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ウィストン・チャーチル Winston Churchill 2007
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◆イギリス戦時内閣ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相 写真(右)1944年6月12日、北フランス、ノルマンディーを視察するイギリス軍参謀総長アラン・ブロック(Alan Louis Charles Bullock)、イギリス戦時内閣ウィストン・チャーチル(Winston Churchill)首相、第21軍集団バーナード・モントゴメリー(Bernard Montgomery)大将モントゴメリーの移動司令部にて撮影。1940年6月のダンケルク撤退、フランス敗北から4年もたった1944年6月になって、イギリス軍は大陸に遠征軍を派遣した。
THE PRIME MINISTER, WINSTON CHURCHILL VISITS NORMANDY, 12 JUNE 1944、 Catalogue number: TR 1838, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Photography, Creator: War Office official photographer Horton (Capt)
Object description: Left to right: The Chief of the Imperial General Staff, Field Marshal Sir Alan Brooke; Mr Winston Churchill; and the Commander of the 21st Army Group, General Sir Bernard Montgomery, at Montgomery's mobile headquarters in Normandy. Label: Winston Churchill flanked by the Chief of the Imperial General Staff, Field Marshal Sir Alan Brooke and General Sir Bernard Montgomery, commanding 21st Army Group, at Monty's mobile headquarters in Normandy, 12 June 1944. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 1838)引用。

序.ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチルの生い立ち

ウィンストン・チャーチルWinston Leonard Spencer-Churchill)の祖父はマールバラ公爵(Duke of Marlborough)のウィンストン・スペンサー=チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill:1852-1928)であり、その三男が父ランドルフ・チャーチルである。

父ランドルフは、三男であったが、兄2人が早世したために、マールバラ公爵(Duke of Marlborough)の爵位を継承している。そして、その地位と資産を活かして、議員となり、保守党の政治家として、ソールズベリー内閣時代に大蔵大臣に就任した。しかし、のちに首相と対立し1886年に失脚した。

ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)の母となるジャネット・ジェロームJeanette "Jennie" Jerome)は、アメリカの資産家レナード・ジェロームの次女で、「アメリカン・プリンセス」の社会的威信を得るために、イギリスに送り込まれ、社交界にデビューした。結婚して「レディ・ランドルフ・チャーチル」となってからは、マールバラ侯爵家(Duke of Marlborough)を資金的に援助し、後継ぎとなる長男ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)を1874年11月30日に出産した。

ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)は、マールバラ侯爵家(Duke of Marlborough)の意向を背景に、7才の時にセントジェームス男子校St James Senior Boys’ School)に入学するが、ここは、両親がウィストンのために選んだ名門校で、貴族の子弟が多く躾も厳しい寄宿舎に入れられた。そして、ラテン語lingua latina)も学ばされるが、ウィストンにとってそれは、「陰鬱な夕暮れ、傷む胸」(自伝『わが半生』)の思い出である。チャーチルは、ここで7歳から12歳までの幼少期を過ごし、一流の上級校に進学するため「12回目の誕生日を祝う間もなく、殺風景な試験界に入る」ことになる。

 そして、パブリックスクールPublic school)の名門ハーロー校Harrow School)へは、両親の威光でお情けで入学を許されたものの、ここも寄宿学校であり、厳しくしつけられたために勉学も素行も低い評価しか得ていない。特に、格変化(declinatio)や活用(coniugatio)が豊富なラテン語lingua latina)、ギリシャ語ελληνικά)は最低クラスであり、遅刻や教師への反抗など手におえないほどの生徒だった。結局、ハーロー校Harrow School)では、学力が低く、留年し、学校での成績評価は下位だった上に、不良、素行が悪い、品位がないとされ、人物評価も低かった。これでは、いくら名門出身で議員の父を持つとはいえ、大学進学をあきらめるしかなく、意志の強固さを活かせるサンドハースト王立陸軍士官学校Royal Military Academy Sandhurst)に進学を希望するが、そこにもなかなか入学を許されず、受験失敗を経験している。

  サンドハースト王立陸軍士官学校Royal Military Academy Sandhurst)では、射撃や乗馬など運動能力だけでなく、リーダーシップの面でも評価が高かったようで、卒業後、騎兵cavalry)将校となったウィンストン・チャーチルWinston Churchill)は、キューバ、インド、スーダンで、民族独立闘争national liberation movement)の鎮圧に加わり、実戦経験を積んだ。そして、その軍功を活かして保守党Conservative Party)から議員として立候補したが、落選した。

  しかし、南アフリカのイギリス領ケープ植民地(Cape Colony)でオランダ系植民者ボーア人とイギリス人の争いがボーア戦争(Cape Colony)となると、ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)は『モーニング・ポスト』( Morning Post)の特派員として、派遣された。不幸にして、チャーチルは捕虜となったが、みごとに脱走し、チャーチルの首に懸賞金が架けられたほどだった。チャーチルは、無傷で帰還し一躍有名になったが、その後も軽騎兵連隊に将校として戦闘に参加し、その戦歴を出版し好評を得た。

ウィストン・チャーチルは、こうしてイギリスの有名人、戦争の英雄として迎えられ、その知名度と人気を活かして、1900年、再び総選挙に保守党Conservative Party)から出馬し、26歳にして下院Lower House)議員に当選した。

保守党Conservative Party)議員のジョセフ・チェンバレン(Joseph Chamberlain:1836-1914)政権下、ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)は保守党Conservative Party)に造反して自由党へ移籍し、自由党政権の発足後に、植民地省政務次官に就任、自由党ハーバート・アスキス(Herbert Henry Asquith:1852-1928)政権下では通商大臣と内務大臣に就任するほどになった。

写真(右)1919年、ドイツ、ライン地方の軍事委員会に出席した際、メリー女王陸軍女性補助部隊の将校と会話をする保守党ウィストン・チャーチルWinston Churchill陸軍長官・航空長官
QUEEN MARY'S ARMY AUXILIARY CORPS DURING THE FIRST WORLD WAR, GERMANY, Catalogue number: Q 34693, Part of MINISTRY OF INFORMATION OFFICIAL COLLECTION, Bernard Montgomery Subject period: Interwar Creator: British official photographer, Object description:  The Secretary of State for War and Air Winston Churchill in conversation with an officer of Queen Mary's Army Auxiliary Corps during a visit of the Army Council to the Rhine area in 1919.写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (Q 34693)


保守党Conservative Party)議員ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)は、1908年、33歳でジャネット・ジェロームJeanette "Jennie" Jerome)と結婚した。彼女は称号を持つ軍人ヘンリー・ホージェー(Henry Montague Hozier:1838-1907)の娘クレモンタイン・ホージェー(Clementine Clementine Ogilvy :1885年4月1日生まれ)23歳である。ウィストンは、ジャネット・ジェロームJeanette "Jennie" Jerome)との間に5人の子供に恵まれた。

第一次大戦時にウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)は、海軍大臣として、ダーダネル海峡Dardanelles)を支配するためにオスマン帝国のガリポリに派遣軍を上陸させたが大敗した。しかし、デビッド・ロイド・ジョージ(David Lloyd George)政権下では、軍需大臣として再び戦争指導に加わっている。戦後は、航空大臣、植民地大臣に就任したが、ジェームズ・ラムゼイ・マクドナルド(James Ramsay MacDonald:1866-1937)の自由党に造反して、再び保守党Conservative Party)へ復党し、スタンリー・ボールドウィン(Stanley Baldwin)内閣では大蔵大臣を務めた。

写真(右)1919年、ドイツ、ライン地方の軍事委員会に出席した際、メリー女王陸軍女性補助部隊の将校と会話をする保守党ウィストン・チャーチルWinston Churchill陸軍長官・航空長官
QUEEN MARY'S ARMY AUXILIARY CORPS DURING THE FIRST WORLD WAR, GERMANY, Catalogue number: Q 34696, Part of MINISTRY OF INFORMATION OFFICIAL COLLECTION, Bernard Montgomery Subject period: Interwar Alternative Names: object category: Photography, Creator: British official photographer, Object description:  The Secretary of State for War and Air Winston Churchill in conversation with an officer of Queen Mary's Army Auxiliary Corps during a visit of the Army Council to the Rhine area in 1919.写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (Q 34696)


対露問題論議 : 陸相チャーチル氏の弁明
東京日日新聞 Vol: 第 8巻 Page: 66 出版年 1919-06-16
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100318747

【倫敦電報】(六日発国際通信) 聖霊降誕祭延期の動議を提出するに当りサー・ドーナルド・マクリーン氏は講和条件に関する目下の形勢及び露西亜に於ける英国及び連合国の軍事行動問題に就て討論を開始したり氏はアルハンゲリスク及びムルマンスク地方に於る止むを得ざる行動は之を問わずとするも露国に対して漠然たる干渉政策を継続するは大なる誤りなりと主張し独逸に対する食料輸入は自由なりや否やを問えりセシル・ハームスウォース氏は之を遮り述べて曰く巨額の食料は最高経済会議に依って独逸に送附せられつつあり如何なる邦国も独逸に食料を送るを得べく又独逸より貨物を受取る事を得べし次でサー・ドーナルド・マクリーン氏は其結論に於て可成速に封鎖を除去せん事を希望したり陸相チャーチル氏はドーナルド氏及び其他若干の演説者に答え議会に対して在巴里の英国代表者に対し寛大と充分の信認を以てせん事を求め商議は今将に解決に到達せんとして頂点に達しつつありと云い更に講和談判及び其文書の発表問題は全然講和委員の手中にありて彼等は今や迅かに平和を締結せんとして努力しつつありと述べ更に露国に関し氏は述べて曰く

 吾人は今北露に於て我事業を完成せんとして努力しつつあるが右の努力は此夏末以前に成就せん事を希望せり其時吾人は是等の国民に我々の義務を果して以て同地を引揚ぐる事を得可し高加索に於ける我軍隊は敵を去る事数百哩の距離にあり是等の軍隊は高加索の将来が如何に平和の解決に関係あるかが決定する迄同方面に駐屯し居れり吾人は西伯利には僅かに二箇大隊の兵を有せるが彼等は戦線を去る数百哩の距離にあり彼等は英国の同情心の表象として政府所在地のオムスクに駐屯し居れり

写真(右)1935年、イギリス、エセックス、保守党本部の脇、集まった大衆に向けてで総選挙の演説をする保守党ウィストン・チャーチル
DURING THE GENERAL ELECTION CAMPAIGN IN 1935, Catalogue number: HU 55966, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Interwar Alternative Names: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit, Object description:  Winston Churchill addresses a crowd following his electoral victory outside Conservative headquarters in Epping, Essex, on 15 November 1935.写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 55966)


氏は更に同氏が最近コルチャック軍の進軍に対し大なる希望を懸くる事に対し警告を発したる事に論及し最近南部に於て右の進軍が著しく挫折したる事は愈明白となりたりと云い而も広大なる戦線に於て其薄弱なる戦線は彼方此方に動揺したりと指摘したり氏はコルチャック軍は近く莫斯科の入口に達すべしとの新聞報を否定し

 コルチャック軍は莫斯科を去る百哩の距離にありてその入口に達する事は予期せられず吾人はコルチャックの行動に対しては兵員を供給せざりしも軍需品及び武装を供給したり

更に氏はオムスク政府に与えられたる財政援助は其生存の為めに要求せられ且必要なる時期に於て我援助を要求せられたりと報じ名誉の義務として此の援助を与えたりと弁護し且曰く吾人は波蘭軍の行動には関係したる事なし但若し彼等が成功せば我軍の北露撤退は速成すべし而して吾人は市民の利益擁護の為め彼等が慎重に作戦しつつある事に干渉したる事なし西伯利及び北露に於ける英軍の兵数は大体に於て米軍のそれと比敵し居れり而して休戦以来露国各方面に於ける英軍死傷は左の如し

 死者将校十三名、兵士百十六名、負傷将校十四名、兵士百五十二名、行方不明将校二名、兵士二十六名 チャーチル氏は七箇月間に於ける此死傷者数を以て英国兵力資源を流出し吾人をして露国の中心に大遠征をなさしむる前提なるかの如く之を目し居る人々を嘲弄し吾々の行動は明かに真の戦争と云うよりも寧ろ警察事業と目すべきものなりと論じたり(対露問題論議 : 陸相チャーチル氏の弁明)引用おわり)

労働党は自由の敵 : 社会主義者は詐欺師の集まり : チャーチル氏の痛罵
大阪時事新報 Vol: 第 28巻 Page: 111 出版年 1924-10-19
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100303634

【倫敦十七日発国際】ウィンストン・チャーチル氏は十七日クィーンスホールに於て左の如き労働党内閣攻撃の演説をした  我が英帝国将来の盛衰は今回の総選挙の結果如何に懸って居る労働党の国政の処理の拙劣なるは言う辞もない程である、彼等には何等の理想なく常に独露の社会主義者の仕方を真似て居るに過ぎない、労働党は少くも民主的でないのみならず寧ろ自由の仇敵であるマクドナルド氏は資本主義制を攻撃しながらも初めて政権を握るや忽ち節を変じて資本主義者と改宗して居る、斯の如く社会主義者は実に詐欺師の集りの如きものである、

此の重大なる秋に当って吾人はウェリントン将軍がワーテルローの戦いに「全軍進め」と言った事に倣い結束して国家の権力並に名誉を新興せねばならぬ

この演説に対し群衆は割れるが如き喝采を浴せ「新ウェリントン将軍」と叫んだ、一方又コンスチチューショナル・クラブに於てバークンヘッド卿は英露条約を攻撃し「これ実に不体なる脅嚇の適例である」と述べた、一方政府側では検事総長ヘースチングス氏はハンマースミスに於ける演説会に於て「もし保守党が総選挙に於て大勝するが如き事あらば恐るべき革命の惨を招来するかも知れぬ」とて労働党の為に気を吐いた

【倫敦十七日発国際】労働党選挙本部の発表する所によれば同党の公認候補者総数は既に五百名に達し婦人候補者の数も二十一名に上ったと

自動車で演説旅行

【倫敦十六日発国際】首相マクドナルド氏は引続き自動車遊説旅行を続けているが十六日もマンチェスターよりバーミンガムに向う途中沿道の北スタンフォードシャ陶器工業地方到る所で演説を為したコングルトンに於ては

 自由保守両党が連合せざるを得ざるに至ったのは即ち我が党の隆盛を示すものである

と言いハンウェルに於ては「キャムベル事件の如きは反対党が愚者を惑わさんが為めに捏造したペテンである」と語った、一行は沿道到る所熱狂的歓迎を受けている(労働党は自由の敵 : 社会主義者は詐欺師の集まり : チャーチル氏の痛罵引用おわり)

英国新予算案の発表 : 難関に立てるチャーチル氏
大阪時事新報 Vol: 第 15巻 Page: 171 出版年 1925-04-28
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100260470

【倫敦特電二十七日発】 英国蔵相ウィンストン チャーチル氏が明日公表する新予算案は政治家並に一般国民から過去二十五箇年来殆ど類例なき程の大期待を以て待ちに待たれて居る、惟うに過去二十五箇年間の蔵相中現蔵相チャーチル氏の如き難関に出会したるものはあるまい、チャーチル氏は今や二つの圧迫に際会して居るのであって即ち一は産業家が所得税を一志の軽減を絶叫しつつある事、一は銀行側が金本位の回復を要求し居ること之である、

元来チャーチル氏自身が大戦の遺産たる現在の重税を制限せんと試みて居ること並に首相ポールドウィン氏が滔滔たる社会主義の潮流を喰止める堰として若干の社会改革政策を出来得る限り速かに実施するよう切望して居ることはチャーチル氏が予算編成に当って考慮を費した重要問題である、過日チャーチル氏は態々巴里を訪問したけれども当分は仏国から戦時債劵の支払を受けられそうもないから若し氏にして所得税一志軽減を行わんとすれば夫こそ明年度歳入不足を来し延いては金本位回復不可能となるかも知れぬ、故に大難関は歳出入を巌かに均衡を保たしめる点にあり種々の点から察するに新予算案中新機軸と云う点は三点に過ぎまい即ち

第一、所得税の軽減を一磅に付き七片とし其以上は年々同額の減税を行って所得税を二志まで引下ぐる事とす

第二、失業疾者及老齢に依る労働不能者を保護する労働者保険の大計画に著手する点であって即ち其第一歩として募婦に対しては年金を与える制度が実施される

第三、政府行政部に於て経済上大改革を断行し過重の国費を極度まで切詰める事之である(英国新予算案の発表 : 難関に立てるチャーチル氏引用終わり)

世界不況打開の為銀問題に目覚め! : チャーチル氏放送
神戸新聞 Vol: 第 9巻 Page: 91 出版年 1932-05-10
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100083892
【ロンドン八日発連合】イギリス前保守党内閣蔵相たりしウィンストン・チャーチル氏は本日ロンドンよりアメリカへのラジオ放送に於て現下の世界不況の主因並に之が打開策に関して左の如き熱弁をふるった

現下の深刻を極めた世界不況の主因は実に彼の忌むべきデフレーションの進行にありと云わねばならぬ、余は之を打開し全世界をして福祉に均霑し得る様な通貨制度を定むるために英米両国が緊密なる協力をなす事を衷心よりのぞんでやまない、金銀比価問題は世界の政治家の最も注目すべき問題である、

惟うに銀の特質とする所は之が十億の民衆の通貨であると云う事である、之はポテトの袋の如く無造作に取扱うべきものではない、銀は過去に於て常に黄金と相携えて人類の経済活動をたすけて来た、故に我々はその職能に対し更に慎重なる考慮を払うべきであろう、余は英米両国が相互に拱手傍観の態度をとらずその通貨政策に関して互に諒解に到達すべく協商を行うべき事をのぞんでやまない(世界不況打開の為銀問題に目覚め! : チャーチル氏放送)

