Search the TORIKAI LAB Network

Googleサイト内

◆ノモンハン空中戦記:帰途の猛鷲・熊谷飛行学校教官 高梨辰雄大尉 1939/8 読売新聞
写真(上):1936-1939年頃、ソビエト連邦、ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機
:1933年12月30日初飛行のI-16は、1934年に就役を開始委、1936年のスペイン内戦に共和政府軍の側に派遣され実戦投入された。生産数:8,644機で、第二次世界大戦勃発時のソ連空軍主力戦闘機だった。尾輪はなく尾橇がついている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939227 - Catalog:16_007266 - Title:Polikarpov I-16 with M-22 motor - Filename:16_007266.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は、SDASM Archives 引用。


図(上):1939年7月、満州・モンゴル国境、ノモンハンでソ連空軍と戦った日本陸軍航空隊飛行第11戦隊第1中隊長島田健二少佐搭乗の九七式戦闘機
:尾輪でなく尾橇式。ノモンハンの対ソ連空軍との空戦で110機を撃墜した島田少佐率いる飛行第11戦隊で島田少佐は自身も合計27機撃墜のエースとなった。1939年8月停戦協定直前に戦死。
English: This is the official state portrait of Stalin, which would be hung in schools and in factories, painted by Isaak Brodsky Date 1930s? Source Original publication: State portrait, so commissioned by the USSR. Immediate source: https://www.oceansbridge.com/shop/artists/b/bri-buy/brodsky-isaak/portrait-of-joseph-stalin-1 Author Isaak Brodsky (Life time: Died in 1939 in Leningrad.) Other versions File:Isaak Brodsky stalin02.jpg
写真は Wikimedia Commons、Category:Nakajima Ki-27 File:Ki-27 Shimada.jpg 引用。


図(右):ソビエト連邦指導者ヨシフ・スターリンの肖像画;政治、軍事、経済、文化から軍事までの最高指導者として独裁権をふるった国家元首スターリンだが、公式の肩書は、党書記長。対外的な代表の「首相」、軍事司令官の「元帥」などの職位は、第二次大戦直前になってスターリンの肩書となった。共産党軍といえる赤軍(Red Army)は,ロシア革命の成果を守る人民軍として組織されたが,その後、反ファシズム,反帝国主義を掲げて,対外的にも影響力をもった。ノモンハン事件は,モンゴルと満州国との国境紛争だが、モンゴル派遣・駐屯ソ連軍と満州国派遣・駐屯日本軍の戦いだった。
English: This is the official state portrait of Stalin, which would be hung in schools and in factories, painted by Isaak Brodsky Date 1930s? Source Original publication: State portrait, so commissioned by the USSR. Immediate source: https://www.oceansbridge.com/shop/artists/b/bri-buy/brodsky-isaak/portrait-of-joseph-stalin-1 Author Isaak Brodsky (Life time: Died in 1939 in Leningrad.) Other versions File:Isaak Brodsky stalin02.jpg
写真は Wikimedia Commons、Category:Joseph Stalin in art File:State portrait of Stalin.jpg引用。

◆モンゴルの草原では、降水量の少なさから川の両岸にある豊富な牧草を利用し、丘陵は、斜面も放牧地となるために、人為的な境界にならないのであって、1939年のノモンハン事件の原因は、遊牧民の境界線についての日本人の誤解が元だったという説がある。たしかにコモンズ利用形態としては、人為的な国境を引くことはできないが、「誤解」というのは誤りである。
ノモンハン事件の原因は、「誤解」という意図せざる過誤ではなく、日本が満州帝国を傀儡化し、モンゴル人民共和国との国境を住民を無視して策定したこと、ソ連がモンゴル人民共和国を傀儡化し、満州帝国との国境を住民を無視して策定したこと、すなわち「帝国主義」「支配者民族意識」「優生学的イデオロギー」という身勝手な思い上がりにある。

写真(右):1930年代、ソビエト連邦、1928年初飛行、1930年に就役し長期間、広範に使用されたソ連空軍ポリカールポフR-5複葉偵察爆撃機(П-5):R-5の諸元: 乗員: 2名 全長: 10.56 m 全高: 3.25 m 翼幅: 15.5 m 翼面積: 50.2 m2 空虚重量: 1,969 kg 運用重量: 3,247 kg 発動機: ミクーリン M-17B液冷エンジン507 kW (680 hp) 最高速力: 228 km/h 航続距離: 800 km 実用上昇限度: 6,400 m 上昇率: 1,000 mまで2.1分 翼面荷重: 64.7 kg/m2 馬力荷重: 0.16 kW/kg 兵装 前方固定7.62mm PV-1機関銃 1丁、7.62mmDA後方旋回機関銃 1丁 爆弾搭載量: 250 kg 爆弾
Description Русский: Р-5. Date 1930s Source Уголок неба. Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Polikarpov R-5 File:R-5-2-razvedchik.jpg引用。


⇒ノモンハン事件の2年前、1937年7月7日の盧溝橋事件を契機に始まった日中戦争は,盧溝橋事件・上海事変・南京攻略参照。

写真(右):1934年4月,ソビエト連邦南西部、クリミア、カーチャ航空学校の飛行場、第2番目のTsKB-3試作機の右側面:固定脚は空気抵抗減少のためにスパッツ(主輪整形カバー)に覆われている。コックピットは半密閉式で、前面風防ガラスには望遠筒型射撃照準器が装備。ソ連のポリカルポフ(Polikarpov)I-15複葉戦闘機の上主翼は、胴体に直接接続し、操縦席前方で主翼は逆ガルになった斬新な設計で、操縦席前面部分だけは上主翼がなく、前方視界を確保している。I-15戦闘機の生産機数は、1934年94機(第1飛行機工場60機、第39飛行機工場34機)、1935年288機(第2工場273機、第39工場15機)、1936年第1工場2基機の合計384機量産したところで、1936年初頭には生産は中止。理由は、地上滑走中と飛行中のコックピット前方の視界が悪いことで、後継機ポリカルポフ(Polikarpov)I-15bis(I-15第2型)、すなわちI-152では上主翼は保守的なパラソル翼に変更された。
RRay Wagner Collection Image PictionID: 45938936 Title: Polikarpov I-15 - Filename: 16_007243.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives - Catalog:16_007243 -引用。


図(右):ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 戦闘機の三面図:日本軍は、ポリカルポフI-15、I-152(I-15bis)、I-153(I-15ter)を複葉単座戦闘機として一括し、「イ-十五」と呼びならわしている。
Description English: Polikarpov I-15 Date 31 December 2012, 08:10:04 Source Own work Author Kaboldy
写真はWikimedia Commons, Category:Polikarpov I-15 File:Polikarpov I-15.svg引用。

ポリカルポフPolikarpov I-15 戦闘機の諸元
搭乗員: 1名
全幅Длина: 6,1 м
全長Размах крыла:
水平状態верхнего: 9,75 м
地上3点姿勢нижнего: 7,5 м
全高Высота: 3,2 м
主翼面積Площадь крыла: 21,9 м² (обоих крыльев)
車輪間隔(トレッド)Колея шасси: 1,6 м
空虚重量Масса пустого: 965 kg
総重量Нормальная взлётная масса: 1374 kg
機内タンク燃料搭載量Масса топлива во внутренних баках: 177 kg
発動機Силовая установка: 1 × シュベツォフ(Швецов)М-25空冷星形9気エンジン(排気量:29.876L)
出力Мощность двигателей: 1 × 635 hp (1 × 467 kw)
エンジン直径Диаметр винта: 2,9 м
最高速力Максимальная скорость: 370 km/h
着陸速力Посадочная скорость: 90 km/h 航続距離Практическая дальность: 750 km
上昇限度Практический потолок: 9800 м
上昇時間Время набора высоты: 5000 м/6,1分
翼面荷重Нагрузка на крыло: 62,6 kg/м²
出力重量比Тяговооружённость: 383 w/kg 兵装: 4 × 7,62 мм ПВ-1(PV-1)機関銃(弾薬:3000発)
爆弾Бомбы: 40 kg

図(右):ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 bis(I-152)戦闘機の三面図:ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-5戦闘機初期型は発動機シュベツォフ(Shvetsov)M-22空冷星形エンジン(排気量28,64 L)480phを搭載していたが、改良型I-152戦闘機では、アメリカのライト R-1820サイクロン空冷星形9気筒エンジンのソ連ライセンス生産版のシュベツォフ(Shvetsov)M-25に換装している。総重量I-15の1415kgから1730kgに重くなったが、最高速力はI-15の347km/hから379km/hに向上した。また火力もI-15の7.62mmPV-1機関銃4丁から発射側の早い7.62mmShKAS機関銃4丁に強化されている。
A three-view drawing (1280 x 830)
図は, Polikarpov I-152引用。


ポリカルポフ I-15と発展型I-15(I-152)複葉戦闘機の比較

全長: 6.10 m(6.28 m)
全幅: 9.75 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)
主翼面積: 23,55 平方メートル (22.53 平方メートル)
空虚重量: 1,080 kg (1310 kg)
全備重量: 1,783 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(770 km)
実用上昇限度: 9000 m (9800 m)
乗員: 1名
兵装: 7.62mmPV-1機関銃4挺 (7.62mmShKAS機関銃4挺)
爆弾搭載量:50kg爆弾2個  (50kg爆弾2個またはRS-82ロケット弾6個
初飛行:1933年10月23日  (1937年8月2日)
生産機数:1934-1936年ソ連384機+1937年以降スペイン237機 (1937-1939年 2408機;1939年だけで1302機)
日本軍は、ポリカルポフI-15、I-152(I-15bis)、I-153(I-15ter)を複葉単座戦闘機として一括してイ-15と呼びならわしている。

写真(右):ロシア(?)、整備された農地上空を飛行するソ連製ポリカルポフ(Polikarpov)I-152(I-15bis)戦闘機の右側面:集合排気管が開いている。農地の整備状況から、ロシア上空ではなく、アメリカやフランスのような印象を受ける。とすれば、撮影されたのは、第二次世界大戦後であろうか。胴体前半は、外板が厚さ0.5ー0.8mmのジュラルミン製だが、胴体後半は羽布張りなので、胴体の金属鋼管骨格が明瞭に識別可能。1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は前年のスペイン内戦で共和国政府に供与したポリカルポフ(Polikarpov)I-15複葉戦闘機の改良型のポリカルポフ(Polikarpov)I-152(I-15bis)を中国に対して供与した。
日本軍は、ポリカルポフI-15、I-152(I-15bis)、I-153(I-15ter)を複葉単座戦闘機として一括してイ-15と呼びならわしている。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45939036 -Title:Polikarpov I-15 Petrov photo collection - Filename:16_007251.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:16_007251 - 引用。



序.満蒙国境の葛藤と飛行機

日付 1939-05-30 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338968 情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

 先頃から満蒙国境に於て、外蒙兵の越境問題で頻々葛藤を生じているのであるが、今発表されたところに依ると、単に外蒙兵の越境に止まらず、蘇連の飛行機を以て、満洲国内に越境し来り、飽くなき跳梁を満領上空に縦にしたことが明かにされて居る。外蒙兵の越境に次で飛行機の跳躍は看過すべからざる事実であるから、我飛行隊も遂に隠忍し能わず、二十日以来越境し来れる蘇連の飛行機を邀撃して、連続的に十七機を撃墜するに至れりと云う。

満蒙国境であり越境せるは外蒙兵なりといえども、今の実状たるや、外蒙の背後には蘇連ありと云うよりも、寧ろ蘇蒙一体と見るを至当とすべく、其飛行機の如き云うまでもなく蘇連機であるに徴するも、蘇蒙一体の関係は頗る分明と云わなければならぬ。何故に此の如き態度否所業に出づるのであろうか、満蘇国境に於ける越境問題は夙に枚挙に遑あらず、而して今又満蒙国境に上記の如き事態を看る。果して如何なる意図に基くか、当然起るべき疑問は此点になければならぬ。

I-15bis戦闘機 title=

 卒然たる越境事件なれば、所謂国境線の不明が齎す不慮の事故なりとして、姑く之を怨するも可なりであるが、飛行機を以て満領の上空に跳躍するに至っては赦すべからず、其意図が那辺にありやは深く問うの要はなく、我飛行隊が邀撃之を撃墜したのは、固と当然の措置であると同時に、其責任は又当然蘇蒙一体として負うべきであることも、是亦疑いの余地なき問題である。国境不明確の為に、将又、其無知の為す所、此の如き事態が頻発するのだと云えば、一応納得し得るけれども、併し之を連続的に敢行して憚らざる事実から見れば、必ずしも然らざるが如く思惟されるのである。

然らば其真因孰れにありや、妄りに忖度し得ないけれども、一体何を目的に何を目ざして斯る暴挙を企つるのか、勿論、其目指すところは単純にあらず、或は多岐に亘っているかも知れないが、要するに、此の如き非礼を重ね且つ暴挙を為す所以のものは、結局、彼等の無智にして認識の足らざるに基因するは勿論であるけれども、端的に云えば彼等の懐く軽侮の念が、畢竟、斯る無謀の挙に出でしめたのではないかと思う。敢て事態の悪化乃至重大化を懼れる訳ではないが、若し此の如き事態が頻々起るときには、延いて自然重大事態を醸すに至るべきは予想するに難からず、従って吾等は外蒙の当事者とは云わず、蘇連邦の当路者に対して、此際反省を促さざるを得ない。

ポリカルポフI-15bis

 国際道徳に於て信なく、其態度真に端倪すべからざるは蘇連邦の常であるから、常規常道を以て律することは出来ない。其蘇連邦と英仏両国との間に、防禦的の三国協定がやがて成立すると伝えられている。之を反侵略同盟と仮称しているようであるが、而して之が協定の範囲を欧洲一円だけに止めず、極東までも包含せしめんとするのが、蘇連邦の素志なりとも伝えられて居る。

