Search the TORIKAI LAB Network

Googleサイト内

◆マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」
写真(上)1940年6月29日、冬戦争敗北後、フィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従う女子予備兵部隊指揮官ファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen)とラウリ・マルムベルグ(Kaarlo Lauri Torvald Malmberg)少将
;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。
marsalkka Mannerheim lottajärjestön vieraana Suojeluskuntain Päällystökoululla Tuusulassa Pietinen, kuvaaja 1940 edessä marsalkka, hänen takanaan Fanni Luukkonen ja hänen takanaan vasemmalla kenraaliluutnantti Malmberg vierellään majuri Grönvall vaaka, mustavalkoinen Aineistotyyppi ?Kuva Aiheen paikka Tuusula Aiheen aika 29.6.1940 Mannerheim Carl Gustaf Emil Luukkonen Fanni Malmberg Lauri Grönvall Ragnar Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK10000:886 Kuvaustiedot: 29.6.1940 Tuusula Pietinen, kuvaaja Aiheet
写真はMuseot Finna・HK19731119:45引用。

写真(上)1942年6月28日、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」にドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥

Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Content Type?Photo Organisation Military Museum
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13097引用。

写真(上)1942年6月28日、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」にドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問した後、ドイツ空軍総司令官ヘルマンゲーリングの邸宅で歓談するフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルヘイム(Carl Mannerheim)元帥。
;王侯貴族のように狩猟が趣味で、森林監督官も務めていたゲーリングは、部屋に獲物の大鹿をトロフィーとして飾っていた。にもかかわらず、ナチスは自然保護・動物愛護だったと誤解している理由は、自らの狩猟の獲物を独占するために、自然を保護し、動物を大切にしていたという点を見逃している。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Content Type?Photo Organisation Military Museum
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3260引用。


Marskalk Mannerheims tal till Svenska Frivilligkåren efter Vinterkriget (Paikanselkä 28.3.1940)

◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


序.ロシア帝国騎兵将校マンネルへイムによるフィンランド内戦での赤衛軍弾圧

1867年6月4日、フィンランド南西部にあるトゥルクで、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)は、父カール・ロベルト・マンネルハイム(Carl Robert Mannerheim)と母ヘドウィグ・シャルロッタ・ヘレネ・フォン・ユーリン(Hedvig Charlotta Helena von Julin)の富裕な家族の第3子として誕生した。1887年、ロシア帝国のニコラエフ騎兵学校に入学、1889年に卒業した後、1891年、エリート部隊であるアレクサンドル3世皇后のマリア・フョードロヴナ(Maria Fedorovnan)近衛騎兵として、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクSaint Petersburg:後のペトログラード、レニングラード)に配属された。1892年、マンネルヘイムはロシア貴族にして将軍の娘のアナスタシア・アラフォヴァと結婚している。

写真(右)1892年、ロシア帝国首都サンクトぺテルスブルク、皇后マリア・フョードロヴナ近衛騎兵として配属になったカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim):1891年、ロシア帝国軍エリート部隊である近衛騎兵として配属された。彼が、ロシア皇帝兼フィンランド大公、皇后マリア・フョードロヴナに忠誠を誓い、命を捧げる宣誓をしたのであれば、その後の彼が、皇帝を退位させた1917年のロシア革命を憎み、その支持者であるフィンランド人の赤衛軍を弾圧し、1939年のソ連共産党書記長(指導者)スターリンによるフィンランド侵攻「冬戦争」にも、1941年のフィンランドによる共産主義国家ソ連への侵攻「継続戦争」に積極的に始動したのは、軍人としての経歴から言って当然だった。
kornetti Mannerheim Chevalierkaartin juhlaunivormussa, Mannerheim palveli H.M. keisarinna Maria Fedorovnan Chevalierkaartissa vv. 1891-1904..
Subject place Pietari (Saint Petersburg) Subject date 1892
Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19600829:105
Photo info: 1892 Pietari (Saint Petersburg)
写真は,Museot Finna HK19600829:105 引用。


マンネルハイムは、ロシア支配下のフィンランドにあったとは言っても、決してロシアに弾圧されたわけでなく、ロシア皇帝に気に入られ、引きたてられて軍人として大成功していた。ロシアは、フィンランド大公国に自治を与えていた。1891年にマンネルハイムが配属されたマリア・フョードロヴナ皇后近衛騎兵は、アレクサンドル3世皇后を警護する馬に乗った兵士であり、徒歩で行進する歩兵に比べて高い地位にあった。マンネルハイム自身、フィンランドではなくロシア帝国の騎兵学校で学んでおり、そこを優秀な成績で卒業できたのは、彼の学業・武術が優れているだけでなく、素行もロシア皇帝への忠誠心も十分に発揮されていたからである。ロシア皇帝は、当時、フィンランド大公を兼ねており、皇帝に忠誠を誓うことに、フィンランド人としても何の躊躇もなかったはずだ。

19世紀初頭、フィンランドは、スウェーデン領だったが、ロシア帝国に割譲され、フィンランド大公国Grand Duchy of Finland)として、ロシア皇帝(ツァー)アレクサンドル2世を大公(元首)とする立憲君主制国家として、独自の議会と政府を有することが認められた。1816年に創設されたこの議会は、フィンランド元老院Suomen senaatti:Senate of Finland)というべきもので、内閣と裁判所を名寝ていた。ロシア皇帝アレクサンドル1世は、フィンランド人(フィン人)の自治権を認めたため、フィンランド語が公用語し、民族叙事詩「カレワラ」の編纂などナショナリズムが勃興した。

ロシア皇帝に命を捧げる覚悟をし、軍務に励んできた騎兵将校マンネルハイムは、ロシア皇帝を退位させ、処刑したボリシェビキ、共産党、赤軍を憎悪した。マンネルハイムが騎兵将校として使えた皇后マリヤ・フョードロヴナMaria Feodorovna)は、ロシア皇帝アレクサンドル3世の妃で、出身はデンマーク王クリスチャン9世と王妃ルイーセの次女であり、彼女の兄弟姉妹は、デンマーク王フレゼリク8世、ギリシャ王ゲオルギオス1世、イギリス王妃アレクサンドラと名門中の名門である。そして、皇后マリヤ・フョードロヴナは、ロシア皇帝ニコライ2世の母である。皇帝・皇后を慕っていた騎兵マンネルハイムは、皇后の長男・皇帝ニコライ2世を殺害したボリシェビキを憎悪したのは当然だった。

1735年、清朝第6代皇帝に乾隆帝が即位しジュンガル領タリム盆地、イリ盆地に侵攻、イチェ・ジェチェン(Ice jecen)、すなわち「新拡張領土」の新疆を獲得した。新疆では、軍政が敷かれたが、在地の有力者を登用して自治が認められた。1865年から1870年に、コーカンド・ハン国が新疆に攻め入ったため、新疆奪回のために、1875年に清朝は欽差大臣の指揮の下、軍を派遣して新疆を奪回した。しかし、このころになると、ロシア帝国の影響力が中国との国境付近まで及ぶようになっており、ロシア国境の新疆は、ロシアとの軍事的緊張の下に置かれた。そこで、1884年、清朝は新疆省を設置し、辺境領としての自治ではなく、他の中国領と同じく省都をウルムチとして制度化された支配体制の下に置いた。

写真(右)1908年1月以降、中国清王朝、蘭州、寺院の庭でカメラとノートとを手にしたマンネルヘイム:蘭州の炳霊寺は、支流の奇岩の中にあり、岩窟の石仏もある。マンネルハイムは、1906年から1908年に中央アジア・中国の探検調査を行い、長崎、舞鶴を経由して、ウラジオストクから鉄道でサンクトペテルブルクに帰国した。蘭州(現在は甘粛省の省都)は、黄河南岸に位置し、漢代からシルクロードの重要交易拠点だった。西域・中央アジアに通じる交易ルートの要衝だったために、イスラム教徒(回教徒)も多かった。五泉山の麓、黄河北岸には元代に建立され、明代に修復された白塔寺の仏塔もある。
Mannerheim kameroineen ja muistilehtiöineen pihalla.
Subject place Lanzhou, Kiina
Subject date 1906 - 1908 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Yleisetnografinen kuvakokoelma Suomalais-Ugrilaisen Seuran kokoelma
Inventory ID VKK269:1133
写真は,Museot Finna M012:VKK269:1133引用。


ロシア軍騎兵将校マンネルハイムは、1904年の日露戦争の際には、満州の奉天会戦に参加した。その後、1906年から1908年には中央アジア・中国の探検調査に同行し、日本にも1週間、立ち寄ってから帰国した。
1906年、ロシア軍参謀本部の命により、マンネルヘイムはフランス人ポール・ペリオの中央アジア・極東探検隊の一行に同行して、ロシア周辺地域、特に中国清朝の地理・経済・民情などの情報収集、諜報活動に従事することになった。中央アジア・中国は、清朝、イギリス、日本の影響が強く、中央アジア・極東に接するロシアとしては、国境防衛のためにも、敵情を知る必要があった。マンネルヘイムは、ロシア軍騎兵将校として、馬を使った長期の探検に向いており、フィンランド人ということで、他民族・少数民族からロシア人とは異なった扱いを受けることが期待できた。

1917年11月、独立機運が最高潮に達したフィンランドでは、ペール・エヴィン・スヴィンヒューPehr Evind Svinhufvud;1861‐1944年2月29日)が首相に就任し、12月6日、フィンランド独立宣言Finnish Declaration of Independence)が出された。こうして、フィンランドはロシアから独立し、スヴィンヒュー首相は、帰国した騎兵将軍マンネルヘイムに豊富な経験を活かしてフィンランド防衛軍の創設を依頼したのである。

しかし、1918年初頭、フィンランドには、ロシア軍が従来通り駐留しており、彼らの中には、ボリシェビキ派の赤軍Red Army)も多く、フィンランドの共産主義者とともに、フィンランドを共産化しようとする動きも根強かった。こうして、スヴィンヒュー首相を支持するマンネルハイムの白軍White Army:白衛軍)と親ロシアソビエト派の赤衛軍Red Guards )との武力衝突が勃発した。1918年1月、白軍は、フィンランド防衛を任務とする国防軍となり、赤衛軍の非合法化、弾圧を始めると、ヘルシンキで赤軍が蜂起し、フィンランド内戦が始まった。

写真(右)1918年4月13日、フィンランド南東部、ヘルシンキ中央駅前のカイボ通り(Kaivokatu)、フィンランド内戦でヘルシンキを支配していた赤衛軍を捕虜にして引き立てるドイツ軍:赤軍兵士は、にわか仕込みの義勇兵が主力であり、小銃・拳銃などの武器を持ってはいたが、戦術や組織的戦闘の訓練は積んでいなかった。
punavankeja kuljetetaan Kaivokadun - Henrikinkadun kulmassa Hoffmann, kuvaaja ; Wolff, kuvaaja ; Zimmler Fred, kuvaaja 1918
Subject place Heikinkadun ja Kaivokadun kulmaus, Helsinki
Subject date 1918 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19860105:1.18c Measurements 12 x 16 cm
写真は,Museot Finna M012_HK19860105_1_18c引用。


マンネルヘイムは、フィンランドの白衛軍の指揮権を掌握することをペール・エヴィン・スヴィンヒューPehr Evind Svinhufvud)首相に承諾させ、騎兵大将(Ratsuväenkenraali)となって白衛軍を指揮して、1918年4月にタンペレを赤軍から奪回した。実はこの時期に、リュディガー・フォン・デア・ゴルツRüdiger Graf von der Goltz)将軍率いるドイツ軍1万名が、フィンランド湾の要衝ハンコ岬とヘルシンキの東部に上陸した。ドイツ軍は、ヘルシンキを奪回し、1918年5月16日、フィンランド内戦勝利を記念して、フィンランド国防軍・ドイツ軍は、ヘルシンキ市内で軍事パレードを開催し、市民の祝福を受けた。

フィンランド内戦:赤衛軍を弾圧した青衛軍マンネルヘイム将軍を見る。


1.独立フィンランドの軍事指導者・英雄となったC.G.E.マンネルハイム

マンネルハイムは、軍隊強化のために、1919年2月に徴兵法を制定、士官学校を設立した。1919年5月、フィンランド総選挙が実施され、フィンランドは大統領を頂く共和国となった。1919年7月に、初の大統領選挙が行われ、マンネルハイムも立候補したものの惨敗し、(カールロ・ユホ・ストールベリKaarlo Juho Ståhlberg)が大統領に就任した。「白い将軍」マンネルヘイムは、ロシア帝国には肯定的な認識をもっていたため、反共産主義の立場から、ロシア・ソビエト政権はロシア白軍と共闘して弱体化させたり、イギリスの求めに応じて、フィンランド軍によってペトログラード攻撃を実施したりしようとした。マンネルハイムは、フィンランドの東カレリアの領土を拡大し、ロシア・ソビエト政権を弱体化させ、フィンランドの独立を一層強固なものにしようと、ペトログラード攻撃を説いたのである。ロシア・ソビエトに戦争を仕掛けるような強硬論には、独立を達成したばかりのフィンランドの国民も議会にも賛成しなかったのは当然だった。自分の主張が、フィンランドに政治的には受け入れられないことを知ったマンネルハイムは、公職から身を引いた。

1931年にペール・スヴィンヒュー大統領が就任、マンネルヘイムをフィンランド国防委員会議長に指名した。これによって、戦時には、マンネルヘイムがフィンランド国防軍総司令官に就任することが決まり、1933年、スヴィンヒューはマンネルヘイムを軍人最高位の元帥に昇進させた。 マンネルハイムは、フィンランド軍の強化を進め、カレリア地峡の防衛、動員計画の策定、軍事予算の増額を要求している。

写真(右)1921年5月、フィンランド首都ヘルシンキ中央駅前、鉄道駅前広場、軍事パレードに参加したフィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム( C.G.E. Mannerheim)大将、ローリー・マルンベルク中将:マルンベルク将軍の後ろは、1918年から1921年の国防軍司令官ハンネス・イグナティウス大佐。
Suojeluskunnan paraati Rautatientorilla. Edessä vasemalla suojeluskunnan ylipäällikkö (v.1921 läht.) kenraaliluutnantti Lauri Malmberg, oikealla C.G.E. Mannerheim. Mannerheimin takana eversti G.D. von Essen (suojeluskunnan ylipäällikkönä v. 1918- 1921. Malmbergin takana kenraali Hannes Ignatius. -- negatiivi, nitraatti, mv.
Subject place Helsinki, Rautatientori.
Subject date 1921 mahd. Organisation Helsinki City Museum
Inventory ID N39079 Measurements 10x15 Photo info: 1921 mahd. Helsinki, Rautatientori. Roos Rafael, Valokuvaaja Museot Finna HKMS000005:00000uyd引用。


ロシア革命の歴史を振り返れば、ロシア・ソビエト新政権は、1917年以来の帝国派ロシア旧軍人の白軍による反乱、1918年以来のポーランド・ウクライナ・バルト諸国・フィンランドなどの独立闘争・反乱、日本・アメリカのシベリア出兵干渉、1922年までのポーランドによる干渉戦争など、外患に苦しめられた。旧ロシア周囲国はことごとく新政権に反旗を翻したといってよい状況で、共産党指導部は民族独立を認めつつも、ロシアの弱体化、領土喪失を嘆き、悲嘆していた。しかし、不屈の意志を持った共産主義者は、いつか領土を威厳を取り戻すという「臥薪嘗胆」を決意した。外国による圧力に苦しんだのは、ロシアの国力が衰退したからであり、外交的にも軍事的にも劣位にあったからであると考え、農業の集団化、五か年計画に基づく重工業化を早急に達成しようと「戦時共産主義」を推し進めた。その結果、国力を取り戻したと感じたソ連指導者スターリンは、今度は、ロシアの威信をかけて、領土回復を進め、自国の安全保障のために、国境を外側に広げる必要を痛感していたのであろう。

ドイツ軍はロシア革命の混乱に乗じて、黒海に面したウクライナから、さらに奥地のグルジアGeorgia)(ジョージア)、バルト海沿岸まで軍を進めており、これと和解するロシア・ソビエト新政権は1918年3月3日、ブレスト・リトフスク条約で、領土割譲など大幅な譲歩を余儀なくされた。新生ロシア・ソビエト政府は、第一次大戦から離脱して、一旦は戦争避けることができたものの、領土喪失、その後の内戦、外国の干渉戦争によって、国家の安全保障は大いに脅かされることになったのである。革命を輸出すると西欧で危惧されていたボリシェビキBolshevik)だったが、実はロシア革命への干渉戦に怯え、外国による圧力に苦しんでいるというのが実情だった。

ロシア・ソビエト新政権は、1918年3月3日にドイツと結んだブレスト・リトフスク条約によって第一次世界大戦から正式に離脱した。しかし、この講和によって、ロシアは、フィンランド、バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)、ポーランド、ウクライナ、トルコの国境地帯の領土を放棄させられた。このような外国によるロシア革命政府への干渉戦争の経験は、ソ連の指導者にとって、苦い経験であり、国際外交関係の強弱が一国の盛衰を決めるといった力の外交の重要性を理解させた。

写真(右)1937年6月4日、フィンランド首都ヘルシンキ、70歳の誕生日式典に出席するために家を出るフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:白いドレスの女性が花を撒いて、偉大な軍事的指導者の古希を祝福している。反革命、共産主義革命、ボリシェビキの反乱を鎮圧した軍人がフィンランドの英雄では、ソ連指導者スターリンは、フィンランドを嫌っていたに違いない。
marsalkka Mannerheim lähdössä kotoaan 70-vuotisjuhlallisuuksiin kukin koristeltua reittiä pitkin Pietinen, kuvaaja 1937 ovesta tulossa järjestyksessä marsalkka Mannerheim, eversti Armas-Eino Martola ja majuri Sven Björkman .
Subject place Kaivopuisto, Helsinki Subject date 4.6.1937 Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Björkman Sven Martola Armas-Eino.
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma Inventory ID HK19670603:16353
写真は,Museot Finna HK19670603:16353 引用。


写真(右)1937年6月4日、フィンランド首都ヘルシンキ、議会中央広場で70歳の誕生日式典でフィンランド国防軍を閲兵するカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:左からハラルド・オケルマン少将、ルドルフ・ヴァルデン少将、ヒューゴ・オスターマン少将、マーティン・ウェッツァー少将、アクセル・エリック・エインクス少将、アクネス・エリック・ヘインリクス少将、ヘンキース・イグナティウス少将、ヘンキース・ケンコーニ、マンハイム元帥。
kenraalit vasemmalta: kenraalimajuri Harald Åkerman, tuntematon, kenraalimajuri Rudolf Walden, kenraaliluutnantti Hugo Österman, jalkaväenkenraali Martin Wetzer, kenraalimajuri Walter Holmberg, kenraalimajuri Axel Erik Heinrichs, kenraaliluutnantti Hannes Ignatius, kenraalimajuri Heikki Kekoni, marsalkka Mannerheim ja kenraaliluutnantti Lauri Malmberg vaaka, mustavalkoinen.
Aiheen paikka Senaatintori, Helsinki Aiheen aika 4.6.1937 .
Aiheen toimija Mannerheim Carl Gustaf Emil Wetzer Martin Åkerman Harald Walden Rudolf Ignatius Hannes Kekoni Heikki Österman Hugo Holmberg Walter Heinrichs Erik Malmberg Lauri .
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma
Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma Inventaarionro HK19670603:16374
Mitat 6 x 9 cm Kuvaustiedot: 4.6.1937 Senaatintori,Helsinki Pietinen, kuvaaja
写真は, Museot Finna HK19670603:16374引用。


