鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
シンガポール攻略◇Indian National Army 2009
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◆マレー進攻・シンガポール攻略・インド国民軍◇CHINA - BURMA - INDIA


写真(左):1941年11月,シンガポールに船で到着したインド人将兵
:Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Newly-arrived Indian troops carry their kitbags on the quayside at Singapore, November 1941.
写真(右):1941年11月,シンガポールに到着し整列する英インド軍(英印軍)インド人将兵
:Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Newly-arrived Indian troops parade on the quayside at Singapore, November 1941. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

写真(右):1943-44年,日本軍とともにインド独立のために同胞の英インド軍(英印軍)とも戦ったインド国民軍の将兵:Comrade-in-Arms : A group of INA soldiers in battlefield. (National Archives Photo) ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House引用。

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Chindits
HG Lambert - a soldier with the Chindits
BURMA STAR ASSOCIATION

1.太平洋戦争開戦の前から,米英両国は,ドイツに対する戦争を準備し,中国への軍事援助をした。他方,日本も,ハルノートを受け取る以前,1941年9月6日の御前会議で、対米英蘭戦争を起こすことを決定していた。つまり,米英日三国は,1941年夏,同時に世界戦争を始める決意をしていた。

日米開戦の4年以上前,1937年7月の日中全面戦争以降,米国は日本の中国侵略を非難し,1939年7月,日米通商条約を廃棄、1941年3月,米国は武器貸与法を成立させた。ここでは,「米国の防衛に不可欠と米国大統領が考える国に、船舶、航空機、武器その他の物資を売却、譲渡、交換、貸与、支給・処分する権限を大統領に与えるもの」とした。武器貸与法によって,英国,中国への大規模な信用供与,それに基づく武器輸出が行われた。

写真(左):1942年以降,日本軍によって3年間閉鎖されていたビルマルート(米英による中国蒋介石総統への援助ルート)が1945年に再開通:米軍,中国軍の搭乗員が米国製M4シャーマン戦車を山越えして,中国雲南省に運び入れた。しかし,この中国補給のためのビルマルートの再開は遅きに失したため,そこからの支援物資が中国軍によって対日戦争に有効活用されるのは,1945年以降であり,戦局にはあまり寄与していないと思われる。Mountain-climbing U.S. medium tanks, manned by Chinese and American crows, use the Burma Road for the first time after the combined Allied offensive had broken the two-year Jap control of the only overland supply route to China.: ca. 1945 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

武器貸与法(Lend-Lease Act)による1941年3月-45年9月の輸出(主な輸出先は英国で,ソ連,中国と続いていた)
航空機.........................14,795機
戦車..............................7,056台
ジープ...........................51,503台
トラック.......................375,883台
大砲...............................8,218門
機関銃..........................131,633丁
爆薬.............................345,735 tons
建築資材..................$10,910,000
蒸気機関車.....................1,981台
輸送船..................................90隻
対潜水艦用駆逐艦................105隻
魚雷艇..................................197隻
石油製品....................2,670,000tons
綿花........................106,893,000 tons
皮革.................................49,860 tons
タイヤ.............................3,786,000本
軍靴............................15,417,000足

1941年7月末-8月初頭,米国は日本資産を凍結,日本の在米不動産・銀行預金・株式債券など金融資産を海外に移転できなくさせ,対日石油輸出を禁止した。9月末,対日鉄屑輸出も禁止した。

1941年8月9-13日には,カナダ(英国連邦の一員として対独参戦している)ハリファックス近くで,米英の政府・軍高官による大西洋会談が開催された。ニューファウンドランド島沖アルゼンチアに停泊した米巡洋艦「オーガスタ」艦上から,1941年8月14日,ルーズベルト大統領と英国首相チャーチルは,大西洋憲章Atlantic Charter)を世界に公表することを決めた。

写真(左):1941年8月大西洋会談中のルーズベルト大統領とチャーチル首相;米国陸軍参謀総長ジョージ・マーシャル元帥も見える。ニューファウンドランド沖の英新鋭戦艦「プリンスオブウェールズ」で行われた大西洋会談で,ルーズベルト大統領とチャーチル首相は,戦争の大儀を"ensure life, liberty, independence and religious freedom and to preserve the rights of man and justice."と宣言した。そして,米国の第二次大戦へ英国側に立っての参戦,英国への軍事援助の方針を決めた。これが,1941年12月の太平洋戦を契機に,連合軍に繋がる。この新鋭戦艦は,1年以内に,マレー半島沖に沈む。

米英共同声明「大西洋憲章」(Atlantic Charter)は、1941年8月9日は,領土不拡大,国境維持,反ドイツの立場で,次のように謳った。
1941年8月14日の大西洋憲章Atlantic Charter 第一、両国は、領土その他の拡大を求めない。
第二に、両国は、国民の自由表明意思と一致しない領土変更を欲しない。
第四、両国は、現存義務を適法に尊重し、大国たると小国たるとを問わず、また、先勝国たると戦敗国たるとを問わず、全ての国に対して、その経済的繁栄に必要な世界の通商および原料の均等な開放がなされるよう努力する。
第六、ナチ暴政の最終的破壊の後、両国は、全て国民に対して、自国で安全に居住することを可能とし、かつ、全て国の人類が恐怖及び欠乏から解放され、その生を全うすることを確実にする平和が確立されることを希望する。


大西洋会談では,英首相チャーチルが英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」 (HMS Prince of Wales) に乗艦,カナダにきた。ドイツ戦艦「ビスマルク」を撃沈した新鋭戦艦による演出は,会談への熱意の表れである。大西洋憲章では,米英の政府と軍の最高指導者が集まり,事実上,米英同盟を宣言した。米国が,英国の側に立って,対ドイツ,対日戦争を準備するものである。米英の共同謀議による戦争計画とも解釈できる。

米大統領ルーズベルトは,英国側にたって,第二次大戦に参戦する希望を抱いていた。しかし,米国の世論はドイツへの宣戦布告を望んでいない。そこで,ルーズベルト大統領は,日本に対して強硬な経済制裁を行い,鉄屑,石油を禁輸し,日本軍の占領地からの撤退,日独伊三国軍事同盟の解消を求めるようになる。この要求を拒否した日本と開戦となり,それがドイツとの戦争にも繋がると考えたのである。

他方,日本は,艦隊を動かすにも,海外から資源を輸入する船舶を動かすためにも,石油は不可欠であり,米国からの輸入に70%以上を頼っていた。石油輸入が途絶えては,国力維持は困難である。

経済制裁を受けた日本の近衛文麿内閣は,1941年9月6日の御前会議で、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合,対米英蘭戦争を起こすことを決定。

写真(左):大日本帝国首相東條英機陸軍大将;1941年10月から陸軍大将として,内閣を組織したため,日米開戦の責任者と目された。ドイツのヒトラー,イタリアのムッソリーニと並んで,日本の指導者とされることもある。しかし,東条英機首相には,内閣の任免権も,軍の最高指揮権も,宣戦布告の権利もなく,独裁者というには程遠い存在である。
大日本帝国憲法の第四章「国務大臣及枢密顧問」は次の通り。
第五十五条 1.国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス
2. 凡テ法律勅令其ノ他国務ニ関ル詔勅ハ国務大臣ノ副署ヲ要ス
第五十六条  枢密顧問ハ枢密院官制ノ定ムル所ニ依リ天皇ノ諮詢ニ応ヘ重要ノ国務ヲ審議ス
海軍のハワイ攻撃計画は進んでおり,東條首相が関与する余地ほとんどなかった。


開戦予定の1941年10月上旬,近衛内閣は総辞職,開戦責任を回避。昭和天皇も,国体護持,日米和平を重視していたから,木戸幸一内大臣は、1941年9月6日の御前会議に下した日米開戦の決定を白紙に戻す(「白紙還元の御状」)。そして、東條英機陸軍大将を内閣総理大臣を推挙した。東條大将は,陸軍大臣として開戦賛成派だったが,天皇への忠誠心が厚く,天皇の信頼も得ていた。

1941年10月成立の東條内閣は,日米交渉を続けたが,真珠湾攻撃を含む「海軍作戦計画ノ大要」が、1941年11月8日に大元帥昭和天皇に上奏。この後,1941年11月26日,米国は,満州事変以前の状態への復帰を要求した「極東と太平洋の平和に関する文書」(ハル・ノート)を受けた。これが,ハル・ノートである。最重要部分は、第二項の「日本国政府は中国及び印度支那より一切の陸海空兵力及び警察力を撤収するものとす。」である。日本が中国占領地(満州は除く余地あり)やフランス領インドシナ(仏印)から撤退することを交渉継続の原則とした。

ハル・ノート手交直後,1941年12月1日,天皇、首相,参謀総長,軍令部総長など日本の最高首脳陣が揃って出席した御前会議が宮中で開催された。そして,(国会ではなく)御前会議で対米英戦争の宣戦布告が最終決定された。

日本の最後通牒,すなわち14部のメッセージ"Fourteen Part Message" の最初の部分が、暗号でワシントンの日本大使館に送信されたのは,1941年12月6日(日本時間)であり,最終部分は12月7日(開戦予定日前日)である。つまり,最後のぎりぎりまで,和平交渉の打ち切りは告げなかった。これは、真珠湾攻撃のための艦隊行動やマレー半島上陸を目指す輸送船団の動向を,米英に察知されないためである。

しかし,米軍の通信隊の「マジック」は,日本の暗号を部分的に解読していた。東京とワシントンの日本大使館あるいは世界各国の大使館や軍への無線通信を傍受し,日本の攻撃が差し迫っていることを理解していた。

◆1939年9月に第二次欧州大戦が勃発したが,米国は中立を維持し,参戦しなかった。しかし,1941年8月下旬,ルーズベルト大統領は,英国側にたって参戦することを望んでいた。そこで,武器貸与法を成立させ,英国を支援したが,中国も米国による軍事援助の対象となった。太平洋戦争開戦の前から,米軍は中国にアメリカ義勇部隊を派遣したが,中国への軍事援助物資を運び入れる補給ルートの確保に苦慮していた。他方,日本はハルノートを受け取る以前,1941年9月6日の御前会議で、10月上旬までに米国との和平交渉がまとまらない場合,対米英蘭戦争を起こすことを決定していた。つまり,米英日三国は,1941年8-9月の同時期に,世界戦争を始める決意をしていたのである。

真珠湾攻撃の検証;「卑怯な騙まし討ち」を吟味する。

写真(右):中国で活躍したアメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」のカーチスP-40戦闘機(1942年撮影):1941年中頃から米軍は,中国のシェンノートの下に,ビルマ経由で大規模な義勇部隊を派遣した。日本機との撃墜・損傷比率は12:1と優勢に戦ったという。A Chinese soldier guards a line of American P-40 fighter planes, painted with the shark-face emblem of the "Flying Tigers," at a flying field somewhere in China. The American pursuit planes have a 12-to-1 victory ratio over the Japanese.: ca. 1942 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration ARC Identifier 535531 / Local Identifier 208-AA-12X(21)引用。

太平洋戦争と欧州大戦に米国が参戦して1ヵ月後,1942年1月1日、ワシントンで、米・英・ソ・豪・加・印・蘭・NZ・パナマ・ノールウェー・ポーランド・南アフリカ共和国・ユーゴなど26カ国が連合国として署名した宣言,いわゆる連合国共同宣言Joint Declaration by United Nationsが出された。

連合国共同宣言
 
この宣言の署名国政府は,大西洋憲章the Atlantic Charterとして知られる1941年8月14日付米国大統領並びに英国首相の共同宣言に包含された目的及び原則に関する共同綱領書に賛意を表し、これらの政府の敵国に対する完全な勝利が、生命、自由、独立及び宗教的自由を擁護するため並びに自国の国土において及び他国の国土において人類の権利及び正義を保持するために必要であること並びに、これらの政府が、世界を征服しようと努めている野蛮で獣的な軍隊に対する共同の闘争に現に従事している(a common struggle against savage and brutal forces)ことを確信し、次のとおり宣言する。

ポスター(右):1942年1月1日,国連(UN)宣言を表象する世論形成ポスター「連合国:自由のために戦う国際連合」:UNITED NATIONS - THE UNITED NATIONS FIGHTS FOR FREEDOM, 1941 - 1945 ARC Identifier 515902 / Local Identifier 44-PA-2195 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

(1) 各政府は、三国条約の締約国及びその条約の加入国でその政府が戦争を行っているものに対し、その政府の軍事的又は経済的な全部の資源を使用することを誓約する。
Each Government pledges itself to employ its full resources, military or economic, against those members of the Tripartite Pact and its adherents with which such government is at war.

(2) 各政府は、この宣言の署名国政府と協力すること及び敵国と単独の休戦又は講和を行わないことを誓約する。
Each Government pledges itself to cooperate with the Governments signatory hereto and not to make a separate armistice or peace with the enemies.

 この宣言は、ヒトラー主義に対する勝利のための闘争において物質的援助及び貢献している又はすることのある他の国が加入することができる。
The foregoing declaration may be adhered to by other nations which are, or which may be, rendering material assistance and contributions in the struggle for victory over Hitlerism. (引用終わり)

連合国共同宣言(国連宣言)は,1941年8月の英米共同の大西洋憲章を基礎にし,日独伊の枢軸国に対して,連合国は,単独不講和・不休戦とし,全資源を投入して戦うことを誓約した。そして,対日独伊戦争勝利こそが「生命、自由、独立、宗教的自由を擁護する」ならびに「人類の権利及び正義を保持するためには不可欠である」と戦争の大義を宣言した。

当初の署名国は,アメリカ合衆国United States of America, 英国the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland, ソ連the Union of Soviet Socialist Republics, 中国China, オーストリアAustralia, ベルギーBelgium(本国はドイツ占領),, カナダCanada, コスタリカCosta Rica, キューバCuba, チェコスロバキアCzechoslovakia(本国はドイツ占領), ドモニカDominican Republic, エルサルバドルEl Salvador, ギリシャGreece(本国はドイツ占領), グァテマラGuatemala, ハイチHaiti, Honduras, インドIndia, ルクセンブルクLuxembourg(本国はドイツ占領), オランダNetherlands(本国はドイツ占領), ニュージーランドNew Zealand, ニカラグアNicaragua, ノルウェーNorway(本国はドイツ占領), パナマPanama, ポーランドPoland(本国はドイツ占領), 南アフリカ共和国South Africa, ユーゴスラビアYugoslaviaの26カ国。その後、フィリピン(亡命政府),エチオピア(イタリア占領から解放),イラク(英国支配)など,1945年3月までに,次の19カ国が追加署名。

Mexico ......... June 5, 1942     Ecuador ........ Feb. 7, 1945
フィリピンPhilippines(本国は日本占領).... June 10, 1942    Peru ........... Feb. 11, 1945
エチオピアEthiopia(イタリア駆逐)....... July 28, 1942     Chile .......... Feb. 12, 1945
Iraq ........... Jan. 16, 1943      Paraguay ....... Feb. 12, 1945
Brazil ......... Feb. 8, 1943      Venezuela ...... Feb. 16, 1945
Bolivia ........ Apr. 27, 1943     Uruguay ........ Feb. 23, 1945
Iran ........... Sept. 10, 1943     Turkey ......... Feb. 24, 1945
Colombia ....... Dec. 22, 1943    Egypt .......... Feb. 27, 1945
Liberia ........ Feb. 26, 1944      Saudi Arabia ... Mar. 1, 1945
フランスFrance(本国はドイツ占領)......... Dec. 26, 1944

真珠湾攻撃から1ヶ月もたたない1942年1月1日の国連宣言(連合国共同宣言) Joint Declaration by United Nationsへの署名は,国際連合の原加盟国の必要条件である。大戦終結までにここに署名した47カ国は,全て対ドイツ,対日参戦した。1945年2月以降に参戦した南米諸国や中東諸国は,国際連合に加盟し,戦後の国際関係を有利にしようとする目的で,対日参戦した。

2.太平洋戦争は,1941年12月8日(米国時間7日)の真珠湾攻撃によって始まったのではない。真珠湾攻撃前日,日本軍と英軍との戦闘がマレー半島沖で始まっていた。8日零時,真珠湾攻撃より2時間前,日本軍は,マレー半島に上陸した。12月10日,日本海軍航空隊は,英海軍Z部隊の戦艦2隻を空襲,撃沈した。また,英領マラヤの英インド軍インド兵士の中には,インド独立連盟の主張に共感したものが多数あった。彼らは,捕虜となった後,日本軍とともにインド独立を目的に,インド国民軍に加わった。インド国民軍の初代指揮官は,シークのモハン・シン大尉(のち少将)である。


