◆第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
写真(上)1944年2月7-8日、フィンランド南部、ヘルシンキ、ソ連空軍の爆撃を受けて炎上する家屋;カラースライドに記載されている日付は1944年2月7-8日であるが、その日には似たような白黒の画像がたくさんある。そこから推測すると、撮影日はおそらく2月7日である。
Pommitustuhoja Helsingissä.
Diaan merkitty päivämääräksi 7.-8.2.1944. Kuvauspäivä todennäköisesti 7.2.1944, koska tuolta päivältä löytyy runsaasti vastaavanlaisia mustavalkoisia SA-kuvia. Seuraavana päivänä kuvatut käsittelevät 6.-7.2. tapahtuneiden pommitusten tuhoja.
Military Museum
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-166104引用。
写真(上)1944年4月25日、フィンランド、フィンランド軍のスウェーデン製ボフォール40ミリ対空機関砲とそれを操作する4名のフィンランド軍兵士 ;60口径の40x311mmR弾を、発射速度120発/分で、砲口初速881 m/秒で発射できる強力な対空機関砲で、同型のものをアメリカ軍、イギリス軍も大量に配備した。
2. Er.It.Psto: 43. Kev.It.jaos: Tykki (Bofors) tuliasemassa Nokian kauppalan liepeillä.
Nokia 1944.04.25
Content Type Photo
Organisation
Military Museum
写真はFinnish Defence Forces・JSdia277引用。
写真(上)1944年6月4日、フィンランド、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍のIII号突撃砲G型初期型の行進を閲兵する。 ;戦闘室上面には、防盾付き機関銃が1丁装備されている。反革命・反ボリシェビキ・自由の象徴で青衛軍以来の伝統あるカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体前面下部に描いている。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-06-04
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-118127引用
写真(上)1944年9月7日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍のトラクターが牽引するソ連製152ミリ榴弾砲;防盾には迷彩塗装が施されている。
Moottoroitu raskas tykistö siirtyy Vuosalmen sillanpäästä Vuosalmen-Räisälän tietä. Kuvan tykki on neuvostoliittolainen 152 mm:n raskas haupitsi vuosimallia 1937 (152 H 37).
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-139639引用。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラドガ湖北30キロ、スイスタモ(Suistamo)で穀物収穫作業を手伝うフィンランド軍兵士たち ;継続戦争では、フィンランド人口の10%の40万人が動員されたために、工業・農業の労働力が不足した。そのため、1944年の時点で、戦局が悪化していた時期であっても、9月の穀物収穫期には農繁期のために、兵士に休暇を取らせて帰農させた。また、動員された兵士を農場に労働力として派遣して、農作業の手伝いに従事させた。(同じ場所からEskoTöyrによって撮影された白黒のSA写真。
Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran kylässä Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran (Piensarka) kylässä. Suistamo 14.9.1944 (samasta paikasta Esko Töyrin kuvaama mustavalkoinen SA-kuva 162807, josta tiedot).
Lisää
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-09-14
Kim Borg, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-166472引用。
1.1941年6月25日フィンランドのソ連侵攻「継続戦争」
写真(右)1944年7月7日、カレリア地峡(?)、フィンランド、フィンランド国防軍が使用したソ連製1940年式120ミリ重迫撃砲(120 Krh 40);迫撃砲は、砲口から有翼砲弾を装填し、筒の底部にある撃針によって発火、砲口から砲弾が飛び出し、放物線を描いて敵地に落下、爆発する。
Raskas kranaatinheitin (krh) toiminnassa. Kuvat eri vaiheista. Kuvassa suomalainen raskas kranaatinheitin vuodelta 1940 (120 Krh 40).
majuri Mikkola.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-07
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-143801引用。
写真(右)1944年7月7日、カレリア地峡(?)、フィンランド、フィンランド国防軍が使用したソ連製1940年式120ミリ重迫撃砲(120 Krh 40);迫撃砲は、砲口から有翼砲弾を装填し、筒の底部にある撃針によって発火、砲口から砲弾が飛び出し、放物線を描いて敵地に落下、爆発する。
Raskas kranaatinheitin (krh) toiminnassa. Kuvat eri vaiheista. Kuvassa suomalainen raskas kranaatinheitin vuodelta 1940 (120 Krh 40).
majuri Mikkola.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-07
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-143805引用。
1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相チェンバレンは,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦直前の1939年8月23日、ドイツはソ連と独ソ不可侵条約(German-Soviet Nonaggression Pact)を結び、その秘密議定書において、ドイツは、チェコ、ハンガリー、ポーランド西半分を勢力圏とし、ソ連はバルト三国、フィンランド、ルーマニア、ブルガリアを勢力圏とすることで合意していた。ドイツは、第一次大戦のように東西両面戦争になる危険を回避し、ポーランドに勝利した後、西方への攻撃に兵力を集中することができた。ら半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称されたが、ドイツは西方電撃の機会を待っていた。
写真(右)1944年7月7日、カレリア地峡(?)、フィンランド、フィンランド国防軍が使用したソ連製1940年式120ミリ重迫撃砲(120 Krh 40);迫撃砲は、砲口から有翼砲弾を装填し、筒の底部にある撃針によって発火、砲口から砲弾が飛び出し、放物線を描いて敵地に落下、爆発する。
Raskas kranaatinheitin (krh) toiminnassa. Kuvat eri vaiheista. Kuvassa suomalainen raskas kranaatinheitin vuodelta 1940 (120 Krh 40).
majuri Mikkola.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-07
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-143799引用。
ソ連の指導者ヨシフ・スターリンは、独ソ不可侵条約を結んで、第三国と開戦した場合は第三国を支持せず中立の義務を負うとし、ドイツに勢力圏として認めさせたバルト三国・フィンランドに進出しようとした。フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になったが、ソビエト連邦は、1939年9月1日に勃発した第二次世界大戦緒戦でポーランド分割に参加し、10月11日、ソ連の外務人民委員(外相)モロトフが、フィンランドのパーシビキを団長とする交渉団をモスクワに招き、 レニングラードの安全保障のために、
1)カレリア地峡のフィンランド軍陣地(マンネルヘイム・ライン)の撤去
2)カレリア地峡のソ連国境を30km前進させ2200平方キロを割譲する代わりに北部コラ半島の東カレリア地方5000平方キロのソ連領を与える領土交換
3)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
を要求した。フィンランドは、フィン人居住地であり、軍事的・産業的に重要だったカレリア地峡のソ連割譲、ハンコ半島の租借を拒否し、交渉は決裂した。
写真(右)1944年7月7日、カレリア地峡(?)、フィンランド、フィンランド国防軍が使用したソ連製1940年式120ミリ重迫撃砲(120 Krh 40);フランスのストークブラン社が1930年代初めに開発した口径81ミリの軽量で歩兵が運搬可能な曲射砲が、ブラン81ミリ迫撃砲Mle27/31である。これを原型にしてソ連で大口径の重迫撃砲が開発された。
Raskas kranaatinheitin (krh) toiminnassa. Kuvat eri vaiheista. kuvassa suomalainen raskas kranaatinheitin vuodelta 1940 (120 Krh 40).
majuri Mikkola.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-07
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-143806引用。
第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「継続戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この「継続戦争」は、枢軸国ドイツ・イタリア・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。フィンランドは、イギリス(のちにアメリカ)との戦争状態を回避する方便として、1939年の対ソ連「冬戦争」に続く「継続戦争」(jatkosota)と呼称しており、現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、冷戦後の反共産主義、反ロシア感情、小国・民主主義国フィンランドへの同情からやはり「継続戦争」の呼称を用いている。
写真(右)1944年7月17日、カレリア地峡、イマトラ北20キロ、ヴォサルミ(Vuosalmi)、フィンランド国防軍ルポネン(R.Ruponen)中尉の指揮するソ連製1940年式120ミリ重迫撃砲(120 Krh 40);迫撃砲は、砲口から有翼砲弾を装填し、筒の底部にある撃針によって発火、砲口から砲弾が飛び出し、放物線を描いて敵地に落下、爆発する。
Kranaatinheitin toiminnassa Vuosalmen sillanpääasemassa.
Luutnantti R.Ruponen, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-17
Luutnantti R.Ruponen, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-133581引用。
ドイツ軍は、極北戦線での銀狐作戦にはフィンランド軍の参加が必要であると考えたが、早期にフィンランド側にソ連侵攻計画を打ち明けることは、ソ連に攻撃計画が漏れるリスクがあった。そこで、ドイツ国防軍総司令部総長ハルダー元帥は1941年1月末, フィンランド軍参謀総長へチンリクスに冬戦争に関する話し合いをベルリンで満ちたいと申し出た。そして1941年4月には、 ドイツは、フィンランドにバルロッサ作戦を伝えはしないが、参加可能なように軍事会談を開催することを決めた。こうして、5月20日, トイツはフィンランド大統領リュティに政治接触を図り、独ソ関係が悪化しており両国ともに安全保障上の措置をとっていること、戦争勃発の可能性もある事を伝えた。フィンランド大統領リュティは、この接触に対して、国防軍総司令官マンネノレへイム,首相ラン ゲノレ,国防相ヴァルデン,外相ヴィッテインクといった軍事・政治的指導者と話し合い、ドイツの提言から、ソ連侵攻に協力する方針を固めたのである。
2.1944年、ドイツと共闘した対ソビエト継続戦争の末期
写真(右)1944年3月12日、フィンランド南東端、カレリア地峡、ピトキャランタ(Pitkäranta)、フィンランド軍の鹵獲したソ連軍の1877年式152ミリ35口径榴弾砲Mk35(152/35 Mk.)の砲尾;Pekka Kyytinen中尉の撮影。
Luutnantti Pekka Kyytinen, valokuvaaja
Laat.RPr, Kaarnajoki 2:n patteri. 152/35 MK asemassa.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-03-12
Luutnantti Pekka Kyytinen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-120010引用。
ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では、フィンランドは,ルーマニア同様、積極的な攻勢に参加することが期待されていた。ドイツは、フィンランド北部のぺツァモと近郊の希少資源ニッケル鉱床を保持するだけでなく、ソ連のレニングラードと北極海の不凍港ムルマンスクを結ぶ鉄道を遮断するために、ドイツは、既に全土を占領したノルウェー北部から、フィンランド北部にドイツ第21軍北方軍団を進駐させ、そこからムルマンスク方面を攻撃する計画だった。この極北でのソ連侵攻に、ドイツ軍とフィンラ ンド軍が参加し、さらにカレリア地峡のすべてを占領し、レニングラードを攻略するために、ラドガ湖周辺にもフィンランド軍が侵攻する計画だった。このようにしてフィンランドは、ドイツの対ソ戦争「バルバロッサ作戦」に組み込まれいた。特に、1941年1月には、ノルウェー派遣ドイツ軍は、極北戦線で「銀狐作戦」(Silberfuchs)によって、コラ半島のソ連軍を撃滅し,ムルマンスク鉄道に沿って、白海とフィンランド湾の間にあるカレリア地峡まで進出する計画を立てていた。
ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツの立場は明らかであり、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。
実際、フィンランド領内のドイツ空軍機がソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を掣肘するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃である。しかし、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に宣戦布告した。
写真(右)1944年3月12日、フィンランド南東端、カレリア地峡、ピトキャランタ(Pitkäranta)、フィンランド軍の鹵獲したソ連軍の1877年式152ミリ35口径榴弾砲Mk35(152/35 Mk.)の砲尾;Pekka Kyytinen中尉の撮影。
Luutnantti Pekka Kyytinen, valokuvaaja
Laat.RPr, Kaarnajoki 2:n patteri. 152/35 MK asemassa.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-03-12
Luutnantti Pekka Kyytinen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-120009引用。
1877年式152ミリ35口径榴弾砲Mk35(152/35 Mk.)は、ロシア帝国時代に開発された旧式榴弾砲で、日露戦争でも第一次大戦でも使用されている。フィンランド大公国が1917年にロシア帝国から独立した時に、1877年式152ミリ35口径榴弾砲14門がフィンランド湾の最奥、ウィーボルグ(Vyborg)とコイビスト(Koivisto)の要塞にあり、それをフィンランド軍は鹵獲した。これをフィンランド軍は152/35 Mkと命名し、要塞砲として使用した。この"Mk"とは、沿岸砲(coastal gun:merikanuuna)の意味であるが、これらは鹵獲した戦利品であり、フィンランドで製造されたものではない。1939-1940年の冬戦争で、ヘルケラ(Härkölä)とトッペラ(Tuppura)にあった1877年式152ミリ35口径榴弾砲は、カレリア地峡のラトガ湖(Lake Ladoga)とフィンランド南西端のアルチペラゴ海(Archipelago Sea)に移動して配備された。残りは、2門がライペルテ(Lypertö), 3門がボキューラ(Bokulla),3門がレコルム(Lökholm)、1門がペンサル(Pensar)に配備された。そして、フィンランド軍は、凍った海を通って侵攻しようとするソ連軍に対して砲撃を行った。冬戦争の時、1940年2月に、ソ連軍はマンネルヘイム線に到達したが、フィンランド軍は砲弾を撃ち尽くした1877年式152ミリ35口径榴弾砲を破壊して撤退した。
写真(右)1944年7月10日、フィンランド南東端、カレリア地峡、ピトキャランタ(Pitkäranta)、フィンランド軍の鹵獲したソ連軍の1877年式152ミリ35口径榴弾砲Mk35(152/35 Mk.)の隠匿陣地;
Vuorikanuunapatteri Pitkärannan suunnalla valmiina toimimaan. Tuliasemassa venäläinen 152 mm:n 35 kaliiperin merikanuuna mallia Mk (152/35 Mk).
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-10
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-141121引用。
1877年式152ミリ35口径榴弾砲Mk35(152/35 Mk.)の弾薬は、高性能爆薬(HE)では重高性能爆薬では40キロあり、砲口初速は秒速606メートルだったが、 軽高性能爆薬では33キロで、砲口初速は秒速700メートルと向上している。沿岸砲としての性能は低い榴弾砲だったが、フィンランド軍は使える兵器はできるだけ実戦投入して兵力化していたので、第一戦にも投入されている。
継続戦争(Continuation War)の時に、 1877年式152ミリ35口径榴弾砲Mk35(152/35 Mk.)は、スウェーデン対岸、フィンランド南西端のアルチペラゴ海(Archipelago Sea)とラトガ湖(Lake Ladoga)北岸に 配備されていたが、1944年の継続戦争の終了時点で、2門がライペルテ(Lypertö)に, 3門がボキューラ(Bokulla)に,2門がレコルム(Lökholm)に残っており、合計7門が健在だった。
写真(右)1944年7月10日、フィンランド南東端、カレリア地峡、ピトキャランタ(Pitkäranta)、フィンランド軍の鹵獲したソ連軍の1877年式152ミリ35口径榴弾砲Mk35(152/35 Mk.)の砲尾;
Vuorikanuunapatteri Pitkärannan suunnalla valmiina toimimaan. Tuliasemassa venäläinen 152 mm:n 35 kaliiperin merikanuuna mallia Mk (152/35 Mk).
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-10
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-141122引用。
1877年式152ミリ35口径榴弾砲Mk35(152/35 Mk.)の諸元;
総重量
8,500 kg
砲身長5,349 mm、口径152.4 mm
仰角:マイナス7度、プラス20度
射角 360度
発射速度 4-5発/分、実用発射速度 1発/分
砲口初速600–700 m/秒
最大射程:15 km
写真(右)1944年7月10日、フィンランド南東端、カレリア地峡、ピトキャランタ(Pitkäranta)、フィンランド軍の鹵獲したソ連軍の1877年式152ミリ35口径榴弾砲Mk35(152/35 Mk.)の隠匿陣地;
Nykäisy laukaisunarusta, jolloin vuorikanuuna jyrähtää mahtavalla äänellään tuliterveisensä ryssälle. Tuliasemassa venäläinen 152 mm:n 35 kaliiperin merikanuuna mallia Mk (152/35 Mk).
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-10
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-141116引用。
第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィンランド語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ロシア感情、小国・民主主義国フィンランドへの同情から「継続戦争」の呼称を使用している。
写真(右)1944年8月7日、フィンランド中東部、東カレリア地方、ルゴゼロ(ルカヤルヴィ:Rukajärven)方面、森林内の陣地で射撃準備のなったフィンランド軍の鹵獲したソ連製1909/30年式152ミリM1909/30榴弾砲;
Raskas haupitsipatteri aloittaa tulitoiminnan. (Rukajärven suunta) .
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-08-07
Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134330引用。
152ミリM1909/30 榴弾砲(152-мм гаубица обр. 1909/30 гг.)の原型は、日露戦争後にロシア帝国が制式したM1909 152ミリ榴弾砲で、木製だった砲架の車輪をゴム張り金属製車輪に変更するなどして機動性を向上させた。堅牢、コンパクトで使いやすかったために、第二次大戦緒戦の時点でもソ連赤軍の主力榴弾砲の地位を占めていた。フィンランド軍は、冬戦争、継続戦争で鹵獲したこの1909/30年式152ミリM1909/30榴弾砲を多数鹵獲して部隊に配備し、対ソ連戦争に使用した。
写真(右)1944年8月7日、フィンランド中東部、東カレリア地方、ルゴゼロ(ルカヤルヴィ:Rukajärven)方面、フィンランド軍の鹵獲したソ連製1909/30年式152ミリM1909/30榴弾砲の装填作業;砲弾の弾丸と薬莢を装填棒で砲尾にある薬室に押し込んでいる、後方の床面には、発射される砲弾の弾頭(炸薬が詰まっている)と薬莢(砲弾を発射する発射薬が詰まっている)が分離して置かれている。二つに分けているのは、重量が嵩むと装填が困難になるためであるが、分離式薬莢では、弾丸と薬莢の2回の装填作業が必要となり、発射速度が落ちる。
Raskas patteri on aloittanut tykistövalmistelun.
Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
valokuvaaja
Aiheet
1944-08-07
写真はMuseot Finna・sa-kuva-141115引用。
1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Jatkosota)を仕掛けたフィンランドは、フィンランド中東国境から、本来フィンランド領とはなったことのない東カレリアに侵攻して領土を広げた。元の国境から100キロ東にある東カレリアのルゴゼロ(ルカヤルヴィ:Rukajärven)は、さらに東70キロ先に北海のムルマンスク(Мурманск)港とソ連本土を結ぶ鉄道が敷設されていた。このムルマンスク鉄道は、アメリカ・イギリスから北回りで海上輸送された軍事物資が、ムルマンスク港に陸揚げされ、そこから列車でソ連本土に運搬される戦略的に重要なルートだった。ドイツ軍は、フィンランド軍に対して、ソ連領の東カレリア地方に侵攻し、ムルマンスク鉄道を遮断することを強く求めていた。
フィンランド政府は、第二次大戦に参戦したのではなく、ソ連の二国間戦争の「継続戦争」と称したが、これは詭弁である。イギリスは、ソ連を軍事支援しており「継続戦争」は、第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いであるとみなされた。西側連合国の視点では、フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したとされた。1944年9月19日の「継続戦争」休戦に関するモスクワ協定も、フィンランドとソ連・イギリスが調印している。wikipediaは「フィンランドはこの条件で講和を飲んだ。フィンランドとソ連の間で1944年9月19日にモスクワ休戦協定が調印され、その24時間後に完全に戦闘を停止した」としているが、イギリスを明示しないのは、誤解を招く不正確な表現である。
写真(右)1944年8月7日、フィンランド中東部、東カレリア地方、ルゴゼロ(ルカヤルヴィ:Rukajärven)方面、フィンランド軍の鹵獲したソ連製1909/30年式152ミリM1909/30榴弾砲;1909/30年式152ミリM1909/30榴弾砲が射撃され砲身が後座している。砲架は、開脚式でない旧式固定式であり、発射時の衝撃の負荷が高い。そのため、金属製の大型砲架となっているが、これでは重量が重くなり、機動性が低下してしまう。
Raskas patteri on aloittanut tykistövalmistelun.
Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
valokuvaaja
Aiheet
1944-08-07
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134332引用。
1941年9月8日からドイツ軍によってレニングラード包囲(Siege of Leningrad)がされていたが、1944年1月18日、レニングラードが解放された。そこで、ソ連軍は、カレリア地峡を経てフィンランドへの圧力を強めた。この時期、イタリアは脱落し枢軸軍の劣勢は明白であり、フィンランドはソ連との講和を考えていたが、カレリア地峡の割譲、駐留するドイツ軍の排除という要件は、フィンランド側には受諾するのは困難だった。イタリアは1943年に連合国に降伏したが、その直後に駐留ドイツ軍によって占領されていたからである。
写真(右)1944年8月7日、フィンランド南東端、カレリア地峡、ピトキャランタ(Pitkäranta)、馬に曳かれて移動するフィンランド軍の鹵獲したソ連製1909/30年式152ミリM1909/30榴弾砲;ルゴゼロ(ルカヤルヴィ:Rukajärven)の東70キロには、北海の要港ムルマンスク(Мурманск)ソ連本土を結ぶ鉄道があり、そこは、アメリカ・イギリスから北回りで海上輸送された軍事物資が、ソ連本土に運搬される戦略的に重要なルートだった。特にドイツ軍は、フィンランド軍に対して、ソ連領の東カレリア地方に侵攻し、ムルマンスク鉄道を遮断することを求めていた。
Raskas patteri on aloittanut tykistövalmistelun.
Sot.virk. P.Jänis, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
valokuvaaja
Aiheet
1944-08-07
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134340引用。
フィンランドは、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻後、中立を宣言していたが、実際には、フィンランド国内にドイツ軍を駐留させ、そこからソ連に対する攻撃を黙認していた。そこで、ソ連空軍の報復攻撃を受け、それを参戦の口実にして、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Continuation War)を、かねてからの計画通りに遂行した。つまり、冬戦争の敗北を注ぐための、対ソ連反ボリシェビキ戦争の開始であり、割譲を強要された領土奪回のための愛国的戦争の始まりである。
3.1944年、継続戦争の終盤のマンネルへイム元帥
写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西200キロ、ミッケリ(Mikkeli)鉄道駅、国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、現地で出迎えたフィンランド軍の幹部に挨拶をしている。;フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と首相は、この直後に、蒸気機関車でヘルシンキから到着することになっていたようだ。
Marski tervehtii eversti Bruncronaa.
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Military Museum.
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1944-06-04
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-127360引用
継続戦争は、1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドがソ連と戦った戦争である。戦争当事国の一方であるソ連は、フィンランドの侵入を受け、それを防いだ「大祖国戦争」の一環であり、すなわち第二次世界大戦の一部である。フィンランドは、国土を奪ったソ連とは戦うが、イギリスとは戦わないという釈明をした。
他方、イギリスは、1941年6月の独ソ戦開始前から、ソ連にドイツがソ連攻撃を計画していることを事前に連絡し、独ソ戦開始後も、直ぐにソ連邦への軍事援助を表明しているが、これはドイツ打倒を最優先し「ヒトラーを倒すためには、悪魔とも手を結ぶ」と公言していたW.チャーチル首相にとって、当然のことだった。したがって、イギリスは、フィンランドがソ連とのみ領土奪回の目的で、1939年の第二次大戦開始直前の「冬戦争」を継承しているのであって、イギリスと戦火を交えるつもりはないという方便を認めていない。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)鉄道駅、国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、蒸気機関車で到着したフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)を出迎えた。;フィンランド共和国リスト・リュティ大統領はマンネルヘイムから敬礼を受け、後ろのフィンランド共和国エドウィン・リンコミエス首相は、客車のステップに降り立った。
Marski tervehtii presidentti Rytiä, junasta astuu juuri ulos pääministeri Linkomies..
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1944-06-04
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-127360引用
1942年6月4日、ヒトラーのフィンランド訪問当時、フィンランド大統領は、リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti:1889‐1956)で、彼はフィンランド銀行総裁を務めるなど実務家だった。リスト・リュティは、1939年11月、対ソ連防衛戦争「冬戦争」が勃発した翌日に首相に就任し、その後、1940年12月には、フィンランド第5代大統領に就任して、継続戦争末期までフィンランドの元首だった。彼が大統領を陣した後、1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したのは、カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥だった。
⇒写真集:フィンランド国防軍総司令官マンネルヘイム(C G E Mannerheim)元帥 を見る。
⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西200キロ、ミッケリ鉄道駅、国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、蒸気機関車で到着したフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と握手をする。;客車の階段では、大統領・首相に同行してきたウォルデン大佐とセーダーストローム中佐が下りようとしている。
Marski tervehtii presidentti Rytiä. Junan portailla kenraali Walden ja presidentin vanhempi adjutantti everstiluutnantti Söderström...
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1944-06-04
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-127357引用
ミッケリ州 (Mikkelin lääni)は、フィンランド大公国時代、1831年の州再編の時に、成立した。1997年9月1日、州の再編に伴って、近隣州と合併して東スオミ州となった。しかし、2010年1月1日に州制度が廃止されの消滅した。ミッケリ(Mikkeli)は、現在、フィンランド南西部、南サヴォ県、ミッケリ郡で、ヘルシンキ北西200キロ、サイマー湖南畔に位置する。ミッケリ鉄道駅の西5キロのサイリラ(Sairila)にはフィンランド軍司令部が置かれている。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西200キロ、ミッケリ鉄道駅、国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、蒸気機関車で到着したフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)を伴い、現地軍幹部を紹介する。;大統領の後ろでは、エドウィン・リンコミエス首相がハットをとって、現地軍幹部に挨拶をしている。
Tasavallan presidentti ja Marsalkka seurueineen.
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Military Museum.
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Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-127362引用
1944年6月9日に、西側連合軍が、北フランス、ノルマンディー海岸に上陸して大陸反攻が本格化すると、ソ連軍もドイツに向けた攻勢を開始し、レニングラードからカレリア地峡への侵攻も実施した。フィンランド軍のカレリア地峡の防衛戦は突破されたが、フィンランドに1944年6月22日に赴いたドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)は、フィンランド大統領リュティの対ソ戦争継続の言質をとり、ドイツ空軍ユンカースJu87急降下爆撃機の指揮官クルト・クールマイ(Kurt Kuhlmey)率いる空軍部隊、第303突撃砲旅団を増援部隊としてフィンランドに派遣した。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ミッケリ鉄道駅からリムジンでサイリラの軍司令部に到着した国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥とフィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti);
Marsalkka ja presidentti saapuvat Sairilaan. .
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1944-06-04
Vänrikki K.Sjöblom, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-127400引用。
フィンランド共和国リスト・リュティ大統領は、1943年中頃には、戦局の悪化を認識していたのであれば、1941年にドイツを頼みにソ連侵攻に参戦したことを後悔していた可能性もある。しかし、それは対ソ戦争が不利になったからであって、ボリシェビキ共産主義の脅威に圧迫されている状況を改善するために、ソ連を弱体化するしかないとの信念は変わらなかったであろう。1943年春の時点では、ドイツ第六軍がスターリングラードで敗北し、北アフリカに派遣されていたドイツアフリカ軍団が降伏しており、ドイツ軍の劣勢は明らかだった。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍自転車部隊を閲兵する、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥:
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa.
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1944-06-04
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-127349用。
写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍の自転車部隊を閲兵している。;
Tasavallan Presidentti ja Suomen Marsalkka tarkastavat kunniakomppanian.
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Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-118134引用
1943年夏、ドイツは、本土をイギリス空軍・アメリカ陸軍航空隊の重爆撃機によって空襲されていたが、陸軍地上兵力の大半を東部戦線のソ連軍に集中できる状況にあり、レニングラードの包囲網も健在だった。したがって、ドイツがソ連を敗退させる可能性は残っており、ドイツの軍事力にフィンランドの運命をゆだねて、奮闘努力するべきであると自ら意志を固めるしかなかった。この点、日本の戦争判断も同じで、戦争を始めたことではなく、戦争に敗れつつあることに不安を感じ、勝利の道が遠のいたことを嘆いていた。他方、フィンランド国防軍でも日本軍でも、下級兵士たちは、政治的指導者のような戦争の開始、休戦の意思決定に参与できるわけではなく、戦争が続いている以上、勇気をもって戦い続けるしかなかった。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍III号戦車G型(Ps 513)の行進を閲兵する、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥:
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa.
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1944-06-04
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-127343引用。
当時、フィンランドは、枢軸国のナチス・ドイツの同盟国であり、反ボリシェビキ(Bolshevik)を掲げて、共産主義のソビエト連邦と戦っていた。1944年の戦局悪化は明らかだったため、ソ連への攻勢を控えていた。マンネルハイムは、同盟国ドイツと運命を共にするつもりは全くなく、フィンランドの国益、すなわち独立の保障の最優先していたのである。
写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍の行進を閲兵する。;リスト・リュティ大統領は黒い外套にハットのスタイルで、正面に立っている。ドイツ製の3号突撃砲、牽引車などが行進した。
Ohimarssin vastaanottajat. Tasavallan Presidentti, Suomen Marsalkka ja korkeinta upseeristoa.
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1944-06-04
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-118123引用
写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の閲兵を受けたフィンランド軍の突撃砲大隊のIII号突撃砲G型(Ps. 531);1940年式48口径7.5センチ戦車砲(7,5cm StuK 40 L/48)を搭載している。反革命・反ボリシェビキ・自由の象徴で青衛軍以来の伝統あるカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体に描いている。<
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa.
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1944-06-04
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-118134引用
1944年6月、継続戦争(第二次ソ芬戦争)の末期、フィンランド軍は、ドイツから購入したIII号突撃砲(Sturmgeschütz III :Sd.Kfz. 142;StuG III)G型を基幹とする突撃砲大隊(Rynnäkkötykkipataljoona)を編成した。III号突撃砲G型の48口径7.5センチ砲(7,5cm StuK 40 L/48)は、強力で、車高も低いために標的になりにくく、対戦車戦闘能力が高かった。フィンランド軍の突撃砲大隊は、以前から紙上では存在していたが、突撃砲の配備がなって、やっと実現した部隊である。フィンランドは、1944年にドイツに59輌のIII号突撃砲G型を発注した。そして、そのうち最初の30台は1944年の夏の戦いに間に合うようにフィンランドに到着し、フィンランド軍ではPs. 531と命名された。しかし、フィンランドに到着したスぺアパーツが十分ではなく、III号突撃砲13号車(Ps. 531-13)は分解され、スペアパーツをとる整備車輛とされている。
1944年6月にIII号突撃砲G型30輌程度を受領したフィンランド軍は、これを基幹として突撃砲大隊を編成したのである。この新鋭突撃砲部隊は、1944年6月4日、ミッケリ州ミッケリ州サイリラで、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)、エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)、そして国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥ら軍幹部らの前で行進し、閲兵されている。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド軍の突撃砲大隊のIII号突撃砲G型(Ps. 531)の行進を見物する地元のフィンランド人住民と子供たち;反ボリシェビキ・自由の象徴である鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体前面下部に描いている。戦闘室に1940年式48口径7.5センチ戦車砲(7,5cm StuK 40 L/48)を装備、車体上面の司令塔ハッチ前に防盾付きの7.62ミリ車載機関銃を装備している。フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の閲兵を受けた
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Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-118117引用
フィンランド軍にとっても、白丸に青の鍵十字を描いたカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、軍の国籍識別マークで、1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年9月の対ソ講和の時に廃止した。
1944年6月14日の夜、フィンランドのIII号突撃砲は、ソ連軍を攻撃してVTラインにまで進撃しようと出撃した。実際、装甲師団の突撃砲大隊は、敵を排除してVTラインにまで到達したが、損失が大きく、反撃を受けて後退せざるを得なくなった。突撃砲大隊は、カレリア地峡中部のキルピチノエ( Perkjärvi)の戦い、1944年6月25日から7月9日のタリ=イハンタラ(Tali-Ihantala)の激戦、1944年7月4日から7月17日のヴオサルミ(Vuosalmi)の戦いに参加して、1940年式48口径7.5センチ戦車砲(7,5cm StuK 40 L/48)を活かして、軍功を挙げている。最終的には、突撃砲大隊の武勲は、突撃砲8輌の損失(自軍で爆破・撤退した車輛を含む)で、敵ソ連軍車輛87台を撃破している。
写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍の8トン半装軌式牽引車(Sd.Kfz.7)の行進を閲兵する。;ドイツのクラウス・マッファイ社の開発8トン半装軌式牽引車(Sd.Kfz.7)は、1934年に開発された重砲牽引用の車輛で、1938年から本格的に量産された。人員輸送用の際は12名を荷台の簡易ベンチに乗せることができた。牽引した火砲は、8.8センチ高射砲(8.8 cm FlaK 18/36/37)15センチ榴弾砲(15cm sFH 18)などだが、荷台を改造して、2センチ対空機関銃四連装砲塔や3.7センチ対空機関砲などを搭載した対空車輛もある。
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-118118引用
写真(上)1944年6月4日、フィンランド、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍のIII号突撃砲G型初期型の行進を閲兵する。;
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-118129引用
写真(上)1944年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ北西210キロ、ミッケリ州サイリラ、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Heikki Ryti)と国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド軍のIII号突撃砲G型の行進を閲兵する。;リスト・リュティ大統領は黒い外套にハットのスタイルで、マンネルヘイムと並んで正面に立っている。ドイツ製III号突撃砲、牽引車などが行進した。
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写真はMuseot Finna・sa-kuva-118130引用
写真(右)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513):第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を搭載したIII号戦車。
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1944-06-04
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写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118112引用。
愛国的な「冬戦争」では、フィンランドは善戦したが、これはソ連赤軍の指揮系統の柔軟性がなく戦術的な失敗を繰り返したこと、ソ連赤軍の兵士の士気が低いこと、ソ連製の兵器が時代遅れで旧式なものだったこと、が原因とされた。たしかに、フィンランドは、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で敗北し、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島の港湾をソ連租借地とするなど、領土割譲要求をのまざるを得なかったが、ドイツも連合国もソ連軍が弱体であるとの認識を確認するに至った。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したのではあるが、それは、ソ連軍が弱かったからであると考えられた。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍がドイツから購入したIII号戦車G型(Ps 513)の車体前面には、同盟国ナチ・ドイツと同じカギ十字のフィンランド国籍記章が描かれている。:III号突撃砲は、第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を1943年と4年もたってから搭載した。
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写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118113引用。
1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi?Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ: Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。フィンランドもナチ・ドイツも同じ反共産主義、反ボリシェビキのイデオロギーを共有していたために、カギ十字を国籍記章として採用したのである。
写真(上)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513)の車列:フィンランド大統領やフィンランド国防軍総司令官が検閲した時の撮影。
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写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118114引用。
写真(上)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513)の車列:フィンランド大統領やフィンランド国防軍総司令官が検閲した時の撮影。
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写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-127340引用。
写真(上)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513)の車列:
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写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-127341引用。
写真(上)1944年7月9日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍装甲師団に配属されたドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.)の車列;戦闘室上面には、防盾付き機関銃が1丁装備されている。
Viipurin valtausparaati 31.8.1941. Kenraaliluutnantti Oesch tarkastaa joukot Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla.
Viipuri 1941.08.31
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118155引用。
写真(上)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513):車体前面には同盟したナチ・ドイツと同じカギ卍「ハカリスティ」(Hakaristika)が描かれているが、これはフィンランド軍の国籍マークである。III号突撃砲は、第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を1943年と4年もたってから搭載した。
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写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118116引用。
フィンランド軍の国籍識別標識は、ナチ党と同じカギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いた。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反革命、反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513):フィンランド大統領やフィンランド国防軍総司令官が検閲した時の撮影。車体下面に描かれたカギ十字のマークは、フィンランド軍の国籍標識「ハリスティカ」で、これはナチス・ドイツと同じく、反革命・反ボリシェビキ・自由を意味するカギ十字(スワスチカ)の記章である。
Uusien Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Syöksytykkien ohimarssi katselmuksessa...
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写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118119引用。
同じく、第一次大戦敗戦後のドイツでも、フライコール(自由軍団)と自称する反共産主義・反革命を標榜するエアハルト団のような義義勇軍が勃興したが、彼らもカギ十字「スワスチカ」を紋章とした。ナチ党もこれを引き継いで、カギ十字「スワスチカ」を党マークとし、1933年のナチ党政権後は、民間航空機の国籍マークとして採用し、再軍備後はドイツ国防軍でも、親衛隊SSでもカギ十字を使用した。
写真(右)1944年6月4日、フィンランド大統領・フィンランド国防軍総司令官マンネルヘイム元帥の前を行進する、フィンランド軍が鹵獲・部隊配備したソ連製T-34-76戦車と後続するソ連製BT快速戦車:車体下面のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マーク「ハリスティカ」で、これはナチ党・ドイツ軍と同じカギ十字(スワスチカ)と同じく、反革命・反ボリシェビキを意味する紋章である。T-34中戦車は、76.2ミリ砲を搭載し、攻撃力、防御力、機動性、生産性のバランスの取れたソ連赤軍の傑作戦車である。
Uusien syöksytykkien esittely Suomen Marsalkka Mannerheimille ja Tasavallan Presidentille. Erilaisia hyökkäysvaunun tyyppejä ohimarssissa.
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1944-06-04
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118109引用。
ドイツ軍のティーガー重戦車は、高射砲を改造した8.8センチ戦車砲を搭載し、パンター戦車も70口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載していた。他方、ソ連軍T-34戦車初期型、KW-1重戦車は、42口径の長砲身76.2ミリ戦車砲を、T-34戦車後期型は高射砲を改造した55口径85ミリ砲を搭載しており、独ソ新鋭戦車は互角の攻撃力を保持していた。
さらに、部隊配備・実戦投入の時期を比較すると、ドイツ軍のティーガー重戦車やパンター戦車は1943年夏のソ連東部戦線、シタデル(城塞)作戦の時期にやっとまとまった数が実戦投入されている。つまり、タイガーやパンサーというドイツ新鋭戦車は、戦争後期になって登場し、活躍期間は戦争後期に限られる。他方、ソ連T-34戦車。KV-1重戦車の実戦投球の時期は、1941年夏でドイツ軍新鋭戦車よりも2年も早く実戦に大量投入され、第二次大戦初期から終戦まで戦い続けている。
ドイツ軍新鋭戦車の生産台数は、ティーガー重戦車は1400輌、パンター戦車は5000輌であるが、これはソ連赤軍のT-34戦車が5万8,000輌、KW-1重戦車が4,500輌も量産しているのに比較すると生産台数10%程度でしかない。
4.1944年、継続戦争終盤のマンネルへイム元帥
写真(右)1944年6月7日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍装甲師団に配属されたソ連製JSU-152(ИСУ-152)自走砲 ;28口径152ミリ榴弾砲(152mm ML-20S)を搭載して1943年3月より量産開始され、ドイツ軍重戦車を駆る駆逐戦車として使用されたが、それをフィンランド軍が鹵獲し使用している。重量物輸送用の貨車に乗せられて、鉄道を移動している。
Sotasaaliiksi saatu rynnäkkötykki KN-SU 152 Mikkelin asemalla matkalla korjattavaksi. Kuvaan merkitty päivämäärä (7.6.1944) on väärin, sillä rynnäkkötykki ISU-152 vaununumero 1212 saatiin sotasaaliiksi Portinhoikan taistelussa 25.6.1944.
.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-06-07
Majuri T.Toropainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166339引用。
写真(右)1944年7月16日、フィンランド、分解整備中のフィンランド軍が鹵獲したソ連製JSU-152(ИСУ-152)自走砲 ;重量物輸送用の貨車に乗せられて、鉄道を移動して工場に到着した。
Venäläinen panssarivaunu korjauksen alaisena Malli: Josef Stalin.
