◆フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
写真(上)1940年1月20日、冬戦争の末期、フィンランド南、ソビエト空軍の空襲を受けて炎上したタンペレ(Tampere)の市街地 ;冬戦争で、カレリア地方にソ連軍の侵攻を受けたフィンランド。ソ連軍は、レニングラード方面から進撃し、カレリア地方を武力の一部を武力占領した。
Pommituksen jälkiä Tampereella talvisodassa
Ruuskasen talo oikealla, postitalo vasemmalla.
Organisation
Museokeskus Vapriikki
Collection
D/1034
Inventory ID
1034:alb:60
Photo info:
1939-1940
Keskusta, Ruuskasen talo ja postitalo
Tampere, Suomi
写真は,Museot Finna 1034:alb:60引用。
写真(上)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド、スオミ KP/-31短機関銃を装備した冬季白色迷彩のスキーパトロール部隊 ;スオミ KP/-31は1930年に技師アイモ・ラハティが、KP/-26の改良型として開発しの1931年にフィンランド軍に制式された。 ソ連軍は冬戦争で有効性に気づき、KP/-31の鹵獲品をベースに、ペーペーシャーPPSh-41短機関銃を開発し装備した。
Kiväärit ovat vielä kuumana kun tämä kuva otettiin. Sassalin partio on juuri saapunut takaa-ajosta. TelkässäContent Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-01
Koskinen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-114276引用。
写真(上)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティでフィンランド国防軍が鹵獲したソ連赤軍BT‐5快速戦車 ;1932年秋、ソ連赤軍機械化自動車化局(UMM)の指示で10月21日に試作車が開発されたBT-5快速戦車は、1933年から1941年の間に1,800両が量産された。重量11.5トン、主砲は45ミリ砲で、整地であれば最高速力時速70キロに達した。
Taistelunjälkiä Länsi-Lemetissä.
Tuntematon, valokuvaaja Content Type
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-01
Tuntematon, valokuvaaja
Aiheet
1940-02-01
写真はMuseot Finna・sa-kuva-113803引用。
写真(上)1940年2月29日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティでフィンランド国防軍が鹵獲したソ連赤軍旧式の152ミリ榴弾砲とトラック ;1932年秋、ソ連赤軍機械化自動車化局(UMM)の指示で10月21日に試作車が開発されたBT-5快速戦車は、1933年から1941年の間に1,800両が量産された。重量11.5トン、主砲は45ミリ砲で、整地であれば最高速力時速70キロに達した。
Lemetti. Rykmentin motti. Kuvassa 152 mm:n haupitsi.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-01
Aiheen paikka
Tuusula
Aiheen aika
29.6.1940
Mannerheim Carl Gustaf Emil
Luukkonen Fanni
Malmberg Lauri
Grönvall Ragnar
Organisaatio
Museovirasto - Musketti Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK19731119:47
Kuvaustiedot:
29.6.1940
Tuusula
Pietinen, kuvaaja
Aiheet
写真はMuseot Finna・sa-kuva-114268引用。
写真(上)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換で帰国するソ連赤軍元捕虜 ;冬戦争終結後のでの囚人の交換。ロシアの捕虜は電車を降りる。帰っていく囚人は母国での受け入れが厳しいものになるこを予期して不安で一杯であろう。
Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Venäläiset sotavangit poistuvat junasta.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-04-20
Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165935引用。
写真(上)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換で解放されたフィンランド人元捕虜を出迎え食事を提供する市民 ;冬戦争終結後のでの囚人の交換。帰ってきた囚人は疲弊している。冬戦争終結後のヴァイニッカラでの囚人の交換。
は帰国したフィンランド人捕虜は、十分な食事を与えられなかったようだ。その元捕虜を温かく迎えた親族やフィンランド市民たちは、食事を用意して待っていた。
Vankien vaihto Vainikkalassa talvisodan päätyttyä. Lotat muonittamassa vapautettuja suomalaisia. Vasemmassa laidassa vapautettu naissotavanki lotta Ester Jaakkola.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-04-20
Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-109970引用。
序.第二次世界大戦直前、フィンランド対ソビエト連邦の軍事的緊張
ペール・エヴィン・スヴィンフヴュー(Pehr Evind Svinhufvud)は、 1914年、反ロシア政府の咎でシベリア流刑にされたが、1917年11月にはフィンランドの初代首相に就任した。その直後、フィンランドの共産主義革命のために一時亡命を余儀なくされたが、反革命軍を組織し、1918年5月には、フィンランド内戦で共産主義者・ボリシェビキを武力弾圧する白色テロルを指揮した。1930年から1931年まで首相を務めた後、ペール・エヴィン・スヴィンフヴューは、1931年から1937年まで大統領を務めた。その後を継いだのが、キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)大統領である。彼は、1918年のフィンランド内戦では、赤軍(共産軍)から逃れていたが、ドイツ軍の侵攻によりフィンランドが赤軍から解放された後、反共産主義者として政界入りした。1922年から1937年まで度々首相を務めたキュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)は、政治経験が豊富だった。キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio)は、1936年から翌年まで首相として内閣を率いた後、スヴィンフヴュー大刀リョの後任大統領として、1937年3月1日から1940年12月19日まで間、フィンランド大統領として在任し、冬戦争の敗北後に、大統領を辞任した。
写真(右)1939年5月16日、フィンランド首都ヘルシンキ中心街、元老院広場(Senaatintori)、フィンランド軍兵士を閲兵するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:共産主義革命、ボリシェビキの反乱に勝利した記念の式典であり、フィンランドの反ソビエト感情の表れと、ソ連指導者スターリンは思ったに違いない。
Mannerheim seurueineen tarkastaa suojeluskuntien paraatin 16.5.1938 Suurtorilla (nykyinen Senaatintori). .
Subject place
Helsinki, Senaatintori
Subject date
16.05.1938
Organisation
Helsinki City Museum
Measurements
5x8.
Photo info:
16.05.1938
Helsinki, Senaatintori
Pohjanpalo Jorma, Valokuvaaja
写真は, Museot Finna HKMS000005:km0000ofue引用。
カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim )は、フィンランド国防軍最高指導者として、ヘルシンキ中央広場で、白衛軍の指揮官として、内戦終戦20周年独立記念日に退役軍人を前に挨拶した。これは、1918年、 ロシア革命に乗じたフィンランド独立とそれに伴う政権争いの内戦に勝利した記念である。つまり、フィンランドの親ロシア共産主義者・ボリシェビキの暴動を鎮圧し、内戦を終結させたことを祝っている。この内戦終戦20周年記念に独立戦争の退役軍人に挨拶をし、最前線ではこのイベントのラジオ放送がなされている。
写真(右)1939年8月13日、フィンランド首都ヘルシンキ、中央広場で、内戦終戦20周年独立記念式典で退役軍人を前に挨拶するフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍:1918年、ロシア革命に乗じ独立したフィンランドでは、共産主義者・ボリシェビキがソビエト連邦への参加を画して内乱を起こした。これを、白軍を使って鎮圧したのが、マンネルハイムだった。写真中央手前に、この式典をラジオ放送するための放送客員がうつっている。共産主義革命、ボリシェビキの反乱に勝利した記念の式典であり、フィンランドの反ソビエト感情の表れと、ソ連指導者スターリンは思ったに違いない。
sotamarsalkka Mannerheim tervehtii vapaussodan veteraaneja sodan päättymisen 20-vuotisjuhlaparaatissa Kauppatorin laidalla Pohjois-Esplanadilla, marsalkka Mannerheim oikealla valkoisessa hatussa. Kuvan etualalla Yleisradion työntekijä radioi tapahtumaa.
Subject place
Pohjois-Esplanadi 1, Kauppatori, Helsinki
Subject date
16.5.1938.
Inventory ID
HK19670603:18520
Measurements
6 x 9 cm
Photo info:
16.5.1938
Helsinki
Pietinen, kuvaaja
写真は, Museot Finna HK19670603:18520引用。
1939年8月13日、フィンランドで開催された内戦勝利20周年式典は、1918年、ロシア革命時に独立したフィンランドにおける共産主義者・ボリシェビキ反乱鎮圧の記念式典である。1918年の革命派の赤軍の鎮圧にあたったのが、白衛軍(反革命軍)で、その将校がカール・グスタフ・マンネルヘイム(C.G.E. Mannerheim)だった。ロシア帝国の一部だったフィンランドの共産主義革命をつぶし、ボリシェビキの反乱を鎮圧したマンネルヘイムが英雄であるとするフィンランドの国民感情を、フィンランドの反ソビエト感情の表れとみなしたソ連指導者スターリンは、フィンランドを警戒し、その力を弱体化しようと考えたに違いない。
写真(右)1939年8月7-12日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習で、水筒に水を灌ぐフィンランド国防軍の兵士たち:飲料水は貴重なので、金属バケツを使って、水を水筒に入れているが、溢れた水を受ける木製の桶が置いてある。肩にしているのは、ロシア帝国以来のモシン・ナガンM1891小銃で、ソ連赤軍もそのまま小銃として採用した。派生型・改良型に、M1891/30小銃、M1907騎兵小銃、M1938騎兵小銃など多数生まれた。
Kannaksen sotaharjoitukset 7. - 12.8.1939. Asemassa.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archivesa-kuva-111596引用。
モシン・ナガン(Mosin–Nagant)M1891小銃は、ロシア帝国軍が1891年に制式した小銃で、弾薬は7.62mm×54Rで、ロシア革命で創設されたソ連赤軍もそのまま小銃として採用した。その後、1930年に、狙撃銃(sniper rifle)として、スコープを装着するようになり、1935年から構造を簡単化して量産性を向上させた。
モシン・ナガン(Mosin–Nagant)M1891小銃の諸元
重量:4 kg (8.8 lb) (M91/30)、3.4 kg (7.5 lb) (M38)、4.1 kg (9.0 lb) (M44)
全長:1,232 mm (M91/30)、1,013 mm (騎兵銃)
銃身長:730 mm (M91/30)、514 mm (騎兵銃)
7.62×54mmR (ロシア仕様)
7.62×53mmR (フィンランド仕様)
7.92×57mm モーゼル (ドイツ・ポーランド仕様)
8×50mmR (オーストリア仕様)
初速:865 m/秒、800 m/秒 (騎兵銃)
有効射程:500から800 m
発射速度:5発/分
1942年には3.5倍率のPUスコープを装着して性能を向上させた。派生型・改良型に、M1891/30小銃、M1938騎兵小銃がある。
写真(右)1939年8月7-12日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習で、マキシム09-09 口径7.62ミリ機関銃(マキシム1905年式7.62ミリ重機関銃)を操作するフィンランド国防軍の兵士たち:後方には、腕に白い腕章を撒いた報道関係者が立っている。軍事演習を取材している最中であろう。
Kannaksen sotaharjoitukset 7. - 12.8.1939. Konekivääri tuliasemassa.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111533引用。
ロシア軍のマキシム1905年式重機関銃(7,62 mm Maxim m/1905 )あるい1910年式7.62ミリ重機関銃(7,62 mm Maxim m/1910)である。この重機関銃の優秀性に気づいたフィンランド軍は、M/09-09 7.62ミリ機関銃の形式で採用し生産した。これが、フィンランド軍の制式したマキシム09-09 口径7.62ミリ機関銃である。
写真(右)1939年8月7-12日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習で、ラハティ/サロランタ1926年式7.62ミリ機関銃を操作するフィンランド国防軍の兵士たち:ラハティ/サロランタ7.62mmM1926軽機関銃は、1926年にフィンランド国防軍が制式した軽機関銃。
Kannaksen sotaharjoitukset 7. - 12.8.1939. Asemassa.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111489引用。
ラハティ/サロランタ1926年式Lahti-Saloranta 7.62mmM/26軽機関銃の諸元
全長
1,109 mm、銃身長
500 mm
重量
9.3kg
弾薬
7.62mm×53R、装弾
20箱型弾倉
発射速度
450 - 550発/分 、初速
800 m/秒
有効射程
400 m
生産期間 1926年〜1942年、VKT(国営砲兵工廠)で 6200丁以上生産された。
ラハティ/サロランタ1926年式7.62ミリ軽機関銃(Lahti-Saloranta 7.62mmM/26)は、軽機なので、数百発の連続は銃身が過熱してしまい不可能であるが、その分、軽量化していて、機動性に優れている。
写真(右)1939年8月7-12日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習で、ロシア製1910年式152ミリ重榴弾砲(152 H 10)を操作するフィンランド国防軍の兵士たち:ロシア帝国時代に制式された1909年式122ミリ榴弾砲は、ソ連時代にも赤軍に引き続きM1909/37 122ミリ榴弾砲として採用された。そして、フィンランドでも使用されている。
Harjoitusammunnat ylimääräisten harjoitusten aikana syksyllä 1939 Kuvassa 122 mm:n saksalais-venäläinen haupitsi vuodelta 1909 (122 H 09).
Organisaatio
Sotamuseo
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111610引用。
M1909/37 122ミリ榴弾砲の諸元
射撃重量
1,450 kg、移動重量 2,480 kg
銃身長
1.69 m / 14口径
操作要員
7名
口径
122 mm
反動
水圧駐退 / バネ圧復座式
射撃仰角
-1度から43度
発射速度
2 発/分
最大射程
8,910 m
生産数
900門以上
写真(右)1939年8月7-12日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習で、ロシア製1910年式152ミリ重榴弾砲(152 H 10)を操作するフィンランド国防軍の兵士たち:ロシア帝国時代に制式されたM1910 152mm榴弾砲は、ソ連時代にも赤軍に引き続き採用された。そして、フィンランドでも採用されている。
Kannaksen sotaharjoitukset 7. - 12.8.1939. Tuliasemassa 152 mm:n venäläinen raskas haupitsi vuodelta 1910 (152 H 10).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111610引用。
1910/37年式 152ミリ榴弾砲(152 mm howitzer M1910/37)の諸元
射撃重量: 2,725 kg、移動重量: 3,050 kg
砲身長
1.83 m (6 ft) 12口径(L/12)
全高
1.91 m
操作員要員
8名
口径(Caliber)
152.4 mm (6 インチ)
複座
水圧式
射撃仰角 0度から41度
射撃速度 6発/分
有効射程
8,000 m
写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習に参加した、フィンランド軍のイギリス製ビッカース6トン戦車E型(Vickers 6-Ton (Mark E) )の砲塔にあるボフォース37ミリ戦車砲と7.7ミリ機関銃:
Kannaksen sotaharjoitukset 7. - 12.8.1939. Kuvassa kuuden tonnin Vickers Armstrong panssarivaunu (Mark E) aseistuksenaan 37 mm:n Poteaux-tykki ja konekivääri.;
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111618引用。
1928年にイギリスのビッカース・アームストロング社が開発したビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)を、イギリス軍は採用せず、各国への輸出されることになった。フィンランドは、1936年、32両をヴィッカース社から購入することを決めた。搭載した主砲は、スウェーデンのボフォース社の開発になる37ミリ戦車砲である。1939年-1940年の「冬戦争」にはビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)が実戦投入された。
写真(右)1939年8月7-12日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習に参加したフィンランド国防軍のイギリス製ビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton):イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)は、1928年にビッカース・アームストロング社が開発した戦車だが、イギリスでは採用されず、各国への輸出用戦車となった。フィンランドは、1936年、32両をヴィッカース社から購入することを決めた。搭載した主砲は、スウェーデン、ボフォース社開発になる37ミリ戦車砲である。1939年-1940年の「冬戦争」にはビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)が実戦投入された。
Kannaksen sotaharjoitukset 7. - 12.8.1939. Kuvassa Vickers-panssarivaunuja marssilla..
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Defence Forces sa-kuva-111678引用。
ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)の諸元:
全長
4.56 m 、全幅 2.41 m
全高
2.16 m 乗員
3 名
総重量
7.35 t
懸架方式
リーフスプリング・ボギー式
最高速力(整地)
35 km/h
航続距離
160 km(路上)、90 km(不整地)
兵装
47 ミリ戦車砲1門 、車載機銃 7.7ミリ機関銃1丁
装甲:5-13 mm
発動機
アームストロング・シドレー空冷4気筒ガソリン(80馬力)
写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習に参加した、フィンランド軍のイギリス製ビッカース6トン戦車E型(Vickers 6-Ton (Mark E) )の砲塔に搭載されたボフォース37ミリ戦車砲と7.7ミリ機関銃:ボフォース37ミリ対戦車砲は、スウェーデンの兵器メーカー、ボフォース社で1935年に開発され、フィンランド軍も採用した。
Kannaksen sotaharjoitukset 7. - 12.8.1939. Kuvassa kuuden tonnin Vickers Armstrong panssarivaunu (Mark E) aseistuksenaan 37 mm:n Poteaux-tykki ja konekivääri.;
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111618引用。
ボフォース37ミリ対戦車砲(Finnish Wartime Photograph Archive)の諸元
重量370 kg
全長3.04 m
砲身長1.6 m (45口径)
弾薬37×249 mm. R
砲弾重量0.74 kg
砲身仰角-10度から25度
発射速度12発/分
砲口初速 800–870 m/秒
有効射程4,000 m、最大射程6,500 m
写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習に参加したフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati.
Karjalan kannas 1939.08.13
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Marsalkka Mannerheim on juuri tarkastanut paraatijoukot. Vierellä vasemmalla kenraaliluutnantti Harald Öhquist ja oikealla kenraaliluutnantti Hugo Österman.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111634引用。
ハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist;1891ー1971)中将は、1915年、ドイツ軍側で第一次世界大戦に参戦した経験を活かして、独立間もないフィンランド軍の創設に1918年に加わった。ロシア革命に乗じたフィンランドのボリシェビキ、共産主義者を鎮圧するフィンランド内戦に、白衛軍(反革命軍)の将校として従軍した。1925年にフィンランド国防軍の第2師団長を拝命、1937年にはヒトラー率いるナチ党政権下で密かに育成されていたドイツ軍とも接触している。1939年に始まった冬戦争( Talvisota)では、ソビエト連邦と領土争いの場となったカレリア地峡を防衛する第2軍団を指揮した。1939年12月には、ソ連軍への反撃を強化したが、1940年2月には、増強されたソ連軍に押し返された。
写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習に騎馬で参加したフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati.
Karjalan kannas 1939.08.13
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Marsalkka Mannerheim vierellään kenraaliluutnantti Harald Öhqvist..
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111640引用。
冬戦争( Talvisota)敗北後、ハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将は、フィンランド国防軍を再建し、対ソ復讐戦争の準備をした。1941年7月から1942年1月まで、ドイツ国防軍総司令部に派遣され、ドイツ駐在のフィンランド軍代表として、ソ連侵攻に協力した。
写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍自転車部隊(銀輪部隊)の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati.
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Joukot tervehtivät marsalkka Mannerheimiä
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111666引用。
wikipediaは「オーキュストは、ドイツとの協力の支持者であったが、フィンランド軍が大規模な作戦に巻き込まれないようにあらゆる努力を払った」というが、これは1943年に入って、ドイツがスターリングラードで大敗するなど、戦局が悪化した後の行動である。継続戦争開戦当初は、ハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将は、ソ連に割譲を余儀なくされたカレリア地峡(Karjalankannas)を奪取し、レニングラードを包囲するなど、1942年〜1944年、カレリア地峡軍司令官としてソ連撃破に積極的に取り組んでいる。
写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍自転車部隊(銀輪部隊)の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:ソ連の威嚇には屈しないという意思を公示したパレード。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati.
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Joukot tervehtivät marsalkka Mannerheimiä
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111668引用。
アイモ・カールロ・カヤンデル (Aimo Kaarlo Cajander;1879-1943年1月21日)は、独立後フィンランドの国防大臣を1928年から1929年に努め、1937年3月12日には、中道連立内閣を組閣し、首相を務めた。外交上は、ソ連の圧力に対抗する必要上、ナチ党ヒトラーのドイツの政治力に注目し、ドイツ再軍備後は、ドイツの軍事力をフィンランドの独立に寄与させようとした。しかし、ソ連は1939年3月、レニングラードの死活的な交通路に当たるフィンランド湾内のフィンランド領の小島を租借し、カレリア地峡(Karjalankannas)の割譲を、北部の東カレリアとの領土交換を要求した。フィンランド側は、1939年4月、カヤンデル首相がソ連の要求を拒否し、軍事的解決ではなく、平和による解決を望んだ。
写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍のパベシ(Pavesi)トラクター牽引のフランス製シュナイダー(Schneider)1917年式15口径152ミリ榴弾砲と砲車の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Pavesi-traktori vetää 152 mm:n haupitsia.;
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111675引用。
フィンランド軍は、フランスのシュナイダー(Schneider)社から1917年式15口径152ミリ榴弾砲(152mm H 17)を、1924年に4門、1928年に8門をフランスから購入している。1917年式15口径152ミリ榴弾砲(152mm H 17)は、重量3300?、砲口初速:453m/秒、最大射程:10.3km、仰角:0度から42.3度、旋回:左右30度、性能的には1915年式15口径152ミリ榴弾砲(152mm H 15)と全く同じであるが、砲架の車輪が全金属製から空気圧式ゴムタイヤに変更になった。これは、自動化・高速機動のために必要な変更だった。フィンランド軍では、イタリア製のパベシ(Pavesi)トラクターを9輌導入して牽引させている。
写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)の行進を検閲する馬上のフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍と付き従うハロルド・オーキュスト(Harald Öhquist)中将:イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)は、1928年にビッカース・アームストロング社が開発した戦車だが、イギリスでは採用されず、各国への輸出用戦車となった。フィンランドは、1936年、32両をヴィッカース社から購入することを決めた。搭載した主砲は、スウェーデン、ボフォース社開発になる37ミリ戦車砲である。1939年-1940年の「冬戦争」にはビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)が実戦投入された。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati.
