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◆ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68;鳥飼行博研究室 図(上)1931年、ドイツ、ドイツ空軍第132戦闘飛行隊「リヒトホーフェン」所属のハインケルHe-51A-1戦闘機:第一次大戦の有名な撃墜王の名前を冠した戦闘飛行隊。 Dansk: Heinkel He 51 A-1 fra JG 132 Date 2007
Source German wikipedia Author Herbert Ringlstetter
図はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 51, File:Heinkel He 51A-1 JG132 kl96.jpg引用。



写真(上)1935年8月3日、ドイツ、ドイツ空軍第132戦闘飛行隊「リヒトホーフェン」所属のハインケルHe-51A-1戦闘機の搭乗員たちとハインケルHe72複葉練習機カデット(Kadett)(手前の1機)
:He 72A練習機はアルグス As 8R空冷倒立エンジン112 kW (150 hp)を装備していたが、He 72Bはジーメンス・ハルスケ Sh 14A 星型エンジン120 kW (160 bhp)に換装されている。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 Bild 102-17044 3. August 1935 Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Bestandsinformationen in Invenio
SDASM Archives・Signatur Bild 102-17045引用。

0.エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授

エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel)は、1888年1月24日、ドイツ南部、ヴュルテンベルク州シュヴァーベン(Schwaben)地方のグルンバッハ(Grunbach )に生まれ、自ら独立心旺盛で自尊心の高い短気なシュワーベン人であると自負していた。

  第一次世界大戦時、エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel)は、ドイツの航空機メーカー、アルバトロス(Albatros)社で主に設計の仕事をし、戦後の1922年には、ドイツ北東部バルト海沿岸、ヴァーネミュンデにハインケル航空機を設立した。ここは、バルト海を挟んでスウェーデンに面しており、1919年のベルサイユ条約によって軍用機の開発・保有を一切禁止されたドイツにあって、対岸のスウェーデンで、秘密裏に軍用機でも開発できるという利点があった。この軍用機は、空軍を禁じられたドイツ向けというより、外国への輸出販売用だった。

写真(右)1931年、ドイツ北東部バルト海沿岸、ポンメルン州ヴァーネミュンデ (Warnemünde)、ハインケル航空機工場のエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)と技師
Flugzeugbau Ernst Heinkel
Eschen, Fritz: Flugzeugbau Ernst Heinkel, 1931 Beschreibung: Rostock-Warnemünde. Ernst Heinkel Flugzeugwerke Warnemünde. Werkhalle. Ernst Heinke und ein Arbeiter beim Betrachten eines Flugzeugteiles
Darstellung: Heinkel, Ernst Zusammenhang: Ernst Heinkel Flugzeugwerke Warnemünde
Location: Rostock, Rostock-Warnemünde
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_e_0006593引用。


1922年、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、ドイツ北部バルト海沿岸、ポンメルン州ヴァーネミュンデ (Warnemünde)に、ハインケル航空を設立した後、ベルサイユ条約の航空兵器保有禁止の条項をかいくぐるために、対岸のスウェーデンで軍用機の開発を行った。この高性能水上偵察機は、日本海軍の注目するところとなった。

エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)航空機工場は、1922年にドイツ北東部バルト海沿岸、ヴァーネミュンデWarnemünde)に設立された。ここでは、日本海軍のために、1925年、HD-25水上機、すなわち愛知航空機 二式複座水上偵察機を開発している。日本は、第一次大戦の戦勝国だったが、敗戦国ドイツから鹵獲した兵器・飛行機に注目して、最新技術の取得に熱心だった。

当初、日本は、特許やライセンスに無頓着に、技術を模倣して取り入れていたが、そのうちライセンス料をようになった。のして、日本陸海軍が同じダイムラーベンツDB601液冷エンジンのライセンスを取得するのに、陸海軍が別個にライセンス料を支払うという無定見ぶりを発揮している。

1881年1月24日生まれのエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、二人兄弟、3回結婚し、連れ子2人を含め7人の子供をもつ。1938年ニュルンベルク開催のナチ党大会では、ハインケルに対して、国家芸術科学賞が授与されており、軍需生産に依存したハインケル航空工場の繁栄がもたらされた。
1958年1月30日逝去。

 ハインケルは、1932年9月にHe70高速輸送機を初飛行させ、1935年のドイツ再軍備宣言後には、ドイツ空軍の創設に伴い高速輸送機として開発したハインケルHe111を爆撃機として採用させ、さらにハインケルHe51複葉戦闘機の量産をも受注することで、ドイツ有数の航空機メーカーに成長していった。

写真(右)1938年10月11日、ドイツ、ベルリン郊外ポツダム、リリエンタール社で宴会中のドイツ航空省技術局長エルンスト・ウーデット少将、ドイツ航空省次官エアハルト・ミルヒ大将、エルンスト・ハインケル教授(左から):オットー・リリエンタール(Otto Lilienthal:1848-1896)は、アメリカのライト兄弟に先んじるドイツ航空界のパイオニアで、グライダーによる滑空飛行を実現させた。
Title Potsdam, Udet, Milch, Heinkel Info non-talk.svg
Eschen, Fritz: Flugzeugbau Ernst Heinkel, 1931 Beschreibung: Rostock-Warnemünde. Ernst Heinkel Flugzeugwerke Warnemünde. Werkhalle. Ernst Heinke und ein Arbeiter beim Betrachten eines Flugzeugteiles
Gentleman evening at the Lilienthal company in potsdam Depicted people Heinkel, Ernst Prof. Dr. Ing.: Flugzeugkonstrukteur, Deutschland Milch, Erhard: Generalfeldmarschall, Ritterkreuz (RK), Luftwaffe, Deutschland Udet, Ernst: Generalluftzeugmeister, Generaloberst, Ritterkreuz, Luftwaffe, Orden Pour le mérite, Deutschland
Depicted place Potsdam Date 11 October 1938
写真は,Category:Ernst Heinkel, File:Bundesarchiv Bild 183-H13535, Potsdam, Udet, Milch, Heinkel.jpg引用。


1933年1月末、ナチ党総統アドルフ・ヒトラーが、首相に任命され、1935年にドイツ再軍備を宣言して、ドイツ空軍を設立すると、エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel)は、政権獲得前から既存の飛行機を活かして、軍用機として開発したHe59双発水上機He60水上偵察機などを採用された。これらの軍用機は、特に斬新な設計ではなく、性能も平均的なものだったが、ドイツ北東部バルト海沿岸、ヴァーネミュンデWarnemünde)のハインケル航空機工場は、軍需を得て航空機メーカーとして、順調に資本形成を進めることができた。そして、工場の拡張によって飛行機製造能力も高まったのである。

第二次大戦前に、He112戦闘機を開発したが、Bf109戦闘機との競争試作に敗れた。この理由は、飛行性能的に若干劣っていたこと、量産性に難点があったことであるが、エルンスト・ハインケルがナチ党やヒトラーとの相性が悪かったことも指摘されている。ただし、このようなハインケルの自由闊達な性格がもたらしたナチ党全体主義・反ユダヤ主義への嫌悪といったものは、戦後になって自著で述べられてはいるが、当時のハインケルは、ナチ党への追随的行動をとっていた。

エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士は、1888年、ドイツ南部、シュトゥットガルト生まれ、第一次大戦で飛行機設計に加わった。戦後の1922年に、北ドイツのヴァーネミュンデにハインケル飛行機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立した。アドルフ・ヒトラーの唱える国家社会主義に共鳴し、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党:NSDAP)に入党した。ハインケルは、自伝によればスピード感に陶酔しており、スピードへの追及に熱心で、He70高速輸送機のような凝った設計の高速機を開発した。He70高速輸送機は、1932年にドイツ・ルフトハンザ航空に採用されている。しかし、これは例外で、大半のハインケルの飛行機は、ハインケル(Heinkel)He-51のような堅実な設計の複葉機だった。

写真(右)1940年頃(?)、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel):エルンスト・ハインケル航空機工場のトップとして大活躍した。
Portraitserie Ernst Heinkel
Datensatz 70246185
Eschen, Fritz: Portraitserie Ernst Heinkel
Persons and corporations: Darstellung: Heinkel, Ernst
Keywords / Classification: Bildnis, Portrait
Lebensdaten : 1888-1958
Beruf : Flugzeugkonstrukteur
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_e_0050035引用。


双子の兄弟ヴァルター・ギュンター(Walter Günter:1899-1937年9月21日)もドイツ航空省の飛行技師だった。1931年にエルンスト・ハインケル航空機工場に入社したギュンター兄弟は、ドイツ北東部バルト海沿岸ロストック、ヴァーネミュンデWarnemünde)のハインケル工場で、He51複葉戦闘機、He70高速輸送機、He111旅客輸送機、He112戦闘機などハインケルの代表的な飛行機を設計した。

ヴァルターは、1937年9月21日に交通事故で死亡。その後、ジークフリート・ギュンター(Siegfried Günter)は、He100戦闘機、He176ロケット機、He178ジェット機、He280ジェット機の設計に加わっているが、いずれも試作実験機のみである。また大量生産が決まった国民戦闘機He162ジェット戦闘機も、戦局悪化、終戦によって少数の量産に終わっている。

エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、振動力のジェット・エンジンにも注目し、世界初となるターボジェット搭載のジェット実験機ハインケル He178を完成させ、1939年8月27日にジェット初飛行に成功した。これは、エルンスト・ハインケル博士によれば、スピードへの陶酔の発露であるが、高度の軍事技術への関心の大いにあったはずだ。


Ernst Heinkel - Ein Pionier der Luftfahrt - Aufnahmen der Typen He 70, 100, 111, 178, 28
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ハインケルの開発した世界初のジェット機ハインケル He178の初飛行は、第二次世界大戦の始まる5日前だった。しかし、ドイツ空軍は、ジェットエンジン無しでも戦争は勝利できると過信しており、このハインケルHe178には実用性がないと考え注目しなかった。ジェットが実用化されたのは、1943年末だったが、実際にハインケルにジェット戦闘機He162の量産が始まったのは、1945年に入ってからだった。

 第二次大戦中のハインケルは、、ヴァーネミュンデWarnemünde)で旧式化したHe111爆撃機を量産し続け、失敗作となったHe177四発重爆撃機を制式させ量産を開始し、さらに国民戦闘機He162ジェット戦闘機の大量生産の準備を進めるなど、ドイツ政府、空軍との関係は終始良好だったのである。他方、空軍幹部の無理解で採用されなかったHe280ジェット戦闘機、ミルヒの横やりで200機の生産に留まったHe219夜間戦闘、など不遇な傑作機といえる機体もあり、ハインケルの評価は難しいことも確かである。


1.ハインケル(Heinkel)He 51複葉戦闘機


写真(上)1933年5月以降、ドイツ、開放式コックピットのハインケル(Heinkel)He-51戦闘機試作1号機(登録コード:D-ILGY)
;1933年5月に初飛行。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けている。
Ray Wagner Collection Image
- Catalog:16_007348 - Title:Heinkel He 51 First prototype Nowarra Collection - Filename:16_007348.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168630引用。


第一次世界大戦に敗北し、ベルサイユ条約の軍備制限の下に置かれたドイツ共和国では、軍用機の保有を禁じられており、空軍兵力は持つことができなかった。しかし、ドイツの航空機メーカーは、ユンカース、ハインケル、ドルニエともに、輸送機やスポーツ機といった民間機を開発しており、それを軍事転用することも可能だった。ハインケル(Heinkel)He-51も宙返りやアクロバット飛行するスポーツ機として航空省に採用されている。

写真(右)1933年5月以降、ドイツ、開放式コックピットのハインケル(Heinkel)He-51戦闘機試作2号機(登録コード:D-IRAA?);1933年5月にHe70と同一のBMW VI V型12気筒液冷ガソリンエンジン(750馬力)1基装備して初飛行した。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党のカギ十字スワスチカを付けている。He-70輸送機とは異なる堅実な設計で、斬新なデザインを取り入れていない。ハインケルが「スピード狂」の革新的設計者というのは、自伝で述べた表現だが、たかだかHe70高速輸送機以降に浸透しはじめた方針であり、当初から天才的才能があったというのは自画自賛であろう。
Ray Wagner Collection Image
- Catalog:16_007349 - Title:Heinkel He 51 Second prototype, not accepted Nowarra Collection - Filename:16_007349.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168642引用。


