◆ピアッジョ(Piaggio)P.108重爆撃機
写真(右)1939年末-1940年6月以前,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 四発重爆撃機;第二次世界大戦に実用化されたイタリア唯一の四発重爆撃機。1939年11月24日初飛行。
Piaggio, P.108
Title: Piaggio, P.108
Corporation Name: Piaggio
Additional Information: Italy
Designation: P.108
Tags: Piaggio, P.108
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive
Catalog #: 01_00086766引用。
写真(右)1939年末-1940年6月以前,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 四発重爆撃機;発動機はピアッジョP.12 RC35 空冷星型18気筒エンジン(1,350 hp)4基搭載、爆弾なしで最高速力475 km/h 、航続距離 3,295 km、爆弾搭載量 3,500 kg。垂直尾翼には、イタリア参戦前の三色旗の国籍記章を描いている。
写真は, kitchener.lord Italian aircraft:Piaggio P.108 early引用。
1.ピアッジョ(Piaggio) P.108 四発重爆撃機
写真(右)1939-1940年頃,イタリア、垂直尾翼に緑・白・赤のイタリア三色旗(Tricolore)の国籍マークを描いたイタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 四発重爆撃機;イタリアの第二次世界大戦の参戦は、1940年6月で、その時まで垂直尾翼に緑・白・赤のイタリア三色旗(Tricolore)の国籍マークを華麗に描いていた。しかし、参戦後は、目立ちすぎ、敵から発見されやすいこのような派手な国籍マークは、白十字に変更された。しかし、それでもイギリス、ドイツ、ソ連、日本と比較して、華麗な国籍マークであることには変わりがない。
Piaggio, P.108
Title: Piaggio, P.108
Corporation Name: Piaggio
Additional Information: Italy
Designation: P.108
Tags: Piaggio, P.108
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive
Catalog #: 01_00086765引用。
アメリカが開発中の四発重爆撃機に刺激されたのか、アメリカに滞在していたイタリア人ジョヴァンニ・カシラギ(Giovanni Casiraghi)技師は、1937年に帰国後、ピアッジオで四発大型爆撃機ピアッジョ(Piaggio) P.108 Bの設計を担当することになった。これは、全金属製低翼、引込み脚の降着装置、重武装の防御用旋回機関銃を装備、爆弾搭載量3トンの大型機で、発動機は新型で高出力を発揮できるピアッジョP.12 RC35 空冷星型18気筒エンジン(1,350 hp)4基だった。
写真(右)1940-1943年頃,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 四発重爆撃機;第二次世界大戦に実用化されたイタリア唯一の四発重爆撃機。1939年11月24日初飛行。ピアッジョP.12 RC35 空冷星型18気筒エンジン(1,350 hp)4基搭載、最高速力475 km/h 、航続距離 3,295 km、爆弾搭載量 4,500 kg。
Piaggio, P.108
Title: Piaggio, P.108
Corporation Name: Piaggio
Additional Information: Italy
Designation: P.108
Tags: Piaggio, P.108
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive
Catalog #: 01_00086767引用。
ピアッジョ(Piaggio) P.108試作1号機の初飛行は、第二次世界大戦勃発直後の1939年11月で、防御用旋回機関銃には、外側エンジンナセル上に12.7?ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃連装動力回転式銃塔を設けて、これを胴体中部の銃手が遠隔操作する方式を採用した。この他、機首と胴体後下方にも12.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃各1丁を装備し、胴体後方左右側面に各1丁の7.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃を装備するという重武装だった。乗員は、銃手含め8人だった。
写真(右)1942年,イタリア、飛行中のイタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108B 四発重爆撃機;
Bombardiere Regia Aeronautica Piaggio P.108B - In volo 1942 L’origine del Piaggio P.108 è voluta da un concorso ministeriale per un "apparecchio veloce da bombardamento diurno e notturno, a grande raggio d’azione" indetto nel 1937. Parteciparono i C.R.D.A. e la Piaggio, quest'ultima con il progetto dell’ing. Casiraghi, direttore tecnico con importanti esperienze di lavoro negli Stati Uniti d’America, di un monoplano metallico ad ala bassa a sbalzo, bicomando, quadrimotore con carrello retrattile. Il prototipo fu ultimato negli stabilimento di Finale Ligure nel novembre 1939 ed il primo volo avvenne il 24 novembre 1939 ai comandi del pilota collaudatore Nicolò Lana. Subito fu evidente la bontà del progetto. Seguirono una serie di voli di prova nell’ultimo dei quali si ebbe un incidente con gravi danni all’apparecchio e con conseguente rallentamento delle prove di sviluppo.
写真はWikimedia Commons, Category:Piaggio P.108
File:P108 in volo 3.jpg引用。
ピアッジョ(Piaggio) P.108 B四発重爆撃機は、爆弾2トン搭載時、航続距離は3,335 km (2,070 mi)で、最高速力 420 km/h (260 mph)/高度 4,300 mだった。この飛行性能は、同時期のアメリカ陸軍航空隊ボーイングB-17C四発重爆撃機の最高速力515 km/h (319 mph) /高度7,000 m (23,000 ft)、爆弾1.8トン搭載時の航続距離 3,220 km (2,000 mi)と比較して、若干劣っている。
写真(右)1943年,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 四発重爆撃機の機首;第二次世界大戦に実用化されたイタリア唯一の四発重爆撃機が搭載したピアッジョP.12 RC35 空冷星型18気筒エンジンは、18気筒という日本でもドイツでもまだ実用化できない大排気量のエンジンだった。
Description
English: Piaggio P.108
Date circa 1943
Source www.finn.it/ regia/html/ seconda_guerra _mondiale04.htm - Transferred from en.wikipedia to Commons by EH101 using CommonsHelper.
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PD-ITALY; photo taken ca. 1943 in Italy.
写真はWikimedia Commons, Category:Piaggio P.108
File:Piaggio P.108 nose.jpg引用。
初飛行後のピアッジョ(Piaggio) P.108 B量産は、イタリアの工業力と統制の弱さから遅れとり、部隊配備が進み、実戦参加できたのは1942年6月以降となってしまった。また、ピアッジョ(Piaggio) P.108 B四発大型爆撃機の生産機数は、試作機1機と量産型36機のみで、この少数の機数では、飛行中隊の稼働率を維持しながら訓練をして機体に習熟するのは困難であった。
写真(右)1940年,イタリア中部、ローマ東、グイドニア(Guidonia)飛行場、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 四発重爆撃機;1,350 hp Piaggio P.XIIを装備した。
Piaggio P.108 Prototipo MM. 22001, Guidonia airfield 1940
Source: Aerei della Regia Aeronautica
写真は, Österreichische Nationalbibliothek 引用。
ベニート・ムッソリーニ三男ブルーノ・ムッソリーニ(Benito Mussolini:1918-1941)は、空軍将校として、新鋭機のピアッジョ(Piaggio) P.108 四発重爆撃機の試験飛行をしている担当中に、1941年8月7日の飛行機墜落事故により殉職した。
写真(右)1940-1942年頃,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 四発重爆撃機を視察するイタリア空軍高官たち;機首の上段には、12.7ミリ機関銃回1丁が配備されている。機首の下段の先端にあるのは、二股に分かれたピトー管で、空気圧によって機体の速力を計測する速度計に繋がっている。3翅プロペラは、ピアッジョ(Piaggio) P.XII空冷18気筒エンジン1350hpによって駆動される。
The only unit of the Regia Aeronautica ever to fly the P.108B was the 274th Long-Range Bombardment Group (274a Squadriglia). This unit formed in May 1941 after the first aircraft that came off the assembly lines. The crew training lasted far longer than anticipated and in June 1942 the 274th became operational. The P.108B conducted bombing sorties in Gibraltar, Bône, Algiers, Blinda, Philippeville, Maison Blanche, Oran and Sicily..
写真はComando Supremo., Italian Piaggio P.108 Heavy Bomber引用。
ピアッジョ(Piaggio) P.108 B 四発大型爆撃機による第1回目のジブラルタル(Gibraltar)空襲は、1942年6月28日で、5機がサルジニア島南端デチモマンヌ(Decimomannu)基地を飛び立った。ここからジブラルタル(Gibraltar)基地までは最短でも1500km以上の距離がある。空襲を続行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B 爆撃機4機には、合計250キロ爆弾6発と100キロ爆弾66発が搭載されていた。
写真(右)1940-1942年頃,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 四発重爆撃機;外側エンジンナセルには、12.7ミリ連装機関銃回転銃座が埋め込まれていて、銃手は胴体後方の銃座から遠隔操作する。
Italian “Minikim” was a development of the earlier underpowered and wooden-structured P.50-II which was unable to take-off at its designed maximum weight. P.108 was all metal cantilever low-wing monoplane with an retractable undercarriage, driven by four Piaggio P.XII RC 35 18 cylinder radial engines, each producing 1350 hp. The first prototype was finished in October 1939 and had a very advanced defensive armament for its day. Not only had the Piaggio two 7,7 mm machine waist guns, a 12,7 mm machine gun in the lower turret and a similar weapon in the nose turret, but also two remotely-controlled twin gun turrets in outer engine nacelles.
