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◆カント(CANT)Z.1007アルシオーネ (Alcione)爆撃機

写真(上)1939年-1940年6月以前,イタリア、第二次世界大戦参戦前、ファシスト・イタリア空軍カント(CANT:Cantieri Aeronautici e Navali Triestini)Z. 1007 bisアルシオーネ (Alcione:カワセミ)三発爆撃機
;1937年3月11日初飛行、第二次世界大戦勃発直前の1939年5月より就役。垂直尾翼方向舵にイタリア参戦前のイタリア三色旗トルコローレ緑白赤の国籍記章が描かれている。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)。写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



写真(上)1941年,イタリア、シシリー島、マルタ島へ出撃するイタリア空軍カント(CANT)Z.1007bisアルシオーネ(Alcione:かわせみ)三発爆撃機
:マルタ島のイギリス軍を攻撃に向かう熱帯仕様の迷彩塗装を施した機体の正面。胴体コックピット後上方にある銃座から、12.7ミリ機関銃の銃身が見えている。胴体下面には、爆撃手席のガラス風防が見えるが、三発機で機首にエンジンがあるために、胴体前方下面のこような位置に爆撃照準器が搭載させざるを得なかった。主翼下面には小型爆弾が3発懸架されている。
English: A CANT Z.1007 bis bomber of the Italian Regia Aeronautica getting ready for a bombing mission over Malta; the photograph was taken in Sicily in 1941.
Date 1941 Source G. Dicorato; G. Bignozzi, B. Catalanotto, C. Falessi, Storia dell'Aviazione, Milano, Fratelli Fabbri Editori, 1973. Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:CANT Z.1007 File:CANT Z.1007 bis, Sicily, 1941.jpg引用。



写真(上)1943年5月,イタリア(?)、ファシスト・イタリア空軍カント(CANT)Z.1007 bisアルシオーネ (Alcione)三発爆撃機
;垂直尾翼には、イタリアの第二次世界大戦参戦後の国籍マークとして、イタリア三色旗トルコローレの国籍記章からとった白十字が描かれている。
Photograph Curator 80-G-64147: Italian bomber, Cant Z, 1007 Bis, May 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2016/09/13).
Author National Museum of the U.S. Navy
写真はNational Museum of U.S. Navy., Photograph Curator 80-G-64147引用。


1.カント(CANT)Z.1007 アルシオーネ(Alcione)爆撃機

写真(右)1937年3月以降,飛行場に待機中のカント(CANT)Z.1007「アルシオーネ」 (かわせみ)三発爆撃機(CANT Z.1007 Alcyone/ Alcione):垂直尾翼は1枚の単尾翼式だが、のちに双尾翼式に変更された。垂直尾翼方向舵にイタリア参戦後のイタリア三色旗トルコローレ緑白赤の国籍記章が描かれている。カント Z.1007「アルシオーネ」 (かわせみ)三発爆撃機は、1937年3月11日初飛行、1939年5月に部隊配備された。1943年までに660機が量産された。
Questa è una fotografia pubblicata in territorio italiano o ivi realizzata senza essere mai stata pubblicata all'estero[1] ed è nel pubblico dominio poiché il copyright è scaduto[2]. Secondo la Legge 22 aprile 1941 n. 633 e successive modificazioni, le fotografie prive di carattere creativo e le riproduzioni di opere dell'arte figurativa[3] divengono di pubblico dominio a partire dall'inizio dell'anno solare seguente al compimento del ventesimo anno dalla data di produzione (articolo 92). In accordo al testo di legge, tali fotografie sono: «immagini di persone o di aspetti, elementi o fatti della vita naturale e sociale, ottenute col processo fotografico o con processo analogo, comprese le riproduzioni di opere dell'arte figurativa e i fotogrammi delle pellicole cinematografiche. Non sono comprese le fotografie di scritti, documenti, carte di affari, oggetti materiali, disegni tecnici e prodotti simili» (articolo 87). Le immagini considerate opere dell'ingegno di carattere creativo, invece, diventano di pubblico dominio dopo 70 anni dalla morte dell'autore (articolo 2, numero 7 e articolo 32-bis).
写真は,Immagini di aeroplani File:CRDA Cant Z.1007 prototype.jpg引用。


写真(右)1940年9月、イタリアの第二次大戦参戦3か月後、地中海沿岸を飛行するイタリア空軍カント(Savoia-Marchetti)Z.1007三発爆撃機
Tre bombardieri S.M.79 sorvolano dei rilievi
Location: Italy Mare Mediterraneo
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
Creation date: 01.09.1940-30.09.1940
写真は,Europeana experience Identifier: GuerraGuerraIL0001003245-man0 引用。


写真(右)1941-1942年頃,飛行中のファシスト・イタリア空軍カント Z.1007「アルシオーネ」 (かわせみ)三発爆撃機(CANT Z.1007 Alcyone/ Alcione)(単尾翼式):カントとは、カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコの略称である。手前は、僚機のエンジンナセル、排気管と伸びた右主翼で、黒丸縁に3本のファッシのファシスト記章が描かれている。カント Z.1007「アルシオーネ」 (かわせみ)三発爆撃機は、1937年3月初飛行、1939年5月に部隊配備された。1943年までに660機が量産された。
CANT (C.R.D.A.) Z 1007 Catalog #: 00076595 Manufacturer: CANT (C.R.D.A.) Designation: Z 1007
写真はSmugMug+Flickr.,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00076595引用。


カント(CANT)とは、カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:CANT)の略称である。

1931年にスペインでは、総選挙の結果、王制から共和制へと移行し、スペイン第二共和国が樹立された。そして、1936年の総選挙で、マヌエル・アサーニャ大統領の人民戦線政府が成立すると、7月17日、エミリオ・モラ・ビダル(Emilio Mola Vidal)はスペイン領植民地モロッコで反乱を起こし、カナリア諸島に左遷されていたフランシスコ・フランコらも反乱に呼応し、国民戦線ファシスト政権を名乗り、スペインは内戦に陥った。

ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)のイタリア・ファシスト政権は、スペイン内戦に際して、フランコ将軍のファシスト国民戦線を軍事援助するために、航空機・戦車を含む正規軍を「義勇兵」の名目で派兵した。その中に、サヴォイアSM-79爆撃機、カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機も含まれていたが、カント Z.1007「アルシオーネ」 (かわせみ)爆撃機は、まだ完成していなかった。

写真(右)1940-1942年頃,飛行中のファシスト・イタリア空軍カント(CANT)Z.1007アルシオーネ(Alcione:かわせみ)三発爆撃機 (単尾翼式):胴体下面の爆弾倉とその後端にある後下方銃座が判別できる。垂直尾翼の白十字は、イタリア王国空軍の国籍マークである。手前は、僚機のエンジンナセル、排気管と伸びた右主翼で、白丸に黒で3本のファッシを描いたファシスト記章が見える。
CANT (C.R.D.A.) Z 1007 Catalog #: 00076585 Manufacturer: CANT (C.R.D.A.) Designation: Z 1007
写真はSmugMug+Flickr.,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00076585引用。


カント(CANT)Z.1007の原型は、1937年3月11日に初飛行し、最高速力430km/h、航続距離2,800kmの性能を示したが、これは複葉戦闘機が主力だった時代には、高速で優れた飛行性能だった。そこで、イタリア空軍は、カント(CANT)Z.1007アルシオーネ(Alcione:かわせみ)として制式した。その後、戦闘機の性能も向上する中、カント(CANT)Z.1007の装備していたイソッタ・フラスキーニ・アッソ(Isotta Fraschini Asso)XI液冷12気筒エンジン 623 kW (835 hp) を、より強力なピアッジョ(Piaggio)P.XI RC.40空冷星型14気筒736 kW (986 hp) に換装した改良型Z.1007bis爆撃機が1939年7月に初飛行し、すぐに制式、1939年末には部隊配備がなされた。

写真(右)1941-1942年頃,北アフリカ、双尾翼式イタリア空軍カント(CANT)Z.1007bisアルシオーネ(Alcione:かわせみ)三発爆撃機(双尾翼式):初期型は単垂直尾翼だったが、後期型は双垂直尾翼に変更された。1943年までに660機が量産された。
CANT (C.R.D.A.) Z 1007 Catalog #: 00076588 Manufacturer: CANT (C.R.D.A.) Designation: Z 1007
- Official Nickname: Sparviero (Sparrow Hawk) Notes: Italy
写真はSmugMug+Flickr.,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00076588引用。


1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻し、兵力撤退の要請が無視されたイギリス・フランスは、9月3日、ドイツに対して宣戦を布告した。こうして、これから6年近くの第二次世界大戦がはじまったが、イタリアはドイツとの軍事同盟があったが、参戦せず中立を保った。リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo、1896-1940年6月28日)は、イギリスとフランスとの戦争を始めることに躊躇しなかったが、同時に、ヒトラー・ドイツがイタリアを無視して独自の外交・戦略を進めることに反感を感じており、これは外務大臣ガレアッツォ・チアーノと共通していた。彼らは、地中海世界を制する大ローマ帝国を夢見ていたのであって、北ヨーロッパでの戦いには、意義を見出していなかった。そこで、北アフリカ、バルカン半島へのイタリア勢力拡張を望んでいたのである。

カント Z.1007 カント Z.1007「アルシオーネ」 (かわせみ)三発爆撃機は、1937年3月11日初飛行、1939年5月に部隊配備された。

全備重量 13,621 kg、発動機 ピアッジョ(Piaggio)P.XI R.2C 40空冷星型14気筒エンジン 1,000 hp 3基
最高速力 456 km/h、航続距離 2,000 km
兵装:12.7ミリ機関銃 4丁、7.7ミリ機関銃 2丁、爆弾搭載量 1,200 kg

