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◆ソ連赤軍のT-34戦車:T-26,T-70,KB-1,KB-2 - тяжёлый танк
1942年夏,ロシア中部で撃破されたソ連軍の新鋭T-34戦車
ドイツ軍の戦車よりも,重装甲,強力な76.2ミリ長砲身カノン砲装備,大出力エンジンを搭載した機動性の高い戦車だった。T-34戦車は,1942年には大量投入されており,ドイツ軍がT-34に対抗できるティガー戦車を独ソ戦に実線投入したのは,1942年暮れ以降だった。それまで,ドイツ軍戦車は,T-34戦車を撃破することは困難だった。
Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Mittlerer russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。



写真(上)2017年、ロシア共和国、モスクワ大祖国戦争博物館(Moscow Museum of the Great Patriotic War)に保管・展示されているソ連赤軍のT-34/76戦車(1941年型)
当初の1940年型は、30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載していたが、1941年型は41.6口径76.2ミリ戦車砲F-34に火力を強化している。
The turret inscription translates as “From the workers of Kazakhstan” On display in ‘Victory Park’, Museum of the Great Patriotic War, Poklonnaya Hill, Moscow, Russia. 26th August 2017 Date 26 August 2017, 12:45 Source T-34/76 Model 1941 ‘112’ “от рабочих казахстана” – Victory Park, Moscow Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 Model 1944 in the Bovington Tank Museum File:T-34-76 Model 1941 ‘112’ “от рабочих казахстана” – Victory Park, Moscow (37797245455).jpg引用。



写真(上)2010年、イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているソ連赤軍のT-34/85戦車
初期型は76.2ミリ砲を搭載していたが、1944年に登場した後期型は、砲塔を大型化し54.6口径85ミリ戦車砲ZiS-S-53を搭載し、火力を強化している。
Bovington Tank Museum 094 T34 Date 7 July 2010, 12:06 Source Bovington Tank Museum 094 T34 Author DAVID HOLT from London, England
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 Model 1944 in the Bovington Tank Museum File:Flickr - davehighbury - Bovington Tank Museum 094 T34.jpg引用。


1.冬戦争と第二次大戦緒戦のソ連赤軍の戦車−T-26,T-70

写真(左):1939年8月23日,独ソ不可侵条約に署名する外相リンベントロップ;後方には,スターリン,ソ連外相モロトフ。写真(右):独ソ不可侵条約に署名する外相モロトフ;後方には,スターリン,ドイツ外相リンベントロップがみえる。独ソ不可侵条約は,第一次大戦の途中にドイツとの和平条約(ブレスト・リトフスク条約)を締結し,戦争から抜け出たレーニンの精神に沿っている。

1939年9月1日,ドイツ軍のポーランド侵攻に対して,ポーランドと相互援助条約を締結していた英仏は最後通牒を発し、ドイツの回答がないことから、9月3日,英仏がドイツに宣戦布告して第二次大戦が始まった。9月17日,ソ連軍は,ポーランドを保障占領するとして,ポーランド東部に武力進駐した。しかし,英仏との戦争には発展しなかった。

ソビエト連邦は,1939年8月23日、ドイツと独ソ不可侵条約秘密議定書が締結した。この独ソ不可侵条約THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT は,
?相互に相手の領土の不可侵,
?一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない
?相互間の紛争の平和的解決
を骨子とした,期限10年の条約である。

つまり、第二次大戦勃発直前、独ソ不可侵条約によって、ドイツとソ連は、東欧・バルト三国の勢力圏を策定したのである。ソ連はバルト三国とフィンランドへの優位を認めさせ、バルト三国に対して軍事力を背景に、赤軍の進駐を認めさせ、併合した。さらに、ソ連はフィンランドにカレリア地峡Karelian Isthmusの割譲を要求した。レニングラード近郊カレリア地峡で、フィンランドの国境を30km後退させること要求したのである。1939年9月、フィンランドは,このソ連からの領土要求を拒否し,ソ連と戦うこ決意を固めた。

ソ連はフィンランドからの攻撃を口実に、1939年11月30日、対フィンランド宣戦を布告し、フィンランド冬戦争(Russo-Finnish War)が始まった。フィンランド冬戦争(Winterkrieg)によって、ソ連は、1939年12月14日、国際連盟League of Nationsから除名された。しかし、ソ連共産党書記長(首相)ヨシフ・スターリンJoseph Stalinは、フィンランド軍カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥率いるフィンランド軍の戦力を過小評価し、早期勝利を確信していた。

フィンランド冬戦争(Winterkrieg)で、ソ連赤軍の圧倒的優勢にもかかわらず、フィンランド軍はカール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)将軍の下で善戦したものの、1940年3月、フィンランドはソ連に降伏した。ソ連はフィンランドにレニングラードに隣接するカレリア地峡(Karelian Isthmus)の国土を1割を割譲させた。ヒトラーは、ソ連赤軍の兵力の巨大さを認めていたが、フィンランド冬戦争(Winter War)でソ連赤軍の攻撃がフィンランド軍にしばしば撃退されたことから、ソ連赤軍の総合戦力を軽視しするようになった。


写真(右)1939年9月22日,ポーランド,ブレスト=リトフスク(Brest-Litovsk)に進駐したソ連軍T-26戦車
: Polen, Brześć Litewski (heute Brest in Weißrussland).- deutsch-russische Siegesparade, russischer Panzer (T-26 TU ?) neben deutscher Motorrad-Abteilung ; PK [?] Dating: 22. September 1939撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


T-26軽戦車の諸元
全長 4.9メートル
重量 9.4トン
航続距離 175キロ
45 ミリ砲装備
車体前装甲15ミリ
乗員3 名

ドイツとソ連は同盟国として,ポーランド分割したが,これは独ソ不可侵条約の秘密議定書に定められていた。そこでは、独ソの勢力範囲を策定し、ソ連は、ポーランド東部、バルト三国、ルーマニア東部のベッサラビア、フィンランドを勢力圏とし、ドイツはポーランド西部を勢力圏とした。ポーランドと相互援助条約を結んでいた英仏は,9月3日,ドイツにだけ宣戦布告したが,ソ連には宣戦しなかった。

写真(右)1942年8月,ソ連中部,降伏したソ連軍T-26軽戦車と搭乗員:Sowjetunion-Mitte.- russischer Panzersoldat in leichtem Panzer T-26 B ergibt sich mit erhobenen Händen in Kriegs-gefangenschaft; PK 697 Dating: August 1941 Photographer: Friedrich 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

T-26戦車は,1930年代前半に開発され,BT快速戦車と同じような大型砲塔を備えていた。兵装は,長砲身37ミリ砲を装備し,重量9トン,8000台量産された。

1936年のスペイン内戦,1939年9月17日のポーランド武力進駐,1939年11月30日から1940年3月13日までのフィンランド冬戦争,1941年6月22日の独ソ戦開戦の時,ソ連の主力戦車だった。

装甲が薄いために,対戦車戦闘能力は低かった。フィンランド冬戦争で,フィンランド軍は多数のT-26戦車を鹵獲,自軍の主力戦車とした。

写真(右):1941年7月,ソ連ベッサラビアでドイツ軍が撃破したソ連軍T-26戦車
Sowjetunion, Vormarsch in Bessarabien.- Sowjetischer Panzer T-26, Ende Juli 1941 Dating: Juli 1941
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


T-26軽戦車諸元
全長 4.9メートル,全幅 3.4メートル,車高 2.4メートル,全備重量 9.4トン
最高速度 時速28キロ,航続距離175キロ
兵装 45ミリM32 戦車砲,7.62ミリ機銃1丁
砲塔前面装甲25ミリ,砲塔側面15ミリ,車体15ミリ
エンジン 90 馬力(66キロワット)ガソリン駆動
乗員 3 人

ソ連軍は,スターリン共産党書記長(首相に相当)の下でソ連赤軍の近代化を推し進めた。1930年初頭,イギリスのビッカース6トン戦車を輸入し,これをベースにした戦車を開発した。これがT-26軽戦車で,歩兵に随伴する歩兵戦車だった。

1936-1937年のスペイン内戦に際して,ソ連は共和国側に軍事援助を行った。ソ連軍のT-26軽戦車も派遣された。ドイツ軍,イタリア軍もスペインに派遣されたから,共産軍とファシスト軍との戦いになった。

ドイツ軍の派遣したI号戦車,イタリア軍の派遣したL3戦車よりも,装甲と攻撃力に優れたT-26軽戦車は優位に立ったが,兵力に劣る共和国側は敗退した。

1938年の満ソ国境での張鼓峰事件,1939年のモンゴル・満州国境のノモンハン事件に際しては,T-26軽戦車が投入され,日本軍を攻撃した。

1941年6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を反故にしてソ連を電撃的に攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していたイギリス,アメリカは即座にソ連支援を公言した。それまでのチャーチル英首相の関心は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことだった。しかし,独ソ戦の勃発に,イギリスの危機は遠のいたと大喜びした。


1942年,ロシア南部,ドン川=スターリングラードの間,撃破されたソ連軍T-70軽戦車とドイツ軍の半装軌装甲車(Sd.Kfz. 250)
:ドイツ軍の歩兵が身を隠しているのは,ソ連軍T-70軽戦車で,キャタピラ(装軌)が外れている。
Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- deutsche Infanteristen in Deckung hinter einem zerstörten sowjetischen Panzer (T-70 ?) neben leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) mit Aufschrift "Struckmann" (?); PK 694 Dating: 1942 Photographer: Klintzsch撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ソ連軍T-70軽戦車は,46口径45ミリ砲20Kmを装備,重量は9.5トン。
1942年初夏にT-70軽戦車として制式、ゴーリキー自動車工場(GAZ)で生産。T-70軽戦車は,1942年4800台,1943年3000台以上が量産された。 

写真(右)1941年6月,ソ連南部,バルバロッサ作戦当初、ドイツ軍に破壊されたソ連赤軍BT-7快速戦車:手前のドイツ兵が射殺したソ連兵士を検分している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-020-1268-36 Archive title: Sowjetunion-Süd.- "Unternehmen Barbarossa", brennender sowjetischer Panzer BT-7, davor deutscher Infanterist vor gefallenem sowjetischen Soldaten; PK 637 Dating: Juni 1941 Photographer: Hähle, Johannes 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ソ連軍のBTシリーズの最終型BT-7快速戦車は、1935年から生産開始、1940年までに4600輌が量産された。

BT-7快速戦車の諸元:
全長5.56 m、全幅2.29 m、全高2.42 m
重量13.8 t、クリスティー式懸架
最高速度52 km/h(路上)、航続距離350 km
兵装:45 mm M1934 (携行砲弾数188発)、7.62 mm DT機銃2丁(銃弾2394発)搭載
砲塔前面15 mmと軽装甲

写真(右)1941年6月,ソ連北部,ラトビア、リガ?、バルバロッサ作戦当初、ドイツ軍に破壊されたソ連赤軍BT-7快速戦車:手前のドイツ兵が射殺したソ連兵士を検分している。BTシリーズの最終型BT-7快速戦車は、1935年から生産開始、1940年までに4600輌が量産された。 全長5.56 m、全幅2.29 m、全高2.42 m、重量13.8 t、クリスティー式懸架、最高速度52 km/h(路上)、航続距離350 km。45 mm M1934 (携行砲弾数188発)、7.62 mm DT機銃2丁(銃弾2394発)搭載。砲塔前面15 mmと軽装甲。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-771-0356-01 Archive title: Sowjetunion, Lettland, [Riga?].- Zerstörter sowjetischer Panzer auf einer Brücke; PK Staffel Nord Dating: 1941 Sommer Photographer: Reichelt撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。



2.ソ連赤軍 KB-1,KW-1重戦車


写真(右)1942年6月,ドイツ軍東部戦線、モスクワ南500キロ、ハリコフ北東300キロのヴォロネジ、撃破されたソ連軍KW-1重戦車
:砲塔のハッチから硝煙が立ち上っている。車体前面上部左の7.62ミリ車載機銃が完全に破壊され抜け落ちている。KVの表記は、当時のソ連国防大臣クリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)に由来する。
Archive title: Sowjetunion, bei Woronesch.- Brennender sowjetischer Panzer KW-1; PK 694 Dating: Juni 1942 Photographer: Klintzsch Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-216-0412-07引用(他引用不許可)。


戦車の名称KWはロシア語ではKBで、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。英語のKV、ドイツ語のKWである。


写真(右)1942年夏,ドイツ軍東部戦線、ハリコフ北300キロ、ヴォロネジ西300キロのクルスク、撃破されたソ連軍KW-1重戦車の前を進むドイツ軍の歩兵部隊
:砲塔のハッチから薄く硝煙が立ち上っている。
ソ連軍のKV-1(KB-1)重戦車の"KV"とは、当時のソ連共産党国防委員(資本主義国の国防大臣に相当)だったクリメント・ヴォロシーロフ(Климент Ворошилов)の名を冠したもので、英語表記はKV、ドイツ語表記はKWである。1939年の第二次世界大戦勃発前に開発され、第二次世界大戦初期から中期にかけてソ連軍に配備された。重装甲で3インチ76.2ミリ戦車砲を装備しており、出現当時、世界唯一の量産された45トン級の重戦車だった。
Archive title: Sowjetunion, Kursk.- Deutsche Infanterie auf dem Vormarsch, an einem abgeschossenen / brennenden sowjetischen Panzer KW-1 vorbeigehend; PK 670 Dating: 1942 Sommer Photographer: Koch Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-078-3080-38引用(他引用不許可)。


ソ連軍KW-1重戦車は、45トンと配備された時点では驚異的な重戦車だったが、車体長6.75 m、全幅3.32 m、全高2.71 mと、できるだけ小型にまとめられている。砲塔には 41.5口径76.2mm ZIS-5戦車砲(収容砲弾数98発)を搭載し、砲塔前面装甲は90 mmと分厚かった。エンジンは、12気筒液冷ディーゼルV-2K 550 馬力/2150回転/分で、最高時速は整地35キロ、不整地17キロ、航続距離335キロだった。

ソ連軍KV-1重戦車は、第二次大戦勃発直前、1939年夏に76.2mmという当時としては大口径の戦車砲を搭載する重戦車として試作され、1939年冬、フィンランド冬戦争に実戦テストを受けたとするwikipediaの記述は疑問である。数少ない試作車を、対フィンランド戦に投入し、重戦車の存在を明らかにするにはリスクが大きすぎるからである。1939年12月に制式されているが、この短期間に制式されたことからも、とても実戦テストをした期間的余裕はない。


写真(右)1942年夏,ドイツ軍東部戦線で撃破されたソ連軍KW-1重戦車
:ドイツ連邦アーカイブには、当時のドイツ軍宣伝班が撮影したKV−1重戦車の写真があるが、遠方から撮影したほぼ等しいいい構図のカラー写真3枚がある。これは、新型重戦車を発見した驚きから貴重なカラー写真を撮影したのであろうが、千歳一隅の機会を逃さないかのように、遠方から3枚も連続撮影した理由は、この戦車の攻撃力が残っていることを心配して、接近するのが躊躇されたためであろう。
Archive title: Sowjetunion, Raum Stalingrad.- Abgeschossener / zerstörter schwerer russischer Panzer KW-1 Dating: 1942 Sommer Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0011引用(他引用不許可)。


ドイツ軍東部戦線で敵対したソ連軍のKB-1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,当初の計画では、主砲塔一基(76・2ミリ砲)と副砲塔二基(45ミリ砲)の複数砲塔戦車だった。第二次大戦が始まった1939年から生産開始,1942年までに3000両以上が生産された。戦車の名称KWはロシア語ではKBで、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。英語のKV、ドイツ語のKWである。

ソ連軍のKB-1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,1939年開発,T-34中戦車と同じ76.2mm砲を装備していた。KB-1重戦車の30口径76.2ミリ砲は,当時の全てのドイツ軍戦車を撃破できるものだった。

ソ連軍のKB-1は、重装甲で防御力は強かったが、重量が45トンと当時は超重量戦車であったため、動力としてディーゼルエンジン550馬力を搭載していた。これは、軽飛行機よりも強力なエンジンである。

1941年6月22日にドイツ軍は独ソ不可侵条約を反故にしてソ連を電撃的に侵攻した。このバルバソッサ作戦当初、ソ連赤軍KB-1は世界最強の戦車で,1942年までに3000両生産された。砲塔装甲は前面90ミリ,側面75ミリと厚く,ドイツの37ミリ対戦車砲を問題としなかった。
しかし,重量45トンという重さのため,トランスミッションの不具合が生じやすかった。

ソ連軍は,KW−1重戦車を秘密兵器扱いし,フィンランド冬戦争には,T-34と同じく投入していない。フィンランドとの国境に近いレニングラードLeningrad)の工業で製造していたにもかかわらずである。
1941年6月22日,ソ連に侵攻したドイツ軍は,国境近くで,KB−1重戦車に直面し苦戦した。ドイツ軍がティーガー重戦車を投入したのは,これから2年後と遅い。


写真(右)1942年8月,対ソ戦、スターリングラードへ侵攻するドイツ軍が南部のステップで撃破したソ連赤軍KW-1重戦車の前部左側面
:砲塔・車体の右側面には20か所もの弾痕があるが、左側面には特に命中弾、弾痕はないように見える。
Original title: info Bilder nach der Panzer-Schlacht vor Stalingrad im August 1942 in der Steppe vor der Stadt Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zerstörter sowjetischer Panzer KW-1 Dating: August 1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0441引用(他引用不許可)。


KW−1重戦車の諸元
重量 43,5トン
全長 6,80 m、全幅 3,35 m、全高 2,70 m
装甲: 35-90 mm
兵装: 76,2mm-L/41 F-32 戦車砲
車載機銃3丁 × 7,62mm-DP28軽機関銃(発射速度:500-600発/分、初速:840m/s、有効射程:800m)

エンジン:V-12-ディーゼル W-2K 550 馬力
最高時速: 35 km/h、航続距離 335 km(路上)
乗員 5名


写真(右)1942年8月,対ソ戦、スターリングラードへ侵攻するドイツ軍が南部のステップで撃破したソ連赤軍KW-1重戦車の砲塔
:20か所もの弾痕があるが、貫通したのは数発だけにとどまっているようだ。
Original title: info Bilder nach der Panzer-Schlacht vor Stalingrad im August 1942 in der Steppe vor der Stadt Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zerstörter sowjetischer Panzer KW-1 Dating: August 1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0444引用(他引用不許可)。


1943年9月に、フィンランド軍がラップランドの防衛強化のために、現地の材木を切り揃えて束ねて工夫した杭状の木製障害対戦車障害物にたいして、ソ連から鹵獲したKV-2重戦車は、それに乗り上げて、傾斜し車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。その装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃すれば、3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でもソ連重戦車を撃破できる。また、7.5センチ対戦車砲であれば、容易に重戦車の装甲の弱点を貫通し、完全に戦車を仕留めることができる、このように考えられた。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。車体前部の銃塔にあるべき機関銃は撤去されている。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146683引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作った。樹木の幹を切り揃えてワイヤーで束ねた杭状の木製障害対戦車障害物もその一つである。ここにソ連戦車が乗り上げれば、装甲の薄い車体下部が標的となり、対戦車砲で仕留めることができる、このように考えられた。