第一次世界大戦が敗北した時点で、ハインケルは飛行機の研究・開発・製造・運用経験を積んでおり、戦後も、ベルサイユ条約の制限をかいくぐるように、航空機開発に邁進した。1922年、ハインケルは、ドイツ北部バルト海沿岸ヴァルネミュンデにエルンスト・ハインケル飛行機工場(Ernst Heinkel Flugzeugwerke AG)を設立し、ここを本拠地として航空機開発と生産に乗り出し、1943年には従業員5万人の大企業となっていた。

 
写真(上)1933年5月以降、ドイツ、開放式コックピットのハインケル(Heinkel)He-51戦闘機(登録コード:21-D111)
;He70と同一のBMW VI V型12気筒液冷ガソリンエンジン(750馬力)1基装備して,He70の初飛行の半年遅れの1933年5月に初飛行した。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のナチ党卍カギ十字スワスチカを付けている。
Heinkel, He 51 Title: Heinkel, He 51 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 51 Tags: Heinkel, He 51.
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081261引用。


ハインケル工場(Ernst Heinkel AG)は戦時需要に拡張を続け、ベルリン近くに位置するロストック(マリーエンエーエ)、オラーニエンブルク、ヴァルタースドルフに飛行機工場を、またオストマルク(オーストリア)にも、ウィーンに工場を設けた。ハインケル工場(Ernst Heinkel AG)は、イェンバッハの鉱業・製錬所、シュツットガルトのヒルト発動機、て合同東部工場(Vereinigte Ostwerke)を保有する大企業コングロマリットとなったのである。

こうして、ハインケル工場(Ernst Heinkel AG)は、第二次大戦に敗北する1945年までに、軍用機を中心に飛行機100種類以上を開発している。特にハインケルは、最高速力というスピードを重視したが、この最初の成功作がHe-70高速輸送機である。その後も、ロケット飛行機He-176実験機、ジェット飛行機He-178実験機,He-280戦闘機を飛行させ、高速夜間戦闘機He-219ウーフー、量産型ジェット戦闘機He-162を量産した。

写真(右)1933年5月以降、ドイツ、BMW VI 73Z液冷V型12気筒エンジン 750馬力)装備のハインケル(Heinkel)He-51C戦闘機(登録コードD-IQEE );1933年5月に初飛行した。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に卍カギ十字スワスチカでなく、黒白赤帯の三色のドイツ国旗を描いている。He-70輸送機やHe112戦闘機とは異なって、古風な羽布張り胴体に複葉、固定脚の第一次大戦以来の古風な設計である。目新しさはない。
Ray Wagner Collection Image Heinkel 51 C
Heinkel, He 51 Title: Heinkel, He 51 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 51 Tags: Heinkel, He 51.
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081259引用。


1919年のヴェルサイユ条約Treaty of Versailles)の軍備制限条項のために、敗戦後のドイツは、軍用機の開発・保有が禁止されたが、輸送やスポーツを目的とした民間機で、軍用機に転換できないのであれば、開発・保有も可能だった。そこで、ドイツでは民間機の開発が、ユンカース、ハインケル、ドルニエDornier)など有力な航空機メーカーの下で行われた。しかし、1933年1月にドイツの政権を握ったナチ党は、アドルフ・ヒトラーの独裁体制を確立し、軍事力を今まで以上に強化しようと、密かに画策していた。ナチ党政権樹立前から、外国における兵器開発や軍事訓練は行われていたが、ナチ党ヒトラーの下では、この軍事化の動きが強力に推進された。

ヒトラーの再軍備宣言
1)義務兵役制を復活:兵力36個師団,50万人を動員
2)軍事組織の名称変更:陸海軍に加えて空軍Luftwaffeを新設し,国軍Reichswehrを伝統的な国防軍Wehrmachtに戻す。
3)国防省を陸軍省(Ministry of War)と変更。
4)陸軍参謀本部の復活。

写真(右)1933年5月以降、ドイツ、BMW VI 73Z液冷V型12気筒エンジン 750馬力)装備のハインケル(Heinkel)He-51C戦闘機の列機;1933年5月に初飛行した。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に黒のナチ党卍カギ十字スワスチカを赤帯白丸に付けている。He-70輸送機やHe112戦闘機とは異なって、古風な羽布張り胴体に複葉、固定脚の第一次大戦以来の古風な設計である。目新しさはない。
Ray Wagner Collection Image Heinkel 51 C
Heinkel, He 51 Title: Heinkel, He 51 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 51 Tags: Heinkel, He 51.
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081262引用。


帝政が崩壊し、第一次大戦敗戦後に成立したドイツ共和国(ワイマール共和国)では、ドイツの飛行機の国籍マークは、垂直尾翼に、上から黒白赤のドイツ共和国の三色旗を付けた。しかし、1933年1月にヒンデンブルク大統領が、ナチ党総統アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、全権委任法によって、ナチ党独裁政権が樹立される頃には、ナチ党卍カギ十字がドイツの国籍マークとなり、ドイツ機の垂直尾翼に赤帯白丸に黒のスワスチカを付けた。ただし、再軍備宣言、その後のドイツ空軍設立までは、正規のドイツ軍用機はなかったので、全てのドイツ機は民間機だった。

写真(右)1933年5月以降、ドイツ、雪原で飛行準備をするドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He-51C戦闘機(登録コード:GU-NW);1933年5月に初飛行した。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に卍カギ十字スワスチカを黒で描き、胴体後方側面に白縁付きの黒の鉄十字を描いている。
Ray Wagner Collection Image Heinkel 51 C
Heinkel, He 51 Title: Heinkel, He 51 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 51 Tags: Heinkel, He 51.
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081260引用。


ハインケルHe51戦闘機の外観を見てもわかるように、1930年初期までハインケルの設計・開発した飛行機は、ヨーロッパでは、決して高性能な機体ではなかったし、最新技術を取り入れた設計というわけでもなかった。日本、スペイン、スウェーデンのような飛行機導入を急いでいた航空後進国では、ハインケル機は高く評価されたようだが、ドイツマルクの暴落等の為替の影響で、低価格の飛行機だったからであろうか。1930年初頭まで、ハインケルでは多数の飛行機を開発したが、生産機数は100機未満で、数百機の大量量産に至っていない。他方、同じドイツのユンカース社は、F.13単発輸送機、W.34輸送機、G.24輸送機、Ju-52輸送機とアメリカ、スイス、中国でも使用されたベストセラー機、輸出機を多数生み出している。ドルニエ社も、Do-Jワール飛行艇など、やはり自社機を大量生産している。しかし、ハインケル社は、ユンカースやドルニエとは異なり、大量生産された飛行機がなかった。

ハインケルの飛行機が、高性能、高速機、高技術として讃えられるようになったのは、
1)He70輸送機の開発にみられるような優秀なギュンター兄弟のような技師の入社と斬新な設計の導入、
2)ヒトラー政権下の影の国防軍の軍用機開発促進、
3)1935年の再軍備宣言、それに続くドイツ空軍の創設に伴う軍需の増大、
が契機になっている。

1935年3月1日、ドイツ首相ヒトラーが、再軍備宣言をし、その直後に、ドイツ空軍の設立が決まった。このドイツ空軍の最初の制式戦闘機が、ハインケルHe 51Aである。ハインケルHe 51複葉戦闘機は、1934年から1937年に陸上型473機、水上機型33機、合計506機が量産されている。このような大量生産は、ハインケルにとって初めてのことであり、軍需によってハインケル航空機工場は潤い、規模を拡大することができた。

写真(右)1936年、ドイツ、ドイツ空軍「リヒトホーフェン」"Richthofen"戦闘航空団のハインケル(Heinkel)He 51w 複葉戦闘機12機;胴体下面に追加燃料タンクを搭載している。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に卍カギ十字スワスチカを黒で描き、胴体後方側面に白縁付きの黒の鉄十字を描いている。File:Heinkel He 51 Richthofen
Deutsch: Heinkel He-51 des Jagdgeschwaders "Richthofen" Date 6 May 2015, 01:00:41 Source Own work Author Blende22
写真はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 51 File:He 51W.jpg引用。


ドイツ首相アドルフ・ヒトラーは、1935年3月1日、ドイツの再軍備宣言をし、その後、ドイツ空軍も再建した。この新生ドイツ空軍の最初の制式戦闘機が、1933年5月初飛行のハインケルHe51戦闘機である。 ハインケルHe51は、複葉機で胴体も羽布張り、固定脚であったから、後のHe70輸送機He112戦闘機のような全金属製単葉低翼の高速機とは全く異なる旧式機だった。

軍用機の受注を目指していたハインケルは、民間航空を隠れ蓑に密かな再軍備が進む状況で、ハインケルHe 49複葉戦闘機を開発した。そして、この改良型のハインケルHe 51複葉戦闘機の試作機を1933年5月に初飛行させた。ドイツ航空省は、スポーツ機の名目でこれを採用し、1934-1937年に陸上型473機、水上機型33機、合計506機を生産した。

写真(右)1936年、ドイツ、雪原で飛行準備をするドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 51w 水上戦闘機;1933年5月に初飛行した。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に赤帯白丸に卍カギ十字スワスチカを黒で描き、胴体後方側面に白縁付きの黒の鉄十字を描いている。水中に腰までつかった整備士が水上機のフロートを移動させ、もやっている。
Heinkel He 51W, german seaplane 1936 from polish wikipedia article Heinkel He 51 .
写真はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 51 File:He 51W.jpg引用。


ドイツ帝国軍は、第一次大戦の敗戦後、ベルサイユ条約によって、陸軍は10万人規模に大幅に縮小され、参謀本部も廃止、戦争遺憾の保有禁止、航空兵力の開発・保有禁止と軍備には厳しい制限が加えられた。

しかし、ドイツ帝国軍人は、プロシア伝統の軍人精神を引き継いで、ドイツ共和国軍の下でも、密かにフライコール(義勇軍)を擁立して陸軍勢力の拡充を図り、火砲や戦車を外国子会社や外国企業と連携して開発した。また、共和国時代に経済成長が進むと、民間需要も取り込んで、ルフトハンザ航空のような民間用の輸送機、郵便・通信用の飛行機を開発して、これを軍用機に転換する準備をしていた。換言すれば、民間機開発を隠れ蓑にして軍用機開発のための資本・技術を蓄積していた。

写真(右)1933年5月以降、ドイツ、雪原で飛行準備をするドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 51W 水上戦闘機(登録コード:60-??);陸上型が1933年5月に初飛行したが、He 51水上機型も33機生産されている。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に卍カギ十字スワスチカを黒で描き、胴体後方側面に白縁付きの黒の鉄十字を描いている。
Ray Wagner Collection Image
- Catalog:16_007354 - Title:Heinkel He 51w Nowarra Collection Filename: 16_007354 .TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168706引用。


1933年1月末、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)アドルフ・ヒトラー総統がドイツ首相に任命され、その後の国会議事堂放火事件、大統領緊急令、全権委任法の成立によって、ナチ党独裁政治が始まった。密かにドイツ再軍備が実行に移され、ドイツ向けの軍用機を開発するようになった。

ハインケル(Heinkel)He51戦闘機は、He70と同様のBMW VI 液冷V型12気筒エンジン(750馬力)1基を搭載しているが、設計方針はHe70輸送機とは全く異なる。エルンスト・ハインケルが「スピード狂」の革新的設計者というのは、自伝で述べた表現だが、He70高速輸送機には当てはまっても、He51戦闘機は堅実というより時代遅れの設計である。複葉、固定脚、羽布張の構造は、単葉、引込み脚、全金属製の飛行機が搭乗していた時期には、旧式であり、ハインケルが当初から天才的才能があったというのは自画自賛で、アメリカのロッキードなど斬新な設計に着想を得てから、発展した思考であろう。

ハインケルは、水上機の開発に熱心だったが、これは特殊な専門的市場のニッチを狙ったものだったのかもしれない。また、後にバルト海沿岸に工場を設けたのも、水上機を意識していたようだ。ハインケルに注目した日本海軍も、当初は、水上機の開発を依頼しているほどである。

