◆カプローニ(Caproni) Ca.135bis爆撃機
写真(上)1940-1943年頃,イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機;1935年4月1日初飛行、1937年より部隊配備、最高速力 440 km/h、12.7ミリBreda-SAFAT機関銃3-4丁、爆弾搭載量1.6トン、航続距離1200-2000km、生産機数1941年までに140機。双尾翼式でドコックピット後上方に銃座が設けられている。
Caproni, Ca.135, Bomber
Manufacturer: Caproni
Designation: Ca.135
Official Nickname: Bomber
Notes: Italy
Title: Caproni, Ca.135, Bomber
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 01_00090422引用。
図(右)カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis (ピアジオP.XI RC.40空冷エンジン搭載)の水平尾翼のエルロンと垂直尾翼の方向舵:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。
写真は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。 ◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
1.第二次世界大戦前のイタリア、ミラノ・航空展示会
写真(右)1935年10月,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたカント(CANT) Z.501ガッビアーノ(Gabbiano)飛行艇:側方より撮影。 Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/10/1935 - 28/10/1935
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 13 x 18
Note: Veduta della sezione italiana con, in primo piano, l'aereo idrovolante da ricognizione Cant Z-501 Gabbiano dei Cantieri Riuniti dell'Adriatico. In secondo piano la sezione tedesca
写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1935_SA_91引用。
カントのフィリッポ・ザパタ(Filippo Zappata)技師は、1934年に小型飛行艇Z.501を重量軽減のために、木製羽布張りの構造として設計した。海上で滑走中に主翼に波浪の影響がないようにパラソル翼とし、その主翼の中央上面にイゾッタ・フラスキーニ(Isotta Fraschini)アッソ(Asso)XI RC15液令12気筒エンジン 900 hpを搭載した。この発動機は、液令エンジンであるが、冷却器をエンジンの先端に環状に配置した環状冷却器であるために、空冷星形エンジンでと同じような形状となっている。
カント(CANT)とは、カンティエーリ・リウニーティ・デッラドリアーティコ(Cantieri Aeronautici e Navali Triestini:CANT)の略称である。
写真(右)1935年10月12-28日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションを見学し、空軍参謀総長ジュゼッペヴァッレ(Giuseppe Valle)からイタリア空軍サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.81三発爆撃機/雷撃機の説明を受けている長身のイタリア王家アオスタ公アメデーオ・ディ・サヴォイア (Amedeo di Savoia-Aosta):SM.81の胴体下面に2本の航空用魚雷を搭載し、その機首下面には、爆撃手席があって、爆撃照準器が装着されている。ただし、雷撃には爆撃照準器は使用しない。 Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1935 - Visita del duca d'Aosta Amedeo di Savoia in occasione dell'inaugurazione
Stabilimento Fotografico Crimella Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/10/1935 - 28/10/1935
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24
Note: Il duca d'Aosta Amedeo di Savoia è accompagnato dal capo di stato maggiore dell'Aeronautica Giuseppe Valle
; 写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1935_SA_25
引用。
イタリア空軍サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.81は、1934年2月8日初飛行で、1935年から爆撃機/雷撃機として部隊配備された。生産は534機と、1930年代中頃の大型機としては、かなり量産されている。しかし、固定脚の低速機であり、第二次大戦には、低速で旧式化していたため、輸送機として使用された。
イタリア王家アオスタ公アメデーオ・ディ・サヴォイア (Amedeo di Savoia-Aosta:1898-1942)は、イタリアの第一次世界大戦参戦に際して、16歳の若さで入隊志願し、士官として活躍した。ムッソリーニのファシスト政権でも、エチオピア侵略のアビシニア戦争で活躍した。そして、1940年6月、イタリアの第二次世界大戦参戦に際して、イタリア領東アフリカ帝国の副王として活躍したが、1941年にイギリス軍によってアビシニアのイタリア軍は敗北し、東アフリカ帝国は解体された。アオスタ公は、イギリス軍の捕虜となったが、1942年、病死した。
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションを見学し、説明を受けているイタリア国王王太子ウンベルト2世(Piemonte Umberto II)(中央高身長)と後方の、カント(CANT:Cantieri Aeronautici e Navali Triestini)Z.506アイローネ(Airone:アオサギ)水上機:1935年8月19日初飛行のカントZ.506は、国民へのイタリア航空機の優秀さの誇示、諸外国への輸出という目的で展示された。 Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Visita del principe di Piemonte Umberto II di Savoia
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 13 x 18 Note: Il principe di Piemonte Umberto II di Savoia è accompagnato dal presidente della Fiera Piero Puricelli, dal generale Felice Porro e da altre personalità 写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_26
引用。
カント(CANT)Z.506水上機は、フィリッポ・ザパタ(Filippo Zappata)技師の設計になり、1935年8月19日に初飛行した三発機である。1937年10月2-17日に北イタリア、ミラノで開催された航空展示会に出品された。カント(CANT)Z.506の生産機数は、試作2機、量産機314機と1930年代の大型水上機にしては多数生産されている。
カント(CANT:Cantiere Navale Triestino)Z.506水上機は、1935年8月19日の初飛行で、全長:19.25m、全幅:26.50m、全高:7.40m、総重量:12.3t、
アルファロメオ AR126RC34 空冷9気筒エンジン(750hp)3基搭載、最高速力 365km/h(高度3000m)、航続距離 2745km、乗員:4名。
生産機数:試作2機、量産機314機
⇒写真集Album:カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone:アオサギ)水上機を見る。
イタリア空軍IMAM Ro.41 複葉戦闘機は、ピアッジオ(Piaggio Stella)P.VII R.C.35空冷星形7気筒エンジン335 kW (449 hp)搭載、最高速力 320 km/h (200 mph, 170 kn) / 4,000 m、航続距離 320 km (200 mi, 170 nmi)で、1934年6月初飛行、1935年から743機生産。
第二次世界大戦開戦前のイタリア空軍主力戦闘機だった。
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機(右奥の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機(中央上)、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送(左奥):右端には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)の左翼。 Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24 写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,P_1937_SA_297引用。
毎年恒例のイタリア、ミラノ・航空展示会が、1935年10月12-28日,開催された。そのフィアット社セクションには、ジュゼッペ・ガブリエッリ(Giuseppe Gabrielli)技師の設計で1935年3月18日に初飛行したばかりの新鋭機フィアット(Fiat)G. 18 輸送機試作機が展示された。その胴体下面に置かれた新鋭機の展示説明看板には、G.18の諸元が記入されている。
⇒写真集Album:フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送機を見る。
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ(Cicogna:コウノトリ)爆撃機(手前の双尾翼)、フィアットB.50戦闘機(中央上のファシスト国籍記章)、イタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送:中央奥には、ドイツ空軍ユンカースJu-86K爆撃機(D-ADAA)。ユンカースJu-86は、1934年11月4日初飛行.1935年から1939年までに900機が量産された。Ju-86Kは、輸出仕様なので、アメリカ製プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1690ホーネット(Hornet)空冷星形9気筒エンジン740hp(排気量27.7L)2機を装備している。 Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Lavori di allestimento
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 18 x 24 写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_574
引用。
フィアット(Fiat)G. 18の空冷星形9気筒エンジンから18気筒エンジンに強化・換装した発展型が、フィアット(Fiat)G. 18 V輸送機である。G.18Vは、最高速力400 km/h (250 mph)、乗客用18席、航続距離:1,675 km (1,041 マイル)の高性能機で、アメリカのダグラスDC-2輸送機と比較しても遜色のない性能だった。
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクション、サヴォイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM 79輸送機:SM.79輸送機は、発動機の数で三発型と双発型が試作された。最終的には、三発型が採用された。軍用仕様の爆撃機も並行して開発され、制式され、量産された。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand della Società italiana aeroplani idrovolanti "Savoia Marchetti" (SIAI)
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24
Al centro dello stand l'aereo da bombardamento e ricognizione S 79 写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_220引用。
1937年に、スペイン内乱に投入されたサボイア・マルケッティSM-79(Savoia Marchetti SM.79)三発爆撃機は、延べ5000回の出撃を行い、その機体の信頼性、実用性も高さを裏付けた。また、これと同時にレース機としての開発も行われ好成績をあげた。1939年9月に勃発した第二次世界大戦に、イタリアは1940年6月に参戦したが、その時のイタリア空軍サボイア・マルケッティSM-79三発爆撃機配備の爆撃飛行隊11個に及び、爆撃機の主力となっていた。サボイア・マルケッティSM-79三発爆撃機の生産は1936年から1943年までで、合計1218機量産された。
写真(右)1940年4月12-27日,イタリア北部、ミラノ祭(ミラノ・フィエラ)、ファシスト党員から説明を受けるイタリア王国サボイア王家ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア3世(Vittorio Emanuele di Savoia)Giuseppe Bottai)(前列手前中央小柄):ヴィットリオエマヌエーレ3世王は、フィエラ会長ピエロ・プリチェッリの説明を受けながら、パビリオンを見学した。2列目にトリノ公ヴィットリオ・エマヌエーレ・ディ・サボイアも随伴している。 Fiera di Milano - Campionaria 1940 - Visita del Re Vittorio Emanuele III
Bruni Autore: Bruni (notizie prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 12/04/1940 - 27/04/1940
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 10 x 15 Note: Il Re Vittorio Emanuele III, accompagnato dal presidente della Fiera Piero Puricelli e da altre autorità, passa in un viale. Fra le personalità della delegazione reale: il conte di Torino Vittorio Emanuele di Savoia (in seconda fila) 写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1940_10引用。
1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)は,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」(Phoney War)とも称された。
しかし、この1939年にイタリアは、中立国として、第二次世界大戦には加わっておらず、イギリス・フランスからは、ドイツとの仲介役を期待されていた。
2.カプローニ(Caproni) Ca.135爆撃機
写真(右)1936年10月31日,イタリア、ミラノ、カプローニの新型爆撃機カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機を視察し、操縦席におさまったイタリア統領ファシスト党ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini):イソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp)を装備しているので、エンジンナセルは空冷星形エンジンとは異なって細長い形状を示している。
Milano Mussolini seduto a bordo di un aereo all'interno di un capannone.
Creation Date: 31.10.1936
Institution: Instituto Luce - Cinecittà
Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing Country: Italy
First Published In Europeana: 2020-11-22
Dataset: 08602_EFG_Instituto_Luce_Cinecitta
References: 97010391 (Foto-nummer) 写真は, European Union Europeana
Identifier: AttualitaAttualitaIL0010034304-man0引用。
カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機が搭載した発動機イソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立V型12気筒空冷エンジンは、離昇出力596 kW (799 hp)で気筒ボア146 mm、ストローク 160 mm、排気量32.65 L、全長 2,128 mm、全幅834 mm、全高 1,106 mm、乾燥重量 594 kg である。空冷倒立エンジンなので、エンジンナセルは空冷星形エンジンの樽型とは異なって細長い箱形で、正面面積が小さく空気抵抗が少ない。一見すると液令エンジンのように見える。
写真(右)1936年10月31日,イタリア、ミラノ、カプローニの新型爆撃機カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機を視察し、操縦席におさまったイタリア統領ファシスト党ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini):コックピットのガラス風防は開放されてて、コックピット操縦席のムッソリーニがよく見える。手前には、ムッソリーニをカメラで撮影している人物が写り込んでいる。
Milano Mussolini seduto a bordo di un aereo all'interno di un capannone.
Creation Date: 31.10.1936
Institution: Instituto Luce - Cinecittà
Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing Country: Italy
First Published In Europeana: 2020-11-22
Dataset: 08602_EFG_Instituto_Luce_Cinecitta
References: 97010391 (Foto-nummer) 写真は, European Union Europeana Identifier: AttualitaAttualitaIL0010034314-man0引用。
カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機が搭載した発動機イソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立V型12気筒空冷エンジンは、カント(CANT)Z.501飛行艇試作機、カント(CANT)Z.505双発水上輸送機(試作機)、カント(CANT)Z.1007試作機などに搭載されたものの、信頼性に欠けたためか、大量生産された機体に装備されたことはなかった。
写真(右)1936年10月31日,イタリア、ミラノ、カプローニの新型爆撃機カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機を視察し、操縦席におさまったイタリア統領ファシスト党ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini):手前には、ムッソリーニに従うファシスト党員や政府幹部がいるが、飛行機のコックピットにはムッソリーニ一人で登場している。ムッソリーニを喧伝するために、コックピットのガラス風防は開放されている。
Milano Mussolini seduto a bordo di un aereo all'interno di un capannone.
