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インパール作戦◇Battle of Imphal 2009
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◆ウ号インパール作戦:第31師団佐藤幸徳中将抗命◇The Battle of Imphal 1944


写真(上左):1943年の第十五軍司令部要員:左から,第33師団長・柳田中将,第18師団長・田中中将,第十五軍司令官牟田口中将,第56師団長・松山祐三中将,第31師団長・佐藤中将
:JAPANESE FIFTEENTH ARMY COMMANDER AND STAFF. Seen left to right, front row, are Lt. Gen. Genzo Yanagida, Commander, 33d Division, General Tanaka, Commander, 18th Division, General Mutaguchi, Commander, Fifteenth Army, Lt. Gen. Sukezo Matsuyama, Commander, 56th Division, and Lt. Gen. Kotoku Sato, Commander, 31st Division. Charles F. Romanus and Riley Sunderland(1954)United States Army in World War II China-Burma-India Theater Stillwell's Command Problems p.129引用。
写真(上右):1942年1月,インパールにおけるナガ族の市場:インパールからビルマ北部にかけては,山岳少数民族の居住地で,この市場も1944年3-4月には日英両軍の戦火に巻き込まれる。日本軍は,現地調達主義だったために,インパール作戦中,ナガ族など山岳少数民族から,食料を調達,徴発した。SCENES AT IMPHAL AND KOHIMA, BURMA, JANUARY 1942 Collection No.: 9412-04 Description: The Naga Bazaar at Imphal. Further Information: Colour photographs of Burma during the Second World War are rare. Fierce fighting between Allied and Japanese forces was to take place at this location in 1944.帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

写真(右):米軍から中国軍に武器貸与されたM3スチュアート軽戦車:1944年2月以降のビルマ北部での作戦で,中国への補給物資を運ぶビルマルート(援蒋ルート)の要となるレドに向かう。M3スチュアート戦前から米陸軍に配備されていた戦車で,欧州戦線では旧式化し使用されなかった。しかし,太平洋戦線,CBI戦区では日本軍の対戦車戦闘能力が低かったために,大戦後期になっても使用された。Photographer: US official photographer Title: THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 Collection No.: 4700-06 Description: The Campaign in North and Central Burma February 1944 - August 1945: US Stuart tanks manned by Chinese troops on the Ledo road. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

【アジア太平洋戦争インデックス】:オリジナルwebリンク一覧
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Chindits:A Walk on the Wild Side, A Step into the Unknown,A tale that includes the longest successful,large scale, Airborne Operation of World War II. By F. E. Gerrard - formerly 84 Column - 2nd Battalion The York and Lancaster Regt
BURMA STAR ASSOCIATION: War Against Japan - Burma Campaign
HG Lambert - a soldier with the The Chindits of Burma:47 Column - 7th Battalion, Leicestershire Regiment
BURMA STAR ASSOCIATION: War Against Japan - Burma Campaign
鎮魂のパゴタ:烈 第百三十八連隊の戦友・遺族によってバコダを建立

1.太平洋戦争開戦から5ヶ月,日本軍は,ビルマを攻略,連合軍の物資を蒋介石中国国民政府へ補給する道路,すなわち援蒋ルート(ビルマ・ルート)を遮断した。

日本軍は,1941年12月8日,真珠湾奇襲攻撃の1時間50分前,マレー半島上陸,翌年1月,クアラルンプールに入った。
謀略機関であるF機関(藤原機関)は,在住インド人を中心としたインド独立連盟,捕虜モハン・シン大尉と協力,マラヤで降伏したインド人将兵3500名をクアラルンプールに集め,二個中隊分の小火器を支給,インド国民軍を編成した。

1942年2月15日,日本軍第二十五軍司令官山下奉文中将は,シンガポールを陥落させた。シンガポールは、英領マラヤと同じく,独立はさせず,軍政の下においた。日本軍は,インド人兵士捕虜6万5000人から2万5000人を選んでインド国民軍に編入。インド国民軍の司令官には,少将に昇進したモハンシン大尉が就任。

ヒトラー総統の1942年2月6日卓上談話:「日本にはインドを併合する力は無く,オーストラリアやニュージーランドを占領したいとも思わないだろう。我々との連携は,日本にとって安心材料だ。もはや何ものも恐れる必要が無くなる。日本とドイツには共通点が一つある。どちらの国も,(占領地を)消化する作業に五十年から百年を必要としていることだ。我々がロシアを,日本は極東(アジア)を併呑するのである。」

写真(右):1942年4月19日,ドーリットル東京初空襲後の蒋介石(1887年10月31日 - 1975年4月5日)・蒋介石夫人宋美麗(1897年3月23日-2003年10月23日)・スチルウェル将軍:連合軍は戦局悪化の中で,国民の士気を鼓舞する必要に迫られた。そこで,米軍は,航空母艦「ホーネット」に双発陸上爆撃機B-25ミッチェル16機搭載,日本本土を空襲。B-25爆撃機は,日本本土爆撃後,中国に向かい,そこで不時着。日本軍捕虜となった搭乗員もあったが,ドーリットル中佐は生還し,准将に二階級特別進級。米陸軍ジョセフ・スチルウェル将軍は,1935年から在中国大使館付武官。米国は,中国に1941年5月6日から武器貸与法を適用。太平洋戦争勃発直後、蒋介石は,中国戦区連合国軍最高司令官に任命,同時にスチルウェルが中国戦区参謀長に就任。1942年2月,スチルウェル将軍は、CBI(中国・ビルマ・インド)米軍司令官に就任,1943年8月には,連合国東南アジア軍副司令官。中国軍への援助物資補給,中国軍装備の近代化・訓練も行った。しかし,蒋介石と対立が激化,1944年10月,解任。Generalissimo and Madame Chiang Kai Shek and Lieutenant General Joseph W. Stilwell, Commanding General, China Expeditionary Forces, on the day following Japanese bombing attack [Doolittle Raid]. Maymyo, Burma.: 04/19/1942 ARC Identifier 531135アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

日本軍は,1942年3月8日,ビルマのラングーン占領。ラングーン入城式には,ビルマ独立の志士アウンサン率いるビルマ独立軍BIAも参加。5月1日,マンダレー攻略後,英インド軍はインドへ撤退。
ビルマを日本軍が占領したことで、インドからビルマ経由で中国に援助物資を送る陸路は遮断された。

写真(右):中国支援を呼びかける米国のポスター:「中国−初めに戦った」"China--First to Fight": 1941 - 1945 ARC Identifier 513567 / Local Identifier 44-PA-119.アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

1942年初頭,中国方面連合軍最高司令官・蒋介石の参謀長に就任したスティルウェル将軍は,CBI(CHINA - BURMA - INDIA)米軍司令官を兼任、中国に対する武器貸与を統括。問題は、米国からの軍事物資補給を中国に運ぶ補給路だった。中国沿岸は、日本軍に封鎖され,ソ連経由も,独ソ戦のため無理だった。残るは,インド(印度),ビルマを経由する援蒋ルートだった。

しかし,日本軍がビルマ北部を占領すると,中国への援蒋ルートは,輸送機を使った空路「ハンプ越え」(ヒマラヤ越え)だけになったた。自動車道レド公路の打通は,1945年と遅れた。

1943年1月,カサブランカ会談the Casablanca Conference (コード名 SYMBOL)でルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相は,11月にビルマ奪還を決めた。東南アジア軍総司令官マウントバッテン将軍が、ビルマ奪回を命じられた。

シンガポール攻略とインド国民軍を読む

2.1943年2月,英インド軍は,ビルマ方面北部にウィンゲート准将のチンディッツ特殊部隊による侵攻を開始した。そして,太平洋方面では,米軍がカロリン諸島,マリアナ諸島を攻撃,1944年6月,西太平洋上における日本海軍の「あ号作戦」失敗は,ビルマにおける日本陸軍インド侵攻「ウ号作戦」失敗の時期と重なっている。

1943年2月14日、ウインゲート准将が指揮するチンディッツ特殊部隊(日本ではウィンゲート空挺部隊と呼称)3千人が、空中補給を受けてビルマ北部に侵入,鉄道や橋梁など交通網を破壊、後方を攪乱した。

1943年2月25日,日本陸軍はサイパン島に司令部を置く第三十一軍(軍司令官:小畑秀良中将)を設置。
1943年3月,ビルマ方面の日本軍は,英インド軍の反攻に備えるように、第十五軍を隷下に置くビルマ方面軍を新設。

写真(右):1944年7月,東南アジア連合軍 (SEAC) 最高司令官ルイス・マウントバッテン将軍とダグラス・マッカーサー将軍:1943年10月,東南アジア連合軍最高司令官に就任したマウントバッテン元帥は,司令部をセイロン島キャンディ王宮に置いた。スリムWilliam Slim中将に命じて,ビルマ奪回を指揮し,米陸軍ウィデマイヤーAlbert Wedemeyer将軍,蒋介石総統と連携して,CBI(China Burma India)戦区にも 影響力を持った。1944年3月に日本の南方軍の隷下に設置された第七方面軍(司令官板垣征四郎)を,シンガポールで降伏させ,シンガポールの奪回を果たした人物となった。インド総督にも就任したが,1979年8月27日,IRAによる爆弾テロで死亡。Photographer: No 9 Army Film & Photographic Unit Title: ADMIRAL OF THE FLEET EARL MOUNTBATTEN OF BURMA Collection No.: 4700-64 Description: Portraits: Admiral Louis Mountbatten with General of the Army Douglas MacArthur. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

1943年8月,中国戦区連合国軍参謀長・CBI米軍司令官に,スチルウェルJoseph Stilwell 将軍が就任,1943年10月にビルマ奪還を計画した。 しかし,武器貸与法に基づく中国への物資支援は,ヒマラヤ山脈と言うハンプThe Hump越えをしなくてはならなかった。

 しかし,1943年8月17-24日,ケベック会談Quebec Conferenceで,ルーズベルト大統領,チャーチル首相は,日本の降伏は,ドイツ降伏から1年後の1945年10月と予定し,ビルマ侵攻は1944年12月に延期された。ドイツへの反抗,そのための欧州上陸作戦「オーバーロード」を優先したのである。

1943年10月,チャーチルは,マウントバッテンLouis Mountbatten卿を連合国東南アジア (SEAC:South East Asia Command) 総司令官に任命,隷下ウィリアム・スリム中将にビルマ奪回が命じられた。米軍メリル襲撃隊は,1944年2月,ビルマ北部ミートキーナに向けて進撃。スチルェル将軍は,中国軍を強化,1943年2月,中国雲南省怒江方面からビルマ北部ミートキーナを奪還することとなった。

1944年3月、米軍はペリリゥー島を空襲。4月,ニューギニア島北岸ホーランジア上陸。
1944年5月20日、豊田副武連合艦隊司令長官は「あ号作戦」を発令。

図(右):サイパン島の日本海軍・零式輸送機;搭乗員(パイロット、航法士、機関士など)5名。日本海軍は,ダグラスDC-3の製造権を購入,500機量産した。日本では,輸送機配備機数は少なく,要人輸送が主な用途で,一般兵士,燃料,食料輸送に使用されることは稀だった。他方,連合軍は原型となったDC-3輸送機派生型C-47/ダコタを1万機を大量生産,一般兵士,燃料を含むあらゆ物資の補給に使用した。空挺部隊降下にも頻繁に使用された。連合軍では,ジープと同じように,輸送機は,一般的な輸送手段だった。American Memorial Park引用。

1944年6月15日、米軍はサイパン島上陸,19-20日,マリアナ沖海戦で、日本海軍第一機動部隊は、正規空母2隻、特設空母1隻を撃沈。

サイパン島では、1944年7月9日、日本人が投身自殺。⇒サイパン島陥落を読む。

1944年4月には、米軍は、中国四川省成都、ベンガル州カルカッタ近郊の基地を整備、1944年6月15日、成都発の第20爆撃兵団B-29爆撃機75機のうち47機が北九州を空襲。しかし、日本軍がビルマ北部を占領しているために,陸路が使用できず,燃料や爆弾をインドから中国まで空輸する「ハンプ越え」をした。連合軍は,インドから中国への陸路の援蒋ルート(後のレド公道)打通のため,ビルマ奪回を計画した。 
 ⇒B-29による日本本土空襲を読む。

太平洋方面で,マリアナ沖海戦に敗北、サイパン島が陥落した1944年6-7月、日本軍のインド侵攻も失敗に終わった。

3.日本軍は,インド侵攻を,当初,実施不可能と考えていたが,悪化する戦局を打開するために,大本営・参謀本部は,1943年8月,インド侵攻インパール作戦を準備する命令をだした。海空の戦いで勝機が望めない日本陸軍は,大陸での地上戦闘で戦局を挽回しようと,中国軍・英インド軍に攻撃をかける作戦を準備した。

写真(左):1943年2月,ビルマ北部にチンディッツ特殊部隊を率いて侵攻したオード・ウィンゲート (Orde Wingate:1903.2.26-1944.3.24)准将:チンディッツとは,1942年に第77インド歩兵旅団に設立された挺進特殊部隊で,1943年初めにビルマ北部の日本軍占領地に侵攻,後方撹乱作戦を実施した。グライダー・パラシュートを使い敵地に侵入する空挺部隊も配備されたが,主力は挺進部隊だった。Brigade and in 1943 Indian 3rd Infantry Division) were a British Indian Army "Special Force" that served in Burma and India from 1942 until 1945 Description: Brigadier Orde Wingate after returning from operations in Japanese-occupied Burma with the Chindits in 1943. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

1943年2月8日,英軍は「ロングクロス」Longcloth作戦を実施。ウィンげート少将 (Orde Wingate:1903.2.26-1944.3.24)は3000人のチンディッツChindits特殊部隊を率いて,ビルマ北部に侵攻。チンディッツ部隊の補給は,ロバなど役畜と空輸を使った。日本では「チンディッツ」と言わず「ウィンゲート空挺部隊」と呼称。実際のチンディッツは、「挺進隊」「突進隊」に航空支援を結びつけた特殊部隊だった。

1943年2月13日,チンドウィン河を渡河したチンディッツ特殊部隊は,7隊に分けれ,鉄道・道路・電線など交通通信網を破壊,日本軍小部隊の襲撃,後方を撹乱した。そして,1,000マイルを走破,引き上げた。

太平洋方面での戦局悪化の中、日本陸軍は、積極的攻撃の必要性を痛感した。戦局好転のためには,自ら積極的な攻撃によって,戦いの主導権を握る必要があると考えた。そこで、中国大陸とビルマ方面での大攻勢を計画した。米任務部隊・空母艦載機を撃破することは困難だが,大陸での地上戦では,戦いの主導権を取り戻すことができると考えた。

写真(右):インドアッサム州からからビルマ北部経由で中国雲南省にいたるレド公路:中国国民党は四川省重慶を戦時首都として,日本軍に反攻を加えていたが,その戦略物資は,このような連合国の交通路によって補給されていた。インパール作戦は,インド北東部を占領,その補給路を断つ作戦でもあった。Ledo & Burma Roads. Assam, Burma, China. 1944-45: アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

1944年初頭,日本軍は中国大陸の「大陸打通作戦」(一号作戦)とビルマからインド侵攻を図る「インパール作戦」を実施。大陸打通作戦は,広東と武漢から進撃、湖南省と広西省を占領し、中国大陸を南北に通して,交通を確保しようとする計画だった。海上輸送が米潜水艦と米航空機によって破壊されていた状況で,陸路によって南方資源を日本本土に輸送しようとした。また,B-29爆撃機の基地と考えた桂林方面を占領,日本本土空襲のリスクを低下させようとした。

インパール作戦は、インド北東インパールImphalを占領,防衛線を前進させ,守備を固めると同時に,インド侵攻によって,反英インド独立闘争を煽動,インドを混乱に陥れる作戦だった。

1941年11月,大陸令第555号で南方軍(総軍)を新設,ビルマ、タイ、インドネシアなど東南アジアを作戦地域とし,占領地の軍政も担当。
南方軍総司令官寺内寿一元帥は,シンガポールにあり,隷下に1943年3月27日,ビルマ方面軍(緬甸方面軍)「森」を設置(軍司令官・河辺正三中将),インドシナ方面を統括した。ビルマ方面軍隷下の第十五軍「林」司令官・牟田口廉也中将が,インパール作戦を推進した。

写真(右):インドから中国へ伸びるレド公路で補給物資を運搬する米国製トラック:連合軍は,日本軍占領地に深く進攻する挺進部隊には,ロバや空輸を用いたが,蒋介石援助のためには,空路「ハンプ越え」のほかに,道路を建設し,トラックによる物資輸送に努めた。インドから,ビルマ北部ミートキーナを通り,イラワジ河を越え,雲南省怒江方面を抜けて,昆明にいたる自動車道の建設である。しかし,3年半ぶりに開通した中国補給道路(援蒋ルート)だが,全通した時期は,大戦末期,1945年であり,中国支援に果たした役割は,プロパガンダで言われるほど大きくは無かったようだ。"U.S.-built Army trucks wind along the side of the mountain over the Ledo supply road now open from India into Burma...": ca. 1941 - ca. 1945 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

