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◆ハインケルHe70高速輸送機ブリッツ
写真(上)1930年-1932年末、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 70輸送機試作機(D-3)
;第二次大戦前、ドイツ・ワイマール共和国、航空技術の優秀さを示したハインケル機。国籍マークには、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のスワスチカはない。
English: Heinkel He.70 photo from NACA-AC-183 Date 1 August 1933 Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090277.pdf Author NACA Aircraft Circular-
写真は,Category:Heinkel He 70 File:Heinkel He.70 right resr NACA-AC-183.jpg引用。



写真(上)1930年代初頭、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 70高速輸送機ブリッツ
:1935年までは、ドイツ軍伝統の黒白赤三色ストライプの国章だったが、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降は、尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)を描いた国章とされた。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は目立つために敵からの標的にされやすかったので取りやめになった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935604 - Catalog:16_005260 - Title:Heinkel He 70f Nowarra photo - Filename:16_005260.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection.
SDASM Archives・NH 80977 GNEISENAU (German battleship, 1936) 引用。

写真(右)1942年4月24日、ドイツ、自ら開発したHE 115 水上偵察機をバックにした教授エルンスト・ハインケル博士(Professor Dr. Ernst Heinkel);He115の搭載したBMW132空冷星形9気筒エンジンと3翅プロペラが背後に見える。
Collectie NIOD
Trefwoorden Duitsers, Luftwaffe, Oorlogsindustrie, Vliegtuigen, Portretten
Locatie Naam: Federal Republic of Germany Land: Germany
Personen Heinkel, Ernst
Bijschrift Professor Heinkel zum Pionier der Arbeit ernannt. Auf Grund seiner hervorragenden Leistungen auf den Gebiet des deutschen Flugzeugbaues wurde Professor Ernst Heinkel, der Schöpfer zahlreicher unübertroffener Flugzeugtypen vom Führer zum Pionier der Arbeit ernannt. Professor Dr. h.c. Ernst Heinkel vor einen seiner Kampfflugzeuge, der He 115.
Type Foto
Datum 24/04/1942 Datum type Opname
写真は Beeldbank WO2 : Beeldnummer 29482引用。


エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel)は、1888年1月24日、ドイツ南部、ヴュルテンベルク州シュヴァーベン(Schwaben)地方のグルンバッハ(Grunbach )に生まれ、自ら独立心旺盛で自尊心の高い短気なシュワーベン人であると自負していた。

第一次世界大戦時、エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel)は、ドイツの航空機メーカー、アルバトロス(Albatros)社で主に設計の仕事をし、戦後の1922年には、ドイツ北部ヴァーネミュンデにハインケル航空機を設立した。ここは、バルト海を挟んでスウェーデンに面しており、1919年のベルサイユ条約によって軍用機の開発・保有を一切禁止されたドイツにあって、対岸のスェーデンで軍用機を開発できるという利点があった。この時期、エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel)は、日本海軍のために、1925年、HD-25水上機、すなわち愛知航空機 二式複座水上偵察機も開発している。

写真(右)1940年頃、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel):孫娘と一緒の写真かと。
Portraitserie Ernst Heinkel
Datensatz 70246185
Eschen, Fritz: Portraitserie Ernst Heinkel
Persons and corporations: Darstellung: Heinkel, Ernst
Keywords / Classification: Bildnis, Portrait
Lebensdaten : 1888-1958
Beruf : Flugzeugkonstrukteur
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_e_0050035引用。
1933年1月末、ナチ党総統アドルフ・ヒトラーが、首相に任命され、1935年にドイツ再軍備を宣言して、ドイツ空軍を設立すると、エルンスト・ハインケル( Ernst Heinkel)は、政権獲得前から既存の飛行機を活かして、軍用機として開発したHe59双発水上機、He60水上偵察機などを採用され、航空機メーカーとして、順調に飛行機製造を拡張することができた。He70高速輸送機など高性能機も開発し、1935年のドイツ再軍備宣言後には、ドイツ空軍の創設に伴い高速輸送機として開発したHe111を爆撃機として採用させ、さらにHe51複葉戦闘機の量産も受注することで、ドイツ有数の航空機メーカーに成長してゆく。第二次大戦前に、He112戦闘機を開発したが、Bf109戦闘機との競争試作に敗れた。しかし、その後も、 He177四発重爆撃機、He219夜間戦闘機、He280ジェット戦闘機など数々の軍用機を開発、生産して、ハインケル社を興隆させた。

写真(右)1940年頃、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel):楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。
Datensatz 70246184 Eschen, Fritz: Portraitserie Ernst Heinkel
Persons and corporations: Darstellung: Heinkel, Ernst
Keywords / Classification: Bildnis, Portrait Lebensdaten : 1888-1958
Beruf : Flugzeugkonstrukteur. Foto: Eschen, Fritz
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_e_0050034引用。


1922年、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、ドイツ北部バルト海沿岸、ポンメルン州ヴァーネミュンデ (Warnemünde)に、ハインケル航空を設立した後、ベルサイユ条約の航空兵器保有禁止の条項をかいくぐるために、対岸のスウェーデンで軍用機の開発を行った。この高性能水上偵察機は、日本海軍の注目するところとなった。その後、ヒトラー政権の下で、ナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)の独裁が始まり、再軍備が実効に移された。そして、ドイツ軍向けの軍用機を開発するようになった。

ドイツ空軍が設立されてからは、ハインケルHe 59複葉戦闘機、ハインケルHe 115双発水上偵察攻撃機、ハインケルHe111双発爆撃機などを開発し、量産した。1938年ニュルンベルク開催のナチ党党大会では、国家芸術科学賞を授与されており、軍需生産に依存した会社の繁栄をもたらした。

写真(右)1940年頃、ドイツ、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel):孫娘と一緒の写真かと錯覚してしまう。
Portraitserie Ernst Heinkel
Datensatz 70246186
Eschen, Fritz: Portraitserie Ernst Heinkel
Persons and corporations: Darstellung: Heinkel, Ernst
Keywords / Classification: Bildnis, Portrait
Lebensdaten : 1888-1958
Beruf : Flugzeugkonstrukteur
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_e_0050037引用。


1881年1月24日生まれのエルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、二人兄弟、3回結婚し、連れ子2人を含め7人の子供をもつ。1958年1月30日逝去。

エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)は、振動力のジェット・エンジンにも注目し、世界初となるターボジェット搭載のジェット実験機ハインケル He178を完成させ、1939年8月27日にジェット初飛行に成功した。これは、エルンスト・ハインケル博士によれば、スピードへの陶酔の発露であるが、高度の軍事技術への関心の大いにあったはずだ。実際、この世界初のジェット機He178の初飛行は、第二次世界大戦の始まる5日前だった。しかし、ドイツ空軍は、ジェットエンジン無しでも戦争は勝利できると過信しており、実際にハインケルにジェット戦闘機He162の量産が始まったのは、1945年に入ってからだった。


1.ハインケルHe70高速輸送機ブリッツ


写真(上)1930-1932年末、ドイツ共和国、ハインケル(Heinkel)He 70高速輸送機ブリッツ
;第二次大戦前、ドイツ・ワイマール共和国、航空技術の優秀さを示したハインケル機。国籍マークには、共和国時代の三色旗を模したもので、赤帯白丸に黒のスワスチカはない。
PictionID:38236897 - Catalog:Array - Title:Array - Filename:15_002341.TIF - -------Image from the Charles Daniels Photo Collection.----Album: German Aircraft.-----------PLEASE TAG these images with any information you know about them so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System-
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:38236897引用。


ドイツ航空省は、1934年、見るからに精悍なHe 70(Heinkel He 70 "Blitz")単発高速輸送機を完成させていたハインケル社に爆弾搭載量1,000kg、航続距離1,000km、最大速度350km/hの性能の爆家機を密かに発注した。当時のドイツは、ナチ党ヒトラー政権の下にあったが、1929年6月のヴェルサイユ条約の軍事制限条項の下にあり、空軍の保有はできなかったのである。しかし、ハインケル社のジークフリート・ギュンターとヴァルター・ギュンターの兄弟は、エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)博士は、1888年、ドイツ南部、シュトゥットガルト生まれ、第一次大戦で飛行機設計に加わった。戦後の1922年に、北ドイツのヴァーネミュンデにハインケル飛行機工場(Heinkel Flugzeugwerke)を設立した。の指導の下で、He 70の設計思想をもとに、He 111試作機にBMW VI.液冷エンジン(660馬力)2基を装備し、最高速力348km/hの当時としては高速の爆撃機を飛行させた。

写真(右)1933年6月23日、ハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(電撃)高速輸送機(D-3)の原型:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、1932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。ハインケル(Heinkel)He111輸送機/爆撃機の前段階といえる。
Photographer: Wild, H.
Title: Heinkel He 70 Verkehrsflugzeug D-3 (367 Std.-Km.)
Caption: Flugzeug, Tiefdecker, Immatrikulation D-3, Lufthansa Emblem auf Seitensteuer, Flugplatz Dübendorf. Der zweite Prototyp der He 70, die He 70b, war die Mustermaschine für die Lufthansa und flog unter dem Kennzeichen D-3. Sie hatte zwei Mann Besatzung und Platz für vier Passagiere. Das Einziehfahrwerk hatte Klappen, welche den Fahrwerksschacht im Flug verschlossen. Als Antrieb kam ein flüssigkeitsgekühlter BMW VI 6,0 Z mit 637 PS Startleistung zum Einsatz.
Dating: 23.6.1933
Impressum: Oerlikon-Zürich : Photo & Verlag H. Wild Photography : paper print
Orientation: Horizontal Format: 9 x 14 cm
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: Ans_05035-492 引用。


ハインケル He.70「ブリッツ」(電撃)高速輸送機は、1930年代初め、ドイツ・ルフトハンザ航空の輸送機として開発された。運搬物は、当初の計画では郵便だったが、のちに高速旅客輸送機としても使用された。当時の高速単発輸送機は、アメリカのロッキード輸送機ベガ、ロッキード輸送機L-9 オリオンなどの小型輸送機である。ハインケルHe 70が、このロッキード輸送機と大きく異なるのは、主翼の形状で、楕円翼を採用している。この楕円翼はギュンター兄弟が発案したもので、併せて、皿リベットによって、機体表面の平滑性を高め、空気抵抗を小さくすることに成功していた。またそれまで、固定脚だった降着装置を、引込み式降着装置とした。

機首に搭載した発動機は、BMW VI V型12気筒液冷ガソリンエンジンで、正面面積を抑えた代わりに、冷却力を維持するために、不凍液を混入した液冷ラジエターを装備した。旅客機として使用する場合、コックピットにパイロットと無線士が着席し、機体中央の客室に乗客4名分の座席を設けている。

ハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(電撃)高速輸送機の試作1号機は、1932年12月1日に初飛行した。そして、最高速力377 km/hと当時の戦闘機を上回る高速で、この高性能を活かして、高速飛行など世界新記録を樹立した。


写真(右)1930年代初頭、ドイツ、ベルリン、ハインケル(Heinkel)He 70L高速輸送機ブリッツ
;BMW液冷ガソリンエンジンを搭載した単発輸送機で、民間利用を進めるためには、経済効率が悪かったので、量産は少数に終わっている。第二次大戦勃発前の1933年1月に成立したヒトラー政権下のドイツ、航空技術の優秀さを示したハインケル機。国籍マークには、垂直尾翼に赤白黒の三色旗を付けた。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935579 - Catalog:16_005258 - Title:Heinkel He 70e Nowarra photo - Filename:16_005258.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation-
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935579引用。


1934年から1937年まで、ドイツ・ルフトハンザ航空のハインケルHe 70高速輸送機は、ケルン― ハンブルク間に就航し、さらにベルリン、フランクフルト、ハンブルクなどドイツの大都市を結ぶ高速ビジネス路線を担当した。ルフトハンザ航空の国際線としては、He 70は1934年から1936年に、ヨーロッパ内のドイツ・シュトゥットガルトとスペインのセビリアの間に就航した。1932年12月1日初飛行のハインケルHe 70高速輸送機は、総生産機数324機で、1933年から使用が始まり、少数が終戦の1945年まで運用された。

 しかし、1936年にスペイン内戦が勃発し、ドイツは、スペイン反乱軍に味方して派兵した。1935年3月16日、ヒトラーは、ベルサイユ条約の軍事事項を破棄してドイツ再軍備宣言をし、その後で、ドイツ空軍を再建した。その際に、軍事化が急速に進んだ航空界にあって、ドイツルフトハンザ航空のハインケルHe70輸送機は、ドイツ空軍に譲渡された。ハインケル He.7028機も、スペインに派兵されたドイツ・コンドル軍団に配属された、スペイン内戦では、輸送機、高速偵察機として投入された。

