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◆ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
写真(上)1943年秋、ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129 B-1地上攻撃機
機関車メーカーとして有名なヘンシェル社が開発した近距離対地上攻撃機で、1939年5月25日に初飛行している。しかし、大戦勃発当初、急降下爆撃機による地上攻撃で十分に戦果を挙げていたために、その後、地上攻撃機の開発は停滞したまま、1940年6月に少数が生産されただけだった。しかし、1941年6月に東部戦線が勃発し、ソ連戦車の重装甲を打ち破る攻撃機が求められ、Hs129が武装強化の上量産されることとなり、1942年春から東部戦線に投入された。生産機数は865機で、大戦後期には、対戦車地上襲撃機は、Ju87急降下爆撃機(3.7センチ砲搭載型)、Fw190F地上襲撃機にとって代わられていたために、目立った活躍はしていないようだ。
SDASM Archives Henschel, HS 129 Catalog #: 01_00081354 Title: Henschel, HS 129 Corporation Name: Henschel Additional Information: Germany
写真はSan Diego Air and Space Museum Archive SDASM Archives・Catalog #: 01_00081354引用。


写真(上)1946年8月5日、アメリカ、フリーマン飛行場、鹵獲されたドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf )Hs 129B地上攻撃機(製造番号:Wk.Nr. 0385)
朝鮮戦線中にスクラップにされ、機首の部分だけ保管されている。大戦末期には、ソ連空軍に制空権を奪われることが多くなり、活躍の場はなくなっていた。
A captured German Henschel Hs 129B (Wk.Nr. 0385) at Freeman Army Airfield, Indiana, in 1946. It was allotted for storage at Davis-Monthan AFB, Arizona (USA) but had to be force-landed at Gallatin, Tennessee, on 24 July 1946 while being ferried to Davis-Monthan. The aircraft ran out of fuel due to suspected tank leakage and was slightly damaged during the subsequent forced landing. It was taken to No. 803 Special Depot (Orchard Place) on 5 August 1946. When the storage depot was required for other purposed during the Korean War, FE-4600 was put up for disposal as scrap. Only the nose section was saved from a scrap yard. Date 1946 Source U.S. Air Force photo [1] available at Indianamilitary.org Author Earl L. Ware (USAAF), Base Photographer Freeman Field
写真はWikimedia Commons, Category:Henschel Hs 129・File:Captured Hs 129B at Freeman Field (front) 1946.JPG引用。

◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、WW2も詳解しました。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールを検討。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。

写真(右)1935年2月9-10日,ドイツ、ドレスデン、航空省大臣ヘルマン・ゲーリング兼プロイセン州首相:ナチ党独裁政権下なので、突撃隊の制服を着用した高官も揃っている。
Borchert, Christian: Empfang des Ministerpräsidenten Herrmann Göring am Hauptbahnhof (Szene aus dem Dokumentarfilm "Ministerpräsident Göring besucht Dresden"), 1935.02.09/1935.02.10
SLUB / Deutsche Fotothek ・Aufn.-Nr.: df_bo-pos-10_0000042引用。


ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring:1893-1946)は,ナチ党,突撃隊として,1923年のミュンヘン一揆に参加,銃撃によって負傷した。1932年7月31日の総選挙でナチ党が第一党になり,ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)が国会議長に就任。
1933年1月30日、ヒンデンブルク大統領がヒトラーを首相に任命したことに伴い,ゲーリングはヒトラー内閣の無任所相,プロイセン州内相となった。
1935年3月の再軍備宣言によって新設された空軍の総司令官に就任。

ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1936年に中佐としてスペイン内戦に「コンドル軍団」の義勇兵として参戦し、1937年4月のゲルニカ空襲を指揮したコンドル軍団の参謀となった。1937年10月、スペインから帰還するも、1938年11月に少将として、コンドル軍団長として再度スペイン内戦に参戦。1939年5月、コンドル軍団は、ドイツに凱旋した。

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相チェンバレンは,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイムに英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィクにも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィクを撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日に、チャーチル(Winston Churchill)がイギリス首相に就任した。

⇒写真集:ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を見る。

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring): 第一次世界大戦末期, ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)は英雄だった。1914年から志願兵となり第一次大戦に参加し,空軍に入隊し航空兵となった。1916年からは戦闘機パーロットとして活躍,22機を撃墜。大戦末期の1918年6月2日,皇帝ヴィルヘルム2世から最高勲章プール・ル・メリット授与,「リヒトーホーフェン大隊」指揮官に就任。しかし,半年後に敗戦。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェンは、1938年11月、少将として、コンドル軍団長としてスペイン内戦に二度目の派兵。1939年5月に、コンドル軍団は凱旋、ドイツに帰国した。
1911年5月13日、士官候補生、1914年1月20日、少尉、1916年8月18日、中尉、1920年6月8日、名誉階級大尉、1933年8月30日、名誉階級歩兵大将、1935年5月21日、空軍大将、1936年4月20日、上級大将、1938年2月4日、元帥、1940年7月19日、国家元帥
1923年3月1日、SA最高指導者、1931年12月18日、SA中将、1933年1月1日、SA大将


ドイツ空軍は,フランス侵攻には、アルベルト・ケッセリング将軍の第二航空軍,フーゴー・シュペルレ将軍の第三航空軍をあて,そこに双発爆撃機1120機,単発Ju-87急降下爆撃機シュツーカ342機,複葉Hs-123襲撃機42機,単発Me-109戦闘機1016機,双発Me-110戦闘機248機を配備した。1940年5月10日0430,ケルン郊外の航空基地をユンカースJu-52輸送機41機が離陸,輸送機は各々1機のDFS-230グライダーを曳航していた。グライダーには,1機当たり8-12人の降下猟兵(空挺隊員)が搭乗していた。このドイツ空軍の空挺部隊が,ベルギーのマース川の要衝マーストリヒト近くのエバン・エマール要塞に降下し,ベルギー兵士1200人の守備していた近代的な要塞を,その日のうちに攻略した。

1940年5月14日、ドイツの第54,第57爆撃航空団ハインケルHe111爆撃機100機は,停戦交渉中だったにもかかわらず,ロッテルダムを爆撃した。ウィストン・チャーチル首相は、1940年5月26日1857,大陸よりの英軍救出命令ダイナモ作戦(Operation Dynamo)を発動。ダイナモ作戦第一日の夕方まで,連合軍将兵7669名が救出され,5月28日だけで,1万7804人が救出された。5月29日には,4万7310名が後送,5月30日には5万3823人が大陸を去った。うちフランス兵氏は1万4874人だった。5月31日は,6万8014人が,6月1日には6万4429人が英本土に戻ることができた。敗退するフランス軍を前に、フランス政府では和平派(終戦派)が主導権をにぎった。

1940年5月20日,フランスでは、レノー内閣が改造され、副首相に第一次世界大戦の英雄フィリップ・ペタン元帥が就任した。1940年5月15日オランダ降伏、5月28日ベルギー降伏と続き、6月10日にはパリが無防備都市を宣言した。このとき、ムッソリーニ統領の指導するイタリアも、南フランスを攻撃した。6月14日、パリにドイツ軍が無血入城した。 独仏戦では,フランス軍は、死者10万人、負傷者12万人、捕虜150万人の損害を出した。他方,ドイツ軍は,死者4万人,負傷者15万人だった。

フランス休戦の場所として、アドルフ・ヒトラーは、第一次大戦のドイツ休戦が調印されたのと同じコンピエーニュの森を指定した。コンピエーニュには、ドイツ降伏調印を行ったのと同じ食堂列車をフランスの博物館から引き出し据え付けて、そこで行った。フランス勝利の記念碑もコンピエーニュにあったが、それも爆破された。第一次世界大戦の敗戦の雪辱を晴らした思いは、第一次大戦の戦闘機エースのヘルマン・ゲーリングも同じであったろう。

フランス休戦は、1.フランス国土の北部5分の3をドイツ軍政下に置く、2.フランス軍の武装解除、3大西洋側の港湾をドイツに引き渡す、4.フランス艦船の行動停止、5亡命者の引渡し、6.フランスによる占領経費の負担、という条件で認められた。

1940年6月のフランス降伏で,ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)は、元帥より上位の国家元帥に昇進。1940年8月以降の英国本土航空決戦は失敗に終わったが,1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」では東部戦線に兵力を集中させ,奇襲に成功,大戦果を挙げた。
1942-1943年冬,スターリングラード空輸を請合ったが,失敗。1944年以降のドイツ本土防空戦でも,大損害を被った。

1940年6月にフランスを降伏させ勝利したという大功績によって、元帥より上の国家元帥の称号を得たゲーリング空軍総司令官だったが、イギリス本土航空決戦で,痛手を被った。1941年6月22日、ソ連侵攻「バルバロッサ作戦」のために,東部戦線に兵力を集中させて時期だった。
ゲーリングは,1942年冬のスターリングラード空輸を請合って失敗し,1943年からのドイツ本土防空戦でも,大損害を被った。ゲーリングの成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。緒戦でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説を根拠に,自らを後継者として自認していたとすれば,状況は大きく変わっていた。

ヘルマン・ゲーリングHermann Göring)の成功は,緒戦に限られたために,戦争末期には,ゲーリング国家元帥の権威は地に落ちていた。
1939年9月,ポーランド侵攻緒戦の国会演説でヒトラーが「私が倒れたらゲーリングが続く」といった演説、その後の1941年6月29日の法令を根拠に,自らを後継者として自認していた。これを元に,1945年4月23日のベルリン攻防戦の最中に、ゲーリングはヒトラーに対して、連絡が取れなくなった場合、自分がドイツの最高指導者の地位を引き継ぎたいと電文を発した。しかし、ヒトラーは、これをゲーリングンの裏切りと感じ、激怒してゲーリングの公職追放・監禁を命じた。


1.ヘンシェル(Henschel) Hs 129地上攻撃機

写真(右)1936年頃,ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129B-1地上攻撃機:低翼式主翼、引込み式降着装置は備えているが、搭載したエンジンは、占領したフランスで製造されたノーム・ローン社の低馬力のエンジンだったために、速度は遅かった。
SDASM Archives Henschel, Hs 129B-1 PictionID: 44219192 - Title:Henschel, Hs 129B-1 - Catalog: 16_005354 - Filename: 16_005354.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation
写真はSDASM Archives・Catalog:16_005354 引用(他引用不許可)。

写真(右)1936年頃,ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel)Hs 129B地上攻撃機:小型の機体には重装甲を施して、乗員に対する防弾に配慮したが、攻撃用火力は当初20ミリ機関銃であり、限定的だった。
SDASM Archives Henschel, Hs 129B Salo print PictionID: 44219180 - Title: Henschel, Hs 129B Salo print - Catalog: 16_005353 - Filename: 16_005353.TIF
写真はSDASM Archives・PictionID:44219180 引用(他引用不許可)。

ヘンシェル(Henschel)Hs 129地上攻撃機の初の量産型は、Hs129B-0で、A型の搭載したアルグスAs.410空冷星形エンジン(465馬力)2基をフランス製ノーム・ローン14M空冷14気筒エンジン2基に換装強化し、飛行性能を向上した型である。エンジンナセルは、新設計され、主食前縁を胴体と直角に配置し、方向舵に電動トリムタブを採用している。

写真(右)1936年頃,ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機:小型の機体には重装甲を施して、乗員に対する防弾に配慮したが、視界はその分制限された
SDASM Archives Henschel, Hs 129 PictionID: 44219167 - Title: Henschel, Hs 129 - Catalog: 16_005352 - Filename: 16_005352.TIF
写真はSDASM Archives・Catalog:16_005352 引用(他引用不許可)。

ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機は、敵戦車を上空から攻撃し、装甲を撃破する「空飛ぶ缶切」の愛称が付けられた。1942年、北アフリカ戦線に第2地上襲撃航空団が派遣されたが、砂漠の砂塵でエンジン故障が頻発し、稼働率が低くなり、目立った活躍はできなかった。1943年夏のツィタデレ作戦(クルスク戦車戦)では、第1・第2地上襲撃航空団のHs 129が参加し戦果を挙げたという。

写真(右)1936年頃,ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機:小型の機体には重装甲を施して、乗員に対する防弾に配慮したが、視界はその分制限された
Henschel, HS 129 Catalog #: 01_00081355 Title: Henschel, HS 129 Corporation Name: Henschel
写真はSDASM Archives・Catalog #: 01_00081355引用(他引用不許可)。

ヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機の当初の武装は、コックピット両側胴体側面に7.92ミリ機関銃2丁、20ミリ機関銃2丁で、一人乗りのために、後方旋回機銃はない。また、当初搭載されていたアルグス空冷倒立As.410A-1エンジン(465馬力)2基では、総重量5トンの飛行機の性能は低くなった。運動性が鈍くなれば、地上攻撃にもふてkィ手あり、Hs129A地上攻撃機は失敗作で量産されなかった。

写真(右)1936年頃,ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機:小型の機体には重装甲を施して、乗員に対する防弾に配慮したが、視界はその分制限された
Ray Wagner Collection Image PictionID: 43936686 - Catalog: 16_005349 - Title:Henschel Hs 129B-2 Nowarra photo - Filename: 16_005349.TIF
写真はSDASM Archives・Catalog:16_005349引用(他引用不許可)。

Hs129地上攻撃機の胴体は、重装甲のために装甲する胴体容積を縮小することが求められた。そのために、1人乗りとされ操縦席の空間も狭くなった。胴体は正面から見ると三角断面で、機体上方の狭く絞っていることが分かる。これは、重装甲を施すには都合が良かったが、大柄なドイツ人にはコクピットが狭すぎ、居住性が悪くなったほか、視界も制限されることになった。射撃照準器を風防買いに据え付けたことで、解像度が低下し、照準器の調整・整備も困難になった。分厚い防弾ガラスは、防弾効果はあったが、前方視界も制限された。

写真(右)東部戦線(?)、エンジンカウリングを外して整備中のドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129地上攻撃機
Henschel, HS 129 Catalog #: 01_00081352 Title: Henschel, HS 129 Corporation Name: Henschel Additional Information: Germany
写真はSDASM Archives・Catalog #: 01_00081352引用(他引用不許可)。

1940年末、実用試験が行われたHs129地上攻撃機は、アルグス空冷倒立エンジンの出力不足による飛行性能の低さから、実用的でなく、空軍省はHs129A-0の量産を断念した。wikipediaは「すでに第二次世界大戦が勃発しており地上襲撃用機の部隊も編成され、専用の装備機体が早急に求められる状況となっていた。ヘンシェル社としては設計を改めた新型機の試作を提案したが、その時間的余裕を空軍省は許さず、現設計を改良することを命じられた」とあるが之は誤解である。

第二次大戦当初、フランスを下したドイツ空軍は、イギリス本土空襲に力を注いでおり、地上襲撃機の開発は後回しにされていた。実は、対ソ侵攻も計画されていたが、まだ戦車を空中から攻撃する発想は生まれておらず、Hs129が戦車攻撃機として開発されるのは、独ソ戦で強力なソ連赤軍戦車に直面した後だった。

写真(右)東部戦線(?)、エンジンカウリングを外して整備中のドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129地上攻撃機:当初、連取機用に量産れれていたアルグス空冷倒立エンジン2基を装備していたが、出力不足で、飛行性のガ芳しくなかった。そこで、1940年6月に占領下したフランスのノーム・ローン社14M空冷14気筒エンジン(700馬力)を搭載することとし、これをHs129Bと命名して、エンジンナセル周りやコクピットの形状を変更し、性能を向上させた。
Henschel, HS 129 Catalog #: 01_00081353 Title: Henschel, HS 129 Corporation Name: Henschel Additional Information: Germany
写真はSDASM Archives・Catalog #: 01_00081353引用(他引用不許可)。

写真(右)東部戦線(?)、エンジンカウリングを外して整備中のドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129地上攻撃機:Hs129は当初から重装甲の対地攻撃専用機として開発されのは、ソ連空軍の地上攻撃機 Il-2 「シュトゥルモヴィーク」と同じであるが、搭載したエンジンが非力であり、双発としたことで運動性能も低下してる。そのため、ドイツ空軍のHs129の性能も実績も、ソ連空軍Il-2に足元にも及ばない。そもそもHs129地上攻撃機は、生産機数が桁違いに少なかった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:44219153 - Catalog:16_005351 - Title:Henschel, Hs 129A - Filename:16_005351.TIF
写真はSDASM Archives・Catalog:16_005351引用(他引用不許可)。