 インパール攻略には,アラカン山脈の山林を突破するか,英軍陣地のある谷間の道路を通るしかない。しかし,渓谷の道路の敵陣突破は困難である。そこで、牟田口中将は,携帯用食糧を持った歩兵の突進隊に,水牛,牛,ゾウを連ねた補給部隊をつけて,山中を走破,コヒマ=インパール道路を遮断,インパールを挟撃する奇襲作戦を立案した。

大河チンドウィンを渡河、標高1500mのアラカン山脈を越えた日本軍部隊に,長距離補給する目途は立たなかった。ビルマ方面軍高級参謀・片倉哀(ただし)大佐は,インパール攻略を無謀な作戦とし,方面軍の上位にある南方軍総参謀副長・稲田正純少将も,補給困難なインパール作戦に反対していた。

1943年8月、大本営陸軍部は、牟田口第15軍司令官立案になるインパール攻略作戦の準備を命令。

1943年10月15日,東條英機首相は,戦局挽回の積極攻勢を支持、インド侵攻の必要性を認め,反対派の参謀副長・稲田正純少将を更迭。輜重(補給)専門家の第十五軍参謀長・小畑信良少将は,大部隊による侵攻は不可能であると,作戦実施に反対していたため,牟田口軍司令官は関東軍へ転出させた。さらに,1年以内に,牟田口司令官は,三名の師団長全員を解任することになる。

写真(右):南方軍総司令官・寺内寿一元帥:ドイツの雑誌からの引写しで「じゅんいち」は「ひさいち」の誤読。THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945;Japanese Personalities: Field Marshal Count Terauchi Juichi, the Japanese Supreme Commander in South East Asia.帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

南方軍総司令官寺内 寿一(てらうち ひさいち)(1879年8月8日 - 1946年6月12日):
第18代内閣総理大臣寺内正毅の長男。
1899.11陸軍士官学校卒、1909.12陸軍大学校卒、近衛師団参謀、1911.12オーストリア大使館付武官補佐官、1912.12伯爵(襲爵),1913.2ドイツ駐在、1915.3参謀本部員、1919.7近衛歩兵第3連隊長、1922.1近衛師団参謀長、1924.2歩兵第19旅団長、1927.8朝鮮軍参謀長、1929.8独立守備隊司令官、1930.8第5師団長、1932.1第4師団長、1934.8台湾軍司令官、1935.10大将、1935.12軍事参議官、1936.3広田内閣陸軍大臣
1937年1月21日,第70回帝国議会「腹切り問答」では論破が,軍は,統帥権(軍事権)の独立を楯に,政府に独断で軍事作戦を展開する。
1937.2教育総監
1937.8北支那方面軍司令官,1939.7遣ドイツ・イタリア使節
1941.11南方軍総司令官、1943.6元帥
1945.11予備役、1946.6.12シンガポールレンガムで病没。

⇒寺内元帥・牟田口中将も関与した「腹切り問答;盧溝橋事件・軍閥政治への道」を読む。

インパール作戦に難色を示していた南方軍,ビルマ方面軍は,大本営の意向を汲んで,戦局悪化の打開策として,インパール作戦を承認する方向に動いた。南方軍総司令官寺内寿一元帥,ビルマ方面軍司令官河辺正三中将は,現地の第十五軍司令官牟田口廉也中将のたっての望みとあれば,やらせてもよいと述べた。

本来,隷下の指揮官が作戦を上申した場合,それを大局的見地から検討,懐疑的な部分の精査を命じるのが,上級の軍の責務である。しかし,南方軍,ビルマ方面軍は,隷下の第十五軍を指導する責任を放棄したかのように,インパール作戦を受け入れた。

後勝(うしろまさる))『ビルマ戦記−方面軍参謀 悲劇の回想』1991年 には,次のような記載がある。
1944年1月元旦,大本営・陸軍参謀本部では,年賀にあたり,参謀次長秦彦三郎中将(1890年10月1日-1959年3月20日)が,参謀総長杉山元元帥(参謀総長は1940.10〜44.2)に対して,「今年こそは戦いの主導権を奪回し,聖慮を安んじ奉じる覚悟でございます」と賀詞を述べた。それを聞いていた参謀本部第二課(作戦課)の後勝少佐は,10日,ビルマ方面に派遣されることになった。

参謀本部は,敗北続きの戦局を一気に挽回するためにも,積極的攻勢の必要を痛感,1944年1月7日,インド侵攻インパール作戦実施の大陸命を下達していたのである。後少佐は,13日夜,隣組の人々,妻に見送られて列車に乗り,岐阜県に向かった。15日未明,各務原飛行場から,南方に補給される爆撃機に便乗,博多経由で,台湾の台北に到着,宿で日本料理を堪能した。

1941年1月16日未明,ビルマ方面軍参謀に任命された後勝少佐は,台北飛行場から海南島を経由して,ベトナムのツーラン飛行場に着いた。17日未明,ツーランからサイゴン飛行場に飛び,給油後,シンガポールに到着したのは,17日夕刻だった。

1944年1月18日,後勝少佐は,南方軍総司令官寺内元帥にビルマ方面軍参謀に任命されたことを申告した。南方軍参謀部で,担当区域の戦況報告を聞いた後,自動車でシンガポール市内を回った。町並みは立派だったが,住民の中には,舌を出したり,つばを吐いたり,反感を示すものが見受けられたという。

シンガポールとの「血債」協定にいたる日本軍による反日華僑粛清事件を知っていれば,住民が日本軍高官に抱いていた反感を理解できたであろう。1942年2月18日、シンガポール市内に日本軍が検問場を設置,成人華人男性を「検証」,華僑抗日分子を摘発,粛清。後のシンガポール首相リー・クアンユー(当時18歳)は,身を隠して検問を逃れた。

写真(左):1943年,自由インド仮政府首班ネタジ・スバス・チャンドラ・ボース:自由インド仮政府は,アンダマン・ニコバル諸島を領土として,インド独立を目指した。ネタジとは尊敬すべき指揮官を意味する尊称。Loud and Clear: Netaji proclaiming the formation of the Provisinal Government of Azad Hind. ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House エニグマ オブ ネタジ・チャンドラ・ボース引用。

インド独立連盟とマレー作戦で日本軍捕虜となったモハン・シン大尉の力で,日本軍は,英インド軍将兵を連合国から離反させた。1942年2月15日のシンガポール陥落後,英インド軍の捕虜を編入した大規模なインド国民軍が編成。
インド国民軍は本来インド独立ための軍隊だったが,日本軍に,インド侵攻計画はなかった。しかし,セイロン島攻撃の足場として,1942年5月,日本軍は,アンダマン諸島を攻略。

しかし,1942年11月20日,モハン・シン大尉は,「日本に対する不信行為およびインド独立連盟内の分派抗争」を理由に,ビハリ・ボース指揮官(スバス・ボースとは別人)から解任,日本軍によって逮捕,シンガポールに収監された。

1943年4月,ドイツに亡命していたインド国民会議派元議長チャンドラ・ボースは,5月に日本に到着,インド独立連盟総裁・インド国民軍最高指揮官となった。1943年7月,シンガポールのインド独立連盟大会で,インド国民軍の閲兵式が行われた。
1943年10月21日,チャンドラ・ボースは,自由インド仮政府首班となり,独立を宣言,対米英宣戦を布告。11月,東京開催の大東亜会議に出席。東條首相は,アンダマン・ニコバル諸島を自由インド仮政府の領土とすることを約束。

インド国民軍を読む。

写真(右):1948年東京裁判に出廷した東條英機元首相:勲章や肩章など全ての虚飾を剥ぎ取られた軍服を着ている。Former Prime Minister Hideki Tojo testifies during his trial at the old War Ministry building in Tokyo in 1948.
東條英機(とうじょう ひでき 1884年7月30日(戸籍上は12月30日) - 1948年12月23日):1940年7月22日第二次近衛文麿内閣で陸軍大臣,1941年10月18日内閣総理大臣兼内務大臣・陸軍大臣,1942年外務大臣を兼務。1943年には商工大臣・軍需大臣を兼任,大東亜会議を主催,チャンドラ・ボース極東国際軍事裁判(東京裁判)では,昭和天皇に戦争責任をきせることなく,敗北の責任を受け入れた。死刑の判決を受けたが,親族の東條由布子の凛として愛する国に によると大東亜会議の開催を誇りにしていた。名家の子弟をプロパガンダに利用する寓を避けなければならない。アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。


1943年11月5日,大東亜会議が東京で開催,アジアの同盟国首脳が招請された。
日本は,首相東條英機大将,中華民国臨時政府は汪兆銘行政院長,満州帝国は,張景恵国務総理大臣,フィリピン共和国は、ホセ・ラウレル大統領,ビルマはバーモウ長官が出席。タイ王国はピブン首相が欠席,ワンワイタヤコン代理が参加。自由インド仮政府はチャンドラ・ボースが出席を拒み,オブブザーバーとして参加。

大東亜会議最終日,1943年11月6日発表の大東亞共同宣言で「米英の抑圧と侵略搾取、隷屬化の野望が、大東亜戦争の原因となったとし、アジアを米英の桎梏より解放し、自存自衞を達成し、世界平和の確立に寄与すると宣言した。


写真(左):1944年2-3月,日本陸軍インパール作戦に参加し,インドに進攻するインド国民軍将兵
:Road to Delhi: Another view of INA troops' legendary march.
写真(右):1944年2-3月ごろ,インドに進撃するインド国民軍:1944年1月,大本営は、敗北続きの戦局を一気に挽回するためにも,積極的攻勢の必要を痛感,第十五軍牟田口中将の計画したインド侵攻インパール作戦の実施を承認,これにインド国民軍が参加した。 Forward March: INA troops' march towards India ヒンドゥスタン・タイムズハウスHindustan Times House引用。


ビルマ方面軍参謀として,後少佐は,1944年1月19日,シンガポールを発ち,バンコクに到着,翌20日早朝出発,正午にラングーンのミンガラドン飛行場に到着した。
ビルマ方面軍は,ラングーン大学構内の木造バラックにあった。ラングーンの当時の人口は100万人,ビルマの人口は2000万人だった。参謀部員の宿舎は,かつての英国要人の木造二階建て洋館で,舗装されたテニスコートを備えていた。宿舎当番の台湾義勇兵が世話をしてくれた。 

他方,ビルまでは,1943年8月1日,バーモウ博士を首班とするビルマが独立,ビルマ独立軍を指揮して独立に貢献したアウンサンは,国防大臣・ビルマ国軍指揮官として,ラングーンを警備した。ただし,日本軍とともに戦ったアウンサン将軍は,英軍にとらわれていていたバーモウ長官を評価せず,自負心が強かった。  

4.1943年10月、日本軍は,インド・ビルマ方面でインパール作戦「ウ号作戦」準備を発動した。これは,三個師団を基幹とする第十五軍によって,英インド軍を攻撃するインド侵攻作戦である。ウ号作戦に従って,前進基地となるチンドウィン河正面に,食料・弾薬など物資集積が開始された。


現在のインド共和国マニプール州インパールの衛星画像

第十五軍「林」司令官牟田口廉也(1888年10月7日-1966年8月2日)中将は,インパール作戦を戦った。第十五軍は,隷下に,第三十三師団「弓」(師団長柳田元三中将)、第十五師団「祭」(師団長山内正文中将、元米駐在武官)、第三十一師団「烈」(師団長佐藤幸徳中将)があり,各師団は,インパールの南,西,北から侵攻する計画だった。

写真(右):1944年4月,インドのジェソー基地の第99飛行中隊ウェリントン爆撃機Mark X:英空軍は,インパール方面の制空権を確保し,日本軍の第一線部隊,補給ルートを空襲した。Photographer: Royal Air Force official photographer Collection No.: 4700-15 Description: RAF and American groundcrew shelter from the sun under the nose of a Vickers Wellington Mark X of No. 99 Squadron RAF at Jessore, India, after preparing it for a sortie to Burma. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

第十五軍軍司令官牟田口中将に対するは,第十四軍司令官スリム中将隷下の第四インド軍Indian IV Corps 司令官スコーンズGeoffrey Scoones中将である。第四インド軍は、3個歩兵師団(第17・20・23インド歩兵師団),1個空挺旅団(インド第50空挺旅団),1個機甲旅団(第254インド戦車旅団)を擁していた。

CBIの連合軍は,兵力だけではなく,火砲,戦車を含めた地上兵力,航空兵力において,日本軍より遥かに優勢であった。ベンガル湾の制海権,CBIの制空権をほぼ掌握していた。

連合軍の航空攻撃,空襲が行われる日中,日本軍は兵力・補給物資を移動することも困難になりつつあった。1944年6月からの欧州西部戦線で,ドイツ軍が連合国の戦闘爆撃機ヤーボ,爆撃機による空襲に苦しめられ,地上軍の移動もままならなかったのと同じような状況に,日本軍も置かれていた。そこで,制空権を奪われた第十五軍が考えたのが,山林,ジャングルを突破するインド侵攻奇襲作戦だった。連合軍とは異なり,空輸によって補給を維持することはできなかったため,敵の弾薬,糧食を奪って戦う計画だった。

1943年10月、第三十一師団「烈」(佐藤幸徳中将)隷下の第31歩兵団長宮崎繁三郎少将は,ビルマ北部ペンコックに連隊長,連絡将校を集め,12万分の1地図を前にウ号作戦について,予め作戦概要を伝えた。

歩兵団長宮崎繁三郎少将の戦局の認識は「日本の絶対国防圏外において死闘を繰り広げている太平洋方面の戦場とは別に,わがビルマ百万の陸軍は威風堂々,英インド軍を圧倒してビルマの安全を確保していることは,諸官の承知の通りである。この戦場だけが,重慶を睨みインドを圧して,連合軍の反抗を阻止している。」しかし,敵のビルマ奪回の企図が着々と進められている。そこで,ビルマ防衛の方策がいかにあるべきか,太平洋方面の劣勢を挽回して戦局を好転させるには,いかなる方策をもってすべきかを研究したい,と言うのであった。

実は,1943年8月7日,南方軍は,インパール攻略作戦(ウ号作戦)を認可,ビルマ方面軍に,ウ号作戦準備を命じ,第十五軍はチンドウィン河正面に兵力を展開した。

インパール作戦〜父が語る戦争体験記〜によれば,1943年12月,19歳で徴兵検査を受け、甲種合格後すぐに仙台工兵隊に入隊、初年兵教育を受けた窪田孝之助氏は,仙台の現役兵約50名,千葉県柏から合流した補充兵約60名の部隊に入った。
1944年4月,博多より輸送船10隻で出航。2日後に米潜水艦の雷撃を受け船団は崩壊。九州に戻り第二次船団を組直し再出発。しかし,台湾沖で攻撃を受け,高雄に避難後,第三次船団にて出航。マニラ湾で攻撃、船団の9割は沈没、残った船はマニラに入港。第四次出航も、サイゴン上陸目前カムラン湾で攻撃された。九州から出航した輸送船のうち唯1隻「帝立丸」だけがサイゴンに到着。部隊2000人が上陸。
ビルマだけでなく,日本軍の交通補給網は,戦域全体にわたって麻痺しつつあった。

写真(右):1944年7月戦い後のコヒマ:The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: View of Kohima Ridge after the battle.No 9 Army Film & Photographic Unit 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

地図(英インド軍から鹵獲)によれば,アラカン山脈Arakan Yoma は平均5000フィート(1フィート30cm)を超えている。インパールまで,300kmを進撃することになる。

ビルマ北東は,重慶の中国軍と対峙していたから,インパール攻略部隊の側面防御のために,雲南省怒江方面は龍兵団が,フーコン河谷方面は菊兵団が持久防衛する。こうして,東方,北方の中国軍を押さえつつ,主力をインパールに進撃させる。祭兵団はタイにあり移動中だが,フミネ,ウクルルを通じる道をインパールに進撃する。
烈兵団は,突進隊を三部隊編成,右突進隊は第138連隊の中から1個大隊をもって編成,コヒマ北方に侵攻。中突進隊は,第138連隊(鳥飼恒男大佐)の主力も持ってコヒマに進撃。左突進隊は,宮崎少将自ら率いて,コヒマを占領する。

宮崎繁三郎歩兵団長は,部隊長たちに,補給については,短期決戦,源義経の鵯越えで行くの心配要らないが,万一に備えて多数の牛を連れて進撃する。これは,ジンギスカンが生きた食料として羊を連れて進撃したのに習っていると説明した。牛を役畜として,食料・弾薬を運搬させれば,一石二鳥だという。牟田口軍司令官によれば「糧は敵地に求め,武器弾薬は敵のそれを奪って闘うんだ」という。

宮崎少将は「本作戦には,独立国ビルマ軍,インド仮政府軍が参加することになっている。-----インドの自主独立を促すことを考えると,作戦の意義はいよいよ大きく,大東亜戦争の頽勢を挽回せしめる乾坤一擲の大作戦となるだろことを確信する。」と結んだ。