Creation Date: 31.10.1936
Institution: Instituto Luce - Cinecittà
Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing Country: Italy
First Published In Europeana: 2020-11-22
Dataset: 08602_EFG_Instituto_Luce_Cinecitta
References: 97010391 (Foto-nummer) 写真は, European Union Europeana
Identifier: AttualitaAttualitaIL0010034315-man0引用。
イタリア統領ファシスト党ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini)は、第一次大戦に戦勝国となったイタリアが、ふさわしい地位を得ていないと、古代ローマ帝国以来の地中海国の覇権獲得に乗り出し、軍事力強化、国民の戦意高揚に力を入れた。イタリア空軍の育成もその一つである。彼自身は、飛行機の操縦もできる活動家であり、ドイツ語・フランス語・英語も操るインテリである。したがって、ミラノでカプローニ(Caproni)CA 135新型爆撃機を視察したときも、一人でコックピット操縦席に乗り込んでいる。余分な素人の解説などなくても飛行機や航空工学を理解している、ということである。
写真(右)1936年10月31日,イタリア、ミラノ、カプローニの新型爆撃機カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機コックピットの操縦席におさまったイタリア統領ファシスト党ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini):ムッソリーニは、飛行機を操縦することができたので、このような写真は、決して操縦席の記念写真と言い切ることはできない。手前の桁には強度の維持と重量軽減を両立させるために、穴があけられている。
Milano Mussolini (colto dal basso) seduto in un aeroplano in costruzione.
Creation Date: 31.10.1936
Institution: Instituto Luce - Cinecittà
Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing Country: Italy
First Published In Europeana: 2020-11-22
Dataset: 08602_EFG_Instituto_Luce_Cinecitta 写真は, European Union Europeana
Identifier: AttualitaAttualitaIL0010034323-man0引用。
読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) 躍進イタリア展望 (上・中・下)陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三
(上) 青少年訓練は結実 敬虔の宰相ムソリーニ
乞食がうようよする。釣銭を胡麻化す。絵画や彫刻はうまいが、戦争には余り勝ったことはない。…これがイタリア人に対する昔の印象だった。私が最初にイタリアの土地を踏んだのは一九二八年—ムソリーニ施政六・七年の頃だったが、そんな印象は余りうけなかった。そして私は昭和十三年に再びアタッシェとしてイタリアを訪ねたが、上陸最初にうけた印象は「変ったなア」という強い感じだった。丁度エチオピア戦争に勝った直後である。
今では欧洲を旅行するとイタリアの汽車時間が一番正確である。街もローマが最も綺麗である。そして六年前には時折見受けられた街の糞便も今では見られない。一体どうしてこんなにも変ったかといえばムソリーニの青少年教育が漸く結実したからである。ム首相は総理の印綬を帯びた時「イタリアは今から十八年経ったら完成する」といった。それは当時四、五歳の子供を思う通りの青少年訓練で鍛え上げ、これを在郷軍人にするまで丁度十八年かかるところから十八年の期限を切ったのであろう。それから算えると今年が丁度十七年目にあたる。
写真(右)1936年10月31日,イタリア、ミラノ、カプローニの新型爆撃機カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機を視察し、操縦席におさまったイタリア統領ファシスト党ベニート・ムッソリーニ(Benito Mussolini):手前には、ムッソリーニをカメラで撮影している人物が写り込んでいる。
Milano Mussolini seduto a bordo di un aereo all'interno di un capannone.
Creation Date: 31.10.1936
Institution: Instituto Luce - Cinecittà
Provider: EFG - The European Film Gateway
Providing Country: Italy
First Published In Europeana: 2020-11-22
Dataset: 08602_EFG_Instituto_Luce_Cinecitta
References: 97010391 (Foto-nummer) 写真は, European Union Europeana
Identifier: AttualitaAttualitaIL0010034325-man0引用。
国民性はそう急に改造出来るものではないという人もあるが、実際に変っているのだから仕方がない。
われわれアタッシェの家が狭いので新らしく海軍武官の事務所を移したことがあった。さて移転となったが一日ではとても移りそうにない。しかし兎に角運べるだけ運べということで労働省を頼んだ。すると四十五、六歳それに二十二、三歳から十八、九歳の労働者が十三人ばかり来て移転をやった。ところが年を取った奴は、これは一日ではいかんというてちっとも働かない。働かないどころか、いい所にまわって葡萄酒を発見、大きなコップでグイグイ飲んでいる。十八、九歳から二十二、三歳の者は一言もいわず黙々と働いている。六月であったが練習艦隊が来るまでに移らねばならない。この無理な仕事も一日で片づいた。この日にはムソリーニのいわゆる青少年教育が如何に徹底しているかに舌を巻かされたのである。
ムソリーニはもともと鍛冶屋の息子だから、王様なんかテンデ問題にしないだろうということをいう者があるが、これは全く反対である。「青少年精神訓練の基礎」のなかにあるように、サヴォイア王家のためにイタリアを統一するのだということを明らかに記してある。 読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) 躍進イタリア展望 (上・中・下)陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)1937年,イタリア、舗装滑走路に駐機している完成したばかりのカプローニ(Caproni)CA 135爆撃機ペルー輸出型(Ca.135 Tipo Peru): Italiano: Aeroplano CAPRONI 135 - da bombardamento - 2 MOTORI I.F. ASSO XI Rc
Date 1937 Source Collezione Albertomos
Author Unknown author 写真はWikimedia Commons, Category:Caproni Ca.135
File:A debreceni 3-6. - Fortepan 19502.jpg引用。
第一回エチオピア占領記念日の観兵式に参列した時だった。いよいよ始まったが前にいる西洋人が大きくてどうしても見えない。私は椅子の上に上って観ていると王様が来られる、するとムソリーニはつかつかと降りて行って、王様の自動車の扉を開ける。それから私は、あの大きな杉村大使を椅子の上に押しあげて、これを見せてやったのだが、ムソリーニが王様に敬礼をする、それからムソリーニは時の軍司令官に報告をさせる。そしてムソリーニが王様を御案内申して行くのだが、その恰好も如何にも慇勲を極めたものであった。
それから、大演習のような公式の儀式の時は、王様が臨御にならなくとも、ムソリーニは必ず「王様に敬礼」という号令をかける。それ以外の号令は絶対にかけない観兵式の際は、王様の徳を称える国歌のようなものを唱うのだが、ム首相が第一声をあげると、十万以上の兵隊が全部一斉に唱う。そして私の印象によれば、イタリア精神の根源は容易に動かないと思う。 読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) 躍進イタリア展望 (上・中・下)陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)1937年,イタリア、飛行場滑走路を離陸するカプローニ Ca.135小型偵察爆撃機:発動機はイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基。 Description
Aeroplano CAPRONI 135 - da bombardamento - 2 MOTORI I.F. ASSO XI Rc visto in fase di decollo
Date 1937
Source Collezione Albertomos
Author Unknown author
. 写真は,Category:Caproni Ca.135 File:1937-aereo-bimotore-Caproni-135-A-in-decollo.jpg引用。
イタリアは金もなし、物もなく貧乏国ではないかという。現に金は実際ない。ところがムソリーニは、昔から金がなくて滅亡した国はないという。しかし一番悩んでいるのはやはり金である。彼は毎日午後四時頃から各大臣を引見するのであるが、各大臣を毎日呼ぶわけではないが、毎日呼ばれる大臣は二人ある。朝呼ばれるのが外務大臣、晩に呼ばれるのが為替大臣この二人である。
私が為替大臣に会って話をすると、彼はこういっていた。経済制裁というものは何等恐るるに足らぬ、エチオピア戦争の時も日本とドイツがやらないし、イギリスは一番先にやるがイタリアで一番余計に物を買っているのはイギリスなのだ。パドリオ総司令官も経済制裁は却って戦争によい結果を斎らしたと思うといっている。スペイン内乱に際してイギリスはしきりと人民戦線派に飛行機を補充した。それで途中でイタリア軍がそのまま頂戴するという風だったらしい。そして支那でこれをやれといっていた。
こんなわけでイタリアでは経済制裁をちっとも心配しない。しかしイタリアでもやはり献品、献金運動をやった、集まった指輪や何かは全部その儘とってある。やはりいざとなって一番必要なのは現ナマだからである。現ナマがあればどこからでも物を買うことが出来る。それから十万トンの石油を得るために、アルパニア進撃をやる。石炭液化にも非常な努力を払っており、大体自給自足が或る程度まで確立しているようである。公債漸減政策が思うようにならない時、一昨年の十一月四日に公債を無理に買わせ、その時は十万リラ、邦貨にして二万五千円以上の不動産を持っている者は全部五分だけは公債を買う義務を課した。利子は全部国庫に納める。それから向う三年家賃をあげないという法律も出て、私はお陰で安い家賃で暮して来た。また百円以下の労働者の賃銀及び知識階級の月給取りの賃銀を無条件で一割あげたこともあるが、これは今でもその儘継続しているところを見れば国民は喜んでこれに服しているものと思う。
飛行機はどんどん外国へ売って資金を得ている。物は高いかといえば六年前から見ると、ボルサリノの帽子が当時百リラ一ポンドが相場だったが、今十八シリング位に下っている。従ってイタリアの経済生活は苦しいながらもどんどんやっている。子供は殖える。女も以前より綺麗だし相当な着物も着ているし、弱ったという感じはうけないのである。【写真は有末大佐】 読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) 躍進イタリア展望 (上・中・下)陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)1937年10月(?),イタリア、ミラノ・航空展示会、イソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基搭載のイタリア空軍カプローニ Ca.135爆撃機(Caproni Ca 135):機首銃座に12.7 mm ブレダBreda-SAFAT機関銃1丁が装備されている。コックピット後上方の回転式銃座と前方にも各々12.7 mm ブレダBreda-SAFAT機関銃1丁が配置されている。 Caproni Ca 135
Manufacturer: Caproni
Designation: Ca 135. 写真はSmugMug+Flickr.,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00076685引用。
イタリアのブレダ(Breda)-SAFAT機関銃は、1930年代から大戦中に主にイタリア空軍機に搭載された航空機用機関銃である後継には7.7ミリと12.7ミリとがある。原型は、アメリカのブローニングM2重機関銃であるが、日本陸軍の12.7ミリホ103航空機関銃と同じく、実包は、ブローニングM1919重機関銃7.62x63mmは、7.7x56mmR(.303ブリティッシュ弾)にランクダウンされ、ブローニングM2重機関銃12.7x99mmは12.7x81mmSR(.50ブリティッシュ弾)にやはりランクダウンされ、軽量化されたものの、射程、弾道安定性、破壊力は原型に劣っている。
それまでのイタリアでは、機関銃はフィアットが受注していたが、これ以後、ブレダでもイタリア軍の機関銃が量産されるようになった。ただし、フィアット子会社のSAFAT(Società Anonima-Fabbricazione Armi Torino)が、ジョヴァンニ・アニェッリ(Giovanni Agnelli)によってブレダに売却されており、フィアットの技術や生産方式は、ブレダに引き継がれている。こうして、イタリアの機関銃は、フィアットではなく、ブレダ-SAFATが担うことになったのである。
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたカプローニ(Caproni)CA 135爆撃機:発動機はイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基。 Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand Aeroplani Caproni S.A.
