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◆ドイツのハインケル(Heinkel)He111輸送機/爆撃機初期型
写真(上)1935年頃,ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機試作17号機V-17:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・爆撃機として開発された。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935028 - Catalog:16_005214 - Title:
Heinkel He 111V-17 Nowarra photo - Filename:16_005214.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005214引用。


写真(上)1936年、ドイツ、ベルリン、テンペルホーフ飛行場、ルフトハンザ航空のハインケルHe111旅客輸送機:左は、イタリア航空(ALA LITTORIA)が1935年から1943年までに購入した8機のユンカースJu-52輸送機の1機で、ミラノ=ミュンヘン間のアルプス越え輸送に必要な除氷装置を装備。後期に購入された3機のJu-52はBMW 132 Aエンジンをイタリア製ピアジオXRエンジン700hpに換装している。また、1940年購入の3機のJu-52は、アルファロメオ126-RC.34エンジン750 hpを装備した、1943年9月、ドイツはイタリアが使用していた4機のJu-52を鹵獲した。ハインケル輸送機は機首段ありのタイプだが、爆撃型では機首段をなくし大型ガラス風防を採用した。空気取入れ口が正面右ならダイムラーベンツDB601液冷エンジン、左ならとユモJumo211液冷エンジンの搭載機である。
Magyar: Tempelhof repülőtér. Location: Germany, Berlin Tags: Junkers-brand, airplane, airport, transport, Gerrman brand, insignia Title: Tempelhof repülőtér. Date 1936 Source http://www.fortepan.hu/_photo/download/fortepan_26084.jpg Author FOTO:Fortepan — ID 17410: Home pagePictureInformation page Adományozó/Donor: Lőrincze Judit .
写真はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 111 File:Tempelhof repülőtér. Fortepan 17410.jpg引用。


写真(上)1944年、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel) He 111輸送機BFS 34 Schwerin
Deutsch: He 111 CE-NX 38 im Verbandsflug mit He 111 CE-NY 28, Blindflugausbildungsflugzeuge der BFS 34 Schwerin- Görries 1944 Date 16 November 2013 Source Own work Author 16Exul82
写真は,Wikimedia Commons, Category:Heinkel He 111, File:He 111 CE-NY 28.jpg引用。

ハインケルHe111 ◆スペイン内戦から第二次大戦を経て、戦後の植民地独立戦争にまで投入されたドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He-111は、旅客機としての活躍は僅でしたが、爆撃機としては、1936年のスパイン内乱にも投入され、第一次大戦初頭のポーランド侵攻、フランス占領から、バトルオブブリテン、ソ連侵攻にも大量に投入された主要爆撃機で、飛行性能は同時代に活躍したユンカースJu-88爆撃機よりも低かったが、信頼性があり、輸送任務にも就くことができたために、第二次大戦末期まで、ドイツ空軍で利用され続けた。このハインケル(Heinkel)He-111について、既存の写真をもとに解説します。
◆鳥飼研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではだけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しているものが大半です。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、徴兵復活、軍備強化、独裁政権獲得という本音のようだ。


1.戦前の民間航空ハインケルHe-111輸送機 

ドイツ航空省は、1934年、見るからに精悍なHe 70(Heinkel He 70 "Blitz")単発高速輸送機を完成させていたハインケル社に爆弾搭載量1,000kg、航続距離1,000km、最大速度350km/hの性能の爆家機を密かに発注した。当時のドイツは、ナチ党ヒトラー政権の下にあったが、1929年6月のヴェルサイユ条約の軍事制限条項の下にあり、空軍の保有はできなかったのである。しかし、ハインケル社のジークフリート・ギュンターとヴァルター・ギュンターの兄弟は、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士は、1888年、ドイツ南部、シュトゥットガルト生まれ、第一次大戦で飛行機設計に加わった。戦後の1922年に、北ドイツのヴァーネミュンデにハインケル飛行機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立した。の指導の下で、He 70の設計思想をもとに、He 111試作機にBMW VI.液冷エンジン(660馬力)2基を装備し、最高速力348km/hの当時としては高速の爆撃機を飛行させた。

写真(右)1933年6月23日、ハインケル(Heinkel)He111輸送機/爆撃機の前段階といえるハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(電撃)高速輸送機(D-3)の原型:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。
Photographer: Wild, H.
Title: Heinkel He 70 Verkehrsflugzeug D-3 (367 Std.-Km.)
Caption: Flugzeug, Tiefdecker, Immatrikulation D-3, Lufthansa Emblem auf Seitensteuer, Flugplatz Dübendorf. Der zweite Prototyp der He 70, die He 70b, war die Mustermaschine für die Lufthansa und flog unter dem Kennzeichen D-3. Sie hatte zwei Mann Besatzung und Platz für vier Passagiere. Das Einziehfahrwerk hatte Klappen, welche den Fahrwerksschacht im Flug verschlossen. Als Antrieb kam ein flüssigkeitsgekühlter BMW VI 6,0 Z mit 637 PS Startleistung zum Einsatz.
Dating: 23.6.1933
Impressum: Oerlikon-Zürich : Photo & Verlag H. Wild Photography : paper print
Orientation: Horizontal Format: 9 x 14 cm
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: Ans_05035-492 引用。


ハインケル He 70の諸元
全長:11.70 m、全幅:14.78 m、全高:3.10 m
翼面積:36.50 平方メートル
空虚重量:2,300 kg、運用重量:3,420 kg
プロペラ:金属製2翅
発動機:BMW VI 7.3 z 液冷V型12気筒液冷エンジン 750馬力1基
最大速度:360 km/h
上昇限度:6000 m
航続距離:1400〜1820 km

ハインケル(Heinkel)He 111 A-0は、He 111試作3号機V3を原型に、He 70同様の楕円曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・爆撃機として開発された。発動機は、BMW VI 12気筒液冷エンジン600馬力2基で、 プロペラは、エンジン出力の低さを反映して2翅だった。このHe 111 A-0は、ドイツのレヒリンRechlin)で実用試験が行われたものの、最高速力は308km/hにしかならず、飛行性能の低さのために、ドイツ空軍は制式しなかった。そこで、生産されたHe111A-0爆撃機は、当時、ドイツの軍事顧問団を招聘していた中華民国に売却された。

写真(右)1935年、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機V-1試作1号(D-ADUM):楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・爆撃機として開発された。プロペラは、エンジン出力の低さを反映して2翅で、後に3翅となった。
楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかり、工作の簡易化には逆行した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46168960 - Catalog:16_007374 - Title:He 111V-1 Peter Bowers Collection - Filename:16_007374.TIF
Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005215 引用。


He-111 V-1試作機
1919年ヴェルサイユ条約のドイツ軍備制限条項の下で1929年6月から爆撃機として密かに開発されたのがHe111 V-1試作1号機で、1935年2月24日、ドイツ再軍備宣言(1935年3月16日)の23週間前に初飛行した。
 乗員員(Crew): 5名
発動機(Engine): BMW VI 6.0Z 液冷12気筒エンジン(600 馬力)
全長(Length): 16.40 m | 全幅(Width): 22.60 m | 全高(Height): 4 m
最高速力(Max. Speed): 310 km/h

写真(右)1935-1936年、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111輸送機A型V-4試作4号(製造番号 W.Nr. 1968、登録コード D-AHAO):プロペラは、2翅から3翅となった。
楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかり、工作の簡易化には逆行した。
Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081302 Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081302引用。


1935年末に,ハインケル(Heinkel)He 111輸送機試作2号機V2と試作4号機V4が製造され、民間登録コードのD-ALIX, D-ALESおよびD-AHAOが与えられた。これが、He 111 A-1輸送機の初めての試作機で、1936年1月10日に完成した。当時は、世界最速の高速輸送機とされ、最高速力は時速402 km/h (250 mph)以上を発揮した。

写真(右)1935-1936年、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111爆撃機A-0型:装備している発動機は、BMW VI "upright" 液冷倒立V12気筒エンジン(650馬力)2基で、3翅プロペラ、楕円主翼の曲線構造、流線型の胴体。機首のガラス窓は、爆撃手の視界を確保するためのものである。登録コードや国籍マークも記入されていない。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46168947 - Catalog:16_007373 - Title:He 111A-0 Nowarra Collection - Filename:16_007373.TIF
Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081302引用。


設計は、1,000 馬力ダイムラー・ベンツ DB 600液冷倒立V12気筒エンジン2基を装備したが、これはメッサーシュミット(Messerschitt)Bf 109戦闘機の試作10号機から13号機が搭載したのと同じエンジンである。ハインケル社は、戦闘機用のダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジンをHe111に装備することは認められず、より非力な 650馬力BMW VI "upright"液冷倒立V12気筒エンジンを装備することを強いられた。民間輸送機よりも戦闘機に優秀なエンジンを優先して搭載するのは、ドイツ再軍備(German Rearmament)・空軍の創設を進めたヒトラーとしては当然の帰結だった。

写真(右)1935年9月8日、フィンランド南西、ヘルシンキ西150km、トゥルク、ドイツ・ルフトハンザ(Lufthansa)航空のハインケル(Heinkel)He111輸送機C型「ロストック」"Rostock" (W.Nr. 715:D-ALIX):原型はHe-111旅客機試作2号機V-2で、Rostock"として1936年1月に 初飛行したともいわれる。民間輸送機として使用されたが、1937年3月12日、ガンビアのバンジュール(Banjul)に着陸する前に事故で喪失,搭乗員4名死亡。
Lufthansa -lentoyhtiän Heinkel Turun lentoaseman avajaisissa Heinkel He 111 D-ALIX Artukaisten avajaisissa 8/9.1935.
Aineistotyyppi ?Valokuva Organisaatio Suomen Ilmailumuseo Kokoelma Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar Inventaarionro SIM VK 533:329 Mitat Vedos Kuvaustiedot: 1935-09-08 Foto Turku
写真はMuseot Finna・sa-kuva-18864引用。

写真(右)1935年以降、スイス北部、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)、ハインケル(Heinkel)He111輸送機C型:ハインケルHe111輸送機は、ドイツ・ルフトハンザ航空の新鋭高速輸送機として、乗客10名を乗せた旅客輸送に使用された。
Photographer: Swissair
Dating: nach 1935
Title: Heinkel He 111 C der Deutschen Lufthansa am Boden in Dübendorf
Dating: nach 1935 Physical Description: Photography : nitrate-negative Format: 6 x 6 cm
Categories: Reportage photography, Dübendorf, 1931-1940, Aerodrome Dübendorf, Propeller-driven aircraft, Swissair, Lufthansa (DLH), Swissair Archive
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: LBS_SR01-00070 引用。


ハインケルHe-111C ハインケル社は、ドイツ航空省Reichsluftfahrtministerium:RLM)の密命を受けて、ハインケルHe70の技術を活用して大型高速爆撃機の開発を始めた。ベルサイユ条約の軍事制限条項を掻い潜るために、開発の名目は高速旅客機とされた。

ハインケル(Heinkel)He111高速輸送機の初飛行は、1935年2月24日で、この時期は1933年1月末からナチ党アドルフヒトラーのドイツの時代である。その期間を通じて、ハインケル(Heinkel)He111は、1935年から1944年まで総数6,508機が量産されたが、これはユンカースJu88の生産数1万5000機の半数とはいえ、ドイツ空軍の爆撃機としては2番目に多い生産数である。また、スペイン空軍で採用されたハインケル(Heinkel)He111爆撃機は、CASA(Construcciones Aeronáuticas S.A.)2.111の名称で、1958年まで実用に供され続けたている。

ハインケルHe111は、1935年2月に試作1号機が初飛行した。この試作機は、民間輸送機としてドイツ・ルフトハンザ航空に採用された。こうして、民間輸送機としてHe111は採用され、量産されることになったため、ハインケル社は、この民間機He111をベースにして、ドイツ再軍備(German Rearmament)によって創設されたドイツ空軍のために爆撃機の開発を進めた。

