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◆ドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz.251:ハーフトラック 写真(上)1940年5-6月,フランス侵攻時,半装軌式無線指揮装甲車Sd.Kfz. 251/3のハインツ・グーデリアンHeinz Guderian将軍と第8装甲師団アドルフ・クツェンAdolf Kuntzen将軍装甲車の車体後方にフレーム式のアンテナが張り巡らされている。これは、支柱のように見せかけて、指揮者としは認められないようにしている。これは標的になりにくくする工夫でもある。アドルフ・クツェン(1889-1964)は,1940年6月に騎士鉄十字章を授与され,1944年末に退役するまで,西部戦線にとどまった。
Frankreich.- General Heinz Guderian im mittlerem Funkpanzerwagen (mittlerer Schützenpanzer Sd.Kfz. 251/3) im Gespräch mit General Adolf Kuntzen, Kommandeur der 8. Panzerdivision; PK OKW Dating: 1940 Mai - Juni
Photographer: Borchert, Erich (Eric) 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(上)2010年7月,ドイツ,ニーダーザクセン州、ミュンスター博物館、仮設架橋装備の半装軌式戦闘工兵装甲車(Sd.Kfz.251/7 Ausf.D)の左後方装甲車の車体に仮設架橋を搭載し部隊移動を迅速に進める工兵用の装甲車。
Deutsch: Deutsches Panzermuseum Munster in Munster (Örtze) English: German Tank Museum Date 7 July 2010 Source Own work Author Banznerfahrer撮影。
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 File:Panzermuseum Munster 2010 0274.JPG引用。
写真(上)1940年5-6月,ドイツ,ニーダーザクセン州、ミュンスター博物館、24口径7.5cm StuK 37(L/24)短砲身榴弾砲装備の半装軌式装甲車(Sd.Kfz.251/9)(Schüzenpanzerwagen Ausf. D "Stummel")装甲車の車体に24口径7.5cm StuK 37(L/24)短砲身榴弾砲「切り株」を搭載した火力近接支援用の装甲車。
Deutsch: Deutsches Panzermuseum Munster in Munster (Örtze) English: German Tank Museum Date 7 July 2010 Source Own work Author Banznerfahrer撮影。
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 File:Panzermuseum Munster 2010 0256.JPG引用。

1.ドイツの半装軌式装甲車 Sd.Kfz. 251(Schützenpanzer:兵員輸送装甲車)−装甲師団の機械化歩兵

 ドイツ軍は1939年9月1日,ポーランドに侵攻した。ポーランド軍は,果敢に抵抗したが,1939年9月27日, ワルシャワが陥落,10月6日, ポーランドは降伏。

カプラン,ハイム(2007)『ワルシャワ・ゲットー日記―ユダヤ人教師の記録』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan風行社 によれば、開戦当日の日記は,次のようである。

ヒトラー 「ヒトラーは,ある演説で戦争が始まればヨーロッパのユダヤ人を絶滅する,と脅した。ユダヤ人は,いつかは解放されるにせよ,ヒトラーの占領地では,自分たちに何が待ち構えているかを感じ取っている。それゆえ,ユダヤ人が身をもって祖国ポーランドに献身しようとするのは,驚くべきことではない。空襲から身を守るために,市民は防空壕を掘るようにとの命令が出たときに,大勢のユダヤ人が参加した。」

1939年9月17日,独ソ不可侵条約の秘密議定書において,ドイツとポーランド分割を密約していたソ連も,ポーランドに進駐。ソ連の内務省秘密警察NKVDは,反共産主義者と目されたポーランド将兵・行政官をカチンの森などで処刑した。

1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,保安警察特務部隊アインザッツグルッペ Einsatzgruppen)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置した。

電撃戦に必要な戦車随伴可能な歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)として、Sd.Kfz 250Sd.Kfz. 251のような半装軌式装甲車ハーフトラック)を開発,量産したドイツハノマーク社Hanomag)の技術は高度なものである。同時に,その軍事技術を何のために,誰が用いようとしたのかが問われなくてはならない。技術を開発し,それを体化させた兵器を作り出し,その兵器を運用するのは人間である。そして,その兵器のために破壊される財産や殺害される人間がいる。となれば,大量破壊,大量殺戮をもたらす技術を開発することが正当化どうかということにもなる。

写真(右)1939年9月,ポーランドに侵攻したドイツ軍I号戦車、II号戦車とならんだドイツ軍兵員輸送装甲車 (Sonder-kraftfahrzeug 251 Ausführung A)
Polen, an der Brahe.- Panzersoldaten auf deutschen Panzer I und Panzer II neben mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/3; mit General Heinz Guderian?); 3.9.1939 [Herausーgabedatum?]
English: "Poland, on the Brda river.- Panzer soldiers on German Panzer Is and Panzer IIs, along with a medium Schützen-panzer half-track (Sd.Kfz. 251/3; with General Heinz Guderian?); 3 September 1939 [Date of release?]"
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから引用。


 半装軌式装甲車とは,車輪とキャタピラ(無限軌道:caterpillar track)の双方を使って走行するハイブリッド型の装甲車のこと。「半装軌」とは,車体の半分が無限軌道(キャタピラ)を装備しているという意味で,「ハーフトラック」(half truck) と呼ばれる。ただし,貨物自動車のトラック(truck)は,一般的には,装甲板がなく,銃砲撃に耐えられないが,戦闘装甲車Schützenpanzer)は,敵弾から乗員や貨物を保護する装甲板を張った自動車あるいはハーフトラックである。

写真(右)1940年,フランス戦線のドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251/3)
Frankreich.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/3) mit Funkanlage in Fahrt; OKW。English: SdKfz.251/3 ausf. A armoured command vehicle.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-769-0235-31"引用。


ドイツ軍の半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 250)は,第二次大戦が勃発した1939年にハノマーク社Hanomag)で開発され,1940年から1945年まで生産された歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)である。エンジンは,マイバッハ(Maybach-Motorenbau)製造の水冷6気筒(4170cc)のガソリンエンジン(ディーゼルではない)で大出力の100馬力(75キロワット:watt)だった。

写真(右)1940年,フランス戦線、ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲(Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251/3)
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-769-0235-32 Archive title: Frankreich.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/3) mit Funkanlage in Fahrt; OKW Dating: 1940 Photographer: Borchert, Erich [Eric] 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-769-0235-32, Frankreich, Schützenpanzer mit Funkanlage.jpg"引用。


Sd.Kfz.250:(Sonderーkraftfahrzeug 250; 特殊自動車輛[半装軌式装甲車])は、ドイツのデマーク社(Deutsche Maschinenbau-Aktiengesellschaft)が1tハーフトラック (Sd.Kfz.10)をベースに歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)として開発。1945年までに6600両製造された。より大型の輸送車両は、Sd.Kfz. 251と呼ばれた。

米軍のハーフトラック(M2 Half Track CarM3 Half Track)とは異なり、前輪は駆動しない。

写真(右)1940年5-6月,フランス侵攻時期のドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (SdKfz.251/3 Aust.A APC)と搭載されたエニグマ暗号機:3枚のローター式乱数表が確認できる。無線のアンテナは、鉄枠になっていて支柱を兼ねている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-769-0229-11A Archive title: Frankreich.- General Heinz Guderian in mittlerem Funk-panzerwagen (Sd.Kfz. 251/3), vorn Funker am Verschlüsselungsgerät "Enigma"; PK OKW Dating: 1940 Mai - Juni Photographer: Borchert, Erich [Eric] .
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録"File:Bundesarchiv Bild 101I-801-0664-36, Berlin, Unter den Linden, Schützenpanzer.jpg"引用。


エニグマ (Enigma)暗号機とは、第二次世界大戦でドイツが使用した3個のローター式乱数表を活用した換字式電気暗号機械で、1925年にはドイツ共和国軍の制式となった。3個のローターに26文字、それを三重に順次変換することで26の三乗、1万7,576文字に変換できる。ただし、元の文字は必ず他の文字に換字され、元の文字と同じにならない。

エニグマ (Enigma)暗号機が奪われた場合に備えて、ローターの文字は同じだが、暗号機に変更可能なプラグ配線を追加し、文字を一回さらに変更(単文字換字)できるようになっている。

1トン牽引車 1939年の大戦直前に、ポーランドは、エニグマ (Enigma)の原理を解いており、大戦直前の7月、同盟国のイギリス・フランスに、その原理を伝授している。また、1940年 2月、イギリスはドイツ潜水艦U-33からローターを鹵獲し、5月には、ドイツ空軍・海軍のエニグマ情報を解読できるようになった。1942年 1月、空軍の鍵システムであるFliegerkorps IXとFliegerkorps Xの解読に成功。また、1942年10月には、ドイツに派遣された日本海軍潜水艦伊30がドイツからエニグマ暗号機の譲渡を受けている。

イギリスは、エニグマ暗号機 (Enigma machine )の解読方法を戦後も秘匿したままにし、エニグマを活用したた各国の外交・軍事の暗号をそのまま解読していた。

第二次世界大戦中,ドイツ陸軍は、1トン牽引車(Sd.Kfz.10)をベースにした4人乗りの歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)Sd.Kfz 250を6000台量産した。

3トン牽引車 さらに,3トン牽引車(Sd.Kfz.11)をベースにした10人乗りの中型半装軌式装甲車Sd.Kfz.251を1万5000台以上生産した。またロケット砲,対空機銃,榴弾砲,対戦車砲などを装備した装甲車も多数作られている。

1トン牽引車Sd.Kfz.10)は,全長 4.7メートル,全幅 1.8メートル,全高 1.6メートル,重量 5トン,乗員2人,兵員乗車 6人

ドイツ国防軍、大半は陸軍にあって、偵察、兵員・弾薬輸送に利用されたが、攻撃力を強化した自走砲としても生産された。ドイツ軍の半装軌式装甲車には、次のような形式がある。
Sd.Kfz 250/1:基本型。武装は7.92ミリ機関銃のみ。兵員4名輸送可能。
Sd.Kfz. 250/2:通信ケーブルの敷設車輛
Sd.Kfz 250/3:無線指揮車装甲車。大型フレームアンテナを設置し、戦闘室には無線機を備えた。
Sd.Kfz. 250/4:突撃砲部隊の着弾観測車輛
Sd.Kfz 250/5:無線指揮車輌
Sd.Kfz 250/6:突撃砲(7.5センチ砲)への弾薬(60-70発)運搬車輛
Sd.Kfz. 250/7:8センチ迫撃砲装備の支援車輌
Sd.Kfz. 250/8:7.5センチ24口径砲装備の支援車輌
Sd.Kfz. 250/9:2センチ自動砲装備の偵察車輌
Sd.Kfz. 250/10:3.7センチPaK36装備の対戦車車輛
Sd.Kfz. 250/11:2.8センチsPzB41装備の対戦車車輛
Sd.Kfz. 250/12:偵察部隊の小隊長用車輌。
Sd.Kfz 252:突撃砲への軽装甲弾薬運搬車輛
Sd.Kfz 253:突撃砲部隊の指揮車輛 歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle) (Sd.Kfz. 250)原型は,野砲牽引用の1トン牽引車Sd.Kfz.10)で,未舗装道路や路外での軌道装甲能力を活用した偵察装甲車として制式された。

Sd.Kfz 250 半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz. 250)の生産は,ドイツのデマーク社(Demag)で行われたが,多角形の複雑な車体後部装甲版は,生産性が低かった。また,重量を均等に分散して、路外走行能力、機動性を高めるために採用した千鳥足配置の転輪も機構が複雑で,製造コストが高価だった。そのために,1943年9-10月には,簡易形状に変更した装甲版の後期型が生産された。生産台数は,旧型“アルテ(Alte:Old)”4200台,新型“ノイ(Neu:New)”2300台で,合計6600台が生産された。

ドイツ軍が採用したハノマーク社Hanomag)の兵員輸送の半装軌式装甲車Sd.Kfz 250)は,装甲が薄く,車両上面が開放されていたが,Sd.Kfz.253は装甲を施された閉鎖式の車内空間に無線機,観測器具を装備していた。
しかし,半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251は、Sd.Kfz.250を流用することで,観測車として利用できた。そこで,兵員輸送用半装軌式装甲車ハーフトラック)の種類を少なくして,効率的に大量生産することが優先された結果,Sd.Kfz 250を優先して,Sd.Kfz 253の生産は1941年6月で中止された。

写真(右)1940年,ドイツ、ベルリン、完成したばかりのドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車A型 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251/1) :兵員室上部には機関銃支柱が設けられているが、機関銃防盾はまだ採用されていない。
Photographer Unknown author Berlin.- mittlere Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) vor Stadtschloss Title Berlin, Unter den Linden, Schützenpanzer English: SdKfz.251/1 Aust.A APC Depicted place Berlin Date 1940 Current location Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-801-0664-36
写真は Wikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 251/1 Ausführung DからFile:Bundesarchiv Bild 101I-801-0664-36, Berlin, Unter den Linden, Schützenpanzer.jpg引用。

写真(右)1940年,ドイツ、ベルリン、ウンターデンリンデン通り、ハノマーク社ドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251/1 A) :車体上部には、機関銃の銃架があるが、機関銃は装備していない。装着されたゴム車輪も真新しい。
Description provided by the archive when the original description is incomplete or wrong. You can help by reporting errors and typos at Commons:Bundesarchiv/Error reports. Berlin, am Lustgarten.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251). im Hintergrund Berliner Dom und Altes Museum; PK Propagandaersatzabteilung Potsdam Title Berlin, Unter den Linden, Schützenpanzer Info non-talk.svg English: SdKfz.251/1 ausf.A APC Depicted place Berlin Date 1940 Accession number Bild 101I-801-0664-37影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-801-0664-37, Berlin, Unter den Linden, Schützenpanzer.jpg"引用。

Sd.Kfz.251/cmFlack Sd.Kfz.251:(Sonderkraftfahrzeug 251; 特殊自動車輛[半装軌式装甲車])は、ドイツのハノマーク社 (Hannoversche Maschinenbau AG)が3t 半装軌車 (Sd.kfz. 11) をベースに中型半装軌式装甲車として開発された。

Sd.Kfz.251は、1939年から1945年までに1万5000両製造。
半装軌式装甲車Sd.Kfz.251には、次のような形式がある。
Sd.Kfz.251/1:基本型。武装は7.92ミリ機関銃のみ。1個分隊(10名)の兵員を輸送する車輛。
Sd.Kfz.251/2:迫撃砲装備の支援車輌
Sd.Kfz. 251/3:無線指揮車輛
Sd.Kfz.251/4:7.5センチ歩兵砲 (leIG18) 牽引用車輌
Sd.Kfz. 251/5:工兵部隊の装甲兵員輸送車輛
Sd.Kfz. 251/6 Sd.Kfz. 251/6:無線指揮車輌:大型フレームアンテナ、シュテルン(星形)・アンテナとエニグマ暗号機を搭載し、装甲師団の高級司令部に配備。
Sd.Kfz. 251/7:工兵部隊の装甲兵員輸送車輛。戦闘室脇に小型架橋を搭載、戦闘室には工具、ロープ、地雷などを収容。
Sd.Kfz.251/8:負傷者・患者用の野戦救急輸送車輛
Sd.Kfz.251/9:24口径 7,5cm KwK37短砲身砲装備の支援車輌。「シュツンメル」の愛称で装甲擲弾兵連隊に配備され、火力支援に活躍。
Sd.Kfz.251/10:ラインメタル45口径3.7センチPaK36対戦車砲(携帯砲弾数168発)を搭載した対戦車車輛
Sd.Kfz.251/11:通信ケーブル敷設車輛。戦闘室に電話線架設ケーブルを巻いたリールドラムを収容。
Sd.Kfz.251/12:砲兵部隊の観測車輌。フレームアンテナを装備し、砲隊鏡など測距機、FuG8無線器を搭載。
Sd.kfz. 251/18:砲兵部隊の観測・指揮車輌
Sd.Kfz.251/21:三連装ラインメタル1.5センチ機関砲装備の対空戦闘車輛
Sd.Kfz.251/22:7.5センチPak40装備の対戦車戦闘車輌

図(右)1943-1944年,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/1 Ausf.C)の三面図:Sd.Kfz.251/1は、基本ライプの兵員輸送車で、コンパートメント上部前方には防楯付きモーゼル7.92mm MG34機関銃を装備、後方には銃架を設けている。車体後部コンパートメントは傾斜装甲を組み合わせた初期A型である。
解説 Polski: Rzuty niemieckiego transportera opancerzonego Sd.Kfz.251 日付 2014年5月1日, 14:32:07 原典 www.the-blueprints.com 作者 Dan Saranga
図はWikimedia Commonsから"File:Sd.Kfz.251 - rzuty.jpg"引用。