ハインケルHe 51複葉戦闘機は、1934年から1937年に陸上型473機生産されたが、この他に水上機型が33機生産されている。したがって、He51の各型式合計の生産機数は506機となる。

写真(右)1933年5月以降、ドイツ、BMW VI 73Z液冷V型12気筒エンジン 750馬力)装備のハインケル(Heinkel)He-51C戦闘機の3機の列機(登録コード:D-IRKO 他);1933年5月に初飛行した。既に1月末にヒトラー政権が成立していたので、国籍マークは、垂直尾翼に黒のナチ党卍カギ十字スワスチカを赤帯白丸に付けている。He-70輸送機やHe112戦闘機とは異なって、古風な羽布張り胴体に複葉、固定脚の第一次大戦以来の古風な設計である。目新しさはない
Ray Wagner Collection Image Heinkel 51 C
PictionID:46168667 - Catalog:16_007351 - Title: Heinkel 51 C Nowarra Collection - Filename:16_007351.TIF- Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168642引用。


ドイツ首相アドルフ・ヒトラーは、1935年3月16日、ベルサイユ条約の軍事制限条項を破棄して、ドイツ再軍備宣言した。その直後の1933年5月、ドイツ国防大臣ヴェルナー・フォン・ブロンベルクは、第一次大戦と同様だった陸軍航空隊を1933年4月設立の航空省に移管し、それまで民間スポーツ機などの名目で保有していた航空機も併せてドイツ空軍(Luftwaffe)を設立した。

1935年3月16日のドイツ再軍備宣言から半年以上経過した1935年11月7日、第一次大戦勃発の時1914年生まれの成人男子に徴兵が開始され、それまで10万人だった共和国軍(ライヒスヴェア)は、50万人の国防軍(ヴェアマハト)へ拡張された。

ハインケルHe51B.1複葉戦闘機 ドイツ空軍は、航空大臣ヘルマン・ゲーリングの下、航空省次官エアハルト・ミルヒが編成・生産の実務を担当したが、航空省とドイツ空軍は事実上、一体化することになった。エルンスト・ウーデットが航空省技術局長に就任したのは、翌年1936年6月である。 1936年には、ラインラントの無武装地帯に武力進駐を強行し、同年に勃発したスペイン内戦に反乱側フランコ将軍支援の陸・空軍兵力を派兵している。

特に、1937年4月26日のゲルニカ空襲には、無差別爆撃として悪名高い。ドイツ・コンドル軍団によるゲルニカ爆撃には、主力ユンカースJu52爆撃機のほかに、ハインケル He111爆撃機、ハインケルHe51戦闘機も攻撃に投入されている。

写真(右)1936年5月以降、スペイン(?)、スペイン内戦でドイツが派遣したコンドル軍団のハインケル(Heinkel)He-51C戦闘機;ファシスト反乱軍の国籍マークは、胴体に黒丸、垂直尾翼に白地に黒のX印である。1936年7月〜1939年3月にスペイン人民戦線政府と反乱軍の内戦が続いた。ヒトラーとムッソリーニは、ファシスト反乱軍のフランシスコ・フランコを援助するために義従軍を派遣した。ソ連は人民戦線内閣に義勇軍を派遣した。
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- Catalog:16_007352 - Title:Heinkel He 51c in Spain - Filename: 16_ 007352 .TIF- Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168680引用。


1936年7月、スペインでは、人民戦線政府に対して、モロッコ植民地に駐留していたフランシスコ・フランコらの反乱軍が蜂起した。このスペイン内乱に際して、ドイツ首相アドルフ・ヒトラーは、即座に支援を命令し、ドイツ・コンドル軍団をスペインに派遣することが決定した。

 ドイツは、形式上は、スペイン市民戦争に不干渉の立場にあると表明しながらも、義勇軍の形式をとったコンドル軍団を編成して、ドイツ正規軍の派兵を実装した。この時、コンドル軍団に配備されたハインケル(Heinkel)He-51戦闘機、He111爆撃機、He70輸送機もスペイン内乱に反乱軍への援軍として実戦投入されている。

1935年にドイツ再軍備宣言が出され、その直後にドイツ空軍が設立されてからは、ハインケルは、He 59複葉戦闘機、ハインケルHe-115双発水上偵察攻撃機、ハインケルHe111双発爆撃機などを開発し量産した。そして、これらの期待は、スウェーデン、スペインなどでも採用され、輸出や外国製造ライセンス料の収入をもたらした。

1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、ドイツはモロッコ植民地に駐屯していた反乱軍(国民戦線)を支援するためにコンドル軍団を編成し、空軍兵力として、ユンカースJu輸送機を即座に投入し、モロッコからスペイン本土への兵員輸送を行った。また、ハインケルHe 51Aを派遣して、1936年11月にはHe 51戦闘機によって編成された第88戦闘機大隊が誕生した。

しかし、スペイン共和政府の人民戦線を支援したソ連は、人民戦線軍にポリカールポフ I-15複葉戦闘機、続ポリカールポフ I-16単葉戦闘機を派遣したため、性能の劣る国民戦線側のハインケルHe 51複葉戦闘機は苦戦した。そこで、空軍兵力増強のために、ドイツは、新鋭機Bf109戦闘機を派遣した。

写真(右)1936年5月以降、スペイン(?)、スペイン内戦でソ連義勇軍に鹵獲されたドイツ・コンドル軍団がスペインに派兵したハインケル(Heinkel)He-51戦闘機;1936年7月〜1939年3月にスペイン人民戦線政府と反乱軍の内戦が続いた。ヒトラーとムッソリーニは、ファシスト反乱軍のフランシスコ・フランコを援助するために義従軍を派遣した。ソ連は人民戦線内閣に義勇軍を派遣した。国籍マークは、胴体に赤い星のソ連赤軍のマークを記入している。
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- Catalog:16_007353 - Title:Heinkel He 51 captured in Spain - Filename: 16_ 007353 .TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168693引用。


1930年代初頭、すでに単葉機も出現していたが、戦闘機では複葉機が主流だった。その理由は、格闘戦闘で旋回や宙返りなどのアクロバット的な飛行をするには、翼面荷重(主翼面積当たりの総重量)が軽いこと、回転・ロールしやすいように全幅が短いことが求められたためである。

ハインケルHe51B.1複葉戦闘機 スペイン市民戦争で、敵の人民戦線政府にソ連製のI-153やI-16戦闘機が配備され、反乱軍・国民戦線側のハインケル(Heinkel)He-51は制空戦闘機として活躍できなくなった。そこで、He51は、地上支援・地上襲撃用に陸軍と協力する作戦に使用されるようになった。

スペイン内戦に投入されたドイツのハインケル(Heinkel)He-51戦闘機は、135機で、1939年4月1日、スペイン内戦に勝利した国民戦線は、残っていたHe51戦闘機46機をドイツから譲渡され、自国スペイン空軍機として使用した。

ハインケルが、斬新な高性能機を開発しまくったというのは、He70高速輸送機の斬新なデザインが一般的となったかのような過大評価に基づくプロパガンダ、俗説である。当時、すでにソ連ポリカルポフI-153複葉戦闘機は引込み式降着装置を装備、ポリカルポフI-16戦闘機は単葉・引込み脚で、ドイツのハインケル(Heinkel)He-51戦闘機より100km/h近く速い高速戦闘機だった。

写真(右)1935年8月3日、ドイツ、未舗装飛行場、ドイツ空軍第132戦闘航空団「リヒトホーフェン」(Richthofen)所属のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機と整備士たち:プロペラ2翅のハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機の搭載した発動機BMW VI液冷V型12気筒エンジンは、前形式のBMW IV液冷6気筒エンジンのシリンダー(気筒)数を2倍(排気量を2倍)にした出力向上エンジンである。1926年に開発され、前作のBMW VIを踏襲して大量生産に入った。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 ignatur Bild 102-04681 Originaltitel [vgl. Bild 102-04678] Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz. [vgl. Bild 102-04678] Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz.3. August 1935 Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Bestandsinformationen in Invenio
写真は、BundesArchive・Signatur Bild 102-04681引用。


マンフレート・フォン・リヒトホーフェンManfred von Richthofen:1892-1918年4月21日)騎兵大尉は、ドイツ帝国陸軍の戦闘機パイロットで、第一次世界大戦では、撃墜80機と最高のエースの座を占めている。マンフレート・フォン・リヒトホーフェンの乗機は、赤色に塗装されていたために。「レッド・バロン」として連合国でも有名だった。彼の弟ロタール・フォン・リヒトホーフェン(Lothar von Richthofen)も40機撃墜のドイツ陸軍エースパイロットである。

写真(右)1935年8月3日、ドイツ、未舗装飛行場、ドイツ空軍第132戦闘航空団「リヒトホーフェン」(Richthofen)所属のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機と整備士たち:2翅プロペラのハインケルHe 51複葉戦闘機は、1934年から1937年に陸上型473機、水上機型33機、合計506機が量産されている。しかし、スペイン内戦に参加した時点で旧式化し始めており、1939年には練習機として使用されるにとどまった。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 3. August 1935. Bestand Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Bestandsinformationen in Invenio Signatur Bild 102-04678 Originaltitel Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz. Archivtitel Flugplatz Döberitz.- Soldaten der Luftwaffe beim Jagdgeschwader "Richthofen" vor Flugzeugen Heinkel He 51
写真は、BundesArchive・Signatur Bild 102-04678引用。


ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機の搭載した発動機BMW VI液冷V型12気筒エンジンは、前形式のBMW IV6気筒液冷エンジンのシリンダー数を2倍(排気量を2倍)にした出力向上エンジンである。1926年に開発され、前作のBMW VIを踏襲して大量生産に入った。

ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機と同じ発動機BMW VI液冷V型12気筒エンジンを装備した飛行機は、ハインケル He 45、ハインケル He 59救難機、ハインケル He 60艦上水上偵察機、ハインケル He 70高速輸送機などもある。

ドイツのアラド Ar 64戦闘機、アラド Ar 65戦闘機、アラド Ar 68戦闘機、ドルニエDo-17双発爆撃機もBMW VI液冷V型12気筒エンジン搭載している。

写真(右)1935年8月3日、ドイツ、未舗装飛行場、ドイツ空軍第132戦闘航空団「リヒトホーフェン」(Richthofen)所属のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機の胴体後半と整備士:プロペラは2翅で機体骨格枠組みに羽布が張られた軽量構造となっている。ドイツ共和国の時代、ドイツ伝統の黒白赤三色ストライプを尾翼に描いで国章としていたが、1933年のナチ党政権では、卍カギ十字を白丸赤帯に描いた国章に変更されている。また、胴体後部側面にも鉄十字を描いている。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 3. August 1935. Benutzung Merkzettel Warenkorb Benutzungsbedingungen (AGB) Benutzungsarten (Privat, Medien, Wissenschaft etc.) Kosten / Gebühren Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Bestandsinformationen in Invenio Signatur Bild 102-17046 Originaltitel Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Das neue Erkennungszeichen der deutschen Luftwaffe an einem Flugzeug der Jagdstaffel "Richthofen". Archivtitel Flugplatz Döberitz.- Angehörige des Reichsarbeitsdienstes beim Jagdgeschwader "Richthofen".- Soldat der Luftwaffe vor Flugzeug Heinkel He 51 mit Balkenkreuz
写真は、BundesArchive・Signatur Bild 102-17046引用。


アドルフ・ヒトラー政権になっても、1935年3月のドイツ再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、ドイツ機の尾翼に描いて、国籍マークとしていた。

しかし、1935年、ヒトラーがベルサイユ条約の軍備制限条項を破棄して再軍備を宣言した。第一次世界大戦リヒトホーフェンに率いられた戦闘機部隊エースだったヘルマン・ゲーリングが新設の空軍大臣に就任、民間機とスポーツ機の名目で保有が許されていたドイツ機を集めて、空軍を創立した。第一次大戦まで、ドイツには陸軍と海軍の二本立てで、航空兵力は主に陸軍航空隊に属していたが、ヒトラーは、陸軍・海軍とは独立した空軍を創設した。新生ドイツ空軍に、1933年5月初飛行のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機が制式された。