.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-16
Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-130443引用。
ソ連赤軍は、KV-1重戦車の車体を利用して、28口径152ミリ榴弾砲(152mm ML-20S)を搭載したSU-152(СУ-152)自走砲「ズヴェロボーイ」を1943年3月より量産し、ドイツ軍テーゲル重戦車を駆る駆逐戦車として使用した。さらに、ソ連赤軍はIS-2「スターリン」重戦車の車体を利用して、同じ28口径152ミリ榴弾砲(152mm ML-20S)を搭載したJSU-152(ИСУ-152)自走砲を、1943年12月より量産している。SU-152の戦闘室は、上から見ると六角形で側面に傾斜装甲を施しているのに対して、JSU-152自走砲の戦闘室は、上から見ると四角形で側面は垂直装甲なので識別は容易である。搭載した火砲は、JSU-152自走砲もSU-152自走砲はも全く同じである。フィンランド軍はソ連赤軍JSU-152自走砲を鹵獲し自軍で使用している。
写真(右)1944年7月16日、フィンランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製JSU-152(ИСУ-152)自走砲を分解し取り外された28口径152ミリ榴弾砲(152mm ML-20S) ;
Venäläinen panssarivaunu korjauksen alaisena Malli: Josef Stalin.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-16
Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-130445引用。
ソ連製JSU-152(ИСУ-152)自走砲・SU-152(СУ-152)自走砲が搭載した1937年式152ミリML-20榴弾砲(152 H 37)の諸元
砲長:4,412mm(29口径、薬室を含む)
弾薬:砲弾・薬莢分離式、口径:152 mm
発射速度:4発/分、最大射程:17,230 m
写真(右)1944年7月16日、フィンランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製JSU-152(ИСУ-152)自走砲の戦闘室。28口径152ミリ榴弾砲(152mm ML-20S)を取り外し、外から撮影した。 ;砲身・防楯を取り外したために、戦闘室前面の戦車砲取付部分が明瞭にわかる。
Venäläinen panssarivaunu korjauksen alaisena Malli: Josef Stalin.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-16
Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-130447引用。
ソ連赤軍のSU-152自走砲は、旧式のKV-2重戦車の車体シュージーを流用して、砲郭式に152ミリ榴弾砲(ML-20 152mm)搭載した自走砲で、1943年3月より生産が開始された。原型となったKV-2重戦車の生産は終了したが、SU-152自走砲は、突撃砲としても有用であったために、SU-152自走砲の後継自走砲がすぐに開発された。これが、ソ連赤軍JSU-152自走砲(ИСУ-152)で、IS-2「スターリン」重戦車の車体シャーシを流用し、1943年12月から生産が始まっている。 量産性を高めるためか、車体の構造を流用したためか、JSU-152(ИСУ-152)自走砲は、SU-152(СУ-152)自走砲よりも、戦闘室に直線・平面構造を多用している。戦闘室はSU-152と同様で、搭載火砲をM1931/37 122mm カノン(加濃)砲(A-19)とした駆逐戦車ISU-122自走砲(ИСУ-122)も開発、量産されている。
写真(右)1944年7月16日、フィンランド、分解整備中のフィンランド軍が鹵獲したソ連製SU-152(СУ-152)自走砲「ズヴェロボーイ」の戦闘室後部 ;28口径152ミリ榴弾砲(152mm ML-20S)を搭載して1943年3月より量産開始され、ドイツ軍重戦車を駆る駆逐戦車として使用された。
Venäläinen panssarivaunu korjauksen alaisena Malli: Josef Stalin.
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Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-16
Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-130449引用。
写真(右)1944年7月16日、フィンランド、分解整備中のフィンランド軍が鹵獲したソ連製SU-152(СУ-152)自走砲「ズヴェロボーイ」 ;28口径152ミリ榴弾砲(152mm ML-20S)を搭載して1943年3月より量産開始され、ドイツ軍重戦車を駆る駆逐戦車として使用された。
Venäläinen panssarivaunu korjauksen alaisena Malli: Josef Stalin.
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Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-16
Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-130450引用。
ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、トハチェフスキー将軍による機動力を活かした機甲旅団の創設を認めただけでなく、戦闘車輛の強化にも留意した。装甲化を進め、1941年6月のドイツ軍ソ連侵攻で勃発した「 大祖国戦争」(Great Patriotic War )の緒戦でも、重装甲、強力な火力を装備したT-34戦車とKV-1重戦車を配備していた。T-34戦車は、火力、装甲、機動力のある世界的傑作戦車となるが、当初は、そのような高い評価を各国から得ていたわけではない。
他方、KV-1重戦車は、火力はT-34戦車と同等だが、重装甲で、45トンもあったために機動力が高かった。重戦車のコンセプトは、重装甲だけではなく、大口径砲を搭載して、火力も強力する形で進化していった。それが、28口径152ミリ榴弾砲搭載の突撃砲SU-152(СУ-152)自走砲「ズヴェロボーイ」、85ミリ砲を搭載したIS-1戦車、1943年に完成した122ミリ砲を搭載したIS-2戦車である。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド、フィンランド軍が鹵獲して自軍に配備したソ連赤軍のT-34-85戦車;T-34/85 戦車はドイツ軍のティーガー戦車の8.8センチ砲に対抗できるように、85ミリ砲を搭載した。フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、戦車は白縁黒で描かれている様だが、航空機の場合は、白丸に青のカギ十字を描いた。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。
T 34 - 85 psv., everstiluutnantti Haataja ja majuri Mikkola.
majuri Mikkola.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Majuri M.J.Koskimies, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151636引用。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド、フィンランド軍が使用したソ連赤軍のT-34-85戦車;フィンランド軍の国籍識別記章カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を車体前面に描いているが、ソ連軍も同じT-34戦車を使用していたために、味方撃ち・誤射されないように、大きなカギ十字がマーキングされている。
T 34 - 85 psv., everstiluutnantti Haataja ja majuri Mikkola.
majuri Mikkola.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Majuri M.J.Koskimies, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151638引用。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド、フィンランド軍が使用したソ連赤軍のT-34-85戦車;前期型T-34/76は76.2ミリ砲を搭載していたが、後期型T-34/85 戦車は85ミリ砲を搭載し、ドイツ軍のティーガー戦車の8.8センチ砲と同等の威力を誇った。
T 34 - 85 psv., everstiluutnantti Haataja ja majuri Mikkola.
majuri Mikkola.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Majuri M.J.Koskimies, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151641引用。
ソ連のT-34戦車は、1930年代後半の開発初期から鋳造構造の避弾径始の考慮された砲塔に76.2ミリ戦車砲を搭載したが、1940年の出現当時には、これは、世界最強の攻撃力を備えた量産戦車だった。1941年6月のドイツ軍ソ連侵攻で勃発した「 大祖国戦争」(Great Patriotic War )でも、ドイツ軍の装甲師団を困惑させるほど、頑強な防御力を示している。しかし、1943年には、ドイツ軍の56口径8.8センチ砲装備のティーゲル重戦車、70口径7.5センチ砲装備のパンテル中戦車が多数出現し、T-34戦車の76.2ミリ砲では、重装甲のドイツ軍新型戦車に苦戦するようになった。そこで、ドイツ軍の新型戦車とも互角に戦うことができるように、ソ連のT-34/76戦車の砲塔を大型化し、そこに85ミリ砲を装備したソ連のT-34/85戦車が、1944年初頭から部隊に配備されるようになった。T-34/85戦車も避弾径始に優れている大型砲塔であり、量産性も十分に考慮されている。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド、フィンランド軍が鹵獲・部隊配備したソ連製T-34-85戦車:フィンランド軍の国籍識別記章カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)は、飛行機の場合は色彩は白丸に青のカギ十字を描いたが、戦車の場合は、白縁付き黒のようだ。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。
T 34 - 85 psv.
Majuri M.J.Koskimies, valokuvaaja .
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Majuri M.J.Koskimies, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-151640引用。
ソ連赤軍のT-34−76戦車は、76.2ミリ砲を搭載し、攻撃力、防御力、機動性、生産性のバランスの取れたソ連赤軍の傑作戦車で、1941年6月のドイツ軍ソ連侵攻で勃発した「 大祖国戦争」(Great Patriotic War )の緒戦から大活躍した。しかし、1943年からドイツ軍がティーゲル重戦車、パンター中戦車と新型戦車を前線に投入すると、T-34戦車の76.2ミリ砲では明らかに貫通力が不足した。そこで、T-34-76戦車の砲塔を大型化し、76.2ミリ戦車砲の代わりに、高射砲を流用した85ミリ戦車砲を搭載して攻撃力を向上させたのが、1944年から全線で活躍したT-34-85戦車である。フィンランド軍は、継続戦争の終盤、このソ連戦車も鹵獲し、部隊配備していた。
写真(右)1944年6月20日、フィンランド、カレリア地方、オネガ湖北端、カルフマキ(Karhumäki)、トラックで撤退するカルフマキ・スポーツ学校のスタッフと護衛するフィンランド軍兵士たち;フィンランド語でカルフマキ(Karhumäki)は、ロシア語でメドヴェジエゴルスク(Медвежьегорск, Medvezhyegorsk)といい、現在はロシア連邦カレリア共和国にある。旧名メドヴェジヤ・ゴラ(Медве́жья Гора́)で1916年に設立、ロシア語でメドヴェジヤ・ゴラ(熊の山)と呼ばれていた。1938年にメドヴェジエゴルスクと町名を変更したが、継続戦争の勃発によって、1941年から1944年6月までは、フィンランド占領地だった。ここは、ソ連の北極海に面した要港ムルマンスクまで鉄道と結ばれており、戦略上の要衝だった。
Viimeiset Karhumäen Urheiluopiston henkilökunnasta lähtee.
Subject place
1944-06-20
Sot.virk. A.Viitasalo, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-150676引用。
1944年6月6日、アメリカ、イギリスを中核とする西側連合軍は、北フランスのノルマンディー沿岸に上陸し、ヨーロッパ侵攻を開始した。これは、1943年のテヘラン会議で、ソ連のヨシフ・スターリンが、久しく要望していたことで、これと同時に、ソ連軍は東側からの枢軸ファシスト国家への攻撃を開始した。特に、ソ連は、ドイツの首都ベルリン一番乗りを目指いしている西側は考えており、フィンランドでも、同様だったために、1944年の夏にフィンランドに対する地上進行が強化されるとは考えていなかった。実際、フィンランド軍とドイツ軍は、1941年9月8日から1944年1月18日まで、ソ連のレニングラード地区をフィンランド軍は包囲しており、これが破られ、レニングラードがソ連軍に解放されたのは1944年1月19日のことで、この地域でソ連軍の攻勢は低調だと考えられていた。
しかし、これは、フィンランド軍、マンネルハイム(Mannerheim)元帥の情報判断の誤りだったのかもしれない。マンネルヘイムは、1941年夏にソ連に侵攻した時点で、戦争の目的は、東カレリアの奪還であるとしており、フィンランド固有の領土としてカレリアを認識していた。それであれば、カレリア防衛により力を入れるべきだったのである。しかし、1944年6月にソ連がカレリアに攻撃を仕掛けると、防御線での頑強な抵抗はなされずに、占領地から撤退する決断がなされた。換言すれば、マンネルハイムは、東カレリアを、フィンランドの固有の領土であるとは実際には判断しておらず、「フィンランド本土防衛」のために、カレリア地峡における防衛を優先し、そこに兵力を集中したのである。フィンランド軍は、東カレリアからの撤退し、その後に、ソビエト軍が大きな戦いをすることもなしに占領した。
写真(上)1944年6月20日、フィンランド、カレリア地方(?)、トラックで移動中のフィンランド軍;トラック荷台の上には、兵士たちのペットとなった犬も連れている。
Karhumäestä lähtevä 3.Ttus komppanian henkilökuntaa. .
Subject place
1944-06-20
Sot.virk. A.Viitasalo, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-150679引用。
写真(上)1944年6月20日、フィンランド、カレリア地方(?)、トラックで鹵獲したソ連製1938年式122ミリ榴弾砲(122 H 38)センチ榴弾砲を曳かせて撤退するフィンランド軍;1938年式122ミリ榴弾砲(122 H 38)センチ榴弾砲の砲架車輪では、自動車の高速移動には耐えられないので、砲架は、ゴム車輪付き運搬上に乗せられて、移動している。トラック荷台の上には、砲架あるいは122ミリ榴弾砲の弾薬運搬車が積まれており、その捜査要員らしい兵士が乗車している。
Tykistö marssilla. .
Subject place
1944-06-20
Sot.virk. A.Viitasalo, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-150531引用。
写真(上)1944年6月20日、フィンランド、カレリア地峡、ドイツ製RSOトラクター(RaupenSchlepper Ost、東部戦線用装軌式牽引車)に鹵獲したソ連製1938年式122ミリ榴弾砲(122 H 38)センチ榴弾砲を曳かせて撤退するフィンランド軍;RSOトラクター(RaupenSchlepper Ost、東部戦線用装軌式牽引車)は、荷台に物資を搭載するが、牽引能力も高かった。7.5 糎PaK 40対戦車砲、10.5センチleFH 18榴弾砲、ソ連式12センチGrW 42迫撃砲、ネーベルヴェルファー・ロケット弾などの牽引が普通で、1938年式122ミリ榴弾砲(122 H 38)センチ榴弾ではオーバーロードである。しかし、実戦では、規格以上の重量のものも牽引せざるを得なかった。
Viistuumaiset tykit sivuuttavat Pinduusin viivytyslinjan vetäytyessään Poventsasta. Saksalainen vetäjä Steyr Raupenschlepper (Ost, RSO) vetää neuvostoliittolaista 122 mm:n haupitsia vuosimallia 1938 (122 H 38)..
Subject place
1944-06-20
Sot.virk. A.Viitasalo, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-150849引用。
1941年秋、ソ連に侵攻したドイツ軍は、未舗装の道路、泥沼のなかで、馬が牽引する荷車、トラックなどによる前線への軍事物資輸送に苦労していた。補給が滞ることで、機動力も攻撃力も大幅に低下してしまったからである。そこで、悪路を走行して補給任務にあたる新たな補給用車輌・牽引車輛が計画され、1942年に、ドイツ・オトマルク(オーストリア)にあるシュタイアー・ダイムラー・プフ社が、雪でも泥濘でも補給用の輸送が可能な量産性の高い車輌として、RSOトラクター(RaupenSchlepper Ost、東部戦線用装軌式牽引車)を開発した。これは、単純な構造のトランスミッション、転輪を支える単純な構造のリーフスプリング式サスペンション、既存の1500Aトラックのコンポーネントとの共用など、量産性に優れている。1942年末から量産され、終戦までに2万7,000輌が量産されている。
写真(右)1944年6月6日、フィンランド南東部、カレリア地峡、ラッペーンランタ、ドイツ軍側で戦ったエストニア義勇兵のソ連製T-20「コムソモーレツ」装軌式装甲牽引車がドイツ製1940年式ラインメタル7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40:75 PstK / 40)を牽引している。;T-20「コムソモーレツ」は、ソ連が1936年に機械化した装甲師団にあって対戦車を牽引する牽引車として開発した。この時の対戦車砲は、45ミリ53-K対戦車砲、45ミリM-42対戦車砲aroha120ミリM1938重迫撃砲などである。フィンランド軍は多数のT-20「コムソモーレツ」鹵獲し、PS 755と名付けて使用した。ラインメタル7.5センチ対戦車砲は重量超過であるが、実戦ではこのような規則は無視するしかない。
Eestiläisen vapaaehtoisen tykkikomppanian taisteluharjoituksesta. Raskas motorisoitu panssaritorjuntatykki matkalla asemaan. T-20 vetäjä (STZ-3, Komsomolets) vetää saksalaista 75 mm:n panssarintorjuntatykkiä vuosimallia 1940 (75 PstK 40).
Subject place
1944-06-06
Luutnantti Pekka Kyytinen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-120744引用。
T-20コムソモーレツ(Komsomolets)装軌式装甲牽引車(PS 755)の諸元
全長
3.45 m、全幅
1.86 m
全高
1.58 m、重量
3.5 t
リーフスプリング懸架方式
最高速力:50 km/h
航続距離:250 km
兵装:DT 7.62ミリ機関銃
装甲
7–10 mm
発動機:GAZ-M
50 馬力エンジン
乗員:
2名、輸送人員6名
写真(右)1944年6月6日、フィンランド南東部、カレリア地峡、ラッペーンランタ、ドイツ軍側で戦ったエストニア義勇兵のドイツ製1940年式ラインメタル7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40:75 PstK / 40);林の中に偽装され、半地下式対戦車砲の陣地があり、そこに備えつけるために、砲を人力で移動している。対戦車砲には、迷彩塗装が施されている。
Eestiläisen vapaaehtoisen tykkikomppanian taisteluharjoituksesta. Raskasta panssaritorjuntatykkiä viedään asemaan. Asemassa on saksalainen 75 mm:n panssarintorjuntatykki vuosimallia 1940 (75 PstK/40).
Subject place
1944-06-6
Sot.virk. T.Norjavirta, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-120756引用。
1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許容することはできなかった。
写真(右)1944年6月18日、フィンランド南東部、カレリア地峡、ラッペーンランタ、ドイツ製1940年式ラインメタル7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40:75 PstK / 40)を操作するフィンランド軍兵士;ラッペーンランタ(Lappeenranta)は、ミッケリ南西100キロのカレリア地峡のフィンランド寄りに位置する継続戦争後半の激戦地で、現在では、ロシア国境まで20キロに位置する。
Panssaritorjuntatykki toiminnassa. Kuvassa 75 mm:n saksalainen panssarintorjuntakanuuna 75 PstK 40 vuodelta 1940..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-06-18
Sot.virk. Oawald Hedeström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-120759引用。
ドイツ・ラインメタル1940年式7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40;75 PstK / 40)の諸元
重量:1,425 kg
全長:6.2 m
砲身長: L/46口径 3.45 m
全幅:2.08 m
全高:1.2 m
操作要員:6名
弾薬 75×714mm R
複座:水圧式
射撃仰角:-5度から22度
射界:65度
発射速度:14発/分
有効射程:1,800 m
最大射程:7,678 m
設計・生産:ラインメタル(Rheinmetall)社
設計期間:1939–1941年
生産期間:
1942–1945年 製造数:2万3,300門
写真(右)1944年6月30日、フィンランド南東部、カレリア地峡、ラッペーンランタ、ドイツ製1940年式ラインメタル7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40:75 PstK / 40)を操作するフィンランド軍兵士;
Panssaritorjuntatykki toiminnassa. Kuvassa 75 mm:n saksalainen panssarintorjuntakanuuna 75 PstK 40 vuodelta 1940.
Subject place
1944-06-30
Sot.virk. T.Norjavirta, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-120759引用。
ドイツの7.5センチ対戦車砲は、1940年にラインメタル社で開発されていたが、ソ連侵攻バルバロッサ作戦の緒戦でソ連軍のT-34戦車、KV-1重戦車などに苦戦したために、より貫通力を強化する改良型が求められた。同様に、ドイツのクルップ社も7.5センチ対戦車砲を開発することになる。後者が7.5 cm PaK 41で、これと同じ1941年中に、ラインメタル1940年式7.5センチ対戦車砲(75 PaK / 40)が完成した。部隊配備は、1942年以降で、量産数は、1941年-1945年に2万3,500門も製造された。この対戦車砲は、フィンランドのほか、ルーマニア、ハンガリー、ブルガリアにも輸出されている。
1941年6月のドイツのソ連侵攻にあわせて始めた継続戦争だったが、1943年夏には、明らかに戦局はフィンランド、ドイツに不利になってきた。ソ連に対しては、イギリス、アメリカが膨大な軍事物資を貸与しており、ソ連の生産力増強と相まって、フィンランド、ドイツは、ソ連軍の攻勢を防ぐことも困難になっていた。戦局が悪化する中で、1943年3月5日、フィンランド首相ヨハン・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は辞任し、新たにエドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)がフィンランド首相に就任したが、彼も、ソ連に降伏できない以上、ナチスとの同盟を堅持するしか選択肢はなかった。
写真(右)1944年6月30日、フィンランド南東部、カレリア地峡、ラッペーンランタ、ドイツ軍側で戦ったエストニア義勇兵のドイツ製1940年式ラインメタル7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40:75 PstK / 40)の陣地;対戦車砲の陣地は、林の中に偽装され、半地下式に材木を組み合わせて被弾に強い構造とした。また、陣地前部は、対戦車砲の射界(65度)を確保する工夫がなされている。
Saksalainen hyökkäysvaunu kulkee Lappeenrannan lävitse matkallaan rintamalle. Kemikaalijäämiä...
