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◆1941/4/13 日ソ中立条約 松岡・モロトフ協定
写真(上):1941年4月13日、ソビエト連邦、モスクワ、日ソ中立条約に署名する外務大臣松岡洋右
:真後ろに立っているのは、ソ連指導者ヨセフ・スターリン書記長と人民委員会議議長(首相)兼外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)
English: This is the official state portrait of Stalin, which would be hung in schools and in factories, painted by Isaak Brodsky Date 1930s? Source Original publication: State portrait, so commissioned by the USSR. Immediate source: https://www.oceansbridge.com/shop/artists/b/bri-buy/brodsky-isaak/portrait-of-joseph-stalin-1 Author Isaak Brodsky (Life time: Died in 1939 in Leningrad.) Other versions File:Isaak Brodsky stalin02.jpg
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Matsuoka signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact-1.jpg引用。


図(右):1930年、ソビエト連邦指導者ヨシフ・スターリンのポスター;1925年3月から1941年6月まで刊行されたモスクワの雑誌Bezbozhnik(Godless「神はいない」)の表紙。「スターリン」とは「鋼鉄の人」の意味で、ロシア革命時のコードネーム。本名はヨシフ・ヴィッサリオノヴィチ・ジュガシヴィリ。1940年初頭まで国家元首だったスターリンの肩書は「共産党書記長」で、対外的な代表の「首相」、軍事司令官の「元帥」などの職位は、第二次大戦直前1941年5月になってからのスターリンの肩書。
Cover of Bezbozhnik, 1920s-1930s Soviet atheist magazine Bezbozhnik u stanka - Into the socialistic offensive along the entire front, 1930 Date 1930 Source New York Public Library Author staff of Bezbozhnik Permission (Reusing this file) PD
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Joseph Stalin art, Bezbozhnik u stanka - Into the socialistic offensive along the entire front, 1930, n. 13 (cropped).jpg引用。

1939年、民主主義の英仏とファシズムの独伊の双方から友好の誘いがあったが、イギリスに交渉の熱意がないことを悟ったヨシフ・スターリンは、国際協調・妻がユダヤ系の外務大臣マクシム・リトヴィノフを解任し、スターリンに忠実なモロトフを外相として、反共主義のアドルフ・ヒトラーと交渉させた。

1939年8月に独ソ不可侵条約を締結したスターリンは、その秘密議定書によって、ポーランド、バルト海諸国、フィンランドの分割に合意した。1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻で始まった第二次欧州大戦では、ソ連は9月17日にポーランドに進駐し、ポーランドを分割した。そして、バルト三国併合、フィンランド侵攻(冬戦争)も開始。さらに東欧のルーマニアにも圧力をかけ、ベッサラビアと北ブコビナを併合した。

1939年8月のノモンハン事件で、日本の侵攻を防いだと考えていたスターリンは、欧州を勢力圏にしようとしたが、これがヒトラーの警戒心を高めることになる。1940年7月の日独伊三国軍事同盟は、ソ連に枢軸国への警戒感を抱かせた。そこで、1941年4月、枢軸国の日本とも日ソ中立条約を締結した。

1.1940年フランス敗北後のドイツの欧州支配後の日ソ関係

写真(右)1940年6月,ドイツ軍のパリ凱旋入城式:後方には,ナポレオンを記念したエトワール凱旋門が見える。フランスは,戦局挽回をあきらめ,6月10日にはパリを無防備都市とし。防衛線を解いた。6月14日,ドイツ軍は,パリに無血入城した。
1944年8月25日,ドイツ軍の占領下にあったパリに自由フランス軍ルクレール将軍が入城した。ドイツ軍の司令官コルティッツ将軍は,パリ破壊命令を無視して,降伏した。パリは,4年2ヶ月ぶりに解放された。
Frankreich, Paris.- Einmarsch, Parade deutscher Truppen. Soldaten auf Pferden; PK 689 Dating: Juni 1940 Photographer: Fremke, Heinz撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)は,西方侵攻のために、アルベルト・ケッセリング将軍の第二航空軍,フーゴー・シュペルレ将軍の第三航空軍をあて,そこにドルニエ(Dornier)Do 17ハインケル(Heinkel)He111ユンカース(Junkers)Ju-88Aなど双発爆撃機1120機,単発ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機342機,複葉Hs-123襲撃機42機,単発メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E戦闘機1016機,双発Me-110戦闘機248機を配備した。

1940年5月10日、ドイツ軍はオランダ、ベルギー、ルクセンブルクのベネルクス三国に侵攻し、1940年6月3日、ドイツ軍によってダンケルクが占領された。6月10日、フランス政府はパリの無防備都市として宣言、ボルドーに政府を移転したが,同日,ムッソリーニのイタリアが,対英仏宣戦布告をした。

1940年6月14日,ドイツ軍がパリに無血入城,6月21日,ボルドーに退去していたフランス政府フィリップ・ペタン(A href="https://fr.wikipedia.org/wiki/Philippe_P%C3%A9tain">Philippe Joseph Pétain)元帥は、ドイツに休戦を申し込んだ。(まだ、ヴィシー政府は成立していない)

6月22日、ドイツの降伏したフランス軍は、死者10万人、負傷者12万人、捕虜150万人の損害を出した。他方,ドイツ軍は,死者4万人,負傷者15万人だった。

1−1.日独伊三国同盟成立 : 大詔を渙発あらせらる : 昨日、ベルリンで条約調印
大阪朝日新聞 1940-09-28
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336250
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

Ribbentrop 日独伊三国政府間にはかねて三国同盟に関する条約交渉について東京、ベルリン、ローマにおいてそれぞれ折衝が進められ、とくにドイツ政府はスターマー氏を特派公使として帝国に派遣するにいたって東京交渉は異常の進展を見せ、一方ドイツ外相フォン・リッベントロップ氏の訪伊によって三国交渉は急速に進捗してこのほど三国間に完全に意見一致し妥結を見た、よって三国政府はそれぞれ所定の国内手続を了し、いよいよ二十七日午後八時十五分(ベルリン時刻同一時十五分)ドイツ総統官邸において帝国代表来栖[三郎]駐独大使、リッベントロップ独外相、チアノ伊外相の三代表間に調印を終った

この歴史的調印による三国同盟条約は日独伊三ヶ国語で記載されたもので、その画期的使命と意義は六ヶ条の条文に盛られている、畏くも天皇陛下には三国同盟成立に当り詔書を渙発あらせられ国民の向うところを御示しあそばされた、帝国政府は独伊両国と打合せの上同日午後九時十五分右条約要旨を三国同時に発表するとともに 近衛[文麿]首相は大詔を排して内閣告諭を発し同時に松岡外相謹話のほか河田蔵相兼商相代理、石黒農相談を発表して帝国不動の使命と方針ならびに国民の毅然たる態度を要望した

また独伊両国に対しては近衛[文麿]首相からヒットラー独総統およびムソリーニ伊首相宛祝電を発し松岡外相また独伊外相に祝電を発し、同夜国際電話によって重ねて祝詞の交換をなし三国同盟条約調印によるすべての態勢は同日中に完了した、 Mussolini:

かくてここに近衛内閣によって標榜された外交方針の転換は実現し世界平和の確立を目指す三国同盟の成立により日独伊三国の枢軸は格段の強化を見、ソ連は本条約によって影響を受けるところなしと明記して三国対ソ連の新外交方策を明らかにし、世界新秩序の建設完成は一段と促進されるであろうが帝国の大東亜における指導者としての立場はこれとともにますます重きを加えるであろう=写真(上から)近衛首相、ヒットラー総統、ムソリーニ伊首相

外務省発表(昭和十五年九月二十七日午後九時十五分)

日本国、独逸国及伊太利国間三国条約

第一条 日本国は独逸国及伊太利国の欧州における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつ之を尊重す

第二条 独逸国及伊太利国は日本国の大東亜における新秩序建設に関し指導的地位を認めかつこれを尊重す

第三条 日本国、独逸国及伊太利国は前記の方針に本づく努力につき相互に協力すべきことを約すさらに三締約国中いずれかの一国が現に欧州戦争または日支紛争に参入しおらざる一国によって攻撃せられたるときは三国はあらゆる政治的、経済的および軍事的方法により相互に援助すべきことを約す

第四条 本条約実施のため各日本国政府、独逸国政府および伊太利国政府により任命せらるべき委員よりなる混合専門委員会は遅滞なく開催せらるべきものとす

第五条 日本国、独逸国、伊太利国は前記諸条項が三締約国の各とソヴエト連邦との間に現存する政治的状態になんらの影響をもおよぼさざるものなることを確認す

第六条 本条約は署名と同時に実施せらるべく、実施の日より十年間有効とす

右期間満了前適当なる時期において締約国中の一国の要求に本づき締約国は本条約の更新に関し協議すべし

近衛[文麿]首相の祝電

近衛 独総統宛 世界新秩序建設の崇高なる共同の目的達成のために日独伊三国がさらに緊密かつ積極的に結合せらるるに至りたるこの記念すべき日に当り余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに閣下に依り率いらるる偉大なる独逸国民がそのすでに獲得せる赫々たる戦果を将来に拡大し、その光輝ある目的を完遂するの日の速ならんことを祈念す

伊首相宛 世界新秩序建設に崇高なる共同目的達成のため日独伊三国がさらに緊密に且つ積極的に結合せらるるに至りたるこの記念すべき日に当り余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともにファシストの愛国心に燃ゆる貴国国民がその双肩に担う重大任務を完遂するの日の近からんことを祈念す

松岡外相の祝電

独外相宛 本日締結を見たる日独伊三国条約が正義に本づき新しき世界秩序の建設と世界恒久平和の確立に貢献するところ大なるべきを確信し余は茲に閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに皇国が現下の世界の重大時局に対処し偉大なる独逸国とともにその共同の目的完遂に邁進せんとする固き決意を表明するものなり

伊外相宛 本日締結を見たる日独伊三国条約が正義に本づく新しき世界秩序の建設に不動の礎石を築くものなることを確信し余はここに閣下に対し深甚なる祝意を表するとともに閣下と余の旧情を新にしつつ皇国が現下の世界の重大時局に対処し偉大なるファシスト伊太利国とともに共同の目的完遂に邁進せんとする固き決意を表明するものなり。(引用終わり)

1−2.防共協定と抵触せず : ドイツの見解
大阪朝日新聞 日付 1940-09-30 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337475
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

資本論 【ベルリン特電二十八日発】日独伊同盟の締結とともにかつての防共協定はなお存続するや否やがベルリンの中立国筋で論議されているが、ドイツ側の意向は左のごとく諒解される、すなわち日独伊同盟は三国のそれぞれの地域における指導的立場を規定した政治外交的な確約であり防共協定とは何ら抵触するものではなく日本が依然として国内の主義として反共的でありソ連が同様に反ナチス的あるいは反ファシスト的であることは何ら差支えなく、いまだ廃棄されざる防共協定はしたがってなお現存せることはもちろんである

国内の指導の問題と国際的な外交関係の問題とは判然と区別すべきであり独ソ不可侵条約によって防共協定は影響を受けなかったごとく今回のこの間の事情は同様であるとの見解をもっている

なおソ連の援蒋行為と三国同盟(A href="https://en.wikipedia.org/wiki/Triple_Alliance">Triple Alliance)条約第三条との関係についてドイツ側では「いわゆるソ連の蒋介石政権への援助が何を意味するかは承知しないが広汎な政治的意義をもつ今回の三国同盟に関連する本質的な問題とは思われない、

独ソ関係は極めて友好的であり、さらに密接な連絡を保っているから今回の三国同盟条約がソ連にとって意外な驚きであろうと想像するのは当らざるの甚だしきものといわざるを得ない新任のモスコー駐在日本大使建川中将はこの機会に日ソの関係を正常化し両国の懸案解決に積極的な貢献をされるものと期待する」
との見解をとっている(引用終わり)


1−3.建川大使着任で日ソ関係大展開か : あすスターリン氏と会見
大阪毎日新聞 日付 1940-10-25 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335603
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

[写真((上)建川大使(下)スターリン氏)あり 省略]

スターリン  モスクワ本社特電【二十四日発】三国同盟結成後の日ソ関係は独伊の欧洲新秩序建設ならびに日本の大東亜共栄圏確立と関連して世界注視の的となっているがモスクワ外交界では新駐ソ大使建川[美次]中将のモスクワ着任早々日ソ間に外交的進展を予期し遠からず日ソ協定の成立をみるだろうと観測している

 モスクワ【二十四日】前芝本社特派員発 建川新大使は西公使、宮川参事官らを帯同二十三日午後十一時半モスクワ着、直に官邸に入ったがすこぶる元気に語る

 シベリヤはもう雪で非常に寒かったが愉快な旅を続けて来た、モスクワは七、八年ぶりだが瞥見したところ大変立派になったように思う
二十四日朝のソ連紙は一斉に大使の到着を報じたが外人記者も新大使着任に非常な関心を示し駅頭に多数詰めかけた

【ロンドン二十三日発同盟】二十三日ロンドンで傍受したドイツ放送は「スターリン書記長は二十六日クレムリン宮で建川新駐ソ大使を迎え会見することになった、近く極東における日ソ両国相互の利益を擁護すべき日ソ協定が成立を見るであろう」と報じ英国政界の多大の注目を惹いた、右に関し当地消息通筋ではスターリン書記長が日本外交官と直接会見することはかつてなかった点を指摘するとともに右の放送は恐らく正鵠を得たものであろうと左の如く述べている

一、日本はソ連の脅威から免れ南方アジヤで米国と争うべく地位を強化することを希望している
一、ソ連もまた近東に力を集中すべく極東における安全の獲得を希求している、一方目下懸案となっている英ソ紛争には多少緩和の可能性はあるが結局英ソ、米ソの両関係の根本的改善は期待されない状況にある

因にスターリン書記長と過去に直接会見した日本使節は外交官および民間人をひっくるめて昭和四年田中内閣当時、対独ソ経済使節として入ソした久原房之助氏ただ一人である

各方面で重視

二十三日露都入りをした建川新駐ソ大使は二十六日ソ連の最高実力者スターリン氏と会見すべしとのロンドン報道に関しては勿論現在までのところわが官辺筋へは何らの報告も入っていない、したがって右が果して真実なりや否や、また日ソいずれの方から発議せるものかも一切判明せず、これが今後日ソ両国関係ひいては目下の微妙なる国際関係に如何なる波紋を投ずるかも今のところわが官辺としては全然言明し得ない実情にある、しかしながら建川大使がソ連人民会議議長カリーニン[Mikhail Ivanovich Kalinin]氏へ信任状捧呈の時日決定前にスターリン氏と会見の事実が報道されるのは真偽いずれにせよ英米側が日ソ関係の推移に異常な関心を払っている証左で初会見の成行は各方面から頗る注目されている(引用終わり)


1−4.ソ連紙対日論調の変貌(ソ連紙の対日変貌) (上・下) 著者 モスクワにて本社特派員 前芝確三
東京日日新聞 第155巻 記事番号 45 出版日 1940-10-27/1940-10-28 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338153
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

(上) 支那事変の報道消ゆ 花形・新体制と南進政策

鋼鉄の最精鋭部隊 現在の日ソ関係はまことに微妙である、わが東郷大使は満蒙国境確定交渉成立を置土産とし、懸案の漁業条約改訂については準備的折衝をなしたままでモスクワを去り日ソ国交開始以来最も異色ある建川新大使の着任は更に広汎な両国国交調整のための新たなる展開を期待されている。

ソ連側においてもさる三月末の第六回最高会議におけるモロトフ首外相の演説に現れたような日本に対する恫喝的、嘲弄的な態度はやや緩和され、八月初めの第七回最高会議では『一般的にいって日本側に対ソ関係を改善しようとする希望の徴候が若干認められる。双方が各々の利益を認め、双方がすでに意義を失った若干の障害を除去する必要を了解するならば、日ソ関係の改善は可能である』という示唆的な言い廻しをしている。『すでに意義を失った若干の障害』とはまことに不明瞭な漠然たる表現であるが、それは客観的、主観的条件の変化に適応してその内容を変化させることが出来、その意味で極めて便利な表現であるといえる。

