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◆独ソ戦のクリミア半島・セバストポリ要塞:Schlacht um Sewastopol 写真(上):1941年7月,ルーマニア,コンスタンツェ港沖を航行するドイツ海軍対空哨戒艇8.8センチ高射砲を装備した簡易移動式対空砲台どして,黒海に出動。乾舷は低いために,沿岸用で,遠洋航海はできない。
Schwarzes Meer bei Konstanza (Constanta).- Siebelfähre mit 8,8-cm Flak bei Übungsschießen Dating: Juli 1941 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右):1941年,ルーマニア,ブカレスト,農夫1940年,ソ連によってベッサラビアを割譲させられたため,ルーマニアは,ソ連への報復を待っていた。そこで,ドイツ軍の中流を許し,1941年6月には,ドイツ軍とともにソ連に侵攻した。しかし,戦局が悪化した1944年8月には,ソ連と和平を結び,昨日の友,ドイツ軍へ攻撃を開始した。
農村の老人,婦女子にとって,このような国際関係の変化は,どのように認識されていたのであろうか。
Rumänien (Bukarest).- Land und Leute.- Bauer (Porträt) Datierung: 1941 ca. Fotograf: Grund, Horst撮影。 Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。

◆2011年9月2日・9日(金)21時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」で「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」にゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。これらはZDF「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl」をもとにした番組です。

1.1939年,第二次大戦勃発

ナチスの人種民族差別の方針では,東欧・ソ連に対しては,共産主義ボリシェビキが支配している地域として,その土地,資源,人民をドイツの支配下におこうとした。チェコ人,ポーランド人,ロシア人,ウクライナ人などは,スラブの劣等民族と位置づけられ,東欧ソ連は,ドイツ人の生存と繁栄のための生存圏とみなされた。

反ユダヤ主義は,ナチス政権成立によって,人種民族差別・偏見の問題は,基本的人権の蹂躙,迫害へと深刻化していった。ナチスは,突撃隊・親衛隊,さらに警察も支配し,権力と暴力を行使し迫害を行った。そして,スラブ人を蔑視する人種民族差別に基づいて,ドイツ第三帝国の生存圏を東方ソ連に求め,そこを支配する計画を立てた。この戦争計画がバルバロッサ作戦だった。

1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻で破壊された都市では,住民が駆り出され,後片付け作業に従事させられた。

この時,労役に従事したユダヤ人を登録し,以後,家族を含めて,労役を課さないと宣伝したようだ。ユダヤ人には,労役をこなして,家族の身を保障しようとしたが,これはユダヤ人を把握して,ゲットーに移送するための姦計だった。労役させた後に,登録したユダヤ人をゲットーに強制移送した。

写真(右):1941年,ルーマニア,ブカレスト,農婦:1940年,ソ連によってベッサラビアを割譲させられたため,ルーマニアは,ソ連への報復を待っていた。そこで,ドイツ軍の駐留を許し,1941年6月には,ドイツ軍とともにソ連に侵攻した。しかし,戦局が悪化した1944年8月には,ソ連と和平を結び,昨日の友,ドイツ軍へ攻撃を開始した。
農村の老人,婦女子にとって,このような国際関係の変化は,どのように認識されていたのであろうか。
Rumänien, (Bukarest).- Land und Leute.- Bäuerin (Porträt) Dating: 1941 ca. Photographer: Grund, Horst Origin: Bundesarchiv 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランドを保障するとして東側を武力で保障占領した。独ソ不可侵条約では,ポーランドをブーク川の線で即ソ分割することが密約されていた。ドイツのポーランド侵攻後,ソ連もポーランドに進駐した。独ソの握手は,偽りのもので,2年と続かなかった。
ドイツとソ連は同盟国として,ポーランドをブーク川を境界として,二分したのである。英仏はポーランドと相互条約を結んでいたため,9月3日,ドイツに宣戦布告侵攻したが,ソ連にはしなかった。

◆ドイツ軍によるポーランド侵攻とソ連侵攻の共通する暗部は,ユダヤ人を初めとする敵性住民を即決処刑したことである。1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。1941年6月22日,ドイツのソ連侵攻バルバロッサ作戦で,占領下ソ連では,ユダヤ人やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に収監されたりした。ポーランドでも,ソ連でも,ドイツ親衛隊,警察,国防軍とともに,現地ポーランド,バルト諸国,ウクライナの警察・住民の一部は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。

1939年の独ソ不可侵条約には,ポーランドの独ソ分割の密約があった。1939年9月1日にドイツがポーランド西部を攻撃すると,ソ連はポーランド東部を保障するとしてソ連軍を進駐させ,武力占領した。

英仏はポーランドと相互条約を結んでいたため,1939年9月3日,ドイツに宣戦布告侵攻した。しかし,英仏は,その後にポーランドを占領したソ連には,宣戦布告していない。

挙国一致内閣として,1940年5月10日、チャーチルが英首相に就任した当日,ドイツのフランス侵攻開始。

5月17日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏、6月5日ダンケルク占領。ただし,連合軍兵士34万名は,英本土に脱出。6月10日、ノルウェー降伏,6月22日フランス降伏。フランス降伏のちょうど一年後,ドイツ軍はソ連を攻撃することになる。

2.1941年,バルカン侵攻

ヒトラーは,英国がソ連を当てにして戦っていると考え,イデオロギー上の敵であるボリシェビキを殲滅し,東方ソ連にドイツ民族の生存圏を獲得しようとの本心をむき出しにして,ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」を発動した。しかし,その直前の1941年4月,ユーゴスラビアで反ドイツのクーデターが勃発,急遽,ドイツ軍がユーゴスラビアに侵攻した。

写真(右)1941年,ブルガリア,ルーマニア軍歩兵の行進:ルーマニア軍の小銃は,チェコスロバキアのVz24を国産化していた。機関銃も,同じくZB30,ドイツ軍貸与のMG34などだった。しかし,国産短機関銃のオリ−タM1941も製造していた。
1942-1943年のスターリングラード攻防戦では,ソ連赤軍は,ドイツ軍側の中で弱体とみていた,連携不足といえるルーマニア軍が攻撃した。しかし,ルーマニア軍にも機甲部隊はあり,第1戦車師団を編成していた。
[Italien?].- Rumänische Soldaten bei Marsch auf einer Straße Dating: 1943 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツ軍のユーゴスラビア侵攻の1ヶ月前,1941年3月1日,ドイツ軍は,ソ連の影響下にあるブルガリアにも進駐していた。これは,バルカン半島のおさえとしてだった。ドイツとソ連の強国にはさまれたバルカンに位置するのが,ユーゴスラヴィア,ギリシャ,ブルガリア,ルーマニアだった。

写真(右)1941年夏,ソ連ベッサラビアの農婦たち:ソ連とルーマニアの国境地帯だったベッサラビアは,1940年,ルーマニア領だったが,ソ連が併合した。しかし,1941年6月の独ソ戦に参戦したルーマニアが取り戻した。世界大戦に翻弄されたベッサラビアの農婦たちは,戦火が過ぎ去り,平穏なうちに収穫作業を楽しんでいるようにも見える。その後,どういう経験をしたのか,どのような思いを抱いたのか。
Sowjetunion, Bessarabien.- Bäuerinnen bei der Ernte auf einem Feld Dating: 1941 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユーゴスラヴィアは、王国として、1918年にセルビアを中核として、オーストリアから分離独立した。

チェコスロバアは、共和国として、1918年にオーストリアから分離独立した。

ハンガリーは、1918年にオーストリアから分離独立し、1920年に摂政制の王国となった。ポーランド、ラトビア、リトアニアは、1918年にロシアから分離独立した。

つまり、東欧・バルカンには、第一次大戦中に、米ウィルソン大統領が提唱した民族自決に基づいた新興独立国・分離独立国が多かった。

黒海は,当時,ソ連,ルーマニア,ブルガリア,トルコに囲まれた海であり,その面積は,面積は43万平方キロで,現在の日本の37万平方キロより15%ほど広い。コンスタンチノープル(現イスタンブール)は,東ローマ帝国(ビザンツ),オスマン帝国の首都であり,黒海沿岸,特にウクライナは,紀元前からギリシャ人が穀倉地帯として,交易していた場所である。ロシア帝国も,クリミア半島を要塞化し,1854年-1856年のクリミア戦争では,ロシア軍とオスマン帝国・大英帝国・フランス連合軍が戦った。

1940年6月,ソ連がルーマニア領ベッサラビアと北ブコヴィナを併合(ブレスト・リトフスク講和条約までロシア領)すると,バルカンを巡りドイツとソ連は対立する。ルーマニアには,ドイツに石油を供給していたプロエスチ油田があり,ドイツとルーマニアはソ連の攻撃を恐れた。ドイツはルーマニアを誘って,11月に日独伊三国同盟に加盟させた。

ルーマニアの工業都市のコンスタンツツァは,黒海に面した要港だった。東ローマ帝国コンスタンティヌス1世が妹の名にちなんでコンスタンツァと呼ばれたが,1413年以降は,オスマン帝国領になった。

写真(右)1941年夏,1941年夏,ソ連,ルーマニア国境のベッサラビア,農地で収穫作業に従事する農婦たち
Sowjetunion, Bessarabien.- Bäuerinnen bei der Ernte auf einem Feld Dating: 1941 Sommer Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1878年の露土戦争(ロシア=トルコ戦争)によって,ロシア領となるはずだったが,ドイツ帝国(第二帝政)の宰相オットー・フォン・ビスマルクは,ロシアを牽制し,ヨーロッパの勢力均衡を図るためにベルリン会議を開催した。そして,コンスタンツァはルーマニア領として認められた。

こうして,ロシアは,露土戦争の勝利によってコンシウタンツァを領有できるはずが,英独仏墺,特にドイツの介入によって,その企図をくじかれ恨んだ。

1940年6月末,ソ連はポーランドに次いで,ルーマニアに侵略,ベッサラビアを領有してしまった。ヒトラーは,ソ連の軍事介入を恐れて,第一次大戦でルーマニアが獲得した領土をソ連に返還するように諭している。ヒトラーは,ルーマニアの国益や反共産主義のイデオロギーよりも,ソ連と宥和して,東部を安定化させようとした。

しかし,ヒトラーは,ソ連との宥和が永続するとは思っていなかったし,宥和を続けるつもりもなかった。300万以上の兵力を投入するソ連侵攻「バルバロッサ作戦」を準備していた。そして,ルーマニアにも,密かに作戦発動を伝え,協力を求めた。

1941年6月22日,ルーマニア軍は,ドイツ軍とともにソ連に侵攻。このときは,イタリア,フィンランド,ハンガリーも対ソ戦に参戦している。

1806年の露土戦争によって,宗主国のオスマン帝国が,ルーマニア人のモルダビア公国の東部をロシアに割譲。ここを「ベッサラビア」と名づけた。

1881年,モルダビア公国の西部が,ルーマニア王国として独立。1918年,ロシア革命では、ベッサラビアは独立を宣言,第一次世界大戦後にルーマニア王国と合併。

写真(右)1941年夏,独ソ戦開始当初,ソ連,ベッサラビアの農民たち:Sowjetunion, Bessarabien.- Bäuerinnen bei der Ernte auf einem Feld Dating: 1941 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


第二次世界大戦中の1940年,ソ連のスターリンが,ドイツのヒトラーの了承の下に,軍事的圧力をかけ,ルーマニア領ベッサラビアを併合。1941年,独ソ戦に,ドイツ側にたって参戦したルーマニアは,ソ連に割譲されたベッサラビアを占領し取り戻した。しかし,1944年,ベッサラビアは,侵攻してきたソ連赤軍によって再び占領された。こうして,以後は,ベッサラビアは、ソビエト連邦に組み込まれ、現在はロシア領となっている。

ソ連共産党の失墜した1991年,モルダビアはソビエト連邦から独立を宣言,モルドヴァ共和国として再び独立。

写真(右)1941年夏,独ソ戦開始当初のベッサラビアドニエプルの農民たち:ドイツ軍の前で安心して農作業を進める婦人たち。独ソ戦開戦当初は,ドイツ軍をソ連共産党支配から解放してくれるとして,歓迎した住民たちもいた。
しかし,ドイツ軍が穀物を奪い,強制労働,「東方(オスト)労働者」としてドイツへの強制連行を始めると,住民の間に反ドイツ感情が高まった。
Sowjetunion, Bessarabien.- Bäuerinnen bei der Ernte auf einem Feld Dating: 1941 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月22日(フランス降伏から1年後),独ソが勃発した。当初,ソ連に侵攻したドイツ軍を,ソ連共産党スターリンの圧制からの解放と考え,ドイツ軍を歓迎するソ連のウクライナ人,ロシア人,チェチェンChechen人,中央アジアトルコ系民族もいた。

1859年にロシア帝国によって周辺地域とともに併合された。

写真(右):1941年夏,ソ連,ルーマニア国境のベッサラビア,農地で収穫作業いいそしむ農婦たち:農婦に混じって,ドイツ軍兵士2人が,上半身裸になって,住民の収穫作業を手伝っている。
対ソ連開戦当初は,ルーマニア領だったのに,1940年にでソ連に併合されたベッサラビアの農婦ように,ドイツ軍をソビエトの頚城,圧制からの解放者として迎えた住民も会った。
Sowjetunion, Bessarabien.- Bäuerinnen bei der Ernte auf einem Feld Dating: 1941 Sommer Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


チェチェン人(Chechenets)は,チェチェン語を話す民族で,カフカスに居住し,イスラム教スンナ派が多い。

チェチェンは、ソビエト連邦の下で、チェチェン・イングーシ自治共和国としてソ連の一部となったものの、ヨシフ・スターリン(キルギス出身)は、チェチェン人、イングーシ人が、共産主義政権、特に個人の財産権を否定した集団農場政策に反感を抱いていることを知っており、この反共産主義の動きがドイツと協力することを恐れた。そこで、チェチェン人は、シベリアへ強制移住させられた。帰国が許されたのは、スターリン死後の1957年、フルシチョフ政権の時だった。

1990年4月,チェチェンのドゥダエフ将軍は,ソ連からの分離独立を宣言した。1994年12月,チェチェン独立運動が激化し,独立を阻止するために,ロシア軍が軍事介入した。これが,チェチェン紛争で,1995年,ロシア軍は,チェチェンの首都グロズヌイを占領した。

1999年,チェチェンの武装闘争が激化すると,ロシア軍が再度チェチェンに侵攻し,2000年,再び首都グロズヌイを制圧した。チェチェン紛争は,国内テロとして続いている。

第二次大戦を開始し、ボリシェビキ殲滅と東方生存圏獲得のための対ソ戦を戦ったヒトラーは,ウクライナ人やロシア人などスラブ民族を軽蔑していた。ドイツ軍兵士も,ソ連の共産党員政治委員,ユダヤ人,パルチザンに対しては,西欧諸国とは異なって、厳しく処断した。独ソ戦開始前から、彼らを捕らえたら処刑していた。ボリシェビキ殲滅と東方生存圏獲得のための戦争を戦ったヒトラーは,ウクライナ人やロシア人などスラブ民族を軽蔑していた。ドイツ軍兵士も,共産党員政治委員,ユダヤ人,パルチザンに対しては,厳しく処断した。

