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◆ジーベル(Siebel)Si 104/ Si 204/ C2A 連絡機
写真(上)1937年,ドイツ、1937年7月刊行のフランスの航空雑誌L'Aerophileに掲載されたドイツのジーベル(Siebel)Fh 104 双発輸送機(登録コード:D-IQPG):垂直尾翼に赤帯白丸黒鍵十字のナチ党旗に由来するドイツ国籍マークが描かれている。機首は段有りのソリッド化されたものである。垂直尾翼は1枚で双翼式ではない。
Description English: Siebel Fh.104 photo from L'Aerophile July 1937 Date 1 July 1937 Source http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6554375s?rk=171674;4 Author L'Aerophile magazine
写真は Wikimedia Commons, Category:Siebel Fh 104 File:Siebel Fh.104 photo L'Aerophile July 1937.jpg引用。


写真(上)1945年4月,ドイツ、ドイツ空軍第200爆撃航空団第2飛行中隊所属のドイツのジーベル(Siebel) Si 204D-1 双発輸送機(登録コード:D-OWKA):アルベルト・シュぺーアが、ヒトラー死後にドイツ大統領となったカール・デーニッツ海軍元帥の意向を受けて、西側連合国と講和のためにプラハとスイスのチューリッヒを連絡飛行に使用した機体。双尾翼の国籍マークは、ナチ党鍵十字を廃止し、ドイツの黒白赤の帝国国旗に変更されている。
Description English: Siebel Si 204D-1, D-OWKA, used by 2./KG 200 in support of Albert Speer's peace negotiations in April 1945. The aircraft flew between Prague and Zurich. And in support of Karl Hermann Frank´s negotiations with Karl Dönitz government, he flew it between Prague and Flensburg-Mürwick and Hradec Králové in May 1945. Apparently changed its markings daily. Date 24 February 2014 Source Martin Čížek Author Martin Čížek
写真はWikimedia Commons, Category:Siebel Si 204 "File:Si-204 Frank.jpg"引用。

写真(右)2012年7月,チェコ、プラハ郊外、クーベル航空博物館(Letecké Muzeum Kbely) に展示されているチェコ製ジーベル(Siebel)Si 204双発輸送機/アエロ(Aero)C-3A双発連絡機 (NC-702) 'LB-05':発動機はアルグス(Argus)As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hp2基で、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機、フォッケウルフFw 89近距離偵察機、アラド(Arado)Ar 96練習機と同型である。
Description This is actually a French built NC-702 Martinet which saw French military service as '350'. msn 350. On display in the Post War Hangar, Kbely Museum, Czech Republic. 07-10-2012 Date 7 October 2012, 10:23 Source Aero C-3A (NC-702) 'LB-05
写真は Wikimedia Commons, Category:Aero C-3A at Prague Aviation Museum File:Aero C-3A (NC-702) LB-05 (8247537193).jpg引用。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)帰国を見送るフィンランド共和国リスト・リティ(Risto Ryti)大統領(黒コートにハット)、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が見送りに来た。:ヒトラーは、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日を祝いにフィンランドを日帰り訪問した。ヒトラーには、北極戦線のドイツ第20山岳兵団司令官エデュアルト・ディートル(Eduard Dietl)大将(前列左端)、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がリティ左右に同伴している。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Kuvassa vasemmalta oikealle: tasavallan presidentti Risto Ryti, sotamarsalkka Wilhelm Keitel, valtakunnankansleri Adolf Hitler ja marsalkka Mannerheim.ORGANISATION Military Museum PHOTO INFO 1942-06-04
写真は、FINNA.Fl引用。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、プロイセン、ラステンブルク総統大本営、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が訪問に来たフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と握手をする。:マンネルハイムは、75歳の誕生にヒトラーの訪問を受けたので、答礼にドイツを訪問した。ヒトラーの後ろは、ドイツ国防軍総司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル元帥。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Content Type Photo Organisation Military Museum
写真は、FINNA.Fl引用。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。

1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

1940年6月のフランス降伏で,元帥より上位の国家元帥に昇進。1940年8月以降の英国本土航空決戦は失敗に終わったが,1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では東部戦線に兵力を集中させ,奇襲に成功,大戦果を挙げた。
1942-1943年冬,スターリングラード空輸を請合ったが,失敗。1944年以降のドイツ本土防空戦でも,大損害を被った。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、プロイセン、アドルフ・ヒトラー総統、国防軍総司令部(OKW)作戦部長にアルフレート・ヨーゼフ・ヨードル(Alfred Josef Ferdinand Jodl:1890-1946)大将、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥とともにラステンブルク総統大本営の会議に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥:作戦部長としてヨードル少将は、フランス侵攻の計画を立て、対フランス戦勝利の後、1940年7月19日に二階級特進し砲兵大将に昇進。その後、1940年12月、ヒトラーのソ連侵攻の決心後、「バルバロッサ作戦」を計画した。そして、ソ連侵攻時にソ連軍に配置された共産党政治委員の処刑命令「コミッサール指令」に署名した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo。 写真は、FINNA.Fl引用。



1.ジーベル(Siebel)Fl 104連絡機

写真(右)1937年頃,ドイツ、飛行中のドイツのジーベル(Siebel)Fh 104 双発輸送機(登録コード:D-IQPG):垂直尾翼に赤帯白丸黒鍵十字のナチ党旗に由来するドイツ国籍マークが描かれている。ドイツ、ザクセン、ハレ (Halle)のジーベル社工場で製造された機体。
Description English: Siebel Fh 104 "Hallore" with registration code D-IQPG, built in Halle, Germany in the 1930´s Date 9 January 2014, 13:19:22 Source Own work Author Peter sjogren
写真は Wikimedia Commons, Category:Siebel Fh 104 File:Siebel Fh-104 hallore.jpg引用。

ジーベル(Siebel)Fh 104 ハローレ(Hallore)輸送機は、 ドイツのジーベル(Siebel)が設計、開発、生産した双発機である。

ドイツ機の国籍マークは、1933年1月のヒトラー政権下で、垂直尾翼に赤帯白丸黒鍵十字のナチ党旗に由来するドイツ国籍マークを描いている。1935年の再軍備宣言後、ドイツ空軍機もそれを踏襲している。ジーベル(Siebel)Fh 104 双発輸送機機首は段有りのソリッド化されたもの1種類で、総ガラス張りの機首はない。ジーベル(Siebel)Fh 104は、単尾翼式であるが、後継機ジーベル(Siebel)Si 204は双翼式に変更されてている。

写真(右)1940-1944年頃,ドイツ、ドイツ空軍司令官アルベルト・ケッセルリンク(Albert Kesselring)元帥が操縦するドイツ空軍ジーベル(Siebel)Fh 104 双発輸送機:ソリッド化された機首の先端には、黒鉄十字が大きく描かれている。ドイツ、ザクセン、ハレ (Halle)のジーベル社工場で製造された機体。
Record group Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Inventory information (BASYS-Invenio) Signature Bild 146-1981-066-21A Original title Generalfeldmarschall Kesselring am Steuer seines Flugzeuges. Archive title Albert Kesselring in seinem Flugzeug Siebel Fh 104; ca. 1940-1944 Date 1940/1944 ca. Photographer o.Ang. Source Bundesarchiv Classification Ed 531 Accession number Bild 146-1981-066-21A
写真は Wikimedia Commons, Category:Siebel Fh 104 File:Bundesarchiv Bild 146-1981-066-21A, Albert Kesselring in seinem Flugzeug.jpg引用。


ジーベル(Siebel)Fh 104 の胴体は全金属製で、主翼は合板張り、降着装置は、エンジンナセルに収納可能な油圧式の引込み式降着装置を備えている。

1934年にクレム軽飛行機製造社(Klemm Leichtflugzeugbau)は、クレム(Klemm) Kl 36ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"のような軽飛行機ではなく、全金属製の双発機を開発するためにドイツ中部、ライプチッヒ北西40キロのハレ(Halle)に飛行機製造工場を新設した。そこで、新たに開発されたのが、新しいクレム Kl 104双発輸送機、すなわち後のFh 104双発輸送機である。1937年、クレムのハレ飛行機工場は、フリッツ・ジーベル(Fritz Siebel)が取得し、クレムKL 104は、新たにジーベル(Siebel)Fh 104 と改名された。

ジーベル(Siebel)Fh 104 は、1938年に長距離飛行仕様とされ、1939年にアフリカで4万kmの長距離飛行を成し遂げ、1938年、イタリアのリットリオ・ラリー(Littorio Rally)でも評価された。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、民間航空輸送が衰退したために、ジーベル(Siebel)Fh 104 は、ドイツ軍用の連絡機として使用された。ジーベルFh104を利用したのは、ドイツ空軍司令官アルベルト・ケッセルリンク元帥、技術局長エルンスト・ウーデット(Ernst Udet)大将、エースで戦闘機指揮官アドルフ・ガーランド中将などである。

ドイツのジーベル(Siebel)Fh 104 双発輸送機の後継機が、ジーベル(Siebel)Si 204双発輸送機/練習機である。

写真(右)ドイツのジーベル(Siebel)Fh 104 双発輸送機のコックピット操縦席の操縦桿・計器盤:垂直尾翼に赤帯白丸黒鍵十字のナチ党旗に由来するドイツ国籍マークが描かれている。
Description English: Siebel Fh 104 "Hallore" with registration code D-IQPG, built in Halle, Germany in the 1930´s Date 9 January 2014, 13:19:22 Source Own work Author Peter sjogren
写真は Wikimedia Commons, Category:Siebel Fh 104 File:Askania cockpit aviation.jpg引用。


ジーベル(Siebel)Fh 104双発輸送機の諸元
乗員:2名
乗客:5名
全長:9.50 m
全幅:12.06 m
全高:2.64 m
翼面積:22.3 m2
空虚重量:1,510 kg
運用重量:2,350 kg
発動機:ヒルト(Hirth)HM 508空冷倒立V型エンジン 209 kW (280 hp)2基
最大速度:350 km/h (217 mph)
巡航速度:335 km/h (208 mph)
巡航高度:6,600 m
航続距離:920 km


2.ジーベル(Siebel)Si 204連絡機


写真(右)1940-1942年,ドイツ(?)、飛行中のジーベル(Siebel)Si 204双発連絡機(登録コード:G-ASTU):機首は段有りのソリッド化されたものである。双翼式であることが明瞭に分かる。
Perma_000349 Permann Collection Image Siebel Si 204 --Perman Collection Image--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives 引用。

1938年にドイツ航空省は、全金属製双発小型輸送機の試作依頼をし、ルフトハンザドイツ航空での使用を念頭に、ハレ(Halle)にあったジーベル社が設計を始めたが、1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、民間小型輸送機の受注は見込めなくなった。

第二次世界大戦の勃発によって、民間輸送機の生産が望めない状況で、ジーベルは、試作輸送機を原型に、機首に全面ガラス張りコックピットを配した練習機を開発した。これが、第二次世界大戦勃発後の1940年5-9月に初飛行したジーベル(Siebel)Si 204で、ドイツ空軍に制式されで連絡機・練習機として使用された。アルグス As 411(Argus As 411)空冷倒立V型12気筒エンジン(排気量 12 L)600 PS (592 hp, 441 kW)を搭載した双発機で、試作3号機は1941年末から1942年初頭に初飛行している。


写真(右)1945年,ドイツ(?)、西側連合国の占領軍が鹵獲したと思われるメッサーシュミットBf109戦闘機G後期型と奥にジーベル(Siebel)Si 204双発連絡機:このSi 204は、段無し機首で全面ガラス風防コックピットとされた練習機仕様であり、尖った段有り機首の連絡機仕様ではない。
Perma_000583 Permann Collection Image Messerschmitt Bf 109 --Perman Collection Image--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives 引用。