ドイツ軍半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/1 Ausf.B)の諸元
全長 5.80m
全幅 2.10m
全高 1.75m
重量 7.81t
乗員数 2名+搭載兵員 10名 装甲板 6-14.5mm
火器 7.92mmMG34機関銃1−2丁
最高速力 52km/h
発動機 マイバッハHL 42直列6気筒液冷ガソリン100hp(74.6kW)
懸架・駆動 トーションバー式・半装軌
航続距離 300km
出力重量比 12.8hp/t

牽引車 ドイツ軍の火砲牽引用の1トン牽引車(Sd.Kfz.10)は, 車体の後部にキャタピを装備した半装軌式の牽引車だが,装甲板はなく,乗員は無防備である。この車体をベースにして,小型の半装軌式装甲車Sd.Kfz 250),中型の半装軌式兵員輸送装甲車(Sd.Kfz.251)が開発された。したがって,共通部品も多く,部品統制が進んでいて,量産向けだった。だたし,構造自体は複雑だったので,この点は生産性を低下させた。

ハノマーク社Sd.Kfz 250は、路外でも兵員を迅速に輸送できるドイツ陸軍のハーフトラックを開発した。大戦中,小型4人乗りの小型装甲車Sd.Kfz 250シリーズは6000台,10人乗りの中型兵員輸送装甲車Sd.Kfz 251シリーズは1万6000台が生産された。

M3ハーフトラック  火砲を牽引する牽引車、兵員輸送や砲兵用の観測・無線指揮をする歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle) にはキャタピラ(履帯)が装着されることがある。牽引車は、ハーフトラックとしてキャタピラ(履帯)によって路面接触面積を大きくして、牽引能力を向上させている。歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)は、戦車に随伴して歩兵を輸送したり、砲兵用の観測測距をするために、路外不整地を踏破・走行できる機動性が求められる。

 戦車もキャタピラ(履帯)を全装軌にして装備しているが、これは重量を荷重にして走行速度も制限することになり、構造も複雑化して製造経費もかさむことになる。特に、全装軌キャタピラ(履帯)の場合、方向転換には、動輪を左右で異なる回転速度とする変速機が不可欠であるが、これも重量増加、構造の複雑化を招来する。

M3ハーフトラック  他方、半装軌キャタピラ(履帯)であれば、変速機など動力伝達機構を簡易化でき、製造経費も安価になる。アメリカのM3ハーフトラックは、方向転換の操作は、前輪だけで可能で、半装軌キャタピラ(履帯)は方向転換には使用しないで済む。ドイツの半装軌式装甲車(ハーフトラック)は、接地面積を大きくするために半装軌キャタピラ(履帯)面が大きく長い。そのために、前輪タイヤだけでの方向転換はできず、半装軌キャタピラ(履帯)の回転数を変更する変速機を設けている。ドイツの半装軌式装甲車(ハーフトラック)の変速機は簡易なものであるが、それを設ける必要のないアメリカのM3ハーフトラックよりも量産性が劣っていた。

M3A1ハーフトラック アメリカ軍M3ハーフトラックの諸元
全長:    6.163m
全幅:    1.962m
全高:    2.261m
全備重量: 9.072t
乗員:3名+搭乗兵員:10名
発動機:  ホワイト160AX直列6気筒液冷ガソリンエンジン147hp/3,000rpm
最高速力: 72.4km/h
航続距離: 322km
武装:    7.62mmM1919A4機関銃1丁(4,000発)
装甲厚:   6.35〜12.7mm
生産台数:M5など各タイプ合計5万3000両

写真(右)1942年,南フランス、ハノマーク社のドイツ軍工兵部隊の半装軌式工兵装甲車 ("Pionier-panzerwagen", Sd.Kfz. 251/7):荷台には仮設架橋を搭載していて、迅速に河川、沼沢地、塹壕に橋を架けることができる弘平車輛である。兵員室上部前方に防楯付きのMG34機関銃を装備している。宣伝用写真では「先駆的な装甲車」として紹介されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Frankreich-Süd.- Mittlere Schützen-panzerwagen ("Pionier-panzerwagen", Sd.Kfz. 251/7) mit Besatzung auf einer Straße am Hafen. Im Hintergrund Passagierschiff "Marechal Lyautey"; PK 696. 
Baumann撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-258-1320-10"引用。

写真(右)1942年,ドイツ、ベルリン郊外ハレの工場で製造されたハノマーク社ドイツ軍半装軌式兵員輸送装甲車 (Sonderーkraftfahrzeug)で、奥が軽装甲車 Sd.Kfz. 250、手前の4両が装甲車 Sd.Kfz. 251:兵員室上部前方には機関銃が装備されていない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Reichsgebiet, bei Berlin.- fabrikneue leichte und mittlere Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250 und Sd.Kfz. 251) vor Halle; PK PEA Potsdam. 
Wörner撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-811-2231-24"引用。

Sd.Kfz. 250やSd.Kfz. 251のような半装軌式装甲車(ハーフトラック)や歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)を開発、生産したハノマーク社Hanomag)は、正式にはハノーファーシェ・マシネンバウHannoversche Maschinenbau AG )という。ドイツのニーダーザクセン州ハノーファーに輸送機械製造工場を保有し、汽車、自動車も生産した。

Sd.Kfz.251/ ハノーファーシェ・マシネンバウHannoversche Maschinenbau AG )が製造した半装軌式装甲車軍用ハーフトラック)には、次のようなものがある。

Sd.Kfz. 11 Leichter Zugkraftwagen 3t(3トン半装軌式牽引車)
Sd.Kfz. 11/1 Nebel Kraftwagen 3t
Sd.Kfz. 11/2 Mittlere Entgiftungs Kraftwagen 3t
Sd.Kfz. 11/3 Mittlerer Sprüh Kraftwagen 3t
Sd.Kfz. 11/4 Nebel Kraftwagen 3t
Sd.Kfz. 11/5 Mittlerer Gassprür Wagen 3t
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Ausf A(半装軌式兵員輸送装甲車)
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Ausf B
Sd.Kfz. 251/2 Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Ausf C
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen (IR) Falke Ausf D
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Wurfrahmen 40 Ausf B
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Wurfrahmen 40 Ausf C
Sd.Kfz. 251/1 mittlere Schützenpanzerwagen Wurfrahmen 40 Ausf D
Sd.Kfz. 251/2 mittlere Schützenpanzerwagen Granatwerfer (半装軌式迫撃砲装甲車)Ausf C
Sd.Kfz. 251/2 mittlere Schützenpanzerwagen Granatwerfer Ausf D
Sd.Kfz. 251/3 Sd.Kfz. 251/3 mittlere Funkpanzerwagen (半装軌式無線装甲車) Ausf B
Sd.Kfz. 251/3 mittlere Funkpanzerwagen Ausf C
Sd.Kfz. 251/3 mittlere Funkpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/4 mittlere Schützenpanzerwagen (IG) Ausf A
Sd.Kfz. 251/4 mittlere Schützenpanzerwagen (IG) Ausf C
Sd.Kfz. 251/5 mittlere Schützenpanzerwagen (Pi) Ausf B
Sd.Kfz. 251/5 mittlere Schützenpanzerwagen (Pi) Ausf C
Sd.Kfz. 251/6 mittlere Kommandopanzerwagen (半装軌式無線指揮装甲車) Ausf A with built up structure
Sd.Kfz. 251/6 mittlere Kommandopanzerwagen Ausf A
Sd.Kfz. 251/6 mittlere Kommandopanzerwagen Ausf C
Sd.Kfz. 251/7 Sd.Kfz. 251/7 mittlere Pionierpanzerwagen (半装軌式工兵装甲車) Ausf C
Sd.Kfz. 251/7 mittlere Pionierpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/8 mittlere Krankenpanzerwagen Ausf A
Sd.Kfz. 251/8 mittlere Krankenpanzerwagen Ausf C
Sd.Kfz. 251/8 mittlere Krankenpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/9 mittlere Schützenpanzerwagen (7.5 cm) Ausf C
Sd.Kfz. 251/9 mittlere Schützenpanzerwagen (7.5 cm) Ausf D
Sd.Kfz. 251/10 Sd.Kfz. 251/10 mittlere Schützenpanzerwagen (3.7 cm) Pak Ausf A
Sd.Kfz. 251/10 mittlere Schützenpanzerwagen (3.7 cm) Pak Ausf B
Sd.Kfz. 251/10 mittlere Schützenpanzerwagen (3.7 cm) Pak Ausf C
Sd.Kfz. 251/10 mittlereSchützenpanzerwagen (3.7 cm) Pak Ausf D
Sd.Kfz. 251/13 mittlere Schallaufnahmepanzerwagen
Sd.Kfz. 251/14 mittlere Schallauswertepanzerwagen
Sd.Kfz. 251/11 mittlere Fernsprechpanzerwagen (半装軌式電話線敷設装甲車) Ausf C
Sd.Kfz. 251/21 Sd.Kfz. 251/12 mittlere Messtrupp und Gerätpanzerwagen (半装軌式観測装甲車)
Sd.Kfz. 251/15 mittlere Lichtauswertepanzerwagen (半装軌式無線指揮装甲車) Ausf D
Sd.Kfz. 251/16 mittlere Flammpanzerwagen (半装軌式火炎放射器搭載装甲車) Ausf C
Sd.Kfz. 251/16 mittlere Flammpanzerwagen Ausf D
Sd.Kfz. 251/17 mittlere Schützenpanzerwagen (2 cm) Flak 38 Ausf C
Sd.Kfz. 251/17 mittlere Schützenpanzerwagen (2 cm) Flak 38 Ausf D
Sd.Kfz. 251/18 mittlere Beobachtungspanzerwagen (半装軌式観測装甲車)
Sd.Kfz. 251/22 Sd.Kfz. 251/19 mittlere Fernsprechbetriebspanzerwagen (半装軌式電話交装甲車)
Sd.Kfz. 251/20 mittlere Schützenpanzerwagen Infrarotscheinwerfer
Sd.Kfz. 251/21 mittlere Schützenpanzerwagen Drilling MG 151S Ausf C
Sd.Kfz. 251/21 mittlere Schützenpanzerwagen Drilling MG 151S Ausf D
Sd.Kfz. 251/22 mittlere Schützenpanzerwagen (7.5 cm) PaK Ausf D
Sd.Kfz. 251/23 mittlere Schützenpanzerwagen (2 cm) KwK 38 Ausf C

 路外走行能力が高い半装軌式装甲車ハーフトラックとして、Sd.Kfz 250Sd.Kfz. 251のような半装軌式装甲兵員輸送車がハノマーク社Hanomag)で開発された。これらの歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)は,戦車,突撃砲,自走砲に追随できる指揮車・無線通信車・観測車として,主に機械化部隊に配備された。


2.ドイツのソ連侵攻以降の半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)−量産簡易型

1941年6月21日,バルバロッサ作戦開始の前日の,ドイツ軍東部戦線配備兵力は,兵員300万人,戦車3580両,火砲7184門,車両60万台,ウマ75万頭。航空機1830機。
対峙するソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。

写真(右)1941年6月,対ソビエト連邦、東部戦線、バルト諸国ラトビア、鉄道の線路を伝って進撃するドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251) とIII号戦車(PzKpfw III)
Lettland, Aiviekste.- Panzer III und mittlerer Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251 mit Scherenfernrohr) auf Eisenbahn-gleisen; PK 694. 
English: Lettland, Aiviekste. Left, Panzer III and in middle distance at right, Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251 with Scherenfernrohr - Periscope binoculars) on railtracks; PK 694
Tannenberg撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-209-0063-17"引用。

ポーランドのリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg,チェコ語ルヴフLvov)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

ドイツのソ連侵攻(1941年6月22日)直後、ドイツ軍はリボフを占領。この時,リボフのユダヤ人口は16万人だった。

写真(右)1941年6月,対ソ連、東部戦線、バルト諸国ラトビアで鉄道線路を利用して進撃したドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251) が鉄道駅「AIVIEKSTE」に到着した。
Lettland, Aiviekste.- Mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/1) vor einem Bahnübergang; PK 694.
Tannenberg撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-209-0063-12 "引用。

小型の偵察装甲車 (Sd.Kfz. 250)は,乗員2人+搭載4人だが,中型の半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)は乗員2人+搭載10人と大きく,兵員輸送能力が高い。しかし,エンジンは同じ出力なので,中型の装甲車Sd.Kfz.251に比べて,機動性が高く,偵察・指揮車としては適していた。

写真(右)1941年6月,対ソ連、東部戦線北部、ドイツ国防軍第一装甲師団の半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3):装甲車の車体後方にフレーム式のアンテナが張り巡らされている。これは、支柱のように見せかけて、指揮者としは認められないようにして、標的になりにくくする工夫でもある。
Sowjetunion-Nord.- Offiziere und Besatzung auf mittlerem Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251/3 oder Sd.Kfz. 251/6 mittlerer Funk-panzerwagen bzw. Flieger-Leit-Fahrzeug); PK 694. English: They are member of the 1. Panzer-Division
Tannenberg 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-209-0056-06"引用。

第二次世界大戦中,4人乗りの兵員輸送用の小型半装軌式装甲車ハーフトラックSd.Kfz 250は1トン牽引車(Sd.Kfz.10)をベースに6000台生産された。 10人乗りの中型半装軌式装甲車(Sd.Kfz.251)は、3トン牽引車(Sd.Kfz.11)をベースに1万5000台以上生産された。装甲車は、装甲師団の歩兵(猟兵)に優先的に配備されたが,ドイツ軍には,軍用トラックのほか馬,馬車の輸送部隊も多かった。

写真(右)1941年6月,ロシア、バルバロッサ作戦時期のドイツ陸軍半装軌式救急装甲車 Sd.Kfz.251/8:ドイツ軍は,装甲車を救護活動に投入した。最前線の患者や負傷者を救助するために、半装軌式救急装甲車を改造して担架やベットを戦闘室に備えた。しかし、独ソ戦では、お互いに赤十字記章を尊重しなかったので、後に目立った赤十字記章を付けないようになった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-534-0009-14 Original title: info Scherl Bilderdienst
Krieg in Rußland Ein Verbandsplatz der Panzerwaffe PK - Kudicke 6653-41
Archive title: Rußland; Juni 1941, PK: 1. Flakkorps Dating: Juni 1941 Photographer: Kudicke 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


Sd.Kfz. 251/1 独ソ開戦バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)当初,ソ連邦に侵攻したドイツ軍を,ソ連共産党スターリンの圧制からの解放と考え,ドイツ軍を歓迎するソ連のウクライナ人,ロシア人,中央アジアトルコ系民族などがいた。ソ連の住民の中には,ドイツ軍進駐初期,スターリン支配,ボリシェビキ圧制から解放されると考え,ドイツ軍兵士を歓迎した人々も少なくなかったのである。

1941年6月22日以降のドイツのバルバロッサ作戦Operation Barbarossa)は,ユダヤ人など下等劣等人種殲滅戦争の第二段階だった。

写真(右)1941年9月,ロシア、ドイツ軍半装軌式指揮通信装甲車 (SdKfz.251/3 Aust.A) :対空偽装を施した車体のわきで、コート姿の将兵が食事を摂っている。
Springmann Archive description Russland.- Panzersoldaten und Infanteristen bei Ruhepause vor stark getarntem mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/3, mittlerer Funkpanzerwagen) in Stellung auf einem Feld stehend; PK 691 Title Russland, getarnter Schützenpanzer auf Feld Info non-talk.svg Depicted place Russia Date September 1941 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-187-0208-27.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-187-0208-27, Russland, getarnter Schützenpanzer auf Feld.jpg"引用。


 ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3)は、支柱のように見せかけた大型フレームアンテナを装備している。車体は、複雑な傾斜平面で構成され、避弾径始を考慮して防御力を高めている。しかし、製造工程が増え、量産性は低下したため、後期にはより単純な形状になった。戦闘室には無線機を備えた。フロントに搭載されているエンジンは、マイバッハ製直列6気筒ガソリンエンジン(ディーゼルではない)。

写真(右)1941年10月,対ソ連、東部戦線、ドイツ国防軍第一装甲師団の半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3)の操縦席
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0158-13 Archive title: Sowjetunion.- Funker mit Kopfhouuml;rer in leichtem gepanzerten Beobachtungs-kraft-wagen (Sd.Kfz. 253) vor Funkgeräten; PK 697 Dating: Oktober 1941
Photographer: Utrecht, Fred Erich 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-268-0158-13"引用。

ドイツ陸軍のSd.Kfz. 251は,1937年から開発,1939年から生産された中型の兵員輸送用半装軌式装甲車ハーフトラック)である。Sd.Kfz 251は、複雑な多面体装甲版の旧型4600台と,1943年9月以降,簡易形状の装甲板に変更して,生産性を向上したされた新型1万600台がある。合計1万5200台が生産された。

写真(右)1941年10月,対ソ連、東部戦線中央部、雪の中を走行するドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251) :兵員室上部前方にMG34機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-268-0178-09 Archive title: Sowjetunion.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) in Fahrt, Schnee; PK 697.
Böhmer撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-268-0178-09"引用。