ハンガーリーのハインケルHe 70Kは、フランスの星形空冷エンジンのノーム・エ・ローヌ 14K ミストラル・メジャーを国内ライセンス生産した WM-K-14 星型空冷エンジン746 kW (1,000馬力)を装備した。この機体を、ハンガリー空軍では、第二次世界大戦中の独ソ戦最中、1941年から1942年に使用した。

写真(右)1934年、ドイツ、ザクセン州、ドレスデン飛行場、ハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」Blitz(電撃)高速輸送機(D-3)の原型と後方のユンカース(Junkers)G-38大型旅客輸送機
Verkehrsflugzeug He-70 Blitz
Datensatz 70047174 Hahn, Walter: Flugplatz Dresden-Heller, Heinkel He 70 "Blitz", einmotoriger Tiefdecke, Schnellverkehrsflugzeug, 1934
Location: Dresden, Heller Keywords / Classification: Flugzeug, Verkehrsflugzeug, Flugplatz

写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309796引用。


ハインケル He.70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機は、工作に手間のかかる楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発された。初飛行は、1932年12月1日で、まだヒトラーが首相に任命される1年前だった。楕円主翼は曲線構造で、製造コストが嵩んだ一方で、空気の流れによる抵抗が少なく、飛行性能の向上に寄与できた。このような主翼は、ハインケル(Heinkel)He111輸送機/爆撃機にも採用されている。

ハインケル He 70の諸元
全長:11.70 m、全幅:14.78 m、全高:3.10 m
翼面積:36.50 平方メートル
空虚重量:2,300 kg、運用重量:3,420 kg
プロペラ:金属製2翅
発動機:BMW VI 7.3 z 液冷V型12気筒液冷エンジン 750馬力1基
最大速度:360 km/h
上昇限度:6000 m
航続距離:1400〜1820 km


写真(右)1930年代初頭、ドイツ、ベルリン、ハインケル(Heinkel)He 70L高速輸送機ブリッツ
;BMW液冷ガソリンエンジンを空冷エンジンに変換したが、量産はされず、試作機の身に終わった。第二次大戦勃発前の1933年1月に成立したヒトラー政権下のドイツ、航空技術の優秀さを示したハインケル機。国籍マークには、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のスワスチカを付けた。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935655 - Catalog:16_005264 - Title:Heinkel He 70L for Hungary Nowarra photo - Filename:16_005264.TIF - - -Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on av -
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935655引用。


ハインケル社では、ドイツ空軍最初の全金属製の単葉低翼戦闘機として、ハインケルHe112を開発したが、競争試作相手のメッサーシュミットBf109戦闘機に敗れた。このハインケルHe 112戦闘機の主翼形状も、He70高速輸送機を引き継いだ楕円翼だった。日本もこの高性能のハインケルHe70輸送機をドイツから輸入し、引込み式降着装置、楕円翼などの設計の参考にしたようだ。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、激しい航空戦が展開され、敵の空襲も予期する必要があったため、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)は敵から発見されやすいいとして、取りやめになった。その代わり、ナチ党のイデオロギーを示す国章として、尾翼に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。ハインケルHe 60 のような旧式水上偵察機は、第一線で活動してはいないはずだが、このような古い機種についても国政マークの変更を行っている。後に、白渕が目立ちやすいとして、黒のバルカンクロス(スワスチカ)、ハーケンクロイツの白の縁取りは廃されている。


写真(上)1934年、ドイツ、ザクセン州(Sachsen)、ドレスデン(Dresden)、ハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機
:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、1932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。
Foto: Hahn, Walter, 1934.06 Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309795 Negativ Eigentümer: SLUB / Deutsche Fotothek
Location: Dresden-Heller Google-Maps-Lokalisierung: Stadt: Dresden, Provinz: Sachsen, Land: Deutschland
Foto: Hahn, Walter, 1934
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309795引用。


ドイツ帝国軍は、第一次大戦の敗戦後、ベルサイユ条約によって、陸軍は10万人規模に大幅に縮小され、参謀本部も廃止、戦争遺憾の保有禁止、航空兵力の保有禁止と束縛された。しかし、ドイツ帝国軍人が引き継いだドイツ共和国軍は、密かにフライコール(義勇軍)を擁立して陸軍の拡充を図り、火砲や戦車を外国で子会社や外国企業と開発した。また、共和国時代から、スポーツ航空や民間航旅客・貨物・郵便・通信航空を隠れ蓑に、軍用機を開発していた。その時代は、プロシア以来のドイツ軍伝統の黒白赤三色ストライプを尾翼に描いで国章としていた。


写真(上)1930年-1932年末、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 70輸送機試作機(D-3)
;第二次大戦前、ドイツ・ワイマール共和国は、1933年1月末のヒトラーの首相就任によって、事実上、ドイツ第三帝国となった。航空機の国籍マークも、それまでの共和国三色旗から、赤帯白丸に黒のスワスチカ卍というナチ党と同じ記章に変更になった。
Description English: Heinkel He 70 Blitz Date 22 August 2012 Source https://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/7585398154/ Author SDASM -
写真は,Category:Heinkel He 70 File:Heinkel He.70 right resr NACA-AC-183.jpg引用。


ドイツ機の国籍マークは、垂直尾翼に1933年1月末までは、黒白赤三色のドイツ共和国三色の国章をつけていた。しかし、1933年1月末に、ヒンデンブルク大統領が、次期首相にアドルフ・ヒトラーを任命し、その後、国会議事堂放火事件、大統領による国家緊急時代宣言、全権委任法とナチ党独裁政府となり、ドイツの国籍マークは、ナチ党の卍(スワスチカ)をそのままドイツ国章に付け替えられた。その後、1935年のドイツ空軍設立以後は、赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)の国章が、ドイツ空軍時の国籍マークとなった。その後に、機体と主翼上下に黒のバルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。第二次大戦がはじまると、垂直尾翼の赤帯白丸は廃止され、スワスチカ卍だけになった。

写真(右)1934年、ドイツ、ザクセン州(Sachsen)、ドレスデン(Dresden)、ハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。
Foto: Hahn, Walter, 1934.06
Negativ Eigentümer: SLUB / Deutsche Fotothek
Integrated Authority File (GND) Hahn, Walter
SLUB / Deutsche Fotothek / Hahn, Walter License: Free access - rights reserved.
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309797引用。


しかし、1933年1月末、ナチ党を首班とする連立政権が成立、アドルフ・ヒトラーは、貴族的なプロシア軍の伝統を軽蔑しており、ナチ党のイデオロギーを軍に浸透させるべきであると考えていた。そこで、ドイツ軍機の国章は、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降は、垂直尾翼尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)を描いた国章とされた。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は目立つために敵からの標的にされやすかったので取りやめになった。

写真(右)1934年、ドイツ、ドレスデン、ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機「ブリッツ」(電撃) :楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。
Datensatz 70047174
Hahn, Walter: Flugplatz Dresden-Heller, Heinkel He 70 "Blitz", einmotoriger Tiefdecke, Schnellverkehrsflugzeug, 1934
Location: Dresden, Heller
Keywords / Classification: Flugzeug, Verkehrsflugzeug, Flugplatz
Foto: Hahn, Walter, 1934
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309796引用。


1935年の再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、垂直尾翼に大きく描いていた。1935年のヒトラーの再軍備宣言以降は、ドイツ機は、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを付けた。これは、ナチ党の政治的、人種的イデオロギーを軍人にも浸透させる企図があった。軍人の忠誠宣言も、ドイツに対してではなく、ヒトラー総統に対する忠誠を誓うものに変更された。また、航空機の高速化で、敵味方の識別しやすいように、機体と主翼上下面にも、白の縁取り付き黒色バルカンクロス(鉄十字)の国籍マークを記入した。


写真(上)1930年代初頭、ドイツ、ベルリン、ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機「ブリッツ」(電撃)
;第二次大戦前、ドイツ・ワイマール共和国、航空技術の優秀さを示したハインケル機。国籍マークには、垂直尾翼に赤帯白丸に黒のスワスチカはない。
Heinkel, He 70 Catalog #: 01_00081270
Title: Heinkel He.70
Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany
Designation: He 70 Tags: Heinkel, He 70 -
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081270引用。


1933年1月末に、ヒンデンブルク大統領は、アドルフ・ヒトラーを首相に任命し、ヒトラー政権が成立したが、ドイツ機の国籍マークは、1935年の再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、垂直尾翼に大きく描いていた。1935年のヒトラーの再軍備宣言以降は、ドイツ機は、垂直尾翼に赤帯に白丸を描き、黒のハーケンクロイツ(スワスチカ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを付けた。これは、ナチ党の政治的、人種的イデオロギーを軍人にも浸透させる企図があった。軍人の忠誠宣言も、ドイツに対してではなく、ヒトラー総統に対する忠誠を誓うものに変更された。また、航空機の高速化で、敵味方の識別しやすいように、機体と主翼上下面にも、白の縁取り付き黒色バルカンクロス(鉄十字)の国籍マークを記入した。


写真(上)1934年11月、フランス、パリ、ドイツのハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機
:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。
Description Polski: Wnętrze jednej z hal wystawowych na Międzynarodowym Salonie Lotniczym w Paryżu. Na pierwszym planie widoczny m.in.: samolot Heinkel He 70.
Date November 1934 Source https://audiovis.nac.gov.pl/obraz/186433/ (ze zbiorów Narodowego Archiwum Cyfrowego) Author Unknown author
Foto: Hahn, Walter, 1934
写真は,Category:Heinkel He 70, File:Heinkel He 70 Paris.jpg引用。


ハインケル(Heinkel)He 111 A-0は、He 111試作3号機V3を原型に、He 70同様の楕円曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・爆撃機として開発された。発動機は、BMW VI 12気筒液冷エンジン600馬力2基で、 プロペラは、エンジン出力の低さを反映して2翅だった。このHe 111 A-0は、ドイツのレヒリンRechlin)で実用試験が行われたものの、最高速力は308km/hにしかならず、飛行性能の低さのために、ドイツ空軍は採用しなかった。そこで、生産されたHe111A-0爆撃機は、当時、ドイツの軍事顧問団を招聘していた中華民国に売却された。

写真(右)1934年11月、フランス、パリ、ドイツのハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、1932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。
Description English: Heinkel He.70 photo from NACA-AC-183 Date 1 August 1933 Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090277.pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は,Category:Heinkel He 70, File:Heinkel He.70 fuselage doors NACA-AC-183.jpg引用。


1935年までの旧ドイツ軍の黒白赤三色の国章を、1935年のドイツ空軍設立以後は、赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)の国章に変更し、その後に、機体にバルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。しかし、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は敵から発見されやすいことが分かり、取りやめになったが、垂直尾翼と主翼上下面に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。

写真(右)1934年11月、フランス、パリ、ドイツのハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。
Description English: Heinkel He.70 photo from NACA-AC-183
Date 1 August 1933
Author Unknown author
Author NACA Aircraft Circular
写真は,Category:Heinkel He 70, File:Heinkel He.70 cabin NACA-AC-183.jpg引用。


1937年、第二次大戦勃発2年前、ドイツ海軍総司令官エーリヒ・レーダーErich Raeder)提督は、国防軍総司令官ブロンベルク元帥に対して、沿岸防衛の範囲に関して、ドイツ海軍とドイツ空軍との分担の取り決めを依頼したが、実際に海軍と空軍の責任範囲について協定文書がまとまったのは、戦争直前の1939年2月3日だった。これは、ドイツ海軍司令部空軍代表General der Luftwaffe beim Oberbefehlshaber der Marine)を置き、戦時には海軍司令部空軍代表を海軍総司令官の指揮下に行動するというものである。

しかし、ドイツ近海を離れた海上は、ドイツ空軍の責任範囲で、ドイツ海軍が作戦行動を行う場合のみ、ドイツ海軍が哨戒偵察の責任を負うとした。また、水上艦艇同士の海戦、航空機による機雷敷設については、海軍と空軍の合意のもとに、実施するとした。

ハインケルHeinkel He.70高速輸送機は、仮面を脱いだドイツ空軍に配備されることとなり、輸送機伊賀の用途も模索された。試作4号機を使って、軍用仕様の開発が始められ、爆撃機のE型、高速偵察機のF型が開発された。そして、既にルフトハンザに就役していたハインケルHe70輸送機は、民間機だったが、ドイツ空軍に譲渡された。しかし、He70は、ドイツ空軍幕僚の専用輸送機など、贅沢な用途に充当されている。他方、He70F高速偵察機は、スペイン内戦に派兵されたドイツ・コンドル軍団に配備され、実戦使用されている。