写真(右)1941年9月2日,独ソ戦開始から1ヵ月後のドニエプル川近郊に駐留するドイツ軍とウクライナの農家:独ソ戦当初,スターリンの指導するソ連共産党による圧制に苦しんでいたロシア,ウクライナの住民は,侵攻してきたドイツ軍兵士を解放者として,迎え入れた時期もあった。しかし,農作物など物資供給,家屋や土地の提供,東方労働者(オスト)としての強制連行,パルチザン掃討,アインザッツグルッペによるユダヤ人・共産主義者の容疑者処刑などを目の当たりにする。スターリンは,この状況を察して,ソ連,ロシアの愛国心に訴える「大祖国戦争」を開始,ドイツの侵略者を打ちのめすことを訴える。
Vormarsch September 1941 nach dem Dnjepr Übergang Ein Reiter wird verbunden Archive title: Sowjetunion, nach Djepr - Übergang Dating: 2. September 1941 Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ソ連の西部には、ドイツ軍が進駐したルーマニア人の多いベッサラビア,ウクライナ人の住むウクライナというロシア人とは異なる民族の地域もあり、彼らの中には、ボリシェビキ圧制から解放され,第一次大戦末期と同じく,ルーマニア合併あるいはウクライナ独立を期待する住民もあった。

写真(右)1941年6-7月,独ソ戦当初の東部戦線南部,駐留したドイツ軍兵士とチェチェンの農民たち:ドイツ軍が,スターリン,ボリシェビキによる圧制から解放してくれると期待したソ連の住民は少なくなかった。しかし,ドイツの支配は,テロによる支配を基調に,資源収奪・強制労働,住民移転を強いた。スターリン以上に過酷なものとなったドイツ軍政に対して,ソ連の住民は離反した。ソ連側のパルチザン(フランスのレジスタンスと同じ意味)に回るものも多くなった。
Sowjetunion-Süd, "Unternehmen Barbarossa".- Deutsche Soldaten mit Zivilbevölkerung, Gefreiter beim Umarmen einer sowjetischen Frau; PK 637 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Harschneck
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ロシア帝国に組み込まれたチェチェンでは,19世紀にイスラム教徒を中核とした反乱が繰り返されたが,1917年のロシア革命後、ボリシェビキのソ連の下で,民族自治が開始された。1924年,チェチェン州、イングーシ州が新設され,1936年にチェチェン・イングーシ自治共和国が設立,ソヴィエト連邦を構成する共和国の一員となった。

レーニンの死後,ソ連共産党の独裁者に上ったヨシフ・スターリンは,カフカス出身だったが,民族別の自治共和国連邦制を改め,中央集権的な国家に再編成しようとしたために,自治の動きは抑圧された。

農業面においても,農家個人の土地経営を認めず,集団農場化し,中興集権的な管理をすることとなり,農民は土地を取り上げられてしまう。これに反対する民族派,自治派は,弾圧された。

◆ドイツ国防軍の中には,ロシア人,ウクライナ人,チェチェン人など現地住民と協力関係を樹立し,反共勢力,反スターリン政権に育成するとの構想もあった。しかし,そのような構想は,東方ソ連を大ドイツの生存圏として,物資調達,強制連行・強制労働を進める強権的な植民地支配と並存することはできなかった。

ドイツは東方ソ連を生存圏として植民地化しようとしたが,これに従った現地住民は,ソ連のパルチザン(フランスのレジスタンスと同じ意味)によって、裏切り者,売国奴として処断された。
ドイツに食料・物資・家屋宿舎を提供し,ドイツのために労役をこなし,道案内やスパイ探しなど情報を提供するロシア人,ウクライナ人の住民は,ソ連のパルチザンに脅され,殺害された。 

ユダヤ人など下等劣等人種に対する殲滅戦争を開始,住民の家畜,食料を徴発し,住民を追放した。
過酷な扱いを続けたドイツに対して,占領下の住民は,パルチザンとなり,武器を取って,ドイツ占領軍を襲撃し,ドイツの通信交通網を破壊した。さらに,ドイツに協力する現地の住民にも報復した。

◆ヒトラーは,ソ連に侵攻,領土を拡張したのであって,ウクライナの独立・自治を認めるつもりはなかった。プロパガンダとして,ウクライナ独立を期待させ,協力させる武装親衛隊を編成することに譲歩した。
したがって,占領した東方ソ連の肥沃な大地に,ユダヤ人を追放することは考えられない。

英領植民地パレスチナ,フランス植民地マダガスカル島へのユダヤ人追放は計画されたことはあるが,戦時中,何万名ものユダヤ人を,遠隔地に追放することは不可能である。
また,早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。収容したユダヤ人の処置が緊急問題となった。


写真(右)1941年6-7月,ソ連中部,ドイツ兵士からもらったタバコをふかすロシアに少年たち
:子供の癖にタバコを吸うのかと,驚いたようなドイツ兵が,思わず移した写真なのであろうか。独ソ戦の初期には住民たちは,ドイツ軍兵士を半ば警戒していたが,子供たちは好奇心に釣られて外国人に集まったようだ。ベラルーシ,ウクライナ,ロシアの住民は,ソ連共産党スターリンの支配が,強制労働,強制移住,流刑,粛正を伴う過酷なものだったために,ドイツ軍を圧制からの解放者として歓迎したこともあった。ただし,ドイツの過酷な軍政を経験していないまでである。
Sowjetunion-Mitte.- Gruppe sowjetischer Kinder, Zigaretten rauchend; PK 689 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Plenik, Bruno 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1939年9月に第二次世界大戦が勃発したが,ソ連はポーランド進駐以降,参戦にておらず,英独の戦いで,両国の国力が低下するのを待っていた。しかし,1941年6月22日,ドイツが独ソ不可侵条約を反故にして,ソ連へと侵攻してきたドイツ軍は,チェチェン人などを反ボリシェビキ闘争に巻き込んだ。

自由と独立,圧制や植民地からの解放という大儀は,大東亜戦争を戦った大日本帝国の場合にも主張された。しかし,ドイツは,肥沃な国土,民族ドイツ人の移住地を必要としており,ウクライナを独立させるつもりは,当初からなかった。

大日本帝国が,石油の豊富なオランダ領インドネシア,ゴム・スズ産地の英領マラヤを,日本への資源供給地と位置づけ,民度が低いことを名目に独立させなかったのと同じである。


3.1941年,ソ連侵攻とユダヤ人迫害

◆ユダヤ人は,アーリア人を人種汚染し,共産主義者がソ連を,国際金融資本家・マスメディア経営者がアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局が悪化し,物資も不足し,ユダヤ人を追放すべき地域は,東方ソ連にはない。逆に,東方ソ連のユダヤ人,スラブ人が,強制収容所や東方労働者として,ポーランドやドイツに連れてこられていた。ヨーロッパのユダヤ人,東方ソ連のスラブ人は,同じようには差別,迫害された。

写真(右)1941年,ソ連,クリミア半島,野外で机に向かうドイツ宣伝班のホルスト:太陽の光がまぶしい夏,ホルストはサングラスをかけている。後方には,ロシアの民家が見える。緒戦,ドイツ軍が勝ち続けていた時期,戦争にはまだ,外国旅行のような側面が残っていた。シュタウフェンベルクもヒトラーを暗殺するような無謀なテロを実行しようとは考えもしなかった。
Sowjetunion, Krim.- Schreibstube im Freien, Horst Grund als Filmbericher der 10. Marinekriegsberichterkompanie an Schreibtisch sitzend Datierung: 1941 ca. Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

ドイツのソ連侵攻2ヶ月後の1941年9月1日,ドイツ・ユダヤ人がユダヤの星をつけることについての警察条令が発令。(ドイツ占領地では1940年からユダヤの星をつけさせていた)
?満6歳以上のユダヤ人は,ユダヤの星を着けずに公共の場に姿を現してはならない。
?ユダヤの星は手のひら大,黄色い布で六角星型,黒字でユダヤ人と記入。星は,目立つように衣服の左旨に縫い付けること。

しかし,ドイツ市民の中には,ユダヤの星を着けさせられたユダヤ人に同情を示したものも少なくなかった。そこで,ユダヤの星着用条令発令の2ヵ月後,1941年10月24日,ユダヤの星を着けたユダヤ人への共感を示したものに対して,3ヶ月間の強制収容所拘禁を命ずる布告が出された。

1941年11月4日,ドイツ帝国財務省令:国民経済に重要な企業で就労していないユダヤ人は,数ヶ月以内に,東方に追放する。追放されるユダヤ人の財産は,ドイツ帝国のために没収する。

独ソ戦勃発4ヶ月後,1941年10月14日から11月4日にかけて、ドイツのベルリン、ケルン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルなどのユダヤ人1万9953名が第一陣として、ポーランドのウーチ・ゲットーに強制移送された。1941年11月25日のドイツ国公民法第11令によれば、ドイツ国籍ユダヤ人が外国に移住すれば、その資産はすべてドイツ国のものとなるとされた。(芝健介『ヒトラーのニュルンベルク』180-193頁)

写真(右):1941年7月,ソ連,クリミア半島,映画撮影をするドイツ宣伝班員ホルスト
Sowjetunion, Krim.- Horst Grund an seiner Kamera mit Filmwagen, Panne bei 52°c Dating: 1941 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人の財産没収,強制収容所への移送は当然のように知っていた。1942年に入って,ソ連降伏がない以上,ユダヤ人がドイツ軍の東方ソ連占領地に追放することはできない。

ドイツだけでなく,ヨーロッパ中のユダヤ人が,「東方」に続々と送られていることは,ドイツ鉄道職員にも,沿線住民にも,常識だった。東方ソ連でもユダヤ人,スラブ人(ウクライナ人,ロシア人,セルビア人など)が,パルチザン容疑者やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に送られたりしていることを東部戦線のドイツ軍兵士は知っていた。強制収容所に移送されれば,出られないことも,みなが知っていた。が,虐殺の話は,公の場では語られなかった。

ポーランド総督ハンス・フランクは,後に,自分自身を含めて「何も知らないということを信用してはいけない。われわれは,詳細は知らないまでも,このシステムは尋常ではないと,誰もが感じていた。要するにわれわれは,知りたくなかったのでだ。システムに従って生活し,家族を養い,それが正しいことであると信じているほうが気楽だった。」(ジョン・トーランド『アドルフ・ヒトラー 4 奈落の底へ』122-123頁)

◆ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人やスラブ人の運命を察することができたが,誰もその責任を取りたくなかった。誰もユダヤ人がどうなったのかを知りたくなかった。これが,「仕方がない」という無責任なニヒリズム,不当な現実を受け入れてしまう不当現実主義である。不当現実主義者は,戦後の責任は,ヒトラー総統,親衛隊に転嫁された。

◆ドイツ国防軍の中には,ロシア人,ウクライナ人,チェチェン人など現地住民と協力関係を樹立し,反共勢力,反スターリン政権に育成するとの構想もあった。しかし,そのような構想は,東方ソ連を大ドイツの生存圏として,物資調達,強制連行・強制労働を進める強権的な植民地支配と並存することはできなかった。

ドイツは東方ソビエト連邦を生存圏として植民地化しようとしたが,これに従った現地住民は,ソ連のパルチザン(フランスのレジスタンスと同じ意味)によって、裏切り者,売国奴として処断された。
ドイツに食料・物資・家屋宿舎を提供し,ドイツのために労役をこなし,道案内やスパイ探しなど情報を提供するロシア人,ウクライナ人の住民は,ソ連のパルチザンに脅され,殺害された。 

ユダヤ人など下等劣等人種に対する殲滅戦争を開始,住民の家畜,食料を徴発し,住民を追放した。
過酷な扱いを続けたドイツに対して,占領下の住民は,パルチザンとなり,武器を取って,ドイツ占領軍を襲撃し,ドイツの通信交通網を破壊した。さらに,ドイツに協力する現地の住民にも報復した。

◆ヒトラーは,東方ソビエト連邦に侵攻,領土を拡張したのであって,ウクライナの独立・自治を認めるつもりはなかった。プロパガンダとして,ウクライナ独立を期待させ,協力させる武装親衛隊を編成することに譲歩した。
したがって,占領した東方ソ連の肥沃な大地に,ユダヤ人を追放することは考えられない。

英領植民地パレスチナ,フランス植民地マダガスカル島へのユダヤ人追放は計画されたことはあるが,戦時中,何万名ものユダヤ人を,遠隔地に追放することは不可能である。
また,早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。収容したユダヤ人の処置が緊急問題となった。

1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。


ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。
これは過激な表現のプロパガンダではなく,本心だった。

◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。

世界戦争となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソビエト連邦への生存圏を求める戦争を戦うべきである。

写真(右)1941年,ブルガリア,ブカレストのルーマニア軍兵士の行進:ブカレストのリンクを,大隊あるいは連隊規模の歩兵が行進している。
Rumänien (Bukarest).- Kolonne von Soldaten auf dem Marsch über den Platz einer Stadt Dating: 1941 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ヒトラー総統は,東方ソビエト連邦から下等人種スラブ人を排除し、ドイツ人・民族ドイツ人を移民させ、ドイツの生存圏とすべき植民地と考えた。住民は農奴や奴隷労働者として扱うつもりだったのである。ドイツ軍のソビエト連邦侵攻後,東方ソ連でもユダヤ人迫害が開始された。

ドイツ軍占領地域におけるユダヤ人登録や使役の監督作業には,親衛隊,ドイツ警察さらにはウクライナ人や反ユダヤの現地住民も協力した。逃亡しようとすれば,反ユダヤ的な現地住民に密告されるリスクもあった。

また,ユダヤ人の使役するだけでなく,ユダヤ人の資産没収,不動産・家具の強奪など,ユダヤ人を迫害して,利益を上げようとするものもいた。

ドイツは,住民が反目しあうように,ユダヤ人をスケープ・ゴートの標的として,分割統治した。
ただし,大英帝国のような利益誘導ができず,非ユダヤ人から穀物・家畜を徴発し,財産を没収し,さらに強制労働に着かせるなどしたために,東方ソビエト連邦Soviet Union)住民も,親ドイツではなく,反ドイツの側に立つようになった。

写真(右)1941年10月,ルーマニア,黒海沿岸の都市コンスタンツァ,行進するルーマニア軍兵士:Konstanza(コンスタンツァ)のMarktplatz。
Rumänien, Konstanza (Constanta).- Marktplatz mit Oviddenkmal, Vorbeimarsch rumänischer Soldaten, Offizier mit Blumen anläßlich der Feier für Einnahme von Odessa Dating: Oktober 1941 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。-----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」

1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。
◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。

1941年11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。>」
◆ドイツ軍司令官は弱弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。

写真(右)1941年夏,ソ連,不時着,破壊したフィーゼラーFiの156"シュトルヒ"連絡機:カギ十字は,ナチ党の記章だったが,ナチ党旗がドイツ国旗となり,ドイツ軍機の尾翼にはカギ十字が描かれることになった。戦前,ドイツの飛行機の尾翼は,赤帯にナチスのカギ十字がついており,ドイツ国旗と同じだった。しかし,戦時中には目立ちすぎるために,赤帯は塗らなくなった。
Ein notgelandener Fieseler Storch Sommer 1941 Archivtitel: Verbindungs- und Transportflugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" Datierung: 1941 Sommer Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1941年6月22日以降のドイツのソビエト連邦Soviet Union)侵攻は,ユダヤ人など下等劣等人種殲滅戦争の第二段階だった。

既に,バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていた。また,1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。


写真(右) 1941年12月,ソ連,クリミア半島,ボックス構造になっているドイツ軍のオペル・ブリッツ車とトラックの前の宣伝班ホルストと仲間。

Sowjetunion, Krim.- Horst Grund mit Kameraden vor einem LKW mit Kastenaufbau (Opel Blitz?)stehend Dating: Dezember 1941 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

バルバロッサ作戦の時期でも,ドイツのソビエト連邦Soviet Union)侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされた。