ハノマーク社Hannoversche Maschinenbau AG)の半装軌式装甲車(ハーフトラック)Sd.Kfz. 251(旧型)の年別生産台数は,1940年 337台,1941年 424台,1942年 1200台とされるから,生産の大半は1943年以降の戦争後期である。初めてこの半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)を装備したのは,1939年に第1装甲師団だった。

Sd.Kfz 251初期型の標準武装は,7.92ミリMG34機銃2丁で,弾丸2,010発を搭載。

写真(右)1941年10月,雪の降り始めた東部戦線でドイツ・ハノマーク社の装甲車Sd.Kfz. 251を見送るドイツ軍将兵フォン・ボック元帥(1885-1945)は,中央軍集団の北方軍集団司令官として1939年ポーランド戦参加,B軍集団司令官として1940年フランス戦に参加し,軍功をあげて,元帥に昇格した。
そのフォン・ボック元帥は、1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦では,主力となった中央軍集団司令官に就任,当初は大戦果を挙げたが,12月17日,モスクワの戦いで敗北している。後任はクルーゲ。
Sowjetunion.- mittlerer Schützen-panzerwagen (Sd.Kfz. 251) in Fahrt, Soldaten stehen am Straßenrand, Schnee; PK 697 Dating: Oktober 1941 Photographer: Böhmer 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-268-0178-08 引用(他引用不許可)。


1941年6月22日のドイツ軍ソ侵攻「バルバロッサ作戦」から3ヵ月後の9月下旬,ドイツ軍は,クリミア半島東のケルチ半島を占領,南のセバトポリ要塞を包囲した。しかし,ソ連赤軍は1941年12月のクリスマス攻勢をかけ,クリミア半島東のケルチ半島に逆上陸を敢行し,ドイツ軍守備隊を撤退させた。当時,ドイツ軍は,クリミア半島西のセバトポリ要塞は,エーリヒ・フォン・マンシュタイン 将軍率いるドイツ第十一軍に包囲されていたが,これはソ連軍から見れば,ドイツの大軍を寡兵で拘束していたことを意味していた。

 1941年9月からドイツ軍に包囲されていたセバトポリのソ連赤軍守備隊は,翌1942年7月まで持久戦を戦い続けた。火器を装備した堅牢なトーチカ陣地に立て篭もるソ連赤軍守備隊に対して,ドイツ軍はセバトポリ要塞を砲撃戦によって破壊する作戦を計画した。これには,世界最大の火砲であるクルップ社製造の40口径80センチ砲「グスタフ」,モーゼル者製造の60センチ自走臼砲「カール」など超大口径砲など多数の重砲を配備した。また,空軍による急降下爆撃,地上襲撃も行った。

 パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』は,第十一軍マンシュタイン元帥のセバストポリ要塞攻撃、ケルチ半島攻略の戦術的巧妙さを高く評価している。しかし,これは,孤島に孤立した日本軍を攻撃した米軍公式戦記が,日本軍の頑強さを強調することで、それを撃破した米兵の勇敢さ,将軍の知略を評価するのと同じで,身贔屓である。
ドイツ軍はセバストポリ要塞を,1942年7月3日,攻略したが、これはスターリングラード守備隊ドイツ第六軍降伏の7ヶ月前のことだった。火砲・航空機の圧倒的な優位を得たドイツ軍が,籠城戦を長期半年間も続けた敵ソ連赤軍に大規模な反撃を受けるはずはなく,物量の勝利ともいえる。

写真(右)1942年,ロシア東部戦線、ハノマーク社のドイツ軍半装軌式兵員輸送装甲車後期C型 (Sd.Kfz. 251 Ausf. C; "Prop.Eins")と奥の半装軌式無線指揮装甲車Sd.Kfz. 250:兵員室上部前方に防楯付きのMG34機関銃を装備している。手前の茂みに布陣しているドイツ兵もMG34機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-792-0138-21A Archive title: Rußland.- mittlerer Schützenpanzer Sd.Kfz. 251 Ausf. C; "Prop.Eins" Dating: 1942. 
Photographer: Habedank, Gerd撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-792-0138-21A"引用。


 1942年6月,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)は,アゾフ海に注ぐドン川の渡河地点を確保し,スターリングラード方面に進撃することになった。ソ連軍は後退し,ヒトラーはこれをソ連軍の士気阻喪,崩壊と考えた。そこで,7月13日,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)を二分して,A軍集団(ヴィルヘルム・リスト元帥)とB軍集団(フォン・ヴァイクス大将)に分けた。

ボック元帥は南方軍集団の分割に反対し,解任させられた。A軍集団は,カフカスに向かうことになり,B軍集団だけがスターリングラードに進撃することになった。

半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251)は,不整地でも移動速度が速く,機動性に富んでいるために,装甲師団の戦車の後方に随伴したり,戦車攻撃後に迅速に進出したりすることが可能だった。機械化歩兵は,電撃戦に活躍した。

写真(右)1941年4-5月,北アフリカ、イタリア植民地に派遣された「ドイツ・アフリカ軍団」所属の半装軌式無線指揮装甲車Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251/11, "Fern-sprechwagen") :無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/11, "Fernsprech-wagen")はフレームアンテナではなくシュテルン(星型)アンテナを装備した後期型で。後方にはフレームアンテナを装備した装甲車、III号戦車などが並んでいる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-783-0110-13 Archive title: Nordafrika.- Mittlerer Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251/11, "Fernsprechwagen大型アンテナ・無線電話を搭載した指揮車両。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Nordafrika.- Mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/11, "Fernsprechwagen"), PKW in der Wüste; PK "Afrika". Dating: 1941 April - Mai
Italien.- Be- oder entladen eines Schiffes in einem Hafen, u.a. mit mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251); PK "Afrika".
Moosmüller撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-783-0110-13"引用。


第二次世界大戦に参戦したイタリアが、1940年9月に北アフリカの植民地キレナイカCyrenaica:リビア東部)のイタリア軍は、イギリス属国エジプトへ侵攻した。しかし、イギリス軍に撃破され、北アフリカを失う恐れが濃厚になった。そこで、ドイツ軍の「アフリカ軍団」が派遣され、イギリス軍の攻撃を防いだ。その後、エジプト国境エルアラメインEl Alamein)まで進撃したが、再びイギリス軍に押し返され、1943年5月に,フランス・ヴィシー政府Vichy France)のチュニジアにまで後退して降伏した。

写真(右)1942年6-7月,ソ連中部あるいは北部,ハノマーク社の半装軌式装甲車Sd.Kfz.251:兵員室上部前方には7.92ミリMG34機関銃が装備されている。
1942年初夏,ソ連南部のカフカス侵攻「ブラウ」作戦を開始したが,カフカスを占領することはできず,かわりにスターリングラードを攻略しようとした。しかし,ここでドイツ軍はソ連軍に逆包囲され,1943年2月に降伏,大敗北を喫した。大損害を被ったことに衝撃を受けたヒトラーは,ドイツを戦争に巻き込んだユダヤ人に報復として,大量殺戮を滞りなく進めることを求めた。ゲットーのユダヤ人が生きているのが許せなかった。
Sowjetunion-Mitte/Nord.- Zwei mittlere Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251/6) mit Besatzung in freiem Gelände nebeneinander stehend; PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Gellert撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-216-0404-22 引用(他引用不許可)。


ドイツ軍の電撃戦に投入された機械化歩兵とは,歩兵の輸送手段が,トラック・乗用車・オートバイなどの自動車あるいは半装軌式装甲車ハーフトラックSd.Kfz 250Sd.Kfz. 251に搭乗した歩兵部隊のことで,ドイツ軍では「狙撃兵」とも呼んだ。

写真(右)1942年8月10日,ロシア南部、ドン川方面に向かうドイツ軍中型半装軌式装甲車 (Sonder-kraftfahrzeug 251/10 Ausführung B):3.7 cm PaK 36対戦車砲搭載型で小隊長車用。対戦車砲の防盾がそのままの初期型と、小型化した標準型がある。A-D型をベースに生産されたが、対戦前半に活躍した装甲車なので、B型/C型の車体流用が主流である。
Deutsch: Zugführer Lt. Detmar Philippi SPW/Schützen Battalion 64 beim Vormarsch zum Don Date 10 August 1942 Author Reinhardphilippi.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"File:SPW Schützen-Battalion 64.jpg"引用。

写真(右)1942年8月,ロシア南部、ドン川方面に向かうドイツ軍半装軌式装甲車 (Sonder-kraftfahrzeug 251/10 Ausführung D):3.7 cm PaK 36対戦車砲搭載型で防盾は、左半分が残されているが、右半分は視界向上のためか撤去されている。B型/C型の車体流用が主流なので後期のD型は珍しい。
写真家 Geller Sowjetunion-Süd.- Soldaten und Feldwebel in mittlerem Schützenpanzer mit 3,7-cm Pak (Sd.Kfz. 250/10); PK 694 タイトル Russland-Süd, Schützenpanzer mit Pak Info non-talk.svg 描画された場所 Russland-Süd 日付 1942年8月 所蔵 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) 台帳番号 Bild 101I-217-0493-27.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"File:Bundesarchiv Bild 101I-217-0493-27, Russland-Süd, Schützenpanzer mit Pak.jpg"引用。

3.7 cm PaK 36対戦車砲 ドイツ軍中型半装軌式装甲車 (Sd.Kfz. 251/10)に搭載された3.7 cm PaK 36対戦車砲の諸元
口径:37mm
全長:1.66m
全幅:1.65m
重量:328kg
砲身長:1,665mm (45口径)
仰俯角:-5°から+45°
左右旋回角:50°
砲口初速:745m/s
発射速度:13発/分(最大)
最大射程距離:5,484m
生産期間:1936年~1942年
生産総数:15,000門

写真(右)1943年7月,対ソ連、東部戦線中央部、路外走行するドイツ武装親衛隊の半装軌装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/10 Ausführung C)。兵員室上部前方に防楯なしの3.7 cm PaK 35/36対戦車砲を装備。車体側方には、防水シートが巻いてしまわれている。のちに、24口径7,5センチ砲を装備した火力支援装甲車も出現した。
写真家 King Sowjetunion.- Soldaten der Waffen-SS in einem leichten Schützenpanzer タイトル Russland, Schützenpanzer 描画された場所 ロシア 日付 1943年7月 所蔵 Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Waffen-SS (Bild 101 III) 台帳番号 Bild 101III-King-051-04A
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101III-King-051-04A, Russland, Schützenpanzer.jpg"引用。

ドイツA軍集団は,1942年8月末,黒海に臨むノボロシスクを攻撃し,9月10日には,それを占領した。しかし,9月に入ると,補給能力不足からカフカス山脈北西のクバニ,北東のチェレクの間で,戦線は膠着した。

マイコープの精油施設は破壊されたため,ドイツ軍は油田で燃料不足に悩まされたことをカレル『バルバロッサ作戦』は指摘し,補給路が伸びきってしまい,攻撃速度が低下したと説明する。

ソ連指導者スターリンは,1942年7月12日,セミョーン・チモシェンコ元帥にスターリングラード正面軍の編成を明示,スターリングラードを死守することを命じた。予備兵力を投入し,防備を固めようとしたが,問題は時間が足りないことだった。

写真(右)1943年8月,対ソ連、東部戦線中央部、路外走行するドイツ武装親衛隊の半装軌装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/10 Ausfûhrung C)。兵員室上部前方に防楯付きの7.92mm MG34機関銃を装備。車体側方には、鉄帽が並んでいる。無線通信アンテナが装備されている。
写真家 Etzold Rußland.- Soldaten auf mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) in Dorf vor Holzhaus; PK 670 タイトル Russland, Schützenpanzer in Ortschaft 描画された場所 ロシア 日付 1943年8月 所蔵 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) 台帳番号 Bild 101I-088-3711-10A
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-088-3711-10A, Russland, Schützenpanzer in Ortschaft.jpg"引用。

1942年7月23日,総統大本営(総司令部)の一つでウクライナに設置された「ヴェアヴォルフ」で,陸軍参謀総長ハルダー大将は,ヒトラーにソ連軍は計画的に退却しているとの推論を伝えたが,ヒトラーはソ連軍は崩壊一歩手前にあると確信していた。

写真(右)1942年,フランス南部、28/32cmロケット弾を搭載できるヴルフラーメン40(Wurfrahmen 40)ロケット弾発射ランチャーを装備したドイツ陸軍第7装甲師団の半装軌式装甲車Sd.Kfz.251:ボンネットには、対空国籍記章として、赤字に白丸黒スワスチカのドイツ国旗を掲げている。車体側面の木製ランチャーにネーベルベェルファー28センチ・ロケット弾あるいは32センチロケット弾を左右に各3発、合計6発搭載している。
Photographer Baumann Frankreich-Süd.- Mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251; 7. Panzerdivision?) mit Hakenkreuz-Flagge auf Motorhaube, schwerem Wurfrahmen 40 ohne Packkisten und Besatzung auf gepflasterter Straße in Hafengebiet; PK 696 Title Südfrankreich, Hafen, Schützenpanzer Depicted place Südfrankreich Date 1942 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-258-1320-06
Photographer: Utecht / Ütrecht / Uetrecht 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"File:Bundesarchiv Bild 101I-216-0417-09, File:Bundesarchiv Bild 101I-258-1320-06, Südfrankreich, Hafen, Schützenpanzer.jpgg"引用。


写真(左/右)1942年6-7月,ソ連ハリコフ北東ドン河畔ヴォロニェシでヴルフラーメン40(Wurfrahmen 40)ロケット弾発射ランチャー入りのロケット弾を装甲車Sd.Kfz.251に装填する第40装甲師団の兵士
:半装軌装甲車の車体両側に木製ランチャーを取り付け,そこにネーベルベェルファー28センチ・ロケット弾,32センチロケット弾装填する。
Russland, bei Woronosch.- Soldaten bei Montage eines schweren Wurfrahmens 40 an einem mittleren Schützen-panzerwagen (Sd.Kfz. 251 der 24. Panzerdivision?) und Beladen mit Munition (Wurfkörpern); PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Dieck撮影。
写真(右):Photographer Dieck Russland, bei Woronosch.- Soldaten bei Montage eines schweren Wurfrahmens 40 an einem mittleren Schützenpanzerwagen (Sd.Kfz. 251 der 24. Panzerdivision?) und Beladen mit Munition (Wurfkörpern); PK 694 Title Russland, schwerer Wurfrahmen an Schützenpanzer Depicted place Russia Date June 1942 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-216-0417-02
写真左はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-216-0417-05, Russland, schwerer Wurfrahmen an Schützenpanzer.jpg"引用。右はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 File:Bundesarchiv Bild 101I-216-0417-02, Russland, schwerer Wurfrahmen an Schützenpanzer.jpg引用。


写真(右)1941年6-7月,東部戦線ロシア、ソ連ハリコフ北東ドン河畔ヴォロニェシでロケット弾を装甲車Sd.Kfz.251に装填する第40装甲師団の兵士:車体側面に木製ランチャー「ヴルフラーメン40(Wurfrahmen 40)ロケット弾発射フレーム」を取り付け,そこにネーベルベェルファー28センチ・ロケット弾あるいは32センチロケット弾を左右に各3発、合計6発装填している。
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-216-0417-06 Archive title: Russland, bei Woronosch.- Soldaten bei Montage eines schweren Wurfrahmens 40 an einem mittleren Schützenpanzerwagen (Sd.Kfz. 251 der 24. Panzerdivision?) und Beladen mit Munition (Wurfkörpern); PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Dieck撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-216-0417-06, Russland, schwerer Wurfrahmen an Schützenpanzer.jpg"引用。


写真(右)1942年6-7月,ソ連ハリコフ北東ドン河畔ヴォロニェシでロケット弾を装甲車Sd.Kfz.251に装填する第24装甲師団の兵士: 半装軌装甲車の車体両側に木製ヴルフラーメン40(Wurfrahmen 40)ロケット弾発射ランチャーを取り付け,そこにネーベルベェルファー28センチ・ロケット弾,32センチロケット弾装填する。Russland, bei Woronosch.- Soldaten bei Montage eines schweren Wurfrahmens 40 an einem mittleren Schützen-panzerwagen (Sd.Kfz. 251 der 24. Panzerdivision?) und Beladen mit Munition (Wurfkörpern); PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Dieck撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-216-0417-03 引用(他引用不許可)。

ドイツ軍は,1940年に直径15センチのロケット弾(15 cm Nebelwerfer 41)を開発していた。これは,「ネーベルベェルファー(煙幕弾)」の秘匿名称で呼ばれた重量34キロのロケット弾で,全長1.3メートルのパイプからなる6連装ロケットランチャーによって,電気発火で発射された。

