◆ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'(Sd.Kfz.138/2)
写真(右):イギリス、ボービントン戦車博物館(Bovington Tank Museum)に保管・展示されているドイツ陸軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' :48口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 39 L/48)を搭載し攻撃力は高いく、戦闘室周囲の装甲板も60ミリの厚で防御力にある。右奥はV号戦車パンターの車体を利用したヤークト・パンター駆逐戦車。 Bovington Tank Museum 244 Hetzer jagpanzer 38f
Date 7 July 2010, 14:27
Source Bovington Tank Museum 244 Hetzer jagpanzer 38f
Author DAVID HOLT from London, England
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Jagdpanzer 38(t) in the Bovington Tank Museum>File: Marder III Ausf M in the Musée des Blindés, France, pic-2.JPG引用。
写真(上):ロシア連邦、ロシア、モスクワ郊外、クビンカ戦車博物館に保管・展示されているドイツ陸軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' :38(t)戦車の車体を改造して48口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm Pak 39 L/48)を装備、チェコで2600輌以上生産。奥は71口径8.8センチ砲を搭載したIV号対戦車自走砲ナースホルン"Nashorn"。 解説
Русский: Противотанковая самоходная установка Хетцер (Jagdpanzer 38(t), Sd.Kfz 138/2) в Центральном музее бронетанкового вооружения и техники в Кубинке.
日付 2013年6月8日, 11:58:34
原典 投稿者自身による作品
作者 Mike1979 Russia
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) Hetzer in the Kubinka Tank Museum>File: Hetzer in the Kubinka Museum.jpg引用。
◆
『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。ナチ党の初期のポスター、社会民主党の反ナチポスターから、投票所の写真なども掲載しています。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールにゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
1.駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) ヘッツァー "Hetzer" Sd.Kfz.138/2 Panzerjäger 38(t)
チェコのBMM社は、小型のスコダ38(t)の生産ラインを活用して、攻撃力を増した駆逐戦車を生産することになった。既に生産されていた?号突撃砲の重量25トン以上だったが、新たな駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t) "Hetzer":SdKfz 138/2)は38(t)戦車を基にしているためにその半分の重量だった。tはチェコ(独語Tschechien;英語Czech)の略称である。
写真写真(右)1944年,バルカン半島ハンガリー、ドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' (Panzerjäger 38(t) SdKfz 138/2(勢子):機械化されたのは一部の部隊であり、戦争後期のドイツ軍にも馬匹による輸送は重要な役割を担っていた。馬は弾薬箱を運搬しているようだ。 Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-715-0212A-06A
Archive title: Balkan, Ungarn.- Jagdpanzer 38(t) "Hetzer" (Panzerjäger 38(t), Sd.Kfz.138/2) in einer Ortschaft neben beladenen Pferden / Mulis; KBZ HGr Südukraine
Dating: 1944
Photographer: Kreutzer, Wilhelm撮影。
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-715-0212A-06A"引用(他引用不許可)。
駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t) "Hetzer":SdKfz 138/2)は、1943年12月に設計完了、1944年1月24日にはモックアップ完成と、設計から生産までの期間は短縮されたのは、資源節約型の対戦車車両として有望だったためで、一年後の国民戦闘機(フォルクス・イェーガー)HE-162ジェット戦闘機と類似したコンセプトである。
写真(右)1944
年に登場したドイツ陸軍チェコ、プラガ38(t)戦車をベースに開発された駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:39年式48口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm Pak 39 L/48)を装備した。
Catalogue number: STT 7560,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t). Label: German Jagdpanzer 38(t) tank destroyer. Also known as the 'Hetzer'.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7560)
・駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2諸元:
全長:6.27 m、車体長:4.87 m、全幅:2.63 m、全高:2.17 m 重量:15.75 t 速度:路上42 km/h、路外15 km/h、航続距離:177 km 主砲:39年式48口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm Pak 39 L/48)(41発)、車載機銃:7.92mm MG34機銃1丁 装甲:車体前面60mm、側・後面20mm、底面10mm 動力:マイバッハ Hl 203 P 30直列6気筒液冷ガソリンエンジン 160 馬力
乗員:4 名
写真(右)1944
年頃、西側連合軍が撃破したドイツ陸軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138後部:キャタピラ脇の防楯(シュルツェン)は開けた草地にある駆逐戦車ヘッツァーは右側のキャタピラが破損して外れており、周囲には後部に装備された部品が散らばっている。戦闘爆撃機(ヤーボ)に襲撃され撃破されたのであろうか。 Catalogue number: STT 7564,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t).
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7564)
防楯( シュルツェン)を車体側面に装備し、車体前面に既存の装甲を補完する追加装甲板を鋲で装着している。防楯(シュルツェン)は、ホローチャージ(成形炸薬弾)を早期爆発させ、防御力を高めた。IV号戦車、V号戦車パンターにも装備されている。
写真(右)1944
年頃、西側連合軍に鹵獲されたドイツ陸軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:側面上方よりの形状。 Catalogue number: STT 7662,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Knocked-out Jagdpanzer 38(t). Label:Knocked-out Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7662)
・駆逐戦車(Jagdpanzer)38(t) ヘッツァー 'Hetzer' (SdKfz 138/2諸元:
全長:6.27 m、車体長:4.87 m、全幅:2.63 m、全高:2.17 m 重量:15.75 t 最高速度:路上42 km/h、路外15 km/h、航続距離:177 km
主砲:39年式48口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm Pak 39 L/48)(携行弾数41発)、射角左右15度、上下−8〜15度 車載機銃:7.92mm MG34機銃1丁(射界360度)
装甲:車体前面60mm(上部30度/下部50度)、側面20mm(上部30度/下部75度)、後方8mm(20度)、底面10mm
動力:マイバッハ Hl 203 P 30直列6気筒液冷ガソリンエンジン 160 馬力
乗員:4 名
写真(右)1944
年頃、西側連合軍が撮影した鹵獲されたドイツ陸軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:前方上よりの形状。チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の砲塔を除いて、戦闘室を設けて、48口径7.5センチ戦車砲を搭載。攻撃力は高く、戦闘室周囲の装甲板は60ミリの厚さがあり防御力もある。
Catalogue number: STT 7562,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t).
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7562)
駆逐戦車ヘッツァーの戦闘室内は狭いために、左の運転席のスペースを確保するために、主砲の7.5センチ砲を中心線上に搭載できず、右に寄せて搭載した。そのため、左右の重量バランスが悪化して機動性が低下した。 駆逐戦車ヘッツァーは、戦争末期に登場したが、1944年から1945年5月のドイツ降伏までに、チェコのBMM社とシュコダ社で合計2,827輌が量産された。
写真(右)1944
年頃、西側連合軍が撮影した鹵獲されたドイツ陸軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138:斜め後上方よりの形状。チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の砲塔を除いて、戦闘室を設けて、48口径7.5センチ戦車砲を搭載。攻撃力は高く、戦闘室周囲の装甲板は60ミリの厚さがあり防御力もある。
Catalogue number: STT 7566,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t). 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7566)
駆逐戦車Jagdpanzer 38(t)ヘッツァーの搭載した39年式48口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm Pak 39 L/48)(41発搭載)は、IV号戦車の後期型が搭載した戦車砲と同じである。
写真(右):ルクセンブルク、国立軍事史博物館に保管・展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:48口径7.5センチ戦車砲を装備。 解説
Nederlands: Een Hetzer in het Nationales Militärgeschichtliches Museum te Diekirch
日付 2012年1月8日
原典 投稿者自身による作品
作者 Paul Hermans 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the National Museum of Military History (Luxembourg)>File: Diekirch National Museum of Military History Hetzer 8-01-2012 15-43-02.png引用。
写真(右):ルクセンブルク、国立軍事史博物館に保管・展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:39年式48口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm Pak 39 L/48)を装備。 解説
SdKfz 138 / 2 Hetzer
日付 2010年2月23日, 13:25:46
原典 投稿者自身による作品
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the National Museum of Military History (Luxembourg)>File: SdKfz 138 slash 2 Hetzer pic2.JPG引用。
駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t) "Hetzer":SdKfz 138/2)は、小型の車体に7.5センチ砲を搭載するために、戦闘室を車体前縁からエンジン部分までで空間を確保し、さらに車体前面にバルジを設けて、砲架を収容した。車体上面のラインは、エンジンを搭載した機関室まで同一の車高で、一体化されている。戦闘室の前面および側面は、傾斜装甲として、避弾径始を活用している。
写真(右):ルクセンブルク、国立軍事史博物館に保管・展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:48口径7.5センチ戦車砲を装備。 解説
SdKfz 138 / 2 Hetzer
日付 2010年2月23日, 13:26:45
原典 投稿者自身による作品
作者 AlfvanBeem 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the National Museum of Military History (Luxembourg)>File: SdKfz 138 slash 2 Hetzer pic5.JPG引用。
駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t) "Hetzer":SdKfz 138/2)は、38(t)戦車を生産していたチェコのBMM社に対して、1943年12月に軽駆逐戦車の開発依頼がなされ、1944年3月には試作車輛が完成した。38(t)戦車の車台を流用し、生産性を高めているが、転輪・キャタピラ(覆帯)は若干大型化され、シャーシにも変更が加えられている。最大の特徴は、小型の車体をそのまま生かして、車高を低く抑え、隠密性を高めたことである。
写真(右):ルクセンブルク、国立軍事史博物館に保管・展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の砲塔を除いて、戦闘室を設けて、39年式48口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm Pak 39 L/48)を搭載。攻撃力は高く、戦闘室周囲の装甲板は60ミリの厚さがあり防御力もある。 解説
SdKfz 138 / 2 Hetzer
日付 2010年2月23日, 13:00:38
原典 投稿者自身による作品
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the National Museum of Military History (Luxembourg)>File: SdKfz 138 slash 2 Hetzer pic5.JPG引用。
38(t)軽駆逐戦車(Jagdpanzer 38(t)) は、ヘッツァー'Hetzer' (勢子)と命名され、1944年4月から生産が始められ、1945年5月のドイツ敗北まで、旧チェコの ベーメン・メーレン保護領( ボヘミア・モラヴィア保護領)BMM社とシュコダ社で合計3000輌が製造された。乗員は、車長、砲手、装填手、操縦手の合計4名。7.5センチ戦車砲は、車体中央ではなく車体右に寄せて搭載されたが、これは操縦手・操縦装置を車体前方に配置しようとすれば、車幅が狭いために、戦車砲を中央に設置できないためである。つまり、 38(t)軽駆逐戦車(Jagdpanzer 38(t)) は、乗員配置の関係から戦車砲を右にずらして配置したのである。そこで、左右非対称の構造となり、右側に重量が偏るという欠点が生まれた。IV号駆逐戦車は、砲架が車体前方に置かれ、重心が車体前方に偏るノーズヘビーの傾向があったが、ヘッツァーにも重心のアンバランスが問題だった。
写真(右):ルクセンブルク、国立軍事史博物館に保管・展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:39年式48口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm Pak 39 L/48)を装備。 解説
SdKfz 138 / 2 Hetzer
日付 2010年2月23日, 13:01:34
原典 投稿者自身による作品
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the National Museum of Military History (Luxembourg)>File: SdKfz 138 slash 2 Hetzer pic5.JPG引用。
駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t) "Hetzer":SdKfz 138/2)は、大型の7.5センチ戦車砲を車体に搭載するために、車体前面にバルジを設けて、砲架を収容した。車体上面のラインは、エンジンを搭載した機関室まで同一の車高で、一体化されている。戦闘室の前面および側面は、傾斜装甲として、避弾径始を活用している。
写真(右):ロシア連邦、ロシア、モスクワ郊外、クビンカ戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:48口径7.5センチ戦車砲を装備。駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t) "Hetzer":SdKfz 138/2)は3000輌程度の量産だったが、III号突撃砲は戦争前から終戦まで1万輌とドイツ戦車(突撃砲・駆逐戦車を含む)の中では最多生産を誇る。 解説
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日付 2014年4月12日, 16:18:02
原典 投稿者自身による作品
作者 Mike1979 Russia 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) Hetzer in the Kubinka Tank Museum>File: Hetzer in the Kubinka Museum 01.jpg引用。
写真(右):2017年8月、ロシア連邦、ロシア、モスクワ郊外、クビンカ戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:48口径75mm Pak 39 L/48 戦車砲を装備。駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t) "Hetzer":SdKfz 138/2)は3000輌が量産された。奥のIII号突撃砲は戦争前から終戦まで1万輌とドイツ戦車(突撃砲・駆逐戦車を含む)の中では最多生産を誇る。 Description
German WW2 Light Tank Destroyer Official designation:- Sd.Kfz 138/2 Jagdpanzer 38(t) Built:- 1944 to 1945 Total production:- 2,827 Main Armament:- 75mm Pak 39 L/48 gun The Hetzer was one of the most common German Tank Destroyers at the end of WW2. It was built in large numbers, was mechanically reliable and was easy to conceal because of its small size. This example is on display in what is best known as Hall 5 of the Kubinka Tank Museum, although its official title is now Pavilion 5 in Area 2 of the Park Patriot museum. Kubinka, Moscow Oblast, Russia.
