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◆フィンランド内戦:ロシア革命後の白衛軍と赤衛軍
写真(上)1917年3月、ロシア2月革命の直後、ロシア帝国フィンランド大公国、ヘルシンキ中央鉄道駅前広場に集まったロシア革命派・赤衛軍側のロシア人兵士たち
;集まった兵士の多くは、肩に小銃をかけて武装している。このような武装集団を政府は解散させることはできなかった。
Maaliskuun vallankumous; venäläisiä matruuseja ja sotilaita pakkautuneena Rautatientorille maaliskuussa 1917?. Rautatieaseman seinustalla jonkinlainen lippuairue. Useimmilla sotilaista kivääri olalla. Organisation Kerava museum Collection Pirkko Oikarisen kokoelma Inventory ID v100_0020 Photo info: 03.1917? Helsinki tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・M011-88177引用。

写真(上)1917年、フィンランド、ヘルシンキ、アウローランカト通りを行進する革命祝賀パレード
;1917年の革命で、フィンランドの独立、戦争終了、民主化、新政府の樹立などが目前に迫ったと感じた人々が祝っている。
Venäläisten vuoden 1917 vallankumousjuhlat. Vasemmalla Arkadiankatu 8, oikealla Pohjoinen Rautatiekatu 13. Takana oikealla Arkadiankatu 15 - Aurorankatu 19. -- vedos, paperi, mv
Aiheen paikka Helsinki, Pohjoinen Rautatiekatu 13 Aiheen aika 1917
Organisaatio Helsingin kaupunginmuseo Inventaarionro G5380
Mitat 6,5x11,5 Kuvaustiedot: 1917 Helsinki, Pohjoinen Rautatiekatu 13 Sundström Alfons Ebenhard, Valokuvaaja
写真はMuseot Finna・HKMS000005引用。

写真(上)1917年、フィンランド、ヘルシンキ、アウローランカト通りを行進する革命祝賀パレード
;アウローランカト通りは、ヘルシンキ中央駅にすぐに通じる大通りで、現在、ヘルシンキ市立美術館、現代美術館などが立っている。
Venäläisten vuoden 1917 vallankumousjuhlat. Vasemmalla Arkadiankatu 8, oikealla Pohjoinen Rautatiekatu 13. Takana oikealla Arkadiankatu 15 - Aurorankatu 19. -- vedos, paperi, mv
Aiheen paikka Helsinki, Pohjoinen Rautatiekatu 13 Aiheen aika 1917
Organisaatio Helsingin kaupunginmuseo Inventaarionro G5380
Mitat 6,5x11,5 Kuvaustiedot: 1917 Helsinki, Pohjoinen Rautatiekatu 13 Sundström Alfons Ebenhard, Valokuvaaja
写真はMuseot Finna・HKMS000005引用。


Suomen Marsalkka Mannerheim vastavierailulla valtakunnankansleri Hitlerin luona 27. - 28.6.1942; Marshal of Finland Mannerheim pays a reciprocal visit to Adolf Hitler in Germany 1942.

◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。

Marskalk Mannerheims tal till Svenska Frivilligkåren efter Vinterkriget (Paikanselkä 28.3.1940)

◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


1.ロシア帝国に組み込まれていたフィンランド

写真(右)1869年、ロシア帝国首都サンクトぺテルスブルク、ロシア皇太子アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ大公(後の皇帝アレクサンデル3世)の妃マリア・フョードロヴナ(後の皇后)と2歳の長男ニコライ(後のロシア皇帝ニコライ2世):マリア・フョードロヴナは、アレクサンドル3世皇后で1868年5月18日、世継ぎとなる長男ニコライを出産した。そして、次男は夭折したものの、1871年5月9日、三男ゲオルギー・アレクサンドロヴィチを出産した。ニコライは、皇太子時代、世界の見聞を広めるために、22歳の時に日本を訪れている。その1891年(明治24年)5月11日、大津事件に遭遇した。警備中の警察官・津田三蔵にサーベルで切り付けられたのである br>keisarinna Maria Feodorovna ja poikansa Nikolai .
Georg E. Hansen & Co., kuvaaja 1869.
Subject place Pietari (Saint Petersburg).
Subject date 1891
Aiheen paikka Kööpenhamina (Copenhagen), Tanska.
Aiheen aika syksy 1869.
Aiheen toimija Maria Feodorovna, nuorempi.
Nikolai II Aleksandrovitš Organisaatio Museovirasto - Musketti.
Kokoelma Historian kuvakokoelma.
Inventaarionro HK19361229:8.
Mitat 16 x 11 cm
Photo info: 1891 Pietari (Saint Petersburg) Pasetti A., kuvaaja
写真は,Museot Finna HK19361229:8引用。


アレクサンドル3世(アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)は、1845年3月10日生まれ、父はアレクサンドル2世と皇后マリア・アレクサンドロヴナで、次男だったが、長男ニコライが21歳で早世したため、皇太子となり、兄の婚約者であるデンマーク王クリスチャン9世の次女マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー王女と結婚し、彼女はマリア・フョードロヴナ皇后と呼ばれることになった。マリア・フョードロヴナ皇后は、夫アレクサンドル3世との間に、1868年5月18日、世継ぎとなる長男ニコライを出産した。そして、次男は夭折したものの、1871年5月9日、三男ゲオルギー・アレクサンドロヴィチを出産した。

ロシア皇帝の世継ぎニコライは、1890年10月から1891年8月に世界見聞旅行に出かけて、皇太子としての資質に磨きをかけることになった。この訪問先は、すでに親しんでいるヨーロッパではなく、イギリスとロシアが対立しているアジア地域である。ニコライには、当初、弟ゲオルギーが同行していた。旅行経路は、オーストリア経由で、ギリシャへ向かい、ギリシャ王ゲオルギオス1世の次男にして従兄弟ゲオルギオス王子が同行し、エジプト、インド、セイロン、シンガポール、フランス領インドシナ、オランダ領東インド(インドネシア)、シャム(タイ王国)、英領香港、中国清王朝の広東・上海を歴訪し、最後に日本を訪れた。

日本を訪れたニコライ皇太子は、当時、22歳で、誕生日1週間前の1891年(明治24年)5月11日、大津事件に遭遇した。警備中の警察官・津田三蔵にサーベルで切り付けられたのである。

写真(右)1885年8月9日、ロシア帝国、首都サンクトぺテルスブルク、ロシア皇帝アレクサンデル3世と皇后マリア・フョードロヴナのロマノフ家:後列に、皇帝アレキサンダデル3世(フィンランド大公)、弟のセルゲイ・アレクサンドロヴィッツ大公、マリア・フョードロヴナ皇后(アレクサンドロス3世の妻)、アレクセイ・アレクサンドロヴィッツ大公、エリザベス大公(セルゲイの妻にてヘッセ王女)。左手前:ニコライ、弟のゲオルギー大公、パウル・アレクサンドロヴィッツ大公
takarivissä vasemmalta Keisari, Suomen suuriruhtinas Aleksanteri III, hänen veljensä suuriruhtinas Sergei Aleksandrovits, Keisarinna Maria Feodorovna, suuriruhtinas Aleksei Aleksandrovits ja suuriruhtinatar Elisabeth (Sergein puoliso, o.s.Hessenin prinsessa). edessä vasemmalta: perintöruhtinas Nikolai, ja hänen veljensä suuriruhtinas Georg ja setänsä suuriruhtinas Paul Aleksandrovits. vaaka, mustavalkoinen, kuva-ala 10 x 15 cm.
Aiheen paikka Keisarillinen palatsi, Helsinki Aiheen aika 9.8.1885
Aiheen toimija Aleksanteri III Aleksandrovitš Maria Feodorovna, nuorempi Nikolai II Aleksandrovitš Romanov Sergei Aleksandrovitš Aleksandrovitš Georgi Elisabeth Feodorovna Romanov Paul Aleksandrovitš
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK19600829:138 Mitat 11 x 17 cm
写真は,Museot Finna M012:HK19600829:138引用。


ロシア皇帝ニコライ2世の妃は、アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后である。アレクサンドラ・フョードロヴナは、ロシア皇帝ニコライ2世の妃(皇后)だが、1872年6月6日ドイツ神聖ローマ帝国の領土の一部だったヘッセン大公国のルートヴィヒ4世とイギリスのヴィクトリア女王の次女アリスの間の四女ヴィクトリア・アリックス(Victoria Alix)として生まれた。そして、1884年、姉エリーザベトがロシア皇帝アレクサンドル3世の弟セルゲイ大公と結婚すると、その時、兄ニコライと面識を得たが、ニコライは1894年11月1日にロシア皇帝を継ぎ、ニコライ2世として即位した。祖母ヴィクトリア女王も、イギリス・ハノーヴァー朝とロシア・ロマノフ朝の間を取り持つことに賛成だった。1894年に、ロシア皇太子ニコライと結婚したヴィクトリア・アリックスは、妃として皇后アレクサンドラ・フョードロヴナと名乗ることになった。そして、1904年、待望の世継ぎとなる皇太子アレクセイを出産した。彼は、血友病に冒され、病弱だったが、グリゴリー・ラスプーチンの支えを得て、小康状態を保っていた。

1891年、ロシア帝国の近衛騎兵として軍歴をスタートしたマンネルハイムは、フィンランド人ではあったが、1909年に帝を退位させた1917年のロシア革命を憎み、その支持者であるフィンランド人の赤衛軍を弾圧し、1939年のソ連共産党書記長(指導者)スターリンによるフィンランド侵攻「冬戦争」にも、1941年のフィンランドによる共産主義国家ソ連への侵攻「継続戦争」に積極的に始動したのは、軍人としての経歴から言って当然だった。

写真(右)1891年、ロシア帝国首都サンクトぺテルスブルク、マリア・フョードロヴナ皇后近衛騎兵として配属になったばかりのカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim):マリア・フョードロヴナは、アレクサンドル3世皇后であり、マンネルハイムは、ロシア帝国の騎兵学校を優秀な成績で卒業し、1891年、ロシア帝国軍エリート部隊である近衛騎兵として配属された。彼が、ロシア皇帝兼フィンランド大公に忠誠を誓い、命を捧げる覚悟をしたのは当然である。マンネルハイムは、皇帝支持者だったのであり、1917年のロシア革命にも、フィンランドにおける赤衛軍の蜂起にも軍事的鎮圧を企図した。1939年のソ連によるフィンランド侵攻「冬戦争」でソ連赤軍と闘い、1941年のフィンランドによるソ連侵攻「継続戦争」でレニングラードを攻めるなど、反共産主義、反ボリシャビキの強硬な軍人としての態度はブレておらず一貫している。
Chevalierkaartin kornetti Carl Gustaf Mannerheim .
Subject place Pietari (Saint Petersburg) Subject date 1891
Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19491201:18
Photo info: 1891 Pietari (Saint Petersburg) Pasetti A., kuvaaja
写真は,Museot Finna HK19600829:105 引用。