写真は, Italian "piccola cosa" in the Luftwaffe service. Piaggio P.108 引用。
ピアッジョ(Piaggio) P.108 B 四発重爆撃機の爆弾搭載量は、250キロあるいは500キロ爆弾7発、100キロ爆弾34発、50キロ爆弾38発の中から選択できた。つまり、800キロ以上の大型爆弾を搭載することは、考慮されていなかった。イタリア空軍では、Giulio Douhet:1869-1930)により早くから戦略爆撃思想が唱えられていたが、これは第二次大戦後期の大型爆弾によるイギリス空軍による戦略爆撃とは、爆弾の種類が異なっていたようだ。
写真(右)1940-1942年頃,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 四発重爆撃機の正面;機首の形状は、二段式の初期型と一段の簡易型と2種類あるが、この機体の機首は二段の初期型である。
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Piaggio P.108 crew, Guidonia airfield
Source: Aerei della Regia Aeronautica
写真は, flickr引用。
写真(上)1940-1942年頃,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 四発重爆撃機とその搭乗員9名および地上勤務整備員の集合写真;先頭に正副操縦士、続いて航法士・爆撃手・機関士・通信士など5名、最後尾の2名は左右の12.7ミリ連装機関銃動力回転銃座の銃手であろう。左側に燃料タンクローリー、右側に燃料トラックが並んでいる。
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Piaggio P.108 crew, Guidonia airfield
Source: Aerei della Regia Aeronautica
写真は, flickr引用。
イタリアが第二次世界大戦に1940年6月に参戦し、それから2年が経過した1942年6月に初めて実戦参加したリットリオ[Littorio]、ピアッジョ(Piaggio) P.108重爆撃機の初出撃の攻撃目標は、地中海を制するイギリス軍の要衝ジブラルタル要塞だった。
写真(右)1942-1943年頃,イタリア、迷彩塗装を施したイタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 四発重爆撃機;スペイン南端のイギリス軍の重要拠点ジブラルタル基地の空襲に投入されたが、敵に被害を与えられないまま、次期の損失が増えていった。ただし、生産機数は36機のみで攻撃は少数機で行われた。
Piaggio, P.108
Title: Piaggio, P.108
Corporation Name: Piaggio
Additional Information: Italy
Designation: P.108
Tags: Piaggio, P.108
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive
Catalog #: 01_00086769引用。
イタリア空軍の将兵たちは、長距離爆撃が可能なピアッジョ(Piaggio) P.108 B四発大型爆撃機を使って
大胆なスぺイン南端のイギリス軍要衝ジブラルタル(Gibraltar)空襲を1944年に4回実施し、延べ15機が出撃させている。これは、30機に満たない部隊にとって、旺盛な攻撃精神の表れである。
1942年6月28日で、ジブラルタル(Gibraltar)空襲のためにサルジニア島を出撃したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機5機のうち3機は燃料不足に至り、途上、スペインに不時着した。そのうち1機は、スペイン西部のバレンシア(Valencia)飛行場に向かったが、近郊の海岸 に墜落した。もう1機は軽微な損傷でスペイン南西サン・ハビエル(San Javier)基地(ジブラルタルとバルセロナの中間に当たる)に緊急着陸した。そして、スペイン空軍に鹵獲されスペイン空軍でテストされている。
残るピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の1機は、ジブラルタルまで半分のスペイン領マヨルカ島(Majorca)パルマ(Palma)飛行場に緊急着陸した。パルマ飛行場は、1937年にイタリア軍が派兵されたスペイン市民戦争(Spanish Civil War)時代、イタリア空軍の基地だった場所である。同じファシスト友好国のスペインは、不時着したイタリア空軍のP.108大型機に気前よく給油をし、この機体は無事にイタリアに帰還することができた。
写真(右)1943年後半,イタリア南端、タラント(Taranto)郊外、グロッターリエ(Grottaglie)飛行場、イギリス、ヨーク出身L.ウィニ―中尉、オーストラリア、メルボルン出身の飛行中隊長ブライアン・イートン少佐、アデレード出身ハリス中尉と投降したイタリア空軍飛行士とその鹵獲されたイタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の尾部;アメリカ製のジープと鹵獲した巨人機を一緒に撮影したオーストラリア空軍将兵と投降したイタリア軍操縦士の記念写真。垂直尾翼の白十字はファシスト・イタリア空軍の国籍記章である。
Author Australian armed forces On Grottaglie airfield, Italy, pilots, Flight Lieutenant L. Wynne of Yorks, England, Squadron Leader Brian Eaton of Melbourne, Vic, Flight Lieutenant Harris DFC of Adelaide, SA, talk to an Italian pilot who has just brought his four engined Piaggio P.108 bomber aircraft from Northern Italy.
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写真はWikimedia Commons, Category: Piaggio P.108 File:Pilots with Piaggio P.108 at Grottaglie 1943.jpg引用。
イタリアは、1943年9月に連合国側に降伏し、10月、同盟国だったドイツに宣戦布告した。そして、イタリア空軍の古いファッシの国籍記章を廃止し、イタリア三色旗トルコローレを模した緑、白、赤の同心円を国籍マークとして採用した。
写真(右)1943年後半,イタリア南端、タラント(Taranto)郊外、グロッターリエ(Grottaglie)飛行場、投降したイタリア空軍飛行士のイタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機を0-ストラリア軍が鹵獲した。;アメリカ製のジープと鹵獲した巨人機を一緒に撮影したオーストラリア空軍将兵と投降したイタリア軍操縦士の記念写真。垂直尾翼の白十字はファシスト・イタリア空軍の国籍記章である。
Author Australian armed forces On Grottaglie airfield, Italy, pilots, Flight Lieutenant L. Wynne of Yorks, England, Squadron Leader Brian Eaton of Melbourne, Vic, Flight Lieutenant Harris DFC of Adelaide, SA, talk to an Italian pilot who has just brought his four engined Piaggio P.108 bomber aircraft from Northern Italy.
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TheAuthor of this page is Brendan Cowan
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真は, ADF-SERIALS
Australian& New Zealand Military Aircraft Serials & History RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
図(右)1943年,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 四発重爆撃機の三面図;
English: Piaggio P.108
Date 27 June 2013, 09:45:01
Source Own work
Author Kaboldy
写真はWikimedia Commons, Category:SVG aircraft 3-views
File:Piaggio P.108.svg引用。
ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 四発重爆撃機の諸元
初飛行:1939年11月24日
実戦投入:1942年
乗員 6名
全長:22.92 m
全幅:32.00 m
全高:7.70 m
主翼面積:135.54 m2
全備重量:29,885 kg
エンジン:ピアッジョ(Piaggio) P.XII RC.35 空冷星型18気筒空冷エンジン 1,350 hp 4基
プロペラ:3翅 定速回転プロペラ
生産機数:37機
ピアッジョ(Piaggio) P.108 B の性能
最高速力:420 km/h/高度3,900m
航続距離:3,520 km
実用上限高度:6,000 m
上昇率:2,000 m/10'00”
武装 12.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃6丁
7.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁
爆弾搭載量 3,500 kg
2.ピアッジョ P.108 爆撃機の試験飛行で殉職したブルーノ・ムッソリーニ
写真(右)1936年5月19日,イタリア、ローマ、父イタリア首相ベニート・ムッソリーニ、アビシニア(エチオピア)戦争から凱旋帰国したベニート次男ヴィットリオ・ムッソリーニ、オーストリア外務大臣シュターレンベルク、ベニート・ムッソリーニ三男ブルーノ・ムッソリーニ(Benito Mussolini);アビシニア(エチオピア)戦争から凱旋帰国した軍服姿の息子たちを迎える父ベニート・ムッソリーニ首相はスーツ姿で誇らしげである。オーストリアは、ドイツのヒトラーに対抗できる後ろ盾としてイタリアのムッソリーニを当てにしており、アビシニアへの侵略戦争をしたイタリアを支持する利己的な外交を進めていた。
Vittorio und Bruno Mussolini nach ihrer Heimkehr vom afrikanischen Kriegsschauplatz auf einer Tribüne mit Vater Benito Mussolini und dem österreichischen Außenminister Fürst Starhemberg, Stahemberg salutiert
Date
19.05.1936
Rights Holder
ÖNB
Mussolini, Bruno, 1918-1941
写真は, Österreichische Nationalbibliothek 引用。
ドイツのFw 200コンドル哨戒機と並ぶ枢軸国の四発爆撃機、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 の試験飛担当したのは、イタリア統領の二男で空軍士官のブルーノ・ムッソリーニ(Bruno Mussolini)だった。彼は、1941年8月7日、、P.108試験飛行中の事故で殉職した。
ピアッジョ(Piaggio) P.108B四発重爆撃機の派生型
ピアッジオ P.108 A 四発大型爆撃機:機首に102 mm (4 インチ)砲1門を搭載した対艦船砲撃仕様 生産機数1機
ピアッジオP.108C四発輸送機:民間航空仕様の乗客32人用の座席を備え機首形状を変更した輸送機。生産機数6機程度。後にP.108 T軍用輸送機として実用化され、12機生産された。
写真(右)1938年10月5日,イタリア、ローマ、ベイタリア統領ベニート・ムッソリーニの二男ブルーノ・ムッソリーニ(Benito Mussolini)と妻のジーナ・ルベルティ (Gina Ruberti Mussolini:1916-1946);
Title
Bruno Mussolini, Gina Ruberti, Porträt
Date
05.10.1938
Rights Holder
ÖNB
Mussolini, Bruno, 1918-1941
写真は, Österreichische Nationalbibliothek 引用。
1918年4月23日、ミラノに生まれたジーナ・ルベルティは、1938年10月、19歳でベニート・ムッソリーニの二男ブルーノ・ムッソリーニ(Bruno Mussolini)と結婚し一人娘マリアナ(Marina)を設けたが、1941年8月7日、夫ブルーノはピアッジョ(Piaggio) P.108 B四発重爆撃機の試験飛行中に墜落事故で死亡未亡人となった。戦後1946年、未亡人ジーナ・ルベルティは29歳で死亡した。
写真(右)1941年8月7日以降,イタリア、ベニート・ムッソリーニの二男ブルーノ・ムッソリーニ(Bruno Mussolini)が操縦し試験飛行中に墜落事故を起こしたピアッジョP.108四発重爆撃機の残骸:右手前に主翼上面に設けられた12.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃連装銃座が外れている。左に降着用のゴム主輪が横倒しになっている。
Piaggio P.108 crash
On 7 August 1941, Bruno Mussolini, the son of Italian dictator Benito Mussolini and commander of 274 squadron, was piloting one of the prototypes of the "secret" bomber. He flew too low and crashed into a house. The cockpit section separated from the rest of the aircraft and although the aircraft did not catch fire, it was nevertheless totally destroyed in the impact. Bruno Mussolini died of his injuries.
