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◆ドイツ装甲師団の戦車・自走砲 写真(右):1942年夏ごろ,ソ連に侵攻したドイツ軍装甲師団のIV号戦車1941年夏の撮影とドイツ連邦アーカイブの解説にあるが,右端の ?号戦車は,長砲身43口径7.5センチ砲を装備しており,1942-43年の撮影であろう。当初,ドイツ軍には75ミリ以上の長砲身戦車砲はなかったのである。
1941-42年のソ連軍冬季攻勢を持ちこたえたドイツ軍は,戦力を整えた。そして,1942年4月,南方方面軍によって,スターリングラード,カフカスを攻撃する「ブラウ」作戦を立案した。このときドイツ軍が侵攻した地域では,前年のウクライナ同様,共産党ボリシェビキ圧制からドイツ軍が解放してくれると期待した現地住民もあった
Deutsche Panzer in Bereitschaft vor dem Angriff Ukraine Sommer 1941撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真だけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。

『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。ナチ党の初期のポスター、社会民主党の反ナチポスターから、投票所の写真なども掲載しています。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールにゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。

1.I号戦車−ソ連侵攻バルバロッサ作戦にも投入

GERMAN TANKS AND MILITARY VEHICLES OF THE SECOND WORLD WAR写真(右)1930年代,ドイツ陸軍I号戦車Pz Kpfw Iによる演習:ここに見える13輌のI号戦車Pz Kpfw Iは訓練用に砲塔を撤去して、5名の乗員を載せている。I号戦車Pz Kpfw Iは、前席の操縦席を見学するように後席に3名が腰かけている。このように、ドイツ陸軍には戦車の砲塔を撤去して訓練用に利用する方法が戦前から採用されていた。そこで、そのスペースに注目して、大口径砲を搭載する自走砲の発想が早くから生まれたと考えられる。その後、I号戦車Pz Kpfw Iには15センチIG-33歩兵砲や4.7センチ対戦車砲が搭載されている。
Catalogue number: STT 6356A, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION, Subject period: Interwar, Alternative Names: object category; Black and white, Object description: Group of German Pz Kpfw I training tanks. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 6356A)


1939年5月23日,ベルリンの帝国官房(総統官邸)で,三軍総司令官が出席した会議で,ヒトラー総統は,「適当な機会があり次第,ポーランドを攻撃する」ことを宣言した。8月24日,空軍は出撃準備のために駐屯地から前進基地に入った。

写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入されたI号戦車:歩兵を追い越してゆくI号戦車だが,機銃しか装備していないうえに,装甲も薄かった。右の煙突のある貨車は,食事を作る調理車両。
Polen.- Panzer I und Infanterie auf schlammiger Straße; PK 637 (Ost) Dating: September 1939 Photographer: Wagner 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-012-0035-11A.引用


ドイツは,1939年9月1日、西部国境からポーランドに侵攻,主力をフォン・ルントシュテット将軍率いる南方軍集団におき,ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将(1880-1958)の第十軍が中央に位置しワルシャワに向かった。北方軍集団(フォン・ボック大将)は,クルーゲ大将の第四軍,キュヒラー対象の第三軍,あわせて22個師団からなる。北方軍集団は,ドイツ領の東プロイセンから前進した。

ポーランド侵攻「白」作戦の目標は,ヴィスワ川の西方でポーランド軍を包囲殲滅することである。

写真(右):1939年9月,ポーランド侵攻時,ドイツ国防軍I号戦車指揮車に続く II 号戦車と装軌式装甲車(ハーフトラック)。1941年6月に始まったソ連侵攻バルバロッサ作戦でも使用されている。
Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese stehend hinter einer Ortschaft. Vorne Befehlspanzer 1 Ausf. B auf Basis des Panzer I, dahinter Panzer II; KBK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Rascheit 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-318-0083-29引用 (他引用不許可)。


I号戦車の小型砲塔を撤去して,そこに大型のアンテナと固定密閉式の戦闘指揮室を設け,通信設備を備えた指揮用戦闘車両。7.92ミリ機銃1丁を搭載。

写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻参加したI号戦車:7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車。
An den Ufern der Brahe sichern deutsche Panzer das Gelände gegen Überfälle von versprengten polnischen Truppenteilen. Angespannt beobachtet der Kommandant mit dem Glas das Gelände, um sofort auf auftauchende Polen das Feuer eröffnen zu lassen. 4.9.1939 [Herausgabedatum] "Fr.OKW"-Sche Es muß genannt werden: Foto: Weltbild-Schwahn Dating: September 1939 Photographer: Schwahn 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1978-120-11引用


ヒトラーは,共産主義者・国際金融界の劣等人種ユダヤ人が,第一次大戦を敗北させたとして,犯罪者と決め付けており,第二次世界大戦では,ドイツの敵となる劣等人種・ボリシェビキのユダヤ人を抹殺し、ドイツ民族(アーリア人)を核とする大ドイツ帝国を生み出すことを決意した

写真(右):1941年6-7月,ソ連侵攻バルバロッサ作戦の時期,ドイツ国防軍I号戦車指揮車
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0006-28 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Befehlspanzer I Ausf. A auf einem Feld stehend; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0006-28引用 (他引用不許可)。


ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三軍集団あった。

北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。

中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。

写真(右):1941年6-7月,ソ連侵攻バルバロッサ作戦の時期,ドイツ国防軍I号戦車指揮車;機関銃のみで火砲は搭載していないが、前線指揮をとるための通信装置が充実している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0006-16 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Panzerbefehlswagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 265 auf Basis des Panzer I) auf einer Landstraße; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0006-16引用 (他引用不許可)。


1941年6月22日からのバルバロッサ作戦、対ソビエト連邦侵攻の時、ドイツ国防軍の南方軍集団(フォン・ルントシュテット元帥)は、3個軍,1個装甲集団を率いてガリチア,ウクライナ西部からキエフ攻略に向かった。

ドイツ軍は,中央軍集団(司令官フォン・ボック元帥)に主力を集中していたが,ソ連軍は南方戦線に主力を配備していた。ソ連南部は,ウクライナであり,穀物生産,石油,鉄鉱石,石炭を産出し,肥沃な土地である。また,ドイツの同盟国ルーマニアのプロエスチ油田を臨む地域でもあった。

写真(右)1941年6-7月,バルバロッサ作戦に参加したドイツ軍I号指揮戦車:旧式化したI号戦車の小型砲塔を取り除き,密閉式の戦闘指揮室を設けた戦車で,通信装置を充実させて、前線で戦車部隊を率いて移動しながら指揮をした。
Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Befehlspanzer I Ausf. A auf einer Landstraße; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf]撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0006-31引用 (他引用不許可)。


 ヒトラーは,博打的な戦略を好んだ。中部は沼沢地もあり,攻撃には不利だったが,このような地域こそ,予想外の電撃戦にふさわしいと判断した。

写真(右)1941年3月、北アフリカ戦線、ドイツ軍I号砲戦車 (Sd.Kfz 101):旧式化したI号戦車の旋回砲塔を除いて,チェコのスコダ47ミリ対戦車砲(4,7-cm-Pak(t))を搭載した砲戦車。回転砲塔ではないので,火砲の射界は狭い。
Nordafrika.- Selbstfahrlafette mit 4,7-cm-Pak(t) auf Fahrgestell des "Panzer I" ("Panzerjäger 1") in der Wüste, März-Mai 1941; PK "Afrika" Depicted place 北アフリカ 日付 1941年3月 写真家 Borchert, Erich (Eric)
写真はWikimedia CommonsCategory: Panzerkampfwagen I at the Panzermuseum Munster File: SdKfz101 2.jpg引用。


写真(右)1941年夏,ウクライナ西部,ドイツ軍I号砲戦車:旧式化したI号戦車の旋回砲塔を除いて,当時としては最強と言ってもよいチェコ製スコダ社47ミリ対戦車砲を搭載した砲戦車。回転砲塔ではないので,火砲の射界は狭い。Kurze Pause einer Mot-Einheit West-Ukraine 1941 Archive title: Sowjetunion, Westukraine.- Leicht getarnter Panzerjäger 1 (Selbstfahrlafette auf Fahrgestell des "Panzer I" mit 4,7-cm-Pak; Turmnummer 221) im hohen Gras Dating: 1941 Sommer.写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0110引用 (他引用不許可)。

1940年5月,ドイツ軍がフランスを攻撃したのは,装甲師団の展開に不利なアルデンヌ林のルートだった。
ソ連侵攻バルバロッサ作戦にあっても,ヒトラーは,沼沢地,河川が多く,ソ連軍が攻撃を予期しない中部地域に大軍を投入した。

写真(右)1941年4-5月,I号戦車にIG-33歩兵砲を搭載したI号15センチ自走重歩兵砲:Sturmpanzer I Bison (Sd.Kfz.101); 15cm sIG33(Sf) auf Panzerkampfwagen I
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-163-0328-15 Archive title: Griechenland.- Schweres Infanterie-Geschütz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B der 5. Panzerdivision; PK 690 Dating: 1941 April - Mai Photographer: Jesse Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-163-0328-15引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年6-7月,I号戦車にIG-33歩兵砲を搭載したI号15センチ自走重歩兵砲
Sowjetunion.- Getarntes, 15cm schweres Infanterie-Geschütz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B; PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Gellert撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-216-0406-33引用 (他引用不許可)。


1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,突如,ソ連を攻撃した。このは,ドイツ軍によるソ連攻撃バルバロッサBarbarossa作戦が実行されたのは,次のような理由からだった。

?バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のことである。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだとした。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃した。そして,ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。

ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。ただし,東方に向かうドイツ軍兵士は,独ソ不可侵条約の下で,スターリンがウクライナをヒトラーに貸与するという噂があった。

?フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。ただし,バルバロッサ作戦の準備は,英本土上陸作戦の意図を隠蔽する目的で行われる陽動だとされた。実際,ドイツ海軍軍令部は,2月18日の作戦日誌で,陽動作戦のことを記している。

写真(右)1942年6-7月,I号15センチ自走重歩兵砲:旧式化したI号戦車の砲塔を取り除き,車体上部に戦闘室を設けて、15センチ歩兵砲を装備。歩兵のための火力支援を行った自走砲で,対戦車能力はない。フランス侵攻にも参加しているが,ソ連侵攻でも強力な火力を生かすために投入された。その後,II号戦車の車体を利用した15センチ歩兵砲搭載の自走砲が開発された。
Sowjetunion.- Getarntes, 15cm schweres Infanterie-Geschütz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B bei Fahrt über eine Brücke; PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Gellert 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-216-0406-32引用 (他引用不許可)。
 

旧式なI号戦車でも,砲塔を撤去してしまえば,強力な火砲を車体に搭載すれば,まだ独ソ戦でも使用できた。

III号突撃砲は、短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24搭載でI号15センチ自走砲よりも、火力は小さい。しかし、歩兵への火力支援用でも、突撃砲の戦闘室は密閉、装甲を施されており、全高も低い。そこで、自走砲よりも突撃砲の防御力が高かった。

独ソ戦バルバロッサ作戦は,電撃戦の大成功の事例に挙げられる。しかし,東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡している。

ポーランド・ウクライナの係争の地で,ソ連領だったリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻「白」作戦前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐しレンベルク(リボフ)を占領。しかし,ドイツのソ連侵攻の一週間後の6月30日,ドイツ軍がリボフを再占領した。

I号戦車 Panzerkampfwagen I (MG) (Sd.Kfz.101) を見る。


2-1.II号戦車 Panzer II (Sd.Kfz. 124)−電撃戦の立役者となった軽戦車

写真(右)1939年4月20日,ドイツ陸軍II号戦車Panzer II によるチェコ、プラハ進駐:
Catalogue number: MH 13154 Part of CHAMBERLAIN PETER (MR) COLLECTION Subject periodInterwar Alternative Namesobject category: Photography Object description: German Panzer II tanks in Wenceslas Square in Prague, 20 April 1939. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (MH 13154)


1938年のミュンヘン協定で、ヒトラーは、チェコスロバキアからドイツ系住民(民族ドイツ人)の住むズテーテンラントを割譲させ、これが最後の領土要求だとミュンヘン協定を締結した。しかし、ヒトラーは50歳のうちに戦争を始める決意を固めており、イギリス、フランスの宥和政策が続くかどうかにかかわりなく、ポーランド、フランスに攻め入る覚悟だった。ナチスドイツのチェコ併合の尖兵となったのがII号戦車だった。貧弱な装甲で、2センチ砲と機銃しか備えていない軽戦車であり、フランス陸軍の戦車の方が対戦背や能力は遥かに高かった。チェコ併呑の時に、フランス軍がイギリス軍の支援の下にドイツに攻勢をかければ、ドイツ国防軍首脳あった英仏との戦争の危機感を高めて、第二次大戦の様相は異なったものになったかもしれない。

写真(右)1942年夏,対ソ戦2年目になっても,ドイツ軍にはII号戦車が使用されていた。2センチ砲:搭載の第14装甲師団所属と思われる。
Deutsche Panzer in Bereitschaft in einem Dorf der Kalmücken Archive title: Sowjetunion, Kalmükien.- Zwei Panzer II (14. Panzerdivision ?) in einer Ortschaft Dating: 1942 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0283引用(他引用不許可)


ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車,チェコ38t戦車もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。またI号戦車を改造した歩兵支援あるいは対戦車自走砲も製造された。

ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,II号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径、3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

新型の?号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲、 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲、KwK 37 L/24装備)は少なかった。?号戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。

写真(右)1942年6-7月,ソ連侵攻バルバロッサ作戦、ドイツ国防軍II号戦車:砲塔には、2センチ機関砲と7.92ミリ機関銃を装備しただけで、歩兵や自動車輜重隊に対する攻撃力はあったが、対戦車戦闘能力は低かった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0003-18A Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Panzer II auf einer Straße außerhalb eines Ortes; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf]撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0003-18A引用(他引用不許可)


II号戦車は,主力となる?号戦車までの過渡的な戦車として,1937年から量産された。全長4.8メートル,全幅2.2メートル,全高 2.0メートル,重量7.2トン。 2センチ砲装備。エンジン140馬力,乗員3人。ポーランド進攻からフランス侵攻まで,主力となったが,ソ連侵攻ではIII号戦車,IV戦車の補助的存在として投入された。開戦当初から,対戦車戦闘は考慮されていなかったが,戦車の集団用法によって,電撃戦に貢献した。

写真(右):1941年6-7月,バルバロッサ作戦,東部戦線のドイツ軍II号戦車:砲塔上にある展望ハッチから戦車兵が頭を出している。車体と砲塔の前面には,予備のキャタピラが置かれて,補助装甲板となっている。
Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Panzer II (Nummer A 96) mit angehängtem Faß auf einer Dorfstraße; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0003-14A引用 (他引用不許可)。


ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。これは過激な表現のプロパガンダではなく,本心だった。

1942年1月23日,ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。



2-2.ソ連製76.2ミリ野砲を搭載したマーダーII対戦車自走砲: Jagdpanzer Marder II

写真(右):1942年8-9月,武装親衛隊「ヴィーキング」(バイキング)師団の対戦車自走砲マーダーII型:チェコ38(t)戦車の砲塔を撤去してソ連製76.2ミリ砲を搭載したのが初期のマーダーIIIで、マーダーIIはドイツ軍II戦車の砲塔を撤去してソ連製76.2ミリ砲を搭載した対戦車自動砲。 Sowjetunion-Süd.- Division "Wiking" der Waffen-SS der beim Vorstoß zum Kaukasus; 2 SS-Männer vor "Jagdpanzer Marder II" Dating: 1942 August - September Photographer: Möbius撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)

武装親衛隊「ヴィーキング」(バイキング)師団には,ノルウェー,スウェーデンなど北欧の反共産主義者などが対ソ連戦に志願していた。
ノルウェーは,ドイツに占領され,クィスリング(元国防省)の傀儡政権が樹立された。ノルウェーの自立と強化を目指すために,あるいは仕事や出世の機会を得るために,武装親衛隊に参加したノルウェー人などがいた。

マーダーII 対戦車自動砲 Marder II (II号戦車の車体を利用した自走砲) を見る。


2-3.10.5センチ榴弾砲を搭載したII号自走砲ヴェスペ Wespe

写真(右):1943-1944年,イタリア、ドイツ軍II号戦車Panzer II (Sf) (Sd.Kfz. 124)を改造した自走砲ベスペWespe:大型の開放固定式戦闘室に10.5センチ榴弾砲を搭載した。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1983-003-15 Archive title: Zwei Soldaten vor Panzerhaubitze Wespe (leichte Feldhaubitze 18/2 auf Fahrgestell Panzer II (Sf) Wespe, (Sd.Kfz. 124)) Dating: 1943/1944 ca. Photographer: Woscidlo, Wilfried Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-311-0913-33A"引用(他引用不許可)


Sd. Kfz. 124 べスぺ Wespe諸元:
試作車完成1942年
生産期間1943 - 1944年に676輌。
全長4.79 m、全幅2.24 m、全高2.32 m
重量11.48 t
エンジン:6気筒マイバッハMaybach HL 62 TR 140 PS (138 hp, 103 kW)
速度:40 km/h(整地)、20 km/h(不整地)
航続距離:200 km(整地)、140 km(不整地)
主砲:105mm 軽榴弾砲(18/2 L/28) 32発搭載

写真(右):1944年3月,イタリア、ドイツ軍 II 号戦車を改造した自走砲ヴェスペWespe:戦車の砲塔を撤去して大型の開放固定式戦闘室を設けて10.5センチ榴弾砲を搭載した。隠蔽するための樹木の艤装を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-311-0913-33A Archive title: Italien, bei Nettuno.- Getarnter Panzerhaubitze Wespe (?) in Feuerstellung; PK 699 Dating: März 1944 Photographer: Koch Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-311-0913-33A"引用(他引用不許可)


第二次大戦前のソビエト連邦では、製造業は国営企業が担っており、農業面においても,農家個人の土地経営を認めず,集団農場化し,中興集権的な管理を進めていた。個人自営農家、自作農など多数の農民は、政府に土地を全て取り上げられてしまう。これに反対する民族派,自治派は,弾圧された。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発したが,ソ連はポーランド進駐以降,参戦しておらず,英独の戦いで,両国の国力が低下するのを待っていた。しかし,1941年6月22日,ドイツが独ソ不可侵条約を反故にして,ソ連へと侵攻してきたドイツ軍は,チェチェン人などを反ボリシェビキ闘争に巻き込んだ。

写真(右):1944年春,ソ連東部戦線、ドイツ軍 II 号戦車を改造した自走砲ベヴェスペWespe:転輪、動輪、キャタピラなどはそのままとして、生産の簡易化を企図した。砲塔を撤去したために、大きく余裕ある開放固定式戦闘室が設置できた。ここに10.5センチ榴弾砲を搭載した。隠蔽するための樹木の艤装を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-672-7647-35 Archive title: Sowjetunion, bei, Kowel.- Leichte Feldhaubitze 18/2 auf Fahrgestell PzKpfw II (Sf) Wespe (Sd.Kfz. 124); PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1944 Frühling Photographer: Krainer Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-672-7647-35"引用(他引用不許可)


II号戦車 Panzerkampfwagen II (Sd. Kfz. 121) を見る。


3-1.チェコ35(t)・38(t)戦車 Panzer 38(t)−ドイツ軍緒戦の主力となった外国戦車

◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。

写真(右)1941年6-7月,ソ連,ドイツ軍の採用したチェコ38(t)戦車Panzer 38(t) :当時としては、強力な47口径3.7センチ砲を搭載し、装甲も最大5センチと防御力も強固だった。のちに、43口径7.5センチ戦車砲を搭載した駆逐戦車「ヘッツァー」に発展し、終戦まで生産が続行された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-006-2249-12 Archive title: Sowjetunion.- Besetzung einer Ortschaft. Panzer 38(t); PK 612 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Bauer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人ナショナリストは,ドイツ軍を歓迎。ソ連の秘密警察NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人ナショナリスト,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。4週間で,リボプのユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)

