攻め入った。これは、1939年の冬戦争で敗れ失った国土カレリア地方を奪還するというのが目的だったが、共産主義者の反乱を鎮圧して独立したフィンランドは、当初からソビエト連邦を警戒、仮想敵としていたから、これは、脅威となっているソ連に対する弱体化の戦争とも考えられる。
第二次大戦末期のフィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の誕生日、1942年6月4日は、ヒトラーが空路お祝いに駆けつけ、マンネルハイム元帥自身が出迎えをした。フィンランドは、ソ連に奪われたカレリア地峡を奪還すると称して、1941年6月26日、「継承戦争」をはじめ、ソ連を攻撃した。
1941年6月のドイツのソ連侵攻にあわせて始めた継続戦争だったが、1943年に入ると、明らかに戦局はフィンランド、ドイツに不利になってきた。ソ連に対しては、イギリス、アメリカが膨大な軍事物資を貸与しており、ソ連の生産力増強と相まって、フィンランド、ドイツは、ソ連軍の攻勢を防ぐことも困難になっていた。戦局が悪化する中で、1943年3月5日、フィンランド首相ヨハン・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は辞任し、新たにエドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)がフィンランド首相に就任したが、彼も、ソ連に降伏できない以上、ナチスとの同盟を堅持するしか選択肢はなかった。
フィンランド大使館「最近の出来事・お知らせ, 2012/06/07:フィンランド国防軍の記念日を祝って」によれば、「フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)元帥の誕生日をフラッグ・デーと定め、軍事パレードが行われている。マンネルヘイム元帥は、冬戦争や第二次世界大戦時にフィンランド国防軍総司令官、戦後に第6代大統領を務めた。70回目となる今年のパレードは、フィンランドの首都ヘルシンキで開催された」とある。フィンランドがソビエト連邦に侵攻して、第二次大戦を始めたこと、ソ連と講和して、ドイツとの同盟を破棄して、攻撃したことについて、触れていない。重要なのは、フィンランドは、フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、「民主主義」「自由」を貫いたということか。
フォッケウルフFw-200コンドルの諸元 エンジン BMW-Bramo 323 R-2 mit je 1000 PS (1200 PS mit MW-50-Einspritzung) 4基
全幅: 32,84 m
全長: 23,87 m
全高: 6,30 m
空虚重量: 14.180 kg
全部重量: 22.600 kg
乗員: 7 人,生産機数 276機
巡航速度: 384 km/h 高度 3970 m, 405 km/h 重量17.600 kg
上昇限度: 6600 m
航続距離: 3550 km (標準) C-3/U2 最大 6400 km
武装: 2基×MG 151/20 (20 mm), 5基×MG 15 (7,92 mm) 爆弾1000 kg (爆弾倉) + 主翼下面 1400 kg,最大搭載量1800 kg
20ミリマドセン(20 mm Madsen)対空機関銃の諸元
重量55キロ 全長:2.5 m、銃身長:1.2 m 弾薬20 x 120 mm 弾薬重量:0.29 kg (10オンス) AP,
0.32 kg (11オンス) HE 空冷20口径 発射速度:400 rpm 有効射程:500 m 、最大射程:2,123 m
1941年9月8日からドイツ軍によってレニングラード包囲(Siege of Leningrad)がされていたが、1944年1月18日、レニングラードが解放された。そこで、ソ連軍は、カレリア地峡を経てフィンランドへの圧力を強めた。この時期、イタリアは脱落し枢軸軍の劣勢は明白であり、フィンランドはソ連との講和を考えていたが、カレリア地峡の割譲、駐留するドイツ軍の排除という要件は、フィンランド側には受諾するのは困難だった。イタリアは1943年に連合国に降伏したが、その直後に駐留ドイツ軍によって占領されていたからである。
1944年6月9日に、西側連合軍が、北フランス、ノルマンディー海岸に上陸して大陸反攻が本格化すると、ソ連軍もドイツに向けた攻勢を開始し、レニングラードからカレリア地峡への侵攻も実施した。フィンランド軍のカレリア地峡の防衛戦は突破されたが、フィンランドに1944年6月22日に赴いたドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)は、フィンランド大統領リュティの対ソ戦争継続の言質をとり、ドイツ空軍ユンカースJu87急降下爆撃機の指揮官クルト・クールマイ(Kurt Kuhlmey)率いる空軍部隊、第303突撃砲旅団を増援部隊としてフィンランドに派遣した。
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