英仏蘇の三国間に協定が成立するならば、其範囲を欧洲に限定すると否とは問題でなく、其反映する所必ず極東の事態に及ぶは必然の結果であるとは、吾等が既に指摘して置いた所であるが、満蘇間の葛藤紛争は云うを待たず、三国協定の成立は幾多の反響を極東に及ぼすと見て、予め其覚悟を要すると思う。

満蒙国境の葛藤と飛行機」中外商業新報・日本産業経済新聞(1939-05-30)引用終わり。


1. ソ連戦力の劣弱さ暴露 : ノモンハン事件の真相

日付 1939-05-31 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338736 情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

一、ノモンハン

戦闘機

ノモンハンハイラル[海拉爾]の南々西約百八十キロボイル湖[貝爾湖: 615 km2の淡水湖]の東方約七十キロ、満蒙国境ハルハ河[哈拉哈河: 源流は大興安嶺]東方約十六キロに当りゴビの砂漠に続く広漠たる大草原地帯の中に恰かも大海に浮ぶ粟粒の如き微小な蒙古人の小部落である、同地の直ぐ南方をホルスタイ河が西流してハルハ河[Халхин-Гол]に注ぎ両河の沿岸に湿地にして牧草繁茂し荒涼たる砂砂、漠地帯に於るオアシスともいうべく牧畜を業とする蒙古人にとっては垂涎の地である

一、事件の経過

ノモンハン附近における外蒙兵の越境は従来もしばしばあったのであるがその都度満洲国の国境警備隊のため撃退せられて事なきを得ている、

然るに五月十一日に至り外蒙側は従来に比し稍優勢なる兵力をもってハルハ河[Khalkha River]を渡河越境し来ったが満洲国国境警備隊により撃退せられ十五日頃一応の終結を見たのであるが外蒙側は国境の後方約百キロトムスク附近に六十余機の飛行機及び機械化部隊を有する有力なる地上部隊を集結し風雲ただならぬものがあったが十八日以降再び当方面の状況活気を呈するに至った、

即ち外蒙側の飛行機一機は十八日越境偵察を行いノモンハンの東南方約五十キロにまで飛来し来り十九日には更に三機ノモンハン附近の線に越境し来った、二十日以降敵地上部隊は執拗なる越境を繰返し敵の飛行機またこれに空中より掩護協力した、これに対し満洲国軍はその都度これを反撃して国境線外に撃退したが外蒙側は逐次兵力を増加し戦車十台及び大砲十門を有する機械化部隊約一大隊、騎兵約一大隊、総兵力約一千に及ぶ兵力をもって強引にその非を遂げんとした、

写真(右):1936年スペイン内戦に使用されたソ連製ポリカルポフI-16戦闘機5型(1936年):ソ連は,スペイン内戦時に共和国軍に対しても,軍事支援した。最高時速440km,7.62mm機銃4丁装備。高速の一撃離脱による攻撃に向いていたが,1937年7月のノモンハンでの日本軍との空中戦では,格戦闘に巻き込まれて,大きな損害を被った。
スターリンは、第一次大戦後のロシアの弱体化がロシア革命を成功させた反面、ロシアの軍事力衰退には危機感を抱いていた。ソ連における五カ年計画も急速な重工業化、軍事力の強化を企図したものだった。1930年代前半から、ソ連共産党と赤軍における反スターリン派、その潜在的可能性のある者が粛清(処刑・処罰)されたが、これはスターリン独裁、秘密警察支配の軍事国家を生み出すことになった。日本は満州国だけでは足りず、さらに,満州の外郭支配を目指していたが、ソ連の共産主義が天皇制と相容れないというイデオロギーは、中国大陸の日本支配を正当化するというより、日本国内の共産主義者・アカを脅威とみなしたからであろう。そのアカを操るのがソ連というわけである。


然るに日満軍のため痛撃せられて死体百十及び戦車、自動車、自動火器多数を遺棄してハルハ河左岸に退却した、敵飛行機は十八日以降殆ど連日に亙り越境し来ったがその都度わが飛行部隊に反撃せられ二十、二十一両日各一機、二十三日三機、二十六日三機二十七日九機を撃墜せられ二十八日には外蒙の空に空前な壮烈なる空中戦を展開し遂にその四十二機を撃墜せられた、

斯くて十日間に撃墜せられた外蒙側飛行機は合計五十九機の多数に達した、トムスク附近に集結した敵飛行機は茲に殲滅せられた之に対し我が軍の損害は僅かに一機に過ぎず而も其搭乗者には何等の異変もないという戦果である

なお本戦闘の結果敵の空軍はソ連の誇りとする飛行機でありその搭乗者もソ連の将士であることが判明したのでモスコーに於ける我が東郷[茂徳]駐ソ大使よりソ連当局に対して厳重抗議するところあったがこれに対して外務人民委員[ヴャチェスラフ]モロトフ[Vyacheslav Molotov]氏より逆捻ぢ的抗議をなして来たがわが東郷[茂徳]大使のため拒否された。

写真(右):1937年、ドイツ、ベルリン、駐ドイツ日本大使として着任した東郷茂徳(しげのり:1882-1950)、ユダヤ系ドイツ人の妻エディ(右)、娘のいせ(右:1923-1997);1937年に駐独大使として赴任したが、その後のドイツのオーストリア併合、チェコスロバキア・ステーテン危機などて欧州に勢力を拡大したドイツと、日本の国益をつなげるような外交関係になすところがなかった。ベルリン駐在陸軍武官の大島浩がヒトラー総統、リンベントロップ外相と親交を深めたのとは対照的だった。1938年、駐独大使を罷免。1938年に東郷は重光葵の後任の駐ソ大使として着任したが、1936年の日独防共協定の悪影響の中で、ソ連外相(外務人民委員)ヴャチェスラフ・モロトフと日ソ漁業協商、ノモンハン事件の停戦交渉にあたった。また、中国を孤立化するために、ソ連による中国国民党蒋介石政権への援助停止を求め、南方進出の準備のために日ソ不可侵条約(未締結)・日ソ中立条約(1941年4月)の締結を求めた。独ソ戦勃発の1941年10月、東條内閣に外務大臣として入閣。対米交渉に努めたが、結局、アメリカ相手の太平洋戦争を始めることになる。その際、宣戦布告の不備を放置した。
日本語: 1937年ベルリンに着任する日本国大使 中央が東郷茂徳大使、右にドイツ人妻エディ、左に娘いせ Deutsch: Ankunft des neuen japanischen Botschafters in Berlin 1937: in der Mitte Botschafter Shigenori Tôgô, rechts neben ihm seine deutsche Ehefrau Edith Tôgô; links neben ihm die gemeinsame Tochter Ise Tôgô. Date December 1937 Source http://www.das-japanische-gedaechtnis.de/lebensbilder-a-z/togo-edith-geb-giesecke-pitschke-verw-de-lalande-321887-4111967.htm
写真は Wikimedia Commons、Category:Shigenori Tōgō File:State portrait of Stalin.jpg引用。


一、外蒙側の越境真意

ポリカルポフ(Polikarpov)I-15 国境とは言え広漠たる砂漠の辺に何ゆえに外蒙側が多大の損害を賭してまでかくも執拗に越境を繰返すのであろうか今次事変が外蒙[Outer Mongolia:中国北方の蒙古]の発意によったものでなくその背後にソ連邦が控えていることは空軍戦車などソ連部隊が介在しその骨幹を形成していることでも明かである、

これはソ連の外蒙[Ар Монгол:中国文化圏外の蒙古]におけるラマ教の圧迫及びソ連国内の粛清工作により民心の動揺を鎮圧せんがため国民の目を国外に転せんとするためか或は重慶政府内に醸醸しつつある和平機運牽制のための援助ゼスチュアであるかまたは鼓浪嶼問題に関連し目下ヨーロッパに進展中の英ソ交渉を有利に導かんがための外交ゼスチュアであるが、また日満両国共同防衛陣、特に長期聖戦遂行上の我が戦力打診のためであるか俄かに断定することは出来ないが何れにするもその敗色は蔽うべくもなく結果に於て外蒙国民の前に予て誇負せるソ連戦力の劣弱さを暴露し正に日満軍鉄壁の防衛陣と極めて旺盛なる我が戦闘力を示したことは明かであってこれらの事実は満蒙両国民に強烈に印象づけられ今後に於ける両国民の動向に至大の影響を与えるものと見られる

殊に世界一を誇っていたソ連空軍がその数を除いては技術においても訓練においても将又旺盛なる戦闘意識においてもわが軍と格段の差がありわが空軍があたかも群羊を駆る猛虎の感があったことは世界各国の目を蔽うことの出来ぬ厳然たる事実となり今次戦闘の経過に徴し今更ながら日支事変において飛躍的に発達したわが陸の荒鷲に景仰と感謝の念を禁じ難きものがある

ソ連戦力の劣弱さ暴露 : ノモンハン事件の真相 情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)引用終わり。

写真(右):1936年頃、日本、日本陸軍航空隊中島キ27九七式戦闘機:1935年に日本海軍が九試単座戦闘機、すなわち三菱九六式艦上戦闘機を開発すると、単葉戦闘機を持たない日本陸軍は川崎キ10九五式複葉戦闘機では満足できなくなった。そこで、1936年4月、新たに低翼単葉戦闘機の競争試作を中島・三菱・川崎に依頼した。こうして、中島キ27、川崎キ28、三菱キ33が試作され、1937年2月から審査が始まった。その結果、1937年(皇紀2597年)9月、日中戦争勃発直後に、九七式戦闘機が制式された。しかし、ソ連空軍は固定脚のポリカルポフ I-15Polikarpov И-15)複葉戦闘機の後継機ポリカルポフI-16 (Tskb-3)(Polikarpov I-16)戦闘機をノモンハン空中戦に投入した。I-16は、単葉、引込み式降着装置を採用した高速戦闘機だった。
Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Title: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Additional Information: Japan Designation: KI-27 Tags: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives - Catalog #: 01_00086149引用。


2. 忽ち五十三機撃墜 : ノモンハン空中戦 : ハルハ対岸敵陣総攻撃

日付 1939-07-26 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338485 情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

【新京本社特電】(二十五日発)関東軍司令部報道班二十五日午前十一時十分発表=わが航空隊は二十四日ノモンハン戦場上空において敵戦闘機約百機、爆撃機六十機と交戦し戦闘機二十六機、爆撃機十五機合計四十一機を確実に撃墜しなお爆撃隊は熾烈なる高射砲火を冒しハルハ河畔敵砲兵陣地を爆撃し多大の損害を与えたり、わが方戦死三、負傷二を出し飛行機の未だ帰還せざるもの一機なり

【○○基地二十五日発同盟】外蒙ソ連空軍は二十四日に至り午前午後数次に亙って三十機乃至四十機の編隊をもって執拗にも戦線上空に越境飛来したのでわが荒鷲部隊は地上部隊の緊密なる通報により巧にこれを捕捉し果敢な攻撃を加え確実に[Polikarpov]イー十六型二十六機、エスベー十五機を撃墜し(その他やや確実なものイー十六型十二機あり)絶大なる戦果を収めた

写真(右):日本、未舗装飛行場、日本陸軍航空隊中島キ27九七式戦闘機:ソ連は1930年代から多数の航空機を中国に有償譲渡しており、すでに日本陸軍機はソ連製I-15、I-16戦闘機と空中戦を演じていた。ノモンハン事件での日本陸軍は、停戦までに投入兵力の四分の三を失う大損失を被ったが、小松原兵団が初期には、戦力の随時投入の戦術的過失を犯し、後期は大攻勢に出たものの、ソ連軍の火力、機動力の優位にたった2倍以上の兵力に敗北した。他方、航空戦では、日本陸軍航空隊は損失166機で、ソ連機1370機を撃破し、大戦果をあげたとされた。しかし、これは過大な戦果報告の誤りで、実際のソ連機の損害は207機だった。Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Title: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Additional Information: Japan Designation: KI-27 Tags: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00086154引用。


【新京本社特電】(二十五日発)わが爆撃隊は二十四日午後友軍砲兵部隊の猛撃に呼応しハルハ河[哈拉哈河]対岸高地ズンブルオボの敵重砲陣地一帯を猛爆さしも猛威を揮った敵砲兵陣を潰滅屏息せしめた、わが爆撃隊の奇襲に慌てふためいた敵高射砲陣地は一斉に砲火を浴びせ来ったがわが荒鷲群はこれを縫って敵砲兵陣地頭上に迫り巨弾の雨を降らせた、敵陣は黒煙に包まれ夜に至るも猛焔は星空に赤々と輝いていた。

【新京本社特電】(二十五日発)わが爆撃と新鋭○○砲の巨弾に脆くも潰滅したハルハ河[哈拉哈河]対岸高地の敵砲兵陣地は全く鳴りを鎮め唯一の頼みとする後拠を失った越境地上部隊約二千は大混乱に陥った、二十五日未明を期しこの狼狽する敵に対しわが地上部隊の総攻撃が開始されハルハ河畔に追いつめられた敵大部隊は既に退却路軍橋を破壊されているため殲滅を待つばかりとなった。

忽ち五十三機撃墜 : ノモンハン空中戦 : ハルハ対岸敵陣総攻撃引用終わり。
  件名 24.政治・行政 08.軍事(国防)
掲載誌 読売新聞 Vol: 第 47巻 Page: 175
出版年 1939-08-04/1939-08-09 言語 日本語 ID https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338364
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)引用終わり。