ロケットランチャー運搬には,3.7センチPak36対戦車砲の砲架が流用された。1940年15万発,1941年41万発,1942年120万発を量産したという。しかし,実戦での使用はソ連赤軍に遅れた。1940年5月のフランス侵攻,1941年6月のソ連侵攻など,緒戦に投入された形跡はない。

写真(右)1942年6月,ソ連ハリコフ北東ドン河畔ヴォロニェシ、28/32cmロケット弾ヴルフラーメン40(Wurfrahmen 40)ロケット弾発射ランチャーを搭載作業中のドイツ陸軍第24装甲師団の半装軌式装甲車Sd.Kfz.251:車体側面の木製ランチャーにネーベルベェルファー28センチ・ロケット弾あるいは32センチロケット弾を左右に各3発、合計6発搭載することが可能である。
Photographer Dieck Russland, bei Woronosch.- Soldaten bei Montage eines schweren Wurfrahmens 40 an einem mittleren Schützenpanzerwagen (Sd.Kfz. 251 der 24. Panzerdivision?) und Beladen mit Munition (Wurfkörpern); PK 694 Title Russland, schwerer Wurfrahmen an Schützenpanzer Depicted place Russia Date June 1942 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-216-0417-04
Photographer: Utecht / Ütrecht / Uetrecht 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"File:Bundesarchiv Bild 101I-216-0417-04, Russland, schwerer Wurfrahmen an Schützenpanzer.jpg"引用。

写真(右)1942年6月,ソ連ハリコフ北東ドン河畔ヴォロニェシ、28/32cmロケット弾を搭載したドイツ陸軍第24装甲師団の半装軌式装甲車Sd.Kfz.251:車体側面のヴルフラーメン40(Wurfrahmen 40)ロケット弾発射ランチャーにネーベルベェルファー28センチ・ロケット弾あるいは32センチロケット弾を左右に各3発、合計6発搭載している。
Photographer Dieck Russland, bei Woronesch.- Mittlerer Schützenpanzerwagen (Sd.Kfz. 251 der 24. Panzerdivision?) mit schweren Wurfrahmen 40 und Munition (Wurfkörpern); PK 694 Title Russland, schwerer Wurfrahmen an Schützenpanzer Depicted place Russia Date June 1942 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-216-0417-09
Photographer: Utecht / Ütrecht / Uetrecht 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"File:Bundesarchiv Bild 101I-216-0417-09, Russland, schwerer Wurfrahmen an Schützenpanzer.jpg"引用。

装甲車Sd.Kfz.251 ドイツ軍は,直径28センチと32センチの二種類のロケット弾を開発した。1942年夏に実戦に投入した。これらのドイツ軍のロケット弾は,無翼でロケット噴射口26個があった。噴射口には傾斜がつけられていて,ロケット噴射が渦巻きとなって,弾体を回転させ,安定飛行した。

15センチのロケット弾(15 cm NbW41):重量34キロ(爆薬7キロ),射程6800メートル

28センチロケット弾(28 cm NbW 41:28/32 cm Nebelwerfer 41):重量80キロ(爆薬50キロ),射程1900-2200メートル。
32センチロケット弾(32 cm NbW 41):重量80キロ(焼夷弾45リットル),射程1900-2200メートル,28センチ弾とあわせて,1941年1万発,1942年7万発を量産
ドイツ軍は,木製の簡易ロケット弾発射機(ランチャー)を開発し,運搬箱と発射台を一体化させた。

装甲車Sd.Kfz.251 ソ連軍は,チモシェンコ元帥にハリコフを攻撃させたが,1942年6月28日,フェードア・フォン・ボック元帥は,1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号に則って,スターリングラード,カフカスを目指すブラウ作戦を開始した。
ハリコフ北方で,ドイツ軍は,激戦の結果,ソ連軍は逆包囲,敗北させた。

1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号では,作戦目的は,「東部作戦当初の原則を維持しつつ、中部では現状を守り、北部ではレニングラートを占領して,フィンランド軍と陸路連絡をつけ、南部ではカフカス地区へ突入する。冬期戦終了後でもありこの目標は集めうる兵力、資材および輸送事情により、段階的に達成されるものとする。そのためまず全兵力を南部戦区の主要作戦にむけ、ドン前面の敵を掃討し、ついで,カフカス(コーカサス)の油田およびカフカス山脈の道路を奪取するものとする。」とされた。

写真(右)1942年夏,ドン川からスターリングラードに進攻するハノマーク社の半装軌式装甲車(Sd.Kfz 250とSd.Kfz. 251):路外でも兵員を迅速に輸送できるハーフトラック。背景の建物は燃えている。
Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- leichter und mittlerer Schützen-panzer (Sd.Kfz 250 und Sd.Kfz. 251) in Ortschaft, im Hintergrund brennendes Gebäude; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Thiede撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


カスピ海に注ぐボルガ川河畔スターリングラードに向かう第六軍用の燃料は,カフカス戦線に回された。そのため,第六軍のスターリングラード進撃は停滞してしまった。ソ連軍はこの時間を利用して,ドン川西岸カラーチに防衛線を張り,スターリングラードのへの兵力集中が可能になった。

写真(右)1942年8月10日,ロシア南部、ドン川方面に向かうドイツ軍中型半装軌式装甲車 (Sonder-kraftfahrzeug 251 Ausführung B):手前から2両目は後部コンパートメントの上面にフレーム式アンテナを装備しているドイツ軍中型半装軌式無線指揮装甲車(Sd.Kfz. 251/3)。
Photographer Geller Sowjetunion-Süd.- Mittlere Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251) und leichter Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250/3) beim Durchqueren eines Sumpfes / Überfahrt über schlammigen Untergrund; PK 649 Title Russland-Süd, Schützenpanzer in Fahrt Depicted place Russland-Süd Date August 1942 Current location Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-217-0493-19.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"File:Bundesarchiv Bild 101I-217-0493-19, Russland-Süd, Schützenpanzer in Fahrt.jpg"引用。

ソ連軍は,スターリングラード手前のカラーチでは敗れたが,その間,スターリングラードの防衛を固めることができた。カラーチ戦を戦い抜いたドイツB軍集団の第六軍は,1942年8月末になって,スターリングラード正面に到着したのである。

リスト元帥率いるA軍集団は,7月25日,黒海北のアゾフ海入口にあるロストフを占領した。この日,ヒトラーの「総統指令45号」がA・B軍集団に届いたが,ここではドイツ軍の包囲を逃れドン川に達したのは,ソ連のチモシェンコ軍の一部に過ぎず,A軍集団に黒海沿岸の諸港を占領し,カスピ海沿いのバクーを占領すること,B軍集団はスターリングラードを占領,ボルガ川沿いにカスピ海のアストラハニにまで前進することを命じた。

これは,まずスターリングラードを攻略,その後,カフカスに進出し,油田地帯を押さえるという「ブラウ」作戦を大修正するものだった。スターリングラード,カフカスを同時に攻撃目標としてしまったのである。

写真(右)1942年8-9月,ソ連南部ステップを進むドイツ軍半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251(ハーフトラック):兵員室上部前方に防楯付きのMG34機関銃を装備。
Sowjetunion-Süd.- Mittlerer Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251) auf offenem Feld; PK 694 Dating: 1942 August - September Photographer: Geller撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-217-0494-34 引用。


Sd.Kfz.251/6 Ausf.A無線車 歩兵部隊の最小単位は,分隊で10人程度の歩兵集団である。したがって,装甲車やハーフトラックによって戦場に運ばれる歩兵部隊も,最小限,分隊単位が望ましく,歩兵戦闘装甲車Infantry fighting vehicle)にも10人以上の兵士が搭載可能な必要がある。ハノマーク社Hanomag)のSd.Kfz. 251のような半装軌式兵員輸送装甲車は,搭乗可能な人数は,運転手・副手の2人に加えて歩兵4人でしかなく,輸送能力が低く兵員輸送には適していない。

そこで,ドイツ軍は,小型半装軌式装甲車Sd.Kfz. 250のエンジンはそのまま,基本設計を踏襲して車体を延長した兵移入装用の中型ハーフトラックを開発した。これが,中型半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251である。

1942年春、モスクワ攻略に充てられていたドイツ中央軍集団から、フェードア・フォン・ボックFedor von Bock)元帥率いる南方軍集団に兵力を抽出させられた。そして、1942年6月28日、「ブラウ作戦」にしたがって、南方軍集団は二分された。そして、A軍集団がドン川からカフカスの油田を攻略し、B軍集団がスターリングラードを占領、水上交通の動脈ボルガ川を封鎖することとなった。

写真(右)1943年,ロシア東部戦線中部、ドイツ軍の半装軌式工兵輸送装甲車Sd.Kfz. 251/7:フロントには予備タイヤを装備し、防楯付き機銃を搭載している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-089-3753-36 Archive title: Sowjetunion.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) in Ortschaft bei Kalinkowitschi (Hinweisschild: "Gomel 132 km, Kalinkowitschi 10 km, Shitomir 231 km, Owrutsch 97 km"); PK 670 Dating: 1943
Photographer: Rehor, Willy 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-089-3753-36"引用。

ドイツ国防軍「グロースドイッチュラント」("Großdeutschland")装甲師団は、 1942年5月に歩兵師団(Infantry Division)「グロースドイッチュラント」として編成され、1943年5月に装甲擲弾兵師団(Panzergrenadier Division)「グロースドイッチュラント」に再編成され、戦車、自走砲を備えた有力な機甲部隊となった。1944年11月には、規模を拡大して、増設部隊も含めて、装甲軍団(Panzerkorps)「グロースドイッチュラント」("Großdeutschland")と呼ばれるようになった。

ドイツ国防軍「グロースドイッチュラント」("Großdeutschland")歩兵師団は、優秀な兵士と装備をもって編成され、ソビエト侵攻のため、フェードア・フォン・ボック指揮の中央軍に属する第2装甲集団のグデーリアン将軍の下で、1941年6月、対ソ侵攻バルバロッサ作戦に実戦参加した。1941年12月,ソ連軍のケルチ奇襲攻撃にあわてたドイツ軍は,セバストポリ包囲に投入されていた部隊をケルチ反撃に向かわせようとしたが,すでに陣地戦に入って,部隊展開を分散していたドイツ軍は,迅速な撤収,集結,移動ができなかった。第十一軍は1942年6月までソ連赤軍を撃退できなかった。

1942年には、ソ連南部でカフカス、ボルガ川、スターリングラード方面を攻略する「ブラウの事例(Fall Blau)」に投入された「グロースドイッチュラント」装甲師団は、ドン川、ヴォロネジ攻略から、スターリングラード攻防戦に加わった。

 1943年にはハリコフ攻防戦に、武装親衛隊のSS装甲擲弾兵師団とともに、投入された。1944年に入ると、グロースドイッチュラント師団は、チェルカースィ包囲戦に参加した。

写真(右)1943年6-7月,対ソ連、東部戦線中央部、路外走行するドイツ軍半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/6)。兵員室上部前方に防楯を付きのMG34機関銃を装備。後方は7,5センチ砲を装備したIV号戦車。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-219-0596-12 Archive title: Rußland-Mitte/Süd.- Panzer IV und mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251); PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli.
Dieck撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3710-12"引用。

ソ連軍は1943年1月10日から29日までに,ドイツ軍兵士1万6800人を捕虜とし,それから2月3日までにさらに,9万1000人を捕虜とした。

1942年11月中旬,第六軍には23万3000人のドイツ兵士,同盟国兵士がいたが,降伏時は10万7800人だった。1963年までに故国に戻ったのは6000人という。

写真(右)1943年10月,対ソ連、東部戦線中央部、路外走行するドイツ軍半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/6)。兵員室上部前方に防楯を付きのMG34機関銃を装備している。後方は7,5センチ砲を装備したIV号戦車。
Sowjetunion-Mitte.- Soldat mit Leuchtpistole und Oberleutnant der Luftwaffe (Fliegerleit-Offizier) auf mittlerem Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251/6) als Flieger-Leit-Fahrzeug, im Hintergrund Panzer IV; PK 670 Dating: Oktober 1943 .
Etzhold撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3710-13"引用。

第二次大戦の最大規模の決戦であるスターリングラード攻防戦で,ドイツ国防軍は,大敗した。第六軍パウルス将軍は,スターリングラード死守を命じられ,元帥に昇進させられた。しかし,その直後,ソ連に降伏してしまった。多数のドイツ兵が死亡し捕虜になった。ドイツ国防軍の栄光は失われた。

写真(右)1943年10月,対ソ連、東部戦線中央部、泥濘の道を走行するドイツ軍半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/6)。兵員室上部前方に防楯を付きのMG34機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-088-3710-09 Archive title: Rußland-Mitte.- Soldat mit Leuchtpistole und Oberleutnant der Luftwaffe (Fliegerleit-Offizier) auf mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/6) als Flieger-Leit-Fahrzeug; PK 670 Dating: Oktober 1943.
Etzhold撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3710-09"引用。

スラブ人の国ブルガリアは,ボリス国王の統治下、親ドイツの立場をとりながらも、1941年6月の対ソ戦には中立を維持した。他方、ブルガリアは,枢軸国側の軍隊の駐留を受け入れ、ソ連,ギリシャ,中立国トルコを牽制した。
しかし,ソビエト連邦がドイツ軍を圧倒する1944年,ソ連側に立って,ドイツと戦うことを決断した。

写真(右)1943年10月,対ソ連東部戦線中央部、ドイツ軍半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/6)の乗員はイヤホーンを装備している。Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-088-3710-08 Archive title: Rußland-Mitte.- Soldat mit Leuchtpistole und Oberleutnant der Luftwaffe (Fliegerleit-Offizier) auf mittlerem Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251/6) als Flieger-Leit-Fahrzeug; PK 670 Dating: Oktober 1943.
Etzhold撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3710-08"引用。

写真(右)1943-1944年,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍第2装甲師団と思われる半装軌式装甲車 (Sd.Kfz. 251)と奥の八輪重装甲車(Sd.Kfz. 231 8-Rad):ドイツ国防軍第2装甲師団は、1939年9月のポーランド侵攻(Invasion of Poland)にスロバキアから移動して参加、中部ポーランドで戦った。1940年5月のフランス侵攻(Battle of France)では、グーデリアン将軍の第19軍(XIX Army Corps)の下でベルギーに進出、イギリス遠征軍(British Expeditionary Army)をダンケルク(Dunkirk)に追いつめた。1941年4月のギリシャ侵攻(Invaion of Greece:Operation Marita)では西部マケドニアのサロニカ(Salonika)を攻略したのち、アテネに入城した。1941年6月のソ連侵攻(Invasion of the Soviet Union)では、モスクワ攻略(Operation Typhoon)に参加し、1943年にはクルスク攻防戦(Operation Citadel)に,第九軍の一部として加わった。 その後、1943年末に、西側連合軍の大陸反攻に備えるために、フランスに移動し、ノルマンディ攻防戦(Battle of Normandy)を戦った。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-088-3712-07 Archive title: Sowjetunion.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251; 2. Panzerdivision ?) in Dorf; PK 670 Dating: 1943/1944 Photographer: Etzhold撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3712-07"引用。


写真(右)1943-1944年,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍の半装軌式兵員輸送軽装甲車Sd.Kfz. 250と中型半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Bild 101I-088-3712-09 Archive title: Sowjetunion.- leichte und mittlere Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250 und Sd.Kfz. 251) in Dorf; PK 670 Dating: 1943/1944 .
Photographer: Etzhold 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3712-09 "引用。


写真(右)1943-1944年,対ソ連、東部戦線、ドイツ軍半装軌式装甲車Schützenpanzer (軽装甲車Sd.Kfz. 250と中型装甲車Sd.Kfz. 251):兵員室上部前方には防楯付き機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-088-3712-08 Archive title: Sowjetunion.- leichte und mittlere Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250 neu und Sd.Kfz. 251) in Dorf; PK 670 Dating: 1943/1944
Photographer: Etzhold 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-088-3711-10A"引用。

写真(右)1944年初頭,ロシア北部、東部戦線のドイツ軍半装軌式装甲車Schützen-panzers (Sd.Kfz. 251)の車体後方に設けられた兵員室に乗り込む兵士。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-701-0380-34 Archive title: Sowjetunion-Nord.- Innerenraum eines mittleren Schützenpanzers (Sd.Kfz. 251); KBK HG Nord Dating: 1944 Anfang.
Photographer: Utecht / Ütrecht / Uetrecht 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-701-0380-34"引用。

写真(右)1944年頃,対ソ連東部戦線、ドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車後期D型(Sd.Kfz.251/1 Ausf.D)。:車体側面の構造を簡易化して、貨物室と一体化した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-733-0003-18A Archive title: Sowjetunion.- Soldaten in mittlererm Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) im Einsatz neben Brandstelle; KBA H Dating: 1944 ca.
Photographer: Leher, Karl撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが提供したWikimedia Commonsから"Bild 101I-733-0003-18A"引用。

