◆統帥権独立から軍閥政治へ:1937年 浜田国松と寺内寿一の腹切り問答
写真(上):1936年11月竣頃、日本、東京、竣工した帝国議会議事堂と中央馬車廻:現在の国会議事堂は、1920年(大正9年)着工、鉄骨組立17年後の1936年(昭和11年)11月に完成、11月7日に竣功式が行われた。議事堂中央塔は、建物として日本一の高さの65.45メートル誇っていた。 写真は『コア東京』2021年4月号建築史の世界 第13回 藤岡 洋保(東京工業大学名誉教授、近代建築史)
写真1 帝国議会議事堂俯瞰(『帝国議会議事堂建築の概要』営繕管財局、1936、p.46引用
1.1936年11月、帝国議会議事堂が竣工、翌1937年1月21日の新議事堂最初第70回帝国議会で濱田國松代議士と寺内寿一陸軍大臣との「腹切り問答」があった。すぐに激昂する陸軍大臣寺内大将は,「瞬間湯沸かし器」と揶揄されたが,軍は統帥権の独立を楯にして,議会の軍事への介入を許さなかった。
昭和の内閣
大正末1925年1月30日 若槻礼次郎内閣 第25代首相 憲政会
1927年04月20日 田中義一内閣 第26代首相 立憲政友会 山東出兵 1929年の張作霖爆殺事件で総辞職
1929年07月02日 浜口雄幸内閣 第27代首相 立憲民政党(1927年,立憲民政党初代総裁),1930年の金解禁,ロンドン海軍軍縮条約調印,東京駅で狙撃・重傷・1931年死亡
1931年04月14日 若槻礼次郎内閣 第28代首相 1930年のロンドン海軍軍縮会議首席全権,政友会
1931年12月13日 犬養毅内閣 第29代首相 政友会(1929年,立憲政友会総裁),1932年,五・一五事件で暗殺
1932年5月26日 斎藤実内閣 第30代首相 海軍大将 挙国一致内閣,1934年の帝人事件で総辞職。二・二六事件で暗殺。
1934年7月8日 岡田啓介内閣 第31代首相 海軍大将,二・二六事件で襲撃を受ける
1936年3月9日 広田弘毅内閣 外交官,第32代首相,腹切り問答,1948年の極東国際軍事裁判で死刑
1937年2月2日 林銑十郎内閣 第33代首相 陸軍大将,祭政一致
1937年6月4日 近衛文麿内閣 第34代首相 盧溝橋事件,暴支膺懲で日中戦争開始
写真(右):南方軍総司令官・寺内寿一元帥:ドイツの雑誌からの引き写しだが「じゅんいち」は「ひさいち」の誤読。THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945;Japanese Personalities: Field Marshal Count Terauchi Juichi, the Japanese Supreme Commander in South East Asia.帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。 ヒトラー総統は,1942年2月6日の卓上談話で「第一級の軍事大国の日本が,初めて我々の側についた。日本との同盟を破棄してはいけない。日本は信頼に値する国である。極東(アジア)を日本に与えれば,日本は(英独)和平には反対しないだろう。日本にはインドを併合する力は無く,オーストラリアやニュージーランドを占領したいとも思わないだろう。我々との連携は,日本にとって安心材料だ。もはや何ものも恐れる必要が無くなる。日本とドイツには共通点が一つある。どちらの国も,(占領地を)消化する作業に五十年から百年を必要としていることだ。我々がロシアを,日本は極東を併呑するのである。日本の参戦で我々の戦略も変更が可能となった。近東には,スペイン経由でも,トルコ経由でも行くことが出来る。」
南方軍総司令官寺内 寿一(てらうち ひさいち)(1879年8月8日 - 1946年6月12日):
第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。
1899.11陸軍士官学校卒、1909.12陸軍大学校卒、近衛師団参謀、1911.12オーストリア大使館付武官補佐官、1912.12伯爵(襲爵),1913.2ドイツ駐在、1915.3参謀本部員、1919.7近衛歩兵第3連隊長、1922.1近衛師団参謀長、1924.2歩兵第19旅団長、1927.8朝鮮軍参謀長、1929.8独立守備隊司令官、1930.8第5師団長、1932.1第4師団長、1934.8台湾軍司令官、1935.10大将、1935.12軍事参議官、1936.3広田内閣陸軍大臣、1937.2教育総監
1937.8北支那方面軍司令官、1939.7遣ドイツ・イタリア使節
1941.11南方軍総司令官、1943.6元帥
1944、南方軍総司令官としてインパール作戦やレイテ決戦の総指揮をとる。
1945.11予備役、1946.6.12シンガポール・レンガムで病没。
1937年1月21日,第70回帝国議会「腹切り問答」(割腹問答):
衆議院議員・政友会浜田国松は落成したばかりの国会議事堂(現議事堂)で最初の議会で,陸軍将校による東京でのクーデター、すなわち「二・二六事件を契機とする特殊なる我が国の政情に対し」「国民の有する言論の自由、通信の自由は数々なる事情によって圧迫を受け」「粛軍の進行とともに独裁的思想の重圧」が増した述べた。
そして、「是より私の質疑の本論に入りたいと存じます」と切り出して、日本の軍部の政治干渉を攻撃する演説を行った。すなわち「軍人は政治に関わってはならないはずである。軍という立場で政治を行うところに危険がある」と述べた。
寺内寿一陸軍大臣「浜田君が種々お述べになりました言葉を承りますると、中には或いは軍人に対しましていささか侮辱さるるような如き感じを到すところのお言葉を承りますが、これらはかえって浜田君の訴えるところの国民一致の言葉にそむくものではないかと存じます」ときりかえした。
浜田国松「私の発言のどこに軍を侮辱した部分があるか、事実をあげよ」
寺内寿一陸軍大臣「侮辱されるが如く聞こえた」
浜田国松「寺内さんに申し上げますが,封建思想や官僚独善主義から言えば、あなたは役人で私は町人かも知らぬけれども、そうじゃありませぬ。私は公職者、ことに9千万人の国民を背後にしている公職者である。あなたより忠告を受けねばならぬようなことをこの年をとっている私がするならば、私は割腹して謝する。天下に謝さなきゃならん。速記録を調べて私が軍を侮辱する言葉があるなら割腹して君に謝罪する。なかったら君が割腹せよ。」
国立国会図書館「第七十囘帝國議會 衆議院議事速記録索引」参照
『アサヒグラフ』1937年2月3日発行では,「政局の戦慄」と題して,「衆議院に於ける質問第一陣民政筆頭総務桜内幸雄氏の後を受けて起った政友会長老浜田国松氏は,軍部の政治関与問題を掲げて寺内陸相に迫り『---速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する,なかったら君割腹せよ』と爆弾的見得を切った。
この質問を端緒として,かねてから政党の軍部に対する態度に不満を抱いていた寺内陸相は(広田)首相に即時解散を迫り,------(永野海相ら)軍部並びに官僚出身閣僚の強硬論が政党出身四閣僚の反対を圧し,朝議はここに議会解散の方針を決定し,政党側の出様を待つに到ったのである。−浜田国松氏の投げた政界の戦慄である。」と結んだ。
『アサヒグラフ』1937年2月3日発行では,「凄壮な一騎打ち」「逆襲する寺内陸相」「爆弾男浜田国松氏を囲んで政友幹部の協議」「政局風雲を孕み慌しき首相官邸」「衆議院大臣席の閣僚 小川商相,永田拓相,島田農相,前田鉄相,林法相,永野海相,広田首相,寺内陸相,馬場蔵相,潮内相,頼母木逓相,潮内相,平生文相,有田外相」の写真が掲載された。
写真(左):南方軍総司令官寺内壽一伯爵;1879年(明治12年)8月8日生 - 1946年6月12日没) 第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。寺内寿一関係文書346点が国会図書館に所蔵。
腹切り問答で寺内陸軍大臣は負けたようにみえたが,軍は議会に報復するかのように,統帥権(軍事権)の独立を楯に,政府に独断で軍事作戦を展開するようになる。
浜田国松(1868/4/2-1939/9/6)は、伊勢市生まれの衆議院議員(代議士)で、当選12回、衆議院議長を1934-36年に務めた。そこで帝国議会・政友会の長老として、議会と軍との対等の関係を維持しようと陸軍大臣に論戦を挑んだ。
浜田国松は、三重師範学校を卒業後小学校教員を経て、1891年東京法学院(中央大学)卒、弁護士として1904年、三重県で衆議院議員に立候補。連続12回当選。1925年の普通選挙法成立の中で立憲政友会に参加。憲政擁護運動に活躍。1934-36年、衆議院議長。
日本陸海軍は、1931年の満州事変,1932年の第一次上海事変を起こした。国内でも,1932年の五・一五事件,1934年の二・二六事件という,軍人による暗殺・反乱が起こっている。
日本軍は,統帥権の独立を楯に,軍事に対する政治の介入を許さなかった。しかし,日本軍は政治干渉を加えてきた。軍は,議会・国民に対して横暴を重ねている、と浜松は考えた。国民も軍の優越的地位を必ずしも認めていたわけではなく、横暴に対する不満も鬱積していた。
1937年1月の腹切り問答を知った国民は、帝国議会が陸軍大臣をやり込めたとして、浜田代議士に声援を送った。公衆の面前で,怒り出した寺内寿一陸相には「瞬間湯沸かし器」のあだ名がつけられた。
1937年1月21日,「割腹問答」によって第七十回帝国議会は混乱し、二日間停止された。時の首相広田弘毅は首相を辞任し、内閣総辞職となった。
憤慨した陸軍は,政党懲罰のために議会解散を要求,政党・海軍と対立したために,広田内閣は総辞職した。後継首班には,元陸相宇垣一成が選ばれたが,軍縮を主張したこともある宇垣を陸軍は認めず,元陸相林銑十郎が,内閣を組織することになった。林銑十郎将軍は,1931年,朝鮮軍司令官当時,越境将軍として独断,満州に派兵したことがあり,陸軍の傀儡内閣といわれたが,三ヶ月で退陣。続いて,四十五歳の公爵近衛文磨が,国民,軍,財界の大きな期待を担って登場した。
それから一ヵ月後の1937年7月7日盧溝橋事件、第二次上海事変と中国大陸で戦端を開いた。これは議会のあずかり知らぬことも多かった。
腹切り問答から半年後、日中戦争が開始されたのである。
写真(右)1927年4月20日頃、立憲政友会総の濱口雄幸(左)と1927年4月20日に長州閥・日本陸軍大将・政友会総裁として内閣総理大臣に就任した田中義一(1864年7月25日〈元治元年6月22日〉 - 1929年〈昭和4年〉9月29日):大蔵大臣に高橋是清、陸軍大臣に白川義則、海軍大臣に岡田啓介、内閣書記官長に鳩山一郎 を指名。立憲民政党総裁濱口雄幸は、田中義一内閣が1928年6月4日の張作霖爆殺事件で昭和天皇に叱責され辞職後、内閣総理大臣に就任(任期:1929年7月 - 1931年4月)。幹事長の櫻内幸雄を指名した。1921年11月4日の内閣総理大臣原敬暗殺に続いて、1930年11月14日、東京駅で銃撃され、1931年4月13日に首相辞任、再入院、8月26日、61歳没。
1943年6月 元帥
George Grantham Bain Collection
Notes
Title from unverified data provided by the Bain News Service on the negatives or caption cards.
Forms part of: George Grantham Bain Collection (Library of Congress).
