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◆ドイツ陸軍III号戦車・Panzerkampfwagen III(Sd.Kfz.141) 写真(右):1942年夏ごろ,ソ連、ポルタワ、ドイツ軍III号戦車Panzer III 47口径5センチ砲を装備。1941-42年のソ連軍冬季攻勢を持ちこたえたドイツ軍は,戦力を整えた。そして,1942年4月,南方方面軍によって,スターリングラード,カフカスを攻撃する「ブラウ」作戦を立案した。このときドイツ軍が侵攻した地域では,前年のウクライナ同様,共産党ボリシェビキ圧制からドイツ軍が解放してくれると期待した現地住民もあった。
Deutsche Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußandfeldzug Signature: Bild 169-0288 Original title: info Deutsche Panzer werden überholt und Vorräte aufgefüllt Poltawa Herbst 1942 Archive title: Rußland, Poltawa.- Panzer III werden mit Vorräten versorgt. Im Hintergrund einer zerstörte Kirche Dating: 1942 Herbst Photographer: o.Ang. 撮影者不明。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真だけではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。

写真(上):2009年6月、イギリス、ボービントン戦車祭で公開された稼働するドイツ軍のIII号戦車L型:60口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 39)を装備。携行弾数は84発。III号戦車は、第二次大戦当初から5センチ砲を搭載することを予定していたが、参謀本部はその必要性を認めず、5センチ砲の開発も装備を大幅に遅れた。
Description Panzer 3 (III) Date 27 June 2009, 11:19 Source Panzer 3 (III) Author Simon Q from United Kingdom
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Panzerkampfwagen III Ausführung L at the Tankfest 2009  File:Panzer 3 (III) (3666265520).jpg引用。

『写真・ポスターに見るナチス宣伝術―ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)ではドイツの政党、第二次大戦を詳解しました。ナチ党の初期のポスター、社会民主党の反ナチポスターから、投票所の写真なども掲載しています。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールにゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。

序.I号戦車・II号戦車・38(t)戦車

写真(右)ドイツ連邦、ニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のI号戦車 Panzerkampfwagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 101)
Description Panzerkampfwagen I Ausf. A (Sd.Kfz. 101) on display at the Deutsches Panzermuseum Munster , Germany. Date 7 August 2008, 22:14 (UTC) Source SdKfz101.jpg Author derivative work: Dhatfield (talk) SdKfz101.jpg: baku13
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) Wikimedia CommonsCategory: Panzer-kampfwagen I at the Panzermuseum Munster File:SdKfz101 2.jpg引用。


ドイツは,1939年9月1日、西部国境からポーランドに侵攻,主力をフォン・ルントシュテット将軍率いる南方軍集団におき,ヴァルター・フォン・ライヒェナウ大将(1880-1958)の第十軍が中央に位置しワルシャワに向かった。北方軍集団(フォン・ボック大将)は,クルーゲ大将の第四軍,キュヒラー対象の第三軍,あわせて22個師団からなる。北方軍集団は,ドイツ領の東プロイセンから前進した。

ポーランド侵攻「白」作戦の目標は,ヴィスワ川の西方でポーランド軍を包囲殲滅することである。

ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車,チェコ38t戦車もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。またI号戦車を改造した歩兵支援あるいは対戦車自走砲も製造された。

ポーランド戦当時のドイツ軍戦車の主力は,II号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径、3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備)だった。

ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三軍集団あった。

北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。

中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。  

写真(右)写真(右)セルビア、ベオグラード軍事博物館(Belgrade Military Museum)に保管展示されているドイツ軍のII号戦車C型 (Panzerkampfwagen II Ausführung C)
Description English: Belgrade Military Museum - Panzer-kampfwagen II Date August 2012 Source Own work Author Pudelek (Marcin Szala)
写真はWikimedia Commons, Panzerkampfwagen II in museums> Category: Panzer-kampfwagen II Ausführung C tank in the Belgrade Military Museum>File:PzKpfw II 02.jpg引用。


II号戦車は、55口径30式2センチ戦車砲(2-cm-KwK 30 L/55)搭載。上下射界は、俯角?10度から仰角+20度。この戦車砲は1930年ラインメタル社が開発、1935年生産開始。II号戦車は1936年のスペイン内戦に初の実戦参加をしている。

II号戦車は,主力となるIII号戦車までの過渡的な戦車として,1937年から本格的に量産された。全長4.8メートル,全幅2.2メートル,全高 2.0メートル,重量7.2トン。 2センチ砲装備。エンジン140馬力,乗員3人。ポーランド進攻からフランス侵攻まで,主力となったが,ソ連侵攻ではIII号戦車,IV戦車の補助的存在として投入された。開戦当初から,対戦車戦闘は考慮されていなかったが,戦車の集団用法によって,電撃戦に貢献した。

◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。
これは過激な表現のプロパガンダではなく,本心だった。

1942年1月23日,ヒトラー卓上談話:「必要なのは思い切った行動である。----ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,彼らが自由意志で出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。


写真(右):ロシア、モスクワ郊外、大祖国戦争博物館(Great Patriotic War)に保管展示されているドイツ軍の38(t)戦車F型 (LT-38, PzKpfw 38(t))
解説 Commonist.svg This file was uploaded with Commonist. 日付 2014年6月5日, 14:33:43 原典 投稿者自身による作品 作者 Mike1979 Russia
写真はWikimedia Commons, Panzerkampfwagen 38(t) in museums> Category: Tanks at the central museum of the Great Patriotic War>File: PzKpfw 38(t) Ausf F in the Great Patriotic War Museum 5-jun-2014 Side.jpg引用。


チェコ38(t)戦車の38(t)のtはトンではなく、チェコを意味する。チェコスロバキアを併合したドイツがスコダ社で生産していたチェコスロバキア軍の戦車を,ドイツ軍も引き続き第一線で使用した。38tはチェコのシュコダ社の設計,生産になる戦車で,tはチェコを意味する。チェコは,大戦勃発前にドイツに占領されたため,シュコダ社の戦車・火砲などは,ドイツ軍のために生産が続行された。

◆ドイツ軍司令官は弱肉強食の自然の掟を奉じ,弱いものを支配し,領土を拡張するためには,粗暴でなくてはならない。生存闘争に勝利するには,力が必要である。戦開始の時期には,ドイツ陸軍はIII号戦車,IV戦車を主力として,ソ連軍戦車よりも優れていると考えていた。しかし,戦車の数量は劣っていることが判明していたので,生産コストの高い回転砲塔を持つ戦車ではなく,突撃砲,自走砲(砲戦車)を装備して,戦車を補助あるいは歩兵支援を充実させようとした。

1941年4月28日,第二軍団マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。


1.III号戦車 Pz.Kpfw III −47口径3.7センチ砲から60口径5センチ砲へ

写真(右):1939年9月,ポーランド侵攻「白の事例」作戦時の42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車D型(Panzer III Ausf. D):
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-318-0083-30 Archive title: Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese, Panzer III Ausf. D mit Besatzung, Panzersoldat im Turm; KBK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Rascheit
写真はWikimedia Commons Category: Panzer-kampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-318-0083-30, Polen, Panzer III mit Panzersoldaten.jpg引用。


写真(右)1939年9月,ドイツ軍ポーランド侵攻に投入された47口径3.7cm戦車砲(KwK36:携行弾数120発)のIII号戦車D型:最大装甲15ミリ。1938年1-6月に30両生産。III号戦車C型のサスペンションを改良し、D型では第1、第4ボギーの支持位置を車体中央に移動したため、C型の水平配置のリーフ・スプリングは、サスペンションに垂直に作動するハ字型の配置に変更。変速機はC型の前進5段、後進1段から、D型では前進6段、後進1段に改良された。1939年当時、47口径3.7cm戦車砲搭載の戦車であれば,ポーランド軍を圧倒できた。
Polen.- Gruppe von Panzern auf einer Wiese stehend hinter einer Ortschaft. Panzersoldaten am Turm eines Panzer III(Sd. Kfz. 141) Ausf. D; KBK Lw 1 Dating: September 1939 Photographer: Rascheit撮影。 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


47口径3.7cm戦車砲(KwK36:携行弾数120発)のIII号戦車Pz.Kpfw. III )D型は、最大装甲15ミリ、1938年1-6月に30両生産。III号戦車Pz.Kpfw. III )C型のサスペンションを改良し、D型では第1、第4ボギーの支持位置を車体中央に移動したため、C型の水平配置のリーフ・スプリングは、サスペンションに垂直に作動するハ字型の配置に変更。変速機はC型の前進5段、後進1段から、D型では前進6段、後進1段に改良された。

写真(右)1939年9月,ポーランド、東部戦線、ドイツ陸軍のIII号戦車 E型(短砲身3.7cm砲搭載):砲塔にポーランド戦独特の白十字の国籍マークを描いた車体。砲塔右側に同軸機関銃2丁が装備されている。車体前面には、四角銃座に7.92mm機関銃を装備している。砲塔上には大型司令塔を設けている。
写真は、Panzerwaffe on the battlefield 3: World War Two Photobook Series Vol.23引用。

1939年当時、47口径3.7cm戦車砲搭載の戦車であれば,ポーランド軍を圧倒できた。

写真(右):1940年夏,フランス、イギリス侵攻「アシカ(シーライオン)作戦」準備のため潜水戦車仕様とされた42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車:潜水戦車仕様のIII号戦車写真はWikimedia Commons Category: Panzer-kampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101II-MW-5675-29, Übungen mit Panzer III für Unternehmen Seelöwe.jpg引用。

第二次世界大戦で機動力を重視したIII号戦車Pz.Kpfw. III)を投入したドイツ陸軍の難題が、イギリス海峡を越えて英国本土進攻作戦を実施することがった。戦車が海峡を越えるには、船舶や艀に乗せて運搬するのが一般的だが、奇襲効果を上げるために、III号潜水戦車が考案された。1935年に開発されたIII号戦車は1937年にIII号戦車A型として採用されたが、1940年にイギリス本土侵攻作戦。「あしか作戦」に投入するために、海峡を潜ってイギリスに上陸できるIII号潜水戦車が計画された。北フランスから、イギリス海峡の海底を越えて戦車をイギリス本土に上陸させるために海底を潜水した状態で走行する戦車である。

写真(右):1940年夏,フランス、イギリス侵攻「アシカ(シーライオン)作戦」準備のため潜水戦車仕様のIII号戦車が桟橋から船のデリックを使って船上に移す最中。:海底に沈める試験をするのであろう。海面上の吸気・排気用に長いゴムホースパイプが戦車から垂れ下がっている。
Inventory: Bild 101 II - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Marine Signature: Bild 101II-MW-5674-43 Old signature: Bild 146-1980-113-17 Archive title: Frankreich, Kanalküste.- Vorbereitung "Unternehmen Seelöwe" (deutsche Invasion in England).- Versuche mit einem zum Tauchpanzer umgebauten Panzer-kampfwagen III Dating: 1940 Sommer Photographer: Engelmeier
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101II-MW-5674-43, Übungen mit Panzer III für Unternehmen Seelöwe.jpg引用。


 III号戦車に防水措置・水密加工を施したIII号潜水戦車は、エンジンの吸気・換気システムを海面上まで伸ばしたゴムパイプあるいは筒状のシュノーケルで行うもので、水深15メートル程度は潜水走行できた。「あしか作戦」は中止されたため、イギリス海峡越えには投入されていないが、1941年6月22日、対ソビエト連邦侵攻バルバロッサ作戦に投入され、国境のブーク川を潜水走行して対岸のソ連領に侵攻した。

写真(右):1940年夏,フランス、イギリス侵攻「アシカ(シーライオン)作戦」準備のため潜水戦車仕様のIII号戦車が桟橋から船のデリックを使って船上に移す最中。:海底に沈める試験をするのであろう。海面上の吸気・排気用に長いゴムホースパイプが戦車から垂れ下がっている。
Inventory: Bild 101 II - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Marine Signature: Bild 101II-MW-5674-45 Old signature: Bild 146-1980-113-17 Archive title: Frankreich, Kanalküste.- Vorbereitung "Unternehmen Seelöwe" (deutsche Invasion in England).- Versuche mit einem zum Tauchpanzer umgebauten Panzer-kampfwagen III Dating: 1940 Sommer Photographer: Engelmeier
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101II-MW-5674-45, Übungen mit Panzer III für Unternehmen Seelöwe.jpg引用。


写真(右):1940年夏,フランス、イギリス侵攻「アシカ(シーライオン)作戦」準備のため潜水戦車仕様のIII号戦車が桟橋から船のデリックによって船上に移された。:
Inventory: Bild 101 II - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Marine Signature: Bild 101II-MW-5675-29 Old signature: Bild 146-1980-113-17 Archive title: Frankreich, Kanalküste.- Vorbereitung "Unternehmen Seelöwe" (deutsche Invasion in England).- Versuche mit einem zum Tauchpanzer umgebauten Panzer-kampfwagen III Dating: 1940 Sommer Photographer: Engelmeier
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101II-MW-5675-29, Übungen mit Panzer III für Unternehmen Seelöwe.jpg引用。


III号戦車Pz.Kpfw. III )F型、G型、H型を元に潜水可能なIII号戦車が生産された。これは、イギリス海峡を横断して英本土に上陸するイギリス侵攻「アシカ作戦」のために準備されたものである。車体は水深15メートルの海底を走行できるようにゴムを用いて水密防水仕様となり、水面上に、シュノーケルsubmarine snorkel )の換気ゴムパイプを出して、エンジンの空気を確保した。イギリス侵攻作戦は中止されたため、簡易潜水型に改良したIII号戦車Pz.Kpfw. III)が1941年6月のバルバロッサ作戦ソ連侵攻の際に、国境近くのブーク川の渡河作戦に実戦投入された。

写真(右):1940年夏,フランス、イギリス侵攻「アシカ(シーライオン)作戦」準備のため潜水戦車仕様のIII号戦車が桟橋から船のデリックによって船上に移された。:吸気・排気のパイプは車体上に巻いて搭載している。周囲には、海軍の制服を着た兵士たちが見守っている。
Inventory: Bild 101 II - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Marine Signature: Bild 101II-MW-5674-33 Old signature: Bild 146-1980-113-17 Archive title: Frankreich, Kanalküste.- Vorbereitung "Unternehmen Seelöwe" (deutsche Invasion in England).- Versuche mit einem zum Tauchpanzer umgebauten Panzerkampfwagen III Dating: 1940 Sommer Photographer: Engelmeier
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101II-MW-5674-33, Übungen mit Panzer III für Unternehmen Seelöwe.jpg引用。


III号戦車Panzer III)の主砲は,それまでの2センチ砲より強力な3.7センチ砲で,射程1000メートルで30mmの装甲を貫徹できた。これは,当時の戦車を撃破できる威力があった。しかし,開発から5年後の1940年5月のフランス侵攻では,III号戦車Pz.Kpfw. III )47口径の3.7センチ砲では英陸軍マチルダ戦車,フランス陸軍ソミュアS-35戦車の装甲には不十分だった。

写真(右)1940年5-6月,フランス、西部戦線、ドイツ陸軍第9装甲師団のIII号戦車 E型(45口径3.7cm砲搭載):ドイツ軍の主力戦車として、対戦車戦闘能力のある3.7 cm KwK 36 L/45 (3.7 cm Kampfwagenkanone 36 L/45) を装備したIII号戦車 E型は、1938年12月 - 1940年7月に作られた量産型。転輪は片側6個を装備している。砲塔側面に装備されたハッチが開放されている。車体後方に燃料タンクを搭載している。装甲板はD型の14.5mmを30mmへと強化したため、重量は19.5トンに増えた。E型は1939年に96両、初の大量生産型となったF型は1939-1941年に450両が生産された。
写真は、Panzerwaffe on the battlefield 3: World War Two Photobook Series Vol.23引用。