ビルマ方面軍 「森」[1943/3/17編成]隷下の日本軍でインパール作戦に参加した部隊
第15軍「林」 司令官・牟田口廉也中将、軍参謀長久野村桃代中将

第31師団「烈」師団長[烈兵団長]・佐藤幸徳中将→師団長代理・宮崎繁三郎少将→河田中将

第31師団「烈」師団・右突進隊・第138連隊第3大隊長・柴崎兵一少佐----第138連隊第3大隊,速射砲分隊,山砲兵第31連隊第3中隊,工兵小隊各々1個など
第31師団「烈」師団・中突進隊・第138連隊長鳥飼恒男大佐----第138連隊(第3大隊欠),速射砲中隊,山砲兵第31連隊山砲第1大隊(1コ中隊欠),工兵中隊(1コ小隊欠)各々1個など
第31師団「烈」師団・左突進隊・歩兵団長宮崎繁三郎少将----第58連隊(越後高田編成),山砲兵第31連隊山砲大隊,工兵中隊各々1個など
第31師団「烈」師団本体佐藤幸徳中将-----第124連隊,工兵第31連隊,山砲兵第31連隊第3大隊,独立速射砲第1大隊第3中隊
烈兵団火砲----47門

第15師団「祭」師団長[祭兵団長]・山内正文中将(1944/8/6メイミョウで戦病死)→7/4→柴田卯一中将が着任

第15師団「祭」右突進隊・第60連隊長・村松弘大佐)----第60連隊(第1大隊欠)・砲兵第21連隊(2個大隊欠)
第15師団「祭」左突進隊・第51連隊長・尾本喜三雄大佐)-----第51連隊(第2大隊欠)・砲兵1個大隊
第15師団「祭」挺進隊(本田大尉)----第67連隊第3大隊・歩兵砲中隊
第15師団「祭」左側支援隊(吉岡少佐)----第60連隊第1大隊
第15師団「祭」師団本体・師団長山内中将----5個中隊,通進退,衛生隊

祭兵団火砲----41式山砲10門,31式山砲3門,37ミリ速射砲3門,大隊砲5門の合計21門,92式中機関銃25丁

第33師団「弓」師団長[弓兵団長]・柳田元三中将→田中信男中将に更迭  

第33師団「弓」本体-----第214連隊(笹原政彦大佐)・第215連隊(佐久間喬宜大佐)・第67連隊第1大隊(瀬古大隊)
第33師団「弓」歩兵団長・山本募少将----第213連隊(温井親光大佐)・第60連隊第1大隊・第51連隊第3大隊・戦車第14連隊(井瀬信助大佐)
弓兵団火砲----速射砲8門,山砲13門,十五糎(15センチ)榴弾砲8門,十糎加濃砲(10.5センチ・カノン砲)8門など49門,戦車30数両

写真(右):1945年4月5日,第17師団がカンドウで鹵獲した日本軍「マーク9」75ミリ対戦車砲:七糎半九十式野砲を対戦車砲として使用したものと思われる。Photographer: Stubbs A (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit Title: THE BRITISH ARMY IN BURMA 1945 Collection No.: 4700-64 Description: Men of the 17th Division inspect a Japanese Mk 9 75mm anti-tank gun captured at Kandaugn, 5 April 1945.
写真(右2番目):1945年4月5日,第17師団がメークティラで鹵獲した日本軍の装甲回収車:九四式装甲車,九五式軽戦車,中戦車とも異なる装軌車にクレーンを装備したもの。Photographer: Stubbs A (Sgt) No 9 Army Film & Photographic Unit Collection No.: 4700-64 Description: A soldier of the 17th Division inspects a Japanese armoured recovery vehicle captured at Meiktila, 5 April 1945. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


写真(右):1943-44年,日本軍とともにインド独立のために戦ったインド国民軍INA(Indian National Army)の将兵:インド国民軍のインド人は,大日本帝国とともに英インド軍と戦った。この意味で,日本の植民地解放,白人支配からのアジア解放の大儀の実例といえ,注目される。ただし,連合国の側に立ったファシズム日本軍と戦ったインド人は,その100倍以上,彼らはみな給与や物資目当てだったのか。Ready for Action: An INA solider (National Archives Photo) ヒンドゥスタン・タイムズ・ハウスHindustan Times House引用。

大本営は,インパール作戦の補給に懸念を示したが,首相東条英機参謀総長は,大東亜会議で植民地独立と言う大義名分に陶酔,会談したチャンドラ・ボースの度量に惚れ込んだ。

しかし,大東亜共栄圏の中にインドが含まれるのかどうかは,不確実である。インドは,アンダマン諸島・ニコバル諸島を領土として独立国となった。国連宣言に,本国を占領されたベルギー,ルクセンブルク,チェコスロバキア,フランス,フィリピンが参加していることを見れば,自由インド仮政府にも,1943年11月5日の大東亜共会議に正規資格で出席できた。にもかかわらず,チャンドラ・ボース首班自らがオブザーバー資格で出席することを望んだ。

ボース自らは,インドを大東亜共栄圏に組み込まれないように,大東亜会議にオブザーバーとして出席,日本と対等の関係を意思表示した。なぜなら,満州国,汪兆銘の南京政府は明らかに,日本の勢力化にあった事実上の傀儡政権であったし,フィリピン,ビルマも真の独立国と言うには,日本の影響力が強すぎた。ボースは,英領植民地のインド人の支持を得るためにも,日本軍の支援を得つつも,決してその支配下で屈するつもりは無かったものと推察される。 

◆首相東条英機参謀総長が,自由インド仮政府首班テャンドラ・ボースに正規資格で大東亜会議に出席させたかったのは間違いない。しかし,東條大将もボース首班の自信をもった態度とインド独立という影響力を理解し,大東亜会議へのオブザーバー資格での出席要求に合意した。東條首相が,ボースに惚れ込んだというのは本当であろう。

大東亜会議において,インドの自主性を示したと考えたボースは,インド侵攻インパール作戦に参加。その兵力は以下の通り。

インド国民軍指揮官・チャンドラ・ボース:第一遊撃師団(4個連隊),特務隊(英インド軍帰順工作),情報隊(情報収集),補充隊(投降捕虜の部隊編成)


写真(左):1944年3月-7月,アラカン戦線の第7ラジプート連隊第二大隊:An Indian infantry section of the 2nd Battalion, 7th Rajput Regiment about to go on patrol on the Arakan front, Burma.
写真(右):コヒマで戦車に搭載してあった機銃を外して使用する英軍歩兵:The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: British infantrymen use a dismounted tank machine gun at Kohima. No 9 Army Film & Photographic Unit THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 [ Official photograph ]帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。  


写真(右):1944年,英インド軍第五グルカ連隊のグルカ兵ネトラバゥル・タパ(ビクトリー・クロス勲章拝受者): PHOTOGRAPHER:No 9 Army Film & Photographic Unit TITLE:SECOND WORLD WAR: VICTORIA CROSS HOLDERS' PORTRAITS (GENERAL) COLLECTION NUMBER:4700-38 PERIOD:Second World War DATE:1944 ACCESS:Unrestricted COLOUR / BLACK & WHITE:Black and white TYPE:Official photograph DESCRIPTION:Netrabahadur Thapa, 5th Royal Gurkha Rifles, Indian Army: Place and date of deed, Bishenpur, Burma, 25 - 26 June 1944.帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。 英軍は,1854年にインド山岳少数民族のグルンを英インド軍「傭兵」グルカ・ライフルとして重用,英インド軍に編入, 第一次世界大戦中、中東地域に派遣した。また1915年ガリポリ上陸作戦にも加わっている。国内治安維持にもあたり,インドの民族の分割統治に用いられた。連隊募集センターはシロン(メガラヤ州)にあり,通称フロンティアフォース。モットーは,Shaurya Evam Nistha (Courage and Determination:勇気と決意)。 日本軍も,独立を名目に戦力拡充,英領インド統治の混乱を画策し,シークなどをインド国民軍兵士として用いた。

白人によるアジア植民地支配からの解放という大儀は,魅力的だ。しかし,中国大陸における日本軍は,中国を半植民地化していた米英仏,ソ連とは友好的な関係を保とうとてきた。この親米英外交を踏まえれば,日本軍が白人支配勢力を駆逐し,アジア植民地を解放するというのは,夢のような話だった。

  英インド軍インド兵士は,高給,待遇に魅力を感じていただけかもしれない。が,戦場で勇敢に戦った部隊も少なくない。インドの自由,自治,経済的繁栄,家族の生活維持のために,日本軍将兵と戦火を交えたのであろうか。

連合軍は英インド軍は,第14軍司令官スリムWilliam Slim中将隷下にある第4軍団Indian IV Corps(スコーンズ中将Lieutenant-General Geoffrey Scoones)を中心に、約15万人がこの地域に配備され、オード・ウィンゲート准将のチンディッツ特殊部隊(コマンド旅団)が、ビルマ地域の日本軍の脆弱な補給線の破壊活動を担当した。また、暗号解読・通信解析などにより日本軍のインパール作戦の概要を把握していた。スリム中将など連合軍司令部は空中補給、重火器の準備をした上で、日本軍の進出限界点で反攻する方針を固めた。

写真(右):第7インド師団司令官フランク・メザビー卿とウィンゲート准将(後,少将) の後を引き継いで遊撃戦を戦ったランタイン少将:General Sir Frank Messervy (1893 -1974): Head and shoulders portrait of General Messervy, Commanding the 7th Indian Division, in the Arakan.
Personalities: Head and shoulders portrait of Major General W D A 'Joe' Lentaigne (1899-1955) who assumed control of the Chindit operations after Wingate's death. No 9 Army Film & Photographic Unit 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


第4軍団(軍団長Geoffrey Scoonesスクーンズ中将)は,歩兵師団4個,機甲旅団1個,空挺旅団1個を配備,インパール方面を防備。
第14軍:軍司令官スリムWilliam Slim中将(1887-1970)
第4軍団(インパール方面) 軍団長スコーンズGeoffrey Scoones中将
第17インド歩兵師団Indian 17th Infantry Division(2個連隊のみ:師団長コーワン少将----ティジンに布陣
第20インド歩兵師団Indian 20th Infantry Division:師団長グレーシーDouglas Gracey少将----タムに布陣
第23インド歩兵師団 Indian 23rd Infantry Division:師団長ロバーツOuvry Roberts少将---インパールに2年間あり,傷病者多し。インパール駐留の予備軍
第254インド機甲旅団254th Indian Tank Brigade:旅団長スコーンズRL Scoones准将---インパール内外に布陣。

これらの英インド軍部隊は,日本の第十五軍によるインパール攻撃を察知すると,インパール方面に戦略的撤退を開始した。しかし,日本軍は攻撃に恐れて敗走したと勘違いしたようだ。インパール攻略にむけて勇躍前進し,インパールを包囲した。

他方,英インド軍は,コヒマ方面は,第33軍団(軍団長スタフォード中将)の部隊に防衛させており,コヒマ防衛の要である高地に陣地を構えた。


写真(右):1944年のスチュルウェル中将とメリル准将
Lt. Gen. Joseph W. Stilwell (left) and Brig Gen. Frank D. Merrill . (DA photograph) メリル准将は1943年にメリル襲撃隊を編成したが,これは米陸軍特殊コマンド部隊のひとつであり,ジャングル長距離侵攻部隊である。米軍の正式名称は,第5307複合ユニットである。メリル襲撃隊は,1944年2月,3コ大隊を配備し,ビルマに侵攻した。India-Burma:The U.S. Army Campaigns of World War II引用。

日本軍はインパールを目標に、ジャングル,山岳,河川を越えて進撃。牟田口将軍は,牛・ヤギ・ゾウなど荷物を積み,歩けなくなった役畜を食料とする「ジンギスカン戦法」を採用した。しかし、役畜は,チンドウィン川渡河時に流され、ジャングル,山岳地帯の通行も難しかった。食料(糧秣)・弾薬は,敵の物資を鹵獲することで,補給する方針が決められていた。

1944年1月7日、大本営は,第十五軍牟田口中将のインパール作戦実施を認可した。作戦では,佐藤幸徳中将の第三十一師団が,チンドウィン河から北西周りに進撃し,インパール北方コヒマのコヒマを攻略,英インド軍のデマプール-インパールの道路を処断する。山内正文中将の第十五師団は,チンドウィン河から西方に進撃,インパールを攻撃する。柳田正三中将の第三十三師団は,南西から迂回する道路沿いにインパールに進撃する。こうして,三向からインパールに向かって進撃する分散・包囲の戦術を採用した。

作戦準備としては,補給物資をチンドウィン河正面から,進撃路上に集積すること,民情を含めた情報収集が主であるが,第十五師団は,それまで駐屯していた華中から南下し,インパール作戦に参加したために,移動に時間を要した。インパール作戦に必要な補給物資を運搬するために,タイとビルマをつなぐチェンマイ−タウング道路の建設にも兵力をまわすことを余儀なくされている。各部隊の連携が悪いことが,インパール作戦で問題になったが,事前の共同演習などを,師団間の連携強化のための訓練はほとんど無かったようだ。 

他方,ビルマ-インド方面では,5月から10月は,ベンガル湾,アンダマン海からの季節風の影響で,雨季であり,交通事情は悪化する。特に,ビルマ・インド国境付近は熱帯多雨林気候であり,雨季には,軍の大規模移動には障害が多い。しかし,牟田口司令官は,物量を誇る敵の英インド軍こそ,雨季の補給困難による悪影響が大きいと判断していた。

5.1944年2月,日本陸軍のウ号作戦(インパール作戦)開始直前,英軍は,雲南省からビルマに侵攻し,さらにウィンゲート少将率いるチンディッツ特殊部隊に,ビルマ北部の交通・通信網を破壊することを命じた。日本軍のインパール作戦を暗号解読によって察知していた英軍は,インパールと離れた日本軍の後方に対して,果敢な挺進攻撃を展開したのである。

写真(右):1944年3月「木曜日」作戦時「ブロードウィエー」飛行場のオード・ウィンゲート准将(中央):左から,フランク・メリス大佐,アリソン大佐,カルバート准将,ボロウ大尉,ウィンゲート准将,スコット中佐,スチュワート少佐。General Orde Wingate (centre) with other officers at the airfield code-named "Broadway" in Burma awaiting a night supply drop. Left to right: Colonel Frank Merrill, Colonel J R Alison, Brigadier J M Calvert, Captain Borrow (Wingate's ADC), General Wingate, Lieutenant Colonel W Scott and Major Francis Stewart .帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。
1943年2月, 乾季を利用して、オード・ウインゲート准将隷下の「ウインゲート旅団」約3千は、陸路を使ってビルマに潜入、C-47輸送機による空中補給を受けながら、日本軍占領地で、補給部隊の襲撃、鉄道・橋梁の破壊などを後方攪乱を実施。第15軍による掃討作戦に直面したが、ウインゲート旅団は撤退しつつ後方攪乱を継続。1944年3月、再びウインゲート旅団は「木曜日」作戦として、チンディッツ特殊部隊を輸送機・グライダーを利用して空輸、2回目のビルマ潜入作戦を実施。しかし、3月24日、ウインゲート准将は飛行機事故で死亡。


英軍は1944年2月4日,英第14軍British Fourteenth Army司令官スリム中将 と米陸軍航空隊USAAFジョージ・ストレイトメイヤーGeorge Stratemeyer将軍は,ウィンゲート准将と第1航空軍フィリップ・コーチャンPhilip Cochran大佐に, インドウIndawに向かい,ビルマ北部ミートキーナの日本軍の交通通信網を破壊すること,雲南省怒江(サルウィン川)を渡河しビルマ北部に侵攻することを命じた。


写真(左):1944年ミートキーナの日本軍陣地の1500ヤード地点に弾薬と食料をパラシュート投下するC-47輸送機(米軍仕様のDC−3輸送機)
:Photographer: US official photographer Title: THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 Collection No.: 4700-06 Description: Logistics: A C 47 aircraft releases parachutes with ammunition and rations for American troops in the field about 1500 yards from the Japanese line on the Myitkyina front.
写真(右):ビルマ北部でパラシュート投下された物資補給を受ける中国軍・米軍:Photographer: US official photographer Title: THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 Collection No.: 4700-06 Description: Logistics: Chinese and American troops pick up supplies dropped by parachute in Northern Burma. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


1944年2-3月,日本軍がインパール作戦を開始する直前を狙って,ビルマ北部・雲南省怒江方面で,チンディッツなど連合軍による日本軍への反攻が開始された。日本軍はこの後方撹乱を「陽動」「威力偵察」と考えたようで,深刻な大反攻とは認識していなかった。しかし,これは,連合軍による本格的なビルマ奪回作戦の一環で,インパール作戦へ別方向からの妨害だった。