General information about the George Grantham Bain Collection is available at https://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.ggbain
Part of bain collection · prints and photographs division
Subject glass negatives
Genre Glass negativesGeorge Grantham Bain Collection
Notes
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General information about the George Grantham Bain Collection is available at https://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.ggbain
Part of bain collection · prints and photographs division
Subject glass negatives
Genre Glass negatives
写真は, The Library of Congress Yuko Hamaguchi & Baron Tanaka (LOC)引用。
2.立憲政友会と立憲民政党の二大政党政治から軍閥政治に
2−1.[立憲]政[友]会議員総会 : 田中[義一]総裁の激励演説『言わぬは言うに勝る』
大阪朝日新聞
Vol: 第 29巻
Page: 53
出版年
1926-03-28
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100313827
[立憲]政友会議員総会は二十七日正午から本部において開催、田中[義一]総裁、望月、山本、秋田その他の各総務、小川顧問その他所属貴衆両院議員一般党員等四百余名出席、望月圭介総務会長席につき幹事長代理山口恒太郎氏
第五十一議会を通じて我党は産業立国の根本政策に則り政府の諸政策を批判し欠陥を指摘し政府及び与党をして満身に創痍を負わしむると共に我党の主義政策をも十分天下に宣明し得たことは諸君と共に本懐に堪えない今後一層の御奮闘を希望する
旨の挨拶あり、ついで最近の党務を報告し、
我党はここに百六十二名の多数に達し第一党の塁を摩するに至った
と述べ、ついで田中[義一]総裁
我党の議員諸君が第五十一議会を通じて多大の努力を致され唯一の在野党として責務を完全に尽されたことは私の感謝に堪えない所である、併しながら本期議会の経過を回顧するに国家のため極めて遺憾なことが多いのは深憂に堪えない、何卒諸君とともに今後一層の努力をもって邦家のためこの暗雲を一掃し国運開拓進展に貢献しなければならぬと信ずる、
即ち大に我が党勢を拡張し力を備えて我国運の将来のために局面を打開し更始一新の実を挙げることはわれわれが目下の政界に対しての重大なる責務である、この重任を全うし得るもの我が党を措いて他にないと確信する、私はここに多くいうを好まない、語らざるは語るにまさるというからである、即ちわれわれ同志の間には相通ずる心と心があり相ともに期するところがあるからである諸君の一層の御努力を希望してやまない
と激励し次で小川顧間、山本悌二郎総務の演説あり秋田、堀切、山崎達之輔、牧野の四氏を議会報告書起草委員に挙げ次で新役員の発表あり、両陛下の万歳、(政友会)の万歳を三唱して午後一時散会、引続いて大懇親会に移った(東京電話)
新役員
右[立憲]政友会議員総会で田中[義一]総裁から指名発表の[立憲]政友会新役員左の如し
総務 山本悌二郎、三土忠浩、山本条太郎、
濱田國松、菅原伝、前田米蔵、山口恒太郎
幹事長 鳩山一郎
幹事 森恪、砂田重政、安藤正純、向井倭雄、岡田伊太郎、松岡俊三、井口延次郎、星島二郎、有馬頼寧山本芳治、山下谷次、森矗昶、青山憲三
会計監督 高山長幸、内田信也
臨時政務調査会長 大口喜六
同副会長 若宮貞夫、山崎達之輔
党務員会長 望月圭介
同副会長 秋田清、泰豊助
代議士会会長 武藤金吉
同副会長 井上孝哉、岩崎幸治郎
通信部長 木下謙次郎
同副部長 堀切善兵衛
顧問 中橋徳五郎、望月圭介、武藤金吉、東武、若尾璋八、秋田清、高橋光威、吉植庄一郎、上埜安太郎広岡宇一郎、木下謙次郎(
政友議員総会 : 田中総裁の激励演説『言わぬは言うに勝る』引用終わり)
写真(右)1936年3月9日、東京、内閣総理大臣に就任した廣田弘毅(1878年2月14日 〜 1948年12月23日)出身地 福岡県:父が石屋の養子となり、広田姓を名乗る。第一高等学校、東京帝国大学を卒業後、外務省に入る。大正12(1923)年欧米局長。その後、オランダ公使、ソ連大使等を歴任し、昭和8(1933)年斎藤内閣に内田外相の後任として入閣。岡田内閣では留任。11年3月、2・26事件後の組閣で首相に就任するが、翌年1月には総辞職した。同年貴族院議員となる。第1次近衛内閣で外相に就任。戦後、A級戦犯となり極東国際軍事裁判で文官としてはただ一人死刑となった。
出典:
歴代首相等写真【憲政資料室収集文書 1142】Portrait of Hirota Koki (広田弘毅, 1878 – 1948)
Date 1936
Source
国立国会図書館オンライン Japanese book Rekidai Shusho tou Shashin (歴代首相等写真)
National Diet Library This image is available from the website of the National Diet Library
写真はWikimedia Commons, Category:Kōki Hirota File:Kohki Hirota suit.jpg引用。
2−2.陸相の就任条件 : 四ヶ条を広田首相快諾
掲載誌
神戸新聞
Vol: 第 49巻
Page: 121
出版年
1936-03-06
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100301245
陸軍省では廣田[弘毅]新内閣に陸軍大臣を入閣せしめるについて軍事参議官会議および三長官会議で審議した結果新陸相を入閣せしめるについては陸軍として
一、国防の強化 一、国体の明徴 一、国民生活の安定 一、外交の刷新
の四箇条の条件を提示しその承認を得れば寺内寿一大将を新陸相として推すことに決定したので川島[義之]陸相は午後八時三十分より約半時間に亘り陸軍省首脳部と協議打合せを為したうえ九時十分陸相は組閣本部に広田新首相を訪問寺内寿一大将を後任陸相として推薦し同三十五分辞去、陸軍省において寺内[寿一]大将と会見如上の顛末を報告したので寺内大将は同九時四十五分組閣本部に廣田[弘毅]新首相を訪問右四箇条の就任条件を提示したところ廣田[弘毅]首相はこれを快諾したので寺内大将も正式に入閣受諾を回答して辞去したものである(陸相の就任条件 : 四ヶ条を広田首相快諾引用終わり)
写真(右)1934-1935年頃、日本陸軍中将寺內壽一伯爵(1879年(明治12年)8月8日 - 1946年(昭和21年)6月12日):星2個の陸軍中将の肩記章絵を着用。1923年に近衛師団参謀長。1927年に朝鮮軍参謀長、1930年に第5師団長、1934年に台湾軍司令官、1935年10月30日 大将に昇進、
1936年3月9日に陸軍大臣(広田内閣)、1937年1月 政友会浜田国松と腹切り問答、議会解散を要求し、広田内閣を総辞職に追い込んだ。1937年8月26日に新設された北支那方面軍司令官に就任、北京に赴任。山下奉文中将が1938年7月15日 - 1939年9月23日に参謀長として補佐した。1941年(昭和16年)11月に新設された南方軍(威集団)総司令官として、当初サイゴンに赴任。12月7日に太平洋戦争開戦で、マレー作戦(第25軍司令官:山下奉文中将)、シンガポール攻略、ビルマ侵攻、フィリピン作戦(第14軍司令官:本間雅晴中将)、蘭印(オランダ領インドシナ)作戦など一連の南方作戦を指揮した。1942年5月18日、南方作戦の完了を宣した。
1943年6月 元帥
English: Portrait of Count Hisaichi Terauchi as Lieutenant General (2 stars on his epaulettes). The photo was taken most likely before October 1935. Promoted to full General in October 1935 then Field Marshal on 6 June 1943. Commander of the Japanese Northern China Area Army (26 August 1937 - 9 December 1938). Commander of the Southern Expeditionary Army Group (6 November 1941 - 31 August 1945).
Date circa 1935
Source juntuanwang.com /general/186
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Hisaichi Terauchi File:Hisaichi Terauchi 2.jpg引用。
2−3.自由主義は事態を紛糾 : 寺内大将談発表
掲載誌
大阪時事新報
Vol: 第 49巻
Page: 126
出版年
1936-03-07
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100299546
寺内[壽一]大将は組閣本部より陸軍省に帰来後左の如き談を発表した
この未曾有の時局打開の重責に任ずべき新内閣は内外に亘り真に時弊の根本的刷新、国防充実等積極的強力国策を遂行せんとするの気概と実行力とを有する事が絶対に必要であって依然として自由主義的色彩を帯び現状維持又は消極政策により妥協退嬰を事とするのであってはならない積極政策により国政を一新することは全軍一致の要望であって妥協退嬰は時局を収拾する所以にあらずして却て事態を紛糾せしむるのみならず将来大なる禍根を貽すものというべきである、
右の趣旨に合致しない内閣が果して此の内外に亘る非常時難を克服し得るであろうか写真は談発表の寺内大将(電送)
[写真あり 省略](自由主義は事態を紛糾 : 寺内大将談発表引用終わり)
2−4.[西]園[寺]公、成行如何で寺内 [寿一]大将と会見 : 陸軍の総意聴取・局面収拾
掲載誌
大阪毎日新聞
Vol: 第 49巻
Page: 128
出版年
1936-03-07
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100300813
七日午前十時から行われる廣󠄁田[弘毅]外相と寺内[寿一]大将との会見は広田内閣の成否を睹するものとして重大視されているので西園寺[公望]公も深く事態の成行を憂慮し広田、寺内会見の結果如何によっては自ら寺内大将を招致して陸軍の要求に盛られた陸軍の総意を詳細に聴取して今後の局面収拾を計る決意をからむるに至った(園公、成行如何で寺内大将と会見 : 陸軍の総意聴取・局面収拾引用終わり)
写真(右)1936年3月10日、東京、首相官邸、大日本帝国首相 廣田弘毅(こうき):福岡県出身、東京帝国大学法学部卒、貴族院議員(勅選)として58歳で第32代 内閣総理大臣に就任した廣田弘毅だったが、1937年2月2日まで1年弱の政治生命だった。には,大きなインパクトがあったはずだ。右前列は、陸軍大臣寺内壽一(1879-1946)と海軍大臣永野修身(1880-1947)、右前列は佐渡出身の外務大臣有田八郎(1884-1965)。
English: Japanese Prime Minister Kōki Hirota (廣田弘毅, 1878–1948, in office 1936–37) and the members of his cabinet.
Date 10 March 1936
Source www.botanical.jp/ libraries/ou/200412/22-1826/
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Prime Minister's Official Residence (Japan) in 1936 File:Kōki Hirota Cabinet 19360309.jpg引用。
2−5.積極性を蔵しつつ漸次庶政を一新 : 陸軍把持の革新的傾向 [寺内寿一]陸相答弁で明白
掲載誌
大阪毎日新聞
Vol: 第 55巻
Page: 6
出版年
1936-05-07
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100058013
[伯爵]寺内[壽一]陸相はさき(三月六日)に広田[弘毅]内閣入閣に際し声明を発し
新内閣は自由主義的色彩を帯び現状維持または消極政策により妥協退嬰を事とするごときものであってはならない
と積極的強力国策の遂行を強調しさらに
積極政策により国政を一新することは全軍一致の要望
と言明して入閣に際しての所信を披瀝し、自来現内閣は右陸相の声明が指示するごとき方向に従って驀進せんとする気勢を示し来たったため現時局に対して陸軍の抱懐する革新意見は各方面から深甚の注目を払われて来たが、果然六日の衆議院本会議で政友会の濱田國松氏は寺内[壽一]陸相に対し前記陸相入閣に際しての声明を引証して
自由主義排撃と統制主義徹底の範囲
現状維持否定と現状破壊の程度範囲
国政一新の断行の方法とその程度
の三項目にわたり寺内陸相の見解を質しこれが答弁を求めた、これに対し寺内[寿一]陸相は
自由主義の排撃は国体観念を明徴ならしめ全体主義によって政治経済にわたる庶政の一新を要望したものなること
現状維持の否認は破壊を意味したものでなく、積極進歩を意味したものである
と明確に答弁し[寺内壽一]陸相声明の真意を説明するとともに庶政一新の基準を示したことはいわゆる革新政策に対する陸軍の動向を表明したものと見られる
即ち陸相の答弁に基く陸軍の意向は自由主義を排撃することによって個人主義的観念を除去し国家的全体観に則って国体観念を明徴ならしめもって思想国防の確立を期するとともに国家、国民全般の利益と一致せざるおそれある現経済政治の機構を一新して国家的統制力を大にすべきを暗示する一方これが実現の方法手段としては急激なる変革による現状破壊を避けてあくまで建設を目的とする積極的、進歩的の政策によるべきところに重点を置くものと解せられる
これによって陸軍の把持する革新的傾向が十分なる積極性を蔵しつつも大局的には漸を追うて国政一新を企図せることが明かになったわけで、この意味における寺内[寿一]陸相の答弁は現内閣の標榜する庶政一新今後の動向とも相関不離の関係あるものとして注目すべきものがあろう(積極性を蔵しつつ漸次庶政を一新 : 陸軍把持の革新的傾向 陸相答弁で明白引用終わり)
写真(右)1936年3月頃、東京、広田弘毅内閣の外務大臣に就任した有田八郎(1884年〈明治17年〉9月21日 - 1965年3月4日):第一高等学校、1909年(明治42年)東京帝国大学法科大学独法科卒、外務省入省。外務省アジア局長、オーストリア公使、外務次官、ベルギー大使、中華民国大使を歴任。1936年3月、広田内閣の外務大臣として初入閣。
English: Japanese politician Hachirō Arita (1884-1965) as Minister of Foreign Affairs in 1936.
日本語: 有田八郎 (1884-1965).