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Joukot tervehtivät marsalkka Mannerheimiä
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-111681 引用。
イギリス製ビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)は、1928年にイギリス有数の兵器メーカーであるビッカース・アームストロング社が開発した完全装軌式、360度回転砲塔を備えた斬新な戦車だったが、イギリス陸軍は制式せず、各国に輸出された戦車となった。フィンランドでは、1933年に輸入し試験したが、高評価だったために、1936年から32両をビッカースから購入する決定を下した
写真(右)1939年8月13日、フィンランド南部、カレリア地峡、カンナス軍事演習、フィンランド国防軍のイギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)を検閲するフィンランド国防軍総司令官アイモ・カヤンデル(Aimo Cajander)首相(スーツ、ハット姿):ひな壇の奥には、騎馬のマンネルハイム将軍が僅かに見えている。
Kannaksen sotaharjoitusten päätösparaati. Vickers-panssarivaunuja ohimarssissa.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, Finnish Defence Forces sa-kuva-111678引用。
しかし、ビッカースでの生産は遅々として進まず、フィンランドの発注した6トン戦車の配備は遅れた。1939年になって部隊配備されたビッカース6トン戦車F型(Vickers 6-Ton Mark F)が搭載した主砲は、隣国スウェーデンに発注したボフォース37ミリ戦車砲である。1939年-1940年の「冬戦争」にはビッカース6トン戦車F型(Vickers 6-Ton Mark F)13輌が、第4戦車中隊に配備された。冬戦争では、ビッカース6トン戦車(Vickers 6-Ton)は、対峙したソ連軍T−26軽戦車の46口径45ミリ砲と比較して威力が弱かった。そこで、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲した46口径45ミリ砲をに変換されたが、このソ連戦車は、イギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)を原型とした戦車だった。つまり、ソ連とフィンランドは同じイギリス製ビッカース6トン車部隊(Vickers 6-Ton)で戦ったのである。
写真(右)1939年10月12日、冬戦争勃発1カ月前、フィンランド、ヘルシンキの鉄道駅、ソ連との雲行きが怪しくなり、空襲を受ける危険のあるヘルシンキから地方に疎開する民間人:フィンランドはソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けたが、拒否したため、スターリンの怒りを買った。ソ連軍は1939年11月30日、フィンランドに侵攻、冬戦争( Talvisota)が勃発したのである。
väestöä lähdössä junalla Helsingistä maaseudulle mahdollisia pommituksia pakoon
Hufvudstadsbladet, painaja 1939
vaaka, mustavalkoinen
Aiheen paikka
Helsinki
Aiheen aika
12.10.1939
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK19391118:9
Kuvaustiedot:
12.10.1939
Helsinki
Hufvudstadsbladet, painaja .
写真は,Museot Finna HK19391118:9用。
1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をしたが、10月11日、ソ連の外務人民委員(外相)モロトフは、フィンランドのパーシビキを団長とする交渉団をモスクワに招き、
1)カレリア地峡の対ソ連防衛戦の撤去
2)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
3)カレリア地峡のソ連国境の30km前進(割譲2200平方キロ)と東カレリア(フィンランド東国境に面したソ連領5000平方キロ)の交換
という要求を突き付けた。フィンランド軍総司令官マンネルヘイム元帥は、ソ連の要求を受諾するしかないと考え、フィンランド政府も、カレリア地峡のソ連国境10km前進、フィンランド湾の島々の譲渡は受け入れたが、ハンコ半島の租借は拒否した。こうして、交渉は決裂し、双方とも10月には、動員を準備し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急事態を認める共和国防衛法を布告した。
写真(右)1939年10月20日、冬戦争の勃発直前、フィンランド、ソ連との外交関係が悪化し、一触即発の危機状態に陥ったフィンランドのタンペレでは、ソ連機の空襲を避けるためにフィンレイソン社の社宅 リトルパレスの住民が家財道具とともにトラックで疎開している。:フィンレイソン社は、ロシア帝国フィンランド大公国で1820年に創業されたフィンランド最古のテキスタイルブランドで、寝装品、ホームテキスタイルを中心とした高級品を販売している会社で、現在も存続している。
Finlaysonin Pikkupalatsin asukkaita evakuoidaan .
Organisaatio
Museokeskus Vapriikki
Kokoelma
D/682 Aamulehti
Inventaarionro
AL:3260:6
Kuvaustiedot:
1939-10-20
Keskusta I, Hämeenpuisto, Hämeenpuisto 7
Tampere, Suomi
Eero Troberg, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna Inventaarionro AL:3260:6用。
1820年創業、フィンランド最古のテキスタイル・ブランドFINLAYSON(フィンレイソン)の日本語ページには、次のようにある。
「約200年もの長い歴史と伝統を持つFINLAYSON(フィンレイソン)は、寝装品、ホームテキスタイルを中心とした質の高い商品によって、国内外の人々に最高の住まい方を提供してきました。FINLAYSONの商品はフィンランド中のどの家庭でも見られるほど、信頼され広く愛用されています。
1820年、ロシア統治下のフィンランドにおいて、英国スコットランド出身のジェームス・フィンレイソンはフィンランドの第2の都市であるタンペレにおいて紡績工場を設立しました。工場敷地内には学校や図書館、教会などの各施設が作られ、タンペレはフィンランド最大の工業都市として発展を遂げました。フィンランド国民にとって、FINLAYSONは単なる一企業ではなく、国の発展に貢献してきたブランドです。」
写真(右)1939年10月20日、冬戦争の勃発直前、フィンランド、タンペレ(Tampere)、ソ連機の空襲を避けるために家財道具とともにトラックで疎開の準備をするフィンレイソン社の社宅 リトルパレスの住民:現在、フィンレイソン社は、北欧の自然や植物、四季の移り変わり、昔ながらのフィンランドアートなどをデザインした日本風の風呂敷<リバーシブルクロス>を販売し、包むだけでなく、インテリア工芸品として楽しむ発想を唱えている。北欧らしい落ち着いたデザインの1mのクロスは、リバーシブルなので、季節や気分に合わせて、テーブルクロスとして使用できる。また、リビングルームのソファーにかけたり、パーティションやカーテンの代わりに使うこともできる。小型のものは、ナプキン代わりや、ランチョンマットとして使うこともできる。
Finlaysonin Pikkupalatsin asukkaita evakuoidaan .
Organisaatio
Museokeskus Vapriikki
Kokoelma
D/682 Aamulehti
Inventaarionro
AL:3260:7
Kuvaustiedot:
1939-10-20
Keskusta I, Hämeenpuisto, Hämeenpuisto 7
Tampere, Suomi
Eero Troberg, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna Inventaarionro AL:3260:7用。
ソ連=フィンランド戦争の終了直後の1940年3月29日、ソ連の外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ は、ソビエトで、次のように述べた。
「昨年 [1939 年]の10-11月、ソビエト政府は,悪化する国際情勢に鑑み、我が国、特にレニングラードの安全を守るうえに絶対に必須かつ緊急と考えた提案を,フィンランド政府と討議した。この交渉は,フ ィンランド側代表の非友好的な態度ゆえに実を結ばず、事は戦場で決されることとなった。もしもフィンランドが外国からの影響に屈しなければ、もしもフィンランドが第三国の煽動にのらずに、ソ連に対する敵対的態度をとらなければ、ソ連とフィンランドの関には昨秋平和裡に了解が成り立ち,事は戦争を経ずして解決されたはずである。ソビエト致府が要求を最低限の要求をしたのに,外交的な手段による解決はできなかったのである」
「議論の余地なく、昨秋に直面したフィンランド側の敵対的政策は偶然のものではなかった。ソ連に敵対する勢力は,フィンランドが,わが国、特にレニングラードに対する作戦のために基地を整備し、ひとたび国際情勢がソ連に不利となるや否や,帝国主義的な反ソ勢力および フィンランドの反ソ連同調者の計画にしたがって、行動を起こすことのことになっていたのである。」モロトフは, ソ連=フィンランド戦争の意義は,ソ連赤軍が,フィンランド国内のソ連攻撃の炒めの作戦基地の存在を明らかにし、基地を破壊して,「第三国が過去数年間にわたって企ててきたた反ソ計画を粉砕したことである」とした。
写真(右)1939年10月20日、冬戦争の勃発直前、フィンランド、ソ連との外交関係が悪化し、一触即発の危機状態に陥ったフィンランドのタンペレ(Tampere)では、ソ連機の空襲を避けるために避難船を手配して疎開するフィンランド人避難民を運搬した。:戦争の初期の頃、フィンランド政府は、市民を危険な地域から疎開させようと、避難列車、避難自動車、避難船を手配したが、子供たちが最優先された。
Tamperetta evakuoidaan .
Organisaatio
Museokeskus Vapriikki
Kokoelma
D/682 Aamulehti
Inventaarionro
AL:3260:8
Kuvaustiedot:
1939-10-20
Särkänniemi VIII, Mustalahti
Tampere, Suomi
Eero Troberg, valokuvaaja
.
写真は,Museot Finna Inventaarionro AL:3260:8用。
サンクト・ペテルブルグは、第一次大戦の勃発した1914年から1924年までは、サンクト・ピーテルブールフ(Санкт-Питербурх)とも呼ばれたが、1914年に第一次世界大戦でドイツと戦うことになるとドイツ語系の「ブルク」(城市)の名称が忌避され、ペトログラードと改名された。その後1924年に革命指導者レーニンが死去すると、革命家の名を冠して、ペトログラードとレニングラードと再び解消された。ソ連崩壊後、1991年には、ロシア共和国の主都として、旧名に復帰することになり、レニングラードの名称をロシア革命前のサンクトペテルブルグに戻している。レニングラードは、カレリア地峡(Karjalankannas)の付け根にある大都市である。
1.1939年11月30日-1940年3月13日、ソ連によるフィンランド侵攻「冬戦争」(talvisota)
フィンランドは1939年3月にソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けた。しかし、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、不当なソ連の要求を拒否し、フィンランドの尊厳維持を支持する国民の期待に応えた。しかし、ポーランドの東半分を、ヒトラードイツとの合意の下、保障占領していたスターリンは、バルト三国への圧力を強めており、ソ連の威信を失わせるような領土交換拒否というフィンランドを許さなかった、1939年11月30日、ソビエト連邦はフィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発し、12月1日に就任した新首相リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)の下で戦いうことになった。
写真(右)1939年11月30日、冬戦争の中盤、ソ連空軍機の空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ市街地;すでに第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲が行われるとは考えていなかったようだ。
raunioita Helsingin pommituksen jälkeen
vaaka, mustavalkoinen
Aineistotyyppi
Kuva
Aiheen paikka
Helsinki
Aiheen aika
30.11.1939
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK19780731:222
Kuvaustiedot:
30.11.1939
Helsinki
写真はMuseot Finna HK19780731:222用。
第二次世界大戦の勃発から1ヶ月後、1939年10月11日、ソビエト連邦は、ソ連の外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ を通じて、フィンランドに、
1)ソ連国境に面したカレリア地峡の防衛戦の撤去、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方の東カレリア領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
を要求した。しかし、交渉は決裂し、国境で発生した武力衝突を理由に、1939年11月30日、ソ連はフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。
写真(右)1939年11月30日、冬戦争の中盤、空襲で破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキ、ソビエト空軍の空襲を受けて破壊された工科大学のビル家屋と消防救助活動に当たる兵士:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Teknillisen korkeakoulun pommitus
Fremling F. E., kuvaaja 1939
vaaka, mustavalkoinen
Aiheen paikka
Helsinki
Aiheen aika
30.11.1939
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK10000:4027
Kuvaustiedot:
30.11.1939 .
写真は,Museot Finna HK10000:4027用。
1939年11月28日、ソ連はフィンランドと1932年に締結した不可侵条約を破棄し、2日後の11月30日、ソ連赤軍レニングラード方面軍司令官キリル・メレツコフ(Kirill Meretskov)大将隷下の兵力23個師団45万名、火砲1800門、戦車2300輌、飛行機700機がフィンランドを攻撃した。これが、フィンランドの言う冬戦争の始まりであり、対するフィンランド国防軍は、当初12個師団18万名で、総動員によって30万名以上の兵士を確保たものの、火砲700門、戦車20輌、飛行機130機で劣勢であった。カヤンデル首相は親ソ的とされ、1939年12月1日、カヤンデル内閣は総辞職し、後継にリスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)首相が任命され、ソ連と対決することとなった。
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の中盤、空爆によって破壊されたフィンランドの首都ヘルシンキの市街地:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
pommitettu Abrahaminkadun ja Lönnrotinkadun kulmatalo
vaaka, mustavalkoinen
Aiheen paikka
Helsinki
Aiheen aika
1.12.1939
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK19721231i:1
.
写真は,Museot Finna HK19721231i:1用。
第二次大戦は1939年9月に始まっていたが、ドイツがフランス・イギリスと対峙する西部戦線では、1940年5月までは都市爆撃(Aerial bombing of cities)、民間人への空襲は行われていなかった。
1)民間人への無差爆撃(indiscriminate bombing)はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)戦略爆撃(Strategic bombing)は報復を招聘し自国都市も空爆され大損害を被る、
3)都市への絨毯爆撃(carpet bombing)に多数の爆撃機を投入するより、造船所・飛行機工場・飛行場・レーダー施設など重要な軍事目標を精密爆撃(precision bombingするほうが敵の抗戦力を効果的に低下させる、
このように空爆(air raid)を考えた各国の政治的指導者は、都市への無差爆撃(carpet bombing)を回避していたのである。
しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。首都を爆撃されたフィンランドは即座に降伏すると楽観視し、さらにレニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲に対しては、ソ連はポリカルポフI-15戦闘機など迎撃態勢を整えていたので、防ぐ自信があったのであろう。
写真(上)1939年12月上旬、冬戦争の緒戦、フィンランド、ヘルシンキ、ソ連機の空襲を避けるために、夜間、バスに乗って疎開するフィンランド人避難民:バス正面の行き先表示板には、ヘルシンキ=ラハティと書いてある。ラハティは、ヘルシンキの北100キロ、現在はラハティ郡パイヤト=ハメ県の県庁所在地である。
Evakuoimista Helsingissä joulukuun alussa 1939.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-01
Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-111019用。
フィンランドを攻撃したソ連軍レニングラード方面軍の主力は、カレリア地峡に展開する第7軍20万名、ラドガ湖北に第8軍13万名、フィンランド中東部に第9軍と北部に第14軍の併せて12万名を配備した。他方、フィンランド軍は、カレリア地峡に主力の12万名、ラドガ湖に4万名、中東部・北部に1万6000名の配置であったが、総動員によって、兵力は暫時補充されている。
写真(右)1939年12月2日、冬戦争の緒戦、フィンランド、ソ連地上軍の侵攻・ソ連機の空襲を避けるために貨物列車に乗車して疎開するフィンランド人避難民と、この貨物列車で移送されてきたと思われるフィンランド国防軍の兵士たち:戦争の初期の頃、フィンランド政府は、市民を危険な地域から疎開させようと、避難列車、避難自動車、避難船を手配した。
Evakuointia Karjalan kannaksella sodan alkupäivinä. Kuvassa isoisä Antti Siira ja lapsenlapset Tauno Kuosa ja Vilho Kuosa, isoäiti Aune Siira, lasten äiti Riitta Kuosa sekä hänen veljensä Antti Siira.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-02
Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-165485用。
つまり、ソ連の大軍相手に少数のフィンランド軍が前線し世界に感銘を与えたというう「冬戦争」は、攻撃側45万名対防衛側25万名の戦いとなったが、攻撃側は防衛側の2倍の兵力でしかなく、防衛陣地に対する攻撃を仕掛けるには、決して優勢とは言えない状況だった。もちろん、火力、航空兵力は、攻撃するソ連赤軍が圧倒的に有利だったが、森林地帯、それも厳冬の雪の中の戦いで、気象条件・地形条件は、頑丈な半地下式陣地を幾重も整備した防衛側に有利であった。
また、フィンランド軍将兵祖国防衛の信念を抱き、地形を熟知していて士気が高かった。それと対照的に、攻撃側のソ連赤軍下級兵士の戦意は、小国の侵略的戦争では、全く振るわなかった。独ソ戦で見せたような愛国心溢れる戦いは、一部の共産主義イデオロギーを妄信する将校以外は、期待できなかったのである。ソ連軍は、バルト三国の時と同じく、無血の武力進駐で終わると錯覚していたようで、進攻作戦も補給計画も十分に検討されてはいなかったと考えられる。
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド、カレリア地峡、ライシャラ、ソ連地上軍の侵攻・ソ連機の空襲を避けるために馬の引く橇に乗って住み慣れた故郷を去るフィンランド人避難民一家:戦争の初期の頃のカレリア地峡から避難する人々。写真は、祖父Antti Siiraと孫Tauno KuosaとVilho Kuosa、祖母Aune Siira、子供の母親Riitta Kuosaと彼女の兄弟Antti Siiraである。
Evakuointia Karjalan kannaksella sodan alkupäivinä. Kuvassa isoisä Antti Siira ja lapsenlapset Tauno Kuosa ja Vilho Kuosa, isoäiti Aune Siira, lasten äiti Riitta Kuosa sekä hänen veljensä Antti Siira.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-01
Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-111155用。
第二次世界大戦の終了後の1948年、ソ連の公式見解は、次のように、ドイツの侵略的陰謀を強調するものである。
「ソ連=フィンランド戦争は,フィンランド政府が国際反動を援けて,国内の様々な反ソ的冒険の手段に利用させる政策をとった一例である。すなわち、第二次大戦の脅威とヒトラ一派の侵略を自前に控えていたソ連政府は。フィンランドをソ連攻撃の基地とする帝国主義者の計画に無関心ではいられなかった。そこで, ソ連政府は、1938 年春、フィンランドに ソ連の西北国境ならびにフィンランドの安全を保障する相互援助条約を提案したが拒絶され,次に1939年10-11月に,ソ連邦の安全保障, とくにレニングラードの安全保障の問題を具体的に検討することを提案した。しかし、帝匡主義列強の反動派の干渉したため,協定は合意できなかった……戦争煽動者らは,直ちに,手段をつくしてフィンランドとソ連の協調を妨害し始め.フィンランド政府に頑迷な態度をとらせ、最終的にフィンランドをソ連との紛争に追い込んだ。」11月26日,カレリア地峡のマイニラ村で砲撃事件が勃発、フィンランド首相は、ソ連の撤兵要求を拒んで、兵力の増強を続け、危機的状況に陥ったソビエト政府は, レニングラード軍管区の部嫁に対して,ソ連=フィンランド国境とレニングラードの安全を保樟する手段をとるようにとの命令を,止むなく発したのである。」
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド、カレリア地峡、ライシャラ、ソ連地上軍の侵攻・ソ連機の空襲を避けるために疎開するフィンランド民間人:馬車が飼料の秣(まぐさ)を橇に積んで曳いている。その後ろにはやはり重要な家畜の牛が繋がれている。農業を営む一家の避難民であろう。
Evakuointia Räisälässä joulukuussa 1939.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-01
Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-104739用。
ライシャラ(Räisälä)は、カレリア地峡のレニングラード北150キロに位置し、冬戦争ではフィンランドとソ連が争う戦場となった。現在、ロシア連邦領でメリニコヴォ(Мельниково)と呼ばれている。フィンランドはソ連に、カレリア地峡(Karjalankannas)の割譲や海軍のハンコ港租借を要求されたが、拒否したため、ソ連の攻撃を受けた。冬戦争敗北後、フィンランドは、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に復讐戦争を仕掛けて、レニングラード近郊まで占領地を拡張した。
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の中盤、フィンランド南部、首都ヘルシンキの北西200キロ、ミッケリ(Mikkeli)鉄道駅から出征するフィンランド軍兵士たち:ミッケリは、現在、フィンランド南部の南サヴォ県ミッケリ(Mikkeli)郡で、サイマー湖畔に位置する。
sotilaita Mikkelin asemalla
vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 33 x 23 cm
Aineistotyyppi
Kuva
Aiheen aika
18.12.1939
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK19541228:53
Mitat
5 x 8 cm.
写真は,Museot Finna HK19541228:53用。
フィンランドは、1917年の独立以来、ロシア・ソビエトの侵攻を予測して、カレリア地峡に防衛戦を構築していた。これは、当時のフィンランド軍総司令官の名前に因んでマンネルヘイム戦と呼ばれていた。半地下式トーチカ1400か所、440キロの塹壕、木材や石材から成る対戦車障害物、地雷など兵士だけでなく、女子補助部隊を含め、国民も半徴用され防衛戦構築・労務支援に従事させられた。頑丈な半地下式陣地を背景に、エステルマン大将隷下の6個師団12万名を基幹とする守備部隊が、カレリア地峡の防衛に当たっていたのである。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド、冬季仕様を施したフィンランド国防軍のスキー装備の兵士たち:兵士たちは白色迷彩のジャケットを着ているが、ソ連軍は褐色のコートのままだったので、発見されやすかった。
sotilaat ryhmäkuvassa
vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 34 x 24 cm
Aineistotyyppi
Kuva
Aiheen aika
30.11.1939 - 13.3.1940
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK19700410:143
Mitat
11 x 17 cm.
