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◆マーチン(Martin) B-10/139WC 双発爆撃機
写真(上)1940-1941年、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊第28爆撃飛行隊マーチン(Martin)B-10 B 爆撃機正面での部隊記念写真
:1932年2月16日初飛行、1940年までに348機(うち輸出182機)生産。第二次大戦参戦前のアメリカ国籍マークを左右主翼下面に描いている。
English: 28th Bombardment Squadron - group photo with Martin B-10B 35-258, Nichols Field, Manila, Philippines, 1938 Date 1938 Source http://mfcblog.alyoung.com/2012/12/1938-photograph-features-28th.html Author United States Army Air Corps Permission (Reusing this file) USGOV-PD
写真は Wikimedia Commons,  Category:Martin B-10 File:28th Bombardment Squadron - Martin B-10B 35-258.jpg引用。


写真(上)1935年、アメリカ領パナマ運河地区(Panama Canal Zone)、アメリカ陸軍航空隊第25爆撃戦隊マーチン(Martin)B-10双発輸送機
:全幅 70 ft 6 in (21.49 m)、全長 44 ft 9 in (13.64 m)、翼面積 70 ft 6 in (21.49 m) m2、自重 9,681 lb (4,391 kg)、離昇重量 14,700 lb (6,668 kg)、 発動機ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒775 hp (578 kW)2基、最高速力 213 mph (343 km/h, 185 kn)、航続距離 1,240 mi (2,000 km, 1,080 nmi)、乗員3名。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,260 lb (1,025 kg)。1940年までに348機量産。
English: 25th Bombardment Squadron B-10s Date 1935 Source USAF Author US Air Force Museum
写真はWikimedia Commons Category:Martin B-10 File:25th Bombardment Squadron B-10s.jpg引用。


1.アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin) B-10爆撃機

写真(右):1934-1935年頃、アメリカ、ロングビーチ、アメリカ陸軍航空隊のマーチンB-10A爆撃機(Martin B-10):1930年にマーチン社は、自主開発で123型を試作、これは前金属製、胴体内に爆弾槽を設けた双発爆撃機だった。1932年3月にXB-907試作機が完成、最高速力317 km/hは当時としては高速だった。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、YB-10の名称で48機の発注がなされた。
Description Martin B-10 Long Beach 1938 Date 25 July 2008, 13:24
Source Martin B-10 Long Beach 1938
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10 Long Beach 1938 (4800374631).jpg引用。

写真(右):1933-1935年頃、アメリカ、飛行試験中と思われるマーチン(Martin)B-10B爆撃機:アメリカ製マーチンMartin B-10B爆撃機は、輸出型をMartin 139Wと呼称し、オランダと中国に輸出された。
AL61A-515 Martin B-10 Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives AL-61 A and B Album Photo Images引用。

1930年代初め、アメリカのマーチン社は、後にマーチンB-10爆撃機となる原型をマーチン・モデル123(Martin Model 123)として開発したが、これは全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機だった。そして、マーチン社は1932年2月に原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。これは当時としては高速で、当時のアメリカ戦闘機よりも早かったため、高速爆撃機として注目を浴びた。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aが、YB-10の名称で、アメリカ陸軍により、48機が発注された。

写真(右):1932-1935年頃、アメリカ、飛行中のマーチン(Martin)B-10B爆撃機:マーチンB-10爆撃機の初めての量産型が、B-10B爆撃機で,これは試作テストしたYB-10とほど同じだった。全長44 feet 9 inches (13.640 m)、全幅(wingspan)70 feet 6 inches (21.488 m)、全高 15 feet 5 inches (4.670 m)で、空虚重量 9,681 pounds (4,391 ?)。搭載発動機はライト・サイクロン(Wright Cyclone) SGR-1820-F3 (R-1820-33)で海面上で700馬力、毎分1,950回転、B-10Bの巡航速度(cruising speed)は、時速193 miles(311 km)、最高速力 213 miles (343 km)/10,000 feet (3,048 m)だった。
AL61A-460 Martin B-10B
Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives AL61A-460 引用。

後にマーチンB-10爆撃機となるモデル123(Martin Model 123)爆撃型として、機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、アメリカ陸軍から1933年に48機の発注を受けた。これがアメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機として制式になる。アメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機の量産は、1934年からで、陸上用車輪式降着装置を撤去して、双フロート(浮舟)を装着した水上爆撃型も試作された。

1931年1月から、アメリカ陸軍は、アメリカ本土防衛のために海岸線を防衛する任務も担っており、あまりか陸軍は、数機のB-12Aを改造して、巨大な双フロート(float)を付けて、水上で離発着できるB-12A水上機を試作し、1935年8月24日に完成させている。

写真(右):1934年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12A偵察爆撃機とその奥に整列したノースアメリカン(North American) O-47A偵察機:次の写真に写っているマーチン(Martin)B-12偵察爆撃機と同じ。
Martin, B-12A
Catalog #: 01_00091081
Additional Information: USA, North American O-47A observation aircraft in background
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091081引用。

1933年1月17日、アメリカ陸軍は48機の マーチン・モデル(Martin Model)139単葉爆撃機(monoplane bomber)を発注し、この中で合計32機がYB-12とB-12A(7機がYB-12、25機がB-12A)である。この両機の差異は、搭載エンジンの種類で、YB-10の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)R-1690-11空冷星形エンジン「ホーネット」(Hornet)で、B-10爆撃機は、ライト(Wright)社の空冷星形エンジン「サイクロン」(Cyclones)である。

写真(右):1934年以降、アメリカ、格納庫の中でアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12A偵察爆撃機とその手前に整列したノースロップ(Northrop )A-17A軽爆撃機:。
Northrop, A-17A
Additional Information: USA, With a Martin B-10 bomber behind Tags: Northrop , A-17A
Catalog #: 01_00091115
写真はFlickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091115引用。

最初のYB-12試作機は、1934年4月に完成し、ホーネットエンジンの出力が高かったために、YB-12の最高速力は、B-10Bよりも時速5マイル(8km)程度早かった。しかし、新モデルB-12は、B-10とほとんど変わるところがなかった。形状の上では、B-12は、B-10と異なってエンジンナセルの側面に、潤滑油冷却器空気取入れ口(oil cooler intake)がついているので識別できる。B-12Aは、胴体下部の爆弾槽(bomb bay)に256米ガロン(960L)の追加燃料タンク(extra fuel tank)を設けて、通常の燃料搭載量よりも、226米ガロン(850L)追加増量できるので、それだけ航続距離を伸ばすことができた。

写真(右):1933-1935年頃、アメリカ、飛行試験中と思われるマーチン(Martin)B-10B爆撃機:アメリカ製マーチンMartin B-10B爆撃機は、輸出型をMartin 139Wと呼称し、オランダと中国に輸出された。
Martin, B-10B
Catalog #: 01_00091079
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091079引用。

1930年代初め、アメリカのマーチン社は、後にマーチンB-10爆撃機となる原型をマーチン・モデル123(Martin Model 123)として開発したが、これは全金属製、引込み脚、単葉、張線や支柱のない片持ち単葉(一枚主翼)の斬新な設計の双発爆撃機だった。そして、マーチン社は1932年2月に原型として、爆撃機試作機XB-907を試作し、1932年3月にXB-907試作機は、最高速力317 km/hをだした。これは当時としては高速で、当時のアメリカ戦闘機よりも早かったため、高速爆撃機として注目を浴びた。1933年に機首に機関銃座を設けたXB−907Aが、YB-10の名称で、アメリカ陸軍により、48機が発注された。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)B-10B爆撃機
Title: Martin, B-10B
Catalog #: 01_00091078
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01_00091078引用。

 アメリカ陸軍で初めての全金属製単葉双発爆撃機としてマーチンB-10を制式したが、オランダ、中国、アルゼンチン、トルコへの輸出仕様マーチン139Wが生産された。オランダ向けは、マーチン139WH、中国向けはマーチン139WCと区別し、いかにも購入国に配慮したような名称と、上手な売り込みを図っている。なんといっても、アメリカ陸軍航空隊が採用しているのであるから、その爆撃機は優秀であるに違いない。

写真(右):1932-1935年頃、アメリカ、主輪を引き込まないまま安全飛行をするマーチン(Martin)B-10爆撃機:試験飛行中のようだ。マーチンB-10爆撃機の初めての量産型が、B-10B爆撃機で,これは試作テストしたYB-10とほど同じだった。全長44 feet 9 inches (13.640 m)、全幅(wingspan)70 feet 6 inches (21.488 m)、全高 15 feet 5 inches (4.670 m)で、空虚重量 9,681 pounds (4,391 ?)。搭載発動機はライト・サイクロン(Wright Cyclone) SGR-1820-F3 (R-1820-33)で海面上で700馬力、毎分1,950回転、B-10Bの巡航速度(cruising speed)は、時速193 miles(311 km)、最高速力 213 miles (343 km)/10,000 feet (3,048 m)だった。
Martin B-10B
Catalog #: 00005627
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005627引用。

後にマーチンB-10爆撃機となるモデル123(Martin Model 123)爆撃型として、機首に機関銃座を設けたXB−907Aは、アメリカ陸軍から1933年に48機の発注を受けた。これがアメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機として制式になる。アメリカ陸軍マーチンB-10爆撃機の量産は、1934年からで、陸上用車輪式降着装置を撤去して、双フロート(浮舟)を装着した水上爆撃型も試作された。

1931年1月から、アメリカ陸軍は、アメリカ本土防衛のために海岸線を防衛する任務も担っており、あまりか陸軍は、数機のB-12Aを改造して、巨大な双フロート(float)を付けて、水上で離発着できるB-12A水上機を試作し、1935年8月24日に完成させている。

写真(右):1940年、アメリカ、飛行中のアメリカ陸軍航空隊マーチン B-10爆撃機
pictionid56896245 - catalogbd martin b-10 12 14 13.jpg - title--bd martin b-10 12 14 -- - filenamebd martin b-10 12 14 13.jpg--Born digital image that was acquired by the San Diego Air and Space Museum--------Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives pictionid56896245引用。

マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)139W爆撃機の後上方の機銃座: マーチン139W爆撃機はB-10爆撃機の輸出型で中国やオランダに手出された。金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
Martin : 139-W
Catalog #: 00068793
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068793引用。

マーチンB-10爆撃機は、増加試作まで当初ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン(675hp)を搭載していたが、量産型のマーチンB-10B爆撃機は、カーチスR-1820-33エンジン(775hp)と若干馬力を強化して、100機以上生産された。ライトR-1820サイクロンのR1820とは、エンジン排気量(シリンダー容積:Displacement)が 1,823立方インチ (29.88 L)であることからきている。ただし、YB-12として、エンジンをライト社ではなく、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)社のR-1690「ホーネット」空冷星形エンジン(775hp)に換装した機体も30機程度若干生産されている。これがB-12A偵察爆撃機で、爆撃型YB-12の胴体下面の爆弾倉を追加燃料タンクとして、航続距離を延長した。

写真(右):1940年、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ東20キロ、オークランド飛行場、アメリカ陸軍航空隊第91偵察中隊のマーチン B-10B偵察爆撃機
Description This is a rare and unusual photo taken with two of the large GE #21 flash bulbs on a time exposure. It really shows the underwing detail and all of the rivets that you don't see in a normal daytime photo. B-10 of the 91st Observation Squadron at Oakland Airport 1940
Date 13 December 2008, 10:48
Source Martin B-10BM Night flash photo
Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。

マーチン B-10爆撃機の諸元
全長: 13.63 m、全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m、翼面積: 63.4 平方メートル
全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷エンジン9気筒 775馬力2基
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
爆弾搭載量 1,050 kg
兵装:7.62ミリ機銃3丁
乗員 4名。

写真(右):1934年以降、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12 偵察爆撃機とその前に整列した飛行搭乗員が整列し、自動車でやってきた将校の検閲を受けている。:次の写真に写っているマーチン(Martin)B-12偵察爆撃機と同じ、髑髏の海賊風のマークを機首に描いている。
Martin B-12
Martin : B-12 :
Catalog #: 00005729
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005729引用。

1933年1月17日、アメリカ陸軍は48機の マーチン・モデル(Martin Model)139単葉爆撃機(monoplane bomber)を発注し、この中で合計32機がYB-12とB-12A(7機がYB-12、25機がB-12A)である。この両機の差異は、搭載エンジンの種類で、YB-10の発動機は、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)R-1690-11空冷星形エンジン「ホーネット」(Hornet)で、B-10爆撃機は、ライト(Wright)社の空冷星形エンジン「サイクロン」(Cyclones)である。