写真(右):1938‐1940年、中国、広東(?)、日本陸軍航空隊 中島キ27 九七式戦闘機;1937年7月7日の盧溝橋事件を契機にした日中戦争は、華北から華中へと戦線を南方に拡大し、1938年に日本陸軍は、華北と華中の打通する徐州作戦を発動し、さらに1938年8月には武漢作戦を展開した。そして、1938年10月23日、日本軍は、中国南部の要衝、広州、広東を占領した。当時は内地でも,舗装された滑走路がない飛行場がないところがあった。中国,満州の飛行場は,未舗装が普通だった。1932年に日本が満州国を建国した翌年,1933年4月には,満州国における日本の特殊利益を認める形で,東支鉄道を日本に売却する申し出をし,1935年3月に譲渡協定が成立している。日ソ中立条約が締結される5年前から,日ソ関係は良好だった。ただし、天皇制軍事国家と共産主義独裁国家が,極東で大きな武力紛争なしに,対峙しつづけるのは勢力圏の衝突から困難だった。
Japanese Ki-27 Русский: Японский истребитель Ki-27, Халхин-Гол Date 1939 Source http://www.aviarmor.net/AWW2/Aircraft/Japan/Nakadjima%20%20Ki-27.htm Author captured photo
写真はWikimedia Commons, Category:Nakajima Ki-27 - File:Khalkhin Gol Japanese Ki 27 1939.jpg 引用。


写真(右):中国南部、広東、未舗装飛行場に並んだ日本陸軍航空隊中島キ27九七式戦闘機:2翅固定ピッチプロペラ装備。ソ連の第ニ次五ヵ年計画は,航空機産業育成が盛り込まれており、1933年の航空機配備数2,000機から1938年の5,400機に倍増した。1937年には新型機4,200機が生産された。ソ連は,欧州重視から、アジア・日本では、宥和政策で望んだが,その背後では,中国の国民党政府を軍事援助し、軍用機を貸与していた。
Description English: Nakajima Ki-27 at an airfield in Kwangtung Date circa 1938 Source Nakajima Ki-27 in The Gleaners of Zero Fighter Author Rinpei Tanaka
写真はWikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum File:Nakajima Ki-27 at Kwangtung.jpg引用。


図(右):日本陸軍航空隊 中島キ27 九七式戦闘機の三面図;1936年4月、日本陸軍が、海軍の三菱九六艦戦に刺激され、三菱、中島、川崎の三社に低翼単葉戦闘機の競争試作を依頼した。その結果、中島キ27、川崎キ28、三菱キ33(九六艦戦陸軍仕様)が1937年2月から審査され、年内にキ27が制式された。
日本陸軍のほか、第二次大戦中に、満州国、タイ王国で使用され、鹵獲した機体を中国軍も使用した。日本敗北後は、鹵獲した機体を中国国民党政府、中国共産党軍(紅軍)も使用した。
初飛行 1936年10月15日
全幅 11.31m
全長 7.53m
全高 3.28m
翼面積 18.56m²
翼面荷重 96.44kg/m²
自重 1,110kg 正規全備重量 1,790kg
発動機 ハ1乙(寿)9気筒空冷星型エンジン(排気量 24.1 L)離昇出力610hp 1基
最高速度 470km/h(高度3,500m)
上昇力 5,000mまで5分22秒
航続距離 627km
兵装 前方固定 7.7mm八九式固定機関銃2門(携行弾数各500発)
爆装 25kg爆弾4発
生産数 3,386機。
Italiano: Tavole prospettiche dell'aereo giapponese Nakajima Ki-27 Date 29 July 2009 Source My work done with the pc Author Bonty
写真はWikimedia Commons, Category:Nakajima Ki-27 - File:Khalkhin Gol Japanese Ki 27 1939.jpg 引用。



3.ノモンハン空中戦記 (その一・その二・その三・その五・その六) 著者 帰途の猛鷲・熊谷飛行学校教官 高梨辰雄大尉
件名 24.政治・行政 08.軍事(国防) 掲載誌 読売新聞 Vol: 第 47巻 Page: 175 出版年 1939-08-04/1939-08-09 言語 日本語 ID https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338364 情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

1)(その一) 見参々々"ロスケ"殿『今日は』と口の中 弾幕衝いて敵を逐う。

スペインのツポレフSB-2 また一機!満蒙国境の緑野に敵機が残骸となって黒点を残した。また一機!ソ連の恃む星印の戦闘機が日ノ丸に叩かれて、地平に直角に刺さりこんだ。きょうは五〇機明日は一〇〇機—こうして、すでに七百十五機(七月二十八日現在)を血祭りにあげた満蒙国境の"われらが陸鷲"はいまもなお炎熱の大平原に"空の金字塔"を築きつつある。その塔一つ一つの石ともなる荒鷲一人一人の物語を、国境戦は空の勇士に求めて、銃後の夏におくる。これは世界空軍の粋を呼称するソ連機を、少くともソ連正規の星印をつけた[ポリカルポフ]イー十五[I-15]イー十六[I-16]エスベー[SB-2]を向うに廻して世界最初に戦った不滅の武勲…「陸の荒鷲奮戦記」=世界の驚異と銃後の期待にこたえる凱歌の曲である=。

第一陣を承る高梨辰雄(三六)大尉は新潟県中蒲原郡村松町出身陸士三十九期歩兵科に昭和二年少尉任官、四年春所沢飛行学校{1919年開設の飛行機操縦・偵察・通信・機関の尉官・下士官の教育機関。1937年10月廃止}を卒業後十年八月大尉に進級とともに下志津飛行学校{戦術、偵察、偵察操縦、通信、写真とその器材の教育研究機関}教官、同研究部員を歴任、事変勃発直ちに○○飛行隊付となって、幾多の僚友を大陸に送りながら、独り留守隊にのこって髀肉を嘆じていたが、国境の風雲漸く急を告げる六月中旬出動命令をうけて○○基地の人となり、七月五日まで満蒙国境の空に活躍した。部隊の撃墜機三十九。自らも五機を撃ち墜したが、その間一人の犠牲者も出さなかったという誉れの陸鷲。現在は熊谷陸軍飛行学校{飛行機操縦の航空兵科下士官・生徒も教育施設}教官。

プ、プ、プッと眼に映る白煙の感覚が、音のない高射砲弾の炸裂に気づいた。自分の爆音が、世界のあらゆる音響を打消して、視覚だけが、音の世界を憶い出してくれるのだ。ちょうど、僕の眼の高さに機をとり巻いて炸裂する高射砲弾、敵ながらなかなかの正確さである。高度は○○米。この弾幕を見て、はじめて僕は音を知り、敵を感じた。

敵を感じたからには、処置を執らねばなるまい、癪な話だが自分は、愛機をこのままオートヂャイロ[Autogiro]のように上昇させない限り、弾幕には必然にぶっつかるような気がした。弾丸が怖いわけではない。こんなへなちょこ弾丸に当るものか、当ったって死ぬもんか。そうは思う。しかし故なくして大元帥陛下の尊い兵器である飛行機のどこかに一つでもへなちょこ弾丸の弾痕を残しては、日本軍人の恥である。敵機もまだ見ぬ初陣の空に地上砲火にくたばったとあっては何の顔あって祖国にまみえんや、だ。

写真(右):中国、民家前に待機する、中国空軍の鹵獲した日本陸軍航空隊中島キ27九七式戦闘機:2翅固定ピッチプロペラで、中国の青天白日の国籍マークを記入している。ソ連I-15、I-16戦闘機は、1936年勃発のスペイン内戦、1937年勃発の日中戦争にソ連から派遣され、共和国政府、蒋介石政権の空軍機として実戦投入された。ソ連兵士がパイロットとして参戦した場合は、ソ連軍義勇航空兵としの建前をとったがとったが、事実上ソ連の参戦だった。 Title: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Additional Information: Japan Designation: KI-27 Tags: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00086148引用。


いで初陣の血祭に

ソ連ツポレフSB-2  馬を壁に乗りつけるのは最悪の騎手だといわれる。愛機を弾幕に乗り入れるのもまた最悪の機手であろう。—稲妻のように走る思いのなかに、僕は咄嗟に上昇命令を出した—と、その瞬間、二〇〇米の前方にロスケ[露助]が悠々と飛んでいるじゃないか。[ポリカルポフ]イー十六[Поликарпов И-16]ども二つと[ツポレフ]エスベー[SB-2]重爆二つだ。小ざかしい野郎ども、高射砲をてごろに射ちくさるかと思えば、その上にちゃんと敵機が控えてござる。味をやりおる。  

初陣の血祭りに、初見参のロスケ[露助]どの。

 僕は心の中で、こんにちは、初めまして、とつぶやくと同時にプ、プ、プと処女弾を六発ぶっ放して真正面につっこんだ。いつの間に弾幕をすり抜けたのか、いや、もう高射弾は炸裂していないのか。もうそんなことはどうだっていい眼の前の親子のような赤星のソ連マークに風穴をあけて、ロスケ[露助]を叩き落さんことには血がおさまらない。我慢をしておればつけ上ってぽかぽかと他人の国に泥足をつっこむように、不法越境するこいつらども、こうなりゃ叩き出すだけじゃない、叩き墜してくれる。ノモンハンの砂にデスマスクでもはめこんで懲り懲りするがいい。

写真(右):1936年-1938年、ソ連、飛行中のソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-16 戦闘機:ソ連空軍ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機は、複葉機戦闘機が配備されていた時期の1933年12月30日初飛行、片持式低翼単葉、モノコックの胴体、引込式降着装置、スライド式ガラス風防コックピット、エンジンカウリングに沿って配置された推力式単排気管など、後年の航空機が採用することになる新設計を取り込んでいる。主輪を機体内に引き上げるには、パイロットが主導の滑車でワイヤを駆動し、引き込む方式である。このような最新の技術を導入したために、1935年の配備当初は、戦闘機として世界最高速力は、日本陸軍の九五式戦闘機、ドイツ空軍He 51戦闘機よりも遥かに早かった。I-16は、イシャク(Ishak:ロバ)、スペイン内戦ではモスカ(Mosca:ハエ)あるいはラタ(Rata:ネズミ)という愛称を付けられている。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
R Image Wagner Collection
Pictionay ID: 46167883 - Catalog:16_007289
Title:Polikarpov I-16. T17 - Filename: 16_007289.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives - Catalog: 16_007289 引用。


雲を霞と逃げる敵

ポリカルポフ(Polikarpov)I-16  僕は眼を据えてエスベー[Tupolev SB-2/ANT-40]目がけた。エスベー[Tupolev SB-2/ANT-40]はぐいッと機首を下げた。こっちは操縦桿をぐいと引いた。愛機はエスベーの頭を超えて上昇した。[Polikarpov]イー十六[Polikarpov I-16]が、サーッと両側に開いた。そのまま横に転回して、エスベーの尻を追った。また六発プププと愛機の機銃。両側から、両側から畜生奴、イー十六が射ってやがる。来るな、反転してやって来やがる!愛機はまたもスロットを聞いて機首を上に向けた。

もう一ぺん、ひっくり返して[ポリカルポフ]イー十六[Поликарпов И-16]どもの頭をガーンと叩きつけてやろう。と、照準器にイー十六が舞い込んだ。よし。くっつけ。くっつけ。そのままイー十六[I-16]に喰いつけ。僕は両脚をふんばってイー十六[I-16]を追った。

 しかし、この時早く[Polikarpov]イー十六[I-16]はエスベー[SB]援護の任務を終ったと知ったか、そのまま雲を霞と逃げ出した。

写真(右):1939年6-8月、満州国、ノモンハン、未舗装滑走路上の日本陸軍第64戦隊の中島キ27 九七式戦闘機と地上勤務整備員:空冷星形エンジンを搭載し、後年の一式戦闘機、四式戦闘機と同じく空気抵抗の少ないエンジンカウリングで覆われている。ただし、プロペラは2翅固定ピッチで、のちのような3翅可変ピッチではない。また、ライバルのポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機は、引込み式降着装置を搭載し、火力も2倍以上強力で、最高速力も勝っていた。九七戦は、格闘戦闘能力の高さと運用面で補わないと空中戦では不利だった。
Description English: Nakajima Ki-27 and Japanese personnel Date 1939 Source Nakajima Ki-72 in The Gleaners of Zero Fighter Author NA, Rinpei Tanaka
写真はWikimedia Commons, Category:Nakajima Ki-27 - File:Nakajima Ki-27 and Japanese personnel.jpg引用。


悲運を嘆くその夕

 そのゆうべ、僕は初陣の敵を逃した悲運を、基地の天幕のかげで考えていた。

 友軍の損傷を最小限度にして、最大の戦果をあげるべきは知っているが、損害もなく戦果もないのじゃお話にならん。ひよっとすると生れてはじめての鉄砲だまに、僕はあがっていたのかな。思えば、去る二十二日、待ちに待った前線出動の命令を受けて、きょう二十四日が初陣だったのじゃないか。支那と日本がぼんぼんやり出す。陸鷲も海鷲も、大陸の空を翔け廻って武勲談を故国におくる、同じ隊にいた同期生の奴等も、みんな、高梨、おさきに失敬、とかなんとかぬかして征ってしまう。おお、征って来いよ、と僕も朗らかに言いはしたものの残されるもの、寂しさにいつも肩をすぼめていたのだ。

 そこへ突如の出動令。飛べるんだ、射てるんだ、おまけに相手はロスケ[露助]なんだ。不足のない相手じゃないか。僕は、いままでの細々した感情をすっとばして、身体をそのまま基地にすっ飛ばして来たのに、手具脛ひいた初陣が
 「敵機を発見追撃したけれど…」
一機をも撃墜せずじゃ、報告にもならんではないか。

