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◆世界史発掘!時空タイムス編集部 第6回 新証言・ヒトラー暗殺計画:TorikaiLab

写真(右)ヒトラー暗殺事件5日前1944年7月15日,東プロイセン大本営「狼の巣(ヴォルフスシャンツェ)」のシュタウフェンベルクStauffenberg大佐(左端)とヒトラーの幕僚:左端からシュタウフェンベルク、総統副官プットカマー海軍少将,空軍連絡将校ボーデンシャッツ大将(ヒトラーと握手),ヒトラー,国防軍最高司令部総長カイテル元帥。
シュタウフェンベルクはフランス侵攻、ソ連侵攻に加わり、第一級鉄十字章を授与された。この時期は,ドイツ軍が連戦連勝の時期で,シュタウフェンベルクも,ヒトラーを排除しようとは考えていなかった。

1941年末に参謀本部に転勤したが,この時期から,ヒトラーの命令で,ユダヤ人や捕虜を虐殺していることを性格に理解するようになった。ヒトラー排除の反乱クーデターを構想し,マンシュタイン将軍にも,参加を呼びかけたが,拒否された。

シュタウフェンベルクは,1943年、末期の北アフリカ戦線の装甲師団参謀長として赴任。1943年4月7日、英空軍戦闘機の機銃掃射によって負傷。右腕,左手の指2本,右目を失った。

シュタウフェンベルクは,ミュンヘンで治療・静養の後,国内予備軍フロム将軍,副司令官オルブリヒト(Olbricht)将軍の下で,国内予備軍参謀長に就任。

国内予備軍は,兵力維持と治安維持を担当し,そのためのワルキューレ部隊を要していた。そこで,任務の一環として準備していたこの反乱鎮圧のための「ワルキューレ作戦」によってヒトラー暗殺後の政権奪取を計画した。
1944年夏,ヒトラーに総統本営で,面会が可能だったのは,シュティーフ将軍,フェルギーベル将軍の二人がいたが,将官たちは,命と名誉をかけて,ヒトラー暗殺を実行するだけの勇気と粗暴さがなかった。そこで,国内予備軍参謀長としてヒトラー主催の総統大本営作戦会議に出席できるシュタウフェンベルクが,暗殺実行犯となった。
Bei Rastenburg, Führerhauptquartier "Wolfsschanze".- vlnr: Claus Schenk Graf von Stauffenberg, Karl-Jesko von Puttkamer, unbekannt, Adolf Hitler, Wilhelm Keitel am 15.7.1944 Dating: 15. Juli 1944
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。これと同じ写真は,今回の放映でも使用。

NHKBShi世界史発掘! 「時空タイムス編集部」について,NHK公式サイトは次のように説明しています。 1.ヒトラー暗殺未遂の概要

ナチス政権樹立後,ヒトラーに対する不満がくすぶっていました。ヒトラーは,大戦勃発の前年,1938年,陸軍総司令官ブロンベルクを罷免,参謀総長ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)上級大将を辞任させ,国防省を解体,自ら陸海空の三軍を直接指揮する国防軍最高司令部を新設します。

写真(右)1936年6月,ベルリン,グリューネ・ヴァルトの陸軍参謀総長ルートヴィヒ・ベック(Ludwig Beck)上級大将(1880年6月29日-1944年7月21日):彼は,1938年、ヒトラーがチェコスロバキアに侵攻する作戦を実行した場合,英仏を巻き込む世界大戦となり,ドイツが再び敗北すると大いに危惧していた。彼は,ハルダーなど一部の陸軍将官たちとはかり,ヒトラーがチェコスロバキアに侵攻した場合,ヒトラーを排除するクーデターを計画した。
しかし,英仏は,ミュンヘン会談で宥和政策を採用し,チェコスロバキアにズテーテンラントの割譲を認めさせた。そこで,ヒトラーのチェコスロバキア侵攻は不必要となり,クデターは実行に移されずに終わった。
1938年,ヒトラーは,ブロンベルク国防相を更迭し,ベック参謀総長をも辞職させたが,1944年7月20日のワルキューレ作戦では,反ヒトラー政権の元首となる予定だった。しかし,1944年7月20日,シュタウフェンベルク大佐によるヒトラー暗殺が失敗し,ベックはベルリンの国内軍司令部でフロム大将に逮捕された。フロム将軍は,ベックに自決の機会を与えた。ベックは、ピストル自殺に生き残ったが,そのまま銃弾を打ち込まれた。
他方,ヴォルフスシャンツェ作戦会議室における大爆発にもかかわらず,軽傷で済んだヒトラーは,これを「どでかい幸運」,運命の摂理と考えた。ヒトラーは,連合軍相手に徹底抗戦する意思を固めると同時に,第一次大戦敗戦の原因と彼が指摘してきた「背後からの一突き」「後方の裏切り者」が第二次大戦中のドイツにもいると考えた。反逆者に対する血なまぐさい報復が始まった。
Archive title: Ludwig Beck (Mitte), Berlin-Grunewald, ca. Juni 1936 Dating: Juni 1936 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