 弾丸と薬莢とからなるカートリッジCartridge)が砲弾である。カートリッジCartridge)は、日本では、実包(じっぽう)あるいは弾薬筒(だんやくとう)と呼ばれる。

写真(右)1941年5-6月,北アフリカ戦線(?)、ドイツ陸軍第9装甲師団のIII号戦車G型(42口径5cm砲搭載):ドイツ軍の主力戦車として、対戦車戦闘能力を向上して3.7cm戦車砲(3.7 cm KwK 36 L/45)を5cm戦車砲(1938年型42口径5センチ戦車砲(5-cm KwK 38 L/42:5-cm Kampf--WagenKanone 38))に強化した。車体前面に大きな砲弾貫通穴が開いている。砲塔には大型の司令塔(キューポラ)を装備している。1940年9月7日、イタリア軍は植民地リビアからエジプトへ攻撃を開始したが、イギリス軍の逆襲にあって敗退した。そこで、1941年2月、ヒトラーは同盟国イタリア支援を決め、エルヴィン・ロンメル将軍隷下のドイツ・アフリカ軍は、3月に反撃を開始し、4月にはベンガジを奪回、イギリス陸軍オコンナー将軍を捕虜にした。
写真はWikimedia Commons ・Panzerwaffe on the battlefield 3:World War Two Photobook Series Vol.23引用。

 弾丸は、古来、球形の鉛製であり、これと火薬を銃身に仕込んで、火薬を燃焼させて、発射していた。これが500年間も続いた銃(gun)である。19世紀になると、第一に、銃身の内側に螺旋状の溝、すなわちライフルRifling)が採用された。ライフルは、日本では施条(しじょう)あるいは腔綫(こうせん)と呼ばれる。発射された弾丸を、回転させて弾道を安定化させ、飛翔距離を長くすることができた。第二に、弾丸が球形から円錐形・紡錘形のミニエー弾(ミニ弾)がフランスで開発された。南北戦争のゲッチスバークの戦いで、ライフル銃とミニ弾が使用され、南軍に1万名の死傷者を出した。第三が、金属製薬莢によって、弾丸と薬莢が一体化されたことである、南北戦争後、弾丸と金属製薬莢を一体化したカートリッジの採用が一般化した。第四に、1880年代に黒色火薬から無煙火薬に転換したことである。ニトログリセリンを使った無煙火薬によって、弾丸の砲口初速は秒速300メートルから、600メートルに高速化した。無煙火薬で発射された弾丸は、煙が出ないので、弾道が視認できなかったので、マグネシウムを仕込んだ曳光弾を5発に1発混ぜて弾道を目視確認できるようになった。弾丸のサイズが大きくなれば、発射に必要な火薬も多く必要で、破壊力も大きくなる。

写真(右):1941年春,北アフリカ戦線、42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車:
Nordafrika.- Panzer-kolonne auf Wüstenstraße. Panzer III passiert Schild mit Aufschrift, "DO. PP.-Cirenaica, T.C.I. Tilimun, Soluch", März-Mai 1941; PK "Afrika" Depicted place North Africa Date 21 March 1941 Photographer Moosmüller
写真はWikimedia Commons Category: Panzer-kampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-782-0015-03A, Nordafrika, Panzer III in Fahrt.jpg引用。


ニュルンベルク法が,ユダヤ人を宗教による分別したとの俗説があるが,宗教や国籍ではなく,人種的特長,歴史を踏まえて,祖先がユダヤ人だったことを基準にしている。このような恣意的な区分は,ドイツの敵となりうる人間,潜在的な敵性住民,人種汚染を排除するため定められた。敵を排除し,ドイツ人の種族保全のために,ユダヤ人を排除したのである。

ドイツ国防軍将兵は,対ソ戦"バルバロッサ作戦"(Unternehmen Barbarossa) の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないようにした。

しかし,これは,軍の責任回避だった。ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ軍を憎むようになった。 

写真(右):1941年(4月)春,北アフリカ戦線、1938年型42口径5センチ戦車砲(5-cm KwK 38 L/42:5-cm Kampf--WagenKanone 38)搭載のIII号戦車:
Nordafrika.- Soldaten und Offiziere bei Besprechung in der Wüste vor einem Panzer III (?), vlnr: zwei Soldaten der Panzertruppe, Hauptmann (?) mit Ritterkreuz, Oberleutnant der Panzertruppe; PK "Afrika" Depicted place North Africa Date April 1941 Photographer Valtingojer
写真はWikimedia Commons Category: Panzer-kampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-783-0150-20, Nordafrika, Offiziere bei Besprechung, Panzer.jpg引用。


III号戦車H型Pz.Kpfw III Ausf.H)は、重量21.6t、乗員5名で、初期型は42口径5センチ戦車砲5cm KwK 38 L/42を、後期型は60口径5センチ戦車砲5cm KwK 39 L/60)を搭載している。

写真(右):1941年12月,北アフリカ戦線、エジプトで連合軍によって撃破されたIII号戦車H型(Pz.Kpfw III Ausf.H):重量21.6t、乗員5名で、初期型は42口径5センチ戦車砲5cm KwK 38 L/42を、後期型は60口径5センチ戦車砲5cm KwK 39 L/60を搭載している。
ID number 011853
Description BATTLE OF EGYPT. 1942-11. A GERMAN PANZERーKAMPFWAGEN III AUSF H MEDIUM TANK BLAZING FURIOUSLY AFTER A DIRECT HIT EARLY IN THE BATTLE. THE H MODEL OF THIS MEDIUM WAS ARMED WITH A 50MM MAIN GUN ARMAMENT.
写真はAustralian War Memorial ID Number: 080000引用。


III号戦車H型Pz.Kpfw III Ausf.H)の諸元
全長5.41m、全幅2.95m、全高2.44m
重量21.6t、乗員5名
42口径5センチ戦車砲50 mm KwK 38 L/42 または60口径5センチ戦車砲50 KwK 39 L/60を搭載。
50 mm KwK 38 L/42の徹甲弾PzGr (Armour Piercing)は重量 2.06 kg、砲口初速 685 m/s
貫通力:距離100 mで55 mm、500 mで46 mm、1000 mで36 mm、1500 mで28 mm
車体前面装甲 30+30 mm、車体側面・砲塔 30mm
動力 マイバッハMaybach HL 120 TR 12気筒液冷ガソリンエンジン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最高速度40km/h(整地)、18 km/h(不整地) 航続距離165km
1940年10月から1941年8月までに300両製造。

写真(右):1941年12月14日,クルーセダー作戦の時期の北アフリカ戦線、リビア、トブルクの南東シディ・レゼグ (Sidi Rezegh) で連合軍によって撃破されたIII号戦車G型:G型は、当初から1938年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm Kampf Wagen-Kanone 38)を搭載して生産された最初のIII号戦車。
ID number 011853
Description 1941-12. CAPTURED AND DESTROYED GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III AUSF G MEDIUM TANKS ROUND ABOUT SIDI RESEGH. THE PHOTO GIVES SOME IDEA OF THE MAGNITUDE AND THE FURY OF THE FIGHTING IN THE LIBYAN DESERT. (NEGATIVE BY G. SILK).
写真はAustralian War Memorial ID Number: 020606引用。


III号戦車Pz.Kpfw. III)F型は途中から急遽3.7センチ砲から5センチ砲へと変換搭載したが、G型は、当初から1938年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm Kampf-Wagen-Kanone 38)を搭載し生産された。III号戦車G型の生産台数は、940年4月から1941年2月までに600両。

写真(右):1941年12月14日,北アフリカ戦線、トブルクで連合軍によって撃破されたIII号戦車:
ID number 020606 Place made North Africa: Libya, Cyrenaica, Tobruk Area, Tobruk Date made 14 September 1941
Description ONE OF THE GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III AUSF G MEDIUM TANKS DESTROYED DURING THE EASTERN PERIMETER ATTACK IN THE TOBRUK BATTLE. THE OFFICER WITH THE FIELD GLASSES IS LIEUTENANT COLONEL J.W. CRAWFORD, COMMANDING OFFICER OF THE 2/17TH INFANTRY BATTALION. ON HIS RIGHT IS IS MAJOR HODGMAN.
写真はAustralian War Memorial ID Number: 020606引用。


イタリア領アフリカ植民地リビアの東部、地中海に面したトブルクTobruk)は、港湾都市で、天然良港を持つために、戦略拠点となっていた。1940年6月10日、イタリアはドイツ側について、イギリス、フランスに対し宣戦布告し、イタリア軍はイギリス保護国エジプトの攻略を企図し、1940年8月10日に攻撃を開始した。しかし、1940年12月、イギリス軍はコンパス作戦Operation Compass)によってイタリア軍を巻き返し、翌1941年1月には、イタリアの戦略拠点トブルクTobruk)を占領してしまう。1941年4月には、エルウィン・ロンメルErwin Rommel )将軍率いるドイツアフリカ軍団が派遣されトブルクを包囲したが、11月にはイギリス軍はクルセーダー作戦により反撃し、ドイツ軍のトブルク包囲を打ち破り、トブルクTobruk)を解放した。

  写真(右):1941年12月16日,北アフリカ戦線、リビアのベルハメッドで西側連合軍(イギリス・オーストラリア・ニュージーランド・南アフリカ)によって撃破されたIII号戦車E型:1938年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm Kampf Wagen Kanone 38)を搭載。内部で爆発が起きたのか、ハッチが開け放たれ、後部転輪やキャタピラが吹き飛ばされている。
ID number 022444
Description BELHAMED, LIBYA. 1941-12-16. A WRECKED GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III AUSF E MEDIUM TANK LEFT ON THE BATTLEFIELD..
写真はAustralian War Memorial ID Number: 022443引用。


しかし、ドイツ軍は再び反撃に転じて、1942年6月21日、トブルクを陥落させ、枢軸軍の手中に収めた。その後、イギリス軍はアメリカ軍の増援を得て反撃し、エル・アラメインの戦いで敗北した枢軸軍は、1942年11月12日にはトブルクを放棄し、チュニジアに撤退した。1943年5月7日、チュニジアの要衝チュニスはアメリカ軍によって攻略され、5月12日に枢軸軍25万以上が降伏して北アフリカ戦いは終了した。

写真(右):1941年12月16日,北アフリカ戦線、リビアのベルハメッド「死の谷」で連合軍によって撃破されたIII号戦車:1938年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm Kampf Wagen Kanone 38)を搭載。内部で爆発が起きたのか、ハッチが開け放たれ、後部転輪やキャタピラが吹き飛ばされている。
ID number 022444
Description BELHAMED, LIBYA. 1941-12-16. DAMAGED GERMAN PANZER-KAMPF-WAGEN III MEDIUM TANKS LEFT ON THE "VALLEY OF DEATH" BATTLEFIELD.
写真はAustralian War Memorial ID Number: 022444引用。


III号戦車Pz.Kpfw. III)F/G型が搭載した38年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm Kampf-Wagen-Kanone 38)は、徹甲弾PzGr (Armour Piercing)の重量2.06 kg、砲口初速 685 m/sで、貫通力は射程距離100 mで55 mm、500 mで46 mm、1000 mで36 mm、1500 mで28 mm厚の装甲を撃破できる。

写真(右):1941年12月16日,北アフリカ戦線、リビアのベルハメッド「死の谷」で連合軍によって撃破されたIII号戦車:1938年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm Kampf Wagen-Kanone 38)を搭載。 徹甲弾PzGr (Armour Piercing)は重量 2.06 kg、砲口初速 685 m/sで、貫通力は距離100 mで55 mm、500 mで46 mm、1000 mで36 mm、1500 mで28 mm厚の装甲を撃破できる。
ID number 022445
Description BELHAMED, LIBYA. 1941-12-16. DAMAGED GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III MEDIUM TANKS LEFT ON THE "VALLEY OF DEATH" BATTLEFIELD.
写真はAustralian War Memorial ID Number: 022445引用。


『砂漠の鼠』 The Desert Rats (1953・アメリカ映画)は20世紀フォックス配給、監督ロバート・ワイズ(Robert Wise)、出演リチャード・バートン(Richard Burton)、ロバート・ニュートン他で、第二次世界大戦の北アフリカ戦線、ロンメル将軍と対峙するイギリス・オーストラリア軍の戦いを描いた戦争映画。「砂漠の狐」ロンメルと「砂漠のネズミ」イギリス・オーストラリアの戦いだが、劣勢のネズミが高等戦術で優勢なキツネを打ち負かす。

実際に、北アフリカで活躍したイギリス軍第7機甲師団7th Armoured Division)は、「砂漠のネズミ」(Desert rat)の愛称で呼ばれていた。 映画は、軍備や補給戦よりも戦闘シーンや人間ドラマが見ものとなっている。

写真(右):1941年12月,北アフリカ戦線、リビアで連合軍によって撃破されたIII号戦車H型:1938年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm Kampf-Wagen-Kanone 38)を搭載。 徹甲弾PzGr (Armour Piercing)は重量 2.06 kg、砲口初速 685 m/sで、貫通力は距離100 mで55 mm、500 mで46 mm、1000 mで36 mm、1500 mで28 mm厚の装甲を撃破できる。
ID number 011040 Maker Silk, George
Description Libya, North Africa. c. 1941-12. German tanks destroyed and burning after being set alight by Allied troops during their advance across the desert. The tanks and other vehicles were found at a German workshop unit and were destroyed to ensure they did not fall back into enemy hands. The tank in the foreground is a knocked out Panzerkampfwagen III H medium tank.
写真はAustralian War Memorial ID Number: 011040 引用。


1940年10月から1941年8月までに300両製造されたIII号戦車H型Pz.Kpfw.III (5cm) Ausf.H Sd.Kfz.141)は、1938年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm KampfWagenKanone 38)を搭載した。その徹甲弾PzGr (Armour Piercing)は、重量 2.06 kg、砲口初速 685 m/sで、貫通力は距離100 mで55 mm、500 mで46 mm、1000 mで36 mm、1500 mで28 mm厚の装甲を撃破できる。

III号戦車H型は砲塔乗員が砲塔と一体となって旋回できるバスケット方式が採用されたため、攻撃能力が向上している。

写真(右):1942年頃,北アフリカ、リビア(?)、イギリス軍歩兵が降伏したドイツ軍のIII号戦車が銃剣突撃する。:III号戦車の車体後方には、特別仕様のラックを装着し、そこにガソリンコンテナを並べて搭載できるようにしてある。III号戦車とイギリス歩兵の間でカメラを構えたプロパガンダ写真あるいは再現映像の記念写真と思われる。
Catalogue number E 18654 Department Photographs Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION Subject period Second World War
Description One member of a knocked out German Panzer III tank crew surrenders as British infantry rush his tank..
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用・ IWM (E 18654)


第二次世界大戦中のイギリス軍制式小銃は、ボルトアクション(槓桿式)の リー・エンフィールド(Lee-Enfield)銃で、1895年の制式の改良型。口径0.303インチ (7.69mm)、銃身長25.2インチ(640mm) 、使用弾薬.303 British(7.69mm x 56R)、装弾数10発、全長44.5インチ(1130mm)、重量4kg、初速744m/秒、有効射程1000ヤード (約918m) 。

