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◆1940/9/27 日独伊三国同盟 近衛/ヒトラー/ムッソリーニ同盟
写真(上):1940年11月20日、ドイツ、ベルリン、日独伊三国[軍事]同盟条約(Tripartite Pact)に参加したハンガリーとの調印式に参加したドイツ外務大臣フォン・リンベントロップ(Joachim von Ribbentrop)、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)、ハンガリー外務大臣イシュトヴァーン・チャキ(István Csáky)
:1940年9月27日の日独伊三国同盟には、ヒトラーの要請もあって、1940年11月にハンガリー、ルーマニア、スロヴァキアが加盟している。1941年3月には、新ロシア派ブルガリアも加盟している。
English: The signing of the Tripartite Pact by István Csáky (far right), the Minister of Foreign Affairs of Hungary in Vienna. From right: Istvan Csáky, Galeazzo Ciano, Joachim von Ribbentrop and Saburō Kurusu.[incorrect description] Date 20 November 1940 Source http://www.audiovis.nac.gov.pl/obraz/28220/629bb74e27cbd747fd2c8fae12bea9f6/ Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Tripartite Pact File:Csáky Tripartite pact 1940.png引用。


1.1936年11月25日の日独防共協定

1ー1.ソ支不可侵協定と各国 : 裏面に密約存在 : ドイツは極めて不満
大阪朝日新聞 日付1937-08-31 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336303
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)


【ベルリン特電三十日発】[1937年8月]ソ支不可侵条約[中ソ不可侵条約]の裏には南京政府が共産主義を容認する主旨でソ支両国間に秘密協定があり得ると考えられ、共産主義を排撃して世界平和をもたらそうとするドイツの努力に対し大きな反対気勢を作ったものとしてドイツは支那に対し大きな不満を持つのは事実だ、ソ支条約に関する三十日朝刊各紙の論調は左の如くである

フェルキッシャー・ベオバハター紙[Völkischer Beobachter: 民族的監視]
 ソ支不可侵条約[中ソ不可侵条約]の成立は南京政府が日支事変によって非常に緊迫した状態に陥った結果であるとはいえ支那の政治家は十分共産主義の侵略的な事実を熟知し、かつモスコーとの協力が何を語るかは十分知り抜いているはずである、吾人は蒋介石がモスコーとの共同の危険が何であるかを十分に自覚せんことを切望する

モンターゲ紙 共産主義が過去において支那をいかに毒したかということは歴史に明らかである、この点から見て今回の条約は支那にとって極めて危険である、共産主義の極東進出に脅かされた南京政府は日本との対立に圧迫されて背後の安全を望むというが、しかし侵略的な共産主義は防禦的な協定を結ばない、共産主義は目的のため手段を選ばない積極的に捌け口を求めるのみだ、ソウエートと国境を接しない国さえソウエートのために甚だしい犠牲を払わねばならぬ、スペイン、フランス両国がそれだ、ソウエートと国境を接しソウエートの好い餌食となっている支那がどれだけ犠牲を払わねばならぬか分るはずである、支那はソ支の不可侵条約により国内では共産主義を蔓らせ国外では現在の日支の対立をさらに激化し、日支妥協の途を塞ぐものである、今回の条約成立によってソウエートは北叟笑んでいよう、なんとなれば戦争と不安のあるところにソウエートの乗ずる隙があるからである

蒋介石
【ローマ特電二十九日発】ソ連支那間の不可侵条約締結に関しイタリー政界ではスペイン動乱に対するソ連の手口から見て北支事変を契機として支那との間に右不可侵条約に付帯して一の密約が締結されたことは大体疑ないところとしている


【ニューヨーク特電二十九日発】ソ支不可侵条約[Sino-Soviet Non-Aggression Pact]に関し、アメリカでは右条約以外にソ支間に密約が存在するものとは一般に信じられていない
 アメリカでは今回のソ支不可侵条約をさまで重大視せず、ソ連は今日の支那の苦境を利用して多年希望せるソ支不可侵条約[Sino-Soviet Non-Aggression Pact]締結を提唱し、支那側は日支事変中ソ連から軍需品その他の供給を受けると同時に、ソ支国境の安全を計る意味でソ連の要望に応じたものであるが
これによって日本の対支および対ソ連悪感情は昂進すべく蒋介石は危険なる政治的行動を取ったものと見ている。


【ロンドン特電二十九日発】ソ支不可侵条約[Sino-Soviet Non-Aggression Pact]の締結に関してはロンドンにおいてもかなり注目をひいているが、その内容については発表以外不明で果して秘密協定の存在するか否かは不明であるが、一般には積極的な意味を持つものでなくソ連が他の諸国と締結せる程度のものだと見ている  しかし日支事件の真只中にあってソ支間にかかる条約が締結されたことは少くとも日本牽制の意味を持つものと見ている


フランコ将軍 【パリ特電三十日発】フランスはソ支不可侵条約[Treaty of non-aggression between the USSR and the Republic of China]をあまり重大視せず大体次の如き観測をなしている
 ソウエートが支那に実質的援助を与えているのは周知の事実であり条約の有無に拘らない、不可侵条約は日本を焦慮させる以外に大して役に立つものでない、この条約の背後にはソウエートと支那との間に種々な密約のあることを明かに想像させる。

1ー2.日独伊防共協定の反響 : 中南米への影響を米国は懸念す
大阪朝日新聞 日付 1937-11-08 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336862
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【ワシントン特電六日発】日、独、伊三国防共協定に関しアメリカ官辺は沈黙を守っているが、反デモクラチックの風潮が仲南米に波及し第二のスペインとなることなきか早くも懸念されはじめている、即ち極く最近までブラジルは戒厳令下にあったが、そのほか中、南米諸国中には共産主義圧迫の名の下に独裁政治が行われんとする傾向が現われておりその上スペインのフランコ[Francisco Franco]将軍への同情は圧倒的なものであってまたウルグワイ、キューバがアメリカにスペイン内乱につき調停方を勧めて来たという事実もあり、もしフランコ将軍が勝利を得た暁は防共協定に参加するは疑いなしとされ、これが中南米に如何なる影響を与えるが注目されている

衆院各派声明

衆議院各派では日独伊三国防共協定の成立に対し七日左の如き共同声明を決定発表した

Ciano 声明 昨日「イタリーの日独防共協定参加に関する議定書」が調印せられ防共事業の強化を見るに至りしは吾々の欣快とするところである、由来共産主義は我が国体と絶対に相容れないものにして国家の安寧秩序、世界の平和を脅かすのみならず国際共産党の破壊工作の害毒に至りては実に戦慄すべきものがある、

今回の支那事変にしてもまた国際共産党の露骨なる援助が支那をして長期抗日を決意せしめ東洋の平和を攪乱するに至ったことは明白である、この際に当り日独防共協定に伊国の参加を見たるは誠に心強く感ずる次第で吾々は更に志を同じゅうする各国が協約に参加し文明の敵たる共産党の害毒を防遏して世界永遠の平和に貢献せんことを希望する

武器を整えた二億の国民の団結 ジョルナーレ・ディタリヤ紙ガイダ主筆論ず

【ローマ特電六日発】ジョルナーレ・ディタリヤ紙主筆ガイダ氏は六日夕刊紙上日独伊防共協定に関する三段にわたる大論文を発表したが、右はイタリー政府の最高方針を裏書する権威ある論評として注目されている、概要左の如し

Radek  『今回の議定書は国際政治機構に重大な影響をおよぼす文化史的重要な基礎である共産主義の宣伝工作に対する日独伊三国の共同戦線を表現する、この戦線はその力と能力とをヨーロッパからアジヤへ、地中海から大西洋を包含し太平洋へ発展せしめるその行動は公開的だ、六日発表された全文によって明かなる如く共産主義の陰謀的なるに反しこれはまたいかにも開放的だ、共産主義が宣伝から金銭へ、金銭から武器へとその運動を発展せしめているのは明かに世界の政治組織に対する宣戦だ、

これは一九三五年一月一日付のイズヴェスチャ紙[Известия: 報道新聞]に発表したカール・ラデック[Karl Berngardovich Radek]の論文で明瞭である、

かかる挑戦はすでにアジヤ、ヨーロッパに蔓延しつつある、特に支那政府はかかる赤色の進出に堪え切れず、その魔手は抗日運動と変った、すなわちこの脅威に対し、手遅れとならぬうちにこれを阻止しこれを克服する能力を有する強力な国家が結合することとなった、これがローマ議定書だ、そしてこれはイタリーにとっては反共産戦線を張ってから最初の歴史的事実だこの議定書は単に締盟国国民の利益を防衛するのみならず破壊的革命の溷濁に陥ることを欲しないすべての他の国民の共通な利益を防衛するものだ武器を整えた二億の国民が団結した、

地中海が脅かされてもその背後には二百万トンの艦隊がある、平和は大砲によっても守られるものだ、この意味において日独伊三国の軍備は現下各種の問題に重大な意義をもつことになる』


The signing of the Three Power Pact by the Japanese, German and Italian delegates.

1ー3.文明擁護の堅陣 : 日独伊防共協定の意義 : 論説
報知新聞 日付 1937-11-07 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337151
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)


 赤化防止を目的とする日伊間の協定はいよいよ成立の運びとなり、その旨が公式に発表された。世界平和のバチルスである共産主義的破壊に対する共同防衛を約束し、それに必要な協力の措置を規定したものである。この協定としては、先に昨年十一月二十五日日本とドイツとの間に正式調印を了した日独防共協定が厳存する故、日伊防共協定の成立によって、今や日本を中心に、ドイツとイタリアとを両翼とする防共の条約網が張りめぐらされ、共産主義のバチルスに対する防疫壁が築かれた訳である。我等は日本が現に支那を中心とする防共を一つの目標として、支那に対する軍事行動を進めている際、日独防共協定と並んで日伊防共協定の成立したことに、衷心から祝福の念を禁じ得ないのである。

ポリカルポフI-16  思うに第三インターナショナル、さらに突きつめていえば、ソヴィエト・ロシアを基地とする共産主義が、人類全体の敵であることは今さら多言を要するまでもないことであろう。共産主義の狙うところは、人類進化の現段階を超越した理想社会であり、現代の文明から飛躍した彼岸にある。従って共産主義思想は、現代文明の破壊者であり、世界人類の敵であることは否定すべからざる事実である。

しかるにソヴィエト・ロシアを源泉とする赤色思想の流れが、抵抗の少いところを狙って押出すべく虎視耽々たるものある以上、世界の平和と人類文明の擁護者を以て任ずる国民同士が、互に提携して防共策を講ずることは、確かに天意に添うた神聖なる行動といわなければならない。

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 もっとも昨今のソヴィエト・ロシアは、一時露骨に表現した世界赤化政策を断念し、人民戦線政策を以てそれに置き代えた。その結果ソ連邦の赤化運動は一時に比較して余程積極性を緩和したとはいえ、人民戦線政策が現実的効果を狙って居るものであるだけ、その禍害は決して疎かにならぬものがある。フランスやスペインにおける人民戦線政府の存在、支那における国共妥協政治など、いずれにしても今日におけるソヴィエト・ロシアの赤化宣伝工作が着々世界の着色を変えて居る実証を提供するものということが出来よう。

かかる形勢を自然の成行にまかせておく場合、やがて世界の状態を根本から覆没し、第三インターナショナルをして現代文明の墓掘りに成功させるばかりのことである。日伊両国が、防共協定を結んで日独の防共措置を強化する工作に出たについては、英米等の第三国といえども、全幅の感謝を表明してしかるべきであり、これに向ってとやかく非難をさしはさむいわれはないと断言するに憚らない。

コンドル軍団
 イタリアも過去においては、共産主義の本拠地と遠く距たっているのに多少楽観的であった傾向がある。しかしながら最初がフランスにおける人民戦線の結成に成功した余勢を以てスペインの内乱に干渉し、ついにバロセロナの赤色政権も樹立させた、しかもオデッサを基地とする赤色潜水艦の跳梁は、今なお変幻出没捕捉すべからざるものがある。他方極東においてはソ連邦が支那の背後から干渉の手を差し伸べ、日支の戦局をいやが上にも悪化させたことは疑うべからざる事実である。しかも赤化路線の進むところ、外蒙は既に赤の一色で塗り潰され、次で新疆から甘粛、陜西の飛石伝いに支那の心臓部及び極東を狙って居ることは明瞭に看取されるところである。日、独、伊三国がモスコーから来るこの共通の脅威に対抗して防共国防壁を築いたことは、極めて時宜を得た外交措置というべきであろう。

 勿論日伊間にこの種の新協定が成立したからとて、今直にこれが現実的効果の現れる筈はあり得ない。しかしその見えざる効果が、決して軽からぬものあることは、日独協定におけると同様である。今度の事変に際し、日本が反日諸国の包囲態形の中に立って、いかに日独協定の存在に感激すべきものあるかは極めて明瞭である。

従って日伊の接触が、日本の国際的地位の上に如何に大なる寄与をなすかは喋々を要するまでもないであろう。世界の赤化を狙うソ連邦が、この際先ず第一に反省の要するはもちろんのことであるが、英米仏等の列国も、日、独、伊の三国が防共を看板として国際間における一グループを作るに至った事情に広汎な考慮を払い、差し当り極東における日本の立場を虚心坦懐の境地から考察して、支那事変に対する彼等の態度を再検討してしかるべきであろう。否この際彼等も進んで日、独、伊の防共網に参加し、世界平和、人類文明の擁護者としての当然の責務を果すべきではなかろうか。

國(右):1938年、日独伊防共協定を反映した三国友好「仲よし三國」の絵葉書ポストカード;1936年11月25日、ソ連を中心にした共産主義者、コミンテルンによる赤化を防ぐために、情報交換、破壊工作壊滅を企図して、日独防共協定(共産「インターナショナル」ニ対スル協定)が締結された。これは、1937年にコミンテルン第7回大会で、人民戦線(民族統一戦線)を各国に結成し、反ファシズム活動を強化することが唱えられたこと、1936年以来のスペイン内戦、中国での反日活動などが念頭にあった。
ただし、1936年(昭和11年)3月9日〜1937年(昭和12年)2月2日の首相廣田弘毅は、1935年の梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳純協定を引き継いで、着実に中国大陸への日本勢力拡大を中国国民政府に認めさせ、満州の権益確立を黙認させていたので、中国における共産党の赤化は食い止められると考えていたようだ。とすれば、日本にとっては、ソ連が主たる仮想敵ということになる。
1937年11月、イタリアが加盟し、日独伊防共協定となった。三国防共協定となった。1939年、ハンガリー、満州国、スペインも加盟した。しかし、1939年8月23日、独ソ不可侵条約が締結されたために、防共協定は空文化し、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻によって、ふたたび反共十字軍が唱えられ、1941年11月25日、防共協定の強化が図られた。対ソ戦に義勇兵を派遣するために、ブルガリア、フィンランド、ルーマニア、ドイツ傀儡スロバキア、ドイツ傀儡クロアチア、ドイツ占領下デンマーク、日本傀儡中華民国汪兆銘政権も加盟した。
Description 日本語: 1938年のプロパガンダ葉書”仲よし三國 Date 1938 Source アップロード者所蔵の葉書
写真はWikimedia Commons, Category:Maps showing the aftermath of World War File:Naka yoshi sangoku.jpg引用。


1ー4.日独伊防共協定に洪国[洪牙利:ハンガリー]も参加を声明 : 十六日、伯林で正式手続
大阪朝日新聞  日付 1939-01-15 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337536
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

[写真(チャーキー洪外相)あり 省略]

【ブダペスト特電十三日発】ブダペスト駐在日本、ドイツ、イタリー三国公使は十三日朝外相チャーキー氏を訪問、ハンガリー政府に対し防共協定参加を勧誘する本国政府の正式招請を通告したが、同外相は右三国に対し正式招請を受諾すべきことを回答した、尚同外相は十六日ベルリンを訪問し防共協定参加の正式手続を執るはずである

