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◆マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
写真(上)1935年以降,アメリカ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー"China Clipper"
;1935年10月に「フィリピン・クリッパー」Philippine Clipper (NC14715)が太平洋フィリピン航路に初就役。
Martin M-130 China Clipper 003cropped.tif---Lithograph of The Martin M-130 "China Clipper"; 1935; framed with an original piece of mail on the first Trans-Pacific Air Mail Service; Artist: Witkoff--- - -Image from the SDASM Curatorial Collection.Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives pictionid58086450 -引用。



写真(上)1935年以降,アメリカ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー"China Clipper"(NC14716)
;1935年10月9日にマーチン社からパンアメリカン航空に引き渡された。価格は1機$41万7,000ドル。
The Martin M-130 flying boat, formally called Martin Ocean Transports, were long-range airliners designed by the Glenn L. Martin Company. With a range of up to 3,200 miles or 5,150 kilometres, they were designed for Pacific Ocean services for Pan American World Airways. First flight of the Pratt & Whitney Twin Wasp powered aircraft was on 30 December 1934. Air mail services began on 22 November 1935, with passenger services starting on 21 October 1936. Capacity was 12 berths for overnight flights, or 20 seats in daytime configuration.
写真は,Does anyone remember the famous China Clipper, the Martin M-130 flying boat? 引用。



写真(右)1936年、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ湾、アラメダ海軍基地、マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇「チャイナクリッパー」"China Clippers"(NC14716)
;1号艇「チャイナ・クリッパー」は1935年10月9日にパンアメリカン航空機に引き渡された。
PAA hangar Alameda 1936 Date 29 October 2010, 14:25 Source PAA hangar Alameda 1936 Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:PAA hangar Alameda 1936 (5190922937).jpg引用。

写真(右)1940年、アメリカ、ソ連向け輸出仕様マーチン(Martin)M-156/PS-30 四発大型飛行艇「ロシアン・クリッパー」 "Russian Clipper"
;1号艇のみ生産された。
Martin 156 Russian Clipper Date 18 September 2010, 22:31 Source Martin 156 Russian Clipper Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 156 Russian Clipper (5003565702).jpg引用。


1.マーチン(Martin)M-130飛行艇チャイナ・クリッパー"China Clipper"


写真(右)1935年頃,アメリカ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー"China Clipper"
;1935年10月に「フィリピン・クリッパー」Philippine Clipper (NC14715)が太平洋フィリピン航路に初就役。
Allen_0088 Martin M-130 Pan-Am China Clipper 4 engine seaplane ---This image has been graciously loaned by Willis and Claudia Allen of Allen Airways Flying Museum.---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真は,SDASM Archives pictionid58086450 -引用。


複葉機全盛だった1934年12月、アメリカのマーチンM-130Martin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」"China Clippers"が初飛行した。この飛行艇は、パン・アメリカン航空の要請を受けて、空の「チャイナ・クリッパー」(China Clipper)として、太平洋横断可能な四発旅客飛行艇として開発されたもので、全長27.6メートル、全幅39.7メートルの片翼式単葉機で、胴体両側の張り出しは浮舟と燃料タンクを兼ねていた。発動機は信頼性のあるプラット・アンド・ホイットニーPratt & Whitney)R-1830ツインワスプ空冷星形エンジン840馬力4基を搭載し、巡航速力は266km/h、乗客12-14名を5150km運ぶことができる。また、短距離であれば、乗客48名を搭乗させることができた。

写真(右)1935−1936年頃,アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ湾アラメダ海軍軍基地(?)、陸上に引き上げられトラクターで牽引されているパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇:船体中部下方には、浮きの役割をするフロート(スポンソン)が張り出しているが、これはドルニエDo-J飛行艇以来の構造である。陸上で移動しやすいように胴体下面に着脱式の車輪を装備して、その上に胴体を乗せている。車輪には、そのまま海上に滑り出したときに浮くようにドラム缶上の空気タンクが浮きとして装備されている。白のアメリカ海軍の軍装を着用しているので、アラメダ海軍基地で撮影されたものであろう。
Martin : 130 : Clipper Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,Category:Martin 130 of Pan American Airways Catalog #: 00068819引用。


写真(右)1934年頃,アメリカ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー"China Clipper"
Catalog #: 00068814 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:09 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真は,Category:Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4589906869).jpg引用。


1934年12月30日初飛行 マーチンM-130Martin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」"China Clippers"は、全長27.7m、全幅39.7m、翼面積330 m2、プラット・アンド・ホイットニー (Pratt & Whitney)R-1830ツインワスプ(Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジン830 hp (708 kW)4基搭載。全備重量:23,701 kg、最高速力290 km/h、航続距離5150km。

写真(右)1935年頃,アメリカ、フロリダ州マイアミ中心部、 ビスケーン湾(Biscayne Bay)に面したディナー・キー、マリーナのパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇
Photographs PR00609 Pan American's famous seaplane base on Dinner Key in Biscayne Bay at Miami IMAGE NUMBER PR00609 DATE 20th century COLLECTION Print collections GEOGRAPHIC TERM Miami SUBJECT TERM Seaplanes CORPORATE SUBJECT Pan American World Airways, Inc. Dinner Key Base (Miami, Fla.) PHYSICAL DESCRIPTION 1 photoprint - b&w - 8 x 10 in.
写真は,Florida Memory State Library and Archives of Florida引用。


アメリカ南西、フロリダ州マイアミ(Miami-)のビスケーン湾(Biscayne Bay)は、南フロリダ大西洋岸の河口にあるラグーンで、波がないために、それに面したディナー・キー(Dinner Key)には飛行艇基地が設けられた。ビスケーン湾のラグーンの北はマイアミの中心繁華街であり、交通の便の良い都市の中心部である。

写真(右)1935年11月以降,1935年頃,アメリカ、フロリダ州マイアミ中心部、 ビスケーン湾(Biscayne Bay)に面したディナー・キー、マリーナのパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇フィリピン・クリッパー"Philippine Clipper"(NC14715):後方にはマリーナのターミナルビルが見えるが、太平洋横断の民間商業定期航路を開拓した初めての大型旅客機マーチンM-130飛行艇は、マイアミ、キーウェスト、カリブ海方面への旅行にも使われた。
A typical passenger would have been very wealthy as well as adventurous. The one-way fare from San Francisco to Manila was $799, roughly $10,000 in today's money—twice the price of a seat on the supersonic Concorde. The fare to Hong Kong was $950 one-way, which was certainly out of the reach for most people except for the very well off..Proving flights were made in late 1935 and early 1936, with the China Clipper making the first ever commercial double crossing of the Pacific between November 22, 1935 and December 6, 1935. The full regular trans-Pacific M-130 service opened on October 21, 1936, the flight spanning five days and occupying a total of 60 hours actual flying. This was a vast improvement over the fastest passenger ships of the day which would have taken 21 days.
写真は, The Aviation History Online Museum Martin M-130 China Clipper引用。


フロリダ州マイアミ(Miami)中心部、ビスケーン湾に面したディナー・キー(Dinner Key)に、パンアメリカン航空、パンナム(Pan Am)は飛行艇用空港ターミナルビル、格納庫などの施設を設け、ディナーキー・ホール(Dinner Key Auditorium)として整備した。これが、現在のココナッツグローブ・コンベンションセンター(Coconut Grove Convention Center)で、展示会場や催し物に活用されている。他方、ビスケーン湾のラグーン南はビスケーン国立公園に指定されている。

写真(右)1935年11月以降,アメリカ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇フィリピン・クリッパー"Philippine Clipper"(NC14715):太平洋横断飛行を記念して、機首にアメリカ国旗「星条旗」を描いている。
Martin : 130 : Clipper Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives Catalog #: 00068811引用。


マーチンM-130Martin 130 Clipper)は、合計3機しか生産されていないが、パンナム、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)が太平洋横断航路に就役させ、「チャイナ・クリッパー」として大々的に宣伝し有名になった。

写真(右)1935年11月以降,アメリカ、パンアメリカン航空マーチン(Martin )M-130四発旅客飛行艇フィリピン・クリッパー"Philippine Clipper"(NC14715):太平洋横断飛行を民間商業定期航路を開拓した初めての大型旅客機である。
In 1935 Pan Am would begin Trans-Pacific service to Manila in the Philippines via Hawaii, Midway Island, Wake Island and Guam. Soon thereafter the Manila service would be extended onto Macau and then Hong Kong. The Pacific service was inaugurated with the famous Martin 130 "China Clipper" flying boat which is seen on the right.
写真は, The Virtual Pan Am Museum引用。


しかし、マーチンM-130Martin 130 Clipper)2号機フィリピン・クリッパー"Philippine Clipper"(NC14715)は、1943年1月21日、カリフォルニア州サン・フランシスコ近郊で墜落、同乗者18名が死亡。

写真(右)1936年11月以降、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ湾、トレジャーアイランド(Treasure Island)で整備作業を受けるマーチン(Martin)M-130「チャイナクリッパー」"China Clippers" 四発大型飛行艇 (NC14716);太平洋横断飛行を記念して、機首にアメリカ国旗「星条旗」を描いている。後方の架橋は、サンフランシスコ=オークランド湾大橋(San Francisco-Oakland Bay Bridge)で、1936年11月12日に、鉄道・道路併用の架橋として竣工した。
ChinaClipperatTreasureIsland Date 22 March 2010, 14:40 Source ChinaClipperatTreasureIsland Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:ChinaClipperatTreasureIsland (4454794157).jpg引用。


アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ湾に浮かぶトレジャーアイランドは、長さ5,520 フィート、幅3,410 フィートの人工島で、1936–37年に造成された。 ゴールデンゲート国際展覧会(Golden Gate International Exposition :GGIE)が1939年と1940年に開催されている。

1935年11月22日、アメリカのマーチンM-130Martin 130 Clipper)四発大型飛行艇1号機「チャイナ・クリッパー」が、パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)の太平洋横断定期便として就役した。

写真(右)1935年11月,アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ湾上空を飛行するアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇
Catalog #: 00068823 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:10 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons, Category:Martin 130 of Pan American Airways File: Martin 130 Clipper (4589907197).jpg引用。


五大陸を一跨ぎ 二十日で結ぶ空旅 : 商業機による太平洋翔破の魁け : 桑港−マニラ間は八日から : 旅客機ばかりで世界
大阪毎日新聞 Vol: 第 3巻 Page: 188 出版年 1935-11-05
https://hdl.handle.net/20.500.14094/0100193227

太平洋も大西洋もたったひと跳び、今後は汽船も、汽車も要らぬ旅客機ばかりで世界一周が出来るという素晴らしい航空時代が来た

 列国があらん限りの科学の粋と財力を傾けて新航空路獲得に先陣を争った空の遠征競争は、とてつもない超スピードの大型旅客機競べともなって、空の大商船が世界の隅から隅へ、大航空路を展げて地球が一ぺんに縮った、わけて来る八日からサンフランシスコ、マニラ間に就航する汎アメリカ航空会社[Pan American Airways]の郵便飛行艇シコルスキー・クリッパー[Sikorsky S-42]は従来不可能とされていた商業機による太平洋翔破への輝かしい踏段となって、来春中には目下建造中の大旅客艇チャイナ・クリッパー[Martin M-130]が花々しく乗出し一気にサンフランシスコ、上海を結ぶことになったので東亜の空から、ヨーロッパ、アフリカ、南米、北米と五大陸を股にかけ、青空からの早廻り観光が僅々二十日ですっかりおしまい、さらにツェッペリン飛行船の大西洋横断や日本空輸会社の大阪上海間空路が実現したらこの短かい旅程が、一層短縮されて世界一周ざっと二週間の驚異もさして遠い将来ではない、人類が夢みていた征空の憧れが果される日が近づいたのだ

写真(右)1935年11月,アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ湾上空を飛行するアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇:"チャイナクリッパー"(マーティンM-130)の処女航海 - サンフランシスコ、1935年11月 - パン・アメリカン航空(PAA) - によって作成された クライド・サンダーランド - アートポスター
写真は, Amazon.co.jp ホーム&キッチン›インテリア›アートフレーム・ポスター›ポスター・イラスト引用。


試みに飛行機で世界一周と洒落れ込んで大阪を朝の七時に飛び出すと、賃金百五十円、所要時間十時間かっきりで、もう大連の夕餉が待っている、大連と北平[首都だった北京が南京に遷都され改称]、天津間は素気ない支那の施毛曲りで、予定線のままだが、この日支重要連絡空路がいつまでも”予定”で放任されるわけはない、