写真(右):1942年,北アフリカ戦線、リビア、トブルクに負傷兵を運んできたIII号戦車H型:1938年型42口径5センチ戦車砲5-cm KwK 38 L/42(5-cm Kampf--WagenKanone 38)を搭載。 徹甲弾PzGr (Armour Piercing)は重量 2.06 kg、砲口初速 685 m/sで、貫通力は距離100 mで55 mm、500 mで46 mm、1000 mで36 mm、1500 mで28 mm厚の装甲を撃破できる。
ID number 042393
Description Tobruk, Libya. c. 1942. A German Panzerkampf-wagen III Ausf H medium tank bringing wounded men to a dressing station.
写真はAustralian War Memorial ID Number: IWM (MH 6341) 引用。


ヒトラーは,戦争当初からIII号戦車Panzerkampfwagen III)に対戦車戦闘で有利な長射程の長砲身5センチ砲を装備するように命じていた。

しかし,保守的なドイツ参謀本部は,対戦車戦闘には3.7センチ砲で十分だと考えていた。実際,1941年まで,対戦車砲も3.7センチ砲だった。チェコのスコダ社やフランス軍は既に47ミリ対戦車砲を開発していたから,ドイツ軍の対戦車兵器は弱体だった。

写真(右):1942年春,北アフリカ戦線、42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車とゲオルグ・ファン・ビスマルク(Georg von Bismarck)将軍:
Nordafrika.- Generalmajor Georg von Bismarck mit Fernglas vor Panzer III, Februar - August 1942; PK "Afrika" Depicted people Bismarck, Georg von: Generalleutnant, Ritterkreuz (RK), Heer, Deutschland Depicted place North Africa Date 21 March 1942 Photographer Otto
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-784-0231-35, Nordafrika, Generalmajor v. Bismarck, Panzer III.jpg引用。


ゲオルグ・ファン・ビスマルク(Georg von Bismarck)将軍は、1891年2月生まれ、第一次世界大戦に従事。第二次世界帯電中は、1939年9月のポーランド侵攻、1940年5月のフランス侵攻では、ロンメル将軍の第7装甲師団に所属する機械化歩兵連隊を指揮した。その後、1941年6月のバルバロッサ作戦ソ連侵攻に際しては中央軍に加わった。

1942年1月から第21装甲師団を率いたゲオルグ・ファン・ビスマルク((Georg von Bismarck)は、アルマ・エル・ハルファの戦い(Battle of Alam el Halfa)で1942年8月31日に地雷によって爆死した。

 その後、1942年11月8日には、西側連合軍がトーチ作戦Operation Torch)によって、モロッコとアルジェリアのオランへ上陸し、エルアラメインのドイツ・イタリア軍をエジプトと挟撃する体制となった。

写真(右)1942年6月1日、北アフリカ、西砂漠、イギリス軍のアメリカ製M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車が撃破されたドイツ軍III号戦車(Pz-Kpfw III)を遮蔽物にしている。
Catalogue number: E 13537, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Production date; 1942, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Black and white, Photographic Unit Berman (Sgt), Travis (Sgt), Morris G (Sgt), Murray (Lieut),  Creator: The commander of a Stuart tank uses a knocked-out PzKpfw III tank as cover while observing the enemy, 1 June 1942.  写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (E 13537)


M3 スチュアートStuart 軽戦車は、重量14.7トン、全長 4.53m 装甲13-51ミリ、(0.52-2 インチ)、53.5口径37ミリ(1.45インチ) M5/M6戦車砲。1934年に飛行機用に開発されたコンチネンタル星形空冷ガソリンエンジンContinental W670-A9(7気筒11リットル250馬力)あるいは星型空冷ディーゼルエンジンGuiberson Diesel T-1020 (9気筒250馬力)を搭載、最高速度 58km/h(36 mph)、航続距離 120km(74.5 mi)、 生産数 1万3,860輌。

写真(右):1942年8月,エジプト、エルアラメイン近郊でオーストラリア軍の対戦車砲によって仕留められたドイツ軍から鹵獲したIII号戦車L型:右から2番目と3番目の転輪の間に命中した対戦車砲の小さな弾痕(穴)が見える。車体側面の転輪の間にある小型ハッチ、砲塔側面の大型ハッチが開いており、その形状がよくわかる。60口径5センチ戦車砲(5cm KwK38 L/60)を装備している。
ID number 024856
Description WESTERN DESERT, EGYPT. 1942-08. A GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III L MEDIUM TANK KNOCKED OUT BY AUSTRALIAN ANTI-TANK GUNNERS NEAR EL ALAMEIN. A SMALL HOLE SLIGHTLY ABOVE AND BETWEEN THE 2ND AND 3RD WHEELS FROM THE RIGHT WAS WHERE THE EFFECTIVE SHELL ENTERED.
写真はAustralian War Memorial ・ID 024856引用。


写真(右):1942年8月,エジプト、エルアラメイン近郊でオーストラリア軍の対戦車砲によって仕留められたドイツ軍から鹵獲したIII号戦車L型:60口径5センチ戦車砲(5cm KwK38 L/60)を装備しているが、砲塔防楯にあった追加装甲板は外れている。
ID number 024859
Description WESTERN DESERT, EGYPT. 1942-08. FRONT VIEW OF ONE OF THE GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III L MEDIUM TANKS KNOCKED OUT BY AUSTRALIAN ANTI-TANK GUNNERS NEAR EL ALAMEIN. SPARE LINKS FOR TRACKS ON FRONT OF TANK.
写真はAustralian War Memorial ・ID 024859引用。https://www.awm.gov.au/images/collection/items/ACCNUM_SCREEN/024859.JPG


写真(右):1942年9月16日,北アフリカ戦線、西部砂漠、エルアラメイン近郊でオーストラリア軍によって撃破されたと思われる42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車G型:キャタピラが外れて、ほとんどのハッチも開け放たれている。
Description A knocked out German Panzer III in the Western Desert. Date 16 September 1942 Source This image is available from the Collection Database of the Australian War Memorial under the ID Number: 024856
写真はWikimedia Commons Category: Panzer-kampfwagen III during World War II Australian War Memorial・File: Knocked out Panzer III at El Alamein 1942.jpg引用。


写真(右):1942年10月5日,北アフリカ戦線、西部砂漠、エルアラメイン近郊でオーストラリア軍によって爆破されたと思われる42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車G型:
ID number 013345 Maker Hurley, James Francis (Frank) Date made 5 October 1942
Description The original caption from the Department of Information file reads as follows: "Some men of the AIF in the Western Desert came under enemy fire in a most unexpected manner during a lull in the fighting. While examining a smouldering German tank that had been heavily strafed by our aircraft ammunition bins inside the tanks exploded and sent a shower of shot in all directions. As one of the diggers explained, "we went to earth in a hell of a hurry". Fortunately no one was hit." The photograph was constructed by Frank Hurley and the account from one of the men in the group follows: "One morning during that period (10-20 November 1942) a group of Headquarters Company, Div Sigs were in the vicinity of the unit's orderly room when about six were detailed to collect their tin hats and board a truck for an outing. I was one of the group and shortly after we jumped off near a tank several miles to the rear of our location. On arrival we learned that the purpose of the outing was to get a photograph for the forthcoming issue of "Ink Ink". So we took up prone positions as directed, an engineer rigged the charge and Captain Hurley took an excellent photograph." This photograph appeared in Issue No. 3, Christmas 1942, edition of Ink Ink. The tank is a German Panzerkampfwagen III L (early model) and was in an infantry training area prior to the battle for Alamein.
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II Australian War Memorial・File: Knocked out Panzer III near El Alamein 1942.jpg引用。


写真(右):1942年11月,北アフリカ戦線、エジプト、エルアラメインの戦いでオーストラリア軍の攻撃によって撃破されたと思われるIII号戦車:
Description German Panzer III tank destroyed during the Second Battle of El Alamein near El Aqquqir, Egypt. Date November 1942
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II Collection Database of the Australian War Memorial under the ID Number: 040977引用。


写真(右):1942年11月,北アフリカ戦線、エジプト、オーストラリア軍によってトレーラー輸送されるドイツ軍の42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車G型:
ID number 050003
Description MERSA MATRUH, EGYPT. 1942-11. A GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III AUSF J MEDIUM TANK ON ITS TRANSPORTER CAPTURED IN THE BRITISH ADVANCE WHICH OCCUPIED MERSA MATRUH. A BALTIMORE BOMBER OF THE ROYAL AIR FORCE PASSES OVERHEAD.
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II Australian War Memorial・File: Knocked out Panzer III near El Alamein 1942.jpg引用。


イギリス軍スキャメル パイオニア(Scammell Pioneer)トレーラーの諸元:
重量:8,4トン
全長:6.1メートルから11メートル 、全幅:2.7メートルから2.9メートル
エンジン:ガードナー 8,369cc 6気筒液冷ディーゼルエンジン
懸架・駆動:6×4輪駆動
航続距離:690 km、最高時速:29 km/h

イギリス軍ダイアモンドT980戦車運搬車Diamond T 980 tank transporters
1941〜1945年に6,554両
重量12.2トン、全長7.11 m、全幅2.54 m、全高2.54 m。 
エンジン:Hercules DFXE ディーゼル185馬力(138 kW)、サスペンション: リーフスプリング式
航続距離480km、最高時速37km/h

写真(右)1942年11月5日、北アフリカ、M3Aスチュアート(Stuart)軽戦車が破壊されたドイツ陸軍III号戦車(PzKpfw III)の 傍らを通過する。砲塔の後方半分が吹き飛ばされたドイツ軍のIII号戦車PzKpfw III を遮蔽物に利用してイギリス軍兵士が砲兵隊との連絡を取っている。
Catalogue number: E 19014, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Production date; 1942, Subject period: Second World War Alternative Names: object category: Black and white, Creator: No 1 Army Film & Photographic Unit Martin (Sgt),  Object description: A Stuart tank passes by a knocked out German PzKpfw III tank which is being used as a shelter for an artillery listening post, 5 November 1942. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (E 19014)


1942年11月8日、西側連合軍は、トーチ作戦Operation Torch)に基づいて、モロッコとアルジェリアに上陸し、1943年初頭には北アフリカのIII号戦車Panzer III)、IV号戦車からなる装甲師団を基幹とするドイツ軍をチュニジアに退却させた。

写真(右):1942年11月11日,第一次世界大戦の戦勝記念日、オーストラリア、ビクトリア州メルボルンで展示されたドイツ軍から鹵獲したIII号戦車F型:42口径5センチ戦車砲(5cm KwK38 L/42)を装備しているが、キャタピラは全て外されている。この写真を掲載したヘラルド紙(The Herald)はメルボルンで1840年から1990年まで発行されていた。
Place Oceania: Australia, Victoria, Melbourne Accession Number 137053 Collection type Photograph Object type Black & white Physical description Black & white Maker Herald Newspaper Conflict Second World War, 1939-1945
写真はAustralian War Memorial ・ID 137053 MELBOURNE, VIC. 1942-11-11. A GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III AUSF E MEDIUM TANK ON DISPLAY 引用。作成当初は、Australian War Memorialのhttps://www.awm.gov.au/images/collection/items/ACCNUM_SCREEN/137053.JPG に写真が掲載されていたが、2017年5月末には写真掲載方法を変更している。


写真(右):1943年1月20日,北アフリカ戦線、エジプトでオーストラリア軍によってトレーラーで運搬されているドイツ軍の42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車G型:
ID number 014118 Maker Hurley, James Francis (Frank) Place made Egypt Date made 20 January 1943
Description ANOTHER ONE THAT DIDN'T GET AWAY. A GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III MEDIUM TANK ON A GERMAN TANK TRANSPORTER TRAILER, WITH TYRE TROUBLE, ON THE WAY TO SIDI BARRANI. NOTE THAT THE AFTER PART OF THE TRAILER CAN BE STEERED INDEPENDENTLY.
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II Australian War Memorial・File: Knocked out Panzer III near El Alamein 1942.jpg引用。


スキャメル戦車運搬トレーラーScammell Tank Transporter)では、イギリスのスキャメル社が開発し、第二次世界大戦中に活躍したイギリス軍のトラクターで、戦車運搬車だけではなく、砲兵トラクター、軍用回収車としても運用された。重量物を運搬するスキャメル戦車運搬トレーラーScammell Tank Transporter)は、頑丈で大きく長い車体に、ダブルタイヤ8輪のトレーラーを牽引できる強力なトラクターである。

イギリス軍のScammell Pioneer Tractor)トレーラーは、スキャメル社が開発した18トン軍用トレーラーで、火砲、軍用車、戦車など18トンまでの車両・貨物を載せて運搬する6×4輪駆動貨物車(トレーラー、トラクター)である。

写真(右):1943年,北アフリカ戦線、チュニジア、チュニス、42口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車:
Inventory: Bild 101 I - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-788-0017-20 Archive title: Nordafrika, Tunis (Algerische Grenze).- Panzer IV in hügeligem Gelände; PK "Afrika" Dating: 1943 Photographer: Dullin
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-788-0017-20, Nordafrika, Panzer IV.jpg引用。


1943年1月14日から10日間、連合国首脳はモロッコでカサブランカ会談Casablanca Conference)を開いて、枢軸国に対する無条件降伏の要求を基本方針とした。

1943年5月13日、西側連合軍は、チュニジアTunisia)の枢軸国軍25万人を降伏させ、ドイツ軍、イタリア軍は北アフリカから完全に駆逐された。

写真(右):1943年8月,イタリア、シシリア島、ドイツ軍のIII号戦車M型 Panzer III Ausf M:60口径5cm戦車砲KwK39装備、携行砲弾数84発。 イギリス軍がドイツ軍兵士から鹵獲した写真。III号戦車の砲塔の周囲には、補助装甲板が張り巡らされている。
Catalogue number MH 6341 DepartmentPhotographs Part of SELINGER FRANZ COLLECTION Production date 1943-08 Subject periodSecond World War Alternative namesobject name: negative object category: Photography CreatorGerman official photographer
Description A German Panzer III Ausf M (turret number 533) moves along a dusty road in Sicily, August 1943.
写真はAustralian War Memorial ID Number: MH 6341引用。


III号戦車Pz.Kpfw. III)とIII突撃砲は、ドイツ敗戦まで生産が続けられ、合計1万5,000輌が完成したが、これはドイツ軍戦車の中で最多生産を誇っている。

写真(右)1941 年4月、ギリシャ侵攻、鉄道線路を利用して快進撃するドイツ陸軍III号戦車:
Catalogue number: HU 39517, Part of GROSS DEUTSCHLAND IM WELTGESCHEHEN: TAGESBILDBERICHTE (HEINRICH HOFFMANN), Production date: 1941-04, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Photography, Creator: Hoffmann, Heinrich, Object description: German Panzer III tanks advance along a railway line in pursuit of retreating British troops in Greece between 25 and 30 April 1941.
写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (HU 39517)


ドイツは、1941年4月のギリシャ侵攻、ユーゴ鎮圧などバルカン半島での作戦にIII号戦車Panzer III)、IV号戦車を投入したため、1941年5月に計画していたソ連侵攻「バルバロッサ作戦」の発動が、予定よりも1カ月間も遅延した。その結果、モスクワ侵攻が遅れ、1941年中に占領することはできなくなった。

この写真を撮影したハインリッヒ・ホフマンHeinrich Hoffmann)は、ヒトラーが政治闘争を始めた時期からヒトラー専属のカメラマンとして活躍し、たくさんの写真を残している。ホフマンの下で働いていたのが、ヒトラーのミストレスとなるエヴァ・ブラウンである。

写真(右)1941年6月,バルカン、ユーゴスラビア、2両のドイツ軍III号戦車E型(Sd.Kfz. 141 Pz.Kpfw. III Ausf. E ):3.7センチ砲(3.7 cm KwK 36)搭載。手前には馬匹に曳かせる馬車があり、ハンド・ブレーキがついている
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-185-0137-15A Archive title: Jugoslawien.- Panzersoldaten in den Türmen zweier Panzer III (Sd.Kfz. 141; Panzerbefehlswagen); PK 691 Dating: 1941 Photographer: Grimm, Arthur 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


