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寺内寿一と浜田国松の腹切り問答 2009
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◆統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答

1.1936年11月、帝国議会議事堂が竣工、翌1937年1月21日の新議事堂最初第70回帝国議会で浜田国松代議士と寺内寿一陸軍大臣との「腹切り問答」があった。すぐに激昂する陸軍大臣寺内大将は,「瞬間湯沸かし器」と揶揄されたが,軍は統帥権の独立を楯にして,議会の軍事への介入を許さなかった。

: ◆読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、外国人・非国民の排斥、議会制民主主義の否定、ヒトラー流の独裁政権獲得という本音のようだ。
昭和の内閣
大正末1925年1月30日 若槻礼次郎内閣 第25代首相 憲政会
1927年04月20日 田中義一内閣 第26代首相 立憲政友会 山東出兵 1929年の張作霖爆殺事件で総辞職
1929年07月02日 浜口雄幸内閣 第27代首相 立憲民政党(1927年,立憲民政党初代総裁),1930年の金解禁,ロンドン海軍軍縮条約調印,東京駅で狙撃・重傷・1931年死亡
1931年04月14日 若槻礼次郎内閣 第28代首相 1930年のロンドン海軍軍縮会議首席全権,政友会
1931年12月13日 犬養毅内閣 第29代首相 政友会(1929年,立憲政友会総裁),1932年,五・一五事件で暗殺
1932年5月26日 斎藤実内閣 第30代首相 海軍大将 挙国一致内閣,1934年の帝人事件で総辞職。二・二六事件で暗殺。
1934年7月8日 岡田啓介内閣 第31代首相 海軍大将,二・二六事件で襲撃を受ける
1936年3月9日 広田弘毅内閣 外交官,第32代首相,腹切り問答,1948年の極東国際軍事裁判で死刑
1937年2月2日 林銑十郎内閣 第33代首相 陸軍大将,祭政一致
1937年6月4日 近衛文麿内閣 第34代首相 盧溝橋事件暴支膺懲で日中戦争開始

写真(右):南方軍総司令官・寺内寿一元帥:ドイツの雑誌からの引き写しだが「じゅんいち」は「ひさいち」の誤読。THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945;Japanese Personalities: Field Marshal Count Terauchi Juichi, the Japanese Supreme Commander in South East Asia.帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。 ヒトラー総統は,1942年2月6日の卓上談話で「第一級の軍事大国の日本が,初めて我々の側についた。日本との同盟を破棄してはいけない。日本は信頼に値する国である。極東(アジア)を日本に与えれば,日本は(英独)和平には反対しないだろう。日本にはインドを併合する力は無く,オーストラリアやニュージーランドを占領したいとも思わないだろう。我々との連携は,日本にとって安心材料だ。もはや何ものも恐れる必要が無くなる。日本とドイツには共通点が一つある。どちらの国も,(占領地を)消化する作業に五十年から百年を必要としていることだ。我々がロシアを,日本は極東を併呑するのである。日本の参戦で我々の戦略も変更が可能となった。近東には,スペイン経由でも,トルコ経由でも行くことが出来る。」

南方軍総司令官寺内 寿一(てらうち ひさいち)(1879年8月8日 - 1946年6月12日):
第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。
1899.11陸軍士官学校卒、1909.12陸軍大学校卒、近衛師団参謀、1911.12オーストリア大使館付武官補佐官、1912.12伯爵(襲爵),1913.2ドイツ駐在、1915.3参謀本部員、1919.7近衛歩兵第3連隊長、1922.1近衛師団参謀長、1924.2歩兵第19旅団長、1927.8朝鮮軍参謀長、1929.8独立守備隊司令官、1930.8第5師団長、1932.1第4師団長、1934.8台湾軍司令官、1935.10大将、1935.12軍事参議官、1936.3広田内閣陸軍大臣、1937.2教育総監
1937.8北支那方面軍司令官、1939.7遣ドイツ・イタリア使節
1941.11南方軍総司令官、1943.6元帥
1944、南方軍総司令官としてインパール作戦レイテ決戦の総指揮をとる。
1945.11予備役、1946.6.12シンガポール・レンガムで病没。

1937年1月21日,第70回帝国議会「腹切り問答」(割腹問答):

衆議院議員・政友会浜田国松は落成したばかりの国会議事堂(現議事堂)で最初の議会で,陸軍将校による東京でのクーデター、すなわち「二・二六事件を契機とする特殊なる我が国の政情に対し」「国民の有する言論の自由、通信の自由は数々なる事情によって圧迫を受け」「粛軍の進行とともに独裁的思想の重圧」が増した述べた。

そして、「是より私の質疑の本論に入りたいと存じます」と切り出して、日本の軍部の政治干渉を攻撃する演説を行った。すなわち「軍人は政治に関わってはならないはずである。軍という立場で政治を行うところに危険がある」と述べた。

寺内寿一陸軍大臣「浜田君が種々お述べになりました言葉を承りますると、中には或いは軍人に対しましていささか侮辱さるるような如き感じを到すところのお言葉を承りますが、これらはかえって浜田君の訴えるところの国民一致の言葉にそむくものではないかと存じます」ときりかえした。