Subject place
1944-06-30
Sot.virk. T.Norjavirta, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-120759引用。
1944年6月のノルマンディ侵攻で、西側連合軍地上軍が西ヨーロッパでドイツ軍を圧倒し、ドイツの敗戦が確実になる中、1944年8月8日にエドウィン・リンコミエス首相(日本の勲一等旭日大綬章佩用)は辞任、後任首相には、アンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)が就いた。そして、フィンランド大統領フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)も辞職し、8月4日にフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥が後継の大統領に就任した。
写真(右)1944年6月30日、フィンランド南東部、カレリア地峡、ラッペーンランタ、ドイツ軍のIII号突撃砲後期G型(StuG III Ausf G.)が出撃する。;7.5センチ47口径戦車砲を装備した突撃砲は、本来は、機動砲兵だが、対戦車戦闘にも投入された。ラッペーンランタ(Lappeenranta)は、ミッケリ南西100キロで、今日では、ロシア国境まで20キロに位置する。
Eestiläisen vapaaehtoisen tykkikomppanian taisteluharjoituksesta. panssarintorjunta‐tykkiasema. Asemassa on saksalainen 75 mm:n panssarintorjunta‐tykki vuosimallia 1940 (75 PstK/40).
Subject place
1944-06-30
Sot.virk. T.Norjavirta, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-151291引用。
ドイツ陸軍III号突撃砲(Sturmgeschütze III)は、第二次大戦緒戦に登場した新型III号戦車が旧式化したために、その砲塔を撤去して、大型戦闘室を設け、そこに対戦車戦闘能力の高い7.5センチ戦車砲を装備した突撃砲である。1941年に開発されたIII号突撃砲初期C/D型の搭載していた搭載している短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24 は,歩兵への火力支援用だが,戦闘室は密閉されてい,全高が低いために,防御力も高かった。そこで,前線に歩兵などとともに突撃する火砲として,突撃砲と呼ばれた。したがって,歩兵支援を前提としたものだったが,対戦車戦闘能力もあった。 そして、1944年になると、対戦車戦闘能力を向上させた43口径7.5センチ砲を搭載したIII号突撃砲G型(StuG III Ausf. G)が第一線で活躍するようになった。
写真(右)1944年7月1日、フィンランド南東部、カレリア地峡、ラッペーンランタ(Lappeenranta)、ドイツ軍のIII号突撃砲G型(StuG III Ausf G.)が出動する。;7.5センチ47口径戦車砲を装備した突撃砲は、本来は、機動砲兵だが、対戦車戦闘にも投入された。ラッペーンランタは、ミッケリ南西100キロで、今日では、ロシア国境まで20キロに位置する。
Saksalainen hyökkäysvaunu Lappeenrannan kadulla lähdössä rintamalle. Saksalainen rynnäkkötykki StuG III Ausf. G. Lappeenrannassa..
Subject place
1944-07-01
Sot.virk. T.Norjavirta, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-151291引用。
1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したカール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥は、1944年9月19日、モスクワ休戦協定を結んで、事実上、ソ連に降伏した。講和条件は、カレリア地峡・ペッツァモの譲渡、戦争賠償金の支払い、フィンランド国内におけるソ連軍の基地使用、ドイツ軍のフィンランドからの排除(事実上の対ドイツ戦争)である。
写真(右)1944年7月2日、フィンランド・ソ連国境、ドイツ軍のIII号戦車(StuH 42 Ausf. G. 105 mm:Ps 513):第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を搭載したIII号戦車だったが、10.5センチ榴弾砲を搭載し火力を強化した砲兵型の車両もあった。フィンランド軍は、10.5センチ榴弾砲ではなく、7.5センチカノン砲搭載型のIII号突撃砲のみを購入したと思われる。
Saksalaisia rynnäkkötykkejä. StuH 42 Ausf. G. 105 mm:n tykillä varustettu rynnäkkötykki..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-02
Sot.virk. Unto Hämäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-143686引用。
フィンランドは、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Continuation War)を始め、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、8月中には、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、奪回した。
1939-1940年の冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド(?)、ドイツ軍のIII号突撃砲後期G型(Ps 513):格納庫の中で保管されているが、ドイツから購入する車輛であろうか。
Saksalainen rynnäkkötykki. Kuvassa rynnäkkötykki Stu.G. III Ausf. G.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Majuri M.J.Koskimies, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-156003引用。
III号突撃砲G型(Ps 513)の諸元
全長
6.77 m、全幅
2.95 m、全高
2.16 m
重量
23.9 t
トーションバー懸架方式
最高速力(路上)
40 km/h
航続距離
155 km
兵装
48口径1940年式7.5センチ砲(75 mm StuK 40L/48)携行弾数54発
車載機銃 ドイツ軍の7.92ミリMG34(1丁)を7.62ミリ機関銃に変換
装甲
前部 80mm、防盾・後部 50mm
前部上・側面 30mm
側面 30mm 後部 50mm
上面 10mm-16mm、底面 15-30mmmm
発動機:マイバッハ HL 120 V型12気筒ガソリンエンジン300馬力
乗員
4名
ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北しており、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の際に、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。1941年7月、総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻した。
写真(右)1944年7月7日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍の装甲師団に配属されたドイツ製III号突撃砲後期G型(StuG III Ausf G.)栄光の中の「ブービー」 "Bubi";愛称"Bubi"と呼ばれたこの突撃砲は、戦車長ブロッテル(Brotell)、ラニッコ(Launikko)、ソイマラ(Soimala)伍長、およびカウッピ(Kauppi)伍長の操縦で戦果を挙げた。車体の脇には、丸太を並べているが、これは補助装甲として、難路でのキャタピラすべり止めのために活用された。
Tässä on ``Bubi ́ ́ koko komeudessa. Pojat ovat asettuneet sen kupeelle ``potrettiin ́ ́. Vasemmalta lukien: Ylikersantti Brotell, panssarimies Launikko, korpraali Soimala ja korpraali Kauppi. Sotilaiden takana on rynnäkkötykki StuG III Ausf. G..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-07
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-143784引用。
当時のフィンランド大統領リュティ, 首相ランゲル(J. W. Rangell),外相ヴイツティング(R.J. Witting)は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻を歓迎したようだ。1943年にリュティ大統領の下で首相に就任したリユノコミエスは,回顧録の中で,独ソ戦争の第一報を受けた6月22日について、次のように述べている。「その時すぐに私は,フィンランドが戦争の埒外に留まることはない, と結論した。----私にとって、この成行きを拒否する態度はありえなかった。ドイツが比較的短期間にソ連を打ちのめし,それに伴って,あらゆる権利を踏みにじり、フィンランドから暴力でもぎ取ったカレリアを奪回する機会がフィンランドに訪れるのは礎実と思われた。
写真(右)1944年7月7日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍の装甲師団に配属されたドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.)栄光の中の「ブービー」 "Bubi"搭乗員の少年兵たち。左から:戦車長ブロッテル(Brotell)、ラニッコ(Launikko)、ソイマラ(Soimala)伍長、およびカウッピ(Kauppi)伍長;4人の若い兵士が、III号突撃砲"Bubi"で戦果を挙げた。補助装甲として、難路でのキャタピラすべり止めとして、胴体側面に丸太を並べている。
Tässä on ``Bubi ́ ́ koko komeudessa. Pojat ovat asettuneet sen kupeelle ``potrettiin ́ ́. Vasemmalta lukien: Ylikersantti Brotell, panssarimies Launikko, korpraali Soimala ja korpraali Kauppi. Sotilaiden takana on rynnäkkötykki StuG III Ausf. G...
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-07
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-143783引用。
フィンランド軍とフィンランド派遣ドイツ軍の間には、連絡将校も配置され、協力関係が構築されていた。しかし、フィンランドは,レニングラードに対する積極的攻撃は行わなかった。これに対して,国防軍総長ヴィルヘルム・カイテルは、カレリア地峡でフィンランド軍が有利な地位にあることから、 1941年8月下旬,フィンランド軍総可令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥に対して、北方からレニングラードを攻撃し、南方から攻撃するドイツ軍と挟撃することを提案した。フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は,レニングラードへの積極的な攻撃は、フィンランド国民からの支持を得られるとは考えておらず、なによりドイツ軍が独力でレニングラードを陥落させ、フィンランドはソ連崩壊の利益を享受できると予測していた。そこで、マンネルへイム元帥も、その意向を組んで、1941年8月28日、フィンランド軍によるレニングラード攻撃は実施できないことをドイツ側に伝えた。しかし、このことは、フィンランド軍をカレリア地峡に展開し、間接的にレニングラード包囲網を構築することを放棄したものではない。
写真(右)1944年7月9日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍の装甲師団に配属されたドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.);この装甲師団の乗組員は、クーテルセルカの戦いに参加し、突撃砲の砲身にキルマークを付けた。それによれば、ヨセフ・スターリン" Josef Stalin "重戦車1台を含む戦闘車輛3台撃破のアカウントを持っている。スワスチカ(swastika:ハーケンクロイツ)、フィンランド語ではハカリスティ(Hakaristi)の一部分が見えている。
Panssaridivisioona. Vänrikki Aulangon rynnäkkötykki ja sen miehistöä. Tykillä on tilillään 5 panssaria josta 1 ""Josef Stalin"" 1 ""Klim"" ja 3 ""Sotkaa"". Taistelut Kuuterselässä ja Talissa.
Subject place
1944-07-09
Sot.virk. T. Nousiainen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133717引用。
wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチスと同盟したフィンランドの攻撃性を忌避するために唱えられた方便か、カギ十字とフィンランドの悪しき関係をしらない人物の誤解である。
1944年9月19日、ソ連・イギリスとの「継続戦争」休戦協定がモスクワで締結された。モスクワ協定の締結後、フィンランド駐留ドイツ軍の撤退が求められたが、これをドイツ軍が容易に認める筈もなく、ドイツとの戦争が始まった。また、ソ連・イギリスとの休戦に伴って、ナチ・ドイツとの共闘の印と見なされたフィンランド軍の国籍マーク「ハカリスティ」(Hakaristi)のカギ十字は廃止された。
写真(右)1944年7月9日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍の装甲師団に配属されたドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.);車体前面には、ナチ党・ドイツ空軍と同様の反革命・反共産主義・反ソ連の象徴スワスチカ(swastika:ハーケンクロイツ)、フィンランド語ではハカリスティ(Hakaristi)をフィンランド軍の国籍記章として誇らしげに描いている。この装甲師団の乗組員は、クーテルセルカの戦いに参加し、ヨセフ・スターリン" Josef Stalin "重戦車1台、KV(Kliment Voroshilov tank)重戦車1台、T-34(Sotka)戦車3輌の合計5台のソ連戦車を撃破のアカウントを持っている。
Panssaridivisioona. Vänrikki Aulangon rynnäkkötykki ja sen miehistöä. Tykillä on tilillään 5 panssaria josta 1 ""Josef Stalin"" 1 ""Klim"" ja 3 ""Sotkaa"". Taistelut Kuuterselässä ja Talissa.
Subject place
1944-07-09
Sot.virk. T. Nousiainen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133718引用。
1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi?Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ:Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、政権獲得後、鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。
写真(右)1944年7月9日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍の装甲師団に配属されたドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.)の7.5センチ戦車砲に描かれたキルマーク(白帯5本)と誇らしげなV. V.ガルマン伍長;突撃砲搭乗員V. V.ガルマン伍長ら乗組員は、クーテルセルカの戦いに参加し、ヨセフ・スターリン" Josef Stalin "重戦車1台、KV(Kliment Voroshilov tank)重戦車1台、T-34(Sotka)戦車3輌の合計5台のソ連戦車を撃破した。
Panssaridivisioona. Vänrikki Aulangon rynnäkkötykki ja sen miehistöä. Tykillä on tilillään 5 panssaria josta 1 ""Josef Stalin"" 1 ""Klim"" ja 3 ""Sotkaa"". Taistelut Kuuterselässä ja Talissa.
Subject place
1944-07-09
Sot.virk. T. Nousiainen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133720引用。
ドイツ陸軍III号突撃砲G型(Sturmgeschütz III:StuG III)は、43口径7.5センチ戦車砲を48口径に強化した後期型だが、当初の砲身付け根の防盾は垂直装甲版をリベット留めしたものだった。しかし、48口径7,5cm戦車砲の防楯は、後期型では、ザウコプ(豚の頭)と呼ばれることになる曲面装甲に改良された。ザウコプ(豚の頭)式は、鋳型で曲面装甲としたために、避弾径始が良好で防御力が向上している。フィンランド極北戦線には、このザウコプ(豚の頭)式のIII号突撃砲G型後期型も僅かだが配備されている。
写真(右)1944年7月9日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍の装甲師団のドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.)の車体前部上面ハッチから7.5センチ砲弾を車内に格納するV. V.ガルマン伍長;クーテルセルカの戦いに参加し、突撃砲により、敵戦車4台撃破のアカウントを持っている。
Korpraali V.E.Gullman. Ampunut rynnäkkötykillä Talin taisteluissa 4 panssaria...
Subject place
1944-07-09
Sot.virk. T. Nousiainen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133729引用。
43口径7.5センチ戦車砲を48口径に強化したドイツ陸軍III号突撃砲G型(Sturmgeschütz III:StuG III)後期型(Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III')では、48口径7,5cm戦車砲の防楯がザウコプ(豚の頭)と言われた曲面装甲を用いて避弾径始を考慮した構造で、防御力が向上している。フィンランド極北戦線には、このザウコプ(豚の頭)式のIII号突撃砲G型後期型はごく少数のみだったようだ。III号突撃砲は終戦まで1万輌とドイツ戦車(突撃砲・駆逐戦車を含む)の中では最多生産を誇る。
写真(右)1944年7月9日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍の装甲師団のドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.)の戦闘室上面ハッチに立つ戦車長ムオナ伍長;戦車長ムオナ伍長は、クーテルセルカの戦いに参加し、突撃砲により、敵戦車6台撃破のアカウントを持っている。イヤホーン・レシーバーとマイクで突撃砲内の乗員と連絡を取ることができる。
Rynnäkkötykin ampuja, korpraali K.Muona. Tilillään 6 panssaria. Taistelut Perkjärvellä, Talissa ja Portinhoikassa..
Subject place
1944-07-09
Sot.virk. T. Nousiainen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133725引用。
ドイツ陸軍III号戦車には大きな砲塔・大口径砲を搭載できなかったため、旧式化した。そこで、その砲塔を撤去して防御された大型戦闘室を設け,そこに7.5センチ砲を装備したのがIII号突撃砲(Sturmgeschütz III)である。このIII号突撃砲は、終戦までドイツ軍の主力突撃砲となり、火力支援だけでなく、対戦車戦闘にも活躍した。本来は、応急の補助的な兵器だったが、実用性も量産性も高かったために、III号突撃砲(Sturmgeschütz III:StuG III)は、終戦までに1万両も生産されており、第二次世界大戦中のドイツ軍の装甲戦闘車輛のうちで最多の生産台数を誇った。III号突撃砲は、フィンランド極北戦線にも投入されている。
写真(右)1944年7月26日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍の装甲師団に配属されたドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.);
Saksalaisia syöksytykkivaunuja matkalla linjoille. .
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-26
Sot.virk. Söderhjelm, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-1324565引用。
フィンランド軍の部隊略称
JR = Infantry Regiment(歩兵連隊)
Kev.Os = light detachment(軽分遣隊)
Er.P = separate battalion(独立大隊)
JP = Jaeger battalion(猟兵大隊)
KTR = Field Artillery Regiment(野砲連隊)
Rask.Psto = heavy art. battalion(重砲大隊)
Psto / #.Pr = brigade art. battalion(旅団砲大隊)
Psto = artillery battalion(山砲大隊)
KT-Pr. = Field Replacement Brigade(野戦予備大隊)
RR = Uudenmaa dragoon Reg.(竜騎兵連隊)
HRR = Häme cavalry Reg.(騎兵連隊)
PP = bicycle battalion (自転車大隊)
写真(右)1944年7月26日、フィンランド南東端、カレリア地峡中部、クーテルセルカ(Kuuterselkä)、フィンランド軍の装甲師団に配属されたドイツ製III号突撃砲G型(StuG III Ausf G.);
Saksalaisia syöksytykkivaunuja matkalla linjoille.
Organisaatio
Sotamuseo
sorennaiteno1944-07-07
Luutnantti Kalima, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-1324566引用。
1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始すると公表したイギリスは、ソ連の同盟国として、12月にフィンランドに宣戦布告することになる。
写真(右)1944年7月7日、フィンランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連赤軍T-34/85の演習;最前線の近くで行われた戦車を使った演習。最初にソ連戦車T-34の弱点を伝えている。ソ連のT-34戦車は76.2ミリ(3インチ)戦車砲を搭載していたが、大戦中期以降は、旧式のドイツ軍VI号戦車も7.5センチ戦車砲を搭載し、新式のティーガー重戦車は8.8センチ戦車砲を搭載していた。そこで、T-34戦車をベースにして大型砲塔に変換、85ミリ高射砲を搭載する改良型T-34-85戦車が、1943年12月に開発された。これが良好な性能を示したために、試作中戦車新型戦車T-43は開発中止となり、既存の設備を活かして量産できるT-34-85の大量生産が決定した。この大型砲塔は、ZiS-53を搭載、砲塔に戦車長を含む3人が搭乗しておあり、これまでのT-34-76のように戦車長が弾薬装填手も兼務する必要はなくなった。生産は、1944年1月から開始され、T-34‐76の3万5,000輌に対して、T-34-85は3万輌が生産された。戦後の各国での生産数も合わせるとT-34-85は、4万8950輌が生産された。
Lähellä etulinjaa pidetään marssintuhoojille vielä muistiharjoitus, jossa kerrataan ennen kaikkea hyökkäysvaunun ""heikot kohdat"".
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-07
Luutnantti Kalima, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-143767引用。
「継続戦争」と称しているフィンランドは、ソ連相手の二国間戦争を闘っており、イギリス・アメリカ相手に戦う第二次世界大戦ではないという。しかし、1941年12月には、イギリスはフィンランドに宣戦布告しており、「継続戦争」は、実質的にも形式的にも第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いとなった。
写真(右)1944年7月14日、カレリア地峡(?)、フィンランド、フィンランド国防軍が使用したドイツ製対戦車携行弾「パンツァ―・シュレック」(Panzerschreck)RPzB 43対戦車成形弾を装備した部隊が、敵に立ち向かう準備をしている。;1943年北アフリカのチュニジア攻防戦で、アメリカ軍が使用したバズーカ砲M1を鹵獲したドイツ軍は、これを原型として大型化した「パンツァーシュレック」を1944年に実用化した。これがRPzB 43で、重量9.25kgだったために、歩兵が携行可能な対戦車兵器となった。
Panssarintorjujat valmistautuvat käyttämään ""nyrkkejään"" ja ovat valmiina asemissaan odottamassa vihollispanssarien ilmestymistä.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-17
Luutnantti R.Ruponen, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151638引用。
写真(右)1944年7月26日、カレリア地峡(?)、フィンランド、フィンランド国防軍が使用したドイツ製対戦車無反動砲「パンツァ―・シュレック」(Panzerschreck)RPzB 43対戦車成形弾を装備した部隊が、敵に立ち向かう準備をしている。;
Panssarikauhumiehet vaanivat vihollisen panssarivaunuja Vuosalmen sillanpääasemassa.
