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◆1939年8月23日 独ソ不可侵条約: ヒトラー・スターリン同盟 写真(上):1939年9月28日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン(Kremlin)、独ソ不可侵条約の秘密議定書を踏まえて、独ソ友好国境協定に署名するドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop)とソ連指導者ヨセフ・スターリン(右後方)、その右手はソ連赤軍参謀総長ボリス・ミハイロヴィチ・シャポシニコフ(Boris Mikhailovitch Shaposhnikov)大将。ソ連の署名は、人民委員会議議長(首相)兼外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)が独ソ不可侵条約に署名した。
Dtsch.-Sowjet. Grenz- u. Freundschaftsvertrag ADN-ZB/Archiv Sowjetunion, September 1939 In Moskau wird am 28.9.1939 zwischen dem Deutschen Reich und der UdSSR ein Grenz- und Freundschaftsvertrag sowie eine gemeinsame politische Erklärung unterzeichnet. Der deutsche Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop während der Unterzeichnung; v.r. J. W. Stalin, der sowjetische Generalstabschef B. M. Schaposchnikow, Botschaftssekretär Perlow [gemeint ist Wladimir Pawlow] von der sowjetischen Botschaft in Berlin und der UdSSR-Botschafter in Berlin Schkwarzew. Abgebildete Personen: Ribbentrop, Joachim von: Außenminister, NSDAP, Deutschland Schaposchnikow, Boris: Marschall, Sowjetunion (GND 11882600X) Schkwarzew, Alexander: Botschafter in Deutschland, Sowjetunion Stalin, Josef W.: 1878-1953; Marschall, Vorsitzender des Ministerrates, Generalsekretär der KP, Sowjetunion (GND 118642499) Date 28 September 1939 Collection German Federal Archives Current location Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-H27343
Source U.S. National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 540196.
写真はWikimedia Commons, Category:German–Soviet Boundary and Friendship Treaty File:Bundesarchiv Bild 183-H27343, Dtsch.-Sowjet. Grenz- u. Freundschaftsvertrag.jpg引用。


図(左):1939年10月刊行The Washington Star.掲載、ドイツ第三帝国アドルフ・ヒトラー総統とソビエト連邦指導者ヨシフ・スターリン書記長の結婚というおぞましい独ソ不可侵条約を描いたポスター
:反共産主義ナチスと反ファシストのボリシェビキの同盟は、西側民主主義国も国体を誇る大日本帝国でも、驚愕をもって迎えられたが、「このハネムーンはいつまで続くのか疑わしい」と評されている。  Title Wonder how long the honeymoon will last? Names Berryman, Clifford Kennedy, 1869-1949, artist Created / Published 1939 Oct. 9. Repository Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA
写真は、Library of Congress Online Catalog Reproduction Number LC-USZ62-42443 引用。

図(右):1939年10月刊行The Washington Star.掲載のドイツ第三帝国アドルフ・ヒトラー総統とソビエト連邦指導者ヨシフ・スターリン書記長の結婚という独ソ不可侵条約を描いたポスターの1989年の模造版「1939年ソビエト=ナチ同盟の結果:バルト諸国独立を再興すべし」:ヒトラーは、バルト三国リトアニア・ラトビア・エストニアをスターリンへプレゼントしたと1939年版に追加して描いている。 Poster denouncing the Molotov–Ribbentrop Pact. Date 1989 Source Europeana 1989 Author Daugavas vanagi (based on 1939 cartoon by Clifford Berryman)
写真は Wikimedia Commons、Category:Molotov-Ribbentrop PactFile:Poster denouncing the Molotov–Ribbentrop Pact.jpeg 引用。

1.1936年11月25日、日独防共協定

フランコ将軍 1−1.日独伊防共協定の反響 : 中南米への影響を米国は懸念す
大阪朝日新聞 日付 1937-11-08 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336862
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【ワシントン特電六日発】日、独、伊三国防共協定に関しアメリカ官辺は沈黙を守っているが、反デモクラチックの風潮が仲南米に波及し第二のスペインとなることなきか早くも懸念されはじめている、即ち極く最近までブラジルは戒厳令下にあったが、そのほか中、南米諸国中には共産主義圧迫の名の下に独裁政治が行われんとする傾向が現われておりその上スペインのフランコ[Francisco Franco]将軍への同情は圧倒的なものであってまたウルグワイ、キューバがアメリカにスペイン内乱につき調停方を勧めて来たという事実もあり、もしフランコ将軍が勝利を得た暁は防共協定に参加するは疑いなしとされ、これが中南米に如何なる影響を与えるが注目されている

衆院各派声明

Mussolini 衆議院各派では日独伊三国防共協定の成立に対し七日左の如き共同声明を決定発表した
声明 昨日「イタリーの日独防共協定参加に関する議定書」が調印せられ防共事業の強化を見るに至りしは吾々の欣快とするところである、由来共産主義は我が国体と絶対に相容れないものにして国家の安寧秩序、世界の平和を脅かすのみならず国際共産党の破壊工作の害毒に至りては実に戦慄すべきものがある、

今回の支那事変にしてもまた国際共産党の露骨なる援助が支那をして長期抗日を決意せしめ東洋の平和を攪乱するに至ったことは明白である、この際に当り日独防共協定に伊国の参加を見たるは誠に心強く感ずる次第で吾々は更に志を同じゅうする各国が協約に参加し文明の敵たる共産党の害毒を防遏して世界永遠の平和に貢献せんことを希望する

武器を整えた二億の国民の団結 ジョルナーレ・ディタリヤ紙ガイダ主筆論ず

【ローマ特電六日発】ジョルナーレ・ディタリヤ紙主筆ガイダ氏は六日夕刊紙上日独伊防共協定に関する三段にわたる大論文を発表したが、右はイタリー政府の最高方針を裏書する権威ある論評として注目されている、概要左の如し

Radek  『今回の議定書は国際政治機構に重大な影響をおよぼす文化史的重要な基礎である共産主義の宣伝工作に対する日独伊三国の共同戦線を表現する、この戦線はその力と能力とをヨーロッパからアジヤへ、地中海から大西洋を包含し太平洋へ発展せしめるその行動は公開的だ、六日発表された全文によって明かなる如く共産主義の陰謀的なるに反しこれはまたいかにも開放的だ、共産主義が宣伝から金銭へ、金銭から武器へとその運動を発展せしめているのは明かに世界の政治組織に対する宣戦だ、

これは一九三五年一月一日付のイズヴェスチャ紙に発表したカール・ラデック[Karl Berngardovich Radek]の論文で明瞭である、

かかる挑戦はすでにアジヤ、ヨーロッパに蔓延しつつある、特に支那政府はかかる赤色の進出に堪え切れず、その魔手は抗日運動と変った、すなわちこの脅威に対し、手遅れとならぬうちにこれを阻止しこれを克服する能力を有する強力な国家が結合することとなった、これがローマ議定書だ、そしてこれはイタリーにとっては反共産戦線を張ってから最初の歴史的事実だこの議定書は単に締盟国国民の利益を防衛するのみならず破壊的革命の溷濁に陥ることを欲しないすべての他の国民の共通な利益を防衛するものだ武器を整えた二億の国民が団結した、

地中海が脅かされてもその背後には二百万トンの艦隊がある、平和は大砲によっても守られるものだ、この意味において日独伊三国の軍備は現下各種の問題に重大な意義をもつことになる』

1ー2.文明擁護の堅陣 : 日独伊防共協定の意義 : 論説
報知新聞  日付 1937-11-07 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337151
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)


 赤化防止を目的とする日伊間の協定はいよいよ成立の運びとなり、その旨が公式に発表された。世界平和のバチルスである共産主義的破壊に対する共同防衛を約束し、それに必要な協力の措置を規定したものである。この協定としては、先に昨年十一月二十五日日本とドイツとの間に正式調印を了した日独防共協定が厳存する故、日伊防共協定の成立によって、今や日本を中心に、ドイツとイタリアとを両翼とする防共の条約網が張りめぐらされ、共産主義のバチルスに対する防疫壁が築かれた訳である。我等は日本が現に支那を中心とする防共を一つの目標として、支那に対する軍事行動を進めている際、日独防共協定と並んで日伊防共協定の成立したことに、衷心から祝福の念を禁じ得ないのである。

ポリカルポフI-16  思うに第三インターナショナル、さらに突きつめていえば、ソヴィエト・ロシアを基地とする共産主義が、人類全体の敵であることは今さら多言を要するまでもないことであろう。共産主義の狙うところは、人類進化の現段階を超越した理想社会であり、現代の文明から飛躍した彼岸にある。従って共産主義思想は、現代文明の破壊者であり、世界人類の敵であることは否定すべからざる事実である。

しかるにソヴィエト・ロシアを源泉とする赤色思想の流れが、抵抗の少いところを狙って押出すべく虎視耽々たるものある以上、世界の平和と人類文明の擁護者を以て任ずる国民同士が、互に提携して防共策を講ずることは、確かに天意に添うた神聖なる行動といわなければならない。

ツポレフSB
 もっとも昨今のソヴィエト・ロシアは、一時露骨に表現した世界赤化政策を断念し、人民戦線政策を以てそれに置き代えた。その結果ソ連邦の赤化運動は一時に比較して余程積極性を緩和したとはいえ、人民戦線政策が現実的効果を狙って居るものであるだけ、その禍害は決して疎かにならぬものがある。フランスやスペインにおける人民戦線政府の存在、支那における国共妥協政治など、いずれにしても今日におけるソヴィエト・ロシアの赤化宣伝工作が着々世界の着色を変えて居る実証を提供するものということが出来よう。

かかる形勢を自然の成行にまかせておく場合、やがて世界の状態を根本から覆没し、第三インターナショナルをして現代文明の墓掘りに成功させるばかりのことである。日伊両国が、防共協定を結んで日独の防共措置を強化する工作に出たについては、英米等の第三国といえども、全幅の感謝を表明してしかるべきであり、これに向ってとやかく非難をさしはさむいわれはないと断言するに憚らない。

コンドル軍団
 イタリアも過去においては、共産主義の本拠地と遠く距たっているのに多少楽観的であった傾向がある。しかしながら最初がフランスにおける人民戦線の結成に成功した余勢を以てスペインの内乱に干渉し、ついにバロセロナの赤色政権も樹立させた、しかもオデッサを基地とする赤色潜水艦の跳梁は、今なお変幻出没捕捉すべからざるものがある。他方極東においてはソ連邦が支那の背後から干渉の手を差し伸べ、日支の戦局をいやが上にも悪化させたことは疑うべからざる事実である。しかも赤化路線の進むところ、外蒙は既に赤の一色で塗り潰され、次で新疆から甘粛、陜西の飛石伝いに支那の心臓部及び極東を狙って居ることは明瞭に看取されるところである。日、独、伊三国がモスコーから来るこの共通の脅威に対抗して防共国防壁を築いたことは、極めて時宜を得た外交措置というべきであろう。

 勿論日伊間にこの種の新協定が成立したからとて、今直にこれが現実的効果の現れる筈はあり得ない。しかしその見えざる効果が、決して軽からぬものあることは、日独協定におけると同様である。今度の事変に際し、日本が反日諸国の包囲態形の中に立って、いかに日独協定の存在に感激すべきものあるかは極めて明瞭である。

従って日伊の接触が、日本の国際的地位の上に如何に大なる寄与をなすかは喋々を要するまでもないであろう。世界の赤化を狙うソ連邦が、この際先ず第一に反省の要するはもちろんのことであるが、英米仏等の列国も、日、独、伊の三国が防共を看板として国際間における一グループを作るに至った事情に広汎な考慮を払い、差し当り極東における日本の立場を虚心坦懐の境地から考察して、支那事変に対する彼等の態度を再検討してしかるべきであろう。否この際彼等も進んで日、独、伊の防共網に参加し、世界平和、人類文明の擁護者としての当然の責務を果すべきではなかろうか。

1ー3.輝く東亜新秩序建設へ : 防共と平和に邁進 : 昨夜首相、全東亜へ放送
大阪朝日新聞  日付 1939-03-05 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100058010
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

平沼騏一郎 日満支各地で三日から行われている『東亜新秩序運動週間』を一層意義づけるため平沼[騏一郎]首相は四日午後七時半から首相官邸に備えつけたマイクを通じ『東亜新秩序建設』と題する左の如き講演を行った、この放送は内地はもちろん満洲国、北中南支大陸に中継され支那民衆の警醒、指導に努めている張季行氏がこれを支那語に通訳した、日満支の永遠の平和の理想境—新東亜体制完成の大業を諄々と説く首相の声は力強く全東亜に響いた=写真は官邸から放送中の平沼[騏一郎]首相(東朝社電送)

今や新東亜建設の機運がいかなる力をもってするも対抗するを得ざる勢いをもって擡頭しております、この重大なる更新の時期におきまして所信の一端を述ぶるの機会を得ましたことは私のもっとも欣幸とするところであります、凡そ東亜の平和は世界共通の理想でありまして日本帝国が今次支那事変を契機として東亜の天地をして永遠に平和の理想郷たらしめんとして努力しつつある所以のものも畢竟全東亜民衆の要望に副うべき天業完成のためにほかなりません、

申すまでもなく日本、満洲、支那の三国はアジヤにおける同文同種の国家とて地理的にも歴史的にも共存共栄の必然的関係に結ばれております、互いに相倚り相扶けて東亜の繁栄をはかるべき運命に置かれておるのであります、日満支三国がこの離るべからざる関連を明白に認識することがもっとも重要なことであります、

東亜新秩序の建設に関する帝国の方針は先に近衛[文麿]前内閣総理大臣が中外に声明した通りでありまして、日満支三国が相携えて東亜永遠の安定を確保することを終極の目標とするものであります、これがためには日満支三国は政治、経済、文化など各般にわたって互助連環の関係を樹立し東亜における国際正義の確立共同防共の達成、新文化の創造経済結合の実現を期せねばなりません、御承知のように満洲国はいよいよ新興国家体制を整備強化いたしまして現に新東亜建設の一翼として重要なる責務を果しつつあるのであります、隣邦支那においても更生の機運が澎湃として漲りつつあるのを感ずるのでありますが、帝国としては帝国と提携するに足る新興支那中央政権の成立発展を期待しておる次第であります、由来帝国と支那とが共存共栄の必然的関係に置かれまして共通の文化の中に互いに成長発展して参りましたことは歴史の示す明白なる事実であります、

米内 したがって帝国と支那とが共同して東亜の新秩序建設に専心努力するにあらざればこの東亜の天地に永遠の平和と繁栄とを招来することは不可能であります、この平和と繁栄とは永く虐政に苦しんで来た支那民衆自身が何よりも望んでいるところであろうと存じます、かくのごとく永く苦悩の歴史をつづけて来た支那民衆に対しましては帝国の深く同情するところでありまして新秩序の建設によりかかる苦悩から支那民衆を脱却せしめ明朗なる東亜を建設することこそ帝国の念願であり目的とするところであります、事変発生以来帝国が戦場に幾多の尊き生霊を失い多数の国帑を費してしかもなお目的貫行に一路邁進する所以のものは支那をして真の支那たらしめ東亜をして真の東亜たらしめもって同種同文の民族が血で血を洗うがごとき不祥事を将来永遠に絶滅せんがためであります、

帝国と支那との共存共栄は互いに独立国たるの面目を保持することもちろんでありまして帝国はこれがために今次の事変に忍び得ざる犠牲を忍んでおります、かくの如く大犠牲をも耐え忍んでただただ支那の更生を望む所以のものは前にも申述べました通り支那をして真に東亜の支那たらしむるにあるのでありますから帝国と更生支那とは政治、経済、文化など総てにわたり固き固き互助連環の関係を結び互いに足らざるものを相補わねばならぬのであります、それには支那を他国の植民地化する如き欧米依存の唯物思想は支那全土から絶対に放逐せねばなりません、それにつきまして重要なのはアジヤ共通の思想対策、つまり東洋道徳の復興、防共陣営の強化が何よりも切実に必要であります、

