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◆ユダヤ人虐殺の理由・アウシュビッツ強制収容所 写真(右)1940年,ポーランド,ウッジ・ゲットーをオープンカーに乗って撮影するドイツ軍宣伝班:リッツマンスタットのゲットーで,宣伝用かあるいは記録用の映像を撮るドイツ武装親衛隊宣伝班。カメラは,写真と動画の2台以上が用意されている。
Polen, Ghetto Litzmannstadt.- Soldaten der Waffen-SS Propaganda-Kompanie im offenen Wagen fahrend, jüdische Bewohner am Straßenrand fotografierend und filmend (PK-Bildberichter und PK-Filmberichter) Dating: 1940 ca. Photographer: Schilf撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

◆2011年刊行『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までの期間を対象に、人種民族差別、ユダヤ人虐殺、ホロコースト、強制収容所を解説しました。

◆2015年4月18日、ヒストリーチャンネル「終戦70年 ”私たち”は何を見たのか?」に出演。
読売新聞2013年7月30日「ナチスの手口学んだら…憲法改正で麻生氏講演」によれば、日本副総理麻生は7月29日、東京の講演会で憲法改正は「狂騒、狂乱の中で決めてほしくない。落ち着いた世論の上に成し遂げるべきものだ」として、ドイツの「ワイマール憲法もいつの間にかナチス憲法に変わっていた。あの手口を学んだらどうか。国民が騒がないで、納得して変わっている。喧騒けんそうの中で決めないでほしい」と語った。これは、暴力肯定、外国人・非国民の排斥、独裁政治の開始という本音のようだ。

中居正広『アンネの日記』から世界平和を考える」テレビドガッチが2015年2月6日(金)21時よりTBSで放映された。その日、本研究室への新規訪問者は1万1,616人、翌7日は1,508人、8日は725人に達し、アンネの生きた戦争の時代、人種民族差別への関心がSNSでも高まっていることを実感した。しかし「実際の“隠れ家”の間取り図・断面図をフリップで見せるなどして、過酷だったその生活ぶりを検証する」というが、アンネの隠れ家の条件は最上級で、収容所のユダヤ人とは比較するまでもない。それを想像できたアンネは、ほかのユダヤ人たちを心配していたほどだった。
 気になったのは、アンネの日記を検証すれば容易にわかるような番組の錯覚が散見されたことだ。再現された隠れ家に入ったゲストが「アンネは一部屋もらっていたんですね」というが、アンネは姉と同室で、直ぐに姉と別れてデュッセル氏と同室にされた。一人一室の余裕はなかった。また、「見つかることは殺されることですね」とのゲスト発言も、収容所送り=殺害かどうかをアンネたちが議論していたことを踏まえると正確ではない。隠れた当初、労働力を提供するユダヤ人をすぐ殺すはずがないとの意見が優勢だった。解説で「ドイツ秘密警察がユダヤ人を連行した」というが、オランダ人の警察や密告者がユダヤ人捜索・移送に協力していたことは、15歳の少女も心悩ませていた。他方、ユダヤ人がイエスを殺したため、その責任をとらされて虐殺されたとの「自己責任論」が、聖書を引いて説明されたが、聖書からこの説に「都合のいい」個所だけ引用するのはいかがなものか。キリスト教会は、ユダヤ人イエス殺害説を否定しているのに、その事実も、その理由も一切触れられなかった。ヒトラーやナチスは、第一次大戦の敗戦、恐慌、汚職、政治的混乱は全てユダヤ人の陰謀であり、ユダヤ人の目的は、ドイツを堕落、隷属させることであると邪推した。そうなる前に、ユダヤ人を排除、殲滅すべきだと極論した。
 TBSは、素晴らしいメッセージを発信する良質な番組を放映したが、ゲストの発言や解説の細かな点まで監督する責任がある。世界中で読み込まれ、徹底研究されている「世界記憶遺産」に関する番組が、一般視聴者向きだから、学術研究ではないから、と安易な姿勢で作成されてはならない。「日記を破る日本人の理解はこの程度だ」と世界で誤解され、番組の中から日本に「都合の悪い」個所だけフレームアップしたプロパガンダがなされるのが心配だ。番組の言うように「アンネの書いた日記をもう一度、読み直さなければならない」

「アンネの日記破損:36歳男「心神喪失状態」で不起訴処分」(毎日新聞2014年6月20日)
 東京都内の図書館などで「アンネの日記」や関連本が相次いで破られた事件で、東京地検は20日、器物損壊容疑などで逮捕された東京都小平市の無職の男(36)を不起訴処分とした。約2カ月間の鑑定留置の結果、男は事件当時、心神喪失状態で刑事責任は問えないと判断した。都内では昨年2月以降、公立図書館38カ所などで「アンネの日記」など300冊以上が破られる被害を確認。警視庁は図書館で約40冊を破ったなどとして男を3回逮捕した。地検は「起訴は困難と判断した。人種差別的な思想に基づくとは認められなかった」とした。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時,NHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」ルドルフ・ヘス及びレニ・リーフェンシュタールに出演。
◆2011年3月2日,BBC News"Sony apology over Japan boy band Kishidan's Nazi gaffe"によれば、親衛隊の制服を着用したTV演出をしたSony Music Artists・Entertainmentは、ユダヤ人団体(Simon Wiesenthal Center)の抗議を受け、関係者すべてに深く謝罪し,この映像を放映せず、制服も破棄したと伝えた。
◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土),9月15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。

ポスター(右):1924年11月,ドイツ労働者諸君、これが君たちの悪の指導者だ。ナチ党・国家主義者の選挙ポスター;パウル・ヘルツ博士、エルンスト・シュワルツ博士、資本家ルドルフ・ヒルファーディング、ユージン・エプスタイン、アルフレッド・ヤンシェック、ヴェルナー・ショーレム、イワン·カッツ。 彼らから自由になるには、国家社会主義のナチ党を選ぶべじ!」1924年11月の選挙ポスターにおいても、ナチ党は、ユダヤ人の政治家・資本家のせいでドイツが困窮しているとし、ユダヤ人排除を訴えていた。
Deutscher Arbeiter! Das sind Deine Führer!! Dr. rer. pol. Paul Hertz, Studienrat Dr. phil Ernst Schwarz, Großkapitalist Dr. med. Rudolf Hilferding Eugen Epstein Alfred Janschek, Werner Scholem, Iwan Katz der "Schreckliche" Mach Dich frei und wähle nationalsozialistisch!! Dating:November 1924 Designer:o.Ang.(不明)
写真はPlak 002-039-007、ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


序 ナチ党ヒトラーの人種民族差別

1933年1月30日,ヒンデンブルク大統領は、腹心のパーペン元首相、息子のオスカーらの進言を入れて、アドルフ・ヒトラーを首相に任命した。その1ヵ月後,ベルリンの国会議事堂が放火された。この国会議事堂放火事件を契機に、人権を制限する大統領緊急令が発布された。3月,暴力・威嚇を駆使して,全権委任法が、クロル・オペラで開催された国会で採決され、社会民主党以外のナチ党、中央党、国家人民党などの賛成多数で成立した。

全権委任法が成立し、行政権・立法権が一元化されたことで、民主主義は否定された。ナチ党の暴挙を認めることで生き残ろうとした中央党、国家人民党は、次々に自主解散に追い込まれ、社会民主党も解体された。

ナチ党独裁は、ヒトラー首相就任後に、一見合法的に始まったが、全権委任法、政党解散は、突撃隊、親衛隊、警察の暴力と圧力のもとで、成立したのであって、決して、民主主義的手続きにのっとって、認められたものではない。

◆ドイツの反ユダヤ主義Antisemitismは,ナチ党政権によって,人種民族的偏見から,ユダヤ人に対する基本的人権の侵害へと高まった。ナチ党は,突撃隊SA・親衛隊SSの暴力を行使し,警察を支配して,人種民族差別・迫害を組織的に行った。このときのユダヤ迫害・虐殺は,人々の間にアンチ・セミティズムAnti-Semitismがあったことで,可能になった。ユダヤ人が追放されることで,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の多くも,ユダヤ人迫害をやむを得ないものと考えた。

◆ユダヤ人差別として,1933年4月,公職追放,5月,焚書,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,著作禁止,1934年,医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法制定,11月,選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。ユダヤ人の基本的人権を制限する法律が次々と出された。1938年4月,財産の登録義務を課し、登録料を徴収。11月,ゲッペルス宣伝相は,ユダヤ人商店の破壊(クリスタルナハトKristallnacht)を煽動。こうして、ユダヤ人差別は、ユダヤ人迫害へと拡大していった。第二次大戦がはじまると、占領地のユダヤ人虐殺が開始された。

写真(右)1933年,警察署中庭で警察に検問されるユダヤ人男性:ユダヤ人は,各自が登録証のような証明書を大事そうに持っている。1933年,ナチス政権奪取直後から,敵性住民・下等劣等人種として,ユダヤ人の所持する武器探しなどを名目に人種迫害が開始された。
Gross-Razzia der Polizeiabteilung zbV [zur besonderen Verwendung] in den Ostjudenvierteln um die Grenadier- und Dragonerstrasse. Die jüdische Bewohnerschaft eines Hauses in der Grenadierstraße [heute Almstadtstraße] wird auf dem Hof zur Durchsuchung nach Waffen und Prüfung der Papiere versammelt. 1933 Dating: 1933 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


◆ユダヤ人は,宗教問題だと単純に考えることはできない。キリスト教徒に改宗しても,ユダヤ人とされ迫害されることが多かったからである。宗教差別と人種民族差別の境界は,多くの場合,恣意的である。もともと厳格に区分することなど不可能な人種・民族を為政者に都合よく定義し,特定の人種民族を差別,迫害した。

肌の色,鼻の形,顔面の角度,目の色・形,体臭,さらにDNAによって,人種を区分しても,境界は恣意的である。言語や宗教によって,民族を区分しても,人種概念が入り込み,やはりその区分は恣意的にならざるをえない。ナチ党は、人種を厳格に区別できなかったために、ユダヤ教徒をユダヤ人とみなした。つまり,人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われているのであり,似非科学な偏見,錯覚,プロパガンダに基づいている。


ユダヤ人迫害には,看板をぶら下げて市内を引き回す辱めやユダヤ人商店の打ち壊しもあるが,法律/規則の上でも,ユダヤ人の人権が制限され,迫害が行われた。反ユダヤ法としては,1933年4月,ユダヤ人公職追放,7月,ワイマール共和国後のドイツ・ユダヤ人の国籍の剥奪,10月,ユダヤ人著作禁止,1934年,ユダヤ人医師.薬剤師新規就労禁止,1935年7月,ユダヤ人兵籍剥奪,9月,ニュルンベルク法(ユダヤ人の結婚制限)制定,11月,ユダヤ人選挙権剥奪,医師・教授・教員への就業禁止と続いた。

◆ニュルンベルク法は,ユダヤ人がドイツ人の血を人種汚染することを前提に「ドイツ民族の純潔をドイツ国民に存続させる」反ユダヤ人種差別法である。この法律で,ユダヤ人とドイツ国籍者・民族ドイツ人の結婚は違法とされた。ユダヤ人が定義されたことで,ユダヤ人を差別・迫害しやすくなった。

写真(右)1933年,ベルリンのユダヤ人商店のボイコットを撮影するナチス宣伝班:ユダヤ人は,辱めのために,首から「ドイツ人へ!ユダヤ人からは購入しない!」とかかれている。ユダヤ人の男の前にお店、男性のボイコットのSAとSS !ナチ党が政権をとると直ぐにユダヤ人への迫害が公的に行われた。警察も迫害をとめなかった。
Original title: Zentralbild 1933 Boykottaktion der Nazis gegen jüdische Geschäfte, Berlin Filmleute warten auf Publikum, welches das Warenhaus betreten will (Wertheim). Archive title: Berlin.- Boykott jüdischer Geschäfte, SA- und SS-Leute vor Kaufhaus Wertheim, Mann mit Schild um den Hals "Deutsche! Wehrt Euch! Kauft nicht bei Juden!", rechts Mann mit Filmkamera filmend Dating: 1933
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1936年ベルリン・オリンピックに際して,アメリカオリンピック委員会会長エイブリー・ブランデージ(戦後もオリンピッック組織の大指導者)は,ドイツを訪問して「ドイツで反ユダヤ主義は見られない」と声明を出した。オリンピック期間前後は,アンチセミニズムを訴えるポスターや宣伝は行われず,公園など公共施設へのユダヤ人立ち入り禁止の看板もはずされていた。

アメリカでは,ユダヤ人迫害を行うドイツでのベルリンオリンピックをボイコットすべきであるとの意見も出されたがオリンピックをボイコットすれば,アメリカ国内の人種民族差別にも批判が向けられてしまう。オリンピックボイコットは,アメリカの国内事情から,実行できなかった。

写真(右):1938年,国家社会主義ドイツ労働社党(ナチスNSDA:NationalSozialistische Deutsche Arbeiterpartei)の反共ポスター「ユダヤ人の独裁による大衆の平和だと?ザクセン州に3月,1350名の大動員の集まり。」ナチスは政権獲得前から,共産主義・ボリシェビキを敵視した。しかし,ヒトラー自身,第一次大戦直後には,労兵評議会レーテの一員として,共産主義運動に参加していた。
Völkerfrieden oder Juden-Diktatur? Im März 1350 Massenversammlungen in Sachsen Dating: März 1938 Designer: FM; [Müller, Fritz] 作。Occasion: Antisemitismus, Friedensparole, Versammlungsaufruf Editor: ナチ党Ortsgruppe Mühlbach der Nationalsozialistischen Deutschen Arbeiterpartei刊行。 ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用。(他引用不許可)。


ナチス指導者にとって,米英仏など列国の人権問題での介入は,貿易,投資の上でも,軍事上も最大の脅威である。そこで,ドイツのアンチセミニズムは,あくまでプロパガンダの問題であって,実際の人権差別・迫害とは異なるとの印象を,列国に持たせようとした。ユダヤ人迫害が実際に行われているとは,列国には知られたくなかった。この秘匿性は,ユダヤ人虐殺ホロコーストも同じである。ユダヤ人絶滅指令は,口頭で行われ,文書記録では,排除・最終解決といった隠語が使われた。

実は,ホロコーストの8年前,ユダヤ人迫害ですら,ナチスは秘匿しようと深謀遠慮した。米英列国の合理的な現実主義者(政治家,ビジネスマン,知識人)たちは,ユダヤ人迫害を過激な人気取りのプロパガンダであって,本当に実行するはずがないと,思い込んでいた。


オリンピックが終わると,ユダヤ人の基本的人権を制限する法律・規則は次々出され,1938年4月,財産の登録義務を課し、登録証を徴収するようになった。強制収容所も増設された。1936年ザクセンハウゼン,1937年ブーヘンワルト,1938年フロッセンブルク,(併合したオーストリア)マウトハウゼン強制収容所が設置された。1938年6月15日,ついにユダヤ人1500名が強制収容所に送られた。

