◆『写真ポスターから学ぶナチス宣伝術−ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社
◆読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、外国人・非国民の排斥、議会制民主主義の破壊、ヒトラー流の軍事独裁政権獲得という本音のようだ。
『写真・ポスターに見るナチス宣伝術−ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ
』(2011年7月25日青弓社刊行,270頁,2100円,ISBN9784787220424)では,日本初公開の写真・ポスター(ドイツ連邦アーカイブ、アメリカホロコースト記念博物館所蔵)をふんだんに所収して、第一次世界大戦からナチスの台頭・躍進・独裁、第二次世界大戦、ユダヤ人虐殺、第三帝国の崩壊までの歴史をレクチャーします。そして、ナチ党とヒトラーが展開した視覚に訴える情報宣伝の本質に迫ります。(⇒版元ドットコム参照)
【目次】
はじめに
序章 ドイツ・ワイマール共和国の誕生から第三帝国の崩壊まで
1 第一次世界大戦の敗北「背後からの匕首の一突き」
2 敗北したドイツでのナチ党勃興
3 ナチ党による一党独裁へ
4 ナチの人権侵害と戦争準備
5 第二次世界大戦の勃発
6 ナチス第三帝国の崩壊
第1章 アドルフ・ヒトラーの第一次世界大戦
1 学校教育になじまなかったオーストリア人アドルフ・ヒトラー
2 オーストリアへの嫌悪とドイツ帝国への憧憬
3 ウィーンでの困窮と徴兵忌避
4 ヒトラーの反ユダヤ主義の形成
5 従軍兵士ヒトラーの世界観――生存闘争
6 ロシア革命とアメリカ参戦
第2章 ドイツ革命とその反動
1 労働者・兵士からなるレーテが主導したドイツ革命
2 過激化するドイツ十一月革命
3 フライコール(反革命自由義勇軍)
4 一九一九年のベルサイユ条約とワイマール憲法
5 バイエルン・レーテ代議員ヒトラーの転向
第3章 ドイツ・ワイマール共和国の混乱
1 一九一九年ナチ党に入党したヒトラー 2 カップ一揆の鉤十字を模倣したナチ党
3 突撃隊SAの創設
4 闇の共和国軍とソビエト・ロシアとの協力
5 フランス軍のルール地方占領とバイエルン州の反抗
6 ミュンヘン一揆とヒトラー裁判
第4章 共和国安定期から世界大恐慌へ
1 一九二五年のナチ党復活とヒンデンブルク大統領就任
2 一九二〇年代のナチ党プロパガンダ
3 一九二八年総選挙で凋落したナチ党
4 世界大恐慌のなかでの一九三〇年総選挙
5 突撃隊再編と親衛隊の設立
6 一九三二年の大統領選挙・プロイセン州議会選挙
第5章 ナチ党ヒトラー独裁の始まり
1 一九三二年、第七回総選挙で第一党となったナチ党
2 一九三三年一月、ヒンデンブルク大統領によるヒトラー首相指名
3 民族と国家の保護のための大統領緊急令
4 テロの威嚇のもとでの全権委任法可決
5 キリスト教会とナチ信仰
6 強行的一元化の進行
7 親衛隊による強制収容所の管理とレーム粛清
8 ヒトラーの総統と軍最高司令官就任
9 ニュルンベルク法に基づくユダヤ人迫害の本格化
第6章 ナチスの再軍備・対外膨張
1 ドイツの国際連盟脱退と再軍備宣言
2 ラインラント進駐と国防軍総司令官ブロンベルク・陸軍総司令官フリッチュの解任
3 オーストリア併合(アンシュルス)とズデーテンラント割譲要求
4 クリスタル・ナハト(十一月八日のボグロム)直後のユダヤ人財産動員令
5 ドイツ・ソ連不可侵条約
第7章 第二次ヨーロッパ大戦の勃発
1 ポーランド侵攻「事例・白」
2 第二次世界大戦勃発直後から始まったユダヤ人殺害
3 民族的な耕地整理
4 ポーランドでのゲットー設置
5 フランス侵攻作戦「事例・黄」
6 ヴィシー・フランス政府のユダヤ人迫害
7 障害者に対する安楽死T4作戦
第8章 対ソビエト連邦ボリシェビキ戦争
1 ドイツ軍のバルカン侵攻
2 ソ連侵攻「事例バルバロッサ」
3 ボリシェビキ・パルチザン殲滅戦
4 アインザッツグルッペとヒヴィスによるユダヤ人殺戮
5 武装親衛隊と外国人労働者・東方労働者の拡大
第9章 ユダヤ人殲滅のための世界戦争
1 ユダヤ人絶滅の決定
2 武器貸与法・大西洋憲章からアメリカ参戦へ
3 一九四二年一月のヴァンゼー会議後に始まったラインハルト作戦
4 アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所のクレマトリウムとブンカー
5 親衛隊国家長官ヒムラーのユダヤ人絶滅演説
第10章 ヒトラー第三帝国の崩壊
1 ドイツ青少年「白バラ」の反戦活動
2 スターリングラード敗北後の総力戦布告を打ち砕いたドイツ本土空襲
3 秘密兵器生産に奴隷労働を投入
4 アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所での大量殺戮
5 連合国軍ノルマンディー侵攻後のヒトラー暗殺未遂事件
6 国民突撃隊の編成
7 東西分裂を期待していたヒトラーの最期
8 ドイツへの報復――ニュルンベルク国際軍事裁判
第11章 ナチ・プロパガンダ神話の真実
1 プロパガンダと暴力・テロによる国民支配
2 プロパガンダに対抗するメディアリテラシー
3 暴力とテロに対する国民の責任
参考文献・引用資料
おわりに
◆『写真・ポスターから学ぶナチス宣伝術−ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』の誤りの訂正および追加情報: 著作につき、以下の点に関して、お詫び申し上げますとともに、訂正あるいは追加させていただきます。
・表紙のカラーポスターの解説:最上段:ドイツ国家人民党の選挙ポスター(黒白赤の「帝政旗」を引き摺り下ろすボルシェビキと再び掲げる国家主義者)、中段:ナチ党と共産党の連中を一掃するバイエルン人民党の選挙ポスター。下段左:第一党となったナチ党の選挙ポスター。ヒンデンブルク大統領とヒトラー。下段右:第一次大戦直後、反ボルシェビキを訴える国家主義者のポスター。共産主義者を大蛇に例えて退治する。
・アドルフ・ヒトラーの出生地は、正確にはオーストリア北部のブラウナウ・アム・イン(Braunau am Inn)です(p.32)。
・1889年4月20日生まれのアドルフ・ヒトラーが第一次大戦(1914年8月)に直面したのは25歳の時でした。ミュンヘンでのヒトラーの写真解説で30歳としたのを訂正します(p.44)。
・ヒンデンブルク大統領の所領は「ノイデック( Neudeck)」の発音が正確なようです(p.111)。 ・ニュルンベルク法の制定時期は、ナチ党全国大会終了直後のニュルンベルクの特別国会ですが、時期を1934年でなく1935年に訂正します。
・アルベルト・シュペーアの自伝には、1934年ナチ党全国党大会で探照灯(サーチライト)によって「光の神殿」を演出したように書かれおり、それを踏襲しました。しかし、実際に取り入れられたのは1936年以降の党大会からのようです。
・カラー写真を引用したYad Veshemとは、イスラエルにあるホロコースト殉教者英雄記念館のことです。
アマゾン|セブンネット|紀伊國屋BookWeb|ブックサービス|e-hon|ビーケーワン|
ライブドアブックス|ジュンク堂|ツタヤオンライン|本やタウン|文教堂Jbooks|HMV
◆2011年9月2日・9日(金)21時-22時、NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」で「ルドルフ・ヘス」「レニ・リーフェンシュタール」に、司会渡辺真理さん、片山杜秀先生、瀬川裕司先生とともにゲスト出演しました。再放送は、9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時です。これらはドイツZDF「Hitler's henchmen/The Deputy - Rudolf Hess」「Hitlers Women - Leni Riefenstahl」をもとにした番組です。
国会図書館| 東京都写真美術館|島根県立図書館|西宮市立図書館|関西外国語大学図書館
|三郷町立図書館|北九州市立図書館||市立大町図書館|芳賀町図書館|
名古屋市立図書館|
角田市立図書館|佐世保市立図書館|大分県立図書館|倉敷市立図書館|高松市図書館|鳥取県立図書館|北本市立図書館|東久留米市立図書館|茅ヶ崎市立図書館|郡山市の図書館|鹿児島市立図書館|富士見市立図書館|大和郡山市立図書館|倉敷市立図書館|静内図書館|名古屋市立図書館|大阪府立図書館|函館中央図書館|八女市立図書館|佐世保市立図書館|本書を所蔵する全国の大学図書館|早稲田大学図書館|日本全国書誌|
文教大学附属図書館|滋賀大学附属図書室|立命館大学図書館|九州大学附属図書館|関西学院大学図書館|東京都近代美術館アートギャラリ|武蔵野市立図書館|立教大学図書館|桃山学院大学図書館|お茶の水女子大学図書館|愛知大学図書館|東海大学 付属図書館|
はじめに
一九三三年一月、ナチ党指導者アドルフ・ヒトラーは、首相に任命され、一九四五年五月まで、十二年間、政権の座にあった。その間に、大ドイツを復興すると称して、大衆をプロパガンダで煽動し、指導者原理の下で、異論や批判を許すことのない一元化を進めた。そして、領土を拡張し、第二次世界大戦を引き起こした。ナチ党は、国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP)の蔑称だが、そのプロパガンダは、突撃隊(SA)や国防軍の行進、大集会における熱狂した群集の映像によって、力強い印象を与えている。ナチ党やヒトラーとその協力者など「ナチス」は、悪の象徴であるが、同時に、そのプロパガンダは、強固な意志、厳格な規律を演出し、大衆煽動に成功したとされる。
ヒトラーは、第二次世界大戦によって、ヨーロッパ全土に惨禍を及ぼし、ユダヤ人を殺害したために、非難されることになったが、もしも第二次世界戦争を始めなければ、ドイツ復興の立役者として、高く評価されたとも言われる。
つまり、ナチスは、集会、ラジオ、航空機を用いて大衆向けのプロパガンダを巧妙に展開し、選挙を通じて合法的に政権を掌握し、五百万人もの失業者に仕事を与え、ドイツ国民からも圧倒的に支持されていた、というのである。
しかし、ナチスが、民主主義の原則に基づいて、合法的に政権を掌握し、ヒトラーが大ドイツ復興を成し遂げたとの見解には、疑問もある。たとえば、ワイマール共和国政府の保守的な政治家、資本家は、権威も資金も持っていたが、彼らが、学歴のない煽動家ヒトラーに迎合したのはなぜであろうか。また、ワイマール共和国政府ですら警戒していたボリシェビキ(共産主義者)や労働組合が、興隆するナチスに対して、ゼネストなど有効な反撃を行うことができなかったのはなぜか。世界大恐慌の中で、ナチ党は、第一党になっても、議席・得票率が過半数を超えたことはなかったが、ナチ党独裁がドイツ国民に支持された(ように見える)のはなぜか。ナチスは、アーリア人を支配者民族とみなして、ユダヤ人、スラブ人などを下等人種・劣等民族として排除せよと公然と主張していたが、このような非人間的な人種民族差別が、ドイツ国民に広く受け入れられたのはなぜか。
第一次世界大戦に敗北したドイツにあって、ナチスの興隆は、時代の流れの中で必然だった、というほど歴史は単純ではない。判然としていない部分に光を当てるには、ナチ党が勃興する以前の時代、ナチス以外の政治的勢力をも視野に入れ、さらにヒトラー個人の人格・思想にも配慮して、プロパガンダを、ナチスの思想と行動とを見直す必要があると思われる。
本書は、ナチ党が、合法的に独裁政権を開始し、ヒトラーが大ドイツ復興を成し遂げたとする見解が、事実ではなく、「ナチ・プロパガンダ伝説」に過ぎないことを論証する試みで、そのために、第一次世界大戦以前のオーストリア帝国の多民族性から、第二次世界大戦後のニュルンベルク軍事裁判まで、130点の写真・ポスターを用いつつ、ナチ・プロパガンダの背景にある戦争、暴力、テロの側面を明らかにした。
あえて六十年から百年前の、ナチス・プロパガンダ史を検討する意義は、現代における戦争・テロとプロパガンダの密接な結びつきを明らかにする手がかりを与えてくれるからである。過去に膨大な研究や分析がなされてきたナチ・プロパガンダについては、今更見直しても新しい事実は、出てこないかもしれない。しかし、過去の歴史から未来の希望を見出せるかもしれない。プロパガンダは、メディア、技術の問題であり、テロリズムは、暴力、威嚇、恐怖の問題だと二分してしまうのではなく、両者を結びつけて、有効なプロパガンダ、効果的なテロが遂行されているのが、現代ではないだろうか。
今日でも、依然として、祖国・自民族に脅威を与えている敵対的勢力を抑制・排除すべきであるとして、軍事力を背景とした安全保障や核兵器・生物化学兵器を保有した抑止論が当然のように受け入れられている。いずれの国家も武装勢力も、平和を守る、国民や民族を保護するために戦うのであって、他国を侵略し、他民族を虐げることは企図していないという。このような戦争と平和の関係は、古くて新しい問題だが、プロパガンダとテロリズムの関係も、同様である。ナチ・プロパガンダ伝説を再検討することで、この関連を少しでも解明できればと願っている。
ポスター(右):「自由時間を使おう,反革命義勇軍「騎兵ライフル部隊」に参加しよう!」:1919年1月のスパルタクス団蜂起や労働者のゼネスト鎮圧に活躍した自反革命義勇軍(フライコール)は,有給の兵士と、無給のボランティアからなる武装組織だった。失業者,元軍人などのほかに,労働者や店員なども参加した。共和国軍が弱体だった当時,フライコールは,政府も一目置く軍事組織だった。 Zeitfreiwillige!