写真(右):北ビルまで休憩中の米軍メリル襲撃隊(ジャングル挺進隊):メリル准将が1943年に編成した第5307複合ユニット。メリル襲撃隊は,1944年2月,3コ大隊を配備し,ビルマに侵攻した。Marauders rest during a break along a jungle trail near Nhpum Ga. (DA photograph) India-Burma:The U.S. Army Campaigns of World War II引用。

1944年2月9日,ファーグソン将軍Fergussonの第16旅団はレドを出発,残りの部隊は,輸送機で空輸された飛行場の周囲に陣地を構築。ウィンゲート将軍のチンディッツChindits特殊部隊は,1943年2月8日に「ロングクロス」作戦に,1944年2-3月には,「木曜日」作戦Operation Thursdayに出動した。これは,チンディッツChindits特殊部隊,英連邦の将兵など2万名に参加した。

ウインゲート准将にとっては,1944年2月は第二次チンディッツ作戦であり,二回目のビルマ侵攻となった。「木曜日」作戦では,輸送機とグライダーを利用,大規模な空挺作戦を展開。3月24日,ウィンゲート少将(Maj-Gen O.C.Wingate)が飛行機事故で死亡すると,チンディッツ指揮官には,ランタイン少将(Maj-Gen W.D.A.Lentaigne)が就任。

1944年初頭,チンディッツの第三インド歩兵師団3rd Indian Infantry Division (Special Force) (2nd Chindit Expedition)の隷下には,第3西アフリカ旅団(3rd West African Brigade),第14英歩兵旅団(14th British Infantry Brigade),第16英歩兵旅団,第23英歩兵旅団,第77インド歩兵旅団(77th Indian Infantry Brigade),第111英歩兵旅団,モリス支隊(モリス中佐)に,砲兵隊,第160野戦連隊(160th Field Regiment),第69軽対空連隊(69th Light Anti-Aircraft Regiment)などが付随。ただし,予備軍も含んでいるので,全部隊がビルマに侵攻したわけではない。
 
チンディッツの特徴は,?空輸部隊fly-in of troops,?負傷者の後送evacuation of casualties,?補給物資の空輸supplies by air,?密接な航空支援close air support,?制空権の確保air superiorityである。ウィンゲート准将は,敵地での精力的な後方撹乱は90日が限度と想定していた。

写真(右):1944年3月「木曜日」作戦で空輸を待つチンディッツ特殊部隊:英軍将兵,西アフリカ軍(ケニア,タンザニアなど)将兵,グルカ兵が,搭乗するC-47スカイトレイン/ダコダ(軍用型DC−3)輸送機を待っている。Title: THE CHINDITS Collection No.: 4700-06 Description: Operation 'Thursday' - March 1944: British, West African and Gurkha soldiers waiting at an airfield in India before Operation 'Thursday'.帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

チンディッツ直接支援航空隊は 523人で,次の348機を保有。
ワコCG-4Aグライダー 150
連絡機・小型偵察機(L-1/L-5) 100
ノースアメリカンP-51A、ムスタング 戦闘機 30
訓練用グライダー 25
ダグラスC-47双発輸送機 13
UC-64小型輸送機 12
ノースアメリカンB-25H双発爆撃機 12
YR-4ヘリコプタ 6

 日本軍はインパール作戦の準備中で,後方撹乱に対して掃討は進まず,サルウィン川方面でも,持久戦に努めるて,攻勢には出なかった。乾坤一擲のインパール作戦に全力を注ぎたかったのである。

日本軍は,1944年3月8日,インパール作戦開始のちょうどそのとき,ビルマ中部に空てい部隊が侵入したことを知った。その兵力は不明だったが,3月14日,ビルマ方面軍は,インパール作戦に支障をきたさないように,ビルマ東南ベンガル湾海岸を守備していた独立混成第24旅団を第十五軍の指揮下に入れ,第二十八軍第二師団をもって,反撃させた。

写真(右):1944年3月「木曜日」作戦中のチンディッツ特殊部隊:C-47スカイトレイン/ダコダ輸送機とグライダーによってビルマ北部に侵入,日本軍の後方撹乱を行った。THE CHINDITS Collection No.: 4700-38 Description: Chindit Operations - General: Chindits making tea at their jungle bivouac. .帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

侵入した英軍兵力は,2個旅団9000人の大兵力で,マンダレー,ミートキーナの交通路を結ぶモールを占領した。ウィンゲート准将率いるチンディッツChindits特殊部隊は,「木曜日」作戦Operation Thursdayに投入,パラシュート,グライダー,輸送機による空中補給を受けながら,モールを攻略,日本軍の補給路を断った。

インパール攻撃発動直前の日本軍は,機を制せられ,ラングーンからミートキーナへの補給に支障が生じた。レド東正面のフーコン谷地の第十八師団「菊」は完全に補給路を遮断された。ファーグソン将軍Fergussonの第16旅団は,陸路で,第十八師団「菊」を攻撃した。雲南省怒江方面を守備していた第五十六師団「龍」も孤立する恐れがでてきた。

写真(上左):雲南省方面で戦ったカモフラージュを施した中国軍:Chinese soldiers poorly armed, snuggled close to the land as their camouflaged caps indicate. ARC Identifier 196520アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。
写真(上右):1943年6月,雲南省怒江(サルウィン川)近くで「5万人の日本軍」に攻撃をかける中国軍:5万人というが,正面の日本軍は1個師団(2万人弱)だった。1944年5月まで,雲南省怒江方面の日本軍は,戦線を維持し続けた。これは中国軍が本格的な攻撃をかけなかったためである。インパール作戦が失敗に終わると,中国軍も大攻勢を開始。Camouflaged and poorly equipped Chinese soldiers repell a charge of 50,000 Japanese along the Salween River near Burma.: ca. 06/1943 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。


雲南省は、チベット高原を発する三つの川、金沙江(長江上流部)、瀾滄江(メコン川上流部)、怒江(サルウィン川上流部)が流れている。その三江併流(さんこうへいりゅう)の地は,現在,迪慶(ディーチン)蔵族(チョンツー)自治州,怒江リス族自治州を含み、ナシ族、イ族など少数民族が居住している。

1944年5月11日,米英中の連合軍が,ビルマ北部,雲南省怒江方面から攻撃を開始。戦闘が本格化したのは,インパール作戦の失敗が明らかになってからである。 ミイトキーナは,飛行場があり,重慶に伸びるレド公路がイラワジ川を渡河し雲南省に入る基点である。

ミートキーナのお先が中国の騰越で,そこからイラワジ川の東に,怒江(サルウィン川),瀾滄江(メコン川上流部)と続く。そのさらに東が,雲南省州都・昆明(クンミン)である。北ビルマ・雲南省の日中両軍は,この三江併流地域で,戦線を開いた。

1944年8月3日,連合軍がミートキーナを占領。雲南省怒江方面の要衝である拉孟は9月8日、騰越は9月14日に攻略。インパール作戦が失敗し,ビルマ北部・雲南省怒江方面の日本軍も,持ちこたえることができなくなった。

6.1944年3月,英軍チンディッツ特殊部隊のビルマ北部侵入の最中,日本陸軍はウ号作戦(インパール作戦)を開始,第三十一師団「烈」はチンドウィン河を渡河して,アラカン山脈に入り,コヒマに向かった。4月,第三十一師団「烈」はコヒマの一角を確保し,持久戦に入った。5月,現地を視察したビルマ方面軍参謀後勝少佐は,5月末には作戦を打ち切り,チンドウィン河の線に後退するとの進言をしたが,第十五軍では悲観論として敬遠された。南方視察した参謀本部の秦彦三郎参謀次長一行は,インパール攻略は至難との報告電文を東京に送ったが,戦局挽回を期していた参謀本部東條英機参謀総長は,受け入れす,ビルマ方面軍にインパール攻略を厳命した。しかし,現地の第三十一師団佐藤中将は,糧食・弾薬の補給が得られず,1944年6月1日,第十五軍のコヒマ死守命令を無視して,独断で退却を開始した。

1944年3月7日,牟田口廉也第十五軍司令官は,3個師団を使った「ウ号作戦」を発動,3月15日2100,佐藤幸徳中将の第31師団の三つの突進隊は,チンドウィン河渡河を開始。

第138連隊の将兵は,糧秣として米6升に若干の調味料,小銃弾240発,手榴弾3発,シャベル(円匙)あるいは十字鋤,毛布,天幕を携行,小銃,帯剣をあわせて1人当たり40キロの装備となったという。

写真(右):1944年3月-7月のコヒマの高地Garrison Hill :The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: View of the Garrison Hill battlefield with the British and Japanese positions shown. Garrison Hill was the key to the British defences at Kohima. No 9 Army Film & Photographic Unit THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 [ Official photograph ]帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。

第138連隊の目標コヒマまでは,アラカン山脈を越え,山林,丘陵を進撃しなければならならない。コヒマは,インド要衝ディマプールとインパールを結ぶ自動車道の中間点で、ここを占領すれば,インパールの英インド軍は孤立するはずだった。

1944年3月22日,第31師団「烈」師団・第138連隊の右突進隊(柴崎兵一少佐)と中突進隊(鳥飼恒男大佐)は,アラカン山中のモーレを越え,28日,ゼッサミでアッサム第1連隊の800人の抵抗を受けたが,31日これを撃退。4月7日,コヒマ北方に到着。

第31師団「烈」師団の宮崎繁三郎(1892年1月4日-1965年8月30日)少将率いる第58連隊など左突進隊は,1944年3月22日にウクルル周辺の敵を撃退,その南方のサンジャックを攻撃,3月26日,攻略。サンジャックは本来,第三十一師団「烈」の進撃ルートではなく,第十五師団「祭」本田挺進隊の攻撃ルートだった。宮崎少将が,先行して現地に到着,「祭」本田挺進隊との連携不十分のまま,サンジャックを攻撃,1週間近くかかって攻略。しかし,このサンジャック攻略のために,左突進隊の前進は1週間近く遅れた。

しかし,「烈」宮崎少将の左突進隊は,出撃から1カ月とたっていない1944年4月2日,コヒマ南のマオサンソンに到着,右・中突進隊を待たずに,4月4日,コヒマを攻撃。4月5日夜,島ノ江大隊がコヒマ突入,占領したと報告した。

1944年4月6日,コヒマ占領に狂喜した第十五軍司令官牟田口廉也中将は,第三十一師団に,西方のディマプール進撃を命じた。しかし,ビルマ方面軍は,ディマプール追撃を中止させた。インパール作戦にディマプール攻略は含まれていなかったからである。

1944年4月6日,首相東條英機大将も狂喜し,大本営は,日本軍が要衝コヒマを攻略したことを発表した。第31師団佐藤中将は,南方軍・ビルマ方面軍・第十五軍から祝電を受けた。

日本軍はコヒマを占領したと考えたが,実は,そこはコヒマの一角であり,ディマプールからインパールに連なる自動車道路を完全に遮断するには,英軍陣地のあるコヒマ南西の三叉高地を確保する必要があった。英インド軍は,谷間のコヒマから撤退し,南西の三叉高地に防衛線を張った。第5インド師団の第161旅団の増援を受けたコヒマの英インド軍は,兵力3000人で,頑強な抵抗を示した。

1944年4月17日,第十五軍司令官牟田口中将は,第三十一師団「烈」佐藤師団長に,天長節(4/29)までにインパールを攻略することを命じる一方,山砲大隊と歩兵3個大隊をインパール方面に転用を命令した。しかし,佐藤中将は,兵力の転用が不可能なことを伝えた。

4月21日,イタンギーに前進していた第十五軍司令部では,ビルマ方面軍参謀・後勝少佐が,輸送司令官・高田清秀少将ほかの説明を受け,次のように戦局を理解した。
?インパールの敵守備兵力は,4個師団と戦車1個旅団
?インパール飛行場への空輸物資補給は,連日輸送機100機をもって1日100トン以上
?弓兵団は,ビセンプールで戦車を含む敵に対して苦戦中
?祭兵団は,弾薬・糧食が尽きて,敵戦車・砲兵の攻撃によるかあ路地テ戦線を維持
?烈兵団は,コヒマ南西の三叉高地を攻略できず,敵3個師団の攻撃,100門の火砲から1日1万発の放火を浴び苦戦中
?第十五軍に対する不補給は1日10-15トンで,補給先は弓兵団に限られる
?自動車の通れないフミネ=ウクルル道を使った烈・祭兵団への補給は絶望的
?雨季に入って交通を確保できるのは弓兵団だけで,河川氾濫後の輸送には対策はない

写真(右):1944年3月-7月,コヒマの高地'Scraggy Hill' を占領した第10グルカ旅団:The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: The remains of Japanese dead, equipment and caved-in bunkers on 'Scraggy Hill' which was captured by 10th Gurkha rifles in fierce fighting in the Shenam area. No 9 Army Film & Photographic Unit 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

第31師団「烈」中突進隊(第138連隊長鳥飼恒男大佐)は,コヒマ北方の高地に,山砲大隊は5120高地に,第58連隊はコヒマ三叉路高地の正面に布陣した。

1944年4月23日,宮崎歩兵団長は,コヒマ三叉路高地を攻撃したが,撃退され,第三十一師団佐藤中将は,持久戦の方針を決めた。

4月28日,ビルマ方面軍参謀後勝少佐は,輸送司令官高田清秀少将とともにラングーンのビルマ方面軍司令部に帰還するために,カレミョー飛行場に向かった。

1944年5月2日,南方視察に来訪した陸軍参謀本部秦彦三郎参謀次長に対して,ビルマ方面軍司令官・河辺正三中将は,インパール作戦の成功率を80-85%と,南方軍総司令官寺内寿一元帥は90-95%と答えた。

南方視察の秦参謀次長と入れ替わりに,1944年5月3日,ラングーンに空路到着したビルマ方面軍参謀・後勝少佐は,インパール,コヒマの英インド軍は,攻撃側の日本軍の約4倍優勢で,戦力比,補給能力,雨季入りの時期,交通補給から見て,インパール作戦の遂行は,雨季入りの5月末が限度であると報告。そして,5月末には作戦を打ち切り,チンドウィン河の線に後退して,戦力を回復すべきことを進言した。

写真(右)1944年3月-7月、ビルマ・インド戦線、インパール北部で渡河するイギリス第9軍のアメリカ製M3リー中戦車(M3 Lee ):日本軍の対戦車砲、戦車、RPGなど対戦車兵器は弱体だったため、ヨーロッパ方面では使用されなくなった旧式のM3リー中戦車でも十分に戦力となると判断され、インド防衛コヒマ・インパール攻防戦に投入されている。
Catalogue number: IND 3468, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War
Alternative Names: object category: Black and white, Creator: No 9 Army Film & Photographic Unit
Object description: The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: An M3 Lee tank crosses a river north of Imphal to meet the Japanese advance. Label: A British Lee tank crosses a river north of Imphal to meet the Japanese advance in Burma, 1944.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (IND 3468)


写真(右)1944年3月-7月、ビルマ・インド戦線、インパール=コヒマ道路を前進する、イギリス第9軍のアメリカ製M3リー中戦車(M3 Lee )、ウェストヨークシャ連隊と第10グルカ歩兵連隊。インド・ネパールの山岳民族のグルカは、勇猛果敢なことで知られる。山村での農業を営んでいるが、大英帝国のインド植民地で、植民地兵として徴用され、傭兵ともなった。
Catalogue number: IND 3469, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War
Alternative Names: object category: Black and white, Creator: No 9 Army Film & Photographic Unit
Object description: The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: Men of the West Yorkshire Regiment and 10th Gurkha Rifles advance along the Imphal-Kohima road behind Lee-Grant tanks.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (IND 3469)


 1944年(昭和19年)3月、ビルマの日本陸軍第15軍は、インパール攻略「ウ号作戦」を発動し、インドに侵攻して、イギリス植民地を混乱に陥れ、合わせて西側連合軍から中国への補給路「援蒋ルート」を遮断しようとした。第15軍司令官F牟田口廉也中将の隷下、3個師団4万人以上、その他補給部隊(輜重)など3万人、合計8万人が攻勢に投入されたが、一時、インパール西方、コヒマを占領し、インド本土からのインパールへの陸路を遮断した。しかし、航空機、戦車・火砲の攻撃力に勝るイギリス軍は、インパールを固守し、補給が滞った日本軍の攻勢は、1944年5月には完全に頓挫した。

1944年5月3日,南方視察中のビルマ方面軍にとどまっていた参謀本部杉田一次参謀は,ビルマ方面軍・後勝参謀のインパール作戦撤収案を支持,大本営にインパール攻略は至難であると打電。

陸軍参謀本部の南方視察一行が打電したインパール攻略は至難であるとの電文に危機感を覚えたビルマ方面軍と南方軍は,参謀を現地に派遣する。ビルマ方面軍の倉橋後方主任参謀,南方軍の甲斐崎三夫作戦主任と山口英二後方主任が,インパール方面への現地視察に向かった。
南方総軍の甲斐崎作戦主任と山口後方主任は,第十五軍は既にインパール攻略の準備が整っており,近くこれを攻略する予定であることを東京の参謀本部に打電。