写真(右)1939年、スイス北部(?)、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)、ハインケル(Heinkel)He111高速輸送機C型の機首:荷物を入れる貨物室になっているが、航空郵便のようなパッケージの積み下ろしをしている。手すり付き金属製移動式階段など機首の倉庫にアクセスする専用機材が準備されている。
Photographer: Swissair
Title: Bugfrachtraum der Heinkel He 111 C (Schnellverkehrs-flugzeug)
Dating: nach 1939
Physical Description: Photography : nitrate-negative Format: 6 x 6 cm
Categories: Nose, Reportage photography, 1931-1940, Cargo and luggage compartment, Freigth and baggage services, Propeller-driven aircraft, Lufthansa (DLH), Swissair, Swissair Archive
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: LBS_SR01-00038 引用。


写真(右)1935-1939年、スイス北部、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ空港、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)、ハインケル(Heinkel)He111輸送機C型の前で記念撮影をする紳士:機首先端が開いているが、ここに荷物を格納することができる。車輪止め、移動式階段、充電車(?)など飛行機整備のための専用機材が準備されている。
Photographer: Swissair
Title: Unbekannte Person vor Heinkel He 111C der Deutschen Lufthansa in Dübendorf
Caption: Schnellverkehrs-flugzeug für 10 Passagiere
Dating: 1935-1948
Physical Description: Photography : nitrate-negative Format: 6 x 6 cm
Categories: 1941-1950, Entry + Exit, Dübendorf, Aerodrome Dübendorf, 1931-1940, Propellers, Men, Propeller-driven aircraft, Lufthansa (DLH), Swissair, Swissair Archive
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: LBS_SR01-00069 引用。


写真(右)1935年頃、スイス北部、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ風光空港ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)、ハインケル(Heinkel)He111輸送機C型(登録コード:D-AQYF)のタラップ(移動式昇降階段)で乗客夫妻の記念写真:手すり付き金属製移動式階段など飛行機乗客のための専用機材が準備されている。
Photographer: Swissair
Title: Passagiere vor dem Einstieg in die Heinkel He 111C Leipzig in Dübendorf
Caption: Einstieg hinter der rechten Flügel-Hinterkante
Dating: ca. 1935
Physical Description: Photography : nitrate-negative Format: 6 x 6 cm
Categories: 1941-1950, Entry + Exit, Dübendorf, Aerodrome Dübendorf, 1931-1940, Propellers, Men, Propeller-driven aircraft, Lufthansa (DLH), Swissair, Swissair Archive
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: LBS_SR01-00073引用。


写真(右)1935年以降、スイス北部、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)、ハインケル(Heinkel)He111輸送機C型(登録コード:D-AQYF)のタラップ(移動式昇降階段)で乗客夫妻の記念写真:手すり付き金属製移動式階段など飛行機乗客のための専用機材が準備されている。
Photographer: Swissair
Title: Passagiereinstieg in die Heinkel He 111 C, D-AQYF der DLH
Dating: nach 1935
Physical Description: Photography : nitrate-negative Format: 6 x 6 cm
Categories: 1941-1950, Entry + Exit, Dübendorf, Aerodrome Dübendorf, 1931-1940, Propellers, Men, Propeller-driven aircraft, Lufthansa (DLH), Swissair, Swissair Archive
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: LBS_SR01-00113 引用。


ヒトラーの再軍備宣言
?義務兵役制を復活:兵力36個師団,50万人を動員
?軍事組織の名称変更:陸海軍に加えて空軍Luftwaffeを新設し,国軍Reichswehrを伝統的な国防軍Wehrmachtに戻す。国防省を陸軍省(Ministry of War)と変更。陸軍参謀本部の復活。

写真(右)1935年頃、スイス北部、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)、ハインケル(Heinkel)He111輸送機C型(登録コード:D-AQYF)をバックにしたスイス・アルパル航空のオランダ製コールホーフェン F.K.50 (Koolhoven F.K.50) 軽輸送機(左手前)とハンガリーからきたユンカースJu52輸送機(右):コールホーフェンFK50軽輸送機の初飛行は1935年9月18日だが、生産機数は3機のみ。乗員:2 名 乗客:8 名、全長:14.30 m、全幅.:17.70 m、全備重量:4250 kg、発動機: プラット・アンド・ホイットニー R-985空冷星型エンジン(400馬力)2基、最高速力:295 km/h
Photographer: Swissair
Title: Koolhoven FK-50 der Alpar, Junkers Ju-52 aus Ungarn und Heinkel He-111-C der Deutschen Lufthansa (v. u.) am Boden in Dübendorf
Dating: 1932-1948
Physical Description: Photography : nitrate-negative Format: 6 x 6 cm
Categories: 1941-1950, Entry + Exit, Dübendorf, Aerodrome Dübendorf, 1931-1940, Propellers, Men, Propeller-driven aircraft, Lufthansa (DLH), Swissair, Swissair Archive
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: LBS_SR01-00103引用。


写真(右)1937-1938年、日中戦争の最中、ドイツで不採用になり、中華民国に輸出されて使用されたハインケル(Heinkel)He 111 A-0爆撃機:エンジンは、普及していたアメリカのライト R-1820 サイクロン 9(Wright R-1820 Cyclone 9 )空冷9気筒星形エンジン(1000馬力)を装備している。胴体後方に、四角のガラス窓が開いていて、機首もソリッド化していて、爆撃手席がみえないので、中国では爆撃機としてでではなく、輸送機として使用されたようだ。
Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081303
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081303引用。


 ハインケル(Heinkel)He111の軍用爆撃機は、A型として完成したが、爆撃機としての飛行性能が不十分だった。これは、搭載したエンジンの馬力不足のためだった。そこで、He111Aは、中国に民間機として中華民国に売却された。爆撃機として、実用化されたのは、He111Bが初めてである。新生ドイツ空軍の新鋭爆撃機ハインケルHe111爆撃機B型は、新鋭ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジン2基を装備し、1936年に勃発したスペイン内戦に送られ、1937年4月26日、市民への無差別空襲として悪名高いゲルニカ空襲Bombing of Guernica)にも投入された。


2.独逸空軍の復活 (一・中・三)
著者 安達堅造
掲載誌 報知新聞 Vol: 第 36巻 Page: 106 出版年 1935-03-19/1935-03-21
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100346329

写真(右)1931年、イギリス、ハワース空港(Haworth Airport)、ドイツから24時間の空の旅で到着したドイツルフトハンザ航空LZ 127「グラーフ・ツェッペリン」(Graf Zeppelin)と集まっている見物客:1928年9月18日初飛行。全長236.6メートル(776フィート)、体積10万5千立方メートル(370万8040立方フィート)の当時世界最大の巨大飛行船。飛行船の生みの親フェルディナント・フォン・ツェッペリン伯爵に因んで命名で、LZ 126「ロサンゼルス」は姉妹飛行船である。
Zeppelin Call No.: 12_00307 Year: 1931 Corp. Name: Zeppelin Subject: Zeppelin Notes: ""Hanworth, England--the German Graf Zeppelin recently arrived in England and landed a humber of passengers from Germany at Haworth Airport, is seen surrounded by the dense crowd immediately upon her arrival on British soil. Shortly after this picture was taken, the craft, with a new complement of passengers, started on a twenty-four-hour air cruise of Britain."" Description: 8 x 10 Black and White Photo
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


(一) 厳格に失した大戦後の制限



 欧洲大戦中におけるドイツ空軍の活躍は実にめざましきものがあり、なかんずくツェッペリン飛行船[Zeppelin]の英京の襲撃の如き連合国側を戦慄せしめたものが多かったがその飛行機もまた開戦当時の能力は既に仏国側を凌駕して居った、即ち仏国飛行機が時間記録二時間四十五分、高度記録百五十九メートルであったのに対し、秘められて居ったがドイツ飛行機は航続時間二十四時間四十二分、無着陸飛行距離二千七十九キロ、高度八千百五十メートルで既に仏軍を圧倒して居ったのである

 しかるにその結果においては全戦役間に失いたる航空兵員、将校三千二十一名、下士兵三千八百九名、ヴェルサイユ条約により連合国側に提供し若くは廃棄したる航空器材は、発動機二万八千台、飛行機一万四千台、飛行機格納庫百二十万平方メートル、飛行船格納庫五十四であった、一九一九年一月二十一日その空軍は解散をしたのであるが、その際空軍司令官フォン・ホップネル中将は悲痛なる告別の辞をその部下に述べ先ずその部下の偉績を賞揚し、能くドイツ内地の人命と物件とを空中の惨劇より救助せりと感謝し、一敗地に塗るることなく休戦に入りしは国庫はもとより祖国のため感謝すといい、最後に今や吾人は存亡の淵に臨めるもかつて欣然として戦場に赴き、その豪胆と奮闘とにより偉功を顕したる諸士の今や躊躇せずドイツの建設と将来の福祉のため竭さんことを望めりと結んだのであって、ここにドイツ空軍は全く無となったのである

 しかし連合国側は、ドイツ空軍の威力を過度に重視した傾きがあり、その航空の制限は真に厳格なもので、軍用飛行機の製作を禁止すると共に、商用飛行機も、航続距離七百五十キロ、高度二千メートル、速力一時間百七十キロ以下に制限としたのであって、ドイツ空軍の復活などということは、夢にも考えられ得なかったのであった

写真(右)1933年,アメリカ、オハイオ州アクロン(Akron)の飛行船格納庫ハンガーに係留されている、ドイツルフトハンザ航空LZ 127「グラーフ・ツェッペリン」(Graf Zeppelin):フロリダ州マイアミからのハリケーン10万マイルの嵐の中飛んできた。世界一周旅行を行ってどおいつの科学技術を示した。その後、1938年に後継飛行船LZ 137も同じ「グラーフ・ツェッペリン」と命名されたが、戦争危機の時期に突入し、ドイツ国内の飛行だけに使用され1940年に解体された。
Zeppelin Call No.: 12_00294 Year: 1933 Corp. Name: Zeppelin Subject: Zeppelin Notes: ""The huge dirigible Graf Zeppelin is shown tight against the mooring mast in the Good-Year Zeppelin Corporation hangar at Akron, OH., after a 100,000 mile stormy flight from Miami, FL., Oct. 25. The canny German skipper, Dr. Hugo Eckener, who is taking his ship to the Chicago Century of Progress, waited out a wind and rain squall for nine hours before trying to bring down his ship at Akron."" Description: 6 x 8 Black and White Photo
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive引用。




 三月十二日ベルリン発の電報は、ドイツは隠忍ここに十五年、四月一日を期して空軍部隊を整備するに決し、全国を五空軍管区に分ち、別に海軍航空隊を設け現航空相兼国会議長プロシヤ首相ウィルヘルム・ゲーリング[Hermann Göring]大将これを統卒するに決したとのことである

 一昨年筆者が訪独中にはドイツは国際的に航空において同権を持たねばならない、これがため何時制限が解かれても直ちに均等勢力を持つ準備をせねばならないという輿論が沸騰して居ったことを回想しいよいよヴェルサイユ条約第百九十八条を、ロンドン宣言に基く実例の提唱した空軍ロカルノ条約に参加してドイツ空軍復活をするのであるなと思わしめたと同時に嘗つて一九二六年ヴェルサイユ条約の制限が緩和された一週間目にはベルリン、パリ間を仏国のフリールマンと併行して大型飛行機による航空輸送が開始せられ、一ヶ月目にはユンケルスD九九八、九九七の二台の三発動機附旅客機が西伯利経由で北平に大飛行したことを思い出し、今まで皆無であった軍用機が四月中旬を待たず飛ぶのではなかろうかと考え世人否英仏人をして眼を丸からしむることではなかろうかと推測されるのである

(中) 努力は酬られて航空輸送は発展

 この航空皆無の状態から更生のため擡頭したのが、エロロイド及びユンケルス航空輸送会社であって、一九二一年には、ドイツの主要都市は定期航空網に包含せられ、ユンケルス、ドルニェー、ロールバッハ、アルバトロス、ウデット、フォッケウルフ[Focke-Wulf-Flugzeugbau AG]等々航空機製造会社はマルク暴落、経営困難の内に着々として優良な飛行機並びに発動機を製出し、その販路を広く海外に求めて経済上のコントロールを取り、千九百二十六年一月十八日には、国内航空輸送会社をドイツルフトハンザ航空輸送会社[Deutsche Lufhansa AG]に統一しその株式は国と州とで分担しなお各都市と銀行とが幾分々担した、しかして政府は先ず株主に対し株金に対する最低銀行利子程度の補助を与え、飛行場は大体市営とし、または政府が株金を持ち航空港株式会社を創立して、輸送と飛行場とを別個のものとしたのである

