鳥飼行博研究室Torikai Lab Network
米中接近:日中戦争と米国の対中外交 2008
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◆米中接近:日中戦争までの米国の対中政策の変化 ◇ Sino-Japanese War
写真(上):上海でダンスに興じる米国駐屯軍軍人と中国民間人
:1937年頃。米国アジア極東艦隊旗艦は軽巡洋艦オーガスタで,上海に根拠地としている。その将兵たちと中国婦人との交歓が盛んに行われた。

写真(右):1937-38年頃、日中戦争で亡くなった戦友の遺骨を伴って、広島に帰郷した日本兵(1937年11月5日撮影)。「紙屋町で下車した遺骨。第五師団の兵士は朝鮮・満州をへて中国北部を転戦、一部は1937年末から南京攻撃にも加わり、さらに翌年春、本隊は徐州(シェイチョウ)攻撃などに参加しました。---多数の兵士の遺骨が、白木の箱に納められて宇品港に帰還しました。」 出典:歩兵第十一連隊史

◆2015年10月4日,日本テレビの放送した「NNNドキュメント:南京事件;兵士たちの遺言」について産経新聞が「南京陥落後、旧日本軍が国際法に違反して捕虜を『虐殺』。元兵士の日記の記述と川岸の人々の写真がそれを裏付けている―そんな印象を与えて終わった」「被写体が中国側の記録に残されているような同士討ちや溺死、戦死した中国兵である」と批判した。残虐行為は敵中国軍の仕業だという陰謀説が繰り返される背景には「平和ボケ」が指摘できる。日中戦争当時、日本は、中国の混乱・腐敗を正し、東アジア和平をもたらすために聖戦を遂行しているのであり、聖戦で敵を殲滅(殺戮・破壊)した戦士は勇者・英雄で、その戦果は称えられた。この当時の実情を知らずにいるのが「平和ボケ」である。「殺戮は残虐行為だ」との戦後平和教育の常識は、日中戦争当時には当てはまらない。日中戦争当時も敵殺戮が残虐行為として認識されていたという誤解が「平和ボケ」である。戦時中、敵殲滅は英雄的行為として、新聞等のメディアでも国民の間でも称賛されていた。敵殺戮が悪いことだと批判する声は上がらなかった。だから、日本兵も堂々と敵を殲滅・処刑し、それを英雄的行為として誇った。中国兵を殲滅した日本軍の戦果を、捏造されたものだと否定したり、銃殺は敵中国の督戦部隊の仕業だ、捕虜が脱走しようとしたから射殺したと言い放ったりする行為は、日本軍を侮辱するに等しい。こんな侮蔑を放言する日本人は当時いなかった。戦争観・人権の歴史的変遷に無知であれば、「平和ボケ」に陥り、「日本人が敵を虐殺をするはずがない」と誤解してしまう。

遂げよ聖戦 」1938年
作詞 紫野為亥知・作曲 長津義司

皇国(みくに)を挙る総力戦に、成果着々前途の光
蒋政権が瀕死の足掻(あが)き、他国の援助何するものぞ
断乎不抜の我等が決意、遂げよ聖戦長期庸懲(おうちょう)

見よ奮い立つ都を鄙(むら)を、総動員の何も違わず
伸び行く我等の産業力は、広く亜細亜の宝庫開かん
ああ聖戦は破壊にあらず、遂げよ聖戦長期建設

挙(こぞ)れ国民心を一に、緊襷(きんこん)一番勇士を偲び
稼げ働け花を去り実に、経済戦に終わりはあらず
我は期すなり永遠の平和
遂げよ聖戦輝く東亜、遂げよ聖戦輝く東亜


軍武次位面 第三季 第15期中国徳械師 抗戦初期徳国援華内幕

◆日中戦争初期、中国軍のなかにドイツ軍式装備の部隊が編成された。ここに優先して迫撃砲、高射砲、ドイツ製戦車が配備され、重装備の部隊が対日戦争に準備された。日本軍の装備は、アジアでは火力、機械力、航空兵力とも優れていたから、これに対抗するために、中国軍にドイツ軍装備の精鋭部隊が育成されたのである。第二次上海事変(淞?会戦)の最中、これらの部隊は日本軍に対抗し、血戦四昼夜にわたり抵抗し,主力が撤退するのを援護することに成功した。こうして、上海事変で登場した中国軍ドイツ式装備部隊「中国徳械師」は歴史上名を残すことになったと(以上、中国のオリジナル解説翻訳)。
◆2009年4月、エグゼクティブプロデューサー(总制片人)韩三平、ディレクター陆川(Chuan Lu)による《南京!南京!》City of Life And Death)が華々しく公開された。豪華なwebsite宣伝は商業的、芸術文化的成功作を目指しているように見えてくる。日本では、2011年8月21日、東京での一日上映会が行われただけである。
◆2011年8月17日asahi.com「古びた従軍手帳」に関する南京事件関連記事を複写保管。
◆当サイトでは,日中戦争以降,アメリカが日本に反する行動をとり、そして世界大戦に参戦し戦いに至る要因を検証する。

1.アジアの内紛,残虐行為の頻発のため,列国はアジアを軽蔑し,あるいは指導する地位にあると考えた。アジアの平和と繁栄のためにも,列国の介入は当然であるとして行動した。 

1937年7月7日の盧溝橋Marco Polo bridge事件は,北京(首都でないので正式には北平)の郊外に駐屯していた日本軍と中国軍の一時的な武力紛争である。きっかけは,日中両軍接近している中で夜間演習中に日本兵1名が行方不明になり(後日帰還),その捜索のために,日本軍が北京市内(城内)に突入しようとしたためである。

北京郊外に日本軍がいたのは,35年以上も前に国際的にも認められている小規模な軍隊の駐屯権があったためである。1898年の義和団の乱に便乗して,外国勢力を排撃しようとした清朝は,日,米,英,仏,独,露,伊,墺の列強八カ国に宣戦,北京の大使館を攻撃,包囲する。しかし,日本軍1万3000名など7万の八カ国連合軍の攻撃を受け,清朝は降伏する。この戦争は,日本では北清事変と呼ばれる。


20世紀初頭の中国の絵葉書(上):満州における罪人の処刑。
:大きな足枷をし,首を刎ねる。「蛮行」の記念絵葉書が多数残っているのには驚く。現在でも,コレクションの蛮行絵葉書は販売されているが,価格は1枚50-150ドルである。これは,町並みの絵葉書の2-5倍の価格で,依然として「蛮行」の人気は高い。英文の紹介説付きなどは,外国人向けか。,1901年に清朝は列国に降伏したが,国内的には人権蹂躙,残虐行為を平然と行っている(ように思われた)。

清朝を敗北させた列強八カ国は,4憶5千万両を関税、塩税を担保として39年間で受け取るほか,公使館区域を定め、その防衛のために外国軍隊を常駐させるという駐屯権を獲得した。

義和団事件のとき,地理的にも近かった日本は,列国の中で派兵数も多かったが,国際協調(=列国への追随)を行っていたため,批判されるどころか,小国なのに多大な国際貢献をしたと評価されている。日本の歴史学者でも,中国に派兵した日本は軍紀厳正で,よく任務を全うした,列国からもお褒めの言葉を賜った--ことを持ち上げる方がいるほどだ。

1900-1901年の北清事変では,八カ国連合軍が,北京を始め,中国各地を占領した。そして,中国の地方政府や官憲の協力を得て,義和団加盟者や共和主義者など反政府的人物を処刑し,治安を安定化しようとした。これは,江南地方の中国の財閥や欧米資本が,社会主義思想を徐々に警戒し始めた頃の話である。

まだロシア革命も起こっておらず,反共白色テロではないが,中国や朝鮮の排外主義者,民族主義者を邪教崇拝者あるいは皇族への反乱者として,処刑した。


写真(左):義和団事件の首謀者処刑
:1900年。Execution of Boxer Leader, China, 1900 (courtesy of Keystone-Mast Photographic Archive)

中国では,皇帝に対する犯罪は重罪であり,公開の場で,残虐な処刑をされていた。これは,目を覆っても気分が悪くなるような処刑である。例えば,1905年5月25日の皇族殺害事件の容疑者は,身体を切断したり,生皮をはいで肋骨を露出させたり,ゆっくりと切り刻んで殺害したりする,とても目視できないような残虐な方法で処刑された。出典にも”A man committed a crime for murdering a royal family member. He was first sentenced to death by "lighten the heavenly torch" (burn to death), but the emperor thought it would be more "human" to just cut him to death. This cruel penalty was called "Ling-Chi", the person would be cut live then slowly die, the executioner had to avoid the primary blood vessels so the poor guy would not die too quickly from bleeding (if the man died too quickly the executioner might receive a death penalty too!). The record showed some of this penalty might last 20 days before the person punished died ."とある。

処刑執行者も好き好んで残虐な殺害をするものばかりではないであろう。制度,組織の中で,そのような残虐な処刑を執行するように言い渡されれば逆らうことはできない。1900-1901年の義和団加盟者も,中国官憲に残虐な処刑を執行されている。清朝は,八カ国連合軍に対して宣戦布告したのを後悔して,列国に謝罪のつもりで,義和団関係者に残虐な処刑を執行したようだ。捕らえられた容疑者は,適切な裁判手続きもなく,公衆の面前で,罪状を書いた大きな札を背負わされ,見世物にされ,処刑された。


絵葉書(左):首枷を付けさらされる罪人
(上海,撮影は1901年頃か)(右):1911年辛亥革命の惨禍;「12月3日夜半,街において叛徒に虐殺された」と日本語の解説が下についている。差出印は天津。米,英,日など列国は,中国は野蛮な国であり,人権の概念がないと考えていた。忌むべき風流が蔓延していると。

中国では,外国人が行政権と警察権を握っていた地域,すなわち租界がアヘン戦争以来,大都市,開港場各地に設けられた。これは,治外法権の当てはまる地域である。また,中国から鉄道敷設権を得た国は,鉄道付属地を租界と同じようにみなしていた。そこで,列強は中国に圧力をかけ,公使館の護衛,租界の治安維持,鉄道付属地の警備などの名目で,1地域につき400-1000名程度の小規模な警備兵力を,駐屯権の枠組みで認めさせていった。

写真(右):上海白色テロ:1930年。中国国民党が,共産党系の容疑者を政権から排除し,労働組合運動を煽動するものも同じく処刑した。

1927年の上海反共クーデターあるいは白色テロでは,国民党が共産主義者や反国民党的な人物を,上海で処刑し,政権から中国共産党の影響を排除しようとした。これは,江南地方の中国の財閥や欧米資本が,ロシア革命以来影響力を持ち始めた社会主義思想を警戒するようになったため,中国国民党も,政権強化と中国財閥,外国資本の支援・支持を期待して,反共クーデターに及んだと推測される。

1930年の上海の白色テロでも,市内で,多数の共産容疑者や労働組合のオルグ,社会主義の煽動家(メディア関係者)が捕らえられ,処刑されている。適切な裁判手続きもなく,公衆の面前で,罪状を書いた大きな札を背負わされ,見世物にされた後に,銃殺刑に処せられた。1930年代では,1900年代初期と思われるの絵葉書から,罪人に対するものとはいえ,残虐行為と映るものが残っている。革命もやはり惨禍を招くものとして認識されていた。

写真(右):上海白色テロでの処刑者:1930年。罪状を記した板を背負わされたまま銃殺され,見せしめとして放置される。中国人同士がこのような殺害をしていた。

こうして中国は人権に配慮しない「野蛮な国」であるという悪評,軽蔑を広めてしまった。その野蛮な国を平和な文明国に作り変えるのが,列国,欧米人の役割,キリスト者の義務であるという,(思い上がった)気持ちが生まれてくる。そして,日清戦争,日露戦争と戦いを繰り返すたびに,優秀な民族,冠たる国家の概念が日本人にも徐々に広まっていった。世界の強国を倒したことが,日本人の自信を与えたが,それが行過ぎると慢心,暴慢に至ってしまう。

日本も,アジアから抜け出て米英列国の仲間入りを目指す。民間人・教育者を貫いた福沢諭吉も「脱亜入欧」(亜細亜を脱して,欧州に仲間入り)を国是とすべきと考えていた。1941年12月に開戦した太平洋戦争は,白人によるアジア植民地支配からアジアの人民を解放する戦いであった,と主張すれば,それ以前の日本の親米英外交をどのように釈明するのか。孫文のような革命家,思想家もいたが,中国の革命を支援しようとした日本の軍人は少なかった。

写真(右):中国官憲による斬首(1900年頃);CHINA - Beheading a native (Real photo, Unused Postcard). $80.00 このような絵葉書が世界に出回っていたのが20世紀前半の状況である。人権を無視した行為も、敵・悪・罪とされれば、当然のように晒されたのである。世界各地の極刑は死刑であり、なかには死に至らしめるまで、苦しめたり,晒したりする処刑もあった。

罪人に対する処刑も残虐であったが,革命家や民族主義者も反社会的で,惨禍を招く犯罪者として認識されており,残虐な刑罰も正当化された。換言すれば,人権意識がなく,人権が擁護されていなかった時期には,犯罪者に対して厳罰を持って書して当然であるとの意識があった。

残虐な処刑は,日本も同様である。国内では,明治時期,「さらし首」「斬首」など残忍な刑罰を廃止したが,士族の叛乱を鎮圧した後,江藤新平など多数の謀反人が,さらし首に処せられた。日本も,当時、このような刑罰は,権力や国家に反抗する謀反人には当然であると考えた。あるいは残忍な処刑をしないと,政府の権力保持が困難になると思案した。いずれにせよ,犯罪者の矯正にはほとんど関心が向けられていない。犯罪者の厳罰主義が横行していた。

中国人の残虐性を指摘する日本人もいる。これは,北清事変における中国華北の通州での日本人惨殺,盧溝橋事件後の通州での日本人惨殺などの事例から主張される。しかし,朝鮮半島での反日活動や朝鮮独立運動参加者への弾圧をみれば,日本人も残虐であるという韓国の主張も成り立ってしまう。

写真(右):朝鮮の反日運動容疑者の処刑:1907年撮影。出典には「日本軍は,抵抗運動の容疑者をしばしばテロの対象にした。Japanese occupation troops frequently engage in terror tactics, executing anyone suspected of being involved with the resistance. 」とある。

朝鮮を植民地化しようとした日本は,朝鮮人の抵抗運動に直面する。そこで,日本は日露戦争後,ロシアに遠慮なく駐留していた日本軍を使って,併合に障害になる軍事力,すなわち朝鮮軍を無力化しようとする。これは,朝鮮軍の武装解除・解体であるが,むざむざ武装解除されてしまうのでは,軍人の名誉が汚される。朝鮮軍は,日本軍と衝突し,1907年には民衆も巻き込んで大規模な反乱が起こった。

日本軍は,反乱者は反社会的な重罪人として,処刑し,斬首や銃殺刑が行われた。もちろん,大規模な反乱鎮圧に当たって,反乱容疑者の裁判が適切に行われた形跡はない。日露戦争までは,国際法に基づいて捕虜を待遇したように言われるが,併合しようとした朝鮮での反日活動の弾圧・鎮圧は凄まじい。

にもかかわらず,併合された朝鮮は日本領であり,「植民地でなく,日本と同じである」と抗弁する方もいる。しかし,朝鮮の人々に(朝鮮の日本人には適用される)大日本帝国憲法の規定は適用されない。だから,帝国議会への朝鮮人代表者は一人もいない。憲法における参政権,兵営,教育から,会社法,不動産法規,株取引,商店経営などでも,朝鮮人の権利は日本人より不利な立場であり,不平等であった。


写真(上):朝鮮の反日活動参加者の処刑
:1907年。出典には「日本軍は,朝鮮抗日運動の闘士を鎮圧した。1919年3月1日の三一独立運動。この運動に参加した朝鮮人1万8000名が1919年10月までに投獄された。(左)Executions follow swiftly, as the Japanese authorities seek to regain control and authority.(右) Activities and demonstrators are arrested and summarily executed by the Japanese military police.Japanese troops are used to combat the Korean resistance movement fighter.」とある。

日本軍は,反乱者は反社会的な重罪人として,処刑し,斬首や銃殺刑が行われた。日本国内でも,江藤新平による佐賀の乱のなど日本人叛乱首謀者には,斬首・晒し首のような残虐な処刑を特別に課した。もちろん,朝鮮の反乱鎮圧に当たって,反乱容疑者の裁判が適切に行われた形跡はない。日露戦争まで,捕虜を厚遇したように言われるが,朝鮮での反日活動の弾圧・鎮圧は凄まじい。

1910年の朝鮮併合の後は,朝鮮語の使用禁止,創氏改名など朝鮮文化の否定,民族アイデンティティ粉砕が行われ,朝鮮王族には必ずしも支持をしてこなかった人々までも,朝鮮独立運動を支持するようになる。王党派,民族主義者から共産主義者まで,広い階層に支持を得た独立闘争がおこった。日本軍は,これを鎮圧したが,日本への反抗が二度とおきないように,抵抗運動の撲滅,反日活動家の殲滅を図る。敵対者や潜在的敵対者を,適切な手続きを経ないまま,処刑していった。

写真(右):中国南端ベトナム国境ラオカイにおける公開処刑:1900年頃撮影。フランス語の解説がついている。フランス植民地のインドシナから発信された絵葉書。CHINA - Hokeou : Chinese criminel crucified on the border with Vietnam (Canceled to order Postcard). $80.00。

独立運動の弾圧は,民族主義の熱にうかされて反乱という熱病が広まらないようにする予防戦争ともなっていく。つまり,反乱の参加者だけではなく,反乱に参加しそうな恐れのある人物,反日的傾向がみうけれれる人物まで,処罰しようとする厳罰主義である。

こうして中国,朝鮮,日本では人権に配慮しない「蛮行」が横行する。このような悪評,風評も列国に広まり,アジアは軽蔑される。その野蛮な国を平和な文明国に作り変えるのが,列国,欧米人の役割,キリスト者の義務であるという,(思い上がった)気持ちも生まれる。

日本では,自ら野蛮なアジアから抜け出て,米英列国の仲間入りを目指すようになる。民間人・教育者を貫いた福沢諭吉も「脱亜入欧」(亜細亜を脱して,欧州に仲間入り)を国是とすべきと考えていた。

2.中国でのアヘン吸引、ヘロイン常用の悪習は、列国からは軽蔑されたが、財政上、日本も含めた列国の収入源となっていた。したがって、列国が中国におけるアヘン・ヘロインの悪習を蔓延させたともいえる。

写真(左):アヘン吸引変:上海のアヘン吸引者。

1858年天津条約は,第二次アロー号戦争the Arrow or Second Opium Warの結果結ばれたが,ここではアヘン貿易が公認され,台湾が外国貿易に開放された。1864年までに,高雄Takao に外国人居住区ができ貿易やアヘン生産も本格的に始まった。アヘン吸引の風習は,中国人の上層階層にも広まっていった。つまり、英国がインドで生産したアヘンを中国に売却したことから、中国におけるアヘン吸引の悪習が蔓延したといえる。アヘンの売却で、英国は膨大な銀を獲得し、貿易の利益をあげることができた。

台湾でも、19世紀末までに20万人ものアヘン吸引者opium-smokersが存在した。1900年の台湾人口は300万人以下と推計されるから,アヘン吸引者の成人比率は20%以上であったと考えられる。1894年の日清戦争後の1895年の下関条約で台湾は日本領となった。つまり,アヘン産地が日本の植民地になったのである。

写真(右):上層階層のアヘン吸引者(1930年代)。

1900年までに,後藤新平の台湾政府には,16万5,752の公認アヘン吸引所が登録されている。 そして,そこに通っているのは人口の6%であり,アヘン吸引者における女子の比率は5%であった。1900年では,台湾では438,812lbs,すなわち200トンが販売され,460万円の売り上げであった。この額は,台湾の政府支出の20%に相当する額である。1920年に,日本は2,000kg以上のコカインcocaineを生産し,1922年には2倍の4,000kgのコカインを生産している。

日本の植民地台湾の財政基盤は,アヘン売買に依存し,間接的にアヘンの害毒を中国人に広めることに寄与していたのである。

写真(右):台湾台北の公認アヘン取引所(1910年頃):アヘンの塊が山積された倉庫。台湾の重要な財政収入源となった。Unpacking opium cases at the Government Opium Factory in Taihoku (Taipei)。

1918年以前,上海のアヘンは英国によって取引されえいたが,第一次世界大戦後は,フランスと通じた中国のギャング緑衣社Green Gangがアヘンを取り仕切るようになった。1920年代,フランス租界から共同租界International Settlement間で,ギャングの抗争を勝ち抜いて,巨大なシンジゲートsyndicateを作っている。年間10トンもヘロインheroinを西洋から輸入するようになった。

労働組合や共産党の勢力が強まることを恐れた国民党の蒋介石は,1927年4月12日,上海反共クーデターを起す。Tuと緑衣社は,国民党に接近し,労働組合員や共産党員など国民党に敵対的な勢力の排除に協力する。ギャングは,公開処刑も含む白色テロの実働部隊として活躍した。 Tuは,中国全土でのアヘンやヘロインの取引を仕切るようになった。

写真(右):北京のカトリック大学における米第4海兵隊のコンサート:1940年7月。1937年7月7日に北京郊外で盧溝橋事件がおき,日本軍が北京を支配しても,列国の駐屯部隊はそのままとどまった。列国は中立を維持していたから。

3.中華民国が成立し、孫文の黄浦軍官学校とそれを引き継ぐ「国民革命軍」には、共産党も国民党も参加し、中国、中国軍の意識は着実に芽生えていた。しかし、日本では、中国は軍閥・私兵により支配され中国人といった国民概念は存在しない、と誤って認識していた。しかし、民衆の国民意識も高まっており、中国人と外国人の交歓と交友が拡大していった。中国での高等教育の普及と相まって,相互理解が進み,米国,英国では対中国感情,中国の対米英感情は好転した。それに伴って,取引関係,友人関係も確立されていった。

駐留軍といっても,戦争にならない以上,警備任務と外交的儀礼のための式典など儀仗兵的任務が大切である。外交には,現地住民と友好関係を築くための交歓,コミュニケーションも含まれる。これは,ダンスパーティー,コンサート,スポーツ競技会,市中パレードである。

写真(右):上海における米海兵隊第4連隊バンドメンバーと中国人:1935年頃。

米国と英国の駐屯軍の兵力は,1200-1400名で,中国の権益を守るとはいっても,中国軍と直接戦闘するための軍隊ではない。あくまで,抑止力として,毅然とした態度で,敵軍に臨めばよく,本格的戦闘に耐えられる装備も陣地も持ち合わせていない。そこで,現地との友好関係を築くことが,居留民,権益の保護に間接的に結びつく。当時のバーの運用規定や,トイレ入口の英語と中国語の看板を見ても,米国が中国人に友好的に振舞っていたことが窺い知れる。中国に駐屯した日本軍の兵士たち(支那駐屯軍)はどうだったのであろうか。

このような楽しく有意義な地域コミュニケーションから,駐屯軍の対中国感情は好転して行ったようだ。居留民もビジネスで,中国人ビジネスマン,政治化との交流があり,友好的関係,取引関係が確立してくる。

教育機関や人材育成の成果も大きい。 アヘン戦争以前から,キリスト教の宣教師,牧師が中国に派遣されていたが,租界では,布教の自由が保障されただけでなく,不動産の取得や教会・学校の経営も認められた。そこで,多数のミッション系教育機関が作られている。フランスもカトリック教会学校をフランス租界に建設した。教育対象者,フランス人のほかに,中国上流家庭にも開放されたクラスがあったようだ。

写真(右):上海におけるフランスのカトリック系学校:1917年撮影。中国人の生徒と中国人の修道女教師(右)。カトリック系学校にあって,言語の問題もあって,中国人の教師も配備されていた。教員養成も行われていたのであろう。日本人のいた共同租界では,中国人教育も不振だったから,中国人教師の養成にも手は回っていないであろう。何しろ,20世紀末,日本人師弟数百人が滞在するバンコクでも,タイ人教師の育成がされていないのだから。タイ人はメイド,家政婦,ガードマン,雑用係としてのみ雇用される。多分,当時の中国における「日本人学校」も同様であろう。これでは,反日プロパガンダ,抗日活動に際して,現地の中国人の日本支援を得ることはとても無理である。人を使うだけで,育てないものが,積極的に擁護されることはない。

他方,日本人のいた共同租界では,日本人学校として,現地の中国人への教育は不振だっ。また,中国人教師の養成を進めたわけでもない。中国人は,メイド,家政婦,ガードマン,雑用係,掃除人,料理人としては雇われたであろう。これは,中国人と日本人は対等ではないという認識が広まっていたことの現われである。例外もあったであろうが,上海で英国人教師から英語を教わった日本人子弟は多いが,中国人教師から中国語を教わってはいないようだ。

写真(右):1888年香港医科大学Hongkong College of Medicine 卒業生孫文:Alice Memorial Hospitalの2階で撮影。香港医科大学1888年。

そもそも,満州国を建国したということ自体,偽りであった。満州に移民した日本人は,イツまでも日本人であり,「満州人」にはならなかった。日本語の生活圏を形成し,その中で中国人,朝鮮人,満州人を使った。租界でも,満州国でも,日本人は,公務員採用・昇進,会社設立,不動産取得,住居,教育,医療で優遇されていた。この日本人の優遇措置が,日本人の優越感の支えであり。法律,経済の上で,制度的にも日本人優位が保障されていた。このような優遇状態にある日本人は,それが優遇によっているというよりも,民族的優秀性に依存していると考え,非日本人に対する差別意識が増長したのは,無理からぬところである。

つまり,人を使うだけで,育ててはいない。だから,1937年以降,中国政府や共産党が,反日プロパガンダ,抗日活動を協力に押し進めたときも,現地の中国人の日本支援を得ることはとても困難であった。日ごろ命令はするが,家族ぐるみのコミュニケーションをとっていないので,積極的に日本人を擁護する者はほとんどいない。

写真(右)::1928年。香港大学の学生によるアート・プレー。満州事変以前から,このようなモダンな文化を中国人大学生が吸収していた。

宗教だけでなく,科学の分野でも,教育が盛んになる。 香港医科大学は,1888年に中国革命の英雄孫文(Dr. Sun Yat-sen)は初めての香港大学卒業生だったが,当事卒業したのは2名に過ぎなかった。しかし,そのごも順調に卒業生を各界に送り出し,1908年には香港大学医学部に再編された。香港大学は,1910年代初頭に,キャンパスを整備し,モダンな巨大校舎を次々新築している。列国の中国への進出は,教育・科学,衛生・医療さらには産業,交通などの改善を伴ったとして,現在でも列国の中国進出を肯定する人があるのは,このような側面を過大評価してのことである。また,中国租界における欧米趣味は,日本の勧めた脱亜入欧と同じように,アジア相互の草の根の連帯を阻害することになった。中国も日本も米英には媚いるような行動をとったが,お互いは非難しあうようなる。例えば,1937年12月,アメリカ海軍砲艦「パナイ」を爆撃した日本の迅速な謝罪,日本庶民の謝罪表明とそのプロパガンダは,その典型である。

写真(右):1927年上海の写真スタジオの大学生たち:上海フランス租界でも,フランス流の高等教育を受けた中国人女子が誕生していた。共同租界の日本の高等教育機関では,教員には米英出身者もいたが,学生は日本人で,中国人はいなかったようだ。

1937年には上海でも,香港大学協会(卒業生OB会)盛大に開催されている。欧米列国はミッション系の大学,高等教育機関に力をいれ,現地中国人への教養,技術を磨き,自国に親近感を抱かせた。このような優秀な人材はエリート教育の典型であり,大学に入学するにも資力,家柄が大いに関連していたかもしれない。しかし,学生(と保護者)の経済力・能力と相まって,中国の政治,経済,文化,技術,軍事を指導するような位置についていく。

蒋介石のように,日本の陸軍士官学校で学びながら,抗日全面戦争を指導する人物を送り出した日本。日本の思想や日本人に好感を持ちながらも,日本の大陸政策には反対した魯迅,孫文。これらの事例から見ると,日本で学び,日本に滞在した中国人でも,日本との協調あるいは日本への服従・従属はとても無理であった。となれば,日本に親近感を抱いけない中国人にとって,日本は英米列国よりも遠い存在になってしまうであろう。

男尊女卑の中国にあって,列国の高等教育機関は,中国の女子教育にも力を注いだ。香港大学の初の女子卒業生は,Miss Irene Ho Tung, B.A.で,1925年のことである。フランス租界にもフランス系の高等教育機関があり,フランス人だけではなく,中国人の上流師弟も教育を受けていた。女子もモダンな服装でめかし込んで,写真スタジオで1927年に撮影した写真も,残っている。

写真(右):悪の権化フー・マンチュウ:1935年頃。1930年代に米国・メキシコで有名だった魔術師フー・マンチュウ(芸名)。その名前は,悪役(犯罪王,悪の権化)として,コミックや映画で搭乗した。「満州」は野蛮な悪人で,スコットランドヤードの英国人に悪巧みを阻止される。The Blood of Fu Manchu, Vintage Poster Dimensions: 27x41 inches (69x104cm) approx. Price :£75.00。

高等教育を終えた女子の社会進出は,都市におけるビジネスや行政,教育などに限られていたかもしれない。その意味で,農村女性やそこでのジェンダー不平等については,社会問題が根強く残っていたであろう。しかし,彼女たちのエリート意識は,卒業後の社会活動に誇りと自信を与えたに違いない。蒋介石夫人の宋美麗と同じように,キャリアウーマンとして活躍したのではないか。

もっとも,中国人や「満州」が,米国や英国で好意的に受け入れられたわけではない。フー・マンチュウFu Manchuは,1904年英国生まれの魔術師である。しかし,サックス・ローマーSax Romerは悪の博士The Devil Doctor,あらゆる犯罪を陰で操る悪の権化ともいえる中国人というキャラクターであるフー・マンチュウFu Manchuを作り上げた。フー・マンチュウは, スコットランドヤード(英国警察)の警部Scotland Yard Inspectorであるネーランド・スミスNayland Smithによって追われる悪役中国人である。米国でも,コミックで悪役として登場し,1938年にはSF映画「フラッシュ・ゴードン火星への旅」"Flash Gordon's Trip to Mars" で悪の帝王としても登場させている。「満州」は世界制覇をたくらむ悪役,犯罪者と決め付けられてるいた。1966年になっても,英国では「フー・マンチュウの花嫁」The Brides of Fu Manchuというオドロオドロシイカラー映画(91分)が作成されている。

