◆ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
写真(上)1936年、水上を滑走するドルニエ(Dornier)Do 22V 水上機試作;第二次世界大戦前にドルニエ社が輸出用に開発した偵察、爆撃、雷撃に使える多用途水上機。フランス航空雑誌(1936)「世界航空のポテンシャル」(Le Pontentiel Aérien Mondial)に掲載。 Description
English: Dornier Do.22 photo from Le Pontentiel Aérien Mondial 1936
Date 31 December 1936
Source http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6553445p
Author Le Pontentiel Aérien Mondial 1936
写真はFlickr, SDASM Archives Catalog:16_007465 -引用。
カラー図(上)1939-1940年5月以前、ギリシャ空軍ドルニエ(Dornier)Do 22Kg多用途機;第二次世界大戦前にドルニエ社が輸出用に開発した偵察、爆撃、雷撃に使える多用途水上機。 Do.22Kg ВВС Греции
図は, Уголок неба Do.22引用。
写真(右)1942年6月28日、ドイツ、東プロイセンのラステンブルク総統大本営「狼の巣」から列車/自動車に乗ってドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥の下を去るフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥:
ゲーリングの経歴:1893年、ドイツ帝国外交官を父とする上流階級に誕生、恵まれたな子供時代を過ごし、1905年、カールスルーエの幼年士官学校に入学、卒業後、1909年に士官学校(Staff College)に入学して、第一次大戦の始まる1914年に陸軍少尉として歩兵部隊に配属。第一次世界大戦の緒戦では 歩兵として戦ったが、10月からドイツ陸軍航空隊へ移動、当初は偵察員、1915年からは、戦闘機パイロットとして西部戦線で戦った。1918年6月の敗戦の年に最高勲章のプール・ル・メリット勲章(Pour-le-Merite)を授与された。ヘルマン・ゲーリングは、マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(Manfred von Richthofen)が率いていた戦闘機大隊指揮官として敗戦を迎えた。1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年11月、ヒトラー主導の武装蜂起「ミュンヘン一揆」(Beer Hall Putsch)は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。
1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉、1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉、1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥、1940年7月19日、国家元帥
1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将。
"Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym.
Institution
写真は Museo Finna: sa-kuva-3283引用。
ドイツ空軍総司令官
ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)は、戦争中盤以降、空の戦いで敗北を続け、権威を失っており、戦争後半以降、戦争指導にほとんど参加していない。1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会でヒトラーは「私が倒れたらゲーリングが続く」と演説をしていた。そこで、1945年4月23日、ベルリン攻防戦が始まり、ヒトラーとの連絡が確保できなくなる危険な状況で、ゲーリングは、1941年6月29日にヒトラーが公布したゲーリングを総統の後継者とした法令に基づいて、指揮権継承を電文で問い合わせた。ヒトラーは、これをゲーリングの裏切りとみなし、激怒、ゲーリングを公職から追放し、監禁することを命じた。
⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。
1.ドイツのドルニエ(Dornier)Do-22K 水上偵察爆撃機
写真(上)1936年12月31日、ドルニエ(Dornier)Do 22V-1水上偵察爆撃機試作1号機;ドイツではVは試作機の形式を意味し、V-1とは試作1号機である。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46170102 - Title: Dornier Do 22V-1 Nowarra Collection - Filename:16_007465.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, SDASM Archives Catalog:16_007465 -引用。
第二次世界大戦勃発前の1935年に、ドイツのドルニエ社は、外貨獲得を目的に、輸出用のパラソル単葉機多用途機の開発、後のドルニエ(Dornier)Do 22の開発を始めた。当時は、ドイツ、フランス、イタリアなどの西欧、アメリカ合衆国が、輸出向けの軍用あるいは民間の航空機の開発を行っていた。この国際市場の買い手は、ヨーロッパの東欧・北欧・南欧、そしてアジアの日本・中華民国だった。
絵葉書(右)1937年頃、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K水上偵察爆撃機;第二次世界大戦前にドルニエ社が輸出用に開発したパラソル単葉機だが、ドイツ空軍の第二次世界大戦勃発前の赤帯白丸黒鍵十字の国籍マークを垂直尾翼に描いている。絵葉書写真からの引用。
Postcard Dornier Do 22, Schwimmerflugzeug, Wasserflugzeug
The company akpool Ltd. offers postcards from the Third Reich era for the following purposes only: civic education, the prevention of unconstitutional and anti-constitutional activities, the assistance of academic and art historical research, the reporting and clarification of events from the Third Reich era, and the research of uniforms and military history. The purchaser is obligated to only use cards for the historic and academic purposes listed above. They are in no way to be used as propaganda, particularly in regards to paragraph §86a of the StGB (Criminal Code).
写真はFlickr, SDASM Archives Catalog:16_007468 引用。
1930年代中頃まで、ヨーロッパでも、舗装された飛行滑走路が十分に整備されていなかった。そこで、東欧・バルカン諸国の使用を前提にして、ドルニエ(Dornier)Do 22は、偵察だけでなく、爆弾、航空魚雷を搭載できる多用途水上機として設計された。
絵葉書(右)1934-1939年、ドイツ、波の静かな海上を低空飛行するドイツのドルニエ(Dornier)Do 22 水上偵察機(302);3枚翅プロペラをイスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs液令エンジン860 HPで回転させている。
Ansichtskarte / Postkarte Dornier Do 22 Schwimmerflugzeug, Luftwaffe Nr. 2.647.425 gelaufen, sehr guter Zustand 絵葉書価格12,00 €
写真はakpool, Ihr Onlineshop für alte Ansichtskarten Wehrmacht: Technik - Flugzeuge Nr. 2.647.425 引用。
第二次世界大戦勃発前、1935年にドイツのドルニエ社が輸出用に開発を始めた堅実な多用途軍用機がドルニエ(Dornier)Do 22で、水上機型、陸上機型があり、偵察、爆撃・雷撃に使用することができた。フランス製発動機イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs液令エンジン860 HPで駆動して、3枚翅プロペラを回転する。ただし、試作時には4翅プロペラの機体も製造された。
ドイツのドルニエ社は、外貨獲得の目的で、輸出用の多用途三座軍用機ドルニエ(Dornier)Do 22の設計を1934年に開始した。機体構造は、パラソル式高翼単葉、鋼管構造の羽布張、降着装置は双浮舟フロートあるいは固定脚ゴム主輪で、水上機型と陸上機型とが開発された。Do-22K水上機の設計は、ドイツと国境を接するスイス北部オバーゼー湖に面したアルテンハイン(Altenhein)で行われた。安価で信頼性のある堅牢な使いやすい輸出機を目指したために、保守的で、新機軸を採用せずに、手堅い設計とした。
ドルニエ(Dornier)Do 22水上機の生産は、ドイツ南部、オーバーゼー湖に面したアルテンハイン(Altenhein)対岸のフリードリヒスハーフェン(Freidrichshafen)のドルニエ工場で行われた。水上機型Do-22V-1試作1号機は、1938年6月15日に初飛行したが、これは第二次世界大戦勃発の1年前のことで、ギリシャとユーゴスラビアが購入契約を結んだ。これは、ギリシャ輸出向けDo-22Kg水上機、ユーゴ輸出向けDo-Kj水上機である。
ドイツ海軍提督エーリヒ・レーダー(Erich Raeder: 1876-1960)総司令官は、大戦1年前の1938年、イギリス海軍に対抗できるドイツ海軍のZ計画を提示し、戦艦10隻(ビスマルク級戦艦の大型化)、装甲艦15隻(ドイッチュラント級装甲艦の大型化) 、空母4隻(グラーフ・ツェッペリン級)を主軸とする大海艦隊拡充の方針を打ち出したが、大戦勃発によって、そのほぼすべての建艦計画が中止されてしまう。そこで、ドイツ海軍は、索敵、哨戒など交通破壊戦に特化した空海立体作戦を進めようと企図し、海上航空兵力の充実を臨んだ。
英語でもU-Boat(ユーボート)といわれるが、これも第一次世界大戦および第二次世界大戦でイギリス本土を封鎖しようとした敵国ドイツ海軍の潜水艦を指示している。潜水艦Uボートは、ハンブルクを中心としたブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)など造船所で建造された。
ドイツ海軍潜水艦隊司令長官(Befehlshaber der U-Boote: BdU)カール・デーニッツ(Karl Dönitz)提督の指揮下に置かれたドイツ潜水艦Uボートは、第二次大戦当初、レーダーを搭載しておらず、目標とする敵艦船を目視によって発見するしかなかった。また、海面上5メートルもない潜水艦艦橋からの視界は限られており、敵発見は天候・気象にも依存した困難な任務だった。
したがって、連合国のシーレーンを遮断するための潜水艦Uボートによる交通破壊戦には、長距離哨戒機、索敵機など海上の偵察任務に就くことのできる航空兵力が必要で、これはイギリス、アメリカ、日本などでは、海軍航空隊として海軍の指揮に置かれた部隊だった。そしてそのための飛行機も、海軍の発注、開発依頼が行われるのが普通だった。
しかし、ドイツ国防軍では、陸軍と空軍が優先されたために、海軍兵力は弱体で、特に海軍航空兵力は、艦載機や沿岸偵察部隊に指揮権が限定されてしまったのである。
敵艦船発見を容易にするため、潜水艦(U-boat)の目となるような航空機によって、洋上哨戒偵察をすることが考えられた。しかし、ドイツでは空飛ぶ兵器、軍用機はみなドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Goering)の指揮下に置くという原則があった。
ドイツでは、海軍の航空兵力は、空軍優先のために冷遇され、海軍の指揮できる航空兵力は、主力水上艦艇の
ハインケル(Heinkel)He 60 水上機のような艦載水上偵察機程度だった。
その後、ドイツ海軍大西洋司令部の下に、水上基地航空部隊や洋上航空部隊の指揮が任されるようになり、ドイツ海軍潜水艦隊司令長官(BdU)カール・デーニッツ(Karl D6ouml;nitz)提督隷下の潜水艦Uボートと連携した交通破壊戦をするために、沿岸飛行隊(Küstenfliegergruppe:KüFlGr.)、海上偵察隊(Seeaufklärungsgruppe:SAGr.)のような偵察哨戒機を擁する航空兵力が配備されるようになった。
2.ドイツのドルニエ(Dornier)Do-22 L 偵察爆撃機
バルト三国のラトビア向け輸出仕様Do-22Klは、引き渡しされていないが、水上機型Do-22Kの派生型の可能性が高い。しかし、陸上機型Do-22Lだった可能性もある。
写真(右)1937年頃、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 22L偵察爆撃機;Do 22K水上機の降着装置を固定脚とした陸上機がDo 22Lである。第二次世界大戦前にドルニエ社が輸出用に開発したパラソル単葉機だが、ドイツ空軍の第二次世界大戦勃発前の赤帯白丸黒鍵十字の国籍マークを垂直尾翼に描いている。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46170140 - - Title: Dornier Do 22L Nowarra Collection - Filename: 16_007468.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, SDASM Archives Catalog:16_007468 引用。
ドイツは、ヒトラー政権になっても、1935年3月のドイツ再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、ドイツ機の尾翼に描いて、国籍マークとしていた。しかし、1935年、ヒトラーが再軍備を宣言し、第一次世界大戦の撃墜王ヘルマン・ゲーリングの下、ドイツ空軍が設立されると、ドイツ軍機は、尾翼に赤帯に白丸とスワスチカ(ハーケンクロイツ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを採用した。スワスチカは、ナチ党のイデオロギー、政治思想を軍人にまで浸透させることを反映したもので、軍人の忠誠宣言がドイツに対してでは、ヒトラーに対する忠誠を誓うものと変更されたのと同じ動機である。また、高速の機体の国籍、敵味方の認識をしやすくするため、機体・主翼の上下にも、白の縁取り付きの黒色バルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。
写真(右)1937年頃、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 22L偵察爆撃機(D-OXWD);第二次世界大戦前にドルニエ社が輸出用に開発したパラソル単葉機で、水上機型と同じく、3枚翅プロペラをイスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs液令エンジン860 HPで駆動する。ドイツ空軍の第二次世界大戦勃発前の赤帯白丸黒鍵十字の国籍マークを垂直尾翼に描いている。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46170115 - - Title: Dornier Do 22L Nowarra Collection - Filename: 16_007466.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, SDASM Archives Catalog: 16_007466 - 引用。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、激しい航空戦が展開され、敵の空襲も予期する必要があったため、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)は敵から発見されやすいいとして、取りやめになった。その代わり、ナチ党のイデオロギーを示す国章として、尾翼に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。