写真は,Museot Finna HK19700410:143用。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド中東部、スオムッサルミ、冬季仕様を施したフィンランド国防軍のスキー装備の兵士たち:兵士たちは白色迷彩のジャケットを着て、ノルディックスキーを肩に行進している。スオムッサルミ はフィンランド、カイヌー県ケヒュス=カイヌー郡に属する。人口1万人未満で、森林と湖沼地帯が広がっている。
sotilaat liikkuvat Suomussalmella
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Kimy-Kustannus Oy:n kokoelma
Inventaarionro
HK19840314:122
Mitat
7 x 6 cm
Kuvaustiedot:
helmikuu 1940
Suomussalmi.
写真は,Museot Finna HK19840314:122引用。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド、木材で構築した半地下式掩蔽壕から迫撃砲を出して射撃するフィンランド国防軍の兵士たち:フィンランド軍の野戦兵たちは白色迷彩のジャケットを着て、ノルディックスキー使っていることもあるが、掩蔽壕に遮蔽されているので迷彩ジャケット、ヘルメットを着用していない。
vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 34 x 24 cm
Subject date
30.11.1939 - 13.3.1940
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Inventory ID
HK19700410:153
Measurements
11 x 15 cm
Measurements
11 x 15 cm
写真は,Museot Finna M012:HK19700410:153引用。
写真(右)ソ連のフィンランド侵攻、冬戦争の末期、スキー付き狙撃用防盾で狙撃姿勢をとったフィンランド国防軍の兵士(前方より撮影):防盾には狙撃するための覗き穴が開いている。フィンランド軍の野戦兵たちは白色迷彩のジャケットを着ている。
Venäläinen suojalevy 3/Er. P5. Arkiston kuvavedos peilikuvana.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-13
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-4599引用。
フィンランド人は、ロシア帝国軍として訓練を受けてきた時代には、ロシア製口径7.62ミリのモシン・ナガン小銃を使い慣れており、フィンランド駐留のロシア軍もモシン・ナガン小銃を使用していた。カール・グスタフ・マンネルヘイム(C.G.E. Mannerheim)もロシア帝国騎兵将校だった。そこで、フィンランド独立後も、モシン・ナガン小銃が採用されたが、1939年冬戦争勃発時には、イタリア製口径7.35ミリのカルカノM1938小銃9万丁を購入し、フィンランド軍で使用した。日本軍もイタリア製小銃に興味を示していたが、イタリアでは第一次世界大戦では、1891年に開発した口径6.5ミリのカルカノ(Carcano)M1891を主力小銃としていたが、1938年に口径を拡大し弾丸の威力を向上させたカルカノ(Carcano)M1938を開発した。
写真(右)1940年3月4日、ソ連のフィンランド侵攻、冬戦争の末期、フィンランド、スキー付き狙撃用防盾で狙撃姿勢をとったフィンランド国防軍の兵士(側方より撮影):フィンランド軍の狙撃兵は白色迷彩のジャケットを着て、迷彩ヘルメットを着用し、モシナガント小銃を構えている。
Ryssien suojakilpi Viipurin Linnasaaressa.
Viipuri 1940.03.04
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-03-04
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-114886引用。
フィンランドは、第二次世界大戦が勃発、ソ連の圧力が強くなる状況で、急遽、イタリアからカルカノ(Carcano)M1938を9万丁輸入した。イタリアが採用したばかりの新鋭小銃を輸出した理由は、
1)小銃輸出による外貨獲得
2)第二次大戦における新小銃の実験試行
3)工作不良など新製品の欠陥処分
などが考えられる。
写真(右)1940年3月4日、ソ連のフィンランド侵攻、冬戦争の末期、スキー付き狙撃用防盾で狙撃姿勢をとったフィンランド国防軍の兵士(後方より撮影):防盾の下にスキーを設けて移動しやすくしているが、スキーの後方は狙撃手の邪魔になるので短くしている。
Ryssien suojakilpi Viipurin Linnasaaressa.
Viipuri 1940.03.04
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-03-04
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-114887引用。
イタリア製カルカノM1938小銃の弾薬は、7.35x51mmというイタリア独自の規格であり、他国の小銃の弾薬とは異なっており、汎用性がなかった。特にフィンランド軍がロシア軍から受け継いだモシン・ナガン小銃の弾薬は7.62x54mmRだったので、部隊の小銃配備・弾薬補給の上で不便があった。しかし、フィンランド軍は、世界各国の兵器を輸入・鹵獲して使用しており、弾薬も砲弾も同じ口径でも各種あった上に、戦場も国土周辺の地域に限られたから、このような煩雑な弾薬補給業務も淡々とこなしていたのであろうか。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド、ドイツ製1936年式3.7センチ対戦車砲(PaK 35/36)の射撃を準備するフィンランド国防軍の兵士たち:フィンランド軍の野戦兵たちは白色迷彩のジャケットを着て、砲架にも白色の迷彩シートをかけている。ソ連軍のBT戦車、T-26戦車も、近くまで接近させて射撃すれば、装甲を貫通できた。
suomalainen panssarintorjuntatykki
vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 34 x 24 cm
Subject date
30.11.1939 - 13.3.1940
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Inventory ID
HK19700410:139
Measurements
11 x 17 cm
写真は,Museot Finna M012:HK19700410:139引用。
第一次世界大戦後のベルサイユ条約によって、ドイツは新型火器の開発を禁止されたが、密かににソ連軍の支援を受けたり、スウェーデンやスイスに兵器会社を設立したりして、新型火砲を開発した。1928年、密かに3.7センチ砲が開発され、1935年3月のドイツ再軍備宣言より前に、ソ連軍用に3.7センチ対戦車砲M1930(1K)が制式された。また、ドイツ軍が1936年に制式した1936年式3.7センチ対戦車砲Pak36は、同年勃発したスペイン内戦にも国民戦線側で試験的に実戦投入された。この時、スペイン人民戦線政府のソ連製T-26軽戦車、BT-5快速戦車を撃破することができた。
写真(右)1940年1月8日、冬戦争の時期、フィンランド、スウェーデン製ボフォース1934年式37ミリ対戦車砲(m/34:37 PstK/36)の射撃を準備するフィンランド国防軍の兵士たち:フィンランド軍の砲兵たちは白色迷彩のジャケットを着て、砲架にも白色の迷彩シートをかけている。防盾が2段式になっている。
Ruotsalaisten Tt-tykki. Ruotsalainen 37 mm:n Bofors-panssarintorjuntakanuuna.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-01-08
写真は,Museot Finna sa-kuva-165090引用。
スウェーデン軍は、1934年にこの45口径37ミリ対戦車砲をボフォース37ミリ対戦車砲(m/34)として制式し、1938年には改良型の37ミリ対戦車砲(m/38)を採用した。この坊盾の上端は、背景に溶け込みやすくするために、迷彩塗装と同じように、不規則な形状に工夫されていた。
写真(右)1940年3月18日、冬戦争の晩期、フィンランド、スウェーデン製ボフォース1934年式37ミリ対戦車砲(m/34)、フィンランド名は1936年式37ミリ対戦車砲(37 PstK/36)の側面:フィンランド軍は、スウェーデンからこの対戦車砲を輸入すると共に、国内でライセンス生産を始めた。もちろん、1938年のズテーテン危機以来、第二次世界大戦が勃発するのではないかと危惧されており、ソ連が攻め込んでくる危険もあったからである。
HV. Torjuntatykki Harlussa. Kyseessä Boforsin 37 mm:n panssarintorjuntatykki..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-03-16
写真は,Museot Finna sa-kuva-108285引用。
ボフォース37ミリ対戦車砲(m/34)は、1931年に、スウェーデンのボフォース社が開発した45口径37ミリ機動対戦車砲で、射撃時の反動を抑制するために、砲口排出ガスを逆流利用するマズルブレーキを装備し、自動車による高速牽引時の砲へ衝撃を抑えるためのゴム車輪を装備している。貫通力は、距離1000mで30度の角度で命中した徹甲弾の場合、20ミリ装甲を貫徹できた。1938-1939年にフィンランド軍は、この対戦車砲を37 PstK/36 として採用し、スウェーデンから100門を輸入した。1939年11月の冬戦争勃発時には、100門がフィンランド軍にあった。また、1939年から、国営砲兵工廠(VTT :Valtion Tykkitehdas - State Artillery Factory) でライセンス生産され、350門を製造された。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド、ソ連赤軍のT-38 戦車を鹵獲したフィンランド国防軍の兵士たち:ロシアの戦車は困難な地形で停止した。
vaikeassa maastossa pysäytetty venäläinen tankki
Subject date
30.11.1939 - 13.3.1940
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Inventory ID
HK19680116:51
Measurements
9 x 14 cm
Photo info:
30.11.1939 - 13.3.1940
写真は,Museot Finna M012:HK19680116:51引用。
1936年にソ連が開発したT-38戦車は、1300輌が量産された乗員2名の小型戦車で、全長3.78 m、全幅2.234 m、全高1.66 m、重量3.3 t 、兵装は7.62ミリDT機関銃(携行弾数1512発)、装甲4〜9 mm、 発動機は4気筒水冷ガソリン(50 hp)。 1939年のノモンハン事件、フィンランド冬戦争に実戦投入されている。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド、ソ連赤軍の多砲塔搭載T-28戦車を鹵獲したフィンランド国防軍の兵士たち:Life誌の写真家がフィンランド陸軍戦車について読者に説明するために取材している。
Life-lehden valokuvaaja kuvaa suomalaisten sotasaaliiksi saamaa panssarivaunua
vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 34 x 24 cm
Subject date
30.11.1939 - 13.3.1940
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Inventory ID
HK19700410:129
Measurements
11 x 16 cm
Photo info:
30.11.1939 - 13.3.1940
写真は,Museot Finna M012:HK19700410:129引用。
ソ連赤軍のT-28戦車の諸元
総重量 28トン
全長7.44 m、全幅2.87 m、全高2.82 m
乗員6名
兵装76.2ミリ榴弾砲KT-28(70発携行)、7.62ミリ機関銃DT4丁 (8,000発携行)
発動機:ミクーリンM17型(Mikulin M-17)倒立V12気筒液冷エンジン(500 hp);
重量540?、排気量45.8L、シリンダーボア160mm×ストローク190mm、ドイツBMW VIのライセンス生産
写真(右)1940年1月20日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティ(Lemetti)の戦いで勝利したフィンランド国防軍が鹵獲したソ連赤軍の物資輸送部隊の隊列;ソ連赤軍は機械化自動車化部隊を育成していたが、補給末端では馬匹に頼った
物資輸送をしていたようだ。斃死した馬が並び、馬に曳かせる荷車や砲車をフィンランド軍が鹵獲した。
Lemetin tienristeyden pohjoispuolella. Tuhottu ryssän kolonna.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-01-20
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-108863引用。
日本軍は、1900年の北清事変(義和団事件)、1904年の日露戦争で、大陸に侵攻し、鉄道が利用できない場所では、人力で曳く荷車を主な輸送手段としていた。そこで、軍馬による物資輸送の能力が低いことを痛感した日本軍は、軍馬育成のために、馬政局を設置、馬政計画を策定して馬匹改良に取り組むことになった。洋種の種牡馬を購入し、それまでは行われていなかった去勢を導入して、国家管理の下で、強い軍馬の育成することが始まった。
在来の日本種の馬は、小型で非力だったため、日本軍は外国産の馬に頼った軍馬育成を開始した。北海道では、ビィッカース 6トン戦車でフランス産ペリシュロン種とアングロノルマン種を交配した小格重輓馬である、釧路畜産組合(1932年発表)、奏上釧路種(1938年発表)などの軍馬が生まれた。
写真(右)1940年1月20日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、西レメティ(Lemetti)でフィンランド国防軍が鹵獲したソ連赤軍のBT‐5快速戦車と物資輸送トラック部隊の隊列、左下にはソ連軍兵士のいくつもの死体が集められているが、いずれも厳冬の雪原で凍っている。;ソ連赤軍は機械化自動車化部隊を育成していたので、補給末端でも馬匹以外にトラックも導入していた。
Taistelun jälkiä Länsi-Lemetissä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-01-20
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-113747引用。
他方、ロシアでは、中央アジアで馬が飼育されており、軍馬が豊富だった。戦闘力の上でも、自動車化する前は、機動性の高さは、騎兵部隊や馬匹を使った輸送部隊に依存していたのである。しかし、赤軍のミハイル・トハチェフスキー将軍は、労働者と農民からなる革命派の軍隊という赤軍の性格に、新たに自動車の輸送能力に注目して機動力を向上させ、戦車を導入して、起動可能な強力な火力を持ち合わせる機械化旅団を創設した。これは、1932年の事戦車で、高速移動可能なBT快速戦車を開発する作業は、1928年にアメリカで開発されたクリスティー式懸架方式(車輪・キャタピラの構造)のクリスティー戦車の購入を契機にしており、回転式円形砲塔にB-3(5K)・37mm砲を装備したBT-2戦車は1931年10月に試作車が完成し、1932年に生産、部隊配備が始まった。
写真(上)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド、小銃・砲兵用観測器を装備した冬季白色迷彩のスキーパトロール部隊 ;スオミ KP/-31は1930年に技師アイモ・ラハティが、KP/-26の改良型として開発しの1931年にフィンランド軍に制式された。 ソ連軍は冬戦争で有効性に気づき、KP/-31の鹵獲品をベースに、ペーペーシャーPPSh-41短機関銃を開発し装備した。
Tukikohta Tovissa odotellaan .
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-01
Koskinen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-106081引用。
写真(右)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド、カレリア地峡中央、ラボラ(Lavola)、迫撃砲陣地で小銃を装備し電話機で通信連絡をする冬季白色迷彩のフィンランド軍兵士 ;フィンランド語のKrhとは迫撃砲(Kranaatinheitin)の略称である。カレリア地峡中央に位置するラボラ(Lavola)は、現在はロシア連邦のナゴルノエ(Нагорное )で、サンクトぺテルスブルクじから北西80キロにある。
Krh/tjp:llä on kiirettä. Tukikohta Telkässä Lavolassa.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-01
Koskinen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-106042引用。
写真(右)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティ(Lemetti)の戦いでソ連赤軍T-26戦車を45ミリ砲で撃破したフィンランド国防軍の兵士;1932年秋、ソ連赤軍機械化自動車化局(UMM)の指示で10月21日に試作車が開発されたBT-5快速戦車は、1933年から1941年の間に1,800両が量産された。重量11.5トン、主砲は45ミリ砲で、整地であれば最高速力時速70キロに達した。
Lemetti-Rykmentin motti. T-26 mallisesta panssarivaunusta evakuoidaan 45 mm:n tykin ampumatarvikkeita..
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-01
写真はMuseot Finna・sa-kuva-114283引用。
1929年5月にソ連軍は、イギリスのビィッカース社のビィッカース 6トン戦車もライセンス購入し、改良を加えて赤軍T-26戦車として採用した。そして1932年から、レニングラードの国営戦車工場で量産を開始したが、1933年に搭載砲を、BT-5戦車と同じ45ミリ砲に変換した1933年型が開発された。1936年のスペイン内戦、1939年のノモンハン事件でも実戦投入されソ連赤軍の主力T-26戦車は、1939年11月30日から1940年3月13日、対フィンランド冬戦争にも使用された。さらに、フィンランド軍も、ソ連軍からこのT-26戦車を鹵獲して、再使用している。
写真(右)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティ(Lemetti)の戦いで鹵獲したソ連赤軍のT-26戦車の上に乗って、フィンランド軍兵士が、小銃を手にして空に発砲しているが、祝砲の気分なのか。;
Lemetti-Rykmentin motti. Panssarivaunu T-26:n kannella seisova sotilas tähtäilee taivaalle Degtjarevin DT pikakiväärillä.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-01
写真はMuseot Finna・sa-kuva-114281引用。
写真(上)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティ(Lemetti)の戦いで勝利したフィンランド国防軍の鹵獲したソ連赤軍BT‐5快速戦車;1932年秋、ソ連赤軍機械化自動車化局(UMM)の指示で10月21日に試作車が開発されたBT-5快速戦車は、1933年から1941年の間に1,800両が量産された。重量11.5トン、主砲は45ミリ砲で、整地であれば最高速力時速70キロに達した。
Lemetti
Lemetti. Rykmentin motti. Kuvassa BT-5 panssarivaunu.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-01
写真はMuseot Finna・sa-kuva-114276引用。
写真(右)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、西レメティ(Lemetti)でフィンランド国防軍の冬季白書迷彩服の兵士が鹵獲したソ連赤軍の1936年式76.2ミリ(3インチ)起動野砲(76 K 36)を検分している。;ソ連赤軍は76mm師団砲M1936(F-22)と称した。ソ連では機械化自動車化部隊を育成していたので、火砲を牽引するのも自動車や装軌式トラクターあるいは専用の牽引車を使用していた。自動車化に対応できるように、野砲の砲車にはゴムタイヤを装備している。
Lemetti. Rykmentin motti. Kuvassa 76 mm:n kanuuna vuodelta 1936 (76 K 36).
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-01
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-113747引用。
ソ連赤軍兵器局長ミハイル・トゥハチェフスキー将軍は、機械か旅団の創設したが、この機械化部隊に随伴可能な機動性のある野砲として、76.2ミリ新型師団砲を開発した。これが、馬匹による牽引を前提としたM1902/30 76mm野砲に、機動性を持たせた76ミリ師団砲M1936(F-22)で、試作は1935年にテストされ、1936年に制式された。76ミリ師団砲M1936(F-22)は、射撃後すぐに尻栓が開放され薬莢が射出され、装填すれば自動で尾栓が珪砂する自動開閉式の垂直閉鎖尾栓を備え、発射速度が高まった。重量は重くなったが、これは自動車牽引に耐えるような堅牢な構造としたためである。
写真(右)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、西レメティ(Lemetti)でフィンランド国防軍の冬季白書迷彩服の兵士が鹵獲したソ連赤軍の1936年式76.2ミリ(3インチ)起動野砲(76 K 36)を検分している。;
Lemetti. Rykmentin motti. Kuvassa 76 mm:n kanuuna vuodelta 1936 (76 K 36).
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-01
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-114248引用。
ソ連赤軍は機械化自動車化部隊を育成していたので、火砲を牽引するのも自動車や装軌式トラクターあるいは専用の牽引車を使用していた。自動車化に対応できるように、76mm師団砲M1936(F-22)の砲車にはゴムタイヤを装備している。ソ連は、広大な国土を防衛するために、周辺国の多くが地続きの国境が長い。そこで、兵力を急速に移動、集中運用可能なように、砲兵にも機動性を重視し、陸軍の自動車化に早くから取り組んでいた。火砲の自動車移動を可能にするために、高速移動時でも振動や衝撃で火砲・砲架が破損しないように、ゴムタイヤ付きの砲架を普及させていた。
写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて撃破されたソ連赤軍の第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)所属のBT-5快速戦車:
Tuhottuja h-vaunuja Tenhamonmäellä. Kuvassa BT-5-panssarivaunuja.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165399引用。
冬戦争の1940年2月2日、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西にソ連軍を包囲した。しかし、ソ連軍はBT-25快速戦車と有効な機関銃部隊があったため、包囲されたソ連軍は頑強な抵抗をつづけた。テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘のソ連軍に対して、フィンランド軍は、3夜連続で夜襲を仕掛けた。ソ連赤軍第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)は25両のBT-5戦車を擁しており、機関銃網によってフィンランド軍の包囲を3日間持ちこたえた。フィンランド軍は3日目の夜襲によって、ソ連赤軍の包囲陣を二分し撃破できた。そして、BTT-5快速戦車の多くを撃破し、折り重なるソ連兵士の死体も発見した。
写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて撃破されたソ連赤軍の第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)所属のBT-5快速戦車と折り重なるソ連兵士の死体:ソ連軍側は25両のBT-5戦車を擁しており、機関銃網によってフィンランド軍の包囲を3日間持ちこたえた。頑強な抵抗にあったフィンランド軍は3回目の夜襲で包囲陣を二分することに成功した。
Tuhottuja h-vaunuja Tenhamonmäellä. Kuvassa BT-5-panssarivaunu..
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165401引用。
ソ連赤軍のBT-5快速戦車は1932年10月21日に試作車が完成、1933年から生産された第二次大戦当初のソ連軍主力戦車である。主砲の42口径45ミリ戦車(M1932 20K)は、原型が対戦車砲であり、砲弾の貫通力が高く、対戦車戦闘能力は十分あった。しかし、重量11.5トンと軽量化して、M-5 V型12気筒液冷ガソリン400馬力を搭載して、最高速力52km/hの快速を発揮できた反面、装甲は、主砲防盾 20ミリ、砲塔前面・側面13ミリと薄かったため、3.7センチ対戦車砲によっても撃破された。BT-5快速戦車の装甲は車体前面 13ミリ、側面 13ミリ、後面 10ミリ、上面13ミリ、底面 6ミリ、乗員3名である。
写真(右)1940年2月2日、、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて撃破されたソ連赤軍の第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)所属のBT-5快速戦車と折り重なるソ連兵士の死体:
Tuhottuja h-vaunuja Tenhamonmäellä. Kuvassa BT-5-panssarivaunu..