【同盟ブタペスト十三日発】ハンガリー政府は十三日日独伊防共協定に参加する旨正式に声明した、ハンガリー今回の挙は民主主義国と全体主義国とが東南欧洲において激しい制覇戦を演じている現在、ハンガリーが全体主義国に対する共感を堂々示唆したものとして注目される、なおハンガリーは大戦直後一九一八年秋に革命勃発、同一九年春にはハンガリー共産党のベラクンの指導の下に一時共産政治が樹立されたが遂に挙国一致してこれを排撃、二〇年ホルディ提督[L'amiral Horthy]の摂政就任以来引続き防共の巨歩を進めていたもので、共産党は合法的存在を禁止され最近では共産主義者が一人でも逮捕されると忽ち大ニュースになるほど微々たる勢力となっている

1ー5.日独伊防共協定に満洲国も正式参加 : 堂々・中外へ声明す
大阪朝日新聞 日付 1939-01-17 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100334979
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

溥儀 【新京特電十六日発】日独伊防共協定は十三日ハンガリーの正式加入を加え中欧、東亜を一線に結ぶ防共枢軸は更に一段と強化され反共防壁はますます強固なる基礎を確立するにいたった、ドイツ、イタリーに次で今回ハンガリーの正式承認を得、防共国家として国際外交の檜舞台に躍進した満洲国[Manchukuo]では、かねて日独伊三国の防共協定に正式加入の意向を懐いていたが、最近の国際情勢の進展に伴いいよいよ協定に正式加入のうえ名実ともに防共陣営における有力なるメンバーとして共産主義を排撃、世界平和樹立のため全力を尽して邁進することになり十六日午後二時から開催の国務院会議において廟議を一決し即日中外に声明した

"排共の完璧へ" 張国務総理声明

【新京特電十六日発】防共協定正式加盟の方針を決定した満洲国では即日右の方針を内外に声明するとともにわが植田大使、ワグナー独、コルテーゼ伊両国公使に同様の意向を通達した、正式加入の手続は日独伊三国の招請によって開始されることとなるが、その時期は極めて近きものと観測される

【同盟新京十六日発】満洲国政府は十六日国務院会議後張総理談の形式をもって政府の所信を堂々内外に闡明した=写真は張国務総理

 我国は建国以来日本帝国との協同防衛の盟約により不撓の決意をもって防共の第一線に立って活躍し来れるところ更に排共の完璧を期するため防共協定に正式に参加するを適当と認めこれが機運の醸成に努め来れるが、今回いよいよ現防共協定締約国側の勧誘に応じこれら諸国との間に具体的交渉を行い右実現を期することとせり

欧亜に亙る防共陣強化 外務省情報部長談

日独伊三国はかねてハンガリー政府および満洲国政府に対し防共協定参加の件につき共同勧説をなしていたところハンガリー政府は十三日、満洲国政府は十六日相ついで防共協定参加の意を声明し日独伊枢軸はここに一挙にして洪、満両国を加えた五ヶ国の防共枢軸に拡大強化された洪、満両国ともにそれそれ近日中に正式調印の運びに至るものと見られるが、満洲国の参加は極東の新秩序建設途上における布石ともなり、ハンガリーの参加は今後欧洲の小協商国及びバルカン諸国の間に一段と親独伊の傾向を助長するものと見られる満洲国およびハンガリー国の防共協定参加に関し河相外務省情報部長は十六日午後五時左の情報部長談を発表した

新春劈頭防共協定原署名国たる日独伊三国の共同勧誘に従い満洲国およびハンガリー国が相次いで新に本協定に参加の意向を表明したことは特筆すべき国際情勢の一発展である、そもそもコミンテルンは各国の歴史と文化とを抹殺し秩序の破壊を企図する人類共同の敵というべくそれゆえに世界のいずれの地域においてもその存在を許容されざるものであって各国が相携えてその絶滅を期するのは当然のことである、

コミンテルンはさきにスペインおよび中部ヨーロッパの赤化を企てたが独伊のため撃壌せられ、また英仏などにおいても民主主義を擬装し国内の左翼分子を煽動して全国的赤化を陰謀したるため最近これら国家の強き嫌悪を買い今や反共機運は全欧に鬱然として起り、ここにハンガリー国が率先防共の一翼として参加を見ることとなった次第である、

Trotsky また一方東亜における赤化の脅威に対してはわが国はまず起って防止の任に当っているこというまでもなく、今や満洲国の加盟を迎えんとし欧亜にわたる防共陣営は新に強化されたのである、

東亜新秩序建設の巨歩を歩み出したわが国としてはコミンテルン掃蕩のため防共の両翼を東西に加えたことを深く慶賀する次第であってこれを第一段階として今後世界各地域において続々志を同じゅうする参加国の現わるることを信じて疑わない

第二期建国 満洲国の成育ぶり

【新京特電十六日発】日独伊三国の防共協定に正式加盟を表明した満洲国[Manchukuo]は反共を最高国是として生きた新国家でソ連とは蜿蜒三千キロにわたって接壌し、建国以来国境全線に配備された三十万の赤軍によって直接の脅威下に曝され、一方コミンテルンが企図する東洋平和破壊のための国内共産匪[ Communist bandit]ならびに反満分子の援助、国内治安の攪乱など悪辣極まりないあらゆる策謀に悩まされながらも盟邦日本の協力を得てよくこれを反撃、国勢の育成に力を致して今日にいたった、

最近における満洲国建設の進展、国力の充実は実に目覚しいものがあり、ことに独、伊、西、洪など各国の正式承認によって国際的地位は躍進し名実ともに有力なメンバーとして防共協定に加入することとなったわけである、満洲国の正式加入は東亜、中欧を貫く世界の反響防衛陣に一段の強化を与えるものであるが満洲国自体としても対内的に極めて重要な意義をもっている、すなわち満洲国の健全なる建設を東亜新秩序序達成の基調と確信している満洲国としては防共協定正式加盟によって防共諸国との協力を緊密にして共産主義の攻勢を防遏し内には友邦日本の援助によって産業開発の遂行、国防国家の建設など国力の発展に邁進して東亜協同体の実現を期し延いては世界平和に貢献せんとするもので物心両方面にわたって第二期建国ともいうべきかつてなき重要時期を迎えたものとして注目に価する

1ー6.輝く東亜新秩序建設へ : 防共と平和に邁進 : 昨夜首相、全東亜へ放送
大阪朝日新聞 日付 1939-03-05 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100058010
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

平沼騏一郎 日満支各地で三日から行われている『東亜新秩序運動週間』を一層意義づけるため平沼[騏一郎]首相は四日午後七時半から首相官邸に備えつけたマイクを通じ『東亜新秩序建設』と題する左の如き講演を行った、この放送は内地はもちろん満洲国、北中南支大陸に中継され支那民衆の警醒、指導に努めている張季行氏がこれを支那語に通訳した、日満支の永遠の平和の理想境—新東亜体制完成の大業を諄々と説く首相の声は力強く全東亜に響いた=写真は官邸から放送中の平沼[騏一郎]首相(東朝社電送)

今や新東亜建設の機運がいかなる力をもってするも対抗するを得ざる勢いをもって擡頭しております、この重大なる更新の時期におきまして所信の一端を述ぶるの機会を得ましたことは私のもっとも欣幸とするところであります、凡そ東亜の平和は世界共通の理想でありまして日本帝国が今次支那事変を契機として東亜の天地をして永遠に平和の理想郷たらしめんとして努力しつつある所以のものも畢竟全東亜民衆の要望に副うべき天業完成のためにほかなりません、

申すまでもなく日本、満洲、支那の三国はアジヤにおける同文同種の国家とて地理的にも歴史的にも共存共栄の必然的関係に結ばれております、互いに相倚り相扶けて東亜の繁栄をはかるべき運命に置かれておるのであります、日満支三国がこの離るべからざる関連を明白に認識することがもっとも重要なことであります、

近衛 東亜新秩序の建設に関する帝国の方針は先に近衛[文麿]前内閣総理大臣が中外に声明した通りでありまして、日満支三国が相携えて東亜永遠の安定を確保することを終極の目標とするものであります、これがためには日満支三国は政治、経済、文化など各般にわたって互助連環の関係を樹立し東亜における国際正義の確立共同防共の達成、新文化の創造経済結合の実現を期せねばなりません、御承知のように満洲国はいよいよ新興国家体制を整備強化いたしまして現に新東亜建設の一翼として重要なる責務を果しつつあるのであります、隣邦支那においても更生の機運が澎湃として漲りつつあるのを感ずるのでありますが、帝国としては帝国と提携するに足る新興支那中央政権の成立発展を期待しておる次第であります、

由来帝国と支那とが共存共栄の必然的関係に置かれまして共通の文化の中に互いに成長発展して参りましたことは歴史の示す明白なる事実であります、したがって帝国と支那とが共同して東亜の新秩序建設に専心努力するにあらざればこの東亜の天地に永遠の平和と繁栄とを招来することは不可能であります、この平和と繁栄とは永く虐政に苦しんで来た支那民衆自身が何よりも望んでいるところであろうと存じます、かくのごとく永く苦悩の歴史をつづけて来た支那民衆に対しましては帝国の深く同情するところでありまして新秩序の建設によりかかる苦悩から支那民衆を脱却せしめ明朗なる東亜を建設することこそ帝国の念願であり目的とするところであります、

事変発生以来帝国が戦場に幾多の尊き生霊を失い多数の国帑を費してしかもなお目的貫行に一路邁進する所以のものは支那をして真の支那たらしめ東亜をして真の東亜たらしめもって同種同文の民族が血で血を洗うがごとき不祥事を将来永遠に絶滅せんがためであります、帝国と支那との共存共栄は互いに独立国たるの面目を保持することもちろんでありまして帝国はこれがために今次の事変に忍び得ざる犠牲を忍んでおります、かくの如く大犠牲をも耐え忍んでただただ支那の更生を望む所以のものは前にも申述べました通り支那をして真に東亜の支那たらしむるにあるのでありますから帝国と更生支那とは政治、経済、文化など総てにわたり固き固き互助連環の関係を結び互いに足らざるものを相補わねばならぬのであります、それには支那を他国の植民地化する如き欧米依存の唯物思想[Materialism]は支那全土から絶対に放逐せねばなりません、それにつきまして重要なのはアジヤ共通の思想対策、つまり東洋道徳の復興、防共陣営の強化が何よりも切実に必要であります、

コミンテルン[Communist International]が世界に向って宣伝する共産主義思想の害毒の大なること、該思想が東洋の思想と絶対に相容れざる兇悪思想なることは説くまでもないことであります、支那民衆を忘れた国民政府は今日においては支那共産党の圧力に押されて遂に容共政策をとり次第々々に共産党に圧倒されつつある実情であります、かくてはコミンテルン[Communist International]の思いのままとなり、ひいては支那全土を赤化する虞れが生ずるのであります、支那の同憂具眼の士もまた深くこの点を憂慮して支那良民を赤化の魔手より救うの必要なることを痛感していることと信ずるのであります、

土匪、軍閥の下に経験したる惨澹たる生活と帝国の意図する東亜新秩序の建設の意義とを十分に比較検討すれば帝国の公正なる意図は極めて明瞭であります、現に日本国内に多数の支那人が平和な生活を営んでいる事実は何よりも雄弁にこれを実証しております、支那全民衆を誤らしめた国民政府はすでに奥地に逃避して一地方政権と化したるにも拘らずいまもなお表面頑強に抗日を継続しております、彼らは現在においては戦力を失い見込みなき抗戦を続けておるのでありますが、これは一面において国民政府の誤れる指導者が自己の地位失墜を恐れるとともに第三国の援助に期待しているからでありましょう、

しかしこれら国民政府のなかにも日本の真意に共感しているものも少くないとのことであります、しかして第三国も帝国の真意を諒解してその誤れる反日政策を放棄するの余儀なきにいたることは想像に難くありません、それにしてももし国民政府が澎湃として大陸を圧する現下の東亜新秩序建設運動の真価を認識せずして単に自己保存の見地から第三国の援助にすがり抗日を叫びつつあるものとすれば、その短見やむしろ憐むべきで、溺れるもの藁をも掴むの類であります、しかしながら焦士抗戦によって善良な支那民衆の生活を破壊し第三国を利用せんとして却って国を売りつつある国民政府に対しては東亜新秩序建設の敵としてこれが絶滅をみるまでは将来どこまでも追撃の手をゆるめるものではありません、苛斂誅求の軍閥の悪政から共産主義の暴政に置き換えられるがごときことがあってはもはや支那民衆は永久に幸福をかち得ることが出来ません、共産主義の防衛に帝国がとくに力を注ぐゆえんもまたここに存するのであります、

毛沢東 しかして東亜新秩序の建設に当りましては東亜への共産主義侵入を防遏するため日満支が一体となって格段の強固なる結合をせねばならぬのであります、帝国といたしましては前途に如何なる難関が押し寄せようともこれを排除し、あくまでも新東亜建設の大業を完成する固き決意を有するものであります、帝国は東亜新秩序建設のため目下対内外にわたる諸般の国家体制を整備しつつあります、これは万難を突破するの準備でありまして新東亜建設の大業を完成する固き決意を有するものであります、帝国は東亜新秩序建設に今後いかに永き年月を費すとも何ら屈するところなくこれを完成すべき強固なる国家体制を建設しつつあるのであります、

今次事変の収拾こそは日本国民の偉大なる力を発揮する絶好の機会でありまして、肇国以来持ち続けて来た固有の精神は必ずこの大事業を完成するに足ることを固く信じております、支那民衆諸君が日本帝国の熱意を理解しこの精神に共感せられ、勇躍蹶起して日本、満洲、支那三国が相携えて世界に類例を見ない新東亜体制を完成するの大業に参加し、われわれとともにふるって東亜安定の礎石とならんことを切望する次第であります

1ー6.日独伊同盟締結せば恐るる敵なし : 米の参戦何のその
大阪時事新報 日付 1939-05-27 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338228
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ソビエットロシヤはその好むと好まざるに拘らず共に天を戴かざる宿命にある、そこでわが大陸作戦が生れるのである、平沼首相も当面の問題は東亜[新秩序]建設で日本は共産主義を撲滅することが出来る、欧洲にもソ連と結ぶものがあるがその結果はどうもよくない、覚醒すべきであるとその道義外交のうちに語っているがソ連に対する場合は日独伊の軍事同盟は極めて有効である即ちわが大陸作戦に求むるところの仮装敵国は支那及びソビエット連邦で支那に対しては既に有史以来の大軍事行動を開始しまた、ソ連に対しても所謂「ソ支二面同時武力作戦」が強化されているのであるから万一の場合これを日本一国で撃つより独伊と共にこれを東西より挟撃することの方が如何に有利であるかは説明するまでもない今回漸く締結をみるに至った英仏ソ三国軍事同盟は、極東問題を除外しているとあるがそんなことに遠慮する必要はない、

周恩来 以上の三国が支那事変以来続けている援蒋工作をハッキリ打切るならば多少考え直す余地もあるがそんなことは痴人の夢に等しい、ソ連の場合は独伊とことを起さなくても、わが国との関係は常に危険線にある従って西方—つまり欧洲に戦果が発し英仏ソと独伊が干戈を交えた場合日本が東方からソ連を撃つことは負担には異いないが大陸作戦としては今日以上任務が拡大するわけでないから日独伊の相互軍事援助ということはまず絶対必要で世界的戦争が発生せぬとしてもソ連を牽制することが出来、支那事変の処理なぞも極めて有効に転廻する、ところが欧洲に戦争が発生した場合当然考えられるのは英仏ソの陣営にアメリカが参戦するであろうということである

この場合、日本の海軍は英、米、仏、ソの四国海軍力のほかに情勢によっては蘭領印度[Dutch East Indies]の関係から和蘭の海軍をも向うに廻さねばならない満洲事変の際全世界を相手に焦土外交の決意をした日本のことであり今議会における米内海相の答弁にも帝国の海軍軍備は最大軍備国を目標にしたものであるから御安心願いたいとあったから太平洋の安全感には別に危懼するところもいらないが海軍の任務というものは実に重大となるまして場合によって軍艦の一部を地中海方面に分派しなければならぬような事態になればその負担は愈々大きなものとなる一方日本としては海の方面において独伊からうくる援助というものは皆無であるからだいぶ割が悪い割が悪いなぞというとこれは目先の利割に捉われたものであるという非難を受けるかも知れないがこれは事実である、しかし恐らく斯かることは杞憂となろう何故なら独伊の海軍力は英米仏三国に比し劣勢ではあるがこれを補うに優勢なる空軍と潜水艦を保有している、

