◆第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
写真(上)1941−1944年、フィンランド南岸、ヘルシンキ西150キロ、ハミナの沖合20キロのウルコ=タミオ(Ulko-Tammio)島西海岸のフィンランド軍水上艦艇(VMV)の基地に停泊する警備艇第17号(VMV 17)の正面、その後ろに水上警備艇第9号(VMV 9):前甲板は7.62ミリ機関銃のようで、後甲板の20ミリ機関銃よりも小型で銃架も異なっている。Vartiom
Vartiomoottoriveneiden (vmv) tukikohta Ulko-Tammion Länsilahdessa. Edessä VMV 17, sen takana VMV 9. Diaan merkitty ""Hanko", mutta ko. veneiden tukikohta Ulko-Tammio on Haminan edustalla. Teoksesta Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 117: Kapteeniluutnantti H. Carringin johtama 2. Vartiom
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166324引用。
写真(上)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、フィンランドで建造したドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー):88ミリ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)、20ミリ対空機関砲を搭載している。乾舷は低く外洋航行はできないが、内陸湖沼では十分に機動力を発揮できた。
Saksan ilmavoimien (Einsatzstab Fähre Ost) tykkilautta (Siebel-lautta) Lahdenpohjan edustalla pidetyssä paraatissa. Kyseisestä tapahtumasta löytyy Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka ajankohdaksi merkitty 13.8.1942. Vastaavia kuvia löytyy myös muiden kuvaajien kuvaamina mm. 11.8.1942 (ks. kuva 103772). Diaan merkittyi "Laatok
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・JSdia173引用。
写真(上)1944年5月27日、フィンランド、樹木を使って本格的な対空偽装を施して係留されるフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen):艦橋前に設置されたスウェーデン製ボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。ソ連空軍にフィンランド湾上空の制空権を開け渡してしまったフィンランド海軍は、ただ1隻残された装甲海防艦を隠匿砲台として活用した。装甲海防艦が上空からて敵兵に発見されないように、偽装樹木で覆っている。
Panssarilaivan miehistö kerääntynyt kuuntelemaan soittokunnan jäähyväiskonsertin.
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-05-27
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124531引用。
序.1939-1940年、対ソビエト冬戦争(talvisota)の敗北
1939年9月にドイツのポーランド侵攻によって、9月3日、イギリス、フランスを巻き込んだ第二次世界大戦が勃発し、9月中に、ソ連軍はポーランドの進駐し、東半分を占領してしまった。1939年9月3日のイギリス・フランスの対ドイツ宣戦布告後、フィンランド首相アイモ・カールロ・カヤンデル(Aimo Kaarlo Cajander)は、中立宣言をしたが、10月11日、ソ連の外務人民委員(外相)モロトフは、フィンランドのパーシビキを団長とする交渉団をモスクワに招き、
1)カレリア地峡の対ソ連防衛戦の撤去
2)フィンランド湾の島々とフィンランド南岸ハンコ半島の租借とソ連軍駐留権
3)カレリア地峡のソ連国境の30km前進(割譲2200平方キロ)と東カレリア(フィンランド東国境に面したソ連領5000平方キロ)の交換
という要求を突き付けた。フィンランド軍総司令官マンネルヘイム元帥は、ソ連の要求を受諾するしかないと考え、フィンランド政府も、カレリア地峡のソ連国境10km前進、フィンランド湾の島々の譲渡は受け入れたが、ハンコ半島の租借は拒否した。こうして、交渉は決裂し、双方とも10月には、動員を準備し、ソ連の侵略に備えるために、政府の緊急事態を認める共和国防衛法を布告した。
写真(右)1940年5月19日、戦争英雄記念日、フィンランド南東部、北カレリア、ヘルシンキ北東ヨエンス、戦争英雄墓地で冬戦争で戦死した英霊を悼むフィンランド国防軍将校と市民;戦争英雄記念日のこの日の式典にはクオピオ州グスタフ・イグナティウス知事も花輪を捧げた。第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)を闘い始めたが、1940年3月13日に降伏した。方面軍の将校や下士官兵も戦友の犠牲を悼んで花輪を捧げた。
Sankarivainajien muistopäivän tapahtumia Joensuussa 19.5.1940. Sankarihautajaiset. Joensuun sankarihautajaisista mustavalkoiset SA-kuvat 10348-10372, joista tiedot.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-05-19
Kim Borg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165732引用。
フィンランドは、ソ連の領土要求を拒否、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦した。ソ連は、「冬戦争」でフィンランドに侵略行為に及んだことで、国際連盟を除名され、フィンランド軍相手に戦術的失策を犯した。しかし、フィンランドは、独ソ不可侵条約(第三国と開戦した場合は第三国を支持せず、他国との連合に加わらない相互不可侵と中立義務を締結)を結んだドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができなかった。
写真(右)1940年5月19日、戦争英雄記念日、フィンランド南東部、北カレリア、ヘルシンキ北東ヨエンス、戦争英雄墓地で冬戦争で戦死した英霊を悼むフィンランド国防軍将校と市民;戦争英雄記念日のこの日の式典にはクオピオ州グスタフ・イグナティウス知事も花輪を捧げた。第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、この侵略行為に抵抗してフィンランドは、冬戦争(talvisota)を闘い始めたが、1940年3月13日に降伏した。方面軍の将校や下士官兵も戦友の犠牲を悼んで花輪を捧げた。
Sankarivainajien muistopäivän tapahtumia Joensuussa 19.5.1940. Sankarihautajaiset. Joensuun sankarihautajaisista mustavalkoiset SA-kuvat 10348-10372, joista tiedot.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-05-19
Kim Borg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165935引用。
第二次世界大戦緒戦にあって、西側で都市爆撃が回避されていた理由は、
1)民間人への無差別攻撃はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)都市爆撃は報復爆撃を招聘し大損害を被る、
と政治的指導者が考えており、それが軍事的に容易な都市爆撃を回避させていたのであろう。しかし、ソ連軍は小国フィンランドに対して、ヘルシンキ、タンペレなどへの都市爆撃を躊躇しなかった。レニングラードへのフィンランド空軍による報復爆撃、空襲を防ぐ自身があったのであろうか。ソ連は、「冬戦争」でフィンランドに侵略行為に及んだことで、国際連盟を除名され、フィンランド軍相手に戦術的失策を犯した。
フィンランド軍は、総司令官
カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて講和した。
1.1941年6月25日、フィンランドによるソ連侵攻「継続戦争」勃発
写真(右)1939-1940年、フィンランド、ヘルシンキ、港近くのマーケット広場:br>Silakkamarkkinat Helsingin kauppatorilla
Aarne Pietinen Oy, kuvaaja 1939–1940
Aineistotyyppi
Kuva
Aiheen paikka
Helsinki
Aiheen aika
1939 - 1940
Organisaatio
Museovirasto - Musketti
Kokoelma
Historian kuvakokoelma
Matkailun edistämiskeskuksen kokoelma
Inventaarionro
HK19731119B:22
Mitat
36 x 24 mm
Kuvaustiedot:
1939 - 1940
Helsinki
Aarne Pietinen Oy, kuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-83388引用。
写真(右)1943年、フィンランド、ドイツが極北戦線に派遣したドイツ陸軍III号戦車G型:Saksalaisten tankit etenevät läpi viennankarjalaisten kylien. Panssarivaunu on tyyppiä PzKpfw III Ausf.G (Panzerkampfwagen).
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1941-07-11 Hedenstöm, valokuvaaja
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-113-0029-13
Archive title: Norwegen, Lappland, Finnland.- Panzersoldat im Turm eines Panzer IV; PK 681
Dating: 1943
Photographer: Volgger
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブ Bundes Archive Signature: Bild 101I-113-0029-13 引用。
ドイツ陸軍主力のIII号戦車G型は、長砲身42口径5センチ戦車砲を搭載し、当時のドイツ戦車としては、対戦車戦闘能力が最も高かった。全長:5.41m、全幅:2.95m、全高:2.44m、全備重量:20.3t、乗員:5名、発動機:マイバッハHL120TRM 4ストロークV型12気筒液冷ガソリンエンジン(300馬力)、最高速力:40km/h(路上)、航続距離:165km、兵装:42口径5センチ戦車砲KwK(99発)、7.92ミリ機関銃(MG34)2丁(2,700発)、装甲:10〜30ミリ。
写真(右)1941年10月8日、フィンランド、フィンランド軍司令官と将校が打合せをしている:
Everstiluutnantti Mäki neuvottelee Kirves 3:ssa. / Everstiluutnantti Mäki upseereineen neuvottelee. Samasta tilanteesta Roivaisen mustavalkoiset SA-kuvat 56125-56127, joista tiedot. Värikuvien selosteessa: Tykistökomentaja, everstiluutn. Mäki eräässä haupitsipatterissa Karhun itäpuolella. Alakurtti (Salla) - Vilmajoki, lokakuu 1941. Kuvalle toinenkin värikuvaseloste, jossa ajankohtana 12.-13.10.1941.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo.
Kuvaustiedot:
1941-10-08
Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-83389引用。
フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い、フィンランド軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥は、数的に遥かに勝るソ連赤軍を翻弄したが、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助はなかった。1940年3月12日、フィンランドはソ連の領土要求を受け入れて降伏し冬戦争で敗北し、領土割譲を余儀なくされた。この「冬戦争」の復讐戦が、1941年6月25日にフィンランドがソ連に侵攻した「継承戦争」である。
フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。フィンランドは、冬戦争で領土割譲を余儀なくされた。日露戦争後の三国干渉を臥薪嘗胆した日本と同じように、フィンランドもソ連に対する復讐戦争を当然のことのように準備していたのである。
写真(右)1941年9月5日、フィンランド・ソ連国境、フィンランド軍が鹵獲したソ連製1936年式76.2ミリ師団野砲(76 K 36):ポーラム(Porlamm)の森林の中で、ソ連軍の包囲殲滅戦(モット)を闘い、鹵獲した師団野砲。カレリア地峡では、歩兵部隊による戦闘、陣地戦が戦われていたために、解放したヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)市街にも破壊の後はあった。しかし、ソ連軍は、ここを本土とは考えなかったのか、後年のスターリングラードのように激しい徹底抗戦を伴う市街戦はなかったようだ。
Sotasaalista Porlammin motista, edessä kanuuna 76 K 36. Diaan tehty merkintä "Sotasaalis 1943". Heikki Roivaisen nimellä löytyy värikuvaseloste "Värivalokuvia Sommeen-Porlammin motista" 5.9.1941. Kuvaselosteen mukaan kuvia 63 kappaletta, tämä todennäköisesti yksi niistä.
Sotasaalista Porlammin motista, edessä kanuuna 76 K 36.
Porlammi, Sommee 1941.09.05.
1941-09-05
Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166143 JSdia294引用。
フィンランド軍参謀総長へインリクスは,ドイツに空路訪れ、1941年5月25日から,国防軍作戦部長アルフレート・ヨードル(Alfred Jodl)らと会談し、レニングラード(Leningrad)攻略と極北作戦について概説し、ラドガ湖(Lake Ladoga)周辺への攻勢、ムルマンスク(Murmansk)攻略への協力、ハンコ租借地のソ連軍基地攻撃への参加を話し合い、情報交換をなした。こうして、フィンランドは、ドイツのソ連侵攻に際して、 軍事同盟の締結をしたわけではないが、フィンランド軍の動員、ドイツ空軍への基地提供など具体的な話題をも取り上げ、ドイツのソ連侵攻に併せて、フィンランドもソ連との戦争を始める決意があることを間接的に伝えていたのである。
フィンランド軍参謀総長へインリクスは, ドイツに対し、1941年6月10日にフィンランドの動員が、6月28日には作戦準備が完了する伝えたがと通告した。他方、大統領リュティは、 6月14日に外交委員会を召集し、ドイツとの軍事的協力を承認している。準備万端の中、日本同様、フィンランドも6月17日、ドイツによる対ソ侵攻が6月22日に開始されることを暗示され、対ソ戦争の開始を固唾をのんで見守っていた。
ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では、フィンランドは,ルーマニア同様、積極的な攻勢に参加することが期待されていた。ドイツは、フィンランド北部のぺツァモ(Petsamon lääni)と近郊の希少資源ニッケル鉱床を保持するだけでなく、ソ連のレニングラードと北極海の不凍港ムルマンスクを結ぶ鉄道を遮断するために、ドイツは、既に全土を占領したノルウェー北部から、フィンランド北部にドイツ第21軍北方軍団を進駐させ、そこからムルマンスク方面を攻撃する計画だった。この極北でのソ連侵攻に、ドイツ軍とフィンラ ンド軍が参加し、さらにカレリア地峡のすべてを占領し、レニングラードを攻略するために、ラドガ湖(Laatokka)周辺にもフィンランド軍が侵攻する計画だった。このようにしてフィンランドは、ドイツの対ソ戦争「バルバロッサ作戦」に組み込まれいた。特に、1941年1月には、ノルウェー派遣ドイツ軍は、極北戦線で「銀狐作戦」(Silberfuchs)によって、コラ半島のソ連軍を撃滅し、ムルマンスク(Artika train)に沿って、白海とフィンランド湾の間にあるカレリア地峡まで進出する計画を立てていた。
写真(右)1941年8月31日、フィンランド南東、カレリア地峡北西、フィンランド軍が奪回したヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)の入場式典:1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけたフィンランドは、冬戦争でソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功した。
Viipurin valtausparaatin tapahtumia Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla 31.8.1941..
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165911引用。
ドイツ軍は、極北戦線での銀狐作戦にはフィンランド軍の参加が必要であると考えたが、早期にフィンランド側にソ連侵攻計画を打ち明けることは、ソ連に攻撃計画が漏れるリスクがあった。そこで、ドイツ国防軍総司令部総長ハルダー元帥は1941年1月末, フィンランド軍参謀総長へチンリクスに冬戦争に関する話し合いをベルリンで満ちたいと申し出た。そして1941年4月には、 ドイツは、フィンランドにバルロッサ作戦を伝えはしないが、参加可能なように軍事会談を開催することを決めた。こうして、5月20日, トイツはフィンランド大統領リュティに政治接触を図り、独ソ関係が悪化しており両国ともに安全保障上の措置をとっていること、戦争勃発の可能性もある事を伝えた。フィンランド大統領リュティは、この接触に対して、国防軍総司令官マンネノレへイム,首相ラン ゲノレ,国防相ヴァルデン,外相ヴィッテインクといった軍事・政治的指導者と話し合い、ドイツの提言から、ソ連侵攻に協力する方針を固めたのである。
写真(右)1941年8月31日、フィンランド南東、カレリア地峡北西、フィンランド軍が奪回したヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)の入場式典:冬戦争の復讐戦としてソ連に「継続戦争」をかけたフィンランドは、奪われたカレリア地峡に軍を進めて領土を取り返した。フィンランド第二の都市だったヴィープリも奪還することに成功した。
Viipurin valtausparaatin tapahtumia Torkkeli Knuutinpojan patsaalla, päävartion edustalla 31.8.1941..