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165418引用。
写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて斃されたソ連赤軍の第二軍の将兵たち:
Pakoon yrittäneitä upseereita Tenholanmäellä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165393引用。
1940年2月2日、フィンランド中東部、ミッケリ(Mikkeli)南20キロで、フィンランド軍は、ソ連軍第二軍の一部の兵士をレミッテ(Lemetti)西ポケットに包囲した。しかし、包囲されたソ連軍はBT-5快速戦車25輌、機関銃を擁しており、包囲の下、徹底抗戦した。しかし、夜襲をかけ続けたフィンランド軍は、2月28日テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘のソ連軍に対して、フィンランド軍は、3夜連続で夜襲を仕掛けた。ソ連赤軍第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)は25両のBT-5戦車を擁しており、機関銃網によってフィンランド軍の包囲を3日間持ちこたえた。フィンランド軍は、2月28日の夜襲によって、ソ連赤軍の包囲陣を二分し撃破した。そして、BT-5快速戦車を多数撃破し、さらに300名のソ連軍兵士遺棄死体を発見した。獲得したソ連軍将兵の捕虜は、140名だった。
写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて斃されたソ連赤軍の第二軍の将兵たち:写真の解説では1940年2月2日となっているが、これは包囲戦が始まった時であり、ソ連軍の抵抗が続いたために、ソ連側が降伏したのは2月28日だったようだ。
Pakoon yrittäneitä upseereita Tenholanmäellä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165531引用。
フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦 、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍は包囲したソ連軍の第二軍に夜襲をしかけ続けた。しかし、ソ連赤軍の将兵たちは包囲下にも拘わらず頑強に抵抗をつづけた。包囲されたソ連軍が降伏したのは2月28日だったと思われれる。この時フィンランド軍が捕まえたソ連軍兵士の捕虜は140名である。この他、ソ連兵200名の死体が遺棄されていた。冬戦争が終結した後、1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅で、双方の捕虜交換が行われており、ソ連兵士捕虜は祖国に帰国した。しかし、スターリンは、投降したソ連軍兵士たちを、敗北主義者、抗戦意思の弱い卑怯者と決めつけ、シベリヤ流刑のような厳しい処罰を与えた。
写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて斃されたソ連赤軍の第二軍の将兵たち:レミッテ(Lemetti)西の包囲戦でフィンランド軍は、ソ連兵士200名の遺棄死体を発見し、加えて140名の捕虜を得た。
Pakoon yrittäneitä upseereita Tenholanmäellä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165416引用。
写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて捕虜となったソ連赤軍第二軍の将兵たち:レミッテ(Lemetti)西の包囲戦でフィンランド軍は、ソ連兵士140名の捕虜を得た。遺棄されていたソ連兵の遺体200名も発見している
Pakoon yrittäneitä upseereita Tenholanmäellä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165384引用。
写真(右)1940年2月頃、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティ(Lemetti)の戦いの後、でフィンランド国防軍のスキー冬季迷彩服の兵士が雪に覆われたソ連軍兵士のいくつもの死体や鹵獲したを検分している。;1939年11月30日-1940年3月13日、ソ連によるフィンランド侵攻「冬戦争」(talvisota)は、ソ連が勝利し、カレリア地峡などソ連領の拡張に成功し、レニングラード沖のフィンランドのハンコ湾の租借権を萌えることができた。しかし、兵員の損失は、フィンランド軍よりソ連軍のほうが遥かに多かった。
Sotasaalista ja kaatuneita Lemetin taisteluiden jälkeen.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-113811引用。
写真(右)1940年2月頃、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティ(Lemetti)でフィンランド国防軍の兵士が雪に覆われたソ連軍兵士のいくつもの死体を検分している。いずれも厳冬の雪原で凍っている。;ソ連赤軍は機械化自動車化部隊を育成していたが、補給末端では馬匹以外にトラックも導入していた。
Kaatuneita Länsi-Lemetissä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-113682引用。
写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて捕虜・囚人となったソ連赤軍第二軍の将兵たち:この包囲戦でソ連軍は140名の捕虜を得たほか、遺棄されたソ連軍兵士の戦死者200名を発見し記録写真に残している。一種の勝利の記念品、プロパガンダ用写真としてであろう。
Vankeja Tenhamonmäellä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165385引用。
写真(右)1940年2月17日、冬戦争の時期、フィンランド、半地下式の塹壕に薪を運び入れようとしている女子補助員ロッタ(Lotta)女史と手助けするフィンランド軍兵士:半地下式陣地は地下に作ったログハウスのような構造で天井は低いが頑丈で発見されにくかった。暖房や調理の燃料には、石炭・石油は不要で、周囲の森林から薪を集めれば事足りた。
Lotta miesten apuna. Lotta kantamassa halkoja telttaan.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-17
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna .sa-kuva-114551引用。
フィンランドは、「森と湖の国」と観光ではアピールされているが、深い森林と厳冬・積もった雪は、自動車や戦闘車輛の機動力を低下させた。そこでは、重砲の運搬も容易ではない。こうした地形・機構を活かして、フィンランド軍は、半地下式陣地を、現地の木材を利用して構築し、防御を固めた。冬の燃料も、石炭・石油といった化石燃料は不必要で、現地も木歳を調達し、薪としてバイオマス燃料を活用した。また、雪の森林の中に、丸太で半地下式の陣地を作っているので、ソ連軍の斥候や上空からの偵察飛行によっても、陣地を発見するのは容易ではなかったであろう。
多少の砲撃を受けても、半地下式陣地は、丸太で構築した頑丈な構造であるために、被弾にも耐久力があった。敵襲がない限り、警備体制以外はのんびりできたようで、その意味で、兵士たちの緊張感を説くことができた。したがって、国境付近の警備ネットワークを作るにはうってつけの防御の堅い陣地だったが、戦力の集中、迅速な機動、強力な火力による攻撃態勢としては、不都合が多かったであろう。冬戦争で善戦したフィンランド軍が、ドイツ軍の支援を得ても思ったほど進撃できなかった、ソ連領土俯角攻め入ることができなかった理由は、フィンランドの政治判断だけではなく、攻撃力の弱さが背景にあった。
写真(右)1940年2月17日、冬戦争の時期、フィンランド、半地下式の塹壕で、女子補助員ロッタ(Lotta)女史がフィンランド軍兵士にコーヒーを注いでいる。:
Lotta jakamassa kahvia Nautsissa, Höyhenjärvellä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-17
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna .sa-kuva-114551引用。
雪の森林の中に、丸太で半地下式の陣地を作っているので、被弾や上空からの発見で損害を被るリスクは小さかった。兵士たちは、外套の上に白色の冬季迷彩ヤッケ、毛皮の帽子、厚手の手袋、厚手の羊毛製靴下、皮のブーツを着用して防寒対策をとっている。2年後の冬、ソ連に侵攻したドイツ軍は、早期勝利を前提として侵攻したために、防寒装備が揃わず、厳寒の中で戦闘力を奪われてしまったのと対照的である。半地下式陣地では敵襲がない限り、警備体制以外はのんびりできたようだ。
写真(右)1940年2月17日、冬戦争の時期、フィンランド、半地下式の塹壕で、女子補助員ロッタ(Lotta)女史がフィンランド軍兵士にコーヒーを注いでいる。:雪の森林の中に、丸太で半地下式の陣地を作っているが、暖房は特に充実していないので、みな厚着をして寒さを凌いでいる。
Lotta jakamassa kahvia Nautsissa, Höyhenjärvellä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-02-17
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna .sa-kuva-114552引用。
ヴィープリ(Viipuri:ヴィボルグ)はフィンランドが治めていたが、1939-1940年の冬戦争の敗北によって、ソ連に割譲を余儀なくされた。しかし、1941年の継続戦争で、フィンランドは8月には、ヴィープリ(ヴィボルグ)を奪還した。しかし、1944年の継続戦争の戦局悪化、降伏後は、ヴィープリは再びソ連領になった。現在は、ロシア連邦カレリア共和国の南西部に位置する。
写真(右)1940年3月9日、冬戦争時のフィンランド南東部、ヴィープリ(Viipuri)のモンレポでフィンランド国防軍の鹵獲したソ連赤軍の1902年式76.2ミリ野砲(76 K 02)。火砲・車輪には偽装用の白色カバーが掛けられている。周辺の樹木にも白色のネットが懸けられていて偽装に注意が払われている。;
Omaa tykistöä Monrepoossa Viipurissa. Kuvassa 76 mm:n venäläinen kanuuna vuodelta 1902 (76 K 02).
Organisaatio
Sotamuseo
1940-03-09
Tuntematon, valokuvaaja
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-107670引用。
ソ連赤軍の1902年式76ミリ師団砲 (76 mm Divisional Gun M1902;76 K 02)は、日露戦争や第一次世界大戦で使用されていた旧式火砲である。しかし、砲弾を射撃した時の反動で火砲が移動しないように、設置した位置を安定させるために、射撃反動を復元する駐退復座機を装備しており、使いやすく量産されていたた。そこで、ロシア帝国軍の装備を引き継いだソ連軍でも引き続き1902年式76.2ミリ野砲(76 K 02)を採用し、1931年には改良型のM1902/30が開発され、生産している。
写真(右)1940年3月9日、冬戦争時のフィンランド南東部、ヴィボルグのモンレポ地形でフィンランド国防軍の冬季白書迷彩服の兵士が鹵獲したソ連赤軍の1902年式76.2ミリ野砲(76 K 02)の装填をしている。車輪には偽装用の白色カバーが掛けられている。;ソ連赤軍1902年式76ミリ師団砲 (76 K 02)と称した。ソ連ではまだ機械化自動車化部隊が存在しない時期なので、火砲を牽引するのも自動車ではなく馬匹に頼っていた。自動車化に対応する必要なないので、軽量の金属車輪を装備しているが、これでは高速で移動しようとすると振動が大きく、砲架を損傷してしまう。
Omaa tykistöä Monrepoossa Viipurissa. Kuvassa 76 mm:n venäläinen kanuuna vuodelta 1902 (76 K 02).
Organisaatio
Sotamuseo
1940-03-09
Tuntematon, valokuvaaja
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-107674引用。
ソ連赤軍の1902年式76ミリ師団砲 (76 mm Divisional Gun M1902;76 K 02)は、1902年にサンクトペテルブルク工廠で、初めて射撃時の砲かの反動を復元する駐退復座機を装備した火砲として開発された。冬戦争の時に旧式化していたが、同時期に配備されていた76ミリ師団砲M1936(F-22)は、より高性能な野砲だった。1938年の満州・ソ連国境の張鼓峰事件で、日本軍に対して実戦使用され、1939年のノモンハン事件にも日本軍に対して投入されている。その後、1939年10月の対フィンランド冬戦争でも使用されている。1941年6月のドイツのソ連侵攻は、ソ連では「大祖国戦争」と呼ばれるが、この時にも第一線に大量配備されていた。しかし、ドイツ軍の奇襲攻撃によって、多数のソ連赤軍76ミリ師団砲M1936(F-22)か鹵獲されてしまった。
写真(上)1940年3月10日、冬戦争時のフィンランド南東部、ヴィボルグのモンレポ地形でフィンランド国防軍の冬季白書迷彩服の兵士が鹵獲したソ連赤軍の1902年式76.2ミリ野砲(76 K 02)の射撃準備をしている。防盾には白色迷彩が描かれ、車輪には偽装用の白色カバーが掛けられている。;ソ連赤軍1902年式76ミリ師団砲 (76 K 02)と称した。ソ連ではまだ機械化自動車化部隊が存在しない時期なので、火砲を牽引するのも自動車ではなく馬匹に頼っていた。自動車化に対応する必要なないので、軽量の金属車輪を装備しているが、これでは高速で移動しようとすると振動が大きく、砲架を損傷してしまう。
Omaa tykistöä asemissa Monrepoon maastossa Viipurissa. Kuvassa 76 mm:n venäläinen kanuuna vuodelta 1902 (76 K 02).
Organisaatio
Sotamuseo
1940-03-10
Tuntematon, valokuvaaja
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-107666引用。
ソ連は、独立していたバルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)に対して、ソ連軍の駐留要求を突きつけ認めさせた。そこで、フィンランドに対しても同様の要求を突き付けたが、拒否された。怒ったソ連指導者ヨシフ・スターリンは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連赤軍にフィンランドを攻撃させた。このソ連による侵略行為に抵抗してフィンランドは、愛国的な冬戦争(talvisota)を闘う決意をした。
写真(右)1940年2月29日、フィンランド、食事を配給されているフィンランド軍の兵士たち:把手のついた金属製の食器を持っている。
sotilaat ruokajonossa
vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 33 x 23 cm
Content Type
Image
Subject date
29.2.1940
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
.
Inventory ID
HK19541228:51
Measurements
5 x 8 cm
Photo info:
30.11.1939 - 13.3.1940
写真は,Museot Finna HK19541228:51用。
写真(右)1940年3月、フィンランド北端、ペッサモ、リイナハマリに船舶からクレーンを使って荷揚げされる野砲、トラックなどの軍事物資:現在は、ロシア連邦のムルマンスク州だが、独立して以来1940年に冬戦争でソ連に敗れるまで、フィンランド北端は北極海に面していた。外国からの軍事物資もここに到着している。
tykkiä nostetaan laivasta laiturille Petsamon Liinahamarin satamassa .
Subject place
Liinahamari, Petsamo
Subject date
maaliskuu 1940
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Inventory ID
HK19830604:25
Measurements
8 x 13 cm
Photo info:
1940
Liinahamari,Petsamo.
写真は,Museot Finna HK19830604:25用。
写真(右)1940年1月1日-3月13日、フィンランド北端、ペッサモ、リイナハマリの港湾と船舶、そこから荷揚げされる軍事物資を防衛するフィンランド軍のボフォース40ミリ対空機関砲:1932年に原型が誕生したボフォース40ミリ対空機関砲は、重量2トン、60口径40x311mmRの大型弾薬の機関砲で、発射速度は120発/分、初速は880 m/秒、最大射程は7,160 m。
sotilaat suuntaavat tykkejä Petsamon Liinahamarissa
vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 33 x 23 cm.
Subject place
Liinahamari, Petsamo
Subject date
1.1.1940 - 13.3.1940.
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti.
Collection
Historian kuvakokoelma.
Inventory ID
HK19830604:42.
Measurements
8 x 13 cm
Photo info:
1940
Liinahamari,Petsamo .
写真は,Museot Finna HK19830604:42用。
2.冬戦争(talvisota)のフィンランド空襲と対空戦闘
第二次世界大戦の勃発から1ヶ月後、1939年10月11日、ソ連の外務人民委員(外相)モロトフは、フィンランドのパーシビキを団長とする交渉団をモスクワに招き、
1)フィンランド湾とフィンランド=ロシアを結ぶラドガ湖に挟まれたカレリア地峡(Karjalankannas)の対ソ連防衛戦の撤去
2)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
3)カレリア地峡根元のレニングラードの安全保障のためにカレリア地(Karjalankannas)と北方の東カレリア領土の交換、すなわちソ連国境の30km前進(2200平方キロ)と東カレリア(5000平方キロ)の交換
という要求を突き付けた。フィンランド軍総司令官マンネルヘイム元帥は、ソ連の要求受入れはやむを得ないとし、フィンランド政府も、カレリア地峡のソ連国境10km前進、フィンランド湾の島々譲渡は認めた。しかし、ハンコ半島の租借は拒否したため、交渉は決裂した。10月には、動員準備で、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急事態を認める共和国防衛法を布告した。
ソビエト連邦は、フィンランドがソ連国防上の要求を拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これがフィンランドの言う「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。
写真(右)1939-1940年、冬戦争、フィンランド南部、ヘルシンキ西方50キロ、ポルヴォー、ソ連機の空爆を受けて破壊された建物:フィンランドはソ連から、領土割譲、軍地基地提供、駐留軍派遣の強硬な要求を受けたが、拒否したため、スターリンの怒りを買った。ソ連軍は1939年11月30日、フィンランドに侵攻、「冬戦争」(talvisota)が勃発したのである。
talvisodan jälkiä Porvoossa
Rácz István, kuvaaja 1939–1940 .
vaaka, mustavalkoinen
Content Type
Image.
Subject place
Porvoo
Subject date
1939 - 1940.
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti.
Collection
Kansatieteen kuvakokoelma
István Ráczin kokoelma
Inventory ID
KK5500:26994
Measurements
17 x 17 cm
Photo info:
1939 - 1940
Porvoo
Rácz István, kuvaaja.
写真は,Museot Finna KK5500:26994用。
第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡(Karelian Isthmus)と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。
第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。
1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、
と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していたのである。しかし、ソ連軍は、1917年のロシア革命までロシア帝国領だった小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。
写真(右)1940年1月13日、冬戦争の末期、フィンランド南、タンペレ(Tampere)の市街地、ソビエト空軍の空襲を受けて炎上した家屋:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Ilmapommituksen tuhoja Tampereella.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 3331用。
第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、いきなりヘルシンキなど都市爆撃を敢行し、レニングラード方面から、フィンランド湾とフィンランドとロシアを結ぶラドガ湖に挟まれたカレリア地峡(Karelian Isthmus)に軍を進めた。この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。
写真(右)1940年1月20日、冬戦争の末期、フィンランド南、タンペレ(Tampere)の市街地、ソビエト空軍の空襲を受けて炎上した家屋:冬戦争で、カレリア地方にソ連軍の侵攻を受けたフィンランド。ソ連軍は、レニングラード方面から進撃し、カレリア地方を武力の一部を武力占領した。
Pommituksen tuhoja Tampereella.
Tampere 1940.01.20
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 4007引用。
1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻を契機に、すでに第二次大戦は始まっていた。ドイツは、ポーランドに対しては、ワルシャワ空襲を含め都市爆撃を遂行したが、フランス・イギリスと対峙した西部戦線では、まだ都市爆撃、民間人への空襲を実施していなかった。これは、フランス・イギリスも同様で、ドイツの諸都市へのプロパガンダ・ビラの当かは行っても、空爆は実施していなかったのである。
ソ連は、独立していたバルト三国(リトアニア、エストニア、ラトビア)に対して、ソ連軍の駐留要求を突きつけ認めさせた。そこで、フィンランドに対しても同様の要求を突き付けたが、拒否された。怒ったソ連指導者ヨシフ・スターリンは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連赤軍にフィンランドを攻撃させた。このソ連による侵略行為に抵抗してフィンランドは、愛国的な冬戦争(talvisota)を闘う決意をした。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド中東部、ソ連空軍機による空爆で破壊されたクフモ(Kuhmon)村;クフモ (フィンランド語: Kuhmo)は、フィンランド、カイヌー県ケヒュス=カイヌー郡に属する。現在、人口は1万人でロシア国境に面している。19世紀から木材を蒸して抽出するタール(木液・乾留液)の生産が盛んだった。冬戦争に際し,ソ連軍の主力攻撃地点となったため、激戦地となった。
Kuhmon kirkonkylä palaa pommituksen jälkeen
Veikko Kanninen, valokuvaaja 1939–1940
Organisation
Museokeskus Vapriikki
Collection
D/748
Inventory ID
748:35
Photo info:
1939-1940
Kuhmo, Suomi
Veikko Kanninen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna Inventory ID 748:35用。
第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができなかった。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、フィンランド中東部、ソ連空軍機による空爆で破壊されたクフモ(Kuhmon)村;クフモ (フィンランド語: Kuhmo)は、フィンランド、カイヌー県ケヒュス=カイヌー郡に属する。現在、人口は1万人でロシア国境に面している。19世紀から木材を蒸して抽出するタール(木液・乾留液)の生産が盛んだった。冬戦争に際し,ソ連軍の主力攻撃地点となったため、激戦地となった。
Kuhmon kirkonkylä palaa pommituksen jälkeen
Veikko Kanninen, valokuvaaja 1939–1940
Organisation
Museokeskus Vapriikki
Collection
D/748
Inventory ID
748:33
Photo info:
1939-1940
Kuhmo, Suomi
Veikko Kanninen, valokuvaaja
写真はMuseot Finna Inventory ID 748:33用。
写真(右) 1940年2月3日、冬戦争の時期、フィンランド南東、カレリア地峡、ソルタバラ(Sortavala)、炎上するソルタバラ・ルーテル教会:ソルタヴァラは、カレリア、ラドガ湖の北端で、フィンランドが継続戦争で敗北後、再びソ連領となった。現在は、ロシア連邦カレリア共和国の南西部に位置する。1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけた。フィンランドはソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功した。
Pommituksen tuhoja Sortavalassa.Sortavalan luterilainen kirkko on tulessa. .
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 4108引用。
第二次世界大戦緒戦にあって、西側で都市爆撃が回避されていた理由は、
1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、
と政治的指導者が考えており、それが軍事的に容易な都市爆撃を回避させていたのであろう。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。
写真(右) 1940年2月5日、冬戦争の時期、フィンランド南東、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri):フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドが冬戦争で敗北後、ソ連領となった。フィンランドは、継続戦争の初期にフィンランドはソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功した。継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、降伏後は、ヴィープリは再びソ連領になった。現在は、ロシア連邦カレリア共和国の南西部に位置する。
Viipuri 1940.02.05.Viipurin Tuomiokirkko pommituksen jälkeen.