写真(右):映画の中の悪役フー・マンチュウ(左):1938年SFコミックを映画化したSF映画"Flash Gordon's Trip to Mars" Larry "Buster" Crabbe Universal(1938年)の悪の帝王としても出演している。「満州」は宇宙制覇をたくらむ(中国人風の)悪役宇宙人と決め付けられた。フラッシュ・ゴードンは,金髪青い目の白人。もちろん,米国に金髪青い目の白人はほとんどいないのであるが。

もちろん,フー・マンチュウは,日本が建国した満州国と直接は関連しないが,満州のイメージが,教養抜きに「犯罪者の中国人」という偏見に依存し,そのような偏見を助長していることは間違いない。民族差別,人種差別が当たり前であった時代,遠くはなれた異郷に対する認識は,必ずしも好意的ではなかったのである。

しかし,中国に居住する米国人,英国人,屯軍兵士は,実際の中国人に接する機会が多かった。彼らの対中国感情は,高等教育を受けた中国人や,親しみやすい庶民に接するうちに,義和団事件のときの野蛮な中国という意識は低下し,文明開花しつつあるという(驕りはあるが)良好な感情に変わっていく。このような教育,文化の好ましい点も,現地の情報として,大使館・領事館といった外交ルート,軍のルート,市民のルートで米英の政府・市民は吸収していく。そこで,親中国的な世論も踏まえて,米英の対中国政策は好転していったと考えられる。

写真(左):1937年香港大学協会上海支部:中国の政治経済の中枢の上海でも,欧米流の高等教育を受けた中国人が活躍していた。日本への留学生はどうなったのか。

居留民もこのような大学卒業生には,対等に接してくれる。中国人卒業生も誇りを持つと同時に,教育を受けた英国,米国に対して,親近感を強めていく。ビジネス,文化教育で,各国国民の交流が深まり,友好的関係,取引関係が確立したてきたといえよう。

他方,日本の居留民は,米国ビジネスマンとは違って,中国人ではなく,同じ日本の居留民を対象とした商売をしていたようだ。価格競争では,きつい労働を厭わない中国人に負けてしまうからである。さらに,日本の駐屯軍は,現地住民とのコミュニケーション以上に,軍事演習な内務班勤務に時間を費やしていた。筆談など,中国語ができない兵士でも意思疎通が可能であったから,現地住民との友好関係も多々あったようだ。しかし,軍事作戦重視であれば,個人的感情がそこに入り込む余地はない。

◆米中接近;日米開戦への道 ◇ Sino-Japanese War (1937-1945)

写真(右):1937年7月7日,盧溝橋事件日本の一方的攻撃による中国侵略にたいして,中国は抗日戦争を行うとの主張は,中国共産党でも行われた。

中国の野蛮な行為を嫌悪し,中国の内紛を政治的力量不足として軽蔑していた列国の対抗は,1931年の満州事変以降,大きく変化してくる。これは,辻のような理由がある。

?国際協調,機会均等の下にすすけるべき,列国による中国の半植民地化あるいは指導を,日本だけが突出し,特殊権益を求めるようになった。
?中国が北伐を完了し,国内を国民党政府の下に統一した。
?中国の居留民,駐屯軍が,中国人とコミュニケーションをとるうちに,中国に好意的となった。

写真(右):上海上空の中華航空DC-2旅客機(1937年):米国のダクラス社製の大型旅客機を購入して,中華航空が中国内外に空路を開いた。米国のパンナム社も上海と米国を結ぶ空路を,飛行艇によって維持していた。

他方,日本は,一国だけで中国を支配する勢いである。日本は,傀儡国家満州国を建国し,東北地方に特殊権益(列国の中で日本だけが優越する権益)を確保しただけでなく,北京,上海,南京の占領してしまうのである。

1.日本が華北・華南へ侵攻したことで,列国の日本への反感が高まる:盧溝橋事件・第二次上海事変

日本軍は,居留民を保護するとの当初の目的は,戦火拡大の前に達成困難になる。居留民の声明財産の保護であれば,戦火を収める停戦こそがふさわい。1937年7月7日の盧溝橋事件で北京・天津の戦闘に続き,戦火は華中の江南地方に及ぶ。これが,第二次上海事変である。

写真(右):1937年第二次上海事変:上海フランス租界に中国人地区から難民が流入してきた。境界を守るフランス警備隊。中国人は,日本軍が攻撃してこないフランス租界に逃げ込もうとした。しかし,フランス側は,無制限な難民の流入は許さなかった。

支那派遣軍の司令官を大元帥天皇から拝命した松井大将は,日本軍の兵力を増強して「江南附近一帯を掃蕩---駆逐するの必要を認め、遂に南京攻略に進展する」ことを決心する。北京近郊での盧溝橋事件から1ヶ月で,華中の江南地方で大規模戦闘が起こることを,日本軍が予期していたかとなると疑問である。

しかし,暴虐な中国を懲らしめるという政府の方針からいえば,折檻する場所は華北に限定されない。華中で中国が傍若無人に振舞うのであれば,それを懲らしめることは,既定の方針ということになる。江南地方への日本軍増援は,政府の方針からみれば当然であった。決して,「中国軍との戦闘に巻き込まれて増援部隊を派遣した」のではない。自ら,暴虐な中国を懲らしめに,「暴支膺懲」のための増援部隊を上海に派遣したのである。中国側の挑発というが,共同租界に留まっていれば,中国側は日本軍だけを追い出すのは困難であった。

写真(左):上海駐屯の米海兵隊と中国軍(1937年9月12日Peter Kengelbacher撮影):米英日などの共同租界と中国地区の境界には,鉄条網が張られている。手前の米海兵隊員と奥の中国兵は友好的な関係にあるようだ。

日本海軍陸戦隊も,死を恐れない兵士であれば,そのまま留まって劣勢の中交戦を続け,万が一全滅しても,敗戦ではない。中国には,対日戦闘勝利の幻想を抱かせるが,共同租界(日本租界というものはない)を失うわけでも,日本軍の駐屯権など権益を失うわけでもない。少数の儀礼的な駐屯部隊を全滅させたとして,列国とともに,外交交渉によって,賠償金,追加的権益などを要求する道もあった。

その間、中国に権益を有する列国は、戦火を拡大する日本軍に反感を抱き、中国側に便宜を図る。列国は 「直接間接に支那軍の作戦に便宜を与へ、時には之を援助するの行動」をとった。これは民間人の多数居住する市街地の戦闘の終了を願う以上,当然だったが,日本軍は、暴虐な中国軍の味方をして,敵対的行動をとる英米仏を,日本の権益を侵すだけでなく,東アジアの平和を撹乱して,覇権を狙った陰謀として,憎悪するようになる。


写真(右):上海に到着した輸送艦Chaumont。米海兵第6連隊を増援。
(1937年9月19日):ルーズベルト大統領は,中国へ増援は小規模な海兵隊派遣にとどめた。大規模兵力を派兵しても日本軍との開戦する口実はなかった。既に駐屯している海兵隊第4連隊とあわせて,第2旅団を編成。

日本の軍司令官が言うように、英米が日本の上海における中国軍への攻撃を快く思っておらず,日本軍に妨害まで加えてきたのは,権益を守るためでもあるが,経済的繁栄、平和な生活を望んだためでもある。上海や南京には、米,英,仏,独、伊などの租界があり、多数の外国人が暮らし,駐屯していた。地上戦、空爆、艦砲射撃によって、上海は破壊されていくが,中国地区と隣接する外国租界も大きな被害を受けた。

上海の金融,商業の中心である租界は,中国の経済中枢でもあり,その市街地破壊,交通途絶などの戦禍と並んで,紛争に伴う資本逃避,ビジジネスの衰退,行政の停滞,教育機関の閉鎖などは,中国,英米に大きな損害をもたらした。日本の中国侵攻のために,アジアビジネスの中枢上海も,そして首都南京も大きな危機に直面した,というのが当事の列国の抱いた感情であろう。悪いのは日本であると。

GMジェネラルモーターズは,1929年に中国支社の本部を上海に置いている。上海と米国の間には、航空会社パンナムの四発飛行艇が、空路も開いていた。電気,水道、道路,港湾,空港などのインフラの破壊は市民生活も成り立たなくなってしまう。外国駐留軍だけでなく、居留民も中国人の住民も、説に戦闘中止を望んでいたはずだ。しかし、上海事変では,日本が上海の中国地区の武力占領を,治安維持の名目で、強引に推し進めている。

写真(右):1937年8月、第二次上海事変:上海フランス租界と中国人地区の境界をパトロールするフランス警備隊。中国人は,日本軍が攻撃してこないフランス租界に逃げ込もうとした。しかし,フランス側は,無制限な難民の流入は許さなかった。

北京は中国の首都ではなく、正式には北平と呼ばれていた。首都は上海西方の南京である。その中国の政治経済の中枢である江南地方に戦火を及ぼす日本は、中国はもちろん、英米仏の反感を買ったのは当然である。米国は8月29日にカリフォルニア州サンディエゴから輸送艦Chaumontで、海兵隊の増援部隊を上海に派遣している。これは、租界の自国居留民を保護することを第一の目的とするもので、日本軍と戦う意図をもつものではない。しかし、当時の米国兵士は日本軍の振る舞いは暴虐であると非難を隠そうとしない。中立は維持しつつも,多くは中国側に同情,好意的であった。

上海でも南京でも,租界には中国人地区からあるいは郊外から戦火を逃れて多数の難民が流入してきた。そこで、市内での激しい戦闘、残酷な仕打ちが多数目撃され,映像に残され、本国のメディアにも報告された。タイム,ライフといった有名雑誌も、このような映像や記事を何回も掲載している。

写真(右):上海のアメリカ海兵隊(1937年頃):日本軍と同じく中国に権益を保持し,居留民を保護する目的で,駐屯軍を置いた。兵力は1200-1400名。

日本では南京事件が有名だが、その直前の上海事変でも、陸戦だけでなく、海上の艦艇からの砲撃を加え,大型機,小型機の空爆を市街地に(中国軍の陣地があるため)行っている。そこでは、建物が破壊され,駅で多数の人々が死傷した。各地で多数の死傷が外国人にも目撃され、欧米に知らされていたのである。日本軍は,上海の外国租界には直接は介入せずに、中国地区占領を図り,11月9日、接収をほぼ完了する。

しかし,都市を占領しても,そこに住む中国人が日本に従順に従うようになるわけではない。反日感情,抗日(地下)運動が存在しているのであれば,日本軍は以前にもまして,上海の治安維持のために,兵力を配備しなくてはならない。土地を占有するのはともかく,人の精神,行動を支配するのは困難である。「暴支膺懲」を目的にした戦争も治安工作も現実的ではない。ここに,宣撫活動,治安工作,分離工作,プロパガンダを謀略として行う必要が出てくる。

2.ドイツが中国支援を取止めて、日本と接近したことで米国の日本への反感が高まる

ドイツは1898年に青島を租借するが,青島は,第一次大戦時,1914年8月15日に日本軍・英軍に包囲された。青島のドイツ軍兵力は4000名にすぎなかったから,10倍以上の敵日本に11月7日に敗北を喫し,降伏する。したがって,20年後のドイツ軍人の中に,日本への報復として,中国を支援するものがいてもおかしくはない。意外かもしれないが、1927年以来、ドイツは第一次大戦敗北で失職した軍人などが,傭兵的に中国に雇われ,軍事技術,戦術面で指導をしていたのである。

写真(右):ドイツ陸軍の制式戦車、1号戦車を中国軍から鹵獲した日本兵(1937年?):中国がドイツ,フランスなどから購入した兵器は,日本軍に鹵獲されることもあった。兵器は鹵獲した部隊が使用することもあったが,本国に送られ,調査・研究された。クルップ88ミリ高射砲のように、パテント無しに,模造生産してしまうこともあった。

ドイツの対中軍事協力は,1927年にドイツ(ワイマール共和国)、戦略動員局のマックス・バウアーMax Hermann Bauer:1887-1975)大佐が,国民党指導者蒋介石Chiang Kai-shek:1869-1929)と会談したことから本格化する。1928年に中国軍(国民党)の兵力は225万もあったが,兵器の装備も不十分で、式も必ずしも奮っていなかった。そこで、マックス・バウアーMax Hermann Bauer)は小規模でも装備・士気・訓練の上で、国民党軍の中核となる模範的な陸軍部隊の創設を提案する。

写真(右)ドイツ連邦、ニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のI号戦車 Panzerkampfwagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 101):ドイツ連邦の北部ニーダーザクセン州Land Niedersachsen)にあるミュンスター戦車博物館(Deutsches Panzermuseum Munster)には、第二次世界大戦のドイツ軍自走砲として、I号戦車(Panzerkampfwagen I)、II号戦車改造のヴェスペ10.5cm自走砲、III号戦車改造のIII号突撃砲(Sturmgeschütze III )、IV号戦車改造のフンメル 150mm自走砲、IV号戦車改造のIV号駆逐戦車、VI号戦車改造のシュトルムティーガーが保管展示されている。
Description Deutsch: Panzerlaufwerk Date 8 July 2010 Source Own work Deutsch: im Auftrag von Bojo durch Gruß Tom hochgeladen, siehe: [1] Author Bojo at German Wikipedia
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Wikimedia CommonsCategory: Panzerkampfwagen I at the Panzermuseum Munster File:SdKfz101 2.jpg引用。


写真(右):1926年、ドイツ連邦、バイエルン、ビュッテンベルク、第5師団・第6師団の園主を監査する兵務局長(参謀総長)フォン・ゼークト将軍と兵務局(参謀本部)陸軍部長フォン・フィリッチュ大佐(後席左):ハンス・フォン・ゼークトJohannes Friedrich Leopold von Seeckt:1866-1936.12)は、第一次大戦中には東部戦線で活躍し1916年夏にはガリツィアのオーストリア=ハンガリー帝国第7軍参謀長、1917年末にはオスマン帝国軍総参謀長に就任。ドイツ敗戦後の1919年、パリ講和会議にドイツ陸軍代表として参加。パウル・フォン・ヒンデンブルクを次いで参謀本部総長に就任。しかし、ヴェルサイユ条約によりドイツ陸軍は兵力10万人に制限、参謀本部は廃止され兵務局に格下げされた。
Inventory: Bild 136 - Sammlung Oscar Tellgmann Signature: Bild 136-B1296 Original title: info Gruppenmanöver der 5. und 7. Division in Bayern, Württemberg und Baden 1926, Gen.d.Inf. Reinhardt, Oberbefehlshaber Gruko 2 Kassel (rechts) Gen.d.Art. Bleidorn und Generaloberst von Seeckt, neben ihm Frhr. v. Fritsch Archive title: General der Infanterie Reinhardt, Oberbefehlshaber des Gruppenkommando 2 Kassel (rechts) General der Artillerie Bleidorn und Generaloberst Hans von Seeckt, neben ihm Freiherr von Fritsch Dating: 1926 Photographer: Tellgmann, Oscar Origin: Bundesarchiv 写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commonsa) Category: Hans von Seeckt File: Bundesarchiv Bild 136-B1296, Süddeutschland, Manöver der 5. und 7. Division.jpg引用。


1933-35年にかけて都合1年3ヶ月間,ワイマール共和国のドイツ陸軍総司令官だったハンス・フォン・ゼークトHans von Seeckt:1866-1936.12)将軍が,中国に滞在した。目的は,中国における共産党軍の討伐、戦地における戦術実地研究と兵器の性能テストである。ドイツ軍事顧問団も派遣された。国民政府が受け入れたドイツ軍事顧問団は、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンAlexander von Falkenhausen)将軍など20数名の元将校と10数名の民間人からなる。第一次大戦の敗北で,ドイツは山東省で,日本軍と戦い敗北を喫していたから,ドイツ軍人には,日本に対する攻撃も躊躇しなかったと考えられる。

ドイツ軍事顧問団を率いたアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンAlexander von Falkenhausen)は、中国に派遣される30年前、1900年に義和団の乱のときも中国に派遣されている。帰国後、参謀本部の勤務となったが、1904年に勃発した日露戦争後、ベルリン大学( 現Humboldt-Universität zu Berlin)で日本と日本語の研究をする機会を得た。1910年に来日し、名古屋の日本陸軍歩兵第33連隊に勤務し、1912年5月から1914年の第一次世界大戦で日独が戦うまで、ドイツ大使館の駐在武官駐在武官を務めた。第一次世界大戦中に帰国し、西部戦線、東部戦線で参謀として参戦した。


写真(右):ドイツのヘルメットを被り、ドイツ陸軍が採用したモーゼル小銃を持つ中国兵
(1937年上海事変):中国の国民党政府はドイツから、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンAlexander von Falkenhausen)将軍など著名な軍事顧問を受け入れ,ドイツから借款を受け大量の武器を輸入して日本、共産党軍と戦った。

1935年貿易会社HARPO(Handelsgesellschaft zur Verwertung industrieller Produkte)が設立され,ドイツの兵器を中国に大量に供給し始める。 ドイツの小銃,下火砲、I号戦車Panzer I )、偵察装甲車SdKfz. 221)、 SdKfz. 222のほか,武器製造ノウハウ,鉄道技術,通信技術などが中国軍にもたらされたのである。1950年代になっても,ファンケルスハウゼンの75歳の誕生日に 蒋介石は1万2000ドル相当のプレゼントを贈っている。1936年に独中政府はハプロ条約を締結した。これによって、ドイツは中国に武器を供与する見返りに、モリブデン,タングステンなど希少金属を輸入することになった。加えて1億マルクの対中借款協定も成立した。資金手当てが可能になった中国は、ドイツの誇るクルップ社、ラインメタル社などの小火器、大砲をはじめ、ドイツ輸送機も中国軍に配備できるようなった。1937年のドイツ武器輸出総額の37%が中国向けであったという。軍事顧問団も、陸戦に関する有益なアドバイスをしたらしい。

1937年8月以降,上海事変や南京攻略で苦戦した日本陸軍は、ドイツの軍事顧問団のおかげで、本来は二流の中国軍でも頑強な抵抗ができたのだと、言い訳をするほどであった。ドイツと中国の取り決めでは,1937-38年に中国軍20コ師団を訓練することになっていたが,1937年の上海事変の歳に訓練していたのは8コ師団だけであった。

写真(右):1935年上海で会合する蒋介石とイタリア外相ガレアッツォ・チアーノ:1930年4月、ムッソリーニの長女エッダ・ムッソリーニと結婚したガレアッツォ・チアーノは、1936年に33歳で外務大臣に就任したが、ヨーロッパで最も若い大臣だった。イタリアは,巨大な中国市場への武器売込みが第一も目的だったらしい。

イタリアも1932年にムッソリーニの腹心の外相ガレアッツォ・チアーノが,中国とイタリアの強固な経済的,軍事的関係を築こうとした。中伊友好である。二隻の貨客船Conte BiancamanoとConte Rossoが,イタリアと上海を結ぶ航路に充てられ, 23日間で両国を結んだ。1935年には外相ガレアッツォ・チアーノ自ら上海で蒋介石と会談している。そして,中国政府は,イタリアから,少数機ではあるが,フィアット(Fiat)社のCR32戦闘機,カンプローニ社Caproniの偵察爆撃機Ca101, Ca111, Ca133を購入する事を決めている。イタリア海軍も,中国水兵の訓練を行っている。

しかし、1935年10月にイタリアがエチオピアに侵攻した時、中国は国際連盟の経済制裁決議に賛成した。イタリア外相ガレアッツォ・チアーノは、1937年8月、第二次上海事変の勃発後、中国がイタリアから軍用機の供与を求めた時、中国がイタリアへの経済制裁に加わった時どうしたか思い起こさせて、平然と「ノー」と拒否した(1937年8月23日のチアーノの日記による)。この後、駐イタリア日本大使堀田正昭は、満州国独成立をイタリアに承認するように依頼し、1937年12月にイタリアはドイツに先立って満州国を承認している。ドイツによる満州国の承認は、1938年5月である。

少数の駐屯兵力しか派遣できないイタリアやドイツにとって,中国における権益確保は,英米との協調なしには不可能であると考えていたが、日本の勢力が伸長し、ヨーロッパにおけるイギリスとの対立が顕在化してくると、イタリア・ドイツの政治指導者は、極東の中国への軍事援助や経済ビジネスの関心を低下させた。 写真(右):イタリア製ブレダ20ミリ対空機銃を装備した中国軍:『ライフ』1941年6月30日発行に掲載された写真。Guns in such numbers as this are rare in Chinese Army. Only crack divisions can muster so many pieces all at once. These combination anti-tank anti-aircraft guns are 20-mm Italian Bredas. China's own armament factories are beginning to produce in respectable quantity. June 30, 1941 issue of LIFE. Portions copyright 1941 Time, Inc.

1936年の日独防共協定には,翌年からイタリアも参加し,日独伊三国防共協定となった。 国際環境も変化してくる。1937年11月6日に,イタリアが日独防共協定に参加すると,イタリアの租界のある天津,上海,北京で,イタリアは列国の中で孤立してしまう。そこで,イタリアも急遽,兵員と鑑定を派遣することになる。軽巡洋艦Raimondo Montecuccoli が8月27日にナポリを出向し,9月15日に天津に到着した。まさに,盧溝橋事件の真っ最中で,天津も日本機の爆撃を受けていた。

1928年以来、ドイツは中国で反共軍事行動を、戦術研究と兵器の性能テストにつかっていたし,ドイツ軍事顧問団も派遣していた。中国への輸出も,大きな収入をもたらし,1937年のドイツ武器輸出総額の37%が中国からの稼ぎであった。中国との兵器取引のために、1935年貿易会社HARPO(Handelsgesellschaft zur Verwertung industrieller Produkte)が設立され,ドイツは兵器を中国に大量に供給し始める。1936年に独中政府はハプロ条約を締結した。これは、ドイツは中国に武器を供与する見返りに、モリブデン,タングステンなど兵器生産に必要な希少金属を輸入することを取り決めた条約である。加えて、ドイツから1億マルクの対中借款協定も成立した。外貨資金手当てが可能になった中国は、小火器、火砲などを、ドイツから輸入した。


写真(右):ドイツ式ヘルメットを被り、ドイツ式軍服を着て、ドイツの7.92ミリ口径モーゼル小銃(騎銃)を持つ中国兵
(1937年第二次上海事変の時の撮影):中国の国民党政府は、1927年からドイツ軍事顧問団を受け入れ,ドイツから借款によって大量のドイツ製武器を輸入し、日本軍、共産党軍と戦った。

1937年8月以降,上海事変や南京攻略で苦戦した日本陸軍は、ドイツの軍事顧問団のおかげで、本来は二流の中国軍でも頑強な抵抗ができたのだと、言い訳をするほどであった。ドイツと中国の取り決めでは,1937-38年に中国軍20コ師団を訓練することになったいたが,1937年の上海事変の際には、訓練中の師(団)は8コあった。

しかし、1938年にヒトラーは、日本支持を表明し、新外相リンベントロップを任命してからは、日独伊三国軍事同盟への布石として、それまで中国に派遣していた軍事顧問団を撤収させ,ドイツから中国への武器輸出も取りやめてしまう。米国も日本とドイツが同盟関係に入るのでないかと、警戒するようになる。

1938年のドイツの中国政策の転換は、ヒトラーが陸軍参謀総長をスキャンダル事件に巻き込み辞任させ,自ら最高指揮権を手に入れたことで起きた。ヒトラーは、同年オーストリア、チェコスロバキアと次々と併合・支配し、欧州での東方生存圏を拡大していく。その中で,共産主義のソ連、親英で民主主義の米国を牽制するには、日本が必要だと判断した。この世界戦略のなかで、中国への軍事顧問団、武器輸出を取りやめる決断をする。日本はドイツの対中国軍事支援は防共協定に反すると批判していたが、これを聞き入れることで、ソ連と米国への牽制できる日本の軍事力を手に入れようとした。1938年5月に対中国武器輸出は全面的禁止され、7月には軍事顧問団もは帰国する。しかし、このようなドイツの日本接近は、米国には好ましくない。

写真(右):1940年9月日独伊三国軍事同盟:the Axis Tripartite agreement.

1936年に日独伊三国防共協定が成立,翌年1937年11月に調印された。これは,ソ連のコミンテルンによる共産主義勢力の拡大を防ぐことが決められていた。しかし,1939年8月23日には独ソ不可侵条約が締結され,ドイツとソ連との(一時的な)協調関係が築かれた。この1週間後の1939年9月1日に,ドイツがポーランドに侵攻する。ポーランドと同盟関係を持っていた英仏が9月3日にドイツに宣戦する。こうして,第二次世界大戦が始まった。

アジア極東における軍事関係は,英国植民地のインド・香港,フランス植民地のインドシナ,オランダ植民地のインドネシア,米国植民地のフィリピンと,欧州大戦にも関連してくる。ドイツとしては,将来的には対ソ戦を開始するつもりであったから,極東でソ連(仮想敵国),英国,フランス,米国(未参戦)を牽制できる勢力として,日本に期待したのであろう。両国の体制が非民主的なファシズムであることも,両者の同盟関係を締結しやすくした。

写真(右):陸海軍の統帥権を持つ大元帥昭和天皇陛下(1901-1989):1936年11月27日。出典には「海軍兵学校卒業式に臨まれる陛下。 お出迎えの陸海軍武官の敬礼に対してきちんと海軍式の答礼をされている陛下の聖姿が印象的である。」とある。大日本帝国憲法では,第一条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス。第三条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス。第十一条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス。第十二条 天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム。 第十三条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス。天皇は憲法を越える存在で,憲法があるから天皇があるのではないが,軍事・外交の大権を,政治家・官僚・軍人が犯すことはできない。

写真(右):1943年11月28日の三巨頭ビッグ・スリーによるテヘラン会談:右よりソ連書記長ヨシフ・スターリンJosif Stalin,米国大統領フランクリンDルーズベルトFranklin D. Roosevelt,英国首相ウィストン・チャーチルWinston Churchill。テヘラン会談では,1945年5月の米英軍の欧州大陸上陸作戦の遂行,ドイツが降伏した後,ソ連が対日参戦することが決められた。

1940年9月27日、第2次近衛内閣の外相松岡洋右がベルリンで調印したのが日独伊三国軍事同盟(日本国、独逸国及伊太利国間三国条約)である。 その内容はアジア、欧州における新秩序建設のため,日本,ドイツ・イタリアが指導的地位(満州の件で言えば特殊権益)を認め合うことである。そして,日中戦争,第二次戦争に参加していない第三国の攻撃に対してあらゆる援助をするとして,軍事攻撃の義務を課した。

ヒトラーのドイツにとって、日本に、米国を牽制させ、アジア植民地に英国軍を釘付けにすることであるのは明確であった。しかし,戦時の欧州と同じく,日中戦争を戦っている日本には,米国を牽制できる十分な軍事力はなかったとも考えられる。確かに,植民地の米英軍は弱体であるが,本国に呼び兵力,潜在的な動員可能兵力を残している未参戦国の米国にとって,中国軍と苦闘している日本の軍事力を恐れていたとは思われないのである。

写真(右):ドイツ帝国総統アドルフ・ヒトラーとイタリア王国統領ベニート・ムソリーニ:1937年の,日独伊三国防共協定で,枢軸国となった。両国は,それ以前の中国込む民党政府との軍事援助を含む友好的関係を断ち切り,日本の側にたつことになる。しかし,日本はドイツによって米英を牽制するつもりだったが,中国の米国依存を強める結果になった。つまり,日米開戦が近づいたといえる。

他方,日本にとっての三国同盟の意味は,三国軍事同盟ヨシフ・スターリンの指導するソ連をも含めた「四国同盟」を締結し、米国に対抗することであったと思われる。実際に,,外相松岡洋右は,1941年4月、ベルリンとローマを訪問し,帰途に、モスクワに立ち寄った。この時,ソ連外相モロトフと会談し,1週間たたないうちに,日ソ中立条約を締結している。この条約は,5年間期限で,「領土ノ保全及不可侵ヲ尊重」し 第三国より攻撃を受けた場合「紛争ノ全期間中中立ヲ守ル」というものである。さらに,声明書においては、日本が蒙古人民共和国の領土保全と不可侵を尊重すれば、ソ連は満洲帝国の領土保全と不可侵を尊重すると謳っていた。松岡洋右がモスクワ駅から日本に向かう際には,ソ連の指導者ヨシフ・スターリン自身が見送りに着ており,これは最大級の喜びと,世界に向けたソ連の外交的勝利を誇示したものとみなされる。

写真(右):1938年「持久戦論」を執筆した毛沢東:中国は1937年に北京,上海,首都南京も攻略され,江南地方で日本軍と激闘を続ける。日本軍には,主に中国国民党軍の兵力が当てられている。そこで,中国共産党軍は,なにもしないという批判をかわすためにも,現在は,日本軍を内陸部に追い込み,ゲリラ戦,遊撃戦を行う時期であると主張したようだ。

したがって,中国国民党総統蒋介石、中国側から見ると,三国軍事同盟は,未参戦の米国の政治的経済的支援と軍事力の潜在的圧力(さらに軍事援助)を依然として期待できるので,大きな影響はないが,日ソ中立条約は,ソ連による日本への潜在的明注力を低下させた。そして,中国東北地方に満州国を建国して居座る大日本帝国に,ソ連の軍事的圧力が期待されているにもかかわらず,中国の領土であるはずの東北地方を,日本支配下の満州国として,事実上認めているのである。

さらに,日ソ中立条約は,中国共産党にとっては,深刻な問題をもたらした。共産主義国のソ連は,中国共産党には,国共合作によって,中国国民党と協力して抗日戦争に軍事力を集中することを指示しておきながら,自らはファシズム,帝国主義の日本と不可侵条約を結んでいる。これは,中国共産党に抗日戦争を続けさせ,中国共産党の犠牲によって,ソ連の軍事力を温存することに他ならないのであり,裏切りにも等しい行為である。