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166463引用。
フィンランドは、1940年3月に冬戦争でソビエト連邦に敗れたが、1941年6月にドイツと同盟して、二度目の対ソビエト継続戦争に入った。この時,フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ラジオ放送で国民にソ連侵攻を正当化して、次のように訴えた。
1)冬戦争の終結以来、ソ連はフィンランドに対して侵略的行為を重ねてきたが、これはフィンランドの独立を打ちこわし、フィンランド人を隷属化させる目的がある。したがって、自衛するための戦争は、フィンランド人の当然の義務である、
2)ソ連によるフィンランドに対する侵略行為は、1939年の冬戦争、第二次世界大戦の中の行為に留まらず、過去数百年にわたって断続 して行われてきたのであって、ロシアによるフィンランド侵略は、歴史的な宿命であり、東方からのこの脅威の状態は、次代の国民のためにも、最強国ドイツのソ連侵攻という現在、ソ連を粉砕する絶好の機会であり、これに乗じた自衛戦争が求められる、
と説いた。つまり、フィンランドは、歴史的にフィンランドを圧迫してきたロシア人・ソビエト連邦を弱体化し、フィンランドの独立を確固たるものにするために,予防戦争を仕掛けたといってよいであろう。
1941年6月25日、ソ連空軍がフィンランドを空襲したが、これはフィンランド展開するドイツ軍、ドイツと事実上の軍事同盟を結んだフィンランドへの当然の「自衛行為」とされた。独ソ開戦前にフィンランド北部にドイツ軍の大部隊が派遣され、北極海に臨むムルマンスクを占領する計画が立てられていたのであって、フィンランドはドイツ軍のソ連侵攻を積極的に支援していたのである。しかし、フィンランドは,これを戦争が仕掛けられたという口実にし、6月26日、対ソ宣戦布告をする。つまり、フィンランドにとっては、ソ連による侵略的軍事行動が繰り返されたことが、報復・復讐のための「継続戦争」を開始する理由とされた。対ソ戦争に巻きこまれるといった受け身の姿勢ではなく、フィンランドは1940年に敗北し、ソ連に割譲したカレリア地峡など「冬戦争」による失地回援を熱望していたのである。
写真(右)1941年10月8日,ビルマヨキ、ベルマ(Verma)川近く、フィンランド軍のトラック輸送隊:未舗装道路の周辺は、森林と夏場の雪解けの泥濘で交通は制約される。トラックや自動車もあるが、燃料制約や戦時における輸入の困難さ、森林・沼沢地の広がり、未整備道路の多いことを考えると、馬による輸送はフィンランドにとって重要な意味を持っていた。
Tykistöammusten lastausta Voittojoen ja Vermajoen välillä. Vrt. Roivaisen mustavalkoiset SA-kuvat 56114-56116, joista tiedot. Värikuvien selosteessa: Tykistön auto lastaa Karhussa. Alakurtti (Salla) - Vilmajoki, lokakuu 1941. Kuvalle toinenkin värikuvaseloste: Tykistöammusten lastausta Voittojoen-Vermajoen vAlakurtti (Salla) 1941.09.26
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1941-10-08
Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Museot Finna, sa-kuva-166338引用。
フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は,戦争遂行にあたって、イギリス・アメリカとの対決には至らないように配慮していた。そこで、1941年7月4日のアメリカ独立記念日に,フィンランドの戦争目的について、次のように釈明している。
1) フィンランドは, ドイツを軍事同盟国としてではなく、共同交戦国として、ソ連と戦争をしている。
2) 1940 年の冬戦争の講和は、フィンランドの戦略的な立場を大幅に低下させ、独立を危機に陥れた。そこで、自国の防衛を全うするためには、カレリア地峡(Karelian Isthmus)の確保が必要である。ただし、ソ連のレニングラードの戦略的な立場を理解し、国境は1939年の冬戦争開戦時よりも東には進ませない。
3) ドイツの侵攻を受けたソ連の敗北は確実であり,ポリシェヴイズム・共産主義の完璧な粉砕は世界全体に利益をもたらす。
1941年6月末に始まった継続戦争に於て、ソ連に侵攻したフィンランド軍は、瞬く間に1939年当時の旧国境まで進軍し、1940年の冬戦争で失った国土を取り返した。そして、1939年の旧国境を越えて、引き続き弱体化しているソ連軍を追って進撃を続けた。フィンランドは,中東部の東カレリア地方では、旧国境を遥かに超えて占領地を拡大しており、これは当初の戦争目的である失地回復・国土奪回を超えた侵略的行為である。ノルウェー駐留ドイツ軍とともに、ぺツァモ(Petsamon lääni)からムルマンスク攻略にも進撃した。にもかかわらず、フィンランドは、占領地の拡大は、フィンランドの領土と国境を守るための正当な外延的防御線の移動であり、防衛的な行動であると弁明した。1941年8月21日、フィンランド外務大臣ヴィッティングは、アメリカ公使に対して、フィン ランド政府は,東カレリア地方の占領地拡大は、軍事戦略上、ドイツ軍によるレニングラード占領に重なるものであること、その時に、フィンランドは,ソ連と単独和平をすることはなく,1918年から1921年にかけてのロシア革命と反革命の時代と同じように、武装平和を維持する必要があること、を説いた。換言すれば、ドイツが対ソ戦争に勝利を収めれば、ソビエト連邦が崩壊し、共産主義ボリシェビキも壊滅させられるのであって、この将来構想を前提に、フィンランドの独立は、確固たる基盤を持つに至ると予言したのである。
写真(右)1942年、フィンランド、ヘルシンキ、フィンランド軍の土嚢を積み上げた対空陣地に設置されたスウェーデン製1931年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/33ss(Bofors)):ボフォース76.2ミリ高射砲は、ドイツの8.8センチ高射砲と似た形状であり、両者の開発のつながりが窺われる。ベルサイユ条約で新型兵器の開発を禁じられたドイツは、ひそかにスウェーデンやスイスで新型火砲など兵器開発を行った。1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけたフィンランドは、レニングラード近郊まで侵攻した。
33. Rask.It.Ptri, Helsinki, Kasapelto, tykki 76 ItK/33ss. Kuvattu keväällä 1942. Alkuperäisestä kuvatekstistä poiketen kuvassa on neuvostoliittolainen 76 mm:n raskas ilmatorjuntakanuuna vuodelta 1931 (76 ItK/31 ss).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Kapteeni Leo Vepsäläinen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-49471引用。
たしかに、1941年夏の継続戦争勃発当時、アメリカの軍事指導者の多くもソ連に侵攻したドイツ軍の進撃速度、100万をこえる捕虜の獲得、ソ連軍の壊滅的損害に目を奪われ、ソ連の崩壊は間近であると予測していたのであるから、フィンランドが同様に継続戦争に勝利するまで、戦争を闘い続けることは、十分予測できたのである。楽観視していたフィンランドは、対ソ連戦争勝利の後に、イギリス、その後参戦したアメリカと講和すればよいと考えており,ソ連との戦争途中の休戦や講和は問題外であるとし、強気の姿勢で外交に臨んでいたのである。
写真(右)1941年9月5日、フィンランド、フィンランド軍の使用したスウェーデン製1927年式ボフォース76.2ミリ高射砲(76 ItK/27 (Bofors))と野戦起動用の砲架車輪:ボフォース76.2ミリ高射砲は、ドイツの8.8センチ高射砲と似た形状であり、両者の開発のつながりが窺われる。ベルサイユ条約で新型兵器の開発を禁じられたドイツは、ひそかにスウェーデンやスイスで新型火砲など兵器開発を行った。1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけたフィンランドは、レニングラード近郊まで侵攻した。
Porlammin motista sotasaaliiksi saatu ilmatorjuntatykki. Heikki Roivaisen nimellä löytyy värikuvaseloste Värivalokuvia Sommeen-Porlammin motista 5.9.1941. Kuvaselosteen mukaan kuvia 63 kappaletta, tämä todennäköisesti yksi niistä. Kyseessä 76 mm:n neuvostoliittolainen raskas ilmatorjuntakanuuna vuodelta 1931 (76 ItK 31 ss)..
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1941-09-05
Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166360引用。
写真(右)1943年6月27日、フィンランド、カレリア地峡北端、イマトラの南2キロにある製鉄所を防衛するフィンランド軍のイタリア製ブレダ1935年式20ミリ65口径対空機関銃:ブレダ(Breda) 20/65 modello 35をイタリアから輸入したフィンランドは、1935年式ブレダ対空機関銃 (Breda m35)として制式した。後方には、製鉄所の煙突があり、操業中なのか煙がたなびいている。
Vuoksenlaakso. 20 mm:n ilmatorjuntatykki asemissa Vuoksenniskan tehdasalueella. Tiedot värikuvien selosteesta. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 132255. Kuvassa etualalla Cannone-Mitragliera da 20/65 modello 35 (Breda) -ilmatorjuntatykki (Breda m35). Paikka Imatran Teppanalassa, Rautatehtaan eteläpäässä ja kiikarointisuunta Vuokselle Vallinkoskelle. Vallinkoski sijaitsee vajaan kilometrin etäisyydellä. Yhtiö on Oy Vuoksenniska Ab.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-06-27
Niilo Helander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-83388引用。
1917年のロシア社会主義革命によって、ロシア皇帝(ツァーリ)ニコライ2世は、1917年3月15日に退位した。そして、ロシア帝国の内紛とレーニン率いるボリシェビキの民族独立の方針に乗じて、フィンランド国会が設置され、11月15日にはフィンランド独立宣言が発せられ、共和制憲法の下で、独立国となった。新ロシア政府も1917年12月22日、フィンランドの独立を承認した。こうして、フィンランドが、革命後のロシアから独立したときに、レニングラード北西方のカレリア地方は、フィンランド領となった。その後、1939年に冬戦争が始まり、1940年の冬戦争敗戦を迎え、フィンランド領だったカレリア地方は、ソ連に奪われた。しかし、1941年8月、復讐戦となった継承戦争の緒戦で、フィンランドは攻勢をかけて、カレリア地峡をソ連から奪還した。フィンランドは郷土回復を祝ったのである。
写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )::女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Ilmavalvontalotta Ellen Kiuru Lahdenpohjan ilmavalvontatornissa. Tiedot teoksesta Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 23.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-07-11
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165967引用。
フィンランドは、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Continuation War)を始め、南東のカレリア地方に侵攻し、ソ連国境レニングラード方面に進撃し、8月中には、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)を解放、奪回した。
1939-1940年の冬戦争でフィンランドは敗北、カレリア地峡、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)もソ連領となった。フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。
写真(右)1942年7月11日、フィンランド・ソ連国境、カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤの航空監視塔の女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )::女性航空監視員エレン・キウル(Ellen Kiuru )のカラー写真は、フィンランド国防軍のアーカイブに8枚が収録されている。カレリア地峡、ラトガ湖北西岸ラフデンポヒヤは、レニングラード北方180キロに位置するが、現在は、ロシア連邦カレリア共和国の領土である。
Kuva Lahdenpohjan ilmavalvontatornista, jossa kuvattiin ilmavalvontalottia. Kuvassa ilmavalvontalotta Ellen Kiuru. Ks. teos Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 23..
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-07-11
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165793引用。
ドイツは「バルバロッサ作戦」を発動、1941年6月22日、ソ連に侵攻した。この時、フィンランドは形勢を見るためにも、ソ連攻撃を躊躇した。しかし、フィンランドの独ソ戦中立の表明にもかかわらず、フィンランドの親ドイツの立場は明らかであり、ドイツ軍がフィンランド領内に駐留していることも、ソ連側はスパイ情報によっても明らかに知っていたであろう。
実際、フィンランド領内のドイツ空軍機がソ連に対する空襲を仕掛けており、ソ連はフィンランドの反ソ連軍事行動を掣肘するために、フィンランド領内の軍事基地を空襲した。これは、当然の認められるべき報復攻撃である。しかし、フィンランドは、ソ連による不法攻撃であるとの口実で、1941年6月25日、ソ連に宣戦布告した。
写真(右)1944年7月24日、フィンランド、火のカンナの戦いで栄誉を受けた対空部隊のドイツ製1930年式20ミリ対空機関銃(20 ItK 30 BSW)。操作する4名の隊員は、暑いのか上半身裸である。:左側の兵士は、20ミリ機銃弾の入った箱型弾倉をもって、装填の準備をしている。フィンランド軍が使用したドイツ製1930年式20ミリ対空機関銃は、フィンランド軍では20 ItK 30 BSWの名称で採用された。
``Tulta ́ ́. Kannaksen taistelussa kunnostautuneet ilmatorjuntamiehet ovat saaneet viholliskoneita näkyviin. Saksalainen 20 mm:n ilmatorjuntatykki vuodelta 1930 (20 ItK 30 BSW).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-24
Vänrikki S.K.Syhlman, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108712引用。
ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北しており、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の際に、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と会戦するはずがなかった。1941年7月、総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻した。
写真(右)1942年3月21日、湖沼湿地におけるフィンランド軍スキー部隊とマキシム7.62ミリM1931連装対空機関銃(m/31:7,62 ITKK 31 VKT):フィンランド軍の開発した1932年にマキシム(Maxim)M/32あるいはM/33機関銃は、毎分850発の発射速度で、ソ連軍のマキシムM1910機関銃の発射速度(毎分600発)よりも速かった。これは、新型の金属製給弾ベルト、マズルブレーキの採用によって可能になった。
It.KK Märkäjärvellä. Kyseessä 7,62 mm:n kaksoisilmator-juntakonekivääri m/31 (7,62 ITKK 31 VKT).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-114174引用。
「継続戦争」と称しているのは、フィンランドのみであり、これは第二次世界大戦の一環としての枢軸国ドイツ・フィンランドと連合国ソビエト連邦との戦いである。フィンランドは、ドイツの同盟国として、ファシズム枢軸国の側に立って、第二次世界大戦に参戦したのである。
写真(右)1942年7月16日、フィンランド・ソ連国境、ラドガ湖北、ルット(Lutto)の川船に乗せられて搬送されるフィンランド国防軍の負傷兵:川のボートで負傷者の運送。 / Luto(Atslemjaur)との負傷した交通機関。同じ状況から、1942年7月からの99190からの白黒SA-画像。撮影時期は、16.7.1942と思われる。 1942年7月13日から21日の間のカラー画像がアーカイブにある。
Haavoittuneen kuljetus jokiveneessä. / Haavoittuneen kuljetus Lutolla (Atslemjaur). Samasta tilanteesta Roivaisen mustavalkoinen SA-kuva 99190 heinäkuulta 1942, josta tiedot. Ajankohta todennäköisesti 16.7.1942. Värikuvien selosteessa ajankohtana 13.-21.7.1942..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1942-04-13
Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166462引用。
愛国的な「冬戦争」では、フィンランドは善戦したが、これはソ連赤軍の指揮系統の柔軟性がなく戦術的な失敗を繰り返したこと、ソ連赤軍の兵士の士気が低いこと、ソ連製の兵器が時代遅れで旧式なものだったこと、が原因とされた。たしかに、フィンランドは、1940年3月12日のモスクワ講和条約により3ヶ月で敗北し、カレリア地方などをソ連へ割譲し、ハンコ半島の港湾をソ連租借地とするなど、領土割譲要求をのまざるを得なかったが、ドイツも連合国もソ連軍が弱体であるとの認識を確認するに至った。フィンランド軍は奮闘し国家の独立を維持したのではあるが、それは、ソ連軍が弱かったからであると考えられた。
1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Jatkosota)を仕掛けたのは、フィンランドであり、イギリスとは戦わない、第二次世界大戦への参戦ではなく、ソ連との二国間戦争であるというのは、国際的には通用しない詭弁であり、ドイツと戦うソ連に対していち早く軍事援助を開始するとしたイギリスは、ソ連の同盟国として、フィンランドの対ソ攻撃を許さなかった。
第二次世界大戦中の1941年6月25日から1944年9月19日にかけて、ソビエト連邦とフィンランドの間で第2次ソ芬(ソ連・フィンランド)戦争が戦われた。これは、第二次世界大戦の一局地戦であり、独立した「戦争」ではない。ソビエト連邦でも、この戦争は、枢軸国ドイツ・ハンガリー・ルーマニア・フィンランドなどと戦った大祖国戦争(独ソ戦)の一環と見なされている。しかし、フィンランドは、イギリスとの戦争状態を回避する方便として、1939年のソ連によるフィンランド侵略を継承するソ連との二国間戦争「継続戦争」(フィンランド語: jatkosota)と呼称している。現在、日本やアメリカ・西欧諸国では、反共産主義、反ロシア感情からか、小国・民主主義国フィンランドへの同情からか、フィンランド側の言う「継続戦争」の呼称を多用している。
フィンランドでは、継続戦争開始後、 IKL (愛国人民同盟)、AKS(カレリア学徒会〉といった右翼団体は, フィンランド軍が新たにソ連の東カレリアまで進軍し、そこに住む同族のフィン人を併合して、ボスニア湾から白海にわ たる「大フィンランド」(Suur-Suomi) を建設することを提唱した。
フィンランドは、「冬戦争」の敗北後、ソ連に対して領土復活のための復讐戦争を計画し、マンネルハイム元帥の下で、軍事力を強化した。特に、1940年に、ドイツ軍が、ノルウェー、デンマーク、オランダ、ベルギー、フランスを占領し、大陸を制覇すると、ドイツとソ連の対立が予期される状況になった。そこで、フィンランドは、ナチス・ドイツに接近し、ドイツとの同盟の元にソ連軍に対峙する姿勢を見せた。フィンランド軍は、10個師団以上を編成し、国民義勇軍として、女子や学徒も動員することで、総兵力50万人となった。
写真(右)1942/1943年、フィンランド、ヘルシンキ、進駐した休暇中と思われるドイツ軍将兵がフィンランド婦人と話している。:フィンランドと同盟したドイツ陸軍兵士が、ヘルシンキ市街で寛いで話している。頼りになるフィンランドの同盟国としてのプロパガンダである。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-101-0849A-06
Archive title: Finnland, Helsinki.- Bahnhof. Verabschiedung, Soldaten (Gebirgsjäger) und Einwohner auf dem Bahnsteig; PK 680
Dating: 1942/1943
Photographer: Krumme
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブ,Bundesarchiv> Picture database Signature: Bild 101I-101-0849A-06 引用。
当時のフィンランド大統領リュティ, 首相ランゲル(J. W. Rangell),外相ヴイツティング(R.J. Witting)は、1941年6月22日のドイツのソ連侵攻を歓迎したようだ。1943年にリュティ大統領の下で首相に就任したリユノコミエスは,回顧録の中で,独ソ戦争の第一報を受けた6月22日について、次のように述べている。「その時すぐに私は,フィンランドが戦争の埒外に留まることはない, と結論した。----私にとって、この成行きを拒否する態度はありえなかった。ドイツが比較的短期間にソ連を打ちのめし,それに伴って,あらゆる権利を踏みにじり、フィンランドから暴力でもぎ取ったカレリアを奪回する機会がフィンランドに訪れるのは礎実と思われた。」
写真(右)1942/1943年、フィンランド、ヘルシンキ、フィンランド婦人と交際するドイツ海軍の水兵:フィンランドと同盟したドイツの水兵が休暇中なのか、ヘルシンキ市街で寛いでいる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-101-0847-14
Archive title: Finnland, Helsinki.- Zwei Marinesoldaten mit Frauen auf einer Parkbank sitzend; PK 680
Dating: 1942/1943
Photographer: Krumme
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブ,Bundesarchiv> Picture database Signature: Bild 101I-101-0847-14引用。
フィンランド軍とフィンランド派遣ドイツ軍の間には、連絡将校も配置され、協力関係が構築されていた。しかし、フィンランドは,レニングラードに対する積極的攻撃は行わなかった。これに対して,国防軍総長ヴィルヘルム・カイテルは、カレリア地峡でフィンランド軍が有利な地位にあることから、 1941年8月下旬,フィンランド軍総可令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥に対して、北方からレニングラードを攻撃し、南方から攻撃するドイツ軍と挟撃することを提案した。フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は,レニングラードへの積極的な攻撃は、フィンランド国民からの支持を得られるとは考えておらず、なによりドイツ軍が独力でレニングラードを陥落させ、フィンランドはソ連崩壊の利益を享受できると予測していた。そこで、マンネルへイム元帥も、その意向を組んで、1941年8月28日、フィンランド軍によるレニングラード攻撃は実施できないことをドイツ側に伝えた。しかし、このことは、フィンランド軍をカレリア地峡に展開し、間接的にレニングラード包囲網を構築することを放棄したものではない。
写真(右)1942年4月13日、物資をトナカイや橇を使って運搬するフィンランド軍スキー部隊の兵士:トナカイに曳かせる荷物運搬用木製橇に、野営で使ったテントや寝袋などをきつく丸めて輸送する。
Raito seuraa hiihtäjiä. Vrt. mustavalkoiset SA-kuvat 82006-82008, joista tiedot. Roivainen itse kuvassa 82010.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1942-04-13
Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-165773引用。
フィンランドは、1941年6月22日、ドイツによる「バルバロッサ作戦」ソ連侵攻について、中立を宣言していたが、実際には、フィンランド国内にドイツ軍を駐留させ、そこからソ連に対する空襲を黙認していた。そこで、ソ連空軍の報復攻撃を受け、それを参戦の口実にして、1941年6月26日に第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Continuation War)を、かねてからの計画通りに遂行した。つまり、冬戦争の敗北を注ぐための、対ソ連反ボリシェビキ戦争の開始であり、割譲を強要された領土奪回のための愛国的戦争の始まりである。
写真(右)1942年4月13日、ロシア北部、ムルマンスク州ペチェンガ、フィンランド軍スキー部隊の野営地の撤収作業:フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連領の東カレリアに攻撃をかけた。
Osasto (Erillinen Osasto P) vetäytyy pois valtaamaltaan alueelta ja miinoittaa vanhat asemansa. Räjähdysainereki on ajanut eteen ja miehet valmistautuvat laittamaan ansojaan ryssille. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 81899, josta tiedot. Värikuvien selosteessa: Pioneerit ryhtyvät miinoittamaan korsuja, huhtikuu 1942 (Er. Os. P.). Äärioikealla Aarno Tervo.