ドイツ軍によるポーランド侵攻とソ連侵攻の共通する暗部は,ユダヤ人を初めとする敵性住民を即決処刑したことである。独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。独ソ

他方,独ソ戦の東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡した。

写真(右)1941年10月,対ソ戦の東部戦線北部,チェコ38(t)戦車:38(t)のtはトンではなく、チェコを意味する。チェコスロバキアを併合したドイツがスコダ社で生産していたチェコスロバキア軍の戦車を,ドイツ軍も引き続き第一線で使用した。
Sowjetunion-Nord.- Panzer 38(t) und Infanterie in einen Birkenwäldchen; PK 694 Dating: Oktober 1941 Photographer: Gebauer撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-213-0267-12引用(他引用不許可)


38tはチェコのシュコダ社の設計,生産になる戦車で,tはチェコを意味する。チェコは,大戦勃発前にドイツに占領されたため,シュコダ社の戦車・火砲などは,ドイツ軍のために生産が続行された。

写真(右)1941年10月,雪の降り始めた東部戦線を進撃する35t戦車 :Sowjetunion.- Panzerkolonne, deutsche Soldaten auf Panzern 35t in Fahrt im Schnee; PK 697 Dating: Oktober 1941 Photographer: Böhmer撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-268-0185-05A引用(他引用不許可)

ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。-----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」

写真(右)1941年6-7月,ソ連,指導者ヨセフ・スターリンのポスターがあるゲートを潜るドイツ軍38(t)戦車:38(t)のtはトンではなく、チェコを意味する。Joseph Stalin( 1878年12月18日-1953年3月5日)は,独ソ戦の開始直後から,ソ連人民のドイツ軍への利敵行為を危惧していた。そこで,ウクライナ人,チェチェン人,タタール人をシベリア,中央アジアへ強制移住させた。彼らの分離独立,反共産主義が、侵略者のはずのドイツ軍を,同盟軍としてしまうことを心配したのである。このような圧制には,内務人民委員(NKVD)が活躍した。
Sowjetunion.- Panzer 38 (t) vor dem Eingang eines mit Porträts sowjetischer Politiker (links Josef Stalin) geschmückten Lagers; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Bieling 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-265-0035A-26A引用(他引用不許可)


1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。
◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持つ。

1941年11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。

◆ドイツ軍司令官は弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。戦開始の時期には,ドイツ陸軍はIII号戦車,IV戦車を主力として,ソ連軍戦車よりも優れていると考えていた。しかし,戦車の数量は劣っていることが判明していたので,生産コストの高い回転砲塔を持つ戦車ではなく,突撃砲,自走砲(砲戦車)を装備して,戦車を補助あるいは歩兵支援を充実させようとした。

1941年6月22日以降のドイツのソ連侵攻は,ユダヤ人など下等劣等人種の殲滅戦争の第二段階だった。

既に,バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていた。

1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。

チェコ38(t)戦車 Panzer 38(t) (Panzerkampfwagen 38(t))を見る。


3-2.38(t)対戦車自走砲 Jagdpanzer マーダーIII−接収したスコダ38(t)戦車の即席活用

写真(右)1942年8-9月,ソビエト連邦南部、ドイツ軍のマーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139)ソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲(7.62cmPak36(r))を搭載したが、これhマーダーIIと同一の火砲である。
Sowjetunion-Süd.- Soldaten auf Jagdpanzer Marder 2 (Sd.Kfz. 132); PK 694 Dating: 1942 August - September Photographer: Scheffler撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-217-0485-28引用(他引用不許可)


38(t)対戦車自走砲マーダーIII(Jagdpanzer Marder III)はチェコ製のチェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を取り除き,開放式戦闘室を設けて,そこにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲7.62cmPak36(r)を装備した対戦車自走砲である。全長 5.9メートル,全幅2.2メートル,全高 2.5メートル,重量10.7トン。占領国チェコ製の車体に,ソ連製の火砲をつけたハイブリッド型の戦闘車両だった。

旧式化したチェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を取り除き,車体上部に戦闘室を設けて,ここにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲を装備したのがマルダーIII。歩兵の火力支援ではなく,応急の対戦車自走砲を製造した。対戦車能力はあるが,装甲が薄く,戦闘室は開放されているために,防御力はきわめて弱い。

写真(右)1943 年頃、ドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139) :記録用写真。シュコダ38(t)戦車の車体に,ソ連軍76.2ミリ野砲を搭載。

Catalogue number: STT 4605, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 4605)


マーダー III対戦車自走砲 Marder III (Sd. Kfz. 139) (チェコ38(t)戦車にソ連製76.2ミリ野砲を搭載)

ソ連侵攻でT-34など強力なソ連軍戦車に直面したドイツ軍は,対戦車能力の低い戦車しかなかったために,急遽,対戦車自走砲を生産したのである。その後, II号戦車の車体を改造したマーダー II(Marder II)も生産された。新型戦車が登場するまでの繋ぎのはずだったが,対戦車自走砲は,敗戦まで使用された。


写真(左)1943年2-3月,7.5センチ対戦車砲装備の対戦車自走砲マーダーIII H型:武装親衛隊「アドルフ・ヒトラー」師団の対戦車自走砲。それ以前の初期型マーダーIII対戦車自走砲は,チェコ・シュコダ38(t)戦車の車体に,ソ連軍76.2ミリ野砲を搭載。
Inventory: Bild 101 III - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Waffen-SS Signature: Bild 101III-Roth-173-01 Old signature: Bild 146-1977-127-11 Archive title: Sowjetunion, Kampf um Charkow.- Männer des Panzer-Regiments 1 der Waffen-SS-Division "LSSAH" (Leibstandarte-SS Adolf Hitler) beim Angriff auf Charkow, Panzerjäger "Jagdpanzer Marder III" und Infanterie in Wintertarnanzügen in verschneitem Gelände; SS-PK Dating: 1943 Februar - März Photographer: Roth, Franz撮影。

写真(右)1941年10-11月,ソ連中部,通信装置をつけたドイツ軍戦車兵
Rußland-Mitte.- Soldat der Panzertruppe mit Eisernem Kreuz (Band; Porträt); PK 689 Dating: 1941 Oktober - November Photographer: Götze 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


◆1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。この時期は,独ソ戦でドン川西岸にあった南方軍集団が,ロストフから,カフカスに南下し,スターリングラードに東進していた時期だった。東方ソ連で[ブラウ」作戦が発動した時期に,ユダヤ人絶滅政策が本格的に始動した。これは,ロシアのボリシェビキ殲滅戦と対比しながら,考えることができる。

バルバロッサ作戦の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされた。

ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランド,ウクライナでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害に同調する動きも,現地のポーランド人,ウクライナ人の間に起こった。

ユダヤ人迫害の理由は,ユダヤ人が,ソ連共産党ボリシェビキの下で,政治的,経済的に優位にあった,現地のポーランド人,ウクライナ人を抑圧したという偏見だった。

しかし,ナチスドイツは,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与する下等劣等人種は全て排除するつもりだった。

世界戦争となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである、こうヒトラーは考えた。 そして、東方ソ連を,ドイツの生存圏となるべき植民地と考え,その住民は農奴扱いしたためである。ドイツ軍のソ連侵攻後,東方ソ連でもユダヤ人迫害が開始された。

◆一度隔離した敵ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜は,労働可能であっても,解放することは考えられない。強制収容所に拘束したユダヤ人,ソ連軍捕虜は,奴隷労働者として使い捨てにするか,殺戮することになった。

写真(右)1943 年頃、東部戦線で偽装を施したドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲H型( Sd.Kfz.138 Panzerjäger 38 für 7.5cm PaK40/3 Ausf.H Marder III H ) :それまでのソ連製76.2ミリ野砲ではなく、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲を搭載した。車高も若干低くなった。
Catalogue number: STT 3785, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 3785)


ドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲H型は、チェコ38(t)戦車G/H型の車台中央に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載。マーダーIII H型はM型とは異なり、エンジン位置を原型の戦車から変更していない。マーダーIIIとは搭載砲が異なる。

チェコ38(t)戦車G/H型の車台をそのまま生かして7.5cm砲Pak40を搭載したマーダーIII H型はM型とは異なり、車体中央に対戦車砲を搭載しており、アンバランスな感がある。他方、マーダーIII対戦車自動砲(Sd.Kfz.139)は、ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak36野砲を搭載したもので、車高が高くトップヘビーで、不安定であり、隠密性も損なわれている。

マーダー III対戦車自走砲H型 Marder III (Sd. Kfz. 138) (38(t)戦車に7.5センチ対戦車砲を搭載)

写真(右):1944年1-2月,東部戦線のドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲M型(Marder III Ausf. M :Sd. Kfz. 138) :それまでのソ連製76.2ミリ野砲ではなく、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲を搭載した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0885-05 Archive title: Sowjetunion.- Marder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138) in Fahrt auf Straße; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0885-05"引用(他引用不許可)


マーダー対戦車自走砲M型(Marder III Ausf. M :Sd. Kfz. 138)は、シュコダ38(t)戦車を母体とした対戦車自走砲の最終版で、7.5cm40式3型対戦車砲を搭載している。この38(t)対戦車自走砲マルダーIII M型は、戦車よりも防御力は遥かに劣るが、生産が容易であり、多用された。

写真(右):1944年4-5月,イタリア戦線のドイツ陸軍対戦車自走砲マーダーMarder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138):Sd Kfz 138 マルダーIII Ausf. Mは、チェコのシュコダ38(t)戦車を母体とした7.5cm40式3型対戦車砲を搭載した対戦車自走砲。しかし、対空戦闘能力はなく、戦車のよう防御用の装甲板もなかったので、敵に発見されないように偽装に注意を払う必要があった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-313-1050-28 Archive title: Italien.- Getarnter Marder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138) auf einer Landstraße an einem Hang; PK 1944 Dating: 1944 April - Mai Photographer: Micheljack Origin: Bundesarchiv  写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-313-1050-28"引用(他引用不許可)


写真(右)1944 年頃、ドイツ陸軍マーダー III 対戦車自走砲 Marder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138):真横から見た記録用写真。
Catalogue number: STT 7224, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7224)


チェコ38(t)戦車の車体に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載した。ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak36野砲を搭載した自走砲、ドイツ軍の7.5cm砲Pak40を搭載したH型に続き、エンジンを前方に移動して後方に7.5cm砲Pak40砲搭載したのがマーダーMarder III 最終型のM型である。

写真(右)1944 年頃、ドイツ陸軍マーダー III 対戦車自走砲 Marder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138):記録用写真。
Catalogue number: STT 7227, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Label: German Marder III tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7227)


写真(右):1944年4-5月,イタリア戦線のドイツ陸軍マーダー III 対戦車自走砲M型 Marder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138) (チェコ38(t)戦車に7.5センチ砲を搭載した自走砲)
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-313-1050-29 Archive title: Italien.- Getarnter Marder III Ausf. M (Sd. Kfz. 138) auf einer Landstraße an einem Hang; PK 1944 Dating: 1944 April - Mai Photographer: Micheljack
 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-313-1050-29"引用(他引用不許可)


マーダー III 対戦車自走砲M型 Marder III Ausf.M (Sd. Kfz. 138) (38(t)戦車に7.5センチ砲を搭載) を見る。

チェコ38(t)戦車の車体の後方に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載するためエンジンを前に移動している。1943年5月に生産を開始し、マーダー最終型として駆逐戦車ヘッツァーと交代するまで942輌生産された。

ロシア帝国に組み込まれたチェチェンでは,19世紀にイスラム教徒を中核とした反乱が繰り返されたが,1917年のロシア革命後、ボリシェビキのソ連の下で,民族自治が開始された。1924年,チェチェン州、イングーシ州が新設され,1936年にチェチェン・イングーシ自治共和国が設立,ソビエト連邦を構成する共和国の一員となった。

しかし,レーニンの死後,ソ連共産党の独裁者に上ったヨシフ・スターリンは,カフカス出身だったが,民族別の自治共和国連邦制を改め,中央集権的な国家に再編成しようとしたために,自治の動きは抑圧された。


4.対戦車自走砲マーダーI対戦車自走砲(Jagdpanzer "Marder I")−鹵獲フランス軍牽引車の即席活用

写真(右):1942年,フランス南部のドイツ陸軍マーダー?対戦車自走砲(Jagdpanzer "Marder I")
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-258-1326-22 Archive title: Südfrankreich.- Jagdpanzer "Marder I"; PK 696 Dating: 1942 Photographer: Wegner Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-258-1326-22"引用(他引用不許可)


ドイツ陸軍対戦車自走砲Jagdpanzer マーダーI "Marder I":7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マルダーIは第二次世界大戦期にドイツ陸軍が鹵獲したフランス陸軍の牽引車を活用した簡易型の対戦車自走砲である。

写真(右):1943-1944年,ベルギーあるいはフランスのドイツ陸軍マーダー?対戦車自走砲(Jagdpanzer "Marder I")
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1701-26 Archive title: Im Westen: Belgien/Frankreich.- Nachschub per Eisenbahn, Jagdpanzer "Marder I", 7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) nach dem Abladen; PK 698 Dating: 1943/1944 Photographer: Müller, Karl Origin: Bundesarchiv  写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-297-1701-26"引用(他引用不許可)


第二次世界大戦期にフランスを降伏させたドイツは、多数のフランス軍用車両を鹵獲した。そこで、フランスの牽引車を原型に、7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マルダーIを開発した。

写真(右):1943-1944年,ベルギーあるいはフランスのドイツ陸軍マーダー?対戦車自走砲(Jagdpanzer "Marder I")
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1701-20 Archive title: Im Westen: Belgien/Frankreich.- Nachschub per Eisenbahn, Jagdpanzer "Marder I", 7,5cm Pak auf französischen Lorraine Fahrgestell; PK 698 Dating: 1943/1944 Photographer: Müller, Karl Origin: Bundesarchiv  写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-297-1701-20"引用(他引用不許可)


7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マルダーIは、第二次世界大戦期にドイツ陸軍が鹵獲したフランス陸軍の牽引車・弾薬運搬車をベースにした対戦車自走砲を活用した簡易型の対戦車自走砲である。

写真(右):1943-1944年,ベルギーあるいはフランスのドイツ陸軍マーダー?対戦車自走砲(Jagdpanzer "Marder I"):
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1701-22 Archive title: Im Westen: Belgien/Frankreich.- Nachschub per Eisenbahn, Jagdpanzer "Marder I", 7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) nach dem Abladen; PK 698 Dating: 1943/1944 Photographer: Müller, Karl Origin: Bundesarchiv  写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-297-1701-20"引用(他引用不許可)


7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マルダーIは第二次世界大戦期にドイツ陸軍が鹵獲したフランス陸軍の牽引車を活用した簡易型の対戦車自走砲である。

1937年から1940年5月までに、フランスは387輌の砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lを生産したが、1940年6月のフランス降伏で多数がドイツ軍に鹵獲された。そこで、砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lの車体に7.5 cm PaK40対戦車砲を搭載し自走砲とした。

写真(右):1943-1944年,ベルギーあるいはフランスのドイツ陸軍対戦車自走砲 マーダー?(Jagdpanzer "Marder I")
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1701-24 Archive title: Im Westen: Belgien/Frankreich.- Nachschub per Eisenbahn, Jagdpanzer "Marder I", 7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) nach dem Abladen; PK 698 Dating: 1943/1944 Photographer: Müller, Karl Origin: Bundesarchiv  写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-297-1701-24"引用(他引用不許可)


1937年から1940年5月までに、フランスは387輌の砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lを生産したが、1940年6月のフランス降伏で多数がドイツ軍に鹵獲された。そこで、砲牽引車・装甲輸送車ロレーヌ 37Lの車体に7.5 cm PaK40対戦車砲を搭載し自走砲としたのである。

写真(右):1943-1944年,ベルギーあるいはフランスのドイツ陸軍対戦車自走砲マーダー? (Jagdpanzer "Marder I")の後部:7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マーダー?は第二次世界大戦期にドイツが開発した対戦車自走砲である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1701-34 Archive title: Im Westen: Belgien/Frankreich.- Nachschub per Eisenbahn, Panzerjäger "Marder I", 7,5cm Pak ?auf Gw Lorraine (fr.) mit Anhänger, Fahrt durch Ortschaft; PK 698 Dating: 1943/1944 Photographer: Müller, Karl Origin: Bundesarchiv  写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-297-1701-34"引用(他引用不許可)


7,5cm Pak auf Gw Lorraine (fr.) マルダーI、フランスで鹵獲した弾薬運搬車をベースにした対戦車自走砲。他方、マーダーIIIは第二次世界大戦期にナチス・ドイツがチェコのシュコダ38(t)戦車をベースに開発した対戦車自走砲である。

Sd Kfz 138 マルダーIII Ausf. Mは、チェコのスコダ社が開発した38(t)戦車を母体とした車体に15cm sIG33重歩兵砲を搭載した自走砲榴弾。しかし、対空戦闘能力はなく、戦車のよう防御用の装甲板もなかったので、敵に発見されないように偽装に注意を払う必要があった。

写真(右):1941-42年,ユーゴスラビア,パルチザン掃討戦を戦うドイツ軍の鹵獲したフランス戦車ホチキスH-39
Jugoslawien.- Soldat mit Gewehr zielend in Deckung hinter erbeutetem französischer Panzer Hotchkiss H-39 (Nummer 4981) mit Totenkopf am Heck, in Stellung vor Gebäuden; PK 690 Dating: 1941/1942 Photographer: Baier撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-174-1154-13.引用(他引用不許可)


ユーゴスラビアの抵抗運動は,セルビア人のチュトニクと共産主義者チトーに率いられたパルチザンに大別できる。この二派のパルチザンは,イデオロギー,民族の観点から対立していて,武装闘争に陥ることもあった。
ドイツ軍は,1940年のフランス降伏の戦利品であるフランス製戦車ホチキスH-39(Hotchkiss H-39)を,後方ユーゴスラビアにおけるパルチザン鎮圧のゲリラ戦,治安対策に投入した。


3-3.駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) ヘッツァー"Hetzer" (Panzerjäger 38(t) Sd.Kfz.138/2)

写真写真(右)1944年,バルカン半島ハンガリー、ドイツ軍の駆逐戦車ヘッツァー(勢子):機械化されたのは一部の部隊であり、戦争後期のドイツ軍にも馬匹による輸送は重要な役割を担っていた。馬は弾薬箱を運搬しているようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-715-0212A-06A Archive title: Balkan, Ungarn.- Jagdpanzer 38(t) "Hetzer" (Panzerjäger 38(t), Sd.Kfz.138/2) in einer Ortschaft neben beladenen Pferden / Mulis; KBZ HGr Südukraine Dating: 1944 Photographer: Kreutzer, Wilhelm撮影。 Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-715-0212A-06A"引用(他引用不許可)。


駆逐戦車ヘッツァーJagdpanzer 38(t) "Hetzer" (Panzerjäger 38(t))は、1943年12月に設計完了、1944年1月24日にはモックアップ完成と、設計から生産までの期間は短縮されたのは、資源節約型の対戦車車両として有望だったためで、一年後の国民戦闘機(フォルクス・イェーガー)HE-162ジェット戦闘機と類似したコンセプトである。

写真(右)1944 年に登場したドイツ陸軍チェコ、スコダ38(t)戦車をベースに開発された駆逐戦車ヘッツァー:
Catalogue number: STT 7560, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t). Label: German Jagdpanzer 38(t) tank destroyer. Also known as the 'Hetzer'. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7560)