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive 4130引用。
フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になったが、ソビエト連邦は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に、レニングラードの安全保障のために、ソ連領としたいとフィンランドに申し出て、その代わりに北部コラ半島のソ連領を与える領土交換を提案した。しかし、フィンランド人居住地であり、産業的にも重要だったカレリア地方のソ連割譲をフィンランドは拒否した。1949年、冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。
写真(右)1939年12月16日、冬戦争の時期、フィンランド、クイツ(Kuitu Oy)合成レーヨン工場の上に据え付けられたマキシム09-09 口径7.62ミリ機関銃を操作するフィンランド軍兵士:クイツ(Kuitu Oy)は、1938年に設立された合成レーヨン繊維の製造工場で、人工シルク、フィルム、人工ウールを生産。。この工場で使用する電気は、1937年に完成したロウヒアラ(Rouhiala)発電所から送電された。つまり、元のキャプションでは、大砲のように記述されているが誤りと。
Kuitu Oy:llä konstruoitu IT-tykki. Kyseessä ilmatorjunnassa käytetty Maxim 09-09 kal 7.62 konekivääri, eli ei alkuperäisen kuvatekstin mainitsemaa IT-tykkiä.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisation
Military Museum
Photo info:
1939-12-16.
写真は,Museot Finna sa-kuva-164885用。
フィンランド軍のマキシム09-09 口径7.62ミリ機関銃は、原型はロシア軍のマキシム1905年式重機関銃(7,62 mm Maxim m/1905 )あるい1910年式7.62ミリ重機関銃(7,62 mm Maxim m/1910)である。このロシア軍の優秀な重機関銃をフィンランド軍は、M/09-09 7.62ミリ機関銃の形式で呼称し、生産したのである。
写真(右)1940年1月10日、冬戦争の時期、フィンランド、冬季迷彩服を着たフィンランド軍兵士が、回収したマキシム09-09 口径7.62ミリ重機関銃を木製運搬橇に乗せて移動準備している。:このマキシム重機関銃は、飛行機から手前のビニール製投下容器に入れられて投下されたもの。この投下容器は、写真の左側のボール状の部分にクッションが入っていて、雪の上になら空中投下しても、内容物は破損しない構造になっていたようだ。マキシム重機関銃は、フィンランド軍がソ連軍から奪った鹵獲兵器。
Valkialampi, ryssäläinen kk. ja lentokoneesta heitetty muonapussi (ahkio, jossa kk. On tuotu, on suomalainen). Konekivääri M/09-09 (Maxim).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-01-10.
写真は,Museot Finna sa-kuva-165296用。
マキシム1905年型7.62ミリ重機関銃(Maxim m/1905)は、口径7,62 mm x 54 R、全長111 cm、銃身長72 cm、重量(銃単体で車輪・銃座等なし)28,25 kg 、発射速度500 - 600発/分、ベルト給弾方式(250 発)だった。大型車輪・坊楯など装備一式の総重量は 36 kg-45 kg、一般的には43.5 kgにもなった。しかし、信頼性が高く、銃身冷却メカニズムが有効に左右したために、長時間の連続発射にも耐えられた。
写真(右)1940年2月1日、1939年11月に始まった冬戦争の末期、フィンランド軍がソ連軍から鹵獲したマキシムM1931四連装対空機関銃:ソ連軍のマキシムM1910水冷機関銃を員連装とした対空機関銃で、ソ連軍の装備である。フィンランド軍は、ソ連軍のマキシム(Maxim)M1910機関銃を改装して、1932年にマキシム(Maxim)M/32あるいはM/33機関銃を開発した。毎分850発の発射速度で、ソ連軍のマキシムM1910機関銃の発射速度(毎分600発)よりも速かった。これは、新型の金属製給弾ベルト、マズルブレーキの採用によって可能になった。
It.KK. Lemetti.Rykmentin motti. Kuvassa nelipiippuinen ilmatorjuntakonekivääri m/31 (neljä Maxim-konekivääriä), ??urkupyssy??.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-01
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。
写真(右)1939年12月18日、冬戦争の時期、フィンランド、城塞の上に据え付けられた7.62ミリ ItKk / 31 VKT連装対空機関銃を操作するフィンランド軍兵士たち:7,62 ITKK 31 VKT(7,62 mm VKT)対空機関銃は、フィンランド陸軍の制式兵器で、フィンランド人のアイモ・ラティ(Aimo Lahti)の設計になる。原型は 7,62 ItKk/31 VKTで、その改良型が7,62 ItKk/31-40 VKTで、1933年から1944年に生産された。
IT-tykki lossin luona.
Vuosalmi. 1939.12.18
IT-tykki lossin luona. Kuvassa on kaksoisilmatorjunta-konekivääri 7.62 ItKk/31 VKT.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo .
写真は,Museot Finna sa-kuva-164911用。
フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。
写真(右)1939−1940年、フィンランド、7.62ミリ ItKk / 31 VKT連装対空機関銃陣地を視察するフィンランドのキョスティ・カリオ大統領 ;ソ連に仕掛けられた冬戦争で敗れ、レニングラードに通じるカレリア地峡の割譲を余儀なくされたフィンランドは、敗戦後、国防力の強化に力を入れた。そして、ドイツのソ連侵攻直後の1941年6月25日、ソ連に対して宣戦布告し、領土奪還のために進軍を開始した。
Presidentti Kyösti Kallio tarkistaa ilmatorjuntakonekiväärejä
Subject date
1939 - 1940
Subject actor
Kallio Kyösti
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Inventory ID
HK19870106:368
Measurements
40 x 30 cm
Photo info:
1939 - 1940
Bonney Thérèse, kuvaaja
写真はMuseot Finna・HK19870106:368引用。
キュオスティ・カッリオ(Kyösti Kallio:1873年4月10日生れ)は、フィンランド独立以来、指導的な政治家で、首相として1922年11月14日から1924年1月18日、1925年12月31日から1926年12月13日、1929年8月16日から1930年7月4日、1936年10月7日から1937年2月17日の4期を務めた。そして、ペール・エヴィン・スヴィンフヴュー(Pehr Evind Svinhufvud)大統領の後を継いで、第4代フィンランド共和国大統領として1937年3月1日から1940年12月19日までを務めた。そして、在任期間中、冬戦争の敗北半年後、1940年12月19日に死去した。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13日、冬戦争の時期、ソ連空軍機による空爆に備えてフィンランドの首都ヘルシンキ、港湾近くサルミサアリのアルコ社屋根に備えられた7.62ミリ ItKk / 31 VKT連装対空機関銃
:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
ilmatorjuntakonekivääri Alkon katolla Salmisaaressa talvisodan aikana
Hirsjärvi Auvo, kuvaaja 1939–1940
Aiheen paikka
Helsinki, Salmisaari
Aiheen aika
1939 - 1940
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK19751014:150
Kuvaustiedot:
1939 - 1940
Helsinki,Salmisaari
Hirsjärvi Auvo, kuvaaja.
写真は,Museot Finna HK19751014:150用。
写真(右)1940年2月24日、冬戦争の末期、フィンランドの首都ヘルシンキ、港湾近くサルミサアリのアルコ社屋根、ソ連空軍機に備えるドイツ製1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)を操作するフィンランド国防軍兵士たち:ドイツの対空機関砲2 cm Flak 30は、フィンランドでは20 ItK/30 BSWと呼称した。ドイツ製1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)は、ラインメタル社で生産期間1934–1939年、総重量890 kg 全長 225 cm、銃身長 130 mm (L/65口径)、弾薬Patruuna 20 mm x 138 B、発射速度 120 発/分から280 発/分、初速 830–900 m/秒、有効射程 1200 m。後に、モーゼル社が改良して1938年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 38)を開発した。
It.tykki Alkon varaston katolla. Tykkinä saksalainen 20 mm:n ilmatorjuntatykki vuodelta 1930 (20 ItK 30 BSW).
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-24
.
写真は,Museot Finna sa-kuva-115255用。
写真(右)1940年2月24日、冬戦争の末期、フィンランドの首都ヘルシンキ、港湾近くサルミサアリのアルコ社屋根、ドイツ製1930年式2センチFlak 30対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)の照準器を覗いて仰角を調整するフィンランド国防軍兵士:銃座の回転と銃身の上げ下げをするのに各々1名の操作手が必要で、この他、弾倉を運搬・装填するにも1名から2名の弾込め手が必要。機銃を指揮する指揮者1名を含め、4-5名で1基を操作することになる。
It.tykki Alkon varaston katolla. Tykkinä saksalainen 20 mm:n ilmatorjuntatykki vuodelta 1930 (20 ItK 30 BSW).
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-02-24
.
写真は,Museot Finna sa-kuva-115248用。
ドイツ軍の1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、フィンランド軍も20 ItK/30 BSWと命名して採用した。1930年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 30 :20 ItK 30 BSW)は、ラインメタル社が開発したもので、生産期間1934–1939年と大戦前には改良したモーゼル社の1938年式2センチ対空機関砲(2 cm Flak 38)に更新されている。1930年式2センチ単装対空機関砲(2 cm Flak 30)は、総重量890 kg 全長 225 cm、銃身長 130 mm (L/65口径)、弾薬Patruuna 20 mm x 138 B、発射速度 120 発/分から280 発/分、初速 830–900 m/秒、有効射程 1200 m。
写真(右)1939年11月30-1940年3月13
日、冬戦争の時期、フィンランド、ヘルシンキ北30キロ、ラヤマキ(Rajamäki:ラジャマキ)、据え付けられたスウェーデンのボフォース40ミリ対空機関砲を操作するフィンランド軍兵士たち:操作するには、砲の旋回、銃身の上下(仰角・俯角)、弾薬の装填、照準指揮官の最低4名は必要である。同じボフォース40ミリ対空砲は、イギリス、アメリカでも広く使用された。日本も戦争末期にライセンス生産に踏み切ったが、実用化できないままに終わった。
Tuntematon, valokuvaaja 1939–1940
Nurmijärvi, Rajamäen IT-patteri talvisodan aikana, 1939-1940. Kuvassa vas. lukien Aulis Lumme, Nisula ja Kalle Sairanen.
Content Type
Image
Organisation
Nurmijärvi museum
Collection
Nurmijärven museon kuva-arkisto
Inventory ID
nm_vk_3790
.
写真は,Museot Finna nm_vk_3790 用。
写真(右) 1939年11月ー1940年3月、冬戦争の時期、フィンランド、冬戦争中のフィンランド軍に参加したスウェーデンの義勇兵が対空高射砲を操作する。:この高射砲は、ソ連軍からフィンランド軍が鹵獲した85ミリ高射砲のようだ。スウェーデンもノルウェーも、冬戦争で苦しんでいるフィンランドにたいして、中立を口実にして軍事援助しなかった。これは、大国ソ連との戦いを回避して国内を戦争に巻き込まないための平和政策だったが、民主主義国フィンランドを助けるために、スウェーデンから義勇兵が戦いに参加した。冬戦争で、孤立無援となり敗北したフィンランドは、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、ドイツの同盟国としてソ連に侵攻した。そして、フィンランドはソ連に奪われたカレリア地方を奪回した。
ruotsalaisia vapaaehtoisia ilmatorjuntatehtävissä talvisodan aikana
vaaka, mustavalkoinen, kiinnitetty kartongille, jonka koko 34 x 24 c
Content Type
Image
Subject date
30.11.1939 - 13.3.1940
Organisation
National Board of Antiquities - Musketti
Collection
Historian kuvakokoelma
Inventory ID
HK19680902:63
Measurements
10 x 17 cm
Photo info:
30.11.1939 - 13.3.1940
写真は, Museot Finna HK19680902:63引用。
スウェーデンもノルウェーも、冬戦争で苦しんでいるフィンランドに対して、中立を口実にして軍事援助しなかった。これは、大国ソ連との戦いを回避して国内を戦争に巻き込まないための平和政策だったが、民主主義国フィンランドを助けるために、スウェーデンから義勇兵が戦いに参加した。冬戦争で、孤立無援となり敗北したフィンランドは、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、ドイツの同盟国としてソ連に侵攻した。そして、フィンランドはソ連に奪われたカレリア地方を奪回した。
第二次世界大戦緒戦にあって、西側で都市爆撃が回避されていた理由は、
1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、
と政治的指導者が考えており、それが軍事的に容易な都市爆撃を回避させていたのであろう。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自信があったのであろうか。
写真(右)1939年12月1日、フィンランド南西部、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、ロイモラ、気象観測・対空監視に従事する4人の民間防衛隊:冬季迷彩用の白色のガウンを着て、敵から見つからないように偽装している。一人は観測機を操作し、一人はノートに記録をとっている。残りは、指導員と訓練生のようだ。ロイモラは、現在、ロシア連邦領のカレリア共和国にある。
Säähavaintoja Loimolassa joulukuussa 1939.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-01
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-105030用。
写真(右)1939年12月、フィンランド南西部、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、ロイモラ、気象観測・対空監視に従事する民間防衛隊:冬季迷彩用の白色のガウンを着て、敵から見つからないように偽装している。一人は観測機を操作し、一人はノートに記録をとっている。二地点間で雲高を測定しているのであろうか。
Säähavaintoja Loimolassa joulukuussa 1939.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-01
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-105059用。
フィンランド南西部、カレリア地方、ロイモラは、ペトログラード北180キロ、フィンランド独立時は、フィンランド領で、 1920年代に林道が建設され、林業が発展した。それに伴い、製材所の操業が始まり、そこで働く人々が集まって人口も増えた。ロイモラ・ルター教会(Loimola Lutheran)教会も1932年に竣工している。しかし、フィンランドは1940年に冬戦争に敗れ、ロモイラ(Loimola)をソビエト連邦に譲渡した。しかし、1941年に始めた継続戦争で、再びロモイラを奪還、回収したが、1944年に継続戦争に敗れた、それを手渡すこととなった。ロモイラの建造物の大部分は戦争で破壊された。
写真(右)1939-1940年、フィンランド南西部、ポリ、視界の広いビル屋上に土嚢で対空監視哨を作り、対空監視に従事する民間防衛隊:冬季迷彩用の白色のヘルメット、白色のガウンに一人は電話通信機を操作し、もう一人は大型の双眼鏡を手にしている。
Porin väestönsuojelu talvisodan aikana; Poikien ammattikoulu
Karlsson Kurt K., kuvaaja 1939–1940
VSS-keskuksen tähystäjät Hällsten ja Malve. Porin väestönsuojelukeskus jonka toimipaikkana oli Porin ammattikoulu, kuvia Porin väestönsuojelukeskuksen toiminnasta 1939-1940. väestönsuojelu Porin pommitukset talvisota ilmasota ilmasodankäynti sota kotirintama VSS-keskus ilmatähystäjä vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva
.
Subject detail
Poikien ammattikoulu
Subject place
Pori
Subject date
1939 - 1940, talvisota
Organisation
Satakunta Museum
Collection
Kuvakokoelma
Valokuva-albumit
Inventory ID
ALB100:80
Measurements
112 x 84 mm
Photo info:
1939 - 1940, talvisota
Pori
Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna ALB100:80用。
写真(右)1939-1940年、フィンランド南西部、ポリ、見晴らしのいいビル屋上に土嚢で対空監視哨を作り、対空監視に従事する民間防衛隊:冬季迷彩用の白色のヘルメット、白色のガウンに一人は電話通信機を操作し、もう一人は大型の双眼鏡を手にしている。
Porin väestönsuojelu talvisodan aikana; Poikien ammattikoulu
Karlsson Kurt K., kuvaaja 1939–1940
VSS-keskuksen tähystäjät Eiriö ja Sumelius. PPorin väestönsuojelukeskus jonka toimipaikkana oli Porin ammattikoulu, kuvia Porin väestönsuojelukeskuksen toiminnasta 1939-1940. väestönsuojelu Porin pommitukset talvisota ilmasota ilmasodankäynti sota kotirintama VSS-keskus ilmatähystäjä vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva.
Subject detail
Poikien ammattikoulu
Subject place
Pori
Subject date
1939 - 1940, talvisota
Organisation
Satakunta Museum
Collection
Kuvakokoelma
Valokuva-albumit
Inventory ID
ALB100:78
Measurements
112 x 84 mm
Photo info:
1939 - 1940, talvisota
Pori
Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:78用。
写真(右)1940年2月2日、フィンランド南西部、ポリ、ソ連空軍機による爆撃で完全に破壊された家屋:1940年2月2日、市内に対して、破壊的な爆弾攻撃が行われ、午前中に合計21人が死亡した。
Porin pommitukset talvisodan aikana; Varvinkatu 27
Karlsson Kurt K., kuvaaja 1940
Kortteli Varvinkatu 27 - Troilinkatu 23 (nyk. Itätullinkatu ) täydessä liekissä 2.2.1940. Tuhoisin kaupungin keskustaan kohdistunut pommitus tapahtui 2. helmikuuta 1940. Aamupäivän aikana sai surmansa yhteensä 21 ihmistä. Pori pommitukset talvisota sotatalvi ilmasota ilmasodankäynti pommit pommituhot tuhot vahingot sotavahingot sota pommiräjähdykset tulipalot palava talo vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva
.
Subject place
Itsenäisyydenkatu 55, Malminpää, Pori
Subject date
2.2.1940, 1940, talvisota
Organisation
Satakunta Museum
Collection
Kuvakokoelma
Valokuva-albumit
Inventory ID
ALB100:36
Measurements
113 x 83 mm
Photo info:
2.2.1940, 1940, talvisota
Pori
Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:36用。
写真(右)1940年2月2日、フィンランド南西部、ポリ、ソ連空軍機による爆撃で完全に破壊された家屋:1940年2月2日、ボリ市内に対して、ソ連空軍機による破壊的な爆弾攻撃が行われ、午前中に合計21人が死亡した。
Itsenäisyydenkatu 55 jossa rakennus tuhoutui täysin venäläisten pommituksessa ja tulipalossa 2.2.1940. Tuhoisin kaupungin keskustaan kohdistunut pommitus tapahtui 2. helmikuuta 1940. Aamupäivän aikana sai surmansa yhteensä 21 ihmistä. Pori pommitukset talvisota sotatalvi ilmasota ilmasodankäynti pommit pommituhot tuhot vahingot sotavahingot sota pommiräjähdykset tulipalot palava talo vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva.
Subject place
Itsenäisyydenkatu 55, Malminpää, Pori
Subject date
2.2.1940, 1940, talvisota
Organisation
Satakunta Museum
Collection
Kuvakokoelma
Valokuva-albumit
Inventory ID
ALB100:31
Measurements
57 x 43 mm
Photo info:
2.2.1940, 1940, talvisota
Pori
Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:31用。
写真(右)1939年11月15日、フィンランド、空襲被害から避けるためか避難訓練で避難所に寝泊まりするフィンランドの民間防衛隊;壁には防衛隊員用の小銃が吊るされている。冬戦争開戦当初にソ連機から空襲を受けたフィンランドでは住民の防空壕・疎開地への避難訓練が実施された。
Tyk. K/JR 11 Kuolemanjärvellä suojeluskunnan harjoitustalolla
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-11-15
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。
写真(右)1939年11月15日、フィンランド、空襲被害から避けるためか避難訓練で避難所に寝泊まりするフィンランドの民間防衛隊;壁には防衛隊員用の小銃が吊るされている。冬戦争開戦当初にソ連機から空襲を受けたフィンランドでは住民の防空壕・疎開地への避難訓練が実施された。
Tyk. K/JR 11, Kuolemajärvellä suojeluskunnan harjoitustalossa
Kuolemajärvi 1939.11.15
Tyk. K/JR 11, Kuolemajärvellä suojeluskunnan harjoitustalossa
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-11-15
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。
写真(右)1939年12月1月、フィンランド、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、パリッカラ(Parikkalan)郊外、パリッカラ捕虜収容所に向かって行進するソ連軍捕虜;冬戦争開戦当初にソ連軍の捕虜を得たフィンランドでは、捕虜を厚遇するプロパガンダを行って、投降を勧告するためのマイクによる最前線での放送も行った。ロシア人、ソ連軍兵士は、祖国防衛のためなら、家族・友人を守るためなら頑強に抗戦した。「大祖国戦争」のためなら、兵士の士気も上がった。しかし、隣国フィンランドに対する侵攻には、その正当な理由が見いだせず、士気は低かったようだ。赤軍レニングラードが、青軍フィンランドに近すぎるとはいっても、小国フィンランドのレニングラード攻撃など恐れるロシア人はほとんどいなかったはずだ。
Organisation
Military Museum
Photo info:
1939-12-01
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-104865引用。
写真(右)1939年12月1月、フィンランド、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、パリッカラ(Parikkalan)郊外、パリッカラ捕虜収容所に向かって行進するソ連軍捕虜;
Organisation
Military Museum
Photo info:
1939-12-01
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-104842引用。
冬戦争開戦当初にソ連軍の捕虜を得たフィンランドでは、捕虜を厚遇するプロパガンダを行って、投降を勧告するためのマイクによる最前線での放送も行った。ロシア人、ソ連軍兵士は、祖国防衛のためなら徹底抗戦し、士気も高かったが、フィンランド侵攻の時には、フィンランド人の土地に攻め入ることの意義を理解できないままで、ソ連が仕掛けた戦争を推進することに士気は低かったようだ。
冬戦争の緒戦、森林や雪原で、フィンランド軍の奇襲や巧妙な襲撃を受けて、優勢なソ連軍は苦戦したことも多かったが、それはソ連軍が冬戦争で出した捕虜の多さからも推測することができる。劣勢だったフィンランド軍が、大兵力を有したソ連軍相手に短期間とはいえ善戦できた理由としては、
1)フィンランド軍が地形・天候を活かした巧妙な攻撃・防御を行ったこと
2)ソ連赤軍兵士がフィンランド侵攻に消極的で士気が低かったこと
3)ソ連赤軍の指揮系統に共産党の派遣した政治委員(政治将校)が組み込まれ、党イデオロギー・ノルマ重視の作戦指導の悪影響で柔軟な戦術展開が妨げられたこと
が指摘できるであろう。
写真(右)1939年12月12日、フィンランド、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、パリッカラ(Parikkalan)、パリッカラ捕虜収容所のソ連軍捕虜;冬戦争開戦当初にソ連軍の捕虜を得たフィンランドでは、捕虜を厚遇するプロパガンダを行って、投降を勧告するためのマイクによる最前線での放送も行った。ロシア人、ソ連軍兵士は、祖国防衛のためなら徹底抗戦し、士気も高かったが、フィンランド侵攻の時には士気は低かったようだ。
Parikkalan vankileirillä. Ryssä. Joulukuu 1939.