1867年6月4日、フィンランド南西部にあるトゥルクで、カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)は、父カール・ロベルト・マンネルハイム(Carl Robert Mannerheim)と母ヘドウィグ・シャルロッタ・ヘレネ・フォン・ユーリン(Hedvig Charlotta Helena von Julin)の富裕な家族の第3子として誕生した。1887年、ロシア帝国のニコラエフ騎兵学校に入学、1889年に卒業した後、1891年、エリート部隊であるアレクサンドル3世皇后のマリア・フョードロヴナ(Maria Fedorovnan)近衛騎兵として、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクSaint Petersburg:後のペトログラード、レニングラード)に配属された。1892年、マンネルヘイムはロシア貴族にして将軍の娘のアナスタシア・アラフォヴァと結婚している。

19世紀初頭、フィンランドは、スウェーデン領だったが、ロシア帝国に割譲され、フィンランド大公国Grand Duchy of Finland)として、ロシア皇帝(ツァー)アレクサンドル2世を大公(元首)とする立憲君主制国家として、独自の議会と政府を有することが認められた。1816年に創設されたこの議会は、フィンランド元老院Suomen senaatti:Senate of Finland)というべきもので、内閣と裁判所を名寝ていた。ロシア皇帝アレクサンドル1世は、フィンランド人(フィン人)の自治権を認めたため、フィンランド語が公用語し、民族叙事詩「カレワラ」の編纂などナショナリズムが勃興した。フィンランド元老院Suomen senaatti)は、1816年から1917年まで100年存続し、その名を冠した議会広場(Senaatintori)は、フィンランド鉄道の中央駅(Helsingin Rautatieasema)から徒歩10分で、フィンランド大聖堂(カテドラル)が建設され、フィンランドの政治・経済中枢となった。元老院広場Senaatintori)中心には、ロシア皇帝兼フィンランド大公アレクサンドル2世の像が残っているが、これは、1855年から1881年の治世に、農奴・女性の解放、、国立銀行の創設、初等教育無償化、大学拡充など自由主義政策が評価されたためであろう。

写真(右)1892年、ロシア帝国首都サンクトぺテルスブルク、皇后マリア・フョードロヴナ近衛騎兵として配属になったカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim):1891年、ロシア帝国軍エリート部隊である近衛騎兵として配属された。彼が、ロシア皇帝兼フィンランド大公、皇后マリア・フョードロヴナに忠誠を誓い、命を捧げる宣誓をしたのであれば、その後の彼が、皇帝を退位させた1917年のロシア革命を憎み、その支持者であるフィンランド人の赤衛軍を弾圧し、1939年のソ連共産党書記長(指導者)スターリンによるフィンランド侵攻「冬戦争」にも、1941年のフィンランドによる共産主義国家ソ連への侵攻「継続戦争」に積極的に始動したのは、軍人としての経歴から言って当然だった。
kornetti Mannerheim Chevalierkaartin juhlaunivormussa, Mannerheim palveli H.M. keisarinna Maria Fedorovnan Chevalierkaartissa vv. 1891-1904..
Subject place Pietari (Saint Petersburg) Subject date 1892
Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19600829:105
Photo info: 1892 Pietari (Saint Petersburg)
写真は,Museot Finna HK19600829:105 引用。


マンネルハイムは、ロシア支配下のフィンランドにあったとは言っても、決してロシアに弾圧されたわけでなく、ロシア皇帝に気に入られ、引きたてられて軍人として大成功していた。ロシアは、フィンランド大公国に自治を与えていた。1891年にマンネルハイムが配属されたマリア・フョードロヴナ皇后近衛騎兵は、アレクサンドル3世皇后を警護する馬に乗った兵士であり、徒歩で行進する歩兵に比べて高い地位にあった。マンネルハイム自身、フィンランドではなくロシア帝国の騎兵学校で学んでおり、そこを優秀な成績で卒業できたのは、彼の学業・武術が優れているだけでなく、素行もロシア皇帝への忠誠心も十分に発揮されていたからである。ロシア皇帝は、当時、フィンランド大公を兼ねており、皇帝に忠誠を誓うことに、フィンランド人としても何の躊躇もなかったはずだ。ロシア皇帝に命を捧げる覚悟をし、軍務に励んできた騎兵将校マンネルハイムは、ロシア皇帝を退位させ、処刑したボリシェビキ、共産党、赤軍を憎悪した。マンネルハイムが騎兵将校として使えた皇后マリヤ・フョードロヴナMaria Feodorovna)は、ロシア皇帝アレクサンドル3世の妃で、出身はデンマーク王クリスチャン9世と王妃ルイーセの次女であり、彼女の兄弟姉妹は、デンマーク王フレゼリク8世、ギリシャ王ゲオルギオス1世、イギリス王妃アレクサンドラと名門中の名門である。そして、皇后マリヤ・フョードロヴナは、ロシア皇帝ニコライ2世の母である。皇帝・皇后を慕っていた騎兵マンネルハイムは、皇后の長男・皇帝ニコライ2世を殺害したボリシェビキを憎悪したのは当然だった。マンネルハイムは、1917年ロシア十月革命で成立したロシア・ソビエト政府(ボリシェビキ)にも、フィンランドの赤軍蜂起にも断固鎮圧の態度で臨んでいる。その20年後、1939年のソ連赤軍によるフィンランド侵攻「冬戦争」でも、1941年のフィンランド・ドイツ同盟軍によるソ連侵攻「継続戦争」レニングラード攻勢でも、反共産主義、反ボリシャビキのマンネルハイム将軍は、率先して勇敢に戦った。

写真(右)1894年、ロシア帝国、首都サンクトぺテルスブルク、ロシア皇帝アレクサンデル3世と皇后マリア・フョードロヴナ:マンネルヘイムは1891年に皇后の近衛騎兵に任命されている。:アレクサンドル3世(Александр III, アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ロマノフ)は、1845年3月10日生まれ、ロマノフ朝第13代ロシア皇帝で、在位期間は1881年3月14日から1894年11月1日。妻は死亡した兄の婚約者デンマーク王クリスチャン9世の第2王女マリー・ソフィー・フレデリケ・ダウマー、ロシア名マリア・フョードロヴナと4男2女をもうけた。世継ぎはニコライ2世。マンネルヘイムは、フィンランド人ではあるが、ロマノフ王朝で出世し、1891年から皇后マリア・フョードロヴナ近衛騎兵として軍務についている。ロシア皇帝兼フィンランド大公、皇后マリア・フョードロヴナに忠誠を誓ったマンネルハイムは、1917年のロシア革命には反対する立場をとり続けたが、フィンランドの独立については、ロシア革命による恩恵ではなく、フィンランド人が自ら勝ち取ったものと考えた。
keisari Aleksanteri II ja keisarinna Maria Feodorovna .
Subject place Pietari (Saint Petersburg) Subject date viimeistään 1894 Subject actor Maria Feodorovna, nuorempi Aleksanteri III Aleksandrovitš Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19661003:42 Measurements 13 x 18 cm Photo info: viimeistään 1894 Vezenberg & Co, kuvaaja
写真は,Museot Finna HK19661003:42引用。


1914年に第一次大戦が勃発すると、マンネルヘイムはロシア第4軍近衛騎兵旅団幹部として、オーストリア軍と交戦し、1915年には、第12騎兵師団師団長として、東ガリチア(ポーランド南部)で戦った。1917年1月、マンネルヘイムは休暇で首都ペトログラード(第二次大戦前のサンクトペテルブルク)で、ニコライ2世(皇后マリア・フョードロヴナ長男)に謁見している。1917年のロシア二月革命後の6月に中将へ昇進し、第6騎兵軍団司令官に就任し、アレクサンドル・ケレンスキーAlexander Kerensky)新ロシア政権の下でドイツと戦い続けることになったしかし、ロシア十月革命によるレーニン指導下のボリシェビキ共産党政権、フィンランド独立運動のなかで、マンネルハイムは、ロシア帝国の騎兵部隊司令官として、フィンランドに共産主義政権が樹立されることを危惧していた。

1917年ロシア二月革命に続いてボリシェヴィキによる十月革命が勃発、第一次世界大戦からの離脱、ロマノフ家のエカテリンブルクでの収監と、ロシア・ソビエト政権の政治方針は従来とは大きく変化した。しかし、この第一次大戦の離脱の動きは、イギリス、フランスにとって裏切り行為であり、ドイツやオーストリアで抑圧されていたチェコ人(ロシア軍として戦った)にとっても、民族独立の希望を裏切るものだった。そこで、ロシア帝国内に多数あった投降チェコ人部隊、すなわちチェコ軍は反革命の白軍の側に立って蜂起した。白軍は、ロマノフ家の収監されていたエカテリンブルクにも迫っており、皇帝一家が解放されれば、帝政派の白軍が勢いづくの必至だった。そこで、ボリシェビキは、1918年7月17日、ロマノフ一家全員を殺害することを決定した。実際に皇帝一家を処刑していたのは、ロシア帝政に迫害されていたユダヤ人・ハンガリー人・ラトビア人といった少数民族で構成された赤軍兵士である。彼らは、元皇帝ニコライ2世、元皇后アレクサンドラ、娘のオリガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、元皇太子アレクセイ全員とその召使ら合計11人を銃殺した。マンネルハイムは、ロシア帝国軍騎兵将校として、ロマノフ家を皆殺しにしたボリシェビキ、赤軍を許さなかった。また、革命支持のフィンランド人の赤衛軍も許さなかった。1918年のフィンランド内戦で、マンネルヘイムは、白衛軍の指揮官として、共産主義者一党を弾圧、粛清した。その後、1939年のソ連共産党書記長(指導者)スターリンによるフィンランド侵攻「冬戦争」にも、1941年のフィンランドによる共産主義国家ソ連への侵攻「継続戦争」にもマンネルハイムは、フィンランドの独立とロシア皇帝軍騎兵隊の名誉をかけて積極的に戦った。これは、彼の軍歴から言って当然のことだった。