Mussolini, Bruno, 1918-1941
Source: Aerei della Regia Aeronautica
kitchener.lord 引用。
写真(右)1940年,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の試験飛行中に殉職したベニート・ムッソリーニ2男の空軍将校ブルーノ・ムッソリーニ(Benito Mussolini:1918-1941);1941年8月7日、空軍将校が新鋭機ピアッジョ(Piaggio)P.108 四発重爆撃機の試験飛行をしている最中に、飛行機が墜落し、ブルーノは事故で殉職した。
Bruno Mussolini
1940
Rights Holder
ÖNB Description
Sohn von Benito Mussolini.
Mussolini, Bruno, 1918-1941
写真は, Österreichische Nationalbibliothek 引用。
イタリア首相ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)の二男ブルーノ・ムッソリーニ(Bruno Mussolini)は、イタリア空軍に入隊し、ピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の試験飛行を担当したテストパイロットだった。しかし、1941年8月7日、ブルーノは、ピアッジョ(Piaggio) P.108B爆撃機(製造番号:MM22003)の試験飛行中、イタリア北部のピサに墜落事故を起こした。 ブルーノ・ムッソリーニ(Bruno Mussolini)は、近くの病院に搬送され、父ベニート・ムッソリーニ首相も駆け付けたが、その日のうちに死亡した。まだ23歳だった。このピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の墜落で、搭乗員の3名が死亡し、5名が負傷している。
ピアッジョ(Piaggio) P.108四発重爆撃機は、第二次世界大戦に実用化されたイタリア唯一の四発重爆撃機である。
ドイツ空軍は、四発爆撃機として、ハインケル(Heinkel)He177爆撃機、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル哨戒爆撃機、ユンカースJu290哨戒爆撃機を実用化し実戦に投入したが、西側連合国の四発重爆撃機と比較すると、性能も生産機数も大きく下回っていた。
ただし、ピアッジョ(Piaggio) P.108 爆撃機は、四発輸送機に改造した輸送機仕様も1942年9月7日初飛行している。発動機は、ピアッジョP.12 RC35 空冷星型18気筒エンジン(1,350 hp)4基を搭載した。
イタリア国王ヴィットリオ・エマヌエーレ3世(Vittorio Emanuele III:1869年11月11日 - 1947年12月28日)は、ファシスト党・戦闘的ファッシを率いるベニート・ムッソリーニを高く評価し、イタリアの栄光を全体主義によって取り戻してくれる政治的指導者として認めた。ムッソリーニは、Ⅾ歩区立国だったエチオピアに侵攻し、エチオピア皇帝を放逐し、イタリア領とした。
イタリア国王は、こうしてアルバニア国王、モンテネグロ国王、クロアチア国王も兼ね、地中海帝国を支配した。そして、ムッソリーニは、イタリアの栄光をさらに輝かせようと、第二次世界大戦に1940年6月10日参戦し、フランスを攻撃した。
3.ピアッジョ P.108 B 管理マニュアル(1942年)
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が1942年刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアルのカバー(表);
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione ( Italian Language ) - 1942(Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione. )
Product Description:
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione ( Italian Language ) - 1942
Disclaimer: This item is sold for historical and reference Only. These are either ORIGINAL or COPIES of manuals and blueprints used when these aircraft were in active duty, now transferred into electronic format. This manuals and blueprints are not meant to be used for current update material for certification / repair, but make an excellent reference for the scholar, collector, modeler or aircraft buffs
$14.85 (http://www.aircraft-reports.com/piaggio-p-108-b-aircraft-maintenance-manual-istruzione-montaggio-e-regolazione-italian-language-1942/)掲載ページ。イタリア語の原本をコピーしたDownload // Files Format : Adobe pdfがオンラインショップで14.5米ドルで入手可能。
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第1図・ ピアッジョP.108B爆撃機の側面;
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第1図
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
イタリーの兵力 : 空軍六千五百機・陸軍九十万・海軍の主力は快速艦艇
京城日報
Vol: 第 49巻
Page: 191
出版年
1940-06-04
[写真あり 省略]
【ニューヨーク二日同盟】イタリーの参戦はニューヨークにおいても最早必至と見られているが、その時期については矢張り重要閣議の行われる六月四日頃が最も危険視されている、しかしてニューヨークに達した諸情報に基き当地軍事専門家筋の推定したイタリーの総兵力は現在大体次の如くである
空軍
総数四千乃至六千五百機でこの中には多数の旧型及び長距離爆撃、戦闘機、飛行艇水上機が含まれている
一、パイロット九千乃至一万といわれる、多くはエチオピヤ戦争[Italo-Ethiopian War]及びスペイン内乱[Spanish Civil War]において実戦の経験を有す
一、航空機製造能力は現在一ヶ月二百台から三百五十台の間と見られ、最大製造能力は五百台まで増大し得る
海軍
水雷及び快速を武器とする諸艦船がイタリー海軍の主力をなしその構成は潜水艦百十隻(更に二十五隻建造中)時速三十五乃至五十ノットの快速水雷艇約百隻、水雷艇駆逐艦合計百三十隻、其の他巡洋艦二十一隻(更に目下建造中のもの十二隻)主力艦としては最近竣工したばかりの三万五千トン級リットリオ[Littorio]、ヴィットリオヴェネート[Vittorio Veneto]の三隻の外最近改装を施したヴィットリオヴェネート、旧式戦艦[コンテ・ディ・カブール級]四隻目下建造中のもの二隻で、これ等諸艦艇は参戦当初地中海中部の作戦において相当に威力を発揮するものと見られる
写真は伊空軍の威容
陸軍
即時動員可能の第一線部隊は九十万で、内機械化部隊約八箇師団である、開戦当時は連合軍側に取り非常な脅威を与えるものと見られるがイタリー陸軍の伝統、訓練装備等より見て陸軍の最大威力を発揮し得るのは特に即戦即決の短期戦にあるといわれる、
参戦直後戦闘は先ず北阿に於て開始されるものと見られ目下伊領リビヤには土民軍を入れて二十万乃至三十万の兵力がありその外伊領北アフリカには八万乃至十万の兵力が待機しており、これは先ずスエズ運河[Suez Canal]を目指して進撃を開始するものと見られ、更にアルバニヤには最低五万の伊軍がおり参戦と同時にユーゴースラヴィヤ、サロニカ地方に進撃を開始すべくこの場合トルコが連合軍側についてその参戦必至と見られ、これに対し伊領ドデカネーヅ諸島には三万乃至七万の兵が待機していると伝えられる、更に北部においてはアルプス山岳部隊五箇師団がフランスに備えて待機の姿勢を整えているといわれる、
一方地中海方面においてはサルヂニヤ、コルシカ島附近が最も重要点となり、イタリー軍が連合軍側の東西及び南北航路を遮断せんとするに対し、連合軍はイタリー本土とリビヤとの交通連絡線を切断する作戦に出でかくてここに壮絶なる海陸空戦が展開されるものと見られる(イタリーの兵力 : 空軍六千五百機・陸軍九十万・海軍の主力は快速艦艇 引用終わり)
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第2図・ ピアッジョP.108B爆撃機の正面;
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第2図
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第3図・ ピアッジョP.108B爆撃機の斜め正面;
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第3図
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
英の独伊難間は認識不足も甚し : 伊政府機関紙痛烈に論駁
日本工業新聞
産業経済新聞
Vol: 第156巻
Page: 153
出版年
1941-01-09
英国側は全般的頚勢を地中海方面の対伊戦に於て挽回せんと目下続々兵力の増強を策しているが七日政府機関紙ポポロ・デ・イタリー[Franklin Roosevelt]は「この結果はイタリーを枢軸国[
Axis powers]の弱点となし之を衝かんとするイーデン[Robert Anthony Eden]外相の持論の具体化であるが認識不足も甚だしい」と大要左の如く述べている
英国政府は全般的情勢を有利に導くためあらゆる犠牲を払ってしかも可及的速にイタリーを潰滅せしめんと意図しているものと見られる、之はイーデン[Anthony Eden]新外相の昔からの計画でチャーチル[Winston Churchill]首相、ダフ・クーパー[Duff Cooper]情報相等の同意を得、英参謀本部が目下これが実現に努めているものである、
また信ずべき情報によればルーズヴェルト[Franklin Roosevelt]大統領はじめ[ハリー・ホプキンス,ヘンリー・モーゲンソーなど]側近者達もこの計画に賛意を表しているとのことである、
しかしこの計画はイタリー国民の心理並に独伊関係の本質に対する甚しい見込違いである、独伊枢軸なるものは単なる二つの政治的団体の同盟ではなくて二つの同種同質の革命によって統合しており断じて破り難い統合である(英の独伊難間は認識不足も甚し : 伊政府機関紙痛烈に論駁引用終わり)
図(上)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載・ ピアッジョP.108B爆撃機の側面構造図(1);
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された構造図
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
図(上)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載・ ピアッジョP.108B爆撃機の側面構造図(2);
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された構造図。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
図(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載の ピアッジョP.108B爆撃機の右主翼の構造図;主翼の強度を保つために骨組の桁が多数設けられている。エンジンナセルの中間の主翼前縁には2個の照明塔が装着
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された図解。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機右主翼エンジンナセルの中間の前縁に照明塔2個が装着されている。主翼には容量2500L,2100L,1500Lの3個の燃料タンクがあり、片翼6200L、両翼合計6個1万2400の燃料を搭載できる。外側エンジンナセル中央部上面には、12.7mmブレダ-SAFAT機関銃連装動力回転銃塔が1機設置されており、胴体後部にある銃座から遠隔操作することができる。