サヴォイア・マルケッティ SM.79「スパルヴィエーロ」(ハイタカ)同様、Z.1007アルシオーネ(カワセミ)もエンジンを3基搭載したため、機首に爆撃手を置くことができず、銃座も設けられなかった。

しかし、胴体上部には回転銃座を設けて12.7ミリ口径イソッタ・フラスキーニ・スコッチ(Isotta-Fraschini Scotti)M1933機関銃を搭載している。1943年までに660機が量産された。

カント Z.1007 カント Z.1007「アルシオーネ」(かわせみ)三発爆撃機(CANT Z.1007Alcyone/Alcione)の諸元
乗員: 5名
全長: 18.47 m
全幅: 24.80 m
全高: 3.15 m
翼面積: 70.00 m2
全備重量: 13,621 kg 発動機: ピアッジョ(Piaggio)P.XI R.2C 40空冷星型14気筒エンジン1,000hp3基
最高速力: 456 km/h
航続距離: 1,750 km
実用上昇限度: 8,100 m
兵装:12.7 ミリ イソッタ=スコッチ(Isotta-Fraschini Scotti)機関銃2丁、7.7ミリ ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁
爆弾 1,200 kg

写真(右)1941-1942年頃,イタリア、雪山上空を飛翔する双尾翼式イタリア空軍カント(CANT)Z.1007bisアルシオーネ(Alcione:かわせみ)三発爆撃機(単尾翼式):熱帯仕様の迷彩塗装を施しているので、地中海方面に出征する途上なのであろうか。1938年から1943年までに660機が量産された。
CANT Z.1007 Alcyone/ Alcione
PictionID: 42002973 - Title: CANT Z.1007 Alcyone/ Alcione - Filename: 15_003033.TIF -
-Image from the Charles Daniel's Collection Italian Aircraft
写真はWikimedia Commons.Category:CANT Z.1007 File:CANT Z.1007Alcyone-Alcione (16325269864).jpg引用あるいはSmugMug+Flickr.,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog:15_003033 引用。


イタリアのアフリカ植民地をエチオピアにまで拡張し帝国化したファシスト党ムッソリーニを信頼して、軍事大権、いわゆる統帥権を認めた。こうして、独裁者となったムッソリーニは、この時期、ドイツの対フランス勝利、ドイツ・ソ連の不可侵条約に幻惑され、自ら第二次世界大戦に参戦する決意を固めていった。

写真(右)1941年,小型爆弾を投下中のファシスト・イタリア王立空軍カント(CANT)Z.1007bis「アルシオーネ」 (かわせみ)三発爆撃機(CANT Z.1007 Alcyone/ Alcione):垂直尾翼は1枚の単尾翼式。主翼にイタリア・ファシスト党3本ファッシに由来する白黒の国籍記章が描かれている。1937年3月11日初飛行、1939年5月に部隊配備された。1943年までに660機が量産された。
Le immagini considerate opere dell'ingegno di carattere creativo, invece, diventano di pubblico dominio dopo 70 anni dalla morte dell'autore (articolo 2, numero 7 e articolo 32-bis).
写真は,Immagini di aeroplani File:CRDA Cant Z.1007bis Alcione bombing (1941).jpg引用。



写真(右)1941-1943年頃,飛行中のファシスト・イタリア空軍第210飛行中隊のカント(CANT)Z.1007アルシオーネ(Alcione:かわせみ)三発爆撃機
:胴体尾翼の白帯は、イタリア王国空軍地中海方面の国籍マークである。手前は、僚機のエンジンナセル、排気管と伸びた右主翼で、白丸に黒で3本のファッシを描いたファシスト記章が見える。
CANT (C.R.D.A.) Z 1007 Catalog #: 00076585 Manufacturer: CANT (C.R.D.A.) Designation: Z 1007
写真はSmugMug+Flickr.,Steve White Cant Z 1007引用。


カントとは、航空機メーカーのカンティエリ・ナヴァレ・トリエスティーノ(Cantiere Navale Triestino)の略称である。

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)は,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」(Phoney War)とも称された。


写真(上)1941-1943年頃,飛行中のファシスト・イタリア空軍のカント(CANT)Z.1007アルシオーネ(Alcione:かわせみ)三発爆撃機
:エンジンナセルの黄色塗装は、ドイツ軍との同士討ちを避けるため追加された国籍識別マークである。胴体尾翼の白帯は、イタリア王国空軍地中海方面の国籍マークである。
CANT (C.R.D.A.) Z 1007 Catalog #: 00076585
Manufacturer: CANT (C.R.D.A.) Designation: Z 1007
写真はSmugMug+Flickr.,Ricky 1971 Cant.Z.1007 bis-02引用。


 しかし、この1939年にイタリアは、中立国として、第二次世界大戦には加わっておらず、イギリス・フランスからは、ドイツとの仲介役を期待されていた。

イタリアのファシスト独裁政権の首相ベニート・ムッソリーニは、1939年9月に勃発した第二次世界大戦に1940年6月8日に参戦し、フランスを攻撃した。イタリアは、1940年5月のドイツによるフランス侵攻で、フランスが降伏する直前の1940年6月8日にイタリアは参戦し、フランスに勝利した戦勝国として、フランスの占領の利益を確保しようとした。

写真(右)1944年,イタリア、飛翔する連合国側に立って戦ったイタリア王国空軍カント(CANT)Z.1007bisアルシオーネ(Alcione:かわせみ)三発爆撃機(双尾翼式):国籍マークは、ファシスト・イタリア時代の黒縁丸に3本のファッシを描いたものを廃止し、イタリア伝統の緑・白・赤の三色国旗(Tricolore:トリコローレ)を模して、中心から緑・白・赤の同心円マークとなっている。
English: A CANT Z.1007 bis bomber of the Italian Co-Belligerant Air Force photographed over Southern Italy in late 1944. Italiano: Un bombardiere CANT Z.1007 bis della Aeronautica Cobelligerante Italiana fotografato sopra l'Italia meridionale nella seconda metà del 1944. Date 1994 Source G. Dicorato; G. Bignozzi, B. Catalanotto, C. Falessi, Storia dell'Aviazione, Milano, Fratelli Fabbri Editori, 1973. Author Unknown author
写真はWikimedia Commons.Category:CANT Z.1007 File:CANT Z.1007 ICBAF.jpg引用。


カントCANT Z.1007bis爆撃機の諸元
乗員rew: 5名
全長Length: 18.35 m (60 ft 2 in)
全幅Wingspan: 24.8 m (81 ft 4 in)
全高Height: 5.22 m (17 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 70 m2 (750 sq ft)
空虚重量Empty weight: 9,396 kg (20,715 lb)
最大離陸重量Max takeoff weight: 13,621 kg (30,029 lb)
発動機Powerplant: ピアジオ(Piaggio) P.XI R.C.40空冷星形14気筒エンジン745 kW (999 hp)2基
プロペラPropellers: 3翅可変ピッチ
性能Performance
最高速力Maximum speed: 458 km/h (285 mph, 247 kn)
巡行速力Cruise speed: 338 km/h (210 mph, 183 kn)
航続距離Range: 1,795 km (1,115 mi, 969 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,500 m (24,600 ft)
兵装Armament
12.7 mm (0.5 in) イソッタ=スコッチ(Isotta-Fraschini Scotti)機関銃あるいは12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃2丁
7.7 mm (0.303 in) ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃2丁
爆弾搭載量Bombs:
1,200 kg (2,645 lb)あるいは1,000 kg (2,200 lb)爆弾1発(外装)
最大:2,200 kg (4,900 lb) 爆弾倉と外装の合計.
45cm(17.7 in) 800 kg (1,800 lb)魚雷2本.
生産期間:1938–1943年.
生産機数:660機


2.カント(CANT)Z.1007 bis爆撃機マニュアル・カタログ

1940年5月、ドイツ軍フランス侵攻「黄色の事例」が発動し、6月にフランスの敗退が決定すると、イタリア統領(Duce)ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)は、第二次世界大戦がドイツの料理で終わる前に参戦し、国際影響力を確保する必要性を痛感した。そこで、中立による戦略的優位性を投げ出し、ドイツ側に立って参戦し、南フランス、エジプトの攻撃を命じたのである。

写真(右)1940年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログ
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳すると)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


しかし、イタリア統領(Duce)ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)は、フランス敗北後の領土要求をヒトラーに拒否され、地中海帝国イタリアの面目を施すことができなかった。ヒトラーは、戦争に寄与していなイタリアの領土要求を拒否して当然と考えたが、ムッソリーニは不名誉を被り、イタリア人の誇りを傷つけられた。ムッソリーニは、ヒトラーに対して仕返しをしようと、ドイツに相談することなく、併合していたアルバニアから16万のイタリア軍で、1940年10月28日、ギリシャに侵攻する。

戦備不足のイタリア軍は、勇敢なギリシャ軍の反撃を受け、かえってイタリア領アルバニアに押し返されてしまう。そして、ギリシャから、枢軸国に地中海東部を支配されないように、イギリス軍は、ギリシャ沖のクレタ島に進駐し、守備を固めた。

写真(右)1940年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆撃機(単尾翼式)の側面
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


垂直尾翼のイタリア国籍マークは、第二次世界大戦参戦前ではイタリア三色旗トルコローレの国籍記章が描かれていた。その後、1940年6月にイタリアが参戦するとイタリア三色旗トルコローレの中央の白色十字架の国籍記章に変更された。赤と緑は、戦闘地域では、華麗で敵から発見されやすいと判断され、取りやめられた。