◆ドイツにおける反ユダヤ主義Antisemitismは,ナチス政権成立によって,人種民族差別の偏見という意識の問題から,ユダヤ人に対する基本的人権の侵害,迫害へと移っていった。これは,ナチス党が,突撃隊・親衛隊などによる暴力を使い,さらに警察も支配していたからである。しかし,ナチス党の反ユダヤのプロパガンダは,人々の反ユダヤの偏見,アンチ・セミティズムAnti-Semitismがあったことで,有効に作用したことにも注意したい。

ポスター(右)1940年9月,「さまようユダヤ人−世界ユダヤ人についてのドキュメンタリー」:デザイン:フリッツ ヒッペル(Hippler), 音楽:フランツ・フリードル(Friedl)。
Der Ewige Jude Ein Dokumentarfilm über das Weltjudentum Gestaltung: Fritz Hippler Musik: Franz R. Friedl Dating: September 1940 Designer: StS Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人の人権を制限する迫害が始まった時,それに反対する人権・民主主義確保の動きは,大きくなることができなかった。ユダヤ人が迫害され,追放されることで,利益を得た商人,行政官,教員,医者,弁護士,大学生の中には,ユダヤ人の人権制限を許容した人たちもいた。

卑怯な悪賢いユダヤ人は,第一次大戦時,背後にいて,共産主義を広め,ドイツ民族を打ち倒す陰謀・革命を企てた,という「背後の匕首一突き説」を,ナチスは喧伝した。共産主義思想家カール・マルクスは,労働者を煽動して,世界を混乱させようとした。ソ連の共産主義もアメリカの拝金主義も,ユダヤ人支配の表裏である。そして,ユダヤ人は,優秀なドイツ人の血を人種汚染し,滅ぼそうとしている。
 このような根拠のない反ユダヤ主義(アンチセミニズム)の人種民族差別が,ドイツ政府によって公然と表明された。

中居正広アンネの日記」から世界平和を考える」テレビドガッチ(ブログ)-2015年2月6日(金)21時より がTBSで放映された。その日、本研究室への新規訪問者は1万1,616人、翌7日は1,508人、 8日は725人だった。アンネの生きた戦争の時代、人種民族差別への関心がSNSでも盛り上がっていることに気づかされた。しかし「実際の“隠れ家”の間取り図・断面図をフリップで見せるなどして、過酷だったその生活ぶりを検証する」というが、アンネの隠れ家の条件は最上級で、収容所のユダヤ人とは比較するまでもない。それを想像できたアンネは、ほかのユダヤ人たちを心配していたほどだった。
 気になったのは、番組内で日記を読めすぐわかる錯覚が散見されたことだ。再現された隠れ家に入ったゲストが「アンネは一部屋もらっていたんですね」というが、当初は姉と同室、直ぐに姉と別れてデュッセル氏と同室にされたので、一人で一室を占めたことはなかった。アンネが「見つかることは殺されることですね」との発言も、日記の中で、収容所送りが殺されるかどうかを、アンネたちが議論していた個所を読んでいないためであろう。解説で「ドイツ秘密警察がユダヤ人を連行した」というが、オランダ人の警察や密告者がユダヤ人捜索・移送に協力していたことは、15歳の少女も心悩ませていた。他方、ユダヤ人がイエスを殺したため、その責任を負わせるために虐殺されたとの「エセ自己責任論」が、聖書を引いて説明がなされたが、聖書の自説に「都合のいい」個所だけ引用するのはいかがなものか。キリスト教会は、ユダヤ人イエス殺害説を否定しているのに、その事実も、その理由も一切触れていない。ヒトラーやナチスは、第一次大戦の敗戦、大恐慌、汚職、政治的混乱は全て、ユダヤ人の陰謀で、彼らの目的は、ドイツを堕落、隷属させることであると邪推した。彼らが、ドイツを包囲し、戦争を仕掛けてくる前に、排除、殲滅すべきだと極論した。
 TBSには、ゲストの発言や解説に間違いがないように、十分に監督する責任がある。世界中で読み込まれ、徹底的に研究されている「世界記憶遺産」の番組が、一般視聴者向きだから、学術研究ではないから、と安易な姿勢で放映されてはならない。日記を破る日本人の「アンネの日記」の理解は、この程度だと世界で誤解され、日本に「都合の悪い」個所だけ番組から摘み出されたプロパガンダがなされるのが心配だ。素晴らしいメッセージを発信している良質な番組なのだから。「アンネの書いた日記をもう一度、読み直さなければならない」

◆反ナチスとされた下等劣等人種ユダヤ人,共産主義者,知的障害者,同性愛者,兵役拒否者,エホバの証人,ジプシー,職業的犯罪者など危険な非国民は,ドイツの敵である。彼らを拘束し,更正させる場所として,刑務所に加えて,1933年から,強制収容所KL(ラーゲル)を設置。ラーゲルを管理し,監視したのが,親衛隊SS髑髏部隊である。

写真(右)1934年9月5-10日,ナチ党ニュルンベルク大会で点呼のため整列するヒトラーユーゲント:「ニュルンベルク党大会の団結と力を誇示するナチ党のヒトラーユーゲント」。巨大なニュルンベルク・スタジアムで指導者アドルフ・ヒトラーの前に忠誠を誓う肉体的にも精神的にも優れたアーリア人、このような優生学上の人種民族差別が国家の方針として、公的支出を得て教育された。
Der Reichsparteitag der NSDAP in Nürnberg 1934. Hitlerjugend im Nürnberger Stadion angetreten zum Appell vor ihrem Führer Adolf Hitler Archivtitel: Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP "Reichsparteitag der Einheit und Stärke", Appell von Hitler-Jugend, 5.-10. September 1934 Datierung: September 1934 Agentur: Aktuelle-Bilder-Centrale Georg Pahl
写真はBild 146-1981-160-05 ,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


◆ナチ党政権下のドイツでは、ユダヤ人に対して、公務員や教員の職からの排除、財産の収奪、ポグロムが行われたが、優秀で健康なアーリア民族に対しては、支配者民族としての自覚、忠誠心が求められた。ドイツ民族共同体を強固なドイツ帝国とするために、体を鍛え、勤勉に労働し、命をささげて軍務につくことが求められた。ドイツの男女青少年は、ヒトラーユーゲントの加盟が義務となり、秩序、服従の大切さを叩き込まれた。

支配者民族として優遇されたアーリア人・ドイツ民族は、ナチスの時代,言論の自由がない状況で、ユダヤ人に対する人種民族差別、迫害を仕方がないと考えた。あるいは、強大なドイツ帝国の人種民族の方針を前に、一市民として、自分の無力さを感じ、ニヒリズム(虚無主義),現実主義に陥った。戦時中、ユダヤ人虐殺に抵抗したドイツ人はほとんどいなかった。

  ⇒ナチ党独裁政権・ナチスの人種民族差別:ホロコーストの序章


2.ポーランド・ユダヤ人−第二次大戦の勃発

1939年9月1日、ポーランド侵攻時には,特別部隊(のちのアインザッツグルッペ)が投入され,公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,ポーランドの文化・国家の維持に有益な人物,インテリを処置。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持するSS大隊長(中佐)だった。この特別部隊が、ポーランドのインテリ、ユダヤ人を探し出して、銃殺、処刑して回った。

1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻で破壊された都市では,住民が駆り出され,後片付け作業に従事させられた。

この時,労役に従事したユダヤ人を登録し,以後,家族を含めて,労役を課さないと宣伝したようだ。ユダヤ人には,労役をこなして,家族の身を保障しようとしたが,これはユダヤ人を把握して,ゲットーに移送するための姦計だった。労役させた後に,登録したユダヤ人をゲットーに強制移送した。

ゲットーに押し込まれたユダヤ人たちは,ゲットー外部に労務者として派遣され,建設,清掃,工場の労働に従事した。ゲットー内部に賃金労働は限られていたから,ユダヤ人はたとえ報酬が僅かであっても,労役に従事するしかなかった。労働中に脱走することは可能だったようだが,ゲットーに残された家族に危害が及んだ。さらに,脱走に成功しても,ユダヤ人を匿ってくれるポーランド人はほとんどいなかった。ユダヤ人がゲットーの外で,生きてゆくことは困難だった。


German Jewish deportees arriving at the Warsaw Ghetto:ドイツからワルシャワゲットー追放されたユダヤ人

写真(右)1941年5月25日,ポーランドのワルシャワ、ゲットー(ユダヤ人を囲い込んだ居住区)の死体置き場:腕章を巻いたユダヤ人が,奥の死体置き場で記録をとっている。このような悲惨な状況に陥るくらいなら,強制収容所に移送され,労働に従事して生きるほうがよいと考えるユダヤ人もいた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Zwei Männer (Juden) mit Armbinden mit Judenstern vor Leichen in einer Halle; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』 The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan

1941/10/9「ゲットーの外とされたプラガへ続く道は,フェンスに囲いもまれている。しかし,ゲンシャ街のユダヤ人共同墓地とアーリア人畜との間には,実質的な境界は存在しない。------
ゲットーでは,死が大きな利益をもたらす大産業になっている。平和な時代には,ユダヤ人共同体の手によって葬儀が行われた,-----いかし,今ではそうではない。どこを向いても葬儀屋の事務所があり,店先には黒塗りの荷車が置かれている。これは,飢えとチフスによって死んだ者への緊急援助であり,そのような死者は,今では数万にも及んでいる。

死者が出ると,会葬者は葬儀屋に商品(遺体)を引渡し,葬儀屋がその子を取り仕切る。こうして,馬が引くあるいは,葬儀屋に雇われた者が人力車のように引く黒塗りの荷車が,遺体を次々と受け取って,積めるだけ積み込み,山となった遺体を墓地へ運んで行く。-----
この死の行列に心を動かすものは一人もいない。死は,ジョイント(米国援助団体)のスープ給食所やパンの配給カード,ドイツ兵に向かって帽子を脱ぐことと同様,日常的な出来事になってしまったからである。-----
清めの建物は,数百者遺体を収容しきれない。既にいっぱいなのに,遺体はなおも運び込まれ,墓地の馬小屋が死体安置所として使われている。異体は最小のスペースに最多の商品が納められるよう,見事な手並みで並べられる。-----

ユダヤ人評議会の共同墓地には,数百人もの職員が配置され,利権を貪る。---我々は評議会ではなく,墓地の会計係りに葬儀の支払いをしなくてはならない。より正確に言えば,墓地の係員に支払い,彼はその金を自分の懐に入れてしまう。係員の男は,遺体を埋葬する指示を与えるが,一定の場所を指定することはない。共同墓地事務所は,区画の割り当てをせず,埋葬の許可を与えるだけである。-----
許可を手に入れた後,会葬者と埋葬を行う者たち,すなわち埋葬を委託された業者との間で,個人的に折衝しなければならない。」

◆ドイツ軍によるポーランド侵攻とソ連侵攻の共通する暗部は,ユダヤ人を初めとする敵性住民を即決処刑したことである。1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻時に,保安警察特務部隊を投入,独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。1941年6月22日,ドイツのソ連侵攻バルバロッサ作戦で,占領下ソ連では,ユダヤ人やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に収監されたりした。ポーランドでも,ソ連でも,ドイツ親衛隊,警察,国防軍とともに,現地ポーランド,バルト諸国,ウクライナの警察・住民の一部は,ユダヤ人迫害,処刑,財産強奪に加担した。

ポーランド降伏から1年,フランス降伏後の1940年10月12日,ワルシャワでは、ユダヤ人居住区ゲットーGhettoを作る法令が出された。ドイツに併合されたポーランド東部では、ユダヤ人の迫害、追放が行われていた。そこから、ワルシャワに多数のユダヤ人が流入していた時期だった。

ドイツ当局は、当初、アーリア人(ポーランド人)地区、ドイツ人地区、ユダヤ人地区と、人種民族ごとの居住区を設置しただけで、ゲットーの再来ではないと公言した。しかし、1940年11月16日,ゲットーは封鎖された。ユダヤ人は,労働動員など許可を得られない限り,ゲットーからの外出は不可能となった。


912 days of the Warsaw Ghetto:ワルシャワ・ゲットー

反ユダヤ主義のポスター(右)1943年,「ユダヤ人、戦争の煽動者であり、戦争の首謀者だ。」:ドイツに戦争を仕掛けてくる黒幕にいるのは、下等人種のユダヤ人であり、ドイツ人はそれを打倒するとの反ユダヤ主義(アンチセミティズム)が表現されている。
Der Jude Kriegsanstifter Kriegsverlängerer Dating:1943 Designer:Mjölnir; [Schweitzer, Hans] Origin: Bundesarchiv
写真はPlak_003-020-022,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


優生学では,植民地や占領地の敵性住民,下等人種,劣等民族は「生きてゆく価値のない生物」であって,彼らに世界の資源エネルギー,食料を余分に配分する必要はない。彼らの存在は,人種混合を引き起こし,社会負担を増加させ,社会を不安定にするのであり,排除されるべき存在である。

ヒトラーを党首(党設立時から総統とよばれた)とする国家社会主義ドイツ労働者党(NASDAP:Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei、いわゆるナチ党)は,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定を唱え,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張した。ユダヤ人・スラブ人を下等人種・劣等民族として迫害したドイツ人だが,習俗・言語の違いこそ,人類の文明・文化を多様な豊かなものにする。敵性住民・下等劣等人種として,迫害しても,そこで生まれるのは,報復と,自分を貶める人間性の喪失だけであろう。

ナチ党独裁政権・ナチスの人種民族差別:ホロコーストの序章
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto


3.スラブ人迫害−ソ連侵攻バルバロッサ作戦

1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,ソ連を攻撃した。このよるソ連侵攻バルバロッサ作戦が発動されたのは,次のような理由からだった。

?ナチスは,ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。
?ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを壊滅する必要があった。
?フランス降伏後,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅し,英国の希望を砕こうとした。
?優生学上、ロシア人,ウクライナ人などを劣等民族と位置づけ,東方ソ連をドイツ人の生存圏とみなした。


ソ連侵攻バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossaは,電撃戦の成功事例に挙げられるが、東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍兵士8886人が死亡。

ポーランド・ウクライナの係争の地で,ソ連領だったリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐し,レンベルク(リボフ)を占領。しかし,ドイツのソ連侵攻の一週間後の6月30日,ドイツ軍は,リボフを再占領した。

1941年6月30日,ドイツ軍がリボフを再び占領すると,反ソ・反ロシアだったウクライナ人民族主義者は,ドイツ軍を歓迎。ソ連の秘密警察NKVD (内務人民委員会)とそれに協力したとされたユダヤ人を 特別任務部隊(アインザッツグルッペ:Einsatzgruppe)Cとともに,虐殺した。ポーランド人民族主義者,知識人,一部のウクライナ人も犠牲になった。1941年6-7月の4週間でリボプリヴィウ)のユダヤ人4000名が殺害された。(Holocaust Education & Archive Research Team 引用)


Lviv Pogrom 1941:1941年6-7月、ポーランド(現在ウクライナ)リボプ(リヴィウ)のユダヤ人虐殺


写真(右):1941年7月,ソ連,モギリョフ,市街の戦禍後片付けを強要されるユダヤ人:大きなユダヤの星のマークをつけさせられ,清掃の使役を命じられたユダヤ人。しかし,親衛隊の目的は,市街の戦禍復旧ではなく,使役を名目にユダヤ人を登録することだった。使役をこなせば,家族の安全も保障されるという偽りに騙されて,ユダヤ人は家族の氏名,住所まで情報を提供した。これをもとに,親衛隊はユダヤ人を集めて,強制収容所に移送したり,処刑したりした。これは,ポーランド・ユダヤ人にも既に実施した手馴れた姦計だった。
Sowjetunion, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Gruppe jüdischer Männer mit aufgenähten Judensternen beim Säubern einer Straße, Beladen von Wagen; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