 ドイツ軍のティーガー重戦車は、高射砲を改造した8.8センチ戦車砲を搭載し、パンター戦車も70口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載していたが、ソ連軍の主力戦車T-34戦車初期型、KW-1重戦車は、42口径の長砲身76.2ミリ戦車砲を、T-34戦車後期型は高射砲を改造した55口径85ミリ砲を搭載しており、互角の攻撃力を保持している。
 さらに、部隊配備・実戦投入の時期を比較すると、ドイツ軍のティーガー重戦車やパンター戦車は1943年夏のソ連東部戦線、シタデル(城塞)作戦の時期にやっとまとまった数が実戦投入されている。つまり、タイガーやパンサーといったドイツ軍の新鋭戦車は、戦争後期になってやっと登場し、活躍期間は戦争後期に限られる。他方、ソ連T-34戦車。KV-1重戦車の実戦投球の時期は、1941年夏でドイツ軍新鋭戦車よりも2年も早く実戦に大量投入され、第二次大戦初期から終戦まで戦い続けている。
 ドイツ軍新鋭戦車の生産台数は、ティーガー重戦車は1400輌、パンター戦車は5000輌であるが、これはソ連赤軍のT-34戦車が5万8,000輌、KW-1重戦車が4,500輌も量産しているのに比較すると生産台数10%程度でしかなく問題外である。

写真(右)1943年9月3日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製KV-1B重戦車を使った木製対戦車障害物のテスト;ソ連製戦車なので敵と間違われて誤射を受けないように、白に青十字のフィンランド国旗を掲げている。現地の材木を切り揃えて束ねた木製障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。
Linnoitustoimiston hyökkäysvaunu este kokeiluja.
Subject place 1943-09-03 Oswald Hedenström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-146662引用。
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 ソ連製KV-1B重戦車のキャタピラの幅は広く、重戦車の接地重量・圧力を軽減することができる。それでも、悪路で45トンの戦車の機動性を確保するのは困難である。そこで、ソ連製KV-1B重戦車の車体前面下部と車体後面下部には2個の牽引用の金具がついている。ここにロープやワイヤーを結んで、トラクターや牽引車、あるいは他の戦車に繋いで、悪路で立ち往生した場合、戦車壕などに落ち込んで自力脱出できなくなった場合に、牽引、曳航、脱出するのである。

ソ連軍のKV-1(KB-1)重戦車は、重装甲で3インチ76.2ミリ戦車砲を装備しており、防御力も火力も、出現当時、けた違いに大きかった世界唯一の量産された45トン級の重戦車である。しかし、重い車体を動かすための、トランスミッションメカニズムが操作しにくく、信頼性、機動性に欠けていたため、稼働率が低くなったり、長距離移動に過分の整備負担がかかったりした。そこで、装甲の厚さは減じて、軽量・小型で、同じ76.2ミリ戦車砲を搭載するT-34戦車が、ソ連軍の主力戦車として大量生産されることになった。

ソ連軍KV-1重戦車の諸元
全長(砲身を含む) 6.89 m、車体長 6.75 m
全幅 3.32 m
全高 2.71 m
重量 45 t
懸架方式 トーションバー式
最高速力:35 km/h(整地)/17 km/h(不整地)
航続距離 335 km
兵装 41.5口径76.2ミリZIS-5戦車砲(携行砲弾数98発)
7.62ミリ車載機銃DT3丁(携行弾数3024発)

ソ連軍KV-1重戦車の装甲
防盾90 mm 砲塔前面75 mm
砲塔側面・後面75 mm、上面40 mm 車体前面75mm、前面傾斜40 mm
車体側面・後面75 mm
車体上・底面30-40 mm
発動機:12気筒液冷ディーゼルV-2K(550 馬力)
乗員:5 名
車長兼装填手・砲手・操縦手・ 補助操縦手兼整備手・ 通信手兼前方機銃手

⇒写真集:ソ連赤軍KV-1重戦車を読む。


3.ソ連赤軍 KB-2,KW-2重戦車

KB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,1939年開発,20口径152ミリM10榴弾砲を装備。152mm榴弾砲は,弾頭50キロで,薬莢は分離していたので,装填手は2人,乗員は6人だった。全長7メートル,装甲は砲塔前面110ミリ,側面75ミリでもあった。重量52トンでディーゼルエンジン550馬力は力不足だった。KV-2は独ソ戦当初、最大級の重戦車だったが,砲弾の装填,路外走行に難点があり,1940-41年に200台が生産されたに過ぎない。

KWはロシア語ではKBで、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。

KB-2重戦車の諸元
重量:52トン、乗員:6名
全長:6.95 m 、全幅: 3.32 m、全高3.25 m
装甲:60-110 mm
兵装:152mm榴弾砲M-10T152 mm M1937
車載機銃 2丁×DT7,62mm-DP28軽機関銃(発射速度:500-600発/分、初速:840m/s、有効射程:800m、収容銃弾数2,079発)
エンジン:V2-K-12気筒ディーゼル550 hp
航続距離:140 km(整地)
最高時速:28 km/h (路上)

ソ連軍のKB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,全長 6.95メートル,全幅 3.32メートル,全高 3.24メートル,重量 52トン。 速度 34 キロ/時(整地)・15キロ(不整地),航続距離 180キロ,兵装 20口径152mm榴弾砲M10(弾数36発),1939年制式,弾頭50キロ,最大射程12000メートル。7.62ミリ機銃3丁,エンジン550馬力。乗員 6人。

r> ソ連軍のKB−1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,1939年開発,T-34中戦車と同じ76.2ミリ(3インチ)砲を装備していた。全長7メートル,装甲は砲塔90ミリ,側面75ミリと厚く,ドイツの37ミリ対戦車砲を問題としなかった。しかし,独ソ戦当初、最強の戦車で,1942年までに3000両生産。しかし,重量45トンという重さのため,トランスミッションの不具合が生じやすかったという。


写真(右)1941年6-7月,対ソ連東部戦線、ロシア北部で撃破されたソ連軍KW-2重戦車
:ソ連軍のKB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,全長 6.95メートル,全幅 3.32メートル,全高 3.24メートル,重量 52トン。 速度 34 キロ/時(整地)・15キロ(不整地),航続距離 180キロ,兵装 20口径152mm榴弾砲M10(弾数36発),1939年制式,弾頭50キロ,最大射程12000メートル。7.62ミリ機銃3丁,エンジン550馬力。乗員 6人。
Sowjetunion-Nord.- Defekter russischer Panzer KW-2 am Straßenrand wird von deutschen Soldaten untersucht; PK 694 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Nägele 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ソ連軍KW-2重戦車の装備した20口径152mm榴弾砲M10Tは、威力はあったが、砲弾の装填に問題があった。装填手2名で弾丸と薬莢が分離した分離装薬式の砲弾を狭い砲塔内で装填するために、榴弾砲の発射速度は遅くなった。また、KW-2重戦車の砲塔は大型化し背が高かったが、ターレットリングは76.2ミリ砲を装備したKV-1と同じ構造であり、砲塔と搭載した大型榴弾砲の重量を支え、仰角変更、回転など砲の機動性を低下させた。トップヘビーの傾向もあったため、路肩でキャタピラーが道を外れ、車体が傾くと、普及するのが困難になった。つまり、KW-2重戦は砲の運用と機動性に問題があったといえる。

ドイツ軍の第1装甲師団と第2装甲師団は,歩兵2個師団と協力,6月26日までに,バルト諸国の北方戦線で,ソ連戦車200台を撃破,その中には,レニングラードのコルピノ工場で製造されたKW-1,KW-2重戦車29台も含まれていた。

KW-2重戦車のKWとはロシア語のKBで、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。重量45トン以上の戦車は、歴代の戦車の中でも特急の重戦車である。それでも、最高速度は整地35 km/h、不整地17 km/h、航続距離330 kmと機動力もある。

 KW-1重戦車は41.5口径76.2ミリZIS-5戦車砲(携行弾数98発)を搭載したのに対して、KW-2重戦車はより大口径の20口径152mm榴弾砲M10 (弾数36発)搭載した。

KB-2重戦車の装備した20口径152ミリM10榴弾砲は,弾頭50キロ,最大射程1万2000メートル。薬莢は弾頭とは分離式だった。つまり,152ミリ榴弾砲を装填するには、まず弾頭を装填し次に装薬(爆薬)の詰まった薬莢を装填しなければならず、発射には手間がかかった。しかし、152ミリという大型砲弾を人力で装填するには、分離薬莢方式を採用するしかなかった。そこで、砲弾の装填手は2人おり、乗員は合計6人と多かった。た。

KB-2重戦車装甲は,砲塔110ミリ,側面75ミリ。重量52トン。搭載したディーゼルエンジン550馬力では馬力不足の傾向があった。その上、独ソ戦当初、砲弾の装填,路外走行に難点があり,1940-41年に200台が生産されたに過ぎない。


写真(右)ロシア共和国、エカテリンブルク郊外、ヴェルフナヤ・ピシュマ軍事博物館に保管展示されているソ連赤軍KW-2重戦車の20口径152mm榴弾砲M-10T(弾数36発)を搭載した大型砲塔
:溶接の跡が明瞭に見えているが、後にソ連軍戦車の砲塔は鋳造構造となり、曲面を多用した装甲となった。KW-1はロシア語ではKB-1で、KBとはソビエト連邦国防大臣のクリメント・ヴォロシーロフКлимент Ворошилов)の氏名を冠した略称である。重量45トンの当時代々級の重戦車で、最高速度は整地35 km/h、不整地17 km/h、航続距離330 km。
English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 Date 30 September 2012 Source picasaweb.google.com Author Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons, Category:KV-2 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum、File: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 056.jpg引用。


KB-2重戦車の搭載した20口径152mm榴弾砲M-10T(152 mm howitzer M1938 (M-10))は、第一次世界大戦のフランスのシュナイダー社の榴弾砲を原型としたM1909 152mm榴弾砲である。この改良型が152mm榴弾砲M-10Tである。1922年にラパッロ条約は、ソ連とヒトラー前のワイマール共和国のドイツと軍事協力の密約があった。ソ連は、ドイツ軍に兵器試作テスト場所や演習場を提供するかわりに、ドイツの軍事技術を伝えられた。そして、1930年代後半には、歩兵や砲兵の機械化、自動車化を進め、野砲の高速牽引が可能なように砲架の補強、ゴム車輪の採用が進んだ。152mm榴弾砲M-10T152 mm howitzer M1938 (M-10))は、1937年に開発され、1939年に制式になった。

KV-2重戦車の152ミリ榴弾砲は、分離薬莢方式で、砲弾も大きく、次弾装填速度が遅い。射撃しその砲火で敵から発見された場合、大型で機動性にも制約があったため、身を隠すことが難しかった。つまり、敵の反撃を受けやすいという欠点があった。重装甲の防御力を誇ってはいても、搭乗員の度胸が据わっていなければ、包囲され、反撃を受けたときに、忍耐強く反撃の機会を目らうことはできないであろう。

⇒写真集:ソ連赤軍KV-2重自走砲を読む。


4.ソ連赤軍T-34/76中戦車−大祖国戦争の担い手

ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、トハチェフスキー将軍による機動力を活かした気候旅団の創設を認めただけでなく、戦闘車輛の強化にも留意した。装甲化を進め、1941年6月にドイツがソ連に侵攻した時には、重装甲、強力な火力を装備したT-34戦車とKV-1重戦車を配備していた。T-34戦車は、火力、装甲、機動力のある世界的傑作戦車となるが、当初は、そのような高い評価を各国から得ていたわけではない。他方、KV-1重戦車は、火力はT-34戦車と同等だが、重装甲で、45トンもあったために機動力が高かった。重戦車のコンセプトは、重装甲だけではなく、大口径砲を搭載して、火力も強力する形で進化していった。それが、85ミリ砲を搭載したIS-1戦車、1943年に完成した122ミリ砲を搭載したIS-2戦車である。

1939年9月、ドイツのポーランド侵攻、英仏の対ドイツ宣戦布告で第二次世界大戦が勃発した。この時、ドイツはポーランド西部を占領したが、ソ連もポーランド政府が壊滅したとして、ポーランド東部にソ連赤軍を進駐させ、事実上、独ソでポーランドを分割占領した。この時点で、ソ連赤軍は、歩兵随伴用の37ミリ砲装備のT-26軽戦車、快速のBT巡航戦車(快速戦車)を主力としていた。T-26もBT戦車の双方とも装甲は薄く、対戦車砲の攻撃を防御できなかったが、1937年には歩兵随伴用の重装甲と機動力を発揮できる巡航戦車の双方の長所を生かした新型中戦車として、A-32(のちのT-32)の開発が始まっていた。


写真(右)1941-1942年,対ソ連東部戦線、撃破され炎上するソ連赤軍T-34/76戦車
:1939年にT-32の試作が完成したが、攻撃力を向上させるため大口径の戦車砲を搭載する方針が打ち出された。
Archive title: Sowjetunion, Rußlandfeldzug.- Brennender sowjetischer Panzer T-34 Dating: 1941/1942 Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;B 145 Bild-F016221-0014引用(他引用不許可)。


1939年にT-32の試作が完成したが、攻撃力を向上させるため大口径の戦車砲を搭載する方針が打ち出された。そして、1940年1月、76.2ミリ砲(3インチ砲)を搭載したT-34戦車(26トン)の試作が完成した。

写真(右)1941-1942年,対ソ連東部戦線、撃破され炎上するソ連赤軍T-34/76戦車
Archive title: Sowjetunion, Rußlandfeldzug.- Brennender sowjetischer Panzer T-34 Dating: 1941/1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons; B 145 Bild-F016221-0016 引用(他引用不許可)。


 1940年頃から、イギリスは、スパイ情報、暗号解読情報によって独ソ戦争の勃発を十分に推測していた。問題はその時期だったが,スターリンは、ソ連のスパイから手元に届けられたドイツ軍によるソ連侵攻の情報も、イギリス大使からの独ソ戦情報も、米英日の謀略であると信じなかった。イギリス、アメリカ、日本、ドイツから、ドイツ軍ソ連侵攻の秘密情報が届けられたが、スターリンは、ヒトラーのドイツがイギリスと西部戦線を戦っている限り,ソ連と戦う東部戦線を開いてくるとは考えなかった。

 ドイツのエニグマ暗号を解読していたイギリスは,アメリカとともにソ連をドイツに対抗させたがった。そこで,1941年春,ドイツのソ連攻撃が迫っていることを告げた。しかし,ソ連は,この情報を信じなかった。イギリスが,ソ連とドイツとを離反させたがっていることは明白だったから,謀略によって独ソ戦を誘発しようとしていると疑っていた。

1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)に投入されたドイツ陸軍兵力は,三軍集団だった。

北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。

中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。

南方軍集団(フォン・ルントシュテット元帥):3個軍,1個装甲集団によってガリチア,ウクライナ西部からキエフを攻略。

独ソ戦バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)は,電撃戦の大成功の事例に挙げられる。しかし,東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡している。

ポーランド・ウクライナの係争の地で,ソ連領だったリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐し,レンベルク(リボフ)を占領。しかし,ドイツのソ連侵攻の一週間後の6月30日,ドイツ軍は,リボフを再占領した。

写真(右)1941-42年,対ソ連東部戦線、ドイツ軍に撃破されたソ連軍T-34戦車:軟弱な地盤でも幅の広いキャタピラと強力なディーゼルエンジンのために機動性が高たった。生産コストに配慮して,量産性もあっために,1942年以降,ソ連軍の主力戦車となった。
Rußlandfeldzug.- Brennender Kampfpanzer T-34 Dating: 1941/1942 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


対ソ戦開始2週間の1941年6月23日の時点で、ドイツ軍は遭遇したソ連赤軍T-34戦車の撃破が困難だったことに関する次の戦闘報告書を作成している。
「半ダースの対戦車砲が、ドラムのような音を立向かってきたT-34戦車に発砲を開始した。しかし、T-34は紀元前の怪物のようにそのまま向かってきた。-----シュテープ中尉の戦車がT-34戦車に何発かの命中弾を与えた。砲弾は、戦車擲弾40(Panzergranate 40 :口径5センチL/24?)だったが、50メートルの距離で4回、20メートルの距離で1回あった。しかし、T-34戦車は被弾で損傷した様子は全くなかった。」


写真(右)1942年夏,対ソ連東部戦線、撃破されたソ連赤軍T-34/76戦車

Original title: info Sowj. Panzer wurden beim Ausladen von der Bahn überrascht, Sommer 1942, an der Strecke Woroschilowka-Stalingrad, 6. Armee Archive title: Bahnstrecke Woroschilowka-Stalingrad.- zerstörte sowjetische Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 169-0894 引用(他引用不許可)。


ドイツ陸軍III号戦車の24口径砲5センチ戦車砲(5-cm-KwK 38)から発射された5センチ弾40(PzGr. 39)の貫通力は、距離100メートルで54 ミリ、500メートルで46 ミリ、1000メートルで36ミリだった。

 ドイツ陸軍IV号戦車が搭載していた短砲身24口径砲7.5センチ戦車砲(7,5-cm-KwK 42)から発射された7.5センチ弾(PzGr. 39)の貫通力は、距離100メートルで41ミリ、500メートルで39ミリ、1000メートルで35ミリだった。
 他方、後にIV号戦車が搭載した長砲身43口径戦車砲から発射された7.5センチ弾は(PzGr. 39)の貫通力は、距離100メートルで138ミリ、500メートルで 124ミリ、1000メートルで 111 ミリだった。


写真(右)1942年夏,対ソ連東部戦線、撃破されたソ連赤軍T-34/76戦車
:この写真は、上に掲載した写真の「裏焼き」のため、車載機銃が車体左側に、車体前部運転手ハッチが右側と左右逆になってしまった。同一写真なのに色調も異なっており、実際の戦車の塗装・色彩がどのようなものか、当時のカラー写真から判断するのは容易ではない。
Original title: info Sowj. Panzer wurden beim Ausladen von der Bahn überrascht, Sommer 1942, an der Strecke Woroschilowka-Stalingrad, 6. Armee Archive title: Bahnstrecke Woroschilowka-Stalingrad.- zerstörte sowjetische Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 169-0894 引用(他引用不許可)。


ソ連軍のT-34戦車は,1942年当時のドイツ軍のすべての戦車に勝っていたが,1941年夏の時期には,少数しか部隊配備されていなかった上に、ソ連軍は、戦車の集団用法についても、早くから見識を示してはいたが、実際の戦術的運用面は未熟なままだった。しかし,1942年には大量投入され,モスクワ攻防戦(タイフーン作戦迎撃)に集中投入され、威力を発揮した。

写真(右)1942年夏,対ソ連東部戦線、ロシア中部で撃破されたソ連軍の新鋭T-34/76戦車:渓谷の傾斜にはまり込んで,動けなくなったために,ドイツ軍に撃破されたのであろうか。
Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Mittlerer russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。(他引用不許可)