写真(右):1934年以降、アメリカ、髑髏の海賊風のマークを機首に描いているアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-12 偵察爆撃機とその前に整列した飛行搭乗員:海上に不時着した場合に備えて、ライフジャケットを着て、航空用に酸素吸入装置を付けている。
Martin B-12
Martin : B-12 :
Catalog #: 00005714
写真はFlickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005714引用。

最初のYB-12試作機は、1934年4月に完成し、ホーネットエンジンの出力が高かったために、YB-12の最高速力は、B-10Bよりも時速5マイル(8km)程度早かった。しかし、新モデルB-12は、B-10とほとんど変わるところがなかった。形状の上では、B-12は、B-10と異なってエンジンナセルの側面に、潤滑油冷却器空気取入れ口(oil cooler intake)がついているので識別できる。B-12Aは、胴体下部の爆弾槽(bomb bay)に256米ガロン(960L)の追加燃料タンク(extra fuel tank)を設けて、通常の燃料搭載量よりも、226米ガロン(850L)追加増量できるので、それだけ航続距離を伸ばすことができた。



写真(右)1940年12月以前、アメリカ、カリフォルニア州オークランド、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10双発輸送機:初飛行は、1932年2月16日。アメリカ陸軍航空軍が採用した最初の全金属製単葉双発引込み脚爆撃機である。競争相手のボーイング社のモデル215(YB-9)は、金属製ではあったが、固定脚で、開放式コックピットの機体だった。他方、マーチンB-10は引込み脚、密閉式コックピットで、航続距離も1400マイル、最高速力も時速207マイルで、22マイル以上も早かった。アメリカ陸軍はすぐに14機のB-10を発注した。
Martin B-12. Image taken from the National Museum of the USAF official website
写真はWikimedia Commons Category:Martin B-10 File:Martin B-12 parked.jpg引用。
写真(右)1940年12月以前、アメリカ、カリフォルニア州オークランド、アメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10双発輸送機:全幅 70 ft 6 in (21.49 m)、全長 44 ft 9 in (13.64 m)、翼面積 70 ft 6 in (21.49 m) m2、自重 9,681 lb (4,391 kg)、離昇重量 14,700 lb (6,668 kg)、 発動機ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒775 hp (578 kW)2基、最高速力 213 mph (343 km/h, 185 kn)、航続距離 1,240 mi (2,000 km, 1,080 nmi)、乗員3名。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,260 lb (1,025 kg)。
The rare late markings for a B-10 that is usually seen in blue and yellow. This was an aircraft assigned to the 35th Pursuit Group visiting Oakland Airport in late 1940. Date 13 December 2008, 10:49 Source Martin B-10BM Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM (6439669867).jpg引用。


米国陸軍機

 陸軍機も一九二六年より五年計画で千八百機充実することになっている。その内現在次の如く配置されている。

パナマ 四十一機さらに八十機増加中(他に海軍飛行艇三十台)
ハワイ 九十六機
比島 五十機(飛行場十余ヶ所新設)
第一線は何処 : 世界平和の尊き使命『大阪毎日新聞』 第28巻 P.128 1933-01-01引用
写真(右)1941年12月以前、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島上空を飛行するアメリカ陸軍航空隊第23爆撃戦隊マーチン(Martin)B-10双発輸送機:1932年2月16日に初飛行し、1940年までに348機が量産された。日本軍のハワイ空襲の時も配備されていたが、戦果はなかった。
English: Photo of a Martin B-10 variant of the 23d Bombardment Squadron taken in 1941 over Oahu, Hawaii. Date 1941 Source Self-photographed Author Harold Wahlberg
写真はWikimedia Commons Category:Martin B-10 File:Martin B-10 Variant.jpg引用。



写真(上)1936-1940年頃、アメリカ、ハワイ諸島、大戦参戦前の国籍マークを描いたアメリカ陸軍第23爆撃飛行隊ダグラス(Douglas) B-12 偵察爆撃機

10_0027351 Personnel: 23rd Bomb SQD. Inspection of Gen. Drum Lukefilld, Hawaiin Islands 1933 Please tag this photo so information can be saved. .Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はWikimedia Commons, SDASM Archives File:Douglas RB-23.jpg引用。



2.中国空軍マーチン(Martin) B-10/139WC 爆撃機

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: マーチン139WC爆撃機は、金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
Catalog #: 00068795 Manufacturer: Martin Designation: 139-W
Notes: As B-10 for export, 1936-39
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。

 アメリカ陸軍で初めての全金属製単葉双発爆撃機としてマーチンB-10を制式したが、オランダ、中国、アルゼンチン、トルコへの輸出仕様マーチン139Wが生産された。オランダ向けは、マーチン139WH、中国向けはマーチン139WCと区別し、いかにも購入国に配慮したような名称と、上手な売り込みを図っている。なんといっても、アメリカ陸軍航空隊が採用しているのであるから、その爆撃機は優秀であるに違いない。

写真(右):1937年2月(?)、中国に到着した分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機(胴体後方が見えている)とその前に勢ぞろいした中国人とアメリカ人のスタッフ: つなぎ作業服を着こんだ技師・整備士8人(3人は略帽)、軍帽の中国軍将兵4人は黒の革靴を履いている。右端に黒の長靴を履いて帽子を被ったアメリカ軍人が勢揃いしている。同時期と思われる組み立ての終ったマーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
Martin : 139
Catalog #: 00068838
Manufacturer: Martin
Designation: 139
Notes: In China, as B-10
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068838引用。

しかし、アメリカ陸軍としては、各国の軍隊がアメリカ軍と同じ優秀な飛行機を装備する事には警戒心が強かった。そこで、友好国のみに輸出するとして、居改正を取っている。オランダ、中国はこの許可を得ることができ、トルコなどマーチンB-10爆撃機は輸出されている。マーチンB-10 爆撃機の初の実戦参加は、1937年8月、第二次上海事変・日中戦争の時、中国空軍に配備されていたマーチン139WC爆撃機が日本軍を攻撃したときである。その後、オランダ空軍が蘭印(インドネシア)に配備したマーチン139WH爆撃機も日本軍を攻撃している。

写真(右):1937年2月(?)、中国、上海、分解されたアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機の組み立て作業小屋:主翼の断面(左)、半球形機銃座の付いた機首(中央)が、棕櫚製ゴザと竹棒で囲まれた臨時組み立て作業場の中に見える。中国の技師とアメリカの軍人が立っているのが見える。マーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01082
Manufacturer: Martin
Designation: 139
Notes: In China, as B-10
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01082引用。

中国に船積みされた輸出仕様マーチン(Martin)139WC爆撃機は、上海に到着し、大型木製箱に梱包されたまま、上海、虹橋飛行場で組み立てられたようだ。飛行場の片隅に、現地で調達した棕櫚ゴザ・筵、竹で囲い込み式、屋根を葺いた作業用の小屋が作られたが、これは臨時の大きな掘立小屋である。一つの作業小屋での組み立て作業は、つなぎ作業服を着た中国人技師・整備士8人以上で、ここに、中国軍将兵やアメリカ軍人も随時、参加、協力したようだ。主翼を取り付けると、作業小屋には入らなくなるの、臨時の掘立小屋を撤去して、マーチン(Martin)139WC爆撃機の最終組み立てを行ったと考えられる。

写真(右):1937年2月(?)、分解・輸出された中国の上海におけるアメリカのマーチン(Martin)139WC 爆撃機の組み立て作業小屋:風雨をしのぐ、敵(日本)の目から隠す目的で、棕櫚製ゴザで覆われた簡易小屋の中で、アメリカと中国の技師が、主翼、胴体、膠着装置、エンジンなどを取り付け組み立てる。 中国の技師とアメリカの軍人が立っているのが見える。マーチン(Martin)139WC爆撃機の写真もあるので、場所は中国、上海、虹橋飛行場のように思われる。右後方に見えるのゴザ・筵と竹で作られた壁は、組み立て作業用の大きな小屋である。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01082
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068838引用。

1930年代初期に実用化されたマーチン(Martin)B-10爆撃機は、革新的なデザインの全金属製、単葉(主翼1枚)、引込み式脚の設計だった。胴体が太く、風貌や銃座の張出も無粋で空力学的に洗練されているとはいいがたいが、当時の世界各国の実用化されていた戦闘機よりも高速だった。1936年にマーチン社は、許可を得て二国に対する輸出型の販売を行った。これはオランダ向けのマーチン139WHと中国向けのマーチン139WCである。139の後のWは世界、Hはオランダ、Cは中国を示している。

写真(右):1937年2月(?)、輸出された中国における、分解されていたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機の機体最終組み立て作業中の: 技師・整備士が機体の胴体上に乗り点検作業をしている。同時期と思われる組み立ての終ったマーチン(Martin)139WC爆撃機の写真から推測して、飛行場の場所は中国、上海、虹橋飛行場と思われる。飛行場の使用頻度も、繋留飛行機数も少ないために、飛行場滑走路は転圧のみで舗装はされていない。
Martin : 139
Catalog #: 00068834
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068834引用。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。輸出仕様のマーチン139W爆撃機は、合計200機が生産されたが、中国にも引き続き販売され、中国だけでも数十機のマーチン爆撃機を中国空軍に部隊配備したものと考えられる。

写真(右):1937年2月、中国に到着した組み立ての終ったアメリカのマーチン(Martin)139WC爆撃機: マーチン139WC爆撃機の前に、中国人の飛行搭乗員とアメリカ陸軍航空隊の搭乗員が揃って記念写真を撮影した。サンジエゴ航空宇宙博物館アーカイブ(San Diego Air and Space Museum Archive)には、これと同じ写真が、トリミングを変えて3枚、所蔵、公開されている。
Martin B-12 and unknown
Catalog #: 1609
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 1609引用。

マーチン社は政府の許可を得て、中国軍仕様のマーチンB-10爆撃機を開発し、マーチン139WCとして中国に輸出した。1937年2月、盧溝橋事件勃発の5カ月前、マーチン139WC爆撃機6機が上海の虹橋飛行場に到着した。マーチン139WC爆撃機は、1936年から1939年にかけて、中国に向けて合計数十機が輸出されたようだ。1937年の中国空軍における配備部隊は、第14志願飛行隊(14th Volunteer squadron)、第10爆撃戦隊などである。

写真(右):1937年2月、中国に輸出することが決まったアメリカのマーチン(Martin)B-10B爆撃機: マーチン139WC爆撃機は、金属胴体が輝いており、表面も滑らかである。他方、日本で製造された機械は、たくさんの鋲が並んで波打って今井、華奢な構造に見える。飛行機の構造は、堅牢さ、重量の軽減、量産性、整備性、そして空力学的な配慮が必要である。
AL61A-459 Martin B-10B
Catalog #: 00068795
Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club.
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00068795引用。

マーチンB-10爆撃機は、増加試作まで当初ライト(Wright)R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形エンジン(675hp)を搭載していたが、量産型のマーチンB-10B爆撃機は、カーチスR-1820-33エンジン(775hp)と若干馬力を強化して、100機以上生産された。ライトR-1820サイクロンのR1820とは、エンジン排気量(シリンダー容積:Displacement)が 1,823立方インチ (29.88 L)であることからきている。

写真(右):1937年以降、中国空軍に配備されたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機:手前には250キロ級の爆弾が専用運搬台車に載せられて待機している。雨でぬれた未舗装の滑走路、自転車で飛行機の周りに集まっている飛行兵や整備員。分解されアメリカから運ばれてきたマーチン(Martin)139WC爆撃機の胴体、主翼などを上海の飛行場で組み立てたようだ。場所は中国、上海、虹橋飛行場と思われる。
Martin : 139
Catalog #: 00068833
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives PictionID:45646391引用。



マーチンB-10爆撃機は、YB-12として、エンジンをライト社ではなく、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney:P&W)社のR-1690「ホーネット」空冷星形エンジン(775hp)に換装した機体も30機程度若干生産されている。これがB-12A偵察爆撃機で、爆撃型YB-12の胴体下面の爆弾倉を追加燃料タンクとして、航続距離を延長した。