写真(右)1937年頃、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 22L陸上機(D-OXWD);第二次世界大戦前にドルニエ社が輸出用に開発したDo-22K水上機の陸上機仕様がDo-22Lである。この機体は、ドイツ空軍の第二次世界大戦勃発前の赤帯白丸黒鍵十字の国籍マークを垂直尾翼に描いている。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46170128 - Title: Dornier Do 22L Dornier photo - Filename: 16_007467.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はFlickr, SDASM Archives Catalog:16_007467 -引用。
ドイツ帝国軍は、第一次大戦の敗戦後、ベルサイユ条約によって、陸軍は10万人規模に大幅に縮小され、参謀本部も廃止、戦争遺憾の保有禁止、航空兵力の保有禁止と束縛された。しかし、ドイツ帝国軍人が引き継いだドイツ(ワイマール)共和国軍は、密かにフライコール(義勇軍)を擁立して陸軍の拡充を図り、火砲や戦車を外国で子会社や外国企業と開発した。また、共和国時代から、スポーツ航空や民間航旅客・貨物・郵便・通信航空を隠れ蓑に、軍用機を開発していた。その時代は、共和制時代の黒赤金三色ストライプを尾翼に描いで国章としていた。
絵葉書(右)1937-1939年頃、ドイツ、飛行するドイツのドルニエ(Dornier)Do 22 L偵察爆撃機下面と7.5度の後退角の付いた主翼;胴体より若干上に主翼を取り付けたパラソル式単葉で、主翼は7.5度と若干後退角が付いている。
Ansichtskarte / Postkarte Mehrzweck Landflugzeug Dornier Do 22 im Flug, Luftwaffe ungelaufen, sehr guter Zustand
写真はakpool, Ihr Onlineshop für alte Ansichtskarten Wehrmacht: Technik - Flugzeuge Nr. 10.328.847 引用。
しかし、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ドルニエ社ではドルニエ(Dornier)Do-17双発爆撃機の量産とその後継機Do-215、Do-217の開発に設備、人材、資源を投入しなくてはならず、ドルニエ(Dornier)Do 22の量産は、発動機をフランス製としたこともあって中止になった。
1939年の世界大戦勃発で、バルト三国のラトビアもドルニエ(Dornier)Do 22の輸入を決めた。これが、ドルニエDo-22Klだが、実は、1939年8月、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約を結び、その秘密議定書でポーランドの分割、バルト三国のソ連併合をひそかに認めていた。そして、第二次世界大戦が勃発し、ドイツがフランスを降伏させた直後の1940年8月、ソ連は、ラトビアをエストニア、リトアニアとともに自国に併合した。
ドイツからラトビアに対するドルニエ(Dornier)Do 22Kl偵察機の引き渡しは実現するはずがなかった。このバルト三国のラトビア向け輸出仕様Do-22Klは、引き渡しされていないが、水上機型Do-22Kの派生型の可能性が高い。しかし、その後、1939-1940年の冬戦争でソ連に領土を占領されたフィンランドが、ソ連への対抗上、軍用機を欲し、フィンランド軍に引き渡されたようだ。
1933年1月30日に樹立されたヒトラー政権では、ドイツ・ワイマール共和国を否定し、事実上「ドイツ第三帝国」を復活したために、帝国時代の「黒・白・赤」三色国旗に再度改められた。そこで、ベルサイユ条約で認められたドイツ民間機の国籍マークは、1933年1月のヒトラー政権初期、1935年3月のドイツ再軍備宣言までは、帝政「黒・白・赤」の横縞三色国旗を模したものが垂直尾翼に描かれている。
1935年3月、ドイツ再軍備宣言で、ヒトラー政権にドイツ空軍が創設されたが、この時に、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字スワスチカ(ハーケンクロイツ)のナチ党式の国籍マークが定められた。
1933年1月末のナチ党ドイツ政権奪取から2年後の1935年3月16日,アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は,ベルサイユ条約の打破の公約実行するために,再軍備を宣言し,兵役の復活によって,50万人の兵力,戦車を保有し,陸軍参謀本部を正式に復活した。そして,第一次大戦の撃墜王にして1923年のミュンヘン一揆にも参加したヘルマン・ゲーリングを司令官とするドイツ空軍を新設したのである。
ここで,1936年3月の再軍備宣言は,強大な軍事大国を一挙に目指したのではなく,周辺国への脅威とはいえない範囲にとどめており、だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認した。
1935年6月、イギリスに至っては、海軍提督エーリヒ・ヨーハン・アルベルト・レーダー(Erich Johann Albert Raeder: 1876-1960)総司令官率いるドイツ海軍を脅威とはみなさず、英独海軍協定(Anglo-German Naval Agreement)
)を結んで、ドイツ再軍備を公認した。
しかし、裏では、1922年のソ連とのラパッロ条約(Treaty of Rapallo)
秘密議定書で,ドイツはソ連奥地で軍備を整える兵器開発・訓練をし、スウェーデン,スイスに合弁会社を設立して新型火砲を開発した。つまり,ドイツ・ワイマール共和国の内部で,軍隊復活の動き、闇の国防軍は着実に強化されていたが、ヒトラーは再軍備を宣言して,軍を再建したのは,すべて自分の功績であるかのように吹聴した。
1935年3月16日のアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)によるドイツ再軍備宣言から半年以上経過した1935年11月7日、第一次大戦勃発の時1914年生まれの成人男子に徴兵が開始され、それまで10万人だった共和国軍(ライヒスヴェア)は、50万人の国防軍(ヴェアマハト)へ拡張された。そして、ヘンマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)を総司令官とするドイツ空軍も創設された。
ただし、ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機は、1933年5月に「スポーツ機・アクロバット機」として初飛行している。正規のドイツ空軍が生まれる以前に、密かに軍用機の開発はドイツ国外で行われて、ドイツ国内の民間機が軍用機として使用されたのである。
1941年12月、ドイツ海軍はハインケル(Heinkel)He 60 水上機のような艦載水上機以外の沿岸飛行隊などの航空兵力の指揮権をもつことになったが、形式的な指揮権は空軍の指揮下に入れ、海上作戦における航空兵力の指揮権は、ドイツ空軍が独占する形となった。
1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、激しい航空戦が展開され、敵の空襲も予期する必要があったため、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)は敵から発見されやすいいとして、取りやめになった。その代わり、ナチ党のイデオロギーを示す国章として、尾翼に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。ハインケルHe 60 のような旧式水上偵察機は、第一線で活動してはいないはずだが、このような古い機種についても国籍マークの変更を行っている。後に、第二次世界大戦中盤以降、ドイツ空軍の優位性が喪失してからは、国籍マークの白縁が目立ちやすいとして、黒の鉄十字、鍵十字(スワスチカ)の白の縁取りは廃止された。
ドイツ・ワイマール共和国の軍事組織維持の背景の中で,三軍総司令官となったアドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)総統は,1935年3月16日,ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して,再軍備を宣言した。この時,国軍Reichswehrは,国防軍Wehrmachtに戻され,陸軍,海軍に加えて,ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring)率いる空軍が新設された。再軍備宣言から2ヵ月後,1935年5月21日に兵役法が施行。
忠誠宣誓(Oath of allegiance)については,従来のように国家と憲法に忠誠を誓うのではなく,三軍最高司令官の総統兼首相のヒトラーに忠誠を誓うが、実は、この宣誓は、親衛隊(SS:Schutzstaffel)がヒトラー個人に忠誠宣誓をするのとほぼ同じである。
1936年のラインラント非武装地帯への武力進駐,1938年3月のオーストリア併合アンシュルスは,この復活させたドイツ国防軍を使って,達成された。
1938年5月23日,ベルリンの帝国官房(総統官邸)で,三軍総司令官が出席した会議で,ヒトラー総統は,「適当な機会があり次第,ポーランドを攻撃する」ことを宣言している。
アメリカ、イギリス、オランダ、日本、イタリアのような海洋国は、飛行艇や水上機を多用したが、軍用飛行艇・水上機は、一般的に海軍の所属だった。しかし、ドイツの飛行機の所管は、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Goering)元帥の支配下に置かれたために、ドイツ軍の基地航空隊所属の飛行艇、水上機の多くは、空軍の隷下に置かれ、海軍艦艇、潜水艦との連携に不都合な面があった。
ドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー(Erich Raeder)提督の指揮権のある海軍航空兵力は、巡洋艦以上の大型艦船が搭載する艦載水上機に限られた。
1937年、第二次大戦勃発2年前、ドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダー(Erich Raeder)提督は、国防軍総司令官ブロンベルク元帥に対して、沿岸防衛の範囲に関して、ドイツ空軍ヘルマン・ゲーリング総司令官との海空の分担の取り決めを依頼したが、実際に海軍と空軍の責任範囲について協定文書がまとまったのは、戦争直前の1939年2月3日だった。
これは、ドイツ海軍司令部空軍代表(General der Luftwaffe beim Oberbefehlshaber der Marine)を置き、戦時には海軍司令部空軍代表を海軍総司令官の指揮下に行動するというものである。
しかし、ドイツ近海を離れた海上は、ドイツ空軍の責任範囲で、ドイツ海軍が作戦行動を行う場合のみ、ドイツ海軍が哨戒偵察の責任を負うとした。また、水上艦艇同士の海戦、航空機による機雷敷設については、海軍と空軍の合意のもとに、実施するとした。
写真(右)2011年8月、フランス南西、ランデス(Landes)県ビスカロス(Biscarrosse)、水上飛行機歴史博物館(Musée historique de l'hydraviation)、イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12 Ybrs液令V型12気筒エンジン 641 kW (860 hp):
Français : Moteur Hispano-Suiza 12 Ybrs ayant équipé les Latécoère 298, Musée historique de l'hydraviation, Biscarrosse, Landes, France. Pret du musée de l'Air
Date 29 August 2011
Source Own work
Author Pline
写真はWikimedia Commons Category:Hispano-Suiza 12Y
・File:Engine Bay V-12s LSide FOF 29June2012 (14403876149).jpg引用。
イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza 12Ycrs)液令V型12気筒エンジンの諸元
シリンダー V型12気筒 設置角60度
ボアAlésage : 150 mm
ストロークCourse des pistons : 170 mm
排気量Cylindrée : 36,05 L
全長Longueur : 1 722 mm
全幅Largeur : 764 mm
全高Hauteur : 935 mm
総重量Masse à sec : 465 kg
ドイツの輸出向けドルニエ(Dornier)Do-22偵察機が装備した発動機イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Y液令V型12気筒エンジン 641 kW (860 hp)は、フランス空軍ドボアチーヌ(Dewoitine)D.520戦闘機、モラーヌ・ソルニエ (Morane-Saulnier) M.S.406戦闘機も採用し、プロペラ軸から射撃する20ミリ機関銃を装備することができるタイプもあった。
写真(右)2012年6月、アメリカ、フロリダ州ポーク(Polk)市、航空ファンタジー博物館(Fantasy of Flight)、イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Y液令V型12気筒エンジン 641 kW (860 hp):
Description A pair of Hispano-Suiza 12Y V-12 aero-engines
Date 29 June 2012, 11:54
Source Engine_Bay V-12s LSide FOF_29June2012
Author Valder137
写真はWikimedia Commons Category:Hispano-Suiza 12Y
・File:Engine Bay V-12s LSide FOF 29June2012 (14403876149).jpg引用。
図(右)2012年6月、イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Y液令V型12気筒エンジン 641 kW (860 hp)の内部構造図:1935年刊行の製造マニュアルに掲載。シリンダー(気筒)が片側6個並んでいる。上部にバルブが描かれている。
English: Hispano-Suiza 12Y cutaway - from constructor's manual, 1935
Date 6 January 2013, 21:45:18
Source Own work
Author Alain BRETON
写真はWikimedia Commons Category:Hispano-Suiza 12Y
・File:Coupe12Y1.jpg引用。
イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Y液令V型12気筒エンジンを装備した軍用機には、フランス空軍ドボアチーヌ(Dewoitine)D.520戦闘機、モラーヌ・ソルニエ (Morane-Saulnier) M.S.406戦闘機、ソ連空軍ペトリヤコフ(Petlyakov) Pe-2双発爆撃機、ラボーチキン(Lavotchkine)LaGG-3単発戦闘機、ヤコブレフ(Yakovlev)Yak-1、Yak-3、Yak-7、Yak-9単発戦闘機など第二次世界大戦中に数万機が生産されている。
3.ユーゴスラビア海軍航空隊ドルニエ(Dornier)Do-22 Kj水上偵察機
写真(右)1934-1939年、地中海、海上に停泊するユーゴスラビア海軍航空隊ドルニエ(Dornier)Do 22 Kj水上偵察機(302)左側面;国籍マークは垂直尾翼方向舵が上から青白赤の三色、主翼左右下面に外側から赤白青白ラウンデルに白十字架の国籍マークを描いている。
10/15/2005. Remarks by Srecko Bradic: "The Do 22 or Do H wasa reconnaissance and bomber seaplane developed from the fighter version. The largest user was Pomorsko Vazduhoplovstvo [Naval Aviation] of the Yugoslav Kingdom and also some planes were used by Finland as well Greece. This is the Yugoslav sample in overall RLM 02 Grau scheme."