写真(右)1940年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆撃機(単尾翼式)斜め前方:C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



写真(上)1940年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆撃機(双尾翼式)斜め前方

写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



写真(上)1940年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆撃機(双尾翼式)側方

写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


ヒトラーは、イギリス軍がバルカンで勢力を伸ばせば、同盟国ルーマニアの油田が脅かされ、イギリスとソ連との連携の可能性が高まると憂慮し、バルカン半島、北アフリカを確保することを決め、イタリア軍に加勢する準備を始めた。

ヒトラーは、1941年4月6日、ギリシャ侵攻「マリータ作戦」(Unternehmen Marita)、ユーゴスラビア侵攻を発動し、同盟国ブルガリア、ハンガリーから司令官ヴィルヘルム・リスト元帥隷下のドイツ第12軍がギリシャに侵攻した。ユーゴスラビアは4月17日、ギリシャは4月30日に降伏した。しかし、ギリシャにあったイギリス軍は、4万2,000名は無事撤退することができた。

写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆撃機(単尾翼式)三面図:機体に張るアンテナ線の場所と碍子によってつなぐ方法が示されている。また、胴体後方下面(左側)には、引き出すことのできる可動アンテナの位置が示されている。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥もガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)外相も、地中海世界の覇者となる古代ローマ帝国の再来、大イタリア帝国を夢想していたので、ヨーロッパ西部・東部での戦いには戦力を割きたくなかった。この消極的姿勢が、イタリアの外交、戦略にも反映していた。戦うことで勇ましい国民性を体得すべきという統領ムッソリーニの英雄・戦士の思想は、巧妙に立ち回り、最小の努力で最大の成果を手にすることを旨とするイタリアの政治体質には当てはまらなかったようだ。


図(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆撃機(双尾翼式)側面図
:全長18.470m、全高5.150m、プロペラと地表の間隔4.380mのデータが記入されている。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



図(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆撃機(双尾翼式)正面図
:全幅24.800m、左右のゴム主輪間隔6.600mのデータが記入されている。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆撃機(双尾翼式)上面図:全幅24.800m、尾翼幅6.276mのデータが記入されている。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



図(上)1940年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの胴体構造図(側面と上面)
:所翼取付け部分が明瞭に識別できる。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


1940年6月にイタリアが第二次世界大戦に参戦すると、リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥は、リビア駐屯イタリア軍によるエジプト攻撃を命じられた。しかし、バルボは、植民地戦争に躊躇はなかったが、現時点でのエジプト攻撃は、イギリス・フランス相手の世界戦争の一環であり、局地紛争に留まらないのであって、イタリアにこの2カ国と戦争するだけの戦備はないと判断していた。


図(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの主翼構造図

写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


空気には形状に沿って流れるが、主翼の後縁が下方に傾斜していると、その空気の流れが下向きに曲げられる。主翼で空気を下方に向けられた。この作用で押し下げられた空気の反作用で、揚力が発生する。つまり、揚力は、主翼上面の空気の流れが下向きに曲げらた反作用で発生しますたのである。空気は力の作用がなければ直進すすが、主翼で空気が下方で流れたからには、どこからか力が働いたといえる。空気の流れが曲げられると曲がった流線の内側と外側に圧力差が発生し、向心力が働くのである。

つまり、主翼上面の曲がっているところを流れる気流の流線の内側は低圧となる。他方、翼下面では、気流は直進するので、圧力が上昇し高圧となる。空気の流れが下向きに曲げられた翼上面では圧力が低下し、空気が直進する翼下面では圧力が上昇する。このように空気の流れを曲げた反作用は翼上面・下面の圧力差として翼に揚力として働くのである。

図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの主翼後縁の補助翼 (エルロン:Aileron)の構造図
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


飛行機は揚力を得るために、主翼の上面と下面では形状が異なる。上面の空気が下面より早く流れれば、気圧の差から揚力が働き、機体は上に持ち上げられる。しかし、主翼は付け根から先端まで捩じりがあったり、形状が異なったりと複雑で、それを支える桁も最新の注意が必要である。

図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの主翼後縁の補助翼 (エルロン:Aileron)の構造図
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z. 501 Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA C.R.D.A. Cant. Z. 501 serie I - 1935 ; serie IX-XI - 1940 ; serie IX - 1941引用。


左右主翼先端部後縁にある補助翼 (エルロン:Aileron)は、飛行機を旋回(横転、ロール)する際の舵である。つまり、補助翼は飛行機の前後中心軸をを回転させ、姿勢を変え、方向を決める舵である。

図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの主翼後縁の補助翼 (エルロン:Aileron)の構造図
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの水平尾翼と昇降舵構造図

C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


飛行機胴体尾部の水平尾翼の後縁にある昇降舵は、エレベーター(elevator)の名の通り、飛行機の進行方向の上下の動きを制御する舵(動翼)である。昇降舵を上げれば、機首上げで上昇し、昇降舵を下げれば機首下げで加工する。

図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの水平尾翼と昇降舵構造図
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


飛行機胴体尾部の水平尾翼の後縁の昇降舵は、飛行機の上下の姿勢を変化させるものである。

写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの垂直尾翼(単尾翼式)と方向尾舵構造図
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



写真(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの垂直尾翼(単尾翼式)と方向舵構造図

写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの尾部の垂直尾翼と水平尾翼:尾輪も引き込み式で、尾輪引き込み後に収納扉が閉鎖される。水平尾翼の支柱が、片側に2本あるが、これは軽量な構造で強度を維持するためである。ただし、支柱の存在は、空気抵抗の増加につながるので、飛行性能上はマイナスになる。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの尾部の双垂直尾翼と水平尾翼:尾輪も引き込み式で、尾輪引き込み後に収納扉が閉鎖される。単尾翼式の機体には、水平尾翼を支える支柱があるが、双尾翼式の機体に支柱はないので、空気抵抗の減少につながった。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの機首下面爆弾手席と胴体後方下面にある引き出し式アンテナと胴体内のループアンテナの操作構造図:空気抵抗を大きくしないように、未使用の時はアンテナとアンテナ線を胴体内に引き込むことができる。ループアンテナは、環状部で受信した電波の強弱を図って、方位を確定する航法用アンテナである。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの機首下面爆弾手席と胴体後方下面にある引き出し式アンテナの詳細な構造図:空気抵抗を大きくしないように、未使用の時はアンテナとアンテナ線を胴体内に引き込むことができる。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



図(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの機首下面爆弾手席と胴体後方尾部にある航空写真機の操作構造図
:電気操作で写真機を操作し、偵察や爆撃効果を判定するのに写真を活用した。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



写真・図(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの胴体後方左側の搭乗員出入口用の扉(左)とガラス風防枠
(右):
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisのコックピット:コックピット後上方に12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁装備の回転銃座が見える。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


爆撃機の搭載した防御用の旋回機関銃は、迎撃してくる敵戦闘機を撃墜するというよりも、反撃して、敵戦闘機の戦意を挫くことに用いられた。しかし、防弾装甲板のない銃座で、大口径機関銃、多数の機関銃を装備し防弾装甲板・防弾ガラス風防に守られた敵戦闘機と対峙するには、強靭な神経が要求される。

写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisのコックピット後上方12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁装備の回転銃座
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


イタリア軍の制式したブレダ(Breda)-SAFAT機関銃は、1930年代から大戦中に主にイタリア空軍機に搭載された航空機用機関銃で、口径は、7.7ミリと12.7ミリとがある。原型は、アメリカの有名な12.7ミリ0.50口径ブローニングM2重機関銃であるが、日本陸軍の12.7mmホ103航空機関銃と同じく、ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃実包は、ブローニングM1919重機関銃の7.62x63mmより短く軽量で7.7x56mmR(.303ブリティッシュ弾)にランクダウンされた。また、ブローニングM2重機関銃の実包12.7x99mmは、ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃では12.7x81mmSR(.50ブリティッシュ弾)にやはりランクダウンされ、軽量化された。したがって、イタリアと日本の7.7ミリ弾。12.7ミリ弾は、原型となったアメリカのブローニング機関銃の同口径の実包よりも射程、弾道安定性、破壊力に劣っていた。

写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisのコックピット後上方12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃各1丁装備の回転銃座:射角ゼロの水平状態。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisのコックピット後上方12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁装備の回転銃座:射角60度の高角状態。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis胴体中央部のコックピット・後上方12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁装備の回転銃座と後下方銃座
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisのコックピット後上方12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃各1丁装備の後下方銃座:左は銃座ガラス窓を閉じた収納状態で、右が銃座ガラス窓を引き上げて開放し、機関銃を滑り下ろした射撃姿勢。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisコックピット後上方12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁装備の回転銃座と7.7 mm (0.303 in) ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁装備の側面銃座
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


イタリア空軍カント(CANT)Z.1007 bis爆撃機は、コックピット後上面回転銃座、胴体後方下面旋回銃座に12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃各1丁、胴体左右側面に7.7 mm (0.303 in) ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃各1丁を装備している。ピアジオ(Piaggio) P.XI R.C.40空冷星形14気筒エンジン745 kW (999 hp)2基の出力は、第二次大戦中期以降の爆撃機としては、低出力の部類だったため、4か所に銃座を設けているが、第二次大戦中期以降は、飛行性能の上でも防御用火力の上でも、不十分であった。