◆1944年5月15日,東京に帰還した参謀本部・秦彦三郎参謀次長一行は,参謀本部・東條英機参謀総長から一喝された。南方軍の電文(インパール攻略近し)を受け取っていた東條参謀総長は,杉田一次参謀が起案した電文(インパール攻略は至難)を悲観的であり,戦局の重大さを認識していないと感じたに違いない。東條大将は,首相兼参謀総長として,政府と軍を代表する存在であり,戦局挽回,そのための必勝の精神を最優先していた。

1944年5月16日,東條英機首相兼参謀総長は,大元帥昭和天皇に拝謁し,インパールを断固攻略することを上奏した。そして,東條参謀総長は,ビルマ方面軍に対して,いかなる犠牲を払ってもインパールを攻略せよと,厳命した。前線で,日本の第十五軍が補給不足で戦力が低下し,インパール攻略失敗が明白になった5月,大本営・参謀本部がインパール攻略を再度命じた。

1944年5月20日,第三十一師団「烈」佐藤幸徳中将は,ビルマ方面軍司令官宛に「作戦開始以来,すでに6旬(60日)を過ぎ,この間,分からは一物の補給も無く,いまや糧食,弾薬ことごとく尽き果て,遺憾ながら予は,補給無くては部下を統率するをえず。」と電報を打った。


5月24日,コヒマの近くチャカバマの第31師団「烈」師団司令部に、兵站地区司令官・高田清秀少将と軍参謀・橋本中佐が到着し,糧食・弾薬の補給について,佐藤師団長と話し合ったがが補給は困難なことに変わりはなかった。

第31師団は,コヒマの三叉高地にイヌ,サルなど動物名をつけたが,この高地を巡って,英インド軍と激闘を続けていた。英インド軍は,西方ディマプールから陸路で増援部隊の派遣を受けることができ,3個師団以上の兵力があった。そして,火力,戦車,航空支援を加えると,日本軍第三十一師団よりもはるかに優勢であった。その劣勢の中,烈兵団は2ヵ月間も持久戦を戦い続けた。

写真(右):1944年2月-1945年8月,モンターギュ・スタフォード将軍:コヒマの日本軍第三十一師団を最終的には退却に追いやって,ディマプール=インパールの自動車道路を回復した。General Sir Montagu Stopford (1892 - 1971): Portrait of General Stopford, Commander of 33rd Corps, Imphal, Burma. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

第三十一師団は,1944年4月上旬,コヒマの一角を占領したが,ディマプール=コヒマの自動車道路を,完全に遮断することは出来なかった。そこで,コヒマには陸路・空路によって,援軍・補給物資が流れ,英インド軍の防備は強固になった。

コヒマの第31師団長・佐藤幸徳中将は,弾薬・食料の補給を受けることが出来ず,部下の将兵の戦力は低下していった。佐藤中将は,第十五軍に,早急に補給をするように要請し続けた。しかし,コヒマまで補給物資が届くことは無く,コヒマ死守は困難な状況に陥った。

第三十三師団は,インパールを目指して道路を北上,インパール南正面までで到達した。しかし,英インド軍は,後退してインパールに立体円筒陣地を構築し、立て篭もるため,戦略的後退をした。対英インド軍不敗の自信があった将兵たちは,前線の敵をインパールに退却させたと考えたようだ。

インパール南正面から攻撃した第三十三師団は,補給・兵力不足にあった。その上,インパールの守備隊は援軍を受け強化されていったから,5月に入っても,インパールを攻略することはできなかった。インパール正面の戦線では,日本軍への圧力が強まっていった。

英軍スタフォード将軍は,1944年4月下旬から5月下旬,コヒマの日本軍を攻撃した。これは,火砲の援護の下、戦車を伴った強力な攻撃だったが,コヒマの日本軍第31師団は陣地を死守した。インパールが陥落すれば,目前の英インド軍も退却するに違いない,インパールが陥落するまでの辛抱だと思って,第三十一師団の兵士たちは戦い続けた。

第三十一師団「烈」は4月初頭にコヒマを占領して以来,一ヶ月間戦っていたが,これはディマプール=インパールの自動車道路を処断し,第三十三師団「弓」がインパールを攻略するのを支援するためであった。
第十五師団「祭」の戦闘経過
1943年5月,第十五師団「弓」は,中国よりビルマに向かったが,歩兵第60連隊は隊のチェンマイ,メーホーソン,ビルマのトングーを結ぶ300キロの自動車道路の建設に従事していた。インパール作戦に急遽,動員された。第十五師団「祭」も,本田挺進隊(本田大尉),右突進隊(歩兵60連隊村松弘大佐)・左突進隊(歩兵51連隊尾本大佐)を編成し,インパール西方よりインパールに進撃した。

1944年3月15日,第十五師団「祭」は,「烈」と同じく,チンドウィン河を越えて進撃を開始した。3月21日,サンジャック近くで銃砲の音を聞いた。実は,本田挺進隊の攻撃ルート上のサンジャックを,「烈」歩兵団長宮崎少将が攻撃していた。結局,「烈」の歩兵第58連隊(福永大佐)と「祭」歩兵60連隊は,3月27日にはサンジャクを攻略した。攻略した敵陣の遺棄死体は,インドの山岳民族グルカ(グルン),パンジャブの将兵が多かった。硝煙漂う兵器を放置して敗走した「傭兵」の無責任さと英軍の下にあれば,手当て,待遇がよいために,貧しい民族が騙されて利用されていると,日本軍将兵は考えた。

3月28日夜,本田挺進隊コヒマ=インパールを結ぶ道路上のミッションに突入した。そして,そこにあった橋梁を爆破し,インパールへの道路を遮断することに成功,敵車両40両を鹵獲した。
1944年4月4日,北方からコヒマ=インパール道路を南下した右突進隊(歩兵60連隊村松弘大佐)は,インパール北方30キロのカングラトンビで英インド軍人地を攻撃した。しかし,陣地は堅牢で,ついにカングラトンビを攻略することは出来なかった。(伊藤桂一(1995)『遥かなインパール』新潮文庫参照)
第三十三師団「祭」の戦闘経過
1944年3月8日,第三十三師団「弓」師団長・柳田元三中将,師団参謀長・田中鉄次郎大佐(後戦死)は,インパール南方より進撃を開始した。これは,主力の「烈」「弓」の二師団がチンドウィン河を越えてコヒマに向かう1週間前だった。第三十三師団「弓」も,右・中・左の三つの突進隊を編成し,中でも,歩兵団長山本少将の下には,戦車30数両,速射砲8門,山砲13門,十五糎(15センチ)榴弾砲8門,十糎加濃砲(10.5センチ・カノン砲)8門を持っており,第十五軍の最強の火力を保持していた。

「弓」師団は,インパール南側から2個連隊で,東南から1個連隊で攻撃していた。第三十三師団は,インパールを南方から攻撃する2個連隊には砲兵として山砲9門,東南から攻撃する1個連隊にも野戦重砲16門があったともいう。

「弓」兵団は,「烈」「祭」の二師団がチンドウィン河を越えてコヒマを渡河する1週間前に出撃した。第三十三師団「弓」師団の突進隊は,4月5-6日に,インパール南正面に敵を追って前進した。しかし,計画予定期日の4月末になっても,インパールを攻略できず,戦力不足を訴え,補給を要請していた。計画では,各師団は,糧食20日分,弾薬1.5基(野山砲弾150発相当)を携行しただけで進撃した。戦いが長期化する一方で,補給が滞れば,糧食・弾薬の不足は当然だったのである。


写真(左):1944年4月ごろのコヒマの日本軍陣地・写真(右):西ヨークシャー連隊がコヒマ−インパール道路の障害物を排除する。:The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: A Japanese position under fire on theTamu Road.
The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: Men of the West Yorkshire Regiment clear a roadblock on the Imphal-Kohima Road. No 9 Army Film & Photographic Unit THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 [ Official photograph ]帝国戦争博物館The Imperial War Museum's Collections Online database 引用。


山岡荘八(1907〜1978)の書いた『小説 太平洋戦争(5)』では,「ビルマ戦線の鬼たち」と称して,柳田第33師団長の作戦変更の要求、佐藤第31師団長の“抗命事件”を扱って,次のように記している。

 戦争の勝敗は、時に冷酷むざんな合理と不合理の峻別であったり、時には全く途方もない偶然の重なりあいであったりする。その意味では手のつけられぬほど気まぐれな意地のわるい「生きもの――」でさえあった。

「――トンザン、トイトムの陣地に敵兵なし」そうした報告に勇躍して戦場へおもむいた第三十三師団長の柳田元三中将は、前記の報告をして来た尖兵中隊がすでに全滅し、さらにその前方シンゲルに進出してあった左翼の第二百十五連隊の笹原政彦大佐(1943年6月,第215連隊長,1944年9月インパールで戦死,少将)から「全軍玉砕―」の覚悟をもって戦う旨の電報を受け取ると、愕然と蒼ざめて戦場へ立ち止まってしまった。

 これが前師団長の桜井省三中将であったらこんなことは万々あるまい。桜井中将は時に無計算な猛将ともなり得る将軍だったが、柳田中将は、理詰め以外によりどころを持たない、いわゆる秀才型の合理主義者であった。

 むろんいずれが武将としてすぐれているかなどという比較はここではすべきではあるまい。が、いったんの挫折にあって、すぐさまひるむということは、敵味方とも移動の途中にある遭遇戦では、これはあまりに部下の運命を考えない「臆病(おくびょう)――」さであったと云える。

 戦場では「千変万化――」はつねのことであり、臨機応変は指揮者の胸中になければならない第一の心構えである。云うまでもなく、敵はすでに、わが第三十三師団の進撃も作戦目標も看破してしまっている。したがって、ここで逡巡してあれば、それだけ敵に応戦の余裕と「時――」をかすことになり、味方が苦戦に陥るのは掌をさすより明らかなことであった。

 笹原連隊が、戦闘の真っ最中に、「――連隊は暗号を焼き、軍旗を奉焼し、全軍玉砕の覚悟をもって、強敵と戦うことに決意せり」そうした電報を打ったことについて、「帝国陸軍の最後」の著者伊藤正徳氏は、「――軍旗奉焼だの、玉砕覚悟だのの決意を通じて来るのは、単なる決心の表明としては大袈裟すぎて常識を逸脱している。笹原自身が打ったのか、隊付き参謀または副官が打ったのか……みな戦死して確めようもないが、要するに非常な難局に直面したことは想像にかたくない……」云々と云って、この電報を非難しているのだが、私は必ずしもそうは思わない。

 笹原大佐の第二百十五連隊もまた名誉ある歴戦の連隊である。彼らは、相当強い言葉で柳田師団長に困難な立場を通報するのでなければ、師団長に救援の決意をさせられないという……いわば師団長不信のこころがあったのではないかと思う。(引用終わり)

第三十一師団「烈」がコヒマを計画通りに攻略したにもかかわらず,第三十三師団「弓」はインパールを攻略できなかった。そこで,1944年5月9日,「弓」兵団柳田元三中将は,戦意不足を疑われ,更迭,帰還を命じられた。代わって,第三十三師団「弓」の師団長には,田中信男中将が任命された。


写真(左):1944年2月,インドのニダニア基地の英空軍ブリストル・ボーファイター攻撃機Mark VIF
:全長12.6m,全幅 17.8m,翼面積46.3平方m,全備重量11500キロ, 最高速度 488km/h,航続距離 2300km,発動機 ブリストルハーキュリーズ1600馬力2基,乗員2名,武装は7.7ミリ機銃6丁,20ミリ機銃4丁。原型となった>ボーフォート雷撃機は,1938年10月初飛行,総生産機数5900機。 Photographer: Lea T (F/O) Royal Air Force official photographer Title: ROYAL AIR FORCE OPERATIONS IN THE FAR EAST, 1941-1945. Collection No.: 4700-18 Description: Ground crews working on a Bristol Beaufighter Mark VIF which made a forced landing on the beach airstrip at Nidania ('George') on the coast of Bengal, India, while returning from a sortie over Burma.
写真(右):1944年11月,英空軍第34飛行中隊のハリケーン戦闘機Mark IIC :全長9.8m,全幅12.2 m,全備重量3,740kg,発動機ロールス・ロイス マーリン1280馬力,最大速度523 km/h,航続距離750km,武装:Mark IIB:ブローニング7.7ミリ(7.69mm)機銃 8丁,2 Mark IIC:イスパノスイザ20ミリ機銃4丁。スピットファイアに先行して搭乗したハリケーンは,旧式化していたが,CBI戦線では500ポンド(225kg)爆弾を搭載できる対地上攻撃機として使用され続けた。Photographer: Breeze (P/O) Royal Air Force official photographer Collection No.: 4700-15 Description: A Burmese bullock cart passes Hawker Hurricane Mark IIC, LE336, of No. 34 Squadron RAF, as ground crews prepare it for another sortie at Palel, Burma. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。


1944年3月15日,第十五師団「祭」は,チンドウィン河を越えてコヒマを渡河した。第十五師団「祭」も本田挺進隊,右・左の三つの突進隊を編成し,東北方向から,インパールを包囲攻撃するつもりで,進軍した。本田挺身隊は3月29日,ミッションを占領,インパール退路を遮断した。また,右突進隊は,4月3日,インパール北方30キロのサルマタイナで,インパールからコヒマ,ディマプールに向かう自動車道路を遮断した。左突進隊は,4月4日,インパール北東15キロのカメンに進出したが,英軍の猛反撃を受けた。

第三十一師団がコヒマを死守し,第十五師団・第三十三師団がインパール周辺で苦戦していた時期,連合軍は攻勢に移っていた。
1944年5月11日,雲南省怒江方面で,中国第二十集団軍(雲南遠征軍)は,進撃を開始,佐藤中将のコヒマ撤退後の6月には拉孟の日本軍守備隊(龍兵団)を攻撃した。

1944年5月17日,ビルマ北部で,連合軍の挺進隊(メリル襲撃部隊とウィンゲートの育てたチンディッツ)がミートキーナを攻撃,飛行場を占領した。これを迎え撃つために第三十三軍は,第五十六師団「龍」の師団長松山祐三中将に反撃を命じた。

しかし,雲南遠征軍の攻撃を受けていた松山祐三中将の龍兵団は,歩兵一小隊,砲兵1中隊(山砲2門)の約150人を援軍として,歩兵団長水上源蔵少将に指揮させ,ミートキーナに向かわせることができただけだった。

ミートキーナ守備隊の第十八師団「菊」は,歩兵2個大隊,山砲4門,野砲2門,兵力2000人となった。1944年7月10日に第三十三軍高級参謀となった辻政信参謀は,水上少将はミートキーナを死守すべし」と命令した。第三十三軍の他の参謀はと,ミートキーナ守備隊とすべきであると反論したが,辻高級参謀は,頑として水上少将に死守を命じた。ノモンハン事件のときに,死守を命じられた部隊から徹底したものがいて,その処置に困ったからだという。優勢な敵を前に,ミートキーナ守備隊長水上少将は,1944年8月3日,自決した。

ミートキーナは陥落したが,第十八師団「菊」の第114連隊長丸山房安大佐は,水上少将の出した退却命令に従って,バーモに撤退できた。

写真(右):1944年3月-7月コヒマ戦の第19インド師団による3インチ迫撃砲攻撃:The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: British 3-inch mortar detachments support the 19th Indian Division's advance along the Mawchi Road, east of Toungoo, Burma. The mortar proved the most effective weapon in jungle warfare. CreatorNo. 9 Army Film & Photographic UnitMaterials whole: Nitrate No 9 Army Film & Photographic Unit 帝国戦争博物館The Imperial War Museum: Catalogue numberIND 4723引用。

1944年5月20日,第三十一師団佐藤幸徳師団長は,ビルマ方面軍司令官宛に「作戦開始以来,すでに6旬(60日)を過ぎ,この間,分からは一物の補給も無く,いまや糧食,弾薬ことごとく尽き果て,遺憾ながら予は,補給無くては部下を統率するをえず。」と電報を打った。第十五軍「林」は,ミートキーナに連合軍による攻撃を受ける中,西方の第三十一師団「烈」にコヒマ死守を命令。しかし,補給を届けることはできなかった。

1944年5月末,第十五軍「林」久野村参謀長は「烈」に対して,現態勢の確保を再び命じたが,「烈」佐藤師団長は,「独断で処理することを承知されたい」との電報を打った。

1944年6月1日,佐藤中将は牟田口中将のコヒマ死守命令に逆らって,補給を受けられる地点まで撤退を開始する。これが「抵命事件」である。
佐藤中将は,牟田口司令官に電報を打ち,1944年6月1日にコヒマを撤退し、補給を受けられる地点まで移動すると,第十五軍「林」に通告した。第十五軍はインパール攻撃を指示したが,佐藤中将は,撤退を続けた。軍法会議の場に立つことを覚悟していたのである。