写真(右)1935年、イギリス、ホワイトホールの海軍本部に登壇するウィストン・チャーチル(Winston Churchill)大臣
DURING THE GENERAL ELECTION CAMPAIGN IN 1935, Catalogue number: HU 5547, Part of IMPERIAL WAR MUSEUM PHOTOGRAPH ARCHIVE COLLECTION , Bernard Montgomery Subject period: Interwar
Alternative Names: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit, Object description:  The First Lord of the Admiralty Winston Churchill on the steps of the Admiralty in Whitehall, London, in 1939.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用IWM (HU 5547)


ドイツの権力者は惨忍・非道 : チャーチル英元蔵相の大胆な放送演説
大阪朝日新聞 Vol: 第 51巻 Page: 45 出版年 1934-11-18
https://hdl.handle.net/ 20.500.14094/ 0100300270

[写真あり 省略} 【電通ロンドン十六日発】英元蔵相ウィンストン・チャーチル氏は十六日ラヂオ講演でドイツの対英挑戦の危険を極めてセンセイショナルな言辞をもって放送し全国民の覚醒を促した、講演の要旨左の如し

イギリスをさる僅僅数時間の航空航程の地に人口約七千万、世界で最も教育であり勤勉にして科学的且つ最も訓練された国民がある、その国民は幼時よりして戦争をもって最も光栄ある事業と信じ、戦場における死をもって人生最大の名誉と考えるよう教えられている、

国家の権力は軍隊と人種的矜恃を信念とし合法的議会または与論によって亳も拘束されぬ危険にして惨忍非道な人によって把握されている、同国内において平和的演説をなさんか官憲の弾圧は忽ちにして下り、戦争反対の書籍は直ちに発売禁止され著者は逮捕禁錮の厳罰に処せられる、彼等の十戒からは「汝殺すなかれ」の一戒は完全に削除されている=写真はチャーチル氏(ドイツの権力者は惨忍・非道 : チャーチル英元蔵相の大胆な放送演説引用おわり)


1.第二次欧州大戦の勃発 1939/09/01

1939年9月1日、ドイツ軍はポーランド侵攻を開始した。ポーランドに侵攻したドイツに対して,連合国の英仏は,1939年9月3日,宣戦布告して,第二次大戦が始まった。イギリス首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)は、宥和政策を放棄して、ポーランドを救うために、ドイツ総統ヒトラーに宣戦布告したのである。

5月17日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏、6月5日、ダンケルク占領。この歴史的大敗北は、イギリス首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)首相が引退し、チャーチルが首相になった直後の出来事である。ただし,連合軍兵士34万名は,英本土に脱出。6月10日、ノルウェー降伏,6月22日フランス降伏。

しかし,1940年に,フランスが降伏すると,ヨーロッパ大陸は,東方ソ連の勢力圏以外,ナチスドイツの支配下に組み込まれた。

写真(右):1939年9月,ドイツ空軍によるポーランドワルシャワ空襲: Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf Polen am 1.9.1939. UBz: Flugzeugaufnahme des brennenden Warschaus, das am 27. September 1939 kapitulieren mußte. 3250-40 Dating: September 1939 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-S56603引用。

ドイツ軍は、ビラを空中散布するなどしてポーランドに降伏勧告をした。しかし、果敢な抵抗を続けるポーランドは、黙殺した。

写真(右)1939年9月,ポーランド攻撃に向かうドイツ空軍のユンカースJu-87急降下爆撃機スツーカ:カプラン,ハイムの9月4日の『ワルシャワ・ゲットー日記』に次の記述がある。「今日半日は平穏に過ぎた。しかし,あとの半日は,かつてなような空襲を経験した。敵の投下する爆弾は,われわれの耳をつんざき,われわれの頭上で炸裂したかと思われることさえあった。女たちは失神に,臆病者を隠れ,小さな子供たちは泣き叫ぶ。多くの場合,公式報道がこうした空襲の実情を知らせることはない。」
Polen.- Drei Sturzkampfbomber Junkers Ju 87 ("Stuka") kurz nach dem Start; KBK Lw 1 Polen Dating: September 1939 Photographer: Koll
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・Bild_101I-318-0053-35引用(他引用不許可)。


ドイツでは、ポーランドの首都ワルシャワWarszawa)爆撃の目標は、ワルシャワの軍事施設であって、一般市民を対象としたテロ爆撃ではないとも主張される。しかし、当時の水平爆撃の技術では、目標に爆弾を命中させることは困難であった。ワルシャワ「無差別」爆撃にヒトラーは,一切躊躇しなかった。

降伏の機会を黙殺したポーランドに対して,ドイツ軍は,1939年9月25日、ワルシャワWarszawa)を大空襲した。これは,爆撃機400機を配備した3-4回の反復爆撃で通常爆弾560トン,焼夷弾72トンを投下した。9月27日,ポーランドは降伏した。二日後日,ポーランドは降伏した。

1939年9月1日、ドイツ軍ポーランド侵攻時に投入された親衛隊特別行動部隊(Einsatzgruppen)は、ポーランドの政治家,将校,教師,ユダヤ人Jews)などを殺害した。アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)は,占領地の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。また,ポーランドには、ユダヤ人居住区ゲットーghettoを設けて、ユダヤ人を狭い空間に押し込めた。

写真(右)1939年9-10月,ワルシャワの通りを埋める瓦礫を撤去する作業を強要されるユダヤ人(?)左奥にドイツ軍兵士が監督している。Archive title: Polen, Warschau.- Juden (?) bei Aufräumung-sarbeiten; PK 501 Dating: 1939 September - Oktober Photographer: Rieger, Alfons撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-001-0256-11引用。


ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人Jews)をゲットーに隔離する前に,ユダヤ人住民の情報を集める登録作業を行った。その名目は,食料物資の配給登録と戦災の後片付けだったようだ。ユダヤ人は,この作業が終わるまでの一時的な苦役・使役として考えたに違いない。

写真(右)1939-41年,ポーランド・グニェズノにおけるユダヤ人(?)追放(?)。鉄道駅に向かっている難民の行列の脇道に監視するドイツ軍兵士3名以上見える。ナチス親衛隊は,ポーランドのユダヤ人をゲットーに隔離した。
Wartheland Polenevakuierung Evakuierte Polen auf dem Wege zum Bahnhof. Schwarzenau bei Gnesen. Fotograf: Holtfreter Dating: 1939/1941 ca. Photographer: Holtfreter, Wilhelm 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・R 49 Bild-0131引用。


ポーランドのユダヤ人Jews)は,ユダヤ人登録をして,戦禍の片付け作業に従事した。この清掃作業は,成人男性が命じられたもので,婦人,子供は免除された。夫・父親は,妻や家族のために,苦役に参加した。妻・家族に苦役免除してもらい,きちんと義務を果たして処罰されないように,妻・家族の氏名・住所まで登録してしまった。

しかし,ユダヤ人Jews)迫害は,清掃作業のような一時的な苦役程度ではすまなかった。ユダヤ人登録によって,氏名・住所を把握したナチス・ドイツは,ユダヤ人を追放した。

 ユダヤ人Jews)は,持ち出す財産を制限され,土地・家屋を奪われ,職・学籍を失い,ゲットーに強制移送させられた。これは,都市のJews)">ユダヤ人だけではなく,郊外や農村のユダヤ人も同様だった。農地,家畜を手放し,家屋を残したまま,ゲットーに移住を命じられた。 

家屋・土地,家畜・家具全てを置き去りにして,抱えられるだけの荷物を携行して,移送されるユダヤ人。かさばらない通貨,宝石,貴重品なども携行していたであろう。しかし,追放されたユダヤ人が持ち出せた資産は僅かだった。家屋・土地はもちろん,思い出の故郷と断ち切られた。

このように,初めに苦役を名目にしたユダヤ人登録に成功した親衛隊は,次にユダヤ人を市内一角のゲットーに強制的に移転させた。その後になって,ゲットーから強制収容所に移送が始まった。

戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)が英首相に就任した当日,ドイツのフランス侵攻作戦開始。

1940年5月,ドイツ軍は,ベルギー経由で,侵攻し,5月17日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏、6月5日ダンケルク占領。ただし,連合軍兵士34万名は,英本土に脱出。6月10日、ノルウェー降伏,6月22日フランス降伏

1940年5月13日チャーチル首相就任演説(下院):「血と労苦と汗と涙のほかに、差し上げられるものはありません。----あらゆる犠牲を払って、あらゆる辛酸に耐えての勝利、いかに長く苦しい道のりであろうとも、戦い抜き抜く以外、生き残る道はないのです。」

 アンネ・フランクAnne Frank)が尊敬するイギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)首相は,ラジオ演説を通して,ドイツ占領地の被支配者の人々を勇気付けた。戦時内閣ウィンストン・チャーチルの率いるイギリスだけが、ヨーロッパの大半を支配するドイツと対峙していたのあり、アンネたちのドイツ打倒の記唯一の希望がチャーチルだったのである。

親衛隊(Schutzstaffel:SS)や秘密警察ゲシュタポは,ドイツ人にもドイツ占領下にある国民にも、連合国放送を市民が聞くことを禁止した。しかし,密かに外国放送を傍受していた住民やドイツ人は少なくなかった。他方,生活のためにドイツに協力したオランダ人,親独派として,祖国オランダの独立を守ろうと考えたオランダ人も少なからず存在した。

第二次大戦が勃発するとユダヤ人Jewish people)を示す黄色い星印を着用させ,財産を没収し,ユダヤ人を強制収容所に収監するか,排除する方針が打ち出された。これは,ドイツの親衛隊,警察,国防軍,そして,ポーランドやバルト諸国,オランダやフランスなどの警察・住民の協力の下に行われた組織的な人権蹂躙,暴力,殺害である。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

1939年9月1日のポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペン)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリゲンツィアを処置していた。当時のイギリス首相はネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain:1869-1940)である。

写真(右)1941年5月25日,ポーランドのワルシャワ・ユダヤ人居住区ゲットーGetto warszawskie:右端の制服は,ユダヤ人評議会の下でゲットー内の治安維持に当たったユダヤ人警察(自警団)。1933年,ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)はダッハウ強制収容所を開設したが,主に反ナチスのドイツ人用の懲罰的施設だった。
しかし,第二次大戦が1939年9月に勃発,ドイツが占領したポーランドにいた大量のユダヤ人を,収容する施設として,ゲットーが設置された。ドイツは,都市の一角のゲットーに,ユダヤ人を隔離した。富裕なユダヤ人も,貧しいユダヤ人も,大人も子供も,人口に比して狭い地区に押し込められた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Angehöriger der Ghettopolizei auf einer Kreuzung den Verkehr regelnd, Passanten und Rikshas auf der Straße; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-134-0796-27引用。


ワルシャワのユダヤ人居住区ゲットーは,全長18キロの壁に囲まれてた閉鎖域だった。

1939年11月,ドイツ軍は伝染病Epidemicの蔓延を理由として,ワルシャワのユダヤ人居住区だった旧市内を立ち入り禁止にし,内部のユダヤ人を隔離した。そして,ユダヤ人自らに,ユダヤ人評議会をつくらせ,住民名簿の作成させ,命令を実施する手先機関とした。

ドイツはユダヤ人評議会,ユダヤ人警察(自警団)を使ってゲットーを間接支配した。夷をもって夷を制する方法である。後に,親衛隊は,ユダヤ人評議会に命じて,ユダヤ人を集めて収容所に移送するように強要した。

写真(右)1942年6月,ワルシャワゲットーGetto warszawskieのゲート:手前はポーランド人ワルシャワで,ドイツ兵が歩哨に立っている。ゲート周囲の鉄製フェンスは高さ3メートルほどで,その両側に立つ民間人は,ポーランド人のようだ。
ゲート内側は,ユダヤ人警察(自警団)が歩哨に立ち,あるいは交通整理をしている。燃料不足のゲットーでは,リキシャ(人力車)が個別輸送を担っていた。ゲート直ぐ近くの木製歩道橋は,大ゲットーと小ゲットーを繋ぐ歩道橋。
Polen, Warschauer Ghetto.- Drahtzaun, Passanten auf Straße; PK 697 Dating: Juni 1942 Photographer: Amthor撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ワルシャワWarszawa)・ゲットーには,ウッジ(ウーチ)と同じような多少小型の歩道橋があって,やはりゲットーの間を路面電車,自動車などが通行できた。

1940年10月,開放式のワルシャワ・ゲットーが設置された当初,市電を利用したいユダヤ人は,運賃25グロシュ(0.25ズロチ)に加えて,年間60ズオチ支払わねばならないとされた。
11月になっても,ドイツのラジオ放送は,ここがゲットーではないこと,単なるユダヤ人居住区に過ぎないことを繰り返し主張していた。

「アーリア人」(ポーランド人)とユダヤ人の居住区の間には,高い壁が築かれたが,市電の軌道は,ユダヤ人地区から「アーリア人」(ポーランド人)地区に続いていたのである。しかし,11月17日朝以降,ユダヤ人がアーリア人地区に外出することは許されなくなった。

◆ポーランドのユダヤ人の被った惨状は,連合国も知っていたが,優勢なドイツ軍を前に,ゲットー,ポーランドの解放は,後回しとなった。イギリス英首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)の関心は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そしてアメリカの軍事援助と参戦を引き出すことだった。ポーランドとの相互援助条約を口実に第二次大戦をはじめた大英帝国だったが,ポーランドの問題は,もはや忘れられた。

1940年6月22日のフランス降伏によって,ドイツにとって,戦い続ける敵は英国だけになった。独ソ不可侵条約を締結していたヒトラー総統は,このとき,英国がすぐに休戦を申し入れてくると楽観していた。後には,ヒトラー自らがラジオによって,英国との和平交渉を行う用意があることを公言した。まだ、英国本土への大規模空襲は控えていた。英国の工場、造船所が戦備拡張に忙しかった時期、ヘルマン・ゲーリングのドイツ空軍はこれらの目標を攻撃しないままに、放置していた。しかし、英国ウィストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)首相は、ヒトラーの申し出はばかげたものとして一切無視していた。

写真(右)1940年夏,フランス,バトルオブブリテンの時期,ドイツ空軍の第1爆撃航空団(KG1)所属のハインケルHe-111H爆撃機(機体番号V4+BU)
ハインケルHe-111爆撃機の諸元:
全長16.4メートル,全幅22.6メートル,翼面積86.5平方メートル,重量14000キロ,最高速度440キロ,航続距離2000キロ,ユンカースJumo211液冷1350馬力2基,乗員5名,武装7.92mm機銃5丁,爆弾2.5トン。グライダーを曳航するなど輸送任務にも使用された。
Frankreich.- Bomber Heinkel He 111 (Kennung V4+BU) des Kampfgeschwader 1 (KG 1) beim Start von einem Feldflugplatz; KBK Lw 4 Dating: 1940 Sommer Photographer: Wanderer, W. 撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-385-0560-31引用


ドイツ空軍ハインケルHe 111H爆撃機の諸元
原型初飛行 1935年2月,生産機数 7000機以上
全長 16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル
全備重量: 1.2トン,JunkersエンジンJumo2111300馬力2基
最大時速 400キロ,航続距離 2800 キロ
兵装: 7.92ミリMG15機関銃6丁,爆弾2トン。

写真(右)1939年-1945年,ドイツ国防軍プロパガンダに登場したハインケルHe 111爆撃機と搭乗員:オリジナル解説には「ドイツ空軍の夜間飛行部隊は、基地のハインケルHe-111の前でフライトの打ち合わせをし、飛行機の状態が完全なことを確認した。「大丈夫!」出撃だ」とある。左の腕まくりをしている人物は、地上にいる基地連絡担当。右の皮のロング・コートを着込んでいるのが爆撃機の搭乗員。当時、搭乗員は、スチール製ヘルメットではなく、革製の飛行帽をかぶっている。航空では気温が下がるため、搭乗員は厚手の飛行服を着ている。また、飛行服は狭い機内で機材の障害にならないようにオーバーオールで、航空地図などを身近におけるように飛行服のポケットなど収容スペースにも配慮されている。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-2005-0067 Original title: info Die deutsche Luftwaffe ?・bernimmt auf dem Heinkel-Werkgel?・nde ein Kampfflugzeug der Type "He-111". "In Ordnung!" Der Nachtflieger des Reichsluftfahrt-Ministerium best?・tigt nach seinem Abnahmeflug den einwandfreien Zustand des Flugzeuges und somit die erfolgte Abnahme durch die Wehrmacht. Dating: 1939/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・"Bild 146-2005-0067"引用(他引用不許可)。


ハインケルHe 111 H爆撃機の諸元
全長 16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル
全備重量: 1.2トン,液冷ユンカースJumo211エンジン1300馬力2基
最大時速 400キロ,航続距離 1200-2400キロ,上昇限度8000メートル
武装:7.92ミリMG15機関銃6丁,爆弾2.5トン
乗員5人(パイロット、航法手、爆撃手・機首銃手、銃手1-2人)
原型初飛行 1935年2月24日,総生産数 6000機。
生産工場は,ビスマール,オラニエンブルクのハインケル社のほか,ドルニエ社,アラド社でもライセンス生産。
生産期間は,1936年3月から1944年9月まで。

写真(右)1940年10月2日、撃墜されイギリス本土に墜落したドイツ空軍機からの金属回収。:左はドイツ空軍He-111PまたはH爆撃機、中央奥はユンカースJu-87B急降下爆撃機の胴体、右はメッサ―シュミットBf-109E戦闘機のコックピット。ドイツ空軍機ハインケルHe-111爆撃機諸元:全長16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル,全備重量 1.4トン,Jumo211F液冷エンジン(1200馬力)2基,最大速度 440キロ,航続距離 2800キロ,武装 7.92ミリMG15機関銃5丁 爆弾2トン。
Catalogue number: HU 104722, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR CENSORSHIP BUREAU LIBRARY OF PRESS PHOTOGRAPHS: CLASSIFIED PRINT COLLECTION, object category: Black and white Alternative Namesobject category: Photography, Object description:Reporters examine the remains of a Heinkel He 111, Junkers Ju 87 and Messerschmitt Bf 109E, now resting in a scrapyard in Britain, 2nd October 1940.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 1988)



“This Was Their Finest Hour…” speech by Winston Churchill on the 18th June 1940.