24th August 2017.
Date 24 August 2017, 12:56
Source Jagdpanzer 38(t) Hetzer ‘322973’
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) Hetzer in the Kubinka Tank Museum>File:Jagdpanzer 38(t) Hetzer ‘322973’ (37769385322).jpg引用。
写真(右):2017年8月、ロシア連邦、ロシア、モスクワ郊外、クビンカ戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:48口径75mm Pak 39 L/48 戦車砲を装備する重量16トンの軽駆逐戦車である。奥のV号パンター戦車(Sd.Kfz.171)は、70口径7.5cm KwK 42 L/70戦車砲(携行弾薬79発)を搭載する重量45トンの戦車で、1943年から1945年までに6000輌が生産された。 Description
German WW2 Light Tank Destroyer Official designation:- Sd.Kfz 138/2 Jagdpanzer 38(t) Built:- 1944 to 1945 Total production:- 2,827 Main Armament:- 75mm Pak 39 L/48 gun The Hetzer was one of the most common German Tank Destroyers at the end of WW2. It was built in large numbers, was mechanically reliable and was easy to conceal because of its small size. This example is on display in what is best known as Hall 5 of the Kubinka Tank Museum, although its official title is now Pavilion 5 in Area 2 of the Park Patriot museum. Kubinka, Moscow Oblast, Russia.
24th August 2017.
Date 24 August 2017, 12:55
Source Jagdpanzer 38(t) Hetzer ‘322973’
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) Hetzer in the Kubinka Tank Museum>File:Jagdpanzer 38(t) Hetzer ‘322973’ (37769386862).jpg引用。
写真(右):フランスのメーヌ=エ=ロワール県、ソミュール戦車博物館に保管展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の砲塔を除いて、戦闘室を設けて、48口径7.5センチ戦車砲を搭載。攻撃力は高く、戦闘室周囲の装甲板は60ミリの厚さがあり防御力もある。
解説
Français : HETZER - MUSEE DES BLINDES - SAUMUR
日付 2011年8月30日, 13:59:06
原典 投稿者自身による作品
作者 BBF9232
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) Hetzer in the Musée des Blindés>File: HETZER(1).jpg引用。
写真(右):フランスのメーヌ=エ=ロワール県、ソミュール戦車博物館に保管展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:48口径7.5センチ戦車砲を装備。 解説
Français : HETZER - MUSEE DES BLINDES - SAUMUR
日付 2011年8月30日, 15:03:21
原典 投稿者自身による作品
作者 BBF9232 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) Hetzer in the Musée des Blindés>File: HETZER(5).jpg引用。
写真(右):フランスのメーヌ=エ=ロワール県、ソミュール戦車博物館に保管展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2の後面:チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の砲塔を除いて、戦闘室を設けて、48口径7.5センチ戦車砲を搭載。攻撃力は高く、戦闘室周囲の装甲板は60ミリの厚さがあり防御力もある。 解説
Français : HETZER - MUSEE DES BLINDES - SAUMUR
日付 2011年8月30日, 15:03:21
原典 投稿者自身による作品
作者 BBF9232 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) Hetzer in the Musée des Blindés>File: HETZER(3).jpg引用。
写真(右):2007年6月、アメリカ東部、メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館(United States Army Ordnance Museum)に保管展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2の右側面:チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の車体に60mm厚の傾斜装甲の戦闘室を設けて、48口径7.5センチ戦車砲を装備した。車高は低く、防御力は高い。軽量で、量産性に優れていた。 Description Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007.
Source Own work
Permission
(Reusing this file) Attribution ShareAlike 2.5 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Jagdpanzer 38(t) in museums File:Hetzer 1.jpg引用。
写真(右):2007年6月、アメリカ東部、メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館(United States Army Ordnance Museum)に保管展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2の正面:チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の車体に60mm厚の傾斜装甲の戦闘室を設けて、48口径7.5センチ戦車砲を装備した。車高は低く、防御力は高い。軽量で、量産性に優れていた。 Description Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007.
Source Own work
Permission
(Reusing this file) Attribution ShareAlike 2.5 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Jagdpanzer 38(t) in museums File:Hetzer 2.jpg引用。
38(t)軽駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t)) は、IV号戦車と同じ48口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 40)は砲身長3615mm、砲口初速790m/s、口径75mm×495 R(リムド・カートリッジ:薬莢)。
他方、V号戦車パンテル(Panzer V "Panther" Sd.Kfz.171)の70口径7.5センチ砲(7.5 cm KwK 42 L/70)は砲身長5250mm、砲口初速935m/s、口径 75mm×640 R(リムド・カートリッジ:薬莢)で、より長大な砲に長大な砲弾を用いていた。
写真(右):2016年4月、アメリカ、テキサス州エルパソ、フォート・ブリス博物館(ウェブFort Bliss and Old Ironsides Museums)に保管展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2の左正面:チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の車体に60mm厚の傾斜装甲の戦闘室を設けて、48口径7.5センチ戦車砲を装備した。車高は低く、防御力は高い。軽量で、量産性に優れていた。 Description
English: Hetzer at Fort Bliss Museum, left front quarter view
Date 13 April 2016, 12:48:11
Source Own work
Author KMJKWhite 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Jagdpanzer 38(t) in museums File:Hetzer at Fort Bliss Museum, left front quarter view.jpg引用。
写真(右):2016年4月、アメリカ、テキサス州エルパソ、フォート・ブリス博物館(ウェブFort Bliss and Old Ironsides Museums)に保管展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2の左正面:転輪の塗分けされた迷彩塗装が興味深い。照明のある室内展示で、柵がないので鑑賞、写真撮影がしやすい博物館である。 Description
English: Hetzer at Fort Bliss Museum, left front quarter view
Date 13 April 2016, 12:48:11
Source Own work
Author KMJKWhite 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Jagdpanzer 38(t) in museums File:Hetzer at Fort Bliss Museum, left front quarter view.jpg引用。
写真(右):ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市、ジンスハイム自動車・技術博物館に保管展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:48口径7.5センチ戦車砲を装備。マルズブレーキはついていない。 解説
SONY DSC
日付 2013年6月5日, 04:14
原典 Škoda Böhmisch Mährische Maschinenfabrik Jagdpanzer_38t Hetzer 1944 Desert RSideFront SATM 05June2013
作者 Valder137 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the Auto und Technik Museum Sinsheim>File: Škoda Böhmisch-Mährische Maschinenfabrik Jagdpanzer 38t Hetzer 1944 Desert RSideFront SATM 05June2013 (14577623756).jpg引用。
写真(右):ドイツ連邦、ニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管・展示してある駆逐戦車ヘッツァーとV号戦車パンテル(Panzer V "Panther" Sd.Kfz.171)の70口径7.5センチ砲(7,5 cm KwK 42 L/70):左手前は、ケッテンクラート(Sd Kfz 2)で、1941年から1944年に8300輌が生産た半装軌式オートバイ。ドイツ空挺部隊(降下猟兵)が歩兵砲や無反動砲を牽引する予定だったが、実際には、ソビエト連邦、東部戦線の悪路で輸送・通信に使用され、さらには飛行場における航空機の牽引に活用された。
English: Granade-cartridge of the German Wehrmacht until 1945, here: caliber 75×640 mm R (R = rimed cartridge) to 7.5-cm-KwK 42 and 7.5-cm-StuK 42, German Tank Museum (Munster, Lower Saxony, Germany).
Date 7 July 2010
Source Own work
Author Banznerfahrer 写真はWikimedia Commons, the File: Panzermuseum Munster 2010 0478.JPG引用。
写真(右):ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市、ジンスハイム自動車・技術博物館に保管展示されているドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' SdKfz 138/2:第二次大戦直前ドイツに併合されたチョコで製造され、48口径7.5センチ戦車砲を装備。マルズブレーキはついていない。 解説
Photographed at the Auto & Technic museum Sinsheim.
日付 2012年4月7日, 10:47:55
原典 投稿者自身による作品
作者 Alf van Beem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the Auto und Technik Museum Sinsheim>File: Jagdpanzer Hetzer 1944.JPG引用。
38(t)軽駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t):Sd.kfz.138.2) は第二次大戦直前ドイツに併合されたチョコ、すなわち ベーメン・メーレン保護領( ボヘミア・モラヴィア保護領)で製造され、48口径7.5センチ戦車砲を装備。マルズブレーキはついていない。
写真(右):ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市、ジンスハイム自動車・技術博物館に保管展示されているスイス陸軍G-13:チェコで製造。ドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' をベースにして車体に変更を加えたもの。 解説
Jagdpanzer 38 (t) Hetzer (höchst-wahrscheinlich aber eher die Schweizer Version G-13)
日付 2004年11月4日 (当初のアップロード日)
原典 Originally from de.wikipedia; description page is/was here.