また,親衛隊SSを軍事組織に仕立て上げました。そして,大戦勃発後は,親衛隊SSによる捕虜・パルチザン容疑者やユダヤ人の処刑など残虐行為を行います。大戦当初からドイツ軍の名誉が汚されたと憤慨した将兵も少なくありません。

1944年になると,米英連合軍の重爆撃機によるドイツ本土空襲が激化し,ソ連軍はウクライナを奪還しています。軍需生産の基盤は破壊され,国民の戦意の低下し始めます.

1941年の独ソ戦当初は,ソ連赤軍を壊滅,大量の捕虜を獲得していましたが,1943年の「城塞(ツィタデル)作戦」の失敗以降,ドイツ軍は敗退を続けることになります。東部戦線の危機に加え,フランスに英仏連合軍が上陸し,ふたたび西部戦線が構築される危険も日に日に高まってきていました。

こうして,ドイツの敗色が濃くなる中,国防軍の将校たちは戦争の前途,ドイツの将来,国民の行く末に危機感を抱き、無益な犠牲を拡大しないためにも,反ヒトラー・クーデターを計画,実行しました。

ヒトラー暗殺未遂事件は,何回も企てられています。

1939年11月職人エルザーによるミュンヘンでの爆破事件,ポーランド地下レジスタンスによるヒトラー専用列車爆破計画,ヒトラー搭乗機の爆破計画,兵器展示場での自爆攻撃など,ドイツ人や敵国人によるヒトラー暗殺計画が40回以上も存在しました。

中でも最大規模の暗殺計画が,1944年7月20日の「ワルキューレ作戦」です。最近、トム・クルーズ主演のハリウッド映画でも有名になりました。

この1944年7月20日の独裁者ヒトラー暗殺未遂事件は,ナチスの暗黒時代にあって,ドイツ人が良心が残っており,ドイツ人がすべてナチスに共鳴していたわけではないことを示したとされています。

つまり,シュタウフェンベルクたちドイツ人によるヒトラーを排除した新政権樹立の動きは,ドイツが,歴史の審判に耐えることを示した日ともされています。それゆえに,ドイツ人ににとって大事な日として記憶され,シュタウフェンベルクたち反乱軍人(レジスタンス),ヒトラー暗殺実行犯エウザーを記念する地名,記念切手も出されています。

ドイツでは、学校で現代史を十分に学び,ヒトラーの著作やナチスの紋章を公にすること,ヒトラー敬礼(当時はドイツ式敬礼と呼ばれました)をすることも禁止されています。ユダヤ人虐殺を否定することは犯罪にもなります(これは,アメリカ合衆国でも同じ。)それほどまでにナチスを批判してきたドイツの国民にとってシュタウフェンベルクは,ドイツの良心として高く評価されています。

戦時中の反戦・平和のレジスタンスとしては,白バラ通信を撒いて,反戦レジスタンスを行ったミュンヘン大学生ショル兄妹たちも有名です。彼ら白バラグループは,学生,軍務経験者,大学教授,聖職者らなど,民間人に近い立場でした。スターリングラードにおける膨大な犠牲をもたらしたのは,ヒトラーのせいであると決め付けるのではなく,それを許したドイツ人こそ,現状打破のために立ち上がらなくてはならないと主張しました。

ベルリンの中心街にある国内予備軍司令部跡は,現在,国防省の建物となっていますが,ここで銃殺されたシュタウフェンベルク大佐たち4名のレジスタンスを讃える記念碑があります。

ベルリン,旧国内予備軍司令部の中庭の壁にある追悼碑文

    1944年7月20日に ドイツのために ここに死す

 ルートヴィヒ・ベック上級大将
 フリードリヒ・オルブリヒト歩兵大将
 クラウス・グラーフ・シェンク・フォン・シュタウフェンベルク大佐
 アルブレヒト・リッター・メルツ・ヴォン・クヴィルンハイム大佐
 ヴェルナー・フォン・ヘフテン中尉