Date 1936
Source Bibliothèque nationale de France
Author
Agence de presse Meurisse
写真はWikimedia Commons, Category:Hachirō Arita File:Hachirō Arita 1936.jpg引用。
2−6.第32代廣田弘毅内閣(昭和11.3.9〜昭和12.2.2)帝国議会第70回(通常)[演説者] 有田八郎外務大臣
政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所)
本日茲に本院於テ帝國外交ノ方針及現况ニ關シ其概略ヲ陳述スルノ機會ヲ得マシタコトハ、私[有田八郎]ノ光榮トスル所デアリマス、客年五月ノ特別議會ニ於テ申上ゲマシタル通リ、帝國ノ國是ハ東亞ノ安定ヲ確保シ、由テ以テ世界平和ニ貢獻スルト共ニ、國際正義ノ確立ニ依リ人類ノ福祉ヲ増進スルニアリマス、
爾來之ガ實現ノ爲メ鋭意努力シテ來タ次第デアリマス現下ノ世界情勢ヲ大觀致シマスルニ、國際政局ハ依然トシテ安定ヲ缺キ、殊ニ共産「インターナショナル」[Communist International]即チ「コミンテルン」[Comintern]ノ活動ニ依リ、益々險惡トナリツヽアルヤウニ觀測セラルヽノデアリマス、
此秋ニ當リ我國ガ獨逸國ト客年十一月二十五日共産「インターナショナル」ニ對スル協定ヲ締結シマシタコトハ、誠ニ意義アルモノト申サナケレバナリマセヌ、本協定ハ我ガ國體ト背馳シ、且ツ人類ノ本然ト相容レザル共産主義的活動ニ對スル共同防衞ヲ本旨トスルモノデアリマス、共産運動ハ夙ニ我國ニモ侵入シ來リ、帝國政府ニ於テハ常ニ其彈壓ニ力メテ參リマシタコトハ、御承知ノ通リデアリマスガ、支那ニ於キマシテハ國民黨ノ容共政策以來漸次猖獗ヲ加へ、數年前江西福建ノ諸地方ニハ「ソビエト」區ノ設立ヲ見、又所謂共匪軍ハ各地ニ跳梁シツヽアッタノデアリマシテ、帝國トシテハ隣邦赤化ノ情勢ニ對シ尠カラズ憂慮シテ居タノデアリマス、
然ルニ一昨年夏「モスコー」ニ開カレマシタ第七囘「コミンテルン」大會ハ、其活動ノ主タル目標ヲ日本及獨逸等ニ置クベキコトヲ公然決議宣言スルト共ニ、所謂人民戰線結成ナル新戰術ヲ採用致シ、歐洲ニ於テハ二三諸國ニ於テ右戰術ガ成功シ、特ニ西班牙ニ於キマシテハ之ガ爲ニ内亂ノ勃發ヲ見、今尚ホ同胞相搏ツノ悲慘事ヲ現出シテ居ルノ實状デアリマス、他面東亞ニ於キマシテハ支那全國ニ亙ル所謂抗日人民戰線運動ニ依ッテ、日支關係ヲ阻害スルト共ニ、巧ニ支那ノ赤化ヲ企テ、滿洲國及我國ニ於テモ「コミンテルン」策動ノ兆候更ニ顯著トナッタノデアリマス……
〔此時發言スル者アリ〕
○議長(富田幸次郎君)靜肅ニ
○國務大臣有田八郎君)(續)此事態ニ直面シ、政府トシテハ「コミンテルン」ノ巧妙且ツ執拗ナル活動ニ對シ、從來ヨリモ一層嚴重ナル防衞措置ヲ講ジ、國體ヲ擁護シ、東亞ノ安定ニ資スルノ策ヲ立テザルヲ得ナカッタ次第デアリマス
帝國政府ハ國内ノ機關ニ依リ、是ガ査察防衞ニ遺憾ナキヲ期スルハ勿論デアリマスガ、「コミンテルン」ノ組織ハ國際的デアリマシテ、全世界ニ多數ノ支部ヲ有シ、相互ニ極メテ密接ナル連繋ヲ保チ、本部指導ノ下ニ各國特異ノ状况ヲ巧ニ利用致シテ居ルノデアリマスカラ、之ニ對スル防衞措置モ亦自ラ國際的協力ニマデ進マネバナラナイノデアリマス、是レ今囘獨逸トノ間ニ防共協定ヲ締結シ、情報ノ交換ヲ爲シ、必要ナル措置ヲ講究スルコトトナッタ所以デアリマス
今囘ノ協定ハ「コミンテルン」[Comintern]ノニ對スル共同防衞ヲ目的トシ、此目的ノ範圍内ニ於キマシテハ、何レノ國トモ進ンデ協定ヲ爲サントスルモノデアリマスルガ、右目的ノ範圍外ニ亙ッテ何等帝國政府ヲ拘束スルモノデナイコトハ、言フマデモナイ所デアリマス
本協定ノ性質ニ付キ誤解ヲ有シ、又危惧ノ念ヲ懷イタ向モアッタヤウデアリマスガ、本協定ハ國體ノ擁護及東亞ノ安定ノ爲メ、必要ニ基キマシタモノデアリマシテ、固ヨリ萬邦協和ノ精神ニ基ク各國トノ親善方針ニハ、何等變更ハナイノデアリマス
前議會ニ於テ申述ベマシタル通リ、帝國政府ハ益々日滿兩國民ノ融和ヲ圖リ、兩國善隣不可分ノ關係ヲ鞏固ナラシメントスルモノデアリマシテ、是ガ爲メ滿洲國ニ於ケル治外法權ノ撤廢、南滿洲鐵道附屬地行政權ノ調整乃至移讓ヲ實施スル方針ノ下ニ、其第一階梯トシテ客年六月十日、滿洲國トノ間ニ治外法權ノ一部撤廢及滿鐵附屬地行政權ノ調整ニ關スル條約ヲ締結シタノデアリマス、然ルニ右ハ滿洲國民ニ大ナル滿足ヲ以テ迎ヘラレ、其實施ノ状況亦極メテ良好デアリマス
滿洲國ガ國内各部門ニ於テ著々健實ナル發達ヲ遂ゲツヽアリ、又日滿經濟通商關係ガ益々緊密ノ度ヲ増シツヽアルノヲ見マスルコトハ、慶賀ニ堪ヘヌ次第デアリマス
帝國政府ハ曩ニ日支國交ヲ調整スルノ重要ナルヲ認メ、對支三原則ヲ提唱シテ、其方針ノ下ニ調整ヲ期セントシテ居ッタノデアリマスガ、昨年八月成都事件ノ發生ヲ見、引續キ北海其他ニ於テ、不祥事件ガ頻發シタノデアリマス、熟々是等事件ヲ考案シマスト、何レモ單ナル殺傷事件デハナク、排日的政策ノ結果デアルコトガ明瞭デアリマスノデ、
是等[排日]事件自體ノ解決ハ固ヨリ必要デアリマスガ、是ト共ニ其根柢ニ横ハル原因ヲ除去スルニ非ザレバ、其再發ヲ防ギ、我ガ在留民ノ生命財産ノ安全ト帝國權益ノ保護ヲ全ウシ得ズ、隨テ又日支國交ノ親善融和ヲ期待シ得ナイト認メマシタノデ、帝國政府ハ南京政府ヲシテ、進ンデ不祥事件ノ再發ヲ其源ニ於テ防止セシムル爲メ、事件發生ノ根本原因タル排日策動ノ取締ニ關シ、誠意實行ニ當ルコトヲ要求スル一方、國交調整ニ必要ナル諸問題ニ對スル考慮ヲ求メタノデアリマス、
即チ消極的ナル排日取締ヨリ一歩ヲ進メテ、排日策動ノ原因タル[1927年設立]南京政府ノ對日態度ヲ改メシムルト共ニ、日支國交改善ニ關スル同政府ノ誠意ヲ具體的問題ニ付キ表示スルコトヲ慫慂シタノデアリマス、九月初旬ヨリ三箇月餘ニ亙リ、南京ニ於テ彼我代表者ノ間ニ折衝ガ重ネラレタノデアリマスガ、支那側ノ態度ニ鑑ミ、徒ニ交渉ヲ遷延セシムルコトハ、事態ヲ紛糾セシムルニ過ギズト思考致シマシテ、十二月上旬ニ至リ從來ノ話合ニ依ッテ雙方意見ノ一致セル點ハ、[蒋介石]南京政府ニ於テ速ニ之ヲ實行ニ移サンコトヲ要求スルト同時ニ、爾餘ノ點ハ引續キ話合ヲ進ムルコトト致シマシタ、其結果成都及北海事件自體ハ、十二月三十日解決ヲ見タル次第デアリマス
只今申上ゲマシタ通リ、交渉ハ未ダ所期ノ成果ヲ收ムルニ至ラズシテ、目下停頓ノ状態ニアリマスガ、今日マデノ交渉ハ來ルベキ展開ヘノ段階トシテ、大ナル意義ヲ有シテ居ルモノト信ズルノデアリマス、日本ノ支那ニ對スル根本方針ガ日支提携デアリ、共存共榮デアルコトハ言フヲ俟タナイノデアリマスカラ、努力ヲ新ニシテ更ニ調整ニ乗出スコトハ、兩國政府ノ義務デアルト共ニ、又兩國國民ノ希望デアルト[有田八郎は]信ズルモノデアリマス
西安ニ於ケル異變ニ際シテ、帝國政府ハ公明正大ナル態度ト重大ナル關心ヲ以テ、事態ノ推移ヲ靜觀シタノデアリマスガ、大事ニ至ラズシテ收拾サレントシツヽアルハ、隣邦ノ爲メ洵ニ慶賀スベキコトデアリマス、此[西安]事件ノ當初ニ於テ張學良ハ容共抗日ヲ標榜シタ經緯モアリ、本事件ノ始末如何ハ、東亞ノ大局ヨリ見テ重大ナル影響ガアリマスカラ、帝國政府トシテハ之ガ成行ヲ注視シテ居ルノデアリマス
「ソビエト」聯邦ニ對スル帝國ノ方針ガ、正常關係ヲ維持確立スルニアルコトハ勿論デアリマス、帝國政府ハ日「ソ」間ノ諸懸案ヲ解決スルコトガ、兩國善隣ノ關係ヲ増進スル所以デアルトノ見地ヨリ、咋年中漁業條約ノ修正、滿「ソ」國境劃定竝ニ紛爭ノ處理問題等ニ付キ交渉ヲ進メ、傍ラ北樺太油田試掘延長問題ニ關スル我ガ當業者代表ト、「ソ」政府當局トノ間ノ交渉ヲ援助シタノデアリマス
石油問題ハ昨年十月我ガ當業者代表ト「ソ」政府當局トノ間ノ、試掘期限五箇年延長ノ契約成立シ、又新漁業協定モ一年有半ニ亙ル商議ノ結果、昨年十一月中旬案文ノ確定ヲ見、將ニ調印セラレントシタノデアリマスガ、其間際ニ至リ「ソビエト」政府ハ國内手續未了ナリトテ調印ノ延期方ヲ申出デ、其後容易ニ調印ニ應ジマセヌノデ、我方ヨリ北洋漁業權ノ本質及是ガ行使規定タル漁業條約ハ、不斷ニ存續スベキ立前ナルコトニ付キ再三先方ノ注意ヲ喚起シ、折衝致シマシタ結果、舊臘二十八日暫定取極ノ締結ヲ見、本年ノ出漁ニ支障ナキコトトナッタノデアリマス、新協定ノ調印ニ關スル交渉ハ勿論之ヲ繼續シ、其解決ヲ期スル次第デアリマス(「慘憺タル外交失敗史ダ」ト呼フ者アリ)尚ホ滿「ソ」國境劃定竝ニ紛爭處理委員會ノ設置ハ、日滿「ソ」三國間紛爭防止ニ多大ノ貢獻ヲ爲シ、三國間ノ國交調整ニ益スルコト尠カラザルベシトノ見地ニ基キ、曩ニ我方ヨリ進ンデ提唱シタモノデアリマスガ、之ニ關スル原則的問題ニ付キマシテハ、一二ノ點ヲ除クノ外意見ノ合致ヲ見タノデアリマシテ、帝國政府ニ於テハ本問題ノ成ベク速ニ解決セラレンコトヲ希望シテ居ルノデアリマス
斯ノ如ク帝國政府ニ於キマシテハ、「ソビエト」聯邦トノ平和關係ヲ確立スルコトニ力ヲ致シテ居ルノデアリマスガ、之ニモ拘ラズ「ソ」聯邦側ニ於テ(「嘘々、嘘ッパチヲ言ヘ」ト呼フ者アリ)滿「ソ」國境ニ不釣合ナ軍備ヲ維持スルノミナラズ、我方ノ行動ヲ以テ侵略的ナルカニ言觸ラスコトサヘアリマスコトハ、甚ダ遺憾トスル所デアリマス〔「イカヌ、イカヌ、取消セ」ト呼フ者アリ〕(第32代廣田弘毅内閣(昭和11.3.9〜昭和12.2.2)帝国議会第70回(通常)有田八郎外相演説 引用終わり)
図(上):官報號外、第70回帝国議会 衆議院本会議 1937年1月21日21ページ:図は、帝国議会会議録検索システム 第70回帝国議会 衆議院 本会議 第3号 昭和12年1月21日引用
図(上):官報號外、第70回帝国議会 衆議院本会議 1937年1月21日22ページ:図は、帝国議会会議録検索システム 第70回帝国議会 衆議院 本会議 第3号 昭和12年1月21日引用
写真(右)1937年1月21日、東京、国会議事堂、第70回帝国議会、首相廣田弘毅の手前で答弁する伯爵寺内壽一陸軍大臣:手前の寺内壽一陸軍大臣は、立憲政友会・濱田國松(70歳)議員の軍部批判に対して怒りをあらわにした。
日本語: 第70回議会で濱田國松議員の軍部による政治干渉を批判した演説に対し、険しい表情で「或は軍人に対しましていささか侮蔑されるような如き感じを致す所のお言葉を承りますが」と反駁する寺内壽一陸相 (手前)。この両者の間の問答(割腹問答)が廣田内閣瓦解につながった(奥が廣田弘毅総理)。
English: Japanese War Minister Hisaichi Terauchi (1879–1946, right) countercharging Rep. Kunimatsu Hamada’s speech accusing military interference in politics. The dialogue (known as the Hara-kiri Argument) would lead the government head by Prime Minister Kōki Hirota (1878–1948, in office 1936–37, back) to resignation.