写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis胴体後方側面にある7.7 mm (0.303 in) ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁装備の側面銃座:胴体内部から、左右の銃座と機関銃弾の給弾システムは判別できる。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis胴体後方側面にある7.7 mm (0.303 in) ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁装備の側面銃座:胴体内部から、機関銃の固定状態(左)と旋回状態を比較した。上部にある弾倉から機関銃弾が給弾されている。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisのコックピット後下方12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃各1丁装備の銃座:機銃収納状態。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisのコックピット後下方12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃各1丁装備の銃座:機銃が引き出され射撃可能な状態。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)とは、トリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisのコックピットの計器盤
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


飛行機の操縦席の計器盤は、機体の姿勢を表示する水平儀、高度計(気圧によって計測)、速力計(ピトー管に流入する空気圧力で計測)、方位計(磁気コンパスあるいはジャイロ・コンパス)、燃料計、エンジン回転計などがある。カント(CANT)Z.506 B アイローネ(Airone:アオサギ)水上機の正副操縦席は、胴体の左側によっているが、複式操縦装置で、前後の正副操縦士席の計器盤もほぼ同様である。

図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログの双尾翼式カント(CANT)Z.1007 bisのコックピットの計器盤
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログの双尾翼式カント(CANT)Z.1007 bisのコックピットの正操縦士席と計器盤:この真後ろに、副操縦士の席がある。つまり、縦列式の複式操縦装置がついている。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログの双尾翼式カント(CANT)Z.1007 bisのコックピットの副操縦士席と計器盤:この前に、正操縦士の席がある。つまり、縦列式の複式操縦装置がついている。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログの双尾翼式カント(CANT)Z.1007 bisのコックピットの正操縦士席脇とその計器盤

C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの左主翼に取り付けられたピトー管:複数の管に流入する気流の圧力差から対地速度を計測する。ファシストの3本のファッシが国籍マークだった。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisのエンジン取付け架
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの右主翼エンジン取付け架とエンジンナセルエンジン取付け架
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの主翼内蔵の燃料タンク
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


ドイツもイタリアも油田がなく石油資源に不足していた。当時のリビアではまだ原油が発見されていなかったのである。そこでドイツは、石炭を液化して人造石油を合成したが、これは石油を燃焼して石炭から石油を化学合成するベッセマー法によるもので、大変不効率な合成方法だった。

石炭の液化の方法は、高分子有機化合物を低分子化することで、石炭液化とは、加熱することによって石炭分子の化学結合を切れ易い状態にし、次いで切断点に水素を添加して低分子化するプロセスである。

写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの主翼内蔵の燃料タンク:ガソリンが漏れて火災にならないように、ゴムで保護されているようだ。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


つまり、石炭液化は、炭素、水素、酸素で構成されている石炭の構成について、原子間結合力の弱い−CH2−結合部を切断し、六角形の芳香環2個から4個から構成される石炭液化油が合成される。CH2結合部を切断するための熱エネルギーは、石炭を燃焼することで得られるが、液化反応には摂氏400度以上が必要なので、かなりの石炭を燃焼して、残った石炭を液化するという非効率な方法になってしまう。高温の状態で石炭のCH2結合が切り離しやすくなり、分離した結合部は水素原子と結合して安定化する。

しかし、石炭液化のプロセスで、切断された結合部が水素と結合できない場合、結合部同志が再結合してしまい、六角形芳香環が巨大になる。この現象が、炭化あるいはコーキングである。つまり、石炭を用いた石炭液化人造石油の合成には、石炭の低分子化による液化と同時に炭化という正反対の反応も同時に起こることになる。

写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの左側引き込み式降着装置とゴム主輪:ゴム主輪は、エンジンナセル後方に完全に引き込むことができる。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの主翼内蔵の引き込み式降着装置:左右主翼下面のゴム主輪(左)は、エンジンナセルの後方に引き込まれる。尾輪(右)は1本で尾部に引き込まれる。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



図(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの引き込み式尾輪:尾輪(右)は1本で尾部に引き込まれる。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



写真(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの引き込み式降着装置
:左右主翼下面のゴム主輪(左)は、エンジンナセルの後方に引き込まれる。尾輪(右)は1本で尾部に引き込まれる。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


イタリアは、1940年6月8日に南フランスに侵攻し第二次世界大戦に参戦したが、フランス降伏の後の1940年9月7日、イタリア統領(Duce)ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)は、イタリア植民地リビアから進軍しエジプトへ侵攻することを決心した。エジプトはイギリスが外交権・軍事権を掌握した保護国だったので、事実上、イギリス植民地だった。


図(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆弾倉の爆弾懸架に繋がっている電気装置
:爆弾倉扉は左右に開閉可能だが、基本的には小型爆弾を多数搭載する。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。



図(上)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bis爆弾倉に搭載された小型爆弾
:爆弾倉扉は左右に開閉できる。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


図(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの胴体下面爆弾倉に取り付けられた開閉扉の構造図:爆弾倉扉は左右に開閉可能である。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


1940年9月13日、エジプト侵攻を開始したイタリア軍は、グラッツィアーニ元帥隷下の8万人のイタリア第10軍で、5個師団を基幹としており、エジプト守備隊のイギリス軍より2倍以上優位な兵員を擁していた。優勢なイタリア軍はエジプトに100キロ侵攻したが、自動車化されていない部隊の補給は停滞した。

写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの胴体下面爆弾倉に取り付けられた250キロ爆弾2発:爆弾倉扉は開閉可能で、開放された状態で撮影されている。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


1940年12月9日、イギリス陸軍オコンナー将軍隷下のイギリス西砂漠軍 (機甲師団と英印軍[イギリス=インド軍])3万人は「コンパス作戦」を発動、イタリア軍への攻撃を開始した。オコンナー将軍隷下のイギリス西砂漠軍3万人は優位に戦いを進めて、1941年2月までに、リビアのトブルク、キレナイカを占領し、イタリア軍に大打撃を与えた。

写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの主翼下面爆弾懸架(ラック)に取り付けられた250キロ爆弾2発:爆弾倉以外に外装式の爆弾懸架があった。
C.R.D.A.(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ)は、英訳するとトリエステ造船海軍飛行工廠(Trieste Shipbuilding and Naval Aeronautics(C.R.D.A. CANT)で、その公式カタログ(CATALANO)より引用。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


写真(右)1941年版カント(CANT)Z.1007 bisマニュアル・カタログのカント(CANT)Z.1007 bisの主翼下面爆弾懸架(ラック)に取り付けられた50キロ爆弾3発:爆弾倉以外に外装式の爆弾懸架があった。
写真は,C.R.D.A. Cant. Z.1007 Bis- Monoderiva -a cura di Fabrizio CATALANO, Pietro BARULLI e Saverio RADOGNA イタリア航空省(Ministero Dell'Aeronautica)引用。


しかし、イタリア軍には、1941年2月にドイツからエルヴィン・ロンメル将軍隷下のアフリカ軍団がリビアに派遣され、3月の攻勢によって、4月にはベンガジを攻略してオコンナー将軍を捕虜にした。しかし、イギリス軍は、1942年8月にエル・アラメイン防衛のために、バーナード・モントゴメリー将軍隷下のたイギリス第8軍を充て、11月まで頑強に抵抗した。そして、アメリカからの戦車、航空機の軍事援助を得て、11月1日に「スーパーチャージ作戦」を発動して、ドイツ・イタリアの枢軸軍をリビアに撤退させた。


4.カント(CANT)Z.506 Aアイローネ(Airone:アオサギ)水上機

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションを見学し、説明を受けているイタリア国王王太子ウンベルト2世(Piemonte Umberto II)(中央高身長)と後方の、カント(CANT:Cantieri Aeronautici e Navali Triestini)Z.506アイローネ(Airone:アオサギ)水上機:1935年8月19日初飛行のカントZ.506は、国民へのイタリア航空機の優秀さの誇示、諸外国への輸出という目的で展示された。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Visita del principe di Piemonte Umberto II di Savoia
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 13 x 18
Note: Il principe di Piemonte Umberto II di Savoia è accompagnato dal presidente della Fiera Piero Puricelli, dal generale Felice Porro e da altre personalità
写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_26 引用。


カント(CANT:Cantiere Navale Triestino)Z.506水上機は、1935年8月19日の初飛行で、全長:19.25m、全幅:26.50m、全高:7.40m、総重量:12.3t、 アルファロメオ AR126RC34 空冷9気筒エンジン(750hp)3基搭載、最高速力 365km/h(高度3000m)、航続距離 2745km、乗員:4名。

カント(CANT)Z.506水上機は、フィリッポ・ザパタ(Filippo Zappata)技師の設計になり、1935年8月19日に初飛行した三発機である。1937年10月2-17日に北イタリア、ミラノで開催された航空展示会に出品された。カント(CANT)Z.506の生産機数は、試作2機、量産機314機と1930年代の大型水上機にしては多数生産されている。

写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたカント(CANT)Z. 506 B アイローネ(Airone:アオサギ)水上機:斜め前方より撮影。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento Stabilimento Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 1937 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 18 x 24
写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_563引用。


写真(右)1938年-1941年頃,イタリア、水上機基地の舗装滑走ランプ(傾斜台)から水面に移動したイタリア民間輸送機カント(CANT)Z.506 Aアイローネ(Airone)水上輸送機:胴体後半の客室キャビンには、乗客12人分(2列6席)の座席が確保されている。胴体後半にある。民間機であっても、イタリア・ファシスト党政権をたたえる意味で、ファッシ(武器の束)が機首に描かれている。
Description Italiano: Cant Z.506 vista anteriore Date before 1945 Source http://www.airwar.ru/enc/sww2/z506.html Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:CANT Z.506 Airone File:Cant Z.506 alla fonda 02.png引用。


カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機の初飛行は1935年8月19日で、この試作機をベースに高出力のアルファロメオ液令エンジンを搭載した特別仕様のZ.506水上機は、1936年から1938年に、国際飛行記録を樹立した。ピアッジオ ステラ P.IX空冷星形エンジンを装備したカントZ.506Aは、1936年からイタリア航空(Ala Littoria)に就航しており、民間旅客輸送機として使用された。1940年の保有機数は、14機である。

カンティエリ・ナヴァレ・トリエスティーノ(Cantiere Navale Triestino))Z.506アイローネ(Airone:アオサギ)水上機は、登場した1936年から1938年にかけて,次のような国際記録を更新し。イタリア航空技術の優秀性を世界に示している。
平均速力308.25 km/h (191.539 mph)で航続距離 5000 km (3,107 miles)以上を飛行
平均速力 319.78 km/h (198.7 mph) で、航続距離 2000 km (1,243 miles)以上を飛行
平均速力322.06 km/h (200.118 mph) で、航続距離 1000 km (621 miles)以上を飛行
航続距離 5383.6 km (3,345.225 miles)を周回ルート(風速や気流による影響を相殺するという意味で)で飛行
ペイロード 2000 kg (4,409 lb) を搭載して、高度7810 m (25,623 ft)に上昇
ペイロード 5000 kg (11,023 lb)を搭載して、高度 6917 m (22,693 ft)に上昇

イタリア王国空軍カント(CANT)Z.506水上機(登録コード:I-ALAL)は、第二次世界大戦が勃発すると、イタリア領北アフリカ・リビア植民地北東岸にある要衝ベンガジ(Benghazi)基地の第614a中隊に、登録コード I-DAIM, I-DUCO, I-DODOの3機のカント(CANT)Z.506とともに配備され、海上救難の任務にあたった。

写真(右)1941-1943年7月以前,イタリア、水上機基地のクレーンで釣り上げられた国際赤十字マークを付けた白色塗装のイタリア王室空軍カント(CANT)Z.506 C アイローネ(Airone:アオサギ)水上救難機:下の写真はトリミングしたことで、飛行機に集中することはできるが、戦時の情報を削減してしまっている。
CANT (C.R.D.A.) Z 506 Manufacturer: CANT (C.R.D.A.) Designation: Z 506;
写真は Wikimedia Commons, Category: CANT Z.506 Airone File:Cant Z.506C.png引用。


カント(CANT:Cantieri Aeronautici e Navali Triestini)Z.506アイローネ(Airone:アオサギ)水上機は、イタリア空軍で水上偵察機、水上雷撃機として就役し、1936年に勃発していたスペイン内戦にも派遣された。しかし、第二次世界大戦が1939年に勃発すると、戦時における救難任務も重視され、カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機が、海上救難飛行隊に配備された。これは、試作機や民間機だった機体を含め、イタリア北部ラ・スペツィア郊外スタグノニ(Stagnoni)基地の第612a中隊に登録コードI-BUIE, I-CANT (Z.506試作機), I-DAMB, I-GORO, I-POLAの5機, イタリア領北アフリカ・リビア植民地北東岸ベンガジ(Benghazi)基地の第614a中隊に登録コードI-ALAL, I-DAIM, I-DUCO, I-DODOの4機は配備された。

また、その他のカント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)救難水上機は、北イタリアのトスカナ地方ルッカ西トッレ・デル・ラーゴ・プッチーニ(Torre del Lago in Tuscany)基地に2機、エーゲ海レロス(Leros)島基地(のちにトルコ南西岸ロードス(Rhodes)島)に2機が配備された。

イタリアのカント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機は、Z.506 B軍用仕様が試作機2機と量産型314機が、Z.506 C民間輸送機仕様40機が生産されている。

カント(CANT)Z.506 B アイローネ(Airone:アオサギ)水上機のコックピットは、胴体上面にあるが、双発機の胴体は太いので操縦席は胴体左側によっている。正面ガラス風防の左側、最前列に正操縦席があり、その後ろが副操縦席である。正副操縦席は、胴体の左側によっているが、複式操縦装置があり、操縦桿は、前後の正副操縦士席る。そして、計器盤も正副操縦席はほぼ同様である。

⇒写真集Album:カント(CANT)Z.506 B アイローネ(Airone)爆撃機を見る。


5.サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-79三発爆撃機

サヴォイア・マルケッティSM79 サボイア・マルケッティSM-79(Savoia Marchetti SM.79)三発爆撃機の諸元
初飛行:1934年9月28日
乗員Crew: 6名
全長Length: 16.2 m
全幅Wingspan: 20.2 m
全高Height: 4.1 m
主翼面積Wing area: 61.7 m2
空虚重量Empty weight: 7,700 kg (16,976 lb)
総重量Gross weight: 10,050 kg (22,156 lb)
発動機Powerplant: 空冷星形9気筒アルファロメオ(Alfa)128 R.C.18 エンジン 860馬力(642 kW)
最高速力Maximum speed: 460 km/h (290 mph, 250 kn)/高度3,790 m (12,430 ft)
航続距離Range: 2,600 km (1,600 mi, 1,400 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,500 m (24,600 ft)

サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM-79の兵装Armament
防御用火器Guns: 12.7 ミリ (0.5 in) ブレダ(Breda-SAFAT)前方固定機関銃1丁(コックピット上部)
12.7ミリ(0.5 in)ブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃2丁(後上方・後下方)
7.7 ミリ (0.303 in)機関銃2丁(胴体左右側方)
爆弾Bombs: 爆弾倉 1,200 kg (2,645 lb)
あるいは胴体下面: 45センチ航空魚雷1-2本

生産期間:1936-1943年
総生産機数: 1218機

⇒写真集Album:サボイアマルケッティSM.79爆撃機を見る。


6.サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84快速爆撃機

写真(右)1941-1942年頃、イタリア、イタリア空軍サヴォア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84三発爆撃機の機首:ミラノ航空展覧会に出品した機体のように、機首に斬新なデザインの「SM.84」のロゴを描いている。1940年6月に初飛行し、1940年から1943年まで300機が生産された。
Description Italiano: Savoia-Marchetti SM.84 vista anteriore Date before 1950 Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Savoia-Marchetti SM.84 File:Savoia-Marchetti SM.84 02.jpg引用。


サヴォア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84三発爆撃機はSM.79の後継機として開発された。両者の違いは、
1)SM.79のアルファ・ロメオ126 R.C.34空冷星形9気筒エンジン750hpからSM.84のピアッジョ P10 RC40 空冷14気筒エンジン1000 hpへの換装による出力強化
2)SM.79のコックピット後上方のバルジ銃座から、SM.84の12.7mmスコッチ(Scotti)/イソッタ・フラスキーニ(Isotta Fraschini)機関銃1丁装備の回転銃塔(ターレット)「デルタ」への防御兵装の強化
3)SM.79の爆弾筒からSM.84の爆弾懸架への爆弾搭載方法の変更
4)SM.79の単尾翼から、SM.84の双尾翼に変更
が大きな変更点である。


⇒写真集Album:サボイアマルケッティSM.84快速爆撃機を見る。


7.イタリア空軍ユンカースJu-87急降下爆撃機

写真(右)1940-1941年頃,北アフリカ戦線に投入されたイタリア空軍ユンカースJu-87急降下爆撃機B型Picchiatello:ドイツ軍から貸与された機体。イタリア空軍は、単発の急降下爆撃機を持っていなかったために、ドイツ軍から貸与されたJu87急降下爆撃を配備した。垂直尾翼の白十字がイタリアの国籍マークである。
Junkers Ju 87 PictionID: 44219789 - Title: Junkers Ju 87 - Catalog: 16_005403 - Filename: 16_005403.TIF- - Image from the Ray Wagner Collection.
Bestanddeelnummer 28036_019
写真は,SDASM Archives,Catalog:16_005403 引用。


ドイツ空軍ユンカースJu-87B-2 ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-87は、1940年の西方戦役やイギリス本土航空決戦に使用されたが、低速で弱武装のために多大な損害を受けたため、西部戦線からは撤収して、北アフリカ戦線、地中海戦線、東部戦線にまわされた。東部戦線においては地上支援や対地攻撃に使用されたが、地中海方面では、イギリス海軍空母「イラストリアス」を爆撃し大破させるなど対艦船攻撃にも威力を発揮した。しかし、さすがに1944年になると、連合国軍戦闘機の高速化から、昼間攻撃への投入は不可能となり、夜間地上攻撃やグライダー曳航に使用された。

ドイツ空軍のユンカースJu 87急降下爆撃機B-2 trop型は、ユモ(Jumo)211D 1,200PS(883kW、1,184hp)液冷エンジンを搭載した熱帯仕様の機体で、砂塵や乾燥地での装備を備えており、北アフリカや地中海で活動するイタリア空軍にも貸与された。ドイツ空軍からイタリア空軍が受領したユンカースJu-87B-2急降下爆撃機は、イタリアではPicchiatello「急降下」と名づられたが、Picchiatelloには「へそ曲がり」「とび上がり者」などの俗語もあった。