写真(右)1937年6月4日、フィンランド首都ヘルシンキ議会中央広場、カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍古希70歳の誕生日式典
Mannerheimin 70-vuotisparaati Senaatintorilla Helsingissä
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Kansatieteen kuvakokoelma Uuno Peltoniemen kokoelma .
Inventory ID KK5575:4945 Measurements 5 x 6 cm Photo info: 1937 Helsinki Peltoniemi Uuno, kuvaaja .
写真は, Museot Finna KK5575:4945引用。


写真(右)1937年7月30日、フィンランド首都ヘルシンキ、世界選手権の時のペール・エヴィン・スヴィンフヴュー(Pehr Evind Svinhufvud)元大統領、キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)大統領、カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍(右奥):ペール・エヴィン・スヴィンフヴューの大統領在任期間は、1931年3月1日 - 1937年3月1日。彼は、1917年11月にフィンランドの初代首相に就任するも、フィンランド共産主義革命のために一時亡命、反革命軍を組織し、1918年5月には、共産主義者・ボリシェビキを武力弾圧する白色テロルを指揮した。1930年から1931年まで首相、1931年から1937年まで大統領を務めた。キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)大統領は1922年から1937年まで度々首相を務め、1937年3月1日から1940年12月19日の間、大統領として在任。
presidentit Svinhufvud ja Kallio sekä marsalkka Mannerheim tulossa ammunnan MM-kisoihin Saurén Gösta, kuvaaja 1937 vasemmalta: P.E. Svinhufvud, Kyösti Kallio ja C.G.E. Mannerheim vaaka, mustavalkoinen.
Aiheen paikka Malmi, Helsingin mlk. Aiheen aika 30.7.1937 Aiheen toimija Svinhufvud Pehr Evind Kallio Kyösti Mannerheim Carl Gustaf Emil.
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK19910224:1 Kuvaustiedot: 30.7.1937 Malmi,Helsingin mlk. Saurén Gösta, kuvaaja
写真は, Museot Finna M012:HK19910224:1引用。


ペール・エヴィン・スヴィンフヴュー(Pehr Evind Svinhufvud)は、 1914年、反ロシア政府の咎でシベリア流刑にされたが、1917年11月にはフィンランドの初代首相に就任した。その直後、フィンランドの共産主義革命のために一時亡命を余儀なくされたが、反革命軍を組織し、1918年5月には、フィンランド内戦で共産主義者・ボリシェビキを武力弾圧する白色テロルを指揮した。1930年から1931年まで首相を務めた後、ペール・エヴィン・スヴィンフヴューは、1931年から1937年まで大統領を務めた。その後を継いだのが、キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)大統領である。彼は、1918年のフィンランド内戦では、赤軍(共産軍)から逃れていたが、ドイツ軍の侵攻によりフィンランドが赤軍から解放された後、反共産主義者として政界入りした。1922年から1937年まで度々首相を務めたキュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)は、政治経験が豊富だった。キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)は、1936年から翌年まで首相として内閣を率いた後、スヴィンフヴュー大刀リョの後任大統領として、1937年3月1日から1940年12月19日まで間、フィンランド大統領として在任し、冬戦争の敗北後に、大統領を辞任した。

写真(右)1939年5月16日、フィンランド首都ヘルシンキ、大広場(現在の上院広場)でフィンランド軍兵士を閲兵するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:共産主義革命、ボリシェビキの反乱に勝利した記念の式典であり、フィンランドの反ソビエト感情の表れと、ソ連指導者スターリンは思ったに違いない。
Mannerheim seurueineen tarkastaa suojeluskuntien paraatin 16.5.1938 Suurtorilla (nykyinen Senaatintori). .
Subject place Helsinki, Senaatintori Subject date 16.05.1938 Organisation Helsinki City Museum Measurements 5x8.
Photo info: 16.05.1938 Helsinki, Senaatintori Pohjanpalo Jorma, Valokuvaaja
写真は, Museot Finna HKMS000005:km0000ofue引用。


マンネルヘイムは、フィンランド国防軍最高指導者として、ヘルシンキ中央広場で、内戦終戦20周年独立記念日に退役軍人を前に挨拶した。これは、1918年、ロシア革命に乗じたフィンランド独立とそれに伴う政権争いの内戦に勝利した記念である。つまり、フィンランドの親ロシア共産主義者・ボリシェビキの暴動を鎮圧し、内戦を終結させたことを祝っている。この内戦終戦20周年記念に独立戦争の退役軍人に挨拶をし、最前線ではこのイベントのラジオ放送がなされている。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド首都ヘルシンキ、中央広場で、内戦終戦20周年独立記念式典で退役軍人を前に挨拶するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:1918年、ロシア革命に乗じ独立したフィンランドでは、共産主義者・ボリシェビキがソビエト連邦への参加を画して内乱を起こした。これを、白軍を使って鎮圧したのが、マンネルハイムだった。写真中央手前に、この式典をラジオ放送するための放送客員がうつっている。共産主義革命、ボリシェビキの反乱に勝利した記念の式典であり、フィンランドの反ソビエト感情の表れと、ソ連指導者スターリンは思ったに違いない。
sotamarsalkka Mannerheim tervehtii vapaussodan veteraaneja sodan päättymisen 20-vuotisjuhlaparaatissa Kauppatorin laidalla Pohjois-Esplanadilla, marsalkka Mannerheim oikealla valkoisessa hatussa. Kuvan etualalla Yleisradion työntekijä radioi tapahtumaa.
Subject place Pohjois-Esplanadi 1, Kauppatori, Helsinki Subject date 16.5.1938.
Inventory ID HK19670603:18520 Measurements 6 x 9 cm Photo info: 16.5.1938 Helsinki Pietinen, kuvaaja
写真は, Museot Finna HK19670603:18520引用。


1939年8月13日、フィンランドで開催された内戦勝利20周年式典は、1918年、ロシア革命時に独立したフィンランドにおける共産主義者・ボリシェビキ反乱鎮圧の記念式典である。1918年の革命派の赤軍の鎮圧にあたったのが、白軍(反革命軍)で、その将校がマンネルハイムだった。ロシア帝国の一部だったフィンランドの共産主義革命をつぶし、ボリシェビキの反乱を鎮圧したマンネルヘイムが英雄であるとするフィンランドの国民感情を、フィンランドの反ソビエト感情の表れとみなしたソ連指導者スターリンは、フィンランドを警戒し、その力を弱体化しようと考えたに違いない。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習に参加したフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Karjalan kannas 1939.08.13
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Marsalkka Mannerheim on juuri tarkastanut paraatijoukot. Vierellä vasemmalla kenraaliluutnantti Harald Öhquist ja oikealla kenraaliluutnantti Hugo Österman.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111634引用。


ハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist;1891ー1971)中将は、1915年、ドイツ軍側で第一次世界大戦に参戦した経験を活かして、独立間もないフィンランド軍の創設に1918年に加わった。ロシア革命に乗じたフィンランドのボリシェビキ、共産主義者を鎮圧するフィンランド内戦に従軍した。1925年にフィンランド国防軍の第2師団長を拝命、1937年にはヒトラー率いるナチ党政権下で密かに育成されていたドイツ軍とも接触している。1939年に始まった冬戦争では、ソビエト連邦と領土争いの場となったカレリア地峡を防衛する第2軍団を指揮した。1939年12月には、ソ連軍への反撃を強化したが、1940年2月には、増強されたソ連軍に押し返された。

冬戦争敗北後、ハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将は、冬戦敗北後、フィンランド国防軍を再建し、対ソ復讐戦争の準備をした。1941年7月から1942年1月まで、ドイツ国防軍総司令部に派遣され、ドイツ駐在のフィンランド軍代表として、ソ連侵攻に協力した。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍自転車部隊(銀輪部隊)の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Joukot tervehtivät marsalkka Mannerheimiä
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111666引用。


wikipediaは「オーキュストは、ドイツとの協力の支持者であったが、フィンランド軍が大規模な作戦に巻き込まれないようにあらゆる努力を払った」というが、これは1943年に入って、ドイツがスターリングラードで大敗するなど、戦局が悪化した後の行動である。継続戦争開戦当初は、ハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将は、ソ連に割譲を余儀なくされたカレリア地峡を奪取し、レニングラードを包囲するなど、1942年〜1944年、カレリア地峡軍司令官として。ソ連撃破に積極的に取り組んでいる。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍自転車部隊(銀輪部隊)の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Joukot tervehtivät marsalkka Mannerheimiä
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111668引用。


アイモ・カールロ・カヤンデルAimo Kaarlo Cajander;1879-1943年1月21日)は、独立後フィンランドの国防大臣を1928年から1929年に努め、1937年3月12日には、中道連立内閣を組閣し、首相を務めた。外交上は、ソ連の圧力に対抗する必要上、ナチ党ヒトラーのドイツの政治力に注目し、ドイツ再軍備後は、ドイツの軍事力をフィンランドの独立に寄与させようとした。しかし、ソ連は1939年3月、レニングラードの死活的な交通路に当たるフィンランド湾内のフィンランド領の小島を租借し、カレリア地峡の割譲を、北部の東カレリアとの領土交換を要求した。フィンランド側は、1939年4月、カヤンデル首相がソ連の要求を拒否し、軍事的解決ではなく、平和による解決を望んだ。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍のパベシ(Pavesi)トラクター牽引のフランス製シュナイダー(Schneider)1917年式15口径152ミリ榴弾砲と砲車の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Pavesi-traktori vetää 152 mm:n haupitsia.;
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111675引用。


フィンランド軍は、フランスのシュナイダー(Schneider)社から1917年式15口径152ミリ榴弾砲(152mm H 17)を、1924年に4門、1928年に8門をフランスから購入している。1917年式15口径152ミリ榴弾砲(152mm H 17)は、重量3300?、砲口初速:453m/秒、最大射程:10.3km、仰角:0度から42.3度、旋回:左右30度、性能的には1915年式15口径152ミリ榴弾砲(152mm H 15)と全く同じであるが、砲架の車輪が全金属製から空気圧式ゴムタイヤに変更になった。これは、自動化・高速機動のために必要な変更だった。フィンランド軍では、イタリア製のパベシ(Pavesi)トラクターを9輌導入して牽引させている。

写真(右)1939年8月7-12日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習に参加したフィンランド国防軍のイギリス製ビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton):イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)は、1928年にビッカース・アームストロング社が開発した戦車だが、イギリスでは採用されず、各国への輸出用戦車となった。フィンランドは、1936年、32両をヴィッカース社から購入することを決めた。搭載した主砲は、スウェーデン、ボフォース社開発になる37ミリ戦車砲である。1939年-1940年の「冬戦争」にはビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)が実戦投入された。
Kannaksen sotaharjoitukset 7. - 12.8.1939. Kuvassa Vickers-panssarivaunuja marssilla..
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Defence Forces sa-kuva-111678引用。


イギリス製ビッカース6トン戦車Vickers 6-Ton)は、1928年にイギリス有数の兵器メーカーであるビッカース・アームストロング社が開発した完全装軌式、360度回転砲塔を備えた斬新な戦車だったが、イギリス陸軍は制式せず、各国に輸出された戦車となった。フィンランドでは、1933年に輸入し試験したが、高評価だったために、1936年から32両をビッカースから購入する決定を下した

しかし、ビッカースでの生産は遅々として進まず、フィンランドの発注した6トン戦車の配備は遅れた。1939年になって部隊配備されたビッカース6トン戦車F型Vickers 6-Ton Mark F)が搭載した主砲は、隣国スウェーデンに発注したボフォース37ミリ戦車砲である。1939年-1940年の「冬戦争」にはビッカース6トン戦車F型Vickers 6-Ton Mark F)13輌が、第4戦車中隊に配備された。冬戦争では、ビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)は、対峙したソ連軍T−26軽戦車の46口径45ミリ砲と比較して威力が弱かった。そこで、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲した46口径45ミリ砲をに変換されたが、このソ連戦車は、イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)を原型とした戦車だった。つまり、ソ連とフィンランドは同じイギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)で戦ったのである。

ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)の諸元:

全長 4.56 m 、全幅 2.41 m
全高 2.16 m 乗員 3 名
総重量 7.35 t
懸架方式 リーフスプリング・ボギー式
最高速力(整地) 35 km/h
航続距離 160 km(路上)、90 km(不整地)
兵装 47 ミリ戦車砲1門 、車載機銃 7.7ミリ機関銃1丁
装甲:5-13 mm
発動機 アームストロング・シドレー空冷4気筒ガソリン(80馬力)

写真(右)1939−1940年、フィンランドの首都ヘルシンキ、ヘルシンキ大聖堂・元老院広場から西400メートルの三人の鍛冶屋像:1932年フェリックス・ニュルンド (Felix Nylund) 作「三人の鍛冶屋像」(Kolmen sepän patsas)は、ヘルシンキ中央駅から徒歩5分で、この通りは、後にマンネルヘイミンティエ(Mannerheimintie)と改称された。鍛冶屋像は、継続戦争中の傷跡も残っているが、現存している。
Kolmen sepän aukio ja Kolmen sepän patsas Aleksanterinkadun ja Heikinkadun (myöh. Mannerheimintie) risteyksessä
Subject place Helsinki Subject date 1939 - 1940, todennäköisesti 1939
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma Börje Sandbergin kokoelma
Inventory ID HK6869:6.1 Measurements 36 x 24 mm
写真は,Museot Finna musketti.M012:HK6869:6.1用。


1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をしたが、10月には、ソ連が再びフィンランドに領土要求、ソ連軍駐留権の要求を突き付けてきた。フィンランドは、ソ連による要求を拒否し、10月には、動員を開始し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急体験を認める共和国防衛法を布告した。1939年11月30日、ソ連がフィンランドを攻撃し、冬戦争が始まった。その後、中立的なリスト・リュティ首相が任命された。

写真(右)1939−1940年、フィンランドの首都ヘルシンキ南部、南港に面した市場広場:市場広場(Kauppatori 1939)は、ヘルシンキ中央駅から600メートル、この通りは、現存でも、ベリー・ニシン・サーモンなどの食料から、毛皮・帽子が売られている観光地で、屋台が並んでいる。
Kauppatori Aarne Pietinen Oy, kuvaaja 1939–1940
Subject place Helsinki Subject date 1939 - 1940 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Börje Sandbergin kokoelma
Inventory ID HK6869:10.22 Measurements 36 x 24 mm
写真は,Museot Finna musketti.M012:HK6869:10.22">用。


フィンランドは1939年3月にソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けた。しかし、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、不当なソ連の要求を拒否し、フィンランドの尊厳維持を支持する国民の期待に応えた。しかし、ポーランドの東半分を、ヒトラードイツとの合意の下、保障占領していたスターリンは、バルト三国への圧力を強めており、ソ連の威信を失わせるような領土交換拒否というフィンランドを許さなかった、1939年11月30日、ソビエト連邦はフィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発した。


2.1939年11月30日-1940年3月13日、ソ連のフィンランド侵攻「冬戦争」(talvisota)のマンネルハイム将軍


写真(右)1939年11月30日、冬戦争の初日、ソ連空軍機の空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ市街地
;すでに第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。
raunioita Helsinkiä pommitetaan talvisodan ensimmäisenä päivänä Aineistotyyppi Kuva
Aiheen paikka Helsinki
Aiheen aika 30.11.1939
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma
Inventory ID HK19670603:19389 Measurements 9 x 6 cm
写真はMuseot Finna HK19670603:19389用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

1939年9月1日、第二次大戦は始まっていたが、ドイツがフランス・イギリスと対峙した西部戦線では、まだ都市爆撃、民間人への空襲は起きていなかった。西側では、1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘する、と認識されており、都市爆撃を回避させていたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。それとも、第二次大戦当初のドイツ軍によるワルシャワ空襲で戦略爆撃の有効性を認識して、開戦劈頭にヘルシンキ空襲を実施したのであろうか。

フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

写真(右)1939年11月30日、冬戦争の初日、空爆によって破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキのヘルシンキ工科大学:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Teknillinen korkeakoulu talvisodan ensimmäisen pommituksen jälkeen
Subject place Helsinki Subject date 30.11.1939
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Evert Johannes Nyströmin kokoelma Inventory ID HK19610401:209 .
写真は,Museot Finna HK19721231i:1用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド中東部、ソ連空軍機による空爆で破壊されたクフモ(Kuhmon)村;クフモ (フィンランド語: Kuhmo)は、フィンランド、カイヌー県ケヒュス=カイヌー郡に属する。現在、人口は1万人でロシア国境に面している。19世紀から木材を蒸して抽出するタール(木液・乾留液)の生産が盛んだった。冬戦争に際し,ソ連軍の主力攻撃地点となったため、激戦地となった。
Kuhmon kirkonkylä palaa pommituksen jälkeen Veikko Kanninen, valokuvaaja 1939–1940 Organisation Museokeskus Vapriikki Collection D/748 Inventory ID 748:33 Photo info: 1939-1940 Kuhmo, Suomi Veikko Kanninen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna Inventory ID 748:33用。


第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。

フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

写真(右)1939年12月1日、雪の降る夜、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-103爆撃機の機首を検分するフィンランド軍兵士:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」を墜として満喫している様だ。
Lentokone Koljolassa (Ryssän kone) joulukuussa 1939. Alasammuttu Tupolev SB-2M-103 (SB-2) pommittaja. Koneen vieressä (oik.) radioselostaja Pekka Tiilikainen. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1939-12-01
写真は,Museot Finna sa-kuva-111146用。


フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になったが、ソビエト連邦は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に、レニングラードの安全保障のために、ソ連領としたいとフィンランドに申し出て、その代わりに北部コラ半島のソ連領を与える領土交換を提案した。しかし、フィンランド人居住地であり、産業的にも重要だったカレリア地方のソ連割譲をフィンランドは拒否した。1949年、冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。

1939年9月1日、第二次大戦は始まっていたが、ドイツがフランス・イギリスと対峙した西部戦線では、まだ都市爆撃、民間人への空襲は起きていなかった。西側では、1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘する、と認識されており、都市爆撃を回避させていたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。それとも、第二次大戦当初のドイツ軍によるワルシャワ空襲で戦略爆撃の有効性を認識して、開戦劈頭にヘルシンキ空襲を実施したのであろうか。

写真(右)1939年12月16日、冬戦争の時期、フィンランド、クイツ(Kuitu Oy)合成レーヨン工場の上に据え付けられたマキシム09-09 口径7.62ミリ機関銃を操作するフィンランド軍兵士:クイツ(Kuitu Oy)は、1938年に設立された合成レーヨン繊維の製造工場で、人工シルク、フィルム、人工ウールを生産。この工場で使用する電気は、1937年に完成したロウヒアラ(Rouhiala)発電所から送電された。つまり、元のキャプションでは、大砲のように記述されているが誤りと。
Kuitu Oy:llä konstruoitu IT-tykki. Kyseessä ilmatorjunnassa käytetty Maxim 09-09 kal 7.62 konekivääri, eli ei alkuperäisen kuvatekstin mainitsemaa IT-tykkiä.
Aineistotyyppi Valokuva Organisation Military Museum Photo info: 1939-12-16.
写真は,Museot Finna sa-kuva-164885用。