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24
Note: Al centro l'aereo Caproni CA 310 写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_243
引用。
読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) 躍進イタリア展望 (中)陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
(中) 欧阿睥睨・国軍の威容 ヒ総統迎えて空軍離れ業
イタリア人は男振りはいいが戦争には弱い、というのがフランスあたりでの宣伝である。ところがムソリーニは、十七年間のうちにイタリアをヨーロッパにおいて押しも押されもしない強国に育てあげたのである。
イタリアの陸軍は当時約六十個師団で、これが純日本式に編成されている。
地形上から見ると、長靴の如きイタリア本土は、北が陸続きの国境と接しているのみで、その周辺は三方とも海面に包まれている。しかもフランスとの国境にはアルプスの天嶮を擁し、自然に無二の要塞を形成している世界戦略史における不世出の天才ナポレオンでさえもさんざんな苦労の挙句漸く越えられたところである。
だからここには優秀なる機械化兵団を配備しておけば、敵の進撃を防備することが出来るという戦略上の見地から、イタリア軍備の重点は地中海及びアフリカ作戦を中心として空軍及び海軍の整備に全力を傾倒して来たのである。そして主要なる作戦目標はアフリカにおかれていると見ていい。しからばイタリアは何故アフリカを主要な作戦地と考えているかといえば、フランスは人口が少い。従ってヨーロッパ大戦の際もアルゼリヤ、チュニス、モロッコ等のアフリカにおけるフランスの勢力下からズアブ土人軍を組織してこれを活用したのである。さきのスペイン戦争においても土人軍が非常に強いといわれている。だから「フランスは平時から六個師団の土人軍をフランスの土地に常駐せしめ、平生靴も穿いたことのない奴らにバターを食べさせ、パンを喰わせて軍事訓練を行っている有様でフランス戦力の源泉はアフリカにあるからである。
イタリア空軍は今日では殆んど完成されているといっていい。そして優秀を誇る第一線機三千五百台が出動命令をまって待機している。空軍を比較するとドイツが第一戦機八千台、これに対しイギリスが第一戦機三千台、フランスが二千五百機というから数だけでも独伊が断然優勢である。 読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) (中) 欧阿睥睨・国軍の威容 ヒ総統迎えて空軍離れ業 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたカプローニ(Caproni)CA 135爆撃機:発動機はイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基1935年にベルガマスキ社(Cantieri Aeronautici Bergamaschi (CAB))設計になる試作機が完成した。木金混合の機体構造に羽布張りで、保守的な機体であったため、傑出した性能ではない。量産はカプローニ社が担った。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand Aeroplani Caproni S.A
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24 Note: In primo piano l'aereo bimotore da bombardamento Caproni CA 135 写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_217引用。
現在イタリアはジブラルタルの西にとてつもない大きな砲台を造っている。尤もモロッコから飛行機で兵を輸送することが出来る今日、海峡としての価値が減少したというものの、要撃砲台ともいうべきものを英領の直ぐ傍に造っている。シシリー島とチュニスとの間にパンテレリアという島があるが、このパンテレリアの島には海軍の根拠地が完成している。噂によると大規模な潜水艦の根拠地で、洞窟を利用してあるといわれている。一昨年八月、わが練習艦隊がイタリアを訪ねた時、丁度このパンテレリアとシシリー島を中心として東軍は潜水艦と空軍、西軍は主力艦隊と陸軍という具合に分れ、一方は英仏軍になぞらえ一方はイタリアになぞらえて陸海空三軍の攻防大演習を行ったことがある。その時の結論では、結局どんな艦隊を持って来ても大丈夫だという確信を得たということだそれからスペインとの間にバレアル諸島の戦時使用許可の協定が出来上っている。即ちイタリアはシシリー島、パンテレリヤ、トリポリ、バレアル、スペインを含む一連の根拠地によって現在の地中海を制覇している有様である。 読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) (中) 欧阿睥睨・国軍の威容 ヒ(トラー)総統迎えて空軍離れ業 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションを見学し、説明を受けているイタリア国王王太子ウンベルト2世(Piemonte Umberto II)(中央高身長)と後方のカプローニ(Caproni)CA 135爆撃機の胴体:発動機はイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand Aeroplani Caproni S.A
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo bimotore da bombardamento Caproni CA 135 写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_226引用。
カプローニ(Caproni)CA 135小型爆撃機は、1935年にベルガマスキ社(Cantieri Aeronautici Bergamaschi (CAB))設計になる試作機が完成した。木金混合の機体構造に羽布張りで、保守的な機体であったため、傑出した性能ではないが、安上がりだったために、経費を抑えて機数を揃えるには適していたようだ。
写真(右)1937年10月(?),イタリア、ミラノ・航空展示会、イソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基搭載のイタリア空軍カプローニ Ca.135爆撃機(Caproni Ca 135)の胴体後部と尾翼:機首銃座に12.7 mm ブレダBreda-SAFAT機関銃1丁が装備されている。コックピット後上方の回転式銃座と前方にも各々12.7 mm ブレダBreda-SAFAT機関銃1丁が配置されている。 イタリア三色旗フランスの三色旗を起源とし、緑は国土と自由、白は雪と平等、赤は情熱と博愛の表象である。18世紀のナポレオンのイタリア遠征に際し、イタリア統一旗として使用させたと言われている。当時、小国に分裂していたイタリアだったが、その後、国家統一運動のシンボルとしてイタリア三色旗が取り入れられ、1861年に国旗に制定された。 Caproni Ca 135
Manufacturer: Caproni
Designation: Ca 135. 写真はSmugMug+Flickr.,San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: 00076685引用。
ヒトラーがローマを訪ねた時に陸軍の演習をやったことがある。この演習には百五十万円使ったのだが、この時には歩兵一個大隊に砲兵を加え軽機関銃、重機関銃、歩兵砲というような近代火器を使用したのである。我々も呼ばれて行ったが、ムソリーニ首相が来ると儀伏兵の閲兵をやる。次いで王様が来られる。王様はヒトラーを案内される。かくて喇叭が鳴り響くと大小各種の銃砲が唸り出す。実弾が飛出す。
其間を歩兵が匍匐前進をする機関銃がゆく、信号弾が上る。そうして段々に前進する。この間約四十分であったが、四百メートルばかり攻撃前進をやった実弾の銃砲弾がくる中をタンクが驀進する。目標と第一線の距離が三十五メートル乃至四十メートルのところまで前進して行くその上を弾丸が飛んでゆく。そこで漸く砲兵が射程を伸ばす。手榴弾を投げる。突込む。その時にイタリアではサボイヤー(王家の名前)という決断と勇気とを養成するものであろう。丁度我軍で万歳又は突込の時のウワーというのに相当する。 読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) (中) 欧阿睥睨・国軍の威容 ヒ総統迎えて空軍離れ業 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基装備のカプローニ(Caproni)CA 135爆撃機とカプローニ(Caproni)Ca.310リベッチオ(Libeccio:南西風)軽爆撃機(右手側):Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand Aeroplani Caproni S.A Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937 Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo bimotore da bombardamento Caproni CA 135写真は,Lombardia Beni Culturali
Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_246引用。
以上の様に喇叭一声で演習開始後全く無声の指揮をしながらその弾道を伸ばしてゆくのだが逐次前進して行くのに従って弾道を伸ばして行くということはなみ大抵のことではない。あれだけの演習をやるには軍紀を余程よく訓練し確立しなければやれるものではないという感じを痛切にうけたのである。結局これは精神訓練が相当に出来ているからに外ならない。更に空軍の演習を見ると、これもヒトラー訪伊の時だったが、三百機ぐらいの戦闘機が距離間隔なしにハーケンクロイツを描いた。私はイタリア在勤中に冷汗をかいたことが二度あるが、この時がその一つである。実際壮観だった。三百四、五十機がハーケンクロイツを描く、ヒトラーの上に来るというと、蜘蛛の子のようにパッと散って、七機編隊くらいで宙返りをやる。宙返りは一つがやるとまたその次ぎがやる。ロンドンあたりの航空ページェントは三機位の編隊チャンピオンがやるのだが、七機くらいがやる。その次ぎには九機編隊が一斉横転をやる。これを見ていると「アッ」という感じがした。
その後には爆撃機が飛んだ来た三千メートルの高度。海岸に八千トンか一万トンの船が二杯碇泊している。それに対して上空から二百キロ、二百五十キロ、五百キロというような爆弾を落す。それが見える。「落したな」と、思うと爆音とともに船が黒煙を上げながら二杯傾いた。これでもわかる如く爆撃もうまい。 読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) (中) 欧阿睥睨・国軍の威容 ヒ総統迎えて空軍離れ業 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基装備のカプローニ(Caproni)CA 135爆撃機の胴体後方と尾部(後方):手前は、1937年1月23日に初飛行したばかりの双尾翼式カプローニ(Caproni)CA 134複葉偵察機(正面)で試作機2機のみで制式されずに終わった。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand Aeroplani Caproni S.A
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24 Note: In primo piano la parte posteriore dell'aereo bimotore da bombardamento CA 135. In secondo piano l'aereo da ricognizione CA 134 写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_246
引用。
それから地上戦闘演習があったので、海軍、陸軍の飛行士を連れて見に行った。それで射撃をどういう風に教育しているかと思って兎に角吹流しを撃つのを見せてくれというと吹流しなどは使っていないという。それでは一体射撃をどうして教育するかと聞くと、教育しないと答える。飛行隊が射撃を教育するなどというのは時間が惜しいという。話をきくと、爆撃隊は斯うも撃たなければならぬ、ああも撃たなければならぬが、戦闘機は射撃は要らない。速力と運動性があればいい。ぐんぐん追いつき高等飛行で敵の死角に入り相手の飛行機に乗れば銃はちゃんと照準がついているのだから、それで射てばよいのだ。斯ういっていた。 読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14) (中) 欧阿睥睨・国軍の威容 ヒ総統迎えて空軍離れ業 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクション右奥にカプローニ(Caproni)CA 135爆撃機、ペルー輸出型IMAM Ro.51戦闘機(手前左)、 IMAM Ro.41 複葉戦闘機(右手前):
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand della IMAM - Industrie meccaniche e aeronautiche meridionali (gruppo Breda)Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24
Note: Sulla sinistra l'aereo IMAM da caccia RO 51; sulla detsra l'aereo IMAM da caccia e allenamento acrobatico RO 41
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_220
引用。
イタリア空軍IMAM Ro.41 複葉戦闘機は、ピアッジオ(Piaggio Stella)P.VII R.C.35空冷星形7気筒エンジン335 kW (449 hp)搭載、最高速力320 km/h (200 mph, 170 kn) /4,000 m、航続距離320 km (200 mi, 170 nmi)で、1934年6月初飛行、1935年から743機生産。
IMAM Ro.51戦闘機は、単葉低翼固定脚、フィアット A.74 R.C.38空冷星形エンジン出力840 hpを装備し1937年に試作された。最高速力489 km/h/4,500 m (264 knots, 304 mph)、巡航速力444 km/h (240 knots, 276 mph)、実用上昇限度8,200 m (26,900 ft)、航続距離1,200 km (648 nm, 745 mi)、上昇時間6,000 m/7分、武装12.7ミリブレダSAFAT機関銃2丁。1930年代後半の有力な戦闘機だったが、生産数は2機のみ。
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたカプローニ(Caproni)CA 135爆撃機の正面(奥)とIMAM RO 41曲芸機(戦闘機):IMAM RO 41曲芸機は、1934年6月16日初飛行、発動機はピアッジオ(Piaggio)ステラ(Stella) P.VII R.C.35空冷星形7気筒エンジン335 kW (449 hp)搭載。のちに戦闘機、練習機として使用され、744機が量産された。
。 Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 13 x 18
Note: In primo piano l'aereo IMAM da caccia e allenamento acrobatico RO 41
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_269
引用。
IMAM Ro.41複葉機の諸元
初飛行:1934年6月16日
全長Length: 6.38 m (20 ft 11 in)
全幅Wingspan: 8.81 m (28 ft 11 in)
全高Height: 2.65 m (8 ft 8 in)
主翼面積Wing area: 19.15 m2 (206.1 sq ft)
空虚重量Empty weight: 1,010 kg (2,227 lb)
総重量Gross weight: 1,270 kg (2,800 lb)
燃料搭載量Fuel capacity: 176 L (46 US gal; 39 imp gal)
発動機Powerplant: 1 × ピアッジオ(Piaggio)ステラ(Stella) P.VII R.C.35空冷星形7気筒エンジン335 kW (449 hp)
プロペラPropellers: 2-bladed fixed-pitch wooden propeller
最高速力Maximum speed: 320 km/h
航続距離Range: 320 km (200 mi, 170 nmi)
兵装Guns: 2 × 7.7 mm ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基装備のカプローニ(Caproni)CA 135爆撃機の胴体後方と尾部(後方):手前は、1937年1月23日に初飛行したばかりの双尾翼式カプローニ(Caproni)CA 134複葉偵察機(側面)で試作機2機のみで制式されずに終わった。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand Aeroplani Caproni S.A
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24
Note: In primo piano l'aereo bimotore da bombardamento Caproni CA 135 写真は,Lombardia Beni Culturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_246引用。
カプローニ(Caproni)CA 134複葉偵察機試作機の諸元
初飛行:1937年1月23日
乗員Crew: 2
全長Length: 9.6 m (31 ft 6 in)
全幅Wingspan: 12.32 m (40 ft 5 in)
全高Height: 3.4 m (11 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 32.6 m2 (351 sq ft)
空虚重量Empty weight: 1,620 kg (3,571 lb)
総重量Gross weight: 2,380 kg (5,247 lb)
発動機Powerplant: 1 × Isotta Fraschini Asso XI R.C.40 V-12 liquid-cooled piston engine, 670 kW (900 hp)
カプローニ(Caproni)CA 134複葉偵察機試作機の性能Performance
最高速力Maximum speed: 486 km/h (302 mph, 262 kn)
巡行速力Cruise speed: 424 km/h (263 mph, 229 kn)
航続距離Range: 1,800 km (1,100 mi, 970 nmi) 実用上昇限度Service ceiling: 7,800 m (25,600 ft) 兵装:12.7 mm (0.500 in)ブレダ(Breda)-SAFAT前方固定機関銃1丁、7.7 mm (0.303 in)ブレダ(Breda)-SAFAT後方旋回機関銃1丁
生産:試作2機のみ
3.第二次大戦のカプローニ(Caproni) Ca.135bis爆撃機
写真(右)1940年,ハンガリー東部、デブレッツェン、イタリアから購入したハンガリー空軍「ウズベンス」爆撃機飛行隊カプローニ(Caproni)CA 135bis小型爆撃機の戦列:イタリア軍用機の購入使節団らしい民間人とハンガリー空軍の将兵の記念撮影で、イタリアからハンガリーに空路到着したばかりの撮影であろう。
Bomb-loading a Hungarian Air Force Ca.135.