写真(右):1944年3-7月,西ヨークシャー連隊と第10グルカ旅団が米国製M3リー中戦車に続く:The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: Men of the West Yorkshire Regiment and 10th Gurkha Rifles advance along the Imphal-Kohima road behind Lee-Grant tanks. No 9 Army Film & Photographic Unit 帝国戦争博物館The Imperial War Museum File:The War in the Far East- the Burma Campaign 1941-1945 IND3469.jpg引用。

1944年6月1日,コヒマで2ヶ月間戦い続けてきた第三十一師団「烈」は,撤退を開始した。翌2日,第十五軍は,烈が撤退を開始したことを知ると,それを追認するかのように,第31師団主力は(後方の)ウクルルに転進、補給を受け次第、6月10日までにインパール攻撃を再開するように,命令を発した。

しかし,第三十一師団の前方舞台の報告で,ウクルルにも糧食は皆無であることが明らかになる。しかも,第三十一師団の主力を撤退させるために,第138連隊は後衛戦を戦うことを命じられていた。

1944年6月21日,佐藤師団長はビルマ方面軍,第十五軍に「師団はウクルルで何らの補給をも受けられず、作戦指導は支離滅裂、食うに糧なく、打つに弾なくインパールに攻略に向かわしめん軍令たるやおどろく、師団は補給が確実にできる地点まで移動する」電報を打った。

◆1944年6月1日,佐藤中将が抵命して独断退却したのは,佐藤中将の強情さ,補給をしない第十五軍への反発,部下の命を救う責務もあったかもしれない。また,計画通りコヒマを占領した以上,命令は遵守したのであり,インパールが5月になっても攻略できないのは,第三十一師団の責任ではない。大本営発表もされたコヒマ攻略という大戦果をあげた佐藤幸徳中将は,堂々と撤退を開始することができた。これが「抵命事件」が起こった背景である。

1944年6月1日,独断撤退を伝えてきた「烈」兵団長佐藤中将だったが,コヒマ占領の英雄であり,第十五軍牟田口司令官は直ぐに罷免することは出来なかった。翌日,後方ウクルルに転進、補給を受けた後、インパール攻撃再開を命じている。しかし,佐藤中将も,軍法会議の場に立つことを覚悟し,撤退を続けた。


1944年7月9日,撤退を続ける第三十一師団長・佐藤幸徳中将に,第十五軍牟田口廉也中将から,ビルマ方面軍司令部付きに命ず,速やかにラングーンに「赴任」せよとの解任電報が届いた。その後,第三十一師団は宮崎少将が師団代理として指揮を継承。  

1944年7月15日,第三十一師団長を解任された佐藤中将は,ラングーンのビルマ方面軍に出頭する途上,カレワまで来て、ビルマ方面軍の中参謀長に電報を打つ。

「統帥もここに至っては完全にその尊厳を失い、全て部下に対する責任転嫁と上司に対する責任援助の耐え存在しあるに過ぎざるものと断ぜざるをえず。実に前代未聞のことなり。彼らには微塵も誠意なく責任感なく、ただ虚偽と、部下に対する威嚇あるのみ。小官はコヒマに在りし当時より、つとにこの深層を看破し、警戒しつつ今日に至れるものなり。林(第十五軍)司令部の最高首脳の心理状態については、速やかに医学的断定を下すべき時期なりと思考す。森(ビルマ方面軍)司令部もまた,第一線より遠く隔絶せるラングーンより、第一線の身体を指導せんとするがごとき、実に統帥の要諦を理解せざる結果と思考せざるをえず。」

牟田口軍司令官に対して,佐藤師団長は,第三十一師団に補給が受けられる地点まで撤退するとして,コヒマを放棄した。この無断撤退は,第15軍からみれば,命令違反である。第十五軍牟田口司令官は,再度,第三十一師団にコヒマ死守を命じたが,佐藤中将は、抗命し,撤退を続けた。このため英インド軍は,ディマプール=コヒマの自動車道路を使って,インパール方面に南下,攻撃してきた。これを防ぐために,「烈」宮崎支隊は,3週間近く後衛線を戦った。

1944年6月16日,「祭」歩兵60連隊村松大佐は,「烈」から連絡将校が派遣され,苦戦したコヒマからの独断撤退を知らされた。そこで村松大佐は派遣竹ノ谷中尉を,マラム高地「烈」宮崎歩兵団長に連絡させ,6月22-23日まで,宮崎支隊がコヒマ=インパール道路を後衛しながら南下,ミッションで村松部隊と合流する確約を得た。

しかし,3月21日,「烈」は現れないまま,「祭」の守備するミッションが攻撃され,グルカ兵たちは日本軍の負傷者を将校以外,殺戮した。「祭」歩兵60連隊村松大佐は,第三十一師団「烈」佐藤中将の独断撤退のために,日本軍の最後衛となり,英軍の攻撃を受けた。また,松村部隊は,「列」兵団の撤退後を撤退したために,「烈」の将兵以上に,補給物資や現地調達の食料が不足し,最も過酷な敗走を経験することになった。(伊藤桂一(1995)『遥かなインパール』新潮文庫参照)

1944年6月22日,コヒマから南下した英インド軍とインパールから北上した英インド軍は,ミンションで出会い,ディーマプール=コヒマ=インパール道路は,完全に打通された。 インパールへの自動車道路による増援・補給,攻撃も容易になった。この時点で,日本軍はインパール作戦で完敗,第十五軍の主要な将兵は,山中の敗残兵として撤退するしかなく,部隊統制も失われた。

1944年7月5日,列兵団長佐藤中将は,撤退中に罷免された。佐藤中将は,7月23日,ラングーンに帰還しビルマ方面軍に申告している。ビルマ方面軍では,第十五軍の意向を受けて,佐藤中将を抵命罪で軍法会議にかける可否を検討した。そして,方面軍の軍医部長,法務部長が佐藤中将と面接し,彼を精神錯乱として,無罪放免することとを決めた。

写真(右):1944年2月-1945年8月,中国第2師団がイラワジ河から南方に進撃:The Campaign in North and Central Burma February 1944 - August 1945: Men of the Chinese 22 Division in the jungle during the southward push from the Irrawaddy River. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

1943年末,中国軍による雲南省怒江方面,ビルマ北部への攻撃は停滞していた。中国の蒋介石は、米国援助物資を使って養った米式装備の中国軍を,イギリスの英領ビルマ奪回のために提供するつもりはなかったのである。しかし,ルーズベルト米大統領は,チャーチル英首相の意を汲んで,中国軍の攻勢を強く要請。

1944年5月11日,中国雲南遠征軍は,司令官衛立煌大将に率いられて怒江(サルウィン川)を越えて,拉孟・騰越の日本軍を攻撃に向かった。日本軍の第五十六師団(龍兵団)拉孟守備隊は劣勢だったが,陣地を死守した。

写真(右):1944-45年,ビルマ北部ミイトキーナ周辺の日本軍陣地を砲撃する中国軍:ミートキーナからイラワジ河を越え,雲南省に入り,そこで怒江を越えて昆明(クンミン)に入る。このような山岳地帯の自動車道路は,建設・維持が困難であり,補給力も大きいとはいえなかった。しかし,連合軍は,中国の蒋介石を支援するために,多大な兵力,物資を投入した。戦略的に言えば,このような山岳地域への大兵力投入は稚拙だっとが,政略が優先された。The Campaign in North and Central Burma February 1944 - August 1945: Chinese artillerymen fire on Japanese positions around Myitkyina which only fell to Allied troops after a fierce eleven week siege. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

中国軍は,騰越を、1944年6月に攻撃,抵抗を受けたが,9月14日に占領。龍陵は,7月から攻撃、11月に占領。ビルマに展開していた中国軍第38師団,第22師団は,7-8月,米軍第475連隊,第124騎兵連隊とともに、ビルマ北部のミイトキーナに侵攻した。

 1945年1月,ビルマと雲南遠征軍の二つの中国軍が出会い,レド公路が連合軍の支配下に入った。中国軍は,ミイトキーナからマンダレーへと進撃した。

7.1944年6月1日,コヒマ死守命令に逆らって,第三十一師団佐藤中将は,独断で退却を開始した。佐藤中将は,抗命罪で軍事法廷に立つことを覚悟しており,そこで,インパール作戦における補給の約束が果たされなかったことを訴えるつもりでいた。しかし,第十五軍,ビルマ方面軍,南方軍,大本営は,天皇が任命した師団長(親補職)を軍法会議で処断すれば,自分たち上級指揮官にも責任が及ぶことを知っていた。そこで,佐藤中将は,病気とされ,解任された。日本軍将官たちはインパール作戦の失敗・敗北の責任を負わなかった。

倉田 稔 (2005)「日本軍のビルマでの戦争」『商学討究』 56(1): 1-19に以下の記述がある。
撤退したことで牟田口司令官の怒りをかって,佐藤は師団長を罷免させられた。(1944年)7月9日だった。宮崎少将が佐藤に代わった。しかし佐藤のこの撤退の決断によって1万人の生命が救われたのである。------
三師団長解任は,根本的には敗戦の責任をとらされたことである。山内の病気は重い肺結核であったが,第15軍は知らなかった。病名は本人にも知らされなかった。
7月5日,方面軍は,インパール作戦の中止を第15軍(林)に命じた。----7月10日ついに作戦中止令が出され,総退却がはじまった。食糧の補給がゼロで,将兵は,泥沼の密林を300から500キロ戻った。彼らはほとんど,マラリア,脚気,アメーバ赤痢にかかり,傷口にうじ虫をわかせ,激しい雨にうたれた。----

インパール作戦の失敗は,満州事変以来,軍の行動が調子よく進んだので,上部の人が慢心し上がったことにあった。ビルマ緒戦が想像以上に上首尾に運んだので,のぼせすぎ,神がかりとなった。牟田口の戦法はこうだった。彼の訓示から示そう。「皇軍は食うものがなくても戦いをしなければならないのだ。兵器がない,やれ弾丸がない,食うものがないなどは戦いを放棄する理由にはならぬ。----日本男子には大和魂があるということを忘れちゃいかん。-----毛唐の奴ばらに日本が負けるものか。絶対に負けやせん。必勝の信念をもってやれ。食物がなくても命のある限りやり抜くんじゃ。神州は不滅であることを忘れちゃいかん。」(高木『抗命』249ページ)
第15軍(林)は慰安所をもち,参謀たちはそこにそれぞれ女をもち,自分の女性に送金していた。----

退却完了日は(1944年)11月25日で,作戦参加兵は約10万人,死傷者は7万2千人,生還者は2万数千人であった。一方の説によれば,3万人が死に,2万人の患者が後方に残り,残存兵力は5万人で,その大半は病人とも言われる。-----1944(昭和19)年1月から1945(昭和20)年8月まで,ビルマ方面の兵力は,陸上30万3501人,航空・船舶約3万人だったが,生還者は陸上11万8312人,航空・船舶1万5千人となった。烈師団は,参加者23139名,死者11500名,弓師団は参加者22376名,死者12500,祭師団は参加者20548名,死者12300名であった。----

第15軍は佐藤を神経衰弱にしたてようとした。牟田口の陰謀だった。敗戦の罪を佐藤にかぶせようとした。つまり佐藤が精神異常となり,抵命したというのである。-----しかし将官にたいする裁判は高等軍法会議の所管だった。実際は佐藤は,捜査で,過労のため心神喪失の状態にあったと判断され,軍法会議に出されなかった。

抗命罪は,死刑,無期または10年以上の禁固であった。軍法会議で佐藤が牟田口や第15軍の不利なことを暴き立てては困るので,佐藤を精神異常にしたてたのだった。この陰謀に河辺も荷担した。佐藤は牟田口を「悪賊」としている。

(1944年)1O月,河辺,牟田口は,参謀本部付きとなって内地に帰った。牟田ロは自分は切腹するべきだろうかと,相談した。----思いとどまる言葉を期待していただけである。久野村,中は,更迭されたが,昇進した。人事異動ではほとんどが栄転した。佐藤は内地へ戻って真相を知らせようとしたが,予備役とさせられ,ジャワへ転勤となった。師団長の任免は一応必ず天皇に報告する義務があったが,真相暴露を恐れた者が策動したのである。当時は陸相は杉山で,参謀総長は梅津であったが,佐藤の内地帰還を嫌った。佐藤は1961(昭和36)年に病死した。事実上は,反対に牟田口の方がむしろ精神異常であった。(倉田稔 (2005)「日本軍のビルマでの戦争」『商学討究』 56(1)引用終わり)

毎日新聞まいまいクラブ 2006年10月06日「インパール作戦「烈」部隊生還者=田畑知之(阪神支局)」◇軍命に背いた決断を本に――師団長の文掲載し警鐘,に次の記事がある。

 日本陸軍「烈」部隊中隊長、中野誠司さん=香川県三木町=がこの夏、89歳で亡くなった。戦後「鯨・烈山砲戦友会」会長として戦病死した部下らの慰霊に努めた中野さん。------山砲(砲兵)部隊は四国出身者が中心だった。中野さんは中尉として弾薬補給を担当する中隊を指揮した。食糧や弾丸の補給が無いままビルマ(ミャンマー)の高地からインドに突入し、参加兵10万人のうち7万人以上が戦病死したとされる無謀な戦いだった。 

 中野さんの中隊で小隊長だった同戦友会元事務局長の香川弘文さん(84)=同県多度津町=は「他人を助けられる状況ではなく、中野さんも病気や飢えで動けなくなった部下を見捨てざるを得ないことがあったようだ。だがその時のことは60年以上の付き合いで一言も口にされなかった」。-----

  「鎮魂」は中野誠司さんの思いが結実した本だ。A4判約220ページ。ビルマ戦線の「烈」山砲部隊戦病死者1276人の名簿に加え、兄を亡くした遺族の手記などを載せた。手記には、兄の最期を戦友に問うと「むごくて話せません。ご了解下さい」という手紙が届いたとの逸話が記されている。

 しかし、何より強く印象に残るのは、部下を全滅から救うため死刑覚悟で独断で部隊を撤退させた烈師団長、佐藤幸徳中将の話だ。1944年4月、インド北東部での戦闘は雨期に入って食糧や弾丸の補給も無く、ビルマ方面軍に何度も撤退を打診したが拒絶され、同6月に独断で退却。その際、同方面軍参謀長に激烈な軍部批判の電報を打った。

 「でたらめなる命令を与え、兵団がその実行を躊躇したりとて、軍規を楯(たて)にこれを責むるがごときは、部下に対して不可能なることを強制せんとする暴虐にすぎず」
「作戦において、各上司の統帥が、あたかも鬼畜のごときものなりと思う……各上司の猛省を促さんとする決意なり」

 防衛庁防衛研究所によると、旧陸軍は佐藤中将を軍法違反に問おうとしたが、惨状の責任が上層部に及ぶことを恐れて中将を予備役に編入、事実を隠匿した。

 -----高松市の山中に、戦友会会員が建てた烈師団長を悼む碑がある。多くの会員が「師団長が軍命に背いて撤退を命令してくれたから私たちは生還できた」と話す。-----(毎日新聞まいまいクラブ 引用終わり)

写真(右):1944年3月-7月,コヒマ-インパールのルートを打通した英第14軍:The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: The link-up at Milestone 109 between the two arms of the 14th Army which relieved the Japanese siege of Imphal. No 9 Army Film & Photographic Unit 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

第十五軍司令官牟田口中将は,第三十一師団長佐藤師中将の解任を上申、1944年6月20日になって,佐藤師団長解任が承認された。師団長は,大元帥・天皇の任命する新補職であり,現地の軍司令官といっても,勝手に解任することは出来なかった。

◆第31師団長佐藤幸徳中将の命令違反・抗命は,軍紀・統帥にかかわる大問題である。国軍の将軍の抗命,攻撃中の独断撤退は,敵前逃亡あるいは反乱罪にも相当する大罪かもしれない。佐藤中将は,軍法会議(軍律法廷)にかけられれば厳罰は免れない。
しかし,問題は佐藤中将一人ではとどまらない。佐藤中将を第三十一師団長としてふさわしいと判断した,第十五軍司令官牟田口中将,ビルマ方面軍司令官河辺中将,さらに南方軍総司令官寺内元帥にも責任追及が及ぶことになる。
佐藤中将の上位にある指揮官たちは,軍事法廷の場で,刑罰には処せられなくとも,引責辞任あるいは譴責処分は免れない。当然,軍司令官としての地位も辞任すべき状況に追い込まれる。このように判断した上級司令官たちは,佐藤中将を軍事法廷に立たせなかった。軍医に「急性精神過労症」の診断書を書かせ、軍法会議を回避し,責任逃れをした。