あなた達は恥辱に甘んじなかった
あなた達は抵抗した
あなた達は送った
改心の偉大で目覚めた合図を
自由と正義と名誉のために
あなた達の熱い命を犠牲にして



2.ナチス政権の確立−ヒトラー暗殺未遂の背景

1944年7月20日のヒトラー暗殺計画の背景にあった原因を探ってみるために,まずナチ党政権が樹立される1933年までさかのぼってみましょう。

ナチスドイツは、1932年の総選挙で第一党に選ばれ,1933年には,ナチ党による一党独裁国家を作りました。この過程で,ナチ党は,反対勢力を,突撃隊,親衛隊によって,威嚇し,暴力で弾圧しています。

写真(右)1923年,ミュンヘン一揆と同じ時期の突撃隊員の行進:突撃隊SAは禁止された党の私兵(暴力団)であり,示威行進をして,市民を威圧し,労働者のストライキやデモを鎮圧した。暴力装置であることを明確にするために,軍服のような制服を着用し,髑髏の旗を採用した。
Zu dem Verbot der S.A. der "Privat Armee" Adolf Hitlers! [Herausgabe des Fotos April 1932] Die Totenkopf-Brigade der S.A. während eines Aufmarsches in Braunschweig Dating: 1923 ca.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

突撃隊=SA(Sturmabteilung)は,ナチ党の私兵,党の暴力装置です。労働者のスト,共産主義者のデモ,反政府の一揆・蜂起を鎮圧する義勇軍=フライコールの流れを汲んでいます。もともとはナチ党集会を妨害する反対派を排除する「整理隊」として創設されました。ナチス反対派とは,共産主義者,社会民主党員,労働組合メンバー,自由主義者などです。彼らを会場から暴力を持って実力排除するのが,突撃隊の役目でした。

ヒトラーは,この突撃隊SA(Sturmabteilung)を会場整理だけではなく,市街地を隊列を組ませて行進させたり,労働組合のストを破ったり,さらにはユダヤ人に対する迫害を行ったりするのに投入しました。デモンストレーションだけではなく,実力行使をするのが,突撃隊の任務です。

1933年1月,ヒトラー内閣が誕生すると,SA(Sturmabteilung)は,300万人規模に拡大します。そして,勢力をさらに伸ばすために,国民軍になろうとします。プロイセン貴族的指導を受けるドイツ国防軍に取って代わって,庶民的な,しかし革命的な軍隊を創立しようとしたわけです。

しかし,首相となっているヒトラーは,これ以上の革命(第二革命)をするつもりは,もはやありません。それどころか,国防軍と財界とから,協力を得ようとします。そこで,国防軍と財界が,過激化し,革命を目指す突撃隊を嫌悪していると知ると,軍と財界の反発を恐れたヒトラーは,1934年,SA指導者のレームらが,反乱(一揆)をたくらんでいるとして,彼らを粛清してしまいます。

この粛清は,突撃隊幹部(SA幕僚長エルンスト・レーム,ベルリン地区指揮官エドムント・ハインネス)だけでなく,反ヒトラー派の人を粛清します。SSに粛清された反ヒトラー派は,元首相クルト・フォン・シュライヒャー, ミュンヘン一揆を裏切ったバイエルン首相カール,ナチ党反ヒトラー派グレゴール・シュトラッサーなども殺されてしまいます。これが,「長いナイフの夜」(Night of the Long Knives)と呼ばれるナチ党の粛清,ヒトラー独裁への血なまぐさい第一歩です。

SA("Storm detachment" )の暴力を引き継いだのが,ヒトラーの護衛隊としてスタートした親衛隊=SS(Schutzstaffel)です。ナチ党政権が誕生した1933年,反ナチスを拘禁する強制収容所が設置されますが,この管理を任されたのもSS(Schutzstaffel)です。

写真(右)1933-1934年,HJ(ヒトラーユーゲント)団員のキャンプにおける合奏:当初のHJは,音楽や旅行など,青少年にとって魅力ある催し物を数多くこなした。娯楽にひきつけられて入団した青少年も多かったようだ。
Hitlerjugend.- Geländeübungen, Hindernislauf Dating: 1933/1939 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ナチ党青少年団体のヒトラーユーゲントは,1936年のヒトラーユーゲント法によって,ドイツの全青少年が加入を義務付けられ,ナチズムが教え込まれます。労働組合も解散を命じられ,ナチ党の労働戦線に統合されてしまいます。