 具体的にいえば、日ソ国交調整の前提たるべき条件は両国の力関係、その時の双方の第三国関係の如何によって融通自在であり、そこに非常な含みを持たせられているのである。従ってこれをもって単純にソ連から国交調整交渉につき誘いをかけたと見ることは出来ない。また独伊枢軸対英米の戦争の長期化については、モロトフ首外相はこれを指摘し、その後ソ連の言論機関も同様な希望的見透しをしばしば表明しているが、一方日支関係についてもソ連紙ばかりを見ていると、日本軍は長期にわたる消耗戦によって結局最後の勝利を失うようにも見えるが、コミンテルン機関紙に現われる中国共産党領袖の論文は、口を揃えて抗日戦線内における敗北王者の擡頭、戦線分裂の危機を伝え、即刻これを克服すべき必要を力説している始末で、国の東西に起った戦争によって相対的に昂まったソ連の政治経済的、軍事的優越性の永続を漫然と頼む訳にはゆかないという事情にある。ここにおいてもソ連としても眼まぐるしいまでの外交的駆引が必要となってくるのであるが、さらにこの駆引を繞って或いは利用して放送される英米製のニュースが、殊に三国成立以後盛んにソ連対外政策の動向の「複雑怪奇性」に輪に輪をかけている。

 しかもこの複雑怪奇性は独ソ離間を策するための英ソ接近説、バルカン、近東における独伊ソ衝突不可避説、また日ソ国交調整妨害を目的とする米ソ対日密約説乃至は米ソ共同対日工作説のデマによっていよいよ晦渋ならしめているのである。

 従ってこの複雑怪奇性の底に真相を把握するためにはソ連外交の特殊性の線に沿って錯綜した現象を整理してゆくほかはない。
 近年しばしばソ連の言論に使用される『世界の革命的プロレタリアート最大の陣地としてのソ連の拡大強化』と言うレーニンの遺訓を手っとり早く所謂る『赤色帝国主義的侵略』の偽装的口実と見なすべきではなく、むしろこれこそソ連対外政策の基本的方向でありその実現のために情勢に即応した微妙な外交的駆引、時にはマキアベリスト的な駆引が十分な柔軟性をもって遂行されつつあると見るべきであろう。

 かかる観点からすれば、ソ連の言論機関に現れた対外問題に関する論文その他も決してソ連の対外政策を正当化しようとする御用言論とのみ見るのは危険であり、むしろその中に真相把握に寄与するところ豊富な示唆がくみとられる。殊にソ連の権威ある新聞雑誌に現れる論文はすべて十分討議された上確定された党および政府の方針に沿い展開されているからその指導的価値は大きいものがある。ここに視野をソ連の対日関係に限り今後における日ソ関係展開の指標となるべきソ連極東問題評論家の最近における論調を紹介してみよう。

 さる七月七日にはソ連の一流紙をあげて相当の紙面を費し日支事変の経過ならびに見透しに関する論文を掲載した。まずカ・ペトロフスキーがプラウダ紙に『日本は支那でどれだけ費消したか』と題して戦費を中心とする経済的立場から戦果を取扱い日本にとって極度に悲観的な見透しをのべ、遥かに重慶に声援を送ったのを初めとしヴェ・マグラム(イズヴェスチア紙)ゲ・ミハイロフ及びエム・ステパノフ(赤星紙)ゲ・グレーボフ(赤色艦隊紙)等それぞれ「支那における戦争の三ヶ年」につき政治、経済、軍事各方面から長々と所見を述べた。

殊に赤星紙のごときは四段(一面の約三分の二)を費して戦闘の経過を詳細に述べこの戦闘のうちに支那の抗日対戦はいよいよ強固なものになったと断じている。

 掲載した地図を見れば『支那における軍事行動』という見出しの下に全新聞に掲げられる中央通訊社あたりの威勢のいい報道にも拘らず支那軍の敗退は歴然たるものがあるが、殊に興味深いのは、共産軍担当戦区において日本軍の占拠地域が事実よりも遥かに小さく描出されていることである。

 これはいわゆる遊撃戦区を被占拠地域と見るか否かという見解の相違に基づくものであろうが、必ずしもそれのみではなく相当の政治的意図が含まれているとも見られるのである。

 八月発行の共産インターナショナル誌にも中国共産党側で書いた『支那戦争の三年』が現れたが、これはかつて周恩来が書いたものと同様、抗日戦線分裂の危険を訴え、いささかも楽観的な見透しは述べていない。

 要するに七月七日を頂上としてソ連言論機関の日支問題に関する報道はばったり下火となり、八月末の日支交渉成立についても、二、三行の記事のみで、ただ八月八日のプラウダ紙上にスペイン経済使節団の汪精衛氏訪問を弥次ったくすぐり的断片が現れただけである。

 この事実は八月一日のモロトフ演説が支那についてはただ『ソ支不可侵条約の線に沿って善隣有好関係にある』と至極あっさり片づけたのとちゃんと平仄が合っている。

 それに引換え七月中旬すぎ米内内閣総辞職を境にして日本の南進政策、内閣更迭と日本の新政治体制を主題とする論文が応接に遑のないほど頻繁に現れはじめた。英独関係やバルカン問題に関する論文よりも遥かに莫大な語数と紙面がこれに関して費され、日本を中心とするこの二つの主題は最近のソ連における外国問題評論の花形たるかの観があった。

 まず眼ぼしいところを拾ってゆけば、内閣更迭については七月十九日にウエ・ケルリ(プラウダ紙)ペ・クライノフ(赤星紙)ウエ・ウェラック(赤色艦隊紙)が、日本の内政と題して同二十六日にエ・ジューコフ(赤星紙)が、新体制については八月十日ケルリ(プラウダ紙)同二十三日ケルリ(赤色艦隊紙)三十一日クライノフ(赤色艦隊紙)九月七日ケルリ(プラウダ紙)同日エム・ラサーレフ(コムソモルスカヤ・プラウダ紙)九月十九日定期刊行物の淘汰についてデ・ザスウスキー(プラウダ紙)氏等のほか、共産インターナショナル紙七号にはヤマダの『日本内閣の更迭』同八号には同じくヤマダの『日本労働階級の状態』が掲載されている。

(下) 我南進北守を希望 掴み切れぬ「新体制」

太平洋問題については更に汗牛充棟、去る五月六日日本問題にくわしいジューコフが『太平洋における帝国主義的対立の激化』と題して日本の主として蘭印を含む南進政策をめぐる日英米の対立が英国の敗勢によって日米のみの対立に置きかえられんとする傾向だと述べ、ここに戦争の結び目ありとなしつつなお東亜新秩序は支那事変の解決を第一義とすると断じた論文を赤星紙に発表して以来暫く中断していたが、七月の政変以後近衛内閣が南進政策の遂行をその使命の一つとするを見て、再びこの問題は新聞雑誌を賑わしはじめたのである。

そのうちの主なものを拾って見れば、七月十八日ウエ・モトウイレフの「太平洋における対立の新段階」(赤色艦隊紙)同日ウエ・ドミトリエワ「日米対立」(モスコーフスキ・ボリシェヴィク紙)八月二十二日ケルリの「日本の南進」(プラウダ紙)同日ジューコフの「太平洋における闘争」(赤星紙)九月五日ア・シュメレフ「仏印をめぐる闘争」(モスコーフスキ・ボリシェヴィク紙)同十八日ジューコフの「日本と印度支那」(赤星紙)「太平洋における覇権のための闘争」(プラウダ紙)このほか共産インターナショナル誌の第七号にウエ・レイトネルの「太平洋における対立」第八号にはダン・フンの「仏印をめぐる闘争」が現れた。

以上の諸論文の内容を一々ここに紹介するまでもなく、これ等の論文が大部分前述したような方法で「生産」され一定の方向を辿っている以上その必要もない訳である。勿論なかには一定の方針によりながら脱線しているものもある。

 例えばドミトリエワという女がモスコーフスキ・ボリシェヴィク紙上に書いた「日米対立」のごとき親米的傾向著しく公式に従って論旨を進めてゆくうち何時の間にか米国の人道主義的扮装にごま化され米国の本質を見失い、ヒステリックな調子で日本だけを悪者扱いにしている。こんなものは寧ろ御愛嬌で歯牙にかける必要もないが、次にこれらの主題について権威ありと見られる論文の内容を総括し、間接にソ連当局の見解を窺うことにする。目下慎重なソ連当局、その要人はモロトフ首外相の外交演説のごとき場合のほか決して直接その見解を発表しないからそれを窺うについてはこの方法が最も近道であるといえよう。

 ソ連側の見る日本の新体制であるが、大部分は公式的に片づけながら、新体制の目指す方向、殊にどの程度まで政治経済機構が改革されるかという点については、率直に『不明である』となしている。仄聞するところによると、モロトフ首外相自身も、東郷大使との会見の席上『日本の新体制とはどんなものか』と、しきりにその内容を知りたがっていた由である。

打ち割っていえば、日本の世界に比類なき国体より発出するところの政治の特殊性、従ってその法律体系、政治機構の特殊性をそれ自体として十分に把握せず、それを主として経済的部面からソ連式な方法を適用しつつ、いくら分析を重ねてきたところで、そこに割切れぬものが残るのは当然である。現在のソ連評論家は、依然として過去の日本解剖の線に沿い日本を把握せんとし、日本のいわゆる特殊性については深く検討せず、機械的公式的に頭からこれを否定しかかっている以上、新体制の問題もおそらく永遠に不可解な謎であろう。従ってこれに関する通称日本通のジューコフやケルリの論文にしても、ソ連的見地から事態の推移の描写、諸種の事象のソ連的解釈が大部分を占め、甚だしく精彩を欠いている。

 しかし例の斉藤演説の反響が大きかったためか、民政党を以て旧コンツェルンを中心とするブルジョアジーの大部分の新体制に抵抗する最大の政治的堡塁を見るごとき点も含んでいる。しかし全体を通じて特徴的な点は、右翼団体の動きについて非常に注意深く、また従来の論調を以てすれば新体制の動向を簡単に公式づけたのであるが、かつては公式化した見解が些かも見られないこと等であろう。

 次に南進政策に関しては、ジューコフの見解が基本的な線となっている。しかも南進政策は常に新体制問題との関係を以て考察されているのである。

 例えばケルリの「日本の南進」のごとき、近衛内閣の登場によって南進政策が実践への第一歩を踏み出したことを指摘し、従来からの日本における南進論を歴史的に回顧しつつ、英仏の敗退と、米国の帝国主義的プランが日本の南進の実現を日程に上せたと見ている。しかし太平洋西南部における日本に好都合な力関係の変化も、日本の政策遂行にとって主体的条件に非ずして外部的な条件に過ぎず、その南進実現の途上には幾多の難嶮あり、結局日米の対立は激化すると述べている。

グルー駐日米大使  一方ジューコフは、英仏の敗退によって太平洋の帝国主義的対立は、完全に日米対立に要約されるに至ったと断定し、従来米国は日本の消耗を期待し日支双方に武器を供給しつつ侵略の毒手を平和主義の衣にかくして、おもむろに熟柿の落つるを待っていたが、今や米国帝国主義はその正体を暴露し、大西洋岸における英領を譲りうけて防禦陣地を築くとともに東洋においても英国の権益をそっくりそのまま継承せんとしている。あまつさえ米国は日本の原料源泉を断たんとして、比島から蘭印に触手を伸ばし、シンガポール獲得の野望を逞しくしている。これに対して日本にとり仏印の政治経済的、軍事的重要性を強調し、米国新聞が日本の仏印進出を神経質に報道していることを挙げている。

 ジューコフはさらにグルー[Joseph Grew]駐日米大使が東京における公式の宴会で試みた演説から『技術的発展により世界各国は物理的に接近した』という言葉を引用し、従来不可能視された日米戦争が、海軍の現技術的水準では可能となった旨を示唆した。皮肉にもこの論文がプラウダ紙に現れる直前、主なソ連紙は日米海軍力を比較して、米国海軍の実力は日本に及ばずとなすニューヨーク発のタス通信を掲載していたのである。

要するにこの問題に関する論調を総括してみれば、ドミトリエワの調子はずれの親米的な論調を例外として、日本の企図をソ連的立場から解釈すると同時に、米国の帝国主義的本質を痛烈に暴露しており、その目的について問わずとするも、とにかく当面日本の南進北守を希望するかのごとき調子すら仄見し得るのである。しかも一方共産インターナショナル誌掲載のダン・フンの論文のごときは、明瞭に安南共産党の任務は従来フランス帝国主義への闘争にあったが、今や直に日本との闘争を準備すべきであると高唱している。

 なおさきに日本の新政治体制と南洋問題に関する主な論文と筆者を一々掲げたが、いうまでもなくこれはソ連が最近において如何にこの問題について関心を有するかを裏書するとともに、一方現在のソ連において主として日本問題を取扱う評論家の顔触れを示さんためであった。

 以上述べたところで、現在日本にとって切実な二つの問題について、ソ連がどう考えているかはほぼ窺われるが、三国同盟後に生じた新しい空気は、未だはっきりした形となって現れていない。ここに結論として蛇足を加えるまでもなく、これだけで読者によって、そこから若干の示唆が酌みとられるであろうと信ずる。(引用終わり)

1−5.独ソ新友好協定成立 : 国境確定、懸案を解決
大阪毎日新聞 日付 1941-01-12 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336389
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【ベルリン本社特電十日発】昨年十月以来モスクワで行われていた独ソ経済協定交渉は今回成立し十日ドイツ側代表シュヌーレ博士、ソ連側代表ミコヤン貿易相の間に正式調印を了した、新協定は昨年二月十一日の独ソ通商協定にもとづき、かつ一九三九年の独ソ通商協定内容を実行するもので一九四二年八月まで両国物資交換を行うと規定されている
【ベルリン本社特電十日発】ドイツ当局筋の発表によれば独ソ両国は過去一年間に起った諸問題を解決する独ソ新友好協定の調印を十日モスクワで行った、右協定は左の諸項目を含むものと解される
一、昨年末満期となった通商協定の公式更新
二、ソ連のバルティック三国占領に関連する諸問題の解決(同地方から引揚げを行ったドイツ人の所有財産の賠償問題をも含む)
三、ポーランドの独ソ国境劃定に関する諸問題の最後的解決
四、独ソ両国の通商促進
以上に関し権威筋は次の如く論じている
独ソ両国の関係が悪化の途をたどっているという風説が流布されているが、われわれは両国の友好関係を一層強固にするため鋭意努力を続けてきた、同協定の成立は[ウィンストン・]チャーチル[Winston Churchill]英首相を多分に失望させることであろうがドイツにとっては実に大きな成功というべきである
なお同協定の公報に関しては十日午後八時に発表が行われる予定

リスアニヤ[リトアニア:Lithuania]国境も確定
【モスクワ本社特電十日発】ソ連政府は十日タス通信を通じリスアニヤ[リトアニア:Lithuania]のソ連領編入による独ソ新国境確定に関する条約が成立した旨左のごとく発表した
イゴルカ河からバルティック海にいたる独ソ国境確定条約はソ連首外相[ヴャチェスラフ・]モロトフ氏と駐ソ独大使[アドルフ・フリードリヒ・]シューレンブルグ氏の間に一月十日モスクワで調印を了し、これによってドイツはリスアニヤ[リトアニア:Lithuania]のソ連領編入承認を実現した。(引用終わり)