写真(右):1940年頃,ソビエト連邦、東部戦線、着陸に失敗したのか、横倒しになったドイツ空軍ヘンシェルHs 129 地上攻撃機:冬季迷彩の雪解け模様で塗装されている。
Beschreibung: 2. Weltkrieg. Sowjetunion, bei Moskau. Abgeschossenes deutsches Schlachtflugzeug Henschel Hs 129 B Location: Sowjetunion (Aufnahmezeitpunkt)
写真は, Deutsche Fotothek Foto: Tjomin, Viktor, 1941.12 Aufn.-Nr.: df_ hauptkatalog _0036163引用。


アルグスAs.410空冷エンジン装備のドイツ空軍ユンカースHs 129A地上襲撃機は、急降下爆撃は行わないのでダイブブレーキはない。胴体側面に前方固定武装20ミリMG 151/20機関銃2丁、7.92ミリMG17機関銃2丁。しかし、へンシェル(Henschel)Hs129A型が装備したアルグスエンジンでは出力不足だった為、採用にならなかった。次のB型ではフランス占領後に接収したグノームローム社製造の空冷星形エンジンを搭載したのがB型である。

写真(右)1942年頃,ドイツ、東部戦線のソビエト赤軍地上部隊を攻撃するのに投入されたドイツ空軍ヘンシェルHs129地上襲撃機B型:ヘンシェル129B地上襲撃機は、機体小型化のために、射撃用照準器はガラス風防コクピット前面の使途側に露出し配置しているが、これは操縦室の空間を狭くして、その分、防御装甲を強化するためである。 当初のへンシェル(Henschel)Hs129A型が装備したアルグスエンジンでは出力不足だった為、フランス占領後に接収したグノームローム社製造の空冷星形エンジンを搭載したのがB型である。
Beeldnummer 325 Collectie NIOD Trefwoorden Luftwaffe, Piloten, Gevechtsvliegtuigen, Vliegtuigen, Duitse strijdkrachten Locatie Naam: Federal Republic of Germany Land: Germany
Bijschrift Driemal im Bericht des Oberkammandos der Wehrmacht genannt. Hauptman Ruffer, der für seine Erfolge als fliegender Panzerjäger (72 Abschüsse) mit dem Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes ausgezeichnet wurde, kurz nach Beendigung eines Feindfluges vor seiner Hs. 129.
Type Foto Vervaardiger PK-Berichter Aubele Voeg reactie toe.
写真は,Beeldbank WO2 ,Beeldnummer 175引用。


写真(右)1943年5月、北アフリカ、チュニジア、アメリカ軍兵士が放棄されたドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機を検分している。:胴体側方に大きなふくらみがあり、そこに30ミリ機関砲を装備して、対戦車攻撃を行った。北アフリカ戦線では、砂塵の舞う砂漠であり、それにふさわしいい大褐色と茶色の迷彩塗装を施している。ノームローン空冷エンジンは破壊され、主翼の先端部分もない状態。後方には、ユンカースJu87急降下爆撃機の尾翼残骸が見える。
Title: [Untitled] Date Created/Published: [between 1935 and 1945] Medium: 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller. Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32469 (digital file from original neg.) LC-USW3-036341-E (b&w film nitrate neg.) Rights Advisory: No known restrictions. For information, see U.S. Farm Security Administration/Office of War Information Black & White Photographs(http://www.loc.gov/rr/print/res/071_fsab.html) Call Number: LC-USW3- 036341-E [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print Notes: To identify this image it may help to search for images that have neighboring call numbers, are similar in appearance, and have titles. There was no caption for this image in the FSA/OWI shelflist. Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944. More information about the FSA/OWI Collection is available at http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.fsaowi Temp. note: owibatch5 Film copy on SIS roll 15, frame 1251. Format: Nitrate negatives. Collections: Farm Security Administration/Office of War Information Black-and-White Negatives
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog・Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32469 引用。


1942年、エジプト国境、エル・アラメインの戦いで敗退したドイツ・イタリア枢軸軍は、アメリカ・イギリス連合軍による1942年11月8日のトーチ作戦によって、モロッコ、アルジェリア上陸によって背後を襲われた。また、1943年1月23日、イギリス軍バーナード・モントゴメリー大将隷下の第8軍は、枢軸軍の拠点トリポリを攻略、枢軸軍はリビアを抜けて、補給しやすいチュニジアに撤退した。しかし、イギリス軍はチュニジアに最も近いマルタ島の空軍基地を使って、イタリアからチュニジアへの補給を絶った。そして、チュニジアの枢軸軍を孤立化させた。

写真(右)1943年5月、北アフリカ、チュニジア、アメリカ軍兵士が放棄されたドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機D-1/-2を検分している。:胴体側方に大きなふくらみがあり、そこに30ミリ機関砲を装備して、対戦車攻撃を行った。北アフリカ戦線では、砂塵の舞う砂漠であり、それにふさわしいい大褐色と茶色の迷彩塗装を施している。ノームローン空冷エンジンは破壊され、主翼の先端部分もない状態。後方には、ユンカースJu87急降下爆撃機の尾翼残骸が見える。
Tunis, Tunisia. Wrecked German planes at El Aouiana airport Damaged German Henschel Hs 129B of 5.(Pz)/ Schlacht-geschwader 1 at El Aouiana airport, Tunis, Tunisia, in May 1943. In the background is a wreck of an Messerschmitt Me 323D-1/-2 Gigant transport. Date May 1943 Date Created/Published: [between 1935 and 1945] Medium: 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller. Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32469 (digital file from original neg.) LC-USW3-036341-E (b&w film nitrate neg.) Rights Advisory: No known restrictions. For information, see U.S. Farm Security Administration/Office of War Information Black & White Photographs(http://www.loc.gov/rr/print/res/071_fsab.html) Call Number: LC-USW3- 036341-E [P&P]
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog・Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32468引用。

1943年1月末、エルヴィン・ロンメル隷下のドイツ軍は、アルニムと共闘し、連合国軍に対する攻勢を企画し、2月中旬、カセリーヌ峠の戦いで防衛戦を構築した。3月中旬、チュニジア戦線の戦況報告のためにヒトラーの元に出向いたロンメルは、アフリカに戻ることを許されず、チュニジア戦線の指揮はアルニムに委ねられた。連合国軍はチュニジア北部の港湾チュニスに向けて攻撃を強め、マルタ島のイギリス空軍によって、枢軸国軍の補給を絶ち切った。1943年5月7日、アメリカ軍がビゼルト、イギリス軍がチュニスに突入したことで、チュニジア戦線の枢軸軍は、5月13日には全面的に降伏した。北アフリカ戦線で降伏して捕虜となった枢軸国軍は 27万人と膨大であり、これは3ヶ月前にソ連スターリングラードの敗戦時の2倍以上の規模だった。

写真(右)1943年5月、北アフリカ、チュニジア、西側連合軍が占領したドイツ空軍飛行場に放置されていたヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機、ユンカースJu52輸送機の主輪・水平尾翼の昇降舵:胴体側方に大きなふくらみがあり、そこに30ミリ機関砲を装備して、対戦車攻撃を行った。北アフリカ戦線では、砂塵の舞う砂漠であり、それにふさわしいい大褐色と茶色の迷彩塗装を施している。ノームローン空冷エンジンは破壊され、主翼の先端部分もない状態。後方には、ユンカースJu87急降下爆撃機の尾翼残骸が見える。
Title: [Untitled] Date Created/Published: [between 1935 and 1945] Medium: 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller. Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32472 (digital file from original neg.) LC-USW3-036344-E (b&w film nitrate neg.) Rights Advisory: No known restrictions. For information, see U.S. Farm Security Administration/Office of War Information Black & White Photographs(http://www.loc.gov/rr/print/res/071_fsab.html) Call Number: LC-USW3- 036344-E [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print Temp. note: owibatch5 Film copy on SIS roll 15, frame 1254.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog・Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32472引用。


写真(右)1943年5月、北アフリカ、チュニジア、アメリカ軍兵士が放棄されたドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機を検分している。:胴体側方に大きなふくらみがあり、そこに30ミリ機関砲を装備して、対戦車攻撃を行った。北アフリカ戦線では、砂塵の舞う砂漠であり、それにふさわしいい大褐色と茶色の迷彩塗装を施している。ノームローン空冷エンジンは破壊され、主翼の先端部分もない状態。後方には、ユンカースJu87急降下爆撃機の尾翼残骸が見える。
Title: Tunis, Tunisia. Wrecked German planes at El Aouiana airport Creator(s): Collins, Marjory, 1912-1985, photographer Date Created/Published: 1943 June? Medium: 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller. Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32484 (digital file from original neg.) LC-USW3-036356-E (b&w film nitrate neg.) Rights Advisory: No known restrictions. For information, see U.S. Farm Security Administration/Office of War Information Black & White Photographs(http://www.loc.gov/rr/print/res/071_fsab.html) Call Number: LC-USW3- 036356-E [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print Notes: Title and other information from caption card. Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944. More information about the FSA/OWI Collection is available at http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.fsaowi Temp. note: owibatch5 Film copy on SIS roll 15, frame 1266. Subjects: Tunisia--Tunis. Format: Nitrate negatives.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog・Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32484 引用。


写真(右)1943年5月、北アフリカ、チュニジア、西側連合軍に鹵獲されたドイツ空軍ヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機(左奥)、メッサーシュミットMe-323Dギガント巨人輸送機の炎上した骨組み残骸(中央奥)、ユンカースJu52/3m輸送機(右端)、ユンカースJu52搭載のBMW132空冷星形エンジンの残骸(手前):1943年5月に、チュニジアで北アフリカ戦線の枢軸軍が前面敗北した後に、飛行場を占領した西側連合軍が撮影した写真。アメリカ軍にとっては、ヨーロッパでの初勝利であるために、議会図書館のアーカイブには、ドイツ軍から奪った戦利品のように写真が掲載されている。
Damaged German Henschel Hs 129B of 5.(Pz)/Schlachtgeschwader 1 at El Aouiana airport, Tunis, Tunisia, in May 1943. In the background is a wreck of an Messerschmitt Me 323D-1/-2 Gigant transport. Date May 1943 Title: [Untitled] Date Created/Published: [between 1935 and 1945] Medium: 1 negative : nitrate ; 2 1/4 x 2 1/4 inches or smaller. Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32465 (digital file from original neg.) LC-USW3-036337-E (b&w film nitrate neg.) Rights Advisory: No known restrictions. For information, see U.S. Farm Security Administration/Office of War Information Black & White Photographs(http://www.loc.gov/rr/print/res/071_fsab.html) Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA http://hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print Notes: To identify this image it may help to search for images that have neighboring call numbers, are similar in appearance, and have titles. There was no caption for this image in the FSA/OWI shelflist. Transfer; United States. Office of War Information. Overseas Picture Division. Washington Division; 1944.
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog・Call Number: LC-USW3- 036337-E [P&P] 引用。

写真(右)1943年5月、北アフリカ、チュニジア、アメリカ軍兵士が放棄されたドイツ空軍メッサーシュミットMe323ギガント輸送機の燃え残り骨格と奥の放棄されたヘンシェル(Henschel) Hs 129B地上攻撃機:胴体側方に大きなふくらみがあり、そこに30ミリ機関砲を装備して、対戦車攻撃を行った。北アフリカ戦線では、砂塵の舞う砂漠であり、それにふさわしいい大褐色と茶色の迷彩塗装を施している。ノームローン空冷エンジンは破壊され、主翼の先端部分もない状態。後方には、ユンカースJu87急降下爆撃機の尾翼残骸が見える。
Author Marjory Collins (1912–1985)
Title Tunis, Tunisia. Wrecked German planes at El Aouiana airport
Description English: Wrecked German planes at El Aouiana airport, Tunis, Tunisia, in May 1943. In front lies the wing of an Junkers Ju 52/3m transport, one which is also visible in the background. The prominent structure are the remains of an Messerschmitt Me 323D Gigant transport. Behind it is a damaged Henschel Hs 129B of 5.(Pz)/Schlachtgeschwader 1 and a Focke-Wulf Fw 190A-4 (KM+EY) of III./SKG 10.
Date May 1943 Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 http:// hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print Accession number
Reproduction Number: LC-DIG-fsa-8d32473 (b&w film nitrate neg.)
Call Number: LC-USW3- 036345-E [P&P] LC-USW3-036345-E
写真はLibrary of Congress > Prints & Photographs Reading Room > Prints & Photographs Online Catalog・File:Me323D wreck TunisMay1943.jpg引用。


⇒写真集Album:メッサーシュミット(Messerschmitt)Me 323ギガント"Gigant"輸送機を見る。


2.ヘンシェル (Henschel) HS-126 近距離偵察機

写真(右)1936年頃,垂直尾翼に白帯を引き赤丸に黒のスワスチカを描いたドイツドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126近距離偵察機:ナチ党の記章をドイツ空軍機の国籍マークとして採用した。垂直尾翼には、水平尾翼を支える支柱が2本伸びているのが分かる。降着装置は、主輪も尾輪も固定式である。
SDASM Archives Henschel, HS 126
Catalog #: 01_00081350 Title: Henschel, HS 126
Corporation Name: Henschel Additional Information: Germany
写真はSDASM Archives・Catalog #: 01_00081350引用(他引用不許可)。

写真(右)1936年頃,ドイツ空軍ヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機試作機V-3:高翼式主翼、固定式降着装置という堅実な設計のヘンシェル(Henschel)Hs 126近距離偵察機の初飛行は1936年8月、試作3号機が搭載している発動機はBMW 323空冷星形エンジンだが、量産型では、より低馬力のBMW 132空冷星形エンジンに変換されている。
SDASM Archives Henschel, Hs 126V-3 with BMW 323 PictionID: 44219254 - Title: Henschel, Hs 126V-3 with BMW 323 - Catalog: 16_005359 - Filename: 16_005359.TIF
写真はSDASM Archives・PictionID:44219304 引用(他引用不許可)。

写真(右)1937-1938年頃,第二次世界大戦突入前のドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126近距離偵察機:1935年のドイツ再軍備宣言、ドイツ空軍の設立以降、尾翼に赤帯に白丸とハーケンクロイツ (Hakenkreuz:ナチ党のカギ十字)を描いた国籍マークだった。しかし、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、尾翼の赤帯と白丸のスワスチカ (Swastika:ハーケンクロイツ)は敵から発見されやすかったために廃止になり、ハーケンクロイツだけなった。
SDASM Archives Charles Daniels Collection Photo from "German Aircraft" Album Henschel Hs. 126 PictionID: 38236826 - Catalog: Array - Title: Array - Filename: 15_002339.TIF
写真はSDASM Archives・PictionID:38236826 引用(他引用不許可)。

写真(右)1939年9月、ポーランド、東部戦線,対空偽装を施しているドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126近距離偵察機( Henschel Hs 126);初飛行は1936年8月で、1942年には生産中止し、後継機のFw-189 に活躍を譲っている。全長: 10.85 m、全幅: 14.50 m、全高: 3.75m、全備重量: 3,275 kg、エンジン: BMWブラモ323A空冷9気筒 850 hp、最高速力: 356 km/h、航続距離: 720 km、兵装 7.92ミリ機銃2丁、爆弾 100 kg、乗員: 2名。
敵機に発見されないように、対空用カモフラージュした場所に隠匿しているが、ポーランド空軍の反撃は、あまりなかったようだ。しかし、1943年以降、西側連合軍がドイツ本土、占領地に空襲を掛ける時期には、この対空偽装はより厳重に徹底されることになる。13.1ミリ機銃2丁の兵装は,爆撃機を迎撃するには貧弱だった。連合軍の護衛戦闘機に対抗するには,性能はともかく,機数や燃料が足りなかった上に,パイロットも未熟練で戦力は劣っていた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-379-0015-37 Archive title: Im Osten, Polen.- Aufklärungsflugzeuge Henschel Hs 126, getarnt, in Stellung an einem Feldrand / unter den Bäumen eines Weges; KBK Lw 4 Dating: September 1939 Photographer: Rübelt Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右)1939年9月、ポーランド、東部戦線,対空偽装を施しているドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126近距離偵察機( Henschel Hs 126):パラソル翼で視界がよいことが分かる。飛行場なのか、草地なのか判然としないが、丈夫な脚と離着陸距離の短さのために、不整地に近い野戦飛行場でも使用できた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-379-0015-38 Archive title: Im Osten, Polen.- Signature: Bild 101I-379-0015-37 Archive title: Im Osten, Polen.- Aufklärungsflugzeuge Henschel Hs 126, getarnt, in Stellung an einem Feldrand / unter den Bäumen eines Weges; KBK Lw 4 Dating: September 1939 Photographer: Rübelt Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1941年7月,ドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126近距離偵察機を前にマイクロホンでインタビューする。マイクロホンは,現在のものより大きいがそれでも,実用化できたのは,少数の国だけだった。パラソル翼のヘンシェルHS-126偵察機は510機量産,大戦前半まで使用された。後継機は,フォッケウルフFw-189双発偵察機。
Sowjetunion.- Kriegsberichterstatter mit Mikrofon Piloten interviewend; PK 691 Dating: Juli 1941 Photographer: Fremke, Heinz撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラーは,1941年,独ソ戦開始後,卓上談話(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年)で,次のように述べている。