 一九二二年八月一日に航空法令を発布し、一九三〇年七月十九日改訂をした
 航空発達促進指導機関として航空委員会を創設し三十六名の委員を嘱託したのであるが、その資格は、実際航空に造詣深き人々を選択したのであって、高位高官名士の羅列でないことが特色であると共に、ドイツ航空発達の淵源をなしたのである、しかしてその委員会の航空発達に関する方針は次の通りであった

1、ドイツ内地の航空を発達せしむ
2、外国線と連絡せしめる
3、欧洲以外の海上交通を発達せしめる

 旅客と貨物とを同一飛行機に搭載することはいちじるしくその命数を短縮するから旅客の込み合う昼間は旅客を輸送し、貨物は主として夜間に輸送するようにする、これがため政府において空中灯台不時着陸場の準備をする、これ等に対し絶対に素人の容かいを許さない

 一九二七年十月一日以降は飛行機の乗客の貨物は鉄道が無償で送り得ることとなり、また飛行機の旅客が乗遅れた時は、その切符で鉄道に乗ることが出来るように便宜を計った

 かくの如くして航空輸送事業には、その所管の如何を問わず協調したことが、次の如き好成績を挙げるに至ったゆえんである [図表あり 省略]

 旅客、貨物の減少は不景気による
 操縦士は米国のように若人を使用しない
 体験者を使用し、パーツル氏の如きはアルプス山上を百回以上も飛越し、百万キロ以上飛行の操縦士は五十名以上に達して居る、

従って事故は
一九二六年 四二六、五五〇粁に付一回
 二九年 一、五〇〇、〇〇〇粁に付一回
 三一年 二、八九〇、〇〇〇粁に付一回

写真(右)1927年12月以前,未舗装滑走路上のスウェーデン空軍のユンカース(Junkers) S.36 偵察爆撃機:機首には銃座がなく、機首ガラス窓もついていないが、胴体後方には、飛行服・革製日飛行帽を被った搭乗員3名が手を挙げて合図をしている。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機K.37が開発された。1927年9月5日に初飛行したが、試作2機で終わっている。全長 37 ft 5 in (11.40 m)、全幅 65 ft 9 in (20.05 m)、全高 15 ft 1 in (4.60 m)、主翼面積 583 sq ft (54.2 m2)、空虚重量 5,720 lb (2,600 kg)、総重量 9,900 lb (4,500 kg)。発動機はジーメンス(Siemens)製のブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter) VI空冷星形9気筒エンジン590 hp (440 kW)2基搭載。最高速力224 km/h,、航続距離850 km、実用上昇限度7,000 m。兵装は、 7.7 mm旋回機関銃3丁、爆弾搭載量500 kg。1927年9月5日に初飛行したが、S.36とK.37と合わせて試作2機で終わっているが、機体の改修が繰り返されていたようだ。
Junkers K 30[→S 36] Junkers Flugzeugwerken vuosina 1925-1927 valmistama Junkers K 30 -pommikone.
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Suomen Ilmailumuseo
Kokoelma Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar
Tunniste SIM VK 533:148
Mitat Vedos
Valmistus 1924-1929 IFA
写真は,Finna Fl・SIM VK 533:148引用。


 この間エッケナー博士の飛行船グラーフ・ツェッペリンは、偉大なる安全性を以て次の如き大飛行を行い、現在においてはドイツ・フリードリッヒスハーフェン—南米ブエノス・アイレス間の定期航空を実行している

一九二九年 世界一周

 三〇年 南米
 三一年 北極
 三二年 南洋
 三三年 南米

 エッケナー博士は英米における飛行船の惨事の原因は余これを知らず、飛行船は安全なり、ただし運航に最大の努力を要すといって居る

 かくの如くしてドイツの非軍事航空なかんずく航空運送は発展しつつあるのである(写真はユンケルスJ一六〇型) [記事画像に該当写真なし]

写真(右)1934年-1939年,ドイツ、ドイツルフトハンザ航空ユンカース(Heinkel)Ju 160V-1 輸送機試作1号機(W. Nr. 4202):1934年1月30日、乗員: 2 定員: 6 全長: 12.0 m (39 ft 4+1⁄2) 全高: 4.0 m[5] (13 ft in) 翼幅: 14.32 m(46 ft 113⁄4 in) 翼面積: 34.8 m2 (375 ft2) 空虚重量: 2,320 kg (5,114 lb) 運用時重量: 3,450 kg (7,606 lb) 有効搭載量: kg (lb) 最大離陸重量: kg (lb) 動力: BMW 132A 空冷 星型エンジン、490 kW (657 hp) × 1 最高速力: 340 km/h (184 kt) 211 mph 巡航速力: 315 km/h (170 kt) 196 mph 航続距離: 1,200 km(高度1,900 m)[5] 745 mi(高度6,200 ft) 実用上昇限度: m (ft) 巡航高度: 5,200 m 生産数:47機。
https://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/7585491294/in/photolist-cyiChE-cyiChC#:~:text=Junkers%2C%20Ju.160,Tags%3A%20Junkers%2C%20Ju.160
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


(三) 今後の活動は興味の中心



 現在におけるドイツ航空工業は全金属製飛行機とディーゼル発動機の完成によって列強に比して毫も遜色なく、その航空軍備に関しては推測することを差控えるが十二分の研究がせられて居ることであろう

 一九三三年四月十八日には航空省が新設せられその部局中に軍事航空を管掌するものもあるようである、一方ルフトハンザの航空輸送に対し、国内の全航空スポートを糾合してドイツ航空スポート連盟があり、政府の任命する首脳幹部指導下に置かれて居り、ナチス隷下の航空突撃隊もあって、何れも合理的の精錬が行われ三千二百以上の操縦士は現存し且つ在郷者の復習教育が厳格に行われて居り、航空警察の如きは、真に吾人の目撃する所によれば航空其連隊たるの素質を完備して居る

写真(右)1937年10月、イタリア北部、ミラノ、国際航空祭におけるドイツのユンカース(Junkers)Ju86 K 爆撃機(輸出仕様)(登録コード:D-ADAA)の販売用展示:ユンカース(Junkers)Ju86 K 爆撃機は輸出仕様である。そのため、諸外国でも普及していおり、整備も容易なアメリカ製プラット&ホイットニー R-1690 ホーネット(Pratt & Whitney R-1690 Hornet)S1E-G空冷星型9気筒エンジン(排気量27.7L)760 hpあるいはイギリス製ブリストル マーキュリー(Bristol Mercury)空冷9気筒エンジン (排気量25 L) 745 hp など外国製の空冷星型ガソリンエンジンを装備している。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Fotografico Crimella Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
写真は, Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 引用。




一昨年滞独中に見聞したことを以て結論とするのが、この場合最も当を得て居ることと信ずるのであるが、文明が如何に発達し、外国との友誼を保とうとしても、空備なくしてハラハラして居っては仕方がない、何時でも外国から進襲を受けるような状態では、友誼の保ちようがないではないか、空中権は外国と均等でなければならない、国境が守れないようでは善隣などいうことは架空の虚論である

 カイゼルはドイツの将来は海にありといわれたが、現在はドイツの将来は空にありである、ギリシアの神話に、鳳は一度年老ゆれば太陽まで飛んで行き燃えて陥落をし、陥落した灰からまた新しい鳳が生れる、しかしてこの鳳は天下にただ一羽のみ存するのであるということがある、ドイツは今や新希望に燃え立って居る、何だか再度の復興をするような感がある、鳳のように圧迫せられ手足をもぎ取られ、死んだかと思うと鳳のように更生して飛上るのではなかろうか、人間は古来飛ぶことを理想としているから、ドイツ人も地から離れて飛ぶ事は欣快に堪えない云々

その希望、その意気、他山の石以て我鑑となすべきであるが、さて果して如何なる程度まで復活するかは、逆睹することは出来ないが、昔は昔、今は今、友誼を保たんとせば空備を必要とするとの論説を玩味し、友邦のためにその成功をこいねがうのである(終)(写真はヒンデンブルグ号[ Zeppelin LZ 129 „Hindenburg“ ])(独逸空軍の復活 (一・中・三)引用終わり)


3.戦前のハインケルHe-111爆撃機の試作機・初期型 

写真(右)1935年、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111 J-1爆撃機V-18試作18号(D-ADUM):楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・爆撃機として開発された。:ハインケルHe 111 V-18 (D-ADUM)は、魚雷攻撃をする雷撃機(Torpedobomber)として開発され、ドイツ空軍(Luftwaffe)は 90機を発注した。K.Gr. 806に配属され、特殊部隊として J-1 の形式を与えられた。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかり、工作の簡易化には逆行した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935041 - Catalog:16_005215 - Title:Heinkel He 111V-18 Nowarra photo - Filename:16_005215. TIF
Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005215 引用。


1919年のヴェルサイユ条約Treaty of Versailles)の軍備制限条項のために、敗戦後のドイツは、軍用機の開発・保有が禁止されたが、輸送やスポーツを目的とした民間機で、軍用機に転換できないのであれば、開発・保有も可能だった。そこで、ドイツでは民間機の開発が、ユンカース、ハインケル、ドルニエDornier)など有力な航空機メーカーの下で行われた。しかし、1933年1月にドイツの政権を握ったナチ党は、アドルフ・ヒトラーの独裁体制を確立し、軍事力を今まで以上に強化しようと、密かに画策していた。ナチ党政権樹立前から、外国における兵器開発や軍事訓練は行われていたが、ナチ党ヒトラーも下では、この軍事化の動きが強力に推進されたのである。

写真(右)1935年、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機V-23試作23号(D-ACBH):ハインケルHe 111V-23(D-ADUM)は、試作最終機体で、軍用型に発展する。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935056 - Catalog:16_005216 - Title:Heinkel He 111V-23 Pete Bowers photo - Filename:16_005216. TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005216 引用。


 ハインケルの開発したHe 111輸送機も、高速民間旅客輸送機として登場し、He-111Cが生産されたが、これは単発機のハインケルHe-70高速郵便輸送機と同様、楕円翼の全金属製、引き込み客の機体で、軍用機に転用することも視野に入れていた。

He111試作1号機V1(製造No.713) が初飛行したのは、1935年2月24日で、 発動機のBMW VI液冷12気筒エンジン(650馬力)が出力不足で低速だったものの、飛行特性、離着陸性能はよかった。1935年に2機の試作機V2V1(製造No.715)とV4は、民間機として登録コードD-ALIX,(D-ALES)と D-AHAOを与えられた。

写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機:主翼両端と胴体後方に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。他方、4桁の登録コードは記されていない。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪も小さいものがついている。
SDASM Archives Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081301
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany
写真は,SDASM Archives, Catalog: 01_00081301引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機試作6号機V-6(登録コードD-AXOH):ユモJumoJ200液冷エンジン(700馬力)2基を装備。主翼両端と胴体後方に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪も非常に小さいものがついている。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:43935015 - Catalog:16_005213 - Title:Heinkel He 111V-6 Nowarra photo - Filename:16_005213.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog: 16_005213引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機の機首下面のハッチから出ようとする乗員:大柄のドイツ空軍搭乗員にとって、小型の機首から小さなハッチを使って出入りするのは楽ではない。主翼両端と胴体後方に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。他方、4桁の登録コードは記されていない。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪も非常に小さいものがついている。
SDASM Archives Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081282
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog: 01_00081282引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、沿岸部を飛行するドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機:胴体後上方に機銃座が備えられている。主翼両端と胴体後方に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。他方、4桁の登録コードは記されていない。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪は若干大きくなった。
SDASM Archives Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081297
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081297引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、草地の滑走路に待機するドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機:ガラス風防で囲まれた機首の先端には、7.92ミリMG17旋回機関銃1丁が備えられている。手前には、エンジンナセル下面に収納されるゴムタイヤ付き降着装置が見えている。頑丈な構造で、過重量の場合でも安定した離着陸が期待できるので、ハインケルHe 117 は信頼されていた。遠方にもHe111爆撃機が見えるが、尾翼にはナチ党卍十字スワスチカをドイツの国章として描いている。胴体下面のゴンドラはないが、機首下面には、爆撃照準器のカバーが突出している。
SDASM Archives Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081281
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081281引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、駐機・燃料補給中のドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機E型(?)の機首と銃座:主翼上では、地上整備員が主翼付け根の燃料タンクに給油している。迷彩塗装を施しており、機首には、7.92ミリMG17旋回機関銃1丁が備え付けられている。
Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081299
Title: Heinkel, He 111
Corporation Name: Heinkel
Additional Information: Germany
Designation: He 111 Tags: Heinkel, He 111
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081299引用。