写真(右):中国に侵攻する日本軍:陸軍の九四式装甲車は、軽火器しか装備していない中国軍には戦術的に効果があった。しかし、中国の人的資源、交戦意志の強さの前に、日本軍は中国を屈服させることができなかった。ドイツが英国を屈服させられないままにソ連を攻撃したように、日本も中国を降伏させられないままに、米国を攻撃する。弱い(と思った)国を降伏させられないまま、自ら進んで(?)大国に戦争を仕掛けたのはなぜか。

このような情勢では,中国共産党の毛沢東が唱えた「持久戦論」は,国民党軍を日本軍の矢面に立たせて,中国共産軍の兵力温存する消極的戦略のように見えてくる。毛沢東が卓見であったとすれば,今日でも通用するような敵の弱小部隊を攻撃し,交通・補給を遮断するゲリラ戦術(遊撃戦)を編み出したことに加えて,兵力温存を正当化する理由を考え出したことではないかと皮肉な見方も成り立ってしまう。

3.ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗する目的で、1935年、モスクワにおいて,第7回コミンテルン世界大会が開催された。ここでは、ドイツ・日本の全体主義や侵略に対抗するために、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズム人民戦線(Popular front)の方針が打ち出された。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明し、1937年7月の盧溝橋事件Marco Polo Bridge Incident)、8月の第二次上海事変が勃発、日中全面戦争が始まった直後、1937年8月21日,中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression Pact)が締結された。こうして、中国は、アメリカ・ドイツだけではなく、ソ連からの軍事援助も受けて、日本との抗日戦争を戦うことができた。国際的支援を受けることができた中国国民党蒋介石は、日中戦争において、中国が日本に敗北することはないと確信できた。問題は、蒋介石が主導する中国を存続させることである。

軍事力に関しても,1937-38年当事,中国に比して日本が優位であったというわけではない。もともと兵力は中国軍が数倍上回っている上に,米英仏独も中国側に武器供与,軍事顧問団派遣,情報提供などによって軍事的に肩入れし,外交的にも早期停戦を求める圧力を掛けてくる。さらに,あまり言及されないが,1937年8月21日南京で,中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression Pactが締結された。これは,日本,ドイツという敵対国に東西を挟まれたソ連と,日本と江南地方で大規模な闘いをしていた中国との共通の敵,日本への大きな圧力になる。中国はソ連から以前にもまして多くの航空機を入手できるるようになった。

写真(右):1938年頃、中国空軍も採用したアメリカのバルティー(Vultee)V-11軽爆撃機
バルティ(Vultee)V-11軽爆撃機の諸元
初飛行: 1935年9月17日
制式: 1937年
最高速力: 370 km/h
全長: 12 m
全幅: 15 m
Vultee V-11GB2 Manufacturer: Vultee
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00072780引用。

写真(右):1938年頃、中国空軍も採用したソ連製ポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機
Polikarpov, I-15, Manufacturer: Polikarpov Designation: I-15 Notes: Russia
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086848引用。

ポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機(bis)の諸元
全長: 6.29 m(6.33 m)
全幅: 9.13 m(10.21 m)
全高: 2.92 m(2.99 m)
主翼面積: 12.9 平方メートル
自重: 1,012 kg
全備重量: 1,422 kg(1,900 kg)
発動機: M-25 空冷星型9気筒700HP(M-25B 750HP)
最高速力: 360 km/h(368 km/h)
航続距離: 720 km(448 km/h)
実用上昇限度: 7,250 m
乗員: 1名
兵装: ShKAS 7.62mm機銃4丁
爆弾50kg2個またはRS-82ロケット弾6個

ソ連は,中国共産党にコミンテルンでは反ファシズム戦線の結成を謳い,中国共産党に国民党と内戦を繰り広げるのではなく,国共合作によって,抗日武力闘争を進めるように秘密裏に指令している(らしい)。実際,西安事件で中国共産党も国共合作に「合意し,蒋介石を釈放認めている。そして,中国国民党への軍事支援を開始している。例えば,1937年以降,ソ連のポリカルポフI-16戦闘機だけでも約200機が中国に譲渡され,中国空軍の主力戦闘機になっている。そればかりではない。後に日本と軍事同盟を結ぶことになるドイツもイタリアも,中国に軍事顧問団や武器を提供していた。

写真(右):中国空軍のポリカルポフI-152戦闘機(1937年頃):ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できた。Polikarpov, I-152 Manufacturer: Polikarpov Designation: I-15 Notes: Russia Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00086858引用。

日独軍事同盟によって,東西を強力な軍事国家に挟まれたソ連はアジア方面の主敵日本に対抗するため,同じ反日の中国との友好を求めたといえる。そして,蒋介石の反共的性格を知りながらも,中国共産党にコミンテルンを通じて,国共合作を促すなど,イデオロギーに囚われずに,自国の利益を追求している。独ソ不可侵条約,日ソ中立条約,米英からの援助受け入れなど,まことにソ連外交は豹変する。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:対空偽装のために樹木の枝を機体の上に置いて姿を隠している。フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻当日、フィンランド軍が鹵獲したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:ポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20616引用。

ポリカルポフ I-15は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

写真(右):1941年6月25日、第二次世界大戦、フィンランド軍のソ連侵攻の当日、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、1941年6月22日、ドイツ軍によるソ連軍侵攻バルバロッサ作戦に共同して、ソ連を攻めた。
対空偽装のためにポリカルポフ I-153戦闘機の上に樹木が置かれている。灰白色の迷彩塗装を施し、複葉機だったが、引込み脚を採用した。国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側につけている。
Kerimäki 1941.06.25
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:20618引用。

ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

写真(右):1942年6月12日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻1年後、フィンランド軍が鹵獲し使用したソ連空軍のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機:飛行中のポリカルポフ I-153戦闘機は、複葉機ではあるが、脚の車輪は引込み式で、機体と主翼の接合部に収納されている。もとは、複葉固定脚のポリカルポフI-15 戦闘機で、エンジンを高馬力のものに換え、同じ複葉機でも、支柱を少なくして、機体と翼の付け根部分も斬新な形に変更した。
Kuva moottoritorpedovenelaivueen toiminnasta, syvyyspommin pudottamisesta, yhteistoiminnasta lentokoneiden kanssa jne. Suomenlahti 1942.06.16
Polikarpov I-153
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:91680引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:中国空軍は、1937年後半からソ連機を輸入したが、当初はポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)複葉戦闘機で、固定脚だった。その後、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊もポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機、I-16 戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。カラー写真は、ノースアメリカン社から中国に派遣された技術指導員ジャック・カナリー(Jack Canary)の撮影になる一連のシリーズの一つ。中国に譲渡されて4-5年以上は経過しているが、1944年になっても、複葉戦闘機が残されていたのは驚きである。歴戦の機体を保存していたのか、練習機として使用していたのか。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01358引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機I-153は、1939年から実戦使用されている。ソ連最後の複葉戦闘機で、操縦席からの視界を良好にするために、上翼はガル型で折れまげて胴体に連結されている。そこで、英語のガル(かもめ)と同じく、ロシア語でチャイカ(かもめ)の明用が付けられた。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, China, c44-45, Jack Canary
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01358引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:中国空軍は、1937年後半から輸入したポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機を使用し、ソ連空軍の中国駐留義勇飛行隊もポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機を使用して、日本軍機と空中戦を戦った。カラー写真は、ノースアメリカン社から中国に派遣された技術指導員ジャック・カナリー(Jack Canary)の撮影になる一連のシリーズの一つ。中国に譲渡されて4-5年以上は経過しているが、1944年になっても、複葉戦闘機が残されていたのは驚きである。歴戦の機体を保存していたのであろうか。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P.7250, China a Jack D. Canary Special Collection Photo
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01358引用。

写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてI-15を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01358引用。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:中国空軍にのソ連製ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機は1937年11月、日中戦争の華中上空の航空戦に参戦している。
フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66681引用。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:全金属製の主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66678引用。

ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。

ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機が搭載したエンジンは、アメリカのライト R-1820サイクロン(Cyclone)をコピーしたもので信頼性が高かった。

ソ連製ポリカルポフ I-16Polikarpov I-16)戦闘機は、1937年の日中戦争で中国空軍が使用した戦闘機で、日本海軍の九六式戦闘機と戦った。1939年のノモンハン事件ではソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)が、日本陸軍の九七式戦闘機と戦った。格闘性能では劣ったが、高速を活かして善戦したようだ。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:主翼下面には、引込み脚とその格納室があり、主翼下面にはロケット弾の懸架レール4基が見える。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66679引用。

1930年代後半、ソ連空軍戦闘機の主力戦闘機となったポリカルポフ I-16戦闘機は、1936年のスペイン内戦に共和国軍への軍事援助のために派遣され、ファシスト軍のドイツやイタリアの軍用機と空中戦を行った。そして、1937年の日中戦争にも、中国国民政府に派遣され、中国空軍戦闘機として、日本軍との戦った。特に、第二次上海事件に際して、江南上空で、新型の九六式艦上爆撃機、九六式艦上攻撃機、渡洋爆撃で喧伝された九六式陸攻など日本海軍機を攻撃して戦果を挙げた。

wikipediaでは、ポリカルポフ I-16戦闘機「いずれの戦闘でも敵方により新しい高性能の戦闘機が現れたことで、不運にもある意味で「やられ役」を演じることとなってしまった」との感想があるが、これは初めての実戦投入1936年から5年以上も経過してからの第二次世界大戦の中盤の時期の出来事であことを忘れている。1943年には、ソ連空軍は、ラボーチキン、ミグ、ヤクの各新鋭戦闘機を前線に配備している。

写真(右):1941年12月10日、第二次世界大戦、ドイツ軍のソ連侵攻直後、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機:フィンランドは、ソ連=フィンランド戦争の時の失地回復のため、ドイツ軍に呼応してソ連軍を攻めた。白色の迷彩塗装を施し、国籍記章(赤い星)は主翼上面には付けていないが、主翼下面、垂直尾翼、胴体両側についている。機体番号64番。
Riiska 1941.12.10
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66680引用。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

中国(中華民国)の空軍は、アメリカから輸入機と軍事・技術顧問を雇い入れてスタートしたが、国共合作(国民党と中国共産党との共闘)がなり、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)以降は、共産主義国ソ連から、全金属製・単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機を輸入して、空軍力を増強した。これは、国境を接する陸路あるいは黒によるものであり、アメリカから船積みした軍用機を日本の封鎖を突破しながら輸入するよりも迅速に行われた様だ。

写真(右):中国空軍所属のソ連製ツポレフSB-2爆撃機:ソ連は1930年代から多数の航空機を中国に有償譲渡している。

1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)が締結されたが、この背景は、第一に、中国国民党の蒋介石が国共合作、一致抗日を認めたことである。中国共産党軍(紅軍)を国民党の国民革命軍に編入し、抗日戦争を戦うことは、ソ連にも有利だった。第二の理由は、ソ連にとって、極東における日本の軍事的脅威を緩和し、ヨーロッパ方面に軍事力を集中するには、日中戦争を戦う中国の軍事力増強が有利だったことである。

1937年の遅くには、共産主義国ソ連から中国空軍に軍用機が供与された。中国軍は、ソ連空軍の制式だったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)など、当時の最新鋭機を手に入れることができた。

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141380引用。

ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機を実戦投入した。出撃数1000回の生還記念の花輪を地上勤務整備員からもらったクルー。1941年夏頃に鹵獲したと思われるソ連機を2年以上も使い続け、その結果、1000回出撃となった。出撃回数を使用期間で割れば、1日1回から2回は出撃したことが分かる。天候が急変しやすい極北の地での戦いは、精密なレーダー航法が困難だった時代、目標を見失い、府遅着を余儀なくされることも珍しくなかった。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:141387引用。

中国国民政府(南京政府)蒋介石は、西安事件後、中国共産党との連携して、抗日戦争を戦う国共合作を認め、ソ連との連携も強化しようと、 1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)を締結した。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A):出現当初の1930年代、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れており、スペイン内戦でも日中戦争でも活躍した。合計で6500機も大量生産されている。
Description The Tupolev SB was a very successful bomber design which served with ten air forces and was in service during the Spanish Civil War and WW2. It's Tupolev designation was ANT-40. Of the 6,500 produced, this is the only known survivor. Recovered from the Yuzhne Muiski mountain range in the late 1970's, it was restored by a volunteer group of Tupolev employees and went on display, initially outside, in 1982.
Date 13 August 2012, 07:45
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

中ソ不可侵条約によって、中国はソ連から引込み脚の新鋭高速軍用機のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)、ツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)などを購入し、1937年の日中戦争で、日本陸海軍機と戦った。これらのソ連製の軍用機は、日本機と比較して性能的には遜色なかった。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A):1934年に試作機が初飛行した機体で、日中戦争が勃発した1937年には全金属製、低翼・単葉の高速爆撃機だったため、日本機による迎撃をかわして被害を小さくすることができた。
Description The SB, known to Tupolev as the ANT-40, first flew in 1934. It was designed as a high speed bomber and had a maximum speed of 280mph, which was faster than fighters of the time such as the Polikarpov I-15 which could only reach 220mph. A successful machine, it was flown by ten countries and was not finally retired from Spanish service until 1950. Despite over 6,600 being built and many surviving the war, this is now the only remaining example. In 1939 it had force landed during a snow storm near the Yuzhne Muiski Mountain range in the Baikal Region. The remains were recovered in the late 1970’s and restoration was carried out by a volunteer group of Tupolev employees. It first went on display at Monino in April 1982 and after several years outside in all weathers it is now safely under cover in the new Hangar 6B, which has been built behind the main entrance building. At the time of our visit the hangar had not been officially opened to the public, but we were given special permission to access it from Hangar 6A. Central Air Force museum, Monino, Moscow Oblast, Russia. 27th August 2017
Date 27 August 2017, 09:08
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A)
Description The SB, known to Tupolev as the ANT-40, first flew in 1934. It was designed as a high speed bomber and had a maximum speed of 280mph, which was faster than fighters of the time such as the Polikarpov I-15 which could only reach 220mph. A successful machine, it was flown by ten countries and was not finally retired from Spanish service until 1950. Despite over 6,600 being built and many surviving the war, this is now the only remaining example. In 1939 it had force landed during a snow storm near the Yuzhne Muiski Mountain range in the Baikal Region. The remains were recovered in the late 1970’s and restoration was carried out by a volunteer group of Tupolev employees. It first went on display at Monino in April 1982 and after several years outside in all weathers it is now safely under cover in the new Hangar 6B, which has been built behind the main entrance building. At the time of our visit the hangar had not been officially opened to the public, but we were given special permission to access it from Hangar 6A. Central Air Force museum, Monino, Moscow Oblast, Russia. 27th August 2017
Date 27 August 2017, 09:08
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。



◆太平洋戦争勃発前のアメリカ義勇部隊と中国空軍による対日戦 ◇ American Volunteer Group

写真(右):1941-1942年、ビルマ、ラングーンに海路輸送されたアメリカ「フライングタイガーズ」カーチスP-40 戦闘機。中国国民政府に供与されたのではなく、中国空軍パイロットとして、アメリカ義勇軍が参加祖いた。:アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立って義勇航空兵を派遣した。
Rangoon Subject: The Flying Tigers - China Title: Rangoon Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01552引用。

中国でAVGの指揮官となったクレア・リー・シェンノート:AGVはアメリカ陸軍航空隊の支援を受けていたが,形式上は中国空軍として,中国西部で日本軍と交戦した。

1937年8月に、中国江南で第二次上海事件が起こり、日中全面戦争へと突入すると日本国内では、戦争勝利を目指して、戦争体制を確立しようと様々な政策が採用された。1937年12年8月24日に国民精神総動員実施要綱が定められた。これは、挙国一致、尽忠報国の精神を国民がもつために、プロパガンダを行うものである。 統制経済を強化する必要性も認識されており、1937年9月4日には北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱が閣議決定している。これは、総動員実施するために、必要な戦時法令を制定・通用するための措置を講じようというもので,資源配分の調整、精神作興、労務管理の強化、産業指導統制、貿易統制、食糧統制、運輸統制、財政金融における経費節約・増税・公債消化促進、応召軍人・軍人遺族のための社会施設充実、防疫強化の基本方針を定めたものである。つまり、日本経済は北支事変の段階で,軍備,作戦行動を支えることが重い負担となっており,その経済基盤を戦争経済に順応できるように作り変えようというのである。

写真(右):1941-1942年、ビルマ経由で中国国民政府の中国空軍パイロットとして参戦したアメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」カーチスP-40 戦闘機修理班:アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立って義勇航空兵を派遣した。
P-40 Repair Group Subject: The Flying Tigers - China Title: P-40 Repair Group Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01535 引用。

中国軍のマークをつけたリパブリック社製P-43戦闘機はアメリカから輸出中止となったため,カーチス社製のP-40がAVGの主力戦闘機となった。

中国人の被害だけが問題となったのではない。米英にとって、貿易・投資,金融,商業の経済中枢である上海,南京を日本軍が占領すること、日本が中国の政治経済を牛耳ること、すななわち「日本の中国支配」は断じて認められない。世論形成という民主主義国の重視するプロセスに則って、反日、排日のプロパガンダが行われる。真珠湾テロ攻撃より前に、日本は中国においてテロ行為と見なされてもしかたのない軍事行動・残虐行為を行った。このような日本が欧州支配を目指すドイツと同盟するのであれば,世界制覇を目指す「悪の枢軸」として、断固排除しなければならない。これが、真珠湾攻撃以前の米国の対日認識である。

写真(右):1941-1942年、アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」カーチスCurtiss ホークHawk 81A-2 戦闘機:アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍に立って義勇航空兵を派遣した。
Curtiss Hawk 81A-2 Subject: The Flying Tigers - China Title: Al Foag Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01555引用。

カーチス社製P-35は米国には配備されなかった。

1931年8月に米国は,中国は航空機80機とオパイロット80名がいると推測していたが,パイロットのうち一流といえるのは,10-12名に過ぎなかった。
そこで,1932-35年に米国は非公式の空軍顧問団を派遣した。John H. Jouettたちは,カネ,一族,政治力が支配していた中国空軍の体質に改善を試みたが,不十分なままで終わっしまう。
他方,ドイツ,イタリア,英国,ソ連と米国以外にも,多数の国が,中国空軍に航空機を輸出しており,中国空軍の機体は,世界の軍用機の陳列上のようになってしまう。つまり,多数の機種を少数ずつそろえたために,機体の整備,部品の交換,操縦方法の習熟が煩雑になってしまったため,効率的な運用が困難であった。

写真(右):1941-1942年、アメリカ軍セバルスキー(Seversky) P-35 戦闘機:アメリカ軍は、セバルスキー社製のP-35を制式採用しなかった。そこで,中国,スウェーデン,日本などに輸出された。 日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍にも日本軍にもセバルスキー製P-35戦闘機を輸出しているのは、商魂のたくましさを感じる。このような「死の商人」的な武器輸出の企業行動に思いと、アメリカは中国に進出した日本をやっかんで、反日活動を強めたと単純な誤解に至ってしまう。
Title: Seversky, P-35 Corporation Name: Seversky Aircraft Corporation Designation: P-35 Additional Information: USA Color or B/W: Media: Glossy Photo
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091201引用。


1937年の盧溝橋事件以降,日本軍の中国への侵攻が激化してくると,空軍を再編成する必要性が,中国でも認識され,米中双方の高官が協議し,特別航空部隊を編成することが企画された。これが,AVGに繋がってゆく。

AGVには,1941年夏に米国の最新戦闘機カーチスP-40トマホーク供与された。

米国では,航空製造会社大手のセバルスキー社が倒産したのを引き継いで,リパブリック社が立ち上げられた。1939年3月にセバルスキーは,AP-4戦闘機30機の発注を米陸軍から受けていただけであったが,1939年末と1940年初めに,セバルスキーを引き継いだリパブリックが,P-43戦闘機の大量発注を受けた。これは,中国にキャンセルされたのと同数の54機のP-43戦闘機の発注と,新たな80機のP-43戦闘機の発注である。1939年9月に,欧州での第二次大戦が勃発しており,これを踏まえて空軍強化には,議会も反対はしない。

しかし,1939年にセバルスキーは複座に改造したP-35を20機,日本に売却する契約を結んでいる。The company made a controversial sale to the Japanese government in 1939 of 20 SEV2PA-B3 two-seat fighters which were based on the basic P-35 design. 1941年になるとさらに125機のP-43戦闘機が発注された。これは,武器貸与法によって資金を入手した中国空軍の購入になり,実際に108機のP-43戦闘機が船積み,発送された。残り17機は,オーストラリア空軍の発注になる。

写真(右):1941-1942年、アメリカ義勇部隊「フライングタイガーズ」リパブリック(Republic) YP-43 「ランサー」Lancer 戦闘機:アメリカは、日中戦争に際して、蒋介石政権の中国空軍にリパブリック社製P-43108機を日米開戦1年前に貸与している。
Republic YP-43 Lancer The Lend-Lease aircraft were delivered to China through Claire Chennault's American Volunteer Group, the PictionID:42002303 - Title:Republic YP-43 Lancer The Lend-Lease aircraft were delivered to China through Claire Chennault's American Volunteer Group, the - - Filename:15_002978.TIF
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:15_002978引用。

リパブリックP-43戦闘機は,当事最新式のターボ・スパーチャージャー(過給機),パイロット背後の防弾版,防弾燃料タンク(アジア到着当初は不調だったが)を装備していた。1939年8月には中国側もP-43の事を知っていたが,後になって,軍事機密保持のため(ターボ・スパーチャージャーのことか),P-43の輸出は米国に禁止されてしまう。しかし,1938年時点では,米国は,中国に対してよりも,仮想敵国の日本に対して,より多くの兵器を輸出していたのである。1939年には,中国へのライセンスは500万ドルで,日本への輸出は80万ドルとなったが。しかし,1938年の日本への兵器輸出は,1938年の10倍もあったのである。

1.日本は,アジアは自国の勢力圏内にあり,日本に従属する大東亜共栄圏の建設し,これを新秩序とするべきであると認識していた。

写真(右):南京,杭州を爆撃した日本海軍航空隊の九六式陸上攻撃機;1937年8-12月に,長距離無差別爆撃を行った。

1940年にフランスがドイツに降伏すると、まずフランス領北部インドシナに、ついで南部インドシナ(仏印)に日本軍は進駐する。ハル・ノートは、この時期に渡されたのであるが、それ以前の日中戦争における日本の軍事的、政治的、経済的な中国への侵略・進出を、米国は、機会均等を侵すものとして、排除したかった。さらに、日本の残虐行為・敵対的行為についても、1937年12月の南京事件(市民や兵士の死者10-20万人)、中国にあった米国砲艦パネー号への日本海軍機による爆撃(米国人2名死亡)、日本の動員法令の整備など、いずれも米国の戦略に反する動きが強まっている。

写真(右):中国がにおけるドイツのJu52輸送機とアメリカ義勇部隊:1930年代、中国はドイツ軍事顧問を招聘しユンカースJu52輸送機を郵便機として採用した。中国はドイツから購入する一方で,アメリカ義勇兵(傭兵)を雇い、のちにアメリカ陸軍航空隊は、アメリカ義勇部隊款を支援し準正規のアメリカ陸軍航空部隊として日本軍と戦った。

写真(右):中国が導入したドイツのユンカースJu52/3m輸送機:1930年代、中国はドイツ軍事顧問を招聘しユンカースJu52輸送機を郵便機として採用した。中国はドイツから購入する一方で,アメリカ義勇兵(傭兵)を雇い、のちにアメリカ陸軍航空隊は、アメリカ義勇部隊款を支援し準正規のアメリカ陸軍航空部隊として日本軍と戦った。Junkers Trimotor in China PictionID:43264972 - Title:Junkers Trimotor in China - Catalog:16_003760 - Filename:16_003760.TIF - - - - - Image from the Ray Wagner Collection.

1937年11月6日 の日独伊防共協定日独伊三国軍事同盟などドイツと日本の接近は、米国には好ましくない。日本は、中国に対する姿勢を増長させ、1940年には、ドイツの対フランス戦勝のおこぼれとして、フランス領インドシナに進駐し、のちの「大東亜共栄圏」と言われる日本の南方生存圏を確保しようとする。これは、米国には、忍耐の度を越えた行動となった。米国は、日本との戦争も辞さないかまえで、日本の在外資産の凍結、石油・鉄屑の禁輸など、強硬な対抗手段をとる。

写真(右):オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に展示されているボーイング(Boeing)P-12E 戦闘機(F4B):1928年にボーイング社がボーイング・モデル99として自社負担、自主設計・開発に着手した複葉・固定脚の戦闘機。搭載した発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340空冷星形「ワスプ(Wasp)」エンジンで、このエンジンR-1340が、プラット&ホイットニー社を一流の航空機用エンジンメーカーとする端緒となった。アメリカ陸軍は1929年2月にP-12を 1932年5月にP-12Fを受領した。他方、アメリカ海軍は艦上戦闘機として、1929年5月に試作機XF4Bを審査し制式となった。ボーイング製複葉戦闘機の成功作として、戦闘機だけでなく、主翼下面に爆弾を搭載して地上攻撃機、対艦船攻撃も可能だったが、これは後年の戦闘爆撃機の奔りといえる。
DAYTON, Ohio -- Boeing P-12E at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Developed by the Boeing Aircraft Co. at its own expense, the P-12 was became one of the most successful American fighters produced between the World Wars. Flown by both the Army and the Navy (as the F4B), the P-12 series consisted of an initial version and five additional models, B through F. The early versions used fabric-covered fuselages of bolted aluminum tubing, but the P-12E and F fuselages employed an all-metal, semimonocoque (stressed skin) construction. However, the P-12 did not complete the evolution into an all-metal aircraft because all variants had wooden wings with fabric covering.
The U.S. Army Air Corps received its first P-12 in February 1929 and the last P-12F in May 1932. The last of the biplane fighters flown by the Army, some P-12s remained in service until 1941. Boeing produced 366 P-12s for the Army, with more P-12Es built (110) than any other series.
The P-12E on display served with the 6th Pursuit Squadron in Hawaii during the 1930s, and the Army retired it in 1940. Marcellus Foose and Glen Courtwright of Oaklawn, Ill., donated it to the museum in 1973, and museum specialists completed restoration in 1983.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

写真(右):オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館に展示されているボーイング(Boeing)P-12E 戦闘機(F4B):1928年にボーイング社が自主開発したP-12戦闘機は、B、C、D、E、Fの四段階で順次発展していった。初期B型はアルミ製チューブ骨組み・ボルト構造、羽布張りだったが、後期のE型とF型は、金属製モノコックの胴体に変更になった。しかし、全金属製の機体にまでは進歩できなかった。ボーイング社は、合計366機の P-12戦闘機をアメリカ陸軍のために生産したが,そのうち P-12E戦闘機が110機を占めている。P-12E戦闘機は、1930年代にハワイの第6追撃機飛行隊に配備されたが、1940年にはアメリカ陸軍では退役となった。
DAYTON, Ohio -- Boeing P-12E at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
The P-12E on display served with the 6th Pursuit Squadron in Hawaii during the 1930s, and the Army retired it in 1940. Marcellus Foose and Glen Courtwright of Oaklawn, Ill., donated it to the museum in 1973, and museum specialists completed restoration in 1983.
TECHNICAL NOTES:
Armament: Two .30-cal. or one .30-cal. and one .50-cal. machine guns; 244 lbs. of bombs carried externally
Engine: Pratt & Whitney R-1340-17 of 500 hp
Maximum speed: 189 mph, Cruising speed: 160 mph
Range: 570 miles
Ceiling: 26,300 ft.
Span: 30 ft. Length: 20 ft. 4 in. Height: 9 ft.
Weight: 2,690 lbs. loaded
Serial number: 31-559.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

写真(右):オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に展示されているボーイング(Boeing)P-12E 戦闘機(F4B)
DAYTON, Ohio -- Boeing P-12E at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Developed by the Boeing Aircraft Co. at its own expense, the P-12 was became one of the most successful American fighters produced between the World Wars. Flown by both the Army and the Navy (as the F4B), the P-12 series consisted of an initial version and five additional models, B through F. The early versions used fabric-covered fuselages of bolted aluminum tubing, but the P-12E and F fuselages employed an all-metal, semimonocoque (stressed skin) construction. However, the P-12 did not complete the evolution into an all-metal aircraft because all variants had wooden wings with fabric covering.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

1928年にボーイング社がボーイング・モデル99として自社負担、自主設計・開発に着手した複葉・固定脚の戦闘機。搭載した発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340空冷星形「ワスプ(Wasp)」エンジンで、このエンジンR-1340が、プラット&ホイットニー社を一流の航空機用エンジンメーカーとする端緒となった。アメリカ陸軍は1929年2月にP-12を 1932年5月にP-12Fを受領した。他方、アメリカ海軍は艦上戦闘機として、1929年5月に試作機XF4Bを審査し制式となった。ボーイング製複葉戦闘機の成功作として、戦闘機だけでなく、主翼下面に爆弾を搭載して地上攻撃機、対艦船攻撃も可能だったが、これは後年の戦闘爆撃機の奔りといえる。

写真(右):1929-1933年頃、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に展示されているボーイング(Boeing)P-12E 戦闘機(F4B)の操縦席と計器盤:中央のスティックは操縦桿で昇降舵を操作して上下に運動する。床面にはフッとペダルがあり、垂直尾翼と連動して左右に運動する。この上下と左右の運動を組み合わせて三次元を操縦するには、熟練が必要である。
DAYTON, Ohio -- Boeing P-12E cockpit at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
The U.S. Army Air Corps received its first P-12 in February 1929 and the last P-12F in May 1932. The last of the biplane fighters flown by the Army, some P-12s remained in service until 1941. Boeing produced 366 P-12s for the Army, with more P-12Es built (110) than any other series.
The P-12E on display served with the 6th Pursuit Squadron in Hawaii during the 1930s, and the Army retired it in 1940. Marcellus Foose and Glen Courtwright of Oaklawn, Ill., donated it to the museum in 1973, and museum specialists completed restoration in 1983.
写真は, National Museum of the United States Air ForceBoeing P-12E cockpit at the National Museum of the United States Air Force引用。