画期的な中戦車の完成に喜んだソ連赤軍は、T-34を主力戦車として量産することを決定し、1940年中頃から量産が始まったが、生産拠点となるハリコフ機関車工場(第183工場)では、旧式となったT-26、BT戦車の量産を中止し、T-34戦車を大量産することになった。


Tank T-34/76 (model 1941/42)

1941年6月,独ソ開戦初頭ドイツ軍第16装甲師団司令官フーベ少将(1890-1944)の狙撃兵旅団(自動車移動の歩兵旅団)の3.7センチ対戦車砲の砲撃を受けたソ連赤軍T-34戦車は,20発以上の命中弾を跳ね返した。

写真(右)1942年10月,対ソ連東部戦線、撃破されたソ連軍T-34/76中戦車:ドイツ連邦アーカイブには,撃破された全く同じT-34のカラー写真が2台分6枚も保管されている。長砲身76.2ミリ砲を装備した頑丈なソ連軍戦車に感歎して撮影したようだ。T-34戦車に対抗できるドイツ軍戦車は,1942年夏はなかった。その後まもなく,ティーガーVI号戦車が実線投入されたが,数的不利は続いた。
他方、ティーガー重戦車は,1942年8月から1944年8月まで,僅か1300台しか生産されていない。
Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Mittlerer russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


T-34戦車は,BT快速戦車を引き継ぐもので、クリスティー戦車方式のサスペンションだった。1939年に試作車が完成,12月に制式となり,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34-76戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34-85戦車は2万台以上が生量された。

写真(右)1941年10月,対ソ戦初期、ドイツ軍III号突撃砲(左奥)とソ連赤軍T-34/76戦車(手前)から引き出されるソ連の戦車兵:III号戦車の砲塔を撤去して、車体に車高の低い大型装甲戦闘室を設けそこに短砲身7.5センチ砲を装備したのがIII号突撃砲である。
Archive title: Sowjetunion.- Deutsches Sturmgeschütz StuG III vor sowjetischem Panzer T-34, Gefangennahme der russischen Panzerbesatzung; PK 697 Dating: Oktober 1941 Photographer: Böhmer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 101I-268-0169-09引用(他引用不許可)。



Killer Tanks The T34 Tank

ドイツ軍は電撃作戦によって、ポーランド(1939年9月に侵攻)、デンマーク(1940年4月)、ノルウェー(1940年4月)、ベルギー(1940年5月)、オランダ(1940年5月)、ルクセンブルグ(1940年5月)、フランス(1940年5月)、ユーゴスラビア(1941年4月)、ギリシャ(1941年4月)に侵攻して、降伏させ、領土を占領した。しかし、ドイツ軍はイギリスは、イギリス海峡によって地上攻撃が妨げられ、危機を逃れることができた。

写真(右)1942年夏,対ソ戦、スターリングラード攻防戦の時期、ソ連赤軍T-34/76戦車の脇に塹壕を掘って待機している。
Archive title: Sowjetunion, Raum Stalingrad.- Abgeschossener / zerstörter russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 101I-024-3535-23 引用(他引用不許可)。


 T-34/ 1941年式 諸元
重量:26.5トン,全長: 6.68メートル,全幅: 3.00メートル,車高 2.45メートル
乗員: 4人(車長:装填手を兼務、操縦手,砲手,無線手:前方機銃手を兼務)
装甲 52ミリ,兵装: 76.2ミリF-34戦車砲,7.62ミリ機銃2丁
エンジン:12気筒ディーゼルV-2 500馬力(370キロワット),17.5馬力/トン
航続距離:400キロ,最高速度 時速53キロ

写真(右)1942年10月,対ソ連東部戦線、撃破されたソ連軍T-34中戦車
Provisorischer Ofen in dem Erdreich eines Baikas einer Stalingrad-Einwohnerin Oktober 1942 Dating: Oktober 1942 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ軍は,中央軍集団(司令官フォン・ボック元帥)に主力を集中していたが,ソ連軍は南方戦線に主力を配備していた。ソ連南部は,ウクライナであり,穀物生産,石油,鉄鉱石,石炭を産出し,肥沃な土地である。また,ドイツの同盟国ルーマニアのプロエスチ油田を臨む地域でもある。

ヒトラーは,博打的な戦略を好んだ。中部は沼沢地もあり,攻撃には不利だったが,このような地域こそ,予想外の電撃戦にふさわしいと判断した。1940年5月,ドイツ軍がフランスを攻撃したのは,装甲師団の展開に不利なアルデンヌ林のルートだった。

写真(右)1942年夏,対ソ連東部戦線、撃破されたソ連軍T-34中戦車
Archive title: Sowjetunion, Raum Stalingrad.- Abgeschossener / zerstörter russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikimedia・commons;Bild 169-0017引用(他引用不許可)。


 第二次大戦前から、ドイツ陸軍ハインツ・グデーリアンHeinz Wilhelm Guderian)将軍は、攻撃速度を重視し、戦車の進撃速度に合わせた速攻をもって、敵陣に浸透、退路を断って包囲する戦術を提言していた。これが、後に「電撃戦ブリッツ・クリーク(Blitzkrieg)」と称される戦術で、航空機と機械化部隊を組み合わせた立体攻撃にも繋がるようになる。

 第一波は、地上攻撃用の航空部隊、特に急降下爆撃機Dive bomber)を駆使して敵部隊を地上で撃破し、交通網を遮断して、前線の敵部隊を孤立させる。そして、機械化歩兵Mechanized infantry)、すなわち兵員を乗せた輸送車両や装甲車が戦車の突撃に随伴して進撃し、電撃的に目標地点を突破し、敵を包囲する。こうした急進撃は戦線が伸びてしまい、かえって敵軍による挟撃のリスクがあるが、挟撃刺さないうちに急進撃して、集中的な敵陣突破により、敵を予期しない方向から攻撃、奇襲するというものである。

 つまり、ドイツ陸軍が重視したのは、機動力ある戦闘部隊であり、電撃戦Blitzkrieg)には戦車、機械化歩兵、戦闘装甲車両による兵員・補給物資の運搬が求められた。したがって、電撃戦Blitzkrieg)で用いられるドイツ軍戦車は、重装甲、重武装の鈍重な重戦車ではなく、高速移動できる快速戦車や軽戦車であった。

写真(右)1942年夏,対ソ連東部戦線、ロシア中部,スターリングラード近隣で撃破されたソ連軍の新鋭T-34/76戦車
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0018 Original title: info Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Sowjetunion, Raum Stalingrad.- Abgeschossener / zerstörter russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer Photographer: o.Ang.
ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・File: Bundesarchiv Bild 169-0018, Sowjetischer Panzer T-34.jpg引用。


ソ連侵攻バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)にあっても,ヒトラーは,沼沢地,河川が多く,ソ連軍が攻撃を予期しない中部地域に大軍を投入した。

1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,突如,ソ連を攻撃した。このは,ドイツ軍によるソ連攻撃バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)が実行されたのは,次のような理由からだった。

1)バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のことである。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだとした。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃した。そして,ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。

2)ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。ただし,東方に向かうドイツ軍兵士は,独ソ不可侵条約の下で,スターリンがウクライナをヒトラーに貸与するという噂があった。

3)フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。ただし,バルバロッサ作戦Operation Barbarossa)の準備は,英本土上陸作戦の意図を隠蔽する目的で行われる陽動だとされた。実際,ドイツ海軍軍令部は,2月18日の作戦日誌で,陽動作戦のことを記している。

写真(右)1942年夏,対ソ連東部戦線、ロシア中部,スターリングラード近隣で駆逐されたソ連軍の新鋭T-34戦車
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0016 Original title: info Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Sowjetunion, Raum Stalingrad.- Abgeschossener / zerstörter russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・File: Bundesarchiv Bild 169-0018, Sowjetischer Panzer T-34.jpg引用。


T-34戦車が実戦使用されたのは、1941年6月のドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」からである。ソ連赤軍は、当初は無線設備の不備のために戦車の集団用法や機動力に劣っていたが、重装甲と大口径戦車砲を装備するT-34戦車は、ドイツ軍のどの戦車よりも防御力、攻撃力に優れていて、この高性能と頑強に戦うソ連赤軍の戦車兵の戦意の高さによって、ドイツ軍の装甲師団、歩兵部隊は、電撃戦Blitzkrieg)でも苦しい戦いを強いられることものあった。

写真(右)1942年夏,対ソ戦、ソ連赤軍の戦車T-34/76が撃破されている。
Archive title: Sowjetunion, Raum Stalingrad.- Abgeschossener / zerstörter russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0006引用(他引用不許可)。


 スターリンは、事前に1941年6月22日にドイツ軍の侵攻があるとの情報を、イギリスやスパイ情報から得ていた。しかし、これは独ソ不可侵条約を結んだばかりのドイツといさかいを起こさせる西側連合国の半ドイツの陰謀であるとみなしていた。しかし、ドイツを信用していたわけではなく、一時的な和平に過ぎないと考えていた。

1941年6月22日、バルバソッサ作戦発動したドイツが侵攻してきたとき、スターリンは、特にウクライナとベラルーシの工業設備や家畜、住民を東方のウラル山脈などへ急速疎開させる命令を出した。ウラル山脈南部、カザフスタン国境まで150キロのチェリャビンスクChelyabinsk)は、1930年代から、ソ連の「五か年計画」の重工業化によって、農業機械用の60馬力エンジン工場、ディーゼル駆動C-65 トラクター工場などが建設され、急速に拡大した。そして、第二次世界大戦勃発後2年とたたない1941年6月22日に独ソ戦が始まり、ドイツ軍が南は、ベラルーシ(白ロシア)、ウクライナを、北はバルト諸国、レニングラードを支配下に置く危機が現実のものとなると、急遽、そこにあった工場設備を、モスクワの東方、ウラル山脈あたりにまで疎開する大移動が実施に移された。

写真(右)1942年夏,対ソ連東部戦線、、ロシア中部,スターリングラード近隣で撃破された2両のソ連赤軍T-34/76戦車:76.2ミリ砲搭載の初期型。ドイツ連邦アーカイブには,撃破された全く同じT-34のカラー写真が2台分10枚も保管されている。長砲身76.2ミリ砲を装備した頑丈なソ連軍戦車に感歎して撮影したようだ。T-34戦車に対抗できるドイツ軍戦車は,1942年夏はなかった。その後まもなく,ティーガーVI号戦車が実線投入されたが,数的不利は続いた。
他方、ティーガー重戦車は,1942年8月から1944年8月まで,僅か1300台しか生産されていない。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0017 Original title: info Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Sowjetunion, Raum Stalingrad.- Abgeschossener / zerstörter russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer Photographer: o.Ang.
ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・File: Bundesarchiv Bild 169-0017, Sowjetischer Panzer T-34.jpg引用。


 チェリャビンスクChelyabinsk)には、ウラル山脈南部、カザフスタン国境まで150キロの小都市だったが、レニングラード・キーロフ工場Leningrad Kirov Plant:LKZ) が移転され、労働者多数も移住してきて、ソ連軍のT-34戦車やカチューシャ多連装ロケットランチャーなどが製造されるようになった。こうして、戦車工場が移転してきたチェリャビンスクChelyabinsk)は、タンコグラードTankograd)(戦車の町)との名称が付与されるほど、栄えることになった。一時、急落したソ連の工業力を、次第に回復させることに成功したのである。

写真(右)1942年秋,対ソ連東部戦線、スターリングラード攻撃時期、撃破されたソ連赤軍T-34戦車の前で塹壕で待機するドイツ軍歩兵
Archive title: Sowjetunion, Schlacht um Stalingrad.- Deutsche Infanterie im Schützenloch, gedeckt durch das Wrack eines russischen Panzers T 34, Herbst 1942; PK Dating: 1942 Herbst Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 146-1971-107-24引用(他所引用不許可)。


1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,突如,ソ連を攻撃した。このは,ドイツ軍によるソ連侵攻バルバロッサ作戦が実行されたのは,次のような理由からだった。

1)ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。

2)ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ繁栄の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。

3)フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。

ヒトラーは,ソ連軍を弱体化していると見ていた。対ソ戦は,「腐った納屋を蹴り飛ばすようなもの」であり,1941年中に,8週間程度で決着がつくと考えていた。 

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。

ユダヤ人・ソ連軍捕虜抹殺・奴隷労働化の方針は,最高機密だったが,それは,迫害が知れれば次のような支障が生じるからである。

1)ユダヤ人,ソ連軍捕虜が迫害されていることがわかれば,彼らは反抗する。そこで,抵抗を予防するために,東方への移送,労働すると偽り,強制収容所やその支所(労働キャンプ)に移送した。

2)ユダヤ人・ソ連捕虜の処刑という残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,処刑は秘匿する必要があった。

3)後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人・ソ連軍捕虜の処刑は,人倫に悖ると反感を買う恐れがあった。そこで,ドイツ人にも処刑を秘匿した。

ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜大量殺戮には,次のような障害があった。
?殺戮に伴う処刑者の精神的負担
?資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
?大量殺戮発覚によるユダヤ人・スラブ人などの抵抗勢力の増大
 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人やソ連軍捕虜を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,大量殺戮が事実上行われていた。


Tank T-34/76 (model 1942/43)

⇒1941年6月22日ソ連侵攻バルバロッサ作戦を読む。

ソ連赤軍T-34戦車の搭載砲は,76.2ミリ(3インチ)砲で,砲塔は当初は,圧延鋼板溶接構造だったが,生産性の高い鋳造構造に変更された。また,砲塔は,ピロシキ形状で,傾斜装甲を全面採用し,車体周囲も傾斜装甲だった。T-34戦車は,全面的に避弾径始に配慮し,命中弾を横滑りさせて,貫通力を弱めることに成功した。装甲の厚さ以上に,防弾性能が優れていたといえる。

 1941年6月22日にドイツ軍は独ソ不可侵条約を破って、バルバソッサ作戦発動し、ドイツ軍の電撃によって、最前線のソ連軍は総崩れになった。スターリンも数日、国民の前に姿も声も揚げることができず、モロトフ外相に演説させたほどだったが、その打撃から立ち直ると、ソ連軍に前線死守を命じ、スターリン自らがモスクワにとどまって徹底抗戦を強要した。しかし、これがドイツ軍の包囲攻撃を容易にし、多数の戦死者と捕虜を出すことになった。

1941年7月25日,ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥が率いるA軍集団団は,黒海北のアゾフ海入口にあるロストフを占領した。この日,ヒトラーの「総統指令45号」がA・B軍集団に届いたが,ここではドイツ軍の包囲を逃れドン川に達したのは,ソ連のチモシェンコ軍の一部に過ぎず,ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥のA軍集団に黒海沿岸の諸港を占領し,カスピ海沿いのバクーを占領すること,マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)大将のB軍集団はスターリングラードを占領,ボルガ川沿いにカスピ海のアストラハニにまで前進することを命じた。

これは,まずスターリングラードを攻略,その後,カフカスに進出し,油田地帯を押さえるという「ブラウ」作戦を大修正するものだった。スターリングラード,カフカスを同時に攻撃目標としてしまったのである。

ソ連指導者スターリンは,1942年7月12日,セミョーン・コンスタンチーノヴィチ・チモシェンコ(Semyon Timoshenko)元帥にスターリングラード正面軍の編成を明示,スターリングラード死守を命じた。予備兵力を投入,防備を固めようとしたが,問題は時間が足りないことだった。

写真(右)1942年10月,対ソ連東部戦線、スターリングラード攻防戦でドイツ軍に撃破されたソ連軍T-34/76戦車:Zeugen schwerster Kämpfe in Stalingrad Die Straßen von Stalingrad scheinen völlig ausgestorben. Zerschossene Panzer und Ruinen kennzeichnen das Bild. Doch hinter den Mauerresten hält sich der Feind verborgen, um in heimtückischer Kampfesweise immer wieder erneut herauszubrechen. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Herber (Sch) 8.10.42 [Herausgabedatum] Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Abgeschossener sowjetischer Panzer T-34 Dating: Oktober 1942 Photographer: Herber撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他所引用不許可)。

 ソ連の新鋭T-34中戦車は,全長6メートル,全幅3メートル,重量26トンで,長砲身30口径76.2ミリ(3インチ)砲を装備,車体前面装甲45mmだった。T-34戦車は,BT快速戦車を引き継ぐもので,米軍クリスティー戦車式のサスペンションだった。1939年に試作車が完成,12月に制式となり,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34/76戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34/85戦車は2万台以上が生量された。

他方、43口径7.5センチ戦車砲を搭載するドイツ陸軍のIII号突撃砲Sturmgeschütz III:StuG III)は、終戦までに1万両が生産され、第二次世界大戦中のドイツ軍の装甲戦闘車輛のうちで最多の生産台数を誇っている。しかし、T-34戦車の5万台に比較すれば、五分の一に過ぎない生産台数である。

写真(右)1942年夏,対ソ連東部戦線、ドン=スターリングラード方面で撃破されたソ連赤軍T-34戦車とドイツ国防軍歩兵の迫撃砲(右下):後方の路上には装甲車Sd.Kfz. 250が走り,路肩には撃破されたソ連軍T-34中戦車が傾いている。
Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- deutsche Infanteristen in Graben oder Trichter mit Granatwerfer neben zerstörtem sowjetischen Panzer, dahinter leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250); PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Thiede撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年当時,ソ連軍は命令を厳格に実行しようとするあまり,迅速な撤退ができなかったり,撤退時に施設・物資の破壊が不徹底だったりした。第二次大戦前,1937年のソ連軍内部のトハチェフスキ粛清によって,ソ連軍の軍事専門家の指導力は低下し,共産党による軍の管理,政治委員(政治将校)コミサールCommissarsによる介入が強まった。

党の支配する軍隊となったソ連軍では,命令服従が第一となり,臨機応変な措置,軍司令官の裁量の余地は小さくなった。この戦術的な失敗の事例が,1941年8-9月のハリコフKharkov包囲の殲滅戦である。

ヒトラーのスターリングラード攻略命令に対して,スターリンは,イェレメンコ大将と政治委員コミサールのニキータ・フルシチョフ(後のソ連首相)は,スターリングラードの防備を固めて陣地を死守した。スターリングラード・トラクター工場(ジェルジンスキー工場)からは,完成したばかりのT-34戦車が出動した。

写真(右)1942年,対ソ連東部戦線、道路上で撃破されたソ連軍T-34/76中戦車をドイツ陸軍IV号ティーゲル重戦車が牽引している。T-34戦車のキャタピーラーは全て外されているが、大きな損傷は見えないようだ。
Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Zwei deutsche Soldaten stehend auf Panzer VI "Tiger I", rechts daneben beschädigter russischer Panzer T-34 ohne Ketten auf einer Straße stehend; PK Lfl 1 Dating: 1942 Photographer: Kamm, Richard Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikimedia・commons;Bild 101I-457-0065-36引用(他引用不許可)。

<ヒトラーの東方ロシアでも生存圏確立>
ドイツによる1941年6月のソ連侵攻では,ソ連住民に対する自由と独立,圧制や植民地からの解放という大儀がドイツ陸軍のなかで論じられていた。しかし,国防軍最高司令官ヒトラー総統は,肥沃な国土,民族ドイツ人の移住地,資源エネルギー・食料を確保することを命じており,占領した非ロシアのウクライナも独立させるつもりは,当初からなかった。ドイツ第三帝国のための生存圏の確立が最優先課題であり,現地住民,下等人種,劣等民族を蔑視,排除しようとしていたのである。