図(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載の第19図・ ピアッジョP.108B爆撃機の燃料容量;キャパシティーがリットル表示された燃料タンクは、主翼に2500L,2100L,1500Lの3個合計6200L、両翼合計6個(1万2400L)がある。また、胴体中央には、爆弾倉に着脱式の燃料タンク1470L1個を搭載できる。したがって、燃料は合計1万3670Lとなる。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された図解。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 爆撃機は、主翼(片側)に燃料タンク3個があり、燃料容量(キャパシティー)は、打つ側より2500L,2100L,1500Lで、3個合計の燃料容量は6200Lとなる。そこで、左右主翼内燃料タンクは、合計計6個で燃料容量は、1万2400Lである。さらに、胴体中央には、爆弾倉に着脱式の燃料タンク1470L1個を搭載できる。したがって、ピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の燃料搭載量は最大1万3670Lとなる。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載のコックピットと開閉可能な操縦席ガラス風防;左右に操縦桿のある複式操縦席で左が正操縦士、右が副操縦士。エンジンは4基あるのでメーターやレバーなど機器は同じものが4組ある。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された写真(第16図)。p.27
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載のコックピット操縦席計器盤;左右に操縦桿のある複式操縦席で左が正操縦士、右が副操縦士。エンジンは4基あるのでメーターやレバーなど機器は同じものが4組ある。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された写真(第50図)。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載のコックピット正操縦席;左右に操縦桿のある複式操縦席で左が正操縦士、右が副操縦士。エンジンは4基あるのでメーターやレバーなど機器は同じものが4組ある。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された写真(第14図)。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載のコックピット副操縦席;左右に操縦桿のある複式操縦席で左が正操縦士、右が副操縦士。エンジンは4基あるのでメーターやレバーなど機器は同じものが4組ある。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された写真(第15図)。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
図(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載の垂直尾翼の方向舵操作の操縦索配置図;機首のコックピットにある複式操縦席から、尾翼まで操縦索が伸びている。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された図III。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載の胴体下面の搭乗口と昇降用ラッタル;胴体中央下面に爆弾倉扉が開いている。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された写真(第17図)。p.27
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 爆撃機は、1939年11月に初飛行した後、機首に艦船攻撃用の102ミリカノン砲を搭載するA(Artigliere)型が試作されたが、これは、艦船攻撃用の雷撃と併用する計画だった。
同様の75ミリM4カノン砲による艦船砲撃は、アメリカ陸軍航空隊がノースアメリカン(North American)B-25ミッチェル(Mitchell)双発爆撃機G型,H型も同じ発想だった。
しかし、アメリカ陸軍航空隊ノースアメリカンB-25ミッチェル(Mitchell)の搭乗員は、艦船攻撃にはカノン砲ではなく、6-8-10丁の12.7ミリ(0.5インチ)ブローニング機関銃エクスカリバーによる銃撃を好んだため、次のノースアメリカン(North American)B-25ミッチェルJ型では、カノン砲は撤去され、機関銃搭載に変更された。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載の胴体内部の通信装置と通信士座席;。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された写真(第18図)。p.27
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
運動性能の低いピアッジョ(Piaggio) P.108 のような四発重爆撃機による艦船砲撃は実戦向きではなかったため、計画通り爆撃機仕様のB(Bombardiere)型が開発された。しかし、火砲を装備したピアッジョ(Piaggio) P.108 A艦船攻撃機は、イタリア降伏後にドイツ軍が注目し開発を引き継いだ。
イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機は、1942年に、大西洋から地中海の出入り口にあたるイギリス領ジブラルタル空襲に初実戦参加した。イタリア空軍は戦略爆撃の思想もあったが、イタリア半島沖サルジニア島を出撃しジブラルタルを少数機で空襲するような長距離の空襲は、イタリア空軍の想定した使用法を超えていた。
このほか、ピアッジョ(Piaggio) P.108 C(Civile)民間輸送機型で、豪華な座席を配置していたが、戦時には不急不要の機体であり、座席を簡易化し、軍用輸送機仕様に改造された。これが.ピアッジョ(Piaggio) P.108 T(Trasporto)型輸送機である。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載の機首にある爆撃主席の爆弾投下操作スイッチと爆弾投下照準装置;機首の先端にあるガラス風防によって、地面を観察し、爆弾投下目標に照準を合わせて、操縦主に爆撃進路を指示する。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第68図。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
図(上)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載・ ピアッジョP.108B爆撃機の酸素ボンベからの酸素マスク配管配置図;
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された配置図。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第96図・ ピアッジョP.108B爆撃機の胴体中央内部の酸素ボンベ;爆弾倉の前後に搭乗員の空間に高空で搭乗員が使用する酸素ボンベが搭載されている。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第96図。p.202
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載の主翼内側のエンジンナセルに引き込む降着装置とゴム主輪;大型ゴム車輪がエンジンナセル後方に引き込まれるが、タイヤは左右合計二輪で、二連式のダブルタイヤではない。ハインケルHe177爆撃機と同じく、四発重爆撃機を左右ゴム輪2個で支えると、ゴム輪にかかる圧力はとてつもなく大きくなり、パンクや降着装置の呼称を起こしやすい。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された図解。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
ハインケルHe177爆撃機と同じく、ピアッジョ(Piaggio) P.108 B四発重爆撃機のような大型機を左右ゴム輪2個で支えると、ゴム輪1個あたりに圧力負荷は大きくなり、タイヤのパンクや降着装置の故障を引き起こしやすい。
そこで、アメリカ軍では、四発重爆撃機のゴムタイヤ1個当たりの圧力負荷を小さくするために、ダブルタイヤを採用した。これは、今日のジェット旅客機も同じで、降着装置には、小型のゴム輪をダブルタイヤ装備にするなど、ゴムタイヤを多重配置の装備として、ゴムタイヤ1個当たりの圧力負荷を小さくした。また、故障の際のゴム輪交換も容易に行えるようになった。
図(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載の主翼内側のエンジンナセルと降着装置(主輪);大型ゴム車輪がエンジンナセル後方に引き込まれる。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された図解。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
図(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108 B爆撃機の管理マニュアル掲載の主翼外側のエンジンナセルと12.7mmブレダ-SAFAT機関銃連装動力回転式銃塔;エンジンナセル中部上面に銃塔があるが、これは胴体中部に突出した銃座から遠隔操作することができる。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された図解。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第5図・ ピアッジョP.108B爆撃機の外側エンジンナセル上面の12.7mmブレダ-SAFAT機関連装動力回転銃塔・第5図・ ピアッジョP.108B爆撃機の胴体後方下面の引き込み式12.7mmブレダ-SAFAT機関銃塔;
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第5図と第6図。p.15
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
第二次世界大戦勃発直後の1939年11月初飛行のピアッジョ(Piaggio) P.108は、外側エンジンナセル上に12.7mmブレダ-SAFAT(Breda-SAFAT)機関銃連装動力回転式銃塔を設けて、これを胴体中部の銃手が遠隔操作した。また、機首上部と胴体後下方にも12.7mmブレダ-SAFAT(Breda-SAFAT)機関銃各1丁を装備した。胴体後方左右側面には、各1丁の7.7mmブレダ-SAFAT(Breda-SAFAT)機関銃を装備した。乗員は、銃手含め8人となった。
12.7mmブレダSAFAT機関銃の諸元
開発時期
1935年
重量
29kg
弾丸
12.7x81mmSR弾(34.2g)
口径
12.7mm(0.50in)
発射速度
700発/分
575発/分(戦闘機機首のプロペラ同調機銃の場合)
初速
765m/s(12.7mm)
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第62図・ ピアッジョP.108B爆撃機の胴体後方下面の引き込み状態の12.7mmブレダ-SAFAT機関銃塔・第63図・ ピアッジョP.108B爆撃機の胴体後方下面の引き込み式12.7mmブレダ-SAFAT機関銃塔の引き込み操作スイッチ;
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第62図と第63図。p.97
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 四発重爆撃機が装備したイタリアのブレダ(Breda)-SAFAT機関銃は、1930年代から大戦中に主にイタリア空軍機に搭載された航空機用機関銃である後継には7.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃と12.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃とがある。
12.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃の原型は、アメリカのブローニングM2重機関銃であるが、日本陸軍の12.7ミリホ103航空機関銃と同じく、実包は、ブローニングM1919重機関銃7.62x63mmは、7.7x56mmR(.303ブリティッシュ弾)にランクダウンされ、ブローニングM2重機関銃12.7x99mmは12.7x81mmSR(.50ブリティッシュ弾)にやはりランクダウンされ、軽量化されたものの、射程、弾道安定性、破壊力は原型に劣っている。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第59図・ ピアッジョP.108B爆撃機の胴体上面の遠隔操作銃座(エンジンナセルに搭載された12.7mmブレダ-SAFAT機関銃連装動力回転銃塔の操作);12.7ミリ連装機関銃を搭載した動力回転銃塔を遠隔操作する胴体の銃座を胴体内部から見上げた写真。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第62図と第63図。p.92
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 B 重爆撃機の主翼外側エンジンナセル上面には、動力回転銃塔があり、12.7mmブレダ-SAFAT(Breda-SAFAT)機関銃2丁を搭載している。この動力回転銃塔は、胴体後部上面にある2か所の銃座から遠隔操作される。
それまでのイタリアでは、機関銃はフィアットが受注していたが、これ以後、ブレダ-SAFAT(Breda-SAFAT)でもイタリア軍の機関銃が量産されるようになった。