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-26
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-124666引用。
1943年の北アフリカ戦線末期、チュニジア攻防戦で、アメリカ陸軍が導入していた新式の歩兵携行対戦車兵器「バズーカ砲」M1をドイツ軍は鹵獲した。この兵器の優秀性を認めたドイツ軍は、バズーカ砲を原型として、これを大型化、貫通力を強化した歩兵携行対戦車成形弾発射器を1944年に制式化した。これが「パンツァーシュレック」(Panzerschreck)無反動砲RPzB 43で、重量は9.25kgと一人で持ち運びが可能であり、製契約約弾を装填する装填手とペアで1組となり、対戦車擲弾兵として前線で活躍した。
写真(右)1944年7月16日、カレリア地峡(?)、フィンランド、フィンランド国防軍が使用したドイツ製対戦車無反動砲「パンツァ―・シュレック」(Panzerschreck)RPzB 43対戦車成形弾を装備した部隊が、敵に立ち向かう準備をしている。;
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Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-16
Sot.virk. J.M.Wuorela, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-141085引用。
ドイツ製対戦車無反動砲「パンツァ―・シュレック」(Panzerschreck)RPzB 43は、重量9.25キロで、対戦車成形ロケット弾を発射する無反動砲である。電気発火でロケット弾が点火し、推進剤の燃焼により推力を得る。このロケット弾の炸薬燃焼のバックファイアーが、「パンツァ―・シュレック」(Panzerschreck)の射手に吹きかかるために、車種はガスマスクと手袋を着用していた。しかし、射手にかかるバックファイアーを防ぐための金属製防楯が装着された。
写真(右)1944年7月26日、カレリア地峡(?)、フィンランド、フィンランド国防軍が使用したドイツ製歩兵携行対戦車兵器「パンツァーファスト」(Panzerfaust)対戦車成形弾発射無反動砲を装備した部隊が、敵に立ち向かう準備をしている。;
Tämän aineiston tarjoaa .
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-26
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-124670引用。
ドイツ軍の制式兵器の歩兵携行対戦車無反動砲「パンツァーファスト」(Panzerfaust)対戦車成形弾や対戦車ロケット弾「パンツァ―・シュレック」(Panzerschreck)RPzB 43の発射する成形炸薬弾頭(HEAT:High-explosive anti-tank warhead)とは、漏斗型のへこみの奥に炸薬が仕込まれており、命中して爆発した際に、火炎が中心部に集中して発射され、装甲を打ち破り、貫通する。このように強力な貫通力を発揮するのが、モンロー効果(ノイマン効果)であり、大戦中期の1943年には、この効果を利用した対戦車兵器が開発されていた。
写真(右)フィンランド、フィンランド国防軍が使用したドイツ製歩兵携行対戦車無反動砲「パンツァーファスト」(Panzerfaust)対戦車成形弾を装備した部隊が、敵に立ち向かう準備をしている。;
Panssarikauhu asemissa.
Luutnantti R.Ruponen, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-14
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-133654引用。
1943年に開発されたドイツ製歩兵携行対戦車無反動砲「パンツァーファスト」(Panzerfaust)対戦車成形弾の後部には飛行姿勢を安定させる安定板4翅がついているが、これは野砲がライフル(旋条)によって、ラグビーボールのように回転しながら発射されないようにする目的もある。が装備されている。弾頭が発射されると、その後方で4枚の安定翼が開き飛翔する。モンロー効果は、砲弾が回転しないほうが有効性が高く、貫通力が高まるためである。
写真(右)1944年7月14日、カレリア地峡(?)、フィンランド、フィンランド国防軍が使用したドイツ製歩兵携行対戦車無反動砲「パンツァーファスト」(Panzerfaust)対戦車成形弾を装備した部隊が、敵に立ち向かう準備をしている。;
Panssarikauhu asemissa.
Luutnantti R.Ruponen, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-14
Sot.virk. Hedenström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-133655引用。
ドイツ軍の歩兵携行対戦車兵器「パンツァーファスト」(Panzerfaust)対戦車成形弾発射器の初期型がパンツァーファウスト30で、最大射程30m 重量5.1kg、装甲貫徹力200ミリで、1943年8月制式、前線配備は1944年以降に図れた様だ。最大射程を延長した改良型パンツァーファウスト60は、射程が60mと2倍になり、重量は6.1kg、装甲貫徹力は200mmで、射程が伸びても貫通力を保持している。前線部隊に配備されたのは、1944年10月で、フィンランド国防軍にも貸与された。
写真(右)1944年7月28日、フィンランド、ラッペーンランタ(Lappeenranta)郊外、ラボラ(Lavola)で休養中と思われるフィンランド軍第13歩兵連隊第2大隊のポール・レンバル(Paul Renvall)伍長(対戦車ロケット砲「パンツァーシュレック」)、カート・エンマン(Kurt Engman)軍曹(対戦車成形弾「パンツァーファスト」);実戦前、10分間の訓練を受け対戦車襲撃班となった二人は、カレリア地峡での対戦車戦闘で名を馳せた。ポール・レンバル(Paul Renvall)伍長は"Tali Tigers"(タリンのトラ)と、カート・エンマン(Kurt Engman)軍曹は "Tali Horror"(タリンの恐怖)と綽名されるほど活躍をしたのである。
Alikersantti Paul Renvall ja ylikersantti Kurt Engman II/JR 131, Talin taisteluissa kunnostautuneita panssarintuhoojia. Alikersantti Renvallilla on 1 ja ylikersantti Engmanilla 4 raskasta hyökkäysvaunua tilillään. Molemmat tunnetaan nimellä ""Talin tiikerit"", ja ylikersantti Engman ""tottelee"" lisäksi erikoisnimeä ""Talin Kauhu"". Kumpikaan ei ollut saanut 10 min. pitempää koulutusta uusien aseiden käytössä, mutta tilaisuuden tullen molemmat näyttivät mihin reipas suomalainen sotilas pystyy, kun on tosi kysymyksessä..
Subject date
1944-07-28
Sot.virk. C.G.Rosenqvist, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-124599引用。
フィンランド軍第13歩兵連隊第2大隊のポール・レンバル(Paul Renvall)伍長とカート・エンマン(Kurt Engman)軍曹は、実戦前、10分間の訓練を受け対戦車襲撃班となった。二人は、1944年のカレリア地峡での対ソ連戦車戦闘で名を馳せた。ポール・レンバル伍長はパンツァーシュレック(Panzerschreck)を使ってソ連戦車4両を撃破し"Tali Tigers"(タリンのトラ)と呼ばれるほど称賛された。また、カート・エンマン軍曹もパンツァーファスト(Panzerfaust)を駆使して、"Tali Horror"(タリンの恐怖)と綽名されるほど活躍をした。
写真(右)1944年7月28日、フィンランド、ラッペーンランタ(Lappeenranta)郊外、ラボラ(Lavola)で休養中と思われるフィンランド軍第13歩兵連隊第2大隊のポール・レンバル(Paul Renvall)伍長(対戦車ロケット砲「パンツァーシュレック」)、カート・エンマン(Kurt Engman)軍曹(対戦車成形弾「パンツァーファスト」);
Alikersantti Paul Renvall ja ylikersantti Kurt Engman II/JR 131, Talin taisteluissa kunnostautuneita panssarintuhoojia. Alikersantti Renvallilla on 1 ja ylikersantti Engmanilla 4 raskasta hyökkäysvaunua tilillään. Molemmat tunnetaan nimellä ""Talin tiikerit"", ja ylikersantti Engman ""tottelee"" lisäksi erikoisnimeä ""Talin Kauhu"". Kumpikaan ei ollut saanut 10 min. pitempää koulutusta uusien aseiden käytössä, mutta tilaisuuden tullen molemmat näyttivät mihin reipas suomalainen sotilas pystyy, kun on tosi kysymyksessä.
Subject date
1944-07-28
Sot.virk. C.G.Rosenqvist, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-124600引用。
ドイツ軍は、アメリカ軍から鹵獲したM1バズーカ(Bazooka)砲を参考にパンツァーシュレック(Panzerschreck)を開発したが、独自に、使い捨て型のより量産向きな歩兵携行対戦車兵器としてパンツァーファスト(Panzerfaust)を開発した。これは、金属製パイプ(直径5センチ・全長1メートル)に炸薬を充填し、その先端に装着された弾頭にモンロー効果を活かせる成形炸薬を仕込んでいる。この砲弾には尾翼がついていて、弾道を安定させている。1943年に搭乗した初期型は、射程30メートル、重量3.2キロで、貫徹力140ミリ、弾頭を大型化し1944年末に登場した後期型は射程60メートル、重量6.1キロで、装甲貫徹力ミリだった。パンツァーファスト(Panzerfaust)は、ロケット弾を発射し終わると、設備のない前線で再装填することはできない使い捨ての兵器だったが、その分、製作コストを抑え簡易構造の量産性が高い兵器だった。
写真(右)1944年7月28日、フィンランド、ラッペーンランタ(Lappeenranta)郊外ラボラ(Lavola)、フィンランド軍第13歩兵連隊第2大隊のポール・レンバル軍曹が対戦車ロケット砲「パンツァーシュレック」(Panzerschreck)を手にしている。;ポール・レンバル軍曹は10分間のパンツァーシュレック操作訓練を受け、カレリア地峡の戦闘でして戦車襲撃班としてソ連戦車4台を撃破して"Tali Tigers"と称される活躍をした。ラボラで休養中の撮影。
Alikersantti Paul Renvall ja ylikersantti Kurt Engman II/JR 131, Talin taisteluissa kunnostautuneita panssarintuhoojia. Alikersantti Renvallilla on 1 ja ylikersantti Engmanilla 4 raskasta hyökkäysvaunua tilillään. Molemmat tunnetaan nimellä ""Talin tiikerit"", ja ylikersantti Engman ""tottelee"" lisäksi erikoisnimeä ""Talin Kauhu"". Kumpikaan ei ollut saanut 10 min. pitempää koulutusta uusien aseiden käytössä, mutta tilaisuuden tullen molemmat näyttivät mihin reipas suomalainen sotilas pystyy, kun on tosi kysymyksessä.br>Subject date
1944-07-28
Sot.virk. C.G.Rosenqvist, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-124601引用。
ドイツ軍は、1943年の北アフリカ、チュニジアでアメリカ陸軍と戦火を交え敗退したが、この戦いでアメリカ軍が使用したM1バズーカ(Bazooka)砲を鹵獲した。M1バズーカは、世界初の対戦車ロケット弾発射可能な無反動砲で、全長54インチ(1,370mm)、重量13ポンド(5.9kg)の歩兵携行用対戦車兵器である。バズーカの口径は60ミリで、弾頭にモンロー効果を活かせる成形炸薬を仕込んでおり、射程100ヤード(91.4m)で3インチ(76.2ミリ)の装甲板を貫通可能だった。ドイツ軍はこの口径を60ミリから8.8センチに拡大した1943年型パンツァーシュレック(Panzerschreck)を開発した。パンツァーシュレックは口径8.8センチ、全長650ミリ、重量9.25キロで、有効射程は150メートル、230ミリの装甲版を貫通できた。
写真(右)1944年7月28日、フィンランド、軍人家庭協会の女子たちが調理道具を使って前線のフィンランド軍兵士に食事や慰問品の奉仕する。;
Sotilaskotiyhdistyksen sisaret sotilaskotituotteineen ilahduttamassa välittömästi linjojen takana levossa olevan pataljoonan poikia.
1944-07-28
Sot.virk. T.V.Wuorela, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-141996引用。
日本では、1937年の日中戦争の時期に、中国に多数の出征兵士を送ったが、戦地で国民のために戦っている兵隊さんに少しでも感謝の気持ちを伝えようと、組織的に慰問袋(いもんぶくろ)を贈る運動が始まった。学校、職場、婦人会、町内会など地域や団体が、出征兵士に慰問袋を贈った。厳しい戦地にある出征兵士などを少しでも慰め、不足している日用品を提供することが、慰問袋の第一の目的である。これに加えて、激励やお礼の手紙を添えて送ることで、兵士の士気を維持する効果も期待されていた。
写真(右)1944年7月28日、フィンランド、軍人家庭協会の女子たちが前線の兵士を慰問して日用品などをフィンランド軍兵士に届ける奉仕をしている。;
Sotilaskotiyhdistyksen sisaret sotilaskotituotteineen ilahduttamassa välittömästi linjojen takana levossa olevan pataljoonan poikia.
1944-07-28
Sot.virk. T.V.Wuorela, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-141996引用。
戦地で日用品が不足する状況は、軍の補給・輜重の不備であり、出征家族や本国にいる国民の怠惰ではない。にもかかわらず日本軍は、陸軍省陸軍恤兵部が、銃後の担当として、慰問袋の無償発送を扱って、国民の士気を高め、戦争参加意識を高揚させようとした。慰問品の贈答が半強制的になる場合、何の考えもなしに慰問品を購入して送るといった省力化も見られるようになった。そこで、日本軍は、慰問品に手作りのものを入れるように推奨するようになった。
しかし、慰問袋だけ贈るよりは、戦地に自ら日用品など物資を届けるほうが、士気高揚の効果は高い。前線が、本土と近く、陸路・水路の便が良かったフィンランドでは、女子補助部隊の制度が整っていたこともあって、慰問と物資補給を兼ねて、女子が前線で物資を配給したこともあったようだ。1945年、日本本土決戦が叫ばれるようになると、軍需工場や食糧増産のための勤労動員や女子挺身隊の編成だけでなく、兵士の身の回りの世話(洗濯・裁縫・掃除など)を担う奉仕隊も編制された。
写真(右)1944年7月28日、フィンランド、森林の中の沼沢地に設けられた木道の上を、2台自転車に補給物資を乗せて輸送するフィンランド軍の少年兵2人と荷物を背負った兵士2人;後方の兵士は、毛布か衣類を束ねて背負っている。その前の少年兵(兵士の陰に隠れている)は、自転車には大きなミルク缶を乗せている。三番目の兵士は、少年兵なのか、荷物は背負っておらず、自転車にミルク缶を乗せている。奥の兵士は、段ボールの大箱1個、小箱2個を担いでいる。
Muonaa viedään polkupyörällä pitkospuitten yli soitten takana olevaan tukikohtaan.
1944-07-28
Sotamies Ensio Liesimaa, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133908引用。
第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィンランド語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ロシア感情からか、小国・民主主義国フィンランドへの同情からか、フィンランド側の言う「継続戦争」の呼称を多用している。
写真(右)1944年7月28日、フィンランド、森林の中の沼沢地に設けられた木道の上を、2台自転車に補給物資を乗せて輸送するフィンランド軍の少年兵2人と荷物を背負った兵士2人;後方の兵士は、毛布か衣類を束ねて背負っている。その前の少年兵は、自転車には大きなミルク缶を乗せている。三番目の兵士は、少年兵なのか、荷物は背負っておらず、自転車にミルク缶を乗せている。奥の兵士は、段ボールの大箱1個、小箱2個を担いでいる。
Muonaa viedään polkupyörällä pitkospuitten yli soitten takana olevaan tukikohtaan.
1944-07-28
Sotamies Ensio Liesimaa, valokuvaaja .
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133909引用。
日本では、補給部隊の輜重を兵科と見なさず、能力も気力も低い部署と見なし軽蔑していた。これは、最前線の戦術や兵器を扱う戦闘部隊ののみが本当の兵士であり、補給・ロジスティックの担当は、戦闘部隊に隷属するとして、軽視していたからだった。参謀本部でも軍令部でも命令すれば、下積みの連中が汗して命令通りに補給任務をこなせばよいとの無責任な発想で、他人任せだった。補給をどのように完備するかについての配慮が決定的に不足していた。これは、日本陸軍の陸上輸送でも日本海軍の海上輸送でも同じで、軍属が命令通りにこなせばいい雑務と誤解していたのである。
写真(右)1944年8月11日、フィンランド・ソ連国境、ドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513):車体の脇には、丸太を並べているが、これは補助装甲として、難路でのキャタピラすべり止めのために活用された。第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を搭載したIII号戦車。
Vuosalmella Oravankylässä jalkaväen ja rynnäkkötykkijoukkueen välinen yhteisharjoitus. Rynnäkkötykki. Kyseinen rynnäkkötykki on Stu.G III Ausf. G..
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-08-11
Eversti M.von Schrowe, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-155991引用。
写真(右)1944年8月25日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、サイマー湖畔、ブオサルミ(Vuosalmi)、歩兵部隊と共同演習するドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513):車体の脇には、丸太を並べているが、これは補助装甲として、難路でのキャタピラすべり止めのために活用された。第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を搭載したIII号戦車。
Rynnäkkötykki. Kyseinen rynnäkkötykki on Stu.G III Ausf. G.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-08-25
Everstiluutnantti I.Frey, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-156003引用。
1941年6月26日に始まった第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Jatkosota)では、ドイツ軍によってソ連軍が緒戦で大打撃を受けており、フィンランド方面に配備できるソ連軍は制限され、予備軍を充当するにも、レニングラード防衛が精いっぱいであり、ソ連軍はフィンランドに対する攻勢を仕掛けることができなかった。
写真(右)1944年8月31日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が購入したドイツ軍のIII号戦車G型(Ps 513):第二次世界大戦直前に部隊配備されたT-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲と同等の7.5センチ砲を搭載したIII号突撃砲
Meikäläinen osoittaa edellisen panssarin tuhoumaa, jonka se sai panssarikauhusta. Kuvan panssarivaunu on T-34.
Organisaatio
Sotamuseo.
Kuvaustiedot:
1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-139626引用。
1917年のロシア社会主義革命によって、ロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世は、1917年3月15日に退位した。そして、ロシア帝国の内紛とレーニン率いるボリシェビキの民族独立の方針に乗じて、フィンランド国会が設置され、11月15日にはフィンランド独立宣言が発せられ、共和制憲法の下で、独立国となった。新ロシア政府も1917年12月22日、フィンランドの独立を承認した。こうして、フィンランドが、革命後のロシアから独立したときに、レニングラード北西方のカレリア地方は、フィンランド領となった。その後、1939年に冬戦争が始まり、1940年の冬戦争敗戦を迎え、フィンランド領だったカレリア地方は、ソ連に奪われた。しかし、1941年8月、復讐戦となった継承戦争の緒戦で、フィンランドは攻勢をかけて、カレリア地峡をソ連から奪還した。フィンランドは郷土回復を祝ったのである。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、フィンランド軍がソ連製1937年152ミリ榴弾砲(152 H 37)をトラクターで牽引する。;牽引速度は遅いが、泥濘の難路では重砲を曳くには都合がよかったらしい。
Moottoroitu raskas tykistö siirtyy Vuosalmen sillanpäästä Vuosalmen-Räisälän tietä. Kuvan tykki on neuvostoliittolainen 152 mm:n raskas haupitsi vuosimallia 1937 (152 H 37)..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-139642引用。
1941年6月25日、ソ連空軍がフィンランドを空襲したが、これはフィンランド展開するドイツ軍、ドイツと事実上の軍事同盟を結んだフィンランドへの当然の「自衛行為」とされた。独ソ開戦前にフィンランド北部にドイツ軍の大部隊が派遣され、北極海に臨むムルマンスクを占領する計画が立てられていたのであって、フィンランドはドイツ軍のソ連侵攻を積極的に支援していたのである。しかし、フィンランドは,これを戦争が仕掛けられたという口実にし、6月26日、対ソ宣戦布告をする。つまり、フィンランドにとっては、ソ連による侵略的軍事行動が繰り返されたことが、報復・復讐のための「継続戦争」を開始する理由とされた。対ソ戦争に巻きこまれるといった受け身の姿勢ではなく、フィンランドは1940年に敗北し、ソ連に割譲したカレリア地峡など「冬戦争」による失地回援を熱望していたのである。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、フィンランド軍のソ連製1937年152ミリ榴弾砲(152 H 37)を牽引するイタリア製の牽引用トラクター:フィンランド軍にとって最大級の破壊力をもつ大型重砲なので、たくさんのプロパガンダ写真が撮影されている。
Moottoroitu raskas tykistö siirtyy Vuosalmen sillanpäästä Vuosalmen-Räisälän tietä. Kuvan tykki on neuvostoliittolainen 152 mm:n raskas haupitsi vuosimallia 1937 (152 H 37).
