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ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB /ANT-40 (СБ) 2022
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◆ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機
写真(上):1937年,ソビエト連邦、ソ連アエロフロート航空ツポレフ(Tupolev)ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機:民間登録コード:CCCP(共産党)Д2440と記入した完成したばかりの機体。高速郵便機として使用された。
An Aeroflot Tupolev ANT-40 Date circa 1937 Source Scanned from Tupolev - Man and his Aircraft Author Unknown author Permission (Reusing this file) PD-RUSSIA.
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-40 File:Aeroflot Tupolev ANT-40 SSSR-L2440.jpg引用。


写真(上):1939-1940年,冬戦争時期、フィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2 /ANT-40 (СБ)高速爆撃機の戦列(少なくとも6機が写っている):ソ連は1939年8月の独ソ不可侵条約後、バルト三国、フィンランドに侵攻した。フィンランドは、ソ連空軍ポリカルポフI-15戦闘機に続いて、I-153戦闘機やI-16戦闘機、ツポレフSB双発爆撃機などが鹵獲し使用した。
English Add a one-line explanation of what this file represents
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-40 File:Tupolev SB (Finnish).jpg引用。


写真(上)1943年10月21日、フィンランド、フィンランド空軍のソ連製ツポレフ(Tupolev)ANT-40/SB-2M103高速双発爆撃機(クリーモフ(Klimov) M-103液冷V型12気筒エンジン2基搭載)
:合計1000回の出撃回数を達成した機体。機首銃座の7.62ミリShKAS連装機関銃は、海上の艦船や地上襲撃時の機銃照射に使用するためのもので、上下角度のは射界は広いが、左右角度の射界は狭い。
SA-kuvat ovat lisensoitu Nimeä 4.0 Kansainvälinen (CC BY 4.0) -lisenssillä ja ne ovat vapaasti käytettävissä ja julkaistavissa. Kuvat ovat nähtävissä myös www.sa-kuva.fi -palvelussa. Material provided by Military Museum SB-kone starttaa 1000:lle sotalennolleen. Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1943-10-21
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-154903引用。

1.ソ連のツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機

写真(右):ソ連のツポレフSB-2爆撃機:2翅固定ピッチプロペラの初期試作機でエンジン前面に冷却ラジエーターを装備しているので空冷星形エンジンのように見える。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, Tu-14, USSR.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089081 引用。

ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB 2M-100高速爆撃機は、フランスのイスパノスイザY12液冷V型12気筒エンジンをソ連でライセンス生産したクリーモフ(Klimov) M100液令V12気筒エンジン液冷V型12気筒エンジン(排気量36 L;2,197立方インチ)(重量470 kg ;1,036ポンド)850 hp2基を搭載した。

写真(右):ソ連のツポレフSB-2爆撃機:2翅固定ピッチプロペラの初期試作機でエンジン前面に冷却ラジエーターを装備しているので空冷星形エンジンのように見える。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089074 引用。

ツポレフ(Tupolev)SB爆撃機のクリモフ M100のエンジン冷却用ラジエーターは、空中の冷気を取り込んで不凍液を冷却するが、エンジンカウリングの前面に環状冷却器を付けているために、空冷エンジンを搭載しているように見える。

写真(右):ソ連製ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機:ソ連は1930年代から多数の航空機を中国に有償譲渡している。Ray Wagner Collection Image PictionID: 45937758 - Catalog: 16_007153 - Title: Tupolev SB-2 - Filename:16_007153.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation

中国(中華民国)の空軍は、アメリカから輸入機と軍事・技術顧問を雇い入れてスタートしたが、国共合作(国民党と中国共産党との共闘)がなり、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)以降は、共産主義国ソ連から、ツポレフ(Tupolev)SB-2のような全金属製・単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機を輸入して、空軍力を増強した。これは、国境を接する陸路あるいは空路によるものであり、アメリカから船積みした軍用機を日本の封鎖を突破しながら輸入するよりも迅速に行われた様だ。

写真(右):未舗装飛行場のソ連のツポレフSB-2M-100 爆撃機(右側面):胴体に赤い星のソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラ、後上方銃座は初期型で、回転銃塔ではない。前面に冷却ラジエーターを装備している。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45937744 - - Title: Tupolev SB 2M-100 - Filename: 16_007152.TIF- Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007152引用。

写真(右):低空飛行しているソ連空軍ツポレフSB-2M-100双発高速爆撃機(右側面):胴体に赤い星のソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラ、後上方銃座は銃手がガラス風防越しに写っているが、回転銃塔ではない旋回機関銃である。前面に冷却ラジエーターを装備している。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45937673 - Title: Tupolev SB (M-100) 1940 - Filename: 16_007147.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007147 -引用。

写真(右):未舗装飛行場のソ連のツポレフSB-2M-100 爆撃機(右側面):胴体に赤い星のソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラ、後上方に回転銃塔装備の後期型で、前面に冷却ラジエーターを装備している。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45937773 -Title: Tupolev SB-2 - Filename: 16_007154.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007154 - 引用。

写真(右):未舗装飛行場のソ連のツポレフSB-2M-100爆撃機(右側面後方):胴体に赤い星のソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラ、後上方に回転銃塔装備の中期型で、前面に冷却ラジエーターを装備している。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089074引用。

1937年にソ連空軍の制式になったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)は、最新鋭ポリカルポフ I-16戦闘機とともに主力機となった。そして、1939年11月、フィンランドとソ連が戦った1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でもソ連空軍の主力機として戦った。

写真(右):ソ連のツポレフSB-2爆撃機:2翅固定ピッチプロペラの初期試作機でエンジン前面に冷却ラジエーターを装備しているので空冷星形エンジンのように見える。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089077引用。

米国は、日本との戦争も辞さないかまえで、日本の在外資産の凍結、石油・鉄屑の禁輸など外交的圧力を高めたが、ソ連は、ドイツと日本による挟撃、両面作戦を回避するために、1939年8月にドイツと独ソ不可侵条約を、1941年4月に日本とも日ソ中立条約を結んだ。

写真(右):編隊を組んで飛行するソ連製ツポレフSB-2M-100双発高速爆撃機:手前には両機の右主翼前縁のエンジンナセル、排気管が写っている。後上方銃座はガラス風防開閉式のタイプで、回転銃塔ではない初期型である。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089079引用。

写真(右)1939年頃、ソ連、ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB 2M爆撃機:1934年10月7日に初飛行、1936年 - 1941年に6,945機製造。独ソ戦の初期の主力爆撃機だったが、1942年には退役。中国空軍が1937年の日中戦争勃発時にSB-2M爆撃機60機を貸与し、その後の中国空軍主力爆撃機となった。チェコスロバキア空軍は、ドイツとの戦争を意識し1938年にSB爆撃機60機を購入した。フィンランド空軍は、1939-1940年の対ソ連冬戦争でSB爆撃機8機を鹵獲し使用した。
Tupolev, SB Catalog #: 01_00089075 Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR
写真はSDASM Archives引用。


ツポレフ(Tupolev)SB 高速双発爆撃機の諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 500kg-1t

写真(右):1942年、雪原となった飛行場、プロペラを外しエンジン整備中のソ連空軍ツポレフSB-2M-100爆撃機(前左側面):機体は強風で飛ばされないようにするために、胴体と主翼の要所にロープが結ばれ、地面に固定されている。機首には、保護カバーが掛けられている。前面に環状型冷却ラジエーターを装備したクリーモフM-100液冷V型12気筒エンジンを搭載してる。機首には、保護カバーが掛けられている。胴体に「赤い星」ソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラの先端にプロペラスピナーを装着している。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45937701 - Title: Tupolev SB (M-100) - Filename:16_007149.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007149 -引用。

写真(右):1942年、雪原となった飛行場、ソ連のツポレフSB-2M-100爆撃機(左前方側面):背の低い運搬車で爆弾を運んで、機体に搭載する作業をしている様だ。前面に環状型冷却ラジエーターを装備したクリーモフM-100液冷V型12気筒液冷エンジンを搭載してる。機首とエンジンには、保護カバーが掛けられている。
Ray Wagner Collection Image PictionID: 45937701 - Title: Tupolev SB (M-100) - Filename:16_007149.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007149 -引用。

写真(右):1942年、雪原となった飛行場、白色の冬季迷彩塗装を施したソ連のツポレフSB-2M-100爆撃機(右前方側面):胴体に「赤い星」のソ連空軍国籍マークを描いている。3翅可変ピッチプロペラ、後上方に回転銃塔装備の中期型で、前面に冷却ラジエーターを装備している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45937688 - Catalog:16_007148 - Title:Tupolev SB (M-100) 1942 - Filename:16_007148.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007148 -引用。


写真(上):1942年,ソビエト連邦、ハンガリー軍が鹵獲し戦利品として記念撮影したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機の残骸
Magyar: A szovjet légierő SB típusú bombázógépének roncsa. Tags: airplane, wreck, Soviet brand, second World War, eastern front, Tupolev-brand Title: A szovjet légierő SB típusú bombázógépének roncsa. Date 1942 Source http://www.fortepan.hu/_photo/download/fortepan_38968.jpg Author FOTO:Fortepan — ID 25173.
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-40 File:A szovjet légierő SB típusú bombázógépének roncsa. Fortepan 25173.jpg引用。


wikipediaには、SBとは高速爆撃機、SB-2の数字2はエンジン2基の双発機を意味するのであって、決して形式名称ではない、との言説がある。しかし、W.R.Taylor(1969)Combat Aircraft of the World From 1909 To the Present Putnamでは、ライト・サイクロン/M-85空冷エンジン装備がSB-1、イスパノスイザ液令エンジン装備がSB-2としている。SBとは機体の固有名称とは違うが、高速爆撃機の代名詞として、この機体の形式名称のように通用していた。ツポレフ(Tupolev)SB-2は、1936年のスペイン内戦、1937年8月の中ソ不可侵条約後の日中戦争で実戦に投入され、敵味方ともSBと呼称した。


写真(上):1941年6月末ー1942年頃,ソビエト連邦、ドイツ軍鹵獲戦利品として記念撮影したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機の残骸:スペイン、中国の実戦経験で、1939年の第二次世界大戦勃発時には、操縦席の後方に防弾装甲板、胴体燃焼ダンクに防弾タンクを採用していた。
English: Shot down Tupolev SB Deutsch: Abgeschossene Tupolev SB-2M. Date Unknown date Source private photoarchiv Author Willi Ude, uploaded by Ude.
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-40 File:Tupolev SB shot down.jpg引用。


1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)が締結されたが、この背景は、第一に、中国国民党の蒋介石が国共合作、一致抗日を認めたことである。中国共産党軍(紅軍)を国民党の国民革命軍に編入し、抗日戦争を戦うことは、ソ連にも有利だった。第二の理由は、ソ連にとって、極東における日本の軍事的脅威を緩和し、ヨーロッパ方面に軍事力を集中するには、日中戦争を戦う中国の軍事力増強が有利だったことである。ソ連が、1937年の日中戦争勃発に際して、日本に対する軍事的圧力を高めなかったのは、アジア・極東方面よりも、ヨーロッパ方面を重視する地政学的配慮のためであろう。日本の国力では、中国一国を降伏させることはできないと、スターリンは日本の中国侵略が、ソ連の安全保障に有利に作用することを見抜いていた。そこで、1939年の第二次大戦勃発で、バルト三国、フィンランドに対する軍事的圧力をかけ、ソ連の西部国境をさらに西に進めるような侵略的防衛行為を推し進めた。

写真(右):ソ連空軍の迷彩塗装を施したツポレフSB-2爆撃機:ソ連は1930年代から引込み式降着装置の付いた戦闘機、爆撃機を使用していたが、当時は、固定脚の戦闘機、爆撃機も普通だった。ソ連が中国に有償譲渡した新鋭戦闘機と爆撃機は、日中戦争で日本陸海軍航空隊と戦って善戦している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:45937787 - Catalog:16_007155 - Title:Tupolev SB-2 - Filename:16_007155.TIF.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog:16_007155 引用。


2.中華民国のツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40高速双発爆撃機

写真(右):中国、未舗装飛行場のソ連供与の中国空軍向けツポレフSB-2爆撃機:周囲には軍人、民間人が集まっているので、試験飛行の時であろうか。3翅可変ピッチプロペラの後期型で、胴体後上方に回転銃座を設置している。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089073引用。

中国国民政府(南京政府)蒋介石は、西安事件後、中国共産党との連携して、抗日戦争を戦う国共合作を認め、ソ連との連携も強化しようと、 1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)を締結した。