これらナチ党ヒトラー独裁を支えた組織です。

写真(右)1933-1939年,HJ(ヒトラーユーゲント)団員の障害物競走:当初のHJは,ナチ党の青少年組織に過ぎなかったために,財政支援が受けられないために物資・資金が不足した。ナチ党の下部組織では,軍事訓練のような軍の協力を得ることも無理だった。その意味で,個人やグループの裁量の範囲が大きく,娯楽中心の活動も多かったようだ。
しかし,ヒトラーユーゲントの青少年は,ヒトラー政権獲得後に再軍備が始まると,将来の親衛隊,国防軍兵士となることを期待され,軍事訓練が増えた。
Hitlerjugend.- Geländeübungen, Hindernislauf Dating: 1933/1939 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

警察は,ナチ党政権で親衛隊に組み込まれ,新たにSSの下に秘密警察のゲシュタポが置かれ,反ナチスの人物を拘束してゆきます。

ゲシュタポ(Gestapo:Geheime Staatspolizei)とは,反ナチス派の人物・組織を摘発し,ナチス独裁を安定ならしめるための秘密警察で,日本の特高(特別高等警察)に相当します。

1933年1月,ナチ党政権が樹立された直後,まだベルリンを中心とした都市では,共産党,労働組合の勢力は強いものがありました。そこで,ヒトラーは,ベルリンを含むプロイセン州の内務大臣ヘルマン・ゲーリングを任命します。2月,国会放火事件が起こると,その背後に,ドイツ共産党員による一揆,政権奪取の陰謀があるとして,ヒンデンブルク大統領に大統領緊急令を出させ,共産党を違法化し,共産党員を逮捕させます。このときゲーリングが使ったのが,プロイセン州警察の政治警察の一部だった秘密警察部署です。

ハインリヒ・ヒムラーの親衛隊は,ヒトラー護衛だけではなく,党内警察としても拡充されます。親衛隊のメンバーは,1929年末の1000人,1930年末の2700人から,1932年末の5万2000人と増員されますが,これは突撃隊に対抗するためでもありました。

1933年1月,ナチ党政権が樹立されると,ハインリヒ・ヒムラーは,ミュンヘン警察長官になり,ラインハルト・ハイドリヒをミュンヘン警察第6部(政治部)部長に任命します。そして,反ナチス派人物を拘束する強制収容所を設置されると,そこも親衛隊の管轄となります。

1933年4月,ゲーリングは,プロイセン州秘密警察局を創設し,ここに秘密警察「ゲシュタポ」が誕生します。1934年,既にドイツ各州の警察権力を握っていた親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーにゲシュタポ指揮権が譲渡され,ラインハルト・ハイドリヒがゲシュタポ局長に任命されます。ゲシュタポは,後に,アーリア人を人種汚染するとして,ユダヤ人の迫害にも,積極的な役割を果たします。

写真(右)1938年,親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラー:1923年のミュンヘン一揆に参加した時,ヒムラーは,レームの部下だった。しかし,突撃隊が,国防軍と対立すると,ヒトラーは突撃隊の粛清を決める。この時,ヒトラー護衛部隊だった親衛隊が,突撃隊幕僚長エルンスト・レームら幹部を殺害した。レームが,ヒトラー政権獲得後も,第二革命を主張,ドイツ国防軍に取って代わる第二の軍隊として,突撃隊を育成しようと図った。そこで,国防軍との協力を目指すヒトラーと対立し,1934年7月,反乱を理由として,処刑したのである。この「長いナイフの夜」と呼ばれる反ヒトラー派粛清で活躍,規模を拡大させたのが親衛隊である。
親衛隊国家長官ヒムラーは,親衛隊に対して 1943年10月4日ボーゼン「ユダヤ人絶滅」演説(Heinrich Himmler: Posener Rede vom 04.10.1943)をした。
 「一つの困難な課題について諸君にはっきりと語る」として,口にしてこなかったユダヤ人虐殺について「親衛隊の使命であり、自明の任務である。それ故に,我々親衛隊は,このことを話し合ったことがない。これが命令となり、また必要なものとなれば、みな直ちに実行するだけである。-----
私は‘ユダヤ人排除’、すなわちユダヤ人絶滅のことを言っているのだ。 Ich meine die "Judenevakuierung": die Ausrottung des jüdischen Volkes.( I am talking about the "Jewish evacuation": the extermination of the Jewish people.) この任務は,容易なだとも受け取られている。‘ユダヤ人は一掃されるだろう’と。党員たちが諸君に言うには‘我々はユダヤ人を除去、絶滅すると公言してきた。些細なことだ,’と。そのような状態だといずれ800万の忠実なドイツ人各人一人のユダヤ人を連れてきてこう言うであろう。‘他のユダヤ人たちは悪い奴らです。しかし、彼は優秀です。’こんなことを見過ごし、我慢することはできない。
 諸君の前に横たわる100の屍が、500の屍が、1000の屍を見るとき,それが何を意味しているか,諸君は分かるであろう。この任務に耐えること、人間的な弱さとは縁を切って,屍を前に,我々は精神を強靭にして,品位を保つ。この任務は,決して言葉では表されないし、表すべきでもない。この任務によって,我々は空前の栄光を歴史を残すことになる。」
これは,ヒムラー長官が,ナチ党幹部,親衛隊に,ユダヤ人絶滅を公言し,かれらもその共犯とするための演説のようだ。
Original title: Zentralbild Reichsführer SS Heinrich Himmler (Aufnahme 1938) Archive title: Porträt Heinrich Himmler Dating: 1938 Photographer: o.Ang.
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