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-139637引用。
フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は,戦争遂行にあたって、イギリス・アメリカとの対決には至らないように配慮していた。そこで、1941年7月4日のアメリカ独立記念日に,フィンランドの戦争目的について、次のように釈明している。
1) フィンランドは, ドイツを軍事同盟国としてではなく、共同交戦国として、ソ連と戦争をしている。
2) 1940 年の冬戦争の講和は、フィンランドの戦略的な立場を大幅に低下させ、独立を危機に陥れた。そこで、自国の防衛を全うするためには、カレリア地峡の確保が必要である。ただし、ソ連のレニングラードの戦略的な立場を理解し、国境は1939年の冬戦争開戦時よりも東には進ませない。
3) ドイツの侵攻を受けたソ連の敗北は確実であり,ポリシェヴイズム・共産主義の完璧な粉砕は世界全体に利益をもたらす。
1941年6月末に始まった継続戦争に於て、ソ連に侵攻したフィンランド軍は、瞬く間に1939年当時の旧国境まで進軍し、1940年の冬戦争で失った国土を取り返した。そして、1939年の旧国境を越えて、引き続き弱体化しているソ連軍を追って進撃を続けた。フィンランドは,中東部の東カレリア地方では、旧国境を遥かに超えて占領地を拡大しており、これは当初の戦争目的である失地回復・国土奪回を超えた侵略的行為である。しかし、フィンランドは、占領地の拡大は、フィンランドの領土と国境を守るための正当な外延的防御線の移動であり、防衛的な行動であると弁明した。1941年8月21日、フィンランド外務大臣ヴィッティングは、アメリカ公使に対して、フィン ランド政府は,東カレリア地方の占領地拡大は、軍事戦略上、ドイツ軍によるレニングラード占領に重なるものであること、その時に、フィンランドは,ソ連と単独和平をすることはなく,1918年から1921年にかけてのロシア革命と反革命の時代と同じように、武装平和を維持する必要があること、を説いた。換言すれば、ドイツが対ソ戦争に勝利を収めれば、ソビエト連邦が崩壊し、共産主義ボリシェビキも壊滅させられるのであって、この将来構想を前提に、フィンランドの独立は、確固たる基盤を持つに至ると予言したのである。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ソ連製1937年152ミリ榴弾砲(152 H 37)を牽引するイタリア製の牽引用トラクター:榴弾砲を牽引することを考えて、トラクターをイタリアから輸入した。
Moottoroitu raskas tykistö siirtyy Vuosalmen sillanpäästä Vuosalmen-Räisälän tietä. Kuvan tykki on neuvostoliittolainen 152 mm:n raskas haupitsi vuosimallia 1937 (152 H 37).
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。
たしかに、1941年夏の継続戦争勃発当時、アメリカの軍事指導者の多くもソ連に侵攻したドイツ軍の進撃速度、100万をこえる捕虜の獲得、ソ連軍の壊滅的損害に目を奪われ、ソ連の崩壊は間近であると予測していたのであるから、フィンランドが同様に継続戦争に勝利するまで、戦争を闘い続けることは、十分予測できたのである。楽観視していたフィンランドは、対ソ連戦争勝利の後に、イギリス、その後参戦したアメリカと講和すればよいと考えており,ソ連との戦争途中の休戦や講和は問題外であるとし、強気の姿勢で外交に臨んでいたのである。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車:ハッテ(K. Haate)中佐および(M. Koskenmies)少佐が登場する85ミリ戦車砲を搭載した鹵獲戦車。反共産主義の象徴のスワスチカ(カギ十字)を描いている。
KV 1 - 85 psv, everstiluutnantti K.Haataja ja majuri M.Koskenmies.
Organisaatio
Sotamuseo.
Kuvaustiedot:
1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-151642引用。
ソ連製KV-1B重戦車のキャタピラの幅は広く、重戦車の接地重量・圧力を軽減することができる。それでも、悪路で45トンの戦車の機動性を確保するのは困難である。そこで、ソ連製KV-1B重戦車の車体前面下部と車体後面下部には2個の牽引用の金具がついている。ここにロープやワイヤーを結んで、トラクターや牽引車、あるいは他の戦車に繋いで、悪路で立ち往生した場合、戦車壕などに落ち込んで自力脱出できなくなった場合に、牽引、曳航、脱出するのである。
ソ連製KV-1重戦車が砲塔に搭載した火砲は、口径76.2ミリで初期型から後期型まで同じである。しかし、火砲の初速を高速化し、貫通力を増強するために、砲身が長くなっている。当初1939年型は30.5口径76mm砲L-11、中期1940年型は31.5口径76mm砲F-32、後期1941年型は41.5口径76mm戦車砲ZIS-5と、火力が強化されている。
ソ連軍のKV-1(KB-1)重戦車の"KV"とは、当時のソ連共産党国防委員(資本主義国の国防大臣に相当)だったクリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)の名を冠したもので、英語表記はKV、ドイツ語表記はKWである。1939年の第二次世界大戦勃発前に開発され、第二次世界大戦初期から中期にかけてソ連軍に配備された。重装甲で3インチ76.2ミリ戦車砲を装備しており、出現当時、世界唯一の量産された45トン級の重戦車だった。
ソ連軍は、KV-1(KB-1重戦車の砲塔を撤去して、車体に巨大な戦闘室を設けて、車体前面に152ミリ榴弾砲を搭載したSU-152自走砲を1942年に開発した。SU-152自走砲の生産は1942年3月1日から開始され、1945年までに700輌が量産された。全高は2.45mと低く、搭載した 152ミリML-20榴弾砲の威力は強力だったまた、「自走砲」の名称ではあるが、装甲は前面上部 75mm 下部 60mm 側面・後面 60mmと防御力も高く、事実上の「突撃砲」として対戦車戦闘にも投入された。
ソ連軍KV-1重戦車の諸元
全長(砲身を含む)
6.89 m、車体長
6.75 m
全幅
3.32 m
全高
2.71 m
重量
45 t
懸架方式
トーションバー式
最高速力:35 km/h(整地)/17 km/h(不整地)
航続距離
335 km
兵装
41.5口径76.2ミリZIS-5戦車砲(携行砲弾数98発)
7.62ミリ車載機銃DT3丁(携行弾数3024発)
ソ連軍KV-1重戦車の装甲
防盾90 mm 砲塔前面75 mm
砲塔側面・後面75 mm、上面40 mm
車体前面75mm、前面傾斜40 mm
車体側面・後面75 mm
車体上・底面30-40 mm
発動機:12気筒液冷ディーゼルV-2K(550 馬力)
乗員:5 名
車長兼装填手・砲手・操縦手・
補助操縦手兼整備手・
通信手兼前方機銃手
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が撃破したソ連製T-34戦車/76.2ミリ砲搭載型:砲塔が吹き飛んでしまっているが、フィンランド軍としては、戦車を鹵獲して、自軍の鹵獲戦利品戦車としてスワスチカ(カギ十字)を描いて使用したかったであろう。
KV 1 - 85 psv, everstiluutnantti K.Haataja ja majuri M.Koskenmies.
Organisaatio
Sotamuseo.
Kuvaustiedot:
1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-143834引用。
ソ連軍のKV-1(KB-1)重戦車は、重装甲で3インチ76.2ミリ戦車砲を装備しており、防御力も火力も、出現当時、けた違いに大きかった世界唯一の量産された45トン級の重戦車である。しかし、重い車体を動かすための、トランスミッションメカニズムが操作しにくく、信頼性、機動性に欠けていたため、稼働率が低くなったり、長距離移動に過分の整備負担がかかったりした。そこで、装甲の厚さは減じて、軽量・小型で、同じ76.2ミリ戦車砲を搭載するT-34戦車が、ソ連軍の主力戦車として大量生産されることになった。
ドイツ軍の独ソ戦バルバロッサ作戦(Unternehmen Barbarossa)初期の主力戦車であるIII号戦車が5センチ砲、最大装甲50ミリだったのに対して、ソ連赤軍が配備していたT-34戦車は76.2ミリ砲、最大装甲45ミリ、傾斜装甲による避弾径始に優れていた。機動力の上でも、ソ連軍のT-34戦車はキャタピラー(履帯)幅を広くとり、地面との接地圧力を低く抑え、機動力を確保している。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が撃破したソ連製T-34戦車/76.2ミリ砲搭載型:砲塔が吹き飛んでしまっているが、フィンランド軍としては、戦車を鹵獲して、自軍の鹵獲戦利品戦車としてスワスチカ(カギ十字)を描いて使用したかったであろう。
KV 1 - 85 psv, everstiluutnantti K.Haataja ja majuri M.Koskenmies.
Organisaatio
Sotamuseo.
Kuvaustiedot:
1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-143841引用。
1941年6月に、独ソ戦が勃発する2年も前からソ連赤軍はT-34戦車のような攻撃力、防御力、機動力のバランスのとれた戦車を開発し、部隊配備していた。他方、ドイツ陸軍の戦車はソ連軍に比較して軽装甲、短砲身で対戦車戦闘能力は低かった。しかし、独ソ戦でソ連軍のKV-1重戦車やT-34戦車と遭遇すると、それに対抗できるよう、パンテルV号戦車を開発した。また、既に計画は進んでいたVI号戦車のプロトタイプにも強力な8.8センチ高射砲を搭載し攻撃力を強化することになった。これが、VI号ティーゲル重戦車である。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が撃破したソ連製T-34戦車/76.2ミリ砲搭載型:砲塔が吹き飛んでしまっているが、フィンランド軍としては、戦車を鹵獲して、自軍の鹵獲戦利品戦車としてスワスチカ(カギ十字)を描いて使用したかったであろう。
KV 1 - 85 psv, everstiluutnantti K.Haataja ja majuri M.Koskenmies.
Organisaatio
Sotamuseo.
Kuvaustiedot:
1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-143464引用。
T-34/ 1941年式 諸元
重量:26.5トン
全長: 6.68メートル
全幅: 3.00メートル
車高 2.45メートル
乗員: 4人(車長:装填手を兼務、操縦手,砲手,無線手:前方機銃手を兼務)
装甲 52ミリ
兵装: 76.2ミリF-34戦車砲,7.62ミリ機銃2丁
エンジン:12気筒ディーゼルV-2 500馬力(370キロワット),17.5馬力/トン
航続距離:400キロ
最高速度 時速53キロ
1943年夏、フィンランド軍は、ソ連に侵攻して占領したラップランドで現地の石材や木材を利用して、対戦車障害物を考案し、対戦車壕を工夫した・そして、これらを実際に制作して、鹵獲したソ連戦車が乗り越えられるか、実際に現地で超壕テストをした。これを参考に、ラップランドでは、対戦車壕や対戦車障害物が構築されて、防衛戦を構成した。
1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、実際に鹵獲したKV-2戦車を使って、障害物の実地試験を行った。大きな岩石を並べて、傾斜させた石に戦車を乗り上げさせる対戦車障害物もその一つである。ソ連から鹵獲したKV-2重戦車のキャタピラは、傾斜面に乗り上げ、車体を持ち上げる。そこで、車体下面が晒されるようになるので、装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃できるというわけである。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、フィンランド軍の兵士メイカレイネン(Meikäläinen)が撃破したソ連赤軍T-34/76戦車;出現した第二次世界大戦直前、T-34 戦車の搭載した76.2ミリ戦車砲は、全てのドイツ軍戦車、イギリス軍戦車を上回っており、アメリカ軍のM3戦車の75ミリ砲と同等で、最強の火力といってよかった。
Meikäläinen osoittaa edellisen panssarin tuhoumaa, jonka se sai panssarikauhusta. Kuvan panssarivaunu on T-34.
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1944-09-07
Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Museot Finna・sa-kuva-139625引用。
ソ連赤軍T-34戦車の搭載砲は,76.2ミリ(3インチ)砲で,砲塔は当初は,圧延鋼板溶接構造だったが,生産性の高い鋳造構造に変更された。また,砲塔は,ピロシキ形状で,傾斜装甲を全面採用し,車体周囲も傾斜装甲だった。T-34戦車は,全面的に避弾径始に配慮し,命中弾を横滑りさせて,貫通力を弱めることに成功した。装甲の厚さ以上に,防弾性能が優れていたといえる。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、フィンランド軍兵士メイカレイネン(Meikäläinen)がソ連赤軍T-34/76戦車砲塔側面の貫通跡を指示している。;フィンランド軍のメイカレイネン(Meikäläinen)がT-34戦車の砲塔側面装甲を打ち破った。貫通穴が小さいので、パンツァーファウストの成形炸薬を命中させ、火炎のモンロー効果で貫通したのであろうか。
Meikäläinen osoittaa edellisen panssarin tuhoumaa, jonka se sai panssarikauhusta. Kuvan panssarivaunu on T-34..
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1944-09-07Sot.virk. T.V.Vuorela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Museot Finna・sa-kuva-139626引用。
JR = Infantry Regiment(歩兵連隊)
Kev.Os = light detachment(軽分遣隊)
Er.P = separate battalion(独立大隊)
JP = Jaeger battalion(猟兵大隊) KTR = Field Artillery Regiment(野砲連隊)
Rask.Psto = heavy art. battalion(重砲大隊)
Psto / #.Pr = brigade art. battalion(旅団砲大隊)
Psto = artillery battalion(山砲大隊) KT-Pr. = Field Replacement Brigade(野戦予備大隊)
URR = Uudenmaa dragoon Reg.(竜騎兵連隊)
HRR = Häme cavalry Reg.(騎兵連隊)
PPP = bicycle battalion (自転車大隊)
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラドガ湖北30キロ、スイスタモ(Suistamo)で穀物収穫作業を手伝うフィンランド軍兵士たち;Suistamo 14.9.1944(同じ場所からEskoTöyrによって撮影された白黒のSA写真162807)。
Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran kylässä Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran (Piensarka) kylässä. Suistamo 14.9.1944 (samasta paikasta Esko Töyrin kuvaama mustavalkoinen SA-kuva 162807, josta tiedot).
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Kuvaustiedot:
1944-09-14
Kim Borg, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-139847引用。
1941年6月のドイツのソ連侵攻に引き続いて行われた、フィンランドのソ連侵攻「継続戦争」において、開戦当初から、東カレリアへ順調に進軍を続け、当時のソ連領だった東カレリアの多くを1941年中に占領することができた。つまり、ロシア連邦カレリア共和国、当時はソビエト連邦だった東カレリアにまで、継続戦争の初期1941年にソ連に侵攻したフィンランド軍は侵攻し、東カレリアを占領し、調査員を派遣して、居住していたラップ人、フィンランド人の情報を収集した。これは、円滑な占領政策のためだが、フィンランドにとっては、ソ連領の併合、自国領土の拡張占領を念頭に置いた占領政策だった。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラドガ湖北30キロ、スイスタモ(Suistamo)で穀物収穫作業を手伝うフィンランド軍兵士たち;uistamo 14.9.1944(同じ場所からEskoTöyrによって撮影された白黒のSA写真
Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran kylässä. Aineistotyyppi
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1944-09-14
Kim Borg, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-169839引用。
東カレリアとそれに接したソ連の領土は、1941年夏から1944年春・夏まで、フィンランドの占領下におかれ、そこの住民たちは、フィンランドによる統治を受けた。ソ連北西部、レニングラード北東300キロのオネガ湖から、北・東・南の方向にフィンランド領を超えた土地、明らかにソ連の領土まで占領した。こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘、領土・防衛戦の拡張にあったことを物語っている。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラドガ湖北30キロ、スイスタモ(Suistamo)で穀物収穫作業を手伝うフィンランド軍兵士たち;Suistamo 14.9.1944(同じ場所からEskoTöyrによって撮影された白黒のSA写真162807)。
Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran kylässä Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran (Piensarka) kylässä. Suistamo 14.9.1944 (samasta paikasta Esko Töyrin kuvaama mustavalkoinen SA-kuva 162807, josta tiedot).
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1944-09-14
Kim Borg, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-139843引用。
フィンランドは、1941年6月に継続戦争を開始、ソ連に攻め込んで、冬戦争に敗れて奪われた失地を回復するという戦争を目的を掲げた。しかし、東カレリア地方(Eastern Karelia)、コントクキ(Kontokki)、アコンラティ(Akonlahti)は、ソ連北西部で、現在、ロシア連邦カレリア共和国にあるが、1917年にフィンランドがロシア帝国から独立した時点でも、ソビエト・ロシア領だった。つまり、東カレリアの占領地によって、フィンランドは、国境を西側にずらして、固有の領土を防衛するための予防措置とした。換言すれば、共産主義・ボリシェビキの侵攻を防ぐ緩衝地帯であるとして、東カレリアの領有、支配を考えていたようだ。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラドガ湖北30キロ、スイスタモ(Suistamo)で穀物収穫作業を手伝うフィンランド軍兵士たち;Suistamo 14.9.1944(同じ場所からEskoTöyrによって撮影された白黒のSA写真162807)。
Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran kylässä Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran (Piensarka) kylässä. Suistamo 14.9.1944 (samasta paikasta Esko Töyrin kuvaama mustavalkoinen SA-kuva 162807, josta tiedot).
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1944-09-14
Kim Borg, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-166096引用。
しかし、フィンランドは、軍事力を背景とした民族圧迫や資源収奪を優先するのではなく、住民生活の保障・安定にも配慮し、占領地に調査員を送って、情報収集に努めている。その様子は、ソ連領土に住んでいたフィンランド人に本土と同じ安定した生活を取り戻すといった「大フィンランド的思想」が投影したものだった。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラドガ湖北30キロ、スイスタモ(Suistamo)で穀物収穫作業を手伝うフィンランド軍兵士たち;この写真の撮影されてから2週間もたたない1944年9月19日の「継続戦争」休戦に関するモスクワ協定が結ばれ、フィンランドはソ連とイギリスに降伏する。
uistamo 14.9.1944(同じ場所からEskoTöyrによって撮影された白黒のSA写真
Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran kylässä. Samasta tilanteesta Esko Töyrin kuvaama mustavalkoinen SA-kuva 162808, josta tiedot.Lisää
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1944-09-14
Kim Borg, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-165989引用。
継続戦争では、フィンランド国民の人口10%の40万人が兵役に動員されたために、工業・農業の労働力が不足した。そのため、1944年の時点で、戦局悪化が明らかな時期であっても、9月の穀物収穫期には農繁期のために、兵士に休暇を取らせて帰農させた。また、動員された兵士を農場に労働力として派遣して、農作業の手伝いに従事させた。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラドガ湖北30キロ、スイスタモ(Suistamo)で穀物収穫作業を手伝うフィンランド軍兵士たち;uistamo 14.9.1944(同じ場所からEskoTöyrによって撮影された白黒のSA写真
Sotilaat puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran kylässä. Aineistotyyppi
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1944-09-14
Kim Borg, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-169838引用。
フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーヤーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これになじんだ人々を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に協力している。
写真(右)1944年9月7日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラドガ湖北30キロ、スイスタモ(Suistamo)で穀物収穫作業を手伝うフィンランド軍兵士たち;
(同じ場所からEskoTöyrによって撮影された白黒のSA写真
puimassa viljaa Suistamon Pien-Saran kylässä.