Date 21 January 1937 / 1937年1月21日
Source syasinsyuu.cool.ne.jp/seiji/32.jpg
Author Asahi Graph 3 February 1937 issue / 『アサヒグラフ』昭和十二年二月三日號
写真はWikimedia Commons, Category:Prime Minister's Official Residence (Japan) in 1936 File:Hirota and Terauchi during the Kappuku-mondou.jpg引用。
写真(左)1936-1938年頃、東京、三重県選挙区選出・立憲政友会の濱田國松 (1868−1939):濱田國松は、1925年に立憲政友会に参加、1934年12月26日 - 1936年1月21日、1904年3月1日 - 1939年9月6日に衆議院議員。
生年月日 明治元年三月十日 (1868)
親名・続柄 山村楳香の二男
家族 妻 かね 明四、七生、三重、平、山本代造二女
男 幹 明二一、七生
男 三雄 明二七、一一生
養子 ひさ 明二一、八生、三重、平、小林鹿吉長女
君は三重縣平民山村楳香の二男にして明治元年三月十日を以て生れ二十年三月先代清三郎の養子となりて家督を相續す夙に三重縣師範學校を卒業して小學校訓導となり後上京して東京法學院に入り業成りて歸郷し町會議員郡會議員等に選はれ更に同縣郡部より推されて衆議院議員に擧けらる
家族は前記の外五男英五(明三三、七生)二女好(同三六、二生)六男從六(同三七、七生)あり
二男耕二(同二六、七生)は三重縣人岡村ひさの死跡を相續し長女初枝(同二九、九生)は同縣平民小岐須彌三郎の養子となれり(人事興信録
第4版 [大正4(1915)年1月]引用)
日本語: 濱田國松
English: Rep. Kunimatsu Hamada (1868–1939).
Date Unknown date
Source www.cc.matsuyama-u.ac.jp
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Kunimatsu Hamada File:Kunimatsu Hamada 3.jpg引用。
2−7.問題の浜田氏の演説 : 衆議院本会議【二十一日】
掲載誌
大阪毎日新聞
Vol: 第 42巻
Page: 90
出版年
1937-01-22
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100314378
再開第一日二十一日の帝国議会は貴族院は渡辺千冬子(研究)衆議院は桜内幸雄氏(民政[党])濱田國松氏(政友[会])の三氏が質問演説に起ったが右三氏がその論述したところによれば、それらの諸問題が畢竟「軍部と国政」の関係に帰趨していると見る点において三者全く共通しており、しかも政府側の答弁は広田[弘毅]首相以下全く精彩を欠き質問の要点に触れておらず、ために両院の政府に対する空気は早くも悪化の気勢を示している
二十一日衆議院本会議では民政の桜内[幸雄]氏の質問に対し別項(二面掲載)の如く広田[弘毅]首相答弁し、桜内氏は重ねて質問の後午後四時二十八分[立憲]政友会の闘将浜田国松氏登壇
濱田國松氏(政友[会]) 近年のわが国情は特殊の事情により国民の有する言論の自由に圧迫を加えられ国民はそのいわんとするところをいい得ず僅に不満を洩らすの状態に置かれている(この時また田淵豊吉氏弥次り出したので岡田議長代理退場を命ずる)この国情の下に行う質疑であるが、親切、明快なる御答弁を得たい、軍部は近年自ら誇称してわが国政治の推進力はわれわれにあり乃公出でずんば蒼生を奈何せんの概がある、
要するに独裁強化の政治的イデオロギーは常に滔々として軍の底を流れ時に文武恪循の堤防を破壊せんとする危険がある、広田[弘毅]内閣にして真に庶政一新を断行せんには何事をさしおいてもまず粛軍とともにこの重圧を排除するの緊急なるに拘らず、現内閣の優柔不断なるかえって政治の推進力を軍の一角に求めるの結果漫然たる全体主義のもとに
(一)行政ファッショの強化に熱中し議会機能の伸張に誠意を欠き
(二)国民の負担力を顧慮せず尨大、無軌道の大予算と杜撰不均衡の大増税を企画、全面的の経済恐慌を惹起せんとし
(三)更に軽率なる経済統制に着手して産業界の混乱を吟醸せんとし
(四)武力外交を加味する国際政局の全面的行詰りもまたこのイデオロギーの一産物であって内外政情の緊迫すでにかくのごとし、
なおこれを秕政一掃、庶政一新といい得べきであろうか、わが国の既成政党は憲法第二十九条に基づくいわゆる政事結社にして憲法上の公認を得た憲政運用上の国民的政治機構であって決して朋党比周の私的機関ではない、明治大帝がわが国民に対しこの公権を附与せられたゆえんは実に一君万民政治の神髄に触れた有難き思召に出たもので大帝は一面軍人勅諭において天下公知のいわゆる「軍人は世論に惑わず政治に拘らず」と仰せられた、
以上の二大精神を拝察するとき、軍民一致の新体制などというものが果して憲法制定の精神に適合するものであろうか、軍人も無論国民の一人である、政治運動をなさんとすればよろしく軍服を脱ぎサーベルを捨て無腰になって政党を作るのがよろしい、軍民一致という対蹠的観念に根本の誤りがある、軍という立場において政治を動かさんとするところに危険がある、
さきの関東軍司令官の[満洲国]協和会声明書内容指示など「民主議会政治のひそみに倣わず(中略)満洲国政治は[満洲国]協和会これが裏たり、満洲国政府これが表たり、しかして日本精神はこれに一致す」というイデオロギーが日本へ入込んで来たような感じがある、既成政党にもし腐敗、堕落ありとせばそれはむしろ軍閥官僚の誘惑がその俑を作ったのではないか、
議員の歳費が八百円から二千円に一躍増加したのは軍閥政府のある政治工作であったことを国民はすでに忘れている、二師団増設案通過の困難なるや黄白を衆議院内に撒布して議員を買収したのは時の政府大臣ではなかったか、政党人にも時に涜職収賄の悖徳者は出る、軍部もまたしかりである、現内閣は以上わが国政治の実相に照し軍の政治的推進力を藉ることをもってその標榜するところの憲政運用上はたして有益適正なりと認むるや否や、この機会においてこれを拝聴いたしたい
(一)貴族院令の改正は高閣に束ねられ
(二)議院制度の改正は一大骨子の常置委員制度を閑却し
(三)新設の内閣総務庁と内閣経済会議の対立は行政の複雑化を醸してその相剋と摩擦をみんとする
(四)さらに驚くべきは満洲事変以来ようやく二倍に増加したわが工業生産力に臨むに三倍の軍事予算をもってせんとするがごとき物価の騰貴、国民生活の脅威、予算の不消化は当然の帰結ではないか、
予算の先議権を有するわが衆議院はよろしく国民の経済力を適正に培養するいわゆる広義国防の本義にかんがみ何らの威圧にも屈せず、何らの操縦にも惑わず慎重審議政治的良心のもとに適当の措置を予算および増税案に加えて国民の要望に副うべきである、
ただ今の[広田弘毅]首相の演説中に「今回の施設計画は少くともこの程度までは万難を排して実現せねばならぬ」という意味があったが万難を排してもという意味は議会解散を賭してでもという意味であるか、政府はよろしく時局の大勢を達観し無益の面目観に捉われず前段の意味を率直明快に説明せらるべきである、さらに現下の行詰れる外交問題について見れば対支外交は全面的停頓状態に瀕し、日露漁業本条約は批准不能に陥り、[1936年]日独[防共]協定もまた国の内外において幾多の誤解を醸している、
ここに多元外交と武断外交の余弊が認められる、況や官僚独自の秘密外交に至っては時代錯誤の甚しきものであって政府は国民外交の支援を藉るためまず国民の前に一切の真相を詳細説明せらるべきである(とて日露漁業条約批准不能の原因を述べ)思うに国際条約締結は大権の発動である、故に条約の批准そのものは特殊の国体に立つわが国情としてはいわゆる国体明徴の国民観念に立脚して綸言汗の如き厳粛の意味を含み、従ってこれが批准の前提行為たる政府ならびに最高諮詢府たる枢密院の可決を得たに拘らず遂に批准完了の結果を見る能わざりしは主観的に観察して一種の国家的侮辱であり国威の失墜である、
わが国体と憲法政治の常道上批准不能の結果に対し広田内閣はそもそもいかなる責任をとらんと欲するか、事は輔弼の重責と国民思想に大影響あり政府は厳粛なる意味をもって明白に答弁せられたい
[写真(浜田国松氏 三重県第二区(七十歳)あり 省略]
浜田氏最後に「[広田弘毅]首相は現内閣は如何なる事情のもとにおいても憲法政治にそむくような施政はとらないと明言されたが、憲法政治は即ち国民の議会政治である、官僚の秘密政治にあらざることは明かである」と二時間に近い質問演説を終り急霰のごとき拍手裏に悠々降壇、これに対し
[広田弘毅]首相 現内閣は各種の改革案を有し殊に外交の刷新については十分検討して方針を樹立した[1936年]日独[防共]協定の如き全くこの方針に出たものである、
政府がファッシズム的な思想を基調として政治を行っているかの如くいわれるが非常な誤解である、政府は常に「[五箇条の御誓文第一条]万機公論に決す」る憲法政治の本義を尊重している、また軍のみが政治の推進力であるとは思っていない、政党はじめ各方面の協力によって政治を行って行く積りである
外相 露国の漁業条約調印拒否は[1936年]日独[防共]協定成立を誤解したためで昨年末における今後一ヶ年の暫定取極は露国が実情を諒解し態度を緩和して来た証拠である、対支交渉は停頓している、努力を新たにして打開をはかるつもりである、まだ失敗と断ずるのは尚早で長い過程の一部として見て戴きたい、
[1936年]日独[防共]協定もそれが防共の範囲を出ないものであり、積極的な侵略政策への転換やファッショ・ブロックへの参加を意味せざることが明かになれば関係諸国の誤解も次第に氷解するであろう
と答弁あり、浜田氏別項の通り[伯爵寺内壽一]陸相と一問一答を行う、次で中山福蔵氏(民政[党])緊急質問ありとて登壇、桜内幸雄氏の質問に対する外相の答弁中「支那に対する恫喝云々」と述べたのに対し質問者がこの言葉を使用せざるに拘らずかかる答弁をした不注意をなじれば外相あっさりこれを取消して午後六時二十分散会
写真(右)1936-1938年頃、東京、尾崎邸宅、同じ三重縣選挙区選出・立憲政友会の濱田國松 (左) と尾崎行雄(咢堂:がくどう):尾崎行雄は、立憲政友会の創立に参加し、憲政本党を脱退した。1898年に文部大臣(第一次大隈内閣)、1903-1912年に東京市長、1914−1916念に司法大臣(第2次大隈内閣)、1890−1953年に衆議院議員。
日本語: 濱田國松 (左) と尾崎行雄
English: Reps. Kunimatsu Hamada (1868–1939) and Yukio Ozaki (1858–1954).