Lisää
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-04-13
Heikki Roivainen, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166448引用。
フィンランド軍は、冬季装備としても、ウィンタースポーツとして盛んだったスキーヤーを活かして、スキー部隊を編成し、自動車燃料の不足を前提に、自転車部隊、馬匹・トナカイ輸送部隊も編制した。生活にゆとりのあった北欧諸国では、スポーツ文化、余暇・レジャーを楽しむ風潮があり、これになじんだ人々を適材適所兵士・専門家・補助部隊などに動員した。ラップ人もトナカイ部隊の編制に動員され、女子も極北の対空・気象監視員として戦争に協力している。
2.フィンランド海軍の装甲海防艦「イルマリネン」「ワイナミョイネン」
写真(上)1937年5月頃、イギリス、ポーツマス港(?)、ジョージ6世(George VI)戴冠式記念観艦式、フィンランド海軍の装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)、右スウェーデン海軍装甲海防艦「ドロットニング・ヴィクトリア」 (Drottning Victoria)、奥デンマーク海軍装甲海防戦艦「ニールス・ユール」 (Niels Iuel):1936年退位のイギリス王エドワード8世を継いだ新国王ジョージ6世の戴冠式記念観艦式が、1937年5月20日イギリスのスピットヘッド沖で、挙行された。参加艦艇は、イギリス100隻以上、フィンランド海軍装甲海防艦「イルマリネン」、スウェーデン海軍装甲海防艦「ドロットニング・ヴィクトリア」のほか、フランス海軍戦艦「ダンケルク」、ドイツ海軍ポケット戦艦「グラーフ・シュペー」、デンマーク海軍装甲海防戦艦「ニールス・ユール」、アメリカ海軍戦艦「ニューヨーク」、ソ連海軍戦艦「マラート (Marat)」、日本海軍重巡「足柄」など招待国の18隻が集まった。
Panssarilaiva Ilmarinen; Tilannekuva
Kontio Jorma, skannaaja 1937
Juhlaliputettu panssarilaiva ankkuroituna, taempana kaksi muuta saman kokoluokan sota-alusta. vaaka
Subject detail
Tilannekuva
Subject place
Englanti
Subject date
Toukokuu 1937
Organisation
Forum Marinum
Collection
Forum Marinumin kuvakokoelma
Inventory ID
FMV50:69
Measurements
4463 x 3120
Photo info:
Toukokuu 1937
Kontio Jorma, skannaaja
Koululaiva Suomen Joutsenen VII valtamerimatka.
写真は,Finnish Defence Forces, Forum Marinum sa-kuva-89327引用。
フィンランド海軍の国産イルマリネン級 装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)は、前・後甲板にスウェーデン製ボフォース25.4センチ(10インチ)連装砲各1基合計4門、副砲のボフォース10.5センチ連装高角砲各1基合計4門を搭載している重火器戦闘艦艇であるが、基準排水量は3,900トンと軽巡洋艦よりも小型である。このような外洋航海の困難な装甲海防艦は、北欧・ソ連のように、フィンランド湾、ボスニア湾、バルト海のような狭い海域を戦場と想定した海軍が建造している。
写真(右)1940年3月10日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)のイギリス製ヴィッカース 40ミリ39口径連装機関砲銃座の水兵:照準器は照星式で砲側照準だけのようだが、第二次大戦直前から、機銃管制指揮塔によって、複数の機銃座を連携して操作する方式も普及していた。
Tämän aineiston tarjoaa
Sotamuseo Ota yhteyttä
Panssarilaiva Ilmarisen konetykki.
Tuntematon, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1940-03-10
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-9694引用。
フィンランド軍は、イギリス製ヴィッカース QF 2ポンド砲、別名2ポンド・ポンポン砲をヴィッカース40ミリ39口径機関砲として採用した。これは、日本海軍も「毘式四十粍機銃」の名称で採用した対空用機関砲である。発射によって過熱した銃身を冷却するために、銃身の周囲に水を通す管が撒いてあり、銃身が太く見える。これが、水冷機関銃の特徴である。
弾丸は、40ミリもあるために、鉛玉だけではなく破裂する榴弾も準備されていた。装弾方式はベルト給弾で、35発入り布ベルトが使用されている。イギリス海軍は、このヴィッカース40ミリ機関砲を8連装にした大型銃架を戦艦、巡洋艦に搭載していたが、フィンランド海軍も日本海軍も、単装のみを採用した。
写真(右)1941年3月11日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)舷側に装備されたボフォース10.5センチ連装高角砲と操作要員:後方には、弾薬が弾頭を上にして格納されている。砲塔は後方が開放されており、弾片・破片からの防御には不十分であるが、操作性、視界確保。弾薬運搬の観点から密閉式とはしなかった。
Panssarilaiva Ilmarisen ilmatorjuntatykki (105 mm:n Bofors).
Tuntematon, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-03-11
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108712引用。
フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)は、フィンランドのクライトン・フルカン社トゥルク造船所で1927年8月に起工、1932年12月28日に就役した装甲海防艦で、基準排水量3,900トン、全長93メートル、全幅17メートルは駆逐艦並みの大きさ。最高速力は14.5ノットと小型護衛艦や掃海艇よりも低速で、吃水は5メートルと浅いために遠洋航海は不可能である。しかし、主砲は強力でスウェーデン製ボフォース25.4センチ(10インチ)連装砲2基を搭載しており、建造当初からフィンランド湾のような近海での航行を前提に、海上移動砲台として構想されている。
写真(右)1941年3月11日、フィンランド沖、フィンランド海軍 装甲海防艦「イルマリネン」の副砲ボフォース10.5センチ連装高角砲と操作要員:後方には、弾薬が弾頭を上にして格納されている。航空機を射撃するために、仰角を大きくとったまま弾薬を装填できるのがこの高角砲の特徴である。他方、同時代の日本海軍の12センチ砲は、高角砲のように使用できたが、それは仰角を大きくとる事ができただけのことで、重量のある弾丸を装填するには、砲身を水平に戻さないできなかった。
Panssarilaiva Ilmarisen 105 mm:n Boforsin ilmatorjuntatykki.
Tuntematon, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-03-11
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108715引用。
フィンランド海軍でもっとも大型の軍艦であるイルマリネン級 装甲海防艦の「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の命名は、フィンランド国民叙事詩「カレワラ」に登場する英雄イルマリネンに因んだもので、同型艦[ワイナミョイネン」(Väinämöinen)も民族叙事詩「カレワラ」に登場する魔力を持つ賢者の名前に由来している。
写真(右)1941年3月11日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)副砲のボフォース10.5センチ連装高角砲と操作要員:後方には、弾薬が弾頭を上にして格納されている。高射砲座指揮官は、レシーバーと音声伝達管を装着している。日本海軍は、伝声管を使用しており、小型の携帯マイクを実用化できるだけの技術も工業力も備わっていなかった。
""Panssarilaiva Ilmarisen 105 mm:n Boforsin ilmatorjuntatykki.
Tuntematon, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-03-11
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108716引用。
フィンランド軍は、装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)に装備する主砲、高角砲、対空機関銃に国産に固執しなかったために、ドイツ、イギリス、スウェーデン、デンマーク、イタリアから優秀な外国製品を選んで輸入して、配備することができた。
写真(右)1941年3月11日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)のイギリス製ヴィッカース 40ミリ39口径対空機関砲と操作要員:装甲海防艦「イルマリネン」の対空兵装は強力で、スウェーデン製ボフォース 105ミリ50口径連装両用砲4基8門、イギリス製ヴィッカース 40ミリ60口径連装機関砲1基、同単装機関砲1基、合計3門、デンマーク製マドセン 20ミリ単装機銃2基である。40ミリ機関砲の射撃照準装置と弾薬給弾ベルトが良くわかる。
Panssarilaiva Ilmarisen konetykki.
Tuntematon, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Photo info:
1940-03-11
Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108711引用。
フィンランド軍装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)の搭載したイギリス製ヴィッカース40ミリ39口径連装機関砲の原型はヴィッカースQF2ポンド・ポンポン砲(Vickers QF 2 pounder "pom-pom" gun)で、1892年に制式された初期型を発展させたMk.IIは、重量239 kg、全長95.6インチ(2,430 mm)、口径40 mm、銃身長1,574.8 mm (39.37口径) 、発射速度
200発/分、銃口初速2,040 フィート(620 m/s)、最大射程 6,220 m(6,800ヤード)。
写真(右)1941年7月1日、フィンランド沖、迷彩塗装をしたフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」:左手前は、僚艦の装備したデンマーク製マドセン(Madsen)20ミリ60口径機関銃。艦名の「ワイナミョイネン」とはフィンランドの国民叙事詩「カレワラ」の登場人物の魔力を持つ賢者の名前。
""Väinämöinen"" Fred. Runeberg, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Photo info:
1941-07-01
Fred. Runeberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-89327引用。
フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦の装備したデンマーク製 マドセン(Madsen)20ミリ60口径機関銃は、重量55キロ、全長2.5 m、銃身長(Barrel length)1.2 m、弾薬20 x 120 mm、弾薬重量0.29 kg (10 oz) APあるいは0.32 kg (11 oz) HE、口径20 mm、冷却方式 空冷、最高発射速度400発/分、銃口初速900 m/秒、有効射程500 m 、最大射程2,123 m (6,965 ft) 。
写真(右)1941年7月1日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen" )前甲板のスウェーデン製ボフォース25.4センチ(10インチ)連装砲1基2門、副砲のボフォース10.5センチ連装高角砲1基2門、艦橋脇にはデンマーク製マドセン 2センチ対空機関銃2丁を装備。:
""Väinämöinen"" Päivämäärä epäselvä Fred. Runeberg, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Photo info:
1941-07-01
Fred. Runeberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-73735引用。
フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦である「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の主砲は、スウェーデン製ボフォース25.4センチ(10インチ)連装砲を前甲板と後甲板に各々1基合計2基4門を搭載し、副砲はボフォース10.5センチ連装高角砲4基8門で、ヴィッカース40ミリ滞空機関砲も装備するなど、小型戦艦並みの強力な火力を持つ。最高速力は僅か14.5ノットで商船並みの低速、航続距離も10ノットで700マイルと小艦艇以下でしかない。
写真(上)1941年7月1日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen" )のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲塔と脇に立つ司令官:砲塔・砲身には迷彩塗装は施されていない。
""Väinämöinen"" Päivämäärä epäselväo
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1941-07-01 Runeberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-73754引用。
フィンランド海軍装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の諸元
基準排水量 3,900トン、常備排水量 4,100トン、全長 93.0メートル、水線長 90.0メートル、全幅 16.9メートル、吃水 4.5メートルという大きさは、列国の軽巡洋艦並みだが、搭載した主砲は、スウェーデンの兵器メーカのボフォースが開発した1929年式25.4センチ(10インチ)46口径二連装砲塔2基、同じくボフォース 10.5センチ50口径連装高角砲4基と、砲撃能力は非常に強力である。
しかし、搭載した発動機は、ドイツの ゲルマニア社 ディーゼル・エレクトリック方式ディーゼル機関4基と電気モーター2基の2軸推進である。この機関の最大出力は4700馬力(3,500kW)と1000トン級の駆逐艦の出力2万馬力の四分の一の4,700馬力しかない。そのため、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」の最高速力は僅か15ノットと掃海艇や輸送船並みの低速で、搭載燃料は少なく航続距離は700マイルと飛行機並みの近距離行動しかできない。
写真(右)1941年7月1日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen" )のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲塔と脇に立つ司令官:砲塔・砲身には迷彩塗装は施されていない。
""Väinämöinen"" Päivämäärä epäselväo
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
1941-07-01
Runeberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-9719引用。
フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")の発動機であるディーゼル・エレクトリック方式とは、ディーゼル機関で発電機を駆動し、電気で電動機を回して推進力を得る。鉄道では、電気式ディーゼル機関車が採用している。
電動機を使用することで、速力の増減や急速発進尚が容易にできる上に、内燃機関に比べディーゼル機関は、燃費が高いという利点がある。ただし、大出力を発揮するには、熱、運動、電気、回転とエネルギー転換が多いために効率が悪く、起工が複雑化するために、高速艦艇には向いていなかった。
フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")の主砲は、ボフォース設計になる1929年式25.4センチ(10インチ)46口径二連装砲塔である。10インチの弾丸(重量225キロ)は、最大仰角45度で3万3,140メートルの最大射程を飛翔する。砲身の射角は、仰角45度から俯角10度までで、砲塔の旋回角は、左右150度である。発射速度は毎分2発から3発、装填は弾丸と薬莢が分離しているので時間がかかる。
イルマリネン級 装甲海防艦(Panssarilaiva )の「イルマリネン」(Ilmarinen)の装備した対空砲は、スウェーデンのボフォースが開発した1932年式10.5センチ50口径両用連装高角砲4基である。砲弾(重量16キロ)を最大仰角85度で最大到達高度1万2,000メートルまでうちあげることができるほか、水上艦艇に対しても仰角45度で最大射程1万8,200メートルまで砲弾が届く。操作は、電動旋回・電動仰角で旋回角度は左右100までで、俯仰は最大仰角85度・俯角10度である。機械式装填なので、発射速度は毎分15発と高い。
写真(右)1941年7月28日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)の艦橋脇で、インタビューを受けるフィンランド海軍水兵:軍服を着たレポーターが録音用マイクを手にして、インタビューをしている。艦橋脇にデンマーク製マドセン20ミリ対空機関銃1丁が僅かに見えている。
Panssarilaiva Ilmarinen
Armas Jokinen, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Photo info:
1941-07-28
Fred. Runeberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-87920引用。
フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦(Panssarilaiva )「イルマリネン」(Ilmarinen)は、1927年発注、フィンランドのクライトン・フルカン社トゥルク造船所で1929年9月に起工、1931年6月9日進水、1934年4月17日に就役した装甲海防艦で、基準排水量3,900トン、全長93メートル、全幅17メートルは駆逐艦並みの大きさ。 吃水は5メートルと浅くフィンランド湾のような内海での航行を前提にした海上移動砲台として構想されている。
主砲は、スウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲2基4門で、副砲はボフォース10.5センチ連装高角砲4基8門で、小型戦艦並みの強力な火力を持つ。機関は、クルップ社ディーゼル電気機関4700馬力を搭載、最高速力は14.5ノット、航続距離も10ノットで700マイルと低速で行動半径も小さい。
装甲海防艦「イルマリネン」は、フィンランド海軍最大級の軍艦であり、1933年5月1日から1941年9月13日の機雷による撃沈まで、フィンランド海軍の旗艦の栄誉を担っている。
装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)の1941年9月13日、装甲海防艦「イルマリネン」は、ドイツ海軍とともに、バルト海のエストニア沖サーレマー島(Saaremaa:面積2,700平方キロ)とヒーウマー島(Hiiumaa:面積1,000平方キロ)攻略作戦に参加した。その際、掃海作業の最中に、機雷が爆発し撃沈、水深70メートルの海底に逆さに沈没した。 乗員のうち271名が戦死し、警備艇第1号に救われたのは132名だった。
写真(上)1942年6月28日、フィンランド沖、海上で主砲を試射するフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen"):1941年に比較して、1942年の迷彩塗装の範囲・パターンが変化しているのが分かる。
""Väinämöinen"" ampuu järeillä.
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Photo info:
1942-06-18
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-11852引用。
ドイツのソビエト連邦侵攻は、1941年6月22日だが、フィンランドは、1939年11月30日から1940年3月12日の対ソビエト冬戦争に敗北していた。冬戦争に敗北したフィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、今度は、その報復として、1941年6月26日から1944年9月19日にかけて、ドイツとともに対ソビエト継続戦争を戦った。冬戦争の2カ月前から、イギリスもフランスも連合国として、ドイツと第二次世界大戦を戦っていたが、ソ連とは戦っておらず、あえてフィンランドを助けるために、ソ連と開戦するはずがなかった。
写真(右)1942年6月18日、フィンランド沖の海上でスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲を左右交互に試射するフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen"):上の写真と比較すると、連装砲を交互に射撃していること、砲弾を装填するには、砲身を水平に戻さないといけないことが見て取れる。前年の1941年9月13日、「ワイナミョイネン」同型艦でかつてフィンランド海軍旗艦だった「イルマリネン」は機雷により撃沈されてしる。
""Väinämöinen"" ampuu järeillä.
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Photo info:
1942-06-18
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-11851引用。
1941年7月、フィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の指揮の下、フィンランド軍は、フィンランド南東部、ソ連に割譲させられていたカレリア地方を攻撃し、再占領し、冬戦争で奪われた領土を取り戻しつつあった。
写真(上)1942年6月20日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲の砲身清掃作業をする水兵: 小銃のライフル部分を洗浄・掃除する洗い矢と同じで、砲身内面の清掃を行うための棒ブラシ状の棒を砲口から挿入して砲身内部を清掃している。砲塔と砲身にも迷彩塗装が施されている。艦橋近く上部にはボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。
Tykkien jynssäystä.
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja.
Organisation
Military Museum
Photo info:
1942-06-20
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-12634引用。
フィンランド海軍でもっとも大型の軍艦であるイルマリネン級 装甲海防艦「イルマリネン」(Ilmarinen)の命名は、フィンランド国民叙事詩「カレワラ」(Kalevala)に登場する英雄イルマリネン(Ilmarinen)に因んだものである。
装甲海防艦[ワイナミョイネン」(Väinämöinen)も民族叙事詩「カレワラ」に登場する魔力を持つ賢者の名前に由来している。ワイナミョイネン(Väinämöinen)は、フィンランドの民間伝承と国民的叙事詩『カレワラ』に登場する老賢者にして、魔力を秘めた声の持ち主にして、フィンランドの英雄である。
「カレワラ」(Kalevala) は、19世紀に、医師エリアス・リョンロート(Elias Lönnrot:1802-1884)が17世紀以来の古い民間伝承を編集したフィンランド語の叙事詩で、デンマーク、スウェーデン、ロシアの支配下にあった少数民族としてのフィンランド人の固有の文化を象徴するものである。主要人物のワイナミョイネン、イルマリネン、レンミンカイネンは、人間生活を営んではいるが、超人的な能力をもち、フィンランド人を率いて英雄的な行動をとる超人である。
写真(上)1942年6月16日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲塔脇で整列して司令官を迎える乗員たち:砲身には迷彩塗装が施されている。
Aamuhartauteen järjestäydytään. Tilaisuutta juhlistaa pastorin läsnäolo
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-9719引用。
フィンランド民族叙事詩「カレワラ」に登場するワイナミョイネン(Väinämöinen)は、不滅の屈強な賢者として、白髭の長老として描かれる。知識と魔法の力により、英雄としてふるまい、その言葉は教訓・訓戒そのものである。
フィンランド民族叙事詩「カレワラ」に登場するイルマリネン(Ilmarinen)は、不滅の屈強な匠(たくみ)であり、壮年の鍛冶屋として描かれる。ワイナミョイネンに必要な道具も、魔法の鍛冶の能力で生み出すことができる。
他方、現実のフィンランド軍は、兵器の国産に固執しなかったために、ドイツ、イギリス、スウェーデン、デンマーク、イタリア、ソ連から優秀な外国製品を選んで輸入あるいは鹵獲して、前線部隊に配備することができた。
冬戦争、継承戦争の時のフィンランド軍は、急遽購入した外国兵器、ソ連から戦時中に鹵獲した兵器など、非常に多様な雑多な兵器のを寄せ集めて使用した。そこで、各種口径、弾薬、部品、発動機など整備と補給には手間がかかったであろうが、本土周辺でしか戦わず、遠征軍を遠方に派遣したこともなかったために、混乱は最小限に止められたようだ。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲塔脇で整列して司令官を迎える乗員たち:陽光の当たり具合の変化で、木製甲板の様子がよくわかる。フィンランドは、用材(針葉樹)の輸出国でもあり、自国の大型艦には念入りに上質なホクザイを選んだのであろう。
Aamuhartauteen järjestäydytään. Tilaisuutta juhlistaa pastorin läsnäolo
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-9720引用。
写真(右)1942年6月20日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲塔脇で演奏するフィンランド海軍軍楽隊:連装砲身には、左右別々の柄の迷彩塗装が施されている。
Viihdytyssoittokunta on saapunut laivalle.