1941年10月10日ヒトラー卓上談話:「戦争は原始的な形態に戻ってきた。民族対民族の戦いは影をひそめ,広大な土地の所有権を巡る戦いが主流になってきた。----戦争は今日では,天然資源を求めて起こる。暗黙の掟によって,こうした資源は征服者のものとなる。----この絶え間のない闘争は自然淘汰の掟であり,最もふさわしい者だけが生き残る。

◆ヒトラーの第三帝国は,弱肉強食の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張した。ヒトラーは,激烈な生存闘争を生き残り,生存圏を確保するには,弱肉強食の戦争にあって,敵を殲滅する勝利が不可欠であると考えた。

1941年9月23日ヒトラー卓上談話:「ドイツ世界とスラブ世界の間には,現時いつには境界がある。それをどこに引くかはわれわれが決めることだ。ドイツ世界を東方に拡張する権利がある。------成功すれば全て正当化される。これは,経験的にいえることだ。優秀な民族が狭苦しい土地に押し込められ,文明の名に値しないものどもが,世界でも有数の広大な肥沃な土地を占めているのは許しがたい。----強者が自らの意思を主張する,これが自然の掟だ。世界は常に変わらず,その法則に支配される。

写真(右)1941-1942年冬頃,雪に覆われた飛行場に着陸しているドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126近距離偵察機:主輪カバーを外してあるのは雪が主輪カバーに詰まって、主輪が回転しなくなってしまうため。垂直尾翼には、水平尾翼を支える支柱が2本伸びているのが分かる。降着装置は、主輪も尾輪も固定式である。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:43932413 - Catalog:16_005350 - Title:Henschel Henschel Hs 126 Salo print - Filename:16_005350.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation 写真はSDASM Archives・PictionID:44219304 引用(他引用不許可)。

写真(右)1941-1942年頃,泥濘の飛行場に着陸しているドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126近距離偵察機:主輪カバーを外してあるのは雪が主輪カバーに詰まって、主輪が回転しなくなってしまうため。垂直尾翼には、水平尾翼を支える支柱が2本伸びているのが分かる。降着装置は、主輪も尾輪も固定式である。
Fotocollectie Spaarnestad Onderwerpen Reportage / Serie Duitse luchtmacht door Noord-Afrika Beschrijving Noord-Afrika. Een Duits verkenningsvliegtuig van het type Henschel Hs 126 op een door regenbuien modderig geworden vliegveld
写真はNationaal Archief, Het Genootschap voor het Nationaal Archief en Spaarnestad Photo 引用。


写真(右)1943年,イタリア戦線,ドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機:1943年には旧式で、敵の戦闘機の襲撃を受ければひとたまりもなかったはずだが、未整備の滑走路でも離着陸が可能で、前線との連絡飛行に使用されていたようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1425-11A Archive title: Italien, Sizilien.- Flugzeug Henschel Hs 126 (Seriennummer 4348) auf Feldflugplatz stehend; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Schnitzer Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ヘンシェル (Henschel) Hs-126 近距離偵察機諸元
全長: 10.85 m、全幅: 14.50 m、全高: 3.75m
全備重量: 3,275 kg
エンジン: B.M.W. ブラモ 323A-1 空冷9気筒 850 hp
最大速度: 356 km/h、航続距離: 720 km
武装 7.92mm機銃2丁、爆弾 100 kg
乗員: 2名

写真(右)1943年,南イタリア戦線、飛行場のドイツ空軍ヘンシェル (Henschel) Hs-126 距離偵察機:パラソル翼のヘンシェルHS-126は、偵察機だが、大戦後半は、低性能のために偵察任務を避けて、後方での訓練やグライダー輸送に使用された。Fw-189双発偵察機が地上部隊と協力しての偵察に当たるようになった。
Süditalien.- Mechaniker an Henschel Hs 126 (Kennung +RW; Prüfung des Hecksporns für Schleppseile?) auf Flugplatz; PK Fs AOK Depicted place Süditalien Date 1943 Photographer Stocker, Dr. Institution German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-566-1492-17A
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-566-1492-17A引用


⇒写真集Album:ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機を見る。


3.近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(ふくろう)

写真(右)1941年頃,双胴式のドイツ空軍フォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機:長距離飛行可能なロッキードP-38双発戦闘機/偵察機と同じく、双胴双発の軍用機だが、小型の近距離偵察機である。
SDASM Archives Focke-Wulf Fw 189 Catalog #: 00079300 Manufacturer: Focke-Wulf Designation: Fw 189 Official Nickname: Uhu (owl)
写真はSDASM Archives・PictionID:38235879引用(他引用不許可)。

フォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機の諸元
全長: 12.02 m 全幅: 18.39 m
全高: 3.10 m 翼面積: 38.00平方メートル
全備重量: 3,945 kg 自重: 2,800 kg
発動機: アルグス As 410A-1 空冷倒立12気筒エンジン(465 hp)2基
最高速力: 349 km/h(2600 m)
上昇限度: 7300 m
航続距離: 670 km
武装 7.92ミリ機銃 4丁、爆弾 200 kg
乗員: 3 名

写真(右)1943年初頭,ソ連,飛行場で主翼右側に50キロ爆弾2発を搭載するフォッケウルフFw-189ウーフー(Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" )近距離偵察機機首の出入り口から乗り込もうとしているドイツ空軍ケッセリング元帥
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-B13134 Original title: info Zentralbild 9222-41 / Juli 41 An der Sowjetfront. Ehemaliger Generalfeldmarschall Kesselring auf einem Feldflughafen. Archive title: Sowjetunion.- Generalfeldmarschall Albert Kesselring auf Flugzeug Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" Dating: Juli 1941 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1937年と早い時期に近距離偵察機としてフォッケウルフ社で開発されたFw 189偵察機 「 ウーフー」(ミミズク)は、双胴式でエンジンから話した機首を全面ガラス張りとして良好な視界を得ていた。この機首に3名の乗員が全員密集して搭乗したために、乗員相互の連絡も容易だった。試作機は、1938年7月に初飛行し、競争試作のブローム・ウント・フォス BV 141近距離偵察機と比較された。

フォッケウルフFw 189偵察機は、双発機であり、片方のBV141よりもエンジン被弾の場合、生還率が高いから採用されたとの説もあるが、軍用機の採択は、性能以上に信頼性(ブランド力)や政治力がものをいうのであり、フォッケウルフ社の航空産業における優位性が採用の理由であろう。

1940年から部隊配属が始まったが、本格的な活躍は、1941年6月からのソ連侵攻「バルバロッサ作戦」における地上軍部隊との直接強力である。本記の生産は、1944年までに860機が生産されたが、対地攻撃型は試作のみに終わった。

写真(右)1942年6月,東部戦線,近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟)機体後方の7.92ミリMG-81連装機銃:双発で視界が良いフォッケウルフFw-189は、地上直接協力偵察機として東部戦線で活躍した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-605-1705-17A Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug (Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" oder Blohm + Voß BV 141?), Zwillings-Maschinengewehr im Heckstand; PK KBK Lw zbV Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Kulbe Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年8月,東部戦線,近距離偵察機フォッケウルフFw-189ウーフー(梟):地上直接協力偵察機として東部戦線で活躍した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-611-2117-04 Archive title: Frankreich.- Aufklärungsflugzeug Focke-Wulf Fw 189 "Uhu" im Flug; KBK Lw zbV Dating: August 1942 Photographer: Kulbe Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


フォッケウルフFw 189偵察機は、巨大な全面ガラス張り機首で視界がよく、偵察任務に適していたため、フクロウの大きな目を思わせ。「ウーフー」(フクロウ)の愛称を付けられた。双胴式の双発機で、機首が独立していて、そこに搭乗員3名が乗るので、搭乗員相互の連絡もしやすかった。低速で敵地上空を旋回し、地上の様子を偵察し、写真を撮影した。1944年までにこの種の偵察機としては864機と多数が生産され、地上部隊との近接支援に多用された。しかし、大戦末期には、燃料の不足、熟練搭乗員の不足、連合軍航空兵力の拡充のために、このような低速で軽武装の航空機の活躍はできなくなった。

ドイツ空軍は,東部戦線に1945機を準備した。これはドイツ空軍兵力の 61%に当たる。使用可能な第一線機は,双発爆撃機510機,単発急降下爆撃機290機,単発戦闘機440機など1280機を数えた。

東部戦線には,レープ元帥の北方軍集団に第一航空軍(ケラー),ボック元帥の中央軍集団に第二航空軍(ケッセリング),ルントシュテット元帥の南方軍集団に第四航空軍(レール)を配備し,第五航空軍(シュトンプ)はオスロに本部を置いた。つまり,バルバロッサ作戦にはドイツ空軍四個航空軍を配備した。

写真(右)1943年,フィンランドあるいはノルウェー北部、近距離偵察に活躍したフォッケウルフFw-189ウーフー(梟)とそれを移動するドイツ陸軍の半装軌式牽引車(ハーフトラック):雪の積もった極冠の地でも近接支援が必要だったのか、冬季雪原用の白色迷彩塗装を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-634-3873-35 Archive title: Nord-Nordwegen/Finnland.- Flugzeug Focke-Wulf Fw 189 mit Tarnanstrich auf einem verschneiten Feldflugplatz; EinsKp Lw zbV Dating: 1943 Photographer: Hirschfelder Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年初頭,ソ連,飛行場で主翼右側に50キロ爆弾2発を搭載するフォッケウルフFw-189近距離偵察機:機首に7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Sowjetunion.- Flugzeug Focke-Wulf Fw 189auf einem Flugplatz, Anhängen von Bomben; KBK Lw 1 Dating: 1943 Anfang Photographer: Liedke Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189A近距離偵察機の後方:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Saksalainen kevyt pommikone. Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja Saksalainen kevyt pommikone. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A. Aineistotyyppi ?Valokuva Kuvaustiedot: 1943-06-10
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw-189A近距離偵察機の機首:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Lentokone on Focke-Wulf Fw 189 A.
写真は,.finna.fi/登録・引用(他引用不許可)。


1937年、ドイツ航空省は、地上部隊と連携できる近距離偵察機の開発を各社に養成し、フォッケウルフ社はそれに応じて、Fw189を開発した。Fw189の特色は、堂々指揮として、胴体から離した機首を前面ガラス張りにした視界の良さで、その形状から"Uhu” ウーフー (ミミズク)と呼ばれた。ソ連軍は、本機を「空飛ぶ額縁」と呼んだ。

写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3近距離偵察機(登録コードV7+1J)の右エンジン
Kevyt saksalainen pommikone. Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja Kevyt saksalainen pommikone. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J Kuvaustiedot: 1943-06-10
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3近距離偵察機は、双胴式双発機で、中央部にガラス張りの機首を設け、後部までも円錐状にガラス張りとしたために、視界がとてもよかった。乗員は、3名で、全てこの機首に搭乗し、相互の連絡を取るのにも都合が良かった。また、車輪間隔も広いために、不整地であっても、安定性を維持するのが容易だった。

写真(右)1943年6月10日、フィンランド、ソ連軍と対峙したドイツ空軍フォッケウルフFw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J近距離偵察機の右側面:機首は前面がガラス風防で覆われており、視界は抜群だった。 7.92ミリMG-15機銃,操縦席後方に7.92ミリMG-81連装機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。爆撃もできる双発の地上直接協力偵察機で,50キロ爆弾を合計4発搭載できた。フォッケウルフFw-189近距離偵察機は大戦後半にヘンシェルHs-126の後継機として東部戦線に投入された。
Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Vänrikki V.Hollming, valokuvaaja Saksalainen kevyt pommi- ja tiedustelukone tuo saksalaisia sotaherroja. Kuvassa 1.(H)/32:n lähitiedustelukone Focke-Wulf Fw 189 A-3, koneen tunnus V7+1J. Kone tuli Pontsalenjoelta kuvaamaan Tiiksjärven kenttää.
写真は,.finna.fi/登録・引用


1941年6月、ドイツ軍はソ連に侵攻し、開戦当初は奇襲により東部戦線の前線に配備されていた多数のソ連空軍機を地上で破壊した。そして、北方軍集団ではレニングラードを、中央軍集団はスモレンスクを、南方軍集団はキエフを目指し、損害を被りながらも順調に前進した。しかし、中央軍集団から南方軍集団へ装甲師団を増援部隊として抽出、派遣したために、中央軍集団では、計画してモスクワ侵攻が遅れてしまうこととなった。

ヒトラーは、南方の石油、鉄鉱石などの地下資源を確保したかったのだが、結局、カフカスの油田を攻略することはできなかった。ドイツ側の損害は、バルバロッサ作戦の当初から、西部戦線と葉比較にならないほど膨大だったが、これはソ連赤軍が徹底抗戦し、その保有していた兵器も優れていたためである。



⇒写真集Album:フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu" を詳しく見る。


4.近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141

写真(右)1942年,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1980-117-02 Original title: info Das erste unsymmetrsiche Flugzeug der Welt BV 141 Archive title: Aufklärungsflugzeug Blohm und Voß BV 141 - Flugzeug auf Rollfeld Dating: 1942 Photographer: Hoffmann 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 146-1980-117-02"引用


フォッケウルフFw-189と競争試作で敗れたとはいえ、単発3座偵察機ブロームウントフォス(Blohm & Voß BV-141は機首のエンジンと操縦席を主翼上に離して設けているために、左右非対称の世界的に珍しい形状の飛行機だった。尾翼も左側のみ通常の大きさで、右翼は垂直尾翼に固定するために僅かに突出しているに過ぎない。まるで、尾翼の右側に被弾して破損したかのような状態に見えてくる。

エンジンの搭載された機首と操縦席・偵察席を別個に設けており、左右非対称のブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141は、操縦性や安定性を確保するのが難しそうである。他方、地上・下方視界は最大限に広げられているので、近距離偵察、地上部隊との共同作戦には便利である。

写真(右)1942年初期,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141:後方斜めから見ると、エンジンの搭載された機首のすぐ後方にと操縦席・偵察席が設置されているかのように錯覚させられる。実際には、ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141は世界的に珍しい左右非対称の機体で、地上・下方視界を最大限に拡大できる設計となっている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-602-B1227-18A Archive title: Reichsgebiet.- Aufklärungsflugzeug Blohm und Voß BV 141 (Kennung NC+RH), Maschine auf Flugplatz, Räckansicht; KBK Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Scholz Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 146-1980-117-02"引用


ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141のエンジンは、当初の搭載したBMW 132Nエンジンが865馬力と力不足だったために、B型ではフォッケウルフFw-190戦闘機と同系のBMW 801(出力1,560馬力)にエンジンを強化した。しかし、BMW 801のような高出力エンジンを近距離の直協任務の機体に使用することは、ドイツ空軍の戦闘力を低下させると判断され、量産はされなかった。

ブロームウントフォスBlohm und Voß BV 141 B 諸元:
乗員:4人
全長:13.95 m、全巾:17.46 m、全高:3.6 m
翼面積:53.15 m平方メートル
空虚重量:4,700 kg、全備重量:5,700 kg
エンジン;BMW 801 出力:1,160 kW(1,560 hp)
最高速度:438km/h /3,510m、上昇率:570 m/分
武装:7.92ミリMG 17 旋回機関銃2丁、7.92ミリMG 15 固定機関銃2丁

写真(右)1942年初期,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-602-B1227-16A Old signature: Bild 146-1980-117-03 Archive title: Aufklärungsflugzeug Blohm + Voß BV 141.- Im Westen 1942; KBK Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Scholz Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-602-B1227-16A"引用


飛行場に並べられたプロパガンダ用の写真をみると、いかにもブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141は実用化された機体のように見える。実際には20機程度しか生産されていなが、このような非実用機であるからこそ、宣伝用写真に登場させ敵を攪乱したり、ドイツ空軍の技術力を見せつけたりするの写真を公表できるう。非実用戦闘機のハインケルHe-112、He-100なども同様にプロパガンダ写真に多数登場し公表されていた。