写真(右):中国、未舗装飛行場のソ連供与の中国空軍向けツポレフSB-2爆撃機:周囲には多数の軍人、民間人が集まっているので、試験飛行の時であろうか。3翅可変ピッチプロペラの後期型で、胴体後上方に回転銃座を設置している。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089080引用。

1937年8月21日、中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)が締結されたが、この背景は、第一に、中国国民党の蒋介石が国共合作、一致抗日を認めたことである。中国共産党軍(紅軍)を国民党の国民革命軍に編入し、抗日戦争を戦うことは、ソ連にも有利だった。第二の理由は、ソ連にとって、極東における日本の軍事的脅威を緩和し、ヨーロッパ方面に軍事力を集中するには、日中戦争を戦う中国の軍事力増強が有利だったことである。

写真(右):中国、中国空軍のソ連製ツポレフSB(エス・ベー)-2爆撃機:ソ連は1930年代から多数の航空機を中国に有償譲渡している。ノモンハン事件での日本陸軍は、停戦までに投入兵力の四分の三を失う大損失を被ったが、小松原兵団が初期には、戦力の随時投入の戦術的過失を犯し、後期は大攻勢に出たものの、ソ連軍の火力、機動力の優位にたった2倍以上の兵力に敗北した。他方、航空戦では、日本陸軍航空隊は損失166機で、ソ連機1370機を撃破し、大戦果をあげたとされた。しかし、これは過大な戦果報告の誤りで、実際のソ連機の損害は207機だった。

1937年の遅くには、共産主義国ソ連から中国空軍に軍用機が供与された。中国軍は、ソ連空軍の制式だったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)など、当時の最新鋭機を手に入れることができた。

写真(右):方向舵に青白ストライプ国籍マークを描いた中華民国空軍ツポレフSB-2M-100爆撃機:2翅固定ピッチプロペラの初期試作機でエンジン前面に冷却ラジエーターを装備しているので空冷星形エンジンのように見える。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089078引用。

1937年11月6日 の日独伊防共協定,1940年9月27日の日独伊三国軍事同盟などドイツと日本の接近は、米国にもソ連にも対抗的な措置と映った。日本による中国侵略は、米国の権益を侵す、ソ連極東での圧力を高めるからである。1940年には、ドイツの対フランス戦勝に便乗して、日本はフランス領インドシナに進駐、支配下に置いたが、これはイギリスのシンガポール攻略の布石と思われた。「大東亜共栄圏」という日本の南方生存圏は、米国には、忍耐の度を越えた行動となったが、ソ連にとっては、日本とアメリカが対立することは望むところだった。

写真(右):不時着破損した中華民国ソ連製ツポレフSB-2M-100双発高速爆撃機と破損したコックピット内部を検分する飛行士と民間人:垂直尾翼にキリル文字Ж(ジー)が記入されているが、方向舵に青白ストライプの中国の国籍マークを描いている。後上方銃座は銃手がガラス風防を開放して射撃するタイプで、回転銃塔ではない。前面に冷却ラジエーターを装備している。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSRn.
写真は, San Diego Air and Space Museum Catalog #: 01_00089076引用。

◆ソ連は,日本とドイツという東西の仮想敵国や欧米列強に対抗するために、1935年の、モスクワにおける第7回コミンテルン世界大会で、ドイツ・日本の全体主義や侵略に対抗するために、共産党と社会民主主義者、自由主義者、知識人などが共闘する反ファシズム人民戦線の方針を打ち出した。そして、中国共産党と中国国民党政府が、1936年12月の西安事件を契機に国共合作を採用する方針を表明し、1937年7月の盧溝橋事件、8月の第二次上海事変が勃発し、日中全面戦争が始まった直後の1937年8月21日,中ソ不可侵条約(Sino-Soviet Non-Aggression Pact)を締結した。こうして、ソ連は、アメリカ・ドイツとならんで、中国を軍事援助し、日本との抗日戦争を続けさせた。ソ連は、東西の日本・ドイツによる挟撃を避けるために、新鋭ツポレフ(Tupolev)SB爆撃機も中国に提供した。それが、1939年9月の独ソ不可侵条約、1941年4月の日ソ中立条約(Soviet–Japanese Neutrality Pact)に繋がってくる。ソ連スターリンの陰謀で戦争が仕組まれたという国際謀略戦論は単純すぎる。


3.フィンランドのツポレフ(Tupolev)SB-2/ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、空襲に来て反撃され、フィンランドのイマトラに強制着陸したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機(尾翼番号9):胴体側面には、ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」が見える。フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Neuvostoliittolainen pommikone SB-2 (keltainen 9), joka teki pakkolaskun alasammuttuna Imatran Mansikkakoskelle 1.12.1939 Tuntematon, valokuvaaja .
写真は,Museot Finna sa-kuva-163540用。


フィンランドは、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連の侵略を受けて、冬戦争(talvisota)を闘い始めた。フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機を検分して記念撮影したフィンランド軍兵士:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」を墜として満喫している様だ。
Joulukuun alussa alasammuttu neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1939-12-01.
写真は,Museot Finna sa-kuva-111122用。


ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機のイスパノ・スイザY12液令12気筒エンジンは、エンジン冷却用ラジエーターをエンジン前面に設置しているが、これはドイツのユンカースJumo210液令12気筒エンジンの冷却方法と同じである。ツポレフ(Tupolev)SB-2も液令エンジンの先端の尖った形状の前面に浮き輪のような形状の冷却器を装着したために、液令エンジンではなく、空冷エンジンが搭載されているように見える。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機(尾翼番号9)(環状冷却器付きクリモフ M100 液冷V12気筒エンジン搭載型)を検分するフィンランド軍兵士:左端には、撮影機材を固定るす三脚がある。3翅プロペラは金属製なので、不時着時に曲がってしまった。この機体は、鹵獲され、修理された後、フィンランド空軍で再使用された。
Ryssäläinen lentokone. Kuva Imatran Mansikkakoskelta joulukuussa 1940. Radioselostaja Pekka Tiilikainen valmistautuu selostamaan juttua alasammutusta SB-2 pommikoneesta. Avustaja oikealla pitelee mikrofonia. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Tuntematon, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna sa-kuva-111053用。


ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB 双発爆撃機試作機は、高高度双発戦闘機の試験機から発展したが、発動機はアメリカのライト・サイクロン空冷9気筒エンジン装備型ANT-40.1 サイクロン搭載とフランスのイスパノ・スイザY12液令12気筒エンジン装備型ANT-40.2の2種類があった。ライト・サイクロン空冷星形9気筒エンジン搭載のANT-40試作機は1934年10月7日に初飛行し、イスパノ・スイザY12液令12気筒エンジン搭載のNNT-40試作機は1934年12月30日に初飛行した。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機(尾翼番号9)(環状冷却器付きクリモフ M100 液冷V12気筒エンジン搭載型):ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」を墜として満喫している様だ。この機体は、鹵獲され、修理された後、フィンランド空軍で再使用された。
Joulukuun alussa alasammuttu neuvo-stoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1939-12-01.
写真は,Museot Finna sa-kuva-163454用。


第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日に、ソ連はフィンランドに侵攻、いきなりヘルシンキなど都市爆撃を敢行し、レニングラード方面から、フィンランド湾とフィンランドとロシアを結ぶラドガ湖に挟まれたカレリア地峡Karelian Isthmus)に軍を進めた。これが、第二次世界大戦の勃発から3ヶ月目にあたる1939年11月30日にフィンランドが始めた冬戦争(talvisota)である。

フィンランド軍は、カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥の下、数的に遥かに勝るソ連赤軍相手に善戦したが、ドイツからも、スカンジナビア諸国からも、英仏からも軍事援助を受けることができず、孤軍奮闘だったために、1940年3月12日、フィンランド大統領リスト・ヘイッキ・リュティ(Risto Heikki Ryti)は、ソ連の領土要求を受け入れて、講和した。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速爆撃機(尾翼番号9)(環状冷却器付きクリモフ M100 液冷V12気筒エンジン搭載型)を検分するフィンランド軍兵士:左端には、撮影機材を固定用の三脚がある。3翅プロペラは金属製なので、不時着時に曲がってしまった。この機体は、鹵獲され、修理された後、フィンランド空軍で再使用された。
Ryssäläinen lentokone Tuntematon, valokuvaaja Ryssäläinen lentokone Imatran Mansikkakoskelle 1.12.1939 alasammuttuna pakkolaskun tehnyt SB-2 pommikone.
写真は,Museot Finna sa-kuva-111055用。


フィンランドは、1941年6月に継続戦争を始めた時、ソ連に奪われたカレリア地峡の奪回のために、ヴィープリに侵攻し、再占領することに成功することになる。そして、継続戦争の後半まで、ヴィープリ(ヴィボルグ:Viipuri)はフィンランドが治めていたが、1944年の継続戦争の戦局悪化、フィンランドは1944年9月に降伏した。降伏後、ヴィープリは再びソ連領になり、現在も、ロシア連邦カレリア共和国の南西部、フィンランド国境近くに位置している。

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機(尾翼番号9)(環状冷却器付きクリモフ M100 液冷V12気筒エンジン搭載型)を検分するフィンランド軍兵士:ソ連空軍の国籍マークは、赤い星である。フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。左端には、撮影機材を固定する三脚を操作するフィンランド軍兵士が写っている。
Ryssäläinen lentokone
Tuntematon, valokuvaaja Ryssäläinen lentokone Imatran Mansikkakoskelle 1.12.1939 alasammuttuna pakkolaskun tehnyt SB-2 pommikone. .
写真は,Museot Finna sa-kuva-111056用。


ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機は最初の量産型で、主翼面積を 56.7 m2 (610 ft2)に拡張し、発動機にはクリーモフ(Klimov)M-100 液令エンジンを搭載した。この発動機は、フランスのイスパノスイザ(Hispano-Suiza)12Y液令12気筒エンジンをライセンス生産したものである。固定ピッチ金属製2翅プロペラを装着している。

写真(右)1939-1940年、冬戦争の時期、フィンランド南東、雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機を検分するフィンランド軍兵士:左端には、撮影機材を固定るす三脚がある。3翅プロペラは金属製なので、不時着時に曲がってしまった。エンジン前面に冷却ラジエーターを装備したき出力向上型M-103エンジンを搭載、1938年から量産開始。
Ryssäläinen lentokone. Tuntematon, valokuvaaja. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Tuntematon, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna sa-kuva-105288用。


ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリモフ M103 液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、空襲に来て撃墜され、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラに不時着したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機(環状冷却器付きクリモフ M100 液冷V12気筒エンジン搭載型)の正面。胴体を分解して、修復あるいは再生利用しようとしている。:Alasammuttu Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone. Tuntematon, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo.
写真は,Museot Finna sa-kuva-163540用。


写真(右)1939年12月1日以降、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機(環状冷却器付きクリモフ M100 液冷V12気筒エンジン搭載型)を検分・回収しようとするフィンランド軍兵士:ソ連空軍の国籍マークは、赤い星である。フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Alasammuttu Tupolev SB-2M-100 pommikone (SB-2). Tuntematon, valokuvaaja
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
写真は,Museot Finna sa-kuva-163490用。


ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB 2M-100高速爆撃機が搭載した発動機は、フランスのイスパノスイザY12液冷12気筒エンジンをソ連でライセンス生産したクリーモフ(Klimov) M100液令V12気筒エンジンで、排気量36 L(2,197立方インチ)、重量470 kg(1,036ポンド)、850 hpである。クリモフ M100のエンジン冷却用ラジエーターは、空中の冷気を取り込んで不凍液を冷却しエンジンに循環させるが、エンジンカウリングの前面に環状冷却器ラジエーターを装着した。そのために、ツポレフ(Tupolev)SB 爆撃機の両翼のエンジンは、液冷エンジン先端のように尖っておらず、空冷エンジンのような外観を見せている。

写真(右)1939年12月1日、雪の降る夜、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-103爆撃機
Lentokone Koljolassa (Ryssän kone) joulukuussa 1939. Alasammuttu Tupolev SB-2M-103 (SB-2) pommittaja. Koneen vieressä (oik.) radioselostaja Pekka Tiilikainen. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot: 1939-12-01
写真は,Museot Finna sa-kuva-111137用。