フィンランド軍のマキシム09-09 口径7.62ミリ機関銃は、原型はロシア軍のマキシム1905年式重機関銃(7,62 mm Maxim m/1905 )あるい1910年式7.62ミリ重機関銃(7,62 mm Maxim m/1910)である。このロシア軍の優秀な重機関銃をフィンランド軍は、M/09-09 7.62ミリ機関銃の形式で呼称し、生産したのである。

マキシム1905年型7.62ミリ重機関銃(Maxim m/1905)は、口径7,62 mm x 54 R、全長111 cm、銃身長72 cm、重量(銃単体で車輪・銃座等なし)28,25 kg 、発射速度500 - 600発/分、ベルト給弾方式(250 発)だった。大型車輪・坊楯など装備一式の総重量は 36 kg-45 kg、一般的には43.5 kgにもなった。しかし、信頼性が高く、連続発射にも耐えられた。

写真(右)1940年2月24日、冬戦争の末期、フィンランドの首都ヘルシンキ、港湾近くサルミサアリのアルコ社屋根、ソ連空軍機に備えるドイツ製1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)を操作するフィンランド国防軍兵士たち:ドイツの対空機関砲2 cm Flak 30は、フィンランドでは20 ItK/30 BSWと呼称した。ドイツ製1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)は、ラインメタル社で生産期間1934–1939年、総重量890 kg 全長 225 cm、銃身長 130 mm (L/65口径)、弾薬Patruuna 20 mm x 138 B、発射速度 120 発/分から280 発/分、初速 830–900 m/秒、有効射程 1200 m。後に、モーゼル社が改良して1938年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 38)を開発した。銃座の回転と銃身の上げ下げをするのに各々1名の操作手が必要で、この他、弾倉を運搬・装填するにも1名から2名の弾込め手が必要。機銃を指揮する指揮者1名を含め、4-5名で1基を操作することになる。
It.tykki Alkon varaston katolla. Tykkinä saksalainen 20 mm:n ilmatorjuntatykki vuodelta 1930 (20 ItK 30 BSW). Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: 1940-02-24 .
写真は,Museot Finna sa-kuva-115255用。


ドイツ軍の1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、フィンランド軍も20 ItK/30 BSWと命名して採用した。1930年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)は、ラインメタル社が開発したもので、生産期間1934–1939年と大戦前には改良したモーゼル社の1938年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 38)に更新されている。1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、総重量890 kg 全長 225 cm、銃身長 130 mm (L/65口径)、弾薬Patruuna 20 mm x 138 B、発射速度 120 発/分から280 発/分、初速 830–900 m/秒、有効射程 1200 m。

写真(右)1940年、フィンランド、タンペレ、フィンランド空軍が使用したソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov )I-16戦闘機:ソ連空軍時代は主翼に20ミリ機関砲を装備していたが、樹幹中の破損あるいは弾薬の欠乏のために、フィンランド空軍では、国営工場で改造され、主翼の機関銃はイギリス式の7.7ミリブローニング(Browning)機関銃に変換された。引込み式主輪ではなく、引込み式の橇を装備しているが、これは、雪原など極北戦線用の仕様だった。旋回性能など格闘戦は苦手だったようだ。
Neuvostoliittolais-valmisteinen Polikarpov I-16 sotasaalislentokone Polikarpov I-16:ssa oli alunperin siivissä 20 mm tykit. Valtion Lentokonetehdas vaihtoi koneeseen siipiaseiksi 7,7 mm Browning-konekiväärit Aineistotyyppi Kuva Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma VAR Inventaarionro VAR:10210 Kuvaustiedot: 1940-1940 Härmälä, Pyhäjärvi Tampere, Suomi.
写真は,Museot Finna HK19751014:150用。


ソ連空軍ポリカルポフI-16(И-16:Polikarpov I-16)は、ソ連パリカールパフ設計局の開発になる低翼式引込み脚の高速単葉戦闘機で、出現当初は、最先端の設計を具体化したもので、20ミリ機関砲の実用化も早かった。試作機TsKB-12は1933年12月に初飛行し、搭乗員が手動でワイヤを巻き上げる引き込み脚、単葉の高速戦闘機で、同時期のイギリス空軍グラジエーター戦闘機、日本陸軍九五式戦闘機、ドイツ空軍ハインケルHe 51戦闘機は全て複葉戦闘機だった。第二次世界大戦以前から大量配備され、ソ連空軍の主力戦闘機となった。を務めた、世界最初の実用的な引き込み脚を持った戦闘機である。

 第二次世界大戦緒戦にあって、西側で都市爆撃が回避されていた理由は、
1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、
と政治的指導者が考えており、それが軍事的に容易な都市爆撃を回避させていたのであろう。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自信があったのであろうか。

スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。


写真(右)1940年3月7日、フィンランド、タンペレ飛行場、ハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたスキー式降着装置のフィンランド空軍フォッカー D-21(Fokker D.XXI ) 戦闘機
;降着装置は、オランダで開発された時点では、固定脚のゴム車輪だったが、雪原や氷結した湖沼を滑走路にする場合、スキーも有効であると考えられた。そこで、降着装置をスキーとした試験機が行われた。D-21戦闘機は、国営航空機工場でスキー付きの機体が実験的に製造された。
Fokker D.XXI suksien koekoneena Lentokonetehtaan lisenssillä valmistama D.XXI suksien koekoneena. Aineistotyyppi Kuva Organisaatio Museokeskus Vapriikki Kokoelma D/944 Inventaarionro 944:2:37 Kuvaustiedot: 1940-1940 Härmälä, Lentokonetehdas Tampere, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。


オランダで開発されたフォッカー D-21(Fokker D.XXI ) 戦闘機は、固定式脚のゴム車輪で離着陸していたが、フィンランドの冬は寒く、森林の合間にある雪原や氷結した湖沼を滑走路にすることがあった。そこで、開発当初の固定車輪を固定スキーに変換することで、使用範囲が広がると考えられた。そこで、オランダから輸入し、その後ノックダウン生産も行ったフォッカーD21戦闘機の場合も、降着装置をスキーに変更した実験機が、フィンランド国営航空機工場で試作された。そして、スキー付きのフォッカーD21戦闘機が誕生し、試験の結果有効性が確認できたために、スキー付きの機体が製造されるようになった。


写真(右)1940年3月7日、フィンランド、試験的に固定式スキー降着装置を付けたフィンランド空軍ブリュスター(Brewster) 239戦闘機
;ブリュスター(Brewster) 239戦闘機は、アメリカのブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)のフィンランド名である。輸入当初、ブリュスターF2Aバッファローの引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機が開発された。これは、フィンランドが極北戦線仕様に試作したものである。
Brewster 239 -hävittäjässä kokeiltu kiinteä profiloitu suksilaskuteline . Organisation Museokeskus Vapriikki Collection VAR Inventory ID VAR:10211 Photo info: 1940-1940 Härmälä, Pyhäjärvi Tampere, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・VAR:10211引用。


アメリカ海軍は、それまでの複葉、固定脚、開放式風防の艦上戦闘機を近代化するために、1936年に単葉機、折畳み式主翼、引込み脚、密閉式風防の仕様で競争試作の要求を出した。これに対して、老舗メーカーのグラマン、セバスキーとともに新興のブリュスターがB-139(Brewster model 139)を提示し、最も優れた性能を発揮した。しかし、ブリュスターにおける新型艦上戦闘機の生産は遅れたため、グラマンの新型機F4Fワイルドキャットが制式となり、アメリカ海軍の主力艦上戦闘機となった。それでも、アメリカ軍の制式戦闘機として、F2Aはイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されて制式となった上に、第二次大戦の勃発を恐れるベルギー、オランダでもF2Aを陸上戦闘機として購入した。また、フィンランドも、ソ連との戦争に備えて、F2A戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名して部隊配備した。

写真(右)1940年3月7日、フィンランド、格納庫で整備中のハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたフィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機 Mk. IV (Bl-131号機);機首は、操縦手と爆撃手が分離した段差のある型で、平面ガラスで覆われているが、操縦席からの下方視界が制限されていた。この他機首は段差のない一体型もある。
Bl-131 pommikone korjattavana Tikkakoskella, Lent. Laiv. 46. Kyseessä Bristol Blenheim Mk. IV pommikone. Lentolaivue 46:n tukikohta oli Luonetjärvellä Tikkakoskella.
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1940-03-07
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115362引用。


ブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)は、当初、高速旅客機として開発され、1935年に初飛行した。このブレニムの原型機ブリストル142は、全金属製、単葉、引込脚という近代的な構造の高速機で、ドイツのハインケルHe111に相当する機体である。そこで、ブリストル142の高性能に着目したイギリス空軍は、ブリストルにブレニム Mk. I爆撃機の開発を命じたのである。これが、ブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)双発爆撃機で、1936年から生産され、1919年9月の第二次世界大戦勃発時には、イギリス空軍の主力爆撃機として配備されていた。最終的に、5000機以上も量産されたブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)爆撃機は、イギリスドミニオンのカナダでライセンス生産されたほか、フィンランド、ユーゴスラビア、トルコでも輸入機を配備している。

フィンランド軍は、1918年にハカリスティ(Hakarist)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。これは、ドイツの第一次大戦の敗北後、ワイマール共和国時代、反革命義勇軍(フライコール:自由軍団)が用いたスワスチカと同じで、反共産主義、反革命の意味がある。

ソ連は、「冬戦争」でフィンランドに侵略行為に及んだことで、国際連盟を除名され、フィンランド軍相手に戦術的失策を犯したが、何とか勝利することができた。フィンランドは、冬戦争で領土割譲を余儀なくされた。しかし、講和後、フィンランドは、ソ連に対して領土復活のための臥薪嘗胆を覚悟し、将来、ソ連に奪われた領土を奪回する復讐戦争を、マンネルハイム元帥の下に計画、準備した。

⇒写真集:1939-1940年ソ連対フィンランド「冬戦争」を詳しく見る。


3.1941年6月25日-1944年9月19日、フィンランドによるソ連侵攻「継続戦争」(jatkosota)のマンネルハイム将軍

フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。


写真(上)継続戦争勃発時の1940年6月29日、フィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察、校長から挨拶を受けるフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍
;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。
Tuusulan lottakurssit, Mannerheim ja Fanny Luukkkonen Pietinen, kuvaaja 1940 vaaka, mustavalkoinen Aineistotyyppi ?Kuva Aiheen paikka Tuusula Aiheen aika 18.6.1940 Aiheen toimija Luukkonen Fanni Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma Inventaarionro HK19670603:19519 Mitat 6 x 9 cm Kuvaustiedot: 18.6.1940 Tuusula Pietinen, kuvaaja
写真はMuseot Finna・HK19670603:19519引用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、1)ソ連との同盟条約の締結、2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方領土の交換、3)ソ連軍駐留要求、をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができず降伏した。


写真(上)1940年6月29日、冬戦争敗北後、フィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従う女子予備兵部隊指揮官ファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen)とラウリ・マルムベルグ(Kaarlo Lauri Torvald Malmberg)少将

tarkastaa lottarivistöt, Mannerheimin vierellä Fanny Luukkkonen ja takana Lauri Malmberg Aineistotyyppi
Kuva Aiheen paikka Tuusula Aiheen aika 29.6.1940
Mannerheim Carl Gustaf Emil Luukkonen Fanni Malmberg Lauri Grönvall Ragnar
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK10000:886 Kuvaustiedot: 29.6.1940
Tuusula Pietinen, kuvaaja Aiheet
写真はMuseot Finna・HK10000:886引用。



写真(上)1940年6月29日、冬戦争時のフィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従う女子予備兵部隊指揮官ファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen)とラウリ・マルムベルグ(Kaarlo Lauri Torvald Malmberg)少将

marsalkka Mannerheim seurueineen osallistuu lottakurssilaisten kenttäjumalanpalvelukseen Suojeluskuntain Päällystökoululla Tuusulassa Pietinen, kuvaaja 1940 edessä marsalkka, hänen takanaan Fanni Luukkonen ja hänen takanaan vasemmalla kenraaliluutnantti Malmberg vierellään majuri Grönvall vaaka, mustavalkoinen Aineistotyyppi ?Kuva Aiheen paikka Tuusula Aiheen aika 29.6.1940 Mannerheim Carl Gustaf Emil Luukkonen Fanni Malmberg Lauri Grönvall Ragnar Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK19731119:47 Kuvaustiedot: 29.6.1940 Tuusula Pietinen, kuvaaja Aiheet
写真はMuseot Finna・HK19731119:47引用。


写真(右)冬戦争敗北後、1940年6月29日、フィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察、女子予備兵部隊指揮官ファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen)に第1級剣付自由十字勲章(1. luokan Vapaudenristit)を授与したフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍 ;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。
Tuusulan lottakurssit, Mannerheim ja Fanny Luukkkonen Pietinen, kuvaaja 1940 vaaka, mustavalkoinen
Aineistotyyppi Kuva Aiheen paikka Tuusula Aiheen aika 18.6.1940
Aiheen toimija Luukkonen Fanni Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisation Finnish Heritage Agency Collection Historian kuvakokoelma Matkailun edistämiskeskuksen kokoelma Inventory ID HK19731119:48 Photo info valmistusaika: 29.06.1940 Suomi, Tuusula Pietinen, Aarne, kuvaaja
写真はMuseot Finna・HK19670603:19519引用。


ソ連は、「冬戦争」でフィンランドに侵略行為に及んだことで、国際連盟を除名され、フィンランド軍相手に戦術的失策を犯したが、何とか勝利することができた。フィンランドは、冬戦争で領土割譲を余儀なくされた。しかし、講和後、フィンランドは、ソ連に対して領土復活のための臥薪嘗胆を覚悟し、将来、ソ連に奪われた領土を奪回する復讐戦争を、マンネルハイム元帥の下に計画、準備した。

写真(右)冬戦争敗北後、1940年6月29日、フィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察、フィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍に報告をする女子予備兵部隊指揮官ファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen) ;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。
Tuusulan lottakurssit, Mannerheim ja Fanny Luukkkonen Pietinen, kuvaaja 1940 vaaka, mustavalkoinen
Aineistotyyppi Kuva Aiheen paikka
Tuusula Aiheen aika 18.6.1940
Aiheen toimija Luukkonen Fanni Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma
Inventaarionro HK19670603:19519 Mitat 6 x 9 cm Kuvaustiedot: 18.6.1940 Tuusula Pietinen, kuvaaja
写真はMuseot Finna・HK19670603:19519引用。


写真(右)冬戦争敗北後、1940年6月29日、フィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察、第1級剣付自由十字勲章(1. luokan Vapaudenristit)を授けた女子予備兵部隊指揮官ファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen)と握手をするフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍
lottakurssit Tuusulassa, eturivissä Luukkonen, Mannerheim ja Malmberg
Aineistotyyppi Kuva Aiheen paikka
Tuusula Aiheen aika 18.6.1940
Aiheen toimija Luukkonen Fanni Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma
Inventaarionro HK19670603:19519 Mitat 6 x 9 cm Kuvaustiedot: 18.6.1940 Tuusula Pietinen, kuvaaja
写真はMuseot Finna・HK19670603:19502引用。



写真(右)冬戦争敗北後、1940年6月29日、フィンランド南部、ヘルシンキの北30キロ、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校を視察、第1級剣付自由十字勲章(1. luokan Vapaudenristit)を受けた女子予備兵部隊指揮官ファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen)と並んで座るフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍

lottakurssit Tuusulassa, eturivissä Luukkonen, Mannerheim ja Malmberg
Aineistotyyppi Kuva Aiheen paikka
Tuusula Aiheen aika 18.6.1940
Aiheen toimija Luukkonen Fanni Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma
Inventaarionro HK19670603:19519 Mitat 6 x 9 cm Kuvaustiedot: 18.6.1940 Tuusula Pietinen, kuvaaja
写真はMuseot Finna・HK19670603:19542引用。


写真(右)1941年6月21日、フィンランド南西、ヘルシンキ北60km、リーヒマキ(Riihimäki)鉄道駅、「レニングラード - ヘルシンキ」の運航掲示のあるロシアの客車:この同じロシアの客車(ワゴン)の白黒写真も同じように撮影されている。リーヒマキは1862年にヘルシンキ - ハメーンリンナ間に建設されたフィンランド鉄道の駅としてリーヒマキ駅が開業した。1869年には、リーヒマキからロシア帝国首都のサンクトペテルブルクまでの鉄道が開業した。
Venäläinen matkustajavaunu, jossa kyltti Leningrad - Helsinki. Samasta vaunusta kuvattu mustavalkoinen SA-kuva 20331 Riihimäen asemalla 21.6.1941, samoin JSdia047 samasta tilanteesta kuvattu Riihimäellä. Teoksesta Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 31: Pikajuna Leningradiin lähtee.
Organisation Military Museum Photo info: 1941-06-21 Erik Blomberg, valokuvaaja.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia036引用。


しかし、1941年6月25日、フィンランドは、対ソ連「継続戦争」(jatkosota)を始め、フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため侵攻したが、これは1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗したソ連への報復戦争・復讐戦争である。フィンランド軍は、攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回・拡大した。

写真(右)1941年8月29日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、フィンランド軍が奪回したヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)の駅前の破壊の様子:カレリア地方に侵攻したフィンランド軍は、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、8月中には、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、8月31日に解放式典を中央広場で開催。
Viipurin aseman rauniot. Kuvattu todennäköisesti 29.8.1941. Samasta paikasta mustavalkoisia SA-kuvia (esim. 42966-42968), jotka kuvattu 30.8.1941. Niissä taivas puolipilvinen ja aseman raunioista ei nouse enää savua.
Organisation Military Museum Photo info: 1941-08-29 Erik Blomberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166233引用。


ソ連は、「冬戦争」でフィンランドに侵略行為に及んだことで、国際連盟を除名され、フィンランド軍相手に戦術的失策を犯したが、何とか勝利することができた。フィンランドは、冬戦争で領土割譲を余儀なくされた。しかし、講和後、フィンランドは、ソ連に対して領土復活のための臥薪嘗胆を覚悟し、将来、ソ連に奪われた領土を奪回する復讐戦争を、マンネルハイム元帥の下に計画、準備した。

写真(右)1941年8月頃、フィンランド南東、ソ連国境レニングラード近く、フィンランド軍が奪回したヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)での入城式を行った第4軍団司令官カール・レンナルト・オシュ(Karl Lennart Oesch)中将:1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。フィンランドはソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功した。
Kenraaliluutnantti Karl Lennart Oesch Viipurin paraatissa. Kenraaliluutnantti Oesch Viipurin paraatissa, ks. mustavalkoiset SA-kuvat esim. 41110 - 41113, 41118 - 41122.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive .sa-kuva-166303引用。