チェコのBMM社は、小型のスコダ38(t)の生産ラインを活用して、攻撃力を増した駆逐戦車を生産することになった。既に生産されていた?号突撃砲の重量25トン以上だったが、新たな駆逐戦車ヘッツァーは38(t)戦車を基にしているためにその半分の重量だった。

写真(右)1944 年頃、西側連合軍が撃破したドイツ陸軍駆逐戦車ヘッツァーの後部:開けた草地にある駆逐戦車ヘッツァーは右側のキャタピラが破損して外れており、周囲には後部に装備された部品が散らばっている。戦闘爆撃機(ヤーボ)に襲撃され撃破されたのであろうか。
Catalogue number: STT 7564, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t). 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7564)


写真(右)1944 年頃、西側連合軍に撃破されたドイツ陸軍駆逐戦車ヘッツァー:側面上方よりの形状。
Catalogue number: STT 7662, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Knocked-out Jagdpanzer 38(t). Label:Knocked-out Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer' tank destroyer.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7662)


駆逐戦車ヘッツァー諸元:
全長:6.27 m、車体長:4.87 m、全幅:2.63 m、全高:2.17 m
重量:15.75 t
速度:路上42 km/h、路外15 km/h、航続距離:177 km
主砲:48口径7.5cm PaK39 L/48(41発)、車載機銃:7.92mm MG34機銃1丁
装甲:車体前面60mm、側・後面20mm、底面10mm
動力:マイバッハ Hl 203 P 30直列6気筒液冷ガソリンエンジン 160 馬力
乗員:4 名

写真(右)1944 年頃、西側連合軍が撮影した鹵獲されたドイツ陸軍駆逐戦車ヘッツァー:前方上よりの形状。
Catalogue number: STT 7562, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t).
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7562)


駆逐戦車ヘッツァーの戦闘室内は狭いために、左の運転席のスペースを確保するために、主砲の7.5センチ砲を中心線上に搭載できず、右に寄せて搭載した。そのため、左右の重量バランスが悪化して機動性が低下した。 駆逐戦車ヘッツァーは、戦争末期に登場したが、1944年から1945年5月のドイツ降伏までに、チェコのBMM社とシュコダ社で合計2,827輌が量産された。

写真(右)1944 年頃、西側連合軍が撮影した鹵獲されたドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車:斜め後上方よりの形状。
Catalogue number: STT 7566, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer 38(t).
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7566)


駆逐戦車Jagdpanzer 38(t)ヘッツァーの搭載した48口径7.5cm PaK39 L/48(41発搭載)は、?号戦車の後期型が搭載した戦車砲と同じである。

駆逐戦車38(t)ヘッツァー Jagdpanzer 38(t) (チェコ38(t)戦車に7.5センチ砲を搭載)を見る。


3-3.38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) (SdKfz 140)

写真(右)1944 年頃、ドイツ陸軍38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) SdKfz 140:記録用写真。
Catalogue number: STT 7486, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer Flakpanzer 38(t)
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7486)


チェコ38(t)戦車の車体を利用しているが、エンジン位置は重心のバランスをとるために、マルダーIII M型、グリレと同様に、中央に移動している。装備した対空兵器は、65口径2センチFlaK 30対空機関砲2 cm FlaK 30 L/65)1門で、車体後部の開放式の戦闘室に装備した。 機関砲1門搭載なので、戦闘室内で360度の車角が確保されており、戦闘室前部の装甲板を折りたたむことで、対地射撃も可能。 写真(右)1944 年頃、ドイツ陸軍38(t)対空車自走砲 Flakpanzer 38(t) SdKfz 140:真横から撮影した記録写真。
Catalogue number: STT 7484, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Jagdpanzer Flakpanzer 38(t)
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7484)


65口径2センチFlaK 30対空機関砲(2 cm FlaK 30 L/65)は、1934生産開始、発射速度毎分280発。 全長:4.95 m、全幅:2.15 m、全高:2.25 m、重量9.8 t。乗員4名。生産数は1943年11月から1944年2月まで140輌程度。


5-1.III号戦車−3.7センチ砲搭載の対戦車戦用の戦車

写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入された47口径3.7cm戦車砲(KwK36:携行弾数120発)のIII号戦車D型:最大装甲15ミリ。1938年1-6月に30両生産。III号戦車C型のサスペンションを改良し、D型では第1、第4ボギーの支持位置を車体中央に移動したため、C型の水平配置のリーフ・スプリングは、サスペンションに垂直に作動するハ字型の配置に変更。変速機はC型の前進5段、後進1段から、D型では前進6段、後進1段に改良された。1939年当時、47口径3.7cm戦車砲搭載の戦車であれば,ポーランド軍を圧倒できた。
Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese stehend hinter einer Ortschaft. Panzersoldaten am Turm eines Panzer III(Sd. Kfz. 141) Ausf. D; KBK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Rascheit撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-318-0083-32 引用(他引用不許可)


47口径3.7cm戦車砲(KwK36:携行弾数120発)のIII号戦車D型は、最大装甲15ミリ、1938年1-6月に30両生産。III号戦車C型のサスペンションを改良し、D型では第1、第4ボギーの支持位置を車体中央に移動したため、C型の水平配置のリーフ・スプリングは、サスペンションに垂直に作動するハ字型の配置に変更。変速機はC型の前進5段、後進1段から、D型では前進6段、後進1段に改良された。1939年当時、47口径3.7cm戦車砲搭載の戦車であれば,ポーランド軍を圧倒できた。

写真(右)1941 年4月、ギリシャ侵攻、鉄道線路を利用して快進撃するドイツ陸軍III号戦車:ギリシャ、ユーゴなどバルカン侵攻作戦のために、5月にソ連に侵攻する予定が1カ月遅延した。その結果、モスクワ侵攻が遅れ、1941年中に占領することはできなくなった。この写真を撮影したハインリッヒ・ホフマンHeinrich Hoffmann)は、ヒトラーが政治闘争を始めた時期からヒトラー専属のカメラマンとして活躍し、たくさんの写真を残している。ホフマンの下で働いていたのが、ヒトラーのミストレスとなるエヴァ・ブラウンである。
Catalogue number: HU 39517, Part of GROSS DEUTSCHLAND IM WELTGESCHEHEN: TAGESBILDBERICHTE (HEINRICH HOFFMANN), Production date: 1941-04, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Photography, Creator: Hoffmann, Heinrich, Object description: German Panzer III tanks advance along a railway line in pursuit of retreating British troops in Greece between 25 and 30 April 1941. .写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 39517)


1933年1月のヒトラー内閣誕生,1934年のヒトラーの総統就任,1935年のベルサイユ条約の軍備制限を破棄しての再軍備宣言と,ドイツはヒトラー主導の下で,軍備拡張の準備を公然と開始した。

ドイツ軍の主力と位置づけられた?号戦車は,1935年に開発が開始されている。III号はそれまでのドイツ戦車とは異なって,搭乗員に,戦車長(専属)を追加して,5人とした。つまり,戦車長,操縦手,砲手,無線手(前方機銃手),装填手という機能別の乗員割りである。こうして,戦車長が指揮に専念できるようになり,機動力とならんで,戦車の集団用法が可能になった。

写真(右)1941年6月,ソ連、東部戦線の当初、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38:携行砲弾数99発)を搭載したIII号戦車G-J型:後方にみえる半半装軌式無線指揮軽装甲車(Sd.Kfz. 250/3)は、連絡用・指揮に活躍した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-185-0139-20 Archive title: Polen, Rußland.- Beginn des Ostfeldzuges, Panzersoldaten auf Panzer III (Sd.Kfz. 141) der 13. Panzer-Division [?], im Hintergrund weitere Panzer und Fahrzeuge; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Grimm, Arthur 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-185-0139-20引用(他引用不許可)。


1941年6月22日,ドイツ国防軍は,ブレスト北方でブーク川を越えるのに,?号戦車,?号戦車に,シューノーケルを装備した潜水戦車80両を投入した。これは,渡河作業の手間を掛けずに対岸にわたることができる画期的な発明だった。

写真(右)1941年8月,ソ連でブロックを乗り越えようとして動けなくなったドイツ軍42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)装備のIII号戦車:ドイツ軍は,航空機事故や車両事故などを調査し,対策を組織的にとろうとした。そこで,事故写真を撮影することを旨としていた。現在では当然の措置だが,70近く年前の戦時中に,律儀に調査方針を守っていたようだ。戦車の登坂能力,実戦における運用の参考となるように,資料を集めていたのである。
戦車のキャタピラの下に差し込まれた木の板や丸太は,戦車を救出しようとしたものであろう。普段見ることのできない,戦車車体上面の様子がよくわかる。砲塔のハッチの淵が高くなっているのは,展望式ハッチで,周囲が砲塔内部から見渡せるようになっているためである。戦車長が周囲を観測しながら前進したが,視野が狭いので,通常の行軍には,ハッチから身を乗り出している。
Ein Panzer brach über einer Brücke ein zw. Bug u. Dnjepr Archive title: Vormarsch zum Dnjepr.- eingebrochener Panzer III Dating: August 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ドイツ軍のIII号戦車J型は設計に変更を加えて本来は搭載の予定がなかった長砲身60口径5センチ砲を搭載した型である。実際、ドイツ軍は、ソ連の戦車の防御力が強く、予定していたラインメタル社の42口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)を改造した42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38 L/42) では威力不足であると感じていた。しかし、実は独ソ戦勃発の前年、1940年後半には、ヒトラーは、当時III号戦車に搭載する42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)では威力不足であると直観し、より強力なライメタル社の60口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 39)を搭載することを要求していた。

しかし、対戦車砲は、砲尾が水平に開閉する構造で狭い砲塔の中での薬莢が飛び出して使用は不可能だった。戦車砲は、砲尾が垂直に開閉するように改造する必要があった。また、当時、ドイツ陸軍は最新の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の威力は十分あると判断していたために、長砲身60口径5センチ対戦車砲(5 cm PaK 38)をIII号戦車に搭載することに消極的だった。

独ソ戦を準備していたヒトラーは、1941年春になっても、III号戦車には60口径5センチ対戦車砲が搭載されていないことを知り、42口径ではなく60口径砲への換装を厳命した。こうして、急遽、対戦車砲の戦車砲への改造が始まり、独ソ戦勃発後、半年近くも経った1942年末、60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型が登場した。

写真(右):1941年冬,東部戦線のドイツ軍戦車兵:右はIII号戦車(あるいはIV号戦車)砲塔上にある展望ハッチで,右と中央の搭乗員は,車外に出ている。左の搭乗員は別の砲塔上ハッチから身を乗り出しているようだ。
Sowjetunion.- Soldaten der Panzertruppe neben Turm eines Panzers im Winter, ein Soldat mit Kopfhörern; PK 694 Dating: 1941 Photographer: Gebauer 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-215-0354-12A引用(他引用不許可)


III号戦車の主砲は,それまでの2センチ砲より強力な3.7センチ砲で,射程1000メートルで30mmの装甲を貫徹できた。これは,当時の戦車を撃破できる威力があった。しかし,開発から5年後の1940年5月のフランス侵攻では,47口径の3.7センチ砲では英陸軍マチルダ戦車,フランス陸軍ソミュアS-35戦車の装甲には不十分だった。

写真(右)1941年9月,ロシア,ドイツ軍III号戦車:Sowjetunion-Nord.- Nach Durchqueren eines kleinen Flusses wird für diesen Panzer III(Sd. Kfz. 141) der Abhang mit Sand befestigt; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-212-0247-16A引用(他引用不許可)


ドイツによる1941年6月のソ連侵攻では,ソ連住民に対する自由と独立,圧制や植民地からの解放という大儀がドイツ陸軍のなかで論じられていた。しかし,国防軍最高司令官ヒトラー総統は,肥沃な国土,民族ドイツ人の移住地,資源エネルギー・食料を確保することを命じており,占領した非ロシアのウクライナも独立させるつもりは,当初からなかった。ドイツ第三帝国のための生存圏の確立が最優先課題であり,現地住民,下等人種,劣等民族を蔑視,排除しようとしていたのである。

大日本帝国も,石油の豊富なオランダ領東インド(インドネシア),ゴム・スズ産地の英領マラヤを,日本への資源供給地と位置づけ,民度が低いことを名目にして,独立させなかった。

◆ドイツ国防軍の中には,ロシア人,ウクライナ人,チェチェン人など現地住民と協力関係を樹立し,反共勢力,反スターリン政権に育成するとの構想もあった。しかし,そのような構想は,東方ソ連を大ドイツの生存圏として,物資調達,強制連行・強制労働を進める強権的な植民地支配と並存することはできなかった。

ドイツは東方ソ連を生存圏として植民地化しようとしたが,これに従った現地住民は,親ドイツの裏切り者,売国奴として処断された。ドイツに食料・物資・家屋宿舎を提供し,ドイツのために労役をこなし,道案内やスパイ探しなど情報を提供するロシア人,ウクライナ人の住民は,パルチザンに脅され,殺害された。 

写真(右):1941年9月,ソビエト連邦の南部、ウクライナのミルゴルド,III号戦車:重量過多の為か、木製架橋の上で橋を損傷し立ち往生したIII号戦車。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1975-078-25A Original title: info Auf einer zu schwachen Holzbrücke eingebrochener schwerer deutscher Panzerーkampfwagen. Panzer Regiment 36 Bei Supani, 48km südlich Mirgorod, Ukraine, Rußland. 14.9.1941 Dating: September 1941 Photographer: Plessen, von撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 146-1975-078-25A引用(他引用不許可)


写真(右)1942年初期,ソ連(?)、「ヘルマンゲーリング」装甲師団の長砲身60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車第23号車。戦車の塗装が真新しいように見えるので、部隊配備されたばかりなのであろうか。ヒトラーの護衛部隊の発展した「ライプシュタンダルテ・アドルフヒトラー」と同様に、ゲーリングの護衛部隊から発展したのが、「ヘルマンゲーリング」装甲師団。対フランス戦、ロシア東部戦線、北アフリカ戦、イタリア戦線と各地に派遣されている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-639-4268-10 Archive title: Reichsgebiet / Ostfront (?).- Regiment (mot.) "Hermann Göring" (später Panzer-Division "Hermann Göring"). Ausbildung, Panzersoldat mit Fernglas im Panzerturm eines Panzer III (Turmnummer: 23); Eins Kp Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Nowak撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-639-4268-10 引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年春,ソ連、5センチ戦車砲を搭載したIII号戦車G-J型に15名の歩兵が便乗している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-269-0240-11A Archive title: Sowjetunion.- Panzer III mit aufgesessener Infanterie durchquert ein Dorf; PK 697 Dating: 1942 Frühling Photographer: Böhmer 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-269-0240-11A引用(他引用不許可)。


III号戦車G型からJ型では、砲塔に42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を装備し、携行砲弾数は99発あった。III号戦車は、全幅が小さく大直径のターレットを設けることができなかった。そこで、大型砲塔が搭載できず、搭載火砲の口径は5センチが限界であり、短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)ですら搭載できなかった。

写真(右)1942年夏,ドン川=スターリングラードを進撃し集落に入ったIII号戦車F型Sd.Kfz.141:大型砲塔にはそぐわない3.7センチ砲を装備している。居住性,操作性はよいが,攻撃職不足だった。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Panzer III auf unbefestigter Straße; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Sautter撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-218-0525-05引用(他引用不許可)


写真(右)1942年夏,ドン川=スターリングラードを進撃する3.7センチ砲装備のIII号戦車Sd.Kfz.141:占領した家屋の近くで休憩しているようだが,後方には木の枝を置いてカモフラージュしている。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).-Panzer III; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Klintzsch 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-218-0522-13引用


1941年6月にソ連に侵攻したドイツ軍は3.7センチ砲搭載の初期型III号戦車の威力不足を痛感した後になって、やっと5センチ砲へとIII号戦車の火砲攻撃力を強化した。しかし、5センチ砲搭載のIII号戦車が登場した1942年には、既にソ連軍はT-34戦車を大量に前線配備しており、III戦車がT-34戦車に有効な反撃をすることは困難になっていた。

写真(右) 1942年夏 ,ソビエト連邦の南,ドン地方、スターリングラードに進撃するドイツ陸軍III号戦車の縦隊:未舗装道路を進撃する戦車の前面には,予備のキャタピラが置かれている。この鉄製の帯は,装甲版を増強したのと同じ効果があったため,敵の砲弾が命中しやすい車体前面に装着された。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Panzer III in Fahrt auf unbefestigter Straße; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Geller撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-218-0524-06 引用

III号戦車は,1941年から本格的な主力戦車配備され,3.7センチ砲を搭載していた。開発当初は,42口径5センチ砲を搭載していたが,ヒトラーは対戦車戦闘能力を重視し,さらに長砲身の60口径砲を搭載するように指示した。しかし,陸軍当局は,重量増加による機動性低下を嫌い,42口径砲のまま量産してしまう。60口径砲への転換が始まったのは,1941年4月にヒトラーが命令無視を知って以降である。

写真(右)1942年夏,ソ連南部ドン川=スターリングラードを進む南方軍集団所属のIII号戦車
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-218-0528-06 Archive title:Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Panzer III(Sd. Kfz. 141); PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Thiede撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-218-0528-06引用(他引用不許可)


写真(右)1942年夏,ソ連南部、スターリングラード、ドン川に到着したドイツ陸軍の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を搭載したIII号戦車G/J型:手前のドイツ軍兵士は、塹壕のあって双眼鏡を手に対岸スターリングラード市街を偵察している。
Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-218-0528-31 Archive title: Sowjetunion-Süd (Don/Stalingrad).- Schlacht um Stalingrad.- Soldaten in Stellung, dahinter Panzer III; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Thiede撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1940年夏以降,ドイツ軍戦車にも長砲身60口径5センチ砲が装備された。しかし,実戦参加が遅れ,重装甲,76.2ミリ砲装備のT-34戦車より劣っていた。
ドイツ軍の戦車は,決して強力な攻撃力・防御力を持っていたわけではない。戦車の集団用法,強力な砲兵部隊と地上支援空軍を組み合わせた電撃によって大きな戦果を収めたのである。

マイコープの精油施設は破壊されたため,ドイツ軍は油田で燃料不足に悩まされたことをカレル『バルバロッサ作戦』は指摘し,補給路が伸びきってしまい,攻撃速度が低下したと説明する。

しかし,ブラウ作戦に則って,順調に進撃してきたドイツ軍が燃料不足になるのだろうか。敵の燃料を奪うことを計算にいれていたのか。激戦や地理的障害のため,燃料消費が予想を上回ったのか。いずれにしても、補給を重視するドイツ軍が「予想外の快進撃」によって攻撃が頓挫したというのは納得できない。バルバロッサ作戦の進撃は,より速く,より広範だった。バルバロッサとは、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ一世(1152-1190)のことで、「赤ひげ」として第3回十字軍に参戦して死亡した。ソ連侵攻バルバロッサ作戦の失敗は、「赤ひげ」が遠征途上であっさりと死んだ因縁なのか。

攻略目標のカフカス油田まで進攻距離がわかっている以上,攻撃が進むにつれて,補給路は伸びる。補給が伸びきっても,それを支えるだけの輸送力を確保できなくなった,燃料不足が生じたというのであれば,それは作戦計画の破綻を意味している。
あるいは、敵ソ連軍の頑強な抵抗がドイツ軍の進撃を頓挫させたと考えられる。

1942年秋,キャタピラを修理する60口径5センチ砲装備のIII号戦車
Im Osten.- Ausbildung, Kettenwechsel bei einem Panzer III(Sd. Kfz. 141) ; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Nowak撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-639-4262-04引用(他引用不許可)


1941年の独ソ戦当初から,5センチ砲装備のIII号戦車では,ソ連赤軍のT-34戦車やKV-1重戦車に対抗できず圧倒された。
しかし,4号戦車強化型(43口径7.5センチ砲搭載)の量産が十分ではなく,後継戦車となるはずのV号戦車「パンテル」の開発は遅れ,VI号戦車「ティーゲル」の量産も進展しなかった。1943年になっても,依然としてIII号戦車が第一線に配備され続けた。