図(右)1933年4月、ドイツのハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機の三面図:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、1932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるためにあえて採用された。
Description English: Heinkel He 70 3-view drawing from L'Aerophile April 1933
Date 1 April 1933 Author L'Aerophile magazine
写真は,Category:Heinkel He 70, File:Heinkel He 70 3-view L'Aerophile April 1933.jpg引用。


ドイツ空軍ハインケルHeinkel He 70F-2高速偵察機の諸元
乗員Crew: 3名 (pilot, radio operator,dorsal gunner)
全長Length: 11.7 m (38 ft 5 in)
全幅Wingspan: 14.8 m (48 ft 7 in)
全高Height: 3.1 m (10 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 36.5 m2 (393 sq ft)
空虚重量Empty weight: 2,360 kg (5,203 lb)
操縦少Gross weight: 3,386 kg (7,465 lb)
最大離昇重量Max takeoff weight: 3,500 kg (7,716 lb)
発動機Powerplant: 1 × BMW VI 7.3 Z V-12液冷エンジン(liquid-cooled piston engine)750 PS (740 hp; 550 kW)
プロペラPropellers: 2-翅可変ピッチ(variable-pitch)金属プロペラ(metal propeller)
性能Performance
最高速力Maximum speed: 360 km/h (220 mph, 190 kn) at sea level
巡航速力Cruise speed: 295 km/h (183 mph, 159 kn)
着陸速度Landing speed: 105 km/h (65 mph; 57 kn)
航続距離Range: 1,820 km (1,130 mi, 980 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 6,000 m (20,000 ft)
上昇時間Time to altitude:
1,000 m (3,281 ft)/2分30秒
4,000 m (13,123 ft)/15分
兵装Armament
機銃 1丁 × 7.92 mm (.312 in) MG 15旋回機関銃(コックピット後方 rear cockpit)
爆弾Bombs: 6 × 50 kg (110 lb) 又は 24 x 10 kg (22 lb) 爆弾bombs

写真(右)1933年8月、ドイツ、ドイツのハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機:楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・郵便機として開発され、932年12月1日に初飛行。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかったが、飛行性能を向上させるとしてあえて採用された。
Heinkel He.70 photo from NACA-AC-183
Description English: Heinkel He.70 photo from NACA-AC-183 Date 1 August 1933
Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090277.pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は,Category:Heinkel He 70, File:Heinkel He.70 nose NACA-AC-183.jpg引用。


世界を廻る郵便飛行機の危険 (上)
中外商業新報 日本産業経済新聞 Vol: 第 2巻 Page: 92 出版年 1932-03-06/1932-03-08
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100198517

 最近われわれはまた旅客飛行機の遭難を見た、世界を通じ色々の意味で飛行機の危険はまだ完全に除かれてはいないのだろうか−リチ・デ・オロの曠漠たる砂漠の彼方から大西洋岸無人の北西アフリカへと吹いて来る熱風に炊りつけられた砂が舞い上る荒凉たる光景を想い描いて見よ、文明人い逢うまでには、南方へ行く汽船にでも乗らない限りは、西インドへ四千マイルも旅をしなければならないであろう、ここに世界で最も淋しい最も危険な航空路の一つがある、

二台の飛行機がウエデイ・ドラ河や遥かなアトラス山脈の輪郭線を下に見て飛んでいた、ケープ・ジユビーを過ぎて、彼等はこの荒凉たる地に着くのを嫌うかの如く河岸をすれすれに飛びつつあった、一台の飛行機は非常に疲れているように見えた、それは河岸の砂丘の上を低くとんでいた、恐らく油の欠乏か、あるいはエンジンの故障であろう、ついに着陸しなければならなかった

 第二の飛行機も友機の様子を見て舞下りて見た、それは縛られた郵便物及び操縦士を拾い上げる為に将に着陸しようとしていた、そして再びフランス植民地の西部のアフリカのダカー港に向け飛行することになっていた

 ガチャッと機体は砂にかくれていた石に打っかった、機体はかしいで操縦士と偵察者は抛り出された、砂丘の蔭に隠れていた眼の鋭い、攻撃に巧な遊牧民の兇悪な一隊が飛行機を見つけた彼等は砂丘に匍匐して進み、飛行士に発砲を始めた、操縦士は翼や機体に隠れた、もし遥か彼方の山の方から救助機が飛んで来なかったら、彼等は非常な危険に陥ったであろう、この場合誘拐は起り得る最も小さな危険であったろう [写真(極東飛行より機関せる英国水上機の清掃)あり 省略]

 かかる出来事は「アフリカ冒険航空路」においては、二三年前には今日よりもしばしばあったのである、この航空路をフランスのエーロボスタル会社がモロッコのラバット及びカサブランカから南方へと、ダーカーのセネガル港まで通っている、ダーカーというのは大西洋を通ってフェルナンド・ノランハの孤島へそれからブラジルのナタール港へ行く南米航空路の離陸地である

 つい先頃のこと、エーロボスタル会社の三人の飛行家が、坐礁した汽船の乗組員を救助する為に出かけたアラビア人の一隊が現れたが一斉射撃に遭って追払われた、で、彼等は安全に難破船員をエテイーヌ港まで乗せて連れて行ったその後に一操縦士が機体の破損のために砂丘に下りたことがあったアラビア人が彼を捕えて疾走する駱駝の背にのせ、沙漠の城郭へ連れて行ってしまった、そこで彼は身代金が払われるまで非常な苦痛を忍んだのである。

それからまた数週間の後ゴーブ及びエレーブルという二人のフランス飛行家がピンタドーと呼ぶ機関士と、ムール人の通弁とともにリオ・デ・オロから離れた沙漠に下りた、その時にスパビスのフランス聯隊からの脱走兵を頭とせる、アラビア人の一隊が現われてその人達を捕まえて行った、アラビア人達は賠償金に関して通弁の提言を聞こうとしたのであるが、彼の脱走兵は自分の手で操縦士の一人と機関士及びひどく傷ついていたゴープを射殺した(写真は極東飛行より機関せる英国水上機の清掃)


写真(右)1939年-1943年頃、第二次世界大戦中、迷彩塗装を施したハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機
;BMW液冷ガソリンエンジンを搭載した単発輸送機で、民間利用を進めるためには、経済効率が悪かったので、量産は少数に終わっている。第二次大戦勃発前の1933年1月に成立したヒトラー政権下のドイツ、航空技術の優秀さを示したハインケル機。国籍マークには、垂直尾翼に赤白黒の三色旗を付けた。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935616 - Catalog:16_005261 - Title:Heinkel He 70f Nowarra photo - Filename:16_005261.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation -
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935616引用。


 最近、フランス及びスペインの多くの飛行機がリオ・デ・オロの沙漠へ−金の河と呼ばるる西北アフリカの未開地域にあるスペイン領土へと飛んで行った、然しそこには河などはなく、あるのは砂原と沙漠だけだ、この聯合飛行隊は影を消してしまった二台の飛行機の秘密を解こうとしていたのである、

一台には指揮者のプルゲーとタレプ・プヤというムール人の酋長が、も一つの方にはヌーネット大尉と機関士とが乗っていた、飛行機がこの沙漠を過り去る際、偵察者が双眼鏡でその曠野を視ていると、騎馬の駱駝の一隊が遥か下の沙漠を走り去った、二機は姿を消して西北地方の未地のサハラの夜の中に呑まれてしまったのである [写真(風雪のためアンデス山中に墜落せる郵便飛行機)あり 省略]

「SOS、SOS、吾々は南大西洋の海上にいる。…待ちこがれている……油が切れた、救助艇を急いでよこせ、メルモッソ」最近ダーアー港で感じたこのラジオはノータルからダーカーへ南大西洋の最初の郵便飛行を企てていたフランスの操縦士に災難を予告した、このラジオは又快速な「救援艇班」の活動を促して飛行機の救助にいそがせたのである、その操縦士は西部アフリカのサハラを過ぎって通商並に旅客機の道を拓く為に出発しようとしていたが、その出発の刹那まで、彼のラジオ及び国際信号法を以て、彼の救助艇を絶えず接触を保つを得た、

一台の飛行機に乗って何等は、モロッコのレンガに向けて、ニガー河からゴアを出発した、そこへは同日の中に着くはずであった、所が彼等は着かなかった、でフランスの軍部当局は心配になって来たので沙漠捜索のため飛行機と快速力の自動車とを出発せしめた、

数日後、仏軍前哨地を彷っていた一人のアラビア人が約三百マイル南方の沙漠で壊れた飛行機を見たと申し立てた、医者が飛行機で急行した時には、機体は土民の一隊に取かこまれて居り、一方操縦士のゴーレットはひどく負傷をして倒れていた [写真(スペイン領アフリカ沙漠の中心にあるスペイン要塞)あり 省略]


写真(右)1939年-1943年頃、第二次世界大戦中、迷彩塗装を施したハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機
;BMW液冷ガソリンエンジンを搭載した単発輸送機で、民間利用を進めるためには、経済効率が悪かったので、量産は少数に終わっている。第二次大戦勃発前の1933年1月に成立したヒトラー政権下のドイツ、航空技術の優秀さを示したハインケル機。国籍マークには、垂直尾翼に赤白黒の三色旗を付けた。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935628 - Catalog:16_005262 - Title:Heinkel He 70K (7G) Edgar Deigan photo - Filename:16_005262.TIF-
Title:Heinkel He 70f Nowarra photo - Filename:16_005261.TIF -- - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation-
写真は,Flickr, SDASM Archives PictionID:43935628引用。


ドイツの「殊勲者」エルニスト・ウーデット氏は数週間前に彼がアフリカ未開地で試みた冒険飛行の珍しい話を聞かせた、彼はそこで猛獣生活の映画を作っていたのである「われわれが映画を撮るために低く飛んでいた時、逞しいライオンが急に飛行機いとびついて来た、翼はひどく傷められて、着陸するのがやっとであった、飛行機が地面に着くかつかない中に荒れ狂った犀が襲いかかって余の操縦士を傷つけた、後の飛行機が逸早く気付いて猛獣を追いはらい吾々を救ってくれた」と

「また一九三一年の三月であった、予は危険なナイル地方の沙漠で立往生をしてしまった、ガソリンを使い果したので、飲食物もなければラジオもなく、あるいは外部との如何なる通信手段も持たずに降りる外なかった、数時間が過ぎた、と、思いがけず、空を見上げると一台の飛行機が頭上遥かに通りかかるのを見た時の嬉しさはいい難いものであった、飛行機は降りて来た、確に、操縦士は余の様子に注意をしたではないか!かかる沼沢地に着陸するのは非常に危険であった、

しかし操縦士はその危険を冐した、彼はカムペル・プラック大尉で、東部中央アフリカからイギリスへ向って単独飛行をしつつあったのである」−と(つづく)(写真上は風雪のためアンデス山中に墜落せる郵便飛行機、下はスペイン領アフリカ沙漠の中心にあるスペイン要塞)

 ドイツのエルニスト・ウーデット氏は発見された遭難者を慰めていった「私はあなたが行方不明になっていると聞いていた、あなたがスーダンのナイルからカールタムへ向ったということをナイロビーで聞いたが……よろしい、出来るだけの御援助はいたしましょう」そこで水とビスケットを自分の僅の食糧の中から分けてくれて彼はこういった「お気の毒ですがワーデットさん、最寄の補充地へ行くまでのガスを分けて上げられないんです、然しジュバから直ぐに助けを寄越しましょうさようなら」と

切手(右)1979年4月5日発行、ドイツ連邦共和国 (Bundesrepublik Deutschland)ユーゲント記念切手、50 + 25 Pf(ペニッヒ:1/100マルク)、ドイツ連邦共和国(BRD)、1932年初飛行のハインケル(Heinkel)He 70「ブリッツ」(Blitz:電撃)高速輸送機:発行枚数572万5000枚、ヒトラー政権になる前のドイツ・ワイマール共和国時代のハインケルHe70輸送機を切手にして讃えている。1999年1月1日以降は、ドイツ・マルクは廃止され、ユーロが欧州16カ国で導入された。
Bezeichnung: Für die Jugend, Flugzeuge
Motiv der Briefmarke: Heinkel He 70
Text auf der Briefmarke: Heinkel He 70 1932, Für die Jugend, Deutsche Bundespost
Entwurf: Haase Ausgabewert: 50 + 25 Pf:ドイツの通貨単位で1/100 mark; 記号 pf
Ausgabetag: 05.04.1979
Auflage: 5725000
English: For the youth, Aviation Deutsch: Für die Jugend, Luftfahrt
Graphics by Haase Ausgabepreis: 50+25 Pfennig First Day of Issue / Erstausgabetag: 5. April 1979
Michel-Katalog-Nr: 1006 日付 2010年8月17日
原典 scanned by NobbiP 作者 Deutsche Bundespost
写真は,Category:Heinkel He 70, File:DBP 1979 1006 Jugendmarke Heinkel HE 70 1932.jpg引用。