写真(右)1916年頃、ロシア帝国、首都サンクトぺテルスブルク、ロシア皇帝ニコライ2世一家、左端から第一皇女ロマノフ・オリガ・ニコラエヴナ(1895生・ニコライ隣り椅子)、第三皇女マリア(1899年生)、皇后アレクサンドラ・フョードロヴナ、第四皇女アナスタシア、皇太子ロマノフ・アレクセイ・ニコラエヴィッチ、第二皇女タチアナ(1897生・右端)、:1891年、ロシア帝国軍エリート部隊である皇后マリア・フョードロヴナ近衛騎兵として配属された。彼が、ロシア皇帝兼フィンランド大公、皇后マリア・フョードロヴナに忠誠を誓い、命を捧げる宣誓をしたのであれば、その後の彼が、皇帝を退位させた1917年のロシア革命を憎み、その支持者であるフィンランド人の赤衛軍を弾圧し、1939年のソ連共産党書記長(指導者)スターリンによるフィンランド侵攻「冬戦争」にも、1941年のフィンランドによる共産主義国家ソ連への侵攻「継続戦争」に積極的に始動したのは、軍人としての経歴から言って当然だった。
Edessä vasemmalla Tatjana, Nikolai II, Anastasia, Aleksei ja Olga. Takana vasemmalta Maria Nikolaevna ja Aleksandra Feodorovna. vaaka, mustavalkoinen..
Subject place Pietari (Saint Petersburg) Subject date 1892
Subject actor Nikolai II Aleksandrovitš Aleksandra Feodorovna, nuorempi Romanova Maria Nikolajevna Romanova Tatjana Nikolajevna Romanova Olga Nikolajevna (1) Romanova Anastasia Nikolajevna Romanov Aleksei Nikolajevitš
Collection Historian kuvakokoelma
Inventory ID HK19720617:174 Measurements 9 x 14 cm
写真は,Museot Finna HK19600829:105 引用。


写真(右)1917年3月、ロシア露歴三月月、ロシア帝国フィンランド大公国首都ヘルシンキ、ヘルシンキ中央駅の階段に勢ぞろいしたロシア革命派・赤衛軍側のロシア人兵士たち;ロシア3月革命1917年、ヘルシンキでの革命的な祭典4.4。 1917年。ヘルシンキ駅の階段の上のロシアの兵士たち。 - 反抗的、映画、mv。
venäläisiä sotilaita julisteineen kevättalvella 1917 Helsingissä
Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 1917
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK10000:2553 Kuvaustiedot: 1970-luvun alku Helsinki
写真はMuseot Finna・HK10000:2553引用。


写真(右)1917年春、ロシア2月革命の後、ロシア帝国フィンランド大公国、ヘルシンキ、赤軍の旗とポススターを持って集まったロシア軍のロシア人(フィンランド人?)の兵士;集まった兵士の多くは、肩に小銃をかけて武装している。このような武装集団を政府は解散させることはできなかった。
venäläisiä sotilaita julisteineen kevättalvella 1917 Helsingissä
Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 1917
Organisaatio Museovirasto - Musketti
Kokoelma Historian kuvakokoelma
Inventaarionro HK10000:2553 Kuvaustiedot: 1970-luvun alku Helsinki
写真はMuseot Finna・HK10000:2553引用。


写真(右)1907年、中国清王朝、新疆省アクス、中国人と一緒に記念撮影をしたマンネルヘイム:新疆アクスは、ロシア帝国キルギス国境東、漢代から西域・中央アジアを通るシルクロードの交易で栄えた。新疆アクスは、ロシア帝国のキルギス、その北のカザフスタン同様、ウイグル族住民の多くはイスラム教徒(回教徒)だった。
Aksun difangguan, zhentai ja daotai sekä C. G. Mannerheim .
Subject place Aksu, Kiina Subject date 1906 - 1908 Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Yleisetnografinen kuvakokoelma Suomalais-Ugrilaisen Seuran kokoelma
Inventory ID VKK269:358 Measurements 9 x 12 cm Inscriptions
Tyyppi: merkintä Sisältö: Daotaien, zhentaien, difangguanen i Aksu och jag.
Photo info: 1906 - 1908 nitraatti (Pohjamateriaali) Aksu,Kiina Mannerheim Carl Gustaf Emil, kuvaaja
写真は,Museot Finna VKK269:358引用。


1735年、清朝第6代皇帝に乾隆帝が即位し外征を立て続けに行った。これは、シュンガル侵攻、四川省山岳地の金川侵攻、ネパールのグルカ侵攻、チベット侵攻、回部ウイグル侵攻、台湾侵攻、越南(ベトナム)侵攻などで、領土を拡張した。乾隆帝はジュンガル領タリム盆地、イリ盆地に侵攻、イチェ・ジェチェン(Ice jecen)、すなわち「新拡張領土」の新疆を獲得した。新疆では、軍政が敷かれたが、在地の有力者を登用して自治が認められた。1865年から1870年に、コーカンド・ハン国が新疆に攻め入ったため、新疆奪回のために、1875年に清朝は欽差大臣の指揮の下、軍を派遣して新疆を奪回した。しかし、このころになると、ロシア帝国の影響力が中国との国境付近まで及ぶようになっており、ロシア国境の新疆は、ロシアとの軍事的緊張の下に置かれた。そこで、1884年、清朝は新疆省を設置し、辺境領としての自治ではなく、他の中国領と同じく省都をウルムチとして制度化された支配体制の下に置いた。

写真(右)1908年1月以降、中国清王朝、蘭州、寺院の庭でカメラとノートとを手にしたマンネルヘイム:蘭州の炳霊寺は、支流の奇岩の中にあり、岩窟の石仏もある。マンネルハイムは、1906年から1908年に中央アジア・中国の探検調査を行い、長崎、舞鶴を経由して、ウラジオストクから鉄道でサンクトペテルブルクに帰国した。蘭州(現在は甘粛省の省都)は、黄河南岸に位置し、漢代からシルクロードの重要交易拠点だった。西域・中央アジアに通じる交易ルートの要衝だったために、イスラム教徒(回教徒)も多かった。五泉山の麓、黄河北岸には元代に建立され、明代に修復された白塔寺の仏塔もある。
Mannerheim kameroineen ja muistilehtiöineen pihalla.
Subject place Lanzhou, Kiina
Subject date 1906 - 1908 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Yleisetnografinen kuvakokoelma Suomalais-Ugrilaisen Seuran kokoelma
Inventory ID VKK269:1133
写真は,Museot Finna M012:VKK269:1133引用。


ロシア軍騎兵将校マンネルハイムは、1904年の日露戦争の際には、満州の奉天会戦に参加した。その後、1906年から1908年には中央アジア・中国の探検調査に同行し、日本にも1週間、立ち寄ってから、ウラジオストクから鉄道でサンクトペテルブルクに帰国した。

1906年、ロシア軍参謀本部の命により、マンネルヘイムはフランス人ポール・ペリオの中央アジア・極東探検隊の一行に同行して、ロシア周辺地域、特に中国清朝の地理・経済・民情などの情報収集、諜報活動に従事することになった。中央アジア・中国は、清朝、イギリス、日本の影響が強く、中央アジア・極東に接するロシアとしては、国境防衛のためにも、敵情を知る必要があった。マンネルヘイムは、ロシア軍騎兵将校として、馬を使った長期の探検に向いており、フィンランド人ということで、他民族・少数民族からロシア人とは異なった扱いを受けることが期待できた。このような道の探検旅行にマンネルハイム自身も大いに興味をそそられたに違いない。スウェーデン人スヴェン・ヘディンが、1899年から1902年にかけて中央アジアを探検し「彷徨える湖」の仮説を立てたが、ヘディンは、1905年から1908年まで、ペルシャ、インド北部レー経由で、チベットに入り、インダス川、ガンジス川の水源を探査し、パンチェン・ラマからも歓迎されているが、これもロシア皇帝からの支援があって実行できた探検旅行だった。

写真(右)1908年1月以降、中国清王朝、蘭州、中央アジア・東アジアを巡る探検隊を実施したマンネルハイム(右手前):1906年から1908年には中央アジアへのフランス探検隊に同行した後、分かれて、マンネルハイムの主導で中央アジア・中国の探検調査を実施、日本に1週間立ち寄ってから、ウラジオストクから鉄道でサンクトペテルブルクに帰国した。蘭州(現在は甘粛省の省都)は、黄河南岸に位置し、漢代からシルクロードの重要交易拠点だった。西域・中央アジアに通じる交易ルートの要衝だったために、イスラム教徒(回教徒)も多かった。五泉山の麓、黄河北岸には元代に建立され、明代に修復された仏塔もある。
Tyyppi: merkintä Sisältö: Middagen i Cougongbaos tempel i Lanzhou. Främst vicekonungen Shen, till vänster Alphonse Splingaert, Leo Van Dijk, nietai, fabriksdirektorn, underprefekten, Coutellier och Goldman; till höger jag, Geerst, kultusministerns representant, kommendören för garnisonen (chengshuyin), Scalier och Thazbart. Vid bortre ändan daotaien. .
Kansun varakuninkaan päivälliset Tsuo gung paon temppelissä
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Yleisetnografinen kuvakokoelma Suomalais-Ugrilaisen Seuran kokoelma Inventory ID VKK269:892
1906 - 1908 Mannerheim Carl Gustaf Emil, kuvaaja
写真は,Museot Finna M012:VKK269:892引用。


マンネルハイムは、ロシアの首都サンクトペテルブルクから中央アジア、カザフスタン国境近く、ウズベキスタンの首都タシュケントに向かい、アンディジャンで人馬を手配して、ウズベキスタン国境近く、キルギスタンのオシ(Osh)でフランスから来たール・ペリオ調査隊と合流した。ポール・ペリオ探検隊は、1906年8月11日にキルギスのオシを出発し、8月24日に清朝新疆省のカシュガル(喀什)に到着した。マンネルハイムは、ペリオ探検隊と1カ月間共にした後、別行動をとり、10月にカシュガルから西方に旅し、新疆省ヤルカンド、ホータンを経由して、12月末に、カシュガルに帰還した。その後、1909年1月27日にカシュガルを北東に旅し、天山山脈、グルジャを経由して7月24日に清朝新疆省ウルムチに着いた。ここから東方に進路をとり、新疆省トルファン、バルクル、クムル(ハミ)、甘粛省敦煌に着いた。敦煌では、フランス人ポール・ペリオ探検隊が、敦煌の岩窟から発見されたは文書を購入している。マンネルハイムは、1908年1月29日、蘭州へ入った。その後、4月28日に西安、5月30日に開封、黄河沿岸を東方に下った。山西省の仏教整地五台山で、チベットから追放されたダライ・ラマと会談している。

