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◆ドイツI号戦車/47mm対戦車自走砲 図(上):ドイツ陸軍I号戦車A型:Panzerkampfwagen I Ausführung A:Pzkpfw I. Ausf. A):I号戦車は7.92ミリ機関銃2丁を装備。
Deutsch: Pzkpfw I. Ausf. A (Seitenprofil) Date 1 September 2011 (original upload date) Source the-blueprints.com Die deutsche Panzerwaffe im Zweiten Weltkrieg, Bechtermünz Verlag, 1998 Author Marseille77
写真はWikimedia Commons>File: Panzer II Saumur.JPG引用。。

写真(上)2008年8月:ドイツ、ニーダーザクセン州、ムンスター戦車博物館、ドイツ陸軍I号戦車A型:Panzerkampfwagen I Ausführung A:Pzkpfw I. Ausf. A):I号戦車は7.92ミリ機関銃2丁を装備。白い十字は部隊識別記号。
Deutsch: Panzerkampfwagen I (Ausf. A) Besatzung: 2 Soldaten Gewicht: 5,4 Tonnen Motorleistung: 44 kW (60 PS) Bewaffnung: 2 x Turm MG 13, Kaliber: 7,92 mm x 57 Baujahr: 1934 - 1938 Stückzahl: 818 Date 29 August 2008 Source Own work Author Huhu at de.wikipedia
写真はWikimedia Commons, Category:Panzerkampfwagen I Ausführung A in the Panzermuseum Munster>File:Panzerkampfwagen I (Ausf. A).jpg引用。。

写真(上)2015年10月:ロシア連邦、モスクワ、クビンカ大祖国戦争博物館、ドイツ陸軍I号戦車A型:Panzerkampfwagen I Ausführung A:Pzkpfw I. Ausf. A):7.92ミリ機関銃2丁は撤去されている。1936年に勃発したスペイン内戦では、派遣された反乱軍側ドイツ軍I号戦車と政府軍側ソ連軍T-26戦車が相まみえた。
Description 0588 - Moskau 2015 - Panzermuseum Kubinka Date 1 October 2015, 11:41 Source 0588 - Moskau 2015 - Panzermuseum Kubinka Author Uwe Brodrecht
写真はWikimedia Commons, Category:Panzerkampfwagen I Ausführung A tank at the Tank Museum, Kubinka /a>>File:0588 - Moskau 2015 - Panzermuseum Kubinka (25795439304).jpg引用。

写真(上)2017年5月:イギリス、ボービントン戦車博物館、館、ドイツ陸軍I号指揮戦車(Panzerbefehlswagen, (Sd.Kfz.265)):I号戦車砲塔を撤去、大型指揮室を設けてFu.6/Fu.8無線機を搭載、乗員3名とした。B型184両生産。前面ボールマウントに7.92mm機関銃1挺装備。
Nederlands: Panzer I - Tank Museum Bovington Date 18 May 2017 Source Own work Author Paul Hermans
写真はWikimedia Commons, Category:Panzerkampfwagen I in museums> File:Panzer I - Tank Museum Bovington 18-05-2017 16-32-06.JPG 引用。

『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。ナチ党の初期のポスター、社会民主党の反ナチポスターから、投票所の写真なども掲載しています。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールにゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。


序.戦車保有を禁止されていたドイツ共和国軍

写真(右)1919-1939年、ドイツ、戦車模型を使って軍事演習をするドイツ軍:I号戦車が試作される以前のワイマール共和国時代から、このような模型を使った演習が行われていた。古い戦術に固執した将兵の中には、玩具を使った遊びのように軽蔑するものがあった。しかし、このような模型を使った演習の中から電撃戦の戦術が生まれたのである。
Catalogue number STT 23 Department Photographs Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period Interwar Alternative names object category: Black and white Object description German dummy tanks Associated themes German Army 1919-1939
写真は帝国戦争博物館 IWM 2017 IWM (STT 23)引用。


A7v 第一次世界大戦に敗北したドイツは、パリ講和会議Paris Peace Conference)できまったベルサイユ条約Treaty of Versailles)に署名し、陸軍兵力は10万万名以下、航空兵力の保有禁止、戦車・火砲の開発禁止の制限に置かれた。しかし、ドイツ共和国の新たな軍指導者(陸軍兵務局)ハンス・フォン・ゼークトHeinz Wilhelm Guderian)将軍は、闇の国防軍を育成しようと、極秘にトラクター開発の名目で、新鋭戦車の開発を行った。特に、当時共産主義国として孤立していたソビエト連邦と1922年にラッパロ条約Treaty of Rapallo)を締結、ソ連国内に密かに軍事基地・演習地の提供を受け、そこで新兵器の試作を行った。ソ連・カザン実験場では、新鋭戦車の試作試験が実施された。

第一次世界大戦に敗北したドイツは、パリ講和会議Paris Peace Conference)できまったベルサイユ条約Treaty of Versailles)に署名し、陸軍兵力は10万万名以下、航空兵力の保有禁止、戦車・火砲の開発禁止の制限に置かれた。しかし、ドイツ共和国の新たな軍指導者(陸軍兵務局)ハンス・フォン・ゼークトHeinz Wilhelm Guderian)将軍は、闇の国防軍を育成しようと、極秘にトラクター開発の名目で、新鋭戦車の開発を行った。特に、当時共産主義国として孤立していたソビエト連邦と1922年にラッパロ条約Treaty of Rapallo)を締結、ソ連国内に密かに軍事基地・演習地の提供を受け、そこで新兵器の試作を行った。ソ連・カザン実験場では、新鋭戦車の試作試験が実施された。

ナチス政権奪取から2年後の1935年3月16日,アドルフ・ヒトラーは,ベルサイユ条約の打破の公約実行するために,再軍備を宣言した。これは,兵役の復活によって,50万人の兵力,戦車を保有し,陸軍参謀本部を正式に復活し,空軍を新設した。

第二次大戦初期には、この六輪装甲車Sd.Kfz.231 (6-Rad)を改良して大型化した八輪装甲車Sd.Kfz.231 (8-Rad)が開発された。


写真(右)1935年9月,ドイツ、バイエルン(ハノーバー)州、ドイツ陸軍第六軍所属の六輪無線指揮装甲車Panzer-späh-wagen Pz-Spw. (6 Rad) (Fu) (Sd.Kfz. 232) と六輪装甲車Pz.Spw. (6 Rad) (Sd.Kfz. 231)
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-04757A Original title: info Manöver des VI. Armeekorps in der Lüneburger Heide vom 2. bis 7. September 1935, Panzerspähwagen Dating: September 1935
Photographer: Pahl, Georg撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 102-04757A"引用。


Sd Kfz 231 (6-Rad) 装甲車の諸元
全長: 5.57 m
全幅: 1.82 m
全高: 2.25 m
重量:5.4 t
乗員数: 4 名

4輪 55口径2センチ戦車砲(2cm KwK 30 L/55:2 cm Kampfwagenkanone 30)の諸元 口径:20 mm
原型の2cm Flack30機関砲の発射速度は120 から 280発/分。ただし2cm KwK 30 戦車砲は自動砲ではあるが機関砲ではなく、連射することはできないようだ。
搭載弾丸数:180発
原型の2cm Flack30機関砲の初速:780 - 1 050 m/s(発射速度の高低で差異がある)
2cm KwK 30 戦車砲の初速:1 050 m/s
有効射程:1 000 m
最大射程:4 800 m
弾丸:20 x 138B Pzgr.39/ Pzgr.40

2 cm KwK 30戦車砲を搭載したドイツの戦闘車輛は次の通り。
ベルゲ・パンター工作戦車 Bergepanther SdKfz.179
II号戦車 SdKfz.121  Panzerkampfwagen II
四輪装甲車 SdKfz.222 Leichter Panzerspähwagen
四輪装甲車 SdKfz.223 Leichter Panzerspähwagen
八輪重装甲車 SdKfz.231 Schwerer Panzerspähwagen
八輪重装甲車 SdKfz.223 Schwerer Panzerspähwagen
八輪重偵察装甲車 SdKfz.234/1 Puma
半装軌式対空装甲車 SdKfz.251/17 Schützenpanzerwagen (2 cm)

兵装の2センチ砲は2cm KwK30機関砲で、7.92mm MG13を同軸に装備していた。車体前部に搭載したエンジンはダイムラーベンツ社のM509、65馬力であり、フロントのラジエーターには斜めに据え付けられた装甲板が付けられていた。


1.I号戦車 Panzerkampfwagen I (MG) (Sd.Kfz.101)

1930年代に入ると、ハインツ・グデーリアンHeinz Wilhelm Guderian)参謀を中心に機動力を備えた陸軍の機械化がすすめられた。そして、重量10トン級の攻撃用戦車、20トン級の火力支援戦車の2種類の戦車が構想された。戦車開発には技術的課題も多く、特に搭載火砲や発動機の選定などの問題もあり、短期間では試作することは困難だった。しかし、研究開発材料として、訓練用、生産技術習得を兼ねた軽戦車であれば、既存の技術、火器で十分に開発可能だった。

写真(右)1930年代,ドイツ陸軍I号戦車(Pz Kpfw I)による演習:ここに見える13輌のI号戦車Pz Kpfw Iは訓練用のため砲塔を搭載しておらず、5名の乗員を載せている。I号戦車(Pz Kpfw I)は、前席の操縦席を見学するように後席に3名が腰かけている。このように、ドイツ陸軍には戦車の砲塔を搭載しないで訓練用に利用する方法が戦前から採用されていた。そこで、そのスペースに注目して、大口径砲を搭載する自走砲の発想が早くから生まれたと考えられる。I号戦車(Pz Kpfw I)には、その後、15センチIG-33歩兵砲や4.7センチ対戦車砲が搭載されている。
Catalogue number: STT 6356A, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION, Subject period: Interwar, Alternative Names: object category; Black and white, Object description: Group of German Pz Kpfw I training tanks. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 6356A)


1932年に、ドイツ軍はイギリスのビッカース・アームストロング社Vickers-Armstrongs)の軽戦車試作品とトラクターを購入し、これを手本としてクルップ社Krupp)は、1932年中に試作戦車を開発した。

1933年1月のアドルフ・ヒトラーAdolf Hitler )内閣誕生,1934年のヒトラーの総統就任,1935年のベルサイユ条約の軍備制限を破棄しての再軍備宣言と,ドイツはヒトラー主導の下で,軍備拡張の準備を公然と開始した。

写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻作戦「事例・白」に参加したドイツ陸軍I号戦車(Panzer I)
I号戦車A型の諸元:
全長 4.02 m、全幅 2.06 m
全高 1.72 m、重量 5.4 t
懸架リーフスプリング方式
最高速力(路上)37 km/h
航続距離 145 km
兵装:7.92ミリ機関銃2丁
装甲:13 mm
4気筒空冷ガソリンエンジン57 馬力/毎分2500回転
乗員2名(車長、操縦手)。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-380-0075-18 Archive title: Polen.- Soldat der Panzertruppe im Turm eines Panzer I im Kampfgebiet vor Rauchwand; KBK Lw4 Dating: September 1939 Photographer: Sturm Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


極秘に開発された戦車は、農業用トラクターの名称で偽装されていたが、1934年には、訓練用試作車に続いて、機関銃を搭載した砲塔を持つ戦車が開始され、パンツァーワーゲン(MG)すなわち戦闘装甲車(機関銃)として制式された。ヒトラー政権の再軍備宣言後、1936年4月、この戦闘装甲社は、車輛形式Sd.Kfz.101と呼ばれるI号戦車A型Panzerkampfwagen I Ausf A)と命名された。

◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。これは過激な表現のプロパガンダではなく,本心だった。

I号戦車A型 I号戦車A型Panzerkampfwagen I Ausf A)の生産は、開発したクルップ社だけでなく、軍需による利益確保、技術取得を目的に、車輛・エンジンメーカー・造船所・重機・銃器メーカーのMAN社、ダイムラー・ベンツ社ヘンシェル社(Henschel)、ラインメタル社でも量産された。I号戦車A型Panzerkampfwagen I Ausf A)の生産台数は、1936年6月までに818両に達した。

1938年9月、ミュンヘン協定Munich Agreement )で、アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)は、チェコスロバキアから民族ドイツ人Volksdeutsche:ドイツ系住民)の住むズテーテンラントを割譲させ、これが最後の領土要求だとミュンヘン協定Munich Agreement )を締結した。しかし、ヒトラーは50歳のうちに戦争を始める決意を固めており、イギリス、フランスの宥和政策が続くかどうかにかかわりなく、ポーランド、フランスに攻め入る覚悟だった。ナチスドイツのチェコ併合German occupation of Czechoslovakia)の尖兵となったのがII号戦車だった。貧弱な装甲で、2センチ砲と機銃しか備えていない軽戦車であり、フランス陸軍French Army)の戦車の方が対戦背や能力は遥かに高かった。チェコ併呑の時に、フランス軍がイギリス軍British Armed Forces)の支援の下にドイツに攻勢をかければ、ドイツ国防軍首脳あった英仏との戦争の危機感を高めて、第二次大戦の様相は異なったものになったかもしれない。

写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入されたI号戦車:歩兵を追い越してゆくI号戦車だが,機銃しか装備していないうえに,装甲も薄かった。右の煙突のある貨車は,食事を作る調理車両。
Polen.- Panzer I und Infanterie auf schlammiger Straße; PK 637 (Ost) Dating: September 1939 Photographer: Wagner 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 (他引用不許可)。


1939年5月23日,ベルリンの帝国官房(総統官邸)で,三軍総司令官が出席した会議で,ヒトラー総統は,「適当な機会があり次第,ポーランドを攻撃する」ことを宣言した。8月24日,空軍は出撃準備のために駐屯地から前進基地に入った。

ドイツは,1939年9月1日、西部国境からポーランドに侵攻,主力をフォン・ルントシュテット将軍率いる南方軍集団におき,ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将(1880-1958)の第十軍が中央に位置しワルシャワに向かった。北方軍集団(フォン・ボック大将)は,クルーゲ大将の第四軍,キュヒラー対象の第三軍,あわせて22個師団からなる。北方軍集団は,ドイツ領の東プロイセンから前進した。

ポーランド侵攻「白」作戦の目標は,ヴィスワ川の西方でポーランド軍を包囲殲滅することである。

写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻参加したI号戦車:7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車。
An den Ufern der Brahe sichern deutsche Panzer das Gelände gegen Überfälle von versprengten polnischen Truppenteilen. Angespannt beobachtet der Kommandant mit dem Glas das Gelände, um sofort auf auftauchende Polen das Feuer eröffnen zu lassen. 4.9.1939 [Herausgabedatum] "Fr.OKW"-Sche Es muß genannt werden: Foto: Weltbild-Schwahn Dating: September 1939 Photographer: Schwahn 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。(他引用不許可)。


ポーランド侵攻「白」作戦の目標は,ヴィスワ川の西方でポーランド軍を包囲殲滅することである。
ヒトラーは,共産主義者・国際金融界の劣等人種ユダヤ人が,第一次大戦を敗北させたとして,犯罪者と決め付けており,第二次世界大戦では,ドイツの敵となる劣等人種・ボリシェビキのユダヤ人を抹殺し、ドイツ民族(アーリア人種)を核とする大ドイツ帝国を生み出すことを決意した。

写真(右)1939年9月,ワルシャワ郊外、ポーランド侵攻に参加したドイツ軍I号戦車B型(Panzer I Ausf. B)と随伴歩兵 :マイバッハ社ガソリンエンジン7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車で、生産台数400両。その内70両はI号指揮戦車に流用されている。
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-012-0022-25 Original title: info Scherl Bilderdienst Polen - September 1939 Erste deutsche Vorhuten erreichen die polnische Hauptstadt; Infanterie mit Panzer-unterstberfützung geht in einem Vorort von Warschau vor. PK: Lanzinger 11846-39 ADN-Zentralbild II. Weltkrieg 1939-1945 Überfall der faschistischen deutschen Wehrmacht auf Polen am 1.9.1939 Warschau ist durch faschistische Truppen von allen Seiten eingeschlossen. Die regulberfären polnischen Truppen und freiwillige Arbeitsbataillone verteidigen heldenhaft die Stadt gegen eine vielfache Übermacht. Deutsche Infanterie geht im Schutz von Panzern in einer Vorstadtstrasse vor. 11846-39 Archive title: Polen, Warschau, Stadtteil Praga.- Straßenkämpfe.- Deutsche Infanteristen hinter einem Panzer II in Deckung; PK 637 (Ost) Dating: September 1939 Photographer: Lanzinger, Otto撮影。 Agency: Scherl Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


I号戦車とII号戦車は、機動力はあったが、防御力と攻撃力は、フランスの戦車よりも劣っていた。しかし、フランス軍は、戦車の集団用法を採用しなかったため、対戦車戦闘の場面は少なく、ドイツ軍の電撃作戦が成功した。

ドイツ軍の主力と位置づけられたIII号戦車は,1935年に開発が開始されている。III号はそれまでのドイツ戦車とは異なって,搭乗員に,戦車長(専属)を追加して,5人とした。つまり,戦車長,操縦手,砲手,無線手(前方機銃手),装填手という機能別の乗員割りである。こうして,戦車長が指揮に専念できるようになり,機動力とならんで,戦車の集団用法が可能になった。

写真(右)1939年9月8日、ポーランド侵攻に参加したI号戦車B型(Panzer I Ausf. B)砲塔番号133 :マイバッハ社ガソリンエンジン7.92ミリ機銃2丁を装備した軽戦車で、生産台数400両だが、その内70両はI号指揮戦車に流用されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-012-0022-26 Archive title: Polen, Warschau, Stadtteil Praga.- Straßenkämpfe.- Panzer I Ausf. B (Turmnummer 133) und deutsche Infanterie, im Hintergrund Panzer II; PK 637 (Ost) Dating: 8. September 1939 Photographer: Lanzinger, Otto 撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。


1936年7月、スペイン総選挙で民主主義・共和派が勝利すると、ファシスト派(国家主義・王党派)のスペイン軍の一部がスペイン領モロッコで反乱を起こし、スペイン内戦が勃発した。ドイツは、ファシスト派の援助要請を受けて、直ぐに輸送機を貸与し、さらに援軍として、航空部隊と地上軍とを派遣した。スペイン内戦では、当初、ドイツ軍の3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)が投入されたが、共和派政府を援助したソ連のT-26軽戦車、BT-5快速戦車の装甲は薄く、大きな戦果を挙げた。こうして、3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)は、ドイツ軍の主力対戦車砲として、第二次大戦初期の1939年9月のポーランド侵攻、1940年5月のフランス侵攻から、1941年6月のソ連侵攻まで主力対戦車砲として配備され続けた。

1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻「白の事例」作戦の時に,保安警察特務部隊を投入,独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。

写真(右)1939年9月,ポーランド侵攻参加したI号戦車とそれに続くII号戦車、半装軌式装甲通信指揮車(Sd.Kfz. 251/3):半装軌式装甲通信指揮車(Sd.Kfz. 251/3)にはハインツ・グーデリアン将軍が乗車しているようだ。道路脇(左)には死んだ馬が横たわっている。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1976-071-36 Archive title: Polen, an der Brahe.- Panzersoldaten auf deutschen Panzer I und Panzer II neben mittlerem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251/3; mit General Heinz Guderian?); 3.9.1939 [Herausgabedatum?] Dating: September 1939 Anfang Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 (他引用不許可)。


1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)は,対独宣戦布告をした。ラジオ演説は沈痛な面持ちで,戦争を開始せざるを得ないことを訴えた。しかし,開戦から半年以上,西部戦線は停滞しており,「座り込み戦争」とも称された。

1940年4月9日,英軍に先んじて,ドイツ軍がノルウェーに侵攻,その後,4月14日,トロンヘイム(Trondheim)に英仏軍,ポーランド軍の連合軍1万2000名を上陸させた。ナルヴィク(Narvik)にも,4月20日に連合軍3万名を上陸させた。

写真(右)1940年5月,フランス侵攻時のドイツ軍II号戦車Panzer II (mit Kennung "R02") と後続するI号戦車:前期型のII号戦車A-C型の車体前部は、丸みを帯びた曲面構造だったが、後期型は増加装甲を取り付けることができるように平面化された。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-382-0248-33A Archive title: Im Westen (Westfeldzug).- Panzer II (mit Kennung "R02") und Panzer I im Wald; KBK Lw 4 Dating: Mai 1940 Photographer: Böcker 撮影。
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv:Bild_101I-382-0248-33A引用。


1940年5月10日,ドイツ軍のベルギー,オランダに侵攻に直面して,連合軍はナルヴィク(Narvik)を撤退。チェンバレンは,戦局悪化と対独宥和政策の破綻の責任を取って,首相を辞任。 戦時挙国一致内閣として,1940年5月10日チャーチル(Winston Churchill)が英首相に就任した。

写真(右)1940年4月21日,ノルウェー侵攻(ヴィーゼル演習)、ドイツ陸軍I号とそれを遮蔽物として戦うドイツ軍兵士:自転車が放置されているが、これはドイツ軍が使用していたもの。襲撃を受けたために、応戦しているようだ。
Catalogue number HU 74922 Department Photographs Part of THE GERMAN INVASION OF FRANCE (GSA 896, GSA 899) Production date 1940-04-21 Subject period Second World War Alternative namesobject name: print object category: Photography Creator German official photographer.
Object description German infantry abandon their bicycles and take cover behind a Panzer (PzKpfw) I tank after being engaged by Norwegian mountain troops in a valley in Norway, 21 April 1940.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・HU 74922引用


西方戦役とも称されるドイツ軍のフランス侵攻は,「電撃戦」の典型であり,大国フランスを1ヶ月半で降伏させたという実績を誇った。第一次大戦では,フランスに敗北したドイツが,逆にフランスを降伏させたことで,電撃戦への注目がにわかに集まった。チャーチル(Winston Churchill)は、フランスとの同盟をフランス・イギリス合併にまで進めて、フランスの正規降伏という事実を回避しようと努めた。

また,ポーランド侵攻で始まった第二次世界大戦が1年半経過して,ドイツの軍事力が再評価され,ナチス,ヒトラー総統の威信が最高潮に達することになった。

このナチスの興隆が,フランスにも議会制民主主義や個人主義を否定し,ファシズムを賛美する傾向を生み出した。フランスはヴィシー政権(Vichy France)を発足させ,ナチスドイツと友好関係を結び,ヨーロッパ大陸をファシズム支配に委ねることになった。

写真(右)1940年5月11日,オランダ南東、マーストリヒト、フランス侵攻に向けて渡河するドイツ軍I号戦車B型 Panzer I
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1981-064-32A Original title: info Maastricht. Schwere Panzerkampfwagen des Panzerregt. 35 fahren über die 18 t. Pontonbrücke. 11.5.40 Dating: 11. Mai 1940 Photographer: o.Ang.
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv:Bundesarchiv Bild 183-B14898, Calais, britische Kriegsgefangene.jpg引用。