 この頃飛行機に依る山岳探検は一大陸横断郵便飛行士の燃ゆる覇気に更に予期せざる刺戟を与えた「アンデスの飛脚、或いは空中郵便夫」として知られたギルラウメット氏はアンデスのコルデイレラの地域を二万一千フィートの高さで飛んでいた、彼はベノス・アイレスから西アフリカのダーカーへ、それならパリへ行く南米飛選行郵便の航空路をんでサンチャゴからメンドザへの郵便物を運んでいたのであるが、その時の遭難について話している 「気がついて見ると私は密雲に包まれてしまっていた、そして方角がわからなくなった、そのうち嵐が襲って来た、機械の運転は不能となった、自分は恐ろしい高所から堕ちているのを感じた、私は三マイル程の高さの山の上の窪みへ打つけられた、機体は顛覆して私は雪の上へ投げだされた、機体はひどく破損したけれども、私の落ちたのは軟い雪の上であった、数時間の後に一台の飛行機が上空を通るのを見た、私は夢中になって手を振ったが操縦士は合図を気付かないで行ってしまった、夜が下りて来た」

「高い山の上の寒気はだんだん厳しくなって来る、寒さから免れるために私は人里の方へ歩こうと決心した、そこは全く無人の境で、一番近い避難所はアルゼンチンの国境である、私は郵便物を背に括りつけて氷の谷を渡り、吹雪を冐して七十時間というもの休みなしに進んだ、

私はひたすら進まなければならなかった、留まれば凍死である、最初の日はゆっくり歩いた、私は百五十フィートもある谷底にころげ落ちた、やっと出ることは出来たが、打撲傷を負って激しい身震いが止まなかった。一日に二マイル進むのがやっとである、とうとう四日の後に出血と凍傷に痛む足を引きずって淋しい農園の入口に着いた、そこで食物と興奮剤とを与えられて、やっとアルゼンチン国境の哨兵の処へたどりついた」…と

 地球の丁度その反対側のスイスイタリアルプスで、つい近頃スイスの五人の兵士がギルラウメート氏の経験と同様な危険に逢った、彼等はセント・ゴットハード地方で演習中に道に迷ってしまったのである、彼等は岩蔭にかくれようとしたが迫って来る寒気に追い立てられて、夜っぴて吹雪の中をさまよい歩いた、幸いにも一台の飛行機が彼等を見付けて食糧と地図とを落してよこした、それで迷った兵士達は無事に前哨地に帰る事が出来たのであった(完)(世界を廻る郵便飛行機の危険 (上)引用終わり)

Heinkel He60の動画


2.戦前の民間航空ハインケルHe-111輸送機 

写真(右)1935年、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111 爆撃機V-1試作1号(D-ADUM):楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・爆撃機として開発された。プロペラは、エンジン出力の低さを反映して2翅で、後に3翅となった。
楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかり、工作の簡易化には逆行した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46168960 - Catalog:16_007374 - Title:He 111V-1 Peter Bowers Collection - Filename:16_007374.TIF
Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005215 引用。


He-111 V-1試作機
1929年6月のヴェルサイユ条約の軍備制限条項の下で爆撃機として1934年に密かに開発
乗員員(Crew): 5名
発動機(Engine): BMW VI 6.0Z 液冷12気筒エンジン(600 馬力)
全長(Length): 16.40 m | 全幅(Width): 22.60 m | 全高(Height): 4 m
最高速力(Max. Speed): 310 km/h

写真(右)1935-1936年、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111輸送機A型V-4試作4号(製造番号 W.Nr. 1968、登録コード D-AHAO):プロペラは、2翅から3翅となった。
楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかり、工作の簡易化には逆行した。
Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081302 Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081302引用。


1935年末に,ハインケル(Heinkel)He 111輸送機試作2号機V2と試作4号機V4が製造され、民間登録コードのD-ALIX, D-ALESおよびD-AHAOが与えられた。これが、He 111 A-1輸送機の初めての試作機で、1936年1月10日に完成した。当時は、世界最速の高速輸送機とされ、最高速力は時速402 km/h (250 mph)以上を発揮した。

写真(右)1935-1936年、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 111爆撃機A-0型:装備している発動機は、BMW VI "upright" 液冷倒立V12気筒エンジン(650馬力)2基で、3翅プロペラ、楕円主翼の曲線構造、流線型の胴体。機首のガラス窓は、爆撃手の視界を確保するためのものである。登録コードや国籍マークも記入されていない。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:46168947 - Catalog:16_007373 - Title:He 111A-0 Nowarra Collection - Filename:16_007373.TIF
Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081302引用。


設計は、1,000 馬力ダイムラー・ベンツ DB 600液冷倒立V12気筒エンジン2基を装備したが、これはメッサーシュミット(Messerschitt)Bf 109戦闘機の試作10号機から13号機が搭載したのと同じエンジンである。ハインケル社は、戦闘機用のダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジンをHe111に装備することは認められず、より非力な 650馬力BMW VI "upright"液冷倒立V12気筒エンジンを装備することを強いられた。民間輸送機よりも戦闘機に優秀なエンジンを優先して搭載するのは、ドイツ再軍備(German Rearmament)・空軍の創設を進めたヒトラーとしては当然の帰結だった。

写真(右)1935年9月8日、フィンランド南西、ヘルシンキ西150km、トゥルク、ドイツ・ルフトハンザ(Lufthansa)航空のハインケル(Heinkel)He111輸送機C型「ロストック」"Rostock" (W.Nr. 715:D-ALIX):原型はHe-111旅客機試作2号機V-2で、Rostock"として1936年1月に 初飛行したともいわれる。民間輸送機として使用されたが、1937年3月12日、ガンビアのバンジュール(Banjul)に着陸する前に事故で喪失,搭乗員4名死亡。
Lufthansa -lentoyhtiän Heinkel Turun lentoaseman avajaisissa Heinkel He 111 D-ALIX Artukaisten avajaisissa 8/9.1935.
Aineistotyyppi ?Valokuva Organisaatio Suomen Ilmailumuseo Kokoelma Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar Inventaarionro SIM VK 533:329 Mitat Vedos Kuvaustiedot: 1935-09-08 Foto Turku
写真はMuseot Finna・sa-kuva-18864引用。


写真(右)1935年以降、スイス北部、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)、ハインケル(Heinkel)He111輸送機C型:ハインケルHe111輸送機は、ドイツ・ルフトハンザ航空の新鋭高速輸送機として、乗客10名を乗せた旅客輸送に使用された。
Photographer: Swissair
Dating: nach 1935
Title: Heinkel He 111 C der Deutschen Lufthansa am Boden in Dübendorf
Dating: nach 1935 Physical Description: Photography : nitrate-negative Format: 6 x 6 cm
Categories: Reportage photography, Dübendorf, 1931-1940, Aerodrome Dübendorf, Propeller-driven aircraft, Swissair, Lufthansa (DLH), Swissair Archive
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: LBS_SR01-00070 引用。


ドイツ航空省Reichsluftfahrtministerium:RLM)の密命を受けて、ハインケル社はハインケルHe70の技術を活用して大型高速爆撃機の開発を始めた。ベルサイユ条約の軍事制限条項を掻い潜るために、開発の名目は高速旅客機とされた。ハインケルHe111は、1935年2月に試作1号機が初飛行した。この試作機は、民間輸送機としてドイツ・ルフトハンザ航空に採用された。こうして、民間輸送機としてHe111は採用され、量産されることになったため、ハインケル社は、この民間機He111をベースにして、ドイツ再軍備(German Rearmament)によって創設されたドイツ空軍のために爆撃機の開発を進めた。

写真(右)1935-1939年、スイス北部、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)、ハインケル(Heinkel)He111輸送機C型の前で記念撮影をする紳士:機首先端が開いているが、ここに荷物を格納することができる。車輪止め、移動式階段、充電車(?)など飛行機整備のための専用機材が準備されている。
Photographer: Swissair
Title: Unbekannte Person vor Heinkel He 111C der Deutschen Lufthansa in Dübendorf
Caption: Schnellverkehrsflugzeug für 10 Passagiere
Dating: 1935-1948
Physical Description: Photography : nitrate-negative Format: 6 x 6 cm
Categories: 1941-1950, Entry + Exit, Dübendorf, Aerodrome Dübendorf, 1931-1940, Propellers, Men, Propeller-driven aircraft, Lufthansa (DLH), Swissair, Swissair Archive
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: LBS_SR01-00069 引用。


ヒトラーの再軍備宣言
1)義務兵役制を復活:兵力36個師団,50万人を動員
2)軍事組織の名称変更:陸海軍に加えて空軍Luftwaffeを新設し,国軍Reichswehrを伝統的な国防軍Wehrmachtに戻す。3)国防省を陸軍省(Ministry of War)と変更。陸軍参謀本部の復活。

写真(右)1935年頃、スイス北部、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)、ハインケル(Heinkel)He111輸送機C型をバックにしたスイス・アルパル航空のオランダ製コールホーフェン F.K.50 (Koolhoven F.K.50) 軽輸送機(左手前)とハンガリーからきたユンカースJu52輸送機(右):コールホーフェンFK50軽輸送機の初飛行は1935年9月18日だが、生産機数は3機のみ。乗員:2 名 乗客:8 名、全長:14.30 m、全幅.:17.70 m、全備重量:4250 kg、発動機: プラット・アンド・ホイットニー R-985空冷星型エンジン(400馬力)2基、最高速力:295 km/h
Photographer: Swissair
Title: Koolhoven FK-50 der Alpar, Junkers Ju-52 aus Ungarn und Heinkel He-111-C der Deutschen Lufthansa (v. u.) am Boden in Dübendorf
Dating: 1932-1948
Physical Description: Photography : nitrate-negative Format: 6 x 6 cm
Categories: 1941-1950, Entry + Exit, Dübendorf, Aerodrome Dübendorf, 1931-1940, Propellers, Men, Propeller-driven aircraft, Lufthansa (DLH), Swissair, Swissair Archive
写真は,ETH-Bibliothek Zürich, Record Name: LBS_SR01-00103引用。


ヒトラー政権になっても、1935年3月のドイツ再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、ドイツ機の尾翼に描いて、国籍マークとしていた。

しかし、1935年、ヒトラーが再軍備を宣言し、第一次世界大戦の撃墜王ヘルマン・ゲーリングの下、ドイツ空軍が設立されると、ドイツ軍機は、尾翼に赤帯に白丸とスワスチカ(ハーケンクロイツ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを採用した。スワスチカは、ナチ党のイデオロギー、政治思想を軍人にまで浸透させることを反映したもので、軍人の忠誠宣言がドイツに対してでは、ヒトラーに対する忠誠を誓うものと変更されたのと同じ動機である。また、高速の機体の国籍、敵味方の認識をしやすくするため、機体・主翼の上下にも、白の縁取り付きの黒色バルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。

写真(右)1937-1938年、日中戦争の最中、ドイツで不採用になり、中華民国に輸出されて使用されたハインケル(Heinkel)He 111 A-0爆撃機:エンジンは、普及していたアメリカのライト R-1820 サイクロン 9(Wright R-1820 Cyclone 9 )空冷9気筒星形エンジン(1000馬力)を装備している。胴体後方に、四角のガラス窓が開いていて、機首もソリッド化していて、爆撃手席がみえないので、中国では爆撃機としてでではなく、輸送機として使用されたようだ。
Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081303
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081303引用。


 ハインケル(Heinkel)He111の軍用爆撃機は、A型として完成したが、爆撃機としての飛行性能が不十分だった。これは、搭載したエンジンの馬力不足のためだった。そこで、He111Aは、中国に民間機として中華民国に売却された。爆撃機として、実用化されたのは、He111Bが初めてである。新生ドイツ空軍の新鋭爆撃機ハインケルHe111爆撃機B型は、新鋭ダイムラー・ベンツ(Daimler-Benz)DB600エンジン2基を装備し、1936年に勃発したスペイン内戦に送られ、1937年4月26日、市民への無差別空襲として悪名高いゲルニカ空襲Bombing of Guernica)にも投入された。