ノモンハン事件によって,ソ連の兵力を再評価し1939年12月の「対外施策方針要綱」では強硬姿勢を若干緩和させたが、日本がソ連を恐れていたとの見解は,
1)日本は,中国とソ連と同時に戦うだけの兵力はないと以前から認識していた,
2)第二次大戦の勃発で欧州の動向が不確実になった
3)ソ連は,ドイツと独ソ不可侵条約を結んでおり,欧州方面の安全保障が確保されており,極東方面に兵力を集中できた,
という3点を軽視しており、誤りであろう。つまり、その後も1941年4月に日ソ不可侵条約には至らず日ソ中立条約でしかなかったが、これは南方に進出して、石油、ゴムなどの資源確保が第二次大戦の勃発で容易になったとの判断からであろう。

1940年5月には,ドイツ軍はベルギー,オランダを攻撃し,6月22日には,フランスも降伏させてしまう。この電撃戦の成果のおこぼれを期待した日本は,火事場泥棒よろしく,フランス植民地のインドシナに大規模な日本軍を派遣することを考え始める。産業界もオランダ植民地のインドネシア(蘭印)石油,石炭,スズなど地下資源に注目しはじめる。日本の関心は現在の東南アジア地域に向いてきたのであり,日本は南方熱にうかされたように,東南アジアへの進出・進駐を期待するようになる。

ここにおける重要事項は,日独関係である。日本は自力でフランス,オランダを攻撃,降伏させたわけではないし,仏印,蘭印には,植民地政府,軍も残存している。したがって,植民地を治める本国政府,それを降伏させたドイツとの関係を無視して,植民地に軍を派遣したり,経済的支配を目論んだりすることは,ドイツとの関係悪化を招来する。

1940年後半、ドイツの欧州支配の状況で、グローバルな視野から日本でも、ソ連との不可侵条約締結の動きは、北方の防備を固めて、南方に進出(南進)し資源を確保し大東亜共栄圏を樹立する構想が表面化したからであろう。
そこで,1940年9月27日に,近衛文麿内閣は日独伊三国軍事同盟を締結する。この同盟締結の目算がついていた9月23日には,フランス領インドシナ北部(北部仏印)に日本軍を派遣している(北部仏印進駐)。

1940月,米内光政内閣のソ連への中立条約の検討要請を引き継いで,1940年7月には東郷茂徳駐ソ大使が,日ソ中立条約を提議した。また,次の近衛文麿内閣では,独ソ不可侵条約,日独伊三国軍事同盟の存在を踏まえて,日ソ不可侵条約を提議している。
しかし,ソ連の外相(ソ連では外務人民委員)モロトフは,日露戦争の失地回復を放棄した不可侵条約はありえないとする。ソ連は,独ソ不可侵条約の締結によって,日本との同盟関係を必ずしも必要としなくなっていたのである。

1−7.日蘇通商交渉開始 : 意見一致十七日第一回会見
中外商業新報/日本産業経済新聞 日付 1941-02-21 権利 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100232279
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松岡洋右 漁業交渉に引続き日蘇国交の上に更に一段の光明を投ずべき日蘇通商交渉開始については十四日の衆議院予算総会における松岡[洋右]外相の答弁で明かにされたが、同交渉はわが建川[美次]大使と蘇連モロトフ外務人民委員との合意の上で愈々十七日モスクワにおいて帝国側建川[美次]大使、宮川参事官、大江書記官、蘇連側からミコヤン外国貿易人民委員カガノウィッチ外国貿易人民委員代理、クムイキン外国貿易人民委員部東方部長他一名出席第一回交渉の幕を切って落した旨二十日午後零時半情報局から左の如く発表した日蘇間の通商交渉は両国数年来の懸案であり一昨秋はわが松嶋公使がスェーデンに赴任の途次、モスクワに於て蘇側ミコヤン外国貿易人民委員との間に話合を進めたが成功に至らず、今春以来中絶の形にあったものである【写真(上)建川大使(下)ミコヤン氏】

日蘇通商交渉に関する情報局発表 (二月二十日午後零時半)

日蘇通商交渉開始に関して曩に駐蘇帝国大使建川美次中将と蘇連外務人民委員モロトフ氏との間に意見の一致を見たが、同交渉は愈々本月十七日モスクワにおいて開始された、日本側から建川大使を始め宮川参事官、大江書記官、蘇連側からミコヤン外国貿易人民委員カガノウィッチ外国貿易人民委員代理、クムイキン外国貿易人民委員部東方部長他一名これに出席した。(引用終わり)

松岡洋右は、1933年2月24日、日本全権委員として、国際連盟脱退の演説をし、1940年9月27日、日独伊三国同盟締結など、日米開戦への原因をつくった外交官として、厳しく評価されている。しかし、現実の彼は日米戦争回避を図って行動していた。先見の明と己の才覚を武器に外相までのぼりつめた実力者が、なぜ意に反して日本を破滅的な戦争へ導いてしまったのか。複雑な内外の政治への対応を繙き、人物像を再評価する。
硝煙と狂乱うずまく動乱のうちから、輝かしい明日の世界を建設せんとする重大使命を担った松岡外相一行は3月26日夕刻、歴史的なベルリンへの第一歩を記(しる)した。この日、アンハルター駅は雄渾な大日章旗とハーゲンクロイツの旗にうずめられ、リッペントロップ外相以下政・軍・党首脳、我が大島大使以下各国外交団がキラ星のように居並び、幾度か外国の巨頭を迎えたこのホームとしてもかつてなき大歓迎陣が敷かれている。暮れ行く盟邦春の夕べ、和やかにも印象深き歴史的な一瞬であった。

在留邦人の人群(ひとむれ)が大群衆にもまれている。沿道には十重二十重のベルリン市民が遠来の盟邦外務大臣に歓呼を浴びせんとして押し合っている。この時、市電もバスも運転を中止、商店は店を閉め、歓迎の真心を示している。この熱声は同時にまた、重大な戦局を控えたドイツ国民が運命をともにする日本国民へ呼びかける熱意の表れでもあろうか。

松岡外相はリッペントロップ外相と肩を並べて、自動車は駅前からウィルヘルム街に出て、ウンター・デン・リンデンを勝利の大通りへ回る。市民の歓呼の声は日独外相の車を包んで追いかける。

かくて沿道に渦巻く「松岡万歳」「日本万歳」「三国同盟万歳」の声の中を一行は宿舎ベルヴェ宮へ入った。

明けて27日午前、リッペントロップ外相との第1回会談をもって、全世界注視のうちに活動を開始した松岡外相は同日午後、総統官邸にリッペントロップ外相を訪問。官邸内庭に整列する親衛隊、儀仗兵の礼を受けて、官邸に――――。

写真(右):1941年4月初め、ドイツ、べリリン、ドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)と日本外務大臣松岡洋右(1880-1946):1939年8月27日に独ソ不可侵条約が締結され、8月30日に平沼騏一郎内閣は総辞職し、三国同盟論も一時頓挫した。しかし、1940年6月に、ドイツがフランスを降伏させ、欧州大陸支配を決定的にすると、バスに乗り遅れるなとして、日本でも独伊同盟に参加すべきであるとの意見が強くなった、1940年9月7日、ドイツは、ハインリヒ・スターマー特使を日本に派遣し、松岡外務大臣と三国同盟の交渉を本格化した。スターマーは、日本の軍事力でアメリカを太平洋方面に拘束し、ヨーロッパ戦線へのアメリカ参戦を阻止する意図があった。1940年9月27日、東京とベルリンで同時に三国同盟が調印された。1941年4月4日、松岡外務大臣は、ベルリンでヒトラーと会談、ヒトラーは、対ソ侵攻を決定していたが、それを告げずに、松岡にソ連との距離をとることを求めた。しかし、松岡は、ベルリンからの帰路、モスクワに立ち寄って、日ソ中立条約を締結した。松岡はヒトラーとスターリンの二人に会い,日独伊三国軍事同盟にソ連を加える四国同盟案を構想し、アメリカ・イギリスに対抗することを企図していた。

日本外務大臣松岡洋右は1941年3−4月のベルリン訪問の後、モスクワに赴き,1941年4月13日、日ソ中立条約の締結に成功する。ソ連と日本の間で締結された「日ソ中立条約」は、日本がドイツ・イタリアとの同盟にソ連を参加させ、四語句同盟に発展させる糸口ともされる。しかし、天皇制ファシズム国家大日本帝国が、ノモンハン事件のハルハ河の対ソ連戦に敗北したことが、共産主義・ボリシェビキのソ連との中立条約を締結させる契機になったことは重要である。「ハルハ河戦争」では、ソ連・モンゴル連合軍の統一式の下で、装甲車・戦車の機甲部隊が、地上支援航空兵力と連携する縦深浸透攻撃を実施し、「電撃戦」の走りともいえる戦果を挙げた。これによって、日本はソ連軍の兵力、戦術を軽んじることはできなくなり、攻勢から守勢に回った。それが、日ソ中立条約である。


ドイツ週刊ニュース 松岡外相のベルリン訪問 1941年3月27日リッベントロップ外相出迎え、ゲーリング、ヒトラーと会談

写真(右):1941年3月27日午後、ドイツ、ベルリン、日独伊ソ四国同盟の構想を抱いて、非参戦国日本の外務大臣松岡洋右が、ドイツ首相兼総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)と会談した。:松岡後方に、駐ドイツ日本大使大島陸軍中将、リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)外務大臣が続いている。松岡は、会談前にゲーリング国家元帥とも握手している。
日本語: アドルフ・ヒトラー総統との会談に臨む松岡洋右外相 (左) Deutsch: Adolf Hitler und der japanische Außenminister Yōsuke Matsuoka bei einem Treffen in Berlin im März 1941. Im Hintergrund ist u.a. der deutsche Außenminister Joachim von Ribbentrop zu sehen. English: Japanese Foreign Minister Yōsuke Matsuoka (1880–1946, left) visits Adolf Hitler. Date March 1941
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Matsuoka visits Hitler.jpg引用。


1941年2月,日本の外相松岡洋右は,南方に侵攻する際の障害となる英国を打倒するために,ソ連を日独伊三国軍事同盟に加盟させる四国同盟案の可能性を模索する。これによって,日本は極東方面のソ連兵力の脅威を取り除き,中国との戦争を続けつつ,英国の植民地であるマレー,ビルマを攻撃し,資源を手にいれ,中国への援助物資を遮断できる。

外相松岡洋右は訪独し,外相リンベントロップ(Joachim von Ribbentrop)と交渉するが,ヒトラーは既にソ連攻撃を決意しており,四国同盟には関心がない。しかし,松岡外相が,ドイツからの帰途,モスクワに立ち寄った際,スターリンとの直接交渉によって,なんと「日ソ中立条約」の締結に成功する。

写真(右):1941年3月28日、ドイツ、ベルリン、日独伊ソ四国同盟の構想を抱いて、非参戦国日本の外務大臣松岡洋右が、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル(Wilhelm Keitel, 1882-1946/10)、特命派遣日本公使ハインリヒ・ゲオルク・スターマー(Heinrich Georg Stahmer、1892-1978)(Heinrich Stahmer):スターマーは、1936年の日独防共協定の仲介者でもあり、独ソ戦で日本から帰国できなくなったために、1941年10月に日本傀儡の汪兆銘政権(南京国民政府)の特命全権大使に任命された。スパイのゾルゲに情報を漏らしていたオットー駐日ドイツ大使解任後、1943年2月に駐日特命全権大使に就任。松岡後方に立っているのは、1933年ヒトラー政権掌握依頼の首相官房長官ハンス・ハインリヒ・ラマース(Hans Heinrich Lammers、1879-1962)
Der Besuch des japanischen Aussenministers Yosuke Matsuoka in Berlin vom 26. bis 30.3.1941 Der japanische Botschafter in Berlin, Generalleutnant Oshima, gab am 29.3. zu Ehren des Gastes einen Empfang in der japanischen Botschaft. UBz.: Aussenminister Matsuoka im Gespräch mit Generalfeldmarschall Wilhelm Keitel und dem deutschen Botschafter in Tokio, Heinrich Georg Stahmer. Ganz links Reichsminister Dr. Heinrich Lammers. Depicted people Matsuoka, Yosuke: Außenminister, Japan Keitel, Wilhelm: Generalfeldmarschall, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland (GND 118721577) Stahmer, Heinrich Georg von: Diplomat, später dann Botschafter in China und Japan, Deutschland Depicted place Berlin Date 28 March 1941 Collection German Federal Archives Accession number Bild 183-B01910
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Bundesarchiv Bild 183-B01910, Berlin, Besuch japanischer Aussenminister Matsuokas.jpg引用。



イタリア・ニュース 1941/4/4松岡外相・チアノ外相 ベルリンからローマに列車で到着【L'arrivo del Ministro degli esteri del Giappone Yosuke Matsuoka】 
Giornale Luce C0132 del 04/04/1941 Descrizione sequenze:l'arrivo e l'accoglienza alla stazione del ministro giapponese, strette di mano alla banchina tra Ciano e Matsuoka, ; Matsuoka saluta i soldati schierati alla stazione sull'attenti, seguito da Ciano ; le bandiere dell'asse sventolano ; folto gruppo di fotografi, folla festante saluta le autorità all'uscita della stazione ; le autorità salgono in macchina e si allontanano ; giovani fasciste sventolano bandierine ; il corteo con autorità attraversa in macchina la strada che congiunge la stazione a piazza esedra, folla ai bordi della strada in festa ;

日本外務大臣松岡洋右は1941年3−4月のベルリン訪問の後、モスクワに赴き,1941年4月13日、日ソ中立条約の締結に成功する。ソ連と日本の間で締結された日ソ中立条約は、日本がドイツ・イタリアとの同盟にソ連を参加させ、四国同盟に発展させる糸口ともされる。しかし、天皇制ファシズム国家大日本帝国が、ノモンハン事件のハルハ河の対ソ連戦に敗北したことが、共産主義・ボリシェビキのソ連との中立条約を締結させる契機になったことは重要である。「ハルハ河戦争」では、ソ連・モンゴル連合軍の統一式の下で、装甲車・戦車の機甲部隊が、地上支援航空兵力と連携する縦深浸透攻撃を実施し、「電撃戦」の走りともいえる戦果を挙げた。これによって、日本はソ連軍の兵力、戦術を軽んじることはできなくなり、攻勢から守勢に回った。それが、日ソ中立条約である。

松岡洋右は、1904年に外務省登用試験に合格、入賞し、中華民国の領事官補、満州の関東都督府などに赴任し、その時に、満鉄総裁の後藤新平、三井物産の山本条太郎らと知り合った。そして、寺内内閣の外務大臣後藤新平の下で、総理大臣秘書官兼外務書記官として外交舞台で活躍し、1919年の第一次大戦後の講和会議であるパリ講和会議にも随員として近衛文麿らとともに参加している。これは、松岡洋右のアメリカ仕込みの英語能力を買われたためでもあるが、日本外交のスポークスマンとしての活躍を見せた。その後、中国総領事に就任したが、1921年、41歳の時に外務省を退官した。そして、山本条太郎の招きによって、南満州鉄道の理事に就任し、1927年に副総裁となった。しかし、1930年には満鉄を退職して、2月の第17回衆議院議員総選挙に政友会から郷里山口2区で立候補し、当選し、議会では強硬外交を主張した。1932年、国際連盟がリットン調査団報告書で、満州国を認めず不当な対日勧告をしたとして、1933年2月24日、国際連盟脱退の演説をした。

1940年7月20日、第二次近衛文麿内閣で外務大臣に就任した松岡洋右は、アメリカ・イギリスと対抗し、日本による中国満州支配を貫徹するために、ドイツ・イタリアと同盟するための外交を唱えた。そして、三国同盟の参加の条件として、松岡は、日本陸海軍と交渉し、
1)アメリカ・イギリス・フランス中心の既存の世界体制に対抗する国際連盟脱退国として、世界新秩序・東亜新秩序の建設、
2)軍事同盟・外交協議・武力行使という第二次世界大戦への参加を日中戦争(支那ヲ事変)の解決後にすることをドイツ・イタリアに承諾させる自動参戦義務の無効化、
3)欧州ブロックと東亜共栄国との相互の提携、
を原則にして、1940年9月9日から、日独伊三国同盟の交渉を始めた。