写真(右)1945年,ドイツ(?)、アメリカ軍が鹵獲したドイツ空軍ジーベル(Siebel)Si 204双発連絡機:戦利品の前で記念撮影をしたアメリカ軍兵士たち。このSi 204は、段無し機首で全面ガラス風防コックピットとされた練習機仕様である。
Perma_000164 Permann Collection Perman collection Image Siebel Si 204(?) in US hands--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives 引用。

ジーベル(Siebel)Si 204の量産は、アルグス As 411(Argus As 411)空冷倒立V型12気筒エンジン(排気量 12 L)600 PS (592 hp, 441 kW)2基でフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機のアルグス(Argus)As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hpの2倍の出力がある。フォッケウルフFw 189近距離偵察機、アラド(Arado)Ar 96練習機も同じアルグス As 411(Argus As 411)空冷倒立V型12気筒エンジン(排気量 12 L)600 PS (592 hp, 441 kW)を搭載している。占領したフランスのSNCANで行われ、先行量産型Si204 A-0、量産型Si204 A-1、Si204D-1練習機が1942年4月から1943年11月に168機生産された。またドイツ占領したのチェコのČKDでもジーベル(Siebel)Si 204 D-0練習機48機、Si204 D-1練習機447機の合計492機生産された。

その他の飛行機メーカーを合わせて、ジーベル(Siebel)Si 204各種合計で、1945年1月までに、総計1,216機が量産されている。


写真(右)1945年,ドイツ(?)、アメリカ軍が鹵獲したドイツ空軍ジーベル(Siebel)Si 204双発連絡機:戦利品の前で記念撮影をしたアメリカ軍兵士たち。このSi 204は、段無し機首で全面ガラス風防コックピットとされた練習機仕様である。
Perma_000166 Permann Collection Perman collection Image Siebel Si 204 in US hands--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives 引用。


写真(右)1945年5月頃,ドイツ敗北時、放棄されたドイツ空軍ジーベル(Siebel)Si 204連絡機:コックピットガラス風防の大半は破損しており、後上方のガラス窓、胴体側面のガラス窓も破損している。エンジンナセルのカバーは開放されている。機体の前に整備台が置かれている。奥には、Bf109G戦闘機が駐機しているが、これもコックピットガラス風防が外れている。ジーベル連絡機は、フランス、ドイツ、オランダ、チェコスロバキア、ポーランド、スウェーデン、スペインでも使用された。
author: SmiertSpionem. Photo taken by Charles Curry in Wunstorf, Germany 1945). Camera used was of the glass plate variety. Image is a cropped section of a larger view.。写真は,Category:Copy to Wikimedia Commons (bot-assessed) File:Siebel 204.jpg引用。


ジーベル(Siebel)Si 204連絡機の発動機は、アルグス(Argus)As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hp2基である。これは、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機、フォッケウルフFw 89近距離偵察機、アラド(Arado)Ar 96練習機と同じである。


写真(右)1945年6月,第二次世界大戦のドイツ降伏直後、オーストリア、飛行場に放棄されたドイツ空軍ヘンシェルHS-126偵察機、ハンガリー空軍の使用したドイツ製アラド(Arado)Ar 96練習機、2機のフランス製ジーベル(Siebel)Si 204連絡機:戦後に進駐したオーストラリア軍が検分している。このジーベル(Siebel)Si 204は、機首が尖った段有り式で、練習機仕様ではなく、連絡機仕様であることがわかる。ヘンシェルHS-126は、本来近距離偵察機だったが、大戦後半には、小型グライダー曳航機として使用された。
An abandoned German Henschel Hs 126B reconnaissance aircraft on an Austrian airfield in June 1945. The Hs 126 was commonly used as an artillery observation aircraft early on in the war but by 1942 had been relegated to training and glider towing duties. In the background of this photograph are an Arado Ar 96 trainer in Hungarian markings and two Siebel Si 204 liaison aircraft. Date June 1945 Source IWMLondonThumbnail.jpg This is photograph CNA 3632 from the collections of the Imperial War Museums. Flag of the United Kingdom.svg Author Royal Air Force official photographer。写真は,Category:Siebel Si 204 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/84/German_utility_aircraft_in_Austria_1945.jpg引用。

未舗装の飛行場の利点は、次のような3点である。
1)経費を節約できる。
2)空襲を受けた後の復旧が容易になる。
3)上空から周辺の牧場と区別がつきにくく、敵から発見されにくい。


写真(右)1947年9月24日,オランダ南部、ノールトブラバンド州フォルケル (Volkel)飛行場、フランス製ジーベル(Siebel)Si 204連絡機を背景にしたオランダ王家ベルンハルト王子とフォルケル海兵隊:戦時中、ドイツ空軍のために生産されたジーベル連絡機は、フランス、ドイツ、オランダ、チェコスロバキア、ポーランド、スウェーデン、スペインでも使用された。
Description Nederlands: Collectie / Archief : Fotocollectie Anefo Reportage / Serie : [ onbekend ] Beschrijving : Prins Bernhard bij de Mariniers te Volkel Datum : 24 september 1947 Locatie : Noord-Brabant, Volkel Trefwoorden : MARINIERS Persoonsnaam : Bernhard, prins Instellingsnaam : Korps Mariniers Fotograaf : Sagers, Harry / Anefo Auteursrechthebbende : Nationaal Archief Materiaalsoort : Glasnegatief Nummer archiefinventaris : bekijk toegang 2.24.01.09 Bestanddeelnummer : 902-3783 Date 24 September 1947 Author Harry Sagers / Anefo。写真は,Category:Siebel Si 204 File:Prins Bernhard bij de Mariniers te Volkel, Bestanddeelnr 902-3783.jpg引用。


1935年に創設されたドイツ空軍は、1933年5月初飛行のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機を制式し、ついで、1934年初飛行のアラド(Arad)Ar 68戦闘機、メッサーシュミットBf 109を制式した。そこで、旧式化したハインケル(Heinkel)He-51戦闘機隊は、第一線部隊からは退役したが、複葉機で操縦が容易だったために、練習機として使われた。1939年9月、第二次世界大戦が勃発した時にも、He51戦闘機は練習機として使われていた。

第一次大戦に敗北し、ベルサイユ条約の頸木に繋がれたドイツ航空界にとって、民間に認められた航空学校用飛行機、G-38大型輸送用機、Do-X超大型飛行艇などの民間機の開発を進めたことは、設計・量産の上で、ドイツ国内の民需航空需要を満たし、航空機輸出を盛んにし、技術開発と資本蓄積に大いに貢献した。ドイツ航空界は、ヒトラーが政権獲得前に、すでに十分な航空機開発の実績を達成し、後の第三帝国における軍用機開発にも繋がるのである。


写真(右)1960年代、北アフリカ、フランス植民地アルジェリア、フランス空軍SNCAC NC.701 マルティネ (Martinet)練習機:ジーベル(Siebel)Si 204連絡機を原型にして、1944年に、エンジンをフランス製 ルノー 12S-00 空冷 倒立V型12気筒エンジン、440 kW (590 hp)に換装した。後方にはPBYカタリナ飛行艇水陸両用型が見える。
SNCAC NC.701 Martinet, French AF, North Africa, 1944 03600045 Jack D. Canary Special Collection Photo Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968. COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive Martinet is a Siebel Si-204 with French Renault Snecma 12S engines Post war version (service: late 1945) 
写真は,SDASM Archives 引用。

1940年6月にドイツに降伏、占領されたフランスのブールジュで、SNCACはドイツ空軍用のジーベル(Siebel)Si 204連絡機の生産を命じられ、1942年から1944年7月の解放までに168機を生産した。そして、再び主権を取り戻したフランスでも、Si204は生産を続行することになり、新たにNC.700と命名された。そして、NC.700の試作1号機は、ジーベル(Siebel)Si 204のドイツ製アルグス As 411エンジンをフランス製ルノー 12S-00エンジンに換装し完成した。

フランス空軍SNCAC NC.701 マルティネ (Martinet)練習機は、 ジーベル(Siebel)Si 204D練習機を原型にして、コックピットを総ガラス張り段無し機首とし、複式操縦装置を備えた練習機で、航法・通信・機関などの訓練生5名を搭乗させることができた。


3.アエロ(Aero)C-3A 連絡機/練習機



写真(上)2012年7月,チェコ、プラハ郊外、クーベル航空博物館(Letecké Muzeum Kbely) に展示されているチェコ製ジーベル(Siebel)C 3 A(Si 204)双発輸送機(登録コード:D-OWKA)
:ドイツ、ハレ (Halle)のジーベル社工場で製造されていたジーベル(Siebel)Si 204 D-1双発輸送機を、1943年3月からドイツ保護領ボヘミア・モラビア(Protectorate of Bohemia and Moravia)、すなわち現在のチェコで生産し、戦後も引き続きアエロ(Aero)C-3Aと命名されて生産が継続された。ソリッド化された機首ではなく、全面ガラス風防段無し機首である。戦時中350機が生産された。
Description The C-3A was a copy of the WW2 German Siebel Si-204. This is actually a French built Nord NC-702, again based on an Si-204. msn 350. On display in the Post War Hangar, Kbely Museum, Czech Republic. 07-10-2012 Date 7 October 2012, 10:21 Source Aero C-3A (NC-702) 'LB-05' Author Alan Wilson
写真はWikimedia Commons, Category:Siebel Si 204 "File:Si-204 Frank.jpg"引用。


元来、ハプスブルク王朝オーストリア帝国の隷下にあったチェコ人だったが、第一次世界大戦でオーストリアが敗北した後に、独立国「チェコスロバキア」となった。この1918年の独立時には、ボヘミア歴史的伝統から白・赤の横二色旗が採用されたが、これは同じ時期に独立したポーランドと同じ二色旗だった。そこで、チェコスロバキア国旗は、白、赤に青を加えた三色旗となり、汎スラヴ色ともいわれるが、フランス三色旗と同じ色を採用している。


写真(右)2010年,チェコ、プラハ郊外、クーベル航空博物館(Letecké Muzeum Kbely) に展示されているチェコ製ジーベル(Siebel)Si 204双発輸送機/アエロ(Aero)C-3A双発連絡機 (NC-702) 'LB-05':発動機はアルグス(Argus)As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hp2基で、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機、フォッケウルフFw 89近距離偵察機、アラド(Arado)Ar 96練習機と同型である。
Description Čeština: C-3A, license build Siebel Si.204 ; Letecké muzeum Kbely Date 2010 Source Self-photographed Author Dezidor
写真は Wikimedia Commons, Category:Aero C-3A at Prague Aviation Museum File:Letecké muzeum Kbely (120).jpg引用。


1938年に、ヒトラー・ドイツは、チェコスロバキアに対して、ドイツ系住民、民族ドイツ人の居住するズテーテン地方の自治を要求し、その後、ドイツへの割譲を求めた。チェコスロバキアは、第一次大戦戦勝国イギリス、フランスの支援を得ようとしたが、逆に、英仏はドイツとの開戦を避けるためにチェコスロバキアにズテーテンのドイツへの割譲を強要した。これが、悪名高い1938年9月のミュンヘン会談できまった、英独仏伊のミュンヘン協定である。ここではハンガリーが旧領スロバキアとカルパティア・ルテニアを、ポーランドがシレジア の割譲をチェコスロバキアに要求している。こうして、1938年11月、第一次ウィン裁定で、チェコスロバキアの領土が、ドイツ保護領ベーメン・メーレン保護領ボヘミア・モラビアProtektorat Böhmen und Mähren)、ハンガリー、ポーランドに割譲されることになったのである。