3.戦前のハインケルHe-111爆撃機の試作機・初期型 

写真(右)1935年、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111 J-1爆撃機V-18試作18号(D-ADUM):楕円型の曲面主翼、細長胴体の高速旅客機・爆撃機として開発された。:ハインケルHe 111 V-18 (D-ADUM)は、魚雷攻撃をする雷撃機(Torpedobomber)として開発され、ドイツ空軍(Luftwaffe)は 90機を発注した。K.Gr. 806に配属され、特殊部隊として J-1 の形式を与えられた。楕円主翼は曲線構造で、製造の手間がかかり、工作の簡易化には逆行した。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935041 - Catalog:16_005215 - Title:Heinkel He 111V-18 Nowarra photo - Filename:16_005215. TIF
Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005215 引用。


1919年のヴェルサイユ条約Treaty of Versailles)の軍備制限条項のために、敗戦後のドイツは、軍用機の開発・保有が禁止されたが、輸送やスポーツを目的とした民間機で、軍用機に転換できないのであれば、開発・保有も可能だった。そこで、ドイツでは民間機の開発が、ユンカース、ハインケル、ドルニエDornier)など有力な航空機メーカーの下で行われた。しかし、1933年1月にドイツの政権を握ったナチ党は、アドルフ・ヒトラーの独裁体制を確立し、軍事力を今まで以上に強化しようと、密かに画策していた。ナチ党政権樹立前から、外国における兵器開発や軍事訓練は行われていたが、ナチ党ヒトラーも下では、この軍事化の動きが強力に推進されたのである。

写真(右)1935年、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機V-23試作23号(D-ACBH):ハインケルHe 111V-23(D-ADUM)は、試作最終機体で、軍用型に発展する。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43935056 - Catalog:16_005216 - Title:Heinkel He 111V-23 Pete Bowers photo - Filename:16_005216. TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog:16_005216 引用。


 ハインケルの開発したHe 111輸送機も、高速民間旅客輸送機として登場し、He-111Cが生産されたが、これは単発機のハインケルHe-70高速郵便輸送機と同様、楕円翼の全金属製、引き込み客の機体で、軍用機に転用することも視野に入れていた。

He111試作1号機V1(製造No.713) が初飛行したのは、1935年2月24日で、 発動機のBMW VI液冷12気筒エンジン(650馬力)が出力不足で低速だったものの、飛行特性、離着陸性能はよかった。1935年に2機の試作機V2V1(製造No.715)とV4は、民間機として登録コードD-ALIX,(D-ALES)と D-AHAOを与えられた。

写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機:主翼両端と胴体後方に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。他方、4桁の登録コードは記されていない。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪も小さいものがついている。
SDASM Archives Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081301
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany
写真は,SDASM Archives, Catalog: 01_00081301引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、ドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機試作6号機V-6(登録コードD-AXOH):ユモJumoJ200液冷エンジン(700馬力)2基を装備。主翼両端と胴体後方に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪も非常に小さいものがついている。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:43935015 - Catalog:16_005213 - Title:Heinkel He 111V-6 Nowarra photo - Filename:16_005213.TIF
写真は,SDASM Archives, Catalog: 16_005213引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、沿岸部を飛行するドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機:胴体後上方に機銃座が備えられている。主翼両端と胴体後方に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。他方、4桁の登録コードは記されていない。胴体下面のゴンドラはなく、尾輪は若干大きくなった。
SDASM Archives Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081297
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081297引用。


写真(右)1937-1938年頃、ドイツ、沿岸部を飛行するドイツ空軍のハインケル(Heinkel)He 111爆撃機:機首に設けられた銃座に7.92ミリMG15旋回機銃が備えられている。遠方のHe111爆撃機の胴体に、ドイツの国籍識別マークの黒の鉄十字、垂直尾翼に、新たな国籍マークとなったナチ党卍十字スワスチカが描かれている。胴体下面のゴンドラはないが、胴体中部下面にごみ箱上の下方銃座を設けている。
SDASM Archives Heinkel, He 111 Catalog #: 01_00081281
Title: Heinkel, He 111 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 111
写真は,SDASM Archives, Catalog #: 01_00081281引用。



4.ハインケル(Heinkel)He 116偵察機

写真(右)1937年-1939年前半,ドイツ、舗装飛行場に待機するドイツ・ルフトハンザ航空ハインケル(Heinkel)He 116 V1試作1号機(D-AJIE):1936年12月9日初飛行、ルフトハンザ航空で「シュレジエン」と命名され試験飛行したが、民間輸送機としては採用されなかった。しかし、「リューベック」と再命名され、ドイツ=南米を結ぶ郵便機として使われた。1935年までは、ドイツ伝統の黒白赤三色ストライプの国章だったが、1935年の再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降は、尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)を描いた国章とされた。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は目立つために取りやめになった。
Perma_000180 Permann Collection Perman collection Image Heinkel He 116 V1 --Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum It is the far more unusual Heinkel He 116 V1 which had made its first flight on 9 Dec 1936. It was painted in Lufthansa colors and named Schlesien during its testing, but was never used by the airline but tested as a long range postal delivery aircraft to/from South America now renamed as Lübeck.
写真は,SDASM Archives引用。



写真(上)1937年10月以前、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 116郵便機
:単発のハインケル He 70高速機を流用して、。ギュンター兄弟は、重い燃料重量に対してこのエンジン4基をハインケル He 70「ブリッツ(Blitz、稲妻)」の主翼を流用して2本桁に合板表皮(He 70の様に)の楕円翼としたが、胴体は新たにジュラルミン製セミモノコック構造とした。V5試作5号機、V6試作6号機は、1938年4月にドイツから15,251 km、54時間17分の飛行、6日間で日本に到着。「乃木号」「東郷号」と命名されて、満州航空で東京=新京間で運行に供された。
Description English: Heinkel He 116 photo from L'Aerophile October 1937 Date 1 October 1937 Author L'Aerophile magazine
Category:Heinkel He 116・File:Heinkel He 116 photo L'Aerophile October 1937.jpg引用。


写真(右)1939年9月の第二次大戦勃発後、ドイツ、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 116偵察機:He 70の設計を流用し1936年12月9日に初飛行し1938年までに郵便輸送機として14機が生産された。全幅 22,00 m、全長 13,70 m、翼面積 62,90 m2、自重 4220kg、全備重量 7046 kg、発動機 ヒルト(Hirth) HM 508空冷倒立8気筒エンジン240 PS (177 kW) 排気量7.97L 4基、最高速力 325 km/h、航続距離 4,100 km、乗員4名。第二次大戦中は、ドイツ空軍で偵察機として使用された。
Deutsch: He 116 Date 18 April 2013 Source Image rights owned by the San Diego Air & Space Museum, which has released the image with no known copyright restrictions. Author San Diego Air & Space Museum
写真はWikimedia Commons Category:Heinkel He 116 File:He 116 2013.jpg引用。


写真(右)1940年頃,ドイツ、舗装飛行場に待機するドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 116 B偵察機:長距離て偵察機として軍用化されたが、小型だったた上に、発動機のヒルト HM 508C 空冷倒立V型8気筒エンジンが182 kW (244 hp)と低出力だったために、低速、搭載量不足となり、偵察機としては量産されなかった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43936133 - Catalog:16_005303 - Title:Heinkel He 116B Nowarra photo - Filename:16_005303.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives引用。



5.ハインケル(Heinkel)He 115水上偵察機

写真(右)1940年、西部戦線、オランダ、アムステルダム、ドイツのハインケル(Heinkel)HE 115 水上偵察機;胴体後方側面の白色の鉄十字、垂直尾翼のスワスチカ(カギ十字:卍)は目立ちすぎるためか、塗りつぶされている。
Collectie NIOD Trefwoorden Kriegsmarine, Legerbases, Luftwaffe, Vliegtuigen
Locatie Naam: Gemeente Amsterdam Land: Nederland
Bijschrift Deze foto maakt onderdeel uit van een collectie originele negatieven gemaakt door Karl Rauscher, beroepsfotograaf in dienst van de Luftwaffe. De divisie van Rauscher is in 1940 enkele maanden gestationeerd op de Fliegerhorst Schellingwoude, Amsterdam.
Het originele bijschrift luidt: 'Flugzueg aufnamen'. Een watervliegtuig He 115 bij Fliegerhorst Schellingwoude. Tijdens de bezetting was in Schellingwoude een steunpunt voor watervliegtuigen van de Duitse Kriegsmarine voor het leggen van zeemijnen en het redden van neergestorte piloten. Het in de IJmond gelegen kunstmatige eiland Zeeburg ten oosten van Amsterdam is tot 1945 als een kleine gecamoufleerde vesting ingericht. Deze zogenaamde Fliegerhorst Schellingwoude werd uitgebouwd tot de grootste basis voor watervliegtuigen en -boten in Nederland.
Periode 1940 Negatiefsoort Origineel Vervaardiger Karl Rauscher
写真は Beeldbank WO2 : Beeldnummer 152175引用。


ドイツ海軍航空隊は、艦船に乗せて運用する艦載水上機を指揮下に置いたものの、それ以外の航空兵力は、沿岸部に基地を設けた水上機や飛行艇ですらも直接指揮する権限がなかった。つまり、ドイツ海軍航空隊は、攻撃、偵察、哨戒に関して有効な航空支援を得ることが困難になった。このように、ドイツ海軍航空隊が簸力であったために、そのため、海軍艦艇、特に潜水艦Uボートとの連携支援が疎遠になる傾向があった。これはドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥が、飛行機と航空兵力は全て自分の隷下に置くことを主張したためである。そこで、イギリス本土の交通破壊戦や海上封鎖に、航空機による索敵、偵察が十分に行えないという欠点が露呈した。

枢軸軍の双フロート双発以上の水上機には、ハインケルHe115のほかハインケルHe59救難機、イタリア軍のフィアットCMASA RS.C14水上偵察機、カントZ.506 水上偵察爆撃機 などがあり、いずれも飛行性能は、秀でているわけではないが、堅牢な構造で、使いやすい機体だった。

写真(右)1940年、西部戦線、オランダ、アムステルダム、ドイツのハインケル(Heinkel)HE 115 水上偵察機の機首側面ガラス風防と機首(A)銃座の7.92ミリMG15旋回機関銃;機首銃座は、体格のいい搭乗員にとっては、窮屈で、居住性は良くないように見えるが、ガラス風防に覆われているために、視界は十分に確保されている。
Collectie NIOD
Trefwoorden Kriegsmarine, Legerbases, Luftwaffe, Vliegtuigen
Locatie Naam: Gemeente Amsterdam Land: Nederland
Bijschrift Deze foto maakt onderdeel uit van een collectie originele negatieven gemaakt door Karl Rauscher, beroepsfotograaf in dienst van de Luftwaffe. De divisie van Rauscher is in 1940 enkele maanden gestationeerd op de Fliegerhorst Schellingwoude, Amsterdam. Het originele bijschrift luidt: 'Flugzueg aufnamen'. Een watervliegtuig He 115 bij Fliegerhorst Schellingwoude. Tijdens de bezetting was in Schellingwoude een steunpunt voor watervliegtuigen van de Duitse Kriegsmarine voor het leggen van zeemijnen en het redden van neergestorte piloten. Het in de IJmond gelegen kunstmatige eiland Zeeburg ten oosten van Amsterdam is tot 1945 als een kleine gecamoufleerde vesting ingericht. Deze zogenaamde Fliegerhorst Schellingwoude werd uitgebouwd tot de grootste basis voor watervliegtuigen en -boten in Nederland.
Periode 1940 Negatiefsoort Origineel Vervaardiger Karl Rauscher
写真は Beeldbank WO2 : Beeldnummer 152172引用。


ハインケル(Heinkel)He 115水上偵察機は、1937年8月に初飛行した機体で、海上の哨戒偵察以外にも、船団への魚雷攻撃、機雷敷設、輸送などにも投入された多用途機だった。ヘルマン・ゲーリング総司令官のドイツ空軍に飛行機を集中させられたため、ドイツ海軍航空隊は貧弱であり、ハイケルHe115水上偵察機は、艦艇に搭載することは想定されておらず、水上機基地をベースに活動することを前提としていた。そのため、He115水上偵察機の総生産機数は138機のみであった。しかし、北大西洋、地中海方面では、水上機の特性を生かして、海上哨戒偵察、対艦船攻撃(爆弾・航空魚雷・機雷)に有効な働きをしている。

⇒写真集Album:ハインケル(Heinkel)He 115水上偵察機を見る。


6.近距離偵察機ヘンシュルHs-126


写真(右)1941年冬(?),対ソ連東部戦線(?)ドイツ空軍ヘンシェルHS-126偵察機(V7-4A):固定式降着装置の固定脚の地上車輪間隔を広くし、地上安定性を確保している。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43932413 - Catalog:16_005350 - Title:Henschel Henschel Hs 126 Salo print - Filename:16_005350.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum。写真は,SDASM Archives 引用。