第二次大戦中,ドイツ占領下のユダヤ人は,指定居住区ゲットーに移送された。ソ連に住んでいたユダヤ人も,市民権,職業,財産を奪われ,移送に逆らえば命を奪われた。ドイツの親衛隊,警察,国防軍とともに,ポーランドやバルト諸国の警察も,このような人種民族差別に賛同し、ユダヤ人の迫害とゲットー隔離に協力した。
その後,ゲットーから強制収容所に移送,ホロコーストが始まった。

写真(右)1941年7月,ソ連モギリョフ,市内整備作業の使役をさせられるユダヤ人男性:ユダヤの星の大きなマークを上着につけさせられている男たちが,道路の清掃作業なのか,木製貨車に散乱していた小銃(路上に3丁以上,破損?),機銃弾薬・手榴弾(貨車の手前),ガスマスク(貨車にあり)などを貨車に載せている。ソ連軍捕虜をここで武装解除したのか。
Sowjetunion, Mogilew.- Arbeitseinsatz von Juden. Gruppe jüdischer Männer mit aufgenähten Judensternen beim Säubern einer Straße, Beladen von Wagen; PK 689 Dating: Juli 1941 Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラーは,ソ連を訪問したとき,そこで出会った女性たちが,飾りもつけず,化粧もしていないみすぼらしい人間だと,内輪で語った。そういう下等な民族には,ガラス球でも与えて手なずけて,農奴のように,食糧供出のために働かせるか,ドイツ本国に連行して,東方労働者として使役,徴用すればよいとした。彼らに教えるのは,簡単な算数と,交通標識が読める程度の知識で十分だと述べた。

ヒトラーは,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定を唱え,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張した。ユダヤ人・スラブ人を下等人種・劣等民族として迫害したドイツ人だが,習俗・言語の違いこそ,人類の文明・文化を多様な豊かなものにする。敵性住民・下等劣等人種として,迫害しても,そこで生まれるのは,報復と,自分を貶める人間性の喪失だけであろう。

カラー写真(右):1941年9月,ソ連,ウクライナ,ポルタヴァのウクライナ民族衣装:独ソ戦当初,スターリン支配,共産党の圧制に苦しんでいたウクライナでは,ドイツ人を解放者のように歓迎した住民も少なくなかった。しかし,ドイツ人の多くは,スラブ人を下等人種,劣等民族と蔑視しており,ヒトラーの被支配地への政策も,資源,食料を挑発し,強制労働を課す略奪だった。
Die Bevölkerung der Ukraine aus der Gegend von Poltawa mit ihrer Nationaltracht September 1941 Datierung: 1941 Sommer Fotograf: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ軍,ソ連軍ともに,敵の捕虜に対しては,厳しく取り扱った。どちら側の兵士も,頑強に戦い続け,容易に投降することはなかった,といわれるが,これはお互いに捕虜となれば処断される運命が待ち受けていることが容易に想像できたからだろう。

 戦禍の後片付けや道路清掃作業のような苦役なら,ユダヤ人も耐えた。ユダヤ人登録に応じ,労働作業に向かった。ユダヤ人は,使役に出ることで,身の安全を確保しようとした。
 ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランド,ウクライナでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害に同調する動きも起こった。

◆ウクライナ人によるユダヤ人迫害の理由は,ユダヤ人がソ連共産党ボリシェビキ支配下で,政治的,経済的に高い地位にあり、ウクライナ人を苦し、抑圧したというユダヤ人陰謀家説の思い込みだった。

ドイツ国防軍将兵は,独ソ戦の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。

ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ人を憎むようになった。

特定の人種民族追放が,軽い差別であるように思うのは誤りである。追放に際して,持ち出せた資産は僅かだった。不動産,書くなどのほかに,仕事も,学籍も失った。

たしかにユダヤ人追放というのは,後のユダヤ人絶滅と比較すれば,「軽い」が,現在の視点から見れば,完全な迫害である。失職し,学校に通うことができず,自分の住む家から追い出される,これはとてつもない困難を引き起こす。

強制移動、失職、財産権の制限を伴う追放は,それだけで基本的人権の侵害であり,迫害というに値する。 

独ソ戦勃発4ヶ月後,1941年10月14日から11月4日にかけて、ドイツのベルリン、ケルン、デュッセルドルフ、フランクフルト、ハンブルなどのユダヤ人1万9953名が第一陣として、ポーランドのウーチ・ゲットーに強制移送された。1941年11月25日のドイツ国公民法第11令によれば、ドイツ国籍ユダヤ人が外国に移住すれば、その資産はすべてドイツ国のものとなる。(芝健介『ヒトラーのニュルンベルク』180-193頁)

ナチ党指導者,一般市民は,ユダヤ人の財産没収,強制収容所への移送は当然のように知っていた。ドイツだけでなく,ヨーロッパ中のユダヤ人が,「東方」に続々と送られていることは,ドイツ鉄道職員にも,沿線住民にも,常識だった。

東方ソ連でもユダヤ人,スラブ人(ウクライナ人,ロシア人,セルビア人など)が,パルチザン容疑者やソ連軍捕虜が処刑されたり,強制収容所に送られたりしていることを東部戦線のドイツ軍兵士は知っていた。強制収容所に移送されれば,出られないことも,みなが知っていた。が,虐殺の話は,公の場では語られなかった。

居住地を追われてゲットーに押し込められ,隔離されたユダヤ人を追放する場所はなかった。ソ連軍の大量の捕虜にも,食料や監視兵力を割きたくはなかった。東方ソ連の肥沃な大地,資源は,入植するドイツ人,民族ドイツ人のための生存圏だった。

ナチスは,隔離したユダヤ人,ソ連軍捕虜を釈放して,ドイツにとっての災いの種にするつもりはなかった。予防戦争の論理に則って,敵が弱いうちに殲滅すべきであると考え,収容所のユダヤ人,スラブ人を,劣悪な環境に置き,順次,死ぬに任せた。後には,積極的に殺戮した。 写真(右)1942年6月,ワルシャワゲットーGetto warszawskieのゲート:手前はポーランド人ワルシャワで,ドイツ兵が歩哨に立っている。ゲート周囲の鉄製フェンスは高さ3メートルほどで,その両側に立つ民間人は,ポーランド人のようだ。
ゲート内側は,ユダヤ人警察(自警団)が歩哨に立ち,交通整理をしている。ゲットー住民は、役得の多いユダヤ人警察になりたがったが、ユダヤ人警察は、住民からの賄賂の徴収、東方移送者(処刑者)の選定などを行い、ドイツの手先としてゲットーのユダヤ人住民に嫌われた。燃料不足のゲットーでは,リキシャ(人力車)が個別輸送を担っていた。ゲート直ぐ近くの木製歩道橋は,大ゲットーと小ゲットーを繋ぐ歩道橋。
Polen, Warschauer Ghetto.- Drahtzaun, Passanten auf Straße; PK 697 Dating: Juni 1942 Photographer: Amthor撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年5月,ポーランド、ワルシャワ・ゲットーで、トラックを待つ若いユダヤ人男性の行列:左側には既にトラックに乗り込んだ男性たちが見える。ユダヤ人評議会の行政運営の下で,若いユダヤ人男性は,ゲットー内部のユダヤ人工場や土木作業に行かされた。ゲットー外部の労務作業に派遣されることもあった。しばしば集められ,トラックに乗せられ連れ去られたようだ。
隔離され,外部とのヒト,モノ,カネの取引が大幅に制限されたゲットーでは,仕事が無く,生活物資に困窮した。僅かな配給を目当てに,いわれたまま働くしかなかった。ゲットー内部にも,社会階層ができていた。ナチスは,ユダヤ人をゲットー内部で対立,反目させ,ドイツに対して団結して反抗することを防いだ。
Polen, Warschauer Ghetto.- Straßenszene, wartende Menschen auf Gehsteig vor einem Gebäude; PK 689 Dating: Mai 1941 撮影者:クノブロッフ、ルートヴィヒ(Knobloch, Ludwig)。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人虐殺の理由は、ユダヤ人が、ドイツ帝国を崩壊させ、アーリア人を滅ぼして、世界支配を企んでいるからである。その方法は、?人種汚染、?ボルシェビキに代表される共産主義、?国際金融界に代表される拝金主義、?最終的手段としてのドイツに対する戦争、である。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人殲滅戦の遂行を公言している。
これはあくまで過激な表現のプロパガンダに過ぎない,と誤解したドイツ人,連合国指導者もいた。


写真(右)1941年5月25日,ワルシャワゲットーの死体置き場:カプラン『ワルシャワ・ゲットー日記』 The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan (1941/10/9)
「確かに,ゲットーの外とされたプラガへ続く道は,フェンスに囲いもまれている。しかし,ゲンシャ街のユダヤ人共同墓地とアーリア人畜との間には,実質的な境界は存在しない。------
ゲットーでは,死が大きな利益をもたらす大産業になっている。平和な時代には,ユダヤ人共同体の手によって葬儀が行われた,-----いかし,今ではそうではない。どこを向いても葬儀屋の事務所があり,店先には黒塗りの荷車が置かれている。これは,飢えとチフスによって死んだ者への緊急援助であり,そのような死者は,今では数万にも及んでいる。

死者が出ると,会葬者は葬儀屋に商品(遺体)を引渡し,葬儀屋がその子を取り仕切る。こうして,馬が引くあるいは,葬儀屋に雇われた者が人力車のように引く黒塗りの荷車が,遺体を次々と受け取って,積めるだけ積み込み,山となった遺体を墓地へ運んで行く。-----

この死の行列に心を動かすものは一人もいない。死は,ジョイント(米国援助団体)のスープ給食所やパンの配給カード,ドイツ兵に向かって帽子を脱ぐことと同様,日常的な出来事になってしまったからである。---」
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Zwei Männer (Juden) mit Armbinden mit Judenstern vor Leichen in einer Halle; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年5月25日,ワルシャワゲットーの死体置き場。ゲットーのユダヤ人は,隔離され,物資不足に苦しんだ。病気になっても医薬品は不足し,満足な病院も無かった。ドイツがゲットーのユダヤ人を強制収容所に移送する前から,ゲットーではたくさんの人々が亡くなっていた。
Polen, Warschauer Ghetto.- Leichensammelstelle.- Übereinandergestapelte, abgemagerte Tote aus einem Holzgestell; PK 689 Dating: 25. Mai 1941 Photographer: Knobloch, Ludwig撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


◆第二次大戦初期,ドイツがヨーロッパを占領すると,排除すべき対象は,ヨーロッパ・ユダヤ人すべてとなった。太平洋戦争が始まると,アメリカの堕落した民主主義を資金・メディアを通じて操っているユダヤ人が,ドイツに戦争を仕掛けてくるのも,時間も問題となった(とヒトラーは考えた)。となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである。妄想的な宿命論を信じたヒトラーは,参戦義務がないにもかかわらず,対米宣戦布告をした。いままで,宣戦布告など一切問題としなかったヒトラーだが,世界のユダヤ人相手の最終戦争は,自ら宣戦布告すべきであると判断した。

写真(右)1934年、ヒトラー総統と個人秘書から権力を掌握したマルチン・ボルマン Martin Bormann (1900年6月17日 - 1945年5月2日?):1933年7月4日に副総統ルドルフ・ヘスの個人秘書となり、1941年にヘスが和平交渉をしようとイギリスに単独飛行で飛び失脚した後、ナチ党官房長官に就任。ナチ党の総務担当者となった。ヒトラーの言葉をメモをとり、それを実行に移すことで、ヒトラーの信頼を得た。そして、ヒトラーとの面会を取り付けようとする人物の選択を任されたことで、ボルマンはヒトラーの代弁者あるいは仲介者として権力を握るようになる。ヒトラーがドイツ軍最高司令官としての多忙な軍務に当たったため、ナチ党による一党支配の政治は党官房長官のボルマンが事実上統括するようになった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-R14128A Original title: info Zentralbild Reichsleiter der NSDAP Martin Bormann, Leiter der Dienststelle des Stellvertreters Hitlers. Aufnahme 1934. 3799-34 Archive title: Porträt Martin Bormann Dating: 1934 Photographer: o.Ang. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


◆ドイツのソ連侵攻に伴って,共産党からソ連軍に派遣された政治委員(政治将校),ソ連軍ユダヤ人兵士など敵性下等劣等人種とされた人間が,銃殺された。治安対策の意味もあったが,このような虐殺が,共産党に反対していた親独ロシア人・ウクライナ人にまで,ドイツ抵抗運動,パルチザン(ゲリラ)に向かわせた。

1941年6月22日以降のドイツのソ連侵攻は,ユダヤ人など下等劣等人種殲滅戦争の第二段階だった。開戦当初,ソ連に侵攻したドイツ軍を共産党スターリンの圧制からの解放と考え,ドイツ軍を歓迎する住民もいた。しかし,ナチスの世界秩序の中で,下等劣等民族のロシア人,ウクライナ人に対する物資徴発,強制労働が行われた。ドイツ国防軍のの中には,住民と協力関係を樹立し,反共勢力に育成するとの構想もあった。

しかし,ユダヤ人など下等劣等人種に対する殲滅戦争を開始,住民の家畜,食料を徴発し,住民を追放した。過酷な扱いを続けたドイツに対して,占領下の住民は,パルチザンとなり,武器を取って,ドイツ占領軍を襲撃し,ドイツに協力する現地の住民にも報復した。

写真(右)1939年末,ポーランド,クラコウを追放されるユダヤ人:ドイツは,1939年のポーランド侵攻の最中,ユダヤ人をゲットーをつくり強制的にそこに移住させる命令を出した。ポーランドの全てのユダヤ人が一挙にゲットーに住まわされたわけではないが、大都市に住んでいた大半のユダヤ人は,新設のゲットーに強制移送された。親衛隊SSは,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察(自警団)を通じて,ユダヤ人を管理した。このような野外の柵の中に収監されたユダヤ人男性。着の身着のままで追放されれば,家屋,土地を失い,家族とも引き離されてしまう。ドイツ人は食事,睡眠,排泄もままならない状況にユダヤ人を置いて、迫害した。
Polen, Krakau.- Verhaftete / internierte polnische Juden (für Arbeitseinsatz in Deutschland ?) in einem Lager, ca. Ende 1939 Dating: 1939 Ende
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ占領地のパルチザンは,ゲリラと同じく非正規兵士だったが,ドイツ軍やドイツ協力者を攻撃した。ソ連軍は,ドイツ占領下の住民にパルチザンとして,武器を取って戦うように命じた。そして,パルチザンを後方撹乱を行うゲリラ部隊として組織しようと,連絡員や諜報員を送り込んだ。