写真(右):1936年、ソ連、離陸中のソ連空軍ポリカルポフ I-16B(Polikarpov I-16B)戦闘機:大きな直径の空冷星形エンジンを搭載したが、エンジンカウリングの処理は、後年の空冷星形エンジン搭載の新鋭機と同じく、排気ジェットを活用した斬新な設計となっている。アメリカのカーチス・ライト社(Curtiss-Wright)が開発したライト R-1820サイクロン空冷星形9気筒エンジンをソ連でライセンス生産したシュベツォフ(Shvetsov)M-62を装備しが、エンジンカウリングの処理は、後年のフォッケウルフFw-190戦闘機と同じように、単排気管から噴出する排気ジェットを推力と乱気流の排除に活用した先進的な構造となっている。ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機は、エンジン前面の扁平なスピナー、橇式固定尾輪など1940年時点では旧式化してしまう設計ではあるが、尾翼や機体尾部は細く絞り込まれており、経常的には空力的に優れた処理で、滑らかである。
Ray Wagner Collection Image
Polikarpov I-16B Title: Polikarpov I-16B Date: 1936 Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Soviet Aircraft Page #: 1 Tags: Soviet Aircraft, Charles Daniels,
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 15_002202引用。


加藤清正石鹸嫌い

 僕は貴重な水を洗面器に貰って静かに肩を拭いた。明日という日がないじゃない。僕はそう考えて少しでも悲運を諦めようとしているのだ。季節外れの雲雀が、飛びあがってチチチと囀っている。爆音も砲音も去って、夜になろうというのに雲雀ははじめてこの一刻の静けさを見つけて静かな大空に舞い上り一日の営みの歌を歌っているのであろう。

当番がやってきた。石鹸箱が見当りませんという。
 「石鹸はよろし」
 僕は、きょうの遭遇戦の汗を知っている。しかし、石鹸はなくとも綺麗に身体は拭われた。当番はもう少し探そうかという。
「探さんでもよろし」
 「ハイ、そうでありますか。加藤清正も石鹸は使わなかったそうであります」

愉快な当番は、僕を清正のつもりでいる。髭を剃らなきゃ坂上田村麿、歯刷子使わなきゃ成吉思汗[Chingis Khan]か?僕はタオルを振って考えてみた。それにしても、三十六のこの歳になって、初陣に敵を逸す。見っともない話である。

写真(右):1936年-1938年、ソ連(?)、木造の掩体壕から発進一に地上勤務員に導かれて移動するソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:大きな空冷星形エンジンを搭載したために、地上での前方視界が悪く、地上勤務員による誘導が必要になった。エンジン前面にはシャッター式の空気取入れ口の切り欠きがある。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46167922 - Catalog: 16_007292
Title:Polikarpov I-16. T29 - Filename:16_007292.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:46167922 引用。

2)(その二) 三対五十の闘い 敵の囮戦術、もっけの幸い 星のマーク目がけ突進

 きょうもいい天気だ。毎日の好天つづき。緑野が、草いきれに揉まれて、寝ころぶと息もできぬほどにむんむんしている。しかし、天空爽快な気流で、睡っていても飛行機は宙に浮んでいてくれるようだ。一昨日、初陣の功を逃がして、一日待機、きょうは生れて二度目の出陣である。きょうこそは見つけたらば最後、ロスケ[露助]奴、叩き落してくれん。僕は朝からそのチャンスを祈ってばかりいた。しかしまだ任務は哨戒だけだ。午後も僕は腕をさすりながら部下二機を率いてボイル湖からハルハ河[哈拉哈河]左岸の上空を哨戒していた。

 一尺ばかりの芝草、蒙古ざくらや蒙古なでしこ、それに倭小なあやめが咲いてる筈だが、そんなものはすべて一つの濃い緑に塗りこめられている。僕の愛機の影も、西から斜に射す陽光に照らされて、どこか遠く東の方に映っていることだろう。

写真(右):1936年、ソ連空軍ポリカルポフ I-16.T5(Polikarpov I-16.T5)戦闘機:空冷星形エンジンを搭載したが、エンジンカウリングの処理は、後年の空冷星形エンジン搭載の新鋭機と同じく、排気ジェットを活用した斬新な設計となっている。エンジン前面の扁平なスピナーや橇式固定尾輪はともかく、尾翼や機尾の処理は空力的に滑らかである。ソ連空軍ポリカルポフ I-16.T5(Polikarpov I-16.T5)戦闘機はシュベツォフ M-25Shvetsov M-25)空冷星形エンジン700馬力(522 kW)を装備し、それまでの角張ったエンジンカウリングに曲面を取り入れM-62エンジンを搭載して試験され量産された。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46167681 - - Title:Polikarpov I-16.T5 of VMF photo from L. Andersson - Filename:16_007273.TIF - - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives - Catalog:16_007273 -引用。

友軍と見たは敵機

 もしかすれば、機上から見えはしないかと暢気なことを考えながら、首を出してみると、別の三機編隊が、彼方の空を舞っている。時計は午後四時だ。この時刻に交替の友軍機がくるわけもないが、とその首をかしげたままスロットを開いて編隊に近づいてみた。敵機なら逃げるか挑んでくるかのどちらかだが、ケロリンカンとした横着な姿勢だ。やっぱり味方かい。然らば大空の仁義に機翼を揺すって挨拶しようと一気に近づくと、好餌!友軍と見まがうも無理のない敵[ポリカルポフ]イー十五型[Polikarpov I-15]だ。

 カール・ウイングをピンと張って小さく輪を描いている。胴腹には星のソ連マーク、こっちの日の丸を知らねえか、ロスケ[露助]どん友軍とまちがえてやがる、アハハ、僕は思わず座席の尻を動かして笑ってしまった。笑うと同時に僕自身もいままで、こいつを友軍と間違っていたのに気づいて、またもやアハハと笑ってしまった。

だが、真実は笑うべき時ではない。この好餌を逃がしてなるものか。僕の飛行帽の下で頬の筋肉が固く緊るのが自分でもわかった。即座に攻撃命令を出した。僕たちは哨戒が任務だ、とは思っても、相手だってかたが三機。赤い蝿の三匹ぐらい、二、三発で逆さまに墜ちるだろう。墜ちなきゃ喰いついてやるぞ。

写真(右):1936年、ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-16 戦闘機:ソ連空軍のポリカルポフ I-15Polikarpov И-15)戦闘機は複葉・固定脚だったが、ポリカルポフI-16 (Tskb-3)(Polikarpov I-16)戦闘機は、単葉、引込み式の降着装置を装備していて、固定脚の機体よりも空気抵抗を減少させている。主輪を機体内に引き上げるには、パイロットが主導の滑車でワイヤを駆動し、引き込む方式である。このような最新の技術を導入したために、1935年の配備当初は、戦闘機として世界最高速力は、日本陸軍の九五式戦闘機、ドイツ空軍He 51戦闘機よりも遥かに早かった。I-16は、イシャク(Ishak:ロバ)、スペイン内戦ではモスカ(Mosca:ハエ)あるいはラタ(Rata:ネズミ)という愛称を付けられている。日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立ってソ連軍が義勇航空兵として参加した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46167693
Title: Polikarpov I-16.T5 of VMF photo from L. Andersson
Filename:16_007274.TIF
- Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives - Catalog:16_007274 -引用。


空一杯に群る銀蝿

97式戦闘機  僕はサッと廻りこんで敵の編隊長機にむしゃぶりついた。[ポリカルポフ]イー十五どもは言い合せたように、ヒラリと背中を見せたと思うと雁首を立直して向って来た。発動機の頭がこっちの狙いの中に入った。ププププと愛機の機銃が火を吹いた。音は爆音の中に消えていた。一とすじになってとび出すわが機銃弾が網膜にハッキリと判る。だが、小さい転回性を誇るイー十五[Polikarpov I-15]どもは、又しても言い合せたように腹を見せて横にそれた。その尻尾にくっついて、こっちも腹を見せると、部下の佐々木曹長機も小林軍曹機も、腹を見せてくっついている。

 あと三十秒、その間に敵が参らなきゃそれっきりになるかも知れない。といってお互に死角じゃ仕方がない。臀ら射つのだ、と心の中で叫んだ。しかし、その声も爆音に消えて十秒間。

 こっちが機を水平に戻した時だ、上も下もわからないこんぐらがった眼の中にソーッと群がる銀蝿が現れた。一瞬である。網膜に残った銀蝿の群、つぎには緑の大地、つぎには空、愛機は横転ともなく反転ともなくとに角大空に一つの輪を描いたのだ。

ポリカルポフ I-16"U.S.S.R. そして、ひどい遠心力にひっぱられて、ベルトに締められながらやっと機を水平に戻した。たしかに子手応えはあった筈だが、と眼を瞠る。いや手応えどころではない。錯覚どころではない。眼の前の銀蝿は、どいつもこいつも赤い星のマークをつけたソ連機だ。[Polikarpov]イー十五イー十六[Polikarpov I-16]が、僕たち三機をとりまいてワンワンブンブンと舞っているんだ。いまのいままで三機対三機と思っていたこの空に、どこから湧いたか、この蝿ども奴!
囮戦術とは卑怯だぞ。
 いや、願ってもない遭遇戦!
 不利の態勢も、ガソリンの量も弾倉の数も問題じゃない。
 ええい、やっつけろ!
 僕はトッサに覚悟した。

写真(右):1936年、ソ連空軍ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機:ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機24型は,1937年に開発された空対地ロケット弾とそれを搭載・発射するランチャーRO-82を装備している。ソ連軍のロケット弾は、直径82ミリのRS-82(重量6.8 kg)と直径132ミリのRS-132(重量23.0 kg)の2種類がある。発射ランチャーは、レール式で空対地ロケット弾の進行方向・弾道を安定させる役割があるが、ロケット弾自体の弾道は、砲弾の弾道に比べて遥かに不安定なため、命中率は悪かった。アメリカ軍もドイツ軍も空対地ロケット弾を第二次大戦後期になって実用化、実戦で使用したが、日本軍はロケット弾を実用化できずに終わった。
Ray Wagner Collection Image
PictionID: 46167719 - - Title: Polikarpov I-16 Petrov photo collection - Filename:16_007276.TIF
- Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives - Catalog:16_007276 -引用。


全身漲る勇気凛々

 もくもくと盛上がる糞度胸だ。どこかで経験したことのある心情だ。死を考えているのか、いやそうではない。嬉しいのか、それにしては胸が切ない。僕は、それを脳の三分の一で考えながら、あとの三分の一で敵のどこへ突っこむべきかを考え、残りの三分の一で敵機を二ツ四ツと数えはじめた。

四ツ算えては、また逆戻り。十機算えては、眼の廻る思い。僕は結局敵の編隊毎に算えることにした。
 二十機!、三十機。まだ向うにいる。上にもいる、下にもいる。四十機、、おお五十機。
 日の丸三機に星が五十機。
 ロスケ奴、知らねえな。日が輝けば星の光は消えてしまうことを!

 僕は凛々たる勇気が、身体中に漲るのが、おかしいほど自分にも判った。出陣第二度目、僕は手柄をたてて見せるぞ!そう思いながらも、僕ははやる心を

「まだ射つな、まだ射つな」と制しながらそのまま星の中に飛びこんだ。


写真(上):1938年8月、第二次世界大戦直前、ノモンハンで撃墜されたソ連空軍のポリカルポフ(Polikarpov)I-153 (Tskb-3)戦闘機
:国籍記章(赤い星)が下主翼下面についている。垂直尾翼に3が描かれている。ソ連空軍ポリカルポフ I-153Polikarpov И-153)はポリカルポフ(Polikarpov)I-16 (Tskb-3)戦闘機よりも後に搭乗した複葉、引込み式降着装置の新鋭機だった。
English: Destroyed Soviet plane, Khalkhyn Gol, 1939 Русский: Сбитый советский истребитель, Халхин-Гол Date August 1939 Source former image source [1]; current image source [2] Author soviet reporter
写真はWikimedia Commons, Category:Battle_of_Khalkhin_Gol File:Khalkhin Gol Destroyed Soviet plane 1939.jpg 引用。


4)(その四) "我に一機の損害なし" 腕を見よ、敵の基地タムスク攻撃 敵機撃墜四十五!嘘のような戦果

 きょうは断雲がある。断雲をすかして朝の太陽が斜光を金線のように平原に注いでいる。僕はむくむくとした飛行服の両腕を二三度うしろに張ってみた、すると自然に胸が張って、済んだ大気が肺に充ち溢れた。僕はその一杯の空気を吐くついでに、傍にいた部下に声をかけた。きのうの部下だ、

「きのうの戦闘における感想はないか」
 「はい、平素の訓練となんら差異を感じなかったようであります」

一人が答えた。すると、他の一人は
 「敵の戦闘精神が熾烈だったら苦戦かと思いました。しかし…いや、たとえ熾烈にしろわれわれは更に熾烈であります」
 と続いた。僕は、ウムウムとうなづいて、言葉の代りに飛行服の右腕をボコボコと二度叩いてみせた。そこへ命令が下った。

 タムスク攻撃の命令!敵の基地タムスク攻撃だ。

僕はついでのことに、右腕をさらに三度叩いた。僕にしてみればこの腕が鳴る、この腕を見よ、この腕にものみせてくれん、というような慾ばった感情からだったのであるが、部下もまた同じ思いだったのだろう、垂井も荒井も同じように飛行服の右腕をボコボコと叩いた。

写真(右):1939年5-8月、第二次世界大戦前、ノモンハン空中戦時期、空中戦の様子を手真似しながら話すソ連空軍ポリカルポフI-16 (Tskb-3)(Polikarpov I-16)戦闘機のパイロット(操縦士):ソ連空軍のポリカルポフI-16戦闘機は、エンジンカウリング上面に7.62ミリShKAS機関銃 2丁、後期型は主翼内に20ミリShVAK機関砲 2丁を装備していた。これは日本、ドイツの戦闘機が装備していた7.7ミリ、7.92ミリ機関銃2丁よりも遥かに強力だった。
Polikarpov, I-16 (Tskb-3), Manufacturer: Polikarpov Designation: I-16 (Tskb-3) Notes: Russia
写真は, SDASM Archives Catalog #: 01_00086882引用。