1938年11月、第一次ウィーン裁定では、チェコ・スロバキアにスロバキア自治政府が樹立されたが、翌1939年3月、ドイツの後ろ盾を得て、ヨゼフ・ティソJozef Tiso)を指導者とするドイツ傀儡国家スロバキアSlovakia)が、チェコ=スロバキアから独立し、ドイツ隷下の保護国スロバキア共和国となった。しかし、1939年3月には、残ったチェコもドイツに併合されてしまった。これが、1939年のチェコスロバキア解体である。こうしてチェコは、ドイツに隷属するベーメン・メーレン保護領保護領ボヘミア・モラビアProtektorat Böhmen und Mähren)となったが、チェコ支配の円滑化のために、前身のチェコ三色旗は引き継がれて、白・赤・青の三色旗が採用された。1945年5月のドイツ敗北後、再びチェコスロバキアは独立し、三色旗もそのままだった。そして、1993年1月1日のチェコ・スロバキア分離、「ビロード革命」の後もが三色旗は継承されている。

写真(右)2010年,チェコ、プラハ郊外、クーベル航空博物館(Letecké Muzeum Kbely) に展示されているチェコ製ジーベル(Siebel)Si 204双発輸送機/アエロ(Aero)C-3A双発連絡機 (NC-702) 'LB-05'
Čeština: Letecké muzeum Kbely English: Aero C-3A, copy of Siebel Si.204 in Kbely museum. Date 2010 Source Self-photographed Author Dezidor
写真は Wikimedia Commons, Category:Aero C-3A at Prague Aviation Museum File:Aero C-3A (NC-702) LB-05 (8247537193).jpg引用。


ドイツ、ハレ (Halle)のジーベル社工場で製造されていたジーベル(Siebel)Si 204 D-1双発輸送機を、1943年3月からドイツ保護領ボヘミア・モラビアProtectorate of Bohemia and Moravia)、すなわち現在のチェコで生産した。これは、ドイツでは戦闘機の生産急増が急務になったためで、必要性はあっても第二線用の機体は、占領地の資本を動員いて生産されるようになった。

ジーベル(Siebel)Si 204 Dは、アルグス As 411(Argus As 411)空冷倒立V型12気筒エンジン(排気量 12 L)600 PS (592 hp, 441 kW)2基搭載、小型堅牢で量産向きだったため、戦後に保護領ボヘミア・モラビアProtectorate of Bohemia and Moravia)から新たに独立国となったチェコスロバキアのアエロ(Aero)C-3Aと命名されて生産が続けられることになった。これらの機体は、ソリッド化された機首ではなく、すべてが全面ガラス風防段無し機首である。1943年3月から1945年春の敗戦までに、ジーベル(Siebel)Si 204はドイツ保護領ベーメン・メーレン保護領ボヘミア・モラビアProtektorat Böhmen und Mähren)で350機が量産された。


写真(右)2012年7月,チェコ、プラハ郊外、クーベル航空博物館(Letecké Muzeum Kbely)博物館の格納庫ハンガーに展示されているチェコ製アエロ(Aero)C-3A双発連絡機 (NC-702) 'LB-05':ドイツ、ハレ (Halle)のジーベル社工場で製造されていたジーベル(Siebel)Si 204 D-1双発輸送機を、1943年3月からドイツ保護領ボヘミア・モラビア(Protectorate of Bohemia and Moravia)、すなわち現在のチェコで生産し、戦後も引き続きアエロ(Aero)C-3Aと命名されて生産が継続された。ソリッド化された機首ではなく、全面ガラス風防段無し機首である。戦時中350機が生産された。
Description A French built aircraft, painted to represent a Czech built C-3A. msn350. On display in the Post War Hangar, Kbely Museum, Czech Republic. 07-10-2012 Date 7 October 2012, 10:21 Source Aero C-3A (NC-702) 'LB-05' Author Alan Wilson
写真は Wikimedia Commons, Category:Aero C-3A at Prague Aviation Museum File:Aero C-3A (NC-702) LB-05 (8248616016).jpg引用。


ドイツは、自国ハレ(Halle)のジーベル社工場で生産していたジーベル(Siebel)Si 204 D-1双発輸送機を、1943年3月からドイツ隷下のボヘミア・モラビア保護領(Protectorate of Bohemia and Moravia)、すなわち現在のチェコで生産している。


写真(右)2006年8月,チェコ、航空博物館の格納庫ハンガーに展示されているチェコ製アエロ(Aero)C-3A双発連絡機 (NC-702) 'LB-05':フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機と同じアルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hp2基を搭載している。
Siebel Si 204D, Aviation Museum Prague Kbely. The plane was assembled in 2001-2003 using original parts owned by the museum since 1970s, airframe of SNCAC NC-702 MARTINET acquired from France in 2000 and newly manufactured parts. Date 24 August 2006 Source Own work Author Jan Suchý (JanSuchy)
写真は Wikimedia Commons, Category:Aero C-3A at Prague Aviation Museum File:Siebel 204 kbely museum.jpg引用。


そして、戦後も引き続きアエロ(Aero)C-3Aと命名され生産は続けられた。チェコのアエロ(Aero)C-3Aは、ソリッド化された機首のタイプはなく、みな全面ガラス風防段無し機首型である。ジーベル(Siebel)Si 204 D双発機は、ボヘミア・モラビア保護領で1943年3月から終戦までに350機が生産された。


写真(右)2012年7月,チェコ、プラハ郊外、クーベル航空博物館(Letecké Muzeum Kbely)博物館の格納庫ハンガーに展示されているチェコ製アエロ(Aero)C-3A双発連絡機 (NC-702) 'LB-05'
English: Siebel Si 204 (Aero C-3A) at Prague Aviation Museum. Date 30 April 2016, 12:12:18 Source Own work Author CS92
写真は Wikimedia Commons, Category:Aero C-3A at Prague Aviation Museum File:Siebel Si 204 - Stará Aerovka.JPG引用。


アエロ(Aero)C-3Aは、1941年に初飛行したジーベル(Siebel)Si 204双発連絡機のドイツ隷下ボヘミア・モラビア保護領(現在のチェコ)生産型で、堅牢、小型で製造も整備も容易だったために、終戦まで運用された。ドイツ保護領ボヘミア・モラビア(現在のチェコ)で生産されるようになった契機は、ドイツのジーベル社が、他機種のライセンス生産を引き受けたために、フランス、ドイツ保護領ボヘミア・モラビア(現在のチェコ)でアエロ(Aero)C-3Aがライセンス生産されるようになった。第二次世界大戦終戦後でも、チェコのアエロ社でアエロ(Aero)C-3Aと命名され、生産が引き続きなされた。1949年まで179機が量産されている。


4.フォッケウルフ Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機/輸送機

ドルニエ(Dornier)Do JワールWal飛行艇と形状が似ているフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機似たような愛称を付けられたと言えるが、共に堅牢な構造で実用性が高かったために生産終了後も長らく使用されている。

写真(右)1935年3月以降、ドイツ、飛行中のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(登録コード:D-OCRQ):1933年1月のアドルフ・ヒトラー政権になっても、ドイツは1935年3月のドイツ再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、ドイツ機の尾翼に描いて、国籍マークとしていた。
Description Focke-Wulf FW-58 Weihe (D-OCRQ) (1933-1945) Date 16 July 2021, 17:49 Source Focke-Wulf FW-58 Weihe (D-OCRQ) (1933-1945) Author tormentor4555
写真はCategory:Focke Wulf F 19 引用。


1935年のヒトラーの再軍備宣言以降は、ドイツ空軍機は、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを描いた。これは、ナチ党の政治的、人種的イデオロギーを軍人にも浸透させるためである。軍人の忠誠宣言も、ドイツに対してではなく、ヒトラー総統に対する忠誠を誓うものに変更された。また、航空機の高速化で、敵味方の識別しやすいように、機体と主翼上下面にも、白の縁取り付き黒色バルカンクロス(鉄十字)の国籍マークを記入した。

ドイツは第一次世界大戦で敗戦国となった後、1919年11月のベルサイユ条約の軍備制限条項の下に置かれた。つまり、ドイツは、兵力数10万人以下、徴兵制禁止、軍艦保有量10万トン以下に制限され、潜水艦と空軍の保有は禁止された。しかし、1933年1月にドイツ首相に任命されたヒトラーは、1935年3月に、ベルサイユ条約を破棄して再軍備宣言をした。その後、ドイツ機の国籍マークは、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)とされた。

フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機諸元:
全長: 14.2 m
全幅: 21.00 m
全高: 4.5 m
翼面積: 47平方メートル
自重: 2,400 kg
全備重量: 3,600 kg
エンジン: アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒 240 hp ×2
最高速力: 280 km/h
実用上昇限度: 5,600 m
航続距離: 800 km
乗員: 6 名

1935年までの旧ドイツ軍の黒白赤三色の国章を、1935年のドイツ空軍設立以後は、赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)の国章に変更し、その後に、機体にバルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。しかし、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は敵から発見されやすいことが分かり、取りやめになったが、垂直尾翼と主翼上下面に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。

オランダは、1939年9月初頭、ドイツがポーランド侵攻し、直ぐにイギリス・フランスが宣戦布告した後も、中立の立場を表明していた。しかし、1940年5月、ドイツ軍のフランス侵攻「ゲルフ」黄色作戦では、ドイツはオランダの中立を無視して、オランダ、ベルギーにも侵攻した。しかしう、1937年の時点では、オランダは、第一次大戦のときと同じく、紛争に際して中立を守ることが可能であると考えていた。そのため、ドイツとの友好維持もあって、ドイツのフォッケウルフ社からフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"を購入したのであろう。


写真(上)1937年10月12日,オランダ、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、売り込みのためにオランダにデモ飛行してきたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機D-OQYT
:低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
Collectie Foto Technische Dienst Luchtvaartafdeeling Objectnummer 2011-1589 Beschrijving Duitse Focke-Wulf Fw 58 Weihe op Soesterberg voor het geven van demonstraties voor de LVA. Plaats Soesterberg, Utrecht, Nederland Datering van 1937-10-12 Datering tot 1937-10-12 Trefwoorden proefnemingen, activiteiten, Foto Technische Dienst Luchtvaartafdeeling, Luchtvaartafdeeling, Focke-Wulf Fw 58 Weihe, lesvliegtuigen, lesvliegtuigen, vliegtuigen, bezoeken, activiteiten Specifieke kenmerken D-OQYT Vervaardiger Onbekend Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2011-1589"引用。


1933年1月末、ナチ党を首班とする連立政権が成立、アドルフ・ヒトラーは、貴族的、ユンカー的なプロシア軍の伝統を軽蔑しており、ナチ党のイデオロギーを軍に浸透させるべきであると考えていた。そこで、ドイツ軍機の国章は、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降は、垂直尾翼尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)を描いた国章とされた。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は目立つために敵からの標的にされやすかったので取りやめになった。

フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機は、全備重量 3,600 kg、アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hp2基搭載、最高速力 280 km/h、航続距離 800 kmの安価で使いやすい機体だった。

そこで、フォッケウルフ社は、1937年7月と10月、オランダに売り込むために、Focke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(D-OQYT)を使って、オランダに対するデモ飛行を実施した。この時に関心を持ったオランダ陸軍航空隊は、フォッケウルフFw 58 "Weihe"ワイエを軽輸送機・練習機として、複数機購入した。

オランダの購入したFw58は、登録番号197、198、199の3機が知られている。その写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie に掲載、公開されている。

写真(右)1937年10月12日,オランダ、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、売り込みのためにオランダにデモ飛行に飛来したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機(D-OQYT):エンジンナセルの下に、引込み式の降着装置がある。コックピットのガラス風防は閉鎖されていて、その後方外側には、主翼を支える支柱が取り付けられている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000670 Beschrijving Vooraanzicht Focke-Wulf Fw 58 Weihe D-OQYT. Plaats Soesterberg, Utrecht, Nederland Datering van 1937-10-12 Specifieke kenmerken D-OQYT Vervaardiger ML Copyright NIMH Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000670"引用。