写真(右)1908年7月以降、中国清王朝の都、北京、中国家屋の庭で石の椅子に腰かけているマンネルハイム(右手前):1906年から1908年には中央アジア・中国の探検調査に実施し、1908年7月25日に清朝の都、北京に到着している。その後、黄河を東方に下り、長崎、舞鶴を経由して、ウラジオストクから鉄道でサンクトペテルブルクに帰国した。
Mannerheim istumassa puutarhassa .
Subject place Peking
Subject date 1906 - 1908
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Yleisetnografinen kuvakokoelma Suomalais-Ugrilaisen Seuran kokoelma Inventory ID VKK269:1110
Inscriptions Tyyppi: merkintä Sisältö: Jag, Lukanin, Chao och Li. Photo info: 1906 - 1908 Mannerheim Carl Gustaf Emil, kuvaaja <br>写真は,Museot Finna M012:VKK269:1110引用。


マンネルハイムは、内モンゴルのフフホトを経由して、1908年7月25日に清朝の都、北京に到着した。6週間、北京に滞在したマンネルハイムは、天津から長崎に、舞鶴からウラジオストクに船で渡り、1908年10月8日に、ロシア帝国首都サンクトペテルブルクへ帰着した。この探検旅行の間、マンネルヘイムは多数の写真を残し、古文書などを収集しているほか、清朝の経済・交通・軍事、清朝下の少数民族との漢民族との問題など多様な情報を収集し、ロシア帝国の外交・軍事について考察している。この探検旅行の後、マンネルヘイムは、1909年、第13ウラジミール・ウーラン連隊の指揮官に就任した。

写真(右)1909-1901年、ロシア帝国領ポーランド、1909年、ロシア帝国軍第13ウラジミール・ウーラン連隊に配属になったカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim):石畳で舗装された道路だが、秋の降雨で泥濘の道と化してしまうために、馬車や荷車の運航の便を図って舗装したのであろうか。マンネルハイムは、1906-1908年に中央アジア・中国の探検調査を実施しており、その間に、写真撮影にも習熟したと考えられる。マンネルハイムの撮影したと思われる写真が多数残っていて、それがMuseot Finnaのアーカイブで世界に公開されている。
Sotilaita ja hevosia kivetyllä tiellä.
Subject place Puola Subject date 1909 - 1911 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Yleisetnografinen kuvakokoelma Suomalais-Ugrilaisen Seuran kokoelma Inventory ID VKK269:1172 Inscriptions Tyyppi: merkintä
Sisältö: Venäläistä ratsuväkeä, keskellä upseeri esikunnasta. 13. Wladimirin ulaanirykmentti. Photo info: 1909 - 1911 muovi (Pohjamateriaali) Mannerheim Carl Gustaf Emil, kuvaaja
写真は,Museot Finna M012:VKK269:1172引用。



2.ロシア革命後のフィンランド内戦の勃発

写真(右)1918年、フィンランド南部、ヘルシンキ、フィンランド軍カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)騎兵大将:独立したフィンランドの初代首相ペール・エヴィン・スヴィンヒューは、反革命、共産主義革命、ボリシェビキの反乱を鎮圧するために、マンネルハイムを騎兵大将に任命して、軍の指揮権を任せた。
ratsuväenkenraali Carl Gustaf Emil Mannerheim .
Subject place Helsinki Subject date 1918
Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19631121:11
Inscriptions Tyyppi: leima Tekniikka: painatus
Sijainti: kuvan oikeassa alanurkassa Sisältö: Atelier Rembrabdt Helsingfors
写真は,Museot Finna HK19631121:11引用。


1917年11月、独立機運が最高潮に達したフィンランドでは、ペール・エヴィン・スヴィンヒューPehr Evind Svinhufvud;1861‐1944年2月29日)が首相に就任し、12月6日、フィンランド独立宣言Finnish Declaration of Independence)が出された。こうして、フィンランドはロシアから独立し、スヴィンヒュー首相は、帰国した騎兵将軍マンネルヘイムに豊富な経験を活かしてフィンランド防衛軍の創設を依頼したのである。

しかし、1918年初頭、フィンランドには、ロシア軍が従来通り駐留しており、彼らの中には、ボリシェビキ派の赤軍Red Army)も多く、フィンランドの共産主義者とともに、フィンランドを共産化しようとする動きも根強かった。こうして、スヴィンヒュー首相を支持するマンネルハイムの白軍White Army:白衛軍)と親ロシアソビエト派の赤衛軍Red Guards )との武力衝突が勃発した。1918年1月、白軍は、フィンランド防衛を任務とする国防軍となり、赤衛軍の非合法化、弾圧を始めると、ヘルシンキで赤軍が蜂起し、フィンランド内戦が始まった。

写真(右)1918年4月3日、フィンランド南東部、フィンランド内戦中、フォトスタジオで撮った上着の7人の男性赤衛軍兵士が小銃を構えている集合記念写真:帽子を被り、敵味方の識別のために、赤リボンを付けていることもあった。正規装備で火砲・手榴弾も備えてドイツ軍に対して、フィンランド赤衛軍兵士は、市民が義勇兵としてはせ参じたにわか仕込みの自称兵士だった。携行した兵器も小銃・拳銃など軽火器だけで、その上、戦闘訓練も受けたことがないものが大半だった。オルソン・オーガスタ撮影。
Ryhmäkuva miehiä, kiväärit, punakaartilaisia, punaisia, miehillä hatuissaa mahdollisesti punainen nauha. Olsson Augusta, kuvaaja 1918
Valokuvaamossa otettu ryhmäkuva. seitsemän miestä ulkovaatteissaan. Miehillä kaikilla aseet, kiväärit ja hatut. Monessa lakissa todennäköisesti punainen nauha. Nk. punakaartilaisia sisällissodan aikana. Uuteenkaupunkiin tulleita Turun seurn punakaartilaisia valokuvattuna.
Subject place Uusikaupunki Organisation The Uusikaupunki museum Collection Ugin museon valokuvakokoelma Augusta Olssonin negatiivit
Inventory ID AUG10730: Photo info: 1918, helmikuu - huhtikuu 1918 Olsson Augusta, kuvaaja sisällissota
写真は,Museot Finna M012:HK19860105:1.4a引用。


写真(右)1918年2月 - 1918年4月、フィンランド南西端、ウシカウプンキ、フィンランド内戦中、フォトスタジオで撮った2人の男性と2人の女性、左端男性の帽子には「Lypertö」(ウシカウプンキの島の名前)の文字が入っている。同島の赤衛軍の義勇兵であろう。:ロシア革命後のフィンランド独立宣言の後、1918年2月から1918年4月、共産主義政権がフィンランド南部ウシカウプンキを支配したが、その地方政府幹部と思われる。オルソン・オーガスタ撮影。ウシカウプンキ美術館所蔵の写真。フィンランドに派遣されたドイツ軍と、マンネルハイムらの指揮するフィンランドの反共産主義の白衛軍に鎮圧された。
Valokuvaamossa otettu kuva, kaksi miestä ja kaksi naista, miehellä Lypertön kaartin lakki Olsson Augusta, kuvaaja 1918
Valokuvaamossa otettu kuva kahdesta miehestä ja kahdesta naisesta. Toisella miehistä on on lakki, jossa on teksti Lybörtö. Punakaartilainen, joka on kuulunut Lypertön kaartiin.
Subject place Uusikaupunki Organisation The Uusikaupunki museum.
Collection Ugin museon valokuvakokoelma Augusta Olssonin negatiivit.
Inventory ID AUG10859: Photo info: 1918, helmikuu - huhtikuu 1918.
Olsson Augusta, kuvaaja sisällissota
写真は,Museot Finna AUG10859:引用。


1914年8月から第一次世界大戦がはじまっており、ロシア帝国は、協商国(連合国)側として、ドイツ・オーストリアと戦っていた。しかし、産業発展の上でロシアの総力戦体制の不備は明らかであり、ドイツ軍は東部戦線で守勢をとりつつも、有利に戦っていた。このように戦局が低迷する事態の中、1917年にロシア二月革命が勃発した。当初は、ケレンスキー率いるロシア臨時政府が穏健な社会主義政権的政権を打ち立てていたが、政権闘争の結果、ロシア十月革命後にボリシェビキBolshevik)主導の共産党政権が樹立された。共産党指導者ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Vladimir Lenin)は、世界大戦からの離脱、無賠償の講和、領土の無併合を掲げて、同盟国側ドイツに講和を訴えた。

写真(右)1918年4月3日、フィンランド南東部、ハンコ港に上陸するリュディガー・フォン・デア・ゴルツ(Rüdiger von der Goltz)将軍隷下のドイツ軍「バルト海師団」:正規装備で火砲・手榴弾も備えてドイツ軍に対して、赤軍兵士は、にわか仕込みの義勇兵が主力であり、小銃・拳銃などの軽火器しか持っていなかった。その上、戦術・補給はもちろん組織的戦闘の訓練の経験もないものが大半だった。
punavankeja kuljetetaan Kaivokadun - Henrikinkadun kulmassa Hoffmann, kuvaaja ; Wolff, kuvaaja ; Zimmler Fred, kuvaaja 1918
Subject place Heikinkadun ja Kaivokadun kulmaus, Helsinki
Subject date 1918 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19860105:1.18c Measurements 12 x 16 cm
写真は,Museot Finna M012:HK19860105:1.4a引用。


ロシア革命後のリンランド内戦が起き、フィンランド赤衛軍にフィンランド南部を占領されたフィンランド白衛軍は、1918年2月14日、ドイツに救援軍を派遣することを求めた。これを受けて、ドイツのリュディガー・フォン・デア・ゴルツ(Rüdiger von der Goltz)将軍の率いていた「バルト海師団」1万名が、ロシア革命後に内戦の起きたフィンランドに船舶で送られた。ドイツ軍の上陸したのは、1918年2月14日、場所はフィンランド南岸のハンコ港で、ここは1939年にソ連海軍基地として租借を要求するフィンランド湾入り口の要衝である。

写真(右)1918年4月13日、フィンランド南東部、ヘルシンキ中央駅前のカイボ通り(Kaivokatu)、フィンランド内戦でヘルシンキを支配していた赤衛軍を捕虜にして引き立てるドイツ軍:赤軍兵士は、にわか仕込みの義勇兵が主力であり、小銃・拳銃などの武器を持ってはいたが、戦術や組織的戦闘の訓練は積んでいなかった。
punavankeja kuljetetaan Kaivokadun - Henrikinkadun kulmassa Hoffmann, kuvaaja ; Wolff, kuvaaja ; Zimmler Fred, kuvaaja 1918
Subject place Heikinkadun ja Kaivokadun kulmaus, Helsinki
Subject date 1918 Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19860105:1.18c Measurements 12 x 16 cm
写真は,Museot Finna M012_HK19860105_1_18c引用。