写真(右)1939年12月1日、冬戦争の緒戦、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍のツポレフSB-2M-103高速双発爆撃機を検分・回収しようとするフィンランド軍兵士:ソ連空軍の国籍マークは、赤い星である。フィンランドはソ連に奪われた領土奪回のため、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Lentokone Koljolassa (Ryssän kone) joulukuussa 1939. Alasammuttu Tupolev SB-2M-103 (SB-2) pommittaja. Koneen vieressä (oik.) radioselostaja Pekka Tiilikainen.
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01
写真は,Museot Finna sa-kuva-111146用。


写真(右)1939-1941年頃、冬戦争、フィンランド、フィンランドが鹵獲したソ連空軍のツポレフ(Tupolev)SB-2M-103高速双発爆撃機(クリモフ M103液冷V12気筒エンジン搭載型)を検分・回収しようとするフィンランド軍兵士:ソ連空軍の国籍マークは、赤い星である。フィンランドは1940年3月に冬戦争でソ連に敗れ、カレリア地経など重要な領土を割譲させられた。しかし、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗してソ連に攻撃をかけレニングラード近郊まで領土を奪回した。
Venäläiset Hangonkylän satamassa. Kulkuvälineenä Tupolev SB-2 pommikone. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot O. Pietinen, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-108044用。


写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Reportteri Ensio Sevón tekemässä selostusta joulukuun alussa alasammutusta neuvostoliittolaisesta pommikoneesta Tupolev SB-2M-100 (SB-2). Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111121用。


ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機は、フランスのイスパノスイザY12を原型とするクリーモフ(Klimov) M100液令V12気筒エンジン液冷V12気筒エンジン(排気量36 L;2,197立方インチ)(重量470 kg ;1,036ポンド)850 hpをソ連でライセンス生産して装備している。このクリモフ M100は、冷却用ラジエーターが必要だが、これは空中の冷気を取り込んでエンジンと潤滑油を霊薬する装置である。一般的な冷却用ラジエーターは、機首下面や胴体下面に装着するが、ツポレフSB前期型では、エンジンカウリングの前面に環状冷却器を装着した。そのため、液令エンジンにも拘わらず、形状が空冷星形エンジンをようにみえる。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機と録音マイクをもつレポーター:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Joulukuun alussa alasammuttu kone oli neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone. Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111126用。


クリーモフ(Klimov) M100液令V12気筒エンジンへの環状冷却ラジエーターの装着は、ドイツ空軍ユンカースJu88爆撃機、Ju-188爆撃機、フォッケウルフFw-190D戦闘機、Ta154双発戦闘機などユンカースJumo211液令エンジン、ユンカースJumo213液令エンジンでも採用されているが、冷却ラジエーターをエンジン前面に装着する方式は、ソ連空軍ツポレフSB爆撃機のほうが早く採用している。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機ほ右後半:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Joulukuun alussa alasammuttu kone oli neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone. Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111124用。




第二次大戦は1939年9月に始まっていたが、ドイツがフランス・イギリスと対峙する西部戦線では、1940年5月までは都市爆撃Aerial bombing of cities)、民間人への空襲は行われていなかった。

1)民間人への無差爆撃indiscriminate bombing)はテロと見なされ、戦争の大義を失う、
2)戦略爆撃Strategic bombing)は報復を招聘し自国都市も空爆され大損害を被る、
3)都市への絨毯爆撃carpet bombing)に多数の爆撃機を投入するより、造船所・飛行機工場・飛行場・レーダー施設など重要な軍事目標を精密爆撃precision bombingするほうが敵の抗戦力を効果的に低下させる、

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の胴体中央部/主翼後端付根:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Joulukuun alussa alasammuttu kone oli neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone. Valokuva Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111125用。


しかし、1939年11月、ソ連軍は小国フィンランドに対して、即座にヘルシンキ、タンペレなどへの空襲Airstrikeを行った。ソ連は、ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機、ポリカルポフ(Polikarpov)I-153戦闘機の迎撃防空体制を過信していたので、フィンランド空軍によるレニングラード報復空爆を防ぐ自信があった。そして、第二次大戦当初のドイツ東部戦線におけるワルシャワ空襲で戦略爆撃の有効性を認識して、開戦劈頭にヘルシンキ空襲を実施し、即座にフンランドが降伏することを期待したようだ。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の尾翼:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Joulukuun alussa alasammuttu kone oli neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone. Valokuva
Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111126用。


赤旗は、1789年のフランス革命でも体制派に反対する革命旗として「使用された。そこで、革命思想、社会主義、共産主義を象徴する色としてアカが認識されるようになった。赤旗は、1917年のロシア革命後は、共産主義、ボリシェビキ、マルクス・レーニン主義、労働組合を表すようになり、労働者と農民からなる赤軍の軍旗ともなった。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の尾部を検分するフィンランドのレポーター:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Radioselostaja Pekka Tiilikainen tekemässä selostusta joulukuun alussa Viipurin lähellä alasammutusta neuvostoliittolaisesta pommikoneesta Tupolev SB-2M-100 (SB-2).
Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111127用。


1917年にドイツ経由での封印列車でウラジーミル・レーニンが帰国すると、ボリシェヴィキ指導者として、強行姿勢を堅持して、その指導力を獲得した。そして、ロシア帝国を継いだブルジョア革命派のケレンスキー政権、ロシア臨時政府を暴力で打倒した。これが、十月革命で、世界初の社会主義革命となり、ロシア・ソビエト政権が樹立された。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の尾部を検分するフィンランドのレポーター:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Joulukuun alussa alasammuttu neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone. Valokuva Organisaatio Sotamuseo
写真は,Museot Finna sa-kuva-111128用。


しかし、ボリシェヴィキ指導のロシアでは、帝政派、外国勢力の干渉と戦いが収まらず、ボリシェビキは労働者・農民からなる赤軍を組織して旧勢力と戦った。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の胴体を検分する3人のフィンランド軍人:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Joulukuun alussa alasammuttu neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone. Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111129用。


反ボリシェヴィキの白軍(白衛軍)は、外国勢力の支援も受け、ロシアの政権を奪取しようとしたが、土地と労働を権利を保障し、対外戦争を終戦に導いたボリシェビキの権威は高まり、その赤軍の勢力は増強された。赤軍は、赤い星を軍の識別マークとして採用した。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の胴体中央部を検分するフィンランド軍将兵:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
oulukuun alussa alasammuttu neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone.one. Valokuva Organisaatio Sotamuseo
写真は,Museot Finna sa-kuva-111130用。


1917年のロシア革命、その後の革命派内部の闘争、帝政派とのロシア内戦・シベリア出兵・干渉戦争と旧ロシアは混乱したが、1922年までにボリシェヴィキは内戦に勝利し、1922年12月30日にロシア、南コーカサス、ウクライナ、ベラルーシ(白ロシア)を統合て、新たにソビエト連邦(ソ連)を樹立した。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機を検分するフィンランド軍将兵:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Radioselostaja Pekka Tiilikainen tekemässä selostusta joulukuun alussa Viipurin lähellä alasammutusta neuvostoliittolaisesta pommikoneesta Tupolev SB-2M-100 (SB-2). Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111131用。


1917年、ロシア革命によって、帝政ロシア軍は、ドイツ帝国とオーストリア・ハンガリー帝国との戦争の戦意を失いつつあり、戦争終結、撤退・帰郷を望むようになった。そこで、ロシア帝国の軍隊というより、新しい革命派の軍隊ということで、赤い星のマークが普及した。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機を検分するフィンランド人:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Radioselostaja Pekka Tiilikainen tekemässä selostusta joulukuun alussa Viipurin lähellä alasammutusta neuvostoliittolaisesta pommikoneesta Tupolev SB-2M-100 (SB-2). Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111132用。


ソビエト共産党が「赤い星」のマークを使用したのは、第一次世界大戦の終盤のロシア革命の時期で、共産党支持の赤軍に対し、帝政派の白軍との戦いが始まった1918年から1922年のロシア内戦では、共産党の赤軍が、赤い星のマークを使用した。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速爆撃機の胴体国籍マークを出して記念撮影するフィンランド軍兵士:ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」。
Joulukuun alussa alasammuttu neuvostoliittolainen Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikone.. Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01
写真は,Museot Finna sa-kuva-111133用。


ソビエト連邦の赤軍の国籍記章は、共産党の「赤い星」である。1917年のロシア革命時のボリシェビキ、のちに共産党も赤旗を採用し、それが新しいソビエトの赤軍に引き継がれて、赤い星の国籍マークが戦車、飛行機に描かれるようになった。のちに中国共産党の紅軍も「赤い星」を国籍マークとして使用した。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100爆撃機の胴体の国籍マーク「赤い星」と爆撃回数マークを撮影するカメラを手にしたフィンランドのレポーター
Toimittaja valokuvaamassa alasammuttua neuvostoliittolaista Tupolev SB-2M-100 (SB-2) pommikonetta.. Valokuva Organisaatio Valokuva Organisaatio Sotamuseo
写真は,Museot Finna sa-kuva-111134用。


ユダヤ人の象徴ともなったダビデの星は六芒星であり、そのイメージを引き継いだユダヤ系革命家が、共産主義者として赤い星(五芒星)を好んだという可能性もある。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド南東、ヴィボルグ北20キロ、イマトラの雪原に撃墜されたソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速爆撃機の胴体を検分する収録マイクを手にしたフィンランドのレポーター:ドイツでもこれと同型のハンドマイク型の録音装置を使用してプロパガンダに活用していた。ソ連空軍の国籍マーク「赤い星」、その脇にある爆撃マーク(?)を指示して解説している。この機体は、鹵獲され、修理された後、フィンランド空軍で再使用された。
Radioselostaja Pekka Tiilikainen tekemässä selostusta joulukuun alussa Viipurin lähellä alasammutusta neuvostoliittolaisesta pommikoneesta Tupolev SB-2M-100 (SB-2). Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1939-12-01 Tuntematon, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-111122用。


写真(右)1940-1942年頃、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機コックピット操縦席の修復・整備作業をする女子労働者:ステアリング式の操縦桿が装着されている。双発爆撃機ではあるが、胴体コックピットの幅は狭く、並列の正副操縦席はない。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9953用。


世界初の女性参政権は、1893年のニュージーランドの女子投票権(被選挙権は1919年)、1902年のオーストラリアの女子投票権、1906年のフィンランドの女子投票権と初の女子被選挙権で、1913年のノルウェー、1915年のデンマーク、アイスランドと小国がジェンダー平等化が速い。第一次世界大戦で、女子労働者が活躍したことで、1918年にソビエト連邦、オーストリア、イギリス、1919年のドイツ、オランダ、ポーランド、スウェーデン、チェコスロバキア、1920年のアメリカ合衆国と続いている。

写真(右)1940-1942年頃、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機コックピット操縦席の修復・整備作業をする女子労働者:双発爆撃機ではあるが、イギリス空軍「ボーファイター」、日本海軍「銀河」のように胴体の幅は狭く、並列の正副操縦席はない。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9954用。


フィンランド南部、ヘルシンキ北30キロ、トゥースラには、ラッペーンランタ女子防衛学校がある。ここの女子予備兵部隊指揮官はファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen)女子である。1940年6月29日、冬戦争敗北後、トゥースラのラッペーンランタ女子防衛学校をフィンランド国防軍総司令官カール・グスタフ・エミル・マンネルヘイム(Mannerheim)将軍が視察し、女子予備兵部隊指揮官ファンニ・ルーッコネン(Fanni Luukkonen)が案内している。

写真(右)1940-1942年頃、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の修復・整備作業:右側のエンジン架とナセルの降着装置および主翼燃料タンクの取り付け作業。クレーンでエンジン架を支えている。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9956用。


ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100爆撃機は、1930年代半ば強力なフランス製イスパノ・スイザY12液令12気筒エンジンをライセンス生産したクリーモフ(Klimov) M-100液冷V型12気筒エンジン2基を搭載した高速双発爆撃機(SB-2)だった。1936年のスペイン内戦、1937年の日中戦争にツポレフ(Tupolev)SB-2M-100は実戦投入され、ソ連空軍は戦術を学ぶとともに、飛行機の攻撃と防御力の意義を理解した。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の修復・整備作業:機体右後方。フィンランド軍はソ連軍から鹵獲した兵器を自国正規軍の第一線兵器として多数使用した。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9958用。


ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-103高速双発爆撃機は、1938年に発動機の出力を向上したクリーモフ(Klimov) M-103液冷V型12気筒エンジン2基に換装した。その時、エンジンのシリンダーや潤滑油の冷却用ラジエータも変更し、従来ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100のようにエンジン前面の環状ラジエーターをやめて、エンジン下部に吊り下げるラジエーターに改良されている。