英米仏三国艦隊の現有勢力は現在二・九五一・九五一トンとみればまず間違いはない、これに対し独伊の海軍力は大体において五六七、九二九トン程度である、つまり独伊海軍力は英米仏海軍力の約五分の一である五対一の劣勢である上、ソ連がこれに加わるとすれば、更に二四万トンばかりのものが増大するわけであるから軍艦を並べた帳面づらでゆくとこの相撲は独伊にとって相当大きな負担であるが英国艦隊はその構成組織というものが比較的旧式であるに比し独伊の海軍は近代的作戦のもとに整備されている加うるに独伊の空軍整備は将に世界に冠たるものであるから制空権[air superiority]なくして制海権[sea control]なき今日はこの相撲は十分五分以上にとり得るとみてよい、

陸において独伊が優勢を誇り得ることは世界悉知の事実であり海において五分の相撲がとれるとすれば勝敗の帰趨は自ら判然するこの場合問題なのはアメリカの海軍であるが日本の海軍太平洋に頑張っているとそう思い切った行動はとれない。そうすると海面上の戦闘区域の分担も自から画然とするわけである、問題がここまでつきつめられれば既に考慮の余地はないソ連が、中立を守る場合、一応考慮する必要はあったが既に英仏ソの同盟が確実化したとすればこれも考える必要が無くなった、問題はそれこそただ断の一字が残されているのみである

1ー7.防共精神の蹂躪 : 社説
大阪朝日新聞 日付 1939-08-24 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337931
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 独ソ不侵略条約は未だ成文化されたわけではない。が、締結することに決定したという両国政府の発表は、雄弁に両国間の新しき政治関係の樹立を物語るものである。すなわち、経済協定にしてからが、それ自体は政治的でないとしてもこれを結ぶということは有力な政治行動であり、やがては政治的協定に到達するに相違なしと見通されていたことを顧みれば、ことは一層はっきりして来るであろう。従って、官僚風に第一、第二、或いは第三の公文書を待つまでもなく、この新事態が東亜に対しいかなる影響を及ぼすか、またこれに対し興亜外交がいかに対処すべきやについては、予め決するところあるべきはいうまでもないのである。

 ところが、ベルリン・ローマよりの頻々たる情報によると、この不侵略条約は防共協定に悖るものでなく、それは今なお立派に存在するもので、ともかく日本としては、その世界政策を再検討して、ドイツと共同の目標に進み、ソ連と不侵略条約を締結して、英国打倒に共同戦線を張るべきだとの慫慂的態度を官辺において示しつつあるものの如くであるが、そんな人を馬鹿にした得手勝手な注文が通るものではない。


 というのは、世界周知の如くドイツの示唆に俟つまでもなく所見合わずして日英会談は決裂しているのである。これは東亜新秩序建設途上、必至の一段階をなすべきもので、国共合体[KMT–CCP Alliance]によって東亜攪乱を目ざすソウェート[Soviet]と謀略的に提携する下心のもとに、やまをかけているのでも何んでもない。

 すなわち、我国は防共の建前に立って、興亜政策を展開しつつあることを、寸刻なりとも忘却するほど健忘性ではあり得ないのである。とすれば、独ソ不侵略が[日独]防共協定違反なりや否やの解釈は、我方独自の信念に本づくべきは勿論、かつまた、同協定の文面によらず、その精神に則った客観的な標準によるべきことまたいうを俟たないのである。

日独防共協定の前文に共産インター[Comintern]は「世界平和全般を脅かすものなることを確信し、共産主義的破壊に対する防衛のため協力せんことを欲し」とあり、その後の日独伊議定書にも「ドイツ国政府は」、「平和及び秩序の維持を念とする一切の国家間における密接なる協力のみが、右危険を減殺し且つ除去し得ることを確信」し、とさらに語気の強められているのを見ると、文字解釈としても、協定相手国の不利になるような取極めを、突如として締結したことは、同協定の違反と解すべきはもとより、事前に諒解を求むることなしに、「減殺」し「除去」すべき危険の本家本元との間に、一種の友好関係を結びたることは、同協定の精神を殆ど空文に帰せしめたものなることは余りに明々白々の事実といわなければならぬ。余事はさて措き、この点は、ドイツの深甚なる反省を促さざるを得ないところである。


ノモンハン  いわんや、日ソ不侵略条約の能否、可否については、多く論ずるまでもないほど理義明瞭であろう。我建軍の目標、並に満洲事変以来の経緯を云為せずとも、また漁業問題、石油、石炭問題等はこと権益に関し、副次的要素なるがゆえにここに喋々せずとしても、およそ日支事変そのものが国共合作勢力を正面の敵としていること張鼓峰事件[朝鮮近く満ソ連国境で1938年7月、日本軍がソ連への威力偵察して撤退]、ノムンハンの露骨極まる牽制消耗軍事作戦に考え及んだならば、恐らく疑義を挿むの余地がないであろう。

我方として、新興ドイツが不公正なるヴェルサイユ条約を破摧し、平和裏に国家的発展を全うせんことを望み、かつ、それに必要なる国際政策を採用することも頗る至当のこととして、これを容認するに吝かではない。その意味においては、[独ソ]不侵略条約をとやかく内政干渉がましく論う意思を有するものではないのである。けれども、それが反防共協定たる性質を有する点だけは、率直にこれを指摘して、日本の立場を尊重せんことを要求してやまざるものである。


と同時に、今後の我皇道外交の独自なる方途についても、能否を計らず、可否を弁ぜざるていの妄動を敢てするものでないことを、ここに端的に表明し置くことを、友誼に本づく義務なりと確信するものである。

 皇道外交の真姿は、古来自ら存するあり。神州不滅の信念もまた、昔に今に不退転なるものがある。その現代における内容については、再び提唱するの機会に待つが、ともかく我方としては、東亜建設の手段を権略的に外に求めてはならないことだけは一言して置き度いのである。換言すれば、内に省み、一に帰し、国体は明徴に、責任感において不惜身命なるに及んでこそ、はじめて国家総力体制は堅く、自ら信ずるものの強さが発揮されるゆえんを指摘して置きたいのである。外廻りのことは、然る後にはじめて、自然に打開の途を見出すであろう。

 新自主外交とは、およそかくの如き、絶対帰一の国内整備によってのみ生れるとの根本観念に立てば、その発程がまず責任感の徹底によってなさるべきことと、利害打算に汲々乎として徒労なる摸索に、これ以上奔命せざらんことを冀求し置く必要を感ずる次第である。

1ー8.南京政府強化せば重慶の解体は必至 : 陳公博氏、和平問題を説く
大阪朝日新聞
Vol: 第 51巻 Page: 1 出版年 1940-11-09
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339549 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

[写真(陳公博氏)あり 省略]
【同盟南京七日発】国民政府立法院長陳公博氏は七日日独伊三国同盟後の国際情勢と日支全面的和平問題に関し左のごとき率直な見解を披瀝した

 自分が以前全面的和平の確信と見通しを抱いていたことは事実であるが実際の情勢発展はこれを裏切った、その理由として第一に国際情勢の変化、第二に重慶政権の諸条件を挙げることができる、すなわちこの半年の間に世界情勢は日独伊三国の枢軸と英米連合陣営とにハッキリ区分され一時は対日媚態を示しかかっていた英米が再びその対日政策を硬化した、これは英米依存の抗戦重慶[政権]にとっても和平の道を阻む最も有力な素因であること疑いない

 また蒋介石は対日抗戦によって支那統一を企てたのであって自己の力による支那統一を成就してからのち抗戦を開始したのではない、従って蒋介石が抗戦を継続している限り共産党も西南将領も服従するだろうが、もし一日蒋介石が和平を唱えれば忽ち彼らは現在の地位を失わざるを得ないため和平をよく実行し得ない所以であり、その後共産党の圧力はますます加重されているから事態は一層困難となりつつある、すなわち全面和平は今のところでは一寸見込みがない、

但し自分の信ずるところを率直にいうならばこの際日支全面的和平の可能性を実現せしめる唯一の方法は南東の国民政府を強化する以外にないと考えるこれは和平建国をめざず我々の責任であるが、同時により多く日本の支持と諒解にまたねばならぬ、つい最折重慶[政権]にある張群が汪[精衛]先生に対する極めて懐疑的な述懐を漏らしたそうである、もし我々の国民政府が真に自主的に強化されるならば重慶[政権]側のかかる懐疑分子は必ず南京[国民政府]に来り投ずるであろう、

かくして重慶の内部解体を促進せしめ全面和平実現に近づくことが可能となるのである、日独伊三国同盟成立後国際情勢は日本にとっても有利となった、しかしそれと同時に支那事変の全面的解決がいよいよ深く国際的情勢の動向に左右されるようになった点を見遁してはならぬと思う



ヒトラーは1940年にソビエト連邦に何をもたらしたか?
ЧТО ПРЕДЛАГАЛ ГИТЛЕР СОВЕТСКОМУ СОЮЗУ В 1940 ГОДУ?


2.1939年の独ソ不可侵条約と第二次大戦勃発

写真(右):1939年8月23日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン、独ソ不可侵条約の署名を終えたソ連指導者ヨシフ・スターリン書記長(右2人目)、人民委員会議議長(首相)兼外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)(右端)、ドイツ外務大臣フォン・リンベンドロップ(左2番目);1939年4月、日本陸軍満州駐屯軍の関東軍の参謀辻政信少佐は、満州国境紛争処理の基本方針を定めた「満ソ国境紛争処理要綱」を作成した。そして、1939年4月25日、関東軍司令官植田謙吉大将は、恒例の師団長会合で、この基本方針を関東軍作戦命令第1488として発令した。こうして、「満『ソ』国境ニ於ケル」『ソ』軍(外蒙軍ヲ含ム)ノ不法行為ニ対シテハ周到ナル準備ノ下ニ徹底的ニ之ヲ膺懲シ『ソ』軍を慴伏セシメ其ノ野望ヲ初動ニ於テ封殺破摧ス」という強硬な攻撃姿勢が基本となった。そして、「一時的ニ「ソ」兵ヲ満領内ニ誘致、滞留セシムル」「国境線明確ナラザル地域ニ於テハ防衛司令官ニ於テ自主的ニ国境線ヲ認定シテ之ヲ第一線部隊ニ明示シ」「断乎トシテ積極果敢ニ行動シ其ノ結果派生スベキ事態ノ収拾処理ニ関シテハ上級司令部ニ信倚シ意ヲ安ジテ唯第一線現場ニ於ケル必勝ニ専任シ万全ヲ期ス」と旺盛な繊維のもとで強硬な姿勢をとることが命令された。つまり、対中国戦争と同様、ソ連・モンゴルにたいしても、越境行為を徹底的に「膺懲」するとしたのである。もちろんこの国境線は、日ソ間で乖離しており、「越境」の判断は日本側に拠ったのである。
Русский: На фото слева направо заведующий юридическим отделом МИД Германии Фридрих Гаусс, министр иностранных дел Германии Иоахим фон Риббентроп, секретарь ВКП(б) Иосиф Сталин, министр иностранных дел СССР Вячеслав Молотов Date 23 August 1939 Source http://mtdata.ru/u25/photo72FB/20634308905-0/original.jpg Author Mikhail Mikhaylovich Kalashnikov
写真はWikimedia Commons, Category:Joseph Stalin in 1939 File:На заключении советско-германского договора о ненападении.jpg引用。


Ribbentrop 1939年8月23日,独ソ不可侵条約THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT が締結された。これは,

1)相互に相手の領土の不可侵,
2)一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない
3)相互間の紛争の平和的解決

を骨子とした,期限10年の条約である.

1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し,ポーランドと相互援助条約(軍事同盟)を締結していた英仏が9月3日に,対独宣戦布告をしている。そのような状況で,ソ連軍は,ポーランドの東半分を軍事占領し,ドイツとポーランドを分割する。

ポーランド分割占領は,ヒトラーとスターリンであらかじめ合意された独ソ不可侵条約における秘密議定書に基づいていた。ポーランド攻撃は,ポーランド在住のドイツ人(民族ドイツ人)が,ポーランド政府に迫害されていること,離れドイツ領である東プロイセンとの回廊を領土として要求し,拒否されたこと,ポーランド軍によるドイツ放送局の襲撃事件(実際は自作自演)などである。ヒトラーは,生存圏の確保のために,勢力を拡大したいだけであったのか。

ドイツとソ連の間に締結された独ソ不可侵条約は期限10年である。1週間後には,ドイツがポーランド侵攻を開始し,遅れて,ソ連もベラルーシ人、ウクライナ人の保護を名目にポーランドに軍を進駐させ、東部を占領した。 1939年9月17日、ソ連指導者ヨシフ・スターリン[Иосиф Сталин ]は,ポーランドにソ連赤軍を進駐させ、逃がし半分を占領をした。独ソ不可侵条約を結んだドイツが盾となり,英仏の干渉を受けないと考えたからである。

1939年9月25日、ソ連はバルト三国エストニア、ラトビア、リトアニアに対して、ドイツ対イギリス・フランスの第二次欧州大戦が勃発したために、安全保障の必要上、ソ連赤軍が駐留することを要請した。1939年9月28日、エストニアが、10月5日にラトビアが、10月10日にリトアニアがそれをm止めた。した。こうして、1939年10月以降、ソ連赤軍はエストニアに2万5千人、ラトビアに3万人、リトアニアに2万人の駐留が可能になった。こうして、バルト三国を併呑したソ連は、フィンランドにも同様のソ連赤軍駐留と領土交換を持ち掛けたが、両国の交渉は決裂し、1939年11月,ソ連はフィンランドに「冬戦争」を仕掛けている。

第二次世界大戦の勃発によって,世界情勢は大きく変化してきており,今後のソ連,米国の動向が注目されていた。そのような時期に,日本としては,好き好んで,独ソ不可侵条約を締結したソ連に攻勢を掛ける必要はない。それどころか,ソ連は,ドイツと独ソ不可侵条約を結んでおり,欧州方面の安全保障が確保されている。ということは,東欧方面,バルト諸国,フィンランド,極東方面に兵力を集中し,攻撃できるというイニシアチブを握っている。



Пакт Молотова Риббентропа Stalin 1939 Molotov Ribbentrop Pakt Pact

2−1.[独ソ]不可侵条約と防共 : 社説
京城日報 日付 1939-09-29 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336385
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 独ソ両国巨頭連の両国首都往来にからみ最近の外電は屡々独ソ軍事同盟成立の近きを伝え、また交戦地域の西部への移行を伝えてはソ独伊三国同盟の結成をさえ予想している。元来氷炭相容れぬ建国精神を以って再建された独ソ両国間に予想だにも難い不可侵協定がむすばれ各国人を驚異せしめた直後のことであるから一部人士中に、独ソが同盟し或は三国が相提携して相互に全的抱合を実現するのではないかというような予想がなされることは元々あり勝ちのことである。

然し共産主義を国本とするソ連と他方共産主義勢力を打倒し、反共運動を最高の手段として復興したナチスドイツ更にイタリーとの協調には自ら越ゆべからざる厳然たる限界の存することは茲に更めて談ずるの要なきことである、即ちこの限界の突破はソ連がナチズム乃至ファッシズムに協調するか、或はナチス乃至ファッショが共産主義に迎合するか両者の一の方法によってのみ突破され得るのであるが何れの方法に依ると此の限界は即国本の安危、乃至は当該国政府に対する国民の政治的信頼の限界をも同時に意味するのであるから、この限界はそれ等三国政府中の何れかに世界一の冒険家か或は世界第一の愚者が居合わさない限り容易に突破され得るものでないこと勿論である。