日本における三国同盟の難点は、すでに第二次世界大戦を始めていたドイツ・イタリアとの同盟すると、日本も枢軸国として自動参戦する義務があり、戦争に巻き込まれるという危惧だった。日本政府には、「本条約締結ニ伴フ政府ノ施策万全ヲ期スルコト対英米関係ニ於テ無用ノ刺戦ヲ避クルコト等ノ希望ヲ付加シタル審査報告ヲ朗読ス 石井顧問官 本案ニ賛成ナルモ近代ノ同盟ハ古代ノ同盟トハ異リ利実関係ノ結合ニ過ギザルモノナリ歴史ノ教ワル所ニ依レバ同盟国間ノ関係ハ頗ル難シキモノナリ殊ニ独逸ハ最モ悪キ同盟国ニシテ独逸ト同盟ヲ結ビタル国ハ凡テ不慮ノ災難ヲ被リ居レリ」との反論もあったのである。しかし、松岡洋右は、ドイツとの交渉によって、自動参戦義務はないとをドイツに譲歩させ、それをもって日本陸海軍、政府の賛同を得て、昭和天皇の裁可の下に、1940年9月27日、日独伊三国同盟の調印を行った。


2.1941年4月13日、日ソ中立条約


写真(右):1941年4月13日、ソビエト連邦、モスクワ、日ソ中立条約に署名するソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)
:真後ろに立っているのは、外務大臣松岡洋右、その奥にヨセフ・スターリン、駐ソ連日本大使建川美次(たてかわ よしつぐ:1880‐1945/9/9)
Description Нарком иностранных дел СССР В. Молотов подписывает Пакт о нейтралитете между СССР и Японией (1941). Присутствуют: И.В.Сталин, министр иностранных дел Японии И.Мацуока, зам. наркома иностранных дел СССР С.А.Лозовский, А.Я.Вышинский. Date 13 April 1941 Source http://victory.rusarchives.ru/index.php?p=31&photo_id=995 Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Molotov signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact.jpg引用。



日ソ中立条約の締結【スターリン・モロトフ・松岡洋右・建川美次】

松岡洋右外相は、日独伊三国同盟にソ連を加えた四国同盟の構想を抱き、1941年3月12日、ソ連経由シベリア鉄道でドイツ・イタリア訪問の途についた。1941年3−4月初旬、ドイツとイタリアで日独伊三国同盟にソ連を加える案を提議した外務大臣松岡洋右は、ドイツからはソ連への不信、さらには独ソの対決を仄めかされるほどだった。しかし、帰路にソ連モスクワに立ち寄り、懸案だった日ソ中立条約で調印することに成功した。これは、日本とソ連が相互に領土の保全および不可侵を約束したもので、締約国の一方が第三国から攻撃された場合には他方は中立を維持することも約束している。有効期限は5年で、満期1年前に破棄通告がなされなければ、さらに5年間自動延長される。

 1941年4月13日、日ソ中立条約調印に合わせてソ連と日本が共同声明を発表し、ソ連は日本傀儡の満州国の領土保全と不可侵の尊重し、日本はソ連傀儡のモンゴル人民共和国の領土保全と不可侵を約束した。つまり、ソ連本土・日本本土だけではなく、1939年のノモンハン事件で戦ったモンゴル・満州国境についても、相互の不可侵を約束したもので、日ソ中立条約[日ソ中立条約後]の講和条約の性格を持っている。これは互いの領土だけでなく、日本の傀儡国家である満州国と、ソ連の強い影響下にあるモンゴル人民共和国にたいしてもそれぞれ領土保全、不可侵を宣言したことである。


写真(右):1941年4月13日、ソビエト連邦、モスクワ、日ソ中立条約に署名する外務大臣松岡洋右
:真後ろに立っているのは、ヨセフ・スターリンとソ連外相ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)、駐ソ連日本大使建川美次(たてかわ よしつぐ:1880‐1945/9/9)
Description Министр иностранных дел Японии И. Мацуока подписывает Пакт о нейтралитете между СССР и Японией. Присутствуют: И.В.Сталин, нарком иностранных дел СССР В. Молотов, зам. наркома иностранных дел СССР С.А.Лозовский Date 13 April 1941 Source http://victory.rusarchives.ru/index.php?p=31&photo_id=997 Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Matsuoka signs the Soviet–Japanese Neutrality Pact-2.jpg引用。


大日本帝國及「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦間中立條約

第一條
両締約國ハ両國間ニ平和及友好ノ關係ヲ維持シ且相互ニ他方締約國ノ領土ノ保全及不可侵ヲ尊重スヘキコトヲ約ス

第二條
締約國ノ一方カ一又ハ二以上ノ第三國ヨリノ軍事行動ノ対象ト為ル場合ニハ他方締約國ハ該紛争ノ全期間中中立ヲ守ルヘシ

第三條
本條約ハ両締約國ニ於テ其ノ批准ヲ了シタル日ヨリ実施セラルヘク且五年ノ期間効力ヲ有スヘシ両締約國ノ何レノ一方モ右期間滿了ノ一年前ニ本條約ノ廢棄ヲ通告セサルトキハ本條約ハ次ノ五年間自動的ニ延長セラレタルモノト認メラルヘシ

第四條
本條約ハ成ルヘク速ニ批准セラルヘシ批准書ノ交換ハ東京ニ於テ成ルヘク速ニ行ハルヘシ

右證據トシテ各全權委員ハ日本語及露西亜語ヲ以テセル本條約二通ニ署名調印セリ

昭和十六年四月十三日即チ千九百四十一年四月十三日「モスコー」ニ於テ之ヲ作成ス
松岡洋右(印)
建川美次(印)
ヴェー、モロトフ(印)

天佑ヲ保有シ萬世一系ノ帝祚ヲ踐ミタル日本國皇帝(御名)此書ヲ見ル有衆ニ宣示ス

朕昭和十六年四月十三日「モスコー」ニ於テ帝國全權委員ガ「ソヴィエト」社會主義共和國聯邦間中立條約ヲ閲覧點檢シ之ヲ嘉納批准ス
神武天皇即位紀元二千六百一年昭和十六年四月二十五日東京宮城ニ於テ親ラ名ヲ署シ璽ヲオサセシム
御名國璽


「日ソ中立条約 批准書交換」


写真(右):1941年4月13日、ソビエト連邦、モスクワ、日ソ中立条約に署名する外務大臣松岡洋右
:真後ろに立っているのは、ヨセフ・スターリン、人民委員会議議長(首相)兼外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)、駐ソ連日本大使建川美次(たてかわ よしつぐ:1880‐1945/9/9)
Description Signing of Soviet-Japanese Neutrality Pact Date 25 April 1941 Source [1] - The US-Japan War Talks as seen in official documents Author Domei Tsushinsha
写真は Wikimedia Commons、Category:Soviet-Japanese Neutrality Pact (1941) File:Soviet-Japanese Neutrality Pact.jpg引用。


1940年6月にドイツがフランスを降伏させると、日本は、アジアにおけるイギリス・フランス勢力の弱体化の中で、日独伊三国同盟によるソ連の封じ込めを企図した。しかし、1941年4月に日ソ中立条約を締結した第二次近衛文麿内閣では、三国同盟にソ連を加えて、四語句同盟として、アメリカに対抗することを計画するようになった。近衛文麿は、その手記『三国同盟に就て』で、
1)アメリカの参戦を防止し戦禍の拡大を防ぐ
2)対ソ親善関係の確立し独ソ不可侵条約と日ソ中立条約を結合して、日独ソの連携によって、英米に対する日本の地歩を強化する
3)日独ソの連携の下に、日中戦争(支那事変)を継続する中国蒋介石政権への独ソの援助を停止し、蒋介石の屈服を企図する
という3点を示した。そして、「元来余は熱心なる日米国交調整論者であった。……然しながら事志と違い、今後日米の国交は只ゝ悪化の一路を辿り、殊に支那事変以来は両国の国交は極度の行詰りを呈するに至った。かゝる形勢となりし以上は、松岡外相のいえる如く最早礼譲とか親善希求とかいう態度のみでは国交改善の余地はない。」と考え、権謀術数を頼む日本外交を展開し、東亜新秩序の確立を図った。

2−1.米の政策不変を強弁 : 日ソ条約にハル長官声明
読売新聞  日付 1941-04-16 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336190
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

[写真(ハル長官)あり 省略] 【ワシントン本社特電】(十四日発)ハル国務長官は十四日日ソ中立条約成立に対するアメリカ政府の見解を発表、アメリカ政府の外交政策は、日ソ中立条約によって何等変更を蒙るものでない旨次の如く声明した

日ソ中立条約の意義は一般にやや過大評価されている傾きがある、この条約は従来より日ソ両国間に事実上存在していた状態を単に文書において表現したものと解されよう、両国政府がこの状態を文書において確認することに意見の一致を見るや否やについては若干の疑問もあったがそれが成立を見るに至ったとしても何等驚くに当らない、従ってアメリカ政府の諸政策はこれによって何等変更を蒙るものではない』

【ワシントン十四日発同盟】ハル国務長官は十四日の定例会見で日ソ中立条約に関する公式声明後、記者団と一問一答を行ったが『ソ連が満洲国を承認したことをどう考えるか』との質問には『公式声明以外には付加する必要はない』と答え『日ソ両国に対して圧迫手段を考慮しているか』と質せば『今までのところ本問題は何等討議された事がない、条約を十分検討した上でなくてはこれが米ソ関係及び目下継続中の米ソ通商交渉に何等かの影響を持つかどうか言明出来ない』旨をのべた。(引用終わり)

2−2.米北京駐屯軍 : 来月上旬、第二次引揚げ
大阪毎日新聞 日付 1941-04-17 大阪毎日新聞
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【北京十六日発同盟】米国北京駐屯軍百五十名はターフジ司令官指揮のもとに来る五月上旬北京を引揚げ秦皇島より上海経由マニラ方面に向うこととなった、この結果北京米国駐屯軍は去る二月第一次引揚げ四十名を合してほとんど全部が引揚げ、あとはわずかに大使館護衛の十余名が残留することとなるが日ソ中立条約成立直後のことでありその動向は非常に注目される

なお北京米国駐屯軍は一九〇一年北京における義和団事件議定書の規定にもとづき約四十年の久しきにわたり駐屯していたものである。(引用終わり)

2−3.対蒋援助を継続 : ソ連、重慶へ通告説
大阪毎日新聞日付 1941-04-17 https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336524
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【ニューヨーク特電十六日発】十六日重慶より当地に達した報道によると重慶においては信ずべき筋よりの情報としソ連政府は十六日正午重慶政権に対し日ソ中立条約成立後もソ連の対蒋援助は依然継続せらるべき旨を通告し来ったと伝えられる

【ニューヨーク特電 十七日発】日ソ中立条約の成立は英米陣営とそれに依存する重慶政権に深刻なる衝動を与えたが重慶側ではいまだにソ連の援助に一縷の希望を繋いでいるもののごとく十六日重慶発のニューヨーク・タイムス紙特電はつぎのように重慶側の今後の立場を報道している

重慶政権は十六日モスクワより日ソ中立条約により従来のソ連の対支政策は少しも変更されるものではないとの公式の確約を受けたる旨発表した、それにより今後も武器弾薬、飛行機その他の軍需品供給の形式によるソ連の対支援助が継続されるものと解される、それらの軍需品は茶、タングステンなどの支那の産物と交換取引されているようだが一昨年締結されたソ支バーター通商協定によって成立したソ連の対支借款は本年ソ連より重慶に送られたる軍需品の価格が莫大なる額に上るにもかかわらず重慶は未だに借款の大部分を費消していないので、それだけソ連に対して軍需品の供給を仰ぐことができるわけであるしかしモスクワ政府の確約を得たとはいえ今後重慶はいつまでソ連の援助を期待できるかにつき疑惑を有するものが甚だ多い重慶当局では十六日同時に満洲攪乱の工作をさらに強化する方針を進めている旨発表した

日本は今回日ソ条約によりソ連をして日本の満洲に対する支配権を承認せしめたがもし日本が今後在満兵力を減少することがあればそれだけ重慶側の活動の機会が増大することになるので重慶は今後満洲辺境の攪乱工作をとるものと見られる、但し重慶としては今回のソ連政府の確約にあきたらず、引続き日ソ条約の詳細なる内容ならびに適用につきソ連政府の説明を期待している。(引用終わり)

2−4.日ソ条約に対抗 : 英、米、濠、蘭の密約説 : 太平洋軍事基地を共用
読売新聞  日付 1941-05-01 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336365
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【ワシントン本社特電】(二十九日発)英米合作の進展につれ太平洋においても右両国及び濠洲、蘭印を含めた諸国の間に日本を対象とする何等かの協定乃至諒解が存在するに非ずやとの問題は各方面関心の的となっているが、確実な筋より得た情報によれば最近英、米、濠、蘭印各国政府は日ソ中立条約成立後における日本の南進政策を危懼し同四ヶ国紳士協定を締結、右締結諸国中何れか一国が日本の攻撃を受けた場合四ヶ国海空軍は太平洋における軍事基地を四ヶ国共通の使用に供すべき取極めを行ったといわれる

右に関し消息筋でもアメリカが武器貸与法の精神に則って英、濠及び蘭印に対し太平洋にあるアメリカ海空軍基地の使用を許可することは当然考えられることで、そうなれば各国海空軍はアメリカの基地において自由に燃料補給及び修理を受けると共にアメリカ海空軍もまた右三国の基地を自由に使用することが出来るわけだと述べている。(引用終わり)


2−5.伝統の南下政策達成の機会を窺う : 近東情勢とソ連の動き
大阪毎日新聞  日付 1941-05-20 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335452
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ソ連の最近の動きは他の諸列強に比し、その外観は花々しいものはないが、この世界の変局、特に英帝国の崩壊という最早仮想でなく現実的様相を前にして、ソ連は独得の大きな動きを見せているのである。

 特に本年四月以降におけるソ連の動きを数えて見ても四月六日のソ連・ユーゴ友好不侵略協定、四月十一日独ソ間鉱油取引協定、四月十三日の日ソ中立条約の成立、五月六日のスターリン氏のソ連内閣首班就任、五月八日のノルウエー、ベルギー、ユーゴー三国の公使館撤収要求五月十二日のソ連、イラク間外交関係設定等々表面的にはすこぶる地味である。 この中にスターリン政策の画期的発展とソ連の布石がひめられつつあるのである。

スターリン首相登場

ソ連の動きとして、劈頭に取上げらるべき問題は、スターリン氏の登場である。なにがゆえにスターリン氏がスターリン憲法発布当時でさえつかなかった椅子に、今日になって坐る必要が生じたか。これには三つの理由が想定される。

一、世界の情勢が既にソ連をして党と政府との二元主義政策の採用を許さず、梶原式逆櫓の余地を与えなくなったこと 二、枢軸接近というより、むしろ枢軸利用によって、ソ連独自の膨脹政策を進展せしめるため、ここにソ連は対外政策に一貫性を附し対外信用を強化する必要があったこと 三、第二次世界大戦に対するスターリン氏の見通しが的中し、世界再分割戦により多くの収穫を得るためにスターリン氏が馬を陣頭に乗出したことこれである

これを戦時外交に入って以来のソ連の遣口に見るに、かの一昨年の独ソ提携によるソ連の対外政策の一大転換は、実にソ連が党と政府の二元性に基づいて敢行したものであって、黒幕のスターリン氏が政府外交当局の更迭によって、簡単に決行されたのである、しかしかかるソ連の外交政策の転換は一部外交においてソ連政府の政策、言動に非常なソ連政府の言動よりも、むしろその背後にあるソ連共産党の動向、端的にいえばスターリン氏の意図如何を窺うに至らしめた。これがためにそれ以後の対外重要折衝乃至重要外交文書の交換にあたっては、モロトフ首相兼外相とともにスターリン氏の立会を必要とさるるに至った。しかし今日に至って、スターリン氏は逆櫓式な対外政策の転換を必要としなくなった。それよりも寧ろ対外政策の信用を強化して、世界の変局に対処することの必要を感じた所に、スターリンの首相就任の意義があり、ソ連の枢軸接近の大きな動きが見られるのである。以下ソ連の最近政策によって、ソ連の動向を窺って見よう。