写真(右)1942年,第二次世界大戦のドイツ、ドレスデンで刊行された著作に掲載されたドイツ空軍ヘンシェルHS-126偵察機の写真図解
Description Henschel Hs 126 Date 1942 Source Dr. Spohr Verlag, Dresden Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Henschel Hs 126 File:Henschel Hs 126 1942.jpg引用。

ヘンシェルHS-126偵察機諸元
全長: 10.85 m
全幅: 14.50 m
全高: 3.75m
全備重量: 3,275 kg
発動機: B.M.W. ブラモ 323A-1 空冷9気筒 850 hp
最高速力 356 km/h
航続距離: 720 km
武装 7.92mm機銃2丁
爆弾 100 kg
乗員: 2名

ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。------成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。

1941年10月10日:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。

◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張した。ヒトラーは,激烈な生存闘争を生き残り,生存圏を確保するには,弱肉強食の戦争にあって,敵を殲滅する勝利が不可欠であると考えた。

⇒写真集Album:ヘンシェルHs-126偵察機を見る。



7.ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141近距離偵察機

写真(右)1942年5月6日,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141:フォッケウルフFw-189と競争試作で敗れたとはいえ、単発3座偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141は機首のエンジンと操縦席を主翼上に離して設けているために、左右非対称の世界的に珍しい形状の飛行機だった。尾翼も左側のみ通常の大きさで、右翼は垂直尾翼に固定するために僅かに突出しているに過ぎない。まるで、尾翼の右側に被弾して破損したかのような状態に見えてくる。
Photographer Unknown author Title Aufklärungsflugzeug Blohm + Voss BV 141 Info non-talk.svg Original caption BV 141 - das erste unsymmetrische Flugzeug der Welt! Die Flugzeugwerke der weltbekannten Schiffswerft Blohm & Voss haben für die deutsche Luftwaffe mit der BV 141 ein in Aufbau und Formgebung vollkommen neuartiges Flugzeugmuster entwickelt, das bei seinen ersten Einsätzen im Ostfeldzug überragende Erfolge verbuchen konnte. Dieses erste "unsymmetrische" Flugzeug der Welt ist eine Schöpfung des Chefkonstrukteurs der Flugzeugwerke Blohm & Voss, Wehrwirtschaftführer Dr. Ing. Vogt. Der Sondereinsatz, für den dieses Flugzeug vorgesehen ist, bedingte eine von den bisher eingeschlagenen Wegen der Flugtechnik grundlegend abweichende Konstruktion. Diese kann in ihrer nach jahrelanger Forschungsarbeit nunmehr erreichten Lösung als epochemachend angesehen werden. Erstmalig findet sich hier die vollkommen unsymmetrische Bauart, die auf dem linken Flügel den Leitwerkträger mit Motor und auf dem rechten Flügel den getrennt hiervon als geschlossene Vollsichtkanzel ausgeführten Raum für die dreiköpfige Besatzung trägt. Die auf Grund der taktischen Forderungen notwendige Sonderheit der Konstruktion hat gleichzeitig einen überaus günstigen Einfluß auf die Flugeigenschaften und Leistungen des Flugzeuges ergeben: hohe Geschwindigkeit, besondere Wendigkeit und Steigleistung. Die Bewaffnung der BV 141 besteht aus Kanonen und Maschinengewehren modernster Konstruktion. Als Motor finde der neue BMW-Doppelsternmotor BMW 801 Verwendung. Bereits seit geraumer Zeit läuft die BV 141 im Grosserienbau in den in Ostdeutschland gelegenen Flugzeugwerken der Firma Blohm & Voss. Der damit garantierte, in immer gesteigerterem Umfang möglich werdende Einsatz dieses Flugzeuges bedeutet eine wesentliche Stärkung der Schlagkraft unserer Luftwaffen. PK-Aufnahme: Luftwaffe (Sch) 2722-42 Date 6 May 1942 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-B21073
写真はWikimedia Commons, ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"File:Bundesarchiv Bild 183-B21073, Aufklärungsflugzeug Blohm - Voß BV 141.jpg"引用


ブロームウントフォスBlohm und Voß BV 141 B 諸元:
乗員:4人
全長:13.95 m、全巾:17.46 m、全高:3.6 m
翼面積:53.15 m平方メートル
空虚重量:4,700 kg、全備重量:5,700 kg
エンジン;BMW 801 出力:1,160 kW(1,560 hp)
最高速度:438km/h /3,510m、上昇率:570 m/分
武装:7.92ミリMG 17 旋回機関銃2丁、7.92ミリMG 15 固定機関銃2丁

初飛行は1938年2月、1940年までに、BV 141 V1から試作機8機が生産されたが、搭載したBMW 132Nエンジン865馬力と低出力であり、同程度の出力のエンジン2基を装備した競争試作機フォッケウルフ Fw 189が敗れて不採用になった。

主任設計技師は、1923年から1933年まで川崎航空機に招聘されたリヒャルト・フォークトRichard Vogt, 1894- 1979)。彼は、川崎の主任設計技師として、日本陸軍の制式になった九二式複葉戦闘機、八八式複葉偵察機などを設計している。

1941年には、エンジンをBMW 801(1700馬力)に強化したBV 141 B型が開発されたが、このような機種は、既存のもので十分間に合ったために、先行量産型として20機が生産されたにとどまった。

⇒写真集Album:ブロームウントフォスBV-141偵察機を見る。


8.指揮連絡機フィーゼラーFi-156シュトルヒ(こうもり)

写真(右)1939年8月以前,陸上移動用大型尾輪の取り付け作業中のドイツ空軍フィーゼラー(Fiesler) ・シュトルヒ(Storch)連絡機(D-IRDJ):1937年から1945年に合計2600機生産された連絡機Fieseler Fi 156 "Storch"は,滑走路でない草原に離着陸できた。全長10メートル,全幅 14メートル,主翼面積 26平方メートル,全備重量1260キロ, 空冷エンジン240馬力,最大速度175キロ,航続距離 380キロ。
Fiesler Fi-156 Catalog #: 00079213 Manufacturer: Fiesler Designation: Fi-156 Official Nickname: Storch Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archive引用。


東部戦線におけるドイツ空軍機は,1941年6月22日から8月8日までは喪失1023機,破壊657機,1941年8月3日から9月27日までは喪失580機,破壊371機だった。1941年6月22日から1942年4月8日までの10ヶ月間の合計で,喪失2951機,破壊1997機の損害で,これは同時期の航空機生産の三分の一に相当した。

1942年,ドイツ空軍爆撃機は,東部戦線各地の個別の戦術的な地上支援に使用され,敵の工業地帯,発電所,交通中枢への戦略爆撃は行わなかった。モスクワ空襲も,少数機が散発的に行っただけだった。

ドイツ空軍の爆撃機は,モスクワ攻防戦にほとんど登場してこないが,これは装甲師団の進撃が早すぎて,後方の航空基地整備が遅れたこと,厳寒・悪天候による飛行および飛行機整備の困難,補給不足が原因と考えられる。いずれにせよ,航空支援を得られないまま行ったモスクワ攻撃は、失敗に終わった。

1941年8月,モスクワまで100キロと迫ったドイツ国防軍の中央軍集団に対して,主力となる装甲師団を南下させた。この目的は,
?南方のソ連軍から中央軍集団の側面を防備し,ハリコフでソ連軍を包囲撃滅すること,
?ソ連の戦争経済に必要なウクライナの穀物地帯,鉄鉱石鉱山,工業地帯を占領し,カフカスの油田からの石油輸送を停止させること,?クリミア半島を占領し,ルーマニアに対する黒海を利用した航空攻撃,海軍の策動を抑えること,
の3点だった。

1942年初頭のドイツ側は,南部での大攻勢目指し,4月,「ブラウ」(青)作戦が決まった。この目標は,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)によって,ソ連軍の防衛力を打ち砕き,スターリングラードを制圧,ついでカフカスの油田など戦争経済資源を奪取することとされた。

ブラウ作戦は、モスクワ攻略に失敗したドイツ軍には、欲張った目標だった。その上,カフカスとスーリングラードのニ目標を追うことになり,軍集団を二分するという失策を犯してしまう。戦力を分散投入してしまったために,どちらの目標も達成できなかった。

写真(右)1945年6月以降,ポーランド、第二次大戦終了後、ドイツ軍の残した機体を接取して使用されたポーランド軍のフィーゼラーFi156"シュトルヒ"連絡機:垂直尾翼の方向舵にポーランドの国籍マークが描かれている。Fi156は、本家フィーゼラーで1908機生産されたほか、フランスのモラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier)で784機など合計2867機が量産された。
Fiesler Fi-156 Catalog #: 00079240 Manufacturer: Fiesler Designation: Fi-156 Official Nickname: Storch
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archives引用。


⇒写真集Album:フィーゼラーFi156連絡機を見る。


9.満州日日新聞 1937.3.26(昭和12)「目覚ましき躍進列国の航空工業技術戦」

飛行機は科学の尖端を行く最新兵器である。これを製造する技術の優劣は、飛行機の性能を左右するものであるから、列強は競って航空技術の進歩に努力している。元来航空工業は、重工業中機械工業の部門に属し、就中航空用発動機製作は、精密工業に属すべきものであるが、その円満なる発達のためには単に航空工業の進展を期すれば可なりというものではなく、その関聯するところ甚だ広汎にして、重工業全般特に材料を供給する金属工業の進展に俟つもの甚だ多いのである。例えば優秀機のパテントを外国から購入し、これを模作することが出来るとしても、材料そのものに欠陥があれば、同一の性能は勿論求め得られないばかりでなく各部の亀裂又は折損を生ずること少くないのである。而して列強の航空工業は、ソ聯邦を除きては、殆ど大戦以来二十有余年の歴史を有しているのであって決して一朝一夕の間に培養されたものではなく、大戦以来今日まで巨額の国費を投入して漸く今日の進運を来したものであることを思えば、航空技術なり、航空工業の躍進を求むることは尋常一様の方法では至難であるといわねばならぬ。最近における列強の技術及航空工業を概術すれば次の如くである。

写真(右)エジプト(?)、エジプト航空デハビラント(De Havilland)DH 84 ドラゴン(Dragon)複葉輸送機(SU-ABJ:製造番号C/n 6051):乗客:8名、全長10.5 m、全幅14.6 m、高さ3.1 m、翼面積32 m²、空虚重量1,460 kg、全備重量2,490 kg、発動機ジプシークインエンジン 200 hp(150 kW)2基、最高速力253 km/h、航続距離920 km、上昇限界5,090 m。1938年6月製造のようだが、第二次大戦後もしばらく使用されている。
Hilda Jarmuth Collection Photo Catalog:Array - Title:Array - Filename:Hilda Jarmuth Collection Photo_00013.TIF - Image from the Hilda Jarmuth Personal Papers. Little is known about Hilda Jarmuth, an early aviatrix who was born on November 22, 1900. She may have been a member of the Ninety-Nines Club, which was founded on November 2, 1929, for the mutual support and advancement of women pilots. She was married to Charles F. Jarmuth in Cook County, Illinois, on June 12, 1923. She was widowed in 1927 when Charles drowned while attempting to rescue her from an undertow. Around 1949, she remarried to his first cousin, Louis T. Jarmuth. While little more is known about her other than she traveled extensively, she passed away in Los Angeles, CA, on July 1, 1976.--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives PictionID:40983859 - 引用。


英国

航空技術及航空工業は、空軍省内補給研究局において主宰し、統制指導機関として多くの委員会を組織している。工業技術進歩改善のためには科学産業委員会を設け、官民の全研究機関を連繋せしむる制度を採り、航空技術は航空研究委員会において統制し、これが進展を図っている。又空軍における研究機関と審議機関とを完全に分離し、前者は文官を主とし、後者は武官を主とし、各々一流の権威者を集中していることは、制度上の特徴と認むべきである。現在飛行機工場としては、大小を合し三七会社があるが、空軍が利用しているのは、大製造能力を有する一流の一五会社にして、その他は戦時これを利用する程度であろう。発動機工場は一八会社であって、大規模のものは五個に過ぎない。而してこれ等工場の製作能力は年産四〇〇〇−五〇〇〇機といわれている。