而して盟邦独伊にこの限界突破を余儀なからしめる如き何等の条件なく勿論右の如き愚者や冒険家なしとすれば既に結ばれたる協定、或は将来更に結ばれることあるべき協定は、要するに専ら欧洲新秩序建設途上のナチスドイツの当面の戦略的要請に基づくもので、ソ連側としても只管得意の共同戦線戦略的建前から自国の世界政策に再出発を試みたものと解すべきである。

この意味において一の独ソの不可侵協定成立を以って両国の全的抱合の如く誤認し、このことから反撥的にイギリスとの妥協を考え、或は又逆に極東問題の有利なる処理のために求めてソ連との同盟を考える如きは、現下の情勢において最も陥り易き危険であり、かかる危険を敢て冒さざる為には、新情勢に即応する防共、排英運動に一段の拍車が、加えらるべきであろう


Mussolini 2−2.ソ連は侵略主義 : 伊政府の示唆ガイダ主筆痛撃す
大阪朝日新聞 日付 1939-11-09 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337426
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【ローマ特電七日発】

第二十二回ボルシェヴィキ革命記念日におけるコミンテルンの宣言に対しジョルナーレ・デイタリヤ紙主筆ガイダ氏は挑戦的論陣を張り八日付同紙上で徹底的にこれを爆撃「コミンテルンとソ連政府の差別いずこにありや」と前提して現在のソ連政府の政策を完膚なきまでに攻撃したが、右論文はイタリヤ政府の示唆を受け公表された最初のソ連非難でこれによりイタリヤ政府は今次の戦争、特にダニューブ、バルカン方面における反ソ的立場をはじめて明瞭にしたものとして各方面から重要視されている、同論文の要旨は左のごとくである

[写真(ガイダ主筆)あり 省略]

 イタリヤ新聞がコミンテルン宣言に論評を加える事実はファシスト・イタリヤが共産主義の危険な宣伝を痛感している証拠である、しかして現下の情勢においてかかる宣言にイタリヤが批判を加えることは真のヨーロッパ文化防衛のために関与することにもなるのである、コミンテルンは英仏独諸国を断罪する地位に立ち今次の戦争を目して新資源獲得のための帝国主義的戦争と断じたが、しからばまずモスコーに本部を置くソ連要人により指導されつつあるコミンテルンはソ連政府と如何なる差異があるか共産主義の指導精神は果してソ連の政策と幾何の相違ありやを反問したい

Ciano 以上の相違点はかつて明瞭にされたことがなかったではないか、コミンテルンは今日英仏両民主主義国家のみならずソ連政府が事実上の同盟国と誇称しているドイツをもさばかんとする態度に出ているのは真に奇怪至極である、この時日はモスコーとベルリンの間にはいまだ真の協定がないというに等しいのか、もし現在ヨーロッパに帝国主義的戦争ありとせばソ連もまたその渦中にありといわねばならない

ソ連は帝政時代よりの領土を受け継ぎ現在世界で最も資源に富める国でありながらしかもこれをさらに増大せんと企図しているではないか、他国民の領土の自由に対する示威ならびに帝国主義諸国と全く同一の投機的営利主義による経済特権の獲得、政治的圧迫、これがソ連の政策ではないか、かかるソ連が過去二十年にわたり平和維持に専念したなどとはいかなるヨーロッパ人に対する言辞であるか、ソ連は過去二十年にわたり世界の共産革命を期待しつつ戦争を準備したにすぎなかったものである、スペイン内乱で示された事実はきのうのことであり、支那を使嗾して対日戦争を準備させた計画は永年にわたっているではないか、豊沃にして神秘な外蒙に対するソ連の干渉は共産主義の仮面をかぶって帝政ロシヤの帝国主義を継続したものにほかならない

対英仏交渉が平和維持のためであったなどの訴えにより健忘症のヨーロッパ人を欺くことは不可能だ、この交渉は独伊包囲政策のためであったことは何人も忘れていないんだ、ソ連が戦争不拡のためダニューブとバルカンに対し崇高な使命を遂行しつつありというにいたっては虚構もまた甚だしいといわねばならぬ、この使命を担ったものはイタリヤであり決してソ連でないことは世界の斉しく認むるところである、イタリヤが積極的に軍事行動を今日までとらなかったがゆえにソ連の参戦により拡大された戦争を現在のごとく局限し得たのである、イタリヤのこの政策はソ連の圧迫が刻々増大しつつある今日、依然同地方の平和を確保しつつあるゆえんでもある、コミンテルンはイタリヤを讒謗し適当なる機会に戦勝国に加担し最後の分け前を取らんとしていると断じたが、かかる態度はソ連の真意を自白したもので、今年九月の行動がこれを立証している

2−3.日ソ停戦独に関係なし : 米記者団へ堀内大使ステートメント
大阪朝日新聞 日付 1939-09-22URL URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335762
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【ワシントン二十日発同盟】堀内駐米大使のアメリカ新聞記者団に対する日ソ停戦協定に関するステートメントの要旨はつぎの如くである

 満蒙国境、ノモンハン附近における日ソ停戦協定は九月十六日発表をされたが日本政府は欧洲戦争に介入せず専ら日支事変処理に邁進せんとするの根本方針に基いて戦闘停止ならびに国境劃定交渉開始に同意するものである、この独自的紛争停止に関する協定に何らかのより深き意義を付せんとすることは重大なる誤解を招く所以であるのみならず同協定をもって不侵略条約の締結或はさらに強度の日ソ接近の前提なりとなすのは全く根拠のないものである、而して同協定締結に際しドイツが仲介の労を執ったとの噂も又全く事実無根である

堀内大使は更に支那における日本軍占領地帯に戦火の波及するを阻止せんがための措置について左の如く説明した

 我々はこの問題が外交々渉によって円満に解決せんことを心から希望しているが日本政府の要望は日本政府が既に声明した通り日本は欧洲戦争に介入することなく支那事変の解決に邁進するものなりとの根本方針の一部をなすものである

2−4.欧洲大戦と日本 (上・中・下) 著者 山崎靖純
満州日日新聞 / 満州日報 1939-09-26/1939-09-29 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335901
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(上) 第二次世界大戦への発展性とその特徴

I号戦車  欧洲大戦は今や新たな展開を見ようとしている。ワルソーの陥落も刻々近づき、また既に多くの重要都市を喪失したポーランドは[イグナツィ・]モシスキー[(Ignacy Mościcki]大統領、スミグリ元帥以下の政府首脳部が遂にルーマニアに亡命するに至ったが、恰もこの時ソ連は[1939年9月15日]ノモンハン停戦協定と同時に西部国境へ終結せる四百万の大軍を以て、一挙ポーランドウクライナ、白ロシアの占領を開始した、かくてポーランド開戦後一ヶ月を出でずして、事実上崩壊し去り、それと共に早くも全面的な欧洲大戦、いな世界戦争への転換が間近に到来しつつあると言えるであろう、だが果して世界大戦化するであろうか。

今日においては最早や多くの人がその可能性を否定しなくなったように思われる。しかし独波開戦当時、多くの人は昨秋のミュンヘン的解決の再現を予想していた。更に三日英仏の宣戦布告が事実となるや、ドイツのポーランド占拠完成を機会として妥協が成立するか、大規模の流血的闘争を伴わざる対抗状態が開始されるかの何れかであり、全面的大戦へ転換することは恐らくなかろうという事を期待したが、それが正しい見通しであったかどうか、愈々現実化される時機が切迫しつつあるようである

ゲッペルス 筆者は、一面、幾多限定の可能性を認めつつも、結局、世界大戦への発展を予想し来ったものであるが、思うに今次の大戦の経過は屡々人の意表に出で、ために複雑怪奇を極むるなどと称せられるにも拘らず、実は却てその中にこそ戦争の本質と、戦争形式の新たな特徴とが、遺憾なく発揮されつつあることを承認せざるを得ないのである

 先ずドイツの十六ヶ条の対波要求であるが、それはドイツに対立せんとするポーランドにとっては重大な利害には相違ないがそれにも拘らず武力的衝突に出でずして解決せんとするドイツの苦心の形跡は、これを否定することは出来ない、それは開戦の口実を得んがための故意の要求ではない、流血の戦争を経ずして、戦争の目的を達せんとしたことは明白であり、その場合にも発火せざる軍事作戦はなお絶対的に必要であったとしても、英仏を頼むポーランドの攻勢は、却てヒットラーの期待に反するものであったろう、一外人評論家は、チェッコ併合に至るまでの大ドイツ国民主義の進出を以て既に次の大戦は開始されているそれに伴う一連の軍事行動は立派な作戦機動であって、ただ、その戦争様式が異っているに過ぎない、

しかし英仏がこの威圧の軍国主義とも称すべき戦法を看破した時、また再び旧来の、即ち直接の流血的な殺戮戦争に帰するか、或いは進出を停止する外はないであろうと述べているが、支那事変においても我々が体験し来ったように、今日の戦争は、如何に大規模であろうとも、純軍事的行動たる戦闘の単なる集積ではなく、戦争に、即ち戦争の目的たる政治に重心が絶えず置かれているのである、逆に言えば、偶々政治と外交とが現象的に華やかな動きを示す場合でも、それは武力的衝突としての戦争への発展性の欠如或いは中断を意味するものではなく、寧ろそれ自身広汎な近代戦争の構成要素に外ならない

 従ってポーランド潰滅後に於て独英の妥協の余地を残すためにイタリーが計画的に中立を維持していると言われているのも、大いに可能性のあることであるが、各国政府の主観的な意図を越えて、今日の密接に相互連関した客観的な政治経済条件に基ける綜合的動向として、大戦への傾向が濃厚化しつつあることも赤裸々な現実である、恐慌と同じように戦争も亦単なる打算や主観によって、放恣に或いは起し、或いは中止せしめ得るものではない、新しい高い解決方式が見出されるか、戦争によって極端に破壊されるかしない限り盲目的な不可避性として各国政府を引きずって行く力が大きい

I号戦車 また、今次の大戦は前の大戦とその形相を著しく異にしている、軍事同盟の一方たるイタリーの中立を始め幾多の国が中立を宣言した、だが、既に米国は中立宣言が米国民の良心を拘束し得るものでないことを声明する一方、米国の対英仏援助は公然の事実となっているし、ソ連の中立はポーランド進駐となり、英国自らも対中立国貿易を積極的に制圧しつつあるし群小の中立諸国家は、中立の維持に困難を感じ動揺している、更に如何なる大国と雖も、今日の発展せる国際政治経済関係からすれば実際上、早晩、独立乃至中立を維持することは可能でも無ければ利益でもなくなるであろうことが明かになった、そして凡ゆる主観的希望にも拘らず、米国を始め世界の諸国は、前の大戦の場合よりも遥かに急速に中立性を喪失しつつあるし、逆に言えば中立の困難とその危険が強く意識されればこそ却て中立を逸早く宣言すると言った観がある、布告なき戦争と同様中立国の交戦、従ってまた中立国化による敗戦も亦大いに存在し得るが、これこそ近代戦争の一大偽装であることを忘れてはならない

かくて我々は次のような結論に達する。今次の大戦は、幾多の変化や意外な局面展開を現出し、単純なる予測を許さないであろうが結局、広汎、複雑な世界大戦(支那事変既に然り)へと次第に発展せざるを得ないであろう。蓋し、戦前の武装平和は、何等問題の解決ではなく、却て問題を一層拡大し、益々大規模の戦争を準備する行程に過ぎず、戦争と殆ど異る所なき「発火せる平和」「発火せざる戦争」であったからである。そしてこの大戦の場合、中立を宣言する各国は、今日の発展せる国際政治経済上の諸関係に促されて、事実上、意外に早くその中立性を破棄せざるを得ないこと、中立によっても、敗戦と同じ結果が与えられ得ること、就中、今次の戦争はその政治性を遺憾なく発揮し、従って高い政治性とそれによる強固な国民的統一とを有たざる国は遂に真の戦勝国たり得ないこと、等々を予想し得るであろう。

 西部戦線における緩慢な作戦は一時独、英仏両軍に戦意なきことを語るものと考えられたのは、周知の如くであるが、これも前大戦の経験に基く作戦上の傾向を示し長期戦を予想するものであることが明かになった、換言すれば戦闘における個々の急速な勝利よりも究極における戦争の勝利を、更に狭義の武器による戦争よりも諸国家、諸民族間の政治的、歴史的闘争、その根柢にある異れる原理と方式のための戦争を—但し客観的に見てであるが—追求せざるを得ない傾向を露呈しているのである

 かくてポーランドの崩壊は正に既成の事実とならんとし、これを転機として一層、広汎且つ深刻な歴史的大戦が、次第にその全猊を明かにし来るものと考えられる (つづく)

38(t)戦車 (中) 第二次大戦が包蔵する歴史的意義

 だが、ポーランドの崩壊の後に来る新局面の展開は、単なる戦争規模の拡大に止まるものではない。独ソ両軍は十八日早くもブレストリトウスクにおいて相会し、ポーランド分割に関する六項目につき意見の一致を見たとベルリン電報は報道している。即ち、ポーランドは国家として持つべき存在条件を具備せず、且つ無能力によって崩壊したと前提し、国民協同体の建設によるポーランド各民族の再調整、独ソ両国の平和と秩序とを保障すべきポーランド内各民族間の新たな和協、等を掲げている。

換言すればドイツは直接、狭義の軍事的要求からしても、制圧せるポーランド諸民族に対し、ドイツの要求の歴史的合理性を実証するに足る秩序の再建を強行する事なくしては、不断に後方を脅かされ、遂に英仏連合軍に屈服すべき危険性に当面するのである。長期戦化すればする程、此の意義は圧倒的に重大化するであろう。しかし各民族間の和協は、従来のヨーロッパ的民族支配や併呑の形式の下には存在し得ない。 大統領

また、[ウッドロー・]ウィルソンの形式的民族自決主義、即ち各民族がその国家的結合に充分なる条件と能力との有無に拘らず、形式的に分離対立せしめてヨーロッパに中世紀的分裂を再現し、実質的には大国の傀儡化し、紛争の原因たらしめた十八、九世紀的、自由主義的民族主義によっても調整し得ないことは、最早や明かであり、大ドイツ国民主義こそ、かかるヴェルサイユ体制によって悲惨な運命に陥ったドイツ民族の復興運動なのである。若しドイツにしてこの同じ民族的要請、原理を他民族にまで拡充し得る新たな原理と方式とを創造し得なかったら、多くの諸民族は、遂にドイツを無意味なる秩序破壊者として処断するであろう。

而してこの新たな原理、方式とは、民族協同と同権とを原則とし、指導的大民族の下に、地理的、歴史的、文化的条件に即応しつつ結合せる諸民族、諸国家の協同体の建設ということで無ければならない。日本は、既にこの事を東亜的規模において実現しつつあるが、ドイツもまたこれを先ず東欧、南欧より開始し、次第にヨーロッパ民族協同体建設の方向を衝動するに至るであろうか、それとも利己的、一方的民族膨脹主義の冒険に自己を覆滅するであろうか否か正に今後の問題であろう

 この場合注目すべきは、ドイツ国内における戦争及び独ソ接近の影響であろう。大胆な予想かもしれないが、ナチズムは、ドイツ国民主義の思想の限り、それは切実な要請を有ち、また力強い原理性を発揮していると言えるが、不幸にして旧来の自由主義を止揚していない。その結果はそれと極端に対蹠的な全体主義統制主義を以て代行するか、或いはそれを既成事実として許容している。ここにナチスドイツの戦時的脆弱性が伏在し、戦争は無慈悲にそれを震撼せしめ、その限りでナチズムを前進せしめるか、崩壊せしめるかする可能性がある。ドイツの対ソ接近はドイツのソウェート化を促進するよりも、かかる意味のナチズムの発展、それによる共産主義との競合とを促進しそうに思われる