写真(右):1937年以降、中国空軍に配備されたアメリカ製マーチン(Martin)139WC爆撃機:胴体下面の爆弾槽に設けられた爆弾懸架に250キロ級の爆弾を搭載している。作業場所は、コンクリートで舗装されているように見える。
Martin : B-10
Catalog #: 00005688
Manufacturer: Martin Designation: 139
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 00005688引用。

マーチン(Martin)139WC爆撃機の爆弾槽が開いているが、扉は軽量化と堅牢さを兼ねるように、波板構造となっている。爆弾は、木製台に車輪を付けた荷台で、爆弾を置く場所を木片で調整している。専用の爆弾懸架用運搬車は使われていないようだ。

蒋介石 中国の蒋介石・その夫人宋美齢が購入に熱心だったアメリカの軍用機、マーチン139WC爆撃機6機は、1937年2月に上海虹橋飛行場に到着した。

この上海中心部近くにある虹橋飛行場は、1937年8月9日、日本海軍の中国駐屯警備隊である上海特別陸戦隊大山勇夫中尉と斎藤與蔵一等水兵が自動車で突入しようとして惨殺された場所である。大山中尉は、日本海軍上層部からの強い要望を受けて、死を覚悟で中国軍の警備する飛行場に突入を図ったと思われる。

この日本海軍が仕掛けた大山事件を契機に、1937年8月13日、第二次上海事変が勃発し、華北の北支事変は、華中、江南を含む支那事変に拡大してしまった。

マーチン139WCは、創設間もない中国空軍第30爆撃戦隊に配備され、第二次上海事変では上海に駐留していた日本海軍部隊、第三艦隊を攻撃することになる。

日中戦争中、1938年5月19日に中国空軍のB-10B(中国名:馬丁式重轟炸機)2機は、重慶を発進、で漢口と寧波を中継して九州の熊本県人吉に宣伝ビラを撒き、玉山と南昌を経由して漢口に帰還した。これが日本本土初空襲となった。

写真(右):1937年以降、中国空軍の爆撃機に用意された模造250キロ級の爆弾と飛行帽・飛行眼鏡を着用した中国空軍の将兵:250キロ級の爆弾は、人間一人で持ち上げることはできない重量があるが、写真では半袖の白いシャツを着た搭乗員が多数繰り出して、将兵が1個ずつの爆弾を抱えている。もちろん演出された写真であるが、当時の海軍航空隊が、中国空軍の基地への逆襲がないと安心している様子が見て取れる。高空用爆弾を吊り下げる懸架用金具の輪が、爆弾1個につき2個ついているが、このことからも爆弾が本物ではない軽い演習用模擬爆弾ことが分かる。
China in 1937 war with Japan
Catalog #: 01030
Subject: The Flying Tigers - China
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 01030引用。

FDR フランクリン/ ルーズベルト[Franklin Roosevelt]大統領としては、中立、孤立主義の風靡する米国の世論と連邦議会とを参戦に転換したかった。ドイツとの劣勢の戦いを指導する英国首相ウィンストン・チャーチル[Winston Churchill]も、ドイツに首都モスクワも占領されそうなソ連の指導者ヨシフ・スターリン[Joseph Stalin]も、日本軍に北京・上海・広東を占領され、東北地方に傀儡「偽満州国」をつくられ、さらに首都重慶の爆撃や内陸への侵攻に苦しんでいる中国の指導者蒋介石も、同様に、米国がドイツ・日本に参戦することを心待ちにしていた。当然、米国参戦に向けて、諜報活動を含む外交を展開していたのである。

米国は、中立をたもっていたが、武器貸与法によって、英国・ソ連に大量の航空機・戦車を含む軍需物資を提供していた。英国連邦の一員のカナダは参戦しているが、カナダから英国への輸送船団には、米国海軍の駆逐艦・掃海艇が護衛についていた。そして,1940年には米国の駆逐艦50隻を英国に譲渡している。

アメリカは中立とはいっても,フランクリン・ ルーズベルト[Franklin Roosevelt]大統領自身が,反ファシズムを明確に宣言していたのである。

ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。戦闘機,爆撃機を大量に中国に売却したが,これはスペイン内戦における共和国軍への軍事支援と同じだった。

写真(右):1937年以降、中国空軍も採用したアメリカ陸軍リパプリックP-43戦闘機::中国駐留のアメリカ義勇軍に装備された。しかし,今日の米国では,二流として無視される場合が多い中国人パイロットによる操縦もあったらしい。
SDASM Archives
AVG Personnel Catalog #: 0136 Subject: The Flying Tigers - China Title: AVG Personnel
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog #: 0136引用。

つまり,コミンテルンでは,反ファシズム戦線として,ドイツと日本の侵攻を抑制すべきであると決議された。ソ連は中国の隣国であり,迅速に支援できたのである。しかし,華北が日本の支配下に入ると,次第に米国の軍事援助がソ連にとって代わった。

1941年6月22日には、独ソ不可侵条約を破ってドイツがソ連に侵攻してきた(バルバロッサ作戦)。それまで、共産主義国ソ連に敵対的であった英国も,米国も対ドイツ戦争を優先して,ソ連支援を即座に決めた。ソ連も1937年の中ソ不可侵条約締結後,中国に多数の戦闘機,爆撃機を(有償?)譲渡。中国空軍の主力航空機となる。戦闘機,爆撃機を大量に中国に売却したが,これはスペイン内戦における共和国軍への軍事支援と同じだった。

英米は、大量の軍需物資を輸送船団で、北海経由あるいは中東経由で,ソ連に送り込んだ。したがって、日米開戦は、ドイツ(ルーマニア、ハンガリー、フィンランドを含む)から攻撃を受けていたソ連にも都合が良かった。

写真(右):1941年以降、中国空軍の下で日本軍と戦ったアメリカ義勇部隊(AGV)カーチスP-40戦闘機とAGV部隊員:中国駐留のアメリカ義勇軍は、新鋭戦闘機を装備されており、日本機を撃墜すれば中国軍から褒賞が授与された。
SDASM Archives
Ray Wagner Collection Image PictionID:48645782 - Catalog:16_008590 - Title:Republic P-43A 41-6687 near Esler Airfield 9Mar42 USAF 36137 A.C. - Filename:16_008590.tif
写真は Flickr, a Yahoo company, SDASM Archives Catalog:16_008590引用。

第二次大戦が1939年に勃発すると、米国は英国に武器など軍需物資を提供し、1940年には船団護衛、対潜水艦戦のための駆逐艦50隻を貸与し、さらに密かに米国海軍艦艇に、英国側にたって参戦している隣国カナダから英国への護送船団に、米国の駆逐艦などを護衛艦として派遣している。さらに、日本と中国軍が戦火を交えている中国大陸へも、軍事支援をし、日中戦争に事実上、密かに「参戦」した。

米国は,1940年以降,アメリカ義勇部隊AVG,のちのフライングタイガーズによる,中国にある日本軍への航空攻撃を繰り返していた。これは,米軍によるものではなく,あくまで,退役軍人が個人の資格で中国空軍に入隊して,傭兵として,戦闘に参加するという建前をとっていた。しかし,装備された航空機は,当事の最新鋭機であり,アメリカ国内の陸軍航空隊で,組織的な義勇軍募集リクルートが行われていたし,米陸軍航空隊は,中国空軍にAVG向けの武器供与をおこなっていた。もちろん,これは米国大統領の承認を得た秘密作戦である。

1940年8月中国共産党は、100コ団(日本軍の大隊規模で10万人程度か)の兵力を投入し,華北の日本軍守備隊陣地,主要な交通機関・鉄道に攻勢を加える「百団大戦」を行った。これも,国民党軍の抗日戦意を高める,抗日戦争に共産党も寄与していることを示す,といった利湯のほかに,日本の対ソ兵力を牽制する目的があるかもしれない。

上海事変においては,陸上での銃撃戦に加えて,日本軍の爆撃,砲撃,中国機の爆撃に加えて,中国軍が撤退するときに,火をかけ,大火災が発生している。放棄する陣地を敵に使わせないように破壊するのは常識だが,上海での市街戦では,繁華街に大火災が生じてしまっている。

1937年の第二次上海事変における日本陸軍の人的被害は甚大である。1937年の10月14日までに死者3900名、負傷者1万5843名を、上海の戦闘がほぼ終了した11月8日までの累計で死者9115名、負傷者3万1259名を出している。死傷者が4万名以上というのは,2個師団壊滅に相当する大損害である。そこで、南京攻略には、新たな日本軍が増派されなくてはならなくなった。


3.現存するマーチン(Martin)139 爆撃機

写真(右):アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館に展示されているマーチンB-10輸出仕様(マーチン(Martin)139)爆撃機の機首(下面に爆撃照準器の装着される爆撃手窓、上面に7.62ミリ0.30口径旋回機銃の銃塔:アルゼンチン空軍が使用していた機体を1970年にアメリカに贈与した機体。
DAYTON, Ohio -- Martin B-10 in the Early Years Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Gen. Henry H. "Hap" Arnold, who called the B-10 "the air power wonder of its day," led 10 B-10s on a 8,290-mile flight from Washington, D.C., to Fairbanks, Alaska, and back in 1934. By the late 1930s, B-17s and B-18s had replaced the Air Corps' B-10s and B-12s, but the Chinese and Dutch air forces flew export versions in combat against Japan at the start of World War II.
TECHNICAL NOTES:
Crew: Four
Armament: Three .30-cal. machine guns and 2,200 lbs. of bombs
Maximum speed: 215 mph Cruising speed: 183 mph
Range: 1,370 miles
Ceiling: 24,000 ft.
Span: 70 ft. 6 in. Length: 44 ft. 9 in. Height: 15 ft. 5 in.
Weight: 14,700 lbs. loaded
写真はWikimedia Commons, Official United States Air Force Website Martin B-10引用。


写真(右):2022年5月19日、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に世界中でただ1機のみ展示されているマーチン(Martin)139WAA爆撃機
DAYTON, Ohio -- Martin B-10 in the Early Years Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
English: Martin 139WAA at the National Museum of the United States Air Force. Date 19 May 2022 Source Own work Author ZLEA.
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin 139WAA (5-19-2022).jpg引用。


現在、マーチンB-10爆撃機輸出仕様(マーチン(Martin)139)は、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に世界中でただ1機のみ展示されている。このマーチン爆撃機はB-10輸出仕様の139Wで、1938年にアルゼンチンに売却された機体の1機である。アルゼンチン政府はアメリカからの要請に応じ、親睦のために、1970年にマーチン139W爆撃機をアメリカ空軍国立博物館に展示用にアメリカ政府に贈与した。

写真(右):アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館(National Museum of the United States Air Force)に世界中でただ1機のみ展示されているマーチン(Martin)139WAA爆撃機
DAYTON, Ohio -- Martin B-10 in the Early Years Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Martin YB-10 in the National Museum of the United States Air Force Source www.vectorsite.net Author Greg V. Goebel Permission (Reusing this file) Public Domain,
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin 139WAA (5-19-2022).jpg引用。

マーチンB-10爆撃機輸出仕様(マーチン(Martin)139)現存の機体は、テキサス州の第96修理中隊(96th Maintenance Squadron)で1973-1976年の間、修復、復元され、現在はオハイオ州デートン(Dayton)市スパーツ(Spaatz)通りにあるライト・パターソン空軍基地(Wright-Patterson Air Force Base)のアメリカ空軍国立博物館の格納庫の一角に展示されている。

写真(右):アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館に展示されているマーチンB-10輸出仕様(マーチン(Martin)139)爆撃機の機首(下面に爆撃照準器の装着される爆撃手窓、上面に7.62ミリ0.30口径旋回機銃の銃塔:アルゼンチン空軍が使用していた機体を1970年にアメリカに贈与した機体。
DAYTON, Ohio -- Martin B-10 in the Early Years Gallery at the National Museum of the United States Air Force. (U.S. Air Force photo)
Gen. Henry H. "Hap" Arnold, who called the B-10 "the air power wonder of its day," led 10 B-10s on a 8,290-mile flight from Washington, D.C., to Fairbanks, Alaska, and back in 1934. By the late 1930s, B-17s and B-18s had replaced the Air Corps' B-10s and B-12s, but the Chinese and Dutch air forces flew export versions in combat against Japan at the start of World War II.
TECHNICAL NOTES:
Crew: Four
Armament: Three .30-cal. machine guns and 2,200 lbs. of bombs
Maximum speed: 215 mph Cruising speed: 183 mph
Range: 1,370 miles
Ceiling: 24,000 ft.
Span: 70 ft. 6 in. Length: 44 ft. 9 in. Height: 15 ft. 5 in.
Weight: 14,700 lbs. loaded
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10BM Night flash photo (6439669813).jpg引用。