写真は SRECKO BRADIC COLLECTION No. 4653. Dornier Do 22 (302) Yugoslav Naval Aviation 引用。
絵葉書(右)1934-1939年、地中海、海上を滑走するユーゴスラビア海軍航空隊ドルニエ(Dornier)Do 22 Kj水上偵察機(302);国籍マークは垂直尾翼方向舵が上から青白赤の三色、主翼左右上面に外側から赤白青白ラウンデルに白十字架の国籍マークを描いている。後席には、旋回機関銃1挺を装備可能。
Foto Dornier Do 22 Seeflugzeug, Baujahr 1934/39, 302 Nr. 10.326.651 Foto, ca. 12 x 17 cm, sehr guter Zustan
写真はakpool, Ihr Onlineshop für alte Ansichtskarten SRECKO BRADIC COLLECTION Nr. 10.326.651 引用。
第二次世界大戦前、ドイツから友好国ユーゴスラビアにドルニエ社が輸出用にイスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs液令エンジン860 HPを搭載したパラソル単葉機が、ドルニエ(Dornier)Do 22偵察機で、ドイツ軍は使用せずに、全てが外国への輸出あるいは供与された。総生産機数は30機程度。
ドルニエ(Dornier)Do 22複葉偵察機は、フランス製イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)液令エンジンを搭載した水上機型Do-22Kと陸上型Do-22Lとがある多用途軍用機で、水上機型は1938年7月15日に初飛行した。ドイツは、戦備増強を図ったギリシアにDo22Kg偵察機12機を、ユーゴスラビアにDo22Kj偵察機12機を輸出している。
1940年頃、地中海、雲形迷彩を施したユーゴスラビア海軍航空隊ドルニエ(Dornier)Do 22 Kj水上偵察機(306);胴体下面に爆弾を搭載し、イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs液令エンジン860 HPで3翅プロペラを回転させている。後席には、旋回機関銃1挺を装備している。
10/15/2005. Remarks by Srecko Bradic: "The Do 22 or Do H wasa reconnaissance and bomber seaplane developed from the fighter version. The largest user was Pomorsko Vazduhoplovstvo [Naval Aviation] of the Yugoslav Kingdom and also some planes were used by Finland as well Greece. This is the Yugoslav sample in overall RLM 02 Grau scheme."
写真はFlickr, SDASM Archives - Catalog:16_007469 引用。
カラー図(上)1939-1940年5月以前、ユーゴスラビア海軍航空隊ドルニエ(Dornier)Do 22K水上機(DR-197);第二次世界大戦前にドルニエ社が輸出用に開発した偵察、爆撃、雷撃に使える多用途水上機。
Do.22Kj ВВС Югославии (c) Daniel Laurelut
図は, Уголок неба Do.22引用。
写真(右)1942年2月19日、、地中海、北アフリカ西部、迷彩塗装を施したユーゴスラビア海軍航空隊ドルニエ(Dornier)Do 22 Kj水上偵察機(306);操縦席の後ろの通信士席は、開閉式のガラス風防で覆われている。最後尾の偵察員・航法士席には、旋回機関銃1挺を装備している。第二次世界大戦前にユーゴスラビアは、ドイツからドルニエDo-22複葉偵察機を購入したが、ユーゴスラビアの反ドイツ・クーデター後、ドイツのユーゴスラビア侵攻を受け、反ドイツのユーゴスラビア軍は国外に脱出、イギリス軍の庇護の下で参戦した。
English: Western Desert, North Africa. 19 February 1942. Armament personnel bombing-up one of the Dornier Do 22Kj seaplanes of a Royal Yugoslav Air Force unit operating in the Middle East.
Date 19 February 1942
Australian War Memorial under the ID Number: MED0321
写真は Wikimedia Commons, Category:Dornier Do 22 File:Australian War Memorial Collection MED0321.jpg引用。
1941年3月27日に反枢軸のセルビア人を中心に、ユーゴスラビアでクーデターが勃発、親ドイツ政権が転覆されると、ヒトラーは、1941年4月6日、即座にドイツ軍をユーゴスラビアに侵攻させ、4月17日にはほぼ全土を占領した。そして、親ドイツの傀儡国家クロアチアを独立させた。この時、ユーゴスラビアがドイツから輸入して使用していたドルニエ(Dornier)Do 2Kj水上偵察機8機がイギリス保護国エジプトに脱出し、そこで、地中海における任務に当たることになった。
図(右)、ユーゴスラビア向け輸出仕様ドルニエ(Dornier)Do 22 Kj 水上偵察機の三面図:ドイツのドルニエ(Dornier)Do 22は、ドイツ友好国のユーゴスラビアに輸出された。
EDornier Do 22KJ
Category WW2 Airplanes
ID Dornier
Width x height 1499 x 1079 px
Source Dr Dan Saranga
写真は
the-blueprints.com、Blueprints ・ / WW2 Airplanes / Dornier / Dornier Do 22KJ引用。
Dornier Do 22の諸元
搭乗員 3名
全長 13,12 m (12,85 m)
全幅 16,20 m
全高 4,83 m (4,42 m)
主翼面積 45,0 m²
空虚重量 2 850 kg (2 600 kg)
最大重量 3 700 kg (4 000 kg)
発動機 イスパノ=スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs 860 CV (633 kW)
最高速力 350 km/h (360 km/h)/ 3 000 m
巡行速力 310 km/h
上昇時間 1 000 m in 3 min (2 min 50 s)
航続距離 2 000 km (1 500 km)
上昇限度 8 500 m (8 600 m)
爆弾搭載量 800 kg
図(上)、ドルニエ(Dornier)Do 22K多用途機の内部構造図;第二次世界大戦前にドルニエ社が輸出用に開発した偵察、爆撃、雷撃に使える多用途水上機。
Компоновочная схема
図は, Уголок неба Do.22引用。
4.フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do-22 K 水上偵察機
写真(右)1942年頃、フィンランド、湖水に停泊中のフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機(DR-196):1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22は、輸出用に開発された機体である。
Do 22 K1 (tunnus DR-195)
PictionID: 46170166 - Catalog: 16_007470 - Title: Dornier Do 22 for Finland Dornier photo - Filename:16_007470.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はWikimedia Commons、Category:Dornier Do 22 in the Finnish Air Force・Category:Dornier Do 22 in the Finnish Air Force引用。
ドイツのドルニエ(Dornier)Do 22は第二次世界大戦前、ドイツから友好国ユーゴスラビア、ギリシャにドルニエ社が輸出した。フランス製のイスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs液令エンジン860 HPを搭載し、パラソル単葉機の保守的な設計である。ドルニエ(Dornier)Do 22偵察機は、ドイツ軍は制式せず、全ての機体が外国へ輸出あるいは供与された。
しかし、1939年9月、第二次世界大戦勃発で、輸出市場が期待できなくなったために、ドルニエ(Dornier)Do 22の生産機数は水上機型・陸上機型合わせて30機程度にとどまった。ただし、ギリシャに輸出され、後にドイツ軍に鹵獲した機体、ラトビアに輸出できなくなった機体は、ドイツ同盟国フィンランドに供与され、対ソビエト「継続戦争」に投入されている。
カラー図(上)1941-1943年、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K水上機(DR-197);第二次世界大戦前にドルニエ社が輸出用に開発した偵察、爆撃、雷撃に使える多用途水上機。
Do.22Kl ВВС Финляндии
Source http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k6553445p
Author Le Pontentiel Aérien Mondial 1936
図は, Уголок неба Do.22引用。
写真(右)1942年7月23日、フィンランド南部、ヘルシンキ沖南5キロ、サンタハミナ(Santahamina)島水上機基地、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機(tunnus DR-195):胴体下面に大型の爆雷搭載用ラック(懸架)が装着されている。
Meritiedustelukone lähdössä.
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
SHOW OTHER VERSIONS (2)
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1942-07-23
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35191引用。
写真(右)1942年7月23日、フィンランド南部、ヘルシンキ沖南5キロ、サンタハミナ(Santahamina)島水上機基地、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機(tunnus DR-195):水上機基地の滑走台ランプ後方を向けているが、これから機体にロープを結んで、ランプに引き上げて、爆雷を搭載するのであろう。胴体下面に大型の爆雷搭載用ラック(懸架)が装着されている。右手前にあるのは、機体をランプに引き上げるロープの巻き上げ機であろう。
Syvyyspommia otetaan meritiedustelukoneeseen.