写真(右)1944年1月,ロシア南ウクライナ、東部戦線、7.5センチ24口径砲装備のドイツ軍半装軌式火力支援装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/9)と後方に続く兵員輸送装甲車(Sd.Kfz. 251):戦闘室前方に短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)が搭載されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-711-0410-33 Archive title: Rußland-Süd (Ukraine).- Kolonne von mittleren Schützenpanzern (Sd.Kfz. 251) auf verschlammter Straße, im Vordergrund Sd.Kfz. 251/9; PK KBZ HGr. Südukraine Dating: Januar 1944 Photographer: Beissel 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したCategory: Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-090-3918-05"引用。


写真(右)1944年初め,ロシア、東部戦線のドイツ軍半装軌式装甲指揮車Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251)。車体前面には、泥濘路外走行でも車輪がのめりこまないように、車輪の下に敷く木材製の臨時敷物が搭載されている。乗員は、白色の陶器迷彩服を着用。後方には、ソ連軍のアメリカ製M4シャーマン戦車が撃破されている。アメリカは武器貸与法に基づいて、イギリスだけでなく、ソ連にも大量の軍事物資を信用貸しを通じて貸与した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-090-3918-04 Archive title: Rußland.- Soldaten in mittlerem Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251) vor zerstörtem russischen Panzer amerikanischer Herkunft (M4 Sherman) am Wegrand; PK 670 Dating: 1944 Frühling.
Photographer: Etzhold 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory: Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-090-3918-04"引用。


写真(右)1944年初め,ロシア、東部戦線、7.5センチ24口径砲装備のドイツ軍半装軌式火力支援装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/9)
:前方に短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)が搭載されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-090-3918-05 Archive title: Rußland.- zwei Soldaten in offenem Fahrzeug mit Kanone (Sd.Kfz. 251/9 ?), Frühjahr 1944; PK 670 Dating: 1944 Frühling.
Photographer: Etzhold 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory: Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-090-3918-05"引用。


戦闘室前方に短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)は、第二次世界大戦初期からIV号戦車、III号突撃砲に装備された火砲で、対戦車戦闘ではなく、榴弾による歩兵火力支援に用いられた。

 しかし、歩兵の火力支援は戦車ではなく、突撃砲で代用さたため、戦車にはより長砲身の7,5センチ砲が搭載された。そこで、余剰となっていた短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)を半装軌式装甲車に搭載し火力支援に充てるようになった。

写真(右)1944年初め,ロシア、東部戦線チェルカッスィ(コンスル包囲戦)、7.5センチ24口径砲装備のドイツ陸軍第1装甲師団所属の半装軌式火力支援装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/9):前方に短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)が搭載されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Archive title: Bild 101I-090-3913-24 Archive title: Ruß land.- Schützenpanzer und Panzer in Fahrt auf verschneiter Strecke, Frü hjahr 1944; PK 670 Dating: 1944 Frühling.
Photographer: Etzhold 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory: Sonder-kraftfahrzeug 251から"Bild 101I-090-3918-05"引用。


 1943年初頭、スターリングラードで包囲、孤立していたドイツ第六軍は降伏し、ドイツは大敗北を喫したが、ドイツ軍はコーカサス(カフカス)地方に派遣していた軍を撤退させ、1943年夏には、ソ連赤軍の突出部を挟撃する 「ツィタデレ作戦」(クルスク戦車戦)を仕掛けた。しかし、事前にドイツ軍の反撃を予期していたソ連赤軍は、陣地を構築しドイツ軍の攻勢を跳ね返すことに成功した。

 1943年8月、一度は奪還していた、ハリコフが陥落し、ドイツ軍はソ連南部、ポーランドと接するウクライナへと撤退せざるを得なくなった。マンシュタイン指揮する南方軍集団は、農産物、地下資源に恵まれたウクライナを防衛しようとしたが、1943年9月26日、ソ連隻軍はウクライナの大都市キエフに対する攻勢を開始した。

写真(右)1944年2-3月,対ソ連,東部戦線中部、ドイツ軍の半装軌式無線装甲車Sd.Kfz. 251/3, "Funk-panzerwagen")。
兵員室上部前方に防楯を付きのMG42機関銃を装備。冬季積雪時に対応した白色迷彩塗装を施しているが、もはや雪解けのため、白色の車体に泥を塗って白色が目立たないようにしている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-693-0286-03A Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Offizier der Skijägerbrigade (Leutnant?) erstattet einem Vorgesetzten (Oberstleutnant?) im mittleren Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/3, "Funk-panzerwagen") Bericht; KBZ HGr Mitte Dating: 1944 Februar - März.
Photographer: Leher, Karl撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-693-0286-03A"引用。

75mm砲Sd.Kfz. 251 半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251車体は、初期のA型では複雑な多面体の傾斜平面で構成され、避弾径始を考慮して防御力を高めている。しかし、製造工程が増え、量産性は低下したため、後期のC型になると、より単純な形状にあらためられた。D型では、車体脇の荷物収容だなと車体が一体化されいっそう単純な形状となった。

半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251のエンジンは、車体前方フロントに、マイバッハ製直列6気筒ガソリンエンジン(ディーゼルではない)を搭載している。

ドイツ軍半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3)は、大型フレームアンテナを装備しているが、支柱のように見せかけ指揮車であることを偽装している。車体は、初期のA型では複雑な傾斜平面で構成され、避弾径始を考慮して防御力を高めている。しかし、製造工程が増え、量産性は低下したため、後期のC型になると、より単純な形状にあらためられた。戦闘室には無線機を備えた。

写真(右)1944年,ソ連の南ウクライナ戦線、ハンガリー、ドイツ軍の半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)迷彩塗装を施している。ドイツ軍の半装軌式無線指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251/3)は、大型フレームアンテナを装備しているが、支柱のように見せかけ指揮車であることを偽装している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-715-0212A-27A Archive title: Südliche Ostfront - Ungarn.- Soldaten auf mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251); KBZ HGr. Südukraine Dating: 1944.
Photographer: Kreutzer, Wilhelm 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-301-1970-28"引用。

 1944年1月、ドニエプル川近隣で、ソ連赤軍第1ウクライナ方面軍(司令官ニコライ・ヴァトゥーチン)、第2ウクライナ方面軍(司令官イワン・コーネフ)によって、ドイツの南方軍集団(司令官エーリッヒ・フォン・マンシュタイン)5.5万名が包囲された。マンシュタイン元帥は、8個師団を投入して、包囲されたドイツ軍を救出しようとチェルカッスィ戦コンスル包囲戦)を戦った。戦いをを決行を包囲することに成功した。そこで、包囲殲滅される前に、ドイツ軍部隊は包囲を突破する作戦を実施し、包囲された兵力の半数を脱出させることができた。

写真(右)1944年8-9月,対ソ連中央部、東部戦線、ドイツ軍の半装軌式火炎放射装甲車 Flammenwerfer (Sd.Kfz. 251/16)
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-281-1110-10 Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Mittlerer Schützen-panzer mit Flammenwerfer (Sd.Kfz. 251/16; Nr. 644), beim Abbrennen eines Gebäudes (bei einer Übung ?); PK 697 Dating: 1944 August - September  
Photographer: Petraschk 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-281-1110-10"引用。


写真(右)1944年8-9月,ロシア中部、東部戦線のドイツ軍中型半装軌式装甲車の火炎放射器搭載型644号車(Sd.Kfz. 251/16; Nr. 644)
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-281-1110-18 Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Mittlerer Schützenpanzer mit Flammenwerfer (Sd.Kfz. 251/16; Nr. 644), beim Abbrennen eines Gebäudes (bei einer Übung ?); PK 697 Dating: 1944 August - September.
Photographer: Petraschk 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory: Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-281-1110-18"引用。

Sd.Kfz. 251/16 1942年のスターリングラード攻防戦で激しい市街戦に直面し、建築物に立て籠るソ連兵の頑強な抵抗を受けたドイツ軍は、近距離戦闘の教訓として、火炎放射を搭載した戦闘車両の開発を進めた。これが、陸軍III号戦車M型をベースに砲塔の5センチ戦車砲を撤去して、火炎放射器を搭載した火炎放射戦車である。火炎放射器は射程60mで、火炎を放射することが可能である。

市街戦における防御力を強化するために、車体前面に増加装甲を施したこのIII号火炎放射戦車は1943年に100輌が生産された。また、簡便な運用を図るために、半装軌装甲車に火炎放射器を搭載したSd.Kfz. 251/16火炎放射半装軌装甲車も生産され部隊配備された。

写真(右)1944年10月,バルト海沿岸、リトアニア、メーメル、対ソ連東部戦線のドイツ陸軍「グロス・ドイッチェラント」"Groß-deutschland"師団所属の24口径(7,5 cm KwK 37 L/24)戦車砲装備の半装軌式火力支援装甲車 (Sd.Kfz 251/9 "Stummel"「切り株」)と行軍するパンツァーファースト(Panzerfaust)を担いだ擲弾兵:バルト海に面したリトアニア西部クライペダ(リトアニア語: Klaipėda、ロシア語: Клайпеда)は、ネマン川河口の港湾都市で、ドイツ名はメーメル (Memel)で、第二次大戦直前1939年3月22日にドイツに併合された。
写真家 Otto Panzerfüsiliere, ausgerüstet mit Panzerfaust タイトル Brückenkopf Memel, Panzerfüsiliere und Schützen-panzer Im Brückenkopf Memel Panzerfüsiliere und Schützenpanzer der Division "Groß-deutschland" gehen in Bereitstellung zu einem Angriff gegen eingebrochene Sowjetkräfte im Brückenkopf Memel, der sich gegen alle Angriffe der Sowjets behaupten konnte. Foto: PK-Otto / Transocean-Europaexpress 26.10.44 [Herausgabedatum] 描画された場所 Brückenkopf Memel 日付 1944年10月 所蔵 Sammlung von Repro-Negativen (Bild 146) 台帳番号 Bild 146-1995-081-31A
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-281-1110-10"引用。


半装軌式火力支援装甲車Sd.Kfz 251/9 "Stummel"(切り株) はSd.Kfz 251/1兵員輸送装甲車の車体に24口径(7,5 cm KwK 37 L/24)戦車砲を搭載した火力支援車輛。原形となったSd.Kfz 251/1には、中期C型と後期D型とがある。 また、Sd.Kfz 251/9 "Stummel"は、7.5センチ戦車砲を車体の右側の最前席(車長席)のスペースに搭載したが、1944年に登場した改良型は砲塔を設置して射界を拡げている。1943-1945年の期間生産された。


3.イタリア・ユーゴスラビア戦線のドイツ軍の半装軌式装甲車


写真(右)1943年9月,ユーゴスラビア、スプリッツ、吊り橋下の7.5センチ24口径砲装備のドイツ軍半装軌式火力支援装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/9)
:ゲリラによる破壊工作で、道幅の狭い廻廊を復旧し、通行している最中。前方に短砲身24口径7,5センチ戦車砲(7,5-cm-Kampfwagenkanone 37 L/24)が搭載されている。
写真家 Gruber, Dr. Jugoslawien, Split.- deutsches Fahrzeug passiert Trümmer einer zerstörten (Eisenbahn-) Brücke; PK 666 タイトル Jugoslawien, Fahrzeug passiert zerstörte Brücke 描画された場所 Jugoslawien 日付 1943年9月 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) 台帳番号 Bild 101I-049-1553-04。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251/9 Ausführung Dから"File:Bundesarchiv Bild 101I-049-1553-04, Jugoslawien, Fahrzeug passiert zerstörte Brücke.jpg引用。


写真(右)1943年10月,イタリア戦線、鉄道運搬車上に並んだ完成したばかりのドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車D型 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251/1) :兵員室上部前方には機関銃防盾があるが機関銃は未装備。車輪止めは木材破片でできているようだ。対空偽装なしで乗員が寛いでいる。
Photographer Unknown photographer Description Polski: Transport niemieckich transporterów opancerzonych SdKfz 251/1 Ausf. D na platformach kolejowych, front włoski. Date October 1943 Medium photograph Collection Narodowe Archiwum Cyfrowe Blue pencil.svg wikidata:Q11789677 Wydawnictwo Prasowe Kraków-Warszawa Accession number 2-2401
写真は Wikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 251/1 Ausführung DからFile:Transport uzbrojenia dla armii niemieckiej na froncie włoskim (2-2401).jpg引用。

1943年7月24日、久しく開かれていなかったファシズム大評議会Grand Council of Fascism)が招集されたが、ここでファシスト党幹部ディーノ・グランディDino Grandi)らは、総帥ベニート・ムッソリーニBenito Mussolini )首相を罷免し、政権を国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世Vittorio Emanuele III di Savoia)に返還することを決めた。翌日25日、ムッソリーニはサボイア朝ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世Vittorio Emanuele III di Savoia)国王に解任された。

 1943年8月にイタリアのシチリア島を占領した西側連合軍は、9月3日にイタリア半島の南端に上陸、続いて9月9日にサレルノに上陸した。この時、既にベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を追放していたピエトロ・バドリオPietro Badoglio)将軍指導のイタリア新政府は、西側連合軍との秘密交渉しており、サレルノ上陸と同時に休戦を表明した。ドイツ軍は、イタリア新首相ピエトロ・バドリオPietro Badoglio)将軍の裏切りを予測しており、事前に部隊を派遣しており、即座にイタリア軍を武装解除した。そして、アルベルト・ケッセルリンクAlbert Kesselring)元帥の指揮下にイタリア半島の防衛を強化した。

写真(右)1944年,イタリア配備されたドイツ軍降下猟兵部隊の半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)。中型半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)の車体後方の兵員室は半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz. 250)より広く、乗車できる兵員は4名から8名に増えている。この装甲車は、車体の装甲板(6-14.5mm厚)の形状を単純化し、量産性を向上させた後期C型あるいはD型。乗員のヘルメット(鉄帽)は鍔(つば)の無い降下猟兵用、つばのある陸軍式が混用されている。迷彩塗装を施している。兵員室上部前方に防楯を付きのMG42あるいはMG34機関銃を装備している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-580-1990-38A Archive title: Italien.- Fallschirmjäger auf mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251); PK Fs AOK Dating: 1944.
Photographer: Reisgen 撮影.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-580-1990-38A"引用。


 イタリア新首相ピエトロ・バドリオPietro Badoglio)将軍は、連合国に降伏したが、イタリアでの戦闘はドイツ軍が続けることになった。そして、ドイツ軍はバドリオ政権側によってグランサッソの山荘に監禁されていたベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を救出し、ドイツ傀儡のイタリア社会共和国サロSalo政権)を樹立させた。イタリア防衛を任されたドイツ軍指揮官アルベルト・ケッセルリンクAlbert Kesselring)元帥は、防衛線を強化し、イタリアを北上する西側連合軍も、主要戦線と認められなかったために、遅々としていた。

写真(右)1944年,イタリア配備されたドイツ軍半装軌式装甲救急車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)。車体正面に大きな赤十字記章を掲げている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-580-1989-10 Archive title: Italien.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/8) mit Rotkreuzflagge in Fahrt auf unbefestigter Straße; PK Fs AOK Dating: 1944
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-580-1989-10"引用。


 1944年初頭にモンテカッシーノ(Monte Cassino)のドイツ軍防衛線に達した西側連合軍は、そこで膠着状態に陥り、romani進軍できなかった。そこで、1944年1月22日、ローマ南方、アンツィオAnzio)に上陸したが、直ぐにはドイツ軍アルベルト・ケッセルリンクAlbert Kesselring)の築いた防衛線を突破できず、モンテカッシーノ戦線と同じく、アンツィオAnzio)戦線でもは膠着状態に陥った。西側連合軍が、モンテカッシーノを突破すべく大攻勢をかけたのは、1944年5月で、同月後半には、アンツィオAnzio)戦線にも攻勢をかけた。こうして、1944年6月4日、西側連合軍は、イタリア首都ローマを攻略し、8月11日にフィレンツェ(フローレンス)を占領することができた。

写真(右)1944年3月,イタリア中部、ローマ南50キロのネットゥーノ、対空偽装を施したドイツ軍半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251の戦列:対空偽装のために樹木を車体の上に置いている。
Italien, bei Nettuno.- Kolonne von Schützen-panzerwagen, mit Buschwerk getarnt, auf einer schlammigen Straße; PK 699 Title Italien, Schützen-panzerwagen Info non-talk.svg Depicted place Nettuno Date March 1944 Current location Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-311-0940-07
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"File:Bundesarchiv Bild 101I-311-0940-07, Italien, Schützenpanzerwagen.jpg"引用。

 1945年1月、西連合軍はゴシック線を突破、連合軍の進撃に勝利を予期したイタリア人パルチザンは一斉蜂起し、ドイツ軍とともに脱出しようと企図したベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を愛人クラーラ・ペタッチClara Petacci)と共にとらえた。ムッソリーニは、裁判にかけられる予定だったが、ムッソリーニ傀儡政権のパルチザン狩りを憎悪していたパルチザンの一派によって虐殺された。そして、かつて処刑されたパルチザンが吊るされたミラノのロレート広場に面したガソリンスタンドの支柱に吊るされた。