作者 Original uploader and author was Darkone at de.wikipedia
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the Auto und Technik Museum Sinsheim>File: Jagdpanzer 38 Hetzer Sins 1.jpg引用。
写真(右):ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市、ジンスハイム自動車・技術博物館に保管展示されているスイス陸軍G-13:ドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' をベースにして車体に変更を加えたもの。:第二次大戦直前ドイツに併合されたチョコは、戦後、再びチェコスロバキアとして独立した。ドイツ併合時代の生産設備を活用して、ヘッツァー駆逐戦車の改良型のG-13を製造した。48口径7.5センチ戦車砲にはマルズブレーキを装備した。 解説
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
日付 2009年10月23日, 16:12:01
原典 投稿者自身による作品
作者 AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the Auto und Technik Museum Sinsheim>File: Jagdpanzer Hetzer at Sinsheim pic1.JPG引用。
チェコスロバキアは、1938年にドイツと隣接したズテーテンラントをドイツに割譲するように強要され、第二次大戦直前、1939年3月15日に、チェコ全土がドイツに併合された。チョコスロバキアの残りのスロバキアは、傀儡国家として独立した。第二次大戦でドイツが敗北すると、再びチェコスロバキアは独立した。そして、ドイツ併合時代の戦車生産設備を活用して、駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t) "Hetzer":SdKfz 138/2)の改良型のG-13を製造した。
写真(右):ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市、ジンスハイム自動車・技術博物館に保管展示されているスイス陸軍G-13:ドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' をベースにして車体に変更を加えたもの:マルズブレーキ付きの48口径7.5センチ戦車砲を車体の右寄りに搭載。 解説
OLYMPUS DIGITAL CAMERA
日付 2009年10月23日, 16:11:26
原典 投稿者自身による作品
作者 AlfvanBeem撮影。 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Jagdpanzer 38(t) in the Auto und Technik Museum Sinsheim>File: Jagdpanzer Hetzer at Sinsheim pic2.JPG引用。
第二次世界大戦後、再び独立を果たしたチェコスロバキアで生産されたG-13駆逐戦車は、48口径7.5センチ戦車砲にマルズブレーキを装備、1946年にスイス陸軍の制式となった。スイスでG-13は1970年まで部隊配備されていたため、比較的良好な状態で現存している。そこで、第二次大戦時の駆逐戦車ヘッツァー(Jagdpanzer 38(t) "Hetzer":SdKfz 138/2)を思い起こさせる遺産として、博物館に展示された。
2.駆逐戦車ヘッツァー原型チェコ38(t)戦車 PzKpfw 38(t)
写真(右)1940年春,フランス、西部戦線、チェコのシュコダ社製のドイツ陸軍35(t)戦車 Pz Kpfw 35(t)とそれに後続する 24口径7,5センチ短砲身砲(7,5 cm Kwk L 24) 搭載のドイツ軍IV号戦車D型(Panzerkampfwagen IV Ausf. D): Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-769-0236-23
Archive title: Frankreich.- Panzer-kolonne mit Panzer 35t und Panzer IV; PK OKW
Dating: 1940
Photographer: Borchert, Erich [Eric]
撮影。 写真はWikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-769-0236-23, Frankreich, Panzer 35t und Panzer IV.jpg引用。
ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車,チェコ38t戦車もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。またI号戦車を改造した歩兵支援あるいは対戦車自走砲も製造された。
ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,II号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径、3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。
ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三軍集団あった。
北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。
中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。
1940年5月,ドイツ軍がフランスを攻撃したのは,装甲師団の展開に不利なアルデンヌ林のルートだった。 ソ連侵攻バルバロッサ作戦にあっても,ヒトラーは,沼沢地,河川が多く,ソ連軍が攻撃を予期しない中部地域に大軍を投入した。
1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,突如,ソ連を攻撃した。このは,ドイツ軍によるソ連攻撃バルバロッサBarbarossa作戦が実行されたのは,次のような理由からだった。
1)バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のことである。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだとした。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃した。そして,ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。
2)ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。ただし,東方に向かうドイツ軍兵士は,独ソ不可侵条約の下で,スターリンがウクライナをヒトラーに貸与するという噂があった。
3)フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。ただし,バルバロッサ作戦の準備は,英本土上陸作戦の意図を隠蔽する目的で行われる陽動だとされた。実際,ドイツ海軍軍令部は,2月18日の作戦日誌で,陽動作戦のことを記している。
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。これは過激な表現のプロパガンダではなく,本心だった。
ソ連侵攻時にも,ドイツ軍の配備したチェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製のドイツ陸軍38(t)戦車 Pz Kpfw 38(t) は、当時のドイツ戦車としては、強力な47口径3.7センチ砲を搭載し、装甲も最大5センチと防御力も強固だった。のちに、43口径7.5センチ戦車砲を搭載した駆逐戦車「ヘッツァー」に発展し、終戦まで生産が続行された。
1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連の秘密警察NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)
ドイツ軍によるポーランド侵攻とソ連侵攻の共通する暗部は,ユダヤ人を初めとする敵性住民を即決処刑したことである。独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。独ソ
他方,独ソ戦の東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡した。
写真(右)1941年10月,対ソ戦の東部戦線北部,チェコ38(t)戦車:38(t)のtはトンではなく、チェコを意味する。チェコスロバキアを併合したドイツがスコダ社で生産していたチェコスロバキア軍の戦車を,ドイツ軍も引き続き第一線で使用した。 Sowjetunion-Nord.- Panzer 38(t) und Infanterie in einen Birkenwäldchen; PK 694
Dating: Oktober 1941
Photographer: Gebauer撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
チェコ35(t)戦車(Czech Panzer 35(t))はチェコのシュコダ社の設計,生産になる戦車で,tはチェコ(独語Tschechien;英語Czech)を意味する。チェコ全土は,1939年3月14日、大戦勃発直前にドイツに占領され ベーメン・メーレン保護領( ボヘミア・モラヴィア保護領)となったため,シュコダ社の戦車・火砲などは,ドイツ軍のために生産が続行された。
ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。
1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。-----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」
写真(右)1941年6-7月,ソ連,指導者ヨセフ・スターリンのポスターがあるゲートを潜るドイツ軍チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車 Pz Kpfw 38(t)
:38(t)のtはトンではなく、チェコを意味する。Joseph Stalin( 1878年12月18日-1953年3月5日)は,独ソ戦の開始直後から,ソ連人民のドイツ軍への利敵行為を危惧していた。そこで,ウクライナ人,チェチェン人,タタール人をシベリア,中央アジアへ強制移住させた。彼らの分離独立,反共産主義が、侵略者のはずのドイツ軍を,同盟軍としてしまうことを心配したのである。このような圧制には,内務人民委員(NKVD)が活躍した。 Sowjetunion.- Panzer 38 (t) vor dem Eingang eines mit Porträts sowjetischer Politiker (links Josef Stalin) geschmückten Lagers; PK 697
Dating: 1941 Juni - Juli
Photographer: Bieling 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」
◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。
1941年11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。」
◆ドイツ軍司令官は弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。戦開始の時期には,ドイツ陸軍はIII号戦車,IV戦車を主力として,ソ連軍戦車よりも優れていると考えていた。しかし,戦車の数量は劣っていることが判明していたので,生産コストの高い回転砲塔を持つ戦車ではなく,突撃砲,自走砲(砲戦車)を装備して,戦車を補助あるいは歩兵支援を充実させようとした。
1941年6月22日以降のドイツのソ連侵攻は,ユダヤ人など下等劣等人種の殲滅戦争の第二段階だった。
既に,バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていた。
1941年4月28日,第二軍団マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。
1942年1月23日,ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」
◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。
写真(右):スロバキア共和国、スロバキア国民蜂起博物館(Slovak National Uprising Museum)に保管展示されているドイツ軍チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車 (LT-38, Pz Kpfw 38(t)): Description
English: Museum of Slovak National Uprising.
Date 12 October 2008
Source Own work
Author Vassia Atanassova - Spiritia
写真はWikimedia Commons,Category: Panzerkampfwagen 38(t) in the Slovak National Uprising Museum> Category: Panzerkampfwagen 38(t) at the Technical museum in Togliatti>File: Banska-Bystrica-ceskoslovensky-lahky-tank-vzor-38-2.jpg引用。
1941年10月,対ソ戦の東部戦線北部,チェコ38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))の38(t)のtはトンではなく、チェコを意味する。チェコスロバキアを併合したドイツがスコダ社で生産していたチェコスロバキア軍の戦車を,ドイツ軍も引き続き第一線で使用した。
チェコスロバキア軍は、1934年、シュコダ社、ČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社、タトラ社に対して、新鋭戦車の開発を依頼した。そして、シュコダ社は、試作車を完成させ、それが1938年、LTvz.38として制式になった。しかし、1938年9月のミュンヘン会談(Munich Conference)で、同盟国のフランス、友好国のイギリスは、ドイツによるチェコスロバキアとドイツとの国境地帯ズテーテン・ラントを、ドイツに併合することを認めるてしまう。結局、ドイツは、1938年10月にチェコのズテーテン・ラントを併合し、さらに1939年3月に全てのチェコ領はドイツに併合され、残ったスロバキアは、ドイツ傀儡国家とされてしまう。
LTvz.38の量産が開始されたのは、事実上、ドイツ併合後であり、ドイツ軍のために新鋭戦車チェコ38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))が生産され、ドイツ軍に配備された。
ドイツ軍では、シュコダ社LTvz.38戦車(Panzerkampfwagen 38 (t))を、はチェコ製であることを示す(t)の文字をつけ、38(t)戦車(Pz.Kpfw. 38(t))として制式とした。LTvz.38戦車(Panzerkampfwagen 38 (t))は、既にチェコ陸軍のために先行生産されていた35(t)戦車と共にドイツ軍の主要戦車の一つとなった。
写真(右):スロバキア共和国、スロバキア国民蜂起博物館(Slovak National Uprising Museum)に保管展示されているドイツ軍チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車 (LT-38, Pz Kpfw 38(t)): Description
English: Museum of Slovak National Uprising.
Date 12 October 2008
Source Own work
Author Vassia Atanassova - Spiritia
写真はWikimedia Commons,Category: Panzerkampfwagen 38(t) in the Slovak National Uprising Museum> Category: Panzerkampfwagen 38(t) at the Technical museum in Togliatti>File: Banska-Bystrica-ceskoslovensky-lahky-tank-vzor-38-3.jpg引用。
ドイツ軍の38(t)戦車(Panzerkampfwagen 38 (t))は、第二次大戦劈頭、1939年9月のポーランド侵攻に投入され、1940年5月のフランス侵攻では、エルヴィン・ロンメル将軍率いる第7装甲師団、第8装甲師団に配属されて、戦っている。ドイツ軍の主力戦車は、I号戦車・II号戦車だったが、攻撃力、防御力ともに38(t)戦車の方が優れていた。他方、新鋭のIII号戦車(Panzerkampfwagen III)は、数が少なかったために、装甲・火力の面で最も有効に戦場に投入されたのは、38(t)戦車だったのである。
写真(右):ロシア、モスクワ郊外、大祖国戦争博物館(Great Patriotic War)に保管展示されているドイツ軍チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車 (LT-38, Pz Kpfw 38(t))F型: 解説
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日付 2014年6月5日, 14:34:13
原典 投稿者自身による作品
作者 Mike1979 Russia
写真はWikimedia Commons, Panzerkampfwagen 38(t) in museums> Category: Tanks at the central museum of the Great Patriotic War>File: PzKpfw 38(t) Ausf F in the Great Patriotic War Museum 5-jun-2014 Front.jpg引用。
38t(Panzerkampfwagen 38 (t))はチェコのシュコダ社の設計,生産になる戦車で,tはチェコを意味する。チェコは,大戦勃発前にドイツに占領されたため,シュコダ社の戦車・火砲などは,ドイツ軍のために生産が続行された。この中で最も利用されたのがチェコ38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))である。
⇒写真集Albmu:ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)を見る。
3.38(t)対戦車自走砲 マーダーIII Jagdpanzer:シュコダ38(t)戦車の活用
初期のドイツ陸軍 マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から鹵獲した51口径76.2ミリ師団砲(野砲)M1936を改造した7.62 cm PaK 36(r)を搭載し、車体もチェコ製造の38(t)戦車(Panzerkampfwagen 38 (t))だった。つまり、火砲も車体もドイツが設計、生産したものではなく、借り物だった。しかし、後期型のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm PaK 40 )を搭載した。
写真(右)1942年8-9月,マーダー Marder III 38(t)対戦車自走砲Jagdpanzer Marder III (Sd. Kfz. 139)
:ソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲をチェコ開発のシュコダ38(t)戦車に搭載。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-217-0485-28
Archive title: Sowjetunion-Süd.- .- Soldaten auf Jagdpanzer Marder III (Sd. Kfz. 139); PK 694
Dating: 1942 August - September
Photographer: Scheffler
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
38(t)対戦車自走砲マーダーIII(Jagdpanzer Marder III)はチェコ陸軍制式のチェコシュコダ38(t)戦車(Panzerkampfwagen 38 (t))の砲塔を取り除き,開放式戦闘室を設けて,そこにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲7.62cmPak36(r)を装備した対戦車自走砲である。全長 5.9メートル,全幅2.2メートル,全高 2.5メートル,重量10.7トン。占領国チェコ製の車体に,ソ連製の火砲をつけたハイブリッド型の戦闘車両だった。
マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、対二次大戦直前、1939年3月のチェコ併合によってドイツ軍に配備されるようになった旧チェコ陸軍の制式戦車LT-38、すなわちドイツ軍の38(t)戦車(Panzerkampfwagen 38 (t))の車体をベースにした対戦車戦闘可能な自走砲である。38(t)戦車は小型で、4.7センチ砲の搭載しかできなかったが、砲塔を撤去して大型の戦闘室を設け、そこに対ソ戦で大量に鹵獲したソ連軍の76.2mm野砲F-22を搭載したのが、 Sd Kfz 139 マルダーIIIである。
ソ連軍の76.2ミリF-22野砲は、3インチ砲弾だったが、ドイツ軍は自国の7.5センチ弾・薬莢も装填できるように、砲尾の薬室を回収し、それを7.62cm対戦車砲PaK 36(r)と命名した。(r)はロシア兵器の鹵獲であることを示す。ソ連軍の76.2mm弾とドイツ軍の7.5cm弾は口径がわずかに異なる上に、薬莢も異なったが、間に合わせ兵器として、砲の精度を度外視して、実用化し、実戦に大量投入された。
初期のドイツ陸軍マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から鹵獲した51口径76.2ミリ師団砲(野砲)M1936を改造した7.62 cm PaK 36(r)を搭載し、車体もチェコ製造の38(t)戦車だった。つまり、火砲も車体もドイツが設計、生産したものではなく、借り物だった。しかし、後期型のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm PaK 40)を搭載した。
写真(右):ロシア連邦,サンクトペテルスブルク(旧レニングラード)、サンクトペテルブルク砲兵博物館が保管・展示しているソ連の51口径76.2ミリ師団砲(野砲)M1936(76 mm divisional gun M1936 (F-22) ):
解説
Photographed at the Military-historical Museum of Artillery, Engineer and Signal Corps, Saint Petersburg.