写真(右)1940-1942年頃、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の修復・整備作業:機体左側のエンジン架、エンジンナセルに引込まれる降着装置、主翼前縁付け根の燃料タンク、コックピットの構造が判読できる。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9959用。


フィンランド空軍は、ツポレフ(Tupolev)SB-2高速爆撃機を合計24機配備した。このフィンランド軍のSB-2高速双発爆撃機は、1939年から1940年の冬戦争時期に、前期型ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100型1機、後期型ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100型が7機でをソ連軍から鹵獲し、修理・整備の後に使用した再生機である。

また、1941年6月から1944年後半の継続戦争では、ドイツ軍が対ソ戦初戦で鹵獲したSB-2高速双発爆撃機16機を供与されている。これら16機は、全てソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-103型である。これらの機体の中には、対潜哨戒機、練習機として使用されたものもある。

写真(右)1939年12月1日、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の修復・整備作業:機首内部の作業をしているが、機首銃座の.30口径7.62 mm ShKAS(ШКАС)連装機関銃は装着さていない。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9962用。


ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速爆撃機の兵装は7.62 mm ShKAS(ШКАС)機関銃で、機首銃座に2挺首、後方上部銃座に1挺、後方下部に1挺の合計4挺が配備されている。

これは、第二次世界大戦勃発時期までは、ドイツ空軍ドルニエDo-17爆撃機、ハインケルHe-111爆撃機、ユンカースJu-88爆撃機と同等であり、強力な防御用火力だった。

写真(右)1941年12月9日、フィンランド、飛行機修理工場、鹵獲したソ連空軍フィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103/ANT-40 (СБ)高速爆撃機の機首ガラス風防の修復・整備作業:機首には.30口径7.62 mm ShKAS(ШКАС)連装機関銃の銃身を出すスリットが開いている。
Ohjaamon kupu työnalla. Kuvassa valmisteilla SB-2 pommikoneen etuampumon kupu. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1941-12-09 Sot.virk. L.Johnsson, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-102273用。


ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速爆撃機の兵装は、.30口径7.62 mm ShKAS(ШКАС)機関銃で、機首銃座に2挺首、後方上部銃座に1挺、後方下部に1挺の合計4挺を搭載している。1939-1940年「冬戦争」で、フィンランド軍は撃墜したツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速爆撃機から機首に搭載していた7.62 mm ShKAS(ШКАС)連装機関銃を改修し、修理、整備して再配備している。

写真(右)1940年2月4日、フィンランド、撃墜、墜落したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機から回収された.30口径7.62 mm ShKAS(ШКАС)連装機関銃を手にする冬季白色迷彩服のフィンランド軍兵士:フィンランド軍はソ連軍から鹵獲した兵器を修理、整備して、自国正規軍の第一線兵器として多数使用した。
Ryssien lentokoneesta otettu kk. Kyseessä SB-2-pommikoneen 7,62 mm:n ShKAS-tähystäjäkonekiväärit. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1940-02-04
写真は,Museot Finna sa-kuva-165434用。


ShKASШКАС)は、1934年から第二次世界大戦末期までソ連軍が量産し広く使用したガス圧茶道の.30口径7.62mm機関銃である。設計がボリス・シュピタリヌイとイリナルフ・コマリツキーになるために、頭文字をとってShKAS(ШКАС)と命名された。.30口径7.62 mm ShKAS(ШКАС)機関銃は、ベルト給弾式の円盤弾倉を持ち、1934年から航空機用の高発射速度の機関銃として大量生産された。ShKASは、ガス圧作動方式の機関銃である。

写真(右)1940年2月4日、フィンランド、撃墜、墜落したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機から回収された.30口径7.62 mm ShKAS(ШКАС)連装機関銃を手にする冬季白色迷彩服のフィンランド軍兵士:フィンランド軍はソ連軍から鹵獲した兵器を修理、整備して、自国正規軍の第一線兵器として多数使用した。
Ryssien lentokoneesta otettu kk. Kyseessä SB-2-pommikoneen 7,62 mm:n ShKAS-tähystäjäkonekiväärit. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1940-02-04
写真は,Museot Finna sa-kuva-165435用。


ShKASШКАС)機関銃は、翼内装備、銃塔装備から量産され、1936年にはプロペラ同調装置を通して射撃する固定機関銃も量産された。ソ連戦闘機のポリカルポフI-153複葉戦闘機、I-16単葉戦闘機は、.30口径7.62mmShKAS機関銃を4挺搭載したが、これは1930年代後半の戦闘機では重兵装の部類だった。

写真(右)1940年2月24日、フィンランド、撃墜、墜落したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機から回収.30口径7.62 mm ShKAS(ШКАС)連装機関銃を修理・整備するフィンランドの兵士と労働者:フィンランド軍はソ連軍から鹵獲した兵器を修理、整備して、自国正規軍の第一線兵器として多数使用した。
Rovaniemi. Asepaja. Ryssältä saatu lentok. KK Tarkastelussa ShKAS-lentokonekonekiväärit. Käytettiin mm. pommikone SB-2:n nokka-aseistuksena, kahta rinnakkain.
Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1940-02-24
写真は,Museot Finna sa-kuva-110229用。


ShKASШКАС)機関銃の弾薬は、7.62x54mmR弾、弾薬重量24g、弾丸(弾頭)重量9.6g、ベルト給弾装填、ガス圧作動で、空虚重量10kg、弾薬650発込みの総重量40kg、発射速度1,800発/分(ただしプロペラ同調装置付きは1,625発/分)、銃口初速 775-825m/sと高い発射速度と軽量が利点だった。

写真(右)1940-1942年頃、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の修復・整備作業:右側のエンジンの取り付け作業。クレーンでエンジンをエンジン架まで持ち上げているフィンランド軍はソ連軍から鹵獲した兵器を自国正規軍の第一線兵器として多数使用した。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9963用。


ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2高速爆撃機は、1936年の初期型ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100では、クリーモフ(Klimov) M-100液冷V型12気筒エンジン2基を装備、エンジン前面に環状冷却用ラジエーターを設置していた。

1938年の発展型ツポレフ(Tupolev)SB-2M-103爆撃機では出力を強化したクリーモフ(Klimov) M-103液冷V型12気筒エンジン2基に換装し、エンジンのシリンダーや潤滑油の冷却用ラジエータも変更し、従来のエンジン前面の環状ラジエーターを廃止して、エンジン下部に吊下げ式冷却用ラジエーターを設置しているので、エンジン先端が尖った形状に変更されている。

写真(右)1940-1942年頃、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の修復・整備作業:主翼両端、エンジン先端のプロペラは装備されていない。フィンランド軍はソ連軍から鹵獲した兵器を自国正規軍の第一線兵器として多数使用した。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9965用。


ソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速爆撃機の爆弾搭載量は、胴体中央下面の爆弾倉に100kg (220 lb)爆弾 あるいは50kg (110 lb)爆弾6発、主翼左右下面の爆弾懸架に250kg (550 lb)爆弾 2発で、短距離であれば合計1トンの爆弾を搭載することができた。

小型爆弾の搭載が標準的な理由は、対地支援、地上襲撃が主だった使用方法だったためで、都市への戦略爆撃は重視されていなかった。

写真(右)1940-1942年頃、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機の修復・整備作業:フィンランド軍はソ連軍から鹵獲した兵器を自国正規軍の第一線兵器として多数使用した。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9966用。


ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機は、1934年10月7日に初飛行して以来、ソ連空軍だけではなく、援助機、輸出機、鹵獲機も含めて、スペイン空軍、チェコスロバキア空軍、中華民国空軍、フィンランド空軍でも使用されている。スペイン空軍では、1950年に至るまで使用されていた。

写真(右)1940-1942年頃、飛行機格納庫の内部、フィンランド、鹵獲したソ連空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速爆撃機の修復・整備作業:フィンランド軍はソ連軍から鹵獲した兵器を自国正規軍の第一線兵器として多数使用した。
Lentokonetehdas. Kartto - Peronkoski, valokuvaaja Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseoa
写真は,Museot Finna sa-kuva-9968用。


ツポレフ(Tupolev)SB-2高速双発爆撃機は、1936年から量産が開始され、1941年いっぱいまで生産が続けられたソ連空軍の第二次大戦初期の主力爆撃機である。

ツポレフ(Tupolev)SB-2高速双発爆撃機の工場別生産機数は、モスクワ、後にカザンに疎開した第22工場5,695機、奥地イルクーツクの第125工場 1,136機で、チェコスロバキアの薬100機を合わせると、合計7000機近くが量産されたことになる。

写真(右)1940-1942年頃、フィンランド、飛行機格納庫の内部、鹵獲したソ連空軍ぺトリヤコフ(Petljakov)Pe-2高速双発爆撃機の修復・整備作業:主翼左右のエンジンナセル下面の降着装置引込み部分とその扉、胴体下面爆弾倉の開閉扉の構造が判読できる。
Lentokonetehdas. Lentokone on Petljakov Pe-2, johon ollaan asentamassa muun muassa pommiripustimia. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Kartto - Peronkoski, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-9802用。


1939年9月の第二次世界大戦勃発時点で、ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速爆撃機は多数が配備されていた上に、量産体制が確立し、対地攻撃には小型で使いやすかったために、1941年6月ドイツのソ連侵攻による「大祖国戦争」緒戦でも、ソ連空軍の主力戦闘機としてとどまっていた。ドイツ軍の電撃戦で、ウクライナ、黒海沿岸など工場地帯、資源地帯、農業地帯など経済的要衝を占領されたため、ソ連の敗北は時間の問題と思われたが、ソ連は奥地にも工業地帯、資源地帯を有しており、そこで大量生産した新兵器と、極東方面に配備していた対日戦用のソ連軍を欧州方面に移送して、モスクワ前面でっドイツ軍を撃破したのである。

ツポレフSB(Tupolev SB) 第二次世界大戦後期、独ソ戦開始2年以上も経過した時期に、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフ(Tupolev)SB-2M103爆撃機の中古機を実戦投入し、長期間使用した。

天候が急変しやすい極北の戦線では、精密なレーダー航法が困難だった時代、目標を見失い、不時着を余儀なくされることも珍しくなかった。その天候の不安定な中を毎日のように出撃し活躍した旧式の中古機ソビエト製ツポレフSB(Tupolev SB)爆撃機、ポリカルポフ(Polikarpov)I-153複葉戦闘機、UTI-4複座練習戦闘機がフィンランドにあって、使用され続けたことに驚かされる。

写真(右):1943年10月12日、出撃数1000回を終えて無事に生還したフィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103/ANT-40 (СБ)高速爆撃機(クリモフ M103 液冷V12気筒エンジン搭載型)の3名の搭乗員たち:右手にパラシュートを持っているが、本来は機内でクッション代わりにしようするので、お尻の部分にバンドで固定されている。1941年夏頃に鹵獲したと思われるソ連機を2年以上も使い続け、その結果、1000回出撃となった。この後で、生還記念のリースを地上勤務整備員から贈られた。出撃回数を使用期間で割れば、1日1回から2回は出撃したことが分かる。
Luutnantti Halla, kapteeni Ek ja vääpeli Peltonen lähdössä SE-koneella 1000:lle sotalennolle. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1943-10-21 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:154899引用。

フィンランド空軍は、継続戦争の緒戦、1941年夏頃に鹵獲したと思われるソ連製ツポレフ(Tupolev)SB-2M-103爆撃機を2年以上も使い続けた。その結果、1943年10月12日には、1000回出撃となったツポレフSBが褒賞された。出撃回数を使用期間で割れば、1日1回から2回は出撃したことになる。このツポレフ(Tupolev)SB-2爆撃機による1000回出撃を記念した一連の写真が残っているが、帰還した搭乗員は、無事任務を終えて、すぐに降機してしまった。それでは、プロパガンダとしても危険な任務をこなして無事帰還のインパクトがないので、再度機体に乗り込んで、基地に無事到着という演出をし、プロパガンダ写真を撮影したようだ。再度、搭乗機内部での搭乗員の写真撮影も行っている。

写真(右):1943年10月12日、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフ(Tupolev)SB-2M103/ANT-40 (СБ)高速爆撃機(クリモフ M103 液冷V12気筒エンジン搭載型)を実戦投入した。:機首に7.62ミリShKAS連装機関銃を装備。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、第二次世界大戦の独ソ戦開始2年以上が経過した1943年には旧式化していた。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-154902引用。

ツポレフ(Tupolev SB-2M-103)高速双発爆撃機の諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリーモフ(Klimov) M103液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾槽・翼下爆弾架 1トン