北平[北京]からはドイツ資本系の欧亜航空公司とアメリカ閥の中国航空公司とが巴まんじに支那大陸へ航空路の専有を競っているが、欧亜公司の北平、広東間は賃金三百五十銀元(三百七十四円半)定期一週二往復、それに臨時就航二往復で北平発は日、木の二曜日就航(臨時は月、水就航)朝七時五十分北平を出発すると、途中洛陽で一時間半の市中見物が出来て、午後四時に漢口着、翌朝八時に漢口を発ったら午後一時すぎには、もう香港と目と鼻の広東へ着いている

写真(右)1939年,アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ湾上空を飛行するアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇:「チャイナ・クリッパー」(マーティンM-130) - サンフランシスコ、1939年 - パン・アメリカン航空(PAA) - によって作成された クライド・サンダーランド - アートポスター
写真は, Amazon.co.jp ホーム&キッチン›インテリア›アートフレーム・ポスター›ポスター・イラスト引用。


最近の本社特電はロンドン、シンガポール間九千マイルに大空路をつけているイギリスが米、独、支と折衝の結果、その触手を香港まで延長することに決定したと報じているから、香港、シンガポール間はちかくたった一日行程、

クリッパー シンガポールから赤道の南北に沿うてヨーロッパの空と結ぶ定期航空路は英、仏、蘭の競翔でことにオランダ王立航空会社[KLM Royal Dutch Airlines]のKLM線はすでに五年前から就航、一週二往復で片道料金はアムステルダムへでもロンドンへでも同じく百五十六ポンド、邦貨に換算したら二千六百七十三円余となるから高いは高いが、水曜か土曜にシンガポールを発てば、自慢の三十二人乗り四発動機のフォッカーF36型機[Fokker F.XXXVI]がラングーン、カルカッタ、バグダッド、アデン、ローマ、マルセーユ経由、僅か五日間半でロンドンでも、ベルリンでも、パリでもアムステルダムでもお好み次第に運んでくれる

花のパリから一月二往復(第一および第三日曜発)の南米航空路を捉えると、十二人乗寝台附の発動機六基というラテコエール機「海軍大尉パリ」号[Latécoère 521« Lieutenant-de- Vaisseau-Paris » ]が賃金三千四百フラン(七百八十二円)でアフリカの左肩をかすめて二日目にはや南米ナタール着、ナタールからパランキラを経て北米マイアミまでが矢っ張り二日間行程で料金は千三百ドル(四千五百五十円)マイアミ、ニューヨークはほんの数時間、ニューヨークからサンフランシスコ間は一日四往復で片道百六十ドル、寝台でゆっくり寝てる間に、たった一日半でアメリカ大陸を横断、シスコからは三日間で太平洋を跳び越えるという超スピードである [図表あり 省略] [写真(欧亜連絡のフォッカーF三六型)あり 省略](五大陸を一跨ぎ 二十日で結ぶ空旅 : 商業機による太平洋翔破の魁け : 桑港−マニラ間は八日から : 旅客機ばかりで世界引用終わり)

写真(右)1937年,アメリカ、カリフォルニア州、サンフランシスコ沖合上空を飛行するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー(NC14716);全長 27.7m, 全幅 39.7m, 高さ 7.5m、プラット・アンド・ホイットニーPratt & Whitney)R-1830空冷星形エンジン830hp4基、最大離昇重量 52,252ポンド (23,701 kg)、巡航速力 262km/h、航続距離 5150km 搭乗員 4名、乗客 43名(寝台18台)。
Catalog #: 00068824 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:10 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真はCategory:Pan Am Flight 1104 File:Martin 130 Clipper (4590527010).jpg引用。


パンナム(Pan Am)のMartin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」は、カリフォルニア州サンフランシスコ湾にあるアラメダ海軍基地から離水し、ハワイ諸島オアフ島ホノルルに向けて飛び立った。そこから、ミッドウェー島、ウェーク島、グアム島を経由してアメリカ領フィリピンのマニラ港に着水した。この時は、旅行客を乗せた旅客機としてではなく、航空便11万通を輸送した郵便機として就航した。

マーチン(Martin)M-130四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパーは、アメリカ東岸、カリフォルニア州産プランシスコのトレジャーアイランド(Treasure Island)とハワイ諸島ホノルル(Honolulu)との間の航路に就役した。

写真(右)1937年,アメリカ、カリフォルニア州、サンフランシスコの金門橋(Golden Gate Bridge)上空を飛行するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー(NC14716);ゴールデン・ゲート・ブリッジ(Golden Gate Bridge)、すなわち金門橋は、サンフランシスコ湾ゴールデン・ゲート海峡に架かる赤色の吊橋で、 全長2,737メートル、支柱の高さ227メートル、支柱間の長さ1,280メートル、1933年に起工、1937年に竣工した。
English: PictionID:54641303 - Catalog:22_000067.tif - Title:Martin M-130 NC14715 Pan American AL San Francisco - Filename:22_000067.tif - Image from the Arkansas Aviation Historical Society, which donated a large collection of archival material to the San Diego Air and Space Museum in 2016--Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.---Repository: San Diego Air and Space Museum Date 30 January 2017 Author SDASM Archives
写真はCategory:Pan Am Flight 1104 File:Martin M-130 NC14715 San Francisco.jpg引用。


パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発旅客飛行艇「ハワイ・クリッパー」は、全長 27.7m, 全幅 39.7m,高さ 7.5m,発動機プラットアンドホイットニーP&W R-1830空冷星形エンジン830hp4基搭載、最大離昇重量 52,252ポンド (23,701 kg)、巡航速力 262km/h、航続距離 5150km、搭乗員 4名、乗客 43名(寝台18台)の四発大型飛行艇だった。

ポスター(右)1934年頃,アメリカ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発飛行艇のサンフランシスコ=香港間の太平洋横断航空便のポスター:中央の写真は、「チャイナ・クリッパー」"China Clipper"で「サンフランシスコは毎週水曜日初、香港は毎週火曜日着」とある。
English: Poster from the Don Thomas Collection. Mr. Thomas was a collector of aircraft memorabilia who donated several posters to the San Diego Air and Space Museum. Repository: San Diego Air and Space Museum ArchiveUploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真はCategory:Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4589907269).jpg引用。


パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)の運航するマーチンM-130Martin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」"China Clipper"は、アメリカ東岸カリフォルニア州サンフランシスコを毎週水曜日初、香港には毎週火曜日着である。

パンナム(Pan Am)のマーチン(Martin)M-130太平洋横断航空便の所要日数と料金表
サンフランシスコからホノルル:1日 半オンス(14.2g)当たり20セント

サンフランシスコからグアムまで:5日 半オンス当たり40セント
サンフランシスコからマニラまで:6日 半オンス当たり50セント
サンフランシスコからマカオまで:7日 半オンス当たり70セント
サンフランシスコから香港まで:7日 半オンス当たり70セント


写真(上)1935年11月22日、12月2日、12月6日発行,アメリカ郵政省、アメリカ領フィリピン、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー(NC14716)の太平洋横断航路開設の開設記念切手、初回飛行記念スタンプ付きアメリカ合衆国フィリピン諸島(額面10センターボ)・太平洋横断航空便(25センターボ)・初回飛行記念スタンプ付きアメリカ合衆国フィリピン諸島(30センターボ)
;フィリピンの通貨は1ペソ=100センターボ。
US and Philippine Islands (as US Commonwealth) Air Mail stamps issued for the first commercial Transpacific flights Westbound (US-PI) and Eastbound (PI-US) between San Francisco, CA (Alameda) and Manila, PI, November 22 - December 6, 1935. US: C20 "China Clipper" (blue) (1935, 25 cents) PI: "Ft. Santiago" (1935, 10 centavos) and "Blood Compact" (1935, 30 Centavos) overprinted in gold "PI - US INITIAL FLIGHT December - 1935" with silhouette of Martin M-130 Pan American Airways flying boat "China Clipper" Date November 22, 1935 (C20); December 2, 1935 (PI Overprint) Source The Cooper Collection of US Aero Postal History (private collection) Author US Post Office Department, US Bureau of Engraving and Printing (Stamps); Bureau of Printing, Manila (overprinting on PI stamps)
写真はCategory:Martin 130 File:US and PI First Transpacific Air Mail Stamps 1935.jpg引用。


1930年代中ごろにマーチン(Martin)M-130四発旅客飛行艇のような全金属製の四発大型単葉機を民間機として運行していたアメリカの技術力、経済力、ビジネスの興隆には驚かされる。日本は、軍用機に特化して航空機開発を進めていたが、アメリカの民間大型機に近い性能を発揮できる大型機として、川西九七式大型飛行艇を開発したが、実用性、運航実績でははるかに及ばなかった。

写真(右)1936年、アメリカ、ハワイ諸島に到着したパンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇から降り立つエドウィン・ミュージク機長と海に入って飛行艇を移動させた水着の男性たち;搭乗員用に海上に小型の稼働桟橋が設置されている。太平洋横断飛行の乗客は、レストランで給仕を受けることもできた。
Captain Edwin Musick and the crew of the Pan American Clipper come ashore at Pearl Harbor..
写真は, Smithsonian's National Air and Space Museum ID#: WEB14259-2014 Pan American Clipper Arrives in Hawaii引用。


ハワイがアメリカに併合されたのは、1898年だったが、当初は植民地同様でだった。そこで、州への昇格運動が1930年代後半に起こったが、この背景は、マーチン(Martin)M-130四発旅客飛行艇によりアメリカ本土からの太平洋横断航路が整備され、本土からのビジネスマンや旅行者が訪問するようになったことも指摘できる。実際、太平洋戦争勃発前に、アメリカ本土からハワイ諸島への訪問者は、船舶・飛行機利用で、年間3万人に達し昇格運動が本格化した。その後、1941年12月からの太平洋戦争勃発で、観光旅行は減少したものの、兵士の休養場所としてハワイ諸島は整備され有名になった。また、駐留する兵士もサイパンに飛び立つB-29爆撃機もハワイを経由しし、ハワイとアメリカ本土との結びつきは強くなった。

写真(右)1936年、アメリカ、ハワイ諸島に到着したパンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇Hawaii Clipperの乗客たちがハワイ住民に歓迎されレイを受け取っている。1936年の初のハワイ旅行には、ビジネスマン5人、女性旅行者2人が乗っていた。;搭乗員用に海上に小型の稼働桟橋が設置されている。太平洋横断飛行の乗客は、レストランで給仕を受けることもできた。
The Hawaii Clipper's first regular passengers in 1936 included five businessmen and two women world travelers.
写真は, Smithsonian's National Air and Space Museum ID#: PP-1-9-002 Hawaii Clipper Passengers引用。


アメリカ連邦議会がハワイがアメリカ第50番目の州昇格を承認したのは、1959年3月12日で、アメリカ国旗「星条旗」には50個の星が散りばめられるようになった。

写真(右)1936年頃、アメリカ、ハワイ諸島に到着したパンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇チャイナ・クリッパーと眺めているのは乗客らしい婦人;芝生にヤシが植えられた公園のような桟橋に横付けしている飛行艇の胴体後方から荷物の出し入れをしているようだ。太平洋横断飛行の乗客は、プルパン式寝台で休息することもできた。
Pan Am's China Clipper at rest in Hawaii—the famous symbol of a new era in air travel history.
写真は, Smithsonian's National Air and Space Museum ID#: PP-1-6-007 China Clipper in Hawaii引用。


チャイナ・クリッパー」(China Clipper)とは19世紀、ヨーロッパ、イギリスと中国を結ぶお茶・旅客などの交易に従事した快速帆船のことである。このクリッパーは、高速で当初は木製だったが、木金混合の帆船が登場した。また、スエズ運河が1869年に完成すると、ヨーロッパとアジアの距離は格段に短縮され「快速」のイメージが膨らんだ。

写真(右)1934年11月(?),アメリカ、ハワイ諸島オアフ島真珠湾(Pearl Harbor)に係留中のパンアメリカン航空マーチン(Martin) M-130四発旅客飛行艇:パンアメリカン航空マーチン M130は、アジア太平洋横断航路と大西洋横断航路の双方に就役したが、後にボーイング314飛行艇が導入された。
The China Clipper moored at Pearl Harbor undergoing maintenance. The last Clipper built flew over 3 million miles, including naval duty, and was used to carry uranium ore for the Manhattan Project. It was lost in a bad landing off Trinidad in 1945.
写真は, Lockheed Martin China Clipper引用。


パンアメリカン航空(Pan Am)は、1935年11月22日から、マーチン M130Martin model 130 China Clipper) 四発旅客飛行艇を使って、太平洋横断航路と大西洋横断航路の定期運航を開始した。これはまさに、空の旅新世紀(a giant new age)の幕開けである。マーチンM-130はアメリカの最も偉大な飛行機“the greatest airplane ever built in America”と呼ばれたという。