写真(右)1940年7月25日、イギリス、第25爆撃飛行隊のブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)Mk.I型爆撃機:初飛行は、1935年4月12日。全幅 17.17 m、全長 12.12m、翼面積 84.0 m2、自重4,441 kg、総重量 6,532 kg 発動機ブリストル(Bristol) マーキュリー (Mercury)空冷星形9気筒エンジン840 hp2基、 最高速力 418 km/h、航続距離 1810 km、乗員3名、兵装 7.7 mm 機関銃2丁、爆弾搭載量454 kg。
English: RAF Fighter Command 1940 Blenheim Mk IFs of No. 25 Squadron at Martlesham Heath, 25 July 1940. The foreground aircraft is equipped with AI Mk III radar. The squadron was used for night fighter operations. Date 25 July 1940 (Second World War)
Author Press Agency photographer Part of Ministry of Information Second World War Press Agency Print HU 104652 Imperial War Museums.
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-9 File:Bristol Blenheim - Martlesham - RAF Fighter Command 1940 HU104652.jpg引用。


写真(右)1938年以降、フランス、フランス空軍アミオ(Amiot)350双発爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277): 1934年から開発が始まり1937年12月6日にイスパノスイザ12Y28エンジンを搭載して初飛行。全幅 22.83 m、全長14.50 m、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、全備重量 11,285 kg)、発動機 発動機をノームローン 14N38空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)2基、最高速力479 km/h、航続距離 2,500 km、乗員4名。20 mm (0.79 in)イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)HS.404機関砲1門、7.5 mm (.295 in) MAC 1934機関銃2丁、爆弾 1200kg。生産機数84機。
Amiot 350 Manufacturer: Amiot French medium bomber 2 x Gnome & Rhone 14N/48 1060 Hp each Top speed: 480 Km/h at 4000m Cruise speed: 350 Km/h Range: 2500 Km Crew:4
写真はSDASM Archives Catalog #: 00074864引用。


仏国

航空省内に、技術及び製造工業全般の指導に任ずる航空製造局があって、技術及び科学研究所、製造部契約部、各地実験所を統轄している。航空技術は、昭和三−七年(一九二八−三二年)間航空省当時の技術局長カッコー氏の広汎なる奨励指導政策に依り、放漫の避難を受けてはいるが、著しく進歩し、特に金属機製作技術の向上には観るべきものがあった。殊にその優秀機試作奨励政策は後年における性能優秀なる軍用機多量生産の根柢をなしたのである。併しながらこれがため大小製作会社が簇出して五〇個以上に達し、これが統制を行うの必要に迫られ、ドナン航空相は、昭和九−一〇年(一九三四−三五年)に八個の群に統合して会社の強化を図ったのであるが、なお充分に目的を達成するに至らず、昨年七月ブルム内閣に依り、軍需工業国営を行うことに依って、初めてこの問題が解決したのであった。


写真(上)1930年5月1日メーデー、ソ連、モスクワ赤の広場で披露されたソ連ツポレフ(Tupolev)ANT-9大型輸送機
:初飛行は、1929年5月5日。全幅 23.80 m、全長 16.65 m、翼面積 84.0 m2、自重 3,680 kg、離昇重量 5.690 kg 発動機Wright Whirlwind300 hp (224 kW)3基、最高速力 205 km/h、航続距離 700 km、乗員2名、乗客9名。
Description English: Tupolev ANT-9 photo from Aero Digest May,1930 Date 1 May 1930 Source https://archive.org/details/aerodigest1617unse/page/n147 Author Aero Digest magazine
写真はWikimedia Commons Category:Tupolev ANT-9 File:Tupolev ANT-9 Aero Digest May,1930.jpg引用。


ソ聯

航空工業は重工業省の統轄するところで、航空技術は昭和三年(一九二八年)までは漸く外国製に模倣する程度であったが、第一次五ケ年計画の遂行に依り急速なる進展を遂げ、その製造工場も百数十に達し、更に第二次五年計画の実行過程にあるので、その製造能力は飛躍的進展をなすものと思われる従来航空技術方面に於ては創造的特色に乏しいようであったが、航空技術研究機関として大規模の施設を有する中央飛行科学研究所を設け、世界的に有名なるア・エヌ・トボレフ技師をその長とし多くの優秀技術者を集中して、統一せる研究を行うとともに、高級技術者の養成を企図し、又技術大学を多数設立して技術員の養成に努力しているので、その将来は刮目して睹るべきものがあると思う

写真(右)1939年頃、ソ連、ソ連空軍ツポレフ (De Havilland)SB 2M爆撃機:1934年10月7日に初飛行、乗客:8名、全長12,27m、全幅20,33 m、翼面積51,95m²、空虚重量4,768kg、全備重量6,308 kgkg、発動機クリーモフ(Klimov) M-103 液冷V12気筒エンジン960 hp (716 kW)2基、最高速力450 km、航続距離2,300km、上昇限度9500 m、7.62mm ShKAS機関銃4丁、爆弾搭載量500 kg。1936年 - 1941年に6,945機製造。独ソ戦の初期の主力爆撃機だったが、1942年には退役。中国空軍が1937年の日中戦争勃発時にSB-2M爆撃機60機を貸与し、その後の中国空軍主力爆撃機となった。チェコスロバキア空軍は、ドイツとの戦争を意識し1938年にSB爆撃機60機を購入した。フィンランド空軍は、1939-1940年の対ソ連冬戦争でSB爆撃機8機を鹵獲し使用した。
Tupolev, SB Manufacturer: Tupolev Designation: SB Notes: USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Tags: Tupolev, SB, USSR
写真はSDASM Archives Catalog #: 01_00089058 引用。


写真(右)1939年9月の第二次大戦勃発後、ドイツ、ハインケル(Heinkel)He 116偵察機:He 70の設計を流用し1936年12月9日に初飛行し1938年までに郵便輸送機として14機が生産された。全幅 22,00 m、全長 13,70 m、翼面積 62,90 m2、自重 4220kg、全備重量 7046 kg、発動機 ヒルト(Hirth) HM 508空冷倒立8気筒エンジン240 PS (177 kW) 排気量7.97L 4基、最高速力 325 km/h、航続距離 4,100 km、乗員4名。第二次大戦中は、ドイツ空軍で偵察機として使用された。
Deutsch: He 116 Date 18 April 2013 Source Image rights owned by the San Diego Air & Space Museum, which has released the image with no known copyright restrictions. Author San Diego Air & Space Museum
写真はWikimedia Commons Category:Heinkel He 116 File:He 116 2013.jpgjpg引用。


独逸

軍用機の製作は一昨年の空軍再建以来の事実であるから、列強の水準に達し居るやは疑問であるが、工業技術の発達、特に民用機の製造技術より観るとき、列強を凌駕するの日遠からざるを想わしむるものがある。而して飛行製作会社は大小合せて二十四個であって、特にハインケル、ユンカース、ドルニエー等は最も大規模のものである。その生産力は米国側の観測に従えば、月製一〇〇〇機以上で、戦時二五〇〇機に拡張し得る設備ありとしている。

写真(右)1930年代、イタリア、サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti) S.M.73輸送機:1934年7月4日に初飛行し48機が生産された。全幅 24,00m、全長 18,37 m、翼面積 92,20 m2、自重 7300 kg、全備重量 10.800 kg、発動機 ヒルト(Alfa Romeo ) 126 RC.10空冷星形8気筒エンジン800 PS (ca. 590 kW) 3基、最高速力 325 km/h、航続距離 1000km、乗員4名、乗客18名。
Description Italiano: Savoia-Marchetti SM.73 Date before 1950 Author Unknown author
写真はWikimedia Commons Category:Savoia-Marchetti S.73 File:Savoia-Marchetti SM.73.jpg引用。


伊国

空軍省に研究実験局があって、航空技術及び航空工業を統轄指導している。航空器材は空軍大臣監督の下に民間会社に製造せしむるとともに、一方国家総動員の見地より国防最高会議隷下にある工業監察官をしてこれが製作を監察せしめている。昭和八年(一九三三年)一月ムッソリーニ首相空軍大臣を兼摂するや、航空器材の自給自足は国防上における最重要事項であると為し、優秀なる自国発動機を産出せんが為め、航空総監督部を創設するとともに、各種の方面に奨励保護を行ったので、現今に於ては国産発動機として優秀なるものを産出するに至った。研究機関としては研究実験局があって、理論実験のみならず試作研究をも実施している。飛行機製作会社は十五個あり、中カプローニ、サボイア、フィアット、ブレダ等は大規模であって、社名機は伊国を代表している優秀機に属するものである。


写真(上)1935年、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊第25爆撃戦隊マーチン(Martin)B-10双発輸送機
:初飛行は、1932年2月16日。全幅 70 ft 6 in (21.49 m)、全長 44 ft 9 in (13.64 m)、翼面積 70 ft 6 in (21.49 m) m2、自重 9,681 lb (4,391 kg)、離昇重量 14,700 lb (6,668 kg)、 発動機ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒775 hp (578 kW)2基、最高速力 213 mph (343 km/h, 185 kn)、航続距離 1,240 mi (2,000 km, 1,080 nmi)、乗員3名。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,260 lb (1,025 kg)。1940年までに348機量産。
English: 25th Bombardment Squadron B-10s Date 1935 Source USAF Author US Air Force Museum
写真はWikimedia Commons Category:Martin B-10 File:25th Bombardment Squadron B-10s.jpg引用。


米国

陸、海、商務各省に航空局があって各々技術関係事項を統轄し、飛行機は民間会社に注文する制度である。米国の航空工業は民間航空工業の飛躍的進展により急速なる発達を遂げ、世界に覇を唱えている状態である。飛行機会社は大小を合して八三個あり、中マーチン、ボーイング、ベランカ、フェヤチャイルド、ダグラス、カーチス等は代表的なものである。年製機数は民用機のみにても次の如くである

▲大正八年(一九一九年)六六二機
▲昭和四年(一九二九年)六一九三機
▲昭和五年(一九三〇年)三四三七機(世界不況のため減少)
▲昭和八年(一九三三年)一三二四機


写真(上)1936-1940年頃、アメリカ、アメリカ陸軍航空隊第88偵察戦隊ダグラス(Douglas)B-18 ボロ(Bolo)双発爆撃機
:初飛行は、1936年4月。全幅 89 ft 6 in (27.28 m)、全長 57 ft 10 in (17.63 m)、翼面積 89.1 m2、自重 16,320 lb (7,403 kg)、総重量 24,000 lb (10,886 kg)、 発動機 ライト(Wright) R-1820サイクロン(Cyclone)空冷星形9気筒1,000 hp (750 kW)2基、最高速力 216 mph (348 km/h, 188 kn)、航続距離 900 mi (1,400 km, 780 nmi)、乗員6名。 0.30 in (7.62 mm) ブローニング機関銃3丁、爆弾 2,000 lb (910 kg) 。1939年までに351機量産。
English: Douglas B-18 of the 88th Reconnaissance Squadron Source US Goverment
写真はWikimedia Commons Category:Douglas B-18 Bolo File:Douglas B-18 061128-F-1234S-010.jpg引用。


飛行機の輸出は大戦間欧洲列強に対し実施したのを始めとし、大正五年(一九一六年)には二六九機昭和八年(一九三三年)四〇六機の多きに達した。航空技術は航空事業が殷盛となるに従い著しく進歩し、昭和九年(一九三四年)にはソ聯邦航空視察団が渡米して米国軍用機多数を購入し、昭和十年(一九三五年)には仏国よりも技術者渡米し軍用機を購入する等今や米国の製作技術は列強をリードしあるの観があって、特に豊富なる資力を以てする多量製産は勢い実験的研究の歩を進め、逐年性能優秀なる飛行機を製作しある状況である。

写真(右)1937年10月以降、アメリカ、ボーイング工場飛行格納庫まえでエンジンを駆動するアメリカ陸軍航空隊ボーイング(Boeing)XB-15 四発試作重爆撃機("Grandpappy" Serial Number 35-277): XB-15 (Boeing 294)は、1934年から開発が始まり1937年10月15日に初飛行。全幅 149 ft 0 in (45.43 m)、全長87 ft 7 in (26.70 m)、翼面積 258.4 m2、自重 37,709 lb (17,141 kg)、離昇重量 70,706 lb (32,139 kg)、発動機 Pratt & Whitney R-1830空冷星形14気筒エンジン850 hp(634 kW)4基、最高速力 197 mph (317 km/h, 171 kn)、航続距離 5,130 mi (8,260 km, 4,460 nmi)、乗員10名。 0.30 in (7.62 mm) M1919ブローニング機関銃3丁、0.50 in (12.7 mm) M2 ブローニング3機関銃2丁、爆弾 12,000 lb (5,400 kg)。試作機1機のみ。
Ray Wagner Collection Image PictionID:46702022 - Title:Boeing XB-15 35-277 factory 1937 - Filename:16_007750.tif - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives Catalog:16_007750 - 引用。