1928年にボーイング社が自主開発したP-12戦闘機は、B、C、D、E、Fの四段階で順次発展していった。初期ボーイングP-12B型はアルミ製チューブ骨組み・ボルト構造、羽布張りだったが、後期のE型とF型は、金属製モノコックの胴体に変更になった。しかし、全金属製の機体にまでは進歩できなかった。ボーイング社は、合計366機のボーイング P-12戦闘機をアメリカ陸軍のために生産したが,そのうち P-12E戦闘機が110機を占めている。ボーイングP-12E戦闘機は、1930年代にハワイの第6追撃機飛行隊に配備されたが、1940年にはアメリカ陸軍では退役となった。

写真(右):1929-1933年頃、ボーイング(Boeing) P-12B戦闘機:Boeing : P-12B
Catalog #: 00029135
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00029135引用。

アメリカ陸軍のボーイング(Boeing) P-12 複葉戦闘機の兵装は、当初は.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)と第一次大戦時の戦闘機と同水準の火力に過ぎなかったが、後期型では .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)と大口径機関銃を1丁とはいえ装備しており、他の戦闘機よりも強力な火力を誇っていた。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ、編隊飛行中のボーイング(Boeing)P-12B戦闘機
Boeing : P-12B
Catalog #: 00029125
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00029125引用。

ボーイング(Boeing)P-12E戦闘機の諸元
全長:6.19 m
全幅:9.12 m
全高:2.95 m
全備重量:1,401 kg
発動機:P&W R-1340D 空冷星型9気筒エンジン
  出力500hp
最高速力:189 mph (304 km/h)
巡航速力: 160 mph (257 km/h)
航続距離: 570 miles (917 km)
上昇限度: 8,020 m (26,300 ft)
兵装:.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)
または .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)
爆弾搭載量: 244 lb (111 kg)
航続距離:1,131 km
乗員:1名

カーチスとの競作に応じていたボーイングは、当時は弱小メーカーだったが、1928 年にP-12 戦闘機を開発した。P-12は小型軽量化をはかり、主翼は木製骨格に羽布張り、胴体はアルミ合金骨格の羽布張り、水平・垂直尾翼と補助翼のみ金属波板外皮を採用した。P-12戦闘機は、アメリカ陸軍が制式し、アメリカ海軍もF-4として清拭した。つまり、独立空軍が存在していなかったアメリカ軍で陸海両軍が採用したのである。NACAカウリングも取り入れられ、胴体も全金属構造に改めたられたのが後期型 P-12E/Fである。P-12は、ボーイングの初の大量生産機となり、300機以上が量産された。

写真(右):1929-1933年頃、ボーイング(Boeing) P-12 戦闘機
PictionID:41897737 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000762 Boeing P-12 29-355 - Filename:16_000762 Boeing P-12 29-355.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41897737 引用。

アメリカ陸軍のボーイング(Boeing) P-12 複葉戦闘機の兵装は、当初は.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)と第一次大戦時の戦闘機と同水準の火力に過ぎなかったが、後期型では .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)と大口径機関銃を1丁とはいえ装備しており、他の戦闘機よりも強力な火力を誇っていた。

写真(右):1929-1933年頃、ボーイング(Boeing) P-12E 戦闘機
PictionID:41898653 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000790 Boeing P-12E 27PS AAC 17901 A - Filename:16_000790 Boeing P-12E 27PS AAC 17901 A.C.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41898653 引用。

1932年2月、第一次上海事変に際して、日本海軍の航空母艦「加賀」から日本海軍十三式三号艦上攻撃機3機、三式艦上戦闘機3機が江南で、中国軍のボーイングP-12E戦闘機と空中戦を行った。ボーイングP-12E戦闘機の操縦士は、アメリカ義勇部隊のロバート・ショート(Robert Short)で、日本の三式艦攻搭乗員を死傷させたものの、三式艦戦によって撃墜された。

写真(右):1934-1936年頃、ボーイング(Boeing)P-12F戦闘機
PictionID:41899368 - Title:Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_000803 Boeing P-12F Hensley Field AAC 151282 - Filename:16_000803 Boeing P-12F Hensley Field AAC 151282.tif - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:41899368 引用。

ボーイング(Boeing)P-12E戦闘機の諸元
全長:6.19 m、全幅:9.12 m、全高:2.95 m
全備重量:1,401 kg
発動機:P&W R-1340D 空冷星型9気筒エンジン 出力500hp
最高速力:189 mph (304 km/h)、巡航速力: 160 mph (257 km/h)
航続距離: 570 miles (917 km)
上昇限度: 8,020 m (26,300 ft)
兵装:.30 inch (7.62ミリ)ブローニング(Browning)機関銃2丁(各600発)
または .30 inch (7.62ミリ)機関銃1丁、.50 inch (12.7ミリ)機関銃1丁(200発)
爆弾搭載量: 244 lb (111 kg)
航続距離:1,131 km
乗員:1名

写真(右):2005年、タイ王国航空博物館(Royal Thai Air Museum)に保管されているタイ王国空軍が採用したカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk):Ray Wagner Collection Image
PictionID:44987900 - Catalog:16_006101 - Title:Royal Thai Air Museum 2005 - Filename:16_006101.tif - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:44987900引用。

1931年に開発した固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展がカーチス(Curtiss)ホークIII(BF2C-1)戦闘機だった。同じ複葉機で、エンジンも同じライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだったが、ホークIII(BF2C-1)戦闘機の主輪は引込み式になった。BF2C-1の試作機は、1934年9月13日に初飛行した。 引込み脚として空力的に洗練され、エンジン出力も若干強力になったため、性能は向上した。アメリカ海軍の艦上戦闘機としても開発された。

写真(右):2005年、タイ王国航空博物館(Royal Thai Air Museum)に保管されているタイ王国空軍が採用したカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk):Ray Wagner Collection Image
PictionID:44987912 - Catalog:16_006102 - Title:Royal Thai Air Museum 2005 - Filename:16_006102.tif- - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:44987900引用。

カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、カーチス複葉艦上機シリーズの最終型で、それ以前のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展型で、車輪を胴体中央部側面に引き込むために、手動油圧ポンプを備えている。そのため、エンジンはライト空冷星形サイクロンエンジンで馬力数はあまり変わらないが、空気抵抗が減少して最高速力は、カーチスF11Cよりも30kmほど向上した。主翼はカーチスホークの原型以来のテーパー翼で、兵装は、ブローニング機関銃2丁、小型爆弾架である。訓練用航空母艦「レンジャー」でも艦上機の発艦・着艦訓練をした。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss : BF2C : Goshawk):主車輪を胴体前方下に引き込むが、そのための円形空間が大きく開いている。機首のラインは、エンジンカウリングから後方が火砲に大きく膨らみ、空気抵抗が大きいようにも見える。
Catalog #: 00011636
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00011636引用。

主翼が二枚あり、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きな複葉機カーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の固定脚だった車輪を、胴体の付け根に引込みむことのできるように改良したのが、カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。この引込み脚のおかげで、空気抵抗を減少させて、最高速力や旋回性能などを固定脚よりも改良できた。中国空軍は、カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)をホークIII戦闘機(鷹三型戦轟)として採用したが、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、輸入機と見なすことができる。中国空軍の主力戦闘機になった。

写真(右):1935-37年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII(Curtiss BF2C)戦闘機の操縦席前の計器盤とガラス風防:風防前面には筒型の眼鏡式射撃照準器が装着されている。
Curtiss : BF2C : Goshawk
Catalog #: 00011641
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00011641引用。

1933年、アメリカのカーチス社がアメリカ海軍艦上機として開発したホーク戦闘機シリーズの最後の機体がホークIII(BF2C-1)艦上戦闘機で、試作機は、1934年9月13日に初飛行。主翼が二枚ある複葉機ではあるが、引込み脚を採用して空気抵抗を減らし、速力や空戦性能を向上させた艦上戦闘機、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用された。

中国空軍では、アメリカのカーチス社のアメリカ海軍ホーク艦上戦闘機を輸入し、アメリカ人軍事顧問の下で空軍要員の訓練を行ていた。これらの飛行機は、分解されアメリカから中国に船積みされ、中国で組み立てられた。ノックダウン方式なので、実質的には中国で生産されたわけではない。日本は軍用機の自国生産・国産に拘ったが、中国は輸入機で空軍を構成したため、種類が多く、それでも更新したり、新型機種に改編するのは容易だった。しかし、部品の交換や技術の移転の面では国産化しないことで不利を被った。

写真(右):1934-1936年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用されたカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)
PictionID:40961111 - Catalog:16_000064 Curtiss XBF2C-1 9269 - Filename:16_000064 Curtiss XBF2C-1 9269.tif - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:40961111引用。

1931年に開発した固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展がカーチス(Curtiss)ホークIII(BF2C-1)戦闘機だった。同じ複葉機で、エンジンも同じライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだったが、ホークIII(BF2C-1)戦闘機の主輪は引込み式になった。BF2C-1の試作機は、1934年9月13日に初飛行した。 引込み脚として空力的に洗練され、エンジン出力も若干強力になったため、性能は向上した。アメリカ海軍の艦上戦闘機としても開発された。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk)
Curtiss : BF2C : Goshawk
Manufacturer: Curtiss
Designation: BF2C
Official Nickname: Goshawk
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00011628引用。

Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、カーチス複葉艦上機シリーズの最終型で、それ以前のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の発展型で、車輪を胴体中央部側面に引き込むために、手動油圧ポンプを備えている。そのため、エンジンはライト空冷星形サイクロンエンジンで馬力数はあまり変わらないが、空気抵抗が減少して最高速力は、カーチスF11Cよりも30kmほど向上した。主翼はカーチスホークの原型以来のテーパー翼で、兵装は、ブローニング機関銃2丁、小型爆弾架である。訓練用航空母艦「レンジャー」でも艦上機の発艦・着艦訓練をした。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)
Piction ID:40961087 - Catalog:16_000062 Curtiss XF11C-2 9269 USN - Filename:16_000062 Curtiss XF11C-2 9269 USN.tif - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:40961087引用。

主翼が二枚あり、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きな複葉機カーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)の固定脚だった車輪を、胴体の付け根に引込みむことのできるように改良したのが、カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。この引込み脚のおかげで、空気抵抗を減少させて、最高速力や旋回性能などを固定脚よりも改良できた。中国空軍は、カーチスBF2C-1戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)をホークIII戦闘機(鷹三型戦轟)として採用したが、部品を輸入して組み立てるノックダウン方式で、輸入機と見なすことができる。中国空軍の主力戦闘機になった。

写真(右):1935-1937年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用されたカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk):操縦席前方の筒型照準眼鏡は、オイジー(O.G.)式照準器とも呼ばれるが、1940年代からは、光学式照準器が普及した。1931年に開発された固定脚のカーチス(Curtiss)F11CホークII戦闘機(BFC-1)を引込み脚に改修したカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C-1 Goshawk)は、同じ複葉機で、搭載した発動機もライト(Wright)R-1820サイクロン"Cyclone"空冷星形エンジンだった。しかし、引込み脚として空力的に洗練させたために性能は向上した。
Piction ID:43099438 - Title:Curtiss BF2C-1 first flight Sept. 13, 1934 - Catalog:16_003749 - Filename:16_003749.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:4309943引用。

カーチス社のアメリカ海軍艦上戦闘機の最後を飾ったのがカーチスホークII戦闘機だった。カーチス社は、1933年から固定脚だったF11C戦闘機の改修を始め、カーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)では、車輪を手動油圧ポンプで引き込むようにし、最高速力を30Km向上させた。

写真(右):1935-37年頃、アメリカ海軍カーチスBF2CホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-2 VB-5B 5-B-1):1933年、アメリカのカーチス社がアメリカ海軍艦上機として開発したホーク戦闘機シリーズの最後の機体がホークIII(BF2C-1)艦上戦闘機で、試作機は、1934年9月13日に初飛行。主翼が二枚ある複葉機ではあるが、引込み脚を採用して空気抵抗を減らし、速力や空戦性能を向上させた艦上戦闘機、中国空軍(鷹三型戦轟)として採用された。
Curtiss : BF2C : Goshawk
PictionID:40961135 - Catalog:16_000066 Curtiss BF2C-2 VB-5B 5-B-1 - Filename:16_000066 Curtiss BF2C-2 VB-5B 5-B-1.tif - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Piction ID:40961135 引用。

写真(右):1935-37年頃、アメリカ、カリフォルニア州ロスアンゼルス郊外グランデール(Glendale)、アメリカ海軍カーチスBF2C-1ホークIII艦上戦闘機(Curtiss BF2C-1, 9596, VB-5B):中国空軍では、アメリカのカーチス社のアメリカ海軍ホーク艦上戦闘機を輸入し、アメリカ人軍事顧問の下で空軍要員の訓練を行ていた。これらの飛行機は、分解されアメリカから中国に船積みされ、中国で組み立てられた。ノックダウン方式なので、実質的には中国で生産されたわけではない。日本は軍用機の自国生産・国産に拘ったが、中国は輸入機で空軍を構成したため、種類が多く、それでも更新したり、新型機種に改編するのは容易だった。しかし、部品の交換や技術の習得という面では自国生産しないことは不利だった。
Catalog Number: Mitchell028
Collection : Robert Mitchell Collection
Repository : San Diego Air and Space Museum Archive
Title : 28. Curtiss BF2C-1, 9596, VB-5B, Glendale
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog Number:Mitchell028 引用。

写真(右):1937年頃、中国空軍(鷹三型戦轟)第四大隊高志航大隊長のカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk):胴体下面に流線型(涙滴型)の増加燃料タンクを装備している。1934年9月13日に試作機が初飛行、その後中国が購入、輸入し中国空軍に主力戦闘機として配備した。
English: 1930s Hawk III of China Air Force.
中文: 本機為第四大隊大隊長高志航鷹三型戰轟機。鷹三型戦轟機為抗日戦争初期,中国国空軍主力戦機,又稱霍克三 (Hawk III)。第一次公開在国人面前是在民国二十五年十月卅日,為慶祝蒋公五十歳生日,由第四大隊大隊長高志航少校率卅五架霍克三,在南京市明故宮機場上空編成「中正」二字的空中分列式。並在民国26年8月14日筧橋空戦時,曾創下撃落日機3架的紀録!
Date 1930s
Source http://lov.vac.gov.tw/
Author ROC government
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:1930s Hawk III of China Air Force.jpg引用。

写真(右):1937年頃、中国空軍第21戦闘飛行中隊トップエースのリュウ・チー・スン大佐(Liu Chi-Sun:劉志純?)のカーチスBF2CホークIII戦闘機(Curtiss BF2C Goshawk:鷹三型戦轟):1933年、アメリカのカーチス社がアメリカ海軍艦上機として開発・ホークIII(Hawk III )艦上戦闘機で、試作機は、1934年9月13日に初飛行、胴体下面に流線型(涙滴型)の増加燃料タンクを装備している。中国空軍撃墜王となったリュウ・チー・スンは、ソ連製I-153戦闘機 、I-16戦闘機も乗機として空中戦に出動した。
Catalog #: 01014 .
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01014引用。

写真(右):1938年5月13日、アメリカ陸軍航空隊第20追撃集団のボーイング281戦闘機P-26(Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter)(US Air Corps 20th Pursuit Group):1931年にボーイング社がボーイング・モデル248として設計した初めての全金属性の戦闘機(追撃機)。スパッツ付きの固定脚、開放式コックピット(操縦席)、張線で支える主翼など、従来の保守的構造も残しているが、スマートで空力的に優れた設計であるように見える。「ピーシューター(Peashooter)」とは豆鉄砲を意味するが、機動性がある軽快な高速戦闘機をイメージさせる。
Description English: Boeing P-26As of the US Air Corps 20th Pursuit Group Source: United States National Archives
Source USAF
Author USAF
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:20th-p26as.jpg引用。

写真(右):1938年5月13日、アメリカ陸軍航空隊第20追撃集団のボーイング P-26A (Boeing P-26)No 101 ピーシューター(Peashooter)(US Air Corps 17th Pursuit Group):ボーイング社は、現在世界最大の旅客機メーカーになっているが、第二次大戦世界大戦前後、B-17、B-29 など大型爆撃機の大量生産で成長したが、1920年代は、ボーイングは戦闘機メーカーだった。
Description P-26A No 101 assigned to headquarters, 17th Pursuit Group
Date 15 March 2009, 16:21
Source P-26Ano101
Author Bill Larkins
写真は Wikimedia Commons, Category:Boeing P-26 Peashooter File:P-26Ano101 (4526389411).jpg引用。

中国空軍は、アメリカから輸入し、戦闘機部隊で訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月の第二次上海事変の時、実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイング P-26戦闘機8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

写真(右):1938年頃、アメリカ陸軍航空隊ボーイング281戦闘機P-26(Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter):1931年にボーイング社がボーイング・モデル248として設計した初めての全金属性の戦闘機(追撃機)。固定脚、開放式コックピット、張線式主翼と従来の保守的構造も残している。「ピーシューター(Peashooter)」とは豆鉄砲を意味する。第20追撃集団に配備された。
Boeing : P-26A
Catalog #: 00029533
Manufacturer: Boeing
Designation: P-26A
Notes: "Peashooter
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00029533引用。

写真(右):1938年頃、ボーイング P-26A (Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter)に乗り込むアメリカ陸軍航空隊の操縦士:ボーイング社は、現在世界最大の旅客機メーカーになっているが、第二次大戦世界大戦前後、B-17、B-29 など大型爆撃機の大量生産で成長したが、1920年代は、ボーイングは戦闘機メーカーだった。
Boeing : P-26A
Catalog #: 00029539
Manufacturer: Boeing
Designation: P-26A
Notes: "Peashooter
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00029539引用。

中国空軍は、アメリカから輸入し、戦闘機部隊で訓練していたボーイング P-26Boeing P-26 Peashooter)を、1937年8月の第二次上海事変の時、実戦投入した。1937年8月20日、九州の大村基地を飛び立った日本海軍の三菱九六式中攻Mitsubishi G3M)は、東シナ海を超え、渡洋爆撃によって首都南京を空襲した。この時、日本海軍九六式陸上攻撃機を中国空軍のボーイングP-26Boeing P-26)8機が迎撃した。戦闘機は損害無しで、日本機6機の撃墜を報告した。その後、日本海軍の九六式艦上戦闘機と空中戦も行っている。

写真(右):1938年頃、飛行中のボーイング P-26A (Boeing P-26)ピーシューター(Peashooter)
Boeing : P-26A
Catalog #: 00029528
Manufacturer: Boeing
Designation: P-26A
Notes: "Peashooter
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: :00069777引用。

ボーイング社は、複葉機全盛の時代の1930年代初頭に、単葉、スパッツ(カバー)付き固定脚で、斬新な設計のボーイングP-26Boeing P-26)P-26戦闘機の原型を開発した。1933年から100機以上の発注を受け量産され、中国も、ボーイング P-26を輸入し、1937年の日中戦争で実戦投入した。ただし、 P-26配備機数は少なく、主力戦闘機はカーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。1940年代には旧式化していたものの、アメリカ軍は、アメリカ領フィリピンに配備していた。

写真(右):1938年8月27日のポストに掲載された、中国空軍のバルティー(Vultee) V-11軽爆撃機(上)と、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-15(Polikarpov I-15)戦闘機(下): ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機I-153は、1939年から実戦使用されている。ソ連最後の複葉戦闘機で、操縦席からの視界を良好にするために、上翼はガル型で折れまげて胴体に連結されている。そこで、英語のガル(かもめ)と同じく、ロシア語でチャイカ(かもめ)の明用が付けられた。
Vultee V-11 and Polikarpov I-15.
Catalog #: 0406
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0406引用。

バルティー(Vultee) V-11軽爆撃機の諸元
初飛行: 1935年9月17日、制式: 1937年
最高速力: 370 km/h
全長: 12 m、全幅: 15 m

写真(右):1938-1940年,中国、最高級「ファーストホテルバー」を気取ったアメリカ人の義勇兵たちは、中国空軍としてノースロップ2E軽爆撃機やカーチスBE2F複葉戦闘機などでポリカルポフI-15 bis 複葉戦闘機との戦列(少なくとも9機が写っている):1937年8月、日中戦争勃発直後に締結された中ソ不可侵条約によって、ソ連は中国に対する軍事援助を始めた。日本の軍事力を牽制できるように、ソ連空軍の採用した軍用機から、ポリカルポフI-15戦闘機に続いて、I-153戦闘機やI-16戦闘機のように主輪引込み式の新鋭戦闘機、全金属製の高速ツポレフSB双発爆撃機などが供与された。
PRO SDASM Archives Follow
"Piltsker, Ricks,Sweeney, Van Timmeren, Schraman, Mchenry at 1st Hotel Bar"
Catalog #: 0090
Subject: The Flying Tigers - China
写真はSDASM Archives Catalog #: 0090引用。


ボーイング社は、複葉機全盛の時代の1930年代初頭に、単葉、スパッツ付き固定脚で、斬新な設計のP-26(Boeing P-26)戦闘機の原型を開発した。1933年から100機以上の発注を受け量産され、中国も、ボーイング P-26を輸入し、1937年の日中戦争で実戦投入した。ただし、 P-26配備機数は少なく、主力戦闘機はカーチスBF2CホークIII戦闘機Curtiss BF2C-1 Goshawk)だった。1940年代には旧式化していたものの、アメリカ軍は、アメリカ領フィリピンに配備していた。

写真(右):1935-1936年頃、アメリカ陸軍に加えて中国・イギリス・ソビエト連邦への輸出販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E N11-VVS)
Northrop : 2E : Gamma
Catalog #: 00069775
Official Nickname: Gamma
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069775引用。

中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の軽爆撃機の主力として45機を購入した。主翼、胴体、エンジンを分解したまま船積み輸入し、中国に組み立て工場でそれらの部品から実機を完成させた。これは、部品輸入に依存したノックダウン方式である。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、その前のガンマ2C(Gamma 2C )の爆弾搭載量1,600 ポンド (727 kg)とした輸出軍用仕様で、1938年まで中国空軍で使用された。また1933年に1機(K5053)がイギリス航空機兵装装備実験施設(British Aeroplane & Armament Experimental Establishment)に、2機が日本海軍航空隊(Imperial Japanese Navy Air Service)にノースロップ(Northrop)BXNとして輸出、試験された。

写真(右):1935-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2A軽爆撃機(Northrop Gamma 2A )のカーチス社ライト空冷星形エンジン 785馬力 (585 kW):金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体だった。当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かったが、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。中国空軍軽爆撃機の主力として45機を購入した。
Northrop : 2E : Gamma
Catalog #: 00069771
Manufacturer: Northrop
Designation: 2E
Official Nickname: Gamma
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069771引用。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、全金属製・単葉の斬新な設計のガンマ2A(Gamma 2A)の発展型である。ガンマ2C(Gamma 2C :YA-13)は、ノースロップが自主企画の攻撃機で、カーチス(Curtiss)A-12 シュリンク(Shrike)の対抗馬となった。兵装は、7.62ミリ(0.30 cal)機関銃4丁を主翼に装備、後方に7.62ミリ(0.30 cal)機関銃1丁を防備用の旋回機銃として装備した。爆弾搭載量は、最大で 1,100ポンドlb (500 kg) で主翼下面に搭載する。1933年にアメリカ陸軍航空隊(USAAC)で試験された。

当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かった。しかし、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体で、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。しかし、無粋な感じの車輪収納用スパッツは巨大であり、主翼下面の空気の流れを乱し、空力的には問題が多いように思われる。また、膠着装置の整備の簡易性から言っても、巨大なスパッツは不便である。中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の主力爆撃機として採用し、45機を輸入した。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2A軽爆撃機(Northrop Gamma 2A )のカーチス社ライト空冷星形エンジン 785馬力 (585 kW):全金属製・単葉は斬新な機体で、胴体には斬新な矢印のマーキングがある。ノースロップ・ガンマ2A(Gamma 2A)は、最初の生産型で、テキサコ(Texaco)に売却されて、飛行家フランク・ホークス(Fank Hawks)、別名スカイチーフ"Sky Chief"によって飛行した。カーチス社ライト空冷星形エンジン 785馬力 (585 kW)装備。この後のガンマ2BT(Gamma 2BT)は複座仕様(二人席)で操縦装置もタンデム式だった。プラット・ホイットニー (Pratt & Whitney)ワスプ(Wasp)空冷星形エンジン 500馬力 (373 kW)装備。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646342 - Catalog:16_006937 - Title:Northrop Gamma 2A - Filename:16_006937.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646342引用。

写真(右):1933-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E N11-VVS)
Ray Wagner Collection Image
Northrop : 2E : Gamma
Catalog #: 00069777
Manufacturer: Northrop
Designation: 2E
Official Nickname: Gamma
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: :00069777引用。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、全金属製・単葉の斬新な設計のガンマ2A(Gamma 2A)の発展型である。ガンマ2C(Gamma 2C :YA-13)は、ノースロップが自主企画の攻撃機で、カーチス(Curtiss)A-12 シュリンク(Shrike)の対抗馬となった。兵装は、7.62ミリ(0.30 cal)機関銃4丁を主翼に装備、後方に7.62ミリ(0.30 cal)機関銃1丁を防備用の旋回機銃として装備した。爆弾搭載量は、最大で 1,100ポンドlb (500 kg) で主翼下面に搭載する。1933年にアメリカ陸軍航空隊(USAAC)で試験された。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E N11-VVS)
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646428 - Catalog:16_006944 - Title:Northrop 2E N11-VVS M.>. Gallai - Filename:16_006944.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646428引用。

ノースロップ・ガンマ2E(Gamma 2E)軽爆撃機は、その前のガンマ2C(Gamma 2C )の爆弾搭載量1,600 ポンド (727 kg)とした輸出軍用仕様で、1938年まで中国空軍で使用された。また1933年に1機(K5053)がイギリス航空機兵装装備実験施設(British Aeroplane & Armament Experimental Establishment)に、2機が日本海軍航空隊(Imperial Japanese Navy Air Service)にノースロップ(Northrop)BXNとして輸出、試験された。

写真(右):1934-1936年頃、アメリカ陸軍への販売を企図して開発されたノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):全金属製・単葉は斬新な機体で、垂直尾翼の後半は、赤と白のストライプで塗装されている。これは、星条旗を示す国籍記章だった。1937年当時の中国空軍の初力爆撃機として、第二次上海事変では、1937年8月13日・14日と上海の日本軍部隊や上海バンドの日本海軍艦艇を爆撃した。中国空軍軽爆撃機の主力として45機を購入した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646367 - Catalog:16_006939 - Title:Northrop 2E - Filename:16_006939.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646367引用。

写真(右):1935年11月28日、アメリカ陸軍への販売を企図して実機を飛行させたノースロップ社。着陸態勢に入ったノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体だった。当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かったが、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。中国空軍もソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機に関心を示し、中国空軍軽爆撃機の主力として45機を購入した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45646391 - Catalog:16_006941 - Title:Northrop 2E Sales Tour sold to Army 11/28/1935 - Filename:16_006941.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。

写真(右):1934年、中国、アメリカのノースロップ社から胴体・主翼・エンジンなどを分解・輸入して、中国国内の組み立て工場でノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機を完成させた。ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、アメリカ陸軍に加えて中国・イギリス・ソビエト連邦への輸出販売を企図して開発された。
Northrops in Factory
SDASM.CATALOG: Arnold_00032
SDASM.TITLE: Northrops in Factory
SDASM.DATE: 1934
SDASM.LOCATION: Shien Chiao China
SDASM.ADDITIONAL INFORMATION: pencil on back: ""Northrops in [illegible] 1934"
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069775引用。

写真(右):1935年3月14日、アメリカ製ノースロップ社から胴体・主翼・エンジンなどを分解・輸入して、中国国内の組み立て工場でノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E)を完成させる。全金属製・単葉は斬新な機体で、垂直尾翼の後半は、赤と白のストライプで塗装されている。これは、星条旗を示す国籍記章だった。1937年当時の中国空軍の初力爆撃機として、第二次上海事変では、1937年8月13日・14日と上海の日本軍部隊や上海バンドの日本海軍艦艇を爆撃した。
Northrop Being Assembled in Factory
SDASM.CATALOG: Arnold_00033
SDASM.TITLE: Northrop Being Assembled in Factory
SDASM.DATE: 3/14/1935
SDASM.LOCATION: Shien Chiao China
SDASM.ADDITIONAL INFORMATION: pencil on back: ""Bulb-[illegible]"" ""25ft"" ""f:8"" ""3-14-35"" ""60""
SDASM.COLLECTION: George Arnold Collection
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646367引用。

中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E(Northrop 2E)軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の軽爆撃機の主力として45機を購入した。主翼、胴体、エンジンを分解したまま船積み輸入し、中国に組み立て工場でそれらの部品から実機を完成させた。これは、部品輸入に依存したノックダウン方式である。

写真(右):1935-36年頃、ソビエト連邦に輸出するために撮影されたアメリカ製ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):金属単葉(主翼1枚)は斬新な機体だった。当時の大半は、主翼二枚の複葉機で、主翼支柱や張線が多数あって空気抵抗が大きかった。車輪も当時はそのままの剥き出し固定脚が多かったが、ノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機は、主翼下面に巨大なスパッツ状の車輪収納スペースを設け、それを曲線で覆って空気抵抗を減らそうとした。しかし、無粋な感じの車輪収納用スパッツは巨大であり、主翼下面の空気の流れを乱し、空力的には問題が多いように思われる。また、膠着装置の整備の簡易性から言っても、巨大なスパッツは不便である。中国空軍は、ソ連空軍と同じくこのノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機に関心を示し、中国空軍の主力爆撃機として採用し、45機を輸入した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45646404 - Catalog:16_006942 - Title:Northrop 2E for the USSR Northrop photo - Filename:16_006942.TIF - ---Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646404引用。