写真(右)1934年11月(?),アメリカ、ハワイ諸島オアフ島真珠湾に係留中のパンアメリカン航空マーチン(Martin) M-130四発旅客飛行艇:パンアメリカン航空マーチン M130は、アジア太平洋横断航路と大西洋横断航路の双方に就役したが、後にボーイング314飛行艇が導入された。
On November 29th after 59 hours and 48 minutes of flying time, the China Clipper reached Manila, traveling via Honolulu, Midway Island, Wake Island, and Guam, establishing trans-pacific airmail service and delivered over 110,000 pieces of mail. Another hatch was opened out on the nose where the mooring lines were tied. The flight engineer, who monitored the four Pratt & Whitney 14 cylinder radial engines, had a totally separate compartment back where the wings joined. Passengers boarded from a large top hatch near the tail of the M-130. There were only water landings and take-offs. It was truly a flying boat..
写真は, Manila Nostalgia The PanAm Clipper Arrives in Manila引用。


「クリッパー」は、イギリスだけでなくアメリカでも建造され、小型帆船「ジャンク」(Junk)とは形状が全く異なる快速帆船である。

写真(右)1936年頃,アメリカ、ハワイ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇
Martin, M-130, Clipper Title: Martin, M-130, Clipper Corporation Name: Martin Designation: M-130 Official Nickname: Clipper Additional Information: USA Tags: Martin, M-130, Clipper
写真は, SDASM Archives Catalog #: 01_00091072引用。


マーチンM-130Martin 130 Clipper)旅客飛行艇の胴体中央下面にスポンソンがあり、フロートとして船体を海上に浮かばせる浮力を保持している。スポンソンは、吊り下げ式の浮舟フロートよりも飛翔する飛行艇の空気抵抗を少なくすることができる。

写真(右)1939年,アメリカ、ハワイ諸島オアフ島ホノルル沖、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇から降り立った第一種軍装アメリカ海軍士官:内火艇のようなボートには、アメリカ国旗「星条旗」が掲げられている。
Arkansas Aviation Historical Society Image PictionID:54641315 - Title:Martin M-130 Pan American AL Honolulu c1939 - Filename:22_000068.tif - Image from the Arkansas Aviation Historical Society, which donated a large collection of archival material to the San Diego Air and Space Museum in 2016 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives - Catalog:22_000068.tif 引用。


写真(右)1936年頃,アメリカ、ハワイ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇:フロリダ半島先端のキーにも似ているが、可動式桟橋付近の様子は、別写真のハワイにおけるマーチン130飛行艇の写真と酷似している。
Martin : 130 : Clipper Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives Catalog #: 00068813引用。


パンアメリカン航空(パンナム)は航空輸送の時代にも、アメリカと中国の交易を彷彿とされる「チャイナ・クリッパー」の名称を多用した。この空の「チャイナ・クリッパー」(China Clipper)太平洋横断の第1号機が、Pan American Airways:PAA)の運航するマーチンM-130Martin 130 Clipper)四発飛行艇「チャイナ・クリッパー」である。パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)は「チャイナ・クリッパー」の名称を使うことで、大型飛行艇による憧れの旅、舶来品のイメージを醸し出して、需要獲得に結び付けようとした。

写真(右)1934年11月29日,アメリカ領フィリピン、マニラ沖に着水しようと降下するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇
When the Clipper first appeared over Manila “like an enormous bird” that day in November, 1934, people ran out of their homes to watch it. At the Manila Hotel, guests ran out into the gardens to gape as the plane circled the hotel itself, before swooping down into the bay with a shuddering splash of white water; then propelled itself with its engines up to the pontoon float which had been prepared for it at Cavite. The Manila Hotel, Beth Day Romulo From the diary of Gov.Gen F.B. Harrison: “Arrival at 3:30 p.m. of the China Clipper –the first commercial airplane on the United States-China service. Like a great silver bird. Tremendous excitement –women rather hysterical. Perfect landing of the big plane in the harbor. Simultaneous arrival of the French Admiral on his ship. Everyone mistook the salutes for the Admiral as being a tribute to the plane! ” At 3:32 p.m. (Manila time), the China Clipper came to a landing in Manila Harbor greeted by the cheering crowd of thousands—on schedule, 59 hours and 48 minutes of flying time since leaving California.[source: Philippinediaryproject.com].
写真は, Manila Nostalgia The PanAm Clipper Arrives in Manila引用。


1934年11月にサンフランシスコからハワイ、グアムを経由してパンナム(Pan Am)所属マーチン M130Martin model 130 China Clipper)飛行艇がマニラに到着した。当時、マニラ湾に面した高級ホテルのマニラ・ホテルにいた宿泊客たちは、飛行機音を聞いて、すぐに庭に飛び出した。マニラ湾に、銀色の大型飛行艇マーチン M130Martin model 130 China Clipper)飛行艇がグアムから到着したからである。これは、アメリカと中国を結ぶ最初の商業航空路線だった。この時点では、マニラ南方のキャビテで基地の整備が間に合わず、飛行艇はマニラ沿岸に午後3時30分に着水した。これを見たホテル客たちは、飛行艇で将軍が飛来したと勘違いしていたようだ。

写真(右)1935年以降,アメリカ領フィリピン、マニラ沖で多数のボートに取り囲まれ歓迎されたパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇:パンアメリカン航空マーチン M130に同乗していた当時ティーンだった少年クリフトン・フォルスターによると、小舟に乗り移って岸に上陸した条約たちを、楽団が音楽を演奏して大歓迎したという。ボーイング314飛行艇が導入された。
Clifton Forster, a young teenager at the time, related that the Clipper had to make several passes around the bay as there was so many boats crowded around the landing area that Capt. Musick feared he would swamp the smaller boats.”..One of my readers, David Record, kindly submitted the photographs below that his great-uncle, S. Davis Winship took that memorable day. Mr. Winship was a prominent businessman in Manila who later purchased the first round-the-world air ticket in 1937 at the then astronomical cost of $2308.88
写真は, Manila Nostalgia The PanAm Clipper Arrives in Manila引用。


写真(右)1935年5月24日,試験飛行から6か月後、アメリカ西岸北部、ヴァージニア州チェサピーク湾(Chesapeake Bay)で水上スピン走行試験を行うマーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇「ハワイ・クリッパー」"Hawaii Clipper"(NC14714):ポトマック川やサスケハナ川が流れ込むチェサピーク湾は南北に細長く、湾内で長距離の水上滑走試験が可能だったようだ。湾岸にはボルチモアやノーフォークなど都市もある。「ハワイ・クリッパー」は、1938年7月28日にグアムからマニラに飛行途上、行方不明になった。
The most glamorous Martin design was the Model 130 Clipper, the first true intercontinental airliner. Pan American Airways flew the three Martin Clippers from California to The Philippines via Hawaii, Midway, Wake Island, and Guam. But before the aircraft made revenue runs, the Clipper had to be tested. This image, taken on 24 May 1935 (less than six months after first flight), a test crew takes the first aircraft (civil registered X14714) out for a spin—literally—in Chesapeake Bay. This aircraft, christened Hawaii Clipper, vanished without a trace on a flight between Guam and Manilla in July 1938. Nine crew members and six passengers were lost. Philippine Clipper and China Clipper were impressed into US Navy service during World War II..
写真は, Lockheed Martin Doing Doughnuts In Chesapeake Bay引用。


写真(右)1936年3月以降,アメリカ、ハワイ諸島オアフ島真珠湾に係留中のパンアメリカン航空マーチン(Martin) M-130四発旅客飛行艇「ハワイ・クリッパー」"Hawaii Clipper"(NC14714):パンアメリカン航空マーチン M130「ハワイ・クリッパー」"Hawaii Clipper"は、1936年3月3日にアジア太平洋横断航路に就役した。
“Cast Off!” Like a stone skipped by a giant hand, the China Clipper last week skittered in long hops across the Pacific. Biggest hop was the 2,400 miles to Honolulu, accomplished in the slow time of 21 hours because of head winds and the heavy load. So full of philatelic mail was the huge plane that her fittings had to be stripped and two crew members left behind to make room for 115,000 letters.First day cover At Honolulu some of this cargo was distributed during the night’s halt. More was added in the shape of mail, ice-cream, Thanksgiving dinners, odds & ends, and 14 Pan American employees to be carried to Midway and Wake. Off at dawn, the Clipper, loaded almost to capacity, flew on to Midway, landed within one minute of schedule in time for fishing, baseball in the afternoon. Next day, the ship lost a day by crossing the International Date Line to Wake for another night’s layover before heading for Guam. Thus rested, the crew remained fresh as the long trip progressed.” Source: Time Magazine issue: Dec 2, 1935.
写真は, Manila Nostalgia The PanAm Clipper Arrives in Manila引用。


パンアメリカン航空のチャイナ・クリッパー機によって処女航空路が開拓されたニューヨーク、香港間の太平洋横断定期郵便飛行、イギリス本土と南アフリカのケープタウン航路、シンガポール、香港までのアジア航路など、1930年代には、フランスのサイゴン線、ドイツのアテネ線、オランダのジャワ線、ソビエトのウラジオストーク線など地球を周回するような航路が実現しつつあった。これらの長距離航路に就役したのが、大型飛行艇である。

写真(右)1936年,アメリカ領フィリピンあるいはオアフ島ホノルル(?)、桟橋に停泊するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇:右手前の桟橋上には、携帯用の消火器が備えられている。
In 1936, the Clipper began carrying passengers. The service was first class and legendary, with fine food served on fine china. A one-way ticket to Manila, including overnight stays at Pan Am hotels in Honolulu, Midway, Wake and Guam, cost $950 -the equivalent of $14,650 in current dollars.“The time had come to walk down the ramp and climb aboard the Martin M-130 named the Philippine Clipper. First, the Crew made the walk, then the Steward came back and escorted the five passengers into the plane. There was a huge crowd of people watching us and hollering words of farewell and good luck!”
写真は, Manila Nostalgia The PanAm Clipper Arrives in Manila引用。


マニラ湾に突き出た砂嘴半島の上にあるアメリカ領フィリピン、キャビテ(Cavite)は、マニラ南方15キロ、18世紀からマニラ湾におけるスペインの軍事的要衝であり、フィリピンとメキシコとを結ぶ貿易拠点でもあった。スペイン=アメリカ戦争で勝利したアメリカがスペイン領だったフィリピンを領有すると、アメリカ海軍基地として活用されたほか、1936年にはパンナム(Pan Am)アジア太平洋横断空路のマーチン(Martin)M-130四発旅客飛行艇「チャイナ・クリッパー」の寄港地となっていた。アメリカ軍キャビテで軍港がフィリピンに返還されたのは、1970年と戦後25年後である。

写真(右)1939年(?),アメリカ領フィリピン、マニラ南方15キロのキャビテ(Cavite)沖に着水しようと降下するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇
One of my readers, David Record, kindly submitted the photographs below that his great-uncle, S. Davis Winship took that memorable day. Mr. Winship was a prominent businessman in Manila who later purchased the first round-the-world air ticket in 1937 at the then astronomical cost of $2308.88...
写真は, Manila Nostalgia The PanAm Clipper Arrives in Manila引用。


写真(右)1939年,アメリカ領フィリピン、マニラ南方15キロのキャビテ(Cavite)沖に停泊するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇とデイビス・ウィンシップ(S. Davis Winship):マニラ南15キロのキャビテ軍港に、アジア太平洋横断空路のマニラ寄港地が整備された。飛行艇の胴体下面から左右に張り出したスポンソンは、浮舟の機能を果たしている。
One of my readers, David Record, kindly submitted the photographs below that his great-uncle, S. Davis Winship took that memorable day. Mr. Winship was a prominent businessman in Manila who later purchased the first round-the-world air ticket in 1937 at the then astronomical cost of $2308.88..S. Davis Winship at Cavite dock with Clipper-1939 (courtesy of D. Record).
写真は, Manila Nostalgia The PanAm Clipper Arrives in Manila引用。


パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)のマーチン M-130(Martin model 130)四発旅客飛行艇は、1934年12月30日に初飛行しサンフランシスコ、ハワイ諸島ホノルル、ミッドウェー島、ウェーク島、グアムを経由してアメリカ植民地フィリピンのマニラとの航路を開拓したが3機しか生産されていない。マーチンM-130Martin 130 Clipper)の生産機数は3機で、固有名称の「チャイナ・クリッパー」China Clipper (NC14716)、「ハワイ・クリッパー」(NC14714)、「フィリピン・クリッパー」Philippine Clipper (NC14715)があった。しかし、1号機の「チャイナ・クリッパー」China Clipper の名称が、太平洋横断飛行艇の名称として通用し、一般化するようになった。