From :www. sspanzer. net Author FOTO:Fortepan — ID 19502: Home pagePictureInformation page
Adományozó/Donor: Saly Noémi. Source www.fortepan.hu /_photo/ download/ fortepan_28396.jpg
写真はWikimedia Commons, Category:Caproni Ca.135 File:A debreceni 3-6. - Fortepan 19502.jpg引用。
カプローニ(Caproni) Ca.135bis爆撃機の発動機はイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基だったが、これをより高出力のピアッジョ(Piaggio) P.XI RC40空冷星形14気筒エンジン1.000馬力(735kw)2基に換装したのが、カプローニ(Caproni) Ca.135bis爆撃機である。
写真(右)1941-1942年頃、ソビエト連邦(?)、ハンガリー空軍がイタリアから輸入して部隊配備したカプローニ(Caproni)CA 135bis爆撃機:地上勤務整備員が爆弾搭載の準備をしている。
Magyar: Caproni Ca 135 bis
Date 23 February 2014, 15:00:41
Source Own work
Author Kaboldy
写真はWikimedia Commons, Category:Caproni Ca.135
File:Caproni Ca 135 bis.svg引用。
カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機は、1935年4月1日初飛行したが、1937年10月2-17日,イタリア、ミラノで開催された航空展示会では大々的に喧伝され、世界史上への輸出が期待されていた。ハンガリー空軍は、イタリアに使節団を派遣し、優秀な軍用機の購入を検討した。この時に候補に挙がったカプローニ(Caproni)CA 135bisを合計67機ハンガリーが1940年に輸入し、1941-1942年の対ソビエト連邦東部戦線で使用した。
図(右)カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機:当初、カプローニ(Caproni) Ca.135bis爆撃機の発動機はイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基だったが、カプローニCa.135bisでは、発動機をピアッジョ(Piaggio) P.XI RC40空冷星形14気筒エンジン1,000馬力(735kw)2基に換装し、出力を向上させた。 Magyar: Caproni Ca 135 bis
Date 23 February 2014, 15:00:41
Source Own work
Author Kaboldy
写真はWikimedia Commons, Category:Caproni Ca.135 File:Caproni Ca 135 bis.svg引用。
カプローニ(Caproni)CA 135軽爆撃機の諸元
全長:14.38m 全幅:18.80 m 全高 3.4m 主翼面積:60平方メートル
発動機:ピアッジョ(Piaggio) P.XI RC40空冷星形14気筒エンジン1,000馬力(735kw)2基
空虚重量:6,106 kg 総重量:9,556 kg
最高速力: 365 km/h (227 mph, 197 kn)4,800 m 上昇率: 303 m/分
航続距離: 1,200-2,000 km 実用上昇限度:6,500-7,000 m 兵装:12.7ミリ ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁、7.7ミリブレダ(Breda-SAFAT)機関銃1丁 爆弾搭載量:最大1.6トン
生産期間:1936-1941年 総生産機数:140機
写真(右)カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機:Кроме указанных выше был построен Са 135 Raid - единственный экземплярспециального варианта с большойдальностью полета, с увеличеннымзапасом топлива и двигателями sotta-FraschiniEsso мощностью 986 л. с., построенный позаказу бразильского пилота де Барроса, который пропал без вести при попыткеперелета через Северную Атлантику. . 写真は, БомбардировщикиВторой Мировой Caproni Ca.135 Среднийбомбардировщик引用。
読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14)
(下) 英、仏既に敵に非ず 日・独・伊の不可分関係 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
イタリアの外交政策はエチオピア戦争までは所謂バルカン政策がその基調であった。例のローマ協定をつくってハンガリア、オーストリアと協定を締結し、ルマニアダニウブ沿岸地方にまでイタリアの力を伸ばすとか、或いはブルガリアの皇后にサヴォイア王家の第三王女が御輿入れをするとか方策が講じられていた。しかし賢明なムソリーニ首相はまずエチオピア戦争をキッカケとして従来のバルカン政策を九十度転換し大アフリカ政策をとるに至った。イタリアがバルカン政策を国是としている頃は英国のジブラルタル、マルタ、スエズ、アラビア、アデン、印度を結ぶ東漸政策と噛み合うことはなかったのである。ところがイタリアが大アフリカ政策を国策とするに至って状況は全く一変した、即ちイタリア本土、トリポリ、リビア、エチオピアを結ぶイタリアのアフリカ進出線がインド、アラビア、エジプト、ジブラルタルを結ぶ生命線とが十字に交錯し噛み合わざるを得なくなった。イギリスが本気になってエヂプトの開発を行うとすれば地中海の南方海岸線を確保するか、さもなければスダン地方を横切って直行線をつくらなければならぬ。目下のところイギリスは早くもスダンに着目しローマのアタッシェだったストンという少将を本国に召還し、直ちに軍司令官として再びこの地方に派遣して来たくらいである。かくてイギリスとイタリアの利害は全く相反する結果になるのである。だからオーストリアのドルフス事件の時は二個軍団を動員してドイツの牽制に乗り出したイタリアもバルカン政策から大アフリカ政策への転換をキッカケとして親独街道を驀進することになったのである。そしてイタリアはドイツの東漸政策を支持しバルカンへの進出をドイツにまかせているようだ。スペインにはドイツの力が伸びていない。即ち独伊両国の話合いによって、バルカン方面の経済的進出はドイツに譲りスペインはイタリアに委せるということになっているらしい。ところが独伊はそのうちに喧嘩をするだろうというのがイギリス、フランス辺りの宣伝である。何故かといえばイタリアは何時も損ばかりしている。その反対にドイツは儲けてばかりいる。恰もイタリアはドイツの属国のようじゃないかともっともらしい理窟をつけてしきりと宣伝している。
読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14)
(下) 英、仏既に敵に非ず 日・独・伊の不可分関係 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機:Кроме указанных выше был построен Са 135 Raid - единственный экземплярспециального варианта с большойдальностью полета, с увеличеннымзапасом топлива и двигателями sotta-FraschiniEsso мощностью 986 л. с., построенный позаказу бразильского пилота де Барроса, который пропал без вести при попыткеперелета через Северную Атлантику. . 写真は, БомбардировщикиВторой Мировой Caproni Ca.135 Среднийбомбардировщик引用。
私のイタリア滞在中に女中も運転手もイタリア人を雇っていたが、子供のお守をするのはドイツ人がいいというのでドイツ人を雇ったことがある、ところがこの連中が喧嘩ばかりして始末が悪い。その喧嘩の原因はというと何時もヒトラーとムソリーニとどっちが偉いかということである。第一回のチェコ問題の終った頃はイタリア人の間にもドイツに対してぶつぶついうものもあったが、これが第二回のチェコ問題の頃は対独感情はすっかり変っていた。イタリアの民衆にドイツだけがうまい汁を吸っているじゃないかと訊ねるとそれは違う、ドイツが肥ることはイタリアが肥ることだ。イタリアが肥ることはドイツが肥ることなのだとはっきり答える。そしてドイツ、イタリアはかくの如き両国民衆の感情によって独伊攻守同盟へ突進して行った。
この同盟は最初は期限のない絶対的の攻守同盟であった。一国だけの単独講和というものはない。強い意味の同盟である。しかし無期限というのも多少穏かでないというので十年の期限を区切ったのである。そして正義に基く独伊両国必然の要求が線の太い外交政策となり、しかもこの外交が英仏を圧倒する両国の武力によって裏づけられて、新らしいヨーロッパを動かしているのである。イギリスの対独伊包囲陣の形式が完全に失敗した今日老大国イギリスは如何なる方策を講ぜんとするか。
読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14)
(下) 英、仏既に敵に非ず 日・独・伊の不可分関係 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(右)カプローニ(Caproni)Ca.135S爆撃機:Са.135 - среднийбомбардировщик, двухмоторный моноплан смешанной конструкции сдвухкилевым оперением и убирающимся шасси с хвостовым колесом. Экипаж 4 человека. Разработан в КБ фирмы Caproni Bergamaschi под руководствомИ.Паллавичино. Caproni Bergamaschi Са.135 совершил первый полет 1 апреля 1935 г. Оснащенныйдвумя звездообразными двигателями Isotta-Fraschini Esso XI RC мощностью 800 л.с., самолет Са.135 был смешанной конструкции, с работающей обшивкой передней частифюзеляжа и задней секцией из сварныхтруб, с деревянным и полотнянымпокрытием. Крылья по своей структуребыли деревянно- металлическими, обшитыми полотном и деревом. 写真は, БомбардировщикиВторой Мировой Caproni Ca.135 Среднийбомбардировщик引用。
私は在伊三年の間にベルリンとローマの間を二十回ばかり往復したそれが殆んど同じ道を通る。ブレンネルを越えミュンヘンを過ぎニュルンベルグ、ハルレを通ってベルリンに行くのだが、私が行く度毎に感ずるのは「やってるなアー」ということだった。二年前のドイツを見たものは最早や今日のドイツを語る資格がないとまで思われる。僅か半年前のドイツが今日のドイツとは全く別なもの程変っている。ニュルンベルグ辺りは工業地帯であるが、煙突から吐き出す煙も全く素晴らしい。ついでにドイツの軍備にちょっと触れておこう。私はヒトラー五十年祭に行われた観兵式を見たのであるが五時間十五分という長時間の観兵式だった。これに参加したのが全部機械化兵団である。ヒトラー総統が前日の晩六時に道開きをしたウンターデルリンデルの通りを三十キロか三十五キロの快速力で次から次にと続いて驀進してくる。これがヒトラーの前を通る度に敬礼する。朝の八時に起されて昼になってもまだ終らない。大概観兵式は一箇師団か二箇師団の参加部隊ならば予定の時刻と十分の違いはお咎めなし。五分なら上出来、これが二分か三分なら非常な得意で二日位痛飲する。それが五時間十五分の観兵式でしかも予行なしで十五分の相違というから驚いたものである。
重タンクの部隊がダーツと駆ってくる、それから四十五糎の大砲を牽引車で引張りながら駆って来た時は見物のドイツ人も期せずして「ハイル・ヒトラー」を叫んだ。私もあんな大きな大砲は見たことがなかった。実弾演習ともなれば平射弾道を持つ戦車砲を射つ演習である。これが普通の野原を大砲を積んだ自動車が非常な快スピードで走る。
慥か三十六門だったと記憶しているがこれが走っている最中にググーッとブレーキを掛ける、すると自動車が停ったなあと思う瞬間ダンダーンと物凄い実弾を射ち出す。向うの目標を見ると黒山のようなタンクが唸りをあげてジグザグ運動をやっているこの目標を見に行くと相当に命中していた、装備といい訓練といい軍紀といいドイツ陸軍は大したものだという感じをうけたのである。
読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14)
(下) 英、仏既に敵に非ず 日・独・伊の不可分関係 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
写真(上)カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機:Серийныйвариант Са.135 имел трехлопастные винты, заменившие двухлопастные винтыопытного самолета. Несколько самолетов, обозначенные как Са.135 Typo Spania, былизаказаны Министерством авиации Испаниив 1936г., на них стояли двигатели Esso XI RC 40 и турельные установки Breda в носовойчасти фюзеляжа, сверху и под ним, причемдве последние были втягивающимися. Максимальный взлетный вес был увеличендо 8390 кг с 7360 кг веса опытногосамолета, но несмотря на возросшуюмощность максимальная скорость упала с 400 км/час до 365 км/час.. 写真は, БомбардировщикиВторой Мировой Caproni Ca.135 Среднийбомбардировщик引用。
しかしながらドイツにしろイタリアにしろ戦争の勝敗は単に近代的装備の優劣によって決するものではないということを知っている。私はイタリアのロードス島を訪ねた時そこで防備に当っているイタリア兵にこう訊いて見た。「ヨーロッパに戦争があるかね」と、すると彼等は「我々はヨーロッパに戦争が起るかどうか知らない。しかし戦争の準備はO・Kである、何時でも戦うし断じて負けない」と答えていた。即ちイタリアの国民が明日にでも戦う決意を固めているというところにイタリア精神の強味がある。これはドイツでも同じことがいえる。ところがイギリスは徴兵制度さえも布けない。国民は戦う気にならないのである。だからチェンバレン首相が十五億ポンドの国防費を用意したときにム首相はこれがイタリアや日本なら驚くべきことだがイギリスならそう心配するには及ばないといった。エチオピア戦争の際、経済封鎖の強硬態度をとったイギリスがなぜあの醜態を曝したか。