写真(右):1935-1936年頃、中国空軍がアメリカから購入したノースロップ社製造のノースロップ・ガンマ2E軽爆撃機(Northrop 2E):胴体後方と主翼下面両端には「青天白日」の中華人民共和国の記章が描かれている。前金属製、単葉の新型爆撃機は、国防空軍力の急速な増強を図っていた中国、イギリス、ソビエト連邦に輸出、売却された。ノースロップ爆撃機前期シリーズの特徴となる主翼下面の車輪収納用の巨大なスパッツが物々しく、これではかえって空気抵抗が増えたり、空中機動性が低下しないかと心配になる。このようなスパッツは、整備する上でも、タイヤ交換や点検に不便である。
Ray Wagner Collection Image
Northrop : 2E : Gamma Catalog #: 00069781
Manufacturer: Northrop
Official Nickname: Gamma
Designation: 2E
Notes: To China, Great Britain and USSR
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
SDASM Archives By: SDASM Archives Follow Friend Family
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00069781引用。

写真(右):1937-1942年頃、アメリカのノースロップ2EC軽爆撃機(Northrop 2EC Light Bomber)とフランス製ブレゲー(Breguet)27-5 偵察爆撃機(左):ブレゲー 27は、フランス軍が1928年の仕様書を出し試作を要請した戦闘機で、ブレゲーは、全金属製の一葉半(セスキプラン)、複座の戦闘機を試作した。胴体は短く、重量軽減を図り、胴体後方にブームを伸ばしてその先に尾翼を付けた。1930年、フランス軍はブレゲー 27偵察爆撃機を85機、1932年に45機を発注した。 中国は6機のブレゲー27偵察爆撃機を購入した。
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Breguet 27-5 Bomber and Northrop 2EC Light Bomber
Catalog #: 0223
Subject: The Flying Tigers - China
Title: Breguet 27-5 Bomber and Northrop 2EC Light Bomber
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646342引用。

ブレゲー(Breguet)27偵察爆撃機
乗員:2名(操縦士・偵察員)
全長:9.76 m、全幅:17.01 m、全高:3.55 m
翼面積:50.0平方メートル
自重:1,756 kg、全備重量:2,393 kg
発動機:イスパノ・スイザ 12Hb1基500馬力
最高速度:236 km/h
航続距離:1,000 km
実用上昇限:7,900 m
兵装:前方固定:7.7 mm(.303 in)ヴィッカース機銃1丁
後方旋回:7.7 mm(.303 in)ルイス機銃2丁
爆弾:120 kg

写真(右):1938年、アメリカ陸軍ノースロップ (Northrop)BT-1爆撃機の急降下
Title: NORTHROP BT-1 (Bu# 0614)
Caption: Coded 5-B-18, seen in a dive, circa 1938. Note "Winged Satan" insignia of "Bombing 5".
Description: Original in Aviation History Branch, 1980.
Catalog #: NH 91165
Copyright Owner: Naval History and Heritage Command
写真はNaval History and Heritage Command NH 91165 NORTHROP BT-1 (Bu# 0614) 引用。

ノースロップ ガンマ(Northrop Gamma )2E爆撃機 の発展型が、ノースロップ社のBT爆撃機である。ノースロップ BT爆撃機 (BT‐2ができた時点でBT-1)は、全金属製・単葉・引込脚で、当時の新しい攻撃方法である「急降下爆撃」を取り入れた。開発の契機は、アメリカ軍が国内各社に急降下爆撃機の開発を要求したことである。ノースロップ社の開発した試作機は1935年8月に初飛行に成功し、アメリカ海軍に感情急降下爆撃機として採用された。その後、アメリカ海軍が改良型の開発を指示したのがXBT-2である。ノースロップ社はダグラス社に吸収され、改良型XBT-2は、SBDドーントレスの原型機として完成した。

写真(右):1934-1935年頃、アメリカ、ロングビーチ、アメリカ陸軍航空隊のマーチンB-10A爆撃機(Martin B-10):1930年にマーチン社は、自主開発で123型を試作、これは前金属製、胴体内に爆弾槽を設けた双発爆撃機だった。1932年3月にXB-907試作機が完成、最高速力317 km/hは当時としては高速だった。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、YB-10の名称で48機の発注がなされた。
Description Martin B-10 Long Beach 1938 Date 25 July 2008, 13:24
Source Martin B-10 Long Beach 1938
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10 Long Beach 1938 (4800374631).jpg引用。

写真(右):1933-1935年頃、アメリカ、飛行試験中と思われるマーチン(Martin)B-10B爆撃機:アメリカ製マーチンMartin B-10B爆撃機は、輸出型をMartin 139Wと呼称し、オランダと中国に輸出された。
AL61A-515 Martin B-10 Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives AL-61 A and B Album Photo Images引用。

1930年代初め、アメリカのマーチン社は、後にマーチンB-10爆撃機となる原型をマーチン・モデル123(Martin Model 123)として開発したが、これは全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機だった。そして、マーチン社は1932年2月に原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。これは当時としては高速で、当時のアメリカ戦闘機よりも早かったため、高速爆撃機として注目を浴びた。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aが、YB-10の名称で、アメリカ陸軍により、48機が発注された。

写真(右):1932-1935年頃、アメリカ、飛行中のマーチン(Martin)B-10B爆撃機:マーチンB-10爆撃機の初めての量産型が、B-10B爆撃機で,これは試作テストしたYB-10とほど同じだった。全長44 feet 9 inches (13.640 m)、全幅(wingspan)70 feet 6 inches (21.488 m)、全高 15 feet 5 inches (4.670 m)で、空虚重量 9,681 pounds (4,391 ?)。搭載発動機はライト・サイクロン(Wright Cyclone) SGR-1820-F3 (R-1820-33)で海面上で700馬力、毎分1,950回転、B-10Bの巡航速度(cruising speed)は、時速193 miles(311 km)、最高速力 213 miles (343 km)/10,000 feet (3,048 m)だった。
AL61A-460 Martin B-10B
Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives AL61A-460 引用。

後にマーチンB-10爆撃機となるモデル123(Martin Model 123)爆撃型として、機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、アメリカ陸軍から1933年に48機の発注を受けた。これがアメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機として制式になる。アメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機の量産は、1934年からで、陸上用車輪式降着装置を撤去して、双フロート(浮舟)を装着した水上爆撃型も試作された。

1931年1月から、アメリカ陸軍は、アメリカ本土防衛のために海岸線を防衛する任務も担っており、あまりか陸軍は、数機のB-12Aを改造して、巨大な双フロート(float)を付けて、水上で離発着できるB-12A水上機を試作し、1935年8月24日に完成させている。

写真(右):1934年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12A偵察爆撃機とその奥に整列したノースアメリカン(North American) O-47A偵察機:次の写真に写っているマーチン(Martin)B-12偵察爆撃機と同じ。
Martin, B-12A
Catalog #: 01_00091081
Additional Information: USA, North American O-47A observation aircraft in background
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091081引用。

1933年1月17日、アメリカ陸軍は48機の マーチン・モデル(Martin Model)139単葉爆撃機(monoplane bomber)を発注し、この中で合計32機がYB-12とB-12A(7機がYB-12、25機がB-12A)である。この両機の差異は、搭載エンジンの種類で、YB-10の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)R-1690-11空冷星形エンジン「ホーネット」(Hornet)で、B-10爆撃機は、ライト(Wright)社の空冷星形エンジン「サイクロン」(Cyclones)である。

写真(右):1934年以降、アメリカ、格納庫の中でアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12A偵察爆撃機とその手前に整列したノースロップ(Northrop )A-17A軽爆撃機:。
Northrop, A-17A
Additional Information: USA, With a Martin B-10 bomber behind Tags: Northrop , A-17A
Catalog #: 01_00091115
写真はFlickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091115引用。

最初のYB-12試作機は、1934年4月に完成し、ホーネットエンジンの出力が高かったために、YB-12の最高速力は、B-10Bよりも時速5マイル(8km)程度早かった。しかし、新モデルB-12は、B-10とほとんど変わるところがなかった。形状の上では、B-12は、B-10と異なってエンジンナセルの側面に、潤滑油冷却器空気取入れ口(oil cooler intake)がついているので識別できる。B-12Aは、胴体下部の爆弾槽(bomb bay)に256米ガロン(960L)の追加燃料タンク(extra fuel tank)を設けて、通常の燃料搭載量よりも、226米ガロン(850L)追加増量できるので、それだけ航続距離を伸ばすことができた。

写真(右):1933-1935年頃、アメリカ、飛行試験中と思われるマーチン(Martin)B-10B爆撃機:アメリカ製マーチンMartin B-10B爆撃機は、輸出型をMartin 139Wと呼称し、オランダと中国に輸出された。
Martin, B-10B
Catalog #: 01_00091079
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091079引用。

1930年代初め、アメリカのマーチン社は、後にマーチンB-10爆撃機となる原型をマーチン・モデル123(Martin Model 123)として開発したが、これは全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機だった。そして、マーチン社は1932年2月に原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。これは当時としては高速で、当時のアメリカ戦闘機よりも早かったため、高速爆撃機として注目を浴びた。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aが、YB-10の名称で、アメリカ陸軍により、48機が発注された。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)B-10B爆撃機
Title: Martin, B-10B
Catalog #: 01_00091078
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091078引用。

 アメリカ陸軍で初めての全金属製単葉双発爆撃機としてマーチンB-10を制式したが、オランダ、中国、アルゼンチン、トルコへの輸出仕様マーチン139Wが生産された。オランダ向けは、マーチン139WH、中国向けはマーチン139WCと区別し、いかにも購入国に配慮したような名称と、上手な売り込みを図っている。なんといっても、アメリカ陸軍航空隊が採用しているのであるから、その爆撃機は優秀であるに違いない。

写真(右):1932-1935年頃、アメリカ、主輪を引き込まないまま安全飛行をするマーチン(Martin)B-10爆撃機:試験飛行中のようだ。マーチンB-10爆撃機の初めての量産型が、B-10B爆撃機で,これは試作テストしたYB-10とほど同じだった。全長44 feet 9 inches (13.640 m)、全幅(wingspan)70 feet 6 inches (21.488 m)、全高 15 feet 5 inches (4.670 m)で、空虚重量 9,681 pounds (4,391 ?)。搭載発動機はライト・サイクロン(Wright Cyclone) SGR-1820-F3 (R-1820-33)で海面上で700馬力、毎分1,950回転、B-10Bの巡航速度(cruising speed)は、時速193 miles(311 km)、最高速力 213 miles (343 km)/10,000 feet (3,048 m)だった。
Martin B-10B
Catalog #: 00005627
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005627引用。

後にマーチンB-10爆撃機となるモデル123(Martin Model 123)爆撃型として、機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、アメリカ陸軍から1933年に48機の発注を受けた。これがアメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機として制式になる。アメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機の量産は、1934年からで、陸上用車輪式降着装置を撤去して、双フロート(浮舟)を装着した水上爆撃型も試作された。

1931年1月から、アメリカ陸軍は、アメリカ本土防衛のために海岸線を防衛する任務も担っており、あまりか陸軍は、数機のB-12Aを改造して、巨大な双フロート(float)を付けて、水上で離発着できるB-12A水上機を試作し、1935年8月24日に完成させている。

写真(右):1940年、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊マーチン B-10爆撃機
pictionid56896245 - catalogbd martin b-10 12 14 13.jpg - title--bd martin b-10 12 14 -- - filenamebd martin b-10 12 14 13.jpg--Born digital image that was acquired by the San Diego Air and Space Museum--------Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives pictionid56896245引用。

マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)139W爆撃機の後上方の機銃座: マーチン139W爆撃機はB-10爆撃機の輸出型で中国やオランダに手出された。金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
Martin : 139-W
Catalog #: 00068793
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068793引用。

マーチンB-10爆撃機は、増加試作まで当初ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン(675hp)を搭載していたが、量産型のマーチンB-10B爆撃機は、カーチスR-1820-33エンジン(775hp)と若干馬力を強化して、100機以上生産された。ライトR-1820サイクロンのR1820とは、エンジン排気量(シリンダー容積:Displacement)が 1,823立方インチ (29.88 L)であることからきている。ただし、YB-12として、エンジンをライト社ではなく、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)社のR-1690「ホーネット」空冷星形エンジン(775hp)に換装した機体も30機程度若干生産されている。これがB-12A偵察爆撃機で、爆撃型YB-12の胴体下面の爆弾倉を追加燃料タンクとして、航続距離を延長した。

写真(右):1940年、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ東20キロ、オークランド飛行場、アメリカ陸軍航空隊第91偵察中隊のマーチン B-10B偵察爆撃機
Description This is a rare and unusual photo taken with two of the large GE #21 flash bulbs on a time exposure. It really shows the underwing detail and all of the rivets that you don't see in a normal daytime photo. B-10 of the 91st Observation Squadron at Oakland Airport 1940
Date 13 December 2008, 10:48
Source Martin B-10BM Night flash photo
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

写真(右):1934年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12 偵察爆撃機とその前に整列した飛行搭乗員が整列し、自動車でやってきた将校の検閲を受けている。:次の写真に写っているマーチン(Martin)B-12偵察爆撃機と同じ、髑髏の海賊風のマークを機首に描いている。
Martin B-12
Martin : B-12 :
Catalog #: 00005729
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005729引用。

1933年1月17日、アメリカ陸軍は48機の マーチン・モデル(Martin Model)139単葉爆撃機(monoplane bomber)を発注し、この中で合計32機がYB-12とB-12A(7機がYB-12、25機がB-12A)である。この両機の差異は、搭載エンジンの種類で、YB-10の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)R-1690-11空冷星形エンジン「ホーネット」(Hornet)で、B-10爆撃機は、ライト(Wright)社の空冷星形エンジン「サイクロン」(Cyclones)である。

写真(右):1934年以降、アメリカ、髑髏の海賊風のマークを機首に描いているアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12 偵察爆撃機とその前に整列した飛行搭乗員:海上に不時着した場合に備えて、ライフジャケットを着て、航空用に酸素吸入装置を付けている。
Martin B-12
Martin : B-12 :
Catalog #: 00005714
写真はFlickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005714引用。

最初のYB-12試作機は、1934年4月に完成し、ホーネットエンジンの出力が高かったために、YB-12の最高速力は、B-10Bよりも時速5マイル(8km)程度早かった。しかし、新モデルB-12は、B-10とほとんど変わるところがなかった。形状の上では、B-12は、B-10と異なってエンジンナセルの側面に、潤滑油冷却器空気取入れ口(oil cooler intake)がついているので識別できる。B-12Aは、胴体下部の爆弾槽(bomb bay)に256米ガロン(960L)の追加燃料タンク(extra fuel tank)を設けて、通常の燃料搭載量よりも、226米ガロン(850L)追加増量できるので、それだけ航続距離を伸ばすことができた。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: マーチン139WC爆撃機は、金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
Catalog #: 00068795 Manufacturer: Martin Designation: 139-W
Notes: As B-10 for export, 1936-39
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。

 アメリカ陸軍で初めての全金属製単葉双発爆撃機としてマーチンB-10を制式したが、オランダ、中国、アルゼンチン、トルコへの輸出仕様マーチン139Wが生産された。オランダ向けは、マーチン139WH、中国向けはマーチン139WCと区別し、いかにも購入国に配慮したような名称と、上手な売り込みを図っている。なんといっても、アメリカ陸軍航空隊が採用しているのであるから、その爆撃機は優秀であるに違いない。

写真(右):1937年2月(?)、中国に到着した分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機(胴体後方が見えている)とその前に勢ぞろいした中国人とアメリカ人のスタッフ: つなぎ作業服を着こんだ技師・整備士8人(3人は略帽)、軍帽の中国軍将兵4人は黒の革靴を履いている。右端に黒の長靴を履いて帽子を被ったアメリカ軍人が勢揃いしている。同時期と思われる組み立ての終ったマーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
Martin : 139
Catalog #: 00068838
Manufacturer: Martin
Designation: 139
Notes: In China, as B-10
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068838引用。

しかし、アメリカ陸軍としては、各国の軍隊がアメリカ軍と同じ優秀な飛行機を装備する事には警戒心が強かった。そこで、友好国のみに輸出するとして、居改正を取っている。オランダ、中国はこの許可を得ることができ、トルコなどマーチンB-10爆撃機は輸出されている。マーチンB-10 爆撃機の初の実戦参加は、1937年8月、第二次上海事変・日中戦争の時、中国空軍に配備されていたマーチン139WC爆撃機が日本軍を攻撃したときである。その後、オランダ空軍が蘭印(インドネシア)に配備したマーチン139WH爆撃機も日本軍を攻撃している。

写真(右):1937年2月(?)、中国、上海、分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機の組み立て作業小屋:主翼の断面(左)、半球形機銃座の付いた機首(中央)が、棕櫚製ゴザと竹棒で囲まれた臨時組み立て作業場の中に見える。中国の技師とアメリカの軍人が立っているのが見える。マーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01082
Manufacturer: Martin
Designation: 139
Notes: In China, as B-10
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01082引用。

中国に船積みされた輸出仕様マーチン(Martin)139WC爆撃機は、上海に到着し、大型木製箱に梱包されたまま、上海、虹橋飛行場で組み立てられたようだ。飛行場の片隅に、現地で調達した棕櫚ゴザ・筵、竹で囲い込み式、屋根を葺いた作業用の小屋が作られたが、これは臨時の大きな掘立小屋である。一つの作業小屋での組み立て作業は、つなぎ作業服を着た中国人技師・整備士8人以上で、ここに、中国軍将兵やアメリカ軍人も随時、参加、協力したようだ。主翼を取り付けると、作業小屋には入らなくなるの、臨時の掘立小屋を撤去して、マーチン(Martin)139WC爆撃機の最終組み立てを行ったと考えられる。

写真(右):1937年2月(?)、分解・輸出された中国の上海におけるアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機の組み立て作業小屋:風雨をしのぐ、敵(日本)の目から隠す目的で、棕櫚製ゴザで覆われた簡易小屋の中で、アメリカと中国の技師が、主翼、胴体、膠着装置、エンジンなどを取り付け組み立てる。 中国の技師とアメリカの軍人が立っているのが見える。マーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01082
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068838引用。

1930年代初期に実用化されたマーチン(Martin)B-10爆撃機は、革新的なデザインの全金属製、単葉(主翼1枚)、引込み式脚の設計だった。胴体が太く、風貌や銃座の張出も無粋で空力学的に洗練されているとはいいがたいが、当時の世界各国の実用化されていた戦闘機よりも高速だった。1936年にマーチン社は、許可を得て二国に対する輸出型の販売を行った。これはオランダ向けのマーチン139WHと中国向けのマーチン139WCである。139の後のWは世界、Hはオランダ、Cは中国を示している。

写真(右):1937年2月(?)、輸出された中国における、分解されていたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機の機体最終組み立て作業中の: 技師・整備士が機体の胴体上に乗り点検作業をしている。同時期と思われる組み立ての終ったマーチン(Martin)139WC爆撃機の写真から推測して、飛行場の場所は中国、上海、虹橋飛行場と思われる。飛行場の使用頻度も、繋留飛行機数も少ないために、飛行場滑走路は転圧のみで舗装はされていない。
Martin : 139
Catalog #: 00068834
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068834引用。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。輸出仕様のマーチン139W爆撃機は、合計200機が生産されたが、中国にも引き続き販売され、中国だけでも数十機のマーチン爆撃機を中国空軍に部隊配備したものと考えられる。

写真(右):1937年2月、中国に到着した組み立ての終ったアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: マーチン139WC爆撃機の前に、中国人の飛行搭乗員とアメリカ陸軍航空隊の搭乗員が揃って記念写真を撮影した。サンジエゴ航空宇宙博物館アーカイブ(San Diego Air and Space Museum Archive)には、これと同じ写真が、トリミングを変えて3枚、所蔵、公開されている。
Martin B-12 and unknown
Catalog #: 1609
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 1609引用。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。マーチン139WC爆撃機は、1936年から1939年にかけて、中国に向けて合計数十機が輸出されたようだ。1937年の中国空軍における配備部隊は、第14志願飛行隊(14th Volunteer squadron)、第10爆撃戦隊などである。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)B-10B爆撃機: マーチン139WC爆撃機は、金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
AL61A-459 Martin B-10B
Catalog #: 00068795
Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068795引用。

マーチンB-10爆撃機は、増加試作まで当初ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン(675hp)を搭載していたが、量産型のマーチンB-10B爆撃機は、カーチスR-1820-33エンジン(775hp)と若干馬力を強化して、100機以上生産された。ライトR-1820サイクロンのR1820とは、エンジン排気量(シリンダー容積:Displacement)が 1,823立方インチ (29.88 L)であることからきている。ただし、YB-12として、エンジンをライト社ではなく、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)社のR-1690「ホーネット」空冷星形エンジン(775hp)に換装した機体も30機程度若干生産されている。これがB-12A偵察爆撃機で、爆撃型YB-12の胴体下面の爆弾倉を追加燃料タンクとして、航続距離を延長した。

写真(右):1937年以降、中国空軍に配備されたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機:手前には250キロ級の爆弾が専用運搬台車に載せられて待機している。雨でぬれた未舗装の滑走路、自転車で飛行機の周りに集まっている飛行兵や整備員。分解されアメリカから運ばれてきたマーチン(Martin)139WC爆撃機の胴体、主翼などを上海の飛行場で組み立てたようだ。場所は中国、上海、虹橋飛行場と思われる。
Martin : 139
Catalog #: 00068833
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。

中国が輸入したマーチン139WC爆撃機6機は、1937年2月に上海虹橋飛行場に到着した。この上海中心部近くにある虹橋飛行場は、1937年8月9日、日本海軍の中国駐屯警備隊である上海特別陸戦隊大山勇夫中尉と斎藤與蔵一等水兵が自動車で突入しようとして惨殺された場所である。この大山事件を契機に、8月13日、第二次上海事変が勃発し、華北の北支事変は、華中、江南を含む支那事変に拡大してしまった。マーチン139WCは、創設間もない中国空軍第30爆撃戦隊に配備され、第二次上海事変では上海に駐留していた日本海軍部隊、第三艦隊を攻撃することになる。

写真(右):1937年以降、中国空軍に配備されたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機:胴体下面の爆弾槽に設けられた爆弾懸架に250キロ級の爆弾を搭載している。マーチン(Martin)139WC爆撃機の爆弾槽が開いているが、扉は軽量化と堅牢さを兼ねるように、波板構造となっている。爆弾は、木製台に車輪を付けた荷台で、爆弾を置く場所を木片で調整している。専用の爆弾懸架用運搬車は使われていないようだ。作業場所は、コンクリートで舗装されているように見える。
Martin : B-10
Catalog #: 00005688
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005688引用。

日中戦争中、1938年5月19日に中国空軍のB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)2機は、重慶を発進、で漢口と寧波を中継して九州の熊本県人吉に宣伝ビラを撒き、玉山と南昌を経由して漢口に帰還した。これが日本本土初空襲となった。

写真(右):1937年以降、中国空軍の爆撃機に用意された模造250キロ級の爆弾と飛行帽・飛行眼鏡を着用した中国空軍の将兵:250キロ級の爆弾は、人間一人で持ち上げることはできない重量があるが、写真では将兵が1個ずつの爆弾を抱えている。爆弾を吊り下げる検潮用金具の輪が、爆弾1個につき2個ついているが、このことからも爆弾が本物ではないことが分かる。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01030
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01030引用。

写真(右):オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に世界中でただ1機のみ展示されているマーチン B-139爆撃機:胴体下方に爆弾槽があり、爆弾を搭載していても空気抵抗が増えない。その爆弾槽扉が開いている状態で展示されている。アルゼンチン空軍が使用していた機体を1970年にアメリカに贈与した機体。右上の複葉機は、ダグラス(Douglas) O-38F偵察機で、アメリカ陸軍航空隊のために、1931年から1934年にかけてダグラス社が156機を生産し、8機がO-38Fだった。太平洋戦争勃発時点でも、南紀課は部隊配備されていた。
DAYTON, Ohio -- Martin B-10 in the Early Years Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
The B-10, the first "modern" all-metal monoplane bomber produced in quantity, featured such innovations as retractable landing gear, a rotating gun turret and enclosed cockpits. Powered by two 775-hp Wright R-1820 Cyclone engines, Martin's advanced design made the B-10 50 percent faster than contemporary biplane bombers and as fast as most of the fighters. This capability convinced many U.S. Army Air Corps planners that bombers could successfully attack strategic targets without long-range fighter escort.
In the largest procurement of bomber aircraft since World War I, the Air Corps ordered 121 B-10s from 1933-1936. The Air Corps also ordered an additional 32 of these aircraft with 700-hp with Pratt & Whitney R-1690 Hornet engines and designated them B-12s.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

現在、マーチンB-10爆撃機は、オハイオ州、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に世界中でただ1機のみ展示されている。このマーチン爆撃機はB-10輸出仕様の139Wで、1938年にアルゼンチンに売却された機体の1機である。アルゼンチン政府はアメリカからの要請に応じ、親睦のために、1970年にマーチン139W爆撃機をアメリカ空軍国立博物館に展示用にアメリカ政府に贈与した。この機体は、テキサス州の第96修理中隊(96th Maintenance Squadron)で1973-1976年の間、修復、復元され、現在はオハイオ州デートン(Dayton)市スパーツ(Spaatz)通りにあるライト・パターソン空軍基地(Wright-Patterson Air Force Base)のアメリカ空軍国立博物館の格納庫の一角に展示されている。

写真(右):デイトン、アメリカ空軍国立博物館に展示されているマーチン B-139爆撃機の機首(下面に爆撃照準器の装着される爆撃手窓、上面に7.62ミリ0.30口径旋回機銃の銃塔:アルゼンチン空軍が使用していた機体を1970年にアメリカに贈与した機体。
DAYTON, Ohio -- Martin B-10 in the Early Years Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Gen. Henry H. "Hap" Arnold, who called the B-10 "the air power wonder of its day," led 10 B-10s on a 8,290-mile flight from Washington, D.C., to Fairbanks, Alaska, and back in 1934. By the late 1930s, B-17s and B-18s had replaced the Air Corps' B-10s and B-12s, but the Chinese and Dutch air forces flew export versions in combat against Japan at the start of World War II.
TECHNICAL NOTES:
Crew: Four
Armament: Three .30-cal. machine guns and 2,200 lbs. of bombs
Maximum speed: 215 mph Cruising speed: 183 mph
Range: 1,370 miles
Ceiling: 24,000 ft.
Span: 70 ft. 6 in. Length: 44 ft. 9 in. Height: 15 ft. 5 in.
Weight: 14,700 lbs. loaded
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

ルーズベルト大統領としては、中立、孤立主義の風靡する米国の世論と連邦議会とを参戦に転換したかった。ドイツとの劣勢の戦いを指導する英国首相チャーチルも、ドイツに首都モスクワも占領去れそうなソ連の指導者スターリンも、日本軍に北京・上海・広東を占領され、東北地方に傀儡「偽満州国」をつくられた、さらに首都重慶の爆撃や内陸への侵攻に苦しんでいる中国の指導者蒋介石も、同様に、米国がドイツ・日本に参戦することを心待ちにしていた。当然、米国参戦に向けて、諜報活動を含む外交を展開していたのである。

米国は、中立をたもっていたが、武器貸与法によって、英国・ソ連に大量の航空機・戦車を含む軍需物資を提供していた。英国連邦の一員のカナダは参戦しているが、カナダから英国への輸送船団には、米国海軍の駆逐艦・掃海艇が護衛についていた。そして,1940年には米国の駆逐艦50隻を英国に譲渡している。中立とはいっても,ルーズベルト大統領自身が,反ファシズムを明確に宣言していた。

写真(右):1937年以降、中国空軍も採用したアメリカ陸軍リパプリックP-43戦闘機::中国駐留のアメリカ義勇軍に装備された。しかし,今日の米国では,二流として無視される場合が多い中国人パイロットによる操縦もあったらしい。
SDASM Archives
AVG Personnel Catalog #: 0136 Subject: The Flying Tigers - China Title: AVG Personnel
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0136引用。

ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。戦闘機,爆撃機を大量に中国に売却したが,これはスペイン内戦における共和国軍への軍事支援と同じだった。つまり,コミンテルンでは,反ファシズム戦線として,ドイツと日本の侵攻を抑制すべきであると決議された。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できたのである。しかし,華北が日本の支配下に入ると,次第に米国の軍事援助がソ連にとって代わった。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。それまで、共産主義国ソ連に敵対的であった英国も,米国も対ドイツ戦争を優先して,ソ連支援を即座に決めた。英米は、大量の軍需物資を輸送船団で、北海経由あるいは中東経由で,ソ連に送り込んだ。したがって、日米開戦は、ドイツ(ルーマニア、ハンガリー、フィンランドを含む)から攻撃を受けていたソ連にも都合が良かった。

写真(右):1941年以降、中国空軍の下で日本軍と戦ったアメリカ義勇部隊(AGV)カーチスP-40戦闘機とAGV部隊員:中国駐留のアメリカ義勇軍は、新鋭戦闘機を装備されており、日本機を撃墜すれば中国軍から褒賞が授与された。
SDASM Archives
Ray Wagner Collection Image PictionID:48645782 - Catalog:16_008590 - Title:Republic P-43A 41-6687 near Esler Airfield 9Mar42 USAF 36137 A.C. - Filename:16_008590.tif
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:16_008590引用。

第二次大戦が1939年に勃発すると、米国は英国に武器など軍需物資を提供し、1940年には船団護衛、対潜水艦戦のための駆逐艦50隻を貸与し、さらに密かに米国海軍艦艇に、英国側にたって参戦している隣国カナダから英国への護送船団に、米国の駆逐艦などを護衛艦として派遣している。さらに、日本と中国軍が戦火を交えている中国大陸へも、軍事支援をし、日中戦争に事実上、密かに「参戦」した。

米国は,1940年以降,アメリカ義勇部隊AVG,のちのフライングタイガーズによる,中国にある日本軍への航空攻撃を繰り返していた。これは,米軍によるものではなく,あくまで,退役軍人が個人の資格で中国空軍に入隊して,傭兵として,戦闘に参加するという建前をとっていた。しかし,装備された航空機は,当事の最新鋭機であり,アメリカ国内の陸軍航空隊で,組織的な義勇軍募集リクルートが行われていたし,米陸軍航空隊は,中国空軍にAVG向けの武器供与をおこなっていた。もちろん,これは米国大統領の承認を得た秘密作戦である。