フィアット子会社のSAFAT(Società Anonima Fabbrica Armi Torino)が、ジョヴァンニ・アニェッリ(Giovanni Agnelli)によってブレダに売却されており、フィアットの技術や生産方式は、ブレダに引き継がれている。こうして、イタリアの機関銃は、フィアットではなく、ブレダ-SAFAT(Breda-SAFAT)が担うことになったのである。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載のピアッジョP.108B爆撃機の胴体側方の搭乗員昇降口と側方7.7mmブレダ-SAFAT機関銃旋回銃座。12.7mmブレダ-SAFAT機関銃連装動力回転銃塔を遠隔操作する銃座2か所が胴体上部に設けられている。;胴体後方下方に12.7mmブレダ-SAFAT機関銃1丁搭載の引き込み式回転銃座がある。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第65図・ ピアッジョP.108B爆撃機の胴体側方の旋回機関銃座と7.7mmブレダ-SAFAT機関銃1丁および弾帯;機関銃の下には撃ちガラ薬莢を回収する袋が大きな口を開けている。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第65図。p.99
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第89図・ ピアッジョP.108B爆撃機の胴体中央内部;爆弾倉の前後に搭乗員の空間がある。奥には、側方旋回機関銃銃座に7.7mmブレダ-SAFAT機関銃1丁と弾帯が見える。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第89図。p.136
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第4図・ピアッジョP.108B爆撃機の爆弾倉扉;爆弾倉には爆弾が搭載されている。後方には、下部引き込まれた銃塔が見える。胴体左後方の搭乗員扉が開放されている。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第4図。p.14
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第19図・ ピアッジョP.108B爆撃機の爆弾倉扉;爆弾倉は空で爆弾は搭載されていない。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第19図。p.31
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108B爆撃機の管理マニュアル掲載の第72図・ ピアッジョP.108B爆撃機の爆弾倉に搭載準備中の250キロ爆弾;鉄製籠に乗せられた爆弾は、ケーブルで繋がれ、開放された爆弾倉扉を通って、爆弾倉内部の爆弾ラック(懸架)まで滑車で巻き上げられ、装着される。奥には左エンジンナセルに格納される主輪が見える。
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第72図。p.112
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
図(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第XIX図・ピアッジョP.108B爆撃機の爆弾倉における爆弾搭載方法;
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第XIX図。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
ピアッジョ(Piaggio)P.108 B
四発重爆撃機(1939年11月初飛行)の爆弾倉への爆弾種類別の搭載方法
(1)50キロあるいは100キロ爆弾×34発
(2)160キロ爆弾×20発
(3)250キロあるいは500キロ爆弾×7発
最大爆弾搭載量:3.5トン
図(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第XV図・ピアッジョP.108B爆撃機の爆弾倉における50キロあるいは100キロ爆弾搭載方法(胴体断面);
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第XV図。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108 B
四発重爆撃機(1939年11月初飛行)の爆弾倉には、小型爆弾の場合、50キロ爆弾あるいは100キロ爆弾を34発、最大限3400キロを搭載できる。
図(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108爆撃機の管理マニュアル掲載の第XIV図・ピアッジョP.108B爆撃機の爆弾倉における250キロあるいは500キロ爆弾搭載方法(胴体断面)
;
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第XIV図。
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio)P.108 B
四発重爆撃機(1939年11月初飛行)の爆弾倉には、大型爆弾の場合、250キロ爆弾あるいは500キロ爆弾を7発、最大限3500キロを搭載できる。
写真(右)ピアッジョ(Piaggio)社が刊行したピアッジョ(Piaggio) P.108B爆撃機の管理マニュアル掲載の第74図・ ピアッジョP.108B爆撃機の胴体中央部に装着された3組の航空魚雷用ラック(懸架);
Piaggio P.108 B Aircraft Maintenance Manual, Istruzione Montaggio e Regolazione.
The Author of this page is Brendan Cowanに掲載された第74図。p.114
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真はMANUALI E NOMENCLATORI, PIAGGIO P. 108 B: ca cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA; selezione tratta dal Manuale per il montaggio RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
イタリア海軍は、サヴォイア=マルケッティSM.79三発爆撃機による雷撃を実施したが、ピアッジョ(Piaggio) P.108B四発爆撃機を用いる長距離雷撃機の構想もあった。ピアッジョ(Piaggio) P.108B爆撃機の胴体中央毛面には、直径45センチの航空魚雷(1本800キロ)を最大3本まで搭載することが可能だった。
四発重爆撃機を使っての敵艦船への雷撃は、日本海軍の川西九七式飛行艇(1936年7月初飛行)や川西二式大艇(1941年1月初飛行)でも想定されており、航空魚雷2本を搭載する雷撃装備が可能だった。しかし、実際には鈍重な四発機や飛行艇による艦艇雷撃は被害が大きすぎると考えられ、実戦には使用されていない。アメリカ陸軍航空隊は、ボーイングB-17(1935年7月初飛行)四発爆撃機やコンソリデーテッドB-24(1939年12月初飛行)四発爆撃機の編隊による日本海軍艦船への水平爆撃を実施したが、戦果は上がらなかった。
4.ピアッジョ(Piaggio)P.108T 輸送機
写真(右)1942-1943年頃,イタリア、迷彩塗装を施したイタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108T 大型輸送機;
Piaggio, P.108
Title: Piaggio, P.108
Corporation Name: Piaggio
Additional Information: Italy
Designation: P.108
Tags: Piaggio, P.108
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive
Catalog #: 01_00086769引用。
1941年3月26日に発注されたのがピアッジョ(Piaggio) P.108の軍用輸送機仕様で、試作機の初飛行は1942年9月7日と、イタリア降伏の1年前だった。この輸送機は、ピアッジョP.108T と命名され、胴体貨物室の容積は77 m³ (2,700 ft³)、兵士60名を搭載することができた。ただし、生産機数は12機のみ。
写真(右)1942-1943年頃,イタリア、イタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108T 大型輸送機;第二次世界大戦に実用化されたイタリア唯一の四発重爆撃機P.108を輸送機に改造した。1942年9月7日初飛行。ピアッジョP.12 RC35 空冷星型18気筒エンジン(1,350 hp)4基搭載。
Piaggio, P.108
Title: Piaggio, P.108
Corporation Name: Piaggio
Additional Information: Italy
Designation: P.108
Tags: Piaggio, P.108
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive
Catalog #: 01_00086764引用。
1943年9月のイタリア降伏後も、ピアッジョ(Piaggio) P.108は、ムッソリーニを元首とするイタリア社会共和国サロ政権とドイツ軍によって、残った機体は輸送機として用いられた。
写真(右)1943年後半,イタリア南端、タラント(Taranto)郊外、グロッターリエ(Grottaglie)飛行場、鹵獲したイタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 T大型輸送機をアメリカ軍の国籍マークに塗り替えた。;垂直尾翼の白十字はファシスト・イタリア空軍の国籍記章を流用したまま塗り替えているようだ。
The Piaggio P.108B of 274thSquadriglia seized by the USAAF soon after its arrival at Grottagliefrom Foligno and Apulia. In the this photo the aircraft has acquiredUSAAF markings and is not ready for its next (and final) flight becauseof problems with the hydraulic system.
The Author of this page is Brendan Cowan
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真は, ADF-SERIALS
Australian& New Zealand Military Aircraft Serials & History RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
写真(右)1943年後半,イタリア南端、タラント(Taranto)郊外、グロッターリエ(Grottaglie)飛行場、不時着したアメリカ軍の鹵獲したイタリア空軍ピアッジョ(Piaggio) P.108 T大型輸送機;アメリカ軍の国籍マークに塗り替え飛行試験を行ったが、機械故障のために不時着し、機体は損傷した。
The same aircraft meets it's fate following a landingaccident due to the faulty hydraulic system while being flown by anAmerican pilot.
The Author of this page is Brendan Cowan
Sources: Australian War Memorial, National Archives of Australia,
写真は, PIAGGIO P108 AIRCRAFT MANUAL ON CD ROM - RARE - RARE RAAF Piaggio P.108B Bombardiere引用。
5.サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM 75輸送機
写真(右)1940年6月30日頃,中国、包頭飛行場、イタリア空軍所属サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.75 GA (RT)三発輸送機
(MM.60539):アルファロメオ(Alfa Romeo)128 RC.18空冷星形エンジン3基搭載の長距離飛行特別仕様で、SM.75 GA(Grande Autonomia : Long Range)の形式名称が与えられたが、 胴体後方側面に白帯で日の丸という日本の国籍記章を描いている。ローマ=東京のシベリア上空横断飛行を成功させた。
An image of the SM.75 GA in China..
The first SM.75 GA (serial-numbered RT MM.60537) was delivered on 17 March 1942, but it was decided to use it for a “symbolic” mission which consisted of dropping leaflets over Asmara, in the former Italian East African colonies.
This mission took place on 7 May 1942 starting from Guidonia (Rome). After a refueling stop at Benghazi, the aircraft took off on 8 May 1942 at 1730 hrs to drop its leaflets over Asmara at 0300 on 9 May 1942 and then landing safely back at Roma-Ciampino on 2130 hrs on the 9 May 1942.