 ところで注目すべきは、その共産主義を国是とする当のソ連が行った最近の大転換である。共産党機関紙プラウダは、ドイツのポーランド進入を従来の如く侵略呼ばわりしなかったばかりでなく、却てポーランドがその国内にあるウクライナ人、白ロシア人を抑圧していたことが敗戦の原因であると非難して、次いで起ったソ連赤軍の対波進入を用意したが、いまは又バルト海諸国のソ連併合が危懼され、更に南下して印度を始め中央、西南アジアの諸民族に工作する程までに積極化しつつある。

この事は、ソ連が連盟型の自由主義的民族主義を破棄しつつあることを前兆するものである。ソ連は、国内に於て大戦直後に極端なまで採用した民族の形式的平等を前提とする連邦制を、次第に大ロシア人を中心とする単一国家に移行せしめ、民族独立運動を強圧するに至ったが、今は之を対外的にも表現し、大国主義乃至大国家連合へと積極化せんとするかの観があるこれを客観的に見れば、ドイツと同様に、諸民族、諸国家の自由主義的対立関係を乗り越えて、諸民族の協同と統一とを実現すべき方向へ、暴力的に前進しつつあるものとも考えられよう。しかし民族を第二義的な歴史的残存物としか見ない今日のソ連の原理及び方式はこれと鋭く衝突し、或いは共産主義の旗印の下に、それとは異ったロシア国民主義化が進行しそうに思われる。

既にソ連のポーランド進攻は、流石の仏国共産党をも動揺せしめ、重慶政府の諸機関紙はソ連の怪奇な行動を非難し、抗日支那のポーランド化を憂慮している。勿論、一部の論者の如くコミンテルンの崩壊は、しかく自動的には起らないであろうし、理論と戦術との使い分けによる二重政策は、コミンテルンの勢力の実体を変質せしめながらも、それを長く盲目的な状態に繋ぎとめ得るであろうが、コミンテルン自体の政治的、思想的生命は既に終焉に近づきつつあると考えることが出来よう。ともあれ今次の戦争はソ連及びコミンテルンをも震撼せしめ、新たな傾向を露呈せしめそうである

Chamberlain  最後に民族と関連し、更に重要な問題は、資本主義、民主々義の問題である、ヒットラー[Hitler]は英国の黄金と包囲とによる政策が今回大戦誘発の責任を負うべきものと非難し、一方[ネヴィル・]チェンバレン[Arthur Neville Chamberlain: 1869-1940/11/9]はヒットラーイズムの打倒を絶叫し、今次の大戦の背後にある原理の戦いを不完全に表明しているが、世界、今日の混乱は言うまでもなく、資本主義の全面的行詰りと、世界自由貿易の崩壊にあり、両者を基調とせる英国的支配の崩壊である。ロンドンのエコノミスト誌副主筆ハットンは次の如く論じている。

英仏両国民は民主主義と自由の擁護のために戦えと要求されながら実は国際的対立の危険のために国内的にはその擁護すべき民主々義は既に存在しない。武装平和は、戦争準備のために益々国内、国際情勢をアブノーマル化し、全体主義化し、しかも問題を拡大し悪化せしめるだけで少しも平和たり得ず、戦争も平和も今日のままでは等しく地獄であり冥府である。戦争準備も、戦争の終末も、軍備撤廃もただ英仏独伊の一切の国を全体主義化し、その相違を水平化するのみであって、ヨーロッパに少しも希望を齎さないと

 是は、英国の一戦時思想家の苦悩を端的に表明しているが、拡大し行く大戦は、資本主義、自由主義による旧き支配擁護の方向と、それの止揚を目指す方向との歴史的戦争となるであろうことは明かである(つづく)

(下) 雄飛か停滞か いま岐路に立つ日本

 前述の如き国際情勢の急転につれて、わが日本も新たな諸条件の下に置かれるに至ったが、それと同時に警戒を要する幾多の傾向を見つつある

 独ソ不侵略条約の成立のため日本が自然、中立的地位に還元し、軍事同盟化による負担と危険から免れたばかりでなく、中立国貿易の利益さえ享受し得るとの楽観気分が一部国民の間に急速に浸潤してきた

 欧洲戦争は、確に極東に対する英仏の圧力を減退せしめ、その限りでは日本を有利ならしめているが、最後に決定力とさえなりそうに思われる米国の態度は、それらに代って日本を牽制せんとしつつある、それに、前述の如く早晩中立性の維持が大部分の国にとって不可能となり、遂に空前の世界大戦が展開された場合、日本も亦、中立を保つことは、不可能でもあれば、利益でもない上に、或いはそのまま孤立、落伍、敗戦を意味する段階さえ予想され得る。殊に今回の戦争が既に述べた通りの歴史性を帯び、資本主義、自由主義による現状維持と、それの止揚による現状打破との世界歴史的闘争を内包するにおいては、消極的な中立性は日本の到底堪え得る所ではないであろう

 従って阿部内閣が、差し当り、自主外交への還元、欧洲戦争不介入を声明したのは、その言葉の限りでは実に当然のことではあったが、若しもそれが反独伊、英米接近の偽装として利用されたり、中立が最後まで可能であり、しかも漁夫の利益を占め得るとの錯覚を前提とし、精神的、物質的武装解除の状態に苟安することであるならば、それこそ由々しき重大事と言わねばならない。寧ろ次の波瀾へ過渡する一小康期、より大なる歴史的戦争と飛躍との準備期として我々がこれを受入れなかったならば、遂に「天佑」とならないであろうことは想像するに難くない

 更に阿部内閣は、不介入方針と表裏せしめて、支那事変処理に専心することを力説しているが、若しも英仏の圧力後退に乗じて、殊に英、米その他との根本的妥協によって、汪精衛を中心とする新中央政権の樹立と孤立せる重慶政府の軍事的、政治的圧倒を簡単に予測するものであるならば、一定のその可能性は確に存在するとしても、それは極めて不安定なもので問題の解決ではあり得ない、特にこの場合、親英政策によって欧米列国と妥協して、対支権益の共同確保に堕し、或いは英仏に代えて米国を、妥協の必要から東亜の機構の中に深く介入せしめる端を開くならば、日本は支那事変の真の目標を失い、二十五年の昔に復帰し、東洋の番犬に堕する外はない、この事は、同時に中国民衆に対して日本が権威と信義を失い、従ってまた事変の根本解決を不可能にするものである。

今日、日本が全力を傾倒して援助しつつある汪精衛政権に向って多くの国民党指揮者が容易に投じ来らざる重大原因は、日本が果して英国と異り民族開放の政治性を有ち得るか否か、最小限度、公約せる範囲においてそれを実行するか否かに関して、容易にこれを確認し得ないしそれを保証する一定の政治勢力も存在していないためであると言われている。これは、日本が新しい理想を有つ明確な政治性を強力に押し出すことを要求するものであるが、それと関連して独ソが抗英の立場から印度その他のアジア諸民族解放の宣伝を強化しつつある一方、印度国民会議派が、英国は先ずその植民地における帝国主義を放棄し、印度に完全なデモクラシーを与うべきだと宣言している事態は、日本の歴史的本能にとって傍観し難いものが存在する

 換言すれば、結局、亜細亜、少くとも東亜から一旦、英国によって代表される従来のヨーロッパ支配を排除し、新秩序を建設することは、日本の基本的使命であり、利益であるのであって、情勢の如何はその手段、方法において変化を必要とするとしても、かかる目標を改廃するものではなく、雄飛せんとする日本にとって是れは宿命とも言うべきものである

 然るに、個人的営利と当面の実利外交とを追う一部の人達は、此の基本的利益と使命とを忘れて、親英的打算に走り、或いは一方的な親米工作に熱中する傾向がある。だが幸か不幸か米国と言い、英国と言い、日本の如き強国の哀訴に対しては、却てこれに乗じて一層の譲歩か対立を求むる傾向が大きい。即ち、実利的に見ても、日本は決して自己の基本利益や使命を混乱せしめてまで追従しては、却て実利すらも得がたいと言わねばならない

 従って日本は、当面、この欧洲大戦の好機会を天佑として、対英問題の解決という方向に置いて、支那事変の処理に全力を集中し、それ故に独、ソ、伊の反英方向の発展に関心しつつ、敵対せんとする諸国に対しても、自主的立場から、凡ゆる可能な機会において、自由自在な外交を展開し、日本の基本的使命と利益とを擁護すべきであろう

 だが、以上の政治的新局面は、同時に経済的新局面でもあった。株式市場は沸騰して、前の大戦時の好況を回想した。成程、綿糸布その他の繊維工業、或いは水産物その他食料品等は売行増加と価格昂騰との二重の好影響に活気を呈し、また、海運業その他輸出貿易の振興に関連する各部門の間にもそれが浸潤し来るであろうが他の半面に於て更に深刻な困難が山積しつつある事は周知の通りである

 即ち、軍需品、生産力拡充資材重要原料品の輸入困難及び価格昂騰、生活必需品輸出強行による国内物資不足の傾向増大、農業生産の減収傾向等が発展するに対し、他方、これまでの国内における貨幣的資産膨脹の方向に、一部輸出貿易の殷賑、海外受取高の増加、海外物価奔騰傾向が複合されて一層の物価高が出現し、悪性インフレ化の国際的競合が予想され、株式市場が思惑した中立国貿易の好況は、結局するところ、物資の国内供給よりも遥かに大きな割合における貨幣的資産の膨脹となりそれ故に日本経済のインフレを危険なまでに発展せしめる懼れがある。九月十八日の物価、賃金、給料その他に釘付ける引上禁止令は、それ自体頗る矛盾を内包しているが、それにも拘らず、日本経済の前途に対する予防的措置としては一つの英断であったと言ってよいであろう

 これを要するに、欧洲大戦が展開した新局面は、政治的にも、経済的にも、それ自体としては楽観材料と云うべきでなく、ただ日本がその大いなる基本国策と決意とを確定し、それの展開にこの情勢に資する時にのみ、初めて天佑となることが明かであろう。親英米による歴史的停滞が、果断な事変処理を通じて米、ソと共に、世界政治のキャスティング・ボートを得て雄飛するか、日本は正に世界史的規模における一大岐路に立ったと云うべきであろう。


Paris 1940 - Deutsche Besatzung - German Occupation - l´Occupation allemande, film: color/bw


3.1940年フランス敗北後の日独伊三国同盟

写真(右)1940年5-6月,西部戦線でドイツ軍の捕虜となったフランス軍兵士の行進
Frankreich.- kriegsgefangene französische Soldaten auf dem Marsch; PK 670 Dating: 1940 Mai - Juni Photographer: Weber, Robert 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1940年5月にドイツは西方侵攻を開始、ベルギー、オランダを蹂躙し、フランス軍・イギリス軍をダンケルクに追い詰めた。フランス政府では和平派(終戦派)が台頭、1940年5月20日,レノー内閣が改造され、副首相にフィリップ・ペタン元帥が就任し、1か月後にドイツに降伏したた。

写真(右)1940年6月18日,パリに無血入城し,エッフェル塔直下に着いたドイツ国防軍:ドイツ軍の車両には対空射撃にも使える7.92ミリ機銃が装備されている。1940年6月22日,フランスが降伏し,ドイツにとって,残る敵は英国だけになった。ヒトラーは,孤立した英国がドイツに休戦を申し込んでくるに違いないと楽観,誤解していた。
Scherl: Die Deutschen Truppen in Paris. Deutsche Flak am Eifelturm, 18.6.40 [Herausgabedatum] ADN-ZB/Archiv: II. Weltkrieg 1939-45 Die französische Hauptstadt Paris wird am 14. Juni 1940 durch die faschistische deutsche Wehrmacht besetzt. Soldaten einer deutschen Flak-Abteilung am Tag des Einmarsches vor dem Eiffelturm. Archive title: Frankreich, Paris.- Deutsche Flugabwehr vor dem Eifelturm in einem PKW sitzend Dating: Juni 1940
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


独仏戦では,フランス軍は、死者10万人、負傷者12万人、捕虜150万人の損害を出した。他方,ドイツ軍は,死者4万人,負傷者15万人だった。

1940年5月には,ドイツ軍はベルギー,オランダを攻撃し,6月22日には,フランスも降伏させてしまう。この電撃戦の成果のおこぼれを期待した日本は,火事場泥棒よろしく,フランス植民地のインドシナに大規模な日本軍を派遣することを検討した。産業界もオランダ植民地のインドネシア(蘭印)石油,石炭,スズに注目した。こうして、日本は南方熱にうかされ,東南アジアへの進出・進駐を準備する。そのために、独ソ不可侵条約に倣って、日本外務大臣が尽力、日ソ不可侵条約の締結に成功した。

⇒写真集Album:1941年 日ソ不可侵条約を見る。


O Pacto Tripartite: Alemanha, Itália e Japão
Essa aliança foi chamada de Pacto Tripartite, também conhecido como Pacto de Berlim, um acordo celebrado entre a Alemanha, Itália e Japão em 27 de setembro de 1940, um ano após o início da Segunda Guerra Mundial, com o intuito de formar uma aliança de defesa entre os países para impedir que os Estados Unidos entrassem no conflito.

アイスランドはデンマーク領だったが、1874年に自治を認められ、1904年には自治領へとなり、1918年にデンマーク国王を抱く連合王国として独立した。デンマークは、1939年9月の第二次世界大戦勃発に際し、中立を宣言したが、ドイツの侵攻を受けた。

アイスランドも中立を宣言したが、融和政策をとってきたイギリス首相アーサー・ネヴィル・チェンバレンArthur Neville Chamberlain )に代わって1940年5月10日チャーチルが政権をとった。

1940年5月10日、チェンバレン首相が退陣、チャーチルが新首相に就任したが、ドイツの西方侵攻に直面した。しかし、チャーチルは、同日、直ちに中立国アイスランド侵攻Invasion of Iceland )を発動した。当時、アイスランドは、連合していたデンマークがドイツに占領され、ドイツ軍がアイスランドに無血占領するリスクがあり、そうなればアイスランドを基地としたドイツ海軍潜水艦Uボートや海上航空兵力によって大西洋補給ルートが遮断される恐れがあった。

1940年5月10日、イギリス首相チャーチルが発動したのは、ドイツへの空襲ではなく、イギリス軍によるアイスランド侵攻「フォーク作戦Operation Fork )」である。これは、1000名弱の1個大隊規模のイギリス海兵隊をアイルランドに派兵するもので、アイスランドを軍事占領して、大西洋の海上交通ネットワークを確保することを企図していた。

当時中立を宣言していたアイスランドには、武装警察程度の兵力しかなかったから、アイスランドのドイツ占領を恐れたチャーチル政権に入ったイギリスは、先回りしてアイスランド全土を支配下に置いてしまったのである。もちろん1940年5月10日に開始されたイギリスのアイルランド占領は、ソ連のバルト諸国併合と比すべき、国際法違反の侵略行為である。

しかし、アメリカの参戦と大西洋防衛へのアメリカ進出を目論むイギリスは、アイスランド占領・防衛をアメリカに委ねようとしていた。1941年6月22日にドイツがソ連に侵攻した直後の1941年7月7日、ルーズベルト大統領は、イギリス首相チャーチルの駐留要請を受けて、大西洋の安全保障を理由に、アイスランドにアメリカ海兵隊4000名を派遣し、アイスランドを再占領した。

アイスランドは、連合して頼りにしていたデンマークがドイツに占領されなすところがなかった。このような孤立した状況で、1941年7月7日の中立国アメリカによるアイスランド侵攻は、アメリカの豊富な物資支援、軍事援助を受けることでもあり、アイスランドはアメリカを歓迎するようになる。こうして、戦争末期、1944年にアイスランドは、デンマーク国王を元首に戴く連合を解消してしまった。デンマークより、アメリカを頼り、同盟国とする選択をしたのである。