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju-87急降下爆撃機を見る。


8.カプローニCa.135爆撃機

写真(右)1936年10月31日,イタリア、ミラノ、カプローニの新型爆撃機カプローニ(Caproni)Ca 135爆撃機を視察し、操縦席におさまったイタリア統領ファシスト党ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini):イソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp)を装備しているので、エンジンナセルは空冷星形エンジンとは異なって細長い形状を示している。
Milano Mussolini seduto a bordo di un aereo all'interno di un capannone.
Creation Date: 31.10.1936
Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing Country: Italy First Published In Europeana: 2020-11-22
Dataset: 08602_EFG_Instituto_Luce_Cinecitta References: 97010391 (Foto-nummer)
写真は, European Union Europeana Identifier: AttualitaAttualitaIL0010034304-man0引用。


カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機が搭載した発動機イソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立V型12気筒空冷エンジンは、離昇出力596 kW (799 hp)で気筒ボア146 mm、ストローク 160 mm、排気量32.65 L、全長 2,128 mm、全幅834 mm、全高 1,106 mm、乾燥重量 594 kg である。空冷倒立エンジンなので、エンジンナセルは空冷星形エンジンの樽型とは異なって細長い箱形で、正面面積が小さく空気抵抗が少ない。一見すると液令エンジンのように見える。

⇒写真集Album:カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機を見る。


9.カプローニCa.311軽爆撃機


図(上)1940年6月以降,イタリア空軍カプロニ(Canproni)Ca.311偵察爆撃機(段有り機首ガラス風防)胴体の7.7mmブレダ(Breda)-SAFAT空冷機関銃座
(16099番);機首下面に前方固定7.7ミリ機関銃、コックピット後上方に回転銃塔、胴体下面後下方銃座の3か所がある。 図は, AEROPLANI CAPRONI, MILANO Aeroplano CAPRONI 311 -V Serie 2 MOTORI P.VII C.35 MINISTERO DELL'AERONAUTICA [航空省] MILANO 1941引用。

⇒写真集Album:カプローニ Ca310軽爆撃機を見る。

⇒写真集Album:カプローニ(Caproni) Ca.311偵察爆撃機 を見る。

イタリア爆撃機カプローニCA 311 カプローニ(Caproni)CA 311軽爆撃機
乗員 3名
全長 11,74 m
全幅 16,20 m
全高 3,69 m
主翼面積  38,40 m²
発動機 (343 kW)2基
自量 3460 kg
総重量 4822 kg
最高速力 347 km/h
実用上昇限度 7400 m
航続距離 1600 km
兵装 7.7ミリ機関銃3丁
爆弾搭載量 400 kg


10.カント(CANT) Z.501(Gabbiano)飛行艇

写真(右)1940年頃,イタリア、飛行するイタリア空軍第148飛行中隊所属カント(CANT) Z.501ガッビアーノ(Gabbiano)飛行艇(148-2):銃座は、機首上面、胴体後方上面、イゾッタ・フラスキーニ・アッソ XI RC2C.15 液冷V型12気筒エンジンのナセル後方上面の3か所に銃座が設けられている。コックピットのガラス風防も大型化されている。
CANT (C.R.D.A.) Z 501 Manufacturer: CANT (C.R.D.A.) Designation: Z 501
写真は,SDASM Archives Catalog #: 00076599引用。


カントのフィリッポ・ザパタ(Filippo Zappata)技師は、1934年に小型飛行艇Z.501を重量軽減のために、木製羽布張りの構造として設計した。海上で滑走中に主翼に波浪の影響がないようにパラソル翼とし、その主翼の中央上面にイゾッタ・フラスキーニ(Isotta Fraschini)アッソ(Asso)XI RC15液令12気筒エンジン 900 hpを搭載した。この発動機は、液令エンジンであるが、冷却器をエンジンの先端に環状に配置した環状冷却器であるために、空冷星形エンジンでと同じような形状となっている。

燃費が良好なカント(CANT) Z.501ガッビアーノ(Gabbiano)は、イタリア軍でも、哨戒、偵察、船団護衛、海上救難などの地中海方面のも任務に重宝された。そして、454機も量産されて、木製羽布張りの旧式機ながらイタリアの降伏する1943年7月まで現役で活躍した。

写真(右)1940年9月,イタリア、イタリア空軍カント(CANT) Z.501ガッビアーノ(Gabbiano)飛行艇と搭乗員:機首上面に銃座が設けられ、コックピットのガラス風防も大型化されている。主翼を支える支柱にある懸架には、小型爆弾が搭載されている。3翅プロペラの付いた発動機は、液冷エンジンであるが、エンジン冷却液の冷却器がエンジン回りの環状に配置されているので、空冷星形エンジンのような外観となっている。
Avieri e piloti salgono su un idrovolante Cant Z501 attraccato nell'idrobase di Elmas
Providing institution Instituto Luce - Cinecittà (opens in new window)  Subject Aviazione militare italiana ;
La Guerra nel Mediterraneo ; Aereo Cant Z501 ; Mare Mediterraneo
Time Creation date: 01.09.1940-30.09.1940
Institution: Instituto Luce - Cinecittà
Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy
First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,European Union’s Connecting Europe Facility Europiana Identifier: GuerraGuerraIL0001003783-man0 引用。


カント(CANT) Z.501ガッビアーノ(Gabbiano)飛行艇の諸元
全長:14.27 m
全幅:22.49 m
全高:4.43 m
全備重量:5,937 kg
発動機:イゾッタ・フラスキーニ(Isotta Fraschini)アッソ(Asso)XI RC15液令12気筒エンジン 900 hp
最高速力:275 km/h
航続距離:2,397 km
武装 7.7mmブレダ機関銃3丁
爆弾搭載量: 640 kg
搭乗員 5名

1934年に初飛行したカント(CANT) Z.501ガッビアーノ(Gabbiano)は、単発の飛行艇のために燃料消費が少なくて済む利点があり、1号機は1934年5月、モンファルコーネ〜エリトリア間の4,130キロを26時間35分で飛行し、長距離飛行国際記録を樹立した。

カント(CANT) Z.501ガッビアーノ飛行艇の発動機は、液冷エンジンを搭載しているが、エンジン冷却液の冷却器がエンジン回りの環状に配置されているので、空冷星形エンジンのような外観となっている。ただし、排気管の並び方が、星形と異なっているので区別できる。

⇒写真集Album:カント(CANT) Z.501 Gabbiano飛行艇を見る。


11.マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機

写真(右)2005年、イタリア共和国中部、ラツィオ州(Lazio)ローマ県ブラッチャーノ(Bracciano)、軍事空軍歴史博物館(Museo Storico dell’Aeronautica Militare)に保管されているイタリア空軍マッキ(Macchi)MC.200サエッタ(Saetta:電光)戦闘機(右上方より撮影):ファシスト独裁イタリア王国空軍の国籍マークは、機体側面のファッシ(束ねた武器)と垂直尾翼の白十字とサボイア王家の紋章だった。
​Costruito in numerosi esemplari nel corso di tutta la seconda guerra mondiale, il Macchi MC.200 si rivelò una macchina dalle caratteristiche alquanto scadenti e dal pilotaggio complesso, talvolta rischioso, a causa di alcuni difetti nella progettazione dell’ala. Tali problemi furono risolti solo dopo l’introduzione di una nuova ala, che venne adottata anche dai successivi caccia Macchi MC.202 e MC.205, grazie alla quale questo caccia fu in grado di fornire prestazioni competitive e contribuire allo svolgimento delle operazioni in Africa e in Russia. Dotato di armamento leggero (due sole mitragliatrici da 12.7 mm) il MC.200 trovò impiego su tutti i fronti di guerra. Dopo la guerra i velivoli superstiti svolsero ruoli di addestramento sino al 1947.写真は,MINISTERO DELLA DIFENSA HANGAR BADONI> MACCHI MC-200引用。


イタリア空軍マッキ(Macchi)MC200サエッタ(Saetta)戦闘機の試作機は、第二次大戦勃発2年前の1937年12月24日に初飛行し、1939年8月より部隊配備された運動性のいい軽戦闘機である。

ファシスト党独裁時代のイタリア王国空軍の国籍記章は、機体側面のファッシ(束ねた武器)と垂直尾翼の白十字とサボイア王家の紋章だった。しかし、統領ムッソリーニ罷免後のバドリオ政権は連合国に降伏し、その後、ドイツに宣戦布告した。この時のイタリア王国空軍の国籍マークは、イタリア三色旗トルコローレの緑白赤の同心円である。

⇒写真集Album:マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機を見る。


12.マッキ(Macchi)MC.202"Folgore"戦闘機

マッキMC202Folgore マッキ(Macchi)MC-202フォルゴーレ"Folgore"戦闘機Macchi MC-202)の諸元
乗員:1名
生産数:1 150機
全長:8.85 m
全幅:10.58 m
全高:3.49 m
翼面積:16.82 m²
重量 空虚重量:2,491 kg
最大離陸重量:2,930 kg
発動機 アルファロメオ(Alfa Romeo)RA.1000 R.C.41-I Monsone液冷V-12気筒エンジン1,175 hp
最高速力:595 km/h / 5600 m
航続距離:765 km
実用上昇限度:11,500 m
12.7ミリBreda-SAFAT 機関銃2丁(各360発)、7.7ミリBreda-SAFAT 機関銃2丁(各500発)
160kg爆弾 ×2

⇒写真集Album:マッキ(Macchi)MC.202フォルゴーレ戦闘機を見る。


13.イタリア空軍大臣/リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥

写真(右)1937年3月13日、イタリア領植民地リビア、イタリア・統領ベニート・ムッソリーニとリビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥が現地リビアの植民地住民たちに歓迎されている。 Creation Date: 13.03.1937 Location: Italy Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya:
Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience Identifier: Attualita Attualita IL 0010033048-man0引用。