写真(左):1941年11月19日,シンガポール・センバワン基地の米国製バッファロ−Buffalo戦闘機Mark I
:英極東軍空軍司令官パルフォード少将の査察を受ける第21飛行中隊。Title: ROYAL AIR FORCE Photographer: Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-15 Description: Brewster Buffalo Mark Is of No. 21 Squadron RAAF, lined up at Sembawang, Singapore, on the occasion of an inspection by Air Vice Marshal C W H Pulford, Air Officer Commanding Royal Air Force Far East.
写真(右):1941年11月,シンガポール・カラン基地のオーストラリア製ブリストル社ボーフォート攻撃機Mark V の査察。:これらは,第100飛行中隊に配属されたが,訓練不足もあって5機はオーストラリアに帰還,6機が偵察機として使用された。Photographer: Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-15 Description: RAF personnel inspect six Australian-built Bristol Beaufort Mark Vs, shortly after their arrival at Kallang, Singapore. The aircraft were intended for the re-equipment of No. 100 Squadron RAF but, as they were unarmed and their crews possessed no operational training, five were returned to Australia, while the sixth was employed on photographic-reconnaissance duties. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


写真(右):1941年,シンガポール海軍基地司令部の空軍ブルック・ポパム大将:米軍から英国ブレッチリー・パークに貸与されたパープル暗号機で,1941年12月3日、ロンドンの日本大使館が暗号解読器の破壊準備をしていることも探知。この情報が、シンガポールのブルック・ポパム大将に連絡され,12月5日、タイに侵攻して、日本軍のマレー半島上陸を阻止するマタドール作戦を発動する許可がおりた。米英軍は暗号解読を協力して行い,貴重な情報を共有していた。米国のマジックと英国のウルトラは表裏一体だった。日本軍の開戦情報も事前に察知され,マレー半島上陸部隊を攻撃する準備が始まっていた。
Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-10 Description: Air Chief Marshal Sir Robert Brooke-Popham, Commander-in-Chief, Far East Command, photographed during a planning conference at his Headquarters at the Singapore Naval Base. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


<マレー半島上陸で開始された日英太平洋戦争>
太平洋戦争は真珠湾攻撃によって開始された、と誤解している人が多い。しかし,日本軍の最初の攻撃は、マレー半島のタイ領シンゴラとパタニー、英領マラヤのコタバルへの上陸である。これは,シンガポール攻略をめざす日本陸軍が,輸送船26隻を投入し,海軍の支援を受けた作戦だった。12月2日、バンコクから東京への外交電報は、日本によるコタバル上陸によって南タイに戦禍が波及するのを懸念すると伝えた。この暗号電報は,ロンドン郊外ブレッチリー・パーク (Bletchley Park) の政府暗号解読部が解読していた。

米陸軍通信部のウイリアム・フリードマンは,日本の九七式欧文印字機を模造してパープル(Purple)と呼んだ暗号機を作り上げ,日本の暗号を解読した。これが暗号解読システム「マジック」である。アメリカは1941年初頭,パープルをブレッチリー・パークに貸与した。

マジックは、12月3日、ロンドンの日本大使館が暗号解読器の破壊準備をしていることも探知した。この情報は、シンガポールの英極東軍司令官ブルック・ポパム大将に連絡された。12月5日、英極東軍に、タイに侵攻して、日本軍のマレー半島上陸を阻止するマタドール作戦発動の許可が下りた。これは,英軍による予防戦争であり,イギリスの開戦決意を意味する。


写真(左):1941年中頃,シンガポール・セレター軍港の第205飛行中隊のコンソリデーテット社製カナリナ飛行艇
:同型機が1941年12月7日(米国時間6日)日本軍のマレー半島上陸部隊を乗せた輸送船団を発見,日本陸軍九七式戦闘機が撃墜。まだ太平洋戦争開戦の前日,日本機は英海軍飛行艇を撃墜していた。Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1939-1945 Collection No.: 4700-10 Description: A Consolidated Catalina Mark I of No. 205 Squadron RAF taxies past another aircraft of the Squadron moored in the Strait of Johore off Seletar, Singapore
写真(右):1941年11月,シンガポール・セレター軍港の第205飛行中隊のコンソリデーテット製カナリナ飛行艇Mark I :後方は英国空軍ホーカー・ハリケーン戦闘機。Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1939-1945 Collection No.: 4700-10 Description: A Consolidated Catalina Mark I of No. 205 Squadron RAF, being launched from the slipway at Seletar, Singapore, by local Malayan handlers. Period:Second World War Further Information: Original caption reads: For several months past American built Catalina Flying Boats have been patrolling the Indian Ocean and China Seas. Their work takes them on long distance patrols from the civilisation of Singapore to sparsely inhabited islands of the Southern Indian Ocean. Their watch for enemy raiders and submarines is ceaseless. Picture shows:- Tamil coolies helping to launch a Catalina down the slipway. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。



写真(左):1942年2-3月,ビルマのマグー基地の英空軍第45飛行中隊ブリストル・ブレンハイム爆撃機Mark IV
:Photographer: Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-15 Description: A Bristol Blenheim Mark IV of No. 45 Squadron RAF, on the ground at Magwe, Burma, while operating as part of 'X' Wing/'Burwing'. Note the jeep (right), borrowed from the American Volunteer Group, units of which were also based at Magwe in the closing stages of the first Burma Campaign.
写真(右):1943年4-5月,カルカッタ基地の英空軍第62飛行中隊ロッキード・ハドソン爆撃機Mark III:1941年12月6日正午過ぎ、オーストラリア空軍ハドソン爆撃/哨戒機は、マレー半島沖で、日本軍輸送船団を発見、翌7日、偵察に向かった英空軍カタリナ飛行艇が、日本戦闘機に撃墜された。これらの戦闘は,真珠湾攻撃(日本時間8日)前日のことである。Photographer: Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-15 Description: Aircrews of No. 62 Squadron RAF make a final inspection of their Lockheed Hudson Mark III at Chaklala, India, prior to taking off on a sortie. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


1941年12月6日正午過ぎ、哨戒中のオーストラリア空軍ハドソン爆撃機が、マレー半島沖で、航行中の日本船団を発見し、翌7日午前中、偵察に向かった英空軍カタリナ飛行艇が、行方不明になった。爆撃機は,7日8時半、日本陸軍九七式戦闘機5機に撃墜されたのである。ハドソン爆撃機の偵察飛行は続き、15時45分から18時48分にかけて、日本の艦船を発見、巡洋艦から発砲を受けたと報告した。真珠湾攻撃の2時間前、12月8日零時、輸送船三隻に乗船した佗美浩少将率いる上陸部隊5900名は、コタバル沖に到着した。領海内の大規模な敵対軍事行動は戦争開始である。
Colin Smith(2005)Singapore Burning: Heroism and Surrender in World War II. Penguin参照。

写真(右):1941年12月末成立したインド国民軍のモハン・シン大尉:チャンドラボースが来日する2年も前に,英インド軍のモハンシン大尉は,日本軍に投降し,インド独立のためのインド国民軍を作った。これは,英インド軍のインド兵士を,インド独立のために戦うように寝返らせて,兵士とした親日軍である。ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House エニグマ オブ ネタジ・チャンドラ・ボース引用。

<日本軍とともに戦ったインド国民軍>
日本軍は,1941年12月8日,真珠湾奇襲攻撃の1時間前に,マレー半島英領マライのコタバルなど三海岸に陸軍部隊を上陸させた。そして,マレー半島上陸1ヵ月後の1942年1月11日,英領マライの首都クアラルンプールに入った。

謀略機関であるF機関(藤原機関)は,在住インド人(印僑)らを中心としたインド独立連盟と協力していたが,英インド軍から降伏投降した捕虜のインド兵士を日本軍の側に立たせようとした。捕虜となったシークのモハン・シン大尉は,インド独立のためインド国民軍設立に協力,英インド軍捕虜将兵を懐柔・説得して,インド国民軍BNAに再編成した。

日本軍は,連合軍、植民地兵、現地住民を対象として、支配者の英米蘭への反感を高め、日本軍に投降あるいは協力するよう仕向ける宣撫工作を準備した。1940年8月、日本陸軍参謀本部が、宣伝ビラ(伝単)作成のための部署として淡路事務所を設けた。これは、淡路町のビルに事務所を置いたためにつけられた秘匿名称である。

淡路事務所での伝単作製には、漫画家5名が参加、英語だけなく、ヒンディー語(ヒンドゥスタン語)、ベンガル語、タミール語、ウルドゥー語、ビルマ語、マレー語、タガログ語、インドネシア語なども使用した。素案ができると、指導将校、主任参謀が審査、選定し、各国語に訳した文句をつけて、カラー印刷に廻す。開戦前後に、南方に船や航空機で送付された伝単は、合計数百万枚に上ったという。

<マレー沖海戦での英戦艦「プリンスオブウェールズ」 (HMS Prince of Wales) 撃沈>

写真(左):1941年12月2日,Z部隊旗艦の戦艦プリンス・オブ・ウェールズ
:シンガポール海軍基地にて。Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: HMS 'Prince of Wales', flagship of Force Z, approaching her berth at the Singapore naval base, 2 December 1941.
写真(右):1941年12月2日,Z部隊司令官トム・フィリップス提督(右)とアサー・ポライザー少将:シンガポール海軍基地にて。Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Admiral Sir Tom Phillips (right), commander of Force Z, and his deputy, Rear Admiral Arthur Palliser, on the quayside at Singapore naval base, 2 December 1941. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


1942年12月10日,英海軍Z部隊(東洋艦隊)は,戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) とレパルスの二隻に駆逐艦の護衛をつけて,マレー半島東部クワンタン沖に、日本輸送せんだんを攻撃に向かった。しかし,日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機(中攻)と一式陸上攻撃機(一式陸攻)あわせて80機の雷撃と水平爆撃を受けた。この空襲によって、英国戦艦二隻は撃沈され,日本軍は制海権を確保した。マレー半島とシンガポールを防衛していた英軍も主力艦の喪失には大きな衝撃を受け,戦意が鈍った。

1941年12月10日16時5分,大本営発表は、海軍航空部隊の勇敢な攻撃によって「開戦第三日目にして早くも英国東洋艦隊主力は全滅するに至れり」と報じた。真珠湾攻撃のような停泊中の艦船への奇襲とは異なり、マレー沖海戦は、九六式陸上攻撃機59機、一式攻撃機26機,合計85機の雷爆撃によって,英戦艦プリンス・オブ・ウェールズ (HMS Prince of Wales) とレパルスを洋上で撃沈し,「英極東主力艦隊の主力絶滅」(12月11日『読売新聞』)と報じられた。

日本機の損害は4機(不時着を含む)で,艦艇に対する航空兵力の優位性を立証した。12月14日『読売新聞』(夕刊)では,ストックホルム特電として,英戦艦2隻は「荒鷲僅か8機の好餌」と日本軍の少数精鋭ぶりを演出した。


写真(左):1941年12月8日,シンガポールを出撃するZ部隊旗艦戦艦プリンス・オブ・ウェールズHMS PRINCE OF WALES:日本輸送船団の攻撃に向かったが2日後に撃沈。Photographer: Adams W L G (Captain) Commanding Officer, HMS CORINTHIAN Title: THE FAR EAST: SINGAPORE, MALAYA AND HONG KONG 1939-1945 Collection No.: 4700-01 Description: The Japanese Campaign and Victory 8 December 1941 - 15 February 1942: The battleship HMS PRINCE OF WALES leaves Singapore in search of a Japanese convoy. With no fighter protection the battleship and her companion HMS REPULSE were vulnerable to Japanese air attack.
写真(右):1941年12月10日,撃沈寸前,総員退避する戦艦プリンスオブウェールズ:戦艦の乗員を救助に来た英海軍駆逐艦エクスプレス艦上から撮影。Z部隊司令官トム・フィリップス提督は戦艦と運命をともにした。救助された乗員も,シンガポール陥落時に日本軍の捕虜となった。Title: THE SINKING OF HMS PRINCE OF WALES BY JAPANESE AIRCRAFT OFF MALAYA, DECEMBER 1941 Collection No.: 4700-09 Description: The crew of HMS PRINCE OF WALES abandoning ship, after torpedo attacks by Japanese aircraft in the South China Sea. Period:Second World War Further Information: Photograph was taken by Lt Cmdr Cartwright from the destroyer HMS EXPRESS. The destroyer, which survived the Japanese attack, was engaged in rescuing survivors from HMS PRINCE OF WALES at the time. The survivors were taken back to Singapore where many subsequently became prisoners of war. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


英東洋艦隊は,戦艦を日本輸送船団攻撃に向けたが,これは海上交通破壊戦の延長線上の作戦だった。日本海軍は,マレー沖海戦によって,戦艦中心の艦隊決戦思想を時代遅れなものとしたが,自らは艦隊決戦を念頭に戦艦を大切に温存した。戦艦による陸上基地砲撃は,1942年10月ガダルカナル飛行場砲撃,輸送船団攻撃は1944年10月レイテ湾突入まで実行していない。日本海軍は,マレー沖海戦で,戦艦の活用方法を学ばず,戦艦の戦力化を遅らせた。


写真(左):1941年12月,日本軍の空襲を避けるシンガポールの防空壕
:日本軍はシンガポール軍事施設を爆撃したが,周辺の民間人を死傷する危険は甘受していた。これを「無差別爆撃」という。民間人を標的とした爆撃だけを無差別爆撃と言うのではない。Photographer: Palmer Fred (Hon Lt) Title: THE FAR EAST: SINGAPORE, MALAYA AND HONG KONG 1939-1945 Collection No.: 4700-45 Description: The Japanese Campaign and Victory 8 December 1941 - 15 February 1942: Civilians in a Singapore air raid shelter during a Japanese bombing raid.
写真(右):1941年12月,放火された生ゴム倉庫:英軍は,日本軍に利用されないように英領マライで自らのゴム工場を破壊し,シンガポールに撤退した。撤退する軍が,敵に利用されないよう施設,道路,住居を破壊することを,焦土戦術という。Photographer: Palmer Fred (Hon Lt) Title: THE FAR EAST: SINGAPORE, MALAYA AND HONG KONG 1939-1945 Collection No.: 4700-45 Description: The Japanese Campaign and Victory 8 December 1941 -15 February 1942: Stocks of rubber, held by a factory on a rubber plantation in Malaya, are burnt during the British retreat to Singapore. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


1942年1月13日『読売新聞』は陸軍機によるシンガポール爆撃で「蝗の様に飛び散る敵兵 列車二百両を血祭り 陸鷲,英軍の退路遮断」「断末魔の黒鉛 傾く1千トン級の船」,2月14日『朝日新聞』(夕刊)は「シ(ンガポール)島断末魔刻々迫る 英兵満載の脱走船団爆撃 1万頓級等11隻爆沈破」と陸軍航空隊の戦果を掲げて,海軍航空隊との均衡をとった。


写真(左):1941年12月,シンガポールのマモン・ヘリントン装甲車
:Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Marmon-Herrington armoured cars await issue to units at Singapore, December 1941.
写真(右):1941年11月19日,シンガポール・セバワン基地の英空軍第453飛行中隊の米国ブリュスター社製バッファロー戦闘機Mark I:英空軍極東軍プルフォード少将の閲兵を受ける。航続距離が短く,Z部隊の戦艦を護衛できなかった。シンガポール防空船に活躍したが,日本軍の一式専用機「隼」の前に劣勢であり,敗北した。Royal Air Force official photographer Title: AMERICAN AIRCRAFT IN RAF SERVICE 1939-1945: BREWSTER MODEL 339 BUFFALO. Collection No.: 4700-15 Description: Buffalo Mark Is of No. 453 Squadron RAAF, lined up at Sembawang, Singapore, on the occasion of an inspection by Air Vice Marshal C W H Pulford, Air Officer Commanding Royal Air Force Far East. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


1941年12月23-24日,第三次輸送の第十八師団(師団長牟田口廉也中将)は,重火器,弾薬,糧秣,被服,資材を輸送船から揚陸,集積した。先に上陸していた近衛師団,第五師団は,英軍の自動車を多数鹵獲しており,そのなかから各師団150両,合計300両を第十八師団に配車した。

1942年1月7日,マレー半島への第三次輸送として,第十八師団が輸送船11隻に乗船し,広州虎門からカムラン湾に向け出航したが,マレー作戦に従事する第五師団の進撃が早く,上陸地点は変更になって,待機が続いた。1月20日,10日間停泊待機していたカムラン湾を抜錨,22日1600-1800,タイのシンゴラ沖に11隻が投錨を終わった。シンゴラから来た70人乗り大発によって,揚陸が終わったのは。1月23日になっていた。ここから,

日本軍は,1942年1月11日のクアラルンプール占領後,アロルスター,イポーなど各地のインド投降将兵・捕虜3500名をクアラルンプールに集めた。そして,二個中隊分の小火器を支給して,本格的なインド国民軍を編成した。1月31日、連合軍は,マレー半島部からジョホール水道を越えてシンガポールに撤退した。

3.日本軍は,太平洋戦争開戦の前から,アジアの独立を大儀とした謀略とアジア人による親日組織の育成に力を注いだ。これは,インド独立連盟と英インド軍投降捕虜を帰順させたインド国民軍,ビルマ独立義勇軍である。マレー作戦,ビルマ占領にこのような親日軍事組織が協力した。ただし,日本軍に協力する以上のアジア人は,英インド軍など連合国側に加わっていた。彼らを植民地傭兵として軽視することはできない。連合軍は,親日アジア軍をやはり日本の傀儡軍と蔑視していた。