イギリスが経済封鎖の強硬手段でイタリアを圧倒せんとするやイタリアはプレダ会社で垂直降下の得意な襲撃飛行機を用意した、そして爆弾を抱いて飛行機を操縦しイギリスの軍艦に体当りをする必死隊を募集したところ数日の中に三千名の勇士が応募した。これを知ったイギリスの在伊駐在武官は右の実情を本国に報告したところイギリスの大艦隊が三千人の命知らずと心中してはどうにもならないとあってマルタ島を中心に集結されたイギリスの大艦隊は旗を捲いて地中海から姿を消したのである。だからイギリスは四年前に既にイタリアと戦う戦力を欠いていたといえる。
しかもこのイタリアが事変始まって以来終始一貫してわが国に好意をよせている、盟邦イタリアとドイツはヨーロッパの新秩序建設に闘っているのだ。アジヤにおいて新秩序建設に血みどろの闘いを続けている日本が独伊と軍事同盟を締結することはわが外交の基調でなければならぬ。(完)
読売新聞 1939.8.8-1939.8.11 (昭和14)
(下) 英、仏既に敵に非ず 日・独・伊の不可分関係 :陸軍省軍務課長 陸軍航空兵大佐 有末精三引用
4.カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis爆撃機のカタログ
写真(右)1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載):原型となったカプローニ(Caproni) Ca.135bis爆撃機の発動機はイソッタ(Isotta Fraschini Asso)XI R.C.40空冷倒立エンジンSpinto 671 kW (900 hp) 2基だった。この発動機をより強力なものに換装したのが、カプローニCa.135bisである。発動機をピアッジョ(Piaggio) P.XI RC40空冷星形14気筒エンジン1,000馬力(735kw)2基に変更されている。 写真は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
1939年9月1日のドイツによるポーランド侵攻、9月3日のイギリス・フランスのドイツへの宣戦布告によって、第二次世界大戦が勃発すると、リビア総督イータロ・バルボ(Italo Balbo、1896-1940年6月28日)は、イギリスとフランスとの戦争に躊躇しなかったと同時に、ヒトラー・ドイツのイタリアを無視した外交・戦争に対して嫌悪感を示した。これは外務大臣ガレアッツォ・チアーノと共通していたが、北アフリカ、エジプトの防備手薄なイギリス軍を攻撃しなかったことは、イギリスにとって僥倖だった。
写真(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の側面:双尾翼式で、機首銃座、コックピット後上方銃座、胴体側方銃座、胴体後下方銃座が確認できる。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 写真は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
カプローニ Ca.135爆撃機の爆弾搭載方法
2 × 800 kg (1,760 lb) 爆弾(イタリア空軍で最大級の爆弾)+2 × 50 kg (110 lb)爆弾+ 2 × 31 kg (68 lb), a total of 1,862 kg (4,105 lb)
2 × 500 kg (1,100 lb) 爆弾+ 4 × 100 kg (220 lb) 爆弾+ 2 × 31 kg (68 lb), total nominal 1,462 kg (3,223 lb)
4 × 250 kg (550 lb)爆弾
8 × 100 kg (220 lb)爆弾 + 8 × 50 kg (110 lb)爆弾 + 4 × 31 kg (68 lb)爆弾, 合計 1,324 kg (2,919 lb)
16 × 50 kg (110 lb)爆弾 + 8 × 31 kg (68 lb)爆弾, 合計 1,048 kg (2,310 lb)
24 × 31 kg (68 lb)爆弾, 20 kg (40 lb)爆弾, 15 kg (33 lb)爆弾, あるいは12 kg (26 lb)爆弾
写真(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)(斜め正面):3翅プロペラで、スピナーは装備していない。双尾翼式で、機首ガラス風防上部の銃座、胴体後下方銃座が確認できる1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 写真は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
イタリア空軍カプローニ(Caproni)CA 135爆撃機は総重量9,556 kg、カプローニ(Caproni) Ca.310リベッチオ軽爆撃機は総重量 4,650 kg で重量は2倍の格差があるが、ドイツ空軍のドルニエDo-17爆撃機は全備重量7650kg、ハインケルHe111は総重量 12,030 kg、
ユンカースJu-88爆撃機は総重量 14,000 kgで決して小型すぎるということはない。
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の胴体構造図(斜め上面):双尾翼式で、機首ガラス風防上部の銃座、胴体後下方銃座が確認できる。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の機首の構造図(585番・647番):機首のガラス風防、機首銃座、コックピットのガラス風防、コックピット側方ガラス風防開閉方式が示されている。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 写真は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の胴体骨格(フレーム)構造図(10番):機首のガラス風防、コックピットガラス風防、コックピット後上方回転銃座が示されている。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(右)1940-1943年頃、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機の胴体中央部の骨格(フレーム)構造図:斜めの鎹で金属骨格を支え、強度を維持している。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
第二次大戦緒戦で中立を守っていたイタリアは、1940年5月のドイツのフランス侵攻でフランスの命運が尽きようとしていた1940年6月10日にフランスに侵攻した。そして、僅か2週間で、対フランス戦勝利を味わったが、実際の戦闘での成果ではなく、ドイツ軍に敗北したフランスが、イタリアとの戦争を続けられなくなったためであった。しかし、イタリア外務大臣ガレアッツォ・チャーノ(Galeazzo Ciano)は、これをイタリアの勝利としてムッソリーニの意向通り、フランスに対する強硬な領土要求を行った。しかし、対イギリス戦を控えているヒトラーは、フランスに対するイタリアの身勝手な要求を拒否した。
図(右)1940-1943年頃、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機の胴体中央部下面の爆弾倉扉の構造図(110番):斜めの鎹で金属骨格を支え、強度を維持している。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
イタリアのファシスト独裁政権の首相ベニート・ムッソリーニは、1939年9月に勃発した第二次世界大戦に1940年6月8日に参戦し、フランスを攻撃した。イタリアは、1940年5月のドイツによるフランス侵攻で、フランスが降伏する直前の1940年6月8日にイタリアは参戦し、フランスに勝利した戦勝国として、フランスの占領の利益を確保しようとした。
図(右)1940-1943年頃、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機の胴体中央部下面の後下方銃座近くの構造図(650-670番):斜めの鎹で金属骨格を支え、強度を維持している。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
1939年9月3日、イギリス・フランスがドイツに宣戦布告し、本格的に第二次大戦が勃発した。その後、1940年5月にドイツは、ベルギー・フランスに侵攻を開始し、フランスがドイツに降伏する直前1940年6月8日、ベニート・ムッソリーニは、娘婿で外務大臣チアーノ伯爵と一緒に、ミュンヘンに到着、アドルフ・ヒトラーと戦争の行く末について話し合った。
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の左右主翼の構造図:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(右)1940-1943年頃、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機の補助翼と金具の構造図:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
主翼の先端部後縁に取り付けられた補助翼 (aileron) は、飛行機を横転バンク(ロール)させるための動翼である。つまり、機体の進行方向を立体的に制御する動翼である。左右の主翼後縁の先端の補助翼(エルロン)にあり、左右の補助翼が上下反対の動きをすること機体の前後中心軸で機体が回転して、飛行機を横転バンクする。
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の主翼中央部の桁(左右の主翼を繋ぐ位置にある)と爆弾倉のフレーム構造:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の双尾翼の構造図(6000番):1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
1930年代には、飛行機はフレーム構造が主流だったが、一部にフレームレスのモノコック構造が応用され始めた。機体の強度をフレーム(骨組み)で支える代わりに、強度のある外板で機体の構造を維持する方式である。
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の水平尾翼の昇降舵(エレベーター)と垂直尾翼の方向舵:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の主輪の引込み式ゴム輪と支柱・金具の構造図:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
カプロニ(Caproni-Bergamaschi)Ca.135爆撃機は、1935年4月1日初飛行、1936年から19401年にかけてに140機が量産された 最高速力365 km/h (227 mph, 197 kn)/4,500 m (14,800フィート)、航続距離1200 km、爆弾搭載量1,200 kg(2,600 lb)だった。実用化された1930年代後半でも、一部の飛行機を除いて、降着装置の主輪・尾論は固定式だったので、引き込み式降着装置は、空気抵抗減少のための革新的な設計だった。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の主輪の引込み式ゴム主輪の取付け構造図:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
航空機が地上にある際には、待機するにも離着陸のために地上滑走するにも、ゴム製主輪のついた降着装置が必要である。ただし、水上機では浮舟フロートで、雪上・氷上を滑走路とする機体は、スキー式橇の降着装置を備えていた。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の引込み式降着装置・ゴム主輪の操作配線図:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
飛行機の重量が増してくると、降着装置に接地・着陸時点の衝撃を吸収する緩衝装置(shock absorber)が設けられ、主輪を支える支柱(脚柱:landing gear strut),車輪の向きを変える操向装置(steering system),車輪のブレーキ(brake)が装備されるようになった。
こうした降着装置を電気や油圧を利用して、引き上げと引き下げを行うことができるのが、引込み式降着装置である。現代機は、大半が,ゴム首輪をもつ首輪式(前輪式:nose-wheel)の降着装置であるが、1940年代中頃までは、アメリカ機を除くと、大半が尾輪と主翼付近の主脚(main〔landing〕gear)とからなる尾輪式降着装置だった。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の左右の引込み式降着装置・ゴム主輪の部品組み立て図:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
降着装置は、重量のかさむ機体では大きく頑丈なので、固定式だと空気抵抗が大きくなり飛行性能が低下してしまう。そこで、高速飛行を可能とするために、降着装置による空気抵抗を減少させる仕組みとして、飛行中の降着装置を機体に引き込ませる、引込み式降着装置(retractable landing gear)が1930年代から広く採用されるようになった。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の尾輪の引込み式ゴム輪の取付け構造図(8600番):1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
日本が開発した航空機で初めて引き込み脚を採用した量産機は、日本海軍では三菱の九六式陸上攻撃機で、陸軍では三菱の九七式重爆撃機(キ21)である。しかし、日本陸軍はイタリアから輸入した引込み式降着装置のフィアットBR.20双発爆撃機を イ式重爆撃機として、1938年に輸入し、中国戦線に実戦投入している。これらの初期の機体の採用した引き込み脚は、エンジンカウルの下部にある開口部に引き込むものだが、完全に主輪が収納され扉で覆われるのではなく、車輪も下方は露出したままの不完全な引き込み式だった。
日本軍の戦闘機で初めて引込み脚を採用したのは、海軍の零戦(A6M)で、引込み状態では扉が収納空間を覆っていた。陸軍の一式戦闘機(キ43)では収納空間に扉はなかった。これらの日本機の技術は、アメリカから輸入したチャンス・ボートV-143戦闘機の引き込み式降着装置を応用したものだった。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の尾輪の引込み式ゴム輪と支柱・金具の構造図(8600番):1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機の降着装置のうち、左右主翼に設けられた主輪は、エンジンナセル後方の格納庫に収納される引き込み式降着装置で、空気抵抗の減少が企図された構造である。他方、尾部に設けられた尾輪は、固定式降着装置である。尾輪を固定式とした理由は、 1)尾輪が小型であり空気抵抗が主輪より相対的に小さいこと、 2)引き込み式装置による重量増加をさけること、 3)尾部に引き込み装置を設けることで重心バランスが後方偏向して操縦性が悪化するのを防ぐこと、 という3点があげられる。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の左右エンジンナセルの構造図(4000番):エンジンナセルの下に引込み式降着装置のゴム主輪があり、エンジンナセル後方に引き込まれる。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機の引き込み式降着装置の主輪ゴムタイヤは、主翼中央の桁に取り付けられていて、主輪を引き上げた時には、ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジンのエンジンナセル後方の空間に収納される。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の左右エンジンナセルの構造図(4120と4380番):エンジンナセルの後方に主翼を通す切り欠きが開いている。引き込み式降着装置のゴム主輪は主翼の支障にならない空間に収納される。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の左右エンジンナセル外板の分解構造図(4120と4380番):エンジンナセルの後方に主翼を通す切り欠きが開いている。引込み式降着装置のゴム主輪は主翼の支障にならない空間に収納される。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の左右エンジンナセルのフレーム(骨格)構造図(4010と4250番):エンジンナセルの後方に主翼を通す切り欠きが開いている。引き込み式降着装置のゴム主輪は主翼の支障にならない空間に収納される。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)のエンジン取付け架フレーム(骨格)構造図:ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジンは4点で支えられているが、各点は2本の金属支柱で構成されている。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行) 掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジンの諸元