コミンテルンが世界に向って宣伝する共産主義思想の害毒の大なること、該思想が東洋の思想と絶対に相容れざる兇悪思想なることは説くまでもないことであります、支那民衆を忘れた国民政府は今日においては支那共産党の圧力に押されて遂に容共政策をとり次第々々に共産党に圧倒されつつある実情であります、かくてはコミンテルンの思いのままとなり、ひいては支那全土を赤化する虞れが生ずるのであります、支那の同憂具眼の士もまた深くこの点を憂慮して支那良民を赤化の魔手より救うの必要なることを痛感していることと信ずるのであります、

土匪、軍閥の下に経験したる惨澹たる生活と帝国の意図する東亜新秩序の建設の意義とを十分に比較検討すれば帝国の公正なる意図は極めて明瞭であります、現に日本国内に多数の支那人が平和な生活を営んでいる事実は何よりも雄弁にこれを実証しております、支那全民衆を誤らしめた国民政府はすでに奥地に逃避して一地方政権と化したるにも拘らずいまもなお表面頑強に抗日を継続しております、彼らは現在においては戦力を失い見込みなき抗戦を続けておるのでありますが、これは一面において国民政府の誤れる指導者が自己の地位失墜を恐れるとともに第三国の援助に期待しているからでありましょう、

しかしこれら国民政府のなかにも日本の真意に共感しているものも少くないとのことであります、しかして第三国も帝国の真意を諒解してその誤れる反日政策を放棄するの余儀なきにいたることは想像に難くありません、それにしてももし国民政府が澎湃として大陸を圧する現下の東亜新秩序建設運動の真価を認識せずして単に自己保存の見地から第三国の援助にすがり抗日を叫びつつあるものとすれば、その短見やむしろ憐むべきで、溺れるもの藁をも掴むの類であります、しかしながら焦士抗戦によって善良な支那民衆の生活を破壊し第三国を利用せんとして却って国を売りつつある国民政府に対しては東亜新秩序建設の敵としてこれが絶滅をみるまでは将来どこまでも追撃の手をゆるめるものではありません、苛斂誅求の軍閥の悪政から共産主義の暴政に置き換えられるがごときことがあってはもはや支那民衆は永久に幸福をかち得ることが出来ません、共産主義の防衛に帝国がとくに力を注ぐゆえんもまたここに存するのであります、

毛沢東 しかして東亜新秩序の建設に当りましては東亜への共産主義侵入を防遏するため日満支が一体となって格段の強固なる結合をせねばならぬのであります、帝国といたしましては前途に如何なる難関が押し寄せようともこれを排除し、あくまでも新東亜建設の大業を完成する固き決意を有するものであります、帝国は東亜新秩序建設のため目下対内外にわたる諸般の国家体制を整備しつつあります、これは万難を突破するの準備でありまして新東亜建設の大業を完成する固き決意を有するものであります、帝国は東亜新秩序建設に今後いかに永き年月を費すとも何ら屈するところなくこれを完成すべき強固なる国家体制を建設しつつあるのであります、

今次事変の収拾こそは日本国民の偉大なる力を発揮する絶好の機会でありまして、肇国以来持ち続けて来た固有の精神は必ずこの大事業を完成するに足ることを固く信じております、支那民衆諸君が日本帝国の熱意を理解しこの精神に共感せられ、勇躍蹶起して日本、満洲、支那三国が相携えて世界に類例を見ない新東亜体制を完成するの大業に参加し、われわれとともにふるって東亜安定の礎石とならんことを切望する次第であります

1ー6.日独伊同盟締結せば恐るる敵なし : 米の参戦何のその
大阪時事新報  日付 1939-05-27 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338228
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

国民党 ソビエットロシヤはその好むと好まざるに拘らず共に天を戴かざる宿命にある、そこでわが大陸作戦が生れるのである、平沼首相も当面の問題は東亜[新秩序]建設で日本は共産主義を撲滅することが出来る、欧洲にもソ連と結ぶものがあるがその結果はどうもよくない、覚醒すべきであるとその道義外交のうちに語っているがソ連に対する場合は日独伊の軍事同盟は極めて有効である即ちわが大陸作戦に求むるところの仮装敵国は支那及びソビエット連邦で支那に対しては既に有史以来の大軍事行動を開始しまた、ソ連に対しても所謂「ソ支二面同時武力作戦」が強化されているのであるから万一の場合これを日本一国で撃つより独伊と共にこれを東西より挟撃することの方が如何に有利であるかは説明するまでもない今回漸く締結をみるに至った英仏ソ三国軍事同盟は、極東問題を除外しているとあるがそんなことに遠慮する必要はない、

以上の三国が支那事変以来続けている援蒋工作をハッキリ打切るならば多少考え直す余地もあるがそんなことは痴人の夢に等しい、ソ連の場合は独伊とことを起さなくても、わが国との関係は常に危険線にある従って西方—つまり欧洲に戦果が発し英仏ソと独伊が干戈を交えた場合日本が東方からソ連を撃つことは負担には異いないが大陸作戦としては今日以上任務が拡大するわけでないから日独伊の相互軍事援助ということはまず絶対必要で世界的戦争が発生せぬとしてもソ連を牽制することが出来、支那事変の処理なぞも極めて有効に転廻する、ところが欧洲に戦争が発生した場合当然考えられるのは英仏ソの陣営にアメリカが参戦するであろうということである

アメリカ海軍 この場合、日本の海軍は英、米、仏、ソの四国海軍力のほかに情勢によっては蘭領印度の関係から和蘭の海軍をも向うに廻さねばならない満洲事変の際全世界を相手に焦土相交の決意をした日本のことであり今議会における米内海相の答弁にも帝国の海軍軍備は最大軍備国を目標にしたものであるから御安心願いたいとあったから太平洋の安全感には別に危懼するところもいらないが海軍の任務というものは実に重大となるまして場合によって軍艦の一部を地中海方面に分派しなければならぬような事態になればその負担は愈々大きなものとなる一方日本としては海の方面において独伊からうくる援助というものは皆無であるからだいぶ割が悪い割が悪いなぞというとこれは目先の利割に捉われたものであるという非難を受けるかも知れないがこれは事実である、しかし恐らく斯かることは杞憂となろう何故なら独伊の海軍力は英米仏三国に比し劣勢ではあるがこれを補うに優勢なる空軍と潜水艦を保有している、

フランス海軍 英米仏三国艦隊の現有勢力は現在二・九五一・九五一トンとみればまず間違いはない、これに対し独伊の海軍力は大体において五六七、九二九トン程度である、つまり独伊海軍力は英米仏海軍力の約五分の一である五対一の劣勢である上、ソ連がこれに加わるとすれば、更に二四万トンばかりのものが増大するわけであるから軍艦を並べた帳面づらでゆくとこの相撲は独伊にとって相当大きな負担であるが英国艦隊はその構成組織というものが比較的旧式であるに比し独伊の海軍は近代的作戦のもとに整備されている加うるに独伊の空軍整備は将に世界に冠たるものであるから制空権なくして制海権なき今日はこの相撲は十分五分以上にとり得るとみてよい、

陸において独伊が優勢を誇り得ることは世界悉知の事実であり海において五分の相撲がとれるとすれば勝敗の帰趨は自ら判然するこの場合問題なのはアメリカの海軍であるが日本の海軍太平洋に頑張っているとそう思い切った行動はとれない。そうすると海面上の戦闘区域の分担も自から画然とするわけである、問題がここまでつきつめられれば既に考慮の余地はないソ連が、中立を守る場合、一応考慮する必要はあったが既に英仏ソの同盟が確実化したとすればこれも考える必要が無くなった、問題はそれこそただ断の一字が残されているのみである

1ー7.防共精神の蹂躪 : 社説
大阪時事新報  日付 1939-08-24 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337931
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)


 独ソ不侵略条約は未だ成文化されたわけではない。が、締結することに決定したという両国政府の発表は、雄弁に両国間の新しき政治関係の樹立を物語るものである。すなわち、経済協定にしてからが、それ自体は政治的でないとしてもこれを結ぶということは有力な政治行動であり、やがては政治的協定に到達するに相違なしと見通されていたことを顧みれば、ことは一層はっきりして来るであろう。従って、官僚風に第一、第二、或いは第三の公文書を待つまでもなく、この新事態が東亜に対しいかなる影響を及ぼすか、またこれに対し興亜外交がいかに対処すべきやについては、予め決するところあるべきはいうまでもないのである。

 ところが、ベルリン・ローマよりの頻々たる情報によると、この不侵略条約は防共協定に悖るものでなく、それは今なお立派に存在するもので、ともかく日本としては、その世界政策を再検討して、ドイツと共同の目標に進み、ソ連と不侵略条約を締結して、英国打倒に共同戦線を張るべきだとの慫慂的態度を官辺において示しつつあるものの如くであるが、そんな人を馬鹿にした得手勝手な注文が通るものではない。


ノモンハン  というのは、世界周知の如くドイツの示唆に俟つまでもなく所見合わずして日英会談は決裂しているのである。これは東亜新秩序建設途上、必至の一段階をなすべきもので、国共合体によって東亜攪乱を目ざすソウェートと謀略的に提携する下心のもとに、やまをかけているのでも何んでもない。

 すなわち、我国は防共の建前に立って、興亜政策を展開しつつあることを、寸刻なりとも忘却するほど健忘性ではあり得ないのである。とすれば、独ソ不侵略が[日独]防共協定違反なりや否やの解釈は、我方独自の信念に本づくべきは勿論、かつまた、同協定の文面によらず、その精神に則った客観的な標準によるべきことまたいうを俟たないのである。

日独防共協定の前文に共産インターは「世界平和全般を脅かすものなることを確信し、共産主義的破壊に対する防衛のため協力せんことを欲し」とあり、その後の日独伊議定書にも「ドイツ国政府は」、「平和及び秩序の維持を念とする一切の国家間における密接なる協力のみが、右危険を減殺し且つ除去し得ることを確信」し、とさらに語気の強められているのを見ると、文字解釈としても、協定相手国の不利になるような取極めを、突如として締結したことは、同協定の違反と解すべきはもとより、事前に諒解を求むることなしに、「減殺」し「除去」すべき危険の本家本元との間に、一種の友好関係を結びたることは、同協定の精神を殆ど空文に帰せしめたものなることは余りに明々白々の事実といわなければならぬ。余事はさて措き、この点は、ドイツの深甚なる反省を促さざるを得ないところである。


 いわんや、日ソ不侵略条約の能否、可否については、多く論ずるまでもないほど理義明瞭であろう。我建軍の目標、並に満洲事変以来の経緯を云為せずとも、また漁業問題、石油、石炭問題等はこと権益に関し、副次的要素なるがゆえにここに喋々せずとしても、およそ日支事変そのものが国共合作勢力を正面の敵としていること張鼓峰事件[朝鮮近く満ソ連国境で1938年7月、日本軍がソ連への威力偵察して撤退]、ノムンハンの露骨極まる牽制消耗軍事作戦に考え及んだならば、恐らく疑義を挿むの余地がないであろう。

我方として、新興ドイツが不公正なるヴェルサイユ条約を破摧し、平和裏に国家的発展を全うせんことを望み、かつ、それに必要なる国際政策を採用することも頗る至当のこととして、これを容認するに吝かではない。その意味においては、不侵略条約をとやかく内政干渉がましく論う意思を有するものではないのである。けれども、それが反防共協定たる性質を有する点だけは、率直にこれを指摘して、日本の立場を尊重せんことを要求してやまざるものである。


と同時に、今後の我皇道外交の独自なる方途についても、能否を計らず、可否を弁ぜざるていの妄動を敢てするものでないことを、ここに端的に表明し置くことを、友誼に本づく義務なりと確信するものである。  皇道外交の真姿は、古来自ら存するあり。神州不滅の信念もまた、昔に今に不退転なるものがある。その現代における内容については、再び提唱するの機会に待つが、ともかく我方としては、東亜建設の手段を権略的に外に求めてはならないことだけは一言して置き度いのである。換言すれば、内に省み、一に帰し、国体は明徴に、責任感において不惜身命なるに及んでこそ、はじめて国家総力体制は堅く、自ら信ずるものの強さが発揮されるゆえんを指摘して置きたいのである。外廻りのことは、然る後にはじめて、自然に打開の途を見出すであろう。  新自主外交とは、およそかくの如き、絶対帰一の国内整備によってのみ生れるとの根本観念に立てば、その発程がまず責任感の徹底によってなさるべきことと、利害打算に汲々乎として徒労なる摸索に、これ以上奔命せざらんことを冀求し置く必要を感ずる次第である。


2.第二次大戦の勃発直前の独ソ不可侵条約ーファシズムとボリシェビキの欧州分割

写真(右):1939年8月,ソビエト連邦、モスクワ、独ソ同盟交渉のために訪ソしたドイツ外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(Joachim von Ribbentrop:1893年4月30日-1946年10月16日));後方には,随員と出迎えのソ連側警備兵が立っている。Русский: Риббентроп на аэродроме в Москве 30 марта Date 1939 Source фонд ЦГАКФД Author Unknown author.
写真はWikimedia Commons, Category:Molotov-Ribbentrop Pact File:Ribbentrop v Moskve.jpg引用。


ノモンハンの大規模な国境紛争は、1939年8月31日,第二次大戦勃発の直前に停戦となる。ソ連はドイツがポーランドに9月1日に侵攻することを知っていたし,その後,ソ連はドイツとの秘密協定に基づいて,ポーランドの東半分を軍事占領してしまう。英仏はドイツ軍撤退を要求したが、ドイツが無視したために、1939年9月3日,英仏はポーランドとの相互援助条約に基づいてドイツに対して宣戦布告をした。ただし,英仏は、ソ連には宣戦布告していないのであって,外交の権謀術数を見る思いがする。

ノモンハン事件では,ソ連側は死傷者9284名の損害を出したとされていた。しかし,ソ連崩壊後明らかになったソ連側死傷者の数は,2万3,926名であり、その内、死者は6,831名、行方不明1,143名、重傷1万5,952名だった。つまり、日ソ両軍とも大損害を被っている。日本がソ連を恐れたように、ソ連も日本軍の強さを認めざるを得なかった。

図(右):1923年、第一次世界大戦後の講和条約で新たに独立が認められた東欧ポーランド、分割されたオーストリア=ハンガリー帝国のルーマニア・チェコスロバキア・ユーゴスラビア、オーストリア、ハンガリー、バルト三国リトアニア・ラトビア・エストニア、北欧フィンランド;1939年9月の第二次世界大戦後、ポーランドは独ソに分割され、ソ連はバルト三国を併合し、1939年11月に対フィンランド侵攻「冬戦争」を始めた。いずれも1939年9月のノモンハン事件の停戦後、1939年11月までの動きである。Description English: Map of Europe in 1923. Français : Carte de l'Europe en 1923. Date 13 January 2009, 16:16 (UTC) Source Map_Europe_1923-fr.svg Author derivative work: Fluteflute (talk) Map_Europe_1923-fr.svg: Historicair
写真はWikimedia Commons, Category:Maps showing the aftermath of World War File:Map Europe 1923-en.svg引用。



Molotov-Ribbentrop: The Pact That Changed Europe's Borders

写真(右):1939年8月23日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン、独ソ不可侵条約の署名後のソ連共産党指導者ヨシフ・スターリン(右2人目)、人民委員会議議長(首相)兼外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)(右端)、ドイツ外務大臣フォン・リンベンドロップ(左2番目);1939年4月、日本陸軍満州駐屯軍の関東軍の参謀辻政信少佐は、満州国境紛争処理の基本方針を定めた「満ソ国境紛争処理要綱」を作成した。そして、1939年4月25日、関東軍司令官植田謙吉大将は、恒例の師団長会合で、この基本方針を関東軍作戦命令第1488として発令した。こうして、「満『ソ』国境ニ於ケル」『ソ』軍(外蒙軍ヲ含ム)ノ不法行為ニ対シテハ周到ナル準備ノ下ニ徹底的ニ之ヲ膺懲シ『ソ』軍を慴伏セシメ其ノ野望ヲ初動ニ於テ封殺破摧ス」という強硬な攻撃姿勢が基本となった。そして、「一時的ニ「ソ」兵ヲ満領内ニ誘致、滞留セシムル」「国境線明確ナラザル地域ニ於テハ防衛司令官ニ於テ自主的ニ国境線ヲ認定シテ之ヲ第一線部隊ニ明示シ」「断乎トシテ積極果敢ニ行動シ其ノ結果派生スベキ事態ノ収拾処理ニ関シテハ上級司令部ニ信倚シ意ヲ安ジテ唯第一線現場ニ於ケル必勝ニ専任シ万全ヲ期ス」と旺盛な繊維のもとで強硬な姿勢をとることが命令された。つまり、対中国戦争と同様、ソ連・モンゴルにたいしても、越境行為を徹底的に「膺懲」するとしたのである。もちろんこの国境線は、日ソ間で乖離しており、「越境」の判断は日本側に拠ったのである。共産党軍といえる赤軍(Red Army)は,ロシア革命の成果を守る人民軍として組織されたが,その後、反ファシズム,反帝国主義を掲げて,対外的にも影響力をもった。ノモンハン事件は,モンゴルと満州国との国境紛争だが、モンゴル派遣・駐屯ソ連軍と満州国派遣・駐屯日本軍の戦いだった。
Русский: На фото слева направо заведующий юридическим отделом МИД Германии Фридрих Гаусс, министр иностранных дел Германии Иоахим фон Риббентроп, секретарь ВКП(б) Иосиф Сталин, министр иностранных дел СССР Вячеслав Молотов Date 23 August 1939 Source http://mtdata.ru/u25/photo72FB/20634308905-0/original.jpg Author Mikhail Mikhaylovich Kalashnikov
写真はWikimedia Commons, Category:Joseph Stalin in 1939 File:На заключении советско-германского договора о ненападении.jpg引用。


Ribbentrop 1939年8月23日,独ソ不可侵条約THE NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT が締結された。これは,

1)相互に相手の領土の不可侵,
2)一方が第三国と交戦した場合、他方はこの第三国を援助しない
3)相互間の紛争の平和的解決

を骨子とした,期限10年の条約である.