ソ連バルカン放棄

独ソ関係の微妙なる複雑性については、英米側の離間策乃至離間期待を全然別個の問題として否定されないものがある。独ソ不侵略条約によって結ばれた独ソ両国の戦争回避の態度、政策には一貫したものがあるが、ソ連が厳然たる中立政策を標榜し、独自の政策を遂行している以上、勢力圏の問題については、時々摩擦があり、政策の食違いは免れ難い。しかしてこれら勢力圏問題についてポーランドならびにバルチック沿岸諸国に関する限り、独ソ間に円満なる諒解が成立して、その摩擦の原因は除去されて行ったが、事一度バルカン問題に移って、独ソ間に政策上の摩擦があったことは事実である。

 しかるにドイツの電撃作戦はソ連の期待を裏切り、ユーゴ—ギリシアは独軍に蹂躪され、ソ連のバルカン政策は一蹴されてしまったのである。このドイツの偉大なる戦果に驚愕したソ連はあっさりとバルカンを放棄した。ソ連がノルウエー、ベルギー、ユーゴー三国の主権否認の行動をとったことはこれを証明している。

西南亜細亜へ南下

このソ連の対バルカン政策失敗の直後に日ソ中立条約が成立しスターリン氏の首相就任が実現したことは、ソ連の枢軸接近という大きな動きの標柱である。ソ連が反枢軸的政策を執って、得るところはなにものもなく、枢軸国を利用して初めてソ連は勢力圏の拡張に進み得るという現実の教訓をバルカン政策によって味わった。ソ連の狙うところはアフガニスタン、イラン(ペルシア)を南下してペルシア湾に達し、枢軸国の手の届き難きインドをも赤色勢力圏に包含することである。このソ連の南下態勢は帝政ロシア時代からの伝統的政策であって、英帝国の勢力に阻まれて今日に至った、しかしていまや枢軸国の前に英帝国は崩壊の前夜にあり、枢軸国の勢力がここまでに伸びるまでにソ連は重要点に布石する必要に直面した。五月十二日ソ連がイラクと国交を開始したのは、ソ連の一つの布石であるといえる。スターリン氏が松岡外相との会談で  自分もコーカサス生れのアジア人の一人である。欧洲人には自分の政策は理解できないかもしれぬが、アジア人には理解されよう。 という言葉は、意味深長であるがスターリン首相の肚の中に、その南下政策と同教諸民族に対する政策が具体化しつつあることを語るものと見られないこともない。近東における独ソ間の勢力圏が如何に固まるか、東亜から南進する大東亜圏がどの地域にまで到達するか今後の政局の発展に俟って知る事柄であるが、ソ連が規定の政策の下に西南アジアに南下し、世界再分割戦に参与すべく、枢軸接近政策に一歩を進め、近東に着々布石しつつある事実は見逃し得ない大きな動きであろう。(引用終わり)


2−6.ソ連最近の経済事情 (一〜三) 著者 野口芳雄談:外務省欧亜局
日本工業新聞 / 産業経済新聞  日付 1941-06-13

(一) 蒲公英の乳液からゴム 不足資材確保に科学、技術総動員で躍起

大体現在のソヴエト連邦の動態をみますと、如何にも非常時体制というものを濃厚にして来ております、これは西欧における戦霊が益々濃くなりドイツの西側からの圧迫を非常に感じて来たからであります、従来はボーランドという国がありましてそれが一つの緩衝地帯になっておりましたものが、今次の大戦でドイツの占領下に置かれて直接に国境を接するということになりますと、何時如何なることから不測の事態が起らないとも限らないというのでソ連としましても十分その辺のことを考へておるのであります、

殊にドイツが西の方に進んで行き今やバルカンをその手中に収め、そして段々東の方に出て来てトルコイラン、シリヤ、イラクなどの中東地方にまで手を延ばすような形勢になって来ます、と黒海を繞る諸地域‐殊にソ連にとっては食糧問題の根本的解決策としてのウクライナの確保および鉄、石炭の出るドニエツ炭田地方延いては黒海の東コーカサスの油田というものがドイツの手に入るというような形になって来ますからソ連と致しましてはどうしてもここに最後の力を振り絞ってでも一応ドイツに対抗しなければならないという形になるのではないかと思うのであります

現在までの情勢をみますとスターリン氏が首相になって出て来まして以来今までバルカン辺りで嫌がらせをやっておったのももうやらないようになり、ドイツと大体提携して行くという形になっておりまして、或は石油とか穀物類というものをもう少し多くドイツに渡してドイツのこの方面における要望に応ずるということで以て段々とドイツに歩調を合せて行くという方針でありましょうが、その間にドイツに取られてしまうというようなことになりはしないかと、そういうような非常に憂ふべき状態にあるというとは事実でありまして斯ういう風な情勢に際して経済方面、政治方面におきましても対抗するような種々の施策を採っているということも疑いのない所であります

内政方面に対しても今まで共産党内で非常に羽振りを利しておりました党員を抑えて国内一致の体制で行く‐党と人民とが遊離しないで全体が一つの塊りになって国難に処して行く、そのためにはソヴエト・デモクラシーというものを唱えてそして民心をして安んじて業に就かしめ生活を愉快にして[ヨシフ・]スターリン政権に対する神聖を維持して行くというようにやっておりまして多年これまでつくって来たソヴエトの組織の力にさらにもう一つ精神的結合とでもいいますか、この二つが両々相俟って国力整備の歩を進めて行くということに向って努力が続けられておるものと考えます

経済方面に就きましては要するに有事の場合における所の必要資材の自給自足ということが生となっておりまして戦時に必要な重要資材の内現在のロシヤに足りないものはゴム、ニッケル、銅、錫、ウォルフラムというものでありましてこれが確保に今躍起となっておる、つまりこの五つのものの自給策を樹てておる訳であります、従来それらの足りない所は今までイギリスとかアメリカ辺りから輸入しておったのでありますがまだまだ斯ういうようなものでは自給の域に達していないのでありまして現在のところ国内で生産出来るものは半分位であります

最近ソ連では天然ゴムの採取をやっておりましてこれに関した植物の文献などを集めたりして盛んに研究をやっております、現在その内でも一番有望なものは一種の蒲公英に属する植物でこれは別に学名はありますがその蒲公英の根っこから乳液を採るのでありまして乳液の約二〇%位がゴムになっております

[写真(スターリン氏)あり 省略]

今それを盛んに栽培しておりまして栽培に当っても根っこを太くするという風に凡ゆる部門に亘って非常な苦心研究が払われております、蒲公英からゴム乳液が出るなら日本でも山芋からゴムが出来ない筈はないと思いますが……斯ういった訳でソ連政府では今年になってゴム省というものを特につくったのをみてもゴムの産出に非常に努力しておることが判る訳であります、

またニッケルとか錫、銅、ウォルフラム斯ういう鉱産物に就ても相当増産計画をやっておりまして去年と比べてみましても約その倍に達する予定でありまして錫、銅など大体三割から四割も増加するという状態であります、これらの鉱物は徐徐に発見されておりますが殊に中央アジヤからアルタイ方面にかけての一帯は今迄余り探査が行届いていないので最近では年々何億留比という調査費を出して連邦科学院から調査隊を沢山派遣してどんどん探鉱調査をやらしておるという状態であります

[写真(モロトフ氏)あり 省略]
そこで経済方面における新体制というものをみますとそれは先ず労働方面に一番強く現われております、大体ロシヤの労働者というものの労働能率は非常に低いもので一時はアメリカ辺りの三分一位で三人掛ってアメリカの労働者一人に匹敵するというような時もありました、之がために政府は生産力を引上げるために凡ゆる運動殊にスタハーノフ運動を各方面に向ってどんどん普及奨励させておるのでありましてこの運動はもうかれこれ七、八年来伝っております

そして優秀な労働者には勲章をやったり代議士にしてやったりして物質的にも社会的にも高い地位を与えて優遇しております、それかといってい最高会議へ出て来ても手を上げたり下げたりするスターリンの顔が見えるかモロトフの演説が聞ける位でロボットと変らないのでありますが多くは国へ帰ったら大きな顔が出来る、まあ陣笠程度のもので一種の労働貴族のようなものであります

とにかくそういう風な区別を附けまして色々奨励方法を講じて能率増進運動をやって来ておるのでありますがなかなかそれでも思うような効果が挙らないのであります、一般の労働者の能率というものが余りに低いため今度は労働者の規律をもっと改善するというような方法に出まして労働法も憲法ではソ連の労働者の地位というものは世界にその比を見ない程非常に合法化されたものであるということを自慢にしておるものでありますがそれにも拘らず最近に至りましては段々労働者の特権というものを奪っております(つづく)

(二) 製油技術未だし 尨大な工業生産高に比して極めて微々たる貿易

即ち今まで七時間労働制であったものを八時間にした七時間労働はそれは憲法にも書いてある所でありますがそれを去年辺りから八時間労働に又引戻しております、労働時間は殖えたけれども金賃殖やさない、然も少年工辺りで今まで六時間であったものを八時間にするという調子で非常な労働の強化を強いております、斯ういう点は従来彼らの唱えて来た所と非常に相反するものでありまして恰も労働者の天国であるかのように思われておりますと大□な間違いであります、そういう無理をしましてもこの時局に堪えて今後どうしても一流の先進国追つかなければならないという様な決意を持っております

今年の二月におきましては、さらに今度の第三次五ケ年計画で十五年間掛ってもよいからもっと産業体制を固めるということを発表しております、それによりますと今後益々労働者の出来高払賃金制を確立強化するのであってこの結果は労働者の過労を非常に誘い労働の搾取を伴うということになると思うのでありまして一寸今まで予想出来なかった点であります工業に就きましては主要物資をどの程度生産しているかと申しますと今年の二月の党の会議で発表されておるのでありますが昨年から一大准戦時体制になりまして数字などは厳重に秘しております、これはどこの国でも同じてありますがなかなかはっきりしない所があります

けれども大体工業の総生産高は一千六百二十億留で銑鉄が一千八百万瓲鋼塊が二千二百四十万瓲、圧延鋼材が一千五百八十万瓲、石炭が一億九千百万瓲、石油が約三千八百万瓲という所でありまして大体これによってみましてもなかなか近時のソヴエトの経済というものは侮り得ないものがあるということがいえるのであります、他方一般の国民の生活に直接関係ある所の消費材というものは、はじめ第三次五ケ年計画に当り今年当り特に殖やすつもりであったのでありますが最近の時勢に鑑みて予定通り殖やしておらないのであります

去年の生産材の生産高は八百三十九億留ということになっており、消費材は五百三十六億留となっておりますが今年の予定をみますと生産材の方は一躍一千三十六億留ということになっており約二七%を増し消費材の方は五百八十四億留僅かに九%位しか殖えてをらないという状態で今後益々国民の生活というのは勢い犠牲を強いられるという形になって来ると思います

先程ソ連が徐々に生活状態をよくしておると申しましたのも実はソ連だけについてみるから目立つものでありましてつまり他の国には今戦火に投じて切詰めた生活をしておりますためソ連だけが浮上って見えるということは無理もない所でありましてこれは全体の国力についてみましてもそういうことはいえると思うのであります

永い間戦争をしております日本とか、ドイツ、イタリー或はバルカンの諸国というものは相当消粍しておりましてソ連だけは大した消耗もなしに比較的順調に発展しておるという所にソ連が持っておったハンディキャップも大体解消して行くんじゃないかと思います、ドイツ辺りにみましても今後非常に長期に亘りまして英米に対する抗戦を続けるとするとしまいにはソ連と国力のレベルが合って来ますとそこで危険も有り得ると思うのでありましてどの程度においてソ連とドイツとが話合をつけるかということは興味ある問題であります

次に貿易方面をみますとこのソ連の大きな経済における貿易の位置というものは極めて小さいもので自給自足経済を先ず目標としておりますから貿易というものは主として自国に全然ないものと海外から仰ぐ位で消費材の如きはもう殆んど輸入する余地がないというような状態でありまして大体貿易額は逐年減退の傾向を□りつつあります

経済の情勢が年々非常な大きなテンポでもって伸びて行くのに貿易だけは萎縮して行くといった具合で一九三八年の後半期から殆ど貿易に関する統計なども発表しないのであります、所で三八年の統計をとってみますと輸出が十一億九千万留、輸入が十億五千万留、合計二十二億四千万留という小さいもので工業生産高が約一千億留、国庫予算が一千三百億留を以って経済を動かしておりながら貿易額が小さいということは自給自足経済というものを基調としているから出て来るんだろうと思います、凡そ従来のソ連の貿易は輸入超過ということになっておりまして一九一八年から二十年間に亘っての統計を見ますと輸入が四百十三億留、輸出が三百八十九億留ということで二十四億留程入超になっておるけれども大体これでバランスはとれておるのでありますが最近戦争になりましてから貿易の状態というものは非常に変って来ております

この戦争直前の状態を見ますとやはりイギリスが第一でアメリカ、ベルギー、オランダ、ドイツという順序で大体普通の時代ならば四、五十万留から六、七千万留程度の貿易はあっていいはずでありますが一九三八年辺りの統計をみますと二千数百万留という小さいものであります一方イギリスは従来はともかく現在は欧洲大戦の影響を受けまして余り入らなくなったため非常に減少しております、

又ソ連は油田国であって生産高も三千八百万瓲も産しておりますがどうも生産技術の水準が非常に低いためにアメリカから相当多くの良質ガソリンを輸入して補っておりますし工作機なども随分買っておりますがソインランド戦争を境に一時アメリカ政府では輸出を許可しないことになっておりました所丁度昨年の三月になりまして三国同盟に対する色々の関係からアメリカはソ連を自分の方に引入れようとしてその許可を亦元のようにすらすらと戻した時もありますが最近におきましてはまたまた膠着し悪化しているらしいです(つづく)

(三) 東漸する発展力 黒竜江下流に生産基地 北氷洋廻りの航路開拓

ソ連としては特殊の工作機とガソリンというものはアメリカの供給に俟ちそれから南洋方面のゴムとか錫というものは第三国を通じてでもどこからか手に入れたいというのが今の希望であります、ロシヤの経済方面の発展におきまして最も我我の注意しなければならないことは最近の経済発展の進路が東の方に向って進んで来ているということで、ヨーロッパ・ロシヤの国境に近い所では色々の危険があるという所からだんだん東の方に生産基地を動かしております

即ちウラルの山から東の方の石炭錫、穀物などの多い産地に基地を設け延いてはずっと極東の方面におきましてもバイカルから黒竜江の下流地方にかけて生産基地をつくるということに努力しておりまして大体ヨーロッパ・ロシヤにおける種々の生産組織のみに依頼せす専ら極東方面に主力を注いでいるようであります、

これは西の方からドイツ人に押されるため自然その足場が東の方へ進んで行くような形になっておりましてそれは歴史にみても明らかであります、それだけに我々極東に位しているものにとりましてロシヤの東漸ということは注意しなければならないことでありまして今後近い将来ではないかと思いますがだんだんとその勢力を我々が感じるようになるだろうと考えるのであります

大体第三次五ケ年計画の実施前につくられた計画によりましてもその約三割というものはウラルの東方に注がれており殊にバイカル以東の極東地方この辺において将来工業の飛躍的建設が行われるというような情勢でありまして極東地方の人口だけをもってしてはどうしても賄うことが出来ないのでどんどんヨーロッパ方面から移民を奨励しております