フィンランド派遣ドイツ軍の任務は、フィンランド白衛軍と共闘して、ロシア革命派のフィンランド駐屯ロシア軍(赤軍)、フィンランド赤衛軍を鎮圧することである。ロシア革命後、ペトログラードからフィンランド南部は、共産主義ボリシェビキの支配下に置かれていた。ドイツ軍は、ブレストリトフスク条約で連合国(協商側)ロシア・ソビエトを第一次大戦から離脱させたが、ロシア帝国でも帝国領だったフィンランドでも共産主義勢力が拡大することは、ドイツに革命が飛び火する恐れがあるために、好ましく思っていなかった。ロシア・ソビエト政府が敗退することを望んでおり、独立したフィンランドを白衛軍が支配することが望ましかった。

写真(右)1918年4月3日以降、フィンランド南東部、ヘルシンキ港、フィンランド内戦でヘルシンキを支配していた赤衛軍を捕虜にして引き立てるドイツ軍
手を挙げて行進させられている赤軍兵士は、すでに武装解除されており、小銃・拳銃などの武器を持っていない。それを警戒、護送している白衛軍の兵士(左端)も、民間人の服装ではあるが、小銃を型に担いでいる。先導するのは、ヘルメットを被った軍服姿のドイツ兵で、小銃を肩にして、腰のベルトには手榴弾が見える。バルト海師団所属であろう。
punavankeja kuljetetaan Hoffmann, kuvaaja ; Wolff, kuvaaja ; Zimmler Fred, kuvaaja 1918
Subject place Helsinki Subject date 1918 Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19860105:1.18b Measurements 12 x 16 cm Photo info: 1918 Hoffmann, kuvaaja Wolff, kuvaaja Zimmler Fred, kuvaaja
写真は,Museot Finna M012:HK19860105:1.18b引用。


写真(右)1918年4月頃、フィンランド南東部、ヘルシンキ北部、パシラ駅、フィンランド内戦でヘルシンキを支配していた赤衛軍を殺害したドイツ軍:赤衛軍兵士5名のうつ伏せ遺体がが同じ方向を向いて横たわっているのは、後方から銃殺、処刑したためであろうか。義勇兵の兵士なので、軍服ではなく、民間人の服装をしている。しかし、死体の脇には、彼らが手にしていたであろう銃剣の付いた小銃が打ち捨てられている。赤衛軍兵士は、組織的な軍事教練をうけてはいない。
kaatuneita punaisia Pasilan asemalla Hoffmann, kuvaaja ; Wolff, kuvaaja ; Zimmler Fred, kuvaaja 1918
Subject place Pasila, Helsinki Subject date 1918
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma
Inventory ID HK19860105:1.14d Measurements 12 x 16 cm
写真は,Museot Finna HK19860105:1.14d引用。


ドイツは、1918年4月3日、フィンランド湾入り口の要衝、フィンランド南岸のハンコ港(ここは1939年にソ連海軍基地として租借を要求する)にリュディガー・フォン・デア・ゴルツ(Rüdiger von der Goltz)将軍率いる「バルト海師団」1万名の兵士を上陸させ、フィンランドで蜂起した赤衛軍・ロシア赤軍を攻撃した。反ロシア革命、反共産主義革命、反ボリシェビキは、ドイツの敗戦後のワイマール共和国でも生き続ける。ロシア帝国軍で活躍していたマンネルハイム将軍も、反共産主義の立場から、ロシア攻撃を続行することを望んだ。マンネルハイムは、フィンランドの反共産主義の白衛軍を指揮して、フィンランド内戦では共産主義政権支配地を武力弾圧し、共産政権を瓦解させた。

写真(右)1918年4月13日、フィンランド南東部、ヘルシンキ、フィンランド内戦でヘルシンキに侵攻したドイツ軍の砲撃により火災を起こした兵舎、その中庭に並べられた火砲を初めとする兵器:ドイツ軍は、ロシア帝国領だったフィンランドでロシア・ソビエト政府が敗退することを望んでおり、フィンランドを援助するという名目で、連合国側(協商国側)に残ってドイツと戦火を交えていたロシア革命政権の弱体化を狙った。そこで、ドイツは、フィンランドで蜂起した赤衛軍も鎮圧した。反ロシア革命、反共産主義革命、反ボリシェビキは、ドイツの敗戦後のワイマール共和国でも生き続ける。ロシア帝国軍で活躍していたマンネルハイム将軍も、反共産主義の立場から、ロシア攻撃を続行することを望んだ。
Helsingin valtaus 1918. Turun kasarmi, Läntinen Heikinkatu 28, saksalaisten joukkojen pommituksen aiheuttaman tulipalon jälkeen. -- vedos, paperi, mv.
Subject place Helsinki, Mannerheimintie 22, 24 Subject date 13.04.1918 Organisation Helsinki City Museum Inventory ID G18805 Measurements 9x14
Subject place Snaatintori, Helsinki Subject date 16.5.1918
Photo info: 13.04.1918 Helsinki, Mannerheimintie 22, 24 tuntematon, Valokuvaaja
写真は,Museot Finna G18805引用。


1917年3月3日、ロシアは、第一次世界大戦から離脱するために、ドイツとブレスト=リトフスク条約を調印し、大幅な領土の割譲を条件に講和を達成した。この時、ロシアは、帝国領だったウクライナ、ポーランド、フィンランドなどから撤兵し、領土を引き渡すことを受諾せざるを得なかった。しかし、独立宣言を発したフィンランド首相ペール・スヴィンヒュー政権は、ロシア帝国軍が赤軍の配下に入り、フィンランドのボリシェビキ政権の樹立・赤化が起こることを危惧し、同盟国でロシアを打ち負かしたドイツ軍の進駐を求めた。これは、長年ロシアの支配下にあったフィンランドがロシアの勢力を排除するためには、強力な敵対者であるドイツの軍事力を頼みとしたためである。しかし、マンネルヘイムは、元来、ロシア帝国軍の皇后マリヤ・フョードロヴナMaria Feodorovna)近衛騎兵であり、騎兵軍団を率いる騎兵将軍として戦った経験があり、ボリシェビキに反対するロシア白軍・フィンランド白軍のシンパである。その意味で、ロシア帝国に無慈悲なブレスト=リトフスク条約を強要し、ロシア帝国崩壊の道筋を作ったドイツ軍をフィンランドに援軍と迎えることには、警戒心を示したのである。

写真(右)1918年春、フィンランド南東部、ヘルシンキ北東300キロ、ミッケリ鉄道駅に到着したフィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)大将とドイツ軍のフィンランド派遣軍指揮官リュディガー・フォン・デア・ゴルツ(Rüdiger von der Goltz)将軍:ドイツ軍と共闘して反革命、共産主義革命、ボリシェビキの反乱を鎮圧した軍人マンネルハイムをエスプラネード通りでの市民が大歓迎している。
kenraali Mannerheim vastaanottaa kenraali von der Goltzin Mikkelin rautatieasemalla Veckans Krönika, painaja 1918 .
vasemmalla Rüdiger von der Goltz ja oikealla kenraali Mannerheim. Heidän välissään Hannes Ignatius vaaka, mustavalkoinen .
Subject place Mikkeli Subject date 1918, kevät
Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Goltz Rüdiger von der
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma K. A. ja Lyyli Wendelinin kokoelma
Inventory ID HK19840312: Mikkeli Veckans Krönika, painaja
写真は,Museot Finna HK19840312:181引用。


マンネルヘイムは、フィンランドの白衛軍の指揮権を掌握することをペール・エヴィン・スヴィンヒューPehr Evind Svinhufvud)首相に承諾させ、騎兵大将(Ratsuväenkenraali)となって白衛軍を指揮して、1918年4月にタンペレを赤軍から奪回した。実はこの時期に、リュディガー・フォン・デア・ゴルツRüdiger Graf von der Goltz)将軍率いるドイツ軍1万名が、フィンランド湾の要衝ハンコ岬とヘルシンキの東部に上陸した。ヘルシンキの赤衛軍は劣勢だったために、大きな戦闘は起こらずヘルシンキを撤退した。こうして、ドイツ軍によってヘルシンキは奪回された。1918年5月16日、フィンランド内戦勝利を記念して、フィンランド国防軍・ドイツ軍は、ヘルシンキ市内で軍事パレードを開催し、市民の祝福を受けた。

写真(右)1918年春、フィンランド南東部、ヘルシンキ北東300キロ、ミッケリ、サンミッシェル市庁舎前の本部を訪問したフィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)大将とリュディガー・フォン・デア・ゴルツ(Rüdiger von der Goltz)将軍:リュディガー・フォン・デア・ゴルツ(Rüdiger von der Goltz)将軍は、ドイツ軍のバルト海師団指揮官で、1918年4月、フィンランド内戦に介入して、赤軍、ボリシェビキを鎮圧した。そして、ドイツ敗戦後の1918年12月までフィンランドに留まった。反革命、共産主義革命、ボリシェビキの反乱を鎮圧した軍人マンネルハイムをエスプラネード通りでの市民が大歓迎している。
Edessä kenraalit von der Goltz ja Mannerheim. Heidän takanaan vasemmalta: Hannes Ignatius, Nikolai Mexmontan ja Ernst Linder vaaka, mustavalkoinen.
カード裏の書き込み: Sisältö: Hauptquartier des Generals Mannerheim in St. Michel. Kuvia Suomesta. Kenraali von der Goltz kenraali Mannerheimin Päämajassa Mikkelissä. Bilder från Finland. General von der Goltz i General Mannerheims hufvudkvarter i St. Michel.
Subject place Mikkeli Subject date 1918, kevät
Subject actor Goltz Rüdiger von der Mannerheim Carl Gustaf Emil Linder Ernst Mexmontan Nikolai Ignatius Hannes .
Organisation National Board of Antiquities - Musketti
Collection Historian kuvakokoelma K. A. ja Lyyli Wendelinin kokoelma Inventory ID HK19780407:416
写真は,Museot Finna HK19780407:416 引用。


フィンランドの白衛軍の中核は、旧ロシア帝国のマンネルハイムなどの経験豊富な将校であり、その配下の兵士も国防軍に加わった上に、新たに徴兵制を施行して兵士を動員することに成功した。こうして白衛軍(白軍)は防衛軍・国防軍として赤衛軍(赤軍)よりも優位になったが、これは、自由主義対共産主義というよりも、独立派対ロシア・ソビエト派といった選択の中で、フィンランド国民がロシアの影響から脱却して、完全な独立を望んだという点が指摘できる。 マンネルハイムは、フィンランドの反共産主義の白衛軍を指揮して、フィンランド内戦ではフィンランドの共産主義者とそのシンパを攻撃した