写真(右)1941年,ウクライナ,クリミアのホルストと二人のカメラマン:ドイツ海軍の宣伝班も一人加わっている。当時のソビエト連邦Soviet Union)では,幹線道でも未舗装の道路が多かった。春から初秋はともかく,晩秋の雨季,冬の氷結時期は交通通信に仕様が生じ,軍隊の行動も制約された。
Sowjetunion, Krim.- Horst Grund und zwei Kameraden mit PKW einer Marine-Propagandakompanie bei Rast Dating: Dezember 1941 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆隔離した敵ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜は,労働可能であっても,解放することは考えられない。強制収容所に拘束したユダヤ人,ソ連軍捕虜は,奴隷労働者として使い捨てにするか,殺戮することになった。

ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の殺戮には,次のような障害があった。
?殺戮に伴う処刑者の精神的負担
?資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
?大量殺戮発覚によるユダヤ人・スラブ人などの抵抗勢力の増大
 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人やソ連軍捕虜を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,大量殺戮が事実上行われていた。


ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。ルーマニア軍の将兵の中にも,虐殺の噂を聞いたり,自ら治安維持作戦を目撃したこともあったであろう。多数のドイツ人,ルーマニア人が,ユダヤ人虐殺の情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとしなかった。認めたくなかった。

ドイツ軍はモスクワ前面で敗退したが,これは決して,ロシアの厳寒「冬将軍」のためではない。?ソ連軍が厖大な予備兵力を擁していたこと,
?極東方面の第一線部隊をモスクワ前面に移送・配置したこと
?ソ連侵攻中の虐殺事件にドイツ軍将兵の中に殲滅戦争継続への疑問がうまれたこと
が指摘できる。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

ヒトラーの対米宣戦布告の国会演説の翌日、12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした。

その一方で、ドイツ市民は、非人道的な迫害・殺戮は,確かなことはわからないと,多くがその責任を回避したがった。「何を見ても,何を聞いても,目を閉ざし,耳を塞いだ」「命令に従うだけだ」「しかたがない」と現実肯定の無力なニヒリズムに陥っていた。

現在,ユダヤ人の迫害の責任は,親衛隊,ナチ党,ヒムラー,ヒトラーが負うべきものとされ,ドイツ国民,ドイツ国防軍はもちろん,ルーマニア,ウクライナもユダヤ人迫害に一切加担していないような印象を保っている。

写真(右):1941年12月,クリミアのシミフェロポル:ドイツ連邦アーカイブには,ホルストの宣伝班が撮影したカラー写真が数十枚保管されている。ホルストは,独ソ戦に宣伝班として参加,映画や写真撮影を行っていたが,人物写真とともに,風景写真を多数残している。戦争従軍宣伝班というより,ロシア・ウクライナ旅行を楽しんでいるようだ。これは,独ソ戦初期,ドイツ軍が優勢だった戦線後方だから可能な「旅行」だった。
東部戦線に出征したドイツの若者たちも,白バラ通信を作成したショルのように,戦争をロシア旅行として楽しんだ側面もあった。しかし,ユダヤ人やソ連軍捕虜の過酷な取り扱いを知るに及んで,戦争の愚かさ,悲惨さを憂うようになった。ナチ党による戦争指導は,ドイツの伝統や自由を破壊するものだと理解した。
Sowjetunion, Krim, Simferopol.- Soldaten vor deutschen Wegweisern Dating: Dezember 1941 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。 ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用。(他引用不許可)。


しかし,スターリングラードで降伏,投降した多数のドイツ軍捕虜も,自分たちが捕まえたソ連軍捕虜と同じように,過酷な扱いを受けることになる。

写真(右)1942年,ソ連,映画カメラマンが墓地の柵の外から撮影中
Sowjetunion.- Kameramann einer Filmberichter-Einheit der Propaganda-kompanien, filmend (am Zaun eines Friedhofs ?) Datierung: 1942 ca. Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

◆1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。この時期は,独ソ戦でドン川西岸にあった南方軍集団が,ロストフから,カフカスに南下し,スターリングラードに東進していた時期だった。東方ソビエト連邦Soviet Union)で「ブラウ」作戦が発動した時期に,ユダヤ人絶滅政策が本格的に始動した。これは,ロシアのボリシェビキ殲滅戦と対比しながら,考えることができる。

当時のルーマニアの指導者は,イオン・アントネスク(Ion Antonescu)だった。彼は, 国防相,投獄を経験した後,1940年から1944年まで首相に就任した国粋主義者である。ドイツの支援を得て,ソ連に対抗しようと親ドイツ政策を採用した。

独ソ戦に際して,アントネスクは,ルーマニア軍を派遣し,オデッサ,スターリングラードの占領に寄与したが,スターリングラード攻防戦では,ソ連軍がルーマニア軍守備範囲を攻撃し,ドイツ第六軍が包囲されたため,ルーマニア軍の評判を落とした。

写真(右):1941年冬,ルーマニア,集合を命じられ移送される直前のルーマニア・ユダヤ人:枢軸国のルーマニアは,ドイツの影響を強く受け,1941年6月の独ソ戦勃発後に,領土内のユダヤ人を大規模に排除していった。
他方,同じ枢軸国ハンガリー政府は,領土内に多数のユダヤ人が住んでいたため,その影響力に配慮して,1944年前半まで,ユダヤ人を排除しなかった。しかし,1944年中ごろには,アイヒマンの指導の下,ユダヤ人を大規模に排除し,アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所に送った。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


イオン・ヴィクトル・アントネスクは,ドイツの要請を受けて,ルーマニア国内のユダヤ人数万人を拘束し,強制収容所に移送した。ハンガリーは、親ドイツで対ソ戦にも軍隊を派遣していた枢軸国だったが、国内に多数のユダヤ人を抱え、その影響力に重きを置いていたために、て1944年初期までは、ドイツの要請するユダヤ人移送に反対していた。ハンガリーから大規模なユダヤ人移送が開始されたのは、1944年4月以降だった。

しかし、ルーマニアでは、国粋主義者のアントネスクが、ヒトラーの要請をすんなりと受け入れ、ユダヤ人移送を、対ソ戦に参戦した1941年から行っていたようだ。アントネスクのユダヤ人迫害は、現在でもルーマニアの大将軍として人気のあるアントネスクの評価に一抹の影をさすものである。

写真(右)1941年,ルーマニア、コンスタンツァ,港のドックにある艦船:ソ連とルーマニアの国境地帯だったベッサラビアは,1940年,ルーマニア領だったが,ソ連が併合した。しかし,1941年6月の独ソ戦に参戦したルーマニアが取り戻した。
Rumänien, Konstanza (Constanta).- Schiff im Hafen-Dock Dating: 1941 ca. Photographer: Grund, Horst Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,突如,ソ連を攻撃した。このは,ドイツ軍によるソビエト連邦Soviet Union)攻撃バルバロッサBarbarossa作戦が実行されたのは,次のような理由からだった。

?バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のことである。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだとした。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃した。そして,ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。

?ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。ただし,東方に向かうドイツ軍兵士は,独ソ不可侵条約の下で,スターリンがウクライナをヒトラーに貸与するという噂があった。

?フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソビエト連邦Soviet Union)がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。ただし,バルバロッサ作戦の準備は,英本土上陸作戦の意図を隠蔽する目的で行われる陽動だとされた。実際,ドイツ海軍軍令部は,2月18日の作戦日誌で,陽動作戦のことを記している。

カラー写真(右):1941年,ソ連,クリミア半島,シンフェロポリのドイツ軍宣伝班ホルスト(右)とその戦友2人:屋根付井戸に立てかけた木製のボードに,樅ノ木の絵と本物の樅ノ木を貼り付けて,建物の前に立っている記念写真。
Simferopol, Krim.- Horst Grund (rechts) mit zwei Kameraden neben einer Holztafel mit Zeichnungen vor einem Gebäude stehend Dating: 1941 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツ軍は,1941年4月,英本土航空決戦,大西洋の潜水艦戦はもちろん,ユーゴスラビア,ギリシャ,北アフリカで戦い,さらに6月のソ連侵攻を準備していた。ユーゴスラビアのドイツ裏切りやギリシャ侵攻がなければ,ドイツ軍は,バルバロッサ作戦を6月ではなく,5月に始める予定だった。

バルカン作戦がなく,当初の予定どおり1941年5月にバルバロッサ作戦が開始されていれば,厳寒の冬の訪れまで,1ヶ月の余裕ができて,モスクワを陥落させられたともいわれる。

しかし,北アフリカの戦局が悪化,イタリアが,戦線を脱落するリスクをおかすことはできない。二面戦争ではなく,多面戦争を戦うこと自体,無理があったということだろう。

ヒトラーは,ボリシェビキを嫌悪し,イデオロギーの上で国家社会主義の敵だと考えていた。そして,なによりもソ連のスターリンは,ドイツにとってもっとも都合の悪い時に,ドイツを攻撃してくるに違いないと考えていた。独ソ不可侵条約など,形式的なもので,実効性はないと考えた。

ヒトラーは,ドイツが有利なときにソ連を攻撃することを決めていた。ソ連は,軍需工場で兵器の増産を図り,兵士の動員を強化していたから,時間がたつほどソビエト連邦Soviet Union)の赤軍は強化される。また,戦略資源の石油は,ドイツには産出せず,石炭を液化する技術はあったが,高コストであり,戦時中は,ルーマニアのプロエシュチ油田とソビエト連邦Soviet Union)からの石油の輸入に依存していた。ソ連からは,大量の食糧をも輸入し,満州から輸入する大豆も,シベリア鉄道を利用していた。

ソ連はドイツに対する石油や食料の供給を止め,あるいは国境やクリミア半島の航空基地から黒海を超えてルーマニアの油田を空襲することも容易にできた。したがって,ソ連から先制攻撃を受けた場合,ドイツの戦略物資は大打撃を受ける。ヒトラーは,ソビエト連邦Soviet Union)をできるだけ早く攻撃する必要があると確信していた。


写真(右):1941年7月,ルーマニア,コンスタンツァ沖の黒海,対空フェリーボート:8.8センチ高射砲を装備した簡易移動式対空砲台。乾舷は低いために,沿岸用で,遠洋航海はできない。
Schwarzes Meer bei Konstanza (Constanta).- Siebelfähre mit 8,8-cm Flak bei Übungsschießen Dating: Juli 1941 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

独ソ戦バルバロッサ作戦は,電撃戦の大成功の事例に挙げられる。しかし,東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡している。

ポーランド・ウクライナの係争の地で,ソ連領だったリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐し,レンベルク(リボフ)を占領。しかし,ドイツのソ連侵攻の一週間後の6月30日,ドイツ軍は,リボフを再占領した。

1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連の秘密警察NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)

写真(右):1941年7月,ルーマニア,コンスタンツァ沖の黒海,対空フェリーボート搭載の8.8センチ高射砲:陸上を8トン牽引車で移動できた8.8センチ高射砲だが,ドイツ海軍も艦艇に装備した。ドイツ本土では,河川・運河の運搬に使用されたフェリーや艀に対空機関砲や高射砲を搭載した対空艦船が作られた。
Schwarzes Meer bei Konstanza (Constanta).- Siebelfähre mit 8,8-cm Flak bei Übungsschießen Dating: Juli 1941 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定された居住区ゲットーに移送された。ユダヤ人は,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国の警察も,ユダヤ人迫害,ゲットー隔離に協力した。

その後,ゲットーから強制収容所に移送,ホロコーストが始まった。

ドイツ軍,ソ連軍ともに,敵の捕虜に対しては,厳しく取り扱った。どちら側の兵士も,頑強に戦い続け,容易に投降することはなかった,といわれるが,これはお互いに捕虜となればどんな運命が待ち受けているか,容易に想像できたからだろう。

写真(右)1942年秋,黒海,対空フェリーボートに搭乗したホルスト:カメラとジャケットが印象的だ。この対空フェリーは,沿岸用で乾舷は低いが,8.8センチ高射砲を搭載していた。
Im Osten.- Eisenbahn-Panzerspähwagen auf Basis eines erbeuteten französischen Panzerspähfahrzeugs Panhard P 178; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Zwirner撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランド,ウクライナでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害に同調する動きも,現地のポーランド人,ウクライナ人の間に起こった。

ユダヤ人迫害の理由は,ユダヤ人が,ソ連共産党ボリシェビキの下で,政治的,経済的に優位にあった,現地のポーランド人,ウクライナ人を抑圧したという偏見だった。

しかし,ナチスドイツは,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与する下等劣等人種は全て排除するつもりだった。

ドイツ国防軍将兵は,独ソ戦の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。

しかし,これは,軍の責任回避だった。ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ軍を憎むようになった。

特定の人種民族追放が,軽い差別であるように思うのは誤りである。追放に際して,持ち出せた資産は僅かだった。不動産,書くなどのほかに,仕事も,学籍も失った。

たしかにユダヤ人追放というのは,後のユダヤ人絶滅と比較すれば,「軽い」が,現在の視点から見れば,完全な迫害である。失職し,学校に通うことができず,自分の住む家から追い出される,これはとてつもない困難を引き起こす。

写真(右)1942年月,ソ連,クリミア半島,黒海のイタリア海軍特殊潜水艇:2人乗り,魚雷発射管が左側だけに1基ある。
Sowjetunion, Krim.- Italienisches Zwei-Mann U-Boot mit Marinepersonal im Hafen (neben Schnellboot) Datierung: 1942 ca. Fotograf: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

強制移動、失職、財産権の制限を伴う追放は,それだけで基本的人権の侵害であり,迫害というに値する。 

独ソ戦勃発4ヶ月後,1941年10月14日から11月4日にかけて、ドイツのベルリン、ケルン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルなどのユダヤ人1万9953名が第一陣として、ポーランドのウーチ・ゲットーに強制移送された。1941年11月25日のドイツ国公民法第11令によれば、ドイツ国籍ユダヤ人が外国に移住すれば、その資産はすべてドイツ国のものとなるとされた。(芝健介『ヒトラーのニュルンベルク』180-193頁)

ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人の財産没収,強制収容所への移送は当然のように知っていた。1942年に入って,ソ連降伏がない以上,ユダヤ人がドイツ軍の東方ソ連占領地に追放することはできない。

ドイツだけでなく,ヨーロッパ中のユダヤ人が,「東方」に続々と送られていることは,ドイツ鉄道職員にも,沿線住民にも,常識だった。東方ソ連でもユダヤ人,スラブ人(ウクライナ人,ロシア人,セルビア人など)が,パルチザン容疑者やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に送られたりしていることを東部戦線のドイツ軍兵士は知っていた。強制収容所に移送されれば,出られないことも,みなが知っていた。が,虐殺の話は,公の場では語られなかった。

居住地を追われてゲットーに押し込められ,隔離されたユダヤ人を追放する場所はなかった。ソ連軍の大量の捕虜にも,食料や監視兵力を割きたくはなかった。東方ソ連の肥沃な大地,資源は,入植するドイツ人,民族ドイツ人のためのものだった。

ナチスは,隔離したユダヤ人,ソ連軍捕虜を釈放して,ドイツにとっての災いの種にするつもりはなかった。予防戦争の論理に則って,敵が弱いうちに殲滅すべきであると考え,収容所のユダヤ人,スラブ人を,劣悪な環境に置き,順次,死ぬに任せた。後には,積極的に殺戮した。


4.クリミア半島の戦い


写真(右)1942年,ソ連,クリミア半島のビーチで海水浴をするドイツ軍兵士

Sowjetunion, Krim im Frühling.- Erholung von der Front, Soldaten am Strand Datierung: 1942 ca. Fotograf: Grund, Horst Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