◆ドイツ国防軍の中には,ロシア人,ウクライナ人,チェチェン人など現地住民と協力関係を樹立し,反共勢力,反スターリン政権に育成するとの構想もあった。しかし,そのような構想は,東方ソ連を大ドイツの生存圏として,物資調達,強制連行・強制労働を進める強権的な植民地支配と並存することはできなかった。

ドイツは東方ソ連を生存圏として植民地化しようとしたが,これに従った現地住民は,親ドイツの裏切り者,売国奴として処断された。ドイツに食料・物資・家屋宿舎を提供し,ドイツのために労役をこなし,道案内やスパイ探しなど情報を提供するロシア人,ウクライナ人の住民は,パルチザンに脅され,殺害された。 

ドイツ軍,ソ連軍ともに,敵の捕虜に対しては,厳しく取り扱った。どちら側の兵士も,頑強に戦い続け,容易に投降することはなかった,といわれるが,これはお互いに捕虜となればどんな運命が待ち受けているか,容易に想像できたからだろう。

ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三個の軍集団,320万人,戦車3500両,火砲7000門が投入された。

ドイツ国防軍将兵は,独ソ戦の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。

しかし,これは,軍の責任回避だった。ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ軍を憎むようになった。 

◆1941年6月22日にドイツがソ連を攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していた英国,米国は即座にソ連支援を公言した。それまでのチャーチル英首相の関心は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことだった。

チャーチル英首相は,独ソ戦の勃発に,英国の危機が遠のいたと大喜びした。そして,チャーチルは反共産主義だったが,即座にソ連に軍事援助を申し込んだ。チャーチルと親密なルーズベルト大統領も,ソ連を武器貸与法の対象とした。ソ連は,米英から軍事援助を受けることができた。

東方ソ連に対しては,共産主義ボリシェビキが支配している地域として,その土地,資源,人民をドイツの支配下におこうとした。この手段が,ソ連侵攻バルバロッサ作戦である。

ソ連占領の目的は,東方ソ連をドイツの生存と繁栄のための生存圏とし,ボリシェビキを殲滅して,ドイツ第三帝国を千年安泰ならしめるためである。1941年クリスマスに側近に「こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから」と本心を覗かせている。 

写真(右)1943年4月,対ソ連東部戦線、チャコワ、ドイツ武装親衛隊SS装甲師団「ダス・ライヒ」のソ連赤軍から鹵獲した76.2ミリ戦車砲を搭載したT-34/76戦車と48口径75ミリ砲を装備したIV号戦車(奥):親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーの検閲を受けている。
Archive title: Sowjetunion, bei Charkow.- SS-Division "Das Reich", Heinrich Himmler (l.) bei Besichtigung erbeuteter sowjetischer Panzer T-34/76 (mit Balkenkreuzen); SS-PK Dating: April 1943 Photographer: Hoffmann撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101III-Hoffmann-023-11引用(他引用不許可)。


T-34戦車をベースにしたSU-100自走砲は,85ミリ砲を搭載,車高が低く,対戦車戦闘に向いていた。

ドイツ陸軍III号戦車やIV号戦車Sd. Kfz. 161)が、キャタピラー(履帯)上部に小型転輪を、下部にも小型の転輪を装備しているのに対して、T-34戦車以降のソ連戦車は、大型転輪を採用している。懸架装置(サスペンション)は、接地している大型転輪を一つずつ車体側面に設けたコイル・スプリングで独立懸架させたクリスティー式サスペンションである。

写真(右)1943年5月12日,ロシア、ドイツ警察師団の兵士が破壊された76.2ミリ戦車砲搭載のT-34/76戦車に乗って記念撮影をした。T-34戦車の車体側面には装備品がすべて外されており、のっぺりしている。
Archive title: Rußland, im Raum Dubno-Korzec.- zwei deutsche Polizei-Soldaten auf zerstörtem russischen Panzer T-34 Dating: 12. Mai 1943 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 121-1569引用(他引用不許可)。


ソ連赤軍には,ドイツ軍の半装軌式兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251) Sd.Kfz. 251のような軍用車両がなかった。そこで,戦車に随伴可能な歩兵は,戦車に載せて運搬された。これが,タンクデサントтанковый десант)である。

写真(右)1943年6月,ドイツ、軍需大臣アルベルト・シュペールがソ連赤軍から鹵獲した新型の85ミリ戦車砲を搭載したT-34-76戦車を検分している。
Original title: info Der Reichsminister für Bewaffnung und Munition [Albert] Speer bei der Besichtigung eines sowjetischen Panzers vom Muster T 34. Achtung PK-Aufnahme! Bei Abdruck nennen: OT Kriegsberichter Kobierowski (Sch) 25.6.1943 Zur Beachtung! Dieses Bild darf erst ab 28. Juni 1943 und nur in Verbindung mit den Textveröffentlichungen über Feindpanzer gebracht werden. Dating: Juni 1943 Photographer: Kobierowski, Willi撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 183-J14589引用(他引用不許可)。


ベルトルト・アルベルト・シュペーアBerthold Albert Speer:1905年3月19日 - 1981年9月1日)は、ミュンヘンのビアホールにおけるアドルフ・ヒトラー演説に共鳴し、その後、ヒトラー政権獲得後にゲッベルス大臣の率いる国民啓蒙宣伝省の近代化工事を担当し、その活躍から有名になった。そして、ヒトラーにも気に入られて、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)やヒトラーの建築物を次々に改修・建築するようになった。1937年にはベルリンを世界の首都とする壮大な改造計画を任された。第二次大戦中の1942年2月に兵器弾薬大臣フリッツ・トート博士が飛行機事故で死亡すると、その後任として軍需大臣として活躍した。飛行機、戦車、Uボートの新型兵器の導入を率先して実行し、奴隷労働者を大量投入して飛行爆弾V-1,弾道ミサイルV-2の量産も行った。ドイツ敗戦後のニュルンベルク戦犯裁判で有罪となり、懲役20年の判決を受けた。1966年10月1日に釈放。



タンクデサントT-34戦車1台当たり4−6人と歩兵分隊程度で,戦車と同時に移動しながら,機動性を生かし,降りて歩兵任務を遂行する。

トラックなど自動車や半装軌式兵員輸送装甲車が不足する状況で,応急的にダンクデサント(tank desant)が取り入れられたとも言える。

しかし,戦車には歩兵搭載用の空間は乏しい。車体後部情報に平面があり,ここに歩兵が乗る場合が多いが,しがみつく程度で,安定した場所ではなく,搭載歩兵の疲労,健康に問題が多い。また,車体後部のエンジンのために,熱,排気ガス,振動も歩兵を疲労させる。不整地では,車体から落ちないようにするため,ますます移動は困難だった。

歩兵の健康や安全を重視することのなかったソ連赤軍では,自動車が整備される1943年まで,タンクデサント(戦車搭乗軽装歩兵)は普通に用いられた。

写真(右)1943年6-7月,ロシア中部あるいは南部、迷彩野戦用ヘルメットカバーを付けたドイツ軍兵士が、破壊された76.2ミリ戦車砲搭載のT-34/76戦車の前で7.92ミリモーゼルKar98k騎兵銃を構えている。T-34戦車の車体後面に排気口2本が出ている。
Archive title: Sowjetunion, Mitte/Süd.- Feldwebel mit Gewehr und Zielfernrohr und weiterer Soldat in Stellung neben zerstörtem russischen Panzer T-34; PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli Photographer: Scheffler Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-219-0562A-31引用(他引用不許可)。


T-34戦車の搭載砲は,76.2ミリ(3インチ)砲で,砲塔は当初は,圧延鋼板溶接構造だったが,生産性の高い鋳造構造に変更された。また,砲塔は,ピロシキ形状で,傾斜装甲を全面採用し,車体周囲も傾斜装甲だった。T-34戦車は,全面的に避弾径始に配慮し,命中弾を横滑りさせて,貫通力を弱めることに成功した。装甲の厚さ以上に,防弾性能が優れていたといえる。

ドイツ軍のフランス侵攻は1940年5月に開始されたが,電撃戦Blitzkrieg)の戦術は,ソ連軍にも大きな影響を与え,快速で攻撃力ある重装甲の戦車の有効性が認識された。ドイツ軍の戦車は,居住性・操作性は優れていたが,実際には,攻撃力も防御力も弱かった。ソ連軍はドイツ軍戦車の威力を過大評価したのかもしれない。

アメリカ合衆国は1941年3月武器貸与法(レントリース法:Lend-Lease Acts)に基づく軍事物資を,イギリスとギリシャに適用し、軍事物資を貸与した。 その後、独ソ戦が1941年6月22日勃発すると、イギリスもアメリカもソ連への軍事支援を即座に表明した。

アメリカとイギリスからの軍事物資をソ連は北海を越える輸送船団あるいはイランを抜けるトラック輸送によって,受け取っていた。米国製M3スチュアート軽戦車も,武器貸与法Lend-Lease Acts)によって,米国からソ連に譲渡された。米英からソ連への援助ルートは,ペルシャ湾・黒海からからロシア南部に入るルートと,ノルウェー北岸から,ロシア北部に入るルートがあった。

写真(右)1943年6-7月,ソ連、クルスク戦車戦の契機となったシタデル作戦の時に、ドイツ軍が撃破したソ連赤軍のT-34/76戦車:破損した様子を観察するドイツ兵士。
Archive title: Sowjetunion, bei Pokrowka.- "Unternehmen Zitadelle".- Soldat beim Betrachten eines abgeschossenen, noch leicht qualmenden sowjetischen Panzer T-34; PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli Photographer: Koch Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 101I-219-0553A-36引用(他引用不許可)。


1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。


ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。

1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。

◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。ドイツ軍司令官は弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。



1941年11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。


5.フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連T-34/76中戦車


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車の超壕テスト
;現地に傾斜した壕を木材や石材を並べて試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。T-34戦車は、長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備しているので、砲塔を後ろに回転させて、砲身が壕にぶつからないようにして実験している。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122258引用。


フィンランド大使館「最近の出来事・お知らせ, 2012/06/07:フィンランド国防軍の記念日を祝って」によれば、「フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)元帥の誕生日をフラッグ・デーと定め、軍事パレードが行われている。マンネルヘイム元帥は、冬戦争や第二次世界大戦時にフィンランド国防軍総司令官、戦後に第6代大統領を務めた。70回目となる今年のパレードは、フィンランドの首都ヘルシンキで開催された」とある。フィンランドがソビエト連邦に侵攻して、第二次大戦を始めたこと、ソ連と講和して、ドイツとの同盟を破棄して、攻撃したことについて、触れていない。重要なのは、フィンランドは、フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、ソ連への侵略戦争を始めたのではなく、「国土防衛」「民主主義」「自由」を貫いたということか。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車のトラップでの超壕テスト;壕の底に滑り落ちたT-34戦車だが、そこから反対側の壕の斜面に登ろうとしている。壕にかかったソ連戦車が自力で脱出できるかどうかの実地試験をしている。T-34戦車は、長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備しているので、砲塔を後ろに回転させて、砲身が壕にぶつからないようにして実験している。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122259">引用。


ドイツ軍の独ソ戦バルバロッサ作戦(Unternehmen Barbarossa)初期の主力戦車であるIII号戦車が5センチ砲、最大装甲50ミリだったのに対して、ソ連赤軍が配備していたT-34戦車は76.2ミリ砲、最大装甲45ミリ、傾斜装甲による避弾径始に優れていた。機動力の上でも、ソ連軍のT-34戦車はキャタピラー(履帯)幅を広くとり、地面との接地圧力を低く抑え、機動力を確保している。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の超壕テスト
;現地に木材や石材を並べて傾斜した対戦車壕を試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122260引用。


独ソ戦が勃発する前からソ連赤軍はT-34戦車のような攻撃力、防御力、機動力のバランスのとれた戦車を開発し、部隊配備していた。他方、ドイツ陸軍の戦車はソ連軍に比較して軽装甲、短砲身で対戦車戦闘能力は低かった。しかし、独ソ戦でソ連軍のKV-1重戦車やT-34戦車と遭遇すると、それに対抗できるよう、パンテル戦車を開発した。また、既に計画は進んでいたVI号戦車のプロトタイプにも強力な8.8センチ高射砲を搭載し攻撃力を強化することになった。これが、VI号ティーゲル重戦車である。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車のトラップでの超壕テスト
;壕の底に滑り落ちたT-34戦車だが、そこから反対側の壕の斜面に渡り、壕の上まで登り切った。つまり、この壕の傾斜では、ソ連のT-34戦車には有効な障害物となりえないことが判明した。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122261">引用。


写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車の超壕テスト;現地に木材や石材を並べて傾斜した対戦車壕を試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備した攻撃力,機動力,防御力のバランスのとれたソ連軍のT-34戦車だったが、搭乗員のための車内空間は狭く,砲塔も小さいので,居住性や砲塔操作性は良くなかった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122232引用。


1943年夏、フィンランド軍は、ソ連に侵攻して占領したラップランドで現地の石材や木材を利用して、対戦車障害物を考案し、対戦車壕を工夫した・そして、これらを実際に制作して、鹵獲したソ連戦車が乗り越えられるか、実際に現地で超壕テストをした。これを参考に、ラップランドでは、対戦車壕や対戦車障害物が構築されて、防衛戦を構成した。

対戦車障害物、対戦車壕を試験的に構築するなかで、傾斜した障害物上面に沿って戦車の車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを射撃すれば、3.7センチ対戦車砲や5センチ対戦車砲でも、ソ連軍の主力T-34戦車さらにKV-1重戦車でも撃破できることが判明する。

1941年6月に、独ソ戦が勃発する2年も前からソ連赤軍はT-34戦車のような攻撃力、防御力、機動力のバランスのとれた戦車を開発し、部隊配備していた。他方、ドイツ陸軍の戦車はソ連軍に比較して軽装甲、短砲身で対戦車戦闘能力は低かった。しかし、独ソ戦でソ連軍のKV-1重戦車やT-34戦車と遭遇すると、それに対抗できるよう、パンテルV号戦車を開発した。また、既に計画は進んでいたVI号戦車のプロトタイプにも強力な8.8センチ高射砲を搭載し攻撃力を強化することになった。これが、VI号ティーゲル重戦車である。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車の超壕テスト;現地に木材や石材を並べて傾斜した対戦車壕を試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。ソ連軍のT-34戦車の登場した当初の1940年初頭、76.2ミリ砲は戦車砲としては大型強力な火砲で、一般的な戦車は37ミリ砲や50ミリ砲が標準だった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122233引用。


T-34/ 1941年式 諸元
重量:26.5トン
全長: 6.68メートル
全幅: 3.00メートル
車高 2.45メートル
乗員: 4人(車長:装填手を兼務、操縦手,砲手,無線手:前方機銃手を兼務)
装甲 52ミリ
兵装: 76.2ミリF-34戦車砲,7.62ミリ機銃2丁
エンジン:12気筒ディーゼルV-2 500馬力(370キロワット),17.5馬力/トン
航続距離:400キロ
最高速度 時速53キロ

1939年の冬戦争当時,ソ連軍は命令を厳格に実行しようとするあまり,迅速な作戦変更ができなかったり,攻撃日程を墨守しようとするあまり、物資の補給が間に合わない状況でも進軍を続けたりして。戦術的欠陥をフィンランド軍に衝かれることがしばしばおこった。第二次大戦前,1937年のソ連軍内部のトハチェフスキ粛清によって,ソ連軍の軍事専門家の指導力は低下し,共産党による軍の管理,政治委員(政治将校)コミサールCommissarsによる介入が強いことが、攻撃計画や戦術の臨機応変な変更を困難にしていたのである。

しかし、1943年に入るとこのような戦術的欠陥はソ連軍にも少なくなり、フィンランド軍は、兵力不足を痛感せざる得ない状況に陥っていた。もはやフィンランド軍が巧妙な戦術で、ソ連の大軍を翻弄するような状況は稀になっていたのである。

写真(右)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76戦車のトラップでの超壕テスト;ネットに偽装を施し地面のように見せかけた戦車落とし穴。急傾斜に滑り込んで自力脱出できなくする。こうすれば、戦車を生け捕りにして戦利品として鹵獲し、フィンランド軍戦車として再利用できるというわけだ。実際に鹵獲したT-34戦車を墜として、自力脱出できるかどうかの壕を超える実験をしたのであろう。T-34戦車は、長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備した攻撃力,機動力,防御力のバランスのとれたソ連軍のT-34戦車だったが、搭乗員のための車内空間は狭く,砲塔も小さいので,居住性や砲塔操作性は良くなかった。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943.
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122234引用。


フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルヘイム(Carl Mannerheim)元帥は、対ソビエト連邦との二回目の戦争、継続戦争を1941年6月26日に初めた指導者の一人だが、自ら開戦した以上、何としてもソビエト連邦の軍事力を削いで、1939年-1940年の冬戦争で失った固有の領土回復を果たしたかったに違いない。1942年のマンネルハイムのナチス訪問は、ちょうど、継続戦争開始1周年であり、フィンランドはソ連を明確な敵とし、枢軸国ナチス・ドイツと軍事同盟を結び、ソ連領に攻め入っていた。マンエルハイム元帥が、フィンランドの領土の回復、ソ連の弱体化を真剣に望んでいたのは確かであろう。1942年6月時点で、未だにドイツのヨーロッパ支配の状況は変わりはなく、イギリス、アメリカによるフィンランド攻撃の心配は、全くなかった。マンネルハイムだけでなく、フィンランド国民の多くは、いまこそ、ソ連弱体化の最大の機会であると考え、継続戦争を自らはじめ、善戦していた。

フィンランドにおける対ソビエト「継続戦争」の戦意高揚を無視して、マンネルハイム元帥は、ヒトラーとの共闘を臨んでいなかった、ヒトラーによる誕生日訪問を迷惑に思っていたなどと邪推するのは、見当違いであろう。1917年のロシア革命後、ボリシェビキ勢力が伸長し、赤軍を組織して共産主義革命を進めたとき、フィンランドでは、、ロシア共産党のボリシェビキに賛同したフィンランド共産主義者、共産党員、赤軍が政権奪取を図った。それに対して、反革命軍、白軍を組織して、革命派を武力鎮圧したのが、マンネルハイムである。この経緯を踏まえれば、マンネルハイムもヒトラーも、フィンランドもナチス・ドイツも、ともに反共産主義として、ソビエト連邦、ヨシフ・スターリンを警戒し、チャンスがあれば、彼らを無害化、中立化したかったに違いない。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;現地に傾斜した石材を並べて、実際にソ連軍主力T-34戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122253引用。


1943年9月に、フィンランド軍がフィンランド北部、ラップランドの防衛強化のために、対戦車障害物の有効性を実験した。、現地の材木を切り揃えて束ねて考案した杭状の木製障害対戦車障害物、置き石の障害物、坂式の落とし穴などの有効性が、ソ連から鹵獲した戦車を実際に使って実験されている。したがって、少なくとも、この地域では、現地の木材、石材を使って多数の対戦車障害物が準備されたものと思われる。

ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、実際に鹵獲したKV-2戦車を使って、障害物の実地試験を行った。木製の枠に石材を投入して傾斜させた対戦車障害物もその一つである。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;現地に傾斜したや石材を並べて試作して、その後でソ連戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Panssarivaunu on tyyppiä T-34 (vuosimalli 1942)..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122254引用。


1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi:Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ:Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;石材が車体前部中央にぶつかって先に進めなくなった。ソ連軍主力T-34戦車でも、尖った石材を乗り越えることはできなかった。フィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、ラップランドの防衛強化を図った。この時、鹵獲したソ連製KV-2戦車を使った実地試験を行った。大きな岩石を並べて、傾斜面に戦車を乗り上げさせてしまえば、車体下面が晒されるようになるので、装甲の貧弱な車体下面や下部に対して3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でも射撃するというわけである。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122255引用。


ソ連製KV-1重戦車が砲塔に搭載した火砲は、口径76.2ミリで初期型から後期型まで同じで、実はT-34中戦車と同等の火力である。しかし、火砲の初速を高速化し、貫通力を増強するために、砲身が長くなっている。当初1939年型は30.5口径76mm砲L-11、中期1940年型は31.5口径76mm砲F-32、後期1941年型は41.5口径76mm戦車砲ZIS-5と、火力が強化されている。
現地の石材を木製枠に詰めた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。そこを。対戦車砲で射撃すれば、容易に撃破できる。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の石材障害物通過試験
;先端の尖った石材が車体前部中央にぶつかって乗り越えられなくなったソ連軍主力T-34戦車。車体前方のハッチが開いているのは、乗員が車外に出て、状況を確認したためであろう。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122256引用。


1943年9月、ラップランドの防衛強化を図るフィンランド軍は、物資節約のために、現地で調達できる材木や石材を材料として、少なくとも3種類の対戦車障害物(バリケード)を作り、実際に鹵獲したKV-2戦車を使って、障害物の実地試験を行った。大きな岩石を並べて、傾斜させた石に戦車を乗り上げさせる対戦車障害物もその一つである。ソ連から鹵獲したKV-2重戦車のキャタピラは、傾斜面に乗り上げ、車体を持ち上げる。そこで、車体下面が晒されるようになるので、装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃できるというわけである。


写真(上)1943年7月23-24日、フィンランド、ラップランド、フィンランド軍が鹵獲したソ連製T-34/76(1942年型)戦車の超壕テスト
;現地に傾斜した石材を並べて、実際にソ連軍主力T-34戦車が乗り越えられるかどうか、実際に鹵獲したT-34戦車を乗り入れる実験をした。
Hyökkäysvaunuesteiden kestävyyttä koetellaan Äänislinnassa 23-24.7.1943. Panssarivaunu on tyyppiä T-34 (vuosimalli 1942).. ..
Subject place undated Sundström, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-122230引用。


1943年7−9月に、フィンランド軍がフィンランド北部、ラップランドの防衛強化のために、対戦車障害物の有効性を実験した写真が多数残されている。現地の木材や石材を並べた障害物をソ連戦車が乗り越そうとすると、傾斜した障害物上面に沿って車体が持ち上がり、装甲の弱い車体下面が晒されるようになる。装甲の貧弱な車体下面や下部に対して対戦車砲で射撃すれば、3.7センチ対戦車砲あるいは5センチ対戦車砲でもソ連重戦車を撃破できる。また、7.5センチ対戦車砲であれば、容易に重戦車の装甲の弱点を貫通し、完全に戦車を仕留めることができる、このように考えられた。

ソ連のT-34戦車は鋳造構造の避弾径始の考慮された砲塔に76.2ミリ戦車砲を搭載したが、1940年当時これは、世界最強の攻撃力を備えた量産戦車といえる。そして、1944年になると、小ドイツ軍の56口径8.8センチ砲装備のティーゲル重戦車、70口径7.5センチ砲装備のパンテル中戦車とも互角に戦うことができるようにソ連のT-34/76戦車の砲塔を大型化し、そこに85ミリ砲を装備したソ連のT-34/85戦車が部隊配備されるようになった。T-34/85戦車も避弾径始に優れている大型砲塔であり、量産性も十分に考慮されている。


6.第二次大戦中期1943年以降のソ連軍T-34/76中戦車

写真(右)1943年8-9月,ソ連南部、クルスク戦車戦後のドンバス作戦(Donezbecken)の時期に、ドイツ軍が撃破したソ連赤軍のT-34/76戦車:砲塔の周囲には、キャタピラーを巻いて補助装甲板にしているが、砲塔にこのようなキャタピラーを装着したT-34戦車は珍しい。
Archive title: Sowjetunion, Süd, Mius, Donezbecken.- zerstörter sowjetischer Panzer T-34; PK 695 Dating: 1943 August - September Photographer: Hodea Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 101I-240-2130-04引用(他引用不許可)。


 長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備した攻撃力,機動力,防御力のバランスのとれたソ連軍のT-34戦車だったが、搭乗員のための車内空間は狭く,砲塔も小さいので,居住性や砲塔操作性は良くなかった。

写真(右)1943年秋,ソ連、ドイツ軍に完全に撃破されたソ連赤軍のT-34戦車:大爆発を起こしたために、キャタピラーが捲れあがって反り返り、内側が上向きになっている。転輪やスプリングも飛び散っており、砲塔は跡形もない。
Archive title: Sowjetunion.- Wrack eines sowjetischen Panzers; PK 694 Dating: 1943 Herbst Photographer: Scheffler Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 101I-220-0630-02A引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年11月5日,グロスドイチュラント"Großdeutschland"擲弾兵師団がソ連赤軍T-34戦車に見立てた模造戦車を使った演習:車体側面に破壊爆弾を装着する訓練のようだが、効果を上げるために模擬戦車は発煙筒を利用した煙が上がっている。
Original title: info Scherl Bilderdienst Ausbildung bei der Panzergrenadier-Division "Großdeutschland", die sich überwiegend aus Freiwilligen aus allen Gauen des Reiches zusammensetzt und die im Verlaufe dieses Krieges unsterblichen Ruhm an ihre Fahnen geheftet hat. Besonders sorgfältig und vielseitig ist die Ausbildung des Ersatzes für diese Kerntruppe, die bei der Ersatzbrigade "Großdeutschland", dem Heimattruppenteil der ruhmreichen Division, erfolgt. UBz.: Panzer-Nahbekämpfung am fahrenden Modell. Ganz systematisch folgt der Ausbildung am stehenden Modell das Üben am fahrenden. Die Sprengladung wird am durch Nebelhandgranaten geblendeten Panzer-Modell angebracht Foto: Schwahn 5.11.43 5558-43 Archive title: Deutschland, Ausbildung bei der Ersatzbrigade der Panzergrenadier-Division "Großdeutschland", Panzerbekämpfung Dating: 5. November 1943 Photographer: Schwahn, Ernst Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 183-J08362引用(他引用不許可)。


IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)がはじめに装備した火砲は,短砲身24口径7.5cm砲(7.5cm KwK 37 L/24)だったが,これでは,火力支援はできても,対戦車戦闘能力は低かった。24口径7.5cm砲の貫通力は,500メートルで39ミリ,1000メートルで30ミリと,敵戦車の正面装甲貫通は困難だったためである。

 そこで、独ソ戦開始前の1941年初頭に,アドルフ・ヒトラーは強力な60口径5cm砲の搭載を命じていたが,保守的な陸軍将官は,機動性を重視して,重量の増える長砲身を搭載しなかった。
 しかし,独ソ戦で直面したソ連赤軍のT-34は,37口径75ミリ砲を装備して,避弾に優れた装甲であり,ドイツ軍の対戦車砲では貫通できなかった。このためIV号戦車(Panzer IV:Sd. Kfz. 161)の短砲身24口径7.5cmセンチ戦車砲(7.5cm KwK 37 L/24)を長砲身48口7.5センチ戦車砲(7.5cm KwK 40 L/48)に変換したF型が急遽開発された。 

写真(右)1944年,対ソ戦、ドイツ武装親衛隊第3SS装甲師団軍「髑髏」の兵士が破壊されたソ連赤軍T-34/76戦車の脇に隠れている。Deutsche Panzer in Bereitschaft in einem Dorf der Kalmücken Archive title: Sowjetunion-Süd, Rumänien.- Soldaten der 3. SS-Panzer-Division "Totenkopf" bei Rast neben einem zerstörten sowjetischen Panzer T-34; PK 637 Dating: 1944, Photographer: Vorpahl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 101I-024-3535-23 引用(他引用不許可)。


ソ連軍のT-34戦車の登場した当初の1940年初頭、76.2ミリ砲は戦車砲としては大型強力な火砲で、一般的な戦車は37ミリ砲や50ミリ砲が標準だった。

 他方、ドイツ陸軍では、アドルフ・ヒトラーの長砲身砲採用の命令もあって、1942年春から対戦車戦能力の向上のためIV号戦車(Panzer IVSd. Kfz. 161)とIII号突撃砲には長砲身43口径の7.5センチ戦車砲(7.5cm-KwK 40 L/43)が装備されることになった。しかし、陸軍は保守的で、長砲身砲の生産も順調ではなっかようで、実際に対戦車戦闘能力が強化されたIV号戦車が登場するのは、1942年後半になってしまった。

写真(右)1944年1-2月,対ソ戦、ソ連赤軍T-34/76戦車:バルバロッサ作戦当初、ドイツ軍が直面したT-34中戦車は、登場した磁気には、長砲身76.2ミリ砲は戦車砲としては大型強力な火砲で、一般的な戦車は37ミリ砲や50ミリ砲が標準だった。
Archive title: Sowjetunion.- Soldat bei Untersuchung eines erbeuteten sowjetischen Panzer T-34 auf unbefestigter Straße; Schild mit Aufschrift: "Erbeutet Pz. Abt. 21"; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Jacob
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-277-0836-04 引用(他引用不許可)。


7.92ミリモーゼル弾 7.92×57mm Mauser)を使用するモーゼルKar98k騎兵銃Karabiner 98k)は、ドイツ陸軍が1935年6月に制式したボルトアクション作動の槓桿式カービン銃(小型の騎兵用の小銃)で、5発装填、 全1,100mm、重量4kg、初速760 m/s、有効射程500 mの旧式銃。しかし、信頼性、生産性に優れており、命中精度も高かったために、1945年の終戦時まで量産され続け、合計1400万丁が生産された。

写真(右)1944年春,対ソ戦、南ウクライナ、ドイツ軍歩兵の戦闘訓練に使用されている破壊されたソ連赤軍T-34/76戦車:キャタピラーは全て喪失しており、歩兵の対戦車戦闘訓練に使用されているようだ。
Archive title: Ukraine.- Soldaten bei Ausbildung /Übung mit Panzerabwehrwaffen.- Soldat in Schützenloch vor quallmenden russischen Panzer T-34 (Übungspanzer), Frühjahr 1944; KBZ Südukraine Dating: 1944 Frühling Photographer: Gronefeld, Gerhard Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-710-0372-17引用(他引用不許可)。


ドイツ軍の独ソ戦バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)初期の主力戦車であるIII号戦車が5センチ砲、最大装甲50ミリだったのに対して、T-34戦車は76.2ミリ砲、最大装甲45ミリ、傾斜装甲による避弾径始に優れていた。機動力の上でも、ソ連軍のT-34戦車はキャタピラー(履帯)幅を広くとり、地面との接地圧力を低く抑え、機動力を確保している。

T-34/85戦車の諸元
全長:8.15 m、車体長:6.10 m、全幅:3.00 m、全高:2.72 m
重量:32 t、 乗員:5 名
最高時速:55 km/h(整地)、30 km/h(不整地)
航続距離:360 km
兵装:51.6口径85mm戦車砲 D-5Tあるいは54.6口径85mm戦車砲(収容砲弾数56発)
車載機銃:2丁×7.62 mm DT機銃×2(搭載銃弾数1890発)
砲塔装甲:前面90 mm、側面75 mm(傾斜20°)、後面52 mm(傾斜10°)
車体装甲:前面45 mm(傾斜60°)、側面45 mm(傾斜50°)、後面45 mm(傾斜47°)、上面20 mm
エンジン:4ストロークV型12気筒水冷ディーゼル(500 馬)

写真(右)1944年5-6月,ソ連東部戦線、南ウクライナ、叙勲されるグロースドイッチュラント師団の兵士と背後の鹵獲したソ連赤軍のT-34/76戦車:車体後面には、エンジンの排気ダクト2本が伸びている。
Archive title: Sowjetunion-Süd/Südukraine.- Major des Panzerkorps Großdeutschland bei der Verleihung eines Sonderabzeichens für das Niederkämpfen von Panzerkampfwagen durch Einzelkämpfer; KBZ HGr. Dating: 1944 Mai - Juni Photographer: Scheerer, Theodor Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 101I-712-0472-02引用(他引用不許可)。


1942年、ソ連侵攻の最中に、オリョール近郊で歩兵から機械化歩兵に再編成されたグロースドイッチュラント師団は、「事例・青(Fall Blau)」作戦でスターリングラード攻略戦に参加した。

1943年6月、グロースドイッチュラント師団は、ティーガー戦や兵員輸送装甲車両が配備され装甲擲弾兵師団グロースドイッチュラントとなった。そして、親衛隊SS装甲軍団とともにクルスク突出部を南北から挟撃するシタデレ(城塞)作戦に参加し、パンテル戦車も配備され、クルスク突出部の南部からの攻撃に参加した。

 クルスク攻防戦には、ドイツ軍戦車2,800輌、ソ連軍はT-34戦車を中心に戦車3,000輌が参加し、史上最大の戦車戦となったが、ドイツ軍は,電撃戦Blitzkrieg)の成功を繰り返すことができず、ソ連軍陣地を突破できず、挟撃作戦は失敗に終わった。


7.1944年に登場したソ連軍T-34/85中戦車ー火力強化型

写真(右)1944年10月,東プロシア、撃破されたソ連赤軍のT-34/85戦車:車体後面には、エンジンの排気ダクト2本が伸びている。
Archive title: Im Osten, Nordabschnitt, Ostpreußen, Nemmersdorf.- Zerstörter sowjetischer Panzer T-34/85; PK Lfl 1 Dating: Oktober 1944 Photographer: Kleiner Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bild 101I-464-0384I-35引用(他引用不許可)。


 シタデル(城塞)作戦の計画では、ドイツ軍は1943年7月5日に攻撃をかける予定だったが、スパイ情報によって攻撃を察知していたソ連赤軍は、5日未明、先制攻撃として集結しているドイツ軍戦車部隊への大規模な砲撃を開始した、このの砲撃が終了するのを待ってドイツ軍は南北で攻撃に移ったが、ソ連軍はシタデル作戦を察知していたために後に、既に塹壕やトーチカなど防御陣地を何重にも構築し、T-34戦車を防御用に使用していたために、ドイツ軍の前進速度は遅々たるものだった。

写真(右)1944年10月,対ソ戦、撃破されたソ連赤軍T-34/85戦車の砲塔:ソ連軍はT-34/85戦車は、鋳造構造で量産性と避弾径始に優れている上に、砲塔リンク径を拡大、容積に大きくした砲塔に大口径砲の85ミリ戦車砲を搭載できた。
Archive title: Im Osten, Nordabschnitt, Ostpreußen, Nemmersdorf.- Zerstörter sowjetischer Panzer T-34/85; PK Lfl 1 Dating: Oktober 1944 Photographer: Kleiner
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-464-0384I-34引用(他引用不許可)。


 ドイツ軍のソ連侵攻バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)当時から部隊配備されていた76.2ミリ砲を装備したT-34/76戦車の生産台数は、1940年-1944年の間に3万5,000輌あった。
85ミリ砲を装備したT-34/85戦車の生産台数は、1944年-1945年(終戦まで)の間に2万3,000輌だった。そして、戦後も生産は続けられたが、1950年代からソ連以外でも、東欧諸国でライセンス生産が始められている。T-34/85戦車は、1950年代には旧式化して技術を漏洩の心配がない上に、生産性が高く、安価で配備しやすい戦車ということで、同盟国・衛星国での生産が認められた。

写真(右)1944年10月,対ソ戦、東プロシア、橋梁が崩れて転落したソ連赤軍T-34/85戦車:85ミリ高射砲を狭い砲塔内部で操作しやすく改造して使用した。
Archive title: Im Osten, Nordabschnitt, Ostpreußen, Nemmersdorf.- Zerstörter sowjetischer Panzer T-34/85; PK Lfl 1 Dating: Oktober 1944 Photographer: Kleiner Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-464-0384I-27引用(他引用不許可)。


 弾丸と薬莢とからなるカートリッジCartridge)が砲弾である。カートリッジCartridge)は、日本では、実包(じっぽう)あるいは弾薬筒(だんやくとう)と呼ばれる。

 弾丸は、古来、球形の鉛製であり、これと火薬を銃身に仕込んで、火薬を燃焼させて、発射していた。これが500年間も続いた銃(gun)である。19世紀になると、第一に、銃身の内側に螺旋状の溝、すなわちライフルRifling)が採用された。ライフルは、日本では施条(しじょう)あるいは腔綫(こうせん)と呼ばれる。発射された弾丸を、回転させて弾道を安定化させ、飛翔距離を長くすることができた。第二に、弾丸が球形から円錐形・紡錘形のミニエー弾(ミニ弾)がフランスで開発された。南北戦争のゲッチスバークの戦いで、ライフル銃とミニ弾が使用され、南軍に1万名の死傷者を出した。第三が、金属製薬莢によって、弾丸と薬莢が一体化されたことである、南北戦争後、弾丸と金属製薬莢を一体化したカートリッジの採用が一般化した。第四に、1880年代に黒色火薬から無煙火薬に転換したことである。ニトログリセリンを使った無煙火薬によって、弾丸の砲口初速は秒速300メートルから、600メートルに高速化した。無煙火薬で発射された弾丸は、煙が出ないので、弾道が視認できなかったので、マグネシウムを仕込んだ曳光弾を5発に1発混ぜて弾道を目視確認できるようになった。弾丸のサイズが大きくなれば、発射に必要な火薬も多く必要で、破壊力も大きくなる。

写真(右)1944年11月9日,対ソ戦、東プロシア、橋梁が崩れて転落したソ連赤軍T-34/85戦車のドイツ陸軍による回収作業:上記の写真では横転していたT-34戦車が半回転させられて、キャタピラーが地面に接するようになった。ソ連赤軍のT-34戦車を鹵獲し、ドイツ軍戦車として使用するために回収作業を実施している。
Original title: info Bei Nemmersdorf nach dem Rückzug der Sowjets. Dieser sowjetische Panzer fiel dem überhasteten Rückzug seiner eigenen Truppen bei Nemmersdorf zum Opfer. Die Sowjets hatten übereilt die Brücke über die Angerapp in die Luft gesprengt, und der Panzer, dessen Besatzung von der Sprengung nicht in Kenntnis gesetzt war, stürzte in der Dunkelheit ab. PK-Kriegsberichte Brütting, Scherl, 9.11.44 [Herausgabedatum] ADN-ZB/Archiv II.Weltkrieg 1939-45, Kämpfe in Ostpreußen, Oktober 1944. Von einer Brückeüber die Angerapp bei Nemmersdorf stürzte während der Dunkelheit ein sowjetischer Panzer ab. Archive title: Bei Nemmersdorf.- Abgestürzter sowjetischer Panzer T-34/85 Dating: Oktober 1944 Photographer: Brütting Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 183-J28092引用(他引用不許可)。