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Aiheet
1942-06-16
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-9721引用。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲塔脇で整列して司令官を迎えるフィンランド海軍の軍楽隊(10名):25.4センチ連装砲塔も方針も二色の迷彩塗装が施されているのが分かる。右手前にあるのは、短艇・連絡艇を繋留しておくダビットで、船の舳先と艫を吊り下げる。ここから舷側の脇を海面まで短艇を下ろすことができる。
Aamuhartauteen järjestäydytään. Tilaisuutta juhlistaa pastorin läsnäolo
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-9723引用。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")の取り外し式の階段の撤収作業をする水兵たち:海面に浮かぶ小型連絡艇の低い甲板から、装甲海防艦の高い位置にある上甲板に乗りうつるためには、舷側に階段(ラッタル)を設置しなくてはならない。この会談を上って軍楽隊や司令官が「ワイナミョイネン」を訪問したのであろう。イベントが終了したので、取り外し式の階段を水兵たちが正装してから、折り畳んで格納しようとしている。
Merellä oltaessa ei tarvita portaita, siksipä ne voidaan puhdistaa ja lakata.
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-9695引用。
写真(右)1942年6月20日、フィンランド沖、小型運搬船からフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")にスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)砲弾の搬入作業をする水兵たち:木箱に入れられた弾薬を、ダビット(小舟吊下げ小型クレーン)で上甲板に吊上げている。砲弾は弾頭(発射弾)部分と装薬(発射薬)部分とに分割されているので、砲身には弾頭と装薬を別々に搬入している。背景には、薄い排煙を吐いている煙突が写っているが、これは砲弾を運搬する小型汽船のもの。
Panoshuoneesta lähetetään panokset tykkitornin panoshuoneeseen.
Organisation
Military Museum
hoto info:
1942-06-20
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-12599引用。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲塔の後部位置の上甲板から弾薬の搬入作業をする水兵たち:
Ammukset uppoavat laivan uumeniin.
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Aiheet
1942-06-16
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-6448引用。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲塔の後部位置の上甲板から弾薬の搬入作業をする水兵たち:
Ammukset uppoavat laivan uumeniin.
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Organisation
Military Museum
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Aiheet
1942-06-16
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-9724引用。
フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」の主砲は、スウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲塔2基であるが、この大口径10インチ砲の弾薬は、重量が嵩むために、弾頭部分の弾丸と装薬部分の薬莢とは分割されている。一つずつ垂直孔から甲板下にある弾薬庫に吊り下げて、弾丸と薬莢とを別々に保管する。砲身に装填する場合も、弾丸と薬莢は別々に装填するので、1階の発射作業に2回の装填作業が必要になる。弾頭と装薬の双方を装填するのは時間がかかり、発射速度も遅くなってしまう不利がある。
しかし、10インチ口径の弾丸・薬莢一体型の弾薬は、非常に重くなり、運搬や操作は機械化しなければ無理であり、狭い垂直孔から吊下げ弾薬庫に保管するといっても、全長も大きく扱いにくくなってしまう。そこで、発射速度の不利を甘受して、軽量化できる弾丸・薬莢の分離式の弾薬としたのである。
写真(右)1942年6月20日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲内部での25.4センチ砲弾の運搬・装填作業をする水兵:船体にある弾薬倉から、弾薬が砲塔にまで運搬されてきた。ドイツのポケット戦艦の主砲は、長砲身の28センチ(11インチ)三連装砲だった。
Ammushuoneesta ammukset nousevat tykkitorniin..
Organisation
Military Museum
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-12595引用。
フィンランド海軍イルマリネン級 装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の諸元
フィンランドのクライトン・フルカン社トゥルク造船所
1927年8月起工
1932年12月28日就役
基準排水量3,900トン
全長93メートル、全幅17メートル
吃水5メートル
主砲:スウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)連装砲2基4門
副砲:ボフォース10.5センチ連装高角砲4基8門
機関:クルップ社ディーゼルエンジン4基、電動モーター2基、4,800馬力
最高速力:14.5ノット
航続距離:10ノット/700マイル
搭載燃料:重油93トン
装甲: 舷側水線部:50-55mm、水平甲板:20mm
主砲塔前部:100mm、司令塔:120mm
乗員 410名
写真(右)1942年6月20日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲内部での25.4センチ砲弾の弾頭運搬・装填作業をする水兵:大重量のため、砲弾は弾頭部分と装薬部分とに2分して格納されており、砲身には弾頭と装薬の双方を装填しなければならない。壁の金属板は多数のリベットで留められており、金属溶接の技術が普及していない時期の建造であることが見て取れる。
Ammussäiliöstä lähetetään ammukset tykkitornin ammushuoneeseen..
Organisation
Military Museum
Photo info:
1942-06-20
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-12596引用。
写真(右)1942年7月15日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10インチ)砲弾の運搬・保管作業をする水兵:砲弾を運搬してきた船が舷側に停泊しており、その船から装甲海防艦に備え付けられているデリック(クレーン)を使って、25.4センチ(10インチ)砲弾を甲板上に引き上げている。
Saksalaisia Räumbooteja Teikarsaaressa 15.7.1942. Laivoihin sijoitetaan miinoja Suomenlahden itäosan miinoittamista varten..
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-07-15
Vänrikki Arvo Ääri, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-12605引用。
写真(右)1942年6月20日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 25.4センチ(10吋)連装砲内部での25.4センチ砲弾の装薬運搬・装填作業をする水兵:大重量のため、砲弾は弾頭(発射弾)部分と装薬(発射薬)部分とに分割されているので、砲身には弾頭と装薬の両方とも装填しなければならない。装薬(発射薬)は、チェーンと留め金に架けられて人力で運搬される。
Panoshuoneesta lähetetään panokset tykkitornin panoshuoneeseen.
Organisation
Military Museum
hoto info:
1942-06-20
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-12599引用。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")のスウェーデン製ボフォース 40ミリ対空機関砲を操作する水兵たち:照準器は照星式で砲側照準だけのようだが、第二次大戦直前から、機銃管制指揮塔によって、複数の機銃座を連携して操作する方式も普及していた。
Konetykki harjoittelee.
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum .sa-kuva-9694引用。
スウェーデンの兵器製造メーカーボフォース(Bofors)は、1646年にスウェーデンのカールスコーガに設置された製鉄所が期限であるが、1894年にダイナマイトの発明家アルフレッド・ノーベルがこの鉄工所の経営を任されてから、飛躍的に拡大した。新たに兵器開発部門を興して、火器・化学の分野に大きく進出したのである。ボフォース40ミリ60口径対空機関砲(Bofors 40mm/L60)は、ボフォース社の代表的兵器で、フィンランド軍だけではなく、アメリカ軍、イギリス軍、日本軍も採用した優秀な火砲だった。
対空機関銃(機関砲)の照準方式には、
1)照星式の砲側照準
2)機銃管制指揮塔による複数機銃の連携操作
の2方式がある。少数の機関銃しかない場合には、砲側照準だけのほうが軽量化、スパース節約の可能で有利である。しかし、多数の対空機関銃を操作する場合には、射撃時の排煙、視界の確保のうえからも、高所に設置した機銃管制指揮塔によって、照準し、そこで敵機を射撃をする方式のほうが命中率が良くなる。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)艦橋脇に設置されたスウェーデン製ボフォース40ミリ60口径対空機関砲:右手前には、連絡や旧名救助に使われる短艇に防水カバーをかけて格納してある。
Konetykki harjoittelee.
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-22957引用。
スウェーデン製ボフォース40ミリ60口径対空機関砲の諸元
重量:1,981 kg (4,370 lb)
弾薬:L/60 40x311mmR(1.57in)
口径:40mm L/60
砲架:522 kg (1,150 lb)
仰角:マイナス5度から90度
旋回角:360度
旋回速度:50度/秒
発射速度:毎分120発
初速:881 m/秒 (2,890 ft/s)
最大射程:7,160 m (23,490 ft)
フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)のように4000トンクラスの中型艦の防御力は、せいぜい軽巡洋艦か駆逐艦並みであり、攻撃よりも大口径砲を用いた火力、攻撃力に重きを置いていて、戦闘能力はバランスが悪く、火力偏重の設計になっている。しかし、小型で大口10インチ(25.4cm)砲を搭載した低速(14.5ノット)の装甲海防艦は、フィンランド湾のような内海で行動力や高速航行があまり求められない海域で、防衛用、海峡封鎖に使用するのであれば、経済的に有効である。
写真(右)1942年7月15日、フィンランド、樹木を使って厳重に対空偽装を施して係留されるフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen):艦橋前に設置されたスウェーデン製ボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。岸辺にある樹木を偽装用に艦上に配置したことで、岸辺と同じ種類の樹木が生えて一体化させることを企図した。偽装によって、上空からてソ連軍に発見される可能性は小さくなり、空襲を免れることができる。
Pl. Väinämöinen naamiointia ja naamioitu Väinämöinen. Laivan kaksoisilmatorjuntatykki on 40 mm:n 60 kaliiperin Bofors 2 x 40 ItK L/60 B.
Sot.virk. Esko Suomela(ソット・ヴァーク エスコ・スオメラ), valokuvaaja(撮影者)
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-07-15
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-22957引用。
フィンランド海軍最強の艦艇である装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の舷側装甲は水線部50ミリと巡洋艦以下であり、甲板装甲は13ミリから20ミリと薄く、飛行機から投下される250キロ爆弾にも耐えられない。
装甲海防艦「ワイナミョイネン」の装甲は、最も厚い主砲塔が100ミリで、巡洋艦並みであるが、砲塔基部バーベットは30ミリと薄いために、被弾によって砲弾の誘発を起こしかねない。戦闘指揮を執る司令塔は120ミリと中口径砲に耐える構造になっている。
しかし、装甲海防艦「ワイナミョイネン」の最高速力14.5ノットと輸送船護衛艦艇並み、航続距離700マイルは飛行機並みに短く、外洋での航行は当初より想定されておらず、沿岸用の火力偏重の戦闘艦である。
写真(右)1944年5月27日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")の出航時に舷側に勢ぞろいした乗員たちと見送る海軍軍楽隊:舷側のボフォース10.5センチ連装高角砲の防楯は後方が開放式になっている。艦橋上部には、大型の測距儀がついている。:
Panssarilaivan miehistö kerääntynyt kuuntelemaan soittokunnan jäähyväiskonsertin.
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-05-27
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108100引用。
写真(右)1944年5月27日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")の中央部の環境とマストのフィンランド海軍旗(白地に青十字)。艦橋上部には、大型の測距儀がついている。:マストや煙突には迷彩塗装が施されているのが明瞭にわかる。マスト先端には、密閉式の観測指揮所が設けられている。舷側に勢ぞろいした乗員たちと見送る海軍軍楽隊:舷側にはボフォース10.5センチ連装高角砲を備えた後方が開放された砲塔。
Panssarilaivan miehistö kerääntynyt kuuntelemaan soittokunnan jäähyväiskonsertin.
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-05-27
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108101引用。
西側連合国は、1944年6月6日のノルマンディー上陸以降、西ヨーロッパから東進してドイツに向かっていたために、ソ連がドイツに侵攻しベルリンを攻略する前に、ドイツが西側連合軍と休戦・講和する可能性が残っていた。米英ソは、テヘラン会談でも枢軸国との単独講和をしないことを制約していたが、イタリアも事実上、攻撃していたアメリカ・イギリスと休戦していた。そこで、対ドイツ戦争戦争が終了した後のヨーロッパでの勢力圏分割を想定すると、ソ連はベルリンの単独攻略をぜひ実現したかった。そして、フィンランド軍が攻勢をとることができないほど弱体化した現状では、もはやフィンランドへの攻勢、フィンランド降伏に多大な兵量を割く必要性はなく、戦後を睨んで占領地を拡大するために、ドイツ・東ヨーロッパに侵攻する兵力を最優先すべき時期だった。
実際、ソ連は独ソ勃発3年目の1944年6月22日、バグラチオン作戦を発動し大攻勢をめにドイツ軍にかけていた。そこで、7月9日以降、フィンランド方面から機甲部隊・砲兵部隊など兵力をバルト海沿岸に転用していた。ソ連軍は、1944年7月12日、フィンランド方面での大規模攻勢を停止したのである。これを機会に、フィンランドもソ連も休戦・講和のための交渉をもつことが理にかなった行動となったのである。
写真(右)1944年5月27日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)舷側に勢ぞろいした乗員たちと岸壁で見送る海軍軍楽隊:舷側にボフォース10.5センチ連装高角砲:
Panssarilaivan miehistö kerääntynyt kuuntelemaan soittokunnan jäähyväiskonsertin.
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-05-27
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108102引用。
軍楽隊(Military band)は、正規のホールで音楽を奏でるよりも、野外で演奏することを期待されており、大音量を出すことのできる管楽器・打楽器といった吹奏楽が中心となり、室内楽のオーケストラのように弦楽器は脇役である。観兵式・閲兵式・観閲式など軍事パレードでは軍楽隊(Sotilassoittokunta)は、重要な位置を占めており、叙勲や栄誉礼の式典でも演奏は重要である。
また、将兵の娯楽・士気昂揚のための音楽会も、軍歌・軍楽・行進曲などで果たす役割が大きい。音楽家にとって、戦時での平時でも、音楽を生業にできるようにも思えるが、戦時ともなれば、日本海軍軍楽隊は、艦上での暗号取次ぎ、伝令員としての戦いなど忙しかったという。
写真(右)1944年5月27日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の出航に際してに舷側に勢ぞろいした乗員たち:右には港湾に設置された大型クレーンがあり、岸壁には輸送用の鉄道線路が敷設されている。舷側の四角い箱状のものは、ボフォース10.5センチ連装高角砲を収めた半開放式の砲塔。
Panssarilaivan miehistö kerääntynyt kuuntelemaan soittokunnan jäähyväiskonsertin.
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-05-27
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108103引用。
港湾や造船所に設置されたクレーンの多くは、長い船体の艦船の各所に移動して使用できるようなガントリークレーン (Gantry crane)が一般的である。ガントリークレーン (Gantry crane)とは、鉄道軌条のようなレール上を移動できる大型の橋脚型構造のクレーン(起重機)である。現在、東北で一番大きい仙台港のガントリークレーンは、折畳み部分を伸ばすと最長68メートルの長さになり、1時間に30個の大型コンテナを積み降ろしできる。
写真(右)1944年5月27日、フィンランド沖、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)舷側に装備されたボフォース10.5センチ連装高角砲:砲塔の上に水兵が腹ばいになって、歓迎する海軍楽隊を見物している。:岸壁には輸送用の鉄道線路が敷設されている。高角砲の砲塔は軽量化、空間制約のために、後方が開放されている。そのために、被弾時の弾片・破片からの防御には不十分であるが、操作性、視界確保。弾薬運搬の観点から密閉式とはしなかった。
Panssarilaivan miehistö kerääntynyt kuuntelemaan soittokunnan jäähyväiskonsertin.
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-05-27
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-108106引用。
スウェーデンの代表的な兵器製造企業であるボフォース(Bofors)は、アルフレッド・ノーベルが鉄工所ボフォースを1894年に経営を引き継いでから火器・化学の開発部門を充実させ、世界的兵器メーカーに発展した。
第二次世界大戦前にボフォース(Bofors)が開発した37ミリ対戦車砲、40ミリ対空機関砲、76.2ミリ高射砲などは、大戦時でも優秀な火器として認められており、フィンランド軍もこれらを輸入して部隊配備している。このように、外国兵器を採用したフィンランド軍は、日本軍やイタリア軍のように国産兵器に固執して、量産性や性能の上で引けを取った軍隊よりも、優秀な兵器を選択することに成功した。
写真(右)1944年5月27日、フィンランド、樹木を使って本格的な対空偽装を施して係留されるフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen):艦橋前に設置されたスウェーデン製ボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。ソ連空軍にフィンランド湾上空の制空権を開け渡してしまったフィンランド海軍は、ただ1隻残された装甲海防艦を隠匿式砲台として活用したかったのであろうか。岸辺にある樹木を偽装用に艦上に配置したことで、岸辺と同じ種類の樹木が生えて一体化させることを企図した。偽装によって、上空からてソ連軍に発見される可能性は小さくなり、空襲を免れることができる。
Panssarilaivan miehistö kerääntynyt kuuntelemaan soittokunnan jäähyväiskonsertin.
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-05-27
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124541引用。
1944年6月6日の西側連合軍(アメリカ・イギリス・カナダなど)の北フランスノルマンジー海岸侵攻に呼応して、6月21日、ソ連軍はフィンランド軍に対し大規模反攻(ヴィボルグ-ペトロザヴォーツク攻勢)を行った。そして、フィンランド湾の制海権を確保するために、ソ連側は大きな障害となるフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)を、フィンラン南岸ヘルシンキ=ヴィルボルグ中間、コトカ湾(Kotka)に空襲した。ソ連空軍は、本来は地上近接支援が目的で、対艦船攻撃は低い優先度しかなかったが、それでも戦爆連合100機を差し向けて、コトカ湾を襲撃した。そして、装甲海防艦「ワイナミョイネン」に命中弾を与え、撃沈したとした。
写真(右)1944年5月27日、フィンランド、樹木を使って本格的な対空偽装を施して係留されるフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen):艦橋前に設置されたスウェーデン製ボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。ソ連空軍にフィンランド湾上空の制空権を開け渡してしまったフィンランド海軍は、ただ1隻残された装甲海防艦を隠匿砲台として活用しようにも、有効な場所がなかったのか。装甲海防艦が上空からて敵兵に発見されないように、偽装樹木で覆っている。
Panssarilaivan miehistö kerääntynyt kuuntelemaan soittokunnan jäähyväiskonsertin.