1941年4月,ユーゴスラヴィアに反独クーデターが勃発,三国同盟を無視するかのように,ソ連と友好不可侵条約を結んだ。1941年4月6日,ドイツ軍は即座に,ユーゴスラヴィアに侵攻,4月13日,1週間でユーゴは降伏。

写真(右)1941年6-7月,バルカン,ユーゴスラビア、ドイツ軍のIII号戦車E型(Sd.Kfz. 141 Pz.Kpfw. III Ausf. E ):3.7センチ砲(3.7 cm KwK 36)搭載。バルバロッサ作戦では、当初、1941年5月にソ連に侵攻する計画だったが、バルカンのユーゴスラビアでクーデタが発生、親ドイツ政権が倒されてしまった。そこで、ヒトラーは、急遽、バルカン侵攻を命じた。この作戦によって、ソ連侵攻が1カ月以上遅れることになり、攻撃目標に達するまえに、厳冬を迎えてることになったともいわれる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-185-0137-14A Archive title: Jugoslawien.- Panzersoldat im Turm eines Panzer III (Sd.Kfz. 141; Panzerbefehlswagen) in Fahrt; PK 691 Dating: 1941 Photographer: Grimm, Arthur撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


この同時期の1941年4月,日本の松岡洋右外相がベルリンからの帰路、モスクワに立ち寄り、日ソ中立条約を締結した。ソ連は,いずれ英国が敗れれば,ドイツがソ連を攻撃してくると予測していたから,極東アジア方面での日本軍によるソ連侵攻を警戒していた。そこで,ドイツを牽制するためにり、日ソ中立条約を結び、日本とソ連が結んだ領土保全と不侵略を相互に約束した。

 ソ連指導者スターリン自らが松岡洋右外相をモスクワの駅頭に送ったのはその成果に満足し、独日双方との同盟、すなわち独ソ不可侵条約日ソ中立条約を締結したソ連の安泰を世界に誇示したかったからだった。

写真(右)1941年6月,ソ連、東部戦線の当初、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38:携行砲弾数99発)を搭載したIII号戦車G-J型:後方にみえる半装軌式無線指揮軽装甲車(Sd.Kfz. 250/3)は、連絡用・指揮に活躍した。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-185-0139-20 Archive title: Polen, Rußland.- Beginn des Ostfeldzuges, Panzersoldaten auf Panzer III (Sd.Kfz. 141) der 13. Panzer-Division [?], im Hintergrund weitere Panzer und Fahrzeuge; PK 691 Dating: Juni 1941 Photographer: Grimm, Arthur 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月22日,ドイツ国防軍は,ブレスト北方でブーク川を越えるのにIII号戦車Panzer III)、IV号戦車に,シューノーケルを装備した潜水戦車80両を投入した。これは,渡河作業の手間を掛けずに対岸にわたることができる画期的な発明だった。

写真(右)1941年8月,ソ連でブロックを乗り越えようとして動けなくなったドイツ軍42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)装備のIII号戦車G/F型:ドイツ軍は,航空機事故や車両事故などを調査し,対策を組織的にとろうとした。そこで,事故写真を撮影することを旨としていた。現在では当然の措置だが,70近く年前の戦時中に,律儀に調査方針を守っていたようだ。戦車の登坂能力,実戦における運用の参考となるように,資料を集めていた。
戦車のキャタピラの下に差し込まれた木の板や丸太は,戦車を救出しようとしたものであろう。普段見ることのできない,戦車車体上面の様子がよくわかる。砲塔のハッチの淵が高くなっているのは,展望式ハッチで,周囲が砲塔内部から見渡せるようになっているためである。戦車長が周囲を観測しながら前進したが,視野が狭いので,通常の行軍には,ハッチから身を乗り出している。
Ein Panzer brach über einer Brücke ein zw. Bug u. Dnjepr Archive title: Vormarsch zum Dnjepr.- eingebrochener Panzer III Dating: August 1941
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


ドイツ陸軍III号戦車Panzer III)J型は,設計に変更を加えて本来は搭載の予定がなかった長砲身60口径5センチ砲を搭載した型である。実際、ドイツ軍は、ソ連の戦車の防御力が強く、予定していたラインメタル社の42口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)を改造した42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38 L/42) では威力不足であると感じていた。

しかし、実は独ソ戦勃発の前年、1940年後半には、ヒトラーは、当時ドイツ陸軍III号戦車Panzer III)に搭載する42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)では威力不足であると直観し、より強力なライメタル社の60口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 39)を搭載することを要求していた。

しかし、対戦車砲は、砲尾が水平に開閉する構造で狭い砲塔の中での薬莢が飛び出して使用は不可能だった。戦車砲は、砲尾が垂直に開閉するように改造する必要があった。また、当時、ドイツ陸軍は最新の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の威力は十分あると判断していたために、長砲身60口径5センチ対戦車砲(5 cm PaK 38)をドイツ陸軍III号戦車Panzer III)に搭載することに消極的だった。

独ソ戦を準備していたヒトラーは、1941年春になっても、ドイツ陸軍III号戦車Panzer III)には60口径5センチ対戦車砲が搭載されていないことを知り、42口径ではなく60口径砲への換装を厳命した。こうして、急遽、対戦車砲の戦車砲への改造が始まり、独ソ戦勃発後、半年近くも経った1942年末、60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型が登場した。

写真(右):1941年冬,東部戦線のドイツ軍3号戦車の白色冬季迷彩塗装を施した司令塔の戦車兵:右はIII号戦車(あるいはIV号戦車)砲塔上にある展望ハッチで,右と中央の搭乗員は,車外に出ている。左の搭乗員は別の砲塔上ハッチから身を乗り出しているようだ。
Sowjetunion.- Soldaten der Panzertruppe neben Turm eines Panzers im Winter, ein Soldat mit Kopfhörern; PK 694 Dating: 1941 Photographer: Gebauer 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 ・Bild_101I-215-0354-12A 引用(他引用不許可)。


1940年夏以降,ドイツ陸軍III号戦車Panzer III)にも長砲身60口径5センチ砲が装備された。しかし,実戦参加が遅れ,重装甲,76.2ミリ砲装備のT-34戦車より劣っていた。ドイツ軍の戦車は,決して強力な攻撃力・防御力を持っていたわけではないく、戦車の集団用法,戦意旺盛な機械化歩兵、強力な砲兵部隊、そして地上支援の直接協力をした空軍を組み合わせた電撃戦によって大きな戦果を収めたのである。

独ソ戦当時,ドイツ軍戦車の主力は,新型のIII号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)とIV号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)だった。この中戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲を装備した対歩兵支援戦車だった。ポーランド,フランス侵攻の時のII号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径,3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備もまだ多数が残っていて,独ソ戦に投入された。

写真(右)1941年9月,ロシア,ドイツ軍42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehr-kanone 38)装備のIII号戦車G/F型:Sowjetunion-Nord.- Nach Durchqueren eines kleinen Flusses wird für diesen Panzer III(Sd. Kfz. 141) der Abhang mit Sand befestigt; PK 694 Dating: September 1941 - Photographer: Thiede撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


ドイツによる1941年6月のソ連侵攻では,ソ連住民に対する自由と独立,圧制や植民地からの解放という大儀がドイツ陸軍のなかで論じられていた。しかし,国防軍最高司令官ヒトラー総統は,肥沃な国土,民族ドイツ人の移住地,資源エネルギー・食料を確保することを命じており,占領した非ロシアのウクライナも独立させるつもりは,当初からなかった。ドイツ第三帝国のための生存圏の確立が最優先課題であり,現地住民,下等人種,劣等民族を蔑視,排除しようとしていたのである。

◆ドイツ国防軍の中には,ロシア人,ウクライナ人,チェチェン人など現地住民と協力関係を樹立し,反共勢力,反スターリン政権に育成するとの構想もあった。しかし,そのような構想は,東方ソ連を大ドイツの生存圏として,物資調達,強制連行・強制労働を進める強権的な植民地支配と並存することはできなかった。

ドイツは東方ソ連を生存圏として植民地化しようとしたが,これに従った現地住民は,親ドイツの裏切り者,売国奴として処断された。ドイツに食料・物資・家屋宿舎を提供し,ドイツのために労役をこなし,道案内やスパイ探しなど情報を提供するロシア人,ウクライナ人の住民は,パルチザンに脅され,殺害された。 

写真(右):1941年9月,ソビエト連邦の南部、ウクライナのミルゴルド,III号戦車:重量過多の為か、木製架橋の上で橋を損傷してしまい、渡る途中で立ち往生したIII号戦車。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1975-078-25A Original title: info Auf einer zu schwachen Holzbrücke eingebrochener schwerer deutscher Panzerーkampfwagen. Panzer Regiment 36 Bei Supani, 48km südlich Mirgorod, Ukraine, Rußland. 14.9.1941 Dating: September 1941 Photographer: Plessen, von撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 146-1975-078-25A引用(他引用不許可)


◆1941年6月22日にドイツがソ連を攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していた英国,米国は即座にソ連支援を公言した。それまでのチャーチル英首相の関心は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことだった。

チャーチル英首相は,独ソ戦の勃発に,英国の危機が遠のいたと大喜びした。そして,チャーチルは反共産主義だったが,即座にソ連に軍事援助を申し込んだ。チャーチルと親密なルーズベルト大統領も,ソ連を武器貸与法の対象とした。ソ連は,米英から軍事援助を受けることができた。

写真(右)1942年初期,ソ連(?)、「ヘルマンゲーリング」装甲師団の長砲身60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型第23号車。戦車の塗装が真新しいように見えるので、部隊配備されたばかりなのであろうか。ヒトラーの護衛部隊の発展した「ライプシュタンダルテ・アドルフヒトラー」と同様に、ゲーリングの護衛部隊から発展したのが、「ヘルマンゲーリング」装甲師団。対フランス戦、ロシア東部戦線、北アフリカ戦、イタリア戦線と各地に派遣されている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-639-4268-10 Archive title: Reichsgebiet / Ostfront (?).- Regiment (mot.) "Hermann Göring" (später Panzer-Division "Hermann Göring"). Ausbildung, Panzersoldat mit Fernglas im Panzerturm eines Panzer III (Turmnummer: 23); Eins Kp Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Nowak撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三個の軍集団,320万人,戦車3500両,火砲7000門が投入された。

写真(右)1942-1943年冬,ソ連,東部戦線、ドイツ陸軍第35戦車連隊第1中隊のIII号戦車F 型(初期型短方針5cm砲搭載):車体前面に追加装甲版を設置していない。車体前面には、四角銃座に7.92mm機関銃を装備している。砲塔上には大型司令塔を設けている。
写真は、Panzerwaffe on the battlefield 3 World War Two Photobook Series Vol.23引用。

突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。

ドイツのソ連侵攻2ヶ月後の1941年9月1日,ドイツ・ユダヤ人がユダヤの星をつけることについての警察条令が発令。(ドイツ占領地では1940年からユダヤの星をつけさせていた)

写真(右)1942年春,ソ連、モスクワ西方200キロ、ルジェフ攻防戦の時期のIII号戦車G/F型。15名の歩兵が便乗している。装備しているのは60口径5センチ戦車砲ではなく42口径5センチ砲のようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-269-0240-11A Archive title: Sowjetunion.- Panzer III mit aufgesessener Infanterie durchquert ein Dorf; PK 697 Dating: 1942 Frühling Photographer: Böhmer 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラー卓上談話(ヒトラーのテーブル・トーク)
ナチ党官房長官マルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を,ナチ党員・下級将校・速記者のハインリヒ・ハイムに記録をとらせた。そして,これを元にボルマンの速記者たちは口述筆記し,タイプ原稿を作成した。ボルマンは原稿に訂正・解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。

1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。ロシアの湿地帯にユダヤ人の奴等を置き去りにはできないなどと言ってくれるな。わが部隊の心配を誰がするというのか。われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。
-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。現時点でいたずらに問題を増やしても意味はない。時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。

写真(右)1942年夏,ソ連戦線南部、ドン川=スターリングラードを進撃し集落に入ったIII号戦車F型Sd.Kfz.141:3.7センチ砲を装備している。居住性,操作性はよいが,攻撃職不足だった。III号戦車は砲塔正面の同軸機関銃の装着状況が3.7センチ砲搭載のF型と42口径5センチ砲搭載のG型では明瞭に異なっている。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Panzer III auf unbefestigter Straße; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Sautter撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-218-0525-05引用(他引用不許可)


ユダヤ人絶滅の方針は,最高機密とされたが,それは,殺戮を行っていることが知れれば次のような支障が生じるからである。

1)ユダヤ人が殺害されると知れば,反乱を起こす。そこで,ユダヤ人の積極的な抵抗を防止するために,東方への移送,収容所での労働を偽りの名目として,絶滅収容所へ移送した。

2)ユダヤ人絶滅のような残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。

3)後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人殲滅戦争は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にもユダヤ人殺戮を秘匿する必要があった。

1943年1月,第二次大戦における最大規模の決戦となったスターリングラード攻防戦で,ドイツ国防軍は,大敗した。多数のドイツ兵が死亡し捕虜になった時期,ゲットーでユダヤ人が生きながらえていることに,ヒトラーは耐えられなかった。ついに親衛隊ヒムラー長官に,全ユダヤ人を殲滅する口頭命令を下した。

写真(右)1942年夏,ソ連戦線南部、ドン川=スターリングラードを進撃する42口径5センチ砲搭載のIII号戦車G/F型(?)Sd.Kfz.141:占領した家屋の近くで休憩しているようだが,後方には木の枝を置いてカモフラージュしている。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).-Panzer III; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Klintzsch 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild101I-218-0522-13引用


東方ソ連に対しては,共産主義ボリシェビキが支配している地域として,その土地,資源,人民をドイツの支配下におこうとした。この手段が,ソ連侵攻バルバロッサ作戦である。

ソ連占領の目的は,東方ソ連をドイツの生存と繁栄のための生存圏とし,ボリシェビキを殲滅して,ドイツ第三帝国を千年安泰ならしめるためである。1941年クリスマスに側近に「こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから」と本心を覗かせている。 

写真(右) 1942年夏 ,ソビエト連邦の南,ドン地方、スターリングラードに進撃するドイツ陸軍III号戦車J型の縦隊:60口径5センチ戦車砲を装備。未舗装道路を進撃する戦車の前面には,予備のキャタピラが置かれている。この鉄製の帯は,装甲版を増強したのと同じ効果があったため,敵の砲弾が命中しやすい車体前面に装着された。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Panzer III in Fahrt auf unbefestigter Straße; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Geller撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用

写真(右)1942年夏,ソ連南部ドン川=スターリングラードを進む南方軍集団所属のIII号戦車J型:60口径5センチ戦車砲を装備して対戦車戦闘能力を向上させたタイプ。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-218-0528-06 Archive title:Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Panzer III(Sd. Kfz. 141); PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Thiede撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 ・Bild101I-218-0528-06引用(他引用不許可)。


写真(右)1942年夏,ソ連南部、スターリングラード、ドン川に到着したドイツ陸軍の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を搭載したIII号戦車G/F型:手前のドイツ軍兵士は、塹壕のあって双眼鏡を手に対岸スターリングラード市街を偵察している。
Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-218-0528-31 Archive title: Sowjetunion-Süd (Don/Stalingrad).- Schlacht um Stalingrad.- Soldaten in Stellung, dahinter Panzer III; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Thiede撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 ・Bild_101I-218-0528-31 引用(他引用不許可)。