英国ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)首相は,米国の武器貸与法を利用した軍事援助によって,徹底抗戦を戦う覚悟をしていた。1940年7月10日から10月31日まで,ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)総司令官のドイツ空軍は、英国本土の軍事施設(航空基地、軍港、レーダー施設など)、工業地帯を大空襲した。これに対して、英空軍戦闘機部隊は,ドーバー海峡を挟んで,ドイツ空軍の爆撃機,戦闘機を果敢に迎撃し,「バトルオブブリテン」といわれるほどだった。イギリス空軍は,ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)の英本土空襲を持ちこたえた。

GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1940年頃、イギリス本土、ロンドン郊外の燃料タンク攻撃に向かうドイツ空軍ユンカースJu-87スツーカ急降下爆撃機:ドイツ空軍は、戦闘機であれば2機編隊のロッテ(Rotte)、ロッテ2組の4基編隊シュバルムによる戦闘を採用した。他方、爆撃機であれば3機編隊のケッテ(Kette)を採用した。。
イギリスは、アメリカの武器貸与法を受けて戦闘機、トラック、弾薬、火器から石油燃料まで潤沢に補給されたが、北フランスに駐留するドイツ空軍の攻撃を受ける位置にあったために、防空に重点を置いた。
Catalogue number: MH 5591, Part of SELINGER FRANZ, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: Junkers Ju. 87 dive-bombers on way to attack British tanks at Ghobi.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (MH 5591)


ドイツ空軍はヘルマン・ゲーリングHermann Göring)の第一次世界大戦の経験に強く縛られたためか、陸軍に協力しての対地直協を基本戦略としていたために、都市戦略爆撃を行うのに適した重爆撃機を保有していなかった。急降下爆撃機は、この対地直協のの主力となる単発急降下爆撃機だった。

1940年7月、イギリス英首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)がバトルオブブリテンに直面した時、ドイツ空軍の対イギリス船の戦力は爆撃機1100機、急降下爆撃機300機、単発戦闘機800機で、偵察機など含めて合計2500機以上あった。ヘルマン・ゲーリングは、対フランス戦勝によって元帥となったが、対イギリス攻撃の緒戦では、目標はイギリス空軍兵力と空軍基地・レーダーだった。バトルオブブリテンは、ドイツ空軍では「鷲の日」の攻撃に始まり、その後しばらくしてから、都市爆撃、夜間爆撃が行われるようになった。ウィストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)は、このドイツ空軍双発爆撃機編隊による大空襲に耐え、本土防空戦に勝利した。

GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1940年、イギリス本土、イギリス海峡の船団攻撃中にイギリス空軍スピットファイアに撃墜されたドイツ空軍ユンカースJu-87スツーカ急降下爆撃機:尾輪を上にして逆さまになった残骸の前でポーズをとる戦闘機パイロット。自ら撃墜した敵機の記念写真撮影に訪れた時のようだ。
Catalogue number: CH 2064, Part of AIR MINISTRY SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: Royal Air Force official photographer. Object description: Spitfire pilots pose beside the wreckage of a Junkers Ju 87 Stuka, which they shot down as it was attacking a Channel convoy, 1940.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (CH 2064)


GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1940年8月12日、イギリス、ヘースチング郊外に撃墜されたドイツ空軍の第52戦闘航空団第2戦隊所属ゾンブレッカー(Zaunbrecher)上等兵曹(Unteroffizier )のメッサ―シュミットMesserschmitt Bf 109 E-1戦闘機:マーゲートとブロードステアーズを結ぶ鉄道脇の湿地に不時着したため、比較的原型を保っている。Bf 109 E-1戦闘機の機首上面に2丁の7.92ミリMG17機銃が搭載されていて、プロペラ・スピナーには、20ミリ機銃発射口が儲けられている。しかし、機首プロペラ軸の機関銃(モーターカノン)は、振動が大きく実用に適さないと判断されE型での搭載は見送られることになる。
Catalogue number: HU 104719, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR CENSORSHIP BUREAU LIBRARY OF PRESS PHOTOGRAPHS: CLASSIFIED PRINT COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Messerschmitt Bf 109E of 2./JG 52, flown by Unteroffizier Zaunbrecher, resting in a wheat field after being shot down during a combat over Hastings, 12 August 1940.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 104719)


GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1940年9月7日、イギリス本土、ロンドン東、プラムステッドのテムズ川上空を飛翔するドイツ空軍ドルニエ(Dornier)DO-17Z爆撃機:9月7日は、それまでの航空撃滅戦からロンドン爆撃・電撃(ブリッツ)が始まった初日とされる。
Catalogue number: C 5424, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: German Air Force photographer Object description: Two Dornier Do 217 bombers flying over the Plumstead sewer bank, Crossness pumping station and the Royal Arsenal butts on Saturday 7 September 1940, the first day of the sustained Blitz on London.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (C 5424)


空軍司令官ヘルマン・ゲ-リングHermann Wilhelm Göring)国家元帥は,1940年8月からの英本土航空「鷲」作戦に際して,ドイツ空軍がイギリス空軍機を駆逐し,ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)首相率いるイギリスを征服してみせると豪語した。しかし,ドイツ側の被害は甚大で,イギリス戦闘機の抵抗が続いたために,1940年9月7日から,ロンドン夜間空襲を開始した。

GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1940年8月31日、イギリス本土、プリンスゴルフクラブに不時着したドイツ空軍の第3爆撃航空団第4戦隊所属ドルニエDornier Do 17Z-3爆撃機ホルンチャーチで攻撃されラムスゲイト近郊に不時着し、その後炎上した。
Catalogue number: FX 68707, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Object description: Dornier Do 17Z-3 W.Nr. 2669 of 4./KG3 burning itself out after crash-landing at Princes Golf Club on Sandwich Flats, near Ramsgate, following an attack on Hornchurch, 31 August 1940.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (FX 68707)


写真(右)1940年,フランスの基地から英本土爆撃に向かうドイツ空軍第51爆撃航空団(KG51)のユンカースJu-88A爆撃機:エーデルワイス(ウスバユキワリソウ)の可憐なエンブレムをつけた爆撃機だが,1940年当時,ドイツ空軍の最高性能の急降下爆撃機だった。
ユンカースJu-88の諸元
全長 14.4メートル,全幅 20メートル,翼面積 54.5平方メートル
性能:最大速度 470キロ,航続距離 2730キロ
兵装:7.92ミリMG17機銃6丁,爆弾 2トン
生産総数 15000機(爆撃機9000機,戦闘機6000機)
Englische Kanalinseln.- Bomber Junkers Ju 88 A-1 des Kampfgeschwader 51 (I./KG 51) "Edelweiß" mit Besatzung vor dem Start; PK KBK Lw5 Dating: 1940 Photographer: Pilz 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ニュルンベルグ国際軍事裁判において、ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は被告人第1号とされ、最も指導的な地位についていた戦争犯罪容疑者と見なされ、当初から注目を浴びた。

1946年1月29日,戦後のニュルンベルグ国際軍事裁判で、ヘルマン・ゲーリングは,英本土上陸作戦ができなくなったことで非難を受けたことの確認を求められた。しかし,ゲーリングはそれを否定し,「私の4個師団の空挺部隊が欲しいという要求を,陸軍の他の要求のために,貫徹できなかった。もし,ダンケルクの戦いの時期に,この4個師団をもっていたら,直ちに英本土に進撃させたであろう」と述べた。しかし,ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は,ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)首相と戦い敗れた英本土航空決戦について,多くを語ろうとしなかった。

ニュルンベルグ国際軍事裁判では、犯罪組織(犯罪集団)に所属していると訴追対象となったが、これは、ナチ党指導部、内閣(政府)、親衛隊(SS)、突撃隊(SA)、親衛隊保安本部(ゲシュタポ・SD)、参謀本部・国防軍最高司令部の6組織である。また、事犯としては、ユダヤ人大量殺戮、ホロコーストが未曽有の殺戮と認識され、C級戦犯の「人道に対する罪」として裁かれた。死刑対象者は、1946年10月16日に絞首刑にされ、有期刑対象者はベルリン郊外のシュパンダウ刑務所Spandau Prison)に収監された。


Winston Churchill speech on World War II

ヒトラーは,英国ウィストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)首相がソ連を当てにして戦っていると考え,イデオロギー上の敵であるボリシェビキを殲滅し,東方ソ連にドイツ民族の生存圏を獲得しようとの本心をむき出しにして,ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」を発動した。しかし,その直前の1941年4月,ユーゴスラビアで反ドイツのクーデターが勃発,急遽,ドイツ軍がユーゴスラビアに侵攻した。


2.アメリカの武器貸与法

米洲の英海・空軍基地九十九年間米に貸与 : チャーチル首相、下院で報告
大阪朝日新聞 Vol: 第153巻 Page: 46 出版年 1940-08-22
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100334906

【ロンドン特電二十日発】チャーチル英首相は二十日下院における演説においてイギリスは米洲にある英属領の空軍および海軍基地を九十九年間アメリカに貸与するに決した旨言明した [写真(チャーチル英首相)あり 省略]

【ロンドン特電二十日発】チャーチル首相は二十日下院における演説で戦況を報告したるのち更に言葉をつづけイギリスはあくまでドイツに抗戦する固き決意を有する旨を表明した、要旨左の如し

一、将来われわれの精力は防備のみに集中されてはならぬ、戦争を急速に終息せしむるためには敵をしてわれわれが永久に戦争を継続する意思と手段とを有するのみならず敵に予期せざる重大なる打撃を与える意思と手段とを有することを覚らしめねばならぬ

二、勝利への途はわれわれの考えるほど遠くはない、しかしその途が長かろうが短かかろうがまた嶮岨であろうが平坦であろうが吾々はあくまで最後の目的地に達することを決意している

三、われわれは独伊仏その他ドイツの手中に陥ちた地域に厳重な封鎖を実施するつもりであってドイツ占領地帯への食糧の流入は断乎阻止する

四、ドイツ空軍の対英空襲は有効に阻止された、そして吾々はイギリスは従来より強力となったと感じ、また事実においても強力となっている、七月中大西洋を越えて多量の軍需品が輸入せられ英軍需工業もまた全力を挙げて生産に従事している、イギリスにおいては抗戦の決意に燃える二百万以上の人々が武器をとっている

五、英海軍はその後建艦計画の進捗によりドイツの潜水艦ならびに機雷による損害にもかかわらず開戦当時よりもかえって強力となっている、吾々はアメリカが戦時軽艦隊勢力を充実するためその軽艦隊をイギリスに貸与せられんことを望むものであるなおイギリスはドイツに屈服した諸国の汽船四百万トンを抑留しこれを使用している

『英米連合』を示唆 前陸相の演説

【同盟ロンドン二十日発】二十日下院におけるチャーチル首相の演説に引続いてホア・ベリシャ前陸相が登壇し英米共同政策を礼讚するとともにこれが終局において「英米連合」に発展する可能性のあることを示唆し左の如き興味ある言明を行った

 もし今日の英米両国関係を押進めてかつてわれわれがフランスに臨んだような種類の関係すなわち「終局の共通市民案」とも称すべき関係にまで発展するならば今年になってからの種々不幸な出来事もすべて起り甲斐があったということになるであろう、しかしてチャーチル首相が今日英米関係について言明したところは今日までの数多い外交的失敗を補って余りあるものだ(米洲の英海・空軍基地九十九年間米に貸与 : チャーチル首相、下院で報告引用おわり)

 1941 年1月の新年にフランクリン・デラノ・ルーズベルトFranklin Delano Roosevelt: FDR)は年頭教書を発表し、
?アメリカの国防圏は、西半球だけでなくイギリスおよび大英帝国を含む領域に拡大した。
?ナチス・ドイツとの宥和を否定し、和平があり得ないこと、を表明した。
つまり、アメリカは交戦国ではないが、世界大戦を受けて、戦時経済への移行し、軍事費を増額することとし英国ウィストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)首相に対する軍事援助を実施する意向を示した。
これは、アメリカの孤立主義から逸脱したもので、民主主義の兵器廠(Arsenal of Democracy)を超えて世界の警察官として活動し始めた。

1941年3月11日、武器貸与法(Lend-Lease Act)の制定し、その当日には、イギリス・ギリシャへの武器貸与を決定。ソビエト連邦Soviet Union)もアメリカ合衆国の1941年3月武器貸与法(レントリース法:Lend-Lease Acts)に基づく軍事物資を,ドイツ海軍潜水艦U boat)を排除して、北海を越える輸送船団あるいは,ペルシャ湾・黒海からイラン・ロシア南部を抜けるトラック輸送あるいは、ノルウェー北岸からロシア北部、ムルマンスク港Murmansk)に入るルートがあった。


Churchill Speech To Congress - December 26, 1941

アメリカ軍はM3中戦車をM3 Lee(リー)と呼んだが、イギリス軍は武器貸与法Lend-Lease Acts)によって受け取ったM3中戦車をM3 Grant(グラント)と呼んだ。
 M3リー/グラント中戦車は、1941年4月から1942年12月までに6258輛が量産された。

 1942年8月から9月、イギリス第8軍指揮官バーナード・モントゴメリーBernard Montgomery "Monty" )の下に、エジプト西国境のエル・アラメインを起点に地雷と火砲で守られた堅固なボックス陣地を構築し、ドイツアフリカ軍団のエジプト侵攻を食い止めた。そして、密かに部隊を前線に集結させ、1942年10月23日、一斉攻勢を開始した。

アメリカ軍が北アフリカ戦に加わったのは、1942年11月8日のトーチ作戦Operation Torch)で、ドワイト・アイゼンハワーDwight D. Eisenhower)中将(大将昇格は1944年3月)指揮下の部隊が参戦してからである。ただし、それ以前からイギリス軍はアメリカ製の戦車を貸与されていたので、北アフリカのイギリス軍に配備していた。

 1942年8月18日、クルード・オーキンレックClaude Auchinleck)大将の後任として北アフリカ・エジプトのイギリス第8軍を指揮したバーナード・モントゴメリーBernard Montgomery)は、エルウィン・ロンメルErwin Rommel)元帥隷下のドイツ・アフリカ軍団をエル=アラメインの戦いで敗退させ、1942年11月に55歳で大将に昇進。

1942年10月23日、エジプト・アレクサンドリアの西方、エル=アラメインで、イギリス第8軍指揮官バーナード・モントゴメリーBernard Montgomery "Monty" )中将は、ドイツ軍・イタリア軍への攻撃を開始した。イギリス軍は、敵の2倍、すなわち戦車1000輌両(強力なM3グラント、M4シャーマン中戦車は500輌)で、火力、航空支援の下で、攻勢を開始したのである。

  西側連合軍はエル=アラメインでの攻勢から2週間後の1942年11月8日、トーチ作戦を発動し、アメリカ軍とイギリス軍は、フランス領モロッコ、仏領アルジェリアの海岸に上陸、ドイツ軍とイタリア軍を挟撃した。1943年1月23日、イギリス第8軍指揮官バーナード・モントゴメリー大将は、トリポリを占領、エルヴィン・ロンメル元帥隷下のアフリカ軍団Deutsches Afrikakorps)をリビアへ、そしてさらにチュニジア、チュニスに追いつめた。ヒトラーは北アフリカでの敗北を前に、エルウィン・ロンメルErwin Rommel)元帥を本国に呼び返した。

 M3グラント中戦車が完成した頃、ソビエト連邦軍は、T-34戦車T-34-76Tank)を装備しており、その搭載砲は,76.2ミリ(3インチ)砲で,アメリカの75ミリ砲と同等だった。T-34戦車T-34-76Tank)の砲塔は、当初圧延鋼板溶接構造だったが,生産性の高い鋳造構造に変更された。砲塔も車体周囲も傾斜装甲を施したT-34戦車は,避弾径始に配慮し,命中弾を横滑りさせて,貫通力を弱めることに成功した。

アメリカ陸軍M3グラント/リー中戦車
ソ連赤軍のT-34戦車

権益侵害なき限り英も攻勢意図なし : チ[Churchill]首相、重光大使に陳弁
大阪毎日新聞 Vol: 第159巻 Page: 48 出版年 1941-02-26
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337610

【ロンドン本社特電二十四日工藤特派員発】重光大使は二十四日、官邸に英首相チャーチル[Churchill]氏を訪問、約一時間半会談した、ロンドンの夕刊紙は会談内容についてあたかもチャーチル首相が日本の南進政策に警告を発しシンガポール、蘭印に進攻すればその結果の重大なことを述べたとの印象を与える書振りをしているが真相は過般の松岡外相のイーデン英外相あてのメッセージに対する答弁であってチャーチル首相は重光大使に覚書を手交した後に縷々とその趣旨を敷衍説明した、チャーチル[Churchill]首相の述べたのは主として大局論でその要点は

一、日本が極東における英権益を侵さぬ限り英国側から日本を攻めてゆく考えは毛頭ない

二、英国は如何なる困難に遭遇しても対独戦はあくまでやり抜く確固たる決意を有す

の二点にあったと確聞する、第一は松岡外相の日本側から英国を攻撃する意思なしと明瞭に述べたのに呼応して英国側もその意思のないことを明かにしたものであり、第二は松岡外相のメッセージが誤解されて調停の申出かのごとくに一部にとられた事態に鑑み英国の決心を再確認したものである、会談は大局論に終始した模様だが一般日英関係についてはチャーチル[Churchill]首相が自分が日英同盟成立当時一議員として賛成演説をやったことを想起し日露戦争当時、前大戦当時の日英の密接な関係にも言及して英国政府としては対日関係を不必要に悪化させる意思のないことを強調し、また対独戦をあくまでやりとげる決心を披瀝した、この老首相は時々眼に涙を浮べて反復力説した由である、

これに対して重光大使も日本の立場を明確に説明し東亜共栄圏に対する日本の牢固たる決意を伝えた、今日までのイーデン外相と松岡外相の応答、チャーチル[Churchill]首相、イーデン外相、パトラー外務次官と重光大使との会見によっていわゆる極東の危機は両国政府の関する限り一時的には解消したと消息通は見ているが今後の日英関係については危機の諸様相がそのまま残っており、それぞれ国内問題もあって用意に楽観を許さず、日英正面衝突を回避するには双方において非常な努力と政治手腕を要すると解される