写真(右)1942年6月、アイスランド南西部、カルダーダ―ネス(Kaldadarnes)基地近く、嵐で不時着を余儀なくされたイギリス空軍第269飛行隊のロッキード(Lockheed)ハドソン(Hudson)Mk III爆撃機("Spirit of Lockheed-Vega Emplyees"):軽微な損傷だったために、機体を改修し、7週間で再び対潜水艦などの哨戒任務に復帰した。1934年2月23日に初飛行した全金属製、低翼のロッキード・モデル10エレクトラ高速輸送機の発展型スーパー・エレクトラの軍用仕様がハドソンである。
Royal Air Force 1939-1945- Coastal Command In June 1942 the 'Spirit of Lockheed-Vega Employees' - a Hudson III presented to the RAF by Lockheed workers and operated by No 269 Squadron in Iceland - was forced to crash-land on an isolated sand-spit after running into a storm. Only slightly damaged, the aircraft was dismantled by a salvage crew during a seven-week operation and brought back by ship for repairs. Date between 1939 and 1945 Source CS 202 comes from the collections of the Imperial War Museums. Author Hensser H (Mr), Royal Air Force official photographer.
写真はWikimedia Commons,Category:No. 269 Squadron RAF File:Lockheed Hudson - Royal Air Force 1939-1945- Coastal Command CS202.jpg引用。


3−1.独伊の描く世界新秩序 (【一】〜【三】) : イタリヤ大使館付情報官 ミルコ・アルデマーニ氏談
神戸新聞 日付 1940-06-28/1940-06-30 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337599
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

享楽と頽廃の国、花のフランスは、努力と緊張の国、鋼鉄の独伊と戦って、果なくも萎んだ、狡猾と老衰の国イギリスの運命も、今や風前の灯火である。この世界的大変革—世界維新—に際して、独伊両国は欧洲の新秩序、否、世界新秩序を如何に企画し、而して東亜の盟主たる日本に向って何を求めて居るであろうか、この世界注視の問題に対する解答を駐日イタリヤ大使館付情報官ミルコ・アルデマーニ氏に求めると、同氏は左の如く極めて率直且つ大胆なる言辞を以て、欧洲は独伊の手で、亜細亜は日本の手で新秩序を建設すべきであり、イタリヤは日本との密接なる提携、共同作業を熱望し、日独伊三ヶ国が鋼鉄の三角形を完成する日を待ち続けていると語った

写真(右)1940年6月14日,凱旋門を行進してパリに無欠入城したドイツ軍歩兵部隊:パリのシャンゼリゼ通りの西端、エトワール広場(現在のシャルル・ド・ゴール広場)にあるエトワール凱旋門は,アウステルリッツ三帝会戦で勝利した記念碑として,1806年,ナポレオン・ボナパルトが建設させた。
エトワール凱旋門が完成したのは,1836年でルイ・フィリップの王政復古の時だった。凱旋門の寸法は,高さ49.5メートル,幅 45メートル,奥行 22メートル。写真に見える凱旋門の彫刻は,La Paix de 1815。
第一次大戦後には,エトワール凱旋門の下に、無名兵士の墓が設けられた。
フランス軍を敗北させたドイツ軍は,1940年6月14日,無防備都市となったパリに無欠入城し,エトワール凱旋門で凱旋式を挙行したが,これはフランス人にとって屈辱であると同時に,フランス降伏を予期させた。
ヒトラー総統(Führer:フューラー)の本当の戦争目的は,東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得することで、これは1925年の『わが闘争』で公言されている。フランス・イギリスとの戦争は,西方の安全を保障し、東方に侵攻するためだった。そして、ドイツを弱体化させる欧州各地のユダヤ人は,共産主義者,ペストのようなものであり、アンチ・セミティズムAnti-Semitismを喧伝し,ユダヤ人排除・追放・虐殺を指示した。
Scherl: Vom Einmarsch deutscher Truppen in Paris. Vorbeimarsch der Truppen vor ihrer Generalität am Arc de Triomphe. PK - Aufnahme: Kriegsbereichter Gutjahr (Sch) 5329-40 am 14. Juni 40 Archive title: Frankreich, Paris.- Westfeldzug; PK 689 Dating: 14. Juni 1940 Photographer: Gutjahr撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


【一】 欧洲は欧洲人の手で 亜細亜は亜細亜人の手で 日独伊三国が鋼鉄の三角形

今次の欧洲戦乱後に於て、世界がとるべき新しい姿について、日本は直接の利害関係をもっているのであるから、世界が改むべき新態勢がどうなるかということについては特殊の興味をもっておられるだろう。今日まで世界人類の運命を指導した強国と称せられる国々は日英米仏伊独及び露の七ヶ国であった。

今次の戦争がイタリヤ及びドイツの勝利を以て終ることは間違いのない所であるが、同時にフランスとイギリスが第二流の国に落ちることも亦避くべからざる運命である。インヴィンシブルアルマダ(無敵艦隊)の全滅以来、スペインの国力が急速に衰えたあの期間よりも、より短き期間内に於て、この英仏三ヶ国が東京、羅馬・伯林枢軸のトラクターに引摺られざるを得ない程の微力な国に堕することは疑いのない所である。今日までの欧洲は小さな貧血的な断片に分解され、互に反目し合い、英仏二ヶ国の圧迫の下に呻吟していたが、今後は東京・羅馬・伯林枢軸より湧出する強き力によって結束ある団結に変化するであろう。

欧洲の天地に雑然と詰込まれた多くの小国が戦後に果して残るべきか残らざるべきかに関して確実に申上げる事も出来ぬし又、如何なる方針と制度によって各国民の整理が行われるかも知悉せぬが、今日の欧洲の如く出口も分らぬ迷路のような複雑極まる国境が今少しはっきりしたものにならなければならぬということは容易に諒解される。

Mussolini: ムッソリーニ首相ヒットラー総統とが、対英仏宣戦に敢然蹶起する勇気をもっていた。その精神的理由を知るならば、今後の欧洲が精構い的にも社会的にも、政治、経済、言語学的にも、あらゆる国民と国民との距離を短縮するだろうということは確実に断言し得る。文明の進歩は民族間の反目確執を取除き、人頚がより広汎にしてより結束ある大提携を形成するにある。これに反し文明退歩の時代に於ては、この人類の大いなる結束を打砕き、人種的にも政治的にも多くの断片をつくり、国力も経済力ももたぬ大小限りなき国家を作り出すものである。

一九一四年に勃発した前ヨーロッパ大戦は人類歴史の退歩を記録し、オーストリヤ、チェッコ、ポーランド、ダンチヒ自由港、パルチック沿岸の幾つがの国々の如く頭も尾も分らぬ得体の知れぬものを作り出したが、今次の戦乱が勃発するやこれ等の国々は直接間接、一陣の颶風とともに悉く吹倒されてしまった。依って茲に確実に請合えることは明日のヨーロッパがより団結あり統制あるものとなり、税関も外交も、旅行免状もより少くなるということである。

アルデマーニ氏略歴

駐日イタリヤ大使館付情報官ミルコ・アルデマーニ氏は、一九〇一年北イタリヤのクレモーナ市に生れ、日本流に数えて本年四十歳であるが、到底不惑の年齢とは思われぬ若々しさである、一九一九年ムッソリーニ[Benito Mussolini ]がファッショ運動を起した当初、僅に十八歳の身をもって参加し、黒シャツ隊員中最も勇猛果敢なる分子をもって編成し、常に第一線に立って戦ったスクア・ド・リスチ(斑身隊)の一員である。

後ゼノアの高等商船学校を出て海員となり一九二二年には独力で「クロナカ」紙を創刊し、現労働大臣ランチーニ氏と共に「ヂョルナーレ・ヂ・ゼノバ」紙を起した。またムッソリーニ[Mussolini]首相の創刊せる「ポポロ・デ・イタリヤ」紙の記者として世界各地に歴任、一九二七年に北極探検に失敗したノビレ将軍救援隊中にも彼の姿を発見した、後ローマ大学に学び、法律並に経済をも修めた、ム首相側近にあった人として氏の言はイタリヤの真意を伝えるものと言えよう

【二】 英仏に残された更生 倨傲と非道なき彼方へ 共産主義は決定的に終焉

Churchill 欧洲の衰亡は過去約半世紀の間吾人の心を悩まして来たが、正に我々の手から失われんとしていた。古い大陸の実際の力が、この統一ある姿から次第に擡頭し復興しファッショ[Fascio]とナチスの革命によってローマ的ゲルマン的ヨーロッパが生れ、ここに進歩と平和の幾百年が続くものと信じられる。

何故ならば一九一八年は複雑微妙なる理由によって、弱者の勝利に終ったが、一九四二年は強者の戦勝に終ったからであり、而して強者が勝った場合には相当期間平和が続くという歴史条の一大原則だからである。フランスは恐らく戦後に於てフランス自身に相応しい姿になるものと思われる。

前世紀の終りまでのフランスは実に世界文化の最も力強き源泉として尊敬に値すべき国であった。歴史的にも文化的にも或は社会的にも軍事的にも、その他国内のあらゆる方面に於て充実していたためにそれが直接の原因となって、偉大なる勢力を世界に伸長した。

然しながら四十年ほど前からのフランスは全く乾燥状態に入り、次第に水気を失って、何等新らしい力を産み出さず、終始一貫巧妙な宣伝によってその勢力を維持して来た。

換言すれば、殆んどこの半世紀の間、フランスは過去の利息を食って生きて来たということが出来よう。その文化は極めて影薄きものとなりその文学は卑俗淫猥なるものと化し、その芸術極めて頽廃的に流れ、その科学と雖も世界に於ける機械微文化の発達に追随するだけで、これを指導する力はなかった。

Mussolini しかして人口は漸次減少して、遂に人の目を眩ますほどのフランスの光輝は、歴史の豊かな産物たる過去の富の上から放たれる光明に過ぎなくなっった。

 仏国はかくして過去数週間の事実が証明する如くその貴重さにおいてはガラスの蓋を破せた奇麗な骨董品と化し、その脆弱性においても手を触れれば忽ち粉微塵となるべき骨董品となり終った。

ムッソリーニ[Mussolini]の率いるイタリヤも、ヒットラーの率いるドイツもともにフランスそのものを破壊し尽して、これを亡ぼそうとは考えていないのだからこの五色の雲に包まれた昔懐しい骨董品化したフランスが、戦後も厳然として残るであろうということは疑いない。

今後のフランスは今までよりも、もっと本当の、もっと現実的な傲饅でなく、飾り気のない、而して外国から入って来てフランスに巣食っているユダヤ人の懐中を当にしないフランス、俗臭紛々たる精神的纏まりのつかない、欧洲を引掻き廻して各国に水を向けるフランスでないフランスをムッソリーニ[Mussolini]もヒットラーも欲している。

イタリヤとドイツとは、今後永遠に世界の姿を明確に定めることが、今度の戦争の目的であると信じている。お気に入ろうがいるまいが、アメリカはアメリカだけで、アジヤはアジヤに国を為ず者だけで欧洲は欧洲だけで処理して行く独自の姿を安定させることがその理想である。

 イギリスは今までの様な何十何百の足を持つ毒に満ちた百足虫たることを許されない。頭は小さいくせに、手ばかり延して、遠方の国々の血と養分を吸ってしまふ蛸入道たることも許されない。イギリスという一番繁っている一番ひねくれた樫の木の枝は、余り伸び過ぎてその附近の樫の為に風通しも湿気も得られなくしている。他の国民に大日輪の光明をも受けさせない様な、あらゆる横暴と非道の限りを尽して独り顔に生い繁るこの樹の大部分の枝は切り払われなければならぬ。

更にこの大戦の結果、齎される今一つの重大なる事実は、所謂共産主義の危険が決定的に終焉を告げることである。前大戦に於てドイツが戦いに敗れ、欧洲が恰も竹馬に乗った様な不安定な状態に置かれたとき共産主義はヨーロッパのみならず、アジヤにまでも蔓延することが出来た。各国民の思想を共産主義という白蟻が喰尽して或は遂にこれを倒さんとする危険に瀕したこともあった。

かくてこの二十年、来欧洲は共産主義の危険を叫び続けて来たが、今やイタリヤ及びドイツが戦勝を獲得するとによってその危険は完全に除去せられるのである。

これを簡単に説明すればソ連は今次の大戦によって領土的に多大の利益を得る。その横に生えていた貧血的な小国を合併し年来の希望たる帝政時代に於けると等しき領土を獲得して十分満足せる状態にある。極めて確定的なファッショとナチスの勝利によって、社会改善の事業を徹底的に行うことは、一面殆ど絶対的基礎の上に社会の階級的対立闘争を除去し得る。かくして共産主義はソ連の国境内に釘づけにされ、その外へ踏出すや力はなくなる。イタリヤとドイツの勝利の結果の及ぼすところ私は十分なる確信ご良心をもって断言する。即ちこの二ヶ国の戦勝と国力の充実により、ソ連日身が漸次国内の進歩と改善に着手し、ついに共産主義は浣腸され、今までの気違いじみた空想や過激な思想を捨てて真面目な国家体制をつくるだろうということは疑う余地がない。

Stalin スターリン[Stalin]は最近声明を発して共産主義はまだ単に理想の状態に止っているものであり、現在は社会主義の目標に到達したに過ぎぬといった。この点から考えて見ても、独伊両国の勝利によってスターリンは、世界の人々が考えているよりも近い将来に、必ず自己の計画を限定して、欧洲頽廃期に考えたような攻撃方針を捨てその国内に還るであろう。仮りに若し共産主義の旗をかざしたにしても、それは宗教的な、現実を離れた信念的なものに止まるであろう。(挿入のサインはアルデマーニ氏自署)

[図表(アルデマーニ氏のサイン)あり 省略]

【三】 日本は断乎邁進せよ 米国の覘うものはアジヤ! 独伊との提携熱望

周知の如く、米国は今なお英国に救援の手を延べている。然しながら米国がイギリスを援助する所以はこのアンクル・サムの子孫が神の教え給う博愛、慈善に出発しているというのではなくして、英国にはまだまだ軍需品の代価を支払うに足る黄金があるからである。 然し米国が世界に現存する黄金の全部を握り占めたとき、換言せば彼等が最も満足して勝ち誇った顔をする瞬間こそ、滅亡の第一歩を踏出すべき時である。

 何となれば、欧洲の全市場が米国の面前に閉鎖され欧洲の諸国が米国の商品を買入れてもその代金を支払う黄金がないばかりか、独伊の科学的産業の能率は米国の商品を必要とせず、更に進んで良質廉価の点に於て到底米国が競争することの出朱ぬ需要多き品を外国に輸出し得るからである。他の一面に於て莫大な黄金を握った結果、物価も賃銀も恐ろしく高くなり、遂にメイドイン、U・S・Aのマークのついた商品は一つも外国へ売出せぬ様な生産費を必要とする様になる、かくして米国の将来が果してどうなるかということは非常に大きな疑問であり、その動向に関しては日本国民の生死にかかわる重大問題であるから今日から十分に注意して置かねばなるまい。

米国がヨーロッパに於ける英仏を支持して来たのは、デモクラシーの思想に於て共通だったという様な感情的な恋愛からではない。英仏が産業的に脆弱であるために独伊の勃興が齎す不安—それは政治的よりも軍事的よりも産業的に最も米国を脅威するからである。英仏を救助することによって全ヨーロッパを経済的に奴隷にするのがその主たる動機であったからだ。かくて自己の製品をもって欧洲を侵略し、欧洲の競争を受けずに世界の他の部分と貿易する利益を得んがためであった。

 米国はその金権をもって全世界を支配せんとする野心が、今次の大戦後ヨーロッパに生れ出すべき新体制のために、遅かれ早かれ崩壊することを十分知り抜いている。即ち米国は早晩欧洲市場から撤退しなければならぬ立場にある。

宋美齢 この運命を前にして、その目は今日既にアジヤの上に注がれている。其処には四億五千万人の支那人があり、その他に幾百、幾千万のアジヤ人がいる。然もその産業組織はまだ十分に発達しておらず生活程度の向上を図らねばならぬ人々が多数住んでいる。ここに於て米国は失われた欧洲市場に代るべきアジヤの新市場獲得に没頭してのるのだ。