写真(右):2019年9月21日、アメリカ、オハイオ州デイトン、アメリカ空軍国立博物館に展示されているマーチンB-10輸出仕様(マーチン(Martin)139)爆撃機の機首(下面に爆撃照準器の装着される爆撃手窓、上面に7.62ミリ0.30口径旋回機銃の銃塔:発動機は、ライト(Wright) R-1820-33 サイクロン(Cyclone 9)空冷9気筒エンジン(排気量29.87L)775hp2基装備。
English: Martin B-10 at the NMUSAF, Dayton, OH Date 21 September 2019, 18:12:58 Source Own work Author Ducatipierre
写真はWikimedia Commons, Category:Martin B-10 File:Martin B-10 Dayton.jpg引用。


マーチンB-10輸出仕様(マーチン(Martin)139)爆撃機の発動機は、ライト(Wright) R-1820-33 サイクロン(Cyclone 9)空冷9気筒エンジン(排気量29.87L)775hpである。

同じライト(Wright) R-1820-33 サイクロン(Cyclone 9)は、ボーイングB-17 フライングフォートレス(R-1820-97排気タービン過給機付)、F3F艦上戦闘機、 F2A バッファロー戦闘機、FM-2艦上戦闘機(ゼネラルモーターズ製F4Fワイルドキャット)、カーチスSBC ヘルダイバー艦上爆撃機、ダグラスB-18 ボロ、SBD ドーントレス艦上爆撃機が装備している。

図(右)1942年9月、アメリカ陸軍航空隊のハンドブックに掲載されたアメリカ陸軍航空隊マーチン(Martin)B-10双発輸送機の三面図:1932年2月16日に初飛行し、1940年までに348機が量産された。
English: A 3-view silhouette of the Martin B-10. Head on view has been moved from prior position on page. Date September 1942 Source babel.hathitrust.org Author Chief, Field Services, Air Service Command, United States Army Air Forces Silhouette handbook of United States Army Air Forces airplanes / published by the authority of the Commanding General, Army Air Forces, by the Chief, Field Services, Air Service Command. 56 page scans
写真はWikimedia Commons Category:Martin B-10 File:Martin B-10 3-view silhouette.png引用。


マーチン(Martin)B-10爆撃機の諸元
乗員 4名
全長: 13.63 m
全幅: 21.60 m
全高: 3.48 m
翼面積: 63.4 m2 全備重量: 7,460 kg
発動機:ライト R-1820-33 空冷9気筒エンジン 775hp ×2
最高速力: 343 km/h
実用上限高度:7,365 m
航続距離: 1,996 km
兵装:
爆弾1,050 kg
7.62mmブローニング旋回機関銃×3丁

アメリカ陸軍航空隊のほか、
アルゼンチン陸軍航空部隊が、22機の139WAAを受領した。アルゼンチン海軍航空隊も12機の139WANと、1機の139WAを受領した。
オランダ空軍が、1936年12月から13機のマーチン139WH-1を、1938年に26機のマーチン139WH-2を購入し、1940年3月までにマーチン166を含めて合計121機がオランダ向けに生産された。植民地の東インドで使用された。
シャム(タイ王国)空軍が、1937年に6機の139Wを1937年4月に受領、 1940‐1941年の対フランス戦争、タイ・仏印戦争に投入された。1942年、日本から蘭印で鹵獲した9機のオランダ受領マーチン139が貸与され、1949年まで使用された。
中華民国空が、1936-1937年に6機のM-139WC-1と3機のM-139C-2、合計9機のマーチン139を輸入し、対日戦に投入した。
トルコ空軍が1937年に20機のマーチン139Wを受領した。


3.一年に二百七十台の米飛行機建造費『中外商業新報/日本産業経済新聞』 第1巻 P.7 1928-03-23
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100224837

写真(右)1932‐1937年、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊の国籍マークを付けたオランダ製フォッカー(Fokker)XB-8爆撃機:1920年代末にアメリカ陸軍航空隊の要求を受けてフォッカー(アメリカ法人)が開発し1930年10月20日に初飛行。合計4機生産。乗員:4名 全長:14.0 m 全幅:20.0 m 高さ:3.50 m 翼面積:57.5 m2 空虚重量:3,112 kg 発動機:カーチス V-1570-23 コンカラー(Conqueror)液冷V12気筒エンジン(排気量 25.7 L) 600 hp (450 kW)× 2 最大速度:260 km/h。
Nederlands: Fokker YO-27 verkenningsvliegtuig. Date between 1932 and 1937 Source https://nimh-beeldbank.defensie.nl/foto-s/detail/fddc74b2-9e7d-7c5f-3c89-72bcc0316923/media/2ea74c68-ad05-b43a-fcd7-fb55253d9fbd Author Collectie Van Beek
写真はWikimedia Commons, Category:Fokker XB-8 File:Fokker YO-27 verkenningsvliegtuig 2161 026167.jpg引用。


【ワシントン二十一日聯合発電】米国下院予算委員会が本日下院に報告したる一九二八年度米国海軍予算案総額三億五千九百十九万ドル中には飛行船二台の建造費八百万ドルの第一期分二百万ドルを始め飛行機建造費三千万ドル、一九三〇年までに竣工すべき筈の巡洋艦八隻及びヴイー型潜水艦二隻建造費千三百万ドル、戦闘艦ネヴァダ号(Nevada)並にオクラホマ号(Oklahoma)改装費六百万ドル等を含むものであるが、右のうち飛行機建造費三千万ドルは、一九二八年より一九二九年に至る一ケ年間に新に海軍飛行機二百七十一台の建造を了すべき事を規定している
(引用終わり)

写真(右)1917年、アメリカ、14インチ三連装砲塔4基搭載のアメリカ海軍ネヴァダ(Nevada)級戦艦ネバダ (USS Nevada, BB-36) :起工 1912年 11月4日 進水 1914年 7月11日 就役 1916年 3月11日。排水量 基準:29,000トン、満載:34,000トン 全長 177.70m 全幅 29.03m 吃水 9.04m 最高速力 20.5ノット 乗員 士官・兵員:864名 兵装: 45口径14インチ35.6cm砲三連装砲2基、二連装2基10門 51口径5インチ12.7cm砲21門。
Description English: Title: NEVADA, U.S.S., IN HAMPTON ROADS Abstract/medium: 1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller Date 1917 Source Library of Congress Author Harris & Ewing, photographer This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID hec.08102
写真はWikimedia Commons, Category:USS Nevada (BB-36)  File:NEVADA, U.S.S., IN HAMPTON ROADS LCCN2016867505.tif引用。


写真(右)1920-1921年、アメリカ、14インチ三連装砲塔4基搭載のアメリカ海軍ネヴァダ(Nevada)級戦艦「カリフォルニア」USS USS Oklahoma (BB-37) :起工 1912年 10月26日 進水 1914年 3月23日 就役 1916年 5月2日。排水量 基準:29,000トン、満載:34,000トン 全長 177.70m 全幅 29.03m 吃水 9.04m 最高速力 20.5ノット 乗員 士官・兵員:864名 兵装: 45口径14インチ35.6cm砲三連装砲2基、二連装2基10門 51口径5インチ12.7cm砲21門。
English: Title: Battleship Oklahoma Abstract/medium: 1 negative : glass ; 8 x 6 in. Date between 1920 and 1921 Source Library of Congress Author National Photo Company Collection Permission (Reusing this file) This image is available from the United States Library of Congress's Prints and Photographs division under the digital ID npcc.29600
写真はWikimedia Commons, Category:USS California (BB-44)  File:Battleship Oklahoma LCCN2016823456.jpgg引用。



Battleships Nevada 4.第一線は何処 : 世界平和の尊き使命『大阪毎日新聞』 第28巻 P.128 1933-01-01
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100336599

世界第一の米国海軍は、東太平洋の金門湾や真珠軍港で濛々と黒煙を上げ、十六インチ(40.6cm) 砲以下数百門の大砲は仰角をかけて、いざという場合、いつでも鯨波を蹴り、飛沫を立て、極東を指して邁進し得る用意を整え、ソヴィエト露国は、極東シベリア方面に精強な三軍団を配する外、幾十万の大軍を東洋に進め得る如く産業五年計画の完成を急ぎつつある。

支那は西は露国、東は米国と手を握り、その援助により、万里の長城を一跨ぎに、百万の大兵を満洲国内に進め、失地回復の機会を狙っている。これが現在極東の軍略的実際の姿である。吾等は以上の実相を頭に描き、本紙附録の国防大地図と対照して、帝国の新国防策および満洲国をめぐり利害の最も交錯する露支米三国の軍備と、その戦略とを概観しようと思う(カット写真は昨春太平洋上に行われた米国海軍大演習における全艦隊から放射された探照灯の偉観) [記事画像に該当写真なし]

帝国の国防方針

 満蒙は帝国の生命線であるが、列国いずれも日本の勢力の満洲に伸びることを嫉んでいる。支那は勿論のこと米国、露国は最もこれを好まない。ここに対米、対露関係が生じ、帝国の国防には陸軍も海軍もともに重大なる責務をもつわけである。

  昭和天皇 即ちわれ等の陸海軍は、大陸方面と、太平洋方面とにかかわらず、帝国の存立を脅かすものに対してこれを排撃し、東洋の平和延いては世界の平和を維持することを使命とする。陸上国防の第一線は満洲国国境、海上国防の第一線は、大隊西部太平洋を包む千島北端と、南洋諸島東部とを連ぬる線と見て差支あるまい。

陸上国防 世界第一のわが陸軍 平時兵員二十三万

 陸軍軍備は日本領土および満洲国の防衛に必要なる兵力と、戦略上経済上他の方面の出動にも必要なる最小限度の兵力を準備している。陸軍の平時兵力は十七師団、兵員約二十三万であるが、戦時総動員すれば師団数は約二倍、兵数は第一線兵だけでも、二倍または三倍内外に増加することが出来るであろう。  帝国陸軍の精強については、世界第一として鼻高々であるが、ただ遺憾なのは新兵器殊に飛行機の整備いまだ十分でないことである。しかしこれも本年から追々準備されることになったので、鬼に金棒という訳である。

露国の軍備政策

 国内の反共産主義者を抑え、外は資本主義諸国に対して自国を防護する外、進んで世界赤化の後援となすため強大な陸軍を養っている。世界赤化は事実上の世界侵略である。その目標は第一に未開地方のアジアに向けられ、外蒙はすでに赤色に染み、いま新疆にその手が伸びつつあり、支那の中心部もすでに大部赤化し、支那民衆は共産軍の暴虐に悩まされている。北満は元来露国の勢力地帯で太平洋進出の要路であり、極東赤化の玄関口であって、露国にとりては、極めて重要な地方である。

従って満洲国の成立は露国の極東政策に対する一大障害である。然るに満洲事変に皇軍が軍旗を翻して北満に進撃しても、赤軍が鳴りを沈めて傍観しているのは何ゆえかというに、本国赤軍の本陣に準備の未だ十分でないものがあるからである、目下露国は産業五年計画の途中にあるが、それが完成する四、五年以後の露国の態度、赤軍の動きこそ大いに警戒を要するものがある。

写真(右)1936年11月7日、ソ連、ツポレフ(Tupolev)ANT-14 Pravda五発輸送機(CCCP[ソ連共産党]:N1001):1931年8月14日に初飛行したANT-14(АНТ-14)は、モスクワから極東ウラジオストクの長距離飛行に対応可能な旅客機として開発された。乗員: 3名 定員: 36 全長: 26.46 m 全高: 5.02 m 翼幅: 40.40 m 翼面積: 240 m2 空虚重量: 10,828 kg 最大離陸重量: 17,530 kg 発動機: ノーム ジュピター (480 hp x 5) × 5 最高速力: 195 km/h(地表近く) 236 km/h(高度) 航続距離: 800 km 実用上昇限度: 5,620 m。試作1機のみで終わったが、ソ連の航空技術の向上に大いに貢献した。アンドレイ・ツポレフは、モスクワ高等工業大学卒業後,1918年に中央航空力学研究所創設にかかわり、1935年まで次長を務めた。しかし、スターリンの大粛清にあい、アメリカとドイツのスパイとして、1938年に収容所送りになったが、そこで飛行機開発に従事させられた。戦時中に釈放された。
Tupolev ANT-14 :Source:Published in former USSR prior 1950, own scan
写真はWikimedia Commons, Category:Tupolev TB-3 File:Tupolev ANT-14.JPG引用。