ドイツ陸軍参謀本部が立案したフランス侵攻作戦「ゲルブ」(黄)計画は,第一次大戦のシュリーフェン計画と同様であった。

しかし,1940年1月10日,ドイツ空軍第二航空軍所属の連絡機Me-108タイフーンが,悪天候によって,ベルギーに不時着する事故が発生した。この連絡機には,ドイツ軍参謀が搭乗しており,その携帯していた参謀本部のゲルブ計画書(フランス侵攻作戦計画)が,ベルギー軍にわたってしまった。本来,このような機密書類を携帯して空路を飛ぶことは禁止されていたが,連戦連勝の中,機密保持についておろそかになっていた。

写真(右)1940年5月,北フランス、カレー、フランス侵攻、ドイツ軍I号戦車B型 Panzer I が捕虜としたイギリス軍兵士を護送している。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-B14898 Original title: info ADN-ZB/Archiv II.Weltkrieg 1939-1945 An der Front in Frankreich, Mai 1940 Nach der Eroberung von Calais durch faschistische deutsche Truppen werden verwundete britische Soldaten mit deutschen Panzern aus der Altstadt herausgebracht. Aufnahme: Horster Archive title: Frankreich, Calais.- Englische Kriegsgefangene hinter Panzer I Dating: Mai 1940 Photographer: Horster撮影。
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv:Bundesarchiv Bild 183-B14898, Calais, britische Kriegsgefangene.jpg引用。


ベルギー軍が入手したドイツ軍のフランス侵攻作戦計画は,当然,英仏軍に手渡されたことは疑うべくもなかった。飛行機事故で,ドイツのフランス侵攻ゲルフ「黄色の事例」計画が連合軍に明らかになってしまったために,ドイツ軍は,侵攻計画の変更を余儀なくされた。

元来,ヒトラーは旧態依然としたゲルブ作戦に不安を感じていたが,このゲルフ作戦漏洩を契機に,作戦方針を根本的に変更しようとした。これは,独仏ベルギー国境地帯のアルデンヌ森を装甲師団を使って突破するものであった。

ドイツ国防軍のA軍集団参謀長マンシュタイン将軍も,陸軍参謀本部のフランス侵攻計画に反対しており,独自に,主力がアルデンヌ森を通って奇襲する作戦を提出していた。ヒトラーは自分の戦略的直感が正しかったと考え,このマンシュタイン将軍の立案したフランス侵攻計画を採用した。

写真(右)ドイツ連邦、ニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のI号戦車 Panzerkampfwagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 101)
Description Panzerkampfwagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 101) on display at the Deutsches Panzermuseum Munster , Germany. Date 7 August 2008, 22:14 (UTC) Source SdKfz101.jpg Author derivative work: Dhatfield (talk) SdKfz101.jpg: baku13
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Wikimedia CommonsCategory: Panzerkampfwagen I at the Panzermuseum Munster File:SdKfz101 2.jpg引用。


ドイツ連邦の北部ニーダーザクセン州Land Niedersachsen)にあるミュンスターMunster)には、戦前からドイツ軍の教育施設があり、現在もドイツ連邦軍の訓練・演習施設がある。ミュンスター戦車博物館(German Tank Museum)には、第二次世界大戦のドイツ軍戦車として、I号戦車、II号戦車、III号戦車、IV号戦車、V号戦車パンター(Panzerkampfwagen V Panther)、VI号戦車ティーガーII(Panzerkampfwagen VI Kingtiger)が保管展示されている。

写真(右)ドイツ連邦、ニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のI号戦車 Panzerkampfwagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 101)
Description Deutsch: Panzerlaufwerk Date 8 July 2010 Source Own work Deutsch: im Auftrag von Bojo durch Gruß Tom hochgeladen, siehe: [1] Author Bojo at German Wikipedia
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Wikimedia CommonsCategory: Panzerkampfwagen I at the Panzermuseum Munster File:SdKfz101 2.jpg引用。


ドイツ連邦の北部ニーダーザクセン州Land Niedersachsen)にあるミュンスター戦車博物館(Deutsches Panzermuseum Munster)には、第二次世界大戦のドイツ軍自走砲として、I号戦車(Panzerkampfwagen I)、II号戦車改造のヴェスペ10.5cm自走砲、III号戦車改造のIII号突撃砲(Sturmgeschütze III )、IV号戦車改造のフンメル 150mm自走砲、IV号戦車改造のIV号駆逐戦車、VI号戦車改造のシュトルムティーガーが保管展示されている。

写真(右)2019年10月:ドイツ連邦、ニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のI号戦車 Panzerkampfwagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 101)左側面:左奥は、第一次大戦に登場したイギリス陸軍マーク A ホイペット戦車(Medium Mark A Whippet)で、全長6.10 m、全幅2.62 m、全高2.75 m、重量14 t、オチキス .303(7.7mm)軽機関銃 3〜4挺(弾薬5400発)、装甲14 mm、乗員3名。
Deutsch: Deutsches Panzermuseum Munster Date 1 October 2019, 10:04:26 Source Own work Author Bewahrerderwerte
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Wikimedia Commons:2019 10 01 Panzermuseum Munster (12).jpg引用。


ヒトラー卓上談話(ヒトラーのテーブル・トーク)
ナチ党官房長官マルチン・ボルマンMartin Bormann)は,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。マルチン・ボルマンMartin Bormann)は原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。

1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。ロシアの湿地帯にユダヤ人の奴等を置き去りにはできないなどと言ってくれるな。わが部隊の心配を誰がするというのか。われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。
-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。現時点でいたずらに問題を増やしても意味はない。時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。

写真(右)スペイン、マドリッド北郊外、エル・ホロソ兵器博物館に保管・展示されているドイツ軍のI号戦車B型 Panzerkampfwagen I Ausf. B (Sd.Kfz. 101)
Armored Units Museum of El Goloso Light tank Panzerkampfwagen I (MG) Ausfrung B, better known as Panzer IB and nicknamed in Spain as Car Maybach, Negrillo or Type I. It was built in Germany from August 1935. To Spain arrived 132 units during the Spanish Civil War between October 1936 and January 1939, 72 provided by the German Condor Legion and 50 obtained by the company Hispano-Moroccan of Transport (HISMA), serving all units in the national side. After the match 84 units were operational. Date 25 March 2013, 11:21 Source Museo de Unidades Acorazadas de El Goloso Author Contando Estrelas from Vigo, España / Spain
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Panzerkampfwagen I Ausführung B in the El Goloso Armour MuseumFile: Museo de Unidades Acorazadas de El Goloso (8615957481).jpg引用。


1941年11月5日:「善良な国民が(東部の)最前線で戦死しているこの時,(人権に配慮した刑罰制度によって)犯罪者ばかりを保護すれば社会のバランスは崩れ,国家の健全さは打撃を受けるだろう。これは,衆愚政治だ。国家が窮地に陥っている時には,このような手厚い保護の下に置かれている一握りの犯罪者どもに,最前線の兵士たちの犠牲によって得た賜物を簒奪する恐れが高い。これは1918年(第一次大戦の敗北)に経験済みだ。この対策としては,この種の犯罪者は直ちに死刑に処す,これしかない。
-----こんな屑どもに団結する機会を与えるのは非常に危険だ。
」(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年 参照)

◆ヒトラーは,戦線後方の下等人種・劣等民族が団結すれば,反ドイツの動きを開始し,ドイツ人にとって有害である,敵に連帯し団結する契機を与えてはならないというのが,ヒトラーの考えである。したがって,ウクライナ人,チェチェン人,ロシア人に,自治や独立を与えることは,絶対にありえない。バルバロッサ作戦,ブラウ作戦も,現地のスラブ人,チェチェン人にとって,決してボリシェビキからの解放やスターリン圧政からの自由に繋がることはなかった。

写真(右)2007年10月:スペイン、マドリッド北郊外、エル・ホロソ兵器博物館、野外展示されていたドイツ軍I号戦車B型 Panzerkampfwagen I Ausf. B (Sd.Kfz. 101)の正面」
English: Panzer I Ausf. B at the Museum of Armored Vehicles at El Goloso, Spain Date 29 October 2007 Source Own work (Original text: I created this work entirely by myself.) Author JonCatalán (talk)
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Panzerkampfwagen I Ausführung B in the El Goloso Armour Museum> File:Panzer I Ausf B.jpg/a>引用。


1941年11月5日,ヒトラー卓上談話:「----この戦争の終結は,ユダヤ民族の絶滅を意味する。ユダヤ人というのは,エゴイズムそのものだ。
---ユダヤ人は精神的なものに全く関心を持たない。------ユダヤ人の最大の誤魔化しは,宗教でもなんでもないユダヤ教を,宗教のごとく偽っていることだ。簡単に言えば,ユダヤ人は自分たちの人種思想に宗教的カモフラージュを施したのだ。奴らのやることなすことすべて,嘘に立脚している。ギリシャ・ローマ世界の崩壊の責任は,ユダヤ人が負うべきである。
----ユダヤ人は有能だというが,奴らの能力は,他人のものを弄び騙し取ることだけだ。
----とにかく私が言いたかったのは,-------ユダヤ人には音楽家も思想かもいない。奴らは無,いやそれ以下だ。嘘つき,詐欺師,ペテン師!やつらが成功したのは,騙された人間がいたからだ。----」

1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。,
------だが,自由意志で彼らが出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。

1941年11月11日:ヒトラーの卓上談話「現在のわれわれの戦いは,以前に国内における闘争を,国際レベルに移して継続したものだ。---私が必要とするのは,荒々しく勇敢な人々,何事が起ころうとも,自分の思想を最後まで掲げ続ける人々だ。-----今の戦争も同じだ。私の欲しいのは自分の責任で何事でもできる司令官だ。粗暴さのない戦略家など,何の役にも立たない。戦略のない粗暴さのほうがまだましだ。

◆ドイツ軍司令官は弱弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。

写真(右)2014年8月、チェコ共和国、クラリッカ要塞地域(KPO)で開催された歴史的自動車展示会に出場したドイツ軍のI号戦車B型 Panzerkampfwagen I Ausf. B (Sd.Kfz. 101):ミュンヘン会談前後のズテーテン危機で1938年のチェコスロバキア軍が動員され、第二次世界大戦終結記念日、1968年のチェコスロバキア占領記念日を記して開催された軍事史と軍事技術の催し物。
Description English: Akce Cihelna 2014 E06. Main Historical Presentation: Mobilisation 1938 (Saturday), Králíky, Ústí nad Orlicí District, the Czech Republic. Date 23 August 2014, 11:00 Source Own work Author Stribrohorak
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category:Panzerkampfwagen I Ausführung B >File:Akce Cihelna 2014 E06. HlavniUkazkaSobota.jpg引用。




◆人種汚染・人種民族差別に,独ソの過酷な殲滅戦、占領地における治安悪化が結びつき,さらに日米開戦を契機とした対ユダヤ人世界戦争の開始が,ヒトラーに,本格的なヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策を強行させた。

1942年4月12日ヒトラー卓上談話:「特にこの(対米戦と独ソ戦という)戦争では,負ければすべてを失うということを明記しなければならない。だからスローガンは唯一“勝利”である。」