写真(右):1942年9月,ソ連スターリングラードに向かって前進するドイツ軍III号戦車
Deutsche Panzerspitze in der Kalmückensteppe nördlich von Stalingrad September 1942 Archive title: Sowjetunion.- Soldaten auf und neben Panzer III(Sd. Kfz. 141) mit geöffneten Turmlucken in der Steppe Dating: September 1942 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0367引用(他引用不許可)


写真(右)1942年秋,ロシア,ポルタワ、ステップ(草原)を進撃してきたドイツ軍のIII号戦車G/J 型で42口径5センチ戦車砲を搭載している。戦車の前面には、キャタピラを装着して、補助装甲板の役割を持たせている。しかし、攻撃力が不足しており、ソ連赤軍のT-34 戦車に苦戦した。III号戦車の生産は1943年には中止され、III号突撃砲の生産に振り替えられた。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0288 Original title: info Deutsche Panzer werden überholt und Vorräte aufgefüllt Poltawa Herbst 1942 Archive title: Rußland, Poltawa.- Panzer III werden mit Vorräten versorgt. Im Hintergrund einer zerstörte Kirche Dating: 1942 Herbst Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

独ソ戦の勃発1年たってIII号戦車が装備していた戦車砲は,47口径あるいは60口径5センチ砲で、ソ連軍に比較するとドイツ軍戦車の対戦車戦闘能力は低かった。
スターリングラード攻防戦ではソ連軍のT-34戦車やKW-1重戦車に対抗できず,8.8センチ高射砲などの火砲や航空支援を受けながら戦った。戦車の集団用法,空軍による地上援護と組み合わせた電撃戦により,ソ連軍を奇襲,撃破できたのである。

写真(右)1942年10月,量産された42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を搭載したIII号戦車G-J型:G型からJ型の搭載砲は、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)で、砲弾99発を携行できた。後方には、大量の覆帯(キャタピラー)がとぐろを巻いて積まれている。大型砲が搭載不可能なIII号戦車は、1943年には生産が中止された。そして、III号戦車の車体を改造した7.5センチ戦車砲搭載のIII号突撃砲の量産に資源を集中することになった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-B22419 Original title: info ADN-ZB II. Weltkrieg 1939-45 Panzer für die faschistischen deutsche Wehrmacht, die in einem deutschen Rüstungsbetrieb zum Abtransport bereit stehen. (Aufnahme: Oktober 1942/Reichelt) Archive title: Fertige Panzer III in deutschem Rüstungsbetrieb vor Stapeln mit Panzerketten Dating: Oktober 1942 Photographer: Reichelt撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


III号戦車G-J型の搭載砲は、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)で、砲弾99発を携行できた。後方には、大量の覆帯(キャタピラー)がとぐろを巻いて積まれている。大型砲が搭載不可能なIII号戦車は、1943年には生産が中止された。そして、III号戦車の車体を改造した7.5センチ戦車砲搭載のIII号突撃砲の量産に資源を集中することになった。

写真(右)1942-1943年,ソ連、スターリングラード戦時期の武装SS親衛隊騎兵師団の擲弾兵とドイツ陸軍の長砲身60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60) を搭載したIII号戦車J/L型(Panzer III):戦車の全面には三段にもわたって覆帯(キャタピラ)を設置して補助装甲としている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-610-1979-23 Archive title: Sowjetunion.- Panzer III passiert auf dem Marsch eine sandige Dorfstraße; PK KBK Lw zbV Dating: 1942 Photographer: Henkels 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ軍のIII号戦車J型は設計に変更を加えて、搭載予定がなかった長砲身60口径5センチ砲を搭載した型である。実際、ドイツ軍は、ソ連の戦車の防御力が強く、予定していたラインメタル社の42口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)を改造した42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38 L/42) では威力不足であると感じていた。しかし、実は独ソ戦勃発の前年、1940年後半には、ヒトラーは、当時III号戦車に搭載する42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)では威力不足であると直観し、より強力なライメタル社の60口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 39)を搭載することを要求していた。

しかし、対戦車砲は、砲尾が水平に開閉する構造で狭い砲塔の中での薬莢が飛び出して使用は不可能だった。戦車砲は、砲尾が垂直に開閉するように改造する必要があった。また、当時、ドイツ陸軍は最新の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の威力は十分あると判断していたために、長砲身60口径5センチ対戦車砲(5 cm PaK 38)をIII号戦車に搭載することに消極的だった。

独ソ戦を準備していたヒトラーは、1941年春になっても、III号戦車には60口径5センチ対戦車砲が搭載されていないことを知り、42口径ではなく60口径砲への換装を厳命した。こうして、急遽、対戦車砲の戦車砲への改造が始まり、独ソ戦勃発後、半年近くも経った1942年末、60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型が登場した。

写真(右):1942-43年冬,ソ連、スターリングラード戦時期の武装SS親衛隊騎兵師団の擲弾兵とドイツ陸軍の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を搭載したIII号戦車G/J型第301号車。戦車の全面には覆帯(キャタピラ)を設置して補助装甲としている。雪原を歩く武装親衛隊の擲弾兵(歩兵)は、白色の冬季迷彩塗装の外套をきている。
Sowjetunion.- Grenadiere der Waffen-SS-Kavallerie-Division im Infanterieeinsatz mit Panzerunterstützung, Panzer III(Sd. Kfz. 141) Datierung: 1942/1943 Winter Fotograf: Büschel Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


III号戦車を改造して,歩兵に随伴して火力支援する突撃砲があった。これは砲塔を取り去った車台上に,戦闘室を設けて短砲身24口径7.5センチ砲を搭載し,対戦車戦闘能力を向上したものである。

写真(右):1943年7月-8月,ソビエト連邦の南部,III号戦車(砲塔番号232):開けた草原だが,道路事情が悪いのか,戦車の車輪(主輪,上側転輪)は泥だらけになっている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-239-2092-09A Archive title: Sowjetunion-Süd, bei Mius/Stalino.- Panzersoldaten auf Panzer III(Sd. Kfz. 141) (Turmnummer 232) auf freiem Feld stehend; PK 695 Datierung: 1943 Juli - August Fotograf: Schneider-Kunath Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 146-1975-078-25A引用(他引用不許可)


写真(右)1944 年9月24日、オランダのオーステルハウト、ネイメーヘンでイギリス第5軍に撃破されたドイツ陸軍III号戦車:6月に北フランスに上陸した西側連合軍は、10月にはドイツ本土アーヘンにまで軍を進めている。このようなドイツ本土の緊急事態のために、旧式になった5センチ砲搭載のIII号戦車まで防衛戦に投入されたのであろう。手前のイギリス軍歩兵は銃を構えてポーズをとっているようだ。
Catalogue number: B 10376, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit, Carpenter (Sgt), Category: photographs, Object description: A soldier crouches near a German PzKpfw III tank of Panzer-Kompanie Mielke, Kampfgruppe Knaust (knocked out by No. 1 Squadron, Welsh Guards), in Oosterhout near Nijmegen, 24 September 1944. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (B 10376)


III号戦車(Pz.Kpfw.III) :Panzerkampfwagen IIIを見る。


5-2.III号突撃砲 Sturmgeschütze III −最多生産を誇る対戦車用自走砲

3.7センチ砲を装備していたIII号戦車Pz.Kpfw.III(Sd. Kfz. 141)は,1941年後半,ソ連軍T-34に対抗するために,60口径5センチKw.K.39 L/60,その後1942年末から長砲身43口径7.5センチStuK40L/43に換装した。しかし,T-34戦車には,この程度の対戦車戦闘能力では通用しなかったため,生産中止。車体は,対戦車戦可能な突撃砲として1万台も量産された。

写真(右):1941年10月,ソ連に侵攻するドイツ軍のIII号突撃砲StuG III と装甲車:歩兵に火力支援する突撃砲は,III号戦車の車台上に,短砲身24口径7.5センチStuK37L/24榴弾砲を搭載し,ソ連軍の抵抗を排除しながら,市街地のメインストリートを走る。
An der Sowjetfront: Deutsche Sturmgeschütze und Panzerspähwagen fahren in den Hauptstrassen umher, um etwa aufflackernden Widerstand niederzukämpfen. PK-Aufnahme: Kriegsberichter: Mittelstaedt 10133-41 "Fr." "Fr.OKW" Okt.41 Archive title: Charkow.- Sturmgeschütz III und leichter Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) in Straße Dating: Oktober 1941 Photographer: Mittelstaedt, Heinz Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用他引用不許可)。


写真(右):1942年6-7月,ソ連に侵攻するドイツ軍のIII号突撃砲StuG III :
Sowjetunion, deutsches Sturmgeschütz auf dem Marsch über staubige Straßen; PK 689 Dating: 1941 Juni - Juli.写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


歩兵に火力支援する突撃砲は,III号戦車の車台上に,短砲身24口径7.5センチStuK37L/24大口径榴弾砲を搭載。火力は戦車よりも大きかった。1940年のフランス侵攻作戦にも,III?号突撃砲は参加している。
 その後,1942年以降,ソ連軍T-34に対抗するために,長砲身43口径7.5センチStuK40L/43を搭載,装甲を厚くした対戦車戦可能な突撃砲となった。1940年から敗戦まで1万両生産。

ドイツ軍,ソ連軍ともに,敵の捕虜に対しては,厳しく取り扱った。どちら側の兵士も,頑強に戦い続け,容易に投降することはなかった,といわれるが,これはお互いに捕虜となればどんな運命が待ち受けているか,容易に想像できたからだろう。

写真(右)1941年6月-7月,ソ連侵攻,砂埃を巻き上げて突進するドイツ陸軍III号突撃砲StuG III :24口径7.5センチ砲を装備した火力支援のための戦車。
Sowjetunion, deutsches Sturmgeschütz auf dem Marsch über staubige Straßen; PK 689 Dating: 1941 Juni - Juli Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
 

突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。

写真(右)1941年7月,バルバロッサ作戦に参加したドイツ軍自動車部隊とIII号突撃砲Panzer III (Sd.Kfz. 141) :旧式化したIII号戦車の砲塔を取り除き,密閉式の戦闘室に短砲身7.5センチ砲を搭載した歩兵支援戦闘車両。機械化された歩兵をドイツ軍は,猟兵と呼称した。24口径7,5センチ砲を搭載した火力支援車輛だが、III号戦車が無用の存在になったために、1945年の敗戦まで生産された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-136-0883-27 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa". Mit Buschwerk getarnte Sturmgeschütze III in Fahrt, deutscher Soldat mit Spaten vor Auto (Cabriolet); PK 689 Dating: Juni 1941 Photographer: Cusian, Albert 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。

ドイツ国防軍将兵は,対ソ戦"バルバロッサ作戦"(Unternehmen Barbarossa) の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。

しかし,これは,軍の責任回避だった。ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ軍を憎むようになった。 

ドイツのソ連侵攻2ヶ月後の1941年9月1日,ドイツ・ユダヤ人がユダヤの星をつけることについての警察条令が発令。(ドイツ占領地では1940年からユダヤの星をつけさせていた)

ニュルンベルク法が,ユダヤ人を宗教による分別したとの俗説があるが,宗教や国籍ではなく,人種的特長,歴史を踏まえて,祖先がユダヤ人だったことを基準にしている。このような恣意的な区分は,ドイツの敵となりうる人間,潜在的な敵性住民,人種汚染を排除するため定められた。敵を排除し,ドイツ人の種族保全のために,ユダヤ人を排除したのである。

写真(右):1942年9月,スターリングラードに進撃するIII号突撃砲StuG III :搭載している短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24 は,歩兵への火力支援用だが,戦闘室は密閉されてい,全高が低いために,防御力も高かった。そこで,前線に歩兵などとともに突撃する火砲として,突撃砲と呼ばれた。したがって,歩兵支援を前提としたものだったが,対戦車戦闘能力もあった。
Kampf um Stalingrad. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Schröter-Altvater (Sch) o.Nr. "Fr" OKW "Fr.f.D." Sept. 42 [Herausgabedatum] Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Sturmgeschütz III (StuG III) Dating: September 1942 Photographer: Schröter撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
 

◆1941年6月22日にドイツがソ連を攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していた英国,米国は即座にソ連支援を公言した。それまでのチャーチル英首相の関心は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことだった。

チャーチル英首相は,独ソ戦の勃発に,英国の危機が遠のいたと大喜びした。そして,チャーチルは反共産主義だったが,即座にソ連に軍事援助を申し込んだ。チャーチルと親密なルーズベルト大統領も,ソ連を武器貸与法の対象とした。ソ連は,米英から軍事援助を受けることができた。

ユダヤ人絶滅の方針は,最高機密とされたが,それは,殺戮を行っていることが知れれば次のような支障が生じるからである。

?ユダヤ人が殺害されると知れば,反乱を起こす。そこで,ユダヤ人の積極的な抵抗を防止するために,東方への移送,収容所での労働を偽りの名目として,絶滅収容所へ移送した。
?ユダヤ人絶滅のような残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。
?後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人殲滅戦争は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にもユダヤ人殺戮を秘匿する必要があった。
 

1943年1月,第二次大戦における最大規模の決戦となったスターリングラード攻防戦で,ドイツ国防軍は,大敗した。多数のドイツ兵が死亡し捕虜になった時期,ゲットーでユダヤ人が生きながらえていることに,ヒトラーは耐えられなかった。ついに親衛隊ヒムラー長官に,全ユダヤ人を殲滅する口頭命令を下した。

東方ソ連に対しては,共産主義ボリシェビキが支配している地域として,その土地,資源,人民をドイツの支配下におこうとした。この手段が,ソ連侵攻バルバロッサ作戦である。

ソ連占領の目的は,東方ソ連をドイツの生存と繁栄のための生存圏とし,ボリシェビキを殲滅して,ドイツ第三帝国を千年安泰ならしめるためである。1941年クリスマスに側近に「こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから」と本心を覗かせている。 

ヒトラーは,戦争当初から対戦車戦闘で有利な長射程の長砲身5センチ砲を装備するように命じていた。

しかし,保守的なドイツ参謀本部は,対戦車戦闘には3.7センチ砲で十分だと考えていた。実際,1941年まで,対戦車砲も3.7センチ砲だった。チェコのスコダ社やフランス軍は既に47ミリ対戦車砲を開発していたから,ドイツ軍の対戦車兵器は弱体だった。

写真(右):1942年9月,ソビエト連邦の南部,スターリングラード戦のドイツ軍のIII号突撃砲StuG III と歩兵:ドイツ軍歩兵と突撃砲は,スターリングラード中心部や工業地域の攻撃をした。突撃砲の車体の上には,携行ガソリンタンク,予備の転輪,ワイヤー,棒などが置かれている。
An der Sowjetfront: Infanterie vor Stalingrad.- Infanterie und Sturmーgeschütze in der Bereitstellung zum Angriff auf die Höhe 102 zwischen dem Stadtzentrum und dem Industrieviertel Barikady. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Herber (Sch) 5317-42 "Fr. Fr. OKW" September 1942 [Herausgabedatum] Archivtitel: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Infanteristen neben Sturmgeschütz III (StuG III) Datierung: September 1942 Fotograf: Herber Agentur: Scherl Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


ヒトラー卓上談話(ヒトラーのテーブル・トーク)
ナチ党官房長官マルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。

1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。ロシアの湿地帯にユダヤ人の奴等を置き去りにはできないなどと言ってくれるな。わが部隊の心配を誰がするというのか。われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。
-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。現時点でいたずらに問題を増やしても意味はない。時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。

写真(右):1942年9月,ソビエト連邦の南部,スターリングラードの戦いに加わるIII号突撃砲StuG III :装甲を施した自走砲は,突撃砲と呼ばれたが,戦車の代用として,敵陣地の突破や対戦車戦闘に加わることが多かったためである。車高の低い車体は,対戦車戦闘のとき,陣地攻撃のときにも,正面の標的面積が小さく,有利だった。
An der Sowjetfront: Kampf um Stalingrad.- Die ersten Sturmgeschütze dringen in das hartumkämpfte Stalingrad ein. PK-Aufnahme: Kriegsberichter Gebauer (Sch) 5263-42 "Fr. Fr. OKW" September 1942 [Herausgabedatum] Archivtitel: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad, Datierung: September 1942, Fotograf: Gebauer, Agentur: Scherl, Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


写真(右)1942年10-11月,ソ連中部、クレーンを使って車体を持ち上げて、覆帯(キャタピラ)を修理しているドイツ軍のIII号突撃砲C/D型(Sturmgeschütz III):III号戦車の砲塔を撤去して、車体上面に大きな戦闘室を設けそこに短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-274-0452-26 Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Reparatur eines Panzer III mit Kran; PK 697 Dating: 1942 Oktober - November Photographer: Lassberg撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


III号突撃砲C/D型((Sturmgeschütz III)諸元
全長:  5.40m
全幅:  2.95m
全高:  1.96m
全備重量:22t
乗員:  4名
エンジン:マイバッハHL120TRM V型12気筒液冷ガソリンエンジン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最高速度: 路上40km/h
航続距離: 165km
武装:    24口径7.5cm戦車砲 (携行砲弾数44発)、7.92mmMG34機関銃 (携行銃弾数600発)
装甲:   10〜50mm



 ドイツ国防軍のIII号突撃砲Sturmgeschütz III:StuG III)は、歩兵への火力支援車両として大型の24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載する突撃砲として、III号戦車の車台を流用して開発された。その後III号戦車が威力不足で前線で使用できなくなる、その車体の大型戦闘室を活かして43口径7.5センチ戦車砲を搭載して、対戦車用の突撃砲としても使用されるようになった。

写真(右)1943年、イタリア戦線のドイツ陸軍III号突撃砲G型 (StuG III)の隊列:手前には略帽を被った兵士が楽しそうにしている。前面運転手のハッチの周囲に、追加装甲を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-568-1542-20A Archive title: Italien.- Italienische und deutsche Soldaten vor Reihe von Sturmgeschützen III (StuG III); PK Fs AOK Dating: 1943 Photographer: Biedermann 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右)1944年2月,イタリア戦線、ドイツ軍のIII号突撃砲(StuG III)G型:III号突撃砲は、旧式戦車III号の砲塔を取り除き,密閉式の戦闘室に短砲身7.5センチ砲を搭載した歩兵支援戦闘車両だったが、1944年には対戦車戦闘能力を向上させた43口径7.5センチ砲を搭載したIII号突撃砲G型も第一線で活躍するようになった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-310-0896-06A Archive title: Italien.- Soldaten vor und auf einem leicht getarnten Sturmgeschütz III; PK 699 Dating: Februar 1944 Photographer: Dohm撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右)1943年,ドイツ陸軍48口径7.5センチ砲装備のIII号突撃砲:陶器の白色迷彩を施している。車体上部には防楯付き7.92ミリ機関銃を搭載している。
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-089-3779-25A Archive title: Rußland.- Soldaten auf weiß gestrichenem Stumgeschütz III in verschneitem Birkenwald; PK 670 Dating: 1943 Photographer: Finke 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


III号戦車には大きな砲塔を搭載できなかったため、砲塔を撤去して防御された大型戦闘室を設け,そこに7.5センチ砲を装備したのがIII号突撃砲Sturmgeschütz III)である。このIII号突撃砲は、終戦までドイツ軍の主力突撃砲となり、火力支援だけでなく、対戦車戦闘にも活躍した応急の陸戦兵器だったが、実用性も量産性も高かったために、III号突撃砲Sturmgeschütz III:StuG III)は終戦までに1万両が生産され、第二次世界大戦中のドイツ軍の装甲戦闘車輛のうちで最多の生産台数を誇っている。