ドイツ空軍は、高速双発輸送機として開発したハインケルHe111を、当初から爆撃機として用いることを計画していた。1935年にHe-111の原型He111aが完成した時、装備した発動機の出力と信頼性の不足から、爆撃機型He111Aは、満足のいくものではなかった。そこで、エンジンの出力を強化して、1,000馬力級の液冷エンジンを搭載するHe111B型が生産され、実戦部隊に配備されることのいなった。

 当初のハインケルHe-111は、操縦席の風防の前に機首が突出する一般的な形状だったが、コックピットの容積を大きくして、空気抵抗も減少させるために、機首とコックピットを一体化した構造に改められた。この操縦席と機首の一体化は、He-111P型からである。

とハインケルHe-111の発動機は、P型では高性能のダイムラーベンツDB601が搭載されていたが、DB601はドイツ空軍の主力戦闘機Bf-109にも装備されていたために、爆撃機のハインケルHe-111では、弱冠性能が落ち重量も重いユモJumo210液冷エンジンを搭載することになった。これが、He-111H型である。He-111は、1944年までに6,900機が生産された。

ハインケルは高速爆撃機として、防御用の火器ではなく、高速を利用して、迎撃してくる戦闘機に接近させないことを重視していた。しかし、戦闘機の援護を受けない爆撃機の昼間爆撃作戦は、第二次大戦の初頭から無謀な試みだった。


4.スペイン市民戦争のコンドル軍団ハインケルHe-111爆撃機 

 ドイツ再軍備(German Rearmament)によって、表立った活動を始めたドイツ国防軍だったが、初めての実戦投入は、翌1937年のスペイン内戦(Spanish Civil War)の時に訪れた。

写真(右)1937年、スペイン、スペイン内戦に投入されたドイツのコンドル軍団所属のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機B-0:ドイツ空軍が採用したハインケルHe111の初期爆撃機原型。DB600Aエンジン(1,000hp)装備。コンドル軍団(Legion Condor)の識別指標は、×十字だった。主翼両端に黒丸に白×十字、垂直尾翼には白地に黒×、胴体に黒丸を描いている。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935084 - Catalog:16_005218 - Title:Heinkel He 111B-0 Nowarra photo - Filename:16_005218.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005218引用。


1936年7月18日、スペイン共和国政府に対する軍の反乱がおこり、スペイン市民戦争(Spanish Civil War)が始まった。反乱軍は、自らを国民戦線と名乗り、共和国政府を共産主義・ボリシェビキと見なして、打倒しようとした。しかし、共和国政府側につく軍人もあり、西欧民主主義諸国(英仏アメリカ)からは義勇軍が、ソ連からは赤軍が共和国政府を軍事支援した。

 他方、フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍の率いるスペイン反乱軍は、ドイツ・イタリアのファシスト軍の支援を求めた。そこで、ヒトラーは、即座にJu-52輸送機を派遣して、北アフリカ・スペイン領モロッコから反乱軍をスペイン本土に空輸させた。そして、ドイツ・コンドル軍団(Legion Condor)を編成して、空軍兵力を中心に軍を「義勇軍」として派兵した。コンドル軍団の識別指標は、×十字だった。これを主翼両端には黒丸に白×十字、垂直尾翼には白地に黒×十字を描いている。

写真(右)1937年、スペイン、スペイン内戦に投入されたドイツのコンドル軍団所属のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機B-1:爆撃型の量産型で、ダイムラーベンツDB600液冷エンジンを装備し、爆弾搭載量1.5トン。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935071 - Catalog:16_005217 - Title:Heinkel He 111B-1 in Spain 1937 Nowarra photo - Filename:16_005217. TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005217引用。


軍用型としてハインケルHe 111Aが開発されたが、当初は搭載したエンジン出力不足から、性能は低かった。しかし、ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジン液冷倒立12気筒エンジン2基を装備したB型は、最高速力400?/hと高性能を発揮し、高速機として認められるようになった。

写真(右)1937年、スペイン、カタロニア(?)、スペイン内戦に投入されたドイツのコンドル軍団第88爆撃部隊(K88)所属のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機B-1(25+92)が250キロ爆弾を投下:胴体下面には、ごみ箱状の後下方銃座(C銃座)があり7.92ミリMG15旋回機銃が装備されている。コンドル軍団(Legion Condor)の識別指標は、×十字である。主翼両端には黒丸に白×十字、垂直尾翼には、白地に黒×十字を、胴体には黒丸を描いている。また垂直尾翼にはコンドルのエンブレムが描かれている。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 43935124 - Catalog:16_005221 - Title:Heinkel He 111E-1 Nowarra photo - Filename:16_005221. TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005221引用。


 スペイン市民戦争(Spanish Civil War)に際して、反乱軍フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)の国民戦線を支援したドイツ・コンドル軍団(Legion Condor)は、戦闘機・爆撃機・偵察機・輸送機を揃えた航空軍を持っていた。これは、実際にはドイツ空軍部隊であるが、建前ではボランティア志願兵から成る「義勇軍」とされた。国民戦線・コンドル軍団の飛行機の国籍・部隊識別マークは、×の十字で、胴体には黒丸を、垂直尾翼には、白地に黒の×だった。主翼両端の国籍マークは、黒丸に白×十字を描いている。

写真(右)1939年、スペイン内戦時、迷彩塗装のドイツ空軍コンドル軍団"Legion Condor"ハインケル(Heinkel) He 111E輸送機:発動機はユモJumo210液冷エンジン2基。
Original historic description: Zentralbild "Legion Condor" in Spanien Faschistische deutsche Interventionstruppen unterstützen den Francoputsch 1936 - 1939 gegen die demokratische Republik Spanien. UBz.: Auf dem Flugplatz Levida. Beim Einhängen der Bomben. C 0214/07/13 N Date 1939 Source Deutsches Bundesarchiv (German Federal Archive), Bild 183-C0214-0007-013
写真は,Wikimedia Commons, Category:Heinkel He 111, File:Bundesarchiv Bild 101I-401-0244-28, Flugzeug Heinkel He 111.jpg引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機:主翼両端に、ドイツの国籍識別マークとして小さな黒の鉄十字と、大きく登録コードD-AYFOが描かれている。この機体は、絵葉書としても別の角度から飛行中の姿が撮影されている。戦時中は、より大きな鉄十字となり、登録コードは、より小さくなった。胴体下面のゴンドラは、まだ設けていない。
Ray Wagner Collection Image Ray Wagner Collection Image PictionID:43935098 - Catalog:16_005219 - Title:Heinkel He 111D Pete Bowers photo - Filename:16_005219.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005219引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機D-0型:1933年のナチ党政権獲得後、赤地に白丸、その中にナチ党の逆卍スワスチカを垂直尾翼に描いている。胴体後上方に機銃座が設けられている。胴体下面に、ごみ箱のようなものが下がっているが、これは後下方の銃座である。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935112 - Catalog:16_005220 - Title:Heinkel He 111D-0 Nowarra photo - Filename:16_005220.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005220 引用。


写真(右)1939年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機E-3型(V4-EH):1933年のナチ党政権獲得後、赤地に白丸、その中にナチ党の逆卍スワスチカを垂直尾翼に描いている。胴体後上方に機銃座が設けられている。胴体下面にはゴンドラがない。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 43935136 - Catalog:16_005222 - Title:Heinkel He 111E-3 Nowarra photo - Filename:16_005222. TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005222 引用。


写真(右)1939年頃、トルコ空軍が購入したドイツ製ハインケル(Heinkel)He 111F-1爆撃機:垂直尾翼には月と星のトルコ軍の国籍マークを描いている。胴体後上方の機銃座は確認できないが、胴体下面にはゴンドラはないが、ごみ箱上の銃座を設けている。機首に大きなピトー管を装備して正確な速度など飛行性能を計測しようというのであろうか。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935148 - Catalog:16_005223 - Title:Heinkel He 111F-1 Nowarra photo - Filename:16_005223.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005222 引用。


写真(右)1939年頃、ドイツ、ダイムラーベンツDB 600Gを装備したドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111爆撃機J-1型:1938年8月初飛行。胴体側面に白で鉄十字のドイツ国籍マークを描いている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935160 - Catalog:16_005224 - Title:Heinkel He 111J-1 Nowarra photo - Filename:16_005224.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog: 16_005224引用。


He51B ハインケル(Heinkel)He 111爆撃機J-1型の諸元
初飛行:1938年8月初飛行
発動機:ダイムラーベンツ(Daimler-Benz)DB 600 G液冷倒立12気筒エンジン(1050 PS)2基
空虚重量6120 kg、全備重量10550 kg
最高速力 415 km/h(高度 5000 m)
航続距離1820 km
爆弾搭載量2000?
武装 7.92ミリMG 15旋回機銃3丁。
ドイツ空軍によりHe 111爆撃機J-1型は、雷撃機として開発された。60機が発注されたものの、実際に雷撃機とされることはなく、全て爆撃機として配備された。

写真(右)1938年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111 V-10 E(登録コードD-ALEQ、製造番号 1437):1933年1月のヒトラー政権樹立後しばらくしてから、垂直尾翼に赤地に白丸を塗り、ナチ党の卍十字をドイツの国籍識別マークとして描くようになった。1935年3月16日、 ドイツ首相兼総統のアドルフ・ヒトラーは、徴兵制を復活による兵役義務を定め、参謀本部を復活した。これが「ドイツ再軍備宣言」であり、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄する行為だった。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935234 - Catalog:16_005230 - Title:Heinkel He 111V-10 Nowarra photo - Filename:16_005230.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005230引用。


楕円主翼に950馬力のダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジンA液冷倒立12気筒エンジン2基を装備し,最高速力360 km/hという当時としては高速を発揮したために,ドイツ空軍(Luftwaffe)は、1936年にハインケルHe.111爆撃機B型として生産を開始した。そして、1936年7月18日に勃発したスペイン市民戦争(Spanish Civil War)に実戦投入された。

写真(右)(右)1938年頃、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機B-1型試作11号機V-11(D-ARCG):民間機として登録コードD-ARCGを付与され、胴体側面に乗客用のガラス窓4つが設けられている。しかし、迷彩塗装を施しており、胴体上方に銃座が設けられており、事実上、軍用機として扱われた様だ。手前の双尾翼は、ドルニエD0-17爆撃機の尾翼で、胴体には白の鉄十字の国籍マークが描かれている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935258 - Catalog:16_005232 - Title:Heinkel He 111V-11 Nowarra photo - Filename:16_005232.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005232引用。


写真(右)1942-1944年頃、ドイツ、新型誘導爆弾の試作品を搭載して実験するハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機E型/J-0型:E型は、ユモ Jumo211 A液冷12気筒エンジンを装備したのに対して、J型はダイムラーベンツDB600液冷倒立12気筒エンジンを装備した。旧式化したハインケルHe111爆撃機初期型の中には、1944年まで、後方における新兵器の実験や輸送任務に使用された機体もある。
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PictionID: 43935467 - Catalog: 16_005249 - Title: Heinkel He 111 J-0 Nowarra photo - Filename: 16_005249.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog: 16_005249引用。