中国が輸入したマーチン139WC爆撃機6機は、1937年2月に上海虹橋飛行場に到着した。この上海中心部近くにある虹橋飛行場は、1937年8月9日、日本海軍の中国駐屯警備隊である上海特別陸戦隊大山勇夫中尉と斎藤與蔵一等水兵が自動車で突入しようとして惨殺された場所である。この大山事件を契機に、8月13日、第二次上海事変が勃発し、華北の北支事変は、華中、江南を含む支那事変に拡大してしまった。マーチン139WCは、創設間もない中国空軍第30爆撃戦隊に配備され、第二次上海事変では上海に駐留していた日本海軍部隊、第三艦隊を攻撃することになる。

日中戦争中、1938年5月19日に中国空軍のB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)2機は、重慶を発進、で漢口と寧波を中継して九州の熊本県人吉に宣伝ビラを撒き、玉山と南昌を経由して漢口に帰還した。これが日本本土初空襲となった。

1940年8月中国共産党は、100コ団(日本軍の大隊規模で10万人程度か)の兵力を投入し,華北の日本軍守備隊陣地,主要な交通機関・鉄道に攻勢を加える「百団大戦」を行った。これも,国民党軍の抗日戦意を高める,抗日戦争に共産党も寄与していることを示す,といった利湯のほかに,日本の対ソ兵力を牽制する目的があるかもしれない。

上海事変においては,陸上での銃撃戦に加えて,日本軍の爆撃,砲撃,中国機の爆撃に加えて,中国軍が撤退するときに,火をかけ,大火災が発生している。放棄する陣地を敵に使わせないように破壊するのは常識だが,上海での市街戦では,繁華街に大火災が生じてしまっている。

1937年の第二次上海事変における日本陸軍の人的被害は甚大である。1937年の10月14日までに死者3900名、負傷者1万5843名を、上海の戦闘がほぼ終了した11月8日までの累計で死者9115名、負傷者3万1259名を出している。死傷者が4万名以上というのは,2個師団壊滅に相当する大損害である。そこで、南京攻略には、新たな日本軍が増派されなくてはならなくなった。


写真(左):静岡連隊が1935年に出征し1937年に帰還:出典には「昭和10年12月13日午後2時、満州派遣の初年兵が勇躍出発する。昭和12年12月18日午後2時、上海戦の遺骨が家族に渡された。」静岡連隊出入りの写真師・柳田芙美緒(1910-1987)撮影。

4.中国の交戦意志の強さと日本の総動員・総力戦体制が,米国を中国支援に向けさせる


写真(左):銃後を守る国防夫人の射撃訓練(1940年前後(?)の香川県仁尾町):国防婦人会が組織され,集団軍事訓練が行われた。出征兵士の歓送会,応召家族の生活支援,配給なども国防婦人会が担った。兵士だけが戦争を戦っているわけではない。
写真(右):出征兵士記念写真;高城町。カメラを持つ村人は少ないし,記帳な撮影には,家族みんなが映る。出征兵士には,中国出兵の是非を論じる余裕などない。応召に応じて,兵役を務め,無事帰郷(当時は差し障りないように「武運長久」)を願う。

大日本帝国首相近衛文麿は,1937年第1次近衛内閣を組閣し7月の盧溝橋事件を契機に日中全面戦争へ突入。以後3次にわたり首相を務める。そして,「英米本位の平和主義を排す」として,アジアのリーダーシップを確保しようとした。

写真(右):1937年の日中戦争勃発に直面して、豊橋から歩兵連隊が中国に派遣された。:「広小路を行進して出征する兵士」。華北だけでなく,華中にも戦火が広がり,南京攻略を目指す日本軍は中国に増援部隊を派遣した。

日本国内では、上海で苦戦する日本軍を支え,これを契機の戦争体制を確立しようと様々な政策が採られている。1937年12年8月24日に国民精神総動員実施要綱が定められた。これは、挙国一致、尽忠報国の精神を国民がもつために、プロパガンダを行うものである。 統制経済を強化する必要性も認識されており、1937年9月4日には北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱が閣議決定している。これは、総動員実施するために、必要な戦時法令を制定・通用するための措置を講じようというもので,資源配分の調整、精神作興、労務管理の強化、産業指導統制、貿易統制、食糧統制、運輸統制、財政金融における経費節約・増税・公債消化促進、応召軍人・軍人遺族のための社会施設充実、防疫強化の基本方針を定めたものである。つまり、日本経済は北支事変の段階で,軍備,作戦行動を支えることが重い負担となっており,その経済基盤を戦争経済に順応できるように作り変えようというのである。

写真(右):1937年防空訓練(秋田市):出典には「昭和12.11.16 防空演習」とある。複葉機が出動した空襲非難訓練で,医療関係者も参加したようだ。日本が空襲されるとすれば,極東ソ連から東北地方が,華中から九州が攻撃対象になる。市民防衛の思想も訓練も重要な国家総動員の対象である。

日本軍も兵力劣勢の中で,中国軍民すべてを敵に回すほど愚かではない。分割して統治せよで,満州に,華北に傀儡政権を次々と作ったり,支援したり,と治安工作,政治工作をしてきた。「アジア,中国の平和と安定を目指す日本は,暴虐な現在の中国国民政府に反省を求めているだけ」と日本の中国派兵でも謳っていたのだから。後には,「国民党政府相手にしない」というが。中国民衆の生活を破壊したり,隷属させたりするつもりはない。日本の中国を侵略し,支配するのではなく,「反米反共の亜細亜共栄圏」の構想をもっていた軍人も政治家もいたようだ。中国の英雄孫文にも,中国国旗「青天白日」にも,敬意を抱いていた日本人もいたはずだ。孫文は,日本に亡命して清朝を倒し共和国を創設する計画を実行したし,蒋介石も日本陸軍の士官学校で学んでいる。

写真(右):1937年軍人遺族への扶助金交付(秋田市):出典には「昭和13.08.15 遺族扶助金交付風景」とある。軍人遺族や出征兵士を出した家族は,大切な働き手がいなくなる。そこで,このような家族には資金の手当ても行われた。また,国防婦人会などによる家事支援,農作業支援なども行われた。

しかし,「列国に半植民地にされた中国を青天白日旗の下に解放する」つもりはない。日本も中国にある権益維持し,それを中国に返還するつもりはないのだから。中国側は,日本の満州,華北での行動から,好戦的に中国軍民に攻撃を仕掛け,暴虐な行為を繰り返しているとして,日本が信義の国であるとは思わなかったであろう。かえって,日本が中国支配を目指す東洋鬼と憎むようになる。日本は,中国側に対して,自治政府樹立,和平工作を進めてはいたが,これは,分割統治,分離工作であり,中国を引き裂く行為とみなされた

5.中国における日本の侵略行為・残虐行為が,米国を中国支援に向けさせる

上海での日中の戦闘は、日本海軍航空隊の南京爆撃、これに続く南京攻略作戦へと急遽、拡大していく。日本軍は、上海で頑強な抵抗を受けたため、大規模な陸軍部隊を増援に送った。そこで、上海戦が10月下旬にほぼ終了の見込みがついた時点で,さらに一押しして、首都南京を攻略し,「支那事変」に勝利しようと即座に判断したらしい。しかし、蒋介石は淅江省方面より新に其兵力を上海方面に派遣し、陣地を構築して頑強に抵抗する。江南地方しようと思えば,敵戦力を粉砕しなければならず,「11月下旬に至り上海方面軍をして南京攻略を決行するに決す」。その後、12月5日、新しく上海派遣軍司令官に任命された朝香宮鳩彦が南京の前線に到着した。

写真(左):1938年重慶爆撃の死傷者か:日本のある出典には「1941年6月28日中国の戦時首都であった重慶に無差別爆撃。多くの市民が犠牲になる」とある。日本の別の出典には,南京事件とは県連ないとして「この写真は、アメリカ人写真家のカール・マイダンス氏が撮影し、『ライフ』誌に載ったものである。 なお、一般には重慶爆撃の写真とされている。もとの記事には「激しい空襲が終わって群衆が地下壕を出ようとしていた時、突如『敵機襲来』の警報が鳴り、警防団がい きなり地下壕の扉を閉めたため、人々がパニックに陥り窒息死・圧死した」という説明もついている。

日本軍は,苦戦の末、中国の首都南京を陥落(形式上陥落前に重慶に遷都)させたことで、日中戦争は日本の勝利に終わると錯覚していた。南京では,退却してきた中国兵士が、軍服を脱ぎ、市民にまぎれて逃亡しようとした。また、追撃する日本軍は、当初の作戦にはなかった南京攻撃を実施ししたため,補給が不十分だった。日本の兵士も、激しい戦闘で疲労し、中国人への憎悪が高まっていた。こうした背景から、南京に突入した日本軍は、民間人多数を含む中国人を殺害,暴行する。これが、南京事件である。この死者は中国側は30万人と主張するが,日本の識者は10-20万人である。中には虐殺はなかったと抗弁するものもいる。

写真(右):第二次上海事変の難民:戦闘や爆撃を恐れた難民が、郊外や英米仏などの租界地に逃げ込もうとした。これら外国の駐留軍もいたから、日本軍も外国を租界攻撃するつもりはなかった。

中国軍も、日本軍の上海での惨禍、南京占領に際して行われた婦女暴行、捕虜・潜在的敵対者の処刑を、南京レイプ、南京大虐殺として非難した。プロパガンダとして写真の改修・編集も当然行われたであろう。事実,中国軍は1937年10月に上海から撤退する際、自ら市街地の一角に火を放っている。これは、スイス人のカメラマンに撮影もされている。

中国人の間では,次第に日本人に対する反感が高まり,反日感情が,反日行動,抗日戦争へと繋がった。これは,日本の中国侵攻とならんで,残虐行為に対する憎悪やそれを煽動するようなプロパガンダが関連してくる。日本兵による斬首は,その一例で,撮影時期・場所不詳の写真が,今でも出回っている。日本刀を振り上げたポーズなどで,撮影されているが,適切な手続きを経た適切な方法で処刑しているのであろうか。敵国兵士の軍服を着た兵士は,国際法でも処刑が正当化される。軍服を脱いだり,民間人の服装で武器を隠し持つゲリラ兵・民兵・便衣隊であればどうか。妨害活動や敵対的態度をした民間人であればどうか。今後,潜在的な敵となりうる人間であれば,どのように扱えばよいのか。「やられる前にやっておく」予防戦争としてよいのか。

写真(右):第二次上海事変中,中立地帯を設置した神父(Father)Jacquinot(1937年10月31日):民間人,難民を庇護する中立地帯を上海にフランス租界に設置した。神父隣はTelfer-Smollet(仏駐屯軍将校?)。

ここで、言及すべきは、国際赤十字ICRCの中国での救護活動である。中戦争が起こると、翌8月には、被災者救済事業緒を始めようとしたが、この申し出は、日本赤十字(総裁は代々皇族)に断られててしまう。そこで、国際赤十字は、ICRC代表使節Charles de Wattevilleを上海に派遣することを決める。かれは、スイス人医師で中国に住んでいるルイス・カーメールLouis Calameに変更された。国際赤十字は19紛争地域の市民や難民を保護するため、病院を視察し、中国赤十字などが設置した難民センターを訪問した。1938年になって捕虜の扱いが問題になても、国際赤十字は交戦国に何もできなかった。

写真(右):満州の平和を守る日本軍のプロパガンダ(1935年?):「見てくれ。日(本)軍は,地元民に親のよな態度で接している」。幼子のように,無条件に日本軍のことを受け入れてくれれば,日本軍も親切な態度をとったのか。土地,財産を奪い,肉親を殺したものが,後になって,親のように接してきても憎まれる。

中国での戦闘では,1929年ジュネーブ条約を日本が批准していないため,国際赤十字の活動が制約された(太平洋戦争でも)。国際赤十字が日本に訪問を許されたのは,アモイの捕虜収容所2ヶ所だけであった。そこには、数百の中国人捕虜のほかは、中国人受刑者32名、日本人受刑者22名がいただけである。また、国際赤十字は、1938年3月には,戦線後方にいる民間人の爆撃禁止、住民のいる地域を軍事目標としないことをに日中双方に要請したが,どちらの政府からも回答はなかった。日中戦争では、国際赤十字の救護活動は、不十分にしか行うことはできず、中国人民間人への救援も困難になったが,これが日本軍による中国の支配、暴虐な振る舞いを、際立たせることにつながる。

写真(左):『毎日新聞』記者の「写真帖」に収録されていた掲載禁止写真、日本軍兵士による敵性捕虜の刺殺処刑:出典に「この写真は1938年春に徐州の近くで中国人捕虜が殺されるところである。この犠牲者は息絶えた後も何度も何度も銃剣で刺された。」ゲリラ兵か,逃亡しようとした捕虜か,民間人か。処刑の手続きと方法の点で,日本は国際条約に定められた規範を遵守していないと判断された。しかし,同じ写真に南京虐殺とするような異なる解説もある。写真のインパクトは大きいので,転載,トリミング,修正もありえるし,写真解説のつけ方しだいで意味するものも異なってくる。科学的,客観的な立場よりも,感情的なあるいはイデオロギー的な(ドグマ主義的)立場を優先してしまう。

宣撫活動残虐行為も日中双方で行われたと考えられる。残酷な仕打ちは,反抗する人間への見せしめとして古くから認識されてきた。他方,兵士と市民,子供,女子とが交歓する風景は,和やかに見える。兵士が戦火から市民・財産を守ってくれるようにみえる。日中両国政府も軍も,このことが既知であれば,双方ともカメラマン・画家・デザイナーを用いた映像・画像・ポスターによるプロパガンダ,作家を用いた文章・スローガンによるプロパガンダを行う。プロパガンダによって,敵国への憎悪・非道さ,自国への信頼・正当性,「悪と正義」が作り出され,個人的な感情や意識はそのなかに埋没させられてしまう。さらに,諜報活動,謀略が行われれば,物事の事実,真実を把握したり,当事者の心理・意図を推し量ったりすることは,容易ではない。

写真(右):中華民国の英雄の孫文に敬意を払う日本:出典には「路傍に打ち倒された孫文の銅像に(中華民国の国旗である)青天白日旗をかけてやる日本兵」とある。(撮影時期・場所不詳)。日本軍が中国の旗を,中国側から調達して,それをカメラマンの前で,3人がかりで丁寧にかけている。新品の綿布あるいは絹製の旗をそのままにしておいたら,誰かが盗んでしまう。孫文は,清朝時代に日本に亡命し,日本の支援を受けることもできた。しかし,後年は,日本がアジアから脱し,中国に優越的地位を誇示しようとすることを危惧していた。

1937年後半,南京攻略を目指す日本軍は,撤退する中国兵・民間人に加えて,軍服を脱いで民間人を装う便衣隊・逃亡兵を容赦しなかったようだ。通州で日本人200名以上を殺害し,ゲリラ戦や頑強な抵抗で,日本軍に大きな犠牲を負わせたのだから。二度と日本の居留民を殺害したり,反日活動をできないようにしてやる---という報復のつもりだったのか。それとも,爆撃の死傷者を,日本軍のレイプとする中国・米国のプロパガンダなのか。議論というより,非難合戦が続いている。

写真(右):1937年11月12日、上海を制圧した日本兵:市内各所に土嚢がつまれ、バリケードが組まれていた。スイス人カメラマンの被写体に喜んでなっているようである。

中国人の被害だけが問題となったのではない。米英にとって、貿易・投資,金融,商業の経済中枢である上海,南京を日本軍が占領すること、日本が中国の政治経済を牛耳ること、すななわち「日本の中国支配」は断じて認められない。世論形成という民主主義国の重視するプロセスに則って、反日、排日のプロパガンダが行われる。真珠湾テロ攻撃より前に、日本は中国においてテロ行為と見なされてもしかたのない軍事行動・残虐行為を行った。このような日本が欧州支配を目指すドイツと同盟するのであれば,世界制覇を目指す「悪の枢軸」として、断固排除しなければならない。これが、真珠湾攻撃以前の米国の対日認識である。

北支事変の名のもとに日中戦争になり、戦闘地域が華北,そして華中に戦火拡大していく。これを決定的にしたのが,1937年8月15日の日本,蘆溝橋事件に関する政府の「暴支膺懲」の声明である。

写真(右):北京あるいは上海の米海兵隊員(1930年代中頃):出典の解説に「リキシャはタクシーよりも安上がりで,車の入れないところにもいける便利な交通手段」とある。租界の内外で,外国人が幅を利かせていたから中国が半植民地といわれたのも無理はない。しかし,武力を用いた脅しや戦禍の後では,平和に見える。

「帝国は永遠の平和を祈念し,日中両国の親善・提携に尽くしてきた。しかし,忠告南京政府は,排日・抗日をもって世論を煽動し,政権強化の具にニ供し,自国の国力過信,(大日本日本)帝国の実力軽視の風潮と相俟って,赤化(共産党)勢力と連携して,反日・侮日が甚しい。こうして,帝国に敵対しようとする気運を醸成している。(中略)中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り,中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは,帝国としては最早隠忍の限度に達し,支那軍の暴戻を膺懲し,南京政府の反省を促すため,断固たる措置をとらざるをえない」。

1937年8月15日、近衛文麿政権は、「支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為」戦争を開始するとの声明を出したが、日本の対中国戦争の大義が「暴戻シナの膺懲」にあるという論理は、国際的な理解を得られるはずがない。中国共産党領袖の毛沢東も、国共合作をした中国国民党の蒋介石政権も抗日戦争を戦ううえで、ソ連からも米英からも国際的な援助を得ることが容易になった。

国際的に孤立した日本が中国を懲らしめるとすれば,次の方法しかない。
1)中国軍に打撃を与える
2)中国の都市や軍事拠点を占領する
3)中国人を罰する。

日本が,日本人個人にも,支那軍の暴戻を膺懲することを許容するなら,それは中国軍の正規兵・ゲリラ兵,それに協力する民間人,捕虜,逃亡兵,帰順・投降兵に対する非道な仕打ちを是認することにもなる。

写真(右):中国人に受け入れられる日本軍:出典には「日本軍兵士と遊ぶ中国人児童(昭和12年10月,江南)」とある。1937年10月は南京攻略作戦が江南地方で展開されていた。作戦の合間に,物質的にも精神的にも余裕のある部隊が,故郷を思い起こして,部隊長の命令で(作戦中,個人が勝手に行動はできない)遊んであげた。宣撫活動(住民感情を好転させる活動)は,個人記念撮影でなく,プロパガンダに有用なので,プロのカメラマンが撮影している。

首都南京を占領したのち、1938年1月16日、近衛内閣は、国民政府を正当な中国政府とは認めず、自治政府,傀儡政権との交渉を念頭に置いた。これが,「国民政府対手ニセズ」の政府声明であり,中国国民党政府との交渉をしないのであれば,日中全面戦争を終わらせるには,中国国民に支持された新(傀儡?)政権を樹立してもらうか,国民党政府を屈服させるか,中国を支配するかしかない。

写真(右):1937年9月、中国、上海、抗日戦争が始まったことを喜ぶ中国人たち:満州事変、盧溝橋事件と、中国の北部から華中の上海にまで日本軍が侵攻してきた。愛国心の高まりの中で、中国人の中にも対日戦争を開始すべきだという世論が高まった。国民との蒋介石は、国内の中国共産主義勢力を封じ込めることを優先し、日本による中国侵攻に対しては、国際的圧力により日本の行動を抑制しようとしたが、うまくゆかなかった。最後の関頭に至って、蒋介石も対日戦争を開始することを決意した。
Title Shanghai, Studenten bei Kundgebung Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Zu dem chinesisch - japanischen Konflickt! Krieg ! Krieg !! Chinesische Studenten in Changhai bei einer nationalen Kundgebung gegen den Einmarsch der Japaner in die Mandschurei. Depicted place Shanghai Date September 1931 Photographer Unknownwikidata:Q4233718 Institution German Federal Archives Link back to Institution infobox template wikidata:Q685753 Bundesarchiv Bild 144-400-05, wikidata:Q685753 Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-12321
写真は Wikimedia Commons, Category:Battle of Nanking - Chinese forces, File:Bundesarchiv Bild 102-12321, Shanghai, Studenten bei Kundgebung.jpg引用。

 
写真(右):1937年秋、中国、河北省保定市淶源、中国軍兵士が日本軍から鹵獲した十一年式軽機関銃を掃射する。
大正11年制式の十一年式軽機関銃の諸元
6.5ミリ 三八式実包
銃身長 443 mm
装弾数:最大30発
ガス圧作動方式
全長 1,100 mm
重量 10.3 kg
発射速度 500発/分
砂塵が舞うような土地での給弾、作動に難点があり、実用性はあまり高くなかったが、三八式小銃と同型の三八式実包を使用することで、弾薬補給の面で口径7.7ミリの九二式重機関銃よりも有利だった。
Description English: Battle at Great Wall, Laiyuan, Hebei, autumn 1937 中文: 1937年秋沙飛在河北淶源拍撮照片:《戦斗在古長城》 Date Autumn 1937 Sha Fei (1912-1950)
写真は Wikimedia Commons, Category:Battle of Nanking - Chinese forces, File:Chinese captives in Nanking.jpg引用。

 
写真(左):1937年12月の日本軍による南京攻略時に捕虜となった中国人捕虜:戦意を喪失したのか、捕虜となった中国兵士たちは、日本軍におとなしく従ったようだ。日本軍側も、中国人側に捕虜処刑が行われると疑われるような行動は当面控えていたようだ。
Description English: A correspondent for Asahi Newspaper reported that on December 13 and 14, 1937, the Morozumi Unit (the 65th Infantry Regiment of the Yamada Detachment in the 13th Division of the Imperial Japanese Army) took prisoners of 14,777 Chinese soldiers in the vicinity of the artillery fort of Wulong Mountain and Mufu Mountain that lay between the northern border of Nanjing city wall and the south bank of the Yangtze River. This photo shows part of the captives accommodated by Japanese troops near Mufu Mountain. However, there had been no further follow-up report since then and for decades. In the late 1980s, Ono Kenji investigated the incident by interviewing 200 or so war veterans and gathering 24 wartime diaries and other historical materials. Ono's research made it clear that the 15,000 captives and additional 2,000 to 3,000 prisoners taken after the 14th were all massacred by military order. 日本語: 日本の部隊に収容された中国人捕虜の一部 (昭和12年12月16日) Source Date 16 December 1937 English: "ASAHI GRAPH," Japanese photograph magazine (Asahi Shimbun, published on Jan. 5, 1938) 日本語: 「アサヒグラフ」 (朝日画報:日支事変、昭和13年1月5日発行) Author 上野特派員(scanned by Sweeper tamonten (talk on December 25, 2008)
写真は Wikimedia Commons, Category:Battle of Nanking - Chinese forces, File:Chinese captives in Nanking.jpg引用。

 
写真(左):『アサヒグラフ』掲載、1938年1月1日、南京自治委員会の発会式に集合した中国人たち :中国民間人3 万人が集まったというが、式典に参加しなければ、占領軍からどんな目に合うかわからないので、動員に応じたと考えられる。それを自発的に日本軍を歓迎するために集まったというのは、日本側の表現である。このような感覚は、日本人も1945年からアメリカ軍の占領を受けたが、アメリカからの援助を受けることで、次第に親米感情が沸いてきた。情報操作だけでアメリカに従うように洗脳されたというのは単純すぎる。
Description English: Nanking citizens gathering at inaugural ceremony of Nanking autonomous commission(January 1, 1938) 日本語: 南京自治委員会発会式に集まった南京市民(1938年1月1日) Date 19 December 2008 Source English: "ASAHI GRAPH," Japanese photograph magazine (Asahi Shimbun, published on Jan. 26, 1938) 日本語: 「アサヒグラフ」 (朝日新聞、昭和13年1月26日発行) Author Sweeper tamonten (talk)
写真は Wikimedia Commons, Category:Nanking Autonomous Commission, File:Nanking autonomous commission inaugural ceremony01.jpg引用。

 
写真(左):『アサヒグラフ』掲載、1938年1月1日、南京自治委員会の発会式に歓迎の垂れ幕を掲げて更新させられる中国人たち :行列に加わって、日本軍歓迎を姿勢を示すことで、自分たちの生命・財産を保全しようとする民間人は少なくなかったであろう。占領軍の様子を窺いながら生きてゆくのは、占領された市民の常である。にもかかわらず、このような写真を、占領軍が歓迎されていた証拠だとするのは、プロパガンダであり、真実の世論や態度を示しているとは言えない。
Description English: Flag procession of citizens toward Nanking autonomous commission inaugural ceremony(January 1, 1938) 日本語: 南京自治委員会発会式に向う市民の旗行列(1938年1月1日) Date 11 December 2008 Source English: Kokusai Shashin Shimbun issue 199, a photograph newspaper of Domei News Agency, pubulished on January 20, 1938 日本語: 国際写真新聞199号、同盟通信社、昭和13年1月20日 Author Sweeper tamonten (talk)
写真は Wikimedia Commons, Category:Nanking Autonomous Commission, File:Flag procession of citizen in Nanking01.jpg引用。

 
6.米国には,中国国民党,中国共産党,中国国民へ親近感を抱いたジャーナリスト,宣教師,軍人が多数いた。彼らのなかには,アグネス・スメドレー(Agnes Smedley)のように、日本の中国侵略に反感を持ち,米中接近,反日政策を望むものもあった。中国側も彼らを通して,自己の正当性,反日プロパガンダを行った。

写真(右):毛沢東,朱徳,紅軍の軍服を着たアメリカ人女流ジャーナリストのアグネス・スメドレー(1892-1950);1937年延安にて撮影。
Agnes Smedley(右) with her friends Mao Tsetung(左) and general Chu Teh in Yenan guerilla base. 1937 Photographer: Helen Foster Snow Magnum Acc# 93-1116。

毛沢東の指導する共産党の軍事能力や思想を高く評価したのがアグネス・スメドレー(Agnes Smedley)である。一介の女性に過ぎない--ちうには,大きな功績を挙げている。共産主義思想というよりも,中国民衆のナショナリズム,草の根民主主義として,毛沢東思想を米国に紹介することになった。

アグネス・スメドレー(Agnes Smedley)は,オクラホマ州の貧しい農家出身のジャーナリストである。ニューヨークの夜間大学で学び、卒業後、ジャーナリストとなり、ドイツへ渡る。

1928年、ドイツから中国へ渡り、フランクフルター・ツワイトンク紙の特派員となる。

写真(右):八路軍の宣撫活動;1937年Halder War Diary撮影。
"A group of war-orphans of the communist guerrillas who spent half of their time studying and half writing and presenting small plays and singing patriotic songs for civilians and the troops. The child in the foreground with his head down is the boy I tried to adopt as my son." 1930s Photographer: Agnes Smedley Agnes Smedley Collection Volume 38 MSS 122。

ソ連のスパイとして有名になるドイツ人リヒャルト・ゾルゲは,赤軍第4本部に所属して諜報活動に従事していたが,1927-1929年スカンジナビアに派遣され他後、1931年に中国上海へ派遣された。上海ではフランス租界にいたが,アグネス・スメドレーの紹介で朝日新聞記者の尾崎秀実と知りあっている。これが,近衛文麿,ドイツ大使館というきわめて重要な情報源に接近する契機となっている。ゾルゲは,1933年9月,フランクフルター・ツァイトゥング紙記者として来日し、ナチス党員としてドイツ大使館の私設情報担当として陰で諜報活動を行った。

写真(右):農村を活動中の八路軍兵士;1937年頃。"For years I was on the highways and by-ways of China's battlefields. (I am the figure just behind the foremost figure.)" 1930s Agnes Smedley Collection MSS-122 Vol. 41。

1937年からアグネス・スメドレーは,中国の八路軍(後の紅軍)と行動をともにし、毛沢東,朱徳といった党と軍の最高指導部とも交流を深める。『中国は抵抗する』(1938年刊行)の1938年1月1日の記述は次のようものである。

私と私の通訳が新聞を読みあげると、朱徳は重要な項目を書きこみます。彼がどんなことを書きこむのかということが、私には興味があります。彼は、中国の防衛に関係のある国際的な運動のニュースなら、たった一行だって書きおとしたりしません。

写真(右):抗日戦争で使う刀を作る共産党系鉄道員;1937年頃。
"Chinese armies and railway men tore up their railways to prevent the Japanese from using them. Then the railway men carried away the steel rails and girders and welded them into big swords for soldiers and guerrillas to fight the enemy. This is a Chinese railway worker, member of a group of 60 railway workers who banded together to form a cooperative. They use blacksmith forges and bellows to melt and weld the steel rails, then hammer them into swords for use against the enemy." Photographer: Agnes Smedley


十一月一日に、ニューヨークのマディソン・スクウェア・ガーデンで中国防衛のためにひらかれた大衆集会の詳細や、そこで中国に送る医療品、被服、基金などを募集したというニュースなどは、すべて記録していました。 ニューヨークのラジオで放送された中国問題の講演、アメリカ、フランス、イギリス、インドなどで行われている日本商品ボイコット運動など、朱徳はことごとくノートに書きこみ、あとで八路軍の出版物に掲載したり、兵士たちや民衆にむかって演説するときの材料として利用したりするのです。重要な情報の含まれているもっと長い論文は、中国語に翻訳して、軍隊の学習のときに完全な形で利用します。

朱徳はまた、日本の軍事、政治、社会、経済などの状況を伝えている重要な情報は、どんな小さな断片でも記録していて、日本の天皇が軍部と国民に対して、中国との戦争は長期にわたるだろうと警告したという演説も書きつけていました。日本が中国から獲得する経済的な利益について具体的な資料を提供している「今日の中国」所載の長論文は、完全な形で中国語に訳してくれるようにと、頼んでいました。
(中略)