日付 2016年8月12日, 10:34:40
原典 投稿者自身による作品
作者 Alf van Beem 撮影。 写真はWikimedia Commons,Category: 76 mm divisional gun M1936 (F-22) in the courtyard of the Military-historical Museum of Artillery, Engineer and Signal Corps>File:76 mm divisional gun M1936 (F-22) pic1.JPG引用。
76mm師団砲M1936(F-22)は、ソ連軍が開発した野戦砲で、試作砲は1935年に完成、1936年5月11日に制式とされた。1939年の対日戦ノモンハン事件で実戦投入され、その直後の対フィンランド冬戦争、1941年6月以降の大祖国戦争で活躍した。しかし、重量過大の傾向を修正、軽量化したF-22 USV野砲が開発されると生産はこの改良砲に転換された。対ソ戦に際して、ドイツ軍は大量に76mm師団砲M1936(F-22)を鹵獲し、それを7.62cm Pak 36(r)対戦車砲と称して制式し活用した。その際、76.2mm対戦車砲 Pak36(r)の砲身先端部にマズルブレーキを装着し、大型で背の高い防盾を小型の低シルエットの形状に変更している。
写真(右):ロシア連邦,サンクトペテルスブルク(旧レニングラード)、サンクトペテルブルク砲兵博物館が保管・展示しているソ連の51口径76.2ミリ師団砲M1936(76 mm divisional gun M1936 (F-22) ):
解説
76 mm F-22 gun displayed in Saint Petersburg Artillery Museum
日付 2007年3月3日, 13:28:45
原典 投稿者自身による作品
作者 Сайга20К撮影。 写真はWikimedia Commons,Category: 76 mm divisional gun M1936 (F-22) in the courtyard of the Military-historical Museum of Artillery, Engineer and Signal Corps>File:76 mm divisional gun M1936 (F-22) pic1.JPG引用。
76mm師団砲M1936(F-22)の諸元 口径
76.2 mm 全長
7.12 m 全幅
1.93 m 全高
1.71 m 砲身のみ
3,680 mm / 48.4口径(砲身のみ) 砲身(薬室含む)
3,895 mm / 51.2口径 重量
1,620 kg 操作人員数
6名 装薬:分離薬莢式 仰俯角
-5度から75度 旋回角
60度 発射速度
15発/分 最大射程
14,000 m
ドイツ陸軍マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から鹵獲した76.2ミリや砲を改造して搭載したが、車体もチェコ製造の38(t)戦車(Panzerkampfwagen 38 (t))だった。つまり、火砲も車体もドイツが設計、生産したものではなく、借り物だった。
II号戦車の車体を活用したマーダーIIと38(t)戦車の車体を活用した初期のマーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ師団砲(7.62cmPak36(r))を搭載したが、後期のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40 )を搭載している。
マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、チェコ38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))の砲塔と上部構造を撤去して、戦闘室を設けて周囲を11mm厚保の装甲板で覆った。ただし、戦闘室の後方と上面は開放されており、防御力は弱い。また、装甲が薄いだけでなく、大きな戦闘室を車体上面に設けたために車高が高くなり、隠匿性が低くなり、敵の目標になりやすかった。しかし、車体前面装甲は、チェコ38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))と同じく50mm厚で、当時の戦車としては強固だった。
旧式化したチェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を取り除き,車体上部に戦闘室を設けて,ここにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲を装備したのがマーダー Marder III 38(t)対戦車自走砲。防盾を後ろから見て左側にある覗き(のぞ)窓をとして射撃するようだが、砲が旋回した時に、防盾と戦闘室の間の隙間から、敵弾が侵入しないように、右側だけに補助装甲板が3枚取り付けられている。
初期のドイツ陸軍マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から鹵獲した51口径76.2ミリ師団砲(野砲)M1936を改造した7.62 cm PaK 36(r)を搭載し、車体もチェコ製造のチェコ38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))だった。つまり、火砲も車体もドイツが設計、生産したものではなく、借り物だった。しかし、後期型のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm PaK 40 )を搭載した。
マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から大量に鹵獲した76.2ミリ野砲を改造して搭載したが、車体もチェコ38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))だった。つまり、火砲も車体もドイツが設計、生産したものではなく、借り物だった。歩兵の火力支援ではなく,対戦車戦闘を旨とした自走砲だが、ソ連軍とチェコ軍の兵器を組み合わせた応急の即製兵器だった。ただし、マーダーIIIは、対戦車能力はあるものの,戦闘室周囲の装甲は薄く,戦闘室は後面と上面が開放されているために,防御力はきわめて弱い。
ソ連侵攻でT-34など強力なソ連軍戦車に直面したドイツ軍は,対戦車能力の低い戦車しかなかったために,急遽,対戦車自走砲を生産したのである。その後, II号戦車の車体を改造したマーダー II(Marder II)も生産された。新型戦車が登場するまでの繋ぎのはずだったが,対戦車自走砲は,敗戦まで使用された。
1941年6月22日、ドイツ軍は、ソビエト侵攻「バルバロッサ作戦」を発動し、ソ連を席巻した。しかし、ドイツ軍が直面したソ連軍の重戦車KV-1、KV-2、そしてT-34中戦車は、76.2ミリ戦車砲を搭載しており、ドイツ戦車より攻撃力が高く、さらに装甲も厚く、防御力にも優れていた。予想外のソビエト新鋭戦車に直面し、ドイツ軍の新鋭5センチ38型対戦車砲でも、近距離でなければT34の前面装甲を貫通できなかったのである。
写真(右)1944年頃、イギリス軍が鹵獲したドイツ陸軍マーダー III対戦車自走砲 Jagdpanzer Marder III (Sd. Kfz. 139):Department Photographs Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period Second World War
Label
German Marder III tank destroyer. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7227)
そこで、前線部隊の対戦車戦闘能力を向上するために、ドイツ軍は緊急対策として量産されていたチェコ製38(t)戦車から砲塔を撤去し、車体上部にソ連軍から捕獲した長砲身76.2mm野砲を搭載し、即製の対戦車自走砲を開発した。これが、38(t)戦車をベースとしたマーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III)である。
写真(右)1943
年頃、ドイツ陸軍マーダーIII 対戦車自走砲 Jagdpanzer Marder III (Sd. Kfz. 139):記録用写真。 Catalogue number: STT 4605,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 4605)
ドイツ軍チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車 (LT-38, Pz Kpfw 38(t))の車体に、対戦車戦が可能なソ連軍から鹵獲した76.2mm野砲 Pak36、後にはドイツ軍の7.5cm対戦車砲Pak40を搭載した対戦車自走砲が開発された。これがマーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )である。対戦車砲を車体中央に搭載したマーダーIII対戦車砲H型(Sd. Kfz. 138)に続き、エンジンを前方に移動して後方に7.5cm砲Pak40砲を搭載したマーダーIII対戦車砲M型(Sd. Kfz. 138)が生産された。
マーダー III 対戦車自走砲 Jagdpanzer Marder III (Sd. Kfz. 139)は、1942年2月に試作車が完成し、Panzerjäger 38(t) für 7.62cm PaK36(r) (7.62cm 36式(r)対戦車砲搭載38(t)対戦車自走砲)と命名された。1942年4月から11月の間に38(t)G型用の車台を流用し生産が始まり、その後、エンジンをEPA-2(140馬力)に変換した車体が生産に移行した。
ドイツ陸軍マーダー III 対戦車自走砲H型(Panzerjäger Marder III Ausf. H, Sd.Kfz. 138 )までは、チェコ38(t)戦車G/H型の車台中央に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載。マーダーII対戦車自走砲(Sd.Kfz. 139)はソ連軍から鹵獲した76.2ミリ砲を改造して搭載したが、マーダー III 対戦車自走砲H型(Panzerjäger Marder III Ausf. H, Sd.Kfz. 138 )とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40 )を搭載した。マーダーIII H型はM型とは異なり、エンジン位置を原型の戦車から変更していない。
38(t)対戦車自走砲マーダーIII(Jagdpanzer Marder III)はチェコ製のチェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を取り除き,開放式戦闘室を設けて,そこにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲7.62cmPak36(r)を装備した対戦車自走砲である。全長 5.9メートル,全幅2.2メートル,全高 2.5メートル,重量10.7トン。占領国チェコ製の車体に,ソ連製の火砲をつけたハイブリッド型の戦闘車両だった。
写真(右):フランスのメーヌ=エ=ロワール県、ソミュール戦車博物館に保管展示されているドイツ軍のドイツ陸軍マーダー III 対戦車自走砲 Jagdpanzer Marder III (Sd. Kfz. 139):: 解説
English: Marder III tank destroyer. On display at Saumur Général Estienne museum.