Kommt sofort zum G. Kav. Schützen-Korps
Dating: 1919/1933 ca.
Designer: Kulas, Josef v. 作。 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用。
1919年5月末,ドイツ国軍のバイエルン第四軍団司令部の啓蒙・宣伝部長に反共・反ユダヤのカール・マイル大尉が就任,レーテ代議員(労農ソビエト)から転向したヒトラーは,政治教育を受け,自らもプロパガンダを担当しました。1919年9月のヒトラーの手紙には,理性に基づく反ユダヤ主義からの帰結として,「最終目標は断固として全ユダヤ人の排除でなければならない」との見解が記されています。
1919年10月16日,ドイツ労働党(1920年2月,国家社会主義ドイツ労働者党に改称)の初の公式会合で,約100名の聴衆を前に,諸国民の敵ユダヤ人に対抗せよと激昂した演説をしたのが,アドルフ・ヒトラーです。ヒトラーは,反政府勢力の監視にスパイとして派遣されたが,そのままドイツ労働者党の宣伝要員になります。彼の演説は魅力的で,党に300マルクの寄付が集まりました。しかし,ヒトラーが,ナチ党首に選出されるのは,2年近く後(1921年7月)です。
序
国粋主義者のクルト・リューデッケは,ナチ党が勢力を拡大するためには,イタリアのムッソリーニを参考にすべきことをヒトラーに説き,自らムッソリーニに会いにミラノに出かけました。ムッソリーニは,リーデッケをもてなし,ベルサイユ条約については,ヒトラーと同じ意見でした。ムッソリーニは,リーデッケが,イタリア政府を武力で倒すつもりか尋ねた時,自信満々に「われわれは国家になる。それが意志だ。」と堂々と答えました。
戦勝国イタリアでも,1919年、元兵士を集めた「突撃隊員協会」が発足,これは軍服を着用した義勇軍でした。ムッソリーニは突撃隊員を糾合して「戦闘ファッシ」を編成,黒シャツを制服とします。イタリアでも,保守政治家・資本家は,共産主義革命の波及を恐れて,資金を提供してファシストを操ろうとしました。
写真(右):1920年3月,ウィスマールで,カップ一揆に出動したロスバッハのフライコール(愛国義勇軍):ベルサイユ条約批准に反対する愛国義勇軍(フライコール)が反乱を起こしてベルリンを占領,カップ博士を中心とする新政権を立てた。共和国国防相ノスケは,共和国軍に鎮圧を命じたが,参謀総長フォン・ゼークトは,反乱軍を支持した。そこで,ワイマール共和国フリードリヒ・エーベルト大統領労働組合のゼネストによって新政府はあっけなく崩壊。クーデターは失敗に終わり、カップはスウェーデンへ亡命した。 Wismar.- Freikorps Roßbach während des Kapp-Putsches 1920
Dating: März 1920
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
フライコールは,義勇軍だったが,第一次敗戦後も、ドイツ参謀本部の隠蔽工作と,敗戦後解散させられたドイツ軍将兵の就職先として,維持されていました。地方自治政府も,在郷軍人会・退役軍人会などの義勇軍を半ば黙認したのです。ナチ党も,元将兵を取り込んだ突撃隊Sturmabteilung(SA)を組織して,労働者のデモを鎮圧し,選挙の対立候補を襲撃し,街頭を示威行進しました。軍隊のように隊列を組んだ武装集団が,ドイツの街頭を行進していたわけです。後の宣伝相ゲッベル博士は,「街頭は,現代の政治の縮図であり,街頭を支配したものが、大衆を征服できる。大衆を制したものが国家を征服する。」と考えました。
イタリアのファシズムは,ドイツの国家社会主義と類似点が多いです。ともに,国粋主義,反共産主義,反議会民主主義であり,新秩序の確立を目指しました。指導者は,ともに庶民出身で,兵士上がりだった。リーデッケは,勇気をもって行動したファシストの黒シャツ隊が,イタリア軍から好意的に扱われ,町を事実上占領することもできたことを報告しました。
ヒトラー党首は,政治的権力を奪取するのに,暴力を使い,軍を味方に引き入れることの重要性をムッソリーニから学んだのです。
1922年10月14日,ヒトラーは600名の突撃隊員を率いてミュンヘンから,ニュルンベルクを経由,そこで同調者が乗り込みました。コーブルク駅に到着し,突撃隊による街頭支配の成功例となります。ナチスは,煽動,プロパガンダによって,突撃隊に選挙干渉,ユダヤ人迫害,示威行進させました。今から思うと,圧倒的に力強く,衝撃的な映像がそれを記録しているかのごとくみえます。しかし,初期のナチスのプロパガンダは,演説会,突撃隊による行進,党機関紙の発行,若干のポスターの配布程度にすぎません。1933年の政権獲得後に,大スタジアムを建設し,自らの施設とすることができたのです。
写真(右)1926年8月,ベルリン,ドイツの日におけるドイツ国軍儀仗兵を閲兵するファン・ヒンデンブルク大統領,国防部長官ヴィルヘルム・グレーナー,軍務局長ハマースタイン:
議会での式典後,共和国広場において,国軍の儀仗兵の式典があった。突撃隊は,褐色の制服を着用していたが,国軍の制服の色はフィールドグレイだった。
Die grosse Verfassungsfeier der Reichsregierung im Reichstag in Berlin!
Reichspräsident von Hindenburg schreitet mit Reichswehrminister Groener und dem Chef der Heeresleitung von Hammerstein die Ehrenkompanie der Reichswehr nach der Feier im Reichstag auf dem Platz der Republik ab.
Dating: 11. August 1926
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ヴィルヘルム・グレーナー(Karl Wilhelm Groener:1867年11月22日-1939年5月3日)は,第一次大戦敗戦時の陸軍参謀総長で,1920-1923年には運輸大臣,1928-1932年まで,国防大臣に就任。1931年には内務大臣を兼任し,1932年5月に突撃隊を禁止します。つまり,ナチスの国軍支配に反対した将軍だったのですが,ナチ党を操ろうとしたクルト・フォン・シュライヒャー(Kurt von Schleicher)内閣のとき追放されてしまいます。
クルト・フォン・ハンマーシュタイン(Kurt von Hammerstein-Equord:1878年9月26日-1943年4月23日)は,1929年,陸軍統帥部長(事実上の陸軍総司令官に就任します。1933年のヒトラー内閣の時には,ナチ党の国軍への容喙を排除する立場だったため,親ヒトラーの国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク将軍によって,1933年12月,追放されてしまいます。後任の陸軍総司令官は,ヴェルナー・フォン・フリッチュ中将でした。
1932年1月22日(ナチスが第一党だったが政権を担っていない時期)のゲッペルスの日記:「総統(当時はナチ党主の意味でチーフと書いていた)と将来のことを話し合った。特に私の将来の役職と権限の輪郭を詳しく描いた。考えられているのは,国民教育相で,映画,ラジオ,当たらし教育施設,芸術,文化,宣伝を総括するものだ。革命的な役職で,中央から指導され,とりわけ帝国(ライヒ)の思想を最優先で代表するものだ。まったく偉大な計画で,こうしたやり方は世界中まだどこにもなかったものだ。私は,この省の基礎を入念に研究し始めた。われわれの政権の精神的基盤を作り,政府機関だけではなく,ドイツ人すべてを獲得することに役立てたい」
ナチスは,大衆動員,プロパガンダに勢力を傾けます。政策論争,党の綱領,マニフェストなど,ナチ党には重要な意味はありません。不満だらけの忌むべき現状を打破して,新しい秩序と規律を打ち立てて,ドイツ帝国の栄光を復活させようという主張,ユダヤ人,共産主義者によって,ドイツは貶められ,彼らがドイツを搾取している,だから,ユダヤ人,共産主義者を排除すべきだ,という(仮想)現状否定の政党でした。
しかし,国家社会主義ドイツ労働者党というナチ党の正式名称が示すように,国粋主義者,資本家,労働者どこにも希望を持たせるような幻想をプロパガンダで徹底します。ナチス反対派に対しては,突撃隊を使って,暴力で弾圧し,排除してゆきます。
これが,ドイツのファシズムです。
◆第一次大戦終結までドイツ帝国の暴力装置は,陸軍,海軍を備えた国防軍Wehrmachtでした。第一次大戦の敗北で,国軍Reichswehrとなり、兵力もベルサイユ条約によって陸軍兵力は10万人まで,戦車・新式火砲の保有禁止など,軍備制限が敷かれます。国防軍の名称は国軍に改変され,参謀本部も解体され,その機能は,陸軍兵務局局に移されます。
第一次大戦後のドイツは,ドイツ帝国からドイツになり,ワイマール共和国と呼ばれるようになります。これは,ゲーテゆかりのワイマールで新憲法が制定されたことに因んでいます。
ドイツ・ワイマール共和国の代表的暴力装置,国軍は,ドイツ帝国時代と比較すれば十分の一未満の兵力しかありませんし,ベルサイユ条約による軍備制限で,軍用機,潜水艦も一切保有できなくなりました。ルール工業地帯のあるラインラントは,非武装知一に指定されました。そのため,ベルサイユ条約が,ドイツ軍を解体したように思ってしまいがちです。しかし,陸軍10万人規模の兵力は,ドイツ国内にあっては強大な暴力装置です。共産主義者の一揆,労働者のデモ・スト,帝政派の蜂起で混乱したワイマール共和国にあって,ドイツ国軍は,政治動向を見極める上で,重要な地位にいました。国軍が支援するか,中立で干渉しないのか,それとも鎮圧側に回るのか,は大きな問題だったのです。外国遠征軍としては弱体化したドイツ国軍でしたが,国内治安軍としては,圧倒的な暴力を手中に収めていたのです。ドイツ軍の去就が,政治動向を決めたといっても過言ではありません。
ドイツ国軍の政治力は,国内治安軍として最大限に活かされます。実際,保守の大政治家,ヒンデンブルク大統領,パーペン首相,クルト・フォン・シュライヒャー首相など全てドイツ国防軍,陸軍出身でした。
軍出身の大政治家たちは,第一次大戦のとき伍長勤務上等兵に過ぎなかったアドルフ・ヒトラーを軽蔑していました。将軍からみれば,将校でも下士官でもない,ただの兵隊の階級だったからです。(伍長からは下士官)
ポスター(右)1919-1933年,「我々の支配者!やつらは,ドイツの民族主義者を排除したがっている。」アフリカのフランス植民地出身の黒人兵士,ボリシェビキ(アカの共産主義者),ユダヤ人はドイツに仇名す敵だ。排除せよ,と訴える排外主義,反共産主義のポスター。 Unsere Herrscher!
Wer sie loswerden will, der wählt deutschnational
Dating: 1919/1933 ca.