1936年6月,ハインリヒ・ヒムラーは,ドイツ警察長官に就任,これを契機に,親衛隊が,州(地方政府)の権限の強かった警察部門を統合し,秩序警察を,クルト・ダリューゲに,ゲシュタポと刑事警察を保安警察として,ハイドリヒに任せることとなります。

第二次大戦が勃発した1939年9月,ラインハルト・ハイドリヒは,親衛隊情報部SD ,ゲシュタポ,刑事警察を傘下に置く国家保安本部を設置し,その長官に収まります。

1934年6月,「長いナイフの夜」では,ヒムラー長官の下,ハイドリヒのゲシュタポが反ヒトラー派の人物を特定し,粛清しました。ドイツの警察は,こうして親衛隊に組み込まれしまいましたから,ヒトラーに対抗できるのは,国防軍だけになりました。

ヒトラーは,1938年,国防軍を直接指揮かに置こうと,ゲシュタポのハイドリヒを使って画策します。陸軍総司令官フリッチュ上級大将と国防相ブロンベルク元帥の二人の国防軍最高幹部を追い出してしまったのです。親衛隊,ゲシュタポは,フリッチュ陸軍総司令官が男色(ホモセクシャル)であると捏造し,ブロンベルク国防相の配偶者(新妻)が,いかがわしい女性だということを暴露します。そして,二人を国防軍から追放しました。

ところで,ヒトラーは,1938年に国防相を追い出した後,国防相を解体してしまいます。そして,国防軍最高司令部OKWを設けて,参謀本部の力を弱めました。

さらに,第二次大戦の初期,1941年12月には,対ソ戦の失敗から,ブラウヒッチュ陸軍総司令官を更迭しました。後任の陸軍総司令官はヒトラー本人でした。

ヒトラーは,軍の統帥権を一手に把握して,誰もそれに介入できなくなりました。ヒトラーは,自分以外,軍高官の承認を得ることなく,作戦から軍備まで,決定できるようになったのです。

大戦直前,親衛隊は,軍と並ぶ第一線戦闘部隊も編成し,その後,武装親衛隊として,陸海空三軍に次ぐ軍隊となります。SSの特徴は,ナチズムを信奉するヒトラー直属の政治的兵士であることです。SSには,最終的に30万人の警察,各々4万人の強制収容所看守とゲシュタポ,90万人の武装親衛隊が所属したといわれます。こうして,ヒトラーは,国防軍の権威も失墜させていったのです。

写真(右)1932年9月,フランクフルト,軍事演習視察に黒塗りオープンカーで出かけるドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルク元帥:ヒンデンブルクは,ゴーグルを掛けて、後部座席に乗り,その脇で車外から,ヒンデンブルクの子息オスカー中佐が,左手に地図をもって報告する。

ヒンデンブルクは,第一次大戦の対ロシア戦タンネンベルク会戦の英雄,ドイツ陸軍参謀総長で,敗戦後,1925-1934年にワイマル共和国第2代大統領。ヒンデンブルクもヒトラーも,第一次大戦のドイツ敗戦は,後方の裏切り者,共産主義者の主導するドイツ革命を非難した。「背後からの匕首」によって,ドイツが敗戦に追いやられたと。

1933年1月,ヒンデンブルク大統領は,ヒトラーを首相に任命、ナチ党独裁への道を開いた。しかし,第一次大戦敗北時(1918年)の陸軍参謀総長が1925年の第二代ドイツ大統領に選挙で選出されたこと自体,ドイツ国民が第一次大戦敗戦のトラウマを払拭したがっていたことを証明している。