写真(右)1942年,近距離偵察機Blohm & Voß BV-141に乗り込むかのような搭乗員:あたかも実戦部隊に配備された機体のように見せている。左右非対称の特異なブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141を実用化したドイツ空軍の演出をしたプロパガンダ写真である。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-2005-0725-526 Original title: info Blohm & Voss - BV 141 kurz vor dem Start Foto : P.K. Luftwaffe 2722-42 Archive title: Aufklärungsflugzeug Blohm + Voß BV 141 vor dem Start.- Piloten vor der Maschine Dating: 1942 Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 183-2005-0725-526"引用


写真(右)1942年初期,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141:格納庫に4機、格納庫のすぐ前に1機が駐機している。空冷エンジンを搭載した機首とは離れた位置に操縦席・偵察員席を設けた特異な左右非対称な機体がよくわかる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-602-B1227-10A Archive title: Reichsgebiet.- Aufklärungsflugzeug Blohm & Voss , fünf Maschinen im Hangar; KBK Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Scholz Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-602-B1227-10A"引用


写真(右)1942年初期,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141:空冷エンジンを搭載した機首とは別の離れた位置に操縦席を設けた。この写真では3機が並んで映っている。大量生産されず試作と先行量産のみで終わったが、非対称の平面図は特異な存在感を誇っている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-602-B1226-27 Archive title: Reichsgebiet.- Aufklärungsflugzeug Blohm + Voß BV 141 , drei Maschinen auf Flugplatz; KBK Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Scholz Origin: Bundesarchiv 
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-602-B1226-27"引用。


写真(右)1942年初期,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-602-B1227-02A Archive title: Reichsgebiet.- Aufklärungsflugzeug Blohm + Voß BV 141, zwei Maschinen im Hangar; KBK Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Scholz Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-602-B1227-02A"引用。


ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141は、近距離偵察機の競争試作機として、フォッケウルフFw-189偵察機ウーフーと同時期に開発された左右非対称の偵察機。空冷エンジンを搭載した機体から、コックピット・偵察員席を離して設けることで、良好な視界、特に下方の地上視界を最大限に確保している。しかし、試作機製造にのみにとどまり、大量生産されることはなかった。

写真(右)1942年初め,近距離偵察機ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141の操縦席:フォッケウルフFw-189偵察機ウーフーと似ているが、機首のエンジンから離れているために、左右非対称の設計である。しかし、機体から偵察席・操縦席を離すことで、下方も含めて良好な視界を確保している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-602-B1227-40 Archive title: Reichsgebiet.- Aufklärungsflugzeug Blohm + Voß BV 141, Pilot in Kanzel; KBK Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Scholz Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-602-B1227-40"引用


写真(右)1942年初め,近距離偵察機Blohm & Voß BV-141の操縦席:周囲を平面ガラスで覆った視界の良いコックピット。フォッケウルフFw-189偵察機ウーフーと似ているが、機首のエンジンから離れているために、左右非対称であり、下面も良好な視界を確保できる構造になっている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-602-B1226-03 Archive title: Reichsgebiet.- Aufklärungsflugzeug Blohm + Voß BV 141, Pilotenkanzel; KBK Lw zbV. Dating: 1942 Anfang Photographer: Scholz Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-602-B1226-03"引用。


初飛行は1938年2月、1940年までに、BV 141 V1から試作機8機が生産されたが、搭載したBMW 132Nエンジン865馬力と低出力であり、同程度の出力のエンジン2基を装備した競争試作機フォッケウルフ Fw 189が敗れて不採用になった。

主任設計技師は、1923年から1933年まで川崎航空機に招聘されたリヒャルト・フォークトRichard Vogt, 1894- 1979)。彼は、川崎の主任設計技師として、日本陸軍の制式になった九二式複葉戦闘機、八八式複葉偵察機などを設計している。

1941年には、エンジンをBMW 801(1700馬力)に強化したBV 141 B型が開発されたが、このような機種は、既存のもので十分間に合ったために、先行量産型として20機が生産されたにとどまった。


Fieseler Storch

⇒写真集Album:ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機 を見る。


5.指揮連絡機フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ(Storch:こうもり)

写真(右)1941年11月,ポーランド総督府、クラコウの大通りに着陸したドイツ軍フィーゼラー・Fi156"シュトルヒ"連絡機:周囲に集まって見物しているのは、ポーランド住民のようで、ドイツ軍は自らの技術や軍事力を見せつけるために、このような都市中心部にフィーゼラーFi156"シュトルヒ"Fieseler Fi 156 "Storch")連絡機を乗り付けた。1941年夏には、降伏したフランスの首都パリの凱旋門の近くに、我が物顔にFi156"シュトルヒ"連絡機を乗り付けている。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-B13933 Original title: info An der Sowjetfront: Ein auf dem Dsherschinski-Platz in Charkow gelandeter Fieseler Storch wird von der Bevölkerung angestaunt. Im Hintergrund erkennen wir die im amerikanischen Stil erbauten Hochhäuser der Sowjetindustrie. PK-Aufnahme: Kriegsberichter: Hähle 10305-41 "Fr." "Fr.OLF" Nov. 41 Archive title: Sowjetunion, Charkow.- Landung eines Flugzeugs Fieseler Fi 156 "Storch" auf einem Platz Dating: November 1941 Photographer: Hähle, Johannes Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 183-B13933引用。


1933年2月、第一次大戦の英雄で、ナチ党内閣のヘルマン・ゲーリング無任所大臣は、民間航空事業の促進を名目にドイツ航空委員会を設立する。同委員会は4月までに航空省に昇格し、5月には陸軍航空部を統合し、空軍再建が極秘裏に進められた。この間の空軍再建にはリペツクの基地が重要な役割を果たした。そして1935年2月、ドイツは空軍の存在を認め、同年3月、ヒトラーが再軍備宣言をし、ベルサイユ条約を一方的に破棄したことによって、ドイツ国防軍が編成され、その一軍として空軍(Luftwaffe)が設置され、初代空軍総司令官にヘルマン・ゲーリング元帥が就任した。

1935年、新生ドイツ空軍は、新型連絡機の開発をすすめた。この時に連絡機の仕様が出され、各社の競争入札がなされることになったが、フィーゼラーは、短距離離着陸性能(STOL性)を重視し、離陸には向かい風で50m、着陸には20mで運用可能な機体を提案した。Fi 156A試作機は、1936年春に初飛行し、V型8気筒240馬力のアルグス As 10Cを搭載、地上連絡に便利なように低速の50km/hでも運用でき、離陸は45m、着陸18mはで十分な短距離離着陸が可能だった。量産型Fi 156Aは、1937年からぶたいはいびがはじまったので、第二次世界大戦では緒戦から大活躍している。

写真(右)1941年夏,不時着大破したドイツ陸軍のフィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機
Ein notgelandener Fieseler Storch Sommer 1941 Archive title: Verbindungs- und Transportflugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" Dating: 1941 Sommer 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ドイツ陸軍フィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機(Fieseler Fi 156 "Storch")は、全長10メートル,全幅 14メートル,主翼面積 26平方メートル,全備重量1260キロ, 空冷エンジン240馬力,最大速度175キロ,航続距離 380キロ。
1937年から1945年に合計2600機生産されたFi-156"シュトルヒ"連絡機は,滑走路でない草原にも離着陸できたので、地上部隊との連絡に重宝された。

写真(右)1941年夏,ソ連,不時着,破壊したフィーゼラーFi156"シュトルヒ"連絡機:カギ十字は,ナチ党の記章だったが,ナチ党旗がドイツ国旗となり,ドイツ軍機の尾翼にはカギ十字が描かれることになった。
戦前,ドイツの飛行機の尾翼は,赤帯にナチスのカギ十字がついており,ドイツ国旗と同じだった。しかし,戦時中には目立ちすぎるために,赤帯は塗らなくなり,カギ十字も小さくされた。
Ein notgelandener Fieseler Storch Sommer 1941 Archivtitel: Verbindungs- und Transportflugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" Datierung: 1941 Sommer Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツ空軍の爆撃機は,モスクワ攻防戦にほとんど登場してこないが,これは装甲師団の進撃が早すぎて,後方の航空基地整備が遅れたこと,厳寒・悪天候による飛行および飛行機整備の困難,補給不足が原因と考えられる。いずれにせよ,航空支援を得られないまま行ったモスクワ攻撃は、失敗に終わった。

写真(右)1942年5月,ソ連南部,クリミア,ケルチ半島のステップを進撃するドイツ軍牽引車と空を飛ぶフィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機
Krim, Anfang Mai 1942 Aufmarsch zum Angriff auf die Halbinsel Kertsch Archive title: Rußland.- Aufmarsch zum Angriff auf die Halbinsel Kertsch. Flugzeug Fieseler Fi 156 "Storch" über motorisierter Kolonne (PKW, Busse) Dating: Mai 1942 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1941年8月,モスクワまで100キロと迫ったドイツ国防軍の中央軍集団に対して,主力となる装甲師団を南下させた。この目的は,
?南方のソ連軍から中央軍集団の側面を防備し,ハリコフでソ連軍を包囲撃滅すること,
?ソ連の戦争経済に必要なウクライナの穀物地帯,鉄鉱石鉱山,工業地帯を占領し,カフカスの油田からの石油輸送を停止させること,?クリミア半島を占領し,ルーマニアに対する黒海を利用した航空攻撃,海軍の策動を抑えること,
の3点だった。

写真(右)1942年,フィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機:頑丈な脚(着陸装置)を備えていたフィーゼラーFi156"シュトルヒ"Fieseler Fi 156 "Storch")は滑走路が未舗装であっても、離着陸が可能だった。そこで、東部戦線では、前線への要人空輸に使われた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-323-2723-28A Archive title: Sowjetunion.- Offiziere bei Begrüßung vor Flugzeug Fieseler Storch Fi-156 "Storch"; KBK Lw1 Dating: 1942 Photographer: Hennig Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6-7月、バルバロッサ作戦でソ連軍の航空基地攻撃に大活躍したドイツ空軍だったが,1942年の東部戦線では,スターリングラード空輸作戦以外,大軍をまとめて投入することはなくなった。

1942年,ドイツ空軍爆撃機は,東部戦線各地の個別の戦術的な地上支援に使用され,敵の工業地帯,発電所,交通中枢への戦略爆撃は行わなかった。モスクワ空襲も,独ソ戦緒戦以外、少数機が散発的に行っただけだった。

写真(右)1942年夏,ドイツ軍兵士の乗り込んだフィーゼラー(Fieseler)Fi-156「シュトルヒ」(Storch:コウモリ)連絡機(三人乗り):視界の良好なFi-156風防の前方に収まったのは、同乗者であろうか、飛行士の服装ではない。後席には、包みを手にした副官のような兵士が載っている。頑丈な膠着装置と操縦席周囲の堅牢な構造がよくわかる。東部戦線では、前線への要人空輸に使われた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-452-0984-23 Archive title: Sowjetunion.- Generaloberst Wolfram Freiherr von Richthofen am Steuer des Flugzeugs Fieseler Fi-156 C-3 "Storch", neben ihm ein Soldat mit Karte; KBK Lw. 8 Dating: Februar 1942 Sommer Photographer: Niermann Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍の爆撃機は,モスクワ攻防戦にほとんど登場してこないが,これは装甲師団の進撃が早すぎて,後方の航空基地整備が遅れたこと,厳寒・悪天候による飛行および飛行機整備の困難,補給不足が原因と考えられる。いずれにせよ,航空支援を得られないまま行ったモスクワ攻撃は、失敗に終わった。

1942年初頭のドイツ側は,南部での大攻勢目指し,4月,「ブラウ」(青)作戦が決まった。この目標は,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)によって,ソ連軍の防衛力を打ち砕き,スターリングラードを制圧,ついでカフカスの油田など戦争経済資源を奪取することとされた。

ブラウ作戦は、モスクワ攻略に失敗したドイツ軍には、欲張った目標だった。その上,カフカスとスーリングラードのニ目標を追うことになり,軍集団を二分するという失策を犯してしまう。戦力を分散投入してしまったために,どちらの目標も達成できなかった。



⇒写真集Album:フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機を見る。


6.ブロム=フォスBV-142四発偵察機

写真(右)1938年10月以降,ドイツ、舗装滑走路でエンジンを駆動するブロム=フォスBV-142輸送機:ドイツ・ルフトハンザ(Lufthansa)航空で大西洋横断郵便事業用に開発された長距離機で、双尾翼式で、主翼は軽い逆ガル構造。発動機はユンカースJu-52/3mと同じBMW 132H空冷星型9気筒エンジン655 kW (880 hp)4基を搭載。ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142試作機は、V1, V2, V3,V4の4機が完成、1938年10月11日に初飛行。しかし、第二次大戦が勃発し、量産はされなかった。
Blohm & Voss BV-142 Catalog #: 00075863_Blohm & VossDesignation_ BV-142
写真は,SDASM Archives引用。


写真(右)1938年10月以降,ドイツ、飛行中に着陸態勢に入ったブロム=フォスBV-142輸送機:フラップが下がって、降下姿勢にあることがわかる。ドイツ・ルフトハンザ(Lufthansa)航空で短期間、ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142を航空便輸送に使用したが、1939年9月1日に第二次世界大戦が勃発し、民間輸送機としての開発は中止になった。
Blohm & Voss BV-142 Catalog #: 00075864 Manufacturer: Blohm & Voss Designation: BV-142
写真は,SDASM Archives引用。


写真(右)1940年頃,ドイツ、舗装飛行場に待機するドイツ・ルフトハンザ(Lufthansa)航空ブロム=フォスBV-142輸送機「カルトル」"KASTOR" (製造番号c/n 219, 登録コード D-ABUV):ドイツ・ルフトハンザ航空用の民間航空便輸送機で、ダブルタイヤの引込み式ゴム主輪、BMW空冷星形9気筒エンジン4基、3翅金属製プロペラ、しかし、ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142は、期待されたほど性能を発揮できず、哨戒機としても量産はされなかった。
Blohm & Voss BV-142 Catalog #: 00075865 Manufacturer: Blohm & Voss Designation: BV-142
写真は,SDASM Archives引用。


ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142V3 とV4は、占領したデンマークを基地として、特別任務部隊KGr.(Kampfgruppe)z.b.V. 105にユンカース(Junkers)G 38巨人輸送機とともに配備され、フル装備の兵士30名を4,000 km (2,490 mi)運び、ノルウェー侵攻に参加した。しかし、ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142V3 とV4はの最後はわかっていない。のちに試作1号機V1と試作2号機V2は、ヘンシェル(Henschel)GT 1200C誘導魚雷を搭載する計画があったが、これは実現困難と判断され、計画はキャンセルとなった。

写真(右)1940年頃,ドイツ、舗装飛行場に待機するドイツ空軍ブロム=フォスBV 142 V2/U1偵察機:ドイツ・ルフトハンザ航空用の民間機を改造、兵装を施して、最高速力375 km/h、航続距離3,900 kmの長距離海上哨戒機として、大西洋上の哨戒任務に就いた。しかし、ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142は期待されたほど性能を発揮できず、哨戒機としても量産はされなかった。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43933124 - Catalog:16_005058 - Title:Blohm & Voss Bv 142V-2 Nowarra photo - Filename:16_005058.TIF - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives引用。


ドイツ空軍ブロム=フォス(Blohm & Voss)BV-142偵察機は、防御用火力として 7.92 mm MG 15旋回機関銃を機首に1挺、後上方に左右各1挺合計2挺、下方1挺、後上方動力回転銃座2挺 を装備した。

写真(右)1940年10月,フランス,待機整備中のブロム=フォスBV 142 V2/U1偵察機:試作としてV1, V2, V3,V4の4機のみ生産され,郵便配達に使用されていたが,第二次大戦の勃発によって,民間機としての開発は中止となった。
Frankreich.- Feldflugplatz, Wartung eines Flugzeugs Blohm & Voss BV 142; KBK Lw5 Dating: Oktober 1940 Photographer: Ritter撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ブロム=フォスBV-142諸元
全長: 20.5メートル,全幅: 29.5メートル,翼面積: 130平方メートル
自量: 1.1トン,全備重量 1.65トン,乗員5人
エンジン BMWS132空冷 9気筒 880馬力4基,燃料: 6560リットル
最高時速: 375キロ,巡航速度: 325キロ,航続距離: 3,900キロ
実用上昇限度: 9,000 メートル,上昇率: 6.70メートル/秒
武装:7.92ミリMG15機銃5丁,爆弾:100キロ爆弾4発または50キロ爆弾8発
1938年10月初飛行,試作4機のみ生産