Designer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用
>ヒトラーによれば,ユダヤ人が金融資本・マスメディアによって操っている堕落した民主主義・物質主義アメリカは,ヨーロッパとは別世界だ。しかし,ギリシャ・ローマ文明を引き継ぐヨーロッパ文明も,ユダヤ人による人種汚染,アジア有色人種が旺盛な生殖力によって,没落させられようとしている。この危機を救うことこそ,自分の使命,ナチ党の目標だとヒトラーは妄信しました。
ドイツが困難に陥っているのは,ドイツを裏切ったユダヤ人・共産主義者のためであるという主張は,ドイツ人の誇りと名誉を傷つけずに,現在の困難を説明してくれたように錯覚します。自己責任を認めたくない政治家,ビジネスマンも,失業者も,低所得者も,ナチスの主張に同調しました。ヒトラー総統の雄雄しい演説に,ドイツ人の名誉を取り戻したように思った聴衆は,未来のドイツ復興の予測に力づけられました。
写真(右)1931年10月11日,バット・ハルツブルク,突撃隊の集会で,突撃隊SAを閲兵するドイツ国家人民党党首アルフレート・ヴィルヘルム・フーゲンベルク(Alfred Wilhelm Hugenberg:1865年6月19日-1951年3月12日,中央×印):ハルツブルク(Harzburg)戦線を結成し,国粋主義の政権を目指して,社会民主党を中核とする与党,ドイツ共産党に対抗しようとした。 1933年1月30日,ナチ党,国家人民党,中央党によるヒトラー内閣が成立した時,フーゲンベルクは,経済大臣兼農林大臣として入閣。 Gründung der "Harzburger Front" Bad Harzburg, 11.10.1931
Hauptmann Göring und Hptm. Röhm, ganz rechts der Preußischer Kultisminister Rust, (x)
Archive title: links neben Röhm: Himmler und SA-Oberführer Korsemann
Dating: 11. Oktober 1931 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
国家人民党の党首アルフレート・ヴィルヘルム・フーゲンベルク(Alfred Wilhelm Hugenberg)は,ワイマール共和国を否定し、国粋主義的な新政府を擁立すべきことを主張します。帝政復活を主張する勢力も取り込んでいました。国家人民党は,1929年世界恐慌が起こると社会不安とその中での共産主義台頭を危惧した財界から,保守勢力として支持を得ることになります。フーゲンベルクは,同じく国粋主義のナチ党に接近し,1931年10月,:Harzburger Front))として,協力関係を結びました。
ドイツ中部の観光地バットハルツブルク(Bad Harzburg)で,1931年10月、ナチスは,共闘していた右翼の国家人民党,準軍事団体「鉄兜団」と警察予備隊に相当する準軍事組織を創設。この「ハルツブルク戦線」((国民戦線:Harzburger Front)が,ナチ党と財界、軍と提携を深める契機となりました。
ナチ党政権獲得前は,突撃隊・親衛隊・ヒトラーユーゲントを組織してはいても,一般大衆やドイツ国軍,警察を大動員できたわけではないし,大規模集会でもドイツ国軍兵士が行進することは一切なかったのです。そこで,カトリックをまねて,旗・紋章,血染めの旗の洗礼式など,似非宗教的儀式を考え出します。これは,滑稽なほど悪趣味だったのですが,それがかえって注目を浴びました。
1929年からの世界恐慌で,ドイツではハーパーインフレ,失業者の増加,労働者のデモ・ストライキの蔓延,共産党を中心としたボリシェビキの恐怖など社会不安が高まります。こうした状況で,現状打破と規律・秩序を訴えるナチスの勢力は飛躍的に伸びました。
ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%から,1930年9月には18.3%で107議席を獲得,国会の第二党に躍進したのです。総選挙の得票率は,1932年7月37.4%で第一党になりました。
第一党となったナチ党首アドルフ・ヒトラーは,1932年,大統領選挙に出馬しました。1932年の大統領選挙には,1925年以来の現職パウル・フォン・ヒンデンブルクPaul von Hindenburg元帥に、ドイツ共産党首エルンスト・テールマンErnst Thaelmann、国家人民党(国家主義政党)ディスターベルクが立候補,彼らと得票を競ったのです。
得票数は,第一回目に,第一位のヒンデンブルグ1865万票、第二位のヒトラー1339万票,第二回の決選投票では,ヒンデンブルグ1935万票、ヒトラー1341万票。ヒトラー党首の得票率は37%でした。
総選挙における
ナチ党の総選挙得票率は,1928年5月2.6%,1930年9月18.3%,1932年7月37.4%と支持を伸ばします。第一党の党首ヒトラーは,カトリックを基盤とする中央党のフランツ・フォン・パーペン(Franz Joseph von Papen)に首相の座を明け渡すように要求し,ナチ党のヘルマン・ゲーリングは,国会議長に選出されました。 国会では,ゲーリング議長がパーペン首相の所信表明演説を遮って,ドイツ共産党が提出した内閣不信任決議を採択,それが可決されると,パーペン首相は,選出されたばかりの議会を解散しました。1932年11月の選挙で,ナチスは議席を減らしたものの、第一党にとどまります。
1932年11月の総選挙で,躍進を期待していたナチ党の得票率は32.2%に低下し,ヒトラーやゲッペルスは衝撃を受けます。他政党との連携ができず,突撃隊による暴力的な選挙妨害や示威行動が,一般市民の全面的支持を得るに至らなかったこと,社会民主党,共産党など他政党の支持も根強かったことが明らかになりました。ヒトラー党首とナチ党幹部は,国民の支持率の低迷に衝撃を受け,政権奪取のために手段を選ばないことは決意します。
写真(右)1933年3月21日,ポツダムでヒンデンブルク大統領,フォン・フロンベルク国防大臣相に挨拶するヒトラー首相:いずれも第一次大戦に参加しているが,将官クラスのヒンデンブルク,フロンベルクに比して,ヒトラーは伍長勤務上等兵という兵卒だった。将官たちは,小物ヒトラー首相を睥睨し,操縦するつもりでいた。ヒトラーは野心を押し隠して,従順な首相を演じたが,二人の老将軍を,時代遅れの敗け将軍で,その戦術・戦略能力も全く評価していなかったに違いない。 ヒトラーは,まず多数の民衆を味方につけて,強権的な将軍たちに圧力をかけた。しかし,自ら政権を手にすると,裏を返すように,強権的な政治を開始,労働運動,共産主義,自由主義を弾圧し,ナチスによる一党独裁の確立を目指した。次の目標は,ドイツ国防軍を従えることである。 Der historische Tag von Potsdam am 21. März 1933.
Reichspräsident von Hindenburg mit Reichskanzler Hitler und Reichswehrminister von Blomberg
vor der Garnisonkirche in Potsdam
Archive title: Potsdam.- Paul v. Hindenburg (mit Pickelhaube), Werner v. Blomberg (mit Stahlhelm) und Adolf Hitler vor Garnisonkirche
Dating: 21. März 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
大政治家たちは,政治経験もないヒトラーと第一党となったナチ党を操って,自分たちの思い通りの政治をしようと画策します。彼らは,栄光あるドイツ国防軍の将軍だったために,自己の能力を過信して,兵卒に過ぎなかったヒトラーを操ろうと考えたのです。しかし,これは国防軍出身政治家たちの過信,誤診でした。
軍出身の保守政治家は,首相に据えて操ろうとしたヒトラーに,逆に操られてしまいます。この後,ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)国防大臣,ルートビヒ・ベック(Ludwig August Beck, 1880-1944/7/21)参謀総長もヒトラーの術中に陥ってしまうことを思えば,ヒンデンブルク大統領とその一派が,ヒトラーを首相に任命したことが,国防軍出身の政治家・軍人が凋落する始まりでした。
パウル・ルートヴィヒ・フォン・ヒンデンブルク(Paul Ludwig von Hindenburg, 1847-1934/8/2)は,第一次大戦の対ロシア戦タンネンベルク会戦の英雄,ドイツ陸軍参謀総長で,1925年から1934年にワイマル共和国第二代大統領でした。ヒンデンブルクもヒトラーも,第一次大戦のドイツ敗戦は,広報の裏切り者,共産主義者の主導するドイツ革命が「背後からの匕首」となったとして,敗北を認めませんでした。ヒトラーを首相に任命したヒンデンブルクは,ナチ党独裁への道を開いたとも批判されています。
しかし,第一次大戦敗北時(1918年)の陸軍参謀総長が1925年の第二代ドイツ大統領に選挙で選出されたこと自体,ドイツ国民が第一次大戦敗戦を心的外傷(トラウマ:trauma)としていたことの証明です。第一次大戦敗北の責任をユダヤ人,ボリシェビキなど裏切り者に帰したのが,ナチ党でした。ヒンデンブルク大統領は,人権規定を停止する大統領緊急令を頻繁に発令しましたが,これを効果的に使って一党独裁を果たしたのが,ヒトラーのナチ党でした。
1933年1月30日のナチス政権樹立後,大衆を動員できたのも,一般市民の中に(ナチ党だけではなく)国家的行事に参加しないわけには行かないという集団心理が働いたためです。パレードに声援を送り,党大会に出席しなければ,反ナチスとみなされ,政府機関や就職先企業でも不利益を被る恐れが出てきのです。
党レベルでは難しい大規模な飛行機,探照灯,消防・軍用車両あるいは,警察・軍隊の利用も,政権につくことで可能になりました。映画・ラジオ・発行部数の多い新聞・雑誌で宣伝できたのも,国家予算を投入したから,ナチ党の独自資金では困難だったのは当然です。ナチスのプロパガンダが,政権獲得前から,効果的だったかどうかは,非常に疑わしいわけです。
ヒトラー内閣の副首相に就任したフランツ・フォン・パーペンは,首相経験者でもあり,第一次大戦では中東方面の参謀長で中佐,首相経験者でもあり,ヒンデンブルク将軍の寵愛を受けていました。ですから,政治的実績のないヒトラーを意のままに後ろで操ることができると過信していたのです。
実際は,操られたのは,ヒンデンブルクとパーペンなどドイツ陸軍出身の大政治家でした。この後,ブロンベルク国防大臣,ベック参謀総長もヒトラーの術中に陥ってしまうことを思えば,ヒトラー首相就任は,国防軍出身の政治家・軍人が凋落する始まりでした。
◆ナチ党(NSDAP)政権獲得前,プロパガンダは,マスメディアの利用,資金,組織,宣伝対象の上で,限定されたものに過ぎませんでした。大規模なプロパガンダは,ナチ党政権獲得後になって,国家資金,政府機関を通して初めて可能になったのです。
ヒトラーユーゲント(Hitler Jugend)も,大きな組織となったのは,ナチス政権下で,他の青少年団体が解散させられ,全ドイツの青少年のHJ(Hitler Jugend)加盟が義務付けられて以降です。カトリックがナチ党加入を公認したのも,政権獲得以降であす。ニュルンベルク大スタジアムの大式典も政権獲得以降です。飛行機・軍用車両を利用したパレードも,ヒトラー総統が,三軍総司令官となり,その後,再軍備宣言をして以降です。
1933年1月の政権獲得以前,ナチ党プロパガンダは,突撃隊による行進・暴力,頻繁な演説会,党機関の発行など,決して独創的でも,洗練されたものでもなく,影響力も限られていました。
ナチ党(NSDAP)政権獲得の背景には,
?ワイマール共和国(ドイツ)の保守政治家・議会政党人の権謀術数の弊害,
?フライコールのような義勇軍の存続とその暴力を政府が黙認したこと,
?大恐慌による生活悪化,ベルサイユ体制への批判,
?第一次大戦の敗戦,失業などの社会不安をすべてユダヤ人やボリシェビキの責任として,ドイツ人の優越感を満足させたこと, 社会主義・共産主義勢力の拡大を恐れる資本家・アメリカ・イギリスなど外部要因, が指摘できます。このような背景を踏まえて,ナチスが世論を取り込むことができたのは,ナチスの運動と計略が功を奏したということです。
1932年の総選挙で第一党に選ばれ,1933年には,ナチ党(NSDAP)による一党独裁国家を作りました。この過程で,ナチ党は,反対勢力を,突撃隊,親衛隊によって,威嚇し,暴力で弾圧しています。
当時の政治家の身勝手な政争がヒトラーを首相の座につかせたともいえます。ヒンデンブルク大統領は第一次大戦の元参謀総長,元帥で,伍長勤務上等兵だったヒトラーを軽んじていましたが,国防大臣クルト・フォン・シュライヒャー(Kurt Ferdinand von Schleicher, 1882-1934)の権力増大を抑えるために,1933年1月,第一党のナチ党首ヒトラーを首相に指名してしまったのです。
ヒトラー内閣副首相フォン・パーペン(Franz von Papen)は,第一次大戦では中東方面の参謀長で中佐,首相経験者でもあり,フォン・ヒンデンブルク将軍の寵愛を受けていました。ですから,政治的実績のないヒトラーを意のままに後ろで操ることができると過信していたのです。実際は,操られたのは,ヒンデンブルクとパーペンのほうでした。
しかし,ナチ党(NSDAP)は,干渉選挙によっても,過半数の得票率を獲得したことは一回もありません。独裁は民主的手続きを遵守していては不可能だったのです。
そこで,ヒトラーは権力を握るや、1933年2月の国会放火事件を契機に大統領緊急令に基づいてナチスに反対する政治家,共産主義者らを拘束し,暴力の威嚇の下で,全権委任法を可決させ,ナチ党以外の政党を解体します。これは一見合法的な一党独裁ですが,突撃隊や親衛隊を使って反対勢力を暴力で抑え込んだのは明白です。
1933年1月,ヒトラー内閣が誕生すると,SA(Sturmabteilung)は,300万人規模に拡大します。そして,勢力をさらに伸ばすために,国民軍になろうとします。プロイセン貴族的指導を受けるドイツ国防軍に取って代わって,庶民的な,しかし革命的な軍隊を創立しようとしたわけです。
しかし,首相となっているヒトラーは,これ以上の革命(第二革命)をするつもりは,もはやありません。それどころか,国防軍と財界とから,協力を得ようとします。そこで,国防軍と財界が,過激化し,革命を目指す突撃隊を嫌悪していると知ると,軍と財界の反発を恐れたヒトラーは,1934年,SA指導者のレームらが,反乱(一揆)をたくらんでいるとして,彼らを粛清してしまいます。
SA("Storm detachment" )の暴力を引き継いだのが,ヒトラーの護衛隊としてスタートした親衛隊=SS(Schutzstaffel)です。
写真(右)1938年ごろ,ザクセンハウゼン強制収容所を視察する親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Himmler ){最前列,右から二人目}:1923年のミュンヘン一揆に参加した時,ヒムラーは,レームの部下だった。しかし,突撃隊が,国防軍と対立すると,ヒトラーは突撃隊の粛清を決める。この時,ヒトラー護衛部隊だった親衛隊が,突撃隊幕僚長エルンスト・レームら幹部を殺害した。レームが,ヒトラー政権獲得後も,第二革命を主張,ドイツ国防軍に取って代わる第二の軍隊として,突撃隊を育成しようと図った。そこで,国防軍との協力を目指すヒトラーと対立し,1934年7月,反乱を理由として,処刑したのである。この「長いナイフの夜」と呼ばれる反ヒトラー派粛清で活躍,規模を拡大させたのが親衛隊である。 ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊は,ヒトラー護衛だけではなく,党内警察としても拡充されます。親衛隊のメンバーは,1929年末の1000人,1930年末の2700人から,1932年末の5万2000人と増員されますが,これは突撃隊に対抗するためでもありました。
1933年1月,ナチ党(NSDAP)政権が樹立されると,ハインリヒ・ヒムラーは,ミュンヘン警察長官になり,ラインハルト・ハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命します。そして,反ナチス派人物を拘束する強制収容所を設置されると,そこも親衛隊の管轄となります。
写真(右)1940年8月28日,親衛隊国家保安本部SD長官ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)(1904年3月7日-1942年6月4日暗殺):海軍士官だったが,女性問題で除隊。その後,1931年ナチ党に入党,7月に親衛隊に配属。1934年ゲシュタポ局長に就任し,6月「長いナイフの夜」で反ナチス派粛清を主導。 1939年9月,党組織だったSDと保安警察が統合され,親衛隊国家保安本部SDが設立され,ハイドリヒはそ長官に就任。 1941年9月,ベーメン・メーレン保護領副総督に就任。1942年2月,ユダヤ人の絶滅「最終的解決」を決めたヴァンゼー会議を主宰。 チェコスロバキア亡命軍人からなる暗殺団が英軍特殊工作部SOEから派遣され,1942年5月27日,プラハで,ハイドリヒ搭乗車を襲撃,暗殺。 Original title: Zentralbild
28.8.1940
SS- Gruppenführer Heydrich, Präsident der Intern. kriminalpolizeilichen Kommission.