III号戦車(Pz Kpfw III)G型からJ型では、砲塔に42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を装備し、携行砲弾数は99発あった。III号戦車は、全幅が小さく大直径のターレットを設けることができなかった。そこで、大型砲塔が搭載できず、搭載火砲の口径は5センチが限界であり、短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)ですら搭載困難だった。

1941年6月にソ連に侵攻したドイツ軍は3.7センチ砲搭載の初期型III号戦車(Pz Kpfw III)の威力不足を痛感した後になって、やっと5センチ砲へとIII号戦車の火砲攻撃力を強化した。しかし、5センチ砲搭載のIII号戦車が登場した1942年には、既にソ連軍はT-34戦車を大量に前線配備しており、III戦車がT-34戦車に有効な反撃をすることは困難になっていた。

 III号戦車(Pz Kpfw III)は,1941年から本格的な主力戦車配備され,3.7センチ砲を搭載していた。開発当初は,42口径5センチ砲を搭載していたが,ヒトラーは対戦車戦闘能力を重視し,さらに長砲身の60口径砲を搭載するように指示した。しかし,陸軍当局は,重量増加による機動性低下を嫌い,42口径砲のまま量産してしまう。60口径砲への転換が始まったのは,1941年4月にヒトラーが命令無視を知って以降である。

写真(右):1942-1943年,ロシア東部戦線、ドイツ軍第14装甲師団所属の60口径5センチ戦車砲(5cmKwK)搭載のIII号戦車J型:
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-748-0088-02A Archive title: Rußland.- Panzersoldaten der 14. Panzerdivision im Turm eines Panzer III bei Beobachtung, Besetzung einer Ortschaft; PK Ob. d. H. Dating: 1942/1943 Photographer: Schmidt/Geyer
写真はWikimedia Commons Category: Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101II-MW-5674-41, Übungen mit Panzer III für Unternehmen Seelöwe.jpg引用。


1942年秋,キャタピラを修理する60口径5センチ砲装備のIII号戦車J型:車体よりも長い5センチ砲なら60口径、車体と同程度の長さなら42口径5センチ砲であるが、斜めからの撮影や遠方からの撮影では区別は必ずしも容易ではない。
Im Osten.- Ausbildung, Kettenwechsel bei einem Panzer III(Sd. Kfz. 141) ; PK Eins Kp Lw zbV Dating: 1942 Anfang Photographer: Nowak撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-639-4262-04 引用(他引用不許可)。


1941年の独ソ戦当初から,5センチ砲装備のIII号戦車(Pz Kpfw III)では,ソ連赤軍のT-34戦車やKV-1重戦車に対抗できず圧倒された。
しかし,4号戦車強化型(43口径7.5センチ砲搭載)の量産が十分ではなく,後継戦車となるはずのV号戦車「パンテル」の開発は遅れ,VI号戦車「ティーゲル」の量産も進展しなかった。1943年になっても,依然としてIII号戦車が第一線に配備され続けた。

写真(右):1942年9月,ソ連スターリングラードに向かって前進するドイツ軍III号戦車:砲塔の火砲は、42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38)あるいは60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)である。
Deutsche Panzerspitze in der Kalmückensteppe nördlich von Stalingrad September 1942 Archive title: Sowjetunion.- Soldaten auf und neben Panzer III(Sd. Kfz. 141) mit geöffneten Turmlucken in der Steppe Dating: September 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 ・Bild_169-0367 引用。


写真(右)1942年9月,ソ連,ステップ(草原)を北からスターリングラードに進撃してきたドイツ軍のIII号戦車G/J 型。42口径5センチ戦車砲を搭載。上空には、ドイツ空軍の単発戦闘機Bf109F型が飛行している。III号戦車は攻撃力が不足しており、ソ連赤軍のT-34 戦車に苦戦した。III号戦車の生産は1943年には中止され、III号突撃砲の生産に振り替えられた。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-0368 Original title: info Deutsche Panzerspitze in der Kalmückensteppe nördlich von Stalingrad September 1942 Archive title: Sowjetunion.- Soldaten auf Panzer III mit geöffneten Turmlucken in der Steppe Dating: September 1942 Photographer: o.Ang.
写真はWikimedia Commons ・ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 169-0368, Russland, Panzer III in Steppe.jpg引用。

独ソ戦の勃発1年たってIII号戦車Panzerkampfwagen III)が装備していた戦車砲は,47口径あるいは60口径5センチ砲で、ソ連軍に比較するとドイツ軍戦車の対戦車戦闘能力は低かった。
スターリングラード攻防戦ではソ連軍のT-34戦車KW-1重戦車に対抗できず,8.8センチ高射砲などの火砲や航空支援を受けながら戦った。戦車の集団用法,空軍による地上援護と組み合わせた電撃戦により,ソ連軍を奇襲,撃破できたのである。

写真(右)1942年10月,量産された42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を搭載したIII号戦車F/G型:G型からJ型の搭載砲は、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)で、砲弾99発を携行できた。後方には、大量の覆帯(キャタピラー)がとぐろを巻いて積まれている。大型砲が搭載不可能なIII号戦車は、1943年には生産が中止された。そして、III号戦車の車体を改造した7.5センチ戦車砲搭載のIII号突撃砲の量産に資源を集中することになった。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-B22419 Original title: info ADN-ZB II. Weltkrieg 1939-45 Panzer für die faschistischen deutsche Wehrmacht, die in einem deutschen Rüstungsbetrieb zum Abtransport bereit stehen. (Aufnahme: Oktober 1942/Reichelt) Archive title: Fertige Panzer III in deutschem Rüstungsbetrieb vor Stapeln mit Panzerketten Dating: Oktober 1942 Photographer: Reichelt撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


III号戦車G-J型の搭載砲は、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)で、砲弾99発を携行できた。後方には、大量の覆帯(キャタピラー)がとぐろを巻いて積まれている。大型砲が搭載不可能なIII号戦車(Pz Kpfw III)は、1943年には生産が中止された。そして、III号戦車の車体を改造した7.5センチ戦車砲搭載のIII号突撃砲の量産に資源、労働力を集中することになった。

写真(右):1942年11月11日,第一次世界大戦の戦勝記念日、オーストラリア、ビクトリア州メルボルンで展示されたドイツ軍から鹵獲したIII号戦車F型:42口径5センチ戦車砲(5cm KwK38 L/42)を装備しているが、キャタピラは全て外されている。この写真を掲載したヘラルド紙(The Herald)はメルボルンで1840年から1990年まで発行されていた。
ID number 137053 Maker Herald Newspaper
Description MELBOURNE, VIC. 1942-11-11. A GERMAN PANZER-KAMPFWAGEN III AUSF E MEDIUM TANK ON DISPLAY IN A CITY STREET DURING THE ARMISTICE DAY PARADE.
写真はAustralian War Memorial ・ID 137053引用。


写真(右)1942-1943年,ソ連、スターリングラード戦時期の武装SS親衛隊騎兵師団の擲弾兵とドイツ陸軍の長砲身60口径5センチ戦車砲(5cm Kampf-wagenkanone 39 L/60) を搭載したIII号戦車J/L型(Panzer III):戦車の全面には三段にもわたって覆帯(キャタピラ)を設置して補助装甲としている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-610-1979-23 Archive title: Sowjetunion.- Panzer III passiert auf dem Marsch eine sandige Dorfstraße; PK KBK Lw zbV Dating: 1942 Photographer: Henkels 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


 ドイツ軍のIII号戦車J型は設計に変更を加えて、搭載予定がなかった長砲身60口径5センチ砲を搭載した型である。実際、ドイツ軍は、ソ連の戦車の防御力が強く、予定していたラインメタル社の42口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)を改造した42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38 L/42) では威力不足であると感じていた。しかし、実は独ソ戦勃発の前年、1940年後半には、ヒトラーは、当時III号戦車に搭載する42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)では威力不足であると直観し、より強力なライメタル社の60口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzer-abwehrkanone 39)を搭載することを要求していた。

写真(右):1942年、ドイツ東部戦線ロシア、長砲身5センチ戦車砲(5cm KwK L/60)装備のドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:それまでの42口径5cm戦車砲をより強力な60口径に換装した。
Description Russland.- Panzer III (mit 5cm KwK L/60), Panzer in Bereitstellung, mit Minenabwurfvorrichtung; PK Prop. Title Russland, Panzer III Info non-talk.svg Depicted place Russia Date circa 1942
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III Ausführung J in the Moscow Museum of the Great Patriotic War・File:Bundesarchiv Bild 101I-185-0139-25, Russland, Panzer in Bereitstellung.jpg引用。


-しかし、対戦車砲は、砲尾が水平に開閉する構造で狭い砲塔の中での薬莢が飛び出して使用は不可能だった。戦車砲は、砲尾が垂直に開閉するように改造する必要があった。また、当時、ドイツ陸軍は最新の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の威力は十分あると判断していたために、長砲身60口径5センチ対戦車砲(5 cm PaK 38)をIII号戦車に搭載することに消極的だった。

 独ソ戦を準備していたヒトラーは、1941年春になってもIII号戦車Panzerkampfwagen III)には60口径5センチ対戦車砲が搭載されていないことを知り、42口径ではなく60口径砲への換装を厳命した。こうして、急遽、対戦車砲の戦車砲への改造が始まり、独ソ戦勃発後、半年近くも経った1942年末、60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型が登場した。

写真(右):1942-43年冬,ソ連、スターリングラード戦時期の武装SS親衛隊騎兵師団の擲弾兵とドイツ陸軍の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を搭載したIII号戦車F/G型第301号車。戦車の全面には覆帯(キャタピラ)を設置して補助装甲としている。雪原を歩く武装親衛隊の擲弾兵(歩兵)は、白色の冬季迷彩塗装の外套をきている。
Sowjetunion.- Grenadiere der Waffen-SS-Kavallerie-Division im Infanterieeinsatz mit Panzer-unterstützung, Panzer III(Sd. Kfz. 141) Datierung: 1942/1943 Winter Fotograf: Büschel Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)


III号戦車Panzerkampfwagen III)を改造して,歩兵に随伴して火力支援する突撃砲があった。これはIII号戦車の砲塔を取り去った車台上に,戦闘室を設けて短砲身24口径7.5センチ砲を搭載し,対戦車戦闘能力を向上したものである。

写真(右)1942-1943年冬,ソ連,東部戦線、砲塔が爆発したドイツ陸軍第5装甲師団のIII号戦車J 型(初期型短方針5?砲搭載):車体前面に追加装甲版を設置し50mmに防御力を強化した。車体前面には、半球形銃座に7.92mm機関銃を装備し、やはり防御力を向上している。 車体右側のキャタピラは残っているが、左側は残っていない。
写真はWikimedia Commons ・Panzerwaffe on the battlefield 3 World War Two Photobook Series Vol.23引用。

1942年4月12日ヒトラー卓上談話:「特にこの(対米戦と独ソ戦という)戦争では,負ければすべてを失うということを明記しなければならない。だからスローガンは唯一“勝利”である。」

1942年5月22日:「(東部の)戦場では理想主義者が次々に死んでゆくのに,銃後で犯罪者どもを野放しにしておけば,わが国の人種政策は逆行してしまう。第一次大戦の教訓を忘れてはいけない。私の結論は次の通りだ。兵士は死ぬ可能性がある。犯罪者は確実に死ななければならない。これに選択の余地はない。この原則を受け入れない国家に,理想主義に燃える兵士を戦場で市の危険にさらす権利はない。-----銃後のドイツ国民が劣等人種に成り果てることがないように監視することこそ,私の義務であると心得ている。

1942年8月30日ヒトラー卓上談話:「ロシアでは共産主義が本性を現している。我々は1メートルごとに掃討作戦を展開し,即決裁判を行わざるを得なかった。テロリストとの戦いは,過酷な戦いである。エストニアとラトビアでは反抗は収まった。が,ゲリラの情報を担うユダヤ人を殲滅しない限り,我々の責務は完了しない。」ユダヤ人が反ドイツ謀略戦争を仕掛けているので,殲滅すべきだと考えていた。

写真(右)1943年夏,ソ連,東部戦線、シタデル(城塞)作戦時のドイツ陸軍第4装甲軍隷下、第7装甲師団のIII号戦車J 型とアデルベルト・シュルツ(Adelbert Schulz, 1903年12月20日 - 1944年1月28日)中佐。1943年8月6日、シュルツ中佐は、騎士鉄十字章を授与され大佐に昇進。1943年12月、シュルツ大佐は、柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を受章し、少将に昇進。翌年初頭、第7装甲師団の師団長に就任したが、その一か月後に戦死した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-022-2922-13 Archive title: Sowjetunion.- "Unternehmen Zitadelle".− Oberstleutnant der Panzertruppe Adelbert Schulz (mit Ritterkreuz) mit Panzeroffizier vor Panzer III; PK 637 Dating: 1943 Sommer Photographer: Kipper
写真はWikimedia Commons ・ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-022-2922-13, Russland, Adelbert Schulz, Oberstleutnant der Panzertruppen.jpg引用。

ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺・虐待は,秘匿されてきたが,それは,殺戮を行っていることが知れ渡れば次のような支障が生じるからである。
1)敵は殺害されると知れば,抵抗をやめない。そこで,抵抗を弱めるために,姦計を弄して,処刑した。
2)残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。
3)後方・前線のドイツ人にとって,非人間的な虐殺・虐待は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にも虐殺・虐待を秘匿する必要があった。
 

虐殺・虐待という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。バルバロッサ作戦,スターリングラード攻防戦の背後には,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺の問題があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ませるわけにはいけないであろう。

◆ナチスは,人種民族的偏見は,人種民族差別を正当化し,ドイツ民族はアーリア人の血を受け継ぐ優秀な民族であり,世界の覇権を握るべきである。他方,人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ人,スラブ人は下等人種・劣等民族であり,排除しなければならないとした。

写真(右)1943年6-7月,ソ連,東部戦線中央南部、ドイツ陸軍III号戦車L型。砲塔周囲と車体の側面にツェルツェン(防御板)を装備している。ここに成形炸薬弾(ホローチャージ)が命中した場合、この装甲板で爆発し、砲塔内あるいは車体内に爆風・火炎が吹き込まないで済む。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-219-0595-03 Archive title: Sowjetunion, Mitte/Süd.- Kolonne von Panzer III mit Turm- und Seitenschützen auf freiem Feld; PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli Origin: Bundesarchiv
写真はWikimedia Commons ・ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-219-0595-03, Russland-Mitte-Süd, Panzer III.jpg引用。

◆人種は,生物学的特長によるヒトの区分,民族は言語文化的な特長による人間の区分であって,人種は遺伝・DNAが支配する先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分とされる。しかし,実際には,人種も民族も,区分は,実は明確ではない。生物学的にも,人類は連続的に変化し,DNAを踏まえれば,人「種」ではなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。

人種民族差別は,為政者の裁量を基準に行われており,似非科学な偏見,恣意的なご都合主義,プロパガンダに基づいている。為政者とは,人種・民族を自分の意図に都合よく定義,特定の人種民族を差別,迫害するものである。

写真(右)1943年6-7月,ソ連,東部戦線中央部、ツェルツェン(防御板)を装備し、60口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型:車体番号421号。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-219-0595-32 Archive title: Sowjetunion, Mitte/Süd.- Panzer III (Turmnummer 421) mit Turm- und Seitenschürzen in hügeligem Gelünde; PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli Photographer: Dieck 撮影。
写真はWikimedia Commons ・ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-219-0595-30, Russland-Mitte-Süd, Panzer III.jpg引用。