国民が抱くドイツ敗戦の劣等感を基盤に,ナチ党,突撃隊,フライコールは,ドイツの栄光を取り戻そうと,煽動した。ヒンデンブルクが頻繁に発した大統領緊急令を効果的に使って一党独裁を果たしたのが,ナチ党だった。
Die grossen Reichswehrmanöver in Frankfurt a/Oder, welche im Beisein des Reichspräsidenten von Hindenburg stattfanden ! Der Reichspräsident von Hindenburg mit Autobrille, lässt sich im Manövergelände Bericht erstatten, neben ihm sein Sohn Oberstleutnant von Hindenburg. Archivtitel: Frankfurt/Oder.- Reichswehrmanöver, Paul von Hindenburg und sein Sohn Oskar im Auto. Datierung: September 1932 Fotograf: o.Ang. Quelle: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

第一次大戦の敗戦のドイツは,左派と右派の双方からの蜂起が起こり,多額の戦争賠償金を課せられます。賠償金支払いを保障するためにフランス軍がルール占領,反発したドイツ側がサボタージュをして,凄まじいハイパーインフレに見舞われます。失業者も増え、ワイマール共和国政府への信頼は低下してゆきます。

そんなとき,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定をプロパガンダにしたナチ党が躍進します。ナチ党は,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張します。

さらに、当時の政治家の身勝手な政争がヒトラーを一躍トップにしてしまいました。 ヒンデンブルク大統領は第一次大戦の元参謀総長,元帥で,伍長勤務上等兵だったヒトラーを軽んじていましたが,シュライヒャー国防相の権力増大を抑えるために,1933年1月,第一党のナチ党首ヒトラーを首相に指名しました。

ヒトラーの副首相になったパーペンは,第一次大戦では中東方面の参謀長で中佐,首相経験者でもあり,ヒンデンブルクの寵愛を受けていました。ですから,政治的実績のないヒトラーを意のままに後ろで操ろうと思っていたのです。

しかし,ナチ党は,干渉選挙によっても,過半数の得票率を獲得したことは一回もありません。独裁は民主的手続きを遵守していては不可能だったのです。

そこで,ヒトラーは権力を握るや、1933年2月の国会放火事件を契機に大統領緊急令に基づいてナチスに反対する政治家,共産主義者らを拘束し,暴力の威嚇の下で,全権委任法を可決させ,ナチ党以外の政党を解体します。これは一見合法的な一党独裁ですが,突撃隊や親衛隊を使って反対勢力を暴力で抑え込んだのは明白です。

ナチスは,共産主義者,社会民主党員,労働運動指導者,自由主義者,ユダヤ人など反ナチス的人物を拘束し,保護拘禁してゆきますた。

1933年1月,ヒトラー政権が樹立した直後,反ファシスト勢力を根絶やしにしようとする強権的な取調べが始まりました。1933年2月には,最初の強制収容所がザクセンハウゼンとダッハウに設置されました。社会民主党の指導者は,1933年8月,突撃隊SAによって逮捕され,オラニエンブルグのザクセンハウゼン強制収容所に収監されてしまいます。

1934年にヒンデンブルク大統領が死去すると,大統領選挙ではなく,いきなり首相が大統領を兼任する国民投票を強行し,総統となっています。そして,軍の将兵は,全員,総統アドルフ・ヒトラーに忠誠を誓うように宣誓文を改変しました。

ヒトラーが,このような粗暴な革命を強行できたのは,自分は正しいことをしているとの思い込みと,反対勢力を弾圧すれば,国民は強い者に服従するとした弱肉強食の原則を信じていたからです。

写真(右)1934年8月,ドイツ国防軍の兵士のヒトラー総統への新しい忠誠宣誓式:ヒンデンブルク大統領が死去すると,その前日に遡及させた違法立法によって,ヒトラー首相は大統領職を兼務することなり,あらたに総統と呼ばれるようになった。そしてmドイツ国防軍の兵士は,ドイツにではなく,ヒトラー個人に忠誠を宣誓することとなった。これは,国防大臣ブロンベルクが,ヒトラーの申し出を受け入れたためである。

1934年8月2日に導入された新しいドイツ国防軍兵士の忠誠宣誓
"Ich schwöre bei Gott diesen heiligen Eid, dass ich dem Führer des Deutschen Reiches und Volkes, Adolf Hitler, dem Oberbefehlshaber der Wehrmacht, unbedingten Gehorsam leisten und als tapferer Soldat bereit sein will, jederzeit für diesen Eid mein Leben einzusetzen."