ソ連のT-34戦車は鋳造構造の避弾径始の考慮された砲塔に76.2ミリ戦車砲を搭載したが、1940年当時これは、世界最強の攻撃力を備えた量産戦車といえる。そして、1944年になると、小ドイツ軍の56口径8.8センチ砲装備のティーゲル重戦車、70口径7.5センチ砲装備のパンテル中戦車とも互角に戦うことができるようにソ連のT-34/76戦車の砲塔を大型化し、そこに85ミリ砲を装備したソ連のT-34/85戦車が部隊配備されるようになった。T-34/85戦車も避弾径始に優れている大型砲塔であり、量産性も十分に考慮されている。

写真(右)1944年末,バルカン戦線、撃破されたソ連赤軍T-34/76戦車を背景に雪合戦をするドイツ軍兵士:。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-206-1892-31A Archive title: Balkan.- Soldaten bei Schneeballschlacht, im Hintergrund sowjetischer Panzer; PK 693 Dating: 1944 Anfang
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 101I-206-1892-31A引用(他引用不許可)。


 日本に限らず、フランスでも中国でも第二次大戦中のドイツ軍の兵器にはファンが多く、戦車と云えばドイツ陸軍のタイガー重戦車やパンサー戦車が優秀な戦車としてもてはやされているが、これは、攻撃力、防御力、登場時期、生産台数の点から見て、完全な過大評価である。

GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1945 年5月3日、ソ連赤軍のT-34/85戦車の前で握手するソ連赤軍兵士とイギリス陸軍第6空挺師団の兵士たち:東西両連合軍がバルト海沿岸、ヴィスマールで出会った。
THE BRITISH ARMY IN NORTH-WEST EUROPE 1944-45, Catalogue number: BU 5230, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Oakes (Sgt), Object description: Men of 6th Airborne Division greet the crew of a Russian T-34/85 tank during the link-up of British and Soviet forces near Wismar on the Baltic coast, 3 May 1945.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (Art.IWM PST 6138)


 たしかに、ティーガー重戦車は、高射砲を改造した8.8センチ戦車砲を搭載し、パンター戦車も70口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載してが、ソ連軍の新鋭戦車T-34戦車初期型、KW-1重戦車は、42口径の長砲身76.2ミリ戦車砲を、T-34戦車後期型は高射砲を改造した55口径85ミリ砲を搭載しており、互角の攻撃力帆保持している。 

 有名なドイツ軍戦車が本格的に実戦投入されたのは、1943年夏のソ連東部戦線、シタデル(城塞)作戦の時期である。そこで、タイガーやパンサーといった新鋭戦車は、戦争後期になって登場したため、活躍期間は戦争後期に限られる。他方、ソ連新鋭戦車の登場時期は、1941年夏でドイツ軍新鋭戦車よりも2年も早く実戦に大量投入され、第二次大戦初期から終戦まで戦い続けている。

 ドイツ軍新鋭戦車の生産台数は、ティーガー重戦車は1400輌、パンター戦車は5000輌であるが、これはソ連赤軍の新鋭戦車であるT-34戦車が5万8,000輌、KW-1重戦車が4,500輌の生産台数に比較して10%程度でしかなく、生産台数は遥かに少ない。

  写真(右)1941年、ソ連軍の多砲塔T-35重戦車とともにドイツ軍を壊滅することを訴えるソ連の戦意高揚ポスター:T-35重戦車は重量45トン、主砲塔に16.5口径76.2 mm戦車砲を、副砲塔2基に42口径45 mm戦車砲各1門、合計2門を装備している。
Catalogue number: Art.IWM PST 4708, Production date: 1941, Place made: Russia , Subject period: Second World War, Materialsmedium: lithograph, support: paper, DimensionsSupport: Support: Height 598 mm、Support: Width 877 mm, Alternative Namesobject category: Poster, Creator: Kukryniksic Group (artist) Moscow-Leningrad Iskusstvo (printer) Moscow-Leningrad Iskusstvo (publisher/sponsor), Object description: whole: The image fills the whole design with text in red incorporated in the bottom left corner. image: Russian historical leaders, depicted in red, line up above Second World War Red Army troops and tanks to defend their country. text:
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 5230)


写真(右)1945 年、ソ連軍のT-34戦車を量産しドイツ軍を壊滅することを訴えるソ連の戦意高揚ポスター
Catalogue number: Art.IWM PST 6138, Production date: 1945, Place made: Russia , Subject period: Second World War, Materialsmedium: lithograph, support: paper, DimensionsSupport: Height 495 mm,,Support: Width 893 mm, Alternative Namesobject category: Poster, Creator: Gordon, M A & Orekhov, L H & Petrov, A G (artist), Moscow-Leningrad Iskusstvo (printer), Moscow-Leningrad Iskusstvo (publisher/sponsor), Categoryposters ), Object description: whole: The image fills the majority of the design, with text in white incorporated within it at the top. Text in red is positioned below the image, set against a white background. image: In the foreground a female tank worker holds a bouquet of flowers and rests her hand on the gun barrel of a completed Soviet T-34 tank. In the background workers construct two other T-34 tanks. text: [cyrillic Russian].
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (BU 5230)


ヒトラー卓上談話(ヒトラーのテーブル・トーク)
ナチ党官房長官マルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。

1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。ロシアの湿地帯にユダヤ人の奴等を置き去りにはできないなどと言ってくれるな。わが部隊の心配を誰がするというのか。われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。
-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。現時点でいたずらに問題を増やしても意味はない。時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。

写真(右)1953年6月17日、東ベルリンに向かうソ連赤軍のT-34/85戦車:ヨシフ・スターリンが1953年6月16日に死亡すると、共産主義体制が破壊されて統制が緩むと期待した東ベルリン市民の自由を求める抵抗運動がおこった。それは、東ドイツの共産主義政府からみて暴動であり、ソ連赤軍の介入を要請し、6月17日に収束した。写真は、東ベルリンで発生した民衆暴動に鎮圧に向かうT-34/85中戦車
17. Juni 1953 Aufstand im Sowjet-Sektor von Berlin
Nach dem Tode Stalins griff der Wille zur Selbstbestimmung über das staatliche und persönliche Leben und über die Freiheit der Persönlichkeit auf die Menschen des gesamten sowjetzonalen Sektors Deutschlands über. Die Bevölkerung im Sowjetsektor Berlins glaubte die Stunde der Freiheit sei für sie gekommen. Man ging auf die Straßen und proklamierte das Recht auf Freiheit und Selbstbestimmung. Der Aufstand wurde durch sowjetische Truppen zusammengeschlagen
Von der sowjetischen Besatzungsmacht eingesetzte Panzer zur Niederschlagung der Unruhen in der Schützenstrasse.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv B 145 Bild-F005191-0040引用(他引用不許可)。



写真(右)1987年7月4日、東ドイツ、ベルリンを行進するソ連赤軍のT-34/85戦車
:ソ連赤軍の戦車兵と強制収容所から解放された囚人に扮した囚人服の人物が戦車の上に載っている。戦車兵が手にしているのは、トカレフ7.62ミリ拳銃弾71発入りドラム形弾倉を備えたPPSh-41(ペーペーシャ)短機関銃。東ドイツでは、ファシズムの桎梏から解放したソ連赤軍を称賛していたから、ベルリン誕生750年祭でもソ連軍の行進が行われた。
Original title: info ADN-ZB Mittelstädt 4.7.87 Berlin: Jubiläum-Festumzug. Mit einem legendären Panzer T 34 vollzogen am Festumzug zum 750jährigen Bestehen Berlins teilnehmende Sowjetsoldaten den historischen Akt der Befreiung vom Faschismus in den Maitagen 1945 nach.
Dating: 4. Juli 1987
Photographer: Mittelstädt, Rainer Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv  Bild 183-1987-0704-032 引用(他引用不許可)。


フォン・ボック元帥(1885-1945)は,中央軍集団の北方軍集団司令官として1939年ポーランド戦参加,B軍集団司令官として1940年フランス戦に参加し,軍功をあげて,元帥に昇格した。

フォン・ボック元帥は、1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦では,主力となった中央軍集団司令官に就任,当初は大戦果を挙げたが,12月17日,モスクワの戦いで敗北,後任はクルーゲだった。

1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号では,作戦目的は,「東部作戦当初の原則を維持しつつ、中部では現状を守り、北部ではレニングラートを占領して,フィンランド軍と陸路連絡をつけ、南部ではカフカス地区へ突入する。冬期戦終了後でもありこの目標は集めうる兵力、資材および輸送事情により、段階的に達成されるものとする。そのためまず全兵力を南部戦区の主要作戦にむけ、ドン前面の敵を掃討し、ついで,カフカス(コーカサス)の油田およびカフカス山脈の道路を奪取するものとする」とされた。


8.現存するソ連赤軍T-34中戦車

写真(右)2011年9月、ロシア共和国ウラル地方、スヴェルドロフスク州、 エカテリンブルグ(Екатеринбург)北15キロ、ヴェルフナヤ・ピシュマ戦車博物館戦車博物館(Verkhnyaya Pyshma Tank Museum)に展示されているソ連軍のT-34戦車(1940年型):1940年型は、30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載
Русский: Музей военной техники, г.Верхняя Пышма - 2011 English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 日付 2011年9月4日 原典 https://picasaweb.google.com/lh/photo/X2d5Hd2wQDaXHv92rFSIHdMTjNZETYmyPJy0liipFm0 作者 Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons、Category:T-34 Model 1940 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum・File:Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 059.jpg引用。


写真(右)2012年9月、ロシア共和国ウラル地方、スヴェルドロフスク州、 エカテリンブルグ(Екатеринбург)北15キロ、ヴェルフナヤ・ピシュマ戦車博物館戦車博物館(Verkhnyaya Pyshma Tank Museum)に展示されているソ連軍のT-34戦車(1940年型):30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。
Русский: Музей военной техники, г.Верхняя Пышма - 2012 English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 日付 2012年9月30日 CwYzgdMTjNZETYmyPJy0liipFm0 作者 Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons、Category:T-34 Model 1940 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum・File:Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2012 0054.jpg引用。


写真(右)2012年9月、ロシア共和国ウラル地方、スヴェルドロフスク州、 エカテリンブルグ(Екатеринбург)北15キロ、ヴェルフナヤ・ピシュマ戦車博物館戦車博物館(Verkhnyaya Pyshma Tank Museum)に展示されているソ連軍のT-34戦車(1940年型):30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載。
Русский: Музей военной техники, г.Верхняя Пышма - 2011 English: Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 日付 2011年9月4日 作者 Владимир Саппинен
写真はWikimedia Commons、Category:T-34 Model 1940 in Verkhnyaya Pyshma Tank Museum・File:Verkhnyaya Pyshma Tank Museum 2011 060.jpg引用。



写真(上)2014年、ロシア共和国、モスクワ大祖国戦争博物館(Moscow Museum of the Great Patriotic War)に保管・展示されているソ連赤軍のT-34/76戦車(1941年型)
;当初の1940年型は、30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載していたが、1941年型は41.6口径76.2ミリ戦車砲F-34に火力を強化している。
5 June 2014, 14:52:50 Source Own work Author Mike1979 Russia
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 Model 1944 in the Bovington Tank Museum File:T-34 Model 1941 in the Great Patriotic War Museum 5-jun-2014.jpg引用。



写真(右)2014年、ロシア共和国、モスクワ大祖国戦争博物館(Moscow Museum of the Great Patriotic War)に保管・展示されているソ連赤軍のT-34/76戦車(1941年型)
;当初の1940年型は、30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11を搭載していたが、1941年型は41.6口径76.2ミリ戦車砲F-34に火力を強化している。
5 June 2014, 14:55:02 Source Own work Author Mike1979 Russia
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 Model 1944 in the Bovington Tank Museum File:T-34 Model 1941 in the Great Patriotic War Museum 5-jun-2014 Side.jpg引用。


発動機は4ストロークV型12気筒液冷ディーゼルエンジン500馬力だが、これは、ガソリンエンジンよりも重たいものの、燃費が良く、被弾にも強かった。したがって、第二次大戦後の戦車は、ガソリンエンジンではなく、空冷ディーゼルエンジンを装備するようになった。


写真(右)2012年、ロシア共和国、モスクワ中央装甲車両博物館(Moscow Central Armed Forces Museum)ソ連赤軍のT-34/76戦車(1941年型)
;初期型は76.2ミリ砲を搭載していたが、1944年に登場した後期型は、砲塔を大型化し54.6口径85ミリ戦車砲ZiS-S-53(携行弾数56発)を搭載し、火力を強化された。奥には、T-28多砲塔戦車が見える。
Description Русский: Т-34 1941г. в Центральном музее вооруженных сил (г. Москва) Date 26 May 2012 Source Own work Author Gandvik
写真はwikipedia-commons、Category:T-34 Model 1941/42 File:T-34.jpg引用。


ソ連軍T-34中戦車1940年型は、第二次大戦勃発後、しかしソ連は参戦していない1940年9月からハリコフ機関車工場(第183工場)で生産が開始された。装備していたのは、30.5口径76.2ミリ戦車砲L-11(3インチ砲)で、砲塔は溶接構造だったが、すぐに生産効率の高い鋳造構造の量産型が生産されるようになった。つまり、鋳型(いがた)に金属を流し込んで成形する大量生産方式であるが、これには巨大な設備が必要で、日本もドイツでも、戦車の砲塔は溶接あるいはリベット(鋲)留め構造だった。


写真(右)2017年、ロシア共和国、モスクワ中央装甲車両博物館(Moscow Central Armed Forces Museum)ソ連赤軍のT-34/76戦車(1941年型)
;初期型は76.2ミリ砲を搭載していたが、1944年に登場した後期型は、砲塔を大型化し54.6口径85ミリ戦車砲ZiS-S-53(携行弾数56発)を搭載し、火力を強化された。奥には、T-28多砲塔戦車が見える。
Soviet WW2 era Medium Tank Also known as the T-34/76B, the 1941 model introduced the long barrelled F-34 gun, but was otherwise similar to the previous 1940 model. It still had a cramped interior and reliability issues. It was, however, still better than any opposing armour at the time and much more suited to dealing with the harsh conditions it fought in. On display at the Central Armed Forces Museum, Moscow, Russia. 26th August 2017 Date 26 August 2017, 14:43 Source T-34/76 Model 1941 - Central Armed Forces Museum, Moscow Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はwikipedia-commons、Category:T-34 Model 1941/42 File:T-34-76 Model 1941 - Central Armed Forces Museum, Moscow (38829236742).jpg引用。


T-34中戦車1941年型は、1940年型の搭載法を41.6口径76.2ミリ戦車砲F-34に強化したタイプで、車体前面の操縦手用ハッチなどが追加された。1941年と同じく、ハリコフ機関車工場で生産されたが、すぐにスターリングラードトラクター工場、第112工場などにも生産拠点が拡大され、悪化する戦局を支えるために、大量生産された。

写真(右)1946年5月8日、ドイツ,ベルリン中心部、ティーアガルテンのソビエト戦争記念碑(Soviet War Memorial、Tiergarten)に展示してあるソ連軍のT-34戦車:ドイツを解放したソ連赤軍の象徴とみなされた。
タイトル Alliierten-Parade am 8. Mai 1946 日付 1946.05.08 写真家 Abraham Pisarek (1901?1983) wikidata:Q330503 Institution Deutsche Fotothek Link back to Museum infobox template wikidata:Q655507 Deutsche Fotothek Logo 2012.svg Link to OpenStreetMapLink to Google Maps wikidata:Q655507 台帳番号 df_pk_0000178_007 原典 Deutsche Fotothek
写真は、ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・File: Sowjetisches Ehrenmal (Berlin-Tiergarten) Panzer.jpg引用。


1941年6月22日、ドイツがソビエト連邦を攻撃すると、が貝の危機に直面したソ連軍は、戦車の新規開発を停止して、この新型T-34中戦車を大量産する決定を下した。しかし、この他、軽戦車も並行して大量生産しているが、これは設備の更新が間に合わないためである。既存の戦車を急増することが第一に求められたのである。

写真(右)2010年、ドイツ,ベルリン中心部、ティーアガルテンのソビエト戦争記念碑(Soviet War Memorial、Tiergarten)に展示してあるソ連軍のT-34戦車
解説 T-34 Model 1943 tank at the Soviet Cenotaph in Berlin-Tiergarten. 日付 2010年6月2日, 14:06 原典 Soviet War Memorial 作者 Klearchos Kapoutsis from Santorini, Greece
写真は、ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・File: Sowjetisches Ehrenmal (Berlin-Tiergarten) Panzer.jpg引用。


写真(右)2004年、ドイツ,ベルリン中心部、ティーアガルテンのソビエト戦争記念碑(Soviet War Memorial、Tiergarten)に展示してあるソ連軍のT-34戦車(1942年型):ドイツを解放したソ連赤軍の象徴として、社会主義のドイツ民主共和国時代から展示されている。
解説 Deutsch: Berlin-Sowjetisches Ehrenmal (Tiergarten) - Panzer T-34/76 日付 2004年3月22日 原典 投稿者自身による作品 作者 Raimond Spekking
写真は、ウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・File: Sowjetisches Ehrenmal (Berlin-Tiergarten) Panzer.jpg引用。


写真(右)2007年6月、ドイツ,ベルリン中心部、ティーアガルテンのソビエト戦争記念碑(Soviet War Memorial、Tiergarten)に展示してあるソ連軍のT-34戦車(1934年型?)
Tanc al monument pel soldat rus caigut en combat 日付 2007年6月13日, 10:45:11 原典 originally posted to Flickr as Tanc al monument pel soldat rus caigut en combat 作者 Rafel Miro
写真はWikimedia Commons、Category:T-34 Model 1943 tanks at the Soviet Cenotaph in Berlin-Tiergarten ・File:Tanc al monument pel soldat rus caigut en combat.jpg引用。



写真(右)2007年、ドイツ連邦共和国、ベルリン、ティアガルテン広場、社会主義勝利を記念し展示されていたソ連赤軍のT-34/76戦車(1942年型)
;1945年4月に、初めてベルリンに突入したソ連T-34中戦車の1台が、社会主義によるファシズム解放を記念してベルリンに展示された。それを東ドイツ崩壊後のドイツ連邦も引き継いでいる。
Description A T-34 Model 1942 monument in Berlin. One of the first two T-34 tanks to reach Berlin in 1945. Date 13 May 2007, 13:40 Source The Soviet War Memorial in the Tiergarten Author Luis Villa del Campo from Madrid, Spain
写真はwikipedia-commons、Category:T-34 Model 1943 File:A T-34 Model 1942 monument in Berlin.jpg引用。