写真(右)1943年6-7月,ソ連,東部戦線中央部、ツェルツェン(防御板)を装備したドイツ陸軍のIII号戦車J型。60口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 39 L/60)装備。車体番号421号。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-219-0595-30 Archive title: Sowjetunion, Mitte/Süd.- Panzer III (Turmnummer 421) mit Turm- und Seitenschürzen in hügeligem Gelünde; PK 694 Dating: 1943 Juni - Juli Photographer: Dieck 撮影。
写真はWikimedia Commons ・ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-219-0595-30, Russland-Mitte-Süd, Panzer III.jpg引用。

写真(右)1943年8-9月,ソ連,東部戦線中央部、シタデル(城塞)作戦時のドイツ陸軍第4装甲軍隷下、第7装甲師団のIII号戦車L型。III号戦車L型の5 cm KwK 39 L/60搭載砲塔前面に装甲を追加、強化した。双頭の鷲の記章を着けている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-154-1964-24 Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Panzer III mit Wappen (schwarzer Doppeladler, Herzschild mit weißem Kreuz) auf Turm; PK 697 Dating: 1943 August - September Photographer: Dreyer 撮影。
写真はWikimedia Commons ・ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-154-1964-24, Russland, Panzer III.jpg引用。

写真(右):1943年7月-8月,ソビエト連邦の南部,60口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 39 L/60)を搭載したIII号戦車L型(砲塔番号232):III号戦車L型の砲塔前面に装甲を追加、強化した。開けた草原だが,道路事情が悪いのか,戦車の車輪(主輪,上側転輪)は泥だらけになっている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-239-2092-09A Archive title: Sowjetunion-Süd, bei Mius/Stalino.- Panzersoldaten auf Panzer III(Sd. Kfz. 141) (Turmnummer 232) auf freiem Feld stehend; PK 695 Datierung: 1943 Juli - August Fotograf: Schneider-Kunath Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 146-1975-078-25A引用(他引用不許可)


写真(右):1944年4-5月,イタリア戦線、60口径5センチ戦車砲搭載のIII号戦車J型。搭載した60口径5センチ戦車砲は、後方のVI号重戦車ティーガー、V号戦車パンターと比較するとかなり小ぶりである。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-313-1003-07A Archive title: Italien.- Panzer III, IV, V "Panther" und Sturmgeschütze am Rand eines Feldes stehend; PK 699 Dating: 1944 April - Mai Photographer: Vack
写真はWikimedia Commons Category:Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-308-0799Q-23A, Italien, Panzer III.jpg引用。


写真(右):1944年4-5月,イタリア戦線、60口径5センチ戦車砲搭載のIII号戦車J型:後方にはVI号テーゲル戦車、V号パンテル戦車や長砲身7,5cm戦車砲を装備したIV号戦車が見える。ともに藪の中に隠されているが、西部戦線では、ドイツ軍は制空権を失っており、対空偽装は必須だった。
Italien.- Panzer III, IV, V "Panther" und Sturm-geschätze am Rand eines Feldes stehend; PK 699 Depicted place Italien, World War II, unknown town Date April 1944 Photographer Vack
写真はWikimedia Commons Category:Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File:Bundesarchiv Bild 101I-313-1003-08A, Italien, deutsche Panzer an Feldrand.jpg引用。


写真(右)1944 年9月24日、オランダのオーステルハウト、ネイメーヘンでイギリス第5軍に撃破されたドイツ陸軍III号戦車:6月に北フランスに上陸した西側連合軍は、10月にはドイツ本土アーヘンにまで軍を進めている。このようなドイツ本土の緊急事態のために、旧式になった5センチ砲搭載のIII号戦車まで防衛戦に投入されたのであろう。手前のイギリス軍歩兵は銃を構えてポーズをとっているようだ。
Catalogue number: B 10376, Part of WAR OFFICE SECOND WORLD WAR OFFICIAL COLLECTION, Subject period: Second World War, Alternative Namesobject category: Black and white, Creator: No 5 Army Film & Photographic Unit, Carpenter (Sgt), Category: photographs, Object description: A soldier crouches near a German PzKpfw III tank of Panzer-Kompanie Mielke, Kampfgruppe Knaust (knocked out by No. 1 Squadron, Welsh Guards), in Oosterhout near Nijmegen, 24 September 1944. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (B 10376)



2.III号戦車N型−24口径7.5センチ砲搭載の最終型

写真(右):1943-1944年,イタリア戦線、IV号戦車仕様の7.5センチ戦車砲(7,5cm KwK)搭載のIII号戦車N型(Panzer-kampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2):車体、砲塔の周囲に多数の樹木を置いて偽装を施している。
Inventory: Bild 101 I - Propagandaーkompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-308-0799Q-09A Archive title: Italien.- Panzer III (mit Turm eines Panzer IV mit 7,5cm KwK; Turmnummer 122) in hügeligem Gelände; PK 699 Dating: 1943/1944 Photographer: Fraß
写真はWikimedia Commons Category:Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bild 101I-308-0799Q-09A, Italien, Panzer III, Tarnung.jpg引用。




1943年9月9日のサレルノ上陸、アヴァランチ作戦Operation Avalanche)は、イタリアの降伏と同じく、ドイツ軍側には、十分に予期された作戦だった。守備に就いていたドイツ陸軍第16装甲師団16. Panzer-Division )は、サレルノSalerno)に上陸した連合軍地上軍への反撃を開始し、橋頭堡に連合軍を追い詰めた。イタリア住民の歓迎を受けて、すぐにもナポリを占領、ローマへの進軍も容易であると考えた西側連合軍は、予想外の反撃を受けて、作戦を順調に進めることが難しくなった。

写真(右):1943-1944年,イタリア戦線、24口径7.5センチ戦車砲を搭載したIII号戦車N型122号車(Panzer-kampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)の砲塔:砲塔の周囲には薄い装甲板を張って、対戦車榴弾(ホローチャージ)が命中した時に早期に破裂させ、装甲貫通能力を減殺する目的がある。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-308-0799Q-30A Archive title: Italien.- Panzer III (mit Turm eines Panzer IV mit 7,5cm KwK; Turmnummer 122) in hügeligem Gelände; PK 699 Dating: 1943/1944 Photographer: Fraß
写真はWikimedia Commons Category:Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-308-0799Q-23A, Italien, Panzer III.jpg引用。


写真(右):1943-1944年,イタリア戦線、IV号戦車仕様の7.5センチ戦車砲搭載のIII号戦車N型122号車(Panzer-kampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2):砲塔の周囲には薄い位装甲板を張って、対戦車榴弾(ホローチャージ)が命中した時に早期に破裂させ、装甲貫通能力を減殺する目的がある。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-308-0799Q-23A Archive title: Italien.- Panzer III (mit Turm eines Panzer IV mit 7,5cm KwK; Turmnummer 122) in hügeligem Gelände; PK 699 Dating: 1943/1944 Photographer: Fraß
写真はWikimedia Commons Category:Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-308-0799Q-23A, Italien, Panzer III.jpg引用。


写真(右):1943-1944年,イタリア戦線、III号戦車N型122号車(Panzer-kampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)の砲塔。搭載した24口径7.5センチ戦車砲の掃除をしている。:IV号戦車と同じ大口径を搭載して、火力支援に従事した。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-308-0799Q-15A Archive title: Italien.- Panzer III (mit Turm eines Panzer IV mit 7,5cm KwK; Turmnummer 122) in hügeligem Gelände; PK 699 Dating: 1943/1944 Photographer: Fraß
写真はWikimedia Commons Category:Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-308-0799Q-23A, Italien, Panzer III.jpg引用。


イタリアの降伏は、1943年9月8日だったが、その翌日の9月9日、西側連合軍は、イタリア本土、ナポリ南のサレルノSalerno)に上陸した。これが、奇襲を狙ったアヴァランチ作戦Operation Avalanche)であり、事前の艦砲射撃や航空地上支援を省いた速攻だった。西側連合軍は、すでにハスキー作戦Operation Husky)によって、イタリア領シシリー島に上陸し、ドイツ軍を追い詰めていたから、これは順当な作戦に思えた。

写真(右):1943-1944年,イタリア戦線、IV号戦車仕様の7.5センチ戦車砲搭載のIII号戦車N型122号車(Panzer-kampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2):砲塔や車体には樹木が置かれているが、これは対空あるいは対地の偽装措置である。砲塔両脇に装備された小型3本の円筒は発煙筒で、煙幕の効果を上げるために発射角度が異なっている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-308-0799Q-11A Archive title: Italien.- Panzer III (mit Turm eines Panzer IV mit 7,5cm KwK; Turmnummer 122) in hügeligem Gelände; PK 699 Dating: 1943/1944 Photographer: Fraß
写真はWikimedia Commons Category:Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-308-0799Q-23A, Italien, Panzer III.jpg引用。


III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)は、60口径5センチ砲を搭載したIII号戦車Panzerkampfwagen III)のL型、M型の車体をベースにして、無理に24口径7.5センチ砲(7.5 cm KwK 37 L/24)に変換した末期、最終型のIII号戦車N型

1942年6月から1943年8月にIII号戦車Panzerkampfwagen III)N型は600両が生産された。

 III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)が登場した背景には、
1)III号戦車Panzerkampfwagen III)の60口径5センチ砲では対戦車戦闘能力が低く、火力支援にも不十分だったこと
2)1942年後半からIV号戦車の24口径7.5cm戦車砲KwK37搭載型の威力不足から、対戦車戦を重視した43口径7.5cm戦車砲KwK40への変換が進み、従来の24口径7.5cm戦車砲KwK37の在庫の利用が望まれたこと
の2点が指摘できる。

写真(右):1943-1944年,イタリア戦線、IV号戦車仕様の7.5センチ戦車砲搭載のIII号戦車N型122号車(Panzer-kampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2):III号戦車の砲塔を利用したために、24口径7,5cm砲の砲身付根の構造は、5cm砲搭載の場合と似通っている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-308-0799Q-36A Italien.- Panzersoldat mit Kopfhörer auf Panzer III (mit Turm eines Panzer IV mit 7,5cm KwK; Turmnummer 122) in hügeligem Gelände; PK 699 Dating: 1943/1944 Photographer: Fraß撮影。
写真はWikimedia Commons Category:Panzerkampfwagen III during World War II ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・File: Bundesarchiv Bild 101I-308-0799Q-23A, Italien, Panzer III.jpg引用。


III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)は、火力支援に有効と判断され、新編成の重戦車部隊にも配備された。ティーガーIを装備した重戦車大隊も、戦力を補強するために、多数が配属されている。

しかし、III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)は、おなじIII号戦車Pz.Kpfw III)の車体をベースに、43口径7.5センチ砲を搭載したIII号突撃砲よりも劣っていたため、1943年8月には製造中止となった。その代り、対戦車戦闘にも、火力支援にも使用可能なIII号突撃砲が、III号戦車の車体を利用して大量生産された。強力な長砲身7.5センチ砲を装備するIII号突撃砲は1万両も量産される。

24口径7.5cm戦車砲KwK37の生産は廃止されたわけではなく、第二次大戦後半では、III号戦車N型Panzerkampfwagen III Ausf N, Sd.Kfz.141/2)以外にも、八輪重装甲車、ハーフトラックに広く搭載されるようになり、火力支援に活躍する。


3.現在、保管・展示されているIII号戦車



写真(右):ウクライナ共和国、キエフ、ウクライナ国防大学National Defense University of Ukraine "Ivan Chernyakhovsky"に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車G型 PzKpfw III/G:42口径5cm戦車砲搭載で対戦車戦闘能力は高くなかったため、ソ連軍T-34戦車に対抗できなかった。
Description Українська: Panzerkampfwagen III на майданчику Національного університету оборони України в Києві Date 19 April 2016, 08:13:45 Source Own work Author Pavlo1
写真はWikimedia Commons・Category: Panzer-kampfwagen III in the Bovington Tank Museum・File: PzKpfwIII, Kyiv (1).JPG引用。 


写真(右):ウクライナ共和国、キエフ、ウクライナ国防大学National Defense University of Ukraine "Ivan Chernyakhovsky"に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車G型 PzKpfw III/G:42口径5cm戦車砲搭載で対戦車戦闘能力は高くなかったため、ソ連軍T-34戦車に対抗できなかった。
Description Українська: Panzerkampfwagen III на майданчику Національного університету оборони України в Києві 19 April 2016, 08:13:10 Source Own work Author Pavlo1
写真はWikimedia Commons・Category: Panzer-kampfwagen III in the Bovington Tank Museum・File: PzKpfwIII, Kyiv (3).JPG引用。


写真(右):ロシア共和国、モスクワ大祖国戦争博物館(Moscow Museum of the Great Patriotic War)に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車J型 PzKpfw III/J:42口径5cm戦車砲装備。
Description English: German Panzerkampfwagen III, Due to the perspective the image is taken from, it looks like an Ausf. N but it's an earlier version with 5cm gun. See other images here and here Date 21 September 2008 Source Own work Author Doomych
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III Ausführung J in the Moscow Museum of the Great Patriotic War・File: Panzerkampfwagen III in russian museum.jpg引用。


写真(右):ロシア共和国、モスクワ大祖国戦争博物館(Moscow Museum of the Great Patriotic War)に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車J型 PzKpfw III/Jの砲塔正面:42口径5cm戦車砲50-mm KwK 38 装備。一般的な徹甲弾(Pzgr. AP-HE)2.06kgで、初速850m/s、射程100mで貫通可能装甲厚(60度角)67mm、500mで57mm、 1,000mで44mm  1,500mで34mm。砲塔防盾には追加装甲を装着したが、中空部分がある。車体正面にボルト止めで追加装甲を施している。
Description Commonist.svg This file was uploaded with Commonist. Date 5 June 2014, 14:34:49 Source Own work Author Mike1979 Russia
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III Ausführung J in the Moscow Museum of the Great Patriotic War・File: PzKpfw III Ausf J in the Great Patriotic War Museum 5-jun-2014 Front.jpg引用。


写真(右):ロシア共和国、モスクワ大祖国戦争博物館(Moscow Museum of the Great Patriotic War)に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車J型 PzKpfw III/J
Description Commonist.svg This file was uploaded with Commonist. Date 5 June 2014, 14:34:49 Source Own work Author Mike1979 Russia
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III Ausführung J in the Moscow Museum of the Great Patriotic War・File: PzKpfw III Ausf J in the Great Patriotic War Museum 5-jun-2014 Front.jpg引用。


42口径5cm戦車砲50-mm KwK 38 装備。一般的な徹甲弾(Pzgr. AP-HE)2.06kgで、初速850m/s、射程100mで貫通可能装甲厚(60度角)67mm、500mで57mm、 1,000mで44mm  1,500mで34mm。砲塔防盾には追加装甲を装着したが、中空部分がある。車体正面にボルト止めで追加装甲を施している。

写真(右):ロシア共和国、モスクワ郊外のクビンカ基地内にあるクビンカ博物館戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車J型 PzKpfw III/J:60口径5cm戦車砲KwK39搭載の砲塔防楯は、本来、追加装甲が装着されていてたはずだが、このL型では追加装甲が外されている。
Description Русский: Средний танк Pz.Kpfw III в Центральном музее бронетанкового вооружения и техники в Кубинке. Date 8 June 2013, 11:56:40 Source Own work Author Mike1979 Russia
写真はWikimedia Commons・Category:Panzerkampfwagen III Ausführung J in the Kubinka Museum・File: Pz.Kpfw III in the Kubinka Museum.jpg引用。