目指すは敵空軍基地

 友軍機は、敵基地への進攻作戦に勇みたって一せいに轟々たる爆音をたてはじめた。プロペラの起す渦巻く気流のなかに基地の芝草が大きく波打ち、機尾に沿った緑草が東になびいた。それと並んで夜露に濡れた葉末が不思議なほど静かに伸びていた。気流が筒になって流れるために、筒の外では何事もないかのように、草は動かないのである。

 地上勤務員がすべて機のうしろに廻った。先発機が一きは爆音を轟かせて青草を蹴った。荒鷲然と飛行帽を大空につき進めた。征く者も送るものも、みんな莞爾と微笑んだ。僕の番がきた。遥かに機首を揃えて並んだ友軍機も車輪止めを外されて推進をはじめた。僕の機も雁行している。浮んだ。

午前五時十分、われらは一大編隊にスクラム組んで西へ西へと飛んでいる—目ざすは敵空軍の基地タムスク。


写真(上):1938年8月、第二次世界大戦直前、ノモンハンで撃墜された日本陸軍航空隊の単発機と見聞するソ連赤軍兵士たち
:国籍記章は判読できないが、墜落して100%の損失を被った日本力宇軍機の残骸は、日本機が無敵ではなかったことを示している。ソ連空軍ポリカルポフ I-153Polikarpov И-153)もポリカルポフ(Polikarpov)I-16 (Tskb-3)戦闘機も引込み式降着装置を採用していたが、1939年当時の日本陸海軍戦闘機は、すべて固定式脚で、引込み式降着装置は実用化されていなかった。
English: Destroyed Soviet plane, Khalkhyn Gol, 1939 Русский: Сбитый советский истребитель, Халхин-Гол Date August 1939 Source former image source [1]; current image source [2] Author soviet reporter
写真はWikimedia Commons, Category:Battle_of_Khalkhin_Gol File:Khalkhin Gol Destroyed Japanese plane 1939.jpg引用。


おぞましや挑戦敵機

 西へ一気に○○分。高度○○メートル。下界にはマッチ箱を並べたような格納庫が可愛く見えはじめた。ソ連戦闘機が、横に縦にずらり並んでいる。タムスク北飛行場である。

 敵の高射砲陣地が日本機来襲を知ったのだろう。プッ、プッ、と白煙を小さく吹いている。しかし、炸裂は遥かの下か、さもなけれゃとんでもない上である。国境防空陣地の正確さに 較べて問題にならぬ下手糞だ。

 僕たちはなんの障碍もなく悠々と敵飛行場に覆いかぶさった。

 地上の敵機が、ヒョコリヒョコリと頭を擡げはじめた、横に縦にと並んでいた[Polikarpov]イー十五イー十六が、三ツ、六ツ、編隊でなく群れてでもなくスーイスーイと飛びたった。おぞましくも挑戦に出てきおる、きのうと違って、僕たちには、待ち受けるものの余裕がある、敵機合計二百余機。数えるのにも眼が廻らない。地上から右に右にと廻って離陸する羽根を算えていればどれだけの敵が、僕たちに刃向おうとするのか正確にわかるのだ。

写真(右):1938-1941年頃、第二次世界大戦前、ソ連空軍のポリカルポフI-16 (Tskb-3)(Polikarpov I-16)戦闘機の戦列:国籍記章(赤い星)は主翼上面にも、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側にも記入されていない。シュベツォフ M-25Shvetsov M-25)空冷星形エンジン700馬力は、アメリカのライト R-1820-F3「サイクロン」空冷星形9気筒エンジンをソ連でライセンス生産したエンジンの名称である。アメリカではフィート・インチが使用されているが、それをメートル・ミリで合わせた設計となっている。初飛行が1933年12月30日のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、ポリカルポフ I-15Polikarpov И-15)戦闘機と同様に、ソ連空軍のほか、スペイン共和国、中華民国、フィンランドで使用された。
Polikarpov, I-16 (Tskb-3), anufacturer: Polikarpov Designation: I-16 (Tskb-3) Notes: Russia
写真は, SDASM Archives Catalog #: 01_00086881 引用。


流星の数を計算しろ

ツポレフSB  敵防空陣地も沈黙した。あとは日の丸と星との空中戦、下界のタムスクよ、ようく見とれ、そして流星の数を計算しろよ。僕は、どなりながら敵機が着弾圏内に飛びこむのを待っていた。衆を恃んだロスケども、束になってくりゃ来るほど叩かれようぜ!二百が五百だろうが、きょうというきょうは敵機全滅が目的だ。—僕は肩をまるめて操縦桿を握りしめ、猫のように眼を据えた。まっしぐらに、水平速度を誇る[Полика́рпов]イー十六[Polikarpov I-16]が三機、指揮官機の僕をめがけてつっこんでくる。洩痕弾が眼の前をかすねた。来たな!畜生!僕は横に外れて、横転に出た。僕は眼を照準器にあてたまま、行き過ぎるイー十六[Polikarpov I-16]の頭めがけて射った。小さいソ連機の方向舵が星のマークを飴のように大空に流した。

星印に見えないほどのスピードだ。勢い余った恰好で行きすぎた[Полика́рпов]イー十六。手負の野猪のようにブーンと飛び過ぎた三機、と思った瞬間、左から一機、[ポリカルポフ]イー十五がとびかかって来た。僕の死角に喰いつこうと、そのまま下に潜ったが、僕はそのままさっきのイー十六を追った。大きく転廻している、その半孤の真ん中にぐーんとつっこんだ。坐席にわが射撃の反動が微かに伝わった。やった!真中の[Polikarpov]イー十六が、機首を横にしたまま火を噴いた。飛行服の手が、操縦席の枠をつかまえた。が、そのまま飛行帽は黒煙に包まれていた。イー十六は、火焔の尾を、破れたハタキのように振りたてて落下した。

写真(右):1939年、モンゴル・満州国境、カルヒンコルの戦い(ノモンハン事件)に参戦したソ連空軍ポリカルポフ I-16B(Polikarpov I-16B)戦闘機:国籍記章(赤い星)は主翼上面・下面にはついていないが、垂直尾翼にはついている。
ソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、機首 エンジンカウリング上面に前方固定式 7.62 mm ShKAS機関銃 2挺、左右主翼内部に前方固定式 20 mm ShVAK機関銃 2挺を装備している。
7.62 mm ShKAS機関銃は、口径7.62mm、弾薬7.62x54mmR(リム)、弾薬重量24g、弾丸重量9.6g、ベルト給弾式、ガス圧作動、空虚重量10kg、総重量(弾薬650発込み)40kg、発射速度1,800発/分、プロペラ同調後の発射速度1,625発/分、銃口初速775-825m/秒。
Ray Wagner Collection Image
English: Khalkhyn Gol, Soviet i-16 Русский: И-16 на Халхин-Голе Date 1939 Source former image source [1]; current image source [2] Author soviet reporter
写真は Wikimedia Commons, Category:Polikarpov I-16 File:Khalkhin Gol Soviet i 16 1939.jpg引用。

I-16U.S.S.R.エーセス 四十五対零輝く戦果

 まず一機。
 僕は凱歌もなく、つぎの獲物を求めた。乱戦、混戦。まんじともえの血戦だ。なんという壮絶だ。僕は、自分たちだけの経験では勿体ないような気がした。映画にとって、内地に送ってやったらと思った。カメラ・マンも一しょに飛んで来てくれれば……と出来ぬことを僕は考えていた。すると、複葉の[ポリカルポフ]イー十五と単葉の[ポリカルポフ]イー十六が左右から躍りかかって来た。咄嗟に、宙返りを打った瞬間、聞き慣れぬ響音が、あらゆる爆音をかき消して僕の耳を打った。見れば二十メートルの真下に二つの火の塊が重なり合って墜ちつつあった。敵二機イー十五と[Полика́рпов]イー十六ががこれでまたお陀仏である。

 タムスク北飛行場を囲む緑地には無数の黒点が描かれていた。撃墜された敵機が青草を焦がして、その黒点は発動機より十倍もの直径を持っていた。

友軍機は敵飛行場の上を三度も低空旋回したうえ、二時間後にはすべて基地に帰っていた。
きょうも嘘のような戦果—われに一機の損害もなく、敵機撃墜数総じて四十五機。

 世界にかつて、こんなにもはげしく、こんなにも損害のない空戦が行われたであろうか。僕は日の丸の強さをしみじみと感じるのだった。

写真(右):未舗装飛行場のソ連のツポレフSB-2M-100 爆撃機(右側面):胴体に赤い星のソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラ、後上方銃座は初期型で、回転銃塔ではない。前面に冷却ラジエーターを装備している。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45937744 - - Title: Tupolev SB 2M-100 - Filename: 16_007152.TIF- Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007152引用。

5)(その五) 爆弾抱いて逃廻る サッと体当りの正面攻撃に エス・ベーの巨腹大地に突刺す

 敵機発見を告げる前線監視哨からの情報が基地にとんだ。○○班のレシーバーが痛いほど鳴りつづけている。

=敵エス・ベー重爆撃機九機○○に向って来襲=

 七月四日未明である僕の五尺三寸の痩せた身体が燃えたった。先月二十七日から一週間僕はすっかり敵らしい敵にぶッつかっていないのである。先月二十八日にも前日のタムスク敵基地空襲についで二度目のタムスク攻撃を敢行したけれど、この時すでに敵飛行機は別の基地を移動し、あとには青草に包まれた場内に三つの敵機残骸がさらされ、夜逃げしたロスケ[露助]の周章ぶりだけが残されていたのだった。

そして。きのう三日から、はじめて地上部隊に協力してハルハ河上空を飛ぶことになり、やっと見つけた敵一機も、こっちが、反転して後尾から一撃、パッパッと喰わすと弱虫め、応戦もしないで、火も吹かず、すーうーと錐揉みで墜ちて行ったのだ。一週間の間、ただそれだけだったのだ。僕は敵機飛来にとび上ったのも無理はない。

写真(右):低空飛行しているソ連空軍ツポレフSB-2M-100双発高速爆撃機(右側面):胴体に赤い星のソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラ、後上方銃座は銃手がガラス風防越しに写っているが、回転銃塔ではない旋回機関銃である。前面に冷却ラジエーターを装備している。1937年にソ連空軍の制式になったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)は、最新鋭ポリカルポフ I-16戦闘機とともに主力機となった。そして、1939年11月、フィンランドとソ連が戦った1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でもソ連空軍の主力機として戦った。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45937673 - Title: Tupolev SB (M-100) 1940 - Filename: 16_007147.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007147 -引用。

勇躍大地蹴って

 邀撃命令を受けるや否や、僕たちの編隊群は大地を離れていた。高度○○メートル。西に向う—射ち交す地上の敵味方の弾道を外れて、編隊群は進む。地上にはすでにソ蒙軍殲滅の激戦が展開されている。

 もくもくと湧きあがる土煙り、それが薄らぐと地から湧いた甲羅のような友軍戦車が進撃している太陽の直射にキラリと剣光を映発させながら這い進むわが徒歩部隊。渺茫たる草原を蚯蚓腫れのように醜くする戦場、下界はさぞ暑いことであろう。と思った瞬間、まだ基地を飛び出して五分も経たぬというのに、いるいる、同高度を九機編隊のロスケ[露助]が灰色の機翼に朝陽を浴びて来おる。

写真(右):未舗装飛行場のソ連のツポレフSB-2M-100爆撃機(右側面):胴体に赤い星のソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラ、後上方に回転銃塔装備の後期型で、前面に冷却ラジエーターを装備している。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45937773 -Title: Tupolev SB-2 - Filename: 16_007154.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007154 - 引用。

エス・ベー 突込み一点張り

 すでに着弾有効距離。攻撃命令は出された。ぐいぐいぐい—こっちは突ッこむ一点張りだ。叶わぬと見てとったか敵は僕たちを知ると急に反転姿勢で逃げ出した。もう少し遅ければ、友軍陣地にドカンドカンと爆弾を降らされるのだったのだと思うと無性に腹がたった敵は滑稽にも腹に爆弾を抱いたままだ。落せばソ蒙自陣に炸裂するので、殊勝にも抱いたままで逃げている。こっちはがっちりと組んだ編隊のままつッこむ一点張り。

ハルハ河[Khalkhyn Gol]が下界に浮いた。敵機が大きく愛機の真ン前に大きくクローズアップ。そこだ!気合のかかった機銃弾がバリ、バリ、バリと[ツポレフ]エス・ベー[Tupolev SB-2]の巨腹にめりこんだ。下に潜って、顎のあたりに穴をあけた。他愛もなく横すべりにくたばってしまった。

残るは八機、ここを先途と上昇姿勢で逃げる敵である。畜生、敵にうしろを見せるとは卑怯千万、と、怒鳴ったけれど三十六計の敵では処置なし。僕は、横すべりのエス・ベーに疳癪だまの四、五発を打ちこんでその最期を見届けようと機を立て直した。編隊群もそのまま指揮官に続け、と命令した。

[ツポレフ]エス・ベー[Tupolev SB-2]は自爆の形をとって大地につきささった。

写真(右):未舗装飛行場のソ連のツポレフSB-2M-100爆撃機(右側面後方):胴体に赤い星のソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラ、後上方に回転銃塔装備の中期型で、前面に冷却ラジエーターを装備している。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089074引用。

敵機へ武士の情

 ロスケ[露助]よ、これが戦争だ!僕はあまりに脆い[ツポレフ:Tupolev]エス・ベー[SB-2]の最期にその機と運命をともにした幾人かのソ連人を思って、急にいとしみの情が湧いて来たのだ。もうやってくるんじゃないぞ、僕はそうつぶやいてもみた。僕はその足でハルハ河[Khalkhyn Gol]川叉の渡河点の情景を偵察して一たん帰途に就こうと、機首をめぐらすと、はて?逃げた[ツポレフ]エス・ベー[SB]にしては威勢よくこっちへ突進してくる。よく見ると、それより高くイー十六二十機が護衛しているエス・ベー二十七機に、[ポリカルポフ]イー十五が三十機。頃合いはよし、僕はもう一ぺん機首をめぐらして編隊群のトップを切って攻撃命令を出した。