1942年5月22日:「(東部の)戦場では理想主義者が次々に死んでゆくのに,銃後で犯罪者どもを野放しにしておけば,わが国の人種政策は逆行してしまう。第一次大戦の教訓を忘れてはいけない。私の結論は次の通りだ。兵士は死ぬ可能性がある。犯罪者は確実に死ななければならない。これに選択の余地はない。この原則を受け入れない国家に,理想主義に燃える兵士を戦場で市の危険にさらす権利はない。-----銃後のドイツ国民が劣等人種に成り果てることがないように監視することこそ,私の義務であると心得ている。」 1942年8月30日ヒトラー卓上談話:「ロシアでは共産主義が本性を現している。我々は1メートルごとに掃討作戦を展開し,即決裁判を行わざるを得なかった。テロリストとの戦いは,過酷な戦いである。エストニアとラトビアでは反抗は収まった。が,ゲリラの情報を担うユダヤ人を殲滅しない限り,我々の責務は完了しない。」ユダヤ人が反ドイツ謀略戦争を仕掛けているので,殲滅すべきだと考えていた。

写真(右)2014年8月、チェコ共和国、クラリッカ要塞地域(KPO)で開催された歴史的自動車展示会に出場した保管・展示されているドイツ軍のI号戦車B型 (Sd.Kfz. 101)とII号戦車(PzKpfw II : Sd.Kfz 121)(奥) :II号戦車は、全長 4.81 m 全幅 2.22 m 全高 1.99 m 重量 8.9 t 兵装 55口径20mm機関砲(2 cm KwK 30 L/55)、7.92mm機関銃2挺装備。
Description English: Akce Cihelna 2014 E07. Main Historical Presentation: Mobilisation 1938 (Saturday), First Tanks of Wehrmacht PzKpfw I a II for the First Time Presented in the Czech Republic. Králíky, Ústí nad Orlicí District, the Czech Republic. Date 23 August 2014, 11:01 Source Own work Author Stribrohorak
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Category:Visually modified Schützenpanzer Kurz vehicles >File:Akce Cihelna 2014 E07. HlavniUkazkaSobota.jpg引用。


1941年6月のソ連侵攻"バルバロッサ作戦"(Unternehmen Barbarossa)で、ソ連赤軍の新鋭戦車T-34やKW-1重戦車に対抗できる強力な戦車砲が望まれ、3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)に替わって、42口径5センチ対戦車砲5-cm PaK 38) が注目された。III号戦車に搭載する火砲は、A型からG型は46口径3.7センチ戦車砲だったが、G後期型からJ型では42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38 L/42 )に強化され、その後のJ後期型からM型では60口径5センチ戦車砲を搭載している。



2.I号指揮戦車 Befehlspanzer 1

写真(右):1939年9月,ポーランド侵攻時,ドイツ国防軍I号戦車指揮車に続く II 号戦車と装軌式装甲車(ハーフトラック)。1941年6月に始まったソ連侵攻バルバロッサ作戦でも使用されている。
Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese stehend hinter einer Ortschaft. Vorne Befehlspanzer 1 Ausf. B auf Basis des Panzer I, dahinter Panzer II; KBK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Rascheit 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 (他引用不許可)。


I号戦車Panzerkampfwagen I)の小型砲塔を撤去して,そこに大型のアンテナと固定密閉式の戦闘指揮室を設け,通信設備を備えた指揮用戦闘車両。7.92ミリ機銃1丁を搭載。

 弾丸と薬莢とからなるカートリッジCartridge)が砲弾である。カートリッジCartridge)は、日本では、実包(じっぽう)あるいは弾薬筒(だんやくとう)と呼ばれる。

  写真(右):1941年6-7月,ソ連侵攻バルバロッサ作戦の時期,ドイツ国防軍I号戦車指揮車
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0006-28 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Befehlspanzer I Ausf. A auf einem Feld stehend; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 (他引用不許可)。


ヒトラーは,共産主義者・国際金融界の劣等人種ユダヤ人が,第一次大戦を敗北させたとして,犯罪者と決め付けており,第二次世界大戦では,ドイツの敵となる劣等人種・ボリシェビキのユダヤ人を抹殺し、民族ドイツ人Volksdeutsche:ドイツ系住民)を統合して、ドイツ民族(アーリア人)を核とする大ドイツ帝国を生み出すことを決意した。

ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三軍集団あった。
 北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。
中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。
1940年5月,ドイツ軍がフランスを攻撃したのは,装甲師団の展開に不利なアルデンヌ林のルートだった。ソ連侵攻バルバロッサ作戦にあっても,ヒトラーは,沼沢地,河川が多く,ソ連軍が攻撃を予期しない中部地域に大軍を投入した。

写真(右):1941年6-7月,ソ連侵攻バルバロッサ作戦の時期,ドイツ国防軍I号戦車指揮車
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-265-0006-16 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Panzerbefehlswagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 265 auf Basis des Panzer I) auf einer Landstra?・e; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf] 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月22日からのバルバロッサ作戦、対ソビエト連邦侵攻の時、ドイツ国防軍の南方軍集団(フォン・ルントシュテット元帥)は、3個軍,1個装甲集団を率いてガリチア,ウクライナ西部からキエフ攻略に向かった。

ドイツ軍は,中央軍集団(司令官フォン・ボック元帥)に主力を集中していたが,ソ連軍は南方戦線に主力を配備していた。ソ連南部は,ウクライナであり,穀物生産,石油,鉄鉱石,石炭を産出し,肥沃な土地である。また,ドイツの同盟国ルーマニアのプロエスチ油田を臨む地域でもあった。

 ヒトラーは,博打的な戦略を好んだ。中部は沼沢地もあり,攻撃には不利だったが,このような地域こそ,予想外の電撃戦にふさわしいと判断した。

写真(右)1941年6-7月,バルバロッサ作戦に参加したドイツ軍I号指揮戦車:旧式化したI号戦車の小型砲塔を取り除き,密閉式の戦闘指揮室を設けた戦車で,戦車部隊などを移動しながら指揮をした。
Sowjetunion.- "Unternehmen Barbarossa", Befehlspanzer I Ausf. A auf einer Landstraße; PK 697 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Moosdorf [Mossdorf]撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 (他引用不許可)。


1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,突如,ソ連を攻撃した。このは,ドイツ軍によるソ連攻撃バルバロッサBarbarossa作戦が実行されたのは,次のような理由からだった。

1)バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のことである。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだとした。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃した。そして,ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。

2)ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。ただし,東方に向かうドイツ軍兵士は,独ソ不可侵条約の下で,スターリンがウクライナをヒトラーに貸与するという噂があった。

3)フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。ただし,バルバロッサ作戦の準備は,英本土上陸作戦の意図を隠蔽する目的で行われる陽動だとされた。実際,ドイツ海軍軍令部は,2月18日の作戦日誌で,陽動作戦のことを記している。

写真(上)2008年12月:イギリス、ボービントン戦車博物館、ドイツhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Panzer_I_-_Tank_Museum_Bovington_18-05-2017_16-32-06.JPG陸軍I号指揮戦車B型(Panzer-befehlswagen, (Sd.Kfz.265)):I号戦車B型砲塔を撤去し設けた大型指揮室の左方大型ドアが開放状態になっている。指揮室前面右のボールマウントに7.92mm機関銃1挺が搭載されている。北アフリカ戦線で鹵獲された車体なので、カーキに塗装されている。
Germany - Built as a Panzer I Ausf B (SdKfz 101) light tank with 2 X 7.92 MG13 turret mg but converted to a Kleiner Panzerbehefehlwagen I (SdKfz 265) command tank with just one mg in the hull as th eturret was removed; at the Bovington Tank Museum, Dorset, March 1998. Date 9 December 2015, 20:22 Source Panzer I Ausf B (SdKfz 101) Author Hugh Llewelyn from Keynsham, UK
写真はWikimedia Commons, Category:Panzerkampfwagen I in museums>anzer I Ausf B (SdKfz 101) (23010653853).jpg 引用。


ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三個の軍集団,320万人,戦車3500両,火砲7000門が投入された。

1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,突如,ソ連を攻撃した。このドイツ軍によるソ連攻撃バルバロッサBarbarossa作戦が実行されたのは,次のような理由からだった。

?バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のことである。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだとした。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃した。そして,ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。

?ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。ただし,東方に向かうドイツ軍兵士は,独ソ不可侵条約の下で,スターリンがウクライナをヒトラーに貸与するという噂があった。

?フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。ただし,バルバロッサ作戦の準備は,英本土上陸作戦の意図を隠蔽する目的で行われる陽動だとされた。実際,ドイツ海軍軍令部は,2月18日の作戦日誌で,陽動作戦のことを記している。

写真(上)2008年12月:イギリス、ボービントン戦車博物館、ドイツ陸軍I号指揮戦車B型(Panzer-befehlswagen, (Sd.Kfz.265)):I号戦車B型砲塔を撤去、大型指揮室を設けてFu.6/Fu.8無線機を搭載、乗員3名とした。B型184両が生産された。前面ボールマウントに7.92mm機関銃1挺装備。
English: Panzer-Befehlswagen I Ausf B at the Bovington Tank Museum Date 21 December 2008 Source Own work Author Hohum
写真はWikimedia Commons, Category:Panzerkampfwagen I in museums> File:Bovington 108 Panzer I 1.jpg 引用。


1941年6月22日,ドイツ軍は、1939年8月の独ソ不可侵条約German?Soviet Non-aggression Pact)を破って、対ソ連侵攻「バルバロッサ作戦を実行に移した。

アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitler)は,ソ連軍を弱体化していると見ていた。対ソ戦は,「腐った納屋を蹴り飛ばすようなもの」であり,1941年中に,8週間程度で決着がつくと考えていた。

  ソ連侵攻バルバロッサ作戦に準備されたドイツ陸軍兵力は,北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープRitter von Leeb元帥),中央軍集団(司令官フォン・ボックvon Bock元帥),南方軍集団(フォン・ルントシュテットvon Rundstedt元帥)に分かれていたが,主力は,中央軍集団だった。

ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三軍集団あった。

北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。

中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。

写真(右)2010年7月:イギリス、ボービントン戦車博物館、ドイツ陸軍I号指揮戦車B型(Panzer-befehlswagen, (Sd.Kfz.265))右側面:I号戦車砲塔を撤去、大型指揮室を設けてFu.6/Fu.8無線機を搭載、乗員3名とした。B型184両生産。前面ボールマウントに7.92mm機関銃1挺装備。
Bovington Tank Museum 233 Panzer 1 Date 7 July 2010, 14:21 Source Bovington Tank Museum 233 Panzer 1 Author DAVID HOLT from London, England
写真はWikimedia Commons, Category:Panzerkampfwagen I in museums>File:Flickr - davehighbury - Bovington Tank Museum 233 Panzer 1.jpg 引用。


独ソ戦当時,ドイツ軍戦車の主力は,従来のII号戦車PzKpfw II( Panzerkampfwagen II(Sd.Kfz.121))から新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)に代わっていた。この中戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径,3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。

写真(右)2010年7月:イギリス、ボービントン戦車博物館、ドイツ陸軍I号指揮戦車B型(Panzer-befehlswagen, (Sd.Kfz.265))左後方:北アフリカ戦線で鹵獲されたドイツ第21装甲師団第1大隊所属の指揮戦車I号戦車。
English: SdKfz 265 Panzer-befehlswagen I Ausf B in markings of 1st Battalion of the 21st Panzer Division (as captured in North Africa) Date 7 July 2014, 14:55:40 Source Own work Author Mightyhansa
写真はWikimedia Commons, Category:Panzerkampfwagen I in museums>File:SdKfz 265 Panzerbefehlswagen I Ausf B rear view at the Bovington Tank Museum.jpg 引用。


◆1941年6月22日にドイツがソ連を攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していた英国,米国は即座にソ連支援を公言した。それまでのチャーチル英首相の関心は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことだった。
チャーチル英首相は,独ソ戦の勃発に,英国の危機が遠のいたと大喜びした。そして,チャーチルは反共産主義だったが,即座にソ連に軍事援助を申し込んだ。チャーチルと親密なルーズベルト大統領も,ソ連を武器貸与法の対象とした。ソ連は,米英から軍事援助を受けることができた。