バルバロサ作戦で攻略が遅れたのが,黒海北部のクリミア半島、黒海とアゾフ海を分かつケルチ半島だった。ここのセバストポリSevastopol)は,ソ連海軍の黒海艦隊の基地があり,それを防衛するように,セバストポリ(Sevastopol)要塞があった。ケルチ海峡を超えてソ連南部の石油産地カフカスを攻略するひは,クリミア半島を確保する必要があった。しかし,ソ連軍は頑強に抵抗し,攻略は難航した。

1941年9月,南方軍マンシュタイン(Erich von Manstein)の第十一軍は,クリミア半島の攻略を命じられ攻撃を仕掛けたが,縦深に張り巡らされたソ連軍のトーチカ陣地を制圧するのに難渋しつつ,クリミア半島の東部のケルチ半島,南のヤルタを攻略した。しかし,セバストポリSevastopol)にはソ連軍が立てこもり,抵抗を続けていた。

ドイツ軍は,セバストポリ要塞にソ連軍を包囲したが,ソ連軍は黒海艦隊を利用して,1941年12月,ケルチ半島への逆上陸に成功した。1941年12年から1942年1月,ドイツ軍は,レニングラード,モスクワの戦いでソ連軍に敗退した。南部では,ハリコフ方面がソ連軍の攻撃を受けた。

1941年12月26日,ソ連軍はクリスマス攻勢によって,黒海のケルチ半島西部に逆上陸,橋頭堡を築いた。ケルチ(Kerch)半島のドイツ軍部隊グラーフ・シュポネック中将は,包囲されるのを恐れて撤退する許可を求めたが,マンシュタイン(Manstein)は,それを拒否した。しかし,現地部隊は,包囲されるのを避けるために,独断で撤退した。


写真(右)1941年冬,ソ連,クリミア,ケルチの波止場の輸送船

Sowjetunion, Kertsch.- Hafen im Winter mit am Kai liegenden Frachtschiffen Datierung: 1941 ca. Fotograf: Grund, Horst Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1942年1月初頭,ケルチ半島にあったドイツ軍グラーフ・シュポネック中将は,ケルチ半島西部に上陸したソ連軍に後方を遮断されては,半島を1個師団で守り通すことはできないと判断,東部から西部へ撤退を開始した。

マンシュタイン(Manstein)はセワストポリから援軍を派遣する時間を稼ごうと,シュポネックに撤退中止命令を返電したが,返事はなかった。

セバストポリ要塞のソ連軍は,少数でドイツ軍の大軍を引き付けていた。マンシュタインは,包囲軍に,ケルチ方面に出撃する命令を下したが,長期の方位を続けるドイツ軍の機動性は低下していた。ドイツ軍も,包囲陣地を構築し,そこで防衛線を構築し,そこに補給・休養などの施設を整備したが,そのことで,移動が困難な部隊展開になっていた。

ケルチ半島のグラーフ・シュポネック将軍の部隊は,もしも撤退していなければ,ケルチに逆上陸したソ連軍に包囲,殲滅させられていたであろう。何とか退却できたが,そのために要害の地ケルチ半島をソ連軍に奪回された。ソ連赤軍は,ケルチ半島に防衛線を築いて抵抗し,1942年6月まで持久戦を戦った。

写真(右)1942 年,ソ連,ドイツ空軍の対空高射砲8.8センチ砲と砲弾を運搬するドイツ軍兵士:空襲に備えて,艤装を施した対空陣地にすえつけられた高射砲。右後方には取り外し式の移動用車輪が置いてある。ドイツ陸軍も移動式高射砲として利用した。対地上戦闘,特にソ連軍のT-34戦車やKW重戦車を攻撃するのにも用いられた。
Sowjetunion.- Soldat der Luftwaffe beim Tragen einer Granate vor getarntem, schwerem 8,8cm Flak-Geschütz in Stellung auf einem Feld; PK KBZ Lfl 1 Dating: 1942 Photographer: Kamm, Richard Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

マンシュタイン元帥の命令に反したシュポネックは,後に軍法会議にかけられ,死刑を宣告された。が,ヒトラーは禁固7年に減刑した。ただし,1944年7月20日の,ヒトラー暗殺未遂事件に連座したとして処刑。

ルントシュテット元帥に代わって,第六軍司令官から南方軍集団司令官に就任したフォン・ライヘナウ元帥は,シュポネック裁判を受けて,彼の指揮下にあって撤退した第46師団の師団長,連隊長の栄誉を剥奪,昇進を差し止めると命令した。


写真(左) 1941年6月,ソ連,装軌装甲車(Sd.Kfz。253)に立って、観測用の双眼鏡を覗くドイツ軍兵士
:樹木の下にバイクがある。:Rußland.- Soldaten mit Ferngläsern bei Beobachtung auf leichtem Beobachtungspanzer (Sd.Kfz. 253) stehend; Motorräder unter Baum; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Springmann Origin: Bundesarchiv
写真(右)1942-1943年,ソ連,装甲擲弾兵師団の装軌装甲車Sd.Kfz250/3の無線手:装甲車には,小型のSd.Kfz. 250/3 と大型のSd.Kfz. 251があった。
Russland, bei Achtyrka.- Soldaten (Panzertruppe, Nachrichtentruppe) in leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3, Funkpanzerwagen) der Panzergrenadierdivision "Großdeutschland" an Funkgerät; PK ObdH Dating: 1942/1943 Photographer: Kempe Origin: Bundesarchiv
写真はともにドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(左)1942年3-4月,ソ連,ヴィアスマ,泥の歩道を進撃するドイツ軍?号戦車
:Sowjetunion bei Wjasma.- Panzer IV mit Soldaten auf verschlammtem Waldweg; PK 697 Dating: 1942 März - April Photographer: Böhmer Origin: Bundesarchiv
写真(右)1942-1943年,ソ連,アフトゥイルカ,ドイツ陸軍の装甲師団"大ドイツの"II号戦車:偵察車両で,後方には装甲車(Sd.Kfz.250、Sd.Kfz.251)の車列が続いている。
Russland, bei Achtyrka.- Oberfeldwebel in Spähpanzer, Kolonne von Schützenpanzern (Sd.Kfz. 250 und Sd.Kfz. 251) der Panzergrenadierdivision "Großdeutschland", Panzer II; PK ObdH Dating: 1942/1943 Photographer: Kempe Origin: Bundesarchiv
写真はともにドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツは,8週間でソ連軍を壊滅させる予定でバルバロッサ作戦を開始したが,セバストポリ要塞のソ連軍は頑強に抵抗を続け,ドイツ軍を跳ね返した。1941年末に,ケルチを奪回したソ連軍は,セワストポリへの援軍となった。

ソ連地上軍は3個軍(歩兵17個師団,歩兵2個旅団,騎兵2個師団,機甲4個師団),ソ連黒海艦隊は,黒海に囲まれたケルチ半島の防備を固めた。このためにドイツ第十一軍(フォン・マンシュタイン司令官)は,側面攻撃を恐れて,ボルガ川,カフカス方面への進撃に踏み切れなかった。

1942年初頭,モスクワ前面でドイツ軍の主力だった中央軍集団は撃退され,ソ連南部クリミアでも,ドイツ南方軍集団第十一軍が,セワストポリ手前に停止していた。

他方,ヒトラーは,クリミア半島を,ルーマニアのプロエシュチ油田を攻撃範囲におさめる航空基地として警戒していた。プロエシュチ油田は、ドイツの戦争経済に不可欠なものだった。クリミア半島の航空基地から,黒海を渡って,ルーマニアの油田を空襲,破壊されるのは、なんとしても避けたかった。

写真(右)1941年,ブルガリア,ブカレストのルーマニア軍兵士の行進とそれを見物する市民:背嚢とテントを背負ったルーマニア軍歩兵が,小銃を肩にして行進。
チェコスロバキアが開発したVz24を国産化した小銃を配備。しかし,国産兵器が不足したために,ドイツ軍から兵器を貸与され,部隊に配備した。
Rumänien, Konstanza (Constanta).- Marktplatz mit Ovid-Denkmal, Vorbeimarsch rumänischer Soldaten Dating: 1941 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


5.ルーマニア油田へのクリミア駐留ソ連空軍による空襲

写真(右)1940-1943年,ドイツ空軍メッサーシュミットBf-109F戦闘機と撃墜王ゲルハルト・バルクホルン(中央):飛行場にある撃墜王ゲルハルト・バルクホルンの搭乗機には,飛行戦隊長のマーク(二重楔形)があり,三角形の航空燃料オクタン価指示マークに87(オクタン)とある。左端の整備兵が左手をかけているのは,フタ付の手掛けで操縦席に上るときに使う。尾翼付け根には。尾翼を持ち上げる棒を差し込む穴が確認できる。
Reichsgebiet.- Der Pilot Gerhard Barkhorn (Mitte) mit Angehörigen der Luftwaffe auf einem Feldflugplatz; Einsatzkompanie Luftwaffe zbV Dating: 1940/1943 ca. Photographer: Heinz [Heins] Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。 

1941年6-7月、バルバロッサ作戦でソ連軍の航空基地攻撃に大活躍したドイツ空軍だったが,1942年の東部戦線では,スターリングラード空輸作戦以外,大軍をまとめて投入することはなくなった。

1942年,ドイツ空軍爆撃機は,東部戦線各地の個別の戦術的な地上支援に使用され,敵の工業地帯,発電所,交通中枢への戦略爆撃は行わなかった。モスクワ空襲も,少数機が散発的に行っただけだった。


写真(右)1942年初頭,ソ連,ドイツ空軍第2急降下爆撃航空団(StG2"インメルマン")所属のユンカースJu-87D爆撃機
(機体番号T6 +):雪の多い場所で機首のメンテナンス。白色の冬季迷彩を施しているが,機体側面はエンジン排気煤煙で汚れている。Ju-87は,両翼に各々50キロ爆弾2発,胴体に250-500キロ爆弾1発を搭載した。1943年後期から,東部戦線では,3.7センチ機関砲を両翼に吊り下げて,対戦車戦闘に投入されたり,夜間襲撃機としても使用された。
Sowjetunion.- Flugzeug Junkers Ju 87 des Sturzkampfgeschwader 2 "Immelmann" (T6+), Wartung auf verschneitem Platz; KBK Lw 4 Dating: 1942 Anfang Photographer: Schalber Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツ空軍の爆撃機は,モスクワ攻防戦にほとんど登場してこないが,これは装甲師団の進撃が早すぎて,後方の航空基地整備が遅れたこと,厳寒・悪天候による飛行および飛行機整備の困難,補給不足が原因と考えられる。いずれにせよ,航空支援を得られないまま行ったモスクワ攻撃は、失敗に終わった。

1941年8月,モスクワまで100キロと迫ったドイツ国防軍の中央軍集団に対して,主力となる装甲師団を南下させた。この目的は,
?南方のソ連軍から中央軍集団の側面を防備し,ハリコフでソ連軍を包囲撃滅すること,
?ソ連の戦争経済に必要なウクライナの穀物地帯,鉄鉱石鉱山,工業地帯を占領し,カフカスの油田からの石油輸送を停止させること,?クリミア半島を占領し,ルーマニアに対する黒海を利用した航空攻撃,海軍の策動を抑えること,
の3点だった。


写真(右)1943年初頭,ソ連,飛行場で主翼右側に50キロ爆弾2発を搭載するフォッケウルフFw-189近距離偵察機
:機首に7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Sowjetunion.- Flugzeug Focke Wulf Fw 189 auf einem Flugplatz, Anhängen von Bomben; KBK Lw 1 Dating: 1943 Anfang Photographer: Liedke Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1942年初頭のドイツ側は,南部での大攻勢目指し,4月,「ブラウ」(青)作戦が決まった。この目標は,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)によって,ソ連軍の防衛力を打ち砕き,スターリングラードを制圧,ついでカフカスの油田など戦争経済資源を奪取することとされた。これは、モスクワ攻略に失敗したドイツ軍には、欲張った目標だった。

写真(右):1942年,ソ連,クリム,荷車で運搬するロシア婦人たち
Sowjetunion, Krim.- sowjetische Flüchtlinge einen Holzwagen / Karren auf einer Straße ziehend und schiebend Dating: 1942 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)



6.ブラウ作戦

1941年当時,ソ連軍は命令を厳格に実行しようとするあまり,迅速な撤退ができなかった。また,撤退時に施設・物資の破壊も不徹底だった。

第二次大戦前,1937年のソ連軍内部のトハチェフスキ粛清によって,ソ連軍の軍事専門家の指導力は低下し,共産党による軍の管理,政治委員(政治将校)コミサールCommissarsによる介入が強まった。
党の支配する軍隊「ソ連赤軍」では,命令服従が第一となり,臨機応変な措置,軍司令官の裁量の余地は制限された。

ソ連赤軍の硬直性が現れた戦術的失敗の事例が,1941年8-9月のハリコフKharkov包囲の殲滅戦だった。 

1941年9月19日,第六軍がウクライナの中心都市キエフを占領,9月26日までにソ連5個軍を壊滅,2個軍を半壊滅させた。このときソ連軍100万人が,包囲され,殲滅あるいは捕虜になった。

しかし,1942年には,ソ連軍は,戦略的な後退を行い,焦土作戦を完遂した。焦土作戦とは,撤退する際に陣地,施設,物資を全て破壊しつくし,的に引き渡すものは焦土だけとすることである。住民も強制疎開させられ,住んでいた家屋も自軍によって火をかけられた。

写真(右)1942年6月,ソ連,ヴォロネジで破壊された装甲列車:ソ連軍の輸送列車を護衛する装甲列車で,車両の上には戦死した遺体が放置されたままになっている。鉄道は,ドイツでもソ連でも輸送の主力だった。自動車は,鉄道駅から前線までの輸送を担っていた。そこで,鉄道を襲撃し,破壊活動をするパルチザンなど抵抗勢力を排除するために,鉄道を護衛する装甲列車が開発,配備された。 装甲列車には,火砲,機銃が装備され,防弾版が備えられていた。しかし,空襲や,機械化された地上部隊の襲撃には,鉄道を守備することは困難だった。
Sowjetunion, bei Woronesch.- Zerstörter sowjetischer (?) Panzerzug; PK 694 Dating: Juni 1942 Photographer: Carl Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

1942年5月8日,マンシュタイン将軍は,ケルチ北部で陽動捜索をかけつつ,南部に歩兵5個師団,装甲1個師団で攻撃した。これをリヒトフォーヘンの第八航空軍と重砲部隊が援護するのである。黒海には,歩兵を乗せた舟艇が準備された。

1942年5月16日,ドイツ軍は,ケルチ半島を奪還し,捕虜17万人,鹵獲・破壊した火砲1133門,戦車258両の大戦果をあげた。 

写真(右)1942年5月,ソ連南部,クリミア,ケルチ半島のステップを進撃するドイツ軍牽引車と空を飛ぶフィーゼラーFi-156"シュトルヒ"連絡機
Krim, Anfang Mai 1942 Aufmarsch zum Angriff auf die Halbinsel Kertsch Archive title: Rußland.- Aufmarsch zum Angriff auf die Halbinsel Kertsch. Flugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" über motorisierter Kolonne (PKW, Busse) Dating: Mai 1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。 

1942年5月12日,ハリコフ南方で突出していたソ連軍は,チモシェンコ元帥の指揮の下で,ハリコフのドイツ第六軍を挟撃する攻撃を仕掛けた。これは,ドイツ軍の「フレデリック」作戦によって,ハリコフ正面の敵を挟撃しようとしたのを諜報機関が察知して,「フレデリック」作戦発動前に奇襲攻撃を仕掛けたのかもしれない。