Der Chef der Sicherheitspolizei und der Sd, SS- Gruppenführer Heydrich, hat die Leitung der
Internationalen kriminalpolizeilichen Kommission als deren Präsident übernommen.
Dating: 28. August 1940 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチ党政権が誕生した1933年,反ナチスを拘禁する強制収容所が設置されますが,この管理を任されたのもSS(Schutzstaffel)のドクロ部隊です。
1933年1月,ヒトラー政権が樹立した直後,反ファシスト勢力を根絶やしにしようとする強権的な取調べが始まりました。1933年2月には,最初の強制収容所がザクセンハウゼンとダッハウに作られます。社会民主党の指導者は,1933年8月,逮捕され,さっそくオラニエンブルグのザクセンハウゼン強制収容所に収監されています。
1933年4月,ゲーリングは,プロイセン州秘密警察局を創設し,ここに秘密警察「ゲシュタポ」が誕生します。1934年,既にドイツ各州の警察権力を握っていた親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーにゲシュタポ指揮権が譲渡され,ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich)がゲシュタポ局長に任命されます。ゲシュタポは,後に,アーリア人を人種汚染するとして,ユダヤ人の迫害にも,積極的な役割を果たします。
ナチスは,共産主義者,社会民主党員,労働運動指導者,自由主義者,ユダヤ人など反ナチス的人物を拘束し,保護拘禁してゆきます。
写真(右),ヒトラー・ユーゲント(HitlerJugend)を「閲兵」するヒトラー総統:当初のHJは,音楽や旅行など,青少年にとって魅力ある催し物を数多くこなした。娯楽にひきつけられて入団した青少年も多かったようだ。 しかし,すぐにドイツ軍兵士あるいは親衛隊・突撃隊の隊員になることが,ドイツ青少年に求められた。反対派は,1933年1月のナチス政権獲得直後につくられた強制収容所で,保護拘禁され,更生させられた。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチ党青少年団体のヒトラーユーゲント(Hitler Jugend)は,1936年のヒトラーユーゲント法によって,ドイツの全青少年が加入を義務付けられ,ナチズムが教え込まれます。労働組合も解散を命じられ,ナチ党の労働戦線に統合されてしまいます。
当初のヒトラーユーゲントは,音楽や旅行など,青少年にとって魅力ある催し物を数多く行っていました。娯楽にひきつけられて入団した青少年も多かったようです。 しかし,ナチス政権が固まって,再軍備宣言後には,ドイツ軍兵士あるいは親衛隊・突撃隊の隊員になることが,ドイツ青少年に求められるようになります。
写真(右)1938年4月 ,帝国外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop):親衛隊入隊は1933年だったが,1936年には大将の階級を得ている。外交官ノイラート外務大臣の下,リンベントロップは,1933年4月20日,ヒンデンブルク大統領によって,軍縮全権大使に任命され,英国との海軍協定を結ぶことに成功した。1936年9月13日,リンベントロップは,親衛隊名誉大将に昇進,10月30日,駐英ドイツ大使として,英国王エドワード8世に信任状を奉呈した。1936年11月25日,ベルリンで日独防共協定に調印した。 Reichsaussenminister Joachim von Ribbentrop (Porträt) als SS-Brigadeführer
Dating: 30. April 1938
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用
ヒトラー政権獲得後は,行政官・官僚・警察で,親衛隊にナチ党や親衛隊に入隊を希望するものが急増します。
ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)は,1932年5月の成立のパーペン内閣で,パーペンの友人として,ヒトラーに初面会し,副首相として入閣することを要請します。会談場所は,ミュンヘン郊外のベルクホーフで,ナチ党は選挙で第一党になっていたのです。この会談で,ヒトラーは,パーペンと取引するつもりはないと切り出し,二時間にわたって,リンベントロップを圧倒します。しかし,ヒトラーは連立内閣に参加し,副首相に就任することを了承して,副首相の大役を得ようとしたともいわれます。
リンベントロップは,1932年5月,ヒトラーとの会談で打ちのめされ,第一党となったナチ党(NSDAP)に入党します。けれども,その後の選挙でナチ党は議席数を減らし,12月3日にパーペン内閣は倒れてしまいます。シュライヒャー将軍が内閣を引き継ぎましたが,ヒンデンブルクをないがしろにしたため,ヒンデンブルクは,パーペンと謀って,ヒトラーを,1933年1月30日,首相の座に据えます。当時のヒンデンブルク大統領は,首相指名に絶大な権力を持っていたのです。二人の第一次大戦中のドイツ軍の将校は,伍長勤務上等兵ヒトラーを軽蔑し,政治経験が皆無なので,ヒトラーの能力を過小評価していました。二人で,ヒトラーを操り,保守政治を続けようとしたのです。
ナチ党新参者だったリンベントロップは,ヒトラー政権樹立を喜び,箔をつけるために,親衛隊に入隊しています。
ナチ党は,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定をプロパガンダにして,躍進します。ナチ党は,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張します。
ヒトラー政権の下で,親衛隊は,従来の警察組織を,組み込んでゆきます。そして,ヘルマン・ゲーリング(Hermann Wilhelm Göring、1893年1月12日‐1946年10月15日処刑直前自決)の監督下に秘密警察のゲシュタポが設置され,反ナチスの人物を拘束するようになります。
ゲシュタポ(Gestapo:Geheime Staatspolizei)とは,反ナチス派の人物・組織を摘発し,ナチス独裁を安定ならしめるための秘密警察で,日本の特高(特別高等警察)に相当します。
1933年1月,ナチ党(NSDAP)政権が樹立された直後,まだベルリンを中心とした都市では,共産党,労働組合の勢力は強いものがありました。そこで,ヒトラーは,ベルリンを含むプロイセン州の内務大臣ヘルマン・ゲーリングを任命します。2月,国会放火事件が起こると,その背後に,ドイツ共産党員による一揆,政権奪取の陰謀があるとして,ヒンデンブルク大統領に大統領緊急令を出させ,共産党を違法化し,共産党員を逮捕させます。このときゲーリングが使ったのが,プロイセン州警察の政治警察の一部だった秘密警察部署です。
3.1934年長いナイフの夜:国防軍と対立した突撃の粛清
写真(右)1938年,レーム幕僚長殺害後のヒトラーによって突撃隊指揮官に任命されたビクトル・ルッツェ(Viktor Lutze:1890年12月28日ミュンスター生まれ-1943年5月2日事故死):長いナイフの夜で,突撃隊幕僚長エルンストレーム(Ernst Röhm)ら反ヒトラーのSA幹部が粛清された後,突撃隊はルッツェの指導にゆだねられた。かれは,ヒトラーにレームの行き過ぎを諌めるように直訴したが,まさか,レームたち突撃隊幹部が殺害されるとは思っていなかった。突撃隊幕僚長レームを裏切って,密告したおかげで,新生した突撃隊指揮官に昇格したとは,思われたくなかったであろう。 Viktor Lutze, Stabschef der SA; geb. 28.12.1890 in Bevergern/Münster
Datierung: 1938 ca.
Fotograf: o.Ang.
Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
1934年2月,突撃隊SA幕僚長エルンスト・レームは,国防軍にとって代わり,突撃隊が徴兵して自らの兵士を育成するという野望を公言します。そして,ブロンベルク国防相と衝突します。レームのSA参謀だったビクトル・ルッツェ(Viktor Lutze)は,突撃隊と国防軍の衝突を危惧し,レームをいさめてほしいとヒトラーに直訴します。ヒトラーは,親衛隊長官のヒムラーに相談し,ヒムラーはハイドリヒ(Reinhard Heydrich)に助力を求めます。同時に,ヒトラーは,突撃隊幹部に,6月30日に特別会議に出頭せよと命令します。そこで,ハイドリヒから,この日を決して,突撃隊が反乱を起こすとの情報がもたらされます。これは,謀略だったのですが,ヒトラーは知ってか知らずか,親衛隊にミュンヘン郊外で休暇を過ごしていたレームの逮捕を命じます。そして,突撃隊SA幕僚長エルンスト・レーム,ベルリン地区指揮官エドムント・ハインネスなど突撃隊の幹部10名以上を,処刑してしまいます。
1934年の粛清は,「長いナイフの夜」と呼ばれます,ヒムラー長官の下,ハイドリヒのゲシュタポが反ヒトラー派の人物を特定し,粛清しました。ヒトラーに対抗できる突撃隊幹部が粛清されたことで,親衛隊の地位が高まり,ヒトラーが去就を気にかけるのは,ドイツ国防軍だけとなりました。
1934年の粛清は,突撃隊幹部(SA幕僚長エルンスト・レーム,ベルリン地区指揮官エドムント・ハインネス)だけでなく,反ヒトラー派の人を粛清します。SSに粛清された反ヒトラー派は,元首相クルト・フォン・シュライヒャー,
ミュンヘン一揆を裏切ったバイエルン首相カール,ナチ党反ヒトラー派グレゴール・シュトラッサーなども殺されてしまいます。これが,「長いナイフの夜」(Night of the Long Knives)と呼ばれるナチ党の粛清,親衛隊の血なまぐさい第一歩です。
1936年6月,ハインリヒ・ヒムラーは,ドイツ警察長官に就任,これを契機に,親衛隊が,州(地方政府)の権限の強かった警察部門を統合し,秩序警察を,クルト・ダリューゲに,ゲシュタポと刑事警察を保安警察として,ハイドリヒに任せることとなります。
第二次大戦が勃発した1939年9月,ラインハルト・ハイドリヒは,親衛隊情報部SD ,ゲシュタポ,刑事警察を傘下に置く国家保安本部を設置し,その長官に収まります。
4.ドイツ国防軍の復活:
ドイツワイマール共和国は,第一次大戦の敗北後に結ばれたベルサイユ条約によって,莫大な賠償金を抱え,フランス・ポーランドへの領土割譲,工業地域でもあるライン川の西側の非武装化と並んで,厳しい軍備制限を受けました。
ドイツは,監視団を受け入れたうえで,陸軍兵力を10万人に制限され,陸軍参謀本部を廃止させられます。兵器の上でも,戦車,潜水艦の保有禁止,航空部隊の廃止という制限を受けています。
1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると,大統領選挙ではなく,いきなり首相が大統領を兼任する国民投票を強行し,総統となっています。そして,軍の将兵は,全員,総統アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓うように宣誓文を改変しました。
ヒトラーが,このような粗暴な革命を強行できたのは,自分は正しいことをしているとの思い込みと,反対勢力を弾圧すれば,国民は強い者に服従するとした弱肉強食の原則を信じていたからです。
ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばれるようになります。そしてドイツ国防軍の兵士は,ドイツにではなく,ヒトラー個人に忠誠を宣誓するようにかわります。これは,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg:1878年9月2日-1946年3月14日)が,ヒトラーの申し出を受諾したためです。
1934年8月2日に導入された新しいドイツ国防軍兵士の忠誠宣誓:
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."
「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」
Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler!
Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler.
写真(右)1936年4月20日,ヒトラー総統と陸軍大臣フォン・ブロンベルク元帥:ベルリンの軍事パレードに参加した海軍提督レーダー博士,ルントシュテット将軍も後方に見える。ヒトラーは,突撃隊SA幕僚長レームら幹部を粛正,国防軍に代わる軍隊を創設するつもりがないことを示し,ドイツ国防軍,陸軍大臣フロンベルクの信頼を得た。この時期,国防軍の威光は,ヒトラー総統でも十分に配慮しなければならないほど,強かった。 Geburtstag des Führers 1936.
Adolf Hitler verabschiedet sich von Reichskriegsminister Generalfeldmarschall von Blomberg.
[nach der Parade in Berlin]. Dahinter General-Admiral Dr. h.c. Raeder [und General von Rundstedt].