現にハバロフスクから黒竜江の下流の方にあるゴムソモリスクの街なんかは製鉄所や自動車の組立工場があり一つの生産基地をなしておる位でありましてヨーロッパ・ロシヤの北の方とずっと極東の背後の方で緊ぐためにムルコンスク‐北緯七十度の所に位しておりますがここは大西洋からの暖流の影響でロシヤの有っている唯一の不凍港であります‐大体此処を拠点としましてずっと北氷洋を廻ってベーリング海へ出てカムチャッカから浦潮へ達するという一つの航路を開拓しておりますが然しこの航路は御承知の通りとても通ることの出来ない氷の魔海でありまして大体夏一航海位しか出来ないのであります、大部分はベーリング海よりもっと西のコリマ河の河岸までやって来てそれから河船に積替えて上流の方へ必要物資をどんどん運ぶのであります、

これは全然日本から脅かされない裏口の通路からどんどん資材を持って来れば万一戦争でもあった場合其処処が一つの配給基地になり西の方から緊迫されても大した痛痒も感じないという仕組になっておりまして何時でも浦潮の北方へ持って来るという形になっております

この間の中立条約に致しましてもこれは西欧における危険が一つの力となった観方も勿論出来ますし大体ロシヤというものは日本と事を構えることを欲しないのでありまして約十年間に亘って七、八回も不侵略条約を日本に申込んで来ておりますがその都度うまく行かなかったのであります、政治的な協定をつくろうという意図は常から持っておりましてこれは何時まで経っても変らない希望であると思います

まあ日ソ関係はノモンハン事件を契機と致しまして‐あれが一番最悪の事態に立至って実際上の非常な大戦争でありましたが‐何時までも斯ういうことをしておっては大変なことになるというのでなんとか日ソ間の関係を調整したいという気持が最近特に動いて来ましてだんだん国交調整の交渉が進んで来たのでありまして偶然松岡さんの渡欧を機会に今度のような中立条約の話合が出来たとは誠に結構だと思いますが決して斯ういう条約が出来たからといって永久に安心出来るというわけにはいかないロシヤの東漸というものは我々今後見逃すことは出来ないと思うのでありましてこれに対する十分の備えをしておくということが絶対必要でありまして未だ通商協定や漁業協定という問題も残っております

これも早晩解決つく問題だと思いますが、そういうものが出来ても急に日ソの関係がよくなったという風に考えるのは之れ亦非常に危険であります、大体ロシヤ辺りの外交をみますと変々自在にやっております一時はドイツと仲が悪く噛みつき合うような宣伝戦をやっておるかと思うと何時の間にかそんな経緯をさらりと棄てて手を握るというような手段に出ますから決して日本人が一般に考えるように一度和を結んだからといってもそれは永続するものであるか或は又他の色々の客観的情勢の動きによってそれが力を失うものであるかということについては常によく考えなければなりません

何れにしましても私達は今後ソ連の実際の姿というものを常に見究めて荒唐無稽の憶測や感情的な観方は避けたいのでありまして色々国策を樹てる意味において是非ともロシヤの正体というものを掴むということが必要だと思います、繰返して申しますが今ソ連の必然的な動きというものはだんだん東の方に向って来て侮り難い勢力を持って来ておりましてそれはやがて我々の肩の上まで達するものであるということを常に考えて置かなければならないのであります(於関西工業倶楽部、大阪経済倶楽部主催講演会にて)=完=(引用終わり)


2−7.国交開始以来十六年目 : 遂に実を結んだ交渉
大阪毎日新聞 日付 1941-06-13 This collections need you to make an application to reuse images URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100230176
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翻刻 貿易進路を明示 業界、頗る歓迎す

今回妥結を見た日ソ通商交渉のはじまりは一昨年の暮貿易省問題で男をあげた当時の通商局長松島鹿夫氏がスゥエーデン公使として赴任する途次モスクワに立寄りミコヤン貿易相との間に話を交わしたに起る、もっともこの交渉はまだ両国間の意思合致の時機いたらず、他面国境紛争その他の理由などもあって自然立消えとなっていた、ところが建川大使の赴任前後から両国間の雰囲気は漸次好転しそれが、本年二月両者の正式会談となってついに今日の妥結へと進行したものである

 もちろんこの間における松岡外相の訪ソならびに中立条約の締結が異常なる作用を与えたものといえよう

そもそも両国が通商条約を締結せんとの意思は一九二五年の日ソ基本条約の末尾に記載させているところであるが、今回ソヴィエト連邦との国交開始以来実に十六年目に妥結を見るにいたったことは日ソ国交上まことに画期的なことともいうべく、政治的な中立条条約はこの経済協定によって裏づけられ両国にもたらす利益ははかり知れぬものがある。かかる友好的雰囲気は漁業基本条約をはじめ両国間に横わる自余の未解決案件を解決する端緒を開くものと期待される。(引用終わり)


3.1941年6月のドイツのソ連侵攻

写真(右)1942年,ドイツ空軍第2急降下爆撃航空団第2飛行隊ユンカースJu-87D急降下爆撃機"T6+DC":左主翼に小型爆音発生用プロペラを装備。全長11.5メートル,全幅13.8メートル,翼面積32平方メートル,重量4400キロ,最高速度385キロ,ユンカースJumo211液冷1350馬力エンジン, 乗員2名,武装 7.92mm機銃4丁,爆弾500キロ搭載。性能は標準的だが,実用性に優れていた。Iumo211エンジンは,合計6万8000台が生産され,1942年秋には月産1700台が製造されている。
Sowietunion-Mitte.- Flugzeug Junkers Ju 87 des Sturzkampf-geschwader 2 (II./Stg 2; Kennung "T6+DC") mit Gruppen-abzeichen "Bamberger Reiter" und Aufschrift "Mieze" am Rumpf im Flug; KBK Lw 8 Dating: 1942 Photographer: Niermann 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


3−1.国防経済から見た蘇連の抗戦力 (上・中・下) : 驚異的躍進の工業力主要機械を完全に自給
中外商業新報 / 日本産業経済新聞 1941-07-02/1941-07-04 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100078046
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独蘇戦争はそ勝敗がいずれに帰するにしても、第二次世界大戦の方向と性格とを決すべき重要な鍵□をなすものである。この意味から蘇連が無敵独軍の攻撃に対して果してどの位の抗戦力を示し得るかは世界の最大関心事と云わねばなるまい、蘇連の抗戦力を推測するに様々な観点はあろうが、以下

(一)蘇連軍事力の槓杆としての国防工業の現状

(二)資源と生産力の上から見た独蘇国防力の比較

(三)蘇連軍器工業、食糧生産の分布状況とヨーロッパ・ロシアを喪矢した場合の蘇連の経済力=抗戦力

等々主として蘇連の国防経済力の点からその抗戦力を探って見よう

“国の工業化が蘇連の戦争能力を決定する”―](ウォロシーロフ)一九二八年から開始した「五ケ年計画」は半封建的農業国ロシアを今日の近代的大工業国へと飛躍的に変貌せしめたのであるが、この“工業化”の第一目標は正しくウォロシーロフの指摘する如く“蘇連の戦争能力向上”以外の何物でも無かった、三次に亘る五ケ年計画‐工業化を貫くものは明白にその軍事的国防的性格である、このことは又同じウオロシーロフが第一次五ケ年計画の発足に当って述べた次の如き趣旨の言葉によって更に明瞭となるだろう

一、国民経済五ケ年計画は凡ゆる武装攻撃に対する反撃と勝利を保障すべき蘇連の国防力を組織する必要性をその出発点にせねばならない

二、従って工業建設の具体的計画に際しては充分なる軍事的考慮を加えなければならぬ

A、戦略に照応する工業の再編成
B、最小限の国防上の要求を満すべき金属工業を最も急速に確立すること
C、蘇連の国防上の弱点となっている工業諸部門‐即ち自動車生産化学工業等
‐に充分なる資金を供給すること

三、原料資源の自給自足の確立が必要である

四、武装勢力(赤軍海軍空軍)をしてヨーロッパの第一流の水準にまで高めることを目標としなければならぬ……等々

それならば斯の如き要求と目標の下に進められた五ケ年計画は、果して今日如何なる程度に蘇連の工業化に成功しているだろうか?

蘇連国防工業の発展振りを最も判り易く理解するために、先ず蘇連工業諸部門の世界における地位の変化を‐少し古いがバランスキーの作成せる数字によって見ると次の如くである

[図表(世界における蘇連工業の順位)あり 省略]
I-16 この表で明かな如く蘇連の国防工業はその第二次五ケ年計画の最終年度たる一九三七年に於て既にヨーロッパ第一流の水準に達したのである、一九三七年から始り全連邦を嵐の如く吹き捲った彼の“粛清工作”は、その後の蘇連工業発展のテンポを鈍化し、更に一九三九年以来の欧洲動乱は凡ゆる側面から同じく発展を牽制したのであるが、而もなお一九四〇年度に於て次の如き成果を学げている (註)
工業の総合的指標としいぇの総生産額と増産テンポを見ると次の如くである

[図表(一九四〇年の成果第十八回□□会議に於るマーレンコフ並にヴォズネセンスキーの報告)あり 省略] 工業生産高においては一九三七年の九五五億留から一、三七五留へと更に四四%を増大し、就中国防力の槓杆たる機械製作業においては七六%とい飛躍的発展を示している

発電力については一九四〇年の実績は発表されていないが、一九三七年度の実績八一八万四千キロワットに対し第三次五ケ年計画最終年度たる一九四二年において一七二〇万キロワットと計画されている

石炭生産は一九三七年に比し一九三九年に一五%を増産している、四〇年はこれより更に十三%の増産である 石油及び天然ガスについてヴォズネセンスキーは 「一九三七年の平均日産八万四千‐六千瓲より四〇年は九万七千‐八千瓲に増加した」と述べている 銑鉄生産高は三七年においては一千四百五十万瓲だったが、四〇年は一千四百八十七万瓲に達した 同じく銅は一・六五倍、アルミニュームは一・五九倍を増加した 自動車並に機関車製造は一九四二年において三七年の約二倍に達する計画である

以上に見る如く蘇連工業は一九三七年以降稍その発展のテンポを鈍化したとはいえ今日においてなお第一流工業国たる水準を失わないばかりか、依然その地位の向上を示しつつあることが推測出来るのである

T34-76 而して更に此処に蘇連の国防力、軍事力の直接的指標の一つとしてその機械工業発展の現状を摘記して見よう、五ケ年計画の遂行に当って蘇連が従来その最も遅れた部門である重工業、特に機械工業の発展に重点を置いたことも先に掲けたウォロシーロフの報告に徴するまでもなく当然である、左に某調査機関の製作せるところによって機械工業発展の動態を見ると
[図表あり 省略]
即ち全工業か一九三七年以来その発展のテンポを緩めているに反して、独り機械工業は益々テンポを早め、一九三七年から四〇年に至る間において実に七六%と云う驚異発展を遂げたのである、斯くて蘇連はスターリンの指摘する如く“機械を輸入する国から機械を生産する国へ”と転換し、主要なる軍需機械類について完全な自給を確立した

一例を自動車工業にとって見ると五ケ年計画前一台の自動車生産すらなかった蘇連が、十三年後の今日、ヨーロッパにおいてはドイツにつぐ自動車生産国へと急転回し、特に軍の機械化と直接的連関を持つトラックの生産においては、遥にドイツの□を摩して今日年産実に十八万三千余台(ドイツは年産七万五千余台=独、蘇共に一九三九年度)に達しているのである、

T34-76 蘇連の自動車生産は五ケ年計画によって創設したモスクワのスターリン自動車工場、ゴーリサーのモロトフ自動車工場、ヤロスラーウリの大型貨物自動車工場の三大工場に殆ど集中されているが、過般松岡外相の随員として蘇連を訪問このうちのスターリン自動車工場を見学した永井陸軍大佐の語るところに依ればこの工場と施設費約二億五千万ドルに労働者三万(一万人は婦人)で四分間に一台宛と云う驚くべき生産能力を持っていると云うことである

兎に角斯様な点から推測しても蘇連の軍事力を負担するその国防工業‐特に機械工業が現在如何なる水準にあるかは想像するに難くない、斯くて或る専門家が「今日蘇連の軍事力はツアー時代の五倍に達した」と云い、また或る人が「今日蘇連は少くともその陸軍並に空軍に於て世界第一流の域に達した」と述べているのもあながち架空の言として排除することは出来ないようだ

一九三九年モスクワにおいて開催された第十八回党大会においてウォロシーロフは赤軍の戦闘能力を次の如く誇称した 「赤軍の一歩兵兵団は約六万人で、これに相応する砲、タンク、機関銃その他の兵器を持っている、三個師団よりなるフランス歩兵兵団の全砲力を以て一斉射撃した場合の弾量は六三七三キログラム、ドイツは六〇七八キログラムであるが、今日の赤軍の場合は七一三七キログラムである、フランス歩兵兵団の一秒間に発射し得る砲弾は五一四六二キログラム、ドイツは四八七六九キログラムであるが、赤軍は六六六〇五キログラムであるこれに地雷、手榴弾、小銃弾等を加えるとフランスは一秒間に六〇九八一キログラム、ドイツは五九五〇九キログラムだが、赤軍は七八九三二キログラムの能力を持っている……」

ウォロシーロフのこの言葉の中の独仏の比較は今日失当の観があるが、それは兎も角として今日の蘇連国防工業の発展程度が優に如上の赤軍戦闘力を裏付けるに足るものであることは何人も否定出来ない(つづく)

(中) 持てる国蘇連の弱点 物資偏在と跛行的開発 “原料資源は戦争の動力である”―](シビルト)戦争の動力としての原料資源乃至天然資源を摘出して見れば蘇連のそれは遥かにドイツを凌駕する、左にゴスプラン国民経済中央統計局の示す数字に従って独蘇の天然資源埋蔵量を比較しよう‐

[図表あり 省略] 以上の如く蘇連は天然資源においてドイツを遥かに凌駕する許りでなく又世界におけるその地位も左の如く圧倒的である

KV-2 [図表あり 省略]
天然資源と並行して重要な“戦争の動力”は食糧資源である、そして蘇連は又食糧資源においてもドイツのそれを遥かに超えるものであることは今更此処に指摘するまでもない、それはドイツの今度の対蘇攻略の重要目標の一つがウクライナの穀物獲得にありとされていることを想起するだけでも充分だろう、一九四〇年の蘇連農業生産は極めて良好であり農務人民委員ベネヂリトフの報告によると 「一九四〇年はコルホーズにとって新しい達成の年度であり、コルホーズは穀物及び工芸作物の増収と播種面積の拡張に成功した、穀物の総収穫高は約七〇億ブードで馬鈴薯、蔬菜の収穫も極めて良好であった」 と云うことである、

五ケ年計書は他の部門に於て殆ど全面的に増産のテンポを鈍化しまた計画量に達しなかったが、ひとり農業部門特に穀物生産に於ては頗る順調で、蘇連当局者も「穀物問題に関する限り問題は概ね解決された」と安心している位である、こんな調子だから元来ガ世界的な農業国である蘇連と前大戦以来食糧難で有名なドイツとの食糧資源比較は此処に問題外として、世界における蘇連農産物の地位を見ると次の如くである

[図表(世界播穫面積及び生産高に於蘇連の占める割合)あり 省略] なお一九四〇年にける家畜頭数を見ると [図表あり 省略] である

併しながら食糧や天然資源ばかりが戦争の動力であるわけではない

むしろこれらの資源は潜在的動力であり顕在的動力、或はこれらを真に動力化し得るものはその国の生産力だろう、そこで次にこの点に関する蘇連の力量をドイツのそれと比較して見よう(前回において工鉱業各部門の総生産高に就て述べたが此処では更に突進んで人口一人当りの平均生産高の上から比較して見ると次の如くである)