写真(右)1935年8月3日、ドイツ、未舗装飛行場、ドイツ空軍第132戦闘航空団「リヒトホーフェン」(Richthofen)所属のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機の前半部分:スペイン内戦に参加した時点で旧式化し始めていたが、これは、複葉、固定脚、羽布張りの機体など、第一次大戦の構造を引き継いためである。第二次大戦に入る前に旧式化したハインケルHe51は、練習機として使用されるようになった。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 3. August 1935. Bestand Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Bestandsinformationen in Invenio 3. August 1935 Originaltitel Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz Flugplatz Döberitz.- Soldaten der Luftwaffe beim Jagdgeschwader "Richthofen" vor Flugzeugen Heinkel He 51
写真は、BundesArchive・Signatur Bild 102-04679引用。


1935年に創設されたドイツ空軍は、1933年5月初飛行のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機を制式し、ついで、1934年初飛行のアラド(Arad)Ar 68戦闘機、メッサーシュミットBf 109を制式した。そこで、旧式化したハインケル(Heinkel)He-51戦闘機隊は、第一線部隊からは退役したが、複葉機で操縦が容易だったために、練習機として使われた。1939年9月、第二次世界大戦が勃発した時にも、He51戦闘機は練習機として使われていた。

ハインケル He-51A-1 第一次大戦に敗北し、ベルサイユ条約の頸木に繋がれたドイツ航空界にとって、民間に認められた航空学校用飛行機、G-38大型輸送用機、Do-X超大型飛行艇などの民間機の開発を進めたことは、設計・量産の上で、ドイツ国内の民需航空需要を満たし、航空機輸出を盛んにし、技術開発と資本蓄積に大いに貢献した。ドイツ航空界は、ヒトラーが政権獲得前に、すでに十分な航空機開発の実績を達成し、後の第三帝国における軍用機開発にも繋がるのである。

1935年のドイツ再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、垂直尾翼に大きく描いていた。1935年のヒトラーの再軍備宣言以降は、ハインケル(Heinkel)He-51のようにドイツ機は、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを付けた。これは、ナチ党の政治的、人種的イデオロギーを軍人にも浸透させる企図があった。軍人の忠誠宣言も、ドイツに対してではなく、ヒトラー総統に対する忠誠を誓うものに変更された。また、航空機の高速化で、敵味方の識別しやすいように、機体と主翼上下面にも、白の縁取り付き黒色バルカンクロス(鉄十字)の国籍マークを記入した。

1933年1月末、ナチ党を首班とする連立政権が成立、アドルフ・ヒトラーは、貴族的なプロシア軍の伝統を軽蔑しており、ナチ党のイデオロギーを軍に浸透させるべきであると考えていた。そこで、ドイツ軍機の国章は、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降は、垂直尾翼尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)を描いた国章とされた。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は目立つために敵からの標的にされやすかったので取りやめになった。

1935年までの旧ドイツ軍の黒白赤三色の国章を、1935年のドイツ空軍設立以後は、赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)の国章に変更し、その後に、機体にバルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。しかし、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は敵から発見されやすいことが分かり、取りやめになったが、垂直尾翼と主翼上下面に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。

写真(右)1935年8月3日、ドイツ、未舗装飛行場、ドイツ空軍第132戦闘航空団「リヒトホーフェン」(Richthofen)所属のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機を移動する牽引用のトラクター:He51の尾輪部分に柵をかけて、未舗装飛行場を引っ張んて移動している。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 3. August 1935. Bestand Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Bestandsinformationen in Invenio 3. August 1935 Originaltitel Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz Flugplatz Döberitz.- Soldaten der Luftwaffe beim Jagdgeschwader "Richthofen" vor Flugzeugen Heinkel He 51
写真は、BundesArchive・Signatur Bild 102-04679引用。


ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機は、1934年から1937年に陸上型473機、水上機型33機、合計506機が量産されている。これは、第二次世界大戦前の戦闘機の量産機数として、世界的に見れば多くはない。しかし、ベルサイユ条約の軍事乗降破棄の後、1935年からドイツ空軍が整備されたことを思えば、十分な数だったともいえる。後継機のアラドAr 68単葉パラソル翼戦闘機は、1934年初飛行で、1936年4月から1938年1月までに514機が生産されている。

ソビエトではBMW VI液冷V型12気筒エンジンをミクーリン M-17としてライセンス国内生産をし、1930年から1941年にかけて2万7,000台を生産し、ツポレフ TB-3四発大型爆撃機のような航空機だけではなく、T-28多砲塔戦車など戦闘車両の発動機としても生産台数の半数近くを搭載している。

ドイツのBMW VI液冷V型12気筒エンジンは、ソ連だけではなく、日本陸軍もライセンスを取得し、川崎が「ベ式四五〇馬力発動機」(BMW-6)として制式した。BMW-6液冷エンジンを搭載したのは、川崎の八八式偵察機、八八式軽爆撃機、九二式戦闘機である。しかし、日本では、零細企業・下請けに頼る航空機の部品の品質管理、工作の精度に問題があり、整備士の取り扱いも未熟であったため、液冷エンジンの稼働率は、空冷エンジンよりも低くなる傾向にあった。

写真(右)1935年8月3日、ドイツ、未舗装飛行場、ドイツ空軍第132戦闘航空団「リヒトホーフェン」(Richthofen)所属のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機と整備士たち:プロペラは2翅である。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 3. August 1935. Bestand Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Bestandsinformationen in Invenio 3. August 1935 Originaltitel Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz Flugplatz Döberitz.- Soldaten der Luftwaffe beim Jagdgeschwader "Richthofen" vor Flugzeugen Heinkel He 51
写真は、BundesArchive・Signatur Bild 102-04675A引用。


ナチ党独裁ドイツでは、ドイツ機は、国籍マークとして、尾翼に赤帯に白丸とスワスチカ(ハーケンクロイツ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを採用した。スワスチカは、ナチ党のイデオロギー、政治思想を軍人にまで浸透させることを反映したもので、軍人の忠誠宣言がドイツに対してでは、ヒトラーに対する忠誠を誓うものと変更されたのと同じ動機である。また、高速の機体の国籍、敵味方の認識をしやすくするため、機体・主翼の上下にも、白の縁取り付きの黒色バルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。

写真(右)1935年8月3日、ドイツ、未舗装飛行場、ドイツ空軍第132戦闘航空団「リヒトホーフェン」所属のハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機と整備士たち:手前の整備士は、車輪止めを右手に持っている。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 3. August 1935. Bestand Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Bestandsinformationen in Invenio 3. August 1935 Originaltitel Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz Flugplatz Döberitz.- Soldaten der Luftwaffe beim Jagdgeschwader "Richthofen" vor Flugzeugen Heinkel He 51
写真は、BundesArchive・Signatur Bild 102-17043引用。


第一次大戦のドイツ戦闘機の撃墜王マンフレート・フォン・リヒトホーフェン(Manfred von Richthofen)に因んで、新生ドイツ空軍の第132戦闘航空団も「リヒトホーフェン」の名称を冠されてハインケル(Heinkel)He-51を配備している。しかし、その後、ドイツ空軍が拡張されると、戦闘機飛行隊の規模も大きくなり、再編成されている。第二次大戦勃発時には、ドイツ空軍では第2戦闘航空団(Jagdgeschwader 2 „Richthofen“)が「リヒトホーフェン」を名乗っている。

写真(右)1935年8月3日、ドイツ、未舗装飛行場、ドイツ空軍第132戦闘航空団「リヒトホーフェン」(Richthofen)所属のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機と整備士たち:プロペラは2翅である。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51 3. August 1935. Bestand Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Bestandsinformationen in Invenio 3. August 1935 Originaltitel Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz Flugplatz Döberitz.- Soldaten der Luftwaffe beim Jagdgeschwader "Richthofen" vor Flugzeugen Heinkel He 51
写真は、BundesArchive・Signatur Bild 102-04674引用。


ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機の諸元
乗員:1名
全高: 3.20 m
全幅: 11.00 m
全長: 8.40 m
自重: 1,460 kg
総重量: 1,900 kg
発動機: BMW VI 73Z 液冷V型12気筒エンジン (750馬力)
プロペラ: 2翅可変ピッチ(variable-pitch)
主翼面積: 27.2 平方メートル
翼面過重: 69.9 kg/m2

最高速力: 330 km/h
巡航速度: 280 km/h
航続距離: 570 km
実用上昇限度: 7,700 m
兵装: 7.92 mm MG 17 機関銃2丁(携行弾数各500発)
爆弾:10キロ爆弾6発

写真(右)1935年8月3日、ドイツ、未舗装飛行場、ドイツ空軍第132戦闘航空団「リヒトホーフェン」(Richthofen)所属のハインケル(Heinkel)He-51戦闘機と整備士たち:プロペラは2翅である。
Döberitz, JG Richthofen, Heinkel He 51
3. August 1935. Bestand Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl
Bestandsinformationen in Invenio 3. August 1935
Originaltitel Arbeitsdienstmänner besichtigen zum ersten mal die Jagdstaffel "Richthofen" in Döberitz bei Berlin am 3. August 1935. Die startfertige Jagdstaffel "Richthofen" vorbildlich ausgerichtet in Döberitz
Flugplatz Döberitz.- Soldaten der Luftwaffe beim Jagdgeschwader "Richthofen" vor Flugzeugen Heinkel He 51
写真は、SDASM Archives・Signatur Bild 102-17044引用。


ハインケル(Heinkel)He-51戦闘機は、制式時に旧式化していた機体だったが、1935年のドイツ再軍備前に初飛行した機体であること、ドイツ空軍が創設された馬鹿にの最初の制式戦闘機だったことを思えば、堅実な設計で標準的な機体を採用したとしても不思議ではない。

ハインケル(Heinkel)He-51戦闘機は、1934年から1937年に陸上型473機、水上機型33機、合計506機が量産されている。これは、当時の列国の戦闘機の量産機数として少数ではあるが、ベルサイユ条約の軍事制限破棄の後、やっとドイツ空軍が誕生したばかりであることを踏まえれば、十分な数であろう。He51複葉戦闘機の後継機、アラドAr 68単葉パラソル翼戦闘機も、1934年初飛行で、1936年4月から1938年1月までに514機が生産されているだけである。

第二次大戦突入時のドイツ空軍の航空団(Geschwader)の定数は、戦闘隊160機・輸送機その他120機である。航空団は3コ飛行隊からなり、飛行隊(大隊:Gruppen)は3コ飛行中隊(Staffel)からなる。飛行中隊の定数は12機である。ただし、スペイン内戦における戦訓から、戦闘機は、それまでの3機編隊(Kette)が、2機編隊はロッテ(Rotte)、4機編隊(小隊:Schwarm)に変更されている。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、激しい航空戦が展開され、敵の空襲も予期する必要があったため、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)は敵から発見されやすいいとして、取りやめになった。その代わり、ナチ党のイデオロギーを示す国章として、尾翼に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。

戦争中期以降になり、ドイツ空軍の優位が崩れると、白縁が目立ちやすいとして、黒のバルカンクロス(スワスチカ)、ハーケンクロイツの白の縁取りも廃されている。


3.アラド(Arado)Ar 68 戦闘機

写真(右)1930年頃,ドイツ空軍が創立されていない時代、アラド(Arado)Ar 64D複葉戦闘機:ドイツ空軍は、1935年のドイツ再軍備宣言後に設立されている。Ar64戦闘機は最高速力250 km/h、ベルサイユ条約の空軍禁止の規定を反古にするものだった。
PictionID:43932038 - Catalog:16_004967 - Title:Arado Ar 64 Nowarra photo - Filename:16_004967.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file
写真は、SmugMug+Flickr, SDASM Archives PictionID:43932086引用。


第一次世界大戦で敗北したドイツは、ベルサイユ条約で軍上記の開発と保有は禁止されていたが、民間機・スポーツ機などの名目で、将来の蒼空部隊の編成や外国軍への輸出を目的に、秘かに軍用機開発に着手していた。第一次大戦のドイツのフォッカー D.XIII戦闘機の後継機として、アラドAr 64は、既存のアラド SD II、アラド SD IIIの発展型として、ドイツ航空省の要請にこたえる形で開発された。

アラドAr 64 Dは、1930年に初飛行し、ジュピター (Jupiter)VI空冷星型エンジン(530馬力)4翅プロペラ、アラドAr 64Eは、同じジュピターVIエンジンに2翅プロペラを装着していた。アラドAr 64戦闘機は、1932年から20機のみが生産された。