気筒冷却方式: 14-気筒(cylinder)空冷星形エンジン(radial engine)
ボアBore: 146 mm (5.748 in)
行程Stroke: 165 mm (6.496 in)
排気量Displacement: 38.673 l (2,360.0 cu in)
全長Length: 1,700 mm (66.93 in)
直径Diameter: 1,328 mm (52.28 in)
乾燥重量Dry weight: 650 kg (1,433 lb)
正面面積Frontal Area: 1.39 m2 (15.0 sq ft)
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の操縦席から左右エンジンへの操作線接続図:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジンの出力
離昇出力Take-off: 1,000 PS (735 kW) at 2,200rpm
軍用出力Military: 1,000 PS (735 kW) at 2,200rpm at 4,000 m (13,000 ft)
巡行出力Cruising: 1,000 PS (735 kW) at 1,800rpm at 4,000 m (13,000 ft)
排気量当たり出力Specific power: 19.1 kW/L (0.49 hp/cu in) 過給比Compression ratio: 6.0:1
燃料消費率Specific fuel consumption: 0.292 kg/kW/hr (0.48 lb/hp/hr)
潤滑油消費Oil consumption: 0.0134 kg/k/w/hr (0.022 lb/hp/hr)
出力重量比率Power-to-weight ratio: 1.15 kW/kg (0.699 hp/lb)
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の操縦席から左右エンジンへの操作線接続図:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の搭乗員への酸素補給装置配管図:高高度の低気圧に備えた酸素吸入装置。 1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
気圧の低い航空では、搭乗員の体力を維持するために、酸素吸入器が使用されたが、これはは酸素や空気を充填圧縮したタンク、すなわち酸素瓶を使うのが一般的だが、酸素を化学的に発生させる装置を用いる場合もあった。しかし、気圧が下がったままなので、酸素だけあっても、搭乗員の体力は消耗した。そこで、気圧の低下を防ぐための気密化した与圧室が開発された。与圧室を広く使用したのは、アメリカ軍の航空機である。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の通信航法装置の構造図:環状ループアンテナは、感度式の航法装置である。 1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
空気抵抗を大きくしないように、未使用の時はアンテナとアンテナ線を胴体内に引き込むことができる。ループアンテナは、環状部で受信した電波の強弱を図って、方位を確定する航法用アンテナである。
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)のガラス窓と計器用パネルの部品構造図:環状ループアンテナは、感度式の航法装置である。 1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の無線装置と左翼の夜間照明灯の構造図:環状ループアンテナは、感度式の航法装置である。 1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
図(上)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の爆撃手席と爆弾懸架操作配線図: 1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機は、胴体中央部の爆弾倉に爆弾を搭載する。そして、機首の爆撃手席から、爆撃照準装置により機体を目標上空に誘導する。そして、爆弾投下用の配線を通して、爆弾懸架(ラック)を電動で開放して、爆弾を投下し、目標に命中させる。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)機首の爆撃手席の構造図と爆撃照準器(17470弁・17471番):1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
水平飛行する爆撃機から、爆弾を投下する水平爆撃では、運動している飛行機から爆弾を投下し、気流と重力の影響の中で、流されながら投下する爆弾を爆撃目標・標的に命中させるのは至難の業である。飛行機の速度と進路、風向き、高度を自動研鑽するアメリカ軍のノルデン照準器でも、水平爆撃の命中精度は低かった。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の機首ガラス風防と爆撃手席の構造図(6010番):操縦席の操縦用フット・ペダルと連動可能な爆撃主席の臨時の操縦桿。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 写真は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
爆撃手が、照準器を睨みながら一時的に操縦桿を操作することで、爆弾の命中率を向上させるこちができた。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)のガラス風防で覆われた12.7 mm (0.50 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁搭載の機首銃座の配置図(16010番):12.7 mmブレダ(Breda)-SAFAT機関銃の銃弾の給弾装置と射撃後排出される薬莢の回収装置が描かれている。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 写真は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis の装備した12.7 mmブレダ(Breda)-SAFAT機関銃は、銃弾はベルト給弾式で、射撃後排出される空薬莢は大型パイプで回収し、胴体下面の回収袋に保管するか、底の扉を開けて機外に放出、投棄する。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)のコックピット後上方にある12.7 mm (0.500 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁搭載の回転式銃塔の構造図(16100番):機関銃弾の給弾装置と射撃後排出される薬莢の回収装置が描かれている。1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 写真は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機は、コックピット後上方の回転銃塔に12.7 mm (0.500 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁を装備しているが、反対側に擬似銃身が装着されていて、あたかも双方向に機関銃が合計2丁装備されているかのように見せている。しかし、この回転銃座の12.7 mm (0.500 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃は、アメリカのブローニング12.7ミリ機関銃よりも弾丸は小型軽量とはいえ、1930年代当時のドイツ軍や日本軍は、12.7ミリ機関銃を実用化できていなかった。ドイツ軍が、13.1ミリMG131を実戦配備したのは、1940年末から1941年になってからである。日本陸軍も、1941年末になってホ103一式十二・七粍固定機関砲を完成させ、一式戦(キ43)の中期型に装備している。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)のガラス風防で覆われた胴体後下方12.7 mm (0.500 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁搭載の旋回機関銃座の配置図(16300番):1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 写真は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機は、胴体後下方銃座に12.7 mm (0.500 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃1丁を装備しているが、機銃は胴体上部の弾倉からベルト給弾される。射撃後、12.7 mmブレダ(Breda)-SAFAT機関銃の銃弾の空薬莢は、機銃下の大型パイプで回収し、胴体下面の回収袋に保管するか、底の扉を開けて機外に放出、投棄する。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の複式操縦装置の構造図: 1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
操縦桿の操作と、操縦用フットペダルの操作によって、エルロン、補助翼、方向舵、昇降舵などを操作する。また、引き込み式降着装置の引込みも操縦士が操作する。
左右主翼先端部後縁にある補助翼 (エルロン:Aileron)は、飛行機を旋回(横転、ロール)する際の舵である。つまり、補助翼は飛行機の前後中心軸をを回転させ、姿勢を変え、方向を決める舵である。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の複式操縦装置のエンジン調整用スロットル・レバーの操作配線図:1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機は、コックピット左側に正操縦士席が、右側に副操縦士用の操縦桿がある複式操縦装置を採用している。これは、操縦桿を移動するものではなく、あらかじめ正副2本の操縦桿があって、操作を切り替えるタイプである。他方、カプロニ(Canproni)Ca.311では、複式操縦装置は、操縦桿1つとなり、それを左右に移動して正操縦士あるいは副操縦士が操作するタイプに変更されている。
しかし、エンジンへの燃料供給を調整してエンジン回転数・出力を調整するのがスロットルレバーは、正副操縦士の中間にあり、教養である。これには、燃料の吸入量を増減することで、速力調整のアクセルとしての役割がある。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の燃料タンクと燃料弁の部品構造図:揮発油はベンジンであり、厳格な管理のもとに火災防止に配慮した仕様を行った。航空機用燃料タンクは金網に包まれて、軽度の防弾を施してあるように見える。
1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
飛行機の主翼は、飛行機が空を飛ぶた揚力(機体を上方に向ける)を発生させるものだが、主翼には、エンジンを搭載する、燃料タンクを収納するという役割も重要である。
飛行機の主翼は、機体重心に位置しているために、そこに重量のあるエンジンと燃料タンクを設けることは、長距離飛行で燃料が消費されても重心位置が変化しないで済むので、飛行機の操縦に好都合である。
図(右)1942年以前、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.135bis爆撃機(ピアジオ(Piaggio)P.XI R.C.40空冷エンジン搭載)の航空写真機の操作配線と制御盤:写真偵察や戦果確認に航空写真を撮影した。 1942年版カプローニ(CAPRONI)Ca.135bis 2 Motori P.XI RC.40カタログ(ミラノ刊行)掲載。 図は, Caproni Ca. 135:a cura di Fabrizio CATALANO e Saverio RADOGNA selezione tratta dal Catalogo Nomenclatore引用。
第一次大戦時の偵察写真は、搭乗員が手で持った小型写真機を利用していた。しかし、その後、大型の航空写真機が導入され、垂直撮影用と斜め写真用など各種の撮影方法が採用された。夜間写真撮影には、小面談を併用することが多かった。
5.ブレダ(Breda)Ba 82爆撃機
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたブレダ(Breda)Ba 82爆撃機試作機:手前の小型模型は、ブレダ(Breda)Ba 88双発急降下爆撃機である。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand della Società italiana Ernesto Breda
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24 Note: Al centro l'aereo da bombardamento Breda Ba 82; in primo piano il modello dell'aereo Ba 88
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_214
引用。
イタリア空軍が1934年に単葉引込脚高速双発爆撃機の仕様を競争試作させたが、仕様にブレダ、CMASA、カント、フィアット、カプロニ・ベルガマスキ、ピアッジオの6社が応募しての競作試作となった。有力なブレダでは、アントニオ・パラーノ技師、ジュゼッペ・パンツァーリ技師が初の全金属製応力外皮・引込み脚を採用したら斬新な設計で臨んだ。搭載した発動機は、試作段階のフィアット(Fiat)A.80 RC41空冷星形エンジンだったが、従来よりも大出力の新型エンジンによって、優れた飛行性能が期待されtら。原型機が完成したのは、1937年でミラノ航空ショーに堂々と展示され、その飛行性能が誇示された。
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたブレダ(Breda)Ba 82爆撃機試作機:あたかもイタリア空軍制式爆撃機であるかのように、ブレダ(Breda)Ba 82主翼には、黒縁白丸にファッシ3本というファシスト・イタリア空軍の国籍記章が描かれている。 Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand della Società italiana Ernesto Breda