1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻し,ポーランドと相互援助条約(軍事同盟)を締結していた英仏が9月3日に,対独宣戦布告をしている。そのような状況で,ソ連軍は,ポーランドの東半分を軍事占領し,ドイツとポーランドを分割する。

ポーランド分割占領は,ヒトラーとスターリンであらかじめ合意された独ソ不可侵条約(NAZI-SOVIET NONAGRESSION PACT)における秘密議定書に基づいていた。ポーランド攻撃は,ポーランド在住のドイツ人(民族ドイツ人)が,ポーランド政府に迫害されていること,離れドイツ領である東プロイセンとの回廊を領土として要求し,拒否されたこと,ポーランド軍によるドイツ放送局の襲撃事件(実際は自作自演)などである。ヒトラーは,生存圏の確保のために,勢力を拡大したいだけであったのか。


写真(左):1939年8月23日,ソ連、モスクワ、クレムリン、独ソ不可侵条約(German-Soviet non-aggression pact)に署名する外相ヨアヒム・フォン・リッベントロップ
(Joachim von Ribbentrop:1893年4月30日-1946年10月16日));後方には,書記長ヨシフ・スターリン(Josef Stalin),人民委員会議議長(首相)兼外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)。写真(右):独ソ不可侵条約に署名する首相兼外相モロトフ(Molotov);後右から,ソ連側通訳官ウラジミール・パブロフ(Pavlov, Vladimir Nikolaevich :1915-1993)、スターリン,ドイツ外相リベントロップ、ソ連赤軍参謀総長ボリス・ミハイロヴィチ・シャポシニコフ(Boris Mikhailovitch Shaposhnikov: 1882-1945/3/26)大将、リッベントロップ副官リハル(ド・シュルツ・コッセン(Richard Schulze-Kossens: 1914–1988)。独ソ不可侵条約は,第一次大戦の途中にドイツとの和平条約(ブレスト・リトフスク条約)を締結し,戦争から抜け出たレーニンの精神に沿っている。国家元首スターリンの肩書は党書記長で、対外的な代表の「首相」、軍事司令官「元帥」などの職位は、第二次大戦勃発1年半以上経過した1941年5月、独ソ戦開始の1カ月前になってスターリンの肩書となった。Record creator General Services Administration. National Archives and Records Service. Office of the National Archives. (ca. 1949 - 1985) Title Soviet Foreign Minister Molotov signs the German-Soviet Boundary and Friendship Treaty; Joachim von Ribbentrop and Josef Stalin stand behind him, Moscow, September 28. 1939. Von Ribbentrop Collection., ca. 1946 - ca. 1946
Source U.S. National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 540196.
写真はWikimedia Commons, Category:German–Soviet Boundary and Friendship Treaty File:Soviet Foreign Minister Molotov signs the German-Soviet non-aggression pact, Joachim von Ribbentrop and Josef Stalin sta - NARA - 540196.tif引用。


独ソ不可侵条約( Nazi-Soviet Non-Aggression Pact)締結は、ドイツ贔屓の駐独日本大使 大島浩陸軍中将は、反対を表明した。

内閣情報部八・二四 情報第三号 大島大使独外相に申入れ 独逸側日ソ条約示唆 同盟来電 不発表 ベルリン二十二日江尻同盟特派員発(内報) 大島駐独大使は昨二十一日夜リツペントロツプ外相より電話で独ソ不可侵条約(Molotov–Ribbentrop Pact)成立の通告を受けたので大島大使は防共協定違反なりと抗議的申入れをなし次でワイゼツカー外務次官と会見同様趣旨の申入れをなした、これに対し独逸外務当局は日本もソ連と不可侵条約を締結すべしとの見解を示している。

1939年12月27日、大島駐独日本大使は依願免職、後任には1940年2月、来栖三郎駐独大使が赴任した。

写真(右):1939年8月23日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン、ドイツ外務大臣ヨアヒム・フォン・リッベントロップ(1893-1946処刑)と握手するソ連共産党指導者[書記長]ヨシフ・スターリン(1878-1953):ドイツのソ連侵攻、9月17日のソ連はポーランドが壊滅し、危機に陥ったウクライナ人、ベラルーシ人の保護するとして、ポーランド西部に進駐した。そして、前月の独ソ不可侵条約の秘密議定書よりもソ連に有利な新たなポーランド領をドイツから与えられた。その後、ソ連はバルト諸国、フィンランドに進出する。
Title Moskau, Stalin und Ribbentrop im Kreml Info non-talk.svg Original caption Sowjetunion, August 1939, Im Moskauer Kreml wird am 23.8.1939 ein Nichtangriffsvertrag zwischen dem deutschen Reich und der UdSSR unterzeichnet. Nach der Unterzeichnung im Gespräch J.W. Stalin und der deutsche Reichsaußenminister Joachim von Ribbentrop (r.). Depicted place Moscow Date 23 August 1939 Collection German Federal Archives Accession number Bild 183-H27337
写真は Wikimedia Commons、Category:Molotov-Ribbentrop Pact File:Bundesarchiv Bild 183-H27337, Moskau, Stalin und Ribbentrop im Kreml.jpg引用。


独ソ不可侵条約(German-Soviet Pact)で最も重要だったのは、秘密議定書の部分である。これは,東欧における独ソの勢力圏を定めた。ソ連の勢力圏は,フィンランド,バルト三国のエストニア、ラトビア、リトアニア、ルーマニアのソ連隣接地域ベッサラビアである。ドイツの勢力圏は,バルト三国のリトアニアのごく一部である。そして,ポーランドは分割され,ナレフ川、ビスワ川、サン川を境界として,東西がソ連とドイツに分割されることになった。

ドイツとソ連の間に締結された独ソ不可侵条約は期限10年である。1週間後には,ドイツがポーランド侵攻を開始し,遅れて,ソ連もベラルーシ人、ウクライナ人の保護を名目にポーランドに軍を進駐させ、東部を占領した。 1939年9月17日、ソ連指導者ヨシフ・スターリン[Иосиф Сталин ]は,ポーランドにソ連赤軍を進駐させ、逃がし半分を占領をした。独ソ不可侵条約(German-Soviet Pact)を結んだドイツが盾となり,英仏の干渉を受けないと考えたからである。

1939年9月25日、ソ連はバルト三国エストニア、ラトビア、リトアニアに対して、ドイツ対イギリス・フランスの第二次欧州大戦が勃発したために、安全保障の必要上、ソ連赤軍が駐留することを要請した。1939年9月28日、エストニアが、10月5日にラトビアが、10月10日にリトアニアがそれをm止めた。した。こうして、1939年10月以降、ソ連赤軍はエストニアに2万5千人、ラトビアに3万人、リトアニアに2万人の駐留が可能になった。こうして、バルト三国を併呑したソ連は、フィンランドにも同様のソ連赤軍駐留と領土交換を持ち掛けたが、両国の交渉は決裂し、1939年11月,ソ連はフィンランドに「冬戦争」を仕掛けている。

写真(右):1939年9月28日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン、ドイツ外務大臣フォン・リンベンドロップ:1939年9月1日、ドイツのソ連侵攻、9月17日のソ連はポーランドが壊滅し、危機に陥ったウクライナ人、ベラルーシ人の保護するとして、ポーランド西部に進駐した。そして、前月の独ソ不可侵条約の秘密議定書よりもソ連に有利な新たなポーランド領をドイツから与えられた。その後、ソ連はバルト諸国、フィンランドに進出する。
Русский: Молотов и Риббентроп после подписания советско-германского договора о дружбе и границе между СССР и Германией. Москва 28 сентября Español: Molotov (izquierda) y Ribbentrop después de la firma por la Unión Soviética y Alemania del tratado de amistad, 28 de septiembre de 1939. Date 28 September 1939 Source фонд ЦГАКФД Author Unknown author
写真は Wikimedia Commons、Category:Joseph Stalin in 1939 File:Sdelka veka.jpg引用。


独ソ不可侵条約(Treaty of Nonaggression Between Germany and the Union of Soviet Socialist Republics)締結を知ったイギリスは、ポーランドに対する軍事的保障に変更はないことを公表した。

内閣情報部八・二五 情報第二号 ダーベントリー英語放送(二十三日) (東京都市逓信局聴取) 一、 チヤンバレーン英首相は昨日緊急閣議開き其の席上に於て独ソ不可侵条約に関連して大要左の如く提言した 独ソ不可侵条約が締結されたので独、伊官辺では頻りにダンチヒ問題を繞る英国の対独方針が一変したかの様に言伝へて居るがそんな事は絶対に無く、英国は飽迄も既定の対独方針を堅持し、若し独逸が右条約締結を契機にポーランドに対して軍事行動に出でるならば英国はフランス共同にて直ちにポーランドに対して援助の手を伸ばすであらう、此の際欧州の政局に如何なる異変があるとも、独逸がポーランドを攻撃する以上、英国の対独方針は英全国民によつて支持されている確乎不動のものである云々 一、。

写真(右):1939年9月28日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン(Kremlin)、独ソ不可侵条約の秘密議定書を踏まえて、ソ連共産党指導者ヨシフ・スターリンの前で独ソ友好国境協定に署名する人民委員会議議長(首相)兼外務人民委員(外務大臣)ヴャチェスラフ・モロトフ(Vyacheslav Molotov)とドイツ外務大臣フォン・リンベンドロップ(後列左端の影):1939年9月1日、ドイツのポーランド侵攻でポーランドが壊滅すると、ソ連はポーランド政府が崩壊し危機に陥ったウクライナ人、ベラルーシ人を保護することを名目に、ポーランド西部に進駐し、ドイツから有利な領土配分を認められた。
Русский: Нарком иностранных дел СССР В.М. Молотов подписывает договор о дружбе и границе между СССР и Германией. Среди присутствующих: И.В. Сталин, переводчик МИД В.Н. Павлов Date 28 September 1939 Source Победа. Фотодокументы Author Mikhail Mikhaylovich Kalashnikov (1906–1944) Alternative names English: Mikhail Mikhaylovich Kalashnikov Русский: Михаил Михайлович
写真は Wikimedia Commons、Category:Joseph Stalin in 1939 Category:Joseph Stalin in 1939引用。


内閣情報部八・二八 情報第八号 重慶英語放送(二十五日) (東京都市逓信局聴取) 当市の吾が有力なる新聞は独ソ不可侵条約が日本に齎らす影響に関し論調をそろへて左の如き社説を掲げている 独ソ不可侵条約締結が日本に及ぼす影響には甚大なるものがある。日、独、伊防共協定は同条約締結によつて根抵からくつがへされた様なもので、ソ連を目仇に日、独、伊防共協定強化に躍起となつていた日本はいい面の皮である。最も頼みとしていた独逸に見捨てられた日本は米国からは日米通商航海条約廃棄の通告を受け又英国とは日英会談決裂によつて離間しつつあり。全く取り着く島無く、謂はば「外交破産」に直面していると同様であるのみならず一方ソ連は独ソ不可侵条約(Molotov–Ribbentrop Pact)に俄かに勢を得て其の極東軍を増強しているので日本は泣面に蜂である云々。

写真(右):1939年9月28日、ソビエト連邦、モスクワ、クレムリン、独ソ不可侵条約の秘密議定書を踏まえて、独ソ勢力範囲を定めた独ソ友好国境協定に署名するドイツ外務大臣フォン・リンベンドロップ:独ソ不可侵条約は、ヒトラー総統(Führer:フューラー)にとって、東西両面戦争を避けるための臨時措置である。ヒトラーの戦争目的は,東欧・ソ連にドイツの生存圏(Lebensraum)を獲得することで、これは1925年の『わが闘争』以来、公言されていたのであり、フランス・イギリスとの戦争は,西部戦線の安全保障のためであり、東方に侵攻する条件にすぎない。また、ヒトラー第二の戦争目的は、ドイツ民族を弱体化させ、共産主義と堕落生活を蔓延させるユダヤ人の排除で、アンチ・セミティズム(Anti-Semitism)を喧伝し,ユダヤ人追放・虐殺を指示した。
Русский: Министр иностранных дел Германии Иоахим фон Риббентроп подписывает договор о дружбе и границе между СССР и Германией Date 28 September 1939 Source Победа. Фотодокументы Author Mikhail Mikhaylovich Kalashnikov (1906–1944)
写真は Wikimedia Commons、Category:Joseph Stalin in 1939 File:Sdelka veka.jpg引用。


第二次世界大戦の勃発によって,世界情勢は大きく変化してきており,今後のソ連,米国の動向が注目されていた。そのような時期に,日本としては,好き好んで,独ソ不可侵条約(Molotov–Ribbentrop Pact)を締結したソ連に攻勢を掛ける必要はない。それどころか,ソ連は,ドイツと独ソ不可侵条約を結んでおり,欧州方面の安全保障が確保されている。ということは,東欧方面,バルト諸国,フィンランド,極東方面に兵力を集中し,攻撃できるというイニシアチブを握っている。


Подписание пакта Молотова-Риббентропа. (1939) Stalin 1939 Molotov Ribbentrop Pakt Pact


2−1.不可侵条約と防共 : 社説
京城日報 日付 1939-09-29 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336385
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

 独ソ両国巨頭連の両国首都往来にからみ最近の外電は屡々独ソ軍事同盟成立の近きを伝え、また交戦地域の西部への移行を伝えてはソ独伊三国同盟の結成をさえ予想している。元来氷炭相容れぬ建国精神を以って再建された独ソ両国間に予想だにも難い不可侵協定がむすばれ各国人を驚異せしめた直後のことであるから一部人士中に、独ソが同盟し或は三国が相提携して相互に全的抱合を実現するのではないかというような予想がなされることは元々あり勝ちのことである。

然し共産主義を国本とするソ連と他方共産主義勢力を打倒し、反共運動を最高の手段として復興したナチスドイツ更にイタリーとの協調には自ら越ゆべからざる厳然たる限界の存することは茲に更めて談ずるの要なきことである、即ちこの限界の突破はソ連がナチズム乃至ファッシズムに協調するか、或はナチス乃至ファッショが共産主義に迎合するか両者の一の方法によってのみ突破され得るのであるが何れの方法に依ると此の限界は即国本の安危、乃至は当該国政府に対する国民の政治的信頼の限界をも同時に意味するのであるから、この限界はそれ等三国政府中の何れかに世界一の冒険家か或は世界第一の愚者が居合わさない限り容易に突破され得るものでないこと勿論である。