1939年7月1日、オランダ陸軍航空隊の増強が決まったが、陸軍航空隊の配備機は200機しかなく、航空機の増加と並んで、搭乗員の急速な養成が求められたのである。そこで、空軍力を強化するために、双発練習機として、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58"Weihe"ワイエ軽輸送機・練習機を購入することを決めた。陸軍航空隊のための操縦士、航法士、通信士、銃手などの養成が本格的に始まったのである。

  1934年、ゲーリング隷下の航空省は、軽輸送・連絡機として使用できる双発多用途機の施策を命じたが、これに応えてアラド(Arado)は、Ar 77を試作した。

他方、フォッケウルフ(Focke-Wulf)は、Fw 58 V1 試作1号機(D-ABEM, 製造番号 W.Nr. 451) を試作し、1935年1月18日に初飛行させた。Fw-58の胴体は、鋼管溶接に金属外皮の前部、羽布張の後部からなり、高アスペクト比の主翼は金属製主桁に金属外皮の前縁、羽布張の外縁からなっている。生産機数は、1942年までに1670機が量産されている。

フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"は、8機がルフトハンザドイツに納入された。そして、1937年にドイツ空軍に制式され、通信・偵察・航法などの機上作業練習機として、そして機関調整など多発機の操縦訓練に用いられた。当日は引込み式降着装置と低翼単葉機が出始めたばかりで、Fw58の設計は斬新であり、決して古めかしいものではなかった。また、軽量で操作しやすいことを活かして、短距離の軽輸送・連絡から患者輸送機にも用いられた。また降着装置を双浮舟フロートに変更した水上仕様のFw58BW型が開発され、少数が生産された。

1940年5月、ドイツは、 フランス侵攻のために、中立国オランダに侵入し、オランダ陸軍航空隊は、反撃を開始した。しかし、圧倒的に優勢なドイツ軍の前に、オランダ軍は1週間で壊滅状態となり、イギリス・フランスの遠征軍も退却してしまった。

フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"多用途双発機の諸元
全長: 14.2 m
全幅: 21.00 m
全高: 4.5 m
翼面積: 47 m2
自重: 2,400 kg
全備重量: 3,600 kg
発動機: アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン(排気量: 12.68 L)240 PS (237 hp; 177 kW) ×2
最大速度: 280 km/h
実用上昇限度: 5,600 m
航続距離: 800 km
乗員: 6 名

写真(右)1942年初め,ロシア、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機:機首ガラス風防の下に流線形カバーに覆われた爆撃照準器が見える。エンジンには2翅プロペラがついているが、これは可変ピッチである。機首に7.92ミリMG15旋回機銃を装備している軽輸送機型。練習機として使用するときは機上射撃訓練用にも使用できたようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-396-1623-23A Archive title: Rußland, Bereich HG Nord.- Focke-Wulf Fw 58 "Weihe"; KBK Lw 4
Dating: 1942 Anfang
Photographer: Brase、Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-396-1623-23A"引用(他引用不許可)。


フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機は、機上作業練習機、軽輸送・連絡機として1935年に初飛行。胴体は、鋼管溶接に前部が金属外皮、後部が羽布張りで、主翼は前部が金属外皮、中部・後部は羽布張りで軽量化を図っている。

写真(右)1942年、ブラジル南岸、リオデジャネイロ、ガレアン (Galeão)航空基地、ドイツから輸入した機体・部品を組み立て中のブラジル空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機:機首ガラス風防の先端に、半球型ガラス風防を取り付ける前に内部を組み叩ている。エンジン自体は取り付けられていない。エンジンナセルはあるが、そこに引込み式降着装置・車輪は取り付けられていない。流線形カバーはあるが、内部には爆撃照準器は取り付けられていない。コックピットのガラス風防は出入りする可動部分は未装着である。
Photographer Unknown Title Base Aérea do Galeão. Description Português: Fundo Agência Nacional. Date 1942 Collection Brazilian National Archives Source Arquivo Nacional (in English: The Brazilian National Archives)
写真はWikimedia Commons, Category:Focke-Wulf Fw 58 File:Base Aérea do Galeão..tif引用。


フォッケウルフ Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機総生産機数は、1,350機。 オランダ、アルゼンチン、ブラジル、クロアチア、ルマニア、スペイン、トルコでも使用された。

ドイツの フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機は、オランダ陸軍航空隊で制式されたが、さらにアルゼンチン 3機, ブラジル 10機, ブルガリア 8機, ルーマニア 22機, スウェーデン 2機, トルコ 6機, ハンガリー 27機, オーストリア 6機が、1942年から1945年に輸出された。ドイツ航空省によれば、各国に納入したフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 "Weihe"ワイエは、ブルガリア10機、ルーマニア5機、スウェーデン2機、スロバキア12機、ハンガリー202機である。

フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"総生産機数1668機の型式会社別内訳

試作機(Versuchsmuster) 6機 (V1–V6, 製造番号W.-Nr. 451, 452, 802, 1833, 1970, 1199)
B型: FW 307機 合計395機 (B-1、B-2)
C型: FW 203機 MIAG 385機 Gotha(ゴータ)460機 合計1191機(C-1、C-2)
各種販売型: 合計76機
*MIAG(Mühlenbau und Industrie Aktiengesellschaft)は、1925年設立、ドイツ中部、ブラウンシュヴァイクにある機会航空機工場を保有していた。

フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"機上作業練習機諸元:
全長: 14.2 m
全幅: 21.00 m
全高: 4.5 m
翼面積 47平方メートル
自重: 2,400 kg
全備重量: 3,600 kg
発動機:アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン(排気量:12.677 L)240 hp 2基
最高速力: 280 km/h
実用上昇限度: 5,600 m、航続距離: 800 km
乗員: 6 名

⇒写真集Album:フォッケウルフFw 58 "Weihe"ワイエ練習機を見る。


5.フォッケウルフFw-189ウーフー近距離偵察機

写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189A近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
写真は,.finna.fi/登録・引用


写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81Z連装旋回機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。
Kevyt saksalainen pommikone. Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Kevyt saksalainen pommikone. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J.
写真は,.finna.fi/登録・引用


フォッケウルフFw189 1937年、ドイツ航空省は、地上部隊と連携できる近距離偵察機の開発を各社に養成し、フォッケウルフ社はそれに応じて、Fw189を開発した。このフォッケウルフFw-189近距離偵察機は、大戦後半になってから、ヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。

フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189の諸元
全長: 12.02 m
全幅: 18.39 m
全高: 3.10 m
翼面積: 38.00 m2 全備重量: 3,945 kg
自重: 2,800 kg
発動機: アルグス As 410A-1 空冷12気筒 465 hp × 2
最高速力: 349 km/h(2600 m)
上昇限度: 7300 m
航続距離: 670 km
兵装
7.92 mm機関銃 × 4
爆弾 200 kg
乗員: 3 名

フォッケウルフFw-189偵察機を見る。


6.アラド(Arado)Ar 96高等練習機

写真(右)1939年9月-1940年,第二次世界大戦初期、編隊飛行するアラド(Arado)Ar 96高等練習機(BI-AP):Fw 58双発練習機と同じ発動機アルグス(Argus)As 410空冷倒立8気筒エンジン1基を搭載した単発機操縦用の高等練習機。 ドイツの国籍マークが白縁の付いた目立つスワスチカ(鍵十字)と鉄十字なので、大戦前半の撮影になる。
Deutsch: Arado Ar 96 A mit 1 × Argus As 10C, 240 PS, (BI + AP), FFS und Standort/Flugplatz unbekannt. Flugschüler vermutlich Uffz Fritz Metzler(*) aus Bad Mergentheim, Baden-Württemberg, ca. 1939-40. Am Bildrand, links, sind Kesselwagen auf einem Abstellgleis der Flugplatzbahn zu erkennen, mit denen zuvor Flugbenzin (u.a.) angeliefert worden war. Ein Beispiel dafür, wie nahe die Flugplatzbahnen an die Flugfelder herangeführt wurden. Auf dem südöstlichen Areal des Flugplatzes Giebelstadt existierte ebenfalls ein von der Flugplatzbahn "Gaukönigshofen-Wolkshausen-Flugplatz Giebelstadt" nach Osten abzweigendes Stichgleis für die Versorgung des Treibstoffdepots. Diese Bahn, und das Depot wurde auch nach 1945 von der US Air Force bis ca. 1960 weiter betrieben. Der Eisenbahn-Gütertransport wurde je nach Bedarf von der USAF bei der DB angefordert. Die DB musste hierfür auch stärkere Lokomotiven auf die Strecke bringen, u. a. die Dampflok-Baureihe 86 der DR/DB ist für die Flugplatzbahn nach Giebelstadt nachgewiesen, sowie für 1944 im Rahmen der Bauarbeiten zur Verlängerung der Startbahn die DR-Baureihe 75 252 (Badische VI b)Author W-R-Hesse-Fotos
写真はWikimedia Commons,Category:Arado Ar 96 File:Arado Ar 96 A, 'BI+AP', FFS unbekannt, ca. 1940.jpg引用。


アラド(Arado)Ar 96高等練習機試作機は、Fw58双発練習機と同じく1938年に初飛行し、1939年から第二次大戦中に2891機が量産された。また、フランスでのアラド(Arado)Ar 96高等練習機生産も開始されたが、1944年6月の西側連合国軍の欧州侵攻で頓挫し、現在のチェコスロバキア、同時のドイツ隷下保護領ベーメン・メーレン保護領ボヘミア・モラビアProtektorat Böhmen und Mähren)で生産が続行された。

写真(右)1939年9月以降,第二次世界大戦中、編隊飛行するアラド(Arado)Ar 96高等練習機(86と89):Fw 58双発練習機と同じ発動機アルグス(Argus)As 410空冷倒立8気筒エンジン1基を搭載した単発機操縦用の高等練習機。 ドイツの国籍マークが白縁の付いた目立つスワスチカ(鍵十字)と鉄十字なので、大戦前半の撮影になる。
Description Deutsch: Arado Ar 96 B, Schulflugzeug der Luftwaffe (1939-1945) mit 1x Argus As 410 A-1 luftgekühlter hängender 60°-Zwölfzylinder-V-Motor. English: Arado Ar 96 B, Luftwaffe standard advanced trainer with 1x Argus As 410 engine. Date Unknown date Source http://www.nationalmuseum.af.mil; gallery; exact source for image 090211-F-1234S-001 Author U.S. Air Force photo Permission (Reusing this file) Public domain This image or file is a work of a U.S. Air Force Airman or employee
写真はWikimedia Commons,Category:Arado Ar 96 File:Arado Ar-96.jpg引用。


アラド(Arado)Ar 96高等練習機は、全金属製、単葉低翼、引込み式降着装置、密閉式コックピットを採用した近代的な高等練習機で、Bf109、Fw190戦闘機のような高速機で激しい運動をする単発飛行機に有用な練習機だった。1938年に初飛行したのも、既に存在していた高速戦闘機のための練習機として必要だったからである。

写真(右)2007年11月,ドイツ、ベルリン、ドイツ技術博物館 (Deutsches Technikmuseum)に展示されているアラド(Arado)Ar 96 B-1高等練習機の機首:Fw 58双発練習機と同じ発動機アルグス(Argus)As 410空冷倒立8気筒エンジン(340 hp)1基を搭載しているが、これは1943年に当時のドイツ保護領(現在のチェコ)、アビア社(Avia AG)プラハ工場で製造された。
Description Deutsch: Arado Ar 96 B-1, Avia AG, Prag, Baujahr 1943, Motor 410a (340 PS) English: Arado Ar 96 B-1, Avia AG, Prague, year of manufacture 1943, motor 410a (340 hp) German Museum of Technology Blue pencil.svg wikidata:Q706530 Date 1 November 2007 Source Own work Author Aconcagua Permission (Reusing this file) GFDL, Cc-by-sa-3.0
写真はWikimedia Commons,Category:Arado Ar-96 at Deutsches Technikmuseum Berlin File:Arado Ar 96.jpg引用。