  写真(右)1944 年頃、平面的な砲身防楯を備えたドイツ陸軍III号突撃砲G型 StuG III :ホローチャージ(成形弾)を早期爆発させる防楯を車体側面に装備し、車体前面に既存の装甲を補完する追加装甲板を鋲で装着している。
Catalogue number: STT 5729, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: StuG III Ausf G, Label: German Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 5729)


写真(右)1944 年頃、平面的な砲身防楯を備えたドイツ陸軍III号突撃砲G型 StuG III の上面:司令塔(周囲を観測するプリズム付)には、避弾経始を考慮した跳弾版が装備されている。接近する歩兵を銃撃する戦闘室上面の車載機銃にも防楯を装備。ホローチャージ(成形弾)を早期爆発させる防楯を車体側面に装備する枠が見える。
Catalogue number: STT 7153, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: StuG III Ausf G, Label: German Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7153)


写真(右)1944 年頃、平面的な砲身防楯を備えたドイツ陸軍III号突撃砲G型 StuG III の上面:司令塔(周囲を観測するプリズム付)には、避弾経始を考慮した跳弾版が装備されている。接近する歩兵を銃撃する戦闘室上面の車載機銃にも防楯を装備。ホローチャージ(成形弾)を早期爆発させる防楯を車体側面に装備する枠が見える。
Catalogue number: STT 7136, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: StuG III Ausf G, Label: German Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7136)


写真(右)後方から見たドイツ陸軍III号突撃砲G型:車体後部のエンジン上に転輪を置き補完装甲代わりにしているほか、戦闘室側面上方にもキャタピラーを留めて補完装甲としている。
Catalogue number: STT 3046, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: Sturmgeschütz IV, Label: German Sturmgeschütz IV assault gun. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 3046)


III号突撃砲(StuG III) :Sturmgeschütze III を見る。


6.IV号戦車−ドイツ陸軍の最多・最良の主力戦車

写真(右)1940年5月,西部戦線でフランスに進撃するドイツ軍IV号戦車: 1939年9月のポーランド侵攻,1940年5月のフランス侵攻の主力は,?号戦車,38(t)戦車であり,?号戦車,?号戦車は僅かしか実戦部隊に配備されていなかった。したがって,フランス侵攻に参加した?号戦車の写真は珍しい。
Frankreich.- Panzer IV in Ortschaft; PK 670 Dating: 1940 Mai - Juni Photographer: Eckert, Erhardt 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-055-1599-31引用(他引用不許可)


1936年に開発され,第二次大戦が勃発した1939年から生産された?号戦車は,大直径のターレットリング,バスケット式の大型砲塔が特徴で,ここに当初の計画にはなかったような長砲身大口径砲とそれに見合った大型砲弾を搭載することができた。また,操縦手,砲手のほかに戦闘指揮に専念できる戦車長の合計4名の乗員のために,車内通話装置が完備していた。また,昇降ハッチは,乗員分が装備されており,乗り降りはもちろん,緊急時の脱出にも配慮されていた。

1941-1942年,ドイツ陸軍IV号戦車 KwK L/24:24口径7,5センチ短砲身砲を装備した,当時の最新鋭戦車。ドイツの工場で,記録用に撮影された側面写真。
Panzer IV(Sd. Kfz. 161) Ausf. F 1 mit 7,5 cm KwK L/24 ohne Hoheitsabzeichen; ca. 1941/1942 Dating: 1941/1942 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1979Anh.-001-10引用(他引用不許可)


IV号戦車E型(PzKpfw IV Ausf.E)諸元
全備重量21トン,全長5.9メートル,全幅2.8メートル,車高2.7メートル
時速42キロ(整地),航続距離200キロ,乗員5人
兵装:7.5センチ24口径砲(KwK 37 L/24),7.92ミリMG34機銃2丁

写真(右)1941年6月22日,フランス、ドイツ陸軍IV号戦車、車体番号422号:IV号戦車は,計画では主力のIII号戦車の火力支援を目的で開発された支援戦車で,当初から大口径の7.5センチ砲を搭載していた大型砲塔を持つ戦車だった。ただし,援護目的なので24口径と短砲身で,砲弾の初速は遅く,貫通力は低い。射程も短かった。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1981-070-16 Original title: info Panzer des 1. Pz-Rgt. 4. Komp. kommen aus der Deckung, sichern und gehen in Feuerstellung. 22.6.40, 8-8,20 Uhr, Servance, Archive title: Frankreich, bei Servance.- Panzer IV(Sd. Kfz. 161)mit Turmnummer 422 Dating: 22. Juni 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 146-1981-070-16引用(他引用不許可)


1941年11月5日:「善良な国民が(東部の)最前線で戦死しているこの時,(人権に配慮した刑罰制度によって)犯罪者ばかりを保護すれば社会のバランスは崩れ,国家の健全さは打撃を受けるだろう。これは,衆愚政治だ。国家が窮地に陥っている時には,このような手厚い保護の下に置かれている一握りの犯罪者どもに,最前線の兵士たちの犠牲によって得た賜物を簒奪する恐れが高い。これは1918年(第一次大戦の敗北)に経験済みだ。この対策としては,この種の犯罪者は直ちに死刑に処す,これしかない。
-----こんな屑どもに団結する機会を与えるのは非常に危険だ。
」(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年 参照)

◆ヒトラーは,戦線後方の下等人種・劣等民族が団結すれば,反ドイツの動きを開始し,ドイツ人にとって有害である,敵に連帯し団結する契機を与えてはならないというのが,ヒトラーの考えである。したがって,ウクライナ人,チェチェン人,ロシア人に,自治や独立を与えることは,絶対にありえない。バルバロッサ作戦,ブラウ作戦も,現地のスラブ人,チェチェン人にとって,決してボリシェビキからの解放やスターリン圧政からの自由に繋がることはなかった。

写真(右)1941年6月21日,対ソ戦開始前日,前線に向かうドイツIV号戦車:IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161) は,計画では主力の?号戦車の火力支援を目的で開発された支援戦車で,当初から大口径の7.5センチ砲を搭載していた大型砲塔を持つ戦車だった。ただし,援護目的なので24口径と短砲身で,砲弾の初速は遅く,貫通力は低い。射程も短かった。
Deutsche Panzer IV (Sd. Kfz. 161) am 21. Juni 1941 auf der Fahrt zur Front Dating: 21. Juni 1941 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0861引用(他引用不許可)


IV号戦車D型
第二次大戦初期1939年10月に登場
独ソ戦勃発当初は少数しか配備されていなかった。
兵装:短長砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5-cm-KwK 37 L/24)
車体長5.92m、全幅2.84m、全高2.68m、重量20.0t、乗員5名
砲塔前面装甲35mm、マイバッハV型12気筒ガソリンエンジン300PS (224kW)

本来は,ウィストン・チャーチル(Winston Leonard Spencer-Churchill)指導のイギリス本土に上陸する際,密かに水深5-8メートル程度の浅瀬に接近し,そこに戦車を降ろして,上陸地点を奇襲する計画だったという。しかし,海流のある水深5メートルの場所に適切に戦車を沈下させることができるのか,海底地形が見えないまま,ジャイロコンパだけで,上陸地点に前進できるのかと疑問もある。実際には,ヒトラーは英国本土上陸,「あしか」作戦を実行するつもりはなく,潜水戦車は部隊編成されたものの,それまで使用されたことはなかった。

ゴムパッキンやチューブによる空気圧式密閉装置を実用化した技術は高度なものだが,潜水できるだけで火力,防御力の上では,進歩はなかった。ドイツ軍の?号,?号戦車は,ソ連軍の新型重戦車KW-1,KW-2あるいはT-34戦車には,攻撃力,防御力の双方で太刀打ちできなかったのである。

写真(右):1941年7月,短砲身24口径7.5センチ戦車砲装備のIV号戦車が木製架橋を踏み外して脱輪した。工兵部隊が架橋したのか,従前からある橋なのか,大重量の戦車は,渡河資材も特別なものを用意する必要があった。また,軟弱な地盤や傾斜地などでは,無限軌道でも進むのが困難な場合もあった。ソ連の冬の厳寒にも,車体や部品の凍結,潤滑油の凝固によって,機動性が損なわれた。
Schwerer deutscher Pzkw. ist bei der Fahrt über zu schmale Brücke mit einer Kette von der Fahrbahn abgerutscht. Er wird durch einen zweiten schweren Panzer nach rückwärts von der Brücke gezogen. Juli 1941 Dating: Juli 1941。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


1941年11月5日,ヒトラー卓上談話:「----この戦争の終結は,ユダヤ民族の絶滅を意味する。ユダヤ人というのは,エゴイズムそのものだ。
---ユダヤ人は精神的なものに全く関心を持たない。------ユダヤ人の最大の誤魔化しは,宗教でもなんでもないユダヤ教を,宗教のごとく偽っていることだ。簡単に言えば,ユダヤ人は自分たちの人種思想に宗教的カモフラージュを施したのだ。奴らのやることなすことすべて,嘘に立脚している。ギリシャ・ローマ世界の崩壊の責任は,ユダヤ人が負うべきである。
----ユダヤ人は有能だというが,奴らの能力は,他人のものを弄び騙し取ることだけだ。
----とにかく私が言いたかったのは,-------ユダヤ人には音楽家も思想かもいない。奴らは無,いやそれ以下だ。嘘つき,詐欺師,ペテン師!やつらが成功したのは,騙された人間がいたからだ。----」

1941年7月4日,ソ連,レベリ近郊,架橋の欄干から脱輪したドイツ軍のIV号戦車:重いために,Panzer IV (Sd. Kfz. 161)が木造橋を通行中に,車輪が下落した。2番目の戦車が橋の背後に牽引している。
Schwerer deutscher Pzkw. ist bei der Fahrt über zu schmale Brücke mit einer Kette von der Fahrbahn abgerutscht. Er wird durch einen zweiten schweren Panzer nach rückwärts von der Brücke gezogen. Beim Herausziehen durch den zweiten schweren Panzer bricht das Brückengeländer weg. 4.7.41, Tschetschanik. Abschnitt Lepel. Russland H.F. Archive title: Sowjetunion, bei Lepel.- Panzer IV auf beschädigter Holzbrücke Dating: 4. Juli 1941
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


◆ドイツ軍は,ボリシェビキ圧制に反発していたソ連軍捕虜を厚遇して,反ソ宣伝,親ドイツ軍を編成することが可能だった。しかし,スラブ人を下等人種・劣等民族として見下したドイツは,ソ連軍捕虜を虐待した。
ソ連の肥沃な大地は,ドイツ人,民族ドイツ人の植民地となり,スラブの住民は農奴として使役されることになった。ウクライナや自由ロシアの自立と強化を目指す活動をドイツ軍は組織化できなかった。

写真(右)1941年7-8月,ソ連、ドイツ軍のIV号戦車E型と後続する軍用自動車PK Lw 3:IV号戦車E型は、砲塔に24口径7,5センチ戦車砲を搭載した火力支援任務の戦車として開発されたため、対戦車戦闘能力が低く、ソ連赤軍のT-34など新鋭戦車に苦戦する事となった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandaーompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-351-1427-21A Archive title: Sowjetunion, Witebsk.- Panzer IV Ausf. E mit Fahrzeug-kolonne auf einer unbefestigten Straße; PK Lw 3 Dating: 1941 Juli - August Photographer: Jacobsen 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-351-1427-21A引用(他引用不許可)


写真(右)1941年末,ソ連、ドイツ軍のIV号戦車D型の雪中運行の支援: 雪,氷の厳寒を進軍するのは大変だった。右側に,カメラを構えた宣伝班員が見える。中央の長身の兵士は,東部戦線に派遣された親ドイツ派フランス人義勇兵かもしれない。
Sowjetunion.-Panzer IV (Sd. Kfz. 161) Ausf. D mit weißem Tarnanstrich im Schnee steckend.- Soldaten beim Freischaufeln des Panzers; am rechten Bildrand: Kriegsberichter (Kameramann der Propagandakompanie) mit Filmkamera; PK 694 Dating: 1941 Ende Photographer: Gebauer 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


写真(右)1942年6月,進軍するドイツ陸軍24口径7.5センチ砲装備のIV号戦車:III号戦車よりも大きな砲塔を搭載し,大口径装備が可能だったIV号戦車は終戦までドイツ軍の主力戦車となった。突撃砲は少数で終わったが、駆逐自走砲戦車は量産された。これは、48口径あるいは70口径7.5センチ砲を搭載し,対戦車戦闘能力を向上したものである。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-216-0445-18 Archive title: Sowjetunion.- Soldaten auf Panzer IV.; PK 694 Dating: Juni 1942 Photographer: Seibold 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 37 L/24 )装備のIV号戦車は,1942年末から長砲身43口径40年式7.5センチ戦車砲に換装された。終戦まで生産続行。

写真(右)1942年7月-8月,ソ連中部,ドイツIV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)Ausf. F1の装備した短砲身24口径7.5cm砲(愛称Turmは切り株あるいは塔を意味):IV号戦車は,計画では主力のIII号戦車の火力支援を目的で開発された支援戦車で,当初から大口径の7.5センチ砲を搭載していた大型砲塔を持つ戦車だった。ただし,援護目的の短砲身24口径7.5cm砲の砲弾初速は遅く,貫通力は低く、射程も短かいので対戦車戦闘はできなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-271-0302-26 Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Panzer IV (Sd. Kfz. 161) Ausf. F1, Detailaufnahme Turm (Turmnummer 814), vordere Luken; PK 697 Dating: 1942 Juli - August Photographer: Heydrich Origin: Bundesarchiv
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IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)は,大型砲塔に3人が搭乗できる設計で,車内空間が狭いソ連軍のT-34戦車よりも居住性ははるかによく,専任の戦車長を設けることができた。
IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)D型は,前面装甲20ミリ、1939年10月から1941年5月に229輌生産された。その後,初期に装備されていた短砲身24口径7.5センチ砲は,対戦車戦闘能力を高めるために,大型砲塔の利点を活かして,長砲身50口径5センチ砲,さらにF2型では長砲身43口径7.5センチ砲に変換された。

写真(右):1942年9月,ソ連,スターリングラード近郊,ドイツ軍装甲師団のIV号戦車(砲塔番号423):IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)の後方は破壊されたギリシャ正教会か。
1941-42年のソ連軍冬季攻勢を持ちこたえたドイツ軍は,戦力を整えた。そして,1942年4月,南方軍によって,スターリングラード,カフカスを攻撃する「ブラウ」作戦を立案した。このときドイツ軍が侵攻した地域では,前年のウクライナ同様,共産党ボリシェビキ圧制からドイツ軍が解放してくれると期待した現地住民もあった。
Etappenleben in der Steppe hinter dem Südflügel der 6. Armee vor Stalingrad September 1942 (23Bauern rupfenGänse) Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Panzer IV (kurz; Turmnummer 423) vor Kirche Dating: September 1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


写真(右)1942年9月,ロシア,ポルタワ、ステップ(草原)を進撃してきたドイツ軍のIV号戦車G/J 型で24口径7.5センチ戦車砲を搭載している。戦車の前面には、キャタピラを装着して、補助装甲板の役割を持たせている。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0028 Original title: info In der Steppe vor Stalingrad September 1942 Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Panzersoldaten auf Panzer IV (kurz) vor strohgedecktem Haus stehend, davor Wehrmachts-PKW Dating: September 1942 Photographer: o.Ang.
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写真(右)1942年夏,ロシア,ウクライナ、ステップ(草原)を進撃してきたドイツ軍第14装甲師団のIV号戦車F/E 型で43口径7.5センチ砲搭載型と24口径7.5センチ戦車砲を搭載型の新旧二種類が並んでいる。戦車の前面には、キャタピラを装着して、補助装甲板の役割を持たせている。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0117 Original title: info Deutsche Panzer in Bereitschaft vor dem Angriff Ukraine Sommer 1941 Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Panzersoldaten auf Panzer IV (lang und kurz) der 14. Panzer-Division sitzend; ca. 1942 Dating: 1942 ca. Photographer: o.Ang.
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1941年初頭,ヒトラーは強力な60口径5cm砲の搭載を命じていたが,保守的な陸軍将官は,機動性を重視して,重量の増える長砲身を搭載しなかった。
 しかし,独ソ戦で直面したソ連赤軍のT-34は,37口径75ミリ砲を装備して,避弾に優れた装甲であり,ドイツ軍の対戦車砲では貫通できなかった。このため長砲身7.5センチ砲装備のF型が急遽開発された。 

写真(右)1942年,ドイツ軍のIV号戦車F/G型、車輛番号431号車と424号車:第二次大戦中期に開発された長砲身43口径7.5センチ戦車砲(7,5cm KwK 40)、携行砲弾87発を搭載したIV号戦車F/G型は、独ソ戦中盤になってから部隊配備された。
全長7.02 m、車体長5.89 m、全幅2.88 m、全高2.68 m、重量25.0 t、砲塔前面装甲50mm、車体前面装甲80mm、マイバッハV型12気筒ガソリンエンジン300PS (224kW)、乗員5名。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0084 Original title: info Deutsche Panzereinheit in Bereitschaft in der Ukraine Sommer 1941 Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Zwei Panzer IV (Turmnummer 424 und 431) der 14. Panzerdivision neben einem Gebäude Dating: 1942 ca. Photographer: o.Ang.写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。,
------だが,自由意志で彼らが出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。

◆人種汚染・人種民族差別に,独ソの過酷な殲滅戦、占領地における治安悪化が結びつき,さらに日米開戦を契機とした対ユダヤ人世界戦争の開始が,ヒトラーに,本格的なヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策を強行させた。

写真(右)1941-1942年,ギリシャ,港湾沿いを進むドイツ陸軍IV号戦車F型 Panzer IV F:43口径長砲身7.5センチ砲を装備した新鋭IV号戦車F2型は北アフリカ戦線に初めて実戦投入された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-175-1267-09 Archive title: Griechenland.- Panzer IV in Fahrt durch eine Stadt mit Hafen; PK 690 Dating: 1941/1942 Photographer: Teschendorf 撮影。 Origin: Bundesarchiv
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写真(右)1941-1942年,ギリシャ,ドイツ陸軍IV号戦車F型砲塔番号713号:43口径長砲身7.5センチ砲を装備した新鋭戦車。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-175-1268-06A Archive title: Balkan, Griechenland.- Panzer IV (Turmnummer 713) mit Besatzung; PK 690 Dating: 1941/1942 Photographer: Teschendorf 撮影。 Origin: Bundesarchiv
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写真(右)1941-1942年,ギリシャ,ドイツ陸軍IV号戦車 Panzer IV F型:43口径長砲身7.5センチ砲を装備した新鋭IV号戦車F2型は北アフリカ戦線に初めて実戦投入された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-175-1267-12 Archive title: Griechenland.- Panzer IV in Fahrt durch eine Stadt mit Hafen; PK 690 Dating: 1941/1942 Photographer: Teschendorf 撮影。 Origin: Bundesarchiv
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写真(右)1941-1942年,ギリシャ,アテネを行進するドイツ陸軍IV号戦車F型:43口径長砲身7.5センチ砲を装備した新鋭戦車で,北アフリカ戦線に送られる車両かもしれない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-175-1267-31 Archive title: Griechenland.- Panzer IV; PK 690 Dating: 1941/1942 Photographer: Teschendorf 撮影。 Origin: Bundesarchiv
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写真(右)1941-1942年,ギリシャ,アテネを行進するドイツ陸軍IV号戦車F型:43口径長砲身7.5センチ砲を装備した新鋭戦車で,北アフリカ戦線に送られる車両かもしれない。
Griechenland, Athen.- Kolonne von Panzer IV passieren eine Straße; PK 690 Dating: 1941/1942 Photographer: Teschendorf撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-175-1270-36 引用(他引用不許可)