ドイツによる1941年6月のソ連侵攻では,ソ連住民に対する自由と独立,圧制や植民地からの解放という大儀がドイツ陸軍のなかで論じられていた。しかし,国防軍最高司令官ヒトラー総統は,肥沃な国土,民族ドイツ人の移住地,資源エネルギー・食料を確保することを命じており,占領した非ロシアのウクライナも独立させるつもりは,当初からなかった。ドイツ第三帝国のための生存圏の確立が最優先課題であり,現地住民,下等人種,劣等民族を蔑視,排除しようとしていたのである。

大日本帝国も,石油の豊富なオランダ領東インド(インドネシア),ゴム・スズ産地の英領マラヤを,日本への資源供給地と位置づけ,民度が低いことを名目にして,独立させなかった。

◆ドイツ国防軍の中には,ロシア人,ウクライナ人,チェチェン人など現地住民と協力関係を樹立し,反共勢力,反スターリン政権に育成するとの構想もあった。しかし,そのような構想は,東方ソ連を大ドイツの生存圏として,物資調達,強制連行・強制労働を進める強権的な植民地支配と並存することはできなかった。

ドイツは東方ソ連を生存圏として植民地化しようとしたが,これに従った現地住民は,親ドイツの裏切り者,売国奴として処断された。ドイツに食料・物資・家屋宿舎を提供し,ドイツのために労役をこなし,道案内やスパイ探しなど情報を提供するロシア人,ウクライナ人の住民は,パルチザンに脅され,殺害された。


3.I号15センチ自走重歩兵砲(15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B)

写真(右)1941年4-5月,I号戦車にIG-33歩兵砲を搭載したI号15センチ自走重歩兵砲:Sturmpanzer I Bison (Sd.Kfz.101); 15cm sIG33(Sf) auf Panzerkampfwagen I
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-163-0328-15 Archive title: Griechenland.- Schweres Infanterie-Geschütz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B der 5. Panzerdivision; PK 690 Dating: 1941 April - Mai Photographer: Jesse Origin: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-163-0328-15引用(他引用不許可)。


旧式なI号戦車でも,砲塔を撤去してしまえば,強力な火砲を車体に搭載すれば,まだ独ソ戦でも使用できた。旧式化したI号戦車の砲塔を取り除き,車体上部に戦闘室を設けて、15センチ歩兵砲を装備。歩兵のための火力支援を行うI号自走重歩兵砲には,43口径シュコダ 47ミリ36式対戦車砲(Skoda 47mm kanon P.U.V. vz. 36)を搭載したI号対戦車自走砲のような対戦車能力はない。フランス侵攻にも参加しているが,ソ連侵攻でも強力な火力を生かすために投入された。その後,II号戦車についても、その車体を利用した15センチ歩兵砲搭載の自走砲が開発されている。

写真(右)1941年6月,ソビエト連邦、東部戦線、ドイツ陸軍の軽装甲観測車(Sd.Kfz. 253), 牽引車(Zugkraftwagen)に続く2両のI号15センチ自走重歩兵砲(15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B)
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-186-0184-02A Archive title: Rußland.- Motorisierte deutsche Truppen bei Fahrt auf Landstraße, u.a. leichter Beobachtungs-panzer (Sd.Kfz. 253), Zugkraftwagen, 15-cm schweres Infanterie-Geschütz auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Otto, Albrecht Heinrich撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・引用(他引用不許可)。


I号15センチ自走重歩兵砲15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B)は、I号戦車B型に15センチ重歩兵砲(15cm sIG33)を搭載した自走砲。

15センチ重歩兵砲(15cm sIG33)は、ラインメタル社が開発し1933年に制式となった口径15センチの歩兵砲で、歩兵部隊に配備されて、歩兵のための火力支援に使用される火砲である。当時、この重歩兵砲を自動車や牽引車で移動することは可能だったが、より機動力を持たせるために、戦車に搭載して、自走砲化することが計画されていた。敵陣地を破壊できるだけの火力を持った大口径砲は、重量1.8トンと移動には不便なため、機械化歩兵に随伴するには、自走砲化するのが便利であった。牽引状態からでは、射撃までに、砲の据え付けや射撃の諸元設定に時間がかかってしまうからである。

写真(右)1942年6-7月,対ソ連侵攻、東部戦線、I号戦車にIG-33歩兵砲を搭載したI号15センチ自走重歩兵砲(15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B)
Sowjetunion.- Getarntes, 15cm schweres Infanterie-Geschütz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B; PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Gellert撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 (他引用不許可)。


I号15センチ自走重歩兵砲15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B)は、アルケット社で開発され、第二次大戦開戦後の1940年2月に、アルケット社でI号戦車B型から38輌が製造された。ドイツ陸軍では、このI号15センチ自走重歩兵砲はドイツ軍だけでなく、世界的に初の本格的な自走砲である。この後、ドイツ軍は、次々に多様な自走砲を開発することになる。

I号15センチ自走重歩兵砲15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B)は、 I号戦車B型のの砲塔を取り除き、車体上に大型の固定戦闘室を設け、そこに大口径15センチ重歩兵砲(15cm sIG33歩兵砲)を搭載した。15cm sIG33は開脚ではなく、旧式な単脚・箱型の砲架であったため、砲架・車輪はそのままとして、車輪を車体上に固定して砲架後端は車体後部に連結、固定された。

  I号15センチ自走重歩兵砲の初の実戦参加は、1940年5月のフランス侵攻で、西部戦線に勝利してからが、1941年春のバルカン作戦、夏の対ソ連侵攻バルバロッサ作戦に投入された。第5機甲師団の第704中隊は、1943年までI号15センチ自走重歩兵砲を使用している。

I号15センチ自走重歩兵砲(15cm sIG 33 (Sf) auf Panzer-kampfwagen I)は、即製でI号戦車Panzerkampfwagen I)の車体を活用して生産された車両だったが、旧式戦車でも大口径砲を搭載知れば、前線での使用が十分可能であることが明らかにした点で大きな意味を持つ自走砲といえる。

写真(右)1942年6-7月,対ソ連侵攻、東部戦線、I号15センチ自走重歩兵砲(15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B):旧式化したI号戦車の砲塔を取り除き,車体上部に戦闘室を設けて、15センチ歩兵砲を装備。歩兵のための火力支援を行った自走砲で,対戦車能力はない。フランス侵攻にも参加しているが,ソ連侵攻でも強力な火力を生かすために投入された。その後,II号戦車の車体を利用した15センチ歩兵砲搭載の自走砲が開発された。
Sowjetunion.- Getarntes, 15cm schweres Infanterie-Geschütz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B bei Fahrt über eine Brücke; PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Gellert 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 (他引用不許可)。


I号戦車Panzerkampfwagen I)の車体シャーシを流用して生産されたI号15センチ自走重歩兵砲15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B)の固定戦闘室は、前・側方を垂直装甲板(10mm厚)で囲ったもの、直方体・箱型の形状だった。簡易設計で大型砲を搭載したため、早期に実用化することができたが、その反面、I号15センチ自走重歩兵砲の車高は2.8mと高く、隠密性が失われ、敵から発見されやすく、攻撃目標になりやすかった。

I号15センチ自走重歩兵砲15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B)は、2両配備の歩兵砲小隊が3個で1個歩兵砲中隊(合計6両)を編成した。そして、第702中隊は第1機甲師団、第703中隊は第2機甲師団、第704中隊は第5機甲師団、第705中隊は第7機甲師団、第701中隊は第9機甲師団、第706中隊は第10機甲師団に配属された。

写真(右)1942年6-7月,ソビエト連邦、東部戦線、I号15センチ自走重歩兵砲(15cm sIG33 (Sf) auf Panzerkampfwagen I Ausf B)
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-216-0406-37 Archive title: Sowjetunion.- Getarntes, 15cm schweres Infanterie-Geschütz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B in Feuerstellung; PK 694 Dating: 1942 Juni - Juli Photographer: Gellert 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


旧式なI号戦車Panzerkampfwagen I)でも,砲塔を撤去してしまえば,強力な火砲を車体に搭載すれば,まだ独ソ戦でも使用できた。

III号突撃砲は、短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24搭載でI号15センチ自走重歩兵砲(15cm sIG 33 (Sf) auf Panzer-kampfwagen I )よりも、火力は小さい。しかし、歩兵への火力支援用でも、突撃砲の戦闘室は密閉、装甲を施されており、全高も低い。そこで、自走砲よりも突撃砲の防御力のほうが高かった。

独ソ戦バルバロッサ作戦は,電撃戦の大成功の事例に挙げられる。しかし,東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡している。

ポーランド・ウクライナの係争の地で,ソ連領だったリボフLvov(ドイツ語レンベルクLemberg)には,1939年9月1日のドイツ軍ポーランド侵攻「白」作戦前,11万人のユダヤ人が住んでいた。

9月17日,ドイツと密約を結んだソ連軍がポーランド進駐しレンベルク(リボフ)を占領。しかし,ドイツのソ連侵攻の一週間後の6月30日,ドイツ軍がリボフを再占領した。

ドイツは,1939年9月1日、西部国境からポーランドに侵攻,主力をゲルト・フォン・ルントシュテットGerd von Rundstedt)将軍率いる南方軍集団におき,ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将(1880-1958)の第十軍が中央に位置しワルシャワに向かった。北方軍集団(フォン・ボック大将)は,クルーゲ大将の第四軍,キュヒラー対象の第三軍,あわせて22個師団からなる。北方軍集団は,ドイツ領の東プロイセンから前進した。

ポーランド侵攻「白」作戦の目標は,ヴィスワ川の西方でポーランド軍を包囲殲滅することである。

旧式I号戦車短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24搭載した。I号15センチ自走砲(15cm sIG 33 (Sf) auf Panzer-kampfwagen I)よりも、火力は小さいが、突撃砲の戦闘室は密閉、装甲を施されており、全高も低い。そこで、自走砲よりも突撃砲の防御力のほうが高かった。

独ソ戦バルバロッサ作戦は,電撃戦の大成功の事例に挙げられる。しかし,東部戦線で6月22日から6月30日の間に,ドイツ軍は8886人が死亡している。ヴィシー政権(Vichy France)もフランス人からなるフランス反共産主義義勇軍(Legion of French Volunteers Against Bolshevism)を派遣してソ連と戦った。




4.I号砲戦車 Panzerjäger 1 (Sd.Kfz.101)

写真(右)1941年3月、北アフリカ戦線、ドイツ軍I号対戦車自走砲 (Sd.Kfz 101):旧式化したI号戦車の旋回砲塔を除いて,チェコのスコダ47ミリ対戦車砲(4,7-cm-Pak(t))を搭載した砲戦車。回転砲塔ではないので,火砲の射界は狭い。
Nordafrika.- Selbstfahrlafette mit 4,7-cm-Pak(t) auf Fahrgestell des "Panzer I" ("Panzerjäger 1") in der Wüste, März-Mai 1941; PK "Afrika" Depicted place 北アフリカ 日付 1941年3月 写真家 Borchert, Erich (Eric)
写真はWikimedia CommonsCategory: Panzerkampfwagen I at the Panzermuseum Munster File: SdKfz101 2.jpg引用。


アドルフ・ヒトラー(Adolf Hitle:1889年4月20日 -1945年4月30日)は,戦争当初から対戦車戦闘で有利な高い貫通力、長射程の長砲身5センチ砲を装備するように命じていた。