ハリコフ北からは,歩兵・騎兵16個師団,戦車3個旅団,自動車化2個師団のソ連第二十八軍が,ハリコフ南からは歩兵26個師団,騎兵18個師団,機構14個師団のソ連第六軍・第57軍が攻撃した。

1942年5月16日,南部から侵攻したソ連軍騎兵がハリコフ後方100キロのポルタワに迫った。

写真(右)1942年夏,ソ連南部,ドン=スターリングラードを進撃するドイツ装甲部隊の装軌式装甲車:小型および中型の装甲車(SdKfz 250およびSdKfz 250/3),そのほか無線通信装置完備の装甲車Sd.Kfz。251が見える。
Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- leichte und mittlere Schützenpanzer (Sd.Kfz 250, Sd.Kfz 250/3, Funkpanzerwagen und Sd.Kfz. 251) der 23. Panzerdivision (?) in Fahrt; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Thiede Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

1941年9月19日,第六軍がウクライナの中心都市キエフを占領,9月26日までにソ連5個軍を壊滅,2個軍を半壊滅させた。このときソ連軍100万人が,包囲され,殲滅あるいは捕虜になった。

しかし,1942年には,ソ連軍は,戦略的な後退を行い,焦土作戦を完遂した。焦土作戦とは,撤退する際に陣地,施設,物資を全て破壊しつくし,的に引き渡すものは焦土だけとすることである。住民も強制疎開させられ,住んでいた家屋も自軍によって火をかけられた。

写真(右)1942年夏,ハリコフからスターリングラードに進撃する途上のステップに建つ風車小屋:この風車塔は,風向きにあわせて,建物ごと向きを変えることができる。塔の後ろについている梃子の棒を利用して,塔を回転させる。
ステップ草原の只中で遮蔽物がない。そこで,ドイツ軍の自動車が風車小屋横に駐車,その周囲に樹木を置いて隠している。
第六軍は,強力なリヒトフォーヘンのドイツ空軍の支援を受けることができたため,対空戦闘は,あまり重視していなかった。が,警戒は怠らなかったようだ。ドイツ連邦アーカイブには,この風車のカラー写真が3枚あるが,当時のドイツ人にとっても,臼挽きに使用されている現役の風車は珍しかった。
Brennende Häuser kennzeichnen die Kämpfe der 6. Armee auf dem Vormarsch in Richtung Stalingrad Sommer 1942 Archive title: Sowjetunion.- Gebäude in Flammen Dating: 1942 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

1942年5月8日,マンシュタイン将軍は,ケルチ北部で陽動捜索をかけつつ,南部に歩兵5個師団,装甲1個師団で攻撃した。これをリヒトフォーヘンの第八航空軍と重砲部隊が援護するのである。黒海には,歩兵を乗せた舟艇が準備された。

1942年5月16日,ドイツ軍は,ケルチ半島を奪還し,捕虜17万人,鹵獲・破壊した火砲1133門,戦車258両の大戦果をあげた。 

1942年5月12日,ハリコフ南方で突出していたソ連軍は,チモシェンコ元帥の指揮の下で,ハリコフのドイツ第六軍を挟撃する攻撃を仕掛けた。これは,ドイツ軍が「フレデリック」作戦によって,ハリコフ正面の敵を挟撃しようとしたのを諜報機関が察知して,「フレデリック」作戦発動前に奇襲攻撃を仕掛けたのかもしれない。

ハリコフ北からは,歩兵・騎兵16個師団,戦車3個旅団,自動車化2個師団のソ連第二十八軍が,ハリコフ南からは歩兵26個師団,騎兵18個師団,機構14個師団のソ連第六軍・第57軍が攻撃した。

1942年5月16日,南部から侵攻したソ連軍騎兵がハリコフ後方100キロのポルタワに迫った。


7.1942年,セバストポリ要塞攻防戦

写真(右)1942年7月,ソ連,クリミア半島,破壊されたセバストポリ要塞のコンクリート製陣地:ソ連のクリミア半島西部にあるセバストポリ要塞は,ドイツ軍の重砲の砲撃によって破壊された。コンクリート製バンカーもずたずたに破壊されている。ここを視察したドイツ兵が右端に見える。
Sowjetunion, Krim.- Zerstörung rund um Sewastopol, zerstörte Bunkeranlagen (?), Besichtigung durch deutsche Soldaten Datierung: Juli 1942 ca. Fotograf: Grund, Horst Quelle: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ハリコフでソ連軍の攻撃を受けていたドイツ軍は,1942年5月17日,「フリデリクス」作戦を発動。これは,元来,ハリコフ南方のソ連軍を挟撃する計画だったが,発動時期は,ソ連軍の攻撃1週間後と遅れた。

しかし,ドイツ軍は,装甲師団の進撃によって,包囲攻撃を行ったソ連軍を逆包囲することに成功した。ドイツは,捕虜23万人,鹵獲・破壊火砲2026門,戦車1250台の大戦果を挙げた。

写真(右)1942年7月,クリミア,ソ連軍セバストポリ要塞のコンクリート製砲台のカノン砲:砲身2本が見えるが,上を向いた砲身には,多数の窪み弾痕が残っている。ドイツ軍の砲撃がいかに激しかったか,ドイツ軍がいかに多数の火砲,豊富な砲弾を準備していたかがわかる。
セバストポリのソ連軍は頑強に抵抗して勇戦した,とドイツ軍兵士が語る時,それは自らの強さを,敵を引き立たせ,誇示する気持ちがあるのかもしれない。マンシュタインの戦略というより,強力な火砲と航空機を準備すれば,動かない固定砲台を制圧するのは容易なのではないか。
Sowjetunion, Krim, Sewastopol.- Zerstörungen in der Festung Maxim Gorki, schwere Zwillingsgeschütze Dating: Juni 1942 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

セバストポリ要塞は,1941年からソ連軍が立て篭もって抵抗を続けていた。セワストポリソ連軍守備隊は,兵員10万人,火砲600門で,コンクリートの防御施設,トーチカを多数配置していた

写真(右)1942年7月,クリミヤ,破壊されたセバストポリの港:ソ連軍小艦艇が半分沈没し,陸に機帆船が2隻見える。セバストポリ要塞は陥落したが,黒海北東岸の諸港はソ連側の手にあったので,黒海艦隊も健在だった。
Sowjetunion, Krim, Sewastopol, Krim.- Zerstörungen im Hafen Dating: Juli 1942 ca. Photographer: Grund, Horst撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1941年6月22日のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」以来持ちこたえていたセバストポリ要塞は,ソ連軍によるケルチ半島奪回によって救出を期待していたに違いない。

1941年6月22日に始まったドイツのソ連侵攻は,緒戦で大戦果,快進撃を続けたため,大成功の事例とされる。けれども,クリミア半島の戦いは,1941年から1942年夏まで,ソ連軍がセバストポリ要塞,ケルチを中心に抵抗を続けた。

写真(右)1942年7月,ソ連,クリミア半島,ヤルタ,アルプカのボロンツォフ宮殿:パビリオンからヤルタの雪山の景観が楽しめる。
西のハリコフと東のスターリングラードの中間に流れる大河で,スターリングラードに向けて湾曲して接近したところがカラーチ。カラーチ戦では,ソ連軍は大量の装備と,構築したトーチカなど陣地を失った。
しかし,ドイツ軍の包囲攻撃による兵員の大量喪失という損害は免れた。ソ連軍の指揮は,当初は硬直的で,死守命令を繰り返し,包囲攻撃を受けて大損害を被っていた。しかし,1942年になると,臨機応変に撤退し,損害を小さくしつつ,持久戦を戦うことを心がけるように方針が変更された。
Don-Fluß, September 1942, zurückgelassene Fahrzeuge der Sowjets Dating: September 1942 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ソ連南部の穀倉地帯,工業地帯を手に入れて,ソ連の戦争経済に打撃を与えるという作戦は,ソ連軍の焦土作戦によって,支障をきたした。 ソ連軍は,撤退するに際して,ドイツ軍に利用されないように,美重からの穀物を焼き,発電所・工場は破壊し,労働力となる住民を強制連行して連れ去った。

写真(右):1944年8月,ワルシャワ蜂起軍を砲撃するドイツ陸軍モーゼル「カール」Karl60センチ自走臼砲に対する砲弾装填作業:1937年から開発されたカール自走臼砲は,直径60センチの巨弾を使って要塞を破壊することを目的とした火砲だった。攻城砲だったために、移動性は低かった上に、短砲身の臼砲だったために射程距離は短かった。しかし、巨大口径のために破壊力はずば抜けて高かった。として,1940-41年に「アダム」「エーファ」「ロキ」「ツィウ」「トール」「オーディン」との固有名称で呼ばれる6基が生産された。
Polen, Warschau.- Warschauer Aufstand.- Einsatz des 60-cm Mörser "Karl" (Gerät 040 "Ziu"); PK KBZ HG Mitte Dating: August 1944 Photographer: Leher撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101I-695-0424-12A, Warschauer Aufstand, Mörser Karl.jpg引用


写真(右):1944年8月,ワルシャワ蜂起軍に対する砲撃姿勢をとったドイツ陸軍モーゼル「カール」Karl60センチ自走臼砲:カール自走臼砲は、射程が短く、砲口初速も低い臼砲である。野戦軍に対する砲撃には鈍重すぎて使用できないが、要塞や都市に立て籠る敵を攻撃するには炸薬量・破壊力の点で優れていた。そこで、大戦初期は、攻城砲として、要塞攻撃に使用されたが、大戦末期は、ワルシャワ蜂起軍など都市に立て籠もる敵を砲撃するのに投入された。
Polen, Warschau.- Warschauer Aufstand.- Einsatz des 60-cm Mörser "Karl" (Gerät 040 "Ziu"); PK KBZ HG Mitte Dating: August 1944 Photographer: Leher撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・File:Bundesarchiv Bild 101I-695-0424-12A, Warschauer Aufstand, Mörser Karl.jpg引用


写真(右)1944年8月,ワルシャワ蜂起鎮圧に出動したモーゼル「カール」Karl60センチ自走臼砲に砲弾を込めるドイツ陸軍兵士:1944年7月末,ソ連の第1白ロシア方面軍90万人は,ヴィスラ川東岸に進出,ワルシャワの解放が近づいたように思われた。ポーランド亡命政府も,ソ連軍がワルシャワを占領する前に,指揮下にある国内軍が,ワルシャワを解放し,ポーランド復興を,自ら主導して,政権の座に返り咲くことを期待した。こうして,ワルシャワ蜂起が始まった。
ドイツ陸軍は,その近代的な優れた兵器で有名である。しかし,1941年,ドイツは,労働に耐えられないユダヤ人を一掃する方針を打ち出していた。外界やゲットー内部で,強制労働をさせたが,それに耐えられない老人,子供には,食料などの配給が途絶えるようになった。
ユダヤ人評議会は、ゲットー内の食料や石炭に課税して集めた資金や寄付金によって、無料食堂、(禁止されていたので秘密)学校などを運営していた。が,その資金,食料が底をつくと,老人,子供が真っ先に犠牲になった。兵器のメカニカルな美しさと対照的に,兵器は大量破壊,大量殺戮を目的としたナチスドイツの力の源泉でもあった。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右):1944年8月,ワルシャワ蜂起軍を砲撃するドイツ陸軍モーゼル「カール」Karl60センチ自走臼砲:1937年から開発されたカール自走臼砲は,要塞攻撃用の攻城砲として,1940-41年6両生産された。
6両には,「アダム」「エーファ」「ロキ」「ツィウ」「トール」「オーディン」との固有名称がつけられた。1942年のセヴァストポリ要塞攻略戦,1944年のワルシャワ蜂起に投入された。

ポーランド亡命政権の指揮下にあるポーランド国内軍30万人は,ポーランド国内で反ドイツ抵抗活動を行った。
1944年6月22日,ソ連軍は,バグラチオン作戦を開始,ベラルーシ正面を守備するドイツ軍の中央軍集団に大規模攻勢をかけ,6月28日にモギリョフ,7月2日にベラルーシの首都ミンスクを奪回,7月13日にリトアニアの首都ヴィルニスを奪回した。
ドイツ軍の中央軍集団は,ソ連軍のバグラチオン作戦の前に,随所で大損害を受け,ソ連領からポーランドにまで駆逐された。

1944年7月29日,モスクワ放送は,ポーランド人への蜂起の呼びかけを放送したが,これは,ドイツ軍の後方を撹乱するために,ポーランド共産党からレジスタンスを要請した。
Polen, Warschau.- Warschauer Aufstand.- Einsatz des 60-cm Mörser "Karl" (Gerät 040 "Ziu"); PK KBZ HG Mitte Dating: August 1944 Photographer: Leher撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


6月3日,ドイツ軍は引き続いて,クリミアの要衝セバストポリをロケット弾,クルップ16口径42センチ「ガンマ」臼砲(重量140トン,射程14キロ),モーゼル60センチ「カール」臼砲(重量124トン,10キロ),クルップ80センチ「ドーラ」列車砲(重量1350トン,射程38キロ)を含む1300門の火砲で砲撃した。

マンシュタイン将軍は,5日間も砲撃を加え,リヒトフォーヘンの空軍は連日延べ1000-2000機を投入した。パウル・カレル『バルバロッサ作戦』は,マンシュタイン将軍の戦術を高く評価している。が,ドイツ軍は、制空権を把握し物量を誇っていた。

写真(右)1942年,ソ連,クリミア半島,ヤルタ:ヤルタの雪の山並みと青い海。波止場には,補給物資のような麻袋が積み重ねられている。
Jailagebirge, Jalta.- Promenade, Hafen mit Blick auf die Berge Datierung: 1942 ca. Fotograf: Grund, Horst Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ソ連軍は,南部で援軍,航空支援を得ることはできなかった。1942年初めにハリコフ方面で攻撃をする予定で,ケルチ半島への上陸は,その陽動作戦だったのかもしれない。クリミア半島先端のセバストポリ要塞は,ドイツ軍を拘束するための捨石とも言える。

1年経たないうちに,スターリングラード「要塞」ドイツ第六軍も壊滅する。これも,カフカスに攻め入ったドイツA軍集団を撤退させる時間稼ぎに,ソ連軍を拘束した捨石作戦だったとも解釈できる。

パウル・カレルの『バルバロッサ作戦』では,第11軍マンシュタイン元帥の知略を評価する。しかし,火砲・航空機の圧倒的な優位を得たドイツ軍が,ソ連軍に攻撃される心配はなかった。

セバストポリ要塞のソ連軍守備隊に対して,ドイツ軍は猛砲撃と空襲をし,その援護の下に,セバストポリ要塞を,1942年7月3日,攻略した。スターリングラード守備隊ドイツ第六軍降伏の7ヶ月前のことだった。

写真(右)1942年,ウクライナ南部クリミヤ半島南端ヤルタに到着したドイツ陸海軍幹部:黒海に面した港で,幹部を出迎えるドイツ軍水兵。黒海に臨むヤルタは,「岸辺」を意味する。なだらかな丘陵に,リバディア宮(1945年ヤルタ会談が開催地)がある。
当時から黒海沿岸の保養地だった。気候はロシアにあっては温暖で,平均気温は冬でも4度,降雪はほとんどない。夏の平均気温24度で暖かい。ヤルタを占領したドイツ軍にとっても,ここは戦争を忘れて保養したい場所だったに違いない。同じクリミヤ半島南端(ヤルタの西)にセバストポリ要塞があった。
Jailagebirge, Jalta.- Ankunft von Offizieren und Begrüßung durch salutierende Matrosen Dating: 1942 ca. Photographer: Grund, Horst 撮影。
写真はともにドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