イータロ・バルボ(Italo Balbo:1896-1940年6月28日)は、ムッソリーニ率いるファシスト党の代表ファシスト四天王の一人で「黒シャツ隊」の指導者だった。ファシスト・イタリア政権では、ムッソリーニの盟友として、1928年8月に陸海軍から独立したイタリア空軍の大将になり、1929年9月に空軍大臣に就任した。

写真(右)1937年3月13日、イタリア領植民地リビア、イタリア・統領ベニート・ムッソリーニとリビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥が現地リビアの植民地住民たちに歓迎されている。
Cirenaica Mussolini e Italo Balbo si soffermano lungo una via davanti a un gruppo di madri con bambini in costumi tradizionali
Creation Date: 13.03.1937 Location: Italy Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya:
Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy
First published in Europeana: 2020-11-22 .
写真は,Europeana experience  Identifier: Attualita Attualita IL 0010033081-man0引用。


イタリア空軍大臣イータロ・バルボ(Italo Balbo、1896-1940年6月28日)自身は、飛行家アビエイターであり、1930年、自らサボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.55双発飛行艇12機を率いて大西洋を越えてブラジルのリオデジャネイロまでの大西洋巡回飛行をした。

また、1933年7月にはアイスランド経由でカナダのモントリオール、アメリカのニューヨークまでの飛行に成功し、アメリカ大統領ルーズベルト(Franklin Roosevelt)からもホワイト・ハウスに招待されていいる。彼は、イタリアの名声をアメリカ大陸全土に響かせ、1933年6月26日号“Time”の表紙を肖像で飾った。

写真(右)1937年3月13日、イタリア領植民地リビア、トリポリ、イタリア・統領ベニート・ムッソリーニとイタリア・リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥がイスラム戦士シッド・ラファ(SidiRafa)の墓の前で説明する現地案内の話に耳を傾ける。
Cirenaica Mussolini, Italo Balbo e folto gruppo di personalità politiche e militari ascoltano il cadì di Apollonia che tiene un discorso davanti alla tomba del mugiàhid Sidi Rafa a Beda Littoria
Creation Date: 13.03.1937 Location: Italy Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya:
Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22.
写真は,Europeana experience  Identifier: Attualita Attualita IL 0010033075-man0引用。


写真(右)1938年11月7日、イタリア領植民地リビア、イスラム教徒の植民者を視察するイタリア・リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍大将:ジャーナリストのグループがバルボに同行し、植民地の平和で活気ある様子を喧伝した。
Libia Libia Il governatore della Libia Italo Balbo consegna un oggetto a un colono italiano in partenza per il villaggio rurale Crispi
Creation Date: 07.11.1938 Foto Attualità / I 20.000 Coloni in Libia - Il governatore della Libia Italo Balbo e un gruppo di giornalisti visitano i villaggi musulmani in costruzione nei pressi di Derna, fra cui El-Glaa; campo di coloni (Barce); lo sbarco di 8000 rurali a Bengasi; la colonna degli autocarri in viaggio; casa del villaggio D'Annunzio; vita colonica Balbo ripreso accanto a un autocarro del regio esercito segnato "Crispi 10" porge sorridente un oggetto a un colono che si sporge dall'automezzo. Gruppo di personalità e giornalisti accompagna Balbo. Location: Italy Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya:
Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22 .
写真は,Archivio Storico Istituto Luce e codice foto: A00087033引用。


イタリア植民地リビアには、2万人の入植者があった。リビア総督イターロバルボが、ジャーナリストのグループを引き連れて、エルグラなどデルナ近郊で建設中のイスラム教徒の村を訪問した。入植者キャンプ(バルス)に向かうベンガジに8000人の農村の人々が上陸した。ここからトラックに乗せられて入植地に向かう。愛国詩人に因んだ「ダヌンツィオ村」を建設する入植者は、「クリスピ(Crispi)10」と記されたイタリア王立軍のトラックに乗っていて、バルボ総督に、車から身を乗り出して贈り物を受け取っている。

写真(右)1938年8月9日、ドイツ、ドイツ飛行クラブで、イタリア空軍大臣イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥が出迎えたクラブメンバーと話をし、脇にドイツ航空省次官エアハルト・アルフレート・ミルヒ(Erhard Alfred Milch:1892-1972)大将(右)が控えている。:ゲーリングは、手にした元帥杖を振って歓迎に答えている。
Marschall Balbo als Gast des Aeroc-Clubs von Deutschland
Marschall Balbo (Mitte) im Gespräch mit General Milch (rechts) und dem italienischen Botschafter Attolico.
Creation Date: 1938-08-09 Institution: Österreichische Nationalbibliothek - Austrian National Library .
Providing country: Austria First published in Europeana: 2016-11-08 Last updated in Europeana: 2016-11-08 写真は,Europeana experience  Österreichische Nationalbibliothek 引用。


イタリア空軍サボイアS55 1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻、9月3日のイギリス・フランスのドイツへの宣戦布告によって、第二次世界大戦が勃発すると、リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo、1896-1940年6月28日)は、イギリスとフランスとの戦争に躊躇しなかったと同時に、ヒトラー・ドイツのイタリアを無視した外交・戦争に対して嫌悪感を示した。

これは外務大臣ガレアッツォ・チアーノと共通していたが、北アフリカ、エジプトの防備手薄なイギリス軍を攻撃しなかったことは、イギリスにとって僥倖だった。

写真(右)1939年4月11日、イタリア領植民地リビア、トリポリ、オープンカーの後席に乗ったイタリア・リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥とドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥:ゲーリングは、手にした元帥杖を振って歓迎に答えている。
Göring und in Tripolis
Creation date: 1939-04-11
Institution: Österreichische Nationalbibliothek - Austrian National Library .
Providing country: Austria First published in Europeana: 2016-11-08 Last updated in Europeana: 2016-11-08 写真は,Europeana experience  Österreichische Nationalbibliothek 引用。


イタリア空軍サボイアS55 イタリアのアフリカ植民地をエチオピアにまで拡張し帝国化したファシスト党ムッソリーニを信頼して、軍事大権、いわゆる統帥権を認めた。こうして、独裁者となったムッソリーニは、この時期、ドイツの対フランス勝利、ドイツ・ソ連の不可侵条約に幻惑され、自ら第二次世界大戦に参戦した。

しかし、イタリアのファシスト党がナチ党よりファシズムを先輩であるにもかかわらず、イタリアよりも優れているような振る舞いをすること、ヒトラーのムッソリーリに対する指導的地位に対して反感を抱いており、ヒトラーとの外交・軍事的関係を緊密化することには反対していた。しかし、義父ムッソリーニの国民的人気を背景にした指導性には服従するしかなく、独伊軍事同盟への交渉を担い、1938年ミュンヘン会談でも活躍している。

写真(右)1940年6月、イタリア領植民地リビア、リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥が飛行服を着て飛行帽子を被ったイタリア空軍搭乗員と話している。:バルボ総督は、リビア駐屯イタリア軍の総司令官でもあった。
Libia Balbo e altri ufficiali a colloquio con dei piloti
Creation Date: 06.1940 Institution: Instituto Luce - Cinecittà.
Provider: EFG - The European Film Gateway Providing Country: Italy First Published In Europeana: 2020-11-22 Location: Italy Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya写真は,Europeana experience  Identifier: GuerraG01-000066引用。


写真(右)1940年6月、イタリア領植民地リビア、トリポリ飛行場(?)、イタリア・リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥エマヌエラ・フロリオ(Emanuela Florio)リビア伯爵夫人がイタリア軍兵士に慰問用の贈答品を配布している。
Libia La contessa Florio distribuisce doni ai soldati
Creation date: 06.1940 Location: Italy Great Socialist People’s Libyan Arab Jamahiriya:
Identifier: GuerraG01-000885 Institution: Instituto Luce - Cinecittà Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22.
写真は,Europeana experience  Identifier: Attualita Attualita IL0010034537 -man0引用。


リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)は、リビアからのエジプト侵攻を優柔不断で回避した。優勢なイタリア軍を準備していたにもかかわらず、手薄なエジプト駐留イギリス軍を攻撃しなかった。この絶好の機会を逃したのは、バルボ将軍の決定的な判断ミスだった。

バルボ将軍は、第二次世界大戦の参戦に際して、ムッソリーニに次ぐ政治・軍事指導者と見なされていたから、ムッソリーニが二人の空軍士官となった息子や娘婿のチャーノ外務大臣を差し置いて、バルボがムッソリーニの後継者として、イタリア統領になることを心良しとしなかったとも考えられる。そこで、バルボ総督搭乗のSM.79爆撃機が、北アフリカ、トリポリ港で友軍艦艇の誤射で撃墜された事件は、ムッソリーニの陰謀であるとの噂がたった。

写真(右)1940年6月、イタリア領植民地リビア、トリポリ飛行場(?)、イタリア・リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo)空軍元帥エマヌエラ・フロリオ(Emanuela Florio)リビア伯爵夫人がイタリア軍兵士に慰問用の贈答品を配布している。
Libia La contessa Florio con un militare e un civile durante la distribuzione dei doni
Creation Date: 06.1940 Location: Great Socialist People’s Libyan Arab JamahiriyaInstitution: Instituto Luce - Cinecittà
Provider: EFG - The European Film Gateway Providing country: Italy First published in Europeana: 2020-11-22
写真は,Europeana experience  Identifier: GuerraG01-000890引用。