写真(右):1943年10月12日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフ(Tupolev)SB-2M103爆撃機を実戦投入した。出撃数1000回の生還記念の花輪を地上勤務整備員からもらったクルー。1941年夏頃に鹵獲したと思われるソ連機を2年以上も使い続け、その結果、1000回出撃となった。出撃回数を使用期間で割れば、1日1回から2回は出撃したことが分かる。天候が急変しやすい極北の地での戦いは、精密なレーダー航法が困難だった時代、目標を見失い、不時着を余儀なくされることも珍しくなかった。
Luutnantti Halla SB:n tähystämössä. Kapteeni Ek ohjaamossa. Malmin lentokenttä, Hki 1943.10.21
Tupolev SB.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph ArchiveKuvan numero:154909引用。

1937年の遅くには、共産主義国ソ連から本来、反共産主義の中国蒋介石政権に軍用機が供与された。中国軍は、ソ連空軍の制式だったポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)など、当時の最新鋭機を手に入れることができた。

写真(右):1943年10月12日、1000回出撃を祝ってもらうフィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103爆撃機の搭乗員たち:出撃1000回で無事生還できた記念にリースを機体もクルーも地上勤務整備員から掛けてもらった。1941年夏頃に鹵獲したような2年以上も使った中古機で、出撃回数を使用期間で割れば、1日当たり1回から2回の出撃だったことになる。
Kapteeni Ek (oikealla) ja luutnantti Halla (vasemmalla) seppelöityinä 100:n sotalennon jälkeen.
Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info 1943-10-21
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-154910引用。

フィンランド、バルト海のように極致に近く、天候が急変しやすく、視界飛行の困難な場合が戦場では、単座の戦闘機でも、複座の長距離爆撃機でも、1回ごとの出撃には、航法の上で多大なリスクがあった。

写真(右):1943年10月12日、1000回出撃を祝ってもらうフィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103爆撃機の3名の搭乗員:出撃1000回で無事生還できた記念にリースを機体もクルーも地上勤務整備員から掛けてもらっている。コックピット操縦席前面ガラス風防の上にアンテナ支柱があり、無線アンテナ線が碍子を介して張られている。
Luutnantti Halla (vasemmalla) kapteeni Ek (keskellä) ja vääpeli Peltonen (oikealla) suoritettuaan SB-lentueen 1000:n sotalennon. Tämä lento oli luutnantti Hallan 201:n ja vääpeli Peltosen 223:s.
Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info 1943-10-21 Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-154913引用。

フィンランド空軍飛行機搭乗員は、革製の分厚い飛行ジャケットを着ている。風よけにするために、襟を立てることができた。飛行ジャケットの下に着用しているのは、飛行スーツで、羊毛・綿のギャバジン混紡で、つなぎ(カバーオール)で、飛行作業や落下傘降下にも便利なように配慮されている。

写真(右):1943年10月12日、フィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103爆撃機の胴体後上方の回転銃座の下で無電を打つ通信士:出撃数1000回の生還記念のリースを地上勤務整備員からもらう演出のほかに、出撃の様子も演出している。天候が急変しやすい極北の地での戦いは、精密なレーダー航法が困難だった時代、目標を見失い、不時着を余儀なくされることも珍しくなかった。
Vääpeli Peltonen SB:n kk-ampuja yhteydessä maahan.
Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info 1943-10-21.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-154914引用。

ジョン・フレミング (John Ambrose Fleming) が、1904年に二極真空管を発明し,無線通信の検波・整流を可能にし,1906年にリー・ド・フォレスト (Lee De Forest) が三極真空管 を発明し,増幅・発振が可能になり、1912 年にアームストロング (Edwin Armstrong) が再生・発振回路を発明し,音声信号を無線伝送することができるようになった。こうして、第一次世界大戦では、無産通信技術が発展し、戦場で使用され、大戦後にはラジオ放送が始まった。

写真(右):1943年10月12日、フィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103爆撃機の胴体後上方の回転銃座の下で無線通話する信士:出撃数1000回の生還記念の写真の一環で。出撃の様子も演出した。左に無電キーがあり、手にはチャートを持っているようだ。
Vääpeli Peltonen SB:n kk-ampuja yhteydessä maahan.
Sot.virk. Eino Nurmi, valokuvaaja Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info 1943-10-21.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-154915引用。

こうして、無線機がラジオとして民間利用され、日本でも1923年にラジオ放送が開始され、この時期、日本海軍はマルコーニ社の無線電信機を輸入するとともに、独自に航空機用無線機の開発に取り組みはじめた。そして、満州事変後の1934 年、日本海軍は、航空無線の研究開発を,実戦実験部隊の横須賀航空隊と連携しつつ、海軍技術研究所電気研究部から海軍航空廠へ移管し、本格的に開始した。

カラー写真(右)1944年1月7日、フィンランド、ソ連空軍から鹵獲してフィンランド空軍第6飛行戦隊(PleLv 6)第2飛行中隊が使用したツポレフ(Tupolev)SB-2 /ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機の機首と前半分
DOWNLOAD IMAGE (4961 x 3447 px) Material provided by Military Museum SB-konetta lämmitetään.
Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Content Type Photo Organisation Military Museum
Photo info 1944-01-07 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・.sa-kuva-137032引用。


ツポレフSB(Tupolev SB) スウェーデンもノルウェーも、冬戦争で苦しんでいるフィンランドに対して、中立を口実にして軍事援助しなかった。これは、大国ソ連との戦いを回避して国内を戦争に巻き込まないための平和政策だったが、民主主義国フィンランドを助けるために、スウェーデンから義勇兵が戦いに参加した。冬戦争で、孤立無援となり敗北したフィンランドは、第二次世界大戦のとき、1941年6月22日のドイツによるソ連侵攻に便乗して、ドイツの同盟国としてソ連に侵攻した。そして、フィンランドはソ連に奪われたカレリア地峡を奪回した。

中国空軍は、1937年8月21日に締結した中ソ不可侵条約Sino-Soviet Non-Aggression PactAlliance)に基づいて、ソ連空軍の金属製単葉・引込み脚の新鋭高速軍用機として、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)やツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)の供与も受けている。

写真(右):1944年1月7日、第二次世界大戦、独ソ戦開始2年以上が経過した時期でも、フィンランド軍は、ソ連軍から鹵獲したツポレフ(Tupolev)SB-2M103高速双発爆撃機を実戦投入した。雪の積もった飛行場でエンジンを駆動している。機首には7.62ミリ機関銃2挺を装備している。コックピット(操縦席)の横幅は狭く、パイロットが搭乗しているのが見える。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。
SB-kone palaa sukellusvene-etsintälennolta Suomenlahdelta.
Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1944-01-07 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-137035引用。

ツポレフSB(Tupolev SB) ツポレフSBTupolev AHT-40)爆撃機諸元
乗員: 3名
全長: 12.57 m、全高: 3.60 m
翼幅: 66 ft 8 in(20.33 m) 翼面積:56.7平方メートル
自重量:4,768 kg、全備重量: 6,308 kg
発動機: クリーモフ(Klimov) M103液冷V12型エンジン960 hp 2基
最大速力:450 km/h 高度4,100m
航続距離: 2,300 km
実用上昇限度: 9,300 m
兵装:7.62ミリShKAS機関銃4丁
搭載爆弾量: 爆弾倉・翼下爆弾架 1トン

ソ連空軍ツポレフSBTupolev SB)爆撃機は、1936年勃発のスペイン内戦にポリカルポフ (Polikarpov)I-15、I-153複葉戦闘機、I-16低翼単葉戦闘機とともに投入され、ファシスト軍のドイツのハインケルHe-51複葉戦闘機、ユンカースJu-52/3m爆撃機などと戦った。当初、ソ連機は飛行性能上で上回っており、善戦したようだ。


写真(上):1944年1月7日、フィンランドに配属されたソ連製ツポレフ(Tupolev)SB-2M103高速双発爆撃機
:雪の積もった飛行場でエンジンを駆動している。機首には7.62ミリ連装機関銃を装備している。偵察員が機首上面のハッチを開けて乗り出している。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
Military Museum
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1944-01-07 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-137035引用。

1941年6月25日から1944年9月19日にかけて3年2カ月の間、フィンランドは、「継続戦争」を闘った。結果を知っているものの視点で見れば、無謀な対ソビエト連邦戦争を開始した。しかし、当時は、民主主義国イギリス・アメリカの軍事力を過小評価しており、第二次世界大戦に参戦したのではなく、冬戦争で失った国土を奪還するという目的で、イギリス(当時は中立国のアメリカ)と戦うのではないという言い訳が国際的に通用すると錯覚していた。結果から見れば、これはフィンランド外交の大失敗だった。

1943年10月20日、ロンドンで17カ国が集まる国際会議において、連合国戦争犯罪委員会(UNWCC)の設置が決まり、ドイツ指導者の裁判は、国際戦争犯罪裁判で裁くことを申し合わせた。1945年8月8日、米英仏ソの四大国はロンドンで国際軍事裁判所憲章に署名、国際軍事裁判所の構成や役割について合意し、戦争犯罪を「平和に対する罪」「通例の戦争犯罪」「人道に対する罪」「共同謀議」の4点とし、ニュルンベルグ国際軍事裁判で裁くことが決まった。

写真(右):1944年1月8日、フィンランド、フィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103高速双発爆撃機:クリーモフ(Klimov) M103液冷V12型エンジン960 hp 2基は、冷却用ラジエーターをエンジン下面に設置し、冷却液を冷却する冷気を空気取り入れ口インテークから取り込む仕組みになっている。機首には7.62ミリShKAS機関銃2丁が装備されている。
Kone ennen lähtöä. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1944-01-08 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-137053引用。

前期型ツポレフ(Tupolev)SB-2M-100高速双発爆撃機のクリーモフ(Klimov) M100液冷V12型エンジン前面には、冷却液を冷却する環状冷却用ラジエーターが設置されていて、そこに冷気を直接取り込んでいるために、エンジン先端が平面で、液令ではなく、空冷星形エンジンのようなエンジンナセルで覆われている。

他方、後期型ツポレフ(Tupolev)SB-2M-103高速双発爆撃機のクリーモフ(Klimov) M103液冷V12型エンジン960 hp 下面には、冷却液を冷却する冷気を空気取り入れ口インテークが開いているが、これは冷却用ラジエーターをエンジン下面に設置したためである。


カラー写真(上)1944年3月28-31日、フィンランド、飛行機格納庫、ソ連空軍から鹵獲してフィンランド空軍第17予備飛行隊が使用したツポレフ(Tupolev)SB-3練習爆撃機(SB-6)の胴体左側面
:ツポレフ(Tupolev)SB /ANT-40 (СБ)高速爆撃機を複式操縦装置を備えた練習機に改造したのが、SB-3である。機体には機首にも胴体後上方にも銃座はなく、訓練生用のスペースが設けられている。格納庫の開放部なので、地面には雪が積もっている。
SB-pommikone (SB-6), joka muutettu kaksoisohjatuksi koulukoneeksi (entinen venäläinen SB-3 pommikone). Kk-ampujan paikka on avonainen. Täydennyslentolaivue 17. Kuvattu ajalla 28.-31.3.1944. Tiedot värikuvien selosteesta. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・JSdia057引用。



カラー写真(上)1944年3月28-31日、フィンランド、雪原の飛行場で離陸準備をするフィンランド空軍第17予備飛行隊ツポレフ(Tupolev)SB-3練習爆撃機(SB-6)の胴体左側面
:ソ連軍から鹵獲したツポレフ(Tupolev)SB /ANT-40 (СБ)高速爆撃機を複式操縦装置付き練習機に改造したのが、SB-3である。機体には機首にも胴体後上方にも銃座はなく、訓練生用のスペースが設けられている。格納庫の開放部なので、地面には雪が積もっている。
SB-pommikone, joka on muutettu kaksoisohjatuksi koulukoneeksi (entinen venäläinen SB-3 pommikone). Täydennyslentolaivue 17. Kuvattu ajalla 28.-31.3.1944. Tiedot värikuvien selosteesta.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Niilo Helander, valokuvaa
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-166138引用。


1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継続戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。

wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争、ナチ党の残虐性を忌避するために唱えられた方便か、カギ十字を好む人物の誤解に基づく思い込みである。