III号突撃砲G型StuG III Ausf. G)の後期型では、ホローチャージ(成形炸薬弾)を早期爆発させる防楯( シュルツェン)を車体側面に装備し、車体前面に既存の装甲を補完する追加装甲板を鋲で装着している。防楯( シュルツェン)は、IV号戦車、V号戦車パンターにも装備されている。

III号戦車は、IV号戦車よりも若干小型で、搭載砲は当初3.7センチ戦車砲、次いで5センチ戦車砲で対戦車戦闘を念頭に置いた。他方、IV号戦車は、7.5センチ砲を搭載して、火力支援を行うことを任務としていた。両戦車とも懸架(サスペンション)方式・スプリングは、不整地走行時の衝撃吸収の役割があるが、III号戦車はトーションバー式、IV号戦車は板バネ式でバネ(スプリング)が異なる。

 トーションバーは、車体床面に設置して金属棒の捩りを使うスプリングで、板バネは転輪と車体の間を板状の金属で繋ぐスプリング。バネを使って、揺れや振動を吸収するのが目的。戦車側面の転輪は、III号戦車はトーションバー式では一輪ずつ独立して作動するが、IV号戦車は板バネ式ではニ輪一組で作動する違いがである。他方、M4シャーマン戦車は、リーフスプリング式で、金属の板を重ねたサスペンションであった。より単純なサスペンション、すなわちコイルスプリング(バネ)もある。

写真(右):2017年8月、ロシア共和国モスクワ、大祖国戦争博物館に展示されている長砲身5センチ戦車砲(5cm KwK L/60)装備のドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:戦時中に破壊された様だが、砲塔の防盾の5センチ砲基部、同軸7.92ミリ機関銃銃口の構造がよくわかる。
Description These remains appear to be genuine and look to be from an Ausf.L variant. On display in ‘Victory Park’, Museum of the Great Patriotic War, Poklonnaya Hill, Moscow, Russia. 26th August 2017 Date 26 August 2017, 11:33 Source Remains of Panzer III Ausf.L – Victory Park, Moscow Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons・Category: Panzer-kampfwagen III Ausführung L in the Moscow Museum of the Great Patriotic War・File:Remains of Panzer III Ausf.L – Victory Park, Moscow (38568727176).jpg引用。


写真(右):2017年8月、ロシア共和国モスクワ、大祖国戦争博物館に展示されている長砲身5センチ戦車砲(5cm KwK L/60)装備のドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:それまでの42口径5cm戦車砲をより強力な60口径に換装した。
Description These remains appear to be genuine and look to be from an Ausf.L variant. On display in ‘Victory Park’, Museum of the Great Patriotic War, Poklonnaya Hill, Moscow, Russia. 26th August 2017 Date 26 August 2017, 11:33 Source Remains of Panzer III Ausf.L – Victory Park, Moscow Author Alan Wilson from Stilton, Peterborough, Cambs, UK
写真はWikimedia Commons・Category: Panzer-kampfwagen III Ausführung L in the Moscow Museum of the Great Patriotic War・File:Remains of Panzer III Ausf.L – Victory Park, Moscow (38568729896).jpg引用。


写真(右):2007年6月、アメリカ合衆国メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館に展示されている長砲身5センチ戦車砲(5cm KwK L/60)装備のドイツ軍のIII号戦車E型 PzKpfw III/E:砲塔前面脇には、3発の煙幕発射機が装備されている。地面に接する小型転輪は6個で、4号戦車より少ないので区別は容易である。
Description Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007.
Source Own work
写真はWikimedia Commons・Category:Panzer-kampfwagen III Ausführung L in the United States Army Ordnance Museum・File:Panzerkampfwagen III 3.jpg引用。


写真(右):2007年6月、アメリカ合衆国メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館に展示されている長砲身5センチ戦車砲(5cm KwK L/60)装備のドイツ軍のIII号戦車E型 PzKpfw III/E:地面に接する小型転輪は6個だが、前後1個ずつ、2個が欠落している。
Description Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007. Source Own work
写真はWikimedia Commons・Category:Panzer-kampfwagen III Ausführung L in the United States Army Ordnance Museum・File:Panzerkampfwagen III 1.jpg引用。


ドイツ軍のIII号戦車E型 PzKpfw III/Eは、第二次大戦勃発1年前、1938年12月からフランス降伏後の1940年7月まで生産された初期量産型で、20トンの車体に対戦車能力の高い長砲身3.7センチ戦車砲を装備した。つまり、3号戦車は対戦車戦、4号戦車は歩兵への火力支援を目的にした戦車だった。

写真(右):2007年6月、アメリカ合衆国メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館に展示されている長砲身5センチ戦車砲(5cm KwK L/60)装備のドイツ軍のIII号戦車E型 PzKpfw III/E:砲塔前面両脇には、3発の煙幕発射機が装備されている。地面に宣する小型転輪は6個で、4号戦車より少ないので区別は容易である。
Description English: Panzer-kampfwagen III at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007. Date 12 June 2007 Source Own work Author Picture taken by myself, Mark Pellegrini
写真はWikimedia Commons・Category:Panzer-kampfwagen III Ausführung L in the United States Army Ordnance Museum・File:Panzerkampfwagen III 2.jpg引用。


3号戦車E型は、機動力を向上させるために、片側6個の転輪をトーションバー・サスペンション(懸架)を採用した。また車体側面に搭乗員の緊急用出入り口を設けた。防御面では、それ以前のD型の14.5mm厚から30mm厚に強化されたため、重量は16トンからへ19.5トンへと大幅に増加した。ただし、搭載した火砲は同じである。生産台数はE型96輌、F型435輌である。

写真(右):2008年4月、アメリカ合衆国メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館に展示されている長砲身5センチ戦車砲(5cm KwK L/60)装備のドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:それまでの42口径5cm戦車砲をより強力な60口径に換装した。
Description English: Taken at Aberdeen Proving Ground Date 13 April 2008 (original upload date) Source Self-photographed Author Raymond Douglas Veydt, aka BonesBrigade at en.wikipedia
写真はWikimedia Commons・Category:Panzer--kampfwagen III Ausführung L in the United States Army Ordnance Museum・File:Aberdeen proving grounds 033.JPG引用。


写真(右):2007年6月、アメリカ合衆国メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館に展示されている長砲身5センチ戦車砲(5cm KwK L/60)装備のドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:地面に宣する小型転輪は6個で、4号戦車より少ないので区別は容易である。
Description Picture taken by myself, Mark Pellegrini, at the United States Army Ordnance Museum (Aberdeen Proving Ground, MD) on June 12, 2007. Source Own work
写真はWikimedia Commons・Category:Panzerkampfwagen III Ausführung L in the United States Army Ordnance Museum・File:Panzerkampfwagen III 4.jpg引用。


写真(右):フランスのメーヌ=エ=ロワール県、ソミュール戦車博物館に保管展示されているドイツ軍のIII号戦車F型 Panzer-kampfwagen III Ausf F
Description SdKfz 141 Panzerkampfwagen III Ausf F 1939 -Canon 37mm, 2 × MG 34 -HL 120 TRM 300cv Date 15 August 2015, 10:07 Source Panzer III Author Falcon® Photography from France
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in museums・File:SdKfz 165 Hummel, Musée des Blindés, France, pic-5.JPG引用。


写真(右):フランスのメーヌ=エ=ロワール県、ソミュール戦車博物館に保管展示されているドイツ軍のIII号戦車F型 Panzer-kampfwagen III Ausf F
Description English: German Panzer III(WW II) at the Musée des Blindés in Saumur (France) Date 12.08.2011 Source Own work Author Matthias Holländer
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in museums・File:SdKfz 165 Hummel, Musée des Blindés, France, pic-5.JPG引用。


III号戦車Pz.Kpfw III)は、後期型になって60口径5センチ戦車砲を搭載し、砲塔や車体前面には、リベットで追加装甲を施している。これは、対戦車戦闘能力を攻撃力、防御力の双方から向上させようとした措置だった。しかし、北アフリカ戦線では、M4シャーマン戦車の75ミリ砲、東部戦線ではソ連軍T-34戦車の76.2ミリ砲による攻撃を受け、苦戦した。結局、III号戦車は、第二次大戦後半には、対戦車戦闘には不向きであるとされ、火力支援のために若干が24口径7.5センチ砲搭載のN型が生産されたものの、1943年中に製造は中止されてしまう。

写真(右):ドイツのニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管展示されているドイツ軍のIII号戦車M型:60口径5cm戦車砲KwK39を装備したIII号戦車M型は1942年10月から1943年2月に250輌が量産された。

Description English: German Tank Museum Date 7 July 2010 Source Own work Author Banznerfahrer
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in museums・File: Panzermuseum Munster 2010 0069.JPG引用。


ドイツ連邦の北部ニーダーザクセン州にあるミュンスターには、戦前からドイツ軍の教育施設があり、現在もドイツ連邦軍の訓練・演習施設がある。ミュンスター戦車博物館には、第二次世界大戦のドイツ軍戦車として、I号戦車、II号戦車、III号戦車、IV号戦車、V号戦車パンター、VI号戦車ティーガーIIが保管展示されている。

写真(右):ドイツのニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管展示されているドイツ軍のIII号戦車M型
English: German Tank Museum Date 7 July 2010 Source Own work Author Banznerfahrer
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III at the Panzermuseum Munster・File: Panzermuseum Munster 2010 0079.JPG引用。


ドイツ連邦の北部ニーダーザクセン州にあるミュンスター戦車博物館には、第二次世界大戦のドイツ軍自走砲として、I号戦車、II号戦車改造のヴェスペ10.5cm自走砲、III号戦車改造のIII号突撃砲、IV号戦車改造のフンメル 150mm自走砲、IV号戦車改造のIV号駆逐戦車、VI号戦車改造のシュトルムティーガーが保管展示されている。

写真(右):ドイツのニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管展示されている60口径5cm戦車砲KwK39を搭載したドイツ軍のIII号戦車M型
Description English: German Tank Museum Date 7 July 2010 Source Own work Author Banznerfahrer
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in museums・File: Panzermuseum Munster 2010 0083.JPG引用。


III号戦車Pz.Kpfw III)A-F型は47口径3.7 cm KwK 36(120発)、G-J型は42口径5 cm KwK 38(99発)を搭載している。しかし、1943年に入ると明らかに攻撃力不足で、III号戦車の生産は1943年8月に終了している。これ以降は、III号戦車は、車体を活かしてIII号突撃砲としてのみ生産が続けられた。

写真(右):ドイツのニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管展示されているドイツ軍のIII号戦車M型
English: German Tank Museum Date 7 July 2010 Source Own work Author Banznerfahrer
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III at the Panzermuseum Munster・File: Panzermuseum Munster 2010 0079.JPG引用。


ドイツ連邦の北部ニーダーザクセン州にあるミュンスター戦車博物館には、第二次世界大戦の連合軍車両として、アメリカ軍のM4A1シャーマン戦車、イギリス軍のコメット巡航戦車、ソ連赤軍のT-34/76中戦車、T-34/85中戦車が保管展示されている。

写真(右):ドイツのニーダーザクセン州、ミュンスター戦車博物館に保管展示されているドイツ軍のIII号戦車M型の60口径5cm戦車砲KwK39:M型は1942年10月から1943年2月に250輌が量産された。
Description English: German Tank Museum Date 7 July 2010 Source Own work Author Banznerfahrer
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in museums・File: Panzermuseum Munster 2010 0072.JPG引用。


ドイツ軍のIII号戦車の発動機は、マイバッハ HL 120 TRM 4ストロークV型12気筒ガソリンエンジン 300 馬力 (221kW)を搭載、エンジンは車体後部に設置されているが、前輪駆動である。トーションバー式サスペンション(懸架)で、最高速度は40 km/h(整地)あるいは19 km/h(不整地)、航続距離150 kmである。

写真(右):イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:カーキ色に再現された60口径5cm戦車砲KwK39(携行砲弾数84発)搭載のL型。
Description English: The Tank Museum Date 16 October 2013, 13:26:41 Source Wikimedia UK Author Nilfanion
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank MuseumFile: The Tank Museum (2315).jpg引用。


イギリス南部、ドーセット州、ボービントンには、イギリス陸軍のボービントン基地(Bovington Camp)があり、そこでは戦車や装甲車の野外演習場で部隊の訓練が実施され、さらに試作車や敵鹵獲車両などの性能試験・実験を行っていた。そこで、戦後になって、集められ保管されていた戦闘車輛をもとに、戦車博物館が開設された。

写真(右):イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:60口径5cm戦車砲KwK39(携行砲弾数84発)搭載で対戦車戦闘能力の向上を企図したが、ソ連軍T-34戦車には威力不足だった。
Description Photo ref; Nikon-D80-2013-DSC_1318 (Edited) Date 6 December 2006, 02:19 Source Panzer III, The Tank Museum, Bovington. Author Roland Turner from Birmingham, Great Britain
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank Museum・File: Panzer III, The Tank Museum, Bovington. (11484171315).jpg引用。


写真(右):イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:60口径5cm戦車砲KwK39(携行砲弾数84発)搭載で対戦車戦闘能力の向上を企図したが、ソ連軍T-34戦車には威力不足だった。
English: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank Museum Date 21 August 2016, 14:27:46 Source Own work Author Jonathan Cardy
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank Museum・File: The Tank Museum (2315).jpg引用。


写真(右):イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:カーキ色に再現された60口径5cm戦車砲KwK39(携行砲弾数84発)搭載のL型。
Description English: The Tank Museum Date 16 October 2013, 13:26:41 Source Wikimedia UK Author Nilfanion
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank MuseumFile: Panzer 3 (III) (3666265520).jpg引用。


写真(右):イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車L型 PzKpfw III/L:60口径5cm戦車砲KwK39搭載の砲塔防楯は、本来、追加装甲が装着されていてたはずだが、このL型では追加装甲が外されている。
Description Panzer 3 (III) Date 27 June 2009, 11:19 Source Panzer 3 (III) Author Simon Q from United Kingdom
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank Museum・File: Flickr - davehighbury - Bovington Tank Museum 058 Panzer 1.jpg引用。


 第一次世界大戦に使用されたイギリス陸軍のマーク I 戦車から、第二次世界大戦中のマチルダ歩兵戦車、チャーチル歩兵戦車、コメット巡航戦車、アメリカ陸軍のM3中戦車、M4シャーマン中戦車、シャーマン ファイアフライ、M10 ウォルブリン駆逐戦車などの他、ドイツ陸軍のI号戦車、II号戦車、III号戦車Pz.Kpfw III)、IV号戦車、V号戦車パンター、VI号ティーガー重戦車、駆逐戦車ヘッツァー、ヤークトパンター駆逐戦車、ヤークトティーガー重駆逐戦車などが保管・展示されている。

写真(右):イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車N型 PzKpfw III/\N:III号戦車N型は、IV号戦車前期と同じ24口径7.5cm戦車砲を搭載した火力支援用の戦車。
Description Description Sd Kfz 141/2 Panzerkampfwagen III Ausf N Date 18 April 2010, 13:40 Source Sd Kfz 141/2 Panzerkampfwagen III Ausf N Uploaded by tm Author Simon Q from United Kingdom
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank MuseumFile: Sd Kfz 141 2 Panzerkampfwagen III Ausf N (4536025923).jpg引用。