Archive title: Werner v. Blomberg und Adolf Hitler, Hände schüttelnd. dahinter General-Admiral Erich Raeder und General Gerd von Rundstedt
Dating: 20. April 1936
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)
ナチス政権奪取から2年後の1935年3月16日,ヒトラーは,ベルサイユ条約の打破の公約実行するために,再軍備を宣言します。これは,兵役の復活によって,50万人の兵力,戦車を保有し,陸軍参謀本部を正式に復活し,空軍を新設したのです。
ここで,1936年3月の再軍備宣言は,強大な軍事大国を一挙に目指したのではなく,周辺国への脅威とはいえない範囲にとどまっていました。だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認したのです。
実際は,1922年のソ連とのラパロ条約秘密議定書で,ドイツはソ連奥地におい軍備を整える兵器開発・訓練をしていました。また,新型火砲の開発も,スウェーデン,スイスに合弁会社を設立して行っていました。これらの兵器は,ベルサイユ条約調印前の1918年に制式されたように見せかけるために,型式を1918年型と偽称していました。つまり,ワイマール共和国の内部で,軍隊復活の動きは着実に進んでいたのですが,ヒトラーは再軍備を宣言して,軍を再建したのは,すべて自分の功績であるかのように吹聴したのです。
ワイマール共和国の軍事組織維持の背景の中で,三軍総司令官となったヒトラー総統は,1935年3月16日,ベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して,再軍備を宣言します。この時,国軍Reichswehrは,国防軍Wehrmachtに戻され,陸軍,海軍に加えて,ヘルマン・ゲーリング率いる空軍が新設されました。
再軍備宣言から2ヵ月後,1935年5月21日に兵役法が施行され,全ドイツの男子に兵役義務が課されます。そして,国防軍の最高指揮者は,総統兼首相 (Führer und Reichskanzler)がとることとされました。
忠誠宣誓については,従来のように国家と憲法に忠誠を誓うのではなく,三軍最高司令官の総統兼首相に忠誠を誓うようになります。これは,親衛隊SSがヒトラー個人に忠誠宣誓をするのとほぼ同じです。
写真(右)1939年3月22日,キール軍港で艤装中のドイツ海軍航空母艦「グラーフ・ツェッペリン」:カタパルト2基を装備した近代的な大型艦橋を備えた空母として建造されたが,未完成に終わった。ドイツ軍は,空母を1隻も保有することができなかった。 ドイツ海軍は,大型戦艦「ビスマルク」型2隻,巡洋戦艦「シャルンホルスト」型2隻,ポケット戦艦「ドイッチュラント」型3隻を建造,就役させた。 Flugzeugträger "A". Baustadium
Aufgen. am 22.3.1939
Deutsche Werke Kiel
Archive title: Kiel.- Flugzeugträger "Graf Zeppelin" am Ausrüstungskai. Bugansicht mit Flugdeck, Backbordseite
Dating: 22. März 1939
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)
1936年のラインラント非武装地帯への武力進駐,1938年3月のオーストリア併合アンシュルスは,この復活させたドイツ国防軍を使って,達成されたものです。しかし,国防軍と並んで,ヒトラーは自分の護衛部隊として育成してきた親衛隊を,国防軍に次ぐ第二の軍事組織に拡張してゆきます。
大戦直前,親衛隊は,軍と並ぶ第一線戦闘部隊も編成し,その後,武装親衛隊として,陸海空三軍に次ぐ軍隊となります。SSの特徴は,ナチズムを信奉するヒトラー直属の政治的兵士であることです。SSには,最終的に30万人の警察,各々4万人の強制収容所看守とゲシュタポ,90万人の武装親衛隊が所属したといわれます。こうして,ヒトラーは,国防軍の権威も失墜させていったのです。
写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻に参加した?号戦車:戦車搭乗員と比較すると,砲塔が小さい。7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車にすぎなかったことが分かる。第二次大戦初頭,ドイツ軍の戦車は決して強力な火砲,分厚い装甲を施していたわけではなかった。 ドイツ国防軍の将軍たちは,開戦直前,英仏の軍事介入を恐れていた。東部戦線でポーランドに侵攻している最中に,西部戦線で英仏連合軍が攻勢に移っていれば,ドイツ軍は開戦第一年目で敗北したかもしれなかった。 An den Ufern der Brahe sichern deutsche Panzer das Gelände gegen Überfälle von versprengten polnischen Truppenteilen. Angespannt beobachtet der Kommandant mit dem Glas das Gelände, um sofort auf auftauchende Polen das Feuer eröffnen zu lassen.
4.9.1939 [Herausgabedatum] "Fr.OKW"-Sche
Es muß genannt werden: Foto: Weltbild-Schwahn
Dating: September 1939
Photographer: Schwahn 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)
1938年5月23日,ベルリンの帝国官房(総統官邸)で,三軍総司令官が出席した会議で,ヒトラー総統は,「適当な機会があり次第,ポーランドを攻撃する」ことを宣言しています。こうして,戦争準備を始めるヒトラーですが,ドイツ国防軍,陸軍の兵力はどの程度だったのでしょうか。
ヒトラーは,共産主義者・国際金融界の劣等人種ユダヤ人が,第一次大戦を敗北させたとして,犯罪者と決め付けており,世界大戦で,ドイツの敵となる劣等人種・ボリシェビキのユダヤ人を抹殺することを決意しています。したがって,戦争を前提に軍事を整えたのですが,その兵力は,「強大」というほどではなかったのです。
?号戦車は,トラクター改造で,砲塔はありますが,搭載しているのは機銃だけです。小型砲塔だったので,ここに大砲を装備することはできなかったのです。後に,砲塔を撤去して,大型のアンテナと固定密閉式の戦闘指揮室を設け,通信設備を備えた指揮用戦闘車両に転換されてゆきます。
1939年9月のポーランド侵攻,1940年5月のフランス侵攻の時,主力は?号戦車,?号戦車,チェコ38t戦車でした。
写真(右):1941年6-7月,バルバロッサ作戦,東部戦線のドイツ軍?号戦車:砲塔上にある展望ハッチから戦車兵が頭を出している。車体と砲塔の前面には,予備のキャタピラが置かれて,補助装甲板となっている。 Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Panzer II (Nummer A 96) mit angehängtem Faß auf einer Dorfstraße; PK 697
Dating: 1941 Juni - Juli
Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)
?号戦車は,主力となる?号戦車までの過渡的な戦車として,1937年から量産されています。 全長4.8メートル,全幅2.2メートル,全高 2.0メートル,重量7.2トン。 2センチ砲装備。エンジン140馬力,乗員3人。
1938年ズテーテン侵攻から1939年ポーランド侵攻まで,ドイツ国防軍の主力戦車は,?号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)でした。これらの戦車は,フランス,イギリスの戦車と比較して,火砲の威力と装甲の厚さで劣っていました。
新型の?号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)と?号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)は,1940年当時でも部隊配備が遅れていました。
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言します。 ユダヤ人絶滅は口頭命令でしたが,ヒトラー総統による,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争が公言されています。これは過激な表現のプロパガンダではなく,ヒトラーの本心だったのです。
写真(右)1941年10月,対ソ戦の東部戦線北部,チェコ38(t)戦車:チェコを併合したドイツがスコダ社で生産していたチェコスロバキア軍の戦車を,ドイツ軍も引き続き第一線で使用した。38tの“t”は重量トンではなく,チェコを意味する。 Sowjetunion-Nord.- Panzer 38(t) und Infanterie in einen Birkenwäldchen; PK 694
Dating: Oktober 1941
Photographer: Gebauer撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)
世界戦争となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである,このようにヒトラーは考えます。そして,東方ソ連を,ドイツの生存圏となるべき植民地と考え,その住民は農奴として支配しようとします。ドイツ国防軍は,このドイツの生存圏を確保するための戦争の道具です。
ドイツ陸軍38(t)戦車(チェコスロバキア軍LTvz.38)の諸元
全長 4.6メートル,全幅 2.2メートル,全高 2.3メートル 重量 9.5トン。 時速 40キロ,航続距離 200キロ 主砲 3.7センチ砲(Škoda A7 37.2mm L/47.8),7.92ミリ機銃2丁 砲塔・車体の前面装甲 50ミリ,側面30ミリ エンジン125馬力,乗員4人
写真(右)1940年5月,フランス,アラス近郊,ユンカースJu-87急降下爆撃機[スツーカ]前でブリーフィングをする搭乗員たち:フランス侵攻キャンペーンでは,戦車とユンカースJu87"スツーカ"を組み合わせた電撃戦によって大勝利を勝ち得た。しかし,開戦前,ドイツ国防軍の将軍たちはフランス侵攻作戦の前途に大いに不安を感じていた。 Westfeldzug, Frankreich bei Arras.- Piloten bei Lagebesprechung vor Junkers Ju 87 "Stuka"; KBK Lw 4
Dating: Mai 1940
Photographer: Stift
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ポーランド進攻からフランス侵攻まで,すなわち開戦前から,ドイツ軍戦車には,対戦車戦闘は重視されていなかったのです。しかし,ドイツ国防軍は戦車の機動力を活用した集団用法と空軍による地上近接支援によって,電撃戦を戦い,勝利します。
写真(右)1940年夏,フランス,ハインケルHe 111爆撃機:第1爆撃航空団(KG1)所属のHe-111(番号v4の+?)が飛行場でタキシングしている。視界を確保しようと,搭乗員が機首から乗り出している。 Frankreich.- Bomber Heinkel He 111 (Kennung V4+A?) des Kampfgeschwader 1 (KG 1) auf Feldflugplatz; KBK Lw 4
Dating: 1940 Sommer
Photographer: Wanderer, W.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)
ドイツ空軍ハインケルHe 111H爆撃機の諸元
原型初飛行 1935年2月,生産機数 7000機以上
全長 16.4メートル,全幅 22.5メートル,翼面積 86.5平方メートル 全備重量: 1.2トン,エンジン1300馬力2基 最大時速 400キロ,航続距離 2800 キロ 兵装:7.92ミリMG15機関銃6丁,爆弾2トン。
写真(右)1934年、ヒトラー総統と個人秘書から権力を掌握したマルチン・ボルマン Martin Bormann (1900年6月17日 - 1945年5月2日?):1933年7月4日に副総統ルドルフ・ヘスの個人秘書となり、1941年にヘスが和平交渉をしようとイギリスに単独飛行で飛び失脚した後、ナチ党官房長官に就任。ナチ党の総務担当者となった。ヒトラーの言葉をメモをとり、それを実行に移すことで、ヒトラーの信頼を得た。そして、ヒトラーとの面会を取り付けようとする人物の選択を任されたことで、ボルマンはヒトラーの代弁者あるいは仲介者として権力を握るようになる。ヒトラーがドイツ軍最高司令官としての多忙な軍務に当たったため、ナチ党による一党支配の政治は党官房長官のボルマンが事実上統括するようになった。 Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-R14128A
Original title: info Zentralbild
Reichsleiter der NSDAP Martin Bormann, Leiter der Dienststelle des Stellvertreters Hitlers. Aufnahme 1934.
3799-34
Archive title: Porträt Martin Bormann
Dating: 1934
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチ党官房長官マルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を記録をとらせ,これに解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これが卓上談話 Hitler's Table Talk である。 ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。
1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。国家が自分の代表するものを認識しているから,権利があるのだ。成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。-----自然の法則を尊重せず,強者の権利としてわれわれの意思を主張しなければ,いつの日にか野生動物がわれわれを食らうであろう。」
1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。」
◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張することで,強者たらんとする強烈な生存闘争の意思を持っています。生存圏を確保するためには,弱肉強食の戦争に勝ち残ることが必要です。
1941年11月11日:「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。>」
◆ドイツ国防軍司令官は,弱弱肉強食の自然の掟を信奉し,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならなりません。生存闘争に勝利するには,強い意思と軍隊が必要です。
5.1938年のオーストリア併合(アンシュルス)
写真(右):1938年9月6日,ニュルンベルク党大会でアドルフ・ヒトラー総統に答礼する副総統ルドフル・ヘス(左端):ニュルンベルクでの党大会開催日は,帝国党記念日(Reichsparteitag)となった。参列したナチ党幹部は,左より,ヘス,ヒトラー,ナチ党官房長官マルティン・ボルマン,バイエルン州帝国弁務官フランツ・リッター・フォン・エップ,ヒトラー副官ユリウス・シャウプ、右端・親衛隊SS国家長官ハインリッヒ・ヒムラー。 1937年11月、国防大臣ブロンベルク、空軍大臣・国会議長ゲーリング、陸軍総司令官フリッチェ、海軍総司令官レーダー提督、外務大臣ノイラートに対して,ヒトラー総統は,領土拡張のための戦争計画を打ち明けた。これが,ホスバッハ会議である。ブロンベルクとフリッチュは,英仏との戦争を誘発するような領土拡張に反対した。そこで,1938年,二将軍は,失脚,更迭される。
"Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP. Rudolf Hess, Adolf Hitler, Martin Bormann, Franz Ritter von Epp, Julius Schaub, Heinrich Himmler (Stellv.d.F.)Stellvertreter des Führers Rudolf Hess meldet Adolf Hitler
Dating: 6. September 1938
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)
ヒトラー総統は,大ドイツ「グロス・ドイッチュラント」の復興を目論みます。アーリア人至上主義を掲げ,ドイツの復興を目指すヒトラー総統は,ドイツ系のフォルクス・ドイッチェ(民族ドイツ人)の居住する地域を,ドイツとみなしたのです。すなわち,オーストリア,チェコのズテーテン,ポーランド東部と東プロシアを結ぶ地域が,ドイツに併合されるべきだと主張します。
1938年2月,ヒトラー総統は,クルト・フォン・シュシュニクKurt von Schuschnigg墺首相(1897/12/14-1977/11/18)に圧力をかけ,オーストリアの独立と引き換えに,オーストリア・ナチ党首だったオーストリア人ザイス=インクワルト Arthur Seyss-Inquartを内務大臣に任命さます。シュシュニク首相は,国民投票によって,ドイツへの併合ではなく,オーストリア独立を選ばせるつもりでしたが,選挙権を巡る国内内紛が起きてしまいます。ヒトラー総統は,投票前の3月11日に事実上の最後通牒をし、翌日3月12日0800,オーストリアへ武力進駐します。
1938年3月13日のオーストリア併合(Anschluss アンシュルス:union)は,それまで反対していたイタリア,ムッソリーニの理解を得て,武力進駐を行っています。
シュシニク首相は亡命し、代わりに首相となった内相ザイス=インクワルトは、翌3月13日,ドイツ・オーストリア再統合法を出します。皮肉なことに,オーストリアを亡命することになるシュシュニク(Kurt von Schuschnigg)は,TimeMar. 21, 1938のカバーを飾っています。
写真(右)1938年3月,ナチス・ドイツのオーストリア併合(アンシュルス)によって,追い立てられるウィーンのユダヤ人:ユダヤ人老紳士を捕まえて得意満面の兵士たち。弱いものいじめではなく,ドイツの敵を捕らえたという感覚があっただろう。
オーストリアを併合したヒトラー総統は,ハプスブルク家の皇帝標章をニュルンベルク党大会(第一回ドイツ大会)に持ち込んで,第三帝国の成立を宣言した。ナチス支配下のオーストリアでもユダヤ人迫害が始まった。 Juden-Razzia in Wien im israelitischen Gemeindehaus.