Date Unknown date
Source www.synapse.co.jp
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Kunimatsu Hamada File:Kunimatsu Hamada and Yukio Ozaki.jpg引用。
濱田[國松]氏と[伯爵寺内壽一]陸相の一問一答内容
二十一日の衆議院本会議第一日国務大臣の施政方針演説に対する浜田国松氏(政友[会])の質問中俄然重大化したいわゆる"軍人侮辱問題"の一問一答左の通り
寺内[寿一]陸相 (前略)先ほどから濱田[國松]君が種々お述べになりましたお言葉を承りますと、中には或は軍人に対し聊か侮蔑されるような如き感じを致すところのお言葉を承りますが、これらは却って浜田君のおっしゃるところの軍民一致のお言葉に背くのではないかと存じます、軍部大臣の運用範囲を定められました際におけるところの処置が何か隠れてそういう処置をいたしたように述べられましたが私は決してそういう処置はとりませぬ、堂々と軍の必要上これを処理いたしましたので御座います、その他はここに答弁を差控えて置きます
濱田[國松]氏 ただ今の首相以下の御答弁に対して再質疑致すことも数々あります、一言にしていえば御答弁としては親切明快の御答弁であるかも知れないが承った私からはちっともわからぬ(中略)ただこの場合一言申上げたいとの思うのは陸相寺内[寿一]君は私に対する答弁のうちで浜田の演説中軍部を侮蔑するの言辞があるということを仰せられた、どこが侮辱している、私どもはこの議場に起っても国家のために軍の名誉のために最も善意をもって出来得る限り慎重の注意をもって御質疑を申上げたつもりである、
その私に軍部を侮辱するような意思などのありようはずはないが私も生きたる人間多数出した声の中に言葉の使い方が悪かったこともあるかも知れぬ、悪かったら相済まぬことであるからこの席でたしかにこの言葉を聞いた数千人の傍聴—国民の前で取消すのが順序である、追って速記録を調べて云々というようなごまかしの取消しなど私はしない、閉会時間が延びて議場の諸君にも、御迷惑であられる、閣僚諸君の御疲労にも遠慮いたさんければならぬ、いやしくも国民代表者の私が国家の名誉ある軍隊を侮辱したという喧嘩を吹掛けられてあとへ引けませぬ、私の何等の言辞が軍を侮辱いたしましたか事実を掲げなさい、抽象的の言葉ではわかりませぬ、この問題がこの席上において同僚の立会証明をもって証明せられない以上は私は議長が散会を宣言せられぬことを希望いたします
寺内[寿一]陸相 私はただ今浜田君がいわれたようなことを申してはおりませぬ、速記録をよく御覧下さいまし……侮辱するがごとく聞えるところの言辞は却って浜田君のいわれる国民一致の精神を害するから御忠告を申したのであります、どうぞ速記録を御覧下さいましてお願い致します
浜田[国松]氏 質疑に関する議員の登壇は三回の制限を受けております、何回でもというわけには行きませぬ、もうこれで如何に不満不平があっても登れないのであります、ゆえに少し寺内さんに申上げますが私はますます不満を重ねます、あなたはただいまのお話で侮辱したる言葉はないけれども侮辱したりと思うような言葉があるということが或はあっては浜田の希望するところの軍との協力、挙国一致も望まれないのであるから忠告するといわれる、私は年下のあなたに忠告を受けるようなことはしない積りである、あなたは堂々たる陛下の陸軍大臣であられる、
しかしながらあなたも国家の公職者であるが不徳未熟衆議院議員浜田国松も陛下のもとにおける公職者である、封建思想や官僚独善主義からいえばあなたは役人で私は町人かも知れぬけれどもそうじゃありませぬ、私は公職者殊に九千万人の国民を背後にしている公職者であるあなたより忠告を受けなければならぬことをこの年をとっている私がしたならば私は覚悟して考えなければならぬ、天下に謝さなければならぬ、
あなたはそんな無責任な侮辱したことをいうたと最初にいっておいて今度は侮辱に当るような疑いのあるというところまでぼけて来た、どこがそこに当るのだとお尋ね申してもこれが当るということをいわれないのは日本の武士というものは古来名誉を尊重します、士道を重んずるものである民間市井のならず者のように論拠もなく事実もなくして人の不名誉を断ずることが出来るか、これ以上は登壇することが出来ない、速記録を調べて僕が軍隊を侮辱した言葉があったら割腹して君に謝する、なかったら君割腹せよ
寺内[寿一]陸相 ただ今私が前言と違ったことを申したように申されましたが、よく速記録を御覧下さいましてお願い致します
(問題の浜田氏の演説 : 衆議院本会議【二十一日】引用終わり)
図(上):官報號外、第70回帝国議会 衆議院本会議 1937年1月21日30ページ:図は、帝国議会会議録検索システム 第70回帝国議会 衆議院 本会議 第3号 昭和12年1月21日引用
図(上):官報號外、第70回帝国議会 衆議院本会議 1937年1月21日31ページ:図は、帝国議会会議録検索システム 第70回帝国議会 衆議院 本会議 第3号 昭和12年1月21日引用
写真(右)1938年5月25日頃、中国中部、江蘇省徐州入場式前後、日本陸軍中支那派遣軍司令官畑俊六大将(1879-1962) と北支那方面軍司令官伯爵寺内壽一大将(1879―1946):1937年12月の南京占領後、日本政府は1938年1月16日に近衛首相が「国民政府を対手とせず」と声明し、南京以西への侵攻を続けた。北支那方面軍司令官に就任した寺内大将は、黄河を超えた作戦を、中支那派遣軍は津浦線(天津―浦口)を打通して南北の占領地を繋げることを要望していた。3月1日、参謀本部河辺虎四郎作戦課長の後任となった稲田正純中佐は、攻勢を認めたが、台児荘の戦いで、李宗仁率いる中国軍に反撃を許してしまい、この汚名を挽回するためにも、5月初旬に中支那派遣軍(司令官畑俊六大将)と北支那方面軍(司令官寺内寿一)による徐州攻略・中国軍殲滅作戦を台児荘近郊で開始した。1938年5月25日、北支那方面軍司令官・寺内寿一大将と中支那派遣軍司令官・畑俊六大将はそろって徐州を占領、入城式をおこなった。しかし、中国軍主力を包囲できずに脱出を許し、殲滅することはできなかった。そこで、追撃戦として、6月15日、大元帥昭和天皇の下、御前会議で武漢作戦と広東作戦の実施することが決定された
日本語: 1938 年畑俊六(左)与寺内寿一(右)在徐州合影
English: Hata Shunroku (left) with Field Marshal Terauchi Hisaichi in Xuzhou
Deutsch: Links: Hata Shunroku (畑俊六, General; 1879-1962) Rechts: Terauchi Hisaichi (寺内寿一, Generalfeldmarschall; 1879–1946) bei Xuzhou
Date
1938
Source
www.tianya.cn/ publicforum/
Author
Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Hisaichi Terauchi File:1938 terauchi hisaichi.jpg引用。
写真(右)1935年10月−1942年頃、日本陸軍大将寺内壽一伯爵(1879―1946):1935年10月30日 陸軍大将に昇進し、星3個の肩記章を着用した。1936年3月9日に陸軍大臣(広田内閣)、1937年1月 政友会浜田国松と腹切り問答、議会解散を要求し、広田内閣を総辞職に追い込んだ。1937年8月26日に新設された北支那方面軍司令官に就任、北京に赴任。山下奉文中将が1938年7月15日 - 1939年9月23日に参謀長として補佐した。1941年(昭和16年)11月に新設された南方軍(威集団)総司令官として、当初サイゴンに赴任。12月7日に太平洋戦争開戦で、マレー作戦(第25軍司令官:山下奉文中将)、シンガポール攻略、ビルマ侵攻、フィリピン作戦(第14軍司令官:本間雅晴中将)、蘭印(オランダ領インドシナ)作戦など一連の南方作戦を指揮した。1942年5月18日、南方作戦の完了を宣した。
1943年6月 元帥
日本語: 寺內壽一
English: Hisaichi Terauchi (1879–1946)
Date c. the 1930s
Source tupian.baike.com/doc /寺内寿一/
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Hisaichi Terauchi File:Hisaichi Terauchi.jpg引用。
2−8.寺内陸相の拒否回答
大阪朝日新聞
Vol: 第 55巻
Page: 85
出版年
1937-01-26
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100305275
一
陸軍三長官会議の決定を経、寺内[壽一]陸相が宇垣[一成]大将に齎したる回答は、推挙の陸相候補者は三人とも悉く辞退したとのことであるから形式においては総括的の支援拒絶ではないが、事実においては組閣本部と陸軍側との絶縁状態を意味し、致命的な回答が与えられたものと憂慮されている。陸軍の長老と認めらるべき宇垣氏の懇請に対してかくも次ぎ次ぎに推薦を拒絶する者が出づるのは、傍人より見て怪訝に堪えないものがあるのであって、かくては意図においてはたといしからずとも、結果においては陸軍の総体的入閣拒絶が組閣を阻止することとなるものと見られる。従って大命の重んずべく、奉ずべきの理において、最も敏感なるを誇とする軍部として、この結論に立至ったについては国民を納得せしむるに足るだけの公然の理由が示さるべきであると思う。
二
陸軍の宇垣[一成]内閣に対する反対論は、内面にいかなる具体的事実があるかは知らぬが、表面にはただ抽象的に粛軍の達成と部内の統制上の困難というだけであって、巷説による想像以外には確的に捕捉できないのであるが、他面、国民の知識としては、宇垣[一成]大将が嘗て陸相として、また朝鮮総督として多年行政上の成績を挙げ、貫禄においても申分のないことは一般に認むるところであり、万年首相候補とも称せられた人だけに、この適材払底の際、一度はその力量を試みさせてしかるべしとするごとくであり、殊に難局打開には、過去の内閣の経験に徴しても、首相その人に曲りなりにも自発的創意のあることを要する資格上の考慮からも、宇垣氏はほぼその条件を満たすに足ると考えているのである。去る二十五日大命降下以来、軍部以外の一般社会には各階層を通じて概して氏の組閣は歓迎せられ、数年以前ならば決してかくまでにはなかったはずの人気が、氏に向って集中せられているのを否むことは出来ない。
厳密に批評するならば、政治家としての氏の為人には相当のいい分がないでなく、殊に相当の機会主義者と解せらるるだけに、氏の今後の施政方針に果して全幅の信頼を置き得るかは、殊に現在のごとく組閣方針についても政策綱領についても一切表示を欠く場合において、断言の限りではない。しかるにも拘らず、今日一般に宇垣[一成]内閣出現を望む傾向が看取せられ、輿論機関ほとんど一斉にこれを支持するかに見えるのは現下切迫の事情が何か人心の機微に触れるからではなかろうか。陸軍としてもすでに大命を拝し、一般的支持ある老将軍を紐帯として軍民一致を強化し、軍内の一致統制を拡充して、これを国民全部におよぼすの途はなかったのであろうか。
三
軍部大臣現役武官制を中心に、その政局に対する絶大の支配力あることにより、組閣を流産に終らしめるのは、いま眼前に大きな問題につき国民の一致支持を求め、今後着々理想を実現せんと期する軍部の遠き慮かりからいって果して賢明であるか。現在の組閣難打開に対する国民の熱烈な希望は、不幸にしてそれが不成就の後、いかなる影響となって顕われるであろうか、真の軍民一致を衷心から希望する余り、切に事態の成行を遺憾に思うのである。
力を持つものは、それだけに重大な責任を負う。軍部大臣現役武官制によって内閣活殺の実権を有するだけに、その権限行使に最も慎重の態度を要し、敬虔謙虚の念を抱かねばならぬのであり、広義国防のために常に国民の協力を要請する立場にある陸軍として、自己の協力に関してもその力が大であればあるほど一層自重すべきことは多言を要しないと思う。(寺内陸相の拒否回答引用終わり)
3.1937年の日中戦争以降,日本軍は,政治干渉を強めた。そして軍閥政治,軍事国家,兵営国家といわれるようになる。日本軍の上層部,すなわち陸軍参謀本部,海軍軍令部の将官・高級将校が政治に干渉するだけでなく,自ら政治を指導し,政治を行うようになる。文人ではなく,軍人が政治権力を握った国家へと変貌してゆく。
日本では,統治権と統帥権(とうすいけん)とが天皇にあったが,実務上は,統治は行政として内閣が,立法として帝国議会が,司法として裁判所があった。また,軍には陸軍と海軍の二軍があるが,内閣の下にある陸軍省,海軍省の扱う統治(軍政:軍の行政事務)と陸軍参謀本部・海軍軍令部が扱う統帥(軍令:軍事指揮権)が分かれていた。
日本軍は,政府・内閣からの独立して統帥権に服すとされ,軍部大臣現役武官制,天皇への帷幄上奏権が認められていた。これらの権利に対して,内閣,帝国議会は介入できなかった。軍令(統帥)と軍政から独立しているために,軍政の長である陸軍大臣と海軍大臣も,統帥には介入できなかった。
統帥権は、大日本帝国憲法第11条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」と規定され,軍の指揮権である。そして,天皇大権として,統帥権,帝国議会召集・命令発布・文武官の任免・宣戦、栄典授与があった。これらは,議会の参与なくして単独で行いうる。