ハインケル社は、1922年にエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)が創立したドイツ有数の航空機メーカーである。自由百科では「第二次世界大戦中にドイツ空軍のために爆撃機を始め数多くの航空機を製造した」とされているが、実は大戦前から、ドイツ有数の航空機メーカーであり、新生ドイツ空軍の主力戦闘機He-51を量産した。大戦前、戦闘機のほかにも、偵察機He-46、水上偵察機He-59、高速輸送機He-70などを民間機も含めて量産し、スウェーデン、フィンランド、ブルガリア、ハンガリー、スペイン、日本などに輸出していたのである。


5.第二次大戦直前のハインケルHe-111爆撃機 

写真(右)1938-1939年頃、大戦勃発直前のドイツ、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111爆撃機試作7号機V-7 (V-19): (D-AUKY) 装備しているのはユモJumo 211液冷12気筒エンジン(1.100馬力)2基。 従来の段あり機首・コックピットを、段なしの機首・コックピット一体型の大型ガラス風防とし、視界を向上させた。これが、量産されるP型(DB600エンジン搭載:エアインテークはエンジン正面右)、H型(Jumo211エンジン搭載:エアインテークはエンジン正面左)の原型となる。1933年1月30日のヒトラー政権樹立後しばらくしてから、垂直尾翼に赤地に白丸を塗り、ナチ党の卍十字をドイツの国籍識別マークとして描くようになった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935198 - Catalog:16_005227 - Title:Heinkel He 111V-19 (Heinkel He 111V-7) - Filename:16_005227.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog: 16_005227引用。


ハインケルHe111爆撃機は、A型、B型、C型、F型には機首に段があり、機首先端の爆撃手と、操縦席のパイロットとの間は離れていた。しかし、P型、H型からは、段なしの大型ガラス風防として、爆撃手と操縦手が接近した。これによって、乗員の居住性が向上するとともに、視界が向上した。機首・コックピット一体型の段なし大型ガラス風防は、その後のハインケルHe111爆撃機の標準型となる。さらに、1942年後半からは、ドルニエDo217、ユンカースJu188といった他社の開発・製造する爆撃機にも、段なし大型ガラス風防が採用されるようになる。

写真(右)1938年、ドイツ、空中試験に使用するフィーゼラー(Fieseler)Fi-157を胴体下面に懸架したドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機E型:フィーゼラーFi-157は、無線操縦の対空標的機で、全長:6.6 m (22 ft)、全幅:7.0 m (23 ft)、全高:1.7 m (6 ft)、空虚重量:494 kg (1,090 lb)、全備重量:646 kg (1,420 lb)、発動機:ヒルト HM506空冷倒立エンジン160 hp (120 kW)、最高速力:350 km/h。1937年に3機が試作されたが実用化されずに終わった。
Deutsch: Foto der Fieseler Fi 157, ein unbemanntes Versuchsflugzeug hier als Modell unter einer He 111 angebracht. Entwickelt und gebaut bei dem Fieseler Flugzeugbau Kassel.
Date 1938 Source Archiv der Gerhard-Fieseler-Stiftung
Author Im Auftrag des Fieseler Flugzeugbau Kassel
写真は,Wikimedia Commons, File:Bundesarchiv Bild 101I-401-0244-27, Flugzeug Heinkel He 111.jpg引用。


写真(右)1938年頃、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機E型:迷彩塗装を施しており、胴体上方に銃座が設けられており、胴体には白の鉄十字の国籍マークが描かれている。
Polski: Tytuł: Heinkel-Kampfflugzeug He 111. Adres wydawniczy: [Berlin : Freigeg. d. R. L. M., 1933-1945] ([miejsce nieznane : drukarz nieznany]) Gatunek: pocztówka
Forma i typ: pocztówki Opis fizyczny: [1] karta : ilustracja ; 9x14 cm
Na rewersie oznaczenie: 2014 oraz symbol graficzny. Tytuł z nadruku na awersie. Rok i miejsce wydania nadany przez katalogującego, według przedziału lat istnienia Ministerstwa Lotnictwa Rzeszy. Date between 1933 and 1945Source
Polona: https://polona.pl/ item/heinkel- kampfflugzeug- he-111,ODA5MTM2Mjg/ National Library of Poland Blue pencil.svg wikidata: Q856423 Author Unknown author
写真は,SDASM Archives, File:Heinkel-Kampfflugzeug He 111. 1933-1945 (81966946).jpg引用。


写真(右)ノルウェー、ボードー、ノルウェー航空博物館(Norsk Luftfartmuseum)、戦時中、ノルウェーに駐留していたドイツ空軍ユンカースJu88爆撃機A-4型の装備していたユモJumo 211 F 12気筒液冷エンジン(1400馬力);ハインケルHe111爆撃機H型も同じエンジンを装備していたが、冷却器の形状は異なっている。
Innsprøytningspumpe Komponent sammensatt av flere deler med dataplater og nr. på de enkelte deler. Gerat Nr. 9-2021A3U Werk Nr. 1046081231 Innsprøy-tningspumpe for Jumo 211 motor Identifier: NL.0000001908 Date published: November 21, 2014 Date updated: December 18, 2014
Jumo 211 Fの諸元
全長: 174.5 cm 全幅: 80.4 cm 重量: 640 kg .
写真はNorsk Luftfartsmuseum ・Identifier: NL.0000001908 引用。


ユンカース社、ユモJumo 210液冷倒立12気筒エンジンは、気筒(シリンダー)のボア(Bore): 124 mm、ストローク (Stroke): 136 mm、排気量(Displacement): 19.7 L。当初は600馬力しかなかったが、1936年には660馬力迄向上した。引き続き、エンジンの馬力強化のために、Jumo211が開発されるが、これは気筒数は同じで、Jumo210を発展させたタイプである。ハインケル・アーカイブ(Heinkel Archiv)が保管していた写真。1936年に、Jumo210を大型化、発展させた、ユモJumo 211 液冷倒立12気筒エンジンが完成している。気筒(シリンダー)のボア: 150 mm、 ストローク: 165 mm、排気量: 34.99 L。 ハインケルHe111H型は、ユンカースJu88爆撃機と同じユンカース・ユモJumo211エンジン(エアインテーク正面左)することになった。

1932年にユンカース社は、ユモJumo 210液冷倒立12気筒エンジンを完成させた。これは12気筒(シリンダー)で、ボア(Bore)124 mm、ストローク (Stroke)136 mm、排気量(Displacement)19.7 Lで、出力は初期は600馬力、1936年には660馬力だった。馬力を向上することで新型軍用機の性能向上が可能になるとして、ユンカース社はJumo210のシリンダーを大型化し、機構を改良したユモJumo 211液冷倒立12気筒エンジンを開発し、1936年に完成させている。Jumo211は、気筒(シリンダー)のボア 150 mm、 ストローク 165 mmと気筒の容積を増して、同じ12気筒ながら排気量は34.99 Lとなり、馬力も1000馬力以上発揮できるようになった。

ハインケルHe111P型は、ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジン液冷倒立12気筒エンジン(エアインテーク正面右)を搭載したが、このエンジンは戦闘機に優先配備されることになった。そこで、ハインケルHe111H型は、ユンカースJu88爆撃機と同じユンカース・ユモJumo210エンジン(エアインテーク正面左)することになった。後に、エンジンは馬力強化型のJumo211に変換されるが、気筒・構造はほぼ同じである。

写真(右)1938-1939年頃、大戦勃発直前のドイツ北東部、ロストック=マリエネーヘ飛行場、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111爆撃機試作8号機V-8 (D-AQUO):後にB-0あるいはB-1に改修された。従来の段あり機首・コックピットを、段なしの機首・コックピット一体型の大型ガラス風防とし、視界を向上させた。これが、量産されるP型(DB600エンジン搭載:エアインテークはエンジン正面右)、H型(Jumo211エンジン搭載:エアインテークはエンジン正面左)の原型となる。1933年1月30日のヒトラー政権樹立後しばらくしてから、垂直尾翼に赤地に白丸を塗り、ナチ党の卍十字をドイツの国籍識別マークとして描くようになった。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 43935246 - Catalog: 16_005231 - Title: Heinkel He 111V-8 Nowarra photo - Filename: 16_005231.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog: 16_005231引用。


写真(右)1937年、トルコ空軍が購入、輸入した迷彩塗装のドイツ空軍ハインケル(Heinkel) He 111E爆撃機の列機
English: Heinkel He-111 in Turkish service Date circa 1937 Source Turkish Air Force Author NA
写真は,Wikimedia Commons, Category:Heinkel He 111, File:Heinkel He-111 in Turkish service.jpg引用。


トルコは、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He111爆撃機の高性能に着目し、自国空軍に導入しようと計画した。そこで、ドイツ航空省も、ハインケルHe 111 試作8号機V8に,戦闘機に必要となるDB600液冷エンジンではなく、ユモJu211Aエンジンに変換した型、すなわちHe 111F-4型を40機を発注した。このHe111F-4は、1938年の初めに部隊配備された。これらは、1942年には旧式化していたが、スターリングラードに包囲されたドイツ第六軍への空輸にも投入されている。


2.第二次大戦直前からポーランド侵攻までのハインケルHe-111爆撃機 

写真(右)1940年頃、自ら設計した新品のハインケルHe111爆撃機H/P型を背景にしたエルンスト・ハインケル教授エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士の後方には、機首の段なし大型ガラス風防のハインケルHe111爆撃機H/P型が控えている。
Beeldnummer 44748 Collectie NIOD
Trefwoorden Luftwaffe, Gevechtsvliegtuigen, Vliegtuigen, Duitse strijdkrachten
Bijschrift Formatie Heinkel 111, gevechtsvliegtuigen.
写真はBeeldbank WO2: Beeldnummer 44748 引用。


エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士は、1888年、ドイツ南部、シュトゥットガルト生まれ、第一次大戦で飛行機設計に加わった。戦後の1922年に、北ドイツのヴァーネミュンデにハインケル飛行機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立した。アドルフ・ヒトラーの唱える国家社会主義に共鳴し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党した。ハインケルは、スピード感に陶酔しており、スピードへの追及に熱心で、He70高速輸送機のような凝った設計の高速機を開発し、1932年にドイツ・ルフトハンザ航空に採用されている。

  写真(右)1941年8月9日、ハインケルHe111爆撃機の模型を子供に見出ているエルンスト・ハインケル教授:機首の段なし大型ガラス風防のハインケルHe111爆撃機H/P型の模型。
Beeldnummer 44741 Locatie Naam: Federal Republic of Germany Land: Germany
Trefwoorden Duitsers, Luftwaffe, Kinderen, Vliegtuigen, Speelgoed
Personen Heinkel, Ernst
Bijschrift Model He 111 Ein grosser und zwei kleine Heinkel. Doch dies und das gibt's zu erkunden, (Für manches ist die Hand zu klein). 'Ach wer das Flugzeug hat erfunden, Der muss doch schrecklich tüchtig sein!'
Datum 09/08/1941
写真はBeeldbank WO2: Beeldnummer 44741 引用。


1881年1月24日生まれのエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、二人兄弟、3回結婚し、連れ子2人を含め7人の子供をもつ。1958年1月30日逝去。

写真(右)1940年頃、ハインケルHe111爆撃機H/P型を生産するエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授の設立したハインケル飛行機工場:1888年、ドイツ南部、シュトゥットガルト生まれ、1922年には、ハインケル飛行機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立。ヒトラーの国家社会主義に共鳴し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党し、He70高速輸送機など高性能機を開発、ドイツ再軍備宣言後には、ドイツ空軍の創設に伴いHe111爆撃機を筆頭に、He112戦闘機、He177爆撃機、He219夜間戦闘機、He280ジェット戦闘機など数々の軍用機を開発、生産して、ハインケル社を興隆させた。後方には、機首の段なし大型ガラス風防のハインケルHe111爆撃機H/P型。
Beeldnummer 43807 Collectie NIOD
Trefwoorden Luftwaffe, Bommenwerpers, Oorlogsindustrie, Vliegtuigen
Locatie Naam: Federal Republic of Germany
写真はBeeldbank WO2: Beeldnummer 44748 引用。


初期型のHeinkel He 111には、輸送機時代からの設計をそのまま受け継いでいるために、機首の風防と操縦席の風防の間に段差があるが、後期型では段なしで視界の良い大型操縦席となった。