原画像データの生成日時
2009年7月18日 (土) 17:19
原典 投稿者自身による作品
作者 Rama 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: SdKfz 139 Panzerjäger 38(t) für 7,62cm PaK 36(r) Marder III in the Musée des Blindés>File: Marder III mg 7810.jpg引用。
II号戦車の車体を活用したマーダー II 対戦車自走砲(Panzerjäger Marder II Sd.Kfz. 131)と38(t)戦車の車体を活用した初期のマーダーIII対戦車自走砲(Sd.Kfz. 139)は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ師団砲(7.62cmPak36(r))を搭載した。しかし、その後、やっとドイツ軍独自の新鋭46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40)の量産体制が整ったために、後期のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40 )を搭載している。
第二次世界大戦の前半、対ソビエト連邦東部戦線に登場したドイツ陸軍マーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 139)は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ師団砲(7.62cmPak36(r))を、チェコ38(t)戦車G/H型の車台中央に搭載した。しかし、その後、ドイツ軍独自の新鋭46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40)の量産体制が整ったために、後期のマーダー III 対戦車自走砲H型(Panzerjäger Marder III Ausf. H Sd.Kfz. 138)とマーダー III 対戦車自走砲M型(Panzerjäger Marder III Ausf. M Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5cm砲Pak40)を搭載している。また、マーダーIII H型はエンジン位置を原型の戦車から変更していないが、マーダーIII対戦車自走砲M型は、エンジンを車体前方に移して、火砲を車体後ろ寄りに搭載し、前後のバランスを良くして、戦闘室も拡大している。これによって、操縦性、安定性、操作性が向上した。
写真(右):フランスのメーヌ=エ=ロワール県、ソミュール戦車博物館に保管展示されているドイツ陸軍対戦車自走砲マーダーMarder III (Sd. Kfz. 139):初期のマーダーIII対戦車自走砲(Sd.Kfz. 139)は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ師団砲(7.62cmPak36(r))を、チェコ38(t)戦車G/H型の車台中央に搭載した。しかし、後期のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5cm砲Pak40)を搭載している。
解説
Français : Vue arrière d'un Marder III au Musée des Blindés de Saumur.
日付 2008年8月23日, 16:23:45
原典 投稿者自身による作品
作者 Duch.seb
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: SdKfz 139 Panzerjäger 38(t) für 7,62cm PaK 36(r) Marder III in the Musée des Blindés>File: SdKfz 139 Marder III Saumur.jpg引用。
ドイツ陸軍の初期のマーダーIII対戦車自走砲は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ師団砲(7.62cmPak36(r))を、チェコ38(t)戦車G/H型の車台中央に搭載した。しかし、その後、ドイツ軍独自の新鋭46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40)の量産体制が整ったために、後期のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5cm砲Pak40)を搭載している。
⇒38(t)対戦車自走砲マーダーIII Pz Jag 38(t) Marder IIIを見る。
4. マーダーIII 38(t)対戦車自走砲H型(Panzerjäger 38 für 7.5cm PaK40/3 Marder III Ausf.H)
旧式化したチェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車 (LT-38, Pz Kpfw 38(t))の砲塔を取り除き,車体上部に戦闘室を設けて,ここにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲を装備したのがマルダーIII地戦車自走砲。歩兵の火力支援ではなく,応急の対戦車自走砲を製造した。対戦車能力はあるが,装甲が薄く,戦闘室は開放されているために,防御力はきわめて弱い。
写真(右)1943
年頃、東部戦線で偽装を施したドイツ陸軍マーダーIII対戦車自走砲H型(Marder III Ausf. H :Sd. Kfz. 138)(Panzerjäger 38 für Marder III H 7.5cm PaK40/3 Ausf.H ): Catalogue number: STT 3785,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 3785)
初期のドイツ陸軍マーダーIII対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から鹵獲した76.2ミリ砲を改造して搭載し、車体もチェコ製造の38(t)戦車だった。しかし、後期型のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダー III 対戦車自走砲M型(Panzerjäger Marder III Ausf. M Sd.Kfz. 138)は、チェコ38(t)戦車G/H型の車台を流用して7.5cm砲Pak40を搭載した。マーダー III 対戦車自走砲H型(Panzerjäger Marder III Ausf. H Sd.Kfz. 138)はM型とは異なり、車体中央にトップヘビーに対戦車砲を搭載しており、アンバランスな感がある。ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak36野砲を搭載したのはマーダーII自走砲およびマーダーIII自走砲である。
写真(右):フィンランド,ヘルシンキ北東300キロ、ミッケリ、ミッケリ歩兵博物館が保管・展示しているドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40 ):マーダーII対戦車自走砲(Sd.Kfz. 139)は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ野砲を搭載したが、、マーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm PaK 40 )を搭載した。1944年までフィンランドは枢軸側に立ってソ連と戦っていたのでその時期にドイツ軍から貸与された46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40)と思われる。ハミナ軍事博物館(RUK-museo)の住所はKadettikoulunkatu 8, Hamina
Description
English: 75 mm PaK 40 anti-tank gun outside RUK-museum in Hamina.Date 12 August 2015
Source Own work
Author MKFI 撮影。 写真はWikimedia Commons,Category: PaK 40 guns in museums>File: 75 PaK 40 Mikkeli 1.JPG引用。
初期のドイツ陸軍マーダーIII対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から鹵獲した76.2ミリ砲を改造して搭載し、車体もチェコ製造の38(t)戦車だった。つまり、火砲も車体もドイツが設計、生産したものではなく、借り物だった。しかし、後期型のマーダー III 対戦車自走砲H型(Panzerjäger Marder III Ausf. H Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm PaK 40 )を搭載した。
46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40)は、前世代の60口径5戦に対戦車砲(5cm PaK 38)を強化したもので、1939年にラインメタル社が開発したが、独ソ戦開始まで、強力な対戦車砲の必要性を痛感していなかったために、開発は遅れた。しかし、1941年の夏、独ソ戦で、ソ連赤軍のT-34中戦車、KV-1重戦車、KV-2重戦車と対峙すると、当時の主力だった3.7センチ対戦車砲(3.7cm PaK 36)は役に立たず、新鋭の60口径5センチ対戦車砲(5cm PaK 38)を急遽整備したが、それも威力不足だった。そこで、46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40)の開発が本格化し、1941年11月に試作砲が完成した。対戦車戦闘の必要性が緊急課題だったために、十分な試験期間をとらずに1942年早々には量産体制に移っている。
II号戦車(Panzerkampfwagen II)改造のII号7.5センチ対戦車自走砲マルダーII(Panzerjäger Marder II Sd.Kfz. 131)とマーダーIII対戦車自走砲初期型(Sd.Kfz. 139)は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ師団砲を搭載したが、後期型のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40 )を搭載した。
マーダーII対戦車自走砲(Panzerjäger Marder II Sd.Kfz. 131)は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ野砲を搭載したが、マーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダー III 対戦車自走砲M型(Panzerjäger Marder III Ausf. M Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40 )を搭載した。 ソ連侵攻でT-34など強力なソ連軍戦車に直面したドイツ軍は,対戦車能力の低い戦車しかなかったために,急遽,対戦車自走砲を生産したのである。その後, II号戦車の車体を改造したマーダー II(Marder II)も生産された。新型戦車が登場するまでの繋ぎのはずだったが,対戦車自走砲は,敗戦まで使用された。
写真(右):フィンランド,ヘルシンキ北東300キロ、ミッケリ、ミッケリ歩兵博物館が保管・展示している46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40 ):マーダーIIやマーダーIII対戦車自走砲H型(SdKfz 138 Panzerjäger 38(t) mit 7.5 cm PaK 40/3 Ausf.M Marder III)が搭載した戦車砲の原型となった。 Description
English: 75 mm PaK 40 anti-tank gun at the yard of Mikkeli Infantry museum.
Date 14 July 2011
Source Own work
Author MKFI 撮影。 写真はWikimedia Commons,Category: PaK 40 guns in museums>File: 75 PaK 40 Mikkeli 3.JPG引用。
46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40)は、前世代の60口径5戦に対戦車砲(5cm PaK 38)を強化したもので、1939年にラインメタル社が開発したが、独ソ戦開始まで、強力な対戦車砲の必要性を痛感していなかったために、開発は遅れた。しかし、1941年の夏、独ソ戦で、ソ連赤軍のT-34中戦車、KV-1重戦車、KV-2重戦車と対峙すると、当時の主力だった3.7センチ対戦車砲(3.7cm PaK 36)は役に立たず、新鋭の60口径5センチ対戦車砲(5cm PaK 38)を急遽整備したが、それも威力不足だった。そこで、46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40)の開発が本格化し、1941年11月に試作砲が完成した。対戦車戦闘の必要性が緊急課題だったために、十分な試験期間をとらずに1942年早々には量産体制に移っている。
弾丸と薬莢とからなるカートリッジ(Cartridge)が砲弾である。カートリッジ(Cartridge)は、日本では、実包(じっぽう)あるいは弾薬筒(だんやくとう)と呼ばれる。
弾丸は、古来、球形の鉛製であり、これと火薬を銃身に仕込んで、火薬を燃焼させて、発射していた。これが500年間も続いた銃(gun)である。19世紀になると、第一に、銃身の内側に螺旋状の溝、すなわちライフル(Rifling)が採用された。ライフルは、日本では施条(しじょう)あるいは腔綫(こうせん)と呼ばれる。発射された弾丸を、回転させて弾道を安定化させ、飛翔距離を長くすることができた。第二に、弾丸が球形から円錐形・紡錘形のミニエー弾(ミニ弾)がフランスで開発された。南北戦争のゲッチスバークの戦いで、ライフル銃とミニ弾が使用され、南軍に1万名の死傷者を出した。第三が、金属製薬莢によって、弾丸と薬莢が一体化されたことである、南北戦争後、弾丸と金属製薬莢を一体化したカートリッジの採用が一般化した。第四に、1880年代に黒色火薬から無煙火薬に転換したことである。ニトログリセリンを使った無煙火薬によって、弾丸の砲口初速は秒速300メートルから、600メートルに高速化した。無煙火薬で発射された弾丸は、煙が出ないので、弾道が視認できなかったので、マグネシウムを仕込んだ曳光弾を5発に1発混ぜて弾道を目視確認できるようになった。弾丸のサイズが大きくなれば、発射に必要な火薬も多く必要で、破壊力も大きくなる。
写真(右):ドイツ連邦共和国、バーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市のジンスハイム自動車・技術博物館に保管・展示されているドイツ陸軍マーダーIII対戦車自走砲H型(Marder III Ausf. H :Sd. Kfz. 138)( Sd.Kfz.138 Panzerjäger 38 für Marder III H 7.5cm PaK40/3 Ausf.H ): 解説
Czech built Sk Kfz 138 Panzer Jager 38(t) Ausf M "Marder III" S.P. Anti-Tank Gun built by BMM (ex-CKD/Praga) for the German Army with Skoda 7.5 cm PaK 40/3 gun at the Auto & Technik Museum, Sinsheim, 6/11.