カラー写真(上)1944年3月28-31日、フィンランド、雪原の飛行場でエンジンを稼働しているフィンランド空軍第17予備飛行隊ツポレフ(Tupolev)SB-3練習爆撃機(SB-3)の左前方
:ソ連空軍から鹵獲したツポレフ(Tupolev)SB-2高速爆撃機の操縦席を複座式に改造して、練習爆撃機と使用された。後上方には回転銃座はなく練習生が乗り込む空間となっているようだ。機首のガラス風防もソリッド化されており、7.62ミリShKAS機関銃座は撤去されている。
SB-pommikone, joka muutettu kaksoisohjatuksi koulukoneeksi (entinen venäläinen SB-3 pommikone). Täydennyslentolaivue 17. Kuvattu ajalla 28.-31.3.1944. Tiedot värikuvien selosteesta. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-166361引用。



カラー写真(上)1944年3月28-31日、フィンランド、雪原の飛行場でエンジンを稼働しているフィンランド空軍第17予備飛行隊ツポレフ(Tupolev)SB-3練習爆撃機(SB-3)の正面
:ソ連空軍から鹵獲したツポレフ(Tupolev)SB-2高速爆撃機の操縦席を複座式に改造して、練習爆撃機となった。後上方には回転銃座はなく練習生用のスペースが設けられた。主翼両端下面を黄色に塗装しているのは、ドイツ空軍機と同じであり、同盟国としてのマーキングである。
SB-pommikone, joka muutettu kaksoisohjatuksi koulukoneeksi (entinen venäläinen SB-3 pommikone). Täydennyslentolaivue 17. Kuvattu ajalla 28.-31.3.1944. Tiedot värikuvien selosteesta. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-166206引用。



写真(上)1944年夏、フィンランド、非舗装滑走路、フィンランド空軍のソ連製ツポレフSB-2M-103高速双発爆撃機(右正面)と搭乗を準備する3名の飛行服の乗員たち
:主翼左右のクリーモフ(Klimov) M103液冷V12型エンジン960 hpと回転する3翅金属製プロペラ。機首下面の搭乗員昇降扉には、移動式階段が設置されている。
SB-pommikone kentällä. Pommituslentolaivue 6:n 2. lentueen SB-23 Nummelassa kesällä 1944. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Niilo Helander, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-9802用。



写真(上)1944年夏、フィンランド、非舗装滑走路、フィンランド空軍の使用した鹵獲したソ連製ツポレフSB-2M-103高速双発爆撃機(正面)と機首下面の搭乗員昇降扉下の移動式階段
:主翼左右のクリーモフ(Klimov) M103液冷V12型エンジン960 hpが稼働し3翅金属製プロペラが回転している。プロペラスピナー先端には、プロパラを動力車で回転させ駆動するカギが付いているが、普段は、内蔵している始動用モーターでエンジンを駆動する。エンジンナセルに引込まれる降着装置の構造が判読できる。
SB-2 -pommikone kentällä, moottorit käynnissä. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Niilo Helander, valokuvaaja
写真は,Museot Finna sa-kuva-165875用。


写真(右):1944年夏、対ソビエト連邦「継続戦争」末期、フィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103爆撃機:1941年夏頃に鹵獲したと思われるソ連機を2年以上も使い続け、その結果、1000回出撃となった。出撃回数を使用期間で割れば、1日1回から2回は出撃したことが分かる。
Meritoimintalaivueen lentävää henkilöstöä. Kesäkuu 1944. Kuvan lentokone on Tupolev SB-2.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-121129引用。

1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の公式国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任がソ連と講和し、それまで同盟国だった対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は、反共産主義、親ナチを意味するということで廃止された。

wikipedia「ハカリスティは本来ナチスのハーケンクロイツとは無関係であった」というのは、後世、フィンランドにおける白軍と赤軍の内戦、ドイツと組んで対ソ戦を戦った継承戦争などナチ党と同盟した過去を葬るためために唱えられた方便である。カギ十字が近代ヨーロッパにおける幸運のマークというのは完全な誤解・錯覚で、ナチ・ドイツとフィンランドの連携を忘却させようとする言説である。

写真(右):1944年夏、継続戦争の末期、フィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M103爆撃機:天候が急変しやすい極北の地での戦いは、精密なレーダー航法が困難だった時代、目標を見失い、不時着を余儀なくされることも珍しくなかった。
Meritoimintalaivueen lentävää henkilöstöä. Kesäkuu 1944. Kuvan lentokone on Tupolev SB-2.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-121132引用。

フィンランド軍の国籍識別マークは、カギ卍「ハカリスティ」(Hakaristi)で、色彩は白丸に青のカギ十字を描いたものある。1917年、フィンランドでは、ロシア革命に追随する赤軍に対抗して、白軍が組織され、その時に反共産主義の自由のシンボルとして、鈎十字採用された。当初、スウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が、白軍を支持して、この鍵卍「ハカリスティ」(Hakaristi)には、フィンランドにおける共産主義者との内戦で、反共産主義とソ連・ロシアからの独立の意味で、フィンランド軍が1918年に「ハカリスティ」(Hakaristi)として、軍の国籍マークとして採用し、フィンランドの軍用機や戦車に標識として描いている。


写真(上):1944年夏、飛行するフィンランド空軍のソ連製ツポレフ(Tupolev)SB-2M103爆撃機

Meritoimintalaivueen lentävää henkilöstöä. Kesäkuu 1944. Kuvan lentokone on Tupolev SB-2.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-121128引用。


1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でも、青のカギ十字は、フィンランド軍の国籍マークとして使われたが、継承戦争末期の1944年、リスト・ヘイッキ・リュティRisto Heikki Ryti)は、フィンランド大統領を辞職し、新大統領にカール・グスタフ・マンネルヘイム元帥が就任して、ソ連と講和し、対ドイツ戦争を開始しした。この時に、フィンランド軍のカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)は廃止された。


カラー写真(右)1944年6月2日、フィンランド、ソ連空軍から鹵獲してフィンランド空軍が使用したツポレフ(Tupolev)SB /ANT-40 (СБ)高速爆撃機の胴体後上方回転銃座
:回転銃座には7.62ミリShKAS旋回機関銃1丁を装備し、銃には薬莢(撃ち殻)排出パイプが接続されている。;SB-2は高速双発爆撃機の意味で、1939年の日ソのノモンハン事件にも参戦しているほか、スペイン共和国政府軍、中華民国軍にも供与されている。
Teoksessa Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 161: SB-2 pommikoneen taka-ampumo 2.6.1944.
写真はThe Finnish Defence Forces・JSdia057引用。


このようなポリカルポフ I-16戦闘機、ツポレフ(Tupolev)SB-2高速爆撃機は、フィンランドとソ連が戦った1939年の冬戦争、1941年の継続戦争でもソ連空軍の主力機となっていた。したがって、フィンランド空軍がイギリス、フランス、アメリカ、イタリア、ドイツから輸入した戦闘機、爆撃機、水上機などは、敵対するソ連空軍の軍用機と、当初は同等以上の性能を誇っていたのであって、飛行性能の良さと搭乗員の熟練度、天候・敵の動向に対する偵察能力の高さが、フィンランド空軍の数的不利を補って余りあった。

カラー写真(右)1944年6月2日、フィンランド、ソ連空軍から鹵獲してフィンランド空軍第6飛行戦隊(PleLv 6)第2飛行中隊が使用したツポレフ(Tupolev)SB /ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機のコックピット操縦席;手前はU字型のSB-2双発爆撃機の操縦桿。
Neuvo-stoliittolaisvalmisteisen Tupolev SB-2 pommikoneen tähystäjä, 2/PleLv 6:n päällikkö, kapteeni Veikko Härmälä sukellusveneiden etsintälennolla Suomenlahdella ennen suurhyökkäystä kesällä 1944. Kuvateksti teoksesta Sodan värit. Valokuvia Suomesta vuosilta 1941-1944 (WSOY 2000), s. 5. VÄHEMMÄN Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165740引用。


1941年6月26日にソ連侵攻「継続戦争」を指揮したフィンランド国防軍総司令官マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥だったが、戦局悪化の中、1944年8月4日、第6代フィンランド大統領に就任した。そして、1944年9月19日、ソ連と講和し、ドイツ軍を裏切った。フィンランドでは、第二次世界大戦時の戦死者や犠牲者を追悼するために、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥の誕生日(1867年)6月4日を「フラッグ・デー」と定めている。6月4日は、カール・グスタフ・マンネルヘイム元帥を記念して、軍事パレードが行われる。

カラー写真(右)1944年6月2日、フィンランド、ソ連空軍から鹵獲してフィンランド空軍第6飛行戦隊(PleLv 6)第2飛行中隊が使用したツポレフ(Tupolev)SB-2 /ANT-40 (СБ)高速双発爆撃機のコックピット操縦席;手前はU字型のSB-2双発高速爆撃機の操縦桿。
Neuvo-stoliittolaisvalmisteisen Tupolev SB-2 pommikoneen tähystäjä, 2/PleLv 6:n päällikkö, kapteeni Veikko Härmälä sukellusveneiden etsintälennolla Suomenlahdella ennen suurhyökkäystä kesällä 1944 (vrt. JSdia 211). 1944.00.00
写真はThe Finnish Defence Forces・.sa-kuva-165664引用。


写真(右):1944年6月2日、第二次世界大戦末期、ソ連軍から鹵獲したフィンランド空軍ツポレフ(Tupolev)SB-2M-103 高速双発爆撃機の機首右側:独ソ戦開始時期にドイツが鹵獲した機体をフィンランド軍は部隊配備して、第一線でも使用した。出現当初の1930年代後半は、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れていたが、1943年には旧式化していた。
Luutnantti Grönroos (tähystäjä) lähdössä lennolle SB-koneella. Lentolaivue 6. SB-2 pommikone. Kuvassa Luutnantti Bertel Grönroos (tähystäjä). Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo Kuvaustiedot 1944-06-02 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive sa-kuva-118316引用。

カラー写真(右)1944年6月2日、フィンランド、継続戦争末期のフィンランド空軍が使用したソ連製ツポレフ(Tupolev)ANT-40/SB-2M103高速双発爆撃機の機首コックピット操縦席前の爆撃手席にも開放式天蓋窓が付いている。操縦席前方ガラス風防上にはアンテナ支柱があり、碍子を通して無線アンテナ線が張られている。機首銃座に7.62ミリShKAS連装機関銃を装備しているが、上下には射界は広いが、左右の射界は狭い。
SB-pommikoneen tähystäjä ja lentäjä omilla paikoillaan. Niilo Helander, valokuvaaja Content Type Photo Organisation Military Museum
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165724引用。


カラー写真(右)1944年6月2日頃、フィンランド、バルト海上空を低空飛行するフィンランド空軍のソ連製ツポレフ(Tupolev)ANT-40/SB-2M103高速双発爆撃機の機首ガラス風防と7.62ミリShKAS連装機関銃:機首銃座の7.62ミリShKAS連装機関銃は、海上の艦船や地上襲撃時の機銃掃射に使用するためのもので、上下角度のは射界は広いが、左右角度の射界は狭い。
Kuvattu SB-koneen tähystämöstä. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 144991. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165842引用。


カラー写真(右)1944年6月2日頃、フィンランド、農地上空を低空飛行するフィンランド空軍のソ連製ツポレフ(Tupolev)ANT-40/SB-2M103高速双発爆撃機の機首ガラス風防と7.62ミリShKAS連装機関銃:機首銃座の7.62ミリShKAS連装機関銃は、海上の艦船や地上襲撃時に機銃掃射するためのもので、上下角度のは射界は広いが、左右角度の射界は狭い。
Näkymä SB-pommikoneen tähystämöstä. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 144991. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-166120引用。


第二次大戦勃発時のソ連空軍主力ツポレフ(Tupolev)SB-2高速爆撃機は、「高速」ではなく、飛行性能の上で、ドイツ空軍戦闘機に容易に撃墜されてしまった。そのうえ、攻撃力も防御力も弱かったため、1941年中に生産は全面的に中止され、後継機で高い飛行性能を誇ったペトリャコフ Pe-2双発爆撃機の大量生産に拍車が掛けられた。

カラー写真(右)1944年6月2日頃、フィンランド、バルト海沿岸上空を低空飛行するフィンランド空軍のソ連製ツポレフ(Tupolev)ANT-40/SB-2M103高速双発爆撃機の右3翅プロペラのスピナ:機首コックピット操縦席の右ガラス風防越し撮影している。
Kuvattu SB-koneen tähystämöstä. Näkymä merelle. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 144992. Kuva Porkkalasta itään, Helsinkiin päin. Vasemmalla Espoonlahti. Kuvan keskellä Stora Brandön saari. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165682引用。