浜田国松「私の発言のどこに軍を侮辱した部分があるか、事実をあげよ」 

寺内寿一陸軍大臣「侮辱されるが如く聞こえた」

浜田国松「寺内さんに申し上げますが,封建思想や官僚独善主義から言えば、あなたは役人で私は町人かも知らぬけれども、そうじゃありませぬ。私は公職者、ことに9千万人の国民を背後にしている公職者である。あなたより忠告を受けねばならぬようなことをこの年をとっている私がするならば、私は割腹して謝する。天下に謝さなきゃならん。速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ。」


国立国会図書館「第七十囘帝國議會 衆議院議事速記録索引」参照

『アサヒグラフ』1937年2月3日発行では,「政局の戦慄」と題して,「衆議院に於ける質問第一陣民政筆頭総務桜内幸雄氏の後を受けて起った政友会長老浜田国松氏は,軍部の政治関与問題を掲げて寺内陸相に迫り『---速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する,なかったら君割腹せよ』と爆弾的見得を切った。
 この質問を端緒として,かねてから政党の軍部に対する態度に不満を抱いていた寺内陸相は(広田)首相に即時解散を迫り,------(永野海相ら)軍部並びに官僚出身閣僚の強硬論が政党出身四閣僚の反対を圧し,朝議はここに議会解散の方針を決定し,政党側の出様を待つに到ったのである。−浜田国松氏の投げた政界の戦慄である。」と結んだ。

 『アサヒグラフ』1937年2月3日発行では,「凄壮な一騎打ち」「逆襲する寺内陸相」「爆弾男浜田国松氏を囲んで政友幹部の協議」「政局風雲を孕み慌しき首相官邸」「衆議院大臣席の閣僚 小川商相,永田拓相,島田農相,前田鉄相,法相,永野海相,広田首相,寺内陸相,馬場蔵相,内相,頼母木逓相,内相,平生文相,有田外相」の写真が掲載された。

写真(左):南方軍総司令官寺内寿一;1879年(明治12年)8月8日生 - 1946年6月12日没) 第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。寺内寿一関係文書346点が国会図書館に所蔵。

腹切り問答で寺内陸軍大臣は負けたようにみえたが,軍は議会に報復するかのように,統帥権(軍事権)の独立を楯に,政府に独断で軍事作戦を展開するようになる。

浜田国松(1868/4/2-1939/9/6)は、伊勢市生まれの衆議院議員(代議士)で、当選12回、衆議院議長を1934-36年に務めた。そこで帝国議会・政友会の長老として、議会と軍との対等の関係を維持しようと陸軍大臣に論戦を挑んだ。

浜田国松は、三重師範学校を卒業後小学校教員を経て、1891年東京法学院(中央大学)卒、弁護士として1904年、三重県で衆議院議員に立候補。連続12回当選。1925年の普通選挙法成立の中で立憲政友会に参加。憲政擁護運動に活躍。1934-36年、衆議院議長。

日本陸海軍は、1931年の満州事変,1932年の第一次上海事変を起こした。国内でも,1932年の五・一五事件,1934年の二・二六事件という,軍人による暗殺・反乱が起こっている。

日本軍は,統帥権の独立を楯に,軍事に対する政治の介入を許さなかった。しかし,日本軍は政治干渉を加えてきた。軍は,議会・国民に対して横暴を重ねている、と浜松は考えた。国民も軍の優越的地位を必ずしも認めていたわけではなく、横暴に対する不満も鬱積していた。

1937年1月の腹切り問答を知った国民は、帝国議会が陸軍大臣をやり込めたとして、浜田代議士に声援を送った。公衆の面前で,怒り出した寺内寿一陸相には「瞬間湯沸かし器」のあだ名がつけられた。

1937年1月21日,「割腹問答」によって第七十回帝国議会は混乱し、二日間停止された。時の首相広田弘毅は首相を辞任し、内閣総辞職となった。

憤慨した陸軍は,政党懲罰のために議会解散を要求,政党・海軍と対立したために,広田内閣は総辞職した。後継首班には,元陸相宇垣一成が選ばれたが,軍縮を主張したこともある宇垣を陸軍は認めず,元陸相林銑十郎が,内閣を組織することになった。林銑十郎将軍は,1931年,朝鮮軍司令官当時,越境将軍として独断,満州に派兵したことがあり,陸軍の傀儡内閣といわれたが,三ヶ月で退陣。続いて,四十五歳の公爵近衛文磨が,国民,軍,財界の大きな期待を担って登場した。