日付 2011年6月3日, 11:53
原典 Pz Jag 38(t) Ausf M "Marder III" Uploaded by Oxyman
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Marder III Ausführung H・"File: Pz Jag 38(t) Ausf H "Marder III" (6089965580).jpg"引用(他引用不許可)。
初期にII号戦車(PzKpfw II:Panzerkampfwagen II(Sd.Kfz.121))のシャーシを流用して生産されたマーダーII対戦車自走砲(Sd.Kfz. 139)は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ野砲を搭載したが、後期に生産されたマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40 )を搭載した。
7.5cm PaK 40の諸元
口径 75mm 砲身長 3,450mm 重量 1,425kg 仰俯角 - 5度 + 22度 最大射程 7,680m、有効射程 1,800 m 発射速度 12-15発/分 運用人員 5名 弾薬重量 3.2kg
砲口初速 徹甲弾 792m/s、榴弾 550m/s 製造期間 1942-1945年 2万基生産 マーダーIII H型(Marder III Ausf. H :Sd. Kfz. 138)およびM型(Marder III Ausf. M :Sd. Kfz. 138)の対戦車自走砲に搭載。
◆1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。この時期は,独ソ戦でドン川西岸にあった南方軍集団が,ロストフから,カフカスに南下し,スターリングラードに東進していた時期だった。。
東方ソ連で[ブラウ」作戦が発動した時期に,ユダヤ人絶滅政策が本格的に始動した。これは,ロシアのボリシェビキ殲滅戦と対比しながら,考えることができる。
バルバロッサ作戦の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされた。
ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランド,ウクライナでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害に同調する動きも,現地のポーランド人,ウクライナ人の間に起こった。
ユダヤ人迫害の理由は,ユダヤ人が,ソ連共産党ボリシェビキの下で,政治的,経済的に優位にあった,現地のポーランド人,ウクライナ人を抑圧したという偏見だった。
しかし,ナチスドイツは,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与する下等劣等人種は全て排除するつもりだった。
世界戦争となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである、こうヒトラーは考えた。 そして、東方ソ連を,ドイツの生存圏となるべき植民地と考え,その住民は農奴扱いしたためである。ドイツ軍のソ連侵攻後,東方ソ連でもユダヤ人迫害が開始された。
◆一度隔離した敵ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜は,労働可能であっても,解放することは考えられない。強制収容所に拘束したユダヤ人,ソ連軍捕虜は,奴隷労働者として使い捨てにするか,殺戮することになった。
⇒38(t)対戦車自走砲マーダーIII Pz Jag 38(t) Marder III Ausf Hを見る。
5.38(t)対戦車自走砲 マーダーIII M型 :マーダー最終発展型
写真(右):1944年3月,ベルギー、ブリュージュ=アントワープ間のエークロ、ドイツ陸軍対戦車自走砲マーダーMarder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138)の隊列が広場を進軍する。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-297-1729-23
Archive title: Belgien, Eeklo.- Kolonne von Panzerjäger "Marder III" (Ausführung M) mit Besatzung vom Marktplatz (?) fahrend; PK 694
Dating: März 1944
Photographer: Kurth 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0885-05"引用(他引用不許可)。
初期のドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から鹵獲した76.2ミリ砲を改造して搭載し、車体もチェコ製造の38(t)戦車だった。つまり、火砲も車体もドイツが設計、生産したものではなく、借り物だった。しかし、後期型のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm PaK 40 )を搭載した。
Sd Kfz 138 マルダーIII Ausf. Mは、シュコダ38(t)戦車を母体とした対戦車自走砲の最終版で、7.5cm40式3型対戦車砲を搭載している。この38(t)対戦車自走砲マルダーIII M型は、戦車よりも防御力は遥かに劣るが、生産が容易であり、多用された。
ドイツ陸軍対戦車自走砲マーダーMarder III H型までは、エンジンが後部にあったために、戦闘室が車体中央になり、操縦室の空間を確保するために、戦闘室は車体中央の上部に置かれた。そのため車高が高くなり、バランスが悪くなる(不安定化)とともに、敵から発見されやすくなった。マーダーIII後期のM型ではエンジンを車体前部に移して、戦闘室を車体後方に設けて、車高を低くし、前後のバランスをとって機動性を増した。
マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd. Kfz. 138)M型は、エンジンが後部にあったH型を改めて、エンジンを前部に搭載し、戦闘室を車体中央後ろ寄りに拡大し、操縦室の空間を確保するとともに、戦闘室内での火砲操作性を向上させた。マーダーIIはH型までは、エンジンが後部にあったため、戦闘室の車高が高くなり、バランスが悪くなる(不安定化)とともに、敵から発見されやいという欠点があった。しかし、マーダーIII後期のM型ではエンジンを車体前部に移して、戦闘室を車体後方に設けて、車高を低くし、前後のバランスをとって機動性を増すことができた。
Sd Kfz 138 マルダーIII Ausf. Mは、シュコダ38(t)戦車を母体とした対戦車自走砲の最終版で、7.5cm40式3型対戦車砲を搭載している。この38(t)対戦車自走砲マルダーIII M型は、戦車よりも防御力は遥かに劣るが、生産が容易であり、多用された。
写真(右)1944
年頃、ドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd. Kfz. 138)M型:真横から見た記録用写真。
Catalogue number: STT 7224,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7224)
チェコ38(t)戦車の車体に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載した。ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak36野砲を搭載した自走砲、ドイツ軍の7.5cm砲Pak40を搭載したH型に続き、エンジンを前方に移動して後方に7.5cm砲Pak40砲搭載したのがマーダーMarder III 最終型のM型である。
写真(右)1944
年頃、ドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd. Kfz. 138)M型:Marder III Ausf. M記録用写真。 Catalogue number: STT 7227,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7227)
ドイツ陸軍の初期のマーダーIII対戦車自走砲(Sd.Kfz. 139)は鹵獲したソ連製51口径76.2ミリ師団砲(7.62cmPak36(r))を、チェコ38(t)戦車G/H型の車台中央に搭載した。しかし、その後、ドイツ軍独自の新鋭46口径7.5センチ対戦車砲(75 mm PaK 40)の量産体制が整ったために、後期のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5cm砲Pak40)を搭載している。また、マーダーIII H型はエンジン位置を原型の戦車から変更していないが、マーダーIII M型は、エンジンを車体前方に移して、火砲を車体後ろ寄りに搭載し、前後のバランスを良くして、戦闘室も拡大している。これによって、操縦性、安定性、操作性が向上した。
写真(右)1944
年頃、ドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd. Kfz. 138)M型:Marder III Ausf. M記録用写真。 Catalogue number: STT 7227,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7227)
ドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd. Kfz. 138)M型は、チェコ38(t)戦車の車体の後方に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載するためエンジンを前に移動している。1943年5月に生産を開始し、マーダー最終型として駆逐戦車ヘッツァーと交代するまで942輌生産された。
ドイツ軍の対戦車自走砲マーダーIII M型(SdKfz 138 Panzerjäger 38(t) mit 7.5 cm PaK 40/3 Ausf.M Marder III) は46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm PaK 40/3 L/46)は、38(t)戦車の車体をベースに、バランスを良くするために車体後部にあったエンジンを車体前部に移し、車体後部に戦闘室を設けた。7.5センチ戦車砲は車体中央より若干後方に搭載されたため、重心が車体中央となり、安定性、操縦性がそれまでのH型よりも向上した。
ドイツ軍の対戦車自走砲マーダーIII H型(SdKfz 138 Panzerjäger 38(t) mit 7.5 cm PaK 40/3 Ausf.H Marder III)は、23口径76.2ミリ砲搭載で、この火砲はソ連軍から大量に鹵獲した兵器だった。また、38(t)戦車の車体をほぼそのまま流用したため、火砲を車体中央より若干前方に搭載したため、バランスがノーズヘビー気味になり、戦闘室の位置も上方となり、車高が高かった。そこで、対戦車自走砲に不可欠な機動性と隠密性が損なわれてしまった。
つまり、マーダーIII M型はH型の改良型で、攻撃力と機動力に優れていた。しかしながら、戦闘室の周囲の装甲は10ミリと薄く、ともに防御力は低いままだった。マーダーは「テン(貂)」でドイツ軍は自走砲に肉食獣や巨大な獣に因んだ愛称を付けた。
⇒写真集Album:対戦車自走砲マルダー III Marder III Ausf H:チェコ製38(t)戦車を流用した自走砲 を見る。
6.38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) SdKfz 140
写真(右)1944
年頃、ドイツ陸軍38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) SdKfz 140:記録用写真。チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の砲塔を除いて、戦闘室を設けて、2センチ対空機関銃を搭載した。
Catalogue number: STT 7486,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer Flakpanzer 38(t) 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7486)
チェコ38(t)戦車の車体を利用しているが、エンジン位置は重心のバランスをとるために、マルダーIII M型、グリレと同様に、中央に移動している。装備した対空兵器は、65口径2センチFlaK 30対空機関砲(2 cm FlaK 30 L/65)1門で、車体後部の開放式の戦闘室に装備した。
機関砲1門搭載なので、戦闘室内で360度の車角が確保されており、戦闘室前部の装甲板を折りたたむことで、対地射撃も可能。
写真(右)1944
年頃、ドイツ陸軍38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) SdKfz 140:真横から撮影した記録写真。チェコČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk:プラガ)社製38(t)戦車の砲塔を除いて、戦闘室を設けて、2センチ校舎機関銃を搭載。 Catalogue number: STT 7484,
Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION
Subject period: Second World War
Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer Flakpanzer 38(t) 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (STT 7484)
III号戦車は、IV号戦車よりも若干小型で、搭載砲は当初3.7センチ戦車砲、次いで5センチ戦車砲で対戦車戦闘を念頭に置いた。他方、IV号戦車は、7.5センチ砲を搭載して、火力支援を行うことを任務としていた。両戦車とも懸架(サスペンション)方式・スプリングは、不整地走行時の衝撃吸収の役割があるが、III号戦車はトーションバー式、IV号戦車は板バネ式でバネ(スプリング)が異なる。
トーションバーは、車体床面に設置して金属棒の捩りを使うスプリングで、板バネは転輪と車体の間を板状の金属で繋ぐスプリング。バネを使って、揺れや振動を吸収するのが目的。戦車側面の転輪は、III号戦車はトーションバー式では一輪ずつ独立して作動するが、IV号戦車は板バネ式ではニ輪一組で作動する違いがである。他方、M4シャーマン戦車は、リーフスプリング式で、金属の板を重ねたサスペンションであった。より単純なサスペンション、すなわちコイルスプリング(バネ)もある。
写真(右):1944年9月、オランダ、オーステルベック、対空戦闘演習に従事するドイツ軍の2センチ対空機関砲(2 cm Flak 30):38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) SdKfz 140に搭載された2センチ対空機関砲と同型。
Inventory: Bild 101 II - Propagandakompanien der Wehrmacht - Marine
Signature: Bild 101II-M2KBK-772-26
Archive title: Niederlande, Oosterbeek, Dreijenseweg.- Schlacht um Arnheim.- Anflug von Transportflugzeugen und Abwurf von Nachschub an Fallschirmen, leichte deutsche 2 cm Flak im Einsatz; PK M2KBK
Dating: September 1944
Photographer: Höppner, Willi 撮影。 写真はWikimedia Commons,Category: 2 cm Flak 30>File: Bundesarchiv Bild 101II-M2KBK-772-26, Arnheim, deutsches 2 cm Flakgeschütz.jpg引用。
65口径2センチFlaK 30対空機関砲(2 cm FlaK 30 L/65)の諸元 重量
450 kg 全長
4.08 m 銃身長
1.3 m (L/65) 全幅
1.81 m 全高
1.6 m
操作要員数 7名 仰俯角:-12度から90度、旋回角:360度
発射速度: 280 - 450 発/分
初速:900 m/s
有効射程
2,200 m
装填方式:
20発入り箱型弾倉
38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) SdKfz 140の諸元
全長:4.95 m 全幅:2.15 m 全高:2.25 m 重量9.8 t 乗員 4名 生産台数:1943年11月から1944年2月まで140輌程度。
7.対戦車自走砲 Jagdpanzer マーダーII "Marder II"−II号戦車流用の自走砲
写真(右)カナダ、オンタリオ州オタワ、カナダ戦争博物館(Canadian War Museum )に保管展示されているドイツ軍のII号戦車C型 (Panzerkampfwagen II Ausführung C): Description
German light tank Panzer II displayed at the Canadian War Museum in Ottawa, Ontario. Judging by the suspension and number of road wheels and the shape of the drivers plate, it is an Ausf. C. It carries the markings of the 6. Panzer-Division (two yellow crosses). Source: Photo by me, User:Balcer. Date=July 31, 2007
Date 31 July 2007 (according to Exif data)
Source No machine-readable source provided. Own work assumed (based on copyright claims).