7.ハインケル He-59双発水上救難機

写真(右)1935年頃,ドイツ軍のハインケル(Heinkel)He 59b 偵察機の陸上機型試作機(プロトタイプ)
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID: 46168758 - Catalog: 16_007358 - Title::Heinkel He 59b Nowarra Collection - Filename: 16_007358.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,PictionID:46168758引用。


ハインケルHe 59双発水上救難機は、双発の偵察機/雷撃機で、ラインホルト・メーヴェス(Reinhold Mewes)設計になる。当初のHe 59には、水上型と陸上型があったが、大半は双フロート付の水上機型である。第二次世界大戦にも投入され、白色塗装、赤十字マークを付けた海難救助機として活躍した。

ドイツ機の国籍記章は、1933年1月末、ナチ党政権となってから、当初は、黒白赤三色ストライプの国章だったが、1935年以降、再軍備宣言がなされ、ドイツ空軍が創立されると、赤帯に白丸とハーケンクロイツを描いた国章が決まった。その後、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、赤帯と白丸は目立つために敵からの標的にされやすかった。そこで、黒色のハーケンクロイツのみが小さく描かれるように変更された。


写真(右)1940-1941年頃、ノルウェー、トロンヘイム、ドイツ空軍ハインケルHe59救難機(?W-HN)
;波の静かなフィヨルドに停泊している機体に、小型のゴムボートを漕いでHe59に乗り移ろうとしている搭乗員。海岸にフロートで接岸しているが、機体中央側面にある機内への出入り口扉が開いている。
Flyet er en Heinkel 59. Identifier: RAU.0003-00092 Institution: Romsdalsmuseet Date published: March 15, 2014 Date updated: April 19, 2015 DIMU-CODE: 011012695861 UUID: 39e28baf-055e-4339-a612-e3fba8cdad52
写真はRomsdalsmuseet ・Identifier: RAU.0003-00092 引用。


写真(右)1940-1941年頃、ノルウェー、トロンヘイム(?)、ドイツ空軍ハインケルHe59救難機と沖に停泊中のドイツ海軍巡洋戦艦「クナイゼナウ」;交通破壊戦用のドイツ海軍巡洋戦艦「クナイゼナウ」は、1938年5月21日の収益の新鋭艦で、主砲は28センチ三連装砲塔3基9門。
Oppklaringsflyet, det lette bombeflyet Heinkel 59 med slagskipet Gneisenau i bakgrunnen. Tilhører samling av fotografier tatt av ukjente tyske soladater under 2.verdenskrig. Bildene var sendt inn til framkalling og kopiering hos Harald Renbjørs fotoforretning i Levanger. Familen Renbjør dobbeltkopierte noen av fotografiene og beholdt en kopi selv. Dette var strengt ulovlig. Mest sannsynlig gjorde de dette av etterretningsgrunner for motstandsbevegelsen eller på eget initiativ. Identifier: LEM.018.19.07 Part of collection: Levanger Fotomuseum Owner of collection: Levanger Fotomuseum Institution: Levanger Fotomuseum Date published: October 15, 2014 Date updated: March 16, 2018 DIMU-CODE: 011015437709 UUID: C9A915AB-6A1A-4023-BBBC-AC80E6A8D899
写真はLevanger Fotomuseum・Identifier: NTRMF39-06122 引用。


1940年に英仏海峡で活動していたドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 59双発水上救難機は、万国共通の攻撃対象外の機体として、無武装で白色塗装の上に大きな赤十字を描いていた。しかし、バトルオブブリテンで必死の本土決戦を戦っているイギリス空軍には、海上に漂うドイツ軍のパイロット救出を黙認する余裕はなかった。そこで、白色塗装の救難機He59も攻撃対象となった。そこで、このような目立つ白色の塗装は廃止され、グレーン系統の迷彩塗装が施され、防御用の旋回機銃が搭載された。

写真(右)1941年,フランス海岸(?)、ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 59水上救難機機
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46168783 - Catalog:16_007360 - Title:Heinkel He 59 1941 Nowarra Collection - Filename: 16_007360.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation ---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,PictionID:46168783引用。


ハインケルHeinkel He 59双発水上救難機諸元
全長: 17.40 m、全幅: 23.70 m 全高: 7.10 m、全備重量: 9,100 kg
発動機: BMW VI 6.0 ZU 水冷 1気筒660hp2基
最高速力: 209 km/h、実用上限高度: 3,500 m
航続距離: 1,750 km
兵装 7.92ミリ旋回機銃 2丁、搭載量:爆弾 700 kg
乗員: 4名。


ハインケルHe-59水上救難機

⇒写真集Album:双発水上機ハインケル(Heinkel)He59救難機をく見る。

8.ハインケル He-60水上艦載偵察機

写真(右)1940年,デンマーク、ハインケル(Heinkel)He 60水上艦載偵察機 :1935年までの旧ドイツ軍の黒白赤三色の国章を、1935年のドイツ空軍設立以後は、赤帯に白丸とハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)の国章に変更し、その後に、機体にバルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。しかし、1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字)は敵から発見されやすいことが分かり、取りやめになったが、垂直尾翼と主翼上下面に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。
SDASM Archives Heinkel, He 60 Catalog #: 01_00081266 Title: Heinkel He 60 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 60 Tags: Heinkel He 60
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,Catalog #: 01_00081266引用。


ヒトラー政権になっても、1935年3月のドイツ再軍備宣言までは、プロイセン軍、旧ドイツ帝国軍の伝統である黒白赤三色の国章を、ドイツ機の尾翼に描いて、国籍マークとしていた。しかし、1935年、ヒトラーが再軍備を宣言し、第一次世界大戦の撃墜王ヘルマン・ゲーリングの下、ドイツ空軍が設立されると、ドイツ軍機は、尾翼に赤帯に白丸とスワスチカ(ハーケンクロイツ:ナチ党のカギ十字)の国籍マークを採用した。スワスチカは、ナチ党のイデオロギー、政治思想を軍人にまで浸透させることを反映したもので、軍人の忠誠宣言がドイツに対してでは、ヒトラーに対する忠誠を誓うものと変更されたのと同じ動機である。また、高速の機体の国籍、敵味方の認識をしやすくするため、機体・主翼の上下にも、白の縁取り付きの黒色バルカンクロス(鉄十字)の国章を追加した。

1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、激しい航空戦が展開され、敵の空襲も予期する必要があったため、尾翼の赤帯と白丸のハーケンクロイツ(ナチ党のカギ十字:スワスチカ)は敵から発見されやすいいとして、取りやめになった。その代わり、ナチ党のイデオロギーを示す国章として、尾翼に黒色白縁取りのナチ党のカギ十字(スワスチカ)を付け足した。ハインケルHe 60 のような旧式水上偵察機は、第一線で活動してはいないはずだが、このような古い機種についても国政マークの変更を行っている。後に、白渕が目立ちやすいとして、黒のバルカンクロス(スワスチカ)、ハーケンクロイツの白の縁取りは廃されている。

⇒写真集Album:ハインケル(Heinkel)He60複葉水上偵察機 を見る。


9.ハインケルHe 114 艦載水上偵察機

写真(右)1938-1939年9月、ドイツ本土海域、ハインケルHe 114 水上偵察機:アラドAr-196水上偵察機が、1937年5月に初飛行し、1938年11月に部隊配備されると、He114水上偵察機は、艦載機から、順次、代替されていった。
Heinkel, He 114 Catalog #: 01_00081315 Title: Heinkel, He 114 Corporation Name: Heinkel Additional Information: Germany Designation: He 114 Tags: Heinkel, He 114 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive-
写真は,Flickr, SDASM Archives Catalog #: 01_00081315引用。


⇒写真集Album:ドイツ海軍ハインケル(Heinkel)He 114艦載水上偵察機を詳しく見る。





10.アラドAr-196艦載水上偵察機

写真(右)1942年冬、ノルウェー水域のアラド社アラドAr-196艦上水上偵察機:主翼を90度回転させて折りたためるので、狭い艦船上での搭載・運用が容易になる。
Inventory: Bild 101 II - Propagandakompanien der Wehrmacht - Marine Signature: Bild 101II-MW-6081-11 Archive title: Norwegen.- Verladen eines Wasserflugzeugs Arado Ar 196 Dating: 1942 Winter Photographer: Schöppe, Walter Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


アラドAr 196水上偵察機は、ドイツ海軍の巡洋艦以上の艦艇用の艦載水上偵察機として1937年にHe-60水上偵察機の後継機として開発され、BMW132空冷星型9気筒エンジン(880馬力)を装備した。双フロートのAr196A型、単フロートのAr196B型が試作され、1938年に、双フロート式のA型が採用された。

アラドAr 196水上偵察機が部隊配備されたのは、第二次世界大戦の勃発した1939年9月からである。その後、主翼の7.92ミリMG17機関銃(左右合計2丁)を20ミリMG-FF機関銃(合計2丁)にう強化したA-2型が主力となった。活動海域は、主に大西洋、北海、バルト海だが、黒海、地中海方面でも使用されている。アラドAr 196水上偵察機は、1944年までに500機が製造された。第二次大戦の全期間を通じて、ドイツ海軍の水上偵察機として活躍した。

アラドArado Ar 196 水上偵察機は、第二次大戦中にドイツ海軍で広範囲に使用された、低翼単葉、双フロートの艦載機。BMW132K空冷星型エンジン960馬力搭載、機首と後部座席の7.92mm機銃2挺、主翼内に20mm機関銃2挺、主翼下面に50kg爆弾2発搭載可能。第二次大戦の始まった1939年に部隊配備開始、戦艦ビスマルク、重巡洋艦ヒッパーなど大型水上艦艇に搭載。沿岸水上機部隊にも配備された。


アラドAr-196水上偵察機諸元
乗員:2名
全長: 11.0メートル,全幅: 12.5メートル
翼面積: 28.4平方メートル
自量: 2トン,全備重量: 3.7トン
エンジン: BMW132 空冷 960馬力1基
最高時速: 320キロ
航続距離: 1000キロ,上昇限度: 7,000メートル
武装: 20ミリMG-FF機関砲2門,7.92ミリMG17機銃2丁
50キロ爆弾2発
初飛行1937年5月
生産開始1938年11月からで、1944年3月までに540機が産された。

⇒写真集Album:ドイツ海軍アラドAr-196水上偵察機を詳しく見る。


11.双発水上偵察機ハインケルHe-115

1935年, ドイツ航空省 (RLM: Reichs-luftfahrt-ministerium) は、哨戒、爆弾あるいは航空魚雷による対艦船攻撃が可能な双発水上機の開発を各社に要求し、ハインケル(Heinkel )社とブロームウントフォス(Blohm & Voss)社(子会社がハンブルク航空社)がそれを受けた。1935年11月、He 115とHa 140が各々3機ずつの試作機を完成させた。ハインケルの試作機第1号は、1937年8月に初飛行し、ハンブルク社のHa 140は1938年初頭に初飛行した。そして、1938年代初頭、さらに10機の試作機が発注されている。この機体は、1,000 km (620 mi) と 2,000 kmの円周で、平均速力は 328 km/hで水上機の世界記録を打ち立てた。

写真(右)1940年,クレーンでつり上げられたハインケルHe 115B水上偵察機:フロートの形状がよくわかる。
A German Heinkel He 115B seaplane of 1./Küstenfliegergruppe 206 on a crane. Date 1940年 Source Royal Air Force Battle of Britain campaign diaries [1] photo [2]
写真は,Commons:WikiProject Aviation/recent uploads/2012 April 21-30引用


ハインケルHe-115諸元
全長 17.3メートル,全幅 22.3メートル,全備重量 1.1トン
エンジン BMW132 960馬力2基
最大時速 320キロ,航続距離 2800キロ
武装 7.92ミリMG17機銃4丁,爆弾 1トンあるいは航空魚雷1本
乗員: 3名

⇒写真集Album:ハインケル(Heinkel)He 115水上偵察機を見る。


12.ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 偵察飛行艇

ハンブルク航空機 (Hamburger Flugzeugbau)は、中型旅客飛行艇を開発、燃費の良いユンカース ユモ 205ディーゼルエンジン3基搭載して長距離飛行を可能にした。Ha 138試作機は1937年に完成したが、空中と海上での安定性が悪く、強度不足も指摘されたために、開発は長引いた。ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)Bv 138試作2号飛行艇V-2 D-AMOR は1937年に完成した。この中型旅客飛行艇Ha138は、後継のブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)社に引き継がれて、試作2号機Vが完成している。

写真(右)1943年8月,ロシア方面、バルト海あるいは北大西洋方面のフィヨルド(?)、ドイツ潜水艦Uボートと共同作戦を行ったブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 C-1飛行艇:ハンブルク航空機 (Hamburger Flugzeugbau)の企画になる中型長距離旅客飛行艇。ブローム・ウント・フォッス社は、ドルニエ Do 18と同じく燃費の良いユンカース ユモ 205ディーゼルエンジン3基搭載する形で長距離飛行を可能にした。1937年にHa 138試作機が完成したが、空中と海上での安定性が悪く、強度不足も指摘されたために、開発は長引いた。ブローム・ウント・フォス社として、BV 138V1試作1号機が初飛行したのは、第二次大戦半年前の1939年2月と遅れたために、民間航空での使用されることはなく、軍用に回された。1941年に改良型のBV 138Cが登場し、実用に耐えると判断され、偵察飛行艇として採用された。BV138飛行艇は、227機生産され、大西洋、地中海でUボートと連携し船団捜索・攻撃に投入され、一部は、機雷掃海、物資兵員輸送の任務にも就いた。
Russisch front, 1943 Beschrijving uits watervliegtuig Blohm & Voss BV-138 Seedrache landt in het hoge noorden van Rusland Datum augustus 1943 Locatie Rusland
写真は,Nationaal Archief en Spaarnestad Photo (他引用不許可)。


ハンブルク航空機 (Hamburger Flugzeugbau)の企画になる中型長距離旅客飛行艇Blohm & Voss Bv 138 は、ドルニエ Do 18と同じく燃費の良いユンカース ユモ 205ディーゼルエンジン3基搭載する形で長距離飛行を可能にした。1937年にHa 138試作機が完成したが、空中と海上での安定性が悪く、強度不足も指摘されたために、開発は長引いた。

4 写真(右)1945年5月以降,戦後になって連合軍に鹵獲されたドイツ軍のブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 138 B-1飛行艇:戦後になって、進駐してきたイギリス軍に鹵獲され、ノルウェー軍に引き渡されて使用された機体のようだ。Blohm & Voss Bv 138飛行艇は、ドルニエ Do 18と同じく燃費の良いユンカース ユモ 205ディーゼルエンジン3基搭載する形で長距離飛行を可能にしたが、中央部のエンジンは、主翼上面に搭載され、主翼・胴体とのクリアランスを確保するために、羽根の短い四本プロペラ(他の2基は羽根の長い三枚プロペラ)と変則的配置にされた。
Ray Wagner Collection Image PictionID:43933088 - Catalog:16_005055 - Title:Blohm & Voss Bv 138B-1 MG-turret removed - Filename:16_005055.TIF
写真はSDASM Archives・Catalog:16_005055 引用


中央部のディーゼルエンジンは、主翼上面に搭載されたため、主翼・胴体とのクリアランスを確保する必要上、プロペラの羽根を短くし、四本とした。他の主翼左右のディーゼルエンジンのプロペラは、羽根の長い三枚プロペラである。

ブローム・ウント・フォス社として、BV 138V1試作1号機が初飛行したのは、第二次大戦半年前の1939年2月と遅れたために、民間航空での使用されることはなく、軍用に回された。1941年に改良型のBV 138Cが登場し、実用に耐えると判断され、偵察飛行艇として採用された。Blohm & Voss Bv 138飛行艇は、227機生産され、大西洋、地中海でUボートと連携し船団捜索・攻撃に投入され、一部は、機雷掃海、物資兵員輸送の任務にも就いた。


Blohm & Voss BV 138

⇒写真集Album:ドイツ軍ブローム‐ウント‐フォス(Blohm & Voss)BV-138飛行艇を見る。


13.ドルニエ(Dornier)Do-24 飛行艇

写真(右)1937-1938年頃,飛行中のドルニエ(Dornier) Do 24飛行艇試作機2号機V2 :Do24飛行艇試作機1号機V1は、1937年初飛行なので試作2号機V2の飛行写真は、それ以降のものである。オランダへの輸出向け機体だが、垂直尾翼にナチ党のマークを引用した赤帯に白丸とハーケンクロイツを描いた国籍マークが描かれている。その後、スウェーデンにもHe115は輸出されている。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46170291 - Catalog:16_007480 - Title:Dornier Do 24V-2 Dornier photo - Filename:16_007480.TIF - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,PictionID:46170291引用。