写真は,Comando Supremo Italy’s Secret Flight From Rome to Tokyo引用。
イタリア空軍は燃料タンクの増設など長距離飛行仕様に改造したサヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)S M.75 GA RT(Grande Autonomia : Long Range)長距離輸送機(MM.60539)を準備して、第二次世界大戦初期の1942年6月9日、ローマから東京への連絡飛行に挑んだ。この機体は、SM.75 GA-RTと命名されたが、RTとは"Rome=Tokio"の意味である。
サヴォイア・マルケッティSM.75 GA-RTの機長は、操縦手アントニオ・モスカテッリ(Antonio Moscatelli)中佐で、イタリアが戦っていたソビエト連邦の上空を飛行して日本に飛ぶルートは、ソ連とは中立条約を維持して戦いを避けている日本にとって受け入れられないルートだった。
1942年6月29日 05:30、ローマ郊外グイドーニア基地を飛び立ったサヴォイア・マルケッティSM.75 GA RT輸送機は2,030 km (1,261マイル)飛行して、ドイツ占領下ウクライナのザポリージャ基地に到着した。ここからイタリアが対戦していたソ連上空を飛行し、中国まで一気に飛ぶために、燃料を満タンにして、離昇重量21,500 kgという荷重状態で未舗装滑走路を離陸した。
ソ連上空では、敵戦闘機や対空砲火に加えて、悪天候、航法ミス、機械故障などのリスクもあったが、SM.75 GA RTはアラル海、バイカル湖を地測目標にし、ゴビ砂漠を横断し、翌日6月30日 22:00に中国、黄河を確認することができた。こうして、ウクライナのザポリージャから6,000 km (3,728 マイル)飛行して、日本軍占領下の中国、包頭に到着したのは、1942年7月1日 15:30だった。ここから、日本の通訳・案内人を同乗させ、日本の国籍マークを応急塗装したSM.75 GA RTは、一気に東京まで2,700 km (1,678マイル)を飛行し、無事着陸した。
写真(右)1942年6月1-18日,日本、極東連絡飛行に成功したイタリア空軍サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.75 GA RT長距離輸送機
(MM.60539)と日本出迎え側の陸軍10人、海軍3人:イタリアの威信をかけた戦時連絡飛行で、日本とヨーロッパの戦時唯一の連絡飛行成功例である。日本側からも連絡飛行に特殊仕様長距離機で向かったが、途中、インド周辺で行方不明になった。
English: Italian Savoia-Marchetti SM.75 GA RT long-range cargo aircraft and its crew photographed with Japanese officials during its flight to East Asia in July 1942
Date Sometime between 1 July 1942 and 18 July 1942
Source Scanned from Page 20 of Rosselli, Alberto, "In the Summer of 1942, a Savoia-Marchetti Cargo Plane Made a Secret Flight to Japan", Aviation History, January 2004,
Author Unknown; credited to "Courtesy of DOTT Alberto Rosselli"
Permission
(Reusing this file) PD-Italy; photo taken in 1930s or 1940s in Italy
.
写真はWikimedia Commons, Category:Savoia-Marchetti SM.75 File:Savoia-Marchetti SM.75 GA RT in East Asia.jpg引用。
しかし、日本は、このSM.75によるローマ=東京の連絡飛行の快挙を国際的に利用することに思い至らず、ソ連の領空侵犯の連絡飛行が、ソ連を怒らせることを恐れて、飛行記録を秘匿した。ドイツ・イタリアがソ連と戦っている以上、三国同盟自体がソ連にとって反発の材料なことに思い至らなかったのでり、そのために、はるばる日本に飛行してきた同盟国イタリア人たちを軟禁状態として冷遇した。
1942年7月16日にサヴォイア・マルケッティSM.75 GA RT輸送機は、帰路に就いた。まず東京から包頭に飛行し、そこで、イタリアの国籍マークに描き直し、1942年7月18日 21:45に包頭を離陸した。そして、ウクライナ、黒海北岸のオデッサに29時間25分、6,350 km (3,950マイル)を飛行して着陸した。そして、オデッサで給油、整備の上、ローマ郊外グイドーニア基地まで飛行し、無事に帰国した。イタリアは、このローマ=東京連絡飛行成功の快挙を1942年8月2日に発表したが、日本では、イタリアを日ソ関係を悪化させるとイタリアを非難するありさまだった。
6.カント(CANT)Z.1007アルシオーネ(Alcione)三発爆撃機
写真(上)1943年5月,イタリア(?)、ファシスト・イタリア空軍カント(CANT:Cantieri Aeronautici e Navali Triestini)Z. 1007 Bisアルシオーネ (Alcione:カワセミ)三発爆撃機;1937年3月初飛行、1939年5月より就役。全備重量 13,621 kg、発動機 ピアッジョP.10 RC40 空冷星型14気筒 1,000 hp 3基、最高速力 456 km/h、航続距離 2,000 km、兵装12.7ミリ機関銃 4丁、7.7ミリ機関銃 2丁、爆弾搭載量 1,200 kg。
Photograph Curator
80-G-64147: Italian bomber, Cant Z, 1007 Bis, May 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2016/09/13).
Author National Museum of the U.S. Navy
写真はNational Museum of U.S. Navy., Photograph Curator 80-G-64147引用。
カントとは、カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:CANT)の略称である。
カント Z.1007「アルシオーネ」 (かわせみ)三発爆撃機は、1937年3月初飛行、1939年5月に部隊配備された。サヴォイア・マルケッティ SM.79「スパルヴィエーロ」(ハイタカ)同様、強力なエンジンがなかったために、Z.1007アルシオーネ(カワセミ)もエンジンを3基搭載したため、機首に爆撃手を置くことができず、銃座も設けられなかった。しかし、胴体上部には回転銃座を設けて12.7ミリ口径イソッタ・フラスキーニ・スコッチ( Isotta-Fraschini Scotti)M1933機関銃を搭載している。1943年までに660機が量産された。
カント Z.1007「アルシオーネ」 (かわせみ)三発爆撃機(CANT Z.1007Alcyone/Alcione)の諸元
乗員: 5名
全長: 18.47 m
全幅: 24.80 m
全高: 3.15 m
翼面積: 70.00 m2
全備重量: 13,621 kg
発動機: ピアッジョ(Piaggio)P.XI R.2C 40空冷星型14気筒エンジン1,000hp3基
最高速力: 456 km/h
航続距離: 1,750 km
実用上昇限度: 8,100 m
兵装:12.7 ミリ イソッタ=スコッチ(Isotta-Fraschini Scotti)機関銃2丁、7.7ミリ ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁
爆弾 1,200 kg
カント Z.1007「アルシオーネ」 (かわせみ)三発爆撃機は、1937年3月初飛行、1939年5月に部隊配備された。1943年までに660機が量産された。
⇒写真集Album:カント(CANT)Z.1007アルシオーネ(Alcione)爆撃機を見る。
7.サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.79爆撃機
イタリア空軍サボイア・マルケッティSM-79(Savoia Marchetti SM.79)三発爆撃機の原型は、三発高速旅客機で1934年10月に初飛行した。
SM-79の発動機は、競技用特別機ではピアッジョPIXRC2(1,000馬力)を搭載し、1935年、1000kmと2000kmのコースで世界最速記録を達成した。しかし、機首にエンジンがあることで、前方視界が制限され、爆撃手席も機首先端に設けることができなくなった。また、機首に防御用旋回機関銃を搭載することもできなかった。
イタリア空軍サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-79三発爆撃機は、輸送機型にはなかった胴体前方上部のコックピット後半にバルジ(膨らみ)が設けられ、そこに前方固定機銃1丁と後方旋回機銃1丁とを搭載した。コックピット上部に前方固定機関銃を搭載した理由は、機首にエンジンがあるために、前方に対する防御用機関銃が設置できなかったためである。操縦席の後上方のバルジに設けられた前方固定機関銃は、SM-79三発機ならではである。また、胴体後下方にゴンドラが設けられたが、これはドイツの爆撃機でも試みられていた方法である。
1937年に、スペイン内乱に投入されたサボイア・マルケッティSM-79(Savoia Marchetti SM.79)三発爆撃機は、延べ5000回の出撃を行い、その機体の信頼性、実用性も高さを裏付けた。また、これと同時にレース機としての開発も行われ好成績をあげた。1939年9月に勃発した第二次世界大戦に、イタリアは1940年6月に参戦したが、その時のイタリア空軍サボイア・マルケッティSM-79三発爆撃機配備の爆撃飛行隊11個に及び、爆撃機の主力となっていた。サボイア・マルケッティSM-79三発爆撃機生産機数は1936年から1943年までで、合計1218機量産された。
1940年6月、イタリアが第二次世界大戦に参戦した時、サボイア・マルケッティSM-79三発爆撃機は11個の飛行隊に配備された主力爆撃機だった。1941年末から1942年初頭にかけて、太平洋戦争で日本海軍が雷撃で多大な効果を上げると、イタリア空軍は、イギリス艦船を相手に雷撃任務を可能にすべきだと考えられた。そこで、SM.79bisが、主に魚雷を搭載して雷撃を主任務とした雷撃機として量産された。
サボイア・マルケッティSM-79(Savoia Marchetti SM.79)三発爆撃機の諸元
初飛行:1934年9月28日
乗員Crew: 6名
全長Length: 16.2 m
全幅Wingspan: 20.2 m
全高Height: 4.1 m
主翼面積Wing area: 61.7 m2
空虚重量Empty weight: 7,700 kg (16,976 lb)
総重量Gross weight: 10,050 kg (22,156 lb)
発動機Powerplant: 空冷星形9気筒アルファロメオ(Alfa)128 R.C.18 エンジン 860馬力(642 kW)
プロペラPropellers: 3翅可変ピッチ
性能Performance
最高速力Maximum speed: 460 km/h (290 mph, 250 kn)/高度3,790 m (12,430 ft)
航続距離Range: 2,600 km (1,600 mi, 1,400 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,500 m (24,600 ft)
上昇率Rate of climb: 5.3 m/s (1,040 ft/min)
翼面過重Wing loading: 165 kg/m2 (34 lb/sq ft)
重量出力比Power/mass: 0.173 kW/kg (0.105 hp/lb)
兵装Armament
防御用火器Guns: 12.7 ミリ (0.5 in) ブレダ(Breda-SAFAT)前方固定機関銃1丁(コックピット上部)
12.7ミリ(0.5 in)ブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃2丁(後上方・後下方)
7.7 ミリ (0.303 in)機関銃2丁(胴体左右側方)
爆弾Bombs: 爆弾倉 1,200 kg (2,645 lb)
あるいは胴体下面: 45センチ航空魚雷1-2本
生産期間:1936-1943年
総生産機数: 1218機
⇒写真集Album:サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti )SM-79爆撃機を見る。
8.サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84快速爆撃機
写真(右)1941-1942年頃、イタリア、イタリア空軍サヴォア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84三発爆撃機:双尾翼式で、12.7mmスコッチ(Scotti)/イソッタ・フラスキーニ(Isotta Fraschini)機関銃1丁装備の回転銃塔を装備しているので、SM.79との識別は容易である。
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写真は, SDASM Archives Catalog #: 01_00087256およびWikimedia Commons, Category:Savoia-Marchetti SM.84 File:Savoia-Marchetti SM.84.jpg引用。
サヴォア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84三発爆撃機はSM.79の後継機として開発された。両者の違いは、
1)SM.79のアルファ・ロメオ126 R.C.34空冷星形9気筒エンジン750hpからSM.84のピアッジョ P10 RC40 空冷14気筒エンジン1000 hpへの換装による出力強化
2)SM.79のコックピット後上方のバルジ銃座から、SM.84の12.7mmスコッチ(Scotti)/イソッタ・フラスキーニ(Isotta Fraschini)機関銃1丁装備の回転銃塔(ターレット)「デルタ」への防御兵装の強化
3)SM.79の爆弾筒からSM.84の爆弾懸架への爆弾搭載方法の変更
4)SM.79の単尾翼から、SM.84の双尾翼に変更
が大きな変更点である。
⇒写真集Album:サボイアマルケッティSM.84快速爆撃機を見る。
9.フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたフィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ):1936年2月10日初飛行。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo da bombardamento Fiat BR 20 con motore A 80 RC 41
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_211
引用。
1936年2月10日初飛行のフィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)は、胴体後部が羽布張りであるものの、その他は金属製で、引き込み脚も備え、双尾翼式、コックピット後上方に銃座が設けられている。当時としては最新の技術を取り入れた機体だった。1939年から部隊配備され、生産機数は合計600機。
⇒写真集Album:フィアット(Fiat)BR.20爆撃機を見る。
写真(上)1919年頃、イタリア、イタリア空軍カプロニ(Caproni)Ca.90 重爆撃機試作機とカンプロニ(Caproni)Ca.36 爆撃機:初飛行は1929年で、当時世界最大の飛行機だったが、年内にドイツのドルニエ(Dornier)Do X飛行艇が初飛行し、史上最大の飛行機の座を譲った。
となった。生産は試作1機のみ。乗員: 2名
定員: 12名
全長: 26.95 m
全高: 10.80 m
翼幅: 46.60 m
翼面積: 496.60 m2
空虚重量: 15,000 kg
最大離陸重量: 30,000 kg
発動機: イソッタ・フラスキーニ アッソ 1000 水冷W18気筒750 kW (1,000 hp)6基
最高速力: 205 km/h
航続距離: 1,290 km
実用上昇限度: 4,500 m
爆弾搭載量:最大5897 kg(13,000ポンド)、生産機数6,176機。
English: Halifax Bomber
Source
Canadian Forces
Expired crown copyright. All images made by canadian forces more than 50 years ago.