写真(左):1941年10月,シンガポールに到着した英軍将兵
:Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Cheerful British soldiers on board a troopship arriving at Singapore, October 1941.
写真(右):1941年10月,シンガポールに到着したオーストラリア陸軍看護婦:Title: AUSTRALIAN NURSES IN SINGAPORE, OCTOBER 1941 Collection No.: 4700-50 Description: A group of Australian Army nurses wait to disembark from a hospital ship on arrival at Singapore. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


大英帝国の東洋支配の牙城シンガポール攻略を目指し、1941年12月8日零時,マレー半島北岸コタバルなどに上陸した日本の第二十五軍とその補給部隊・輸送船団は,日本海軍航空隊の活躍によって,英海軍の海上からの襲撃を心配しなくても良くなった。しかし,日本陸軍航空隊の地上近接支援について,語られることがない。山下将軍は,日本軍陸軍の航空総監の経験もあり,マレー半島進撃を円滑にするために航空支援の必要性を熟知していたはずだ。シンガポールに対する爆撃は行われたが,地上近接支援は低調だった。日本陸軍上層部である大本営参謀本部は,航続距離の長い一式戦闘機を1個戦隊分50機しか前線配備できず,飛行場設定能力の低かったために,マレー半島を進撃する地上部隊に協力する飛行隊は少なかった。

写真(右):1944年3月11-12日,英インド軍シーク連隊ナンダ・シンNand Singh(ビクトリー・クロス勲章拝受者):SECOND WORLD WAR: VICTORIA CROSS HOLDERS' PORTRAITS (GENERAL) Collection No.: 4700-38 Description: Nand Singh, 1/11 Sikh Regiment, Indian Army: Place and date of deed, Maungdaw - Buthidaung Road, Burma, 11 - 12 March 1944.帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。 日本軍に協力したモハン・シン大尉などシーク教徒は,英インド軍でも活躍している。シークは,15世紀に生まれたヒンズーの分派とされるが,偶像崇拝を禁じていた。しかし,ムガール帝国ではムスリムに弾圧され,信徒皆兵として,男子はシン(獅子)を名前としてつけた。タバコ・アルコールを禁じ,髭・頭髪を剃らないために,ターバンを巻いている。英軍は,少数派であるシークを英インド軍「傭兵」として重用し,民族の分断・統治を行った。日本軍も,独立を名目に戦力拡充,英領インド統治の混乱を画策し,シークをインド国民軍兵士として用いた。

◆日本陸軍の歩兵,戦車,砲兵の進撃を助けたのは,工兵部隊と自動車・鉄道だった。自動車道路も使用されたが,マレー半島を縦断する鉄道や橋梁を占領,修復して,前線部隊に対する迅速な補給を行った。英インド軍の陣地を制圧しながら、60日以内に千キロ以上の進撃・補給を進め,1942年1月末には,シンガポール対岸のジョホールバルに到達できたのは,山下将軍の電撃戦,それを可能にした鉄道利用にあるといえる。そして,日本軍の英インド軍将兵に対する謀略,日本軍に協力したインド人兵士・インド独立連盟の在住インド民間人の支援も大きかった。

東南アジアでの反英宣撫工作活動

日本は、マレー半島、ビルマ(現ミャンマー)方面で英軍と戦ったが、その多くは、英領インドの(ターバンを巻く)シーク、ムスリム、ヒマラヤ山岳民グルカ兵(グルン人)など、英人将校に指揮された英インド軍で,経費は英政府が負担する。開戦直前の1941年12月7日『朝日新聞』には「風雲急をつげる 南方の軍隊」と題し、30万人のタイ陸軍を、戦車、飛行機などを日本から輸入し、猛訓練を行い「タイ国人のタイ国へ」の心構えができているとした。

他方、インド兵30万は、航空兵、戦車兵の訓練も行って、身体も大きくて立派だが、無学の兵隊が多く、機械化部隊に加わるのを喜ばないと劣位に置いた。「マレー土人を集めたマレー軍隊」は、近代化された訓練は受けておらず、愛国心は持っていないと蔑視した。アジアの盟主を自認した日本は、植民地人は戦意が低く、戦力は低いと軽視していたが,これは民族差別・大和民族の優位性という自民族中心主義(エスノセントリズム)の反映だった。


写真(左):1941年10月,シンガポールで3インチ迫撃砲の訓練をする英軍マレー人将兵
:Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Men of the Malay Regiment training with a 3-inch mortar at Singapore, October 1941.
写真(右):1941年10月,シンガポールで銃剣訓練をする地元のマレー人義勇部隊:Photographer: Palmer (Lt) War Office official photographer Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Men of the Malay Regiment, recruited from local native volunteers, at bayonet practice on Singapore Island, October 1941. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。



写真(左):1941年11月,7.7ミリルイス機銃を構える訓練中のシンガポール志願兵
:Photographer: Palmer (Lt) Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Recruits of the Singapore Volunteer Force training with a Lewis gun, November 1941.
写真(右):1941年10月17日,シンガポールでノースオヴァー計画のデモンストレーションをする第2ゴードン・ハイランダーズ:シンガポール要塞司令官ケーツ・シモンズ少将の査察を受けている。Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Men of the 2nd Gordon Highlanders demonstrate the Northover projector to Major General F. Keith Simmons, GOC Singapore Fortress, and other senior officers, 17 October 1941. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。



写真(左):1944年3月-7月,アラカン戦線の第7ラジプート連隊第二大隊:An Indian infantry section of the 2nd Battalion, 7th Rajput Regiment about to go on patrol on the Arakan front, Burma. インド国民軍のインド人は,大日本帝国とともに英インド軍と戦った。この意味で,日本の植民地解放,白人支配からのアジア解放の大儀の実例といえ,注目される。ただし,連合国の側に立ったファシズム日本軍と戦ったインド人は,その100倍以上いたことを忘れることはできない。
写真(右):コヒマで戦車に搭載してあった機銃を外して使用する英軍歩兵:The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: British infantrymen use a dismounted tank machine gun at Kohima. No 9 Army Film & Photographic Unit 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


写真(左):日本軍の側に立ってインド独立を目指したインド国民軍のシークの兵士:シーク教は,トラック運転手,兵士が多く,インド国民軍にもターバンを巻いたシーク兵士が目だった。For India: A soldier of Azad Hind Fauz readies himself for the freedom struggle.ヒンゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House エニグマ オブ ネタジ・チャンドラ・ボース引用。

1941年11月淡路事務所の指導の任務を離れた藤原岩市少佐は、F機関の長になった。主任務は、主にシークの反英組織の支援であり、マレー人・華僑への工作にも従事した。中核メンバーは20名に過ぎない。タイ南部で待機していたF機関は、大戦勃発とともに,インド独立連盟の工作員を伴い、前線から浸透した。現地での謀略・宣撫工作には、現地の反政府活動組織、日本人居留民・駐在員,現地住民の協力も受けた。

日本軍は,インド独立連盟と共に,マレー方面の作戦で、現地在住インド人(印僑)、日本軍に対峙する英インド軍の戦意を挫き、日本軍に協力させようとした。白人支配からアジアを解放するという日本のプロパガンダは、民族独立の目標に適ったものであった。シンガポール陥落後、大量の英インド軍兵士を捕虜にした後は、帰順したインド人兵士を基幹に、インド国民軍(INA)を編制し,後にインド婦人部隊も結成した。 英インド軍として戦ったインド人は,高い給与,待遇に魅力を感じていただけかもしれない。が,戦場で勇敢に戦った部隊も少なくない。インドの自由,自治,経済的繁栄,家族の生活維持といった視点から,日本軍将兵と戦火を交えたのであろうか。

マレー作戦で日本軍の捕虜となったモハン・シン大尉Mohan Singhらの協力で,日本軍は,英インド軍将兵を連合国から離反させた。1942年2月15日のシンガポール陥落後,英インド軍の大量の捕虜を編入した大規模なインド国民軍が編成された。

◆米英白人によるアジア植民地支配からの解放という大儀は,魅力的だ。しかし,中国大陸における日本軍は,中国を半植民地化していた米英仏,ソ連を駆逐するために軍事力を行使したことは無かった。対中戦を有利に進めるために,米英の利権に格段の配慮をし,ソ連とも衝突を回避しようとした。このような親米英外交を踏まえれば,日本軍が米英仏の支配を駆逐し,アジア植民地を解放するというのは,夢のような話だった。ただし,自由という言葉は使わなかった。

4.日本軍は,1942年2月8日,ジョホール水道を越えて,シンガポール本島を攻撃した。そして,ブキテマ高地で苦戦したが,2月15日,英国のマレー軍総司令官アーサー・パーシバル中将が降伏し,シンガポールが陥落した。英国の東洋支配の牙城を攻略した山下奉文将軍は,「マレーの虎」として国民的英雄になった。大本営は,シンガポール陥落で戦争の大局が決したと報道した。

写真(右):戦後,マニラ軍事法廷の山下奉文将軍:シンガポール攻略の英雄となった山下大将は、二・二六事件反乱軍皇道派と親密な関係にあったとされ,東條英機首相からは遠ざけられていた。そこで,内地に錦を飾ることを許されないまま,満州に配置された。しかし、戦局悪化の中で,その人材が再評価され,1944年,第十四方面軍司令官に就任,フィリピンに赴任した。しかし,前司令官の黒田重徳中将を引き継いで第十四方面軍司令官に就任したのは,マッカーサーがレイテに上陸する1ヶ月前,1944年9月26日だった。レイテ決戦には反対し,ルソン島での決戦を主張したが,大本営と南方軍総司令官寺内寿一元帥の圧力で、予定になかったルソン島での決戦を強いられた。フィリピン占領中の捕虜虐殺,民間人虐殺の責任を咎められて処刑。Japanese War Crimes Trials. Manila: ca. 1945 - ca. 1948 ARC Identifier 292615 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

1942年1月31日、日本軍第二十五軍司令官山下奉文中将,軍参謀長鈴木宗作中将(1944年レイテ戦に参加)は,隷下にある,近衛師団(師団長西村琢磨中将),第五師団(師団長松井太久郎中将),第十八師団(師団長牟田口廉也中将,1944年インパール作戦を指揮)に対して,シンガポール攻撃準備を命令した。

1942年2月7日、日本軍はジョホール水道の東部から陽動攻撃をした。そして翌2月8日、日本軍は,ジョホール水道の西部を越えて,シンガポール島に上陸,本格的な攻撃を実施した。

第二十五軍がシンガポール攻略戦(1942年2月9日〜2月15日の7日間)で鹵獲したのは,野砲・山砲300門,機関砲100門,要塞砲54門,速射砲108門,迫撃砲180門,重機関銃2500丁以上,対戦車銃63丁,自動小銃800丁,小銃6万丁,小銃弾3361万発,機関車・貨車1000両,自動車1万両,戦車・装甲車200台,軍用電話600個だった。つまり,それ以上兵器を英軍は保有し,日本軍に対峙していた。英インド軍の兵力は,イギリス・オーストラリア兵士5万人,インド兵士5万人ほどと推測できる。
日本軍の兵力は,近衛師団1万2649人,第五師団2万2206人,第十八師団1万5353人だった。

シンガポール南端を防衛するセントーサ島要塞砲が南海岸を向いていたのは,海上からの攻撃に備えたもので,背後のジョホール水道を越えての攻撃を予測しなかったわけではない。来寇する艦艇を砲撃する海岸砲(沿岸砲)の場合,コンクリート壕に入った砲台であれば,射界は制限される。360度回転可能な砲塔あるいは露天砲台であれば,射界は広い。ただし,地形の関係で途中に障害物があれば,シンガポール島内の敵を自由に砲撃することはできない。
しかし,英軍は,要塞砲の一部を内陸に向けることができ,マレー半島にジットラ・ライン陣地,シンガポール本島の北側高地であるビキテマ高地に防衛線を構築していた。


写真(左):1940年8月20日,英国本土航空決戦時のロンドン配備の4.5インチ高射砲
:1938年採用の口径113ミリ,4.5インチ砲だが実際は4.45インチ。The rate of fire of the Mk V was 24 rounds per minute when power-loaded, 12-14 when hand-loaded, and up to 18 in burst mode when hand-loaded. 英海軍の艦艇用対空砲を固定式の陸上高射砲として採用。Photographer: Console (Capt) War Office official photographer Collection No.: 4700-37 Description: 4.5-inch gun crew take post at Clapham Common in London, 20 August 1940.
写真(右):1939年11月,英本土の9.2インチ榴弾砲:1913年制式の旧式榴弾砲で,砲弾重量290ポンド(131kg),口径9.2インチ(233.7ミリ),仰角15°- 55°,初速362m/s最大射程1万ヤード(9,199m)。シンガポール要塞には旧式砲が多数あった。Photographer: Console (Capt) War Office official photographer Collection No.: 4700-37 Description: 9.2-inch howitzer and gun crew of the 5th Heavy Battery, Royal Artillery, at the School of Artillery at Larkhill, Wiltshire, November 1939. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


2月9日零時過ぎ,日本の第十八師団は,師団砲兵の山砲36門の援護の下,ジョホール水道を舟艇で越え,シンガポールに上陸した。砲撃後は,陸軍の飛行第75戦隊,独立飛行第71中隊の軽爆撃機が飛来,第十八師団の上陸地点周辺に,次々に翼下の爆弾4個を投下した。攻撃延べ機数は200機に達したという。英軍は対空砲火で迎撃したが,あまり有効ではなかったようだ。

第114連隊(小久久大佐)に,7時までにテンガ飛行場を占領せよと命令した。携行した火砲37ミリ速射砲2門だけだった。夜間,敵の反撃も受けたために,牟田口師団長も橋本参謀も友軍のある位置を把握できず,牟田口師団長は敵の手榴弾攻撃で負傷した。

第十八師団・橋本洋参謀は,部下を「何をグズグズしている」といって督促する拙速な命令を発し続けたために,第五指団の作戦区域にも入り込んでしまった。攻撃第一日の連隊の戦死傷者は200名ほどだった。 近衛師団1万3000人は,2月7日,ジョホール水道のウビン島に陽動上陸し,シンガポール本島には,2月9日2345から上陸を開始した。しかし英軍は石油を使った火災を発生させ,第4連連隊は舟艇を75隻用意すべきところ25隻しかなく,大混乱に陥った。西村近衛師団長は,ジョホールの第十五軍司令部に行き,第五師団の後方からシンガポールに上陸することの認可を求めた。山下軍司令官らは,すでにジョホール・バルからシンガポール島に渡っていたが,これを許可した。が,直ぐに近衛師団は予定どうり進撃中の電報が入った。辻政信参謀は,狼狽したような近衛師団を評して「シンガポール戦唯一の醜態」と決め付けた。
しかし,第二十五軍司令部は,南進の命令を近衛師団に与えた後,2月10日,東進を命じ,翌11日には再び南進を命じるなど指揮は混乱していた。辻参謀は,「第五師団,第十八師団で勝てそうです」と山下軍司令官に答えていたが,これは英軍を過小評価していた。

写真(左):1941年,シンガポール本島に配備された英軍15インチ砲:1942年2月初頭,英軍は,シンガポール本島に上陸してくる日本軍を巨砲で射撃したが,それはこの15インチ(38.1センチ)砲弾だと思われる。Title: THE FAR EAST: SINGAPORE, MALAYA AND HONG KONG 1939-1945 Collection No.: 4700-10 Description: Prelude 1939 - 8 December 1941: One of Singapore's 15 inch coastal defence guns elevated for firing. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

2月10日1000,第十八師団牟田口師団長は,テンガ飛行場を占領した第114連隊に「今日のブキテマが最後の攻撃である。諸子の健闘を祈る」と直接命令を伝えた。このような師団長が実を表してする直接命令は,将兵にとって初めてのことだった。

日本兵は,英軍のゴム底ズック靴,背嚢(リュックサック)の山を見つけ,自分のものにした。銃撃戦後にインド兵が14-5名,両手を挙げて投降してきたが,負傷兵を見ていた兵士たちは「殺せ,殺せ」と異口同音に怒鳴った。

前線の日本軍第114連隊の将兵には,巨大な砲弾が,上空を北方に飛んでいくのが見えた。十五糎榴弾砲よりも大きく,要塞砲のようだった。シンガポールの要塞砲は,対艦船用で地上戦には使えないと,日本軍将兵は聞いていた。発射速度は1分間に1発程度だった。(⇒荒井三男(1984)『シンガポール戦記』図書出版)

英軍は,シンガポール島要塞砲を用いるだけでなく,ブキテマ高地に,6ポンド砲,25ポンド砲(88ミリ榴弾砲)など野砲を集中し,戦車・装甲車を配備して,日本軍の攻勢を防ごうとした。

2月11日,第二十五軍は,第十八師団をブキテマ高地に入れずに,第五師団のブキテマ突入を援護させた。そして,第五師団のブキテマ突入後,第十八師団をシンガポール西方要塞に向けて転進させてしまった。日本軍は,ブキテマ高地を攻略する寸前に,兵力を転用して,英軍に建て直しの機会を与えててしまった。紀元節当日にシンガポールを陥落させるという山下軍司令官の望みは絶たれた。