対戦車戦闘能力を強化するためにPanzer IV (Sd. Kfz. 161)の7.5センチ砲は、短砲身24口径7.5cmセンチ戦車砲(7.5cm KwK 37 L/24)から43口径、長砲身48口7.5cmセンチ戦車砲(7.5cm KwK 40 L/48)と長砲身となった。ソ連軍との戦いで経験を積んだドイツ軍はソ連軍の利点を取り入れた。白色の冬季迷彩服もそうだが、T-34戦車を真似た中戦車、長口径3インチ相当の大型戦車砲・対戦車砲の採用など、ソ連軍を参考にしている。

写真(右):1941-42年,バルカン半島のドイツ軍IV号戦車:43口径7.5センチ戦車砲を装備して対戦車戦闘も可能なPanzer IV (Sd. Kfz. 161)戦車。バルカン地域には,休養か訓練のために配備されていたのであろうか。
Balkan, Griechenland.- Panzer IV Ausf. G mit Besatzung in Fahrt auf freiem Feld; PK 690 Dating: 1941/1942 Photographer: Teschendorf撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


写真(右)1942年3-4月,ソ連、ヴィスマの泥濘の道を歩兵を随伴して進む、短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)搭載のIV号戦車 (Panzer IV)
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-269-0211-10 Archive title: Sowjetunion bei Wjasma.- Panzer IV mit Soldaten auf verschlammtem Waldweg; PK 697 Dating: 1942 März - April Photographer: Böhmer 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ軍のIV号戦車 (Panzer IV)は、設計当初から24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載することを前提としていたため、車体の全幅は、大型砲塔を搭載できる余裕があり、砲塔を収めるターレットリング(砲塔回転盤)の直径は、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の搭載を前提としていたIII号戦車よりも大きかった。そのためん、戦前の設計でありながら、43口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載することもでき、終戦までIV号戦車の生産は続行された。

他方、III号戦車の砲塔に搭載できる火砲は5センチ砲が最大だったために、大戦後半には対戦車戦闘能力が不足したために生産は中止された。しかし、砲塔を撤去して大型戦闘室を設けた突撃砲であれば、長砲身43口径あるいは48口径7.5センチ戦車砲を搭載できたため、突撃砲として終戦まで生産された。

IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)がはじめに装備した火砲は,短砲身24口径7.5cm砲(7.5cm KwK 37 L/24)だったが,これでは,火力支援はできても,対戦車戦闘能力は低かった。24口径7.5cm砲の貫通力は,500メートルで39ミリ,1000メートルで30ミリと,敵戦車の正面装甲貫通は困難だったためである。

写真(右)1942-1943年,ソ連、スターリングラード戦時期の武装SS親衛隊騎兵師団の擲弾兵とドイツ陸軍の短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 37 L/24)を搭載したIV号戦車D型(Panzer IV Ausf. D):戦車の全面には三段にもわたって覆帯(キャタピラ)を設置して補助装甲としている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-748-0096-37 Archive title: Sowjetunion.- Besatzung eines Panzer IV Ausf. D auf Panzer stehend und mit Ferngläsern beobachtend; PK OKH Dating: 1942/1943 Photographer: Kempe撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ陸軍のIV号戦車はJ型以降は、長砲身60口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 39)を搭載し、対戦車戦闘を念頭に置いていた。他方、IV号戦車はD型でも、火力支援車である突撃砲でもクルップ社の砲身長1768ミリの24口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 37 L/24)を搭載していたが、対ソ戦初期にソ連赤軍のT-34戦車に直面したドイツ軍は、その防御力の高さと長砲身76.2ミリ戦車砲の威力に衝撃を受けた。

 そこで、ヒトラーの長砲身砲採用の命令もあって、1942年春から対戦車戦能力の向上のためIV号戦車とIII号突撃砲には長砲身43口径の7.5センチ戦車砲(7.5cm-KwK 40 L/43)が装備されることになった。しかし、陸軍は保守的で、長砲身砲の生産も順調ではなっかようで、実際に対戦車戦闘能力が強化されたIV号戦車が登場するのは、1942年後半になってしまった。

写真(右):1942-43年,ソ連,工兵部隊が架橋した鉄橋を渡るドイツ陸軍「グロス・ドイッチェラント」師団のIV号戦車: 装甲師団の主力戦車となっていたIV号戦車PzKpfw IV の5センチ戦車砲では,ソ連軍の主力戦車となりつつあったT-34戦車に対抗できなかった。
Rußland.- Panzer IV (Sd. Kfz. 161) kurz der Divison "Großdeutschland", mit Besatzung fahren über eine Brücke; ObdH Dating: 1942/1943 Photographer: Kempe 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


写真(右):1943年12月,ソ連ウクライナ、白色迷彩服を着た歩兵を載せて進撃するドイツ軍IV号戦車:
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-708-0300-06 Original title: info Archivischer Titel: Archive title: Russland-Süd (Ukraine).- Zwei Panzer IV (Sd. Kfz. 161) mit aufgesessenen Soldaten (Gebirgsjäger?) in Position auf einem Feld mit Schneematsch fahrend; PK KBZ HGR Südukraine Dating: Dezember 1943 Photographer: Scheerer (e) Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-708-0300-06引用(他引用不許可)


ドイツ軍の戦車は,大口径,長砲身の対戦車砲を搭載していなかった。そこで,1942年春には,対戦車用に43口径7.5センチ砲StuK 40 L/43を装備した突撃砲が開発された。この突撃砲の主砲は,1942年秋には,48口径7.5センチ砲StuK 40 L/48へと強化され,事実上「駆逐戦車」となった。

写真(右):1943年,イタリア戦線のドイツ軍IV 号戦車:1943年秋にイタリアが連合国に降伏すると、ドイツ軍はすぐにイタリアを占領下に置いた。そして、捕まっていたムッソリーニを救出し、傀儡政権サロニカ共和国を樹立した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-305-0652-24 Archive title: Italien.- Besatzung eines Panzer IV (mit Turmschürzen) der 16. SS-Panzerdivision während eines Halts auf Straße; PK 699 Dating: September 1943 Photographer: Funke Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-305-0652-24引用(他引用不許可)


◆1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。

この時期,独ソ戦ではドン川西岸にあった南方軍集団が,ロストフから,カフカスに南下し,スターリングラードに東進していた。東方ソ連で「ブラウ」作戦が発動した時期に,ユダヤ人絶滅政策が本格的に始動したのであって,これは,ソ連のボリシェビキ殲滅戦闘と対比しながら,考えることができる。

ユダヤ人迫害の主導者は,ナチスと親衛隊だが,それだけではない。一般市民や現地住民のなかにも,やむをえないと思いつつ,差別・迫害に加担した人たちがいた。当時,ユダヤ人差別に反対することは反逆であり,処罰対象となった。保身のためにはやむをえないと考えた人々が大多数だったことが,ユダヤ人差別・迫害を激化させたと考えられる。

写真(右)1943-1944年冬,ソ連、フィンランド湾近くの前線から後退する時期のドイツ陸軍の43口径7.5センチ戦車砲搭載のIV号戦車G型:戦車は冬季迷彩用の白色塗装を施している。戦車兵は白色の冬季迷彩服ではなく、一般的な羊毛の外套を着用している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-725-0190-17 Original title: info Scherl: Auf einer Verbindungsstraße zwischen Ilmensee und Finnischem Meerbusen Im Zuge der Frontverkürzung gehen Einheiten in planmäßiger Ordnung in die ihnen neu zugewiesenen Stellungen. Achtung! PK-Aufnahme Kriegsberichter Reimers 28.2.44 [Herausgabedatum] Zentralbild: II. Weltkrieg 1939-45 An der Front in der Sowjetunion. Ende Februar 1944. Bei der sowjetischen Offensive zur Befreiung des Leningrader Gebietes Januar-März 1944 räumen die deutschen Truppen das ganze Gebiet zwischen Ilmensee und Finnischem Meerbusen bis zum Peipus-See. Archive title: Sowjetunion-Nord.- Rückzug der deutschen Truppen, Soldaten der Panzertruppe in Panzer IV; KBZ Lw 24 Dating: 1943/1944 Winter Photographer: Reimers 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右):1944年初期,イタリア戦線の山岳兵団とドイツ軍IV 号戦車:イタリアでは、1944年1月から5月のモンテカッシーノ戦、1945年9月のゴシック線などイタリアのドイツ軍は有効な持久戦を展開した。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1986-013-06 Old signature: Bild 146-1993-030-21A Archive title: Italien, Brückenkopf Nettuno.- Panzer IV (Sd. Kfz. 161) mit Besatzung und aufgesessener Infanterie Dating: 1944 Anfang Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 146-1986-013-06引用(他引用不許可)


1942年4月12日ヒトラー卓上談話:「特にこの(対米戦と独ソ戦という)戦争では,負ければすべてを失うということを明記しなければならない。だからスローガンは唯一“勝利”である。」

1942年5月22日:「(東部の)戦場では理想主義者が次々に死んでゆくのに,銃後で犯罪者どもを野放しにしておけば,わが国の人種政策は逆行してしまう。第一次大戦の教訓を忘れてはいけない。私の結論は次の通りだ。兵士は死ぬ可能性がある。犯罪者は確実に死ななければならない。これに選択の余地はない。この原則を受け入れない国家に,理想主義に燃える兵士を戦場で市の危険にさらす権利はない。-----銃後のドイツ国民が劣等人種に成り果てることがないように監視することこそ,私の義務であると心得ている。」 1942年8月30日ヒトラー卓上談話:「ロシアでは共産主義が本性を現している。我々は1メートルごとに掃討作戦を展開し,即決裁判を行わざるを得なかった。テロリストとの戦いは,過酷な戦いである。エストニアとラトビアでは反抗は収まった。が,ゲリラの情報を担うユダヤ人を殲滅しない限り,我々の責務は完了しない。」ユダヤ人が反ドイツ謀略戦争を仕掛けているので,殲滅すべきだと考えていた。

写真(右):1943-1944年、フランス、SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」に所属するドイツ軍IV 号戦車:砲塔周辺には磁石式吸着爆雷が装着されないようにプラスチックがコーティングされている。SS装甲師団「ヒトラーユーゲント」は、ヒトラーユーゲントからSSに入隊した17歳、18歳の少年兵が基幹となる師団で、後にノルマンディーに侵攻してきた西側連合軍と死闘を繰り広げることになる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1725-12 Archive title: Belgien, Frankreich.- II. SS-Panzer-Regiment 12 "Hitlerjugend"; Panzer IV Sd. Kfz. 161 mit Seitenschürzen (Turmnummer 615); Übung unter Aufsicht von Offizieren des Heeres; Panzersoldat in Lederkleidung auf Turm; PK 698 Dating: 1943/1944 Photographer: Kurth, Bernhard Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-297-1725-12引用(他引用不許可)


1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,突如,ソ連を攻撃した。このは,ドイツ軍によるソ連侵攻バルバロッサ作戦が実行されたのは,次のような理由からだった。
?ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。
?ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ繁栄の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。
?フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。

ヒトラーは,ソ連軍を弱体化していると見ていた。対ソ戦は,「腐った納屋を蹴り飛ばすようなもの」であり,1941年中に,8週間程度で決着がつくと考えていた。 

ソ連侵攻バルバロッサ作戦に準備されたドイツ陸軍兵力は,北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープRitter von Leeb元帥),中央軍集団(司令官フォン・ボックvon Bock元帥),南方軍集団(フォン・ルントシュテットvon Rundstedt元帥)に分かれていたが,主力は,中央軍集団だった。

写真(右):1943-1944年、ベルギーあるいはフランス、ドイツ武装親衛隊装甲師団「ヒトラーユーゲント」所属のIV 号戦車GあるいはH型:48口径7.5センチ戦車砲を搭載した砲塔の周囲と車体側面には対戦車弾(ホローチャージ弾)を防ぐための防楯が装着されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-297-1722-26 Archive title: Belgien, Frankreich.- II. SS-Panzer-Regiment 12 "Hitlerjugend"; zwei Panzer IV Sd. Kfz. 161 mit Seitenschürzen (Turmnummer 618); Übung unter Aufsicht von Offizieren des Heeres; PK 698 Dating: 1943/1944 Photographer: Kurth, Bernhard Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-155-2142-32引用(他引用不許可)


独ソ戦当時,ドイツ軍戦車の主力は,新型の?号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)だった。この中戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径,3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。

写真(右):1944年6-7月、ソ連、18 t牽引車 (Sd.Kfz. 9)に牽引されたドイツ軍IV 号戦車(砲塔番号808号車)がキャタピラを装着している。IV 号戦車の砲塔周囲と車体側面には対戦車弾(ホローチャージ弾;弾頭にロート状に成型した弾薬を装備)を防ぐための防楯が装着されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-155-2142-32 Archive title: Sowjetunion.- Panzer IV Sd. Kfz. 161 (Turmnummer 808; mit Turm- und Seitenschürzen) mit Kettenschaden hinter einem schweren Zugkraftwagen 18 t (Sd.Kfz. 9), am Straßenrand in einer Stadt, beobachtet von Kindern; PK 689 Dating: 1944 Juni - Juli Photographer: Hoffmann Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-155-2142-32引用(他引用不許可)


独ソ戦開始の時期には,突撃砲,自走砲(砲戦車)も多数投入された。これは,回転式砲塔をもたず,砲塔よりも余裕のある固定式の戦闘室に,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。

写真(右)1942年3月30日、北アフリカ、炎上したドイツ陸軍IV号戦車 PzKpfw IV の車内から通信士を引き出すイギリス軍兵士たち:短砲身24口径7.5cmセンチ戦車砲(7.5cm KwK 37 L/24)を搭載した初期のD型あるいはE型と思われる。これは歩兵支援を任務としていた。その後、主砲を短砲身から長砲身に変更して対戦車戦闘能力を向上したF2型が北アフリカに投入されたが、数は少なかった。当初の対戦車戦闘は、長砲身60口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 39 L/60)を搭載したIII号戦車が担っていた。戦車部隊の中では火力支援任務に当たっていた。撃破したドイツ軍戦車の内部を検分するには、死体を取り除く必要があった。そこで燃えた死体を紐で縛った上で、ツルハシで刺して持ち上げ、ハッチから吊り上げて、外に出した。撮影したのは、イギリス第一軍の映像写真班の2人の中尉である。
Catalogue number: E 9986, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Photography, Creator: No 1 Army Film & Photographic Unit Vanderson (Lieut), Murray (Lieut), Object description: The burnt remains of the radio-operator of a German PzKpfw IV tank is hoisted out of his compartment, 30 March 1942.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (E 9986)


写真(右)1942年9月6日、北アフリカ、撃破されたドイツ陸軍IV号戦車F2型 PzKpfw IV Ausf F2:車体後部のエンジン部分が爆発を起こしたのか吹き飛ぶほど大きな損傷を受けている。車体や砲塔のハッチはすべて開いているが、爆発の時に開いたのか、それともイギリス軍兵士が検分するために開けたのか。初期型が搭載していた短砲身24口径7.5cmセンチ戦車砲(7.5cm KwK 37 L/24)は歩兵支援用火器だったので、IV号戦車F2型は、対戦車戦闘能力を備えるために、長砲身43口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 40 L/43)に変換した新型の戦車。
Catalogue number: E 16510, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Photography, Creator: No 1 Army Film & Photographic Unit Graham (Capt), Object description: A knocked-out German PzKpfw IV Ausf F2 tank, 6 September 1942. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (E 16510)


写真(右)1944年6月10日、フランス北部、バイユー西方、イギリス軍が6ポンド対戦車砲で撃破したドイツ陸軍IV号戦車H型 PzKpfw IV Hを検分するイギリス第7機甲師団とカナダ軍の将校たち:第50歩兵師団ダラム軽装歩兵連隊所属の6ポンド砲が北フランス、バイユー西方のモンフレヴィル、ドゥエで撃破したドイツ軍戦車の1台。小道から転落し、擱座したところを砲撃されたのか、砲撃を避けようとして転落したのか。戦車も機動力がなくなれば、格好の目標となってしまうので、乗員が脱出したのか。
Catalogue number: B 5375, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Photography, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit, Laing (Sgt), Knight (Capt) (Photographer), Object description: British 7th Armoured Division officers and a Canadian captain inspect a German PzKpfw IV Ausf H tank of Panzer Lehr Division, one of two knocked out by a 6-pdr anti-tank gun of the 6th Durham Light Infantry, 50th (Northumbrian) Division, near Douet, on 10 June 1944. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (B 5375)


写真(右)1944年8月24日、フランス北部、ファレーズのポケット地帯に包囲、撃破されたドイツ陸軍IV号戦車 PzKpfw IV の後方:攻撃され炎上したIV号戦車 PzKpfw IV の後方エンジン上部と砲塔のハッチには各々1人の乗員の死体が焼け焦げている。搭載したエンジンは、マイバッハ HL 120 TRM V型12気筒液冷ガソリンエンジン300馬力 (224kW)。 キャタピラも完全に脱落しており走行不可能な状態で炎上したのであろうか。
Catalogue number: B 9657, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Production date: 1944-08-24, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Photography, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit, Knight (Capt) (Photographer), Object description: A knocked-out German PzKpfw IV tank with the burnt bodies of two of its crew in the Falaise Pocket, 24 August 1944. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (B 9657)


写真(右)1944年9月17日、イタリア、マラーノ川北部で家屋に隠蔽されたドイツ陸軍IV号戦車 PzKpfw IV:ドイツ軍が放棄した戦車をイギリス軍がイタリア中部、アドリア海に面したリミニとサンマリノの間で発見した。対空偽装のために家屋に一時的に隠していたのか、家屋に引き込んで迎撃しようとしていたのか、いずれにせよ制空権を奪われた状況で戦車が戦うためには、発見されないように細心の注意を払っていた。
Catalogue number: NA 18714, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Names object category: Black and white, Creator: No. 2 Army Film & Photographic Unit Lambert (Sgt), Object description: An abandoned German PzKpfw IV tank which had been backed into a house for cover, north of the River Marano, 17 September 1944. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (NA 18714)


IV号戦車(Pz.Kpfw.IV):Panzerkampfwagen IVを見る。


6-2.IV号突撃戦車 Strumpanzer IV 「ブルムベア」 Brummbär

写真(右):1944年4月,イタリア戦線、IV号突撃戦車 Strumpanzer IV 「ブルムベア」 Brummbär
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-311-0903-21A Archive title: Italien, bei Nettuno.- Panzersoldaten auf getarntem Sturmpanzer IV in offenem Gelände; PK 699 Dating: März 1944 Photographer: Vack Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-311-0903-21A"引用(他引用不許可)


歩兵支援用にIV号戦車の車台をベースに1942年から1943年にかけて開発されたのが重装甲のIV号突撃戦車 Strumpanzer IV 「ブルムベア」。砲塔を撤去して、広い空間を持つ戦闘室を設け、40度傾斜の100mm装甲を施した。そして、歩兵砲sIG33を戦車用に改造した12口径15cm突撃榴弾砲(15cm Sturmhaubitze 43 L/12)を戦闘室に装備した。歩兵支援のためには、破壊力の大きい大口径砲が拠点を制圧するのに威力を発揮する。しかし、大口径砲は重く機動性が低いために、戦車に搭載して運用することが考えられた。初の実戦投入は、1943年7月、東部戦線、クルスク戦車戦。

写真(右):1944年4-5月,イタリア戦線、IV号突撃戦車 Strumpanzer IV 「ブルムベア」 Brummbär(手前)、V号戦車Panzer V パンテル"Panther"、III 号突撃砲Sturmgeschütze III(奥2台):初の実戦投入は、1943年7月、東部戦線、クルスク戦車戦。 
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-313-1004-2A Archive title: Italien.- getarnter Sturmpanzer IV, Panzer V "Panther" und zwei Sturmgeschütze III vor Gebäude stehend; PK 699 Dating: 1944 April - Mai Photographer: Vack Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-313-1004-2A"引用(他引用不許可)