写真(右)1934-1935年頃,アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ上空を飛行するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー:1935年10月に「フィリピン・クリッパー」Philippine Clipper (NC14715)が太平洋フィリピン航路に初就役し、1945年1月に最後の1機。「チャイナ・クリッパー」China Clipper (NC14716)が事故で失われるまで使用された。
Catalog #: 00068825 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:10 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真はCategory:Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4589907269).jpg引用。


マーチン(Martin)M-130四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパーは、全長27.7m、全幅39.7m、、全備重量:23,701 kg、最高速力290 km/h、航続距離5150kmで、このような巨大で高性能の飛行艇を、1930年代中ごろに、アメリカは大西洋・太平洋横断航路の実用輸送機として定期運行させていた。

写真(右)1934-1935年頃,アメリカ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇ハワイ・クリッパー"Hawaii Clipper"(NC14714):1936年3月3日に就役、アジア太平洋航路に就役したが、1938年1月28日、グアム=ハワイ間を飛行中に行方不明となった。乗員9人と乗客6人が死亡。
Catalog #: 00068826 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:10 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真は, SDASM Archives Catalog #: 00068826引用。


パンナム(Pan Am)のマーチンM-130Martin 130 Clipper)「ハワイ・クリッパー」は、1936年10月にサンフランシスコを離水し、ハワイ諸島ホノルル、ミッドウェー島、ウェーク島、グアム島を経由して、フィリピンのマニラに着いた。その後、マーチン M130Martin model 130)飛行艇「ハワイ・クリッパー」は、シコルスキー(Sikorsky) S-42四発旅客用飛行艇に替わってマニラ=香港間の航路に就役した。しかし、1938年7月28日、グアム=ハワイ間で行方不明になり、乗員9人と乗客6人が死亡した。

1941年12月8日に日米開戦と同時に、アメリカ領ウェーク島は攻撃をうけた。ウェーク島には、海兵隊を中心とした守備兵500名のほかに、パンアメリカン航空の民間人70名、飛行場維持・整備員など民間作業員1100名であった。そこを12月8日早朝5時10分、クェゼリン環礁ルオット島を出撃した日本海軍第24航空戦隊九六式陸上攻撃機34機が空襲した。パンアメリカン航空マーチンM-130Martin 130 Clipper)「フィリピン・クリッパー」は、ウェーク島からハワイ諸島に避難し無事だった。

写真(右)1936年頃、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇の客室キャビン;1934年12月30日初飛行。全長 27.7m, 全幅 39.7m, 高さ 7.5m,P&W R-1830空冷星形エンジン830hp4基、最大離昇重量 52,252ポンド (23,701 kg)、巡航速力 262km/h、航続距離 5150km 搭乗員 4名、乗客 43名(寝台18台)。
Catalog #: 00068815 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:09 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4589906913).jpg引用。


1935年11月、パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)は、アメリカ東岸カリフォルニア州サンフランシスコから、ハワイ諸島オアフ島ホノルル、ミッドウェイ島、ウェーク島、グアム島を経由してアメリカ領フィリピンのマニラまでの マーチンM-130Martin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」"China Clippers"による太平洋横断航路を開拓した。当時は、レーダーもGPSを利用した航法は不可能だったために、視界の確保と天測が不可欠であった。そこで、昼間飛行のみとして、危険な夜間飛行は行なわず、夜間は港湾で待機・整備の時間とした。

写真(右)1936年頃、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇の客室キャビン;1934年12月30日初飛行。乗客 43名(寝台18台)は、長時間の飛行にもダイニングで寛ぐことができた。
Catalog #: 00068816 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:09 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4590526680).jpg引用。


1935年11月に始まった世界初のチャイナ・クリッパー」(China Clipper)として、マーチンM-130Martin 130 Clipper)大型飛行艇による太平洋横断飛行が定期運航が始まったのである。

写真(右)1936年、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇の客室キャビンのダイニング
Passenger counts on the San Francisco–Honolulu leg rarely exceeded six or seven. With any more, luggage had to be sent by ship. Twelve passengers were the maximum and the length of the flight, eighteen to twenty-two hours depending on winds, required sleeping berths. Cabin interiors included dining rooms and passenger lounges that converted into changing quarters.
写真はTimes Internet Limited., Pacific Passage: The Birth of Intercontinental Commercial Air Service Aviation Museum & Library Passenger lounge onboard Pan American Airways Martin M-130 China Clipper 1936 photograph SFO Museum Gift of the Pan Am Association 2000.058.1399引用。


写真(右)1936年、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇「チャイナ・クリッパー」客室キャビン・ダイニング;搭乗員 4名、乗客 43名(寝台18台)だが、太平洋横断飛行の場合は、寝台数以下の乗客に限定された。
Some of the most luxurious spaces were in the airline's Flying Clipper Ships — a type of aircraft that no longer flies today.This is what the main cabin of a Clipper was like around 1936.Main cabin of a Clipper (aboard Pan American, around 1936).
写真は, Photos show the glory days of Pan Am, a symbol of a bygone era of luxurious air travel before the airline went bust 29 years ago引用。


写真(右)1936年、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇「チャイナ・クリッパー」客室キャビン・ダイニング;搭乗員 4名、乗客 43名(寝台18台)だが、太平洋横断飛行の場合は、寝台数以下の乗客に限定された。
A trip on the Martin M-130 China Clipper in 1936 included five stops from San Francisco to Hong Kong: Honolulu; Midway Island; Wake Island; Guam; and Manila, Philippines. Passenger counts on the San Francisco–Honolulu leg rarely exceeded six or seven. With any more, luggage had to be sent by ship. Twelve passengers were the maximum. The length of the San Francisco–Honolulu flight—eighteen to twenty-two hours depending on winds—required sleeping births.).
写真は, Photos show the glory days of Pan Am, a symbol of a bygone era of luxurious air travel before the airline went bust 29 years ago引用。


パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)マーチン(Martin)M-130「チャイナ・クリッパー」(China Clipper)による太平洋横断の長旅は、1936年10月から旅客運航されたが、豪華で快適なものが求められた。

当時、旅客として飛行機を利用するのは富裕層であり、高額の料金を支払ってくれる上客だったからである。機内食も設備を駆使して、豪華でエレガントな空の旅を演出した。

写真(右)1936年頃、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇の客室キャビン;太平洋横断飛行の場合は、レストランで給仕を受けながら食事をとることができた。
The Martin M-130 clipper's main cabin also served as a dining room.
写真は, Smithsonian's National Air and Space Museum ID#: SI-89-12 Martin M-130 Clipper Dining Room引用。


マーチン(Martin)M-130飛行艇1号機(NC-14715)が「チャイナ・クリッパー」Philippine Clipperとして1935年10月に就役
マーチンM-130飛行艇2号機(NC-14714)が「ハワイ・クリッパー」Hawaiian Clipperとして、1936年11月に就役
マーチンM-130飛行艇3号機(NC-14715)が「フィリピン・クリッパー」として1936年3月に就役

写真(右)1936年、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇の客室キャビンの二段プルマン寝台(コーチ);搭乗員 4名、乗客 43名(寝台18台)で、カーテン付きでプライバシーに配慮したベッドがついていた。これは、高額料金を負担できる富裕層相手のサービスが旅客航空輸送の主流だったためある。
写真は, (旧)紺碧の海 (飛行艇の時代:59) マーチンM130「チャイナ・クリッパー」引用。


パンアメリカン航空(パンナム)空の「チャイナ・クリッパー」(China Clipper)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇に寝台が装備されていたのは、高額料金を支払うことができる富裕上客相手のサービスが大西洋・太平洋横断旅客航空輸送の主流だったためで、旅行経費を節約するには船旅が一番合理的だった。現在ではパンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇多数の乗客を座席に収容したほうが収益性が高く、寝台と座席を併用するだけの空間であれば、5人分の料金設定、すなわちファーストクラス以上の高額な運賃を設定することになる。

航空旅客輸送が大衆化した21世紀には、寝台飛行機はファーストクラスと相当で運行されており、利用客、需要が限定されるために、大量輸送の手段としては普及していない。

アメリカ大陸の東西を結ぶ大陸横断鉄道では、寝台列車が運行されていた。これは、客車の廊下・通路を挟んで進行方向に向けて、二段寝台が設置された形式で、寝台の長さも幅も余裕を持たせることができ、進行方向に進退を向けて快適な旅行が可能だったために、標準的なスタイルとなった。

写真(右)1936年、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇の客室キャビンの二段プルマン寝台(コーチ);搭乗員 4名、乗客 43名(寝台18台)で、カーテン付きでプライバシーに配慮したベッドがついていた。
One of the big modern roadblocks on berths is the seatbelt regulations that accompany many modern regulating authorities. Classic berths would more than likely not pass modern safety regulations and certification tests..
写真は, Pacific Passage: The Birth of Intercontinental Commercial Air Service Aviation Museum & Library Passenger lounge onboard Pan American Airways Martin M-130 China Clipper 1936 photograph SFO Museum Gift of the Pan Am Association 2000.058.1399引用。


快適な寝台車旅行の嚆矢が、アメリカのジョージ・プルマン(George Mortimer Pullman: 1831-1897)が開発・製造したプルマン寝台車(プルマン・スリーピング・カー:Pullman sleeping car)で、19世紀にはアメリカの寝台列車だけではなく、ヨーロッパでも寝台車を有していた。寝台車には兄弟、室内灯、足下灯が設置され、快適な寝台列車の旅ができた。寝台車は、食堂車、ダイニングなどの設備とともに、乗客に上流階級の贅沢な「動くホテル」をイメージさせることに成功し、人気を博した。

マーチンM-130Martin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」"China Clippers"は、この豪華な大陸横断寝台列車「プルマン・カー」の「動くホテル」に範をとったのが、飛行機のスリーパー寝台機である。長時間の飛行では、長椅子よりも寝台のほうが体が休まる上に、十分な睡眠をとることで、乗客の健康維持も可能になる。乗客に対する飲食などのサービスも、乗客が睡眠をとっている最中は不要になる。

写真(右):1936年10月23日,アメリカ本土からハワイ、マニラ経由で香港に到着したパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇:中国南部の竜骨(キール)のない小型帆船ジャンク(戎克: Junk)は、浅い喫水の平底の小型輸送帆船で、沿岸や浅い海で座礁せず運行できない。ジャンクの船倉は、輪切りの水密隔壁で仕切られ、船体の強度を保つとともに、浸水時の浮力を維持している。古臭い伝統的なジャンクと対照的な飛翔する新鋭大型四発飛行艇。
Allen_0088 Martin M-130 Pan-Am China Clipper 4 engine seaplane ---This image has been graciously loaned by Willis and Claudia Allen of Allen Airways Flying Museum.-:
写真は, Manila Nostalgia The PanAm Clipper Arrives in Manila引用。


マーチンM-130Martin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」"China Clippers" は、カフォルニア州サンフランシスコを離水し、ハワイ諸島オアフ島ホノルルからフィリピンのマニラを経由して、中国の香港まで太平洋を横断飛行するという歴史的快挙を達成した。太平洋横断飛行を記念して、機首にアメリカ国旗「星条旗」を描いている。海上には、中国南部で多数運用されていた小型帆船「ジャンク」(Junk)がある。 中国南部で20世紀まで使用されていた小型帆船「ジャンク」(Junk)には、竜骨(キール)がない代わりに、船体を水密隔壁で区切り、強度を保っており、吃水が浅いために水深の浅い海での航行に便利で、船体が浅い分、海上での造波抵抗も小さく、軽快な帆船である。他方、船体・船倉が浅いために、動力化による蒸気船には不利な構造だった。

図(右)1936年10月23日,アメリカ本土からハワイ、マニラ経由で香港に到着したパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇:John T McCoy作。
202036006 Print Martin M-130 Philippine Clipper arrives Hong Kong linking the United States and Asia by air October 23 1936 Artist John T McCoy.Please support the our Museum during these trying times by donating. For a limited time your donation will be matched dollar-for-dollar through the Museum’s Challenge Grant Recovery Fund:
写真は, Manila Nostalgia The PanAm Clipper Arrives in Manila引用。


パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)は、1936年10月からマーチン(Martin)M-130飛行艇「チャイナ・クリッパー」(China Clipper)を使って、アメリカ東岸カリフォルニア州サンフランシスコから、ハワイ諸島オアフ島ホノルル、ミッドウェイ島、ウェーク島、グアム島を経由してアメリカ領フィリピンのマニラ、さらに1939年にはイギリス領香港まで、1941年にはイギリスのアジア支配の拠点シンガポールまでの太平洋横断の長距離旅客運航を開始した。