しかし、アラド(Arado)Ar 96高等練習機試作生産が本格化したのは、第二次世界大戦が勃発した後、1940年代中ごろからである。しかし、このころにはアラド社は、第一千機の委託生産に忙しかったために、アラド社でのアラド(Arado)Ar 96練習機の生産は224機で打ち切られた。その代わり、ドイツイカプローニ(Caproni)Ca.310保護領ベーメン・メーレン(現在のチェコ)のレトフ(Letov)とアビア(Avia)で委託生産され、各々生産550機、1825機を量産している。は前期型はAGO社で、後期型はチェコのレトフ社とアヴィア社で行われ、戦後もC-2という名称で数年間続けられた。合計1万1,000機以上製造されている。結局、第二次大戦終戦までに、ドイツとその隷下ドイツ隷下保護領ベーメン・メーレン保護領ボヘミア・モラビアProtektorat Böhmen und Mähren)では、アラド(Arado)Ar 96練習機は合計2890機が量産されている。

写真(右)2014年11月,ドイツ、ベルリン、ドイツ技術博物館 (Deutsches Technikmuseum)に展示されているアラド(Arado)Ar 96 B-1高等練習機の機首:Fw 58双発練習機と同じ発動機アルグス(Argus)As 410空冷倒立8気筒エンジン(340 hp)1基を搭載しているが、これは1943年に当時のドイツ保護領(現在のチェコ)、アビア社(Avia AG)プラハ工場で製造された。
English: The Deutsches Technikmuseum Berlin is a museum of general technology, ships, planes, cars and rail Date 28 November 2014, 15:43:25 Source Own work Author © Ra Boe / Wikipedia Permission (Reusing this file) raboe001-at-web.de -- Ra Boe watt?? 16:32, 9 September 2016 (UTC)
写真はWikimedia Commons,Category:Arado Ar-96 at Deutsches Technikmuseum Berlin File:Arado Ar 96.jpg引用。


アラド(Arado)Ar 96 B-2高等練習機の諸元
全幅: 11.0 m
全長: 9.13 m
全高: 2.6 m
主翼面積: 17.1 m2
機体重量: 1,695 kg
発動機: アルグス(Argus)As 410A-1空冷倒立V型12気筒エンジン465 PS (459 hp: 342 kW)1基
プロペラ:2翅可変ピッチ金属製プロペラ
最高速力: 330 km/h
航続距離: 990 km
武装
7.92mm MG17前方固定機関銃1挺
乗員: 2名


7.カプローニ(Caproni)Ca.310 リベッチオ(Libeccio:南西風)軽爆撃機

写真(右)1942年,北アフリカ、リビア(?)、イタリア空軍が放棄したカプローニ(Caproni)Ca.310リベッチオ(Libeccio:南西風)軽爆撃機:垂直尾翼にはイタリア三色旗、主翼上面と下面にはファッシ(束ねた斧)のファシストの国籍マークが描かれている。胴体後方が大きく破損している。小型で安価な双発多様時は、イタリアからペルー、ノルウェー、クロアチア、スペイン、ユーゴスラビアに輸出されている。
Description עברית: מטוס גרמני פגוע במדבר המערבי, 1942 - ניר מן Date 1942 Source עברית: ביתמונה Author עברית: ביתמונה
写真は Wikimedia Commons, Category:Caproni Ca.310 File:מטוס גרמני פגוע במדבר המערבי 1942 - iניר מןi btm7899.jpeg引用。


第二次世界大戦勃発直後の1939年12月22日に中立国イタリアで初飛行したカプローニ(Caproni)CA 311軽爆撃機は、チェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)の設計になる。イソッタ(Isotta Fraschini)デルタ(Delta)R.C.35 I-DS空冷倒立V型エンジン 545 kW (730 hp)2基搭載、最高速力430 km/h (268 mph, 233 kn)、航続距離 1,700 km (1,050 mi, 910 nmi)、実用上昇限度 8,500 m (27,880 ft)、7.7ミリ(.303 in) ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃3丁、爆弾搭載量 400 kg (882 lb)。機体後上方に銃座のように2本のアンテナ支柱が装備されている。生産機数 271機。

写真(右)1941年頃,ペルー、飛行場に待機しているペルー空軍のカプローニ(Caproni)Ca.310リベッチオ(Libeccio:南西風)軽爆撃機:小型で安価な双発多様時は、イタリアからペルー、ノルウェー、クロアチア、スペイン、ユーゴスラビアに輸出されている。
English: Peruvian soldiers walk past a Peruvian Caproni Ca.310 Libeccio in 1941 Español: Soldados peruanos caminan al lado de un Caproni Ca.310 Libeccio peruano en 1941. Date 1941 Source Apuntes sobre una campaña (1951) Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons, Category:Caproni Ca.310 File:Bombardero CAP 41.jpg引用。


ノルウェーにもカプロニCa.310リベッチオ軽爆撃機が水産加工品とのバーター交易として交換されたが、ノルウェーは、カプロニCa.310が所定の性能に達していない苦情を申し出たため、その後、より強力なエンジンに換装したカプロニCa.312が12機送られることになったが、1940年6月のドイツのノルウェー侵攻によって実現しなかった。

  浮いたカプロニCa.310リベッチオ軽爆撃機は、イギリス空軍が購入を希望したが、1940年6月にイタリアがドイツ側に立って第二次世界大戦に参戦したために、これも実現しなかった。第二次大戦では、イタリア空軍は、カプロニCa.310リベッチオ軽爆撃機を北アフリカのイタリア領リビアで偵察機として使用した。

⇒写真集Album:カプローニ(Caproni)Ca.310軽爆撃機を見る。


8.カプローニ(Caproni)Ca.311偵察爆撃機


写真(上)1940年6月以降,イタリア空軍カプロニ(Canproni)Ca.311偵察爆撃機(段無しガラス風防)
;1939年4月1日初飛行、1939年8月部隊配備。生産機数 335機。
写真は, AEROPLANI CAPRONI, MILANO Caproni Ca. 311 a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。


1937年2月20日初飛行のカプローニ(Caproni)Ca. 310軽爆撃機の発展型が、カプローニ(Caproni)Ca. 311偵察爆撃機で、同じチェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)技師の設計になり、第二次世界大戦勃発5か月前、1939年4月1日初飛行、1939年8月部隊配備。生産機数は 335機である。

カプロニ(Canproni)Ca.311は、全長 11.74 m、全高 3.69 m、全幅 16.2 m、主翼面積 38.4 m2、空虚重量 3,460 kg、最大離昇重量 4,822 kg)で、アメリカ陸軍リパブリックP-47サンダーボルト戦闘機よりも若干大きいが、重量はより軽量である。


図(上)1940年6月以降,イタリア空軍カプロニ(Canproni)Ca.311偵察爆撃機の構造図(段無し機首ガラス風防)
;1939年4月1日に初飛行したCa.311は、1939年から部隊に配備されが、総生産機数は335機にとどまった。
図は, Caproni Ca. 311 a cura di Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。


イタリア爆撃機カプローニCA311 イタリア空軍カプロニ(Canproni)Ca.311偵察爆撃は、小型双発機で、機首下面に前方7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃固定銃座、コックピット後上方に7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁搭載の人力回転銃塔、胴体下面に7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃1丁装備の後下方銃座の3か所の銃座があるが、これは1940年初頭の小型機としては強力である。

カプローニ(Caproni)Ca.310軽爆撃機コックピット後上方の動力回転銃塔は、2本のアンテナ支柱が装備されているようにみえるが、これは1本は手動回転と機銃操作にあたって、重力と風圧のバランスをとるカウンターウェイトであり、同時に敵機に機関銃の銃身に見せかける威嚇のための機能も期待されていたようだ。もちろんもう1本は7.7ミリ(.303 in) ブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃の銃身である。

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9.カプローニ(Caproni)Ca.313偵察爆撃機


図(上)1941年ファシスト暦19年刊行マニュアル,イタリア航空省カプロニ(Canproni)Ca.313偵察爆撃機(段有り機首ガラス風防)三面図

Caproni Ca. 313 a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio掲載。
写真は, MINISTERO DELL'AERONAUTICA [航空省] ROMA Aeroplano Caproni 313 - 2 MOTORI I.F. DELTA Rc.35 I./D.S. DA RICOGNIZIONE E BOMBARDAMENTO LEGGEDO: AEROPLANI CAPRONI, MILANO 1941.XIX引用。


1937年2月20日初飛行のカプローニ(Caproni)Ca. 310軽爆撃機の発展型が、Ca. 311偵察爆撃機で、同じチェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)技師の設計になり、第二次世界大戦勃発5か月前、1939年4月1日初飛行、1939年8月部隊配備。生産機数は 335機である。そして、Ca.311発展型がCa.313偵察爆撃機である。

イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.313軽爆撃機は、チェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)の設計になり、第二次世界大戦勃発3か月後、1938年12月7日初飛行、1940年から部隊配備。総生産機数は271機である。

写真(右)1943-1945年,スウェーデン、ストックホルム南西250キロ、リンシェーピングス(Linköping)基地(?)、イタリアから購入したスウェーデン空軍第3航空団 マルムスラット(F 3 Malmen)所属のカプローニ(Caproni)CA 313 S 16 小型爆撃機27号、28号機:搭載したイソッタ・フラスキーニ デルタ(Isotta-Fraschini)デルタ(Delta)R.C.35 IS空冷倒立V型12気筒エンジンには、冷却効果を向上するために、エンジンから離して下方に伸ばした新たな集合排気管が装備されている。これは、エンジン加熱に起因する発火リスクを抑えるものである。
Svenska: Motiv: Två stycken flygplan S 16 Caproni på flygfält på F 3 Malmen. Märkta nummer 27 och 28. Flygplansmekaniker i arbete med flygplanen. Tillhör Gamla Malmen-samlingen. GM 891. Ur Flygvapenmuseums bildarkiv.
Fotografering 1940 - 1945 Ursprunglig fotografering Fotograf: Okänd fotograf
写真は, Flygvapenmuseum Identifier:FVMF.002214 引用。Wikimedia Commons, Category:Caproni Ca.313 File:FSM Caproni Ca313 (B-16) (7728476628).jpg引用。


カプロニ(Canproni)Ca.311は、1939年4月1日に初飛行し1939年から部隊に配備され、総生産機数は335機である。他方、エンジンを換装したカプロニ(Canproni)Ca.313は、1939年12月22日に初飛行し、1940年から部隊に配備され、総生産機数は271機である。両機は、発動機が空冷星形エンジンか、空冷倒立V型エンジンかが異なるが、形状も性能もあまり差異はなく、別記というより、改良型であり、ドイツや日本であれば、同名の改良形式で区分する程度であろう。

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10.カプローニ(Caproni)Ca.314襲撃機


写真(上)1942年ファシスト暦20年刊行,イタリア航空省カプロニ(Canproni)Ca.313偵察爆撃機(段有り機首ガラス風防)
;基本構造は変わることがなかったので、Ca.313公式マニュアルとCa.314公式マニュアルに全く同じ写真が別機として再度掲載されている。
1942年ファシスト暦20年刊行,イタリア航空省カプロニ(Canproni)Ca.313偵察爆撃機(段有り機首ガラス風防)公式カタログ掲載。
Caproni Ca. 313 a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore掲載。
写真は, MINISTERO DELL'AERONAUTICA [航空省] ROMA Catalogo Nomenclatore per Aeroplano Caproni 313 - 2 MOTORI ISOTA FRASCHINI DELTA R.C./35 I.-D.S. da Ricognizione e medio Bombardamento : AEROPLANI CAPRONI, MILANO 1942.XX引用。


チェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)は、カプロニ(Canproni)Ca.311偵察爆撃機を設計、1939年4月1日初飛行させ、その発展型カプローニ(Caproni)CA 313は、総重量5,672 kg (12,505 lb)の軽爆撃機を設計、1939年12月22日初飛行させた。

カプローニ(Caproni)Ca. 314(段有り型)は、イソッタ・フラスキーニ(Isotta-Fraschini)デルタ(Delta)R.C.25 (I-DS) 倒立V型12気筒空冷エンジン 540 kW (724 hp)2基装備。Ca.314主翼付け根の左右に12.7mm前方固定機関銃各1丁が搭載されている。ただし、マニュアルでは、Ca.313の写真で代用しているために齟齬が生じている。機首ガラス風防内部に爆撃手席がある。


写真(上)1941-1943年頃,イタリア、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca. 314 B 雷撃機
:対地攻撃機・襲撃仕様よりも大重量の900kg魚雷を搭載した。そこで、前方固定機関銃は、標準型の12.7ミリ機関銃2丁より軽減され、7.7ミリ機関銃2丁となった。
Модифицированный Капрони Ca-314b с торпедойИсточник и подробности
写真は, Капрони Ca.311/313/314Источник и подробности: File:Caproni Ca.314 torpedo.jpg引用。


Ca 314 A 爆撃機仕様の標準型
Ca 314-SC (Scorta Convoy)船団護衛・哨戒機 生産73機
Ca 314 B 雷撃機。Ca 314-RA 生産80機
Ca 314 C 地上襲撃機 生産 254機

カプローニ(Caproni)Ca. 314 の標準装備は、前方固定機銃として左右主翼付け根と胴体中央部左右下面に各々12.7ミリ機関銃1丁、合計4丁である。これがCa. 314 A だが、公式カタログでは、標準型であったためか、Ca. 314 とだけ表示されている。しかし、Ca. 314 B 雷撃機は、魚雷を搭載した雷装で、過重量だったので、前方固定機関銃は軽量化のため、7.7ミリ機関銃2丁に変更された。

カプローニ(Caproni)Ca. 314 の発動機は、前作Ca.313と同じイソッタ・フラスキーニ(Isotta-Fraschini)デルタ(Delta)R.C.25 (I-DS) 倒立V型12気筒空冷エンジン 540 kW (724 hp) 2基を装備。このエンジンは、ボア132 mm、ストローク160/165 mm、排気量26.685 L、全長2,000 mm、全幅840 mm、全高883 mm、乾燥重量510 kg、離昇出力770hp/2600rpm。

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11.ハインケル(Heinkel)He 116四発輸送機/偵察機

写真(右)1937年-1939年前半,ドイツ、舗装飛行場に待機するドイツ・ルフトハンザ航空ハインケル(Heinkel)He 116 V1試作1号機(D-AJIE):1936年12月9日初飛行、ルフトハンザ航空で「シュレジエン」と命名され試験飛行したが、民間輸送機としては採用されなかった。しかし、「リューベック」と再命名され、ドイツ=南米を結ぶ郵便機として使われた。1935年までは、ドイツ伝統の黒白赤三色ストライプの国章だったが、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降は、尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)を描いた国章とされた。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は目立つために取りやめになった。
Perma_000180 Permann Collection Perman collection Image Heinkel He 116 V1 --Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum It is the far more unusual Heinkel He 116 V1 which had made its first flight on 9 Dec 1936. It was painted in Lufthansa colors and named Schlesien during its testing, but was never used by the airline but tested as a long range postal delivery aircraft to/from South America now renamed as Lübeck.
写真は,SDASM Archives引用。



写真(上)1937年10月以前、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 116郵便機
:単発のハインケル He 70「ブリッツ(Blitz、稲妻)」の楕円翼を流用して、2本桁、合板表皮とした。そして、その楕円翼の前縁に発動機4基を搭載した。胴体は新たにジュラルミン製セミモノコック構造とした。V5試作5号機、V6試作6号機は、1938年4月にドイツから15,251 km、54時間17分の飛行、6日間で日本に到着。「乃木号」「東郷号」と命名されて、満州航空で東京=新京間で運行に供された。
Description English: Heinkel He 116 photo from L'Aerophile October 1937 Date 1 October 1937 Author L'Aerophile magazine
Category:Heinkel He 116・File:Heinkel He 116 photo L'Aerophile October 1937.jpg引用。


ハインケル(Heinkel)He 116郵便機は、前作の単発機ハインケル He 70「ブリッツ(Blitz、稲妻)」の楕円翼を流用して、2本桁、合板表皮とした。そして、その楕円翼の前縁に発動機4基を搭載した。胴体は新たにジュラルミン製セミモノコック構造とした。

He 116V5試作5号機、He 116V6試作6号機は、1938年4月にドイツから15,251 km、54時間17分の飛行、6日間で日本に空輸された。日本は、輸入した2機のハインケルHe 116V5、V6を各々「乃木号」「東郷号」と日露戦争の英雄将軍の名前を付けたが、日本の飛行機で人名を付けることはまずなかったから、日本の経営する「満州航空」だったからこその命名であろう。満州航空は、He 116「乃木号」「東郷号」を東京=新京間の運行に使用した。

写真(右)1939年9月の第二次大戦勃発後、ドイツ、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 116偵察機:He 70の設計を流用し1936年12月9日に初飛行し1938年までに郵便輸送機として14機が生産された。全幅 22,00 m、全長 13,70 m、翼面積 62,90 m2、自重 4220kg、全備重量 7046 kg、発動機 ヒルト(Hirth) HM 508空冷倒立8気筒エンジン240 PS (177 kW) 排気量7.97L 4基、最高速力 325 km/h、航続距離 4,100 km、乗員4名。第二次大戦中は、ドイツ空軍で偵察機として使用された。
Deutsch: He 116 Date 18 April 2013 Source Image rights owned by the San Diego Air & Space Museum, which has released the image with no known copyright restrictions. Author San Diego Air & Space Museum
写真はWikimedia Commons Category:Heinkel He 116 File:He 116 2013.jpg引用。


ドイツのハインケル(Heinkel)He 116輸送機は、ハインケルHe 70の設計を流用し1936年12月9日に初飛行し1938年までに郵便輸送機として14機が生産された。全幅 22,00 m、全長 13,70 m、翼面積 62,90 m2、自重 4220kg、全備重量 7046 kg、発動機 ヒルト(Hirth) HM 508空冷倒立8気筒エンジン240 PS (177 kW) 排気量7.97L 4基、最高速力 325 km/h、航続距離 4,100 km、乗員4名。第二次大戦中は、ドイツ空軍で偵察機として使用された。

写真(右)1940年頃,ドイツ、舗装飛行場に待機するドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 116 B偵察機:長距離て偵察機として軍用化されたが、小型だったために、期待された性能ではなく、偵察機としては量産されなかった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43936133 - Catalog:16_005303 - Title:Heinkel He 116B Nowarra photo - Filename:16_005303.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives引用。


1935年に創設されたドイツ空軍は、1933年5月初飛行のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機を制式し、ついで、1934年初飛行のアラド(Arad)Ar 68戦闘機、メッサーシュミットBf 109を制式した。そこで、旧式化したハインケル(Heinkel)He-51戦闘機隊は、第一線部隊からは退役したが、複葉機で操縦が容易だったために、練習機として使われた。1939年9月、第二次世界大戦が勃発した時にも、He51戦闘機は練習機として使われていた。

写真絵葉書(右)1937年頃刊行、ドイツ、飛行場の未舗装滑走路で待機する2機のドイツ・ルフトハンザ航空(Lufthansa)ハインケル(Heinkel)He 116郵便輸送機(J−B--):He 70の設計を流用し1936年12月9日に初飛行し1938年までに郵便輸送機として14機が生産された。第二次大戦中は、ドイツ空軍で偵察機として使用された。
Postcard Deutsche Luftwaffe, Heinkel He 116 fighter aircraft, long-haul aircraftNo 3.957.233Condition, see Scan, postally unused ca 14 cm X 9 cm
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


写真絵葉書(右)1940年消印、ドイツ、戦前のドイツ・ルフトハンザ航空(Lufthansa)ハインケル(Heinkel)He 116 V1郵便輸送機 (D-AJIE :製造番号 c/n 545)「シュレジエン」 "Schlesien" (D−AJIE):全幅 22,00 m、全長 13,70 m、翼面積 62,90 m2、自重 4220kg、全備重量 7046 kg、発動機 ヒルト(Hirth) HM 508空冷倒立8気筒エンジン (177 kW)240 PS(排気量7.97L)4基、最高速力 325 km/h、航続距離 4,100 km。シュレジエンは、第一次大戦に敗北したドイツがポーランドに割譲した領土である。
Postcard Heinkel He 116, Passagierflugzeug, D-AJIENo 10.164.715postally used 1940, Briefstempel Sch. Flg. Ausb. Regt 41 Technische Kompanie, leicht fleckig, otherwise good condition
写真はonline shop for old postcards akpool引用。


第一次大戦に敗北し、ベルサイユ条約の頸木に繋がれたドイツ航空界にとって、民間に認められた航空学校用飛行機、G-38大型輸送用機、Do-X超大型飛行艇などの民間機の開発を進めたことは、設計・量産の上で、ドイツ国内の民需航空需要を満たし、航空機輸出を盛んにし、技術開発と資本蓄積に大いに貢献した。ドイツ航空界は、ヒトラーが政権獲得前に、すでに十分な航空機開発の実績を達成し、後の第三帝国における軍用機開発にも繋がるのである。


12.ロッキード(Lockheed)モデル(Model)10 エレクトラ(Electra)輸送機

写真(右)1934−1938年、バルト諸国北部、エストニア、タリン、ウレミステ飛行場格納庫前の舗装滑走路に待機する、ポーランド航空(LOT)所属のロッキード(Lockheed)モデル Model 10-A エレクトラ(Electra)輸送機(SP-A?)の右後方:飛行機格納庫の脇に管制塔があり、両者が一体となっている。
Eesti: Lennuväli Ülemistel. Hoonete ees poola reisilennuk LOT Lockheed Model 10A Electra. English: A flight hangar at Ülemiste Airport with a Polish LOT Lockheed Model 10A Electra in front of it. Date 1930s Source MUIS: AM N 5631:426 Eesti Ajaloomuuseum Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:VH-AEC (aircraft) File:Lennuväli Ülemistel. Hoonete ees poola reisilennuk. (AM N 5631-426); Eesti Ajaloomuuseum.jpg引用。


写真(右)1934−1938年、バルト諸国北部、エストニア、タリン、ウレミステ飛行場格納庫前の舗装滑走路に待機する、ポーランド航空(LOT)所属のロッキード(Lockheed)モデル Model 10-A エレクトラ(Electra)輸送機(SP-A?)
Eesti: LOTi Lockheed Model 10A Electra lennuk Ülemiste lennujaamas English: LOT Lockheed Model 10A Electra at Ülemiste Airport Date between ca. 1933 and 1938 Source MUIS: AM N 5631:682 Eesti Ajaloomuuseum Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:VH-AEC (aircraft) File:Ülemiste lennujaam (AM N 5631-682); Eesti Ajaloomuuseum.jpg引用。


ロッキード(Lockheed)モデル Model 10-A エレクトラ(Electra)輸送機の諸元
搭乗員Crew: 2名、乗客Capacity: 10名
全長Length: 38 ft 7 in (11.8 m)
全幅Wingspan: 55 ft 0 in (16.8 m)
全高Height: 10 ft 1 in (3.1 m)
主翼面積Wing area: 458 平方フィート (42.6 平方メートル)
空虚重量Empty weight: 6,454ポンド(2,930 kg)
搭載量Loaded weight: 10,500ポンド lb (4,760 kg) 発動機Powerplant:プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-985ワスプ・ジュニア(Wasp Junior)空冷星形9気筒エンジン(排気量985立方インチ:16 L)450 hp (340 kW) 2基