カラー写真(右)1944年6月2日頃、明けがたあるいは夕暮れ、フィンランド、バルト海沿岸上空を低空飛行するフィンランド空軍のソ連製ツポレフ(Tupolev)ANT-40/SB-2M103高速双発爆撃機の左3翅プロペラのスピナ:機首コックピット操縦席の左ガラス風防から、左主翼のクリーモフ(Klimov) M103液冷V12型エンジン960hp (716 kw)、主翼前縁のピトー管が見える。ピトー管は、風圧の差異で速力を図る計器である。
Kuvattu SB-koneen tähystämöstä. Näkymä merelle. Vrt. mustavalkoinen SA-kuva 144983, 144984. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info Niilo Helander, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces・sa-kuva-165705引用。


フィンランド空軍の「継続戦争」:多国籍機を駆使した戦い を見る。


4.現存するツポレフ(Tupolev)SB /ANT-40 (СБ)高速爆撃機

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフ(Tupolev)SB 2M-100A高速双発爆撃機:出現当初の1930年代、全金属製、単葉、高速の爆撃機は新鋭機として性能的に優れており、スペイン内戦でも日中戦争でも活躍した。合計で6500機も大量生産されている。
Description The Tupolev SB was a very successful bomber design which served with ten air forces and was in service during the Spanish Civil War and WW2. It's Tupolev designation was ANT-40. Of the 6,500 produced, this is the only known survivor. Recovered from the Yuzhne Muiski mountain range in the late 1970's, it was restored by a volunteer group of Tupolev employees and went on display, initially outside, in 1982.
Date 13 August 2012, 07:45
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

中ソ不可侵条約によって、中国はソ連から引込み脚の新鋭高速軍用機のポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機、ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)、ツポレフ SB(エスベー)爆撃機Tupolev SB)などを購入し、1937年の日中戦争で、日本陸海軍機と戦った。これらのソ連製の軍用機は、日本機と比較して性能的には遜色なかった。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフ(Tupolev)SB 2M-100A高速双発爆撃機:1934年に試作機が初飛行した機体で、日中戦争が勃発した1937年には全金属製、低翼・単葉の高速爆撃機だったため、日本機による迎撃をかわして被害を小さくすることができた。
Description The SB, known to Tupolev as the ANT-40, first flew in 1934. It was designed as a high speed bomber and had a maximum speed of 280mph, which was faster than fighters of the time such as the Polikarpov I-15 which could only reach 220mph. A successful machine, it was flown by ten countries and was not finally retired from Spanish service until 1950. Despite over 6,600 being built and many surviving the war, this is now the only remaining example.
Date 27 August 2017, 09:08
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。

写真(右):ロシア連邦、モスクワ、モニノ空軍中央博物館(Central Museum of the Air Forces at Monino)第6B格納庫(Hangar 6B)に保管されているソ連空軍のツポレフSB爆撃機( Tupolev SB 2M-100A)
Description In 1939 it had force landed during a snow storm near the Yuzhne Muiski Mountain range in the Baikal Region. The remains were recovered in the late 1970’s and restoration was carried out by a volunteer group of Tupolev employees. It first went on display at Monino in April 1982 and after several years outside in all weathers it is now safely under cover in the new Hangar 6B, which has been built behind the main entrance building. At the time of our visit the hangar had not been officially opened to the public, but we were given special permission to access it from Hangar 6A. Central Air Force museum, Monino, Moscow Oblast, Russia. 27th August 2017
Date 27 August 2017, 09:08
Source Tupolev SB 2M-100A
Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons, Category: Tupolev ANT-40 at Central Air Force Museum Monino File:Tupolev SB 2M-100A (ID unknown) (27282411329).jpg引用。


図(右):ソ連空軍のツポレフSB爆撃機(Tupolev SB 2M-100A)の三面図
English: Tupoljev ANT-40 (SB) Date 12 July 2013, 13:18:44 Source Own work Author Kaboldy
写真はWikimedia Commons, Category:Tupolev ANT-40 File:Tupoljev ANT-40.svg引用。


ツポレフSB爆撃機(Tupolev ANT-40)の諸元
搭乗員Экипаж: 3 名
全長Длина: 12,57 м
全幅Размах крыла: 20,33 м
全高Высота: 3,48 м 主翼面積Площадь крыла: 56,7 м²
空虚重量Масса пустого: 4768 kg
最大重量Масса снаряженного: 7880 kg
発動機Двигатели: 2× クリーモフ(Klimov) M103液冷V12型エンジン960hp (716 kw)
最高速力Максимальная скорость: 450 km/h
巡行速力Крейсерская скорость: 375 km/h
航続距離Практическая дальность: 2300 km
上昇限度Практический потолок: 7800 м
上昇率Скороподъёмность: 9,5 м/秒
離陸距離Длина разбега\пробега: 300—350 м
翼面荷重агрузка на крыло: 141 kg/м²
出力重量比Тяговооружённость: 180 hp/kg
兵装: 4 × 7,62 ммShKAS(ШКАС)機関銃
爆弾搭載量Бомбовая нагрузка: 600 kg


5.第二次世界大戦のソ連空軍爆撃機

写真(右)1940年1月29日、フィンランド南西部、氷結したケイリョン湖(Köyliönjärvi)に不時着したソ連空軍イリューシンIljushin DB-3爆撃機が脱出した乗員の手で爆破された。:このソ連空軍イリューシンDB-3爆撃機は、1940年1月29日に、ピュハサルミ空軍基地を発進したフィンランド空軍機に攻撃され不時着した。脱出したソ連搭乗員のうち2人戦死し、生き残ったパイロット1人が飛行機に点火し、破壊した。
Köyliönjärven jäälle 29.1.1940 laskeutunut venäläinen Iljushin DB-3 pommikone. 29. tammikuuta 1940 yksi DB-3 pakkolaskeutui Köyliönjärven jäälle. Pyhäjärven lentotukikohdan sotilaat ja Köyliön suojeluskunta menivät koneelle ja kävivät tulitaistelun kolmen lentäjän kanssa, joista kaksi kuoli ja yksi antautui. Lentäjät sytyttivät koneen palamaan ja se tuhoutui. Porin pommitukset talvisota ilmasota ilmasodankäynti sota pommikone vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva.
Subject place Köyliönjärvi, Köyliö
Subject date 29.1.1940, 1940, talvisota
Organisation Satakunta Museum Collection Kuvakokoelma Valokuva-albumit
Inventory ID ALB100:65 Measurements 82 x 56 mm
Photo info: 29.1.1940, 1940, talvisota Pori Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:65用。


フィンランドが第二次ソ芬戦争、継続戦争を開始すると、同盟国ソ連への攻撃を侵略と見なしたイギリスは、フィンランドをドイツ同盟国とみなして宣戦布告した。ソ連の対ドイツ戦を支えるために、アメリカの武器貸与法に基づく援助を行っていたイギリスとしては当然の行動だった。第二次世界大戦のさなかであり、ソビエト連邦からは、継続戦争は、枢軸国フィンランドに対する大祖国戦争の一環である。

写真(右)1940年1月29日、フィンランド南西部、氷結したケイリョン湖(Köyliönjärvi)雪原に不時着、破壊されたソ連空軍イリューシンIljushin DB-3爆撃機の主翼部分:不時着したソ連空軍イリューシンDB-3爆撃機のうち、搭乗員のうち2人戦死したが、生き残ったパイロット1人が勇敢にも飛行機に点火し、飛行機を破壊した。フィンランド側に鹵獲され、使用されてしまうのを防ぐことができた。
Köyliönjärven jäälle 29.1.1940 laskeutunut venäläinen Iljushin DB-3 pommikone. 29. tammikuuta 1940 yksi DB-3 pakkolaskeutui Köyliönjärven jäälle. Pyhäjärven lentotukikohdan sotilaat ja Köyliön suojeluskunta menivät koneelle ja kävivät tulitaistelun kolmen lentäjän kanssa, joista kaksi kuoli ja yksi antautui. Lentäjät sytyttivät koneen palamaan ja se tuhoutui. Porin pommitukset talvisota ilmasota ilmasodankäynti sota pommikone vaaka, mustavalkoinen, uniikkikuva.
Subject place Köyliönjärvi, Köyliö
Subject date 29.1.1940, 1940, talvisota
Organisation Satakunta Museum Collection Kuvakokoelma Valokuva-albumit
Inventory ID ALB100:65 Measurements 82 x 56 mm
Photo info: 29.1.1940, 1940, talvisota Pori Karlsson Kurt K., kuvaaja
写真は,Museot Finna M26:ALB100:65用。


写真(右)1940-1943年頃、フィンランド、鹵獲したソ連空軍ぺトリヤコフ(Petljakov)Pe-2高速双発爆撃機の双尾翼と尾部下側の修復・整備作業:ゴム輪式の大きな引込み式尾輪は、不整地での使用に耐えられる大きさと強度を持っている。ぺトリヤコフ(Petljakov)Pe-2高速双発爆撃機の原型は、V・M・ペトリャコーフが設計した高高度双発戦闘機VI-100である
Lentokonetehdas. Lentokone on Petljakov Pe-2, jonka sivuvakaajaa asennetaan.Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
写真は,Museot Finna sa-kuva-9793用。


1930年代、反スターリン潜在容疑者は、共産党幹部、軍高官から富農(クラーク)、労働者まで、処刑、投獄、流刑に処せられる大粛清が起こった。スターリンは、本当の裏切り者が住人のうち1人いるのであれば、10陣の容疑者を処刑し、自分のソビエト専制を確実にすることを望んだのである。V・M・ペトリャコーフは、飛行機設計技師として、1936年から大型機の開発をすすめるていたが、1937年に大粛清の嵐の中、投獄されてしまう。そして、第156航空機工場(GAZ-156)の特別刑務所の獄中で、設計局を起こしてVI-100高高度戦闘機を開発したのである。このVI-100高高度戦闘機こが、ぺトリヤコフ(Petljakov)Pe-2高速双発爆撃機の原型である。

写真(右)1940-1943年頃、フィンランド、鹵獲したソ連空軍ぺトリヤコフ(Petljakov)Pe-2高速双発爆撃機の修復・整備作業:主翼左右のエンジンナセル下面の降着装置引込み部分とその扉、胴体下面爆弾倉の開閉扉の構造が判読できる。
Lentokonetehdas. Lentokone on Petljakov Pe-2, johon ollaan asentamassa muun muassa pommiripustimia. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
写真は,Museot Finna sa-kuva-9794用。


ソ連空軍ぺトリヤコフ(Petljakov)Pe-2高速双発爆撃機は、1940年12月から第二次大戦終戦直後の1945年12月までに1万1000機量産された、ソ連の代表的な爆撃機で、ドイツ空軍ユンカースJu88双発爆撃機より小型だったために、爆弾搭載量は少ないが、最高速力は100km/hも上回っていた。ぺトリヤコフ(Petljakov)Pe-2は、ユンカースJu88と同じく急降下爆撃、重戦闘機などの仕様もあり、爆弾搭載量は少ない軽爆撃だったが、機動性が良い双発機だった。

写真(右):1944年7月22日、フィンランドに撃墜されたソ連空軍イリューシン(Ilyushin)IL-2「シュトゥルモヴィーク」襲撃機:コックピットには防弾性を高めるための装甲版があるのが見える。
Koneen runkoa ja irtaantuneita osia.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1944-07-22 Sot.virk. G.Vainio, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-133800引用。


1941年6月22日に、ドイツは、不可侵条約を保護にして、共産主義のソビエト連邦に侵略を開始した。すると、フィンランドは、1939年の冬戦争で敗北して失ったカレリア地方を奪回し、ソ連ボリシェビキに報復しようと、ドイツと同盟を結んで、1941年7月からソ連に侵攻を開始した。

写真(右):1944年7月22日、フィンランドに撃墜されたソ連空軍イリューシン(Ilyushin)IL-2「シュトゥルモヴィーク」襲撃機:コックピットには防弾性を高めるための装甲版が見える。
Koneen runkoa ja irtaantuneita osia.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo
Kuvaustiedot: 1944-07-22 Sot.virk. G.Vainio, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-133802引用。


フィンランド国防軍は、総司令官カール・マンネルハイム(Carl Gustaf Emi lMannerheim)元帥の指揮の下、ソ連相手に善戦し、レニングラードを包囲し、住民を疲弊させ、北部の不凍港ムルマンスクを攻撃して、西側連合軍の補給物資がソ連に届かないようにする作戦を展開していた。つまり、ナチスとフィンランドは、連携して共産主義・ボリシェビキのソ連を屈服させるために共闘しており、密接な軍事同盟関係にあった。