写真(右):1941年11月,香港島に配備された9.2インチ海岸砲
:Title: THE FAR EAST: SINGAPORE, MALAYA AND HONG KONG 1939-1945 Collection No.: 4700-10 Description: Prelude 1939 - 8 December 1941: An Indian gun crew man one of Hong Kong's 9.2 inch coastal defence guns shortly before the Japanese invasion.
写真(左):1939年11月,英本ケントの6インチ海岸砲:シンガポール要塞にも同型の海岸砲が配備された。Photographer: Console (Capt) War Office official photographer Title: THE BRITISH ARMY IN THE UNITED KINGDOM 1939-45 Collection No.: 4700-37 Description: 6-inch coastal defence gun at Chatham, Kent, November 1939. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


日本軍第十八師団第114連隊は,ブキテマ攻略を第五師団にまかせ,2月12日,151高地近くに進んだ。付近には華僑の家があり,若い女が洗濯をしていた。第十八師団司令部は,130高地の中腹にあった。師団長も,前線では岩や草むらの陰でこっそり用をたしたり,壕を掘って排泄したりした。

第114連隊到着後,30分ほどたって,突然,激しい砲撃が開始された。5-10秒おきの砲撃が20分ほど続いたが,英軍は演習場にも等しい島内を正確に射撃できたようだ。このような連続射撃を四回も受け,日本軍の戦車も砲撃位置に進入してきたために,砲撃を受けた。第十八師団司令部は,前戦の第114連隊に連絡をした。「師団長命令です。うしろのゴム林の小屋にいる女たちが怪しいから,連れて来い,とのことです。」

連隊本部の角平高級副官は,第114連隊本部の兵士に命じて,20-30歳くらいの女3人を連行し,三本の木に後ろ手に縛った。牟田口師団長は,砲撃に狼狽し,スパイが英軍砲兵に手引きしていると考えたようだ。

再び砲撃が始まったため,日本軍将兵は壕に退避したが,木に縛り付けられた女3人は悲鳴をあげた。砲撃終了後,壕からできてきた第114連隊長小久大佐は,軍旗を奉じている旗護兵に「突け」と命じた。連隊本部勤務の長井三男氏は,とっさに「おい,そこで突くと汚れるぞ」と大声で言った。連隊長は黙って壕に入っていったので,旗護兵はその場を離れた。(⇒荒井三男(1984)『シンガポール戦記』pp.152-154図書出版)

2月13日,第十八師団第114連隊に配属になった独立臼砲第14大隊第4中隊の兵士は,組み立て指揮の大型臼砲「ム弾」を2発もっていたが,小久連隊長は1発の発射準備を命じた。1時間かかって発射台を据え付けた。射程は950メートルしかないが,破片が半径750メートルも飛ぶという。角平高級副官は,臼砲の発射時刻を1110とし,前方の部隊に臼砲射撃の注意を伝えさせた。「ボーン」と軽い発射音がし,黒いずんぐりした砲弾が,頭を振って飛んでいった。「ドカーン」と爆弾と同じ炸裂音がした。

13日夜,榴弾砲,迫撃砲がブキテマの第五師団を絶え間なく砲撃した。第114連隊上空を通過する榴弾は,7.5センチ級よりはるかに大口径だったというから,25ポンド88ミリ砲弾だったのであろう。14日からは,第十八師団の前面に波状弾幕を張った。(⇒荒井三男(1984)『シンガポール戦記』図書出版 参照)


写真(左):1942年11月,25ポンド砲
:口径87.8ミリ,重量1.75トン,最大射角45度,射程8マイル(1万3000ヤード)の野砲で,簡単な構造で使いやすかった。Photographer: Ministry of Information Photo Division Photographer Smith Jack Title: BIRTH OF A GUN: THE PRODUCTION OF A 25 POUNDER FIELD GUN, 1942 Collection No.: 4700-27 Description: The completely fitted 25 pounder gun is tested for accuracy, both horizontally and vertically, on a specially fixed target at the end of the workshop. Factory worker Mr Redfern checks and tests the sights of the gun. Further Information: The original MoI 'background story' caption for this sequence of photographs reads: The 25 pounder has proved itself the best all round field gun in the world. It is as accurately made, by the finest craftsmen in the world, as any watch or telescope. The steel that goes into the barrel is manufactured by secret processes, by men with life-long experience of the job. Portions upon which accurate shooing depend are machined to the narrowest limits of 1/1,000 of an inch. The gun weighs 1 3/4 tons. The extreme elevation of the barrel is 45 degrees, and at that angle, with maximum charge, it hurls a projectile a distance of nearly 8 miles, or 13,000 yards. When the projectile leaves the muzzle at this range, the barrel recoils with a kick equivalent to five tons. Dr Boden, one of our experts, fired 600 rounds of armour piercing bullets at one of these shields from 500 yards, without even denting the surface. The 25-pounder is one of the simplest guns made.
HREF="http://www.iwmcollections.org.uk/qryPhotoImg.php">写真(右):1941年6月27日,北アフリカ戦線の英陸軍3.7インチ高射砲:砲弾重量 28ポンド(12.7 kg),口径94ミリ,初速792m/s,射程18,800 m,最大射高1万2,000 m,有効射高 9,000 m。シンガポール要塞にも同型の対空砲が配備された。Photographer: Vanderson (Lieut) No 1 Army Film & Photographic Unit Title: THE BRITISH ARMY IN NORTH AFRICA 1941 Collection No.: 4700-32 Description: A 3.7-inch anti-aircraft gun in the Western Desert, 27 June 1941 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。



写真(左):1941年11月,シンガポール志願兵の訓練:Photographer: Palmer (Lt) War Office official photographer Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: Recruits of the Singapore Volunteer Force in training, November 1941.
写真(右):1941年12月,シンガポール鉄道で運ばれるオードナンス25ポンド砲:1930年に3.45インチ(88mm)口径,重量25ポンド(11kg)の榴弾を使用する野砲が設計された。このオードナンス25ポンド砲が,1937年以降部隊配備され,シンガポールにも配備された。ブキテマ高地で,日本軍を苦戦させた。Photographer: Palmer (Lt) Title: THE BRITISH ARMY IN MALAYA 1941 Collection No.: 4700-50 Description: 25-pdr field guns and limbers ready to be transported up country on railway wagons, Singapore, December 1941. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


ブキテマの英軍は予備の英第18師団を投入,オーストラリア第22旅団,インド第44旅団を,ブキテマ南方で建て陣容を立て直し,火砲を有効に使って反撃した。前進してきた第五師団は英軍戦力を過小評価し,戦車も保有していた自己戦力に対する過信があったかもしれない。戦線は膠着し,2月14日には,日本軍の弾薬が不足し,攻撃力は明らかに低下してしまった。

1942年2月15日14時前,苦戦していた日本軍将兵の前に,英軍軍使として,英軍参謀長ニュービギン少将らが現れた。軍使一行は,シンガポール在住民間人の利益のために,本日16時(英国時間)をもって戦闘停止を提案し,婦女子の保護とシンガポール市庁舎における和平交渉をすること,それまで軍隊を移動しない,という文書を携行していた。

第21連隊速射中隊の田辺仁大尉は,この英軍の降伏軍使を第21歩兵旅団長・杉浦英吉少将に送り,そこから第五師団師団長・松井太久郎中将に,さらに第二十五軍司令官・山下奉文中将に報告がされた。

写真(左):1941年12月,マラヤ方面総司令官アサー・パーシバルArthur Ernest Percival中将(1887-1966):1939年,英遠征軍参謀長,1940年5月のダンケルクから英本土への撤退「ダイナモ」作戦に参加。1941年4月,マレー方面軍司令官に就任。1942年2月,シンガポールで降伏。1945年8月,日本軍捕虜の身から解放され,9月の戦艦ミズーリ艦上でも日本降伏調印式に出席。さらにマニラ軍事法廷で山下裁判にも参加している。Title: THE FAR EAST: SINGAPORE, MALAYA AND HONG KONG 1939-1945 Collection No.: 4700-10 Description: Prelude 1939 - 8 December 1941: Lieutenant-General A E Percival, General Officer Commanding Malaya at the time of the Japanese attack. Period:Second World War Further Information: Cropped image from K 1261. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

ニュービギン少将一行が,白旗を掲げて降伏交渉に現れたという報告を受けた山下軍司令官は,杉田中佐他2名を派遣した。攻撃が停滞していた時期,降伏軍使が現れたのことに,日本軍は,謀略ではないかと疑った。そこで,真意を確かめるために,山下軍司令官は,軍参謀・杉田中佐他2名を杉浦部隊本部に派遣,とめておいた降伏軍使に停戦交渉で決定すべき事項を文書にして手交した。

日本側の英軍への要求は,全面即時抗戦の停止,武装解除,行政機関の逐次日本軍への移譲,兵器・燃料・資材・建築物・地図・書類の破壊・隠滅の禁止,米国人・オランダ人・重慶(中国国民政府)側中国人の監禁と日本軍による保護,監禁した日本人の日本軍への交付だった。

第二十五軍参謀・杉田一次中佐は,降伏交渉を申入れた。英軍は,シンガポールの在留イギリス人の保護を優先して,抵抗能力が残っており,当分の間,持久戦が遂行可能だったにもかかわらず降伏した。杉田一次中佐は,1944年,大本営参謀として南方視察に参加,インパール攻略至難を打電することになる。

徹底抗戦,陣地死守が当然であり,将官が降伏命令を出すことが許されなかった日本軍にとって,十分な戦力を保持しているにもかかわらず,「あっさりと」降伏した英軍は,士気が低く,たとえ装備の上では優秀であっても,その戦力は小さいと,英軍を過小評価したようだ。


写真(左):1942年2月15日14時ごろ,ブキテマ南,英軍参謀長ニュービギン少将一行が,降伏軍使として,ユニオンジャック英国旗と白旗を掲げて現れた。
:英軍降伏軍使の出現の報告を受けた山下軍司令官は,杉田中佐他2名を派遣した。Title: THE FAR EAST: SINGAPORE, MALAYA AND HONG KONG 1939-1945 Collection No.: 5707-03 Description: The Japanese Campaign and Victory 8 December 1941 - 15 February 1942: Lieutenant-General Percival and his party carry the Union Jack on their way to surrender Singapore to the Japanese.
写真(右):1942年2月15日,シンガポールのファード・ビルで山下奉文中将(左正面着席)が英軍パーシバル中将(右手前)に降伏を迫る。ヒゲを蓄えているのが第二十五軍参謀・杉田一次中佐(中央立ち)。:山下将軍は,通訳を介した降伏交渉に痺れを切らしたのか、パーシバル将軍に降伏即断を迫り「イエスかノー」と発した。山下将軍は,シンガポール陥落後,満州方面の第一方面軍司令官に転勤となった。パーシバル将軍は降伏後,日本の捕虜となったが,戦後,解放され,1945年9月1日の戦艦ミズーリ艦上の日本降伏調印式に参加。Title: THE FAR EAST: SINGAPORE, MALAYA AND HONG KONG 1939-1945 Collection No.: 5707-03 Description: The Japanese Campaign and Victory 8 December 1941 - 15 February 1942: Lieutenant General Yamashita Tomoyuki and Lieutenant General A E Percival discuss surrender terms at the Ford Works Building near the Bukit Timah Road, Singapore.帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


1942年2月15日1830,二度目の軍使一行が,ブキテマのフォード工場に到着。英軍指揮官アサー・パーシバル中将,参謀トランス少将,ニュービギン少将,ワイルド証左と通訳が席に着いた。1900,第二十五軍司令官山下奉文中将は杉田忠佐など幕僚を連れて席に着いた。

山下「さきに軍使に渡した要求事項は見たか」
パーシバル「見た」
山下「前期の条件をさらに詳しくしたものが別紙である。それを実行してもらいたい」
パ−シバル「シンガポールは混乱している。非戦闘員もいるので,1000名の武装兵を残すことにしてもらいたい。」
山下「日本軍が進駐して治安を維持するから心配はいらない。」----
パーシバル「空白ができると市内は混乱し,掠奪が行われる。掠奪が行われ混乱が生じることは,日本軍にとっても,英軍にとっても,治安上好ましくない。1000名の武装解除は好ましくない。」
山下「日本軍は目下攻撃を続けているので,夜に入っても攻撃するようにしている。」
パーシバル「夜間攻撃は待ってもらいたい。」-----
パーシバル「シンガポール市内が混乱するから,1000名の武装兵はそのままにしたい。」
山下「夜襲の時間は?」
第二十五軍参謀・池谷半二郎大佐「午後8時です。」
パーシバル「夜襲は困る。」
山下「英軍は降伏するつもりなのかどうか?」
パーシバル「停戦することとしたい。」
山下「夜襲の時間が迫っている。英軍は降伏するのかどうか。イエスかノーかで返事せよ。」
パーシバル「イエス。1000名の武装兵は認めてもらいたい。」
山下「それはよろしい」
杉田「武装兵の配置は等分の間,と了解されたい。別紙にサイン願いたい。」

1942年2月15日,第二十五軍司令官山下奉文中将は,午後8時の夜襲と言うハッタリともとれる演出をし,英軍パーシバル(Arthur E. Percival)中将を降伏させた。

2月15日夕刻,第十八師団代114連隊の将兵は,後方でどよめきが起こったのを知った。小久連隊長は敵襲を警戒し,足を止めて振り返った。「万歳,万歳」驚くほど大勢の声が津波のように押し寄せてきた。「歩兵第114連隊,敵降伏せり,全身待てえ」角平副官の当番兵の神田上等兵が走りながら叫んだ。時計は2月15日2020で陽は沈んでいたが,日暮20分前だった。前方の三階建ての家屋に白旗が出た。しかし,中国の戦闘で敵が偽装降伏したことを思い出し,突撃態勢をとった。しばらくして,敵兵が手をあげて次々投降してきた。敵兵を集めてゆくと,中隊より多い人数になった。(⇒荒井三男(1984)『シンガポール戦記』pp.181-193図書出版 参照)

山下将軍は,東洋の英植民地の牙城シンガポールを陥落させた英雄となり,「マレーの虎」ともてはやされた。しかし,メディアでの花形扱いとは裏腹に、東條英機首相から皇道派の人気将軍として敬遠され,1942年7月,内地に錦を飾ることなく,満州牡丹江の第一方面軍司令官に転属となった。

1942年2月16日1730,侍従武官がシンガポールに到着,天皇の聖旨,皇后の令旨の伝達があった。
「南方軍総司令官(寺内大将)以下一同が,幾多の困難を克服して,迅速に戦果を収め,敵の東亜に於ける根拠地を覆滅し,以って皇軍の威武を中外に宣揚しあるは,深く満足に思う。出師目的の貫徹は其の前途尚(なお)遼遠なり。各自一層奮励努力愈々(いよいよ)皇軍の精華を発揮し其の重責を全うするよう申し伝えよ。」

第二十五軍のシンガポール攻略戦(1942年2月9日〜2月15日の7日間)
鹵獲品戦果:野砲・山砲300門,機関砲100門,要塞砲54門,速射砲108門,迫撃砲180門,重機関銃2500丁以上,対戦車銃63丁,自動小銃800丁,小銃6万丁,小銃弾3361万発,機関車・貨車1000両,自動車1万両,戦車・装甲車200台,軍用電話600個,飛行機10機
捕虜:英オーストラリア兵士5万人,インド兵士5万人
日本軍の損害:戦死1713人,戦傷3378人,死傷者合計5091人

マレー半島作戦(1941年12月8日〜1942年1月31日の55日間)の日本軍の損害は,戦死1794人,戦傷2772人,死傷者合計4566人だった。シンガポール攻略戦は激戦だった。

『アサヒグラフ』1942年3月4日発行は,「身よ!暴英潰滅の姿−白旗を掲げて我が軍門に降る」と題して「断末魔の足搔きを続けるシンガポールにも遂に最後の日は来た」「敵英国が過去百二十年にわたってここに拠り,あらゆる搾取を敢えてしたシンガポールは,その名も昭南島と改められ,わが新たな拠点とし更正するに至ったのである」と述べた。

『アサヒグラフ』1942年3月18日発行は,「新嘉坡俘虜 九万五千の大行進」と題して「兵器の威力を恃んで,わが軍の日本魂を知らなかった。」「ラッフルの銅像前を俘虜が行進してゆく。若し銅像に生あるなら,この有様を見て泣かずには居られまい。」「昭南市ダッフル・カレッジ構内には,英本国兵がぎっしり詰め込まれ,わが軍の手で武装解除されたている」と述べた。

シンガポールの英インド軍降伏で,日本軍は,インド人兵士6万5000人を捕虜としたともいう。そこで,インド独立連盟・インド国民軍の協力を得て,日本軍はインド人捕虜2万5000人をインド国民軍に編成した。インド国民軍の司令官は,インド国民軍将兵の諒解を得て少将に昇進したモハン・シン大尉である。