写真(右)1934−1938年、エストニア、ウレミステ飛行場格納庫前の舗装滑走路に待機する、ポーランド航空(LOT)所属のロッキード(Lockheed)モデル Model 10-A エレクトラ(Electra)輸送機(SP-A?)
Eesti: LOTi Lockheed Model 10A Electra lennuk Ülemiste lennujaamas English: LOT Lockheed Model 10A Electra at Ülemiste Airport Date between ca. 1933 and 1938 Source MUIS: AM N 5631:679 Eesti Ajaloomuuseum Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:VH-AEC (aircraft) File:Ülemiste lennujaam (AM N 5631-679); Eesti Ajaloomuuseum.jpg引用。


ロッキード(Lockheed)モデル Model 10A「エレクトラ」(Electra)は、民間輸送機として、アメリカ以外では、オーストラリア(Australia)、ブラジル(Brazil)、カナダ(Canada)、チリ(Chile)、キューバ(Cuba)、チェコ(Czech) 、メキシコ(Mexico)、オランダ(Netherland)、ニュージーランド(New Zealand)、パナマ(Panama)、ポーランド(Poland)、ルーマニア(Romania)、イギリス(United Kingdom)、ユーゴスラビア(Yugoslavia)で使用された。

写真(右)1934−1938年、バルト諸国北部、エストニア、タリン、ウレミステ飛行場格納庫前の舗装滑走路に待機する、ポーランド航空(LOT)所属のロッキード(Lockheed)モデル Model 10-A エレクトラ(Electra)輸送機(SP-AYB)の右側面
Eesti: LOTi Lockheed Model 10A Electra (SP-AYB) lennuk Ülemiste lennujaamas English: LOT Lockheed Model 10A Electra, registration SP-AYB, at Ülemiste Airport Date between ca. 1933 and 1938 Source MUIS: AM N 5631:680 Eesti Ajaloomuuseum Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:VH-AEC (aircraft) File:Ülemiste lennujaam (AM N 5631-680); Eesti Ajaloomuuseum.jpg引用。


ロッキード(Lockheed)モデル Model 10A「エレクトラ」(Electra)は、軍用機として、アメリカ軍以外では、アルゼンチン空軍(Argentine Air Force)、ブラジル空軍(Brazilian Air Force)、カナダ空軍(Royal Canadian Air Force)、ホンジュラス空軍(Honduran Air Force)、ニカラグア空軍(Nicaragua Air Force)、スペイン空軍(Spanish Republican Air Force)、日本軍、イギリス空軍(Royal Air Force)、ベネスエラ軍(Venezuela)で採用されている。

⇒写真集Album:アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)ロッキード 10 エレクトラ(Lockheed Model 10 Electra)による世界一周赤道飛行と太平洋上の失踪事件 を見る。


13.ロッキード(Lockheed)モデル(Model)12 エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)

写真(右)1941年3月20日、アメリカ、ロッキード(Lockheed)モデル12A エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機の前部左側面:主翼断面構造図。
English: Lockheed 12A sectional view of heated wing Date Taken on 20 May 1941 Source This image or video was catalogued by Ames Research Center of the United States National Aeronautics and Space Administration (NASA) under Photo ID: ARC-1941-AAL-1355A.
写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed Model 12 Electra Junior  File:ARC-1941-AAL-1355A.jpg引用。


写真(右)1941年5月19日、アメリカ、ロッキード(Lockheed)モデル12A エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機左半分の主翼上面図解:主翼断面構造図。エンジンの暖気廃棄を主翼前縁に通して、高空の低気温状態で主翼の氷結を防止するデ・アイシング
English: NACA Photographer NASA Ames De-icing project: diagram of the systems using exhaust-heated air to prevent icing on the Lockheed 12A wings Published: Adventures in Research SP-4302
Date Taken on 19 May 1941
This image or video was catalogued by Ames Research Center of the United States National Aeronautics and Space Administration (NASA) under Photo ID: ARC-1941-AAL-1352.
This tag does not indicate the copyright status of the attached work. A normal copyright tag is still required. See Commons:Licensing.
Author NASA Ames Research Center Keyword NACA
写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed Model 12 Electra Junior File:ARC-1941-AAL-1355A.jpg引用。


ロッキード(Lockheed)モデル Model 12 エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)の試作1号機は、1936年6月27日昼12時12分に初飛行したが、これはアメリカ航空局の出した地方民案輸送機の競争試作締め切り期限の6月末の3日前だった。 つまり、ロッキードL-12の名称に因んだ飛行時間を選んだのである。

ただし、航空局の競争試作に応じたロッキード以外の機体は、ビーチクラフト モデル 18もバークレー グロウ T8P-1もともに試作機完成の期限に間に合わなかったために、競争試作ではロッキード(Lockheed)モデル Model 12が勝ち残ることになった。

写真(右)2015年10月、オランダ、ユトレヒト州ススト、スーステルベルグ、国立軍事博物館、オランダ空軍所属のロッキード(Lockheed)モデル12A エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機の右下側面
Photographed at the Nationaal Militair Museum, Soesterberg. Date 3 October 2015, 12:41:08 Source Own work Author Alf van Beem
写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed Model 12 at Nationaal Militair Museum File:Lockheed 12A RNAF L2-38.JPG引用。


ロッキード(Lockheed)モデル Model 12 エレクトラ・ジュニア( Electra Junior)輸送機の諸元
乗員Crew: 2名、乗客Capacity: 6名
全長Length: 36 ft 4 in (11.07 m)
全幅Wingspan: 49 ft 6 in (15.09 m)
全高Height: 9 ft 9 in (2.97 m)
主翼面積Wing area: 352 ft2 (32.7 m2)
空虚重量Empty weight: 5,765 lb (2,615 kg)
搭載量Loaded weight: 8,650 lb (3,924 kg)
最大離陸重量Max. takeoff weight: 9,200 lb (4,173 kg)

写真(右)2018年6月、オランダ、ユトレヒト州ススト、スーステルベルグ、国立軍事博物館、オランダ空軍所属のロッキード(Lockheed)モデル12A エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機の正面下:降着装置は、反引込み式なので、主輪の下半分は収納庫から露出している。尾輪は固定式である。
Description soesterberg militair museum (208) Date 26 June 2018, 14:16 Source soesterberg militair museum (208) Author bertknot from scarborough, australia
写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed Model 12 at Nationaal Militair Museum File:Soesterberg militair museum (208) (45970710692).jpg引用。


ロッキード(Lockheed)モデル Model 12 エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機は、1936年6月27日初飛行、ライト(Wright)R-975ウィールウィンド(Whirlwind:旋風) 空冷星形エンジン450 馬力 (336 kW)2基を装備している。原型のロッキード(Lockheed)モデル Model 10 エレクトラ(Electra)を若干小型化し、8座席、6人乗客の全金属製双発輸送機である。1930年代後半から、小規模な航空会社、大企業、資産家が購入して使用したほか、政府要人も使用した。 ロッキード(Lockheed)モデル Model 12 エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)の生産機数は、130機に達した。

写真(右)2018年6月、オランダ、ユトレヒト州ススト、スーステルベルグ、国立軍事博物館、オランダ空軍所属のロッキード(Lockheed)モデル12A エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機の下面:降着装置は、反引込み式なので、主輪の下半分は収納庫から露出している。尾輪は固定式である。
Description soesterberg militair museum (210) Date 26 June 2018, 14:20 Source soesterberg militair museum (210) Author bertknot from scarborough, australia
写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed Model 12 at Nationaal Militair Museum File:Soesterberg militair museum (210) (46020240271).jpg引用。


⇒写真集Album:ロッキード(Lockheed)モデル(Model)12 エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)


14.ロッキード(Lockheed) C-40 軍用輸送機

写真(右)1939年頃、アメリカ、ロッキード(Lockheed)モデル12A エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機の前部左側面:アメリカの第二次世界大戦参戦(1941年12月)以前の国籍マークを描いている。
English: Lockheed C-40 3/4 front view (S/N 38-536; the first C-40 built). (U.S. Air Force photo) Date Unknown date, probably 1939. Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed C-40 Fact Sheet Media. Author United States Air Force.
写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed C-40  File:Lockheed C-40 front quarter.jpg引用。


ロッキード(Lockheed)モデル12A エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-985ワスプ・ジュニア(Wasp Junior)空冷星形9気筒エンジン(排気量985立法インチ:16 L)450 hp (340 kW)を2基を装備した民間輸送機で、1937年1月15日に初飛行した。その軍用仕様がアメリカ陸軍航空隊のC-40A輸送機である。

写真(右)1940年頃、アメリカ、三輪式降着装置のロッキード(Lockheed)C-40B軍用輸送機試作機の前方左側面:ロッキード(Lockheed)モデル12A エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機の前輪式で、機首に首輪(前輪)を固定装着し、尾輪式から変更した実験機。ただし、尾輪は残されたままになっている。前輪は空気抵抗を減少するためにスパッツが装着した固定式なので、飛行中も引き込むことはできない。アメリカの第二次世界大戦参戦(1941年12月)以前の国籍マークを描いている。
English: Lockheed C-40B 3/4 front view. (U.S. Air Force photo) Date Unknown date Source National Museum of the U.S. Air Force, Lockheed C-40B Fact Sheet Media. Author United States Air Force
写真は Wikimedia Commons, Category:Lockheed C-40 File:Lockheed C-40B front.jpg引用。


飛行機の降着装置を配置する尾輪式に比較して、三車輪式は、地上での前方視界が良いが、着陸に際して接地の衝撃を前輪(首輪)で支える必要があり、主輪を支える脚の支柱は強度を尾輪式より高める必要があった。

ロッキード(Lockheed)モデル Model 12 エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-985ワスプ・ジュニア(Wasp Junior)空冷星形9気筒エンジン(排気量985立法インチ:16 L)450 hp (340 kW)を2基を装備した民間輸送機で、1937年1月15日に初飛行した。その軍用仕様がアメリカ陸軍航空隊のC-40A輸送機である。

1936年6月27日初飛行のロッキード(Lockheed)モデル Model 12 エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)輸送機は、陸軍用仕様ロッキード(Lockheed)C-40(13機)、海軍仕様ロッキード(Lockheed)JO-1(1機生産)、海兵隊仕様ロッキード(Lockheed)JO-2(5機)を含めて各型合計130機が量産された。

ロッキード(Lockheed)モデル Model 10A エレクトラ(Electra)は、軍用機として、アメリカ軍以外では、アルゼンチン空軍(Argentine Air Force)、ブラジル空軍(Brazilian Air Force)、カナダ空軍(Royal Canadian Air Force)、ホンジュラス空軍(Honduran Air Force)、ニカラグア空軍(Nicaragua Air Force)、スペイン空軍(Spanish Republican Air Force)、日本軍、イギリス空軍(Royal Air Force)、ベネスエラ軍(Venezuela)で採用されている。

ロッキード(Lockheed)モデル Model 12 エレクトラ・ジュニア(Electra Junior)は、アメリカ陸軍航空隊(United States Army Air Corps)がロッキード(Lockheed)C-40軍用輸送機と名称し、アメリカ海軍(United Navy)がJOあるいはR3O-2と命名して使用した。 そのほか、イギリス空軍(Royal Air Force)、カナダ空軍(Royal Canadian Air Force)、ブラジル空軍(Brazilian Air Force)アルゼンチン陸軍(Argentine Army)、インドネシア空軍(Indonesian Air Force)、南アフリカ空軍(South African Air Force)がロッキード(Lockheed)C-40軍用輸送機を採用している。