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24 Note: In primo piano l'aereo da bombardamento Breda Ba 82
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,PAL_1937_SA_228引用。
ブレダの解説では、最高速力450km/h、搭載量(ペイロード:燃料や爆弾)は3400kg、実用上昇限度9500mという高性能だった。しかし、初飛行では、飛行性能は確認できたものの、全長が短いこともあって、飛行安定性が悪く、発動機の稼働率も低く、実用爆撃機と祖いては制式されずに終わった。
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたブレダ(Breda)Ba 82爆撃機試作機(奥):手前の単発機は、IMAM Ro.51戦闘機で、 フィアット A.74 R.C.38空冷星型14気筒エンジン618 kW (828 hp)搭載、固定脚の木金混合構造ながら、最高速力は489 km/hと1937年当時は快速だった。ブレダ(Breda)Ba 82主翼には、あたかもイタリア空軍制式爆撃機であるかのように、黒縁白丸にファッシ3本というファシスト・イタリア空軍の国籍記章が描かれていた。 Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano - Stand della Società italiana Ernesto Breda
Stabilimento Fotografico Crimella
Autore: Non identificato (prima metà sec. XX), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24 Note: In primo piano l'aereo da bombardamento Breda Ba 82
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria,PAL_1937引用。
イタリア空軍は1934年に単葉引込脚高速双発爆撃機の仕様を競争試作させた。この競争試作にはブレダ、CMASA、カント、フィアット、カプロニ・ベルガマスキ、ピアッジオの6社が応募して競い合った。有力なブレダでは、アントニオ・パラーノ技師、ジュゼッペ・パンツァーリ技師が初の全金属製応力外皮・引込み脚を採用したら斬新な設計で臨んだ。搭載した発動機は、試作段階のフィアット(Fiat)A.80 RC41空冷星形エンジンだったが、従来よりも大出力の新型エンジンによって、優れた飛行性能が期待された。
完成したブレダ(Breda)Ba 82の原型は、1937年でミラノ航空ショーに堂々と展示され、その飛行性能が固辞された。ブレダの解説では、最高速力450km/h、搭載量(ペイロード:燃料や爆弾)は3400kg、実用上昇限度9500mという高性能だった。しかし、初飛行では、飛行性能は確認できたものの、全長が短いこともあって、飛行安定性が悪く、発動機の稼働率も低く、実用爆撃機としては制式されずに終わった。
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、イタリア機セクションに展示されたブレダ(Breda)Ba 82爆撃機試作機正面(奥):手前の単発機は、ブレダ(Breda)Ba 79連絡機である。
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Materia/tecnica: gelatina bromuro d'argento/carta
Misure: 18 x 24
Note: Veduta dello stand della Società italiana Ernesto Breda con, sulla destra, l'aereo Breda Ba 82, sulla sinistra, l'aereo Ba 79
写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, PAL_1937_SA_231
引用。
ブレダ(Breda)Ba 82爆撃機の諸元
乗員Crew: 4名
全長Length: 14 m (45 ft 11 in)
全幅Wingspan: 21 m (68 ft 11 in)
全高Height: 4.5 m (14 ft 9 in)
主翼面積Wing area: 66 m2 (710 sq ft)
空虚重量Empty weight: 6,840 kg (15,080 lb)
総重量Gross weight: 10,400 kg (22,928 lb)
発動機Powerplant: フィアット(Fiat)A.80 RC 41空冷星形エンジン750 kW (1,000 hp) 2基
性能Performance
最高速力Maximum speed: 425 km/h (264 mph, 229 kn)
巡航速力Cruise speed: 368 km/h (229 mph, 199 kn)
実用上昇限度Service ceiling: 9,800 m (32,200 ft)
兵装Armament:7.7 mm ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃3丁
爆弾搭載量:1トン
6.フィアット(Fiat)CR-25戦闘爆撃機
写真(右)1937-1938年頃,イタリア、格納庫前のイタリア空軍フィアット(Fiat)CR-25戦闘爆撃機(側面):1937年7月22日初飛行のフィアット(Fiat)CR-25は、。乗員2−3名、総重量6,625 kg (14,606 lb)、フィアット(Fiat)A.74 R.C.38空冷星形14気筒エンジン627 kW (841 hp)2基搭載、最高速力 450 km/h (280 mph, 240 kn)、航続距離 1,500 kmの双発戦闘機だったが、生産機数は12機のみに終わった。主翼に、黒縁白丸に3本のファッシ(束)のファシスト・イタリアの国籍マークを描いているが、垂直尾翼は白十字でなくイタリア三色旗国籍マークのようだ。 Fiat CR-25
Catalog #: 00079122
Manufacturer: Fiat
Designation: CR-25 写真は,SDASM Archives, Catalog #: 00079122引用。
写真(右)1937-1938年頃,イタリア、格納庫前のイタリア空軍フィアット(Fiat)CR-25戦闘爆撃機(正面):主翼付け根に12.7ミリ (0.500 in)ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁、胴体後上方の銃座に12.7ミリ (0.500 in)ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃1丁を搭載、爆弾搭載量は最高300キロ。全長13.56 m (44 ft 6 in)、全幅 16 m (52 ft 6 in)、全高 3.3 m (10 ft 10 in)、主翼面積 39.2 m2 (422 sq ft)、空虚重量 4,475 kg (9,866 lb)、総重量 6,625 kg (14,606 lb)、最高速力 450 km/h (280 mph, 240 kn)、航続距離 1,500 kmの双発機。主翼に、黒縁白丸に3本のファッシ(束)のファシスト・イタリアの国籍マークを描いている。 Fiat CR-25
Catalog #: 00079122
Manufacturer: Fiat
Designation: CR-25 写真は,SDASM Archives, Catalog #: 00079123引用。
写真(右)1937-1938年頃,イタリア、格納庫前のイタリア空軍イタリア空軍フィアット(Fiat)CR-25戦闘爆撃機(後面):戦闘爆撃機としてではなく、シシリー島を基地として、偵察機、護衛戦闘機として少数が使用された。主翼に、黒縁白丸に3本のファッシ(束)のファシスト・イタリアの国籍マークを描いている。 Fiat CR-25
Catalog #: 00079121
Manufacturer: Fiat
Designation: CR-25 写真は,SDASM Archives, Catalog #: 00079121引用。
イタリア空軍フィアット(Fiat)CR-25戦闘爆撃機の諸元
乗員:2−3名
全長13.56 m (44 ft 6 in) 全幅 16 m (52 ft 6 in) 全高 3.3 m (10 ft 10 in) 主翼面積 39.2 m2 (422 sq ft) 空虚重量 4,475 kg (9,866 lb) 総重量 6,625 kg (14,606 lb) 発動機 フィアット(Fiat)A.74 R.C.38空冷星形14気筒エンジン627 kW (841 hp)2基
最高速力 450 km/h (280 mph, 240 kn) 航続距離 1,500 km 兵装:主翼付け根12.7ミリ (0.500 in)ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁、胴体後上方銃座12.7ミリ (0.500 in)ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃1丁 爆弾搭載量:300キロ
生産機数:12機
7.カプロニ(Caproni)Ca.310リベッチオ(Libeccio)軽爆撃機
写真(右)1939年,ノルウェー、イタリアからノルウェーに輸出されたカプローニ(Caproni)Ca.310リベッチオ(Libeccio:南西風)軽爆撃機(登録コード:LN-DAK)"Brevduen":サボイア・マルケッティSM-79爆撃機よりも、小型であり、経費を節減しながら機数機を揃えることができた。
Åpen plass, ant. lufthavn. ett fly på bakken, Caproni Ca 310, LN-DAK, "Brevduen". Flere personer, mekanikere arbeider med flyet. Høyre motor henger i en heiseanordning foran flyet. Date: start=1939-01-01;end=1939-01-01
Institution: Norsk Luftfartsmuseum
Provider: Arts Council Norway
Providing Country: Norway
First Published In Europeana: 2014-03-26 Is Part Of: Norsk Luftfartsmuseum
Dataset: 2022608_Ag_NO_ELocal_DiMu
References: 97010391 (Foto-nummer) 写真は, European Union Europeana Identifier: LMU/NL.97010391引用。
カプロニ(Caproni)Ca.310リベッチオ(Libeccio)軽爆撃機は、ノルウェー、枢軸側のハンガリー(1938年36機購入、ただし飛行性能カタログ未満で返還)、スペイン(16機)、ユーゴスラビア(1938年12機)、クロアチア(ユーゴから7機を継承)、ペルー(1938年16機)にも輸出された。イタリア軍の使用機数は、約200機である。
カプロニ Caproni Ca.310 リベッチョ(Libeccio:南西風)軽爆撃機の諸元
乗員Crew: 3
全長Length: 12.2 m (40 ft 0 in)
全幅Wingspan: 16.2 m (53 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 38.7 m2 (417 sq ft)
最大離昇重量Max takeoff weight: 4,650 kg (10,251 lb)
発動機Powerplant: ピアッジョ(Piaggio)ステラ(Stella) P.VII C.16/35空冷星形9気筒(cylinder)エンジン350 kW (470 hp)2基
最高速力Maximum speed: 365 km/h (227 mph, 197 kn)
航続距離Range: 1,690 km (1,050 mi, 910 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,000 m (23,000 ft)
兵装Armament
7.7 mmブレダ(Breda)-SAFAT機関銃3丁 (主翼付根前方固定2丁、後上方回転銃塔 1丁)
爆弾搭載量Bombs: 450 kg (992 lb)
⇒写真集Album:カプローニ(Caproni)CA 310軽爆撃機を見る。
8.カプローニ(Caproni)Ca.311/Ca.312bis軽爆撃機
2翅プロペラのイタリア空軍カプローニ(Caproni)CA 311軽爆撃機とコックピット後上方のカウンターウェイト付き手動回転銃座(7.7 mm)ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃1丁)が装備されているほか、前方固定7.7 mm (.303 in)ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃1丁、胴体後下方7.7 mm (.303 in)ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃1丁が装備されている。爆弾搭載量は400kgと少ない。
イタリア空軍の国籍記章は、垂直尾翼にあるイタリア三色旗トルコローレ緑白赤の縦縞模様である。しかし、1940年6月の第二次大戦参加以降、白十字の国籍マークに改められた。
ピアッジョ(Piaggio)P VII C.36空冷星形7気筒エンジン350 kW (470 hp)2基装備のカプローニ(Caproni)Ca. 311軽爆撃機は、チェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)の設計になり、1939年4月1日に初飛行した。ピアッジョ(Piaggio)ステラ(Stella) P.VII C.16/35350 kW (470 hp)2基装備のCa.310小型爆撃機の発展型。、
イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca. 311軽爆撃機は、第二次世界大戦勃発3か月後、1939年12月22日初飛行、1939年から就役し、偵察爆撃機として、1943年までに335機が量産された。最高速力365 km/h、地上攻撃から哨戒爆撃まで、近距離用に使用された。クロアチア、ハンガリー、ユーゴスラビアに輸出された。
カプローニ(Caproni)CA 311軽爆撃機
乗員 3名
全長 11,74 m
全幅 16,20 m
主翼面積 38,40 m²
ピアッジョ(Piaggio)P VII C.36空冷星形7気筒エンジン350 kW (470 hp)2基
総重量 4822 kg
最高速力 347 km/h
実用上昇限度 7400 m
航続距離 1600 km 兵装 7.7ミリブレダ(Breda-SAFAT)機関銃3丁 爆弾搭載量 400 kg
⇒写真集Album:カプローニ(Caproni)CA 311偵察爆撃機を見る。
9.カプローニ(Caproni)Ca.313偵察爆撃機
写真(上)1942年1月20日以降,スウェーデン、飛行機事故を起こしたために、運用停止となったイタリアから輸入したスウェーデン空軍第6航空団F 6カールスボルグ(Karlsborg)所属の S 16 カプローニ(Caproni)Ca.313爆撃機:F6カールスボルグ。一時的な飛行禁止のため、格納庫に留め置かれた。空冷倒立エンジンは空冷星形エンジンよりも同出力であれば正面面積が遥かに小さくなり、形状が全く異なるので区別は容易である。 F6 Karlsborg. Gästande caproni från F3. Fick tillfälligt flygförbud och ställdes in i hangaren där det var gott om plats då F6 var på vinterövning i Norrland med sina B4:or och 3 B5:or. Albumet är en del av en donation från Karl-Axel Hansson, Karlsborg. Förteckning över hela donationen finns i albumet samt som Word-dokument.