 危機説の起った真相は英国政府が近衛首相、松岡外相屡次の強硬演説に非常に警戒気味になっていたところへ日本のある種の動きに関する情報が入り重慶側が捏造ニュースを発表したため英国政府をさらに驚かせここに「予防手段」として陸海空軍を動かすと同時に英帝国各方面に心構えをつくらせ米国の輿論にうったえ、日本にも最後的に警告を与えるとの意図のもとに新聞を動員してプレスキャンペーンを起したものと観測される、かくのごとくにして生じた危機の諸様相は上述の両国政府間の意見交換にも拘わらず解消したわけではない

回答詳報 下院で発表か

【ロンドン本社特電二十四日発】信ずべき筋によればチャーチル首相は松岡外相のメッセージに対する英国側の回答の詳細を近く下院で発表する意向であると伝えられるその一部は松岡外相が日本で欧洲戦争調停の意図のごときはなんら根拠なきものと強調した点に対する回答と諒解される(権益侵害なき限り英も攻勢意図なし : チ首相、重光大使に陳弁引用おわり)

写真(右)1942年9月29日、イギリス中部、ヨークシャー、モルトンで大規模な演習を視察するイギリス外務大臣アンソニー・イーデンとイギリス軍国内軍バーナード・パゲット中将。後方は、クル―セイダー巡航戦車。イギリス軍の巡航戦車は「C」で始まる戦車に相応しいたとえば歴史的単語とするとしていたため、"Crusader"(十字軍)と命名された。
42ND ARMOURED DIVISION EXERCISE, NEAR MALTON IN YORKSHIRE, 29 SEPTEMBER 1942、 Catalogue number: TR 168, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: War Office official photographer, 
Object description: The Secretary of State for Foreign Affairs, Mr Anthony Eden with the Commander in Chief Home Forces, General Sir Bernard Paget watching the 42nd Armoured Division exercises.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 168)引用。


 ロバート・アンソニー・イーデンRobert Anthony Eden:1897-1977)伯爵は、1935年 - 1938年に外相を務めたがネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)首相がミュンヘン会談ヒトラーに宥和的態度を示したことで辞任。その後ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)首相が辞任してウィンストン・チャーチルWinston Churchill)が首相に就任してた1940年に外務大臣に再任され、1945年までイギリスの外務大臣として戦争と外交を始動した。その後、アンソニー・イーデンAnthony Eden)は1951年から1955年まで再び外務大臣の職を任されており、1955年 - 1957年は首相を務めた。

クル―セイダーCrusader 巡航戦車諸元
全長:5.98m、全幅:2.64m、全高:2.24m
重量:20t
最高時速:43km/h 、航続距離:160km
兵装:Mk I, II:オードナンス社2 ポンド速射砲 (40 mm Ordnance QF 2 pounder)、搭載砲弾数110発
Mk III: オードナンス社 QF 6 pdr (57 mm) 速射砲、搭載弾丸数65発
車載機銃:7.92mm ベサ機関銃(同軸機銃)
装甲:50mm
エンジン:ナッフィールドNuffieldガソリンエンジン340hp/1,500rpm

写真(右)1942年9月29日、イギリス中部、ヨークシャーのモルトンで大規模な演習を視察するイギリス軍国内軍バーナード・パゲット中将(左)、第42装甲師団師団長デンプシー少将(右)の乗車したクル―セイダー巡航戦車の砲塔 :ユニオンジャックのイギリス国旗をはためかせている勇ましいカラーのプロパガンダ写真だが、当時は、1941年12月にアメリカの参戦はあったとはいえ、ヨーロッパ大陸はドイツに支配され、連合国のソ連もカフカスを占領され危機的状況にあった。アジアでのシンガポール陥落、植民地ビルマ喪失も考慮すれば、イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill:1874-1965)は、決して有利な戦いを進めているとは言えない。それだからこそ、貴重なカラー写真によるプロパガンダが展開されたのであろう。
42ND ARMOURED DIVISION EXERCISE, NEAR MALTON IN YORKSHIRE, 29 SEPTEMBER 1942、 Catalogue number: TR 166, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: War Office official photographer, 
Object description: The Commander in Chief Home Forces, General Sir Bernard Paget with the Division Commander, Major-General M C Dempsey, DSO, MC, watching the 42nd Armoured Division exercises from a Crusader tank.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 166)引用。


アメリカ製リバティー V型12気筒液冷ガソリン・エンジン(出力340馬力)を採用したクルセイダー巡航戦車(Cruiser Tank Mk VI Crusader (A15))は、カベナンター巡航戦車Cruiser Mk.V Covenanter)より車体が30cm延長され、転輪が1個増設されて5個を装着した。兵装は、傾斜装甲に囲まれた砲塔に50口径2ポンド(40mm)速射砲を搭載、同軸機関銃として7.92mmベサBESA機関銃1丁、車体前面左に車載機銃としてやはり7.92mmベサBESA機関銃1丁を装備している。

写真(右)1942年9月29日、イギリス中部、ヨークシャーのモルトンで、イギリス軍国内軍バーナード・パゲット中将(右手前)とアンソニーイーデン外務大臣が、第42装甲師団師団長デンプシー少将が演習中のクル―セイダー巡航戦車を視察している。
42ND ARMOURED DIVISION EXERCISE, NEAR MALTON IN YORKSHIRE, 29 SEPTEMBER 1942、 Catalogue number: TR 163, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: War Office official photographer, 
Object description: The Secretary of State for Foreign Affairs, Mr Anthony Eden and the Commander in Chief Home Forces, General Sir Bernard Paget watching the 42nd Armoured Division exercises.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 163)引用。


1941年2月、エルヴィン・ロンメルErwin Eugen Rommel)大将隷下、ドイツアフリカ軍団Deutsches Afrikakorps)が編成されて、イタリア領リビアに派遣された。4月、アフリカ軍団はクルード・オーキンレックClaude Auchinleck)大将隷下のイギリス第8軍を駆逐してベンガジを奪回し、トブルクを包囲した。しかし、トブルクを陥落させることはできず、イギリス軍は港湾都市トブルクを固守していた。1942年5月、ドイツアフリカ軍団Deutsches Afrikakorps)は、ガザラに防衛線を築いたイギリス軍を攻撃し、6月21日にはトブルクを陥落させた。

A15クルーセーダー巡航戦車Cruiser Mk.VI Crusader)は、第二次世界大戦勃発直前の1939年6月にナフィールド社に200両輌の生産をイギリス陸軍が発注しているが、試作車が完成(1939年7月)していないうちの緊急生産である。こうして急速に量産体制を整えたA15クルーセーダー巡航戦車Cruiser Mk.VI Crusader)は、1940年5月から1943年の生産終了までに5,300輌も量産された。

 アメリカ軍が北アフリカ戦に加わったのは、1942年11月8日、トーチ作戦からで、当時はすでにソビエト連邦Soviet Union)がドイツ軍と戦って1年以上が経過していた。アメリカ軍とイギリス軍は、フランス領モロッコ、仏領アルジェリアの海岸に上陸し、ドイツアフリカ軍団Deutsches Afrikakorps)とイタリア軍を挟撃した。

 クルセイダー巡航戦車(Cruiser Tank Mk VI Crusader (A15))は、1940年6月のフランス敗北、ダンケルク撤退の後、イギリスはウィンストン・チャーチルWinston Churchill)政権下、ドイツのイギリス本土侵攻の危機に直面していた、1940年に開発された。後部搭載のエンジンに対して、車体前面にラジエターと空気取り入れ口を取り付けたため、エンジンの熱気が車内に拡散したカヴェナンター巡航戦車( Cruiser Tank, Mark V, Covenanter (A13 Mark III))の欠点をあらためた。

アメリカ合衆国は、1941年3月11日に制定された武器貸与法Lend-Lease)にのっとって、イギリスに対して飛行機・戦車から燃料・被服まで大量の軍事物資を貸与した。

 M3A軽戦車「スチュアート」は1942年8月までにアメリカで5800輌生産され、さらに強力な75ミリ砲を装備したM3グラント中戦車、戦争後期、アメリカ軍の主力戦車となったM4シャーマンSherman中戦車も武器貸与法に基づいて、北アフリカ戦線を初め、各地で戦うイギリス陸軍に大量に供給されている。1944年6月のヨーロッパ大陸侵攻ノルマンディ上陸以降は、このM4シャーマン戦車がイギリス陸軍のクロムウェル巡航戦車、チャーチル歩兵戦車と並んで主力戦車となったほどだった。

したがって、イギリスが自らマチルダ Matilda Mark II 歩兵戦車のような戦車を量産しなくとも、戦車は足りる状況になった。そこで、イギリスは、同盟国のソ連に大量のマチルダ歩兵戦車を供与しているほどである。

写真(右)1942年10月11日、イギリス北部、スカパフロー軍港、本国艦隊旗艦の戦艦「キングジョージ5世」艦上のチャーチル首相、左は本国艦隊司令官ジョン・トーベイ提督(Sir John Tovey)、右は宮内大臣スタフォード・クリップス(Sir Stafford Cripps:前列右):戦艦「キングジョージ5世」(HMS King George V)は起工 1935年1月1日 進水 1939年2月21日 就役 1940年10月1日、基準排水量 3万6,772 トン、全長 227.2m(745フィート)、全幅 31.4 m(103フィート) 、最高速力 28ノット、 Mk VII 356mm四連装砲2基、同356mm連装砲1基、合計10門、Mark I 133mm連装両用砲8基16門搭載。
THE PRIME MINISTER AND LORD PRIVY SEAL VISIT THE HOME FLEET, 11 OCTOBER 1942, Catalogue number: TR 210, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category:Colour, Creator: British official photographer
Object description: The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, with the Lord Privy Seal, Sir Stafford Cripps, and the Commander in Chief Home Fleet, Admiral Sir John Tovey, on the quarterdeck of HMS KING GEORGE V at Scapa. Label: Winston Churchill with the Lord Privy Seal, Sir Stafford Cripps, and the Commander-in-Chief Home Fleet, Admiral Sir John Tovey, on the quarterdeck of HMS KING GEORGE V at Scapa Flow, 11 October 1942.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 210)引用。


共同宣言の裏に英米が秘密協定
掲載誌 日本工業新聞 産業経済新聞 Vol: 第 52巻 Page: 47 出版年 1941-08-18
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339179

【マドリッド十六日発同盟】確実なる筋の情報によれば今次のルーズヴェルト大統領とチャーチル英首相の共同宣言は完全な英米共同を基礎とする六ヶ条から成る英米議定書の末節を構成するもので議定書にはルーズヴェルト大統領ならびにチャーチル英首相が各署名しているが内容はつぎの通りといわれる

一、対英援助の方法ならびにその性質の意義

一、米国は武器貸与法にもとづき英国に対し七十億ドルに上る軍需品を供給する

一、対日共同経済軍事策

一、ヨーロッパにおける英米両国の枢軸国家群に対する方策に関するポルトガルの役割(一説には今回の英米巨頭会談にポルトガルも参加したといわれる)

一、対仏方策

一、世界秩序建設に関する八ヶ条の方式(本項のみが発表されている)(共同宣言の裏に英米が秘密協定引用おわり)

 1844年、イギリスの工場法(Factory Act)によって、児童労働と並んで女性労働に対して最大1日当たり12時間労働が定められ、1848年の改正工場法(Factories Act 1948)によって、10時間労働に短縮された。また、1914年に勃発した第一次世界大戦WW1では、当初の短期決戦の予測が覆され、長期にわたる総力戦(Total War)となった。

 総力戦(Total War)とは、戦争が戦闘だけでなく、一国の、そして植民地のカネ・モノ・ヒト・ワザが動員される総合的な国力を掛けた全面戦争の意味である。総力戦(Total War)となったことで、参戦国は労働力の不足を補うために、女性、児童、植民地の住民を動員した。こうして、参戦国の女性の社会進出が促されることになったのである。

大戦後、社会進出した女性は再び家庭に戻ることが求められたが、これを契機に、女性の政治・経済・社会に対する意識が昂揚し、多くの先進工業国に置いて、女性の政治参加、女性参政権が認められるようになった。

 男女平等の普通選挙(女性の選挙権)は、1917年 ソビエト連邦Soviet Union)、1918年 ドイツ、1919年 オーストリア、オランダ、ポーランド、スウェーデン、1920年 アメリカ、カナダ、1928年 イギリスで男女平等の普通選挙が認められている。

写真(右)1942年頃、イギリス、エセック、王室砲兵部隊を視察するイギリス首相夫人クレメンタイン・チャーチル(Clementine Churchill)夫人。:1944年9月、イギリス首相夫人クレメンタイン・チャーチル(Clementine Churchill)はアメリカ大統領夫人エレノア・ルーズベルト(Eleanor Roosevelt)とも会い、親しく話をしている。
WOMEN AT WAR 1939 - 1945, Catalogue number: TR 682, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Photography, Creator: British official photographer
Object description: Auxiliary Territorial Service: The wife of the Prime Minister, Mrs Clementine Churchill, inspects members of the ATS at the Royal Artillery Experimental Unit, Shoeburyness, Essex.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 682)引用。


写真(右)1943年頃、イギリス、エセック、王室砲兵部隊を視察するイギリス首相夫人クレメンタイン・チャーチル(Clementine Churchill)夫人。:ロンドンの大本営ともいえる,ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)首相の戦時内閣執務室(Cabinet War Rooms)には閣僚・軍指揮官たちと過ごしたこともあろうダイニングルーム,チャーチル夫人クレメンタインの個室もある。
WOMEN AT WAR 1939 - 1945, Catalogue number: TR 681, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Photography, Creator: British official photographer
Object description: Auxiliary Territorial Service: The wife of the Prime Minister, Mrs Clementine Churchill, inspects members of the ATS at the Royal Artillery Experimental Unit, Shoeburyness, Essex.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 681)引用。


写真(右)1942年頃、イギリス、エセック、王室砲兵部隊を視察するイギリス首相夫人クレメンタイン・チャーチル(Clementine Churchill)夫人。:チャーチル夫人クレメンタインは「ミセス・チャーチル基金」‘Mrs Churchill’s Fund'を設けて、英ソ同盟(Anglo-Soviet Alliance)がなった後、赤十字やソビエト連邦Soviet Union)への支援を行っている。
WOMEN AT WAR 1939 - 1945, Catalogue number: TR 680, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Photography, Creator: British official photographer
Object description: Auxiliary Territorial Service: The wife of the Prime Minister, Mrs Clementine Churchill, inspects members of the ATS at the Royal Artillery Experimental Unit, Shoeburyness, Essex.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 680)引用。



3.イギリス陸軍チャーチル Churchil 歩兵戦車(A22)−イギリス製主力戦車

写真(右)1941年5月23日、イギリス、ルートン近郊、チャーチル首相の視察を受けているイギリス軍の完成したばかりのA22チャーチルMk.I歩兵戦車:戦車兵用のベレー帽を着用したウィンストン・チャーチルWinston Churchill)首相は戦車の砲塔で車内通話、あるいは無線通話を試しているようだ。丸みを帯びた鋳造構造の砲塔にはオードナンス2ポンド砲(40ミリ)、同軸のベサ機関銃を搭載している。
THE BRITISH ARMY IN THE UNITED KINGDOM 1939-45、 Catalogue number: H 9922, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: War Office official photographer Horton (Capt)  
Object description: Winston Churchill in the turret of a Churchill I tank during a demonstration of the new vehicle at Vauxhall's at Luton, 23 May 1941. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (H 9922)引用。


1940年6月のフランス敗北、ダンケルク撤退の後、イギリスのウィンストン・チャーチルWinston Churchill)は、ドイツのイギリス本土侵攻の危機に直面していた。そこで地上軍の充実のために防御用の戦車を開発し、時のライオン首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)の名を冠した歩兵戦車が量産され、1941年6月からA22チャーチル Churchil 歩兵戦車Mk.Iとして部隊配備が始まった。

写真(右)1944年7月、イタリア、イギリス軍第51王室戦車連隊と思われるチャーチルChurchil Mk.IV歩兵戦車
CHURCHILL TANKS IN ITALY, JULY 1944、 Catalogue number: TR 2027, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: War Office official photographer Tanner (Capt), 
Object description: Churchill tanks of 'B' Squadron, 51st Royal Tank Regiment, moving across the Italian countryside. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (TR 2027)引用。


チャーチルMk.IVはチャーチルMk.IIIと同じオードナンス6ポンド57ミリQF速射砲を搭載しているが、砲塔はチャーチルMk.IIIの溶接構造だったものを、鋳造構造の砲塔に換えている。同じ時期に多数のチャーチル戦車のカラー写真が軍公式写真班のターナー大尉Tanner (Capt)によって撮影されているが、これはウィンストン・チャーチルWinston Churchill)首相への賛辞、イギリス陸軍の活躍を喧伝するためであろう。チャーチル歩兵戦車の名称も、もちろんイギリス首相チャーチルに由来している。

  A22 チャーチルMk.IV 歩兵戦車Churchill Mk.IV )の諸元
全長: 7,65 m、全幅: 3,25 m、全高: 2,45 m
重量: 39 600 kg、乗員:5名
最高時速: 整地 27 km/h、航続距離: 144 km
兵装: オードナンス50口径6ポンド57ミリQF速射砲Mk.VOrdnance QF 6-pounder Mk.V
あるいは75 mm Mk III ROQF gun
車載機銃: 同軸7,92 mm ベサBesa機関銃1丁、車体前面 7,7mm ブレンBren軽機関銃
エンジン: Bedford Twin-Six, 350 馬力
燃費: 334 L f/100 km
砲塔前面装甲:152 mm

⇒イギリス陸軍 チャーチルChurchill歩兵戦車
⇒イギリス軍A27M クロムウェル 巡航戦車 Mk VIII Cromwell VI (A27M)
⇒イギリス軍A30 チャレンジャー巡航戦車 Cruiser Mk.VIII Challenger
⇒イギリス軍A34 コメット巡航戦車 Cruiser Tank Comet