南方軍集団の司令官は,独ソ開戦時,フォン・ルントシュテット元帥だったが,1941年のソ連軍冬季攻勢を受けて敗退したため,12月3日,フォン・ライヘナウ元帥に代わった。

ドイツ軍の新任の南方軍集団司令官ライヘナウ元帥は, 1942年1月17日,飛行機不時着後死亡した。その翌日,フォン・ボック元帥が南方軍集団司令官に就任した。
ライヘナウ元帥からボック元帥への司令官交代は、あたかも,ソ連軍によるケルチ半島クリスマス攻勢によって、命令を無視して撤退したシュポネック中将の責任を取る形になった。

フォン・ボック元帥(1885-1945)は,中央軍集団の北方軍集団司令官として1939年ポーランド戦参加,B軍集団司令官として1940年フランス戦に参加し,軍功をあげて,元帥に昇格した。

フォン・ボック元帥は、1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦では,主力となった中央軍集団司令官に就任,当初は大戦果を挙げたが,12月17日,モスクワの戦いで敗北,解任された。中央軍集団司令官の後任はクルーゲだった。

1942年1月18日,死亡したフォン・ライヘナウ元帥後任として元中央軍集団司令官フォン・ボック元帥が、南方軍集団司令官に再び就任した。ボック軍司令官は,半年後の7月14日,南方軍集団を分割するヒトラーに反対して再び解任された。日本軍では行わないような大幅な人事変更は,ドイツ軍,ソ連軍,米軍でも頻繁にあった。これは、統帥に従うだけではなく、現地の軍司令官が自分の戦略を主張できたからである。

他方,ハリコフ挟撃を企図するソ連軍チモシェンコ元帥の攻撃を受けて,6月28日,フォン・ボック元帥は,ソ連軍を逆包囲し,1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号に則って,スターリングラード,カフカスを目指すブラウ作戦を開始した。ハリコフ北方で,ドイツ軍の反撃が開始され,激戦の結果,ソ連軍は逆包囲され敗北した。

1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号では,作戦目的は,「東部作戦当初の原則を維持しつつ、中部では現状を守り、北部ではレニングラートを占領して,フィンランド軍と陸路連絡をつけ、南部ではカフカス地区へ突入する。冬期戦終了後でもありこの目標は集めうる兵力、資材および輸送事情により、段階的に達成されるものとする。そのためまず全兵力を南部戦区の主要作戦にむけ、ドン前面の敵を掃討し、ついで,カフカス(コーカサス)の油田およびカフカス山脈の道路を奪取するものとする。」とされた。

写真(右)1943年3月,地中海、ドイツ海軍第六派遣艦隊の兵士たち:ドイツ軍は、イタリヤを支援するために、地中海沿岸、北アフリカにも軍を派遣した。中には潜水艦Uボートも含まれる。特記できるのは、ドイツ空軍のJu87急降下爆撃機、Ju88爆撃機・雷撃機などによる艦船攻撃である。
Inventory: N 1603 Bild - Grund, Horst.- Bildbestand Signature: N 1603 Bild-181 Old signature: Bild 160-181 Archive title: Mittelmeer.- Einsatz der 6. Räumflottille, deutsche Soldaten (Matrosen, Angehörige einer Marine-PK-Einheit?) an einer Kaffeetafel auf einem Schiff am Kai, sitzend Dating: März 1943 ca. Photographer: Grund, Horst 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


2004年9月、ロシア南部で,チェチェン人テロリストによる学校占拠事件が起きた。生徒など1200人以上が人質となり,300人以上が死亡した事件である。この地方こそ,カフカス(コーカサス)でブラウ作戦の目標である。黒海,カスピ海,カフカス山脈南北に広がる40万平方キロの土地である。

南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)は,アゾフ海に注ぐドン川の渡河地点を確保し,スターリングラード方面に進撃することになった。ソ連軍は後退し,ヒトラーはこれをソ連軍の士気阻喪,崩壊と考えた。そこで,7月13日,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)を二分して,A軍集団(ヴィルヘルム・リスト元帥)とB軍集団(フォン・ヴァイクス大将)に分けた。

ドン川を渡河してカフカスの油田を攻略するA軍集団は,リスト元帥率いる第17軍,第1装甲軍など兵力100万人だった。

他方,ドン川沿いに進撃してスターリングラードを目指すヴァイクス大将率いる第2軍,第6軍,第4装甲軍,それとイタリア第8軍,ハンガリー第2軍,ルーマニア第3軍・第4軍など兵力30万だった。

ボック元帥は南方軍集団の分割に反対し,解任させられた。A軍集団は,カフカスに向かうことになり,B軍集団だけがスターリングラードに進撃することになった。

ソ連スターリンは,7月12日,チモシェンコ元帥にスターリングラード正面軍の編成を明示,スターリングラード死守を命じた。予備兵力を投入,防備を固めようとしたが,問題は時間が足りないことだった。


8.枢軸国を脱落したルーマニア

1941年3月以来ブルガリアに進駐していたドイツ軍は,裏切ったユーゴを攻撃しながら,4月10日,ブルガリアからギリシャの英軍を攻撃した。

写真(右):1941年7月,黒海,ルーマニア,コンスタンツァ沖,フェリーに搭載した8.8センチ高射砲の対空用測距儀:観測するドイツ軍兵士が射撃練習をしている。
Schwarzes Meer bei Konstanza (Constanta).- Siebelfähre mit 8,8-cm Flak, Soldat am Entfernungsmesser, Besichtigung, Übungsschießen Datierung: Juli 1941 ca. Fotograf: Grund, Horst Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ギリシャは,1940年10月28日以降,イタリアと戦火を交え,撃退していた。が,1941年1月,熟慮の末,英軍ギリシャ進駐を受け入れたのである。 

ドイツ軍は,1941年4月,英本土航空決戦,大西洋の潜水艦戦,ユーゴスラビア・ギリシャのバルカン戦,北アフリカ戦を戦いながら,1941年6月のソ連侵攻を準備していた。ユーゴスラビアのドイツ裏切りやギリシャ侵攻がなければ,ドイツ軍は,バルバロッサ作戦を6月ではなく,5月に始める予定だった。そうすれば,厳寒の冬の訪れまで,1ヶ月の余裕ができて,モスクワを陥落させられたという識者もある。

◆バルカン作戦がなく,当初の予定どおり1941年5月にバルバロッサ作戦が開始されていれば,本当にソ連は屈服したのであろうか。

バルバロッサ作戦の失敗を,ロシアの気象条件,泥濘の秋,厳寒の冬に求める見解がある。特に,氷点下20度が続くような厳しい寒さと雪によって,機械の潤滑油や燃料が凍りついたり,部品が氷結して動かなくなったりと,ドイツ軍は困難に直面した。食料や武器弾薬の補給も困難になった。これが,ロシアの「冬将軍」であり,この気象条件の厳しさが,ドイツ軍の進撃を阻んだとする見解である。

しかし,気象条件は対峙するソ連軍も同じであり(補給路の長さは除くとしても),ソ連赤軍が厳冬の備えがしてあったのであれば,それはドイツ軍の装備・計画がソ連軍に劣っていたことを意味する。つまり,冬将軍のために,ドイツ軍がモスクワ前面で敗退したのではなく,ソ連軍の頑強な抵抗と,冬季攻勢の前に敗退したというのが真相であろう。

後方における輸送はゲリラによって撹乱された。こうした問題は,ドイツの過酷なパルチザン・ユダヤ人処刑,物資挑発,強制労働・強制連行という占領政策の失敗のためでもあった。

ソ連軍が,極東軍を移送して,ドイツ中央軍団に抵抗できた。英米の軍事援助物資が,イランを経由した南方ルートと,ノルウェー沖を回る回路の北方ルートによって,流入していた。そして,ドイツ支配地域のソ連住民・パルチザンに命じて,ドイツ軍の後方部隊や補給路をゲリラ攻撃させることにも成功していた,この予備兵力の投入と外国援助物資による戦力増強,国民の世論・パルチザン動員という事情は,ドイツ軍のソ連侵攻が1ヶ月早まったとしても,変わりがない。

クリミア半島の戦い,特にセバストポリ要塞の頑強な抵抗は,1942年夏まで続いていた。これは,共産党政治委員(コミサール)のテロの支配だけではなく,ドイツ軍に降伏すれば,過酷な取り扱いを受けることが恐れられていたためでもある。ドイツがロシア,ベラルーシ,ウクライナの隷属化,すなわち生存圏として資源・食料の収奪,住民の隷属化を意図していると考えたからである。

ソ連国内には,反共産主義・反ボリシェビキのナショナリスト(民族派),スターリン支配に反対する将軍・政治家(政権闘争),自由な経済活動・思想を愛する市民,強制移住や農業集団化に反対する農民,厳しい兵役を忌避したがった下級兵士など,ソ連共産党,スターリンの反対勢力は抑えられていたが,その根は深かった。これが,ソ連の弱点だったが,ドイツはそれを反スターリン勢力をドイツのために戦力化するのではなく,反スターリン勢力を祖国解放のために結集させてしまった。
したがって,ユーゴスラビア侵攻がなくとも,モスクワを陥落させることはできなかったであろう。

ドイツ軍は東西南の多面戦争を,特定人種民族の排除,ドイツ人最優先の価値観を持って戦っており,諸国民世界戦争を戦う説得的な理念,経済基盤を持っていなかった。

写真(右)1941年,ルーマニアの農村の子供たち:裸足のかわいい子供たちだが,1990年代になっても,東北部のビストリッチァ地方,マラムレッシュ地方には,民族色が農耕に残っていた。
ドイツ軍宣伝班のホルスト・グントも,ルーマニア,ブルガリア,ソ連のクリミアやウクライナ,シシリア島などを戦時中に訪れ,その地域文化に感嘆しながら,カラー写真を撮影したようだ。
Rumänien (Bukarest).- Land und Leute, Gruppe von Kindern auf unbefestigter Straße in einer Ortschaft Dating: 1941 ca. Photographer: Grund, Horst 撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

イタリアでは厭戦気分が蔓延し,1943年7月25日には,ベニート・ムッソリーニ (Benito Mussolini)が失脚,ピエトロ・バドリオ (Pietro Badoglio)将軍による新政権が樹立。バドリオは,連合軍との交戦を継続するといったが,1943年9月8日,イタリア本土サレルノに連合軍が上陸すると,休戦を表明。

1943年9月8日,連合軍によるイタリア半島サレルノ上陸によって、イタリアは戦線離脱を決意した。実は,連合国軍がイタリア本土サレルノに上陸前,1943年9月3日に,ピエトロ・バドリオ (Pietro Badoglio)将軍は,米英連合国と休戦し,1943年9月8日の連合軍サレルノ侵攻とともに「無条件降伏」した。

1944年,ソ連赤軍がルーマニアに迫ると,8月23日,ルーマニア国王ミハイ1世 (Michael of Romania )は、ルーマニア指導者イオン・ヴィクトル・アントネスク (Ion Victor Antonescu)を解任した。この政変後,アントネスクは,ソ連軍に捕らえられ,1946年6月1日,銃殺された。

ルーマニアは,親ドイツ指導者イオン・ヴィクトル・アントネスク (Ion Victor Antonescu)が失脚したために、1944年8月に寝返ったが,ハンガリーは,1945年までドイツとともに戦っている。

虐殺・虐待という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。ルーマニアでも,イタリアでも,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺の問題があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ますわけにはいかない。


9.2014年のウクライナ・クリミアの紛争

第二次世界大戦中のクリミア半島では、ドイツとソ連との戦いがあったが、クリミア・ウクライナの住民、特にウクライナ人、クリミア・タタール人が共産主義スターリン独裁に反抗する形で、ドイツ側に協力した。そこで、戦後にヨシフ・スターリンは、クリミア・タタール人をシベリアや中央アジアへと強制移住させ、抑圧した。しかし、1954年のスターリン死によって、共産党内の政変があり、権力を握ったニキータ・フルシチョフは、ヨシフ・スターリンは、スターリン批判を公言し、ロシア共和国に含めていたクリミアをウクライナ共和国へ委譲した。そして、1991年のソビエト連邦の崩壊から、クリミア自治共和国が樹立され、シベリアや中央アジアに追放されていたクリミアへと帰還した。

2013年、ウクライナUkraine)は、欧州連合(EU)との政治・貿易協定に仮調印したが、親ロシア派ビクトル・ヤヌコービィチViktor Fedorovych Yanukovych)大統領は、ロシアのウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンVladimir Vladimirovich Putin)から圧力を受けて、調印を見送ったため、反発した親EU派の野党による呼びかけで、2014年2月18日、ウクライナの首都キエフなど各地で反政府デモが発生し、国内が混乱した。そこで、混乱を収拾するために、2014年2月21日には挙国一致内閣の樹立や大統領選挙繰り上げなどの譲歩を示したがデモ隊の動きを止めることはできなかった。

写真(右)2008年8月24日、ウクライナの首都キエフ、独立記念日の軍事パレードに参加したウクライナ軍の兵士:ウクライナ陸軍は、自動小銃にはAK74(全長930mm、重量 3.3kg、銃弾 5.45mm×39、弾倉 30発入、八初速度 650発/分)を制式としている。総兵力員10万名、戦車700輌、装甲戦闘車両1700輌、火砲1200門を保有。
Description: The participants of the military parade on the occasion of Independence Day of Ukraine, in Kiev, August 24, 2014. Kiev city Chairman Vitaliy Klitschko took part in the military parade "I Swear to you, Ukraine!" in honor of the 23rd anniversary of Ukraine's Independence. Photo by Andrey Skakodub / press service of the KSCA / DYVYS Date 24 December 2014, 12:21 Source Celebrations on the occasion of Independence Day of Ukraine 24/2014 Author Ministry of Defense of Ukraine
写真はWikimedia Commons, Category:2014 in military history of Ukraine File: Celebrations on the occasion of Independence Day of Ukraine 24-2014 (27073888916).jpg引用。


 ウクライナUkraine)ナの親ロシア派ビクトル・ヤヌコービィチViktor Fedorovych Yanukovych)大統領は、親EU派による反政府デモを鎮圧しようとしたが、この反体制派の市民と警察との衝突で、市民、警察官ら1000人の死傷者がでた。こうして、市民の反発が強まったため、2月22日、ビクトル・ヤヌコービィチViktor Yanukovych)大統領は首都キエフを脱出した。そこで、親EU派の支配するウクライナ議会は、即日、ヤヌコーヴィチ大統領の解任を決議し、2月25日、新ウクライナ大統領選挙を実施することとなった。

写真(右)2008年8月24日、ウクライナの首都キエフ、独立記念日の軍事パレードに参加したウクライナ軍のT-64戦車:ソビエト軍のT-55の発達型で、1966年に制式。成形炸薬(ホローチャージ)や粘着榴弾に対抗する複合装甲を装備。搭載砲は115ミリ滑腔砲2A21 (115mm kanon 2A21)、自動装填装置を装備。ライフルのない滑空砲としたのは、有翼徹甲弾のAPFSDS(Armor-Piercing Fin-Stabilized Discarding Sabot:装弾筒有翼徹甲弾)を発射するため。T-64は、1964年から1987年にかけて1万2000輌が量産されたが、ソ連崩壊後もロシア連邦軍とウクライナ軍が引き続き部隊配備している。
Description English: Ukrainian T-64 tanks during the Independence Day parade in Kiev, Ukraine in 2008. Date 24 August 2008 Source Парад в Києві 24.08.2008 Author Віталій
写真はWikimedia Commons, Category:Military vehicles insignia of Ukraine File: Ukrainian T-64 tanks during the Independence Day parade in Kiev (2008).JPG引用。