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
SHOW OTHER VERSIONS (4)
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1942-07-23
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35192引用。
写真(右)1942年7月23日、フィンランド南部、ヘルシンキ沖南5キロ、サンタハミナ(Santahamina)島水上機基地、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 Kl 水上偵察機(tunnus DR-195)と胴体下面の爆雷懸架:ドイツのドルニエ(Dornier)Do 22はギリシャに輸出され、それがドイツ軍に鹵獲されて、同盟国フィンランドに供与された機体である。
Meritiedustelukone lähdössä. Lentokone on Dornier Do 22 (tunnus DR-195).
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1942-07-23
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35193引用。
フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 水上機は、原典の説明ではドルニエ(Dornier)Do 22 K1とされていることがある。しかしこれは、Lの小文字lを数字の1と読み違えたのであろう。ラトビア向け輸出仕様はDo-22 Kl(ケーエル)であり、K1(ケーワン)ではないが、lと1の表記が混同してしまったと思われる。さらに、Do 22 (DR-195)、Do 22 (DR-196)は、水上機型と陸上機型の双方の写真が残っており、季節や場所に応じて、Do-22を水上機仕様と陸上機仕様を交換併用したと考えられる。そこで、フィンランド空軍の使用したDo-22がラトビア向け輸出仕様、ユーゴスラビア向け水上機あるいはギリシャ向け陸上機かと仕様の判別が困難である。こうして、フィンランド軍の使用したドルニエ(Dornier)Do 22の出所と形式名称が不明瞭になってしまった。
写真(右)1942年7月23日、フィンランド南部、ヘルシンキ沖南5キロ、サンタハミナ(Santahamina)島水上機基地、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機(DR-195)胴体下面に搭載する爆雷の運搬作業:Do-22水上機はバルト海、フィンランド湾におけるソ連軍対潜水艦哨戒偵察任務に従事した。
Syvyyspommia otetaan meritiedustelukoneeseen.
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1942-07-23
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35194引用。
1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22は、1941年6月に勃発したフィンランド・ソ連「継続戦争」時点では、旧式化しており、対戦闘機防御力は脆弱だった。しかし、フィンランド軍は、ドイツのソ連侵攻音お時を同じくして対ソ「継続戦争」をはじめたため、緒戦でバルト海・フィンランド湾の制空権を握ることができた。そこで、ドルニエ(Dornier)Do 22水上機に爆雷1発を搭載し、バルト海におけるソビエト海軍の潜水艦の捜索・哨戒・攻撃に使用した。
写真(右)1942年7月23日、フィンランド南部、ヘルシンキ沖南5キロ、サンタハミナ(Santahamina)島水上機基地、胴体下面に爆雷を搭載するフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機(DR-195):1938年7月15日初飛行の低速水上機だが、バルト海やフィンランド湾のような狭い海面での対潜哨戒にドルニエ(Dornier)Do 22は適していたようだ。
Syvyyspommia otetaan meritiedustelukoneeseen.
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1942-07-23
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35195引用。
ドイツからフィンランドに供与されたドルニエ(Dornier)Do 22水上機は、800 kg (1,800 lb) 航空魚雷1本あるいは50 kg (110 lb) 爆弾4発を搭載することができたため、対潜水艦哨戒・攻撃に爆雷1発を搭載して投入された。
写真(右)1942年7月23日、フィンランド南部、ヘルシンキ沖南5キロ、サンタハミナ(Santahamina)島水上機基地、胴体下面に爆雷を搭載するフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機(DR-195):バルト海におけるソ連海軍潜水艦の制圧のための対潜水艦哨戒作戦に投入された。
Syvyyspommia otetaan meritiedustelukoneeseen.
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1942-07-23
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35196引用。
1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22水上機は、ギリシャ、ユーゴスラビアに輸出され、さらにラトビアへの輸出も決まっていたが、ラトビアがソ連に併合されたために、実機の引き渡しは行われなかった。しかし、1940年にフィンランドが対ソビエト冬戦争に敗北した後、航空兵力強化のために、1940年5月のドイツは、バルカン侵攻後、ギリシャ、ユーゴスラビアで鹵獲・回収したドイツ製Do-22水上機をフィンランドに供与して、対ソ連戦争の準備の軍事援助を行っている。フィンランドは、1941年6月末の対ソ連「継続戦争」にドイツから供与されたドルニエ(Dornier)Do 22を対潜水艦哨戒機としても使用した。
写真(右)1942年7月23日、フィンランド南部、ヘルシンキ沖南5キロ、サンタハミナ(Santahamina)島水上機基地、胴体下面に爆雷を搭載するフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機(DR-195):1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22は、対戦闘機防御力は弱いが、制空権下、ソビエト海軍の潜水艦の捜索・哨戒・攻撃に活躍したようだ。
Meritiedustelukone lähdössä. Lentokone on Dornier Do 22 (tunnus DR-195).
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1942-07-23
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35197引用。
写真(右)1942年7月23日、フィンランド南部、ヘルシンキ沖南5キロ、サンタハミナ(Santahamina)島水上機基地、胴体下面に爆雷を搭載するフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機(DR-195):1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22は、爆弾搭載可能だったために、対潜哨戒用に爆雷1発を搭載してバルト海、フィンランド湾で使用された。
Syvyyspommia otetaan meritiedustelukoneeseen.
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1942-07-23
Luutnantti Pauli J. Wiro, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35198引用。
1938年7月15日初飛行のドイツの輸出仕様ドルニエ(Dornier)Do 22複葉偵察機は、フランス製イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)液令エンジンを搭載し、陸上型と水上機型がある。1939年9月の第二次世界大戦勃発で戦備増強を図ったギリシアがDo22Kg複葉偵察機12機を、ユーゴスラビアがDo22Kj複葉偵察機12機を輸入した。
写真(右)1942年、フィンランド、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 Kl 水上偵察機:ドイツのドルニエ(Dornier)Do 22はギリシャに輸出され、それがドイツ軍に鹵獲されて、同盟国フィンランドに供与された機体である。
Hinaaja kuljettaa lentokonetta. Joulukuu 1942. Kuvan lentokone on Dornier Do 22 K1.
Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
Eino Itänen, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-40197引用。
フィンランド空軍第6偵察飛行中隊(LeLv 6)に配備された4機のドルニエ(Dornier)Do 22の登録コードは、DR195 (D-OXWF)、DR196 (D-OXWG)、 DR197 (D-OXWD)、DR198 (D-OXWH)である。そして、DR195 (D-OXWF)、DR196 (D-OXWG)の2機がドルニエ(Dornier)Do 22陸上機仕様に改造されている。これらフィンランド空軍第6偵察飛行中隊(LeLv 6)のドルニエ(Dornier)Do 22 偵察機は、1942年から1944年まで、対ソビエト継続戦争で活躍した。
写真(右)1942年、フィンランド、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機:木製梯子を立てかけて、水平尾翼の上面に積もった雪を、コートを着た地上勤務員が箒(ほうき)で履き下ろしている。下では、背後を押さえている地上勤務員が、動揺のコートを着ている。
Talvi yllätti lentosataman Maarianhaminassa. Kuvan lentokone on Dornier Do 22 K1..
Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
Eino Itänen, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-40239引用。
1941年4月にドイツがイタリア軍を援助するためにバルカン半島に侵攻、ギリシャ、ユーゴスラビアを占領した。そのとき鹵獲したドルニエ(Dornier)Do 22偵察機は、ドイツ同盟国フィンランドに貸与され、フィンランド空軍はDo22K複葉偵察機とDo22水上偵察機を部隊配備して、ソ連軍とたたかった。
他方、フィンランドは、バルト三国の一つラトビア(Latvia)が発注したドルニエ(Dornier)Do 22 偵察機の水上機K型2機と陸上機L型2機を入手した可能性もわずかだが残っている。いずれもドイツ軍から供与されたことは共通している。
写真(右)1943年7月29日、フィンランド、水上を滑走するフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 Kl 水上偵察機の正面:
28.-29.7.1943 oli Metsätaistelukurssin ohjelmassa kaukopartiotoimintaa. Lentokone on huomannut merkin ja laskeutunut veteen. Kuvassa on Dornier Do 22 -vesilentokone.
Sotamuseo
Kuvaustiedot
1943-07-29
Kersantti N.Verronen, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-140104引用。
イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)とは「スペインとスイスの」という意味で、創設者のスペイン人、技術主任のスイス人から由来しているが、多国籍企業として、スペインとフランスで自動車、発動機を開発、生産した企業である。ドルニエ(Dornier)Do 22 偵察機が、フランスで容易に入手できるイスパノ=スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs 液令V-12 気筒エンジン 641 kW (860 hp)を発動機として搭載したのは、輸出用の軍用機だったためである。
写真(右)1943年7月29日、フィンランド、水上基地から負傷者を乗せるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 Kf 水上偵察機:フィンランド軍では、旧式機を患者輸送機として活用し、兵士の戦意を維持しようとした。そこで、負傷しても空輸によって後方に安全に撤退できるというプロパガンダを行ったようだ。
28.-29.7.1943 oli Metsätaistelukurssin ohjelmassa kaukopartiotoimintaa. Haavoittunut nostetaan lentokoneeseen, jolla kuljetus omalle puolelle tapahtuu.
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1943-07-29
Kersantti N.Verronen, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-140105引用。
写真(右)1943年7月29日、フィンランド、水上基地から負傷者を乗せるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 Kf 水上偵察機:フィンランド軍では、旧式機を患者輸送機として活用し、プロパガンダ用の宣伝写真も多数残している。
28.-29.7.1943 oli Metsätaistelukurssin ohjelmassa kaukopartiotoimintaa. Haavoittunut nostetaan lentokoneeseen, jolla kuljetus omalle puolelle tapahtuu. Lentokone on Dornier Do 22.
Sotamuseo
Kuvaustiedot
1943-07-29
Kersantti N.Verronen, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-140106引用。
写真(右)1943年7月29日、フィンランド、水上基地から負傷者を乗せるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 Kf 水上偵察機:負傷しても患者輸送機で後方に移送されるのであれば、前線の兵士はいざというときでも安心で、戦意も高く保つことが容易になる。
28.-29.7.1943 oli Metsätaistelukurssin ohjelmassa kaukopartiotoimintaa. Haavoittunut nostetaan lentokoneeseen, jolla kuljetus omalle puolelle tapahtuu. Lentokone on Dornier Do 22.
Sotamuseo
Kuvaustiedot
1943-07-29
Kersantti N.Verronen, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-140107引用。
写真(右)1944年、フィンランド、水上を滑走するフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 Kf 水上偵察機(tunnus DR-195)の正面:装備した発動機は、イスパノ=スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs 液令V-12 気筒エンジン 641 kW (860 hp)。
Meritiedustelukone on palannut tiedustelumatkaltaan. DR-lentue. Keväällä 1944. Kuvan lentokone on Dornier Do 22 K1 (tunnus DR-195).vesilentokone.
Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-141351引用。
ドルニエ(Dornier) Do 22の諸元
乗員Crew: 3名 (操縦士、銃手、通信士)
全長Length: 13.12 m (43 ft 1 in)
全幅Wingspan: 16.2 m (53 ft 2 in)
全高Height: 4.85 m (15 ft 11 in)
主翼面積Wing area: 45 m2 (480 sq ft)
空虚重量Empty weight: 2,600 kg (5,732 lb)
総重量Gross weight: 4,000 kg (8,818 lb)
発動機Powerplant: イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs液令V-12 気筒エンジン 641 kW (860 hp)
性能Performance
最高速力Maximum speed: 350 km/h (220 mph, 190 kn) at 3,000 m (9,800 ft)
巡行速力Cruise speed: 310 km/h (190 mph, 170 kn)
航続力Range: 2,300 km (1,400 mi, 1,200 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 9,000 m (30,000 ft)
上昇時間Time to altitude: 5,000 m (16,000 ft) / 13 分
兵装Armament
2 × 7.92 mm (0.312 in) MG 15 機関銃(後上方・下方)
1 × 7.92 mm (0.312 in) MG 17 機関銃(機首固定)
Bombs: 1 × 800 kg (1,800 lb) 航空魚雷あるいは 4 × 50 kg (110 lb) 爆弾
写真(上)1943年頃、フィンランド、フィンランド空軍ブラックバーン・リポン(Blackburn Ripon)水上偵察機(登録コード:RI-137)と後方のドルニエ(Dornier)Do 22 K 水上偵察機:両機とも同形式の双浮舟フロート装備の単発水上機で、同じスタイルの迷彩塗装を施しているが、飛行性能はブラックバーン・リポンよりもドルニエDo-22のほうが遥かに勝っている。
The Blackburn T.5 Ripon was a British carrier-based torpedo bomber and reconnaissance biplane which first flew in 1926. It was used by the Fleet Air Arm as a torpedo bomber from 1930 until 1935. Ripons were also sold to Finland, where they continued to be used in action in the Winter War and the Continuation War until 1944. The Blackburn Ripon was also ordered for use by the Finnish Air Force, with one example for Finland being built by Blackburn, before 25 were produced under licence at the Finnish Aircraft Factory. These were powered with a number of different radial engines; the pattern aircraft had a 530 hp (400 kW) Bristol Jupiter VII, the next seven had 480 hp (360 kW) Gnome Rhone Jupiter VI, followed by eight with 535 hp (399 kW) Armstrong Siddeley Panther engines and the final ten with 580 hp (430 kW) Bristol Pegasus engines. The Finnish Air Force used Ripons as reconnaissance aircraft against the Soviet Union in the Winter War and the Continuation War. After losing an aircraft to Soviet fighters in 1939, the Ripon was limited to night missions. The last missions were flown in 1944. One Ripon coded RI-140 was stored and has been reassembled and put on display in the Päijänne Tavastia Aviation Museum recently. It is the only preserved example.
写真はAsisbiz・Blackburn T.5 Ripo引用。
1926年4月17日初飛行のイギリス海軍航空隊ブラックバーン・リポン(Blackburn Ripon)艦上雷撃機は、最高速力179km、航続距離660kmと低性能で、第二次大戦時は偵察機・雑用機・練習機として使用され、雷撃は実施していない。ブラックバーン・リポンは、イギリスから送られた部品で、フィンランド国営航空工場が25機をノックダウン生産された。
写真(右)1941年9月13日、フィンランド南部、ミッケリ南30キロ、サイマー湖カシンテール(Kasinhäntä)島、フィンランド南東のラドガ湖(Laatokalta)から飛来し、サイマー湖カシンテール(Kasinhäntä)島水上機基地に接岸する2翅固定ピッチプロペラのフィンランド空軍ブラックバーン・リポン(Blackburn Ripon) IIF 水上機仕様複座偵察機:連絡飛行で降り立った飛行服姿の搭乗員を出迎える2人の地上勤務者。
Kasinhäntä, RI-kone saapuu tiedotuslennolta Laatokalta ja tähystäjä tekee ilmoituksen.
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
1941-09-13
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-58478引用。
ブラックバーン・リポン(Blackburn Ripon) IIC多用途機の諸元
乗員Crew: 3名
全長Length: 36 ft 9 in (11.20 m)
全幅Wingspan: 44 ft 10 in (13.67 m)
全高Height: 12 ft 10 in (3.91 m)
主翼面積Wing area: 683 sq ft (63.5 m2)
空虚重量Empty weight: 4,132 lb (1,874 kg)
総重量Gross weight: 7,282 lb (3,303 kg)
発動機Powerplant: 1 ×ネイピア ライオン(Napier Lion)X 液冷W型12気筒エンジン(排気量23.944 L)570 hp (430 kW)
プロペラPropellers: 2-翅固定ピッチ
最高速力Maximum speed: 96 kn (111 mph, 179 km/h) 海面上
航続距離Range: 360 nmi (410 mi, 660 km)
実用上昇限度Service ceiling: 10,000 ft (3,000 m)
上昇時間Time to altitude: 6,500 ft (1,981 m) /15分30秒
兵装:
1 × .303口径 (7.7 mm) ビッカース(Vickers)前方固定機関銃、 1 × .303口径(7.7 mm)ルイス(Lewis)後方旋回機関銃
爆弾Bombs:
1 × 18 インチ (457 mm) 航空魚雷、3 × 530 ポンド (240 kg)爆弾 、 6 × 230 ポンド (104 kg) 爆弾
写真(右)1944年4月8日、フィンランド、フィンランド空軍ブラックバーン・リポン(Blackburn Ripon) IIF スキー仕様複座偵察機:ブラックバーン・リポン複葉機には、陸上機仕様、水上機仕様と冬季雪原用の固定式スキー降着装置を装備したスキー仕様がある。
Tuulen kuljettamat ahtojäät aiheuttivat sen että laivat eivät päässeet Laatokan saariin. Tämän johdosta suoritettiin huolto ja osittain lomalaisten kuljetuskin lentoteitse. Postia lastataan lentokoneeseen. Lentokone on Blackburn Ripon IIF.
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
1944-04-08
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-144702引用。
フィンランド国営航空工場で組立てられたブラックバーン・リポン(Blackburn Ripon)複葉機は、発動機yとしては、最初は530 hp (400 kW) ブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter)II空冷星形9気筒エンジン(排気量28.7 L)、2番目は480 hp (360 kW) グローム・ローン(Gnome Rhone)ジュピター(Jupiter)VI空冷星形エンジン, 3番目は535 hp (399 kW) アームストロング・シッドレ―(Armstrong Siddeley)パンサー(Panther)空冷星形エンジン、最後は580 hp (430 kW)ブルストル・ペガサス(Bristol Pegasus)空冷星形エンジンと4種類あった。しかし、イギリスの原型は、570 hp (430 kW)ネイピア ライオン(Napier Lion)X 液冷W型12気筒エンジン(排気量23.944 L)を搭載していた。
5.フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do-22 K 陸上偵察機
写真(右)1942-1944年頃、フィンランド、トラックで牽引されるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機DR195 (D-OXWF):1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22は、輸出用に開発された機体である。
Lentokonetehdas. Dornier Do 22 tiedustelukone.
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
Kartto - Peronkoski, valokuvaajaa
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-35191引用。
ドルニエ(Dornier)Do 22は、1938年7月15日に試作機が初飛行し、1938-1939年に30機ほどが生産された。搭載したエンジンは、イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Ybrs液令エンジン860 HPである。全長 13.1 m、全幅 16.2 m、兵装は7.62mm機関銃あるいは7.92 mm機関銃3挺(後席の後方旋回機関銃1-2挺、機首上面1挺、機首下面段差1挺)、爆弾搭載量 200 kg あるいは航空魚雷 800 kgを搭載が可能。
写真(右)1942-1944年8月頃、フィンランド、トラックで牽引されるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 Kf 偵察機(登録コード:DR-195):尾輪をクレーン車に乗せるために、多数の地上勤務員がDo-22偵察機の尾部を型に乗せて持ち上げている。スカンジナビアの青の鍵十字卍「ハカリスティ」(Hakaristi)は、反共産主義、反ボリシェビキのシンボルで、ナチ党鍵十字スワスチカと同じ起源から生まれたものである。
Lentokonetehdas. Dornier Do 22 tiedustelukone.
Content Type Photo
Organisation Military Museum
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Kartto - Peronkoski, valokuvaajaa
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-9973 引用。
フィンランドが継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。
写真(右)1942-1944年8月頃、フィンランド、トラックで牽引されるフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22 Kf 偵察機(登録コード:DR-195):尾輪をクレーン車の上に載せて、ゴム主輪を使って牽引されるDo-22偵察機。後方の飛行機格納庫は、左右2棟ともに、側面に雲形迷彩塗装を施しているが、対空偽装としてはあまり効果が期待できないように思われる。
Lentokonetehdas. Dornier Do 22 tiedustelukone.
Content Type Photo
Organisation Military Museum
Photo info
Kartto - Peronkoski, valokuvaajaa
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-9972引用。
ドルニエ(Dornier)Do 22偵察機の水上機型は、第二次世界大戦の勃発前後にギリシャ、ユーゴスラビアに輸出されたが、フィンランドには対ソビエト戦争の軍事援助として、ドイツから供与された。しかし、ドイツ軍にドルニエ(Dornier)Do 22は配備されていないので、フィンランド軍向けのDo-22は、輸出向けの機体を供与したもので、ユーゴスラビアか、ギリシャを占領したドイツが鹵獲した機体、あるいはラトビアに輸出する前に、ラロビアがソ連に併合され、余剰になった機体かのいずれかである。しかし、ギリシャ、ユーゴスラビアは、水上機型を配備したので、ドルニエ(Dornier)Do 22陸上偵察機のDR195 (D-OXWF)、DR196 (D-OXWG)の2機は、ラトビア向けのDo-22がフィンランドに供与されたものと推測できる。
写真(右)1944年1月7日、フィンランド、フィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機DR196 (D-OXWG):1938年7月15日初飛行のドルニエ(Dornier)Do 22はの原型はパラソル単葉の水上機で、輸出用に開発された機体である。
Suomi: DR-kone lähdössä meritiedustelulennolle. (Kuvassa on Dornier Do 22K). Kuvauspaikka: Malmin lentokenttä
Date 7 January 1944
Source SA-kuva (http://sa-kuva.fi/)
Author Sot.virk. Niilo Helander
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・File:Dornier Do 22K at Helsinki-Malmi airport (SA-kuva 145011).jpg引用。
フィンランドは、バルト三国の一つラトビア(Latvia)が発注したドルニエ(Dornier)Do 22偵察機の水上機型3機と陸上機型1機を入手して対ソビエト継承戦争に使用した。
これら4機のドルニエ(Dornier)Do 22の登録コードは、DR195 (D-OXWF)、DR196 (D-OXWG)、 DR197 (D-OXWD)、DR198 (D-OXWH)である。 陸上機型が確認できるDo-22は、DR195 (D-OXWF)、DR196 (D-OXWG)の2機である。しかし、これらの機体は、同時に水上機仕様の写真も確認でき、水上機仕様と陸上機仕様を改装によって使い分けていたと推測できる。
写真(右)1944年1月7日、フィンランド、雪原の滑走路に待機するフィンランド空軍ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機DR196 (D-OXWG):1前席みパイロット、中席に通信士、後席に偵察員・銃手が乗り込む。胴体側面には昇降用の足掛けの位置が白線で記されている。
DR-kone lähdössä meritiedustelulennolle.
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
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Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
1944-01-07
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-137038引用。
フィンランド空軍の4機のドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機は、全て第6偵察飛行中隊(LeLv 6)に配属されて、1942年から1944年まで、対ソビエト継続戦争で活躍した。
写真(右)1944年1月8日、フィンランド、雪原の滑走路に待機するフィンランド空軍ツポレフ ANT-40/ SB(エスベー)爆撃機の右主翼(右上)、メッサ―シュミットBf109G戦闘機(右奥)、遠方のドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機DR196 (左奥):Do-22のエンジンには、エンジンには白色の庇護カバーが掛けられている。手前のパイロットは、戦闘機乗りであろうか。Do-22は、操縦席、通信員席、偵察席の三座のパラソル翼単葉機である。右手前の液令エンジンは、フィンランド空軍がソ連空軍から鹵獲して使用しているツポレフ ANT-40/ SB(エスベー:Skorostnoi Bombardirovschik)高速爆撃機のクリーモフ(Klimov) M-103 液冷V12型エンジン960 hp(716 kW)である。
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Sotamuseo
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Sotavirkailija Helander (tähystäjä) ennen lähtöä.