写真(右)1943年2月,ドン軍集団司令官マンシュタイン元帥,アドルフ・ヒトラー総統・国防軍最高司令官,ドン軍集団参謀長テオドール・ブッセ少将(1897–1986) ,A軍集団司令官エヴァルト・フォン・クライスト元帥(1881-1954):ヨードル将軍は,1938年3月罷免された陸軍総司令官ブロンベルク将軍にかわって,新設の国防軍最高司令部作戦部長に就任。ハルダー将軍は,1938年9月、辞任したベック参謀総長(1944年ヒトラー暗殺未遂に関わり自決)の後任。ハルダーも,1942年9月,ヒトラーの意に反したため解任。
Adolf Hitler loses support of some generals: Adolf Hitler and his generals study maps in February 1943. From the left are General Field Marshal Erich von Manstein, Adolf Hitler, General Theodor Busse, and General Field Marshal Ewald von Kleist. Hitler had made himself supreme military commander early in the Nazi reign. In December 1941, he became commander-in-chief of the German army. By 1943 devastating failures on the Eastern Front and in North Africa had convinced some German generals that they could save their nation only by getting rid of the Führer. However, a bomb placed on a plane carrying Adolf Hitler to Smolensk in March failed to go off, and several other attempts on the Führer's life also failed. HowStuffWorks引用。 

ヒトラー総統は,シンガポール陥落を予測してか,1942年2月6日のヒトラー卓上談話(テーブル・トーク)で次のように新秩序と国家戦略を描いた。

「第一級の軍事大国の日本が,初めて我々の側についた。日本との同盟を破棄してはいけない。日本は信頼に値する国である。極東(アジア)を日本に与えれば,日本は(英独)和平には反対しないだろう。日本にはインドを併合する力は無く,オーストラリアやニュージーランドを占領したいとも思わないだろう。我々との連携は,日本にとって安心材料だ。もはや何ものも恐れる必要が無くなる。日本とドイツには共通点が一つある。どちらの国も,(占領地を)消化する作業に五十年から百年を必要としていることだ。我々がロシアを,日本は極東を併呑するのである。日本の参戦で我々の戦略も変更が可能となった。近東には,スペイン経由でも,トルコ経由でも行くことが出来る。」


◆シンガポール陥落については,「屍山血河の激戦」「劫火燃ゆ不落の牙城 積悪決算の一大修羅場」と敵への残虐なまでの殲滅戦を謳歌した。敵の住民・民間人への軍事的な配慮はほとんど無かった。2月16日,シンガポール陥落の翌日,「大東亜の大局決す 帝国,不敗の態勢獲得」と短期決戦で対米英戦争の勝敗が決したかのような陸軍報道部長大平秀雄大佐の談話が載った。太平洋戦争は始まったばかりであり,大局が決したというのは,完全な勘違いだった。

現代でも,シンガポール攻略,その英雄山下将軍に対する評価は,さまざまである。
安岡正隆(2008)『山下奉文正伝―「マレーの虎」と畏怖された男の生涯』の光人社内容紹介では「西洋人の東洋支配を終わらせる転回点ともなったシンガポール攻略」とある。
太田尚樹(2005)『死は易きことなり―陸軍大将山下奉文の決断』講談社内容紹介では「昭和天皇への思慕、東条英機との確執……「マレーの虎」山下奉文はなぜあの凄惨なシンガポール華僑虐殺の断を下したのか。「情」と「理」の狭間で揺れる司令官の葛藤」「人間教育は、かわいい赤ちゃんに新しい生命を与える哺乳開始から始めなければなりません。私はこれを<乳房教育>とでも言いたいのです。どうかこのわかりきった単純にして平凡な言葉を、みなさんの心のなかに留めおいてくださいますように。これがみなさんの子供を奪った私の最後の言葉であります」

5.1942年2月15日のシンガポール陥落後,日本の研究者は,ラッフルズ図書館・博物館,ラッフルズ植物園の貴重な資料を保護した。しかし,同時に,2月21日から,シンガポールの敵性住民・抗日華僑の摘発,処罰を行った。これは,シンガポール華僑粛清事件と呼ばれる。

1942年2月17日、日本はシンガポール島を昭南島と、シンガポール市を昭南特別市と改名、翌18日から帝国領土として軍政を施行。英領マラヤと同じく,独立させることはなく,1945年8月18日まで、軍政の下においた。

大本営は,昭南と改名したシンガポール陥落の入城式について,第二十五軍司令官山下中将に問い合わせてきたが,山下中将は,2月20日に,昭南入城式に代わる慰霊祭を行うが,これ以外,軍の行事は一切行わないと返答した。慰霊祭にはマレー上陸以来の3507柱の英霊が祀られた。

写真(左):旧ラッフルズ図書館・博物館Raffles Library and Museum(現在のシンガポール歴史博物館 Singapore History Museum):1960年に図書館から博物館が分離,シンガポール独立の1965年以降,国立博物館となる。第二次大戦中,田中舘秀三の助力で,博物館と其の資料が保護されたことを,現在,博物館でも評価している。The Singapore History Museum was initiated as a double entity, Raffles Library and Museum, in 1887 by the Governor of the Straits Settlements, Sir Frederick Weld. The Museum became known for its natural history collection of Southeast Asia as well as its ethnology and archaeology collections. During World War II (1942-5), the Raffles Library and Museum managed to stay intact under the charge of Japanese vulcanologist Professor Hidezo Tanadate(田中舘秀三), who was on friendly terms with General Yamashita, the Commander of the conquering Japanese Army. The Museum separated from the library in 1960 and was renamed the Raffles Museum. Following Singapore's independence in 1965, the name National Museum was adopted to reflect the Museum's pivotal role in nation building. ビクトリアスクール'Journey to Singapore's Yesteryears' International Schools CyberFair 2003 Project,Victoria School引用。

世界的な文化施設であるラッフルズ博物館・図書館を接収、昭南博物館と改称、軍の管理下に置いた。しないの建築物から図書をこの博物館に移したが、これには3月から、九州帝国大学教授江崎悌、東京帝国大学教授本田正治、大塚弥之助など民間研究者も参加した。後に、井伏鱒二、戸川幸夫も関与したという。

日本の管理の下に置かれたラッフルズ博物館・図書館は、歴史的にも貴重な図書を毀損から守る役割も果たした。同時に昭南(ラッフルズ)博物館・図書館は、南方防疫給水部と関係が深く、南方における疫病、薬品、害虫、作物栽培から細菌戦にも関わっていたようだ。(加藤一夫・河田いこひ・東條文規(2005)『日本の植民地図書館−アジアにおける日本近代図書館史』社会評論社 参照)

日本の管理の下に置かれたラッフルズ博物館・図書館のE.コーナーはケンブリッジ大卒で,ラッフルズ植物園において研究生活を10年以上続けていた。そこで,ラッフルズ博物館・図書館に所蔵されている資料の毀損をおそれて,日本軍に保護を請願した。そして,東北帝国大学教授田中舘秀三と会って博物館・図書館,植物園が破壊されないように保護を要請した。田中舘は,東京大学理学部教授の貴族院議員田中舘愛橘の養子で,地学者だった。田中舘秀三は,山下将軍の友人という立場を吹聴し,昭南図書館・博物館の責任者を自称した。田中館の手腕もあって,シンガポール在住の華僑による,昭南図書館・博物館に対する支援を得ることができた。

1942年1月ごろ,陸軍事務嘱託(マレー軍制顧問)の発令を受けた侯爵徳川義親は,軍政顧問として活躍し,田中舘の図書館運営に理解を示した。そして,徳川義親は,昭南図書館・博物館の総長となった。京都帝国大学教授郡場寛をラッフルズ植物園の園長とした。そして,解放した英国人研究者を図書館・博物館で働かせた。新英派の昭和天皇の意向があったという指摘もある。
1943年7月,田中舘秀三は帰国した。(⇒戸川幸夫(1990)『昭南島(シンガポール)物語〈上・下〉』読売新聞社 参照)

<敵性華僑・抗日華僑の粛清>
治安対策の一環として,日本軍は反日と目される敵性住民を選別し,連行,収監・抑留あるいは処刑したことがあった。1942年2月のシンガポール攻略に当たっても,反日華僑の粛清があった。

第二十五軍司令官山下奉文中将は,シンガポール占領直後の1942年2月17日夜、第五師団隷下歩兵第九旅団長・河村参郎少将を昭南警備司令部司令官に任じ,2個大隊と既に市内警備中の憲兵隊を指揮下に置いた。山下将軍は,敵性華僑の選別・処断の必要性を説明し,細部は鈴木宗作参謀長の指示によれとした。鈴木参謀長は,「敵性と判断したものは即時厳重処分せよ。厳重処分については,種々の議論もあるだろうが,軍司令官においてこのように決定されたので,本質は掃討である。命令通りの実行を望む。」
と述べた。

1942年2月20日の日本軍慰霊祭が終わった翌日から,シンガポール(昭南市)では敵性華僑の掃討,粛清が始まった。中国人男子を呼び集め,蒋介石の支持者,資産家,教員・メディア関係者などインテリ,共産党員などの検問を行い、疑わしきは処断する方針で,検証大虐殺事件とも呼ばれる。この抗日華僑粛清は,第一回目は,2月21-23日に島内20数箇所で,第二回目は,2月末ごろ,ジョホール水道付近であわせて1万人が処刑されたという。

戦後,シンガポール華僑粛清の戦犯栽判が、1947年3月に開催され、4月に判決が下った。粛清の責任をとって,昭南警備隊司令官河村参郎少将,第二野戦憲兵隊長大石正幸中佐が絞首刑にされた。二人とも,華僑粛清には消極的で,上官の命令に従った。他方,山下軍司令官は,マニラの戦犯裁判で不入りピンでの虐殺の責を追って死刑,鈴木宗作参謀長は,1944-45年第35軍司令官としてレイテ戦を戦ったが,ミンダナオ島に小舟で脱出途上,死亡。辻政信参謀は,終戦時バンコクにあったが,逃亡,1948年に帰国し潜伏。1952年衆議院議員,1961年インドシナで失踪。

敵性華僑の粛清を立案・指導したのは,第二十五軍参謀辻政信中佐で,1942年3月10日ごろ,シンガポールでの憲兵隊講話で「シンガポールが華僑の本場で,胡文虎,陳嘉庚など一派が重慶政府と通じ,絶えず厖大な献金をしているほか,排日排貨の元凶的存在であるので,これを徹底的に粛清するに決し,入市に先立ちこの弾圧を強行した。シンガポールで約六,七千,ジョホールで約四,五千命は処刑したであろう」と述べた。(⇒荒井三男(1984)『シンガポール戦記』pp.238-239図書出版) 

林博史「シンガポール華僑粛清」『自然人間社会』 第40号 関東学院大学経済学部教養学会によれば,粛清は次のような経緯をたどって実施された。
マレー半島ジョホール州にあった第2野戦憲兵隊長・大石正幸中佐は、第二十五軍参 謀長・鈴木宗作中将より「軍はシンガポール占領後華僑の粛清を考えているから相応の憲兵を用意せよ」との指示をうけた。これは,1942年1月28日から2月4日までの「ことで,シンガポール島上陸の時点で、華僑を粛清する準備がされていた。 

ブキテマにいた歩兵第9旅団河村少将は、シンガポール陥落翌日18日朝、ラッフルズ・カレッジにおかれた軍司令部に出頭,山下軍司令官からシンガポール(沼南)警備司令官警備司令官に任ぜられた。そして,シンガポールの治安は非常に悪く,抗日中国人の地下活動は広がって、軍の作戦を妨げているので,抗日分子を一掃すべし,掃蕩作戦を命じられた。 

掃討対象は,?元義勇軍兵士,?共産主義者,?略奪者,?武器を持っていたり隠している者,?日本軍の作戦を妨害する者、治安と秩序を乱す者ならびに治安と秩序を乱すおそれのある者,だった。
掃蕩方法は,?哨兵線を張り、?区域内の全中国人を指定した場所に集め現地住民の協力を得て抗日分子を選別,?潜伏場所の捜索,?抗日容疑者の分離,?抗日分子の秘密裏の処分。処分するためにシガポール内の適当な場所を使う,とされた。

鈴木参謀長は「中国人を殺すことについて議論や意見があるが、軍によって綿密に検討され、軍司令官によって決定されたものである。さらに言えば、期間を延長することは許されない」と述べた。
粛清任務の監督とされた辻参謀は抗日分子の名簿をもっており,作戦の話をした。その後,河村旅団長は鈴木参謀長に会いに行ったが,鈴木参謀長は「このような困難で不愉快な任務を与えて申し訳ない」「軍司令官が最終決断をしたのだ」と任務遂行を促した。

河村警備司令官が18日午後、憲兵隊本部の大石憲兵隊長を訪ねると,大石憲兵隊長も期間延長を求めた。が河村少将は、延長はできないことを説明した。
18日夕刻、大石憲兵隊長は,分隊長以上を憲兵隊本部に集合させ,検問実施命令を下達。3日間で推定70 万人のシンガポール市民を200人の憲兵で検問するのは困難なため,2月19日の大日本軍司令官の名で「昭南島在住華僑18歳以上50歳までの男子は来る21日正午までに左の地区に集合すべし。違反する者は厳重処罰さるべし。尚各自は飲料水及食糧を携行すべし。」と布告した。

2月21日より7地区で検問開始。憲兵隊は元義勇軍兵士や元共産主義者に覆面させて、成人男子華僑から抗日分子容疑者を摘出させ,あるいは抗日団体名簿を使って関係者を検挙した。
容疑者は補助憲兵に引き渡され,トラックで東海岸などに運び射殺した。遺体は海に流した。あるいは溝を掘らせた前で処刑し埋めた。セントーサ島周辺に船で遺体を運び海に投棄したこともあった。

近衛師団通信隊無線小隊長総山孝雄氏によると、歩兵小隊が補助憲兵となり検証をおこなっていたところ、軍参謀から電話で「五師団はすでに300 人殺した。十八師団は500 人殺した。近衛師団は何をグズグスしているんだ。足らん足らん。全然足らん」とどやしつけられた。小隊長は師団から「とにかく軍への申し開きができるよう、何でもよいから数だけ殺してくれ」といわれ,人相で振り分け,100人単位でトラックで運んでチャンギ要塞の近くの海岸で機銃掃射,死体を海に捨てた。処刑人数を水増しして軍に報告したという。

大谷憲兵中佐は「華僑弾圧は、第一、その後におけるマライ地区治安不良の重要な原因をなし、第二に華僑軍政不協力となって酬いられることとなった」と,治安が悪化したことを批判した。大西憲兵中尉は「現住民特に華僑を恐怖のどん底に陥れ、生気を失わせたのも当然のことであるが、その他の中立国人、マレー人、インド人などに対しても、日本軍に対する信頼感を失わしめ、恐怖感を抱かせるに至り」と大東亜共栄圏・アジア人の連帯を失わせたと指摘した。(林博史「シンガポール華僑粛清」『自然人間社会』 第40号 関東学院大学経済学部教養学会引用終わり)

◆日本軍は,日中戦争で中国国民政府,中国共産党と戦い続けており,彼らを支援する華僑を敵性住民と見ていた。そこで,シンガポール攻略後,抗日活動を企てる恐れのある華人を,予防措置として処刑した。しかし,恐怖による支配,テロは,中国本土と同様,かえって敵性住民を増やし,抗日活動を激化させた。

◆緒戦で日本軍が勝利を重ねていた時期でさえ,米英の白人によるアジア植民地支配の解放を謳い,大東亜共栄圏の確立を唱えても,自由を大儀の中に加えることはしなかった。そこで,住民を帰順させ,日本に協力させることが主眼になった。戦局が悪化し,世論の離反,労働力の徴用,資源の徴発など総力戦にアジアの住民を協力させようとすると,状況は益々悪化した。日本軍に対するテロ,日本軍によるテロも頻発するようになる。


6.1942年2月15日のシンガポール陥落後,日本軍は,インド独立を目指すモハン・シン大尉の協力で大規模なインド国民軍を編成した。1943年2月9日,ドイツに亡命していたインド国民会議元議長スバス・チャンドラ・ボ−スは,ドイツUボートU-180でキール港を出航,インド洋上で日本海軍の伊29潜水艦に乗り換え,5月6日スマトラのサバン島に到着,そこから空路,日本に向かい,5月16日,日本に到着した。1943年10月21日,ボースを首班とする自由インド仮政府が成立,25日に対米英宣戦布告をした。11月6日の大東亜会議では,アンダマン・ニコバル諸島を自由インド仮政府に帰属させることが公表された。1943年12月29日,ボースはアンダマン諸島を訪問した。


写真(左):1933年,オーストリアのバッド・ガステンのスバス・チャンドラ・ボースSubhas Chandra Bose:Gathering Strength: Convalescing Subhas after an operation at Bad Gastein in Austria in 1933. (HT Library)
写真(右):1937年3月,エミリエ・シェンケルとチャンドラ・ボース:ボースには,5人の兄弟,4人の姉妹があった。ボースとエミリエとの間には,娘アニタAnitaが生まれている。Netaji Subash Chandra Boseとネタジをつけることもある。Emilie Schenkl and Subhas Bose at Badgastein (March 1937)ヒンドゥスタン・タイムズハウスHindustan Times House引用。