写真(右)1930年頃,ブルガリア空軍のアラド(Arado)Ar 65複葉戦闘機:2翅プロペラを装着し、最高速力300 km/h。ドイツは、軍用機を輸出品とし、外貨獲得の手段としていた。
Deutsch: Bulgarisches Jagdflugzeug Arado AR65 Български изтребител Арадо АР65 (Arado Ar65) Date 1937 Source www.lostbulgaria.com Author unknown bulgarian official
写真は、Wikimedia Commons, Category:Arado Ar 65File:Arado Ar65.jpg引用。


アラドAr65は、1931年に初飛行し、ドイツのBMW VI液冷V型12気筒エンジン750馬力 (552 kW) を搭載、総重量1950 kg、最高速力 300 km/h、7.92ミリMG17機関銃2丁装備。 アラドAr 64戦闘機のBMW VI液冷V型12気筒エンジンは、その後、He51戦闘機、Ar68F戦闘機にも装備されることになる。エンジンが同一では、性能向上は期待できないが、信頼性のあるエンジンで使いやすかったのであろう。アラドAr 64は、1933年から1936年に193機が生産された。

写真(右)1934年,ドイツ空軍創立前年、BMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)を搭載して初飛行したアラド(Arado)Ar 68V-1複葉戦闘機試作1号機(登録コード:D-IKIN):前作の1931 初飛行のアラドAr 65戦闘機を引き継いで、同一エンジンを装備して1934年に初飛行した。1935年にドイツ空軍を復活させたヒトラーは、ゲーリングを空軍大臣としたが、この新生ドイツ空軍の初の制式戦闘機がHe51である。
Arado Ar 68V-1 Nowarra photo - Title:Arado Ar 68V-1 Nowarra photo - Catalog:16_004971 - Filename:16_004971.TIF - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file
写真は、SmugMug+Flickr, SDASM Archives PictionID:43932086引用。


戦闘機開発に経験を積んだアラドは、1931年に初飛行させたアラド(Arado)Ar 68戦闘機と同じを引き継いで、それと同じ BMW VI液冷V型12気筒エンジンを装備して、発展型Ar 68V-1を1934年に初飛行させた。同一の発動機だったのは、後継のユンカース Jumo210液冷倒立V型12気筒エンジンが間に合わなかったためである。したがって、アラドAr 68戦闘機の初期量産型アラド(Arado)Ar 68 Fは、BMW VI液冷V型12気筒エンジンを装備している。

アラド(Arado)Ar 68 Eは、ハインケルHe-51戦闘機の後継機として開発された複葉戦闘機で、 以前のAr 65の発展型である。アラドAr 68V-1複葉戦闘機試作1号機(登録コード:D-IKIN)は、当初、ハインケルHe-51と同じBMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)を搭載して1934年に初飛行している。

この後、アラド Ar 68bは、発動機をユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジン(610馬力)に換装している。

1935年3月16日にアドルフ・ヒトラーによるドイツ再軍備宣言、すなわちドイツ敗北後のベェルサイユ条約軍備制限や軍用機開発・保有禁止の破棄がなされた。そして、兵役を復活して、10万人に制限されていた兵力を50万人までの増強し、ドイツ空軍を創立して、民間機を転用した軍用機を配備することが決まった。アラドAr 68E戦闘機は、1936年にドイツ空軍に部隊配備がなされた。


写真(上)1936年4月,ドイツ空軍第134戦闘航空団(Jagdgeschwader)"ホルストヴェッセル(Horst Wessel)" (JG 134)を閲兵するアドルフ・ヒトラー総統,ヘルマン・ゲーリング空軍大臣
:1935年にドイツ空軍を復活させたヒトラーは、第一次大戦のエースパイロット,航空大臣ゲーリングを空軍大臣とし,ルフルトハンザ航空出身のエルハルト・ミルヒ(Erhard Milch)中将(左端)を航空省次官とした。右端は,突撃隊SA隊長(粛清されたレームの後任)ヴィクトール・ルッツェで,軍と突撃隊との宥和を演出する。左の機首は,BMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)を搭載したアラド(Arado)Ar 68 F複葉戦闘で,ハインケルHe-51戦闘機同様、スペイン内戦にも派遣された。
Übergabe des Jagdgeschwaders "Horst Wessel" (JG 134), vlnr: Generalleutnant Erhard Milch, General der Flieger Hermann Göring, Adolf Hitler, SA-Stabschef Viktor Lutze Dating: April 1936 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・Bild_146-2005-0191引用(他引用不許可)。


1935年にドイツ再軍備宣言をして、軍備増強を公言したヒトラーは、新たにドイツ空軍を創設し、初代空軍大臣にヘルマン・ゲーリングを任命した。彼は、第一次大戦の陸軍航空隊のエース・パイロットである。この新生ドイツ空軍の初の制式戦闘機がハインケルHe51戦闘機である。

ドイツ空軍第134戦闘航空団(JG134)の創立は、1936年1月4日で、再軍備宣言1年半後のことである。第3飛行隊、第2飛行隊も創設され、2個飛行隊で戦闘航空団が設立された。1936年3月24日には、ナチ党歌で有名なナチ殉教者ホルスト・ヴェッセルの名を冠され、JG134ホルスト・ヴェッセルとして喧伝された。4月1日には第1飛行隊が創設され、第134戦闘航空団(JG134)ホルスト・ヴェッセルは、3個飛行隊の正規編成となった。

写真(右)1936-1938年頃,ドイツ空軍のアラド(Arado)Ar 68F複葉戦闘機の編隊飛行:E型は、ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンを搭載する予定だったが、このユモJumo210エンジンが間に合わないために、臨時応急的にF型として、BMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)を装備することになった。。
Arado Ar 68Fs Pete Bowers collection - Title:Arado Ar 68Fs Pete Bowers collection - Catalog:16_004972 - Filename:16_004972.TIF - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file
写真は、SmugMug+Flickr, SDASM Archives PictionID:43932098引用。


1936年7月17日から1939年4月1日まで3年近く続いたスペイン内戦に際し、ドイツは反乱軍国民戦線側にコンドル軍団を義勇兵として派遣した。ハインケルHe-51戦闘機も投入されたが、敵人民戦線側が新たに投入してきたソ連ポリカルポフI-16戦闘機に圧倒されてしまった。後継機のアラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機もあったが、臨時中継ぎであり、He51と飛行性の葉大差なかった。そこで、1935年5月28日に初飛行していた次の近代的戦闘機としてメッサーシュミット(Messerschmitt)Bf-109戦闘機がスペイン内戦に派遣されていたコンドル軍団にも配備され、実戦に参加した。

写真(右)1936-1938年頃,ドイツ空軍のアラド(Arado)Ar 68 F複葉戦闘機の戦列:BMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)を装備しているために、同じ発動機のHe51複葉戦闘機の機首と酷似した形状になっている。
Arado Ar 68F Title:Arado Ar 68F - Catalog:16_004970 - Filename:16_004970.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---
写真は、SmugMug+Flickr, SDASM Archives PictionID:43932074 引用。


ドイツ機の国籍マークは、垂直尾翼に1933年1月末以前は、黒白赤三色のドイツ共和国三色の国章をつけていた。しかし、1933年1月末に、ヒンデンブルク大統領が、次期首相にアドルフ・ヒトラーはを任命し、その後、国会議事堂放火事件、大統領による国家緊急時代宣言、全権委任法とナチ党独裁政府となり、ドイツの国籍マークは、ナチ党の卍(スワスチカ)をそのままドイツ国章に付け替えられた。その後、1935年のドイツ空軍設立以後は、赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)の国章が、ドイツ空軍時の国籍マークとなった。その後、航空機の高速化で、敵味方の識別しやすいように、機体と主翼上下面にも、白の縁取り付き黒色バルカンクロス(鉄十字)の国籍マークを記入した。

第二次大戦がはじまると、垂直尾翼の赤帯白丸は廃止され、スワスチカ卍だけになり、機体側面に鉄十字が、初めは黒と白縁で、後に白の縁のみで大きく描かれるようになった。

写真(右)1936年,ドイツ空軍第134戦闘航空団ホルスト・ヴェッセル(Jagdgeschwader 134 "Horst Wessel")所属のアラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機:ユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンを搭載しているので、Ar 68 Eの機首はプロペラスピナまでエンジンナセルが流線型になっている、アラドAr 68 FとハインケルHe-51戦闘機は,同じBMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)を装備しているので、機首の形状が箱型のエンジンナセルで類似している。
Deutsch: Arado Ar 68F des Geschwaders Horst Wessel auf dem Werler Fliegerhorst Date circa 1936 Source Book Werl unterm Hakenkreuz von Helmuth Euler Author Unknown photographer
写真は、Wikimedia Commons, Category:Arado Ar 68 File:Flugzeuge des Horst Wessel Geschwaders in Werl, Heinkel HE 51, durchnumeriert von 1 - 12, Jahr 1936.jpg引用。


アラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機は、予定していたユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンを搭載しているので、機首はプロペラスピナまでエンジンナセルが流線型になっている。他方、アラド(Arado)Ar 68 Fは、ユモJumo210エンジンが間に合わないために、急遽、ハインケルHe-51と同じBMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)を搭載し、量産された最初の形式となった。そのため、He51とAr68Fとは機首が箱型のエンジンナセルとなり、同一機種かと間違いやすい。

アラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機は、生産準備のなったユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジン455 kW (610馬力)を搭載したが、これが当初の生産型だったために、F型よりE型のほうが新しい機体となった。ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンは、高度3,800 mで、500 kW (671馬力)を発揮することができた。

ヒトラーによる1935年3月16日ドイツ再軍備宣言は、ベルサイユ条約の軍事制限条項を無視するものであるが、実際には、ドイツ・ワイマール共和国時代から、闇の国防軍として、再文尾が進められていた。再軍備宣言前から、民間航空、スポーツ機などの名目で純軍用機が開発生産され、外国軍隊向けに輸出されていたのである。再軍備宣言後、陸軍から航空隊を分離して、民間航空と合わせて、ドイツ空軍を創設した。初の空軍大臣は、第一次大戦のエースパイロット,航空大臣ゲーリングで、ルフルトハンザ航空出身のエルハルト・ミルヒ(Erhard Milch)中将が実務を担った。翌年1936年に勃発したスペイン内戦には、ヒトラーは反乱軍国民戦線側にコンドル軍団を義勇兵として派遣した。しかし、これは事実上の正規軍だった。ドイツのHe 51戦闘機は,1936年にスペイン内戦にも投入されたものの、敵人民戦線側のソ連ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機に圧倒され、戦闘機として第一線を退くことになる。

1935年3月16日にヒトラーによるドイツ再軍備宣言がなされたが、その直後に陸軍から航空隊が分離されて、新たに空軍が創設された。ヒトラーは、空軍の総帥にゲーリングをあて、空軍大臣とし,1936年に勃発したスペイン内戦に、反乱軍国民戦線側にコンドル軍団を義勇兵として、He-51戦闘機をスペイン内戦に投入した。この時派遣されたハインケルHe-51戦闘機は,敵人民戦線側のソ連I-16戦闘機に圧倒されてしまった。しかし、後継機のアラド(Arado)Ar 68 複葉戦闘機は、臨時中継ぎであり、次期の近代的戦闘機としてメッサーシュミットBf-109戦闘機がスペインに投入された。

写真(右)1936年頃,ドイツ空軍のユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジン搭載のアラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機(登録コード:D-ITPE):アラド(Arado)Ar 68 E型は、F型よりも先の形式だが、実際には搭載予定のユモJumo210液冷エンジンが間に合わない状態となった。そこで、旧式ではあるが、He51と同じBMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)搭載のアラド(Arado)Ar 68 F型が量産された。その後、ユモJumo210液冷エンジンが順調に生産されるようになり、当初のアラド(Arado)Ar 68 E型の量産が始まった。
Arado 68E Manufacturer: Arado Designation: 68E
写真は、SmugMug+Flickr, SDASM Archives Catalog #: 00075043jpg引用。