 2014年2月22日、親ロシア派ビクトル・ヤヌコービィチViktor Yanukovych)が大統領を解任された直後の2月27日、親ロシア派の武装勢力は、クリミア地方庁舎、クリミア議事堂を占領し、首都シンフェロポリ空港も占拠した。この包囲網の中で、クリミア議会は、ウクライナUkraine)がクリミア自治政府大統領として承認したアナトリー・モギリョフが解任され、親ロシア派のセルゲイ・アクショーノフチSergey Aksyonov)が新首相に任命された。3月1日には、クリミア在住のロシア人がロシアに庇護を要請し、それにこたえる形で、ロシアのウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンVladimir Vladimirovich Putin)はロシア軍を派遣し、ウクライナUkraine)とクリミア自治共和国が正常状態に復帰するまでの間、駐屯することになった。こうして、ロシア軍は、クリミア半島南端のセバストポリ軍港など要衝を抑えた。

写真(右)2014年、ニューヨークにある国際連合本部の安全保障理事会会議場:国連安全保障理事会(United Nations Security Council)は、常任理事国(Permanent members, P5)5カ国(アメリカ合衆国、イギリス、フランス、ロシア連邦、中華人民共和国)と国際連合総会で選ばれる非常任理事国(non-Permanent members)10カ国の合計15カ国からなる。国際連合本部の安全保障理事会会議場は、ノルウェー人のアーンシュタイン・アーネバーグが設計、ノルウェーが寄贈したもので、正面の壁画は、ノルウェー人パー・クローグが制作したもので、第二次世界大戦後の灰の中から不飛び立つフェニックス(不死鳥)をイメージしている。また、壁の青と金のタペストリーとイースト・リバー側のカーテンが信頼の錨、伸びる希望の小麦、慈悲の心を表す。
Description English: United Nations Security Council in New York City. Date 28 November 2014, 14:07:16 Source Own work Author MusikAnimal
写真はWikimedia Commons, Category:United Nations Security Council File: United Nations Security Council in New York City.JPG引用。


 2014年2月28日、ウクライナUkraine)は、クリミア自治共和国におけるロシア軍侵攻が、ウクライナの主権を犯しているとして、国連安全保障理事会United Nations Security Council)の緊急会合の開催を求め提訴した。そして、3月15日、常任理事国5カ国(中国、フランス、ロシア連邦、イギリス、アメリカ)の出席する国連安全保障理事会UN Security Council)でクリミアでのロシア帰属を求める住民投票を否認する安保理決議案が採決されたが、この決議案はロシアの拒否権行使にあって否決された。しかし、3月27日、国連安保理決議案と同様の国連総会決議UN General Assembly resolution)68/262が採決され、賛成100、反対11、棄権58(欠席24)で採択された。

写真(右)2012年10月14日、ウクライナの首都キエフ、ウクライナ蜂起軍(Ukrayins’ka Povstans’ka Armiya)によるデモと掲げられた青・黄色のウクライナの国旗(左):西ヨーロッパ、アメリカの支援を期待して蜂起したウクライナの民衆は、親ロシア派の大統領を放逐し、ロシアよりもEUなど西ヨーロッパとの国際協調を基調とする新体制を構築しようとした。
Description English: 2012 UPA March in Kiev, 14 October 2012. Date 14 October 2012 Source Марш УПА-2012 Author ?ВО Свобода?'s Picasa Gallery Permission (Reusing this file) cc-by
写真はWikimedia Commons, Category:2012 UPA March in Kiev File: 2012 UPA March in Kiev (5).jpg引用。


 ウクライナUkraine)のデモは大規模化、長期化し、結局、2010年の大統領選挙以来政権の中枢にあったビクトル・ヤヌコービィチViktor Yanukovych)大統領は2014年2月22日、首都キエフを脱出、25日にはクリミア議会により解任された。こうした混乱の中、ウクライナ会議は、野党第一党のオレクサンドル・トゥルチノフOleksandr Turchynov)を大統領代行に任命し、新体制がスタートした。

他方、ウクライナにおける親ロシア派ビクトル・ヤヌコービィチViktor Yanukovych)大統領の退陣は、ロシアのロシアのウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンVladimir Vladimirovich Putin)大統領大統領に危機感を擁かせた。新しいウクライナ指導者オレクサンドル・トゥルチノフOleksandr Turchynov)は、親EU派であり、ロシアとの軍事的・経済的関係が脆弱になると危惧したのである。そこで、ロシアは、セヴァストポリ軍港Sevastopol)の施設や軍艦の帰属を問題とし、ロシアとウクライナが帰属を巡って対立するようになった。実際、クリミア半島やウクライナ東部に居住する多数のロシア人も、ウクライナ支配を望まなかった。

写真(右)ウクライナ軍第25降下猟兵のT-80BV 戦車:ソビエト軍のT-64戦車の発達型がT-80戦車。T-80BV 戦車の搭載砲は、51口径125mm滑腔砲2A46M、搭載砲弾数38発。レーザー測遠機付き照準機1G42を装備、9KI112-1 コブラ対戦車ミサイルを搭載可能。12.7mm重機関銃NSVT1丁(300発)、 7.62mm機関銃PKT1丁(1,250発)装備。T-80BVはT-80Bの派生型で、コンタークト1爆発反応装甲を装備。 全長:9.66m、車体長:7m、全幅:3.6m、全高:2.2m、全備重量:43.7t。搭載エンジン:GTD-1000TFガスタービン、出力1,100馬力、乗員:3名。
Description English: T-80BV of 25th Airborne Brigade (Ukraine) Date 15 February 2017, 10:38:36 Source http://www.mil.gov.ua/news/2017/02/21/tankisti-vdv-stalevij-molot-peremogi/ Author Міністерство оборони України
写真はWikimedia Commons, Category:Images from mil.gov.ua File: T-80BV 25th brigade 3.jpg引用。


  2014年2月、ロシア軍の支援を受けたとされるクリミア自治共和国Autonomous Republic of Crimea)の親ロシア派住民が武装闘争を始める中、クリミア半島のロシア連邦への編入の賛否を問う住民投票が行われた。その結果、投票者の83%がロシア編入に賛成を投じたが、この住民投票には、亡命していたクリミア・タタール人らが不正選挙であると非難している。他方、2014年3月17日、クリミア議会は、ロシア連邦の影響下で、クリミア自治共和国Autonomous Republic of Crimea)をウクライナから独立させた。それに対して、ロシアのウラジーミル・プーチンVladimir Putin)大統領は、同日、ロシア人住民も少なくなく、軍事的に重要な拠点として、クリミアのロシアへの編入を求める宣言を発した。

写真(右)2014年5月9日、クリミア半島セバストポリ、大祖国戦争記念日、退役軍人とロシアのプーチン大統領:ウクライナからロシアに編入されたクリミア自治共和国、中でもセバストポリ軍港は戦略的要衝だった。
Description English: With Great Patriotic War veterans. Date 9 May 2014 Source:website クレムリン(Direct Line with Vladimir Putin)
写真はWikimedia Commons, Category:2014 Victory Day in Sevastopol File: Celebrating Victory Day and the 70th anniversary of Sevastopol’s liberation (2493-16).jpg引用。


 これを契機にクリミア・ウクライナ東部のロシア人の中には、ウクライナからの分離独立を主張し、武装闘争も始まった。2014年4月7日、ウクライナ東部の親ロシア派の武装集団がドネツィク州議会を占拠し、ドネツク人民共和国Donetsk People's Republic)の樹立を宣言し、ウクライナ東部の分離独立を主張した。これに対して、主権を主張するウクライナは、ウクライナ東部離反の動きを厳しく非難し、鎮圧を初めた。こうして、ウクライナ東部、ドネツク人民共和国Donetsk People's Republic)で武力紛争が勃発したのである。クリミア自治共和国(Autonomous Republic of Crimea)のロシア併合やウクライナ東部の分離独立の動きは、ロシアによる内政干渉であると、アメリカ・EUは非難し、ロシアに対する経済制裁を実施した。

ソ連から完全に独立し、その後、ロシアと対立するようになったウクライナUkraine)にとって、独立を維持するにはナショナリズムnationalism)を強調し、反ロシアのプロパガンダを展開するしかない。ロシアもかつての盟友を抑圧するために反ウクライナのプロパガンダを展開している。クリミアが本来どちらの帰属にだったのかといった歴史的問題ではなく、現在の政治情勢から、その帰属を巡る争いが起こっている。クリミア・タタール人にとってクリミア半島は故郷といえるが、ロシア人にもウクライナ人にも、ここは重要な戦略拠点であり、支配したい地域なのである。ウクライナUkraine)からの独立を望むクリミア在住のロシア人は、ウクライナ人の排除を進め、ウクライナへの編入を求めるウクライナ人は、ロシア人の排除を求めて、対立、紛争が続いている。


10.2022年のロシア連邦のウクライナ侵攻

クリミア問題の解決を見ないうちに、ロシアはウクライナの「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」への独立させ、親ロシア政権を樹立しようとした。これは、1940年のバルト三国併合と似ており、相互協力協定を軸にしたものである。そして、それを受けて、ロシア軍はウクライナ東部のドンバスへ進駐した。

2022年2月24日、ロシアのプーチン大統領によるがウクライナとの軍事衝突も辞せずとの表明で、ウクライナの首都キーウ(キエフ)は混乱状態に陥った。そこで、ロシアは国連憲章第51条「集団的自衛権」の行使を主張し治安回復を図った。他方、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は戒厳令、動員令を発令した。

ロシア軍のウクライナ侵攻は、大ロシア帝国の復活というより、ベラルーシ、ウクライナのロシア離反、ヨーロッパ化の状況で、資本主義の軍事同盟であるNATOが東方に拡大、ロシアを侵食するとの危機感が指摘できる。NATOが東欧、北欧、ウクライナにまで東方拡大し、その軍事的な拡張と圧力が、ロシアのウクライナ侵攻を招いた背景に指摘できる。これは1939-1940年の冬戦争、1941-1944の継続戦争を戦ったソビエト連邦とフィンランドのグローバルな戦争を思い起こさせる。

写真(右)2022年10月20日、ウクライナ、首都キーウ(ロシア語:キエフ)に打ち込まれたロシア軍のミサイルによる被害:2019年末にはBBCがロシア語のキエフではなく、ウクライナ語「キーウ(キエフ)」とした併記したが、日本では、2022年のロシアのウクライナ侵攻後に、イギリス・アメリカに追随して「キエフ」を「キーウ」に改めるようになった。
Русский: Киев после российских ракетных ударов 10 октября 2022 года. Перекрёсток Владимирской улицы и бульвара Тараса Шевченко. English: Kyiv after Russian missile strikes on 10 October 2022. Intersection of Volodymyrska Street and Taras Shevchenko Boulevard. Date 10 October 2022 Source source page Author Main Directorate of the State Emergency Service of Ukraine in Kyiv
写真はWikimedia Commons, Category:Images from mil.gov.ua Category:Rocket strikes on Kyiv, 10 October 2022 引用。


【特集】ロシアのウクライナ侵攻で変貌する世界 2022年2月24日にロシアがウクライナに侵攻して以降、西側諸国はウクライナに対して経済と軍事の両面で支援を続ける一方、ロシアに対する経済制裁を矢継ぎ早に打ち出しています。ただし、軍事侵攻は長期化し、原油、天然ガス、小麦などの価格上昇や供給網の混乱がインフレ加速要因となるなど、世界経済の見通しを不透明にしています。また、ウクライナにおける軍事衝突は、東西冷戦終結後で初めての自由主義と権威主義の直接対決と位置付けられ、外交・安全保障面でも大きな転機となる可能性があります。このコーナーではこれらの問題に関連するレポートを集約し、ご覧いただきやすいようにしています。

ロシアのウクライナ侵攻で変貌する世界ゼレンスキー氏訪米 危険覚悟の“直談判” 米側の思惑も 深掘り 大前仁 鈴木一生

毎日新聞 2022/12/22 20:18(最終更新 12/22 20:18)

 ウクライナのゼレンスキー大統領は21日、ロシアによる侵攻が始まってから初めての外国訪問となる訪米に踏み切った。この日は侵攻開始から300日の節目。戦禍が続く自国を離れるリスクを取り、最大の後ろ盾である米国の世論に対し徹底抗戦の継続と支援の必要性を強くアピールした。

支援維持へ直接アピール  万雷の拍手に包まれて米連邦議会の議場に登場したゼレンスキー氏は「尊敬と感謝の言葉が一人一人の米国民の心に響くことを願う」と述べ、演説を始めた。

 戦時下の首脳が外国の議会を訪れて支援を訴えるのは極めて異例だ。米メディアは、第二次世界大戦時にチャーチル英首相(当時)が訪米し、連邦議会で支援を要請した例と重ねて報道。ゼレンスキー氏もチャーチル氏の有名なフレーズを引用して「ウクライナは戦線を維持し、決して降伏しない」と宣言し、喝采を浴びた。

 さらに、フランクリン・ルーズベルト米大統領(当時)が1941年に旧日本軍による真珠湾攻撃を受けて行った演説の一節にも触れ、同様

に「ウクライナ国民は絶対に勝利を収める」と断言。米国民の特別な歴史の記憶を刺激して徹底抗戦の決意を表明した。  約25分の演説の全てを英語で行ったゼレンスキー氏。「この戦いは我々の子供や孫がどのような世界で生きていくか決めるものだ。全ての人にとっての民主主義の行方を決めるものだ」と、侵攻の影響がウクライナにとどまらないと訴えた。そして「ウクライナの勇気と米国の決意が、我々の共通の価値である自由を守るものでなければならない」と米国の支援の意義を強調した。

停電と寒さ ウクライナの人々は冬をどう耐えているか

毎日新聞 2022/12/12 08:00(最終更新 12/12 09:33) 1449文字

 ウクライナ西部の古都リビウでは、石畳の美しい旧市街地のあちこちで、小型発電機がけたたましい騒音を立て、街全体を異様な雰囲気に包んでいる。ロシア軍による発電所などへの攻撃で、停電が常態化しているためだ。厳しい冬の寒さがすでに本格化しているが、人々は街から逃げることなく、懸命に生きようとしている。【杉尾直哉】

ウクライナ情勢(在留邦人の安全確保)

【朝日新聞 相原記者】今日、朝、発表のあったキエフの日本大使館を一時閉館してリヴィウに移転したという件で伺います。今現在の邦人の数と、あと、在留邦人の大半というのはキエフにいるというふうに伺っています。移転後、どのようにそのリヴィウから退避の支援をするかということと、あと、ロシア軍のキエフ包囲が間近になっていると言われますが、現段階でそのキエフから恐らく外に出ると非常に危ないと思われるんですが、そのキエフの在留邦人に対して、大使館としてはどのように呼び掛けているでしょうか。まずは国内にとどまるようにというような、そういった具体的な呼びかけをしているんでしょうか。

【小野外務報道官】これまで、政府としまして、邦人保護のために可能な限り尽くしてきておりますが、ロシアによる侵略がかなり拡大をしておりまして、首都キエフの情勢が極度かつ急速に緊迫化したということを踏まえ、本2日をもちまして、キエフの在ウクライナ日本大使館を一時閉鎖をいたしまして、その大使館業務をリヴィウの連絡事務所の方に移転をしたところであります。  政府としては、引き続き、リヴィウの連絡事務所と、在ポーランド日本大使館や、また今般、新たに開きましたジェシュフの連絡事務所で、邦人保護業務を引き続き行っていく方針であります。邦人の方々と緊密に連絡を取りながら、安全確保と出国の支援を最大限しっかりと取り組んでまいります。  また、現時点での人数ですけれども、2月28日の時点で確認されている在留邦人は約120名でありまして、現時点までに、邦人の生命と身体に被害が及んでいるとの情報には接しておりません。  いずれにしましても、邦人の安全確保は非常に重要な我々の業務ですので、引き続き、しっかりと安全の確保に向けて、お一人お一人の安否の確認も含めて、邦人保護に取り組んでいくという方針であります。