Sot.virk. Esko Töyri, valokuvaaja
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Kuvaustiedot:
1944-09-14
Sot.virk. Esko Töyri, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-139837引用。
継続戦争を戦ったフィンランドは、総力戦体制を敷いて、国民人口の10%の40万人を動員した。そのために、工業・農業部門の労働力が決定的に不足した、それを解消するために、1944年の時点で戦局悪化が明らかな時期であっても、8-9月の穀物収穫期(農繁期)には、フィンランド軍兵士に休暇を取らせて、帰農させた。一時解放した労働力に、農作業を担わせたのである。また、動員された兵士も、近郊の農場に一時的な労働力として派遣して、収穫・運搬など農作業の手伝いに従事させた。他方、ドイツ軍は、ロシア・ウクライナ・ポーランドなどの労働者を「東方労働者」として、雇用・徴用し、捕虜を奴隷労働として使って、農業生産に従事させていた。
3.1944年、継続戦争の末期のフィンランド海軍
1939年の冬戦争で失ったカレリア地方を奪還するために、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻をチャンスととらえたフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、7月には、ナチスと同盟して、ソ連を敵として、第二次ソ芬戦争を開始した。これは、事実上、フィンランドが枢軸同盟国の一員として、第二次世界大戦に参加することを意味した。カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥指揮下のフィンランド国防軍は、ナチスと組んで軍事作戦を展開し、レニングラードを包囲し住民を餓死させ、不凍港ムルマンスクを攻略し、ソ連への西側連合国の輸送船団を途絶させる作戦を展開した。
写真(上)1944年7月29日、フィンランド、樹木を使って厳重に対空偽装を施して係留・隠匿されたフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen):側方からの眺めだが、完全に岸辺と一体化している。:艦橋前に設置されたスウェーデン製ボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。
Naamioitu panssairilaiva Väinämöinen.
Sot.virk. Esko Suomela(ソット・ヴァーク エスコ・スオメラ), valokuvaaja(撮影者)
Aineistotyyppi
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Kuvaustiedot:
1944-07-29
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124543引用。
フィンランド海軍主力の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)に岸辺に係留し、付近にある樹木を艦上に移して対空偽装をして、ネットを張って形状を隠すことで、艦船と岸辺・森林と一体化したかのようにした偽装が施された。この対空偽装によって、上空からてソ連軍に発見される可能性は小さくなり、空襲されずに、装甲巡洋艦のもつソ連軍への脅威を持続することができた。
写真(右)1944年2月7日、フィンランド、フィンランド海軍の水上警戒艦「ヴァルモ」(Valamo)の艦橋前に整列した乗員と艦首に搭載された75ミリ砲(?):艦首と船尾に75ミリ砲(?)各1門を搭載している。
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Sot.virk. Riku Sarkola, valokuvaaja
Aineistotyyppi
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Kuvaustiedot:
1944-02-07
Sot.virk. Riku Sarkola, valokuvaaja
者)
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124528引用。
フィンランド軍の採用したデンマーク製 マドセン(Madsen)20ミリ60口径機関銃は、重量55キロ、全長2.5 m、銃身長(Barrel length)1.2 m、弾薬20 x 120 mm、弾薬重量0.29 kg (10 oz) APあるいは0.32 kg (11 oz) HE、口径20 mm、冷却方式 空冷、最高発射速度400発/分、銃口初速900 m/秒、有効射程500 m 、最大射程2,123 m (6,965 ft) 。
フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の主砲は、スウェーデン製ボフォース25.4センチ(10インチ)連装砲を前甲板と後甲板に各々1基合計2基4門を搭載し、副砲はボフォース10.5センチ連装高角砲4基8門で、ヴィッカース40ミリ滞空機関砲も装備すいるなど、小型戦艦並みの強力な火力を持つ。最高速力は僅か14.5ノットで商船並みの低速、航続距離も10ノットで700マイルと小艦艇以下でしかない。
フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の諸元
フィンランドのクライトン・フルカン社トゥルク造船所
1927年8月起工
1932年12月28日就役
基準排水量3,900トン
全長93メートル、全幅17メートル
吃水5メートル
主砲:スウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲2基4門
副砲:ボフォース10.5センチ連装高角砲4基8門
機関:クルップ社ディーゼルエンジン4基、電動モーター2基、4,800馬力
最高速力:4.5ノット
航続距離:10ノット/700マイル
搭載燃料:重油93トン
装甲: 舷側水線部:50-55mm、水平甲板:20mm
主砲塔前部:100mm、司令塔:120mm
乗員 410名
4.1944年、継続戦争の末期のフィンランド空軍
写真(右):1944年1月7日、フィンランドに配属されたドイツ製メッサーシュミット(Messerschmitt )Bf109G戦闘機:雪の積もった飛行場でエンジンに保護カバーを掛けて待機している。機首には7.92ミリ機関銃2丁、プロペラ軸に20ミリMG151/20機関銃1丁を装備している。
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-01-07
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-137034引用。
ソビエト連邦の公式戦史『ソ連大祖国戦争史(ВЕЛИКАЯ ОТЕЧЕСТВЕННАЯ ВОЙНА 1941‒1945)』第5巻「カレリア地峡と南カレリアでのソビエト軍部隊の攻撃」は「継続戦争」中の1944年6月6日の西側連合軍のノルマンディー上陸作戦の3日後に開始されたカレリア地峡におけるソ連軍の大攻勢によって、フィンランドが継続戦争を終わりにさせ、戦争から離脱しようとしていることに触れている。他方、ドイツの同盟国ルーマニアについては、ソ連軍による占領によって、ファシスト一派が追放され、ルーマニアは「解放」されたとした。 ルーマニア以外にもドイツ同盟国のブルガリア,ハンガリーについてもファシスト一派から解放されたわけであるが、フィンランドに対して、ソ連軍は進駐せず、ソ連とイギリスは休戦を認めた。フィンランドが戦争から「離脱」しただけで許されたのは、どうしてであろうか。
写真(右):1944年7月9日、フィンランドに配属されたドイツ製メッサーシュミット(Messerschmitt )Bf109G戦闘機:コックピットに搭乗するケッシ・カヒラ(Kössi Karhila)中尉は、1944年7月9日までに敵機28機を空中戦でがきつい舌エースである。マンネルヘイム章の候補者にもなった。機首上面には瘤(バルジ)があるが、これは搭載した13.2ミリMG131機関銃2丁の薬莢を排出収集ためのダクトの張出しである。プロペラ軸に20ミリMG151/20機関銃1丁を装備する基本兵装のほかに、主翼下面に20ミリMG151/20機関銃、各々1丁を吊り下げたポッドに搭載している。
Luutnantti Kössi Karhila koneessaan. 9.7.1944 mennessä oli luutnantti Karhilalla tilillään 28 ilmavoittoa. Huom! Lähiaikoina Mannerheimristin ehdokas. Kesä-heinäkuu 1944.
Content Type
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Organisation
Military Museum
Photo info:
undated Luutnantti Jori ilanko, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-129921引用。
『ソ連大祖国戦争史』 は, 1944年6月のカレリア地峡での大攻勢について、ソ連軍の攻勢は,対フィンランド侵攻は、フィンランドに侵されたソ連領を奪回し、正当な国境を回復する事であり, 主要敵国ドイツ、ベルリンへの侵攻にソ連軍を充当するために、フィンランドを戦争から離脱させ、対フィンランド戦線からソ連軍部隊をドイツ侵攻に回すことであるとした。ソ連の対フィンランド戦争は、フィンランド抹殺・併合といった過激なものではなく、限定的な企図に留まっていた。ソ連側は、犠牲を避けて早急に休戦を実現し,対フィンランド戦線に当てられていたソ連赤軍を対独戦争にさし向けるという戦略的に合理的な意図をもっていたのである。 このような企図に基づいて、対フィンランド攻勢は, 6月21日に開始され、7月11日にはスタフカ(STAVKA)、すなわち赤軍大本営)が, レニングラード方面軍に攻勢を停止し、防御態勢をとる事を命じたのである。
写真(右):1944年5月8日、カレリア地峡。ラトガ湖北端岸、ヘリュリャ(Helyla)飛行場、フィンランド軍のアメリカ製ブリュースターF2A-1 「バッファロー」戦闘機(BW-239)の破損した機関銃を修理する整備員:ブリュースターF2A-1 は、アメリカで1937年12月2日に初飛行しヘリュリャ(Хелюля)は、現在、ロシア連邦カレリア共和国の61°45′N 30°41′Eに位置する。2018年の推計人口は2,586人だが、1979年人口は3,231人だった。
Tyyppikuvia BW-koneesta. Kuvan lentokone on Brewster Model 239.
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Military Museum
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1944-05-08
Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-131858引用。
アメリカは、ライトサイクロンR-1820-G5(950馬力)空冷エンジンを搭載した44機を輸出したが、これがフィンランド空軍の主力戦闘機となった。兵装は、機首上面にコルト MG40 7.62ミリ機関銃1丁とコルト MG53 12.7ミリ機関銃1丁、左右主翼にコルトM53 12.7ミリ機関銃各々2丁、計4丁を装備している。
写真(右):1944年7月9日、フィンランド軍第21飛行隊第一中隊に配属されたアメリカ製ブリュースターF2A-1 「バッファロー」(Buffalo)戦闘機(B-239):アメリカは、ライト(Wright)R-1820-G5「サイクロン」(Cyclone) 950馬力空冷エンジンを搭載した44機を輸出したが、これがフィンランド空軍の主力戦闘機となった。兵装は機首上面にコルト MG40 7.62ミリ機関銃1丁とコルト MG53 12.7ミリ機関銃1丁、左右主翼にコルトM53 12.7ミリ機関銃各々2丁、計4丁を装備している。
Meikäläinen ??Brewster??- hävittäjä lähdössä lennolle. Hävittäjälentolaivue 26:n 1. lentueen Brewster, tunnus BW-382
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Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-09
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141149引用。
写真(右):1944年7月12日、カレリア地峡、ラトガ湖北端岸、ヘリュリャ(Helylän)飛行場、フィンランド軍のアメリカ製ブリュースターF2A-1「バッファロー」(Buffalo)戦闘機(B-239)のエンジンと機関銃の整備をする地上勤務員たち:ヘリュリャ(Хелюля)は、現在、ロシア連邦カレリア共和国の61°45′N 30°41′Eに位置する。2018年の推計人口は2,586人だが、1979年人口は3,231人だった。
Helylän lentokentällä kunnostetaan vaurioitunutta pommikonetta. Kuvassa Brewster-hävittäjä.
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Military Museum
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1944-07-12
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141149引用。
ブリュースターF2A‐1「バッファロー」戦闘機の諸元
全長:7.80 m
全幅:10.67 m
全高:3.56
翼面積:19.4平方メートル
空虚重量:1,715 kg
最大離陸重量:5,820 lb (2,640 kg)
発動機:ライト R-1820-22“サイクロン” 9気筒空冷星型エンジン950馬力
最高速力:478 km/h(4,750 m) and their loaded weight was ).[km/時
巡航速度:259 km/時
離陸速度:150 km/時
離陸滑走距離:最短70m/最長155 m
航続距離:2,486km
実用上昇限度:30,500 ft (9,296m)
上昇力
3,060 ft/分 (15.5m/秒)
兵装:12.7ミリ機関銃4丁
生産期間:1938–1941年
生産機数:509機
写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲され使用された第32戦闘飛行隊所属のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機:ソ連空軍のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機は、原型が1939年3月30日に初飛行した木製の機体で、重量が金属製に比べて重くなったために、性能向上のため高出力エンジンへの換装が要求されたた。改良型の初飛行は1940年3月28日で、生産は1941年からで6,258機量産された。
Ryssäläinen Lag-3 hävittäjä palvelemassa meikäläisiä uuden isäntänsä kanssa. Alkuperäisestä kuvatekstistä poiketen kuvassa Lavochkin-Gorbunov-Gudkov LaGG-3.
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Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-09
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-137034引用。
フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。
写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲され使用された第32戦闘飛行隊所属のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機:ソ連空軍のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機は、原型が1939年3月30日に初飛行した木製の機体で、重量が金属製に比べて重くなったために、性能向上のため高出力エンジンへの換装が要求されたた。改良型の初飛行は1940年3月28日で、生産は1941年からで6,258機
量産された。
Vihollisen hävittäjä on tehnyt Vihollisen hävittäjä on tehnyt pakkolaskun ruispeltoon ja säilynyt verrattain ehyenä. Lentokentältä on korjausporukka rientänyt paikalle, sillä kalliit osat on saatava nopeasti lentokentän varikolle, missä viholliskone kunnostetaan uudestaan palvelemaan uusia isäntiään. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.Aineistotyyppi
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Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-09
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-137034引用。
ソ連空軍のラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3 戦闘機は、原型が1939年3月30日に初飛行した木製の機体で、重量が金属製に比べて重くなったために、性能向上のため高出力エンジンへの換装が要求されたた。改良型の初飛行は1940年3月28日で、生産は1941年からで6,258機も量産された。フィンランド軍は、継続戦争に際して、不時着したLaGG-3を修理・整備して3機を部隊配備した。これら3機は、LG-1, LG-2 ,LG-3と命名され迎撃機として使用された。第1号機のLG-1は、1942年2月初め、ラドガ湖氷上に不時着したラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3戦闘機である。 第2号機のLG-2は、1942年2月20日に不時着した機体。 第3号機のLG-3は、1942年9月14日、第524戦闘航空連隊所属LaGG-3で、ヌーモイラに不時着した機体である。
ラボーチキン・ゴルブノフ・グドコフ(Lavochkin-Gorbunov-Goudkov)LaGG-3 戦闘機の諸元
全幅:9.80m
全長:8.90m、全高:2.57m
主翼面積:17.5平方メートル
空虚重量:2,620kg
全備重量:3,300kg
発動機:クリーモフ M-105PF液冷V型12気筒1,180馬力
最高速度:575km/h
航続距離:650km
実用上昇限度:9,600m
乗員:1名
武装:ShVAK 20ミリ機関銃1丁、UB 12.7ミリ機銃2丁
写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲されたソ連製ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸し、比較的無傷のままに鹵獲された。高価な部品はすぐに飛行場倉庫に運ばれる必要があるため、作業は直ぐに開始された。そこでソ連空軍の戦闘機は新しい持ち主になったフィンランド空軍のために改装されることになる。
Vihollisen hävittäjä on tehnyt pakkolaskun ruispeltoon ja säilynyt verrattain ehyenä. Lentokentältä on korjausporukka rientänyt paikalle, sillä kalliit osat on saatava nopeasti lentokentän varikolle, missä viholliskone kunnostetaan uudestaan palvelemaan uusia isäntiään.
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Kuvaustiedot:
1944-07-09
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141164引用。
写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲されたソ連製ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸し、比較的無傷のままに鹵獲された。高価な部品はすぐに飛行場倉庫に運ばれる必要があるため、作業は直ぐに開始された。そこでソ連空軍の戦闘機は新しい持ち主になったフィンランド空軍のために改装されることになる。
Vihollisen hävittäjä on tehnyt pakkolaskun ruispeltoon ja säilynyt verrattain ehyenä. Lentokentältä on korjausporukka rientänyt paikalle, sillä kalliit osat on saatava nopeasti lentokentän varikolle, missä viholliskone kunnostetaan uudestaan palvelemaan uusia isäntiään. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.
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Military Museum
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1944-07-09
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141161引用。
写真(右):1944年7月9日、フィンランドに鹵獲されたソ連製ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸し、比較的無傷のままに鹵獲された。高価な部品はすぐに飛行場倉庫に運ばれる必要があるため、作業は直ぐに開始された。そこでソ連空軍の戦闘機は新しい持ち主になったフィンランド空軍のために改装されることになる。
Vihollisen hävittäjä on tehnyt >Vihollisen hävittäjä on tehnyt pakkolaskun ruispeltoon ja säilynyt verrattain ehyenä. Lentokentältä on korjausporukka rientänyt paikalle, sillä kalliit osat on saatava nopeasti lentokentän varikolle, missä viholliskone kunnostetaan uudestaan palvelemaan uusia isäntiään. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.Aineistotyyppi
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Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-01-07
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141162引用。
写真(右):1944年9月2日、フィンランドに強行着陸したソ連空軍ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸をした。この飛行機は、以前には登場していなかった新しい「JaK」タイプ、Jakovlev Jak-9である。
Pakkolaskun tehnyt venäläinen lentokone. Kone on uutta ``JaK ́ ́ tyyppiä, joka ei ole aikaisemmin rintamilla esiintynyt. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.
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Military Museum
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1944-09-02
Sot.virk. Tauno Norjavirta, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-140009引用。
写真(右):1944年9月2日、フィンランドに強行着陸したソ連空軍ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸をした。
Pakkolaskun tehnyt venäläinen lentokone. Kone on uutta ``JaK ́ ́ tyyppiä, joka ei ole aikaisemmin rintamilla esiintynyt. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9..
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Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-09-02
Sot.virk. Tauno Norjavirta, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-140008引用。
写真(右):1944年9月2日、フィンランドに強行着陸したソ連空軍ヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機:敵ソ連空軍のヤコブレフ(Jakovlev)Jak-9戦闘機は、強制着陸をした。この飛行機は、以前には登場していなかった新しい「JaK」タイプ、Jakovlev Jak-9である。
Pakkolaskun tehnyt venäläinen lentokone. Kone on uutta ``JaK ́ ́ tyyppiä, joka ei ole aikaisemmin rintamilla esiintynyt. Kuvan lentokone on Jakovlev Jak-9.
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Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-09-02
Sot.virk. Tauno Norjavirta, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-140011引用。
写真(右):1944年7月22日、フィンランドに撃墜されたソ連空軍イリューシン(Ilyushin)IL-2「シュトゥルモヴィーク」襲撃機:コックピットには防弾性を高めるための装甲版があるのが見える。
Koneen runkoa ja irtaantuneita osia.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-22
Sot.virk. G.Vainio, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-133800引用。
フィンランドが第二次ソ芬戦争、継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。
写真(右):1944年7月22日、フィンランドに撃墜されたソ連空軍イリューシン(Ilyushin)IL-2「シュトゥルモヴィーク」襲撃機:コックピットには防弾性を高めるための装甲版が見える。
Koneen runkoa ja irtaantuneita osia.
Aineistotyyppi
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Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-22
Sot.virk. G.Vainio, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-133802引用。
1941年6月22日に、ドイツは、不可侵条約を保護にして、共産主義のソビエト連邦に侵略を開始した。すると、フィンランドは、1939年の冬戦争で敗北して失ったカレリア地方を奪回し、ソ連ボリシェビキに報復しようと、ドイツと同盟を結んで、1941年7月からソ連に侵攻を開始した。
フィンランド国防軍は、総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥の指揮の下、ソ連相手に善戦し、レニングラードを包囲し、住民を疲弊させ、北部の不凍港ムルマンスクを攻撃して、西側連合軍の補給物資がソ連に届かないようにする作戦を展開していた。つまり、ナチスとフィンランドは、連携して共産主義・ボリシェビキのソ連を屈服させるために共闘しており、密接な軍事同盟関係にあった。
写真(右):1944年7月13日、フィンランドに撃墜されたソ連空軍イリューシン(Ilyushin)IL-2「シュトゥルモヴィーク」襲撃機:ソ連空軍イリューシン(Ilyushin)IL-2襲撃機が撃墜され、フィンランド空軍の戦闘機は撃墜数を1機分増やすことができた。
Ryssän ""maatalouskoneen"" IL-2 matka on päättynyt pellonojaan, ja hävittäjämme ovat taas voineet merkitä tililleen yhden ""pörriäisen"".
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-07-13
Sot.virk. C.G.Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141359引用。
イリューシン(Ilyushin)IL-2の初飛行は第二次大戦勃発の時、1939年12月20日で、1941年から1945年までに3万6,183機と大量生産されたが、これはBf109戦闘機生産機数3万3000機を上回る世界最多生産である。
写真(右):1942-1944年、ソビエト連邦、東カレリア地方(Vienan Karjala)、チクシェオゼロ(Tiiksjärvi)、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機:フィンランド軍は、フランス製戦闘機のエンジンをソ連製のエンジンに変換、強化して、性能を向上させた。
Lentolaivue 14:n hävittäjälentäjiä Morane Saulnier M.S. 406 -hävittäjän vierellä Tiiksjärvellä .