六機の敵相手に

SB  例によって、僕は真正面につッかかった。ところが、敵奴、僕たちがいたとは知らなかったものか着弾距離にならぬ中に[ツポレフ]エス・ベー[Tupolev SB-2]は逃げ腰になった。これは無理もない。しかし[ポリカルポフ:Polikarpov]イー十六もまたくるりと向きをかえてしまった。向きをかえる隙を狙って真一文字、わが編隊群は、ボイル湖[貝爾湖: 内蒙古最大の淡水湖]南方でエス・ベーを追いつめた。こうなれや、[ポリカルポフ]イー十六もその任務上逃げるわけにも行かん。窮鼠の如く身を躍らして立直ったもちろん、こっちも望むところ僕ばかりを狙う六機が、右と上からのしかかってきた。すべての音が耳を遠ざかった。僕の神経は全部眼に集まった。

機の動きと隙を狙って腹へ、尻尾へと死角を辿っている。愛機の機翼が震えた。敵弾がじかに眼の神経に響いた。右のイー十六を左にかわすと上の奴が、頭上を流星のように過ぎた。ウハッ敵の顔が僕の口にとびこんだ。と思ったのも瞬間、両耳がガンガンと鳴った。眼をつむってはいかん、眼をつむってはいかん、

僕は自分で自分の神経に命じながら、操縦桿を握りしめている。僚機が見えない。敵機ばかりだ。僕は上眼を釣って敵機を狙っている。射とうと思わなくても、照準器に敵がとびこめば、すぐと機銃のボタンに動く自分の手である。弾倉はまだ残っている。だというのにボタンを押せと突けどわが機銃は火を吹かなくなった僕は知らず識らずのうちに機銃をたたいていた。銀蝿の現れたというこの瞬間に"蝿叩き"を叩いたんじゃ蝿は逃げてしまう。

写真(右):1937-1939年頃、日本、日本陸軍航空隊中島キ27九七式戦闘機:日本海軍九六艦戦よりも飛行性能が優れており、1939年のノモンハン事件でも、最高速力に勝るポリカルポフI-16戦闘機と互角に戦った。wikipediaにある「運動性を武器に赤軍機を圧倒し大戦果を上げ、日本軍の戦線崩壊とソ連の進軍を防いだと言われた。複葉戦闘機すら蹴散らす旋回性と、「空の狙撃兵」と謳われた射撃時の安定性の両立が生んだ成果であった」というのは日本側の戦果認定に基づく過大評価である。ただし、58機撃墜の飛行第11戦隊第1中隊の篠原弘道准尉、第二次大戦末期の二式複戦の夜間戦闘でB-29撃墜王となった樫出勇曹長など、エースパイロットは、大活躍したようだ。
Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Title: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Additional Information: Japan Designation: KI-27 Tags: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives - Catalog #: 01_00086147引用。


嬉し機銃は唸る

 故障?
 危機の閃光が、身体中をかけ繞った。故障。こうなりゃ体当りだ。僕は、その覚悟だけに全神経を集中して、真すぐに敵機をつきすすんだ。両脚が硬ばった。

来い。来い。来やがれ。僕は食いしばった歯の裏で叫んでいる。驚いたロスケ[露助]は瞬間的に左右に開いた。その隙に僕はぐいと桿を引いた。六百メートル上昇していた。
と、何んという奇跡だ。機銃が鳴りだした。
 「まだだ、まだだ」
 僕は嬉しまぎれに独りでどなりながら再び敵機の中に逆さまにとびこんだ。と、同時に、敵機が三つ、一ぺんに火を吹きはじめた。

この戦闘の収穫=[ポリカルポフ:Полика́рпов]イー十六型五機、[ツポレフ]エス・ベー[Tupolev SB-2]は一機。確実ならざるもの五機。

写真(右):1939-1941年頃、中国南部広東(?)、日本陸軍航空隊中島キ27九七式戦闘機とエンジンを駆動する始動車:機体の上には強い日差しを避けるための天幕が張られている。日本海軍機と異なって、陸軍機には発動機を指導するモーターが機体に内蔵されていなかった。そこで、プロペラスピナ―の先端に歯車を取り付け、そこと発動機を取り付けた始動車の回転軸を連結して、飛行機の発動機を始動した。ノモンハン空中戦を経験した現地の航空隊は、ソ連空軍I-16の一撃離脱戦法、操縦席への防弾装甲・防火燃料タンク、20ミリ機関砲など重火力を評価した。しかし、陸軍中央は皇軍の優勢に疑念を抱くような意見を否定し、戦訓を学ばなかった。
Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Title: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Corporation Name: Nakajima Official Nickname: Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Additional Information: Japan Designation: KI-27 Tags: Nakajima, KI-27, Nate ""Abdul"" Army Type 98 Fighter Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives - Catalog #: 01_00086151引用。


6)(その六) 雲霞の大敵と闘う "犠牲なき部隊長"の誉れは部下気魄の賜もの

 七月五日、きょうは診しく曇っている。どんよりと低くたれこめた灰色の空が平原に覆いかぶさって汗ばむ。熱風が青草に渦をまいている。飛び上った友軍機もすぐと姿を消してあとは爆音のみ、それも風の工合か時折りは杜絶える。どこからともなく迫る凄愴さ、なにかある。きょうのような日にはなにかある—と僕は予感に心をひきしめていた。

果せるかな、僕はこの日出動以来最初にして最後の血みどろな決戦をやったのだ。

写真(右):1930年代、ソビエト連邦、1930年12月22日初飛行のソ連空軍ツポレフ(Tupolev)TB-3(ANT-6)四発重爆撃機:どいつのユンカースF.13と同じく波形アルミニウムの応力外板を持つ全金属性の堅牢な低翼単葉大型機。爆弾搭載量は大きかったが、航続距離は陸軍国なので長くはない。1939年のノモンハン事変で初めて日本軍と初の実戦参加をした。1941年6月の独ソ戦時点では旧式化していたが、TB-3は818機もが生産されていたため、輸送機として、空挺部隊にも配備された。親子飛行機"ズヴェノー"では、I-16戦闘機を爆撃機として左右主翼に吊り下げ運搬、空中発進させた。 、1944年まで任務にとどまっていた。
Tupolev TB-3 Catalog #: 15_002205 Title: Tupolev TB-3 Date: 1939 Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Soviet Aircraft Page #: 2 Tags: Soviet Aircraft, Charles Daniels, tupolev
写真は, SDASM Archives引用。

敵大空軍の襲来

ツポレフTB-3  中食をすまして、熱風のなかに起っていると出発命令が下りた。午後一時三十分、僕の部隊は野口部隊と機翼を連ねて灰空に舞い上った。

国境線はハルハ河川叉の上空を約一時間制空、野口部隊が基地に帰ってから間もなく、密雲の中から一機、ニュウッと[ツポレフ:Tupolev]エス・ベー[SB-2]が双発の頭を現した。

つづいて二機、三機、総じて二十七機がヂュラルミンの胴体を雲間にかけらしながらやって来た。そのうしろに更に二十七機の[ツポレフ:Tupolev]エス・ベー[SB-2]、こんどは二十八機の[ツポレフ:Tupolev]エス・ベー[SB-2]が六ツの発動機を偉そうに見せて現われた。その上まだ二十七機ずつの[Tupolev]ティ・ベー[TB-3]重爆が二隊。まさに大空軍襲来である。

写真(右):1930年代、ソビエト連邦、ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)TB-3(ANT-6)四発重爆撃機:TB-3(ANT-6)の諸元: 全幅:39.5 m 全長:24.4 m 全高:8.47 m 最大離陸重量:17,200kg 発動機:M-17F (B.M.W)液冷12気筒V型 715hpx4 最高速力:197 km/h 実用上昇限度:3,800 m 航続距離:1,350km 兵装:機関銃x4, 爆弾2,000kg 乗員:8名
Tupolev TB-3 PictionID:43099486 - Title:Tupolev TB-3 - Catalog:16_003753 - Filename:16_003753.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, SDASM Archives引用。

この野郎、僕たちがいるのを知らねえな、攻撃陣を整える隙もなくその上空と両脇高く、イー十五[Polikarpov И-15]とイー十六の二十機がそれそれ三角形の編隊をつくってくっついていやがる。互に高度四千米。僕は部下を四機ずつの二隊にわけて右に廻った。と、こんどは頭の上の雲から湧き出した銀蝿。同じくイー十五、イー十六。数は見当がつかない。恐らく五十機はいる。雲に捲かれ、雲をつき、隠現自在、まことにもって空戦には都合のいいような悪いような空である。僕はきょうこそすべての終りだと覚悟した。

 全滅!それも悪くない。

まず一機を血祭

イ153  僕は例によって背中を丸めて眼を据えた。異様な響きが座席に伝わる。すでに敵弾が愛機をせめさいなんでいるんだ。

カ、カン。カカ、カン。どっちからとんで来る敵弾だろう。一たい敵機はいくついるのだ。僕は咄嗟に顔を廻して見た。しかし計算はできない。とに角雲の中に敵機がいるのじゃなくて敵機の中に雲がうろついているんだ。

優位。上昇。敵。撃墜。日本。ソ連。弾丸。雲。上昇。優位—僕はこんな言葉を口の中で揉みながらぐいぐいと機首を上に向けた。衆を恃んだロスケどもは珍しく果敢にせめたてる。腹がにえくり返る。腹がたって、腹がたって耐らん。部下の機群は? 案じて顔をもたげたそこへイー十五が一機グォーンと爆音をたてて横に廻りざま射って来やがった。と同時にこっちの機銃も火を吹いた。いい調子の機銃である。相討の姿勢だった。三発は喰ったかな? と考える間もない、洩痕弾が二筋、すーいと眼前に尾をひいた。六百米を一気に上昇した。どうしたわけか雲が晴れた、イー十六が三機、すぐ斜下を僕の存在も気付かずに水平に飛んでいる。直観的に距離をはかるとつっこみごろだ。僕は自分の肉体がとり残されるように感じながら斜につっこんだ。三機の両側の二機がグイと首をもたげたしかしまん中の一機は水平のまま白煙を吐いた。ガソリンが沫となって洩れてるんだ。  

それも二秒、忽ち黒煙がイー十六をまきこんだ。ざまあ見やがれ僕は垂直降下の姿勢をもう一ぺんたて直して、さて部下を顧みた。友軍機の機影の判別がつかない。

嬉しや全機無事

イ153  最初の命令通り戦っているには違いないのだが、こんなにも混戦では—ええい、またイー十五が小さく輪を描いて寄りそってくる。うるさい野郎だ。—混戦では日の丸のマークと星のマークを間違えぬことだけでも大変だ。そう言えば敵機は何機? もう一ぺん数えて見ると、頭上に五十機、左右に四十七機は確かにある。エス・ベーはどうやら雲を頼って遁走したらしい。所詮、このままでは苦戦である。苦戦ではあるがそれだけ戦い甲斐がある。時計はすでに五時すぎを指している。機銃が焼けてきた。ひとまず活路を求めずばなるまい。僕はまたしても上昇姿勢。カ、カカカン。コン畜生、敵がどこからか射ってやがる。ぐるり、反転、眼を据えたが、死角から死角を飛び去ったロスケ奴、とんとこっちの照準内に入らぬ。運のいい野郎だ。見つかれば必定お陀仏だが…。僕はもう一ぺん廻って上昇姿勢。薄雲の空に出ると、命令通り部下も集結態勢をとっていた。

何という嬉しさだ。全機無事。

編隊を纏めて基地の大地に降りたったのはそれから○○分後。全機多きは四十の弾痕があった。

敵機撃墜数十二。

報告以外、部下はただぼんやりとして一語も語らなかった。精根の限りを尽して死中に活を得た興奮がまだ醒めないのであろう、僕もまたものが言えない。よくもみんな無事に帰って来てくれた。僕はしみしみと"幸福な部隊長・高梨大尉"を自ら感じているのだ。

我々はなぜ勝つ

イ153  報告以外、部下はただぼんやりとして一語も語らなかった。精根の限りを尽して死中に活を得た興奮がまだ醒めないのであろう。僕もまたものが言えない。よくもみんな無事に帰って来てくれた。僕はしみしみと"幸福な部隊長・高梨大尉"を自ら感じているのだ。

 その日限り僕は内地帰還を命じられた。

翌日、僕は上長の部隊長に挨拶し、部下を集めて挙手の挨拶を交した。僕はなにも言わなかった。前夜から今朝まで考えたこと、「何故われわれは勝ったか?」を、いつか内地からこの前線に書いて届けよう。それには僕はこう書く積りだ

 「僕等はいつもよく戦った。そして常に輝かしい戦果をあげてきた。何故だろう。僕自身でもその説明がつかない。恐らく科学的説明はつかないであろう。敵の戦術技術だって、さほど劣悪ではない。少くとも第一次ノモンハン空中戦当時に比べたら技術的には優秀だし、すべてソ連人の乗組だし、敵機の性能だって友軍と比較して劣るものでもない。寧ろ時には優れているとさえ思われることもあった。四挺の機銃は四千発の弾丸を降らせる。スピードもある。僕達と同数またはそれ以下では決して攻撃しては来ない。それで、奴等はいつも敗けているのである。何故か。