アラド(Arado)Ar 68 Eの後継機がF型のように見えるが、実はF型の後継機がE型である。アルファベットが逆になったのは、実際には搭載予定のユモJumo210液冷エンジンが間に合わない状態で、急遽、旧式ではあるが、He51と同じBMW VI12気筒V型液冷エンジン492 kW (660馬力)搭載のアラド(Arado)Ar 68 F型が量産されたためである。その後、ユモJumo210液冷エンジンが順調に生産されるようになり、当初の予定通り、FからEに逆に戻って、アラド(Arado)Ar 68 E型の量産が開始されたのである。

アラド(Arado)Ar 68 Eは、ユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジン(610馬力)を装備し、ドイツ空軍の制式戦闘機となった。1936年はスペイン内戦が勃発した年で、アラドAr68戦闘機もスペイン内戦に投入され、国民戦線側のコンドル軍団に配備され、共和国政府人民戦線側のソ連ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機と戦った。ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機は、1933年12月30日初飛行、低翼単葉で全長 6.13 m、全高 3.25 m、全幅 9 m、翼面積 14.5平方メートル、空虚重量 1,490 kg、全備重量 1,941 kg の小型戦闘機で、兵装は7.62ミリShKAS機関銃2丁(エンジン上面)、20ミリShVAK機関砲 2門(翼内)という大きな火力で、最高速力520 km/hを発揮した。

アラド(Arado)Ar 68 E戦闘機は、空力学的に洗練されており、ハインケルHe-51戦闘機を若干上回る性能だったが、ソ連空軍I-16戦闘機に劣っていた。そこで、1935年5月28日に試作機が初飛行していたメッサーシュミット(Messerschmitt)Bf109が高性能を発揮していたため、アラド Ar 68 (Arado Ar 68) 戦闘機は、ハインケルHe51戦闘機と並行的に使用され、生産機数も同程度の511機の量産にとどまっている。

写真(右)1936-1938年頃,ドイツ空軍のアラド(Arado)Ar 68E複葉戦闘機:ダークな迷彩塗装は、初期のドイツ機には珍しい。本来は、劣勢になり、制空権を失った場合、上空から見つかりにくいように地表と紛らわしい濃い迷彩塗装を施した。
Ardo Ar 68E NowArdo Arra photo - Title:Ardo Ar 68E NowArdo Arra photo - Catalog:16_004973 - Filename:16_004973.TIF - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file
写真は、SmugMug+Flickr, SDASM Archives PictionID:43932112引用。


アラド航空機工場(Arado Flugzeugwerke )は、ハインケルと同じくドイツ空軍初期の制式戦闘機アラド(Arado)Ar 68 Eとして大量生産に移されたが、これがアラド初めての量産機だといってより。アラドは、Ar-96練習機、Ar-232輸送機、Ar-95水上偵察機、Ar-196水上偵察機などを量産するが、いずれも第二次世界大戦時期のナチ党政権で、軍需に支えられた飛行機製造だったのは、ハインケルと同じである。このように軍需に支えられて拡大し、技術を習得したアラドは、第二次大戦末期には、Ar-234ジェット爆撃機を開発し、量産するまでに発展した。
アラド航空機工場(Arado Flugzeugwerke )の発展は、
1)ヒトラー政権下の影の国防軍の軍用機開発促進、
2)1935年の再軍備宣言、それに続くドイツ空軍の創設に伴う軍需の増大、
3)第二次大戦激化にともなう他社開発の機体の生産請負
が契機になっている。

1935年3月1日、ドイツ首相ヒトラーが再軍備宣言をし、その直後に、ドイツ空軍の設立が決まった。このドイツ空軍の最初の制式戦闘機は、ハインケルHe 51複葉戦闘機(1933年初飛行)で、次いで新参のアラドAr-68複葉戦闘機(1934初飛行)である。アラドAr-68複葉戦闘機は、1936年4月から1938年1月に514機が量産されている。このような大量生産は、アラドにとって初めてのことであり、軍需によってアラド航空機工場(Arado Flugzeugwerke )は潤い、規模を拡大することができた。

1935年にドイツ空軍を復活させたヒトラーは、ゲーリングを空軍大臣とし,1936年に勃発したスペイン内戦に、反乱軍国民戦線側にコンドル軍団を義勇兵として派遣した。この時派遣されたハインケルHe-51戦闘機は,敵人民戦線側のソ連ポリカルポフI-16戦闘機に圧倒されてしまったものの、このような実戦投入によって、ドイツ空軍の運用・戦術には大きな進歩があった。

 しかし、ハインケルHe51戦闘機の後継機として、アラドAr-68は同じ複葉戦闘機であり、性能も若干上回る程度であり、ドイツ空軍の制式戦闘機としては、力不足だった。アラドAr-68複葉戦闘機は、次世代の低翼・単葉・全金属製の高性能戦闘機までの臨時中継ぎとなった。次の近代的戦闘機には、メッサーシュミットBf-109戦闘機がスペインに投入され、その高い飛行性能が評価され、大量生産されるに至っている。

アラド(Arado)Ar 68 F複葉戦闘機は、再び発動機をBMW VI液冷エンジン559 kW (750馬力)に換装し、高度1000mで410 kW (550馬力)を発揮できたが、これはユンカース・ユモJumo210倒立V型12気筒液冷エンジンの供給が遅れ、不足していたためである。

写真(右)1936-1938年頃,ドイツ空軍のアラド(Arado)Ar 68 E複葉戦闘機の戦列:ヒトラーは、1935年にドイツ空軍を独立創設し、ゲーリングを空軍大臣とし,1936年に勃発したスペイン内戦に、反乱軍国民戦線側にコンドル軍団を義勇兵として派遣した。
Arado 68E Manufacturer: Arado Designation: 68E
写真は、SmugMug+Flickr, SDASM Archives Catalog #: 00075044引用。


1933年1月末に、ヒンデンブルク大統領は、アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、ヒトラー政権が成立したが、ドイツ機の国籍マークは、1935年の再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、垂直尾翼に大きく描いていた。1935年のヒトラーの再軍備宣言以降は、ドイツ機は、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを付けた。これは、ナチ党の政治的、人種的イデオロギーを軍人にも浸透させる企図があった。軍人の忠誠宣言も、ドイツに対してではなく、ヒトラー総統に対する忠誠を誓うものに変更された。

写真(右)1937-1938年,液冷エンジンから空冷エンジンに換装したドイツ空軍のアラド(Arado)Ar 68H 複葉戦闘機(登録コード:D-ISIX):1935年にドイツ空軍を復活させたヒトラーは、ゲーリングを空軍大臣とし,1936年に勃発したスペイン内戦に、反乱軍国民戦線側にコンドル軍団を義勇兵として派遣した。この時派遣されたハインケルHe-51戦闘機は,敵人民戦線側のソ連I-16戦闘機に圧倒されてしまった。しかし、後継機のAr-68複葉戦闘機は、臨時中継ぎであり、次の近代的戦闘機としてメッサーシュミットBf-109戦闘機がスペインに投入された。
Ray Wagner Collection Image - Catalog:16_004977 - Title:Arado Ar 68H (not Ar 197) Pete Bowers collection - Filename:16_004977.TIF - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file
写真は、SmugMug+Flickr, SDASM Archives PictionID:43932163引用。


アラド(Arado)Ar 68H 複葉戦闘機(登録コード:D-ISIX)は、BMW 132Da空冷9気筒エンジン634 kW (850馬力)を装備したタイプだが、試作機1機のみの生産に終わっている。ただし、それまで開放式のコックピットをガラス風防密閉式のコックピットに改装しているのが特徴である。

アラド(Arado)Ar 68 F複葉戦闘機の外観は、ハインケルHe-51と類似しているが、1930年代にアラドが設計・開発した飛行機は、ヨーロッパでは、決して評価されておらず、輸出もできていない。これは、量産能力が低かったためでもあるが、機体の性能も高くなかったことが、飛行機メーカーとしての歴史が浅くブランド力がなかったことが原因であろう。ユンカース、ドルニエ、ハインケルの飛行機が日本、スペイン、スウェーデンのような航空後進国で多数輸入、使用されているのとは対照的である。 1930年代前半まで、アラドでは多数の飛行機を開発したが、生産機数は100機未満で、数百機の大量量産は、Ar-68戦闘機が初めてだった。同じドイツでも、同時期のユンカース社は、F.13単発輸送機、W.34輸送機、G.24輸送機、Ju-52輸送機など数百機大量生産された機体を擁している。また、ドルニエ社も、世界中で使用されたDo-Jワール飛行艇を大量生産している。しかし、アラド社は、ユンカース、ドルニエとはもちろん、ハインケル社とも比べ物にならない小さな航空機工場だった。にもかかわらずAr-68戦闘機のような当時の世界標準の戦闘機を開発できるのは、素養のある技師や経営者が存在していたからであろう。

写真(右)1938年9月29日、ミュンヘン会談のために、ミュンヘン飛行場から市内のホテルにフランス首相エドゥアール・ダラディエを送り届けるドイツ空軍総司令官ヘルマン・ベーリング元帥
Title Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.) Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Frankreichs Ministerpräsident mit Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Nach der ersten Besprechung im Führerbau in München begleitete Generalfeldmarschall Hermann Göring den französischen Ministerpräsidenten Daladier im Kraftwagen zu dessen Hotel. Daladier und Göring waren Mittelpunkt lebhafter und herzlicher Kundgebungen der Tausende, die die Strassen umsäumten. UBz.: Ministerpräsident Daladier und Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Scherl Bilderdienst, Berlin 29.9.39
Daladier, Edouard: Ministerpräsident, Vorsitzender Sozialistische Partei, Frankreich Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv Bild 183-H12963, Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.).jpg引用。


空軍大臣となったヘルマン・ゲーリングは、1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年11月、ヒトラー主導の武装蜂起「ミュンヘン一揆」(Beer Hall Putsch)は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。
1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉、1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉、1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥、1940年7月19日、国家元帥 1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将。

ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

⇒写真集Album:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。


5.イタリア空軍フィアット(Fiat)CR.20/CR.32複葉戦闘機


図(上)1932年以前,イタリア空軍フィアットC.R. 20 Asso複葉戦闘機の左側寸法図

イタリア航空省1932年刊行、フィアットC.R. 20 Asso公式ガイドライン(Istruzioni)掲載。
Fiat C.R. 20 Asso a cura di Saverio RADOGNA e Pietro BARULLI selezione tratta dal Manuale per il montaggio 写真は,MINISTERO DELL' AERONAUTICA AEROPLANO CR/A(ASSO-CACCIA)C.M.S.A. ISTRUZION EDIZIONE 1932 引用。


⇒写真集Album:フィアットC.R. 20 Asso複葉戦闘機を見る。

写真(右)1937年、スペイン、スペイン内戦に派遣されたイタリア空軍フィアット(Fiat)CR.32複葉戦闘機の編隊飛行:スペイン国民戦線フランコ将軍率いる反乱軍の国籍マークとして、垂直尾翼に白地に黒のXを、胴体と主翼に黒丸●に描いている。
English: A pair of Fiat C.R.32 of the X Gruppo "Baleari". The foreground aircraft is flown by D'Agostini Date 1937 Source http://www.finn.it/regia
写真はWikimedia Commons,Category:Fiat CR.32 (Aviazione Legionaria) File:Fiat C.R.32-Baleari.jpg引用。


フィアット CR.32複葉戦闘機は、1933年4月28日に初飛行、最高速力360km/hと当時としては優れた飛行性能を発揮したために、すぐにイタリア王国空軍に制式された。そして、1936年2月までにCR.32bis、CR.32tris、CR.32quarterなど改良が積図けられ1053機もが量産された。1936年7月に、スペイン内戦が勃発し、スペイン共和国軍とファシスト反乱軍(国民戦線)の戦いが始まると、イタリアはファシストを軍事援助するためにイタリア軍を「義勇兵」の名目で派兵し、CR.32も実戦投入された。


図(上)1937-1938年頃,イタリア、ファシスト・イタリア王国空軍フィアット(Fiat)CR.32戦闘機の側面構造図
;1933年4月28日初飛行、1933年より部隊配備。イタリア航空省1934年(ファシスト暦12年)刊行、フィアットCR.32公式ガイドライン(Istruzioni)掲載。
a cura di Saverio RADOGNA selezione tratta dal Manuale per il montaggio
写真は,MINISTERO DELL' AERONAUTICA AEROPLANO C.R.32 (Motore Fiat A.30 R.A.bis)Istruzioni ROMA 1934-ANNO XII 引用。