1940年6月28日、リビア首都トリポリ(Tobruk)飛行場に着陸しようと低空飛行していたバルボ将軍のサボイア・マルケッティSM.79三発爆撃機は、イギリス空軍ブリストル・ブレンハイム(Bristol Blenheims)の空襲と誤解したイタリア海軍1万トン級旧式装甲巡洋艦「サン・ジョルジョ」(San Giorgio)が対空攻撃を始めた。旧式装甲巡洋艦「サン・ジョルジョ」は、巡洋艦というよりもトリポリ港の在泊防空艦として使用されていたのである。バルボ将軍の同乗したSM.79爆撃機は、味方の誤射で撃墜され、同士討ちでバルボは死亡した。しかし、バルボの家族は、ムッソリーニの指示で暗殺されたとの噂が広まった。

⇒写真集Album:ムッソリーニ(Mussolini)を見る。


14.ムッソリーニの第二次世界大戦敗北

写真(右)1943年9月12日,イタリア中部、アペニン山脈グラン・サッソ(Gran Sasso)、幽閉されていた山荘ホテル「カンポ・インペラトーレ」(Hotel Campo Imperatore)[右奥の建物]から救出された黒コートのベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)とDFS 230 C-1グライダーで飛来して救出作戦に参加したドイツ軍空挺部隊の兵士たち:山荘ホテル「カンポ・インペラトーレ」では、警備のイタリア兵との銃撃戦はなかった。イタリア軍将軍が救出作戦に同行し、イタリア軍警備兵を制したためである。
Gran Sasso, Mussolini
Mussolini, Benito: Ministerpräsident, Regierungschef, Chef des Faschistischen Großrates, Italien
Gran Sasso Date 12 September 1943
Collection German Federal Archives
Current location Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I)
Accession number Bild 183-J22931 Origin: Bundesarchiv
Photographer Kayser, Bruno v. (1920-2006)
写真は,Category:Gran Sasso raid File:Bundesarchiv Bild 183-J22931, Gran Sasso, Mussolini.jpg引用。


1943年5月7日、アメリカ軍がビゼルト、イギリス軍がチュニスに突入したことで、チュニジア戦線の枢軸軍は、5月13日には全面的に降伏した。北アフリカ戦線で降伏して捕虜となった枢軸国軍は 27万人と膨大であり、これは3ヶ月前にソ連スターリングラードの敗戦時の2倍以上の規模だった。

1943年7月24日の西側連合軍のシシリー島上陸「ハスキー作戦」で、枢軸国の勝利の希望が持てなくなった状況で、7月25日開催のファシスト大評議会で、クーデーター的にムッソリーニ首相退任要求の決議が採択された。これを受けて、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は、ムッソリーニを首相から解任、逮捕させた。

Fieselerシュトルヒ 1943年7月25日、ファシスト大評議会で首相解任要求が採択され、イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世によってベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)は首相を解任され、その直後に逮捕された。そして、アペニン山脈山中のホテルに幽閉された。

1943年9月12日,幽閉中のベニート・ムッソリーニBenito Mussolini)を救出するために、1943年9月12日,グランサッソ奇襲ムッソリーニ救出作戦にフィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウノトリ)連絡機が派遣された。

グラン・サッソ山荘王ホテル「カンポ・インペラトーレ」近くにグライダー降下したドイツ軍将兵は、ベニート・ムッソリーニが幽閉されていた山荘に奇襲をかけ、守備していたイタリア軍の抵抗をほとんど受けることなく、ムッソリーニを解放することができた。そして、無事救出されたムッソリーニは、SS武装親衛隊オットー・スコルツェニーOtto Skorzeny)少佐とドイツ空軍フィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」連絡機(登録コード:SJ+LL)に同乗して、山腹から離陸した。

フィーゼラーFi156 フィーゼラー(Fieseler)Fi-156C-3シュトルヒ連絡機の諸元
初飛行 1936年5月10日
就役 1937年
生産期間:1936-1945年3月末
ドイツ軍向け生産機数:2867機
1965年までフランス製MS 500が生産された。
乗員:1名
搭載人員:3名
全長 9.9m
全幅 14.3m
全高 3.1m
主翼面積 26平方メートル
空虚重量 860kg
総重量 1,260kg
最大離陸重量 1,330kg
発動機:アルグス As 10空冷倒立エンジン240HP (180kW)

⇒写真集Album:フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡 を詳しく見る。

フィーゼラー(Fieseler)Fi-156C-3シュトルヒ連絡機の性能
最高速力 175km/h
航続距離 380km
上昇限度 5,200m
上昇率 290m/分
翼面荷重 48.5kg/m2
兵装:7.92ミリMG 15旋回機関銃1丁

⇒写真集Album:グランサッソからのムッソリーニ救出作戦を見る。

⇒写真集Album:ムッソリーニの処刑(Mussolini Execution)を見る。


15.フィンランド空軍のユンカース(Junkers)Ju88爆撃機A-4

写真(右)1944年4月1日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場、フィンランド空軍第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )ユンカースJu88爆撃機A-4型 (JK-267);エンジン故障か、燃料の節約の為か、エンジンを始動せずに、トラクターで牽引されて移動する爆撃機。
Traktori vetää JK-konetta kiitoradalle. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Traktori vetää JK-konetta kiitoradalle. Junkers Ju 88 A-4 Luonetjärven kentällä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-04-01 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja.
写真はMuseot Finne・sa-kuva-123244引用。


フィンランド空軍ユンカースJu88爆撃機A-4型(フィンランド軍登録コード:JK-267、製造番号WerkNr. 3888、ドイツ軍登録コード DJ+TH)は、1943年4月11日に、ドイツ軍からフィンランド軍に譲渡された。機体の塗装は、ドイツ軍仕様だったので、ドイツの白の鉄十字国籍マークも薄く残っている。1942年5月3日設立の第44飛行中隊(LeLv. 44)に配属されたが、1944年7月29日、離陸に際して事故で損傷した。第44飛行戦隊[中隊:Squadron](LeLv. 44)は、1944年2月14日に、第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )と名称を変更した。

フィンランド空軍第44爆撃中隊(LeLv. 44)のユンカースJu88爆撃機A-14型(フィンランド軍登録コードJK-256)は、元はA-4型でゴンドラに樹幹中を装備したA-14型に改修された。1943年4月30日にドイツ軍のJu88A4/A14爆撃機(ドイツ軍登録コードGL+QM)が、フィンランド軍に譲渡され、登録コード JK-256を与えられた。

1941年7月から1944年7月まで、フィンランドは、継承戦争Continuation War)と称して、1939年の冬戦争に敗北して失ったカレリア地方を奪還しようとソ連赤軍と戦っていた。フィンランドは、アメリカ、イギリスとは戦うつもりがなかったが、ドイツ軍を一手に支えているソ連赤軍をドイツと同盟して攻撃した以上、西側連合国もフィンランドの対ソ戦は戦うが、対米英は中立だという詭弁を受け入れなかった。結局、フィンランドは、対ソ戦勝利が不可能である以上、大きな損害を蒙らないうちに、継承戦争Continuation War)を打ち切って、ソ連と講和するしかなたった

このフィンランドの裏切り・転向を決断し、実行したのは1944年8月4日、フィンランド大統領に就任したフィンランド軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥である。元帥は、1944年9月19日にモスクワ休戦協定を結んで講和した。

写真(右)1944年4月1日、フィンランド、ヘルシンキ・マルミ飛行場を発進するフィンランド空軍第44爆撃中隊(PLe.Lv.44 )所属のユンカースJu88爆撃機A-4型(フィンランド軍登録コード:JK-267、製造番号WerkNr. 3888、ドイツ軍登録コード DJ+TH )胴体後方側面には、鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)が描かれているが、これは白丸に青の鍵十字を描いたフィンランド軍の国籍識別マークで、1917年のロシア革命に追随する赤軍に対抗する白軍以来のシンボルである。フィンランドの内戦では、反共産主義の赤軍に反対する、白軍が自由のシンボルとして、カギ十字(卍)を採用した。白軍を支援したスウェーデン人エリック・フォン・ローゼン伯爵が鈎十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を譲渡した飛行機に描いたこともある。フィンランド軍は、1918年に採用したカギ十字「ハカリスティ」(Hakaristi)を、1944年の対ソ講和の時に廃止した。
Jk-kone ennen lähtöä. Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja Jk-kone ennen lähtöä. Junkers Ju 88 A-4 Luonetjärven kentällä. Aineistotyyppi: ?Valokuva Kuvaustiedot: 1944-04-01 Sot.virk. Niilo Helander, valokuvaaja .
写真はMuseot Finne・sa-kuva-123245引用。


このフィンランドの裏切り・転向を決断し、実行したのは1944年8月4日、フィンランド大統領に就任したフィンランド軍総司令官カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥である。1944年7月に、フィンランドはソ連と休戦交渉していたが、新大統領カール・グスタフ・マンネルヘイムCarl Gustaf Mannerheim)元帥は、それを進めて、1944年9月19日にモスクワ休戦協定を結んで講和した。これは、事実上、体面を保った降伏だったが、講和条件の一つが、ドイツ軍の排除であり、フィンランドは連合軍の一員として、ドイツと戦うことになった。このJu88爆撃機JK256は、1944年10月10日、ドイツ軍戦闘機によって撃墜された。

フィンランド派遣ドイツ空軍ユンカースJu88A爆撃機見る。



ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇 レジアーネ Re2002
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カント(CANT)Z.501飛行艇
カント(CANT)Z.506水上機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.212輸送機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.82輸送機
ピアジオP.108重爆撃機
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑

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