写真(右)1936年11月7日、ソ連、モスクワ、赤の広場の軍事パレードで更新するT-26軽戦車とツポレフ TB-3四発爆撃機/輸送機:1930年12月22日に初飛行したTB-3は、ユンカースG 38四発輸送機と同じく波板コルゲート構造の外板を使用した。TB-3 は大祖国戦争の緒戦で、親子爆撃機および輸送機として使用された。1938年までに818機が量産された。
Т-26 и ТБ-3 на военном параде на Красной площади 7 ноября 1936 года Date 7 November 1936 Source russiainphoto.ru/ Author Прехнер Михаил Григорьевич
写真はWikimedia Commons, Category:Tupolev TB-3 File:Т-26 и ТБ-3 на военном параде на Красной площади 7 ноября 1936 года.jpg引用。


ロシア怖るべし 尨大な空軍

赤軍の概観

 歩兵七十一個師団、騎兵十二個師団と九旅団、空軍百九十四中隊、その他多数の新式技術部隊を備え、平時兵力約百三十万である、赤軍の特徴は軍の機械化、空軍の拡張、化学戦の準備であって、戦車隊装甲自動車を主体とする常設の機械化旅団四個と師団に配属されている機械化部隊もあり、殊に化学戦部隊は各連隊にまで附属されている。空軍は次の如くで注意を要するのはその爆撃機の優勢なことである。 [図表あり 省略]

 平時極東方面にある赤軍はシベリア軍管区に三個師団、極東特別軍として満洲国の周囲に約十個師団を配置し、必要の場合欧露方面より随時増兵することとしている。

支那軍

 支那の軍隊は蒋介石張学良閻錫山その他諸軍閥等が政権を握り私腹を肥やさんがために養っている私兵で、現在歩兵百十三師団と三十八旅団、騎兵十五師団と数旅団兵数合計二百万、その他に多数の土匪軍あるも正確な数は判明しない。武器には相当新式のものもあり、飛行機も各軍閥のものを合すれば四百機くらい持っているが武器も飛行機も各国の寄せ集めもので統一していない。

スターリン  支那は去月露国と無条件で国交を回復し、同時に利権をもって米国を抱き込み、両国の力を借り外交的にも軍事的にも飽くまで日本を牽制して窮地に陥れ満洲国を取返そうと謀計をめぐらしている

満洲国の危険信号 露支両軍に包囲さる 寡兵、各個撃破の内線作戦

陸上国防の第一線

 昨年[1932年]九月帝国が満洲国の承認とともに[1932年9月15日]日満議定書により日本国および満洲国は領土および治安に対し両国共同して防衛に当ることを約し、これがため所要の日本軍は満洲国内に駐屯することとなった。それは満洲国の治安維持も、露国支那との国境に対する満洲国の国防も日本の国防と全然一致するからである。

現在露国との国境方面には約十万の[ソ連]赤軍があり、支那方面の国境には十八万の[張]学良軍が頑張り、その背後には各大軍が控え、満洲国は三方面より包囲されているからその国防のためには内線作戦をとらねばならない。それには露支両軍を相手にする場合を仮想し両国はどの位の兵をわれに向け得るかを考察しなければならない。詳しい計算は省いて動員せる大赤軍はその内より約九十万内外を極東に出し得るものと見られている。また支那軍は二百万の内半数の百万位はわれに向わせることが出来るだろうといわれている。

イ16 しかし戦闘能力の上から計算して[ソ連]赤軍はわれとほぼ同等、支那軍は約半分と見れば合計百四十万となる。これに対して日本軍を七十万位とすれば日本軍は二分の一の兵力をもって露支両軍に当らねばならない。しかもこの場合日米海戦も同時なることを考慮すれば○○○○○方面にも相当の陸軍を要し内地植民地の首尾も欠くことが出来ないから満洲においては半数以下の日本軍に若干の満洲国軍を加えた小兵力で露支両軍を相手としなければならないことになる。

ここにおいて利用すべきことは地の利である。遠隔の欧露より一本の鉄道で増兵する赤軍、中南支よりのこのこ北に向う支那軍に対し動員せる日本軍は日本海、対馬海峡を越え幾条の鉄道により短時日間に満洲国内に集中し内線作戦により寡兵をもって大軍に対し各故撃破[各個撃破]の戦法をとるのである。その方法は参謀本部の握る極秘の虎の巻で門外漢の知るところではないが、その成敗については国民は安心して軍当局に任せて置いてよい。

 ただこの場合少々厄介なのは、チタとウラヂオ方面のマンブフカ附近にある百八十台の赤軍飛行機である。満洲国内ばかりでなく、朝鮮内地まで相当の脅威である。しかも欧露より真先に増援するものはまたその空軍なることを予期しなければならぬ。空軍の危険はさらに支那方面にもある。支那はすでに米支合弁および独支合弁の航空路を開設し、殊に米支合弁では多数の米国機および操縦者を使用するほか去月中旬支那は対米飛行機借款により、沿岸に三大飛行場を設け、五百機を増加するとの説が伝えられている。これが実現の暁には、有事の日、米国の援助とともに日本にとって甚大の危険を来すであろう

満洲国と露支両国の海軍

 満洲国[1932年成立]には目下松花江に砲艦数隻より成る江防艦隊あるのみだが将来黒竜江および渤海湾にも若干の海軍を必要とするであろう。露国が太平洋方面に多少とも海軍を復興し、支那が米国の指導援助の下に新式海軍を若干でも整備することになれば日満両国対露支米三国の国防に多少の変化を来さざるを得ないであろう。

海上国防 四要港と三大軍港 劣勢よく米国に当り得るか

比叡危い六割海軍

 帝国海軍軍備は西太平洋を管制して国土を安全ならしむるとともにわが国と極東大陸との海上交通を保護し、なお南洋およびインド方面との通商を安全にするため必要なる海軍力を整備している。しかしてその兵力は守勢的に米国海軍の約七割を標準としているが[1921年]ワシントン[会議]および[1930年]ロンドン会議において劣勢な六割三分に押しつめられてしまった。即ち米国は海上における大砲の力によらず、卓上三寸の舌をもって帝国海軍力の約四割を易々と撃沈したのである。

那智 艦隊新編制

 昭和八年度のため改新された艦隊は連合艦隊として第一、第二艦隊を合したもの、その軍艦数は戦艦陸奥以下大小六十隻内外、将兵約二万、軍艦の総価額は六億円余に上り連合艦隊司令長官小林中将これを統率し、優勢な米国艦隊に対して太平洋の守りに日夜心血を注いでいるのである、第三艦隊は上海および南支方面の警備に任ずるもので、出雲、天竜などのほか第一遣外艦隊の十数隻ならびに陸戦隊約二千名がいる。第二遣外艦隊は旅順を根拠地とし北支方面の警備に当っている。

帝国海岸海面の防備

加賀  日本領土は北は氷雪の千島樺太より、南は灼熱の赤道直下にある南洋諸島まで延び、その間に点々する陸地と島を囲む海岸海面は海軍の手で護られている、そのために帝国の海岸海面は五つの海軍区に分たれ、第一海軍区は横須賀鎮守府、第二海軍区は呉鎮守府、第三海軍区は佐世保鎮守府の分担で他に満洲方面の関東海軍区(佐世保所属)南洋海軍区(横須賀所属)がある。横須賀、呉、佐世保の三大軍港はわが海軍の大根拠地で、他に小根拠地として大湊、舞鶴、鎮海、馬公の四要港がある。

 陸軍の要塞は、海軍とも密接の関係あり、津軽、東京湾、由良、舞鶴、豊予、下関、佐世保、長崎、対馬、壱岐、鎮海湾、永興湾、基隆、澎湖島、奄美大島、小笠原島の諸要塞がある。これらはその位置によって想像し得る如く戦時海軍と協力し重要な海峡や港湾の入口を塞ぎ敵軍艦殊に潜水艦の侵入を防ぎ重要地艦船などを安全にするものである、戦時には他の重要地にも防備が施されるであろう。 [図表(輪型陣図解RING FORMATION)あり 省略]

写真(右)1934年5月31日、アメリカ、ニューヨーク沖、14インチ三連装砲塔4基搭載のアメリカ海軍テネシー(Tennessee)級戦艦「カリフォルニア」USS California (BB 44) :起工 1916年 10月25日 進水 1919年 11月20日 就役 1921年 8月10日。排水量 基準:32,600トン、満載:35,190トン 全長 190.35m 全幅 34.74m 吃水 10.36m 最高速力 21ノット 兵装: 50口径14インチ35.6cm砲三連装砲4基12門 38口径5インチ12.7cm砲14門。
80-G-463936: Aerial oblique view of USS California (BB 44) off the port quarter while off New York, May 31, 1934. Official U.S. Navy photograph, now in the collections of the National Archives. (2016/09/20). Date 20 September 2016, 11:18 Source 80-G-463936 Author National Museum of the U.S. Navy
写真はWikimedia Commons, Category:USS California (BB-44)  File:80-G-463936 (29194906683).jpg引用。


写真(右)1932年、アメリカ、ニューヨーク沖、16インチ連装砲塔4基搭載のアメリカ海軍コロラド(Colorado)級戦艦1番艦「コロラド」USS Colorado (BB-45) :発注 1916年8月29日 起工 1919年5月29日 進水 1921年3月22日 就役 1923年8月30日。排水量 基準:32,500トン、 満載:33,590トン 全長 190.20m 全幅 32.92m 吃水 9.07m 機関 蒸気タービン 4軸: 28,900 shp (22 MW) 最高速力 21ノット 兵装: 45口径16インチ40.6cm砲連装砲4基8門 38口径5インチ12.7cm砲14門。
English: The modernized U.S. Navy battleship USS Colorado (BB-45) steams off lower Manhattan (New York City, USA), circa 1932.[1] Date circa 1932 Source U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 2004.042.052 [1]
写真はWikimedia Commons, Category:USS Colorado (BB-45) File:USS Colorado (BB-45) New York 1932.jpg引用。


謎の太平洋に米国海軍の暗躍 作戦本営サンフランシスコ 出動本陣はハワイ

重巡洋艦 CA-44 米国海軍政策

 米国が極東に目をつけたのは百五十年前の昔からであるが米国海軍が東洋遠洋作戦を考え出したのは日露戦争後日本が[エドワード・ヘンリー・]ハリマン(Edward Henry Harriman, 1848年2月20日 - 1909年9月9日)) に満鉄を売らなかったときからである。だから米国の満洲に対する関心は決して新しいものではない。それは単に経済的問題ばかりでなく、米国では満洲を手に入れるものは極東を制し、極東を制するものは太平洋を制し、太平洋を制するものは世界を制するものと重視しているからである。従って米国の国策は飽くまで日本の大陸発展を妨害することにあるのである。米国の海軍政策もここに出発するもので米国海軍はその国策と商業貿易を支援するとともに米本土と海外領土とを防護することを目的としている。これがためには世界第一の海軍となし大西洋では守勢作戦をとり太平洋方面においては攻勢作戦をとる方針を定めている

米国海軍の特徴と新艦隊編制

重巡洋艦 CA-44  米国海軍の特徴は、航続力大なること、砲力優大なること、居住性完備すること、右いずれも渡洋作戦に必要な条件のみである。しかして米国艦隊は太平洋作戦に重点を置き[1930年の補助艦(巡洋艦、駆逐艦、潜水艦)保有制限の]ロンドン会議後専ら対日関係を中心として艦隊の編制を新たにし現在海軍力の九十パーセントを太平洋に集中し、本年早々また遠洋作戦の大演習を開始し三月末まで続行することになっている。

 米国新艦隊は戦闘部隊、索敵部隊、潜水部隊、根拠地部隊の四つに区分し、その巻数約三百数十隻、日本の常備艦隊とはケタ違いである。  右の他米国海軍はマニラを根拠地とするアジア艦隊、グワム警備として砲艦一と特務艦を配しパナマ運河警備のため粒米艦隊を備えている。