それから一ヵ月後の1937年7月7日盧溝橋事件、第二次上海事変と中国大陸で戦端を開いた。これは議会のあずかり知らぬことも多かった。

腹切り問答から半年後、日中戦争が開始されたのである。

写真(右):1939年9月,ベルリンで開催されたドイツ帝国議会で戦争を宣言するアドルフ・ヒトラー総統:第二次大戦は,9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻,9月3日の英仏によるドイツへの宣戦布告で始まった。
ドイツでは,1933年1月30日,第一党の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)総統(党首)ヒトラーを主要とする内閣が成立した。しかし,2月末,ドイツ国会議事堂放火事件が発生したために,大統領緊急令によって,礼状なしに共産党幹部を逮捕し,国会議員を威嚇しながら,3月に「民族・国家危機排除法」(全権委任法)を成立させた。全権委任法によって,行政府が立法権を議会から授権された。ナチ党政権の権力濫用を戒める対抗勢力は解散させられたために,ナチ党一党独裁の道が開かれた。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-E10402引用(他引用不許可)。

2.1937年の日中戦争以降,日本軍は,政治干渉を強めた。そして軍閥政治,軍事国家,兵営国家といわれるようになる。日本軍の上層部,すなわち陸軍参謀本部,海軍軍令部の将官・高級将校が政治に干渉するだけでなく,自ら政治を指導し,政治を行うようになる。文人ではなく,軍人が政治権力を握った国家へと変貌してゆく。

日本では,統治権と統帥権(とうすいけん)とが天皇にあったが,実務上は,統治は行政として内閣が,立法として帝国議会が,司法として裁判所があった。また,軍には陸軍と海軍の二軍があるが,内閣の下にある陸軍省,海軍省の扱う統治(軍政:軍の行政事務)と陸軍参謀本部・海軍軍令部が扱う統帥(軍令:軍事指揮権)が分かれていた。

日本軍は,政府・内閣からの独立して統帥権に服すとされ,軍部大臣現役武官制,天皇への帷幄上奏権が認められていた。これらの権利に対して,内閣,帝国議会は介入できなかった。軍令(統帥)と軍政から独立しているために,軍政の長である陸軍大臣と海軍大臣も,統帥には介入できなかった。

統帥権は、大日本帝国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定され,軍の指揮権である。そして,天皇大権として,統帥権,帝国議会召集・命令発布・文武官の任免・宣戦、栄典授与があった。これらは,議会の参与なくして単独で行いうる。
つまり,国政には,国務大臣の輔弼(ほひつ)が必要だが,天皇大権の一つである統帥権は,政府(内閣)と帝国議会の関与はできないことになる。これが,統帥権の独立である。(たむたむ「統帥権干犯問題」参照)

統帥権の独立によって,陸軍参謀総長・海軍軍令総長だけが,天皇を輔弼出来るとされた。内閣の構成員である首相,蔵相,陸軍大臣・海軍大臣も,統帥に関して容喙することは許されなかった。

文民に対して,軍部を対比すれば,戦争の長期化,戦争予算の拡大,兵士の動員,労働力の徴用など,軍事の範囲が拡大する状況で,軍部の影響力は大きくなった。戦争が政治の延長とするならば,文民統制が主張されてもおかしくないが,総力戦を戦うために戦争の延長線上に政治があるとなれば,軍部による政治関与が大きくなってくる。

1937年1月の第70回帝国議会でも,防空法,軍機保護法改正が議論されたが,治安維持法の強化,1938年の国家総動員法など,動員の円滑化,世論統一,治安維持を名目に,軍の影響力が立法の上でも強くなっていった。

軍閥政治のもう一つの推進力となったのは,テロである。軍が暗黙裡に支持しているかのような,政治家,実業家の暗殺・襲撃事件も起こっていた。1929年の無産政党首班・山本宣冶刺殺,1930年の浜口雄幸首相狙撃暗殺,1932年の血盟団による元蔵相・井上準之助暗殺(2月)と三菱財閥・團琢磨暗殺(3月)などである。

軍に逆らえば,暗殺され,圧力を掛けられる。恐怖によって人を支配するテロが,日本軍によって起こされたテロは,1932年の五・一五事件,1934年の二・二六事件という軍の反乱である。軍への反対派と見られていた政治家は,昭和維新を目指す皇道派率いる反乱軍によって殺害された。


統帥権の独立を楯にした軍部による政治干渉,テロとその暗黙の支持によって,大日本帝国は,軍閥政治,軍事国家(garrison state),兵営国家に変貌しはじめたといえる。このような「昭和維新」に賛同した民間人,総動員体制作りに熱心な革新閣僚,領土・権益拡大に熱心な財閥も,軍閥政治を歓迎していたのかもしれない。

写真(右):1941年3月3日,ベルリン,ドイツ帝国議会,バルカン半島侵攻作戦で勝利後、ヒトラー総統の演説:ナチ党は,1920年に卍(ハーケンクロイツ,スワスチカ,カギ十字)を党章としたが,ナチ一党独裁になってからは,党旗をドイツの国旗とした。ハーケンクロイツは,ナチスのシンボルとして広まった。
Des Führers große Rede nach dem siegreichen Balkanfeldzug Der Führer und oberste Befehlshaber der Wehrmacht sprach am Sonntag abend vor den Männern des Deutschen Reichstages [in Berlin]. Nach seinen Erklärungen über die einzigartige siegreiche Durchführung der Operationen auf dem Balkan gab der Führer die Enschlossenheit und Siegeszuversicht des deutschen Volkes Ausdruck. Unser Bild zeigt eine Übersicht während der Rede des Führers. Scherl-Bilderdienst 4.5.41 [Herausgabedatum] Dating: 3. Mai 1941 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-B02607引用(他引用不許可)。