而して盟邦独伊にこの限界突破を余儀なからしめる如き何等の条件なく勿論右の如き愚者や冒険家なしとすれば既に結ばれたる協定、或は将来更に結ばれることあるべき協定は、要するに専ら欧洲新秩序建設途上のナチスドイツの当面の戦略的要請に基づくもので、ソ連側としても只管得意の共同戦線戦略的建前から自国の世界政策に再出発を試みたものと解すべきである。

この意味において一の独ソの不可侵協定成立を以って両国の全的抱合の如く誤認し、このことから反撥的にイギリスとの妥協を考え、或は又逆に極東問題の有利なる処理のために求めてソ連との同盟を考える如きは、現下の情勢において最も陥り易き危険であり、かかる危険を敢て冒さざる為には、新情勢に即応する防共、排英運動に一段の拍車が、加えらるべきであろう

図(右):1939年の独ソ不可侵条約の秘密議定書の東欧分割合意図と1940年の実際の東欧分割図;1939年9月の第二次世界大戦後、ポーランドは独ソに分割され、ソ連はバルト三国を併合し、「冬戦争」でフィンランド北端のルイバチー半島(Rybachy Peninsula)・東北部のサッラ(Salla)・カレリア地峡を獲得した。ドイツは、占領したポーランドの西部を併合、中央を「総督領」とした。 Molotov–Ribbentrop pact – political map of central europe in 1939–1940 (a map in English). Date 27 February 2006 Source Own work Based on File:Ribbentrop-Molotov.PNG. Author Peter Hanula
写真はWikimedia Commons, Category:Molotov-Ribbentrop Pact File:Ribbentrop-Molotov.svg引用。


2−2.ソ連は侵略主義 : 伊政府の示唆ガイダ主筆痛撃す
大阪朝日新聞 日付 1939-11-09 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337426
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【ローマ特電七日発】

第二十二回ボルシェヴィキ革命記念日におけるコミンテルンの宣言に対しジョルナーレ・デイタリヤ紙主筆ガイダ氏は挑戦的論陣を張り八日付同紙上で徹底的にこれを爆撃「コミンテルンとソ連政府の差別いずこにありや」と前提して現在のソ連政府の政策を完膚なきまでに攻撃したが、右論文はイタリヤ政府の示唆を受け公表された最初のソ連非難でこれによりイタリヤ政府は今次の戦争、特にダニューブ、バルカン方面における反ソ的立場をはじめて明瞭にしたものとして各方面から重要視されている、同論文の要旨は左のごとくである

[写真(ガイダ主筆)あり 省略]
 イタリヤ新聞がコミンテルン宣言に論評を加える事実はファシスト・イタリヤが共産主義の危険な宣伝を痛感している証拠である、しかして現下の情勢においてかかる宣言にイタリヤが批判を加えることは真のヨーロッパ文化防衛のために関与することにもなるのである、コミンテルンは英仏独諸国を断罪する地位に立ち今次の戦争を目して新資源獲得のための帝国主義的戦争と断じたが、しからばまずモスコーに本部を置くソ連要人により指導されつつあるコミンテルンはソ連政府と如何なる差異があるか共産主義の指導精神は果してソ連の政策と幾何の相違ありやを反問したい

近衛文麿 以上の相違点はかつて明瞭にされたことがなかったではないか、コミンテルンは今日英仏両民主主義国家のみならずソ連政府が事実上の同盟国と誇称しているドイツをもさばかんとする態度に出ているのは真に奇怪至極である、この時日はモスコーとベルリンの間にはいまだ真の協定がないというに等しいのか、もし現在ヨーロッパに帝国主義的戦争ありとせばソ連もまたその渦中にありといわねばならない

ソ連は帝政時代よりの領土を受け継ぎ現在世界で最も資源に富める国でありながらしかもこれをさらに増大せんと企図しているではないか、他国民の領土の自由に対する示威ならびに帝国主義諸国と全く同一の投機的営利主義による経済特権の獲得、政治的圧迫、これがソ連の政策ではないか、かかるソ連が過去二十年にわたり平和維持に専念したなどとはいかなるヨーロッパ人に対する言辞であるか、ソ連は過去二十年にわたり世界の共産革命を期待しつつ戦争を準備したにすぎなかったものである、スペイン内乱で示された事実はきのうのことであり、支那を使嗾して対日戦争を準備させた計画は永年にわたっているではないか、豊沃にして神秘な外蒙に対するソ連の干渉は共産主義の仮面をかぶって帝政ロシヤの帝国主義を継続したものにほかならない

対英仏交渉が平和維持のためであったなどの訴えにより健忘症のヨーロッパ人を欺くことは不可能だ、この交渉は独伊包囲政策のためであったことは何人も忘れていないんだ、ソ連が戦争不拡のためダニューブとバルカンに対し崇高な使命を遂行しつつありというにいたっては虚構もまた甚だしいといわねばならぬ、この使命を担ったものはイタリヤであり決してソ連でないことは世界の斉しく認むるところである、イタリヤが積極的に軍事行動を今日までとらなかったがゆえにソ連の参戦により拡大された戦争を現在のごとく局限し得たのである、イタリヤのこの政策はソ連の圧迫が刻々増大しつつある今日、依然同地方の平和を確保しつつあるゆえんでもある、コミンテルンはイタリヤを讒謗し適当なる機会に戦勝国に加担し最後の分け前を取らんとしていると断じたが、かかる態度はソ連の真意を自白したもので、今年九月の行動がこれを立証している

2−3.日ソ停戦独に関係なし : 米記者団へ堀内大使ステートメント
大阪朝日新聞 日付 1939-09-22URL URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335762
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【ワシントン二十日発同盟】堀内駐米大使のアメリカ新聞記者団に対する日ソ停戦協定に関するステートメントの要旨はつぎの如くである

 満蒙国境、ノモンハン附近における日ソ停戦協定は九月十六日発表をされたが日本政府は欧洲戦争に介入せず専ら日支事変処理に邁進せんとするの根本方針に基いて戦闘停止ならびに国境劃定交渉開始に同意するものである、この独自的紛争停止に関する協定に何らかのより深き意義を付せんとすることは重大なる誤解を招く所以であるのみならず同協定をもって不侵略条約の締結或はさらに強度の日ソ接近の前提なりとなすのは全く根拠のないものである、而して同協定締結に際しドイツが仲介の労を執ったとの噂も又全く事実無根である

堀内大使は更に支那における日本軍占領地帯に戦火の波及するを阻止せんがための措置について左の如く説明した

 我々はこの問題が外交々渉によって円満に解決せんことを心から希望しているが日本政府の要望は日本政府が既に声明した通り日本は欧洲戦争に介入することなく支那事変の解決に邁進するものなりとの根本方針の一部をなすものである

2−4.欧洲大戦と日本 (上・中・下) 著者 山崎靖純
1939-09-26/1939-09-29 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100335901
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

(上) 第二次世界大戦への発展性とその特徴

Churchill  欧洲大戦は今や新たな展開を見ようとしている。ワルソーの陥落も刻々近づき、また既に多くの重要都市を喪失したポーランドはモシスキー大統領、スミグリ元帥以下の政府首脳部が遂にルーマニアに亡命するに至ったが、恰もこの時ソ連はノモンハン停戦協定と同時に西部国境へ終結せる四百万の大軍を以て、一挙ポーランドウクライナ、白ロシアの占領を開始した、かくてポーランド開戦後一ヶ月を出でずして、事実上崩壊し去り、それと共に早くも全面的な欧洲大戦、いな世界戦争への転換が間近に到来しつつあると言えるであろう、だが果して世界大戦化するであろうか。

今日においては最早や多くの人がその可能性を否定しなくなったように思われる。しかし独波開戦当時、多くの人は昨秋のミュンヘン的解決の再現を予想していた。更に三日英仏の宣戦布告が事実となるや、ドイツのポーランド占拠完成を機会として妥協が成立するか、大規模の流血的闘争を伴わざる対抗状態が開始されるかの何れかであり、全面的大戦へ転換することは恐らくなかろうという事を期待したが、それが正しい見通しであったかどうか、愈々現実化される時機が切迫しつつあるようである

 筆者は、一面、幾多限定の可能性を認めつつも、結局、世界大戦への発展を予想し来ったものであるが、思うに今次の大戦の経過は屡々人の意表に出で、ために複雑怪奇を極むるなどと称せられるにも拘らず、実は却てその中にこそ戦争の本質と、戦争形式の新たな特徴とが、遺憾なく発揮されつつあることを承認せざるを得ないのである

 先ずドイツの十六ヶ条の対波要求であるが、それはドイツに対立せんとするポーランドにとっては重大な利害には相違ないがそれにも拘らず武力的衝突に出でずして解決せんとするドイツの苦心の形跡は、これを否定することは出来ない、それは開戦の口実を得んがための故意の要求ではない、流血の戦争を経ずして、戦争の目的を達せんとしたことは明白であり、その場合にも発火せざる軍事作戦はなお絶対的に必要であったとしても、英仏を頼むポーランドの攻勢は、却てヒットラーの期待に反するものであったろう、一外人評論家は、チェッコ併合に至るまでの大ドイツ国民主義の進出を以て既に次の大戦は開始されているそれに伴う一連の軍事行動は立派な作戦機動であって、ただ、その戦争様式が異っているに過ぎない、

しかし英仏がこの威圧の軍国主義とも称すべき戦法を看破した時、また再び旧来の、即ち直接の流血的な殺戮戦争に帰するか、或いは進出を停止する外はないであろうと述べているが、支那事変においても我々が体験し来ったように、今日の戦争は、如何に大規模であろうとも、純軍事的行動たる戦闘の単なる集積ではなく、戦争に、即ち戦争の目的たる政治に重心が絶えず置かれているのである、逆に言えば、偶々政治と外交とが現象的に華やかな動きを示す場合でも、それは武力的衝突としての戦争への発展性の欠如或いは中断を意味するものではなく、寧ろそれ自身広汎な近代戦争の構成要素に外ならない

 従ってポーランド潰滅後に於て独英の妥協の余地を残すためにイタリーが計画的に中立を維持していると言われているのも、大いに可能性のあることであるが、各国政府の主観的な意図を越えて、今日の密接に相互連関した客観的な政治経済条件に基ける綜合的動向として、大戦への傾向が濃厚化しつつあることも赤裸々な現実である、恐慌と同じように戦争も亦単なる打算や主観によって、放恣に或いは起し、或いは中止せしめ得るものではない、新しい高い解決方式が見出されるか、戦争によって極端に破壊されるかしない限り盲目的な不可避性として各国政府を引きずって行く力が大きい

 また、今次の大戦は前の大戦とその形相を著しく異にしている、軍事同盟の一方たるイタリーの中立を始め幾多の国が中立を宣言した、だが、既に米国は中立宣言が米国民の良心を拘束し得るものでないことを声明する一方、米国の対英仏援助は公然の事実となっているし、ソ連の中立はポーランド進駐となり、英国自らも対中立国貿易を積極的に制圧しつつあるし群小の中立諸国家は、中立の維持に困難を感じ動揺している、更に如何なる大国と雖も、今日の発展せる国際政治経済関係からすれば実際上、早晩、独立乃至中立を維持することは可能でも無ければ利益でもなくなるであろうことが明かになった、そして凡ゆる主観的希望にも拘らず、米国を始め世界の諸国は、前の大戦の場合よりも遥かに急速に中立性を喪失しつつあるし、逆に言えば中立の困難とその危険が強く意識されればこそ却て中立を逸早く宣言すると言った観がある、布告なき戦争と同様中立国の交戦、従ってまた中立国化による敗戦も亦大いに存在し得るが、これこそ近代戦争の一大偽装であることを忘れてはならない

かくて我々は次のような結論に達する。今次の大戦は、幾多の変化や意外な局面展開を現出し、単純なる予測を許さないであろうが結局、広汎、複雑な世界大戦(支那事変既に然り)へと次第に発展せざるを得ないであろう。蓋し、戦前の武装平和は、何等問題の解決ではなく、却て問題を一層拡大し、益々大規模の戦争を準備する行程に過ぎず、戦争と殆ど異る所なき「発火せる平和」「発火せざる戦争」であったからである。そしてこの大戦の場合、中立を宣言する各国は、今日の発展せる国際政治経済上の諸関係に促されて、事実上、意外に早くその中立性を破棄せざるを得ないこと、中立によっても、敗戦と同じ結果が与えられ得ること、就中、今次の戦争はその政治性を遺憾なく発揮し、従って高い政治性とそれによる強固な国民的統一とを有たざる国は遂に真の戦勝国たり得ないこと、等々を予想し得るであろう。

 西部戦線における緩慢な作戦は一時独、英仏両軍に戦意なきことを語るものと考えられたのは、周知の如くであるが、これも前大戦の経験に基く作戦上の傾向を示し長期戦を予想するものであることが明かになった、換言すれば戦闘における個々の急速な勝利よりも究極における戦争の勝利を、更に狭義の武器による戦争よりも諸国家、諸民族間の政治的、歴史的闘争、その根柢にある異れる原理と方式のための戦争を—但し客観的に見てであるが—追求せざるを得ない傾向を露呈しているのである

 かくてポーランドの崩壊は正に既成の事実とならんとし、これを転機として一層、広汎且つ深刻な歴史的大戦が、次第にその全猊を明かにし来るものと考えられる (つづく)

(中) 第二次大戦が包蔵する歴史的意義

 だが、ポーランドの崩壊の後に来る新局面の展開は、単なる戦争規模の拡大に止まるものではない。独ソ両軍は十八日早くもブレストリトウスクにおいて相会し、ポーランド分割に関する六項目につき意見の一致を見たとベルリン電報は報道している。即ち、ポーランドは国家として持つべき存在条件を具備せず、且つ無能力によって崩壊したと前提し、国民協同体の建設によるポーランド各民族の再調整、独ソ両国の平和と秩序とを保障すべきポーランド内各民族間の新たな和協、等を掲げている。換言すればドイツは直接、狭義の軍事的要求からしても、制圧せるポーランド諸民族に対し、ドイツの要求の歴史的合理性を実証するに足る秩序の再建を強行する事なくしては、不断に後方を脅かされ、遂に英仏連合軍に屈服すべき危険性に当面するのである。長期戦化すればする程、此の意義は圧倒的に重大化するであろう。しかし各民族間の和協は、従来のヨーロッパ的民族支配や併呑の形式の下には存在し得ない。

また、ウィルソンの形式的民族自決主義、即ち各民族がその国家的結合に充分なる条件と能力との有無に拘らず、形式的に分離対立せしめてヨーロッパに中世紀的分裂を再現し、実質的には大国の傀儡化し、紛争の原因たらしめた十八、九世紀的、自由主義的民族主義によっても調整し得ないことは、最早や明かであり、大ドイツ国民主義こそ、かかるヴェルサイユ体制によって悲惨な運命に陥ったドイツ民族の復興運動なのである。若しドイツにしてこの同じ民族的要請、原理を他民族にまで拡充し得る新たな原理と方式とを創造し得なかったら、多くの諸民族は、遂にドイツを無意味なる秩序破壊者として処断するであろう。而してこの新たな原理、方式とは、民族協同と同権とを原則とし、指導的大民族の下に、地理的、歴史的、文化的条件に即応しつつ結合せる諸民族、諸国家の協同体の建設ということで無ければならない。日本は、既にこの事を東亜的規模において実現しつつあるが、ドイツもまたこれを先ず東欧、南欧より開始し、次第にヨーロッパ民族協同体建設の方向を衝動するに至るであろうか、それとも利己的、一方的民族膨脹主義の冒険に自己を覆滅するであろうか否か正に今後の問題であろう

 この場合注目すべきは、ドイツ国内における戦争及び独ソ接近の影響であろう。大胆な予想かもしれないが、ナチズムは、ドイツ国民主義の思想の限り、それは切実な要請を有ち、また力強い原理性を発揮していると言えるが、不幸にして旧来の自由主義を止揚していない。その結果はそれと極端に対蹠的な全体主義統制主義を以て代行するか、或いはそれを既成事実として許容している。ここにナチスドイツの戦時的脆弱性が伏在し、戦争は無慈悲にそれを震撼せしめ、その限りでナチズムを前進せしめるか、崩壊せしめるかする可能性がある。ドイツの対ソ接近はドイツのソウェート化を促進するよりも、かかる意味のナチズムの発展、それによる共産主義との競合とを促進しそうに思われる