 米国が独伊両国に向って挑戦するとは絶対にない。米国としては独伊と戦うのは不可能だからだ。従って欧洲のことは口に出す出さぬに拘らずこれを既成事実として認めねばならぬ。而してこの苦境にあるが為に彼等は欧洲に対して挑み得ざりし戦を、極東の太平洋岸に向って進め、経済的攻勢態度をとるものと思われる

米国のこの新攻勢計画においてただ一つ障害となる国は正に日本である。殆ど気違い染みた狼狽をもって急速に軍備を拡張しているのも太平洋岸の商業上の勢力範囲を確保せんがためであることは衆人の疑わざる所であり米国が日本の経済機構を攪乱する為にあらゆる手段を講ずるであろうことは避け難い勢にある

 日本はアジヤの全市場に対して地理的に近いという有利な地位にあるのみか、アジヤ各国の人々と人種的に近いという好条件に恵まれている。然も生産費の低廉なる、品質の優良なるは克くアメリカ商品と競争対立し自己の陣地を防禦し、更に進んで逆撃進出を企図する経済的実力を有している。

この際、日本が旧大陸の一方の覇者たるイタリヤとドイツと提携し、その金権をもって横暴を極むる米国と対立する時はイタリヤは最後まで日本の忠実なる味方として立つであろう。

 私一個人の見解こして率直に申せば日本は米国と妥協して何一つ利益を得るところはないであろう。米国はこの際安価にして手軽な妥協の手を差延べて来るかも知れぬが、米国の宿命的な政策は日本の勃興進出を圧迫するにある。如何に抽象的な説教の文句や感傷的な麗しい挨拶を述べたにしても、米国の政策が、終始一貫日本の興隆勃興を抑えるにあることは如何なる盲人と雖もこれを認識してよいはずだ。

Albert Speer 当然の結論として、日本が執るべき唯一の政策は極東に於ける日本の使命を自覚して、如何なる誘惑の手にも安価なお世辞にも乗らず、一路邁進することだ。米国に対立して自己の産業の独立を絶対に確保し、米国がラヂオや新聞で発表する大掛りな軍備拡張には眉一つ動かさず、平静な態度をもって断乎として進むにある。

 時は間違いもなく自分の仕事を着々としてやり遂げるものだ。時到らば青春の気に満ちた延びる国、延び得べき国、延びる資格と素質を持った国が延び、その前には米国が幾百幾千艘の軍艦を建造してもこの力を喰止められるものではない。世間が考えているよりも遥に近い将来に、米国は今度の欧洲戦争から出しやばりの恐りしさを知り、自分の家に引込んで大人しくしていた方がよいというとを悟る様になるだろう。

また極東に於て日本の足を踏付けるような馬鹿なことをやれば、やがてそれが米国の禍となるということ、而して自分の家に引篭るということが、日本が東亜の家でやっているのと同じだというとを知るに至るであろう

ともあれ、私がここに断言したければならぬとはローマに於ても、ベルリンに於ても、日本との友情の下に、密接な提携と共同作業を熱望しているとだ。欧洲に於ては独伊二ヶ国の枢軸が英仏を叩きふせた時に恐らく当分は永久的な欧洲大陸の情勢が決定されるだろう。

然しながら太平洋岸には今日巨大なる疑問符がかけられている。イタリヤは日本が西方の独伊二ヶ国と鋼鉄の三角形を完成せんがために力強さ言葉をもってこの疑問符に答える日のあることを待続けているであろう(完)


German Tank Panzer Division parades on streets of Paris in France.
1940年6月ドイツ軍パリ入場式

写真(右):1940年7月、フランス、パリ、エッフェル塔を見物したフランス征服者ドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統;1914-1918年の第一次大戦の西部戦線でヒトラーは,英仏軍相手に最前線で勇戦したが,ドイツ国内の裏切りで敗北したと感じる。しかし,復讐戦に勝利した。1940年6月にフランスを降伏させ,エッフェル塔,ナポレオンの墓も見学した。右は、国防軍総長ウィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel), 後の軍需大臣・建築顧問アルベルト・シュペーア(Albert Speer)、彫刻家アルノ・ブレーカー(Arno Breker)、ナチ党官房長官・ヒトラー秘書マルチン・ボルマン(Martin Bormann), 報道局長オットー・ディートリヒ(Otto Dietrich:1897-1952)。
Frankreich, Paris, Eiffelturm.- Besuch Adolf Hitler. Vlnr: Karl Wolff, Hermann Giesler, Wilhelm Keitel, Wilhelm Brückner, Albert Speer, Adolf Hitler, Martin Bormann, Arno Breker, Otto Dietrich; vermutlich 23.6.1940 Title Paris, Eiffelturm, Besuch Adolf Hitler Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Zentralbild / II. Weltkrieg 1939 - 45 Nach der Besetzung Frankreichs durch die faschistische deutsche Wehrmacht im Juni 1940 besucht Adolf Hitler Paris. UBz: Adolf Hitler mit seiner Begleitung nach der Besichtigung des Eiffelturms. vlnr: SS-Gruppenführer Wolff, dahinter Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel, SA-Gruppenführer Wilhelm Brückner, Reichsminister Albert Speer, Adolf Hitler, dahinter Reichsminister Martin Bormann, Reichspressechef Staatssekretär Otto Dietrich. Photographer Heinrich Hoffmann (1885–1957) Depicted place Eiffel Tower Date 23 June 1940 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-H28708
写真はWikimedia Commons, Category:Adolf Hitler in 1940 File:Bundesarchiv Bild 183-H28708, Paris, Eiffelturm, Besuch Adolf Hitler.jpg引用。


1939年9月、ドイツとソ連が連携してポーランドに侵攻したが、ポーランド同盟国であったイギリスとフランスは、宣戦布告をドイツにはしたものの、ソ連にはしていない。ソ連はポーランドと不可侵条約を締結していたから前線のポーランド軍はソ連軍の進駐に戦闘で応じなかったのであり、ソ連軍は約ドイツとの秘密議定書に基づいて「カーゾン線」まで進出できた。また、イギリスは、1938年のミュンヘン協定の対ドイツ宥和政策を放棄せずに、ドイツ西部戦線に対する攻勢を採らずに「偽りの戦争」を続けた。英仏は、ポーランドが敗れるまで軍事支援をせず、宣戦布告をしたものの、ポーランドを見殺しにしてしまった。

もしも、1937-1939年にポーランドが防共協定に加盟していれば、ポーランドはドイツの盾としてソ連ボリシャビキに対峙することになったはずだが、これはルーマニア、ハンガリーがたどった道である。しかし、ヒトラーは、防共協定を拒否したポーランドに怒り、ポーランド壊滅を決めた。しかし、フランス、イギリスの西部戦線を維持するには、ソ連との一時的な宥和が必要だった。これが、独ソ不可侵条約、リッベントロップ=モロトフ協定で、これによってに正面戦争の心配なしに、ヒトラーは第二次世界大戦を始めることができたのである。

図(右):1939年の独ソ不可侵条約の秘密議定書の東欧分割合意図と1940年の実際の東欧分割図;1939年9月の第二次世界大戦後、ポーランドは独ソに分割され、ソ連はバルト三国を併合し、「冬戦争」でフィンランド北端のルイバチー半島(Rybachy Peninsula)・東北部のサッラ(Salla)・カレリア地峡を獲得した。ドイツは、占領したポーランドの西部を併合、中央を「総督領」とした。 Molotov–Ribbentrop pact – political map of central europe in 1939–1940 (a map in English). Date 27 February 2006 Source Own work Based on File:Ribbentrop-Molotov.PNG. Author Peter Hanula
写真はWikimedia Commons, Category:Molotov-Ribbentrop Pact File:Ribbentrop-Molotov.svg引用。


1940月,米内光政内閣のソ連への中立条約の検討要請を引き継いで,1940年7月には東郷茂徳駐ソ大使が,日ソ中立条約を提議した。また,次の近衛文麿内閣では,独ソ不可侵条約,日独伊三国軍事同盟の存在を踏まえて,日ソ不可侵条約を提議している。
しかし,ソ連の外相(ソ連では外務人民委員)モロトフは,日露戦争の失地回復を放棄した不可侵条約はありえないとする。ソ連は,独ソ不可侵条約の締結によって,日本との同盟関係を必ずしも必要としなくなっていたのである。

写真(右):1940年(昭和15年)7月、日本、東京、内閣総理大臣官邸、第二次近衛文麿内閣;1940年7月16日に総辞職した米内光政内閣を引き継いだ近衛は、荻窪の私邸「 荻外荘」で四相会議を開き、外務大臣に内定した松岡洋右、陸軍大臣・東條英機中将、海軍大臣に留任した吉田善吾中将が会した。近衛は、独伊新秩序に呼応し大東亜新秩序建設を唱え、軍は南進を希望した。しかし、日米戦争を危惧する近衛は日米交渉を続けた。外務大臣松岡洋右 内務大臣安井英二、 大蔵大臣河田烈、 陸軍大臣東條英機、 海軍大臣吉田善吾、 司法大臣風見章、 文部大臣橋田邦彦、 農林大臣近衛文麿、 商工大臣小林一三、 逓信大臣村田省藏、 鉄道大臣村田省藏(兼)、 拓務大臣松岡洋右(兼)、 厚生大臣安井英二、 国務大臣平沼騏一郎、 国務大臣鈴木貞一、 国務大臣小倉正恒
Cabinet ministers of Second Cabinet of Fumimaro Konoe(第2次近衞内閣). They finished the first cabinet meeting and took a souvenir picture in Kantei. Date July 1940 Source www.jacar.go.jp Author Mainichi Shimbun/ 毎日新聞
写真はWikimedia Commons, Category:Photographs of Fumimaro Konoe・File:Fumimaro Konoe Cabinet 19400722.jpg 引用。


3−2.日独伊三国同盟成立 : 大詔を渙発あらせらる : 昨日、ベルリンで条約調印
 Ribbentrop 大阪朝日新聞 日付 大阪朝日新聞 1940-09-28 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336250
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

日独伊三国政府間にはかねて三国同盟に関する条約交渉について東京、ベルリン、ローマにおいてそれぞれ折衝が進められ、とくにドイツ政府は[ハインリヒ・ゲオルク・]スターマー[Heinrich Georg Stahmer]氏を特派公使として帝国に派遣するにいたって東京交渉は異常の進展を見せ、一方ドイツ外相フォン・リッベントロップ氏の訪伊によって三国交渉は急速に進捗してこのほど三国間に完全に意見一致し妥結を見た、よって三国政府はそれぞれ所定の国内手続を了し、いよいよ二十七日午後八時十五分(ベルリン時刻同一時十五分)ドイツ総統官邸において帝国代表来栖[三郎]駐独大使リッベントロップ独外相、チアノ[Galeazzo Ciano]伊外相の三代表間に調印を終った。

この歴史的調印による三国同盟条約は日独伊三ヶ国語で記載されたもので、その画期的使命と意義は六ヶ条の条文に盛られている、畏くも天皇陛下には三国同盟成立に当り詔書を渙発あらせられ国民の向うところを御示しあそばされた、帝国政府は独伊両国と打合せの上同日午後九時十五分右条約要旨を三国同時に発表するとともに近衛首相は大詔を排して内閣告諭を発し同時に松岡外相謹話のほか河田蔵相兼商相代理、石黒農相談を発表して帝国不動の使命と方針ならびに国民の毅然たる態度を要望した。

Ciano また独伊両国に対しては近衛首相からヒットラー独総統およびムソリーニ[Benito Mussolini]伊首相宛祝電を発し松岡外相また独伊外相に祝電を発し、同夜国際電話によって重ねて祝詞の交換をなし三国同盟条約調印によるすべての態勢は同日中に完了した

かくてここに近衛内閣によって標榜された外交方針の転換は実現し世界平和の確立を目指す三国同盟の成立により日独伊三国の枢軸は格段の強化を見、ソ連は本条約によって影響を受けるところなしと明記して三国対ソ連の新外交方策を明らかにし、世界新秩序の建設完成は一段と促進されるであろうが帝国の大東亜における指導者としての立場はこれとともにますます重きを加えるであろう=写真(上から)近衛首相、ヒットラー総統、ムソリーニ伊首相

詔書

大義ヲ八紘ニ宣揚シ抻輿ヲ一宇タラシムルハ実ニ皇祖皇宗ノ大訓ニシテ朕ガ夙夜眷々措カザル所ナリ而シテ今ヤ世局ハ其ノ騒乱底止スル所ヲ知ラズ人類ノ蒙ルベキ禍患亦将ニ測ルベカラザルモノアラントス朕ハ禍乱ノ戡定平和ノ克服ノ一日モ速ナランコトニ●念極メテ切ナリ乃チ政府ニ命ジテ帝国ト其ノ意図ヲ同ジクスル独伊両国トノ提携協力ヲ議セシメ茲ニ三国間ニ於ケル条約ノ成立ヲ見タルハ朕ノ深ク懌ブ所ナリ

惟フニ万邦ヲシテ各々其ノ所ヲ得シメ兆民ヲシテ悉ク其ノ堵ニ安ンゼシムルハ昿古ノ大業ニシテ前途甚ダ遼遠ナリ爾臣民益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ深ク謀リ遠ク慮リ協心戮力非常ノ時局ヲ克服シ以て天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼セヨ

御名御璽    昭和十五年九月二十七日 各国務大臣副署



外務省発表(昭和十五年九月二十七日午後九時十五分) 日独伊三国間に本二十七日ベルリンにおいて左記要旨の三国条約締結せられたり

日本国、独逸国及伊太利国間三国条約要旨

大日本帝国政府、独逸国政府及び伊太利国政府は万邦をして各其の所を得しむるを以て恒久平和の先決要件なりと認めたるに依り大東亜および欧州の地域に於て各其の地域における当該民族の共存共栄の実をあぐるに足るべき新秩序を建設しかつこれを維持せんことを根本義となし右地域においてこの趣旨に拠れる努力に付き相互に提携しかつ協力することに決意せり、しかして三国政府はさらに世界到る所において同様の努力をなさんとする諸国に対し協力を吝まざるものにしてかくして世界平和に対する三国窮極の抱負を実現せんことを欲す、依って日本国政府、独逸国政府および伊太利国政府は左の通り協定せり

相互援助を規定 期限十年混合委員会設置 条約全文

第一条 日本国は独逸国及伊太利国の欧州における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつ之を尊重す

第二条 独逸国及伊太利国は日本国の大東亜における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重す

第三条 日本国、独逸国及伊太利国は前記の方針に本づく努力につき相互に協力すべきことを約すさらに三締約国中いずれかの一国が現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国によって攻撃せられたるときは三国はあらゆる政治的、経済的および軍事的方法により相互に援助すべきことを約す

第四条 本条約実施のため各日本国政府、独逸国政府および伊太利国政府により任命せらるべき委員よりなる混合専門委員会は遅滞なく開催せらるべきものとす

第五条 日本国、独逸国、伊太利国は前記諸条項が三締約国の各とソヴエト連邦との間に現存する政治的状態になんらの影響をもおよぼさざるものなることを確認す

第六条 本条約は署名と同時に実施せらるべく、実施の日より十年間有効とす

右期間満了前適当なる時期において締約国中の一国の要求に本づき締約国は本条約の更新に関し協議すべし


写真(上):1940年9月27日、ドイツ、ベルリン、日独伊三国[軍事]同盟条約(Tripartite Pact)調印式に参加した日本特命全権来栖三郎大使、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー、演説するドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リンベントロップ(Joachim von Ribbentrop)
:来栖三郎(くるす さぶろう:188日 -1954)は駐ドイツ特命全権大使として三国同盟に調印したが、翌1941年にはアメリカに特命全権大使として派遣され、野村大使とともに日米交渉を取り仕切った。アメリカの嫌悪する三国同盟調印者を日米交渉全権に任命する日本外務省の「とんでも外交」は、ソ連に太平洋戦争講和仲介を依頼することで繰り返される。もし三国同盟に外務省が反対していたと抗弁するなら、平和・天皇のために命がけで阻止した人物は皆無ということだ。
Description Signing ceremony for the Axis Powers Tripartite Pact; seated at front left (left to right) are Japan's Ambassador Saburō Kurusu (leaning forward), Italy's Minister of Foreign Affairs Galeazzo Ciano and Germany's Führer Adolf Hitler (slumping in his chair). Date 1940 Author Heinrich Hoffman
写真はWikimedia Commons, Category:Heinrich Hoffmann in NARA public domain images File:Signing ceremony for the Axis Powers Tripartite Pact;.jpg引用。