フィアット(Fiat)CR.32の諸元

乗員Crew: one
全長Length: 7.88 m (25 ft 7.25 in)
全幅Wingspan: 9.5 m (31 ft 2 in)
全高Height: 2.78 m (9 ft 1.5 in)
翼面積Wing area: 22.1 m2 (238 sq ft)
空虚重量Empty weight: 1,455 kg (3,208 lb)
総重量Gross weight: 1,975 kg (4,354 lb)
発動機Powerplant: 1 × Fiat A.30 R.A. 12-cylinder Vee piston engine , 447 kW (600 hp)
最高速力Maximum speed: 360 km/h (220 mph, 190 kn)
航続距離Range: 781 km (485 mi, 422 nmi)
実用上昇限度Service ceiling:8,800 m (28,900 ft)
兵装Armament:2 ×7.7 mmあるいは12.7 mmブレダ(Breda)-SAFAT機関銃
爆弾Bombs: 100 kg (220 lb)

⇒写真集Album:フィアット(Fiat)CR.32戦闘機 を見る。


6.イタリア空軍フィアット(Fiat)CR.42ファルコ(Falco)複葉戦闘機

写真(右)1940年6月以前,ファシスト・イタリア王国空軍フィアット(Fiat)CR.42ファルコ(Falco)複葉戦闘機:1938年5月23日初飛行、1939年5月より部隊配備。ファシスト独裁イタリアの国籍マークは、1940年6月の第二次大戦参戦までは、主翼の3本ファッシ(束ねた武器)と垂直尾翼の緑・白・赤の三色旗の三色旗と同じ縦縞である。
Fiat C.R. 42 a cura di Saverio RADOGNA , con il prezioso aggiornamento di Fabrizio CATALANO (in memoria) selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore
写真は,MINISTERO DELL' AERONAUTICA CATALOGO NOMENCLATORE PER VELIVOLO FIAT C. R.42 AERONAUTICA D'ITALIA S.A.−TRINO 1940 ANNO XVIII引用。


写真(右)1941年1月10日、ベルギー西部、ブリュージュ東20キロのエークロ(Eeklo:Eechlou)基地(?)、イギリス本土空襲作戦準備中のイタリア王国空軍フィアット(Fiat)CR.42ファルコ(Falco)戦闘機;3翅プロペラを回転させフィアット(Fiat) A74RC38空冷星型14気筒エンジン870hpを始動している機体を地上整備員4人が押さえて留めている。
Fasi preparatorie dell'avviamento di un CR 42 in missione sulla Manica Creation date 10.01.1941 Timestamp created 2020-11-22T21:25:10.106Z Timestamp created 2020-11-22T21:25:10.106Z
写真はEuropeana experience,Europeana Identifier GuerraGuerraIL0001004724-man0引用。


⇒写真集Album:フィアット(Fiat)CR.42ファルコ(Falco)戦闘機 を見る。


7.1922年創業のハインケル社(Heinkel)が生産したHD機

写真(右)1924年以降、ドイツ、迷彩塗装を施した開放式複座コックピットのハインケル(Heinkel)HD-14複葉水上偵察機;イタリアのフィアット(Fiat)A.14 液冷W-12ガソリンエンジン 450 kW (600 hp)1基を装備して1925年9月13日、初飛行した。乗員2名、総重量5,600 kg、最高速力は175 km/h。スウェーデン軍用に開発されたが、性能不足で量産には至らなかった。ハインケルが「スピード狂」の革新的設計者というのは、自伝で述べた表現だが、たかだかHe70高速輸送機以降に浸透しはじめた方針であり、当初から天才的才能があったというのは自画自賛であろう。
Ray Wagner Collection Image
- Catalog:16_007310 - Title:Heinkel HD 14 Nowarra collection - Filename:16_007310.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168148引用。


1930年までのハインケルが設計・開発した飛行機は、ヨーロッパでは、決して革新的でも、最先端技術を体現したものではなかったようだ。日本のような後進国には喜ばれたが、ヨーロッパ内では大量生産された機体がないことが、それを示している。

ハインケルの飛行機が、高性能、高速機、高技術として讃えられるようになったのは、He70輸送機の開発意向であろう。空力学的に抵抗の少ないデザインを研究し、1932年12月にハインケルHe 70を初飛行させた。ハインケルHe 70輸送機は、最高速力377km/hで、世界スピード記録を書き換え、アメリカの高速輸送機独占を崩すことになった。これは、1933年1月に首相に任命されたアドルフ・ヒトラーにとっても誇らしいことで、ドイツの国威発揚、アーリア人の人種的優秀性のプロパガンダに使用された。

写真(右)1924年以降、ドイツ、迷彩塗装を施した開放式複座コックピットのハインケル(Heinkel)HD-17複葉偵察機;ネピア・ライオン(Napier Lion)W-12液冷エンジン 340 kW (450 hp)1基装備して1924年、初飛行した。最高速力は240 km/h、当時としては標準的な速力だった。ハインケルが「スピード狂」の革新的設計者というのは、自伝で述べた表現だが、たかだかHe70高速輸送機以降に浸透しはじめた方針であり、当初から天才的才能があったというのは自画自賛であろう。
Ray Wagner Collection Image
Heinkel HD-17 - Title:Heinkel HD-17- Catalog:16_003710 - Filename:16_003710.TIF - - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43102081 引用。


日本海軍は、1920年(大正10年)にイギリス人ハーバート・スミス技師に依頼し、三菱・十年式艦上雷撃機を試作し、1923年には初飛行に成功したものの、実用化はできなかった。そこで、三菱から複葉に改めた艦上攻撃機(雷撃機)の設計を再度依頼した。こうして、1923年(大正12年)1月に試作機が完成、1924年(大正13年)に三菱・一三式艦上攻撃機として制式されている。日本海軍の一三式艦上攻撃機は、1923年から1933年まで、444機もが量産されている。

写真(右)1928年以降、スウェーデン、スウェーデン空軍の45センチ800キロ魚雷を搭載したハインケル(Heinkel)HD-16複葉雷撃機;垂直未翼は、スウェーデン金十字国旗を模した青色と黄色の縦縞。アーム・スロング・レオパルド(Armstrong Siddeley Leopard)497 kW (666 hp)1基装備して初飛行した。最高速力は196 km/h、乗員3名、総重量4,570 kg、生産機数2機のみ。スウェーデンではJ4と命名された。
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Heinkel, HD 16 Catalog #: 01_00081272 Title: Heinkel, HD 16 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: HD 16 .
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43102045 引用。


ハインケル(Heinkel)HD-16複葉雷撃機は、イギリスのアーム・スロング・レオパルド(Armstrong Siddeley Leopard)497 kW (666 hp)1基を装備して1928年、初飛行した。最高速力は196 km/h、乗員3名、総重量4,570 kg。ドイツ軍は、ベルサイユ条約の軍備制限条項で、空軍兵力を保有できなかったため、ハインケルは、スウェーデン軍のために開発した機体である。生産機数は2機のみで終わっているが、スウェーデン軍でも、1920年代に航空機からの雷撃を実施しようとしたことには驚かされる。

写真(右)1928年7月以降、ドイツ、開放式複座コックピットのハインケル(Heinkel)HD-19L複葉複座機;1928年7月、ブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter) VI空冷 9気筒エンジン 310 kW (420 hp)、2翅プロペラを装備して初飛行した。最高速力は215 km/h 、生産機数6機のみ。
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Title:Heinkel HD-17- - Catalog:16_007313 - Title:Heinkel HD 19L, 1928 Nowarra collection - Filename:16_007313.TIF - - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:46168186 引用。


ハインケル(Heinkel)HD-19L複葉複座機は、イギリスのブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter) VI空冷 9気筒エンジン420馬力(排気量28.7L)を搭載、1928年7月に初飛行に成功した。全長9.26 m (30 ft 5 in)、全幅 11 m (36 ft 1 in)、全高 3.91 m、最高速力は215 km/h 、巡航速力182 km/h、実用上昇限度 6,400 m。生産は6機のみで終わっている。

写真(右)1928年7月以降、ドイツ、ハインケル(Heinkel)HD-19A複葉複座水上機(製造番号:WNr 296 );1928年7月、ブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter) VI空冷 9気筒エンジン 310 kW (420 hp)、排気量28.7L1基装備して初飛行した。最高速力は215 km/h 、生産機数6機のみ。
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Heinkel HD 19a WNr 296 for Sweden Nowarra photo - Title:Heinkel HD 19a WNr 296 for Sweden Nowarra photo - Catalog: 16_003709 - Filename: 16_003709 .TIF - - Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43102069 引用。


写真(右)1925年以降、ドイツ、開放式複座コックピットのハインケル(Heinkel)HD-25愛知二式水上偵察機;イギリスのネピア・ライオン 水冷W型12気筒450hpエンジン1基装備を装備して1926年、初飛行した。乗員2名、全備重量2,570kg、最高速力203km/h、日本海軍も購入し愛知で二式水上偵察機として組み立てた。生産機数は16機。
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Heinkel, HD 25 Title: Heinkel, HD 25 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: HD 25 Tags: Heinkel, HD 25.
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081253引用。


日本海軍HD25国産型愛知 二式水上偵察機の諸元
全長:9.70m、全幅:14.88m、全高:4.27m
自重:1,700kg、全備重量:2,570kg
最高速度:203km/h 乗員:2名
発動機:ネピア ライオン 水冷W型12気筒 450馬力
航続距離:910km
兵装:7.7ミリ旋回機関銃1丁

ドイツ北部バルト沿岸のワルネミュンデにあるハインケル工場で感染した試作機は、1926年初飛行に成功し、軍用機開発を始めていた日本海軍が注目するところとなり、2機が輸出された。日本海軍では、実用審査を行い、1928年(昭和3年)3月に愛知・二式水上偵察機として制式した。生産機数は16機で、時計生産から発展した愛知航空機で行われたが、これは部品を輸入してのノックダウン生産であろう。しかし、日本ではこれを「国産」と称して、自国でも飛行機が生産できる技術があることを誇っていた。大型艦艇用の艦載機として実用化が図られたが、実際には、試験的運用にとどまったようだ。

写真(右)1928年7月以降、スウェーデン、スウェーデン海軍海防艦「ドリスティキータ」(Dristigheten)後甲板に艦載されたハインケル(Heinkel)HD-19A水上偵察機(右)とHe-16水上雷撃機(左:最後尾甲板、デリック近く);。
Heinkel HD 19a WNr 296 for Sweden Nowarra photo English: Postcard picture of the Swedish coastal defence ship HMS Dristigheten. Svenska: Vykortsbild av det svenska pansarskeppet HMS Dristigheten..
No. DO14939:208 from the Naval Museum of Sweden (Marinmuseum) collections.
写真は,Wikimedia Commons, Category:Heinkel HD 19 File:HMS Dristigheten.jpg引用。


スウェーデン海軍海防艦「ドリスティキータ」(Dristigheten)は、乗員427名、排水量3445 トン、210ミリ砲2門、152ミリ砲6門、57ミリ砲10門の銃重兵装だが、最高速力16.5ノット(30.6 km/h)航続距離 2,040マイルと機動力は低い。このような沿岸防備用の火力重視の海防艦は、フィンランド、スウェーデンのような内海の防衛を優先する国が建造している。

写真(右)1926年以降、ドイツ、開放式コックピットのハインケル(Heinkel)HD-28三座水上偵察機;水上滑走用の双フロート(浮舟)の下に、陸上移動用のドリー(滑車台)を取り付けている。
Ray Wagner Collection Image
- Catalog:16_007314 - Title:Heinkel HD 28 Nowarra collection - Filename: 16_007314.TIF.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID: 46168199引用。


ハインケル(Heinkel)HD-28三座水上偵察機は、フランスのロレーヌ・ディートリヒ(Lorraine Dietrich)18K水冷W型18気筒エンジン485 kW (650 hp)1基を装備して、1926年に初飛行した。乗員3名、総重量3,850 kgkg、最高速力199 km/h、巡航速力150 km/h、実用上昇限度4,500m。日本海軍が購入し愛知でノックダウン方式で組み立てたハインケルHD-28は、二式三座水上偵察機と命名された。ただし生産機数は1機のみ。航空黎明期であるため、僅か1機の輸入で、国内量産をしていないに機体を制式している。