ウクライナ情勢(駐日ウクライナ大使館による「義勇軍」の募集

【共同通信 小笠原記者】ウクライナ情勢に関連してですが、在日本ウクライナ大使館が、いわゆる「義勇軍」、志願兵を募って、それに対して約70人の日本人が応じていると、志願しているとされていますけれども、外務省として把握されている事実関係と、あと、そういった日本人がウクライナ行きを求めた場合、というか、ウクライナ行きを希望する場合、したい場合に、外務省として容認するのかも含めて、今後の日本政府の対応方針についてお願いします。

【小野外務報道官】在日ウクライナ大使館が、そうした[義勇軍志願の]呼びかけをしているということは承知をしております。  ただ、昨日、大臣からもこの場でお話がございましたけれども、外務省としては、現在ウクライナ全土に退避勧告を出しておりまして、目的のいかんを問わず、当該国への[義勇兵]渡航をやめていただきたいという方針であります。  2点目ですけれども、それぞれの方が、ウクライナに[義勇軍志願し]行く場合ということだったかと思いますけれども、一般論として申し上げれば、外務省は、退避勧告をしている地域に[義勇兵として]渡航しようとしている方を認知した場合には、個別に注意喚起を行っているところであります。

写真(右)2022年4月5日、ウクライナ、ウクライナ郷土防衛隊(Сили територіальної оборони Збройних сил України: Territorial Defense Forces of Ukraine)に打ち込まれたロシア軍のミサイルによる被害:カラシニコフAK-47自動小銃(Автомат Калашникова образца 1947 года:Avtomat Kalashnikova-47)を手にしているが、民兵なので、正規の軍総支給がなされておらず、上着、ズボン、履物、戦闘帽も不揃いである。2020年から募兵された義勇資源兵(民兵)であり、装備は軽火器を中心とし主に歩兵としてウクライナ陸軍の指揮下で施設警備や住民保護など正規軍の支援任務に就く。総兵力は11万名程度とされる。ミハイル・カラシニコフが設計したAK47は、1949年にソビエト連邦軍が制式した後、現在までに7500万丁が量産され、世界中で使用されている。過酷な操作環境でも堅牢で簡素な構造で故障を起こさず、信頼性の高いうえに、安価に生産可能。
Description Українська: Шпитьки 33 Date 5 April 2022, 08:32:24 Source Own work Author Віктор Огнев’юк
写真はWikimedia Commons, Category:Territorial Defense Forces of Ukraine File:Шпитьки 33.jpg 引用。


【共同通信 小笠原記者】関連して伺います。これまでの外務省の対応なんですけど、これまでウクライナ側から、今回の[義勇軍]募集に関して、事前の説明ですとか、相談はあったんでしょうか。あとですね、今後、日本政府としてウクライナ側に対して、そういった[義勇軍]募集を止めるように求めるような考えはあるんでしょうか。お願いいたします。

【小野外務報道官】具体的に、ウクライナ側とどのようなやり取りをしているかという[義勇軍の]詳細につきましては、外交上のやり取りになりますので、お答えは差し控えたいと思います。いずれにしましても、この件につきましては、既に退避勧告が出ているということは、私どもの方で指摘をさせていただいておりまして、既に然るべき申入れは行っています。  本日夕刻、在日のウクライナ大使が林大臣のところにお見えになるということでございます。その時の[義勇軍の]やり取りについて、私から今、予断をもって、お答えすることは差し控えたいと思います。いずれにしても、そういった様々な機会を通じて、私どものウクライナに対する[義勇軍の]全般的な姿勢も含め、しっかりとお伝えし、ウクライナへの支援という意味では、皆様のためになることはできる限りやっていきたいと思っておりますし、我々の様々な立場もお伝えしていきたいと思っております。

【北海道新聞 文記者】関連で、[義勇軍について]ウクライナ大使館への申入れというのは具体的にどういった内容の申入れなのかというのと、あと、日本国籍保持者の方がその義勇軍に参加をして渡航する際に、何か止められる法的な根拠というか、根拠法っていうのは何かあるのでしょうか。[義勇軍の]法的な根拠、止められる根拠。

【小野外務報道官】まず、ウクライナ大使館との具体的な[義勇軍の]やり取りの中身については、先ほども申し上げましたが、外交上のやり取りになりますので、お答えは差し控えたいと思います。  それから、実際に、渡航される方への対応ということかと思いますけれども、これも先ほど申し上げましたが、一般論として申し上げれば、退避勧告を出しているところに渡航する方を認知した場合には、個別に注意喚起を行っているところであります。  一般論になりますけれども、旅券法に基づく措置の適用ということもあるわけですが、これも個別の事案に即して判断をするということになりますので、この事案について、どういった対応になるかということを、予断をもって現時点で申し上げるということは差し控えたいと思います。

【産経新聞 杉本記者】先ほどの旅券法に基づいた措置なんですけど、具体的に言うと、政府がウクライナに「義勇軍」として行かれるという方を把握すれば、その方がパスポートの発給を求めた場合は拒否することもありうると、そういうふうに理解してもよろしいでしょうか。

【小野外務報道官】その可能性も含めて、これはいずれにしましても、個別の事案に即して判断をするということに尽きますので、[義勇軍について]予断をもって今の段階では申し上げられないということであります。

小野外務報道官会見記録
(令和4年4月20日(水曜日)15時45分 於:本省会見室)

ウクライナ情勢(日本からの「義勇兵」

【フリーランス 安積記者】ウクライナについて、日本から「義勇兵」として応じた人たちについてお伺いします。この約50名ぐらいが、50名ないしは20名がウクライナに入ったというふうな報道があるんですが、この人たちの消息については、外務省は把握していらっしゃるのかどうなのか。  そして、すなわち3月の2日に日本政府としては、「義勇兵」を募ったウクライナの大使館に対して自制を申し入れましたけども、3月17日に、RIAノーボスチが報道したところによると、ロシア外務省のザハロフ報道官が「これは日本政府の責任である」と。要するに「義勇兵」の応募者の生死については、日本政府の責任であるというふうに強く批判したことについて、どういうふうに思っていらっしゃるのか。  そして、英国の捕虜が、メドヴェージェフ氏との交換を申し出て、英国は今のところは拒否をしているんですが、もし日本の「義勇兵」が、こういったトラブルに巻き込まれた場合は、どういうふうに対処されるおつもりなのか、以上3点をお願いします。

【小野外務報道官】まず、義勇兵をめぐっては様々な報道があることは承知をしております。  いずれにしましても、現在、外務省としては、ウクライナ全土に退避勧告を発しておりまして、目的のいかんを問わず、ウクライナへの渡航をやめていただきたいと考えておりまして、それが日本政府としての[義勇兵派兵の]基本的な立場であります。  また、ロシアの一々の発言につきまして、私(小野外務報道官)の立場として公式にコメントすることは差し控えたいと思います。



◆大国日本のトップクラスの政治家が、コメントを察し控えたいというのは、生半可な知識のみで、国際的な義勇兵・義勇軍の経緯に理解していないことの反映であろう。さまなくば、次の選挙で波風なく再当選したいというポピュリズムに出した発言で、コメントしないなら、記者会見の意味はない。コメントできないなら、日本のリーダーとしてはふさわしくない。

1936年のスペイン内戦で、国際旅団、コンドル団など双方がスペインに介入し武力衝突した。その経験を踏まえれば、志願した義勇兵のいち個人の行動として片づけるには、重い課題である。

◆国連軍の派兵が安全保障理事会におけるロシア拒否権でできないなら、アメリカ、ヨーロッパ諸国、イギリス連邦のカナダ、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国が、国際旅団を義勇軍として派兵する可能性もある。チ米安全保障条約の軍事同盟からみれば、日本も義勇兵を派兵することになろう。第二次世界大戦中、ソ連ボリシェビキの革命派を抑えるために、スウェーデンは義勇兵を送ったし、その後の1941年のドイツのソ連侵攻では、フランスやスペインも反共産主義のイデオロギーを奉じて、ドイツ軍とともにタイソ連東部戦線で戦った。フランス義勇兵は、1945年4月のベルリン攻防戦でも、ドイツ軍の盟友として奮闘した。

1936年にスペイン市民戦争Spanish Civil War)が勃発すると,ヒトラーは、間髪をいれずに, フランシス・フランコFrancisco Franco:1892-1975) 将軍の反乱軍(国民戦線)に軍事援助を行った。これは,ドイツ義勇軍との建前をとったが、実際はドイツ空軍,ドイツ陸軍の正規部隊から成るコンドル軍団Legion Condor)の派遣である。

  1936年7月から1939年3月まで2年半も続いたスペイン内戦Spanish Civil War)の契機は、1936年の総選挙でスペイン人民戦線が勝利したことに対して、 フランシス・フランコFrancisco Franco) 将軍らに率いられてた植民地軍が反乱を起こしたことである。反乱軍は、ファランヘ党と組んで、ファシズム政権を樹立しようとし、人民戦線・共和国政府と内戦状態に入った。イギリス、フランス、アメリカは、内政不干渉の立場に立ったが、ドイツとイタリアは、ファシスト反乱軍を軍事援助した。このとき派遣されたドイツ義勇軍(実際は正規軍)が、コンドル軍団Legion Condor)である。

ゲルニカ 1937年 -ピカソ-:スペインでは1936年の選挙でスペイン人民戦線が勝利し、政権の座に着いたが、スペイン植民地のモロッコでスペイン軍の一部が、フランシスコ・フランコ将軍らに率いられてファシズムを奉じるファランヘ党と組んで、反乱を起こした。これがスペイン内戦である。1937年4月26日、ドイツが派遣したコンドル軍団のユンカースJu52爆撃機、ハインケルHe111爆撃機がバスク地方ゲルニカ(Guernica)を空爆した。パリでゲルニカ爆撃を聞いたスペイン人画家ピカソは、1937年パリ万国博覧会のスペイン館展示予定の壁画を製作中だったが、急遽テーマを変更してゲルニカを題材に取り上げ完成させた。

 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1936年に中佐としてドイツ義勇軍・コンドル軍団Condor Legion)の指揮官としてスペイン内戦Spanish Civil War)に参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を実行したコンドル軍団の参謀となった。スペインでは、ゲルニカ空襲Bombing of Guernica)ゲルニカのような都市爆撃から、エルンスト・ウーデットErnst Udet)らが重視した急降下爆撃まで様々な戦術が実戦で試された。

1937年4月26日、バスク地方ゲルニカGuernica)が、反乱軍フランコ将軍を支援するドイツ軍コンドル軍団Condor Legion)の爆撃機Ju52とHe111など約40機によって空襲された。これが、世界初の都市無差別爆撃「ゲルニカ爆撃」である。

スペイン市民戦争Spanish Civil War)で人民戦線側の共和国軍,国際旅団と戦闘を交えるという実戦訓練によって,ドイツ軍は,航空支援の有効性,機動力を活かした電撃戦の着想を得た。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦に参加したドイツ「コンドル軍団」を率いたヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン(Wolfram von Richthofen)少将と握手する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥(Hermann Göring)(右):第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1938年11月、少将として、コンドル軍団長としてスペイン内戦に二度目の派兵。1939年5月に、コンドル軍団は凱旋、ドイツに帰国した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06827 Original title: info ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der deutschen Interventionstruppen in Spanien, die auf der Seite des faschistischen General Franco gegen die spanische Republik kämpfte. Im Frühsommer 1939 kehrten die Angehörigen der Legion Condor nach Deutschland zurück. UBz: Rückkehr der "Legion Condor" im Hamburger Hafen. Generalfeldmarschall Göring begrüßt Generalmajor Freiherr Wolfram von Richthofen. 31.5.1939 Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり、ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ヘルマン・ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

写真(右)1939年5月31日,ハンブルク、スペイン内戦から凱旋したドイツ「コンドル軍団」司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン少将とともにコンドル軍団を閲兵する空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:1936年4月20日に上級大将 (Generaloberst)になったゲーリングは、第二次大戦1年半前、1938年2月4日に、元帥 (Generalfeldmarschall)に昇進した。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-E06857 Original title: info ADN-ZB Legion Condor- in Hamburg Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front, der in einem riesigen Viereck auf der Moorweide angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Freiherr von Richthofen, ferner der kommandierende General des 10. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 31.5.39 ADN-ZB Die Legion Condor war eine im November 1936 gebildete Luftwaffeneinheit der faschistischen deutschen Interventionstruppen zur Unterstützung des Franco-Putsches in Spanien. Das Personal (etwa 6000 Mann) wurde ständig ausgewechselt, um kriegserfahrene Manschaften und Offiziere heranzubilden. Ende Mai 1939 kehrte die Legion Condor nach Deutschand zurück. UBz: Generalfeldmarschall Göring schreitet die Front der auf der Moorweide in Hamburg am 31.5.1939 angetretenen Legionäre ab. Neben ihm Generalmajor Wolfram Freiherr von Richthofen, der kommandierende General des X. Armeekorps Knochenhauer, General der Flieger Hugo Sperrle, Generaloberst Milch, Generaladmiral Albrecht und General der Flieger Volkmann. 7058-39 Archive title: Hamburg.- Rückkehr der "Legion Condor".- Wolfram Freiherr von Richthofen und Hermann Göring beim Händeschütteln Dating: 31. Mai 1939 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1937年10月、スペインから帰還したヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団Condor Legion)は、ドイツに凱旋し,プロイセン州首相・空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥から盛大な歓迎を受け、栄誉を与えられた。

 ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1936年に中佐としてスペイン内戦にドイツ義勇軍「コンドル軍団」の指揮官として参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を実行したコンドル軍団の参謀となった。スペインでは、ゲルニカ爆撃のような都市爆撃から、エルンスト・ウーデットErnst Udet)らが重視した急降下爆撃まで様々な戦術が実戦で試された。1937年10月、スペインから帰還したヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンWolfram von Richthofen)は、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団は、ドイツに凱旋し,プロイセン州首相・空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥から盛大な歓迎を受け、栄誉を与えられた。

動画:コンドル軍団の凱旋:German Legion Condor - Bombenfliegermarsch(Eng.Subt.)/Luftwaffe 1939

ウクライナ義勇軍募集は、1936年のスペイン市民戦争で共和政府を軍事支援した国際旅団を念頭に置いているようだ。しかし、対ロシア・共産主義との闘いということなら、スペイン市民戦争で、ファシストの反乱軍(フランコ将軍国民戦線)の側に立ったドイツのコンドル軍団、イタリアのファシスト義勇軍として位置づけられる。国際政治や世界の歴史に無知なままで、善悪の判断を法律的根拠に当たりながら、逡巡し見つけようとしている政府もメディアも心もとない限りである。面接(インタビュー)でも、「義勇軍」の語を避けて、代名詞で適当にあしらっている。これも義勇軍たるものを知らないだけではなく、関心もなかったことの反映である。そのうえ、政治家もメディアも日本人「義勇軍」の話に終始して、グローバルな視野、例えば国際義勇軍やコンドル軍団の顛末についての認識を欠いているようだ。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

2009年2月10日開設の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
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東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博
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