ドルニエDo 24飛行艇は、第二次世界大戦前、オランダがドイツのドルニエ社に発注した軍用飛行艇で、オランダ海軍航空隊が、東インド諸島(インドネシア)のオランダ植民地で使用するための偵察飛行艇である。ドルニエ社は開発を受けてDo24飛行艇試作機V1を1937年に初飛行させ、オランダが採用して、ライセンス生産された。

第二次世界大戦で、1940年5月にドイツがオランダを占領すると、オランダ軍が使用していた飛行機は、ドイツ軍に鹵獲され、さらにオランダが生産していた軍用機の生産も、ドイツの監督下で、ドイツ軍のために継続され、合計 279機が生産された。ドルニエ(Dornier)Do-24 飛行艇は、ドイツ空軍において水上救助、洋上偵察用に投入された。

⇒写真集Album:ドルニエ(Dornier)Do-24 飛行艇を詳しく見る。


14.ドルニエ(Dornier)Do 26飛行艇

写真(右)1937-1938年頃,飛行中のドルニエ(Dornier) Do 26C飛行艇:Do24飛行艇は、1937年初飛行の3発機だが、この高速化のためにタンデム式4発 Do 26C飛行艇である。戦前の垂直尾翼にナチ党のマークを引用した赤帯に白丸とハーケンクロイツを描いた国籍マークは、目立たないように修正され、黒のスワスチカだけが描かれている。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:46170393 - Catalog:16_007488 - Title:Dornier Do 26C Dornier photo - Filename:16_007488.TIF
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,Catalog:16_007488引用。


Do 26飛行艇の諸元
全長: 24.50m、全幅: 30.0m、全高: 6.90m
翼面積: 120 平方メートル
空虚重量: 10,200 kg、搭載量: 500 kg
全備重量: 20,000kg
発動機: ユンカース ユモ 205C 600 hp 4機
最高速力: 335km/h、巡航速度: 310km/h
航続距離: 9,000km、巡航高度: 4,600 m

⇒写真集Album:ドイツ軍ドルニエ(Dornier)Do-26 飛行艇を詳しく見る。


15.ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 222 四発輸送飛行艇「ヴィーキング」

写真(右)ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 222 四発輸送飛行艇「ヴィーキング」V-8飛行艇:1930年代後半、ルフトハンザ航空Deutsche Luft Hansa)は、大西洋航路で使用可能な長距離大型旅客輸送機を求めていたが、大重量、大量の燃料を積んで離陸する巨大な滑走路が不必要で、非常時には海上に不時着可能な安全性の高い飛行艇式の旅客輸送機が有利ではないかと目されていた。そこで、巨大旅客飛行艇の開発を、リヒャルト・フォークト博士に依頼し、BV 222飛行艇3機を発注した。試作機V1号機の製造は1938年1月から開始し、第二次大戦勃発1年後の1940年9月7日に、初飛行を実施した。ペイロードは、乗客92名あるいは救急担架72基で、最高速力は385 km/hで早いとはいえなかった。
SDASM Archives Ray Wagner Collection Image PictionID:43932891 - Catalog:16_005039 - Title:Blohm & Voss Bv 222V-8 with military markings Nowarra photo - Filename:16_005039.TIF -
写真はFlickr, a Yahoo company,San Diego Air and Space Museum Archive,Catalog:16_005039 引用。


ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 222飛行艇試作機V1は、1941年8月19日までの7回の運航で、ハンブルクとノルウェー北部のヒルケネス間を合計65トンの貨物、負傷者221名をの負傷兵を運んだ。総飛行距離は3万キロに達した。1940年4月9日、ドイツのノルウェー侵攻に呼応して、ノルウェーの政治家ヴィドクン・クヴィスリングVidkun Quisling)は、自らを首班とする臨時政府を樹立し、1942年2月には、アドルフ・ヒトラーの下で、クヴィスリングは首相に任命され、ノルウェーは親ドイツ傀儡政権が支配するようになった。また、BV222飛行艇は、地球海方面面では、1941年10月16日から11月6日の17回の運航で、北アフリカに派遣されたドイツ・アフリカ軍団に対する物資を補給した。

⇒写真集Album: ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 222六発飛行艇を詳しく見る。


16.ドイツの主力輸送機ユンカースJu-52「タンテ」(おばさん)

ユンカース社は,第一次大戦中の1917年に,当時有名飛行機メーカーだったフォッカー社と提携して,本格的な航空機生産に乗り出し,1919年6月初飛行のユンカースF-13で独自設計の航空機の量産を開始した。このユンカースF-13は,世界初の全金属製民間機で,斬新な単発(エンジン1基)の低翼単葉機で、乗客4人の輸送機として使用された。

ユンカースF-13を大型化したW-33Lは,1920年代に完成し,ユンカース社で200機生産された。

ユンカースW-34諸元
1926年に完成し,1800機生産された。
全長 10.3メートル,全幅 17.8メートル
自量 1,700キロ,全備重量 3,200キロ
エンジン 650馬力1基
最高時速 265キロ,巡航速度 230キロ,航続距離 900キロ
上昇限度 6,300メートル,乗客6人

写真(右)1932年7月,ベルリン、ユンカースJunkers G 31輸送機から登場したサンタクロース:1920年代に13機と少数生産されたユンカース社の当時の大型輸送機で初飛行は1926年で、ju-52の初飛行1930年より4年早い。しかし、機体の構造は、Ju-52と酷似しており、Ju-52に設計が引き継がれていることがわかる。
ユンカースJunkers G 31輸送機諸元:
乗員:パイロット2人、航法・電信員各1人、乗客15人(夜間寝台は10人)
全長: 16.50 m (54 ft 1 in)、全幅: 30.50 m (100 ft in)、全高: 6.00 m (19 ft 8 in)、主翼面積: 102.0 平方メートル
空虚重量: 5,250 kg (11,590 lb) 全備重量: 8,500 kg (18,760 lb)
エンジン: 3 × BMW-built Pratt & Whitney Hornet, 386 kW (525 hp) 
最高速度: 210 km/h (131 mph)、巡航速度: 170 km/h (106 mph)
航続距離: 850 km (528 miles)、航続時間: 5 時間
実用上昇限度: 4400 m (14,400 ft)、上昇率: 3 m/秒 (10 ft/min)
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-14104 Original title: info Wer will mit dem Weihnachtsmann mitfliegen! Berliner Kindern wurde Gelegenheit gegeben, auf dem Flughafen in Berlin für 2,50 Mark einen Rundflug mit dem Weihnachtsmann zu machen. Archive title: Berlin.- Weihnachtsmann vor Backbordtür eines Flugzeugs Junkers G 31, Kinder Dating: Dezember 1932 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 102-14104"引用(他引用不許可)。


ルフトハンザ航空Deutsche Luft Hansa)は、1926年1月、ドイツ政府が出資1/4を賄って、ユンカース系航空会社(Junkers Luftverkehr)を中核に、各種ドイツの航空会社が統合されて生まれた国営航空である。ユンカースJu−52旅客輸送機を中核に、ドイツ国内のみならず、ヨーロッパ全土に航空網を築き、のちにはフォッケウルフFw-200、ユンカースJu‐90のような四発大型旅客機を導入して、南北アメリカにまで航路を拡張した。

写真(右)1940年-1944年,ドイツ空軍のユンカースJunkers Ju 52輸送機"Ewald Seidel":ドイツ空軍の二人の飛行兵(搭乗員)と比較すると輸送機の大きさが強調される。波板の箱のような構造で強度を維持すると同時に、人員や貨物の搭載を楽に行えるような空間を確保している。速度は遅いが、使いやすく、信頼性が高かったために、ユンカースJunkers Ju 52輸送機は終戦まで使用された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-806-2115A-04 Archive title: Feldflugplatz.- Zwei Soldaten der Luftwaffe (u.a. Pilot) vor Flugzeug Junkers Ju 52 "Ewald Seidel"; KBK Lw 7, PK West, KBZ21 u. a. Dating: 1940/1944 ca. Photographer: Bockelmann, Werner Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-806-2115A-04"引用(他引用不許可)。


ユンカースJu-52輸送機は,1937年のスペイン内戦で、スペイン領モロッコから,イベリア半島にフランコ将軍の反乱軍(国民戦線)兵士を空輸するのに使われた。この時は,ヒトラーが,スペインのファシスト,ファランヘ党に,ムッソリーニとともに軍事援助したのである。Ju-52輸送機は,爆撃機としても使われた。

当初Ju52は,機首の単発エンジンだったが,馬力不足のために,両翼に各々1基のエンジンを搭載し,3発のJu-52/3mになった。初飛行は,1931年4月で,スペイン内戦では,アフリカ軍団のムーア兵(モロッコ人兵士)1万人以上を空輸,爆弾6000トンを投下した。

ユンカースJu-52輸送機は,1940年代には旧式化していたが,大量生産されていた上に,信頼性が高く,使い易い飛行機だった。後継機は,搭載量,速度,航続距離の上でも,より高性能だったが,ドイツ軍の主力輸送機は,終戦までJu-52だった。

1938年,ドイツ空軍は250機のJu 52を配備していたが、ルフトハンザ航空からの移譲も含めて第二次大戦開戦時の1939年9月には、552機のJu 52を配備していた。1939年から1944年にかけて, 2.804機のJu 52がドイツ空軍に納品された。

Ju-52輸送機の生産機数1939年: 145機; 1940年: 388機; 1941年: 502機; 1942年:503機; 1943年:887機; 1944年:379機である。1944年夏段階で、ドイツ空軍には稼働可能なJu-52輸送機100機から200機があった。

Ju-52輸送機諸元
全長18.9ートル,全幅29.2メートル,翼面積110平方メートル
重量10500キロ,エンジンBMW132空冷650馬力3基
最高速度275キロ,航続距離1300キロ
乗員3名,兵員18人搭載。グライダー曳航任務にも多用された。

ドイツ軍にとっては,兵力手薄なバルカン方面の側面を突いてくる地中海クレタ島のイギリス軍守備隊は,排除すべき敵の拠点であった。ドイツ軍は,1941年5月-6月にはソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の発動を準備していたから,その前に,側面を防御するためにも,クレタ島は占領する必要があった。

当時,エーゲ海の浮かぶクレタ島にドイツ軍が輸送船を派遣,上陸部隊を送ることは困難だった。クレタ島,アレキサンドリア,マルタ島などに基地を持つ英海軍の地中海艦隊が制海権を握っていたからである。そこで,英海軍の妨害を受けないように,海路ではなく,空路でクレタ島にドイツ軍兵力を派遣する大空挺作戦が立案された。

ドイツ軍の空挺部隊は「降下猟兵(Fallschirmjäger)」と呼ばれるが,クレタ島の航空基地のあるマレメ、イラクリオンなど飛行場に輸送機あるいはグライダーで乗りつけ,周辺にパラシュート部隊を降下させる大規模な空挺作戦が立案された。そして,敵航空基地を制圧した後,海路で上陸部隊を派遣する計画を立てたのである。

ドイツ軍空挺部隊は空軍の所属になり,空軍のクルト・シュトゥデント大将が率いる第11空挺軍団に所属する第1降下猟兵師団を中核とする約2万人が投入された。

写真(右)1942年7月,クレタ島、ユンカースJu-52タンテ輸送機の機体左側面の人員搭乗口から荷車(弾薬運搬車かサイドカー?)を運搬中。:機体右側方に大きな扉があり、そこから大型貨物の積み下ろしができた。Ju-52後継機のJu-258では、機体後部にランプ(引きおろし式底面)を設けて、そこから大型貨物を出し入れした。Me-323は、機首に観音開きの大型扉を設けて、トラックや火砲を出し入れした。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-543-0569-17 Archive title: Griechenland, Kreta.- Soldaten bei Be- oder Entladen eines Krad mit Beiwagen (Motorradgespann) in/aus Flugzeug Junkers Ju-52; PK XI. Fliegerkorps Dating: Juli 1942 Photographer: Schnitzer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-543-0569-17引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年夏,クレタ島マレメに不時着破損したユンカースJu-52タンテ輸送機:クレタ攻略には数百機のJu52輸送機が参加し、空から送り込んだ地上兵力によってイギリス軍守備隊を撃破し、クレタ島を占領することができた。しかし、多数の輸送機、降下猟兵を失い、ドイツ軍は二度と大規模空挺作戦を実施できなくなった。
Inventory: Bild 141 - Sammlung Library of Congress Signature: Bild 141-0828 Archive title: Kreta-Malemes.- beschädigtes Flugzeug Junkers Ju-52 (Kennung 1Z+BA) auf Flugplatz. Im Vordergrund Krad mit Beiwagen (Motorradgespann) und Fallschirmjägern Dating: 1941 Sommer Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 141-0828"引用(他引用不許可)。


艦船の金属船体が帯びている時期に反応する磁気機雷は、ドイツ海軍もイギリス海軍も使用していた。ドイツもイギリスもこの磁気機雷を空中から爆破し掃海するために、大型機にコイルを巻いたの大型金属製リングを装着して、電磁誘導によって時期を発生させた。そして、艦船が発する時期と同じレベルとして、磁気機雷の信管を働かせ、爆破するのである。

写真(右)1941-1942年夏,ラトビア、ユンカースJu-52タンテ輸送機で搬送される負傷兵:大型扉から担架に寝かせた負傷者を機内に運び入れることができた。赤十字マークを付けた期待もあったが、独ソ戦では人種絶滅戦争の側面が強くなり、赤十字を表示しても攻撃されるのが当たり前だった。そこで、赤十字記章をつけても目に付きやすくなるだけ不利となり、赤十字をつけた救護活動は見送られた。
Inventory: Bild 101 III - Propagandakompanien der Wehrmacht - Waffen-SS Signature: Bild 101III-Duerr-053-10A Old signature: Bild 146-2005-0090 Archive title: Lettland.- Abtransport von Verwundeten mit einem Flugzeug (Junkers Ju-52) Dating: 1941/1942 Winter Photographer: Dürr Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101III-Duerr-053-10A"引用(他引用不許可)。


大阪朝日新聞 1941.5.22(昭和16)に次の記事がある。
遂に現われた『音なき空中列車』−クレータ島攻撃にドイツ軍がグライダーで兵員を輸送する戦史空前の電撃作戦を開始、寝耳に水の英希(ギリシャ)軍を驚倒せしめ、世界中をあっといわせた「空中列車」とは何か?…  

本社特電によれば一万名前後を空中輸送したとあるから少くとも一機に二十乃至三十名搭載出来るグライダー四百余台を夕刻既報の如くソ連式に左右に十台くらいずつV字型に曳航したもの、或はドイツ式に一線に十台くらい曳航したものと想像され、曳航機はユンカースJU五二型三発、または同八六型双発や同九〇型四発あるいはフォッケ・ウルフ・コンドル型四発の大型車爆撃機が少くとも四十機出動したものとみられる。

大阪朝日新聞 1941.5.22(昭和16)の記事続き:
この新作戦の花形たるグライダーについて大阪のグライダー設計家某氏の見るところによると主翼は木製羽布張り、胴体は木製合板張、翼長は約五十メートル、全長約二十二メートルで機首には強力な着陸照明灯、曳航索取附具があり、左右主翼には着陸を自由にするためスポイラーがあり、また六千メートル以上亜成層圏飛行のため酸素吸入の設備もある、離着陸には橇のかわりに二個乃至三個の車輪が取附けられ、引込式となっている、そして「空中列車」は敵の意表に出て機先を制するため夜間が利用される,発動機(エンジン)四個の重爆機が十台のグライダーを直線に曳航するとしてその場合グライダー間の前後の距離はだいたい五十メートルだから曳航機から最後尾のグライダーまでは実に五百メートル近くになるわけだ、(引用終わり)
[記事では,グライダーを曳く輸送機の性能過大,夜間作戦能力のないグライーダーの夜襲,四発重爆の使用などドイツ軍の戦力を過大評価している。]