ナチスは,パルチザンを掃討し,反ドイツ抵抗運動を鎮圧するために,住民に対して容赦ない措置をとった。また,占領下住民から物資を徴発し,強制労働を課した。「オスト」東方労働者として,ドイツ本国やポーランドの工場,強制収容所付属工場に強制連行された住民もあった。このような治安維持,強制動員が占領地住民の反ドイツ感情を高めた。ドイツ軍をスターリン支配からの解放者としてたたえる住民はいなくなった。

写真(右):1941年6-7月,バルバロッサ作戦でソ連南部でソ連男性2人を拘束したドイツ軍兵士:ドイツは,ユダヤ人,共産党員,ボリシェビキ,インテリ,将校などを占領地から排除したがった。そこで,敵性住民,潜在的な敵対者は拘束されたり,迫害されたりした。このような住民弾圧的な軍政は,反ボリシェビキだった住民も,反ドイツの側に立たせることになった。スラブ人もユダヤ人同様,下等劣等人種と見下した人種民族的な偏見は,テロ容疑者を捕らえという名目で正当化された。が,これがドイツ敗北の一つの要因となった。
Sowjetunion-Süd, "Unternehmen Barbarossa".- Deutsche Infanteristen beim Ausruhen in einer Ortschaft; Zwei gefangene / verhaftete Russen (?); PK 637 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Harschneck 撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年6月28日,リトアニア、カウナスでナチス親衛隊によって煽動されたリトアニア人によるユダヤ人公開処刑。
Lichtbildmappe Kowno. Zeugen: Gunsilius, Prof. Dr. Maurach, Oberst v. Bischoffshausen. Zu den nachstehenden Aufnahmen Auszug aus dem Bericht des SS-Brigadeführers Stahlecker (Stahleckerbericht) vom 15.10.1941 Doc. 180 L IMT XXXVII S. 670-703. Auslösung der Selbstreinigungs-aktionen. Auf Grund der Erwägung, dass die Bevölkerung der baltischen Länder während der Zeit ihrer Eingliederung in die UdSSR unter der Herrschaft des Bolschewismus und des Judentums aufs Schwerste gelitten hatte, war anzunehmen, dass sie nach der Befreiung von dieser Fremdherr-schaft die nach dem Rückzug der Roten Armee im Lande verbliebene Gegner in weitgehendem Masse selbst unschädlich machen würde. Aufgabe der Sicherheitspolizei musste es sein, die Selbstreinigungs-bestrebungen in Gang zu setzen und in die richtigen Bahnen zu lenken, um das gesteckte Säuberungsziel so schnell wie möglich zu erreichen. Nicht minder wesentlich war es, für die spätere Zeit die feststehende und beweisbare Tatsache zu schaffen, dass die befreite Bevölkerung aus sich selbst heraus zu den härtesten Massnahmen gegen den bolschewistischen und jüdischen Gegner gegriffen hat, ohne dass eine Anweisung deutscher Stellen erkennbar ist. In Litauen gelang dies zum ersten mal in Kauen durch den Einsatz der Partisanen. Es war überraschenderweise zunächst nicht einfach, dort ein Judenprogrom grössten Ausmasses in gang zu setzen. Dem Führer der oben bereits erwähnten Partisanengruppe, Klimatis, der hierbei in erster Linie herangezogen wurde, gelang es, auf Grund der ihm von dem in Kauen eingesetzen kleinen Vorkommando gegebenen Hinweise ein Progrom einzuleiten, ohne dass nach aussen irgend ein deutscher Auftrag oder eine deutsche Anregung erkennbar wurde. Im Verlauf des ersten Progroms in der Nacht vom 25. zum 26.6. wurden über 1500 Juden von den lit. Partisanen beseitigt, mehrere Synagogen angezündet oder anderweitig zerstört, und ein jüdisches Wohnviertel mit rund 60 Häusern niedergebrannt. In den folgenden Nächten wurden in derselben Weise 2300 Juden unschädlich gemacht. In anderen Teilen Litauens fanden nach dem in Kauen gegebenen Beispiel ähnliche Aktionen, wenn auch in kleinerem Umfange statt, die sich auch auf zurückgebliebene Kommunisten erstreckten. Durch Unterrichtung der Wehrmachtsstellen, bei denen für dieses Vorgehen durchweg Verständnis vorhanden war, liefen die Selbstreinigungsaktionen reibungslos ab. Dabei war es von vornherein selbstverständlich, dass nur die ersten Tage nach der Besatzung die Möglichkeit zur Durchführung von Progrom bot. Nach der Entwaffnung der Partisanen hörten die Selbstreinigungsaktionen zwangsläufig auf. Archive title:Litauen, Kaunas.- Öffentliche Ermordung (Erschlagung) von Juden durch litauische Nationalisten nach dem Einmarsch der deutschen Wehrmacht (Pogrom).- Leichen ermordeter Juden. Im Hintergrund Zuschauer (Einzel- und Massenverbrechen in Kowno, Wilna (Ponary) u.a.O. in Litauen durch Angehörige des Einsatzkommandos 3 bzw. des KdS Litauen und anderer Einheiten) Dating:28. Juni 1941 Photographer:o.Ang.
写真はB 162 Bild-04128,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ナチスは,ソ連の領土は,ドイツ人・ドイツ系民族(民族ドイツ人)の殖民する領土であると認識した。したがって,占領したソ連の肥沃な大地に,ユダヤ人を追放することは考えられない。英領植民地パレスチナ,フランス植民地マダガスカル島へのユダヤ人追放は計画されたことはある。しかし,戦時中,何万名ものユダヤ人を,遠隔地に追放することは不可能である。また,早期にドイツが勝利できない以上,戦後のユダヤ人追放を議論するのは無益である。収容したユダヤ人の処置が緊急問題となった。

写真(右)1941年7月,ラトビア、リエパーヤ要塞、ナチス親衛隊によるユダヤ人犠牲者の運搬。トラックでリバウからこの処刑場に運ばれてきたユダヤ人。:旧海軍将校のドキュメンタリーから。証人は、ドイツ軍のリバウ港湾司令官がユダヤ人の銃殺を阻止しようとしたができなかったため、終日、特別行動部隊(アインザッツ・コマンド)の行ったユダヤ人処刑の様子を撮影させた。ユダヤ人の犠牲者たちがトラックから降りようとしている。白腕章の男性は、ラトビア人のドイツ協力者、手前の軍装はSD(保安諜報部)。
Aus dem Dokumentarfilm des ehemaligen Marineoffiziers - des Zeugen Wiener - Tatzeit: Juli 1941 Tatort: Befestigungsanlagen in Libau Der Zeuge erhielt von seinem Vorgesetzten, dem Hafen-kommandanten von Libau den Auftrag, die tagelangen Judenerschiesssungen des Einsatzkommandos im Film festzuhalten, nachdem es dem Hafenkommandanten nicht gelungen war, die Erschiessungen zu verhindern. Abtransport der Opfer. Auf dem LKW lett. Bewacher (weisse Armbinde) beim LKW zwei SD-Angehörige Archive title:Lettland, Libau.- Erschießung von Juden. Standbild aus dem Dokumentarfilm von Reinhard Wiener über Judenerschießungen in Libau aus dem Besitz von Fritz Rapp.- Ankunft von Personen auf einem LKW Dating:Juli 1941 Photographer:Wiener, Reinhard
写真はB 162 Bild-04997,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年7月,ラトビア、リエパーヤ要塞、ナチス親衛隊によるユダヤ人処刑。巨大な壕の中に入って行くよう命じられ、そこで処刑されるユダヤ人の一群。:特別行動部隊(アインザッツ・コマンド)がユダヤ人を銃殺している。
Aus dem Dokumentarfilm des ehemaligen Marineoffiziers - des Zeugen Wiener - Tatzeit: Juli 1941 Tatort: Befestigungsanlagen in Libau Der Zeuge erhielt von seinem Vorgesetzten, dem Hafenkommandanten von Libau den Auftrag, die tagelangen Judenerschiesssungen des Einsatzkommandos im Film festzuhalten, nachdem es dem Hafenkommandanten nicht gelungen war, die Erschiessungen zu verhindern. Abtransport der Opfer. Auf dem LKW lett. Bewacher (weisse Armbinde) beim LKW zwei SD-Angehörige Archive title:Lettland, Libau.- Erschießung von Juden. Standbild aus dem Dokumentarfilm von Reinhard Wiener über Judenerschießungen in Libau aus dem Besitz von Fritz Rapp.- Ankunft von Personen auf einem LKW Dating:Juli 1941 Photographer:Wiener, Reinhard
写真はB 162 Bild-05008,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


Documentary of mass murder of the Jews from Liepaja:A German photographer, Reinhard Wiener, filmed the mass murder of Jews from Liepaja, Latvia, at a lighthouse south of Liepaja, in July 1941
1941年7月ラトビアでのユダヤ人大量処刑

写真(右)1944年5月,アウシュビッツ収容所に到着したハンガリー・ユダヤ人:A transport of Jews from Hungary arrives at Auschwitz-Birkenau. Poland, May 1944.:移送列車で収容所駅に到着したユダヤ人は,その場で,労働が可能かどうかで即座に2グループに選別された。労働不可能な子連れ婦女子・子供,老人などは,ガス室で処刑されることになる。
労働可能者は,過酷な条件の下,軍需工場での奴隷労働,収容所の作業班に充当され,生きることを許される。しかし,栄養失調や病気で労働不能になれば,処刑された。収容所に到着したユダヤ人たちは,生死の選別がなされているとは気づいていない。家族が一緒のバラックで暮らすことを希望していたので,子供を離さない婦女子が多かった。
親衛隊の収容所管理者・看守は,ユダヤ人が暴動を起こさないように十分に配慮したマニュアルを作成し,ユダヤ人絶滅を細心の注意をもって,冷静に実行した。
ユダヤ人虐殺は,反ユダヤ狂信者の異常行動ではない。普通のドイツ人でも,移送列車運行などユダヤ人虐殺システムの運営に参加した。写真は,ワシントンDCにあるUnited States Holocaust Memorial Museum引用。


4.アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所 Concentration Camp
 

アウシュビッツ=ビルケナウAuschwitz/Birkenau- Oswiecim-Brzezinka (絶滅収容所extermination camp - 51支所);設立時期は,アウシュビッツ収容所は1941年4月,ビルケナウ収容所は1941年10月,モノビッツMonowitz労働収容所は1942年5月設置。1943年11月,アウシュビッツは三分割され,アウシュビッツ第一収容所(基幹収容所),アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ),アウシュビッツ第三収容所(モノビッツ)と,管理上,3つの独立した収容所に分割された。それまで,アウシュビッツ収容所長だったルドルフ・ヘスは,収容所統監府の経済行政本部DI局長(1945/5/1付)に転出。

写真(右)アウシュビッツ収容所への入所:労働不能者として選別された婦女子は,手荷物を持って,収容所に入る。しかし,その居住区画は,ガス室に入れられるまでの一時的な控えの場所に過ぎなかった。Yad Vashem :The Auschwitz Album引用。

ガス室による大殺戮が行われたのは,アウシュビッツ第二ビルケナウ絶滅収容所で,初代所長はフルードリヒ・ハルテンシュタインSS上級大隊長だが,1944年5月から1944年12月1日まで,ヨーゼフ・クラーマー(1906-1946)SS突撃本隊長が所長を務めた。親衛隊長官ヒムラーは,1941年3月1日,IGファルベン首脳らとともに,アウシュビッツを視察,平時でも3万名の収容を可能にすること,IGファルベンの化学工場建設準備をヘス所長に命じた。1941年夏,ヘス所長は,ベルリンに呼び出され,ヒムラー長官からヨーロッパのユダヤ人の大量殺戮の命令を伝えられた。
 基幹収容所の焼却炉?Crematorium I(設計図)は1940年8月15日-1943年7月まで稼動し,1日340名の処理能力があったという。 ここに試験的なガス室が作られ,1941年秋,チクロンZyklon Bを用いて,ソ連軍捕虜の殺戮を行った。その後,労働不能者やポーランド人死刑囚もここで殺害された。ビルケナウ収容所に,新たなガス室,すなわち第一ブンカー(Bunker ?第二ブンカーが建設されると,ここは倉庫とされ,その後,親衛隊の防空壕に改造されたという。この時,焼却炉,煙突,壁の一部は撤去され,屋根にあったチクロンB投入口は塞がれた。(Crematoria and Gas Chambers引用)
 アウシュビッツの囚人数は,1941年3月1日1万900名,1942年12月1万8,000名,1943年3月3万名,1943年末には8万名へと増加。内訳は,1万8,437名が基幹収容所, 4万9,114名がビルケナウ,1万3,288名がモノビッツ(IGファルベン化学工場)にいた。1944年1月,ビルケナウの女子囚人は2万7,000名だった。1944年8月の囚人数は10万5,168名。
 アウシュビッツに収監された総計250万名のうち,40万5,000名に囚人番号が付与された。そのうち50%がユダヤ人で,残りはポーランドなど他国だった。その中での生存者は6万5,000名だった。アウシュビッツに収監されたる囚人のうち20万名が生き残ったと推計される。
  1942年1月-1942年3月に, 収容者17万5,000名がガス室で殺害された。 1942年8月に大型の新式ガス室建設計画が始まり,1943年3月末に一部が稼動可能になった。1943年4月- 1944年3月のビルケナウのガス室でチクロンBによる殺害は16万名。1944年3月-1944年11月には,他の収容所からも囚人に加えて,ハンガリー・ユダヤ人,ポーランドに残っていたゲットーからのユダヤ人を受け入れ,58万5,000名をガス室で殺戮したとされる。
 1945年1月27日ソ連軍により解放した時,女物衣類83万6,525点,男物衣類 34万8,820点,靴(クツ)4万3,525点が発見された。


3.ユダヤ人虐殺の理由
Die Endlösung der Judenfrage


1941年6月6日(ドイツの対ソ侵攻直前)、ドイツ軍最高軍司令部によるボルシェビキ指導者の政治委員(コミサール)射殺命令:1941年4月以来、親衛隊SS長官ハインリヒ・ヒムラーは,ヒトラー総統から、ドイツの敵を処置する特別の使命を委ねられていると公言し,ドイツのソ連侵攻が決定的となった時点で,コミサール抹殺命令が出た。

1941年6月22日、ドイツ軍は独ソ不可侵条約を無視して,ソ連に侵攻。4個大隊3千名の特別行動部隊(アインザッツグルッペンは,治安維持とユダヤ人・共産主義指導者抹殺の目的で, 1942年4月までにソ連の住民・捕虜50万名を虐殺。命令は口頭で、文書の場合は,ユダヤ人放逐など婉曲表現を使用。

ポーランド侵攻時に既に投入されていた特別行動部隊は,反ナチスとなりうる公務員,教師,医師,聖職者,ユダヤ人,地主,商店主など,文化・国家の維持に有益な人々を処置することを命じられていた。ポーランド戦に参加した五つの特別行動部隊のうち,第2特別行動部隊,第3特別行動部隊の指揮官は博士の学位を保持していたSS大隊長(中佐)だった。SS保安警察長官ハイドリヒは,1939年9月21,ユダヤ人のゲットーへの強制移送を指示した。