 1941年6月の独ソ戦勃発以来、ソ連の共産党書記長(事実上の元首)、ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)は、ソ連一国のみがドイツと正面で戦っており、米英など西側連合国は、早期にヨーロッパ大陸に侵攻し、ドイツに対する第二戦線を開くべきであると要求していた。ソ連スターリンによる第二戦線に関する要求は、1940年春に西部戦線が崩壊し、ドイツがフランスを敗北に追い込み、イギリスが孤立していた状況を無視してはいたが、ソ連がドイツ軍の大半の勢力を引き受けて戦っていたのは本当である。

 ソ連に対して、米英は武器貸与を貸付け・信用によって実施したが、この膨大な軍需物資にヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)は大いに助けられた。しかし、ソ連は、米英の武器貸与法による軍事援助を大して評価せず、東部戦線こそが、第二次大戦の主要な戦場である以上、米英は早期に、ドイツに対する第二戦線を開くべきであると再三要求した。しかし、西側連合軍がヨーロッパ大陸への反抗を試みたのは、裏庭ともいえる、予備的なイタリア半島に対してだった。


4.ケベック会談のイギリス首相ウィストン・チャーチルとアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト

写真(右)1943年8月、カナダ、ケベック、ケベック要塞のテラスでシャトー・フロントナックを背景にしたカナダ首相マッケンジー・キング(Mackenzie-King:後列左)、イギリス首相ウィストン・チャーチル(後列右)とアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト(前列左)とカナダ総督アスローン伯爵(Earl of Athlone)アレクサンダー・ケンブリッジ(Alexander Cambridge:前列右)
THE QUEBEC CONFERENCE, CANADA, AUGUST 1943, Catalogue number: TR 1347, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Photography, Creator: British official photographer
Object description: Group photograph on the terrace of the Citadel in Quebec, on the occasion of the First Quebec Conference, with the Chateau Frontenac in the background. Front row: President Roosevelt of the United States and the Earl of Athlone, Governor General of Canada; back row: Mr Mackenzie-King, Prime Minister of Canada and the Prime Minister, the Right Hon Winston Churchill, MP.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 1347)引用。


1943年9月3日、バーナード・モントゴメリーBernard Montgomery)隷下のイギリス第8軍が、イタリア本土侵攻のために、シチリア島島北端のメッシーナから、イタリア南端,カラブリアSoviet Unionベニート・ムッソリーニ (Benito Mussolini)を裏切り、ピエトロ・バドリオ (Pietro Badoglio)将軍の新政権を樹立した。そして、1943年9月8日,イタリア本土サレルノに連合軍が上陸すると,即日、ピエトロ・バドリオ (Pietro Badoglio)将軍は、イタリアの降伏を表明する。そして、1943年9月9日、アメリカ第5軍が、南イタリアのサレルノに上陸した。

1943年1月、アメリカ大統領ローズヴェルトとイギリス戦時内閣首相チャーチルはモロッコのカサブランカ会談で、北アフリカと地中海での反攻作戦を協議し、シチリア上陸を決定した。そして1943年11月、イタリア降伏後には、エジプトのカイロ会談で、ローズヴェルト・チャーチル・蒋介石が対日戦と対日戦後処理の方針について話し合った。12月に発表されたカイロ宣言では、日本に対する無条件降伏、降伏後の日本領は第一次世界大戦以前に戻すこと、満州・台湾・澎湖島の中国への返還、朝鮮独立が公表された。

 ローズヴェルトとチャーチルは、カイロ会談後にイランのテヘランに飛び、1943年11月からヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)とのテヘラン会談に臨んだ。テヘラン会談では、主にヨーロッパ第二戦線の問題について協議が行われた。  

 ヨシフ・スターリンの第二戦線の要求とは、ドイツ心臓部への進攻を図る西ヨーロッパ上陸、その後の対ドイツ反攻の戦争のことで、1944年6月のノルマンディ上陸まで待たなければならない。1941年6月の独ソ戦開始以来、ドイツ軍と戦って大きな犠牲を出していたソ連は、大陸反攻を米英に強く要求していた。チャーチルは第二戦線の形成には消極的でその延期と、ソ連の影響力浸透を阻止するためにバルカン半島への進攻を主張した。しかし、ローズヴェルトは、積極的にドイツを打倒すべきであり、に北フランスへの上陸を主張した。結局、1944年5月に北フランスへの上陸作戦を実施することが合意された。これは、1944年6月のノルマンディ上陸作戦によって実現することになる。

 
5.イラン、テヘラン会談のチャーチル首相

写真(右):1943年11月28日-12月1日,テヘラン会談のビッグ・スリー、ソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル;ビッグ・スリーには,10年以上,ファシスト日本と交戦している中国代表蒋介石は含まれない。所詮,第二次大戦は欧州大戦である。しかし,欧州優先のために,英国,ソ連,フランスなどは,日本占領へ介入してこなかった。つまり,日本の再建を早める役割を果たした。"The Big 3": Joseph Stalin, Franklin D. Roosevelt and Winston Churchill meeting at Tehran in 1943.

洪仁淑(2000)博士論文「第二次世界大戦直後の東アジアにおける大国の働きと朝鮮民族の対応:朝鮮半島と日本地域を中心に」には,次のように記されている。
1943年10月の米英ソ三国外相のモスクワ外相会議で,晩餐会の席上、スターリン は初めて対日参戦の意思を表明する。これを受けて,1943年11月22-26日の米英中のカイロ会議で、ルーズベルトは蒋介石に大連を自由港として譲ることを要請し、スターリンのソ連が中国と協調することを条件に、蒋介石は,これに同意した。

写真(右):1943年11月28日-12月1日,テヘラン会談のソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル ;テヘラン会談の行われた1943年11月30日は、チャーチルの69回目の誕生日(69th birthday)だった。
Object description Joseph Stalin, Franklin D Roosevelt and Winston Churchill sit on chairs on the veranda of the Soviet Legation in Teheran. In the background are aides to the US President.
Creator Oulds, D C (Lt) Royal Navy official photographer
写真は、 IWM : Catalogue number A 20710引用。


1943年11月28日から12月1日,米英ソのテヘラン会議で、ルーズベルトは、スターリンに、ソ連の不凍港として大連を国際的自由港化する案を提示した。これは,ソ連の対日参戦の代償であるが,中国を犠牲とする取引であった(引用終わり)。

写真(右):1943年11月28日-12月1日,テヘラン会談のソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル ;テヘラン会談には、ソ連外務人民委員モロトフ、イギリス外務大臣イーデン、チャーチルの娘マリーも見える。
"Object description Joseph Stalin, Franklin D Roosevelt and Winston Churchill sit together for photographs during the Teheran Conference between 28 November and 1 December 1943. The British Foreign Secretary Anthony Eden stands behind Churchill, the Soviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov stands behind Stalin and Section Officer Sarah Oliver (Churchill's daughter) stands behind Roosevelt. In the background are aides to the US President.
Creator Oulds, D C (Lt) Royal Navy official photographer
写真は、 IWM : Catalogue number CM 5480引用。


1943年11月22-26日のカイロ会談では,中国の蒋介石,アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト,イギリス首相ウィストン・チャーチルの間で、対アジア戦略は調整しきれず、テヘラン会談The Tehran Conferenceで同様の問題が議論された。

カイロ会談の終了した翌日,1943年11月27日,米大統領,米統合参謀本部,英首相の一行は,別々にカイロから空路でテヘランに向かった。ここで,米英ソの三巨頭の初の首脳会談が開催されることになった。(STRATEGIC PLANNING FOR COALITION WARFARE 1943-1944 by Maurice Matloff参照)

1943年11月,フランクリン・ルーズベルトアメリカ合衆国大統領、ウィンストン・チャーチル英国首相、ヨシフ・スターリンソ連首相と米英ソのビッグスリーが揃ったテヘラン会談には、ハリー・ホプキンズ(アメリカ、ルーズベルトの顧問)、アンソニー・イーデン(イギリス外相)、ヴャチェスラフ・モロトフ(ソ連外相)も参加した。

テヘラン会談では、ユーゴスラビアの共産党系パルチザンに対する軍事支援、トルコに対する参戦要求、ヨーロッパ侵攻オーバーロード作戦の1944年5月実施、戦後のポーランド国境のオーデル・ナイセ線、カーゾン線の合意、が成果である。

写真(右):1943年11月28日-12月1日,テヘラン会談のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、イギリス首相ウィンストン・チャーチル、ソ連首相ヨシフ・スターリン、;テヘラン会談の行われた1943年11月30日は、チャーチルの69回目の誕生日(69th birthday)だった。"Object description The 'Big Three', Franklin D Roosevelt, Winston Churchill and Joseph Stalin, sit together at a dinner party held in the Victorian Drawing Room of the British Legation, Tehran, in Iran, to mark Winston Churchill's 69th birthday on 30th November 1943. CreatorOulds, D C (Lt) Royal Navy official photographer 写真は、 IWM : Catalogue number A 20732引用。

1943年11月28日から12月1日のテヘラン会談では、スターリンが対日参戦の意向を示唆し,英米中ソを“4人の警察官”として戦後の安全保障機構を樹立するというルーズヴェルトの国連構想が承認された。1944年5月の欧州侵攻Operation Overlord,トルコへの参戦勧告とソ連のトルコ支持,ユーゴのヨシップ・ブロズ・チトー Josip Broz Tito)率いるパルチザン支援も合意された。


6.モロッコのイギリス ウィストン・チャーチル首相と自由フランス

写真(右)1944年1月、北アフリカ、モロッコのマラケシュのスタジアムで自由フランス政府のフランス兵を閲兵したイギリス首相ウィストン・チャーチルと亡命フランス政府シャルル・ド・ゴール首相:チャーチル65歳に対して、、ヒトラー51歳、ド・ゴール54歳、ルーズベルト58歳、スターリン61歳であり、チャーチルは高齢であり、戦争指導者として不利だったが、彼の意思の強さは格別だった。
WINSTON CHURCHILL IN MARRAKESH, MOROCCO, JANUARY 1944, Catalogue number: TR 1505, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: War Office official photographer,
Object description: The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP (wearing the uniform of an air commodore) with General de Gaulle during the inspection of French troops at Marrakesh. Label: Winston Churchill with General de Gaulle during an inspection of French troops at h in Morocco, January 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 1505)引用。


1943年4月22日から5月13日の戦闘で、西側連合軍は、チュニジア作戦Tunisia Campaign)を戦い、ドイツ・イタリア軍を完全に駆逐し、7月にはイタリアのシシリー島への上陸、ハスキー作戦を開始した。そして、9月9?14日には,イタリア本土のサレルノに上陸し、橋頭堡を確保した。1944年1月1日、イギリス空軍(RAF)は、421機の爆撃機を出動させ、ベルリンを夜間空襲した。 1944年1月22-31日には,アンチオ上陸作戦Anzio campaign)を決行してローマ南方に上陸して、ローマ解放を目指した。

しかし、スターリンにしてみれば、ドイツ心臓部からほど遠いイタリア上陸作戦は、ソ連軍にとって大した助けにはならず、要求した第二線とはみなしていない。ソ連が依然としてドイツ軍の大半の兵力を相手に戦い続けなければならなかったのである。

写真(右)1944年1月、モロッコ、マラケシュで亡命自由フランス政府の将兵を閲兵するイギリス首相ウィストン・チャーチルと自由フランス政府シャルル・ド・ゴール首相:モロッコの民族衣装「ジェラバ」 は日中と夜間の寒暖差があり日差しが強いために使われている。
WINSTON CHURCHILL IN MARRAKESH, MOROCCO, JANUARY 1944, Catalogue number: TR 1507, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: War Office official photographer,
Object description: The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP (wearing the uniform of an air commodore) with local chieftains during the inspection of French troops at Marrakesh.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 507)引用。


1944年1月12日、イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill:1874-1965)首相とシャルル・ドゴールCharles de Gaulle)将軍は、この日から2日間、モロッコ(Morocco)のマラケシュMarrakesh)で会談し,自由フランス軍Les Forces Françaises Libres)の西側連合軍への参戦、ヨーロッパ侵攻、解放後のフランスの行政管理について話し合った。

写真(右)1944年1月、モロッコ、マラケシュのイギリス首相ウィストン・チャーチルと亡命政権の自由フランス政府シャルル・ド・ゴール首相
WINSTON CHURCHILL IN MARRAKESH, MOROCCO, JANUARY 1944, Catalogue number: TR 1506, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: War Office official photographer,
Object description: The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP (wearing the uniform of an air commodore) with General de Gaulle during the inspection of French troops at Marrakesh. Label: Winston Churchill with General de Gaulle during an inspection of French troops at Marrakesh in Morocco, January 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 1506)引用。


 シャルル・アンドレ・ド・ゴールCharles de Gaulle :1890- 1970)は、第二次大戦勃発時には、大佐で新編成された第4装甲師団長として、果敢な攻撃精神を発揮し、直ぐに陸軍次官に任命された。1940年6月、ポール・レノー首相の下、国防次官に任命されるとともに、史上最年少49歳で准将に昇格した。そして、危機的状況を打開するために、ロンドンでウィンストン・チャーチルWinston Churchill)首相と同盟関係の強化を図ったが、直ぐにフランス降伏に直面した。そこで、徹底抗戦を企図したドゴール准将は、ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)の協力終えて、英仏連を成立させ、降伏したフランスを否認し、独立を維持する国際的地位を手に入れ、事実上、フランス亡命政府を樹立する。これが、自由フランス政府である。そして、BBCラジオを通じて、シャルル・アンドレ・ド・ゴールCharles de Gaulle )はフランス国民にドイツに対するレジスタンスResistance)を呼びかけ、自由フランス軍Les Forces Françaises Libres)を創立して、対独戦争の継続を主張した。1959年には大統領に就任。


7.ノルマンディのウィストン・チャーチル首相とバーナード・モントゴメリー大将

写真(右)1944年7月22日、北フランス、ノルマンディーで戦線を視察するウィストン・チャーチル英首相(黒のリーファー・コート)、イギリス第2軍司令官マイルズ・デンプシー中将(中央)、カナダ軍司令官シモンズ中将(手前)、第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー大将(右):モントゴメリーの元帥昇格は1944年9月1日、57歳の時。
Catalogue number: TR 2046, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit, Object description:  The Prime Minister, Winston Churchill, with Lieutenant General Sir Miles Dempsey (centre), commanding British Second Army, Lieutenant General G G Simonds (left), commanding II Canadian Corps and the 21st Army Group commander General Sir Bernard Montgomery (right), Normandy, 22 July 1944. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2046)


 ヨーロッパ大陸侵攻オーバーロード作戦について、バーナード・モントゴメリーBernard Montgomery)大将は、連合国遠征軍総司令官Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force)の地位を望んだようだが、それは得られず、アメリカ軍のドワイト・アイゼンハワーDwight Eisenhower:1953-1961 )大将隷下の指揮官として活躍している。ドワイト・D・アイゼンハワーもバーナード・モントゴメリーBernard Montgomery)同様に昇進が早く、1943年2月に53歳で大将に昇進しているが、元帥General of the Army )になったのは、ノルマンディー上陸後の戦績が認められた形で、54歳、1944年12月のことだった。しかし、大陸反攻の航空兵力も地上兵力も過半をアメリカ軍が担ってた。それを考慮すれば、イギリス軍のバーナード・モントゴメリーは、先任将校で戦歴が豊富な指揮官でっても、連合国遠征軍総司令官Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force)の地位を与えられるはずがなかった。

写真(右)1944年7月22日、ノルマンディーで戦線を視察するイギリス第2軍司令官マイルズ・デンプシー中将(左)、ウィストン・チャーチル英首相、カナダ軍司令官シモンズ中将、第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー大将:モントゴメリーの元帥昇格は1944年9月1日、57歳の時。
Catalogue number: TR 2045, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit, Object description: Lieutenant General Sir Miles Dempsey, commanding British Second Army, pointing out a section of the front to the Prime Minister, Winston Churchill. Also in the picture are the Lieutenant General G G Simonds (left), commanding II Canadian Corps and the 21st Army Group commander General Sir Bernard Montgomery (right), Normandy, 22 July 1944. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (TR 2045)引用。


写真(右)1944年7月22日、ノルマンディーで戦線を視察するイギリス首相ウィストン・チャーチルに地図を使って戦況を説明しているカナダ軍司令官シモンズ中将(左)、第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー大将(右)、イギリス第2軍司令官マイルズ・デンプシー中将(中央)
Catalogue number: TR 2047, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit,
Object description: The Prime Minister, Winston Churchill, views a map with the 21st Army Group commander, General Sir Bernard Montgomery (right), Lieutenant General G G Simonds (left), commanding II Canadian Corps, and Lieutenant General Sir Miles Dempsey (centre), commanding British Second Army, Normandy, 22 July 1944. 
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 2047)引用。


写真(右)1944年7月22日、ノルマンディーのオルヌ川に架橋されたウィストン橋で、イギリス軍・カナダ軍部隊を訪問したウィストン・チャーチル首相とイギリス第2軍司令官マイルズ・デンプシー中将(1896-1969)
Catalogue number: TR 2049, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit,
Object description: The Prime Minister, Winston Churchill, standing in a staff car and talking to British and Canadian troops at the 'Winston' bridge over the River Orne, 22 July 1944. With the Prime Minister is the commander of British Second Army, Lieutenant General Sir Miles Dempsey. 
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (TR 2049)引用。


 ヨーロッパ大陸侵攻を始めた時期、当時、ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)65歳に対して、ルーズベルト58歳、スターリン61歳、ヒトラー51歳であっだった。チャーチルは高齢であり、戦争指導者として不利だったが、彼の意思の強さは格別だった。

写真(右)1944年7月22日、ノルマンディーで戦線を自動車に乗って視察するイギリス第2軍司令官マイルズ・デンプシー中将(1896-1969)とウィストン・チャーチル首相(後席)、助手席には、第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー大将(1887-1976)
Catalogue number: TR 2048, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit,
Object description: The Prime Minister, Winston Churchill, sitting in a staff car with Lieutenant General Sir Miles Dempsey, commanding British Second Army and General Sir Bernard Montgomery, commanding 21st Army Group, Normandy, 22 July 1944. 
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2048)