ハインケル(Heinkel)He111爆撃機初期型の段付き風防を、コックピット路機首を一体化した大型で視界の良いガラス風防に変更し、ユモJumo211液冷V12気筒エンジン2基(空気取入れ口は正面左側)を装備したのがH型である。

写真(右)1940年頃、ハインケルHe111爆撃機H/P型を生産するエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授の設立したハインケル飛行機工場:1888年、ドイツ南部、シュトゥットガルト生まれのエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士は、1922年には、ハインケル飛行機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立した。ヒトラーの国家社会主義に共鳴し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)に入党し、He70高速輸送機など高性能機を開発、ドイツ再軍備宣言後には、ドイツ空軍の創設に伴いHe111爆撃機を筆頭に、He112戦闘機、He177爆撃機、He219夜間戦闘機、He280ジェット戦闘機など数々の軍用機を開発、生産して、ハインケル社を興隆させた。後方には、機首の段なし大型ガラス風防のハインケルHe111爆撃機H/P型。
Beeldnummer 43807 Collectie NIOD
Trefwoorden Luftwaffe, Bommenwerpers, Oorlogsindustrie, Vliegtuigen Locatie Naam: Federal Republic of Germany
写真はBeeldbank WO2: Beeldnummer 43823引用。


1935年4月初飛行のハインケル(Heinkel)He111爆撃機だが,ポーランド戦の時には,60-90機程度しか配備されておらず,ドイツ空軍の主力爆撃機は,ドルニエDo-17だった。しかし,1年後の西方フランス侵攻では,ハインケルHe-111爆撃機が主力となった。

写真(右)1940年頃、ハインケルHe111爆撃機H/P型の機首・胴体部分を生産中のハインケル飛行機工場:機首の段なし大型ガラス風防のハインケルHe111爆撃機H/P型。
Beeldnummer 43807
Collectie NIOD
Trefwoorden Luftwaffe, Personeel, Gevechtsvliegtuigen, Oorlogsindustrie, Vliegtuigen
Bijschrift He 111 Mä die zum Vorbild wurden. Wieviel Tage noch, uns an seiner Stelle blickt der Pilot aus der Kanzel dem Feind ins Auge. Solche Gedanken kommen einem wohl, wenn man, wie dieser Vorarbeiter in der Endmontage seine Pflicht tut.
Locatie Naam: Federal Republic of Germany
写真はBeeldbank WO2: Beeldnumm 44748 引用。


Heinkel He 111爆撃機のドイツにおける生産数は、1939年452機 1940年756機、1941年950機、1942年1,337機、1943年1,405機、1944年756機、合計5,656 機である。

エルンスト・ハインケル博士の主導したハインケルHe112戦闘機は、Bf109との比較で不採用になり、量産されたHe177爆撃機はエンジン2基でプロペラ1基を駆動する新システムのために、戦塵加熱の事故が頻発し、失敗作となった。他方、新鋭He219夜間戦闘機、高速He280ジェット戦闘機は、斬新で高性能だったが、ドイツ空軍は、重視せずに終わってしまった。戦争末期のハインケルHe162ジェット戦闘機は、大量生産に移ったが、実戦投入前に、終戦となった。

写真(右)1939-1940年冬頃、大戦勃発前後のドイツ、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111爆撃機H型:従来の段あり機首・コックピットを、段なしの機首・コックピット一体型の大型ガラス風防とし、視界を向上させた。これが、H型(Jumo211エンジン搭載:エアインテークはエンジン正面左)の原型となる。これと同時に、P型は、ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジン液冷倒立12気筒エンジンを搭載。このエアインテークはエンジン正面右にあるので仕置き別できる。
born digital image pictionid64603803 - catalogm-004f.jpg - title he-111 - filenamem-004f.jpg--
写真は,SDASM Archives, catalogm-004f.jpg引用。


1939年9月1日,ドイツ軍によるポーランド侵攻があり、その2日後の9月3日,ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリスのネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)首相は、フランスとともに,対ドイツ宣戦布告をした。

写真(右)1939-1940年頃、大戦勃発前後のドイツ、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111爆撃機P-1型:従来の段あり機首・コックピットを、段なしの機首・コックピット一体型の大型ガラス風防とし、視界を向上させた。これが、量産されるP型(DB600エンジン搭載:エアインテークはエンジン正面右)、H型(Jumo211エンジン搭載:エアインテークはエンジン正面左)の原型となる。1933年1月30日のヒトラー政権樹立後しばらくしてから、垂直尾翼に赤地に白丸を塗り、ナチ党の卍十字をドイツの国籍識別マークとして描くようになった。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935210 - Catalog:16_005228 - Title:Heinkel He 111P-1 Nowarra photo - Filename:16_005228.TIF -
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005228引用。


1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置していた。ヒトラーにとって,ワルシャワ空爆に躊躇は一切なかった。

ポーランド侵攻に参加したドイツ空軍機は,アルベルト・ケッセリング元帥の第1航空軍,アレクサンデル・レール第4航空軍で,あわせて1302機を保有していた。さらに,空軍総司令部直轄として,輸送機,偵察機など133機があり,陸軍にも偵察機,連絡機など288機が配備されていた。また,ドイツ本土防空部隊は,216機を保有していた。

したがって,ドイツ軍は,総計1929機をポーランド戦に投入したことになる。これはドイツ空軍兵力の三分の二に相当した。当時の主力爆撃機は、ハインケルHe111、ドルニエDo-17とユンカースJu87だった。

写真(右)1939-1940年頃、ドイツ、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機H-1型、機首の7.92ミリMG15旋回機銃が明瞭に見て取れる。:胴体下面には、四角の枠が見えるが、これは1枚ずつ開閉する爆弾倉で、爆弾は弾頭を下にして搭載するという珍しい方式を採用した。ハインケルHe111爆撃機初期型の段付き風防を、コックピット路機首を一体化した大型で視界の良いガラス風防に変更し、ユモJumo211液冷V12気筒エンジン2基(空気取入れ口は正面左側)を装備したのがH型である。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935185 - Catalog:16_005226 - Title:Heinkel He 111H - Filename:16_005226.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005226 引用。


PZL11cガル翼戦闘機 対するポーランドの航空兵力は,自国設計・国内生産の機体も含めて、第一線機900機(爆撃機150機,戦闘機315機,偵察機325機,海軍機50機など)だった。これは、当時の小国としては、強力な空軍力であり、イギリス、フランスは、士気の低いソ連軍よりも、勇敢なポーランド軍の方を同盟相手として選ぶことになった。イギリスもフランスもポーランドの独立を保証する順次協定を結び、これを破ってポーランドに侵攻したドイツに対して最後通牒を告げ、宣戦布告をしたのである。

ポーランド軍機は,果敢に攻撃をかけてきたが,ドイツ軍に撃退された。部品,燃料に不足をきたし,稼動機数は急速に低下した。

ドイツ軍は、ビラを空中散布するなどしてポーランドに降伏勧告をした。しかし、果敢な抵抗を続けるポーランドは、黙殺した。降伏の機会を黙殺したポーランドに対して,ドイツ軍は,1939年9月25日、ワルシャワを大空襲した。これは,爆撃機400機を配備した3-4回の反復爆撃で通常爆弾560トン,焼夷弾72トンを投下した。9月27日,ポーランドは降伏した。

写真(右)1939-1940年頃、ドイツ、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機H-1型、機首の7.92ミリMG15旋回機銃が明瞭に見て取れる。:胴体下面には、四角の枠が見えるが、これは1枚ずつ開閉する爆弾倉で、爆弾は弾頭を下にして搭載するという珍しい方式を採用した。ハインケルHe111爆撃機初期型の段付き風防を、コックピット路機首を一体化した大型で視界の良いガラス風防に変更し、ユモJumo211液冷V12気筒エンジン2基(空気取入れ口は正面左側)を装備したのがH型である。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935479 - Catalog:16_005250 - Title:Heinkel He 111H-1 Nowarra photo - Filename:16_005250.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005249引用。


ドイツ空軍によるワルシャワ爆撃は、ワルシャワの軍事施設を目標としており、無差別爆撃ではないと主張される。

しかし、当時の水平爆撃の技術では、目標に爆弾を命中させることは困難であった。この低い命中率を前提に、命中しないで目標をそれて着弾した爆弾が、敵に被害を与えるように爆撃あ計画された。目標付近に、民間施設や一般市民がいて、空襲で被害を受けることを当然のように考えていた。これが軍と民間市民を区別しない「無差別」爆撃である。

ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊(アインザッツグルッペ) のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。

ポーランドPZL P.11G・ガル翼戦闘機 ポーランドの主力戦闘機は,パラソル翼のPZL-11戦闘機で,全幅10.7メートル,全長7.6メートル,全備重量1650キロ, マーキュリーエンジン630馬力,最高速度375キロ,航続距離550キロ,兵装7.92 mm機銃2丁だった。

このような低速戦闘機よりも,エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)の設計したHe-111爆撃機のほうが早く,攻撃は容易だった。電撃戦では,戦車の威力が注目されるが,ポーランド侵攻のときのドイツ軍戦車は,I号戦車,II号戦車で,決して攻撃力,防御力が高い戦車ではなかった。空軍の果たした役割が大きかったと思われる。

写真(右)1939年9月24日、ポーランド、炎上して骨組みだけになったポーランド空軍パラソル翼のRWD-8戦闘機と後方の迷彩塗装のドイツ空軍ハインケル(Heinkel) He 111E輸送機
Polen, zerstörtes polnisches Flugzeug Zahlreiche feindliche Flugzeuge wurden nicht im Luftkampf abgeschossen, sondern durch unsere Luftwaffe durch Bombenwürfe vernichtet, bevor sie überhaupt dazu kamen aufzusteigen. U.B.z.: ein durch Bombentreffer vernichtetes polnisches Flugzeug (RWD-8). PK (Scherl) 24.9.39 [Herausgabedatum]
[Polen.- Gerippe eines zerstörten polnischen Flugzeugs auf einem Flugplatz, im Hintergrund zwei deutsche Flugzeuge]
Description Information added by Wikimedia users.
English: Destroyed Polish trainer plane RWD-8, 1939 Depicted place Poland Date September 1939
写真は,Wikimedia Commons, Category:Heinkel He 111, File:Bundesarchiv Bild 101I-401-0244-28, Flugzeug Heinkel He 111.jpg引用。


ポーランドPZL37Bロシュ爆撃機 1939年9月21日,開戦から3週間,SS保安警察長官ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)は,ドイツ陸軍総司令部(OKH)の了解を得て,ポーランド・ユダヤ人の強制移送を,アインザッツグルッペ(特別行動部隊)に指示。これが,後のゲットーへのユダヤ人囲いこみに繋がる。ゲットーとは,ユダヤ人居住区であり、狭い区画の中にユダヤ人は隔離され,囲い込まれた。

ポーランド降伏から1年後,1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットー(ghetto)を作る法令が出された。ワルシャワでは,1940年10月12日ゲットー設置命令以降,1940年10月第3・4週だけで,ポーランド人キリスト教徒11万3000人が立退かされ,13万8000人のユダヤ人が流入した。ワルシャワの2.4%の区域のゲットーに,ワルシャワ人口の30%を占めるユダヤ人が押し込められた。その結果,人家族が住んでいたアパートに2-3家族が暮らすことになった。1940年11月16日,ワルシャワ・ゲットー(Warsaw Ghetto)は封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーの外に出ることはできなくなった。

写真(右)1940年、ドイツ、草地の駐機場に待機しているハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機E型:迷彩塗装を施しており、胴体上方に銃座が設けられており、胴体には白縁の鉄十字の国籍マークが描かれている。奥には、メッサーシュミットBf-108連絡機が駐機している。
Photographer Göricke
Frankreich.- Bomber Heinkel He 111 E (Kennung CH+NR) auf Feldflugplatz; KBK Lw 5
Title Flugzeug Heinkel He 111 Info non-talk.svg
Date 1940 Collection German Federal Archives
Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I)
Accession number Bild 101I-401-0244-27
写真は,Wikimedia Commons, File:Bundesarchiv Bild 101I-401-0244-27, Flugzeug Heinkel He 111.jpg引用。