高木俊朗(1969)『憤死―インパール作戦ー痛根の祭師団参謀長』によれば,インパール作戦を指揮した第十五軍司令部は,前戦から400キロ離れたビルマ中部メイミョー(ピンウー・ルウィン)の高原地帯にあり,過ごすのに快適であった。軍司令官の宿舎は英領植民地幹部の洋館を接取した官邸で、料亭「清明荘」が近くにあった。インパール作戦中,軍司令官は慰安婦もいた清明荘に出かけ,料理を食した。盛りつけ皿は皆内地から運んだ皿小鉢だったという。久野村軍参謀長,木下高級参謀,F機関で有名な藤原岩市参謀も通っていた。「こうした環境の中で第十五軍の首脳者たちは大作戦の構想を練っていた。」

インパール作戦発動から1カ月経過した1944年4月中旬,第十五軍司令部は,メイミョーから,チンドウィン河を越えたインダンジーに前進することになった。しかし,途中のシュエボーに停留し,移転してきた清明荘も営業を再開したという。(⇒秘境チン州−高木俊朗『憤死』文春文庫引用)

コヒマ(Kohima)は、インド北東部のミャンマーとの国境地帯で,現在は1963年に設置されたナガランドNagaland州の州都。人口8万人,ディマプル(Dimapur)とともにナガランド州で市の地位を持つ。1942年1月撮影のカラー写真には,折り重なるような丘陵地帯,インパールの市場に集うナガ族の人々が写し出されている。


写真(上):1942年1月,インパール=コヒマ間の自動車道路
:インパール=コヒマ=ディマプールには自動車道路が建設された。1944年4月,インパール北部のコヒマに進撃した日本軍は,この自動車道路を遮断し,インパールの英インド軍を包囲,孤立させようとした。しかし,多数の輸送機・グライダーを保有していた英インド軍は,たとえコヒマ全域を日本軍に占領されたとしても,空輸によって補給・増援を得ることが出来たであろう。第三十一師団が,今しばらくコヒマを死守していたら,インパールは陥落していたというのは,空輸の持つ意義を過小評価していると思われる。SCENES AT IMPHAL AND KOHIMA, BURMA, JANUARY 1942 Description: Naga women and children at the Imphal Bazaar. Further Information: Colour photographs of Burma during the Second World War are rare. Fierce fighting between Allied and Japanese forces was to take place at this location in 1944. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

ナガ族は,チベット・ビルマ語系・モンゴロイド系で日本人の風貌と似ているところがある。現在の人口は約50万人で多数の部族がある。日英両軍の間で,ナガの人々は,物資・情報提供や道案内を要求された。日本軍に親近感を抱いたり,日本軍の物資調達に協力したりしたナガの人々も少なくなかったが,山中の集落を自己防衛したところもあった。


写真(上):1942年1月,インパールにあるナガ族の市場と水汲みをするナガの少女
:インパール=コヒマ=ディマプールには自動車道路があったが,写真後方には,電気・電話用の電線・電柱が移っている。山岳少数民族の特異な文化に関心を持った英国人,日本人は,当時からあった。しかし,米英軍,日本軍ともに,少数民族に対する謀略を行い,彼らを戦力化しようとした。同じ民族を,自由,独立,解放という大儀で説得・煽動し,情報収集,道案内,兵士として利用した。物資調達・徴発,物資運搬・荷役,宿舎提供,水汲み・食料準備でも協力が求められ,強いられた。1944年3-4月,インパール北部のコヒマに進撃した日本軍は,このような少数民族から,食料を徴発,徴収していた。SCENES AT IMPHAL AND KOHIMA, BURMA, JANUARY 1942 Description: Naga women and children at the Imphal Bazaar. . Further Information: Colour photographs of Burma during the Second World War are rare. Fierce fighting between Allied and Japanese forces was to take place at this location in 1944. 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

現在,コヒマには英軍のものを中心にインパール作戦に関連する慰霊碑,記念碑がある。

iYaSaAcA.exblog.jp ナガランド州コヒマにいってみた その8に次の文章がある。 
 インド東部ナガランド州の玄関口であるディマプールから、東に約80km。州都のコヒマに到着する。ディマプールから僅か80kmしか離れていないのだが、兎に角道の状態が悪い。標高差約2,000mを一気に上る山道の殆どは未舗装で、軟らかい土壌と多雨が災いして至るところに地すべり・土砂崩れの跡が見られる。にも関わらず、この国道がアッサム州〜ナガランド州〜マニプール州を繋ぐ一番マシな物流ルートになので、大型車が多い。これらが行き違うたびに渋滞が発生する。

ギャリソンヒルにある墓地は英印軍だけのもので、そこで命を落とした日本軍の英霊は葬られていない。ひとつのひとつの墓石には、英印軍に参加した、英国人、インド人、ネパール人の名前が刻まれている。----

日本軍の慰霊碑は、インパール近郊15キロのインド政府の協力を得たロトパチン村の村民と日本政府によって1994年になってようやく建立された。 
ロトパチン村の村長は「日本兵は飢餓の中でも勇敢に戦い、この村で壮烈な戦死を遂げていきました。この勇ましい行動はみんなインド独立のためになりました。私たちはいつまでもこの壮烈な記憶を若い世代に伝えていこうと思っています。そのため、ここに日本兵へのお礼を供養のため、慰霊祈念碑を建て、独立インドのシンボルとしたのです。」
ロトパチン村の好意はありがたいが、行き届いた管理がなされたギャリソンヒルの英印軍の墓地を見ると、この戦没者への姿勢の彼我の違いは何であろうかということを感じざるを得ない。(引用終わり)

写真(右):1944年3月-7月,コヒマの草原で日本兵狙撃手を捜索する英軍兵士:手前では,7.69ミリ・ブレン機銃を構えている。The Battle of Imphal-Kohima March - July 1944: British soldiers search through long grass for Japanese snipers while covered by a Bren gun team. No 9 Army Film & Photographic Unit THE WAR IN THE FAR EAST: THE BURMA CAMPAIGN 1941-1945 帝国戦争博物館The Imperial War Museum引用。

東北インド(マニプール・ナガランド・アッサム)カルカッタ旅行記(1997年)3.ナガランド州に次の文章がある。
戦没者慰霊墓地へ行く。この墓地はあの有名なコヒマの三叉路にある。三叉路高地をめぐってイギリス軍とウクルルから入った烈師団との間で激戦がかわされ、ついに日本軍はこれ以上先へ進めず敗退した。糧食も武器の補給もまったくない中奮闘を続け、何度も補給を要請してもまともに応えなかった上部の計画の杜撰さに怒った師団長が、これ以上死傷者を出すのは無駄だ、と上部の命令のないまま撤退を決めたのである。今ではこの師団長の判断は正しかった、ひどい作戦の中でベストを尽くした勇敢な人だったという評価がなされているようだ。-----(引用終わり)

日本企業駐在員 インド人化計画「第94回旅行は、大日本帝国軍激戦の地コヒマ」にも,英国軍兵士墓地について,「その場所に大きな戦没者碑が建てられ、英国軍英国人兵士や英国軍インド人兵士の墓標が所狭しと並んでいる。無縁仏や10代で戦死した者の墓標も珍しくない・・・痛ましい限りだ。この墓地全体が、英国連邦府の機関によって維持・運営されているので、全て英国軍兵士の鎮魂のためのもの。」とある。

独断退却した第三十一師団の佐藤中将に対する同情,無謀な作戦を強行した牟田口中将への批判は根強い。名探偵蒙裡胡伍浪之名推理教室の次のような見解は、少数派である。

 佐藤の烈師団に関しては命令違反にも関わらず自己正当化ばかりで、この師団の連中の証言はあてにならない。そもそも、胸まで浸かる泥沼のジャングル地帯を撤退(逃亡)したのだから部隊は全滅せずに逃げ延びられたはず−。これが乾季だったら、米英支印の戦車部隊に追撃されて全滅したことであろう。-----

 そもそも、敗軍の将校が同胞を虐殺し尽くした敵といっしょに同胞たちを慰霊する。恩讐を越えてというと綺麗な話だが、慎むべきであろうに。それを吹聴するなど、とんでもない辱だ。-----

 -----ビルマの地もたぶん米はうまくなかったであろうが、穀倉地帯であり本国からの補給がなくとも食糧には不自由しなかった。日本軍が全滅した島の中には、水さえままならなかった土地も多かった。それらに較べれば、ビルマ守備隊は楽園だったであろう。
 支那派遣軍もそうだったが、大きな戦闘もなく小競り合いだけで対陣して、それで互いによしとしていた温い(ぬるい)戦線であったのだ。補給が不足しているという口実では作戦命令を拒否するには不十分だ!こんなものは敗軍の言い訳だ!(引用終わり)

英国本部ビルマ作戦協会会長 マクドナルド昭子女史からご連絡をいただくまで、平久保正男中尉の見解を誤って伝えていた。正しくは、平久保氏は、次のようインパール戦のもたらした日本兵の悲劇とビルマ住民への労苦を思い、さらに日本とイギリスとの和解を進める活動をになった方である。

退却した第三十一師団佐藤中将の下にいた平久保正男 (第58連隊,主計中尉)「―ビルマ戦線の日本軍兵士と英軍兵士との和解につくす―生かされて生きる歓び」には次のようにある。

我々の第31師団はその山脈を越えてコヒマ、インパールというところへ行くのに、富士山の高さが海抜がたしか3700mでしたが、そこにある山は海抜3000mから5000mの山が重なり合っているんです。そこを我々の師団は越えて行ったわけです。これを越えるのに20日間かかる。人間は通れるけど牛も馬も通れない。みんな崖から落ちてしまう。そういう地形ですから、この作戦は成立しないといって、3個師団(第31師団と第33師団、第15師団)の師団長が「できません」という答えを上の軍司令官に出したんです。15軍牟田口軍司令官に。

 ところが軍司令官は別の政治的な思いがありました。ちょうどそのころ東条さんが大東亜会議を東京で開いていたんですね。それにはビルマとかインドとかタイとか東南アジアの元首をみんな呼んで。そのときインドからチャンドラ・ボースが参加していて、東条さんに「私はインドのベンガル湾に攻め込もうと思う。そして英軍を追い出す。そのために日本軍は私をサポートしてくれ」と頼んだ。それを東条さんが、ちょうどそのころ太平洋の戦局が1日1日と悪くなって、日本はもう負けに近づいていたんです。だから1つたて直しのギャンブルをやろうとしていたところへ、私たちの15軍の司令官がインパール作戦というものを申請した。誰が考えても、実際に3個の師団長が「できません」というのにね、大本営は許可したんです。30万の兵隊を出して、米も弾薬も送れないところへ追い込んでね、「インドを取れ」というわけです。こんな作戦は今考えたらね、気が狂っているんじゃないかと思います。

東条さんとしたら、当時日本はアメリカの海軍に1日1日と押されて本土にも近づいてきた。ここでひとつたて直してインドを取れば、英軍が退却して、英軍のほうがアメリカに「もう戦争をやめようじゃないか」というだろうという思惑があったんですね。
 ですから、「できないことがわっていても大本営が認可したことだから、我々は従わなければならないんだ。だから米1粒もお前たちの部隊には送れない。だからお前たちはこれから、(コヒマまでは各自25キロずつ米を背負っていきますから)コヒマへ着くまではあるが着いたころから後はない。それから後はおまえたち(私たちは主計将校ですから、兵隊たちに食わす責任者です)、おまえたちの腕1つによって、おまえたちの部隊が何週間戦えるか決まってくるんだ。おまえたちの責任は重大だ」と言われたんです。

 私はそれまで親父に対して忠君愛国とか軍国主義とか言ってきたのですが、それが私の中でガラガラと音を立てて崩れたんです。何を言っているんだ、大東亜戦争とか聖戦とか言ってるけど、人間だけ送って食べ物も兵器・弾薬も医療品も送らない。こんな戦争があるかと、僕はこのとき日本の政府と軍に対して完全に不信感を持ったんです。だけど、おまえの部隊の千人の命はおまえの双肩にかかっていると言われ、これは私の命を捨てても達成しようと誓ったんです。

それから行軍が始まりましてね。みんな背中に背負っているものは25キロの米のほかに弾薬もある。僕なんか主計ですから、途中の部落で食べ物を徴発するときに使うため、軍票ではまさかこの山の中ですから通用しないから、インドのコインであるルピーコインという重い銀貨を持っていきましたからね、たくさん。自分の体重がだいたい70キロで、荷物が80キロあったんですよ。150キロの体重になったのがね、1時間に5分休憩するときには背嚢を背負ったまま道路の上に寝ますね。5分経って自分1人では起き上がれないんです。兵隊が2人両方の手を持ってガァーと引っ張らないと。

 そんな状態で富士山より高いか低いかという山を何か所も何か所も越えてコヒマへ向かうんです。牟田口将軍(第15軍司令官)が自分で発案し申請したんだけど、できないことは彼にもわかっているんです。だから各人が背負って行く20日分のほかに、あともう20日分をビルマの牛を徴発してその背に20日分ずつ乗せて連れて行ったんです。徴発した牛の数は兵隊の数と同じですよ。だから1個師団1万5千人ですから、牛も1万5千頭を1個師団用にかき集めて、それに20日分ずつ背中に積んで、部隊と1 緒に行かせたんですよ。ところが牛も馬も通れない道ですから、毎晩、夜の行軍になると、ガラガラといってね、谷底に牛が落っこちるんですよ。それが僕らによく聞こえるんです。初めのうちはその都度兵隊が谷底へ降りて行って荷物だけ拾ってくるんです。兵隊は150キロの上にまた積んで運び出したんですが。1日か2日の問題でね、その後はやる気もしない。谷底に落ちたのはそのままほったらかしにしました。

 そのうち私自身が谷底に落っこちちゃったんですよ。3日3晩、飯を炊く時間もくれない。休憩は1時間に5分ずつという山の行軍ですから、みんな眠って歩いているようなもんです。ただジャングルの中ですから、月の明かりもささない真っ暗ですよ、夜はね。だから前の人の背嚢のところからロープを付けてね、片方の手に結わえ付けて、真っ暗でも前の人について行くという行軍でしたね。1個大隊は千人ですけど、千人と千頭が1列になって歩く。その列の長いこと。

 僕は夜の2時ごろ左足を断崖に踏みこんで150キロの荷物とともにガラガラと・・・。木や蔦をつかんで止めようと思うんだけど、バリバリバリといくらつかんでも止まらない。だいたい3分の2くらい落ちたところに大きな岩があったんです。そこへ私の足がつかえて、今度は頭が下になったんです、背嚢背負ったまま。「これで終わった」と思った、その瞬間に意識を失ったんです。気がついたら川の中でした。ところが頭は打たなかったんですね。それぐらい深かった。苦し紛れで無意識に這い出して川岸まで行ったんですよ。そこで正気に戻ったんです。川の幅がそれほど狭かったということですね。

落ちるとき身体中傷だらけになっていましてね。それでふっと気がついたら、上のほうに部隊が止まっている。3日3晩も止まらずに歩いていた部隊が僕が落っこちたというんで止まって、懐中電灯がいたるところでピカピカしている。こちらから「おーい」と声をかけたら、急にザワザワーと声がして、「生きていた」と。僕の前にいた大隊副官、宮路中尉という、オリンピックの選手だった人ですけど、その人が僕のほうに向かって「これから軍医さんが4人連れて降りて行くから、そこで待ってろ」と言う。「こんなところに落っこちて、まだお前は生きているんだから、この作戦中お前の命は保障されたようなもんだ。後からゆっくりついて来い」といって部隊は動いていったんです。その宮路中尉がね、その次のサンシャックという戦場で迫撃砲の直撃を受けて飛散しちゃったんです。跡形もなくね。

そういう偶然の事件もありましてね。僕のほうは、軍医さんとあと4名が30分以上かかって下りてきてく れて、薪火を炊いて、あちこちを治療してくれたり、マッサージをやってくれたり、濡れた着物を乾かしたりして、夜明けまでいたんです。それで後は、近くの部落へ「土人」を雇いに行った兵隊が8人連れて きて、4人でタンカを持って。私はそこからタンカに乗っかって、部隊を追求していったんです。

牟田口軍司令官は「最後の1兵まで死守せよ」と命令していたんですが、私たちの佐藤師団長は「何を言うか、米も弾薬も送らないで死守するわけにいかない」、「6月1日までに米が来なければ、米のあるところまで下る」と電話で宣言して、電話線切っちゃった。日本陸軍の歴史上、上官の命令に従わなかったこの話は有名なものです。牟田口軍司令官に軍法会議にかけるぞと脅かされたけれども、佐藤中将が「かけるんならかけて見ろ。おまえのやったことをそこで暴露してやる」と言ったもんだから、牟田口さんも軍法会議にはかけられないで、軍医さんを派遣して「師団長は狂っている」ということにして、結局フィリピンのほうに島流しにしちゃった。

インパール作戦失敗の原因は、補給と航空機が皆無だったためです。英軍ウインゲート旅団が2度に亘って日本軍の間(上) を通って日本軍の後方を撹乱したのも終始航空補給に依ったからです。いわんや15軍司令官がインパール作戦を大本営に申請したとき「航空機は不要」としていたんです。