之を要するに列強の航空技術は各々特徴を有し直に優劣を論することは困難であるが、これが進歩向上を図るため、官民一致努力を傾注しあることは、列強その軌を一にしている。併し乍らこれが方法としては

1、理論、実験共に大規模の中央研究機関を設け、技術の研究進歩を図ると共に、優秀なる技術者を養成するに努めあること。
2、軍民需要数並に外国輸出の増加を図り、多量製産、機種更新に因り、又は多額の研究試作費を投じ、以て製造会社の自発的研究を促進すること。
3、研究機関と審査機関とを分離し一流の権威技術の向上を図ること。

等であって、何れも国情により適切なる方策を採用している。航空工業においては、製作会社の数が必ずしもその実勢力を現しているものではない。仏国の例に観るも必要以上に増加したものはこれを合同統制するのでなければ、これが培養強化を困難ならしむるものであって、小会社を多数簇生せしむることは、財政豊でない国家にあって、却て有害無益であって、寧ろ必要最小限度の大規模の会社に限定し、これを強化する方が有利であるとされている。又航空工業の製産能力を国家総動員の見地から戦時の要求に合致せしむるため、民用航空の進展により飛行機の需要を促進し、戦時能力を保持せしめることが極めて重要であって、列強が大戦後採用した航空政策の基調は此処に存しているのである。


満州日日新聞 1937.3.26(昭和12)「目覚ましき躍進列国の航空工業技術戦」引用おわり。


10.ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ベーリング(Hermann Göring)国家元帥元帥


写真(右)1938年9月29日、ミュンヘン会談のために、ミュンヘン飛行場から市内のホテルにフランス首相エドゥアール・ダラディエを送り届けるドイツ空軍総司令官ヘルマン・ベーリング元帥

Title Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.) Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Frankreichs Ministerpräsident mit Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Nach der ersten Besprechung im Führerbau in München begleitete Generalfeldmarschall Hermann Göring den französischen Ministerpräsidenten Daladier im Kraftwagen zu dessen Hotel. Daladier und Göring waren Mittelpunkt lebhafter und herzlicher Kundgebungen der Tausende, die die Strassen umsäumten. UBz.: Ministerpräsident Daladier und Generalfeldmarschall Göring auf der Fahrt durch München. Scherl Bilderdienst, Berlin 29.9.39
Daladier, Edouard: Ministerpräsident, Vorsitzender Sozialistische Partei, Frankreich Göring, Hermann: Reichsmarschall, Oberbefehlshaber der Luftwaffe, Ministerpräsident von Preußen, Deutschland Depicted place Münchener Abkommen Date 29 September 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File:Bundesarchiv Bild 183-H12963, Münchener Abkommen, Daladier (l.) und Göring (r.).jpg引用。


1922年から1923年に、ミュンヘン大学で学んでいるときに、ナチ党総統ヒトラーに出会い、入党する。第一次大戦のエースとしてナチ党の看板となり、突撃隊司令官として、上流階級とナチ党との仲を取り持つことになった。しかし、1923年11月、ヒトラー主導の武装蜂起「ミュンヘン一揆」(Beer Hall Putsch)は失敗し、銃弾を受けたゲーリングは、外亡したものの、治療のために投与したモルヒネの中毒となった。
1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉、1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉、1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥、1940年7月19日、国家元帥 1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将。

ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

写真(右)1938年10月1日、ドイツ、ベルリン駅、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥を従えたヒトラーと、国民啓蒙・宣伝大臣ヨーゼフ・ゲッベルス、ヒトラーユーゲント指導者バルドゥール・フォン・シーラッハ、財務大臣ルートヴィヒ・シュヴェリン・フォン・クロージク、総統官房長フィリップ・ボーラー
Title Münchener Abkommen, Rückkehr Hitler Info non-talk.svg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Des Führers Rückkehr von den Münchener Besprechungen Der Führer begrüßt auf dem Bahnsteig des Anhalter Bahnhof seine Mitarbeiter. UBz: v.r.n.l. Reichsminister Graf von Schwerin-Krosigk,Reichminister Kerrl,Reichsminister Rust,Reichsleiter Bouhler,Reichsjugendführer Baldur von Schirach,rechts Generalfeldmarschall Göring und Reichsminister Dr. Goebbels. Fot.: 1.10.38
Baldur von Schirach Bouhler, Philipp Hanns Kerrl Lutz Graf Schwerin von Krosigk Adolf Hitler Joseph Goebbels Hermann Göring Depicted place platform of the Berlin Anhalter railway station Date 1 October 1938
写真は Wikimedia Commons, Hermann Göring in 1938 File: Bundesarchiv Bild 183-H13039, Münchener Abkommen, Rückkehr Hitler.jpg引用。


1938年9月29日から30日にかけて、ドイツ南部、ミュンヘンにおいて、イギリス首相チェンバレン、フランス首相ダラディエ、イタリア統領ムッソリーニ、ドイツ首相アドルフ・ヒトラー総統が会談し、チェコスロバキアの北部で、多数のドイツ系住民が居住していたズデーテン地方のドイツ割譲を決定した。イギリスとフランスは、ドイツがこれ以上の領土割譲要求をしないとの条件で、1938年9月29日にミュンヘン協定に署名し、平和が守られたと宣言した。このミュンヘン会談は、第二次世界大戦前のイギリス・フランスの対ドイツ宥和の頂点にして、最後の機会だった。この時、ゲーリングは、ドイツ空軍がチェコ空襲をいつでも始める覚悟があると威嚇のポーズをとっていたのである。

写真(右)1942年6月4日、フィンランド、ヘルシンキ(Helsinki)郊外、マルミ(Malmi)空港、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)帰国を見送るフィンランド共和国リスト・リティ(Risto Ryti)大統領(黒コートにハット)、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥が見送りに来た。:ヒトラーは、フィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥の75歳の誕生日を祝いにフィンランドを日帰り訪問した。ヒトラーには、北極戦線のドイツ第20山岳兵団司令官エデュアルト・ディートル(Eduard Dietl)大将(前列左端)、ドイツ国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥がリティ左右に同伴している。
Adolf Hitlerin vierailu marsalkka Mannerheimin 75-vuotissyntymäpäivillä Kuvassa vasemmalta oikealle: tasavallan presidentti Risto Ryti, sotamarsalkka Wilhelm Keitel, valtakunnankansleri Adolf Hitler ja marsalkka Mannerheim.ORGANISATION Military Museum PHOTO INFO 1942-06-04
写真は、FINNA.Fl引用。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、プロイセン、ラステンブルク総統大本営、ドイツ総統アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)が訪問に来たフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥と握手をする。:マンネルハイムは、75歳の誕生にヒトラーの訪問を受けたので、答礼にドイツを訪問した。ヒトラーの後ろは、ドイツ国防軍総司令部(OKW)総長ヴィルヘルム・カイテル元帥。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Content Type Photo Organisation Military Museum
写真は、FINNA.Fl引用。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。

1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

1940年6月のフランス降伏で,元帥より上位の国家元帥に昇進。1940年8月以降の英国本土航空決戦は失敗に終わったが,1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では東部戦線に兵力を集中させ,奇襲に成功,大戦果を挙げた。
1942-1943年冬,スターリングラード空輸を請合ったが,失敗。1944年以降のドイツ本土防空戦でも,大損害を被った。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、プロイセン、アドルフ・ヒトラー総統、国防軍総司令部(OKW)作戦部長にアルフレート・ヨーゼフ・ヨードル(Alfred Josef Ferdinand Jodl:1890-1946)大将、国防軍総司令部総長ヴィルヘルム・カイテル元帥とともにラステンブルク総統大本営の会議に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥:作戦部長としてヨードル少将は、フランス侵攻の計画を立て、対フランス戦勝利の後、1940年7月19日に二階級特進し砲兵大将に昇進。その後、1940年12月、ヒトラーのソ連侵攻の決心後、「バルバロッサ作戦」を計画した。そして、ソ連侵攻時にソ連軍に配置された共産党政治委員の処刑命令「コミッサール指令」に署名した。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo。 写真は、FINNA.Fl引用。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、プロイセン、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥をゲーリング国家元帥が自ら送っている。:75歳のマンネルハイムは、ヒトラーの用意したドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-200コンドルC3/U9輸送機 (登録コード:KE+IX)で、ヒトラーのいるラステンブルク大本営「狼の巣」を訪問後、ドイツ空軍総司令官ゲーリングの祝宴にも招かれ、対ソビエト連邦との戦争協力を話し合った。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo。 写真は、FINNA.Fl引用。


写真(右)1942年6月28日、ドイツ、プロイセン、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥がゲーリング国家元帥に別れの握手をしている。:ヒトラーのラステンブルク大本営「狼の巣」を訪問したマンネルハイムは、1942年6月時点で、ヨーロッパを支配するドイツ後押しを受けることで力づけられた。フィンランドは、1939-1940年「冬戦争」敗北の恨み重なるソ連打倒の好機として、1941年6月に「継続戦争」を自ら望んで開始し、ドイツとともにソ連を攻撃していたからである。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Sotamuseo。 写真は、FINNA.Fl引用。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)の成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,の裏切りに怒り,ゲーリングの公職追放・監禁を命じた。

写真(右)1942年6月28日、ドイツ、プロイセン、ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング国家元帥主催の祝宴に出席したフィンランド国防軍総司令官カール・マンネルハイム(Carl Mannerheim)元帥をゲーリング国家元帥自身が見送った。:ゲーリングは、木造石造りの瀟洒な狩猟館に、同じ反共産主義同盟軍の司令官マンネルハイム元帥を招待し、食事でもてなした。
Mannerheim seurueineen matkalla Saksassa, tapaa Hitlerin ym. Valtakunnanmarsalkka Hermann Göring saattamassa Suomen marsalkka Mannerheimia tämän vierailtua metsästysmajalla Itä-Preussissa Content Type Photo Organisation Military Museum 写真は、FINNA.Fl引用。


⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。



◆2017.6.30産経ニュース「稲田朋美防衛相、失言を初めて陳謝 辞任は否定
 稲田朋美防衛相は(2017年6月)30日の記者会見で、東京都議選の自民党候補に対する応援演説の際に「防衛省・自衛隊、防衛相、自民党としてもお願いしたい」と発言したことについて、「改めて『防衛省・自衛隊、防衛相』の部分は撤回し、おわびしたい」と述べ、公の場で初めて陳謝した。
 発言に関しては「演説を実施した板橋区の隣の練馬区にある練馬駐屯地など、自衛隊を受け入れている地元に感謝する趣旨を入れた演説だった」と述べた。その上で「国民の生命、身体、財産、わが国の領土、領海、領空をしっかりと守るべく、いっそうの緊張感を持って防衛相としての職責を果たしてまいりたい」とし、辞任しない考えを重ねて示した。(2017.6.30 22:25引用終わり)

日本の「保守」であれば、大切な家族を差し置いて、選挙戦に勝つことばかり願っている平和ボケ防衛大臣など追放すべきである。さらに、文民の大臣が、自衛官を政治的な投票の駒として利用すると公言したとなれば、それは公職選挙法の問題に留まらず、自衛隊を侮辱する発言である。国防重視というのも人気取りのポピュリズム的発想のプロパガンダに過ぎず、そんなエセ保守政治家の本心は、利己的な打算が支配しているにちがいない。1937年の盧溝橋事件が日中全面戦争に至った時も現地駐屯の日本軍や陸軍省・陸軍参謀本部以上に、日本の代表的政治家が「中国叩くべし」(暴支膺懲)との強硬発言をした。これは、国民世論を煽り、リーダーシップを軍から取り返そうとした策略だったかもしれない。しかし、政治家は、和平交渉の機会を捨て去り、国際的孤立を招き、政治・外交・軍事の大失敗に繋がった。主権者国民は、似非政治家のポピュリズム的発想に振り回されず、世界を大局を概観できる能力が求められる。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ハンセン病Leprosy差別
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答

ポーランド侵攻:Invasion of Poland
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」

日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
ソ連赤軍T-34戦車ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov

フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
ドイツ陸軍2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
VI号ティーガー重戦車
ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
V号パンター戦車
ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車

イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
イギリス陸軍コメット巡航戦車

アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

ユンカース(Junkers)F.13輸送機
ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
ユンカース(Junkers)K43f水上機
巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
ユンカース(Junkers)G.31輸送機
ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
ハインケル(Heinkel)He111輸送機
ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」

サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
ピアジオP.108重爆撃機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機


当時の状況に生きた方々からも、共感のお言葉、資料、映像などをいただくことができました。思い巡らすことしかできませんが、実体験を踏まえられたお言葉をいただけたことは、大変励みになりました。この場を借りて、御礼申し上げます。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。

ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
2020年8月28日開設の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
連絡先: torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 
東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
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