 ところで注目すべきは、その共産主義を国是とする当のソ連が行った最近の大転換である。共産党機関紙プラウダは、ドイツのポーランド進入を従来の如く侵略呼ばわりしなかったばかりでなく、却てポーランドがその国内にあるウクライナ人、白ロシア人を抑圧していたことが敗戦の原因であると非難して、次いで起ったソ連赤軍の対波進入を用意したが、いまは又バルト海諸国のソ連併合が危懼され、更に南下して印度を始め中央、西南アジアの諸民族に工作する程までに積極化しつつある。この事は、ソ連が連盟型の自由主義的民族主義を破棄しつつあることを前兆するものである。ソ連は、国内に於て大戦直後に極端なまで採用した民族の形式的平等を前提とする連邦制を、次第に大ロシア人を中心とする単一国家に移行せしめ、民族独立運動を強圧するに至ったが、今は之を対外的にも表現し、大国主義乃至大国家連合へと積極化せんとするかの観があるこれを客観的に見れば、ドイツと同様に、諸民族、諸国家の自由主義的対立関係を乗り越えて、諸民族の協同と統一とを実現すべき方向へ、暴力的に前進しつつあるものとも考えられよう。

しかし民族を第二義的な歴史的残存物としか見ない今日のソ連の原理及び方式はこれと鋭く衝突し、或いは共産主義の旗印の下に、それとは異ったロシア国民主義化が進行しそうに思われる。既にソ連のポーランド進攻は、流石の仏国共産党をも動揺せしめ、重慶政府の諸機関紙はソ連の怪奇な行動を非難し、抗日支那のポーランド化を憂慮している。勿論、一部の論者の如くコミンテルンの崩壊は、しかく自動的には起らないであろうし、理論と戦術との使い分けによる二重政策は、コミンテルンの勢力の実体を変質せしめながらも、それを長く盲目的な状態に繋ぎとめ得るであろうが、コミンテルン自体の政治的、思想的生命は既に終焉に近づきつつあると考えることが出来よう。ともあれ今次の戦争はソ連及びコミンテルンをも震撼せしめ、新たな傾向を露呈せしめそうである

 最後に民族と関連し、更に重要な問題は、資本主義、民主々義の問題である、ヒットラーは英国の黄金と包囲とによる政策が今回大戦誘発の責任を負うべきものと非難し、一方チェンバレンはヒットラーイズムの打倒を絶叫し、今次の大戦の背後にある原理の戦いを不完全に表明しているが、世界、今日の混乱は言うまでもなく、資本主義の全面的行詰りと、世界自由貿易の崩壊にあり、両者を基調とせる英国的支配の崩壊である。ロンドンのエコノミスト誌副主筆ハットンは次の如く論じている。英仏両国民は民主主義と自由の擁護のために戦えと要求されながら実は国際的対立の危険のために国内的にはその擁護すべき民主々義は既に存在しない。

武装平和は、戦争準備のために益々国内、国際情勢をアブノーマル化し、全体主義化し、しかも問題を拡大し悪化せしめるだけで少しも平和たり得ず、戦争も平和も今日のままでは等しく地獄であり冥府である。戦争準備も、戦争の終末も、軍備撤廃もただ英仏独伊の一切の国を全体主義化し、その相違を水平化するのみであって、ヨーロッパに少しも希望を齎さないと  是は、英国の一戦時思想家の苦悩を端的に表明しているが、拡大し行く大戦は、資本主義、自由主義による旧き支配擁護の方向と、それの止揚を目指す方向との歴史的戦争となるであろうことは明かである(つづく)

(下) 雄飛か停滞か いま岐路に立つ日本

 前述の如き国際情勢の急転につれて、わが日本も新たな諸条件の下に置かれるに至ったが、それと同時に警戒を要する幾多の傾向を見つつある

 独ソ不侵略条約の成立のため日本が自然、中立的地位に還元し、軍事同盟化による負担と危険から免れたばかりでなく、中立国貿易の利益さえ享受し得るとの楽観気分が一部国民の間に急速に浸潤してきた

 欧洲戦争は、確に極東に対する英仏の圧力を減退せしめ、その限りでは日本を有利ならしめているが、最後に決定力とさえなりそうに思われる米国の態度は、それらに代って日本を牽制せんとしつつある、それに、前述の如く早晩中立性の維持が大部分の国にとって不可能となり、遂に空前の世界大戦が展開された場合、日本も亦、中立を保つことは、不可能でもあれば、利益でもない上に、或いはそのまま孤立、落伍、敗戦を意味する段階さえ予想され得る。殊に今回の戦争が既に述べた通りの歴史性を帯び、資本主義、自由主義による現状維持と、それの止揚による現状打破との世界歴史的闘争を内包するにおいては、消極的な中立性は日本の到底堪え得る所ではないであろう

 従って阿部内閣が、差し当り、自主外交への還元、欧洲戦争不介入を声明したのは、その言葉の限りでは実に当然のことではあったが、若しもそれが反独伊、英米接近の偽装として利用されたり、中立が最後まで可能であり、しかも漁夫の利益を占め得るとの錯覚を前提とし、精神的、物質的武装解除の状態に苟安することであるならば、それこそ由々しき重大事と言わねばならない。寧ろ次の波瀾へ過渡する一小康期、より大なる歴史的戦争と飛躍との準備期として我々がこれを受入れなかったならば、遂に「天佑」とならないであろうことは想像するに難くない

汪精衛  更に阿部内閣は、不介入方針と表裏せしめて、支那事変処理に専心することを力説しているが、若しも英仏の圧力後退に乗じて、殊に英、米その他との根本的妥協によって、汪精衛を中心とする新中央政権の樹立と孤立せる重慶政府の軍事的、政治的圧倒を簡単に予測するものであるならば、一定のその可能性は確に存在するとしても、それは極めて不安定なもので問題の解決ではあり得ない、特にこの場合、親英政策によって欧米列国と妥協して、対支権益の共同確保に堕し、或いは英仏に代えて米国を、妥協の必要から東亜の機構の中に深く介入せしめる端を開くならば、日本は支那事変の真の目標を失い、二十五年の昔に復帰し、東洋の番犬に堕する外はない、この事は、同時に中国民衆に対して日本が権威と信義を失い、従ってまた事変の根本解決を不可能にするものである。

今日、日本が全力を傾倒して援助しつつある汪精衛政権に向って多くの国民党指揮者が容易に投じ来らざる重大原因は、日本が果して英国と異り民族開放の政治性を有ち得るか否か、最小限度、公約せる範囲においてそれを実行するか否かに関して、容易にこれを確認し得ないしそれを保証する一定の政治勢力も存在していないためであると言われている。これは、日本が新しい理想を有つ明確な政治性を強力に押し出すことを要求するものであるが、それと関連して独ソが抗英の立場から印度その他のアジア諸民族解放の宣伝を強化しつつある一方、印度国民会議派が、英国は先ずその植民地における帝国主義を放棄し、印度に完全なデモクラシーを与うべきだと宣言している事態は、日本の歴史的本能にとって傍観し難いものが存在する

 換言すれば、結局、亜細亜、少くとも東亜から一旦、英国によって代表される従来のヨーロッパ支配を排除し、新秩序を建設することは、日本の基本的使命であり、利益であるのであって、情勢の如何はその手段、方法において変化を必要とするとしても、かかる目標を改廃するものではなく、雄飛せんとする日本にとって是れは宿命とも言うべきものである

 然るに、個人的営利と当面の実利外交とを追う一部の人達は、此の基本的利益と使命とを忘れて、親英的打算に走り、或いは一方的な親米工作に熱中する傾向がある。だが幸か不幸か米国と言い、英国と言い、日本の如き強国の哀訴に対しては、却てこれに乗じて一層の譲歩か対立を求むる傾向が大きい。即ち、実利的に見ても、日本は決して自己の基本利益や使命を混乱せしめてまで追従しては、却て実利すらも得がたいと言わねばならない

昭和  従って日本は、当面、この欧洲大戦の好機会を天佑として、対英問題の解決という方向に置いて、支那事変の処理に全力を集中し、それ故に独、ソ、伊の反英方向の発展に関心しつつ、敵対せんとする諸国に対しても、自主的立場から、凡ゆる可能な機会において、自由自在な外交を展開し、日本の基本的使命と利益とを擁護すべきであろう

 だが、以上の政治的新局面は、同時に経済的新局面でもあった。株式市場は沸騰して、前の大戦時の好況を回想した。成程、綿糸布その他の繊維工業、或いは水産物その他食料品等は売行増加と価格昂騰との二重の好影響に活気を呈し、また、海運業その他輸出貿易の振興に関連する各部門の間にもそれが浸潤し来るであろうが他の半面に於て更に深刻な困難が山積しつつある事は周知の通りである

 即ち、軍需品、生産力拡充資材重要原料品の輸入困難及び価格昂騰、生活必需品輸出強行による国内物資不足の傾向増大、農業生産の減収傾向等が発展するに対し、他方、これまでの国内における貨幣的資産膨脹の方向に、一部輸出貿易の殷賑、海外受取高の増加、海外物価奔騰傾向が複合されて一層の物価高が出現し、悪性インフレ化の国際的競合が予想され、株式市場が思惑した中立国貿易の好況は、結局するところ、物資の国内供給よりも遥かに大きな割合における貨幣的資産の膨脹となりそれ故に日本経済のインフレを危険なまでに発展せしめる懼れがある。九月十八日の物価、賃金、給料その他に釘付ける引上禁止令は、それ自体頗る矛盾を内包しているが、それにも拘らず、日本経済の前途に対する予防的措置としては一つの英断であったと言ってよいであろう

 これを要するに、欧洲大戦が展開した新局面は、政治的にも、経済的にも、それ自体としては楽観材料と云うべきでなく、ただ日本がその大いなる基本国策と決意とを確定し、それの展開にこの情勢に資する時にのみ、初めて天佑となることが明かであろう。親英米による歴史的停滞が、果断な事変処理を通じて米、ソと共に、世界政治のキャスティング・ボートを得て雄飛するか、日本は正に世界史的規模における一大岐路に立ったと云うべきであろう

2ー5.ヒトラーとスターリンの握手 (上・下) 著者 清沢洌
1939-09-28/1939-09-29 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337298
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

(上) 共同の敵を英国に 帝国主義移行の結果

独ソ条約は波国侵略

ヒトラー  ポーランドの分割はドイツとソ連—もっと正確にいえばヒトラーとスターリンとの間に完成した、二人の間に完成したということは、また他面ポーランド自身をふくむ他の列強の承認を得たものでないことを意味するが、今後それがどういう形に落ちつくにしても少なくとも九月一日以前の形において復活することは至難だ。

 八月二十三日夜、モスクワのクレムリン宮で調印された独、ソ不侵略条約には、別に秘密協定が付随しているとの噂があった。この噂を裏書きするものに、その後ソ連の軍部高官がベルリンを訪問した事実があった。ドイツ側の発表によっても、果してそれは噂通りであって、この両国当局者の会談は、相互不侵略条約の打ち合せではなしに、相互ポーランド侵略条約の相談であったことが明かになった。  表面から観れば大儲けをしたのはスターリンであって、大損をしたのはヒトラーのようでもある。ドイツが甚大な犠牲を払い、かつ今後も英仏を対手として戦いぬかねばならず、その結果によっては現に手に入れたものも、どうなるか分らない危険を負担するに対しソ連は懐手をしたままで、面積においてドイツよりも大きなものを自己の所有としてしまったからである。

 だがヒトラーの打つ手が、それだけだとは考えにくい。無論、西方に強敵を控えて、ソ連に対し強く出られない弱味は持っているが、与えるだけで自己が取らないなどということはヒトラーの辞書にはない筈だ。ヒトラーの受取分の中には(一)食料及び工業原料品、石油等の供給(二)ソ連の勢力を利用してトルコ、ルマニアを動かし、あわよくばボスポラス海峡を英仏艦隊に封鎖して、この方面における敵の活動を封ずる話し合いなどが秘められていないとも限らない。それ等は次ぎの幕のお楽しみだ。

ソ連、帝国主義に変る

スターリン  大きな国が、生木を割くように、二つに割かれてしまうことは、何時、どこに起っても大きな問題に違いない。しかしそれがドイツとソ連とによって仲よく分割さるるに至っては、何という皮肉であろう。この取引が示唆する問題は二つある。一つはイデオロギーの問題であり、他はこれによって起った国際関係の将来だ。第一にイデオロギーからいえば、ヒトラーもスターリンも、他国の領土などは少しも要らない筈であった。ヒトラーの目がけたのは「民族国家」であった。ドイツ民族の大合同がかれの全目的であることは「わが戦闘」を書いた時からチェコ合併以前まで一貫してその立場だった。かれによれば他民族を自国の中に包含するのは血の純潔をけがすものですらもあった。スターリンはまた「一インチも他国の領土は必要としないが、その代りに一インチも、わが領土を他国に譲らない」と主張して来た。

 まだどこかにいるであろうスターリンの弁護者はいうかも知れぬ。スターリンの今度進駐したポーランド地方は、かつてロシア領であったところで、それを取りかえしたに過ぎない、その上に今回の挙は恐らくはヒトラーが、余りに深く東方に進むのを牽制せんとするためであろうと、なる程、これ等の領土が一九二〇年十二月に、前年ヴェルサイユ会議で決定されたものにより遥かに拡げて、ポーランドにより略取されたものなることは事実だ。しかしソ連は、従来何回もそれ等の領土を武力を以って回収する意志のないことを声明したし、またそれを証明するために、ポーランドをふくむ隣接諸邦と不侵略条約を結んだのではないか。今回は、ポーランドの敗北により政府は存在せず従って条約は無効に帰したという理由により、その「政府」の一部であろうところのポーランド軍を攻撃しながら、領土を占領したのである。

だがこの点は大した問題ではない。国際問題においては、理由にならぬ理由が、強者側によって何時でも発見出来るという事実を、今一度ソ連によって教えられただけだ。問題なのはソ連のいだくイデオロギーが、丁度ナチズムと同じような段階を通って、帝国主義に変形したことである。

[写真あり 省略]

独ソ目標の転換

 ヒトラーが長い間、民族主義国家論に立て籠っていたことは前述の通りだ。その時には血と民族とが最高の目標であった。しかし一度びその目的を達すれば、その次ぎの階段は従来の理論では蔽えなくなる。近頃のドイツの傾向を見たものは、民族主義の理論が一転して、生活圏(Lebensraeume, living-space)の問題が高調されて来たことに気づいていた筈である。その国民の「数と勇気と仕事」に比例して「肘の部屋」—活動しうる余地—が得られるべき筈だというのであれば、帝国主義への理論的進出は容易である。

トロツキー 他方ソヴエト連邦が、その国際主義から国家主義に転向しつつあった事実は、スターリンとトロツキーの対抗に見るも明かだソ連の戦争観も最早以前のそれではない。スターリン自身が力を入れたといわれる「新共産党歴史」を見ると戦争を「正義の戦争」と「不正義の戦争」とに分けている。正義の戦争とは何かというと「征服の戦争ではなくて、反対に外国の攻撃及び外国が一民族を奴隷化せんとする事から救い出す戦争だ。後者の戦争に対してボルシェビキはこれを援助する」といっている。(同書英訳一六八ページ)。これによるとソ連は、「一民族を奴隷化」せんとする戦争に対してはどこに行っても援助しうるわけであって、しかも世界を全部ソ連の領土としない以上は、民族奴隷化の事実はたえない理窟である(!) 独ソの敵は英国  ある時代の、ある一国におけるイデオロギーには二つの面がある。一つは国内部面であり、他は国際部面だ。幕末の歴史において「尊王壌夷」は国内部面であった。この標語により国内政権の移動が行われ終ると、次ぎには国際部面である「文明開化」の段階に移ったのである。ナチスの場合も、ボルシェビズムの場合も、世界政治史の観点からすれば、それは特有な社会状態に生れた政権取得運動であって、その標語はユダヤ人、金融家、政党、宮廷人といった少数支配階級撲滅を目標としたものではなかろうか。この新政権の完成の後は、やがて新しい目標が出現せざるをえない。  ヒトラーがその政権確立に努力していた頃はボルシェビズムが不倶戴天の敵であった。かれが「わが戦闘」において書いたように「われ等は現代ロシアの支配者が、血に染みた下等の犯人であることを断じて忘れうべきではない」とてその提携などは天地が引っくり返っても想像されなかったことは、かれとして嘘ではなかった。しかしスペインで共産主義を仆すためだとして、また一方はファッシズムを倒すためだと戦っている間に、ナチズムとボルシェビズムの内容そのものに変化が来ていた。ポーランドへ両方から進出する前に、思想的には両者が接近していたのだ。