Creator: Okänd Publisher: Karlsborgs fästningsmuseum
Institution: Karlsborgs fästningsmuseum
Provider: Swedish Open Cultural Heritage | K-samsök
Providing country: Sweden
First published in Europeana: 2019-11-15 写真は, European Union Europeana
Identifier: KBGF.060888 引用。
イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca.313軽爆撃機は、チェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)の設計になり、第二次世界大戦勃発3か月後、1938年12月7日初飛行、1940年から部隊配備。総生産機数は271機である。スウェーデン空軍は、第二次大戦の勃発した時期、空軍強化のため、イタリアからCa.313など軍用機を率先して輸入、部隊配備した。
1939年12月22日初飛行のカプローニ(Caproni)CA 313も、チェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)の設計になり、の設計である。高性能とは言えないが、少ない経費で271機が量産された。また、スウェーデン、ノルウェー、ベルギー、クロアチアは、カプローニ(Caproni)Ca.312/Ca.313を輸入して、部隊配備した。
第二次世界大戦勃発3か月後、1939年12月22日初飛行のカプローニ(Caproni)CA 313(スウェーデン空軍 S 16)軽爆撃機は、イソッタ(Isotta Fraschini)デルタ(Delta)R.C.35 I-DS空冷倒立エンジン 545 kW (730 hp)2基搭載、最高速力430 km/h (268 mph, 233 kn)、航続距離 1,700 km (1,050 mi, 910 nmi)、実用上昇限度 8,500 m (27,880 ft)、7.7ミリ(.303 in) ブレダ(Breda-SAFAT)機関銃3丁、爆弾搭載量 400 kg (882 lb)。
⇒写真集Album:カプローニ(Caproni)Ca. 313偵察爆撃機を見る。
10.カプローニ(Caproni)Ca.314 攻撃機
写真(右)1941-1943年頃,イタリア、イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca. 314 攻撃機:段有りガラス風防コックピットの対地攻撃機・襲撃仕様。 Caproni Ca 314
Manufacturer: Caproni
Designation: Ca 314. 写真は, SDASM Archives
Catalog #: 00076703引用。
イタリア空軍カプローニ(Caproni)Ca. 310小型爆撃機の最終型となったCa.314は、チェザーレ・パラビシーノ(Cesare Pallavicino)の設計になるが、エンジン出力向上がほとんどなかったため、総重量増加に伴って飛行性能は低下した。その多くが地上攻撃機・襲撃機として使用されたが、航空魚雷を搭載した雷撃型が作られている。
カプローニ(Caproni)Ca.314 攻撃機の諸元
乗員Crew: 3名
全長Length: 11.8 m (38 ft 9 in)
全幅Wingspan: 16.65 m (54 ft 8 in)
全高Height: 3.7 m (12 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 39.2 m2 (422 sq ft)
空虚重量Empty weight: 4,560 kg (10,053 lb)
総重量Gross weight: 6,620 kg (14,595 lb)
発動機Powerplant: イソッタ・フラスキーニ デルタ(Isotta-Fraschini Delta )R.C.25 (I-DS) 倒立V型12気筒空冷エンジン 540 kW (724 hp) 2基
性能Performance
最高速力Maximum speed: 395 km/h (245 mph, 213 kn)
航続距離Range: 1,690 km (1,050 mi, 910 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 6,400 m (21,000 ft)
武装Armament
2 × 12.7 mm (0.500 in) 前方固定ブレダ(Breda SAFAT)機関銃(主翼付け根)、1 × 7.7 mm (0.303 in) ブレダ(Breda SAFAT)機関銃回転銃塔
爆弾搭載量: 500 kg (1,100 lb)
⇒写真集Album:カプローニ(Caproni) Ca.314偵察爆撃機を見る。
11.カプローニ(Caproni)Ca. 316 水上機
写真(上)1942年,イタリア空軍カプローニ(Caproni) CA.316水上偵察機とカント(CANT)Z.506水上偵察機(左右の奥に各1機);1937年2月20日初飛行のCa.310の水上機仕様Ca.310 Idroを原型として、CA.316は1940年8月14日初飛行。生産機数 14機のみ。写真は, MINISTERO DELL' AERONAUTICA Coletti’s Combat Aircraft ANNO 1942 - XX F. E.引用。
カプローニ(Caproni) CA.316水上偵察機は、ピアッジョ(Piaggio)ステラ(Stella) P.VII C.16/35空冷星形9気筒(cylinder)エンジン350 kW (470 hp)2基装備で、最大離昇重量 4,650 kg (10,251 lb)、最高速力365 km/h (227 mph, 197 kn)、航続距離 1,690 km (1,050 mi, 910 nmi)の性能だった。
原型のカプローニ(Caproni)Ca.310陸上機は、1937年2月20日初飛行、1938年部隊配備。生産機数 312機。このCa.310の水上機仕様Ca.310 Idroを原型として、CA.316は1940年8月14日初飛行した。しかし、戦局悪化の中で、低性能の水上機は制式されず、生産機数は14機のみで終わった。
⇒写真集Album:カプローニ(Caproni)Ca. 316 水上機を見る。
12.サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.79三発爆撃機
サボイア・マルケッティSM-79(Savoia Marchetti SM.79)三発爆撃機の諸元
初飛行:1934年9月28日 乗員Crew: 6名
全長Length: 16.2 m 全幅Wingspan: 20.2 m 全高Height: 4.1 m 主翼面積Wing area: 61.7 m2 空虚重量Empty weight: 7,700 kg (16,976 lb) 総重量Gross weight: 10,050 kg (22,156 lb)
発動機Powerplant: 空冷星形9気筒アルファロメオ(Alfa)128 R.C.18 エンジン 860馬力(642 kW)
最高速力Maximum speed: 460 km/h (290 mph, 250 kn)/高度3,790 m (12,430 ft)
航続距離Range: 2,600 km (1,600 mi, 1,400 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,500 m (24,600 ft)
上昇率Rate of climb: 5.3 m/s (1,040 ft/min)
防御用火器Guns: 12.7 ミリ (0.5 in) ブレダ(Breda-SAFAT)前方固定機関銃1丁(コックピット上部) 12.7ミリ(0.5 in)ブレダ(Breda-SAFAT)旋回機関銃2丁(後上方・後下方)
7.7 ミリ (0.303 in)機関銃2丁(胴体左右側方)
爆弾Bombs: 爆弾倉 1,200 kg (2,645 lb)
あるいは胴体下面: 45センチ航空魚雷1-2本
生産期間:1936-1943年
総生産機数: 1218機
⇒写真集Album:サボイアマルケッティSM-79三発爆撃機を見る。
13.サボイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84三発爆撃機
写真(右)1941-1942年頃、イタリア、イタリア空軍サヴォア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84三発爆撃機:ファシスト独裁国家イタリアの国籍マークは、主翼上面と下面にファッシ(束ねた武器)、垂直尾翼にイタリア軍の国籍マークは、イタリアの第二次世界大戦参戦前には緑・白・赤の三色旗の三色旗を描いていたが、参戦後に白十字に塗り替えている。SM.84は雷撃機として、胴体下面に航空魚雷を搭載するもできた。性能は芳しくなかったが、実用性が高く、艦船攻撃にも成果を上げた。 Description
Italiano: Savoia-Marchetti SM.84
Date before 1950
Author Unknown author 写真はWikimedia Commons, Category:Savoia-Marchetti SM.84 File:Savoia-Marchetti SM.84 02.jpg引用。
サヴォア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84三発爆撃機はSM.79の後継機として開発された。両者の違いは、
1)SM.79のアルファ・ロメオ126 R.C.34空冷星形9気筒エンジン750hpからSM.84のピアッジョ P10 RC40 空冷14気筒エンジン1000 hpへの換装による出力強化
2)SM.79のコックピット後上方のバルジ銃座から、SM.84の12.7mmスコッチ(Scotti)/イソッタ・フラスキーニ(Isotta Fraschini)機関銃1丁装備の回転銃塔への防御兵装の強化
3)SM.79の爆弾筒からSM.84の爆弾懸架への爆弾搭載方法の変更
4)SM.79の単尾翼から、SM.84の双尾翼に変更
が大きな変更点である。
⇒写真集Album:サヴォア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機を見る。
14.フィアット(Fiat)BR.20爆撃機チコーニャ
写真(右)1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会、フィアット社セクション、イタリア空軍のフィアットBR.20爆撃機(手前の双尾翼)と奥のイタリア航空(Avio Linee Italiane :ALI)フィアット(Fiat)G. 18 V双発旅客輸送:BR.20爆撃機の主翼上面には、3本のファッシをあしらったファシスト・イタリア空軍の国籍記章が見える。BR.20の初飛行は、1936年2月10日、総生産機数は530-600機に達し、SM.79に次ぐイタリア空軍の主力爆撃機となった。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1937 - Settore italiano
Non identificato
Autore: Stabilimento Fotografico Crimella (1925/ 1975 ca.), fotografo principale
Luogo e data della ripresa: Milano (MI), Italia, 02/10/1937 - 17/10/1937
Misure: 13 x 18 写真は,LombardiaBeniCulturali Collocazione: Milano (MI), Archivio Storico Fondazione Fiera Milano, fondo Fondo Fiera campionaria, P_1937_SA_264引用。
1937年の日中戦争に日本陸軍が投入する新型爆撃機に、イタリアのフィアットBR.20爆撃機が新たに候補となった。日本人も、1937年10月2-17日,イタリア、ミラノ・航空展示会のフィアット社セクションを訪問してフィアットBR.20爆撃機の実機を見たはずだ。そして、この展示会は、イタリア航空機の輸出見本市だったのである。こうして、日本はこの新型爆撃機を100機近く輸入することになったが、これは、フィアット(Fiat)BR.20チコーニャ初期型で、機首に大型銃座が設けられていた。
⇒写真集Album:フィアット(Fiat)BR.20を見る。
15.カント(CANT)Z.1007アルシオーネ (Alcione)爆撃機
写真(上)1943年5月,イタリア(?)、ファシスト・イタリア空軍カント(CANT)Z.1007 bisアルシオーネ (Alcione)三発爆撃機;垂直尾翼には、イタリアの第二次世界大戦参戦後の国籍マークとして、イタリア三色旗トルコローレの国籍記章からとった白十字が描かれている。
Photograph Curator
80-G-64147: Italian bomber, Cant Z, 1007 Bis, May 1943. Official U.S. Navy Photograph, now in the collections of the National Archives. (2016/09/13). Author National Museum of the U.S. Navy 写真はNational Museum of U.S. Navy., Photograph Curator 80-G-64147引用。
カントCANT Z.1007bis爆撃機の諸元
乗員rew: 5名
全長Length: 18.35 m (60 ft 2 in)
全幅Wingspan: 24.8 m (81 ft 4 in)
全高Height: 5.22 m (17 ft 2 in)
主翼面積Wing area: 70 m2 (750 sq ft)
空虚重量Empty weight: 9,396 kg (20,715 lb)
最大離陸重量Max takeoff weight: 13,621 kg (30,029 lb)
発動機Powerplant: ピアジオ(Piaggio) P.XI R.C.40空冷星形14気筒エンジン745 kW (999 hp)2基
性能Performance
最高速力Maximum speed: 458 km/h (285 mph, 247 kn)
巡行速力Cruise speed: 338 km/h (210 mph, 183 kn)
航続距離Range: 1,795 km (1,115 mi, 969 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 7,500 m (24,600 ft)
兵装Armament 12.7 mm (0.5 in) イソッタ=スコッチ(Isotta-Fraschini Scotti)機関銃あるいは12.7 mm (0.5 in)ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃2丁 7.7 mm (0.303 in) ブレダ(Breda)-SAFAT機関銃2丁
爆弾搭載量Bombs: 1,200 kg (2,645 lb)あるいは1,000 kg (2,200 lb)爆弾1発(外装)
最大:2,200 kg (4,900 lb) 爆弾倉と外装の合計.
45cm(17.7 in) 800 kg (1,800 lb)魚雷2本.
生産期間:1938–1943年. 生産機数:660機
⇒写真集Album:カント(CANT)Z.1007アルシオーネ (Alcione)爆撃機を見る。
16.ピアッジョ(Piaggio)P.108重爆撃機
ピアッジョ(Piaggio)P.108 B 重爆撃機の諸元
初飛行:1939年11月24日 実戦投入:1942年
乗員 6名
全長:22.92 m
全幅:32.00 m
全高:7.70 m
主翼面積:135.54 m2
全備重量:29,885 kg
エンジン:ピアッジョ(Piaggio) P.XII RC.35 空冷星型18気筒空冷エンジン 1,350 hp 4基
プロペラ:3翅 定速回転プロペラ
生産機数:37機
ピアッジョ(Piaggio) P.108 B 重爆撃機の性能
最高速力:420 km/h/高度3,900m
航続距離:3,520 km
実用上限高度:6,000 m
上昇率:2,000 m/10'00”
武装 12.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃6丁 7.7mmブレダ(Breda-SAFAT)機関銃2丁 爆弾搭載量 3,500 kg
⇒写真集Album:ピアッジョ(Piaggio)P.108重爆撃機を見る。
17.マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
イタリア空軍マッキ(Macchi)MC200サエッタ(Saetta)戦闘機の試作機は、第二次大戦勃発2年前の1937年12月24日に初飛行し、1939年8月より部隊配備された運動性のいい軽戦闘機である。
マッキ(Macchi)MC.200サエッタの諸元
乗員:1名 全長:8.19m
全幅:10.57m
全高:3.51m
翼面積:16.8m2
発動機:フィアット A74RC38空冷星型14気筒870hp
全備重量:2,208kg
最大速度:512km/h
航続距離:870km
武装:12.7mm機銃2丁
⇒写真集Album:マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機を見る。
18.マッキ(Macchi)MC.202"Folgore"戦闘機
マッキ(Macchi)MC-202フォルゴーレ"Folgore"戦闘機(Macchi MC-202)の諸元 乗員:1名
生産数:1 150機
全長:8.85 m 全幅:10.58 m 全高:3.49 m 翼面積:16.82 m² 重量
空虚重量:2,491 kg
最大離陸重量:2,930 kg
発動機 アルファロメオ(Alfa Romeo)RA.1000 R.C.41-I Monsone液冷V-12気筒エンジン1,175 hp
最高速力:595 km/h / 5600 m 航続距離:765 km
実用上昇限度:11,500 m 12.7ミリBreda-SAFAT 機関銃2丁(各360発)、7.7ミリBreda-SAFAT 機関銃2丁(各500発)
160kg爆弾 ×2
⇒写真集Album:マッキ(Macchi)MC.202フォルゴーレ戦闘機を見る。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics ⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏 ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler ⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒アンネの日記とユダヤ人 ⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
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