I号対戦車自走砲 しかし,保守的なドイツ参謀本部は,対戦車戦闘には3.7センチ砲で十分だと考えていた。実際,1941年まで,対戦車砲も3.7センチ砲だった。チェコのスコダ社やフランス軍は既に47ミリ対戦車砲を開発していたから,ドイツ軍の対戦車兵器は弱体だった。

第二次大戦初期まで、ドイツ軍の主力対戦車砲3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)だったが、実は、1937年にはラインメタル社が5センチ対戦車砲を開発し、ドイツ軍も1938年にはこの5センチ対戦車砲(5cm PaK38)を制式としていた。しかし、ドイツ陸軍内の保守派は、3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)で十分であると考え、60口径5センチ対戦車砲5-cm PaK 38)は生産も配備もほとんど進まなかった。しかし、1941年6月のソ連侵攻"バルバロッサ作戦"(Unternehmen Barbarossa)で、ソ連赤軍の新鋭戦車T-34やKW-1重戦車に対しては、3.7センチ対戦車砲(3.7cm Pak36)は無力で、装甲を貫通できないことから「聴診器」と悪評されるほどだった。

写真(右)1941年3月以降、北アフリカ戦線、ドイツ軍I号対戦車自走砲 (Sd.Kfz 101):1941年2月、イタリア植民地リビア北岸トリポリに到着したロンメル将軍は、北アフリカ方面イタリア軍司令官イータロ・ガリボルディ大将(グラツィアーニ元帥の後任)と図って、3月から到着した戦車を擁して、西方に攻勢をかけた。そして、エル・アゲイラ、4月にはベンガジを占領し、良港を手に入れたが、要衝トブルクはイギリス軍の守りが固く、陥落させることはできなかった。、1941年7月、イギリス軍中東方面司令官アーチボルド・ウェーヴェル大将は解任され、後任にクルード・オーキンレック大将が就任した。そして、11月、イギリス軍は「クルセーダー作戦」を発動し、西方への大攻勢を開始した。しかし、その後、枢軸軍は、再び東方への攻勢をかけ、1942年6月22日にはイギリス軍守備隊の固持していたトブルクを攻略した。
Description English: Panzerjäger I in Tripoli, Libya, 1941. (© IWM (STT 3424) http://www.iwm.org.uk/collections/item/object/205094884) Date 1945 Source © Imperial War Museums Author Imperial War Museums
写真はWikimedia Commons File:Panzerjäger I in Tripoli, Libya, 1941 - IWM (STT 3424).jpg引用。


対戦車自走砲 ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,II号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径、3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車,チェコ38t戦車もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。またI号戦車を改造した歩兵支援あるいはI号対戦車自走砲も製造された。

I号戦車の砲塔を撤去して大きな戦闘室を設け、そこにチェコ陸軍の43口径シュコダ 47ミリ36式対戦車砲(Skoda 47mm KPUV vz. 36 47mm Towed Anti-Tank Gun)を搭載した。この対戦車砲は、チェコ陸軍のM-36対戦車砲、チェコを併合したドイツ軍がチェコに生産させ、ドイツ仕様4.7 cm PAK 36 (t)と称して配備したもの。

ドイツ陸軍I号対戦車自走砲Panzerjäger 1)は、既存の戦車、特に有効でなくなった旧式戦車の車体を利用して、強力な対戦車砲、ここでは43口径シュコダ 47ミリ36式対戦車砲(Skoda 47mm kanon P.U.V. vz. 36)を搭載する対戦車自走砲の初めてのタイプであり、ドイツ陸軍は、これ以降の多様な対戦車自走砲を既存の車両を利用して開発、量産することになる。ドイツ陸軍I号対戦車自走砲Panzerjäger 1)は、1943年まで第一線で活躍した。

写真(右)1941年夏,ウクライナ西部,ドイツ軍I号対戦車自走砲:旧式化したI号戦車の旋回砲塔を除いて,チェコのスコダ47ミリ対戦車砲を搭載した砲戦車。回転砲塔ではないので,火砲の射界は狭い。Kurze Pause einer Mot-Einheit West-Ukraine 1941 Archive title: Sowjetunion, Westukraine.- Leicht getarnter Panzerjäger 1 (Selbstfahrlafette auf Fahrgestell des "Panzer I" mit 4,7-cm-Pak; Turmnummer 221) im hohen Gras Dating: 1941 Sommer.写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用 (他引用不許可)。

対戦車自走砲 Align="right" ドイツ軍はI号戦車の小型砲塔を撤去して,そこに大型のアンテナと固定密閉式の戦闘指揮室を設け,通信設備を備えた指揮用戦闘車両も開発した。7.92ミリ機銃1丁を搭載。

 I号対戦車自走砲が搭載したスコダ47ミリ対戦車砲4,7cm KPÚV vz. 38)の諸元
1936年、スコダ社で開発。生産造期間は1939年から1940年。
重量:590 kg
銃身長:204 cm L/43
砲弾:47×405 mm. R 口径:47 mm
射界:俯角-8度、仰角26度、旋回角 50度
砲口初速:775 m/s
最大射程: 4,000 m

写真(右):1943年4月14日,オーストラリア、ビクトリア州メルボルンで展示されたドイツ軍から鹵獲したI号対戦車自走砲 (Panzerjäger I)。砲塔を撤去して大きな戦闘室を設け、そこにチェコ製の43口径47mm対戦車砲(KPUVvz36 4.7)を搭載した。:この鹵獲戦車は、オーストラリアの戦費調達を目的に、自由公債(Liberty Loan)を消化をするのに利用された。自由公債売り出しセール(Liberty Loan Rally)のために、士気高揚や客寄せに一役買っているのである。写真を掲載したヘラルド紙(The Herald)はメルボルンで1840年から1990年まで発行されていた。
ID number 138588 Maker Herald Newspaper Place made Australia: Victoria, Melbourne Date made 14 April 1943
Description A German Panzerjager 1 fur 47 PAK (t) self-propelled anti-tank gun. It was equipped with a 4.7 cm Czech made anti tank gun. The gun has been reconditioned by the Australian Army Ordnance corps, and is on display in Collins Street during a Liberty Loan Rally.
写真はAustralian War Memorial ・ID 137053引用。


Align="right" ドイツ陸軍I号対戦車自走砲Panzerjäger 1)が搭載したM1938対戦車砲(4,7-cm PaK(t))は、当時、ドイツに併合されたチェコ、すなわちベーメン・メーレン保護領Protectorate of Bohemia and Moravia:ボヘミア・モラヴィア保護領)のシュコダ社で製造された対戦車砲であり、ドイツ軍のラインメタル社3.7センチ対戦車砲(3.7 cm PaK 36)より強力で、装甲貫通力も優れていた。そこで、アルケット社は、威力に乏しかったI号戦車を改造して、1940年5月に130輌の対戦車自走砲を開発した。そして、1941年5月に発動予定のソ連侵攻バルバロッサ作戦に投入するため、シュコダ社で1940年末までに70輌が追加生産された。

写真(右)ドイツ連邦、ラインラント=プファルツ州、コブレンツ軍事博物館に保管展示されているドイツ陸軍I号対戦車自走砲:旧式化したI号戦車の旋回砲塔を除いて,チェコのスコダ47ミリ対戦車砲を搭載した砲戦車の正面。回転砲塔ではないので,火砲の射界は狭い。
Description Panzerjäger I at Koblenz, Alkett type gunshield with five sides Date 1989 Source Own work Author MWAK.写真は,Category: Panzerjäger I (他引用不許可)。


◆ドイツ軍司令官は弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。戦開始の時期には,ドイツ陸軍はIII号戦車,IV戦車を主力として,ソ連軍戦車よりも優れていると考えていた。しかし,戦車の数量は劣っていることが判明していたので,生産コストの高い回転砲塔を持つ戦車ではなく,突撃砲,自走砲(砲戦車)を装備して,戦車を補助あるいは歩兵支援を充実させようとした。

1941年4月28日,第二軍団フォン・ヴァイヒ司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。

バルバロッサ作戦の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされた。

ソ連の占領行政にユダヤ人が協力したとされ,独ソ戦後,ポーランド住民によるユダヤ人虐殺事件も起こった。ヨーロッパの中で,アンチセミニズムが強かったポーランド,ウクライナでは,ナチス親衛隊によるユダヤ人迫害に同調する動きも,現地のポーランド人,ウクライナ人の間に起こった。

ユダヤ人迫害の理由は,ユダヤ人が,ソ連共産党ボリシェビキの下で,政治的,経済的に優位にあった,現地のポーランド人,ウクライナ人を抑圧したという偏見だった。

しかし,ナチスドイツは,アーリア人の人種汚染,後方撹乱,共産主義革命,パルチザン活動に関与する下等劣等人種は全て排除するつもりだった。

世界戦争となれば,世界のユダヤ人を相手に,ドイツ人のヨーロッパ支配,東方ソ連への生存圏を求める戦争を戦うべきである、こうアドルフ・ヒトラーAdolf Hitler )は考えた。 そして、東方ソ連を,ドイツの生存圏となるべき植民地と考え,その住民は農奴扱いしたためである。ドイツ軍のソ連侵攻後,東方ソ連でもユダヤ人迫害が開始された。

◆一度隔離した敵ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜は,労働可能であっても,解放することは考えられない。強制収容所に拘束したユダヤ人,ソ連軍捕虜は,奴隷労働者として使い捨てにするか,殺戮することになった。

写真(右)ドイツ連邦、ラインラント=プファルツ州、コブレンツ軍事博物館に保管展示されているドイツ陸軍I号対戦車自走砲:旧式化したI号戦車の旋回砲塔を除いて,チェコのスコダ47ミリ対戦車砲を搭載した砲戦車の後部。
Description Panzerjäger I at Koblenz, Alkett type gunshield with five sides Date 1989 Source Own work Author MWAK.
写真はCategory: Panzerjäger I (他引用不許可)。


◆1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。

◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。

ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。これは過激な表現のプロパガンダではなく,本心だった。

 ユダヤ人・ソ連軍捕虜抹殺・奴隷労働化の方針は,最高機密だったが,それは,迫害が知れれば次のような支障が生じるからである。

1)ユダヤ人,ソ連軍捕虜が迫害されていることがわかれば,彼らは反抗する。そこで,抵抗を予防するために,東方への移送,労働すると偽り,強制収容所やその支所(労働キャンプ)に移送した。
2)ユダヤ人・ソ連捕虜の処刑という残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,処刑は秘匿する必要があった。
3)後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人・ソ連軍捕虜の処刑は,人倫に悖ると反感を買う恐れがあった。そこで,ドイツ人にも処刑を秘匿した。

ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜大量殺戮には,次のような障害があった。
1)殺戮に伴う処刑者の精神的負担
2)資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
3)大量殺戮発覚によるユダヤ人・スラブ人などの抵抗勢力の増大
 したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人やソ連軍捕虜を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,大量殺戮が事実上行われていた。

◆電撃戦に必要なこのような兵器を開発,量産したドイツの技術は高度なものである。同時に,その軍事技術を何のために,誰が用いようとしたのかが問われなくてはならない。技術を開発し,それを体化させた兵器を作り出し,その兵器を運用するのは人間である。そして,その兵器のために破壊される財産や殺害される人間がいる。となれば,大量破壊,大量殺戮をもたらす技術を開発することが正当化どうかということにもなる。

◆ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺・虐待は,秘匿されてきたが,それは,殺戮を行っていることが知れ渡れば次のような支障が生じるからである。
1)敵は殺害されると知れば,抵抗をやめない。そこで,抵抗を弱めるために,姦計を弄して,処刑した。
2)残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。
?後方・前線のドイツ人にとって,非人間的な虐殺・虐待は,士気を低下させる恐れがあった。そ3)後方・前線で,ドイツ人にも虐殺・虐待を秘匿する必要があった。 