Kuvaustiedot:
1940-12-11
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-104856引用。
写真(右)1939年12月12月、フィンランド、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、パリッカラ(Parikkalan)、パリッカラ捕虜収容所のソ連軍捕虜;後方に、木造平屋の小屋が見えるが、それが捕虜の寝泊りするバラックのようだ。右側には、薪の束が積み重ねられているが、これは暖房・調理用の薪で捕虜にも暖房の待遇が与えられていることがわかる。服装も、兵士が来ていた外套の着用を許しており、ドイツのユダヤ人強制収容所のように古い囚人服1枚をあてがわれる、毛布も暖房もない劣悪な待遇とは異なっている。
Venäläisia sotavankeja Parikkalan vankileirillä.
Kuvaustiedot:
1939-12-12
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-104890引用。
写真(右)1939年12月12月、フィンランド、フィンランド軍の作った捕虜収容所のソ連軍ロシア人(?)捕虜が集めた薪用木材を使いやすいように小さく割っている。;1929年「俘虜の待遇に関する条約」、いわゆるジュネーブ条約によっても、捕虜には、将校を除いて、労務作業に充てることが許されていた。第二次大戦中から、ソ連軍につかまったドイツや日本の捕虜は、第二次大戦終了後もシベリアに抑留され、長期間にわたってラーゲリ(収容所)に拘束され、囚人労働として木材も切り出しや建設作業など過酷なノルマを課建設作業に従事させられている。
venäläisiä sotavankeja suomalaisella vankileirillä hakkaamassa halkoja
Aiheen aika
30.11.1939 - 13.3.1940
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Inventaarionro
HK19700410:119
Mitat
11 x 16 cm
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・HK19700410:119引用。
写真(右)1939年12月、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、パリッカラ(Parikkalan)、パリッカラ捕虜収容所、囚人となったソ連軍捕虜に食料を配給するフィンランド女性ロッタ;冬戦争開戦当初にソ連軍の捕虜を得たフィンランドでは、捕虜を厚遇するプロパガンダを行って、投降を勧告するためのマイクによる最前線での放送も行った。ロシア人、ソ連軍兵士は、祖国防衛のためなら徹底抗戦し、士気も高かったが、フィンランド侵攻の時には士気は低かったようだ。
Lotta jakaa ruokaa Parikkalan vankileirillä joulukuussa 1939. Kalvo irtoamassa
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-104941引用。
第一次大戦終了後10年たった1929年「俘虜の待遇に関する条約」がジュネーヴで締結された。ここでは、
第一編 総則は、【第一条】俘虜の語義
【第二条】敵国の権内に属す/保護/報復手段の禁止
【第三条】人格及名誉の尊重/権利能力の保持
【第四条】給与義務/待遇の差別、第二編 捕獲は、【第五条】氏名、階級及番号に関する訊問応答/情報獲得を強要せらるることなし/身分を示すこと能はざる場合
【第六条】保有し得べき衣類及物品/金銭の取扱/身分証明書等の保有、第三編 拘束は、第一款 俘虜の後送
【第七条】危険区域より後送/危険区域に留置し得る場合/無益に危険に曝すことを得ず/徒歩に依る後送
【第八条】捕獲及宛名に関する相互通告/家族との通信/海洋捕獲の場合
第二款 俘虜収容所
【第九条】留置、幽閉又は禁足/不健康地及有害地よりの移送/異人種及異国籍人の分離収容/危険地域の回避
第一章 俘虜収容所の設備
【第十条】宿泊所/寝室
第二章 俘虜の食糧及被服
【第十一条】食料
【第十二条】被服/酒保
第三章 俘虜収容所の衛生
【第十三条】衛生的措置
【第十四条】医療
【第十五条】健康診断
第四章 俘虜の智的及道徳的要望
【第十六条】礼拝
【第十七条】智的及体育的娯楽
第五章 俘虜收容所内の規律
【第十八条】収容所の監督/礼式
【第十九条】徽章及勲章
【第二十条】用語
第六章 将校及之に準ずる者に関する特別規定
【第二十一条】称号及階級の相互通知/将校の待遇
【第二十二条】将校収容所に於ける従卒/将校の食糧及被服
第七章 俘虜の金錢収入
【第二十三条】将校の俸給
【第二十四条】所持金の最高限額及預金
第八章 俘虜の移送
【第二十五条】傷病者の移送
【第二十六条】移送に関する措置
が定められている。
写真(右)1940年1月6月、フィンランド、カルビア(Karvia)、捕虜収容所でフィンランド看護婦から治療を受けるソ連軍捕虜;
Sairaita vankeja sidotaan Karvian sotavankileirillä.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-01-06
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-105524引用。
第一次大戦終了後10年たった1929年「俘虜の待遇に関する条約」がジュネーヴで締結された。ここでは、
第三款 俘虜の労働
第一章 総則
【第二十七条】兵卒/将校/労働災害に対する措置
第二章 労働の組織
【第二十八条】労銀等の支払の責任
【第二十九条】不適当なる労働に使役するを得ず
【第三十条】労働時間及休養
第三章 禁止労働
【第三十一条】作戦行動に関係ある労働
【第三十二条】不健康又は危険なる労働/懲罰手段としての労働
第四章 労働分遣所
【第三十三条】労働分遣所の制度及所属
第五章 労銀
【第三十四条】労銀を要せざる労働協定労銀/労銀決定の原則/預金の処分
が定められている。この国際条約は1911年の「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ陸戦規定)をより充実するために設けられた人権保護条約で日本は署名したものの、軍部と枢密院がハーグ陸戦規に反対したために、批准していない。
写真(右)1940年1月6月、フィンランド、カルビア(Karvia)、完成したばかりの新しい木製捕虜収容所(バラック)で食事を摂るソ連軍捕虜;後方に立っている2人の兵士は、フィンランド軍の兵士で、監視に当たっている。金属製ボールにスープのような食事が入っている。捕虜は、パンを食べている。
Sairaita vankeja sidotaan Karvian sotavankileirillä..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-01-06
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-105497引用。
写真(右)1940年1月6月、フィンランド、カルビア(Karvia)、完成したばかりの新しい木製捕虜収容所(バラック)食事を摂るソ連軍捕虜;左側に立っている2人のフィンランド軍の兵士は、起立したソ連軍ロシア人捕虜と話をしている。捕虜は、金属製の水筒を手にしている。金属製ボールにスープのような食事が入っている。それを大きな柄杓で掬って分配する。皿も金属製のようだ。
Sairaita vankeja sidotaan Karvian sotavankileirillä..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-01-06
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-105516引用。
第一次大戦終了後10年たった1929年「俘虜の待遇に関する条約」では、
第四款 俘虜と外部との連絡
【第三十五条】外部との連絡に関する措置の公表
【第三十六条】信書及郵便葉書に依る通信
【第三十七条】小包郵便物の接受
【第三十八条】郵便料金の免除/贈与品及救恤品に対する税金及運賃の免除/電信の発送
【第三十九条】書籍の接受/図書室用著作物の接受
【第四十条】通信の検閲及小包郵便物の監督/通信の禁止は一時的たるべし
【第四十一条】文書の送達/公証事務
が定められている。
写真(右)1940年1月6月、フィンランド、カルビア(Karvia)、捕虜収容所に送られるソ連軍兵士兵士ソ連軍捕虜;胸部に包帯を巻いてもらっている。右の捕虜は、左足に包帯を巻いているので、共に負傷兵であろう。
Karvian sotavankileiriltä
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-01-06
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-105408引用。
第一次大戦終了後10年たった1929年「俘虜の待遇に関する条約」がジュネーヴで締結された。ここでは、
第五款 俘慮と官憲との関係
第一章 拘束制度に関する俘虜の苦情申出
【第四十二条】拘束制度に関する苦情
第二章 俘虜の代表者
【第四十三条】信任者の指定
【第四十四条】信任者の待遇
第三章 俘慮に対する処罰
一 総則
【第四十五条】法規命令服従の義務
【第四十六条】罰に関する内国軍人待遇/懲罰に関する内国軍人待遇/体刑、暗室及残酷なる罰の禁止/連座罰の禁止
【第四十七条】規律違反に対する措置/裁判手続/予防的留置期間の刑期への算入
【第四十八条】処罰後の待遇
【第四十九条】官等剥奪の禁止/懲罰に付せられたる将校の特権保持
【第五十条】逃走に対する懲罰
【第五十一条】逃走の再企は利の加重情状となることなし/逃走幇助は懲罰せらる
【第五十二条】処罰の量定
【第五十三条】懲罰に付せられたる者の送還
二 懲罰
【第五十四条】最重き懲罰
【第五十五条】罰の加重
【第五十六条】懲罰を受くる場所
【第五十七条】読書及手紙の発受
【第五十八条】患者の診察及手当
【第五十九条】懲罰の言渡
三 訴追
【第六十条】裁判手続関係
【第六十一条】弁護
【第六十二条】弁護人の帯同
【第六十三条】判決
【第六十四条】上訴権
【第六十五条】判決の通知
【第六十六条】死刑言渡及言渡後の通知
【第六十七条】拘束に関する申請及苦情陳述の権利
第四編 拘束の終了
第一款 直接送還及中立国に於ける收容
【第六十八条】重病者及重傷者の送還
【第六十九条】混成医員会
【第七十条】右医委員会の診察を受くべき俘虜
【第七十一条】労働災害の罹災者
【第七十二条】長期拘束者の送還又は収容
【第七十三条】送還、移送の費用
【第七十四条】送還せられたる者の兵役
第二款 戦争終了の際に於ける解放及送還
【第七十五条】送還規定の設置
が定められている。この国際条約は1911年の「陸戦の法規慣例に関する条約」(ハーグ陸戦規定)をより充実するために設けられた人権保護条約で日本は署名したものの、軍部と枢密院がハーグ陸戦規に反対したために、批准していない。
写真(右)1940年1月6月、フィンランド、カルビア(Karvia)、捕虜収容所に送られるソ連軍兵士兵士ソ連軍捕虜;武装解除される前なので、銃口を下にして背中かけて小銃を運搬するように指示された様だ。
Karvian sotavankileiriltä;.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-01-06
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-1054410引用。
平成十七年内閣府令第十号「捕虜収容所処遇規則」および平成十六年法律第百十七号「武力攻撃事態における捕虜等の取扱いに関する法律」は、次の章から成る。
第二章
収容の開始
第三章
保健衛生及び医療
第四章
制止等の措置
第五章
被収容者の処遇
第六章
捕虜の業務
第七章
捕虜等抑留給付金
第八章
面会
第九章
信書及び電信等の発受
第十章
苦情
第十一章
捕虜収容所における領置
第十二章
捕虜等情報の取扱い
第十三章
死亡時の措置
3.冬戦争(talvisota)で撃墜されたソ連空軍機
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、空襲に来て反撃され、フィンランドのイマトラに強制着陸したソ連空軍ツポレフSB-2双発爆撃機:胴体側面には、ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」が見える。フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Neuvostoliittolainen pommikone SB-2 (keltainen 9), joka teki pakkolaskun alasammuttuna Imatran Mansikkakoskelle 1.12.1939
Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-163540用。
フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100爆撃機を検分して記念撮影したフィンランド軍兵士:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」を墜として満喫している様だ。
Joulukuun alussa alasammuttu neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-01.
写真は,Museot Finna sa-kuva-111122用。
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100爆撃機を検分するフィンランド軍将兵たち:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」の周りに集まって撃墜したことを満喫している様だ。この機体は、鹵獲され、修理された後、フィンランド空軍で再使用された。
Joulukuun alussa alasammuttu neuvo-stoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-01.
写真は,Museot Finna sa-kuva-163454用。
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍のツポレフSB-2双発爆撃機を検分するフィンランド軍兵士:3翅プロペラは金属製なので、不時着時に曲がってしまった。この機体は、鹵獲され、修理された後、フィンランド空軍で再使用された。
Ryssäläinen lentokone
Tuntematon, valokuvaaja
Ryssäläinen lentokone Imatran Mansikkakoskelle 1.12.1939 alasammuttuna pakkolaskun tehnyt SB-2 pommikone.
写真は,Museot Finna sa-kuva-111055用。
フィンランド・ソ連国境、カレリア地方は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になったが、ソビエト連邦は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に、レニングラードの安全保障のために、ソ連領としたいとフィンランドに申し出て、その代わりに北部コラ半島のソ連領を与える領土交換を提案した。しかし、フィンランド人居住地であり、産業的にも重要だったカレリア地方のソ連割譲をフィンランドは拒否した。1949年、冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍のツポレフSB-2双発爆撃機を検分するフィンランド軍兵士:左端には、撮影機材を固定るす三脚がある。3翅プロペラは金属製なので、不時着時に曲がってしまった。この機体は、鹵獲され、修理された後、フィンランド空軍で再使用された。
Ryssäläinen lentokone
Tuntematon, valokuvaaja
Ryssäläinen lentokone Imatran Mansikkakoskelle 1.12.1939 alasammuttuna pakkolaskun tehnyt SB-2 pommikone.
写真は,Museot Finna sa-kuva-111056用。
フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡は、フィンランドがロシア帝国から独立した際には、フィンランド領になったが、ソビエト連邦は、1939年の第二次世界大戦勃発直後に、レニングラードの安全保障のために、ソ連領としたいとフィンランドに申し出て、その代わりに北部コラ半島のソ連領を与える領土交換を提案した。しかし、フィンランド人居住地であり、産業的にも重要だったカレリア地方のソ連割譲をフィンランドは拒否した。1949年、冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、避難所訓練所の死んだ湖で:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」を墜として満喫している様だ。この機体は、鹵獲され、修理された後、フィンランド空軍で再使用された。
Joulukuun alussa alasammuttu neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-01.
写真は,Museot Finna sa-kuva-163454用。
写真(右)1939年12月1日、雪の降る夜、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-103爆撃機:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」を墜として満喫している様だ。
Lentokone Koljolassa (Ryssän kone) joulukuussa 1939. Alasammuttu Tupolev SB-2M-103 (SB-2) pommittaja. Koneen vieressä (oik.) radioselostaja Pekka Tiilikainen.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1939-12-01
写真は,Museot Finna sa-kuva-111137用。
写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍のツポレフSB-2M-103双発爆撃機を検分・回収しようとするフィンランド軍兵士:ソ連空軍の国籍マークは、赤い星である。フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Lentokone Koljolassa (Ryssän kone) joulukuussa 1939. Alasammuttu Tupolev SB-2M-103 (SB-2) pommittaja. Koneen vieressä (oik.) radioselostaja Pekka Tiilikainen.
Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
1939-12-01
写真は,Museot Finna sa-kuva-111146用。
1939年9月1日、第二次大戦は始まっていたが、ドイツがフランス・イギリスと対峙した西部戦線では、まだ都市爆撃、民間人への空襲は起きていなかった。西側では、1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ戦争の大義を失う、2)都市爆撃は報復爆撃を招聘する、と認識されており、都市爆撃を回避させていたのである。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。それとも、第二次大戦当初のドイツ軍によるワルシャワ空襲で戦略爆撃の有効性を認識して、開戦劈頭にヘルシンキ空襲を実施したのであろうか。
写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100爆撃機の胴体を検分する収録マイクを手にしたフィンランドのレポーター:ドイツでもこれと同型のハンドマイク型の録音装置を使用してプロパガンダに活用していた。ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」、その脇にある爆撃マーク(?)を指示して解説している。この機体は、鹵獲され、修理された後、フィンランド空軍で再使用された。
Radioselostaja Pekka Tiilikainen tekemässä selostusta joulukuun alussa Viipurin lähellä alasammutusta neuvostoliittolaisesta pommikoneesta Tupolev SB-2M-100 (SB-2).
Valokuva
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot
1939-12-01
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111122用。
第二次大戦は始まっており、ドイツはフランス・イギリスと西部戦線で対峙していたが、まだ西部戦線では、都市爆撃、民間人への空襲は行われていなかった。
1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争遂行の大義を失う、
2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し自国の都市も大損害を被る、
と考えた政治的指導者は、都市爆撃を回避していた。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。それとも、ドイツ軍のワルシャワ都市爆撃が効果を上げたと考え、都市爆撃によって、フィンランドが厭戦気分に陥るとでも考えたのであろうか。
写真(右)1940年1月29日、フィンランド南西部、氷結したケイリョン湖(Köyliönjärvi)に不時着したソ連空軍イリューシンIljushin DB-3爆撃機が脱出した乗員の手で爆破された。:このソ連空軍イリューシンDB-3爆撃機は、1940年1月29日に、ピュハサルミ空軍基地を発進したフィンランド空軍機に攻撃され不時着した。脱出したソ連搭乗員のうち2人戦死し、生き残ったパイロット1人が飛行機に点火し、破壊した。
Köyliönjärven jäälle 29.1.1940 laskeutunut venäläinen Iljushin DB-3 pommikone. 29. tammikuuta 1940 yksi DB-3 pakkolaskeutui Köyliönjärven jäälle. Pyhäjärven lentotukikohdan sotilaat ja Köyliön suojeluskunta menivät koneelle ja kävivät tulitaistelun kolmen lentäjän kanssa, joista kaksi kuoli ja yksi antautui. Lentäjät sytyttivät koneen palamaan ja se tuhoutui. Porin pommitukset talvisota ilmasota ilmasodankäynti sota pommikone vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva.
Subject place
Köyliönjärvi, Köyliö
Subject date
29.1.1940, 1940, talvisota
Organisation
Satakunta Museum
Collection
Kuvakokoelma
Valokuva-albumit
Inventory ID
ALB100:65
Measurements
82 x 56 mm
Photo info:
29.1.1940, 1940, talvisota
Pori
Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:65用。
写真(右)1940年1月29日、フィンランド南西部、氷結したケイリョン湖(Köyliönjärvi)雪原に不時着、破壊されたソ連空軍イリューシンIljushin DB-3爆撃機の主翼部分:不時着したソ連空軍イリューシンDB-3爆撃機のうち、搭乗員のうち2人戦死したが、生き残ったパイロット1人が勇敢にも飛行機に点火し、飛行機を破壊した。フィンランド側に鹵獲され、使用されてしまうのを防ぐことができた。
Köyliönjärven jäälle 29.1.1940 laskeutunut venäläinen Iljushin DB-3 pommikone. 29. tammikuuta 1940 yksi DB-3 pakkolaskeutui Köyliönjärven jäälle. Pyhäjärven lentotukikohdan sotilaat ja Köyliön suojeluskunta menivät koneelle ja kävivät tulitaistelun kolmen lentäjän kanssa, joista kaksi kuoli ja yksi antautui. Lentäjät sytyttivät koneen palamaan ja se tuhoutui. Porin pommitukset talvisota ilmasota ilmasodankäynti sota pommikone vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva.
Subject place
Köyliönjärvi, Köyliö
Subject date
29.1.1940, 1940, talvisota
Organisation
Satakunta Museum
Collection
Kuvakokoelma
Valokuva-albumit
Inventory ID
ALB100:65
Measurements
82 x 56 mm
Photo info:
29.1.1940, 1940, talvisota
Pori
Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:65用。
写真(右)1940年1月、フィンランド、スオムッサルミ、森林に枝葉で偽装されているフィンランド空軍ソ連製ポリカルポフ(Polikarpov )R 5偵察爆撃機:スオムッサルミ はフィンランド中東部、カイヌー県ケヒュス=カイヌー郡に位置する人口1万人未満の町。森林と湖沼地帯で覆われている。フォンランド軍は、鹵獲した機体を修理して利用したり、その部品や兵器を再使用したりして活用する技術に優れていた。全長: 10.56 m、全高: 3.25 m、全幅: 15.5 m、主翼面積: 50.2平方メートル、空虚重量: 1,969 kg、総重量: 3,247 kg、発動機: ミクーリン M-17B(680 hp)1基、最高速力: 228 km/h、航続距離: 800 km、実用上昇限度: 6,400 m、上昇率: 1,000 mまで2.1分、兵装:前方固定 PV-1機関銃 1丁、後方旋回機銃DA機関銃 1丁、爆弾搭載量: 250 kg
Pakkolaskun tehnyt ryssän kone Suomussalmella. Res.kers.Blomberg. Polikarpov R-5..
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-01-01
.