写真(右)1942年,ソ連東部戦線、ユンカースJu-52タンテ輸送機:Ju52は最高速度 265km/h、航続距離 870 km、実用上昇限度 6,100 mと決して高性能ではないが堅牢で信頼性が高く使いやすかった。そこで、ユンカースJu-52をより大型化したJu-252、木製化して資源節約化したJu-352などが実用化されても主力輸送機として終戦まで輸送任務に多用された。1930年の初飛行から終戦までの15年間に軍・民合わせて4,800機が生産された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-792-0140-35A Archive title: Sowjetunion.- Flugzeug des Typs Junkers Ju 52 auf einem Feldflughafen; Prop. Eins Dating: 1942 Photographer: Ziepke Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101III-Duerr-053-10A"引用(他引用不許可)。


第4航空軍司令官ファン・リヒトフォーヘン大将の隷下の第8航空航空軍団マルチン・フィービフ中将は,1941年11月20日,退路を断たれたパウルス将軍の第六軍参謀長アルツゥール・シュミット少将に電話してた。

シュミット参謀長が,スターリングラードに陣を構えると述べた時,軍の補給について,一個軍を空輸で支えることは無理なことを伝えていた。また,フィービヒ中将は,上官のリヒトフォーヘン大将に,スターリングラードの空輸要請は,実施困難なことを伝えた。

リヒトフォーヘン大将は,フィービヒ中将からの連絡によって,スターリングラード空輸の話を聞き,空軍参謀総長イェショネクに,空中補給は不可能で,そのような要請を引き受けられないとの判断を伝えた。しかし,第六軍25万人をユンカースJu-52を大量投入して空中補給する方針が,ヒトラーと空軍ゲーリング国家元帥によって決まってしまった。

スターリングラードに包囲された20万人には1日1000トンの物資が必要だが,パウルス将軍は,最低限1日300トン,のちに500トンを空輸要請した。ゲーリング空軍元帥はこれを承諾した。リヒトフォーヘンは本国のユンカース Ju 52 輸送機,爆撃機をも動員して空輸を行ったが,1日300トンを目標に空輸を開始した。しかし,順調な時でも100-200トン程度しか空輸することはできなかった。

1942年11月30日,初めてスターリングラードに100トン以上の補給を届けることができた。空輸任務にはユンカース輸送機180機以上が配備されたが,天候や補給不足,ソ連軍の対空射撃によって,稼働率は低下した。1942年12月24日-1943年1月31日まで,スターリングラード輸送任務によって,ユンカースJu-52輸送機266機,He-111爆撃機165機など合計488機が失われた。

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju-52/3m輸送機を見る。


17.メッサーシュミット Me-323 ギガント輸送機

写真(右)1943年3-4月,イタリア戦線のメッサーシュミットMe 323 ギガント"Gigant"輸送機:翼下には、4発のユンカースJu290が映っている。Me321大型グライダーにフランスで鹵獲したノームローンGnome-Rhône 14Nエンジンを6発装備して自力飛行可能な輸送機としたメッサーシュミットMe 343 ギガント"Gigant"。機首が観音開きになるために、大型車両、戦車もそのまま貨物室に搬入し空輸することができた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-561-1130-33A Archive title: Italien, Grosseto.- Transportflugzeug Messerschmitt Me 323 "Gigant" auf Flugplatz, drei Gnôme-Rhône-Motoren an der Backbord-Tragfläche, im Hintergrund Junkers Ju 290 (Kennung SB+OB?); PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 März - April Photographer: Seeger, Erwin Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


Me 323ギガント諸元:
乗員:5名
全長:28.2m、翼幅:55.2m、全高:9.6m
空虚重量:27,330kg、全備重量:29,500kg
エンジン:6×ノーム・エ・ローヌ 14N:950hp×6
最高速度:270km/h、航続距離:800km
兵装:18丁×7.92ミリMG15機銃
輸送力:兵員120名あるいは貨物20t

ドイツ占領下フランスにおけるノーム・ローンエンジンなど航空機用エンジン生産数。

1941年   フランス型(ノーム・ローン等)1927基
1942年   フランス型(ノーム・ローン等)1247基
  ドイツ型(BMW132等)  751基
1943年   フランス型(ノーム・ローン等)2310基
  ドイツ型(BMW132等)  2669基
1944年   フランス型(ノーム・ローン等) 678基
  ドイツ型(BMW132等)  1637基
合計  フランス型(ノーム・ローン等) 6162基
  ドイツ型(BMW132等)  5057基

写真(右)1944年3-4月,ソ連中部、メッサーシュミットMe 323 ギガント"Gigant"輸送機:翼下には、4発エンジンのユンカースJu290輸送機が映っている。Me321大型グライダーにフランスで鹵獲したノームローンGnome-Rhône 14Nエンジンを6発装備して自力飛行可能な輸送機としたメッサーシュミットMe 343 ギガント"Gigant"。機首が観音開きになるために、大型車両、戦車もそのまま貨物室に搬入し空輸することができた。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-667-7148-32A Archive title: Russland-Mitte.- Transportflugzeug Me 323 "Gigant" auf Feldflugplatz; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1944 März - April Photographer: Kunstmann Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-667-7148-32A"引用(他引用不許可)。


写真(右)1944年3-4月,ソ連中部、メッサーシュミットMe 323 ギガント"Gigant"輸送機:機首の貨物扉をが観音開きにしてトラックを積み下ろしすることができる。大型車両、戦車が後方にあると、機体は上向になる。機首の貨物扉の近くまで大型車両が移動すると、機体は平行になる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-667-7148-04A Archive title: Russland-Mitte.- Beladen / Entladen eines Transportflugzeugs Me 323 "Gigant" mit Versorgungsgütern und LKW Opel Blitz auf Feldflugplatz; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1944 März - April Photographer: Kunstmann Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-667-7148-04A"引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年初頭,北アフリカ、チュニジア、メッサーシュミットMe 323 ギガント"Gigant"輸送機の機首:閉まっている機首の貨物扉の下部左右に7.92ミリMG15旋回機銃塔2カ所、上部に採光窓2カ所がある。大型車両、戦車を出し入れする際は、この機首扉が左右に観音開きになる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-558-1051-18 Archive title: Nordafrika, Tunesien.- Transportflugzeug Messerschmitt Me 323 "Gigant" auf Feldflugplatz stehend, Bug mit geschlossener Ladeklappe und MG-Stand; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Anfang Photographer: Seeger, Erwin Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-558-1051-18"引用(他引用不許可)。


Messerschmitt Me 321 / Me 323 Gigant.

⇒写真集Album: メッサーシュミット(Messerschmitt)Me323ギガント輸送機/を詳しく見る。



18.長距離大型輸送機・哨戒爆撃機・フォッケウルフFw-200コンドル

写真(右):1940年頃,ドイツ、ドイツ空軍のフォッケウルフFw-200コンドル輸送機/哨戒偵察機:ヒトラーもヒムラーも同型のFw-200輸送機に搭乗して移動していた。大戦初期には、機体下面に長大なゴンドラを増設して、爆弾搭載量と航続距離を増し、海上哨戒用に改装された型が、大西洋上で船舶攻撃に大活躍した。
Jagers en snelle gevechts vliegtuigen, "Focke Wulf" - Duitsland Beschrijving oorlog , luchtmacht , vliegend materieel, Duitsland Locatie Duitsland
写真は,Nationaal Archief en Spaarnestad Photo (他引用不許可)。


フォッケウルフFw-200コンドルの諸元
エンジン BMW-Bramo 323 R-2 mit je 1000 PS (1200 PS mit MW-50-Einspritzung) 4基
全幅: 32,84 m 全長: 23,87 m 全高: 6,30 m
空虚重量: 14.180 kg 全部重量: 22.600 kg
乗員: 7 人,生産機数 276機
巡航速度: 384 km/h 高度 3970 m, 405 km/h 重量17.600 kg
上昇限度: 6600 m
航続距離: 3550 km (標準) C-3/U2 最大 6400 km
武装: 2基×MG 151/20 (20 mm), 5基×MG 15 (7,92 mm)
爆弾1000 kg (爆弾倉) + 主翼下面 1400 kg,最大搭載量1800 kg

写真(右):1940年頃,ドイツ、ドイツ空軍のフォッケウルフ(Focke Wulf)Fw-200コンドル哨戒偵察機:機首上面に7.92ミリ旋回機関銃を装備した初期の哨戒偵察機型。1940-1941年には、海上哨戒に多数が投入され、ドイツ海軍Uボートとも連携して、大西洋上で多数の連合国船舶を撃沈した。
Jagers en snelle gevechts vliegtuigen, "Focke Wulf" - Duitsland Beschrijving oorlog , luchtmacht , vliegend materieel, Duitsland Locatie Duitsland
写真は,Nationaal Archief en Spaarnestad Photo  15069_016引用。


1939年9月、第二次世界大戦の勃発後、Fw-200は長距離偵察機として軍に採用され、艦船攻撃用に250kg爆弾を搭載できるように改造された。

1940年6月、フランス占領後、フォッケウルフFw-200は大西洋の船団哨戒と船舶攻撃に活躍した。しかし、機体構造の脆弱な民間輸送機であり、作戦行動の厳しい操作性には、機体がもたなかったため、破損や機体劣化が激しく、哨戒爆撃機としての運動性には限界があった。その後、1942-43年冬、スターリングラードに孤立包囲されたドイツ第六軍への空輸任務にも投入された。

⇒写真集Album:フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200輸送機/哨戒偵察機を詳しく見る。


19.四発大型輸送機ユンカースJu-90/Ju-290

四発輸送機のJu-90試作機V1は、1,100馬力ののダイムラー・ベンツ社のDB600C倒立V型液冷エンジン4基搭載、1937年8月28日に初飛行した。試作2号機(V2)は1938年5月、ルフトハンザ航空で試験運用がなされたが、戦闘機用の高性能DBエンジンに代えて、Ju-52輸送機と同型の830馬力のBMW 132 星型空冷エンジンを搭載した。ルフトハンザ航空はユンカースJu-90A輸送機を合計7機購入し運用したが、第二次世界大戦が勃発し、Ju-90は軍用機に改造されることになる。

写真(右)1942-1943年,長距離偵察機Ju 290 A-3:四発輸送機のJu-90を改造した大型偵察機。全幅: 42.00m、全長: 28m、全高: 6.83m。主翼面積: 203.6平方メートル、 空虚重量: 33,005 kg、最大重量(Ju 290A-5): 44,970kg、(Ju 290A-7): 45,400kg。最高速度: 440kph (273 mph)、実用上昇限度:6000 m、航続距離: 3,700 マイル (5950 km)。兵(装290A-2):5× 20mm MG 151/20、6× 13mm MG 131
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1989-039-19A Original title: info Junkers Ju 290 A-3, Fernaufklärer Werkfoto Junkers (MBB) 290/8 Archive title: Flugzeug Junkers Ju 290 A 3 auf einem Flugplatz stehend Dating: 1942/1945 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


ユンカースJu-290A-7諸元
全長: 28.6メートル,全幅:42.0メートル, 翼面積:203平方メートル
自量:3.3トン,全備重量: 4.5トン
エンジン: BMW 801D 空冷14気筒 1700馬力4基
最大時速:420キロ,航続距離:6000キロ,上昇限度:6500メートル
原型Ju90輸送機は1938年8月初飛行,Ju-290試作機1942年7月初飛行,就役1942年8月,生産数:52機

ユンカースJu-90輸送機は,胴体の荷物の積み下ろしに際しては,大型貨物を搬出入しやすいように胴体後部ランプを備えていた。これは,胴体後部が下に開いて坂道(ランプ)となり,その開口部分から,大型貨物を出し入れする装備である。Ju-290もJu-90も胴体下方ランプをそのまま引き継いだが,偵察爆撃機としては必要のない装備だった。

⇒写真集Album:ユンカースJu90輸送機/Ju290哨戒偵察機を詳しく見る。


20.フォッケウルフ Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機/輸送機

写真(右)1937年7月30日,オランダ沿岸、ハーグ南郊外、イペンブルグ、売り込みのためにオランダに飛行してきたフォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機D-OQYT:低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
全備重量: 3,600 kg、 アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hp2基、最高速力 280 km/h、航続距離 800 km。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000663 Beschrijving Belangstellenden bij demonstratietoestel Focke-Wulf Fw 58 Weihe D-OQYT. Plaats Ypenburg, Zuid-Holland, Nederland Datering van 1937-07-30 Specifieke kenmerken D-OQYT Vervaardiger Koninklijke Luchtvaart Maatschappij N.V. Copyright KLM Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000665"引用。


オランダは、1939年9月初頭、ドイツがポーランド侵攻をし、直ぐにイギリス・フランスが宣戦布告した後も、中立の立場を表明していた。しかし、1940年5月、ドイツ軍のフランス侵攻「ゲルフ」黄色作戦では、ドイツはオランダの中立を無視して、オランダ、ベルギーにも侵攻した。しかしう、1937年の時点では、オランダは、第一次大戦のときと同じく、紛争に際して中立を守ることが可能であると考えていた。そのため、ドイツとの友好維持もあって、ドイツのフォッケウルフ社からFw-58 「ワイエ」を購入したのであろう。

写真(右)1937年10月12日,オランダ、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、売り込みのためにオランダに飛行してきたフォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機D-OQYT:低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000665 Beschrijving Demonstratietoestel Focke-Wulf Fw 58 Weihe, reg. D-OQYT, op Soesterberg. Plaats Soesterberg, Utrecht, Nederland Datering van 1937-10-12 Datering tot 1937-10-12 Trefwoorden demonstraties, evenementen, Focke-Wulf Fw 58 Weihe, lesvliegtuigen Specifieke kenmerken D-OQYT Vervaardiger ML Copyright NIMH Bijzonderheden Demonstratietoestel. Kleur/Zwart-wit Zwart-wit
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000665"引用。


フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機は、全備重量 3,600 kg、 アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒エンジン 240 hp2基搭載、最高速力 280 km/h、航続距離 800 kmの安価で使いやすい機体だった。そこで、フォッケウルフ社は、1937年7月と10月、オランダに売り込むために、Focke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機D-OQYTを使って、オランダに対するデモ飛行を実施した。この時に関心を持ったオランダ陸軍航空隊は、フォッケウルフFw 58 "Weihe"ワイエを軽輸送機・練習機として、複数機購入した。

写真(右)1937年10月12日,オランダ、ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、売り込みのためにオランダにデモ飛行してきたフォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機D-OQYT:低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
Collectie Foto Technische Dienst Luchtvaartafdeeling Objectnummer 2011-1589 Beschrijving Duitse Focke-Wulf Fw 58 Weihe op Soesterberg voor het geven van demonstraties voor de LVA. Plaats Soesterberg, Utrecht, Nederland Datering van 1937-10-12 Datering tot 1937-10-12 Trefwoorden proefnemingen, activiteiten, Foto Technische Dienst Luchtvaartafdeeling, Luchtvaartafdeeling, Focke-Wulf Fw 58 Weihe, lesvliegtuigen, lesvliegtuigen, vliegtuigen, bezoeken, activiteiten Specifieke kenmerken D-OQYT Vervaardiger Onbekend Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2011-1589"引用。


オランダの購入したFw58は、登録番号197、198、199の3機が知られている。その写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie に掲載、公開されている。

写真(右)1938-1939年,オランダ中部沿岸、北ホラント州、テセル、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ軽輸送機・練習機とオランダレイク軍航空隊搭乗員たち:機首には7.92ミリMG15旋回機銃を装備していない。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Marine Objectnummer 2158_083413 Beschrijving Lestoestel Focke Wulf "Weihe"van de LVA op het MVKKooy, 1938/1939 Plaats MVKK Datering van 1938 Datering tot 1939 Trefwoorden vliegtuigen, materieel Specifieke kenmerken overige Nederlandse vliegtuigen Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2158_083413 "引用。


第一次世界大戦徳善の1913年、オランダ陸軍航空隊が創設されたが、配備された機体は、フランスから輸入したファルマン、ニューポール、コードロンなどの外国製造の機体だった。しかし、第一次世界大戦が勃発した後も、オランダは中立を保っており、戦争には参加しないで済んだ。戦争末期には、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の亡命も受け入れている。

写真(右)1939年10月,オランダ南部沿岸、ゼーラント州、オースト=サウブルグ、オランダ陸軍航空隊の国籍識別マークを付けたフォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機199号:低翼式主翼を支える支柱が胴体上から繋がれている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000672 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 Weihe 199. Plaats Souburg Datering van 1939 Specifieke kenmerken 199 Vervaardiger Bierhuijs, A. Copyright Fam. Bierhuijs Bijzonderheden Vóór oktober 1939.
写真は,NIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000672 "引用。