[図表あり 省略]
即ち此処に明かなことは蘇連は総生産高に於て優位を占めるに拘らず、一人当り平均産額に於ては未だ遠くドイツに及ばざるものがあると云うことである、ドイツに及ばない許りでなくそれば英米仏にも遥かに劣っているのだ、蘇連工業の生産力を問題にするときこの点を無視すれば重大なる錯誤に陥る、モロトフは正にこの点を指摘して「斯の如き後進性の克服こそが一九三八年以降の課題である」と云った、第三次五ケ年計画はこれが克服への第一歩であったと云えるし、又最近発表された新たなる十五ケ年計画こそは「一人当り生産額に於ても世界に冠たる実質的な工業生産国の完成」を目指すものであった、蘇連の生産力は現在未だ実質的に蘇連の全国民経済を支えるに足るものではない斯る意味での再出発がこれからの重大な課題であったが、その矢先に勃発したのが独蘇戦争である、突如襲い来ったこの独蘇戦争の嵐は、たとえ蘇連がよくその国境線を死守して長期抗戦を持し得たとしても、当分計画の挫折を余儀なくせしめるだろう、そしてドイツの対蘇攻撃も亦斯る蘇連の間隙を視うにあったとも云える

なお生産力の水準を問題にする場合その発展のテンポに留意する必要があろう、左にこれについて独蘇の比較を試みると
[図表(工業生産高増加速度)あり 省略] [図表(工業における労働の生産性増加速度)あり 省略]

‐であって明かにドイツを圧する急速な発展速度を示している。現在の水準において蘇連がドイツに一□を□するものがあるとは云え豊富な天然資源に加うるにこの恐るべき生産力の発展速度は、やがて最も近き将来において‐レーニンの有名な“追付き追越せ”のスローガン通りドイツを圧倒する日を約束するものであろう、ドイツが対蘇攻撃を急がなければならなかった理由の一半は正にこの点にもあったに違いない

アメリカの前陸軍長官デーヴィスの計画するところによると今日一軍隊が完全に武装するに要する物資の種類は実に三千五百種の多きに上ると云う、戦時において最も多種類の物質について自給が可能な国こそ、その戦闘力の完壁を期し得るのである、次に十五種類の物質について独蘇の自給力を比較して見よう

[図表(独蘇自給率)あり 省略]
但し以上の数字はやや古くドイツは一九三五年、蘇連は一九三七年のものであって今日その後の発展事情の変化等を考慮に入れすには直に判断を下すとは出来ない、特にドイツについてはその広大な占領地域よりの補給を考慮に入れる必要かある、更に注意を要するのは蘇連の消費水準が相対的に低く且つ偏在的であるとだ、これらを考慮すれば以上に見る如き蘇連自給力の優越も可成り割引しなければならないだろうが、それにしてもなお総括的に見て蘇連の優位は否定出来ない、なおドイツのワルター・パール教授は蘇連に一%位の自給力しかないもの、或は全く自給力を欠くものとして次の如き物資を挙げている

錫、モリブデン、タングステン、ベナジウム、硫黄、絹、人絹、ステーブルファイバー、珈琲、茶、カカオ、落花生、椰子油
“豊富な貧困”と云う言葉が持てる国蘇連について屡々当て篏る、蘇連の物資を問題にする場合、その莫大な埋蔵資源や個々の尨大な生産施設に眩惑されてはならない、肝腎なことは豊富な物資が如何に国民経済の全面に浸透し、均衡のとれた国力を形成しているかの点にあろう、この点に於て蘇連が明白な立遅れを示していることは前に引用したモロトフの言葉が立証して余りある、不均衡な発展、物資の偏在、一人当り消費量の僅少さ等は“持てる国ロシア”の弱点として指摘されなければならない(つづく)

IV号戦車 (下) 欧露を喪った場合蘇連に長期戦の望なし

各国の軍事専門家は殆ど申合せたように“僅か一、二ケ月の短期戦の後ヨーロッパ・ロシアの主要なる部分が独軍の手に帰するだろう”と予言している、併しこの場合蘇連がどうするかについては大づかみに云って専門家の意見は二つに岐れるようだ、即ち、一は赤色政権が崩壊し事実上蘇連は抗戦力を失うとするものであり、他はウラル以東に退いて長期抗戦に出るとするものである、若し独車の短期戦によって蘇連が手を挙げてしまうとしたら問題は頗る簡単である

だがどちらかと云うと後者の場合‐即ちウラル以東に立籠って長期抗争の態勢を採ると考える方が今のところ常識的であり、この意見を支持する者が遥かに多い、そこで問題はウラル以東に於て果して蘇連はよく長期抗戦を行い得るかどうかに懸って来るのだが、以下主として“ウラル以東の資源と生産が如何なる程度に蘇連の抗戦力を支持し得るか”を中心としてこの問題を解いて見よう

結論から先に述べると、ヨーロッパ・ロシアの喪失は蘇連にとってその生命の大半を失うに等しいのである、この問題について最近某調査機関は多くの最新の資料に基いて左の如き興味ある推算を行った、即ち蘇連はウラル以東に退‐た場合‐

[図表あり 省略]
‐を喪失するだろうと云うのである、これは蘇連工業にとって正しく致命的な打撃だ 続いて農業方面ではどうかと云うと‐
[図表あり 省略]
‐を喪失すると云う、農業の場合もその喪失は大きいが、これはあながち致命的な数字とは云えない、つまり食用穀物について云えば残りの三一%を以て優にウラル以東の住民を支えてなお七百万トンの余剰を生ずるだろうということである、但しこれは政府並に 抗戦勢力の移動に伴って当然起り得べき人口の流入を計算に入れない場合の話だが、併し又七百万トンの余剰は優に一千二百万人の流入人口を養うに足りるので、生活水準の低下さえ覚悟の上なら食糧問題で決定的な打撃を受けることは考えられない

これを要するに以上の数字を基礎として次のことがいえよう、即ちウラル以東に立籠った場合蘇連は近代国家たるの相貌を完全に喪い、その抗戦力は土匪的水準に低下するであろう、又その勢力下の国民の生活は、結局奴隷的水準にまで切下げられるだろう、‐併し、由来鈍重と粘り強さを以て聞える蘇連人は、これらに耐えて飽くまで頑張るに違いない、この場合考慮に入れる必要があるのはアメリカの対蘇援助の可能性である

極東シベリアの太平洋岸はアメリカの支援に対して大きく口を開いて待っている、この方面から‐主としてウラジオからに違いないが‐万一ドシドシとアメリカの援蘇物資が流れ込んだとしたらどうなるか?……この問題の解答については、前提として次の条件を考慮に入れる必要がある
(一)アメリカは現在対英援助と自己の軍備拡充に手一杯であること
(二)日本の存在が問題になり牽制となること
(三)アメリカにも蘇連にも船腹の余裕がないこと
(四)シベリアの輸送路が貧弱であること
等である、既にこれらの条件が許す限りにおいてアメリカが対蘇援助を行ったとしよう、それは恐らくヨーロッパ・ロシアの喪失の百分の一も補い得ない位微弱なものであるに違いないのである、そしてその場合蘇連は精々支那大陸における重慶的存在を維持し得るに過ぎないと思われる

話を後に戻して前掲の喪失に関する推算を裏付けるために、次に蘇連産業の分布状況について若干の考察を加えよう

一九三七年に於ける蘇連の総出炭高は一億二千七百十万トンだがこのうちの六〇・六%(七千七百五万トン)は専らドンバス地方よりの出炭である、埋蔵資源としての石炭はむしろウラル以東に豊富でクヅネツツ炭田を中心とするシベリア地方の如き埋蔵量、実に五百五十五億トン 全蘇連埋蔵量の四二%を占めると云われるが、殆ど開発されていない

一九三八年に於ける全採油高は三千二百二十三万トンであったがこのうち八四%はコーカシャ地方、特にバクー及びグロズヌイの両油田に集中している、ウラル以東は採油量に於いて僅か三・三%という貧弱さを示す許りでなく埋蔵量も頗る貧困である

一九三八年の鉄鋼総採取高は二千六百五十二万トンであった、そしてこのうち六〇%はウクライナの独占的産出に属する、ウラル方面はこれに対して二九・二%、シベリア方面は一・八%の採取高を示した、銑鉄生産に於いてはウクライナが一九三七年全蘇の六七%という地位を占めている

一九三七年の全蘇機械工業生産額のうち七九・六七%はロシア共和国に、一七・一六%はウクライナ共和国に、十七・十六%はウクライナ共和国に属する、他の共和国は悉くその一%以下を占めるに過ぎない

ロシア共和国はウラル山脈の東西に跨がる大共和国だが、勿論その中に機械工業が万遍なくバラ撒かれているわけではない、その中心地というより独占地はモスクワ州とレニングラード州で、同共和国内で両州の占める割合は五九・九%に及ぶ。
化学工業の場合も殆ど同様である、一九三七年における化学工業生産高の七七・四%はロシア共和国、一七・六%はウクライナ共和国でロシア共和国における産額はモスクワ、レニングラード両州が中心を占めている

ロシア共和国はその他綿布生産額において九五%、セメント生産額において六七・九%、製紙額において八九%を占めているが何れも前の場合と同様モスクワ、レニングラード両州を除けば殆どあとの諸州は問題にならない

蘇連の資源並に生産の分布は以上の如く甚だ偏在的である、特にそれ等が国境附近、乃至敵の爆撃圈内に集中していることは最大の弱点として指摘されねばならぬ

勿論蘇連当局がこの鮎に気付かない筈はなく、その五ケ年計画は生産の合理的配置を重要課題の一つとするものであった、五ケ年計画に於て蘇連が企図したのは工業地帯建設並に鉱山開発の“東への躍進”である、この計画に応じて現れたのが、尨大なウラル・クヅネッツ・コンビナート(総合工業地帯)であり、油田開発の中央アジアへの移動であった

この他極東赤軍の独立性の維持を目的とするブロストロイ総合工業地帯建設、北樺太油田開発等もある、要するにこれ等は今日の如き事態あるを予想しての準備であり重要企業の戦略的分散計画であった、併し乍ら今日其成果はどうかと云うと、僅か乍らでも頼り得るのは、ウラル・クヅネッツ・コンビナート位なもので、他は机上のプランがあるのみと云って差支ない。

ウラル・クヅネッツ・コンビナートは、ウラルの鉄鋼資源とクヅネッツの石炭資源を結び、この間に横わる銅、亜鉛、鉛、電力等の資源も加え面積六百万平方キロメートルに亘る大総合企業地帯であるが、現在この地帯は、N・バランスキーの記述によると
「黒色治金業、有色冶金業、化学工業及び機械製造業の創設を終り、完全に自給自足を樹立した、特に自己の工場において、自己の電力と自己の金融を以て重機械一切の生産をなすことが出来る、即ち機関車はオルスク、スターリンスク、車両はニージュニイ、タギール、船舶はベルミ、チユメン、鉱山機械はスウエドロフスク、ノヴォシビリスク、冶金工場設備はスゥエルドロフスク、農業機械及びトラクターはオムスク、チェリャビンスタ、電気機械類はスウェルドロフスク等々‐」
と云った活況を呈しているモスクワ陥落の後、蘇連の首都はこの地帯の中心地であるスウェルドロフスクへ移転するだろうと噂されているのも当然な話である、

だがウラル以東に於て現在蘇連が頼り得るのは僅かにこのウラル・クヅネッツ・コンビナートあるのみで、ブロストロイ総合工業地帯の如き未だ僅かに一つの製鉄所さえ完成されていない有様である、そこで極東赤軍は武器の自給は愚か食糧の供給さえ満足でなく、その兵士の重要常備品の一つに罐切が数えられていると云った有様である(罐詰なしにはやって行けないからだ)結局ウラル以東には計画と資源がある許りだと云って差支ない、

そして蘇連がモスクワ、レニングラード、ウクライナ、コーカシャ等を失ってこのウラル以東に退いた場合、其処に待受けているのは広大な未開発の山野と動き始めた許りの新設企業若干だけなのである。(引用終わり)


3−2.単独不講和を約し英ソ軍事同盟成立す : モスクワで調印、直に発効
大阪毎日新聞 1941-07-14 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339539
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

[写真あり 省略] 【モスクワ特電十三日発】英ソ軍事同盟の締結に関してはかねてよりモスクワとロンドンとにおいて並行的に交渉が進められつつあったが十二日モロトフ・ソ連外務人民委員とクリップス駐ソ英大使との間に諒解が完全に成立し英ソ軍事同盟の調印が終了した旨十三日発表された 【モスクワ特電十三日発】十二日モスクワにおいて締結をみた英ソ軍事同盟条約の内容は対独戦にあたり英ソ両国の相互援助義務と単独不講和の原則を協定したもので批准をまたず調印と同時に即時効力を発生するものである=モロトフ外相(上)とクリップス大使(引用終わり)

3−3.日ソ関係に影響なし : 英ソ協定 : ソ連当局言明
大阪朝日新聞 1941-07-15 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336447
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【モスクワにて畑中特派員十三日発】ロゾフスキー・ソ連情報局次長は十三日外国記者団と会見したが話題は主として同日成立の英ソ軍事協定に集中され、ロゾフスキー次長は
 今回の英ソ協定はドイツに対する諸強国の連合を意味する、またイギリスはパートナーとして世界最大の産業を擁するアメリカを味方に持っている、ゆえにドイツおよびその隷属国家は自由のために戦う諸国民の強力な連合に直面しているのである
と英ソ協定の価値を力説、つづいて一問一答に入った、記者(畑中特派員)の英ソ軍事協定の日本におよぼす影響如何?との質問に対し
ロゾフスキー次長 自分の考えるところによるとそれは協定そのものからして明瞭である、この協定は第三国との関係におけるソ連の義務ならびに協定に何ら牴触するものではない、従って日ソ関係も中立条約が結ばれた時の状態と少しも変らないことは単に理論的結論というばかりでなく政治的結論でもある

ついでAP、ロイター両特派員との間に左の如き問答が交された
AP特派員 今回の英ソ軍事協定に関しアメリカをその暗黙のパートナーと解してよいか?
次長 アメリカは暗黙というべくあまりに強大である、アメリカは現在公然とイギリスを授けているではないか
ロイター特派員 英ソ軍事協定はドイツのみを対象とするものでイタリアを含まずと解すべきや?
次長 イタリアは強国であるが現在はドイツに隷属している、したがって今回の軍事協定はイタリアおよびその他のドイツ隷属国家も目標とするものと解すべきである。(引用終わり)

写真(右):1941年(昭和15年)7月18日、日本、東京、内閣総理大臣官邸、第三次近衛文麿内閣;外務大臣  豐田貞次郎 内務大臣  田邊治通、 大蔵大臣  小倉正恒、 陸軍大臣  東條英機、 海軍大臣  及川古志郎、 司法大臣  近衞文麿(兼)、 文部大臣  橋田邦彦、 農林大臣  井野碩哉、 商工大臣  左近司政三、 逓信大臣  村田省藏、 鉄道大臣  村田省藏(兼)、 拓務大臣  豐田貞次郎(兼)、 厚生大臣  小泉親彦、 国務大臣  平沼騏一郎、 国務大臣  鈴木貞一、 国務大臣  柳川平助、 内閣書記官長  富田健治、 法制局長官  村瀬直養
Description 日本語: 第3次近衛内閣 English: The 3rd Konoe Cabinet Date 18 July 1941 Source http://www.sankei.com/west/photos/151222/wst1512220003-p5.html Author 産経新聞社 / Sankei Shinbun
写真はWikimedia Commons, Category:Photographs of Fumimaro Konoe・File:Fumimaro Konoe Cabinet 19410718.jpg 引用。


近衛内閣 内閣総理大臣 近衛文麿
外務大臣  豐田貞次郎
内務大臣  田邊治通
大蔵大臣  小倉正恒
陸軍大臣  東條英機
海軍大臣  及川古志郎、 司法大臣  近衞文麿(兼)
文部大臣  橋田邦彦
農林大臣  井野碩哉
商工大臣  左近司政三
逓信大臣  村田省藏
鉄道大臣  村田省藏(兼)
拓務大臣  豐田貞次郎(兼)
厚生大臣  小泉親彦
国務大臣  平沼騏一郎
国務大臣  鈴木貞一
国務大臣  柳川平助
内閣書記官長  富田健治
法制局長官  村瀬直養