写真(右):イギリス南部、ドーセット州、ボービントン戦車博物館に保管・展示されているドイツ軍のIII号戦車N型(PzKpfw III Auf N):車体前面、前方側面には、リベットで補助装甲板が追加装着されている。但し、III号戦車N型は、24口径7.5cm戦車砲を搭載した火力支援用の戦車であり、対戦車戦闘は主眼とはしていない。
Description English: Sd Kfz 141/2 Panzerkampfwagen III Ausf N at the Tank Museum, Bovington Date 7 July 2014, 15:40:31 Source Own work Author Mightyhansa
写真はWikimedia Commons・Category: Panzerkampfwagen III in the Bovington Tank MuseumFile: Sd Kfz 141-2 Panzerkampfwagen III Ausf N.jpg引用。


 24口径7.5cm戦車砲を搭載した火力支援用のドイツ軍のIII号戦車N型は、トーションバー方式サスペンションを備えて、車体長5.5mで転輪は片側6個である。これに対して、IV号戦車は車体長5.9mで転輪8個なので識別できる。懸架方式(サスペンション)も、III号戦車がトーションバー式、IV号戦車がリーフスプリング式ボギーで異なっている。しかし、形状は似通っているので、III号戦車N型はIV号戦車と誤って錯覚してしまうほど似ている。

写真(右):ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市、ジンスハイム自動車・技術博物館に保管展示されているドイツ軍のIV号戦車N型(SdKfz 141)
Description OLYMPUS DIGITAL CAMERA Date 23 October 2009, 15:34:08 Source Own work Author AlfvanBeem
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Panzerkampfwagen III Ausführung G in the Auto und Technik Museum Sinsheim・PzKw3 with the short-barelled 75mm gun at Sinsheim.jpg引用。


  III号戦車の最後期型となったN型(Panzerkampfwagen III Ausf N)は、それ以前のM型の火砲を強化し、短砲身24口径7.5センチ砲(7.5 cm KwK 37 L/24)を装備し、歩兵支援火力を発揮した。生産台数は、1942年6月から1943年8月まで663輌。ベースになった車体は、それ以前の肩を流用し、J型車体3輌、L型車体447輌、M型車台213輌である。wikipediaは「IV号戦車が長砲身75mm砲を装備したため余剰となった短砲身の75mm砲を搭載」と記述しているが、III号戦車の5センチ砲では、戦車として役に立たなくなっており、大口径砲の搭載は、半装軌式装甲車でもい、装甲車でも同じ24口径7.5センチ砲が搭載されており、「余剰」というよりも、その火力支援の必要性が大口径砲の搭載に進んだといえる。24口径7.5センチ砲の生産は続行されていたのである。

  写真(右):2011年6月、ドイツ連邦共和国のバーデン=ヴュルテンベルク州、ジンスハイム市、ジンスハイム自動車・技術博物館に保管展示されているドイツ軍のIV号戦車N型(SdKfz 141) :再後期型で、火力は3号戦車で最大、4号戦車初期型と同じ24口径7.5センチ砲を搭載している。
Description English: PzKpfw III Ausf N (SdKfz 141) medium tank with 7.5 cm KwK L/24 gun at the Auto & Technik Museum, Sinsheim, 6/11. Date 3 June 2011, 11:39 Source PzKpfw III Ausf N (SdKfz 141) Author Hugh Llewelyn from Keynsham, UK
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category: Panzerkampfwagen III Ausführung G in the Auto und Technik Museum Sinsheim・File:PzKpfw III Ausf N (SdKfz 141) (6083339186).jpg引用。


  III号戦車には大きな砲塔を搭載できなかったため、砲塔を撤去して防御された大型戦闘室を設け,そこに7.5センチ砲を装備したのがIII号突撃砲Sturmgeschütz III)である。このIII号突撃砲は、終戦までドイツ軍の主力突撃砲となり、火力支援だけでなく、対戦車戦闘にも活躍した応急の陸戦兵器だったが、実用性も量産性も高かったために、III号突撃砲Sturmgeschütz III:StuG III)は終戦までに1万両が生産され、第二次世界大戦中のドイツ軍の装甲戦闘車輛のうちで最多の生産台数を誇っている。

 
4.III号突撃砲 Sturmgeschütze III −最多生産の対戦車用自走砲

3.7センチ砲を装備していたIII号戦車Pz.Kpfw.III(Sd. Kfz. 141)は,1941年後半,ソ連軍T-34に対抗するために,60口径5センチKw.K.39 L/60,その後1942年末から長砲身43口径7.5センチStuK40L/43に換装した。しかし,T-34戦車には,この程度の対戦車戦闘能力では通用しなかったため,生産中止。車体は,対戦車戦可能な突撃砲として1万台も量産された。

第二次大戦初期、防衛線を突破できるだけの火力、装甲、機動力を備えた歩兵直協支援装甲戦闘車輌として開発されたのが、III号突撃砲である。III号突撃砲は、III号戦車の砲塔を撤去し、シャーシに前面50mm、側面30mmの装甲を持つ固定密閉式の大型戦闘室を設けて、そこに初期のIV号戦車と同様の短砲身24口径7.5cm戦車砲を搭載した。

写真(右):1942年9月,ソ連、中部,ドイツ軍の24口径7.5センチ砲を搭載したIII号突撃砲C/D型StuG III :装甲を施した自走砲は,突撃砲と呼ばれたが,戦車の代用として,敵陣地の突破や対戦車戦闘に参加した。車高の低い車体は,隠匿性が高く,陣地攻撃のときにも,正面の標的面積が小さく,有利だった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-140-1212-04A Archive title: Rußland-Mitte.- Soldaten auf Sturmgeschütze III beim Halt in einer Ortschaft; PK 689 Dating: 1941 Oktober - November Photographer: Götze 撮影。
写真は,Wikimedia Commons ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv・Bundesarchiv Bild 101I-140-1212-04A, Russland-Mitte, Sturmgeschütze III in Ortschaft.jpg引用(他引用不許可)。
突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放固定式の大型戦闘室を設け,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。



歩兵に火力支援する突撃砲は,III号戦車の車台上に,短砲身24口径7.5センチStuK37L/24大口径榴弾砲を搭載。火力は戦車よりも大きかった。1940年のフランス侵攻作戦にも,III?号突撃砲は参加している。

その後,1942年以降,ソ連軍T-34に対抗するために,長砲身 43口径7.5センチStuK40L/43を搭載,装甲を厚くした対戦車戦可能な突撃砲となった。1940年から敗戦まで1万両生産された。

 量産初期型のIII号突撃砲B型は、1940年6月から翌年5月までに250輌が生産され、1941年4月のバルカン侵攻作戦、1941年6月のバルバロッサ対ソ侵攻作戦に投入された。配属された突撃砲大隊では、歩兵支援任務を第一とするが、ソ連軍戦車相手の戦闘が頻繁に起こるために、III号突撃砲は歩兵支援よりも対戦車戦闘を優先する装甲車両として利用されるようになった。そこで、搭載する戦車砲を短砲身24口径から長砲身48口径に強化した戦車砲を搭載するG型が開発された。

搭載している短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24 は,歩兵への火力支援用だが,戦闘室は密閉されてい,全高が低いために,防御力も高かった。そこで,前線に歩兵などとともに突撃する火砲として,突撃砲と呼ばれた。したがって,歩兵支援を前提としたものだったが,対戦車戦闘能力もあった。

III号突撃砲C/D型(Sturmgeschütz III)諸元
全長:  5.40m
全幅:  2.95m
全高:  1.96m
全備重量:22t
乗員:  4名
エンジン:マイバッハHL120TRM V型12気筒液冷ガソリンエンジン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最高速度: 路上40km/h
航続距離: 165km
武装:    24口径7.5cm戦車砲 (携行砲弾数44発)、7.92mmMG34機関銃 (携行銃弾数600発)
装甲:   10〜50mm

写真(右):北アフリカ戦線でイギリス軍に鹵獲されたIII号突撃砲C/D型 StuG III Ausf C/Dの記録写真:旧式化したIII号戦車の砲塔を取り除き,密閉式の戦闘室に短砲身7.5センチ砲を搭載した歩兵支援戦闘車両。機械化された歩兵をドイツ軍は,猟兵と呼称した。24口径7,5センチ砲を搭載した火力支援車輛だが、III号戦車が無用の存在になったために、1945年の敗戦まで生産された。
Catalogue number STT 4459 Department Photographs Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War
Object description StuG III Ausf C/D Label German Sturmgeschü tz III Ausf C/D assault gun.
写真はImperial War Museum STT 4459引用。


突撃砲大隊の本格的訓練は、1941年1月から始まり、3月のバルカン・ユーゴスラビア侵攻に投入される予定だったが、輸送機関、特に鉄道の準備が間に合わず、バルカン侵攻作戦に参加したのは、4月初旬からだった。その後、5月には突撃砲大隊は、ポーランドに移転し、1941年6月22日のソ連侵攻バルバロッサ作戦に投入された。早朝0530、第197突撃砲大隊はブーク川を越えた。

 その後,III号突撃砲は、1942年以降,ソ連軍T-34に対抗するために,長砲身 43口径7.5センチ戦車砲(StuK40L/43)を搭載,装甲を厚くし、対戦車戦を重視す量になった。第197突撃砲大隊では、1942年8月には 43口径7.5センチ戦車砲(StuK40L/43)を装備したIII号突撃砲F/G型 (StuG III)が配備されている。III号突撃砲は、1940年から生産が始まり、短砲身24口径7.5cm戦車砲(StuK 37 L/24)搭載のIII号突撃砲C/D型(Sd.Kfz.142)が1941年4月から9月まで200輌生産されたのに続いて、各型合計で1945年の敗戦までに1万輌もが生産されている。

写真(右)1943年8-9月、ロシア東部戦線、ドイツ陸軍III号突撃砲G型 (StuG III):車体前面下部に追加装甲をリベット留めしているのが明瞭にわかる。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-087-3675A-10 Archive title: Rußland.- Sturmgeschützen III in Fahrt auf unbefestigter Straße; PK 670 Dating: 1943 August - September Photographer: Thiemann 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv File: Bundesarchiv Bild 101I-087-3675A-08A, Russland, Sturmgeschütz III.jpg引用。


 ドイツ国防軍のIII号突撃砲C/D型Sturmgeschütz III:StuG III)は、歩兵への火力支援車両として大型の24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載する突撃砲として、III号戦車の車台を流用して開発された。その後III号戦車が威力不足で前線で使用できなくなると、その車体の大型戦闘室を活かして43口径7.5センチ戦車砲を搭載した対戦車用のIII号突撃砲G型StuG III Ausf. G)としても使用されるようになった。

III号突撃砲C/D型Sturmgeschütz III:StuG III)は、旧式戦車III号の砲塔を取り除き,シャーシの上部に密閉固定式の大型戦闘室を設け、短砲身24口径7.5センチ砲を搭載した歩兵支援戦闘車両だった。しかし、1944年には対戦車戦闘能力を向上させた43口径7.5センチ砲を搭載したIII号突撃砲G型StuG III Ausf. G)が第一線で活躍するようになった。

写真(右)1944 年頃、平面的な砲身防楯を備えたドイツ陸軍III号突撃砲G型 StuG III の上面:司令塔(周囲を観測するプリズム付)には、避弾経始を考慮した跳弾版が装備されている。接近する歩兵を銃撃する戦闘室上面の車載機銃にも防楯を装備。ホローチャージ(成形弾)を早期爆発させる防楯を車体側面に装備する枠が見える。
Catalogue number: STT 7153, Part of SCHOOL OF TANK TECHNOLOGY COLLECTION Subject period: Second World War Alternative Namesobject category: Black and white, Object description: StuG III Ausf G, Label: German Sturmgeschütz 40 Ausf G 'StuG III' assault gun. 写真はイギリス帝国戦争博物館 Imperial War Museum登録・引用 IWM (STT 7153)


1942年12月から生産が始められたアルケット社で生産されたIII号突撃砲G型StuG III Ausf. G)は、戦争後期に登場し、1942年12月から1945年4月まで7,700輌が生産された。大量生産するために、生産性向上、省資源化にも配慮された。たとえば、ゴム不足のために、本来、衝撃を吸収するゴム縁の小型転輪を、1943年11月から鋼製リムの転輪に変更した。ゴム縁の小型転輪は、1944年9月以降生産されたIII号突撃砲には使用されていない。

 後に戦訓により丸太やコンクリートブロックなどを固定戦闘室に追加装着して防御力を強化したIII号突撃砲G型StuG III Ausf. G)の動力は、マイバッハHL120TRM V型12気筒液冷ガソリンエンジン、最大出力300馬力/3,000rpm、最高速度40km/h(路上)である。

⇒ドイツ陸軍 III号突撃砲:Sturmgeschütz III(Sd.Kfz.142)を見る。



5.IV号戦車−ドイツ陸軍の最多・最良の主力戦車

1936年に開発され,第二次大戦が勃発した1939年から生産された?号戦車は,大直径のターレットリング,バスケット式の大型砲塔が特徴で,ここに当初の計画にはなかったような長砲身大口径砲とそれに見合った大型砲弾を搭載することができた。また,操縦手,砲手のほかに戦闘指揮に専念できる戦車長の合計4名の乗員のために,車内通話装置が完備していた。また,昇降ハッチは,乗員分が装備されており,乗り降りはもちろん,緊急時の脱出にも配慮されていた。

写真(右):2009年、アメリカ、メリーランド州アバディーン、アメリカ陸軍兵器博物館に保管展示されているドイツ軍のIV号戦車D型 PzKpfw IV/D Sd.Kfz 161:「切り株」と呼称された24口径7.5センチ戦車砲7,5-cm-KwK 37 L/24 (Stummel)搭載で火力支援を目的にした戦車。対戦車戦闘は企図されていないため、ソ連赤軍T-34戦車には威力不足だった。
English: Panzerkampfwagen IV Ausf. D with additional, bolted-on, armor plates on display at the US Army Ordnance Museum in Aberdeen. The tank bears the sign of the german Afrika Korps. English: “Special purpose vehicle” of the German Wehrmacht until 1945, here: Sd.Kfz 161, German medium tank IV, also Tank IV, versions: A, B, C, D, E and F1. Actual file: Sd.Kfz. 161, Ausf. D 日付 Summer of 2009 原典 投稿者自身による作品 作者 DZGuymed
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ・Category:Panzerkampfwagen IV Ausführung D in the United States Army Ordnance MuseumFile:Panzer IV Aberdeen Proving Grounds.JPG引用。


IV号戦車E型(PzKpfw IV Ausf.E)諸元
全備重量21トン,全長5.9メートル,全幅2.8メートル,車高2.7メートル
時速42キロ(整地),航続距離200キロ,乗員5人
兵装:7.5センチ24口径砲(KwK 37 L/24),7.92ミリMG34機銃2丁

短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 37 L/24 )装備のIV号戦車は,1942年末から長砲身43口径40年式7.5センチ戦車砲に換装された。終戦まで生産続行。

1941年初頭,ヒトラーは強力な60口径5cm砲の搭載を命じていたが,保守的な陸軍将官は,機動性を重視して,重量の増える長砲身を搭載しなかった。
 しかし,独ソ戦で直面したソ連赤軍のT-34は,37口径75ミリ砲を装備して,避弾に優れた装甲であり,ドイツ軍の対戦車砲では貫通できなかった。このため長砲身7.5センチ砲装備のF型が急遽開発された。 

IV号戦車Panzer IV (Sd. Kfz. 161)がはじめに装備した火砲は,短砲身24口径7.5cm砲(7.5cm KwK 37 L/24)だったが,これでは,火力支援はできても,対戦車戦闘能力は低かった。24口径7.5cm砲の貫通力は,500メートルで39ミリ,1000メートルで30ミリと,敵戦車の正面装甲貫通は困難だったためである。

⇒ドイツ陸軍 IV号戦車 Panzer IV(Sd. Kfz. 161)を見る。

2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
 ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。


◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

2017年3月18日改訂の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
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