米国海軍根拠地

 米国の海軍根拠地は戦略攻略商略上より統制的に配置設備されている。太平洋作戦のため米国の戦略的根拠地たる北方ピューゼット・サウンドと南方のパナマを底とし、ハワイの真珠軍港を頂点とする大三角形を描きその底部に大小数多の根拠地を備えるほか最前進根拠地としてグワム、マニラを有し、さらにアリューシャン群島のウナラスカおよびキスカ、南太平洋のサモアにも要港があって、有事の日はハワイを枢軸として翼をキスカ、サモアに張り、西太平洋を包む大陣形をとり得る構えとなっている。現在戦略上の大根拠地はサンフランシスコを中心にピューゼット・サウンドとサンヂエゴを作戦根拠地、ハワイを前進根拠地として太平洋作戦が計画されている。右のほか太平洋方面にある小根拠地は本土西岸にサンピドロ、アストリア、ポートエンゼルス、アラスカ方面にはシトカ、セワードなどがある。しかして太平洋作戦の本営はサンフランシスコ、出動本陣はハワイである。

写真(右)1938年10月、アメリカ、カリフォルニア州州オークランド飛行場、アメリカ海軍航空隊ダグラスTBD デヴァステイター(Douglas TBD Devastator)雷撃機(先頭)、カーチスSBC ヘルダイヴァー(Curtiss-Wright SBC Helldiver)艦上爆撃機、グラマンF3Fフライングバレル(Grumman F3F Flying Barrel)艦上戦闘機(奥):1935年4月15日初飛行のダグラスTBD デヴァステイター(Douglas TBD Devastator)の諸元: 乗員:3名(パイロット、雷撃手/航海士、通信士/銃手) 全長:10.67 m 全幅(翼長・翼幅):15.24 m 全高:4.60 m 翼面積:39.2 m2 空虚重量:2,540 kg 満載重量:4,213 kg 最大離陸重量:4,624 kg 発動機:P&W R-1830-64 ツイン・ワスプ 900 HP (672 kW) 最高速力:331 km/h 航続距離:700 km (雷撃時)、1,152 km (1000 lb (454 kg) 爆弾搭載時) 兵装: ブローニング 7.62mm AN/M2 機関銃 または ブローニング AN/M2 12.7mm機関銃 前面固定×1 ブローニング 7.62mm AN/M2 機関銃 後方旋回×1 Mk.XIII魚雷 ×1 生産数:129機
A U.S. Navy Douglas TBD-1 Devastator (BuNo 0322) of Torpedo Squadron 6 (VT-6) joins and Grumman F3F-2 of Fighting Squadron 6 (VF-6) and an Ccurtiss SBC-3 Helldiver (BuNo 0545) of Scouting Squadron 6 (VS-6) in a flight over the Virginia countryside. All squadrons were part of the Enterprise Air Group. The TBD-1 0322 was lost when it stalled on take-off from the aircraft carrier USS Enterprise (CV-6) on 10 March 1939. The crew was not injured. Date circa 1938 Source U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 1996.253.993 Author U.S. Navy
写真はWikimedia Commons, Category:SBC Helldiver of the United States Navy File:TBD F3F SBC of Enterprise Air Group c1938.jpg引用。


写真(右)1937年-1940年、アメリカ、カリフォルニア州オークランド飛行場、アメリカ海軍航空隊第5偵察飛行隊(空母「ヨークタウン」搭載)SBC ヘルダイヴァー(Curtiss-Wright SBC Helldiver)艦上爆撃機(5-S-12):1935年12月9日 全長:8.64 m 全幅:10.36 m 全高:3.84 m 全備重量:3,211 kg 発動機:ライト R-1820-34 空冷星型9気筒 950hp×1 最高速力:381 km/h 実用上限高度:7,750 m 航続距離:950 km 武装 爆弾 452 kg 7.62mm機関銃×2 乗員 2名 生産数:257機
A U.S. Navy Curtiss SBC-3 Helldiver (BuNo 0543) of Scouting Squadron Five (VS-5) in flight. The squadron was assigned to the aircraft carrier USS Yorktown (CV-5) and flew the aircraft during from 1937 to 1940. The SBC-3 BuNo 0543 was retired on 6 July 1943. Date circa 1937-1940 Source U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 1996.253.094 Author U.S. Navy
写真はWikimedia Commons, Category:SBC Helldiver of the United States Navy File:SBC-3 Helldiver VS-5 in flight c1939.jpeg引用。


大空軍二千八百機

空の大魔軍

 海軍機は、すでに五年計画完成し、第一線用として艦隊所属五百六十九機、陸上航空隊三百四十五機、海兵航空隊八十六機、合計一千機を有している。米国海軍は航空機に重きを置き、艦上機だけで日本海軍の艦上、陸上を合せた全機数より優勢なものとする計画を立てロンドン会議に三案を懐にして臨んだが一番少い第三案に成功し、保有巡洋艦の四分一に飛行機甲板をつけた航空巡洋艦を設けることとした。米国では航空母艦と右航空巡洋艦により飛行機を建造すれば、合計九百三十機の大拡張をなし得るのである。これを現有機と合すれば、二千機に近きものとなり、これに対し、日本海軍機は現在十七隊のほか計画中の十四隊完成しても、僅かに八百機に過ぎない、海上国防上の一大脅威といわなければならない。日本が軍縮会議に最近航母航空巡洋艦の廃止を提案したのもこのためである。


図(上)1940年1月31日、アメリカ、アメリカ海軍航空巡洋艦(Flight deck cruiser) CF-2の構想三面図面
:1922年のワシントン軍縮会議で、巡洋戦艦を空母「レキシントン」「サラトガ」に改造して竣工させた。そこで、1930年のロンドン軍縮条約前に、同様の発想で巡洋艦にも航空機搭載能力を持たせて、多数の小型空母を保有し、損害を分散させることが構想された。全長640フィート、ビーム67フィート、全高(飛行甲板まで)65.5フィート、基準排水量1万2200トン、最高速力33ノット、機関出力(SHP)10万馬力、行動半径1万マイル/15ノット、前後の甲板に47口径6インチ三連装砲塔(旋回角度270度)各1基6門(正面装甲6.5インチ、側面装甲1.5−3インチ、天井2インチ、バーヘッド5インチ)、アイランド型環境の前後に38口径5インチ連装高角砲各1基4門、飛行機36機。
English: Proposed Flight Deck Cruiser, CF-2 Preliminary design plan prepared for the General Board during the final effort to develop a flight deck cruiser ("CF"). This plan, dated 31 January 1940, is for a 12,200 ton standard displacement ship (14,560 ton trial displacement) with a main battery of six 6"/47 guns, a secondary battery of four 5"/38 guns and an aircraft complement of 36 scout-bombers. Ship's dimensions are: waterline length 640'; waterline beam 67'; draft 22'. Powerplant has 100,000 horsepower for a speed of 33 knots. Scale of the plan and side elevation drawings is 1/32" = 1'. The original plan is in the 1939-1944 "Spring Styles Book" held by the Naval Historical Center. Date 31 January 1940 Source http://www.history.navy.mil/photos/images/s-file/s511-05c.htm Author United States Navy
写真はWikimedia Commons Category:Martin B-10 File:Flight deck cruiser design CF-2 31 Jan 1940.jpg引用。


写真(右)1940年頃(?)、アメリカ、飛行場で待機しているアメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)Y1B-9 爆撃機:乗員 4名 全長 15.7 m 全幅 23.4 m 高さ 3.86 m 翼面積 88.6 m2 空虚重量4,056 kg 最大離陸重量 6,500 kg 発動機 プラット・アンド・ホイットニー R-1860-11 "Hornet"空冷星型エンジン(600馬力)2基 最高速力 302 km/h 航続距離 870 km 実用上昇限界 6,325 m 兵装 ブローニング0.30インチ(7.62 mm)機関銃2挺 爆弾:2,200ポンド(1,000Kg)。
English: Boeing Y1B-9 with Pratt & Whitney R-1860 Hornet B air-cooled nine-cylinder radial engines. Date early 1930s Source https://media.defense.gov/2006/May/11/2000557329/-1/-1/0/060421-F-1234P-040.JPG at gallery page Author U.S. Air Force.
写真はCategory:Boeing YB-9 File:Boeing Y1B-9 with Hornet B engines (060421-F-1234P-040).jpg引用。


米国陸軍機

 陸軍機も一九二六年より五年計画で千八百機充実することになっている。その内現在次の如く配置されている。

パナマ 四十一機さらに八十機増加中(他に海軍飛行艇三十台)
ハワイ 九十六機
比島 五十機(飛行場十余ヶ所新設)

写真(右)1940年頃(?)、飛行中のアメリカ、アメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)Y1B-9 爆撃機:1931年にボーイングがアメリカ陸軍航空隊競争試作に応じた初の全金属製単葉機で、1931年4月13日初飛行。しかし、1932年2月16日初飛行のマーチン(Martin)B-10が制式されたために、7機の試作で終わった。
Boeing Y1B-9 test flight, 1932, with its retractable landing gear extended..
写真はCategory:Boeing YB-9 File:Boeing Y1B-9 test flight USAF p29.jpg引用。


不公平な太平洋の防備制限

 南洋に広く点々するわが委任統治諸島は、海軍のため非常に重要なところである。この島々には平和条約により平時軍事設備は出来ないが、軍艦の錨地もあり、殊に潜水艦のかくれ場所などにはあつらえ向きである。ここがフィリピンに向う米国艦隊の通路に当るのだから、米国海軍にとりては非常な脅威に相違ない。

アラバマ  ワシントン会議で米国はハワイに、英国はシンガポールに金城鉄壁の大根拠地を築くことを自由とし、日本には玄関先の小笠原島、奄美大島さえも防備制限区域として束縛した。如何にも横暴極まるものである。しかし日本がこれを承諾したのは深い意義がある。即ち米国は日本に対し主力艦の六割を要求してやまなかったが、米国が十の大艦隊を比島に集中すれば日本は西太平洋で必敗の十対六で戦わねばならぬ。比島に大根拠地の設備を制限すれば、米国は十の艦隊をハワイで勢揃いするほかはない。ハワイから遠き西太平洋に進出するまでには、〇割かの犠牲を払わねばならないので、日本はここを狙って比島、グワムの防備制限を交換条件として主力艦六割を承諾したのである。

極東指して堂々と進攻 得意の輪型陣

レキシントン 極東進攻作戦

 米国が極東に向って進攻作戦をとる艦隊は、戦闘部隊と索敵部隊の全部で、これにフィリピンを根拠地とするアジア艦隊が策応するものである。戦艦十五隻を中心として、これに巡洋艦三十三隻、航空母艦四隻、駆逐艦二百余隻、潜水艦八十余隻この他多数の特務艦を合し、合計四百隻内外の大艦隊が極東指して堂々と進攻するのである。これがためとる隊形は米国海軍が多年研究訓練せるリング・フォーメーション即ち輪型陣と称する堅固無比の雄大な陣型である。

 輪型陣は主力艦を中心に、二十マイルの半径をもって円を描きその線上に巡洋艦を配し、さらにその線上より五マイルおきに一円を描きその線上に駆逐艦を置き、さらにその外方視認距離に円を描きそこに潜水艦を備え、三段構えの厳重な網を張り、その前方二百乃至五百マイルに一万トン巡洋艦十一隻を間隔二十五マイルとして横に並べ、巾二百五十マイルの広き海面に捜索網を張るものである、しかしてその前方にはさらに多数の飛行機を放ち、日本艦隊を索めつつ堂々大洋を圧し、極東に向って突進するのである。(上段の凸版附図参照)

空母 まず敵に損害を与え然る後決戦 わが海軍の作戦計画

 これに対する日本海軍は軍艦こそ少いがその精鋭さは世界無比を誇る海軍である。むざむざと米艦隊の西太平洋進入を許すはずがない。第一に目先きにあるアジア艦隊の根拠地たるフィリピンおよびグワムの血祭りは免れぬであろう。次に米艦隊の恐るるところは日本主力艦隊は米艦隊の優勢なる間、何れかの安全根拠地にかくれて決戦を避け、その間に補助艦、奇襲艦隊を放ってポカリポカリとやられることである。その幾割かがやられ日本主力艦隊が躍り出たときこそ、一挙に米艦隊が葬られるときだからである。尤もそれまでの間、東支那海はもちろん南支那海にも敵艦の進入を許してはならない。