僕は二週間の戦闘経験からこれは要するに攻撃精神の問題だと思う。流行言葉の「唯物戦闘」に対する「唯心戦闘」を論じるわけではないが、帰結するところは平時の猛訓練が育くんでくれた自信と気魄に、熾烈な攻撃精神の賜だと思う。僕は戦いの根源は一にこの気魄に支配されるものだと信じる。曩に地上部隊と違って機械力に総てを託して戦う空中戦では僕が此気魄が非常に尊いものだと思う。大和魂がロスケ[露助]のなまくら魂に打ち勝ったのだ。部下は部隊長の意図に反することなく、抜け駆けの功名をあせることなく常に部隊長中心にやってきた。ロスケ[露助]にしたって個人個人には恐るべき戦闘意識はある。だが集団的戦闘意識にかけていたのだ。しかも攻撃精神の執拗さが皆無なんだ。そこの彼らの敗因がありわれわれが世界空戦史に誇る輝かしい戦果をあげ得たのだと信じる。

 僕が、犠牲なき部下の部隊長たり得たのもまた部下の気魄の賜物である。深く感謝する—」と。【この項完】

ノモンハン空中戦記 (その一・その二・その三・その五・その六) 著者 帰途の猛鷲・熊谷飛行学校教官 高梨辰雄大尉
件名 24.政治・行政 08.軍事(国防) 掲載誌 読売新聞 Vol: 第 47巻 Page: 175 出版年 1939-08-04/1939-08-09 言語 日本語 ID https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338364 情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)引用終わり。


1/48 ポリカルポフ I-16(2機セット 1939年制式のソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Тип 24諸元
乗員: 1名
全長: 6.13 m
全高: 3.25 m
全幅: 9 m
翼面積: 14.5平方メートル
空虚重量: 1,490 kg
最大離陸重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形9気筒エンジン900馬力 (670 kW)
生産機数:1939年155機
1940年760機
1941年19機
合計934機

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機24型は,最高速力525キロに達する強力な兵装・防御力の最終量産型だが、ソ連軍は後継機を1938年から開発し、1939-1940年には、ラボーチキン、ヤコブレフ、ミコヤン、グレビッチらが設計した新鋭軍用機を登場させている。

ポリカルポフ I-16 ソ連空軍ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機Typ 24の性能
制式:1939年
最高速力: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km
上昇限度:11,000m
実用上昇限度: 9,700 m
上昇率: 14.7 m/min
高度5000mまで5.8分
兵装: 7.62-mm-SchKAS機関銃2丁
20-mm SchWAK機関砲2門
爆弾搭載量:50−10キロ爆弾2発
あるいはRBS-82空対地ロケット弾4-6発
ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は、フランスMS406戦闘機と並んで世界初の20ミリ機関砲装備の戦闘機である。そそて、アメリカ、イギリスに先んじて、ソ連空軍I-16、I-153戦闘機は、世界初の対地あるいは対空攻撃用のロケット弾RS-82ロケット弾 4−6発を装備した。


4.ノモンハン事件の教訓 : 物的戦備の増強が最も急務 : 社説
1939-10-07 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339149
情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

翻刻


BT-7 1937年  ノモンハン事件の戦況に付ては地方長官会議の席上陸軍当局から説明があり既に是は報道された所だが、第一次ノモンハン事件発生以来四ヶ月、第三次事件に至る間の状況は一般に窺知するを得なかっただけに、この率直明快な公表によって国民は今後の覚悟を一層強固にし、国防国家体制の確立に向って全力を尽さねばならぬことを痛感したものと思う。

又その精神動員の上に与えた効果も蓋し多大なものがあったと信ずる。さて一国が予想する兵力に対して必勝を期せんとせば、数に於て優勢を占めることが第一の条件であるが一歩を譲ってその兵力量の劣勢を補うということになれば、精神の砥励、訓練の精到、統帥の卓越、戦法の選択、編制装備の優性等によって作戦能力の向上を図る外はない。然も斯かる作戦能力にも限度があり、或程度は数の比率を無視する訳にはゆかぬ。また近代戦に於ては軍の装備、就中空軍勢力及び機械化の優劣が勝敗に影響する事は極めて大であり、如何に勇敢にして訓練精到であっても、旧式装備の軍は到底近代装備の軍の数であり得ないという事は、陸軍当局の既に屡々指摘した所である。


九五式軽戦車  然るに一般には、ソ連軍の機械化、兵装備に関して認識する所も少ないようであるが、最近の急激にして大規模なソ連の軍備拡張に付ては之を疎かに看過することは出来ぬ。従来思想赤化に対してのみ警戒していた世界をして、更にその武力的脅威を感ぜしめつつある事を閑却してはならぬ。一九二九年の赤軍総兵力は五十六万と算定されていたのだが、八年後の一九三八年には実に二百万の常備軍を編制、七千五百の戦車を有するに至った。然も此等戦車と装甲自動車、乗車歩兵及び砲兵其他を以て独立機械化部隊約三十箇を編制師団の大部には固有の機械化部隊が配属しているということであり又その化学戦装備の徹底化と火力装備の上でも列国陸軍中優位を占めている様だ。

その砲火力に付いて云えば三百九十二箇中隊の軍団重砲兵と一千四百二十箇中隊の軽砲兵等を有する点から推しても、その尨大な編制を知ることが出来よう、軍の機械化は第二次五ヶ年計画の段階に於ける自動車及びトラクター工業の発展によって飛躍的に強化したもので、戦車の如きは一九三三年の二千台から三千台四千台六千七百台と増拡、三八年には七千五百台を数うるに至ったのである。


九七戦  空軍についていうも、第二次五ヶ年計画の階段に於て国産機を以て整備し得るようになり、一九三三年の二千五百機から逐年三千台、四千台、五千五百台と拡充し、六千五百台を整備するに至っている斯くの如き大陸軍の建設を茲数年間にやってのけたソ連は、今度はどんな方針に出んとするのであろうか。恐らくその質的強化と技術的向上を企図するものと見られているが、此間複雑怪奇な国際情勢に対処し、自主独往東亜の安定を期する上には相対的軍備の均衡に依って、防衛の実を保障せねばならぬ。そのためには兵力量の増強と共に火力装備、機械化装備、航空防空装備の増強など物的戦備の充実に邁進すべきことが極めて緊切であり、この点十分の工夫を要するであろう。

冠絶せる精神と訓練に加えて物的戦備の完壁を以てせば正に鬼に金捧であり、斯くてこそ多数の損傷をして無意義たらしむることなく、又尽忠報国の権化として国境線に華と散った英霊を慰めることを得るものと言わねばならぬ。

ノモンハン事件の教訓 : 物的戦備の増強が最も急務 : 社説 引用終わり。


写真(右):1938年5-8月、第二次世界大戦直前、ノモンハンで日本軍将兵に降伏するソ連赤軍ベテー BT-5(БТ-5)快速戦車の搭乗員(3名):BT-5は、騎兵を念頭に、縦深浸透攻撃のために開発された快速戦車で、1932年10月21日に試作が完成し、1933年から1万両が量産された。キャタピラーを外して、路面を快速装甲することも可能だったが、これはヨーロッパの道路以上を念頭に置いていたようだ。全長 5.50m 車体長 5.50m 全幅 2.23m 全高 2.20m 重量 11.5t 最高速力 装軌52km/h・装輪72km/h 航続距離 装軌120-150km・装輪200-250km 主砲 45mm20K戦車砲(携行弾数115発) 副兵装 7.62mmDT機関銃1挺(携行弾薬2,709発) 装甲 防盾 20mm 砲塔 全周 13mm 上面10mm 車体 前面 13mm 前端40mm 側面 13+4mm 後面 10-13mm 上面 10-13mm 底面 6mm 発動機 M-5 V型12気筒水冷ガソリンエンジン400hp
Description English: Battle of Khalkhin Gol-Soviet BT-5 tank surrendered (propaganda picture) Date 1939 Source Contemporary Military Historian Author NA
写真はWikimedia Commons, Category:Battle_of_Khalkhin_Gol File:Battle of Khalkhin Gol-Soviet tank surrendered.jpg 引用。


5.物凄かったぞ 敵機空中衝突の瞬間 : 白衣に包む全身火傷の武勲 : 大荒鷲 加藤中佐のノモンハン戦記
大阪毎日新聞 日付 1939-11-10 URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339113 情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

翻刻
中島キ27 今次ノモンハンの空中戦闘で敵機一千余機撃墜の輝く戦果をおさめたわが荒鷲の大先輩で去る七月十二日川又高地渡河点およびボイル湖東岸上空の空中戦で無念にも敵弾を受けて炎焼する愛機から敵陣目がけて飛降り決死的な猟奇の敵地着陸によって救われその沈勇を謳われた加藤敏雄中佐はその後重傷の身を○○野戦病院で加療のうえ後送され東京渋谷の日本赤十字病院に入院したが今では外傷もすっかり癒り非常な元気で全快の日を待っている

[写真(加藤敏雄中佐)あり 省略]
加藤中佐は出征前満洲航空会社の操縦士として活躍、本社の世界一周飛行ニッポンの機長中尾純利氏とともに昨年ドイツから購入飛行機をベルリン—東京間空輸の偉勲を立てた人、九日午後加藤中佐を病院に訪ねると「やあやあ御社のニッポンは御目出とう」と病床の身を起し「体が癒ってくると戦場のこと、部下の戦友のことばかり思われる」といいつつ歴史的な空中戦を回顧しながら

 今度の空中戦は実に愉快な戦争ばかりで、あんな戦争なら何度でも出て征きたいと思う、われわれとして空前絶後の空中戦を演じたのはタムスク飛行場を急襲した時だ、払暁ごろ飛行場上空に行って見ると、いるわいるわ無数の敵機がズラリとならんでいる、ソレッとばかりこれを攻撃したのだが何しろ虚を衝かれて狼狽しながら舞上る敵を射つのだから面白いほど落ちるのだ高度は千から千二百メートルだから命中弾を食って墜落地上に激突して爆破する不気味な轟音も聞える、この戦闘で敵機百三機をやっつけたのだから実に愉快な戦闘だった

本キ27 この時はじめて敵機同士の正面衝突を見たのだが、グワッという轟音とともに粉微塵となり焔を吐きながらまるで芝居の紙吹雪のようになって落ちて行く、この日敵は空中衝突で六機を失っているのを見ても、如何に狼狽していたかがわかる、僕が負傷した時の戦闘か、あれは七月十二日の正午すぎだ、敵七、八十機に対しこちらは約三分の一の少数で戦ったのだが敵弾が機体に当って機は燃え上り全身に火傷を負ってしまったので最早これまでと地上に飛び降りたんだね、これを見た部下の松浦軍曹が勇敢に敵陣中に落下傘で着陸、迫る敵戦車を物ともせずかけつけて僕を救ってくれたのだがその際「敵地です、隊長早く早く」と呼ぶ声はわかったがあとは夢中だった、

当時を思うと感慨無量だ、私が戦闘隊出身だからいうのではないがさきの満洲事変も上海事変も戦闘機の威力を発揮する機会に恵まれなかったがノモンハンの戦闘ではわが戦闘機の優秀性を遺憾なく発揮しその真価を世に問うことのできたのは嬉しい、この戦闘意識と技術と優秀な器材はどこへもって行っても決して敗けやせん
と火傷した腕を撫でて見せた[(東]京発)

物凄かったぞ 敵機空中衝突の瞬間 : 白衣に包む全身火傷の武勲 : 大荒鷲 加藤中佐のノモンハン戦記 大阪毎日新聞 日付 1939-11-10 引用終わり。


6.敵機撃墜爆破千八百 : 全支制圧・ノモンハンを震撼 : 陸鷲輝く事変来の戦果 : 大本営発表
大阪毎日新聞 日付 1939-12-30 権利 本資料の2次利用には事前の申請が必要です This collections need you to make an application to reuse images URL https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338529 情報源/出処: 神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫記事(デジタルアーカイブ)

敵首都重慶をはじめ蘭州、西安、延安等敵主要都市および後方拠点に連続的大爆撃を敢行全支の空を制圧し、またノモンハン事件においてはソ連空軍に殲滅的打撃を与え世界航空戦史に不朽の金字塔を打ち樹てたわが陸軍航空部隊の昭和十四年中における輝く戦果につき大本営陸軍報道部では二十九日午後四時左の如く発表した

ソ連空軍  聖戦開始以来陸軍航空部隊は地上部隊への直接協力に重点を置いて来たのであるが武漢三鎮の占領後は地上部隊の広大な占領地域の確保に協力して各地の討伐戦に参加すると共に本年に入るや精鋭部隊を以て航空撃滅戦および政略攻撃を行い重慶、蘭州、西安、延安をはじめ敵の主要都市および敵の後方拠点に連続的な大爆撃を敢行した、なかにも本年二月の赤色ルートに対する猛襲はその規模と成果において壮絶を極め、蘭州においては前後三回にわたって大空中戦を行い、

敵機百十数機を確実に撃墜し地上の二十機を完全に爆破した、自後この方面における爆撃は連続して行われ隴海沿線は勿論河南、陜西甘粛に亘って遠近を問わず苟も軍事施設のあるところ都市という都市にしてわが猛弾を浴びぬところはない、敵は南方ルートが完全に封鎖された後はこの赤色ルートを唯一の生命線と恃みしかも黄河を距ててわが地上部隊の進攻を逃れているのを幸いに軍事施設の再建および各種の政治工作に狂奔を続けて来たのであるが今や打ち続くわが航空部隊の猛襲に遭って軍民ともに生色なく動揺著しいものがある、

なお北支方面においては陸軍航空部隊は地上部隊の粛清工作に協力して山西、河北、綏遠の各一部産額地帯に執拗に蠢動する残敵およびわが地上部隊の眼を掠めて北上する敵遊撃部隊を捕捉爆撃して多大の成果を挙げた、中支においては本年二月から三月にかけて地上軍の湖北作戦に協力し四月に至り敵が「四月攻勢」を企図するや陸軍航空部隊は逸早く敵の拠点を猛襲して敵主力の出鼻を挫き、ついで敵の「夏季攻勢」「九月攻勢」には湖南、江西、湖北の敵主力の動向を監視しつつ機を見てこれを撃砕し、また浙江、江蘇、安徽などの各地に転戦して地上部隊の討伐戦に参加しあるいは敵の虚を衝いて粤漢線方面に出動して輪送路を遮断するなど寧日なき奮闘を続けた、