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-05-27
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124529引用。
しかし、このソ連機による爆撃で撃沈されたのは、ドイツ海軍の対空水上砲台だったニオベ(Niobe)でり、フィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」というのは誤報だった。装甲海防艦「ワイナミョイネン」は、岸辺に樹木で念入りに偽装されて係留、隠匿されており、ソ連軍は所在を発見できなかった。
写真(右)1944年5月27日、フィンランド、樹木を使って本格的な対空偽装を施して係留されるフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen):艦橋前に設置されたスウェーデン製ボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。
Panssarilaivan miehistö kerääntynyt kuuntelemaan soittokunnan jäähyväiskonsertin.
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-05-27
Vänrikki R.Meinander, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124532引用。
ソ連空軍にフィンランド湾上空の制空権を奪われたフィンランド海軍は、フィンランド湾での自由な艦船航行は不可能になった。そこで、ただ1隻残された1932年建造の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の使い方が問題になった。
制空権を失い、低速大型の装甲海防艦を積極的に使用するのは困難になったのである。また、浮砲台として活用するのも、事前にソ連空軍に発見されてしまえば、空襲され、主砲の攻撃力を活かす機会はない。そこで、攻撃を受けないように装甲海防艦を現存させるという「現存艦隊論」に基づく消極的使用法が選択された。
有力な装甲海防艦があれば、ソ連軍はフィンランド湾、バルト海で常にその脅威を念頭に作戦行動をとることを強いられ、警戒・予備部隊に戦力を割かざるを得ないのである。
フィンランド海軍主力の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)に岸辺に係留し、付近にある樹木を艦上に移して対空偽装をして、ネットを張って形状を隠すことで、艦船と岸辺・森林と一体化したかのようにした偽装が施された。この対空偽装によって、上空からてソ連軍に発見される可能性は小さくなり、空襲されずに、装甲巡洋艦のもつソ連軍への脅威を持続することができた。
写真(上)1944年7月29日、フィンランド、樹木を使って厳重に対空偽装を施して係留・隠匿されたフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen):側方からの眺めだが、完全に岸辺と一体化している。:艦橋前に設置されたスウェーデン製ボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。
Naamioitu panssairilaiva Väinämöinen.
Sot.virk. Esko Suomela(ソット・ヴァーク エスコ・スオメラ), valokuvaaja(撮影者)
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-29
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124543引用。
フィンランド海軍主力の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)に岸辺に係留し、付近にある樹木を艦上に移して対空偽装をして、ネットを張って形状を隠すことで、艦船と岸辺・森林と一体化したかのようにした偽装が施された。この対空偽装によって、上空からてソ連軍に発見される可能性は小さくなり、空襲されずに、装甲巡洋艦のもつソ連軍への脅威を持続することができた。
写真(右)1944年7月29日、フィンランド、樹木を使って厳重に対空偽装を施して係留されるフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen):艦橋前に設置されたスウェーデン製ボフォース10.5センチ連装高角砲が見える。
Naamioitu panssairilaiva Väinämöinen.
Sot.virk. Esko Suomela(ソット・ヴァーク エスコ・スオメラ), valokuvaaja(撮影者)
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-29
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124528引用。
ソ連空軍にフィンランド湾上空の制空権を開け渡してしまったフィンランド海軍は、ただ1隻残された装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")を隠匿式砲台として活用したかったのであろうか。
岸辺にある樹木を偽装用に艦上に配置したことで、岸辺と同じ種類の樹木が生えて一体化させることを企図した。偽装によって、上空からてソ連軍に発見される可能性は小さくなり、空襲を免れることができる。
写真(右)1944年7月29日、フィンランド、ネットと樹木を使って巧みに対空偽装を施されたフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の前甲板:マストの上からの眺めだが、艦橋上部から砲塔までネットと樹木に覆われて見事に偽装されていることがわかる。ソ連空軍は、ついにこの装甲海防艦を発見することができず、フィンランド湾への脅威は、終戦まで取り除かれることはなかった。フィンランド海軍の現存艦隊は、小規模ではあるが、効果を上げたともいえる。
Naamioitu panssairilaiva Väinämöinen.
Sot.virk. Esko Suomela(ソット・ヴァーク エスコ・スオメラ), valokuvaaja(撮影者)
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-29
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124528引用。
写真(右)1944年7月29日、フィンランド、ネットと樹木を使って巧みに対空偽装を施されたフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)の上甲板の水を撒いての清掃作業:舷側部分の上面にネットを張って、上と側面を樹木で覆って見事に偽装している。ソ連空軍は、ついにこの装甲海防艦を発見することができず、フィンランド湾への脅威は、終戦まで取り除かれることはなかった。フィンランド海軍の現存艦隊は、小規模ではあるが、効果を上げたともいえる。
Meripojat huuhtelevat kantta.
Sot.virk. Esko Suomela(ソット・ヴァーク エスコ・スオメラ), valokuvaaja(撮影者)
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-29
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-124531引用。
ソ連空軍にフィンランド湾上空の制空権を開け渡してしまったフィンランド海軍だが、ただ1隻残された装甲海防艦は、フィンランド湾を航行するソ連軍や輸送船にとって、依然として潜在的な脅威だった。そこで、このソ連に対する威嚇として、フィンランド海軍は、装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen)を保有し現存させ続けた。
しかし、これは積極的攻勢をとるためではなく、強力な装甲海防艦の潜在的脅威としてである。このように、艦隊を保有しているだけで、敵国に防衛体制を強要し、補給業務をモ消極化させるような使い方を「現存艦隊論」という。フィンランド海軍は、現存艦隊論に基づいて、主力艦の装甲海防艦「ワイナミョイネン」を隠して現有し続けた。つまり、装甲海防艦を岸辺に係留し、上空のソ連機から発見されないように、岸辺から艦上まで樹木で覆って偽装したのである。
写真(右)1944年7月15日、フィンランド、ネットと樹木を使って巧みに対空偽装を施されたフィンランド海軍の装甲海防艦「ワイナミョイネン」(Väinämöinen):舷側部分の上面にネットを張って、上と側面を樹木で覆って見事に偽装している。ソ連空軍は、ついにこの装甲海防艦を発見することができず、フィンランド湾への脅威は、終戦まで取り除かれることはなかった。フィンランド海軍の現存艦隊は、小規模ではあるが、効果を上げたといえる。
Pl. Väinämöinen naamiointia ja naamioitu Väinämöinen.
Sot.virk. Esko Suomela(ソット・ヴァーク エスコ・スオメラ), valokuvaaja(撮影者)
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-07-15
Sot.virk. Eino Varo, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Military Museum sa-kuva-22969引用。
1944年になるとソ連空軍は、フィンランド湾上空の制空権を掌握するようになり、フィンランド海軍の艦艇の行動範囲は狭まれるようになった。このような状況で、フィンランド海軍は、ただ1隻残された装甲海防艦を隠匿式砲台として活用したかったのであろうか。
1944年、ドイツ海軍は破損した戦艦「ティルピッツ」をノルウェーのフィヨルドで海上砲台として活用しようとし、1945年の日本海軍も燃料不足で行動できなくなった戦艦「長門」を海上砲台として活用しようとした。
フィンランド海軍の最大級の軍艦である装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")も、フィンランド湾岸辺にある樹木を偽装用に艦上に配置して、岸辺と同じ種類の樹木によって偽装して、陸地のように見せかけていた。艦艇と陸地が偽装によって一体化させられたのである。
このような巧妙な対空偽装を施したことによって、装甲海防艦「ワイナミョイネン」を上空からソ連機が発見する可能性は小さくなり、さらにソ連軍にとっても装甲海防艦がバルト海の脅威ではなくなったこともあって、終戦まで空襲を免れることができた。
1944年10月、継続戦争がフィンランドの敗北で終戦すると、フィンランドはソ連に対する賠償支払いの一環として、現物払いで44年10月、継続戦争がフィンランドの敗北で終戦すると、フィンランドはソ連に対する賠償支払いの一環として、現物払いで装甲海防艦「ワイナミョイネン」("Väinämöinen")をソ連に引き渡した。
ソ連海軍に引き渡らされた装甲海防艦「ワイナミョイネン」は、ソ連で、「ヴィボルグ(Выборг)」と艦名を変更され、バルチック艦隊に配属された。
3.フィンランド海軍の艦砲と機雷敷設
写真(右)1944年1月24日、フィンランド海軍艦載砲となったソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N);砲側照準では、視界が悪く、砲撃の命中率が低下してしまう。そこで、大型の測距儀を艦橋上部に取り付け、そこで主砲の照準を行う場合が多い。この130 mm 50口径砲モデルN(130/50 N)の場合でも、艦橋の照準器が被弾して破壊された場合に備えて、砲側照準器が予備的に用意されていた。ロシアの15 cm級艦砲と大砲の最も重要な部分のクローズアップで写真は、教育目的で撮影された。
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
130 mm. sotasaalistykki Hel.la:ssa. Tykki on neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-01-24
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja.
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151269引用。
写真(右)1944年1月24日、フィンランド海軍艦載砲となったソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N);ロシアの15 cm級艦砲と大砲の最も重要な部分のクローズアップで写真は、教育目的で撮影された。
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
130 mm. sotasaalistykki Hel.la:ssa. Tykki on neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-01-24
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja.
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-137208引用。
砲側照準では、上甲板近くの海面から低い位置で照準するために、視界が悪く、砲撃の命中率が低下してしまう。そこで、大型の測距儀を艦橋上部の高所に取り付け、そこで主砲の照準を行う場合が多い。この130 mm 50口径砲モデルN(130/50 N)の場合でも、艦橋の照準器が被弾して破壊された場合に備えて、砲側照準器が予備的に用意されていた。
写真(右)1944年1月29日、陸揚げされ保管されているフィンランド海軍のソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N);防楯付き砲塔と防楯なしの開放式の砲塔がある。野晒しのため、雪で覆われている。
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
130 mm. sotasaalistykki Hel.la:ssa. Tykki on neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-01-29
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-137210引用。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド海軍艦艇前甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)砲尾(後方);ロシアの15 cm級艦砲と大砲の最も重要な部分のクローズアップ。写真は、教育目的で撮影された。
Venäläinen 15 cm laivatykki sekä lähikuvia tykin tärkeimmistä osista. Kuvat ovat valokuvatut opetustarkoitusta varten, ei julkaistaviksi. Kuvassa neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Vähemmän .
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Sundström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151269引用。
ソ連軍の1936年式50口径130ミリ砲(130 mm/50 B13 Pattern 1936)は、口径130 mm (5.1インチ)の海軍用カノン砲で、第二次大戦中に、沿岸砲(coastal gun)や沿岸砲(railway gun)として使用された。また、フィンランド軍は鹵獲した50口径130ミリ砲(130 mm/50)を艦艇に搭載した。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド海軍艦艇前甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)砲尾(後方);ロシアの15 cm級艦砲と大砲の最も重要な部分のクローズアップ。写真は、教育目的で撮影された。
Venäläinen 15 cm laivatykki sekä lähikuvia tykin tärkeimmistä osista. Kuvat ovat valokuvatut opetustarkoitusta varten, ei julkaistaviksi. Kuvassa neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Vähemmän .
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Sundström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151274引用。
1929年にロシア帝国軍の1913年式55口径130ミリ(130 mm/55 B7 Pattern 1913)を原型として、ソ連が開発を始めた1936年式50口径130ミリ砲(130 mm/50 B13 Pattern 1936)は、当初、潜水艦の甲板に搭載する艦載砲として、用いられた。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド海軍艦艇前甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N);ロシアの15 cm級艦砲と大砲の最も重要な部分のクローズアップ。写真は、教育目的で撮影された。
Venäläinen 15 cm laivatykki sekä lähikuvia tykin tärkeimmistä osista. Kuvat ovat valokuvatut opetustarkoitusta varten, ei julkaistaviksi. Kuvassa neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Vähemmän .
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Sundström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151270引用。
1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)の諸元
砲身長:6.500m 口径 L/50
砲弾重量:33.4kg
仰角
0度〜45度
射界角:360度
砲口初速:870m/s
有効射程:25,600m
写真(右)1944年7月4日、フィンランド海軍艦艇前甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N);ロシアの15 cm級艦砲の最も重要な部分のクローズアップ。写真は、教育目的で撮影された。
Venäläinen 15 cm laivatykki sekä lähikuvia tykin tärkeimmistä osista. Kuvat ovat valokuvatut opetustarkoitusta varten, ei julkaistaviksi. Kuvassa neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Sundström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151269引用。
1941年6月に始まった第二次芬ソ戦争、フィンランドのソ連侵攻「継続戦争」の緒戦、フィンランドは、本土南岸の要衝でソ連租借地のハンコ要塞の戦いでハンコを占領した。その時にハンコに据え付けられていた1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)5門を鹵獲した。そして、艦船に搭載したり、沿岸砲として設置して、継続戦争に投入した。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド海軍艦艇前甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)に装填された130ミリ砲弾;
Venäläinen 15 cm laivatykki sekä lähikuvia tykin tärkeimmistä osista. Kuvat ovat valokuvatut opetustarkoitusta varten, ei julkaistaviksi. Kuvassa neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Lisää .
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Sundström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151273引用。
日本海軍と陸軍では、火砲の構造名称が異なっている。
旋条 腔線
尾栓 閉鎖機
砲座 砲架
駐退機 復座装置
導環 弾帯
弾体 弾殻
写真(右)1944年7月4日、フィンランド海軍艦艇前甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)に装填された130ミリ砲弾;
Venäläinen 15 cm laivatykki sekä lähikuvia tykin tärkeimmistä osista. Kuvat ovat valokuvatut opetustarkoitusta varten, ei julkaistaviksi. Kuvassa neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Lisää .
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Sundström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151270引用。
弾薬は、弾丸と装薬と構造から次の3種類がある。
1)分離弾薬 :薬嚢に入れられた装薬は、弾丸と分離され、発射するときに装薬と弾丸を別個に装填して一体化して、射撃する。大口径砲に用いられる。
2)固定弾薬:装薬が詰められた薬莢の先端に弾丸を挿入し、装薬と弾丸とを完全な一体型とした弾薬。小口径・中口径の火砲に用いられ、発射速度を高めることができるが、装薬と弾丸が一体の為ため、重量が嵩むため、中口径砲以上では、装填機構の機械化が必要となる。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド海軍艦艇前甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)に装填棒で砲尾に130ミリ砲弾を押し込んでいるフィンランド軍水兵;
Venäläinen 15 cm laivatykki sekä lähikuvia tykin tärkeimmistä osista. Kuvat ovat valokuvatut opetustarkoitusta varten, ei julkaistaviksi. Kuvassa neuvostoliittolainen 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N).
Lisää .
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Sundström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151271引用。
ソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)は、軽巡洋艦の搭載した15センチ砲よりも口径は小さく、弾丸の威力は小さい。しかし、口径が小さい分だけ、艦砲の軽量化、発射速度の向上が期待できた。また、フィンランドは、自国で大型兵器を生産するには国力不足だったから、兵器の輸入、鹵獲兵器の活用に重きを置いていた。艦隊決戦を想定する必要のない狭いフィンランド湾での戦いでは、機雷敷設・機雷掃海・対空監視など地味な役割が海軍の主要任務になった。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド海軍艦艇前甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)の砲尾脇にある片眼接眼式光学照準器;ロシアの15 cm級艦砲と大砲の最も重要な部分のクローズアップで写真は、教育目的で撮影された。
Venäläinen 15 cm laivatykki sekä lähikuvia tykin tärkeimmistä osista. Kuvat ovat valokuvatut opetustarkoitusta varten ei julkaistaviksi.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Sundström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151269引用。
艦載砲の場合、砲側照準では、視界が悪く、砲撃の命中率が低下してしまう。そこで、大型の測距儀を艦橋上部に取り付け、そこで主砲の照準を行う場合が多い。その場合でも、艦橋やマストの照準器が被弾して破壊された場合に備えて、砲側照準器が予備的に用意されていた。
ソ連軍の1936年式130ミリ50口径砲は、長砲身で炸薬も多かったために、砲身には大きな圧力がかかった。そこで、砲身寿命は、砲弾発射限度130発程度で短くなった。駆逐艦には、連装砲塔が搭載されたほか、砲には大別すると3種類があり、砲弾も各々異なっていたために、補給が複雑になり、砲弾の射程も異なってしまった。1941年までに、378門が部隊配備された。
写真(右)1944年7月4日、フィンランド海軍艦艇前甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)の砲尾脇の両眼接眼式光学照準器;防楯の後方は開放されているので、操作性は良いが、弾丸破片や艦体破損片が爆発で産卵した場合に、機械も操作員も大きな孫匡を受ける可能性が高い。
Venäläinen 15 cm laivatykki sekä lähikuvia tykin tärkeimmistä osista. Kuvat ovat valokuvatut opetustarkoitusta varten ei julkaistaviksi.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-04
Sundström, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-151269引用。
ソ連軍の1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)は、艦砲であるが、沿岸砲、移動式砲台としても使用された多用砲である。この移動砲とは、防楯を付けた火砲に移動用の車輪を取り付けたもので、移動トーチカとしても使用できた。艦艇に搭載した型は、1935年に開発されたB-13艦砲と呼ばれた。
写真(右)1943年1月14日、フィンランド海軍ガンボート「アヌス」(Tykkivene "Aunus")甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)とデンマーク製マドセン20ミリ対空機関銃;ガンボートの下甲板に重い130 mm 50口径砲モデルN(130/50 N)を搭載し、艦首上甲板に軽量のマドセン(Madsen)20ミリ対空機関銃1丁を搭載している。甲板には、木製すのこが敷いてあるが、これは飛び散ってきた波浪、海水で甲板が滑りやすくなるのを防ぐために敷かれているのであろう。簡単な構造なので、取り外し、更新が容易にできるようになっている。
Taisteluharjoitus aputykkivene Aunuksella. Tykkivene Aunuksen pääase oli 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N). Keulassa on todennkäköisesti 20 mm:n Madsen -tykki.