写真(右)2015年、ドイツ連邦共和国、ベルリン、ティアガルテン、社会主義勝利を記念し展示されていたソ連赤軍のT-34/76戦車(1943年型)
;初期型は76.2ミリ砲を搭載していたが、1944年に登場した後期型は、砲塔を大型化し54.6口径85ミリ戦車砲ZiS-S-53(携行弾数56発)を搭載し、火力を強化された。
Description English: A tank at the Soviet army cenotaph at Tiergarten. Berlin, Germany Date 19 June 2015, 18:53:00 Source Own work Author LBM1948
写真はwikipedia-commons、Category:T-34 Model 1943 File:Berlín, monumento al Ejército Soviético 4.jpg引用。


写真(右)2016年4月、ドイツ,ベルリン中心部、ティーアガルテンのソビエト戦争記念碑(Soviet War Memorial、Tiergarten)に展示してあるソ連軍のT-34戦車(1934年型?)
Deutsch: T 34 als Teil des Sowjetischen Ehrenmals Berlin (Tiergarten) English: T-34 Model 1943 tank at the Soviet Cenotaph in Berlin-Tiergarten 日付 2016年4月13日, 12:47:19 原典 投稿者自身による作品 作者 JoachimKohlerBremen
写真はWikimedia Commons、Category:T-34 Model 1943 tanks at the Soviet Cenotaph in Berlin-Tiergarten ・File:T 34 als Teil des Sowjetischen Ehrenmals Berlin (Tiergarten) 20160413- MG 0004.jpg引用。



写真(右)2008年、ドイツ連邦共和国、ベルリン、ソ連支配・東ドイツ時代の戦勝兵器展示を引き継いでいるソ連赤軍のT-34/76戦車(1942年型)
;初期型は76.2ミリ砲を搭載していたが、1944年に登場した後期型は、砲塔を大型化し54.6口径85ミリ戦車砲ZiS-S-53(携行弾数56発)を搭載し、火力を強化された。
Description English: Berlin in june 2008.
Date June 2008 Source Own work
Author Mark Ahsmann
写真はwikipedia-commons、Category:T-34 Model 1943 File:A T-34 Model 1942 monument in Berlin.jpg引用。



写真(右)2017年、ロシア連邦南部、クラスノダール(Краснода́р:Krasnodar)、戦勝兵器展示されているいるソ連赤軍のT-34/76戦車(1943年型)
;初期型は76.2ミリ砲を搭載していたが、1944年に登場した後期型は、砲塔を大型化し54.6口径85ミリ戦車砲ZiS-S-53(携行弾数56発)を搭載し、火力を強化された。
Description Музей военной техники "Оружие Победы". Парк культуры и отдыха имени 30-летия Победы, Краснодар. 4 June 2012, 05:06:18 Source Own work Author Yuriy75
写真はwikipedia-commons、Category:T-34 Model 1943 File:Музей военной техники Оружие Победы, Краснодар (70).jpg引用。


写真(右)1961年5月22日、東ドイツ、ポツダムに展示されたソ連赤軍のT-34/85戦車とSu-76自走砲:東ドイツでは、ファシズムの桎梏の下にあったドイツをソ連赤軍が解放したとされ、ソ連軍が解放者として讃えられた。そこで、敗戦国であるにもかかわらず、ソ連軍の勝利、共産主義政権の樹立を讃えるように、ヨシフ・スターリンが崇拝され、ソ連製T-34戦車やSu-76自走砲が誇らしげに展示されていた。
Original title: info Zentralbild-Mittelstädt-bgm-Gr 22.5.1967 Potsdam: Auf der Terrasse des Armeemuseums... erwecken besonders der Panzer T 34 und die Selbstfahrlafette Su 76 das Interesse der Besucher. Im Hintergrund sind Geschütze und Haubitzen aus dem 2. Weltkrieg zu sehen. Dating: 22. Mai 1967 Photographer: Mittelstädt, Rainer Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons; Bundesarchiv Bild 183-F0522-0014-001引用(他引用不許可)。


Su-76自走砲は、当初、ドイツ軍に包囲されたレニングラードで旧式化したT-70軽戦車の車体を利用した強力な自走砲を急増するために誕生した。

Su 76自走砲の諸元
全長:4.97 m、全幅:2.72 m、全高:2.10 m
重量:11.2 t、乗員:4名
最高時速:整地 45 km/h、航続距離: 250 km
兵装:76.2mm ZiS-3Sh野砲、車載機銃7.62mm DT機関銃
装甲:戦闘室面:25 mm、側面10mm、車体前面:25 mm
エンジン:GAZ-203水冷ガソリンエンジン(140馬力)

ソ連侵攻バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)に準備されたドイツ陸軍兵力は,北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープRitter von Leeb元帥),中央軍集団(司令官フォン・ボックvon Bock元帥),南方軍集団(フォン・ルントシュテットvon Rundstedt元帥)に分かれていたが,主力は,中央軍集団だった。

写真(右)ドイツ連邦共和国、ニーダーザクセン州、ハイデクライス郡、ミュンスター博物館で保管展示されているソ連製T-34/85戦車:76.2ミリ砲を搭載していたT-34/76戦車の砲塔を大型化し、54.6口径85ミリ砲を搭載。携行弾数は、56発。搭載した発動機は4ストロークV型12気筒液冷ディーゼルエンジン500馬力。重量32トン。
Soldaten Gewicht: 32,0 Tonnen Motorleistung: 368 kW (500 PS) Bewaffnung: 1 BK 85 mm L/51 M-44 sowie 1 Bug- u. 1 Turm - MG DTM, Kaliber: 7,62 mm x 54 Baujahr: 1944 - 1961 Stückzahl NVA: 1.346 (Gesammt T 34/76 u. T34/85 ca. 50.000) 原画像データの生成日時 2008年8月29日 (金) 11:02 原典 投稿者自身による作品 作者 Huhu at de.wikipedia。
写真はCategory:T-34-85 tank at the Panzermuseum Munster、File: Kampfpanzer T 34 85.JPG引用。


独ソ戦 バルバロッサ作戦Unternehmen Barbarossa)開始の時期には,突撃砲,自走砲(砲戦車)も多数投入された。これは,回転式砲塔をもたず,砲塔よりも余裕のある固定式の戦闘室に,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。


写真(右)2017年、イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているソ連赤軍のT-34/85戦車412号車
;初期型は76.2ミリ砲を搭載していたが、1944年に登場した後期型は、砲塔を大型化し54.6口径85ミリ戦車砲ZiS-S-53(携行弾数56発)を搭載し、火力を強化している。右に鏡があるので、投影している。
English: Taken in Bovington Tank Museum Date 6 August 2017, 10:56:28 Source Own work Author Makizox
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 Model 1944 in the Bovington Tank Museum File:T-34 85 Front Left Quarter.jpg引用。



写真(右)2010年、イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されている54.6口径85ミリ戦車砲ZiS-S-53搭載のソ連赤軍のT-34/85戦車412号車
;車体後部には、V型12気筒水冷ディーゼルエンジン500 馬力を搭載している。その航続距離を延長するために車体後部に燃料(ディーゼル)タンクを搭載している。ディーゼルはガソリンよりも引火性は低いので可能だが、ガソリンエンジンのドイツやアメリカの戦車では危険でできない措置だった。
T-34-85 tank in the Bovington Tank Museum. Date 18 April 2010, 14:20 Source Soviet T-34/85-11 Author Simon from United Kingdom
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 Model 1944 in the Bovington Tank Museum File:T-34-85 tank in the Bovington Tank Museum 2.jpg引用。



写真(右)2010年、イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているソ連赤軍のT-34/85戦車412号車車体後方
;搭載した4ストロークV型12気筒500 馬力水冷ディーゼルエンジンの排気管は、アメリカやドイツ戦車であれば煙が立って発見されないようにろ過装置マフラーが装備されるが、T-34戦車は装備していない。広範囲に高性能ディーゼル・エンジンを戦車に搭載したのは、実はソ連軍だけで、アメリカもドイツもガソリンエンジンを搭載していた。
Bovington Tank Museum 097 T34 Date 7 July 2010, 12:07 Source Bovington Tank Museum 097 T34 Author DAVID HOLT from London, England
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 Model 1944 in the Bovington Tank Museum File:Flickr - davehighbury - Bovington Tank Museum 097 T34.jpg引用。


ソ連赤軍のT-34/85戦車(1944年)は、全長 8.15 m、車体長 6.10 m 、全幅 3.00 m 、全高 2.72 m 、重量 32 トン。


写真(右)2010年、イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているソ連赤軍のT-34/85戦車412号車の54.6口径85ミリ戦車砲ZiS-S-53装備の砲塔正面
;初期型は76.2ミリ砲を搭載していたが、1944年に登場した後期型は、砲塔を大型化し85ミリ戦車砲ZiS-S-53を搭載し、火力を強化している。砲塔には、同軸7.62ミリ機関銃(Degtyaryov)の銃口が見える。車体前面の7.62ミリ機関銃のボールマウントにも装甲が施されている。
English: The Tank Museum Date 16 October 2013, 13:34:17 Source Wikimedia UK Author Nilfanion
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 Model 1944 in the Bovington Tank Museum https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_Tank_Museum_(2334).jpg引用。


ソ連赤軍のT-34/85戦車(1944年)の砲塔装甲は、前面 90ミリ、側面 75ミリ(傾斜 20度)、後面 52ミリ(傾斜 10度)である。車体装甲は、前面 45 ミリ(傾斜 60度)、側面 45 ミリ(傾斜 50度)、後面 45 ミリ(傾斜 47度)、上面 20 ミリである。

写真(右)2010年、フランス、メーヌ=エ=ロワール県、ロワール川流域のソミュール市、ソミュール戦車博物館に保管展示されているソ連赤軍のT-34/85戦車:車体の白帯マークは、第二次大戦末期、東西両戦線が接近し、西側連合軍によるソ連軍をドイツ軍と誤認する事故を防止するために決められた友軍標識である。したがって、この戦車は、独ソ戦末期の塗装を復元したものと思われる。
Français : musée des blindés de saumur Date Summer 2010 Source Own work Author Eric 81-68
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 tank a the Musée des Blindés, Saumur, France File:Char t34-85 au musée de saumur.JPG引用。


世界でも有名な装甲戦闘車量の博物館で、陸軍大国フランの歴史と伝統を感じさせる。野外ではなく、全てが館内に保管されているために、展示車両の劣化や損傷を最小限に抑えることができる。靖国神社の遊就館は、日本にある最大規模の戦争博物館となっているが、展示物ははるかに少ない。ソミュール戦車博物館には、専用の修理工場も備わっている。陸上自衛隊土浦駐屯地にも、八九式戦車、三式中戦車など貴重な戦闘車両や火砲が保管されているが、屋根のかかったガレージであり、密閉可能な保管車庫は存在しない。

写真(右)2008年、フランス、メーヌ=エ=ロワール県、ロワール川流域のソミュール市、ソミュール戦車博物館に保管展示されているソ連赤軍のT-34/85戦車
T-34-85 tank a the Musée des Blindés, Saumur, France. Date 22 August 2008, 15:00 Source T-34-85 Author Bigarren Mundu Gerra
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 tank a the Musée des Blindés, Saumur, France File:T-34-85 tank a the Musée des Blindés, Saumur, France.jpg引用。


76.2ミリ戦車砲装備のT-34/76戦車よりも、砲塔が大型化され、そこに大型の85ミリ高射砲を改造した戦車砲が搭載された。ドイツ軍ティーガーI重戦車の8.8センチ砲に近い威力を持っていた。ドイツの重戦車より防御力は劣っていても、機動性と量産性で勝っていたソ連軍T-34/85戦車は、優位に戦うことができた。戦後も、ソ連友好国・衛星国に配備され、1950年の朝鮮戦争にも大々的に投入されている。

写真(右)2007年、フランス、メーヌ=エ=ロワール県、ロワール川流域のソミュール市、ソミュール戦車博物館に保管展示されているソ連赤軍のT-34/85戦車:フランス市民レベルでは、ファシズムの桎梏の下にあったドイツをソ連赤軍が解放し、フランス復活にも貢献塩田として、第二次大戦直後には、ソ連軍は解放者の一員、連合国の同盟国として歓迎されていたとして讃えられた。ソ連軍の勝利を讃えるように、ヨシフ・スターリン、ソ連製T-34戦車が評価されていたようだ。
Description Deutsch: Sowjetischer T-34 Panzer (Baujahr 1944) Date 26 April 2007, 10:35:57
写真はwikipedia-commons、Category:T-34-85 tank a the Musée des Blindés, Saumur, France File:Char T 34 noBG.jpg引用。


写真(右)2014年12月、中華人民共和国,北京、軍事博物館(改装中)で野外展示されている中国軍の使用したソ連製T-34/85戦車(側面):76.2ミリ砲を搭載していたT-34/76戦車の砲塔を大型化し、54.6口径85ミリ砲を搭載したT-34/85中戦車。砲塔が大型化し、発動機は4ストロークV型12気筒液冷ディーゼルエンジン500馬力。 最大出力: 500hp/1,800rpm全備重量も32トンと増加した。
2014年12月21日筆者撮影。


写真(右)2014年12月、中華人民共和国,北京、軍事博物館(改装中)で野外展示されている中国軍の使用したソ連製T-34/85戦車(斜め後方):従来は北京の軍事博物館内の戦車展示場で公開されていたが、博物館を改修している最中は、野外に設けられた臨時展示場で公開されている。軍事博物館の野外展示は、無料で見学できる。
2014年12月21日筆者撮影。


1950年、朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮は南の韓国に侵攻したが、その目的は南北に分断された朝鮮の武力統一だった。もしも、住民の統一可否の選挙を行えば、事実上、アメリカの支援する豊かな韓国に、北朝鮮が併呑されてしまうと危惧していたのである。そこで、ソ連は、社会主義圏の傀儡国家北朝鮮を軍事支援し、アメリカは資本主義圏の傀儡国家韓国を軍事支援した。ソ連は、北朝鮮に200両のT-34/85中戦車を投入した。

写真(右)2014年12月、中華人民共和国,北京、軍事博物館(改装中)で野外展示されている中国軍の使用したソ連製T-34/85戦車(斜め前方):車体に搭載した車載機銃は7.62ミリ機関銃1丁、携行銃弾数1900発。
2014年12月21日筆者撮影。


T-34/85中戦車の諸元
全長 8.15 m
車体長 6.10 m
全幅 3.00 m
全高 2.72 m
重量 32 t
速度 55 km/h(整地)、30 km/h(不整地)
搭載火砲 85 mm ZiS-S-53(携行砲弾数56発)
車載機銃 7.62mmDT機関銃2丁
砲塔装甲
前面90 mm(曲面)
側面75 mm 傾斜20度
後面52 mm 傾斜10°
車体装甲
前面45 mm 傾斜60度
側面45 mm 傾斜50度
後面45 mm 傾斜47度
上面20 mm

写真(右)2014年12月、中華人民共和国,北京、軍事博物館(改装中)で野外展示されている中国軍の使用したソ連製T-34/85戦車(正面):従来は北京の軍事博物館内の戦車展示場で公開されていたが、博物館を改修している最中は、野外に設けられた臨時展示場で公開されている。軍事博物館の野外展示は、無料で見学できる。
2014年12月21日筆者撮影。


ソビエト連邦で生産されたT-34中戦車は、76.2ミリ砲を装備した初期型のT-34/76戦車が1940年-1944年の間に3万5,000輌で、85ミリ砲を装備した後期型のT-34/85戦車が1944年-1945年(終戦まで)の間に2万3,000輌も生産された。T-34/76中戦車の砲塔リング径は1,420ミリ、しかし大型砲を搭載するためにT-34/85中戦車では1,600ミリに半径を拡大した。東欧の社会主義圏の諸国にも貸与されたほか、1950年に勃発した朝鮮戦争では、北朝鮮軍にもその後の中国義勇軍にも配備されている。

写真(右)中華人民共和国,北京、軍事博物館(改装中)で野外展示されている中国軍の使用したソ連製T-34/85戦車の動輪(後方):従来は北京の軍事博物館内の戦車展示場で公開されていたが、博物館を改修している最中は、野外に設けられた臨時展示場で公開されている。軍事博物館の野外展示は、無料で見学できる。
2014年12月21日筆者撮影。


 従来、中国北京の軍事博物館は、室内の戦車展示場にT-34/85中戦車など戦車や装甲車を公開展示しており、中には車内に入ることのできるT-55戦車もあった。その時には、頭を戦車戦闘室内にぶつけないようなクッション式戦車用ヘルメットを貸してもらえるしかし、軍事博物館が老朽化してきたため、近代改装することとなり、2014年末には、軍事博物館内は改修の最中で、それまで室内に展示されていた大型の戦車、装甲車、航空機などは野外に設けられた臨時展示場で公開されている。ただし、軍事博物館の野外展示は、無料で見学できる。

写真(右)2014年12月、中華人民共和国,北京、軍事博物館(改装中)で野外展示されている中国軍の使用したソ連製T-34/85戦車の転輪(前方):従来は北京の軍事博物館内の戦車展示場で公開されていたが、博物館を改修している最中は、野外に設けられた臨時展示場で公開されている。軍事博物館の野外展示は、無料で見学できる。
2014年12月21日筆者撮影。


1934年に開発がスタートしたT-34/76戦車は、76.2 mm砲という当時としては強大な火砲を搭載し、ドイツ軍のIII号戦車やIV号戦車よりも遥かに優れた対戦車能力を誇っていた。また、T-34のキャタピラ(履帯)は、550mm幅で重量を分散して、不整地での機動性を維持している。76.2 mm砲を搭載したT-34/76中戦車は2万2,500輌も生産された。85mm砲を搭載したT-34/85中戦車と合わせて、T-34戦車は8万4,000輌も線参されている。戦後もソビエト社会主義圏の東欧諸国、北朝鮮、中国に輸出されている。

写真(右)2014年12月、中華人民共和国,北京、軍事博物館(改装中)で野外展示されている中国軍の使用したソ連製T-34/85戦車のゴム緩衝材を張った後輪:接地圧を均等にし、懸架の衝撃を吸収するには、転輪にゴム緩衝材を張るのは常識である。しかし、第二次大戦末期のドイツではゴムが不足したために、ゴム緩衝材を付けていない戦車用の転輪に変更された。T-34戦車の乗員の居住性は最悪であるともいわれるが、悪路での走行を考えると、ゴム緩衝材のないドイツ陸軍戦車の居住性も機動性もソ連戦車よりも優れていたとは言えないのである。
2014年12月21日筆者撮影。


斬新的なソ連赤軍のT-34/76戦車は、傾斜・曲面のついた装甲版を多用して、避弾径始を活かし防御力を強化していること、車体や砲塔を鋳造方式とし、生産性を高めている。搭載した戦車砲も当時の標準だった37mm砲、50mm砲より強力な76mm砲という大口径砲を搭載している。踏破性の高い幅広の履帯(キャタピラ)を装備し、燃費がよいディーゼルエンジンを搭載した。