März 1938
Archive title: Österreich, Wien.- Razzia der SS in der israelitischen Gemeinde (Gemeindehaus)
Dating: März 1938
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)
1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
Ich proklamiere nunmehr für dieses Land seine neue Mission. Sie entspricht dem Gebote, das einst die deutschen Siedler aus allen Gauen des Altreiches hieher berufen hat: Die älteste Ostmark des deutschen Volkes soll von jetzt ab das jüngste Bollwerk der deutschen Nation und damit des Deutschen Reiches sein.
オーストリアの独立という戯言(ざれごと)は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルク(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」
「ひとつの民族,ひとつの国家,一人の総統」を主張して,オーストリアをドイツに組み込んだ。オーストリアのブラウナウで生まれ,リンツに育ったアドルフ・ヒトラーにとって,オーストリア併合(Anschluss:union アンシュルス)は悲願だった。併合直後のドイツ国会,オーストリアのヒトラー総統の演説は,ナチスの下での大ドイツ再興を連想させる大演説,プロパガンダだった。 アンシュルス後も,チェコ,ポーランドへ領土要求がなされる。
近隣諸国に軍事的脅威を与えることで,ヒトラーは,ドイツの領土を拡張してゆきます。この時ヒトラーが,隣接した地域をドイツに併合すべきだと主張したに根拠は,隣接した地域にドイツ系住民(Volksdeutsche:民族ドイツ人)が住んでいる,このドイツ系住民が虐待されているという理由でした。ヒトラー自身,大ドイツの復活を,政権獲得前から主張していますが,このころは,962年の神聖ローマ帝国(1404年のオーストリア・ハプスブルク帝国に継承),1971年のドイツ帝国を継承するドイツ第三帝国(Drittes Reich)の構想が出てきます。
1938年3月,ドイツが,オーストリアのナチス勢力を使って,オーストリアを併合の要求を出させ,武力進駐してオーストリアを併合します。これをアンシュルス(Anschluss)と呼びましたが,この時,ハプスブルク王朝に引き継がれていた神聖ローマ帝国の皇帝標章(冠,笏など)をドイツに返還させ,ニュルンベルクのナチ党大会をドイツ大会と称して,ドイツ第三帝国の復活を宣言,帝国は千年続くと大見得を切ります。
ニュルンベルク党大会では夜間集会では,シュペーアの演出によって,サーチライトの光の波がはるか上空まで何十本もドイツの天空を照らし出した。ヒトラー総統は,ドイツの栄光を回復するまで軍服を脱がず,総統の地位にとどまると公言したが,実際,1945年5月にベルリンの地下壕で自決するまでその職にあった。
◆ナチスのDas Dritte Reich(ライヒ)を「第三帝国」と訳すのは適切ではないという人もいます。皇帝・皇族が世襲するのが帝国であれば,党首が大統領・軍総司令を兼ねても「独裁国家」に過ぎず,帝国ではありません。しかし,歴史的使命感を妄信するヒトラー総統は,共和国ではなく,神聖ローマ帝国,ハプスブルク王朝,ドイツ帝国を引き継ぐ正統な「第三の帝国」にこだわったのです。
1938年9月のナチ党ニュルンベルク大会は「第一回ドイツ党大会」であり,そのために140年ぶりに,ウィーンから第一帝国の標章である皇帝の王冠,十字架つきの宝珠,王笏,王剣が,ニュルンベルクに運び込まれました。
これら「四種のハプスブルク皇帝標章(四種の神器)」は,1848年,二月革命の最中,フランクフルト国民議会で廃止されたものです。神聖ローマ帝国を引き継ぐ皇帝の象徴は,剣、宝珠、笏、王冠であり,それをつけた「双頭の鷲」が,ハプスブルク帝国の国章でした。ヒトラー総統は,神聖ローマ帝国・ハプスブルク皇帝の標章は,ナチ党聖地のニュルンベルクに永遠に留まると誓約します。
1938年3月15日,ヒトラー総統によるオーストリア併合宣言(11:00ウィーンHeldenplatz)
「オーストリアの独立という戯言は、平和条約や列国の慈悲にすがるもので,大ドイツ帝国Großen Deutschen Reiches の建国に反し、ドイツ人の未来の道を塞ぐものだった。私は、新しい使命を宣言する。その使命とは、かつてこの地に来たドイツ人入植者に対する掟に相当する。それは,ドイツ人の伝統あるオストマルクOstmark(東方要塞;オーストリアの別名)は、今日よりドイツ帝国とドイツ人の新しい砦となる。」
6.1938年8月ズテーテンラント危機と反ヒトラー・クーデター
写真(右):1934年,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク大将(Werner Eduard Fritz von Blomberg :1878/9/2–1946/3/14) :1933年、ヒンデンブルク大統領によって国防大臣に任命され,ナチ党の突撃隊の過激化,拡大を抑制しようとした。これが,1934年8月の長いナイフの夜の粛清につながる。 他方,1938年には,ナチスによる,国防軍からユダヤ人の追放を承認し,忠誠宣誓の対称を総統・軍最高指揮官のアドルフ・ヒトラーに対して行うように改変。1936年,陸軍元帥に昇進。 このようなヒトラー追従にもかかわらず,1937年11月,ヒトラーが,オーストリア,チェコスロバキアへの侵攻準備を命じると,軍の準備不足,英仏の介入を危惧して,ヒトラーの戦争方針に難色を示した。1938年,陸軍総司令官フリッチュとほぼ時期を同じくして,ヒトラーにより軍から追放された。 Scherl:
Auf dem Foto: Blomberg in der Uniform eine Generaloberst
ADN-ZB/Archiv
Werner von Blomberg, Generalfeldmarschall
geb.:2.9.1878
gest.:14.3.1946,
seit 1935 Reichskriegsminister und Oberbefehlshaber der faschistischen deutschen Wehrmacht, 1938 von Hitler entlassen.
Auf dem Foto: von Blomberg in der Uniform eines Generaloberst,Dezember 1934.
Aufnahme: Presse Illustration Hoffmann
Dating: Dezember 1934
Photographer: Hoffmann, Heinrich
Agency: Scherl
Origin: Bundesarchiv
NARA( National Archives and Records Administration): 208-N-39843.引用
ナチス政権樹立後,ヒトラーはドイツ国民から圧倒的支持を得た----,こういわれていますが,本当でしょうか。ヒトラーと彼の戦争準備,人種差別に対する不満も高まっていたのです。
ヒトラーは,大戦勃発の前年,1938年,陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ上級大将,国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルク(Werner von Blomberg)元帥を罷免,参謀総長ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)上級大将を辞任させ,国防省を解体,自ら陸海空の三軍を直接指揮する国防軍最高司令部を新設します。
また,親衛隊SSを軍事組織に仕立て上げました。そして,大戦勃発後は,親衛隊SSによる捕虜・パルチザン容疑者やユダヤ人の処刑など残虐行為を行います。大戦当初からドイツ軍の名誉が汚されたと憤慨した将兵も少なくありません。
国防相ブロンベルク(Werner von Blomberg :1878-1946)は,社会主義勢力に対抗し,強いドイツ軍を再興するために,ナチスを利用しようと考えた。全軍に対して,ヒトラーに忠誠の宣誓させることを承諾した。このようなヒトラーへの追従が,国防軍の地位を低下させた。
◆ヒトラーは,これまで国防軍を恐れ,国防軍の将官たちの意向を尊重してきた。しかし,国防軍将兵がヒトラーへの個人的忠誠を宣誓するようになって,ヒトラーは,国防軍を意のままに操ろうとした。
1938年9月のミュンヘン会談で,英仏がヒトラー総統に譲歩した。ベック将軍の予測は外れてしまい,ヒトラー総統は,自分の判断力に自身をつけた。ヒトラーは,将軍ほど交戦意思の弱い生き物はいないと,将軍たちの戦略的思考の過誤を指摘した。そして,ドイツ参謀本部は尊敬に値しないと考えるようになった。
写真(右)1937年の国防軍幕僚,陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch将軍(右)とルートヴィヒ・ベックLudwig Beck上級大将(左):ドイツの軍備強化に邁進してきた将軍たちだが,ヒトラーがはじめようとしていた戦争には慎重な姿勢を示した。ヒトラー総統は,英仏相手の戦争に自信がないする将軍たちを臆病者と考え,これら二人の将軍を追放した。 ヴェルナー・フォン・フリッチュWerner freiherr von Fritsch
は,ポーランド戦役で戦死したが,ベック上級大将は,1938年8月,参謀総長辞意後,隠棲,1944年のヒトラー暗殺計画に加わった。 Wehrmachtmanöver 1937 in Mecklenburg und Pommern
Die beiden großen Gegenspieler Hitlers: Der Oberbefehlshaber des Heeres, Generaloberst Frhr. von Fritsch, der den Soldatentod sucht und 1939 vor Warschau fand, und sein Generalstabschef General der Artill. Beck, erschossen 20. Juli 44.
[Titel später zugefügt]
Archive title: Generaloberst Freiherr Werner von Fritsch und General der Artillerie Ludwig Beck im Gespräch, stehend
Dating: 1937
Photographer: Tellgmann, Oscar
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ参謀本部出身者たちは、ヒトラーが総統になって2年後の1935年,再軍備宣言を契機に,軍の勢力を伸ばそうと画策した。
1937年11月5日、ヒトラー総統は,ドイツ国防軍首脳にヨーロッパの戦争計画を打診した。この会議で,ヒトラーは,東方に新たに生存圏を拡大する必要があるとした。その時期は,ドイツ軍が一新された今であり,装備が旧式化しないうちに行動を開始すべきであるとした。
ヒトラーは,1938年,国防軍を直接指揮下に置こうと,ゲシュタポのハイドリヒを使って画策します。陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner Freiherr von Fritsch)上級大将と国防相ヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥の二人の国防軍最高幹部を追い出してしまったのです。親衛隊,ゲシュタポは,フリッチュ陸軍総司令官が男色(ホモセクシャル)であると捏造し,ブロンベルク国防相の配偶者(新妻)が,いかがわしい女性だということを暴露します。そして,二人を国防軍から追放しました。
ヴェルナー・フォン・フリッチュ(Werner Freiherr von Fritsch)上級大将は,1939年9月22日,ポーランド侵攻,ワルシャワ近郊で戦死した。
写真(右)1937年の国防軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)上級大将:ヒトラー総統の再軍備に賛同してきたベック参謀総長だったが,軍事専門家として対英仏戦争に勝算はないと見ていた。これは,国防相ブロンベルク元帥と近い見解だった。 しかし,ヒトラーは,オーストリア併合,チェコのステーテンランド進駐と,戦争を辞さない覚悟で,周辺の民族ドイツ人の地域を併呑していった。ヒトラーは,「夢遊病者の確信を持って進む」として,戦争回避を優先する英仏を威圧して,意思を断固貫徹した。ベック上級大将は,1938年8月,参謀総長の辞意を表明,退役。 ADN-Zentralbild / Archiv
General der Artillerie Ludwig Beck, Chef des Generalstabes des Heeres,
geb.: 29.6.1880
gest.: 20.7.1944
Beck war einer der Hauptbeteiligten an der Verschwörung gegen Hitler vom 20.7.1944 und nahm sich nach dem Mißlingen des Attentats das Leben. (Aufnahme 1937)
Archive title: Porträt General Ludwig Beck
Dating: 1937 写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)上級大将は戦前,参謀長として,ナチスの軍備拡充に尽力しました。しかし,チェコスロバキアにズテーテンラント併合を要求をすれば,英仏相手の戦争になると予測しました。そこで,ヒトラーの外交・戦争には反対だった。ベック大将は,平和愛好ではなかったが,勝ち目がない(と考えた)英仏相手の戦争に反対しました。
ルートヴィヒ・ベックLudwig Beckは,国防大臣ブロンベルク将軍がスキャンダルで更迭された後(大戦前年,チェコスロバキアへのズテーテンラント併合要求に反対,1938年8月,参謀長職を辞職します。そして,10月に退役。