◆ナチスは,人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきである。他方,人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人,スラブ人は下等人種・劣等民族であり,排除しなければならないとした。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,人「種」ではなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。

人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われており,似非科学な偏見,恣意的なご都合主義,プロパガンダに基づいている。為政者とは,人種・民族を自分の意図に都合よく定義,特定の人種民族を差別,迫害するものである。



5.II号戦車 Panzerkampfwagen II (Sd. Kfz. 121)

ヒトラーの再軍事宣言前、1934年7月に密かにII号戦車( Panzerkampfwagen II(Sd.Kfz.121))の開発が、クルップ、MAN、ヘンシェルの各社に出されたが、これは重量10トン、砲塔に55口径30式2センチ戦車砲(2? KwK 30 L/55)と7.92ミリ同軸機銃を装備する軽戦車だった。2センチ機関砲は、2センチ対空機関砲として制式された2 cm Flak 30である。試作車は、1935年に完成、II号戦車の量産が始まったのは、1937年7月以降で、1940年4月までに1000輌が生産された。II号戦車( Panzerkampfwagen II(Sd.Kfz.121))として制式になったのは、1938年10月でオーストリア併合の時期だった。

写真(右):1939年10月5日,ポーランド,ワルシャワでパレードするドイツ陸軍II号戦車(Panzer II):大通りに式台を置き、そのうえで将校が行進をする戦車の隊列を閲兵している。
Inventory: RH 82 Bild - OKH / Heeresfilmstelle.- Bildbestand Signature: RH 82 Bild-00081 Old signature: Bild 146-1975-081-04 Original title: info Heeresfilmstelle-Bildarchiv. 355.16 358.119 Führerparade. Pzkw. im Vorbeimarsch. Aufnahme: 5.10.39 Ort: Warschau; Land: Polen. Negtiv-Nr. U 68/26 Aufnahme H.F.; Bildberichter: Mensing Archive title: Polen, Warschau.- Siegesparade, Vorbeifahrt von Panzer II Dating: 5. Oktober 1939 Photographer: Mensing Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ陸軍II号戦車は、1936年に始まったスペイン内戦に、I号戦車とともに試験的に投入されたが、あくまで次期の本格的戦車であるIII号戦車、IV号戦車の臨時的な小型戦車として生産された。しかし、III号戦車、IV号戦車の生産が遅れたために、第二次世界大戦の緒戦の1939年のポーランド侵攻、1940年のフランス侵攻から、1941年6月のソ連侵攻「バルバロッサ作戦」までドイツ戦車の中核として参戦している。当初、電撃戦では、機動性が従事され、戦車には、対戦車戦闘をほとんど期待していなかったのである。

ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車,チェコ38t戦車もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。またI号戦車を改造した歩兵支援あるいは対戦車自走砲も製造された。

ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,II号戦車(重量7.2トン,55口径30式2センチ戦車砲(2? KwK 30 L/55),チェコ38(t)戦車(重量9.8トン,48口径、3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

写真(上)2018年6月:フランス、ソミュール、ソミュール・エスティエンヌ将軍戦車博物館(ソミュール戦車博物館)に展示されているドイツ陸軍II号戦車C型:Panzerkampfwagen II Ausführung C ):I号戦車は7.92ミリ機関銃2丁を装備していたが、II号戦車は砲塔を大型化して2センチ対空機関砲と同じ砲弾を利用する55口径2センチ戦車砲(2cm KwK 30 L/55:2 cm Kampfwagenkanone 30)と7.92ミリ機関銃を装備し攻撃力を向上している。Saumur Général Estienne Museumはソミュール戦車博物館はアバディーン陸軍兵器博物館(アメリカ)、ボービントン戦車博物館(イギリス)、クビンカ戦車博物館(ロシア)、ラトルン戦車博物館(イスラエル)などと並ぶ世界有数の戦車博物館で戦車・装甲車800両以上を保管展示している。
Description Panzerkampfwagen II Ausführung C in the Musée des Blindés Date 24 July 2018, 14:47:37 Source Own work Author Shonagon
写真はWikimedia Commons>File:Panzerkampfwagen II Ausführung C in the Musée des Blindés.jpg引用。。

新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲、 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲、KwK 37 L/24装備)は少なかった。III号戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。

ドイツ陸軍II号戦車: PzKpfw II( Panzerkampfwagen II(Sd.Kfz.121))は,主力となるIII号戦車までの過渡的な戦車として,1937年から量産された。全長4.8メートル,全幅2.2メートル,全高 2.0メートル,重量7.2トン。 55口径55口径2センチ戦車砲(2? KwK 30 L/55)装備。マイバッハ(Maybach) HL62TR 直列6気筒液冷ガソリンエンジン(140馬力),乗員3人。ポーランド進攻からフランス侵攻まで,主力となったが,ソ連侵攻ではIII号戦車,IV戦車の補助的存在として投入された。開戦当初から,対戦車戦闘は考慮されていなかったが,戦車の集団用法によって,電撃戦に貢献した。

写真(右)2018年8月:カナダ、オンタリオ州オタワ、カナダ戦争博物館(Canadian War Museum )に保管展示されているドイツ軍のII号戦車C型 (Panzerkampfwagen II Ausführung C)
Lightly armed and armoured, Germany’s Panzer II played an important role in the early years of the Second World War. Germany originally developed the Panzer II in the mid-1930s, and used it in the invasions of Poland in 1939 and of France in 1940. Although replaced by larger, more capable tanks, the Panzer II remained in service for reconnaissance work and other duties. Its chassis later formed the basis for self-propelled guns and other armoured fighting vehicles. This particular vehicle, brought to Canada from North Africa during the war, was acquired by the Canadian War Museum in 1959. Date 22 August 2018, 15:20 Source DSC01520 - Panzer IIC Tank Author Dennis Jarvis from Halifax, Canada
写真はWikimedia Commons, Panzerkampfwagen II in museums> Category: Panzerkampfwagen II at the Canadian War Museum>File:DSC01520 - Panzer IIC Tank (44695157602).jpg引用。


ドイツ陸軍II号戦車: PzKpfw II( Panzerkampfwagen II(Sd.Kfz.121)) 諸元
全長 4.81 m、 全幅 2.22 m、 全高 1.99 m
重量 8.9 t、乗員 3 名
懸架方式 :リーフスプリング方式 Springleaf
速度 40 km/h、 航続距離 200 km
兵装 55口径30式2センチ戦車砲(2? KwK 30 L/55)(2-cm-KwK 30 L/55) 、7.92ミリ機関銃MG34
装甲 14.5 mm
動力 :マイバッハMaybach ) HL62TR 直列6気筒液冷ガソリンエンジンGasoline Engine )140 馬力

ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車,チェコ38t戦車もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。またI号戦車を改造した歩兵支援あるいは対戦車自走砲も製造された。

ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,II号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径、3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

II号戦車に搭載された55口径30式2センチ戦車砲)KwK 30:後期型はKwK38)は55口径 L/55であるのに対して,対空機関砲として制式された2センチ対空機関砲 FlaK 30(発展型が Flack38)は65口径 L/65である。2センチ戦車砲(2cm KwK 30:砲身長1100mm)は、65口径2センチ対空機関砲(2cm Flak 30:砲身長1300mm)から発達したとされる説があるが、実際には、対地射撃と対空射撃では射撃方法が大きく異なる。高速移動する航空機を狙う場合、数秒後の将来位置を予測して、見越し角をつける必要があり、発射速度は55口径30式2センチ戦車砲(2 cm Kampfwagenkanone 30)が毎分120-280発、65口径2センチ対空機関砲(2cm Flak 30)が毎分280-450発と対空機関砲のほうが発射速度が早い。砲口初速もやはり対空機関砲が早い。これに対して、対地射撃では初弾を放ってから、修正しながら射撃をすればよい。こういった違いが、機関砲・火砲の構造を大きく変えてくる。対地射撃にも対空射撃にも利用できる機関砲・火砲は便利であるが、標的が異なるために砲の構造もそれに依存してくる。 製造経費は、対地射撃する戦車砲より、対空砲のほうが高くなる。

65口径2センチ対空機関砲2 cm Flak 30:Fliegerabwehrkanone 30) は、1934年にドイツ軍の制式になった20ミリ対空機関砲で、後年、発射速度を増加させた改良型のFlak38に発展した。航空機の地上襲撃や低空偵察に対して攻撃する目的で、スイスのゾロターン社S-18/1100対戦車ライフル銃を機関銃化(フルオート化)したもの。ゾロターン社の親会社は、ドイツのラインメタル・ボルジーク社である。

65口径2センチ対空機関砲(2cm Flak 30)はドイツ陸・海・空軍で採用され、陸軍では、対空任務として、陣地防御から移動部隊の対空防衛まで幅広く使用された。また地上攻撃用にも使用された。この対空機関砲と全く同じ機関砲弾を用いるのが、II号戦車(PzKpfw II:Panzerkampfwagen II(Sd.Kfz.121))の戦車砲として制式になった55口径2センチ戦車砲2cm KwK 30 L/55)である。

55口径30式2センチ戦車砲2cm KwK 30 L/55:2 cm Kampfwagenkanone 30)の諸元
製造元:モーゼル社(Mauser)、ラインメタル社(Rheinmetall-Borsig)
砲弾(Shell):20×138mmB、口径(Caliber):2 cm
銃身長:110 cm
反動利用(recoil operated bolt)
射界:俯角ー9度、仰角+20度、360度全周砲塔
砲口初速(Muzzle velocity)900m/s
発射速度:毎分300発(300rds/min)
携行2センチ機関砲弾数: 180発

写真(右)フランス、ソミュール、ソミュール・エスティエンヌ将軍戦車博物館(Saumur Général Estienne Museum)に展示されているドイツ陸軍II号戦車(Panzer II ):ソミュール戦車博物館はアバディーン陸軍兵器博物館(アメリカ)、ボービントン戦車博物館(イギリス)、クビンカ戦車博物館(ロシア)、ラトルン戦車博物館(イスラエル)などと並ぶ世界有数の戦車博物館で戦車・装甲車800両以上を保管展示している。
Description English: German Panzer II (WW II) at the Musée des Blindés in Saumur (France)
Description Back of PzKpfw II at Saumur Date 2000 Source Own work Author MWAK。写真はWikimedia Commons, File: PzKpfwIIBack.jpg引用。


II号戦車は,主力となるIV号戦車までの過渡的な戦車として,1937年から量産された。全長4.8メートル,全幅2.2メートル,全高 2.0メートル,重量7.2トン。2センチ戦車砲(KwK 30)装備。マイバッハMaybach )140馬力,乗員3人。ポーランド進攻からフランス侵攻まで,主力となったが,ソ連侵攻ではIII号戦車IV戦車の補助的存在として投入された。開戦当初から,対戦車戦闘は考慮されていなかったが,戦車の集団用法によって,電撃戦に貢献した。

ドイツ陸軍II号戦車を見る。


6.対戦車自走砲マーダーII Jagdpanzer "Marder II"−II号戦車を流用した自走砲

マーダーI対戦車自走砲 ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三軍集団あった。

北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。

中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。

1940年5月,ドイツ軍がフランスを攻撃したのは,装甲師団の展開に不利なアルデンヌ林のルートだった。
1939年8月の独ソ不可侵条約German-Soviet Pact )を破ったドイツ軍のソ連侵攻バルバロッサ作戦にあっても,ヒトラーは,沼沢地,河川が多く,ソ連軍が攻撃を予期しない中部地域に大軍を投入した。