⇒写真集Album:ロッキード(Lockheed) C-40 軍用輸送機


15.ビーチクラフト(Beechcraft)AT-10 ウィチタ(Wichita)高等練習機

カラー写真(右)2010年頃、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館、アメリカ陸軍航空隊ビーチクラフト(Beechcraft)AT-10 ウィチタ(Wichita)木製高等練習機(42-35143)の左側面:引込式降着装置の主輪下に車輪止めが留められている。尾輪はソリッド小型ゴム輪で固定式である。表面はアルミで覆われているので、金属製の機体に見える。国籍マークは帯のない1943年前半までのものが描かれている。
English Beechcraft AT-10 Wichita of USAF Description: Beech AT-10 Wichita Source:USAF Museum
写真はWikimedia Commons,Category:Beechcraft AT-10 at National Museum USAF File:Beech AT-10 Wichita USAF.jpg引用。


ビーチクラフト(Beechcraft)モデル(Model)26試作機は、1941年5月に完成したが、機体構造は木製で、アルミ(Aluminum)は、コックピット、機首前部、エンジンナセル(engine nacelleとカウリング(cowling)、降着装置(landing gear components)である。しかし、第1回目の試作機初飛行で墜落し、テストパイロットが死亡した。 試作2号機は、1941年7月に初飛行し、アメリカ陸軍航空隊に1942年、AT-10 ウィチタ(Wichita)として制式され、1942-1944年に2,371機が量産された。

カラー写真(右)2022年5月、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館、アメリカ陸軍航空隊ビーチクラフト(Beechcraft) AT-10 ウィチタ(Wichita)木製高等練習機のコックピット複式並列操縦席と計器盤・操縦輪:練習機として、並列で操縦を学ぶことが可能で、計器盤は中央に位置しており、左右で別個に利用できる。
Description: Beech AT-11 cockpit Source:USAF Museum
写真はWikimedia Commons,Category: Beechcraft AT-10 at National Museum USAF File:Beech AT-10 cockpit USAF.jpg引用。


ビーチクラフト(Beechcraft) AT-10 ウィチタは、ライカミング(Lycoming)R-680-9空冷星型9気筒エンジン(排気量11.15 L)を搭載した。出力は海面上で295 hp (220 kW)毎分2,300回転、離陸出力は275 hp、毎分2,200回転、210hp毎分2,000回転である。ハミルトン・スタンダード(Hamilton-Standard)社製2翅(two-blade)定速(constant-speed)プロペが装備されたが、このプロペラは片方のエンジン停止時の片肺飛行では、プロペラを(フルフェザー(full-feathering)して、空気抵抗を最小にすることができた。


図(右)ビーチクラフト(Beechcraft) AT-10 ウィチタ(Wichita)高等練習機の三面図
English: A 3-view line drawing of the Beechcraft AT-10 Wichita. Date Unknown date Source AN 01-90KB-2, page 12 Author U.S. Military
写真は Wikimedia Commons, Category:Line drawings of Beechcraft aircraft File:Beechcraft AT-10 Wichita 3-view line drawing.png引用。


ビーチクラフト(Beechcraft) AT-10 ウィチタ(Beechcraft AT-10 Wichita)の諸元

乗員Crew: 2名
全長Length: 34 ft 4 in (10.46 m)
全幅Wingspan: 44 ft 0 in (13.41 m)
全高Height: 10 ft 4 in (3.15 m)
主翼面積Wing area: 298 sq ft (27.7 m2)
空虚重量Empty weight: 4,750 lb (2,155 kg)
最大離陸重量Max takeoff weight: 6,130 lb (2,781 kg)
発動機Powerplant: ライカミング(Lycoming)R-680-9空冷星型9気筒エンジン(排気量11.15 L)295 hp (220 kW)2基
最高速力Maximum speed: 198 mph (319 km/h, 172 kn)
航続距離Range: 770 マイル (1,240 km, 670 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 16,900 ft (5,200 m)


16.スペイン内戦から第二次世界大戦へ


写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘン会談の際、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥とイタリア外相チアーノを従えたヒトラー、イタリア統領ムッソリーニ
:イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエに対して、ソ連もチェコも無視して、チェコのズテーテン地方のドイツへの割譲に同意させた。
München.- Hermann Göring, Benito Mussolini, Adolf Hitler und Graf Galeazzo Ciano ( v.l.) beim Verlassen des Hauptbahnhofs, 2.Reihe, rechts hinter Hitler: Heinrich Himmler Title Münchener Abkommen, Hitler, Mussolini und Gefolge Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg 29.09.1938: Hitler + Mussolini treffen in München ein. lks. Göring, rechts Graf Ciano Depicted people Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien Ciano, Galeazzo Graf: Außenminister, Italien (GND 119178362) Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Münchener Abkommen
Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv B 145 Bild-F051622-0023, Münchener Abkommen, Hitler, Mussolini und Gefolge.jpg引用。


ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)は、1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年11月、ヒトラー主導の武装蜂起「ミュンヘン一揆」(Beer Hall Putsch)は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。


写真(右)1938年9月29日、ドイツ、ミュンヘン会談の際、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥とイタリア外相チアーノを従えたヒトラー、イタリア統領ムッソリーニ
:イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエに対して、ソ連もチェコも無視して、チェコのズテーテン地方のドイツへの割譲に同意させた。
Title Münchener Abkommen, Hitler und Mussolini Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg ADN-Zentralbild / Archiv Am 29. September 1938 wurde durch die Unterzeichnung des berüchtigten Münchener Abkommens Hitler die Handhabe für den Überfall auf tschecheslowakisches Gebiet gegeben. Hiermit verrieten England und Frankreich die Tschecheslowakei und machten dem Faschismus den Weg frei zu weiteren Verbrechen an den Völkern Europas. UBz: Mussolini, Adolf Hitler, (hinten ihm rechts) Graf Ciano und Hermann Göring beim Verlassen des Führerbaus in München. 12892-38
Depicted people Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Hitler, Adolf: Reichskanzler, Deutschland Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv Bild 183-H28790, Münchener Abkommen, Hitler und Mussolini.jpg引用。

1936年11月1日、ドイツとイタリアはヨーロッパの新秩序のためのベルリン=ローマ枢軸協定を公表した。

1936年11月25日には、ドイツと日本が反ソ連の日独防共協定を締結した。防共協定は、共産インターナショナル(コミンテルン)の活動に対する防衛措置について相互に協議・協力することと、コミンテルンの破壊工作によって国内の安寧を脅かされる第三国に協定への参加を勧誘することを決めた。

写真(右)1938年10月1日、ドイツ、ベルリン駅、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥を従えたヒトラーと、国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス、ヒトラーユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハ、財務大臣ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク、総統官房長フィリップ・ボーラー
Title Münchener Abkommen, Rückkehr Hitler Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Des Führers Rückkehr von den Münchener Besprechungen Der Führer begrüßt auf dem Bahnsteig des Anhalter Bahnhof seine Mitarbeiter. UBz: v.r.n.l. Reichsminister Graf von Schwerin-Krosigk,Reichminister Kerrl,Reichsminister Rust,Reichsleiter Bouhler,Reichsjugendführer Baldur von Schirach,rechts Generalfeldmarschall Göring und Reichsminister Dr. Goebbels. Fot.: 1.10.38
Baldur von Schirach Bouhler, Philipp Hanns Kerrl Lutz Graf Schwerin von Krosigk Adolf Hitler Joseph Goebbels Hermann Göring Depicted place platform of the Berlin Anhalter railway station Date 1 October 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File: Bundesarchiv Bild 183-H13039, Münchener Abkommen, Rückkehr Hitler.jpg引用。


Gian Galeazzo Ciano 防共協定の秘密附属協定では、ソビエト連邦から締約国の一方が攻撃などを受けた場合に、他方の締約国がソ連の負担を軽くするような措置をとらないこと、相互の同意なしに防共協定の精神と両立しない政治的条約をソ連と結ばないことなどが規定されている。この防共協定には、日中戦争勃発直後の1937年11月6日にイタリアが参加している。

そして、1939年5月22日、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Gian Galeazzo Ciano)とドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)は、鋼鉄協約に調印して、同盟関係に軍事規定を加えた正式なものとした。さらに、第二次世界大戦の勃発1年後、フランス降伏後に、1940年9月27日にはドイツ、イタリア、日本が、日独伊三国同盟を締結し、イギリス・アメリカなど連合国に対抗する枢軸国としての軍事同盟を形成した。

日独伊三国同盟
第一条 日本國ハ「ドイツ國」及「イタリヤ國」ノ歐州ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第二条 「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、日本國ノ大東亞ニオケル新秩序建設ニ關シ、指導的地位ヲ認メ、且ツコレヲ尊重ス。
第三条 日本國、「ドイツ國」及「イタリヤ國」ハ、前記ノ方針ニ基ツク努力ニ附相互ニ協力スヘキ事ヲ約ス。更ニ三締結國中何レカ一國カ、現ニ歐州戰爭又ハ日支紛爭ニ參入シ居ラサル一國ニ依リ攻撃セラレタル時ハ、三國ハアラユル政治的經濟的及軍事的方法ニ依リ相互ニ援助スヘキ事ヲ約ス。


写真(右)1938年9月29日、ミュンヘン会談のために、ミュンヘン飛行場から市内のホテルにフランス首相エドゥアール・ダラディエを送り届けるドイツ空軍総司令官ヘルマン・ベーリング元帥

Title Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.) Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Frankreichs Ministerpräsident mit Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Nach der ersten Besprechung im Führerbau in München begleitete Generalfeldmarschall Hermann Göring den französischen Ministerpräsidenten Daladier im Kraftwagen zu dessen Hotel. Daladier und Göring waren Mittelpunkt lebhafter und herzlicher Kundgebungen der Tausende, die die Strassen umsäumten. UBz.: Ministerpräsident Daladier und Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Scherl Bilderdienst, Berlin 29.9.39
Daladier, Edouard: Ministerpräsident, Vorsitzender Sozialistische Partei, Frankreich Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv Bild 183-H12963, Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.).jpg引用。


Hermann Wilhelm Göring ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring

1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉
1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉
1933年8月30日、名誉階級歩兵大将
1935年5月21日、空軍大将
1936年4月20日、上級大将
1938年2月4日、元帥
1940年7月19日、国家元帥

1923年3月1日、SA最高指導者
1931年12月18日、SA中将
1933年1月1日、SA大将。

1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。
1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

1938年9月29日から30日にかけて、ドイツ南部、ミュンヘンにおいて、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア統領ムッソリーニ、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統が会談し、チェコスロバキアの北部で、多数のドイツ系住民が居住していたズデーテン地方のドイツ割譲を決定した。イギリスとフランスは、ドイツがこれ以上の領土割譲要求をしないとの条件で、1938年9月29日にミュンヘン協定に署名し、平和が守られたと宣言した。このミュンヘン会談は、第二次世界大戦前のイギリス・フランスの対ドイツ宥和の頂点にして、最後の機会だった。この時、ゲーリングは、ドイツ空軍がチェコ空襲をいつでも始める覚悟があると威嚇のポーズをとっていたのである。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ハンセン病Leprosy差別
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答

ポーランド侵攻:Invasion of Poland
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」

日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
ソ連赤軍T-34戦車ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov

フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
ドイツ陸軍2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
VI号ティーガー重戦車
ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
V号パンター戦車
ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車

イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
イギリス陸軍コメット巡航戦車

アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

ユンカース(Junkers)F.13輸送機
ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
ユンカース(Junkers)K43f水上機
巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
ユンカース(Junkers)G.31輸送機
ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
ハインケル(Heinkel)He111輸送機
ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」

サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
ピアジオP.108重爆撃機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機

当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
2022年12月14日開設の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
連絡先:torikai007@yahoo.co.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
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