 民族主義から帝国主義に変形すれば、ドイツの敵はソ連でなく、またソ連の敵はドイツでなく、それは英国である。ヒトラーは「英国の友情を得るためには如何なる犠牲をも高しとしない」といって元来が親英主義者なのだが、それに拘わらずかれの意志を以てどうすることも出来ないような客観的情勢が出来たのだ。

 イデオロギーが事実の前に極めて無力であることを示したこと、今回の如きはないが、それはそうなる理由があったのである。

 【写真はスターリン・ソ連書記長(右)とヒトラー独総統】

(下) 独の東方侵略阻止 一応はヒ総統の外交的勝利

[図表あり 省略]

中欧バルカンの旅行

 一昨年から昨年にかけて、私は二回バルカン地方及び中欧を旅行した。ワルシャワに行った時は雪が降っていた。プラーグでは花が咲いていた。ユゴスラヴィアのベルグラードは六月の初めというに暑かった。それから私はギリシャ半島を経て帰って来た。中央ヨーロッパ及びバルカン地方に行って特に感ずることが二つある。一つは民族意識というものがどんなに深い根を持っているかということだ。何百年来の圧迫と教化と統治とに拘らず、一つの民族は金輪際、その言語と民族的特権を失わない。今一つはスラヴ民族の広汎なる勢力である。これに対して独逸民族の能動的態勢が、その覇を挑んでいるのが目立っていた。

 ワルシャワに行っても、ブダペストに行っても、プラーグに行っても、そこの人間の骨格がいかにもスラヴ的であるのが目につく。ここ等の町では多くドイツ語もロシア語も通ずるそうである。ただその時の政治勢力の優勢な国の言葉が幅をきかすのであって、私の行った頃はナチス勢力の上騰期であったので「近頃はどこに行ってもドイツ語を大きい声で話しています」といっていた。

 この「勢力のある国の国語が幅をきかす」ということが、小国の悲哀を語るものである。かれ等には感情はあるが意志はない。その意味は例えばユゴスラヴィアは感情的に親英仏的であるが、独伊の地理的圧迫の前にどうするわけにもいかない。ギリシャのメタクサス内閣はまた感情的に親独であるが、その地中海の位置から、最後のラインアップにはイギリス側につくのである。大国のイタリアですらも、感情的にはドイツ側であっても、その行動において果してそう身軽でありうるかどうかは、今後の事実に徴するの外はない。

バルカンのスラヴ運動

 ソ連がポーランドに進駐した時に、バルカンの小国が周章狼狽したことは、この小国心理によって当然であった。今までソ連を対手にしなかったユゴスラヴィアは直ちに使者を送って、国交開始と不侵略条約締結を交渉した。トルコは外務大臣をモスクワに送るし、またエストニアも早速外務大臣が出かけてクレムリン宮の御機嫌を伺った。ソ連が出て来るとなると不安なのは、これ等の小国だけではない。ユゴスラヴィア、ブルガリア、旧チェコスロヴァキアなどにはスラヴ人が圧倒的に多い結果、この方面にヘゲモニーを持とうとするイタリアにとっても、向う岸の火事として見てはおれぬ。そこには世界大戦以前の汎スラヴ運動が擡頭する機運が十分見えるからだ。

 ヨーロッパ人は過去の幾つもの戦争が、スラヴ民族がアドリア海方面への出口を望んだことを原因として起されたものである歴史的事実を忘れておらぬ。一九〇八年にはそれがために戦争の危機に瀕した。一九一二年の第一バルカン戦争、翌年の第二バルカン戦争もスラヴ民族の不満の爆発が原因だった。更に一九一四年の世界大戦も動力はここにあった、即ちセルビアがロシアの後援を得て、アドリア海に出でんとするのをオーストリアがこれに反対した結果だ。

 世界大戦後ロシアが第三インターに立てこもって、世界革命を標語とするに至って、バルカン諸国は寧ろホッと安心した。なぜならばそれによってプロレタリアは蠢動するであろうけれども、民族運動は帝政ロシアの如くにその本国の支持を得ないからである。然るに今やソ連はプロレタリアを扶くるためではなしに、「同胞兄弟」を助くるためにウクライナに進出したのだ。その結果を重大視するのは当然だ。

ヒトラー ヒトラー政策の賢愚

 後世の歴史家はヒトラーが英、仏、波を対手に戦争に没入したことの賢愚について議論をするであろうことは無論だが、同時にまた苦しまぎれであるにしても、ソ連の進駐を許したことについて必らず批判の対象とするであろう。元来、ヒトラーの反ソ連態度は、その根底をイデオロギーに発したというよりも、民族的な理由からであった。ドイツ人の頭にはビスマルク的伝統からして、ロシアに対する反感はない。そればかりでなくドイツ国軍は常にロシアとの提携を説いて来たものである。この点でヒトラーとゼークト将軍とは最後まで意見が一致しなかった。ヒトラーがロシアを恐れたのは、かれがオーストリア人として生れて、スラヴ民族との対抗を見て来たからだ。しかし一たび戦争が起れば、ドイツはドイツ国軍の首脳部が主張したように、その原料をロシアに仰ぐの外はない。結局ドイツ陸軍の主張が勝ってヒトラーの意見が敗けたといえる。

 今ヒトラーとスターリンは握手した。一応はヒトラーの外交的勝利である。だがその接触は、やがてまたヒトラーが恐れて来たところの汎スラヴ運動と汎チュトン運動の正面対峙が始まったことを知らねばならぬ。ヒトラーは前門の狼をふせぐために後門の虎を入れたようなことはないか。況んやドイツが東に伸びる場合に、地理的にいって英仏は恐るるに足らぬのに対し、ロシアは前門に横わる大きな力だからだ。

ソ連はどう出る

 ソ連が今後どう出るかはいま少し経過を見なくてはならぬ。かりにソ連の意図を善意に解して、その行動がドイツの東方侵略をチェックするための消極的対策だとしよう。しかし一たび開始された帝国主義的行動は、その首脳者の意図に関せず、進むべき道を進むのである。

 今のところソ連の眼は北と南とに分れているようである。北の方のバルト海沿岸諸国—フィンランド、エストニア、ラトヴィア、リトアニアは、ポーランドの大部とともに一九二〇年前後までロシア領であったところである。ソ連がバルト海の出口を望むのは当然であって、(現在はレニングラード前方の僅かのスペースしかない)既にエストニアに対しては、何等か重大なる要求を提出したといわれる。バルト海に出れば、そこは「ドイツの海」である。南の方は黒海に足を伸ばすであろう。トルコが感情的に英仏側であろうとも、地理的にソ連から離れることは出来ぬ。またルマニアのベツサラビア地方は、一九一九年にソ連から無理にもぎとったところだ。既にこの国境にソ連の大軍が動員されていることを電報は伝えている。

 斯くの如くしてロシア熊は、帝政ロシアの当時と同じく、ヨーロッパ方面にその鼻を出したのである。一たびここに向えば、民族と歴史と伝統と、そして興味とが複雑しており、遽に足がぬかれるものではない。それは極東方面などとは比較にならぬほど重要である。その上に大軍も広汎な線に備えなくてはならぬ。

 ソ連が最近極東に対する注意をやや寛めたかに思われるのは日本に対する評価その他種々なる理由があろうが、この西部方面の情勢が重要な原因をなしておりはしないか。ただこのソ連に対して日本として如何に出づべきかは、私の与えられたる題目ではない。(完)

2ー6.ノモンハン事件の教訓 : 物的戦備の増強が最も急務 : 社説
1939-10-07 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339149
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)


BT-7  ノモンハン事件の戦況に付ては地方長官会議の席上陸軍当局から説明があり既に是は報道された所だが、第一次ノモンハン事件発生以来四ヶ月、第三次事件に至る間の状況は一般に窺知するを得なかっただけに、この率直明快な公表によって国民は今後の覚悟を一層強固にし、国防国家体制の確立に向って全力を尽さねばならぬことを痛感したものと思う。

又その精神動員の上に与えた効果も蓋し多大なものがあったと信ずる。さて一国が予想する兵力に対して必勝を期せんとせば、数に於て優勢を占めることが第一の条件であるが一歩を譲ってその兵力量の劣勢を補うということになれば、精神の砥励、訓練の精到、統帥の卓越、戦法の選択、編制装備の優性等によって作戦能力の向上を図る外はない。然も斯かる作戦能力にも限度があり、或程度は数の比率を無視する訳にはゆかぬ。また近代戦に於ては軍の装備、就中空軍勢力及び機械化の優劣が勝敗に影響する事は極めて大であり、如何に勇敢にして訓練精到であっても、旧式装備の軍は到底近代装備の軍の数であり得ないという事は、陸軍当局の既に屡々指摘した所である。


九五式軽戦車  然るに一般には、ソ連軍の機械化、兵装備に関して認識する所も少ないようであるが、最近の急激にして大規模なソ連の軍備拡張に付ては之を疎かに看過することは出来ぬ。従来思想赤化に対してのみ警戒していた世界をして、更にその武力的脅威を感ぜしめつつある事を閑却してはならぬ。一九二九年の赤軍総兵力は五十六万と算定されていたのだが、八年後の一九三八年には実に二百万の常備軍を編制、七千五百の戦車を有するに至った。然も此等戦車と装甲自動車、乗車歩兵及び砲兵其他を以て独立機械化部隊約三十箇を編制師団の大部には固有の機械化部隊が配属しているということであり又その化学戦装備の徹底化と火力装備の上でも列国陸軍中優位を占めている様だ。

その砲火力に付いて云えば三百九十二箇中隊の軍団重砲兵と一千四百二十箇中隊の軽砲兵等を有する点から推しても、その尨大な編制を知ることが出来よう、軍の機械化は第二次五ヶ年計画の段階に於ける自動車及びトラクター工業の発展によって飛躍的に強化したもので、戦車の如きは一九三三年の二千台から三千台四千台六千七百台と増拡、三八年には七千五百台を数うるに至ったのである。


ポリカルポフ  空軍についていうも、第二次五ヶ年計画の階段に於て国産機を以て整備し得るようになり、一九三三年の二千五百機から逐年三千台、四千台、五千五百台と拡充し、六千五百台を整備するに至っている斯くの如き大陸軍の建設を茲数年間にやってのけたソ連は、今度はどんな方針に出んとするのであろうか。恐らくその質的強化と技術的向上を企図するものと見られているが、此間複雑怪奇な国際情勢に対処し、自主独往東亜の安定を期する上には相対的軍備の均衡に依って、防衛の実を保障せねばならぬ。そのためには兵力量の増強と共に火力装備、機械化装備、航空防空装備の増強など物的戦備の充実に邁進すべきことが極めて緊切であり、この点十分の工夫を要するであろう。

冠絶せる精神と訓練に加えて物的戦備の完壁を以てせば正に鬼に金捧であり、斯くてこそ多数の損傷をして無意義たらしむることなく、又尽忠報国の権化として国境線に華と散った英霊を慰めることを得るものと言わねばならぬ。

ノモンハン事件の教訓 : 物的戦備の増強が最も急務 : 社説 引用終わり。

ノモンハン事件の原因は、「誤解」という意図せざる過誤ではなく、日本が満州帝国を傀儡化し、モンゴル人民共和国との国境を住民を無視して策定したこと、ソ連がモンゴル人民共和国を傀儡化し、満州帝国との国境を住民を無視して策定したこと、すなわち「帝国主義」「支配者民族意識」「優生学的イデオロギー」という身勝手な思い上がりにある。

写真集:ノモンハン事件参照。

2−7.日ソ提携論 (1〜7) 著者 竹尾弌
1939-11-11/1939-11-17 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100337844
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

(1) ドイツの主張者 ハ教授とは如何なる人か

 独ソ不侵略条約の締結に引続き欧州大戦の勃発以来、日ソ提携の可能を論じ、またこれを促進せしめんとする議論が、主としてドイツとソ連において闘わされて来ている。殊にドイツにおける日ソ提携論は、一時の思いつきや単なるお座なりではなく、相当根強い根拠の上に立ち、それがナチス外交の動向を決するが如き勢力を持つに至ったことを茲に想起せねばならない。

 ドイツの考えていた日ソ提携論の眼目は、単なる日ソ両国の提携ではなく、日、独、ソ三国の提携であり、右三国より成る大陸横断の一大ブロックを形成し、アングロサクソン国家に対抗すべきことを主張しているのである。

 今日ドイツにおけるその強い主張者は、ミュンヘン大学の『地理政治学』講座を創設し、現にこの講座を担任している有名なK・ハウスホウフエル教授であるが、この人の説は、ナチス党副党首のヘスの強く支持するところとなって、党内の有力な外交政策となっている。ハウスホウフエル教授が右のような結論に達するまでには、常人の企及し得ない長年の研究が続いた。もともと彼は生え抜きの学者ではなく、最初はドイツ陸軍の軍人であった。しかも日露戦争後バヴァリア参謀本部の日本派遣将校として、我が国に数年間滞在したことがあり、この期間に本格的に日本の研究を続けたのである。彼が最初に配属されていたところは、静岡の歩兵第三十四連隊であったが、今の駐独大島大使の厳父大島健一将軍(元大隈、寺内内閣の陸相)などとは、当時深い交りがあった筈である。

 彼は、世間のいわゆる親日家という部類の人ではないけれど、日本を正しく観、深く掘り下げて研究した結果、日本を本当に知っている外国人の一人として、その意味から日独国交に尽した功により日本の勲二等に叙せられた。彼の令息も、確か昨年日独交換学生として日本に来たことがある。

 ハウスホウフエルが日本に来朝したのが一九〇八年で帰国したのが一九一二年であるが、帰国後も一九一八年までドイツの軍籍に在った、辞める時は確か陸軍少将で、第一次世界大戦にも従軍している。一八六九年の生れで、今年で恰度七十歳になるが、一九三三年から一九三七年までは、ミュンヘン大学教授にドイツ学界最高の栄誉であるドイツ学士院の総裁を兼ねたことがあり、今ではドイツ学界に抜くべからざる勢力を扶植している。雑誌『地理政治学』を創刊、主宰し、独創的な学説を世界の学会に問うて今も倦むところがないけれど、今年は誕生七十年に当るため、今夏の『地理政治学』誌をハ教授記念特輯号とし、有名な弟子達が、各自得意の論文を寄稿し教授の学界における偉業を讚えた。

(2) 三国提携の可能性 問題にされた日本の北守南進論

 ハウスホウフエル将軍が日本に派遣された主要目的は、隊付となって日本陸軍の実情を調査する以外に、日清、日露両役に戦勝した日本は将来如何なる国と手を携えて国際場裏に処せんとするかの動向を確かめるにあったようである。日本がイギリスと同盟を結んで、帝制ロシアを破ったことは、ドイツから見れば不自然であり、ビスマーク以来の伝統とし、ドイツは帝制度ロシアと結び、日本を味方として、英仏米を撃破せんとする野望に燃えていた。

 日独露提携可能については、既に一九〇四年、イギリス、オックスフォド大学の地理学教授であったH・マッキンダーが『歴史の中心点』なる学説を発表し、日本と独露の接近を暗示し、世界を驚かしたことがある。彼の説くところによれば、エルベ河(ドイツ中部)と黒竜江の河口に延びた圧亜の大平原に人類が発祥し、それが欧州西南、インド、支那と南下して、両大陸を征服した。この『陸上勢力』に対峙するものは、イギリス、アメリカ、日本の『海上勢力』であり、今後の人類の歴史は、この二大勢力の対立抗争にほかならぬというのである。彼は第一次大戦後、更に自説をイギリスの将来のために拡大し、イギリスが破滅から免れんとすれば、将来独露の提 携を極力阻止せねばならない。第一次大戦で独露が破れたのは、両国が別々に戦ったからであり、将来この失敗の教訓を摂取し、独露が共同して英仏に対する時が来れば、独露は英仏米を併呑して、世界を支配するであろうといった。