8.ハインケル(Heinkel)He 59水上偵察機

ドイツ機の国籍記章は、1933年1月末、ナチ党政権となってから、当初は、黒白赤三色ストライプの国章だったが、1935年以降、再軍備宣言がなされ、ドイツ空軍が創立されると、赤帯に白丸とハーケンクロイツを描いた国章が決まった。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸は目立つために敵からの標的にされやすかった。そこで、黒色のハーケンクロイツのみが小さく描かれるように変更された。

写真(右)1935年-1939年,ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 59b 水上偵察機 :ドイツ空軍の国籍記章は、1933年1月末、ナチ党政権となってから、当初は、黒白赤三色ストライプの国章だったが、1935年以降は、赤帯に白丸とハーケンクロイツを描いた国章とされた。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸は目立つために敵からの標的にされやすかった。そこで、黒色のハーケンクロイツのみが小さく描かれるように変更された。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46168758 - Catalog:16_007358 - Title:Heinkel He 59b Nowarra Collection - Filename:16_007358.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,PictionID:46168758引用。


しかし、ハインケルHe59水上偵察機の外観を見てもわかるように、1930年までハインケルの設計・開発した飛行機は、ヨーロッパでは、決して高性能な機体ではなかった。ハインケル機は、日本、スペイン、スウェーデンのような飛行機後進国では高く評価されたが、これは低価格だったからであろうか。1930年代に至るまで、ハインケル機は数百機の量産に至っていない。これは、ベストセラー、輸出機を多数開発したユンカースとは異なり、大量生産された機体がないことが、それを裏付けている。ハインケルの飛行機が、高性能、高速機、高技術として讃えられるようになったのは、He70輸送機の開発意向であろう。

ハインケルHeinkel He 59双発水上救難機諸元
全長: 17.40 m、全幅: 23.70 m 全高: 7.10 m、全備重量: 9,100 kg
発動機: BMW VI 6.0 ZU 水冷 1気筒660hp2基
最高速力: 209 km/h、実用上限高度: 3,500 m
航続距離: 1,750 km
兵装 7.92ミリ旋回機銃 2丁、搭載量:爆弾 700 kg
乗員: 4名

ハインケル(Heinkel)He59双発水上救難機


9.ハインケル(Heinkel)He 60艦載水上偵察機

写真(右)1935年頃,ドイツ軍のハインケル(Heinkel)He 60艦載水上偵察機試作機V1(Heinkel He 60a (V-1) First Prototype) :陸上木型と水上機型が同時に試作されたが、採用されたのは水上機型だけだった。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46168808 - Catalog:16_007362 - Title:Heinkel He 60 a (V-1) First Prototype Nowarra Collection - Filename:16_007362.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,PictionID:46168808引用。


 ハインケルHe 60は、He 59と同じラインホルト・メーヴェス設計になる木材/金属混合構造、羽布張りの単発複葉水上機で、当時の標準的な保守的スタイルだった。試作機はBMW液冷エンジン660馬力を搭載、1933年初飛行した。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、激しい航空戦が展開され、敵の空襲も予期する必要があったため、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)は敵から発見されやすいいとして、取りやめになった。その代わり、ナチ党のイデオロギーを示す国章として、尾翼に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。ハインケルHe 60 のような旧式水上偵察機は、第一線で活動してはいないはずだが、このような古い機種についても国政マークの変更を行っている。後に、白渕が目立ちやすいとして、黒のバルカンクロス(スワスチカ)、ハーケンクロイツの白の縁取りは廃されている。


10.ハインケルHe70高速輸送機ブリッツ

ドイツ航空省は、1934年、見るからに精悍なHe 70(Heinkel He 70 "Blitz")単発高速輸送機を完成させていたハインケル社に爆弾搭載量1,000kg、航続距離1,000km、最大速度350km/hの性能の爆家機を密かに発注した。当時のドイツは、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)アドルフ・ヒトラー政権の下にあったが、1929年6月のヴェルサイユ条約の軍事制限条項の下にあり、空軍の保有はできなかった。

 しかし、ハインケル社のジークフリート・ギュンターとヴァルター・ギュンターの兄弟は、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士は、1888年、ドイツ南部、シュトゥットガルト生まれ、第一次大戦で飛行機設計に加わった。戦後の1922年に、北ドイツのヴァーネミュンデにハインケル飛行機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立した。そして、He 70の設計思想をもとに、He 111試作機にBMW VI.液冷エンジン(660馬力)2基を装備し、最高速力348km/hの当時としては高速の爆撃機を飛行させた。

写真(右)1932年12月-1933年初め、ドイツ共和国、ハインケル(Heinkel)He 70高速輸送機ブリッツ(登録コード:G-ADZF);第二次大戦前、ドイツ・ワイマール共和国、航空技術の優秀さを示したハインケル機。国籍マークには、共和国時代の三色旗を模したもので、赤帯白丸に黒のスワスチカはない。エンジン出力が低かった時代、プロペラは3翅ではなく、2翅のみだった。
PictionID:38236897 - Catalog:Array - Title:Array - Filename: 15_002341 .TIF - ----Image from the Charles Daniels Photo Collection.----Album: German Aircraft.-------PLEASE TAG these images with any information you know about them so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System-
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:38236897引用。


ハインケル He.70「ブリッツ」(電撃)高速輸送機は、1930年代初め、ドイツ・ルフトハンザ航空の輸送機として開発された。運搬物は、当初の計画では郵便だったが、のちに高速旅客輸送機としても使用された。当時の高速単発輸送機は、アメリカのロッキード輸送機ベガ、ロッキード輸送機L-9 オリオンなどの小型輸送機である。ハインケルHe 70が、このロッキード輸送機と大きく異なるのは、主翼の形状で、楕円翼を採用している。この楕円翼はギュンター兄弟が発案したもので、併せて、皿リベットによって、機体表面の平滑性を高め、空気抵抗を小さくすることに成功していた。またそれまで、固定脚だった降着装置を、引込み式降着装置とした。

ハインケル He 70輸送機の諸元
全長:11.70 m、全幅:14.78 m、全高:3.10 m
翼面積:36.50 平方メートル
空虚重量:2,300 kg、運用重量:3,420 kg
プロペラ:金属製2翅
発動機:BMW VI 7.3 z 液冷V型12気筒液冷エンジン 750馬力1基
最大速度:360 km/h
上昇限度:6000 m
航続距離:1400〜1820 km

写真Album:ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機


11.ハインケル(Heinkel)He-111輸送機 

写真(右)1935-1936年、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111輸送機A型V-4試作4号(製造番号 W.Nr. 1968、登録コード D-AHAO):プロペラは、2翅から3翅となった。
楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかり、工作の簡易化には逆行した。
Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081302 Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081302引用。


ハインケル(Heinkel)He 111は、当初は1,000 馬力ダイムラー・ベンツ DB 600液冷倒立V12気筒エンジン2基を装備したが、これはメッサーシュミット(Messerschitt)Bf 109戦闘機の試作10号機から13号機が搭載したのと同じエンジンである。ハインケル社は、戦闘機用のダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジンをHe111に装備することは認められず、より非力な 650馬力BMW VI "upright"液冷倒立V12気筒エンジンを装備することを強いられた。

1935年末に,ハインケル(Heinkel)He 111輸送機試作2号機V2と試作4号機V4が製造され、民間登録コードのD-ALIX, D-ALESおよびD-AHAOが与えられた。これが、He 111 A-1輸送機の初めての試作機で、1936年1月10日に完成した。当時は、世界最速の高速輸送機とされ、最高速力は時速402 km/h (250 mph)以上を発揮した。

He-111 V-1試作機
1929年6月のヴェルサイユ条約の軍備制限条項の下で爆撃機として1934年に密かに開発
乗員員(Crew): 5名
発動機(Engine): BMW VI 6.0Z 液冷12気筒エンジン(600 馬力)
全長(Length): 16.40 m | 全幅(Width): 22.60 m | 全高(Height): 4 m
最高速力(Max. Speed): 310 km/h

ハインケル社は、ドイツ航空省Reichsluftfahrtministerium:RLM)の密命を受けて、ハインケルHe70の技術を活用して大型高速爆撃機の開発を始めた。ベルサイユ条約の軍事制限条項を掻い潜るために、開発の名目は高速旅客機とされた。ハインケルHe111は、1935年2月に試作1号機が初飛行した。

写真Album:ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機


12.ハインケル(Heinkel)He 112戦闘機


写真(右)1935年9月以降、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 112V-3戦闘機の試作3号機(登録コード:D-IDMO)
;He 112V-3戦闘機のコックピットは、開放式で、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:43935716 - Catalog:16_005269 - Title:Heinkel He 112V-3 Nowarra photo - Filename: 16_005269 .TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935716引用。


ハインケル He 112 A-0 V4戦闘機の諸元
乗員Crew: 1名
全長Length: 9 m (29 ft 6 in)、全幅Wingspan: 11.5 m (37 ft 9 in)、全高Height: 3.7 m (12 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 23.2 m2 (250 sq ft)
空虚重量Empty weight: 1,680 kg (3,704 lb)
最大離昇重量Max takeoff weight: 2,230 kg (4,916 lb)
発動機Powerplant: 1 × Junkers Jumo 210Da V-12液冷」ガソリンエンジン 514 kW (689 hp)
プロペラPropellers: 3翅(bladed)可変ピッチ(variable-pitch)

性能Performance
最高速力Maximum speed: 488 km/h (303 mph, 263 kn) /3,500 m (11,483 ft)
航続距離Range: 1,100 km (680 mi, 590 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 8,000 m (26,000 ft)
翼面過重Wing loading: 102.5 kg/m2 (21.0 lb/sq ft)

兵装Armament
2 × 7.92 mm (.312 in) MG 17機関銃(機首)
2 × 20mm エリコン(Oerlikon)MG FF機関砲(主翼)

写真(右)1935年9月以降、ドイツ、無塗装のハインケル(Heinkel)He 112V-5戦闘機の試作5号機;He-112V-5戦闘機のコックピットは、開放式である。He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼を採用し1935年9月に初飛行した。
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Catalog:16_005272 - Title:Heinkel He 112V-5 Nowarra photo - Filename: 16_005272 .TIF- - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation.
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935752 - 引用。


ハインケル(Heinkel)He-112戦闘機は、He-70のBMW液冷ガソリンエンジン500馬力よりも高出力のJumo210液冷エンジン650馬力を装備した。しかし、1935年10月の比較審査では、最高速力は440 km/hで、同じエンジンを搭載したメッサーシュミットBf109試作機の最高職力467 km/hより30 km/h以上も低速で、上昇力も劣っていた上に、量産性に問題があったためにドイツ空軍の戦闘機としては制式されずに終わった。

高性能のハインケルHe112戦闘機には、世界各国の軍隊が注目した。そして、日本、ハンガリー、ルーマニア、スペインは、最新技術を誇ったHe112戦闘機を購入・輸入した。そのため、He112戦闘機は、ドイツ空軍の制式ではないが、1939年までに100機が量産された。

ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He112 戦闘機


13.ハインケル(Heinkel)He 100(He-113)戦闘機

写真(右)1938年、ドイツ、無塗装のハインケル(Heinkel)He 100V1戦闘機試作1号機;試作1号機は、He-70輸送機と同様にかるい逆ガル楕円翼、空気抵抗は少ないが、視界にゆがみが生じる急傾斜の曲面ガラス風防を採用して、1938年1月22日に初飛行した。
Русский: He 100 V1 на аэродроме Росток-Мариенех
Date 1938 Source Heinkel He 100 // Война в воздухе ?140 - 2005 год Transferred from ru.wikipedia to Commons by ceminarist. .
写真はWikimedia Commons, Category:Heinkel He 100 File:He 100 V1 на аэродроме Росток-Мариенех.JPG引用。


ハインケル(Heinkel)He-100戦闘機は、1938年1月22日に初飛行した。前作He-112よりも小型の機体として、速力を向上させた。また、水冷エンジンのラジエーター(冷却機)を主翼前面に内蔵する「表面冷却器」という新機軸を取り入れていた。

ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He100 戦闘機

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ハンセン病Leprosy差別

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