写真(右)1941年4月,マウトハウゼン強制収容所を視察するカルテン・ブルンナー,ハインリヒ・ヒムラー:マウトハウゼンは,オーストリア・リンツ郊外にある収容所で,1938年8月,アンシュルス(ドイツへのオーストリア併合)後,リンツ郊外20kmに設立。 "Vernichtung durch arbeit" (労働による絶滅)をモットーとした強制収容所。地下トンネルの支所として,Gusen (I, II and III), Melk,Ebenseeがあった。マウトハウゼンは,オーストリアの収容所だが,小規模なガス室があり,1942年春頃まで時々使用された。現在もシャワー室に似せた小型ガス室が公開されている。
 マウトハウゼン記念館Mauthausen-Memorial公式ページによれば,「---1945年5月5日の解放に至るまでの間、20万人のヨーロッパ各国及び世界中の囚人たちが非人間的な拘留条件やナチの拷問方法の下で苦しみました。半分以上の人がこの拘留で命を落としたのです。囚人たちは過酷な労働や、最低の衛生管理を原因とした伝染病で死亡し、あるいはナチの警備班に射殺されたり、マウトハウゼンのガス室やグーゼン隣接収容所、“安楽死施設”ハルトハイムなどで毒ガスによりその命を絶たれました」とある。マウトハウゼンには隣接した花崗岩の石切り場で囚人が働かされた。
Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Himmler, Kaltenbrunner und Ziereis in Mauthausen, April 1941 Dating: April 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月22日以降の独ソ戦では,反ボルシュビキのウクライナ人,エストニア人,ラトビア人,リトアニア人などから,補助警察を編成し,虐殺に協力させた。しかし、ソ連打倒が困難なことが判明した1942年10月末、ソ連人捕虜とユダヤ人をドイツの産業・農業生産工場のために,奴隷労働者として投入した。 ドイツ軍支配地域では,ドイツ軍に協力しなければ,生きて行くのは困難だった。 

1942年1月20日,ヴァンゼー会議Wannseekonferenzでは,ハイドリヒ長官が、親衛隊,警察指導者に、1941年10月末までに53万7千名のユダヤ人を国外移住させ、残るソ連・欧州の1100万名に及ぶユダヤ人問題の最終解決を全権委任されたことを伝えた。9月から,ドイツ支配下のユダヤ人は,黄色のダビデの星印の着用が命じられ、絶滅収容所の建設が開始された。

ソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・資源不足という状況の中で、労働力として利用できない敵性住民ユダヤ人は、絶滅されることが決定した。
⇒栗原優(1997)『ナチズムとユダヤ人絶滅政策−ホロコーストの起源と実態』ミネルヴァ書房参照

◆1941年冬のソ連の頑強な抵抗、対米宣戦布告による対ユダヤ人世界大戦の開始、ドイツ支配地における食料・物資不足の状況で、労働力として利用できない敵性住民ユダヤ人は、排除(銃殺,処刑)されることが決定した。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

武装親衛隊オランダ人義勇旅団「ネーデルラント」募兵ポスター(右)「ネーデルランド:ソ連ボルシュビキ(共産主義者)と戦うために,武装親衛隊に参加しよう。」The European Volunteer Movement in World War II:Richard Landwehr引用:ドイツでは,ヒトラー政権樹立直後,突撃隊から親衛隊(Schutzstaffel:SS)に権力が移った。戦時中、親衛隊は,占領地の治安維持、ゲリラ・パルチザン・レジスタンスの捜索・処刑,ユダヤ人など敵性住民の収監・迫害を行い,収容所看守(警備兵)の任務を担った。そのために,連合軍は,SSを犯罪者集団に指定した。
 ドイツ陸軍とは独立した軍隊としてナチ党のSS武装親衛隊(Waffen-SS)が拡充された。ここには、ドイツ人以外に、ヨーロッパの人的資源を利用するために,フランス人武装親衛隊のほか,オランダ人,ベルギー人,ノルウェー人,エストニア人,ラトビア人,ウクライナ人,クロアチア人,モスレム人の武装親衛隊も編成された。

1941年5月にオランダがドイツに占領されると,オランダの親ナチス勢力も加わって,ユダヤ人迫害が始まった。親独のオランダ指導者アントン・ミュッセルトAnton Adriaan Mussertは,ヒトラー総統と会談し,国家社会主義運動NSB(Nationaal-Socialistische Beweging)を起こした。

大戦が始まると,親衛隊は、1940年9月,オランダ人からなる武装親衛隊義勇旅団Volunteer Legion「ネーデルラント」Niederlandeを編成した。ナチスSSによる志願兵応募に対して,オランダ人2,600名が志願,ドイツSS武装親衛隊の下で,レニングラード方面でソ連軍と戦った。

オランダのナチスNSBは,ラントヴァハト・ニーデルランデLandwacht Niederlande、すなわち祖国オランダ防衛部隊)の編成をナチスに認められ,治安補助部隊として、オランダ警察(グリューネ・ポリツァイ)とともに,ユダヤ人,反政治活動家などの捜索,逮捕に当たらせた。

写真(右)1941年12月11日,ドイツ、ベルリン、クロルオペラの臨時国会議事堂、対明宣戦布告をするヒトラー総統、と国会議長・空軍総司令官ヘルマン・ベーリング国家元帥 :右から、外務大臣リンベントロップ(v. Ribbentrop),海軍総司令官レーダー(Raeder)元帥, 陸軍総司令官ブラウヒッチ(v. Brauchitsch)元帥,国防軍司令部総長カイテル(Keitel)元帥,内務大臣フリック(Frick)博士、国民啓蒙宣伝大臣ゲッペルス(Goebbels)博士、二段目右より、財務大臣グロジーク(Graf Schwerin-Krosigk),フンク(Funk),食糧農業大臣リヒャルト・ダレ(Dareé),文部科学大臣ベルンハルト・ルスト(Bernhard Rust), カール(Kerrl),ポーランド総督フランク(Frank)博士、運輸大臣ユリウス・ドルプミュラー(Dorpmüller)博士、オランダ国家執行官ザイス・インクヴァルト(Seyss-Inquart)、兵器弾薬大臣フリッツ・トート(Fritz Todt)博士。
Berlin, Reichstagssitzung, Rede Adolf Hitler Die welthistorische Sitzung des Grossdeutschen Reichstags am 11.Dezember 1941. Während der Rede des Führers. Auf den Regierungsbänken von rechts nach links. Reichsaussenminister v. Ribbentrop, Grossadmiral Raeder, Generalfeldmarschall v. Brauchitsch, Generalfeldmarschall Keitel, die Reichsminister Dr. Frick und Dr. Goebbels. Zweite Reihe: die Reichsminister Graf Schwerin-Krosigk, Funk, Dareé, Rust, Kerrl, Dr. Frank, Dr. Dorpmüller, Dr. Seyss-Inquart und Dr. Todt. [Berlin, Kroll-Oper.- Adolf Hitler vor dem Reichstag.- Rede zur Kriegserkälrung an die Vereinigten Staaten von Amerika] Ostpreußen, Fhrerhauptquartier Wolfschanze.- Adolf Hitler im Gespräch mit Robert Ley, Ferdinand Porsche und Hermann Göring , Depicted place Wolfschanze Date 1942
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 101III-Reprich-012-08, Wolfschanze, Hitler, Ley, Porsche und Göring.jpg引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年12月11日,ベルリン,クロル・オペラのドイツ国会でアメリカ合衆国に宣戦布告の演説をするドイツ帝国アドルフ・ヒトラー総統:後方には,国会議長ヘルマン・ゲーリング。国会は審議機能を停止し,ヒトラーの施政方針演説の場に過ぎなくなっていた。ポーランドとの戦争,ソビエト連邦との戦争を始めたとき,宣戦布告などしなかったヒトラーだが,世界戦争を自ら開始し,ドイツ第三帝国を千年安泰にするための戦争,すなわち世界のユダヤ人=国際金融資本家=共産主義者(ボリシェビキ),に対する戦争は,最終戦争であり,自ら戦線を布告した。これは,ヒトラーの歪んだ世界観,人種民族差別が生んだ妄想だった。
Rumänien, Konstanza (Constanta).- Schiff im Hafen-Dock Dating: 1941 ca. Photographer: Grund, Horst Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


動画:国会議長ゲーリングとヒトラー対米宣戦布告:GERMANY´S DECLARATION OF WAR ON THE USA 11 DEC 1941

1941年12月11日、クロル・オペラ臨時国会議事堂において、プロイセン州首相ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)国会議長の司会で、ヒトラー総統は、ユダヤ人に操られているルーズベルト大統領がドイツ民族を滅ぼそうと戦争を挑発しているが、もはや我慢ならないとして、アメリカに宣戦布告した。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。

これに対して、アメリカの連邦議会ではルーズベルト大統領の対独宣戦布告を求める演説が行われたが、対日参戦のFDR演説とは異なり、対独参戦FDR演説の動画は公開されていない。

1941年12月13日のナチス国民啓蒙宣伝省大臣ゲッペルス(Joseph Goebbels)の日記「総統Führerは、ユダヤ人問題を解決する決断を下した。彼は、ユダヤ人がもう一度世界大戦を引き起こしたら、絶滅されることになるだろうと(1939年に)と予言した。これは、空文ではない。まさしく世界戦争である(Der Weltkrieg ist da)。ユダヤ人絶滅は、当然の結果ということになる。」 (12/12のヒトラー総統によるナチス党幹部への演説をもとにした記録)

1941年12月18日,総統大本営(Wolfsschanze) でヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の口頭命令を受けた親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日-1945年5月23日)は,国内外世論,処刑者の精神的苦痛,ユダヤ人の反抗・ゲリラ活動防止,治安維持に配慮して,密かに強制収容所を「絶滅」システムに組み込んだ。

 
写真(上)1942年7月17-18日,アウシュビッツAuschwitz強制収容所を視察する親衛隊SS国家長官ハインヒ・ヒムラーとIGファルベン首脳陣:これは2回目の視察で,このときには,ガス室における囚人ガス殺をも実際に視察し,ヒムラー長官自身,気分が悪くなってしまった。親衛隊髑髏部隊の任務の困難さを理解していた長官は,親衛隊に品格を保ち,恣意的な虐殺や殺害を楽しむサディステックな振る舞いを嫌悪していた。ユダヤ人の財産を国庫に没収するのは当然だとしたが,ユダヤ人から持ちもをを略奪する親衛隊員は厳罰に処すと明言していた。しかし,小市民的な発想は,ユダヤ人虐殺自体への疑念を生じさせなかった。親衛隊SSのカール・ヘッカー(Karl Höcker:1911-2000)のアルバム(Auschwitz through the lens of the SS: Photos of Nazi leadership at the camp)引用。第一収容所とアウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ絶滅収容所)の間に,鉄道幹線があり,そこから引込み線が,収容所入り口に延びていた。ユダヤ人絶滅における鉄道輸送と鉄道職員の役割は,大きい。ドイツ鉄道は,強制移送するユダヤ人からも料金を徴収。United States Holocaust Memorial Museum. "The Holocaust." Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館)引用。

 1942年7月17-18日,ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を徹底的に視察し,拡張計画を検討した後,農場,家畜育種場,植物園を見た。そして,ビルケナウでは,ロシア人収容所,ジプシー支所,ユダヤ人支所を見た。看視塔から,収容所区画,建設中の給排水施設を説明させた。作業中の抑留者,宿舎,厨房,病棟も視察した。ヘス所長は,拡張計画の困難さを説明したが,ヒムラー長官は,任務遂行を命じ,「どうすべきか心を砕くのは,君であり,私じゃない」と責任を押し付けた。 

 ビルケナウ視察では,到着したユダヤ人移送者の一部虐殺の過程と選別作業とを見た。その後,ブナを視察した。大管区指導者やIGファルベン首脳は,抑留者の配給切詰めを伝えた。そして晩餐会後,ヒムラー長官は,ヘス所長夫妻とともに,大管区指導者に招待され,社交の集まりを持った。

 ヒムラ−長官は,翌7月18日,アウシュビッツの基幹収容所,厨房,女子収容所,工房,厩屋,荷物倉庫「カナダ」,選別所,屠殺場,製パン所,建設部も見た。収容者の宿舎,衣食住の実地検分し,詳細な報告をさせた。

 ヒムラー長官は,視察終了後,ヘス所長の執務室で「私はこれで,アウシュビッツを隈なく視察した。欠陥も困難もこの目で見たし,君から聞いた。しかし,それについて,私は何一つ変えることはできない。今は戦時であり,戦時にふさわしい考え方をすることを学ばなくてはならない。アイヒマンのプログラムは推進され,毎月上昇してゆくだろう。ジプシー殲滅を進め,働けないユダヤ人も容赦なく抹殺されなければならない。近くの軍需工場附属の労働収容所が,働けるユダヤ人を大量に引き受けるであろう。アウシュビッツでも,所内の軍需工場が建設されなければならない。----君を,上級大隊長に進級させよう。」ヒムラー長官は,飛行機でベルリンに帰った。(ルドルフ・ヘス『アウシュビッツ収容所』425-440頁引用)

 <ユダヤ人虐殺の理由>
1.中世以来,非キリスト教徒として,市民権を持っていないユダヤ人が多く,土地所有権・貸借権もなかった。そこで,ユダヤ農民は少なく,都市の商業・教育・医療・金融などに就業せざるをえなかった。参政権もなく,基本的人権が制限されている人種民族は,困難な状況を克服しようとする。これが「マージナルマンの論理」である。(アメリカ大陸で日系人が成功したのも,ユダヤ人と同じく,困難な状況を乗り越える努力の結果だった。)ヒトラーは,特定少数派の人種民族の成功を卑怯な行為であるとして,人種民族的差別に利用した。

2.不況や敗戦などの国家的困難は,政治的,軍事的指導者の責任・無能さ・失敗になる場合も多い。事業の失敗は,事業者の自己責任でもある。しかし,中には,失敗の責任を,他の人種民族に転嫁する者がいる。ヒトラーは,第一次大戦の敗北をユダヤ人の陰謀のせいにした。これは,弱い(人権が制限されている)人種民族を選んで,責任を転嫁する「スケープ・ゴート(生贄のヤギ)の論理」である。

3.第一次大戦で,第一級鉄十字賞を授与されたヒトラー上等兵は,前線のドイツ軍兵士が勇戦していたにもかかわらず,後方のユダヤ人政治家や共産主義者が反乱・革命を起こして,ドイツを敗戦に陥れたと考えた。ヒトラーは,ドイツ敗北のトラウマから逃れるために,ユダヤ人・共産主義者による「背後からの匕首(アイクチ)の一突き」という陰謀説を信じた。

4.ヒトラーは,自分が属すると思い込んだヨーロッパ・アーリア人を至高の人種民族族と妄想し,人種汚染を引き起こすユダヤ人や知的障害者は,迫害した。ドイツ人,アーリア人の覇道を,下等な人種民族が妨害するのであれば,障害となる人種民族を排除し,絶滅するしかないという極論に行き着いた。これが「アーリア人優位説」の裏返しとなる「下等人種民族(ウンターメンシュ)排除説」である。