つまり,国政には,国務大臣の輔弼(ほひつ)が必要だが,天皇大権の一つである統帥権は,政府(内閣)と帝国議会の関与はできないことになる。これが,統帥権の独立である。(たむたむ「統帥権干犯問題」参照)
統帥権の独立によって,陸軍参謀総長・海軍軍令総長だけが,天皇を輔弼出来るとされた。内閣の構成員である首相,蔵相,陸軍大臣・海軍大臣も,統帥に関して容喙することは許されなかった。
文民に対して,軍部を対比すれば,戦争の長期化,戦争予算の拡大,兵士の動員,労働力の徴用など,軍事の範囲が拡大する状況で,軍部の影響力は大きくなった。戦争が政治の延長とするならば,文民統制が主張されてもおかしくないが,総力戦を戦うために戦争の延長線上に政治があるとなれば,軍部による政治関与が大きくなってくる。
1937年1月の第70回帝国議会でも,防空法,軍機保護法改正が議論されたが,治安維持法の強化,1938年の国家総動員法など,動員の円滑化,世論統一,治安維持を名目に,軍の影響力が立法の上でも強くなっていった。
軍閥政治のもう一つの推進力となったのは,テロである。軍が暗黙裡に支持しているかのような,政治家,実業家の暗殺・襲撃事件も起こっていた。1929年の無産政党首班・山本宣冶刺殺,1930年の浜口雄幸首相狙撃暗殺,1932年の血盟団による元蔵相・井上準之助暗殺(2月)と三菱財閥・團琢磨暗殺(3月)などである。
軍に逆らえば,暗殺され,圧力を掛けられる。恐怖によって人を支配するテロが,日本軍によって起こされたテロは,1932年の五・一五事件,1934年の二・二六事件という軍の反乱である。軍への反対派と見られていた政治家は,昭和維新を目指す皇道派率いる反乱軍によって殺害された。
統帥権の独立を楯にした軍部による政治干渉,テロとその暗黙の支持によって,大日本帝国は,軍閥政治,軍事国家(garrison state),兵営国家に変貌しはじめたといえる。このような「昭和維新」に賛同した民間人,総動員体制作りに熱心な革新閣僚,領土・権益拡大に熱心な財閥も,軍閥政治を歓迎していたのかもしれない。
4. 近衛文磨首相は,1937年7月7日,盧溝橋事件当時の内閣総理大臣であり,降伏の玉音放送の流れた1945年8月15日のちょうど7年前,1937年8月15日,「暴支膺懲」声明は,日中戦争を長期化させ,アジア太平洋戦争の契機となった。つまり,軍部だけが日中戦争を主導したのではなく,近衛首相など内閣,帝国議会も日中戦争を自ら推し進めていた。軍閥政治を完成させたのは,このような文民政治の頽廃にあったとも考えられる。
写真(右):大日本帝国首相近衛文麿:1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップを確保しようとした。息子は米国スタンフォード大学に留学させた。
現地には,牟田口連隊長(1944年のインド侵攻インパール作戦を指揮)のような強硬派軍人が幅を利かせていた。満州事変での石原莞爾の成功(参謀本部作戦課長に昇進)以来,軍事行動は,統帥部(参謀本部・大元帥昭和天皇)に事後承認された。厳粛なはずの軍紀が、命令を出しても現地軍が守らないという下克上の心配があった。日本軍では、軍紀の乱れ(軍紀紊乱)が深刻だった。上級指揮官が,満州事変の張本人であれば,部下を統制し,武力発動を抑制することは容易ではない。現地指揮官から見れば,上司のかつての独断出兵を見習っているだけである。
この意味で,中国に展開する日本軍は,戦争拡大を望んでいたということが出来る。
『アサヒグラフ』第二十九巻第四号1937年7月28日発行は「特輯 北支事変画報第一報」で,1937年8月4日発行では「愛馬を労わりつつ」警備に出動する騎兵の行進,8月18日発行では「南苑総攻撃に従軍」として「二十九軍の兵が汚い服を血に染め斬れぬ青龍刀を無造作に投げ出したまま死んでいる。味方の死骸を見ると胸迫り涙がでるのに支那兵を見ると別に何の気も起こらない」と記している。
『アサヒグラフ』1937年8月4日発行では「愛馬を労わりつつ」警備に出動する騎兵の行進,9月1日発行では「蒼穹に飛ぶ軍国少女
航空婦人会のグライダー訓練」と題して,「北支に南支に我が荒鷲の精鋭が翼をひろげて目覚しい活躍をしている時,空の第二陣として女ながらも大空への精進を重ねている一団」を紹介している。8月25日発行では「針先に籠る銃後の声援」と題して,千人針を作る婦女子を掲載し,「この赤誠あればこそ,皇軍将兵の向かうところ正に敵なし,今日もまた勝報が舞込んでくる」と結んでいる。
『アサヒグラフ』1937年9月15日発行では「征途に就く海軍渡洋空爆隊 本紙によって始めて発表」と題して,九六式陸上攻撃機(中攻),九六式艦上戦闘機の写真を機体形式を隠して「精鋭○○機」「海軍○○機」のように公開している。
『アサヒグラフ』1937年10月3日発行「皇軍晴れの保定入城」,11月3日発行「煙幕下の敵前クリーク架橋」,11月7日発行「蘇州河の肉弾渡河」,11月24日発行「太原城一番乗り」,12月7日発行「希望に和む張家口」,12月29日発行「南京城中山門に翻る感激の日章旗」,1938年1月5日発行「南京入城式の壮観」と,日本軍の中国侵攻が大きな写真と共に紹介されている。
1937年後半から1938年初頭の『アサヒグラフ』の写真を拾ってゆくと,中国軍を殲滅して快進撃を続ける日本軍の報道が多く,あたかも日中戦争は,日本軍勝利で終わりそうな勢いである。
しかし,『アサヒグラフ』1938年5月4日発行では「長期戦 戦闘帽の心意気」,7月20日発行「七月七日・銃後の熱誠 一菜に祈る心」,8月17日発行「血の一滴に代わるもの ガソリン不足が生む科学の飛躍」木炭自動車・電気自動車,天然ガス利用・芋から採れる無水アルコールが紹介されるなど,長期消耗戦に備えて戦時動員,資源節約が訴えられている。
中国側には,中国国民党と共産党の対立があった。1936年に,西安事件が契機となって,「第二次国共合作」がなったが,盧溝橋事件勃発の1937年7月の時点で,中国国民党軍と中国共産党軍「紅軍」が一体となった国共統一抗日軍(後の国民革命軍)が編成されているわけではない。中国共産党軍「紅軍」が国民革命軍「八路軍」に改編されたのは,盧溝橋事件勃発から1ヵ月半経過した1937年8月25日である。
盧溝橋事件では,日本軍に抗日救国学生の一隊が日本軍に発砲することで,中国共産党に対して攻撃を準備していた国民党軍を抗日戦争に転換させた,という陰謀説が唱えられる。統一抗日軍が編成されていない状況では,この陰謀説はわかりやすい。
いずれにせよ,盧溝橋事件の現地での混乱の中で,散発的な戦闘が続くが,決定的だったのは,日本と中国がともに戦争回避を「軟弱外交」として避けて,日中双方の指導者がリーダーシップを発揮し,軍隊を動員したことだった。
中国共産党の陰謀で日中戦争が始まったとする評者は,北京郊外に日本軍が駐屯し,中国軍を威圧していた事実を過小評価している。石炭や農産物など資源が豊富で,市場としても有望な華北は,日本が支配下におき,特殊権益を認めさせたい地域だった。1936年には『昭和十一年度北支那占領地統治計画』が作られており,1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北占領地統治計画を研究していた。中国人によるの陰謀の有無に拘わらず,日中戦争は勃発したはずだ。
写真(右):上海事変で逃げ出す難民(1937年8月11日 Peter Kengelbacher撮影):盧溝橋事件(北支事変)から1ヶ月で,戦火は華中にも広がった。数千人の難民が,日中両軍の上海市内での戦闘を逃れるために,上海の対岸である長江北岸に避難した。
現地で日中両軍の停戦合意がなった1937年7月11日の当日,日本では首相近衛文麿が華北への増援部隊出兵を閣議決定し,午後6時半に華北増派の声明を発表した。この直後、支那駐屯軍から午後8時に停戦合意した旨の報告が入電。しかし,リーダーシップ発揮に囚われた近衛首相は増援を取り消さなかった。こうして,2コ師団を現地に派遣することになる。権威を重んじる指導者は,豹変できなかった。
大兵力の中国軍に威圧され,怖気づいた日本軍という汚名をそそぐため,衝突から5日もたたない7月11日に、近衛内閣は、中国への増援部隊派遣の閣議決定をした。そして、世界に向けて、中国に対する強硬姿勢を公表した。ここでは,不拡大方針を謳ってはいるが,近衛文麿首相は「出兵を決定して、日本の強硬なる戦意を示せば、中国側は、折れて出ることは間違いないと信じ」ていた。この7月11日華北出兵声明は次のような内容である。
「関東軍と朝鮮軍(満州と朝鮮半島に駐留するに日本軍)が準備した部隊を急遽,支那駐屯軍に増援する。さらに,内地より部隊を動員して北支に急派する必要がある。東亜の和平維持は,(大日本)帝国の念願するところであり,今後とも局面不拡大・現地解決の方針を堅持して平和的折衝の望みを捨てず,支那側の謝罪および保障という目的を達したるときには,速に派兵を中止すること勿論なり」
写真(左):北京を行進する日本軍(1940年米海兵隊員撮影):1937年7月末以来,中国軍を撤退させ,圧倒的な兵力で北京を支配下に置いた。列国の権益には手を出さなかった(出せなかった)ため,増派された日本軍より兵力的に劣る列国の駐屯部隊は黙っていた。
増援決定を喜んだ現地の日本軍,すなわち支那駐屯軍は,1937年7月13日段階で、中国軍に北京からの撤退を求めた。そして,撤退が受け入れられない場合を予想して、北京攻撃の準備を20日までに完了することにした。つまり,政治中核都市北京から自国軍を撤退させ,日本軍が進駐するという「暴挙」を平然と中国に要求したのであって,中国やそこに利権を持つ英米列国から見ても,日本軍の侵略性は明らかであった。このあたりの事情は,1941年11月に,米国政府が,日本政府に対して,中国・インドシナからの撤兵を求めたハル・ノートと同じく,中国軍が歴史ある旧都北京(北平)から撤兵できないことを読んで,戦争になるように仕組んだ陰謀なのではないかと疑ってしまう。
無理難題を押し付けて,それを遵守しない,誠意のある回答がないとして,戦争の契機を作ることができる。但し,米国は日本の明らかな先制攻撃を望んだが,日本は中国軍が先に発砲したという理由で,という違いがある。どちらが先に発砲したかという,客観的判断が困難な契機を開戦理由としたり,中国にある中国軍が撤退要求を聞かなかったという不利尽な理由で攻撃を仕掛けたりすれば,国際的な反発を招くのは必至である。東北三省,さらに熱河省を奪った外国軍である日本皇軍が,旧都北京のすぐ郊外で,実弾装備の夜間軍事演習を実施すれば,中国軍民の反発を受けるのは必死である。
日本軍には華北占領の意図があった。根拠は,『昭和十一年度北支那占領地統治計画』の存在である。1937年 7月7日の盧溝橋事件以前に,日本陸軍では華北の占領地支配について研究を進めていたのである。これは、日本軍の「華北占領地統治計画」であり,作成部局は支那駐屯軍司令部、文書には「昭和十一(1936)年九月十五日調整」と記されているという。
この甲案は,華北全域に作戦行動が展開される場合(現実にそうなった)であり,河北、山東、山西各省の鉄道に沿って,冀察地区(河北省、北平・天津両特別市、外長城線以南の察哈爾省、黄河以北の河南省),山東地区(山東省と青島特別市),山西地区(山西省)に侵攻し,占領地統治が実行する計画である。華北占領当地の目的は,「国防用資源ノ獲得」と「満州国並内蒙方面ニ作戦スル軍ノ背後ヲ安全」,すなわち対ソ戦争における華北方面の安全確保である。(京都大学大学院文学研究科永井和教授による)
大日本帝国首相近衛文磨公爵1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。1940年9月号 東洋文化協会発行。1940年7月22日に第二次近衛文麿内閣成立後,9月27日に日独伊三国軍事同盟が締結された。これを発表するかのような近衛首相の演説が画報の表紙を飾った。白黒写真しか普及していない時代,カラーの絵画・着色写真には,大きなインパクトがあったはずだ。10月には既成政党を解散して挙国一致の大政翼賛会の結成を図る。しかし,一党独裁は日本の国体(天皇制)に相容れないため,新党の結成には至らなかった。10月12日の大政翼賛会の発足式でも首相は「大政翼賛会の綱領は大政翼賛・臣道実践という語に尽きる。これ以外には、実は綱領も宣言も不要と申すべきであり、国民は誰も日夜それぞれの場において方向の誠を致すのみである」と放言した。その後,政党が混乱,解散する中で,軍部と官僚の主導(輔弼力?)が高まる。1941年7月28日にフランスのインドシナ半島植民地「南部仏印」に進駐(軍事占領)。米国の対日制裁が強化され,日米和平交渉も行き詰まった。9月6日御前会議で修正した『帝国国策要綱』で10月下旬の対米英蘭戦争を決意。『神戸市「戦争体験を語り継ぐ貴重な資料」所蔵引用。
「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップを確保しようとしたが,息子は米国スタンフォード大学に留学させている。
北支事変の名のもとに日中戦争になり、戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大していく。これを決定的にしたのが,蘆溝橋事件に関する近衛文麿首相による1937年8月15日「暴支膺懲」の声明である。
帝国夙に東亜の永遠の平和を冀念し、日支両国の親善提携に力を効せること久しきに及べり。
然るに南京政府は排日侮日を以て国論昂揚と政権強化の具に供し、自国国力の過信と帝国の実力を軽視の風潮と相俟ち、更に赤化勢力と荀合して反日侮日兪々甚しく、以て帝国に敵対せんとするの気運を情勢せり。
近年幾度か惹起せる不祥事件何れも之に因由せざるべし。今次事変の発端も亦此の如き気勢がその爆発点を偶々永定河畔に選びたるに過ぎず、通州に於ける神人共に許せざる残虐事件の因由亦茲に発す。