3. 近衛文磨首相は,1937年7月7日,盧溝橋事件当時の内閣総理大臣であり,降伏の玉音放送の流れた1945年8月15日のちょうど7年前,1937年8月15日,「暴支膺懲」声明は,日中戦争を長期化させ,アジア太平洋戦争の契機となった。つまり,軍部だけが日中戦争を主導したのではなく,近衛首相など内閣,帝国議会も日中戦争を自ら推し進めていた。軍閥政治を完成させたのは,このような文民政治の頽廃にあったとも考えられる。

写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップを確保しようとした。息子は米国スタンフォード大学に留学させた。

現地には,牟田口連隊長(1944年のインド侵攻インパール作戦を指揮)のような強硬派軍人が幅を利かせていた。満州事変での石原莞爾の成功(参謀本部作戦課長に昇進)以来,軍事行動は,統帥部(参謀本部・大元帥昭和天皇)に事後承認された。厳粛なはずの軍紀が、命令を出しても現地軍が守らないという下克上の心配があった。日本軍では、軍紀の乱れ(軍紀紊乱)が深刻だった。上級指揮官が,満州事変の張本人であれば,部下を統制し,武力発動を抑制することは容易ではない。現地指揮官から見れば,上司のかつての独断出兵を見習っているだけである。
この意味で,中国に展開する日本軍は,戦争拡大を望んでいたということが出来る。

 『アサヒグラフ』第二十九巻第四号1937年7月28日発行は「特輯 北支事変画報第一報」で,1937年8月4日発行では「愛馬を労わりつつ」警備に出動する騎兵の行進,8月18日発行では「南苑総攻撃に従軍」として「二十九軍の兵が汚い服を血に染め斬れぬ青龍刀を無造作に投げ出したまま死んでいる。味方の死骸を見ると胸迫り涙がでるのに支那兵を見ると別に何の気も起こらない」と記している。

『アサヒグラフ』1937年8月4日発行では「愛馬を労わりつつ」警備に出動する騎兵の行進,9月1日発行では「蒼穹に飛ぶ軍国少女   航空婦人会のグライダー訓練」と題して,「北支に南支に我が荒鷲の精鋭が翼をひろげて目覚しい活躍をしている時,空の第二陣として女ながらも大空への精進を重ねている一団」を紹介している。8月25日発行では「針先に籠る銃後の声援」と題して,千人針を作る婦女子を掲載し,「この赤誠あればこそ,皇軍将兵の向かうところ正に敵なし,今日もまた勝報が舞込んでくる」と結んでいる。 

『アサヒグラフ』1937年9月15日発行では「征途に就く海軍渡洋空爆隊 本紙によって始めて発表」と題して,九六式陸上攻撃機(中攻),九六式艦上戦闘機の写真を機体形式を隠して「精鋭○○機」「海軍○○機」のように公開している。  

『アサヒグラフ』1937年10月3日発行「皇軍晴れの保定入城」,11月3日発行「煙幕下の敵前クリーク架橋」,11月7日発行「蘇州河の肉弾渡河」,11月24日発行「太原城一番乗り」,12月7日発行「希望に和む張家口」,12月29日発行「南京城中山門に翻る感激の日章旗」,1938年1月5日発行「南京入城式の壮観」と,日本軍の中国侵攻が大きな写真と共に紹介されている。  

1937年後半から1938年初頭の『アサヒグラフ』の写真を拾ってゆくと,中国軍を殲滅して快進撃を続ける日本軍の報道が多く,あたかも日中戦争は,日本軍勝利で終わりそうな勢いである。

しかし,『アサヒグラフ』1938年5月4日発行では「長期戦 戦闘帽の心意気」,7月20日発行「七月七日・銃後の熱誠 一菜に祈る心」,8月17日発行「血の一滴に代わるもの ガソリン不足が生む科学の飛躍」木炭自動車・電気自動車,天然ガス利用・芋から採れる無水アルコールが紹介されるなど,長期消耗戦に備えて戦時動員,資源節約が訴えられている。

中国側には,中国国民党と共産党の対立があった。1936年に,西安事件が契機となって,「第二次国共合作」がなったが,盧溝橋事件勃発の1937年7月の時点で,中国国民党軍と中国共産党軍「紅軍」が一体となった国共統一抗日軍(後の国民革命軍)が編成されているわけではない。中国共産党軍「紅軍」が国民革命軍「八路軍」に改編されたのは,盧溝橋事件勃発から1ヵ月半経過した1937年8月25日である。 

盧溝橋事件では,日本軍に抗日救国学生の一隊が日本軍に発砲することで,中国共産党に対して攻撃を準備していた国民党軍を抗日戦争に転換させた,という陰謀説が唱えられる。統一抗日軍が編成されていない状況では,この陰謀説はわかりやすい。 