II号戦車を改造し7.5センチ対戦車砲を搭載したマーダー II 対戦車自走砲(Marder II: Sd.Kfz.132):55口径38式2センチ戦車砲(2cm KwK 38 L/55)1門を搭載した砲塔を撤去して、ドイツ製40式7.5センチ(7.5cm Pak40)対戦車砲1門を搭載した自走砲である。

ドイツ軍の主力対戦車砲3.7 cm PaK 36が威力不足で、5 cm PaK 38も数が少ない上に不十分な攻撃力しかなかったために、ソ連軍のT-34中戦車やKV-1重戦車に苦戦したドイツ軍は、ソ連軍から鹵獲した51口径76.2ミリ師団砲M1936(76 mm divisional gun M1936 (F-22) )を7.62cm Pak 36(r)対戦車砲として採用し、ドイツ軍に配備した。7.62 cm PaK 36(r)は、マーダーII対戦車自走砲に搭載され、ドイツ陸軍の主要対戦車自走砲として活躍した。

II号戦車の車体を利用したマーダー II 対戦車自走砲(Marder II: Sd.Kfz.132)は、46口径7.5センチ対戦車砲(7,5-cm-PaK 40)を搭載した対戦車戦闘を主任務とする自走砲である。マーダーII対戦車自走砲(Marder II: Sd.Kfz.132)は攻撃力はあるが、防御力は弱い。

ドイツ国防軍将兵は,対ソ戦"バルバロッサ作戦"(Unternehmen Barbarossa)の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。

しかし,これは,軍の責任回避だった。ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ軍を憎むようになった。 

ドイツのソ連侵攻2ヶ月後の1941年9月1日,ドイツ・ユダヤ人がユダヤの星をつけることについての警察条令が発令。(ドイツ占領地では1940年からユダヤの星をつけさせていた)

ニュルンベルク法が,ユダヤ人を宗教による分別したとの俗説があるが,宗教や国籍ではなく,人種的特長,歴史を踏まえて,祖先がユダヤ人だったことを基準にしている。このような恣意的な区分は,ドイツの敵となりうる人間,潜在的な敵性住民,人種汚染を排除するため定められた。敵を排除し,ドイツ人の種族保全のために,ユダヤ人を排除したのである。

ドイツ陸軍マーダーII対戦車自走砲 を見る。


7.II号自走砲ベスペ Wespe (Sd. Kfz. 124)

II号自走砲Wespe Sd. Kfz. 124 べスぺ Wespe諸元:
試作車完成1942年
生産期間1943 - 1944年に676輌。
全長4.79 m、全幅2.24 m、全高2.32 m
重量11.48 t
エンジン:6気筒マイバッハMaybach HL 62 TR 140 PS (138 hp, 103 kW)
速度:40 km/h(整地)、20 km/h(不整地)
航続距離:200 km(整地)、140 km(不整地)
主砲:105mm 軽榴弾砲(18/2 L/28) 32発搭載。

Sd Kfz 138 マルダーIII Ausf. Mは、チェコ、ドイツ占領後は ベーメン・メーレン保護領 ボヘミア・モラヴィア保護領)のシュコダ社が開発した38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))を母体とした車体に15cm sIG33重歩兵砲を搭載した自走砲榴弾。しかし、対空戦闘能力はなく、戦車のよう防御用の装甲板もなかったので、敵に発見されないように偽装に注意を払う必要があった。

ドイツ陸軍II号砲ベスペ Wespe自走砲 を見る。


8.チェコ35(t)・38(t)戦車 Panzer 38(t)

38tはチェコのシュコダ社の設計,生産になる戦車で,tはチェコを意味する。チェコは,大戦勃発前にドイツに占領されたため,シュコダ社の戦車・火砲などは,ドイツ軍のために生産が続行された。

旧式化したチェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を取り除き,車体上部に戦闘室を設けて,ここにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲を装備したのがマルダーIII Ausf. M。歩兵の火力支援ではなく,応急の対戦車自走砲を製造した。対戦車能力はあるが,装甲が薄く,戦闘室は開放されているために,防御力はきわめて弱い。

ソ連侵攻でT-34など強力なソ連軍戦車に直面したドイツ軍は,対戦車能力の低い戦車しかなかったために,急遽,対戦車自走砲を生産したのである。

チェコ38(t)戦車 38(t)対戦車自走砲マーダーIII(Jagdpanzer Marder III)はチェコ製のチェコ・シュコダ38(t)戦車の砲塔を取り除き,開放式戦闘室を設けて,そこにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲7.62cmPak36(r)を装備した対戦車自走砲である。全長 5.9メートル,全幅2.2メートル,全高 2.5メートル,重量10.7トン。占領国チェコ製の車体に,ソ連製の火砲をつけたハイブリッド型の戦闘車両だった。

ドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲H型は、チェコ38(t)戦車G/H型の車台中央に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載。マーダーIII H型はM型とは異なり、エンジン位置を原型の戦車から変更していない。

II号戦車の車体を改造したマーダー II(Marder II)も生産された。新型戦車が登場するまでの繋ぎのはずのドイツの各種対戦車自走砲は,敗戦まで使用された。

38(t)対戦車自走砲マーダーIII チェコ38(t)戦車の車体に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載した。ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak36野砲を搭載した自走砲、ドイツ軍の7.5cm砲Pak40を搭載したH型に続き、エンジンを前方に移動して後方に7.5cm砲Pak40砲搭載したのがマーダーMarder III 最終型のM型である。

チェコ38(t)戦車の車体の後方に対戦車戦が可能な7.5cm砲Pak40を搭載するためエンジンを前に移動している。1943年5月に生産を開始し、マーダー最終型として駆逐戦車ヘッツァーと交代するまで942輌生産された。

ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t) を見る。


9.III号戦車−3.7センチ砲搭載の対戦車戦用の戦車

III号戦車 新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲、 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲、KwK 37 L/24装備)は少なかった。III号戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。

47口径3.7cm戦車砲(KwK36:携行弾数120発)のIII号戦車D型は、最大装甲15ミリ、1938年1-6月に30両生産。III号戦車C型のサスペンションを改良し、D型では第1、第4ボギーの支持位置を車体中央に移動したため、C型の水平配置のリーフ・スプリングは、サスペンションに垂直に作動するハ字型の配置に変更。変速機はC型の前進5段、後進1段から、D型では前進6段、後進1段に改良された。1939年当時、47口径3.7cm戦車砲搭載の戦車であれば,ポーランド軍を圧倒できた。

ドイツ軍のIII号戦車J型は設計に変更を加えて本来は搭載の予定がなかった長砲身60口径5センチ砲を搭載した型である。実際、ドイツ軍は、ソ連の戦車の防御力が強く、予定していたラインメタル社の42口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)を改造した42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38 L/42) では威力不足であると感じていた。しかし、実は独ソ戦勃発の前年、1940年後半には、ヒトラーは、当時III号戦車に搭載する42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)では威力不足であると直観し、より強力なライメタル社の60口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 39)を搭載することを要求していた。

III号戦車 しかし、対戦車砲は、砲尾が水平に開閉する構造で狭い砲塔の中での薬莢が飛び出して使用は不可能だった。戦車砲は、砲尾が垂直に開閉するように改造する必要があった。また、当時、ドイツ陸軍は最新の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の威力は十分あると判断していたために、長砲身60口径5センチ対戦車砲(5 cm PaK 38)をIII号戦車に搭載することに消極的だった。

独ソ戦を準備していたヒトラーは、1941年春になっても、III号戦車には60口径5センチ対戦車砲が搭載されていないことを知り、42口径ではなく60口径砲への換装を厳命した。こうして、急遽、対戦車砲の戦車砲への改造が始まり、独ソ戦勃発後、半年近くも経った1942年末、60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型が登場した。

III号戦車 1941年6月にソ連に侵攻したドイツ軍は3.7センチ砲搭載の初期型III号戦車の威力不足を痛感した後になって、やっと5センチ砲へとIII号戦車の火砲攻撃力を強化した。しかし、5センチ砲搭載のIII号戦車が登場した1942年には、既にソ連軍はT-34戦車を大量に前線配備しており、III戦車がT-34戦車に有効な反撃をすることは困難になっていた。

III号戦車は,1941年から本格的な主力戦車配備され,3.7センチ砲を搭載していた。開発当初は,42口径5センチ砲を搭載していたが,ヒトラーは対戦車戦闘能力を重視し,さらに長砲身の60口径砲を搭載するように指示した。しかし,陸軍当局は,重量増加による機動性低下を嫌い,42口径砲のまま量産してしまう。60口径砲への転換が始まったのは,1941年4月にヒトラーが命令無視を知って以降である。

ドイツ陸軍III号戦車を見る。

III号突撃砲  ドイツ国防軍のIII号突撃砲Sturmgeschütz III:StuG III)は、歩兵への火力支援車両として大型の24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載する突撃砲として、III号戦車の車台を流用して開発された。その後III号戦車が威力不足で前線で使用できなくなる、その車体の大型戦闘室を活かして43口径7.5センチ戦車砲を搭載して、対戦車用の突撃砲としても使用されるようになった。

III号突撃砲Sturmgeschütz III)は、終戦までドイツ軍の主力突撃砲となり、火力支援だけでなく、対戦車戦闘にも活躍した応急の陸戦兵器だったが、実用性も量産性も高かったために、III号突撃砲Sturmgeschütz III:StuG III)は終戦までに1万両が生産され、第二次世界大戦中のドイツ軍の装甲戦闘車輛のうちで最多の生産台数を誇っている。

ドイツ陸軍3号突撃砲を見る。


10.IV号戦車−ドイツ陸軍の最多・最良の主力戦車

IV号戦車E型(PzKpfw IV Ausf.E)諸元
全備重量21トン,全長5.9メートル,全幅2.8メートル,車高2.7メートル
時速42キロ(整地),航続距離200キロ,乗員5人
兵装:7.5センチ24口径砲(KwK 37 L/24),7.92ミリMG34機銃2丁

短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 37 L/24 )装備のIV号戦車は,1942年末から長砲身43口径40年式7.5センチ戦車砲に換装された。終戦まで生産続行。

1941年初頭,ヒトラーは強力な60口径5cm砲の搭載を命じていたが,保守的な陸軍将官は,機動性を重視して,重量の増える長砲身を搭載しなかった。
 しかし,独ソ戦で直面したソ連赤軍のT-34は,37口径75ミリ砲を装備して,避弾に優れた装甲であり,ドイツ軍の対戦車砲では貫通できなかった。このため長砲身7.5センチ砲装備のF型が急遽開発された。 

ドイツ軍のIV号戦車 (Panzer IV)は、設計当初から24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載することを前提としていたため、車体の全幅は、大型砲塔を搭載できる余裕があり、砲塔を収めるターレットリング(砲塔回転盤)の直径は、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の搭載を前提としていたIII号戦車よりも大きかった。そのためん、戦前の設計でありながら、43口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載することもでき、終戦までIV号戦車の生産は続行された。

IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)がはじめに装備した火砲は,短砲身24口径7.5cm砲(7.5cm KwK 37 L/24)だったが,これでは,火力支援はできても,対戦車戦闘能力は低かった。24口径7.5cm砲の貫通力は,500メートルで39ミリ,1000メートルで30ミリと敵戦車の正面装甲貫通は困難だったためである。

ドイツ陸軍IV号戦車を見る。


◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。
◆2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
そこでは、ポーランド侵攻、ゲットー設置、ホロコースト、レジスタンス弾圧、東方生存圏、ソ連侵攻バルバロッサ作戦も解説しました。
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitlerハワイ真珠湾攻撃の写真集
「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
アンネの日記とユダヤ人
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥

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