 ハウスホウフエルは、この先行者の説に端初を得、『陸上勢力』と『海上勢力』が辛うじて均衡を得ているのは、日本が英米側に追随しているからであり、独露が英仏に勝つためには、日本を英米より切り離し、独露側への接近を策せねばならないことを力説した。斯くして彼の『地理政治学』の基礎は築かれたのであるが、日本滞在中熱心に日本の国民性、風俗、民族心理等を研究し、三国提携の可能性に確信を得て、ドイツに帰国後第一に世に問うたのが有名な大著『日本帝国』(一九二〇年)であった。これは前年(一九一九年)マッキンダーが、独ソ離間のために書いた『民主々義観念と現実』に対して手痛い一矢を酬いたものである。

 その後ミュンヘン大学の教授としてのスタートを切ってから、『日本及日本人』(一九二三年)、『太平洋の地理政治学』(一九二四年)、『日本帝国の革新』(一九三〇年)等を続々公刊し、一九三三年ヒトラーが政権を握ってからも、『世界の勢力及帝国としての日本の成生過程』(一九三三年)のなかで、彼は日本の北守南進論に触れ、日本とソ連の和すべきことを提唱し、日独ソ三国の提携可能を強調した。

(3) 防共問題は如何 ヒ総統の採用したヘスの理論

ヒトラー  ミュンヘン大学におけるハウスホウフエル教授の講座は非常な好評であった。彼とヘスとの関係は未だ軍藉にあった当時、ヘスが彼の副官であった時以来だという説もあるが、飛行士出身のヘスが彼の部下であったというのも少し変で、ヘスがミュンヘン大学で彼の講義を聴いて以後のことであるというのが本当らしい。その後ヘスはハウスホウフエルの研究所で、暫く彼の助手を勤めたことがある。いずれにせよ、こうした関係からヘスが彼の学説に共鳴したことは事実であり、ヘスはナチス党内における熱心な日独ソ提携論者となった。ヒトラーの代理として、党を自由に指導し得る立場において、党内に三国提携論を宣伝普及したことも当然であろう。

 ヒトラーは、英仏の現状維持勢力と闘わねばならぬという現実の必要とソ連が現状維持派の陣営にあったという関係から、共産主義排撃の政策を取ったが、経済的には独ソの関係はナチス政権確立後も続けられた。ヒトラーがスターリンに救済の手を延べ、一九三三年ゲーリングの反対を押切ってソ連に三千三百万ドルの銀行クレヂットを供与し、窮乏のどん底に喘ぐ当時のソ連を救ったことは、独ソ関係の経済的接近を雄弁に語るものであって、一方ユダヤ人排撃を根本国是の一つとするドイツがユダヤ人問題では全く対蹠的な立場にあるソ連と不侵略条約まで締結した裏面には、ソ連がリトヴィノフ失脚以後ユダヤ的外交方針を一変するとともに、現状維持派の陣営に移行したことを如実に物語っている。

 勿論斯く現実外交が変ったからといって、コミンテルンの世界赤色化方針が一擲されたと見るのは早計であるが、少くもソ連外交はユダヤ人の手を離れて、ジダーノフ(ソ連最高会議民族会議外交委員長)等の大ロシア主義の外交に実権が移りつつあることは事実である。ハウスホウフエルを師とするヘスの日独ソ提携論は、かかるソ連の外交転換により、実践のための現実的可能性を見出した訳で、独ソ不侵略条約締結後、ヒトラーが簡単にヘスの日独ソ提携論を採用した理論的基礎もここに存すると見ねばならない。

 即ちハウスホウフエルやヘスの観方によれば、ソ連が事実において現状維持派陣営を離脱した今日独ソの接近は、必ずしも防共協定と抵触するものではないのみならず、寧ろ日独ソ三国の提携が成れば、日独は共同してソ連を牽制し、提携の内部においてソ連を引きずることも不可能でないから、防共の実は、日独がソ連と対立した時より却って大いに挙るというのである。ソ連が、ドイツの考えている通りに将来動くかどうかはここでは別問題として、ナチス党がこの意味において日独ソ提携を主張し、その実現を希求していることは、見逃し得ない事実である。

(4) 支那三分可能説 注目すべきメンデリソンの論文

 ソ連が、現状維持派陣営を離れ、具体的にドイツと親善を図って行こうとする意図は、去る八月三十一日と十月三十一日両回に亘るソ連最高会議の席上におけるモロトフ兼摂外相の演説によっても明かであるが、ソ連のドイツに対する態度を、歯に絹を着せながらも相当大胆に表明したのは、去る十月十三日の『プラーウダ』紙(ソ連共産党機関紙)上に掲載されたエル・メンデリソンの論文である。

 茲で筆者が、読者諸彦の注意を特に喚起したいことは、メンデリソンのこの論旨は、ドイツのみならず、そっくりそのまま日本に適用し得るということである。否日本を念頭に置いて書いたと思われる節もある位だと思われる。

 一体理論と実践の統一ということを喧ましくいうソ連では、現実政策の大転換を行うような場合、直接これを声明することを避けて、何かの機会を捕えて、理論的にこれを間接的に釈明する場合が非常に多い。だからうっかり読んで行くと、その真意を読み逃すことがあるのだが、メンデリソンも右の論文で、例の有名なレーニンの主著『資本主義最高段階としての帝国主義』(俗に『帝国主義論』)の読み方に関する新解釈を発表した、この書に就て読者に解釈を与える場合、従来はドイツをファッシズム、帝国主義の国として引用、非難して来たものだが、メンデリソンの新解釈によれば、英仏こそ不必要に厖大な植民地を世界に擁する貧婪な帝国主義国家で、ドイツは国内資源に乏しく人口過多であるため、国外に発展を求めるのは極めて自然であり、ドイツの行動は決して帝国主義的ではないと、ドイツの今度のポーランド進撃を陰に陽に弁護している。

 メンデリソンのようなソ連有数の理論家が、プラーウダの如き特殊の重要機関紙に署名入りで意見を発表したことは、彼の意見が即ちソ連共産党の意見であり、ソ連政府の主張であることを立証している。

 メンデリソンが説いたドイツの立場は、そのまま極東における日本の立場にも適用が出来る。ソ連の極東における最近の態度を見るに、ソ連は日本に親善を求めんとする風を見せている。ソ連は既に支那に獲得した大なるプラスを放棄せんとはしないであろうが、日本を帝国主義国として非難するにも、その理論的根拠を見出すに苦しんでいるようである。メンデリソンの理論を極東に敷衍すればソ連による支那西北地区と支那西南部に拠る蒋介石政権と汪兆銘の新支那中欧政権とによる支那三分論も可能になって来ることになろう。

 ソ連が支那にどういう考えを持とうと我々は更に問題にする必要はなく、日本は独自の使命を東亜において果せば好いのであるが、ソ連の極東外交が最近二ヶ月のうちに、著しく現実具体的化しつつあることは、注目に値する。

(5) 通商協定に発展か 極東新外交陣が示すソ連の意図

 ソ連極東外交の現実性は、ノモンハンの停戦協定、去る十月三十一日のソ連最高会議におけるモロトフの演説、駐支および駐日ソ連新大使の任命等と一連の事実のうちに、その具体的表現を見出している。

 ノモンハンの紛争において、赤軍は日本軍との交戦のためには、如何に高価なる犠牲を払わざるを得ないかを、身を以て体験したであろうし、将来の紛争停止の目的を以て、ソ連は進んで国境画定を申出ている。国境画定交渉がすらすらと捗取るかどうかは、遽かにこれを予測し得ないとしても、モスクワ電報は、既にこれに関する東郷・モロトフ予備会談の成立を報じて居り、ソ連が将来日本と国交を調整したいという意図が、部分的にも茲に現れていることは否定出来ない。

 ソ連の究極において望むところは、日ソ不侵略条約の締結にあるようであるが、同時に漁業、北樺太利権等々日ソ間に蟠まる個々の懸案の解決をなし、日ソ通商協定を結びたいという腹のようでもある。最近駐日ソ連大使として再度日本に赴任したスメターニンは、北洋漁業通であり、未だ四十二のソ連外交官中の実力者、これに配されたジューコフ参事官は未だ三十そこそこではあるがソ連外務省の日本関係の課長の席に在った日本研究の専門家である。この事実と先般重慶に赴任した駐支ソ連大使パヌーシキンが、赤軍陸軍大学出身の軍事専門家であることを思い合わせる時、ソ連が適材適所主義で、その精鋭を極東外交陣に配し、以て一気に諸懸案の解決に乗り出さんとしていることは想像に難くない。

 将来日ソ提携が如何なるかたちで実現されるや?また結局実現を見ぬことになるや?筆者の直接関知するところではないが、仮に実現された場合という仮定の上に立って考える時、日ソ提携は如何なるプラスと如何なるマイナスを日本に齎すであろうか?

 先ずプラスの方面から見れば、提携が成立して、満ソ、満蒙国境方面が暫くにせよ平静に帰することは第一のプラスであり、漁業、利権等に関する従来の懸案が解決し、安堵の気持を以て、企業に従事し得るに至れば、これは第二のプラスに相違なく、更に日ソ提携により、支那問題に関し何等かの協定が成立すれば、日本は支那事変処理にあたり大なるプラスをかち得ることになろう。

 日ソ通商協定は、ソ連の希望するところであるとともに、日本当業者もこれを希望している。仮に協定が成立した場合、日本からソ連への輸出物資船具、緑茶、船舶、セメント等と日本のソ連からの輸入物資銑鉄、木材、軽金属、石油等を考える時、これ等生拡資材の輸入は、特に日本がこれ等資材に払底を感じている今日、日本に大なる利便を与えることと思われる。

 斯く考えれば、ソ連が日本に提携を求めて来た場合、その限りにおいては、日本はソ連の提案を拒絶する理由を発見し得ないではなるまいか?

(6) 害よりも利益多し 却って防共の実を齎らさん

 ソ連当局は、問題の起る度に、ソ連の外交機関とコミンテルンは全く別個の存在であると釈明を続けて来た。然しこの両者は、一つの体から出た二本の手であることにまちがいはなく、今後ともソ連は、この手の使い分けを続けるであろうと思われる。日ソ提携が具体化し、通商が再開され、国境が一先ず安定しても、コミンテルンの赤色化工作は全く停止されるというものではない。従って日本はこれがため脅威を受けることになるから、提携を結んで一時的利便のため、禍根を後年に残すような愚は寧ろこの際なさざるに如かずと、日ソ提携に反対の識者もいるようである。

 提携成立の結果、日本が赤色化宣伝に患らわされるであろうことは、一九二五年日ソ国交の快復後、却って共産主義が日本に猖獗を極めた事実に照しても明かである。これは提携の齎らす大なるマイナスであることに、無論筆者も異存はない。

然し最近のコミンテルンの動向を仔細に検討して見れば、コミンテルンの立前として、ソ連外交を引きずるべき性質のものが、寧ろ今日は明かにソ連外交に引きずられている傾きが顕著である。これはコミンテルンの質的転換を物語るものであって、嘗てジノヴィエフが、世界に向って共産主義革命を呼号した当時のコミンテルンとは、今日質的にかなりの相違を来し、その力を失っていることは疑問の余地がない。  勿論今日のコミンテルンと雖も、世界赤色化政策を放棄しないだろうことは、前述の通りである。だが、日ソ正式外交の折衝により、コミンテルンの運動をある程度まで制限停止せしめることは、全く不可能というのではない。更に今日の日本が、赤色化防止に関する大なる実力と、幾多の手段を所有していることに想到すれば、余りにコミンテルンを恐れるのは、寧ろ取り越し苦労というべきである。この際日本が赤色化に乗ぜられる恐れありとすれば、進んで、その乗ずべき欠陥を除去匡正し、乗ずべき一つの隙だにあらしめざることが、為政者としての真の任務ではないか?更にまた提携そのものも容易に赤手に抱かれ得るが如き提携であってはならない訳である。

 また日ソ協定反対論者は、支那事変処理のため防共精神を事実において、貫徹させねばならないと主張している。日ソ提携の結果、東亜において防共の実が挙らないようなことがあっては、それこそ大問題であるけれど、支那における国共分裂等二、三の事例より見ても、却って事実においては日ソ提携の結果、即ち不可侵なるが故に防共の実が挙りそうな事態が次第に馴致されつつある。

 而も斯くしてこそ、一方において蒙□、北支の特殊性は益々重大化されることになり、日本が何故にこの方面を重要視しているかの理由が、茲において具体的に解決されることになろう。

 日ソ提携の凡ゆる利害得失を考える時、我々は結局において提携の害よりも、その利を取らざるを得ない。

(7) 我南進政策へ寄与 提携は"通商協定"の限度とせよ

 筆者の私見を以てすれば、日ソ提携は差当り、通商協定の限度に止むるのが得策のようである。右の協定範囲において、経済的に諸々の懸案を解決することは、不侵略条約の如き政治的協定を締結するのと、結果においては同じ効果があり、かつ国際関係に処して余り各国を興奮、狼狽せしめないという長所を持っている。

 勿論日本は英米に媚態を送る要は絶対にないけれど、日ソ通商提携の範囲においては、英米とて殊更日本に反対する理由がない。かくして日本は一方、日英、日米会談を自由に続行し得るに至れば、当面の緊急問題解決のためにも一石二鳥の効果を挙げ得ることになろう。

 所詮世界の平和は、武装した平和である。仮に日ソの提携が成立しても、しなくとも日ソ関係は世界の大問題である。現に直前の問題としてオランダが戦争に捲き込まれた場合、日本がソ連(同時に独ソブロック)と提携した場合と然らざる時とでは日本の南進政策に大きな相違を来す。筆者は南進政策の見地よりも、日ソの提携を利とするものであるが、然らずとなす論者もいよう。何れにせよ、我が国未曾有の国難に当って、日ソの関係およびその将来を、真剣に国民が考慮検討することはこの際最も望ましきことでありまた最も必要なことである。

 最後に我々の銘記すべき一事は、日ソ提携が成立しても、ソ連は日本に対する敵性を放棄しないかも知れない。結局ソ連は本質においては、日本の仮想敵国として止まるであろう場合も想像出来る。しかし日本が今日の如き発展を遂げたのは、露・清という二大敵国を持ち、これに対する準備を怠らなかったからである。

 孫呉の兵法を借らずとも、敵を知ることは敵に勝つ所以である。日露戦争における日本の勝因には色々あるが、戦前ロシアに対する日本側の調査研究が、彼に数倍勝れていたことも戦勝の重大なる要因であった。その意味においても我々はソ連に対する一層の調査研究を怠らないと同時に、我が国の輿論を喚起して、国民外交の実を挙げ、日ソ関係の重大性に備えねばならない。  今は一国の老宰相、閣僚等が飛行機を駆って自ら相手国と折衝をする世の中である。米国新聞王ハワードは嘗てクレムリン宮殿に乗込み、直接スターリンと折衝して、大いに米ソ国交に寄与するところがあった。我が国でも、政治家、民間の士中に一人位は、モスクワに赴き、直接スターリンと将来を談じて来る位の憂国気概の士が出て来ても好い時である。

 国難来りて、そぞろに英雄を思う。日ソ国交のこの重大時局に際し、第二の伊藤博文、第二の後藤新平の出現を切望する者は、ただに筆者のみではあるまい。(終)

写真集:ノモンハン空中戦の実相参照。


3.第二次大戦中のソ連によるバルト海沿岸・フィンランド侵攻


写真(右)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、西レメティ(Lemetti)でフィンランド国防軍の冬季白書迷彩服の兵士が鹵獲したソ連赤軍の1936年式76.2ミリ(3インチ)起動野砲(76 K 36)を検分している。
;ソ連赤軍は76mm師団砲M1936(F-22)と称した。ソ連では機械化自動車化部隊を育成していたので、火砲を牽引するのも自動車や装軌式トラクターあるいは専用の牽引車を使用していた。自動車化に対応できるように、野砲の砲車にはゴムタイヤを装備している。
Lemetti. Rykmentin motti. Kuvassa 76 mm:n kanuuna vuodelta 1936 (76 K 36).
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1940-02-01
Tuntematon, valokuvaaja
写真はMuseot Finna・sa-kuva-113747引用。