いずれにせよ,盧溝橋事件の現地での混乱の中で,散発的な戦闘が続くが,決定的だったのは,日本と中国がともに戦争回避を「軟弱外交」として避けて,日中双方の指導者がリーダーシップを発揮し,軍隊を動員したことだった。

中国共産党の陰謀で日中戦争が始まったとする評者は,北京郊外に日本軍が駐屯し,中国軍を威圧していた事実を過小評価している。石炭や農産物など資源が豊富で,市場としても有望な華北は,日本が支配下におき,特殊権益を認めさせたい地域だった。1936年には『昭和十一年度北支那占領地統治計画』が作られており,1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北占領地統治計画を研究していた。中国人によるの陰謀の有無に拘わらず,日中戦争は勃発したはずだ。  


写真(右):上海事変で逃げ出す難民
(1937年8月11日 Peter Kengelbacher撮影):盧溝橋事件(北支事変)から1ヶ月で,戦火は華中にも広がった。数千人の難民が,日中両軍の上海市内での戦闘を逃れるために,上海の対岸である長江北岸に避難した。 

現地で日中両軍の停戦合意がなった1937年7月11日の当日,日本では首相近衛文麿が華北への増援部隊出兵を閣議決定し,午後6時半に華北増派の声明を発表した。この直後、支那駐屯軍から午後8時に停戦合意した旨の報告が入電。しかし,リーダーシップ発揮に囚われた近衛首相は増援を取り消さなかった。こうして,2コ師団を現地に派遣することになる。権威を重んじる指導者は,豹変できなかった。

大兵力の中国軍に威圧され,怖気づいた日本軍という汚名をそそぐため,衝突から5日もたたない7月11日に、近衛内閣は、中国への増援部隊派遣の閣議決定をした。そして、世界に向けて、中国に対する強硬姿勢を公表した。ここでは,不拡大方針を謳ってはいるが,近衛文麿首相は「出兵を決定して、日本の強硬なる戦意を示せば、中国側は、折れて出ることは間違いないと信じ」ていた。この7月11日華北出兵声明は次のような内容である。 

「関東軍と朝鮮軍(満州と朝鮮半島に駐留するに日本軍)が準備した部隊を急遽,支那駐屯軍に増援する。さらに,内地より部隊を動員して北支に急派する必要がある。東亜の和平維持は,(大日本)帝国の念願するところであり,今後とも局面不拡大・現地解決の方針を堅持して平和的折衝の望みを捨てず,支那側の謝罪および保障という目的を達したるときには,速に派兵を中止すること勿論なり」 

写真(左):北京を行進する日本軍(1940年米海兵隊員撮影):1937年7月末以来,中国軍を撤退させ,圧倒的な兵力で北京を支配下に置いた。列国の権益には手を出さなかった(出せなかった)ため,増派された日本軍より兵力的に劣る列国の駐屯部隊は黙っていた。

増援決定を喜んだ現地の日本軍,すなわち支那駐屯軍は,1937年7月13日段階で、中国軍に北京からの撤退を求めた。そして,撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。つまり,政治中核都市北京から自国軍を撤退させ,日本軍が進駐するという「暴挙」を平然と中国に要求したのであって,中国やそこに利権を持つ英米列国から見ても,日本軍の侵略性は明らかであった。このあたりの事情は,1941年11月に,米国政府が,日本政府に対して,中国・インドシナからの撤兵を求めたハル・ノートと同じく,中国軍が歴史ある旧都北京(北平)から撤兵できないことを読んで,戦争になるように仕組んだ陰謀なのではないかと疑ってしまう。

無理難題を押し付けて,それを遵守しない,誠意のある回答がないとして,戦争の契機を作ることができる。但し,米国は日本の明らかな先制攻撃を望んだが,日本は中国軍が先に発砲したという理由で,という違いがある。どちらが先に発砲したかという,客観的判断が困難な契機を開戦理由としたり,中国にある中国軍が撤退要求を聞かなかったという不利尽な理由で攻撃を仕掛けたりすれば,国際的な反発を招くのは必至である。東北三省,さらに熱河省を奪った外国軍である日本皇軍が,旧都北京のすぐ郊外で,実弾装備の夜間軍事演習を実施すれば,中国軍民の反発を受けるのは必死である。

日本軍には華北占領の意図があった。根拠は,『昭和十一年度北支那占領地統治計画』の存在である。1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北の占領地支配について研究を進めていたのである。これは、日本軍の「華北占領地統治計画」であり,作成部局は支那駐屯軍司令部、文書には「昭和十一(1936)年九月十五日調整」と記されているという。
この甲案は,華北全域に作戦行動が展開される場合(現実にそうなった)であり,河北、山東、山西各省の鉄道に沿って,冀察地区(河北省、北平・天津両特別市、外長城線以南の察哈爾省、黄河以北の河南省),山東地区(山東省と青島特別市),山西地区(山西省)に侵攻し,占領地統治が実行する計画である。華北占領当地の目的は,「国防用資源ノ獲得」と「満州国並内蒙方面ニ作戦スル軍ノ背後ヲ安全」,すなわち対ソ戦争における華北方面の安全確保である。(京都大学大学院文学研究科永井和教授による) 