更に中南支に於ては支那側の挑戦的行動に起因し帝国臣民の生命財産既に危殆に瀕し、我居留民は多年営々として建設せる安住の地を涙を呑んで遂に一時撤退するの已むなきに至れり。
顧みれば事変発生以来婁々声明したる如く、帝国は隠忍に隠忍を重ね事件の不拡大を方針とし、努めて平和的且局地的に処理せんことを企図し、平津地方に於ける支那軍婁次の挑戦及不法行為に対しても我が支那駐屯軍は交通線の確保及我が居留民保護の為真に已むを得ざる自衛行動に出でたるに過ぎず。
而も帝国政府は夙に南京政府に対して挑戦的言動の即時停止と現地解決を妨害せざる様注意を喚起したるも拘らず,南京政府は我が勧告を聴かざるのみならず、却て益々我が方に対し、戦備を整え、厳存の軍事協定を破りて顧みることなく、軍を北上せしめて我が支那駐屯軍を脅威し、又漢口上海其の他に於ては兵を集めて兪々挑戦的態度を露骨にし、上海に於ては遂に我に向って砲火を開き帝国軍艦に対して爆撃を加ふるに至れり。
此の如く支那側が帝国を軽侮し不法暴虐至らざるなく全支に亘る我が居留民の生命財産危殆に陥るに及んでは帝国として最早穏忍其の限度に達し支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。
1937年8月15日近衛首相「暴支膺懲」声明の要旨:
「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,中国南京政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」
地図(右):朝鮮・台湾・南樺太・満州を支配する大日本帝国(1937年頃);盧溝橋事件以前に,日本は内地の本来の領土の2倍以上を勢力下においていた。しかし,さらに中国の華北・華中に占領地を拡大し,華南の沿岸部の都市も攻略した。
中国で戦火が拡大した理由を整理すると次のようになろう。
1)日本軍が中国軍よりも強いことを認めさせるために,少数兵力でも,果敢に中国軍と戦闘した。日本軍は,中国軍に弱腰であるとの印象を与える行動をとらなかった。
2)中国軍は,日本軍よりも遥かに優勢であり,国内が団結すれば,国際的支援も受けることができ,日本軍の活動を押さえ込むことが可能であると判断した。
3)中国軍に敗北を喫するわけに行かない日本軍は兵力を増派し続けたが,これは中国支配を意図しているとみなされた(客観的にもみなされる)。そこで,中国は,軍民一丸となって,日本軍に抵抗した。
4)日本は,中国の交戦意志,戦意の高さを認識できず,国民党と共産党が統一抗日軍を編成できるとは考えなかった。そこで,中国の政治経済の中枢である北京と江南地方(首都南京)を攻略すれば,日中戦争は日本の勝利に終わると誤解していた。政治経済の中枢に戦禍を拡大したことで,日本は列国からも反感を買うようになった。
5)米英は,自国権益の維持・拡張に関心があったから,日本の中国支配を認めるわけにはいかない。また,日本による残虐行為を伴う中国侵攻には,米英の一般市民も反感を抱く。民主主義国米英では,反日感情に支えられた世論を背景に,その後の対日圧力を強めていく。
6)日本国民も権益を確保し,居留民を保護すべきであるという愛国心が強まり,あるいは日本軍のプロパガンダに影響され,中国支配が日本の繁栄に繋がると錯覚した。
7)満州に隣接する華北で、日本に反抗する動きが中国国民党政府、中国軍,中国国民にあるために,満州の安定が望めない。そこで、日本は中国がアジアの安定・平和を阻害していると考えた。中国全土を支配する意図は,日本にはなかったが,満州の権益を維持するには,中国国民政府を屈服させるしかないと(誤って)判断した。
8)中国政府における共産党勢力が拡大しており、その共産主義の思想は、日本の国体・天皇制の護持には相反する体制である。また、蒋介石の国民党政権に対しても、日本政府は過大な和平提案しか提示できない。そこで、日本政府は、中国における新政権の建設を目指すが、これは、中国・米英の側からは、中国の分裂工作、傀儡政権化である。
満州事変以来,日本軍が強行姿勢を示していても,中国国民政府の蒋介石は,政権から中国共産党を排除する意向で,国内統一を優先していた。そこで,中国軍が日本軍に対して先制攻撃しないように指示していたが, 近衛文麿の華北出兵声明に対抗するかのように,1937年7月17日,廬山で「最後の関頭」の演説をする。
4−1.政友解党派の首唱で『政党結成』の決議 : 合同運動表面化す
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 43巻
Page: 117
出版年
1938-02-17
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100313535
政友会の川村竹治、木下成太郎、熊谷直太三氏を発起人とする政友会勇志の現状打開懇談会は十六日午後六時から東京芝紅葉館で開会
東、浜田、匹田、工藤、松川、熊谷、田尻、庄司、宮沢(裕)田子、南条、川島、川崎、原、西方、宮沢(清)上田、田辺、土倉、小笠原(三)泉、江原、津雲、井上、崎山、猪野毛、生田、服部、寺田、小山田、木村(作)行吉、宮崎、中田、松尾、篠原、小笠原(八)依光、木下、鶴、河上、西村、西川、稲田、曽和、南、松浦、岩元、石井各代議士および貴族院議員川村、宮田氏ら五十一名出席
川村竹治氏より発起人の挨拶あってのち浜田国松氏を座長に推し協議に入り、西方、行吉、東、上田、寺田、熊谷、原、木村、土倉、田子の諸氏より
一、国民に基礎を置く真の挙国一致の実をあげ、非常時局を打開するためには挙国的大政党を結成するのが急務である。それがためには己を空しくしまず政友会を解党して広く天下に呼びかけることが必要である
一、強力政党の結成のためには第一段として政民両党の合同結行が先決問題である
一、強力政党結成の場合は結論としては政友会の解党にまで到達するのは当然であるが直に政友会の解党を叫ぶことは一般党員の誤解をうける虞れがあるから強力政党結成に進むことはよいが手段順序については更に研究することにして解党を表看板にせぬ方がよい
一、軍に既成政党合同による大政党の結成では意味をなさない、一大国民運動を起こしてこれより生れて来る精神を把握して既成政党はもとより広く官界、学界実業界その他各方面に呼びかけて真の強力政党を結成すべきである
などの意見開陳あり、結局田辺、土倉、原、上田、匹田、工藤、寺田氏らを起草委員として左の決議を作成し満場一致可決、当日の出席者を実行委員とし党内の同志を糾合して挙党一致の問題として代行委員にその実現を求むることに意見一致して同九時散会した
決議
時運の推移と希有の重大時局にかんがみ広く憂国の士とともに一大国民運動に邁進し速かに正当の結成をはかり挙国一体の実をあぐべし
具体化には難関
十六日の紅葉館における政友会有志会合の首唱者川村、宮田、木下、熊谷、生田、田辺、津雲氏らの意図は政友会を可急的速かに解党しファッショ的強力政党を結成して時局克服に乗出さんとするにあり、そのきっかけを国家総動員法案が提出される場合にとり、これを積極的に支持して反対論者と正面衝突せしめてまず政友会を解体乃至は分裂させて他にも同志を求めて強力政党を結成せんとするにあるのだが、十六日の会合には種々の系統の人達が出席し特に東、浜田氏らの如く同日の会合首唱者と全くイデオロギーを異にしたファッショ絶対反対議会政治擁護のために強力政党の結成を意図しつつある人達もいて最大公約数的意向をとって別項のごとき決議をなした
よってこの決議にはおそらく党の首脳部も異論はなく党内大多数の賛成を得ることは困難ではあるまいが具体的運動に入る場合はこの決議に賛成したものが一致して政友会を解党して強力政党の結成に邁進することは不可能であろう、一方東、浜田、若宮氏らは二十日政民両党の総動員反対派を糾合して定盤会を開き反対決議をなさんとしているのでこの点に紅葉館組首唱者の意図する両派正面衝突の危機が全然ないとはいえない
しかし総動員法を両党の離合集散の具に供されることは政民両党首脳部はもちろん政府としても極度に警戒しており、両党首脳部と政府当局との間にも危機切ぬけの工作と努力が行われているから実際問題としてこの問題において両派の正面衝突はまず行われないと見てよかろう、しかし政党の現状にあきたらないのは各方面一致した心理であり、紅葉館の会合でこれが表向の問題となったのであるから今後党内では解消論、合同論、新党運動などが大ぴらに論議されるであろうから外部より強力なる刺激があれば問題の激発される危機は十分孕まれているといえよう
(政友解党派の首唱で『政党結成』の決議 : 合同運動表面化す引用終わり)
4−2.軍機事項自体は範囲外 : [杉山元]陸相、委員会で答弁
掲載誌
大阪毎日新聞
Vol: 第 44巻
Page: 136
出版年
1938-03-13
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100346368
十二日の衆議院国家総動員法案委員会において宮脇長吉氏(政友[会])が同法案第五十条「本法施行に関する重要事項(軍令に関するものを除く)につき政府の諮問に応ずるため国家総動員審議会を置く」の条文から推して本法は軍機に関するものをも包含していること明かなるに拘らず、本法案の実施に関する規定をすべて勅令に委任し、軍機に関する事項を軍令によらしめていない点を指摘し、斎藤隆夫氏(民政[会])濱田國松氏(政友[会])の両氏も宮脇氏の質問主旨を支援し政府を追窮、政府側から杉山[元]陸相が左のごとく答弁したがその質問を満足させるに至らず、論議の成行如何によっては統帥権の問題とも関連し勅令一本建で行かんとする本法案の全構成に重大なる影響を与えるものとして注目されるにいたった
[杉山元]陸相答弁 (本社速記)
午前中宮脇君からおたずねになりましたことについてこの際説明いたしたいと思います、軍機軍令事項自体は統帥事項であって、もとより本法の範囲外であります、本法第五十条に軍機に関するものと示してありまするものは軍の機密に関係のある事項の意味であります、審議会に諮問すべき事項は本法施行に関する重要な事項でありまして単に勅令の内容であるところの事項ばかりでなく、その他の重要な事項、たとえば本法を運用致します方針などを包含したものであります、勅令はもとより軍の機密を含有するここはありませず、勅令以外の本法施行に関する重要項中には第二条によって兵器、艦艇、弾薬などは総動員物資であります関係上軍の機密に関連するものはあり得べきでありますので、右の軍の機密に関しまするものは審議会に諮問せしむる意味であります(軍機事項自体は範囲外 : 陸相、委員会で答弁引用終わり)
4−3.議会制度改革へ : 審議会、検討を開始
掲載誌
大阪朝日新聞
Vol: 第 44巻
Page: 5
出版年
1938-06-22
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100313224
近衛[文麿]内閣が内政改革の一として採り上げた議会制度改革を審議すべき議会制度審議会は二十一日午後三時首相官邸に開催、政府側から近衛[文麿]首相および末次、塩野、永井、中島[知久平鉄道大臣]、大谷の五閣僚ほか関係官、審議会側より総裁水野錬太郎以下委員、臨時委員出席、劈頭近衛首相より別項のごとき挨拶をなし、ついで水野総裁より挨拶をなし審議に入り『諮問第一号貴族院および衆議院の機構その他帝国議会の制度に関し改善すべき事項如何』を議題とし左のごとき質問応答をなし午後五時散会した
なお二十三日第二回総会を開き総括的審議を終了、貴族院制度、議院制度、選挙制度の三部門に分れて個別審議に入るが、貴族院制度は佐々木行忠侯、議院制度は浜田国松氏、選挙制度は小泉又次郎氏がそれぞれ特別委員長として審議を開始する
問答要旨左のごとし
前田利定子 政府は最近国務繁忙のため官吏を多数増員しているがこの際貴衆両院議員の定数を増加せしめる考えはないか
近衛[文麿]首相 本審議会において研究して貰いたい
斎藤隆夫氏 政府は議会制度改革につき腹案を有するや、もし腹案を有しなければ政府は本審議会において作成せんとする改革案を無条件承認するか
首相 審議会の答申に本づき政府の改革方針を定めたい
末次内相 選挙法改正の腹案は自分も用意しているがこの腹案に固執するものでもない
浜田国松氏 政府は第十三条を廃止する意志があるか、議員の調査機能を拡張すること、継続委員の問題などいかに考えるか
首相 政府は審議会の御意見を承わった上ですべてこれらを決したいと思う
伊沢多喜男氏 本審議会の臨時委員と委員が設けられてあるがこの両者間にはいかなる差異があるか、多額議員が一名に過ぎぬのはいかなる理由からか、また現役軍人ら議会制度の改革に関して意見を述べる人がある、意見を有する以上かかる人も資格のあるものは委員中に加うべきではないか、首相は来議会に是非提案するというが、来議会などといわずよいものはじっくり作ってから出してはどうか
首相 拙速でもよいというわけではない、良いものを来議会に出したい
船田法制局長官 委員と臨時委員の区別は委員を決定したのちにさらに各方面から有職者を補充した結果で差異はない
近衛[文麿]首相挨拶
いまや内外非常の時艱に際会し国政は複雑多岐となりつつあるのであり、これがためには帝国憲法の条章に従い帝国議会の機能を一層発揮せしむるの要がある、時運の趨勢に鑑み貴族院の機構に適切妥当なる改善を施し二院制度の真精神をいよいよ発揚するの必要あり、また衆議院は時代の要求に応じその職分に従いさらによく醇正なる機能を営み得るようその機構に改正を加うるの要があるのではないかと考えられる、本審議会において広く各種の問題について広き見地より根本的なる審議討究を煩わしたい、政府は本審議会の審議を得た上、なるべく速やかに改正案を準備し、次の通常議会にこれを提出したい考えである(議会制度改革へ : 審議会、検討を開始引用終わり)