殊に満洲国成立[1932年3月1日]以来国防上特に重要となった日本海は絶対に安全にしなければならぬ。ただ厄介なのは航空母艦または航空巡洋艦による内地に対する空中攻撃である。それはアリューシャン方面、シベリア、支那方面の陸上よりする空襲とともに、大なり小なり到底免れないであろう。内地重要地の防空設備の必要なゆえんである。しかしながら帝国海軍は断じて米海軍には負けない。現在然り、一九三六年以後も同様である。

米国の攻勢陸軍

 米国陸軍も非常に雄大なる攻勢作戦を目的としていることは、一九二二年参謀総長パーシング[John Joseph Pershing]大将の発表せる国防方針でも明瞭である、細説はここに省き、一言にしてこれを尽せば平時兵力は少数だが、国家総動員により、八ヶ月の後四百万の戦時兵員を作り、これをもって五十四個師団の大陸軍を編制し、遠征軍として攻勢作戦を敢行する方針となっているのである。平時太平洋方面では正規軍の内フィリピン、ハワイ、パナマに各一個師団、アラスカに歩兵一大隊を配置している。

戦わぬための国防

 帝国の陸海軍備は、決して他国を侵略する軍備でない。日本の生存と東洋の平和を妨害する国の不法なる圧迫を排する破邪の剣である。利己主義の横暴国に対し帝国および満洲国の陣営を堅くしその非望を自制断念させて、戦いを起さしめないことである。

第一線は何処 : 世界平和の尊き使命『大阪毎日新聞』 第28巻 P.128 1933-01-01引用終わり。


5.アラスカへ米国陸軍[マーチンB-10]爆撃機十台で編隊大飛行 : 空の防備強化七月上旬決行『大阪朝日新聞』 第32巻 P.198 1933-01-01
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100343990/

写真(右)1934年頃(?)、アメリカ、海上で待機するアメリカ海軍航空隊コンソリデーティッド(Consolidated) P2Y双発飛行艇:1929年1月10日初飛行、1941年には退役、生産機数78機。 乗員: 5名 全長: 61 ft 9 in (18.82 m) 全幅: 100 ft 0 in (30.48 m) 全高: 19 ft 1 in (5.82 m) 主翼面積: 1,514 sq ft (140.65 m2) 空虚重量: 12,769 lb (5,792 kg) 総重量: 25,266 lb (11,460 kg) 発動機: 2 × Wright R-1820-90 Cyclone空冷星形9気筒エンジン750 hp (559 kW)。
Description 7-P-2neg Date 2 January 2010, 14:47 Source 7-P-2neg Author Bill Larkins.
写真はCategory:Consolidated P2YFile:Boeing Y1B-9 test flight USAF p29.jpg引用。


[写真(アーノルド中佐)あり 省略]
【ワシントン二十一日発連合】米国陸軍は七月上旬を期しアラスカのフェアバンクスに向け[マーチンB-10]爆撃機十台から成る編隊大飛行を敢行するに決し二十一日右飛行計画を発表した今回の壮挙の目的は
 「訓練ならびに撮影飛行」と公称しているが海軍が今年一月爆撃飛行艇[Consolidated P2Y-1]六台の編隊飛行でサンフランシスコから太平洋上の前哨基地真珠湾まで航程二千四百マイルを一気に翔破したのと相呼応し応急出動の訓練を遂げ要衝地点に空の防備強化を計るものと見られる

米陸軍省発表の計画内容左の如し
 時期 七月上旬▲参加機 陸軍爆撃機十台▲参加将校指揮官 カリフォルニア州リヴァサイド飛行隊長ヘンリー・アーノルド [Henry Arnold]中佐、飛行将校二十名、下士一名▲コース ワシントンを起点としミネアポリス、ウィニペック、レジナ、エドモントン、プリンス・ジョージ、ホワイト・ホースを経由(右各地に着陸)してアラスカのフェアバンクスに達する▲総飛行距離 七千三百三十五マイル▲飛行日数 五十日

解説:1934年7月から8月にヘンリー・ハーレー・“ハップ”・アーノルド (Henry Harley "Hap" Arnold: 1886−1950)中佐は、新鋭マーティン(Martin)B-10双発爆撃機10機の編隊で、アメリカ東部ワシントンDCのボーリング基地(Bolling Field)からアラスカ州フェアバンクス( Fairbanks)まで8,290マイル (13,340 km)の北アメリカ横断往復飛行に成功した。この功績で、アーノルドは、1935年、マッキー・トロフィーを受賞し、3月に2階級特進し、准将(Brigadier general)に昇進した。太平洋戦争勃発直後、1941年12月15日、アーノルドは中将に昇進。

写真(右)1931-1934年、アメリカ、海上を低空飛行するアメリカ海軍航空隊第10哨戒飛行隊コンソリデーティッド(Consolidated) P2Y-1双発飛行艇:最高速力:149 mph (240 km/h, 129 kn) 巡航速力: 118 mph (189 km/h, 103 kn) 航続距離: 1,180 mi (1,899 km, 1,030 nmi) 実用上昇限度: 16,100 ft (4,265 m) 上昇率: 650 ft/min (3.3 m/s) 兵装: 3 × .30 in (7.62 mm) M1919ブローニング(Browning)旋回機関銃 爆弾:2,000 lb (910 kg) 。
Description A U.S. Navy Consolidated P2Y-1 flying boat of Patrol Squadron VP-10F in flight. The four-star flag indicates that an admiral is on board. Date circa 1931-1934 Source U.S. Navy National Museum of Naval Aviation photo No. 2004.114.018 Author U.S. Navy
写真はCategory:Consolidated P2Y File:Consolidated P2Y VP-10F in flight 1930s.jpeg引用。



6.米国爆撃機の欠陥を改装す : 米陸軍の工作命令『神戸又新日報』 第34巻 P.207  1934-11-29
https://da.lib.kobe-u.ac.jp/da/np/0100344730/

サンフランシスコ二十七日発電 —アメリカ陸軍は西海岸新爆撃隊の改装を命じ目下リヴァサイドにある爆撃機三十六機は近く出発当地へ飛来し機体故障の欠陥除去の工作を受けることとなった、このため航空機一台宛の操縦士及び五百二十五名の一般乗組員、地上勤務員も近く当地へ集まることとなっている、右改装令命は去る十月二日キロにおいて一爆撃機が翼の故障のため墜落して以来機体構造に欠陥あることが発見され発令されたものである
(引用終わり)

7.空軍の第二線 : 民間航空の重要性
満州日日新聞 満州日報 Vol: 第 5巻 Page: 27 出版年 1937-07-05

https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100089801

「空を制するものは世界を制す」今や航空に無関心である国家はあり得ない、列国は競って空軍の拡充に寧日なき状態であるが、一方民間航空は如何なる状況にあるかというと、無論民間飛行士の養成に、定期航空路の伸張に、飛行場増設に不断の努力を傾けて、航空施設の拡充、完備を期している

民間航空の内容

「民間航空」とは「軍事航空」と区別していう呼称であって、これを「文化航空」ともいうことがある、というのは軍事航空は航空機を兵器として使用することを内容とするものであるが、民間においてはこれを専ら文化用途に応用して人類の生活上の便宜を供しているからである、民間航空の内容は工業部面とその他の部面とに大別することが出来る、工業部面というのは民間において航空機やこれに附随する器材を製造したり、加工したりする業態のことをいうのであって、普通これを民間航空工業と呼んでいる、その他の部面というのは「用途」と「人」と「施設」とに区別することが出来る、

航空機の用途は器材の進歩に伴れて益々多くなるのであるが、現在は軍事用途を別にしてその中の主なるものを挙げて見ると、定期航空エア・タクシー、新聞通信、測量資源調査、魚群探知、遭難捜索等であって、中でも定期航空は最も重視せられるものである、

次に人とは、民間航空界の要員のことで飛行士も機関士も技術家もその他の人々も皆この中に含まれるのである、第三の施設というのは、飛行場やその他の航空設備、航空要員を養成する教育機関等を指すのである、民間航空の内容は大体以上の如きものである 民間航空と国防

ところで民間航空と国防との関係はどうか、よく「民間航空は空軍の第二線」だとか「予備空軍」だとか言われているのであるが、一体その第二線たるの役目は何なのか、予備空軍の実は何処に在るのかというような実際問題になるとまだよく周知されていないようである、大抵の人は「それは飛行機も、人間も軍用に転化できるからだ」と答えることは出来ても、どう転化せしめるのか、また何故そうする必要が生ずるのかということに就てはぴったりした説明が出来ないようである、

しからばその真諦は何か、まず何故、民間航空を空軍の予備とする必要があるかというに、空軍器材が非常に高価であること、器材の消耗率の大きいこと、空中勤務員の養成費ならびに給与に少なからざる金の要ること、訓練に要する費用が莫大であること等の理由で航空兵備を維持するには茲に巨額の経費が必要なのである、即ち一飛行聯隊の一ケ年の経費は大体一箇師団の維持費に相当すると言われている、こういう風に莫大な費用のかかることは平時において航空兵備を充分に貯蓄し難い理由となるのであるが、それは国家財政上から見た理由であって、勿論これが全部ではなくこの外になお経済を超越した大きな理由がある

1 航空機材は日進月歩の勢で進歩改善されるので、弾薬や他の軍需品のように余分に貯蔵して置くことは断じて出来ない
2 空中勤務者には年齢の制限がある、他の兵種だったらかかる悩みはないのであるが、空中勤務者は老境に入るに従って適応性が退化するので、少くとも三十五、六歳以上の者は第一線から退かねばならなくなる、故に航空兵種の在郷軍人は有事の際第一線の役に立たないのである

民間航空が空軍の予備として必要な理由は大体以上のべたような一財政上の理由二、技術上の理由三人的理由の三つに帰せられるようである(空軍の第二線 : 民間航空の重要性引用植わり)


8.ダグラス(Douglas)B-18 爆撃機

写真(右)1936-1939年、アメリカ、未舗装エプロンで駐機しているアメリカ陸軍航空隊第3爆撃飛行隊第2特別飛行中隊ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)双発爆撃機(BE 32)の前左側面 :初飛行は1936年4月。全幅 89 ft 6 in (27.28 m)、全長 57 ft 10 in (17.63 m)、翼面積 89.1 m2、自重 16,320 lb (7,403 kg)、総重量 24,000 lb (10,886 kg)、 発動機 ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒1,000 hp (750 kW)2基、最高速力 216 mph (348 km/h, 188 kn)、航続距離 900 mi (1,400 km, 780 nmi)、乗員6名。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,000 lb (910 kg) 。1939年までに351機量産。
Douglas B-18 of the 3rd Bomb Group (BC 20) after over-running the runway Source www.nationalmuseum.af.mil Permission (Reusing this file) US Goverment
写真はWikimedia Commons Category:Douglas B-18 Bolo File:3d Bombardment Group Douglas B-18 Bolo.jpg引用。


ダグラスB-18 ボロは1936年制式で、ダグラスDC2旅客機の主翼を流用した設計で、開発期間を短縮できたものの、速力不足(357km/h)、爆弾搭載量(2000lbs/908kg)は十分ではなかった。

アメリカ軍の国籍マーク変遷
第二次世界大戦初・太平洋戦争初頭(1942年春まで):青丸白星、白星中央に赤丸 垂直尾翼方向舵の赤白帯ストライプ
1942年春以降、青丸白星、白中央の赤丸は削除、方向舵の赤白帯ストライプは廃止
1943年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・赤縁付き”STAR AND BAR”
1943年9月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁付き”STAR AND BAR”
第二次世界大戦後、1947年6月以降、青丸白星、両側に白色袖・青縁・赤ストライプ入り”STAR AND BAR”

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)爆撃機を見る。 


9.ダグラス(Douglas)B-23爆撃機

写真(右)1947年7月、アメリカ、無塗装のダグラス(Douglas)B-23爆撃機の左側面:第二次世界大戦参戦以前の国籍マークを付けている。尾部には .50 インチ(12.7mm)ブローニング(Browning)機関銃1丁を装備した尾部銃座とその銃手用のガラス窓がある。
Douglas B-23 Dragon Source http://www.nationalmuseum.af.mil
写真はWikimedia Commons,Category:Douglas B-23 Dragon File:B-23 Dragon 1.jpg引用。