Subject place
Subject date
1942 - 1944
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Valokuvaamo Jäniksen kokoelma
Inventory ID
HK7744:41
Measurements
6 x 6 cm
Photo info:
1942 - 1944
Jänis Pauli, kuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna musketti.M012:HK7744:41引用。
フランスで1935年8月8日に初飛行したモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.405の発展型がM.S.406戦闘機で、低翼単葉・引込み脚・密閉風防と近代的な戦闘機で、第二次大戦前の1938年から1,000機以上量産された。機体は、全金属製ではなく、胴体後半は金属骨格・羽布張りで軽量構造だったが、第二次世界大戦勃発時のフランス空軍の主力戦闘機だった。搭載した発動機は、イスパノ・スイザ 12Y31V12気筒液冷エンジンで、850馬力は出力不足だったが、最高速力486km/h、航続距離800km、実用上昇限度9,500m、上昇力5,000mまで6分、兵装は20ミリHS.404モーターカノン1門 7.5ミリMAC 1934機銃2丁と、出現当初は強力だった。
写真(右):1944年8月20日、フィンランド空軍のフランス製モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機のイスパノ・スイザエンジン同型クリーモフ M-105液冷V12気筒エンジン(1,100馬力)整備:
Mekanikot vaihtavat konehallilla uutta moottoria (MS-) koneeseen.
Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-08-20
Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-125503引用。
ドイツのBf109戦闘機に比較して、モラーヌ・ソルニエM.S.406戦闘機は、エンジン出力不足で飛行性能は劣ったが、フランスのほかに、スイス・フィンランド・トルコにも売却され、使用された。特にフィンランド空軍では実戦使用された。また、継続戦争に際しては、鹵獲したソ連空軍ラグLaGG-3戦闘機から取得したイスパノ・スイザエンジン同型クリーモフ M-105液冷V12気筒エンジン1,100馬力に変換したモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)M.S.406戦闘機は、最高速力520km/h、実用上昇限度10,000mと飛行性能が向上し、「メルケ・モラーヌ」(Mörkö Morane:幽霊モラーヌ)と呼ばれ、好評だった。
写真(上):1943年6月20日、フィンランドに配属されたドイツ空軍フォッケウルフ( Focke-Wulf)Fw-189A近距離偵察機:機首を胴体から離した位置に配置し、巨大なガラス風防で覆って視界を広くとっている。車輪の間隔が広く安定しているが、これは未舗装の飛行場の多い前線での試用に配慮した構造である。エンジン・ナセル内側は未塗装でリベットの跡が良くわかる。アルグス空冷エンジンに2翅プロペラを装備し、プロペラ・スピナ先端には、風車式発電機を装備している。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
Military Museum
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-06-20
Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-147826引用。
1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドは、「継続戦争」を闘った。結果を知っているものの視点で見れば、無謀な対ソビエト連邦戦争を開始した。しかし、当時は、民主主義国イギリス・アメリカの軍事力を過小評価しており、第二次世界大戦に参戦したのではなく、冬戦争で失った国土を奪還するという目的で、イギリス(当時は中立国のアメリカ)と戦うのではないという言い訳が国際的に通用すると錯覚していた。結果から見れば、これはフィンランド外交の大失敗だった。
写真(上):1944年1月7日、フィンランドに配属されたソ連製ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機:雪の積もった飛行場でエンジンを駆動している。機首には7.62ミリ連装機関銃を装備している。偵察員が機首上面のハッチを開けて乗り出している。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
Military Museum
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-01-07
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-137035引用。
ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m)
翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン
写真(右):1944年1月7日、フィンランドに配属されたソ連製ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機:機首には7.62ミリ連装機関銃を装備している。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
Military Museum
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-01-07
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-137035引用。
1941年6月11日のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では、ドイツ軍は、ソ連のT-34戦車、KV-1重戦車のような重装甲の戦車に多数対峙することとなり、3.7センチ対戦車砲では、敵ソ連戦車を撃破することができず苦戦した。そこで、1938年式5センチ対戦車砲(5 cm Pak 38)の生産に拍車がかかった。その結果、1940年-1943年にかけて9,568門が製造されることになった。
1943年10月20日、ロンドンで17カ国が集まる国際会議において、連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)の設置が決まり、ドイツ指導者の裁判は、国際戦争犯罪裁判で裁くことを申し合わせた。1945年8月8日、米英仏ソの四大国はロンドンで国際軍事裁判所憲章に署名、国際軍事裁判所の構成や役割について合意し、戦争犯罪を「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」「共同謀議」の4点とし、ニュルンベルグ国際軍事裁判で裁くことが決まった。
写真(右):1944年1月7日、フィンランドに配属されたソ連製ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機:雪の積もった飛行場でエンジンを駆動している。機首には7.62ミリ連装機関銃を装備している。コックピット(操縦席)の横幅は狭く、パイロットが搭乗しているのが見える。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
Military Museum
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-01-07
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-137032引用。
1941年6月26日にソ連侵攻「継続戦争」を指揮したフィンランド国防軍総司令官マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥だったが、戦局悪化の中、1944年8月4日、第6代フィンランド大統領に就任した。そして、1944年9月19日、ソ連と講和し、ドイツ軍を裏切った。フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥の誕生日(1867年)6月4日を「フラッグ・デー」と定めている。6月4日は、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥を記念して、軍事パレードが行われる。
写真(上):1944年夏以前、飛行するフィンランド空軍のツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機:機首先端に7.62ミリ連装機関銃が見える。主翼に青のカギ十字のフィンランドの国籍マークが描かれている。フィンランド空軍は、ソ連=フィンランド戦争で、フィンランドで撃墜したソ連空軍ツポレフSB(Tupolev SB)を鹵獲し徹底的に修理し、飛行可能にして使用した。
SB-konetta lämmitetään.Näytä tarkat tiedot
..
Military Museum
Photo info:
undated Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
br>写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66680引用。
1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。
⇒フィンランド空軍の「継続戦争」:多国籍機を駆使した戦い を見る。
5.1944年8月4日、継続戦争の末期のマンネルハイム元帥の大統領就任
写真(上)1944年8月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、フィンランド新大統領に就任した国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド国会議員たちに挨拶する。;
Presidentti Mannerheim tervehtii kansanedustajia.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1944-08-04
Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
.
写真はMuseot Finna・sa-kuva-13129引用
1944年夏以降、北フランスに上陸した西側連合軍がドイツ本土に侵攻し、ソ連軍もポーランドにまで迫る状況が生まれると、ドイツ敗北は時間の問題となった。そこで、戦後を見据えて、ソ連指導者スターリンは、ヨーロッパのソ連勢力圏への取り込みを重視するようになる。これは、東欧に人民民主主義を確立する動きであり、第二次世界大戦が続いているうちに、バルカンのユーゴスラビア、ギリシャ、ブルガリア、アルバニア、東欧のポーランド、チェコスロバキア、ルーマニアに、反ファシズムの民族解放運動を起こして、そこをソ連の同諸国とすることでもある。
人民民主主義とは、労働者・農民を基幹とするプロレタリア独裁政権の樹立、企業・重要資源の国営化・農業の集団化を中核とする社会主義経済化であり、これが共産主義革命の成果となる状況である。ソ連は、これらの人民民主主義の国家を指導することで、その盟主としてふるまうのである。このようなソ連勢力圏のヨーロッパへの拡大が可能となる背景が、それまでヨーロッパをの頸木に繋ぎ支配していたファシズム体制を、ソ連赤軍が妥当したことであった。ソ連赤軍の対ドイツ勝利が、ソ連のヨーロッパ勢力圏の確立の契機になると考えられたのである。
1944年の段階で、ソ連に対する武器貸与を率先して進めていた駐ソ連アメリカ大使ハリマンは、「安全保障をロ実に自国の影響力を強硬手段によって他国にも伸長させるのであれば、それを何処で食い止めるべきかは、容易には判断できない。もしも、 ソ連が安全保障を理由として、隣接諸国に自国の影響力を浸透させる権利を有していると認めれば、その戦略は、ソ連がさらにその先の隣国にまで浸透することもをまた論理的に認めることになってしまう」とした。これは、戦後の東西冷戦におけるドミノ理論と同様、共産主義諸国の安全保障追及が、心理的にも物理的にも、際限なく拡大してゆく可能性に対する危機感である。
1944年8月4日、新たにフィンランド大統領に就任したカール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)元帥元帥は、1944年9月19日、モスクワ休戦協定を結んで、事実上、ソ連に降伏した。講和条件は、カレリア地峡・ペッツァモの譲渡、戦争賠償金の支払い、フィンランド国内におけるソ連軍の基地使用、ドイツ軍のフィンランドからの排除(事実上の対ドイツ戦争)である。
写真(右)1944年8月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)、フィンランド新大統領に就任した国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、閣僚たちと協議する。;1944年8月8日以降フィンランド首相アンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)内閣のVäinö Salovaara 運輸公共大臣、Aleksi Aaltonen厚生大臣、Uuno Takki 通商産業大臣、首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)内閣時代のTyko Reinikka 財務大臣およびHenrik Ramsay 外務大臣。
Presidentti Mannerheim keskustelee ministeri Salovaaran, Aaltosen, Osaran, Takin, Reinikan ja Ramsayn kanssa. ;.
Organisation Military Museum
Photo info:
1944-08-04
Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-133975引用。
1941年7月から1944年7月まで、フィンランドは、継承戦争(Continuation War)と称して、1939年の冬戦争に敗北して失ったカレリア地方を奪還しようとソ連赤軍と戦っていた。フィンランドは、アメリカ、イギリスとは戦うつもりがなかったが、ドイツ軍を一手に支えているソ連赤軍をドイツと同盟して攻撃した以上、西側連合国もフィンランドの対ソ戦は戦うが、対米英は中立だという詭弁を受け入れなかった。結局、フィンランドは、対ソ戦勝利が不可能である以上、大きな損害を蒙らないうちに、継承戦争(Continuation War)を打ち切って、ソ連と講和するしかなった。
フィンランドの同盟国ドイツ裏切り・転向を決断し、実行したのは1944年8月4日、フィンランド大統領に就任したフィンランド軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥である。1944年7月に、フィンランドはソ連と休戦交渉していたが、新大統領カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥は、それを進めて、1944年9月19日にモスクワ休戦協定を結んで講和した。これは、事実上、体面を保った降伏だったが、講和条件の一つが、ドイツ軍の排除であり、フィンランドは連合軍の一員として、ドイツと戦うことになった。
写真(右)1944年8月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)、フィンランド新大統領に就任した国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が、フィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)と握手をする。;フィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)在任期間は1943年3月5日から1944年8月8日なので、4日後には、首相の座をアンッティ・ハックゼル(Antti Hackzell)に譲ることになる。
Presidentti Mannerheim hyvästelee pääministeri Kinkomiestä.
Organisation Military Museum
Photo info:
1944-08-04
Sot.virk. Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-134045引用。
1944年9月19日, 継続戦争の敗北を認めたフィンランドは、ソ連・イギリスと休戦条約を結び、3年以上ナチスドイツと同盟してソ連と戦ったフィンランドは,ドイツを見放して、第二次大戦から離脱した。フィンランドは, ソ連共産党ジダーノフ中央委員長を長とする連合国監視委員会の下で、休戦条約に定めた。
1)カレリアの領土の割譲
2)3億ドルの賠償金の支払
3)親ヒトラ一的団体の解散
4)戦争犯罪者の処罰
を命じた。
6.1944年9月19日、対ソビエト継続戦争の休戦/敗北
写真(右)1944年9月頃、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、フィンランド中東部、レニングラード北500キロ、レポリ(Repola)、対戦車ロケット砲「パンツァーシュレック」と発射する対戦車成形弾を手にした歩兵第10連隊第3大隊装甲警備隊;レポリに通じる道を行進している。レボリ(Реболы)は、現在はロシア連邦カレリア共和国に位置する。
jalkaväkirykmentti 10:n III pataljoonan panssarintorjujat kotiuttamismarssilla, kuva on otettu Rukajärveltä Repolaan johtavalta tieltä, joten tarkkaa sijaintia kumman pitäjän puolella ollaan, on vaikea määrittää.
Subject place
Repola, Rukajärvi, Vienan Karjala
Subject date
syyskuu 1944.
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti.
Collection
Historian kuvakokoelma
Valokuvaamo Jäniksen kokoelma.
Inventory ID
HK7744:978
Measurements
25 x 35 mm.
写真はMuseot Finna・HK7744:978引用。
1944年9月19日,継続戦争の敗北を認めたフィンランドは.戦争犯罪者の処罰は国内法上の根拠が不明確であるとして、自国での裁判を先送りにしていたが、連合国監視委員会は 1945年8月8日、フィンランドに対して、戦争犯罪者の裁判を戦勝国自らが実施する旨を警告した。驚愕したフィンランドは、1941年の対ソ継続戦争を推進し平和を妨げた政府関係者を公的地位の乱用の咎で訴追できる戦争責任追及時限立法を国会で成立させた。
半年後の1946年2月21日、フィンランド第28代首相ユホ・クスティ・パーシキヴィ(Juho Kusti Paasikivi)政権(1944年11月17日から1946年3月9日)の下で、元フィンランド大統領リュティを筆頭に被告となった8名の政治指導者全員を有罪とし、次の判決を下した。
元大統領(1940年12月19日から1944年8月4日)リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti) 10 年
元首相(1941年1月4日から1943年3月5日)ヨハン・ウィルヘルム・ランジェル(Johan Wilhelm Rangell) 6年
元首相(1943年3月5日から1944年8月8日 )エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies) 5年6ヶ月
元貿易産業省・蔵相(1941-1944)ヴァイノ・タンネル (Väinö Tanner) 5年6ヶ月
元外相ラムサユ (C.H.W. Ramsay) 2年6ヶ月
元教育相クッコネン (A. Kukkonen) 2年
元蔵相レイニツカ (T. Reinikka) 2年
元駐独公使キトイヴォ・キヴィマキ(T. Kivimaki) 5 年
1946年2月21日に戦争責任裁判を決着させたフィンランドは、その他の体戦条約の条項も順守し、国際的に誠実な姿勢で臨むことで、ソ連・イギリスと国際関係を信頼あるものとする努力を見せ、パーシキヴィ政権(1944年11月17日から1946年3月9日)の国際的評価を高めたのである。
写真(右)1944年9月19−20日、フィンランド中東部、レニングラード北500キロ、レポリ(Repola)、対戦車ロケット砲「パンツァーシュレック」を手にした第14師団の兵士たち;レポリに通じる道を行進している。レボリ(Реболы)は、現在はロシア連邦カレリア共和国に位置する。この写真の撮影された当日、1944年9月19日に「継続戦争」休戦に関するモスクワ協定が結ばれ、フィンランドはソ連とイギリスに降伏した。
14. divisioonaan kuuluva joukko-osasto ohimarssilla Repolassa
Jänis Pauli, kuvaaja 1944 .
Subject place
19.9.1944 - 20.9.1944
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Valokuvaamo Jäniksen kokoelma
Inventory ID
HK7744:1062
Measurements
25 x 35 mm.
写真はMuseot Finna・M012:HK7744:1062引用。
実際、第二次大戦終了後の東ヨーロッパやバルカンの政治は、ソ連の役割を抜きには考えられず、共産主義政権(共産党)の下の人民民主主義の確立をソ連は企図していた。このようなソ連勢力圏拡大の意図は
1)共産主義国家ソビエト連邦の安全保障の確保
2)コミンテルン的な世界共産主義革命の実現
3)資本主義国アメリカ・イギリスの反共産主義・反革命の策謀に対する予防戦争・防衛力の増強
など、防衛的要素と攻撃的要素が指摘できる。
スターリンは、第二次世界大戦の後半に、ソ連軍の攻勢を強めた時期に、「今回の戦争は過去の戦争とは異なるのであって、領土を占領したものを、自らの軍が到達した地点まで、自らの体制を課すことができるのは、至極当然である」と語っている。つまり、ソ連流の共産主義政権が、東欧・バルカンに浸透したのは、ソ連の軍事力に基づく勢力圏に組み込まれていたからであると考えられる。
しかし、ソ連の勢力圏が、軍事力による強権的な組み込みを意味するとは必ずしも言えない。これが、フィンランド、オーストリア、イランのばあいで、これら三国には、戦後、ソ連赤軍が駐留し、勢力圏に半ば組み込まれたにもかかわらず、共産主義プロレタリア独裁、一党独裁政権は樹立されなかった。また、バルカンのユーゴスラビア、アルバニアの二国の場合、大戦中から地元の武装ゲリラが政治的にも勢力を保持しており、ソ連赤軍に依拠せずとも、社会主義政権が樹立された。したがって、東欧・バルカンの一党独裁政権とソ連赤軍の存在には、相関関係が視てはとれるが、その関係の強弱は大きく異なっているのである。つまり、ソ連、ソ連赤軍という外的要因だけでhなく、その地域の住民、国民、政治的グループ、軍隊の意思が、政治体制に大きく影響している。その意味で、フィンランドの戦後は、ソ連の経済的・軍事的圧力を伴いながら、ソ連に従うのではなく、民主主義・自由主義を残そうとする意志の下で、独自の生き残りをかけた試みが続けられ、積み重ねられてきたと考えられるのである。
写真(右)継続戦争敗北後の1944年9月21日、フィンランド南東部、カレリア地峡、ドイツ製1940年式ラインメタル7.5センチ対戦車砲(7.5 cm Pak 40:75 PstK / 40)をトラックで牽引、撤退するフィンランド軍;トラックの後端に砲尾を繋いで、自動車牽引する。樹木で偽装された砲架には、自動車牽引用のゴム付き車輪が装備されている。トラックには、家具が積まれているが、兵舎の備品も移動するのであろうか。
Tykki kiinnitetään auton perään ja vetäytyminen alkaa. Kuvassa 75 mm:n saksalainen panssarintorjuntakanuuna 75 PstK 40 vuodelta 1940..
Subject place
1944-09-21
Sot.virk. T.Norjavirta, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-131371引用。
1945年2月のヤルタ会談に於て、ヨシフ・スターリンは、ソ連がギリシアを除く東欧諸国を自国の勢力圏と見なし、その特殊権益を当然のこととして主張した。ヤルタ会議で議題となったポ ーランド問題に関して、チャーチル首相は、イギリスの参戦理由でもあり、ポーランドの復活はイギリスの名誉の問頴であるとして、介入したが、ソ連首相スターリンは、ロシア人にとってポーランド問題は、死活的な安全保障の問題でもあると述べ、イギリスとソ連は完全に対立した。1945年4月24日付チャーチル宛書簡で、スターリンは次のように述べている。
「ソ連にとってのポー ランド問題は、イギリスにとってのベルギーもしくはギリシャの問題と同様である。−−−私はギリシャに真に人民を代表する政府が樹立されているか、ベルギー政府が真に民主主義的であるのかについて関知しない。実際、両政府の樹立に際して、イギリスはソ連に一切協議しなかったではないか。ソ連政府は、ベルギー、ギリシャがイギリスの安全にいかなる意味を持つのか理解しているのであって、両国の問題に対して、ソ連を介入させよとの要求を祭祀代えていた。したがって、ポーランド問題の討議において、なぜ安全保障の観点から、ソ連の利益を考慮することが当然であると理解していただけないのかが分からない。」
ヒトラー・ドイツの敗退が、東ヨーロッパ・バルカンに成否的真空状態をもたらし、その真空を生める政治的要素としてソ連傀儡的な各国の共産主義政権が樹立された。スターリンは、ヨーロッパ大陸に於て、ほぼ独力でドイツを打倒したと考えており、ヒトラーの起こした侵略戦争に多大な犠牲を払って勝利したソビエト連邦こそが、最も大きな戦利品を手に入れてしかるべきであると考えた。大祖国戦争を勝利に導いた努力の報酬として、東欧・バルカンを勢力圏に組み込むことは、将来の侵略戦争を未然に防ぐためにも必要な措置であると正当化した。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒アンネの日記とユダヤ人
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ハンセン病Leprosy差別
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