Author No machine-readable author provided. Balcer~commonswiki assumed (based on copyright claims). 写真はWikimedia Commons, Panzerkampfwagen II in museums> Category: Panzerkampfwagen II Ausführung C tank in the Belgrade Military Museum>File: Panzer II CWM Ottawa.jpg引用。
ヒトラーの再軍事宣言前、1934年7月に密かにII号戦車の開発が、クルップ、MAN、ヘンシェルの各社に出されたが、これは重量10トン、砲塔に2センチ機関砲と7.92ミリ同軸機銃を装備する軽戦車だった。2センチ機関砲は、2センチ対空機関砲として制式された2 cm Flak 30である。試作車は、1935年に完成、II号戦車の量産が始まったのは、1937年7月以降で、1940年4月までに1000輌が生産された。II号戦車(Panzerkampfwagen II(Sd.Kfz.121))として制式になったのは、1938年10月でオーストリア併合の時期だった。
II号戦車の初の実戦投入は、1936年に勃発したスペイン内戦で、I号戦車と同時にドイツ軍スペイン遠征部隊「コンドル軍団」に配備された。1939年9月の第二次世界大戦では、III号戦車、IV号戦車の実戦配備が遅れたために、ポーランド侵攻だけでなく、1940年5月のフランス侵攻にも主力戦車として使用された。2センチ機関砲では対戦車戦闘は困難だったため、その後、III号戦車、IV号戦車の生産が軌道に乗ると補助任務、偵察などに使用された。しかし、北アフリカ戦線、独ソ戦にもII戦車は実戦投入されている。1942年末で、旧式化したII号戦車の生産は中止され、その後、車体を活用したマーダーII対戦車自走砲などの自走砲に生産転換が図られた。
II号戦車は、55口径30式2センチ戦車砲(2-cm-KwK 30 L/55)搭載。上下射界は、俯角?10度から仰角+20度。この戦車砲は1930年ラインメタル社が開発、1935年生産開始。II号戦車は1936年のスペイン内戦に初の実戦参加をしている。この車体を利用したのがマーダーII対戦車自走砲である。
1936年7月、スペインで民主主義・共和派が選挙で勝利すると、ファシスト(国家主義・王党派)の側に立つスペイン軍が反乱を起こし、スペイン内戦が勃発した。ドイツは、ファシストの援助要請を受けて、直ぐに輸送機を貸与し、さらに援軍として、航空部隊と地上軍とを派遣した。このスペイン内戦では、当初、ドイツ軍の3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)が投入されたが、共和派政府を援助したソ連のT-26軽戦車、BT-5快速戦車の装甲は薄く、大きな戦果を挙げた。こうして、3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)は、ドイツ軍の主力対戦車砲として、第二次大戦初期の1939年9月のポーランド侵攻、1040年5月のフランス侵攻から、1941年6月のソ連侵攻まで主力対戦車砲として配備され続けた。
ドイツ陸軍II号戦車: Panzerkampfwagen II ( PzKpfw II)諸元 全長
4.81 m、
全幅
2.22 m、
全高
1.99 m 重量
8.9 t、乗員
3 名 懸架方式
リーフスプリング方式 速度
40 km/h、
航続距離
200 km
兵装
55口径20ミリ機関砲(2 cm KwK 30 L/55) 、
7.92ミリ機関銃MG34
装甲 14.5 mm 動力
マイバッハ HL62TR
直列6気筒液冷ガソリンエンジン(140 馬力)
写真(右):1943年春,ロシア中部、II号戦車Pz.Kpfw.IIに7.5センチ対戦車砲を搭載したマーダー II 対戦車自走砲(Marder II: Sd.Kfz.132):
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature:Bild 101I-197-1235-15
Archive title: Russland-Mitte.- Panzersoldaten auf 7,5cm Panzerjäger "Marder II" auf Panzer II (Bezeichnung "Kohlenklau") im Gelände; PK 693
Dating: 1943 Frühling
Photographer: Henisch, Walter 撮影。 写真は,Wikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・Bild 101I-197-1235-15引用。
ドイツ軍の主力対戦車砲3.7 cm PaK 36が威力不足で、5 cm PaK 38も数が少ない上に不十分な攻撃力しかなかったために、ソ連軍のT-34中戦車やKV-1重戦車に苦戦したドイツ軍は、ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak 36(r)対戦車砲を重用することになった。7.62 cm PaK 36(r)は、マーダーIII対戦車自走砲に搭載され、ドイツ陸軍の主要対戦車自走砲として活躍した。
写真(右):ロシア連邦,サンクトペテルスブルク(旧レニングラード)、サンクトペテルブルク砲兵博物館が保管・展示しているソ連の51口径76.2ミリ師団砲M1936(76 mm divisional gun M1936 (F-22) ):
解説
English: 76 mm F-22 gun displayed in Saint Petersburg Artillery Museum
日付 2011年6月17日, 15:49:16
原典 投稿者自身による作品
作者 Сайга20К
写真はWikimedia Commons,Category: 76 mm divisional gun M1936 (F-22) in the courtyard of the Military-historical Museum of Artillery, Engineer and Signal Corps>File: F-22-4.JPG引用。
76mm師団砲M1936(F-22)の諸元 口径
76.2 mm 全長
7.12 m 全幅
1.93 m 全高
1.71 m 砲身のみ
3,680 mm / 48.4口径(砲身のみ) 砲身(薬室含む)
3,895 mm / 51.2口径
重量
1,620 kg 操作人員数
6名 装薬:分離薬莢式 仰俯角
-5度から75度 旋回角
60度 発射速度
15発/分 最大射程
14,000 m
ドイツ軍は、1941年夏のソ連侵攻当初の包囲戦によって、ソ連製51口径76.2ミリ野砲F-22を大量に鹵獲した。この野砲は、51口径と当時としては世界最長の長砲身の野砲であり、砲口初速が早く、射程14キロであり、相談は分離薬莢式のため手間はかかったが、と対戦車戦闘も可能な優秀な野砲だった。そこで、ドイツ軍は、ソ連製51口径76.2ミリ野砲F-22を7.62cm PaK 36(r)の名称で、ドイツ軍に配備した。そして、その一部は、II号戦車の砲塔を撤去したマーダーII対戦車自走砲(Marder II: Sd.Kfz.132)に搭載されたのである。
SS武装親衛隊「ヴィーキング」(5. SS-Panzer-Division "Wiking":バイキング)は,外国アーリア人義勇兵部隊で、ノルウェー,スウェーデンなど北欧の反共産主義者などが対ソ連戦に志願していた。ノルウェーは,ドイツに占領され,クィスリング(元国防省)の傀儡政権が樹立された。ノルウェーの自立と強化を目指すために,あるいは仕事や出世の機会を得るために,武装親衛隊に参加したノルウェー人などがいた。
写真(右):フィンランド中部、オウル、フィンランド軍が枢軸側に立って使用したドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲:フィンランド・ポジャ旅団(Pohja brigade)は、1941年から1944年まで対ソ戦を戦った部隊で、それを記念する対戦車砲が、ヒウカバーラ"Hiukkavaara"基地の中にあるという。7.5センチ対戦車砲は、マーダーII対戦車自走砲(Marder II: Sd.Kfz.132)にも搭載されている。 Description
English: A Pak 40 anti-tank gun in the area of the former Pohja Brigade, in the Hiukkavaara district of Oulu, Finland.
Date May 2008
Source Own work
Author Methem (Mikko J. Putkonen)
撮影。 写真はWikimedia Commons,Category:PaK 40 in the Pohja Brigade barracks>Pak40 antitank gun in Hiukkavaara May2008 002.jpg引用。
II号戦車C型は砲塔に2センチ戦車砲を搭載しているが、威力不足のために、砲塔を撤去して、開放式の大型戦闘室を設け、そこに60口径5センチ対戦車砲、46口径7.5センチ対戦車砲(7,5-cm-PaK 40)、ソ連製51口径76.2ミリ野砲F-22 (ドイツ名称7.62cm PaK 36(r))を搭載したのが、マーダーII対戦車自走砲(Marder II: Sd.Kfz.132)である。
第二次大戦初期まで、、ドイツ軍の主力対戦車砲3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)だったが、実は、1937年にはラインメタル社が5センチ対戦車砲を開発し、ドイツ軍も1938年にはこの5センチ対戦車砲(5cm PaK38)を制式と削いていた。しかし、ドイツ陸軍内の保守派は、3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)で十分であると考え、60口径5センチ対戦車砲(5-cm PaK 38)は生産も配備もほとんど進まなかった。しかし、1941年6月のソ連侵攻で、ソ連赤軍の新鋭戦車T-34やKW-1重戦車に対しては、3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)は無力で、装甲を貫通できないことから「聴診器」と悪評されるほどだった。
1941年6月のソ連侵攻で、ソ連赤軍の新鋭戦車T-34やKW-1重戦車に対抗できる強力な戦車砲が望まれ、3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)に替わって、42口径5センチ対戦車砲(5-cm PaK 38) が注目された。III号戦車に搭載する火砲は、A型からG型は46口径3.7センチ戦車砲だったが、G後期型からJ型では42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38 L/42 )に強化され、その後のJ後期型からM型では60口径5センチ戦車砲を搭載している。
弾丸と薬莢とからなるカートリッジ(Cartridge)が砲弾である。カートリッジ(Cartridge)は、日本では、実包(じっぽう)あるいは弾薬筒(だんやくとう)と呼ばれる。
弾丸は、古来、球形の鉛製であり、これと火薬を銃身に仕込んで、火薬を燃焼させて、発射していた。これが500年間も続いた銃(gun)である。19世紀になると、第一に、銃身の内側に螺旋状の溝、すなわちライフル(Rifling)が採用された。ライフルは、日本では施条(しじょう)あるいは腔綫(こうせん)と呼ばれる。発射された弾丸を、回転させて弾道を安定化させ、飛翔距離を長くすることができた。第二に、弾丸が球形から円錐形・紡錘形のミニエー弾(ミニ弾)がフランスで開発された。南北戦争のゲッチスバークの戦いで、ライフル銃とミニ弾が使用され、南軍に1万名の死傷者を出した。第三が、金属製薬莢によって、弾丸と薬莢が一体化されたことである、南北戦争後、弾丸と金属製薬莢を一体化したカートリッジの採用が一般化した。第四に、1880年代に黒色火薬から無煙火薬に転換したことである。ニトログリセリンを使った無煙火薬によって、弾丸の砲口初速は秒速300メートルから、600メートルに高速化した。無煙火薬で発射された弾丸は、煙が出ないので、弾道が視認できなかったので、マグネシウムを仕込んだ曳光弾を5発に1発混ぜて弾道を目視確認できるようになった。弾丸のサイズが大きくなれば、発射に必要な火薬も多く必要で、破壊力も大きくなる。
⇒写真集Album:対戦車自走砲マルダー II:II号戦車を流用した自動砲 を見る。
8.対戦車自走砲 Jagdpanzer マーダー I"Marder I"−鹵獲フランス軍牽引車
写真(右):1942年,フランス南部のドイツ陸軍対戦車自走砲Jagdpanzer マーダー I"Marder I": Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-258-1326-22
Archive title: Südfrankreich.- Jagdpanzer "Marder I"; PK 696
Dating: 1942
Photographer: Wegner
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-258-1326-22"引用(他引用不許可)。
ドイツ陸軍対戦車自走砲マーダーI(Jagdpanzer "Marder I":7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) Sd.Kfz.135/1)は、第二次世界大戦期にドイツ陸軍が鹵獲したフランス陸軍の砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lトラクター(Lorraine 39L AM)を活用した簡易型の対戦車自走砲である。
第二次世界大戦期にフランスを降伏させたドイツは、多数のフランス軍用車両を鹵獲した。そこで、フランスの砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lトラクター(Lorraine 39L AM)を原型に、7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マルダーIを開発した。
7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マルダーIは、第二次世界大戦期にドイツ陸軍が鹵獲したフランス陸軍の牽引車・弾薬運搬車だった送車ロレーヌ 37Lトラクター(Lorraine 39L AM)ベースにした対戦車自走砲を活用した簡易型の対戦車自走砲である。マーダーII対戦車自走砲(Marder II: Sd.Kfz.132)よりも小型で非力なエンジンだが、ドイツ軍は活用できる鹵獲車も戦力化した。
7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マルダーIは第二次世界大戦期にドイツ陸軍が鹵獲したフランス陸軍の砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lトラクター(Lorraine 39L AM)を活用した簡易型の対戦車自走砲である。
1937年から1940年5月までに、フランスは387輌の砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lを生産したが、1940年6月のフランス降伏で多数がドイツ軍に鹵獲された。そこで、砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lの車体に7.5 cm PaK40対戦車砲を搭載し自走砲とした。