4.1944年ワルシャワ蜂起に参加したポーランド国内軍の鹵獲半装軌式装甲車

1944年、英国にあったポーランド亡命政権では,事故死したシコルスキ将軍から首班を受け継いだスタニスワフ・ミコワイチクStanislaw Mikolajczyk(1901-1966)が,ワルシャワ解放を計画していた。ポーランド亡命政権の指揮下にあるポーランド国内軍は,ポーランド国内で反ドイツのレジスタンスを行っていたパルチザンである。その兵力は,民兵を中心に30万人を擁していた。

写真(右)1944年8月14日,ポーランド、ワルシャワ蜂起でポーランド国内軍第8連隊がドイツ軍武装親衛隊第522装甲師団ヴィーキングから鹵獲して使用したドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車 (Sd.Kfz. 251)
解説English: WarsawUprising: German armored fighting vehicle SdKfz 251 captured by the Polish insurgents, from 8-th "Krybar" Regiment, on Na Skarpie Boulevard on August 14, 1944 from 5th SS 'Viking' division. Bringing the transportes into Insurgent controlled territory through barricade at Kopernik Street. The insurgents gave the vehicle name "Gray Wolf" and used it in attack on Warsaw University. Polski: Powstanie Warszawskie: Niemiecki transporter opancerzony SdKfz 251 zdobyty przez powstańców z VIII zgrupowanie "Krybar" przy Alei Na Skarpie dnia 14.VIII.1944 od 5-tej dywizji SS 'Viking'. Wprowadzenie transportera na teren powstańczy, przez barykadę przy ulicy Kopernika. Transporter zeostałnazwany "Szary Wilk" i był użyty w ataku na Uniwersytet Warszawski.
日付 1944-08-14 原典 Jan Tarczynski (1994年) Pojazdy Armii Krajowej w Powstaniu Warszawskim、ワルシャワ: WKt
作者:Sylwester Braun (1909-1996)
写真はSylwester Braunを紹介したWikimedia Commonsから"File:Warsaw Uprising - Captured SdKfz 251 - 1 (1944).jpg"引用。


1944年6月22日,ソ連軍は,バグラチオン作戦を開始,ベラルーシ正面を守備するドイツ軍の中央軍集団に大規模攻勢をかけ,6月28日にモギリョフ,7月2日にベラルーシの首都ミンスクを奪回,7月13日にリトアニアの首都ヴィルニスを奪回した。

 ドイツ軍の中央軍集団は,ソ連軍のバグラチオン作戦の前に,随所で大損害を受け,ソ連領からポーランドにまで駆逐された。

1944年7月29日,モスクワ放送は,ポーランド人への蜂起の呼びかけを放送したが,これは,ドイツ軍の後方を撹乱するために,ポーランド共産党からレジスタンスを要請したものである。
 ソ連は,国内において,独ソ戦勃発直後から,ソ連国民に対してパルチザン活動をすることを命令していたから,これはドイツ軍に対するゲリラ戦を要請したものといえる。

写真(右)1944年8月14日,ポーランド、ワルシャワ蜂起でポーランド国内軍第8連隊がドイツ軍武装親衛隊第522装甲師団ヴィーキングから鹵獲して使用したドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車 (Sd.Kfz. 251)
解説 English: WarsawUprising: German armored fighting vehicle SdKfz 251 captured by the Polish insurgents, from 8-th "Krybar" Regiment, on Na Skarpie Boulevard on August 14, 1944 from 5th SS 'Viking' division. This picture taken on Tamka Street. The insurgents gave the vehicle name "Gray Wolf" and used it in attack on Warsaw University.
日付 1944-08-14 原典 Jan Tarczynski (1994年) Pojazdy Armii Krajowej w Powstaniu Warszawskim、ワルシャワ: WKt
作者:Sylwester Braun (1909?1996)
写真はSylwester Braunを紹介したWikimedia Commonsから"File:Warsaw Uprising - Captured SdKfz 251 - 1 (1944).jpg"引用。


1944年7月末,ソ連の第1白ロシア方面軍90万人は,ヴィスラ川東岸に進出,ワルシャワの解放が近づいたように思われた。ポーランド亡命政府も,ソ連軍がワルシャワを占領する前に,指揮下にある国内軍が,ワルシャワを解放し,ポーランド復興を,自ら主導して,政権の座に返り咲くことを期待した。

スターリン ワルシャワの蜂起軍は,民兵,婦女子などの戦闘員・伝令・補給係なども含めて,4万8000人だった。ワルシャワ国内軍司令官タデウシュ・コモロフスキ Tadeusz Komorowski少将は,国内軍によってワルシャワを解放して,国内軍の威光を高めようとした。
 ポーランド亡命政府も,スターリンのソ連赤軍によるワルシャワ解放を期待して,ポーランド国内軍に蜂起を促した。

1944年8月1日1700,ワルシャワの一般市民が蜂起した。これは,1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド占領から5年後,ワルシャワゲットー蜂起から1年以上たった時期だった。

ソ連領を奪回したソ連軍がポーランド中部に突出して進撃,ヴィスワ川東岸に達した時,ワルシャワの市民と国内軍がドイツに反乱を起こした。ワルシャワ市民蜂起といわれるのは,国内軍の兵士だけでなく,少年も婦女子も武器を取り,自由のために戦ったからである。

写真(右)1944年8月,ワルシャワ蜂起鎮圧に出動したモーゼル「カール」Karl60センチ自走臼砲に砲弾を込めるドイツ陸軍兵士:このラインメタルRheinmetall社の設計・製造になる新式臼砲の最大仰角は70度、左右4度、射程は2.1tの重量弾で4300メートル、1.7tの軽量弾6400メートル、発射速度10分に1発。「カール」Karl60センチ自走臼砲の砲弾を運搬する弾薬輸送車、砲弾を装填する装填車両も設計、生産された。
ドイツ陸軍は,その近代的な優れた兵器で有名である。しかし,1941年,ドイツは,労働に耐えられないユダヤ人を一掃する方針を打ち出していた。外界やゲットー内部で,強制労働をさせたが,それに耐えられない老人,子供には,食料などの配給が途絶えるようになった。当初,ユダヤ人評議会が無料食堂などを運営していたが,その資金,食料が底をつくと,老人,子供が真っ先に犠牲になった。兵器のメカニカルな美しさと対照的に,兵器は大量破壊,大量殺戮を目的としたナチスドイツの力の源泉でもあった。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-695-0424-18A 引用(他引用不許可)。


写真(右):1944年8月,ワルシャワ蜂起軍を砲撃するドイツ陸軍モーゼル「カール」Karl60センチ自走臼砲
Polen, Warschau.- Warschauer Aufstand.- Einsatz des 60-cm Mörser "Karl" (Gerät 040 "Ziu"); PK KBZ HG Mitte Dating: August 1944 Photographer: Leher撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-695-0424-23A 引用(他引用不許可)。


1937年から開発されたカール自走臼砲は,要塞攻撃用の攻城砲で、最大仰角は70度、左右4度、射程は2.1tの重量弾で4300メートル、1.7tの軽量弾6400メートル、発射速度10分に1発。ラインメタルRheinmetall社の設計で,1940-41年6両生産された。6両には,「アダム」「エーファ」「ロキ」「ツィウ」「トール」「オーディン」との固有名称がつけられた。1942年のセヴァストポリ要塞攻略戦,1944年のワルシャワ蜂起に投入された。

 カール自走臼砲は溶接構造の車体中央に砲架を設置し、車体前部に自走用のエンジンを搭載、車体後部は射撃姿勢の時には車体を接地し発射反動を受けるようにサスペンションの上下駆動装置があった。自走用の発動機はV型12気筒液冷MB503Aガソリン・エンジン、排気量44リットルだが、自走臼砲の重量が120t以上もあり、整地でなければ自走できなかった。全長11.2メートル、全幅4.2メートル、全高4.4メートル、航続距離40キロメートル、最大時速10キロメートル。操作員20名以上。

ワルシャワの国内軍Home Armyの兵力は,4万5000人だった。この国内軍Home Armyは,ロンドンにあった亡命政府が,ドイツ占領下のポーランド解放のために,1942年2月,編成した軍隊である。

国内軍のほかにも,1942年9月に編成された反共産主義のポーランド国軍National Armed Forces, 国内評議会軍Internal Security Corps, ポーランド人民軍Polish People’s Army人民軍People’s Army,そしてポーランド人や連合国の航空部隊で救助された兵士など,合計22500人もワルシャワ蜂起に加わった。

写真(右):1944年8-9月,ポーランド、ワルシャワ蜂起の現場で、機材物資を運搬する蜂起鎮圧中のドイツ軍兵士:Polen, Warschau.- Warschauer-Aufstand, drei Soldaten der Waffen-SS beim Schieben eines Fahrrads mit Transportfläche (Transportrischka) mit Waffen und Ausrüstungs-gegen-ständen; PK KBZ HG Mitte Dating: 1944 August - September Photographer: Leher撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-696-0426-08引用(他引用不許可)。


ポーランド共産党はコミンテルンの指導で解散したが,1942年1月,労働党として結成され,英国には人民軍が編成された。1943年末,ロンドン亡命政権に対立する国内評議会も結成された。1943年7月には,ソ連国内で結成された共産主義者の国民解放委員会が作られている。これらの諸勢力の兵力は,2500人だった。武器は連合軍から空中補給されたもの,敵からの戦利品である。
 他方,ドイツ軍は2万5000人だった。

写真(右)1944年8月14日,ポーランド、ワルシャワ蜂起でポーランド国内軍第8連隊がドイツ軍武装親衛隊第522装甲師団ヴィーキングから鹵獲して使用したドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車 (Sd.Kfz. 251)
解説 English: Warsaw Uprising: German armored fighting vehicle SdKfz 251 captured by the Polish insurgents, from 8-th "Krybar" Regiment, on Na Skarpie Boulevard on August 14, 1944 from 5th SS 'Viking' division. This picture taken in Okólnik gardens. Standing first from the right Capitan Cyprian Odorkiewicz "Krybar" commander of "Krybar" Regiment. To the left insurgent with polish flag on his sleeve is Wacław Jastrzębowski "Aspira". In the front (backward) reporters and film crew of insurgent press. Polski: Powstanie Warszawskie: Niemiecki transporter opancerzony SdKfz 251 zdobyty przez powstańców z VIII zgrupowanie "Krybar" przy Alei Na Skarpie dnia 14.VIII.1944 od 5-tej dywizji SS 'Viking'. Zdięcie w ogrodach Konserwatorium przy Okólniku. Pierwszy z prawej stoi kapitan Cyprian Odorkiewicz "Krybar" dowódca zgrupowania "Krybar". Żołnierz z opaską powstańczą (na lewo od "Krybara") to porucznik Wacław Jastrzębowski "Aspira". Na pierwszym planie (tyłem) dziennikarze z prasy powstańczej i operatorzy Czołówki Filmowej AK.
日付 1944-08-14 原典 Jan Tarczynski (1994年) Pojazdy Armii Krajowej w Powstaniu Warszawskim、ワルシャワ: WKt
作者:Sylwester Braun (1909-1996)
写真はSylwester Braunを紹介したWikimedia Commonsから"File:Warsaw Uprising - Captured SdKfz 251 - 4 (1944).jpg"引用。


ソ連軍の支援を見込んだワルシャワ蜂起は,奇襲的効果もあって,当初はポーランド蜂起軍に有利に展開した。ドイツ軍は,ヴィスワ川東岸にあるっソ連軍に対峙していたからである。しかし,ワルシャワ近くに突出する形でソ連軍は進撃してきていたが,ドイツ軍の抵抗,後方からの補給困難のために,ワルシャワ蜂起に呼応して,ワルシャワを解放することはできなかった。

写真(右)1944年8月14日,ポーランド、ワルシャワ蜂起でポーランド国内軍第8連隊がドイツ軍武装親衛隊第522装甲師団ヴィーキングから鹵獲して使用したドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車 (Sd.Kfz. 251)
解説 English: WarsawUprising: Repairs of track chains of "Szary Wilk", a German armored fighting vehicle SdKfz 251 captured by the Polish insurgents, from 8-th "Krybar" Regiment, on Na Skarpie Boulevard on August 14, 1944 from 5th SS 'Viking' division. Photo from "Żak" outpost on Foxal Street.
日付 1944-08-14 原典 Jan Tarczynski (1994年) Pojazdy Armii Krajowej w Powstaniu Warszawskim、ワルシャワ: WKt
作者:Sylwester Braun (1909-1996)
写真はSylwester Braunを紹介したWikimedia Commonsから"File:Warsaw Uprising - Captured SdKfz 251 - 4 (1944).jpg"引用。


1944年10月,ドイツ軍はワルシャワ全市を徹底的に破壊,ワルシャワ蜂起軍は10月2日に20万人の死傷者・捕虜を出して降伏した。

「西部戦線」のソ連軍は1944年末にポーランド国境に押し寄せ,1945年1月12日,ヴィスラ川を越えて,ワルシャワに進撃した。ドイツ軍は,蜂起の起こったワルシャワで市街戦を戦うことなく,撤退。ソ連軍は1945年1月17日,焦土となったワルシャワを占領した。

写真(右):1944年8-9月,ワルシャワ蜂起軍の鎮圧に向かうドイツ武装親衛隊第36擲弾兵師団の将兵:MP40短機関銃を持つ将兵たちだが,捕虜の虐殺,略奪など蛮行が顕著だったという。しかし, 師団長オスカール・ディルレヴァンガー(1895-1945/6/7)は,パルチザン鎮圧の功績が評価され,1944年9月30日,騎士十字章を受賞。
ヒトラーは1941年11月11日次のように述べていた。「私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。」虐殺を躊躇しない粗暴な司令官は,ヒトラーの好みだった。
Zentralbild. II.Weltkrieg 1939-1945. Warschauer Aufstand im August 1944. Mit entmenschten SS-Banditen und aufgeputschten Soldaten der faschistischen deutschen Wehrmacht (unser Foto) wurde am 2.10.1944 der Warschauer Aufstand endgültig niedergeschlagen. Dabei wurde Warschau zu 80 % zerstört. (SS-PK Schremmer) Archive title: Warschau.- Angehörige der Waffen-SS, darunter Mitglieder einer Sondereinheit, im Orts- und Häuserkampf mit Stabgranate, Maschinenpistole MP40 und Gewehren. Dating: August 1944 ca. Photographer: Schremmer 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-97906 引用(他引用不許可)。


ヒトラー 「西部戦線」のソ連軍は1944年末にポーランド国境に押し寄せ,1945年1月12日,ヴィスラ川を越えて,ワルシャワに進撃した。ドイツ軍は,蜂起の起こったワルシャワで市街戦を戦うことなく,撤退。ソ連軍は1945年1月17日,焦土となったワルシャワを占領した。

1944年8-9月,ワルシャワ蜂起軍の鎮圧に向かうドイツ武装親衛隊第36擲弾兵師団の師団長オスカール・ディルレヴァンガー(1895-1945/6/7)は,パルチザン鎮圧の功績が評価され,1944年9月30日,騎士十字章を受賞。
ヒトラーは1941年11月11日次のように述べていた。「私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。」虐殺を躊躇しない粗暴な司令官は,ヒトラーの好みだった。

戦後の東西対立を見据えて,ワルシャワ解放が,ポーランド国内軍によって達成されることを嫌い,親英米派の国内軍の弱体化を狙ったともいわれる。ソ連は,反共産主義の蜂起軍を自滅させるという政治的な思惑のために,ヴィスワ川目前で進軍を止めたとの評価もある。ドイツ軍によって,国内軍が壊滅的打撃を受ければ,ワルシャワ解放はソ連軍だけの功績であり,ポーランドの政権樹立に,ソ連の影響力を行使しやすいからである。


5.1944年6月ノルマンディ侵攻以降のドイツ軍の半装軌式装甲車(Sd.Kfz. 251)

写真(右)1944年,西側連合軍の大陸侵攻に備えて配備されたドイツ軍の半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)。迷彩塗装をし、後方扉上には樹木の偽装を施している。Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-584-2170-05 Archive title: Frankreich.- Soldaten auf mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) in einer Stadt, Soldat mit Kelle vor Fahrzeug, rechts eine Straßenbahn; PK FS AOK Dating: 1944. Photographer: Wahner 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-584-2170-05"引用。