写真(左):1940年,チャンドラ・ボースSubhas Chandra Boseとインドムスリム連盟総裁モハメッド・アリ・ジンナ:インド国民会議は議長を務めたボースは,インド自治・独立の盟主だった。Across Political Spectrum: Subhas Chandra Bose in talks with Mohammad Ali Jinnah, president of All India Muslim League, in June 1940, in the latter's Malabar Hills house in Bombay. (HT Library)
写真(右):ドイツ空軍将兵とチャンドラ・ボース:ボースは, 第二次大戦でドイツが開始されると,大英帝国にとって大きな不安材料となり,それがインド独立にプラスになると考えた。特に,1940年にフランス,オランダが降伏すると,アジアの独立が一気に現実的な話題となった。インド帝国総督は,1938-39年にボースが中国に出国するのを許さなかった。したがって,ボースがドイツのベルリンやソ連のモスクワを訪問するのを許すはずが無かった。それどころか,武装蜂起を警戒して,ボースを再び収監しようとした。

写真(右):1942年,ポツダムで宣誓する自由インド軍団(武装親衛隊):ターバンを巻いたシーク兵士たちが,宣誓している。ヒトラーが総統に就任して以来,ドイツ国防軍,武装親衛隊Waffen-SSは,ヒトラー個人に忠誠を誓う宣誓を行っている。チャンドラ・ボースは,インドからドイツに亡命し,そこで親衛隊国家長官ヒムラーの支持を得て,英インド軍インド兵士捕虜を,反英国の武装親衛隊に改編した。Reichsgebiet.- Vereidigung? von Freiwilligen der Legion "Freies Indien"; Prop.Ers.Abt. Potsdam. Aschenbroich撮影。ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用(他引用不許可)。

シンガポールの英インド軍降伏で,日本軍は,インド人兵士6万5000人を捕虜としたともいう。そこで,インド独立連盟・インド国民軍の協力を得て,日本軍はインド人捕虜2万5000人をインド国民軍に編成した。インド国民軍の司令官は,インド国民軍将兵の諒解を得て少将に昇進したモハン・シン大尉である。

実は同時期の1942年,インド国民会議派元議長スバス・チャンドラボースは,ナチス・ドイツに亡命し,インドの自由と独立を目標に反英運動を展開していた。対ソ戦の早期勝利の見込みは,1942年初頭にはなくなっていたから,ドイツは長期戦に備えなければならず,そのために占領下にある諸民族を動員しようと画策した。

親衛隊国家長官ヒムラーは,ヒトラーの支持を得て,反ボリシェビキ・共産主義を目的とした武装親衛隊を,反共ヨーロッパ十字軍に仕立て上げて,そこに占領下の諸民族を兵士として参加させようと図ったのである。

チャンドラ・ボースは,この動きをインド独立のための反英闘争に利用しようとし,英インド軍インド兵士でドイツの捕虜となったものを,反英闘争のための戦士として糾合しようとした。

インド独立は,日本にとっては,最上のプロパガンダとなった。捕虜のインド兵を選別し編成したインド国民軍もできた。日本軍のインド侵攻によって,インド本土で再び1957年セポイ乱(インド大反乱)が起こるかもしれない。日本軍の真意は,インド独立より,英領植民地インドの混乱と英インド軍の反乱にあったようだ。

写真(右):1942年,ポツダムで武装親衛隊「自由インド自由」軍団を閲兵するチャンドラボース(1943年ごろ)手前のターバンを巻いたシーク兵士,10代の少年兵,奥に黒服のボースが敬礼している。ターバンを巻いたシーク兵士,10代の少年兵士の奥に,黒服で敬礼するボースが見える。親衛隊国家長官ヒムラーの支持を得て,英インド軍インド兵士捕虜を,反英国の武装親衛隊Waffen-SSに改変した。スワスチカ(カギ十字)のドイツ海軍旗が白樺から垂れている。武装親衛隊には,ノルウェー人,フランス人,オランダ人,ベルギー人,リトアニア人,エストニア人,ラトビア人に加えて,旧ユーゴのモスレム人,ウクライナ人,ロシア人を採用している。Reichsgebiet.- Vereidigung? von Freiwilligen der Legion "Freies Indien"; Prop.Ers.Abt. Potsdam. Aschenbroich撮影。ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用(他引用不許可)。

1942年11月20日,モハンシン大尉は,「日本に対する不信行為およびインド独立連盟内の分派抗争」を理由に,ビハリ・ボースRash Behari Bose指揮官から解任され,日本軍によって逮捕され,シンガポールに収監されてしまう。

◆日本軍は,インド国民軍を編成したが,投降捕虜となった転向インド人将兵,あるいは植民地人支配下のインド人を,見下した場合があった。そこで,インド国民軍は,日本軍との対等の関係,すなわち指揮系統,階級ごとの待遇,装備の差別をなくすように訴えた。また,日本軍は,インド国民軍を,同盟軍ではなく,配下の植民地傭兵と同じように利用しようとしている,と考えたインド国民軍の将兵もあった。
 しかし,当時,ナチス・ドイツの下で自由インド軍団を創設したスバス・チャンドラ・ボースは,英領インド植民地に自由と独立を与えることを至上命題としていた。そこで,同じファシズムの日本軍と協力して,英領インド植民地に自由と独立をあたえるインド軍を創設しようと,日本に密かに渡航することを決意した。


1941年1月,ボースはインドを脱出,ドイツに亡命した。ボースは,ドイツとソ連の軍事力を背景に,インド独立を画策した。ハインリヒ・ヒムラーとも会談した。これが,インド人の武装親衛隊(日本のインド国民軍と同じく捕虜となった英インド軍捕虜のインド人兵士が参加)を大規模編成する計画もあったようだ。Netaji Subash Chandra Boseとネタジをつけることもある。Worldly Wise;Netaji in Rome, Italy, with a German air force officer.ヒンドゥスタン・タイムズハウスHindustan Times House引用。

写真(右):1943年,チャンドラ・ボースとナチス親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーとの会談:親衛隊長官ヒムラーは,ソ連軍捕虜,ユダヤ人などを,ドイツに敵対する劣等人種・民族と位置づけ,ドイツ民族を破壊と人種汚染から守るために,劣等人種・民族を虐殺した。しかし,東部戦線で戦局が悪化してからは,反共産主義を掲げて,占領地の諸民族の協力を得ようとした。Shubas Chandra Bose (l.) bei Himmler (r.) auf der Feldkommandostelle. Alber, Kurt撮影。ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用(他引用不許可)。

日本軍に協力したインド人は,インド国民軍をインド独立のための軍隊と考えたが,日本軍はアジアの白人支配からの解放を唱えながらも,当初,インド侵攻を行う計画はなかった。日本軍の第二段作戦では,インド領のアンダマン諸島,ニコバル諸島の占領は「状況が許す限り」と限定されており,占領予定はなかったのである。 

しかし,ここは,インド・セイロン島からの英軍の反攻を防ぐために有用であり,インドへの謀略にも利用できる判断され,シンガポール攻略後,1942年2月7日の大海令第十五号によって,攻略することが命じられた。寺内南方軍総司令官と小澤治三郎第一南遣艦体司令官が協定を結び,攻略を進めることになった。

写真(右):1943年,チャンドラ・ボースとナチス親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーとの会談:親衛隊長官ヒムラーは,1939年9月のポーランド占領直後から,親衛隊によるユダヤ人狩りを行い,ユダヤ人居住区ゲットーに押し込めた。1942年6月からのソ連侵攻バルバロッサ作戦では,事前にアインザッツグルッペン(特別機動隊)を準備し,共産主義者,ユダヤ人などを殺害した。太平洋戦争が勃発直後,1941年12月11日、ヒトラーはユダヤ人絶滅戦争の開始を決意,いままでしたことがなかった宣戦布告をアメリカに対して行った。1942年1月に延期されていたヴァンゼー会議で,「ユダヤ問題の最終解決」として絶滅の方針が確認され,ポーランドにユダヤ人絶滅収容所が建設された。もし,ボースがこのような大量殺戮を知っていたら,ドイツの下で反英活動を開始しても,インド人世論の賛同は得られないと考えたであろうか。Shubas Chandra Bose (l.) bei Himmler (r.) auf der Feldkommandostelle. Dating: 1943. Photographer: Alber, Kurt撮影。ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用(他引用不許可)。

1942年3月23日,日本軍は,アンダマン諸島に上陸した。英インド軍守備隊は,ほとんどおらず,英人23人,インド兵300人を捕虜とした。翌4月5日には,空母5隻を基幹とする日本海軍機動部隊が,セイロン島を空襲した。4月15日の海軍の作戦方針では,陸軍と協力してセイロン島を攻略,英国とインドの連絡を遮断するという大戦略が決まっている。そこで,要地確保のため,6月13-14日に,ニコバル諸島を無欠占領した。

しかし,ガダルカナル島など南東方面ソロモン諸島の戦局が悪化したために,8月には,インド洋方面の作戦を中止している。

1943年7月,ニコバル諸島に飛行場,航空基地の造成のために,海軍部隊を派遣,8月には,陸軍の守備隊が派遣され,第二十五軍の隷下に入ることになった。9月30日決定の絶対国防圏にも,アンダマン・ニコバル諸島は含まれている。

写真(右):1943年,チャンドラ・ボースとナチス親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーとの会談:1945年,ヒムラーは,ヒトラー総統を裏切り,密かに,スウェーデン赤十字社フォルケ・ベルナドッテ伯爵を仲介して,米英に和平交渉を打診した。彼の取引材料は,ソ連とは戦争を継続することと,ユダヤ人を初めとする強制収容所の囚人を人質としていることであった。米英は,無条件降伏を求めていたから,ヒムラーからの和平交渉打診を暴露,ヒムラー失墜の謀略を行った。ヒトラーは,ヒムラー逮捕の命令を出したのである。脱走を企てたヒムラーは,終戦後,米軍に発見され,取調べ中に服毒自殺した。 Shubas Chandra Bose (l.) bei Himmler L. hinter Bose) auf der Feldkommandostelle. Alber, Kurt撮影。ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用(他web引用不許可)。

1943年2月9日,ドイツで反英武装闘争を準備していたチャンドラ・ボースSubhas Chandra Boseインド国民会議派元議長を乗せたドイツ海軍遠洋UボートIXD型U-180(艦長ワーナー・ミュッセンベルクWerner Musenberg,乗員63名)は,ドイツのキール軍港を発って日本に向かった。ケープタウン沖で英国タンカー(8200トン)を撃沈。
4月23日,マダガスカル島南東450マイル地点でUボートU-180(1600トン)は,日本の大型巡潜伊29(2500トン)と会合する予定が果たせなかった。

1943年4月27日(日本時間26日),日独潜水艦は会合に成功,ボールとムスリムのアビド・ハッサンは伊29(艦長伊豆寿一中佐)に移乗,さらにU-180から伊29に,弾薬,ドイツ兵器の設計図なども渡された。
伊29からは,潜水艦の専門家の友永英夫技術中佐(U-234で帰国途上自決)・江見哲四郎中佐がU-180に移乗し,航空魚雷,日本兵器設計図,ドイツ大使館作成の文書,金塊2トンなど合計11トンが,U-180に移された。


写真(右):日本に向かう途中、米軍に降伏・拿捕されたドイツUボートX型U-234(1700トン);ボースがドイツから乗艦したIX型DのU-180は,X型より若干小型で1610トン,全長88m,最大速力20.8ノット(水中6.9ノット),21インチ魚雷発射管6門(魚雷24本搭載),10.5センチ砲1門,航続距離9,900マイル/12ノット。U-234は,1945年5月14日、米軍に降伏、乗艦していた友永英夫中佐は服毒自殺。友永中佐は,ボースがU-180から伊29に移乗するのと交代に,伊29からU-180に移乗,ドイツに到着。そして,U-234で日本に帰国途上,ドイツの降伏,自決した。U-234は,日本に原爆開発用の酸化ウラン(U235)560kgを運搬する使命もおびていた。U-234は,日本軍に譲渡するジェットエンジン,誘導爆弾など260tの秘密物資を搭載していた(U-234参照)。ウランを入手できなくなった日本は1945年6月,原爆開発を中止。艦橋には、37ミリ対空機関砲(右)1門と、20ミリ連装機銃2基が、降伏のサインとして真上に向けられている。PORTSMOUTH NAVAL SHIPYARD PHOTOGRAPHS引用。


伊29は,5月6日,インド洋を東進,スマトラ島北西端サバンに到着。サバンに突いたスバス・チャンドラ・ボース一行は,そこから空路,日本に飛んだ.
1943年5月16日,亡命先のドイツから独・日両海軍潜水艦を乗り継いで東京に到着した。

U-180も,帰国途上,英軍機に襲撃されたが撃退し,ギリシャ船(5200トン)を撃沈,1943年7月3日,ボルドーに到着した。
(⇒Clay blair(2000)Hitlwe's U-Boat War The Hunted, 1942-1945 Modern library参照)


写真(左):1943年ごろ,日本陸海軍将兵とともに部隊を閲兵するスバス・チャンドラ・ボース指揮官
:Leading the March: Netaji taking a salute at a ceremonial march. (National Archives Photo)
写真(右):1943年パダンで,パレードするインド国民軍:March to Freedom: A scene from an INA parade at Padang in 1943. (National Archives Photo)ヒンドゥスタン・タイムズハウスHindustan Times House引用。


写真(右):シンガポールで,訓練を修了した優秀な兵士に軍刀を授けるネタジ・スバス・チャンドラ・ボース指揮官:ボースは,1943年10月に自由インド仮政府首班に週となった。Best of the Best: Netaji presenting a sword of honour to the best INA cadet at the graduation ceremony of the Officers' Training School in Syonan. (National Archives Photo) 写真は,ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House エニグマ オブ ネタジ・チャンドラ・ボース引用。

ボースは,1943年6月末にはシンガポールに入り,インド独立連盟の新総裁に就任,インド国民軍最高指揮官ともなった。1943年7月,シンガポールのインド独立連盟大会では,インド国民軍の閲兵式が行われインド婦人部隊の結成も決まった。

1943年7月5日,インド独立連盟の会議で,ボースはインド国民軍にインドの自由と独立を求める「デリーへ,デリーへ」の演説をした。
To Delhi, To Delhi! At the military review of the INA, July 5, 1943
Soldiers of India's Army of Liberation! Today is the proudest day of my life. Today it has pleased Providence to give me the unique privilege, and honour, of announcing to the whole world that India's Army of Liberation has come into being. This army has now been drawn up in military formation on the battlefield of Singapore - which was once the bulwark of the British Empire. ----

Comrades! You have voluntarily accepted a mission that is the noblest that the human mind can conceive of. For the fulfillment of such a mission no sacrifice is too great, not even the sacrifice of one's life. -----

I have said that today is the proudest day of my life. For all enslaved people, there can be no greater pride, no higher honour, than to be the first soldier in the army of liberation. But this honour carries with it a corresponding responsibility and I am deeply conscious of it. I assure you that I shall be with you in darkness and in sunshine, in sorrow and in joy, in suffering and in victory. For the present, I can offer you nothing except hunger, thirst, privation, forced marches and death. But if you follow me in life and in death, as I am confident you will, I shall lead you to victory and freedom. It does not matter who among us will live to see India free. It is enough that India shall be free and that we shall give our all to make her free. May God now bless our army and grant us victory in the coming fight!

写真(右):1943年11月16日,ベルリンのカイザーホーフ・ホテルで開催された(インド国民臨時政府)自由インド仮政府の創立式典:右後方に,シンガポールで自由インド仮政府の樹立を宣言し,その首班となったスバス・チャンドラ・ボース(インド国民会議元議長)の写真が飾られている。英国の戦争の飢餓に対抗して、ベルリンに反英インド独立派がインド国民臨時政府自由インド本部を作った。式典の席上で、駐日大使・大島、ファシスト・イタリアAnfuso、ドイツは国務長官ケップラー、フォンリッベントロップ外務大臣が挨拶した。ドイツ第三帝国が自由インドの独立の希望を与えるというのである。Die Feierstunde, die anlässlich der Gründung der provisorischen Indischen Nationalregierung von der Zentrale Freies Indien im Hotel Kaiserhof in Berlin stattfand, gestaltete sich zu einer flammenden Anklage gegen den britischen Hungerkrieg in Indien. Neben zahlreichen führenden deutschen Persönlichkeiten nahmen die Botschafter Japans, General Oshima und des republikanisch-faschistischen Italiens, Exzellenz Anfuso, an der Veranstaltung teil. UBz. der Staatssekretär im Auswärtigen Amt, Keppler, überbringt die Grüße und Wünsche des Reichsministers des Auswärtigen von Ribbentrop. 16.11.43 [Herausgabedatum] Hoffmann撮影。ドイツ連邦アーカイブMY ACCOUNTに登録・引用(他引用不許可)。

1943年10月21日,シンガポールで,インド独立連盟の大会が開催され,自由インド仮政府が樹立,チャンドラ・ボースが首班となった。10月24日のシンガポールでのインド独立連盟の会議では,インド人の中には疑問を持つものもあったが,あえて対米英宣戦を布告した。目的は,インドの自由を勝ち得るためだった。

War Declared To the Indian Independence League, Singapore, October 24, 1943
The Provisional Government of India has made a careful survey of the conditions if India and the world and decided in Shonan at midnight that the time is ripe to declare war upon the enemy. I know some Indians will question the validity of the declaration, but you may be convinced of its legality in the light of its having been issued by a government which has been legally established and which represents the country.
This decision of the Provisional Government was broadcast to the world that the Provisional Government of India thinks it her duty to declare war on Britain and her ally, the Unites States of America. Friends, let us prepare at once and march on to India. We shall unfurl our national flag on Indian soil and advance towards Delhi. We are determined to be in India by the end of the year and to assume control of the land and sea powers of the country. The Indian National Army must be prepared for the coming fight.