写真は,Museot Finna HK19751014:150用。
写真(右)1940年1月7日、フィンランド、タンペレ、撃墜されたソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov )R 5偵察爆撃機:複葉機で、機首からエンジンが落ちている。ニコライ・ニコラエヴィチ・ポリカールポフが設計したR-5水上偵察機は、ドイツ製BMW VI液冷V12エンジンを搭載し1928年秋に初飛行した。木製複葉機で、堅実な設計だったために、長期間使用された。発動機はBMW VI液冷V12エンジンをライセンス国産化したクーリン M-17とし、1930年から量産された。水上機型、地上攻撃機、輸送機型などがある。全長: 10.56 m、全高: 3.25 m、全幅: 15.5 m、主翼面積: 50.2平方メートル、空虚重量: 1,969 kg、総重量: 3,247 kg、発動機: ミクーリン M-17B(680 hp)1基、最高速力: 228 km/h、航続距離: 800 km、実用上昇限度: 6,400 m、上昇率: 1,000 mまで2.1分、兵装:前方固定 PV-1機関銃 1丁、後方旋回機銃DA機関銃 1丁、爆弾搭載量: 250 kg
Alasammuttu lentokone R 5. Kyseessä Polikarpov R-5-tiedustelukone.
Aineistotyyppi
Valokuva.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-01-07.
写真は,Museot Finna HK19751014:150用。
写真(右)1940年1月7日、フィンランド、タンペレ、撃墜されたソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov )R 5偵察爆撃機:尾部には橇式の尾輪がついているので、水上機型ではないようだ。フォンランド軍は、鹵獲した機体を修理して利用したり、その部品や兵器を再使用したりして活用する技術に優れていた。全長: 10.56 m、全高: 3.25 m、全幅: 15.5 m、主翼面積: 50.2平方メートル、空虚重量: 1,969 kg、総重量: 3,247 kg、発動機: ミクーリン M-17B(680 hp)1基、最高速力: 228 km/h、航続距離: 800 km、実用上昇限度: 6,400 m、上昇率: 1,000 mまで2.1分、兵装:前方固定 PV-1機関銃 1丁、後方旋回機銃DA機関銃 1丁、爆弾搭載量: 250 kg
Ryssien tyk. täh. kone R 5. Pommitusmatkalla sen ampui alas Suistamon lentokentän It-kk. Alkuperäisen kuvatekstin Saharan kauhu eli Aarne Juutilainen tunnetaan paremmin Marokon kauhuna& #148;. Polikarpov R-5-tiedustelukone..
Aineistotyyppi
Valokuva.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-01-07.
写真は,Museot Finna HK19751014:150用。
4.冬戦争(talvisota)に投入されたフィンランド空軍機
写真(右)1937−1938年頃、ソ連空軍の制式したポリカルポフ(Polikarpov )I-16 戦闘機T1型(Type 1);1930年代中頃の初期量産型で、発動機はM-22空冷星型9気筒エンジン (480 hp)を搭載していた。ソ連のM-22エンジン (480 hp)の原型は、イギリスのブリストル社の開発したブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter)空冷星型9気筒エンジンで、1920年代から1930年代の世界各国の飛行機の発動機となった。ブリストル・ジュピターをライセンス生産した国は、ソビエト連邦のM-22、ドイツのブラモ 323、 日本の中島飛行機「寿」、フランスの グノーム・ローンなどで多数生産された世界的傑作エンジンである。
SDASM Archives
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45939239 - Catalog:16_007267 - Title:Polikarpov I-16 with M-22 motor - Filename:16_007267.TIF
- Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は、fliker、SDASM Archives Catalog:16_007267 引用。
写真(右)1937−1938年頃、ソ連空軍の制式したポリカルポフ(Polikarpov )I-16戦闘機の試作機;ソ連空軍でも、冬季仕様範囲を拡大し、運用をしやすくするために、氷原や圧接した雪原を滑走路とする場合に備えて、スキー・橇式の降着装置を備えた型が開発されている。
SDASM Archives
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45939202 - Catalog:16_007264 - Title:Polikarpov I-16 prototype - Filename:16_007264.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は、fliker、SDASM Archives Catalog:16_007264 引用。
写真(右)1940年、フィンランド、タンペレ、フィンランド空軍が使用したソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov )I-16戦闘機:ソ連空軍時代は主翼に20ミリ機関砲を装備していたが、樹幹中の破損あるいは弾薬の欠乏のために、フィンランド空軍では、国営工場で改造され、主翼の機関銃はイギリス式の7.7ミリブローニング(Browning)機関銃に変換された。引込み式主輪ではなく、引込み式の橇を装備しているが、これは、雪原など極北戦線用の仕様だった。国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi)が描かれているが、これはドイツでも、カギ十字(卍)と同じく、反革命、反ボリシェビキの象徴である。
Neuvostoliittolais-valmisteinen Polikarpov I-16 sotasaalislentokone
Polikarpov I-16:ssa oli alunperin siivissä 20 mm tykit. Valtion Lentokonetehdas vaihtoi koneeseen siipiaseiksi 7,7 mm Browning-konekiväärit
Aineistotyyppi
Kuva
Organisaatio
Museokeskus Vapriikki
Kokoelma
VAR
Inventaarionro
VAR:10210
Kuvaustiedot:
1940-1940
Härmälä, Pyhäjärvi
Tampere, Suomi.
写真は,Museot Finna HK19751014:150用。
ソ連空軍ポリカルポフI-16(И-16:Polikarpov I-16)は、ソ連パリカールパフ設計局の開発になる低翼式引込み脚の高速単葉戦闘機で、出現当初は、最先端の設計を具体化したもので、20ミリ機関砲の実用化も早かった。試作機TsKB-12は1933年12月に初飛行し、搭乗員が手動でワイヤを巻き上げる引き込み脚、単葉の高速戦闘機で、同時期のイギリス空軍グラジエーター戦闘機、日本陸軍九五式戦闘機、ドイツ空軍ハインケルHe 51戦闘機は全て複葉戦闘機だった。第二次世界大戦以前から大量配備され、ソ連空軍の主力戦闘機となった。世界最初の実用的な引き込み脚を持った戦闘機であり、一撃離脱を得意としたが、旋回性能など格闘戦は苦手だったようだ。
スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。
1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi?Swastika)が描かれている。ドイツでも、カギ十字卍(スワスチカ:Swastika)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。
写真(右)1940年1月12日、フィンランド、シスタモ飛行場、仮説的な木造格納庫から引き出されて発進準備をするフィンランド空軍フォッカー C.V (Fokker C.V ) 偵察爆撃機機E型;格納庫は、木材をそのまま用いたログハウスで、その前にある飛行場は、氷結し雪の積もった湖沼か森林に囲まれた野原のようである。このような、自然を活かしたフィンランド軍の航空基地は、悪天候も幸いして、敵ソ連軍からは発見されにくかった。オランダのフォッカー社では、機種をローマ数字で示す規則があったため、C.VとはC.5の意味である。
Lentokone lähdössä. Kuvassa Fokker C.V E -tiedustelukone. Photo info:
1940-01-12
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna sa-kuva-165314引用。
1918年以来、フィンランド空軍機やフィンランド陸軍の戦車には、国籍標識として採用した卍「ハカリスティ」(Hakaristi)が描かれている。ドイツでも、カギ十字(卍)は、第一次大戦後に興隆したドイツ民族・アーリア人の優秀性を奉じる人種差別主義者、個人の自由奔放でなく国力を重視する国家主義者、反革命義勇軍(フライコール)が採用していたもので、これをナチ党が取り入れ、夏党政権獲得後、この鍵十字(スワスチカ)が国会に掲げられ、国旗となった。そして、再軍備宣言後、ドイツ空軍が創設されると、ナチ党の採用したカギ十字をドイツの国籍マークとした。
写真(右)1940年1月12日、フィンランド、シスタモ飛行場、仮説的な木造格納庫から引き出されて発進準備をするフィンランド空軍フォッカー C.V (Fokker C.V ) 偵察爆撃機機E型;格納庫は、木材をそのまま用いたログハウスで、その前にある飛行場は、氷結し雪の積もった湖沼か森林に囲まれた野原のようである。このような、自然を活かしたフィンランド軍の航空基地は、悪天候も幸いして、敵ソ連軍からは発見されにくかった。オランダのフォッカー社では、機種をローマ数字で示す規則があったため、C.VとはC.5の意味である。
Lentokone lähdössä. Kuvassa Fokker C.V E -tiedustelukone. Photo info:
1940-01-12
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna sa-kuva-165247引用。
写真(右)1940年1月12日、フィンランド、シスタモ飛行場、ハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたフィンランド空軍フォッカー C.V (Fokker C.V ) 偵察爆撃機機E型の発進;周囲には、スキーを履いたフィンランド軍兵士あるいは地上整備士が囲んでいる。飛行場は、氷結し雪の積もった湖沼か森林に囲まれた野原のようで、自然を活かした航空基地は、悪天候も幸いして、敵ソ連軍からは発見するのが困難だった。フィンランド白衛軍は、1918年にフィンランド内戦で革命ボリシェビキ派を鎮圧、それ以来、ハカリスティ(Hakarist)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。
Lentokone lähdössä. Kuvassa Fokker C.V E -tiedustelukone. Photo info:
1940-01-12
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna sa-kuva-165248引用。
写真(右)1940年1月12日、フィンランド、シスタモ飛行場、ハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたフィンランド空軍フォッカー C.V (Fokker C.V ) 偵察爆撃機機E型の発進;搭乗する飛行士たちは、オーバーオールにフードを付けた飛行服を着ている。機体の降着装置は、スキー式のものが2組ついている。飛行場は、氷結し雪の積もった湖沼か森林に囲まれた野原のようで、自然を活かした航空基地は、悪天候も幸いして、敵ソ連軍からは発見するのが困難だった。オランダのフォッカー社では、機種をローマ数字で示す規則があったため、C.VとはC.5の意味である。
Lentokone lähdössä. Kuvassa Fokker C.V E -tiedustelukone. Photo info:
1940-01-12
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna sa-kuva-165249引用。
写真(右)1940年1月12日、フィンランド、シスタモ飛行場、フィンランド空軍フォッカー C.V (Fokker C.V ) 偵察爆撃機機E型;オランダのフォッカー社で開発されたフォッ カーC.Vは、1924年から生産され、複葉機偵察爆撃機で、固定脚の機体だったため、1939年の冬戦争の時期には旧式化していた。しかし、ソ連空軍に比して圧倒的に劣るフィンランド空軍は、使える飛行機は、何でも使用するという方針で、フォッ カーC.V複葉偵察爆撃機の実戦に投入した。オランダのフォッカー社では、機種をローマ数字で示す規則があったため、C.VとはC.5の意味である。したがって、後述のフォッカーD.XXIもD-21の意味である。
Lentoasema Suistamolla. Tuntematon, valokuvaaja
Lentoasema Suistamolla. Kuvassa Fokker C.V E tyyppinen tiedustelulentokone. Photo info:
1940-01-12
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna引用。
写真(右)1940年1月12日、フィンランド、ハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたスキー式降着装置のフィンランド空軍フォッカー C.V E (Fokker C.V E ) 偵察機;オランダのフォッカー社で開発されたフォッ カーC.Vは、1924年から生産され、複葉機偵察爆撃機で、固定脚の機体だったため、1939年の冬戦争の時期には旧式化していた。しかし、ソ連空軍に比して圧倒的に劣るフィンランド空軍は、使える飛行機は、何でも使用するという方針で、フォッ カーC.V複葉偵察爆撃機の実戦に投入した。オランダのフォッカー社では、機種をローマ数字で示す規則があったため、C.VとはC.5の意味である。したがって、後述のフォッカーD.XXIもD-21の意味である。
Lentoasema. Taustalla Fokker C.V E -tiedustelukone
Lentoasema. Taustalla Fokker C.V E -tiedustelukone.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-01-12
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna引用。
写真(右)1939年、フィンランド空軍VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機:フィンランド国営航空機工場(Valtion lentokonetehdas)が開発した羽布、ジュラルミンの木金混合構造の低翼単葉複座の練習機。1939年3月29日、工場のパイロット、中尉ジョルマ・ヴィサパによって初飛行したピリは、フィンランド空軍から1941年春に40機を飛行学校用に注文した。これらはPyry IIとして制式され登録コード:PY-2からPY-41。1944年、カウハバ空軍学校が訓練を受けた最初のチームというが、実用化までかなりの期間を要した。しかし、フィンランドの航空機業界で最高の機体とされ、約700人の軍のパイロットが訓練を受け、飛行時間は56000時間以上に及んだ。
Ilmavoimat tilasi tämän lentokoneen prototyypin vuonna 1937. Sen nimeksi tuli tuli VL Pyry I ja tunnukseksi PY-1. Koneen suunnitteli Arvo Ylinen, jonka työryhmässä toimivat lentokonesuunnittelijat Martti Vainio, Torsti Verkkola ja Edward Wegelius. Lentokoneen ensilennon lensi 29. maaliskuuta 1939 tehtaan koelentäjä, luutnantti Jorma Visapää. Toukokuussa ilmavoimat tilasi 40 koulukonetta, jotka valmistuivat ripeästi jo vuoden 1941 keväällä. Ne tunnettiin tyyppinä Pyry II ja niiden tunnukset olivat PY-2 - PY-41. Ensimmäisenä joukko-osastona Pyryjä sai Ilmasotakoulu Kauhavalla vuonna 1941. Koneella koulittiin lentäjiä 20 vuoden ajan. Se oli suomalaisen lentokoneteollisuuden parhaimpia tuotteita. Sillä koulittiin noin 700 sotilaslentäjää. Lentokoneilla lennettiin yli 56000 tuntia. Pyryn kärkisakkausominaisuuksia yritettiin parantaa trapetsisiivellä. Se asennettiin ensimmäisen kerran PY-24:ään 20.3.1941. Kokeilu epäonnistui ja koneeseen vaihdettiin elliptinen siipi. Ensimmäinen uhrin vaatinut onnettomuus Pyryllä tapahtui 15.6.1941, kun PY-3 ajoi suohon Hyvinkäällä ja Sk-ups. Osmo Meriluoto sai surmansa. Uusia trapetsisiipiä kokeiltiin Pyry PY-37:ssä 7. maaliskuuta 1943. Koelentäjänä toimi kapteeni Erkki Pohjanheimo. Kone putosi Koivistonkylään lähelle Lempälään johtavaa tietä. Pyryssä oli matkustajana kapteeni Akilles Järvinen. Molemmat lentäjät saivat surmansa. Trapetsisiipiä kokeiltiin kaikkiaan neljässä Pyryssä, PY-24 (1941), PY-37 (1943), PY-32 (1943) ja PY-1 (1944) ilman menestystä. Yhden hengen miehistöllä Pyry oli hyvinkin vakaa, mutta raskaamalla kuormalla pitkittäisvakavuudessa oli ongelmia. Huhtikuussa 1943 alettiin Pyryjen moottoritelineitä pidentää, jolloin koneen painopiste muuttui ja pitkittäisvakavuus palautui. Pyryn viimeiset lennot tapahtuivat Härmälässä: 7. syyskuuta 1962 lensivät kapteeni Veikko Hietamies PY-1:llä ja yliluutnantti Keijo Elio PY-27:llä. Koneen seuraaja oli Valmet Vihuri.
Vähemmän
Organisaatio
Museokeskus Vapriikki
Kokoelma
HM Staf
Inventaarionro
HM Staf:2:1816:1
Kuvaustiedot:
1939-1939
Härmälä, Lentokonetehdas
Tampere, Suomi
E. M. Staf, valokuvaaja
.
写真は,Museot Finna HM Staf:2:1816:1用。
フィンランドは、多様な外国軍用機を輸入して、自国の空軍に配備したが、自国で開発・量産した国産機もあった。これが、VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機で国営航空機工場(Valtion lentokonetehdas)が開発した羽布、ジュラルミンの木金混合構造の低翼単葉複座の練習機である。初飛行は、第二次大戦半年前の1939年3月29日、国営工場パイロット、ジョルマ・ヴィサパ中尉が試験した。名称のピリ(VL Pyry)とは、国営航空機工場(Valtion lentokonetehdas)で開発生産したとの誇りともなった。フィンランド空軍は、冬戦争に敗北してた後、国産機・航空兵力の必要性を痛感し、1941年春にはピリ40機を飛行学校用に注文した。これらはPyry IIと呼称され、登録コードPY-2からPY-41を与えられた。
しかし、VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機の実際の運用は、継続戦争が勃発したこともあった大幅に遅れた。戦時中は、国産機を新たに開発・生産するよりも、火急速やかに戦力化できる外国軍用機の輸入が推進されたのである。そのため、ピリによる飛行訓練は、継続戦争末の1944年、カウハバ空軍学校が訓練を受けたのが最初のチームといわれ、運用は継続戦争敗戦後の時期になってしまった。つまり、実用化までかなりの期間を要したVL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機の客観的評価は、時期を失した「傑作練習機」程度でしかない。にもかかわらず、フィンランドの愛国的立場からは、フィンランド航空機業界で最高の国産機と高く評価されている。VL ピリ(VL Pyry)複座高等練習機によって、700人の軍のパイロットが訓練を受け、飛行時間は56000時間以上に及んだ。
写真(右)1938年頃、オランダ空軍の制式したフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機;フィンランド白衛軍は、1918年にフィンランド内戦で革命ボリシェビキ派を鎮圧、それ以来、ハカリスティ(Hakarist)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。
SDASM Archives
Fokker, D.XXI
Catalog #: 01_00079812
Title: Fokker, D.XXI
Corporation Name: Fokker
Additional Information: Germany
Designation: D.XXI
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、fliker、SDASM Archives Catalog #: 01_00079812引用。
オランダ空軍の制式したフォッカー(Fokker)D.XXI戦闘機は、固定脚で、垂直尾翼・水平尾翼に補強支柱が張り出して、飛行中の空気抵抗が増えて、飛行性能が低下する。しかし、アメリカ機のような堅牢で頑丈な構造で、密閉式風防だったようだが、アメリカ海軍ブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)艦上戦闘機と同じく、1939年11月30日 – 1940年3月13日の対ソ連冬戦争では、部隊配備が間に合わず、活躍できなかった。しかし、1941年6月25日 から1944年9月19日の3年3ヶ月に及んだ「継続戦争」では、緒戦から大活躍している。
写真(右)1940年3月7日、フィンランド、オランダのフォッカー社から航空機製造権を取得しライセンス生産されたフォッカー(Fokker) D.XXIの航空機;ハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたスキー式降着装置のフィンランド空軍フォッカー D-21(Fokker D.XXI ) 戦闘機で、後に国営航空機工場でスキー付きの機体が実験的に製造された。フィンランド白衛軍は、1918年にフィンランド内戦で革命ボリシェビキ派を鎮圧、それ以来、ハカリスティ(Hakarist)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。
Lentokonetehtaan lisenssillä valmistama Fokker D.XXI -lentokone
Aineistotyyppi
Kuva
Organisaatio
Museokeskus Vapriikki
Inventaarionro
TTM 1016:10
Kuvaustiedot:
1940-1949
Valkeala, Utti
Kouvola, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。
フィンランドは、ロシア革命時期にその独立が定まった反面、その後のソビエト連邦の共産主義には、強い警戒感を抱いていた。フィンランド国内での共産主義革命の動きがあったからである。そこで、反共産主義の象徴として、白丸に青の鍵十字を描いたカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を用いるようになった。1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルとしてである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年の対ソ講和の時に廃止した。 このスワスチカが、対ソビエト連邦の戦い、すなわち1939年の冬戦争、1941年の継承戦争でも採用されている。
当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。しかし、1944年、リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)はフィンランド大統領を辞職、新大統領カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥の下で、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を忌避するために唱えられた方便か、カギ十字を好む人物の誤解に基づく思い込みである。
写真(右)1940年3月7日、フィンランド、タンペレ飛行場、ハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたスキー式降着装置のフィンランド空軍フォッカー D-21(Fokker D.XXI ) 戦闘機;降着装置は、オランダで開発された時点では、固定脚のゴム車輪だったが、雪原や氷結した湖沼を滑走路にする場合、スキーも有効であると考えられた。そこで、降着装置をスキーとした試験機が行われた。D-21戦闘機は、国営航空機工場でスキー付きの機体が実験的に製造された。
Fokker D.XXI suksien koekoneena
Lentokonetehtaan lisenssillä valmistama D.XXI suksien koekoneena.