大日本帝国首相近衛文磨公爵1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。1940年9月号 東洋文化協会発行。1940年7月22日に第二次近衛文麿内閣成立後,9月27日に日独伊三国軍事同盟が締結された。これを発表するかのような近衛首相の演説が画報の表紙を飾った。白黒写真しか普及していない時代,カラーの絵画・着色写真には,大きなインパクトがあったはずだ。10月には既成政党を解散して挙国一致の大政翼賛会の結成を図る。しかし,一党独裁は日本の国体(天皇制)に相容れないため,新党の結成には至らなかった。10月12日の大政翼賛会の発足式でも首相は「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」と放言した。その後,政党が混乱,解散する中で,軍部と官僚の主導(輔弼力?)が高まる。1941年7月28日にフランスのインドシナ半島植民地「南部仏印」に進駐(軍事占領)。米国の対日制裁が強化され,日米和平交渉も行き詰まった。9月6日御前会議で修正した『帝国国策要綱』で10月下旬の対米英蘭戦争を決意。『神戸市「戦争体験を語り継ぐ貴重な資料」所蔵引用。 「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップを確保しようとしたが,息子は米国スタンフォード大学に留学させている。

北支事変の名のもとに日中戦争になり、戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大していく。これを決定的にしたのが,蘆溝橋事件に関する近衛文麿首相による1937年8月15日「暴支膺懲」の声明である。

帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。
然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。
近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。
更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。 

顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。
而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。 

此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。 

1937年8月15日近衛首相「暴支膺懲」声明の要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,中国南京政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」 


地図(右):朝鮮・台湾・南樺太・満州を支配する大日本帝国
(1937年頃);盧溝橋事件以前に,日本は内地の本来の領土の2倍以上を勢力下においていた。しかし,さらに中国の華北・華中に占領地を拡大し,華南の沿岸部の都市も攻略した。 

中国で戦火が拡大した理由を整理すると次のようになろう。
?日本軍が中国軍よりも強いことを認めさせるために,少数兵力でも,果敢に中国軍と戦闘した。日本軍は,中国軍に弱腰であるとの印象を与える行動をとらなかった。

?中国軍は,日本軍よりも遥かに優勢であり,国内が団結すれば,国際的支援も受けることができ,日本軍の活動を押さえ込むことが可能であると判断した。 

?中国軍に敗北を喫するわけに行かない日本軍は兵力を増派し続けたが,これは中国支配を意図しているとみなされた(客観的にもみなされる)。そこで,中国は,軍民一丸となって,日本軍に抵抗した。 

?日本は,中国の交戦意志,戦意の高さを認識できず,国民党と共産党が統一抗日軍を編成できるとは考えなかった。そこで,中国の政治経済の中枢である北京と江南地方(首都南京)を攻略すれば,日中戦争は日本の勝利に終わると誤解していた。政治経済の中枢に戦禍を拡大したことで,日本は列国からも反感を買うようになった。

?米英は,自国権益の維持・拡張に関心があったから,日本の中国支配を認めるわけにはいかない。また,日本による残虐行為を伴う中国侵攻には,米英の一般市民も反感を抱く。民主主義国米英では,反日感情に支えられた世論を背景に,その後の対日圧力を強めていく。 

?日本国民も権益を確保し,居留民を保護すべきであるという愛国心が強まり,あるいは日本軍のプロパガンダに影響され,中国支配が日本の繁栄に繋がると錯覚した。 

?満州に隣接する華北で、日本に反抗する動きが中国国民党政府、中国軍,中国国民にあるために,満州の安定が望めない。そこで、日本は中国がアジアの安定・平和を阻害していると考えた。中国全土を支配する意図は,日本にはなかったが,満州の権益を維持するには,中国国民政府を屈服させるしかないと(誤って)判断した。 

?中国政府における共産党勢力が拡大しており、その共産主義の思想は、日本の国体・天皇制の護持には相反する体制である。また、蒋介石の国民党政権に対しても、日本政府は過大な和平提案しか提示できない。そこで、日本政府は、中国における新政権の建設を目指すが、これは、中国・米英の側からは、中国の分裂工作、傀儡政権化である。
 

満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,1937年7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。 

4. 軍部の暴走を抑えようとした代議士浜田国松は,第二次大戦勃発直後1939年9月6日に死去した。翌1940年,皇紀2600年(昭和15年)ともなると,戦時総動員体制が強化され,七月,第二次近衛文磨内閣の下で,新体制,大政翼賛会が発会した。

『アサヒグラフ』1940年5月8日発行では「英霊に迎えられて 遺族上京」と題して,「輝く紀元二千六百年を迎えた靖国神社臨時大祭は一億国民の敬虔な祈りを籠めて四月二十四日から森厳の幕を開いた」として「輝く新生支那は呱呱の声をあげた----,東亜の黎明は近づいたのである。尊き英霊よとこしなに東亜を護らせ給え−と国民は遺族と共に祈ることを忘れない」と結んだ。