図(上)1937年頃、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇の客室キャビン盤面内部図解
;胴体の前後に寝台があり、その中間にダイニングやレストランが配置されている。構造は二階式ではなく1階のみのワンフロアーである。
This cutaway drawing of a Martin M-130 clipper reveals the multiple cabins in the plane. ID#: SI-89-1216-A Source: Smithsonian's National Air and Space Museum
写真は, Martin M-130 Clipper Cutaway Drawing 引用、The M-130 Flying Boat Martin-M-130-Flying-Boat-Cutaway 引用。


また、1939年9月の第二次大戦勃発後、イギリスのアジア植民地との交通確保のために、1941年からはパンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)は、アメリカ東岸カリフォルニア州サンフランシスコから、ハワイ諸島オアフ島ホノルル、ミッドウェイ島、ウェーク島、グアム島を経由してアメリカ領フィリピンのマニラ、さらにイギリス領シンガポールまでのマーチンM-130Martin 130 Clipper)大型飛行艇「チャイナ・クリッパー」(China Clipper)による太平洋横断航路が開拓されている。

写真(右)1935年頃、アメリカ、陸上で待機するパンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇;陸上で移動できるように、着脱式の車輪を胴体下面に装着している。この着脱可能な車輪には浮きがついており、海上進出用傾斜滑走台(ランプ)から、そのまま海中に移動しても、外れた車輪が海面に浮く仕組みになっている。この浮いた車輪をロープを引いて陸上に回収するのである。後方には大きな飛行機格納庫がある。
Catalog #: 00068831 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:10 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4589907473).jpg引用。


1938年7月29日午前6時9分(グアム時間、日本時間午前5時9分)、パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)のマーティン M-130 飛行艇「ハワイ・クリッパー」Hawaii Clipper (NC14714 )は、アメリカ領グアム島(アメリカ領)を離水し、アメリカ領フィリピン、マニラへと飛び立った。
7月29日午後0時過ぎ(マニラ時間、日本時間午後1時過ぎ)、マーチンM-130Martin 130 Clipper)大型飛行艇「ハワイ・クリッパー」からの無線が「現在フイリツピン海岸から 565 マイル[海里、約 1050km]の位置にあり、雲深くコンデイシヨンやゝ悪く、乗組員九名、旅客六名」を伝えたが、これを最後に「ハワイアン・クリッパー」(NC-14714)は、グアムとマニラの間で行方不明になった。

写真(右)1936年頃、アメリカ、海上で待機するパンアメリカン航空(パンナム)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇
Martin : 130 : Clipper Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はWikimedia Commons, SDASM Archives Catalog #: 00068820引用。


パンナム(Pan Am)、パン・アメリカン航空Pan American Airways:PAA)のマーチンM-130Martin 130 Clipper)フィリピン・クリッパー」は、1943年1月オアフ島ホノルルを離水した後、21日にカリフォルニア州サン・フランシスコ近郊で墜落、同乗者18名が死亡した ボーイング(Boeing)314飛行艇が太平洋航路に就役したのは、1939年1月からで、マーチンM-130Martin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」"China Clippers"の就役から4年近くも後のことである。

写真(右)1936年11月22日、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ、アラメダ基地、ハワイに向けて離水準備中のパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー"China Clipper"(NC14716);ハワイ諸島オアフ島ホノルルからフィリピンのマニラまでの旅客輸送という歴史的快挙を達成しようというので、たくさんの観客が集まって見送っている。
SDASM ArchivesFollow Martin : 130 : Clipper Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はWikimedia Commons, SDASM Archives Catalog #: 00068828jpg引用。


マーチンM-130Martin 130 Clipper)大型飛行艇チャイナ・クリッパーは、太平洋戦争にアメリカが参戦すると、アメリカ東岸、カリフォルニア州産プランシスコのトレジャーアイランド(Treasure Island)とハワイ諸島ホノルル(Honolulu)との間の航路に就役した。しかし、輸送船の運航が増大すると、サンフランシスコ湾での飛行艇の使用に支障が出るようになったために、サンフランシスコの拠点は、1944年にトレジャーアイランドから、ミルズ・フィールド(Mills Field)、すなわち今日のサンフランシスコ国際空港(San Francisco International Airport)付近に移転した。そして、トレジャーアイランドは、パンアメリカン航空の水上機整備基地として使用されることになった。

写真(右)1936年、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ湾、アラメダ海軍基地、陸上で整備作業を受けるマーチン(Martin)M-130「チャイナ・クリッパー」"China Clippers" 四発大型飛行艇 (NC14716);。
Martin 130 China Clipper Alameda Date 25 August 2010, 08:31 Source Martin 130 China Clipper Alameda Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 China Clipper Alameda (4926264435).jpg引用。


マーチンM-130Martin 130 Clipper)「チャイナ・クリッパー」"China Clippers" 四発大型飛行艇による初の太平洋横断航空便は、1935年11月22日にサンフランシスコ(San Francisco)を離水し、平均速力持続 115マイルで、ハワイ(Hawai)、ミッドウェー(Midway)、ウェーク(Wake)経由し,グアム(Guam)に1935年11月27日、3:05 pmに到着した。その後、フィリピンのマニラ(Manila)まで、離水から飛行・途中停泊も含めて、59時間48分で到着した。航空便輸送ではなく、人員輸送の太平洋横断飛行は、11か月後の1936年10月21日に運航が始まった。


China Clipper Inaugural Passenger Flight 1936 Part 1
Introduction to China Clipper Passenger Service across Pacific by Pan Am in 1936


Pacific Passage (excerpt)
The inaugural of Pan American Airways' famed flying boat, the China Clipper: November 22, 1935.

東京日日新聞 1936.11.22 「比較にならぬ劣勢」

「情ない」の一語に尽きる我が民間航空陣
最近欧米漫遊から帰朝する人は異口同音に欧米に比しわが国の軍器特に航空機の著しき劣勢を説く、近代的戦争が機械化し立体化して来た今日飛行機の軍事上における重要性は頗る大なるものがあり制空権の獲得は即ち戦いの勝敗を決するとさえいわれる、フランスがドイツやイタリーの感情を無視してまでもロシアと相互援助協定を結んだのは世界無比と称せられるロシア空軍の偉力に頼らんとしたためといわれている、近代的戦闘におけるその重要性の増大が即ち各国をして飛行機の発達と空軍の充実に狂奔せしめる所以である。

然し空軍はその性質上戦端開始後短時間に消耗される、従って間断なくこれを補充する能力、即ち飛行機の新造と操縦士とを養成する能力の大小が即ち各国の空軍勢力の優劣を決めるのである、そこでまず飛行機製造工業の確立が必要であると共に如何に製造設備が充実していてもその設備を平時遊ばせて置く訳にはいかぬから平時間断なく製造される飛行機を消化する方法が考えられねばならない、各国が競って商業航空路の拡張に熱狂しつつあるのは即ち平時において製造される飛行機の消化を考えているからである。

写真(右)1934年頃,アメリカ、パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇チャイナ・クリッパー"China Clipper"(NC14716):1945年1月に「チャイナ・クリッパー」China Clipper (NC14716)は、サンフランシスコ郊外に墜落し失われた。全長27.7m、全幅39.7m、、全備重量:23,701 kg、プラット・アンド・ホイットニーPratt & Whitney)R-1830ツインワスプ空冷星形エンジン840馬力4基搭載、最高速力290 km/h、航続距離5150km。
Bilstein_00088 Martin 130 NC14716 Pan American Airlines Image from the Roger Belstein Collection--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives Bilstein_00088 Martin 130 NC14716 Pan American Airlines引用。


最近欧米各国は競って民間航空を国防上の観点から見ようとしている、即ち民間航空を国防の一部門として兵力量の一斑としての考慮を払いつつある、民間航空は即ち空軍第二陣であるから世界各国はその第二陣の発達を促すために必死の拡張戦を演じ殊に最近その触手は極東に向けられつつある。

写真(右)1935年11月以降,アメリカ南西部、フロリダ州マイアミ(Miami)中心部沿岸、ディナー・キー(Dinner Key)マリーナ、パンナム・ターミナル正面に停泊するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇と上空を飛行するパンアメリカン航空シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇:マーチンM-130の一世代前のシコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇は、1931年8月7日初飛行で、搭乗員 6名、乗客 38名、全長 23.16 m)、全幅 34.75 m、総重量 15,422 kg、発動機ホーネット(Hornet)空冷9気筒星形エンジン 575 hp (429 kW)4基、最高速力 217 km/h、航続距離1,400 km、生産機数:3機。
Title: [Dinner Key seaplane base: Miami, Florida] Physical descrip: 1 photoprint: b&w; 8 x 10 in. General note: From Dinner Key in 1930, Pan American inaugurated flying boat service to Latin America. PAA sold Dinner Key to the City of Miami in 1946. Date captured: After 1930. Corporate subject: Pan American World Airways, Inc. Repository: State Library and Archives of Florida Source Dinner Key seaplane base: Miami, Florida Uploaded by Rybec Author Florida Memory
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:Dinner Key seaplane base Miami, Florida (4202781209).jpg引用。


即ち最近汎アメリカ会社のチャイナ・クリッパー機によって処女航空路が開拓されたニューヨーク、香港間の定期郵便飛行をはじめ英国は本国と各植民地間の連絡のためロンドンより南阿ケープタウン線をシンガポールまで延長し、更にこれを香港、上海まで延長して完全に本国と東亜との連絡を完成せんとしている、フランスはパリ、サイゴン線をハノイまで延長し、更にこれを広東を経て上海に延長の計画をもっている、ドイツはベルリン−アテネ線をサイゴン−広東−上海に延長し、更にこれを東京まで延長の計画を持ちオランダはアムステルダムよりジャワ島のスラバヤに至る極東線を付近の蘭領諸島(インドネシア)を経てマニラに延長する線の経営に著手し、ソヴィエトはモスクワ浦塩(ウラジオストーク)幹線から北平への支線を出し、またアラスカのノームまで延長してアメリカと連結せんとし、また浦塩より日本への延長をさえ望んでいる。

写真(右)1934年,ソ連、ツポレフ(Tupolev)ANT-22 六発飛行艇:ANT-22 (MK-1)は1934年8月8日初飛行、全長24.1 m、全幅51.0 m、翼面積304.5 m2、発動機ミクーリン(Mikulin) M-34R 液令12気筒エンジン820 hp (612 kW)6基搭、空虚重量21,663 kg、全備重量33,560 kg、最高速力233 km/h、航続距離1,350 km、兵装20 mmエリコン機関銃2丁、7.62mm ShKAS機関銃4丁、爆弾6000kg。
Catalog #: 00068825 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: 27 December 2010 (original upload date) Source Transferred from ru.wikipedia to Commons. Author .The original uploader was Капитан Немо at Russian Wikipedia. Permission (Reusing this file) PD-OLD-70; PD-OLD-70/Алгоритм решения проблемы.
写真は,Category:Tupolev ANT-22 File:Tupolev ANT-22.jpg引用。


写真(右)1934年,ソ連、海面に停泊するチェトヴェリコフ (Chyetverikov)MDR-6飛行艇:ANT-22 (MK-1)は1937年7月初飛行、乗員3名、全長15.73 m 、全幅:19.4 m、主翼面積:52.3 m2、空虚重量:4,100 kg、全備重量:7,200 kg、発動機シュベツォフ M-63 空冷星型エンジン821 kW (1,100 hp)820 hp (612 kW)2基、最高速力360 km/h、航続距離2,650 km 、兵装12.7 mm UBT機関銃1丁、7.62mm ShKAS機関銃1丁、爆弾1,000 kg 。
PictionID:45938699 - Catalog:16_007224 - Title: Chyetverikov MDR-6 (Che-2) Petrov photo - Filename:16_007224.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation ---Repository: San Diego Air and Space Museum Date 28 March 2016, 08:24 Source Ray Wagner Collection Image Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons,Category:Chyetverikov MDR-6 File:Ray Wagner Collection Image (25489382934).jpg引用。


東京日日新聞 1936.11.22 (昭和11)
かくの如く今や欧米列強の空の触手はすべて東亜に向って集中し、日本はこれ等の航空路によって四面より包囲される体形である、これに対してわが民間航空は情ないほど貧弱である、今各国が経営しつつある定期航空路の総延長及び飛行場の数を示すと(一九三六年五月現在)

世界の定期航空路の総延長及び飛行場の数(1936年5月現在)
       航空路     飛行場
イギリス  7万3419km 395か所
ドイツ   5万6km    231か所
フランス  4万9069km 112か所
イタリリア 1万5561km  67か所
ソヴィエト 4万8982km
アメリカ 10万2290km 2334か所
日本     5840km    20か所