Aineistotyyppi ?Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1943-01-14 Eino Varo, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-46465引用。
第二次大戦開戦・冬戦争の開戦当初のフィンランド海軍(Merivoimat)は、バルト海・フィンランド湾方面に主力を置いた。しかし、配備した艦艇は、次のような小規模な艦隊だった。
装甲海防艦 2隻 (イルマリネン、ヴァイナモイネン)
潜水艦 5隻 (ヴェテヒネン級3隻、サウッコ、ヴェシッコ)
ガンボート(砲艦) 4隻 (Turunmaa,Karjala,Uusimaa,Hämeenmaa)
魚雷艇 7隻 (Sisu級2隻,Isku,Syöksy級4隻)
機雷敷設艦 1隻 (Louhi)
掃海艇 8隻 (Ahven級6隻,Rautu級2隻)
練習艦 1隻(スオメン・ヨーツェン)
写真(右)1943年1月14日、フィンランド海軍ガンボート「アヌス」(Tykkivene "Aunus")甲板に搭載したソビエト製1936年式130ミリ50口径砲モデルN(130/50 N)とデンマーク製マドセン20ミリ対空機関銃;ガンボートの下甲板に重い130 mm 50口径砲モデルN(130/50 N)を搭載し、艦首上甲板に軽量のマドセン(Madsen)20ミリ対空機関銃1丁を搭載している。ガンボート「アヌス」(Tykkivene "Aunus")ha,
排水量 100 t,全長25.3m、全幅5.3m、全高 2.1 m,蒸気タービン機関280馬力搭載、最高速力:10.5ノット、燃料は石炭15トン、航続距離750マイル(速力7ノット)、乗員48人である。当初の兵装は、47ミリ砲2門、機関銃1丁だった。
Taisteluharjoitus aputykkivene Vienassa. Etualalla oleva tykki on 130 mm:n 50 kaliiperin merikanuuna mallia N (130/50 N). Keulassa on tanskalainen 20 mm:n Madsen -tykki.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-01-14
Eino Varo, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-46501引用。
写真(右)1942年頃、フィンランド海軍ガンボート「アヌス」(Tykkivene "Aunus")前甲板に搭載したソビエト製50口径75ミリ砲(75/50 C);艦橋正面には、迷彩塗装が施されている。
Työskentelyä miinalaivalla. Tykki on 75 mm:n 50 kaliiperin ranskalais-venäläinen merikanuuna mallia Canet (75/50 C)..
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Lisää
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo.
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-17384引用。
フィンランド海軍ガンボート「アヌス」(Tykkivene "Aunus")の諸元
排水量 100 t
全長:25.3m、全幅:5.3m、全高 2.1 m
蒸気機関:280馬力
最高速力:10.5ノット
石炭15トン;航続距離:750マイル(速力7ノット)
乗員:48人
兵装:47ミリ砲2門、機関銃1丁
写真(右)1942年8月5日-11日、フィンランド海軍ガンボート「アヌス」(Tykkivene "Aunus")前甲板に搭載したソビエト製50口径75ミリ砲(75/50 C);船体には、迷彩塗装が施されている。
Miinalaiva Ruotsinsalmi 5.-11.8.1942 Miinalaiva Ruotsinsalmi kulkemassa avomerellä ja laskemassa savuverhon
Ragnar Meinander, sotilasvirkailija, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Ragnar Meinander, sotilasvirkailija, valokuvaaja.
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-17383引用。
写真(右)1942年8月11-12日、フィンランド海軍の「ルオトシンサルミ」(Ruotsinsalmi)級機雷敷設艦(Miinalaiva)
;スウェーデン対岸、この写真は、JSdia103と同じで、写真番号102605-102613、102846-102851と同じシリーズに属している。艦艇は、外海でのスウェーデン近海でも活動した。Esko Suomela撮影。
Miinalaiva Ruotsinsalmi. Kuva kuulunee samaan sarjaan JSdia103:n sekä mustavalkoisten SA-kuvien kanssa (102605-102613, 102846-102851), joissa kuvattu miinalaiva Ruotsinsalmen toimintaa ulkomerellä 11.-12.8.1942. Kuvaajana Esko Suomela..
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-12
Suomela, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-166382引用。
フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、6月27日にソ連に攻撃をかけた。カレリア地峡にしても、フィンランド東部にしても、ソ連国境付近は、森林や湖沼地帯が広がっていたために、道路が冠水したり、泥濘状態になったりして、陸上輸送に支障が出るリスクが高かった。そこで、湖沼・河川が凍結していない期間には、水上交通に依存した作戦も必要となった。
写真(右)1942年頃、フィンランド湾、トゥルク沖でフィンランド海軍の機雷敷設艦(Miinalaiva)「ルオトシンサルミ」( Ruotsinsalmi)後甲板に搭載された触発式機雷の敷設作業;1940年トゥルク、クリクトンバルカンで建造され、姉妹艦に「リーラティ」(Riilahti)がある。1940年にフィンランド国防軍に引き渡された。最も効果的な作戦が機雷敷設だった。1941年から1945年の間に、機雷3967個を敷設し、機雷541個を掃海した。乗組員60人。
Miinalaiva Ruotsinsalmi, rakentaja Crichton-Vulcan, Turku, 1940. Omistaja puolustusvoimat. Tehokkaimmillaan miinanlaskijana, sisaralus Riilahti. Vuosina 1941-1945 laski 3967 miinaa ja 541 raivausestettä. Miehistöä 60 miestä. Kaikki raivaimet, kiinteä kuuntelulaite, kaksi syvyyspommiheitintä. vaaka, mustavalkoinen, reproduktio
Lisää
Aineistotyyppi
Kuva
Organisaatio
Suomen merimuseo
Kokoelma
Suomen merimuseon kuvakokoelma
Inventaarionro
SMK88001:652
Kuvaustiedot:
ajoittamaton paperi (Pohjamateriaali)
Crichton-Vulcan Oy, kuvan kohteen tekijä
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-12672引用。
写真(右)1942年8月5日-11日、フィンランド湾、トゥルク沖でフィンランド海軍の機雷敷設艦(Miinalaiva)「ルオトシンサルミ」( Ruotsinsalmi)。後甲板に触発式機雷を搭載できる。;1940年トゥルク、クリクトンバルカンで建造され、姉妹艦に「リーラティ」(Riilahti)がある。
Miinalaiva Ruotsinsalmi 5.-11.8.1942 Miinalaiva Ruotsinsalmi kulkemassa avomerellä ja laskemassa savuverhon;
Aineistotyyppi
Kuva
Organisaatio
Suomen merimuseo
Kokoelma
Suomen merimuseon kuvakokoelma
Inventaarionro
SMK88001:652
Kuvaustiedot:
ajoittamaton paperi (Pohjamateriaali)
Crichton-Vulcan Oy, kuvan kohteen tekijä
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-12672引用。
フィンランド海軍の機雷敷設艦(Miinalaiva)「ルオトシンサルミ」( Ruotsinsalmi)は、1940年トゥルク、クリクトンバルカンで建造され、姉妹艦に「リーラティ」(Riilahti)がある。1940年10月に進水、1941年フィンランド国防軍に引き渡され就役した。最も効果的な作戦が機雷敷設だった。1941年から1945年の間に、機雷3967個を敷設し、機雷541個を掃海した。乗組員60人。
写真(上)1942年8月11日、フィンランド湾、フィンランド湾、トゥルク沖でフィンランド海軍の「ルオトシンサルミ」( Ruotsinsalmi)級機雷敷設艦(Miinalaiva);1940年トゥルク、クリクトンバルカンで建造され、姉妹艦に「リーラティ」(Riilahti)がある。1940年にフィンランド国防軍に引き渡された。最も効果的な作戦が機雷敷設だった。1941年から1945年の間に、機雷3967個を敷設し、機雷541個を掃海した。乗組員60人。
Miinalaiva Ruotsinsalmi 5.-11.8.1942 Miinalaiva Ruotsinsalmi laskee savuverhon Ragnar Meinander, sotilasvirkailija, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Ragnar Meinander, sotilasvirkailija
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-05-23
Sot.virk. Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-18383引用。
写真(上)1942年5月23日、フィンランド湾、フィンランド湾、トゥルク沖でフィンランド海軍の「ルオトシンサルミ」( Ruotsinsalmi)級機雷敷設艦(Miinalaiva)後甲板に搭載された触発式機雷の敷設作業;1940年トゥルク、クリクトンバルカンで建造され、姉妹艦に「リーラティ」(Riilahti)がある。1940年にフィンランド国防軍に引き渡された。最も効果的な作戦が機雷敷設だった。1941年から1945年の間に、機雷3967個を敷設し、機雷541個を掃海した。乗組員60人。
Viimeisiä miinoja huolletaan. Viimeisiä miinoja lasketaan.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-05-23
Sot.virk. Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-32270引用。
写真(右)1942年5月23日、フィンランド湾、フィンランド湾、トゥルク沖でフィンランド海軍の「ルオトシンサルミ」( Ruotsinsalmi)級機雷敷設艦(Miinalaiva)後甲板に搭載された触発式機雷の敷設作業;1940年トゥルク、クリクトンバルカンで建造され、姉妹艦に「リーラティ」(Riilahti)がある。1940年にフィンランド国防軍に引き渡された。最も効果的な作戦が機雷敷設だった。1941年から1945年の間に、機雷3967個を敷設し、機雷541個を掃海した。乗組員60人。
Viimeisiä miinoja huolletaan. Viimeisiä miinoja lasketaan.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-05-23
Sot.virk. Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-32271引用。
フィンランド海軍の機雷敷設艦(Miinalaiva)「ルオトシンサルミ」(Ruotsinsalmi)の諸元
基準排水量(Displacement): 310 t
全長(Length): 50.0 m (164.0 ft)
全幅(Beam): 7.9 m (26 ft)
吃水(Draught): 1.5 m (4 ft 11 in)
機関(Propulsion): マン(MAN)ディーゼルエンジン (894 kW)
最高速力(Speed): 15 knots (28 km/h; 17 mph)
兵装(Armament):1× 75ミリ砲
1× ボフォース(Bofors)40ミリ対空機関砲
2× マドセン(Madsen)20ミリ対空機関銃
機雷投下機3条、搭載機雷100発
煙幕発生器
写真(右)1942年5月18日、フィンランド湾、トゥルク沖でフィンランド海軍の「ルオトシンサルミ」(Ruotsinsalmi)級機雷敷設艦(Miinalaiva)後甲板に搭載された触発式機雷の敷設作業;後甲板に搭載された触発式感応機雷機雷には104、128など1個ずつ番号が振られている。
Peräkannen miehistö on valmiina laskemaan miinat veteen.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-05-18
Sot.virk. Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-32249引用。
写真(右)1942年6月28日、フィンランド湾、艦上での敷設作業の合間にチーフマスタールオコーネン(Ruokonen)は、機雷の間で釣り具を準備している。;機雷敷設作業の合間に釣りをする時間があったようだ。
Työn lomassa jää aikaa kalastamiseen. Ylikonemestari Ruokonen laskee pitkäsiiman miinajonojen väliin..
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-18
Sot.virk. Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-12672引用。
写真(右)1944年7月26日、フィンランドに派遣されたドイツ海軍の1936年式Z23級駆逐艦(Zerstörer 1936):フィンランド湾で機雷敷設作業をしている様だ。後部マストにカギ十字と鉄十字を組み合わせたドイツ海軍旗が掲げられている。;
Saksalaisia miinanlaskijoita.
Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-26
Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-124916引用。
ドイツ海軍の主力駆逐艦は、1936級で15隻が竣工した。造船所は、12隻はデシマーク(Deschimag)ブレーメン造船所で、Z37からZ39までの3隻はキール造船所で建造された。敵対するイギリス海軍駆逐艦と数的に劣勢であったために、より強力な15センチ砲を搭載して攻撃色を増強している。しかし、12.7センチ砲を搭載する駆逐艦に軽巡洋艦と同じ15センチ砲を搭載したために、兵装重量が過大になり、復元性能が大幅に低下し、荒天時の外洋航行能力に問題が生じてしまった。
写真(右)1944年7月26日、フィンランドに派遣されたドイツ海軍の1936年式Z23級駆逐艦(Zerstörer 1936)の船尾から船体中央部:15センチ単装砲を搭載した半開放式防楯の付いた砲塔が確認できる。;後部マストにカギ十字と鉄十字を組み合わせたドイツ海軍旗が掲げられている。
Saksalaisia miinanlaskijoita.
Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1944-07-26
Vänrikki E.Blomberg, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-124917引用。
ドイツ海軍1936年式Z23級駆逐艦の諸元
基準排水量 : 2,600t
満載排水量 : 3,605t
全長:127m、全幅:12m
吃水:4.65m
ボイラー6基、ギヤードタービン2基2軸
出力:7万馬力
最高速力:37ノット
航続距離:3,650マイル/18ノット
乗員:220名
兵装:15センチ連装砲塔1基、15センチ単装砲2基
37ミリ対空機関砲4基
20ミリ対空機関銃8丁
53.3センチm四連装魚雷発射管2基
爆雷投射機4基:機雷:60発
4.1942年、ドイツ海軍の水上対空砲台ガンシップ
写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)港沖、ドイツ海軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー)のパレードを視察するドイツ海軍東部特別部隊(Einsatzstab Fähre Ost)の将兵たち:ラハティでの視察中、招待されたドイツ海軍東部特別部隊は、連絡艇に乗船し、そこからケラー将軍らのパレードを視察した。中央左、フィンランド第VI軍(カレリア地峡方面軍)のブロル・クラエメル(Bror Kraemer)大佐13.8.1942でCarl Rosenqvistの撮影した白黒写真シリーズ(104646 - 104659)で 「Laatatu 10.8.-42」というラベルのスライドがある。
Lahdenpohjassa pidetyssä saksalaisen laivasto-osaston (Einsatzstab Fähre Ost) tarkastuksessa kutsuvieraat asettuivat jalkaväkiveneeseen, jolta kenraalieversti Keller vastaanotti paraatin. Kyseisestä tapahtumasta löytyy Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka ajankohdaksi merkitty 13.8.1942. Diaan merkitty "Laatokalta 10.8.-42". Keskellä vasemmalla eversti Bror Kraemer, suomalaisen VI Armeijakunnan tykPetsamo, Luttojoki 1942.07.00
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166372引用。
写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)港沖、ドイツ海軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー)のパレードを双眼鏡をもって視察するフィンランド軍ヘルビネン(E.Järvinen)大佐:ドイツ海軍東部特別部隊は、水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー)を有していたが、これは湖上の移動式会場対空砲台だった。Carl Rosenqvistの撮影した白黒写真シリーズ(104646 - 104659)で 「Laatatu 10.8.-42」というラベルのスライドがある。
Saksalaisen laivasto-osaston Siebel-lauttojen (tykkilautta, Siebelfähre) paraatista Lahdenpohjassa Laatokalla. Oikealla eversti E. Järvinen. Kyseisestä tapahtumasta löytyy Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka ajankohdaksi merkitty 13.8.1942. Diaan merkitty "Laatokalta 10.8.-42".
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-166133引用。
写真(上)1942年8月1日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)港、8.8センチ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)を搭載したドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー)3隻が停泊している。;ガンシップは、双胴の艀の上に対空兵器を搭載したもので、外洋航行はできない吃水の浅い艀である。しかし、ラトガ湖のような波のない湖では、強力な対空火力を備えており、移動式対空砲台として活躍できた。
Kuva todennäköisesti Lahdenpohjassa pidetystä saksalaisen laivasto-osaston (Einsatzstab Fähre Ost) paraatista 13.8.1942. Tapahtumasta Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka selosteessa päiväys 13.8.1942. Kyseisistä lautoista (Siebel-lautta) kuvia myös muilta päiviltä (esim. 10.8., 11.8., 31.7.). Lautan it-tykit mallia 8,8 cm FlaK 37, suomalaisittain 88 ItK/37 RMB.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-1
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はMuseoiden Finna・sa-kuva-18858引用。
写真(上)1942年8月1日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)港、8.8センチ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)を搭載したドイツ海軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー)の航行;ガンシップは、双胴の艀の上に対空兵器を搭載したもので、外洋航行はできない吃水の浅い艀である。しかし、ラトガ湖のような波のない湖では、強力な対空火力を備えており、移動式対空砲台として活躍できた。
88ミリ対空砲は、ドイツ軍の8.8 cm FlaK 37、フィンランド軍kp88 L / 37 RMB。
Kuva todennäköisesti Lahdenpohjassa pidetystä saksalaisen laivasto-osaston (Einsatzstab Fähre Ost) paraatista 13.8.1942. Tapahtumasta Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka selosteessa päiväys 13.8.1942. Kyseisistä lautoista (Siebel-lautta) kuvia myös muilta päiviltä (esim. 10.8., 11.8., 31.7.). Lautan it-tykit mallia 8,8 cm FlaK 37, suomalaisittain 88 ItK/37 RMB.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-01
Sot.virk. C.G. Rosenqvist, valokuvaaja
写真はMuseoiden Finna・sa-kuva-18889引用。
フィンランド軍の対空砲台式水上ガンシップ(Siebelフェリー)は、双胴の艀の上に8.8センチ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)、1937年式3.7センチ対空機関砲(37 ItK / 37 RMB)、20ミリ四連装機関銃のような強力な対空火器を搭載した移動式対空砲台である。吃水の浅い艀で、外洋航行は期待できないで、ラトガ湖のような波のない湖では、強力な対空火力を武器にして、水上を移動する対空砲台として臨機応変に活躍できたようだ。少なくとも3隻がラトガ湖において使用されている。
写真(上)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、ドイツ製1937年式37ミリ対空機関砲(37 ItK / 37 RMB)・20ミリ四連装機関銃を搭載したドイツ軍の対空機関砲を搭載した水上対空砲台ガンシップ;1937年式37ミリ対空機関砲は、ドイツ軍の3.7 cm Flak 37だが、フィンランド軍では、37 ItK / 37 RMB(Rheinmetall-Borsig)と呼称された。 ドイツ特別東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって撮影された一連の写真(104646-104659)。
Saksalainen lautta paraatissa Lahdenpohjan edustalla. Sama kuva kuin JSdia172. Mustavalkoisista SA-kuvista löytyy Carl Rosenqvistin kuvaama kuvasarja 104646 - 104659, joka samasta tilanteesta. Näiden alkuperäisessä kuvaselosteessa on kuvauspäiväksi/paraatin ajankohdaksi merkitty 13.8.1942. Diaan merkit.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165706:JSdia172引用。
ラインメタル社は、1930年式2センチ対空機関銃(2 cm Flak 30)を37ミリ口径に強化した3.7cmFlak 18を開発したものの、大量生産はされず、改良型の1937年式3.7センチ対空機関砲(3.7 cm Flak 37)、ついで1943年式3.7センチ対空機関砲(3.7 cm Flak 43)が量産されている。ドイツ軍の1937年式37ミリ対空機関砲(3.7 cm Flak 37)は、フィンランド軍では、RMB37ミリ機関砲(37 ItK / 37 RMB:Rheinmetall-Borsig)として採用されてエイル。
1943年式3.7センチ対空機関砲(3.7 cm Flak 43)の諸元
発射速度150 発/分、砲口初速770–820 m/秒、有効射程4,200 m。
写真(上)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、1937年式88ミリ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)を搭載したドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー);ドイツ特別東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって撮影された一連の写真(104646-104659)。
Saksalainen lautta paraatissa Lahdenpohjan edustalla. Sama kuva kuin JSdia172. Mustavalkoisista SA-kuvista löytyy Carl Rosenqvistin kuvaama kuvasarja 104646 - 104659, joka samasta tilanteesta. Näiden alkuperäisessä kuvaselosteessa on kuvauspäiväksi/paraatin ajankohdaksi merkitty 13.8.1942. Diaan merkit.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165706引用。
1941年6月、フィンランド軍は継続戦争を始め、ソ連に侵攻した。この時、カレリア地方でも進軍し、カレリア地峡に連なるラドガ湖、東カレリアのオネガ湖にまで軍をすすめ、占領地を拡大した。ラフデンポヒヤ(Лахденпо́хья:Lahdenpohja)は、ラトガ湖の北西端にある街で、大きな入り江の奥に位置している。現在、ロシア連邦カレリア共和国だが、フィンランド軍は、ラフデンポヒヤを占領し、ラトガ湖の水上交通を利用した防衛戦の拡張・強化を企図していた。
写真(上)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、フィンランドに派遣されたドイツ海軍東部特殊部隊(Einsatzstab Fähre Ost)水上艦の水兵;ライフジャケットを着てヘルメットを被って、手旗信号を送っている。1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)が撮影した(104646 - 104659)。
Saksalaisen laivasto-osaston (Einsatzstab Fähre Ost) paraatista Lahdenpohjasta. Kyseisestä tapahtumasta löytyy Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka ajankohdaksi merkitty 13.8.1942. Diaan merkitty "Laatokalta 10.8.-42". Kuvassa saksalanen tykkilautta, jolta viestitään muille aluksille lippuje
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165800引用。
写真(上)1942年6月28日、ドイツ軍の支援を受けて建造したフィンランド軍の対空砲台式水上艇 ;8,8センチ高射砲、20ミリ対空機関砲を搭載しているガンシップは、白色迷彩塗装を施されている。乾舷は低く外洋航行はできないが、内陸湖沼では十分に機動力を発揮できた。
Saksan ilmavoimien (Einsatzstab Fähre Ost) raskas tykkilautta (Siebel-lautta, uppoumaltaan 143 tonnia) Lahdenpohjan edustalla pidetyssä paraatissa.