『アサヒグラフ』1940年6月26日発行では「国民服時代来る 服装混乱の粛正第一段階」と題して,石渡内閣書記官房が「一朝有事の際には直ちに国防服ともなり得る」国民服を着込んだ写真が掲載された。

『アサヒグラフ』1940年7月31日発行では「新体制へのまい進 踏み出した新宰相近衛文麿公」と題して,米内内閣が畑陸相辞任で命脈が尽きたあと,軽井沢の山荘から愛車クライスラー10208で深夜東京に向かう近衛文磨を掲載した。 

『アサヒグラフ』1940年8月7日発行では「代用食で行こう 『節米』新体制へ」と題して,「ウドンランチ,麦カレー,卯の花弁当など前代未聞の献立界の新顔が華やかに登場」と伝えた。 

『アサヒグラフ』1940年7月31日発行では「新体制へのまい進 踏み出した新宰相近衛文麿公」と題して,米内内閣が畑陸相辞任で命脈が尽きたあと,軽井沢の山荘から愛車クライスラー10208で深夜東京に向かう近衛文磨を掲載した。 

『アサヒグラフ』1940年8月21日発行では「ぜいたくは敵だ!」と題して,「戦争はまだ続いている。兵隊はまだ戦っています。しかし,街頭を瞥見すれば,其の所には新体制も七・七禁令(不急不用品、奢侈贅沢品、規格外品の製造加工並に販売禁止)も興亜奉公日も忘れた旧態依然たる虚飾と有閑とが豊富に取り残されているのに気づきます」として「巷の女性」「有閑令嬢」を採点しこき下ろしている。

『アサヒグラフ』1940年10月30日発行では「新日本発足の雄叫び 大政翼賛会発会式と国民大会」と題して,「未曾有の国難に対して,新たなる高度国防国家の建設に向かって邁進すべく----茲に大政翼賛会(首相を総裁とし,官僚・軍部・政党が役員となる挙国一致の官製組織)が発足,首相官邸に於いてその歴史的発会式が挙行された」として「高度国防国家の齷(あく)は正に東亜共栄圏を洗い清めたかの如き壮観を呈した」と結んだ。

『アサヒグラフ』1940年11月6日発行では「東西新体制くらべ 堂々走る国策代用車」と題して,「箱型馬車」,箱を載せた自転車式「四輪車」を賞賛した。

『アサヒグラフ』1940年11月27日発行では「見よ!傷兵の真摯敢闘」と題して,「手か足か何処かに外相を負った人達」が田んぼで稲刈りをし,脱穀を手伝う姿を賞賛した。

5. 日中戦争に至る30年前,日本軍は,日露戦争劈頭の失敗した「旅順港閉塞作戦」を糊塗するためにか,軍神廣瀬中佐を顕彰した。この廣瀬中佐の勇気はたたえられるが,軍による軍神プロパガンダは,夏目漱石にとっても,胡散臭い卑劣なものであった。そのことは,次の「東京朝日新聞 文芸欄」1910(明治43)年7月20日「艇長の遺書と中佐の詩」に現れている。

昨日は佐久間艇長の遺書を評して名文と云つた。艇長の遺書と前後して新聞紙上にあらはれた広瀬中佐の詩が、此遺書に比して甚だ月並なのは前者の記憶のまだ鮮かなる吾人《ごじん》の脳裏に一種痛ましい対照を印《いん》した。

 露骨に云へば中佐の詩は拙悪と云はんより寧ろ陳套《ちんたう》を極めたものである。吾々が十六七のとき文天祥《ぶんてんしやう》の正気《せいき》の歌などにかぶれて、ひそかに慷慨《かうがい》家列伝に編入してもらひたい希望で作つたものと同程度の出来栄《できばえ》である。文字の素養がなくとも誠実な感情を有してゐる以上は(又|如何に高等な翫賞《くわんしやう》家でも此誠実な感情を離れて翫賞の出来ないのは無論であるが)誰でも中佐があんな詩を作らずに黙つて閉塞船で死んで呉《く》れたならと思ふだらう。

 まづいと云ふ点から見れば双方ともに下手《まづ》いに違ない。けれども佐久間大尉のは已《やむ》を得ずして拙《まづ》く出来たのである。呼吸が苦しくなる。部屋が暗くなる。鼓膜が破れさうになる。一行書くすら容易ではない。あれ丈《だけ》文字を連らねるのは超凡の努力を要する訳《わけ》である。従つて書かなくては済まない、遺《のこ》さなくては悪いと思ふ事以外には一画と雖《いへど》も漫《みだ》りに手を動かす余地がない。平安な時あらゆる人に絶えず附け纏はる自己広告の衒気《げんき》は殆ど意識に上る権威を失つてゐる。従つて艇長の声は尤《もつと》も苦しき声である。又|尤《もつと》も拙《せつ》な声である。いくら苦しくても拙でも云はねば済まぬ声だから、尤も娑婆気を離れた邪気のない事である。殆んど自然と一致した私《わたくし》の少い声である。そこに吾人は艇長の動機に、人間としての極度の誠実心を吹き込んで、其一言一句を真の影の如く読みながら、今の世にわが欺かれざるを難有く思ふのである。さうして其文の拙なれば拙なる丈|真の反射として意を安んずるのである。