 ドワイト・アイゼンハワーDwight Eisenhower:1953-1961)もバーナード・モントゴメリーBernard Montgomery)同様に昇進が早く、1943年2月に53歳で大将に昇進しているが、元帥General of the Army )になったのは、ノルマンディー上陸後の戦績が認められた形で、54歳、1944年12月のことだった。しかし、大陸反攻の航空兵力も地上兵力も過半をアメリカ軍が担ってた。それを考慮すれば、イギリス軍のバーナード・モントゴメリーBernard Montgomery:1887-1976)は、先任将校で戦歴が豊富な指揮官であっても、連合国遠征軍総司令官Supreme Headquarters Allied Expeditionary Force)の地位を与えられるはずがなかった。

写真(右)1944年7月22日、ノルマンディーで戦線を視察する第21軍集団司令官バーナード・モントゴメリー元帥(1887-1976)元帥(左)、イギリス首相ウィストン・チャーチル(中央)、イギリス第2軍司令官マイルズ・デンプシー中将(右):当時、チャーチル65歳に対して、ルーズベルト58歳、スターリン61歳、ヒトラー51歳であり、チャーチルは高齢であり、戦争指導者として不利だったが、彼の意思の強さは格別だった。
Catalogue number: TR 2050, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit,
Object description: The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, with the Commander of the British 2nd Army, Lieutenant General Sir Miles Dempsey (right) and the Commander of the 21st Army Group, General Sir Bernard Montgomery. 
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (TR 2050)引用。


写真(右)1944年7月22日、ノルマンディーで戦線で第50師団の兵士たちを憲兵とともに閲兵するイギリス首相ウィストン・チャーチル。後方にバーナード・モントゴメリー大将
THE VISIT OF THE PRIME MINISTER, WINSTON CHURCHILL TO CAEN, NORMANDY, 22 JULY 1944, Catalogue number: TR 2043, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit,
Object description: The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, with men of the 50th Division who took part in the D-Day landings. Behind the Prime Minister is General Sir Bernard Montgomery.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 2043)引用。


 バーナード・モントゴメリーBernard Montgomery)は、1944年6月、ノルマンディ上陸を果たした西側連合軍地上部隊を指揮し、その功績もあって1944年9月1日、57歳で元帥Field Marshal)に昇進。しかし、戦歴と元帥という階級に加えて、自らの軍事的才覚を過信していたモントゴメリーは、ノルマンディ上陸後も、自分の戦略の優位性を他の連合軍将軍たちに認めさせようとし、しばしば衝突している。

写真(右)1944年7月22日、ノルマンディーで戦線で第50師団の兵士たちを憲兵とともに閲兵するイギリス首相ウィストン・チャーチル。後方にバーナード・モントゴメリー大将
THE VISIT OF THE PRIME MINISTER, WINSTON CHURCHILL TO CAEN, NORMANDY, 22 JULY 1944, Catalogue number: TR 2044, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION,Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: object category: Photography, Creator: Malindine E G (Capt), No 5 Army Film and Photographic Unit,
Object description: The Prime Minister, Winston Churchill, with men of 50th (Northumbrian) Division who took part in the D-Day landings. Behind the Prime Minister is General Sir Bernard Montgomery, Normandy, 22 July 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 2044)引用。


 ウィンストン・チャーチル Winston Churchill)の着用している リーファー・ジャケット Reefer-jacket)は、チャーチル・リーファー・コートChurchill Reefer Coat)ともいわれ、アメリカではピー・コートPeacoat)と呼ばれる。

 ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)は、第一次世界大戦前の1911年10月に海軍大臣(海軍卿First Lord of the Admiralty)として入閣し、1915年5月まで第一次大戦を戦い、戦後1919年1月から1921年2月まで陸軍大臣を務めた。戦争に参加し、海を巡るのが好きだったチャーチルは、リーファー・コート(ジャケット)を愛用しており、それが、ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)の名を冠するようになった所以である。


8.イタリア、ロレートのウィストン・チャーチル首相

写真(右)1944年8月25日、イタリア、ロレート航空基地で第4女王騎兵隊を検閲するウィストン・チャーチル英首相(左中)
WINSTON CHURCHILL AT LORETO AERODROME IN ITALY, 25 AUGUST 1944、Catalogue number: TR 2277, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: Malindine E G (Capt), War Office official photographer Tanner (Capt),
Object description:  The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, inspecting the ranks of the 4th Queen's Own Hussars, the regiment with which he served before entering politics. At the time of his visit the Prime Minister was Colonel-in-Chief of the Regiment.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2277)


 1944年8月24日にパリが解放された後、11月11日、ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)はパリを訪問し、フランス臨時政府大統領ド・ゴール将軍とともに無名戦士の墓に花を捧げている。もっとも、戦術的に見て、多数の人口を抱え、燃料や食料の補給が必要なパリを攻略することは、得策とは言えなかった。このような政略的な目的のために資源エネルギーを消費されたために、ドイツ本土への侵攻が遅れたともいえる。

写真(右)1944年8月25日、イタリア、ロレート航空基地で第4女王騎兵隊を検閲するウィストン・チャーチル英首相(左中)
WINSTON CHURCHILL AT LORETO AERODROME IN ITALY, 25 AUGUST 1944、Catalogue number: TR 2277, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: Malindine E G (Capt), War Office official photographer Tanner (Capt),
Object description: The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, inspecting the ranks of the 4th Queen's Own Hussars, the regiment with which he served before entering politics. At the time of his visit the Prime Minister was Colonel-in-Chief of the Regiment. He is accompanied by the Commander of the Regiment, Lieutenant R C Kidd. General Sir Harold Alexander, the Supreme Allied Commander in the Mediterranean, is partially visible in the background. Label: Winston Churchill inspecting men of the 4th Queen's Own Hussars at Loreto aerodrome, Italy, 25 August 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2277)


写真(右)1944年8月25日、イタリア、ロレート航空基地で第4女王騎兵隊を前に話をるウィストン・チャーチル英首相(左奥)
WINSTON CHURCHILL AT LORETO AERODROME IN ITALY, 25 AUGUST 1944、Catalogue number: TR 2277, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: Malindine E G (Capt), War Office official photographer Tanner (Capt),
Object description:  The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, addressing men of 4th Queen's Own Hussars, the regiment with which he served before entering politics. At the time of his visit the Prime Minister was Colonel-in-Chief of the Regiment.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2277)



9.イタリア、モンテマッジオのウィストン・チャーチル首相

写真(右)1944年8月26日、イタリア、イギリス第8軍総司令部で、第8軍総司令官オリバー・リース中将(左)と地中海方面連合軍最高司令部ハロルド・アレクサンダー大将(右)と打ち合わせをするウィストン・チャーチル英首相(中央)
WINSTON CHURCHILL AT EIGHTH ARMY HEADQUARTERS IN ITALY, 26 AUGUST 1944、Catalogue number: TR 2281, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: Malindine E G (Capt), War Office official photographer Tanner (Capt),
Object description:  The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, discussing the battle situation with the Commander of the Eighth Army, Lieutenant General Sir Oliver Leese (left) and the Supreme Allied Commander of the Mediterranean, General Sir Harold Alexander, at General Leese's headquarters in the Monte Maggio area.
Label: Winston Churchill discussing the battle situation in Italy with the Commander of the Eighth Army, Lieutenant General Sir Oliver Leese (left) and the Supreme Allied Commander Mediterranean, General Sir Harold Alexander, at General Leese's headquarters in the Monte Maggio area, 26 August 1944. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2281)


 オリバー・リースSir Oliver William Hargreaves Leese:1894-1978)は、アイルランド貴族の出身で、第一次大戦では、1915年5月に西部戦線に参戦し、ソンムの戦いにも加わった。1938年9月からは、大英帝国植民地インドに派遣され、参謀学校に勤務。

 第二次大戦が勃発すると、1940年3月にオリバー・リースOliver Leese)は、インドからイギリス本土に帰国、部隊の訓練に従事したのち、1041年6月に創設された近衛装甲師団(Guards Armoured Division)の指揮官に任じられた。1942年9月、中将として北アフリカに派遣され第8軍Eighth Army の指揮官となった。

写真(右)1944年8月26日、イタリア、イギリス第8軍総司令部で、第8軍総司令官オリバー・リース中将(左)と地中海方面連合軍最高司令部ハロルド・アレクサンダー大将(右)と打ち合わせをするウィストン・チャーチル英首相(中央)
WINSTON CHURCHILL AT EIGHTH ARMY HEADQUARTERS IN ITALY, 26 AUGUST 1944、Catalogue number: TR 2279, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: Malindine E G (Capt), War Office official photographer Tanner (Capt),
Object description:  The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, discussing the battle situation with the Commander of the Eighth Army, Lieutenant General Sir Oliver Leese (left) and the Supreme Allied Commander of the Mediterranean, General Sir Harold Alexander, at General Leese's headquarters in the Monte Maggio area. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2279)


 伯爵ハロルド・アレグザンダーHarold Rupert Leofric George Alexander:1891-1969)は、アイルランドÉire)貴族の出身で、第一次大戦では、1915年8月に西部戦線のソンムの戦いにも参加し、1934年からは、大英帝国植民地インドBritish Raj)のアフガニスタン・パキスタンで、北西辺境州(現Khyber Pakhtunkhwa)の軍事指揮官として在外勤務の経験を積んだ。1937年10月にイギリスに帰国。

写真(右)1944年8月26日、イタリア、イギリス第8軍総司令部で、第8軍総司令官オリバー・リース中将(左)と地中海方面連合軍最高司令部ハロルド・アレクサンダー大将(右)と打ち合わせをするウィストン・チャーチル英首相(中央)
WINSTON CHURCHILL AT EIGHTH ARMY HEADQUARTERS IN ITALY, 26 AUGUST 1944、Catalogue number: TR 2272, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: Malindine E G (Capt), War Office official photographer Tanner (Capt),
Object description:  The Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, with the Commander of the Eighth Army, Lieutenant General Sir Oliver Leese (left) and the Supreme Allied Commander in the Mediterranean, General Sir Harold Alexander at the headquarters of General Leese near Monte Maggio. A caravan is partly visible in the background. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2272)
 

 第二次大戦が勃発すると、伯爵ハロルド・アレグザンダーHarold Rupert Leofric George Alexander:1891-1969)は、少将として、ヨーロッパ大陸遠征軍の指揮官として出征した。フランス敗北後は、1940年7月に中将に昇格。

 日本との太平洋戦争勃発直後の1942年1月、伯爵ハロルド・アレグザンダーHarold Alexander)は大将に昇進、対日戦争に参加するため、ビルマBurma)の指揮に任じたが、1942年3月にはビルマの首都ラングーンが陥落、ビルマBurma)の連合軍最高司令官(C-in-C)に就任するも、ビルマBurma)全土を失陥、大敗北を喫した。

 1942年7月、伯爵ハロルド・アレグザンダーHarold Alexander)大将はインドからイギリス本国に召還されるも、チャーチルの信頼を得て、中東・北アフリカ方面の指揮官に転じ、北アフリカ戦線の最高指揮官となった。隷下のモントゴメリーは、ドイツアフリカ軍団を撃破し、1943年5月にチュニスを占領し、北アフリカを解放した。

1943年2月、ハロルド・アレグザンダーHarold Alexander)大将は、地中海方面の連合軍の指揮をとり、1943年7月のイタリア、シチリア島侵攻、9月のイタリア本土侵攻を成功に導いた。その功績で1944年6月に元帥に昇進。


10.ソ連、ヤルタ会談のチャーチル首相

写真(左):1945年2月4-11日,ソ連クリミア半島で開催されたヤルタ会談の三巨頭 "Big Three":Winston Churchill, Franklin D. Roosevelt and Joseph Stalin at Yalta in 1945. 日ソ中立条約の破棄が国際条約違反だという条約文言の正当性を,米英もソ連も歯牙にもかけいない。北方領土をソ連に割譲することを認めたのは,米英であり,日本は戦後,米国に頼る安全保障を選択した。北方領土問題に関して,日本は米国に謝罪を求めなくても良いのか。写真はMediaWiki.org 引用

第二次世界大戦後の処理について,ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)は1945年2月4-11日,米英ソはヤルタ会談に参加し,ヤルタ協定を締結した。ここでは、米英仏ソの四国のドイツ分割統治,ポーランドの国境策定、バルト三国のソ連併合などの東欧諸国の戦後処理を定めた。米ソは,ヤルタ秘密協定として,ドイツ敗戦後90日以内に,ソ連が対日参戦し,千島列島・樺太をソ連に併合することを決めた。カイロ宣言,すなわち朝鮮半島は当面の間連合国の信託統治とし,台湾は中国(蒋介石政府)に返還することも確認された。

日本にとって重要なのは,この公表されなかった「ヤルタ秘密協定」である。

ヤルタ協定:クリミヤ会議の議事に関する議定書中の日本国に関する協定

三大国(ソ連邦・米国・英国の指導者)は、ドイツが降伏し且つ欧州戦争が終結した後2ヶ月または3ヶ月を経て、ソ連邦が、次の条件で連合国側において日本国に対する戦争に参加することを協定した。

1 外蒙古(モンゴル)の現状維持。
2 1904年日露戦争の日本国の背信的攻撃により侵害されたロシア国の旧権利は、次のように回復される。
(イ) 樺太の南部と隣接するすべての島を、ソ連邦に返還。
(ロ) 大連を国際港化し、ソ連邦の優先的利益を認め、海軍基地として旅順港租借権を回復。
(ハ) 東清鉄道と大連に繋がる南満州鉄道は、中ソ合併会社を設立して共同運営。但し、ソ連邦の優先的利益を保障。中華民国は、満州における完全な利益を保有。
3 千島列島は、ソ連に引渡す。
 前記以外のモンゴル並びに港湾及び鉄道に関する協定は、蒋介石総統の同意を要する。大統領は、スターリン元帥からの通知により、この同意を得るために措置を執る。
三大国の首班は、ソ連の要求が日本国敗北後に確実にされることに合意した。
ソ連邦は、中華民国を日本国の束縛から解放する目的で、自国の軍隊によりこれに援助を与えるため、ソ国連と中華民国との間の友好同盟条約を中華民国政府と締結する用意がある。 (ヤルタ協定意訳引用終わり)

写真(右)1945年2月11日、ソ連、ウクライナ、ヤルタ会談に参加した三巨頭、左よりイギリス首相ウィストン・チャーチル、アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルト、ソ連共産党書記長ヨシフ・スターリン。後方は左よりイギリス外務大臣アンソニー・イーデン、アメリカ国務大臣ヘンリー・スティムソン、ソ連外務大臣ヴャチェスラフ・ミハイロヴィチ・モロトフ。ルーズヴェルト大統領、はこのヤルタ会談の時も体調が万全ではなく、長旅がたたって帰国してから2か月後に病死。
THE YALTA CONFERENCE, FEBRUARY 1945, Catalogue number: TR 2828, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION、 Production date:1945-02、 Subject period: Second World War Alternative Names: object category:Photography, Creator: War Office official photographer,
Object description: The Prime Minister Winston Churchill, the President of the United States, Mr Franklin Roosevelt, and Marshal Joseph Stalin of the Soviet Union photographed in the grounds of the Livadia Palace, Yalta during the eight day Yalta Conference. Object description(correct Label): Standing behind the three leaders are, left to right: the British Foreign Secretary Anthony Eden, MP, the American Secretary of State, Edward Stettinius, the British Permanent Under-Secretary of State for Foreign Affairs, Alexander Cadogan, the Soviet Commissar for Foreign Affairs, Vyacheslav Molotov, and the American Ambassador in Moscow, Averell Harriman. 
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・ IWM (TR 2828)引用。


衆議院 平成17年2月25日(金曜日)予算委員会第三分科会には、北村直人分科員の次の発言がある。
「1875年には今度は樺太と千島の交換条約というのがあった。そして、---1904年には日露の戦争もあった。そのときには、我が国はロシアに勝利をした。----ポーツマス条約で南樺太が我が国の領土になった----。
 その後、カイロ宣言だとかヤルタ宣言だとかいろいろあって、サンフランシスコ平和条約が結ばれたとき、---全権を持っていた吉田全権がきちっと発言をしているんですね。----ロシア、当時のソビエトが言っていることは承服をすることはできないということを明確にしながら、そして、1956年の9月7日には、日ソ交渉に関する米国の覚書というのがあって、その中でも、ヤルタ協定というものはアメリカはこう考えているということを明確にしている。そういう史実というものがある。
 私は、昨年の十一月にロシアに久しぶりに行ったときに、ロシアの国会議員を含めてロシアの国民が、そういうきちっとした世界が認めている史実について余りにも認識をしていないということは、我が国の外交交渉の中にあって、外務省が、ロシアの国民やロシアのそういう方々に対しての史実の啓蒙ということについて一体どうしていたのかなという疑念と反省を私は持ちました。」(引用終わり)

ロシアの国民への啓蒙活動を行うには,自らロシア語のwebを立ち上げて発言すればよい。米国がヤルタ協定を後になって反故にしたのが「史実」と強弁するなら,親米ご都合主義のように思われる。ソ連には日ソ中立条約を破棄する権利がある。問題は,破棄した後,定められた期限前に攻撃を開始したことである。これは条約を反故にしたことである。しかし,米国は,ヤルタ協定で,日本の領土をソ連に取引条件として提供して,ソ連参戦を要請したのである。歴史認識の修正をすべきは,現在の日本の同盟国米国である。同盟国アメリカができない「反省」を,ロシアに求めても無駄である。
連合国として対ファシズム戦争を戦うことが優先された時代のヤルタ協定が,冷戦という国際関係の変化によって,遵守されなくなるのは,当然である。為政者や国政担当者は,国益のためには,豹変することも,国際条約を都合よく解釈することも辞さない。戦争のための同盟,あるいは同盟を結ぼうとした指導者は、所詮,その程度のものである。