写真(右):1943年10月に成立したネタジ・スバス・チャンドラ・ボース首班の自由インド仮政府閣僚:ボースの向かって左は,サハイSahay大臣秘書官房,右は,紅一点ラクシュミ博士(大尉)Dr (Capt) Lakshmi Sahgalで,女性省大臣 Minister of Women's Organisationに就任。後列右端は,インド国民軍代表グルザーラ・シン中佐Lt Col Gulzara Singh。1943年11月6日,大東亜会議で自由インド仮政府は,アンダマン・ニコバル諸島を領土として,インド独立を目指すこととなった。1944年12月後半,ボース一行五名は,領土となったアンダマン諸島を訪問した。Dream Team: The Cabinet of the Provisional Government of Free India.写真は,ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House エニグマ オブ ネタジ・チャンドラ・ボース引用。

ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース首班の自由インド仮政府閣僚のメンバー: 
Lt Col A C Chatterjee; 財務省大臣Minister of Finance
ラクシュミ博士(大尉)Dr (Capt) Lakshmi Sahgal;女性省大臣 Minister of Women’s Organisation
Shri A M Sahay; 大臣秘書官房 Secretary with Ministerial Rank
Shri S A Ayer; 公共プロパガンダ省大臣 Minister of Publicity and Propaganda
Lt Col J K Bhonsle; インド国民軍代表Representative of INA
Lt Col Loganathan; インド国民軍代表   Lt Col Ehsan Qadir; インド国民軍代表
Lt Col N S Bhagat; インド国民軍代表   Lt Col M Z Kiani; インド国民軍代表
Lt Col Aziz Ahmed; インド国民軍代表   Lt Col Shah Nawaz Khan;インド国民軍代表
Lt Col Gulzara Singh;インド国民軍代表
Rash Behari Bose;秘書官長Supreme Advisor
Karim Giani;ビルマ顧問Advisor from Burma   D M Khan;香港顧問
Debnath Das;タイ顧問   Sardar Ishar Singh;タイ顧問
A Yellappa;シンガポール顧問   A N Sarkar;シンガポール顧問

写真(右):東京裁判当時の東條英機元首相・大将(1884年7月30日−1948年12月23日)1940年7月22日,第二次近衛内閣・陸軍大臣,1941年10月18日、第40代内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣に就任、陸軍大将に昇進。1943年には商工大臣・軍需大臣を兼任,大東亜会議を主催,チャンドラ・ボースに共鳴して,インド侵攻を主張。1944年2月21日、政治と軍事の統一指揮をするため、首相と陸軍参謀総長を兼任。インパール作戦を実施するも,失敗。サイパン島陥落によって、7月18日に総辞職。敗戦後の1945年9月11日、連合国軍により逮捕,拳銃自決失敗。1948年11月12日、極東国際軍事裁判(東京裁判)では,昭和天皇に戦争責任をきせることなく,敗北の責任を受け入れた。死刑の判決を受けたが,親族の東條由布子の凛として愛する国に によると大東亜会議の開催を誇りにしていた。名家の子弟をプロパガンダに利用する寓を避けなければならない。アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

1943年11月5日,大東亜会議が東京で開催され,日本軍が占領,独立させたアジア諸国と日本のアジアの同盟国の首脳が招請された。
すなわち,日本からは,首相東條英機大将,中華民国臨時政府からは,汪兆銘行政院長,満州帝国からは,張景恵国務総理大臣,フィリピン共和国からは,ホセ・ラウレル大統領,ビルマからはバーモウ長官が出席した。タイ王国からは,ピブン首相は出席を拒み,ワンワイタヤコン代理が参加。自由インド仮政府からはチャンドラ・ボース代表がオブザーバーの資格で参加した。

大東亜会議の最終日,1943年11月6日に発表された、大東亞共同宣言で「米英ハ自國ノ繁榮ノ爲ニハ他國家、他民族ヲ抑壓シ、特ニ大東亞ニ對シテハ飽クナキ侵略搾取ヲ行ヒ、大東亞隷屬化ノ野望ヲ逞シウシ、遂ニハ大東亞ノ安定ヲ根柢ヨリ覆サントセリ。大東亞戰爭ノ原因ココニ存ス。大東亞各國ハ相提携シテ大東亞戰爭ヲ完遂シ、大東亞ヲ米英ノ桎梏ヨリ解放シテ、其ノ自存自衞ヲ全ウシ、左ノ綱領ニ基キ大東亞ヲ建設シ、以テ世界平和ノ確立ニ寄與センコトヲ期ス」と公言した。

◆1943年10月,自由インド仮政府が成立,対米英宣戦布告している。また,フィリピン,ビルマも独立を与えられていた。したがって,1943年11月の大東亜会議は,これらアジアの新興独立が集い,英米による他民族抑圧,アジアへの侵略・搾取,隷属化の野望を打破し,アジアを米英の桎梏から解放することが宣言された。しかし,既に独立を得たアジア新興諸国にとって,戦争完遂の国力はなく,日本軍主導の総動員,すなわち資源の徴発,労働力の徴用は,やはり抑圧と映った。アジア新興諸国を戦線離脱させ,日本軍も駐留させないで,自由を与えれば,現地の評価は高まったであろう。

1943年11月6日,大東亜会議で,東條英機首相は,インド独立の第一段階として,アンダマン・ニコバル諸島を,近く自由インド仮政府に帰属させる用意があると宣言した。11月26日,シンガポールにあった自由インド仮政府首班チャンドラ・ボースは,アンダマン諸島をシャヒード(殉教者:Shaheed)、ニコバル諸島をスワラージ (自治:Swaraj)と改名した。

写真(右):1943年ごろのインド国民軍婦人部隊ラニ・ジャンシ訓練キャンプ:1943年7月,シンガポールに設立されたインド国民軍婦人部隊ラニ・ジャシンは,指揮官をラクシュミ大尉Dr (Capt) Lakshmi Sahgalとした。訓練キャンプは,シンガポールのほかに,,ラングーンとバンコクにも設置された。1943年11月までに候補生は300名程度集まり,部隊編成は,学歴によって,将校・下士官・兵に分け,訓練を行った。1944年3月,第一期生約500名がシンガポールの訓練キャンプを修了した。そのうち200名は看護婦部隊として訓練を受けることになった。Led by Capt Lakshmi Swaminathan, the unit was raised in July 1943 with volunteers from expatriate Indian population in South East Asia. [edit] Establishment The initial nucleus of the force was established with its training camp in Singapore with approximately a hundred and seventy cadets. The cadets were given ranks of Non commissioned officers or Privates according to their education. Later, camps were established in Rangoon and Bangkok and by November 1943, the unit had more than 300 cadets.The recruits were divided into sections and platoons and were accorded ranks of Non-Commissioned Officers and Sepoys according to their educational qualifications. These cadets underwent military and combat training with drills, route marches as well as weapons training in rifles, hand grenades, bayonet charge. Later, a number of the cadets were chosen for more advanced training in Jungle Warfare in Burma. The first qualified troops, numbering nearly five hundred, passed out of the Singapore training camp in March 1944. Some 200 of the cadets were also chosen for Nursing training, forming the Chand Bibi Nursing Corps. Readying for War: A training camp for the Rani Jhansi Regiment. 写真は,ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House エニグマ オブ ネタジ・チャンドラ・ボース引用。

写真(右):1944年12月,ビルマのアラカンで患者を救難する英軍バァルティ・センチネル:後方はホーカー・ハリケーン戦闘機。Photographer: Rider (P/O) Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-15 Description: A casualty, evacuated from the front line in the Arakan, Burma, by a Vultee Stinson Sentinel (left), is transferred to a waiting ambulance on arrival at a base station. Behind the ambulance, a Hawker Hurricane runs up its engine. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

日本軍は,1942年3月、アンダマン諸島攻略し,英軍23名、インド兵300名を捕虜にした。連戦連勝の日本軍は、4月15日、当初の計画にはない日独伊連携を目的に、セイロン島(スリランカ)攻略を決めた。海軍は,6月,ニコバル諸島を無血占領したが,ミッドウェー海戦敗北、ガダルカナル島攻防戦となり,ベンガル湾方面の攻勢は中止された。
ドイツで反英活動をしていたインド国民会議派・スバス・チャンドラ・ボースは、1943年2月、Uボートで出発,マダガスカル島沖で日本の伊29号潜水艦に乗り換えた。5月6日、スマトラのサバン基地に着き,16日、飛行機で東京に到着した。ボースは、インド独立連盟の新総裁に推され、10月、シンガポールで自由インド仮政府を樹立,対米英宣戦を布告した。

マラッカ海峡からベンガル湾への海上交通路に当たるアンダマン諸島・ニコバル諸島は,英領植民地で,アンダマン島ポート・ブレア沖ロス島の刑務所には反英活動で逮捕されたインド人政治犯が収監された。

写真(右):1943年5月,インド東部チッタゴンを基地としていた英空軍第166飛行隊ホカー・ハリケーン Mark IIC :1935年11月6日初飛行のために,既に旧式化し,欧州戦線では使用されなくなっていた。余剰機がCBI戦区にまわされたが,地上攻撃機として使用された。頑丈な機体,幅広い車輪の間隔は,飛行場が未整備なCBIでは,スピットファイア戦闘機よりも重宝な存在だった。Mark IIBは1941年4月に完成、500ポンド(225キロ)爆弾,ブローニング7.69mm機関銃12丁搭載で地上攻撃に投入された。また,機銃を大型化して,イスパノ・スイザ機銃を搭載したハリケーン Mark IICは,4700機も量産された。このような地上攻撃機は,近接航空支援(CAS:Close Air Support) と呼ばれた。 Photographer: Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-18 Description: A Hawker Hurricane Mark IIC of a squadron from No. 166 Wing RAF based at Chittagong, formates on the port quarter of the photographing aircraft. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

1943年後半から連合軍は,CBI戦区で攻勢を開始した。インドの英空軍,中国の米陸軍航空隊によるビルマ,タイ方面への空襲が激しくなった。アンダマン諸島を防衛するには,ラングーン,シンガポールからの海上輸送が確保されることが必要だが,英海軍潜水艦,英空軍の攻撃によって,補給は途絶えがちだった。

写真(左):1943年12月後半,アンダマン諸島セルラー刑務所を視察するネタジ・スバス・チャンドラ・ボース首班:自由インド仮政府は,アンダマン・ニコバル諸島を領土として,インド独立を目指した。アンダマン諸島セルラー刑務所は,ポート・ブレア沖の小島ロス島にあり,英領時代には,インド独立の闘志,インド独立連盟の反英インド人が収監されていた。しかし,1944年12月後半にボースが見学したときには,反日あるいは英国側のスパイ容疑者であるインド人が収監され,中にはアンダマンのインド独立連盟議長デワン・シン博士もいた。英軍による,日本軍とインド人の離反を図る謀略によって,日本軍は現地インドの住民と敵対的な関係に陥り始めていた。セルラー刑務所収監されていたインド人の逮捕者数百名について,ボースは知っていたはずだが,彼らをど見捨てたのであろうか。それとも,日本軍に対して,釈放要求をしたが,相手にされなかったのだろうか。セルラー刑務所の鉄格子越しに撮影されたボースの写真は何かを訴えているようでもある。Azad Andaman: Netaji inspects the notorious Cellular Jail on Andaman Island. The Andaman and Nicobar islands were handed over to the Azad Hind Government in late 1944 which renamed them as Shaheed and Swaraj. (HT Library) 写真は,ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House エニグマ オブ ネタジ・チャンドラ・ボース引用。

1943年12月29日,ボースなど仮政府一行5名は,ポートブレアに空路到着,翌日,インドの地で独立行事を行った。しかし,当時,アンダマン刑務所には,インド独立連盟のインド人など,住民が英軍スパイ容疑で収監されていた。英諜報機関は,インド人スパイ偽情報を流して,日本軍と島民の離反を策した。その謀略に日本軍は乗せられ,住民630名を逮捕した。1944年12月後半にボースがロス島セルラー刑務所を訪ねたときにも,英国スパイ容疑者とされ逮捕されたインド独立連盟のインド人も収監されていた。この中にはアンダマンのインド独立連盟議長デワン・シン博士も含まれていた。

英軍は,日本軍とインド人の離反を図る目的で謀略を行い,アンダマン諸島の日本軍の中に英軍スパイとなっているインド人を忍び込ませているとのニセ情報を流した。諜報戦に長けているMI6など英軍秘密情報部にとって,現地住民と占領軍との対立,テロを誘う謀略は,ドイツ占領したのチェコ,フランスでも常道だった。セルラー刑務所には,1944年1月までに,総勢630名以上のインド人の逮捕者が収監されている。

写真(右):1943年12月後半,アンダマン諸島を視察するネタジ・スバス・チャンドラ・ボース首班:1943年10月,自由インド仮政府首班チャンドラ・ボースは,アンダマン諸島をシャヒード(殉教者:Shaheed)、ニコバル諸島をスワラージ (自治:Swaraj)と改名した。しかし,インドの領土となっても,軍事権は日本軍が掌握し,行政権も自由インド仮政府には不十分にしか認められなかった。英国の植民地支配から解放された後も,日本軍の支配の下におかれたといってよかった。On Home Soil: Netaji at liberated Saheed, Andaman, Island. (National Archives Photo)ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House エニグマ オブ ネタジ・チャンドラ・ボース引用。

1943年12月29日,アンダマン諸島ポートブレアに到着したボースなど自由インド仮政府一行は,セルラー刑務所を反英独立闘争のインド人闘志の収監されていた監獄であるとしっていて,ここを訪問している。その時,セルラー刑務所には,英軍側スパイ容疑で逮捕されていたインド独立連盟のインド人が収監されていたのは,皮肉である。

1943年10月にスパイとして逮捕されたアンダマンのインド独立連盟議長デワン・シン博士は,ボースが島を去った半月後,1944年1月13日に獄中で死亡した。逮捕収監されていた囚人は,看守に拷問を受け,スパイ情報を漏らすように強要されていたのだった。1月30日には,スパイとして,インド人44名が,ポート・ブレアから10数キロはなれた丘で,密かに銃殺され埋められた。遺体は1946年に発見された。(⇒木村宏一郎(2001)『忘れられた戦争責任−カーニコバル島事件と台湾人軍属』pp.89-92青木書店 参照)

チャンドラ・ボースは,インド侵攻に失敗した1944年7月4日のビルマでの演説“Give Me Blood! I Promise You Freedom!!”で,300万人いる在外インド人は,総力戦のために,カネ,ヒトを動員し,インドの自由の勝利ために,弱体化しつつある英軍を撃退しなければならない,そのために最大限の犠牲を払わなくてはならないとした。次のような楽観的ではあるが,冷徹な演説がなされたのである。

Friends! Twelve months ago a new programme of 'total mobilisation' or 'maximum sacrifice' was placed before Indians in East Asia. -----I want you to realise once again what a golden opportunity we have for winning freedom. The British are engaged in a worldwide struggle and in the course of this struggle they have suffered defeat after defeat on so many fronts. The enemy having been thus considerably weakened, our fight for liberty has become very much easier than it was five years ago. ----

I am so very hopeful and optimistic about the outcome of our struggle, because I do not rely merely on the efforts of three million Indians in East Asia. There is a gigantic movement going on inside India and millions of our countrymen are prepared for maximum suffering and sacrifice in order to achieve liberty.----- 

You must continue the mobilisation of men, money and materials with greater vigour and energy, in particular, the problem of supplies and transport has to be solved satisfactorily. We require more men and women of all categories for administration and reconstruction in liberated areas. -----

The most important of all is the problem of sending reinforcements in men and in supplies to the fighting fronts. -----Those of you who will continue to work on the Home Front should never forget that East Asia- and particularly Burma- from our base for the war of liberation. If this base is not strong, our fighting forces can never be victorious.
Remember that this is a 'total war'- and not merely a war between two armies. That is why for a full one year I have been laying so much stress on 'total mobilisation' in the East.---- 

Friends, one year ago, when I made certain demands of you, I told you that if you give me 'total mobilization', I would give you a 'second front'. I have redeemed that pledge. The first phase of our campaign is over. Our victorious troops, fighting side by side with Nipponese troops, have pushed back the enemy and are now fighting bravely on the sacred soil of our dear motherland. 