写真(右)1918年5月16日、フィンランド首都ヘルシンキ、元老院広場南のエスプラナディリャ(Esplanadilla)公園、フィンランド内戦の勝利パレード、騎馬で行進するフィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)大将:反革命、共産主義革命、ボリシェビキの反乱を鎮圧した軍人マンネルハイムをエスプラネード通りでの市民が大歓迎している。
kenraali Mannerheim johtaa sisällissodan voitonparaatia Esplanadilla .
subject place Esplanadi, Helsinki Subject date 16.5.1918 Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisation National Board of Antiquities - Musketti .
Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19631115:435 Photo info: 16.5.1918 Esplanadi,Helsinki Nyblin, kuvaaja
写真は,Museot Finna HK19631115:435引用。


1918年5月にドイツの援軍を受けて、フィンランド内戦で勝利したフィンランド政府は、親ドイツ派の勢力が高まり、第一次世界大戦も続いている中で、フィンランドは同盟国側に立つのかとイギリス、フランスは危惧するようになっていた。1918年春、ドイツ軍はロシア帝国を戦争から離脱させ、東部戦線にあった兵力を西部戦線に回してフランスに春季大攻勢Spring Offensive)をかけた時期だった。フィンランド政府が、ドイツ軍の力を過信したとしても無理はなかったのである。他方、マンネルヘイムは、ドイツ軍の介入を受け入れたものの、第一次世界大戦の行方は、ロシア帝国が崩壊しようとも、イギリス、フランス、アメリカの連合国側の優位は変わらないと冷静に判断していた。ドイツ軍側は、当初「白い将軍」マンネルハイム白軍司令官と有効な関係にあったが、連合国への接近を図ろうとするマンネルハイムを危険視した。マンネルハイムは、1918年6月には、フィンランドを離れ、スウェーデンへ亡命した。

写真(右)1918年5月16日、フィンランド南東部、ヘルシンキ、元老院広場(Snaatintori)、シルクハットのペール・エヴィン・スヴィンフヴュー(Pehr Evind Svinhufvud)首相、フィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)大将と迎えるリュディガー・フォン・デア・ゴルツ(Rüdigervon der Goltz)将軍):反革命、共産主義革命、ボリシェビキの反乱を鎮圧した軍人マンネルハイムをエスプラネード通りでの市民が大歓迎している。
kättelemässä vasemmalla Rüdiger von der Goltz, kättelemässä oikealla Carl Gustaf Emil Mannerheim, Mannerheimin vieressä silinterihatussa Pehr Evind Svinhufvud vaaka, mustavalkoinen .
vasemmalla Rüdiger von der Goltz ja oikealla kenraali Mannerheim. Heidän välissään Hannes Ignatius vaaka, mustavalkoinen .
Subject place Snaatintori, Helsinki Subject date 16.5.1918
Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Svinhufvud Pehr Evind Goltz Rüdiger von der
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma K. A. ja Lyyli Wendelinin kokoelma
Inventory ID HK19840312: Mikkeli Veckans Krönika, painaja
写真は,Museot Finna HK19860105:1.31d引用。


共産党指導者ウラジーミル・イリイチ・レーニン(Владимир Ильич Ленин)が主導して、第一次世界大戦から離脱することができたロシア・ソビエト政府だったが、イギリス、アメリカなど西側連合国(協商国側)は、戦線離脱したロシアに対し大いに反発し、さらに、ロシア社会主義革命が自国に悪影響を与えることを恐れて、新ロシア政権に対する干渉戦争に乗り出した。

写真(右)1918年5月16日、フィンランド首都ヘルシンキ、元老院広場(Snaatintori)、防衛軍(白衛軍)の将兵と軍旗に囲まれてフィンランド内戦で赤衛に勝利したことを祝っているフィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)騎兵大将(中央):マンネルハイムは、元ロシア騎兵将軍で、フィンランドでは白軍を率いて、反革命、共産主義革命、ボリシェビキの赤衛軍による反乱を武力鎮圧した。
keskellä kenraali Mannerheim, hänen takanaan valkoisissa turkislakeissa oikealla Gösta Theslöf ja vasemmalla Hannes Ignatius. vaaka, mustavalkoinen.
Subject place Kauppatori, Helsinki Subject date 16.5.1918.
Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Theslöf Gösta Ignatius Hannes .
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma.
Inventory ID HK19640119:1 Photo info: 16.5.1918 Kauppatori,Helsinki
写真は,Museot Finna HK19640119:1引用。


ロシア・ソビエトは、北方では1917年12月6日のフィンランド独立によって、東方からは、日本・アメリカなどの1918年から1922年のシベリア出兵によって、西方では、1918年11月のポーランド独立と1919年2月から1921年3月のポーランド=ソビエト戦争によって、反革命、反ボリシェビキの包囲網に直面していた。特に、ポーランドは、1795年にロシア帝国・オーストリア帝国・プロシア王国で行われたポーランド独立と1919年2月から1921年3月の第三次ポーランド分割Third Partition of Poland)で失った祖国を取り戻そうと、領土回復の大戦争を始めていた。こうして、1918年以降、新生ロシア・ソビエト政権は、周辺諸国からの攻撃にさらされ、国内にはロシア帝国を引き継ごうとする反革命の白軍による反乱、西側連合国を頼ったチェコ人捕虜の反乱に悩まされており、自国の安全保障は危機に陥っていた。

写真(右)1918年5月(?)、フィンランド、ヘルシンキ(?)、少年から花束を受け取るフィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)大将:反革命、共産主義革命、ボリシェビキの反乱を鎮圧したパレードの時、市民が歓迎している場面と思われる。
Mannerheim saa kukkia Content Type ?Image Subject date 1918
Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma
Inventory ID HK19850430:1.47b Measurements 9 x 14 cm Photo info: 1918
写真は,Museot Finna HK19850430:1.47b引用。


写真(右)1919年、フィンランド、デスクで執務中のフィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム( C.G.E. Mannerheim)大将:暖炉はついているが、こじんまりとした執務室だが、司令部の一室であろうか。当時のフィンランド軍は創設されたばかりで、ロシア帝国軍が駐留したいた歴史はあっても、フィンランド軍としての歴史は浅かった。
valtionhoitaja Mannerheim työpöydän ääressä
Subject place Valtioneuvosto, Helsinki Subject date 1919 Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma Inventory ID HK19720405:1
Inscriptions Tyyppi: kirjoitus Tekniikka: painatus Sijainti: kuvan oikeassa reunassa Sisältö: Erik Sandström Telefon 8598. Helsingfors Photo info: 1919 Helsinki Sandström Erik, kuvaaja
写真は,Museot Finna HK19720405:1引用。


フィンランドでは、保守化が進行し、1918年10月9日フィンランド王にフリードリヒ・カールFriedrich Karl)王の復古主義が台頭したが、1918年夏にドイツ軍による西部戦線での春季大攻勢Spring Offensive)が失敗に終わったことが明白になると、戦況悪化のなかで、ドイツと運命を共にすることはできないという政治判断が強くなった。そこで、親ドイツ外交によって悪化した西側連合国との関係改善のために、ロシア帝国の騎兵将軍だったマンネルヘイムに白羽の矢が立った。つまり、西側連合軍は、ロシア訂正復活を標榜するロシア白軍・反革命軍を支援しており、アメリカ・日本もシベリア出兵で白軍を支援していた。このような状況で、フィンランド軍人とはいえ、ロシア帝国の「白い将軍」だったマンネルハイムは、西側連合国からも信頼があり、フランスとイギリスと交渉して、フィンランドの総選挙を条件にフィンランドの独立を国際的に承認させた。
国際的にフィンランドの独立を承認させたマンネルハイムは帰国し、フィンランド王フリードリヒ・カールFriedrich Karl)を補佐する摂政の地位に就任したが、王は12月14日に退位してしまう。

写真(右)1919年8月16日、フィンランド首、ヘルシンキ中央駅前、鉄道駅前広場、フィンランド防衛軍(白衛軍)司令官に就任したカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム( C.G.E. Mannerheim)騎兵大将が、国防軍のパレードを視察した。:ヘルシンキ中央駅前の鉄道駅前広場は、元老院広場(Snaatintori)のすぐ西側にある。マンネルヘイムは、巡視官と握手している。白い毛皮のゲオルグ・フォン・エッセン(Georg Didrik von Essen:1864-1936)は、士官学校出身の元ロシア騎兵将校で、1918年4月-5月には、白軍の第一連隊司令官として、フィンランドの内戦でヘルシンキを赤軍から奪回するのに尽力し、終戦をもたらした。写真解説には8月16日の撮影とあるが、5月16日の内戦勝利パレードの撮影かもしれない。
Ratsuväenkenraali Mannerheim tarkastaa suojeluskuntapiirien paraatijoukkoja Rautatietorilla; Paraati järjestettiin Mannerheimin tultua nimitetyksi Suojeluskuntain kunniapäälliköksi
Kuvassa Suojeluskuntan kunniapäälliköksi juuri nimitetty ratsuväenkenraali C.G.E. Mannerheim kättelee suojeluskuntaupseeria. Edessä keskellä valkoisessa turkislakissa on Suojeluskuntain ylippäällikkö eversti G.D. von Essen. Äärimmäisenä vasemmalla seisovat majuri P.W. Zilliacus ja everstiluutnantti N. Tötterman. vaaka, mustavalkoinen.
Subject detail Paraati järjestettiin Mannerheimin tultua nimitetyksi Suojeluskuntain kunniapäälliköksi Subject place Helsinki Subject date 16.8.1919
Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Essen Georg Didrik von Zilliacus Per Wilhelm Tötterman Nikolai
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma
Inventory ID HK19620217:26 Measurements 83 x 114 mm Photo info: 1919 Helsinki
写真は,写真は,Museot Finna HK19620217:26引用。



3.独立フィンランドの白衛軍指揮官C.G.E.マンネルハイム将軍

マンネルハイムは、軍隊強化のために、1919年2月に徴兵法を制定、士官学校を設立した。1919年5月、フィンランド総選挙が実施され、フィンランドは大統領を頂く共和国となった。1919年7月に、初の大統領選挙が行われ、マンネルハイムも立候補したものの惨敗し、(カールロ・ユホ・ストールベリKaarlo Juho Ståhlberg)が大統領に就任した。「白い将軍」マンネルヘイムは、ロシア帝国には肯定的な認識をもっていたため、反共産主義の立場から、ロシア・ソビエト政権はロシア白軍と共闘して弱体化させたり、イギリスの求めに応じて、フィンランド軍によってペトログラード攻撃を実施したりしようとした。マンネルハイムは、フィンランドの東カレリアの領土を拡大し、ロシア・ソビエト政権を弱体化させ、フィンランドの独立を一層強固なものにしようと、ペトログラード攻撃を説いたのである。ロシア・ソビエトに戦争を仕掛けるような強硬論には、独立を達成したばかりのフィンランドの国民も議会にも賛成しなかったのは当然だった。自分の主張が、フィンランドに政治的には受け入れられないことを知ったマンネルハイムは、公職から身を引いた。