「私は,聖なる宣誓によって神に誓う。ドイツ帝国と国民の総統,アドルフ・ヒトラー国防軍最高司令官に対して自ら無条件の忠誠を捧げ,勇敢なる兵士として,いかなる時も命を投げ出すことを。」 Die feierliche Vereidigung der Reichswehr auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler! Die Mannschaften mit Trauerflor beim Ablegen des Eides auf den neuen Reichspräsidenten Adolf Hitler. Dating: August 1934
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

ドイツワイマール共和国は,第一次大戦の敗北後に結ばれたヴェルサイユ条約によって,莫大な賠償金を抱え,フランス・ポーランドへの領土割譲,工業地域でもあるライン川の西側の非武装化と並んで,厳しい軍備制限を受けました。

ドイツは,監視団を受け入れたうえで,陸軍兵力を10万人に制限され,陸軍参謀本部を廃止させられます。兵器の上でも,戦車,潜水艦の保有禁止,航空部隊の廃止という制限を受けます。

写真(右)1941年6月14日,「もっと急降下爆撃機を!」とユンカースJu-88双発急降下爆撃機が量産される航空機工場:スツーカ(Stuka)とは,急降下爆撃機で,単発のJu-87が有名だが,双発のJu-88も急降下爆撃ができた。このような第二次大戦で使用されたユンカースの航空機は,再軍備宣言以降に開発されている。

ヒトラーの再軍備宣言
?義務兵役制を復活:兵力36個師団,50万人を動員
?軍事組織の名称変更:陸海軍に加えて空軍Luftwaffeを新設し,国軍Reichswehrを伝統的な国防軍Wehrmachtに戻す。国防省を陸軍省(Ministry of War)と変更。陸軍参謀本部の復活。

Stukas noch und noch. Teile einer im Bau befindlichen Serie der Ju 88. In riesigen Fabrikhallen entstehen diese Maschinen, die sich im Kampf gegen Russland aufs Neue bewähren. Fr.OKW. 41.6.25. Sammlung Seiler, Berlin Dating: 1941 Photographer: Seiler
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

ナチス政権奪取から2年後の1935年3月16日,ヒトラーは,ベルサイユ条約の打破の公約実行するために,再軍備を宣言します。これは,兵役の復活によって,50万人の兵力,戦車を保有し,陸軍参謀本部を正式に復活し,空軍を新設したのです。

ここで,1936年3月の再軍備宣言は,強大な軍事大国を一挙に目指したのではなく,周辺国への脅威とはいえない範囲にとどまっていました。だからこそ,英仏,ポーランド,ソ連もドイツの再軍備を黙認したのです。

実際は,1922年のソ連とのラパロ条約秘密議定書で,ドイツはソ連奥地におい軍備を整える兵器開発・訓練をしていました。また,新型火砲の開発も,スウェーデン,スイスに合弁会社を設立して行っていました。これらの兵器は,ベルサイユ条約調印前の1918年に制式されたように見せかけるために,型式を1918年型と偽称していました。つまり,ワイマール共和国の内部で,軍隊復活の動きは着実に進んでいたのですが,ヒトラーは再軍備を宣言して,軍を再建したのは,すべて自分の功績であるかのように吹聴したのです。


3.反ヒトラー派将軍たちのクーデター未遂

国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)は,軍事力を機械化部隊の整備,新型火砲の配備,地上攻撃用航空部隊の編成を行って近代化します。それを背景にして,ラインラント進駐,オーストリア併合,ズテーテンラント(Sudetenland)割譲と領土要求を次々と呑ませてゆきます。英仏二国の軍とは互角以下でしたが,近隣のオーストリア,チェコスロバキア,ベルギー,オランダと比較するれば,強力な軍備を整えたのです。

近隣諸国に軍事的脅威を与えることで,ヒトラーは,ドイツの領土を拡張してゆきます。この時ヒトラーが,隣接した地域をドイツに併合すべきだと主張したに根拠は,隣接した地域にドイツ系住民(Volksdeutsche:民族ドイツ人)が住んでいる,このドイツ系住民が虐待されているという理由でした。ヒトラー自身,大ドイツの復活を,政権獲得前から主張していますが,このころは,962年の神聖ローマ帝国(1404年のオーストリア・ハプスブルク帝国に継承),1971年のドイツ帝国を継承するドイツ第三帝国Drittes Reich)の構想が出てきます。

1938年3月,ドイツが,オーストリアのナチス勢力を使って,オーストリアを併合の要求を出させ,武力進駐してオーストリアを併合します。これをアンシュルス(Anschluss)と呼びましたが,この時,ハプスブルク王朝に引き継がれていた神聖ローマ帝国の皇帝標章(冠,笏など)をドイツに返還させ,ニュルンベルクのナチ党大会をドイツ大会と称して,ドイツ第三帝国の復活を宣言,帝国は千年続くと大見得を切ります。