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
1944-01-08
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-137052引用。
1934年10月7日初飛行のソ連のツポレフ(Tupolev) ANT-40(SB:エスベー;Skorostnoi Bombardirovschik)高速爆撃機は、1936年 - 1941年に7000機近く量産された。フィンランド空軍はSB爆撃機24機を使用した。最初の8機(7機がM-103、1機がM-100エンジン搭載)は冬戦争で鹵獲した機体である。その後、1941年11月5日〜1942年8月27日の対ソ連「継続戦争」で、ドイツがソ連で鹵獲した機材16機をフィンランドに供与している。
写真(右)1944年1月8日、フィンランド、雪原の滑走路に待機するフィンランド空軍ソ連製ツポレフ(Tupolev)ANT-40(SB:エスベー;Skorostnoi Bombardirovschik)高速爆撃機):フィンランド空軍は、第二次世界大戦(冬戦争と継続戦争)で合計24機のソ連製ツポレフSB爆撃機を使用しているが、これはイギリス製ブリストル・ブレニム爆撃機と並んで、フィンランド空軍の主要お爆撃機となった。
SB-konetta lämmitetään.
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
1944-01-07のクリーモフ(Klimov) M-103 液冷V12型エンジン960 hp(716 kW)である。
SB-konetta lämmitetään.
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
1944-01-07
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-137032引用。
ツポレフ(Tupolev)ANT-40(SB 2M-103)高速爆撃機の諸元
乗員: 3名
全長: 41 ft 23⁄4 in (12.57 m)
全幅: 66 ft 8 in(20.33 m)
全高: 11 ft 93⁄4 in (3.60 m)
主翼面積: 610.3 ft2 (56.7 m2)
空虚重量: 10,512 lb (4,768 kg)
総重量: 14,065 lb (6,308 kg)
最大離陸重量: 17,370 lb (7,880 kg)
発動機: クリーモフ(Klimov) M-103 液冷V12型エンジン960 hp(716 kW) 2基
航続距離: 1,243 nmi, 1,429 mi (2,300 km)
実用上昇限度: 30,510 ft (9,300 m)
兵装: 7.62 mm ShKAS機関銃 4挺 (機首2挺、後上方1挺、後下方1挺)
爆弾搭載量: 胴体爆弾倉:100kg (220 lb)爆弾または 50kg (110 lb)爆弾 6発、主翼下面爆弾懸架:250kg (550 lb)爆弾 2発
6.ヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機
ドルニエ(Dornier)Do 22K偵察機とほぼ同時期の同じパラソル式単葉の偵察機としては、1936年8月初飛行のヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機があるが、後者は、ドイツ空軍の制式で、第二次世界大戦の1939年9月ポーランド侵攻、1040年5月フランス侵攻、1941年6月ソビエト侵攻で、地上部隊との直接協力と偵察に大活躍している。
写真(右)1936年頃,ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel)Hs 126V-3近距離偵察機試作3号機機(登録コード:D-DECY) (製造番号:WNr 126.3001):
SDASM Archives
Henschel, Hs 126V-3 with BMW 323
PictionID:44219254 - Title:Henschel, Hs 126V-3 with BMW 323 - Catalog:16_005359 - Filename:16_005359.TIF
写真はSDASM Archives・PictionID:44219304 引用(他引用不許可)。
高翼式主翼、固定式降着装置という堅実な設計のヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機の初飛行は1936年8月、試作3号機が搭載している発動機はBMWブラモ323空冷星型9気筒エンジンだが、量産型A型はそれを引き継いだ。しかし、次の量産型ヘンシェル(Henschel)Hs 126 Bでは、より普及していたBMW132空冷星形9気筒エンジンに変換されている。
ヘンシェル(Henschel)Hs 126偵察機の初の実戦参加は、1936年から1939年まで続いたスペイン内乱(スペイン市民戦争)で、ドイツ軍は、反乱軍・国民戦線を支援するために「コンドル軍団」を派兵した。その偵察機として、1938年秋になってヘンシェル(Henschel)Hs 126偵察機6機が投入されている。
写真(右)1941年7月25日,フィンランド、低空飛行するフィンランド空軍第32飛行戦隊第1飛行中隊ヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機:ファシスト独裁国家イタリア王国の国籍マークは、イタリア国旗トルコローレ(Tricolore italiano)を模して、緑・白・赤の縦縞三色旗が垂直尾翼に描かれている。
Saksalainen lentäjä tuo viestin joukoillemme. Konetyyppi: Henschel Hs 126. 1.(H)/32 Lähitiedustelulaivue 32:n 1. lentue.
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
1941-07-25
Uomala, Vilho, valokuvaaja
写真はWikimedia Commons、Finna Fl sa-kuva-81261引用。
ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機は、単葉でパラソル翼で視界がよい。飛行場だけではなく、平坦な草地ど未整備な土地であっても、丈夫な脚と離着陸距離の短さのために、離着陸ができた。パラソル翼のヘンシェル(Henschel)Hs 126不整地に近い野戦飛行場で使用できたために、地上軍との協力関係も密接になった。
写真(右)1943年,イタリア戦線,シシリー島、ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機:ブラモ(Bramo)323空冷星形9気筒エンジン900 PS (671 kW)(排気量26.8 L)装備。1943年には旧式で、敵の戦闘機の襲撃を受ければひとたまりもなかったはずだが、未整備の滑走路でも離着陸が可能で、前線との連絡飛行に使用されていたようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-565-1425-11A
Archive title: Italien, Sizilien.- Flugzeug Henschel Hs 126 (Seriennummer 4348) auf Feldflugplatz stehend; PK XI. Fliegerkorps
Dating: 1943
Photographer: Schnitzer
Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv 引用(他引用不許可)。
ヘンシェル (Henschel) Hs-126は、近距離偵察機で、第二次世界大戦の前半にドイツ陸軍、特に装甲師団の指揮下で地形・気象偵察、敵情把握、連絡の任務に就き、電撃戦に貢献した。第二次世界大戦後半、ヘンシェル (Henschel) Hs-126は低性能のために偵察任務を避けて、後方での訓練やグライダーの曳航機としても使用された。近距離Fw-189双発偵察機が地上部隊と協力しての偵察に当たるようになった。
1936年8月に初飛行したドイツ空軍ヘンシェル(Henschel)Hs 126 形式別生産機数では、試作機Vは3機、前期Hs-126 A型133機、後期Hs-126 B型771機、ギリシャ輸出仕様16機、エストニア輸出仕様12機、合計935機が生産された。
ヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察の量産期間は、1938-1941年で、会社別ではヘンシェル社で505機、AGO(Apparatebau GmbH Oschersleben)社で430機の合計935機が生産された。
ヘンシェル (Henschel) Hs-126の生産935機にたいして、後継機のフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 189A近距離偵察機は1938年7月に初飛行、運用は1940年からで、1940年から1944年までに、合計864機が生産されている。
図(右)ドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) HS-126 B-1偵察機の三面図:
English: Henschel Hs 126
Date 21 October 2014, 09:55:07
Source Own work
Author Kaboldy
三面図は,Category:Henschel Hs 126 File:Henschel Hs-126.svg引用。
ヘンシェル (Henschel) HS-126 B-1近距離偵察機諸元
初飛行:1936年8月
量産期間:1938-1941年
生産機数: ヘンシェル社 505機
AGO(Apparatebau GmbH Oschersleben)社 430機
生産機数合計 935機
搭乗員: 2名
全長: 10.85 m
全幅: 14.50 m
全高: 3.75m
空虚重量: 2032 kg
総重量: 3090 kg
最大離昇重量: 3,270 kg
燃料: 650L
主翼面積: 31.60 m2
エンジン: ブラモ(Bramo)323A-1 空冷9気筒エンジン634 kW (850 hp)
最高速力: 356 km/h 高度3000m
航続距離: 720 km
兵装
7.92ミリMG17前方固定機銃1丁
7.92ミリMG15旋回機銃1丁
爆弾搭載量: 100 kgから150kg
発動機: ブラモ(Bramo)323A-1ファニール(Fafnir) 空冷9気筒エンジン 850 hp
⇒写真集Album:ヘンシェル (Henschel) Hs-126近距離偵察機を見る。
7.ハインケル(Heinkel)He 60 艦載水上偵察機
写真(右)1933年頃,ドイツ軍ハインケル(Heinkel)He 60 V4水上偵察機試作4号機(D-IHOH) :He60A先行生産型14機の第1号機は、He60V4(D-IHOH)で発動機はBMW VI 6.0 液冷 V型12気筒エンジン492 kW (660 hp)1基、2翅プロペラを装備。艦載機としてテストされた。He60A先行生産型14機は、He 60A-01からHe 60A-014まである。機体は尾翼にドイツ軍伝統の黒白赤三色ストライプの国章を描いている。1935年に再軍備宣言がされると、ドイツ空軍が創設され、尾翼の国章は、赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)を描いた国章とされた。
SDASM Archives
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46168834 - Catalog:16_007364 - Title:Heinkel He 60 - Filename:16_007364.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,PictionID:46168834引用。
ハインケルHe 60は、He 59と同じラインホルト・メーヴェス設計になる木材/金属混合構造、羽布張りの単発複葉水上機で、当時の標準的な保守的スタイルだった。He 60の原型は、ハインケル HD 60 (W.Nr.380, D-2157)と命名され、1931年8月に初飛行した。
ハインケル(Heinkel)He 60 水上偵察機は、1931年8月初飛行で、1932年から1938年3月まで、361機が量産された。搭載した発動機は、1920年代から生産されていたBMW VI 液冷式V型12気筒エンジンである。しかし、ハインケル(Heinkel)He 60 水上機V-8試作8号機は、ダイムラーベンツDB 600を装備したが、この液令倒立12気筒エンジンを装備したのはV-8試作機のみだった。
1935年までは、ドイツ軍伝統の黒白赤三色ストライプの国章だったが、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降は、尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)を描いた国章とされた。
1935年3月のドイツ再軍備宣言で、ベルサイユ条約(Treaty of Versailles)を無視して、ヒトラーはドイツ空軍を創設した。この時に、垂直尾翼に赤帯白丸黒卍鍵十字のナチ党式国籍マークが定められた。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は目立つために敵からの標的にされやすかったので取りやめになった。
ハインケル(Heinkel)He 60V-2(D-IROL)試作水上機2号機は,2翅プロペラ装備で、軽巡洋艦以上の主力艦艇が搭載した射出機カタパルトから発射できるように強度を高めている。この試作機の審査最中、He60Aは、1933年夏までに、14機が先行生産されていて、ドイツ海軍の練習飛行隊に送られている。He60A第1号機は、He60V4(D-IHOH)と命名され、He 60A-01からHe 60A-014まで14機がある。
BMW VI 液冷式V型12気筒エンジンの諸元
気筒ボア:160 mm190 mm
気筒ストローク:190 mm
気筒排気量: 46.9 L
圧縮比: 7.3
全長: 1,810 mm
全幅: 859 mm
全高: 1,103 mm
乾燥重量: 510 kg
出力: 750 PS/1,700 rpm
図(右)ハインケル(Heinkel)He 60 C 水上偵察機(D-IXES)の三面図:ハインケルHe 60 B 水上偵察機は実用生産型で、7.92mmmMG15後方旋回機関銃を搭載した。右下方主翼上面には、小型の風力発電機が設置されている。次のハインケルHe 60 Cの試作機がHe 60(D-ILRO)とHe 60(D-IXES)の2機である。このHe60 C以降、装備される発動機は全てBMW VI 6.0 液令倒立V-12気筒エンジンとなった。He60水上機は、1932年から1938年3月まで合計361機が生産された。
写真はBlueprints, Blueprints for 3D modeling Heinkel He 60 Blueprint引用。
ハインケル(Heinkel)He 60 水上偵察機の諸元
乗員: 2名
全長: 11.50 m
全高: 5.30 m
翼幅: 13.50 m
翼面積: 56.0平方メートル
空虚重量: 2,735 kg
運用時重量: 3,407 kg
発動機: BMW VI 6.0 液冷V型12気筒エンジン、492 kW (660 hp)1基
ハインケル(Heinkel)He 60 水上偵察機の性能
最高速力: 240 km/h(海面高度) (130 kt) 149 mph
巡航速力: 216 km/h (117 kt) 134 mph
航続距離: 826 km 高度2,000 m (6,560 ft) (446 マイル)
実用上昇限度: 5,000 m
上昇率: 1,000 m/3.2 分
兵装:7.92ミリMG15固定機関銃1丁、7.92ミリMG17旋回機銃1丁
He60水上機は、1932年から1938年3月まで合計361機の量産。
⇒写真集Album:ハインケル(Heinkel)He 60水上偵察機を見る。
8.フィンランド空軍のユンカース(Junkers) K 43 fa水上輸送機
写真(右)1941年8月21日,フィンランド中西部・ソ連、カレリア地方、ケステニガ(Kiestinki:ムルマンスク南350キロ、レニングラード北800キロ)、担架に乗せた負傷者をフィンランド空軍所属のユンカース(Junkers) K 43 fa水上機(登録コード:tunnus; JU-124)に搬入するフィンランド国防軍兵士:K43水上機はW34輸送機の軍用型。フィンランドでは、患者。負傷者の空輸に使われた機体の写真が多数残されている。胴体右側の扉は、担架のまま負傷者を搬出入するには小さすぎるようだ。コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備している。
Kuvassa oleva vesilentokone on Junkers K 43fa , joka tuttavallisemmin tunnetaan nimellä ”Pikku-Junnu”.