イ153 また南支においては広東方面、海南島、潮州方面、南寧方面に活動し地上部隊の作戦および海軍の封鎖に協力して克くその任務を果して来た、今や「冬李攻勢」を呼号する敵に対して各方面において爆撃の鉄槌を下しているが、地上の戦果の挙がるところ必ず陸軍航空部隊の顕著な功績があるというも過言ではない、以上は陸軍航空部隊の本年における業績の概要であるが満蒙国境を警備する陸軍航空部隊の精鋭は五月より九月にわたるノモンハン附近の空中戦闘において常に寡をもって衆を恃むソ連空車を圧し航空戦史上未だ見ざる大戦果をあげてわが陸軍航空部隊の真価を中外に示した、次に事変勃発以来今日に至るまでの敵機に与えた損害の概数およびわが方の損害機数は次の通りである。

一、支那事変における敵機に与えた損害
 撃墜 三三〇機
 地上爆破 一六〇機
備考 (1)本年の後半においては陸軍航空部隊の空襲に際して要撃する敵機殆どなく、従ってこの期間航空撃滅戦の花々しきものなし
(2)十二月二十六、二十七、二十八の三日間にわたり海軍航空部隊と協力して行いたる蘭州進攻作戦の戦果については未だ的確な報告なし

二、満蒙国境においてソ連機に与えた損害
 撃墜 一、三四〇機
 地上爆破 三〇機

三、右合計 一、八六〇機
四、事変以来わが方の損害機数一八八機

敵機撃墜爆破千八百 : 全支制圧・ノモンハンを震撼 : 陸鷲輝く事変来の戦果 : 大本営発表 大阪毎日新聞 日付 1939-12-30引用終わり。


写真(右)1937-1938年頃、スペイン(?)、スペイン内戦で人民戦線共和国政府軍に供与されたソビエト連邦空軍派遣のポリカルポフ(Polikarpov)I-16 (Tskb-3)戦闘機の機首右側、奥はダグラス(Douglas)DC-2輸送機:I-16は、1942年までに練習機型3444機を含め10,292機が量産された。ダグラスDC-2は1934年5月11日にアメリカで初飛行、1939年まで200機が生産された。スペインは、5機のDC-2を購入しスペイン航空が称した。
Polikarpov, I-16 (Tskb-3), Catalog #: 01_00086890 Manufacturer: Polikarpov Designation: I-16 (Tskb-3) Notes: Russia Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


1935年に登場したポリカルポフ(Polikarpov)I-16 Typ 5
全長: 6.13 m (20 ft 1 in)
全幅: 9 m (29 ft 6 in)
全高: 3.25 m (10 ft 8 in)
翼面積: 14.5 m2 (156 sq ft)
空虚重量 1200 kg
総重量1460 kg
発動機M-25空冷星型エンジン700 PS (515 kW)
最高速力454 km/h /高度3000m
上昇時間6,2分/5000 m
上昇限度9200 m
航続距離820 km
兵装7,62-mm-MG SchKAS機関銃2挺
爆弾 200 kg。

写真(右)1938年、スペイン(?)、ソビエト連邦空軍派遣のポリカルポフ(Polikarpov) SPB (D) 急降下爆撃機:1940年2月18日に初飛行、6機のみ試作されたが制式されなかった。
Ray Wagner Collection Image Polikarpov 1938 VIT-2 PictionID:45938321 - Catalog:16_007195 - Title:Polikarpov 1938 VIT-2 VVS U-Ye - Filename:16_007195.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, SDASM Archives・引用。


ポリカルポフ(Polikarpov)SPB (D) 急降下爆撃機の諸元
乗員: 5名 全長: 11.2 m (36 ft 9 in)
全幅: 17 m (55 ft 9 in)
主翼面積: 42.93 m2 (462.1 sq ft)
空虚重量: 4,480 kg (9,877 lb)
総重量: 6,850 kg (15,102 lb)
発動機: 2 × クリモフ(Klimov)M-105液冷V-12気筒エンジン783 kW (1,050 hp)
最高速力: 520 km/h (320 mph, 280 kn) /4,500 metres (14,764 ft)
航続距離: 2,200 km (1,400 mi, 1,200 nmi)
上昇限度: 9,000 m (30,000 ft)
兵装: 1x 12.7 mm Berezin UB機関銃
2x 7.62 mm ShKAS 機関銃
爆弾 1,500 kg

7.世界一空軍の内幕 : 米国軍事評論家は語る
満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 46巻 Page: 150 出版年 1939-06-05
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100338772

 米国軍事評論家はソ連空軍の実情につき同地に長らく滞在視察した航空専門家の所見として次の如く論評している

 ソ連邦が今日世界最大の空軍国たる事は疑わない、ソ側の公表によると軍用機一万台に達すると謂われるが、此の内約三千台は一九三三年以前の製作に係る旧式機で今日軍用機としての価値乏しく残余の七千台の内更に二千台は発動機に故障があるか又は機体故障のため空しく放置されて居るもので其儘使用に堪えず之が修理にも多大の時日を要するのである、

更に残りの五千台のうち実戦に使用し得るものは三千台で其他は分解され格納庫に置かれている予備機で殊にソ連製発動機の劣悪なることは製作技術の不熟の外、使用材料冶金術等の未熟により其の寿命が非常に短かく絶えず新発動機と取換えねばならぬ状態であると謂われる(世界一空軍の内幕 : 米国軍事評論家は語る引用終わり)

写真(右)1937-1938年頃、ソ連、ソビエト連邦空軍ミグ(Mikoyan-Gurevich)MiG-3戦闘機の戦列:MiG-3は1940年10月29日初飛行、1940–1941年3,422機が生産された。
Mig, Mig 3 Catalog #: 01_00085196 Title: Mig, Mig 3 Corporation Name: Mig Additional Information: Russia Designation: Mig 3 Tags: Mig, Mig 3 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


ミグ(Mikoyan-Gurevich)MiG-3戦闘機の諸元
ミグ(Mikoyan-Gurevich)MiG-3 乗員: 1名
全長: 8.25 m (27 ft 1 in)
全高: 3.30 m (10 ft 9 7/8 in)
翼幅: 10.20 m(33 ft 5 in)
翼面積: 17.44 m2 (188 ft2)
空虚重量: 2699 kg (5965 lb)
運用時重量: 3355 kg (7415 lb)
発動機: ミクーリン AM-35A 液冷V12気筒 レシプロ、993 kW (1350 hp)
最高測量: 640 km/h (398 mph, 346 kt) 高度 7800 m
航続距離: 820 km (510 mi, 443マイル)
実用上昇限度: 12,000 m (39,400 ft)
上昇率: 8000 m まで12分 (26,250 ft まで12分)
翼面荷重: 155 kg/m2 (39.3 lb/ft2)
馬力荷重(プロペラ): 0.30 kW/kg (0.40 hp/kg, 0.18 hp/lb)
兵装:12.7 mm UBS 機関銃 × 1、 7.62 mm ShKAS 機関銃 × 2

写真(右)1937-1938年頃、ソ連、ソビエト連邦空軍 ラググ(Lavochkin-Gorbunov-Gudkov)LaGG-3戦闘機:セミョーン・ラヴォーチキン、ウラジミール・ゴルブーノフ、ミハイル・グドコフの3名は1940年3月30日にLaGG-3を初飛行させた。、1941–1944年に6,528機が生産された。
LAGG3 Salo print PictionID:43100566 - Title:LAGG3 Salo print - Catalog:16_003585 - Filename:16_003585.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation ---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は, SDASM Archives・引用。


ラググ(Lavochkin-Gorbunov-Gudkov)LaGG-3 ラググ(Lavochkin-Gorbunov-Gudkov)LaGG-3戦闘機の諸元
全幅:9.80m
全長:8.90m
全高:2.57m
翼面積:17.50m²
空虚重量:2,620kg
全備重量:3,300kg
発動機:クリーモフ M-105PF液冷V型12気筒1,180馬力
最高速力:560km/h(575km/h)
航続距離:650km
実用上昇限度:9,600m
兵装:ShVAK 20mm機関砲×1、UBS 12.7mm機銃×1

写真(右)1941年6-8月、ソビエト連邦西部、ドイツ軍の攻撃によって破壊されたソビエト連邦空軍ペトリャコーフ(Petlyakov)Pe-2 ペシュカ(Peshka (Pawn))爆撃機:1939年12月22日初飛行のPe-2は、重戦闘機、偵察機としても使用された。装備したクリモフ M-105 液冷エンジン 1,050 hpは、信頼性が高かった。
Petlyakov Pe-2 Peshka (Pawn) Catalog #: 15_002211 Title: Petlyakov Pe-2 Peshka (Pawn) Date: 1940 Collection: Charles M. Daniels Collection Photo Album Name: Soviet Aircraft Page #: 4 Tags: Soviet Aircraft, Charles Daniels, Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives・引用。


ペトリャコーフ(Petlyakov)Pe-2 ペシュカ(Peshka (Pawn))爆撃機の諸元
ペトリャコーフ(Petlyakov)Pe-2 乗員: 3名
全長: 12.78 m 翼幅: 17.15 m
翼面積: 40.5 m2
空虚重量: 5,363 kg 運用時重量: 7,500 kg
最高速力: 540 km/h (高度5,000 m)
航続距離: 1,315 km
実用上昇限度: 8,850 m
上昇時間: 高度5000mまで9.3分
離陸滑走距離: 362 m
兵装 7.62mm 機関銃4丁
爆弾: 通常600kg, 最大1,000kg
生産数: 11,427機。


8.ソ蒙空軍などは日本の敵でない : 米国AP通信社ブ君の土産話
台湾日日新報(新聞) Vol: 第 47巻 Page: 125 出版年 1939-07-25
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100339173

【東京二十四日発同盟】各国特派記者と共に満蒙国境を視察し日ソ空中戦を観戦した米国A・P通信社東京支社ブライント君(二八)は二十四日朝東京駅着列車で約一月振りに帰京、左の如く語った

 向うでは二日か三日宛位数回に亘って前線を見て来た、我々の上空で行われた壮烈な空中戦も見ることが出来たが、日本航空部隊は実際に強い日本軍の飛行機は速力と行動性とも兼ね備えその上、操縦者の技術も攻撃精神も優れている、

ソ連機は僕の見た所では速力だけは速く只一直線に飛ぶことは得意であるが空中戦の高等飛行に必要な性能が欠けている様だ、又操縦者の技術は日本航空部隊に比べると遥かに劣って居り、ソ蒙空軍は日本の敵ではないと思った、僕が見た所でもソ連機の撃墜されたものは二十四、五機もあったと腕に掛けたレーン・コートの襟に付いた血痕らしいものを示しながら

 これは後方の日満軍の兵站病院を見舞った時満軍の蒙古人兵士の血がついたのですが、彼等も実に勇敢で日本軍の指導の下に優れた軍隊になっている、又撃墜されたソ連の飛行士等も日本軍の手厚い看護に非常に感謝している(ソ蒙空軍などは日本の敵でない : 米国AP通信社ブ君の土産話引用終わり)


9.第二次世界大戦の勃発前後,ソ連は欧州情勢を重視し,日本はアジアの英仏蘭の植民地支配を重視する。ともに,極東方面で積極的攻勢に出る必要性は低下した。

ノモンハンの大規模な国境紛争は、1939年8月31日,第二次大戦勃発の直前に停戦となる。ソ連はドイツがポーランドに9月1日に侵攻することを知っていたし,その後,ソ連はドイツとの秘密協定に基づいて,ポーランドの東半分を軍事占領してしまう。英仏の参戦は9月3日で,これは英仏とポーランドとの相互援助条約に基づいたドイツに対する宣戦布告である。ただし,ソ連には宣戦布告していないのであって,外交の権謀術数を見る思いがする。

ノモンハン事件では,ソ連側は死傷者9284名の損害を出したとされていた。しかし,ソ連崩壊後明らかになったソ連側死傷者の数は,2万3,926名であり、その内、死者は6,831名、行方不明1,143名、重傷1万5,952名だった。つまり、日ソ両軍とも大損害を被っている。日本がソ連を恐れたように、ソ連も日本軍の強さを認めざるを得なかった。

⇒ノモンハン事件後の1939年の独ソ不可侵条約と1941年の日ソ中立条約を見る。

ソ連にとって,ドイツが共産主義ソ連を憎悪し,東方生存圏を提供できるソ連を,いずれ攻撃してくることは確かであった。スターリンは,ソ連西方からの脅威を意識して,急遽,極東方面の安全保障,すなわち日本との中立条約を有用と判断したのである。第二次大戦の勃発で,日本が南方熱に浮かされており,北方のソ連へ攻撃してくる可能性は低い。しかし,日独伊三国軍事道目を重視すれば,ドイツのソ連侵攻とともに,日本もソ連に攻撃を仕掛けてくる可能性がある。そこで,日本を,中国と東南アジアに侵攻させるために,北方の安全保障を約束したのである。ソ連の優先事項は,ドイツ,欧州方面であり,極東方面は二次的でしかなかった。日本にとっても,優先されるのは南方侵攻であり,満州以北ではなかった。共産主義国家とファシズム天皇制国家との国益は一致した。


2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャ
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
ソ連赤軍T-34戦車ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov


当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。

連絡先: torikai007@yahoo.co.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
Flag Counter
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 6000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai Yukihiro, who is web archive maintainer.


Copyright © 2023 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.