写真(右)1944年3月,西側連合軍の大陸侵攻に備えてベルギーに配備されたナチス武装親衛隊第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」所属の半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)245号車。1934年式8センチ砲(8-cm-Granatwerfer 34)を搭載している。Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1740-06A Archive title: Im Westen, Belgien, Beverloo.- Generalfeldmarschall Gerd von Rundstedt besucht die 12. SS-Panzerdivision "Hitlerjugend" während einer Übung. Abschreiten einer Aufstellung von mittleren Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251), im Vordergrund Nr.245 mit 8-cm-Granatwerfer 34 (Sd.Kfz. 251/2); PK 698 Dating: März 1944.
Photographer: Kurth, Bernhard 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-297-1740-06A"引用。

写真(右)1944年3月,西側連合軍の大陸侵攻に備えてベルギーに配備されたナチス武装親衛隊第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)。迷彩塗装を施している。Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1740-09A Archive title: Im Westen, Belgien, Beverloo.- General-feldmarschall Gerd von Rundstedt besucht die 12. SS-Panzerdivision "Hitlerjugend" während einer Übung. Abschreiten einer Aufstellung von mittleren Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251); PK 698 Dating: März 1944.
Photographer: Kurth, Bernhard 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-297-1740-09A"引用。

武装親衛隊第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」12th SS Panzer Division Hitlerjugend)は、徴兵前のヒトラーユーゲント(Hitlerjugend)の16歳から18歳の未成年から選抜されたドイツ青年を主要メンバーとする機械化部隊で、ドイツ陸軍とは本来別個の指揮系統にある親衛隊に所属していた。武装親衛隊第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」の編成は、1943年6月から17歳、18歳のドイツ人青年を対象に開始され、ベルギー、フランスにおいて訓練がなされた。

写真(右)1944年3月,西側連合軍の大陸侵攻に備えてベルギーに配備されたナチス武装親衛隊第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」の半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)。迷彩塗装を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1740-10A Archive title: Im Westen, Belgien, Beverloo.- General-feldmarschall Gerd von Rundstedt besucht die 12. SS-Panzerdivision "Hitlerjugend" während einer Übung. Abschreiten einer Aufstellung von mittleren Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251); PK 698 Dating: März 1944.
Photographer: Kurth, Bernhard 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-297-1740-10A"引用。


ノルマンデー侵攻「オーバーロード」作戦Operation Overlord)の支作戦としてトータライズ作戦(Operation 'Totalise')で、ドイツ陸軍の第7軍装甲軍と第5装甲軍をファレーズ南方で包囲した。8月7日夜、イギリス空軍の四発重爆撃機による地上支援爆撃の後、装甲歩兵が進撃し、クルト・マイヤーKurt Meyer:1910-1961)准将が指揮する第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」と戦った。「ヒトラーユーゲント」装甲師団は1926年生まれ、1943年時点で16歳あるいは17歳のドイツの少年を徴収した少年戦車師団だった。8月10日、ファレーズ北まで進撃したもののファレーズを占領することはできなかった。

写真(右)1944年6月,西部戦線、西側連合軍への反抗に備えるドイツ軍の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)。狭い道路を装甲車が通るために、歩兵の一団が道の脇によっている。暑いために、歩兵はヘルメットを被らずに腰に提げている。
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-721-0373-34 Archive title: Frankreich.- getarnter mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) passiert Gruppe von deutschen Soldaten auf Landstraße; KBZ Ob. West Dating: Juni 1944.
Photographer: Theobald 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-721-0373-34"引用。

1944年6月6日,西側連合軍がフランス、ノルマンディー海岸に上陸。その直後の6月13日、ノルマンディーのカーン南西15キロメートルで、ヴィレル・ボカージュの戦いBattle of Villers-Bocage)が起きた。これは、内陸に侵攻してきたイギリス軍がドイツ軍と衝突した戦闘で、イギリス第7装甲師団第8王室ロイヤル・アイリッシュ騎兵連隊(スチュアート軽戦車配備)、第7女王ロイヤル連隊、第5王立戦車連隊(シャーマン中戦車配備)などは、ドイツ武装SS第101重戦車大隊と装甲教導師団と衝突した。

写真(右)1944年6月21日,北フランス、西側連合軍への反抗、西部戦線に備えるドイツ軍の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)
:対空偽装の樹木を配置し、迷彩塗装を施している。
Photographer Hasse. Nordfrankreich.- mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) mit Soldaten, Ende Juli - Anfang September 1944; PK 698 Title Nordfrankreich, Schützenpanzer mit Soldaten Depicted place Nordfrankreich Date 21 June 1944 Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-301-1970-25
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"File:Bundesarchiv Bild 101I-301-1970-25, Nordfrankreich, Schützenpanzer mit Soldaten.jpg "引用。

1944年7月9日、イギリス軍は北フランス、ノルマンディーの要衝カーンCaen)を占領し、7月17日にカーンの南方向に進撃するグッドウッド作戦を開始した。、これに対応するアメリカ軍の攻撃計画がは7月25日に始まったコブラ作戦である。この作戦でドイツ軍の防衛線を突破し、ドイツ軍をファレーズFalaise)のポケット地帯に包囲することができた。

写真(右)1944年6月15日にイギリス軍が北フランスノルマンディーで鹵獲したドイツ軍の半装軌式救急装甲車車 (Sd.Kfz 251/8 Ambulance)
Object description:A captured German SdKfz 251 ambulance half-track, 15 June 1944. English: The British Army in Normandy 1944 Catalogue number: B 5609 Department: Photographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative namesobject name: Official photograph object category: Photography Creator No 5 Army Film & Photographic Unit Laing (Sgt)
Categoryphotographs .
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum のWar Office Second World War Official Collectionから"Catalogue numberB 5609"引用。同じ写真はWikimedia Commonsにも収録。


ドイツ軍の半装軌式救急装甲車 (Sd.Kfz 251/8 Ambulance)の原型は兵員輸送装甲車Sd.Kfz.251で、野用の患者輸送・救急車を目的に、車体後方の戦闘室にあったベンチを負傷兵8名、看護兵1-2名を収容する看護室とし、重症患者を輸送する場合は、ベンチを上方に上げて、担架として利用できる病床(ベッド)を設けた。看護室には、担架を収納しており、これを二段ベットとして設置すれば、重症患者4名を収容できた。

半装軌式救急装甲車 (Sd.Kfz 251/8 Ambulance)の乗員は3名、非戦闘の救急車両として、赤十字の扱いを受けるために、機関銃など兵装は全く備えないのが普通である。Sd.Kfz.251/8救急装甲車は、半装軌式兵員輸送装甲車 (Sd.Kfz 251)のA型、B型、C型、D型の全ての派生型がある。

<半装軌式救急装甲車車Sd.Kfz 251/8 Ambulance (Sd.Kfz 251/8 Ambulance)
全長:    5.80m
全幅:    2.10m
全高:    1.75m
全備重量: 7.47t
乗員:    3名
エンジン:  マイバッハHL42TUKRM 直列6気筒液冷ガソリン
最大出力: 100hp/2,800rpm
最大速度: 53km/h
航続距離: 300km
兵装: なし
装甲:   6-14.5mm

写真(右)1944年7月26日,フランス、西側連合軍の航空攻撃によって破壊されたドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz 251):航空攻撃は、戦闘爆撃機による機銃掃射・小型爆弾の投下、中型双発爆撃機による銃爆撃、大型四発重爆撃域による水平爆撃など多様な対地攻撃が行われた。
解説 A German SdKfz 251 halftrack destroyed by USAAF 9th Air Force fighters in Northern France, on 26 July 1944. 日付 1944年7月26日 原典 USAF Museum [1] photo 091002-F-1234S-014 [2] 作者 USAAF
写真はWikimedia CommonsUSAF Museum から"File:SdKfz 251 destroyed by air attack Jul 1944.jpg"引用。


1944年8月7日夜、イギリス空軍のランカスター四発重爆撃機Avro Lancaster)による地上支援爆撃の後、装甲歩兵が進撃し、クルト・マイヤーKurt Meyer:1910-1961)准将が指揮する第12SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」と戦った。「ヒトラーユーゲント」装甲師団は1926年生まれ、1943年時点で16歳あるいは17歳のドイツの少年を徴収した少年戦車師団だった。

写真(右)1944年7月29日、北フランス、ノルマンディー、イギリス空軍121飛行隊のホーカー・テンペストにより破壊されたドイツ陸軍の半装軌式装甲車車 (Sd.Kfz 251)とIV号戦車(PzKpfw IV):戦車は長砲身7.5センチ戦車砲搭載のJ型あるいはH型と思われる。:コンスターンスの南東で、墓標が左手に見える。
Object description The aftermath of an attack by Hawker Typhoons of No. 121 Wing on German armoured vehicles which had massed at Roncey, south-east of Coutances, Normandy, to counter-attack American forces on 29 July 1944. The wrecked vehicles include a PzKpfw IV tank and two SdKfz 251 half-track armoured personnel carriers. The graves of some of the occupants can be seen on the left. Object details Category Photographs Related period Second World War (production), Second World War (content) Creator Clark N S (Fg Off) Royal Air Force official photographer Materials whole: Nitrate Catalogue number CL 631.
写真はイギリス帝国戦争博物館、Imperial War Museums 2022から"IWM B 13735"引用。


  写真(右)1944年7月末-9月初め,西側連合軍の大陸侵攻に直面したドイツ軍の半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)。迷彩塗装を施している。Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-301-1970-28 Archive title: Nordfrankreich.- zwei Panzersoldaten und Oberleutnant (mit Eisernem Kreuz) mit Karte vor getarntem, mittleren Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251), Ende Juli - Anfang September 1944; PK 698 Dating: 1944 Herbst.
Photographer: Hasse 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 101I-301-1970-28"引用。


 西側連合軍は、パリ解放に兵力を投入し、第二次世界大戦の末期、1944年8月25日のパリ解放Liberation of Paris)後には、市民生活回復のために大量の補給物資を必要とするようになった。こうして、連合軍のドイツ本土への攻撃力は分散され、鈍ってしまった。
 それでも、1944年9月4日にベルギーの要衝アントワープの解放Liberation of Antwerp)を達成し、オランダへの空挺作戦を軸とするマーケットガーデン作戦Operation Market Garden)を、9月17日から開始し、ドイツ本土侵攻を企図した。

アイントホーフェン、ナイメーヘンなどにイギリス軍の空挺師団を降下させたが、後続すべき地上部隊の進撃が遅かった。また、オランダに駐留していたドイツ陸軍も反撃したため、連合軍の攻勢は停滞し、オランダ諸都市を解放することには成功したものの、ドイツ中枢部のライン、ルール工業地帯を占領することはできなかった。

 1944年9月17日、オランダへの空挺降下作戦を基軸とするマーケットガーデン作戦Operation Market Garden)の指揮を執ったのは、1944年9月1日に元帥Field Marshal)に昇進したバーナード・モントゴメリー(Bernard Montgomery)である。

第二次世界大戦の後期、1944年9月17日、オランダ中部、ドイツとの国境地帯へ空挺部隊を降下させるマーケット・ガーデン作戦Operation Market Garden)が開始された。

1944年9月17日、マーケットガーデン作戦Operation Market Garden)では、第一に、空挺部隊(3個空挺師団)によるベルギー・オランダの交通要衝の橋を確保する手はずになり、大規模な降下作戦が実施された。

 マーケットガーデン作戦Operation Market Garden)は当初は順調で、1944年9月18日、アメリカ第101空挺師団(US 101st Airborne Division)は、オランダのアイントホーフェンを解放し、住民は広場にこぞってダンスをするほどだった。翌19日には、イギリス第30軍団(British XXX Corps)がグレーヴを確保しネイメーヘンに迫ったものの、降下した空挺部隊と合流できず、ネイメーヘンを確保することも困難だった。こうして、連合軍は、兵力が分散してしまった上に、ドイツ軍の反撃は素早かった。
 また、連合軍空挺部隊の装備は軽火器のみであり、連合軍地上部隊が進撃してくる前に戦車や対戦車砲を備えたドイツ軍によって掃討されてしまう危険があった。

 1944年9月24日、ドイツ軍の戦車を投入した反撃に抗しきれず、連合軍はマーケット・ガーデン作戦を中止し、前線から離れた地点に降下していたイギリス第1空挺師団は撤退することになったが、ドイツ軍に阻まれて、多数の損害、捕虜を出した。

写真(右)1944年末,西部戦線、西側連合軍へのアルデンヌ大攻勢時期のドイツ軍の中型半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)。車体前上部には防楯を付きのMG42機関銃が装備されている。ヘルメットに偽装を施した乗員を撮影した宣伝用の写真。
Inventory:Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichten-dienst - Zentralbild Signature: Bild 183-J28519 Original title: info In Erwartung des Angriffsbefehls Kriegsfreiwillige einer deutschen Kampfgruppe erwarten den Befehl, der ihnen den Einsatz in der großen Winterschlacht im belgisch-luxemburgischen Raum bringt. PK-Aufnahme: Göttert (Sch) 4.1.45 [Herausgabedatum] ADN-ZB/Archiv II.Weltkrieg 1939-45 An der Front im belgisch-luxemburgischen Raum während der Ardennenoffensive, Ende Dezember 1944. Auf einem Schützen-panzerwagen erwarten Kriegsfreiwillige einer Kampfgruppe der faschistischen deutschen Wehrmacht den Einsatzbefehl. (Göttert) Archive title: Ardennen-Offensive.- Junge Soldaten in leicht getarntem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250 / Sd.Kfz. 251) Dating: Dezember 1944 Ende.
Photographer: Göttert 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory: Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 183-J28519"引用。

ドイツ本土への西側連合軍の本格的な侵攻は、1945年に入ってからと遅れた。そのために、ソ連赤軍によるベルリン攻略に余裕を与え、戦後のドイツ分割統治において西側は大きな不利益を被ることになった。このように、ドイツ心臓部への攻撃が遅れた理由は、次の2点が指摘できる。

1)1944年9月17日に開始されたオランダ中部への空挺部隊降下を中心とするマーケット・ガーデン作戦Operation Market Garden)が不調であったこと、
2)1944年12月17日にドイツ軍の「ラインの守り作戦」によるアルデンヌ侵攻・バルジの戦いで大きな損害を被り、ドイツへの侵攻に慎重になったこと。

写真(右)1945年初め,ドイツ、ドイツ軍の半装軌式装甲車 (Sd.Kfz. 251/1 Ausf. D mittlere Schützen-panzerwagen)。手前は塹壕を掘る若いドイツ兵。Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichten-dienst - Zentralbild Signature: Bild 183-H28335 Original title: info Die erste Arbeit nach dem Stellungswechsel - Eingraben, immer nur eingraben. Die Sowjets sind auf der Wacht, Scharfschützen eine ständige Gefahr für die jungen Männer der RAD-Flakbatterie sich ebenfalls so unsichtbar wie möglich zu machen. [Frühjahr 1945] Prop.-Kp. RAD, Film-Nr. 25693 Bildberichter: Wöhr, Text: Berendt Archive title: Im Hintergrund mittlerer Schützen-panzer (Sd.Kfz. 251) Dating: 1945 Frühling.
Photographer: Wöhr撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia CommonsCategory:Sonderkraftfahrzeug 251から"Bild 183-H28335"引用。


 マーケットガーデン作戦Operation Market Garden)による連合軍の侵攻を喰いとめたものの、1944年9月には、ドイツに保護を求めて亡命してくるフランス・オランダ・ベルギーの対独協力者、北フランス・ベルギー戦線で疲労困憊して退却してくるドイツ軍兵士が、アーヘンに退却してきていた。そこで、アーヘン住民は戦局の悪化、故郷が破壊されることへの不安を募らせていった。

写真(右)1945年1月16日、ベルギー、イギリス陸軍第51師団ハイランダーの将兵が見分しているドイツ陸軍の半装軌式装甲車車 (Sd.Kfz 251)
Object description Men of the 5/7th Gordon Highlanders paint the 51st (Highland) Division badge and the appropriate arm of service markings to a captured German SdKfz 251 half-track, Belgium, 16 January 1945. Object details Category Photographs Related period Second World War (production), Second World War (content) Creator Franklin (Sgt) No. 5 Army Film and Photo Section, Army Film and Photographic Unit Production date 1945-01-16 Materials whole: Nitrate Catalogue number B 13735.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum のImperial War Museums 2022から"IWM B 13735"引用。


第二次大戦緒戦でドイツが併合したフランス領ストラスブルクのナチ党指導者は「一番困るのは敗走してきた兵士の撒き散らす噂話だ。−退却してきた兵隊たちが民衆をひどく不安にさせている」と1944年9月初めに報告し、同様の報告がケルンからナチ党本部にも送られている。

写真(右)1945年2月,ドイツ西部、アメリカ陸軍航空隊第29軍隊輸送飛行隊所属のカール・ワ―トニー撮影と思われる撃破されたドイツ武装親衛隊ハノマーク社Sd.Kfz. 251/9半装軌式装甲車(Schützenpanzer):車体戦闘室前方上部にIV号戦車 A-Fの7.5 cm KwK 37戦車砲を搭載した火力支援車。車体は、後期型で傾斜版を多用しない簡易構造として量産性を重視した。車体側面の引き出し式格納庫が開いている。
Carl Gwartney Collection Image ------Carl Gwartney Image: From the Album Achiet France 1945; Gwartney served in the 29th Troop Carrier Squadron -- filenamegwartney0505.tif-- 写真は San Diego Air and Space Museum pictionid 72181156引用。