Aineistotyyppi
Kuva
Organisaatio
Museokeskus Vapriikki
Kokoelma
D/944
Inventaarionro
944:2:37
Kuvaustiedot:
1940-1940
Härmälä, Lentokonetehdas
Tampere, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。
オランダで開発されたフォッカー D-21(Fokker D.XXI ) 戦闘機は、固定式脚のゴム車輪で離着陸していたが、フィンランドの冬は寒く、森林の合間にある雪原や氷結した湖沼を滑走路にすることがあった。そこで、開発当初の固定車輪を固定スキーに変換することで、使用範囲が広がると考えられた。そこで、オランダから輸入し、その後ノックダウン生産も行ったフォッカーD21戦闘機の場合も、降着装置をスキーに変更した実験機が、フィンランド国営航空機工場で試作された。そして、スキー付きのフォッカーD21戦闘機が誕生し、試験の結果、有効性が確認され、スキー付きの機体が製造されるようになった。
写真(右)1938年日、アメリカ海軍の仕様に合わせたブリュスター(Brewster)社のXF2A1試作艦上戦闘機;同型機をアメリカ海軍はブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)艦上戦闘機として制式した。フィンランド空軍は、ブリュスター(Brewster) 239戦闘機の名称で陸上戦闘機で採用したが、冬戦争の1939年から1940年前半には、部隊配備は間に合わなかった。購入時、ブリュスターF2Aバッファローの引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機も開発された。これは、フィンランドが極北戦線仕様に試作したものである。フィンランド白衛軍は、1918年にフィンランド内戦で革命ボリシェビキ派を鎮圧、それ以来、ハカリスティ(Hakarist)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。
SDASM Archives
Brewster XF2A1 flt 1938
From SDASM's History of Naval Aviation Collection
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、fliker、SDASM Archives 引用。
ブリュスター(Brewster)社が試作したXF2A1戦闘機を、アメリカ海軍は、ブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)艦上戦闘機として制式した。同型機をフィンランド空軍は、ブリュスター(Brewster) 239戦闘機の名称で採用し、陸上戦闘機として配備したが、1939年11月30日-1940年3月13日の冬戦争の時期には、フィンランド空軍への部隊配備は間に合わなかった。しかし、購入時、、ブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)の引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機も開発された。これは、フィンランドが極北戦線仕様に試作したものである。フィンランド白衛軍は、1918年にフィンランド内戦で革命ボリシェビキ派を鎮圧、それ以来、ハカリスティ(Hakarist)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。
フィンランドが冬戦争にソ連に敗北した後、1940年3月14日-1941年6月24日の1年3カ月の間「臥薪嘗胆」して戦争対ソ連復讐戦争を準備した。その時に、ブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)艦上戦闘機は、ブリュスター(Brewster) 239戦闘機として、フィンランド空軍に部隊配備された。
写真(右)1940年3月7日、フィンランド、試験的に固定式スキー降着装置を付けたフィンランド空軍ブリュスター(Brewster) 239戦闘機;ブリュスター(Brewster) 239戦闘機は、アメリカのブリュスターF2Aバッファロー(Buffalo)のフィンランド名である。輸入当初、ブリュスターF2Aバッファローの引込み式脚を固定スキー式降着装置とした試作機が開発された。これは、フィンランドが極北戦線仕様に試作したものである。フィンランド白衛軍は、1918年にフィンランド内戦で革命ボリシェビキ派を鎮圧、それ以来、ハカリスティ(Hakarist)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。
Brewster 239 -hävittäjässä kokeiltu kiinteä profiloitu suksilaskuteline .
Organisation
Museokeskus Vapriikki
Collection
VAR
Inventory ID
VAR:10211
Photo info:
1940-1940
Härmälä, Pyhäjärvi
Tampere, Suomi
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・VAR:10211引用。
アメリカ海軍は、それまでの複葉、固定脚、開放式風防の艦上戦闘機を近代化するために、1936年に単葉機、折畳み式主翼、引込み脚、密閉式風防の仕様で競争試作の要求を出した。これに対して、老舗メーカーのグラマン、セバスキーとともに新興のブリュスターがB-139(Brewster model 139)を提示し、最も優れた性能を発揮した。しかし、ブリュスターにおける新型艦上戦闘機の生産は遅れたため、グラマンの新型機F4Fワイルドキャットが制式となり、アメリカ海軍の主力艦上戦闘機となった。それでも、アメリカ軍の制式戦闘機として、F2Aはイギリスで「バッファロー(Buffalo)」と命名されて制式となった上に、第二次大戦の勃発を恐れるベルギー、オランダでもF2Aを陸上戦闘機として購入した。フィンランドも、ソ連との戦争に備えて、F2A戦闘機44機を購入し、ブリュスターB-239と命名して部隊配備した。
写真(右)1940年3月6日、飛行機格納庫で修理整備中のフィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機Mk.IV型(段付き機首)と2機のフォッカー C.V (Fokker C.V ) 偵察爆撃機機E型(奥); 手前のブリストル・ブレナムMk.IV爆撃機は、パイロットと爆撃手が離れた位置にある段付き機首で、これは後期生産である。曲がった金属3翅プロペラは不時着時に破損したもので、エンジンはプロペラを外されている。格納庫で修理中と思われる。後方のフォッカーC.X複葉偵察爆撃機の機首には、保護カバーが掛けられている。爆弾も並んでいるのが分かる。格納庫は、鉄骨の大型なもので、床も舗装された正規のものである。オランダのフォッカー社では、機種をローマ数字で示す規則があったため、C.VとはC.5の意味である。
Tuntematon, valokuvaaja
Lentol. 46. Tikkakoskella pohjoishalli. Edessä Bristol Blenheim Mk.IV pommikone ja takana kaksi Fokker C.X tiedustelu- ja syöksypommituskonetta.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-03-06
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna sa-kuva-165247引用。
フィンランド軍は、1918年にハカリスティ(Hakarist)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。これは、ドイツの第一次大戦の敗北後、ワイマール共和国時代、反革命義勇軍(フライコール:自由軍団)が用いたスワスチカと同じで、反共産主義、反革命の意味がある。
写真(右)1940年3月7日、フィンランド、出撃準備中のハカリスティ(スワスチカ)の記章(国籍マーク)を付けたフィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機Mk. IV型;機首は、操縦手と爆撃手が分離した段差のある後期型で、平面ガラスで覆われているが、操縦席からの下方視界が制限されていた。そこで、後期型の機首は段差のない一体型に改良され、視界を向上させている。
Bl-129 pommituskoneen bensiinin ottoa Tikkakoskella.
Bl-129 pommituskoneen bensiinin ottoa Tikkakoskella. Kyseessä Bristol Blenheim Mk. IV pommikone. Lentolaivue 46:n tukikohta oli Luonetjärvellä Tikkakoskella.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-03-07
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。
ブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)は、当初、高速旅客機として開発され、1935年に初飛行した。このブレニムの原型機ブリストル142は、全金属製、単葉、引込脚という近代的な構造の高速機で、ドイツのハインケルHe111に相当する機体である。そこで、ブリストル142の高性能に着目したイギリス空軍は、ブリストルにブレニム Mk. I爆撃機の開発を命じたのである。これが、ブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)双発爆撃機で、1936年から生産され、1919年9月の第二次世界大戦勃発時には、イギリス空軍の主力爆撃機として配備されていた。最終的に、5000機以上も量産されたブリストル ブレニム(Bristol Blenheim)爆撃機は、イギリスドミニオンのカナダでライセンス生産されたほか、フィンランド、ユーゴスラビア、トルコでも輸入機を配備している。
写真(右)1940年3月7日、フィンランド、出撃準備中のフィンランド空軍ブレンハイム (Bristol Blenheim) 中型爆撃機。胴体と主翼には、反共産主義・反革命を象徴する記章ハカリスティ(スワスチカ)を国籍マークとしている。;フィンランドでは、ロシア革命後、共産主義ソ連ロシアからの独立の意味も持たせている。機首は、操縦手と爆撃手が分離した段差のある初期型で、平面ガラスで覆われているが、操縦席からの下方視界が制限されていたために、後期型では、視界向上のために段差のない一体型機首に改良されている。
Bl-129 pommituskoneen bensiinin ottoa Tikkakoskella
Sotamuseo
Bl-129 pommituskoneen bensiinin ottoa Tikkakoskella. Lentol.46. Kyseessä Bristol Blenheim Mk. IV pommikone. Lentolaivue 46:n tukikohta oli Luonetjärvellä Tikkakoskella.
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115382引用。
1939年の冬戦争で、フィンランド軍は、総司令官
カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦した。しかし、ドイツは、西方戦役の準備のため、1939年独ソ不可侵条約を順守し、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘するしかなかった。その結果、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れざるを得ず、フィンランドは降伏の道を選んだ。
写真(右)1940年、イギリス、フィンランド空軍に配属されることになるイギリス製グロスター・グラディエーター戦闘機;イギリスのH.P.フォーランド主任設計士は、試作機を1934年に初飛行させた。最高速力は、当時としては高速の389km/hで、イギリス空軍は1935年7月に制式した。翌年から部隊配備が開始されたが、一定数が揃って部隊で運用開始されたのは1937年1月からである。グロスター・グラディエーター(Gloster Gladiator)戦闘機は、1940年までに700機の生産。
Gloster, Gladiator
Catalog #: 01_00080667
Title: Gloster, Gladiator
Corporation Name: Gloster
Official Nickname: Gladiator
Additional Information: UK
写真は、SDASM Archives・Catalog #: 01_00080667引用。
イギリス製グロスター・グラディエーター(Gloster Gladiator)戦闘機の主任設計士は、イギリス人H.P.フォーランドで、複葉機、固定脚というオーソドックスな設計で、1934年に試作機が完成し、初飛行した。1935年7月、イギリス空軍が制式し、イギリス海軍も艦上機型を清拭した。しかし、複葉戦闘機として時代遅れになったグロスター・グラディエーター(Gloster Gladiator)戦闘機は、1940年までに700機の生産されたものの、イギリス以外に、オーストラリア、ベルギー、中国、フィンランド、ギリシャ、ノルウェー、ポルトガル、南アフリカ、ソ連、スウェーデンなどへ輸出された。
グロスター・グラディエーター(Gloster Gladiator)戦闘機の諸元
全長 8.4 m、全幅 9.8 m
全高 3.2 m、翼面積 30平方メートル
空虚重量 1,560 kg、総重量 2,205 kg
発動機:ブリストル・マーキュリーVIII AS空冷星形エンジン 830 hp
最高速力 時速414キロ/4,500 m
航続距離 710 km
上昇限度 10,200 m、上昇率 670 m/分
兵装: 7.7ミリ前方固定機関銃4丁
写真(右)1940年3月7日、フィンランド、フィンランド空軍に配属されたイギリス製グロスター・グラディエーター戦闘機。スキー式降着装置を装備しているように見える。;降着装置は、イギリスで開発された時点では、固定脚のゴム車輪だったが、雪原や氷結した湖沼を滑走路にする場合、スキーも有効であると考えられた。そこで、降着装置をスキーとした試験機が行われた。
Suomalaisten lentokone. Kyseessä hävittäjäkone Gloster Gladiator.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-03-07
Tuntematon, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-115381引用。
スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵は、1917年のロシア革命に際し、反革命の白軍を支持して、鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)を、反共・自由のシンボルとした。そして、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍は、1918年、「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車にこの鍵十字を描いた。
フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド首相リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。
6.1940年3月14日-1941年6月24日、1年3カ月の「臥薪嘗胆」と戦争準備
写真(右)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換でソ連に帰国するフィンランド軍の捕虜となっていた元ソ連軍兵士たち;
Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Vapautettuja venäläisiä nousemassa junaan.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-04-20
Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-110041引用。
1940年3月13日、冬戦争が終結した。フィンランドは国際的孤立の中で善戦むなしく後退し、結局は、ソ連に降伏する道を選択した。フィンランドは、戦争前にソ連が要求したカレリア地方を割譲した。
冬戦争に敗れたフィンランドは、国土防衛の愛国的な戦いをし、多数のソ連軍兵器を鹵獲し、その上、多数のソ連軍捕虜を得た。冬戦争の終結1か月後、1940年4月20日、カレリア地峡のソ連・フィンランド国境で、両国の捕虜交換が行われた。列車で国境のヴァイニッカラ駅に運ばれてきた、ソ連が捕まえたフィンランド軍・夫人を含む民間人捕虜と、フィンランド軍が捕まえたソ連軍捕虜が交換されたのである。フィンランド人の元捕虜は、開放されフィンランド側ゲートに入ると、フィンランド民間人の出迎えを受け、そこに用意されたパンやスープなどの食事の提供を受けた。
囚人となったソ連軍捕虜ロシア人が列車に乗って国境に到着し、列車を下ろされた。そして、フィンランド軍から解放され、線路を歩いて、フィンランド側からソ連側に国境を越えて帰国する。
写真(右)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換でソ連に帰国するフィンランド軍の捕虜となっていた元ソ連軍兵士たち;
Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Vapautettuja ryssiä.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-04-20
Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-110051引用。
1940年3月13日、冬戦争は終結し、事実上、ソ連の勝利、フィンランドの敗北で終わった。その戦争終結から1か月後、ソ連とフィンランドで捕虜の交換が、カレリア地峡の国境にあるヴァイニッカラ鉄道駅で実施された。ソ連に帰って行く囚人は疲弊しているが、帰国後の処遇を心配しているようだ。ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン共産党書記長が、捕虜となって共産主義者の恥をさらした元ソ連軍兵士を処罰するのではないかと不安だったのだ。
写真(右)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換でソ連に帰国するフィンランド軍の捕虜となっていた元ソ連軍兵士たち;
Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Vapautettuja ryssiä.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-04-20
Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165935引用。
冬戦争終結1年3か月後の1941年6月22日に始まった、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では、開戦当初、ドイツ軍は多数のソ連赤軍捕虜を獲得した。ソ連軍が数百万人もの多数の捕虜を出した理由は、
1)緒戦で、ソ連軍がドイツ軍の攻撃を予期しておらず奇襲を受けたこと、
2)ソ連軍の徹底抗戦の命令が硬直的な作戦指導となり、ドイツ軍に退路を断たれて完全に包囲されてしまったこと、
3)当初、ソ連軍兵士の中に文明的なドイツ軍が捕虜を厚遇すると誤解していたこと、
が指摘できる。しかし、ヒトラーは、ロシア人もウクライナ人も、劣等民族として差別し、過酷な取り扱いを当然のことと支、ソ連共産党の派遣した政治将校やユダヤ人は抹殺することを命令していた。ジュネーブ国際条約で定められた捕虜に関する保護や虐待禁止の規定は、ソ連軍捕虜には完全に適用を除外していた。捕虜が収監された強制収容所では、ソ連軍捕虜を餓死させるような絶滅計画が実行に移された。捕虜を労働力として活用しようといった戦争経済上の要求は、民族差別の世界観の前では、機能しなかったのである。
写真(上)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換で帰国したフィンランド人元捕虜と出迎えた市民;冬戦争終結後のでの囚人の交換。帰ってきた囚人は疲弊している。
Vankien vaihto Vainikkalassa talvisodan päätyttyä. Palanneita vankeja muonitetaan. Niin paljon kuin vain maittaa..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-04-20
Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165935引用。
第二次世界大戦の勃発から3ヶ月後、1939年11月30日に、ソビエト連邦は、それまでのフィンランドに、
1)ソ連との同盟条約の締結、
2)レニングラードの安全保障のためのカレリア地峡と北方領土の交換、
3)レニングラードの海上湖通路となるハンコ半島におけるソ連軍駐留基地の要求、
をフィンランドが拒否したために、国境での武力衝突を理由にフィンランドに攻め入った。これが、「冬戦争」である。冬戦争では、フィンランドは、善戦したが、周辺国からも、イギリス、フランスからも援軍を得ることができず、敗北した。
写真(上)1940年5月19日、フィンランド南東部、北カレリア、ヘルシンキ北東ヨエンス、市場広場、フィンランド国防軍による戦争英雄記念日(Commemoration Day of Fallen Soldiers)のパレード ;ソ連と1939年11月から冬戦争を闘い、激戦地となった北カレリア地方のヨエンスの市場広場に連隊旗を掲げて参集したフィンランド国防軍兵士たち。連隊旗の旗手には、上官の覚えの愛でたい優秀な兵士が任命された。戦争英雄記念日(Commemoration Day of Fallen Soldiers)とは、フィンランドでは1918年のフィンランド内戦の終結を記念して、5月の第3日曜日が充てられている1940年からは、対ソビエトの冬戦争の犠牲者、1942年からは継続戦争の犠牲者も、戦争英雄記念日に追悼されるようになった。
Sankarihautajaiset
Kim Borg, valokuvaaja
Sankarihautajaiset. Sankarivainajien muistopäivän tilaisuus Joensuussa 19.5.1940. Kuva Joensuun kaatuneiden muistopäivän juhlallisuuksista 19.5.1940. Tapahtumasta mustavalkoinen sarja SA-kuvia (ks. numerot 10348 - 10370, joista tiedot) sekä JSdia083. Kuvaajana todennäköisesti Kim Borg.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-05-19
Kim Borg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165914引用。
写真(上)1940年5月19日、戦争英雄記念日、フィンランド南東部、北カレリア、ヘルシンキ北東ヨエンス、戦争英雄墓地で冬戦争で戦死した英霊を悼むフィンランド人の親族たち ;戦争英雄記念日のこの日の式典にはクオピオ州グスタフ・イグナティウス知事も花輪を捧げた。方面軍の将校や下士官兵も戦友の犠牲を悼んで花輪を捧げた。
Paraati Joensuun torilla, sankarivainajien muistopäivä. Etualalla oikealla ilmeisesti Salmin Rajavartioston lippu, kolmas oikealta Joensuun rajavartioston lippu. Samasta tapahtumasta mustavalkoiset SA-kuvat (esim. 10339, 10344, 10345), jotka kuvattu 19.5.1940. Kuvassa oikealla olevat lippukomppanian henkilöt tunnistettavissa samoiksi sotilaiksi kuin kuvassa 10339.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-05-19
Kim Borg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-166404引用。
写真(上)1940年5月19日、戦争英雄記念日、フィンランド南東部、北カレリア、ヘルシンキ北東ヨエンス、戦争英雄墓地で冬戦争で戦死した英霊を悼むフィンランド国防軍将校と市民;戦争英雄記念日のこの日の式典にはクオピオ州グスタフ・イグナティウス知事も花輪を捧げた。方面軍の将校や下士官兵も戦友の犠牲を悼んで花輪を捧げた。
Sankarivainajien muistopäivän tapahtumia Joensuussa 19.5.1940. Sankarihautajaiset. Joensuun sankarihautajaisista mustavalkoiset SA-kuvat 10348-10372, joista tiedot.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-05-19
Kim Borg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165935引用。
写真(上)1940年5月19日、戦争英雄記念日、フィンランド南東部、北カレリア、ヘルシンキ北東ヨエンス、戦争英雄墓地で冬戦争で戦死した英霊に花を手向けるフィンランド軍の男女の兵士;1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)で善戦したものの、国際的に完全に孤立し、1940年3月13日にソビエトに降伏した。方面軍の将校や下士官兵が戦友の犠牲を追悼して花輪を捧げた。
Sankarivainajien muistopäivän tapahtumia Joensuussa 19.5.1940. Sankarihautajaiset. Joensuun sankarihautajaisista mustavalkoiset SA-kuvat 10348-10372, joista tiedot.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-05-19
Kim Borg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・JSdia808引用。
7.1941年6月25日-1944年9月19日、フィンランドのソ連侵攻「継続戦争」(jatkosota)
フィンランドは、1941年6月22日、ドイツによる「バルバロッサ作戦」ソ連侵攻について、中立を宣言していたが、実際には、フィンランド国内にドイツ軍を駐留させていた。そこで、ソ連空軍の報復攻撃を受け、それを参戦の口実にして、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Continuation War)を、かねてからの計画通りに遂行した。これが冬戦争の敗北を注ぐための、対ソ連反ボリシェビキ戦争の開始であり、割譲を強要された領土奪回のための愛国的戦争である。
写真(右)1939-1941年、フィンランド・ソ連国境、カレリア地方(?)、航空監視塔の女性航空監視員たちは、双眼鏡と電話通信を担っている。:極北戦線では、天候の変化が早く、霧や雷雨も発生したために、監視員は、気温や湿度、降雨量の計測の役割もあった。悪天候のリスクを避けて飛行するためには、フィンランド空軍の隊員たちの熟練だけではなく、高空監視員たちの持ち寄った情報とその判断が重要だった。
Lotat ilmavalvontatornissa Soukan Kasavuorella
Content Type
Image
Organisation
Espoo City Museum
Collection
Inventory ID
valokuvat 2935:8
Photo info:
1939 - 1941
.
写真は,Espoo City Museum , Museot Finna valokuvat 2935:8引用。
フィンランドは、「冬戦争」の敗北後、ソ連に対して領土復活のための復讐戦争を計画し、マンネルハイム元帥の下で、軍事力を強化した。特に、1940年に、ドイツ軍が、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、大陸を制覇すると、ドイツとソ連の対立が予期される状況になった。そこで、フィンランドは、ナチス・ドイツに接近し、ドイツとの同盟の元にソ連軍に対峙する姿勢を見せた。フィンランド軍は、10個師団以上を編成し、国民義勇軍として、女子や学徒も動員することで、総兵力50万人となった。
フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーヤーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これになじんだ人々を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に協力している。
フィンランドは、冬戦争で失った領土を奪回するために、愛国的戦争と見なして1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Continuation War)を開始した。つまり、冬戦争の続きとして、領土奪回のための継続戦争を仕掛けたのである。また、当時、ドイツは、イギリス供交戦状態にあったが、フィンランドはイギリスと戦うつもりは全くなく、イギリスの行為を得るために、ドイツ同盟国として、枢軸側に立って第二次世界大戦を戦う、ということではないとの弁明をした。あくまでも敵はソ連だけであり、これは世界戦争の一環ではなく、局地的な二国間戦争に過ぎないというのである。このようなご都合主義の参戦をイギリスは認めなかったた。フィンランドは、事実上、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したとみなされた。
1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許さなかった。「継続戦争」と称しているのは、フィンランドのみであり、これは第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いである。フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦した。
⇒写真集:フィンランドのソ連侵攻「継続戦争」
を詳しく見る。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
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⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
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⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
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