写真は,The Finnish Defence Forces・Kuvan numero 43673引用。
1930年にフィンランド空軍は、ドイツからユンカースW 34輸送機1機を購入し、さらにW43輸送機の水上機型のK 43水上機6機をスウェーデン空軍から購入した。1941年7月に、ソビエト連邦との継承戦争を戦うに際しては、長距離偵察・哨戒機として前線に送られたが、前線から傷病兵を後方に搬送する患者輸送機としての任務にも就役した。1944年春、フィンランド空軍は、さらに5機のユンカースW 34輸送機を購入したが、これらは訓練用の練習機として使用されたようだ。戦後にこれらユンカースW34/K43輸送機は、フィンランド国境警備隊で1950年まで使用された。
ユンカースK 43fa輸送機の諸元:
搭乗員: 2名、 乗客: 3-6名
全直:11,13m、全幅i: 17,75m
全高: 3,90m、主翼面積:44平方メートル
空虚重量: 1885kg、全備重量: 3200kg
発動機: 1× BMW 132
最高速力: 220km/h
巡航速力: 180km/h
航続距離: 1700km
上昇限度: 5300m
水上機は、フロートで浮いているので、機体の姿勢は、機首と尾部が水平になるので、人員輸送にはやりやすい面もある。当時の陸上機の多くは、尾輪式で、地上姿勢では、機首が上方を向いており、尾翼部分は地面に近くにある。そこで、地上で機体に乗り込むと、坂の上にあるように、姿勢が斜めになった。
戦時にあっても、万国共通の攻撃対象外の機体として、戦争法規では、無武装で白色塗装の上に大きな赤十字を描いた患者輸送機・救難機を認めていた。これは、機体を白色塗装とし、大きな赤十字マークうを描くこと、無武装であること、兵員・軍事物資を搭載しないこと、前もって、航路を敵に知らせることを条件として認められた。
しかし、敵の戦力を削減するには、このような患者・負傷者の輸送であっても阻止すべきである。また、患者・負傷者の輸送を偽って、軍事物資や要人・兵員輸送をしている違法行為かもしれない。1940年のバトルオブブリテンで必死の本土決戦を戦っているイギリス空軍も、ドイツ空軍の救難機を攻撃対象外とはしなかった。 ...コックピット後上方に7.92ミリ旋回機関銃を装備しており、白色塗装、赤十字マークも付けていないので、国際赤十字で定められた救難機・患者輸送機ではない。
⇒写真集Album:ユンカースW33輸送機/K43f水上機を見る。
9.ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
写真(右)1938-1939年9月以前、ドイツ、3翅プロペラ装備のユモJumo210液冷倒立V型12気筒エンジンを搭載したハインケル(Heinkel)He 114 V-2水上偵察機試作2号機(登録コード:D-UGAT):試作機(Prototype)として1938年に完成した。第二次大戦が始まる前なので、ナチ党政権下のドイツ軍国籍マークとして、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のスワスチカを描いている。フロートの尾部には、水上滑走中の方向を決める方向舵が取り付けられている
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935963 - Catalog:16_005289 - Title:Heinkel He 114V-2 Nowarra photo - Filename:16_005289.TIF
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID: 43935963引用。
ハインケルHe 114 水上偵察機は、前作のHe60艦載水上偵察機の後継機として開発された双フロート、複葉水上偵察機だが、上部主翼は操縦席近傍の胴体から直接伸びたパラソル翼である。下部翼は上部翼よりかなり短いが、縦横比は上部翼と同じである。
写真(右)1938-1939年9月以前、ドイツ、2翅プロペラ装備のハインケル(Heinkel)He 114 V4 水上偵察機試作4号機(登録コード:D-IOGD):試作機(Prototype)としてBMW132D空冷星形9気筒エンジンを搭載、3翅ではなく2翅プロペラ装備。第二次大戦が始まる前なので、ナチ党政権下のドイツ軍国籍マークとして、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のスワスチカ(カギ十字:卍)を描いている。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935975 - Catalog:16_005290 - Title:Heinkel He 114V-4 Nowarra photo - Filename:16_005290.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID: 43935975 引用。
ハインケルHe 114 水上偵察機は、成功作とはいえず、前作のHe60水上偵察機と代わり映えしない飛行性能で、安定性が悪かったために、生産機数は98機と少なかった。前作のHe60水上偵察機は、飛行性能は低かったが、使いやすいために、前線では長い期間、使用された。他方。1939年に搭乗したアラドAr-196単葉機は、成功作だったため、艦載水上偵察機として普及したこともあって、ドイツにおけるHe114水上偵察機の使用期間は短かった。
写真(右)1938年8月22日,装甲巡洋艦「クナイゼナウ」(GNEISENAU)艦体中央のカタパルトに搭載されたドイツ軍ハインケル(Heinkel)He 114 V4 水上偵察機試作4号機(登録コード:D-IOGD):装甲巡洋艦「クナイゼナウ」は、1931年6月25日 起工、1933年4月1日 進水、1934年11月12日 就役、28センチ (11 in)三連装砲塔2基、15センチ連装砲6基12門、10.5センチ(65口径)連装高角砲7基14門、 搭載機3機。基準排水量:3万1,850トン、満載排水量:3万8,900トン、全長234.9m、全幅30.0m。 大西洋方面の交通破壊戦、1942年末のバレンツ海海戦に投入された。
Title:GNEISENAU (German BB, 1936)
Caption:View taken 22 August 1938, during a fleet review, showing crewmen "manning the rails." Note Heinkel HE. 114 seaplane on catapult.
Description:
Catalog #:NH 83614
Copyright Owner:Naval History and Heritage Command
Original Creator:
Original Date:Mon, Aug 22, 1938
Original Creator:
After this Year:1930
Before this Year:1939
写真は,Naval History and Heritage Command,NH 83614 GNEISENAU (German BB, 1936) 引用。
1939年1月7日に就役したドイツ海軍「シャルンホルスト」(Scharnhorst)級巡洋戦艦は、基準排水量3万1,850トン、全長235.4m、最高速力31.6ノットの新鋭高速巡洋戦艦で、シャルンホルストとグナイゼナウの2隻が1935年に起工された。1番艦「シャルンホルスト」(Scharnhorst)は、1936年10月3日進水、1939年1月7日就役で、主砲はドイッチュラント給装高官と同じ28cm(52口径)三連装砲3基9門、副砲15cm(55口径)連装砲4基と単装砲4基、10.5cm(65口径)連装高角砲7基14門、航続距離17ノットで1万マイル。
「シャルンホルスト」(Scharnhorst)級巡洋戦艦は通商破壊戦用で、戦艦との艦隊決戦用ではない。船体中央部煙突後方と後部C主砲塔に射出用カタパルトを各1基合計2基(1943年には砲塔上のカタパルトは撤去)を装備、搭載機は初期はハインケルHe 60 水上偵察機 2機、戦時中にアラドAr196水上偵察機2機に変更。
写真(右)1939年9月-1941年頃、ドイツ本土海域、ハインケル(Heinkel)He 114 A-1 水上偵察機(登録コード:IY-YF):第二次大戦が始まると、垂直尾翼にあったナチ党政権下のドイツ軍国籍マークの黒色スワスチカは残されたが、赤帯白丸は、敵に目立ちやすいために廃止された。
Heinkel, He 114
Catalog #: 01_00081312
Title: Heinkel, He 114
Corporation Name: Heinkel
Additional Information: Germany
Designation: He 114
Tags: Heinkel, He 114
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive-
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081312引用。
ハインケルHe 114 水上偵察機は、ドイツの外貨獲得のため、ルーマニアに24機が輸出された。そして、ルーマニアでは8機が1960年5月まで部隊で使用されていた。スペインに対しても、1943年7月に、12機のA型、C型が輸出され、1954年まで部隊で使用されていた。
ハインケル He 114A-2水上偵察機の諸元
搭乗員: 2名
全長: 11.65 m、全高: 5.23 m、全幅: 13.60 m
翼面積: 42.3平方メートル
空虚重量: 2,300 kg 、全備重量: 3,670 kg
発動機:
BMW 132K 空冷 星型エンジン(960 hp)
最高速力: 335 km/h
航続距離: 920 km
実用上昇限度: 4,900 m
兵装: 7.92ミリMG15旋回機銃1丁
搭載爆弾:50キロ爆弾2発
⇒写真集Album:ハインケル(Heinkel)He 114水上偵察機を見る。
10.アラド (Arado)Ar 196 水上偵察機
アラドAr 196水上偵察機は、ドイツ海軍(Kriegsmarine )艦艇に搭載する艦載水上偵察機としてアラド社(Arado)で開発された。Ar 196水上偵察機の試作は、1936年から開始され、ドイツ海軍の競争試作機として他社を抑えて採用され、500機が製造された。第二次大戦の全期間を通じて、ドイツ海軍の水上偵察機として活躍した。
アラドAr 196水上偵察機が部隊配備されたのは、第二次世界大戦の勃発した1939年9月からである。その後、主翼の7.92ミリMG17機関銃(左右合計2丁)を20ミリMG-FF機関銃(合計2丁)にう強化したA-2型が主力となった。活動海域は、主に大西洋、北海、バルト海だが、黒海、地中海方面でも使用されている。アラドAr 196水上偵察機は、1944年までに500機が製造された。第二次大戦の全期間を通じて、ドイツ海軍の水上偵察機として活躍した。
アラドArado Ar 196 水上偵察機は、第二次大戦中にドイツ海軍で広範囲に使用された、低翼単葉、双フロートの艦載機。BMW132K空冷星型エンジン960馬力搭載、機首と後部座席の7.92mm機銃2挺、主翼内に20mm機関銃2挺、主翼下面に50kg爆弾2発搭載可能。第二次大戦の始まった1939年に部隊配備開始、戦艦ビスマルク、重巡洋艦ヒッパーなど大型水上艦艇に搭載。沿岸水上機部隊にも配備された。
アラド (Arado)Ar 196 水上偵察機諸元
乗員:2名
全長: 11.0メートル,全幅: 12.5メートル
翼面積: 28.4平方メートル
自量: 2トン,全備重量: 3.7トン
エンジン: BMW132 空冷 960馬力1基
最高時速: 320キロ
航続距離: 1000キロ,上昇限度: 7,000メートル
武装: 20ミリMG-FF機関砲2門,7.92ミリMG17機銃2丁
50キロ爆弾2発
初飛行1937年5月
生産開始1938年11月からで、1944年3月までに540機が産された。
⇒写真集Album:アラド (Arado)Ar 196 水上偵察機を見る。
11.ハインケル(Heinkel)He 115水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He 115水上偵察爆撃機は、1937年8月に初飛行した機体で、海上の哨戒偵察以外にも、船団への魚雷攻撃、機雷敷設、輸送などにも投入された多用途機だった。
ヘルマン・ゲーリング総司令官のドイツ空軍に飛行機を集中させられたため、ドイツ海軍航空隊は貧弱であり、ハイケルHe115水上偵察機は、艦艇に搭載することは想定されておらず、水上機基地をベースに活動することを前提としていた。そのため、He115水上偵察機の総生産機数は138機のみで1941年前に終了することが決まった。
しかし、陸上機型の爆撃機、雷撃機はもちろん、偵察機ですら自前の航空兵力を持つことが認められなかったドイツ海軍は、北極海、北大西洋、地中海方面で、水上機を活用して、海上哨戒偵察、対艦船攻撃(爆弾・航空魚雷・機雷)に有効な働きをしていた。そこで、ハインケル(Heinkel)He 115水上偵察爆撃機の生産を1943年末に再開、合計515機を量産した。
⇒写真集Album:ハインケル(Heinkel)He 115水上偵察機を見る。
12.ドルニエ(Dornier)Do-18飛行艇
写真(上)1939 年9月以前、ドイツ、離水しようとするドルニエ(Dornier)Do 18E 飛行艇(D-ABYM)の右側面
;赤帯白丸黒卍十字はナチ党旗からドイツ国旗に取って代わったために、ドイツ機の国籍マークとして採用された。1939年11月9日公開の写真。
English: A German Dornier Do 18 taking off before the Second World War.