写真(右):1944年7月13日、フィンランドに撃墜されたソ連空軍イリューシン(Ilyushin)IL-2「シュトゥルモヴィーク」襲撃機:ソ連空軍イリューシン(Ilyushin)IL-2襲撃機が撃墜され、フィンランド空軍の戦闘機は撃墜数を1機分増やすことができた。
Ryssän ""maatalouskoneen"" IL-2 matka on päättynyt pellonojaan, ja hävittäjämme ovat taas voineet merkitä tililleen yhden ""pörriäisen"".
Organisation Military Museum
Photo info: 1944-07-13 Sot.virk. C.G.Rosenqvist, valokuvaaja
写真はThe Finnish Defence Forces, Museo Finna sa-kuva-141359引用。


 イリューシン(Ilyushin)IL-2の初飛行は第二次大戦勃発の時、1939年12月20日で、1941年から1945年までに3万6,183機と大量生産されたが、これはBf109戦闘機生産機数3万3000機を上回る世界最多生産である。


6.第二次世界大戦初期のソ連空軍戦闘機

カラー写真(右):1944年-1945年、中国、雲南省、ソ連から中国に供与されたポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153)戦闘機が1944年になっても残っていた。:1930年代中旬に、ソ連は運動性能の高い複葉戦闘機としてI-15を開発し、制式したが、更なる改良型として、固定車輪を引き込み脚としたI-153が開発された。空気抵抗を減少させたために、運動性の良さに高速化が可能になったが、登場した時点では、単葉機が主流となり、速度面での優位性はなくなった。I-153複葉戦闘機の初の実戦参加は、1939年のノモンハン事件で、日本陸軍機と戦った。
Jack D. Canary Special Collection Photo.
Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1
Jack Canary was a Tech Rep with North American Aviation in China during World War Two. After the War, he continued to work with NAA and also built and restored aircraft. He worked as a consultant on the film “Tora, Tora, Tora” and was killed while flying a PT-22 for the film in 1968.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Polikarpov I-153, P-7250, China, c44-45, Jack Canary1引用。

ポリカルポフI-153チャイカ ポリカルポフ I-153(Polikarpov I-153bis)戦闘機の諸元
全幅: 10.00 m、全長: 6.17 m
全高: 2.80 m、翼面積: 22.14平方メートル
自量: 1348 kg、全備重量: 1859 kg
発動機: 空冷9気筒 M-62
最大速力: 366 km/h 海面上、444 km/h/4,600 m
上昇率:3000 mまで 3分
最大上昇限度: 11000 m
航続距離: 470 km
兵装: 7.62ミリShKAS機銃4丁
82mmロケット弾

ポリカルポフ I-15は、1936年、スペイン内戦に、1937年、日中戦争に投入されたが、金属製単葉戦闘機が高速だったため、I-15では対抗するのが難しくなった。そこで、I-15を高速化する試みがなされ、アメリカ製ライト・サイクロン空冷星形エンジンM-25の国産化したシュベツホフ(Shvetsov)空冷星形エンジン (1000馬力)に換装したI-153が開発された。1939年、ノモンハン事変、フィンランドとの冬戦争に投入され、中国空軍にも送られた。

写真集:ポリカルポフ (Polikarpov)I-15/I-153複葉戦闘機 を見る。


写真(上):1941年12月10日、エンジン始動車でプロペラを回転させ急速発進準備をするフィンランド空軍のポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機とハインケルHe-115双発水上偵察機
(後方):主翼に青のカギ十字のフィンランドの国籍マークが描かれている。フィンランド空軍は、ソ連=フィンランド戦争で、フィンランドに墜落したソ連空軍のポリカルポフ I-16戦闘機を鹵獲し修理して使用した。
Lentokonetehdas. Polikarpov I-16:sta käynnistetään käynnistysautolla.
Kone Polikarpov I-16, tyyppi 5.
写真はThe Finnish Defence Forces, Finnish Wartime Photograph Archive Kuvan numero:66680引用。

ポリカルポフ I-16(Polikarpov I-16)戦闘機の原型は、1933年12月に初飛行したが、当時は画期的な引込み脚の単葉機だった。胴体は木製だが翼は金属製で、小さな翼のために、翼面荷重が大きく、旋回性やドックファイトには向かなかった。また、引込み脚は、電動でも油圧でもなく、ワイヤー巻き上げはハンドルを回転させる手動だった。エンジンは、アメリカのライト R-1820サイクロン(Cyclone)をコピーしたもので信頼性が高かった。

ポリカルポフ I-16戦闘機Polikarpov I-16)諸元
全長: 6.13 m、全高: 3.25 m
翼幅: 9 m 翼面積: 14.5平方メートル
自量: 1,490 kg
全備重量: 1,941 kg
発動機: シュベツォフ M-63空冷星形エンジン (1,100 hp)
最大速度: 525 km/h (高度3000 m)
航続距離: 700 km (増槽搭載時)
実用上昇限度: 9,700 m
高度5000mまで5.8分
兵装:7.62ミリShKAS機関銃 2丁
20ミリShVAK機関砲 2門
RS-82ロケット弾 2-6発
生産機数:8,600機。

写真集:ポリカルポフ (Polikarpov)I-16戦闘機 を見る。

写真(右)1940年2月24日、冬戦争の仕返し「継続戦争」開始3か月前、フィンランド、フィンランド軍の口径7.62ミリ1931年式7,62 Itkk/31連装対空機関銃:1931年にフィンランドが開発した空冷連装機関銃。M/31円錐支柱式あるいはM/40三脚式銃架に搭載する対空機関銃である。発射速度は1挺900発/分で連装なので1,800発と高速である。1933-1944年に合計507挺がフィンランドで生産された。
Kotimainen 7,62 mm:n kaksoisilmator-juntakonekivääri vuodelta 1931 (7,62 Itkk/31) Postitalon katolla Helsingissä. Content Type Photo Organisation Military Museum Photo info 1940-02-24 Tuntematon, valokuvaaja.
写真は,Museot Finna sa-kuva-115232用。


フィンランドが開発した7.62mmマキシム(Maxim)M/32-33機関銃の原型は、ロシア製マキシム1905年式7.62ミリ重機関銃Museot Finnaで、1932年にフィンランド仕様として、原形の布製給弾ベルトを金属製リンク給弾に変更し、雪や氷のある状況でも対処できるように改良された。

7.62mmマキシム(Maxim)M/32-33対空機関銃の諸元
銃重量:24 kg
三脚式銃架重量: 30 kg
全長:1180 mm、銃身長:721 mm
弾薬:7.62×53mmR(縁付き)
発射速度:650–850発/分
<有効射程:2000 m
給弾方式:200発ベルト給弾式

⇒写真集Album:フィンランド軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm


7.アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin) B-10/139WC 双発爆撃機

写真(右):1935年頃、アメリカ、未舗装滑走路に待機するアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10 B爆撃機の右側面:この機体は、垂直尾翼前部と主翼前縁が明るい塗装に変更されている。
Martin : B-10 : Catalog #: 00005669 Manufacturer: Martin Designation: B-10 Official Nickname: Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives 引用。


原型が1932年2月16日に初飛行したマーチン(Martin)B-10はアメリカ陸軍航空軍が採用した最初の全金属製単葉引込み脚採用の双発爆撃機である。

マーチンB-10爆撃機の初めての量産型が、B-10B爆撃機で,これは試作テストしたYB-10とほど同じだった。全長44 feet 9 inches (13.640 m)、全幅(wingspan)70 feet 6 inches (21.488 m)、全高 15 feet 5 inches (4.670 m)で、空虚重量 9,681 pounds (4,391 kg)。搭載発動機はライト・サイクロン(Wright Cyclone) SGR-1820-F3 (R-1820-33)で海面上で700馬力、毎分1,950回転、B-10Bの巡航速度(cruising speed)は、時速193 miles(311 km)、最高速力 213 miles (343 km)/10,000 feet (3,048 m)だった。

⇒写真集Album:アメリカ陸軍マーチン(Martin) B-10爆撃機


8.フィンランド空軍ブリストル・ブレニム(Bristol Blenheim)爆撃機

写真(右)1940年7月25日、イギリス、第25爆撃飛行隊のブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)Mk.I型爆撃機:初飛行は、1935年4月12日。全幅 17.17 m、全長 12.12m、翼面積 84.0 m2、自重4,441 kg、総重量 6,532 kg 発動機ブリストル(Bristol) マーキュリー (Mercury)空冷星形9気筒エンジン840 hp2基、 最高速力 418 km/h、航続距離 1810 km、乗員3名、兵装 7.7 mm 機関銃2丁、爆弾搭載量454 kg。
English: RAF Fighter Command 1940 Blenheim Mk IFs of No. 25 Squadron at Martlesham Heath, 25 July 1940. The foreground aircraft is equipped with AI Mk III radar. The squadron was used for night fighter operations. Date 25 July 1940 (Second World War)
Author Press Agency photographer Part of Ministry of Information Second World War Press Agency Print HU 104652 Imperial War Museums.
写真はWikimedia Commons Category:Bristol Blenheim Mk.I of the Royal Air Force File:Bristol Blenheim - Martlesham - RAF Fighter Command 1940 HU104652.jpg引用。


ブリストル・ブレニム(Bristol Blenheim)Mk.IV爆撃機の諸元 乗員: 3名
全幅: 17.17 m
全長: 12.98 m
全高: 2.99m 機体重量: 5670 kg
エンジン: ブリストル マーキュリー Mk. 15 空冷9気筒 離昇出力 995馬力×2
最大速度: 428 km/h
航続距離: 2350 km
武装
7.7 mm 旋回機関銃 × 5挺
爆弾 600 kg

⇒写真集Album:イギリス空軍ブリストル・ブレニム(Bristol Blenheim)爆撃機を見る。


◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
◆2011年7月、『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(268頁,2100円)を青弓社より刊行しました。
【目次】 ドイツ・ワイマール共和国の誕生から第三帝国の崩壊まで/アドルフ・ヒトラーの第一次世界大戦/ドイツ革命とその反動/ドイツ・ワイマール共和国の混乱/共和国安定期から世界大恐慌へ/ナチ党ヒトラー独裁の始まり/ナチスの再軍備・対外膨張/第二次ヨーロッパ大戦の勃発/対ソビエト連邦ボリシェビキ戦争/ユダヤ人殲滅のための世界戦争/ヒトラー第三帝国の崩壊/ナチ・プロパガンダ神話の真実

◆2017.6.30産経ニュース「稲田朋美防衛相、失言を初めて陳謝 辞任は否定
 稲田朋美防衛相は(2017年6月)30日の記者会見で、東京都議選の自民党候補に対する応援演説の際に「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と発言したことについて、「改めて『防衛省・自衛隊、防衛相』の部分は撤回し、おわびしたい」と述べ、公の場で初めて陳謝した。
 発言に関しては「演説を実施した板橋区の隣の練馬区にある練馬駐屯地など、自衛隊を受け入れている地元に感謝する趣旨を入れた演説だった」と述べた。その上で「国民の生命、身体、財産、わが国の領土、領海、領空をしっかりと守るべく、いっそうの緊張感を持って防衛相としての職責を果たしてまいりたい」とし、辞任しない考えを重ねて示した。(2017.6.30 22:25引用終わり)

 日本の「保守」であれば、大切な家族を差し置いて、選挙戦に勝つことばかり願っている平和ボケ防衛大臣など追放すべきである。さらに、文民の大臣が、自衛官を政治的な投票の駒として利用すると公言したとなれば、それは公職選挙法の問題に留まらず、自衛隊を侮辱する発言である。国防重視というのも人気取りのポピュリズム的発想のプロパガンダに過ぎず、そんなエセ保守政治家の本心は、利己的な打算が支配しているにちがいない。1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に至った時も現地駐屯の日本軍や陸軍省・陸軍参謀本部以上に、日本の代表的政治家が「中国叩くべし」(暴支膺懲)との強硬発言をした。これは、国民世論を煽り、リーダーシップを軍から取り返そうとした策略だったかもしれない。しかし、政治家は、和平交渉の機会を捨て去り、国際的孤立を招き、政治・外交・軍事の大失敗に繋がった。主権者国民は、似非政治家のポピュリズム的発想に振り回されず、世界を大局を概観できる能力が求められる。

ポリカルポフ I-153 チャイカ
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機

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