Gird up your loins for the task that now lies ahead. I had asked you for men, money and materials. I have got them in generous measure. Now I demand more of you. Men, money and materials cannot by themselves bring victory or freedom. ----
We should have but one desire today- the desire to die so that India may live- the desire to face a martyr's death, so that the path to freedom may be paved with the martyr's blood. 

Friend's! my comrades in the War of Liberation! Today I demand of you one thing, above all. I demand of you blood. It is blood alone that can avenge the blood that the enemy has spilt. It is blood alone that can pay the price of freedom. Give me blood and I promise you freedom

写真(右):現在エスプラネード公園にあるインド国民軍記念碑Indian National Army Monument: Connaught Drive, Esplanade Park;The Indian National Army Memorial was built in the final months of the Japanese Occupation, before they surrendered on 15 August 1945. It was built to commemorate an “Unknown Warrior” of the Indian National Army, which was formed in 1942 and helped the Japanese. The history conveyed in this monument educates people about World War II and about the importance of unity during times of war. ビクトリアスクール'Journey to Singapore's Yesteryears' International Schools CyberFair 2003 Project,Victoria School引用。

1943年10月,自由インド仮政府首班チャンドラ・ボースは,アンダマン諸島をシャヒード(殉教者:Shaheed)、ニコバル諸島をスワラージ (自治:Swaraj)と改名したが,日本軍は,島を守るために,スパイ容疑の住民を多数処刑した。二つの島は,英国の植民地支配から解放されたが,日本軍の支配の下で,自由インドを手に入れることはできなかった。

1945年7月,食糧難と英軍反攻を恐れた日本軍は,現地住民と連携することはもはやかなわなかった。日本軍は,英軍の上陸を手引きしようとしているとして,スパイ嫌疑でニコバル島のインド人約80名を,捕らえた。そして,7月28日から8月13日にかけて,銃殺した。戦後の英軍によるBC級戦犯裁判では,日本軍将兵・通訳軍属6名が死刑,将兵9名が懲役3〜15年の刑を受けた(⇒木村宏一郎(2001)『忘れられた戦争責任−カーニコバル島事件と台湾人軍属』第3章 青木書店 参照)

◆1943年10月,自由インド仮政府が対米英に宣戦を布告した理由は,英国植民地のインド本土を解放し,自由を与えるためである。チャンドラ・ボースは,大東亜会議に正規資格で出席することを断り,オブザーバーとして参加した。日本軍の大東亜共栄圏には,日本の支配,影響力が大きく,自由のないの大儀には,同調できなかった為であろう。自由インド仮政府の領土となったアンダマン諸島・ニコバル諸島では,住民のインド人が英軍スパイの嫌疑を受けて,日本軍によって,100名以上,処刑されている。しかし,ボースは,在外インド人に対して,一貫してインドの自由を勝ち取る総力戦のために,最大限の資金的,物的な協力を要請,総動員・犠牲を命じた冷徹な指揮官だった。

7.日本軍は英軍を追ってビルマに侵攻し,1942年3月8日,ラングーンを攻略した。そして,1943年8月1日、日本はビルマに独立を与え、国家元首にバー・モウ博士が、国防大臣にアウン・サンが就任し、ネ・ウィンを指揮官とするビルマ国軍を組織化した。

写真(右):九七式重機関銃を装備した日本軍:Japanese troops firing a heavy machine gun. (National Archives) As the Japanese approached, there had been frantic activity to move as much materiel as possible north to the Burma Road, but it was still necessary to destroy more than 900 trucks in various stages of assembly, 5,000 tires, 1,000 blankets and sheets, and more than a ton of miscellaneous items. Brig. Gen. John Magruder transferred much materiel to the British forces, including 300 British-made Bren guns with 3 million rounds of ammunition, 1,000 machine guns with 180,000 rounds of ammunition, 260 jeeps, 683 trucks, and 100 field telephones. In spite of the destruction and transfer to the British, however, over 19,000 tons of lend-lease materiel remained in Rangoon when it fell to the Japanese on 8 March. Burma, 1942 :The U.S. Army Campaigns of World War II.引用。

英国は,1935年ビルマ統治法によって、ビルマを1937年以降インドから分離、バー・モウ博士を首班とする政府を、英人総督の監督下に成立させた。1939年9月に第二次大戦が欧州で勃発すると、ビルマ独立運動が激化したが、それに着目した日本軍は、1940年から1942年にかけてアウン・サンなど独立運動活動家を日本に密入国させた。そして,日本海軍が占領した中国南部の海南島で軍事訓練を施した。アウンサンらを指導したのは、1941年2月1日に、鈴木敬司陸軍大佐を長として発足した南機関である。

1941年12月8日、日本の第十五軍は、タイに進駐した。南機関は、ビルマ人志願兵のリクルートを開始し、ビルマ独立義勇軍を編成した。シンガポール攻略の目算が立つと、1942年1月、第十五軍は、タイからビルマに侵攻した。BIAの兵力200名程度で、諜報活動や住民宣撫工作に協力した。3月8日放棄されたラングーンを日本軍が占領した。ラングーンの観兵式には,BIAも参加し,志願兵は増加した。日本軍は7月にビルマ全土を掌握、志願兵の規模を縮小し、南機関も事実上解散された。日本軍は、5000名から1万人いる志願兵を賄う補給物資、資金はなく、軍事力を背景としたビルマ独立の動きを警戒した。英軍の捕虜となりビルマ解放に寄与していないバー・モウ博士が,日本軍によって行政長官に任命され、軍政を敷いた。

1942年1月,インパール郊外のナガ族:SCENES AT IMPHAL AND KOHIMA, BURMA, JANUARY 1942 Description: The Naga Bazaar at Imphal. Further Information: Colour photographs of Burma during the Second World War are rare. Fierce fighting between Allied and Japanese forces was to take place at this location in 1944.

1943年8月1日、日本はビルマに独立を与え、バー・モウ博士は国家元首に、アウン・サンは国防相に就任、ネ・ウィンを司令官とするビルマ国軍を組織化した。しかし、日本軍の敗退が明らかになる1944年、BNAは、反ファシスト(反日)を支持するようになる。

日本軍は,対米英開戦から3ヶ月目の1942年3月8日,ビルマのラングーンを占領した。ラングーン入城式には,ビルマ独立の志士アウンサンら率いるビルマ独立軍BIAも参加した。日本軍は,1942年4月29日,ラシオを,5月1日,マンダレーを攻略した。英インド軍は,インドへ撤退した。

1942年初頭,中国方面連合軍最高司令官・蒋介石の参謀長に就任したスティルウェル将軍の役割は,CBI(CHINA - BURMA - INDIA中国・ビルマ・インド)米軍軍司令官を兼任、中国に対する武器貸与の管理を行った。中国軍は,米国からの軍事物資補給を受けることが出来たが,問題は,物資の補給ルートだった。中国大陸沿岸は、日本軍に封鎖されており,ソ連を経由するルートも,独ソ戦のために,利用することは困難だった。そこで,インド(印度),ビルマ,中国を経由する蒋介石中国援助ルート(援蒋ルート)がビルマに設けられた。

しかし,日本軍がビルマ北部を占領すると,中国への援蒋ルートは,輸送機を使った空路「ハンプ越え」(ヒマラヤ越え)しかなくなってしまった。陸路・自動車道路の開通したのは,1945年になってからである。

写真(左):南方軍総司令官寺内寿一;1879年(明治12年)8月8日生まれ - 1946年6月12日没) 第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。

1942年11月,英空軍は、アキャブ Akyab を空襲、第五十五師団(古閑健中将)と第三十三師団宮脇支隊はアキャブに攻撃英インド軍の第14インド師団は,ビルマ南西ベンガル湾沿岸アキャブを攻撃した。アキャブ守備の宮脇支隊は,有延支隊の救援を受け,1943年初頭,英インド軍を撃退した。

1943年1月14日-1月24日,カサブランカ会談the Casablanca Conference (コード名 SYMBOL)でルーズベルト米大統領と会談したウィンストン・チャーチル英首相は,米英協同作戦を協議し,11月にはビルマ奪還の作戦を実施することを認めさせた。そこで,チャーチルは東南アジア軍総司令官マウントバッテン将軍(のちに最後のインド総督となる)にビルマ奪回を命じた。こうして,ビルマ反攻の中心として,インドのインパールに物資が集積されたのである。

1943年11月、東條英機首相は,東京で大東亜会議を開催した。中華民国南京臨時政府行政院長汪兆銘、満州国国務総理張景恵,フィリピン大統領ホセ・ラウレル、ビルマ首相バー・モウ博士が集まり、ボースはオブザーバーとして出席した。もしも,このときに,植民地の形式的独立だけではなく,日本の持っていた行政・立法の権限を委譲し,資源供出を停止すれば,アジア解放は今日でも大義として認められたであろう。

8.太平洋方面での海洋航空戦とは別に,1944年初頭,ビルマからインドへ侵攻するインパール作戦が決まった。3月,日本軍第十五軍の三個師団が,ビルマ北部でチンドウィン河を渡河,陸路インドのインパール,コヒマの攻略に向かった。


写真(右):1943年8月17-24日,ケベック会談Quebec Conferenceの米英首脳陣
:ルーズベルト大統領は,チャーチル首相には,原爆「マンハッタンManhattan計画」に限定的に関与させたが,スターリンには教えないことが合意された。チャーチル首相は,ニミッツの太平洋方面の戦略と米軍主導のオーバーロードOVERLORD作戦(ノルマンディ上陸作戦)に合意した。チャーチル首相の主張した万感半島への侵攻は取りやめとなり,ビルマ侵攻は延期された。日本の降伏は,ドイツ降伏から1年後の1945年10月と予定された。ca. 1943 - ca. 1945 Part Of: Series: Ft Leavenworth: Signal Corps Photograph Collection: Equipment File, compiled 1939 - 1965 アメリカ公文書館The U.S. Army Campaigns of World War II引用。
写真(上右):1942年1月,インド最東部インパール郊外のナガ族:太平洋戦争は,当時,日本では大東亜戦争と呼称した,アジア植民地の白人支配からの解放を大儀とした。しかし,開戦当初,ナガ族が住んでいるインド東部にまで侵攻する予定は無かった。大東亜共栄圏は,日本が影響力をこうしうる地理的範囲に限定され,決して「全アジアの解放」ではなかった。しかし,1944年3月,ビルマ北部からインパールにかけて,日英両軍の戦火に巻き込まれた。日本軍は,現地調達主義だったために,インパール作戦中,ナガ族など山岳少数民族から,食料を調達,徴発した。SCENES AT IMPHAL AND KOHIMA, BURMA, JANUARY 1942 Collection No.: 9412-04 Description: The Naga Bazaar at Imphal. Further Information: Colour photographs of Burma during the Second World War are rare. Fierce fighting between Allied and Japanese forces was to take place at this location in 1944.

写真(右):インドからビルマ・タイ方面の日本軍鉄橋を破壊するB-24リベレーター爆撃機:B-24は,米陸軍航空隊で主に使用された戦略爆撃機だが,英空軍,米海軍航空隊でも使用された。総生産機数2万機は,B-17爆撃機を上回る。アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

大本営は,インパール作戦の補給に懸念を示したようだが,首相東条英機参謀総長は,大東亜会議後の植民地独立と言う大義名分に陶酔,インド亡命政治家チャンドラ・ボースの度量に惚れ込んだ。

日本に亡命中,ビルマ独立運動を担ってきたアウンサン将軍が指揮するビルマ国軍は,日本軍と協力してきた。しかし,1944年3月のインパール作戦には出動していない。かわって,チャンドラボース率いるインド国民軍が,日本軍の指揮下に加わった。

インド国民軍指揮官・チャンドラ・ボースは,第一遊撃師団(4個連隊),特務隊(英インド軍帰順工作),情報隊(情報収集),補充隊(投降捕虜の部隊編成)をインパール作戦に従軍させた。


しかし,1944年8月,インパール作戦(ウ号作戦)が失敗し,ビルマに英軍が侵攻しはじめると,アウンサン将軍は,英軍との連携を模索し,ビルマ共産党、人民革命党など共産勢力とも協力して反ファシスト活動を開始した。

1945年3月、ビルマ中部が英軍に占領されると,ビルマ国軍は北部で叛乱を起こし,3月下旬、アウンサンの下で,ラングーンのビルマ国軍も、蜂起,全面的な反乱が勃発した。

1945年4月23日,ビルマ方面軍木村司令官は、ラングーンから撤退した。木村司令官は、ビルマ主席のバーモー博士らと空路モールメンに脱出した。日本大使館も、在留邦人を集めて、鉄道か残っていたペグーまで出発していた。ラングーンでは、ビルマ人が脱出して無人となった日本人邸宅,商社を略奪し,暴徒となっていたという。
米英軍と連携した抗日運動も各地に起こり,1945年5月,ラングーン「解放」。

写真(右):米軍のメリル襲撃隊(ジャングル挺進隊):メリル准将が1943年に編成した第5307複合ユニット。メリル襲撃隊は,1944年2月,3コ大隊を配備し,ビルマに侵攻した。米英軍,米軍装備の中国軍は,大量の物資補給を受け,日本軍に勝る性能の兵器を保有し,制空権も確保していた上に,兵力も優位だった。だから,日本軍は負けたが,同等の兵力であれば,士気に勝っている日本軍兵士のほうが強かった,という見解は根強い。日本人でなくとも,自分の民族・祖先の心意気,粘り強さ,士気を誇りに持ちたいものだ。英インド軍のチンディッツ,米軍のメリル襲撃隊の兵士たちの活躍も,制空権の下で,空中補給を受けても,決して楽な進軍ではなかった。 Brig Gen. Frank D. Merrill (far left) watches troops cross into Burma on the Ledo Road. (DA photograph) India-Burma:The U.S. Army Campaigns of World War II引用。

インパール作戦を暗号解読によって察知した連合軍は,,1944年2月のビルマ奪還計画を,日本軍へのカウンターパンチと考えて実施したようだ。メリル襲撃隊は,1944年2月,3コ大隊を配備し,アラカン山脈を越えて,ビルマに侵攻した。

写真(右):インドのサルバニを基地とした英空軍第356飛行中隊の米国製B-24リベレーター重爆撃機Mark VIがマンダレー近くの交通結節点と補給施設を空襲:B-24は,太平洋戦争では1942年11月から使用,航続距離が短かったB-17爆撃機に取って代わった。コンソリデーテッド社のほかダグラス社,フォード社などで2万機が生産。英空軍に貸与されたB-24は,迷彩塗装を施された。米海軍の哨戒機としても活躍。B-24は,欧州戦線では,都市戦略爆撃が主任務だったが,太平洋戦線では,戦術爆撃に多用された。全幅33.5m,全長20.5m,主翼面積97.36平方m,全備重量29t,発動機P&W R-1830 1200馬力4基,最大速度467km/h,航続距離3300km,武装12.7mm機銃10丁,爆弾5t。 Photographer: No. 231 Wing RAF Collection No.: 4700-11 Description: A Consolidated Liberator B Mark VI of No. 356 Squadron RAF based at Salbani, India, flying over rice paddies while on its way to attack a Japanese communications link and supply base at Armapura, near Mandalay, Burma. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

1944年2月,レドの英インド軍もビルマ北部の要衝ミートキーナに向かって進撃を開始した。ここには,米軍の支援を受けた中国軍も加わっている。インド方面からビルマ中部への空襲も激しくなり,ラングーン=マンダレー=ミートキーナの日本軍の主要補給路(自動車道路,鉄道)に支障が出た。

さらに,中国雲南省怒江方面からは,中国遠征軍が,怒江を越えて,対岸の日本軍陣地に向かった。この方面の中国軍は,進撃が遅く,インパール作戦の失敗が明らかになった1944年6月以降,日本軍への本格的攻撃を開始する。中国国民政府蒋介石は,米軍補給物資を確保しつつ,手元の中国軍を温存していた。中国の華北,華中,華南と政治経済・貿易の中枢を日本軍に占領されていた中国にとって,ビルマ奪回のために,中国軍を犠牲にするつもりは無かったのである。

写真(右):1944年10月,インド・アリポール基地の第684飛行中隊デハビラント・モスキート偵察機搭載のF24型写真機:Photographer: Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-15 Description: Aircraftman I. Harris of Gorton, Manchester and Leading Aircraftman I. Harris of Leeds cleaning the register glass of a Type F.24 aerial camera before installing it in a De Havilland Mosquito photo-reconnaissance aircraft of No. 684 Squadron RAF at Alipore, India. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

◆日本軍は,マレー作戦で英インド軍のインド人(シークなど)を多数捕虜にし,彼らをモハンシン大尉の下にインド国民軍に加え,日本軍の指揮下で戦わせた。インド国民軍は,インドの自由と独立の大儀を信じた。日本軍は,チャンドラボースを指揮官として,師団レベルのインド国民軍を編成した。当初,日本軍は国力の限界を考え,インド侵攻をするつもりは無かった。しかし、1943年後半,戦局悪化の中,大東亜会議が開催,インド侵攻が戦局挽回のための政略として浮上してきた。

インパール作戦(ウ号作戦)に続く。



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