Winds of war;Film depicting Nazi assassination plot in Tehranでは,ドイツのスパイ,ソ連と英国に圧迫されていたイランの視点が示されており,国会議員のお話よりはるかに興味い。


11.ロンドン、対ドイツ戦勝記念日のウィストン・チャーチル首相

写真(右)1945年5月6日、イギリス、ロンドンン、ダウニング街の第10公園、左から空軍参謀総長チャールズ・ポータル元帥、陸軍参謀総長アラン・ブロック元帥、保守党ウィストン・チャーチル首相、アンドリュー・カニンガム提督
WITH HIS CHIEFS OF STAFF IN THE GARDEN OF NO 10 DOWNING STREET, LONDON, 7 MAY 1945, Catalogue number: TR 2858, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Subject period:Second World War Alternative Names: object category:Photography, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Malindine E G (Capt) Lockeyear W T (Capt), Object description:  Left to right: Air Chief Marshal Sir Charles Portal; Field Marshal Sir Alan Brooke; Winston Churchill, the Prime Minister; and Admiral Sir Andrew Cunningham. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2858)


写真(右)1945年5月6日、イギリス、ロンドンン、ダウニング街の第10公園、前列左から空軍参謀総長チャールズ・ポータル元帥、陸軍参謀総長アラン・ブロック元帥、保守党ウィストン・チャーチル首相、アンドリュー・カニンガム提督。後列左から国防次官ホレイス(L C Hollis)、国防長官ヘイスチング・イズメイ(Hastings Ismay)大将
WITH HIS CHIEFS OF STAFF IN THE GARDEN OF NO 10 DOWNING STREET, LONDON, 7 MAY 1945, Catalogue number: TR 2856, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Subject period:Second World War Alternative Names: object category:Photography, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Malindine E G (Capt) Lockeyear W T (Capt), Object description:  Seated, left to right: Air Chief Marshal Sir Charles Portal, Field Marshal Sir Alan Brooke, the Prime Minister, and Admiral Sir Andrew Cunningham. Standing, left to right: Major General L C Hollis, Secretary to the Chiefs of Staffs Committee; and General Sir Hastings Ismay, Chief of Staff to the Minister of Defence.  写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2856)


写真(右)1945年5月6日、イギリス、ロンドンン、ダウニング街の第10公園、保守党ウィストン・チャーチル首相を囲んで談笑するイギリス軍の最高幹部の空軍参謀総長チャールズ・ポータル元帥、陸軍参謀総長アラン・ブロック元帥、アンドリュー・カニンガム提督、国防次官ホレイス(L C Hollis)、国防長官ヘイスチング・イズメイ(Hastings Ismay)大将。
WITH HIS CHIEFS OF STAFF IN THE GARDEN OF NO 10 DOWNING STREET, LONDON, 7 MAY 1945, Catalogue number: TR 2857, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Subject period:Second World War Alternative Names: object category:Photography, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Malindine E G (Capt) Lockeyear W T (Capt), Object description:  Standing, left to right: Major General L C Hollis, Secretary to the Chiefs of Staffs Committee; General Sir Hastings Ismay, Chief of Staff to the Minister of Defence; Admiral Sir Andrew Cunningham; Field Marshal Sir Alan Brooke; Air Chief Marshal Sir Charles Portal; the Prime Minister and an aide. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2857)



12.ドイツ、ポツダム会談中のウィストン・チャーチル首相退陣

ニュルンベルグ国際軍事裁判で裁判官は1946年10月1日に判決を言い渡した。有罪判決には裁判官4人のうち3人の合意が必要だった。死刑判決は12人、ただし、ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は自殺によって絞首刑を逃れた。終身刑は3人、10年から20年の禁固刑を4人に言い渡した。無罪判決は3人だった。

写真(右)1945年6月16日、ドイツ、ベルリン、国会議事堂をジープで訪れた保守党ウィストン・チャーチル首相
WINSTON CHURCHILL IN BERLIN, JULY 1945, Catalogue number: BU 8950, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period:Second World War Alternative Names: object category:Photography, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Malindine E G (Capt) Lockeyear W T (Capt), Object description:  Winston Churchill in a jeep outside the German Reichstag during a tour of the ruined city of Berlin, 16 July 1945.写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 8950)


写真(右)1945年6月16日、ドイツ、ベルリン、国会議事堂の廃墟を訪ねるイギリス保守党ウィストン・チャーチル首相
WINSTON CHURCHILL IN BERLIN, JULY 1945, Catalogue number: BU 8949, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period:Second World War Alternative Names: object category:Photography, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Malindine E G (Capt) Lockeyear W T (Capt), Object description:  North West Europe 1944 - 1945: Churchill visits the ruins of the Reichstag in Berlin.写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 8949)


写真(右)1945年6月16日、ドイツ、ベルリン、ヒトラーの総統官邸の訪問を終えたイギリスのウィストン・チャーチル首相
WINSTON CHURCHILL IN BERLIN, JULY 1945, Catalogue number: BU 8950, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period:Second World War Alternative Names: object category:Photography, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Malindine E G (Capt) Lockeyear W T (Capt), Object description:  Prime Minister Winston Churchill leaves the ruins of Adolf Hitler's Chancellery in Berlin, Germany, on 16 July 1945.写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 8950)


ヒトラーの総統官邸Reich Chancellery)は、ドイツ第三帝国の首都ベルリン、ヴィルヘルム街 (Wilhelmstraße) 1939年に建設された。総統官邸Reich Chancellery)の設計者は、ヒトラーお気に入りの建築家アルベルト・シュペーアになる。巨大で威圧的な建築様式な総統官邸、その総統執務室は天井が高く威厳があり、400平方メートルもある豪華なもので、訪れる外国要人や部下たちを引見して、威圧する目的があった。以前から使用されている旧ドイツ首相官邸もヴィルヘルム街にあったが、ヒトラーの総統官邸Reich Chancellery)はそれとは別に新築された。

写真(右)1945年6月21日、ドイツ、ベルリン、イギリス軍の戦勝パレードを視察するイギリス保守党ウィストン・チャーチル首相とイギリス第8軍司令長官バーナード・モントゴメリー元帥、イギリス陸軍参謀総長アラン・ブロック元帥:アメリカ製のハーフトラックに乗って、北アフリカ戦線で大活躍したイギリス第8軍「砂漠の鼠」を検閲している。手前は、クロムウェル巡航戦車、2台目はチャレンジャー巡航戦車と交互に整列しているようだ。
WINSTON CHURCHILL IN BERLIN, JULY 1945, Catalogue number: BU 9078, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period:Second World War Alternative Names: object category:Photography, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Lockeyear W T (Capt), Object description:  Prime Minister Winston Churchill, accompanied by Field Marshal Sir Bernard Montgomery and Field Marshal Sir Alan Brooke, inspects tanks of the "Desert Rats" from a half-track vehicle which moved slowly along the long line of troops and armour, during the British Victory parade in Berlin, 21 July 1945.写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 9078)


写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ポツダム会談に参加するためにガトー飛行場に到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)と娘のマリー(Mary:15 September 1922-31 May 2014):乗機は、イギリスの記章をつけているが、アメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」。チャーチル夫妻には5子ある。1909年生まれ長女ダイアナ、1911年生まれ長男ランドルフ、1914年生まれ二女サラ、1918年生まれ三女マリーゴールド、1922年生まれ四女メアリー である。メアリーは、1941年からロンドンの対空部隊に配属されたが、後にベルギー、ドイツでも任務に就いている。ポツダム会談には、父に同行し、トルーマン大統領、スターリン首相とも会っている。夫は、保守党政治家クリストファー・ゾームズ(Christopher Soames)男爵で、彼は最後の南ローデシア総督となった。Prime Minister Winston Churchill, surrounded by cameramen and dignitaries, leaves the airplane which brought him to Gatow Airport in Berlin, Germany for the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965 Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission. 写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-21引用。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ベルリン、ガトー飛行場、ポツダム会談に参加するイギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)と出迎えるバーナード・モントゴメリー元帥(Bernard Law Montgomery):Description: British Prime Minister Winston Churchill (center) is greeted by Field Marshall Bernard Montgomery at Gatow Airport in Berlin, Germany where Mr. Churchill has just arrived to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Montgomery of Alamein, Bernard Law Montgomery, Viscount, 1887-1976 写真はHarry S. Truman Library & MuseumAccession Number: 63-1456-58引用。

ドワイト・アイゼンハワーDwight Eisenhower)の指揮の下、西側連合軍は1943年にシチリア島進攻ハスキー作戦を発動した。アメリカ陸軍ジョージ・パットン将軍の第7軍、バーナード・モントゴメリーBernard Law Montgomery)の第8軍が戦った。この時に、両者は対立が始まった。

シシリー島攻略後、バーナード・モントゴメリーBernard Law Montgomery)は、イタリア本土上陸まで第8軍を指揮した。イタリア戦の後、D-デイ、ノルマンディー上陸オーバーロード作戦に向けて、ヨーロッパ侵攻のための戦略を練ったが、D-デイの総指揮官はアメリカ軍のドワイト・アイゼンハワーDwight Eisenhower)だった。

写真(右):1945年7月15日、ドイツ、ポツダム会談のためにベルリン、ガトー飛行場、アメリカから貸与されたダグラスC-54四発大型輸送機「スカイマスター」で到着したイギリス首相ウィンストン・チャーチル(1874-1965)が出迎えのガトー空港警備部隊のイギリス陸海空軍将兵を閲兵している。
Description: Distance view of British Prime Minister Winston Churchill inspecting the honor guard at Gatow Airport in Berlin, Germany. The Guard was composed of men from the Royal Navy, Canadians, Royal Air Force, and a battalion of Grenadier Guards. Prime Minister Churchill has just arrived in Berlin to attend the Potsdam Conference. From Potsdam album, 1945. Date: July 15, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1455-63引用。


写真(右):1945年7月17日、ポツダム会談に参加したソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストンチャーチル。後にイギリス総選挙で勝利した労働党のクレメント・アトリー首相に交替。スターリンは、1924年のレーニン死後、ソ連共産党書記長として、権力を集中して、一国社会主義を標榜しつつ、コミンテルンを通じて、世界各国に共産主義革命を起こそうとした。独ソ戦が勃発し、アメリカから武器貸与法によって軍事援助を受け入れ、国際協調が必要となると、国内向けの「書記長」の地位に加えて1953年に死亡するまで「首相」に就任。国家元首としての肩書を明確にした。
Description: Joseph Stalin, Harry S. Truman and Winston Churchill are photographed together for the first time just before the opening of the Big Three Conference at Potsdam. Same as 63-1455-26. From: Papers of Charles G. Ross; 12x18 Metal album with letters CGR. Date: July 17, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 96-21引用。


写真(右):1945年7月18日、ドイツ、ポツダム会談、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)と話し合うために集まった、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill):7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)において、アメリカ、イギリス、中国(実際はソ連)は、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: President Harry S. Truman (left) and British Prime MInister Winston Churchill have an informal chat, before lunch, during the Potsdam Conference. The lunch took place at Mr. Churchill's residence at Potsdam. From Potsdam album, 1945 Date: July 18, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は、 Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1453-22引用。

写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、正面奥にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、国務長官ジェームズ・バーンズ、海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督、右端にイギリス首相ウィンストン・チャーチル、左端にソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、中央手前(後ろ姿)クレメント・アトリー(Clement Attlee):第二次世界大戦の戦後処理を話し合ったポツダム会談で、7月26日、ポツダム宣言(Potsdam Declaration)が発せられた。ただし、中心的な話題は、ドイツ降伏後のヨーロッパの勢力圏の東西分割だった。
Delegates gathered around the conference table at the Potsdam Conference in Germany. Soviet Prime Minister Josef Stalin is on the left, seated opposite the Soviet flag on the table; Soviet foreign minister Vyacheslav Molotov is on Stalin's right. British Prime Minister Winston Churchill is seated on the right, opposite the the British flag on the table; Clement Attlee is seated two to the left of Churchill. President Harry S. Truman is near the center, opposite the United States flag, wearing a bow tie and gesturing with his hand. Secretary of State James Byrnes is on the left of Truman; Admiral William D. Leahy is to the left of Byrnes. Interpreter Charles Bohlen is to the right of Truman. Seated behind Bohlen is Captain James Vardaman. Averell Harriman is seated to the right of Vardaman (partly obscured). General Harry Vaughan is standing, fifth from the right. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945 Date: July 19, 1945 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-45引用。

写真(右):1945年7月19日、ドイツ、ポツダム会談、正面奥にアメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、国務長官ジェームズ・バーンズ、海軍参謀長ウィリアム・リーヒ(William D. Leahy)提督、右端にイギリス首相ウィンストン・チャーチル、左端にソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、中央手前クレメント・アトリー(Clement Attlee)、:7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)で、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: View of the conference room at the opening of the third day's session of the Potsdam Conference in Potsdam, Germany. Soviet leader Josef Stalin is at left, leaning back in his chair. Clement Attlee, center, has back turned to the camera. President Harry S. Truman is at top of table, wearing bow tie. British Prime Minister Winston Churchill is at lower right side of table, back to camera. Vyacheslav Molotov is seated to the right of Josef Stalin. Admiral William Leahy is seated two to the left of President Truman; Secretary of State James Byrnes is seated to the immediate left of President Truman. General Harry Vaughan is standing at the bottom of the stairs, second from the right. Averell Harriman is seated on the extreme right, partly obscured. Others are unidentified. From Potsdam album, 1945. Date: July 19, 1945 写真は Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1455-34引用。

写真(右):1945年7月,ポツダム会談の三巨頭 "Big Three":英首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、新イギリス首相アトリーに交替した。1945年7月26日,ポツダム宣言で、米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置が公表された。1945年7月26日、原爆投下命令の出た翌日、日本への無条件降伏を求めるポツダム宣言(Potsdam Declaration)が発せられた。ここでは、2)合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整へたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終止するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の聯合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。3)蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。---吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。----この「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」が原爆投下を暗示すると解釈することもある。Description: General view of the conference table at the Potsdam Conference. This photograph is autographed on the border by Admiral Leahy, Charles Bohlen, Joseph E. Davies, President Truman, and Winston Churchill. Photos 72-4673 and 67-7587 show Winston Churchill signing this photo. This is one of four original prints in existence, photographed in color by a United States Army Signal Corps photographer using a hand-held camera. The original autographed photograph, measuring 20x24, is in the Museum collection. Clockwise around the table, starting at President Truman, who is seated directly across from the American flag on the table: President Truman; Charles Bohlen; Joseph E. Davies; possibly Sir Alexander Cadogan; Anthony Eden; Winston Churchill; Major E. O. Lyne; Clement Attlee; Andre Vishinsky; Vyacheslav Molotov; Joseph Stalin; V. N. Pavlov; Nikolai Kuznetsov; Admiral William Leahy; James Byrnes. Andrei Gromyko is seated in the chairs behind the table, between Pavlov and Kuznetsov. Edwin Pauley is seated in the chairs behind the table, behind President Truman. Date: ca. July 1945 写真は Naval History and Heritage Command Accession Number: 80-133引用。

写真(右):1945年7月17日、ドイツ、ポツダム会談、ソ連首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill):7月26日、ポツダム宣言Potsdam Declaration)において、アメリカ、イギリス、中国(実際はソ連)は、日本への無条件降伏を求め、戦い続ければ「日本国本土の完全なる破壊を意味すべし」と圧力をかけた。Description: Participants in the Potsdam Conference in Germany stand mingling in the conference room at Cecilienhof Palace. British Prime Minister Winston Churchill, President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin pose for cameramen at the top of photo. Anthony Eden and Vyacheslav Molotov far right. Clement Attlee, far left. From Potsdam album, 1945. Date: July 17, 1945 People Pictured: Attlee, C. R. (Clement Richard), 1883-1967; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Molotov, Vyacheslav Mikhaylovich, 1890-; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Eden, Anthony, Earl of Avon, 1897- Rights: Public Domain - This item is in the public domain and can be used freely without further permission 写真は、 Harry S. Truman Library & MuseumPotsdam Conference Accession Number: 63-1453-22引用。

写真(右):1945年7月23日、ポツダム会談、ソビエト連邦首相ヨシフ・スターリン(Joseph Stalin)、アメリカ大統領ハリー・トルーマン(Harry S. Truman)、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill):Description: British Prime Minister Winston Churchill (left), President Harry S. Truman, and Soviet leader Josef Stalin on the steps of Mr. Churchill's house during the Potsdam Conference in Germany. Mr. Churchill has just given a dinner for Mr. Truman and Mr. Stalin. Others in photo are unidentified. From Potsdam Album, 1945 Date: July 23, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972 写真は、 Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1456-58引用。

写真(右):1945年7月23日、ポツダム会談時のイギリス首相ウィンストン・チャーチルと娘マリー(Mary:15 September 1922 - 31 May 2014):チャーチル夫妻には、長女ダイアナ、長男ランドルフ、次女サラ、三女マリーゴールド、四女メアリーと五人の子供がいる。メアリーは、1941年から、ロンドンの対空部隊に所属し、本土防衛の任に当たった。その後、ベルギー、ドイツでも任務に就いた。父に同行した時は、ポツダムでアメリカ大統領トルーマン、ソ連首相スターリンとも会っている。夫は、保守党の政治家クリストファー・ ソームズ(Christopher Soames)で彼は最後の南ローデシア総督(Governor of Southern Rhodesia)となった。2014年91歳で死亡。
British Prime Minister Winston Churchill and his daughter, Mary, walk in the garden of their residence during the Potsdam Conference in Germany past a Guard of Honor formed by a detachment of Scots Guards. From Potsdam album, 1945. Date: July 23, 1945 People Pictured: Soames, Mary.; Churchill, Winston, Sir, 1874-1965 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-1457-31引用。