写真はWikimedia Commons Category:Handley Page Halifax File:Halifax Bomber 7 ExCC.jpg引用。
11.世界最大の重爆撃機 : イタリーの新鋭カプロニィ : 夜間爆撃用としての性能は姫路から東京を襲撃が可能 : 制式採用で我軍部色めく
時事新報
東京時事新報
Vol: 第 27巻
Page: 119
出版年
1932-05-10
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100343258
日本一大きい超重爆撃機よりも更に大型であるのはイタリーのカプロニィ九〇PB夜間重爆撃機[Caproni Ca.90]である
これはイタリー陸空軍が特に夜間爆撃用として建造した世界随一の大型機で、複葉式上翼三十五メートル、下翼四十七メートル、全長二十八メートル、全高十一メートルである。翼面積は上下両翼とも五百平方メートルあり翼面荷重一平方メートルについて七十キログラム、重量は一万五千キログラム、搭載量二万キログラム、全備重量三万五千キログラムに達する
構成材料は鋼、ヂュラルミン並に布で、発動機はアッソ一千馬力のもの六基(六千馬力)で馬力荷重は一馬力について五、八五キログラムである、地上の速度二百二十キロと発表されているから時速約二百四十キロは出るものとされているが、経済速度は二百キロを標準とされている、上昇限度は五千メートルを標準とされているが、実用的には四千五百メートルを限度とされて居る。航続時間、約八時間というから、仮に爆撃操作を一時間とすれば、遠く姫路(姫路、東京間の鉄道距離は六百八十七キロ)から離陸した、右のカプロニィ[Ca.90]重爆撃機[Caproni Ca.90]重爆撃機は東海道の闇空を翔破して東京全市の爆撃を敢行して、また姫路まで戻る航続力と速力とを有している
而も八千キログラム(約八トン)の爆弾を搭載し得られ、大都市爆撃の空の花形役者[Caproni Ca.90]である。機関銃は前方には旋回二門、翼上旋回二門の計四門、後方は旋回一門の胴体側面二門、下方射撃には旋回一門の合計八門の機関銃を装備しているなど、その精鋭さは驚くばかりである。イタリー陸空軍では既に制式機として同重爆撃機を採用しているが、これが、同国で最も新鋭のもので、わが軍部でもこれに比敵する超重爆撃機第二号の竣成を待つつ、色めき立っている (立川電話)
(世界最大の重爆撃機 : イタリーの新鋭カプロニィ : 夜間爆撃用としての性能は姫路から東京を襲撃が可能 : 制式採用で我軍部色めく引用終わり)
写真(右)1939年-1944年、イギリス、イギリス空軍第7爆撃飛行隊ショート(Short)S.29 スターリング (Stirling)Mk.I型爆撃機:初飛行は、1939年5月14日、1945年までに2,371機生産。全幅 30.20 m 、全長26.59 、翼面積 136m2、自重22,498 kg、総重量26,943 kg、発動機ハーキュリーズ Mk.XI空冷星型14気筒1,500hp4基、
最高速力 454 km/h、航続距離 3.755 km 、乗員7名、兵装 7.7 mm M1919機関銃8丁、爆弾搭載量6,350kg。
English: The enormous Caproni Ca.90 prototype (in 1929, the largest aircraft in the world) close to a relatively small Caproni Ca.36.
Italiano: Il gigantesco prototipo del Caproni Ca.90 (che ne 1929 era il più grande aereo del mondo) fotografato accanto a un relativamente piccolo Caproni Ca.36.
Date 8 November 2012, 14:05:09
Source Rosario Abate, Gregory Alegi, Giorgio Apostolo, Aeroplani Caproni – Gianni Caproni ideatore e costruttore di ali italiane, Museo Caproni, 1992, p. 118
Author Unspecified.
写真はWikimedia Commons Category:Short Stirling File:Aircraft of the Royal Air Force 1939-1945- Short S.29 Stirling. CH3138.jpg引用。
写真(右)1939年-1944年、イギリス、ケンブリッジシャー上空を低空編隊飛行するイギリス空軍第1651重爆撃隊ショート(Short)S.29 スターリング (Stirling)Mk.I型爆撃機:初飛行は、1939年5月14日、1945年までに2,371機生産。全幅 30.20 m 、全長26.59 、翼面積 136m2、自重22,498 kg、総重量26,943 kg、発動機ハーキュリーズ Mk.XI空冷星型14気筒1,500hp4基、
最高速力 454 km/h、航続距離 3.755 km 、乗員7名、兵装 7.7 mm M1919機関銃8丁、爆弾搭載量6,350kg。
English: nglish: Aircraft of the Royal Air Force 1939-1945- Short S.29 Stirling.
Three Stirling Mark Is of No. 1651 Heavy Conversion Unit based at Waterbeach, Cambridgeshire, in flight over the Cambridgeshire countryside.
Date between 1939 and 1945
Source CH 5476 comes from the collections of the Imperial War Museums.
Author Royal Air Force official photographer, Woodbine G (Mr).
写真はWikimedia Commons Category:Short Stirling File:Aircraft of the Royal Air Force 1939-1945- Short S.29 Stirling. CH5476.jpg引用。
写真(右)1943年7月、イギリス、ヨークシャー、エルビントン基地、イギリス空軍第77飛行隊ハンドレページ(Handley Page)ハリファックス(Halifax)II重爆撃機:初飛行は1939年9月24日、全長: 29.59 m、全高: 8.0 m、翼面積: 330.2 m2、空虚重量: 19,278 kg、最大離昇重量: 29,484 kg、ブリストル(Bristol)ハーキュリーズ(Hercules )Mk VI 空冷星形14気筒ロエンジン1204 kW (1615 hp)4基、最高速力:454 km/h、航続距離:爆弾搭載量は最大5897 kg(13,000ポンド)、生産機数6,176機。
English: Royal Air Force 1939-1945- Bomber Command
Low-level 'beat-up'. A Halifax II, JB911/KN-X of No 77 Squadron roars low over an audience of appreciative 'erks' during air tests at Elvington, Yorkshire, July 1943.
Date between 1939 and 1945
Source
CH 10593 comes from the collections of the Imperial War Museums.
Author Clark N S (P/O), Royal Air Force official photographer
写真はWikimedia Commons Category:Handley Page Halifax File:Handley Page Halifax - Elvington - Royal Air Force 1939-1945- Bomber Command CH10593.jpg引用。
写真(右)1944年2月10日、イギリス南東部、ケンブリッジシャー(Cambridgeshire)、メパール (Mepal)基地、4000ポンド大型爆弾「クッキー」、1000ポンド爆弾、500ポンド爆弾を搭載するイギリス空軍第75爆撃飛行隊アブロ(Short)ランカスター (Lancaster)Mk.I型爆撃機:初飛行は、1941年1月9日、1945年までに7,377機生産。全幅 31.09m 、全長21.18m 、翼面積 120m2、自重16,783 kg、総重量28,576 kg、発動機 ロールス・ロイス マーリン XX V型12気筒レシプロエンジン 1,280hp(954 kW)4基、
最高速力 450 km/h、航続距離 4,300 km、乗員7名、兵装 7.62mm ブローニング(Browning)M1919機関銃8丁、爆弾搭載量6,400 kg、生産機数7,377機。
English: Royal Air Force Bomber Command, 1942-1945.