写真(右)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)、フィンランド軍がソ連から奪い返したヴィープリ解放式典の第4軍団司令官カール・レンナルト・オシュ(Karl Lennart Oesch)中将とフィンランド国防軍情報部長(Aladár Paasonen)中佐:フィンランド軍首脳が、兵士に迎えられて解放式典の会場となった中央広場に向かっている。
Viipurin paraatista. Edessä oikealla paraatin vastaanottanut kenraaliluutnantti Karl Lennart Oesch vierellään eversti Aladar Paasonen. Paasosesta ja Oeschistä Viipurin paraatista mm. mustavalkoinen SA-kuva 41110.Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165833引用。


フィンランドは、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を始め、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、第4軍団司令官カール・レンナルト・オシュKarl Lennart Oesch)中将は、8月下旬、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、奪回した。

写真(右)1941年8月31日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)の中央広場、フィンランド軍がソ連から取り戻したヴィープリ解放式典:軍楽隊も揃って、ソ連から奪還した郷土回復を祝った。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941. Kenraaliluutnantti Oesch tarkastaa joukot Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla. Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツてき立場は明らかであり、レニングラードに近いフィンランド国境にフィンランド軍が集中していることも、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。実際、フィンランド領内のドイツ空軍機がソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を正中するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃である。しかし、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告した。

写真(右)1941年10月13日、フィンランド北部ヴォル湖の近くサッラか、ロシア、ムルマンスク州カンダラクシャへの道:水びだしになるような場所には、木製の渡河用道路が増設されている。森林地帯では、馬による移動や物資運搬も便利であるが、これはフィンランドのように石油を産しない国にとっては燃料節約になる。1941年8月中に、フィンランド軍は、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード近く、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を奪回した。
Sallan-Kantalahden maantie Voittojoelta (Voitajoki) Lyssajan rinteelle päin. Sallan-Kantalahden tie Voittojoen lähellä 13.10.1941. Alakurtti (Salla) - Vilmajoki 1941.10.13 .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランドは、冬戦争で失った領土を奪回するために、愛国的戦争と見なして1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を開始した。つまり、冬戦争の続きとして、領土奪回のための継続戦争を仕掛けたのである。また、当時、ドイツは、イギリス供交戦状態にあったが、フィンランドはイギリスと戦うつもりは全くなく、イギリスの行為を得るために、ドイツ同盟国として、枢軸側に立って第二次世界大戦を戦う、ということではないとの弁明をした。あくまでも敵はソ連だけであり、これは世界戦争の一環ではなく、局地的な二国間戦争に過ぎないというのである。このようなご都合主義の参戦をイギリスは認めなかったた。フィンランドは、事実上、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したとみなされるのである。

写真(右)1942年3月15日、フィンランド北部、ヴェリカヤ・ニバで乗馬やスキーをしている本土防衛ヘーム乗馬連隊:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。
Hämeen Ratsurykmentin (HRR) miehiä ratsain ja hiihtäen Velikaja Nivassa 15.3.1942. Velikaja Niva 1942.03.15
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーヤーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これになじんだ人々を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に協力している。

写真(右)1942年3月15日、フィンランド軍スキー部隊の競技:スキーを履いた兵士がゼッケンをつけて勢揃いしている。
Partio-/hiihtokilpailut Äänislinnassa 15.3.1942. Partio 15. Äänislinna 1942.03.15
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランドは、「冬戦争」の敗北後、ソ連に対して領土復活のための復讐戦争を計画し、マンネルハイム元帥の下で、軍事力を強化した。特に、1940年に、ドイツ軍が、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、大陸を制覇すると、ドイツとソ連の対立が予期される状況になった。そこで、フィンランドは、ナチス・ドイツに接近し、ドイツとの同盟の元にソ連軍に対峙する姿勢を見せた。フィンランド軍は、10個師団以上を編成し、国民義勇軍として、女子や学徒も動員することで、総兵力50万人となった。

写真(右)1942年3月17日、ロシア北部、ムルマンスク州ペチェンガ、フィンランド軍スキー部隊:スキー競技で勝利したパトロール(16番)の中尉が、勝利の後に参加した兵士と話をする。
Luutnantti Tyyskän voittoisa partio (n:o 16). Kenraaliluutnantti Oesch (oik.) tarinoimassa poikien kanssa voiton jälkeen. Äänislinna 17.3.1942. Äänislinna 1942.03.17
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


フィンランドは、1941年6月22日、ドイツによる「バルバロッサ作戦」ソ連侵攻について、中立を宣言していたが、実際には、フィンランド国内にドイツ軍を駐留させ、そこからソ連に対する空襲を黙認していた。そこで、ソ連空軍の報復攻撃を受け、それを参戦の口実にして、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を、かねてからの計画通りに遂行した。つまり、冬戦争の敗北を注ぐための、対ソ連反ボリシェビキ戦争の開始であり、割譲を強要された領土奪回のための愛国的戦争の始まりである。

写真(右)1942年3月17日、ロシア北部、ムルマンスク州ペチェンガ、フィンランド軍スキー部隊:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。
Hiihto-osasto matkalla. Petsamo, Kukkesjaur 1942.04.14
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許さなかった。「継続戦争」と称しているのは、フィンランドのみであり、これは第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いである。フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。


写真(上)1942年4月14日、フィンランド北部、トナカイを使って物資輸送をするフィンランド軍
:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。
Raito seuraa hiihtäjiä. Petsamo, Kukkesjaur 1942.04.14
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive JSdia014引用。


フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、6月27日にソ連に攻撃をかけた。カレリア地峡にしても、フィンランド東部にしても、ソ連国境付近は、森林や湖沼地帯が広がっていたために、道路が冠水したり、泥濘状態になったりして、陸上輸送に支障が出るリスクが高かった。そこで、湖沼・河川が凍結していない期間には、水上交通に依存した作戦も必要となった。

写真(右)1942年7月12日、フィンランド北部、ソ連国境ペチェンガ、ルット川、ボート上で、フィンランド軍従軍牧師エンケル(Esko Kalevi Enkel)が同盟国ドイツ軍の将校と話している。
Erillinen osasto P:n huoltokuljetusta Luttojoella 12.7.1942. Veneessä sotilaspastori Esko Kalevi Enkkelä keskustelee saksalaisen aliupseerin kanssa. Petsamo, Luttojoki 1942.07.12
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


1941年6月26日に始まった第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)では、ドイツ軍によってソ連軍が緒戦で大打撃を受けており、フィンランド方面に配備できるソ連軍は制限され、予備軍を充当するにも、レニングラード防衛が精いっぱいであり、ソ連軍はフィンランドに対する攻勢を仕掛けることができなかった。

写真(右)1942年7月12日、フィンランド北部、ソ連国境ペチェンガ、ルット川、ボート上で、フィンランド軍将校が指示書を読んでいる。:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。
Kotoa on korpeen tullut kirje. Kuvattu 13.-21.7.1942. Petsamo, Luttojoki 1942.07.00
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。


3年2カ月に及ぶ第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Jatkosota)は、北限の死闘であり、雪・氷・霧による航空兵力・軌道兵力の使用が制限され、少数劣勢のフィンランド軍は、大群のソ連軍を相手に善戦できた。気象条件・地形が、大兵力の展開や機動戦を困難にしていたため、フィンランド軍にとって、兵士一人一人の能力を活かせる状況が生まれた。日米戦争で言えば、アリューシャン列島・樺太(サハリン)など北方戦線は、1943年5月のアッツ島攻防戦を除いて、1945年8月まで静謐だったことが思い出される。


写真(上)1942年9月10日、フィンランド中東部、フィンランド陸軍第14師団司令部の女性勤務者に挨拶、激励するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルハイム(Mannerheim)将軍
;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。
Jänis Pauli, kuvaaja 1942 marsalkka Mannerheim tervehtii 14. divisioonan esikunnan lottia, kerrotaan, että Mannerheim hymyili erityisen maireasti kätellessään divisioonan esikunnan kauneimmaksi mainittua lottaa Marjaana Koskelaa Aineistotyyppi ?Kuva Aiheen paikka Tiiksa, Vienan Karjala Aiheen aika 10.9.1942 Aiheen toimija Mannerheim Carl Gustaf Emil Koskela Marjaana Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Valokuvaamo Jäniksen kokoelma Inventaarionro HK7744:328 Mitat 6 x 6 cm
写真はMuseot Finna・HK7744:328引用。


フィンランドは、1939年に、バルト三国同様、ソ連から駐留軍の要求、領土の交換・割譲の要求を受けていたが、それを拒否したために、1939年11月30日、ソ連軍がフィンランドに侵攻した。これが、ソビエト連邦対フィンランド共和国の第1次ソ芬戦争(冬戦争)である。冬戦争の際にイギリス・フランスの市民は、フィンランドに同情したが、ドイツとの戦争が始まっている以上、両国指導者として、新たにソ連を敵としての戦いは、戦略的にはあり得なかった。幸いにも、フィンランドの隣国スウェーデンもノルウェーも、連合国の軍隊通貨の要求を拒否して中立を宣言していたから、連合国もそれを口実に冬戦争には不介入の立場をとった。また、当時のドイツは、独ソ不可侵条約により、西側のイギリス・フランスとだけ戦争を始め、東側のソ連とは静謐を保とうとしており、やはりフィンランドに対する軍事支援は行わなかった。つまり、フィンランドは、国際的に孤立し、大国ソ連の軍事力に力戦奮闘するしか選択の道は残されていなかった。

写真(右)1942年8月18日、大型自動車で前線近くに到着したフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルハイム(Mannerheim)将軍:勝利の後に参加した兵士と話をする。
Mannerheim saapuu Syvärille 18.8.1942. Kuvassa Mannerheimin lahjaksi saama maastoauto. Vas.: 1. ev.luutn. Kraemer, 2. luutn. Fabritius, 3. marsalkka Mannerheim, 4. kenraali Oech, 5. kenraali Blick.
Aineistotyyppi ?Kuva Organisaatio Hyvinkään kaupunginmuseo Kokoelma Kaupunginmuseon kokoelma
Inventaarionro 201104_735 Kuvaustiedot: 18.8.1942 Syväri tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Inventaarionro 201104_735引用。


愛国的な「冬戦争」では、フィンランドは善戦したが、これはソ連赤軍の指揮系統の柔軟性がなく戦術的な失敗を繰り返したこと、ソ連赤軍の兵士の士気が低いこと、ソ連製の兵器が時代遅れで旧式なものだったこと、が原因とされた。たしかに、フィンランドは、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で敗北し、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島の港湾をソ連租借地とするなど、領土割譲要求をのまざるを得なかったが、ドイツも連合国もソ連軍が弱体であるとの認識を確認するに至った。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したのではあるが、それは、ソ連軍が弱かったからであると考えられた。

第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィリピン語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ロシア感情からか、小国・民主主義国フィンランドへの同情からか、フィンランド側の言う「継続戦争」の呼称を多用している。


4.継続戦争(jatkosota)を多国籍の飛行機で戦ったフィンランド空軍


写真(上)1942年6月21日、フィンランド、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機部隊を視察・検閲するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルハイム(Mannerheim)将軍
;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。
Sotamarsalkka Mannerheim tutustumiskäynnillä Äänislinnassa: Solomannin lentokentällä. Sot.virk. M. Wuorela, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-06-21 Sot.virk. M. Wuorela, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-10181引用。


写真(右)1942年6月21日、フィンランド、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機部隊のパイロット(奥)と地上勤務員(手前2人)を検閲するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルハイム(Mannerheim)将軍;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。フィンランド空軍では、鹵獲したソ連空軍ラグLaGG-3戦闘機のクリーモフ M-105液冷V12気筒エンジン1,100馬力に変換しM.S.406戦闘機の性能を向上させた。最高速力は時速480キロから520キロに飛行性能が向上し、「メルケ・モラーヌ」(Mörkö Morane:幽霊モラーヌ)と呼ばれた。
Sotamarsalkka Mannerheim tutustumiskäynnillä Äänislinnassa: Solomannin lentokentällä. Sot.virk. M. Wuorela, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-06-21 Sot.virk. M. Wuorela, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-10180引用。


フランスで1935年8月8日に初飛行したモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.405の発展型がM.S.406戦闘機で、低翼単葉・引込み脚・密閉風防と近代的な戦闘機で、第二次大戦前の1938年から1,000機以上量産された。機体は、全金属製ではなく、胴体後半は金属骨格・羽布張りで軽量構造だったが、第二次世界大戦勃発時のフランス空軍の主力戦闘機だった。搭載した発動機は、イスパノ・スイザ 12Y31V12気筒液冷エンジンで、850馬力は出力不足だったが、最高速力486km/h、航続距離800km、実用上昇限度9,500m、上昇力5,000mまで6分、兵装は20ミリHS.404モーターカノン1門 7.5ミリMAC 1934機銃2丁と、出現当初は強力だった。ドイツのBf109戦闘機に比較して、モラーヌ・ソルニエM.S.406戦闘機は、エンジン出力不足で飛行性能は劣ったが、フランスのほかに、スイス・フィンランド・トルコにも売却され、使用された。特にフィンランド空軍では実戦使用された。また、継続戦争に際しては、鹵獲したソ連空軍ラグLaGG-3戦闘機から取得したイスパノ・スイザエンジン同型クリーモフ M-105液冷V12気筒エンジン1,100馬力に変換したモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機は、最高速力520km/h、実用上昇限度10,000mと飛行性能が向上し、「メルケ・モラーヌ」(Mörkö Morane:幽霊モラーヌ)と呼ばれ、好評だった。

写真(右):1991年、ヘルシンキ、フィンランド航空博物館に展示したあったフィンランド空軍がソ連空軍から鹵獲して訓練用に使用したポリカルポフ I-16(Polikarpov UTI-4 (I-16UTI))複座練習戦闘機:1941年に始まった継続戦争で、フィンランド空軍がソ連空軍から鹵獲して使用した。
SDASM Archives
Polikarpov UTI-4 (I-16UTI)
Title: Polikarpov UTI-4 (I-16UTI) Date: 1991 ADDITIONAL INFORMATION: Fin Air Museum, Helsinki Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Soviet Aircraft Page #: 6 Tags: Soviet Aircraft, Charles Daniels
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive catalog #: 15_002214引用。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

写真(右):写真(右):ソ連空軍の迷彩塗装を施したツポレフSB-2(Tupolev SB 2M-100)爆撃機:ソ連は1930年代から引込み式降着装置の付いた戦闘機、爆撃機を使用していたが、当時は、固定脚の戦闘機、爆撃機も普通だった。ソ連が中国に有償譲渡した新鋭機は、日中戦争で日本陸海軍航空隊と戦った。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45937744 - Catalog:16_007152 - Title: Tupolev SB 2M-100 - Filename:16_007152.TIF - Image from the Ray Wagner collection.
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog:16_007152引用。

1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)が締結されたが、この背景は、第一に、中国国民党の蒋介石が国共合作、一致抗日を認めたことである。中国共産党軍(紅軍)を国民党の国民革命軍に編入し、抗日戦争を戦うことは、ソ連にも有利だった。第二の理由は、ソ連にとって、極東における日本の軍事的脅威を緩和し、ヨーロッパ方面に軍事力を集中するには、日中戦争を戦う中国の軍事力増強が有利だったことである。ソ連が、1937年の日中戦争勃発に際して、日本に対する軍事的圧力を高めなかったのは、アジア・旭東方面よりも、ヨーロッパ方面を重視していた地政学的配慮のためであろう。日本の国力では、中国一国を降伏させることはできないと、スターリンは日本の中国侵略が、ソ連の安全保障に有利に作用することを見抜いていた。そこで、1939年の第二次大戦勃発で、バルト三国、フィンランドに対する軍事的圧力をかけ、ソ連の西部国境をさらに西に進めるような侵略的防衛行為を推し進めた。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

フィンランド空軍は、輸入機と軍事・技術顧問を雇い入れてスタートしたが、1939年冬戦争以降は、共産主義国ソ連から、全金属製・単葉・引込み脚のwww.aviation-history.com/polikarpov/i16.htmlPact">Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)など、当時の最新鋭機を手に入れることができた。フィンランド空軍は、新鋭高速軍用機を鹵獲して、戦力化したのである。

写真(右)1943年10月3日、フィンランド、フィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim:BL-kone)) 双発爆撃機Mk I.;イギリス製の爆撃機を購入し装備した。
(BL-kone) Suomalainen pommituskone valmistautuu pitkälle tiedustelulennolle vihollisen selustaan. Lentokone on Bristol Blenheim Mk I. Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-10-06 Sot.virk. Pärttyli Virkki, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-150249引用。


1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。

wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争の歴史も、フィンランドの民主主義とナチ党との類似点も理解していない誤解である。

フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。

当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。

ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北しており、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の際に、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。1941年7月、総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻した。

フィンランドが継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。

しかし、1944年、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を想起させるのを忌避する方便であろう。

1930年にフィンランド空軍は、ドイツからユンカースW 34輸送機1機を購入し、さらにW43輸送機の水上機型のK 43水上機6機をスウェーデン空軍から購入した。1941年7月に、ソビエト連邦との継承戦争を戦うに際しては、長距離偵察・哨戒機として前線に送られたが、前線から傷病兵を後方に搬送する患者輸送機としての任務にも就役した。1944年春、フィンランド空軍は、さらに5機のユンカースW 34輸送機を購入したが、これらは訓練用の練習機として使用されたようだ。戦後にこれらユンカースW34/K43輸送機は、フィンランド国境警備隊で1950年まで使用された。

写真(右)1941年9月6日,フィンランド中西部・ソ連、北緯64,09度、西経 31,92度、ヘルシンキ=ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、発進するフィンランド空軍所属のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機(登録コード:tunnus; JU-124)を見送る地上勤務の隊員たち。手を振る婦人も軍服を着ており、フィンランド軍のK43水上機は負傷者搬送に使用されたので、従軍看護婦あるいは女性兵士のようだ。:コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備しており、白色塗装、赤十字マークも付けていないので、国際赤十字で定められた救難機・患者輸送機ではない。
Kuvassa on Junkers K 43fa. Kuvaaja:Kapteeni E.J.Paavilainen
写真は,The Finnish Defence Forces・Kuvan numero 47725引用。


ユンカースK 43fa輸送機の諸元:
搭乗員: 2名、 乗客: 3-6名
全直:11,13m、全幅i: 17,75m
全高: 3,90m、主翼面積:44平方メートル
空虚重量: 1885kg、全備重量: 3200kg
発動機: 1× BMW 132
最高速力: 220km/h  巡航速力: 180km/h
航続距離: 1700km 上昇限度: 5300m

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相チェンバレンは,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。
その混乱に乗じたソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様に、フィンランドにも領土要求をし、併合する構えを見せた。しかし、フィンランドは、この要求を断固拒否、そこで、ソ連赤軍は、1939年11月30日、フィンランド南部に攻撃を加えた。こうして、フィンランド冬戦争が始まった。

フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。

⇒写真集:第二次ソ芬「継続戦争」のフィンランド空の戦いを詳しく見る。

1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

1940年4月9日、ドイツ軍はデンマークとノルウェーに侵攻、理由は、スウェーデンの鉄鉱石を不凍港ナルビクNarvik)を通じて安定して輸入するためだったが、イギリスがノルウェーの機雷封鎖や保障占領を企図していることもあった。このノルウェー侵攻「ウェーゼル演習作戦」では、四発大型旅客輸送機ユンカースJu-90が、オスロに兵員を輸送した。デンマークは侵攻初日の4月9日、国王クリスチャン10世Christian 10)、デンマーク政府が即座に降伏したが、ノルウェーは、イギリス軍の支援を受けて、激しく戦った。しかし、ドイツ軍のフランス侵攻で、5月下旬にはフランスの危機、イギリスの孤立化が確実になったため、ノルウェーの連合軍は6月に撤退した。ノルウェーには傀儡ヴィドクン・クヴィスリングVidkun Quisling)政権が樹立され、ドイツ潜水艦Uボートの基地となった。

写真(右)1941年7月30日,フィンランド中西部、ヘルシンキ=ムルマンスク中間、カレリア地方、テークシャロビ(Tiiksjärvi)湖、フィンランド空軍所属のユンカース(Junkers) K 43 fa水上患者輸送機「ピッコ・ユノ」``Pikku-Junnu ? ?(リトル・ジェンヌ;小さな娘)(登録コード:JU-124)。負傷者を搬送している。
Lääkintähuoltoa(医療) , sairaskuljetus lentoteitse Vilho Uomala, valokuvaaja Lääkintähuoltoa(医療), , sairaskuljetus lentoteitse. Elo-Syyskuu 1941. Lentokone(航空機) on Junkers K 43f.
Aineistotyyppi:Valokuva (写真)
写真は,Museot Finna引用。


1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi?Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ:Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。

継続戦争は、1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドがソ連と戦った戦争である。戦争当事国の一方であるソ連は、フィンランドの侵入を受け、それを防いだ「大祖国戦争」の一環であり、すなわち第二次世界大戦の一部である。フィンランドは、国土を奪ったソ連とは戦うが、イギリスとは戦わないという釈明をした。

他方、イギリスは、1941年6月の独ソ戦開始前から、ソ連にドイツがソ連攻撃を計画していることを事前に連絡し、独ソ戦開始後も、直ぐにソ連邦への軍事援助を表明しているが、これはドイツ打倒を最優先し「ヒトラーを倒すためには、悪魔とも手を結ぶ」と公言していたW.チャーチル首相にとって、当然のことだった。したがって、イギリスは、フィンランドがソ連とのみ領土奪回の目的で、1939年の第二次大戦開始直前の「冬戦争」を継承しているのであって、イギリスと戦火を交えるつもりはないという方便を認めていない。

第二次世界大戦中の1941年6月22日、ドイツは、バルバロッサ作戦を発動し、独ソ不可侵条約を保護にして、ソビエト連邦に攻め込んだ。それから3日後、1941年6月25日、フィンランドもソ連に侵攻した。これは、1939年の冬戦争でソ連に奪われた国土(カレリア)を奪回するための戦争だったが、ソ連は、イギリス・アメリカの軍事支援を受けていた連合国側になっていた。

フィンランドは、イギリス・アメリカの反共産主義勢力を過大評価し、ソ連に対する軍事支援が、実際に大規模に行われるとは予測していなかったのかもしれない。あるいは、イギリスを孤立に追い込んでいたドイツの戦力を過大評価し、あえてソ連に戦いを挑む好機が到来したと読み誤ったようだ。日本ですら、関東軍を増強して特別大演習を実施し、ソ連を威嚇したものの、対ソ連戦争は開始しなかった。これは、中国と日中戦争を戦い続け、さらに南方を攻略してアメリカに対抗するという目的があったからだが、フィンランドにとっては、ソ連だけが仮想敵国だった。

戦時にあっても、万国共通の攻撃対象外の機体として、戦争法規では、無武装で白色塗装の上に大きな赤十字を描いた患者輸送機・救難機を認めていた。これは、機体を白色塗装とし、大きな赤十字マークを描くこと、無武装であること、兵員・軍事物資を搭載しないこと、前もって、航路を敵に知らせることを条件として認められた。

しかし、敵の戦力を削減するには、このような患者・負傷者の輸送であっても阻止すべきである。また、患者・負傷者の輸送を偽って、軍事物資や要人・兵員輸送をしている違法行為かもしれない。1940年のバトルオブブリテンで必死の本土決戦を戦っているイギリス空軍も、ドイツ空軍の救難機を攻撃対象外とはしなかった。 ...コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備しており、白色塗装、赤十字マークも付けていないので、国際赤十字で定められた救難機・患者輸送機ではない。

1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドは、結果を知っているものの視点で見れば、無謀な対ソビエト連邦戦争を開始した。しかし、当時は、民主主義国イギリス・アメリカの軍事力を過小評価しており、第二次世界大戦に参戦したのではなく、冬戦争で失った国土を奪還するという目的で、イギリス(当時は中立国のアメリカ)と戦うのではないという言い訳が国際的に通用すると錯覚していた。結果から見れば、これはフィンランド外交の大失敗だった。


5.1942年6月4日、フィンランドを訪問したヒトラーとマンネルハイムの会見

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日に訪問のため、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)。国賓として、ナチス同盟国フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)が出迎えた。;後方のFw200は、着陸の時にブレーキをかけすぎて右側主輪が発火し、タイヤが焦げて、煙が上がった。ヒトラーは何事もなかったかのような態度で、降りてきて、フィンランド側の出迎えを受けた。
Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15970引用。


フォッケウルフFw200コンドル輸送機は、ドイツルフトハンザ航空に採用され、さらにデンマーク、ブラジルへも輸出された。 Fw 200(A-0) V3 試作3号機(Werke Nr 3099)は「インメルマンIII」”Immelmann III” (D-2600, 後にWL-2600、26+00)として、アドルフ・ヒトラーの専用機として採用された。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ空港、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日に飛来したドイツ総統アドルフ・ヒトラー・元帥杖を右手にした国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥(右)を出迎えたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)[中央の黒コート、後姿]。後方は、ヒトラーを運んだドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9
Hitlerin vierailu Suomessa.
Kuvaustiedot: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-129568引用。


1942年6月4日、、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9で飛来したドイツ総統アドルフ・ヒトラーが、フィンランドのイマトラ空港に到着した。出迎えたのはフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥など、フィンランド最高指導者だった。当時、ナチスとフィンランドは、共産主義者の支配するソ連と戦う枢軸同盟国として軍事同盟を結んでいた。ヒトラーは、フィンランドに対して、ソ連に対する一層激しい攻勢をかけるように要望した。枢軸国が勝利するのは確実で、ヨーロッパ支配をする日も遠くないというのである。

1939年の冬戦争で失ったカレリア地方を奪還するために、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻をチャンスととらえたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、7月には、ナチスと同盟して、ソ連を敵として、攻撃を開始した。これは、事実上、フィンランドが枢軸同盟国の一員として、第二次世界大戦に参加することを意味した。フィンランドは、ナチスと組んで軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開した。

しかし、フィンランド側は、イギリス、アメリカには戦争を仕掛けたいとは思っていなかった。そこで、あくまで、ソ連に対して1939年の冬戦争で奪われた国土の回復を求めた防衛戦争であるとの立場を主張した。しかし、ソ連がドイツの攻勢を一国で受け止めている状況で、イギリスもアメリカも、フィンランド側の言う「継続戦争」であり、イギリス・アメリカと戦う第二次大戦への参戦ではないという身勝手な論理は受けつかなかった。これを梃子にして、ヒトラーはフィンランドに対して、ソ連への軍事的攻勢を強化するように強く要請した。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日に訪問のため、イマトラ空港にヒトラーを運んだドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9のヒトラー専属バウアーとパスポートを確認しているフィンランド国防軍兵士。後方は、通訳を兼ねているドイツ駐フィンランド大使ヴァイパエルト・ファオ・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士。;Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15963引用。


アドルフ・ヒトラーは、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9に乗って、1942年6月4日、フィンランドを訪問した。その目的は、マンネルハイム元帥の75歳の誕生日をいわうた目とされたが、実際には、フィンランド軍によるソ連へお攻撃を強化するように要請するためだった。ヒトラーの乗機は、イマトラ空港に着陸したが、その際に、右主輪のブレーキが利きすぎたため、車輪と滑走路の間の摩擦熱で、右輪ゴムタイヤが過熱、発火した。Fw200コンドル輸送機が停止した時、車輪からは煙が上がり、ゴムの焼ける匂いが広まった。

ヒトラを出迎えにイマトラ空港にきていたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)もこのヒトラー乗機の失態を目撃したに違いない。つまり、ヒトラー乗機の着陸鵜事故は、ドイツの威信を落としかねない大失態だった。しかし、ヒトラーは、タイヤの燃える匂いも、煙も気にせずに、平然として、フィンランドに降り立った。乗員たちは大慌てで、ヒトラーが出迎えを受けている間、携帯用消火器をつかって大急ぎで、Fw200輸送機の車輪の火災を消し止めた。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)がフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日を祝いにドイツから到着。フィンランド共和国リスト・リティ(Risto Ryti)大統領(黒コートにハット)が出迎えた。後方は、ヒトラーが乗っていたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);コンクリート舗装された滑走路。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Saksalaisten saapuminen Suomeen. Tasavallan presidentti Risto Ryti ja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-129567引用。


1942年6月4日、フィンランドに、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が降り立った。フィンランド訪問の名目は、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日の祝いだった。ヒトラーは、ドイツ、ラステンブルク飛行場からドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に乗り、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港に到着した。それをフィンランド共和国リスト・リティ(Risto Ryti)大統領が出迎え、ヒトラーはフィンランド軍儀仗兵をリティと閲兵した。

Fw-200コンドル輸送機を操縦していたヒトラー専属パイロットの"ヨハン・"ハンス"・ペーター・バウアJohann "Hans" Peter Baur)にとって、ヒトラー乗機の着陸失敗は、大失態であり、これがフィンランド元首の目前で起こったことは、罷免・処罰されても当然な過失だった。しかし、ヒトラーは何事もなかったかのような態度で、降りてきて、フィンランド側の出迎えを受けた。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場にFw200輸送機で到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)、元帥杖を手にしたドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥、ドイツ駐フィンランド大使ヴァイパエルト・ファオ・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士(ナチス・ドイツ式敬礼)が、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)に先導され、フィンランド国防軍兵士を閲兵している。
Saksan Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15986引用。


1942年6月4日、フィンランド、マンネルハイム元帥の75歳の誕生日に訪問のため、アドルフ・ヒトラーは、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着した。しかし、着陸に際して、主輪のブレーキをかけすぎたためか、ゴムタイヤが過熱して、発火、煙を上げる事故が発生した。

フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥が見守る中、これはドイツの威信を喪失しかねない大事件のはずだが、ヒトラーは何事もなかったかのような態度で、フィンランド側の出迎えを受けている。乗員たちは大慌てで、携帯用消火器を手にして、車輪の火災を消し止めた。Fw-200コンドル輸送機を操縦していたのは、ヒトラー専属パイロットのヨハン・"ハンス"・ペーター・バウアJohann "Hans" Peter Baur)である。バウアーにとって、とんでもない大失態だったが、ヒトラーは、この件を不問に付し、バウアーには何の咎めもなかった。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場にFw200輸送機で到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)・ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥(ヒトラーの真後ろ)、ドイツ駐フィンランド大使ヴァイパエルト・ファオ・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士が、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)に先導され、フィンランド国防軍兵士を閲兵している。
Saksan Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15987引用。


 1941年7月、フィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻しつつあった。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)とが食堂車で会談した。中央は、ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥 ;ヒトラー乗機となったのは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード: KE+IX)
マンネルハイム元帥は、第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争Continuation War)を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドは枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥は、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を望んでいた。1942年6月時点で、ドイツはヨーロッパを支配しており、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムもフィンランド国民も、いまこそソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめた。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Aineistotyyppi?Valokuva Kuvaustiedot: 1942-06-04 Aiheet 1942-06-04
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info: 1942-06-04.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15850引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日の1942年6月4日、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9でイマトラ空港に到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥と会談して、その日のうちに、空路、ドイツに帰国した。

フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ヒトラー到着時も帰国時も、イマトラ空港に送迎に出てきている。他方、マンネルハイムは、自分の75歳誕生日にヒトラーが訪問しに来たので、ヒトラーの到着時にイマトラ飛行場に出迎えには、来ていない。しかし、ヒトラーのドイツ帰国に際しては、イマトラ飛行場まで見送りにやってきている。

マンネルハイムは、自分の75歳誕生日にヒトラーが訪問しに来たので、ヒトラーの到着時にイマトラ飛行場に出迎えには来なかった。イマトラ空港にからリムジンに乗ったヒトラーは、マンネルハイム元帥の待つ豪華列車の停車場に向かった。列車の食堂車では、ドイツ指導者を招いた誕生会が開催された。また、ヒトラーと、フィンランド大統領リスト・リュティ、フィンランド軍総司令官マンネルハイム元帥を交えた会談が開かれた。ヒトラーは、フィンランドにソビエト連邦に対し、より強力な攻撃を仕掛けることを訴えたが、フィンランド側は、軍事的資源の不足を理由に、攻勢困難を訴えた。ヒトラーにとって、成果のない会談だった。

1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統は、列車の室内で会談、会食を行ったが、フィンランド側は、この会話を録音しようとマイクを据え付けていた。会談途中でマイクに気づいたドイツ側が、録音を差し控えるように要求した。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の出迎えを受けるドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統[後ろ向き];このような列車の室内で会談、会食を行ったが、フィンランド側は、この会話を録音しようとマイクを据え付けていた。会談途中でマイクに気づいたドイツ側が、録音を差し控えるように要求した。しかし、ヒトラーは促音された会話については不問に付した。フィンランド側の行為を得たかったためで、マンネルハイムはこのことで、自分が優位に立っていることを確信したという。
Marsalkka Mannerheimin vierailu valtakunnankansleri Hitlerin luona. Sjöblom, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13202引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)[右黒スーツ]、フィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)[右2人目黒スーツ];国防大臣によって元帥に任じられた時でもあった。ドイツ総統アドルフ・ヒトラーは、マンネルハイムの75歳誕生日を祝う名目で、急遽、フィンランドを訪問し、このような列車でもてなされた。
Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04 .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-16052引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で対談するドイツ総統アドルフ・ヒトラー総統とフィンランド軍総司令官グスタフ・マンネルハイム将軍;ヒトラーは、マンネルハイムの75歳誕生日を祝う名目で、急遽、フィンランドを訪問し、列車で会談した。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Marsalkka Mannerheim ja valtakunnankansleri Adolf Hitler salonkivaunussa. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1942-06-04
写真はMuseot Finna・sa-kuva-16071引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の誕生会に出席したドイツ総統アドルフ・ヒトラー、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Ryti)[ヒトラー正面・黒スーツ]、フィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)[ヒトラー隣・黒スーツ]、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム元帥[ヒトラーの斜め前];フィンランド大統領リスト・リュティはドイツ語に堪能なので、通訳係も引き受けたのであろう。
Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04 .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15992引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、75歳の誕生会のお礼を述べるフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。斜め前にドイツ総統アドルフ・ヒトラー、左隣にフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Ryti)[ヒトラー正面・黒スーツ]、正面にフィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)[ヒトラー隣・黒スーツ];フィンランド大統領リスト・リュティはドイツ語に堪能なので、通訳係も引き受けたのであろう。
Hitlerin vierailu Suomessa.
Aineistotyyppi ?Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04 .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15992引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、列車停車場で、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)[右黒スーツ]、フィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)[右2人目黒スーツ]とともにドイツ総統アドルフ・ヒトラーの一行を迎えた列車;国防大臣によって元帥に任じられた時で、その証書を手にして列車を降りているのか。ヒトラーは、マンネルハイムの75歳誕生日を祝う名目で、急遽、フィンランドを訪問した。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Mannerheim saapumassa tapaamiseen junalla. Kuvassa selin puolustusministeri Rudolf Walden. Junan oviaukossa adjuntantti, everstiluutnantti Ragnar Grönvall ja junan edessä kättä ojentava nuorempi adjuntantti, kapteeni Rafael Bäckman.
Aineistotyyppi Valokuva
Kuvaustiedot: 1942-06-04 .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-16058引用。


ヒトラーは、誕生会と会談の後、マンネルハイム元帥とリムジンに乗って、ふたたびイマトラ空港に帰ってきて、Fw200コンドルに乗ってドイツ帰国した。イマトラ飛行場でのヒトラーの見送りには、マンネルハイム元帥、フィンランド大統領リスト・リュティだけでなく、フィンランド(ラップランド)方面のドイツ軍山岳兵団司令官エデュアルト・ディートル大将や駐フィンランド・ドイツ大使ヴァイぺルト・フォン・ブリュッヒャー博士も参列して、ナチス・ドイツ式敬礼で見送っている。当時のナチスとフィンランドは、ソビエト連邦を宿敵とする枢軸同盟国として、連携作戦を展開して戦った。ドイツと日本の連携作戦は事実上なかったから、フィンランドは、日独伊三国同盟を結んだ日本以上にナチスと親密な関係にあった。日本は、ドイツの要請にもかかわらず、ソビエト連邦との戦争を回避し、1941年4月以来、日ソ中立条約を順守していたのであるから。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ空港にリムジンで到着したドイツ総統アドルフ・ヒトラーがフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥(75歳の誕生日)の見送りを受けている。;1939年9月1日、ドイツがポーランドに突如侵攻、3日には、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス・フランスがドイツに参戦して、第二次世界大戦が勃発した。その混乱に乗じたソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様に、フィンランドにも領土割譲の傲慢な要求をした。フィンランドは、領土要求を拒絶し、戦う道を選んだが、フィンランド内戦で赤軍を掃討した白軍のマンネルハイムとしては、ソ連に服従するつもりはなかった。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä
Hitler palaamassa juhlapaikalta ja nousemassa koneeseensa Focke Wulf FW 200 Condoriin. Marsalkka Mannerheim oli saattamassa Hitleriä lentokentälle. Aineistotyyppi: Valokuva Kuvaustiedot:1942-06-04
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15847引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)に同行したドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥と別れの握手をするフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)(後方、黒のコート)はヒトラー(右後姿)のほうを見ている様だ。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13149引用。


1942年6月4日、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥75歳の誕生日を祝うために、ナチス・ドイツ総統兼首相アドルフ・ヒトラーは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9に乗って、フィンランドのイマトラ空港に到着した。フィンランド側は、最大級の国賓として、同盟国のヒトラー総統を迎え、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Ryti)、フィンランド首相エドウィン・リンコミエスEdwin Linkomies)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥が、直々に飛行場に出迎えた。そして、同じ反共産主義・反ボリシェビキを奉じて、ソ連と戦う枢軸同盟国として固い握手を交わしている。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日を祝った後、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9乗ってイマトラ空港を発つドイツ総統アドルフ・ヒトラー・国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥[中央右]を見送っているフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti) [中央奥の黒コート]、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥[中央左、長身]。右の黒い制服は、ドイツ駐フィンランド大使ヴァイぺルト・フォン・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士。ナチスは、ソ連を敵とする枢軸同盟国としてフィンランドと連携して軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開していた。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Taustalla Hitlerin lentokone Focke Wulf Fw 200 Condor (tunnus KE+IX). Vasemmalta: tasavallan presidentti Rytin adjutantti B&oml;rje Lennartson S&oml;derstr&oml;m, marsalkka Mannerheim, tasavallan presidentti Risto Ryti, selin Hitler, kenraalisotamarsalkka Wilhelm Keitel ja oikealla mustassa asepuvussa Saksan Suomen suurlähettiläs Wipert von Bl¨cher.
Kuvaustiedot: 4.6.1942.
写真はMuseot Finna・HK8109:5引用。