Lahdenpohja, Laatokka 1942.08.13
写真はThe Finnish Defence Forces・JSdia173引用。
写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、ドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー)艦上のレイズナー・備アンチ―二(Leissner Bianchini)大尉らが乾杯をしている。;ドイツ東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって記述された一連の写真(104646-104659)。
Korvettikapteeni Bianchini, Leissner ja Siebel kohottavat maljansa.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-18938引用。
写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、1937年型88ミリ高射砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)を搭載したドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー);ドイツ東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって記述された一連の写真(104646-104659)。これらの対空フェリー(Siebel Ferries)は、7月31日、8月10日、8月11日、他の日にも撮影されている。
Lahdenpohjassa pidetystä saksalaisen laivasto-osaston (Einsatzstab Fähre Ost) tarkastuksesta/paraatista.
Lahdenpohja, Laatokka 1942.08.00.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165913:JSdia178引用。
写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、3.7センチ対空機関砲(8.8 cm FlaK 37:フィンランド軍 88 ItK / 37 RMB)と2センチ四連装対空機関銃を搭載したドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー);ドイツ東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって記述された一連の写真(104646-104659)。
Kuva todennäköisesti Lahdenpohjassa pidetystä saksalaisen laivasto-osaston (Einsatzstab Fähre Ost) paraatista 13.8.1942. Tapahtumasta Carl Rosenqvistin kuvaama mustavalkoinen kuvasarja (104646 - 104659), jonka selosteessa päiväys 13.8.1942. Kyseisistä lautoista (Siebel-lautta) kuvia myös muilta päiviltä (esim. 10.8., 11.8., 31.7.). Lautan it-tykit mallia 8,8 cm FlaK 37, suomalaisittain 88 ItK/37 RMB.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165913:JSdia181引用。
写真(上)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、1937年式37ミリ対空機関砲(3.7 cm Flak 37;37 ItK / 37 RMB:Rheinmetall-Borsig)と2センチ四連装対空機関銃を搭載したドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー);ドイツ東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって記述された一連の写真(104646-104659)。
Raskaiden saksalaisten Siebel-lauttojen paraatista Laatokalta. Vrt. vastaavat Carl Rosenqvistin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat (esim. 104654. Aika- ja paikkatiedot mv-kuvista), joiden selosteeseen merkitty ajankohdaksi 13.8.1942. Diaan merkitty 10.8.1942.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-166002引用。
写真(右)1942年8月13日、カレリア地峡北口、ラトガ湖北端、レニングラード北200キロ、入り江となっているラフデンポヒヤ(Lahdenpohja)沖、1937年式37ミリ対空機関砲(3.7 cm Flak 37;37 ItK / 37 RMB:Rheinmetall-Borsig)と2センチ四連装対空機関銃を搭載したドイツ軍の水上対空砲台ガンシップ(Siebelフェリー);ドイツ東部軍(Einsatzstab Fähre Ost)の水上パレードの写真で、 1942年8月13日にカール・ローゼンクヴィスト(Carl Rosenqvist)によって記述された一連の写真(104646-104659)。
Raskaiden saksalaisten Siebel-lauttojen paraatista Laatokalta. Vrt. vastaavat Carl Rosenqvistin kuvaamat mustavalkoiset SA-kuvat (esim. 104654. Aika- ja paikkatiedot mv-kuvista), joiden selosteeseen merkitty ajankohdaksi 13.8.1942. Diaan merkitty 10.8.1942...
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-08-13
Carl Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165785引用。
5.1942年、フィンランド海軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)
写真(右)1942年夏、フィンランド南西端、トゥルク南50キロ、クングスホルメン(Pelling)群島のペリング(Kungsholmen)のフィンランド海軍水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)基地に配属された水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)部隊員たち:1942年、フィンランドのペリング(Kungsholmen)水上艦艇基地は、警備艇(Vmv Laivuen:VMV)VMV 1、2、13、14、15、16の6隻で構成されていた。
ensimmäinen vartiomoottorivenelaivue ja henkilökuntaa Kungsholmenissa kesällä 1942, Huom: Alunperin kuvauspaikkatietona on ollut Suursaaren länsipuoli, mutta tietoa on epäilty virheelliseksi. Mahdollinen paikka Pellingin saaristo, Kungsholmen, johon liittyen museo sai sähköpostilla palautteen Finna-tietokannasta 10.2.2017. Tähän palautteeseen nojaten tiedot on muutettu Suursaaresta Pellingin saaristoksi. E P-K Vuonna 1942 ensimmäisen VmvLaivueen muodostivat VMV 1,2,13,14,15 ja 16. Olisiko tämä kuva siitä laivueesta? NR
Organisation
Kymenlaakson museo
Collection
Merivartiokokoelma
Yleinen merivartiokokoelma
Inventory ID
MVMMVMV51:8
Measurements
23 x 17 cm
Photo info:
1942
paperi (Pohjamateriaali)
Exhibitions:
Merivartiomuseo 2008
写真は,Finnish Defence Forces, Kymenlaakson museo M42:MVMMVMV51:8引用。
写真(右)1942年夏、南西端、トゥルク南50キロ、クングスホルメン(Pelling)群島のペリング(Kungsholmen)に初めに配備された水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)
:1942年、フィンランドのここの水上警備部隊は、警備艇(Vmv Laivuen:VMV)はVMV 1、2、13、14、15、16の6隻で構成されていた。フィンランド軍警備艇第1号型(Vartiomoottorivene 1)の諸元は、
乗員 8名
ドイツ・ブレーメンにて1930年建造
1950年退役
排水量 30 トン
全長 23,5 m
全幅 4,2 m
乾舷 1 m
最高速力 25ノット
発動機 ドイツ製マイバッハ(Maybach) V-12エンジン
最高出力 560馬力 巡行 100 馬力
兵装
デンマーク製マドセン(Madsen) 20ミリ機関銃1丁
ensimmäinen vartiomoottorivenelaivue Pellingin saaristossa Kungsholmenissa kesällä 1942, Huom: Alunperin kuvauspaikkatietona on ollut Suursaaren länsipuoli, mutta tietoa on epäilty virheelliseksi. Mahdollinen paikka Pellingin saaristo, Kungsholmen, johon liittyen museo sai sähköpostilla palautteen Finna-tietokannasta 10.2.2017. Tähän palautteeseen nojaten tiedot on muutettu Suursaaresta Pellingin saaristoksi. E P-K Vuonna 1942 ensimmäisen VmvLaivueen muodostivat VMV 1,2,13,14,15 ja 16. Olisiko tämä kuva siitä laivueesta? NR
Organisation
Kymenlaakson museo
Collection
Merivartiokokoelma
Yleinen merivartiokokoelma
Inventory ID
MVMMVMV51:7
Measurements
23 x 17 cm
Photo info:
1942
paperi (Pohjamateriaali)
Exhibitions:
Merivartiomuseo 2008
写真は,Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive From the front line to the home front 1939-1945引用。
写真(右)1942年7月14日、フィンランド、海上を航行するフィンランド軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)第9号(VMV 9):後甲板に20ミリ機関銃が搭載されているが、前甲板は小型の7.62ミリ機関銃なのか銃架も異なっている。1942年、フィンランドのペリング(Kungsholmen)水上艦艇基地は、警備艇(Vmv Laivuen:VMV)VMV 1、2、13、14、15、16の6隻が配属され、1941−1944年、フィンランド南岸、ヘルシンキ西150キロ、ハミナの沖合20キロのウルコ=タミオ(Ulko-Tammio)島西海岸の水上艦艇基地には、水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)第9号(VMV 9)と少なくとももう1隻が配属されていた。
Vartiomoottorivene 9 (VMV 9) Somerin taistelun jälkeen, mahdollinen kuvausajankohta 14.7.1942.
Organisation
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166149引用。
フィンランド軍水上警備艇第1号型(Vartiomoottorivene 1)の諸元
乗員 8名
ドイツ・ブレーメンにて1930年建造
1950年退役
排水量 30 トン
全長 23,5 m、
全幅 4,2 m
乾舷 1 m
最高速力 25ノット
発動機 ドイツ製マイバッハ(Maybach) V-12エンジン
最高出力 560馬力 巡航出力 100 馬力
兵装
デンマーク製マドセン(Madsen) 20ミリ機関銃1丁
写真(右)1942年7月14日、フィンランド、海上をゆっくりと航行するフィンランド軍の水上警備艇第9号(VMV 9):前甲板7.62ミリ機関銃、後甲板には20ミリ機関銃が搭載されている様だ。1942年、フィンランドのペリング(Kungsholmen)水上艦艇基地は、警備艇(Vmv Laivuen:VMV)VMV 1、2、13、14、15、16の6隻が配属され、1941−1944年、フィンランド南岸、ヘルシンキ西150キロ、ハミナの沖合20キロのウルコ=タミオ(Ulko-Tammio)島西海岸の水上艦艇基地には、警備艇第9号(VMV 9)と少なくとももう1隻が配属されていた。
Vartiomoottorivene 9 (VMV 9) Somerin taistelun jälkeen, mahdollinen kuvausajankohta 14.7.1942.
Organisation
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-07-14
Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166052引用。
1941年6月、ドイツのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では、フィンランドは,ルーマニア同様、積極的攻勢をかけることが期待されていた。ドイツは、フィンランド北部、北極海に面したぺツァモと近郊の希少資源ニッケル鉱床を保持するだけでなく、カレリア地峡南端のソ連レニングラードと北極海の不凍港ムルマンスクを結ぶ鉄道を遮断する作戦を実行に移した。つまり、ドイツは、既に全土を占領したノルウェー北部から、フィンランド北部にドイツ第21軍北方軍団を進駐させ、そこからムルマンスク方面を攻撃する計画だった。
この極北でのソ連侵攻に、ドイツ軍とフィンラ ンド軍が参加し、さらにカレリア地峡のすべてを占領し、レニングラードを攻略するために、ラドガ湖周辺にもフィンランド軍が侵攻する計画だった。このようにしてフィンランドは、ドイツの対ソ戦争「バルバロッサ作戦」に組み込まれいた。特に、1941年1月には、ノルウェー派遣ドイツ軍は、極北戦線で「銀狐作戦」(Silberfuchs)によって、コラ半島のソ連軍を撃滅し,ムルマンスク鉄道に沿って、白海とフィンランド湾の間にあるカレリア地峡まで進出する計画を立てていた。
写真(右)1942年夏(?)、フィンランド、フィンランド南岸、ヘルシンキ西150キロ、ハミナの沖合20キロのウルコ=タミオ(Ulko-Tammio)島西海岸の水上艦艇基地近くの海上を航行するフィンランド軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)第9号(VMV 9):後甲板には20ミリ機関銃が搭載されている。
Vartiomoottorivene (VMV) lähdössä tukikohdastaan. Diaan merkitty paikaksi Hanko. Paikkana todennäköisesti kuitenkin Ulko-Tammion vartiomoottoriveneiden tukikohta itäisellä Suomenlahdella...
Organisation
Sotamuseo
Photo info:
undated Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-165882引用。
1942年、フィンランド沖、フィンランド湾、ペリング(Kungsholmen)水上艦艇基地は、警備艇(Vmv Laivuen:VMV)VMV 1、2、13、14、15、16の6隻が配属され、1941−1944年、フィンランド南岸、ヘルシンキ西150キロ、ハミナの沖合20キロのウルコ=タミオ(Ulko-Tammio)島西海岸の水上艦艇基地には、警備艇第9号(VMV 9)と少なくとももう1隻が配属されていた。
写真(右)1942年夏(?)、フィンランド、煙幕放出実験をしているフィンランド海軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)第9号 (VMV 9):後甲板に20ミリ機関銃が搭載されているが、前甲板は小型の7.62ミリ機関銃なのか銃架も異なっている。フィンランド軍水上警備艇第1号型(Vartiomoottorivene 1)の諸元は、
乗員 8名
ドイツ・ブレーメンにて1930年建造
1950年退役
排水量 30 トン
全長 23,5 m
全幅 4,2 m
乾舷 1 m
最高速力 25ノット
発動機 ドイツ製マイバッハ(Maybach) V-12エンジン
最高出力 560馬力 巡行 100 馬力
兵装
デンマーク製マドセン(Madsen) 20ミリ機関銃1丁
Vartiomoottorivene 9 (VMV 9).
Suomela, valokuvaaja
Vartiomoottorivene 9 (VMV 9). Sama kuva kuin JSdia110.
Content Type
Photo
Organisation
Military Museum
Photo info:
undated Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166329引用。
フィンランド国防軍参謀総長へインリクスは,ドイツに空路訪れ、1941年5月25日から,国防軍作戦部長ヨードルらと会談し、レニングラード攻略と極北作戦について概説し,ラドガ湖周辺への攻勢、ムルマンスク攻略への協力、ハンコ租借地のソ連軍基地攻撃への参加を話し合い、情報交換をなした。こうして、フィンランドは、ドイツのソ連侵攻に際して、 軍事同盟の締結をしたわけではないが、フィンランド軍の動員、ドイツ空軍への基地提供など具体的な話題をも取り上げ、ドイツのソ連侵攻に併せて、フィンランドもソ連との戦争を始める決意があることを間接的に伝えていた。
フィンランド国防軍参謀総長へイン リクスは, ドイツに対し、1941年6月10日にフィンランドの動員が、6月28日には作戦準備が完了する伝えたがと通告した。他方、大統領リュティは、 6月14日に外交委員会を召集し、ドイツとの軍事的協力を承認している。準備万端の中、日本同様、フィンランドも6月17日、ドイツによる対ソ侵攻が6月22日に開始されることを暗示され、対ソ戦争の開始を固唾をのんで見守っていた。
写真(上)1941−1944年、フィンランド南岸、ヘルシンキ西150キロ、ハミナの沖合20キロのウルコ=タミオ(Ulko-Tammio)島西海岸のフィンランド海軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)の基地に停泊するフィンランド軍第2水上部隊(2 / VmvLv)所属の警備艇第9号(VMV 9);水上艦艇の搭乗員は、ヘルメットに救命胴衣(ライフジャケット)を着用している。奥にも警備艇が停泊している。
Ulko-Tammio, Länsilahti. Vartiomoottoriveneiden tukikohta, 2/VmvLv. Etualalla vartiomoottorivene 9 (VMV 9).
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
ajoittamaton Suomela, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166339引用。
3年2カ月に及ぶ第二次ソ芬戦争、すなわち継続戦争( Jatkosota)は、北限の死闘であり、雪・氷・霧による航空兵力・軌道兵力の使用が制限され、少数劣勢のフィンランド軍は、大群のソ連軍を相手に善戦できた。気象条件・地形が、大兵力の展開や機動戦を困難にしていたため、フィンランド軍にとって、兵士一人一人の能力を活かせる状況が生まれた。日米戦争で言えば、アリューシャン列島・樺太(サハリン)など北方戦線は、1943年5月のアッツ島攻防戦を除いて、1945年8月まで静謐だったことが思い出される。
写真(右)1942年6月18日、フィンランド、航行して煙幕放出試験をするフィンランド海軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene):後甲板に搭載されているのは20ミリ機関銃ではなく、1932年にマキシム(Maxim)M/32あるいはM/33機関銃のようだ。発射速度は」毎分850発。
Sumutusharjoitus. Everstiluutnantti Susitaival ja komentaja Göransson seuraamassa (eivät näy kuvassa). Tiedot värikuvien selosteesta....