Ground crews refuelling and bombing up an Avro Lancaster of No. 75 (New Zealand) Squadron RAF at Mepal, Cambridgeshire, for a night raid on Krefeld, Germany. The bomb load consists of a 4,000-lb HC 'cookie' and mixed 1,000-lb and 500-lb MC bombs.
Date between 1939 and 1945
Source CH 14680 comes from the collections of the Imperial War Museums.
Author Royal Air Force official photographer, Miller (Flt Lt)
写真はWikimedia Commons Category:Avro Lancaster File:Avro Lancaster - Royal Air Force Bomber Command, 1942-1945. CH14680.jpg引用。
写真(右)1945年3月21日、ドイツ西部、ブレーメンを空襲するエンジン整備中のイギリス空軍第300ポーランド爆撃飛行隊アブロ(Short)ランカスター (Lancaster)Mk.I型爆撃機:中間爆撃によって、石油備蓄所を破壊した。爆弾搭載量は最大6,400 kg。
English: An Avro Lancaster of No. 300 Polish Bomber Squadron flying over the smoke-covered target area during a daylight attack on the oil refinery and storage depot of the Deutsche Vacuum AG at Bremen by 133 Lancasters of No. 1 Group and 6 De Havilland Mosquitos of No. 8 Group, 21 March 1945.
Date 21 March 1945
Source http://www.iwm.org.uk/ collections/ item/object /205023459
Author No. 1 Group RAF
写真はWikimedia Commons Category:Avro Lancaster File:Avro Lancaster - Mepal - Royal Air Force 1939-1945- Bomber Command CH14681.jpg引用。
写真(上)1930年5月1日メーデー、ソ連、モスクワ赤の広場で披露されたソ連ツポレフ(Tupolev)ANT-9大型輸送機:初飛行は、1929年5月5日。全幅 23.80 m、全長 16.65 m、翼面積 84.0 m2、自重 3,680 kg、離昇重量 5.690 kg、発動機:ライト(Wright)ワールウィンド(Whirlwind)空冷星形9気筒エンジン300 hp (224 kW)3基、最高速力 205 km/h、航続距離 700 km、乗員2名、乗客9名。
Description
English: Tupolev ANT-9 photo from Aero Digest May,1930
Date 1 May 1930
Source https://archive.org/details/aerodigest1617unse/page/n147
Author Aero Digest magazine
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-9 File:Tupolev ANT-9 Aero Digest May,1930.jpg引用。
写真(右)1936年、ドイツ、ドルニエ(Dornier)Do 19V-1重爆撃機試作1号機:1936年10月28日に初飛行し1938年には輸送機に改造された。生産機数3機のみ。全幅35.0m、全長 25.4 m、翼面積 162 m2、自重 11,865kg、全備重量 18,500 kg、発動機 BMW 132空冷倒立9気筒エンジン604 kW (810 hp)4基、最高速力 315 km/h、航続距離1,600 km、乗員10名。初代ドイツ空軍参謀長ヴァルター・ヴェーファー(Walther Wever)中将の推進した長距離戦略爆撃機「ウラル爆撃機」として開発され、1936年10月28日に初飛行した。しかし、ヴェーファー空軍参謀長は、1936年6月3日、ハインケルHe 70高速輸送機の操縦中に墜落死したため、ドイツ空軍は、従来の第一線で活躍する戦術爆撃機の開発に専念することになった。生産機数3機み。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46170090 - Title:Dornier Do 19V-1 with 4 BMW 132 1936 Nowarra Collection - Filename:16_007464.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives Catalog:16_007464 -引用。
写真(右)1937年10月以降、アメリカ、1937年10月15日に初飛行したメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277)とボーイング(Boeing)P-26戦闘機: 全幅 149 ft 0 in (45.43 m)、全長87 ft 7 in (26.70 m)、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、離昇重量 70,706 lb (32,139 kg)、発動機 Pratt & Whitney R-1830空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)4基、最高速力 197 mph (317 km/h, 171 kn)、航続距離 5,130 mi (8,260 km, 4,460 nmi)、乗員10名。 0.30 in (7.62 mm) M1919ブローニング機関銃3丁、0.50 in (12.7 mm) M2 ブローニング3機関銃2丁、爆弾 12,000 lb (5,400 kg)。試作機1機のみ。XB-15の厚い主翼の中には通路があり、エンジン点検が可能だった。また、自動操縦装置を搭載し長距離飛行を容易にした。
Boeing XB-15 with Boeing P-26
From the Paul Fedelchak Collection. Fedelchak was born in Brownsville PA, June 22, 1917, served as an aerial photographer in the USAAC from 1939. His duties included service at Chanute Field, Washington and Alaska where he was involved in the aerial surveys that made the Alcan Highway possible. These photos were loaned to the museum for copy by the family.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives 引用。
12.1935年7月初飛行のボーイング(Boeing)B-17 爆撃機
写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、ボーイング・モデル 299(Boeing Model 299):機首と胴体後上方には銃座があり、後方下部にも部首スター式銃座が設けられているようだ。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。
SDASM Archives boeing b-17 fortress image
pictionid59698368 - catalog35-299 boeing field seattle wa 29 jul 35 74623.jpg - title35-299 boeing field seattle wa 29 jul 35 74623 - filename35-299 boeing field seattle wa 29 jul 35 74623.jpg
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive 引用。
写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、レーニエ山上空を飛翔するボーイングB-17 試作爆撃機YB-17(Y1B-17)の左側面:機首と胴体後上方、胴体後方側面(左右)と胴体下方銃座はブリュスタ―状である。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。レーニエ山(Mount Rainier)は、ワシントン州北部、カスケード山脈の最高峰で(標高4,392m)。現在では、先住民に因んだタコマ山(Tacoma)とも呼ばれる。
SDASM Archives Boeing : B-17
Manufacturer: Boeing
Designation: B-17
Official Nickname:
Notes: Includes Japanese Version
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00044758引用。
写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、ボーイングB-17C爆撃機の右側面:機首と胴体後上方、胴体後方側面(左右)、後方下に後方下にゴンドラ式(gondola)バスタブ型銃座"bathtub turret"が設けられている。が設けられている。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。無塗装の機体。
SDASM Archives Boeing : B-17
Manufacturer: Boeing
Designation: B-17
Official Nickname:
Notes: Includes Japanese Version
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00044741引用。
1939年9月に第二次大戦が勃発し、イギリスが危機に陥ったすると、アメリカは、イギリスに軍事援助するために1941年3月11日、武器貸与法(Lend-Lease Act)を制定し、1940年7月初飛行のボーイングB-17Cを武器貸与した。このB-17Cはイギリス空軍ではフォートレス(Fortress)Mk.Iと命名され生産機数38機のうち30機が貸与されている。
写真(右)1935年7月29日、アメリカ、ワシントン州、シアトル、レーニエ山上空を飛翔するボーイングB-17C爆撃機の左側面:機首と胴体後上方、胴体後方側面(左右)、後方下にゴンドラ式(gondola)バスタブ型銃座"bathtub turret"が設けられている。第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春)までの国籍マーク、すなわち青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプを描いている。
SDASM Archives Boeing : B-17
Manufacturer: Boeing
Designation: B-17
Official Nickname:
Notes: Includes Japanese Version
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00044765引用。
イギリス空軍では、ボーイングB-17Cは、1941年7月8日に、ドイツ軍港ウィルヘルムスハーフェン空襲に向かったが失敗し、7月24日のフランス北岸ブレスト軍港に在伯する巡洋戦艦クナイゼナウ、重順プリンツオイゲンの高高度空襲が初空襲である。1941年9月初飛行のB-17Eはフォートレス(Fortress)Mk.II、1942年5月初飛行で3400機量産され主力生産型になった武装強化型B-17Fは、フォートレス(Fortress)Mk.II、1943年8月初飛行の8600機量産のB-17GはフォートレスMk.IIIと命名された。1942年までは、四発大型爆撃機の運用は、守勢に回っていたイギリス空軍にとって、人材、物資、燃焼の上で制約が強かったために、イギリス貸与のB-17爆撃機は大きな活躍はできなかった。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ハンセン病Leprosy差別
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
⇒シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
⇒ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
⇒ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
⇒ボーイング(Boeing)247旅客機
⇒ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
⇒ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
⇒ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
⇒アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒ユンカース(Junkers)F.13輸送機
⇒ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
⇒ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
⇒ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
⇒ユンカース(Junkers)K43f水上機
⇒巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.31輸送機
⇒ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
⇒ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
⇒ハインケル(Heinkel)He111輸送機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
⇒カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
⇒NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
⇒軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
⇒NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
⇒サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
⇒ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
⇒ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
⇒マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
⇒ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"
⇒ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
⇒ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
⇒フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
⇒フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
⇒フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
⇒フィンランド軍の防空監視哨
⇒ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
⇒ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
⇒ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
⇒ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
⇒ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
⇒ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
⇒ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
⇒ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
⇒ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
⇒フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
⇒ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
⇒ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
⇒メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
⇒メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
⇒ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
⇒ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
⇒ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
⇒ムッソリーニ救出作戦
⇒イタリア独裁者ムッソリーニ
⇒独裁者ムッソリーニ処刑
⇒ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
⇒マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」
⇒サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
⇒カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
⇒カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
⇒サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
⇒サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
⇒フィアット(Fiat)G.18V輸送機
⇒フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
⇒サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
⇒フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
⇒サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
⇒カント(CANT)Z.1007爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
⇒ピアジオP.108重爆撃機
⇒マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
⇒マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
⇒マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機
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