5.ヒトラーは,ユダヤ人は,?優秀なドイツ民族を人種汚染し,?共産主義を広めて革命の混乱に落としいれ,?ソ連・アメリカ・イギリスを操って,反ドイツの戦争を起こそうとしていると考えた。その目的は,ユダヤ人による世界支配である。共産主義者としてソ連を動かし,金融資本家・メディア経営者として民主主義=衆愚政治の米英を操っているユダヤ人は,ドイツを人種汚染し,破壊する永遠の敵である。東方のソ連・ロシアも,ドイツの生存圏とする予定であり,そこにユダヤ人を受け入れる余地はない。ユダヤ人は,ヨーロッパからは排除しなくてならない。知的障害者の安楽死(T4)計画も,劣等遺伝子による人種汚染からドイツ人を守るための措置だった。ヒトラーは,ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書は残っていないが,1939年の開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,ユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。

6.ユダヤ人の共産主義者・金融資本家・マスメディアが,ドイツに戦争を仕掛けてくるのであれば,第一次大戦のように「背後の裏切り」によってドイツが敗北しないように,ヨーロッパのユダヤ人を抹殺するべきである,というのがヒトラーの本心だった。当初は,パレスチナやマダガスカル島にユダヤ人を追放する計画もあった。しかし,独ソ戦の戦局悪化,日米戦争の勃発で,アメリカ・ユダヤ人がドイツ人に戦争を仕掛けてくるのは必定である。アメリカ・ユダヤ人に(対米)宣戦布告をし,対ユダヤ殲滅戦を戦うことが,ヒトラーの自覚した神の摂理だった。ヒトラーは,三国軍事同盟には参戦義務がないにもかかわらず,国会で対米宣戦布告をし,ユダヤ人殲滅戦を宣言した。対ポーランド戦,対ソ戦の宣戦布告はしていない。しかし,ユダヤ人殲滅の世界戦争は,ヒトラーに課せられた宿命として,自ら宣戦布告した。

7.現実主義者のヒトラーは,ユダヤ人絶滅の崇高な使命を,善良なキリスト教徒のドイツ人が理解できるとは思わなかった。また,ユダヤ人絶滅が実行されているとソ連・米英が察知すれば,各国は全力を上げて,ドイツに抵抗するに違いない。したがって,ユダヤ人絶滅を公言はしても,実際に絶滅を開始したことは,一切秘密にした。ドイツのキリスト教徒の団結を維持し,敵連合国・ユダヤ人の必死の反撃を受けないように,ユダヤ人絶滅は,秘匿されなければならなかった。ユダヤ人絶滅は,(ドイツ国防軍ではなく)キリスト教に縛られない忠誠無比な親衛隊SSに口頭命令された。

8.ユダヤ人絶滅は,人種汚染を防ぎ,優秀なドイツ人の血を維持する目的があるが,労働力としてユダヤ人を活用することも,総力戦では重要だった。親衛隊・ナチスの幹部,軍需産業を担うビジネスマンは,安上がりな労働力を必要としていた。そこで,ドイツ支配下のフランス・オランダあるいは東方のソ連・ポーランドなどから,労働者を徴用・強制連行した。連合軍捕虜を使い,ソ連軍捕虜を酷使した。ユダヤ人を奴隷労働に従事させた。強制収容所の多くには,支所として,労働収容所が付属しており,奴隷労働者は,病死・過労死・虐待死するまで働かされた。労働収容所にガス室はなかったが,ユダヤ人奴隷労働者は,死ぬことが予定されていた。(人質交換や和平交渉のための釈放はあった。)つまり,ユダヤ囚人による奴隷労働も,究極目的は,軍需生産への労働力供給よりもユダヤ人絶滅を優先したものだった。

9.女子供まで殺害するユダヤ人虐殺は,治安維持の任務を超えており,名誉あるドイツ国防軍の任務ではない,あるいはキリスト教徒として信義を守るべきであるとの反論や反抗が,ドイツ国防軍の将官,兵士の中に起こった。1939年ポーランド侵攻前夜,ポーランド指導者根絶をヒトラー総統から聞かされたフォン・ボック上級大将は「本件に関して,同意を与える立場になく,絶滅計画遂行に煩わされる立場にない。遂行の責任は親衛隊SSにある」と回想した。1942年9月5日,陸軍参謀総長カイテル将軍がユダヤ人労働者を全てポーランド人労働者に転換するとの命令を出した。このとき,ポーランド総督領軍司令官クルト・フォン・ギーナント大将は,ユダヤ人排除はドイツの戦力を大幅に低下させるとして,工場労働に従事するユダヤ人の排除猶予を要請した。10月2日,ヒムラー長官は,「内心はユダヤ人と自分の事業を守りたいがために,軍需産業への影響を引き合す連中には断固たる態度で臨む」と述べ,カイテル参謀総長はギーナント大将を即時罷免した。それ以後,ドイツ国防軍は,ユダヤ人絶滅に異を唱えなかった。(ただし,1944年7月20日,ヒトラー暗殺未遂事件が起きた。)ドイツ国防軍,警察,官僚,政治家など有力なドイツ人によるユダヤ人虐殺反対運動は弱かった。ユダヤ人大量殺戮は,国家の命ずる崇高な任務となり,品位をもって遂行されるべきものとなってしまった。

10.1943年2月末,ベルリンでユダヤ人配偶者(工場労働に徴用)1500名が逮捕されたとき,ドイツ婦人や親類数百名が,夫の収監されたローゼン通りで静かに抗議した。スターリングラード敗北,ベルリン空襲の状況で,首都のドイツ人への弾圧は,士気を乱す。ヒトラーにも,婦人たちを武力排除できなかった。1943年3月6日のゲッベルス宣伝省の日記に「このような危機的状況で,ユダヤ人移送を強行することはできない。私は,その旨指示した。」とある。混血結婚したユダヤ人は釈放されたのである。ヒトラーは「背後からの匕首の一突き」を信じていたから,ドイツの世論が反ナチス,ユダヤ人迫害反対に変化することを恐れた。1942年に,知的障害者安楽死(T4)を中断したのも,子供を殺された親類・宗教関係者の発言・世論を恐れたためだった。ドイツ一般市民が従順で,世論の反対がない場合,ユダヤ人大量殺戮は着実に遂行された。



5.絶滅収容所の虐待、処刑、病死、ガス室


写真(上)アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所のクレマトリウム?(ガス室・焼却炉)
:The gas chamber and crematorium II - the furnaces. SS photograph, 1943. 1943/3-1944/11まで稼動し,数十万人のユダヤ人が,ガス室で殺害され,焼却された。24時間で1440名を処理できたという。At the end of the war, in connection with the operation intended to remove the evidence of their crimes, the camp authorities ordered the demolition of the furnaces and crematorium building in November 1944. On January 20, 1945, the SS blew up whatever had not been removed. Auschwitz-Birkenau State Museum, Polandポーランド国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館 )引用。

<ガス室Gas Chamberについの誤解と真相> 

1.ユダヤ人などをガス室で虐殺したのは,少数のポーランドにあった「絶滅」収容所で,それも1941年以降である。大半の強制収容所は,移送までの一時的収容,奴隷労働,捕虜・敵性住民の収監・更正・永続的拘束を目的とした施設だった。ただし,ドイツ人知的障害者安楽死(T4計画)のための一酸化炭素を利用したガス殺はドイツのコブレンツ近郊ハダマルHadamar病院,オーストリア・リンツ近郊ハルテンハイムHartheim研究所で行われ,7万名がガス殺,2万名が餓死したと推測される。

2.各地の強制収容所では,食料・衣類など物資の絶対的不足,病気蔓延,過酷な奴隷労働,栄養失調などで多数の囚人が死亡,殺害され,拷問や処刑も行われた。つまり,強制収容所では,ガス室に拠らない虐殺もあった。この意味で,強制収容所は,ユダヤ人などの絶滅施設であった,というのは誤りではない。銃殺,ゲットーへの収容・奴隷労働によって,ユダヤ人を絶滅することは不可能だったため,効率的な大量殺戮の方法としてガス殺が採用された。

3.ガス殺は,1939-1941年当時,ドイツ・オーストリア国内で,知的障害者安楽死(T4計画)では一酸化炭素が利用され,ソ連軍捕虜の処刑に移動式排気ガス室を用いたこともある。1941年,ドイツ占領下ポーランド・ボーゼン西方ヘルムノ強制収容所に,試作的なガス室が作られた。1941年9月,アウシュビッツ収容所にもガス室が設けられ,ソ連軍捕虜が,試験的にチクロンBによってガス殺された。1942年3月ベルゼク,4月ゾビブル,7月トレブリンカと排気ガス・一酸化炭素を利用したガス室が作られた。1942年7月19日,ヒムラーは,「ポーランド総督領の全ユダヤ人の移送を1942年12月末までに完了すべし」とゲットー在住ユダヤ人の絶滅を指令。その後,ビルケナ強制収容所に,「消毒室・洗面所」に見せかけたガス室が増設,1943年3月-6月,換気装置つき大型ガス室・焼却炉群が完成,チクロンBによる大量殺戮が本格化した。

4.1941年6月の独ソ戦では,ドイツ占領地の治安維持にあたった特別機動部隊(アインザッツグルッペ)は,共産党政治委員(コミサール),パルチザン,教員・行政官など知識人(インテリゲンツァ),敵性住民を銃殺や絞首刑にした。しかし,流血の処刑は,処刑者に精神的負担となった。処刑が知れ渡ると,ユダヤ人捕獲が困難になり,ゲリラ活動も活発化した。そこで,処刑者に負担をかけず,治安を悪化させずに,大量殺戮可能な「絶滅システム」が考えられた。これは,?反ユダヤ人プロパガンダ,?ユダヤ人密告報酬,?列車移送,?移送者の財産収奪と有効利用,?奴隷労働,?ガス殺・疲労死・病死,?死体焼却の流れが,効率的に組織された。ガス室は,処刑者の心理的負担の軽減,大量殺戮効率化のための重要な要素で,反人間性の象徴となった。(ただし,アウシュビッツ収容所長アドルフ・へスなどは,残虐な方法ではなく,ガスで安楽死させていると考えた。)

5.ユダヤ人を収監した施設は,「強制収容所」と呼称し,「絶滅収容所」とは言わない場合が多い。ガス室Gas Chamberでの大量殺戮を実行した絶滅収容所は,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカ,ゾビブル,マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置された。アウシュビッツ強制収容所だけでも,1940-1945年に百万十万から百五十万名が,ガス殺,栄養失調,病気放置,拷問,奴隷労働などによって,虐殺されたと考えられる。オーストリアのマウトハウゼン収容所にあるシャワー室に似せたガス室では,3500名が殺戮されたと推測される。ミュンヘン郊外ダッハウ収容所にも,1943年以降,ガス室・焼却炉が建設されたが,使用されていないようだ。

6.1943年秋に14万人を収容したアウシュビッツ強制収容所は,1943年11月,三分割され,アウシュビッツ第一収容所(基幹収容所),アウシュビッツ第二収容所(ビルケナウ),アウシュビッツ第三収容所(モノビッツ)となった。しかし,一つの収容所群としてアウシュビッツと呼ぶ場合も多い。ガス室での大殺戮は,アウシュビッツ第二(ビルケナウ絶滅収容所(1944/5-1944/12/1所長ヨーゼフ・クラーマー)で行われた。このガス室は,親衛隊撤退時に破壊,現在は残骸が残っている。アウシュビッツ基幹(第一)収容所のガス室は,他の防空壕に転用後,1944年末に破壊された。現在の第一収容所「ガス室」は復元であり,そこで大殺戮があったわけではない。収容所の変遷を知らない者は「アウシュビッツのガス室は捏造,大量殺戮はなかった」と誤解しやすい。

  7.ドイツ本国の強制収容所ではユダヤ人ガス大量殺戮はなかったが、これはドイツを,現ドイツ共和国の領土に限定した議論である。地域限定性を無視すると,ドイツの強制収容所にガス室はなかった,大量殺戮はなかったと誤解する。ドイツ占領下ポーランドに,ガス室付の絶滅収容所があった。ただし,戦後の処罰回避,和平交渉の人質として,ヒムラーは1944年10月にはガス大量殺戮を中止している。だから,アンネとマルゴは,アウシュビッツでは殺されなかった。オットーは生き残った。

写真(上)1944年,ポーランドのアウシュビッツ第二強制収容所(ビルケナウ絶滅収容所)の第三ガス室・焼却炉とその設計図。1943年6月-1944年11月まで稼動。24時間で1440名の死体を処理できたという。ドイツの敗北が決定的になった1944年10月末,戦犯裁判を恐れた親衛隊長官ヒムラーは,ガス室による大量殺戮を中止し,1945年1月20日,ガス室を破壊した。写真は,Auschwitz-Birkenau State Museum, Poland. (ポーランド国立アウシュビッツ・ビルケナウ博物館)引用。

◆アウシュビッツ収容所は,占領したポーランド軍兵舎を利用し,1940年に建設が始まった。4月,アウシュビッツ収容所長となるルドルフ・ヘス(副総統とは別人)が到着,囚人を使役して,第一期工事として収容所を完成させた。ガス室はなく,銃殺,懲罰房での殺戮が行われた。1940年7月,毎日70体の死体を処理できる焼却炉が設置された。
1941年3月,親衛隊国家長官ヒムラーがアウシュビッツを視察に訪れ,収容規模を1万名から3万名に増加させるように収容所の拡張を指示した。

1941年10月に,アウシュビッツの拡張工事が始まり,12月までに,ソ連軍捕虜1万名がアウシュビッツに送り込まれた。その間,1941年9月,アウシュビッツ収容所では,試験的にチクロンBを使って,ソ連軍捕虜600名,病人300名をガス殺した。

1941年9月,チェコ保護領総督(代行)に栄転したラインハルト・ハイドリヒは,労働者の権利擁護と潜在的敵対者の排除という分断統治をし,成果を上げた。そこで,英軍は,チェコ市民がドイツ占領を許容するのを阻止するため,チェコ人暗殺特殊部隊(コマンドー)を空輸し,1942年5月27日、プラハでハイドリヒの類人猿暗殺Operation Anthropoidに成功した。ドイツ軍は,暗殺者たちを内通を得て発見し,教会の地下に追い詰めた。特殊部隊隊員たちは最後を悟り,自決した。

英軍は,ハイドリヒを暗殺すれば,ドイツがチェコを弾圧し,チェコ人とドイツ人とを離反させることができると謀略を行った。1941年6月10日,ドイツ軍は,暗殺特殊部隊(コマンド)を匿った容疑でリディツェ村を徹底的に破壊し,成人男子を虐殺,残りは強制収容所に収監した。これは,恐怖による支配を容易にするために公表された。

暗殺や諜報に優れた英軍コマンド,MI6は,ハイドリヒ暗殺よりも,それがドイツによるチェコ人弾圧・迫害を呼び起こし,チェコの治安が悪化することを狙った。ドイツ占領地で,チェコ住民がドイツと共生するのを妨害するために,ドイツとチェコとの離反を画策した。

1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,1941年12年11日、ヒトラーは次の国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説をしている。
We know the power behind Roosevelt. It is the same eternal Jew that believes that his hour has come to impose the same fate on us that we have all seen and experienced with horror in Soviet Russia. We have gotten to know first hand the Jewish paradise on earth. Millions of German soldiers have personally seen the land where this international Jewry has destroyed and annihilated people and property. Perhaps the President of the United States does not understand this. If so, that only speaks for his intellectual narrow-mindedness.