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Erik Blomberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166024引用。
フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)元帥は、ソビエト連邦を相手に1939年に冬戦争を、1941年7月から第二次世界大戦時にソ連と戦ったが、その時期にフィンランド国防軍総司令官を勤めた。
写真(上)1942年6月16日、フィンランド、航行しているフィンランド海軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)による「煙幕展開運動」を視察したフィンランド海軍の司令官ゴラン(Göransson)中将:後甲板に搭載されているのは20ミリ機関銃ではなく、1932年にマキシム(Maxim)M/32あるいはM/33機関銃のようだ。煙幕が落ちる姿をエリック・ブロンベルク(Erik Blomberg)がカラー写真で撮影したのカラー写真のシリーズが残っている。Göransson
Sumutusharjoitus. Everstiluutnantti Susitaival ja komentaja Göransson seuraamassa. Tiedot värikuvien selosteesta.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Erik Blomberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166103引用。
1941年1月4日にフィンランド首相となったヨハン・ウィルヘルム・ランゲル(Johan Wilhelm Rangell)は、1941年6月22日、ドイツのソ連侵攻を契機として、ソ連に攻め入った。これは、1939年の冬戦争で敗れ失った国土カレリア地方を奪還するというのが目的だったが、共産主義者の反乱を鎮圧して独立したフィンランドは、当初から共産主義ボリシェビキのソビエト連邦を警戒、仮想敵としていたから、これは、脅威となっているソ連に対する弱体化の戦争とも考えられる。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド、航行しているフィンランド海軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)による「煙幕展開運動」を視察したフィンランド海軍の司令官ゴランソン(Göransson)中将:煙幕が落ちる姿をエリック・ブロンベルク(Erik Blomberg)がカラー写真で撮影したのカラー写真のシリーズが残っている。後甲板に搭載されているのは20ミリ機関銃ではなく、1932年にマキシム(Maxim)M/32あるいはM/33機関銃のようだ。
Sumutusharjoitus. Everstiluutnantti Susitaival ja komentaja Göransson seuraamassa. Tiedot värikuvien selosteesta.
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Erik Blomberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166103引用。
フィンランド軍水上警備艇第1号型(Vartiomoottorivene 1)の諸元
乗員 8名
建造:ドイツ・ブレーメン造船所;1930年
1950年退役
排水量: 30 トン
全長: 23,5 m
全幅: 4,2 m
吃水: 1 m
最高速力: 25ノット
発動機:ドイツ製マイバッハ(Maybach) V-12エンジン
最高出力: 560馬力
巡航出力: 100 馬力
兵装:デンマーク製マドセン(Madsen) 20ミリ機関銃1丁
1941年6月のドイツのソ連侵攻に引き続いて行われた、フィンランドのソ連侵攻「継続戦争」において、開戦当初から、東カレリアへ順調に進軍を続け、当時のソ連領だった東カレリアの多くを1941年中に占領することができた。つまり、ロシア連邦カレリア共和国、当時はソビエト連邦だった東カレリアにまで、継続戦争の初期1941年にソ連に侵攻したフィンランド軍は侵攻し、東カレリアを占領し、調査員を派遣して、居住していたラップ人、フィンランド人の情報を収集した。これは、円滑な占領政策のためだが、フィンランドにとっては、ソ連領の併合、自国領土の拡張占領を念頭に置いた占領政策だった。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド、航行しているフィンランド海軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)による「煙幕展開運動」:煙幕が落ちる姿をエリック・ブロンベルク(Erik Blomberg)がカラー写真で撮影したのカラー写真のシリーズが残っている。
Savuverhon lasku. Liittyy Erik Blombergin värikuvien sarjaan Äänisjärveltä "sumutus harjoituksesta", tiedot värikuvien selosteesta.....
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Erik Blomberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166103引用。
東カレリアとそれに接したソ連の領土は、1941年夏から1944年春・夏まで、フィンランドの占領下におかれ、そこの住民たちは、フィンランドによる統治を受けた。ソ連北西部、レニングラード北東300キロのオネガ湖から、北・東・南の方向にフィンランド領を超えた土地、明らかにソ連の領土まで占領した。こんな奥地までフィンランド軍が侵攻していたことは、継続戦争の目的が失地回復だけではなくソ連の弱体化、ボリシェビキの掣肘、領土・防衛戦の拡張にあったことを物語っている。
写真(右)1942年6月16日、フィンランド、オネガ湖(Onego)を航行しているフィンランド海軍の水上警備艇(VMV: Vartiomoottorivene)とフィンランド海軍のスピードボート:、前景、ガンボートIlmarin Vickers。カラー画像レポートの詳細。
Äänisjärvellä. Pikavene, etualalla tykkivene Ilmarin Vickers. Tiedot värikuvien selosteesta..
Aineistotyyppi
Valokuva
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1942-06-16
Erik Blomberg, valokuvaaja
写真は,Finnish Defence Forces, Sotamuseo sa-kuva-166103引用。
フィンランドは、1941年6月に継続戦争を開始、ソ連に攻め込んで、冬戦争に敗れて奪われた失地を回復するという戦争を目的を掲げた。しかし、東カレリア地方(Eastern Karelia)、コントクキ(Kontokki)、アコンラティ(Akonlahti)は、ソ連北西部で、現在、ロシア連邦カレリア共和国にあるが、1917年にフィンランドがロシア帝国から独立した時点でも、ソビエト・ロシア領だった。つまり、東カレリアの占領地によって、フィンランドは、国境を西側にずらして、固有の領土を防衛するための予防措置とした。換言すれば、共産主義・ボリシェビキの侵攻を防ぐ緩衝地帯であるとして、東カレリアの領有、支配を考えていたようだ。
しかし、フィンランドは、軍事力を背景とした民族圧迫や資源収奪を優先するのではなく、住民生活の保障・安定にも配慮し、占領地に調査員を送って、情報収集に努めている。その様子は、ソ連領土に住んでいたフィンランド人に本土と同じ安定した生活を取り戻すといった「大フィンランド的思想」が投影したものだった。
6.1943年、マンネルへイム元帥が視察したフィンランド海軍魚雷艇部隊
写真(右)1943年7月15日、フィンランド軍水上艇部隊の魚雷艇をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;
Suomen Marsalkka Mt-veneen kannella.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138892引用。
1939年冬戦争、1941年継続戦争の時期のフィンランド海軍は、バルト海、フィンランド湾など内海のような狭い海域で活動するために、遠洋航海可能な大型艦艇は保持しておらず、小型艦艇中心で、対ソ連用には、機雷敷設、機雷掃海も充実させる必要があった。攻撃用には、小艦で大艦を屠ることのできる雷撃が重視されており、魚雷艇が配備されていた。
イギリス海軍やイタリア海軍は、駆逐艦や水雷艇よりも小型だが、魚雷を搭載して、大型艦艇から小型商戦まで攻撃できる魚雷艇(Torpedo Boat)を開発し、1914年に勃発した第一次世界大戦で、多数実戦投入して戦果を挙げた。そこで、大戦終了後も有効性を認められた魚雷艇は、機動魚雷艇MTB(Motor Torpedo Boat)あるいはMTボートと称されて、各国で採用されている。
写真(右)1942年7月15日、フィンランド軍水上艇部隊の魚雷艇をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;魚雷発射管は搭載していないので、魚雷を前方に射出することはできない。魚雷は、左右舷側に投下され、予め定められた方向にジャイロコンパスで誘導される。
Suomen Marsalkka tarkastaa moottoritorpeedoveneitä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138892引用。
フィンランド海軍は、1928年にイギリス、スローニクロフト社で建造されたシャークシク(Syöksy)級魚雷艇(英語の Attack級) 4隻を導入した。
シャークシク(Syöksy)級魚雷艇の諸元
排水量: 13トン
全長: 16.8 m
全幅: 3.4 m
吃水Draught: 1 m
推進器: 2 × 375 馬力
最高速力: 43 ノット
乗員: 7名
兵装:45センチ(18インチ)魚雷2本あるいは機雷 3個(魚雷との選択)
20ミリマドセン対空機関銃1丁
爆雷(depth charge)2発
写真(上)1943年7月15日、フィンランド海軍水上艇部隊の魚雷艇をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;奥の4隻の魚雷艇の前部甲板にフィンランド軍水兵が整列している。各艦は、魚雷2本と船尾両側に爆雷を各1個搭載している。検閲を受けている。
Suomen Marsalkka mt-veneiden kannella
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Vänrikki Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140731引用。
1941年6月26日にソ連侵攻「継続戦争」を指揮したフィンランド国防軍総司令官マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥だったが、戦局悪化の中、1944年8月4日、第6代フィンランド大統領に就任した。そして、1944年9月19日、ソ連と講和し、ドイツ軍を裏切った。フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥の誕生日(1867年)6月4日を「フラッグ・デー」と定めている。6月4日は、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥を記念して、軍事パレードが行われる。
写真(右)1942年7月15日、フィンランド軍水上艇部隊の魚雷艇をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;露天式艦橋(開放型司令塔)には、操舵用の転輪がついている。魚雷を前方に射出する魚雷発射管は装備していないので、魚雷を発射するには、舷側に魚雷を投下する。そして、目標を予め定め方向にジャイロコンパスによって針路を誘導される。
Suomen Marsalkka mt-veneiden kannella.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Vänrikki Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140717引用。
1942年6月4日、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)元帥75歳の誕生日を祝うために、ナチス・ドイツ総統兼首相アドルフ・ヒトラーは、ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドル輸送機C-3/U9に乗って、フィンランドのイマトラ空港に到着した。フィンランド側は国賓として、同盟国ヒトラー総統を迎え、フィンランド大統領リスト・リュティ(Risto Ryti)、フィンランド首相エドウィン・リンコミエス(Edwin Linkomies)、フィンランド国防軍総司令官マンネルハイム元帥が、直々に飛行場に出迎えた。そして、同じ反共産主義・反ボリシェビキを奉じて、ソ連と戦う枢軸同盟国として固い握手を交わした。
⇒写真集:フィンランド国防軍総司令官マンネルヘイム(C G E Mannerheim)元帥 を見る。
写真(右)1942年7月15日、フィンランド軍水上艇部隊、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が魚雷艇MTボートの露天式艦橋(開放型司令塔)、その後部の20ミリマドセン(20 mm Madsen)対空機関銃を視察した。;20ミリマドセン(20 mm Madsen)対空機関銃は、重量55キロ、全長2.5 m、銃身長1.2 m、弾薬20 x 120 mm 、弾薬重量.29 kg (10 oz) AP
.32 kg (11 oz) HE、空冷20口径、発射速度400 rpm、有効射程500 m 、最大射程2,123 m。 右側に停泊している魚雷艇は、全高も低く、露天式艦橋(開放型司令塔)ではなく、密閉式艦橋である。
Suomen Marsalkka tarkastaa moottoritorpeedoveneitä.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Vänrikki Ragnar Meinander, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140720引用。
当時、フィンランドは、枢軸国のナチス・ドイツの同盟国であり、反ボリシェビキ(Bolshevik)を掲げて、共産主義のソビエト連邦と戦っていた。ヒトラーは、マンネルハイムに一層激しい攻勢をソ連に仕掛けることを強く要請した。しかし、マンネルハイムは、フィンランドの国力の低さ、作戦地域の地形や天候の要害を理由にして、攻勢をかけることの困難さを訴えた。マンネルハイムは、同盟国ドイツと運命を共にするつもりは全くなく、フィンランドの国益、すなわち独立の保障の最優先していた。
フィンランドが第二次ソ芬戦争、継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。
しかし、1944年、ソ連との講和、対ドイツ戦争の開始とともにカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、廃止された。wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を想起させるのを忌避する方便であろう。
写真(右)1943年7月15日、フィンランド海軍水上艇部隊の魚雷艇の20ミリマドセン(20 mm Madsen)対空機関銃のある司令塔をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;露天司令塔には操舵のための転輪が見える。
Suomen Marsalkka tarkastaa Mt-veneen aseistusta. Tanskalainen 20 mm Madsen ilmatorjunta-aseena..
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
Sotamuseo
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138893引用。
20ミリマドセン(20 mm Madsen)対空機関銃の諸元
重量55キロ
全長:2.5 m、銃身長:1.2 m
弾薬20 x 120 mm
弾薬重量:0.29 kg (10オンス) AP,
0.32 kg (11オンス) HE
空冷20口径
発射速度:400 rpm
有効射程:500 m 、最大射程:2,123 m
写真(右)1943年7月15日、フィンランド海軍水上艇部隊の魚雷艇の遮風装置付き露天艦橋(司令塔)をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。
Suomen Marsalkka Mt-veneen komentosillalla.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
Sotamuseo
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138895引用。
フラヤ(Hurja)級魚雷艇の諸元
排水量14 トン
全長: 16.5 m、全幅: 4.3 m
吃水: 1.3 m
推進器: 2軸、イソッタ(Isotta Fraschini)2,300馬力
最高速力: 36 ノット
乗員: 10名
兵装: 1-2丁12.7ミリ(0.50インチ)機関銃
45センチ(18インチ)魚雷2本
建造数:300隻。
写真(上)1943年7月15日、沿岸警備水上艇部隊の沿岸警備艇VMV、魚雷艇MTボートの基地を視察したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と同行するフィンランド海軍エロ・ラホラ(Eero Rahola)司令官;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。
Suomen Marsalkka tykkivene Uusimaan kannella.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Kapteeni Pauli Wiro, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138862引用。
フィンランド海軍エロ・ラホラ(Eero Rahola)司令官は、1918年のフィンランド内戦では青衛軍指揮官として赤衛軍粉砕に尽力し、ヘルシンキ攻略戦に参加した。イタリア駐在武官として1919年から1921年まで勤務し、その間、イタリア海軍巡洋艦に3か月勤務したこともある。その後、イタリア海軍士官学校に学び、1925年に卒業し、帰国した。1939年の冬戦争、1941年の継続戦争では、フィンランド海軍司令官として活躍した。
写真(右)1943年7月15日、フィンランド海軍沿岸警備水上艇部隊の迷彩塗装をした沿岸警備艇VMV、魚雷艇MTボートの基地をフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Kapteeni Pauli Wiro, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138863引用。
ウーシマー(Uusimaa)は、フィンランド西南海岸部で、12世紀から13世紀までスウェーデン支配下にあった。しかし、1809年の第二次ロシア・スウェーデン戦争で敗れたスウェーデンから、ロシア帝国にウーシマーが割譲された。こうして、ロシア帝国内にフィンランド大公国が創設され、ロシア皇帝がフィンランド大公国の大公として元首の地位に納まった。1831年にウーシマー州(Uusimaa)が設置された。
写真(上)1943年7月15日、フィンランド海軍沿岸警備水上艇部隊の沿岸警備艇VMV、魚雷艇MTボートの基地を視察したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と同行するフィンランド海軍エロ・ラホラ(Eero Rahola)司令官;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。
Suomen Marsalkka tervehtii raivaajalaivuetta. .
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Kapteeni Wiro, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-138864引用。
フィンランド大使館「最近の出来事・お知らせ, 2012/06/07:フィンランド国防軍の記念日を祝って」によれば、「フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Emil Mannerheim)元帥の誕生日をフラッグ・デーと定め、軍事パレードが行われている。マンネルヘイム元帥は、冬戦争や第二次世界大戦時にフィンランド国防軍総司令官、戦後に第6代大統領を務めた。70回目となる今年のパレードは、フィンランドの首都ヘルシンキで開催された」とある。フィンランドがソビエト連邦に侵攻して、第二次大戦を始めたこと、ソ連と講和して、ドイツとの同盟を破棄して、攻撃したことについて、触れていない。重要なのは、フィンランドは、フィンランド国防軍総司令官 カール・グスタフ・マンネルヘイム(Carl Gustaf Mannerheim)元帥の下、ソ連への侵略戦争を始めたのではなく、「国土防衛」「民主主義」「自由」を貫いたということか。
写真(右)1943年7月15日、フィンランド海軍水上艇部隊、迷彩塗装を施した沿岸警備艇VMVをフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が視察した。;フィンランド軍水兵が整列して検閲を受けている。警備艇(VMV)は、後方甲板に20ミリマドセン対空機関銃1丁、ボフォース40ミリ対空機関砲1門を装備している。
VM- ja mt-veneitä tukikohdassaan. .
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Sot.virk. Esko Suomela, valokuvaaja
Sotamuseo
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140702引用。
フィンランド海軍は、継続戦争で、ソ連海軍の使用していた魚雷艇を4隻を鹵獲し自国の海軍に配備した。鹵獲したソ連の魚雷艇のうち3隻はG-5級魚雷艇だった。
G-5級魚雷艇の諸元
排水量16.3トン
全長: 19m、全幅: 3.5 m
吃水: 0.82 m
推進器: 2軸、ミクリン(Mikulin)GAM-34BSカゾリンエンジン、850馬力2基
最高速力: 53 ノット
乗員: 6-7名
兵装: 1-2丁12.7ミリ(0.50インチ)機関銃
53.3センチ(21インチ)魚雷2本
建造数:300隻。
写真(上)1943年7月15日、フィンランド海軍沿岸警備水上艇部隊の沿岸警備艇VMV、魚雷艇MTボートの基地を視察したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と同行するフィンランド海軍エロ・ラホラ(Eero Rahola)司令官;警備艇17号(VMV 17)は、後方甲板に20ミリマドセン対空機関銃1丁、ボフォース40ミリ対空機関砲1門を装備している。フィンランド海軍水兵が整列して検閲を受けている。
Suomen Marsalkka ja kontra-amiraali Rahola tykkivene Uusimaan kannella.
Organisaatio
Sotamuseo
Kuvaustiedot:
1943-07-15
Kapteeni Pauli Wiro, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-140703引用。
フィンランドを民主主義国として、横暴な大国ソ連ボリシェビキ(Bolshevism)抵抗した勇敢な国家として、高く評価する識者が多いが、その一方で、ナチス・ドイツに積極的に共闘していたフィンランド国防軍の反共産主義の指向を軽んじている。1942年当時、アメリカは参戦したものの、ヨーロッパでナチス・ドイツの主要な軍事的圧力を受け、ドイツ軍と激しい戦いを繰り広げていたのは、ソビエト連邦であり、イギリスはドイツ軍をソ連に向かわせて安心して軍需生産に励んでいた。
ソ連指導者ヨシフ・スターリンは、イギリス首相ウィンストン・チャーチルに第二戦を開くように要求したが、チャーチルは、脇道でしかない北アフリカで手いっぱいだとして、ヨーロッパ反攻を先延ばしして時間を稼いでいた。イギリスにとって、国益を守るためには、共産主義のソ連をドイツと正面から戦わせて、両者に犠牲を強いるのは理にかなったことであり、戦略として当然だった。しかし、ソ連がドイツと単独講和する可能性、第二次大戦後のヨーロッパ安定構想の破綻のリスクを斟酌すれば、形式だけとはいえ、同盟国ソ連に戦争を仕掛けている枢軸国に対する宣戦布告は必要と判断された。1941年12月、反共産主義のイギリスも、ソ連に攻撃を仕掛けていたフィンランド・ルーマニア・ハンガリーに宣戦布告をした。
⇒写真集:フィンランド海軍の対空火器 を見る。
⇒写真集:フィンランド空軍の「継続戦争」:多国籍機を駆使した戦い を見る。
⇒写真集:1944年流血の夏、継続戦争末期を見る。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒アンネの日記とユダヤ人
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
2019年6月30日開設の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
連絡先:
torikai007@yahoo.co.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1
東海大学社会環境課程HK 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
東海大への行き方|How to go
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 7000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright © Torikai Yukihiro, Japan. 2019-5 All Rights Reserved.