写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)に同行したドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥と別れの握手をするフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)(後方、黒のコート);二人とも元帥なので、元帥杖を手に挨拶している。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15848引用。


1941年6月22日に、ドイツは、不可侵条約を保護にして、共産主義のソビエト連邦に侵略を開始した。すると、フィンランドは、ナチスと同盟を組んで、1939年の冬戦争で敗北して失ったカレリア地方を奪回し、ソ連ボリシェビキに報復しようと、ドイツと同盟を結んで、1941年7月からソ連に侵攻を開始した。

フィンランド国防軍は、総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥の指揮の下、ソ連相手に善戦し、レニングラードを包囲し、住民を疲弊させ、北部の不凍港ムルマンスクを攻撃して、西側連合軍の補給物資がソ連に届かないようにする作戦を展開していた。つまり、ナチスとフィンランドは、連携して共産主義・ボリシェビキのソ連を屈服させるために共闘しており、密接な軍事同盟関係にあった。

1942年6月4日、ヒトラーのフィンランド訪問当時、フィンランド大統領は、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti:1889‐1956)で、彼はフィンランド銀行総裁を務めるなど実務家だった。リスト・リュティは、1939年11月、対ソ連防衛戦争「冬戦争」が勃発した翌日に首相に就任し、その後、1940年12月には、フィンランド第5代大統領に就任して、継続戦争末期までフィンランドの元首だった。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、イマトラ飛行場、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)・ドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥を見送るドイツ第20山岳兵団司令官エデュアルト・ディートル(Eduard Dietl)大将(前列手前、ナチス・ドイツ式敬礼)、黒の制服のドイツ駐フィンランド大使ヴァイぺルト・フォン・ブリュッヒャー(Wipert von Blü)博士(前列中央、ナチス・ドイツ式敬礼)、敬礼するフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥(前列中央)、帽子を振るフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)(後方、黒のコート);手前上は、Fw200コンドル輸送機の主翼。ヒトラーたちは、胴体後方の窓際に乗っているのであろう。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä
写真はMuseot Finna・sa-kuva-15841引用。


1939年11月に始まった冬戦争で、フィンランド軍は、総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦した。しかし、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、長期戦には耐えることはできなかった。


6.1942年6月27日、ドイツを訪問したマンネルハイムとヒトラー・ゲーリングとの会見

第二次世界大戦当時、フィンランドは、枢軸国のナチス・ドイツの同盟国であり、反ボリシェビキ(Bolshevik)を掲げて、共産主義のソビエト連邦と戦っていた。ヒトラーは、マンネルハイムに一層激しい攻勢をソ連に仕掛けることを強く要請した。しかし、マンネルハイムは、フィンランドの国力の低さ、作戦地域の地形や天候の要害を理由にして、攻勢をかけることの困難さを訴えた。マンネルハイムは、同盟国ドイツと運命を共にするつもりは全くなく、フィンランドの国益、すなわち独立の保障の最優先していた。

1939年9月1日、ドイツがポーランドに突如侵攻、3日には、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス・フランスがドイツに参戦して、第二次世界大戦が勃発した。その混乱に乗じたソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様に、フィンランドにも領土要求をし、併合する構えを見せた。しかし、フィンランドは、この要求を断固拒否、そこで、ソ連赤軍は、1939年11月30日、フィンランド南部に攻撃を加えた。こうして、フィンランド冬戦争が始まった。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツに向かうドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に搭乗しているフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥に随行するフィンランド国防軍の将官たち。ヒトラーに答礼にラステンブルクの総統大本営に向かっている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13038引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日にナチス・ドイツを訪問した。これは、同時期のヒトラーによる枢軸国フィンランド訪問に比較して、対ソ連戦争、第二次世界大戦の中で、より重たい意味を持つ。しかし、ヒトラーのフィンランド訪問、マネルハイム元帥との会談に比較して、現代では、フィンランドでもドイツでも、紹介や解説も少ないまま伏せられている。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツに向かうドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に搭乗しているフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。ヒトラーに答礼にラステンブルクの総統大本営に向かっている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13030引用。


フィンランドを民主主義国として、横暴な大国ソ連ボリシェビキ(Bolshevism)抵抗した勇敢な国家として、高く評価する識者が多いが、その一方で、ナチス・ドイツに積極的に出かけ、共闘していたフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の姿は、隠されている。1942年当時、アメリカは参戦したものの、ヨーロッパでナチス・ドイツの主要な軍事的圧力を受け、ドイツ軍と激しい戦いを繰り広げていたのは、ソビエト連邦であり、イギリスはドイツ軍をソ連に向かわせて安心して軍需生産に励んでいた。

ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルに第二戦を開くように要求したが、チャーチルは、脇道でしかない北アフリカで手いっぱいだとして、ヨーロッパ反攻を先延ばしして時間を稼いでいた。イギリスにとって、国益を守るためには、共産主義のソ連をドイツと正面から戦わせて、両者に犠牲を強いるのは理にかなったことであり、戦略として当然だった。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)のマルミ(Malmi)空港からドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に搭乗してドイツに到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥。ヒトラーに答礼するためラステンブルクの総統大本営に向かったので、場所は、東プロイセンのラステンブルクの飛行場であろう。マンネルハイム元帥は75歳、降機するときに支障のないように、木製の頑丈な階段が作成され、手すりも設けられている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13030引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、チャーチルと同じく、反ボリシェビキ(Anti-bolshevism)の立場で、ソ連を憎んでいた。ソ連により侵略された国土を奪回しようとしていた。

フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1917年、ロシア革命の時期にフィンランド独立のためにロシア人・フィンランド人から成る赤軍を粉砕した経験があり、反共産主義のためならナチスとも同盟を厭わない、ナチスのイデオロギーについて批判しない人物だった。マンネルハイム元帥の反ボリシェビキ(Bolshevik)の心情をのぞかせるのが、彼のヒトラー大本営「狼の巣」訪問というナチスへの軍事作戦協力の姿である。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ、東プロイセンのラステンブルク飛行場に到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥、出迎えているのはドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥;二人は軍人最高位の元帥で、その象徴として元帥杖を持って挨拶している。後方は、マンンネルハイム元帥が搭乗してきたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13057引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月4日、フィンランドに飛来したドイツ総統アドルフ・ヒトラー訪問に答礼するために、1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)のマルミ(Malmi)空港からドイツ空軍差し回しのフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)に搭乗してドイツに到着した。マンネルハイム元帥は75歳、Fw200コンドル輸送機を降りるのが便利なように、木製の階段が設置された。この階段には、頑丈な手すりも片側につけられている。

アーカイブの解説には、マンネルハイム元帥が飛来した場所、飛行場について記載がないが、到着後にマンネルハイム元帥が、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」でヒトラーと一緒に作戦会議に臨んでおり、ドイツの地を踏んだのは、ラステンブルクの飛行場だったのは確実である。ラステンブルク飛行場には、ヒトラーはおらず、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がマンネルハイム元帥を出迎えている。そして、そこからリムジンンにのって、森林地帯の中に秘匿されていた総統大本営「狼の巣」に向かった。

写真(右)1942年6月27日(?)、ドイツ、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)に同行したの訪問に敬意を表するために、返礼としてドイツを訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥を出迎えたドイツ国防総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥。後方は、マンネルハイムを運んだドイツ空軍フォッケウルフFw-200コンドル輸送機C(登録コード:GC+AE);二人とも元帥なので、元帥杖を手に挨拶している。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13184引用。


写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ、東プロイセンのラステンブルク飛行場に到着したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)から降機したドイツ国防軍将校(正面前列2名)と出迎えに敬意を表して敬礼するフィンランド国防軍の随員(階段上4名)。 ;真っ先に、主賓のフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が降機して、それをドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が出迎えた。そのマンンネルハイム元帥が下りた後に、Fw-200からドイツ軍将校、フィンランド国防軍の随員が下りてきた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13057引用。


Fw 200輸送機には、C-4/U1 (製造番号:Werk-Nr 137)という特別機があるが、この機体はそれまでの長距離哨戒偵察に使用していたFuG200(Lorenz FuG 200 Hohentwiel)レーダーを撤去し、胴体下面に設けていた長大なゴンドラ突出部も撤去した要人輸送専用機で、アドルフ・ヒトラー、ハインリヒ・ヒムラー、カール・デーニッツなどの要人輸送専用とされたという。しかし、実際には、ゴンドラの撤去による高速化といっても、それまでの最高速力 350 km/hが360km/h程度に向上するだけで、大型機ゆえに、飛行性能の向上は僅かだった。そこで、旧来の哨戒偵察機の武装強化を活かして、内装を豪華にした要人輸送機が使用され続けた。

ドイツもフィンランドも、ソ連に戦争を仕掛けた1941年の夏、短期間でにソ連が降伏すると考えていた。フィンランドは1939年11月の冬戦争を、一国で戦い続け、ソ連軍の侵攻を食い止めることができた。となれば、1940年6月にフランスを1カ月で降伏させた世界最強のドイツ軍の加勢を受ければ、ソ連を速やかに打倒できると考えても不思議はない。1940年末、ドイツ軍はモスクワ攻略に失敗し、モスクワ前面でジューコフ将軍率いるソ連軍に大敗した。これは、旭東方面に配置されていた対日戦争用の極東軍を配置転換し、兵力を増強できたこともあるが、基本的にソ連軍の予備兵力が膨大で、その軍需生産能力(エネルギーから兵器まで)が強大だったことが要因である。戦術的失敗のために、1939年の冬戦争ではソ連軍はフィンランド軍に苦戦したに過ぎなかった。

写真(右)1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ、東プロイセンのラステンブルク飛行場に到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥、出迎えたドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が現地の護衛・案内係の親衛隊SS兵士を紹介している。;後方の、マンンネルハイム元帥乗機のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)は、窓枠に遮光カーテンが取り付けられている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aineistotyyppi ?Valokuva .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13057引用。


ドイツ、東プロイセン州ラステンブルク(Rastenburg)飛行場は、現在のポーランド領で、ポーランド語ではウィラモー(Wilamowo)飛行場というが、ワルシャワから205キロ北に離れている。ここには、1935年に一般用の飛行場が作られた。

第二次大戦の勃発から1年近くたった1940年7月、ヒトラー総統大本営が密かにこの地に建設されることが決まると、急速に開発がなされた。これがいくつかある総統大本営のうち、最も使用された総統大本営「狼の巣」( the Wolf's Lair:Die Wolfsschanze)である。ここには、防空壕、バラック兵舎、発電施設、飛行場など200個の建築物から成っている。

ラステンブルク(Rastenburg)飛行場は、小型で、フィーゼラー(Fieseler)Fi156シュトルヒ(Storch)連絡機の離着陸ができる程度のものだった。

しかし、1941年12月、東部戦線で対ソビエト連邦の戦いが長引くことが明らかになると、ユンカースJu-52/3m三発輸送機、フォッケウルフ(Focke-Wul)f FW-200コンドル(Condor)四発輸送機のような大型機を離着陸が可能な滑走路が整備された。ラステンブルクには大小ふたつの飛行場が整備された。

ラステンブルク(Rastenburg)行場では、1942年2月8日、ヒトラーのフィンランド訪問4カ月前に、兵器弾薬大臣でトート建設機関の長であるフリッツ・トート(Fritz Todt)が墜落事故で死亡している。また、1944年7月20日、ヒトラーを総統大本営(Die Wolfsschanze)で爆殺したと信じたクラウス・フォン・主たウフェンベルク(Claus von Stauffenberg)大佐が、ラステンブルク飛行場をハインケルHe-11爆撃機輸送機仕様で出発し、ベルリンに到着後、ワルキューレ作戦を発動している。

ヒトラー自身は、この総統大本営で2年強800日間を過ごしたが、ソ連軍が接近してきたために、1945年1月20日、ラステンブルク飛行場から、空路ベルリンに脱出している。そそて、1945年1月24日、ラステンブルクの総統大本営(Die Wolfsschanze)は、高性能爆薬20トンを用いて、主要な大型建築物が破壊された。其の2日後、 ソ連赤軍が総統大本営を無血占領している。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とヒトラーと国防軍総長ウィルヘルム・カイテル元帥;ナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統のいる大本営では国防軍総長ウィルヘルム・カイテル元帥とも会談した。その後、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも参じて、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合った。マンネルハイムは、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Content Type ?Photo Organisation Military Museum.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3231引用。


1939年のソ連との冬戦争の際、フィンランド軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなく、長期戦となれば敗北は明らかだった。そこで、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。この復讐戦が、マンネルハイムが1941年7月に始めた「継承戦争」である。

1942年6月4日、ヒトラーはマンネルハイムとフィンランドの列車で会談した。その1942年夏、ヒトラーもマンネルハイムも、ソ連の持つ生産力の高さ、予備軍の膨大さ、動員可能性の大きさを十分に認識していたはずだ。

にもかかわらずヒトラーは、イタリア軍の不甲斐なさをマンネルハイムに訴え、イタリア軍を支援するために、バルカン方面、北アフリカ方面に派兵したことで、対ソ連戦争への動員が不足したと言い訳をし、ソ連指導者スターリンの考えは、ヨーロッパのボルシェビズム(bolshevism)による支配・赤化であると述べて、その危険からヨーロッパを守ること戦いを、俄然として決意すべきだとした。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」の作戦室、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が統括する作戦会議に、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;左手前のドイツ国防軍総司令部作戦部長アルフレート・ヨーゼフ・フェルディナント・ヨードル(Alfred Josef Ferdinand Jodl)大将が前かがみになって、地図上で部隊の動きを説明している。左奥には、ドイツ国防軍参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)大将。ハルダーは、ソ連との戦争に悲観的になっているとして、1942年9月24日に参謀総長を解任、予備役に編入。ヒトラーの左手には、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が控えている。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13204引用。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」の作戦室、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が統括する作戦会議に、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥(ヒトラーの頭の影)が参加している。;左手奥のドイツ国防軍総司令部作戦部長アルフレート・ヨーゼフ・フェルディナント・ヨードル(Alfred Josef Ferdinand Jodl)大将が、地上で部隊の動きを説明している。ヒトラーの手前には、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥が控えている。突き当り奥には、ヒトラーの肖像画が掛けられているが、ヒトラーは自分の肖像画を自ら進んで置かせたのであろうか。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13206引用。


写真(右)1942年6月28日、東プロイセン、ラステンブルク総統大本営「狼の巣」、作戦室でヒトラーの作戦会議に出席後、ドイツ国防軍参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)大将と立ち話をするフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;参謀総長フランツ・ハルダー(Franz Halder)大将は、熟考型の参謀総長であり、ソ連予備軍の大きさに開戦後気づき、その侮りがたい兵力をヒトラーに警告し続けた。そのため、戦局に悲観的であるとして、ヒトラーの不興を買って、1942年9月24日に参謀総長を買うて地され、予備役に編入されてしまう。その後、1944年7月20日、クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐が主導したヒトラー暗殺未遂事件が失敗し、その捜査・尋問・取り調べの過程で、1938年チェコ危機に際して、ハルダーがクーデター計画に参画している疑いが発覚、ハルダーは逮捕され、フロッセンビュルク強制収容所に拘禁された。1945年1月、軍籍剥奪、イギリス・アメリカ軍のドイツ侵攻に伴って、はじめダッハウ強制収容所に、4月にチロルに移送された。ドイツ敗戦直前の5月4日、チロルでアメリカ第7軍に拘束からは開放されたが、すぐ逮捕され、捕虜となった。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13204引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港からドイツ空軍が派遣したフォッケウルフFw200 Fw 200 C-3/U9コンドル輸送機に乗って、1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルク飛行場に到着、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥の出迎えを受けた。そこから、カイテルとともに、マンネルハイムはメルセデス大型乗用車で、ラステンブルク総統大本営「狼の巣」に向かい、作戦室でドイツ首相統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)総統が統括し、カイテル、ハルダーが出席した作戦会議に参加した。その後、カイテルとともにメルセデスの後席に乗って、ラステンブルクの鉄道駅に向かい、カイテルと別れて列車に乗った。そして、短時間の列車旅行を終えて、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の出迎えを受けた。ここから、ゲーリングの邸宅にメルセデスの大型乗用車で向かった。ヘルマン・ゲーリングの邸宅で国家元帥との歓談の後、ゲーリングと別れを告げて、メルセデスで邸宅を後にして、ラステンブルクの飛行場に行き、そこでドイツ空軍のフォッケウルフFw200 Fw 200 C-3/U9コンドル輸送機に乗って、ドイツからフィンランド、マルミ空港に帰国した。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)総統との会談を終えたフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥(手前);二人とも元帥なので、元帥杖を手にしている。マンネルハイムは、この後、ラステンブルクから、カイテルとともに自動車で駅に向かい、そこから列車、自動車を乗り継いで、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の邸宅に向かった。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva.sa-kuva-13225引用。


1941年6月22日、ドイツが独ソ不可侵条約を一方的に破棄してソ連に侵攻した。すると、それから4日後、6月27日には、フィンランドも、ソビエト連邦に侵攻した。これは、1939-1940年の対ソ連「冬戦争」で奪われた国土を取り返すということが名目だった。フィンランドは、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、対ソ連・反ボリシェビキの戦争協力を話し合った。マンネルハイムは、1942年6月時点で、ヨーロッパを支配するドイツ後押しを受け、ソ連に復習戦争を仕掛けることを大変に喜んだはずだ。フィンランドは、恨み重なるソ連打倒の好機として、継続戦争を自ら開始した。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」から列車に乗ってドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥の下に到着したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥;二人とも元帥で元帥杖を持って挨拶を交わしている。ナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統のいる大本営ばかりか、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも参じて、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合ったマンネルハイムが、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3231引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月4日の誕生日にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統の表敬訪問を受け、彼も誕生会に招待し、対ソ戦争について会談した。そして、6月27日、ドイツの東プロイセン州ラステンブルクの総統大本営「狼の巣」を訪れ、そこで開かれていた最高指導作戦会議に出席した。マンネルハイムは、総統大本営のヒトラーを訪問しばかりではなく、引き続いて、列車でドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも馳せ参じて、彼の下で祝宴に参加している。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がゲーリング国家元帥に別れの握手をしている。;二人とも元帥なので、会話の最中でも元帥杖を誇らしげに手にしたまま話そうとしない。マンネルハイム元帥は、ドイツ空軍のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機にのって、ドイツ、東プロイセン州のナチス・ドイツ独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13040引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日、ドイツ空軍の遣わしたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機に乗って、東プロイセン州ラステンブルクの同島大本営「狼の巣」にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統を訪問、作戦会議に出席した。

そして、翌6月28日には、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)国家元帥の下にも参じて、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合った。こうなれば、マンネルハイム元帥が、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連ボリシェビキの弱体化を真剣に望んでいた。

フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月4日の誕生日にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統の表敬訪問を受け、彼も誕生会に招待し、対ソ戦争について会談した。そして、6月27日、ドイツの東プロイセン州ラス店ブル区の総統大本営「狼の巣」を訪れ、そこで開かれていた最高指導作戦会議に出席した。マンネルハイムは、総統大本営のヒトラーを訪問しばかりではなく、引き続いて、列車でドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥の下にも馳せ参じて、彼の下で祝宴に参加している。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がゲーリング国家元帥に別れの握手をしている。;マンネルハイムは、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。対ソビエト連邦との戦争協力を話し合ったマンネルハイムは、1942年6月時点で、ヨーロッパを支配するドイツ後押しを受けられることを大変に喜んだはずだ。、フィンランドは、、恨み重なるソ連打倒の好機として、継続戦争を自ら開始したのである。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3249引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。

フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。


写真(上)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥の見送りを受けて帰国しようとするフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥
:1942年6月27日、空路、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」を訪問したフィンランドのマンネルハイム元帥は、翌日、列車に乗ってヘルマン=ゲーリングHermann Göring)の元に馳せ参じたが、その時、二人とも元帥だったため、元帥杖を持って挨拶を交わしている。ゲーリングとの会談後、マンネルハイム元帥は、指し迎えのリムジンで飛行場まで送られ、そこからフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機に乗ってフィンランド、ヘルシンキに帰国した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3231引用。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がゲーリング国家元帥に別れの握手をしている。;マンネルハイムは、ナチス・ドイツの独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。対ソビエト連邦との戦争協力を話し合ったマンネルハイムは、1942年6月時点で、ヨーロッパ最強のドイツ軍の後援を得たことを歓迎したはずだ。、フィンランドは、、恨み重なるソ連打倒の好機として、継続戦争を自ら開始したのである。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-3283引用。


マンネルハイム元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。

このような対ソビエト戦争の戦意高揚を無視して、マンネルハイム元帥は、ヒトラーとの共闘を臨んでいなかった、ヒトラーによる誕生日訪問を迷惑に思っていたなどと邪推するのは、見当違いであろう。1917年のロシア革命後、ボリシェビキ勢力が伸長し、赤軍を組織して共産主義革命を進めたとき、フィンランドでは、、ロシア共産党のボリシェビキに賛同したフィンランド共産主義者、共産党員、赤軍が政権奪取を図った。それに対して、反革命軍、白軍を組織して、革命派を武力鎮圧したのが、マンネルハイムである。この経緯を踏まえれば、マンネルハイムもヒトラーも、フィンランドもナチス・ドイツも、ともに反共産主義として、ソビエト連邦、ヨシフ・スターリンを警戒し、チャンスがあれば、彼らを無害化、中立化したかったに違いない。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥の邸宅を去るフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥
:二人とも元帥なので、会話の最中でも元帥杖を誇らしげに手にしたまま話そうとしない。マンネルハイム元帥は、ドイツ空軍のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機にのって、ドイツ、東プロイセン州のナチス・ドイツ独裁者ヒトラーの大本営「狼の巣」を訪れた後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Valtakunnanmarsalkka Hermann Göring saattamassa Suomen marsalkka Mannerheimia tämän vierailtua metsästysmajalla Itä-Preussissa
Lisää Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: ajoittamaton Sjöblom, valokuvaaja
写真はフィンランド博物館, MUSEOT FINNA引用。


ヘルマン・ゲーリングの経歴:
1893年、ドイツ帝国外交官を父とする上流階級に誕生、恵まれたな子供時代を過ごし、1905年、カールスルーエの幼年士官学校に入学、卒業後、1909年に士官学校Staff College)に入学して、第一次大戦の始まる1914年に陸軍少尉として歩兵部隊に配属。第一次世界大戦の緒戦では 歩兵として戦ったが、10月からドイツ陸軍航空隊へ移動、当初は偵察員、1915年からは、戦闘機パイロットとして西部戦線で戦った。1918年6月の敗戦の年に最高勲章のプール・ル・メリット勲章Pour-le-Merite)を授与された。ヘルマン・ゲーリングは、マンフレート・フォン・リヒトホーフェンManfred von Richthofen)が率いていた戦闘機大隊指揮官として敗戦を迎えた。

1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年11月、ヒトラー主導の武装蜂起「ミュンヘン一揆」(Beer Hall Putsch)は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。
1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉、1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉、1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥、1940年7月19日、国家元帥 1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将。

ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。


写真(上)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセン、ラステンブルク飛行場、フォッケウルフ Fw 200 Condor (KE+IX)輸送機で到着したフィンランド軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥を出迎えたドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥(奥)をはじめとするドイツ軍幹部とフィンランド軍幹部
;フィンランド軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥は、ラステンブルク双胴大本営に向かい、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と会談し、その後、フィンランド、マルミ空港に帰国した。1939年のソ連との冬戦争の際、は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなく、長期戦となれば敗北は明らかだった。そこで、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。マンネルへ@イムはドイツと軍事同盟を結んでが1941年7月に復讐戦として「継承戦争」を闘って1年が経過していた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Organisation Military Museum .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13188引用。


1942年12月3日(昭和十七年十二月三日)、大日本帝国は、フィンランドの「元帥フライヘル、カール、グスタフ、エミル、マンネルハイム外二名叙勲ノ件では 内閣総理大臣東条英機は、大元帥昭和天皇に対して、「ボリシェビキ(Bolshevik)政権打倒のため本邦との携帯政策を提唱し之がため誠意努力しつつあり」として、マンネルハイム元帥に勲一等旭日桐花大綬章の、ヨハン・ランゲル内閣総理大臣(首相)、ロルフ・ウィッティング外務大臣に勲一等旭日桐花大綬章の叙勲を、次のように上申している。

「フィンランド」国元帥「フライヘル、カール、グスタフ、エミル、マンネルハイム」外二名ハ孰モ同国ノ枢要ノ地位ニ在リテ、曩ニ満洲国ノ承認及ビ防共協定ニ参加スル等我国ニ対シ常ニ親善政策ヲ執リ来リタルガ、更ニ我国ノ大東亜新秩序建設ノ偉業ニ深ク共鳴シ、之ガ達成ヲ哀心翹望スル等日本及ビ「フィンランド」両国ノ親善関係増進ニ貢献セル功績顕著ナリトス、仍テ此際外務大臣[谷正之]ク奏各頭書ノ通叙勲被仰出可然哉此段允裁ヲ仰グ

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がドイツからフィンランド、マルミ空港に帰国する。;1939年のソ連との冬戦争の際、フィンランド軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなく、長期戦となれば敗北は明らかだった。そこで、1940年3月12日に、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。この復讐戦が、マンネルハイムが1941年7月に始めた「継承戦争」である。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3/U9.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13033引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイムCarl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日、ドイツ空軍の遣わしたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機に乗って、東プロイセン州ラステンブルクの同島大本営「狼の巣」にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統を訪問、作戦会議に出席した。
そして、1942年6月28日には、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥の下にも参じたフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイムCarl Mannerheim)元帥は、ナチスと共闘して、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合った。マンネルハイム元帥が、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連ボリシェビキの弱体化を真剣に望んでいた。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連赤軍・ボルシェビズムを敲く最良の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦した。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と乗機となったドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);;出迎えているのはフィンランド国防軍兵士のようだ。;
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Kättelemässä harmaassa pitkässä takissa marsalkka Carl Gustaf Emil Mannerheim. Taustalla oleva lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3 (tunnus KE+IX)..
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13137引用。


フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Emil Mannerheim)元帥は、ソビエト連邦を相手に1939年に冬戦争を、1941年7月から第二次世界大戦時にソ連と戦ったが、その時期にフィンランド国防軍総司令官を勤めた。

1941年1月4日にフィンランド首相となったヨハン・ウィルヘルム・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻を契機として、ソ連に攻め入った。これは、1939年の冬戦争で敗れ失った国土カレリア地方を奪還するというのが目的だったが、共産主義者の反乱を鎮圧して独立したフィンランドは、当初からソビエト連邦を警戒、仮想敵としていたから、これは、脅威となっているソ連に対する弱体化の戦争とも考えられる。

第二次大戦末期のフィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の誕生日、1942年6月4日は、ヒトラーが空路お祝いに駆けつけ、マンネルハイム元帥自身が出迎えをした。フィンランドは、ソ連に奪われたカレリア地峡を奪還すると称して、1941年6月26日、「継承戦争」をはじめ、ソ連を攻撃した。

フィンランド政府は、第二次大戦へ枢軸国(ドイツ)側として参戦したのではないとの形式論を主張したが、イギリスはドイツ軍の兵力のほとんどを相手に地上戦を戦うソ連を軍事支援しており、ソ連に対する政略の上からも、フィンランドがイギリス、アメリカとは戦うつもりがないとの一方的な宣言を認めなかった。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、イマトラ空港、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥搭乗のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)は、1867年6月4日生まれのフィンランドの軍人で、第二次世界大戦が戦われていた時期の1939年から1945年の間、フィンランド軍の最高司令官だった。当時、ソビエト連邦と戦い苦戦していた同盟国のドイツ総統ヒトラーとしては、フィンランドに対ソ戦を継続させる必要があった。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Joukon ensimmäisenä harmaassa pitkässä takissa marsalkka Carl Gustaf Emil Mannerheim. Taustalla oleva lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3 (tunnus KE+IX).
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13130引用。


スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)で帰国した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aiheet.
写真はSotamuseo ・sa-kuva-13133.引用。


1941年6月のドイツのソ連侵攻にあわせて始めた継続戦争だったが、1943年に入ると、明らかに戦局はフィンランド、ドイツに不利になってきた。ソ連に対しては、イギリス、アメリカが膨大な軍事物資を貸与しており、ソ連の生産力増強と相まって、フィンランド、ドイツは、ソ連軍の攻勢を防ぐことも困難になっていた。戦局が悪化する中で、1943年3月5日、フィンランド首相ヨハン・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は辞任し、新たにエドウィン・リンコミエスEdwin Linkomies)がフィンランド首相に就任したが、彼も、ソ連に降伏できない以上、ナチスとの同盟を堅持するしか選択肢はなかった。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)で帰国した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Aiheet.
写真はSotamuseo ・sa-kuva-13134.引用。


1944年6月のノルマンディ侵攻で、西側連合軍地上軍が西ヨーロッパでドイツ軍を圧倒し、ドイツの敗戦が確実になる中、1944年8月8日にエドウィン・リンコミエス首相(日本の勲一等旭日大綬章佩用)は辞任、後任首相には、アンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)が就いた。そして、フィンランド大統領フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)も辞職し、8月4日にフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥が後継の大統領に就任した。

1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したカール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1944年9月19日、モスクワ休戦協定を結んで、事実上、ソ連に降伏した。講和条件は、カレリア地峡・ペッツァモの譲渡、戦争賠償金の支払い、フィンランド国内におけるソ連軍の基地使用、ドイツ軍のフィンランドからの排除(事実上の対ドイツ戦争)である。

写真(右)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥のドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX);マンネルハイム元帥は、東プロイセン、ラステンブルク(Rastenburg)にあるヒトラー大本営「狼の巣」'Wolfsschanze' を訪問し、さらにドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥に主催する祝宴に招かれた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Keskellä harmaassa pitküssü takissa marsalkka Carl Gustaf Emil Mannerheim. Taustalla oleva lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3 (tunnus KE+IX).
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13128引用。


  フィンランド大使館「最近の出来事・お知らせ, 2012/06/07:フィンランド国防軍の記念日を祝って」によれば、「フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)元帥の誕生日をフラッグ・デーと定め、軍事パレードが行われている。マンネルヘイム元帥は、冬戦争や第二次世界大戦時にフィンランド国防軍総司令官、戦後に第6代大統領を務めた。70回目となる今年のパレードは、フィンランドの首都ヘルシンキで開催された」とある。フィンランドがソビエト連邦に侵攻して、第二次大戦を始めたこと、ソ連と講和して、ドイツとの同盟を破棄して、攻撃したことについて、触れていない。重要なのは、フィンランドは、フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、「民主主義」「自由」を貫いたということか。


写真(上)1942年6月28日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)を表敬訪問して、ドイツからフィンランドに帰国したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と乗機となったドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)
;東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」にドイツ総統アドルフ・ヒトラーを表敬訪問し、帰国したところ。1942年6月4日、マンネルハイム元帥は、75歳の誕生日にFw200輸送機に乗ってフィンランドを訪問したヒトラー総統への答礼として、大本営で作戦会議に出席、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥の下で歓迎も受けていた。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Joukon ensimmäisenä harmaassa pitkässä takissa marsalkka Carl Gustaf Emil Mannerheim. Taustalla oleva lentokone on Focke-Wulf Fw 200 C-3 (tunnus KE+IX).
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13129引用


フォッケウルフFw-200コンドルの諸元
エンジン BMW-Bramo 323 R-2 mit je 1000 PS (1200 PS mit MW-50-Einspritzung) 4基
全幅: 32,84 m 全長: 23,87 m 全高: 6,30 m
空虚重量: 14.180 kg 全部重量: 22.600 kg
乗員: 7 人,生産機数 276機
巡航速度: 384 km/h 高度 3970 m, 405 km/h 重量17.600 kg
上昇限度: 6600 m
航続距離: 3550 km (標準) C-3/U2 最大 6400 km
武装: 2基×MG 151/20 (20 mm), 5基×MG 15 (7,92 mm)
爆弾1000 kg (爆弾倉) + 主翼下面 1400 kg,最大搭載量1800 kg


8.1943年、継続戦争の中盤のマンネルへイム元帥

写真(右)1943年7月15日、フィンランド軍水上艇部隊の魚雷艇をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。
Suomen Marsalkka Mt-veneen kannella.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-07-15 Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138892引用。


1939年冬戦争、1941年継続戦争の時期のフィンランド海軍は、バルト海、フィンランド湾など内海のような狭い海域で活動するために、遠洋航海可能な大型艦艇は保持しておらず、小型艦艇中心で、対ソ連用には、機雷敷設、機雷掃海も充実させる必要があった。攻撃用には、小艦で大艦を屠ることのできる雷撃が重視されており、魚雷艇が配備されていた。

イギリス海軍やイタリア海軍は、駆逐艦や水雷艇よりも小型だが、魚雷を搭載して、大型艦艇から小型商戦まで攻撃できる魚雷艇(Torpedo Boat)を開発し、1914年に勃発した第一次世界大戦で、多数実戦投入して戦果を挙げた。そこで、大戦終了後も有効性を認められた魚雷艇は、機動魚雷艇MTB(Motor Torpedo Boat)あるいはMTボートと称されて、各国で採用されている。

写真(右)1942年7月15日、フィンランド軍水上艇部隊の魚雷艇をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;魚雷発射管は搭載していないので、魚雷を前方に射出することはできない。魚雷は、左右舷側に投下され、予め定められた方向にジャイロコンパスで誘導される。
Suomen Marsalkka tarkastaa moottoritorpeedoveneitä.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-07-15 Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138892引用。


フィンランド海軍は、1928年にイギリス、スローニクロフト社で建造されたシャークシク(Syöksy)級魚雷艇(英語の Attack級) 4隻を導入した。

シャークシク(Syöksy)級魚雷艇の諸元
排水量: 13トン
全長: 16.8 m 全幅: 3.4 m
吃水Draught: 1 m
推進器: 2 × 375 馬力
最高速力: 43 ノット
乗員: 7名
兵装:45センチ(18インチ)魚雷2本あるいは機雷 3個(魚雷との選択)
20ミリマドセン対空機関銃1丁
爆雷(depth charge)2発


写真(上)1943年7月15日、フィンランド海軍水上艇部隊の魚雷艇をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。
;奥の4隻の魚雷艇の前部甲板にフィンランド軍水兵が整列している。各艦は、魚雷2本と船尾両側に爆雷を各1個搭載している。検閲を受けている。
Suomen Marsalkka mt-veneiden kannella
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-07-15 Vänrikki Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140731引用。


写真(右)1942年7月15日、フィンランド軍水上艇部隊の魚雷艇をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;露天式艦橋(開放型司令塔)には、操舵用の転輪がついている。魚雷を前方に射出する魚雷発射管は装備していないので、魚雷を発射するには、舷側に魚雷を投下する。そして、目標を予め定め方向にジャイロコンパスによって針路を誘導される。
Suomen Marsalkka mt-veneiden kannella.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1943-07-15
Vänrikki Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140717引用。


写真(右)1942年7月15日、フィンランド軍水上艇部隊、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が魚雷艇MTボートの露天式艦橋(開放型司令塔)、その後部の20ミリマドセン(20 mm Madsen)対空機関銃を視察した。;20ミリマドセン(20 mm Madsen)対空機関銃は、重量55キロ、全長2.5 m、銃身長1.2 m、弾薬20 x 120 mm 、弾薬重量.29 kg (10 oz) AP .32 kg (11 oz) HE、空冷20口径、発射速度400 rpm、有効射程500 m 、最大射程2,123 m。 右側に停泊している魚雷艇は、全高も低く、露天式艦橋(開放型司令塔)ではなく、密閉式艦橋である。
Suomen Marsalkka tarkastaa moottoritorpeedoveneitä.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1943-07-15
Vänrikki Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140720引用。


写真(右)1943年7月15日、フィンランド海軍水上艇部隊の魚雷艇の20ミリマドセン(20 mm Madsen)対空機関銃のある司令塔をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;露天司令塔には操舵のための転輪が見える。
Suomen Marsalkka tarkastaa Mt-veneen aseistusta. Tanskalainen 20 mm Madsen ilmatorjunta-aseena..
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-07-15 Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja Sotamuseo
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138893引用。


20ミリマドセン(20 mm Madsen)対空機関銃の諸元
重量55キロ
全長:2.5 m、銃身長:1.2 m
弾薬20 x 120 mm
弾薬重量:0.29 kg (10オンス) AP, 0.32 kg (11オンス) HE
空冷20口径
発射速度:400 rpm
有効射程:500 m 、最大射程:2,123 m

写真(右)1943年7月15日、フィンランド海軍水上艇部隊の魚雷艇の遮風装置付き露天艦橋(司令塔)をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。
Suomen Marsalkka Mt-veneen komentosillalla.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-07-15 Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja Sotamuseo
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138895引用。


フラヤ(Hurja)級魚雷艇の諸元
排水量14 トン
全長: 16.5 m、全幅: 4.3 m
吃水: 1.3 m
推進器: 2軸、イソッタ(Isotta Fraschini)2,300馬力
最高速力: 36 ノット
乗員: 10名
兵装: 1-2丁12.7ミリ(0.50インチ)機関銃
45センチ(18インチ)魚雷2本
建造数:300隻。


写真(上)1943年7月15日、沿岸警備水上艇部隊の沿岸警備艇VMV、魚雷艇MTボートの基地を視察したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と同行するフィンランド海軍エロ・ラホラ(Eero Rahola)司令官
;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。
Suomen Marsalkka tykkivene Uusimaan kannella.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1943-07-15
Kapteeni Pauli Wiro, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138862引用。