 其上艇長の書いた事には嘘を吐《つ》く必要のない事実が多い。艇が何度の角度で沈んだ、ガソリンが室内に充ちた、チエインが切れた、電燈が消えた。此等の現象に自己広告は平時と雖ども無益である。従つて彼は艇長としての報告を作らんがために、凡ての苦悶を忍んだので、他《ひと》によく思はれるがために、徒《いたづ》らな言句《げんく》を連ねたのでないと云ふ結論に帰着する。又|其報告が実際当局者の参考になつた効果から見ても、彼は自分のために書き残したのでなくて他《ひと》の為に苦痛に堪へたと云ふ証拠さへ立つ。

 広瀬中佐の詩に至つては毫も以上の条件を具《そな》へてゐない。已《やむ》を得ずして拙な詩を作つたと云ふ痕跡はなくつて、已《やむ》を得るにも拘《かゝ》はらず俗な句を並べたといふ疑ひがある。艇長は自分が書かねばならぬ事を書き残した。又自分でなければ書けない事を書き残した。中佐の詩に至つては作らないでも済むのに作つたものである。作らないでも済む時に詩を作る唯一の弁護は、詩を職業とするからか、又は他人に真似《まね》の出来ない詩を作り得るからかの場合に限る。(其外徒然《とぜん》であつたり、気が向いたりして作る場合は無論あるだらうが)中佐は詩を残す必要のない軍人である。しかも其詩は誰にでも作れる個性のないものである。のみならず彼《あ》の様な詩を作るものに限つて決して壮烈の挙動を敢てし得ない、即ち単なる自己広告のために作る人が多さうに思はれるのである。其内容が如何にも偉さうだからである。又偉がつてゐるからである。幸ひにして中佐はあの詩に歌つたと事実の上に於て矛盾しない最期を遂げた。さうして銅像|迄建てられた。吾々は中佐の死を勇ましく思ふ。けれども同時にあの詩を俗悪で陳腐で生きた個人の面影《おもかげ》がないと思ふ。あんな詩によつて中佐を代表するのが気の毒だと思ふ。

 道義的情操に関する言辞(詩歌感想を含む)は其《その》言辞を実現し得たるとき始めて他《た》をして其誠実を肯《うけが》はしむるのが常である。余に至つては、更に懐疑の方向に一歩を進めて、其言辞を実現し得たる時にすら、猶且《なほかつ》其誠実を残りなく認むる能はざるを悲しむものである。微《かす》かなる陥欠《かんけつ》は言辞詩歌の奥に潜むか、又はそれを実現する行為の根に絡んでゐるか何方かであらう。余は中佐の敢てせる旅順閉塞の行為に一点虚偽の疑ひを挟《さしはさ》むを好まぬものである。だから好んで罪を中佐の詩に嫁《か》するのである。
(→インターネットの電子図書館、青空文庫引用)

◆2017.6.30産経ニュース「稲田朋美防衛相、失言を初めて陳謝 辞任は否定
 稲田朋美防衛相は(2017年6月)30日の記者会見で、東京都議選の自民党候補に対する応援演説の際に「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と発言に関しては「演説を実施した板橋区の隣の練馬区にある練馬駐屯地など、自衛隊を受け入れている地元に感謝する趣旨を入れた演説だった」と述べた。その上で「国民の生命、身体、財産、わが国の領土、領海、領空をしっかりと守るべく、いっそうの緊張感を持って防衛相としての職責を果たしてまいりたい」とし、辞任しない考えを重ねて示した。(2017.6.30 22:25引用終わり)

 日本の「保守」であれば、伝統的な家族観を重視し、選挙戦を念頭にしている平和ボケ女性の防衛大臣など認めたくない。さらに、文民の大臣が、自衛官を政治的な投票の駒として利用すると公言したとなれば、それは公職選挙法の問題に留まらず、自衛隊を侮辱する発言である。普段から国防重視の発言をしていても、それは人気取りのポピュリズム的発想から仕組んでいるだけであり、本心は利己的な選挙戦勝利の打算が支配しているようだ。1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に至った時も現地駐屯の日本軍や陸軍省・陸軍参謀本部以上に、日本の代表的政治家が「中国叩くべし」(暴支膺懲)との強硬発言をした。これは、国民世論を煽り、リーダーシップを軍から取り返そうとした策略だったかもしれない。しかし、政治家は、和平交渉の機会を捨て去り、国際的孤立を招き、政治・外交・軍事の大失敗に繋がった。主権者国民は、似非政治家のポピュリズム的発想に振り回されず、世界を大局を概観できる能力が求められる。

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,日中戦争,アジア太平洋戦争についても分析しています。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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