右の表は空軍の第二陣であり補充母体であるわが民間航空の現状が世界の重要国に比し如何に劣勢の状態にあるかを示している、しかも、各国の飛行機製造会社はそれぞれ優秀なる機体或はエンジンの特許権を有しその海外輸出を行っているが、わが国の飛行機会社はこれ等の優秀機を高価に買入れて研究し模倣するか或は特許を買って製造するという情ない有様である、世界に対してこれが日本産の優秀機なりとして外国へ輸出し得るようなものは未だない

写真(右)1936年3月,フランス、ラテコエール 521(Latécoère 521)六発旅客飛行艇:初飛行は1935年1月10日で、大西洋横断旅客飛行艇として登場した大型機で、発動機6基を搭載、内側2基は串形タンデム式の搭載のために、一見すると四発機に見える。1機のみしか生産されていない。全長31.62 m、全幅49.31 m、翼面積330 m2、全備重量:37,933 kg、最高速力247 km/h、航続距離3,900 km。
Fiera di Milano - Salone internazionale aeronautico 1935 - Sezione italiana Non identificato
Description English: Latécoère 521 photo from NACA-AC-202 Date 1 March 1936 Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090517.pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は,Category:Latécoère 521 File:Latécoère 521 NACA-AC-202.jpg引用。


民間航空の発達は優秀にして廉価な飛行機を大量に作り料金を安くして誰でも手軽に乗れるようにしなければならない、米国や英国では四、五千ドルで優秀な軽飛行機が買えるという、最近航空国策が叫ばれ政府も航空事業の発達に対して稍力を入れるようになり一千万円の研究費を投じて航空機検査所、航空機試験所等を新設することとなり、他面内地、台湾線をシンガポールまで延長し更に台北−香港−ハノイ−バンコック線を新設してヨーロッパからの三定期空路と握手せんとする計画をもっているがこれが十年計画だというから情ない、わが内地−台湾空路に使用している十四人乗の優秀機だがこれはアメリカから買入れたものだ、アメリカの太平洋空路に就航するチャイナ・クリッパーは乗組七名、乗客四十三名の寝台設備を有しフランスの誇りラテコール五二一型機は客席七十を有する豪華さである。

図(右)1936年3月,フランス、ラテコエール 521(Latécoère 521)六発旅客飛行艇の胴体内部構造三面図:ラテコエール 521は最大乗客数72名、下層デッキにサロンとしてテーブル席20名分、客席はバスルーム付きツインルームと22席、上層デッキに客席18名分、さらに機関士室があった。フランス航空の長距離輸送機として、1939年5月から7月の間にフランス=ニューヨーク間を4回の往復している。
English: Latécoère 521 interior layout drawing from NACA-AC-202 Date 1 March 1936 Author NACA Aircraft Circular
写真は,Category:Latécoère 521 File:Latécoère 521 interior layout NACA-AC-202.png引用。


こんな優秀機をわが国産機として見出し得るのは果していつの日か? 各国はこういう大旅客機を競争的に建造しつつあるが他面機体と別にガソリン発動機に対しディゼル航空発動機の研究競争が行われドイツの如き旅客機は勿論軍用機にもすでにディゼル発動機が装置されて実用化している、フランスにおいてはディゼルエンジンによる一万キロ無著陸飛行機完成に対して政府は一千万フランの懸賞を賭けて奨励している、然るに日本においては漸く最近ディゼル航空発動機を買入れて研究を始めたという万事に立遅れの状態である。

これ等の情報を耳にするとしみじみ日本の航空界の劣勢が痛感される、日本の科学者の頭脳が彼等に劣る結果だとは考えたくない、一九三五年度において、民間航空事業に対してドイツは一億三千三百万円、フランスは四千万円の補助奨励金を支出しているがわが国は僅かに五百万円前後にすぎない、この国家の力の入方の相違が発達の差の原因をなしている、この全面的立遅れを取戻すためには科学者の動員と政府の熱意と民間の協力が可欠の要件である
東京日日新聞 1936.11.22 (昭和11)引用終わり。


Martin M-130 (1935)
The Martin M-130 was a commercial flying boat designed and built in 1935 by the Glenn L. Martin Company in Baltimore, Maryland, for Pan American Airways.


Hawaii Clipper - the last film
In June 1938, a young engineer from the National Advisory Council on Aeronautics (NACA) took along his 16mm movie camera on what would be the last completed round-trip flight of the Hawaii Clipper. The following month, the aircraft vanished without trace. This is a short segment from that film.

1941年12月10日、日本海軍第四艦隊司令長官井上成美中将隷下の第六水雷戦隊司令官梶岡定道少将指揮するウェーク島攻略部隊が到着した。ウェーク島攻略部隊は、第六水雷戦隊の軽巡洋艦「夕張」、旧式駆逐艦「追風」「疾風」「睦月」「如月」「弥生」「望月」を中核とし、第二十七潜水隊「呂65潜水艦」「呂号66潜水艦」「呂67潜水艦」、舞鶴特別陸戦隊も加わっている。

1941年12月10日夜、ウェーク島攻略の夜間上陸が敢行されたが失敗した。そこで、翌12月11日3時半、軽巡3隻(夕張、天龍、龍田)と駆逐隊がウェーク島を艦砲射撃したが、アメリカ軍の51口径5インチ(127 mm)海岸砲台6門、50口径3インチ(76 mm)対空砲12門、 .50インチ (12.7 mm) ブローニング(Browning)重機関銃18丁などの反撃を受けて退避せざるを得なくなった。

写真(右)1936-1938年頃、アメリカ、パンアメリカン航空(パンナム:PAA)マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇;プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)ツイン・ワスプ(Twin Wasp)R-1830エンジンを整備中。
Catalog #: 00068827 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:10 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American AirwaysFile:Martin 130 Clipper (4590527116).jpg引用。


日本海軍は、ハワイ攻撃を終えた阿部弘毅少将隷下の第八戦隊の重巡洋艦「利根」「筑摩」、空母「蒼龍」「飛龍」、駆逐艦「谷風」「浦風」を分離して、ウェーク島攻略の増援部隊として派遣し、12月21日4時半から、第二次ウェーク島攻略作戦が始まった。陸海空の攻撃を受けたアメリカ軍ウェーク島守備隊は12月23日、降伏した。

写真(右)1936年以降、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島真珠湾、停泊しているマーチン(Martin)M-130「チャイナクリッパー」"China Clippers" 四発大型飛行艇 (NC14716)と上空を編隊飛行するアメリカ海軍ボーイング(Boeing)F4B艦上戦闘機;ボーイング(Boeing)F4B艦上戦闘機は、1928年7月初飛行の複葉戦闘機だが、高性能を発揮したために、アメリカ陸軍もボーイング(Boeing) P-12 として制式した。生産期間は1929–1932年で、生産機数は、P-12は366機、F4Bは187機、合計586機である。
The Pan American Airways Martin M-130 China Clipper (civil registration NC14716) at Pearl Harbor, Hawaii, in the 1930s. This aircraft remained in Pan Am service until 8 January 1945 when it was destroyed in a crash in Port of Spain, Trinidad and Tobago, reported as hitting a blackened out boat. 16 passengers and 9 crew members died in that crash. Note the U.S. Army Air Corps bombers in the background. Date 1930s Source U.S. National Park Service gallery WAPA 2505 photo [1]. Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways  File:Martin 130 China Clipper at Pearl Harbor 1930s.jpg引用。


1941年12月に辛くも日本軍の攻撃を免れたパンアメリカン航空マーチンM-130Martin 130 Clipper)「フィリピン・クリッパー」だが、1943年1月オアフ島ホノルルを離水した後、21日にカリフォルニア州サン・フランシスコ近郊で墜落、同乗者18名が死亡した。

写真(右)1936年以降、アメリカ、フロリダ州キーウェストあるいはカリブ海沿岸(?)の木陰からみたマーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇;マイアミ、カリブ海の観光旅行に航空便が使用されたが、これはアメリカ国内の富裕層向けのツアーである。
Catalog #: 00068812 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:09 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways  File:Martin 130 Clipper (4590526510).jpg引用。


パンアメリカン航空マーチン M-130「チャイナ・クリッパー」は、アフリカ、ベルギー領コンゴのキャンシャサから、ブラジル経由で、1945年1月8日にトリニダード・トバコ島(Trinidad and Tobago)のポート・スペインで着水する際、事故を起こし同乗者23が死亡、機体も喪失した。

写真(右)1935年11月以降,アメリカ、フロリダ州キーウェストあるいはカリブ海沿岸(?)の木陰とパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇フィリピン・クリッパー"Philippine Clipper"(NC14715)
Catalog #: 00068810 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:09 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4589906685).jpg引用。


1941年12月7日、アメリカが太平洋戦争に参戦した後のマーチンM-130Martin 130 Clipper)飛行艇の状況について、Wikipediaは「----製造された3機ともが事故により失われ、また高性能の陸上機が登場したこともあり、豪華な飛行艇による旅は終焉を迎えた。」とある。しかし、これは誤りで、「チャイナ・クリッパー」と同様の1938年6月7日初飛行のボーイング(Boeing)314四発飛行艇による太平洋横断航路がその後も1945-1946年まで維持された。

そして、第二次大戦末期から大活躍していたダグラスDC-4/軍用仕様ダグラスC-54四発輸送機が飛行艇にとって代わって太平洋横断航路に就航した。

写真(右)1934年頃,アメリカ、マイアミあるいはカリブ海沿岸(?)の木陰で停泊するパンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)四発旅客飛行艇
Catalog #: 00068813 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:09 Source Martin : 130 : Clipper
写真はWikimedia Commons, Category:Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4589906819).jpg引用。


マーチン M-130(Martin model 130)四発旅客飛行艇の諸元
乗員:6-7名
乗客:座席36名/寝台18名
全長27.7m、全幅39.7m、全高7.5 m
主翼面積330 m2

発動機:プラット・アンド・ホイットニーPratt & Whitney)R-1830ツインワスプ(Twin Wasp)S2A5G空冷星形14気筒エンジン830 hp (708 kW)4基
最大離昇重量:23,701 kg

写真(右)1936年以降、マーチン(Martin)M-130四発大型飛行艇の胴体内部の隔壁構造
Catalog : 00068830 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:10Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4590527224).jpg引用。


マーチン M-130(Martin model 130)四発旅客飛行艇の性能
最高速力:290 km/h (180 mph)
巡行速力:262 km/h(163 mph)
航続距離:5150km
巡航高度:10,000 ft (3,048 m)
就役:Hawaii Clipper 1935年10月9日
Philippine Clipper 1935年11月14日
China Clipper 1936年3月3日
生産機数:3機

写真(右)1936年以降、マーチン(Martin)M-130四発飛行艇の搭載したプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830ツインワスプ(Twin Wasp)S2A5G空冷星形14気筒エンジン830 hp (708 kW)の構造
Catalog #: 00068821 Manufacturer: Martin Designation: 130 Official Nickname: Clipper Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 7 May 2010, 12:09 Source Martin : 130 : Clipper Uploaded by Rybec Author SDASM Archives
写真はWikimedia Commons, Categories: Martin 130 of Pan American Airways File:Martin 130 Clipper (4590526876).jpg引用。


プラット・アンド・ホイットニーR-1830ツインワスプ(Pratt & Whitney R-1830 Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジンの諸元
シリンダー・ボア(直径)Bore: 5.5 in (139.7 mm)
気筒ストローク(行程)Stroke: 5.5 in (139.7 mm)
排気量Displacement: 1,829.4 cu in (29.978 l)
全長Length: 59.06 in (1,500 mm)
直径Diameter: 48.03 in (1,220 mm)
乾燥重量Dry weight: 1,250 lb (570 kg)

写真(右)2009年7月、フィンランドのフィンランド中央航空博物館に展示されているプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1830ツインワスプ(Twin Wasp)S1C3G 空冷星形14気筒エンジン830 hp (708 kW);マーチン(Martin)M-130大型飛行艇はR-1830ツインワスプ空冷星形14気筒エンジン4基を搭載していた。
Suomi: Pratt & Whitney R-1830 S1C3G Twin Wasp kaksirivinen tähtimoottori kuvattuna Keski-Suomen Ilmailumuseossa English: Pratt & Whitney R-1830 S1C3G Twin Wasp 2-row radial piston aircraft engine in Aviation Museum of Central Finland Date 3 July 2009 Source Own work Author Myllyre
写真はWikimedia Commons, Category:Pratt & Whitney R-1830 in museums File:Pratt & Whitney R-1830 S1C3G Twin Wasp 2009-07-03.jpg引用。