フィンランド海軍エロ・ラホラ(Eero Rahola)司令官は、1918年のフィンランド内戦では青衛軍指揮官として赤衛軍粉砕に尽力し、ヘルシンキ攻略戦に参加した。イタリア駐在武官として1919年から1921年まで勤務し、その間、イタリア海軍巡洋艦に3か月勤務したこともある。その後、イタリア海軍士官学校に学び、1925年に卒業し、帰国した。1939年の冬戦争、1941年の継続戦争では、フィンランド海軍司令官として活躍した。

写真(右)1943年7月15日、フィンランド海軍沿岸警備水上艇部隊の迷彩塗装をした沿岸警備艇VMV、魚雷艇MTボートの基地をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。 Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1943-07-15
Kapteeni Pauli Wiro, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138863引用。


ウーシマー(Uusimaa)は、フィンランド西南海岸部で、12世紀から13世紀までスウェーデン支配下にあった。しかし、1809年の第二次ロシア・スウェーデン戦争で敗れたスウェーデンから、ロシア帝国にウーシマーが割譲された。こうして、ロシア帝国内にフィンランド大公国が創設され、ロシア皇帝がフィンランド大公国の大公として元首の地位に納まった。1831年にウーシマー州(Uusimaa)が設置された。


写真(上)1943年7月15日、フィンランド海軍沿岸警備水上艇部隊の沿岸警備艇VMV、魚雷艇MTボートの基地を視察したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と同行するフィンランド海軍エロ・ラホラ(Eero Rahola)司令官
;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。
Suomen Marsalkka tervehtii raivaajalaivuetta. .
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1943-07-15
Kapteeni Wiro, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138864引用。


写真(右)1943年7月15日、フィンランド海軍水上艇部隊、迷彩塗装を施した沿岸警備艇VMVをフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。警備艇(VMV)は、後方甲板に20ミリマドセン対空機関銃1丁、ボフォース40ミリ対空機関砲1門を装備している。
VM- ja mt-veneitä tukikohdassaan. .
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-07-15 Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja Sotamuseo
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140702引用。


フィンランド海軍は、継続戦争で、ソ連海軍の使用していた魚雷艇を4隻を鹵獲し自国の海軍に配備した。鹵獲したソ連の魚雷艇のうち3隻はG-5級魚雷艇だった。

G-5級魚雷艇の諸元
排水量16.3トン
全長: 19m、全幅: 3.5 m
吃水: 0.82 m
推進器: 2軸、ミクリン(Mikulin)GAM-34BSカゾリンエンジン、850馬力2基
最高速力: 53 ノット
乗員: 6-7名
兵装: 1-2丁12.7ミリ(0.50インチ)機関銃
53.3センチ(21インチ)魚雷2本
建造数:300隻。


写真(上)1943年7月15日、フィンランド海軍沿岸警備水上艇部隊の沿岸警備艇VMV、魚雷艇MTボートの基地を視察したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と同行するフィンランド海軍エロ・ラホラ(Eero Rahola)司令官
;警備艇17号(VMV 17)は、後方甲板に20ミリマドセン対空機関銃1丁、ボフォース40ミリ対空機関砲1門を装備している。フィンランド海軍水兵が整列して検閲を受けている。
Suomen Marsalkka ja kontra-amiraali Rahola tykkivene Uusimaan kannella.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1943-07-15
Kapteeni Pauli Wiro, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140703引用。



写真(上)1943年8月28日、ソ連、オネガ湖東岸、ペトロザヴォーツク(Petrozavodsk)、フィンランド名アーニスリンナ(Äänislinna)で戦車障害物の実験をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。
;マンネルハイム元帥は、ヒトラーと同盟して、共産主義ソ連を弱体化し、ソ連の領土を養殖してフィンランド化し、自国の防衛戦を強化することを計画した。
Äänislinnan liepeillä pidetty PM:n Linnoitus Os:n järjestämä hv-esteiden kestävyyskokeilu. Tilaisuudessa oli läsnä Marsalkka Mannerheim, kenraali Walden, sekä muita korkeita upseereita.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-08-28 Ensio Lindholm, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-123982引用。


写真(右)1943年8月28日、ソ連、オネガ湖東岸、ペトロザヴォーツク(Petrozavodsk)、フィンランド名アーニスリンナ(Äänislinna)で戦車障害物の実験をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;マンネルハイム元帥は、ヒトラーと同盟して、共産主義ソ連を弱体化し、ソ連の領カレリアまで攻め込んでフィンランド化し、自国の防衛戦を強化することを計画した。
Äänislinnan liepeillä pidetty PM:n Linnoitus Os:n järjestämä hv-esteiden kestävyyskokeilu. Tilaisuudessa oli läsnä Marsalkka Mannerheim, kenraali Walden, sekä muita korkeita upseereita.
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-08-28 Ensio Lindholm, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-123983引用。


ペトロザヴォーツク(Petrozavodsk: Петрозаводск)は、現在、ロシア連邦カレリア共和国の首都だが、1941年のフィンランドソ連侵攻の継続戦争の時期、1941年から1944年まで、フィンランドに占領されてしまった。フィンランドは、それまでのペトロスコイというロシア帝国下のフィンランド名をやめて、新たにオネガ湖のフィンランド名称"アーニネン"(Ääninen)に由来する「アーニネン城塞」という意味で、"アーニスリンナ"(Äänislinna)と新たな地名を付けた。このことからも、フィンランドの継続戦争は、1939年の冬戦争で奪われた領土の奪還の範囲をはるかに超えたペトロザヴォーツク(Петрозаводск)のようなソ連の領土まで、フィンランド化することを企図していたことが明白となる。このような領土拡張は、日本の満州領支配と同じく、攻撃的なソビエト連邦ボリシェビキに対する防衛戦の強化という国防上の履修で正当化されていた。


9.1944年、継続戦争の終盤のマンネルへイム元帥

1941年9月8日からドイツ軍によってレニングラード包囲(Siege of Leningrad)がされていたが、1944年1月18日、レニングラードが解放された。そこで、ソ連軍は、カレリア地峡を経てフィンランドへの圧力を強めた。この時期、イタリアは脱落し枢軸軍の劣勢は明白であり、フィンランドはソ連との講和を考えていたが、カレリア地峡の割譲、駐留するドイツ軍の排除という要件は、フィンランド側には受諾するのは困難だった。イタリアは1943年に連合国に降伏したが、その直後に駐留ドイツ軍によって占領されていたからである。


写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西200キロ、ミッケリ(Mikkeli)鉄道駅、国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、現地で出迎えたフィンランド軍の幹部に挨拶をしている。
;フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と首相は、この直後に、蒸気機関車でヘルシンキから到着することになっていたようだ。
Marski tervehtii eversti Bruncronaa.
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-127360引用


1944年6月9日に、西側連合軍が、北フランス、ノルマンディー海岸に上陸して大陸反攻が本格化すると、ソ連軍もドイツに向けた攻勢を開始し、レニングラードからカレリア地峡への侵攻も実施した。フィンランド軍のカレリア地峡の防衛戦は突破されたが、フィンランドに1944年6月22日に赴いたドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)は、フィンランド大統領リュティの対ソ戦争継続の言質をとり、ドイツ空軍ユンカースJu87急降下爆撃機の指揮官クルト・クールマイ(Kurt Kuhlmey)率いる空軍部隊、第303突撃砲旅団を増援部隊としてフィンランドに派遣した。


写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)鉄道駅、国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、蒸気機関車で到着したフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)を出迎えた。
;フィンランド共和国リスト・リュティ大統領はマンネルヘイムから敬礼を受け、後ろのフィンランド共和国エドウィン・リンコミエス首相は、客車のステップに降り立った。
Marski tervehtii presidentti Rytiä, junasta astuu juuri ulos pääministeri Linkomies..
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-127360引用


ミッケリ州 (Mikkelin lääni)は、フィンランド大公国時代、1831年の州再編の時に、成立した。1997年9月1日、州の再編に伴って、近隣州と合併して東スオミ州となった。しかし、2010年1月1日に州制度が廃止されの消滅した。ミッケリ(Mikkeli)は、現在、フィンランド南西部、南サヴォ県、ミッケリ郡で、ヘルシンキ北西200キロ、サイマー湖南畔に位置する。ミッケリ鉄道駅の西5キロのサイリラ(Sairila)にはフィンランド軍司令部が置かれている。


写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西200キロ、ミッケリ鉄道駅、国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、蒸気機関車で到着したフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と握手をする。
;客車の階段では、大統領・首相に同行してきたウォルデン大佐とセーダーストローム中佐が下りようとしている。
Marski tervehtii presidentti Rytiä. Junan portailla kenraali Walden ja presidentin vanhempi adjutantti everstiluutnantti Söderström...
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-127357引用



写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西200キロ、ミッケリ鉄道駅、国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、蒸気機関車で到着したフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)を伴い、現地軍幹部を紹介する。
;大統領の後ろでは、エドウィン・リンコミエス首相がハットをとって、現地軍幹部に挨拶をしている。
Tasavallan presidentti ja Marsalkka seurueineen.
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-127362引用



写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ミッケリ鉄道駅からリムジンでサイリラの軍司令部に到着した国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)

Marsalkka ja presidentti saapuvat Sairilaan. .
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Vänrikki K.Sjöblom, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-127400引用。


フィンランド共和国リスト・リュティ大統領は、1943年中頃には、戦局の悪化を認識していたのであれば、1941年にドイツを頼みにソ連侵攻に参戦したことを後悔していた可能性もある。しかし、それは対ソ戦争が不利になったからであって、ボリシェビキ共産主義の脅威に圧迫されている状況を改善するために、ソ連を弱体化するしかないとの信念は変わらなかったであろう。1943年春の時点では、ドイツ第六軍がスターリングラードで敗北し、北アフリカに派遣されていたドイツアフリカ軍団が降伏しており、ドイツ軍の劣勢は明らかだった。


写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍の自転車部隊を閲兵している。

Tasavallan Presidentti ja Suomen Marsalkka tarkastavat kunniakomppanian.
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118134引用


1943年夏、ドイツは、本土をイギリス空軍・アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機によって空襲されていたが、陸軍地上兵力の大半を東部戦線のソ連軍に集中できる状況にあり、レニングラードの包囲網も健在だった。したがって、ドイツがソ連を敗退させる可能性は残っており、ドイツの軍事力にフィンランドの運命をゆだねて、奮闘努力するべきであると自ら意志を固めるしかなかった。この点、日本の戦争判断も同じで、戦争を始めたことではなく、戦争に敗れつつあることに不安を感じ、勝利の道が遠のいたことを嘆いていた。他方、フィンランド国防軍でも日本軍でも、下級兵士たちは、政治的指導者のような戦争の開始、休戦の意思決定に参与できるわけではなく、戦争が続いている以上、勇気をもって戦い続けるしかなかった。


写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍の行進を閲兵する。
;リスト・リュティ大統領は黒い外套にハットのスタイルで、正面に立っている。ドイツ製の3号突撃砲、牽引車などが行進した。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa.
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118123引用



写真(上)1944年6月4日、フィンランド、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍のIII号突撃砲G型初期型の行進を閲兵する。
;反革命・反ボリシェビキ・自由の象徴で青衛軍以来の伝統あるカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体前面下部に描いている。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa.
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118127引用



写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の閲兵を受けたフィンランド軍の突撃砲大隊のIII号突撃砲G型(Ps. 531)
;1940年式48口径7.5センチ戦車砲(7,5cm StuK 40 L/48)を搭載している。反革命・反ボリシェビキ・自由の象徴で青衛軍以来の伝統あるカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体に描いている。<
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa.
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118134引用


1944年6月、継続戦争(第二次ソ芬戦争)の末期、フィンランド軍は、ドイツから購入したIII号突撃砲Sturmgeschütz III :Sd.Kfz. 142;StuG III)G型を基幹とする突撃砲大隊(Rynnäkkötykkipataljoona)を編成した。III号突撃砲G型の48口径7.5センチ砲(7,5cm StuK 40 L/48)は、強力で、車高も低いために標的になりにくく、対戦車戦闘能力が高かった。フィンランド軍の突撃砲大隊は、以前から紙上では存在していたが、突撃砲の配備がなって、やっと実現した部隊である。フィンランドは、1944年にドイツに59輌のIII号突撃砲G型を発注した。そして、そのうち最初の30台は1944年の夏の戦いに間に合うようにフィンランドに到着し、フィンランド軍ではPs. 531と命名された。しかし、フィンランドに到着したスぺアパーツが十分ではなく、III号突撃砲13号車(Ps. 531-13)は分解され、スペアパーツをとる整備車輛とされている。 1944年6月にIII号突撃砲G型30輌程度を受領したフィンランド軍は、これを基幹として突撃砲大隊を編成したのである。この新鋭突撃砲部隊は、1944年6月4日、ミッケリ州ミッケリ州サイリラで、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)、エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)、そして国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥ら軍幹部らの前で行進し、閲兵されている。


写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド軍の突撃砲大隊のIII号突撃砲G型(Ps. 531)の行進を見物する地元のフィンランド人住民と子供たち
;反ボリシェビキ・自由の象徴である鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体前面下部に描いている。戦闘室に1940年式48口径7.5センチ戦車砲(7,5cm StuK 40 L/48)を装備、車体上面の司令塔ハッチ前に防盾付きの7.62ミリ車載機関銃を装備している。フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の閲兵を受けた
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa..
Organisation Military Museum.
Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118117引用


フィンランド軍にとっても、白丸に青の鍵十字を描いたカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、軍の国籍識別マークで、1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年9月の対ソ講和の時に廃止した。

1944年6月14日の夜、フィンランドのIII号突撃砲は、ソ連軍を攻撃してVTラインにまで進撃しようと出撃した。実際、装甲師団の突撃砲大隊は、敵を排除してVTラインにまで到達したが、損失が大きく、反撃を受けて後退せざるを得なくなった。突撃砲大隊は、カレリア地峡中部のキルピチノエ( Perkjärvi)の戦い、1944年6月25日から7月9日のタリ=イハンタラ(Tali-Ihantala)の激戦、1944年7月4日から7月17日のヴオサルミ(Vuosalmi)の戦いに参加して、1940年式48口径7.5センチ戦車砲(7,5cm StuK 40 L/48)を活かして、軍功を挙げている。最終的には、突撃砲大隊の武勲は、突撃砲8輌の損失(自軍で爆破・撤退した車輛を含む)で、敵ソ連軍車輛87台を撃破している。


写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍の8トン半装軌式牽引車(Sd.Kfz.7)の行進を閲兵する。
;ドイツのクラウス・マッファイ社の開発8トン半装軌式牽引車(Sd.Kfz.7)は、1934年に開発された重砲牽引用の車輛で、1938年から本格的に量産された。人員輸送用の際は12名を荷台の簡易ベンチに乗せることができた。牽引した火砲は、8.8センチ高射砲(8.8 cm FlaK 18/36/37)15センチ榴弾砲(15cm sFH 18)などだが、荷台を改造して、2センチ対空機関銃四連装砲塔や3.7センチ対空機関砲などを搭載した対空車輛もある。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118118引用



写真(上)1944年6月4日、フィンランド、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍のIII号突撃砲G型初期型の行進を閲兵する。
;リスト・リュティ大統領は黒い外套にハットのスタイルで、マンネルヘイムと並んで正面に立っている。ドイツ製の3号突撃砲、牽引車などが行進した。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118129引用



写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍のIII号突撃砲G型の行進を閲兵する。
;リスト・リュティ大統領は黒い外套にハットのスタイルで、マンネルヘイムと並んで正面に立っている。ドイツ製の3号突撃砲、牽引車などが行進した。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa..
Organisation Military Museum Photo info: 1944-06-04 Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118130引用



10.1944年8月4日、フィンランド大統領に就任したマンネルへイム元帥

1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したカール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1944年9月19日、モスクワ休戦協定を結んで、事実上、ソ連に降伏した。講和条件は、カレリア地峡・ペッツァモの譲渡、戦争賠償金の支払い、フィンランド国内におけるソ連軍の基地使用、ドイツ軍のフィンランドからの排除(事実上の対ドイツ戦争)である。


写真(上)1944年8月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、フィンランド新大統領に就任した国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド国会議員たちに挨拶する。

Presidentti Mannerheim tervehtii kansanedustajia.
Organisation Military Museum Photo info: 1944-08-04 Sot.virk. Sundström, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13129引用


ドイツ軍のソ連侵攻が始まった1941年6月、フィンランドもマンネルハイム将軍を先頭に立てて、1939年の冬戦争でソ連に奪われたカレリア地峡など領土奪回を目指し、共産主義ソビエト連邦に攻撃を仕掛けた。フィンランドはドイツの同盟国として、1941年6月から1944年9月までソビエト連邦と戦争状態にあったのである。これが継承戦争(継続戦争)で、1939年に始まり翌年敗北に終わった「冬戦争」の復讐戦だった。しかし、継承戦争は、1944年夏になると、フィンランド側が不利であり、フィンランドは密かにソ連との和平交渉を始め、戦争から抜け出そうと画策していた。

写真(右)1944年8月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)、フィンランド新大統領に就任した国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、閣僚たちと協議する。;1944年8月8日以降フィンランド首相アンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)内閣のVäinö Salovaara 運輸公共大臣、Aleksi Aaltonen厚生大臣、Uuno Takki 通商産業大臣、首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)内閣時代のTyko Reinikka 財務大臣およびHenrik Ramsay 外務大臣。
Presidentti Mannerheim keskustelee ministeri Salovaaran, Aaltosen, Osaran, Takin, Reinikan ja Ramsayn kanssa. ;.
Organisation Military Museum Photo info: 1944-08-04 Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133975引用。


1941年7月から1944年7月まで、フィンランドは、継承戦争Continuation War)と称して、1939年の冬戦争に敗北して失ったカレリア地方を奪還しようとソ連赤軍と戦っていた。フィンランドは、アメリカ、イギリスとは戦うつもりがなかったが、ドイツ軍を一手に支えているソ連赤軍をドイツと同盟して攻撃した以上、西側連合国もフィンランドの対ソ戦は戦うが、対米英は中立だという詭弁を受け入れなかった。結局、フィンランドは、対ソ戦勝利が不可能である以上、大きな損害を蒙らないうちに、継承戦争Continuation War)を打ち切って、ソ連と講和するしかなたった

写真(右)1944年8月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)、フィンランド新大統領に就任した国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)と握手をする。;フィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)在任期間は1943年3月5日から1944年8月8日なので、4日後には、首相の座をアンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)に譲ることになる。
Presidentti Mannerheim hyvästelee pääministeri Kinkomiestä.
Organisation Military Museum Photo info: 1944-08-04 Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134045引用。


  このフィンランドの裏切り・転向を決断し、実行したのは1944年8月4日、フィンランド大統領に就任したフィンランド軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥である。1944年7月に、フィンランドはソ連と休戦交渉していたが、新大統領カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥は、それを進めて、1944年9月19日にモスクワ休戦協定を結んで講和した。これは、事実上、体面を保った降伏だったが、講和条件の一つが、ドイツ軍の排除であり、フィンランドは連合軍の一員として、ドイツと戦うことになった。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

2019年4月30日開設の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
連絡先: torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学HK 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
Flag Counter


Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 7000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright © Torikai Yukihiro, Japan. 2019-5 All Rights Reserved.