こういうことで1番損をしたのは兵隊です。30万人の兵隊のうち生き残ったのは11万人。19万人が現地で死んだ、インド、ビルマで。こういう戦争です。だからあの戦争の犠牲者は1般の兵隊。そのことにた いして誰も責任をとらない。作戦を起こした東条も天皇陛下も牟田口将軍も、誰も責任をとってない。戦後みんな栄転して、牟田口将軍なんかは陸軍幼年学校の校長になった。やられたのは私たちの師団長がフィリピンに島流しにあった。そういう戦争ですね。

私たちはそれからは下がる(コヒマから「転戦」=撤退、敗走する)1方ですから。下がるときには我々は「白骨街道」という名前を付けましたけど、山をあがると少なくとも10人の兵隊が同じところで死んでいる。

 それは、白骨になっているのもいるし、蝿がたかってウジがわいているのもいるし、今そこへいって腰掛けて休憩してるんだなというのもいる。それが同じところで死んでいる。休憩してるんじゃなく死んでるんです。だけども洋服もちゃんとしているしね。休んでるんだなと思う人がみな死んでいる。そういうふうに同じところで死んでいる。同病相哀れむといいますか。そういうところを僕たちは「こういう仲間には入らないぞ」と思いながら通り過ぎたわけです。

 逆に言うと、ビルマで戦った戦友は俺たちと同じ仲間ですよ。そんな仲間の死んだのを、俺はその仲間に入らないぞといって通り過ぎて、地面の下に埋めてないんです。自分の仲間をね。飢えで死んだまま、我々は船へ乗っちゃって日本へ帰った。だからビルマで生き残った連中はね、1刻も早く返って戦友たちの骨を拾らうんだということを船に乗ったときに誓った。その精神が、あのビルマの竪琴の上等兵ですね。上等兵は「私がこれを埋めるまでは帰れない」と言って、部隊が日本へ帰るときに、その兵は1緒に 帰らずビルマに残った。あれと同じ気持ちですね。僕たちは逆に、そういう気持ちはあったけども、1年間捕虜生活をしているうちに日本の実情がだんだん分ってきて、早く帰って日本を復興させなきゃならない、そのほうが先だ、骨を拾いにくるのはその後だ、という結論になった。だから我々は帰ったんです。

写真(右):ビルマで第5332旅団(MARS任務部隊)によって撃破された日本軍の輸送車両:第5332旅団は,メリル襲撃隊[第457歩兵連隊],第124騎兵連隊,米軍仕様の第1中国連隊によって編成。Japanese truck and tankette trapped by crater blown in the Burma Road by MARS demolition men. (National Archives) The 5332d Brigade, also known as the MARS Task Force, had three regiments. One contained the survivors of Merrill's Marauders, which had been reorganized, brought up to strength with replacements from the United States, and redesignated the 475th Infantry Regiment. Another was the 124th Cavalry Regiment, a dismounted former National Guard unit from Texas functioning as infantry. The third, considered to be an elite unit, was the U.S.-trained and -equipped 1st Chinese Regiment (Separate). Central Burma :The U.S. Army Campaigns of World War II引用。

それからもう1つ。船に乗ったときに、これは私だけの問題かもしれないけど、ビルマの戦争を振り返ってみるとね、4年間に日本の軍隊は東南から西北に向けて30万の部隊が動いて英軍を追い出した。その後今度は英軍に追われて、日本軍が同じ所を30万の人間が移動した。それが全部ビルマのお米を食ったんです。日本から(米が)全然来ないから。そのうえビルマのあの貧しい農家から1頭しかいない牛を徴発して食べたり荷物を運ばせたりした。
 船に乗って日本へ帰る段階になって振り返ってみると、まるで日本軍がビルマの経済を根こそぎダメにしてしまったことになるでしょう。同時に、考えてみると、敗走する日本軍を英軍が追いかけてくるとき、決 してチャンチャンバラバラで日本軍と戦うのじゃないんですよ。砲撃と空襲でビルマの家を焼くんです。日本軍はだいたいその頃になるとビルマ人の家に潜んでいましたからね。家を焼けば日本軍は逃げ出すからというんで、英軍はビルマの農家を全部焼き払ったということです。だから僕は日本軍と英軍の両方が戦後まず和解して、その上で両国の政府に働きかけて、両国政府がビルマの経済を復興させる責任がありますよ、そうことをやろうというのが船に乗ったときの決意であり、戦友に対する誓いでもあったのです。
戦後、私は丸紅の社員でしたから貿易の復興に尽し、会社を辞めた83年からは、今言った決意を実現しようと思って、和解のための活動を始めました。

ビルマ復興のために まず元日英軍兵士の和解を
 私の和解という言葉の始まりは、会社で僕はボールベアリングの販売をやっていたことがあるんです。3万種の違う型番を並べて倉庫に入れてそこから出すんですけど、毎月決算のときに倉庫が出してくる在庫表と経理部がつくる在庫表と付き合わせると、必ずどこかが食い違うんです。どうして食い違うのかということを発見して、どっちかをアジャストして直す、これがリコンサイルといいます。リコンサイルというのは両方が譲歩して1つのものにするという、それがリコンシリエイション、ようするに和解です。

和解ということは、いわゆる元の敵味方がお互いに相手の事情を理解して仲直りするということです。それで今、僕がやってきたのは英国の戦友と日本の戦友とがお互いに戦争のことを話し合って、ようするに私たちは何十万という兵隊が死んだおかげで生きているっていうか、死んだ兵隊の意思によって生かされているんだ、という感じ。生かされて生きている、自分の意志で生きているのではなくて戦友の意思によって生かされているんだと。だから彼らの分まで私は仕事を続けなければいけない、という視点ですね。

これがだんだん英国の兵隊にも分ってきたんです。それで合同慰霊祭というのができたんです。教会の前で、あるいはお寺で、敵味方が並んで、教会の場合は2つの花輪を両国の元兵士2人が並んで持って、仏教の場合はお焼香をして、黙祷をして、両方の戦没者の慰霊をする。それで2、3歩下がって両方が向き合って握手をする。これが合同慰霊祭というんです。合同慰霊祭が和解の頂点です。そうい うところまで私はやったんです。今でも毎年やっています。これが僕のいう和解です。(平久保正男 (第三十一師団第58連隊,主計中尉)「―ビルマ戦線の日本軍兵士と英軍兵士との和解につくす―生かされて生きる歓び」引用終わり)

「組織に属するもの、読むべからず!」「巨悪」の原点に迫る(98/11/12)には,次のような見解がある。

日中戦争の発端となった、慮溝橋事件の時、当時支那駐屯軍歩兵第一連隊長、大佐であった、牟田口の直属の上司、ビルマ方面軍河辺司令官は、「かねてより牟田口が熱意をもって推進してきた作戦だから是非やらせてやりたい」と認可した。同じく、南方軍の寺内総司令官も「苦戦が続く南方軍の管轄地域でこのような大作戦が成功するなら」と喜んで認可した。

 昭和19年1月4日。大本営陸軍部。インパール作戦の計画案は大本営に提出された。大本営の議論では作戦部長に就任していた真田少将が再度慎重論を述べた。「自動車も飛行機もない状態では絶対に反対である」。この時、参謀総長の杉山元帥が別室に真田を呼んで作戦認可をこう促した。「寺内さんの希望だからなんとかやらしてやってくれ」。

写真(右):ビルマ・タイ方面で空爆で破壊された日本軍の鉄橋:タイからビルマに続く泰緬鉄道を1943年10月25日に全線開通させるなど,日本軍も補給について配慮していた。インパール作戦に加わった第十五師団「祭」も,タイのメーホンソーン,ビルマのクンユアムの間の道路建設に当たっていた。を通間の補給路建設に従事していた。しかし,その資金,人材,労働力,資源を作戦第一に投入したために,本来同等に重視すべき補給が立ち遅れた。現地調達,徴発は,駐留軍の威信を低下させ,現地住民の生活難を引き起こす原因となった。さらに,連合軍が,鉄道,港湾,道路,交通機関を空から攻撃するようになると,前線の戦力は補給不足に苦しめられるようになった。「現地自活」となると,事実上,補給不可能となった孤立化した日本軍部隊の処置であった。補給部隊である輜重輸卒は,前線兵士たちの生命線だったが,インパール作戦の烈兵団では,その補給が全く得られなかった。Bombing campaign. Southeast Asia & the Pacific: ca. 1943 - ca. 1945 ARC Identifier 292591アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

 大本営には作戦計画案とともに、輸送力増強の申請がなされていた。しかし、作戦認可の途中で次々に削減された。大本営が認めたのは十五軍の要求の二割りにも満たなかった。その非公式な理由は、「現地調達」といって、敵の物資を略奪すれば足りると判断していた。

 大本営の杉山参謀総長はインパール作戦を認可。天皇に上奏した。昭和19年1月7日、補給の現実を無視した大作戦が発令された。インパール作戦はこのように食料や弾薬の補給という「兵站」の問題を切り捨てる形で現実離れした計画が決まっていった。

 では、どうしてこのような現実離れ、常識外れの作戦でも罷り通るような体質が陸軍の中に生まれてしまったのか。その背景を探ってみると、背景の第一に挙げられるのは、「軍人に対する教育」である。

 まず、将校を養成する陸軍士官学校。-----予科から本科へ進むと戦術など軍事学の教育訓練が中心となったが、「補給」について教える時間はかなり限られていた。

 陸軍の作戦要務令だ。------この中では、補給をあてにせず、精神力で難局を打開することが必要だと書かれている。

 陸軍大学校では更に徹底していた。陸大では、参謀や高級指揮官を育てることに主眼がおかれたが、入校を許された将校のほとんどは、歩兵、砲兵などの出身で兵站を担当する輜重兵出身は毎年わずかしかいなかった。----(引用終わり)

写真(右):1944年11月17日,ロバを引き連れてビルマのバモーに進撃,渡河する第475歩兵連隊第2大隊:メリル准将が1943年に編成した第5307複合ユニット。メリル襲撃隊は,1944年2月,3コ大隊を配備し,ビルマに侵攻した。米英軍,米軍装備の中国軍は,大量の物資補給を受け,日本軍に勝る性能の兵器を保有し,制空権も確保していた上に,兵力も優位だった。だから,日本軍は負けたが,同等の兵力であれば,士気に勝っている日本軍兵士のほうが強かった,という見解は根強い。日本人であれば,自分の民族・祖先の心意気,粘り強さ,士気を誇りに持ちたいものだ。しかし,英インド軍のチンディッツ,米軍のメリル襲撃隊の兵士たちの活躍は,たとえ制空権の下で,空中補給を受けていたにしても,決して楽な進軍ではなかった。チンディッツの元兵士HG Lambert - a soldier with the ChinditsChindits退役軍人,その子孫たちの加わるBURMA STAR ASSOCIATIONも,苦難のジャングルを挺進,小規模兵力で果敢な攻撃をかけた連合軍兵士を誇りにしている。家畜を利用した荷物運搬は,連合軍も日本軍も同じだった。ただし,日本軍は,牛を駄馬代わりに使おうとして失敗した。ロバのほうが荷物運搬には有用だった。Mule skinners attached to 2nd Battalion, 475th Infantry Regiment, Mars Task Force, stripped down to their bare skin to lead mules through the swift river that impeded their progress to Bhamo. Burma.: 11/17/1944 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。

田村貞雄『新編・日本史をみなおす』(青木書店 1997年)「輜重(しちょう)輸卒が兵隊ならば」は,次のように述べている。 

 軍隊は武器はもちろんのこと、衣類、医薬品、燃料が必要であり、負傷者の後方への輸送と治療、人員の補給も必要である。さらに戦争は豊富な食料があってこそ戦えるのであり、これを逆用した兵糧攻めは効果的であった。これらを総じて兵站(へいたん)という。

 戦争には兵站ルートの確立が不可欠である。兵站ルートは軍隊のいわば生命線である。-----兵站は輜重兵がこれを担当したが、戦闘部隊にくらべて軽視されていたことは否定できない。陸軍大学校には輜重科があったが、全卒業生の1パーセントにすぎず、中堅将校養成の輜重学校は1940年にやっと設立された。

(満州事変以後の師団の)戦時編成25375名のうち、歩兵は二個旅団(四個連隊)で15138(59.7%)、砲兵は一個連隊で2895名(11.4%)、騎兵も一個連隊で452名(1.8%)である。これに対し輜重兵は一個連隊で3461名(13.6%)、これで軍隊の兵站を担うことができたであろうか。また工兵も一個連隊で672名(2.6%)であるが、これで道路や橋、場合によっては兵舎、飛行場の建設が可能であっただろうか。

 輜重兵の下に輜重輸卒がいた。これは実際に食料と武器の運搬をする兵卒で、1931年以降,輜重特務兵とされた。水上勉氏と野間宏氏の回想では、徴兵検査で甲種合格の体格のいい輜重兵のもとで、第二乙種または丙種の弱々しい輜重輸卒が重い荷物を背負ったり、車をひいていたそうである。俗に「輜重輸卒が兵隊ならば、蝶もとんぼも鳥のうち」と歌われたが、輜重輸卒こそ軍隊の生命線を担っているという認識はなかったようだ。(田村貞雄氏引用終わり)

戦後20年近くたって、牟田口元司令官は、英軍アーサー・パーカー中佐から送られた書簡を公表し、そこにインパール作戦が奇想天外な作戦であり、攻撃を拡張、継続していたら、インパールどころか、ディマプールも危機に瀕したであろうと持ち上げられたことを誇った。

もちろん、当時の日本軍は、補給がほぼ皆無の状況であり、攻撃の拡張も継続も不可能だった。だから撤退するしかなかった。また、英軍将校による日本軍への賞賛は、作戦も兵士も優れていた日本軍を、粘り強い英軍が撃破したと婉曲に述べる英軍賛美にすぎない。このことに、生き残った日本軍兵士は、気が付いていた。しかし、牟田口元司令官は、それに気づかず、自分のインパール作戦は、輜重を軽んじたことを認めず、正しかったと抗弁した。生き残りの部下は、元司令官の態度をに呆れ、苦々しく思ったものだった。

8.インパール作戦の失敗後,1944年後半から,ビルマの日本軍は英インド軍に追われて敗走を続けた。イラワジ河で反撃を試みたが,これも失敗に終わった。敗残兵たちは,ビルマから,陸路タイへ撤退した。この間も,多数の日本軍将兵が殺害され,飢え・病気・事故で倒れた。ビルマ人に多大な被害を蒙った。

⇒◆ビルマ撤退:インパール作戦失敗後の敗走と拉孟・騰越守備隊の全滅

写真(右):1944年11月12日,ビルマで臨時治療を受ける米第36師団の将兵:American medics treat casualties at an American portable surgical unit during the 36th Division drive on Pinwe, Burma.: 11/12/1944 アメリカ公文書館The U.S. National Archives and Records Administration 引用。連合国側から見れば,粗末な救護所の連合軍将兵に同情を寄せたであろう。しかし,撤退・敗走する日本軍将兵の患者中継所は,これと比較にならないほど悲惨だった。

ステージ風発の「朝日新聞記者がみたビルマの慰安婦ーー月の夜に」が紹介する『月と慰安婦たち』 (沢山勇三著の「白旗をかかげて」)に次の文章がある。
 青い青い月だった。私とも一人大尉は、コンクリートの人道に腰を下して、アスファルトの車道に長々と足を投げ出していた。 

向かいあって、四、五人の朝鮮出身の慰安婦がしゃがみ込んでいた。はじめ慰安婦たちは、我々に泊まってゆけとしつこくすすめたのである。「お金なんかどうでもいいんだよ。淋しいから泊っていきなさい」と彼女らは言った。 

明日、軍司令部が撤退するというのに、彼女らは何も知らないのである。ただ何か異様な雰囲気だけは感じていたことに間違いはない。客がさっぱりなかった。-----

 私の方がどれだけ淋しかったか知れない。慰安所に隣り合って、日本映画社と日本映画配給社の両支局があった。-----

あの時、危いから早くラングーンを逃出すようになぜ話してやらなかったか----私はジャングルの月に向って自問自答して見た。そうだ。あのころまでは、私はまだ軍人だった。軍紀がこわかった。----これから俺は人間に返る。(引用終わり)

◆軍の命令・軍紀は絶対であり,降伏命令なければ,捕虜になることは許されなかった。軍司令官・指揮官が隷下の部隊に降伏・投降命令を出すこともなかった。第三十一師団佐藤中将の抗命・独断撤退は,「降伏・投降命令」を出したことのない日本軍将官としては,軍上層部に対する最大級の反抗だった。
前線にとどまり,死守・玉砕するより,佐藤中将の抗命・独断撤退によって,多くの部下の命が助かった。その中には,祖父の命も含まれる。しかし,撤退中に「白骨街道」「靖国街道」と言われるほど死者が出ている。先に独断撤退した第三十一師団「烈」のために,第十五師団は,犠牲を増やしてしまった。両師団の犠牲を少なくするには,早期に撤退あるいは投降すべきだったのか。それとも,インパール作戦を止めるべきたったのか。他に選択肢はなかったのか。

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