ハインケルHe-111爆撃機 F型は、ユモJumo 211A-3液冷エンジンを装備し、F-1型は24機がトルコに輸出され、40機がF-2型として1938年五ドイツ空軍に納入された。次のハインケル(Heinkel) He 111Gは、ドイツ空軍用向けに生産された民間用に使用された。ハインケルHe 111G-5は、ダイムラーベンツ(Daimler Benz)DB600Gaを搭載した型で、トルコに輸出された。

写真(右)1944年、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel) He 111G-3輸送機CE-NX 38 :発動機はBMW 132 Dcエンジンで、9気筒空冷星型エンジン850 PS (838馬力:625 kW)である。
He.111G-3 Unit: FFS(B)34
Serial: CE+NX (28)
Blind Flying School (Blindflugschule), Kastrup Denmark, 1944. One of two built He.111G-3. Helmut Rix flew this aircraft. Note the badge: blind cow.
Deutsch: Heinkel 111 CE-NX 38 in Kastrup, 1944 Übungsflug der FFS 34 in Schwerin - Görries
Date 16 November 2013 Source Own work Author 16Exul82
写真は,Wikimedia Commons, Category:Heinkel He 111, File:He 111 CE-NX 38.jpg引用。


ドイツ空軍ハインケル(Heinkel) He 111G-3輸送機は、9気筒空冷星型BMW 132 Dcエンジン2基を装備しており、1944年、デンマーク、コペンハーゲンの盲目飛行訓練学校(Blind Flying School: Blindflugschule),で使用されていた。G-3型は、2機のみ生産された。

BMW 132は、ドイツのBMWで1933年から生産された航空機用9気筒空冷星型エンジンで、ユンカースJu52/3m輸送機、ユンカースJu86輸送機/爆撃機、ドルニエDo-17爆撃機、Ar-192水上偵察機などが搭載している。BMW 132の原型は、アメリカのプラット・アンド・ホイットニーPratt & Whitney)社のR-1690 ホーネットエンジンで、ライセンス生産したものである。

傑作機 機首段なし大型ガラス風防を採用したドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機には、DB600液冷エンジン搭載、エアインテーク正面右のP型とユモJumo211液冷エンジン搭載、エアインテーク正面左のH型の2種類があるが、DB600エンジンが戦闘機に優先配備されることとなり、H型が主力となった。PVC1006ラックには1トン爆弾も搭載できる。

しかし、第二次世界大戦末期には、ハインケル(Heinkel)He111爆撃機は一部が夜間爆撃、V-1飛行爆弾(巡行ミサイル)発射母機に使用されたが、緊急空輸のための輸送機仕様に改造された機体も少なくなかった。この輸送機仕様の機体は、ユンカースJu-52以下の搭載量しかないが、高速だったために、重宝された様だ。

ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機は、初期のA型、B型、C型、F型には機首に段があり、機首先端の爆撃手と、操縦席のパイロットとの間は離れていた。しかし、中期以降のP型、H型からは、段なしの大型ガラス風防として、爆撃手と操縦手が接近した。これによって、乗員の居住性が向上するとともに、視界が向上した。機首・コックピット一体型の段なし大型ガラス風防は、その後のハインケルHe111爆撃機の標準型となる。さらに、1942年後半からは、ドルニエDo217、ユンカースJu188といった他社の開発・製造する爆撃機にも、段なし大型ガラス風防が採用されるようになる。

⇒写真集:ハインケル(Heinkel)He-111爆撃機P/H型を見る。


6.第二次大戦初期に退役したドルニエDo-17爆撃機 

写真(右):1940年9月、ベルギー上空、ドルニエ(Dornier)Do 17 Z爆撃機:第二次大戦中は、緒戦のポーランド侵攻、フランス侵攻、イギリス本土航空決戦に大量投入されたが、He111爆撃機、Ju88爆撃機に比べて飛行性能が劣ったために、1940年末には退役していた。しかし、空冷の1700馬力 BMW 801エンジンを搭載し、Do17Zの出力を強化した発展型のDo 217 爆撃機K型がDo-17に代わって部隊配備された。
Belgien/Frankreich, Flugzeug Dornier Do 17 Z Info non-talk.svg Depicted place Belgien/Frankreich Date September 1940 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-343-0679-14A
写真はWikimedia Commons ・File:Bundesarchiv Bild 101I-343-0679-14A, Belgien-Frankreich, Flugzeug Dornier Do 17 Z Recolored.jpg引用。


ドルニエ(Dornier)Do 17Z爆撃機 ドイツ空軍ドルニエDornier Do 17爆撃機は、初飛行1934年11月23日、生産数1,994機の第二次大戦初期まで活躍した双発爆撃機である。高速爆撃機として、敵戦闘機の迎撃を受けないで爆撃することが企図され、胴体断面が細く、主翼全幅も短縮して、正面空気抵抗を極力減少させる設計をしたが、的戦闘機の速力が向上して「高速」と言えなくなると、防御力を強化するために、旋回機関銃の増設を余儀なくされた。初期型は、段あり機首だったが、中期以降は、段を小さくした形状に改められた。低空性能は良かったが、爆弾搭載量は1トン以下で小さかった。

ドイツ空軍ドルニエDornier Do 17 Z爆撃機の諸元
初飛行 1934年11月
全長 16.3メートル,全幅 18メートル,翼面積 86.5平方メートル
全備重量7650キロ,エンジン:BMW ブラモ323 空冷星型 9気筒1000馬力2基
最大時速 420キロ,航続距離 1160キロ
兵装 7.92ミリMG15機関銃5丁,爆弾1トン。
乗員4人(操縦手,爆撃手,航法・偵察員兼機銃射手2名)

ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機を見る。


7.最多生産機ユンカース(Junkers)Ju-88急降下爆撃機

写真(右)1941-1942年、飛行するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju 88A-4爆撃機:主翼下面の左右内側に爆弾ラック4基が見える。風防の後上方銃座が膨らんでいるのは、7,92ミリ旋回機関銃を操作しやすくするためである。1941年9月7日、ドイツ空軍は、それまで続けてきた航空撃滅戦が効果が上がっていないと判断し、作戦を変更して、ロンドン爆撃・電撃(ブリッツ)が始まった初日となった。
ROYAL AIR FORCE FIGHTER COMMAND, 1939-1945
English: Photo of a German Junkers Ju 88A bomber, ca. 1941/42
Date 1941/42 Source U.S. Navy Naval Aviation News 15 August 1943
Author U.S. Navy
写真はWikimedia Commons File:Ju 88A NAN15Aug43.jpg引用。


ユンカースJu88爆撃機 ドイツ空軍ユンカースJu88爆撃機は、最大速度 470キロ,航続距離 2730キロ,7.92mm機銃6丁,爆弾 2トン。手前には、コックピット後上方銃座の7.92ミリ旋回機関銃の照準器が写っている。Ju88は、信頼性、操縦性は高く、ドイツ爆撃機としては最多となる1万5000機が生産(夜間戦闘機型を含む)が生産れている。

ユンカースJu-88爆撃機の諸元
全長 14.4メートル,全幅 20メートル
翼面積 54.5平方メートル
性能:最大速度 470キロ
航続距離 2730キロ
兵装:7.92ミリMG17機銃6丁
爆弾搭載量: 2トン

双発だが操縦性の良いユンカースJu-88は、急降下爆撃や偵察機として9000機が生産された。
大戦中期から、重戦闘機、夜間戦闘機としての改良がくわえられ、戦闘機として6000機生産された。

ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機を見る。


8.ハインケル(Heinkel)He-177重爆撃機「グライフ」

写真(右)1943-1944年頃、飛行するドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He-177重爆撃機「グライフ」:初飛行は、1939年11月。主翼には左右にエンジンナセルとプロペラが1基ずつ見えるが、これは2台のエンジンを連結して、1つのプロペラを回した構造である。つまり、エンジン4基の四発重爆である。胴体中央部下面に爆弾綜ト扉が確認できる。主翼下面に爆弾ラックは見られない。
ROYAL AIR FORCE FIGHTER COMMAND, 1939-1945
Heinkel He 177
from en:Image:Heinkel He177.jpg uploader was en:user: Keith Edkins
Ministry of Aircraft Production photograph published in:
Aircraft of the Fighting Powers Vol IV
Ed: H J Cooper, O G Thetford and D A. Russell
Harborough Publishing Co, Leicester, England 1943.
写真はWikimedia Commons File:Heinkel He177.jpg引用。


ハインケルHe_177 ハインケル(Heinkel)He 177は、1936年6月3日にドイツ航空省(RLM)がA爆撃機計画として試作を要請したもので、当初は、長距離高速重爆撃機だったが、後に爆弾の命中率を上げるために、水平爆撃だけではなく、急降下爆撃が可能である仕様に改められた。そこで、機体構造を強化し、降下姿勢からの引き起こしにも耐えられるように四発ではなく、双発機として改められた。

ハインケル(Heinkel)WikimHe-177A-5edia Commons重爆撃機「グライフ」の諸元
全長: 22.00 m
全幅: 31.44 m
全高: 6.7 m
全備重量: 31,000 kg
発動機: ダイムラー・ベンツDB6610液冷24気筒 2,950 hp 2基(DB605エンジン2基を連結した双子エンジン)
最高速力: 565 km/h (6,100m)
上限高度: 9,400 m
航続距離: 5,600 km
兵装:
20ミリMG 151/20機関銃 2丁 (尾部、ゴンドラ前部)
13.1ミリMG 131機関銃 3丁 (胴体上方動力銃座2基) 7.92ミリMG 81連装機関銃 3丁 (機首、ゴンドラ後部)
爆弾搭載量: 6,000 kg
乗員: 5名

ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 177重爆撃機を見る。


9.スペイン内戦から第二次世界大戦へ


写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘン会談の際、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥とイタリア外相チアーノを従えたヒトラー、イタリア統領ムッソリーニ
:イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエに対して、ソ連もチェコも無視して、チェコのズテーテン地方のドイツへの割譲に同意させた。
München.- Hermann Göring, Benito Mussolini, Adolf Hitler und Graf Galeazzo Ciano ( v.l.) beim Verlassen des Hauptbahnhofs, 2.Reihe, rechts hinter Hitler: Heinrich Himmler Title Münchener Abkommen, Hitler, Mussolini und Gefolge Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg 29.09.1938: Hitler + Mussolini treffen in München ein. lks. Göring, rechts Graf Ciano Depicted people Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien Ciano, Galeazzo Graf: Außenminister, Italien (GND 119178362) Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Münchener Abkommen
Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051622-0023, Münchener Abkommen, Hitler, Mussolini und Gefolge.jpg引用。


ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)は、1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年11月、ヒトラー主導の武装蜂起「ミュンヘン一揆」(Beer Hall Putsch)は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。

1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉、1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉、1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥、1940年7月19日、国家元帥 1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将。


写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘン会談の際、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥とイタリア外相チアーノを従えたヒトラー、イタリア統領ムッソリーニ
:イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエに対して、ソ連もチェコも無視して、チェコのズテーテン地方のドイツへの割譲に同意させた。
Title Münchener Abkommen, Hitler und Mussolini Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg ADN-Zentralbild / Archiv Am 29. September 1938 wurde durch die Unterzeichnung des berüchtigten Münchener Abkommens Hitler die Handhabe für den Überfall auf tschecheslowakisches Gebiet gegeben. Hiermit verrieten England und Frankreich die Tschecheslowakei und machten dem Faschismus den Weg frei zu weiteren Verbrechen an den Völkern Europas. UBz: Mussolini, Adolf Hitler, (hinten ihm rechts) Graf Ciano und Hermann Göring beim Verlassen des Führerbaus in München. 12892-38
Depicted people Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv Bild 183-H28790, Münchener Abkommen, Hitler und Mussolini.jpg引用。