1931年にペール・スヴィンヒュー大統領が就任、マンネルヘイムをフィンランド国防委員会議長に指名した。これによって、戦時には、マンネルヘイムがフィンランド国防軍総司令官に就任することが決まり、1933年、スヴィンヒューはマンネルヘイムを軍人最高位の元帥に昇進させた。 マンネルハイムは、フィンランド軍の強化を進め、カレリア地峡の防衛、動員計画の策定、軍事予算の増額を要求している。

写真(右)1921年5月、フィンランド首都ヘルシンキ中央駅前、鉄道駅前広場、軍事パレードに参加したフィンランド防衛軍(白衛軍)司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム( C.G.E. Mannerheim)大将、ローリー・マルンベルク中将:マルンベルク将軍の後ろは、1918年から1921年の国防軍司令官ハンネス・イグナティウス大佐。
Suojeluskunnan paraati Rautatientorilla. Edessä vasemalla suojeluskunnan ylipäällikkö (v.1921 läht.) kenraaliluutnantti Lauri Malmberg, oikealla C.G.E. Mannerheim. Mannerheimin takana eversti G.D. von Essen (suojeluskunnan ylipäällikkönä v. 1918- 1921. Malmbergin takana kenraali Hannes Ignatius. -- negatiivi, nitraatti, mv.
Subject place Helsinki, Rautatientori.
Subject date 1921 mahd. Organisation Helsinki City Museum
Inventory ID N39079 Measurements 10x15 Photo info: 1921 mahd. Helsinki, Rautatientori. Roos Rafael, Valokuvaaja Museot Finna HKMS000005:00000uyd引用。


ロシア革命の歴史を振り返れば、ロシア・ソビエト新政権は、1917年以来の帝国派ロシア旧軍人の白軍による反乱、1918年以来のポーランド・ウクライナ・バルト諸国・フィンランドなどの独立闘争・反乱、日本・アメリカのシベリア出兵干渉、1922年までのポーランドによる干渉戦争など、外患に苦しめられた。旧ロシア周囲国はことごとく新政権に反旗を翻したといってよい状況で、共産党指導部は民族独立を認めつつも、ロシアの弱体化、領土喪失を嘆き、悲嘆していた。しかし、不屈の意志を持った共産主義者は、いつか領土を威厳を取り戻すという「臥薪嘗胆」を決意した。外国による圧力に苦しんだのは、ロシアの国力が衰退したからであり、外交的にも軍事的にも劣位にあったからであると考え、農業の集団化、五か年計画に基づく重工業化を早急に達成しようと「戦時共産主義」を推し進めた。その結果、国力を取り戻したと感じたソ連指導者スターリンは、今度は、ロシアの威信をかけて、領土回復を進め、自国の安全保障のために、国境を外側に広げる必要を痛感していたのであろう。

ドイツ軍はロシア革命の混乱に乗じて、黒海に面したウクライナから、さらに奥地のグルジアGeorgia)(ジョージア)、バルト海沿岸まで軍を進めており、これと和解するロシア・ソビエト新政権は1918年3月3日、ブレスト・リトフスク条約で、領土割譲など大幅な譲歩を余儀なくされた。新生ロシア・ソビエト政府は、第一次大戦から離脱して、一旦は戦争避けることができたものの、領土喪失、その後の内戦、外国の干渉戦争によって、国家の安全保障は大いに脅かされることになったのである。革命を輸出すると西欧で危惧されていたボリシェビキBolshevik)だったが、実はロシア革命への干渉戦に怯え、外国による圧力に苦しんでいるというのが実情だった。

ロシア・ソビエト新政権は、1918年3月3日にドイツと結んだブレスト・リトフスク条約によって第一次世界大戦から正式に離脱した。しかし、この講和によって、ロシアは、フィンランド、バルト三国(エストニア・ラトヴィア・リトアニア)、ポーランド、ウクライナ、トルコの国境地帯の領土を放棄させられた。このような外国によるロシア革命政府への干渉戦争の経験は、ソ連の指導者にとって、苦い経験であり、国際外交関係の強弱が一国の盛衰を決めるといった力の外交の重要性を理解させた。

写真(右)1937年6月4日、フィンランド首都ヘルシンキ、70歳の誕生日式典に出席するために家を出るフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:白いドレスの女性が花を撒いて、偉大な軍事的指導者の古希を祝福している。反革命、共産主義革命、ボリシェビキの反乱を鎮圧した軍人がフィンランドの英雄では、ソ連指導者スターリンは、フィンランドを嫌っていたに違いない。
marsalkka Mannerheim lähdössä kotoaan 70-vuotisjuhlallisuuksiin kukin koristeltua reittiä pitkin Pietinen, kuvaaja 1937 ovesta tulossa järjestyksessä marsalkka Mannerheim, eversti Armas-Eino Martola ja majuri Sven Björkman .
Subject place Kaivopuisto, Helsinki Subject date 4.6.1937 Subject actor Mannerheim Carl Gustaf Emil Björkman Sven Martola Armas-Eino.
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma Inventory ID HK19670603:16353
写真は,Museot Finna HK19670603:16353 引用。


写真(右)1937年6月4日、フィンランド首都ヘルシンキ、議会中央広場で70歳の誕生日式典でフィンランド国防軍を閲兵するカール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:左からハラルド・オケルマン少将、ルドルフ・ヴァルデン少将、ヒューゴ・オスターマン少将、マーティン・ウェッツァー少将、アクセル・エリック・エインクス少将、アクネス・エリック・ヘインリクス少将、ヘンキース・イグナティウス少将、ヘンキース・ケンコーニ、マンハイム元帥。
kenraalit vasemmalta: kenraalimajuri Harald Åkerman, tuntematon, kenraalimajuri Rudolf Walden, kenraaliluutnantti Hugo Österman, jalkaväenkenraali Martin Wetzer, kenraalimajuri Walter Holmberg, kenraalimajuri Axel Erik Heinrichs, kenraaliluutnantti Hannes Ignatius, kenraalimajuri Heikki Kekoni, marsalkka Mannerheim ja kenraaliluutnantti Lauri Malmberg vaaka, mustavalkoinen.
Aiheen paikka Senaatintori, Helsinki Aiheen aika 4.6.1937 .
Aiheen toimija Mannerheim Carl Gustaf Emil Wetzer Martin Åkerman Harald Walden Rudolf Ignatius Hannes Kekoni Heikki Österman Hugo Holmberg Walter Heinrichs Erik Malmberg Lauri .
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma
Historian kuvakokoelma Pietisen kokoelma Inventaarionro HK19670603:16374
Mitat 6 x 9 cm Kuvaustiedot: 4.6.1937 Senaatintori,Helsinki Pietinen, kuvaaja
写真は, Museot Finna HK19670603:16374引用。


写真(右)1937年6月4日、フィンランド首都ヘルシンキ議会中央広場、カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍古希70歳の誕生日式典
Mannerheimin 70-vuotisparaati Senaatintorilla Helsingissä
Organisation National Board of Antiquities - Musketti Collection Kansatieteen kuvakokoelma Uuno Peltoniemen kokoelma .
Inventory ID KK5575:4945 Measurements 5 x 6 cm Photo info: 1937 Helsinki Peltoniemi Uuno, kuvaaja .
写真は, Museot Finna KK5575:4945引用。


写真(右)1937年7月30日、フィンランド首都ヘルシンキ、世界選手権の時のペール・エヴィン・スヴィンフヴュー(Pehr Evind Svinhufvud)元大統領、キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)大統領、カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍(右奥):ペール・エヴィン・スヴィンフヴューの大統領在任期間は、1931年3月1日 - 1937年3月1日。彼は、1917年11月にフィンランドの初代首相に就任するも、フィンランド共産主義革命のために一時亡命、反革命軍を組織し、1918年5月には、共産主義者・ボリシェビキを武力弾圧する白色テロルを指揮した。1930年から1931年まで首相、1931年から1937年まで大統領を務めた。キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)大統領は1922年から1937年まで度々首相を務め、1937年3月1日から1940年12月19日の間、大統領として在任。
presidentit Svinhufvud ja Kallio sekä marsalkka Mannerheim tulossa ammunnan MM-kisoihin Saurén Gösta, kuvaaja 1937 vasemmalta: P.E. Svinhufvud, Kyösti Kallio ja C.G.E. Mannerheim vaaka, mustavalkoinen.
Aiheen paikka Malmi, Helsingin mlk. Aiheen aika 30.7.1937 Aiheen toimija Svinhufvud Pehr Evind Kallio Kyösti Mannerheim Carl Gustaf Emil.
Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK19910224:1 Kuvaustiedot: 30.7.1937 Malmi,Helsingin mlk. Saurén Gösta, kuvaaja
写真は, Museot Finna M012:HK19910224:1引用。


ペール・エヴィン・スヴィンフヴュー(Pehr Evind Svinhufvud)は、 1914年、反ロシア政府の咎でシベリア流刑にされたが、1917年11月にはフィンランドの初代首相に就任した。その直後、フィンランドの共産主義革命のために一時亡命を余儀なくされたが、反革命軍を組織し、1918年5月には、フィンランド内戦で共産主義者・ボリシェビキを武力弾圧する白色テロルを指揮した。1930年から1931年まで首相を務めた後、ペール・エヴィン・スヴィンフヴューは、1931年から1937年まで大統領を務めた。その後を継いだのが、キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)大統領である。彼は、1918年のフィンランド内戦では、赤軍(共産軍)から逃れていたが、ドイツ軍の侵攻によりフィンランドが赤軍から解放された後、反共産主義者として政界入りした。1922年から1937年まで度々首相を務めたキュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)は、政治経験が豊富だった。キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)は、1936年から翌年まで首相として内閣を率いた後、スヴィンフヴュー大刀リョの後任大統領として、1937年3月1日から1940年12月19日まで間、フィンランド大統領として在任し、冬戦争の敗北後に、大統領を辞任した。


4.1939年3月12日、祖国防衛のための軍備増強・軍事力強化

写真(右)1939年5月16日、フィンランド首都ヘルシンキ、大広場(現在の上院広場)でフィンランド軍兵士を閲兵するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:共産主義革命、ボリシェビキの反乱に勝利した記念の式典であり、フィンランドの反ソビエト感情の表れと、ソ連指導者スターリンは思ったに違いない。
Mannerheim seurueineen tarkastaa suojeluskuntien paraatin 16.5.1938 Suurtorilla (nykyinen Senaatintori). .
Subject place Helsinki, Senaatintori Subject date 16.05.1938 Organisation Helsinki City Museum Measurements 5x8.
Photo info: 16.05.1938 Helsinki, Senaatintori Pohjanpalo Jorma, Valokuvaaja
写真は, Museot Finna HKMS000005:km0000ofue引用。