ラインハルト・ハイドリヒ(Reinhard Heydrich:1904年3月7日-1942年6月4日)は,1931年ナチ党に入党,7月に親衛隊に配属されています。1934年ゲシュタポ局長に就任し,6月「長いナイフの夜」で反ヒトラー派を粛清しました。1942年2月,ユダヤ人の絶滅「最終的解決」を決めたヴァンゼー会議を主宰した後,チェコスロバキア亡命軍人からなる特殊部隊によって,1942年5月27日,プラハで,搭乗車を襲撃,殺されました。
ところで,ヒトラーは,1938年に国防相を追い出した後,国防相を解体してしまいます。そして,国防軍最高司令部(OKW:Oberkommando der Wehrmacht)を設けて,参謀本部の力を弱めました。
さらに,第二次大戦の初期,1941年12月には,対ソ戦の失敗から,ワルター・フォン・ブラウヒッチュ(Walther von Brauchitsch:1881-1948)陸軍総司令官を更迭しました。後任の陸軍総司令官はヒトラー本人でした。
ヒトラーは,軍の統帥権を一手に把握して,誰もそれに介入できなくなりました。ヒトラーは,自分以外,軍高官の承認を得ることなく,作戦から軍備まで,決定できるようになったのです。
国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,軍事力を機械化部隊の整備,新型火砲の配備,地上攻撃用航空部隊の編成を行って近代化します。それを背景にして,ラインラント進駐,オーストリア併合,ズテーテンラント(Sudetenland)割譲と領土要求を次々と呑ませてゆきます。英仏二国の軍とは互角以下でしたが,近隣のオーストリア,チェコスロバキア,ベルギー,オランダと比較するれば,強力な軍備を整えたのです。
チェコスロバキアは,多民族国家で,民族ドイツ人300万名が居住していました。ヒトラーは,民族ドイツ人の多いズデーテンラントSudetenlandは,ドイツ領に編入されるべきことを主張します。
写真(右)1936年6月,ベルリン,グリューネ・ヴァルトの陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)上級大将(1880年6月29日-1944年7月21日):ゲックは,チェコスロバキアにドイツ軍を進めれば,英仏を巻き込む世界大戦となり,ドイツが敗北すると危惧していた。彼は,ハルダーなど陸軍将官たちと,ヒトラーを排除するクーデターを計画した。 しかし,英仏は,ミュンヘン協定で,チェコスロバキアにズテーテンラント割譲を飲ませた。そこで,チェコスロバキア侵攻は取りやめとなり,クーデターは未遂に終わった。1938年,ヒトラーは,ブロンベルク国防相を更迭し,ベック参謀総長をも辞職させた。
1944年7月20日,ワルキューレ作戦では,ベックは反ヒトラー政権元首を予定されていたが,計画は頓挫し,ベックはベルリンの国内軍司令部でフロム大将に逮捕された。フロム将軍は,ベックに自決の機会を与えた。ベックは、ピストル自殺に生き残ったが,そのまま銃弾を打ち込まれた。 他方,ラステンブルクの会議室爆破にもかかわらず,軽傷で済んだヒトラーは,1939年11月のミュンヘンのビュルガーブロイケラー爆発事件と同じく,再び神の摂理が巡ってきたと考えた。ヒトラーは,徹底抗戦の意思を固め,第一次大戦敗戦の原因と彼が指摘してきた「背後からの一突き」「後方の裏切り者」が第二次大戦中のドイツにもあてはまった,自分の考えは正しかったと確信した。 Archive title: Ludwig Beck (Mitte), Berlin-Grunewald, ca. Juni 1936
Dating: Juni 1936
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1940-41年,総統大本営のヒトラー総統とスタッフ:陸軍最高司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥,国防軍最高司令部(OKW)総長ウィルヘルム・カイテル元帥,陸軍総司令部参謀総長フランツ・ハルダー大将。 陸軍最高司令官フォン・ブラウヒッチュ元帥と陸軍総司令部参謀総長フランツ・ハルダー大将は,ポーランド侵攻,フランス侵攻,ソ連侵攻バルバロッサ作戦に関わった。ブラウヒッチュは,1941年冬のモスクワ攻略失敗に伴って,ヒトラーと対立。1941年12月解任。陸軍総司令官の後任にはヒトラー自らが就いた。ハルダーも1942年9月24日,参謀総長更迭。1944年7月のヒトラー暗殺への関与を疑われ,逮捕。その後ダッハウ強制収容所に収監。終戦直前に処刑されるところを,米軍に救助。 Hitler im Hauptquartier des Oberbefehlshabers des Heeres Generalfeldmarschall von Brauchitsch. Vlnr am Kartentisch: Generalfeldmarschall [Wilhelm] Keitel, Generalfeldmarschall [Walther] v. Brauchitsch, [Adolf] Hitler, Gen. Oberst [Franz] Halder
Dating: 1940/1941 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
当時,ルートビッヒ・ベック(Ludwig Beck)参謀長は,1938年、ヒトラーがチェコスロバキアに侵攻する作戦を実行した場合,英仏を巻き込む世界大戦となり,ドイツが再び敗北すると大いに危惧します。彼は,ハルダーなど一部の陸軍将官たちとはかり,ヒトラーがチェコスロバキアに侵攻した場合,ヒトラーを排除するクーデターを計画しました。
1938年9月のミュンヘン会談では、英仏伊三国の同意を取り付け,列国は,チェコスロバキアの頭越しに,ヒトラーの領土要求が認められてしまいます。英仏は,戦争の危険を冒してまで,チェコスロバキアのズテーテンラントを保障するつもりはなかったのです。
ドイツは,チェコスロバキアのズテーテンラントをドイツに割譲するように強硬に要求を続けました。チェコスロバキアは不当な領土割譲要求を拒否し,ドイツの恫喝に屈せず,1938年9月23日,動員令でこたえました。チェコスロバキアとの同盟関係にあったのは,フランス(1924年),ソ連(1935年)でしたから,ドイツの領土要求は,第二次世界大戦に発展する可能性があったのです。
チェコスロバキアは,ドイツ軍を迎え撃つために,総動員を開始したのですが,ドイツは,ズデーテンラントを即時引き渡すことを求め,9月28日までにチェコスロバキア軍をズテーテンラントから撤退させることまで,要求します。これは,ドイツからチェコスロバキアへの最後通牒です。
1938年9月24日,チェコスロバキアと同盟を結んでいたフランス首相ダラディエは,チェコスロバキア支援のために,動員令を発します。こうして,1938年9月,第二次世界大戦の危機にヨーロッパ中が慄いたのです。
7.1938年9月のミュンヘン会談
写真(右)1938年9月15日,ベルヒテスガーテンでヒトラーと会談するためにやってきた大英帝国アーサー・ネヴィル・チェンバレン (Arthur Neville Chamberlain)首相、それを出迎えるドイツ帝国外務大臣アヒム・フォン・リンベントロップ:左から親衛隊の黒服のフォン・エバスタイン男爵,英首相チェンバレン,外務大臣リッベントロップ,ミュンヘン警察署長カール・フェイラー。 ズデーテン問題は、初めにヒトラーとベネシュが話し、次いでチェンバレンとヒトラーとがベルヒテスガーテン(ベルクホーフ)で話し合った。 それから、チェンバレンとフランス首相ダラディエがロンドンで会談した後、イタリア首相ムッソリーニを加えて、英独仏伊の四カ国首脳会談がミュンヘンで開催された。 ミュンヘン会談は、ドイツ、英国、フランス、イタリアとの間で交渉がされたが,チェコスロバキアはよばれなかった。
リンベントロップは,英国大使を務めたこともある。 チェンバレンは,下院議員,厚生大臣,大蔵大臣など要職を経て,1937年,保守党首となり,英首相に就任。 Zentralbild
Die Verhandlungen zwischen Deutschland, Großbritannien, Frankreich und Italien über die Sudetendeutsche Frage und die Tschechoslowakei.
UBz.: Der britische Ministerpräsident Neville Chamberlain wird am 15.9.1938 auf dem Flughafen [Oberwiesenfeld bei München zum Gespräch auf dem Obersalzberg] empfangen. V.l.n.r.: SS-Obergruppenführer Frhr. von Eberstein, Polizeipräsident von München, Neville Chamberlain, Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop, dahinter Reichsleiter Karl Fiehler
[Oberbürgermeister von München].
12205-38
[Scherl Bilderdienst]
Datierung: 15. September 1938
Fotograf: o.Ang.
Agentur: Scherl
Quelle: Bundesarchiv ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
英仏との軍事的衝突が起これば,ドイツ軍は打ち負かされ,敗北してしまう,このように考えたドイツ陸軍参謀本部ベック(Ludwig Beck)参謀総長,フランツ・ハルダー(Franz Halder)将軍など,有力なドイツ陸軍将官たちは,ヒトラーの膨張主義に対する危機感がつのっていました。
実際には,フランス軍には劣る兵力しかなく,誇示した軍事力はハッタリだったことを,将官たち郡の最高幹部は熟知していたのです。これが,反ヒトラーのクーデター計画を起こそうというドイツ陸軍の反乱の動きにつながります。
当時の英国首相は,ネヴィル・チェンバレン(1869年3月18日-1940年11月9日)です。チェンバレンは,戦争回避を望む世論を重んじ,同時に,軍事力を強化するドイツを,ソ連ボリシェビキに対抗させるために利用しようとします。実際には,チェンバレンの下で,英空軍の四発中爆撃機が開発,量産準備中だった。イギリスは,軍事力強化の時間稼ぎをするために,対ドイツ宥和政策を採用してでも,戦争を回避あるいは先延ばしにしようと考えます。
ヒトラーは,民主主義国は,安楽な生活を望む国民の重んじているために,堕落しており,世界戦争を戦う意思はなく,厭戦気分が蔓延していて,戦争に突入できないと楽観していました。ミュンヘン協定によって,ヒトラーは民主主義国の軍事的脆弱性が明らかになったと確信します。軍事力を背景に強気に交渉する,戦争で威嚇して強硬な主張をすれば,それを貫徹できると考えたのです。
写真(右),1938年9月,ミュンヘン空港,フランス共和国エトワール・ダラディ(Edouard Daladier)首相による親衛隊SS儀仗兵の閲兵:左端にいるドイツ帝国リンゲントロップ外相が出迎えた。左中央の黒服は,警察署長 [カール・フリードリヒ・フォンエバスタイン男爵。 黒服は,ドイツ国防軍の将兵ではなく,親衛隊SSのもの(ただし戦車兵は黒服)。外交官など官僚も親衛隊に形式上,入隊する場合が多かった。リンベントロップもナチ党員かつ親衛隊将官だった。 Münchener Konferenz vom 29. September 1938:
Der französische Ministerpräsidet [Edouard] Daladier schreitet vor seinem Abflug vom Flughafen Oberwiesenthal die Front der Ehrenkompanie der SS-Standarte "Deutschland" ab. Ganz links Reichsaussenminister [Joachim] v. Ribbentrop, Mitte der Polizeipräsident von München, Frhr. [Friedrich Karl] v. Eberstein.
30.9.38
[Scherl Bilderdienst]
Datierung: 30. September 1938
Fotograf: o.Ang.
Agentur: Scherl
Quelle: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1938年9月29日から30日に開催された,ミュンヘン会談において,英仏は,戦争回避を優先しており,それを見越したヒトラーは,ドイツ民族の再統合のためであれば,戦争を辞さない覚悟を表明し,会談をリードしました。
英仏独伊は,チェコスロバキアを弱小国扱いして,会談に参加させず,チェコスロバキアのズテーテンラント割譲を話し合います。ミュンヘン会談では、1938年9月29日にミュンヘン協定が署名され,ドイツ系住民(民族ドイツ人:Volksdeutsche)が住んでいたズテーテンラント割譲をチェコスロバキアに要求することになりました。
写真(右),1938年9月29日,ミュンヘン協定に署名するイタリア統領(ドゥーチェ)ベニト・ムッソリーニ,それを見守るドイツ外務大臣リンベントロップ(右端):原文表題では「平和のために署名。
木曜日[1938年9月29日]午後遅くなって,ミュンヘンで四大国間で正義と平和のための協定が署名された」とある。 ミュンヘン協定を締結させて,ヒトラーに最大級の恩を売ったムッソリーニは,チロルのイタリア帰属をヒトラーから保障されていた。 ミュンヘン協定は,チェコスロバキアのズテーテンラントをめぐる世界大戦再発の危機を回避した条約として,ヨーロッパ市民に理解された。 1年と経過しないうちに,チェコスロバキアはズテーテンラントを割譲しただけでなく,解体されてしまうことになる。 Scherl:
Unterzeichnung für den Frieden.
In den späten Abendstunden des Donnerstag [29.9.38]wurde das Abkommen für Gerechtigkeit und Frieden zwischen den vier Mächten im Führerbau in München unterzeichnet. Der Duce unterzeichnet, rechts Aussenminister von Ribbentrop.