近衛[文麿]首相から告諭

近衛文麿 近衛[文麿]首相は日独伊三国同盟成立に当り渙発あらせられた詔書を排し二十七日官報号外をもって内閣告諭を発した、首相は右告諭において[日独伊]三国同盟[Tripartite Pact]の本旨を明らかにし帝国は独伊両国と相提携しそれぞれ大東亜及び欧州において新秩序建設を建設し進んで世界平和の克復に協力せんことを期する旨帝国不動の方針を述べ国民の毅然たる態度を要望した

告諭

日独伊三国条約ノ締結ニ当リ、畏クモ 大詔ヲ渙発セラレ、帝国ノ向ウ所ヲ明ニシ、国民ノ進ムベキ道ヲ示サセ給エリ。 聖慮宏遠洵ニ恐懼感激ニ堪エザルナリ。

恭シク惟ウニ世界ノ平和ヲ保持シ、大東亜ノ安定ヲ確立スルハ、我ガ肇国ノ精神ニ淵源シ、正ニ不動ノ国是タリ。昨秋欧州戦争ノ発生ヲ見、世界ノ騒乱益々拡大シ、底止スルトコロヲ知ラズ。是ニ於テカ速ニ禍乱ヲ戡定シ、平和克服ノ方途ヲ講ズルハ、現下喫繋ノ要務タリ。適々独伊両国ハ帝国ト志向ヲ同ジウスルモノアリ。

因リテ帝国ハ之ト相提携シ、夫々大東亜及欧州ノ地域ニ於テ新秩序ヲ建設シ、進ンデ世界平和ノ克復ニ協力センコトヲ期シ、今般三国間ニ条約ノ締結ヲ見ルニ至レリ。今ヤ帝国ハ愈々決意ヲ新ニシテ、大東亜ノ新秩序建設ニ邁進スルノ秋ナリ。

然レドモ帝国ノ所信ヲ貫徹スルハ前途尚遼遠ニシテ、幾多ノ障碍ニ遭遇スルコトアルベキヲ覚悟セザルベカラズ。全国民ハ謹デ 聖旨ヲ奉体シ、非常時局ノ克服ノ為益々国体ノ観念ヲ明徴ニシ、協心戮力、如何ナル難関ヲモ突破シ、以テ 聖慮ヲ安ンジ奉ランコトヲ期セザルベカラズ。是レ本大臣ノ全国民ニ望ム所ナリ。

昭和十五年九月二十七日 内閣総理大臣
公爵 近衛 文麿

相互援助条約よりは緊密 軍事同盟とは異る 須磨[弥吉郎]情報部長語る

日独伊同盟条約[Tripartite Pact]発表後外務省須磨[弥吉郎(すまやきちろう)]情報部長は記者団の質問に答え左の一問一答をなした

ヒトラー 問 条約締結にいたるまでの経過如何?
答 この[日独伊]三国条約[Tripartite Pact]の話は九月初旬からはじまって正確にいえば今日——二十七日に終っている
問 条約文第四条にいう混合専門委員会は何処に設置されるか?
答 今後の問題で、まだきまっていないが、置かれる場所は一箇所ではないだろう
問 その組織と任務は?
答 今のところ具体的にはいえぬ
問 日独伊防共協定とこの条約との関係は?
答 二つの条約間には何ら関係はない
問 防共協定はこれで解消されたと解してよいか
答 すこぶるデリケートな問題で「関係なし」という以上は答えられない
問 しかし第五条には特に「ソウエート連邦との間に現存する政治的状態に何らの影響をもおよぼさず」と書いてあるがソ連を特に取上げている理由如何?
答 ソ連はドイツと今では特殊の関係にあり、また日本ともソ連は隣接国家としての関係にあるからである 問 第三条に「現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国によって攻撃せられたる時三国は政治経済軍事的に相互に援助する」とあるがこの「攻撃」という言葉はどういう範囲を指しているか、たとえば禁輸などという経済圧迫が非常に強度なものとして現れて来る場合、これも「攻撃」の一種であると見るか
答 それは解釈の問題だろう、しかし締約国間にはこの解釈についても諒解があるだろう
問 同じ第三条に「一国によって」とあるのは特定の一国か、また特に単数としてある理由如何
答 特定の一国を指すものではない、また条文には単数になっているが二国が一緒になって攻撃して来た場合ももちろん同様である
問 この条約は国際法上の通念から見る時は軍事同盟といえるのか、または相互援助条約といえるのか
答 相互援助条約という言葉ではちょいといい足りない、もっと緊密な度が強いだろう、また軍事同盟といえば大概はある特定の国家を敵国として想定しているが今度の場合はこの仮想敵国はない、まあ三国条約と呼ぶことにしたい
問 期間十年というのはどういうところから割出されたか
答 三国ともに新秩序建設のために真剣に提携しあう考えで、期間も二年とか五年とか短いものでなく特に十年と長期条約になったものと思う
問 アメリカに対してこの条約はどういう風に運用されるか
答 アメリカ関係も従来通りである、われわれはこれで日米関係がとくに悪化するとも考えないし日米国交調整の希望も従来通り持っている、繰返していうが特定の一国を指したものではない、この条約の精神は決して戦争を挑発するようなものではなく一日も早く世界平和を将来したいという気持から出ている
問 昨年九月阿部内閣によって声明された不介入方針はどうなるか
答 不介入方針はあのまま生きていると解釈している
問 相互に指導的地位を認めるとはどういうことか
答 お互の地域では一切を委せるという意味である

トントン拍子で進む [日独伊]三国条約[Tripartite Pact]の締結まで

Ciano 今回の三国同盟の交渉経過は全く順調の一語につきる、松岡外相がオット大使にそれとなくドイツ側の意向を質したのが八月一日のこと、またヒットラー独総統がスターマー氏を特派公使としてモスコー経由帝国に派遣したのも八月中旬のことで、世界新秩序建設をめざす日独両国の間には期せずして琴線相触れるものがあったのである、

こうした接触で日独両国の気持がお互にはっきりして来ると欧州では独伊両国間に、東京では[オイゲン]オット[Eugen Ott]大使、スターマー公使がドイツ側の代表者となって話はトントン拍子に進捗した、すなわちリッペントロップ独外相は九月十八日ローマを訪問しヴェネチヤ宮でムソリーニ首相、[ガレアッツォ]チアノ[Galeazzo Ciano]外相と膝を交えて懇談し、また東京では九月七日に入京したスターマー公使がオット大使を扶けて松岡外相、白鳥敏夫氏、大島浩氏らとしばしば私邸で会談し具体的折衝が進められた

この間白鳥[敏夫]大島[浩]両氏とスターマー公使との会談が具体的折衝を進めるに非常に役立ったことは見逃せないが事の起りは日独伊三国間に独伊の対英作戦や帝国の東亜共栄圏の確立など手を握りあう機運が全く熟していたという点である

そこで帝国政府では十六日に臨時閣議を開いて帝国の最高方針を決定し十八日には御前会議が開かれ二十六日には枢密院会議が開かれて国内手続を完了しいよいよ二十七日の正式調印となったものである

世界史に新時代 駐日独大使声明

ムッソリーニ [オイゲン]オット[Eugen Ott]駐日独大使は二十七日夜日独伊三国同盟成立の当り左の声明を発した

本日締結せられた条約は有史以来最初の画期的重要なるものであるけだし本条約の目的とするところは締約国各自の相互利益をはかるにあるのみならず世界の三大圏の福祉協力共栄を期するものであるからである、従前の諸条約があまりにもしばしば侵略手段に過ぎざりしことを暴露せるに反し本条約は世界主要構成部分の各自が平和的に発展することにより全世界の恒久平和と繁栄とを保証すべき新秩序及び均衡を樹立する推進力たるべきものである、

[日独伊]三国同盟[Tripartite Pact]の結合勢力、連環的努力はこの大目的遂行のために今日までに払われた大犠牲を無にせぬための最善の方法である、

余は本日成立した協約が世界史上に新時代を画しかつ本条約が広大な自然の生活圏の形式とその自由なる発展を促進する事実にかんがみ独日伊三国自身のためのみならず三国の勢力圏内に居住する諸民族延いては全世界の平和、幸福、繁栄への新しき道をも拓くものなることを確信するものである

駐日伊大使の声明

日本、イタリヤ、ドイツ間の三国同盟は最近数年間我ら三国間に結ばれつつあった関係の論理的帰結である、三国の政治的基礎たる国際正義原理の類似性と世界をしてついに真の恒久的平和を達成せしめんがために日本、イタリヤ、ドイツが直面しつつある諸問題の相似性とが今回の協定をもたらしたゆえんであって、これにより三列強の協力は万一の干渉も威嚇もうくることなく各自の圏内においてその強固なる行動方面たる新秩序を確保するのである

近衛首相の祝電

独総統宛 世界新秩序建設の崇高なる共同の目的達成のために日独伊三国がさらに緊密かつ積極的に結合せらるるに至りたるこの記念すべき日に当り余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに閣下に依り率いらるる偉大なる独逸国民がそのすでに獲得せる赫々たる戦果を将来に拡大し、その光輝ある目的を完遂するの日の速ならんことを祈念す

伊首相宛 世界新秩序建設に崇高なる共同目的達成のため日独伊三国がさらに緊密に且つ積極的に結合せらるるに至りたるこの記念すべき日に当り余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともにファシストの愛国心に燃ゆる貴国国民がその双肩に担う重大任務を完遂するの日の近からんことを祈念す

松岡外相の祝電

独外相宛 本日締結を見たる日独伊三国条約が正義に本づき新しき世界秩序の建設と世界恒久平和の確立に貢献するところ大なるべきを確信し余は茲に閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに皇国が現下の世界の重大時局に対処し偉大なる独逸国とともにその共同の目的完遂に邁進せんとする固き決意を表明するものなり

伊外相宛 本日締結を見たる日独伊三国条約が正義に本づく新しき世界秩序の建設に不動の礎石を築くものなることを確信し余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに閣下と余の旧情を新にしつつ皇国が現下の世界の重大時局に対処し偉大なるファシスト伊太利国とともに共同の目的完遂に邁進せんとする固き決意を表明するものなり。(引用終わり)

図(上):1944年、ソビエト連邦、ロシア革命を成功させ共産党の指導者レーニンが死去し20年、1924年からのレーニン後継者ヨセフ・スターリン率いるCCCP(ソ連共産党)記念切手(3ルーブル):レーニンのなくなった1924年にスターリンが頭角を現したといっても、指導者になったわけではなかった。しかし、権力掌握の過程でスターリンはレーニン第一の後継者とされた。
Русский: Марка СССР English: 20 years of death of Lenin; Stalin presented as his heir Date 8 March 2008 Source http://kolekzioner.net/modules/smartsection/item.php?itemid=209 Author Post of USSR.
写真はWikimedia Commons, Category:Joseph Stalin on stamps File:Stamp of USSR 0914.jpg引用。


3−3.防共協定と抵触せず : ドイツの見解
大阪朝日新聞 日付 1940-09-30 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337475
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

T34-76 【ベルリン特電二十八日発】日独伊同盟[Tripartite Pact]の締結とともにかつての防共協定はなお存続するや否やがベルリンの中立国筋で論議されているが、ドイツ側の意向は左のごとく諒解される、すなわち日独伊同盟は三国のそれぞれの地域における指導的立場を規定した政治外交的な確約であり防共協定とは何ら抵触するものではなく日本が依然として国内の主義として反共的でありソ連が同様に反ナチス的あるいは反ファシスト的であることは何ら差支えなく、いまだ廃棄されざる防共協定はしたがってなお現存せることはもちろんである

国内の指導の問題と国際的な外交関係の問題とは判然と区別すべきであり独ソ不可侵条約によって防共協定は影響を受けなかったごとく今回のこの間の事情は同様であるとの見解をもっている

なおソ連の援蒋行為と三国同盟条約第三条との関係についてドイツ側では「いわゆるソ連の蒋介石政権への援助が何を意味するかは承知しないが広汎な政治的意義をもつ今回の三国同盟[Tripartite Pact]に関連する本質的な問題とは思われない、

独ソ関係は極めて友好的であり、さらに密接な連絡を保っているから今回の三国同盟条約がソ連にとって意外な驚きであろうと想像するのは当らざるの甚だしきものといわざるを得ない新任のモスコー駐在日本大使建川中将はこの機会に日ソの関係を正常化し両国の懸案解決に積極的な貢献をされるものと期待する」
との見解をとっている(引用終わり)

T34-76 ノモンハン事件によって,ソ連の兵力を再評価し1939年12月の「対外施策方針要綱」では強硬姿勢を若干緩和させたが、日本がソ連を恐れていたとの見解は,
1)日本は,中国とソ連と同時に戦うだけの兵力はないと以前から認識していた,
2)第二次大戦の勃発で欧州の動向が不確実になった
3)ソ連は,ドイツと独ソ不可侵条約を結んでおり,欧州方面の安全保障が確保されており,極東方面に兵力を集中できた,
という3点を軽視しており、誤りであろう。つまり、その後も1941年4月に日ソ不可侵条約には至らず日ソ中立条約でしかなかったが、これは南方に進出して、石油、ゴムなどの資源確保が第二次大戦の勃発で容易になったとの判断からであろう。

1940年5月には,ドイツ軍はベルギー,オランダを攻撃し,6月22日には,フランスも降伏させてしまう。この電撃戦の成果のおこぼれを期待した日本は,火事場泥棒よろしく,フランス植民地のインドシナに大規模な日本軍を派遣することを考え始める。産業界もオランダ植民地のインドネシア(蘭印)石油,石炭,スズなど地下資源に注目しはじめる。日本の関心は現在の東南アジア地域に向いてきたのであり,日本は南方熱にうかされたように,東南アジアへの進出・進駐を期待するようになる。

KV-2 ここにおける重要事項は,日独関係である。日本は自力でフランス,オランダを攻撃,降伏させたわけではないし,フランス領インドシナ(仏印)オランダ領東インド(蘭印)には,植民地政府,軍も残存している。したがって,植民地を治める本国政府,それを降伏させたドイツとの関係を無視して,植民地に軍を派遣したり,経済的支配を目論んだりすることは,ドイツとの関係悪化を招来する。

1940年後半、ドイツの欧州支配の状況で、グローバルな視野から日本でも、ソ連との不可侵条約締結の動きは、北方の防備を固めて、南方に進出(南進)し資源を確保し大東亜共栄圏を樹立する構想が表面化したからであろう。
そこで,1940年9月27日に,近衛文麿内閣は日独伊三国軍事同盟を締結する。この同盟締結の目算がついていた9月23日には,フランス領インドシナ北部(北部仏印)に日本軍を派遣している(北部仏印進駐)。

1941年2月,日本の外相松岡洋右は,南方に侵攻する際の障害となる英国を打倒するために,ソ連を日独伊三国軍事同盟に加盟させる四国同盟案の可能性を模索する。これによって,日本は極東方面のソ連兵力の脅威を取り除き,中国との戦争を続けつつ,英国の植民地であるマレー,ビルマを攻撃し,資源を手にいれ,中国への援助物資を遮断できる。

外相松岡洋右は訪独し,外相リンベントロップJoachim von Ribbentropと交渉するが,ヒトラーは既にソ連攻撃を決意しており,四国同盟には関心がない。しかし,松岡外相が,ドイツからの帰途,モスクワに立ち寄った際,スターリンとの直接交渉によって,なんと「日ソ中立条約」の締結に成功する。

⇒写真集Album:1941年4月13日 日ソ中立条約を見る。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ハンセン病Leprosy差別
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答

ポーランド侵攻:Invasion of Poland
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945

当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

2023年1月14日開設の当研究室にご訪問ありがとうございます。ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。

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