1936年11月1日、ドイツとイタリアはヨーロッパの新秩序のためのベルリン=ローマ枢軸協定を公表した。

1936年11月25日には、ドイツと日本が反ソ連の日独防共協定を締結した。防共協定は、共産インターナショナル(コミンテルン)の活動に対する防衛措置について相互に協議・協力することと、コミンテルンの破壊工作によって国内の安寧を脅かされる第三国に協定への参加を勧誘することを決めた。防共協定の秘密附属協定では、ソビエト連邦から締約国の一方が攻撃などを受けた場合に、他方の締約国がソ連の負担を軽くするような措置をとらないこと、相互の同意なしに防共協定の精神と両立しない政治的条約をソ連と結ばないことなどが規定されている。この防共協定には、日中戦争勃発直後の1937年11月6日にイタリアが参加している。

写真(右)1938年10月1日、ドイツ、ベルリン駅、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥を従えたヒトラーと、国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス、ヒトラーユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハ、財務大臣ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク、総統官房長フィリップ・ボーラー
Title Münchener Abkommen, Rückkehr Hitler Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Des Führers Rückkehr von den Münchener Besprechungen Der Führer begrüßt auf dem Bahnsteig des Anhalter Bahnhof seine Mitarbeiter. UBz: v.r.n.l. Reichsminister Graf von Schwerin-Krosigk,Reichminister Kerrl,Reichsminister Rust,Reichsleiter Bouhler,Reichsjugendführer Baldur von Schirach,rechts Generalfeldmarschall Göring und Reichsminister Dr. Goebbels. Fot.: 1.10.38
Baldur von Schirach Bouhler, Philipp Hanns Kerrl Lutz Graf Schwerin von Krosigk Adolf Hitler Joseph Goebbels Hermann Göring Depicted place platform of the Berlin Anhalter railway station Date 1 October 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File: Bundesarchiv Bild 183-H13039, Münchener Abkommen, Rückkehr Hitler.jpg引用。


そして、1939年5月22日、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノとドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップは、鋼鉄協約に調印して、同盟関係に軍事規定を加えた正式なものとした。さらに、第二次世界大戦の勃発1年後、フランス降伏後に、1940年9月27日にはドイツ、イタリア、日本が、日独伊三国同盟を締結し、イギリス・アメリカなど連合国に対抗する枢軸国としての軍事同盟を形成した。

日独伊三国同盟
第一条 日本國ハ「ドイツ國」及「イタリヤ國」ノ歐州ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第二条 「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、日本國ノ大東亞ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ歐州戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。


写真(右)1938年9月29日、ミュンヘン会談のために、ミュンヘン飛行場から市内のホテルにフランス首相エドゥアール・ダラディエを送り届けるドイツ空軍総司令官ヘルマン・ベーリング元帥

Title Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.) Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Frankreichs Ministerpräsident mit Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Nach der ersten Besprechung im Führerbau in München begleitete Generalfeldmarschall Hermann Göring den französischen Ministerpräsidenten Daladier im Kraftwagen zu dessen Hotel. Daladier und Göring waren Mittelpunkt lebhafter und herzlicher Kundgebungen der Tausende, die die Strassen umsäumten. UBz.: Ministerpräsident Daladier und Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Scherl Bilderdienst, Berlin 29.9.39
Daladier, Edouard: Ministerpräsident, Vorsitzender Sozialistische Partei, Frankreich Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv Bild 183-H12963, Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.).jpg引用。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

1938年9月29日から30日にかけて、ドイツ南部、ミュンヘンにおいて、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア統領ムッソリーニ、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統が会談し、チェコスロバキアの北部で、多数のドイツ系住民が居住していたズデーテン地方のドイツ割譲を決定した。イギリスとフランスは、ドイツがこれ以上の領土割譲要求をしないとの条件で、1938年9月29日にミュンヘン協定に署名し、平和が守られたと宣言した。このミュンヘン会談は、第二次世界大戦前のイギリス・フランスの対ドイツ宥和の頂点にして、最後の機会だった。この時、ゲーリングは、ドイツ空軍がチェコ空襲をいつでも始める覚悟があると威嚇のポーズをとっていたのである。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦に参加したドイツ「コンドル軍団」を率いたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(Wolfram von Richthofen)少将と握手する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(Hermann Göring)(右):第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1938年11月、少将として、コンドル軍団長としてスペイン内戦に二度目の派兵。1939年5月に、コンドル軍団は凱旋、ドイツに帰国した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-E06827 Original title: info ADN-ZB
Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der deutschen Interventionstruppen in Spanien, die auf der Seite des faschistischen General Franco gegen die spanische Republik kämpfte. Im Frühsommer 1939 kehrten die Angehörigen der Legion Condor nach Deutschland zurück. UBz: Rückkehr der "Legion Condor" im Hamburger Hafen. Generalfeldmarschall Göring begrüßt Generalmajor Freiherr Wolfram von Richthofen.
31.5.1939
Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1936年にスペイン市民戦争Spanish Civil War)が勃発すると,ヒトラーは、間髪をいれずに, フランシス・フランコFrancisco Franco:1892-1975) 将軍の反乱軍(国民戦線)に軍事援助を行った。これは,ドイツ義勇軍との建前をとったが、実際はドイツ空軍,ドイツ陸軍の正規部隊から成るコンドル軍団Legion Condor)の派遣である。

  1936年7月から1939年3月まで2年半も続いたスペイン内戦Spanish Civil War)の契機は、1936年の総選挙でスペイン人民戦線が勝利したことに対して、 フランシス・フランコFrancisco Franco) 将軍らに率いられてた植民地軍が反乱を起こしたことである。反乱軍は、ファランヘ党と組んで、ファシズム政権を樹立しようとし、人民戦線・共和国政府と内戦状態に入った。イギリス、フランス、アメリカは、内政不干渉の立場に立ったが、ドイツとイタリアは、ファシスト反乱軍を軍事援助した。このとき派遣されたドイツ義勇軍(実際は正規軍)が、コンドル軍団Legion Condor)である。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦から凱旋したドイツ「コンドル軍団」司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将とともにコンドル軍団を閲兵する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1936年4月20日に上級大将 (Generaloberst)になったゲーリングは、第二次大戦1年半前、1938年2月4日に、元帥 (Generalfeldmarschall)に昇進した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06857 Original title: info ADN-ZB Legion Condor- in Hamburg Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front, der in einem riesigen Viereck auf der Moorweide angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Freiherr von Richthofen, ferner der kommandierende General des 10. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 31.5.39 ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der faschistischen deutschen Interventionstruppen zur Unterstützung des Franco-Putsches in Spanien. Das Personal (etwa 6000 Mann) wurde ständig ausgewechselt, um kriegserfahrene Manschaften und Offiziere heranzubilden. Ende Mai 1939 kehrte die Legion Condor nach Deutschand zurück. UBz: Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front der auf der Moorweide in Hamburg am 31.5.1939 angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Wolfram Freiherr von Richthofen, der kommandierende General des X. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Hugo Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 7058-39 Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1936年に中佐としてドイツ義勇軍・コンドル軍団Condor Legion)の指揮官としてスペイン内戦Spanish Civil War)に参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を実行したコンドル軍団の参謀となった。スペインでは、ゲルニカ空襲Bombing of Guernica)ゲルニカのような都市爆撃から、エルンスト・ウーデットErnst Udet)らが重視した急降下爆撃まで様々な戦術が実戦で試された。

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring): 第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。

1936年に勃発したスペイン内戦に、ドイツは、正規軍を義勇軍コンドル軍団としては派兵したが、ハインケル(Heinkel)He46 C偵察爆撃機は、スペイン内戦勃発直後1936年9月に28機が投入され、実戦テストに供されている。また、1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻を契機とする第二次大戦にも、ドイツ軍は2個飛行隊のハインケル(Heinkel)He46偵察爆撃機を配備していた。

1937年4月26日、バスク地方ゲルニカGuernica)が、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍コンドル軍団Condor Legion)の爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。

スペイン市民戦争Spanish Civil War)で人民戦線側の共和国軍,国際旅団と戦闘を交えるという実戦訓練によって,ドイツ軍は,航空支援の有効性,機動力を活かした電撃戦の着想を得た。

ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1936年に中佐としてスペイン内戦に「コンドル軍団」の義勇兵として参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を指揮したコンドル軍団の参謀となった。1937年10月、スペインから帰還するも、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団は、ドイツに凱旋した。

ポーランド空軍の反撃は、あまりなかったようだが、ドイツ空軍機は、初戦から敵機に発見されないように、対空用カモフラージュした場所に隠匿されていた。1943年以降、西側連合軍がドイツ本土、占領地に空襲を掛ける時期には、この対空偽装はより厳重に徹底されることになる。13.1ミリ機銃2丁の兵装は,爆撃機を迎撃するには貧弱だった。連合軍の護衛戦闘機に対抗するには,性能はともかく,機数や燃料が足りなかった上に,パイロットも未熟練で戦力は劣っていた。

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain:1869–1940)は,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)は,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

ヘンシェル HS-126 ドイツ空軍は,フランス侵攻には、アルベルト・ケッセリング将軍の第二航空軍,フーゴー・シュペルレ将軍の第三航空軍をあて,そこに双発爆撃機1120機,単発Ju-87急降下爆撃機シュツーカ342機,複葉Hs-123襲撃機42機,単発Me-109戦闘機1016機,双発Me-110戦闘機248機を配備した。

1940年5月10日0430,ケルン郊外の航空基地をユンカースJu-52輸送機41機が離陸,輸送機は各々1機のDFS-230グライダーを曳航していた。グライダーには,1機当たり8-12人の降下猟兵(空挺隊員)が搭乗していた。このドイツ空軍の空挺部隊が,ベルギーのマース川の要衝マーストリヒト近くのエバン・エマール要塞に降下し,ベルギー兵士1200人の守備していた近代的な要塞を,その日のうちに攻略した。

1940年5月14日、ドイツの第54,第57爆撃航空団ハインケルHe111爆撃機100機は,停戦交渉中だったにもかかわらず,ロッテルダムを爆撃した。ウィストン・チャーチル首相は、1940年5月26日1857,大陸よりの英軍救出命令ダイナモ作戦(Operation Dynamo)を発動した。

ダイナモ作戦第一日の夕方まで,連合軍将兵7669名が救出され,5月28日だけで,1万7804人が救出された。5月29日には,4万7310名が後送,5月30日には5万3823人が大陸を去った。うちフランス兵は1万4874人だった。5月31日は,6万8014人が,6月1日には6万4429人が英本土に戻ることができた。敗退するフランス軍を前に、フランス政府では和平派(終戦派)が主導権をにぎった。

1940年5月20日,フランスでは、レノー内閣が改造され、副首相に第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥が就任した。1940年5月15日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏と続き、6月10日にはパリが無防備都市を宣言した。このとき、ムッソリーニ統領の指導するイタリアも、南フランスを攻撃した。6月14日、パリにドイツ軍が無血入城した。 独仏戦では,フランス軍は、死者10万人、負傷者12万人、捕虜150万人の損害を出した。他方,ドイツ軍は,死者4万人,負傷者15万人だった。

フランス休戦の場所として、アドルフ・ヒトラーは、第一次大戦のドイツ休戦が調印されたのと同じコンピエーニュの森を指定した。コンピエーニュには、ドイツ降伏調印を行ったのと同じ食堂列車をフランスの博物館から引き出し据え付けて、そこで行った。フランス勝利の記念碑もコンピエーニュにあったが、それも爆破された。第一次世界大戦の敗戦の雪辱を晴らした思いは、第一次大戦の戦闘機エースのヘルマン・ゲーリングも同じであったろう。

フランス休戦は、
1.フランス国土の北部5分の3をドイツ軍政下に置く、
2.フランス軍の武装解除、
3大西洋側の港湾をドイツに引き渡す、
4.フランス艦船の行動停止、
5亡命者の引渡し、
6.フランスによる占領経費の負担、
という条件で認められた。

ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は,フランス降伏後の戦勝報償として、元帥以上の階級として特別に定められた国家元帥に昇進した。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説、その後の1941年6月29日の法令を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,大戦末期、1945年4月23日のベルリン攻防戦の最中に、ゲーリングはヒトラーに対して、連絡が取れなくなった場合、自分がドイツの最高指導者の地位を引き継ぎたいと電文を発した。しかし、ヒトラーは、これをゲーリングンの裏切りと感じ、激怒してゲーリングの公職追放・監禁を命じた。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。



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ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju-88夜間戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ハインケルHe111
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
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