プラット・アンド・ホイットニーR-1830ツインワスプ(Pratt & Whitney R-1830 Twin Wasp)空冷星形14気筒エンジンの性能
燃料Fuel type: 95-100 オクタン(octane)揮発油(gasoline)
冷却方式Cooling system: 空冷(Air-cooled)
出力Power output:
1,200 hp (890 kW) / 毎分回転数 2,700 rpm /離昇出力(takeoff)
700 hp (520 kW) / 毎分回転数 2,325 rpm / 巡行出力 (cruise power)/高度13,120 ft (4,000 m)
圧縮比Compression ratio: 6.7:1
燃料消費率Specific fuel consumption: 0.49 lb/(hp•h) (295 g/(kW•h))
出力重量比Power-to-weight ratio: 0.96 hp/lb (1.58 kW/kg)


2.マーチン(Martin)M-156/PS-30 飛行艇「ロシアン・クリッパー」"Russian Clipper"

写真(右)1937年以降,ソ連向け輸出仕様マーチン(Martin)M-156/PS-30 四発大型飛行艇「ロシアン・クリッパー」 "Russian Clipper";双尾翼式のために、高さを抑えながら、垂直尾翼の面積を確保することができた。
01_00094487 Martin M-130 China Clipper --Please Tag these images so information can be recorded. Image from the SDASM Curatorial Collection.Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.) Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives Catalog #: 00068811引用。


マーチン社は、マーチンM-130Martin 130 Clipper)飛行艇をパンナムに1935年に引き渡し、チャイナ・クリッパー(China Clipper)と根付けられた1号機,フィリピン・クリッパー(Philippine Clipper)と呼ばれた2号機、ハワイ・クリッパー(Hawaii Clipper)と呼ばれた3号機が就航した。

写真(右)1937年以降,ソ連向け輸出仕様マーチン(Martin)M-156/PS-30 四発大型飛行艇「ロシアン・クリッパー」 "Russian Clipper";双尾翼式のために、高さを抑えながら、垂直尾翼の面積を確保することができた。
English: 130 with larger wing, exported to USSR Date 1 August 2009, 12:00:16 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はWikimedia Commons, Category:Martin 156 File:Martin 156 Clipper 00068804.jpg引用。


1937年にパンナム航空は、サンフランシスコ(San Francisco)から香港(Hong Kong )への航路をより充実させるために、より航続距離の長い機体を求めたため、マーチン社はマーチンM-130Martin 130 Clipper)飛行艇の主翼を延長し、尾翼を双尾翼式とした大型飛行艇 M-156を開発した。他方、ライバルのボーイング社(Boeing)はボーイング 314飛行艇を開発し、パンアメリカン航空は、マーチン"Martin"M-156ではなく、ボーイング314飛行艇を採用した。

写真(右)1940年以降,ソ連向け輸出仕様マーチン(Martin)M-156/PS-30 四発大型飛行艇「ロシアン・クリッパー」 "Russian Clipper";双尾翼式のために、高さを抑えながら、垂直尾翼の面積を確保することができた。
English: 130 with larger wing, exported to USSR Date 1 August 2009, 12:00:08 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はWikimedia Commons, Category:Martin 156 File:Martin 156 Clipper 00068803.jpg引用。


マーチン"Martin"M-156飛行艇は、寝台(sleeper)26台があり、サンフランシスコとハワイ間の2,400マイルを18–20時間で飛行できる。他方、ハワイ、ミッドウェー、ウェーク島(Wake Island)、グアム(Guam)、フィリピンのマニラ(Manila)を経由して、香港(Hong Kong)までの航路は、サンフランシスコ=ハワイ間の半分の距離である。マーチンM-156飛行艇は、座席配置にすれば33席から56席を設けることができた。

写真(右)1937年以降,ソ連向け輸出仕様マーチン(Martin)M-156/PS-30 四発大型飛行艇「ロシアン・クリッパー」 "Russian Clipper";双尾翼式のために、高さを抑えながら、垂直尾翼の面積を確保することができた。
01_00094487 Martin M-130 China Clipper --Please Tag these images so information can be recorded. Image from the SDASM Curatorial Collection.Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.) Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives Catalog #: 00068811引用。


写真(右)1937年以降,ソ連への輸出仕様マーチン M-156(Martin model 156)四発飛行艇;双尾翼式のために、高さを抑えながら、垂直尾翼の面積を確保することができた。
English: 130 with larger wing, exported to USSR Date 1 August 2009, 11:59:40 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はWikimedia Commons, Category:Martin 156 File:Martin 156 Clipper 00068803.jpg引用。


パンアメリカン航空は、太平洋航路にボーイング(Boeing)314飛行艇を採用したため、マーチン"Martin"M-156飛行艇は、太平洋航路には就航することなく終わったが、マーチン社はM-156飛行艇をソビエト連邦に販売し、アエロフロート航空(Aeroflot)の極東航路に就航できるように、PS-30と名付けた。

写真(右)1937年以降,アメリカ、格納庫前、マーチン M-156(Martin model 156)四発飛行艇;木製の大型支柱・整備台が置かれている。ソ連への輸出仕様に変更しているのであろうか。
Martin : 156 : Clipper Manufacturer: Martin Designation: 156 Official Nickname: Clipper Notes: 130 with larger wing, exported to USSR Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives Catalog #: 00068800引用。


マーチンM-130Martin 130 Clipper)飛行艇と同じく、マーチン M-156/PS-30飛行艇は、四発の肩翼(parasol wing)の飛行艇である。マーチン M-156/PS-30飛行艇の全長は、M-130飛行艇と同じであるが、全幅は27 ft (8.2 m)延長され、フラップ(flap)を装備しており、尾翼は2枚の双尾翼式に改変されている。

図(右)マーチン M-156(Martin model 156)四発飛行艇の三面図;双尾翼式のために、高さを抑えながら、垂直尾翼の面積を確保することができた。
English: 130 with larger wing, exported to USSR 1 August 2009, 11:59:30 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はWikimedia Commons, Category:Martin 156 File:Martin 156 3-view l'Aerophile March 1938.png引用。


マーチン(Martin)M-156飛行艇の諸元
乗客:
53名(San Francisco - Hawaii)
26 名 (San Francisco - Hong Kong)
全長Length: 92 ft 2 in (28.11 m)
全幅Wingspan: 157 ft 0 in (47.87 m)
全高Height: 27 ft 2 in (8.29 m)
空虚重量Empty weight: 31,292 lb (14,194 kg)
総重量Gross weight: 60,708 lb (27,561 kg)
発動機Powerplant: ライト(Wright)サイクロン(Cyclone)G2空冷星形エンジン 1,000 hp (750 kW)4基
最高速力Maximum speed: 182 mph (293 km/h, 158 kn)
巡行速力Range: 3,000 mi (4,830 km, 2,600 nmi)


3.アメリカのシコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇

マーチン(Martin)M-130四発飛行艇 の一世代前のシコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇飛行艇は、1931年8月7日初飛行で、パンナムが採用した大型旅客機である。

写真(右)1935年11月以降,アメリカ、海に面した水上機基地の滑走台で待機するパンアメリカン航空シコルスキー(Sikorsky)S-40四発旅客飛行艇
Sikorsky S-40 Manufacturer: Sikorsky Designation: S-40
写真はflicker, SDASM Archives Catalog #: 00070990引用。


シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇の諸元
初飛行:1931年8月7日初飛行
搭乗員 6名、乗客 38名
全長 76 ft 0 in (23.16 m)
全幅 114 ft 0 in (34.75 m)
主翼面積 1,740 sq ft (162 m2)、空虚重量 23,000 ポンド(10,433 kg)、総重量 34,000 ポンド(15,422 kg)
燃料搭載量 1,066 US gal (4,040 L)
発動機Pratt & Whitney ホーネット(Hornet)空冷9気筒星形エンジン 575 hp (429 kW)4基
最高速力 117 kn (135 mph, 217 km/h)
巡行速力 97 kn (112 mph, 180 km/h)
航続距離 780 nmi (900 mi, 1,400 km)
生産機数:3機

38 人の乗客を乗せるシコルスキー(Sikorsky)S-40四発旅客飛行艇は、パンアメリカン航空の最初の大型飛行艇で、 Pratt & Whitney ホーネット(Hornet)空冷星形9気筒エンジン575 hp4基を搭載、最高速力217km/h、航続距離1,400 kmで「アメリカン クリッパー」として、パンナム・クリッパーの旗艦として使用された。3機が就役したシコルスキー(Sikorsky)S-40は、合計 1,000 万マイル以上を飛行し1940年に退役するまで、合計 1,000 万マイル以上の運航実績を上げた。

⇒写真集Album:シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇を見る。


4.ボーイング(Boeing)314四発飛行艇

図(右)1934年12月30日初飛行パンアメリカン航空マーチン M130(Martin model 130)飛行艇チャイナ・クリッパー"China Clipper"と1938年6月7日初飛行のボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパーの同縮尺比較図:就役時期は3年以上異なるが、マーチンM-130飛行艇に比べてボーイング314飛行艇は大型化し、航続力が2000km伸び、乗客数も2倍に増えたうえに、最高速力・巡行速力も60?/h以上向上している。
M-130 - B-314 Comparison China Clipper - Dixie Clipper comparison Source: Pan AM an Airline and It's People, by R.E.G.Davis
写真は,Jamie Dodson M-130 - B-314 Comparison引用。


マーチン(Martin)M130ボーイング(Boeing)314の諸元比較
全長: 27.7m  32.31 m
全幅: 39.7m  46.33 m
高さ: 7.5m   8.41 m
発動機:M;プラット・アンド・ホイットニーR-1830空冷星形14気筒30Lエンジン830hp4基
B;ライト709Cツインサイクロン30L空冷星形空冷星形14気筒42.7 Lエンジン1,600hp4基
最大離昇重量: 52,252ポンド (23,701 kg) 84,000 ポンド(38,102 kg)
最高速力: 180 mph (290 km/h)  210 mph (340 km/h)
巡航速力: 130 mph (209 km/h) 188 mph (303 km/h)
航続距離: 3,200 mi (5,150 km) 4,900 mi (7,886 km)
搭乗員: 6-9名、乗客 36-41名(寝台18台)
B;搭乗員 11名、乗客 68名(寝台36台)

ボーイング(Boeing)314は、3枚の垂直尾翼を持つ大型四発飛行艇で、最大座席数74席(寝台仕様の場合50席)で、出現時は最大級巨人旅客輸送機だった。

写真(右)1939年、ボーイング(Boeing)314四発飛行艇;1938年6月7日初飛行。1938–1941年に12機が生産された。同時期に開発されたマーチン M-156(Martin model 156)四発飛行艇を抑えて、パンアメリカン航空に採用された。
Collins, Tudor Washington, 1898-1970, photographer Title (Seaplane on the water beside a gangplank) Description English: A Boeing 314 flying boat is moored in a harbour. There two boats alos in the harbour. One of the boats have two life-savers with "Lady VI Auckland" written on each of them. Three men are visible on a boat. A man is walking along the gangplank, towards the flying boat. A jetty, and an island, is visible in the far background. Date 1939 Medium Silver gelatin dry plate Collection Auckland War Memorial Museum Accession number 81422 (object number) Source/Photographer API data Catalogue record Photo Permission (Reusing this file) This image has been released as "CCBY" by Auckland Museum.
写真はWikimedia Commons, Category:Boeing 314 of Pan American Airways File:Seaplane on the water beside a gangplank (AM 81422-1).jpg引用。


ボーイング(Boeing)314四発飛行艇は、サンフランシスコ=ニュージーランドのオークランド間の定期航路にも就役している。
アメリカのパンアメリカン航空がボーイング(Boeing)314飛行艇6機の発注を行い、生産が開始された。1939年より引渡しが開始され、6機の追加を含めて、1938–1941年に12機が生産された。

図(右)ボーイング(Boeing)314四発飛行艇の三面図
English: Boeing 314 American Clipper Date 13 October 2015 Source Own work Author Kaboldy
写真はWikimedia Commons, Category:Boeing 314 of Pan American Airways File:Boeing B 314 Clipper.svg引用。