マンネルヘイムは、フィンランド国防軍最高指導者として、ヘルシンキ中央広場で、内戦終戦20周年独立記念日に退役軍人を前に挨拶した。これは、1918年、ロシア革命に乗じたフィンランド独立とそれに伴う政権争いの内戦に勝利した記念である。つまり、フィンランドの親ロシア共産主義者・ボリシェビキの暴動を鎮圧し、内戦を終結させたことを祝っている。この内戦終戦20周年記念に独立戦争の退役軍人に挨拶をし、最前線ではこのイベントのラジオ放送がなされている。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド首都ヘルシンキ、中央広場で、内戦終戦20周年独立記念式典で退役軍人を前に挨拶するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:1918年、ロシア革命に乗じ独立したフィンランドでは、共産主義者・ボリシェビキがソビエト連邦への参加を画して内乱を起こした。これを、白軍を使って鎮圧したのが、マンネルハイムだった。写真中央手前に、この式典をラジオ放送するための放送客員がうつっている。共産主義革命、ボリシェビキの反乱に勝利した記念の式典であり、フィンランドの反ソビエト感情の表れと、ソ連指導者スターリンは思ったに違いない。
sotamarsalkka Mannerheim tervehtii vapaussodan veteraaneja sodan päättymisen 20-vuotisjuhlaparaatissa Kauppatorin laidalla Pohjois-Esplanadilla, marsalkka Mannerheim oikealla valkoisessa hatussa. Kuvan etualalla Yleisradion työntekijä radioi tapahtumaa.
Subject place Pohjois-Esplanadi 1, Kauppatori, Helsinki Subject date 16.5.1938.
Inventory ID HK19670603:18520 Measurements 6 x 9 cm Photo info: 16.5.1938 Helsinki Pietinen, kuvaaja
写真は, Museot Finna HK19670603:18520引用。


1939年8月13日、フィンランドで開催された内戦勝利20周年式典は、1918年、ロシア革命時に独立したフィンランドにおける共産主義者・ボリシェビキ反乱鎮圧の記念式典である。1918年の革命派の赤軍の鎮圧にあたったのが、白軍(反革命軍)で、その将校がマンネルハイムだった。ロシア帝国の一部だったフィンランドの共産主義革命をつぶし、ボリシェビキの反乱を鎮圧したマンネルヘイムが英雄であるとするフィンランドの国民感情を、フィンランドの反ソビエト感情の表れとみなしたソ連指導者スターリンは、フィンランドを警戒し、その力を弱体化しようと考えたに違いない。

⇒写真集:フィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍を詳しく見る。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習に参加したフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Karjalan kannas 1939.08.13
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Marsalkka Mannerheim on juuri tarkastanut paraatijoukot. Vierellä vasemmalla kenraaliluutnantti Harald Öhquist ja oikealla kenraaliluutnantti Hugo Österman.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111634引用。


ハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist;1891ー1971)中将は、1915年、ドイツ軍側で第一次世界大戦に参戦した経験を活かして、独立間もないフィンランド軍の創設に1918年に加わった。ロシア革命に乗じたフィンランドのボリシェビキ、共産主義者を鎮圧するフィンランド内戦に従軍した。1925年にフィンランド国防軍の第2師団長を拝命、1937年にはヒトラー率いるナチ党政権下で密かに育成されていたドイツ軍とも接触している。1939年に始まった冬戦争では、ソビエト連邦と領土争いの場となったカレリア地峡を防衛する第2軍団を指揮した。1939年12月には、ソ連軍への反撃を強化したが、1940年2月には、増強されたソ連軍に押し返された。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習に騎馬で参加したフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Karjalan kannas 1939.08.13
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Marsalkka Mannerheim vierellään kenraaliluutnantti Harald Öhqvist..
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111640引用。


冬戦争敗北後、ハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将は、冬戦敗北後、フィンランド国防軍を再建し、対ソ復讐戦争の準備をした。1941年7月から1942年1月まで、ドイツ国防軍総司令部に派遣され、ドイツ駐在のフィンランド軍代表として、ソ連侵攻に協力した。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍自転車部隊(銀輪部隊)の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Joukot tervehtivät marsalkka Mannerheimiä
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111666引用。


wikipediaは「オーキュストは、ドイツとの協力の支持者であったが、フィンランド軍が大規模な作戦に巻き込まれないようにあらゆる努力を払った」というが、これは1943年に入って、ドイツがスターリングラードで大敗するなど、戦局が悪化した後の行動である。継続戦争開戦当初は、ハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将は、ソ連に割譲を余儀なくされたカレリア地峡を奪取し、レニングラードを包囲するなど、1942年〜1944年、カレリア地峡軍司令官として。ソ連撃破に積極的に取り組んでいる。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍自転車部隊(銀輪部隊)の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Joukot tervehtivät marsalkka Mannerheimiä
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111668引用。


アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander;1879-1943年1月21日)は、独立後フィンランドの国防大臣を1928年から1929年に努め、1937年3月12日には、中道連立内閣を組閣し、首相を務めた。外交上は、ソ連の圧力に対抗する必要上、ナチ党ヒトラーのドイツの政治力に注目し、ドイツ再軍備後は、ドイツの軍事力をフィンランドの独立に寄与させようとした。しかし、ソ連は1939年3月、レニングラードの死活的な交通路に当たるフィンランド湾内のフィンランド領の小島を租借し、カレリア地峡の割譲を、北部の東カレリアとの領土交換を要求した。フィンランド側は、1939年4月、カヤンデル首相がソ連の要求を拒否し、軍事的解決ではなく、平和による解決を望んだ。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)は、1928年にビッカース・アームストロング社が開発した戦車だが、イギリスでは採用されず、各国への輸出用戦車となった。フィンランドは、1936年、32両をヴィッカース社から購入することを決めた。搭載した主砲は、スウェーデン、ボフォース社開発になる37ミリ戦車砲である。1939年-1940年の「冬戦争」にはビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)が実戦投入された。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Joukot tervehtivät marsalkka Mannerheimiä
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111681 引用。


イギリス製ビッカース6トン戦車Vickers 6-Ton)は、1928年にイギリス有数の兵器メーカーであるビッカース・アームストロング社が開発した完全装軌式、360度回転砲塔を備えた斬新な戦車だったが、イギリス陸軍は制式せず、各国に輸出された戦車となった。フィンランドでは、1933年に輸入し試験したが、高評価だったために、1936年から32両をビッカースから購入する決定を下した

しかし、ビッカースでの生産は遅々として進まず、フィンランドの発注した6トン戦車の配備は遅れた。1939年になって部隊配備されたビッカース6トン戦車F型Vickers 6-Ton Mark F)が搭載した主砲は、隣国スウェーデンに発注したボフォース37ミリ戦車砲である。1939年-1940年の「冬戦争」にはビッカース6トン戦車F型Vickers 6-Ton Mark F)13輌が、第4戦車中隊に配備された。冬戦争では、ビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)は、対峙したソ連軍T−26軽戦車の46口径45ミリ砲と比較して威力が弱かった。そこで、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲した46口径45ミリ砲をに変換されたが、このソ連戦車は、イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)を原型とした戦車だった。つまり、ソ連とフィンランドは同じイギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)で戦ったのである。

写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍のイギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)を検閲するフィンランド国防軍総司令官アイモ・カヤンデル(Aimo Cajander)首相(スーツ、ハット姿):ひな壇の奥には、騎馬のマンネルハイム将軍が僅かに見えている。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Vickers-panssarivaunuja ohimarssissa.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Defence Forces sa-kuva-111678引用。


ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)の諸元:

全長 4.56 m 、全幅 2.41 m
全高 2.16 m 乗員 3 名
総重量 7.35 t
懸架方式 リーフスプリング・ボギー式
最高速力(整地) 35 km/h
航続距離 160 km(路上)、90 km(不整地)
兵装 47 ミリ戦車砲1門 、車載機銃 7.7ミリ機関銃1丁
装甲:5-13 mm
発動機 アームストロング・シドレー空冷4気筒ガソリン(80馬力)

写真(右)1939年10月12日、冬戦争勃発1カ月前、フィンランド、ヘルシンキの鉄道駅、ソ連との雲行きが怪しくなり、空襲を受ける危険のあるヘルシンキから地方に疎開する民間人:フィンランドはソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けたが、拒否したため、スターリンの怒りを買った。ソ連軍は1939年11月30日、フィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発したのである。
väestöä lähdössä junalla Helsingistä maaseudulle mahdollisia pommituksia pakoon Hufvudstadsbladet, painaja 1939 vaaka, mustavalkoinen Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 12.10.1939 Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK19391118:9 Kuvaustiedot: 12.10.1939 Helsinki Hufvudstadsbladet, painaja .
写真は,Museot Finna HK19391118:9用。


1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をしたが、10月には、ソ連が再びフィンランドに領土要求、ソ連軍駐留権の要求を突き付けてきた。フィンランドは、ソ連による要求を拒否し、10月には、動員を開始し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急体験を認める共和国防衛法を布告した。1939年11月30日、ソ連がフィンランドを攻撃し、冬戦争が始まった。その後、中立的なカヤンデル首相への支持は降下、12月1日、カヤンデル内閣は総辞職、後継にリスト・リュティ首相が任命された。

フィンランドは1939年3月にソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けた。しかし、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、不当なソ連の要求を拒否し、フィンランドの尊厳維持を支持する国民の期待に応えた。しかし、ポーランドの東半分を、ヒトラードイツとの合意の下、保障占領していたスターリンは、バルト三国への圧力を強めており、ソ連の威信を失わせるような領土交換拒否というフィンランドを許さなかった、1939年11月30日、ソビエト連邦はmフィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発した。


5.1939年11月30日-1940年3月13日、ソ連によるフィンランド侵攻「冬戦争」(talvisota)のマンネルハイム将軍


写真(右)1939年11月30日、冬戦争の中盤、ソ連空軍機の空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ市街地
;すでに第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。
raunioita Helsingin pommituksen jälkeen vaaka, mustavalkoinen Aineistotyyppi Kuva Aiheen paikka Helsinki Aiheen aika 30.11.1939 Organisaatio Museovirasto - Musketti Kokoelma Historian kuvakokoelma Inventaarionro HK19780731:222 Kuvaustiedot: 30.11.1939 Helsinki
写真はMuseot Finna HK19780731:222用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。

 ⇒写真集:1939-1940年ソ連対フィンランド冬戦争を詳しく見る。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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