ダグラス社は前作のB-18 ボロを1936年に制式した。その改良型が、量産していたDC-3輸送機の主翼とエンジンを流用して胴体を再設計したのがB-23爆撃機である。

ダグラスB-23爆撃機大きな垂直尾翼の形状は、B-17フライングフォートレスと似た形状である。

ダグラス社は、民間航空で就役して高評価を得ていたダグラスDC-3輸送機の主翼と強力なライト R-2600-3 レシプロエンジン 2基(1,600馬力)を採用して、新たな設計の胴体を使った双発爆撃機を開発した。これが、1939年7月23日に初飛行したダグラス(Douglas)B-23爆撃機である。発動機出力が強化され、速力向上、航続距離が長くなったため、アメリカ陸軍航空隊は旧式化B-18に次いで、B-23を38機発注した。

ダグラス(Douglas)B-23爆撃機は、低翼単葉、引込み式降着装置、尾部銃座装備の双発爆撃機で、ダグラス社のカリフォルニア州サンタモニカ工場で合計38機が生産されたにとどまった。

ただし、B-23を輸送機やグライダー曳航機に改造した機体が、12機生産されたが、これは、1943年にダグラス UC-67輸送機と命名されている。

⇒写真集Album:ダグラス(Douglas)B-23 ドラゴン(Dragon)爆撃機を見る。 


10.与圧キャビンのロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度実験機

アメリカ陸軍航空隊は、ロッキード社と契約して、高高度25,000 ft (7,620 m)を飛行しても、搭乗員が低気圧に苦しめられないで2時間の飛行可能で、航続時間10時間以上の高高度性能をもつ実験機を11万2,197ドルで発注した。これが、ロッキード(Lockheed )XC-35で、高高度飛行が可能な与圧キャビンの実用機テストということである。


写真(右)1937年5月−1940年頃、アメリカ、未舗装滑走路のアメリカ陸軍航空隊ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)高高度試作機の右前方
:第二次世界大戦前の国籍マークである方向舵の赤白ストライプ、主翼の青丸白星赤丸を描いている。
AL61A-340 Lockheed XC-35 Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機は、1934年2月23日初飛行のロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、円形断面、繭型の与圧コックピットpressurized cockpit)を設けた。そのため、飛行高度30,000 ft (9,144 m)でも、キャビン内部の気圧は高度12,000 ft (3,658 m)の水準に維持することができた。

航空日本躍進譜 : 列強ご自慢も顔負け : 科学の粋を蒐め目ざす世界一 : 一日から愈よ開く中央研究の施設
掲載誌 大阪朝日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 81 出版年 1939-03-15
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100170249 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

明日の航空日本建設に備える綜合的研究機関として各方面の期待と注目とを蒐めている国立中央航空研究所は四月一日から店開きするが目下法制局で審議中の同研究所完成も近く決定する見込であり第一期五ケ年計画五千万円の「空の殿堂」設立計画もいよいよ晴れの第一歩を踏み出すこととなった−

蓋開けする「中央航研」は第一期、第二期に分って建設されるが同研究所の施設はいずれも「世界一」をめざすだけに列強ご自慢の国立航空研究機関−たとえばアメリカのNACAをはじめドイツのDVL、イギリスのRAE、フランスのSPAなど−を凌ぐ桁違いのものばかりで完成の暁には広大な附属飛行場とともにわが航空国策の実現に一新紀元を画するわけだ

第一期「十四年度から五ケ年計画」における同研究所の組織は第一部風洞、水槽測器、第二部機体艤装工作、第三部発動機、材料、第四部飛行、第五部庶務一般調査などと五部にわかれ更に将来は技術、最高両委員会を設けあらゆる方面からわが航空界を指導することになっている

話題に上る豪華な施設としては離陸水の実験に使用する長さ五百メートル(将来は二千メートルに延長する方針)の「高速水槽」をはじめ実物大の飛行気を容れる大風洞、秒速数百メートルにも達する「高速風洞」発動機とプロペラーの性能を研究する「発動機風洞」さては一万一千メートル以上の高空いわゆる「成層圏」の状態を地上にそのまま再現する「低温低圧発動機試験装置」などがあるが、初年度(設置費、研究費合せて予算約三百六十四万円)の今年はその下凖備に当るとともに当面の研究課題としてはすでにアメリカでは一部実用化されようとしている「成層圏飛行」の研究に乗出す方針で、このため小規模の「低温低圧室」は本年中に建設し、また成層圏飛行に必要な「過給機」(高空の薄い空気を圧縮し地上と同じ密度にしてから発動機の気化器に送りこむ装置)の研究に力をそそぐ方針である

なお[国立中央航空研究所]初代所長は「大学総長級の人物」?を閣議を経て決定することになっているが同研究所の敷地三十万坪は近く帝都の近郊(場所未定)に選定、買収の上バラックの仮庁舎を建てて

東京 広東一日半の”特急” 十月から定期飛行

東京−広東間を僅か一日半で結ぶ快適な”空の旅”が実現する−大陸と内地の空を結ぶ興亜の定期航空網拡充案の一つとして逓信省航空局ではかねて台北−広東線の開設を計画、関係当局と折衝を進めていたがいよいよ今秋から大日本航空会社をして実施させることとなり十四日その要項を発表するとともに同定期空路開設に要する経費(補助金)六十二万五千円を追加予算として十五日衆議院に提出することになった

これによると同定期の実施は今秋十月からの予定で毎日一往復ロックヒード[Boeing 247]または中島式AT機を使用し台北、広東間約九百キロを三時間半で翔破するが同定期界設の暁は東京を午前六時半発の”ダグラスDC三型”もしくは午前七時発の”ロックヒード[Boeing 247]”に乗れば福岡を経由して午後四時五十分には台北着、ここで広東線に聯絡して翌日の午前中には広東に到着することが出来待望の内地−南支間を結ぶ空の特急線が実現するわけである

なお航空局では同定期補助に要すする経費とともに既報の大日本航空会社法施行に要する経費千九万一千円と日満聯絡試験飛行に要する経費四十五万九千円をも追加予算案として衆議院へ提出するが後者はハインケル一一六型機による日本海横断の東京−新京間直通定期航路開始に関するものである(東京)(大阪朝日新聞 Vol: 第 5巻 Page: 81 出版年 1939-03-15引用終わり)

ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機で、与圧キャビンpressurized cabinを備えている。


写真(右)1937年5月−1941年前半、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊ロッキード(Lockheed)XC-35高高度試作機

Bilstein_00668 Lockheed XC-35 1937 (USAF W-2712) Image from the Roger Belstein Collection--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はWikimedia Commons,San Diego Air and Space Museum 引用。


ロッキード(Lockheed )XC-35は、 1934年2月23日初飛行のロッキード L-10 エレクトラ (Lockheed L-10 Electra) を原型に、主翼を延長し、4人乗り与圧コックピットpressurized cockpit)とし、排気タービン(ターボ過給機)を装備した。

1937年5月、ロッキード(Lockheed )XC-35はオハイオ州ライト・フィールド(Wright Field)でアメリカ陸軍航空隊に引き渡され、アメリカ軍機の国籍マークを付けて、8月5日に高高度飛行の審査を受けた。ロッキード(Lockheed )XC-35の発動機は原型エレクトラの450 hp (336 kW)プラット・アンド・ホイットニー R-985-13を排気タービン付きの550 hp (410 kW)プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)XR-1340-43 ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジンに換装している。

ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機の与圧キャビンにはプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)XR-1340-43 ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジン(排気量22 L) 550 hp (410 kW) のターボ過給機のコンプレッサーで空気が吸入されており、飛行高度30,000 ft (9,144 m)でも与圧コックピットpressurized cockpit)では、高度12,000 ft (3,658 m)の気圧が維持できた。生産は試作1機のみ。

ロッキード(Lockheed )XC-35高高度試作機は、キャビンが高高度で低気圧となるのを防ぐために、与圧可能な円筒断面・球形の与圧キャビンpressurized cabin)となっている。外気が低気圧であるために、内部が高気圧だと空気が外部に流出する圧力が加わるが、高高度になるほど気圧差を維持することが困難になる。そこで、ロッキード(Lockheed )XC-35は、気圧格差が隔壁の局所に集中しないように、与圧キャビンpressurized cabin)形状を採用した。

ロッキード XC-35(Lockheed XC-35)の諸元
最大乗員Crew: 6名
全長Length: 38 ft 7 in (11.76 m)
全幅Wingspan: 55 ft (17 m)
全高Height: 10 ft 1 in (3.07 m) 翼面積Wing area: 458.5 sq ft (42.60 m2)
空虚重量Empty weight: 7,940 lb (3,602 kg)
総重量Gross weight: 10,500 lb (4,763 kg) 発動機Powerplant: 2 × Pratt & Whitney R-1340-43 9-cylinder turbo-supercharged air-cooled radial piston engine2, 550 hp (410 kW) each
プロペラPropellers: 2-翅可変ピッチ(variable-pitch)プロペラ

ロッキード(Lockheed )XC-35試作機の性能

最高速力Maximum speed: 236 mph (380 km/h, 205 kn) at 20,000 ft (6,096 m)
巡行速力Cruise speed: 214 mph (344 km/h, 186 kn)
実用上昇限度Service ceiling: 31,500 ft (9,600 m)
上昇率Rate of climb: 1,125 ft/min (5.72 m/s)
翼面荷重Wing loading: 22.9 lb/sq ft (112 kg/m2)
出力重量比Power/mass: 0.105 hp/lb (0.173 kW/kg)

成層圏へ「爆撃路」 : 空の新戦場 : 独、英が狙う”翼の弾道”
掲載誌 東京日日新聞 Vol: 第 6巻 Page: 144 出版年 1941-09-09
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100071915 情報源/出処 新聞記事文庫(デジタルアーカイブ)

[写真(ドイツのユンカース四十九型[Ju 49] )あり 省略]
【伯ベルリン本社特電六日発】まだドイツ側が確認していないので噂の範囲を出ないが英空軍は最近米国から購入した四発の重爆撃機[B-17]で成層圏をやって来るといわれている、あるときなど余り高く飛んで来たのでベルリン近辺の対空監視哨でも発見出来ず爆弾が落ちてから初めて警報を鳴らしたとさえいわれている、とにかく成層圏飛行が研究の範囲を出て実戦にまで用いられて来たことは事実だ

かつてヒマラヤ飛行を敢行したドイツ飛行探検隊のハルトマン氏の研究によると普通の状態では酸素吸入器なしでは成層圏の飛行は出来ぬことが発見されたが八千乃至一万メートルの高度になると酸素吸入管が凍結し酸素管を啣えたまま眠りながら死んでゆくという危険が生ずる、そこで成層圏飛行となると操縦者のいる部屋全体を圧搾酸素の室とする必要が生じて来る、

ドイツで初めて圧搾酸素の操縦室をつけたユンカース四十九型[Ju 49] という飛行機を作ったが米国のロックヒード会社が作製したSC三十八型[XC-35] という飛行機もやはり非常に良い圧搾酸素の操縦室をもっていてこれらの飛行機だと九千メートルまで昇って実際に活動できるが酸素の補給というほかに防寒の設備が必要なことはいうまでもない、

一万五千メートルで零下七十度になる、そこで右の操縦室は二重の壁でつつまれている上に内部は電熱で温度を保つようになっている、仮に圧搾酸素の操縦室が敵弾に打ち抜かれた場合にどうするかということになると大きな弾丸の場合はしかたがないが小さな弾丸の場合は内部から厚紙でおさえれば室内の高圧のために穴が塞がってしまうというのである、

成層圏飛行のための操縦室の問題はこれで解決されたわけだが残るはモーターとプロペラを如何に作るかということだ、これについては未だ問題があるようだ

【ロンドン七日発同盟】英当局発表=六日正午英「空の要塞」機の編隊はオスロを白昼奇襲したが、成層圏を飛行して英本土より約八百キロの距離を往復、同機製作以来の記録を作った(成層圏へ「爆撃路」 : 空の新戦場 : 独、英が狙う”翼の弾道”引用終わり)


◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,サイパン玉砕戦も分析しました。

2023年7月31日公開の鳥飼行博研究室当サイトへのご訪問ありがとうございます。写真,データなどを引用する際は,URLなど出所を明記してください。
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