写真(右):1945年7月,ポツダム会談の三巨頭 "Big Three":英首相ウィンストン・チャーチル、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、ソ連首相ヨシフ・スターリン。総選挙に敗れたチャーチルはこの後会議を立ち去り、新イギリス首相アトリーに交替した。1945年7月26日,ポツダム宣言で、米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置が公表された。 Description: Left to right: Prime Minister Winston Churchill of Great Britain, President Harry S. Truman, and Generalissimo Joseph Stalin of Russia, sitting in the garden at Potsdam in front of a barrage of cameras. Fourth from the left of those standing is General Harry Vaughan, Military Aide to Truman. From: Kirke B. Lawton, Major General, United States Army. Date: ca. July 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972; Vaughan, Harry H., 1893-1981 写真は、 Naval History and Heritage Command Accession Number: 2006-341引用。

写真(右):1945年7月25日、ポツダム会談に参加したソ連首相ヨシフ・スターリン、アメリカ大統領ハリー・トルーマン、イギリス首相ウィンストンチャーチル。後にイギリス総選挙で勝利した労働党のクレメント・アトリー首相に交替。1941年6月22日、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻したドイツをモスクワに踏みとどまって防いだスターリンは、アメリカ、イギリスの軍事援助を受けた。しかし、ドイツ軍の東部戦線で主力相手に戦ったことで、1943年のカイロ会談では、スターリンはイギリス・アメリカに第2戦線(西部戦線)の開設を要求した。他方、英米は、それをかわすためにスターリンに対日参戦を要求した。スターリンは、国際連合の設立に合意したが、ドイツ降伏後のヨーロッパでは、ポーランド、チェコ、ブルガリア、ルーマニア、ハンガリーなど占領地を共産化し、勢力圏に取り込んだ。
From left to right: Prime Minister Winston Churchill, President Harry S. Truman, and Marshall Joseph Stalin at a meeting of the Allies at Potsdam. Date: July 25, 1945 People Pictured: Churchill, Winston, Sir, 1874-1965; Stalin, Joseph, 1879-1953; Truman, Harry S., 1884-1972
写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 62-716引用。


写真(右)1945年6月、ドイツ、ベルリン、「ホワイトハウス」の玄関階段、イギリスのウィストン・チャーチル首相とアメリカのハリー・トルーマン大統領:ポツダム会談の途中で、イギリス総選挙があり、保守党内閣から労働内閣に大転換があった。対日戦争の戦勝直前のイギリスで政権交代があり、保守党チャーチルは首相を退陣、労働党アトリーが新首相に選出された。
THE POTSDAM CONFERENCE, JULY 1945、Catalogue number: TR 2920, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR COLOUR TRANSPARENCY COLLECTION, Bernard Montgomery Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Colour, Creator: Malindine E G (Capt), War Office official photographer Tanner (Capt),
Object description:  The President of the United States, Mr Harry S Truman and the Prime Minister, the Rt Hon Winston Churchill, MP, on the steps of the 'White House' in Berlin.写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (TR 2920)


1945年7月17日,ドイツ・ベルリン郊外のポツダム会談において、米大統領ハリー・トルーマン(4月12日就任),英首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)(後日は新首相アトリーに変更)、ソ連首相スターリンの三巨頭は,ドイツ敗北後の欧州戦後処理を話しあった。その際,日本に対する降伏勧告も検討された。ポツダム会談前日,1945年7月16日、米ニューメキシコ州で初の原子爆弾(プルトニウム型)の爆破実験に成功した。米国は,ソ連に対して強硬な態度に出た。ジェームズ・バーンズJames Francis Byrnes)国務長官の意向で、日本に対する降伏勧告から国体護持(天皇制の存続)を認める可能性は、一切排除された。

ポツダム宣言」は,米大統領ハリー・S・トルーマンHarry S Truman),英首相チャーチル,中国主席蒋介石が署名した(とされた),日本への無条件降伏勧告であり,概略は次の通り。

1 米大統領、中華民国政府主席,英首相ハ 数億ノ国民ヲ代表シ協議ノ上,日本国ニ対シ 今次ノ戦争ヲ終結スルノ機会ヲ与フル。

2 米英中ノ巨大ナル陸、海、空軍ハ 数倍ノ増強ヲ受ケ 日本国ニ対シ最後的打撃ヲ加フルノ態勢ヲ整ヘタリ。

3 世界ノ自由ナル人民ノ力ニ対スル「ドイツ」国ノ無益且無意義ナル抵抗ノ結果ハ 日本国国民ニ対スル先例ヲ明白ニ示スモノナリ。---吾等ノ軍事力ノ最高度ノ使用ハ 日本国軍隊ノ不可避 且完全ナル壊滅ヲ意味スベク 必然的ニ日本国本土ノ完全ナル破滅ヲ意味スベシ。

4 日本帝国ヲ滅亡ノ淵ニ陥レタル 我儘ナル軍国主義的助言者ニ依リ 日本国ガ引続キ統御セラルベキカ 又ハ理性ノ経路ヲ日本国ガ履(ふ)ムベキカヲ 日本国ガ決定スベキ時期ハ到来セリ。

5 吾等ノ条件ハ以下ノ如シ。右ニ代ル条件存在セズ。遅延ヲ認ムルヲ得ズ。

6 吾等ハ無責任ナル軍国主義ガ世界ヨリ駆逐セラルルニ至ル迄ハ 平和、安全及正義ノ新秩序ガ生ジ得ザルコトヲ主張スルヲ以テ 日本国国民ヲ欺瞞シ 之ヲシテ世界征服ノ挙ニ出ヅルノ過誤ヲ犯サシメタル者ノ権力及勢力ハ 永久ニ除去セラレザルベカラズ。
There must be eliminated for all time the authority and influence of those who have deceived and misled the people of Japan into embarking on world conquest, for we insist that a new order of peace, security and justice will be impossible until irresponsible militarism is driven from the world.

7 新秩序ガ建設セラレ 且日本国ノ戦争遂行能力ガ破砕セラレタルコトノ確証アルニ至ル迄ハ 連合国ノ指定スベキ日本国領域内ノ諸地点ハ --占領セラルベシ。

8 「カイロ」宣言ノ条項ハ履行セラルベク 又日本国ノ主権ハ本州、北海道、九州及四国並ニ吾等ノ決定スル諸小島ニ局限セラルベシ。(1943年11月27日のカイロ宣言では,日本は,第一次世界大戦で奪った太平洋諸島の放棄、中国から奪った満州・台湾・占領地の中国返還、朝鮮独立など「大西洋憲章」領土不拡大の原則が引き継がれた。)

9 日本国軍隊ハ 完全ニ武装ヲ解除セラレタル後 各自ノ家庭ニ復帰シ 平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルベシ。
The Japanese military forces, after being completely disarmed, shall be permitted to return to their homes with the opportunity to lead peaceful and productive lives.

10 吾等ハ日本人ヲ民族トシテ 奴隷化セントシ 又ハ国民トシテ滅亡セシメントスルノ意図ヲ有スルモノニ非ザルモ 吾等ノ俘虜ヲ虐待セル者ヲ含ム一切ノ戦争犯罪人ニ対シテハ 厳重ナル処罰ヲ加ヘラルベシ。日本国政府ハ日本国国民ノ間ニ於ケル 民主主義的傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障礙ヲ除去スベシ。言論、宗教及思想ノ自由並ニ基本的人権ノ尊重ハ確立セラルベシ。
We do not intend that the Japanese shall be enslaved as a race or destroyed as a nation, but stern justice shall be meted out to all war criminals, including those who have visited cruelties upon our prisoners. The Japanese Government shall remove all obstacles to the revival and strengthening of democratic tendencies among the Japanese people. Freedom of speech, of religion, and of thought, as well as respect for the fundamental human rights shall be established.

11 日本国ハ 経済ヲ支持シ 実物賠償ノ取立ヲ可能ナラシムルガ如キ産業ヲ維持スルコトヲ 許サルベシ。但シ 日本国ヲシテ戦争ノ為再軍備ヲ為スコトヲ得シムルガ如キ産業ハ 此ノ限ニ在ラズ。右目的ノ為原料ノ入手ヲ許可サルベシ。日本国ハ将来世界貿易関係ヘノ参加ヲ許サルベシ。
Japan shall be permitted to maintain such industries as will sustain her economy and permit the exaction of just reparations in kind, but not those which would enable her to re-arm for war. To this end, access to, as distinguished from control of, raw materials shall be permitted. Eventual Japanese, participation in world trade relations shall be permitted.

12 前記目的ガ達成セラレ 日本国民ノ自由ニ表明セル意思ニ従ヒ 平和的傾向ヲ有シ 責任アル政府ガ樹立セラルルニ於テハ 連合国ノ占領軍ハ 直ニ日本国ヨリ撤収セラルベシ。

13 日本国政府ガ 直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ 政府ノ誠意ニ付 保障ヲ提供センコトヲ 同政府ニ対シ要求ス。 右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス。
We call upon the government of Japan to proclaim now the unconditional surrender of all Japanese armed forces, and to provide proper and adequate assurances of their good faith in such action. The alternative for Japan is prompt and utter destruction.

(⇒「ポツダム宣言」(米英中三国宣言)およびUCLA Asia Institute;Potsdam Declaration引用)。

写真(右):1945年7月28-8月1日,ポツダム会談終了後の三巨頭 "Big Three":英首相アトリーBritish Prime Minister Clement Atlee; 米大統領トルーマンU.S. President Harry S. Truman; ソ連首相スターリンSoviet Premier Joseph Stalin。後方は,米海軍参謀長レーヒ提督Fleet Admiral William D. Leahy, USN, Truman's Chief of Staff(日本軍兵士の心理研究書を執筆し,日本人ガールフレンドもいた。国体護持の条件を提示すれば日本は降伏すると主張。); 英外相ベヴィンBritish Foreign Minister Ernest Bevin; 後列、右から二人目は、米国務長官バーンズJames Francis Byrnes:63歳;対ソ外交を有利にするために原爆投下を主張した反共主義者。トルーマンの政治的先輩); ソ連外相モロトフSoviet Foreign Minister Vyacheslav Molotov(独ソ不可侵条約,日ソ中立条約締結)。1945年7月26日に,米英中の名前で,日本の無条件降伏を求め,連合国による日本の戦後処置を定めるポツダム宣言が公表された。NAVAL HISTORICAL CENTER引用。

ポツダム宣言を要約すれば,日本軍の無条件降伏(13),軍国主義者の排除(4),占領地・植民地(朝鮮・台湾など)放棄・本土への領土限定(8),戦争犯罪人の処罰(10)を求めた降伏勧告がなされたといえる。

ポツダム会談は,実は,従来の連合国首脳会談とは,首脳陣が大きく入れ替わっている。米大統領ルーズベルトFranklin D. Rooseveltは,1945年4月12日脳溢血で急死(63歳)し、1945年1月に就任した副大統領ハリー・S・トルーマンHarry S Truman:61歳)が、4月12日に第33代大統領に就任。英首相チャーチルも、総選挙で一時帰国している最中,選挙で敗北。7月27日に英国新首相アトリー(1951年10月26日まで在籍)へ政権交代し,ポツダムには戻らなかった。他方,ポツダム会談に加わったスターリンは,ポツダム宣言には参加していない。欠席した中国の蒋介石は,ポツダム宣言の提唱者のひとりとなった。
 連合国の枢軸国への強硬政策が基本方針とされていたために,ポツダム会談では各国首脳陣の入れ替わりや複雑な事情によても,ポツダム宣言における無条件降伏の勧告は,全く変更されなかった。

米海軍参謀長レーヒ提督や陸軍長官ヘンリー・スチムソン(Henry Lewis Stimson:78歳)のように,天皇制の維持,すなわち国体護持を条件とすれば,本土の都市空襲と無制限潜水艦作戦による物資供給の途絶によって戦争遂行能力の低下した日本と講和できると考えた軍の戦略家もいた。

表 第二次大戦中の主な連合国首脳会議

名 称
(コードネーム)
期 日 参加首脳 内 容
大西洋会談
Atlantic Conference

アルゼンチアNewfoundland Argentia
1941/8/9-12 Winston Churchill, Franklin Roosevelt 大西洋憲章 Atlantic Charter
アルカディア会談
Arcadia Conference

ワシントン

1941/12/22-42/1/14

チャーチル,ルーズベルト 欧州戦線優先Europe first, 連合国共同宣言
カサブランカ会談
Casablanca Conference

(SYMBOL & ANFA)
1943/1/14-24 チャーチル,ルーズベルト, ドゴール, ジロードGiraud イタリア侵攻計画, 1944年の大陸侵攻計画, 枢軸国の無条件降伏unconditional surrender要求,ロンドン亡命仏政府とアルジェリア仏政府の統合
ケベック会談
Quebec Conference

(QUADRANT)
1943/8/17-24 チャーチル,ルーズベルト, カナダ首相Mackenzie King 大陸侵攻上陸日 D-Dayを1944年と決定。 東南アジア司令部設置,ケベック秘密協定:核兵器情報の秘匿
カイロ会談
Cairo Conference

(SEXTANT)
1943/11/23-26 チャーチル,ルーズベルト,蒋介石 戦後アジアに関するカイロ宣言Cairo Declaration
テヘラン会談
Tehran Conference
(EUREKA)
1943/11/28-12/1 チャーチル,ルーズベルト,スターリンJoseph Stalin 米英ソ3巨頭初会談, ドイツに対する最終戦略と大陸侵攻Operation Overlordの日程決定
ブレトンウッズ会談
Bretton Woods conference
1944/1/1-15 44カ国代表 国際通貨基金IMF,世界銀行 IBRDの創設合意
ダンバートンオーク会談Dumbarton Oaks Conference 1944/8/21-29 39カ国代表, 米国務長官Edward Stettinius, 英外務次官Alexander Cadogan, ソ連駐米大使グロムイコAndrei Gromyko 国連United Nations創設の合意
ヤルタ会談
Yalta Conference
(ARGONAUT & MAGNETO)
1945/2/4-11 チャーチル,ルーズベルト,スターリン ドイツ敗戦後の計画,戦後欧州計画,国連総会準備,ソ連の対日戦の条件
サンフランシスコ国連会議 UN Conference on International Organization 1945/4/25-6/26 50カ国代表 国連憲章 United Nations Charter
ポツダム会談
Potsdam Conference
(TERMINAL)
1945/7/17-8/2 チャーチル, スターリン, 米大統領トルーマンHarry S. Truman,英新首相アトリーClement Attlee1945/7/27就任 ポツダム宣言 (日本への無条件降伏勧告),戦後ドイツ占領に関するポツダム合意 Potsdam Agreement
出所)Wikipedia/ http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_World_War_II_conferencesよリ作成。

30回の連合国首脳会談が開催され,出席回数はウィンストン・チャーチルWinston Churchill)14回,ルーズベルト12回,スターリン 5回。
会談は,枢軸国への無条件降伏の要求が1943年1月カサブランカ会談から主張され,対ドイツが優先された。大戦中の連合国首脳会議20回のうち,中国代表が率先して参加したのは,国連関連を除き,1943年カイロ会談だけで,日本と対日戦争が明示的に取り上げられた会談も5回に過ぎない。これは,対日戦争、アジアは,アメリカ主導下に置くことを連合国に合意されていたことの反映である。

戦後日本の戦争責任や政治体制は,アメリカの意向にかかっていた。日本の指導者,特に宮中グループは,ポツダム宣言の文言よりも、アメリカが暗黙裡に国体護持を認めていることに注目した。終戦後,アメリカ軍に積極的に協力することによって,国体が護持できると考えた。つまり,日本は,終戦の聖断前後から,親米(米国追随)外交を展開することを決めていた。

主戦国アメリカ合衆国は,連合国のリーダーとして日本への無条件降伏の要求を取り下げることはできない。日本が特攻作戦を大規模に展開して,日本本土上陸作戦で多数の米軍死傷者が見込まれるとしても,無条件降伏の要求は変更できない。米国は,日本を無条件降伏させるためには,手段を選ばなかった。原爆の破壊力が大きいのであれば,当然使用された。
戦後,原爆投下の惨状が明らかになると,米軍の死傷者を少なく抑えるために,日本へ原爆を投下したと、ハリー・トルーマン大統領、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は弁明した。しかし、1945年前半の米国の戦略において,味方の死傷者推計数は,本土上陸作戦には問題とはなっていなかった。

枢軸国の無条件降伏に固執した連合国は,都市爆撃や潜水艦による民間商船撃沈を,敵の抗戦意志を粉砕し,戦争遂行能力を麻痺させる効果的な方法として,採用していた。アジア太平洋戦争末期の玉砕戦や特攻作戦によって,日本人は,「天皇のためには死をも厭わず戦う狂信的な民族である」と侮蔑的な認識が,米国人(軍民)に広まっていた。日本の国体護持を条件に,日本の早期降伏を促すという案は,一部の知日派の戦略家を除いて,検討しなかった。米軍は、日本本土上陸作戦を実施し、日本を無条件降伏させる準備をしていた。

日本政府は、1945年7月27日、ポツダム宣言の存在を論評なしに公表し、7月28日に新聞紙上で「笑止」「聖戦飽くまで完遂」と報道。鈴木貫太郎首相は、記者会見で「共同声明はカイロ會談の焼直しと思ふ、政府としては重大な価値あるものとは認めず黙殺し、断固戦争戰争完遂に邁進する」と述べ、1945年7月29日朝日新聞で「政府は黙殺」と報道された。ポツダム宣言「黙殺」発言は、日本の代表的通信社の同盟通信社では"ignore it entirely"、ロイターとAP通信では"Reject"と翻訳され世界に伝わった(ポツダム宣言wikipedia)。

鈴木貫太郎首相のポツダム宣言黙殺発言について,鈴木貫太郎自身は,戦後一年経ってから「この一言は後々に至るまで余の誠に遺憾と思う点であり…」と後悔した。しかし,鈴木首相のポツダム宣言黙殺発言について、高木惣吉海軍少将が米内光政海軍大将に対して「なぜ総理にあんなくだらぬことを放言させたのですか」と質問したが、米内自らは沈黙したままで、鈴木首相のみが責をとった形となった。米内光政大臣も、徹底抗戦やむなしと考えていたのであろう。日本側は,アメリカ、イギリスとは,全く異なる視点から,戦争の前途を心配していた。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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