1937年から1940年5月までに、フランスは387輌の砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lを生産したが、1940年6月のフランス降伏で多数がドイツ軍に鹵獲された。そこで、砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lの車体に7.5 cm PaK40対戦車砲を搭載し自走砲としたのである。
7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マルダーI、フランスで鹵獲した弾薬運搬車をベースにした対戦車自走砲。
マーダーII対戦車自走砲(Marder II: Sd.Kfz.132)は、ドイツ軍のII号戦車を流用した自走砲だった。他方、マーダーIII対戦車自走砲(Marder III)は第二次世界大戦期にナチス・ドイツがチェコのシュコダ38(t)戦車をベースに開発した対戦車自走砲である。
Sd Kfz 138 マルダーIII Ausf. Mは、チェコのスコダ社が開発した38(t)戦車を母体とした車体に15cm sIG33重歩兵砲を搭載した自走砲榴弾。しかし、対空戦闘能力はなく、戦車のよう防御用の装甲板もなかったので、敵に発見されないように偽装に注意を払う必要があった。
⇒写真集Album:対戦車自走砲マルダー Iを見る。
9.III号突撃砲 Sturmgeschütze III −最多生産の対戦車用自走砲
3.7センチ砲を装備していたIII号戦車Pz.Kpfw.III(Sd. Kfz. 141)は,1941年後半,ソ連軍T-34に対抗するために,60口径5センチKw.K.39 L/60,その後1942年末から長砲身43口径7.5センチStuK40L/43に換装した。しかし,T-34戦車には,この程度の対戦車戦闘能力では通用しなかったため,生産中止。車体は,対戦車戦可能な突撃砲として1万台も量産された。
歩兵に火力支援する突撃砲は,III号戦車の車台上に,短砲身24口径7.5センチStuK37L/24大口径榴弾砲を搭載。火力は戦車よりも大きかった。1940年のフランス侵攻作戦にも,III?号突撃砲は参加している。
写真(右):2015年8月、セルビア、ベオグラード軍事博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているドイツ軍のIV号突撃砲F型 StuG III Ausf F8:48口径7.5cm戦車砲KwK40搭載。H型以前のIV号戦車は43口径7.5cm戦車砲だったから、若干砲身が長くなり、砲口初速が高速化して、貫通力が強化されている。 Description
English: German WWII assault gun StuG III Ausf. F/8, part of Belgrade Military Museum outer exhibition at Kalemegdan fortres
Date 25 August 2015, 12:31:54
Source Own work
Author Jklamo
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Sturmgeschütz III Ausführung F/8 assault gun in the Belgrade Military Museum・File:StuG III Ausf F8 Belgrade.JPG引用。
突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された
搭載している短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24 は,歩兵への火力支援用だが,戦闘室は密閉されてい,全高が低いために,防御力も高かった。そこで,前線に歩兵などとともに突撃する火砲として,突撃砲と呼ばれた。したがって,歩兵支援を前提としたものだったが,対戦車戦闘能力もあった。
ドイツ国防軍のIII号突撃砲(Sturmgeschütz III:StuG III)は、歩兵への火力支援車両として大型の24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載する突撃砲として、III号戦車の車台を流用して開発された。その後III号戦車が威力不足で前線で使用できなくなる、その車体の大型戦闘室を活かして43口径7.5センチ戦車砲を搭載して、対戦車用の突撃砲としても使用されるようになった。
III号戦車には大きな砲塔を搭載できなかったため、砲塔を撤去して防御された大型戦闘室を設け,そこに7.5センチ砲を装備したのがIII号突撃砲(Sturmgeschütz III)である。このIII号突撃砲は、終戦までドイツ軍の主力突撃砲となり、火力支援だけでなく、対戦車戦闘にも活躍した応急の陸戦兵器だったが、実用性も量産性も高かったために、III号突撃砲(Sturmgeschütz III:StuG III)は終戦までに1万両が生産され、第二次世界大戦中のドイツ軍の装甲戦闘車輛のうちで最多の生産台数を誇っている。
III号戦車G型は、戦争後期に登場し、1942年12月から1945年4月まで7,700輌が生産された。大量生産するために、生産性向上、省資源化にも配慮された。たとえば、ゴム不足のために、本来、衝撃を吸収するゴム縁の小型転輪を、1943年11月から鋼製リムの転輪に変更した。ゴム縁の小型転輪は、1944年9月以降生産されたIII号突撃砲には使用されていない。
III号戦車G型の動力は、マイバッハHL120TRM V型12気筒液冷ガソリンエンジン、最大出力300馬力/3,000rpm、最高速度40km/h(路上)である。
⇒写真集Album:III号突撃砲戦車 Sturmgeschütze III: III号戦車を流用した装甲自走砲
◆ドイツ軍司令官は弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。戦開始の時期には,ドイツ陸軍はIII号戦車,IV戦車を主力として,ソ連軍戦車よりも優れていると考えていた。しかし,戦車の数量は劣っていることが判明していたので,生産コストの高い回転砲塔を持つ戦車ではなく,突撃砲,自走砲(砲戦車)を装備して,戦車を補助あるいは歩兵支援を充実させようとした。
1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。
ドイツのソ連侵攻2ヶ月後の1941年9月1日,ドイツ・ユダヤ人がユダヤの星をつけることについての警察条令が発令。(ドイツ占領地では1940年からユダヤの星をつけさせていた)
ニュルンベルク法が,ユダヤ人を宗教による分別したとの俗説があるが,宗教や国籍ではなく,人種的特長,歴史を踏まえて,祖先がユダヤ人だったことを基準にしている。このような恣意的な区分は,ドイツの敵となりうる人間,潜在的な敵性住民,人種汚染を排除するため定められた。敵を排除し,ドイツ人の種族保全のために,ユダヤ人を排除したのである。
<ヒトラー卓上談話(ヒトラーのテーブル・トーク)> ナチ党官房長官マルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。
1941年12月25日:ヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。ロシアの湿地帯にユダヤ人の奴等を置き去りにはできないなどと言ってくれるな。わが部隊の心配を誰がするというのか。われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。 -----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。現時点でいたずらに問題を増やしても意味はない。時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。」
1942年4月12日:ヒトラー卓上談話:「特にこの(対米戦と独ソ戦という)戦争では,負ければすべてを失うということを明記しなければならない。だからスローガンは唯一“勝利”である。」
1942年5月22日:ヒトラー卓上談話「(東部の)戦場では理想主義者が次々に死んでゆくのに,銃後で犯罪者どもを野放しにしておけば,わが国の人種政策は逆行してしまう。第一次大戦の教訓を忘れてはいけない。私の結論は次の通りだ。兵士は死ぬ可能性がある。犯罪者は確実に死ななければならない。これに選択の余地はない。この原則を受け入れない国家に,理想主義に燃える兵士を戦場で市の危険にさらす権利はない。-----銃後のドイツ国民が劣等人種に成り果てることがないように監視することこそ,私の義務であると心得ている。」
1942年8月30日:ヒトラー卓上談話:「ロシアでは共産主義が本性を現している。我々は1メートルごとに掃討作戦を展開し,即決裁判を行わざるを得なかった。テロリストとの戦いは,過酷な戦いである。エストニアとラトビアでは反抗は収まった。が,ゲリラの情報を担うユダヤ人を殲滅しない限り,我々の責務は完了しない。」ユダヤ人が反ドイツ謀略戦争を仕掛けているので,殲滅すべきだと考えていた。
◆ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺・虐待は,秘匿されてきたが,それは,殺戮を行っていることが知れ渡れば次のような支障が生じるからである。
1)敵は殺害されると知れば,抵抗をやめない。そこで,抵抗を弱めるために,姦計を弄して,処刑した。 2)残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。 3)後方・前線のドイツ人にとって,非人間的な虐殺・虐待は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にも虐殺・虐待を秘匿する必要があった。
◆虐殺・虐待という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。バルバロッサ作戦,スターリングラード攻防戦の背後には,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺の問題があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ませるわけにはいけないであろう。
◆ナチスは,人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきである。他方,人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人,スラブ人は下等人種・劣等民族であり,排除しなければならないとした。
◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,人「種」ではなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。
◆人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われており,似非科学な偏見,恣意的なご都合主義,プロパガンダに基づいている。為政者とは,人種・民族を自分の意図に都合よく定義,特定の人種民族を差別,迫害するものである。
10.IV号駆逐戦車"Jagdpanzer IV Sd. Kfz. 162
写真(右):2006年9月、スイス連邦、ベルン州、トゥーン軍事博物館に保管展示されているドイツ陸軍IV号駆逐戦車("Jagdpanzer IV Sd. Kfz. 162 7,5cm L/48") :トゥーン軍事博物館の野外奥にドイツ軍のIII号突撃砲、V号戦車パンターA型が展示されている。 Description
A Jagdpanzer IV/48 at the Panzermuseum Thun, Switzerland
Date 26 September 2006
Author de: Benutzer: Chlempi
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写真はWikimedia Commons・Category: Jagdpanzer IV at the Panzermuseum Thun・Jagdpanzer IV 48 Thun 1.jpg引用。
⇒IV号駆逐戦車 Jagdpanzer IV 48 : IV号戦車を流用した駆逐戦車
11.VI号駆逐戦車"Jagdpanzer IV Sd. Kfz. 173
写真(右)2010年7月、ドイツ連邦、ニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のV号ヤークトパンタ−駆逐戦車Jagdpanther (SdKfz 173):ヤークトパンタ−駆逐戦車は、パンター戦車のシャーシを利用して、砲塔を撤去したパンテル戦車に巨大な戦闘室を設けて71口径8.8センチ戦車砲を搭載した。手前に砲弾が展示されている。Jagdpanther at the Panzermuseum Munster 解説
Deutsch: Deutsches Panzermuseum Munster in Munster (Örtze)
English: German Tank Museum
日付 2010年7月7日
原典 投稿者自身による作品
作者 Banznerfahrer 撮影。 写真はWikimedia CommonsFile:Panzermuseum Munster 2010 0433.JPG引用。
⇒ヤークトパンタ−駆逐戦車Jagdpanther (SdKfz 173): VI号パンター戦車を流用した駆逐戦車
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。 そこでは、ポーランド侵攻、ゲットー設置、ホロコースト、レジスタンス弾圧、東方生存圏、ソ連侵攻バルバロッサ作戦も解説しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics ⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏 ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ ⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車 ⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車 ⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車 ⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank ⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
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⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒アンネの日記とユダヤ人 ⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇 ⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機 ⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
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