 第一次世界大戦後、オランダ政府は、他のヨーロッパ諸国同様、軍事予算を削減し、オランダ陸軍航空隊も縮小されたが、1930年代後半になると、ドイツの再軍備、対外膨張が危惧されるようになった。1939年7月1日、オランダ陸軍航空隊の増強が決まったが、陸軍航空隊の配備機は200機しかなく、航空機の増加と並んで、搭乗員の急速な養成が求められたのである。そこで、空軍力を強化するために、双発練習機として、フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ軽輸送機・練習機を購入することを決めた。陸軍航空隊のための操縦士、航法士、通信士などの養成が本格的に始まったのである。

  写真(右)1939年11月20日,オランダ中部沿岸、北ホラント州、テセル、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ軽輸送機・練習機とオランダレイク軍航空隊搭乗員たち:機首には7.92ミリMG15旋回機銃を装備していない。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_001340 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 Weihe met passagiers op Texel voor vertrek naar Soesterberg op 20 november 1939. Van links naar rechts de heren Aarts, Ottes, Lub, Nijhuis en Kuhn. De vlieger was adjudant D.H. Lambermont. Plaats Texel, Noord-Holland, Nederland Datering van 1939-11-20 Namen personen Aarts, P.J.;Kuhn, J.A.;Ottes, C.R.;Nijhuis, G.;Lub, D.;Lambermont, D.H. Rang/functie Adjudant, vlieginstructeur, Sergeant-vlieger Trefwoorden groepsportretten, afbeeldingsgenres, Focke-Wulf Fw 58 Weihe, lesvliegtuigen Specifieke kenmerken 198 Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH Bijzonderheden De vijf sgt.vliegers hadden hun omscholing tot jachtvlieger voltooid. Kleur/Zwart-wit Zwart-wit.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000662"引用。


写真(右)1939-1940年冬,オランダ中部沿岸、北ホラント州、テセル、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機:機首に7.92ミリMG15旋回機銃を装備。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_001335 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 in de sneeuw. Winter 1939-40. Plaats Texel Vervaardiger Brouwer, Cor Bijzonderheden Demonstratietoestel.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000662"引用。


写真(右)1940年頃,オランダ、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機:機首に7.92ミリMG15旋回機銃は装備されていない。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。機首先端下方には、爆撃練習をする爆撃照準器を搭載。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ。無線通信練習をするために、アンテナを張る支柱は大型である。主翼を支える支柱が、操縦席脇から低翼式の主翼に繋がっている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_001336 Beschrijving Voorzijde Focke-Wulf Fw 58 Weihe. Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_001336"引用。


写真(右)1940年頃,オランダ、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機199号:機首の7.92ミリMG15旋回機銃は未搭載。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ、その後にアンテナ線支柱、後上方銃座支柱。低翼式主翼を支える支柱が、操縦席脇風防枠から出ている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000673 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 Weihe 199. Specifieke kenmerken 199 Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000673"引用。


1940年5月、ドイツは、フランス侵攻のために、中立国オランダに侵入し、オランダ陸軍航空隊は、反撃を開始した。しかし、圧倒的に優勢なドイツ軍の前に、オランダ軍は1週間で壊滅状態となり、イギリス・フランスの遠征軍も退却してしまった。しかし、オランダ陸軍航空隊のパイロットの中には、イギリスに脱出し、そこで、イギリス軍の指揮下に再起を期すものがあった。彼らが1940年6月に設立したのが、第320飛行隊、第321飛行隊である。1941年には、オランダ陸軍航空隊の搭乗員訓練は、アメリカでも始められている。

写真(右)1940年,ユトレヒト州、アムステルダム南西50キロ、スーステルベルグ、オランダ陸軍航空隊フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機198号とコックピットを点検する長靴を履いた搭乗員:機首に7.92ミリMG15旋回機銃が装備されている。コックピット後方上は、方位測定用ループアンテナ、その後にアンテナ線支柱、後上方銃座支柱。低翼式主翼を支える支柱が、操縦席脇風防枠から出ている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_000674 Beschrijving Focke-Wulf Fw 58 Weihe, reg. 198. Plaats Soesterberg, Utrecht, Nederland Datering van 1940 Datering tot 1940 Trefwoorden Luchtvaartafdeeling, Koninklijke Landmacht, Focke-Wulf Fw 58 Weihe, lesvliegtuigen, lesvliegtuigen, vliegtuigen Specifieke kenmerken 198 Vervaardiger Bierhuijs, A. Kleur/Zwart-wit Zwart-wit
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_000674"引用。


写真(右)1940年5月(?),オランダ中部沿岸、北ホラント州、テセル、オランダ陸軍航空隊破壊され骨組みが残ったフォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機197号:金属骨格に羽布を張った構造なので軽量化できたが、火災などに遭うと引火、全焼してしまう。オランダ降伏に際して、オランダ陸軍航空隊メンバーがドイツ軍の手に渡さないように焼却したのであろう。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_001341 Beschrijving Wrak Focke-Wulf Fw 58 197 op Texel. Plaats Texel Datering van 1940 Specifieke kenmerken 197 Vervaardiger Onbekend Bijzonderheden Duitse foto.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_001336"引用。


1940年5月、ドイツの中立国オランダへの侵攻の為、オランダはドイツ占領下におかれることになるが、降伏、武装解除を潔しとしないオランダ陸軍降雨空タイの搭乗員は、自分たちの愛機を焼却処分した。処分されたFw58は、少なくとも196号機、197号機の写真が残され、公開されている。

写真(右)1942年頃,オランダ、ドイツ空軍フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ輸送機・練習機のコックピット後方:低翼式主翼を支える支柱と補助支柱、ループアンテナ、無線通信機用アンテナ線を張るアンテナ支柱がよくわかる。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Luchtmacht Objectnummer 2157_001344 Beschrijving Detail romp en cockpit Focke-Wulf Fw 58 Weihe. Trefwoorden cockpits, vliegtuigonderdelen Vervaardiger Onbekend.
写真はNIMH:Nederlands Instituut voor Militaire Historie "2157_001344 "引用。


Focke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機は、機上作業練習機、軽輸送・連絡機として1935年に初飛行。胴体は、鋼管溶接に前部が金属外皮、後部が羽布張りで、主翼は前部が金属外皮、中部・後部は羽布張りで軽量化を図っている。

フォッケウルフ Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機総生産機数は、1,350機。 オランダ、アルゼンチン、ブラジル、クロアチア、ルマニア、スペイン、トルコでも使用された。

写真(右)1943/1944年,西ヨーロッパ、フォッケウルフ Fw 58 C "Weihe"ワイエ練習機とユンカースJu88爆撃機(左):機首の7.92ミリMG15旋回機銃のないフォッケウルフFw 58 Cは専用練習機として使用された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-594-0294-18 Archive title: Auf einem Flugplatz im Westen.- Focke-Wulf Fw 58 C "Weihe" (r.) neben Junkers Ju 88 mit Radargerät; KBK Lw z.b.V. Dating: 1943/1944 Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・"Bild 101I-594-0294-18"引用(他引用不許可)。


フォッケウルフFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機諸元:
全長: 14.2 m、全幅: 21.00 m、全高: 4.5 m
翼面積: 47平方メートル
自重: 2,400 kg、全備重量: 3,600 kg
エンジン: アルグス As 10C 空冷倒立V型8気筒 240 hp ×2
最大速度: 280 km/h
実用上昇限度: 5,600 m、航続距離: 800 km
乗員: 6 名

写真(右)1944年1月,飛行機格納庫のFocke-Wulf Fw 58 "Weihe"ワイエ練習機(手前)、Messerschmitt Me 323 "Gigant"(扉を開けた状態)、 Focke-Wulf Fw 190(右):この Fw 58ワイエは、機首の透明ガラス風防を廃止しロリッド化しているので、水平爆撃の照準訓練は行わず、軽輸送機、双発機練習機として使用されたようだ。
Title Reichsgebiet, Flugzeugwerft mit Me 323, Fw 58 Info non-talk.svg Archive description
Description provided by the archive when the original description is incomplete or wrong.
Reichsgebiet.- Reparatur- und Wartungsarbeiten an verschiedenen Flugzeugtypen der Luftwaffe auf einer Flugzeugwerft, im Hintergrund eine Messerschmitt Me 323 "Gigant"; vorn eine Focke-Wulf Fw 58 "Weihe", rechts eine Focke-Wulf Fw 190; Einsatzkompanie Lw zbV
Depicted place Reichsgebiet
Date January 1944
Photographer Sierstoopff (pp) Institution German Federal Archives Link back to Institution infobox template wikidata:Q685753 Bundesarchiv Bild 144-400-05, Koblenz, Bundesarchiv, Hauptgebäude.jpg Link to OpenStreetMapLink to Google Maps
Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe (Bild 101 I) Accession number Bild 101I-670-7418-33 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-670-7418-33引用(他引用不許可)。



21.兵員輸送グライダーDFS 230

写真(右)1943年,イタリア戦線のLastensegler DFS 230 兵員輸送用グライダー(滑空機):迷彩塗装が施されている。機体側方に大型扉があって、着陸した直後に緊急に降下猟兵が地上で戦闘態勢に入れるよう配慮されている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1407-04A Archive title: Italien, Sizilien.- Luftwaffen-Soldaten vor Lastensegler DFS 230 (Kennung ?+1-86) mit Zusatzpropeller auf dem Dach auf Feldflugplatz; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Macioszek Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv:Signature;"Bild 101I-565-1407-04A"登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年,イタリア戦線のLastensegler DFS 230 兵員輸送用グライダー(滑空機):操縦席上方に地上掃射用の7.92ミリMG15機銃が装備されている。球状のものは空薬莢入れ。操縦席外側には、降下猟兵が地上戦に使用する7.92ミリMG34機銃が固定されている。機構に使用されるのは、ヘンシェルHenschel Hs 126偵察機。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1425-20A Archive title: Italien, Sizilien.- Lastensegler DFS 230 mit geöffneter Cockpit-Kanzel und MG 34 auf dem Dach und neben der Cockpithaube auf Feldflugplatz stehend, im Hintergrund Henschel Hs 126; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Schnitzer Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1943年,イタリア戦線のLastensegler DFS 230 兵員輸送用グライダー(滑空機):迷彩塗装が施されている。機体側方に大型扉があって、着陸した直後に緊急に降下猟兵が地上で戦闘態勢に入れるよう配慮されている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1407-04A Archive title: Italien, Sizilien.- Luftwaffen-Soldaten vor Lastensegler DFS 230 (Kennung ?+1-86) mit Zusatzpropeller auf dem Dach auf Feldflugplatz; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Macioszek Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv:Signature;"Bild 101I-565-1407-15A"登録・引用(他引用不許可)。


DFS 230 A-1諸元
全長: 11,24 m
全高: 2,74 m、 全幅: 20,87 m
主翼面積: 41,3 平方メートル
最高曳航速度: 210 km/h
空虚重量: 860 kg、最大全備重量: 2100 kg
乗員: パイロット1名、降下猟兵 9名。
生産数は、A型654機、B型936機、その他合計1.603機。

DFS 230 グライダーは、胴体が角型断面の鋼管羽布張り、主翼が前部は木造合板、後部は羽布張りで軽量化されている。車輪は、離陸後に切り離され、曳航時の空力抵抗の減少が図られている。着陸時は、機体下部に装備した木製の橇を使用する。

写真(右)1943年,イタリア戦線のLastensegler DFS 230 兵員輸送用グライダー(滑空機):
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-569-1579-28A Archive title: Italien.- Fallschirmjäger am Dach-MG eines Lastenseglers DFS 230 nach der Landung (Übung); PK Fs AOK Dating: September 1943 Photographer: Stocker, Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv:Signature;"Bild 101I-569-1579-28A"登録・引用(他引用不許可)。


降下猟兵が機体上部に取り付けられた旋回機銃を操作する。空気抵抗を小さくするために、機体は幅が狭く、大柄な操縦手には窮屈なコックピットである。機首の下方には、着陸に使用する木製の橇が見える。離陸の時には、橇ではなくその下に装着した車輪を使い、離陸した時に重量軽減のために車輪を投下する。

初の実戦は、1941年5月10日の西部戦線におけるベルギーのエバン・エマール要塞攻略戦にDFS 230 グライダー7機が参加。降下猟兵が要塞に爆雷を仕掛けて破壊した。また、翌1942年5月20日にはクレタ島攻略に多数が参加した。しかし、降下猟兵、輸送機、曳航機に大損害を被ったために、以後、ドイツ軍は大規模降下作戦を実施していない。

写真(右)1943年,イタリア戦線のLastensegler DFS 230 兵員輸送用グライダー(滑空機):地上でグライダーを運搬したのは,Hanomag SS 55トレーラー(後方)。グライダーの尾部に車輪を装着して、グライダー機体前部に元から装着されている車輪を使って引っ張った。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-566-1491-37 Archive title: Süditalien.- Hanomag SS 55als Zugfahrzeug für Lastensegler DFS 230 (Kennung S1+B1-B3); PK Fs AOK Dating: 1943 Photographer: Stocker, Dr. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-566-1491-37引用(他引用不許可)。



22.大型輸送グライダー ゴータGo-242

写真(右)1942年冬,東部戦線のゴータGotha Go 242輸送用グライダー
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-565-1407-15A Archive title: Italien, Sizilien.- Lastensegler DFS 230 mit Zusatzpropeller auf dem Dach auf Feldflugplatz; PK XI. Fliegerkorps Dating: 1943 Photographer: Macioszek Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-565-1407-15A引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年,ドイツ軍ゴータGo242グライダーに乗り込む兵士と搭乗員:チョルムにまで物資・人員輸送するゴータ社のグライダーで,爆撃機He111が牽引して滑空飛行する。
Sowjetunion, Kessel von Cholm.- Transport von Soldaten mit Lastensegler Gotha Go 242. Soldaten beim Besteigen des Flugzeugs; PK 501 Dating: 1942 Anfang Photographer: Muck, Richard撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ドイツ本土は,1943年前半から,昼間は米陸軍航空隊B-17「フライング・フォートレス」,B-24「リベレーター」重爆撃機に,夜間は英空軍「ランカスター」「ハリファックス」重爆撃機による戦略爆撃に晒された。

ドイツ本土爆撃に際し、アメリカ陸軍航空隊は、軍需工場など軍事施設を爆撃目標として狙う昼間精密爆撃を行った。これは、?操縦に連動する精密なノルデン爆撃照準器に信頼を置いた、?爆撃機に12.7ミリ機銃を多数装備し防御に地震があった、という理由である。

他方、イギリス空軍は、中型爆撃機による昼間爆撃を行った際に大きな損害を受けており、四発の重爆撃機は米軍爆撃機より低速であったため、夜間の絨毯爆撃、都市爆撃を行った。

 こうして、米英二つの航空兵力が行ったドイツ本土空襲によって,ドイツの産業,交通,市民生活は,次第に困難な状況に陥った。

写真(右)1943年春,東部戦線のゴータGotha Go 242輸送用グライダー:1942年から使用された21乗りの輸送用グライダーで、人員・貨物の搭載口には、機体側方の小型扉と、機体後方に跳ね上げ式の大型扉の2種類があった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-332-3096-23 Archive title: Sowjetunion.- Soldaten besteigen Lastensegler Gotha Go 242; KBK Lw 1 Dating: 1943 Frühling Photographer: Liedke Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ空軍戦闘機部隊は,1943年前半までは,連合軍爆撃部隊を迎撃し,大きな戦果をあげていた。
 しかし,1944年後半には,熟練搭乗員と燃料の不足,数的劣勢,性能の相対的低下のために,連合軍の爆撃機部隊に,有効な反撃を加えることができなくなっていた。

制空権が失われた以上,連合軍による欧州侵攻を防衛することは,ドイツ軍にとって不可能なことになった。

実際,1944年6月に,米英加を中心とする連合軍がノルマンディーに上陸すると,ドイツ軍はカーンで包囲され,大損害を被った。ドイツ陸軍地上部隊だけで,連合軍に反撃を加えることは,困難だった。

写真(右)1943年,東部戦線の南部、ゴータGotha Go 242輸送用グライダーの後方跳ね上げ式扉を開けた状態:機体後方に跳ね上げ式の大型扉からは、サイドカーのような自動車もそのまま搭載することが可能だった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-641-4546-17 Archive title: Sowjetunion, Süd.- Transport von Luftwaffensoldaten. Bewaffnete Luftwaffensoldaten im Innenraum eines Lastenseglers Gotha Go 242; Einsatzkompanie Luftwaffe zbV Dating: 1943 Photographer: Wanderer, W. Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。





ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
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自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
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戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
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人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
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ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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