日独伊三国軍事同盟では,第三国から攻撃を受けた場合,共同防衛することを定めている。したがって,日本軍の攻撃で開始された太平洋戦争に,ドイツは参戦する義務はなかった。しかし,ヒトラーは,アメリカのユダヤ人の陰謀によって第二次世界大戦が開始された以上,ドイツも米国との戦争に巻き込まれるのは運命であり,世界のユダヤ人を敵として戦うべきであると果断した。
ドイツ軍は,1941年6月22日の独ソ開戦以降,ソ連赤軍に大打撃を与えたが,優秀なドイツ兵士16万名が犠牲になっている。ヒトラーは,この犠牲の責任を,ユダヤ人にとらせるつもりだった。ドイツの対米宣戦布告によって,アメリカのユダヤ人に配慮して,欧州ユダヤ人の最終解決を遅らせる必要はなくなった。ユダヤ人や敵性住民を収監する強制収容所で,最終解決の名の下に,ユダヤ人絶滅を実行すべきときがきた。

これに対して、ルーズベルト大統領の対独宣戦布告を求める演説が米議会に対して、すぐに行われた。

1941年12月13日,ナチス宣伝省ゲッペルスJoseph Goebbelsの日記「総統Führerは、ユダヤ人問題を解決する決断を下した。彼は、ユダヤ人がもう一度世界大戦を引き起こしたら、絶滅されることになるだろうと(1939年に)と予言した。これは、空文ではない。まさしく世界戦争である(Der Weltkrieg ist da)。ユダヤ人絶滅は、当然の結果ということになる。」
With respect of the Jewish Question, the Führer has decided to make a clean sweep. He prophesied to the Jews that if they again brought about a world war, they would live to see their annihilation in it. That wasn't just a catch-word. The world war is here, and the annihilation of the Jews must be the necessary consequence. (12/12のヒトラー総統によるナチス党幹部への演説をもとにした記録)

1941年12月16日,ポーランドのクラカウ総督だったナチス党幹部ハンス・フランク Hans Frankも,ヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の命令に言及した。東方占領省ローゼンブルクRosenbergも確認している。

1941年12月18日に大本営(Wolfsschanze) でヒトラー総統によるユダヤ人絶滅の口頭命令を受けて、親衛隊SS国家長官ハインリヒ・ヒムラー(Heinrich Luitpold Himmler, 1900年10月7日-1945年5月23日)は,国内外世論,処刑者の精神的苦痛,ユダヤ人の反抗・ゲリラ活動防止,治安維持に配慮して,密かに強制収容所を「絶滅」システムに組み込んだ。 

1941年12月18日頃のヒムラー長官のメモ
Judenfrage / als Partisanen auszurotten
英語翻訳:Jewish Question / to be exterminated like the partisans


絶滅収容所には,大規模なガス室・焼却炉があった。しかし,ガス室を備えていない一般の強制収容所でも,栄養失調,病気,あるいは虐待によって多数の死者が出た。虐殺は,ガス室だけで行われたわけではない。

アウシュビッツ収容所長ルドルフ・ヘスRudolf Höss(1900-1947)によれば,1942年春,ユダヤ人のガス殺が開始された。ヘスは,部下がなぜ虐殺をするのかと疑問を持ったとき,「この同じ疑問を持った身でありながら,総統命令であることを理由に,彼らを説き伏せた。ユダヤ人虐殺は,ドイツを,われわれの子孫を,手ごわい敵から永遠に解放するために必要な措置であると,彼らに言わねばならなかった。」( ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』講談社学術文庫,307頁 引用)

1942年6月末,消毒室の第1ブンカー,洗面所の第2ブンカーが整備された。消毒室・洗面所に見せかけたのは,殺害するユダヤ人たちが,騒ぎ反抗するのを防ぐためである。誘導には,同じユダヤ人特別作業班「ゾンダーコマンド」を使ったが,これも殺害するユダヤ人を言葉,生き証人の上で安心させるためである。ゾンダーコマンドのユダヤ人は,殺されるユダヤ人を苦しませたくなかった。また,ユダヤ人が暴れたり,到着するユダヤ人がいなくなれば,自分たちゾンダーコマンドが殺害される。彼ら作業班は,看守に協力せざるを得なかった。

1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。ヒムラーは,覗き穴から中を見ているうちに気分が悪くなり,ガス室の裏で嘔吐したとの,ユダヤ人ゾンダーコマンドの証言がある。ビルケナウ絶滅収容所も,1942年秋以降,ガス室が稼動する。ただし,このガス室には換気扇がなく,扉を開放して,換気した。しかし,ガス室の室温が低くなる冬季には,チクロンBが気化できなくなるという問題が生じた。



1941年12月,ヘウムノ絶滅収容所で,排気ガスを使った殺戮が始まり,1943年6月,ビルケナウ絶滅収容所のチクロンB(殺虫剤が起源)を使用したガス室と焼却炉が本格的に稼動を開始した。移送列車で到着した囚人群は,労働可能な者とそうでない者の2グループに選別された,労働不能者はガス室で処刑された。労働可能な収容者の一部は,モノヴィッツMonowitz収容所「ブナ」と呼ばれた軍需工場で,奴隷労働に従事した。

ポーランドでは,1940年秋までに,ルブリン,ワルシャワなど次々にゲットーが作られ,狭い空間にユダヤ人を押し込んだ。そして,ユダヤ人の持つ資産を闇市や強奪によって吸い上げるとともに,ユダヤ人の自治を認めて,ユダヤ人を分割統治した。ユダヤ人評議会が,ゲットーの行政を担い,ユダヤ人警察がゲットーの治安を維持した。

親衛隊SSは,ユダヤ人評議会,ユダヤ人警察を支配していたから,かれらに,ゲットーからトレブリンカなど(絶滅)収容所に移送する住民の人数を指定した。ユダヤ評議会が登録名簿から,移送者名簿を作成,ユダヤ人警察が移送者を集めた。しかし,1943年になると,ゲットーを一掃する,すなわちユダヤ人全員をトレブリンカなど(絶滅)収容所に移送する命令がでる。

1943年4月9日,ワルシャワ・ゲットーに,親衛隊将官ユーゲン・シュトロープ率いる武装親衛隊など1万3000名が侵攻。蜂起したユダヤ人は,乏しい武器で地下道を使って抵抗したが,5月には,蜂起は鎮圧された。
逮捕者5万6065名のうち,7千名が射殺,2万2000名がトレブリンカとルブリン(マイダネク)絶滅収容所に送られ,残りは強制収容所に移送された。ドイツ側の死者は16名,負傷者85名。

1943年5月16日,シュトロープ将軍は「ワルシャワ・ゲットーはもはや存在しない」と報告,写真53枚を添えた戦果報告書を提出した。各地のゲットーは閉鎖され,住んでいたユダヤ人は強制収容所に移送された。

  <収容所の日常>
ブナの収容所(ラーゲル)は一辺600mで,鉄条網で二重に囲まれており,1万2000名の囚人がいた。内側の鉄条網には高圧電流が流れていた。木造バラックは60棟あり,「ブロック」と呼ばれ,レンガ工房,上位の囚人の管理する実験農場,6-8棟ごとに配置されるシャワーと便所のバラックがある。加えて,診療所と病棟,放送患者用の第24ブロック,特権的囚人(プロミネンツ)用の第7ブロック,ドイツ人政治犯・刑事犯用の第47ブロック,囚人監督カポ用の第49ブロックがあった。第12ブロックは,半分がドイツ囚人とカポ用,半分が酒保(タバコなどの配給所)である。第37ブロックは,補給事務所・労働事務所である。第29ブロックは,ポーランド女囚のいる売春小屋で,ドイツ囚人専用だった。

居住ブロックは,一棟200-250名で,二部屋ある。一方には,棟長とその取り巻きが住んでおり,イス・ベンチがあり,写真,装飾もある。他方は,寝室で,三段作りの木製簡易寝台148個がある。天井までいっぱいに,一寝台を二人以上で使用する。薄い藁布団と上掛けが二枚,通路は一人が通れるほどの空間しかない。

写真(右)1941年4月ごろ,マウトハウゼン強制収容所の石切り場を視察する親衛隊国家長官ヒムラーの一行:最前列の右から二人目がヒムラー。右側では,縞模様の囚人服を着せられた奴隷労働者が,切り出した花崗岩を木の板に載せている。
Österreich, Konzentrationslager Mauthausen.- Besuch Heinrich Himmler.- Himmler mit Offizieren der SS im Steinbruch Gusen oder Mauthausen; April 1941 (?) Dating: April 1941 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


収容所の中央に点呼広場がある。朝,約200名で一作業班となる労働部隊を編成しカポの指揮を受ける。楽な仕事とされた電気工,金属工,溶接工,レンガ工,機械工,セメント工など技能労働者は合計でも300-400名しかいない。特殊技能者は,ドイツ人かポーランド人の監督に指揮された。労働作業振り分けは,ブナの民間人管理部と連絡を取った,労役部が決める。買収が横行していたから,うまく食料を手に入れるものが,楽な作業を手に入れることができた。

労働時間は,明るい時間帯なので,季節によって変わる。夏は630-1200,1300-1800だった。逃亡が危惧される霧の日は囚人は仕事に就けないが,暴風でも働くのが規則だった。夕方に点呼を取るために集合させられる。点呼広場の前には,花壇があり,必要なときは絞首刑台が立てられた。

 毎朝,寝台をしわひとつなく完全に平らにし,木底のクツ・服から泥や泥のしみを落とさなくてはならない。夕方には,足が洗ってあるか,ノミがいるか,検査を受けなくてはならない。土曜日には,髪と髭を剃り,服の修繕をし,ボタン5つがついているかどうかの検査を受けなくてはならない。寝るときも,便所に行くときも,すべての財産(クツ,食器など)をみな持っている必要がある。そうでないと,持ち物は一瞬にして盗まれてしまう。(レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』28-34頁)

ブナで化学技師として働いていたプリーモ・レーヴィは,収容所では与えられる命令を実行し,配給だけで生活し,労働規律を守るだけで,よい場合でも三ヶ月で「ムーゼルマン」になり死ぬことになる,と述べている。食料,衣類,クツは必需品であるが,配給だけでは不足するので,禁止されている物資を調達し,物々交換したり,賄賂として提供しなくてはならない。タバコ,ヤスリ,ペンチ,電球,石鹸,金歯,空き缶,容器,食器,電線,ほうき,糸,手袋,物品につけるセルロイドの色つきラベル,針金(クツを縛る),ほろ着れ(足に当てる),紙(防寒用に上着の中に詰める)など,収容所で有益なものを調達し,それと交換で,食料など必需品を獲得し,カポ・収容棟長に楽な作業,まともなスープ(バケツの底で身が濃い部分),寝台を割り当ててもらうのである。

同郷者・友人など団結した囚人グループを形成し,物質的優位を確保し,組織化して物品を収容所あるいは囚人から盗み出す。こうした狡猾な組織者(オルガニザトール),結合者(コンビナトール),名士(プロミネンツ)と呼ばれたものが,過酷な収容所で生き残ることができた。単に善良で,組織化できない収容者は,生きた屍「回教徒(ムーゼルマン)」になってで死ぬ。体力が劣れば,労働収容所で,時折行われる囚人の第二次選別で,労働不能者に区分されれば,ガス室送りになることは,収容期間の長い古参囚人にとって,常識だった。大半の収容者同士は,敵対的な関係に貶められており,団結して看守やカポに立ち向かうことはできなかった。(レーヴィ『アウシュビッツは終わらない』106-107,152-153,178-182頁)

写真(右)1941-42年,マウトハウゼン強制収容所の石切り場:マウトハウゼン収容所に隣接した花崗岩の石切り場で,多数の囚人・捕虜が酷使された。この底で,囚人は石を切り出し,上まで運び上げなければならなかった。この花崗岩で,マウトハウゼン収容所の管理施設が建築された。親衛隊SSは,ドイツと占領地における主要な切石を供給する大産業を傘下においていたのである。マウトハウゼン近郊には、グーゼン、エーベンゼーなど収容所があった。
Archive title: Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Steinbruch Wiener Graben, 1941-1942 Dating: 1941/1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


現在、ドナウ河畔(左岸)にあるマウトハウゼンは、中世の色合いを残す町並みの美しい観光地だが、強制収容所はここから数キロの採石場を見下ろす丘の上にあった。収容所跡には、花崗岩でできた中央広場と、収容所展示室、囚人宿舎などがある。

収容所には,刑事犯,政治犯,ユダヤ人の三種類あり,みな縞の囚人服を着る。しかし,刑事犯の上着には,緑色の三角マーク,政治犯は赤三角,ユダヤ人赤三角と黄色三角を合わせたダビデの星をつけいている。親衛隊看守は,収容所の外にいるので,見かけることは少ない。

親衛隊SSは鉄の規律を維持しようと,命令に違反した親衛隊員を,見せしめに厳罰に処した。(上官の取りなしで,処罰を免れた隊員も少なくないようだが。)「ユダヤ人を虐待した親衛隊員が処罰された」ことをもって,ユダヤ人虐殺がなかったと勘違いしている識者が散見される。親衛隊員の処罰は,「命令に違反して,恣意的に,個人的な裁量で」ユダヤ人を虐殺し,財産を掠奪したからである。命令違反が処罰の理由であって,ユダヤ人の虐殺・財産掠奪が禁止されていたのではない。

移送列車で到着した多数のユダヤ人は,強制労働につかせる「労働可能者」と,労働に耐えられない「労働不能者」と二分された。この生死の選別は,ドイツ人の医師・親衛隊が行った。体の状態を一瞥するだけで,あるいは若干の質問をして(囚人の通訳もいた),どちらかに振り分けるのである。原則として,年少者,子供をつれた女子,老人は,働けない側に選別され,そのままガス室に送られたこともあった。持参した多数の荷物は置くようにいわれ,囚人「カナダ」作業班が,分類,整理して,倉庫に保管した。そして,ドイツ本国の物資不足を補うのに充当された。ユダヤ人から,看守が財産・物資を掠め取ることは,厳重に禁止されていた。ただし,看守が,ユダヤ人から掠奪することは,珍しくなかったようだ。

写真(右)アウシュビッツ収容所に到着したユダヤ人の選別:軍服を着た親衛隊が,選別を行っている。縦縞の囚人服を着た囚人作業班が,通訳や補助員として,親衛隊の選別を手伝っている(手伝わされている)。選別するドイツ人は,拳銃を腰に下げているようだが,多数のユダヤ人がドイツ人の支持を受けて,選別されるがままになっているのには,驚かされる。ユダヤ人たちは,選別を意味をまったく理解しておらず,収容所施設の割り当てだと思い込まされていた。貨物列車などに満載され,食料・水が不足していたユダヤ人たちは,アウシュビッツにつくころには,疲労困憊していた。そこで,一刻も早く,収容所に入所して休みたかった。ユダヤ人虐殺の仕組みは巧妙であり,決して一部の狂信的なユダヤ人差別主義者によるサディスティックな行為だけではない。組織的な虐殺のメカニズムが動いていたのである。Yad Vashem :The Auschwitz Album引用。