Note: this is obviously a retouched photo of the civil Do 18E D-ABYM (see below).
Date circa 1936
Source Flightglobal 9 November 1939 [1]
Author Unknown author, post-work Cobatfor
写真はWikimedia Commons, Category:Dornier Do 18・Objectnummer 2157-112-018 引用。
ドイツ・ルフトハンザ航空は「世界初の西廻り大西洋横断定期郵便飛行に成功」と喧伝したが、1938年3月には、イングランドのデボン州からブラジルまでの8,391kmをノンストップ43時間で飛行し、水上機の飛行距離世界記録を達成した。
⇒写真集Album:ドルニエ(Dornie)Do 18飛行艇を見る。
13.ドルニエ(Dornier)Do-24飛行艇
写真(右)2015年、オランダ中部、ユトレヒト(Utrecht)州ザイスト(Zeist)、国立軍事博物館(Militaire Luchtvaart Museum)に保管されているオランダ海軍航空隊ドルニエ(Dornier)Do 24 T-3 飛行艇( "RNAF X-24")右前方;
IMG_1812
Date 3 January 2015, 12:38
Source IMG_1812
Author Clemens Vasters from Viersen, Germany, Germany
.
Wikimedia Commons, Category: Dornier Do 24 at the Nationaal Militair Museum ・File:Militaire Luchtvaart Museum Soesterberg 1812 (15570196663).jpg引用。
ドルニエ(Dornier)Do 24飛行艇は、第二次世界大戦前、オランダがドイツのドルニエ社に発注した軍用飛行艇で、オランダ海軍航空隊が、東インド諸島(インドネシア)のオランダ植民地で使用するための偵察飛行艇である。ドルニエ社は開発を受けてドルニエ(Dornier)Do 24飛行艇試作機V1を1937年に初飛行させ、オランダが採用して、ライセンス生産された。
ドルニエDo 24T-3は、ドイツ占領下オランダで生産された飛行艇で、BMWブラモ(Bramo)323R-2エンジン1000hp3基を搭載、主に海上救難機として使用された。他方、原型となったオランダ海軍航空隊Do24K飛行艇は、ドイツのドルニエが開発したが、オランダで手に入れやすいアメリカ製ライト(Wright) サイクロン(Cyclone)GR-1820-F52空冷9気筒エンジン875hp3基を装備している。
⇒写真集Album:ドルニエ(Dornie)Do 24飛行艇を見る。
14.第二次世界大戦
写真(右)1940年4月20日、ドイツ、ヒトラー総統がドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を祝福している。
Adolf Hitler(1889-1945) op zijn verjaardag. Hij bedankt maarschalk Göring .
CreatorCollection / Archive Het Leven (LEVEN 022)
Description Adolf Hitler(1889-1945) op zijn verjaardag. Hij bedankt maarschalk Göring voor
het verjaarscadeau, de "Metallspende" door het Duitse volk. Zonder plaats, 20 april
1940.
Date 20 april 1940
Person names Hitler, Adolf, Göring, Herman
Photographer Heinrich Hoffmann
写真はEuropeana Swedish Open Cultural Heritage | K-samsök ・Dataset: 2024909_Ag_EU_EuropeanaPhotography_UA_1005 Identifier: 01662422.jpg ,
引用。
1939年9月のドイツのポーランド侵攻を契機に勃発した第二次大戦緒戦で、ドイツは、イギリスに先んじて1940年4月9日にノルウェー侵攻「ヴェーザー演習作戦」(Unternehmen Weserübung)を開始した。4月10日以降、ノルウェー北部のナルヴィク海戦でドイツ海軍駆逐艦は大打撃を受け、4月14日、イギリス軍がナルヴィク近郊に上陸し5月28日にナルヴィクを占領下。しかし、5月のドイツ軍フランス侵攻により、イギリス軍は、5月24日にノルウェーから撤退した。
ドイツを中核とするイタリア、フィンランド、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、クロアチア、日本などの枢軸同盟国は、連合国とは異なり、相互の外交・軍事を調整する機関はなかった。しかし、1940年9月27日にベルリンで調印された三国軍事同盟では、
1)領土拡大と軍事支配に基づく新秩序の建設、
2)ソビエト連邦を中核とするボルシェビキ共産主義の掃討、
を基本方針とした。
フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1942年6月27日、ドイツ空軍の遣わしたフォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 200コンドル C-3/U9輸送機に乗って、東プロイセン州ラステンブルクの同島大本営「狼の巣」にナチス・ドイツの独裁者アドルフ・ヒトラー総統を訪問、作戦会議に出席した。
そして、1942年6月28日には、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥の下にも参じたフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、ナチスと共闘して、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合った。マンネルハイム元帥が、ソ連を明確な敵とし、領土の回復、ソ連ボリシェビキの弱体化を真剣に望んでいた。
1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連赤軍・ボルシェビズムを敲く最良の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦した。
1943年8月のハンブルクの大空襲、1943年8月17日の秘密兵器実験場ペーネミュンデへの空襲でショックを受けたドイツ空軍参謀総長ハンス・イエショネク(Hans Jeschonnek)大将は、ラステンブルク(Rastenburg)の総統大本営(狼の巣)で自殺した。ただし、ペーネミュンデとの関連性を秘匿するために、イェショネク大将の死亡日は、その前日の1943年8月19日として公表された。
後任の参謀総長に任命されたのはギュンター・コルテン大将だが、彼も1年たたない1944年7月20日、ヒトラー暗殺未遂事件に巻き込まれ、総統大本営で爆死した。
ドイツ空軍参謀総長の初代ヴァルター・ヴェーファー(Walther Wever)、2代アルベルト・ケッセルリンク(Albert Kesselring)、3代ハンス=ユルゲン・シュトゥムプフ(Hans-Jürgen Stumpff)、4代ハンス・イェションネク(Hans Jeschonnek)、5代ギュンター・コルテン(Günther Korten)、6代ヴェルナー・クライペ(Werner Kreipe)、7代カール・コラー(Karl Koller)と続くが、権力の永続化を狙うドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥との信頼関係を気づくことは難しかったようだ。
1943年10月20日、ロンドンで17カ国が集まる国際会議において、連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)の設置が決まり、ドイツ指導者の裁判は、国際戦争犯罪裁判で裁くことを申し合わせた。1945年8月8日、米英仏ソの四大国はロンドンで国際軍事裁判所憲章に署名、国際軍事裁判所の構成や役割について合意し、戦争犯罪を「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」「共同謀議」の4点とし、ニュルンベルグ国際軍事裁判で裁くことが決まった。
ニュルンベルグ国際軍事裁判において、ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)は被告人第1号とされ、最も指導的な地位についていた戦争犯罪容疑者と見なされ、当初から注目を浴びた。
ニュルンベルグ国際軍事裁判では、犯罪組織(犯罪集団)に所属していると訴追対象となったが、これは、ナチ党指導部、内閣(政府)、親衛隊(SS)、突撃隊(SA)、親衛隊保安本部(ゲシュタポ・SD)、参謀本部・国防軍最高司令部の6組織である。また、ニュルンベルグ国際軍事裁判の事犯としては、ユダヤ人大量殺戮、ホロコーストが未曽有の殺戮と認識され、C級戦犯の「人道に対する罪」として裁かれた。死刑対象者は、1946年10月16日に絞首刑にされ、有期刑対象者はベルリン郊外のシュパンダウ刑務所に収監された。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ハンセン病Leprosy差別
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
⇒魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
⇒文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
⇒戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
⇒統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ
⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
⇒フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
⇒ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov
⇒フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
⇒ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
⇒ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
⇒ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
⇒ドイツ陸軍2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
⇒ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
⇒ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
⇒ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
⇒ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車
⇒イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
⇒M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒イギリス陸軍コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
⇒シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
⇒ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
⇒ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
⇒ボーイング(Boeing)247旅客機
⇒ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
⇒ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
⇒ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
⇒アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒ユンカース(Junkers)F.13輸送機
⇒ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
⇒ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
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⇒ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"
⇒フィンランド内戦:Finnish Civil War
⇒フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
⇒ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
⇒フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
⇒第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
⇒第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
⇒ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
⇒ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
⇒フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
⇒フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
⇒フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
⇒フィンランド軍の防空監視哨
⇒ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
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⇒ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
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⇒ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
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⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
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⇒フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
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