ソ連にとって,ドイツが共産主義ソ連を憎悪し,東方生存圏を提供できるソ連を,いずれ攻撃してくることは確かであった。ヨシフ・スターリンは,ソ連西方からの脅威を意識して,急遽,極東方面の安全保障,すなわち日本との中立条約を有用と判断したのである。第二次大戦の勃発で,日本が南方熱に浮かされており,北方のソ連へ攻撃してくる可能性は低い。

橋田 邦彦 しかし,日独伊三国軍事道目を重視すれば,ドイツのソ連侵攻とともに,日本もソ連に攻撃を仕掛けてくる可能性がある。そこで,日本を,中国と東南アジアに侵攻させるために,北方の安全保障を日ソ中立条約で約束したのである。ソ連の優先事項は,ドイツ,欧州方面であり,極東方面は二次的でしかなかった。日本にとっても,優先されるのは南方侵攻であり,満州以北ではなかった。共産主義国家とファシズム天皇制国家との国益は一致した。

しかし、1941年6月22日、独ソ戦が勃発すると、日本は軍部大本営と政府の連絡懇談会を、6月25日から28日に開催した。この連絡懇談会で松岡洋右外相は、対ソ即時開戦を主張し、近衛文麿首相は三国同盟を破棄したが、陸軍の意向を重視して、「北辺に於ける憂慮を芟除せんが為、世界情勢、特に独ソ戦の推移に応じ、適時北方問題を解決することは、帝国国防上は勿論、東亜全局の安定上極めて肝要である」として、対ソ連戦争の準備をすることを決定した。

これには、原嘉道枢府議長も「独ソ開戦が日本の為真に千載一遇の好機」であるとし、「日ソ中立条約の為に、日本がソ連を打てば背信なりと云うものもあろうが、ソ連は背信行為の常習者である。日本がソ連を打って不信呼ばりするものはない」と断言した。

こうして、大元帥昭和天皇の御前会議でこの『要綱』が承認され、対ソ戦準備のための大動員計画「関東軍特別演」(関特演)が始まったのである。

写真(右):1941年10月18日、日本、東京、内閣総理大臣官邸、初閣議後の東條英機内閣;外務大臣 東郷 茂徳 内務大臣 東條 英機 (兼)、 大蔵大臣 賀屋 興宣、 陸軍大臣 東條 英機 (兼)、 海軍大臣 嶋田 繁太郎、 司法大臣 岩村 通世、 文部大臣 橋田 邦彦、 農林大臣 井野 碩哉、 商工大臣 岸 信介、 逓信大臣 寺島 健、運輸通信大臣 鉄道大臣 寺島 健 (兼)、 拓務大臣 東郷 茂徳 (兼)、 厚生大臣 小泉 親彦、 国務大臣 鈴木 貞一、 内閣書記官長 星野 直樹、 法制局長官 森山 鋭一
Cabinet ministers of Cabinet of Hideki Tojo(東條内閣). They finished the first cabinet meeting and took a souvenir picture in Kantei. Date 18 October 1941 Author Asahi Shimbun
写真はWikimedia Commons, Category:Hideki Tōjō in 1941・File:Hideki Tōjō Cabinet 19411018 3.jpg引用。


東條英機 内閣総理大臣 東條英機
外務大臣 東郷 茂徳
内務大臣 東條 英機 (兼)
大蔵大臣 賀屋 興宣
陸軍大臣 東條 英機 (兼)
海軍大臣 嶋田 繁太郎
司法大臣 岩村 通世
文部大臣 橋田邦彦
農林大臣 井野 碩哉
商工大臣 岸 信介
逓信大臣 寺島 健
運輸通信大臣 鉄道大臣 寺島 健 (兼)
拓務大臣 東郷 茂徳 (兼)
厚生大臣 小泉 親彦
国務大臣 鈴木 貞一
内閣書記官長 星野 直樹
法制局長官 森山 鋭一


3−4.ソ連の猛省を促す : 社説
中外商業新報 / 日本産業経済新聞 1941-11-09 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335015
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

 日本海汽船会社の敦賀、清津定期客船気比丸(四、五二二トン)は[1941年11月]清津より出港後、同港南々東沖八十六マイルの日本海上で、ソ連水域より流出せる機雷に接触して沈没し、遭難者四百三十九名、八日までに収容の生存者二百八十三名死体収容二十二名、なお行方不明百三十四名を出すに至った。かかる惨事は、ソ連当局の不注意によって醸されたところの、平和的航海の商船に対する加害であって、遭難箇所があきらかに公海である以上およそ公海上、各国民は自由に航行し得るとの海洋自由の原則に照らし、断じて黙過し得ざるところである。一九〇七年ヘーグ第二回平和会議の自動触発機雷に関する条約は、文明国間の公法であって、ソ連といえどもこれを無視することは許されないのである。

かつ仮にソ連側が条約上強弁を試みうるとしても、事実上において、政治上の責任を免れ得ないのである。気比丸事件発生以前、すでに去る九月上旬以来、ソ連側の過失により、わが国漁船等の数件の遭難事件が発生して、かなりの犠牲者を出し、よってわが外務省はその都度ソ連政府に警告を与え、十分その注意を促して来たのである以上、それにもかかわらず、ソ連側が直に適宜の措置を講ぜず、そのため、四千余トンの商船[気比丸]を沈没せしめ、数百人の人命を犠牲に供する不祥事件を発生せしむるにいたったことに対しては、何とも弁解の余地は存しないのである。

これに関する謝罪、一切の損害賠償ならびに今後かかる不祥事を再発せざるの確固たる保障を求め、ならびにソ連にしてこれらわが国の当然なる要求に対して、直に満足を与えざる場合、取らざるを得ざるべき措置を講ずべき権利は、わが国に属するのである。すでにわが政府は、在京ソ連大使を通じて厳重なる抗議を行い、ソ連政府の誠意ある回答を要求したのであるが、吾人は速にわが要求の満たされんことを期待するのである。

輸送船 この[気比丸事件の]機会に、ソ連のわが国に対する一般的態度に関しても、一言触れて置きたい。目下の独ソ戦争に対しては、わが国は中立を持しているのであるが、戦局の成行に関しては、当然常に深甚なる注意を払いつつあるものであることは、いうまでもない。日ソ両国関係自体についても、日米関係と同様、事いやしくも帝国の生存に触れ、またはわが権威に関する場合には、あくまで毅然たる態度をもって、これを擁護すべきは改めて説くまでもない。

 その動機や理由について、大統領もハル国務長官も記者団の質問に対して、意見の開陳を差控えているが、米記者の批評が日米間に万一の事があった時の対策だということに一致していると伝えられるのは、おそらく米国政府の意図を穿ったものと見て差支えあるまい。昨年来英米は東亜水域にある両国居留民に対し、それぞれ引揚を勧告し、屡々その実行を促すとともに、北京、天津、上海等の駐屯軍の引揚を実行するに至ったのである。しかもこのことと関連して、英米側は当時頻に東亜危機説を故意に吹聴し、自ら日本南進の幻影を描いて、被害妄想を逞しうしたのである。

日本の南進は、むしろ英米の南部よりする援蒋敵性の防遏に余儀なくされたものである。然るに拘らず、彼らは自己の敵性を全然棚に上げて、日本が好んで南進するものと疑い、これをいわゆる危機説に結びつけて、ABCD対日包囲陣の結成と強化に狂奔しつづけて来たのである。

こうした環境の下で、日米会談は続行され、いまやいよいよ成否を岐つ最後の折衝に入らんとしている。米国方面からは、日米の主張が対蹠的であり、会談の前途に対して悲観的消息を伝えるものが多く、また来栖大使の渡米使命についても、ほとんど期待薄の観測が行われている。日米の会談は原則論を離れて、相互に政治的考慮が払われることによってのみ、成功の可能性がある。米国からの消息は、遺憾ながらそれを否定するものばかりであるのみならず、会談中に米国の対日敵性は宥和どころか一歩一歩強化されいるのである。米駐支軍隊引揚の措置の如き、その兵数からいって、ほとんど問題とするに足らないが、居留民の引揚といい、軍事的、経済的援蒋政策の積極化といい、ABCD包囲軍の一層の緊迫といい、会談の前途を見越して、打つべき手を悉く打っているのである。在支駐屯軍の総引揚の如きも、最後の手がかりを除き去って、日本との万一の場合に備うる用意を急ぐものとして、その意義重大である。(引用終わり)


Речь И.В.Сталина, 7 ноября 1941 г.スターリンの演説、1941 年 11 月 7 日


3−5.ソ連、米の手に乗らず : 対日関係中立条約で処理せん
読売新聞 日付 1941-11-21 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335240
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【ニューヨークにて小林特派員十九日発】日米会談の進行に伴いソ連の極東政策は頗る重要視されつつあり、当地政界一部では日米関係が最悪の事態に立ち至った場合はA・B・C・D包囲線にSを一枚加え得ることによってソ連の日本に対する軍事的役割なるものを仮設している向きもあるが、一般には将来はともかく日米開戦の場合もソ連としては只管シベリアの防備強化に専念するのみでその対日消極的行動は希み得ないと見ている、十九日付ニューヨーク・ポスト紙クイブイシェフ電もこの点を強調同紙特派員のロゾフスキー外務人民委員部次長とのインタービューを掲載しているが同次長は
 『ソ連の極東政策は極東における隣国との中立条約に基き飽まで友好関係を保持する』
と述べ、また更に
 『過日チャーチル首相は日米開戦の場合イギリスは一時間以内に対日官戦を行うと闡明したがソ連は対米協力のために同様の見解を有するか』
との質問に対しては厳に回答を拒否し『左様なことは濫りに論ずべき筋合のものではない』と答えたと報道している

ソ連が西部戦線に有史以来の大兵力を集中し国力の大半を傾けて対独防戦に必死となっている今日、ソ連にとっては日米開戦を直接的にどう利用するかという問題でなく日米開戦によって生ずる国際環境の推移がソ連の対独抗戦にどう影響するかを見究め、その効果を最大限に利用しようというのがより重大な問題だと見られている

 即ち日米開戦においてソ連に好望し得る問題は
Uボート (一)開戦と同時にA・B・C・D包囲線の実力突破に出るであろう日本の行動によってシベリアの国防が頗る安泰化すること
(二)日米開戦は必然的に独米の交戦状態を本格化しアメリカはドイツUボート作戦完封のためイギリスとともに仏領西アフリカに所謂第二戦線を展開せしむること必至でイギリス軍のリビア作動はその前触れともいうべきものだが、これによってドイツの対ソ攻略の鉾先は著しく鈍化されよう

従ってソ連としては一面抗戦一面待機の臨戦態度により結局この目的を達し得る、反対にソ連にとって不利と考えられるのは、英米の援ソ物資が世界戦激化によって益々実効薄となることだか、この点は当初より予期していた点だし予想されるドイツの攻勢純化を利用してウラル以東の経済建設促進によってこれをカヴアーし得るとしている、要するにソ連としてはアメリカの誘引には決して乗らず、また対日関係においても日ソ中立協定を基礎としてこれを処理し、この間において生ずる効果を最大限に活用することによって或る程度まで独ソ開戦以前におけるソ連の特異な国際的地位を恢復し、極力対独抗戦を続ける方針と見られている【写真はスターリン首相】 (引用終わり)


3−6.ソ連の出方監視 : 中立条約の意義重大
読売新聞 1941-12-10 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339276
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

T34-76 帝国と英米の国交はついに断絶し完全なる交戦状態に入ったが、今後の戦局の発展に重大なる影響をおよぼすものとして注目されるのはソ連邦の動向であろう

ソ連は本年四月十三日帝国との間に日ソ中立条約を締結し、相互に領土の保全および不可侵を尊重し締約国の一方が一又は二以上の第三国より軍事行動の対象となりたる場合は他方締約国は該紛争の全期間中中立を守るべき事を確約したが、今回いよいよ中立条約において、最も注目されたる事態が現実に発生したわけである

日ソ中立条約締結後、六月に至って独ソの開戦を見、今なお交戦は継続しているが、帝国は北方の安定を祈念する立場を終始堅持しつつ今日に及んだ、英米ソはさきにモスクワ会談を開きその提携の緊密化をはかりソ連は英米陣営に左袒している形をとっているので、今後の問題としては英米側がソ連側に軍事基地等の要求をする事も考えらるるところであって、これに対するソ連の出方は注視に価しよう、帝国政府としては南方の戦火拡大に関連して北方の重要性はいよいよ加重する形勢なるに鑑み、北方に対しても慎重なる監視をつづけている。(引用終わり)


1944年、ロシア革命記念日にスターリンは日本は「侵略民族」であるとし、アメリカの強い要請を受けて、1945年2月のヤルタ会談では、ドイツ降伏後2−3か月以内に対日参戦するとの約束をした。駐ソ連日本大使佐藤尚武(さとう なおたけ:1882-1971)は、日本政府の要望を受けて、大戦講和の仲介をソ連に依頼したが、簡単に断られた。佐藤尚武大使は、現地に滞在してソ連の連合国との同盟関係が密であることを熟知しており、ソ連の連合国軍への同調を確信していた。そこで、ソ連の中立条約順守もあり得ないと考えおり、日本政府がソ連に和平仲介を依頼するという外交の無理解を嘆き、ソ連の対日参戦を危惧していた。

1945年4月5日、ソ連外相モロトフは佐藤尚武大使に日ソ中立条約の廃棄を通告した。廃棄の理由は、日本によるドイツの対ソ戦援助、ソ連の同盟国アメリカ・イギリスとの交戦、である。また、ソ連は、日本が中立国ソ連の船舶が、津軽海峡、宗谷海峡を航行する際に、船舶の不法臨検、撃沈など、妨害行為をとっていると指摘している。こうなってはソ連の対日参戦は時間の問題である

日ソ中立条約は、廃棄通告後1年間は有効なはずだが、ソ連外相モロトフ外相が破棄通告をしたのは、満期1年前の4月13日ではなく、その1週間前の4月5日だった。そして、ドイツ敗北が目前に迫った状況で、ソ連は極東における兵力を増強していたのは、シベリア鉄道の運行状況からも明白だった。にもかかわらず、日本政府、外務省は、依然として、ソ連を仲介とした講和に期待を寄せて、特使として近衛文麿をスターリンの下に派遣する計画を抱いていた。講和、降伏に踏み出す決断ができずに、状況を一層悪化させ、人名、財産の被害を拡大し続けた。

日ソ中立条約後の独ソ開戦に際して、課題動員連を発してソ連侵攻を準備・威嚇し、アメリカ、イギリスが同盟国ソ連の対日参戦を強く要請していたことを踏まえれば、1945年8月9日、ソ連は日本に対して宣戦布告を行い、翌日、満州へ軍事侵攻したが、これを、日ソ中立条約に違反した不法行為であると一方的に非難することは、外交・軍事のグローバルな歴史的展開を理解していない偏狭な見解である。


5−2.単独不講和を約し英ソ軍事同盟成立す : モスクワで調印、直に発効
大阪毎日新聞 1941-07-14 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339539
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

[写真あり 省略] 【モスクワ特電十三日発】英ソ軍事同盟の締結に関してはかねてよりモスクワとロンドンとにおいて並行的に交渉が進められつつあったが十二日モロトフ・ソ連外務人民委員とクリップス駐ソ英大使との間に諒解が完全に成立し英ソ軍事同盟の調印が終了した旨十三日発表された 【モスクワ特電十三日発】十二日モスクワにおいて締結をみた英ソ軍事同盟条約の内容は対独戦にあたり英ソ両国の相互援助義務と単独不講和の原則を協定したもので批准をまたず調印と同時に即時効力を発生するものである=モロトフ外相(上)とクリップス大使(引用終わり)


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャ
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

2023年1月15日公開の当研究室にご訪問ありがとうございます。ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。

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東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
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