日本軍が揚子江上で米英の砲艦を撃沈した事件にたいするイギリスとアメリカの反応については、つよい関心を示しました。上海からでているイギリス系の日刊新聞が、ムッソリーニの勧告にしたがって日本と和を講じてはどうかと南京政府にすすめている論文を読んでやると、朱徳の顔は軽蔑の表情をうかべました。その新聞は、「中国人はすでに英雄的な抵抗を示したわけだから、もうすこしもはずかしがったりせずに、和をもとめてもいいではないか」と論じていたのです。

写真(右):1936年9月6日、アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトの談話(FDR):ハワイ真珠湾攻撃1周年記念でラジオ放送した時の様子。Title FDR [Franklin Delano Roosevelt] FIRESIDE CHATContributor Names Harris & Ewing, photographer Created / Published 1936 September 6. Subject Headings - United States--District of Columbia--Washington (D.C.) Format Headings Glass negatives.写真は、Library of Congress Prints and Photographs Division FDR [Franklin Delano Roosevelt] FIRESIDE CHAT引用。

ルーズべルト大統領の演説に関するニュースがあると、どんな断片的なものでも、朱徳は中国語に訳させました。アメリカの国会議員たちの演説は、日本に反対か賛成かの別なく、熱心に耳をかたむけ、あとで幕僚たちとその演説の言おうとしている意味を話しあっていました。

スメドレーは,多数の著作で,中国共産軍の規律正しさ,正当性を訴えているが,これは米国の草の根民主主義と同様の印象を抱かせるものであった。共産主義への反感ではなく,横暴な日本と戦う草の根の中国民衆として,米国市民の共感を呼んだのである。

山東省の宣教師の息子であるヘンリー・ルース Henry Robinson Luce (1898-1967)も,親中国の米国人ジャーナリストである。ルースは1922年にTimeを創刊し,その後も1930年にはFortuneを, 1936年にはLifeを創立した。そして、米国のジャーナリズムの中心人物として、経営にあたり,中国を支援した。There are men who can write poetry, and there are men who can read balance sheets. The men who can read balance sheets cannot write.彼は,「経済合理性をだけでは、ニュースを的確には表現できないので、詩的感覚がジャーナリズムに必要である」というような発言をしているが、販売部数拡大,プロパガンダの展開を熱心に進めたようだ。1938年にTimeの782号は37万5000部の発行なので、約70万世帯が購読したと推計している。1940年4月には3300部が英国に発送されている。1944年Timeは116万部、週刊誌Lifeは400万部の発行であり,米国世論を中国支援に向けさせた。これには,反日プロパガンダも含まれる。

エドガー・スノーEdgar Parko Snow(1905-1972)は,中国名を斯諾といい,ミズリー大学、コロンビア大学で学んだ後、1928年上海に渡り、チャイナ・ウィークリー・レヴューの編集に携わった。そして,シカゴ・トリビューン紙などに中国関連して,日本の中国侵略を批判するような記事を書いた。1936年6月に、孫文夫人宋慶齢の紹介で陝北のソビエト解放区に入り、毛沢東に会っている。このとき,中国共産党の人物伝をまとめ,『中国の赤い星』Red Star Over Chinaとして1937年に刊行した。スノーはその後も,1939年、1960年、1965年、1970年に毛沢東と歓談している。また,『アジアの戦争』(1941年刊行)では、「世界制覇のためには、第一に中国を征服する必要がある。In order to conquer the world we must first conquer China.」とし,1937年の日本軍よる中国侵略や南京事件を非難し,侵略者日本のイメージを米国に定着させた

写真(右):八路軍の軍隊とアグネス・スメドレーAgnes Smedley ;1937年頃。Magistrate of Hwangchwan (左) and Major General Uang Chang-ping vice admiral of the 7th army in N. Hupeh Province。

アメリカ人作家エドガー・スノーの自伝『目ざめへの旅』で「日本のアジアにおける反共政策とは、わたしの目の前で爆撃された建物の破壊跡からはみ出た孤児の脚と腕であり、非人間性とは、四川省の街道で、残飯を奪いあっていた乞食が相手の首をしめて殺したのを眺めていた絹服の男どもの笑い声であった。」と述べた。エドガースノーの妻のヘレン・スノーHELEN FOSTER SNOWも18歳でユタ州を去って中国にわたり,1931年から1940年まで中国に滞在している。その間に,中国の洪水,内戦,女性問題,日本の侵略などをまとめている。

現在の米国のwebでも,<1900-1940年代中国にわたった宣教師や軍人のインタビューがあるが,そこでは,中国政府というよりも,中国の市民に対する親しみと愛情が感じられる。このような米国市民と中国市民の交流が,中国に対する米国の政策を,次第に親密なものにしてと考えられる。米中接近は,単に外交交渉だけですむ単純な問題ではないのである。

写真(右):国共合作で中国共産党皇軍から国民党の国民革命軍に編入された新四軍が鹵獲した日本軍からの戦利品;1937年頃の展示。スメドレーも記念にもらっている。"Captured Japanese trophies in the New 4th Army Headquarters." Agnes Smedley was given some of the trophies (to the right). Photographer: Agnes Smedley。

中国で戦火が拡大し,米英列国の反感を買っていった理由を整理すると次のようになろう。
1)日本軍が中国軍よりも強いことを認めさせるために,兵力の遥かに中国軍と戦闘した。⇒日本軍は,好戦的であるとの印象を米国,中国に与えた。
2)中国軍は,日本軍よりも優勢に優勢であり,国内の軍民が団結できた。⇒日本軍の活動を押さえ込むことが可能であると判断した。
?中国軍に敗北を喫するわけに行かない日本軍は兵力を増派し続けた。⇒日本軍の増援派遣は,中国支配を意図しているとみなされた。
3)中国の交戦意志,戦意の高さを認識した米国は,中国軍を支援し,日本軍を大陸から追い出すことが可能であると判断した。 
4)米英は,自国権益の維持・拡張に関心があったから,日本の中国支配を認めるわけにはいかなかった。また,日本が残虐行為を伴う中国侵攻を行うことには,米英の一般市民も反感を抱くようになった。民主主義国米英では,この反日の世論を背景に,その後の対日圧力を強めていく。
5)日本国民は,日本軍のプロパガンダに影響され,中国支配が日本の繁栄に繋がると錯覚した。⇒日本の中国支配は,機会均等,国際強調の上から米国には認めない。(中国への権益は維持するので,半植民地から解放するつもりは,当初はなかった。)
6)日本が満州における特殊な地位,権益を維持するには,中国だけでなく,ソ連に対抗するか,あるいはソ連と協調する必要があった。米国は,ソ連と連携する道を選んだから,日本の利益に反する行動をとる。

7.盧溝橋事件を日中全面戦争に拡大させた契機に、第二次上海事変があるが、これには日本海軍、とくに第三艦隊の役割や、中国各地にいた日本人居留民の保護の問題が大きくかかわっている。

中国に駐屯していた日本海軍は、1937年10月に支那方面艦隊と呼ばれるが、1937年7月当時は、長谷川清司令長官の率いる第三艦隊であり、第三艦隊旗艦「出雲」は上海にあった。旗艦が国際都市上海に停泊していたのは、外交的な影響力を考慮したためである。

久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」(『創価大学大学院紀要 』第32号, pp.385-397)に依拠して、上海を中心とした日本海軍の対応をまとめると次のようになる。

中国駐屯の長谷川清司令長官の率いる第三艦隊の役割について、草鹿龍之介第三艦隊参謀副長は以下のように回想している。

「軍艦出雲が第三艦隊の時からの旗艦であり、遊船埠頭に横付けしており、上海という土地柄もあり、海軍以外の人の出入りも多く艦隊司令部も、見様によって、陸上の役所の如き有様であったと言っても、過言ではない。」

1936年12月1日、第三艦隊司令長官として任命されたのは、長谷川清である。彼は、ジュネーブ一般軍縮会議全権委員、無条約時代の海軍次官などを歴任しており、列国の権益が錯綜し各国の艦船が行動している上海における第三艦隊司令官の地位は適任であった。

また、第五水雷戦隊首席参謀の横山一郎によれば、盧溝橋事件勃発以前、華北担当の第十戦隊、長江担当の第十一戦隊の参謀が上海に集められ、「万一の場合」に対する作戦打合せがあったという。

「昭和十二年、私が第五水雷戦隊首席参謀で南支警備の任にあった時、在上海の第三艦隊旗艦出雲に、第十戦隊(北支)、第十一戦隊(長江)の首席参謀と共に召集せられ、長谷川長官の激励を受けた後万一の場合に対する作戦打合せがなされました。」

第三艦隊は7月11日未明には、海軍省・海軍軍令部に航空隊、陸戦隊の派遣準備を要請し、隷下の部隊に次のような出動準備を命じた。

一 十日夕方来盧溝橋方面情勢逆転の兆あり。又中国空軍は秘かに戦備を整えつつあること確かにして情勢真に逆賭を許さざるものあり。各艦は万一に処するの準備を整え、特に飛行機に対し警戒を厳にすべし
二 各級指揮官は極秘裏に在留邦人引揚に対する研究を行い胸算を立ておくべし

杉山元陸軍大臣は中国派兵を要望したが、海軍省を中心とする海軍中央部は派兵に強く反対したが、米内光政海軍大臣は以下のように発言した。

海相ヨリ只今迄ノ情報ニテハ出兵ヲ決スル事ニハ不同意ナリ。内地ヨリ出兵トナレハ、事重大ニシテ全面戦争ニナル事モ覚悟ノ要アリ。国際上ヨリモ重大ノ結果ヲ生ジ、日本ガ好ンデ事ヲ起シタルノ疑惑ナカラシムル為、更ニ事態逼迫シタル上ニテ決シタシ。海軍トシテハ全支ニ対スル居留民保護ノ必要ヲ生シ充分覚悟ト準備ヲ要ス

米内海軍大臣は中国との全面戦争なれば、国際世論の反発を招くが、中国在留日本人(居留民)の保護は、海軍にとって重要であると考えた。

7月11日、杉山元陸軍大臣は派兵を再度の求めた。理由は、5500名の天津軍、平津地方における日本人居留民の保護である。海軍は、派兵反対の立場を崩し、派兵に同意した。

海軍省は全面戦争への拡大することを懸念したがと考え、7月12日、海軍軍令部は「対支作戦計画内案」として、中国の第二十九軍を対象にした第一段の限定的作戦。次いで、中国全土を対象にした第二段の全面作戦とする構想を立てた。

他方、現地の第三艦隊は派兵を契機に日中関係を全面的に改定しようと、次のような具申を行った。

武力により日中関係の現状を打開するには、現中国の中央勢力を屈服させる以外、道は無く、戦域局限の作戦は期間を遷延し、敵兵力の集中を助け作戦困難となる虞大である。故に作戦指導方針に関し「支那第二十九軍ノ膺懲」なる第一目的を削除し、「支那膺懲」なる第二目的を作戦目的として指導されるを要し、用兵方針についても最初から第二段作戦開始の要がある。

中国の死命を制するためには、上海、南京を制するを最重要とし、日本陸軍からの上海派遣軍は五コ師団を要する。

海軍省にとって派兵の目的は日本人居留民保護を名目にしたが、そおうであれば、華北だけでなく、華中・華南と中国全土の日本人居留民が問題となる。

長谷川清 伝によれば、「当時長谷川司令長官が最も心を痛めていた問題は、揚子江の上流一、三五〇哩にある重慶をはじめとして、長沙、沙市、漢口、九江、蕪湖、南京などに在る在留同胞を万一の場合上海へ引揚げさせることであった。」というものであった。

日本人居留民を引き上げるという対策については、居留民の財産・権益を放棄することになり、困難である。また、日本の外務省は、華中の居留民引揚は「不必要な動揺」を与えることになるので、引揚準備に関して公開しないようにとの命令を出し、引揚の可否に関する裁量は現地に任すこととした。

7月20日、広田弘毅外務大臣から川越茂大使宛の訓電には以下のようにある。

北支事変拡大し、万一長江沿岸居留民に引揚を命するの要あるに至る場合は、貴大使の裁量に依り、九江、燕湖、南京、蘇州、杭州各管内の居留民に付ては、上海総領事をして、又漢口上流の居留民に付ては漢口総領事をして、夫々出先領事及び軍側と緊密なる連絡を取り、時期を誤らす必要なる措置を採らしてめられ度く。引揚先に付ては機宜の指示を与えられ差支えなきも、一応下流は上海に、上流は漢口に収容するを適当と認む。本件が事前に洩るるに於ては一般居留民に不必要の動揺を与ふるの虞あるを以て最後迄貴大使及上海漢口両総領事限りの含みとせられたく。

7月21日、第十一戦隊は、居留民の引揚を第三艦隊ならびに外務省へ要求している。この要求事項については引揚に関係する各地域から外務省本省にも連絡が行われており、特に上海においては第十一戦隊が第三艦隊にも引揚許可を求めていた。

7月28日、華北駐留の日本の天津軍は、中国の第二十九軍を総攻撃し、これを受けて海軍省は第三艦隊に漢口上流居留民の引揚に関して指示を下す。

「今後、日支全面作戦迄進展することあるへきを予期する次第にして、此の際差当り、漢口より上流各地居留日本人は、之を引揚くるの要ありと認めらるるに付、外務側と連絡の上現地の状況に応し、機宜引揚を開始せしむる様、取計はれ度き」旨指令ありたる趣にて、右は冒頭貴電と相当開きある処、元来長江筋に於ける海軍側の態度は、中央の指令に基づき当地第三艦隊にて具体的に決定し、各地に訓令する建前にて、部内問題の処理に付、常に当方に相談し来る事情なるを以て前記の如き食違ありては甚だ困却する次第なり」

7月30日、長谷川第三艦隊司令長官談

当地に於て発表の声明は居留民に対し軽率を戒むると共に、支那側に対し慎重対慮方注意を喚起せるものにして、右は直に事態の全面的悪化を暗示る趣旨のものにあらす、但し艦隊側に於ては将来事態進展し日支双方空軍の衝突ともならは其の影響至大なるへきを予想せらるるに付、斯る事態に立至る場合を予期し、全面的引揚を決意する時期もあるへく、之か為には上流居留民は現地の事態を考慮に入れつつも、早目に漢口迄引揚け置くこと然るへしと観察し居るも、漢口よりの引揚は未た其の時期に到達し居らさることは艦隊側にても同意見なり

8月1日、福留繁軍令部第一課長は、陸軍側に次ぎのように答えている。

海軍としては、極めて不愉快なる作戦振りなれど、政府の不拡大方針に抑制せられ尚手出しを慎み支那の出方を見つつあり
居留民を上海付近に引揚げしめ、揚子江部隊を収容したる後か、又は海軍が反撃をせざるべからざる事態生起し、全面作戦開始となれば、直に動き得る兵力を動かして大にやる積りなり
それまでは濫りに手出しを許されざる状況なり

8月6日、漢口の日本人居留民代表は、情勢悪化を理由に松平恒雄総領事に引揚を迫り、田中宣昌領事も同時に引揚の不可避を説き、結果的には21時に全面引揚が発令された。漢口居留民は9日に上海への引揚が完了、同日、大山事件が勃発し、13日、上海における交戦、14日10時、中国空軍により第三艦隊旗艦「出雲」、海軍陸戦隊本部、総領事館への空襲となった。

これを受けて海軍省は、上海での戦闘を決意し、日本政府もそれを認める。こうして盧溝橋事件は、第二次上海事変へと拡大し、全面戦争へと拡大していく。

久保健治(2010)「盧溝橋事件の拡大と居留民引揚問題ー現地海軍の対応を中心に」『創価大学大学院紀要』第32号, pp.385-397, )引用終わり

8.戦争がはげしくなると、総力戦遂行のために、中国・朝鮮から労働力移入が図られるようになった。これは、募集の形式をとったこともあったが、次第に、動員・強制になり、労働者への扱いも粗暴になってゆく。

事件番号 平成19(ネ)150
事件名 損害賠償請求控訴事件
(通称 不二越強制労働損害賠償
裁判年月日 平成22年3月8日
裁判所名・部 名古屋高等裁判所 金沢支部 第1部
結果 棄却
原審裁判所名 富山地方裁判所
原審事件番号 平成15(ワ)79
原審結果 棄却

判示事項の要旨
 第二次世界大戦中に朝鮮半島から女子勤労挺身隊の募集又は徴用により来日し,労働に従事した女子勤労挺身隊員又はその遺族及び徴用工である控訴人らが,被控訴人らにより強制連行され,強制労働させられたとして,被控訴人らに損害賠償と謝罪広告の掲載を求めたのに対し,控訴人らの不法行為ないし被控訴人会社の債務不履行を理由とする請求権は,いずれもいわゆる日韓請求権協定によって裁判上訴求する権能を失ったとして,控訴人らの請求を棄却した原判決を維持した事例

国家総動員法(昭和13年法律第55号,同年5月5日施行)を制定し,戦時の際に勅令等によって人的物的資源を統制することを可能とした。1941年(昭和16年)の太平洋戦争開始以降,日本ではより多くの労働力が必要となり,昭和14年以降終戦までに朝鮮から日本へ推定66万人以上が戦時動員され,炭鉱,鉱山,土建,工場等での労務に従事した。朝鮮からの労務動員については,当初募集方式で行われたが,1942年(昭和17年)2月13日付け閣議決定「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」及び同月20日付け朝鮮総督府の「労務動員計画ニ依ル朝鮮人労務者ノ内地移入斡旋要綱」により,官斡旋方式での労働者動員も行われるようになった。


北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱 昭和12年9月4日 閣議決定

第一章 総則

第一条 本要綱設定ノ目的ハ今次事変処理ノ為総動員基本計画綱領及第二次総動員期間計画綱領ニ準拠シ総動員実施ノ範囲及程度ヲ定メ以テ実施及実施ノ準備ニ必要ナル基準タラシムルニ在リ
別ニ第三国ノ事変参加ニ因ル最悪ナル場合ヲ考慮シ帝国ノ全面的戦争ニ対スル準備トシテハ現ニ作成中ナル第三次総動員期間計画ヲ現状ニ即応スル如ク速ニ完成スルト共ニ之ニ関連シ国力充実ニ必要ナル諸施設ヲ為スモノトス
第二条 本要綱ニ基キ定ムル事項ハ差当リ第一半年ニ対スル所要計画トシ爾後ニ対スル計画ハ事変ノ進展ニ伴ヒ之ヲ定ムルモノトス
第三条 本要綱二定ムル事項ノ実施ハ適時現況ニ即応スル様之ヲ行ヒ本要綱ニ定メザル機宜ノ措置ニシテ重要ナルモノニ付テハ其ノ都度閣議ニ於テ之ヲ定ムルモノトス
第四条 軍需ハ陸海軍省ノ提示スル数額トス、民需ハ需要増加ノ趨勢ヲ考慮シタル平時需要ノ程度トシ必要アルモノニ付テハ所要ノ節約ヲ加フルモノトス
第五条 総動員実施ノ為必要ナル戦時法令ノ制定又ハ通用ニ付テハ必要ニ応ジ速ニ之ヲ実現シ得ル様措置ヲ講ズ

第二章 資源ノ配当及補填

第六条 特定重要資源ニ付テハ新ニ其ノ需給対照並ニ配当及補填計画ヲ定ム
自余ノ資源ニ付テハ第二次総動員期間計画綱領ニ準拠シ適宜必要ニ応ジ実施スルモノトス
第七条 資源需要官庁ハ取得シタル特定重要資源ニ付毎三ケ月末ニ其ノ数量ヲ総動員統轄事務機関及資源担当官庁ニ通知スルモノトス
資源担当官庁及関係官庁ハ特定重要資源ニ付毎三ケ月末ニ其ノ生産数量、現存額及輸入数量ヲ総動員統轄事務機関及関係官庁ニ通知スルモノトス

第三章 精神作興

第八条 国論ノ統一及国民精神ノ作興ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ

第四章 労務

第九条 労務ニ関シテハ労務者ノ需給調整ヲ目途トシ特ニ之ヲ適時適職ニ従事セシメ得ル様概ネ左ノ事項ニ付必要ナル措置ヲ講ズ
一 技術職員及職工ノ争奪防止
二 労務者需給調整機関ノ整備
三 一部国民登録ノ準備
四 技術職員及職工ノ養成

第五章 産業

第十条 産業指導統制上ノ要項概ネ左ノ如シ
一 重要資源ノ自給ヲ目途トシ特ニ軍需産業ノ生産力拡充ヲ促進ス
二 輸出産業ハ軍事上大ナル支障ナキ限リ極力之ガ維持ニ力ム
三 必要ニ応ジ一部ノ工場又ハ事業場ヲ管理ス
四 重要産業ニ付テハ統制機構ノ整備ヲ図ル
五 輪入抑制ニ伴ヒ国民生活ニ必要ナル資源ノ生産ヲ奨励ス

第十一条 差当リ生産ノ促進又ハ生産力ノ拡充ヲ要スル重要物資概ネ左ノ如シ
一 金
二 鉄鋼及製鉄用原鉱
三 銅、鉛、亜鉛、錫、ニッケル、アンチモン、水銀、アルミニウム、マグネシウム等ノ非鉄金属類
四 ベンゾール及トルオール
五 石炭酸
六 硫安
七 パルプ
八 工作機械
九 石炭
一〇 石油及其ノ代用品
一一 鉄道車輌及船舶
一二 貨物自動車
一三 航空機

第十二条 左記物資及之ヲ材料トスル成品ニ付テハ一般ニ消費節約ヲ奨励スルノ外用途ノ制限、代用品使用ノ指定等必要ナル措置ヲ講ズ
一 鋼材
二 銅、白金、鉛、亜鉛、錫、ニッケル及アンチモン
三 ゴム
四 皮革
五 綿花
六 羊毛
七 紙類
八 木材
九 然料特ニ石油及其ノ代用品
一〇 電力
右ニ関連シ所要代用品ノ増産及研究ニ付特ニ考慮スルモノトス

第十三条 差当リ左記物資ニ付配給ノ適正円滑ヲ図ル為必要ナル措置ヲ講ズ 一 米麦及飼料
二 鉄鋼
三 化学肥料
四 工作機械
五 石炭
六 石油
七 前各号以外ノ主要輸入物資

第十四条 左記物資及之ヲ材料トスル成品ニ付国民運動其ノ他適切ナル方法ニ依リ回収ノ措置ヲ講ズ
一 屑鉄
二 銅
三 鉛
四 錫
五 アルミニウム
六 ゴム
七 綿花
八 羊毛
九 紙

第十五条 電力ニ関シテハ需給ノ円滑適正ヲ図ル為必要ナル措置ヲ講ズ

第十六条 暴利ノ取締其ノ他物価、運賃、料金等ノ規正ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ
物価ノ規正ニ付テハ鉄鋼、化学肥料、石炭、石油、電力等ノ重要物資及生活必需品ニ付考慮ス
第十七条 補填計画実施ノ為必要ナル資金ニ付テハ緩急ヲ考慮シ之ガ調達ニ便宜ヲ与フ

第六章 貿易

第十八条 輸入ニ関シテハ重要資源ノ需給状況及国際収支ノ状況ヲ考慮シ輸入優先順位ヲ定メ適切ナル指導統制ヲ行フ
第十九条 輸出ニ関シテハ特ニ必要アルモノヲ除クノ外差当リ制限又ハ禁止ヲ行ハズ 第二十条 支那ニ対シテハ兵器其ノ他作戦資材ノ輸出ヲ禁止スルノ外経済的打撃ヲ与フルニ有効ナル貿易上ノ措置ヲ講ズ
第二十一条 対支貿易変化ノ状況ニ応ジ之ガ対策ヲ講ズ
第二十二条 米国ノ中立法発動其ノ他ニ因ル輸入杜絶ノ場合ヲ考慮シ適時之ニ対応スべキ方途ヲ講ズ

第七章 食糧

第二十三条 食糧二関シテハ其ノ生産、配給等ニ付所要ノ指導統制ヲ行フ外概ネ左ノ措置ヲ講ズ
一 輪入食糧ニ付消費節約及代用品ノ使用
二 応召者多数ナル農山漁村ニ於ケル生産維持ニ関スル指導援助
三 肥料及飼料ノ自給奨励並ニ購入肥料及飼料ノ消費節約

第八章 運輸

第二十四条 鉄道及船舶ニ依ル重要物資ノ輸送ニ付必要ニ応ジ優先順位ヲ定メ且各輸送ノ連絡ヲ確保シ運輸全般ノ円滑ヲ図ル
第二十五条 船舶ハ必要ニ応ジ政府之ヲ管理ス
尚之ニ関連シ必要ナル措置ヲ講ズ
第二十六条 船腹ノ増加ニ付テハ左ノ措置ヲ講ズ
一 造船能力ノ拡充ヲ図リ造船材料ノ供給ニ付便宜ヲ与フ
二 外国船ノ傭購入ニ関シテハ現在及将来ノ関係ヲ考慮シテ之ヲ行フ
第二十七条 海上保険ニ関シ機宜ノ措置ヲ講ズ
第二十八条 自動車徴発ニ伴フ補充ニ関シ機宜ノ措置ヲ講ズ
第二十九条 航空施設ノ整備ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ

第九章 財政金融

第三十条 中央、地方及外地ヲ通ジ不急ノ既定経費ノ節約ヲ断行ス
第三十一条 戦費ノ調達ハ主トシテ公債ニ依ルモ一部増税ヲ併用ス
両者ノ調整ニ関シテハ国民負担ノ公平ニ付特別ノ考慮ヲ払フ
尚公債消化ニ関シテハ適切ナル措置ヲ講ズ
第三十二条 金融ノ混乱及恐慌防止ニ対シ適時必要ナル措置ヲ講ズ
第三十三条 国防其ノ他公益上ヨリ観テ不急ナル事業ニ対シテハ投資、増資及起債ヲ抑制ス
第三十四条 非常時産業金融ノ便ヲ図ル為資金統制其ノ他必要ナル措置ヲ講ズ
第三十五条 為替維持ノ為適時必要ナル措置ヲ講ズ、特ニ対外決済ニ充当スベキ資金ノ充実ヲ図ル
第三十六条 北支ニ対スル金融政策ニ付機宜ノ措置ヲ講ズ

第十章 社会施設

第三十七条 出動軍人並ニ其ノ家族及遺族ノ慰問、保護及救済ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ、之ガ為考慮スべキ事項概ネ左ノ如シ
一 応召者ニ対シ召集前ノ勤務先ヨリ給与ノ支給
二 応召者ノ保険ニ関スル特別措置
三 応召者ノ家族及遺族ノ診療、職業紹介、扶助、救護等
四 農山漁村ニ於ケル応召者ノ家族及遺族ノ生業助成及負債整理ニ関スル必要ナル措置 五 応召商工業者ノ家族及遺族ニ対スル金融
六 入営者ニ対スル職業保障
七 戦傷者ニ対スル職業再教育
八 出征者及戦死傷病者ニ対スル慰問
第三十八条 事変地罷災者及避難者ノ救済ニ関シ必要ナル措置ヲ講ズ
第三十九条 物資ノ徴発其ノ他事変ノ為生業困難ヲ来シタル者ニ対シ必要ナル保護救済ノ措置ヲ講ズ

第十一章 防疫

第四十条 防疫ノ徹底ヲ図ル為必要ナル措置ヲ講ズ、之ガ為特ニ考慮スベキ地域概ネ左ノ如シ
一 戦地トノ交通頻繁ナル地域
二 衛戍地、軍港及要港
三 主要港
四 重要工場地帯
五 食糧ノ大集散地
六 重要都市

第十二章 総動員ニ必要ナル警備

第四十一条 中央、地方及外地ニ警備協議会ヲ設置シ迅速適切ナル総動員警備ノ実施ニ当ラシム
第四十二条 機密保護上各主務官庁ハ必要ナル措置ヲ講ズ、特ニ我国在留外国人、特定本邦人及此等周囲ノ人物ノ言動ニ注意ヲ払フ
第四十三条 反軍、反戦的ノ記事言論ノ取締及外国ヨリスル思想工作防止ニ重点ヲ置ク出版物ノ検閲ヲ厳ニシ流言蜚語及運動ノ取締、銃砲火薬類其ノ他危険物ノ取締等特ニ治安維持上必要ナル措置ヲ講ズ
第四十四条 警察職員、消防職員及刑務職員ノ召集ニ伴フ補充ノ為必要ナル措置ヲ講ズ
尚警察力補助ノ為必要ニ応ジ地方諸団体利用ノ措置ヲ講ズ
第四十五条 要警備対象物ノ警備ニ付各主務官庁ハ必要ナル措置ヲ講ズ
第四十六条 警備用通信網ノ整備及通信取締ニ付必要ナル措置ヲ講ズ
第四十七条 空襲ノ虞アル地方ニ於テハ防空ニ対スル準備ヲ行フ、防空実施ノ時期ハ別ニ命ゼラルル所ニ依ル
第四十八条 私設無線電信電話施設ノ取締ヲ厳ニス

第十三章 情報及宣伝

第四十九条 今次事変処理ノ為必要ナル情報及宣伝ニ関シ所要ノ措置ヲ講ズ

第十四章 其ノ他

第五十条 科学研究ノ指導、発明ノ助成等ニ付必要ナル措置ヲ講ズ
北支事変ニ適用スベキ国家総動員計画要綱 昭和12年9月4日 閣議決定引用終わり。


昭和14年度労務動員実施計画綱領 昭和14年7月4日 閣議決定

収載資料:国家総動員史 資料編 第1 石川準吉著 国家総動員史刊行会 1975.8 pp.324-328

第一章 総則

第一 本綱領ハ昭和十三年九月十三日閣議決定「昭和十四年度国家総動員実施計画設定ニ関スル件」ニ基キ昭和十四年度労務動員実施ノ基準トナルベキ事項ヲ定ムルモノトス 第二 本綱領ハ長期戦態勢下ニ於ケル労働力ノ根基ニ培フト共ニ特ニ左ニ掲グル事項ノ達成ヲ目途トシテ労務ヲ統制運用スルヲ以テ目的トス