収容所の「カナダ」作業班は,到着者たちが持参した多数の荷物を分類し,集める仕事をさせられた。ユダヤ人は,ここが絶滅収容所だとは気づかなかったが,これはドイツ側が,秩序だってユダヤ人を虐殺するために,虐殺の事実を秘匿するように勤めたからである。収容所の入り口ゲートには,「労働すれば自由になれる」(中世自由都市の格言「都市の空気は自由にする」と類似)と偽りの標語が大きくかかれていた。

親衛隊SSは,強制収容所の囚人を奴隷労働者として,軍需企業に一人一日6マルクで貸し出した。奴隷労働者を使った企業は,ナチス親衛隊(SS)に借り受け料を支払ったが,これは全て親衛隊SSの資金となった。映画で有名になった「シンドラーのリスト」でも,軍需企業の経営者シンドラーが,強制収容所のユダヤ人奴隷労働者を利用して,ドイツ軍のための物資を生産する。シンドラーの目的は,ユダヤ人を虐殺から救うことと,ユダヤ人を労働者を使用して,財産をなすことだった。また,収容所囚人の中には,ポンドやドルなどの連合軍の偽札作りを強要されたユダヤ人技士もいた。

写真(右)1940-44年,アウシュビッツの工場施設:Die Glasdias wurden vom Fritz-Bauer-Institut (aus dem dortigen Nachlass des IG-Farben-Ingenieurs Bertold Zahn), zur Digitalisierung leihweise zur Verfügung gestellt07 Übersicht Kraftwerk Dating: 1941/1944 ca. Die Glasdias wurden vom Fritz-Bauer-Institut (aus dem dortigen Nachlass des IG-Farben-Ingenieurs Bertold Zahn), zur Digitalisierung leihweise zur Verfügung gestellt.写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ナチス親衛隊は,軍需生産上,労働力を提供できない労働不能ユダヤ人を,ガス室などで殺害した。そして,労働可能なユダヤ人囚人は,衣食住の物資も切り詰めて,過酷な条件で,奴隷労働者として,死ぬまで働かせた。

しかし,ユダヤ人絶滅を,経済的理由だけ説明することはできない。ユダヤ人をドイツ民族を滅ぼそうとする敵,病原菌であると決め付けていたという人種民族差別の役割も大きい。敵ユダヤ人は,ドイツ民族を弱らせるペスト菌のような存在であるから,撲滅しなければならない。

 ユダヤ人が,ドイツ民族の生存を脅かす敵である以上,軍需生産・食糧生産を担う奴隷労働力として利用することと並んで,ユダヤ人を絶滅すること自体も重要な目標となる。ユダヤ人を労働力として無償利用することは,永続的目的ではなかった。これを理解できないところに,現実主義者ヒトラーが,労働力として役に立つユダヤ人を虐殺するはずがない,という誤解が生まれる。

ヒトラー総統,親衛隊SS国家長官ヒムラーは,ドイツ民族を滅ぼそうとする病原菌として,ユダヤ人を認識していた。この人種民族的偏見を抱く限り,ユダヤ人虐殺もユダヤ人の奴隷労働もともに,現実的な合理的行為として,実行に移された。

ユダヤ人虐殺の方法は,当初は,銃殺・縛り首などであったが,ユダヤ人に処刑が知れ渡ると,ユダヤ人を捕まえることは困難になり,同時に住民による反抗も活発になった。また,ドイツ人処刑者の中には,婦女子の処刑には精神的に耐えられないものもあった。そこで,治安を悪化させずに,処刑者に負担をかけないで,効率的に大量殺戮できるような「ユダヤ人絶滅システム」が作られた。

◆ユダヤ人絶滅システムとは,一般住民に反ユダヤ人プロパガンダを行い,ユダヤ人密告を奨励し,密告者に報酬を与え,貨車に過密なほどユダヤ人を押し込み,列車移送を軍需輸送の一環に組み込む。そして,移送者の不動産から所持品まで全財産を収奪した。囚人は,奴隷労働として死ぬまで利用するか,ガス殺し,死体を焼却して,証拠隠滅を図る。このようなユダヤ人虐殺の重要な部分は,口頭でのみ命令され,文書化することを許さない。効率的に秘密裏に組織されたのが,ユダヤ人絶滅システムである。

強制収容所の多くには,ガス室はなかったが,栄養失調・病気による衰弱死,奴隷労働による過労死,拷問による死亡,処刑があった。また,アウシュビッツ=ビルケナウ,ヘルムノ,ベルゼク,トレブリンカTreblinka ,ゾビブルSobibor ,マイダネックなどドイツ占領下のポーランドに設置されたガス室を備えていた絶滅収容所は,ユダヤ人,ロマ(ジプシー),ソ連軍捕虜などを大量殺戮した。

他方,ユダヤ人の婦女子まで殺戮するドイツ人は,精神的,肉体的に負担が大きかった。殺戮者となったドイツ人の負担を軽減することには,十分配慮されていた。
つまり,効率的に殺戮を進め,資産を収奪するユダヤ人絶滅システムは,人種民族差別の上に構築されていた。ユダヤ人絶滅は,冷徹に計算された人種民族差別の極限にある暴力である。


写真(右)1945年4月,ブーヘンヴァルト強制収容所:アメリカ人記者の報道は、世界を震撼させた。これが,解放後の政治犯への厳重処罰に繋がった。 ワイマールの近郊には約35の外部収容所(支所)があった。Zentralbild Das berüchtigte hitlerfaschistische Konzentrationslager Buchenwald auf dem Ettersberg nördlich von Weimar ( mit etwa 135 Außenkommandos). Am 11.4.1945 befreite die militärische Organisation des Internationalen Lagerkomitees Buchenwald von S3 - Mördern. UBz: eine Aufnahme eines amerikanischen Reporters mit Bergen von Leichen erschossener politischer Häftlinge nach der Befreiung. Dating: April 1945 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

<絶滅収容所でのガス殺(Killing People Through Gas:In Extermination Camps引用)>
クルムホフKulmhof(チェルムノChelmno):1941年12月-1942年秋,1944年5-8月,一酸化炭素により,ユダヤ人15万名,ロマ5000名を殺害。

ベルゼクBelzec (ルブリンLublin): 1942年3-12月,当初3ヵ所のガス室,後に6ヶ所のガス室で,一酸化炭素によりユダヤ人60万名を殺害。

ゾビボルSobibor (ルブリン):1942年4月に3ヵ所,9月に6ヶ所のガス室によって,1943年10月までに,ユダヤ人20万名を一酸化炭素で殺害。

トレブリンカTreblinka :1942年7月に3ヶ所のガス室,9月には10ヵ所のガス室で,1943年11月までに,一酸化炭素によって, 70万名のユダヤ人を殺害。

マイダネックMajdanek (ルブリン):1941年9月に収容所を解説,1942年4月-1943年11月まで,大量銃殺ユダヤ人2万4,000名を殺害。1942年10月より,当初2ヵ所のガス室,後に3ヶ所のガス室で,1944年3月までにユダヤ人5万名を殺害。使用したガスは,当初は一酸化炭素,後にチクロンB(シアン化ガスcyan hydrogen).

アウシュビッツ=ビルケナウAuschwitz-Birkenau (当初ポーランド領だったが,上シレジアに編入): 1940年5月開設,1942年1月,5ヶ所のガス室で,1943年6月からは,さらに4ヵ所の大型ガス室で,1944年11月までに,チクロンBによって,ユダヤ人100万名,ロマ4000名を殺害。

<強制収容所でのガス殺(Jewish Virtual Library引用)>
以下の強制収容所は,大量殺戮を目的に作られた絶滅収容所ではなく,囚人を拘束し,奴隷労働させるための強制収容所であるが,労働不能者などを処置するガス室があった。

マウトハウゼンMauthausen (オーストリア): 1941年秋に1ヶ所のガス室でチクロンBを使用。一酸化炭素を使うガス室がグーセンGusen支所にあった。併せて,4000名がガス殺された。

ノイエンガメNeuengamme (ハンブルク南東): 1942年秋から「ブンカー」"Bunker"でチクロンBを使用して,450名を殺害。

ザクセンハウゼンSachsenhausen (ベルリン北) :1943年3月から,チクロンBを使用する1ヵ所ガス室で,数千名を殺害。

ナトワイザーNatzweiler(仏語Natzwiller:ストラスブルク南東50km,エルザス): 1943年8月-1944年8月,1ヶ所のガス室で,120-200名をチクロンBで殺害。遺体はストラスブルク大学解剖学研究所ヒルトAugust Hirt博士の元に送られた。

シュツォホフStutthof (タンチヒ東34km) :1944年6月に,1ヶ所のガス室を開設,チクロンBによって1000命を殺害。

レーベンスブリュックRavensbruck (べルリン北80km):1945年1月,1ヶ所のガス室が設置され,少なくとも 2,300名を殺害。

ダッハウDachau (ミュンヘン北東):1942年に新焼却炉設置,それに隣接して ガス室を建設。医学実験のために親衛隊ライシャーRascher博士が試験的にガス殺を実施。 大規模なガス殺は実施されていない。


◎以上は,ガス室における一酸化炭素ガスあるいはチクロンBによる殺害数で,奴隷労働,食料不足による過労死,病死,餓死あるいは拷問そのたの処刑は含まない。出所の違いから,数値・記述が一致しない所がある。



7.ユダヤ人大量殺戮否定説を拒否する

ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。
しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。

ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。

1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。
だが、ヨーゼフ・ラッツィンガーJoseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。

 問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。

 ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。 


写真(右)1941年7月,ソ連,ウクライナ,リヴィウのユダヤ人の顎鬚を切り落として楽しんでいるドイツ軍兵士
:ユダヤ人の風体を軽蔑し,老人をいじめている屈強なドイツ軍将兵は,楽しそうに笑っている。
Ukraine, bei Lemberg.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur); PK 691 Datierung: Juli 1941 Fotograf: Gehrmann, Friedrich Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

 ローマ法王が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。

 ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世のローマ法王就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世は法王就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回のウィリアムソン司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。

法王は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。

ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」Nostra Aetate:DECLARATION ON THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。

◆ホロコースト否定,ユダヤ人大量殺率否定は、?政治的意図をもったプロパガンダ,?歴史的事実を見据える重圧に絶えられない弱さ,?思考能力・知識不足,が背景にある。

ホロコースト否定論・ユダヤ人虐殺否定論の解答
1.ソ連が解放したガス室があったアウシュウィッツ絶滅収容所の画像は少なく,米英軍の解放した「ガス室のない」ベルゲンベルゼン,ブヘンワルト,オラニエンブルク収容所の画像は多い。後者では,死因は発疹チフスなど病死,餓死,拷問死などであり,ガス大量殺戮はなかった。ドイツ占領下のポーランドの絶滅収容所だけで毒ガスによる大量殺戮が行われた。

2.アウシュビッツ収容所のガス室には,天井に煙突状のチクロンB(固体)投入口がある。ここから室内に入ると,常温で気化する。シャワー部分からガスが流れる構造にはなっていない。

3.毒ガスでも,大気に混ざれば,僅かな量で人間を殺すのは難しい。サリン、タブンのような強力な毒ガスでもである。チクロンBのような殺虫剤タイプでは,ガス室に充満させても,殺害まで数十分かかった。毒ガスが充満している部屋には,換気をして,死体処理のために中に入った。この作業は,強制収容所の囚人がゾンダーコマンドとして使役された。毒ガスの強さを非化学的に過大に見積もってはならない。

4.遺体を焼却処分する焼却炉が小さすぎることはない。葬儀ではないので,炉に複数の死体を投入,次々に連続処理した。野焼きもされた。膨大な量の骨は砕き,灰とともに,川に投げ捨てられた。この作業にも,囚人ゾンダーコマンドが使役された。遺体が敬意を払われることは一切無かった。

5.アウシュビッツ絶滅収容所の囚人は、ゾンダーコマンド以外,ガス室に近づくことはできない。しかし,囚人の多くがガス殺,焼却炉のことを知っていた。だから,健康に見えるように装って,労働不能者に選別されないように気を配っていた。

6.ヨーロッパユダヤ人迫害は、東方ソ連領内に強制移住させる事ではない。東方ソ連は,肥沃な農業地帯,鉱物資源供給地であり,ドイツとドイツ系民族(民族ドイツ人)の生存圏である。ロシア人は農奴として存続を許されたが,ユダヤ人はアーリア人を人種汚染する下等劣等人種として,抹殺されることになった。

7.ナチスのユダヤ人虐殺命令は,ドイツ市民,ドイツ国防軍兵士から,反対される恐れがあった。ユダヤ人や連合国が虐殺を知れば,ドイツに対して和平を求めるどころか,敵愾心を燃やし,士気を高めてしまう。そこで,虐殺は,口頭で命令された。ヒトラー,ヒムラーの演説で,ユダヤ人絶滅を明確に指示していた。一つの民族,一つの国家を一人の総統が支配する指導者原理の下では,ヒトラーの下した命令が全てだった。

ヒトラー総統の政治的遺書を読めば,ユダヤ人が,ドイツ人を滅ぼそうと仕掛けてきた第二次世界大戦の当然の報復として,ユダヤ人絶滅が決定されたこと,極端な人種民族差別が,大量殺戮を引き起こしたことが明確に認識できる。

終章 差別と迫害を繰り返さないために

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものである。裏を返せば、多数の人々の黙認・支持がない限り、人種民族差別を繰り返し,戦争を戦い続けることはできなくなった。世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているといえる。

1944年5月3日のアンネ・フランクの日記:「一体全体,こんな戦争をして何になるのでしょうか。なぜ人間はお互いに仲良く暮らせないのでしょうか。何のためにこれだけの破壊が続けられるのでしょうか。」→戦争の大量破壊・大量殺戮に対する大きな懐疑を呈している。
「いったいどうして人間は,こんなに愚かなのでしょうか。私は思うのですが,戦争の責任は,偉い人や政治家,資本家にだけあるのではありません。責任は,一般の人たちにもあるのです。そうでなかったら,世界中の人々はとうに立ち上がって,革命を起こしていたでしょう。」と,戦争に協力している一般人の重要性,総力戦の現実を認識しつつ,「人間の持つ破壊の欲望,殺戮の欲望」がプロパガンダによって煽動されていることを見抜いている。

 しかし,アンネは絶望してはいない。同じ日の日記の末尾に「一日ごとに自分が精神的に成長してゆくことを感じ取れます。オランダ解放が近づきつつあること,自然がいかに美しいかということ,周囲の人々がいかに善良であるかということ,この冒険がいかに面白く,意味深いものであるかを感じています。だったら,なぜ絶望しなくちゃならないのでしょうか。
                       じゃあまたね,アンネ・M・フランク」


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。  

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスの優生学:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー総統・ナチスの独裁者・扇動者・殺戮者:Hitler
ヒトラー暗殺ワルキューレ作戦:Valkyrie
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
反ナチス・白ばら抵抗運動:White Rose resistance
NHK BS-hi 世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画:人民裁判長ローランド・フライスラー,西部方面総司令官ルントシュテット元帥,シュタウフェンベルク大佐の副官ヘフテン中尉など多数の写真を掲載。
ナチスドイツの参考文献・資料引用

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