IV号突撃戦車ブルムベアSturmpanzer IV Brummbär性能諸元:
全長5.9 m、全幅2.88 m、全高2.5 m
重量28.2 t
エンジン:マイバッハ12気筒液冷ガソリン HL120TRM1 300 馬力
航続距離 210 km(整地時)
乗員:5 名
主砲:12口径15cm StuH 43(/1) L/12


6-3.IV号自走榴弾砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel"

写真(右):1943年秋,ソ連東部戦線、IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel"と?号突撃砲(右):戦闘室に30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲を搭載した自走砲 Panzerhaubitzeフンメルと43口径7.5センチ対戦車砲を搭載した重装甲の突撃砲を比較すると、車高の高さがずいぶん異なる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-220-0636-07 Archive title: Sowjetunion.- Panzerhaubitze "Hummel" (links) und Sturmhaubitze 42 (rechts) in einer Ortschaft; PK 694 Dating: 1943 Herbst Photographer: Harschneck Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-220-0636-07"引用(他引用不許可)


対戦車戦には、
1)隠密性(発見されにくい)を発揮できる、
2)射撃の標的になりにくい、
3)正面面積を狭くして重装甲を施しやすい、
という3点で車高が低い方が有利である。したがって、車高の高いフンメルは、対戦車戦闘に向いていない。

他方、歩兵支援のためには、破壊力の大きい大口径砲が拠点を制圧するのに威力を発揮する。しかし、大口径砲は重く機動性が低いために、戦車に搭載して運用することが考えられた。これが自走砲である。

写真(右):1943年6-7月,ソ連東部戦線、IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel"の30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲の射撃:砲弾を装填する砲員たちだが、戦闘室内に15cm sFH18 L/30榴弾は18発しか搭載できなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-219-0586-11 Archive title: Sowjetunion-Süd.- Panzerhaubitze "Hummel" (Panzer IV Chassis), SFH 18 (15cm) auf Selbstfahrlafette, Geschütz wird geladen; PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli Photographer: Harschneck Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-219-0586-11"引用(他引用不許可)


写真(右):1943年6-7月,ソ連東部戦線、IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel"の戦闘室:30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲に榴弾を装填する砲員たち。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-219-0586-17 Archive title: Sowjetunion, Mitte/Süd.- Panzerhaubitze "Hummel" (Panzer IV Chassis), SFH 18 (15cm) auf Selbstfahrlafette, Geschütz wird geladen; PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli Photographer: Harschneck Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-220-0636-07"引用(他引用不許可)


IV号自走砲フンメルHummel 15cm SPG)の30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲は、大型砲弾のために、15センチ砲弾は車内には僅か18発しか搭載できなかった。連続射撃のためには、フンメルに随伴する弾薬運搬車が不可欠だった。

写真(右):1944年1-2月,ソ連東部戦線、IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel":1942年10月に試作車両が完成。1943年からは量産開始。1943年6月のクルスク突出部への攻撃に備えて、フンメルは装甲師団、装甲擲弾兵師団砲兵連隊に配備された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0898-27 Archive title: Sowjetunion.- Panzerhaubitze "Hummel" mit geöffneter Heckklappe auf steinigem Untergrund; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0898-27"引用(他引用不許可)


装甲師団や機械化された歩兵に随伴する砲兵としてIV号戦車の車台をベースに1942年から1943年にかけて開発されたのがIV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel"。砲塔を撤去して、開放式の戦闘室を設け、20ミリの薄い乗員防御版で覆った。

戦車の車体後方に搭載していたエンジンはフンメル自走榴弾砲では中央に移され、重量バランスを図った。そして、30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲を搭載した。初の実戦投入は、1943年7月、東部戦線、クルスク戦車戦。

IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel"の生産台数は、1943年368輌、1944年 289輌、1945年57輌、合計714輌。

写真(右):1944年1-2月,ソ連東部戦線、IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel":戦闘室に搭載された30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲が射撃姿勢をとっている。 フンメル自走榴弾砲の戦闘室周囲は20ミリ装甲版で囲まれており、銃弾や砲弾破片からの乗員を防御できる程度であり、火砲の直接射撃を受ければ一たまりもなく破壊されてしまう。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0898-28 Archive title: Sowjetunion.- Panzerhaubitze "Hummel" mit geöffneter Heckklappe, im Vordergrund neue Granaten; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0898-28"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年1-2月,ソ連東部戦線、IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel":開放式の戦闘室を後部から眺めると、20ミリの薄い乗員防御版で囲まれた戦闘室に30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲が装備されているのがわかる。手前に15cm sFH18 L/30榴弾が並んでいるが、これを手動人力装填するのには体力がいる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0898-19 Archive title: Sowjetunion.- Panzerhaubitze "Hummel", Geschütz wird mit Granaten geladen; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0898-19"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年1-2月,ソ連東部戦線、IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel"戦闘室で測距儀(レンジファインダー)を操作する砲員:戦闘室に搭載された30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲の砲弾が並べられている。乗員たちは、重くて滑りやすい砲弾を作動する榴弾砲に装填する危険な作業をするために、分厚い手袋をしている。戦闘室周囲の装甲板は20ミリ厚しかない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0898-11 Archive title: Sowjetunion.- Panzerhaubitze "Hummel", Richtschütze schaut durch Visiereinrichtung / Entfernungsmesser; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0898-11"引用(他引用不許可)


直線的軌道のカノン(加農)砲、放物線軌道の榴弾砲(曲射)砲では、射撃術は異なる。IV号自走砲フンメル(Sd.Kfz.165 Hummel 15cm SPG)が搭載した榴弾砲にあっては、目標が直接見えない状態で攻撃する間接射撃も多用される。榴弾砲の射撃照準は、砲の仰角と左右角度を調節することで、そのために次のような機材を使用する。
?水準器
縦と横を合わせて、砲を水平面に定めて、基準線を設定する。
?マイクロメーター
砲の角度を測定する。
?測距儀(レンジファインダー)
標的と砲との距離を測る。左右に離れた2個の対物レンズで取り込んだ画像を、距離計に連動して回転する鏡(またはプリズム)によって、合成プリズムに送る。操作としては、二つ乖離して映る像を重ねて一つになるように操作すると、砲と標的との距離がわかる。
?射撃照準器
砲の仰角や砲と標的の標高差を調整して射撃距離を定める。

写真(右):1943年6-7月,ソ連東部戦線中南部、IV号自走砲 Panzerhaubitze "戦闘室でSFH 18 (15cm) の信管をきる砲員:戦闘室に搭載された30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲の砲弾は、弾頭重量43.5kg。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-219-0586-20 Archive title: Sowjetunion, Mitte/Süd.-Panzerhaubitze "Hummel" (Panzer IV Chassis),SFH 18 (15cm) auf Selbstfahrlafette, Geschütz wird geladen, Granate wird präpariert; PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli Photographer: Harschneck Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-219-0586-20"引用(他引用不許可)


15センチ榴弾砲18型搭載IV号火砲搭載車両「フンメル」(Sd.Kfz.165 Hummel 15cm SPG)の主砲に採用された30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲は、第1次世界大戦の17口径15cm重榴弾砲sFH13の改良型で、1920年代から1930年代初めまで開発され、1933年に制式採用された。15cm重榴弾砲sFH13は重量2,270kgだったが、sFH18の重量は5,512kgと大幅に増加したため機動力が低下した。そこで、牽引車や自走砲が利用されるようになったのである。

30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲Gr.19榴弾は、弾頭重量43.5kg、特別な8番装薬を用いて発射すると、初速495m/秒、最大射程1万3,250mだった。ただし通常射撃では、容量の異なる1番装薬から6番装薬までを使用したが、特大の7番装薬と8番装薬は、特に許可があった場合にのみ装填できた。

Gr.19榴弾は装薬量も多く大型だったために、フンメル自走榴弾砲の車内には、15cm砲弾を18発しか搭載できなかった。

フンメル自走榴弾砲の車体は、自走砲用に延長されているが、転輪/サスペンション懸架方式の数や配置はIV号戦車と同じである。ただし、最終転輪以降の車体部分が延長されており、起動輪と第1転輪の間隔もIV号戦車より延長されている。また、車体幅はIV号戦車より若干延長されている。

写真(右):1944年1-2月,ソ連東部戦線、IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel"戦闘室後方に並んだ乗員たち:戦闘室に搭載された30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲の砲弾が並べられている。乗員たちは、重くて滑りやすい砲弾を作動する榴弾砲に装填する危険な作業をするために、分厚い手袋をしている。戦闘室周囲の装甲板は20ミリ厚しかない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0898-22 Archive title: Sowjetunion.- Panzerhaubitze "Hummel", Panzerbesatzung, lachend, auf Granaten gelehnt; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0898-22"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年1-2月,ソ連東部戦線、IV号自走砲 Panzerhaubitze フンメル"Hummel"の操縦室:開放式の戦闘室の下、車掌の前部に操縦室がある。防御は20ミリ装甲なので機銃防御程度であり、対戦車戦闘は考慮されていないのが、自走砲である。これに対して、突撃砲は対戦車戦にも耐えられる装甲を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0898-23 Archive title: Sowjetunion.- Panzerhaubitze "Hummel", Soldat im Innenraum; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0898-23"引用(他引用不許可)


IV号15センチ自走重榴弾砲フンメル:Hummel を見る。


6-4.IV号自走対戦車砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisse

写真(右):1944年1-2月,ソ連東部戦線、IV号自走対戦車砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisse:戦闘室の上部をカバーで覆うことができるように湾曲した覆い支柱が戦闘室の前方に装備している。寒気を遮断して少しでも乗員のいる空間を暖かくするためである。車外の乗員は厚いコートを着込んでいる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0888-15 Archive title: Sowjetunion.- Kolonne von Panzerjäger Nashorn/Hornisse in Fahrt auf Straße; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-279-0950-13"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年3月,ソ連東部戦線、IV号自走対戦車砲 Panzerhaubitze Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisseのキャタピラ交換作業:戦闘室に30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲を搭載した自走砲 Panzerhaubitze フンメルとほぼ同時に71口径8.8センチ対戦車砲を搭載した対戦車自走砲としてホルニッセ(スズメバチ)、後のナースホルン(犀/サイ)が開発された。突撃砲と異なり、装甲は小銃弾や弾片に耐えられる程度で、20ミリしかない。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-279-0949-16 Archive title: Sowjetunion, bei Witebsk.- Panzerjäger Nashorn/Hornisse. Panzersoldaten beim Kettenwechsel; PK 697 Dating: März 1944 Photographer: Bergmann, Johannes Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-279-0949-16"引用(他引用不許可)


1941年9月、ベルリンのアルケット社(Altmärkische Kettenwerke GmbH)がサイズの近いIV号戦車をベースにIII号戦車の転輪などを取り入れた自走砲専用車体(III/IV号火砲搭載車輌)を開発した。この車体は、全長を延長し、エンジンを後部から中央部に移動して、大型砲を搭載する場合の重量バランスや戦闘敷く空間の確保に考慮している。

1942年7月、この車体に15cm榴弾砲を搭載するフンメルの開発が始まったが、ヒトラーは対戦車戦闘を有利にするために8.8センチ高射砲を改造した8.8 cm PaK 43を搭載した対戦車自走砲の開発を指示した。

写真(右):1944年3月,ソ連東部戦線、IV号自走対戦車砲 Panzerhaubitze Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisse:戦闘室に30口径15cm sFH18 L/30榴弾砲を搭載した自走砲 Panzerhaubitze フンメルとほぼ同時に71口径8.8センチ対戦車砲を搭載した対戦車自走砲としてナースホルンが開発された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-279-0949-26 Archive title: Sowjetunion, bei Witebsk.- Panzerjäger Nashorn/Hornisse. Im Vordergrund Kradfahrer auf Motorrad; PK 697 Dating: März 1944 Photographer: Bergmann, Johannes Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-279-0949-26"引用(他引用不許可)。


対ソ戦の緒戦でドイツ陸軍は、ソ連赤軍のT-34、KV-1など重防御、76.2ミリ長砲身戦車砲を装備する戦車に苦戦した。そこで、対戦車戦能力を向上させるために、急遽、防御力は犠牲にしても、強力な戦車砲を装備して、ソ連赤軍戦車を撃破できる車両が望まれた。

ヒトラーも、このような対戦車戦闘車両を望んであり、新型の71口径8.8センチ対戦車砲を搭載し対戦車戦を戦う車両としてホルニッセ(スズメバチ)、後にナースホルン(サイ)と呼ばれる対戦車自走砲が開発された。しかし、この車両が実戦に投入された時期は、1943年の夏からであり、遅かった。

写真(右):1944年3月,ソ連東部戦線、IV号自走対戦車砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisseの前部:戦闘室から71口径8.8センチ対戦車砲が伸びている。車体前部には操縦席があるので、出入りに使用できるハッチで視界を確保している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-279-0950-08 Archive title: Sowjetunion, bei Witebsk.- Panzerjäger Nashorn/Hornisse. Im Vordergrund Kradfahrer auf Motorrad; PK 697 Dating: März 1944 Photographer: Bergmann, Johannes Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-279-0950-08"引用(他引用不許可)。


IV号自走対戦車砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisse諸元:

全長8.44 m、車体長7.26 m、全幅2.95 m、全高2.65 m
重量24 t
航続距離235 km(整地)
主砲:71口径8.8cm PaK 43/1(40発) 、7.92mm MG-34機銃 1丁
装甲:戦闘室全周・車体前面上部10 mm、車体前面下部30 mm
エンジン:マイバッハ HL 120 TRMガソリンエンジン 300 馬力
乗員4名

71口径8.8cm PaK 43は、1940年にドイツ国防軍が8.8 cm FlaK 18/36/37に代わる高射砲開発を進めたことが契機になり、1943年に戦車砲型が8.8 cm KwK 43と、対戦車砲型が71口径8.8cm PaK 43として採用された。これらは71口径の長砲身で、狭い戦闘室内での争点を考慮して、垂直鎖栓式の閉鎖機、ボタン式の電気撃発装置を備えていた。砲尾の閉鎖機を開くと薬莢が排出されるが、砲弾の装填は手動であり、現在の戦車のような自動装填式の戦車砲はなかった。

ナースホルンと同じ71口径8.8cm PaK 43はエレファント駆逐戦車、ヤークトパンター、ティーガー?、ヤークトテーゲル駆逐戦車にも装備されている。

写真(右):1944年3月,ソ連東部戦線、IV号自走対戦車砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisse:フンメルと同様の車体に長砲身71口径の8.8センチ対戦車砲を搭載した。この対戦車砲は、ティーガー?の8.8センチ砲よりも長砲身で強力である。ただしティーガー?は、重装甲だったが、ナースホルンは突撃砲ではなく自走砲であり、装甲は貧弱である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-279-0950-13 Archive title: Sowjetunion, bei Witebsk.- Panzerjäger Nashorn/Hornisse mit Besatzung; PK 697 Dating: März 1944 Photographer: Bergmann, Johannes Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-279-0950-13"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年3月,ソ連東部戦線、IV号自走対戦車砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisse:装甲師団ではなく、装甲擲弾兵師団に配備されたナースホルンやフンメルは、戦車とともに行動することは少なく、歩兵と行動を共にすることが多かった。ナースホルンンと随伴しているのは、トラック、乗用車である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-279-0950-16 Archive title: Sowjetunion, bei Witebsk.- Panzerjäger Nashorn/Hornisse. LKW-Kolonne; PK 697 Dating: März 1944 Photographer: Bergmann, Johannes Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-279-0950-16"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年3月,ソ連東部戦線、IV号自走対戦車砲Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisse:フンメルと同様の開放式の戦闘室にいる乗員は冬季の寒さに堪えたようだ。戦闘室の上部をカバーで覆い外気から遮断して少しでも暖を取ったようだ。車外の乗員は厚いコートを着込んでいる。
Inventory: Bild 101 I -Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-279-0950-10 Archive title: Sowjetunion, bei Witebsk.- Panzerjäger Nashorn/Hornisse mit Besatzung; PK 697 Dating: März 1944 Photographer: Bergmann, Johannes Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-279-0950-10"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年3月,ソ連東部戦線、IV号対戦車自走砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisse:フンメルと同様の車体に長砲身71口径の8.8センチ対戦車砲を搭載した。この対戦車砲は、ティーガー?の8.8センチ砲よりも長砲身で強力である。ただしティーガー?は、重装甲だったが、ナースホルンは突撃砲ではなく自走砲であり、装甲は貧弱である。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-279-0949-21 Archive title: Sowjetunion, bei Witebsk.- Panzerjäger Nashorn/Hornisse mit aufgessenen Soldaten in Winterkleidung; PK 697 Dating: März 1944 Photographer: Bergmann, Johannes Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-279-0949-21"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年3月,ソ連東部戦線、IV号対戦車自走砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisse:開放式の戦闘室にいる乗員は冬季の寒さから少しでも守ろうと、戦闘室の上部をカバーで覆い外気から遮断している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-278-0889-11 Archive title: Sowjetunion.- Kolonne von Panzerjägern Nashorn / Hornisse in Fahrt auf Straße; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-278-0889-11"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年2月,イタリア戦線、偽装を施したIV号対戦車自走砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisseの砲撃:開放式の戦闘室の周囲と砲身に樹木を被せて対地・対空の艤装を施し、対戦車戦闘の隠密性を維持している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-310-0876-15 Archive title: Italien.- getarnter Panzerjägern Nashorn / Hornisse ; PK 699 Dating: Februar 1944 Photographer: Dohm Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-310-0876-15"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年2月,イタリア戦線、IV号対戦車自走砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisseのマルズブレーキ:開放式の戦闘室に立っているのは指揮官か。記念撮影のためか勲章を佩用している。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-310-0876-33 Archive title: Italien.- getarnter Panzerjäger Nashorn/Hornisse; PK 699 Dating: Februar 1944 Photographer: Dohm Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild+101I-310-0876-33"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年3月,イタリア戦線、IV号対戦車自走砲 Panzerjäger ナースホルンNashorn/ホルニッセHornisseの砲撃:開放式の戦闘室に砲員が揃い砲弾の装填、照準、砲の調整をしている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-311-0913-33A Archive title: Italien, bei Nettuno.- Getarnter Panzerhaubitze Wespe (?) in Feuerstellung; PK 699 Dating: März 1944 Photographer: Koch Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-311-0913-33A"引用(他引用不許可)


写真(右):1944年,イタリア戦線、対空偽装を施して移動するIV号対戦車自走砲 Panzerjäger ナースホルンNashornの後部:装甲師団に随伴する砲兵として開発された自走砲 Panzerhaubitze フンメルだが、制空権を失い戦闘爆撃機の襲撃を受ければ、開放式の戦闘室は一たまりもなく破壊されてしまう。そこで、対空偽装を施し、できるだけ上空から遮蔽されるような森林地帯や夜間を利用して移動するようになった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-316-1161-21A Archive title: Italien-Senigallia.- mit Zweigen stark getarnter deutscher Panzer auf Landstraße (Panzerhaubitze Hummel oder Panzerjäger Nashorn/Hornisse); PK 699 Dating: 1944 Photographer: Vack Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


IV号対戦車自走砲 ナースホルン:Panzerjäger Nashornを見る。


6-5.IV号駆逐戦車 ヤークトパンツァー Jagdpanzer IV (Sd.Kfz.162)

写真(右)1944年頃,ドイツ陸軍IV 号駆逐戦車Jagdpanzer IV Sd.Kfz.162 :低い車高で隠密性が高く、標的になりやすい前面露出面積も狭い。搭載しているのは、?号戦車と同じ48口径7.5センチ砲(7.5 cm L/48)だが、対戦車戦闘能力は高い。ヤークトティーゲル重駆逐戦車が重装甲でも車高が高いのと対照的である。
Catalogue number STT 7134 Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Jagdpanzer IV, Label: German Jagdpanzer IV tank destroyer. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 7134引用