9.ソ連赤軍ヨシフ・スターリンIS-2 重戦車




タンコグラード(チェリャビンスク)・キーロフ工場、スベルドロフスク・ウラル工場は協力して、55口径85mmM1939高射砲を搭載する重戦車を計画し、高射砲を改修した51.6口径85mmD-5T戦車砲を搭載するヨシフ・スターリンIS-85重戦車が開発された。しかし、この頃、T-34/76の砲塔を改修して、51.6口径85mmD-5T戦車砲が搭載できるT-34/85が完成した。そこで、新重戦車には、より強力な122mmA-19カノン砲を搭載することとなり、ヨシフ・スターリンIS-122重戦車が計画された。

51.6口径85mmD-5T戦車砲を搭載するIS-85重戦車は「IS-1重戦車」に、122mmA-19カノン砲を搭載するIS-122重戦車は「IS-2 重戦車」に改称され、両戦車とも制式になった。こうして、IS-2重戦車1943年12月からの生産が開始され、1944年1月からは発射速度を上げた43口径122mmD-25T戦車砲に変換したタイプが生産された。

ヨシフ・スターリンIS-2 重戦車の諸元
全長:9.90 m、車体長:6.77 m、全幅:3.09 m、全高:2.73 m
重量:46 t、乗員4名
最高時速:37 km/h、航続距離:240 km
兵装:46.3口径T 122mm 戦車砲
車載機銃:12.7mmDShk 機銃1丁、7.62mmDT 機銃2丁
砲塔装甲:前面100-120mm、側面90mm
車体装甲: 前面100-120mm、側面90mm、後面 60mm
エンジン:V-2-IS液冷ディーゼルV型12気筒 513 馬力 / 2000 rpm


10.ソ連赤軍 ヨシフ・スターリンIS-3 重戦車

写真(右) 1949年、第四回対日戦勝記念日、ドイツのベルリンを行進するヨシフ・スターリンIS-3 重戦車 :1945年の戦争最終年の対ドイツ戦に投入された重戦車で、重量45.8 - 46.5トン、最高時速40 km/h(整地)、19 km/h(不整地)、航続距離190 km、兵装は122 mm D-25T L/43戦車砲を搭載。122ミリ戦車砲は、半自動の鎖栓式だったが、砲弾は、薬莢と弾頭が分離しており、狭い砲塔内部での装填は容易ではなく、発射速度は遅くなった。
GERMANY UNDER ALLIED OCCUPATION., Catalogue number: BU 10257, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: 1945-1989、 Alternative Names: object category: Black and white 
Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Christie J (Sergeant)、 Object description: Soviet IS-3 Heavy Tanks pass the saluting base on the Charlottenburg Chaussee in Berlin during the Four Nations VJ Day parade..
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (H 14786)引用。


 ヨシフ・スターリンIS-3 重戦車Joseph Stalin 重戦車)は、IS-2戦車の改良型として、1944年10月31日に試作車が完成し1945年中に1,711輌が生産され、対ドイツ戦ンの最終局面に投入された。

 1945年8月初旬のソ連軍の満州(中国東北地方)侵攻に際しては、第一極東軍に配備されて実戦投入された。もちろん、満州駐留の日本軍(関東軍)は、対アメリカ戦争、対中国戦争に引き抜かれており、弱体であり、機甲師団もなく、ヨシフ・スターリンIS-3 重戦車の威力を対戦車戦闘で示す機会はなかった。




11.ソ連軍に貸与されたイギリス製戦車―マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車

写真(右) 1941年10月17日、イギリス、リバプール港、ソ連への武器貸与の軍事物資として輸送船でソ連ムルマンスク港にまで輸送されるイギリス製マチルダ Matilda Mark II 歩兵戦車
TANK FACTORY: THE CONSTRUCTION OF MATILDA TANKS, 1942., Catalogue number: H 14786, Part ofWAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Black and white 
Creator: War Office official photographer Taylor (Lt)、 Object description: Matilda tanks being loaded onto ships at Liverpool docks for shipment to the Soviet Union, 17 October 1941.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (H 14786)引用。


絵画(右)「ロシアへ積み出される戦車(Loading Tanks for Russia)」: 1942年、イギリスの港からソ連への武器貸与のためマチルダ Matilda Mark II 歩兵戦車を船積みしている。輸送船でソ連ムルマンスク港にまで輸送されるのであろう。
Loading Tanks for Russia., Catalogue number: Art.IWM ART LD 1922, Production date: 1941, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Materialsmedium: oil, Dimensions, Support: Height 482 mm, Support: Width 412 mm, Alternative Names: object category: painting Creator: Cole, Leslie, Category: art
Object description: image: A Matilda tank is being lowered by a crane onto the deck of a merchant ship. Six merchant seamen stand on the deck watching the tank being lowered whilst a soldier stands on the tank. On the deck on the right is another Matilda tank that has already been lowered, with a British Army officer in a red cap and a British soldier standing to the right. History note: War Artists Advisory Committee commission.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (H 14786)引用。


マチルダ Matilda Mark II 歩兵戦車の諸元:
全長:5.61m、全幅:2.59m 、全高:2.52m
重量:27.0t 、乗員:4名
最高時速:整地24km/h、航続距離:257km
オードナンス52口径2ポンド40ミリ速射砲(QF 2 pounder 40 mm:収容砲弾数 93発)
同軸機銃7.92ミリBESAベサ機関銃(7.92 mm Besa machine gun:銃弾2925発)
砲塔装甲:75 mm
装甲:車体前面75 mm、車体側面70 mm
搭載エンジン:液冷V型6気筒ディーゼル2基174馬力

写真(右) 1941年、イギリス、リバプール港、「ロシア戦車週間、秒読み開始」と書いたソ連への武器貸与されるバレンタインValentine歩兵戦車。輸送船でソ連ムルマンスク港にまで輸送される。
TANKS FOR RUSSIA, SMETHWICK, STAFFORDSHIRE, ENGLAND, UK, 1941., Catalogue number: P 231, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Black and white 
Creator: Ministry of Information official photographer、 Object description: Factory workers ride on Valentine tanks as they leave a factory in Smethwick. The notice on the front of the tanks reads "Tanks for Russia Week. Every Second Counts!". Chalked on the side of the tank (on the left hand side of the photograph) are the words "From Smethwick to Smolensk". The worker sitting on the turret of the tank in the foreground is holding a Russian flag.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (P 231)引用。


歩兵戦車(Infantry Tank)は歩兵に随伴して、歩兵の楯となって火力支援する戦車であるため、高速を発揮する機動性はなくてもよいが、標的になりやすいために重装甲が必要である。つまり、歩兵部隊を守る重戦車といえる。ただし、マチルダ Matilda Mark II 歩兵戦車の装備したオードナンス52口径2ポンド40ミリ速射砲(QF 2 pounder 40 mm:収容砲弾数 93発)は、1942年当時としては、ドイツ、日本の戦車と同様の口径で、取り立てて協力というわけではない。

他方、巡航戦車(Cruiser Tank)は、戦車を中心とした機械化装甲部隊として、迅速に行動できるような速力と機動力が重要で、そのためには、軽量化した車体とすることが求められる。そこで、戦車の装甲は薄くなり、巡航戦車(Cruiser Tank)は快速の軽戦車といえる。

写真(右) 1941年、イギリス、産業都市コヴェントリー西40キロのスメスウィックの戦車製造工場、「みんなでロシアを助けよう」と書いたプラカードを掲げ、イギリス国旗ユニオンジャックとソ連国旗赤旗をはためかせた労働者たちが、ソ連へ武器貸与するバレンタインValentine歩兵戦車の上で祝賀ムードで騒いでいる。
TANKS FOR RUSSIA, SMETHWICK, STAFFORDSHIRE, ENGLAND, UK, 1941., Catalogue number: P 233, Part of MINISTRY OF INFORMATION SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Black and white 
Creator: Ministry of Information official photographer、 Object description: Factory workers ride on Valentine tanks as they leave a factory in Smethwick. A notice propped on the front of the tanks reads "All Help for Russia Now". The workers are holding a Union flag and a Russian flag and many have their fists raised in a Communist salute.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・IWM (P 233)引用。


バレンタイン歩兵戦車の諸元:
全長:5.4 m、全幅:2.6 m、全高:2.2 m
最大装甲厚:65mm
重量:17 t
最高時速:15 km/h(整地)、8 km/h(不整地)
主砲はMk.I-VII:50口径2ポンド40ミリQF速射砲(砲弾搭載数60発)。バレンタインMk.I-VII歩兵戦車の2ポンド速射砲は、40ミリ対戦車とみなすことができるが、徹甲弾のみ準備され、榴弾はなかった。チャーチルMk.I歩兵戦車は砲塔に2ポンド速射砲を、車体前面に榴弾を使える3インチ(76ミリ)榴弾砲を搭載して火力支援も可能にしていた。
バレンタインMk.VII-X歩兵戦車は、砲塔に6ポンド(57ミリ)速射砲を搭載した改良型。


12.独ソ戦初期のドイツ軍戦車

I号戦車Panzer I)の小型砲塔を撤去して,そこに大型のアンテナと固定密閉式の戦闘指揮室を設け,通信設備を備えた指揮用戦闘車両。7.92ミリ機銃1丁を搭載。

ドイツは,ポーランドに侵攻,主力をフォン・ルントシュテット将軍率いる南方軍集団におき,ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将(1880-1958)の第十軍が中央に位置しワルシャワに向かった。
北方軍集団(フォン・ボック大将)は,ギュンター・フォン・クルーゲ大将の第四軍,ゲオルク・フォン・キュヒラー大将の第三軍,あわせて22個師団からなる。北方軍集団は,ドイツ領の東プロイセンから前進した。

ポーランド侵攻「事例・白」作戦の目標は,ヴィスワ川の西方でポーランド軍を包囲殲滅することである。このときの主力戦車は,I号戦車とII号戦車だった。

ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車,チェコ製ドイツ陸軍38(t)戦車もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。また,IV号戦車を改造した歩兵支援あるいは対戦車自走砲も製造された。

ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,II 号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコチェコ38(t)戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)は少なかった。III号戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。

II号戦車は,主力となるIII号戦車までの過渡的な戦車として,1937年から量産された。全長4.8メートル,全幅2.2メートル,全高 2.0メートル,重量7.2トン。 2センチ砲装備。エンジン140馬力,乗員3人。ポーランド進攻からフランス降伏まで,主力となったが,ソ連侵攻では,III号戦車,IV戦車の補助的存在として投入された。開戦当初から,対戦車戦闘は考慮されていなかったが,戦車の集団用法によって,電撃戦に貢献した。

1939年9月の第二次大戦勃発時のドイツ軍主力戦車だったII号戦車は、重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備,チェコ38(t)戦車は重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7を搭載していた。

ドイツ軍の次世代主力戦車はIII 号戦車Pz.Kpfw.III(Sd. Kfz. 141)で、1935年に開発開始。主砲は,3.7センチ砲で,射程1000メートルで30mmの装甲を貫徹できた。しかし,開発から5年後の1940年5月のフランス侵攻では,47口径の3.7センチ砲ではイギリス陸軍マチルダ戦車,フランス陸軍ソミュアS-35戦車の装甲を貫通困難だった。

3.7センチ砲装備のIII 号戦車Pz.Kpfw.III(Sd. Kfz. 141)は,1941年後半,ソ連軍T-34に対抗するために,60口径5センチKw.K.39 L/60,その後1942年末から長砲身43口径7.5センチStuK40L/43に換装した。しかし,T-34戦車には,この程度の対戦車戦闘能力では通用せずに生産中止。

IV号戦車E型(PzKpfw IV Ausf.E)諸元
全備重量21トン,全長5.9メートル,全幅2.8メートル,車高2.7メートル
時速42キロ(整地),航続距離200キロ,乗員5人
兵装:7.5センチ24口径砲(KwK 37 L/24),7.92ミリMG34機銃2丁

1941年6月勃発の独ソ戦当時,ドイツ軍戦車の主力は,新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)と?号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)だった。この中戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。

ドイツ装甲師団I号, II号,38(t),III号,IV号,V号,VI号戦車

写真(右)1941年6-7月,ソ連,指導者ヨセフ・スターリンのポスターがあるゲートを潜るドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Joseph Stalin( 1878年12月18日-1953年3月5日)は,独ソ戦の開始直後から,ソ連人民のドイツ軍への利敵行為を危惧していた。そこで,ウクライナ人,チェチェン人,タタール人をシベリア,中央アジアへ強制移住させた。彼らの分離独立,反共産主義が、侵略者のはずのドイツ軍を,同盟軍としてしまうことを心配したのである。このような圧制には,内務人民委員(NKVD)が活躍した。
Sowjetunion.- Panzer 38 (t) vor dem Eingang eines mit Porträts sowjetischer Politiker (links Josef Stalin) geschmückten Lagers; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Bieling 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


<ドイツ戦車の開発過程>
1933年1月のヒトラー内閣誕生,1934年のヒトラーの総統就任,1935年のベルサイユ条約の軍備制限を破棄しての再軍備宣言と,ドイツはヒトラー主導の下で,軍備拡張の準備を公然と開始した。

ドイツ軍の主力と位置づけられたIII号戦車は,1935年に開発が開始されている。III号はそれまでのドイツ戦車とは異なって,搭乗員に,戦車長(専属)を追加して,5人とした。つまり,戦車長,操縦手,砲手,無線手(前方機銃手),装填手という機能別の乗員割りである。

こうして,戦車長が指揮に専念できるようになり,機動力とならんで,戦車の集団用法が可能になった。

III号戦車の主砲は,それまでの2センチ砲より強力な3.7センチ砲で,射程1000メートルで30mmの装甲を貫徹できた。これは,当時の戦車を劇はできる攻撃能力であり,対戦車戦闘も可能だった。しかし,開発から5年後の1940年5月のフランス侵攻では,47口径の3.7センチ砲では英陸軍マチルダ戦車,フランス陸軍ソミュアS-35戦車の装甲には不十分だった。

3.7センチ砲を装備していたIII号戦車Pz.Kpfw.III(Sd. Kfz. 141)は,1941年後半,ソ連軍T-34に対抗するために,60口径5センチKw.K.39 L/60,その後1942年末から長砲身43口径7.5センチStuK40L/43に換装した。しかし,T-34戦車には,この程度の対戦車戦闘能力では通用しなかったため,生産中止。車体は,対戦車戦可能な突撃砲として1万台も量産された。

写真(右) 1942年夏 ,ソビエト連邦の南,ドン地方、スターリングラードに進撃するドイツ陸軍III号戦車の縦隊:未舗装道路を進撃する戦車の前面には,予備のキャタピラが置かれている。この鉄製の帯は,装甲版を増強したのと同じ効果があったため,敵の砲弾が命中しやすい車体前面に装着された。
III号戦車は,1941年から本格的な主力戦車配備され,3.7センチ砲を搭載していた。開発当初は,42口径5センチ砲を搭載していたが,ヒトラーは対戦車戦闘能力を重視し,さらに長砲身の60口径砲を搭載するように指示した。しかし,陸軍当局は,重量増加による機動性低下を嫌い,42口径砲のまま量産してしまう。60口径砲への転換が始まったのは,1941年4月にヒトラーが命令無視を知って以降である。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Panzer III in Fahrt auf unbefestigter Straße; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Geller撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


歩兵に火力支援する突撃砲はIII号戦車の車台上に,短砲身24口径7.5センチStuK37L/24大口径榴弾砲を搭載。火力は戦車よりも大きかった。1940年のフランス侵攻作戦にもIII号突撃砲は参加している。

その後,1942年以降,ソ連軍T-34に対抗するために,III号突撃砲は長砲身43口径7.5センチStuK40L/43を搭載,装甲を厚くした対戦車戦可能な突撃砲となった。1940年から敗戦まで1万両生産

ヒトラーは,戦争当初から対戦車戦闘で有利な長射程の長砲身5センチ砲を装備するように命じていた。

しかし,保守的なドイツ参謀本部は,対戦車戦闘には3.7センチ砲で十分だと考えていた。実際,1941年まで,対戦車砲も3.7センチ砲だった。チェコのスコダ社やフランス軍は既に47ミリ対戦車砲を開発していたから,ドイツ軍の対戦車兵器は弱体だった。

1936年に開発され,第二次大戦が勃発した1939年から生産されIV号戦車は,大直径のターレットリング,バスケット式の大型砲塔が特徴で,ここに当初の計画にはなかったような長砲身大口径砲とそれに見合った大型砲弾を搭載することができた。また,操縦手,砲手のほかに戦闘指揮に専念できる戦車長の合計4名の乗員のために,車内通話装置が完備していた。また,昇降ハッチは,乗員分が装備されており,乗り降りはもちろん,緊急時の脱出にも配慮されていた。

写真(右)1941-1942年,ドイツ陸軍IV号戦車 KwK L/24:24口径7,5センチ短砲身砲を装備した,当時の最新鋭戦車。ドイツの工場で,記録用に撮影された側面写真。
Panzer IV Ausf. F 1 mit 7,5 cm KwK L/24 ohne Hoheitsabzeichen; ca. 1941/1942 Dating: 1941/1942 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


IV号戦車E型(PzKpfw IV Ausf.E)諸元
全備重量21トン,全長5.9メートル,全幅2.8メートル,車高2.7メートル
時速42キロ(整地),航続距離200キロ,乗員5人
兵装:7.5センチ24口径砲(KwK 37 L/24),7.92ミリMG34機銃2丁

独ソ戦当時,ドイツ軍戦車の主力は,新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)だった。この中戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。

ドイツ軍の戦車は,決して強力な攻撃力・防御力を持っていたわけではないが,戦車の集団用法,強力な砲兵部隊と地上支援空軍を組み合わせた電撃によって大きな成功を収めてきた。1940年夏以降,長砲身60口径5センチ砲が装備された。しかし,実線に参加するのが遅れた上に,重装甲,76.2ミリ砲装備のT-34/76戦車には苦戦し,早期に退役を迫られた。ただし,突撃砲として車体生産は続行されている。

◆ヒトラーは,モスクワ攻防戦の敗北で,多数のドイツ兵士が死亡し捕虜になった時期,ゲットーや収容所でユダヤ人やソ連軍捕虜が生きながらえていることに,耐えられなかったに違いない。親衛隊ヒムラー長官に,全ユダヤ人を殲滅する口頭命令を下した。

ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺・虐待は,秘匿されてきたが,それは,殺戮を行っていることが知れ渡れば次のような支障が生じるからである。

1)敵は殺害されると知れば,抵抗をやめない。そこで,抵抗を弱めるために,姦計を弄して,処刑した。

2)残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。

3)後方・前線のドイツ人にとって,非人間的な虐殺・虐待は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にも虐殺・虐待を秘匿する必要があった。
 

虐殺・虐待という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。バルバロッサ作戦,スターリングラード攻防戦の背後には,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺の問題があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ませるわけにはいけないであろう。

ナチスは,人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきである。他方,人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人,スラブ人は下等人種・劣等民族であり,排除しなければならないとした。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,人「種」ではなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。

人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われており,似非科学な偏見,恣意的なご都合主義,プロパガンダに基づいている。為政者とは,人種・民族を自分の意図に都合よく定義,特定の人種民族を差別,迫害するものである。

◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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