ボーイング(Boeing)314四発飛行艇の諸元
乗員Crew: 11名(客室乗務スチュワード2名を含む)
乗客Capacity: 68名(昼間飛行)/ 36名(夜間寝台飛行)/ 貨物・郵便4,536 kg
全長Length: 106 ft (32 m)
全幅Wingspan: 152 ft (46 m)
全高Height: 20 ft 4.5 in (6.210 m)
空虚重量Empty weight: 48,400 lb (21,954 kg)
総重量Gross weight: 84,000 lb (38,102 kg)
燃料Fuel capacity: 5,408 US gal (4,503 imp gal; 20,470 L)
発動機Powerplant: 4 × ライト(Wright) 709C-14AC1ツインサイクロン(Twin Cyclone)空冷14気筒エンジン1,600 hp (1,200 kW)
プロペラPropellers: 3-羽ハミルトンスタンダード(Hamilton Standard)フル・フェザー定速回転プロペラ
最高速力Maximum speed: 210 mph (340 km/h, 180 kn)/ 6,200 ft (1,890 m)
巡行速力Cruise speed: 188 mph (303 km/h, 163 kn) / 66.5% 出力/ 11,000 ft (3,353 m)
航続距離Range: 3,685 mi (5,930 km, 3,202 nmi) /過重状態 4,900 mi (4,258 nmi; 7,886 km)

⇒写真集Album:ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"を見る。


5.ドイツのブロームウントフォス(Blohm & Voss)BV222「ヴィーキング」"Wiking"

写真(右)1940年、ブローム・ウント・フォス (Blohm & Voss )BV-222 V-1六発大型飛行艇「ヴィーキング」"Wiking"試作1号機(登録コード:D-ANTE);BV 222試作1号機は、ブラモ BMW Bramo 323R ファニール(Fafnir)空冷星型9気筒エンジン(1,000馬力)6基を装備、民間登録記号D-ANTEをつけて、1940年9月7日に初飛行したが、戦局は、このような六発大型飛行艇を量産することを許さなかった。生産機数は、事実上試作機として合計13機のみ。
Beeldnummer 109 Collectie NIOD Trefwoorden Luftwaffe, Transportvliegtuigen, Vliegtuigen, Duitse strijdkrachten
Bijschrift: Blohm & Voss Bv 222 'Wicking', neues leutsches Grossflugboot. Das neue deutsche Grossraumflugboot 'Wicking' ist derzeit das grösste Flugboot der deutschen Lufwaffe. Das zweistöckige Boot ist 37 m lang und 5,6 hoch, die Spannweite der Tragfläche beträgt 46 m.
写真はFlikers, BeeldbankWo2 Beeldnummer 109引用。


1930年代後半、ドイツ・ルフトハンザ航空Deutsche Luft Hansa)は、大西洋航路で使用可能な長距離大型旅客輸送機を求めていたが、大重量、大量の燃料を積んで離陸する巨大な滑走路が不必要で、非常時には海上に不時着可能な安全性の高い飛行艇式の旅客輸送機が有利ではないかと目されていた。そこで、巨大旅客飛行艇の開発を、リヒャルト・フォークト博士に依頼し、BV 222飛行艇3機を発注した。試作機V1号機の製造は1938年1月から開始し、第二次大戦勃発1年後の1940年9月7日に、初飛行を実施した。ペイロードは、乗客92名あるいは救急担架72基で、最高速力は385 km/hで早いとはいえなかった。

ドイツ・ルフトハンザ航空は、ドイツ〜アメリカ間を横断できる長距離旅客飛行艇を求めており、旅客16名、飛行時間20時間の要望を出していた。これにブローム・ウント・フォス (Blohm & Voss)社が応じて開発したのが、リヒャルト・フォークトRichard Vogt)設計のBv 222大型輸送飛行艇だったが、試作機完成前の1939年9月に第二次世界大戦が勃発し、民間の長距離旅客機としての需要は途絶えてしまった。

ブローム・ウント・フォス Blohm & Voss Bv 222 Wiking「ヴィーキング」飛行艇の発動機は、ブラモ BMW Bramo 323 ファニール空冷星型エンジン(1000馬力)6基だが、後に航続距離を延長するために、ユンカース ユモ Jumo207Cディーゼルエンジン(1000馬力)6基に換装された。ディーゼルエンジンのため、共同作戦行動をとるドイツ海軍潜水艦Uボートと同じディーゼル油(軽油)を使用したため、潜水艦による洋上での燃料補給・給油が受けやすくなった。C-013は、ユモJumo205C6基を装備している。

ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV 222飛行艇試作機V1は、1941年8月19日までの7回の運航で、ハンブルクとノルウェー北部のヒルケネス間を合計65トンの貨物、負傷者221名をの負傷兵を運んだ。総飛行距離は3万キロに達した。また、BV222飛行艇は、地球海方面では、1941年10月16日から11月6日の17回の運航で、北アフリカに派遣されたドイツ・アフリカ軍団に対する物資を補給した。

ブローム・ウント・フォス (Blohm & Voss )Bv 222大型輸送飛行艇機「ヴィーキング」"Wiking"は、胴体は最上階が平坦な床板の大型貨物室で、貨物は主翼の後方右側に大型扉を装備しており、ここから出し入れした。

⇒写真集Album:ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング飛行艇を見る。


6.ドルニエ(Dornier)Do-24飛行艇

写真(右)1937-1939年、オランダ、オランダ王室海軍のドルニエ(Dornier)Do-24K-1, X-13 三発飛行艇;1937年頃、機首、胴体後上方、尾部の3カ所に銃座設けられているが、機関銃はまだ搭載されていない。オランダ三色旗の円形国籍マークが、主翼、胴体後方側面に描かれ、さらに水平三色旗(上からオレンジ・白・青)が双垂直尾翼の方向舵にも大きく描かれている。
Collectie Fotoafdrukken Koninklijke Marine
Beschrijving Dornier Do 24K-1 maritieme patrouillevliegboot X-13 (1938-1942).
Datering van 1938 Datering tot 1942
Trefwoorden Dornier Do 24, vliegboten Specifieke kenmerken X-13 Vervaardiger Onbekend Copyright NIMH
写真はNetherlands Institute for Military History (NIMH) Beeldbank.defensie.nl・Objectnummer 2158_012914引用。


ドルニエ(Dornier)Do-24飛行艇の主翼はパラソル式で、その上に空冷星形エンジンが装備されている。そのため、プロパラの位置が、水面よりもかなり上になり、波浪や飛沫の影響を受けにくくしている。胴体中部には、水上安定性を保つためにバルジ式の浮きスポンソンが設けられている。このスポンソンは、パラソル式の主翼を支える支柱の基盤にもなっている。

写真(右)1937年、ドイツ、ボーデン湖、フリードリッヒスハーフェンのドルニエ機工場で完成したばかりと思われるドルニエ(Dornier)DO-24K-1哨戒偵察飛行艇の正面;機首には銃座が備わっているのが確認できる。主翼はパラソル式で、その上に空冷星形エンジンが装備されている。そのため、プロパラの位置が、水面よりもかなり上になり、波浪や飛沫の影響を受けにくくしている。胴体中部には、水上安定性を保つためにバルジ式の浮き(スポンソン)が設けられている。この浮き(スポンソン)は、パラソル式の主翼を支える支柱の基盤にもなっている。オランダ海軍の発注になる軍用の偵察哨戒飛行艇だが、機首・胴体後方・尾部の銃座はまだ装備されていない。
Collectie Fotoalbums voormalig Instituut voor Maritieme Historie(海事史研究所)
Beschrijving Vooraanzicht van een Dornier Do 24K-1 maritieme patrouillevliegboot. Foto genomen omstreeks 1937 door de Dornier vliegtuigfabriek te Friedrichshafen op de Bodensee.
Plaats Duitsland Precisie start
Circa Datering van 1937 Precisie eind Circa Datering tot 1937
Trefwoorden Dornier Do 24, vliegboten, patrouillevliegtuigen, vliegtuigen, vliegboten, watervliegtuigen Vervaardiger Dornier Copyright NIMH
Materiaalsoort Ontwikkelgelatinezilverdruk Kleur/Zwart-wit Zwart-wit
写真はNetherlands Institute for Military History (NIMH) Beeldbank.defensie.nl・Objectnummer 2173-247-030 引用。


⇒写真集Album:ドルニエ(Dornier)Do-24飛行艇を見る。


7.ドルニエ(Dornier)Do-X飛行艇

写真(右)1929年10月21日、ドイツ南部、スイス国境のボーデン湖、ドルニエDo-X 飛行艇(登録コード:D-1929)と乗客たちの搭乗記念写真;全長40m、全幅48.05m、全高6.4m、翼面積450m2、総重量52,000kg、最高速速力215km/h、航続距離2800km、乗員10名、乗客160名。パラソル式主翼の上面に、シーメンスのジュピター・カーチス・ライト(Jupiter-Curtis-Wright)エンジン525馬力12基を2機ずつ流線型のナセルに収納して、縦列串型に配置している。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-08577
Original title: info Der Weltrecord-Flug des Dornier-Riesenflugbootes"Do X" mit 169 Passagieren in Altenrhein a/Bodensee!. Es ist das erste Mal, dass 169 Personen mit einem Luftfahrzeug beffördert wurden; ausser dem mitgefführten Betriebsstoff für 1200 km. was einem Gesamtgewicht von ca. 300 Passagieren entspricht. Die 169 Passagiere, welche den Recordflug des "Do X" mitmachten, vor dem Flugboot.
Archive title: Altenrhein / Bodensee.- Flugboot Dornier Do X (D-1929) mit Passagieren, Weltrekord-Flug am 21.10.1929
Dating: 21. Oktober 1929 Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv .
写真はWikimedia Commons, Category:Dornier Do X・File:Bundesarchiv Bild 102-08577, Flugschiff Dornier Do X mit Passagieren.jpg引用。


ドルニエ(Dornier)Do X飛行艇(登録コード:D-1929)は、Do-Jワール飛行艇Do-18飛行艇と同じく、水上安定性を確保するために、胴体中央部左右に浮きを張り出し、胴体上部に主翼をパラソル式に配備し、その上にエンジンを縦列串型に配置している。正面から見ると、主翼上面にエンジン6基が見えるが、これは前後2基のエンジンを縦列串型に配置しているためで、エンジンは12基ある。エンジンは、当初、1930年前半までは、シーメンスのジュピター・カーチス・ライト(Jupiter-Curtis-Wright)エンジン525馬力12基を流線型ナセルに縦列串型配置で12基を装備した。

ドルニエDo-X 飛行艇の胴体中部には、水上安定性を保つためにバルジ式の浮き(スポンソン)が設けられている。

⇒写真集Album:ドルニエDo-X 飛行艇を見る。


8.イギリス空軍ブラックバーン(Blackburn)パース(Perth)飛行艇

イギリス空軍ブラックバーン(Blackburn)R.B.3A パース(Perth)三発飛行艇は、1933年10月11日初飛行で、総生産機数4機、1938年に退役し、後継機のブラックバーン(Blackburn)R.B.3A パース(Perth)飛行艇が変わって就役した。

写真(右)1932年11月、イギリス、イギリス空軍ブラックバーン(Blackburn)R.B.3A パース(Perth)飛行艇:1933–1934年の期間に4機が生産された。1934年に就役し、1938年に退役。発動機はアイリスの最終型と同じで、ロールスロイス(Rolls-Royce)(Buzzard)IIMS 排気量2,239.3 in³(36.7 L)V-12型液令エンジン出力825 hp (615 kW)3基装備。ただし、このBuzzard IIMS(H.XIIMS)は、1932-1933年に69基が生産されたに過ぎない。
November 1932. Iris Mk 5. (Flight 1932/11/17). R.B.1D / Iris V This was the final variant. Three Iris Mk IIIs were fitted with 825 hp (615 kW) Rolls-Royce Buzzard IIMS piston engines..
写真は, Grace's Guide File:Im19321117FL-Iris5.jpg引用。


ブラックバーン(Blackburn)R.B.3A パース(Perth)飛行艇の諸元
乗員Crew: 5名
全長Length: 70 ft 0 in (21.34 m)
全幅Wingspan: 97 ft 0 in (29.57 m)
全高Height: 26 ft 5.5 in (8.065 m)
主翼面積Wing area: 2,461 sq ft (228.6 m2)
空虚重量Empty weight: 20,927 lb (9,492 kg)
最大離陸重量Max takeoff weight: 32,500 lb (14,742 kg)
発動機:ロールスロイス(Rolls-Royce)バザード(Buzzard:ノスリ)II MS V-12型液令エンジン675 hp (503 kW)3基
最高速力Maximum speed: 132 mph (212 km/h, 115 kn)
航続距離Range: 1,300 mi (2,100 km, 1,100 nmi)
実用上昇限度Service ceiling: 11,500 ft (3,500 m)

⇒写真集Album:ブラックバーン(Blackburn)パース(Perth)飛行艇を見る。



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
日本海軍川西H6K5九七式大型飛行艇ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
コンソリデーデッド P2Y 飛行艇イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC

アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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