一 軍需ヲ充足スルコト
二 生産力拡充計画ヲ遂行スルコト
三 輸出ヲ復興スルコト
四 国民生活ノ必需ヲ確保スルコト
第三 各庁ハ本綱領ニ基キ速ニ各庁実施計画ヲ設定シ之ヲ実施スルモノトス
満支関係諸機関ニ於テハ本綱領ノ趣旨ニ準ジ労務動員実施計画ヲ設定シ夫々適切ナル対策ヲ講ゼシムル様措置スルモノトス
第一項ノ各庁実施計画及前項ノ労務動員実施計画ノ要領ハ速ニ之ヲ企画院ニ提出スルモノトス
第四 労務動員実施ニ当リ特ニ重要案件ヲ生ジタルトキハ其ノ処理ハ労務動員委員会ニ依リ之ヲ調整スルモノトス

第二章 一般労務者需給調整方策

第五 昭和十四年度一般労務者ノ需給計画ハ内地ニ於ケル工業、鉱業及交通業労務者ノ新規需要ヲ基礎トシ之ニ対スル供給力ヲ推測シテ設定スルモノトス
前項ノ計画ニ付テハ満洲移民等ニ関スル需給ヲモ考慮スルモノトス
第六 前記ノ需要数ハ左記各号ノ員数ヲ合算シタルモノトス
一 軍需産業、生産力拡充計画産業及其ノ附帯産業、輸出及必需品産業並ニ運輸通信業ニ於ケル需要増加数
二 工業、鉱業及運輸通信業ニ於ケル減耗ノ補充ニ要スル数
三 満洲移民
前項ノ需要数ハ附表第一及第二ノ如ク之ヲ予定スルモノトス
第七 前記ノ需要ハ左記各号ノ給源ヨリ之ヲ充足スルモノトス
一 昭和十四年三月新規小学校卒業者
二 物資動員計画遂行ニ伴フ離職者
三 未就業者(手助ヲ含ム)
四 農業従事者
五 商業其ノ他ニ於ケル労務節減可能ナル業務ノ従事者
六 女子無業者
七 移住朝鮮人
前項各号ノ給源ヨリ供給スベキ目標数ハ附表第三ノ如ク之ヲ予定スルモノトス
第八 需給ノ適合ヲ図ルガ為就職ノ指導斡旋ニ付一層積極的方法ヲ講ズルコトトシ特ニ新規小学校卒業者其ノ他年少者ノ就職ニ付之ガ統制ヲ強化スルモノトス
第九 物資動員計画ノ遂行ニ伴フ離職者其ノ他青壮年者ノ転就職ニ付テハ必要労務ノ充足ニ資スル為職業補導施設ヲ拡充スル等ノ方策ヲ講ズルモノトス
第十 農村ヨリ労務ヲ供出スルニ当リテハ農業ニ於ケル青年労力ノ急減並ニ其ノ地方的偏倚ノ実情ニ鑑ミ之ガ供出ヲ計画化スルト共ニ地方ニ於ケル労務行政機関ト経済更正委員会等トノ連繋ヲ一層緊密ナラシムル様措置スルモノトス
農業生産確保ノ為ニハ農業労力調整計画ヲ設定シ作業及施設ノ協同化、集団的移動労働、勤労奉仕、共同託児共同炊事其ノ他ノ家事労働施設、畜力機械力利用ノ拡充等ノ諸方策総合シテ労力ノ能率的利用ヲ図ルト共ニ農村及都市ノ間ニ於ケル労力ノ季節的調節ヲモ行フモノトス
第十一 商業其ノ他ニ於ケル比較的労務ノ節減可能ナル業務ニ付テハ経営改善等ノ方法ニ依リ労務ノ節減ヲ図ラシメ特ニ青年男女ノ使用ヲ緊要トセザルモノニ付テハ国家総動員法第六条ノ規定ニ依リ之ガ雇入ヲ制限シ其ノ他適当ナル方策ヲ講ズルモノトス
第十二 女子ノ労務ニ関シテハ職場ノ選択ニ付適切ナル指導ヲ行ヒ輸出産業等特ニ女子ノ労務ヲ必要トスル産業ノ需要ヲ充足スルコトヲ第一議トシテ未婚ノ不就業女子ニ付就業勧奨ヲ積極的ニ行フモノトス
第十三 朝鮮人ノ労力移入ヲ図リ適切ナル方策ノ下ニ特ニ其ノ労力ヲ必要トスル事業ニ従事セシムルモノトス
第十四 一般労務者ノ不足ニ因リ労務動員実施計画ノ遂行上重大ナル支障ヲ生ズルノ虞アル場合ニ於テ之ガ充足ニ付他ニ適当ナル方策ナキトキハ徴用ノ手段ニ依ルモノトス
第十五 外地ニ関シテハ本章ノ趣旨ニ準ジ一般労務者需給調整方策ヲ樹立スルモノトス

第三章 技術者並ニ熟練労務者需給調整方策

第十六 昭和十四年度技術者ノ需給計画ハ概ネ日満支ヲ通ジ工業、鉱業及交通業ノ新規需要ヲ基礎トシ之ニ対スル供給力ヲ推測シテ之ヲ設定スルモノトス
第十七 前記ノ需要数ハ左記各号ノ員数ヲ合算シタルモノトス
一 日満支ニ於ケル生産力拡充計画産業ノ需要増加数
二 日満ニ於ケル生産力拡充計画附帯産業及軍需産業ノ需要増加数
三 内地ニ於ケル輸出及必需品産業並ニ運輸通信業ノ需要増加数
四 日満支ニ於ケル工業、鉱業及運輸通信業ニ於ケル減耗ノ補充ニ要スル数
前項ノ需要数ハ附表第四ノ如ク之ヲ予定スルモノトス
第十八 前記ノ需要ニ充ツベキ昭和十四年三月新規学校卒業者数ハ附表第五ノ如ク之ヲ予定スルモノトス
第十九 技術者ノ不足ヲ補フ為不就業技術者ニ付組織的調査ヲ行ヒ其ノ就業及使用ノ勧奨斡旋ニ努ムルモノトス
第二十 現行検定制度ヲ拡張活用スルト共ニ特別ノ技術認定制度ヲ創設シテ技術者補給ノ途ヲ拓クモノトス
第二十一 技術者ノ能率的利用ヲ図ル為左ノ方策ヲ講ズルモノトス
一 同一系統企業間中小工場間等ニ於テ技術者ノ融通又ハ共同利用ヲ為サシムルコト
  二 下請工場ニ対スル親工場ノ技術的指導範囲ヲ拡大セシムルコト
三 製品及製作方法ノ単純化、標準化等ヲ促進スルコト
第二十二 技術者分布ノ現況ニ付組織的調査ヲ行ヒ其ノ配置ヲ適正化スル為積極的斡旋ニ努ムルモノトス
第二十三 技術者ノ不足ニ因リ労務動員実施計画ノ遂行上重大ナル支障ヲ生ズルノ処アル場合ニ於テ之ガ充足ニ付他ニ適当ナル方策ナキトキハ徴用ノ手段ニ依ルモノトス
第二十四 熟練労務者ノ不足顕著ナル現状ニ鑑ミ経験労務者ニ対スル再教育施設ヲ拡充スルモノトス
前項ノ他熟練労務者ノ需給調整ニ付テハ概ネ技術者ノ場合ニ準ジ措置スルモノトス
第二十五 工鉱業関係ノ技術者及熟練労務者、土木建築技術者、医療関係者、獣医師、高級船員、無線通信士等ニ付計画的養成ヲ行ヒ後年度ノ需要ニ応ズルモノトス


第四章 労働力ノ培養及能率増進方策

第二十六 労務者ノ精神鍛錬及規律訓練ヲ一層徹底スルト共ニ保健、衛生施設ヲ拡充シ特ニ青少年労務者ニ付体質増強ヲ図リ以テ労働生産性ノ向上ヲ期スルモノトス
第二十七 災害防止ノ徹底ヲ図ル為労働過重ノ抑制、新入労務者ニ対スル安全教育ノ徹底、設備ノ改良等有効適切ナル方策ヲ講ズルモノトス
第二十八 女子ノ時局産業ヘノ進出著シキ実情ニ鑑ミ特ニ其ノ保護ヲ強化スル為適当ナル方策ヲ講ズルモノトス
第二十九 能率ノ増進ヲ図ル為作業ノ方法及設備ノ改善並ニ技能ノ公開、競技、表彰ヲ行フ等適切ナル方策ヲ講ズルモノトス
第三十 賃金ノ統制ヲ行フニ当リテハ労務動員ノ見地ヨリ特ニ左ノ諸点ニ留意スルモノトス
一 労務者ノ生活ノ恒常性ヲ確保スルコト
二 労働ノ生産性ヲ向上スルコト
三 労務需給ヲ適正円滑ナラシムルコト
第三十一 労務者ニ対スル生活刷新運動ヲ一層徹底シ特ニ其ノ生活ヲ現実化スル為有効適切ナル方策ヲ講ズルモノトス
第三十二 労務者ノ住宅問題及交通問題ハ労務動員遂行上急遽之ガ解決ヲ図ルコトトシ之ニ関連シテ工場ノ移転新設等ニ付適当ナル対策ヲ講ズルモノトス

第五章 労務動員機構其ノ他

第三十三 労務動員計画ノ実施ヲ確保シ其ノ運用ヲ円滑ナラシムル為内外地ニ亘リ中央地方ヲ通ジ労務行政機構ヲ整備改善スルモノトス
第三十四 労務動員計画ノ遂行ニ協力セシムル為労務管理ノ機構ヲ整備セシムルト共ニ産業報国会ノ拡充ヲ図リ其ノ活動ヲ促進スルモノトス
第三十五 労務動員ノ基礎資料ヲ整備スル為左ノ方策ヲ急速実施スルモノトス
一 特ニ必要ト認メラルル労務者ニ関シ登録ノ範囲ヲ拡張スルコト
二 労務ノ需給ニ関シ定期的報告ヲ徴スルコト
三 都市及農村ヲ通ジ労務ノ実情及給源ヲ定期的ニ調査スルコト
昭和14年度労務動員実施計画綱領引用終わり。


第168回国会(臨時会)質問主意書 質問第八七号 平成十九年十二月十二日

朝鮮人労務者活用ニ関スル方策 昭和17年2月13日 閣議決定

収載資料:在日朝鮮人関係資料集成 第4巻 朴慶植 三一書房 1976.6 pp.24-25

第一 趣旨

軍要員ノ拡大ニ伴ヒ内地ニ於テハ基礎産業ニ於ケル重労務者ノ不足特ニ著シク従来此ノ種労務者ノ給源タリシ農業労力亦逼迫シ来リタル結果応召者ノ補充スラ困難ナル実情ニ在リ茲ニ於テ此ノ種労務者ノ需給ニ未ダ弾力ヲ有スル朝鮮ニ給源ヲ求メ以テ現下喫緊ノ生産確保ヲ期スルハ焦眉ノ急務タリ而シテ従前ヨリ朝鮮人労務者ニ依存セルコト少カラザリシ土建、運輸等ノ事業ニ於テモ最近之ニ期待スルコト益々大ナリ

然ルニ朝鮮人労務者ノ内地送出並ニ之ガ使用ニ関シテハ複雑ナル事情交錯シ内鮮ノ指導必ズシモ一致セズ之ガ為生ジタル弊害亦少カラズ、今ヤ内地労務者ノ資質ニ鑑ミ所要ノ朝鮮人労務者ヲ内地ニ於テ活用スルハ不可決ノ要請ナルヲ以テ此ノ機会ニ於テ既往ノ経験ヲ省察シ其ノ施策ニ統一ト刷新トヲ加ヘ内鮮共ニ真ノ指導性万全方策ヲ確立シテ速ニ之ヲ実行スルコト最モ必要ナリ而シテ其ノ要ハ労務ノ活用ト同時ニ教化ヲ重ンジ以テ朝鮮統治ノ大方針ヲ推進スルト共ニ此等育成セラレタル労務者ハ之ヲ朝鮮ニ還元シ朝鮮ノ我ガ大陸前進基地タル地位ノ強化ニ資セシムルニ在リ

第二 方針

一、本方策ハ軍要員ノ拡大ニ伴フ内地労務動員ノ実情ニ鑑ミ朝鮮ニ於ケル適材ヲ内地総動員業務二活用シ以テ人的国力ノ総合発揮ニ遺憾ナカラシムべキ基本観念ノ下ニ之ヲ実施スルモノトス

二、本方策ニ基ク朝鮮人労務者ハ有為ナル青少年ヲ選抜シ必要ナル訓練ヲ加ヘ之ヲ送出スルモノトス

三、右朝鮮人労務者ハ十分ナル国家ノ指導保護ノ下ニ之ヲ使用セシメ優秀ナル皇国労務者トシテ之ヲ育成シ一定期間(概ネ二年)ニ之ヲ補充交代セシメ以テ朝鮮ニ於ケル人的国防資源ノ強化ニ資スルモノトス

四、本方策ニ基ク労務者ノ送出ハ朝鮮総督府ノ強力ナル指導ニ依リ之ヲ行フモノトシ所要ニ応ジ国民徴用令ヲ発動シ要員ノ確保ヲ期スルモノトス

五、本方策ニ依ルモノノ外朝鮮人労務者ノ内地ニ於ケル就労ハ内地及朝鮮ニ於ケル労務統制ノ強化ニ伴ヒ此ノ統制下ニ行ハルル如ク従来ノ方針ヲ統一スルモノトス

六、本方策ノ実施ニ伴ヒ現ニ内地ニ在住スル朝鮮人ニ対シ徴用又ハ国民勤労報国隊へノ参加等労務動員ノ強化ヲ図ルモノトス

第三 要領

一、朝鮮ニ於テハ要員ノ選抜及之ガ訓練ニ関シ左ノ如ク施策スルモノトス

イ 要員ハ年齢概ネ満十七歳乃至二十五歳ノ男子ニシテ心身健全ナルモノヲ選抜ス但シ要員ノ選抜困難ナルトキハ年齢ノ範囲ハ之ヲ拡大スルコトヲ得

ロ 要員ニハ青年訓練施設等ヲ活用シ精神教育、国語教育等ノ外特ニ団体行動並ニ共同生活等ニ必要ナル基礎的訓練ヲ加ヘ且所要ノ幹部ヲ養成ス

ハ 要員ハ隊組織ヲ編成セシメ各単位ニハ国語ヲ解スル者ヲ配置ス

二、内地ニ於テハ本方策ニ依ル朝鮮人労務者使用ノ為特ニ左ノ如ク施策スルモノトス

イ 本要員ヲ使用セシムル工場事業場ハ特ニ重労務者ヲ必要トシ且之ガ使用ニ適スル施設ヲ具備スルモノニ付重点的ニ之ヲ選定シ漸次其ノ範囲ノ拡大ヲ図ル

ロ 徴用ニ依リ要員ヲ配置スル場合ヲ顧慮シ関係工場事業場ヲシテ速ニ之ニ適応スル態勢ヲ整備セシム

ハ 本要員ノ処遇ヲシテ形而上下ニ亘リ内地人ト異ル所ナカラシム

三、本方策ニ依リ内地ニ送出スべキ労務者ハ食糧、住宅、輸送等ノ実情ニ鑑ミ家族ヲ携行セシメザルヲ例トス

四、本方策実施ノ為朝鮮ニ於テハ人員動員機構ヲ充実シ警察機能ヲ強化スル等必要ナル対策ヲ実施スルモノトス

又本方策ノ実施ニ当リテハ朝鮮ニ於ケル青年訓練並ニ志願兵制度等トノ関連ニ特ニ留意シ互ニ推進助長ヲ期スルモノトス

五、本方策実施ノ為必要ナル施設ニ就テハ努メテ既存ノモノヲ活用スルモ已ムヲ得ザルモノニ就テハ別途予算的措置ヲ講ズルモノトス 尚朝鮮ニ於ケル本方策実施ニ伴フ人員動員機構及訓練機関ノ要員ノ充足ニ就テハ其ノ実情ニ鑑ミ関係各庁十分之ニ協力ヲ与フルモノトス

六、本方策ノ実施ニ方リ食糧並ニ輸送ノ問題ニ就テハ特ニ研究善処スルモノトス

七、本方策ニ依ルノ外労務者ノ内地渡航ニ付朝鮮総督府ニ於テハ内地関係官庁ニ認可ノ有無ヲ確ムル等労務ニ関スル統制法令運用ノ方針ニ即応スル如ク必要ナル措置ヲ講ズルモノトス

八、本方策ハ速ニ之ガ実行ニ着手スルモ其ノ時期、方法等ニ就テハ関係各庁ニ於テ別途具体的ニ協議スルモノトス

九、本方策ハ必要ニ応ジ順次外地ニ適用スルモノトス
朝鮮人労務者活用ニ関スル方策引用終わり。

室蘭の強制連行犠牲者の遺骨返還に関する質問主意書

  朝鮮の少年が徴用され労働者として日本へ強制連行されることとなるのは、一九三九年の閣議によって日本政府が「労務動員実施計画」(昭和十四年度労務動員実施計画綱領 昭和十四年七月四日閣議決定 第十三 朝鮮人ノ労力移入ヲ図リ適切ナル方策ノ下ニ特ニ其ノ労力ヲ必要トスル事業ニ従事セシムルモノトス)を決定したことによる。また、「民間徴用者」の毎年の動員許可を与えたのも日本政府である。その結果として室蘭に強制連行された少年たちは艦砲射撃で死亡したのである。ところが、日本政府は過去において個々の遺族に対し一度も謝罪していない。遺族への遺骨返還に当たり、個々の遺族に対し日本政府の謝罪が行われるべきと考えるが、政府の認識を示されたい。

二 「民間徴用者」の遺骨の返還に際しては、遺族に対し葬祭費など必要な経費を日本政府が負担すべきと考えるが、政府の認識を示されたい。
室蘭の強制連行犠牲者の遺骨返還に関する質問主意書引用終わり。


不二越強制労働損害賠償続き

また,日本国政府は1939年(昭和14年)7月8日,国家総動員法4条を発動して国民徴用令(昭和14年勅令第451号,同年7月15日施行)を制定し,徴用命令を発令して徴用者の職場を強制的に転換させることができるようにした。この国民徴用令は当初から朝鮮でも軍の施設等における労働のため発動されていたが,1944年(昭和19年)8月8日には半島人労務者ノ移入ニ関スル件」が閣議決定され,朝鮮において,一般企業等への労働者動員にも国民徴用令が発動されることになった。募集方式あ るいは官斡旋方式の動員も官による動員という性格を有していたが,国民徴用令による徴用では間接的とはいえ法的強制が加わり,徴用に応じない者には,国家総動員法36条により懲役又は罰金が課せられることになっていた。

昭和19年には日本における労働力不足が一層深刻化し,同年8月16日の閣議決定「昭和十九年度国民動員計画策定ニ関スル件」では,学校について通年動員を徹底し,中等学校2年以下及び国民学校高等科の学徒をも動員の対象とし,学徒動員の強化に即応し受入工場事業場の管理体制を整備充実すること,女子についても動員手段を強化し,これに伴い交替制による女子の夜間作業に関する制限を緩和することなどが決定された。
不二越強制労働損害賠償引用終わり。

◆日米開戦・世界戦争への道 ◇ World War Declared 1941/12/11

1.日本は,中国に侵攻を続け,東南アジアに権益を求めるのであれば,米英,フランス,オランダなど列国を牽制する必要がある。また,満州に接しているソ連の共産主義思想・軍事力も脅威である。そのために,ドイツ,イタリアと連携する道を選択した。ドイツ,イタリアにとっても,欧州での米英ソなど列国の勢力を,極東方面で牽制してくれる日本との軍事同盟は望ましい。しかし,これば米英など列国に真っ向から対立することになり,列国の反感を買う。

写真(右):南京に入場する日本軍:日本軍は、華北・華中の大都市を占領すれば、中国が降伏すると思ったのか、動員により兵力を増強しつつ、作戦を展開した。これが、アジア、極東の平和を乱す元凶であるとして、中国はもとより、英米の反感を買った。

日中戦争における日本の軍事的、政治的、経済的な中国への侵略・進出を、米国は、機会均等を侵すものとして、排除したかった。さらに、日本の残虐行為・敵対的行為についても、1937年12月の南京事件(市民や兵士の死者10-20万人)、中国華南にあった米国砲艦パネーへの日本海軍機による爆撃(米国人2名死亡)、日本の動員法令の整備など、いずれも米国の戦略に反する動きが強まっている。

ルーズベルト大統領としては、中立、孤立主義の風靡する米国の世論を参戦に転換したかった。ドイツとの劣勢の戦いを指導する英国首相チャーチルも、ドイツや英国の攻撃を危惧する指導者スターリンも、日本軍に満州を切り取られ、北京,上海,南京を占領された中国の指導者蒋介石も、米国がドイツ・日本に参戦することを心待ちにしていた。

写真(右):南京陥落を祝う日本(1937-38年):戦争は始まったばかりだったが。1937年12月の南京陥落祝賀祭が日本各地で祝われた。「戦勝祝賀集会」には多数の市民も参加し、ちょうちん行列も式を盛り上げために行われた。数十万人に及ぶ動員が可能だった閉経には、日本人の多くがこれで戦争が勝利で終わったという安堵があったようだ。 「画法躍進之日本」(南京陥落祝賀号)では、「夜が明けるとすぐ城門への突入がはじまった。前方には城壁を取り巻いて幅30メートルほどのクリークがあった。クリークの土手は三間ほどの道路になっていて、そこに塹壕があった。城門はすでにピッタリ閉ざされて、泥や砂がいっぱい積んである。クリークの土手の敵は、場内に逃げ込む道はなかった。堪えかねてバタバタバタと城門へ走って行くが、片っ端から友軍の重機になぎ倒されて、山のように重なって倒れていく」とあるという。敵がやられることは、「残虐行為」ではなく、勝つための戦争では当然のことだった。

中立の米国参戦する決め手となるのは、ドイツ・日本による対米先制攻撃あるいは宣戦布告であることは自明である。世界は、(平和を取り戻す正義の戦争を起こしたくてか)ドイツ・日本が米国に宣戦布告をすることを待ち望んでいた。米国,英国,中国,ソ連などでは,日本が対米宣戦布告をするように挑発し,誘導する外交政策、プロパガンダが展開される。

極東地域では、第二次世界大戦が勃発する4ヶ月前の1939年5月、満州とモンゴル国境でノモンハン事件が起こり、ソ連・モンゴル軍は日本・満州軍と戦車、航空機も投入して戦火を交えた。ソ連支配下のモンゴルと、日本支配下の満州が接する地点で、日ソ両軍が大規模な戦闘を行ったのである。ノモンハンの大規模な国境紛争は、1939年8月31日(なんと第二次大戦勃発の直前、ソ連はドイツがポーランドに9月1日に侵攻することを知っていたに違いない。英仏の対独宣戦布告は9月3日)に終了する。

写真(右):中国での日本軍の残虐行為:いくつかの残虐行為の写真が残っているが,個人撮影のためか,場所,時期,氏名を特定できない場合が多く,プロパガンダ合戦もあり,真偽の問題を引き起こしている。この写真は世界の報道機関で日本の残虐さの例証とされている。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。ソ連は,ドイツの攻撃にさらされているために,積極的に日本に攻撃を仕掛けるつもりはなく,日ソ中立条約を遵守する。しかし,日本が対ソ攻撃の選択肢を保有していることは,大いに危惧していた。そこで,ソ連は,日本がソ連を侵攻する余裕がなくなるように,日米開戦を待ち望んでいた。

米国がドイツの宣戦布告したのは、12月11日にドイツから対米宣戦を布告してきたのを受けてである。騙まし討ちの先制テロ攻撃をした日本に宣戦布告をし、報復するのは当然である。そして、日本の同盟国であるドイツが対米宣戦布告してくるなら,米国もドイツに反撃するのみである。

ドイツの宣戦布告は、日独伊三国軍事同盟に拘束されたものではない。三国軍事同盟では、敵の攻撃を受けた場合に、参戦する義務があることを述べている。先制攻撃を仕掛けた(1941年6月にドイツがソ連を宣戦布告なく攻撃)場合,同盟国でも参戦する義務はない(日本はソ連を攻撃せず、南方を狙った)。

米国は、英国同様、反ファシズムの立場から、武器貸与法により、共産主義のソ連に軍事物資を貸与したが、ソ連には、軍や義勇部隊を派遣してはいない。ドイツは、英国,ソ連と既に戦闘を続けており,ドイツ参謀本部も米国参戦などするつもりもなかった。しかし、総統ヒトラーは、日本の真珠湾攻撃から4日間熟慮して、12月11日に対米宣戦布告を行った。

日本のドイツ駐在大島大使は、幼いころより在日ドイツ人家庭と親交があり、ドイツ語も上手であり、ドイツ駐在武官時代よりヒトラーの信任も厚かった。ヒトラーは、大島大使に、ドイツのソ連侵攻を伝えたし、その他の重要な作戦についても情報を随時提供していた。ドイツとしては、アジアにおける英国植民地やオーストラリア方面に日本が攻勢をかけることを望んでいた。

英国は、カナダ、オーストラリアなど英国連邦から兵力を借りていたし、植民地インドの人員と資源は英国の戦力維持に有用である。さらに、英国は大西洋会談などで、米国との軍事的結びつきを深め、米国の軍事支援を得て、ドイツに反抗していた。ドイツは、英国の戦力を衰えさせるために、極東、アジアでの日本軍による英国植民地の攻撃を望んだ。もしかすると、日本が米国へ戦争を仕掛けることも期待していたかもしれない。また、1941年6月22日にドイツが独ソ不可侵条約を破って、ソ連に侵攻したが、その冬にはソ連が屈服しそうもないことを理解した。ドイツは、日本が第二次大戦にドイツ側に立って参戦することを望んでいた。

しかし、ドイツが米国に宣戦布告するとなると、英国もソ連も降伏しない状況で、さらなる大敵と対峙しなくてはならなくなる。つまり、ドイツとしては、、東西に正面戦争の最中に、米国と好き好んで戦争することは、それまで避けてきたのである。そのドイツが、対米宣戦布告をしたのはなぜだろうか。答えは、ユダヤ人問題の解決とドイツにおける反ヒトラー・和平の動きである。

2.日本の真珠湾攻撃,日米開戦が、ヒトラーに、和平の道を閉ざして世界戦争を開始し,東方生存圏の確立,欧州大陸支配の必要条件として,米国の打倒が考えられた。そして、アーリア人支配とドイツの平和を妨害するユダヤ人勢力は、米国の金融資本・マスメディアを握っているから、米国のユダヤ人の打倒・影響力排除も必要である。対米戦争は、ユダヤ人問題の最終解決に有利であると判断できる。つまり、ドイツの欧州支配・東方生存圏の確立、ドイツ国民と軍の掌握、ユダヤ人問題の最終解決のために、ヒトラー総統は、対米宣戦布告を決意したといえる。

ヒトラー総統が、1941年12月11日に、自ら対米宣戦布告した理由は、次のように考えられる。
?ユダヤ人は、国際金融,,メディアを牛耳ることで、商業主義に毒された米国を操り,共産主義を欧州に蔓延させてドイツを衰退させようとしている(とヒトラーは思い込んでいた)。

?世界戦略からみても、英国、ソ連が欧州でドイツに対抗できるのは,米国の支援があるためであると、見抜いていた。米国の支援を断ち切らない限り、ドイツの勝利は困難である。

?米国には孤立主義が蔓延しており,(ロビー活動やユダヤ人のメディアで)形骸化した民主主義を信奉しており、戦争に自ら志願する国民も,強力な物資統制を伴う動員に協力する国民もいないと読んでいた(これは大きな誤り)。

?戦備拡張のための動員が、順調には行かないのであれば、大西洋を隔てた米国の軍事力は脅威ではない。かえって、英国,ソ連を支援にする輸送船を米国沿岸で、心置きなく潜水艦で撃沈できる(これは大戦果を上げる)。

?ドイツ国内を見ても,ソ連侵攻がモスクワ手前で失敗している状況で,ヒトラーへの信頼が揺らいでいる。ドイツ国民にも厭戦気分が高まってきた。独裁者としては,ドイツ軍が和平に動き出す道を断つ必要がある。そのために、米国に宣戦布告して「背水の陣を敷く」必要がある(1944年には反ヒトラーのクーデターが起こる)。

日本の真珠湾攻撃,日米開戦が、ヒトラーに、和平の道を閉ざして世界戦争を開始し,東方生存圏の確立,欧州大陸支配の必要条件として,米国の打倒が考えられた。そして、アーリア人支配とドイツの平和を妨害するユダヤ人勢力は、米国の金融資本・マスメディアを握っているから、米国のユダヤ人の打倒・影響力排除も必要である。対米戦争は、ユダヤ人問題の最終解決に有利であると判断できる。つまり、ドイツの欧州支配・東方生存圏の確立、ドイツ国民と軍の掌握、ユダヤ人問題の最終解決のために、ヒトラー総統は、対米宣戦布告を決意したといえる。

写真(右):ドイツの親衛隊特別任務部隊のソ連ユダヤ人・共産主義者の処刑;ドイツは1941年6月にソ連侵攻を開始。同時に占領地のユダヤ人や共産主義者を殺していく。しかし、この時点では、フランス、オランダなど西欧占領地やドイツ本国のユダヤ人を虐殺はしていない。絶滅収容所が本格的に稼動するのは、実は1941年12月の真珠湾攻撃の後、12月11日のドイツ(イタリア)の対米宣戦布告以降である。ワンゼー会議も、新たな大戦争に直面して、会期が変更になった。米国相手に戦うのであれば、金融界・マスメディアを牛耳じるユダヤ人への遠慮(人質化)は一切不要との判断である。

ドイツは,ポーランド、ソ連には宣戦布告なく一方的に攻撃し,英仏は9月3日にポーランドとの軍事同盟から、ドイツに宣戦布告した。ヒトラーは,1941年12月11日,米国にはドイツ帝国国会で宣戦布告をする。これを受けて、米国もドイツに参戦する。しかし,ルーズベルト大統領にとって、ドイツと戦うきっかけが(ドイツの宣戦布告)がなかったら、連邦議会は対日宣戦布告だけで、ドイツへの宣戦布告はできなかったであろう。ルーズベルト大統領は、欧州を支配しているドイツを最も嫌っていたから、ヒトラーの対米宣戦布告は、最大級の僥倖である。


◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,サイパン玉砕戦も分析しました。

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