写真(右)1945年2月,ドイツ西部、アメリカ陸軍航空隊第29軍隊輸送飛行隊所属のカール・ワ―トニーと戦争記念品となった大破した3両のドイツ軍ハノマークSd.Kfz. 251/1装甲兵員輸送車(Schützenpanzer):車体戦闘室上部に防盾付き7.92mmラインメタル機関銃1丁を搭載した輸送用装甲車。車体側面の引き出し式格納庫付近も大きく破損している。
Carl Gwartney Collection Image ----Carl Gwartney Image: From the Album Achiet France 1945; Gwartney served in the 29th Troop Carrier Squadron -- filenamegwartney 0503.tif--。 写真は San Diego Air and Space Museum pictionid 72185958引用。

 1944年9月10日、アーヘンを視察した親衛隊全国指導者ハインリヒ・ヒムラーは、党・軍の幹部と民衆に向かって「敵軍は決してアーヘンに到達できない。市民の一斉避難は全く問題にならない」と演説したが、コートニー・ホッジス将軍指揮下のアメリカ第一軍は,9月11日にドイツ国境に達し、9月12日には、アーヘン突入を試みた。

写真(右)1945年,ハンガリー、ブダペスト南駅、破損放棄されたドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車D型 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251/1) :兵員室上部前方には機関銃防盾があるが機関銃は未装備。車輪止めは木材編でできているようだ。対空偽装なしで乗員が寛いでいる。
Magyar: Vérmező, német gyártmányú Sd.kfz. 251 féllánctalpas csapatszállító roncsa, háttérben a Déli pályaudvar. Location: Hungary, Budapest I. Tags: combat vehicle, wreck, Gerrman brand, Hanomag-brand, Budapest Title: Vérmező, német gyártmányú Sd.kfz. 251 féllánctalpas csapatszállító roncsa, háttérben a Déli pályaudvar. Date 1945 Author FOTO:Fortepan — ID 60172: Home pagePictureInformation page Adományozó/Donor: Unknown.
写真は Wikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 251/1 Ausführung DからFile:Vérmező, német gyártmányú Sd.kfz. 251 féllánctalpas csapatszállító roncsa, háttérben a Déli pályaudvar. Fortepan 60172.jpg引用。


6.現存するドイツ軍の半装軌式装甲車Sd. Kfz. 251

写真(右)南アフリカ共和国ヨハネスブルクにある国立軍事博物館に展示されているドイツ軍「アフリカ軍団」仕様の半装軌式装甲車Schützenpanzer (Sd. Kfz. 251 Ausf. C): 前輪を支えている板バネが明瞭に見て取れる。
Description: Sd.Kfz. 251 at the South African National Museum of Military History, Johannesburg.
原画像データの生成日時: 2014年7月7日 (月) 05:33
作者:Katangais
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Sonderkraftfahrzeug 251から"File:SdKfz251-ZA.JPG"引用。

写真(右)南アフリカ共和国ヨハネスブルクにある国立軍事博物館に展示されているドイツ軍仕様の半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd. Kfz. 251 Ausf. C):車体後部の兵員搭載荷台を後方から撮影。正面には操縦席が2席見える。
Description: Sd.Kfz. 251 at the South African National Museum of Military History, Johannesburg.
原画像データの生成日時: 2014年7月7日 (月) 05:33
作者:Katangais
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Sonderkraftfahrzeug 251から"File:SdKfz251-ZA4.JPG"引用。

写真(右)ドイツ連邦共和国の前第一装甲師団博物館に展示するために、アメリカ合衆国テキサス州フォートブライスからオランダに船舶輸送されるドイツ軍仕様のチェコスロバキア製半装軌式装甲車OT-810 (ドイツ軍のSd. Kfz. 251 Ausf. Dに相当)を第二次大戦中末期のドイツ軍の仕様に塗り直している。:戦後、チェコスロバキアはドイツ軍の半装軌式装甲指揮車Sd.Kfz.251をそのままOT-810装甲車として生産し使用した。
Description English: An OT-810, Czechslovak copy of the German Sd.Kfz.251 hovers about the former 1st Armored Division Museum, waiting to be loaded on a German truck, in Baumholder, Germany, Aug. 2009. The Halftrack will transported to a port in the Netherlands, from where it will be shipped to Fort Bliss, Texas, the new home of the 1st Armored Division Museum. Source:http://www.defenseimagery.mil/imagery.html#guid=f43cde0347a2dbfcfdd373a42c15e790da503eea
Author: U.S. Army photo by Ruediger Hess/Released.
Date and time of data generation: 11:52, 21 August 2009
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Sonderkraftfahrzeug 251から"File:SdKfz 251 Halftrack.JPG"引用。

写真(右)1945年,アメリカ、カリフォルニア州、サンフランシスコ校が、軍用車技術基金(Military Vehicle Technology Foundation)が展示しているドイツ軍半装軌式装甲兵員輸送車D型 (Sonderーkraftfahrzeug Sd.Kfz. 251/1) :兵員室上部前方には機関銃防盾があるが機関銃は未装備。車輪止めは木材編でできているようだ。対空偽装なしで乗員が寛いでいる。
Description An SdKfz 251 Ausf.D in a private collection. Source Own work Author Sean O'Flaherty.
写真は Wikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 251/1 Ausführung DからFile:SdKfz 251 Ausf D 1.jpg引用。

写真(右)スロバキア共和国、国民蜂起博物館に展示されているドイツ軍の半装軌式指揮装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251)。解説:English: Museum of Slovak National Uprising.
Date and time of data generation: 15:01, 12 October 2008
Author: Vassia Atanassova - Spiritia
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Sonder-kraftfahrzeug 251から"File:Banska-Bystrica-nemecky-obrneny-transporter-SdKfz251AusfD.jpg"引用。

第二次大戦勃発1年前に、チェコスロヴァキアは、ドイツによって独立を脅かされた。1938年に、ミュンヘン会談によって、ズテーテンラントをドイツに割譲させられ、1939年にはチェコはドイツに併合され、スロバキアにはドイツ傀儡政権が樹立された。チェコスロバキアの時代から、同国の世界有数の兵器メーカーであるシュコダ社Škoda)は、1859年の創立以来、火砲、戦車から機関車、飛行機まで、チェコのプルゼニに本社を置いて生産していた。特に1935年制式のLT-35は35(t)戦車、1938年のLT-38は38(t)戦車として、占領後のドイツのためにも生産が続行された。チェコスロバキアは、第二次大戦後に再び独立するも、冷戦崩壊に伴って、チェコスロバキアに分離独立した。

写真(右)2018年5月、ポーランド、ワルシャワ、ポーランド陸軍博物館、ドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz.251/1 Ausf. D)
Polski: Niemiecki półgąsienicowy transporter opancerzony Sd.Kfz.251/1 Ausf. D, eksponowany w Muzeum Wojska Polskiego w Warszawie. 日付 2018年5月19日, 13:24:17 原典 投稿者自身による著作物 作者 Zala
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category:SdKfz 251 at the Polish Army Museum から"File:SdKfz 251 MWP 01.jpg"引用。

写真(右)2018年5月、ポーランド、ワルシャワ、ポーランド陸軍博物館、ドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz.251/1 Ausf. D)左側面
Polski: Niemiecki półgąsienicowy transporter opancerzony Sd.Kfz.251/1 Ausf. D, eksponowany w Muzeum Wojska Polskiego w Warszawie. 日付 2018年5月19日, 13:24:40 原典 投稿者自身による著作物 作者 Zala
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category:SdKfz 251 at the Polish Army Museum から"File:SdKfz 251 MWP 02.jpg"引用。

写真(右)2018年5月、ポーランド、ワルシャワ、ポーランド陸軍博物館、ドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車Schützenpanzer (Sd.Kfz.251/1 Ausf. D)の右側面
Polski: Niemiecki półgąsienicowy transporter opancerzony Sd.Kfz.251/1 Ausf. D, eksponowany w Muzeum Wojska Polskiego w Warszawie. 日付 2018年5月19日, 13:40:10 原典 投稿者自身による著作物 作者 Zala
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category:SdKfz 251 at the Polish Army Museum から"File:SdKfz 251 MWP 04.jpg"引用。

写真(右)南アフリカ共和国ヨハネスブルク、国立軍事博物館に展示されているドイツ軍仕様の半装軌式装甲指揮車Schützenpanzer (Sd. Kfz. 251 Ausf. C): 国立軍事博物館は、1947年8月29にオープンした歴史ある博物館で、ドイツ軍が北アフリカ戦線で使用した車両を鹵獲して展示している。
Description: Sd.Kfz. 251 at the South African National Museum of Military History, Johannesburg.
原画像データの生成日時: 2014年7月7日 (月) 05:33
作者:Katangais
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category: Sonderkraftfahrzeug 251から"File:SdKfz251-ZA2.JPG"引用。

 ドイツ軍の配備したSd.Kfz. 251は、装甲師団に随伴して、歩兵10名を輸送可能な兵員輸送用の装甲車。ドイツのハノマーク社が3トン半装軌車 (Sd.Kfz. 11) をベースに1937年から開発し、A型は1939年6月から生産開始。B型/C型を大幅に簡易化し生産工数を減らして量産を容易にしたのがD型で、1943年9月から生産開始。半装軌式指揮装甲車 (Sd.Kfz. 251)は1万5,000輌も大量生産されたが、アメリカ陸軍のM3ハーフトラックとは異なり、前輪駆動ではないために、不整地における機動性能は若干低かった。M3ハーフトラックは総計5万3,000輌とドイツ軍Sd.Kfz. 251の3倍以上も量産されている。

写真(上)2017年12月,ドイツ,ニーダーザクセン州、ミュンスター博物館、仮設架橋装備の半装軌式戦闘工兵装甲車(Sd.Kfz.251/7 Ausf.D)装甲車の車体に仮設架橋を搭載し部隊移動を迅速に進める工兵用の装甲車。操縦室の窓が開放状態にある。
Deutsches Panzermuseum Munster Date 17 December 2017, 20:35 Source Sd.Kfz 251/7 Mittlerer Pioniergerätewagen Author Triple-green撮影。
写真はWikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 251/7 Ausführung D  File:Sd.Kfz 251-7 Mittlerer Pioniergerätewagen (25247813248).jpg引用。


仮設架橋装備の半装軌式工兵装甲車(Sd.Kfz.251/7) は、車体外上面に仮設架橋を搭載し、河川・壕・泥濘などの障害を越えて、部隊を移動させる。後部戦闘室内は、本来は、兵士用のベンチシートが側面両側にあるが、工兵用の車体では、ベンチシートは廃止され、工兵機材搭載スペースとされた。

写真(上)2010年7月,ドイツ,ニーダーザクセン州、ミュンスター博物館、仮設架橋装備の半装軌式戦闘工兵装甲車(Sd.Kfz.251/7 Ausf.D)開放式の後部収納スペースには、雨天用の防水シートを掛けることができる。操縦室の窓が閉鎖状態になっている。
Deutsch: Deutsches Panzermuseum Munster in Munster (Örtze) English: German Tank Museum Date 7 July 2010 Source Own work Author Banznerfahrer撮影。
写真はWikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 251/7 Ausführung D  File:Panzermuseum Munster 2010 0266.JPG引用。


写真(右)2009年9月,ドイツ,ニーダーザクセン州、ミュンスター博物館、仮設架橋装備の半装軌式戦闘工兵装甲車(Sd.Kfz.251/7 Ausf.D)の後方コンパートメントの内部装甲車の車体上に仮設架橋を搭載し、その下のコンパートメントにはベンチのついた工兵輸送スペースがある。正面奥には操縦室の窓が開放状態にある。
SdKfz 251/7 Ausf.D Pionierpanzerwagen 日付 2009年9月12日, 10:07 原典 SdKfz 251/7 Ausf.D Pionierpanzerwage Uploaded by High Contrast 作者 thy from Bonn, Germany
写真はWikimedia Commons, Category:Sonderkraftfahrzeug 251/7 Ausführung D File:SdKfz 251 7 Ausf.D Pionierpanzerwagen (3992897738).jpg引用。


半装軌式戦闘工兵装甲車(Sd.Kfz.251/7)の搭載した工兵機材は、ノコギリ、ドリル、地雷、ロープなどである。Sd.Kfz.251/7工兵装甲車の武装としては、7.92mmPzB39対戦車ライフル1挺(弾薬40発)装備されている。 乗員は7〜8名で、7.92mmMG34(MG42)機関銃2挺、歩兵用の9mmMP38(MP40)短機関銃1挺、7.92mmKar98k騎兵小銃5挺が搭載されている。Sd.Kfz.251/7工兵装甲車には、Sd.Kfz.251装甲車A〜C型ベースの改修車輛、D型ベースの新規車輛がある。

写真(右)2013年9月,フランス西部、ソミュール戦車博物館、仮設架橋装備の半装軌式戦闘工兵装甲車(Sd.Kfz.251/7 Ausf.D)の左側面;装甲車の車体上に仮設架橋を搭載し、その下のコンパートメントにはベンチのついた工兵輸送スペースがある。正面奥には操縦室の窓が開放状態にある。
解説 Photographed in the Musée des Blindés, France. 日付 2013年9月11日, 13:12:52 原典 投稿者自身による著作物 作者 Alf van Beem
写真はWikimedia Commons, Category:SdKfz 251/7 Ausf. D in the Musée des Blindés  File:Sd.Kfz. 251-7 Mittlererpanzerkraftwagen Ausf D Pionierpanzerwagen in the Musée des Blindés, France, pic-1. 251-7 Mittlererpanzerkraftwagen Ausf D Pionierpanzerwagen in the Musée des Blindés, France, pic-.JPG 引用。


写真(右)2013年9月,フランス西部、ソミュール戦車博物館、仮設架橋装備の半装軌式戦闘工兵装甲車(Sd.Kfz.251/7 Ausf.D)の正面;装甲車の車体上端に仮設架橋が搭載されている。その下の中央がコンパートメントで、内部にはベンチのついた工兵輸送スペースがある。正面には操縦室の窓が開放状態にある。
解説Photographed in the Musée des Blindés, France. 日付 2013年9月11日, 13:15:16 原典 投稿者自身による著作物 作者 Alf van Beem
写真はWikimedia Commons, Category:SdKfz 251/7 Ausf. D in the Musée des Blindés  File:Sd.Kfz. 251-7 Mittlererpanzerkraftwagen Ausf D Pionierpanzerwagen in the Musée des Blindés, France, pic-3.JPG引用。


写真(右):ドイツ連邦共和国ミュンスター戦車博物館(Deutsches Panzermuseum Munster)に展示されているドイツ軍の短砲身24口径7.5 cm KwK 37 L/24戦車砲を搭載した半装軌式火力支援装甲車Schützen-panzer (Sd.Kfz 251/9 Ausf. D "Stummel"):生産期間1943-1945年、重量8.53トン、乗員3名。
解説 Deutsch: Mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz 251/9) Ausf. D "Stummel" Besatzung: 3 Soldaten Gewicht: 8,53 Tonnen Motorleistung: 74 kW (100 PS) Bewaffnung: 7,5 cm KwK 37 L/24 sowie 2 MG 34 od. MG 42, Kaliber 7,92 x 57 Baujahr: 1943 - 1945 Stückzahl: 1.141 日付 2008年8月29日作者 Huhu
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Benutzer:Huhu/Deutsches Panzermuseumから"File:Mittlerer Schützenpanzer (Ausf. D).jpg"引用。

半装軌式火力支援装甲車Sd.Kfz 251/9 "Stummel"(切り株) はSd.Kfz 251/1兵員輸送装甲車の車体に24口径(7,5 cm KwK 37 L/24)戦車砲を搭載した火力支援車輛。原形となったSd.Kfz 251/1には、中期C型と後期D型とがある。 また、Sd.Kfz 251/9 "Stummel"は、7.5センチ戦車砲を車体の右側の最前席(車長席)のスペースに搭載したが、1944年に登場した改良型は砲塔を設置して射界を拡げている。1943-1945年の機関生産された。

半装軌式火力支援装甲車Sd.Kfz 251/9 "Stummel"(切り株) 諸元
エンジン:マイバッハHL42TUKRM 全幅:2.1メートル
全長:5.98メートル
乗員:3名
重量:8.53トン
最高速度:路上53キロ/時
航続距離:300キロメートル
兵装:24口径(7,5 cm KwK 37 L/24)戦車砲1門(携行弾数52発),7.92ミリ機関銃(MG42)1丁(携行弾数2000発)


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
アンネの日記とユダヤ人


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