写真(右)1944年頃,ドイツ陸軍IV 号駆逐戦車Jagdpanzer IV Sd.Kfz.162 :後方には、予備のキャタピラ、予備のタンクを装着している。搭載している48口径7.5センチ砲(7.5 cm L/48)はそれほど長砲身ではないため、隠れてしまっている。
Catalogue number STT 7135 Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Jagdpanzer IV, Label: German Jagdpanzer IV tank destroyer. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 7135引用


写真(右)1944年頃,ドイツ陸軍IV号駆逐戦車Jagdpanzer IV (Sd.Kfz.162)48口径7.5センチ砲搭載車両のプロトタイプ(試作車):砲身には反動を緩和・減退するマズルブレーキmuzzle brake)を装着している。正面から見ると、車高が低く、隠密性に優れており、正面面積が狭い分、敵砲弾の命中率も低くなる。この試作車の表面には、非磁気のプラスチックコーティングは塗られていない。
Catalogue number STT 6607N, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Jagdpanzer IV prototype. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 6607N引用


写真(右)1944年暮れ頃,西部戦線で西側連合軍に撃破されたドイツ陸軍IV 号駆逐戦車Jagdpanzer IV Sd.Kfz.162 とパンター戦車:二つの戦車ともに、磁力吸着式対戦車爆雷の防御用に、装甲板の上にプラスチックのコーティングを施している。IV 号駆逐戦車の搭載している48口径7.5センチ砲(7.5 cm L/48)砲身には反動を緩和・減退するマズルブレーキmuzzle brake)を装着されている。他方、V 号戦車パンターの搭載しているのは長砲身の70口径7.5センチ砲(7.5 cm L/70)である。
Catalogue number STT 6600 Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Jagdpanzer IV, Label: German Jagdpanzer IV tank destroyer, next to a Panther. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 6600引用


写真(右)1944年頃,ドイツ陸軍IV号駆逐戦車Jagdpanzer IV (Sd.Kfz.162)70口径7.5センチ砲搭載車両:IV号駆逐戦車の備砲を48口径7.5センチ砲から、?号戦車パンター搭載と同じ70口径7.5センチ砲(7.5 cm L/70)へ長砲身化した発達型。ただし、砲身が長くなったために重心バランスが崩れ、前方が重く負荷がかかる傾向が強まった。
Catalogue number STT 8026Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Jagdpanzer IV, Label: German Panzer IV/70 (V) tank destroyer. Also known as the Jagdpanzer IV.. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 8026引用


写真(右)1944年頃,ドイツ陸軍IV号駆逐戦車Jagdpanzer IV (Sd.Kfz.162)70口径7.5センチ砲搭載車両:?号駆逐戦車の後方のエンジン部分には、大型のカバーがあり、そこにエンジン冷却装置が取り付けられている。車体が低いためか、戦闘室と同じ高さに調節してある。この車体には、非磁気のプラスチックコーティングは塗られていない。
Catalogue number STT 8025, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Panzer IV/70 (V) - Jagdpanzer IV. Label: German Panzer IV/70 (V) 'Jagpanzer IV' tank destroyer. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 8025引用


写真(右)1944年12月,西部戦線へのアルデンヌ攻勢に投入されたドイツ陸軍IV号駆逐戦車Jagdpanzer IV (Sd.Kfz.162)70口径7.5センチ砲搭載車両:パンター搭載と同じ70口径7.5センチ砲を搭載した駆逐戦車。1944年10月にはドイツ本土のアーヘンまで攻め込まれていたが、12月に大攻勢をかけ、1日の損害としてはアメリカ陸軍の史上最大の死傷者を与えた。
Catalogue number STT 7270, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Panzer IV/70 (V) - Jagdpanzer IV, Label: Panzer IV/70 (V) tank destroyer (also known as the Jagdpanzer IV) in action during the German counter-offensive in the Ardennes, December 1944. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 7270引用


写真(右)1944年暮れ頃,西部戦線で西側連合軍に撃破されたドイツ陸軍IV号駆逐戦車Jagdpanzer IV (Sd.Kfz.162)70口径7.5センチ砲搭載車両:駆逐戦車の周囲には、磁力吸着式対戦車爆雷が吸着しないように非磁気のプラスチックのコーティングを施している。
Catalogue number STT 7160, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Panzer IV/70 (V) - Jagdpanzer IV, Label: German Panzer IV/70 (V) tank destroyer. Also known as the Jagdpanzer IV. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 7160引用


写真(右)1944年暮れ頃,西部戦線で西側連合軍に撃破されたドイツ陸軍IV号駆逐戦車Jagdpanzer IV (Sd.Kfz.162)70口径7.5センチ砲搭載車両:IV号駆逐戦車の後方のエンジン部分には、大型のカバーがあり、そこにエンジン冷却装置が取り付けられている。写真では、エンジンの大型カバーを上に跳ね上げている。
Catalogue number STT 7159N, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Knocked-out Panzer IV/70 (V) - Jagdpanzer IV. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 7159N引用


写真(右)1944年暮れ頃,西部戦線で西側連合軍に撃破されたドイツ陸軍IV号駆逐戦車70口径7.5センチ砲搭載車両:?号駆逐戦車の後方のエンジン部分には、大型のカバーがあり、そこにエンジン冷却装置が取り付けられている。写真では、一部のエンジンの大型カバーを上に跳ね上げている。
Catalogue number STT 7620, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject periodSecond World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Knocked-out Panzer IV/70 (V) - Jagdpanzer IV, Label: German Panzer IV/70 (V) tank destroyer. Also known as the Jagdpanzer IV. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 7620引用


ドイツ国防軍司令部は,ソ連侵攻バルバロサ作戦の発動直前,ソ連共産党がソ連軍兵士の政治教育のために派遣していた政治委員コミサールを捜索・拘束,殺害するよう命令を出した。

独ソ戦に際して,ユダヤ人と同じように積極的に排除すべきだとされたのが,共産党員,ソ連軍にいた共産党員政治委員コミサールなどボリシェビキ分子である。ドイツ国防軍も,パルチザンやボリシェビキに容赦をしなかった。

◆1941年6月22日にドイツがソ連を攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していた英国,米国は即座にソ連支援を公言した。それまでのチャーチル英首相の関心は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことだった。しかし,独ソ戦の勃発に,英国の危機は遠のいたと大喜びした。

写真(右)1945年4月6-8日,西部戦線、運河に擱座したドイツ陸軍IV号駆逐戦車Panzer IV/70 (V) ("Jagdpanzer IV") 70口径7.5センチ砲搭載車両:IV号駆逐戦車が操縦を誤ったのか、攻撃を避けようとしたのか、運河に擱座し破壊された。後方には、イギリス軍の車両がトラス式架橋を渡っている。トラス式架橋Bailey bridge)は、鉄骨の三角形の集合構造で橋を支える構造で、第二次大戦中にイギリス軍が開発した。
Catalogue number BU 3336, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit Travis (Sgt), Object description: A disabled German Panzer IV/70 (V) ("Jagdpanzer IV") tank destroyer half-submerged in the canal at Dreierwalde, 6 - 8 April 1945. British vehicles pass over a Bailey bridge in the background. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・BU 3336引用


バルバロッサ作戦の時期、ドイツ軍第16装甲師団司令官フーベ少将(1890-1944)の狙撃兵旅団(自動車移動の歩兵旅団)は,3.7センチ対戦車砲でソ連軍T-34戦車を砲撃したが,20発以上の命中弾を跳ね返してしまった。

IV号駆逐戦車 Jagdpanzer IV/70: を見る。


6-6.IV号対空戦車 ヴィルベルヴィント Wirbelwind (Sd.Kfz.161/4) 

写真(右)1944年頃,撃破されたドイツ陸軍IV 号対空戦車ヴィルベルヴィント(Wirbelwind:旋風)Sd.Kfz.161/4
Catalogue number STT 7873 Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white Object description: Wirbelwind. 写真は,イギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・STT 7873引用


ドイツ陸軍IV 号対空戦車ヴィルベルヴィント(Wirbelwind:旋風)Sd.Kfz.161/4は、砲塔に2センチ4連装対空機関砲(2cm Flakvierling 38)を砲塔に搭載している。しかし、砲塔の上部は開放式で、自走砲に近い貧弱な防御力しか持っていない。砲塔は人力稼働で、砲手1名と装填手2名で操作する。高速起動する戦闘爆撃機を撃墜するのは困難であった。生産数は100輌程度と少ない。

  IV号対空戦車ヴィルベルヴィントWirbelwind:旋風)Sd.Kfz.161/4の諸元:
全長5.92m 幅2.9m 高さ2.76m 
重さ22t 
最高速度 38km/h 
装甲 車体前面80mm、 砲塔シールド 16mm
兵装 四連装2cm対空機関砲Falk38

IV号対空戦車ヴィルベルヴィント:Wirbelwindを見る。


7.ソ連赤軍の新鋭戦車−KB-1,KB-2、T-34

写真(右)1942年夏,スターリングラード近郊で撃破されたソ連軍KW-1重戦車:ソ連軍のKB-1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,第二次大戦が始まった1939年から生産開始,戦車の名前は,国防相クリメント・ボロシロフ元帥にちなんだもの。
KB-1重戦車の30口径76.2ミリ砲は,当時の全てのドイツ軍戦車を撃破できた。
Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zerstörter sowjetischer Panzer KW-1 Dating: August 1942.写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0443引用(他引用不許可)。


ソ連軍は,KV-1重戦車を秘密兵器扱いし,フィンランド冬戦争には,T-34と同じく投入していない。1941年6月22日,ソ連に侵攻したドイツ軍は,国境近くでKB-1重戦車に直面し苦戦した。ドイツ軍がティーガー重戦車を投入したのは,これから2年後と遅い。

ソ連軍のKB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,全長 6.95メートル,全幅 3.32メートル,全高 3.24メートル,重量 52トン。 速度 34 キロ/時(整地)・15キロ(不整地),航続距離 180キロ,兵装, 20口径152mm榴弾砲M10(弾数36発),1939年制式,弾頭50キロ,最大射程12000メートル。7.62ミリ機銃3丁,エンジン550馬力。乗員 6人。

写真(右)1941年6-7月,ロシア北部で撃破されたソ連軍KW-2重戦車:ソ連軍のKB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,全長 6.95メートル,全幅 3.32メートル,全高 3.24メートル,重量 52トン。 速度 34 キロ/時(整地)・15キロ(不整地),航続距離 180キロ,兵装 20口径152mm榴弾砲M10(弾数36発),1939年制式,弾頭50キロ,最大射程12000メートル。7.62ミリ機銃3丁,エンジン550馬力。乗員 6人。
Sowjetunion-Nord.- Defekter russischer Panzer KW-2 am Straßenrand wird von deutschen Soldaten untersucht; PK 694 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Nägele 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


KB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,1939年開発,20口径 152ミリM10榴弾砲を装備。152mm榴弾砲は,弾頭50キロで,薬莢は分離していたので,装填手は2人,乗員は6人だった。全長7メートル,装甲は砲塔前面110ミリ,側面75ミリでもあった。重量52トンでディーゼルエンジン550馬力は力不足だった。
 KV-2は独ソ戦当初、最大級の重戦車だったが,砲弾の装填,路外走行に難点があり,1940-1941年に200台が生産されたに過ぎない。

ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilovを読む。

写真(右)1942年10月,撃破されたソ連軍T-34中戦車:ドイツ連邦アーカイブには,撃破された全く同じT-34のカラー写真が2台分6枚も保管されている。長砲身76.2ミリ砲を装備した頑丈なソ連軍戦車に感歎して撮影したようだ。T-34戦車に対抗できるドイツ軍戦車は,1942年夏はなかった。その後まもなく,ティーガーVI号戦車が実線投入されたが,数的不利は続いた。ティーガー重戦車は,1942年8月から1944年8月まで,僅か1300台しか生産されていない。
Abgeschossene sowjet. Panzer Archive title: Mittlerer russischer Panzer T-34 Dating: 1942 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


T-34戦車は,BT快速戦車を引き継ぐもので,クリスティー戦車方式のサスペンションだった。1939年に試作車が完成,12月に制式となり,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34/85戦車は2万台以上が生量された。

ソ連の新鋭T-34中戦車は,全長6メートル,全幅3メートル,重量26トンで,長砲身30口径76.2ミリ(3インチ)砲を装備,車体前面装甲45mmだった。T-34戦車は,BT快速戦車を引き継ぐもので,クリスティー戦車方式のサスペンションだった。1939年に試作車が完成,12月に制式となり,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34/85戦車は2万台以上が生量された。

ソ連赤軍のT-34戦車を読む。


8.VI号重戦車「ティーガー」(ティーゲル) Panzer VI "Tiger I"

 ソ連軍のT-34戦車は,1942年には大量投入されており,ドイツ軍がT-34に対抗できるティガー戦車を独ソ戦に実線投入したのは,1942年暮れ以降だった。それまで,ドイツ軍戦車は,T-34戦車を撃破することは困難だった。ティーガー戦車は,1942年当時,ソ連軍KW-1重戦車に勝っていた数少ない重戦車だったが,前線配備されるのは1942年後半からで,数も少なかった。ソ連南部のスターリングラードの戦いに、ティーガー戦車は投入されていない。

写真(右)1944年1月ー2月,東部戦線の修理工場で整備を受けるVI号重戦車「ティーゲル」 Panzer VI "Tiger I" :デリックで砲塔を外して整備終了後、元の位置にはめ込んでいる。ティーガー戦車の動力は、ガソリン機関であり、ソ連T-34戦車のようなディーゼル機関ではない。エンジン排気量は2万1000cc、V12液冷のマイバッハ製で出力550馬力である。後期型は、出力を700馬力の強化している。しかし、ガソリンエンジンは、ディーゼルエンジンに比べて燃費が悪く、補給輸送距離の長く、燃料不足のドイツ軍にとって、マイナス要因となった。
Signature: Bild 101I-278-0875-30 Archive title: Sowjetunion.- Instandsetzung eines Panzers VI "Tiger I" unter Einsatz eines Strabokrans. Ausbau des Turms; PK 697 Dating: 1944 Januar - Februar Photographer: Wehmeyer Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


重装甲のティーガーI の車体前面は100mm、側面は60mmの装甲で、鋳造砲塔前面は120mm、側面および後方は80mmの装甲で覆われている。ティーガーの装甲は、T-34戦車のように湾曲した避弾形状でなかく、垂直に切り立ったものであった。これは、圧延鋼板を溶接して装甲したためであり、砲塔を一挙に鋳造することができないでいたための措置ともいえる。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。

 ユダヤ人・ソ連軍捕虜抹殺・奴隷労働化の方針は,最高機密だったが,それは,迫害が知れれば次のような支障が生じるからである。

1)ユダヤ人,ソ連軍捕虜が迫害されていることがわかれば,彼らは反抗する。そこで,抵抗を予防するために,東方への移送,労働すると偽り,強制収容所やその支所(労働キャンプ)に移送した。
2)ユダヤ人・ソ連捕虜の処刑という残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,処刑は秘匿する必要があった。
3)後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人・ソ連軍捕虜の処刑は,人倫に悖ると反感を買う恐れがあった。そこで,ドイツ人にも処刑を秘匿した。

ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜大量殺戮には,次のような障害があった。
1)殺戮に伴う処刑者の精神的負担
2)資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
3)大量殺戮発覚によるユダヤ人・スラブ人などの抵抗勢力の増大
 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人やソ連軍捕虜を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,大量殺戮が事実上行われていた。

◆電撃戦に必要なこのような兵器を開発,量産したドイツの技術は高度なものである。同時に,その軍事技術を何のために,誰が用いようとしたのかが問われなくてはならない。技術を開発し,それを体化させた兵器を作り出し,その兵器を運用するのは人間である。そして,その兵器のために破壊される財産や殺害される人間がいる。となれば,大量破壊,大量殺戮をもたらす技術を開発することが正当化どうかということにもなる。

VI号テーゲル重戦車Panzer VI Tigerを見る。

エレファント(フェルジナンド)重駆逐戦車 Sd.Kfz.184を見る。


9.V号戦車パンテル Panzer V "Panther" Sd.Kfz.171

写真(右)1944年,東部戦線中央部に配備された70口径7.5センチ砲を搭載したV号戦車パンテル(Panzer V "Panther") 815号車:ソ連赤軍は、76.2ミリ砲装備のT-34中戦車がパンテル戦車に劣勢になることを懸念し、重防御の新型ドイツ洗車に対抗するために、T-34戦車の砲塔を大型化し、そこに76.2ミリ砲に変えて大口径の85ミリ砲を装備する新型T-34を量産した。これが、T34/85戦車である。旧型はT34/76戦車となった。ドイツ軍の「ティーガー」戦車や「パンテル」戦車は、強力な戦車砲を装備したソ連軍戦車に対抗するために、遠距離砲戦を余儀なくされたようだ。
Archive title:Sowjetunion-Mitte.- Gruppe deutscher Soldaten neben Panzer V "Panther" (Turmnummer 815) in einer Ortschaft; PK 670 Dating: 1944 Frühling Photographer: Finke Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


V号パンテル戦車Panzer V Pantherを見る。
V号ヤークト・パンター駆逐戦車を見る。


10. VI号重戦車ティーガーII Panzer VI "Tiger II" Königstiger (Sd.Kfz. 182)

写真(右)1944年7月,スプレーで迷彩塗装を施されているVI号重戦車ティーガーII(Panzer VI "Tiger II" Königstiger; Sd.Kfz. 182) :森の中で作業しているのは、連合軍航空機に発見、攻撃されるのを防ぐためである。
Archive title: Frankreich.- Panzersoldaten auf Panzer VI "Tiger II" (Königstiger) am Waldrand beim Besprühen mit Farbe (?); PK KBZ Ob. West Dating: Juni 1944 Photographer: Wagner Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-721-0398-23A 引用(他引用不許可)。


ティーガーII「キングタイガー」重戦車Panzer VI "Tiger II" (Königstiger)基本方針はティーガーIの防御力と攻撃力を向上させるものである。装甲は、パンテルと同様に傾斜が強くなり、車体にもその影響が窺われるが、重量は70トン近く、パンテルの45トン、ティガー?の60トンよりも遥かに重いため、トランスミッションはティーガーを高性能化したものである。重防御のティーガーII の砲塔前面装甲は180 mm で、車体前面も150 mmある。側面は砲塔・車体とも80mmである。搭載しているのは、71口径8.8cm戦車砲(KwK43/2 L71)である。ティーガーII生産は、1943年9月の試作から1945年3月の生産終了までに492両で少ない。

ティーゲルII重戦車「ケーニヒス・ティーゲル」 Panzer VI "Tiger II" を見る。
ヤークトティーガー駆逐戦車: Jagdpanzer VI Jagdtigerを見る。

ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺・虐待は,秘匿されてきたが,それは,殺戮を行っていることが知れ渡れば次のような支障が生じるからである。
?敵は殺害されると知れば,抵抗をやめない。そこで,抵抗を弱めるために,姦計を弄して,処刑した。
?残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。
?後方・前線のドイツ人にとって,非人間的な虐殺・虐待は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にも虐殺・虐待を秘匿する必要があった。
 

虐殺・虐待という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。バルバロッサ作戦,スターリングラード攻防戦の背後には,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺の問題があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ませるわけにはいけないであろう。

ナチスは,人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきである。他方,人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人,スラブ人は下等人種・劣等民族であり,排除しなければならないとした。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,人「種」ではなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。

人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われており,似非科学な偏見,恣意的なご都合主義,プロパガンダに基づいている。為政者とは,人種・民族を自分の意図に都合よく定義,特定の人種民族を差別,迫害するものである。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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