1939年9月1日、ドイツがポーランドに突如侵攻、3日には、ポーランドと相互援助条約を結んでいたイギリス・フランスがドイツに参戦し、第二次欧州大戦がはじまった。その混乱に乗じたソ連のヨシフ・スターリンは、既に傘下に収めていたバルト諸国同様、フィンランドにも領土要求をしたが、フィンランドが拒否したため、ソ連赤軍は、1939年11月30日、フィンランド南部に攻撃を加えた。これが、フィンランド「冬戦争」である。

ソ連は,1918年にソ連に脱出したフィンランドのソ連傀儡O.W. Kuusinenを政府首班とするように要求し,フィンランドに倍する兵力で侵攻したが、頑強な抵抗に直面した。

ソ連のBT-5快速戦車は、騎兵を念頭に、縦深浸透攻撃のために開発された快速戦車で、1932年10月21日に試作が完成し、1933年から1万両が量産された。キャタピラーを外して、路面を快速装甲することも可能だったが、これはヨーロッパの道路以上を念頭に置いていたようだ。

写真(右)1940年2月2日、冬戦争の時期、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西の包囲戦、テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘で、フィンランド軍の夜襲を受けて撃破されたソ連赤軍の第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)所属のBT-5快速戦車と折り重なるソ連兵士の死体:ソ連軍側は25両のBT-5戦車を擁して、機関銃網によってフィンランド軍の包囲を3日間持ちこたえた。ソ連軍の頑強な抵抗のため、フィンランド軍は3回目の夜襲で包囲陣を二分することができた。
Tuhottuja h-vaunuja Tenhamonmäellä. Kuvassa BT-5-panssarivaunu..
Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1940-02-02
写真は,Museot Finna sa-kuva-165401引用。


ソ連赤軍BT-5快速戦車の諸元
乗員3名
全長 5.50m
車体長 5.50m
全幅 2.23m
全高 2.20m
重量 11.5t
最高速力 装軌52km/h・装輪72km/h
航続距離 装軌120-150km・装輪200-250km
主砲 45mm20K戦車砲(携行弾数115発)
副兵装 7.62mmDT機関銃1挺(携行弾薬2,709発)
装甲 防盾 20mm
砲塔: 全周 13mm 上面10mm
車体: 前面 13mm 前端40mm
側面 13+4mm 後面 10-13mm
上面 10-13mm 底面 6mm
発動機 M-5 V型12気筒水冷ガソリンエンジン400hp


写真(右)1940年2月1日、冬戦争時のフィンランド南東部、ミッケリ北東30キロ、レメティ(Lemetti)の戦いで勝利したフィンランド国防軍の鹵獲したソ連赤軍BT‐5快速戦車
;1932年秋、ソ連赤軍機械化自動車化局(UMM)の指示で10月21日に試作車が開発されたBT-5快速戦車は、1933年から1941年の間に1,800両が量産された。重量11.5トン、主砲は45ミリ砲で、整地であれば最高速力時速70キロに達した。
Lemetti Lemetti. Rykmentin motti. Kuvassa BT-5 panssarivaunu.
Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info: 1940-02-01
写真はMuseot Finna・sa-kuva-114276引用。


冬戦争の1940年2月2日、フィンランド、ミッケリ(Mikkeli)南20キロ、レミッテ(Lemetti)西にソ連軍を包囲した。しかし、ソ連軍はBT-5快速戦車と有効な機関銃部隊があったため、包囲されたソ連軍は頑強な抵抗をつづけた。テンハモメレ(Tenhamonmäellä)の丘のソ連軍に対して、フィンランド軍は、3夜連続で夜襲を仕掛けた。ソ連赤軍第二軍第76戦車大隊(76th Tank Battalion)は25両のBT-5戦車を擁しており、機関銃網によってフィンランド軍の包囲を3日間持ちこたえた。フィンランド軍は3日目の夜襲によって、ソ連赤軍の包囲陣を二分し撃破できた。そして、BTT-5快速戦車の多くを撃破し、折り重なるソ連兵士の死体も発見した。

3−1.ソ連外相[モロトフ]の演説 : 社説
大阪朝日新聞 日付 1940-03-31 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336503
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)


 去る三月十三日、ソ芬[ソ連・芬蘭]間に停戦成立し、ソ連の北欧工作が一段落を告げるや、それによって再び余力を生ずべきソ連が、次にいかなる方面に積極的行動に出づるであろうか、その向うところはバルカンか近東か、はたまた極東か、このいずれかの方面に対するソ連の侵攻は恰も定説の如くに喧伝されたところであるが、果してソ連の真意如何。この時に当って二十九日のソ連最高会議に対して行ったソ連[ヴャチェスラフ・]モロトフ[Vyacheslav Molotov]外相の対外方針に関する演説が世界の注目を浴びているのは蓋し当然であろう。ただ右演説に関するモスコー電報は、いささか詳細を欠いている憾みはあるが、なおソ連今後の動向を示唆するに十分である。

しかして、右演説の中から特に指摘せねばならぬことは、ソ連はその独自の外交政策を遂行し、英仏対独の戦争に参加せず、依然中立の態度を取ることを声明した点である。

写真(右)1939年12月1月、フィンランド、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、パリッカラ(Parikkalan)郊外、パリッカラ捕虜収容所に向かって行進するソ連軍捕虜;冬戦争開戦当初にソ連軍の捕虜を得たフィンランドでは、捕虜を厚遇するプロパガンダを行って、投降を勧告するためのマイクによる最前線での放送も行った。ロシア人、ソ連軍兵士は、祖国防衛のためなら、家族・友人を守るためなら頑強に抗戦した。「大祖国戦争」のためなら、兵士の士気も上がった。しかし、隣国フィンランドに対する侵攻には、その正当な理由が見いだせず、士気は低かったようだ。赤軍レニングラードが、青軍フィンランドに近すぎるとはいっても、小国フィンランドのレニングラード攻撃など恐れるロシア人はほとんどいなかったはずだ。
Organisation Military Museum Photo info: 1939-12-01
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-104865引用。



 抑もソ連がソ芬戦[Russo-Finnish wa]において多大の犠牲を顧みず無理矢理フィンランド最後の守りともいうべきマンネルハイム線[Mannerheim Line]を突破し、同要塞線突破を契機として急遽、フィンランドとの和平を講ずるに至った所以はどこにあったか。ソ連の対芬戦におけるフィンランドの武力及び社会情勢の誤算もさることながら、それよりも芬戦を長引かせこれに深入りすることは、ソ連が最も警戒し恐怖しているところの世界の反ソ戦線結成に機縁を与え、これを促進せしめることとなり或は、ソ連をして英仏対独の大事に直接介入せしむる危険を生ずると見たためであったことは、その後のソ連の言動に徴してもほぼ明白である。

ソ連がフィンランドに対い武力行使を敢えてしてまでその目的貫遂を期したのも、フィンランドが地理的に世界の中心から隔絶せる地位にあり、ソ芬戦[Winter War]は地方化されて大戦に直接巻き込まれる危険なしとの見通しの下に行ったと解せられるのであって、ソ連外交は依然として、資本主義国家間の闘争には直接介入せず、これを利用することをその要諦としてきていることであって、この中にこそソ連外交の性格があることを茲に再び明らかにした点に、モロトフ外相今次の演説は注目されていいのである。

即ちソ連はその老獪なる外交戦術を駆使し、英仏対独戦の間隙を巧に利用し、その西北隣に勢力を伸張し、東部バルチック海を完全に制圧し、その国際的地位を強化し、かくして、取り得べきものを凡て取ったのちに、依然として中立を声明し英仏対独戦に関与しないことをもってその外交方針となしているのである。

[ヴャチェスラフ]モロトフ[Вячесла́в Мо́лотов]外相は英仏との関係の悪化を報告し、もって一方にドイツの好意を迎えつつ、同時に合従連衡の道具に利用されずとて英仏との関係改善の用意を暗に示しているのである。ソ連のこの態度こそ吾人が最も戒心すべきところであって、ソ連外交の本質を見失っては甚だ危険なりといわねばならぬ。

写真(右)1939年12月1月、フィンランド、カレリア地峡、レニングラード北180キロ、パリッカラ(Parikkalan)郊外、パリッカラ捕虜収容所に向かって行進するソ連軍捕虜;冬戦争で捕まったソ連赤軍の兵士たちだが、捕虜になった後、過酷な取り扱いをうけると危惧していたようだ。
Organisation Military Museum Photo info: 1939-12-01
写真はThe Finnish Defence Forces、Museot Finna・sa-kuva-104842引用。



 かかる態度をソ連が取る以上、一部に伝えられるが如く、ソ連がソ芬和平後に直にバルカン乃至近東方面に冒険的な行動に出づることはまずないといわねばならぬ。

[ヴャチェスラフ・]モロトフ[Vyacheslav Molotov]外相がバルカン、近東方面の事態に殆ど言及を避けているのも、この間の消息を語るもので、ただベッサラビヤ問題に言及し、同地方のルーマニヤ隷属不承認態度を再び確言したことは一応の注目に値するが、これとてソ連がフィンランドに対せるが如く直に武力行使によって接収することを意味しはしないであろう。なぜならバルカンの利害は極めて複雑多岐であって不用意なる行動は、直にソ連をしてソ連が警戒している大戦の禍中に投ぜずにはおかないからである。

 近東方面の緊張もしきりに伝えられるところであるが、トルコに対するソ連の態度の極めて慎重なることも注意すべきであり、この方面の紛糾は必ずや英仏との正面衝突を惹起せしめるであろう。フィンランドでの鼎の軽重を問われた英仏は今度こそは立たざるを得まい。

要は西欧戦争の発展如何に懸っているのであって、重大なる危険なくして、その周辺への伸張が約束される条件の具備される時を、ソ連はおもむろに待機するものと見てよいであろう。ソ連がその表玄関として最も重視しているバルチック海方面の固めを堅固にした今日においてはなおさらである。

MANNERHEIM
 最後に[ヴャチェスラフ・]モロトフ[Vyacheslav Molotov]外相が日ソ関係に言及し、目下円満なる進展を遂げていると見做した点は、日ソ関係調整の立場に立つ吾人もこれを諒とするものであるが、しかし実際的な日ソ関係の進展ぶりは、予期されたものより多分に遅々たる憾みなしとしないのである。

日ソ関係のはかばかしからぬ理由の主なるものは、ソ連の駆引的態度に求められねばならぬ。たとえばソ芬戦にソ連が手を焼いているころの、諸般の日ソ交渉は却って渋滞勝ちであって、むしろソ連は非協調的態度を提示さえしたのである。

ソ芬戦[ソ連・フィンランド戦争]という弱味を持つソ連は、対日交渉に強がりを示すことによって、その弱味を隠蔽せんとするが如き態度を弄したと做さねばならぬ節のあったのは、ソ連のためにも取らないのである。

ソ連が右の如き駆引きをなしていたとすれば、ソ芬の和平成る今日においては、一部に期待されたるが如く、ソ芬の和平成立がソ連の対日攻勢に転ずる契機となるのではなく、却って円満なる日ソ関係の進展が期待されるのであって、[ヴャチェスラフ・]モロトフ[Vyacheslav Molotov]外相の演説はその反映とも見受けるのである。もし日ソ国交の調整に意あらば、徒らなる強がり的態度乃至駆引きを一擲することが第一の要諦であろう。(引用終わり)


写真(右)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、冬戦争後に捕虜交換でソ連に帰国するフィンランド軍の捕虜となっていた元ソ連軍兵士たち

Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Vapautettuja venäläisiä nousemassa junaan.
Organisation Military Museum Photo info: 1940-04-20 Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-110041引用。


1940年3月13日、冬戦争は終結し、事実上、ソ連の勝利、フィンランドの敗北で終わった。その戦争終結から1か月後、ソ連とフィンランドで捕虜の交換が、カレリア地峡の国境にあるヴァイニッカラ鉄道駅で実施された。ソ連に帰って行く囚人は疲弊しているが、帰国後の処遇を心配しているようだ。ソ連最高指導者ヨシフ・スターリン共産党書記長が、捕虜となって共産主義者の恥をさらした元ソ連軍兵士を処罰するのではないかと不安だったのだ。

日本が中国との全面戦争に突入している以上,大国(英独仏,中国,米国)との戦争に巻き込まれていないソ連は,日本に対して,有利な立場にあった。しかし,ヨーロッパに於ける戦乱の予測と,対ファシズム宥和・ドイツとの軍事的対立回避を優先し,ポーランドの独ソ分割を密約していた。
日本にも,ソ連にも,局所的な戦闘だったノモンハン事件よりも,第二次大戦開始後の世界の動きのほうが,より大きな影響を与えたことは間違いない。両国とも,ノモンハン,モンゴルを巡って,大規模な軍事的対立を続けることは,日本にとっては,対中国戦争,ソ連にとっては,対ヨーロッパ戦争準備にとって,大きな負担となってしまう。日ソ両国とも,ノモンハンでの軍事衝突を,はやく解消したいという動機があった。

ノモンハン事件は,ソ連と日本双方が,国境を境にして,武力衝突を起こし,お互いの軍事力を高く評価したことが,第一の意義として認められるであろう。そして,ソ連も日本も,国境から大きく外れて地上軍を侵攻させることはなく,武力が抑止力となると改めて再認識したといえる。

写真(右)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換でソ連に帰国するフィンランド軍の捕虜となっていた元ソ連軍兵士たち
Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Vapautettuja ryssiä.
Organisation Military Museum Photo info: 1940-04-20 Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-110051引用。


1940年3月13日、冬戦争が終結した。フィンランドは国際的孤立の中で善戦むなしく後退し、結局は、ソ連に降伏する道を選択した。フィンランドは、戦争前にソ連が要求したカレリア地方を割譲した。

 冬戦争に敗れたフィンランドは、国土防衛の愛国的な戦いをし、多数のソ連軍兵器を鹵獲し、その上、多数のソ連軍捕虜を得た。冬戦争の終結1か月後、1940年4月20日、カレリア地峡のソ連・フィンランド国境で、両国の捕虜交換が行われた。列車で国境のヴァイニッカラ駅に運ばれてきた、ソ連が捕まえたフィンランド軍・夫人を含む民間人捕虜と、フィンランド軍が捕まえたソ連軍捕虜が交換されたのである。フィンランド人の元捕虜は、開放されフィンランド側ゲートに入ると、フィンランド民間人の出迎えを受け、そこに用意されたパンやスープなどの食事の提供を受けた。

囚人となったソ連軍捕虜ロシア人が列車に乗って国境に到着し、列車を下ろされた。そして、フィンランド軍から解放され、線路を歩いて、フィンランド側からソ連側に国境を越えて帰国する。

写真(右)1940年4月20日、フィンランド・ソ連国境、ヴァイニッカラ鉄道駅、捕虜交換でソ連に帰国するフィンランド軍の捕虜となっていた元ソ連軍兵士たち
Vankien vaihto talvisodan päätyttyä. Vapautettuja ryssiä.
Organisation Military Museum Photo info: 1940-04-20 Tuntematon, valokuvaaja
写真はFinnish Defence Forces・sa-kuva-165935引用。


1939年12月28日,「対外施策方針要綱」でソ連に対しては関係の平静化を計り,国境紛争に武力に訴えることなく平和的折衝によって解決を図ることを決めた。この方針は,ソ連への宥和政策のように認識されているが,作成に関与したのは,外相野村吉三郎,陸相畑修六,海相吉田善吾という政府首脳陣であり,陸軍参謀本部や関東軍の意向とは相容れない可能性があった。もともと,ノモンハン事件以前から,政府はソ連との戦争はもちろん,武力衝突も望んでいなかったのだから。 第二次大戦の勃発後、日本は参戦せず、ドイツが,1940年6月22日,フランスを降伏させると、落ち着きがなくなった。日本は,火事場泥棒よろしく,フランス植民地のインドシナに軍を進駐させ、東南アジアへの進出・進駐を準備する。

⇒写真集Album:1940年 日独伊三国同盟を見る。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ポーランド侵攻:Invasion of Poland
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

ソ連赤軍T-34戦車
ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

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