5. 軍部の暴走を抑えようとした代議士浜田国松は,第二次大戦勃発直後1939年9月6日に死去した。翌1940年,皇紀2600年(昭和15年)ともなると,戦時総動員体制が強化され,七月,第二次近衛文磨内閣の下で,新体制,大政翼賛会が発会した。
写真(右):1939年9月,ベルリンで開催されたドイツ帝国議会で戦争を宣言するアドルフ・ヒトラー総統:第二次大戦は,9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻,9月3日の英仏によるドイツへの宣戦布告で始まった。
ドイツでは,1933年1月30日,第一党の国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)総統(党首)ヒトラーを主要とする内閣が成立した。しかし,2月末,ドイツ国会議事堂放火事件が発生したために,大統領緊急令によって,礼状なしに共産党幹部を逮捕し,国会議員を威嚇しながら,3月に「民族・国家危機排除法」(全権委任法)を成立させた。全権委任法によって,行政府が立法権を議会から授権された。ナチ党政権の権力濫用を戒める対抗勢力は解散させられたために,ナチ党一党独裁の道が開かれた。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bld_183-E10402引用(他引用不許可)。
『アサヒグラフ』1940年5月8日発行では「英霊に迎えられて 遺族上京」と題して,「輝く紀元二千六百年を迎えた靖国神社臨時大祭は一億国民の敬虔な祈りを籠めて四月二十四日から森厳の幕を開いた」として「輝く新生支那は呱呱の声をあげた----,東亜の黎明は近づいたのである。尊き英霊よとこしなに東亜を護らせ給え−と国民は遺族と共に祈ることを忘れない」と結んだ。
『アサヒグラフ』1940年6月26日発行では「国民服時代来る 服装混乱の粛正第一段階」と題して,石渡内閣書記官房が「一朝有事の際には直ちに国防服ともなり得る」国民服を着込んだ写真が掲載された。
『アサヒグラフ』1940年7月31日発行では「新体制へのまい進 踏み出した新宰相近衛文麿公」と題して,米内内閣が畑陸相辞任で命脈が尽きたあと,軽井沢の山荘から愛車クライスラー10208で深夜東京に向かう近衛文磨を掲載した。
『アサヒグラフ』1940年8月7日発行では「代用食で行こう 『節米』新体制へ」と題して,「ウドンランチ,麦カレー,卯の花弁当など前代未聞の献立界の新顔が華やかに登場」と伝えた。
『アサヒグラフ』1940年7月31日発行では「新体制へのまい進 踏み出した新宰相近衛文麿公」と題して,米内内閣が畑陸相辞任で命脈が尽きたあと,軽井沢の山荘から愛車クライスラー10208で深夜東京に向かう近衛文磨を掲載した。
『アサヒグラフ』1940年8月21日発行では「ぜいたくは敵だ!」と題して,「戦争はまだ続いている。兵隊はまだ戦っています。しかし,街頭を瞥見すれば,其の所には新体制も七・七禁令(不急不用品、奢侈贅沢品、規格外品の製造加工並に販売禁止)も興亜奉公日も忘れた旧態依然たる虚飾と有閑とが豊富に取り残されているのに気づきます」として「巷の女性」「有閑令嬢」を採点しこき下ろしている。
『アサヒグラフ』1940年10月30日発行では「新日本発足の雄叫び 大政翼賛会発会式と国民大会」と題して,「未曾有の国難に対して,新たなる高度国防国家の建設に向かって邁進すべく----茲に大政翼賛会(首相を総裁とし,官僚・軍部・政党が役員となる挙国一致の官製組織)が発足,首相官邸に於いてその歴史的発会式が挙行された」として「高度国防国家の齷(あく)は正に東亜共栄圏を洗い清めたかの如き壮観を呈した」と結んだ。
『アサヒグラフ』1940年11月6日発行では「東西新体制くらべ 堂々走る国策代用車」と題して,「箱型馬車」,箱を載せた自転車式「四輪車」を賞賛した。
『アサヒグラフ』1940年11月27日発行では「見よ!傷兵の真摯敢闘」と題して,「手か足か何処かに外相を負った人達」が田んぼで稲刈りをし,脱穀を手伝う姿を賞賛した。
写真(右):1941年3月3日,ベルリン,ドイツ帝国議会,バルカン半島侵攻作戦で勝利後、ヒトラー総統の演説:ナチ党は,1920年に卍(ハーケンクロイツ,スワスチカ,カギ十字)を党章としたが,ナチ一党独裁になってからは,党旗をドイツの国旗とした。ハーケンクロイツは,ナチスのシンボルとして広まった。
Des Führers große Rede nach dem siegreichen Balkanfeldzug
Der Führer und oberste Befehlshaber der Wehrmacht sprach am Sonntag abend vor den Männern des Deutschen Reichstages [in Berlin]. Nach seinen Erklärungen über die einzigartige siegreiche Durchführung der Operationen auf dem Balkan gab der Führer die Enschlossenheit und Siegeszuversicht des deutschen Volkes Ausdruck.
Unser Bild zeigt eine Übersicht während der Rede des Führers.
Scherl-Bilderdienst 4.5.41 [Herausgabedatum]
Dating: 3. Mai 1941
Photographer: o.Ang.
Agency: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_183-B02607引用(他引用不許可)。
6. 日本の議会制度・民主主義への信頼がなくなり、軍部主導の政治が肯定された。こ背景には、浜田国松の腹切り問答後に、寺内寿一陸相に従って、軍部に追随し議会を解散し、戦時総動員体制の強化に進み、近衛文磨内閣の下で,政党解体・大政翼賛政治を選択した政治家、政友会・憲政会にある。
新内閣の弱点 : 重要支柱早くも動揺
掲載誌
国民新聞
Vol: 第 60巻
Page: 107
出版年
1940-01-23
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100304335
[写真あり 省略]
米内首相は新内閣の政綱政策は事変処理、外交関係並に国内問題の鼎を調整安定させるにあると言っているが、そのために内閣の構成については努めて、国内各勢力のバランス・オブ・パゥワーを得ることに腐心した。しかしこの内閣の支柱となっているものは、石渡書記官長と広瀬法制局長官によって表現されている金融資本閥と重臣閥である。金融資本閥の大番頭池田成彬は、平沼内閣に留任を懇請されたが固辞して、自己の身代りとして石渡荘太郎を蔵相に推した。爾来石渡は池田に臣侍し、その薦めによって米内内閣に書記官長を勤むるに至ったことは明かである。
従って石渡が池田の代理であり、且つ金融資本閥の代弁者たることは、すでに説明を要しまい。広瀬は木戸幸一の輩下である。木戸は平沼内閣において内相に就任するや、厚生省で次官として使った広瀬の才を買って、彼を後任厚相に推薦した。広瀬としては深く感激し、木戸に対して犬馬の労をとるに至っている。木戸はかつて秘書官長として牧野伸顕、湯浅倉平の両内府に仕え、その後この両重臣の寵児となって政界の表裏に活躍しているのである。広瀬がいち早く米内の組閣本部に入って、その参謀となり且つ法制局長官を勤めることになったのは、勿論木戸の命によったものである。
米内内閣はかく金融資本閥と重臣閥を二大背柱とし既成政党及び産業資本をして「外廓」より支援せしめている。政党人を党代表と認めて入閣させたのは、斎藤内閣以来の事である。しかし政党代表はいずれも伴食閣僚である、桜内幸雄を蔵相として軍要ポストに加えているが米内内閣の財政経済政策は池田、石渡によって指導される、内閣の構成がすでにかくの如くであり、且つ大蔵省及び日銀の機構がいまや全く池田、結城の支配下にある以上、桜内がいかに政治的手腕にたけているとは言え、桜内独得の財政というものの出現の余地はあるまい。
産業資本を代表する藤原銀次郎の商相も亦桜内蔵相の場合と同様である。「外廓より支援させた」という意味はここにある。米内内閣の性格とその動向は、以上述べたところによって、すでに約束づけられている。米内首相のいわゆる事変処理、外交関係並に国内問題の調整安定も、この性格を逸脱しては成立し得ないものであろう。金融資本及び重臣がこれまでいかに、政治の革新を阻止することに努めて来たか、それを知るものは恐らく米内内閣に政治革新の希望をつなぐことの、また無駄なるを知っているであろう。
しかし米内内閣はもう一つの重要なる支柱に、深刻な弱点をもっている。それは陸軍である。畑陸相は異例に属する有難き御諚を拝して留任したが、陸軍がこの内閣に対し積極的な支柱となっているかどうかは疑問である。首相もこの点は非常に憂慮して、拓相に陸軍大将小磯国昭を、内相に児玉秀雄を据えた。
一時内相に陸軍大将荒木貞夫の説があったのも、決して無根の噂ではなく、首相のかかる憂慮から発していたのであった。小磯は拓相就任の交渉をうくるや、まず陸相官邸に畑陸相を訪問し、陸軍の動向を聴取した上で受諾を回答した。児玉内相が貴族院代表として入閣したというのは表面だけである。
児玉と陸軍の寺内大将とは義兄弟の間柄である。広田内閣の末期、つまり浜田国松と寺内陸相の切腹問答の起る直前、陸軍方面に議会解散説が行われたのに対し、児玉は広田の懇請によって、寺内を通じて陸軍の空気緩和に努めたものである。米内内閣が児玉内相を買って、彼に果させんとする役目はこれである。小磯と児玉、いずれも陸軍に対して多少の縁故をもつものではあるが、それは未だ隔靴掻痒、傷の急所に触れ得ない感がなきにしもあらずである。米内の憂慮はすでに事実となって現れて来ている。
参議の留任問題で末次、松井両大将及び松岡洋右が遂に首相の尉留に聴かず辞任するに至った事情は、陸軍という支柱の動揺を語るものである。従って米内内閣の全神経は、今は専ら陸軍の側に向って集注されている。
写真上から米内、畑、児玉三相】
◆読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、外国人・非国民の排斥、議会制民主主義の否定、ヒトラー流の独裁政権獲得という本音のようだ。
◆2017.6.30産経ニュース「稲田朋美防衛相、失言を初めて陳謝 辞任は否定」
稲田朋美防衛相は(2017年6月)30日の記者会見で、東京都議選の自民党候補に対する応援演説の際に「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と発言に関しては「演説を実施した板橋区の隣の練馬区にある練馬駐屯地など、自衛隊を受け入れている地元に感謝する趣旨を入れた演説だった」と述べた。その上で「国民の生命、身体、財産、わが国の領土、領海、領空をしっかりと守るべく、いっそうの緊張感を持って防衛相としての職責を果たしてまいりたい」とし、辞任しない考えを重ねて示した。(2017.6.30 22:25引用終わり)
伝統的な家族観を重視する「保守」であれば、選挙戦を念頭にしている平和ボケ女性の防衛大臣など認めたくない。さらに、文民の大臣が、自衛官を政治的な投票の駒として利用すると公言したとなれば、それは公職選挙法の問題に留まらず、自衛隊を侮辱する発言である。となれば、稲田を公認する大臣も自民党本部も保守ではない。ただ保守を気取り人気を集めたいアイドル志向か、自分の権威や地位を重視した保身一辺倒の出世主義者ということだ。普段から国防重視かのような発言を繰り返しても、それは得票稼ぎポピュリズム的発想から仕組んでいるだけであろう。似非保守政治家の本心は利己的な選挙戦勝利の打算が支配しているようだ。1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に至った時も現地駐屯の日本軍や陸軍省・陸軍参謀本部以上に、日本の代表的政治家が「中国叩くべし」(暴支膺懲)との強硬発言をした。これは、国民世論を煽り、リーダーシップを軍から取り返そうとした策略だったかもしれない。しかし、政治家は、和平交渉の機会を捨て去り、国際的孤立を招き、政治・外交・軍事の大失敗に繋がった。主権者国民は、似非政治家のポピュリズム的発想に振り回されず、世界を大局を概観できる能力が求められる。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ハンセン病Leprosy差別
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
⇒魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
⇒文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
⇒戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
⇒統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答
⇒自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ
⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
◆当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。
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