30-9-38
12895-38
Dating: 29. September 1938
Photographer: Hoffmann, Heinrich
Agency: Scherl 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
英仏は,ミュンヘン会談で宥和政策を採用し,チェコスロバキアにズテーテンラントの割譲を認めさせ,ズテーテンラントの民族ドイツ人は,ドイツに併合,保護されました。
1938年9月29日のミュンヘン協定では,チェコスロバキアのズテーテンラント割譲という犠牲を払ったものの,世界大戦を回避することができました。チェンバレン,ダラディエ,ムッソリーニ,そしてヒトラーも平和をもたらした英雄として,国民から高く評価され,支持を集めました。チェンバレンは,帰英すると,その足ですぐにウィンザー城の英国国王に謁見,その手腕を絶賛されています。
ミュンヘン協定では,チェコスロバキアの国家主権・領土保全を保障した一方で,ドイツへのズデーテンラント割譲を認めさせます。英仏のドイツへの譲歩,すなわち対独融和政策の頂点が,ミュンヘン会談といわれるゆえんです。
宥和政策が,ナチスの台頭を許し,世界戦争を誘発したと非難されるのは,第二次大戦が始まってからのことで,ミュンヘン会談直後は,世界戦争が回避できたことを,イギリス人もドイツ人も大喜びしていたのです。
1938年9月29日のミュンヘン協定によって,領土割譲が認められ,ヒトラーのチェコスロバキア侵攻の口実はなくなりました。こうして,ズテーテンラント侵攻を契機としたベック将軍,ハルダー将軍たちの反ヒトラー・クーデターは,実行に移されずに終わってしまいます。
1938年10月,チェコスロバキアのズデーテン地方は,ドイツに割譲され,ヒトラー総統の権威はいっそう高まりました。1938年10月1日 ドイツがズデーテンラントをドイツに併合し,残された地域では,1939年3月15日,スロバキアが独立し、チェコ(ボヘミア・モラビア)はドイツ保護領に,組み入れられてしまいます。チェコスロバキアは,ナチスドイツによって,解体されてしまったのです。
1938年,ヒトラーは,ブロンベルク(Werner von Blomberg)国防相を更迭し,ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)参謀総長をも辞職させましたが,1944年7月20日のワルキューレ作戦では,反ヒトラー政権の元首となる予定でした。しかし,1944年7月20日,シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺が失敗し,ベックはベルリンの国内軍司令部でフロム大将に逮捕されてしまいます。フリーリヒ・フロム(Friedrich Fromm)将軍は,ベックに自決の機会を与え,ベックは、ピストル自殺に生き残ったが,そのまま銃弾を打ち込まれました。
写真(右):1938年10月,野外で将軍たちと会食するアドルフ・ヒトラー総統:第二次大戦では,マンシュタイン計画に基づいて、1940年5月10日にフランス侵攻作戦が発動。ドイツ陸軍は,マジノ線の要塞群に立て籠もるフランス軍を迂回,ベルギー,オランダ方面と、アルデンヌ方面から装甲軍が侵攻した。
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
ミュンヘン会談でのヒトラーの外交的勝利と,ヒトラーに対抗できた国防軍のブロンベルク元帥,ベック上級大将の追放によって,ドイツ第三帝国の政治的・軍事的指導者は唯一,アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)だけになりました。
突撃隊粛清後,ヒトラーに対抗できたのはドイツ国防軍だけでしたが,反ヒトラー派の将軍たちを軍から追放して,ヒトラーは,国防軍を自ら操ることができるようになります。こうして,1939年8月,ポーランドのシレジエン,東プロシアへのポーランド回廊の割譲を要求し,それが拒否されると,ドイツ側放送局がポーランド人に襲撃されたと自作自演し,これを口実に,9月1日,ドイツ軍をポーランドに侵攻しました。
英仏はポーランドと同盟を結んでいましたから,1939年9月3日,ドイツに宣戦布告し,第二次世界大戦が勃発します。
1940年5月に開始されたフランス侵攻は大成功し,ドイツはフランスを降伏させ,第一次大戦の報復を成し遂げします。ドイツ国民は,戦争に勝った,戦争は終わったと早合点したようですが,1941年6月22日,ソ戦侵攻を始めます。これは,資源エネルギー,食料,領土を擁する生存圏を確保し,ドイツを仇名すボリシェビキ,ユダヤ人を殲滅するための戦争です。
ドイツが戦争を続けるのは,ヒトラーが,次のような歪んだ世界観を持っていたからです。
?ドイツ人を人種汚染し,ドイツに戦争を仕掛けてくるユダヤ人は排除しなければならないという人種民族差別をもっていた,
?ヨーロッパ大陸を包含し,ドイツの完全に自給できる範囲の領土を生存圏として確保し,そこにドイツ人が支配者として君臨する,住民は労働者,農民として服従させる,
?広大な生存圏を支配するドイツ人が堕落しないように,10年に一度は戦争をして英気を養い,武威を新たに,軍備を固める,
このような妄想的な世界観を根底に,ヒトラーは,戦争を始めます。したがって,戦争に終止符を打つためには,ヒトラーを排除するしか方法はありませんでした。
一方で,ヒトラーは,彼に忠誠を尽くす親衛隊,国防軍将兵に囲まれています。ですから,ヒトラーを逮捕することも,無理でした。
国防軍は,ヒトラーを排除して,合法的な権威の継承を望んでいましたが,このような手段は容易に計画,実行できるはずがありません。実際,1943年のヒトラー搭乗機爆破計画,自爆攻撃,1944年のワルキューレ作戦は,みな失敗します。
ヒトラー暗殺以外,ヒトラーの戦争をとめることはできない,これは,1943年,1944年になって,国防軍の反ヒトラー派将校たちが到達した結論でした。この単純しかし重大な行為を,ドイツ人将校シュタウフェンベルクが,1944年7月20日に実行するまで,5年以上もかかりました。
8.1943年3月のヒトラー暗殺未遂事件
写真(右)1941年12月11日,ベルリン,ドイツ国会でアメリカ合衆国に宣戦布告の演説をするドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統:左手前は,啓蒙宣伝大臣ゲッベルス,左後には,海軍総司令官レーダー提督,外務大臣リンベントロップ。中央最上壇の議長席にヘルマン・ゲーリング。国会は審議機能を停止し,ヒトラーの施政方針演説の場に過ぎなくなっていた。ポーランドとの戦争,ソビエト連邦との戦争を始めたとき,宣戦布告などしなかったヒトラーだが,世界戦争を自ら開始し,ドイツ第三帝国を千年安泰にするための戦争,すなわち世界のユダヤ人=国際金融資本家=共産主義者(ボリシェビキ),に対する戦争は,最終戦争であり,自ら戦線を布告した。これは,ヒトラーの歪んだ世界観,人種民族差別が生んだ妄想だった。 Rumänien, Konstanza (Constanta).- Schiff im Hafen-Dock
Dating: 1941 ca.
Photographer: Grund, Horst
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
写真(右):1943年4月,ソ連,ハリコフ,視察のために東部戦線を訪問した親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー:フォッケウルフFw-200コンドル輸送機 "イギリス"号からタラップで降りる。ヒトラーも同型のFw-200輸送機に搭乗して,東部戦線視察にやってきた。 Sowjetunion, Raum Charkow.- Reichsführer-SS Heinrich Himmler beim Aussteigen aus einem Flugzeug.- Besuch / Inspektion der schweren Pz. Abt. 502 der Waffen-SS-Div. "Das Reich"; April 1943; SS-PK
Datierung: April 1943
Fotograf: Zschäckel, Friedrich
Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1943年3月13日には,東部戦線を視察したヒトラーの乗った飛行機に,スモクレン飛行場で,時限爆弾を仕掛けました。中央軍集団参謀のヘニング・フォン・トレシュコウ(Henning von Tresckow)大佐(当時)と同志で副官フェビアン・シュラーブレンドルフ中尉が,ヒトラー搭乗機を酒ビンに仕掛けた時限爆弾をしかけ,それを友人の参謀本部編成課長シュティーフ(Hellmuth Stieff)大佐との賭けの商品だと,参謀本部のハインツ・ブラント中佐に機内への持込を頼んだのです。
つまり,トレシュコウ(Henning von Tresckow)同志のシュティーフ(Hellmuth Stieff )大佐への贈り物として,酒ビンに時限爆弾を仕込んで,ヒトラー暗殺計画を,実行に移したのですが,このときは爆発は起きず,ヒトラー搭乗機は無事に,東プロイセンEast Prussia)のラステンブルクWolfsschanzeに帰着しています。ロシア上空の寒さのためか,信管が起動しなかったためと思われます。
この酒ビンに仕掛けた事件爆弾は,シュラーブレンドルフがすぐに回収に行きました。まちがった酒をシュティーフに送ってしまったといって,爆弾を取り戻したのです。
1943年3月21日には,ベルリンでの英雄記念日式典に訪れたヒトラーを,鹵獲兵器展示場で自爆攻撃する計画が実行されました。これも,ルドルフ・フォン・ゲルスドルフ大佐が時限式自爆装置を起動させたのですが,ヒトラーが,展示に興味を見せず,あっさりと通り過ぎてしまい失敗でした。自爆による暗殺を試みたゲルスドルフは,あわてて場所を探して,時限装置を解除して,何とか助かりました。
9.国民の全面的支持を得られたわけではない総力戦
ヒトラーは,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定を唱え,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張しました。ユダヤ人・スラブ人を下等人種・劣等民族として迫害したドイツ人だが,習俗・言語の違いこそ,人類の文明・文化を多様な豊かなものにします。敵性住民・下等劣等人種として,迫害しても,そこで生まれるのは,報復と,自分を貶める人間性の喪失だけでしょう。
写真(右)1943年1月24日,南フランス,強制収容所に移送されるフランス・ユダヤ人:親衛隊の警察,フランス軍兵士が,鉄道駅で,フランスのユダヤ人を自動車から降ろし,貨物列車に移乗させている。フランスの軍・警察の協力があって,フランスに住んでいたユダヤ人を特定し,彼らを登録して,強制収容所に収監することが可能になった。 Südfrankreich, Marseille, Güterbahnhof Gare d'Arenc.- Deportation von Juden unter Bewachung des SS-Polizeiregiments Griese und französischer Polizei; PK 649
Dating: 24. Januar 1943
Photographer: Vennemann, Wolfgang
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
戦争は政治の延長だというクラウゼビッツの教えに,ヒトラーは政治的遺書で言及し,ユダヤ人に対する戦争を継続することを命じました。この遺言は,ヒトラーの死後,無視されましたが,その理由は,戦争の延長が大量破壊・大量殺戮である以上,戦争と政治はことなることに国民が気づいたからです。人種民族差別のもたらす惨禍に誰もが嫌悪感を抱いたからです。
総力戦では,軍人も民間人も動員され,戦争に協力し,その結果,軍民を区別しない大量破壊,大量殺戮が起こりました。それを食い止めようと命を懸けたドイツ人がいたわけです。
写真(右)1944年1月14日,西部方面総司令官フォン・ルントシュテット元帥とB軍集団司令官ロンメル元帥:カール・フォン・ルントシュテット(Karl von Rundstedt)元帥(1875年12月12日-1953年2月24日)は,1939年9月の第二次世界大戦勃発により現役復帰。ポーランド・フランス侵攻に軍司令官として参戦。 1940年10月,フランス占領軍を統括する西部方面軍総司令官に就任。1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦では,南方軍集団司令官。しかし,部隊を独断後退させたために,12月,予備役に降格。 1942年3月,西部方面軍総司令官に再任。ルントシュテットは,連合軍を上陸させた後,艦砲射撃の射程外の内陸で反撃する計画だった。1945年3月、レマーゲン鉄橋を喪失,再度罷免 他方,B軍集団司令官ロンメル元帥は,敵航空機による攻撃が困難な水際で反撃すること主張。1944年7月,ヒトラー暗殺未遂事件にかかわったとして,自決を強要された。実際,ヒトラー暗殺後の新政権では,英仏の西側連合国との和平交渉を取り仕切るつもりだった。 このような高官たちのヒトラー打倒あるいはドイツ存続のためのクーデターの計画は,エルザーとは比較にならないほど,練られた緻密なものだった。しかし,ヒトラー暗殺自体の計画は,貧弱だった。 Generalfeldmarschall Rommel beim Oberbefehlshaber West
Im Rahmen seiner Besichtigungsreise zu den europäischen Westbefestigungen, die er im Auftrage des Führers unternahm, stattete Generalfeldmarschall Rommel (links) dem Oberbefehlshaber West, Generalfeldmarschall von Rundstedt (rechts), in dessen Hauptquartier einen Besuch ab.
UBz: die beiden Marschälle bei einer Besprechung.
PK-Aufnahme Kriegsberichter Jesse
14.1.44
Dating: 14. Januar 1944
Photographer: Jesse
Origin: Bundesarchiv ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。
野蛮な戦争を犯罪であると認識し,行動することは,持続可能な平和の構築につながると思います。ヒトラーの戦争をやめさせようとしたドイツ国防軍の将軍たちの行動は,テロ,反逆ともいえ,その意味では犯罪的行為,刑罰の対象です。けれども,ヒトラーとナチ党が,突撃隊の暴力,強制収容所への拘束,ユダヤ人の虐殺,戦争による大量破壊・大量殺戮を続けたことをふまえると,それを食い止める手段が他にあったのでしょうか。幾十倍も大きい大量殺戮,暴力,迫害の前に,独裁者相手であっても暗殺は殺人であり刑罰対象だと騒ぎ立てることに違和感を伴うのも事実です。
◆人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものです。けれども,多数の国民の支持,資源,資金がない限り継続することはできません。決して,一握りの政治家たち,軍人たちが,政治を左右できるわけではないのです。祖国のため,国民のために,暴虐な敵から家族を守るために正義の戦争を戦う,このように敵と味方が主張しあうのが,総力戦です。大量破壊,大量殺戮も正義のため,戦争を終わらせるためだとして,正当化されてしまいました。
近現代の総力戦は,大量破壊・大量殺戮を伴う戦争です。そして,それを煽動し,戦争を指導する人物に服従している限り,戦争を止めること,戦争を廃絶することはできません。総力戦では,世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているのですが,その事実が敵への憎悪を煽り,報復を叫ぶプロパガンダ隠蔽されてきたのです。
ここで,自分が一人では無力であるとあきらめるのは,ニヒリズムです。ここから国民が主導する平和は構築できません。
一人だけでできることは,戦争を扇動する要人を排除する「暗殺」だ,と考えれば,ゲオルク・エルザーのような選択があるかもしれません。
しかし,国民が力を合わせて,大量破壊・大量殺戮に組しないで,国際関係を少しでも友好的なものに変えてゆくことができれば,それに越したことはないのです。そして,そのためには,戦争・平和の主導権を握っているのが,我々一人ひとりなのだという自覚と覚悟が大切です。戦争は避けられない必然的なものだ,昔から戦争は繰り返し戦われており,人類の歴史から戦争をなくすことはできない,このようなニヒリズムに基づく戦争必然説は排除しなくてはなりません。戦争必然説を説くプロパガンダを糾弾しなければなりません。
戦争・平和の主権者である我々一人ひとりが平和構築への目配りをして,プロパガンダに流されずに行動する,こんな単純なことを諦めないことが,大切なのではないでしょうか。
◆『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism ⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics ⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏 ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ ⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車 ⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車 ⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車 ⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank ⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail ⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒アンネの日記とユダヤ人 ⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇 ⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機 ⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
2011年7月25日開設の当研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
連絡先:
torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博 TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292 Fax: 0463-50-2078
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 2000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials
from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the
URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai
Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright (C) 2011 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.
|
|