英仏との軍事的衝突が起これば,ドイツ軍は打ち負かされ,敗北してしまう,このように考えた参謀本部のベック参謀総長,ハルダー将軍など,有力な将官たちは,ヒトラーの膨張主義に対する危機感がつのってゆきます。実際には,フランス軍には劣る兵力しかなく,誇示した軍事力はハッタリだったことを,将官たち郡の最高幹部は熟知していたのです。これが,反ヒトラーのクーデター計画を起こそうというドイツ陸軍の反乱の動きにつながります。

ドイツ第三帝国の政治的・軍事的指導者は唯一,ヒトラー総統だけです。ヒトラーは,自ら第二次世界大戦を開始し,緒戦ではフランスを降伏させ,第一次大戦の報復を成し遂げるなど,大成功します。しかし,対ソ戦に行き詰まり,米英連合軍の欧州侵攻の危機が迫っても,ドイツの講和を認めず,最期の勝利まで戦うことを主張します。

したがって,ドイツが戦争に終止符を打つためには,ヒトラーを排除するしか方法はありません。一方で,ヒトラーは,彼に忠誠を尽くす親衛隊,国防軍将兵に囲まれています。ですから,ヒトラーを逮捕することも,無理でした。クーデター側は,合法的な権威の継承を望んでいましたから,無法な暗殺,テロは最後の手段だったわけです。

写真(右):1940年10月,パリ,コンコルド広場前,ドイツ軍司令部として摂取したホテル・クリロンにおける衛兵交代:1940年6月のフランス降伏で,フランスの主要部は,ドイツ軍政のしたに置かれた。パリは,1940年5月,フランス降伏前に,無防備都市を宣言していたので,戦火を被るのを免れている。パリ市民は,新しい支配者,ドイツ軍に従うしかなかった。
Change of guard at hotel Crillon place de la Concorde. Releve de la garde au Crillon. Credit Line (ACME), Paris Oct. 7/40, Chas. Baulard. Archive title: Paris.- Wachablösung vor dem Hotel Crillon am Place de la Concorde Dating: Oktober 1940 Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

第二次大戦勃発直後,1939年11月8日,ヒトラーが,ミュンヘンのビヤホール「ビュルガーブロイケラー」で開かれた1923年ミュンヘン一揆の記念演説を切り上げた15分後,大爆発が起こっています。ヒトラーは,演説を早く切り上げて助かったことを知ると,これは自分に偉大なことを成し遂げさせる神の摂理が働いたのだと,妄信します。

犯人は,家具・時計職人のゲオルク・エルザーでした。彼は一人で,1939年8月から11月まで,30回以上,ビュルガーブロイケラーに密かに物置部屋に隠れて潜み,夜に懐中電灯を手掛かりに,柱にノミで時限爆弾を仕掛ける細工をしました。そして,11月5日深夜,エルザーは翌朝6時までかかってビュルガーブロイケラーの柱の穴に時限爆弾を仕掛けます。用心深いエルザーは,翌7日,時限爆弾の作動を確かめるためにビュルガーブロイケラーに再び身を潜めます。そして,11月8日朝,そこを後にしてスイスに逃亡しようと列車に乗り込みました。

エルザーは,密出国しようとして,逮捕されてしまいます。初め,ヒトラー暗殺事件との関係は,疑われませんでしたが,時限爆弾の設計図や仕掛けた場所の図面が発見され,犯人と分かってしまいます。しかし,ヒトラーは,個人で大それた暗殺ができるわけがない,背後に英国秘密諜報機関がかかわっているはずだとして,エルザーの取調べを命じます。ベルリンのゲシュタポ(Gestapo)本部でエルザーの取調べが行われました。

エルザーは,1941年,ザクセンハウゼン強制収容所(KZ Sachsenhausen)に移送され,特別待遇で拘束されます。戦争末期の1945年2月,エルザーは,ザクセンハウゼンからダッハウ強制収容所Dachau Concentration Camp)に移送されます。そして,解放直前の4月9日23時,「国家最上層部」の命令を受けたゲシュタポ長官ハインリヒ・ミュラーの指示によって,エルザーは,後頭部を撃たれ殺されました。エルザーは,5年半,収監された後,ダッハウ強制収容所で処刑されたのです。

ゲオルク・エルザーの殺害命令は,ゲシュタポ長官に「国家最上層部」と言わしめた人物,すなわちヒトラーじきじきに下したものでした。ヒトラーは,それまで暗殺から生き残ったという神の摂理をエルザーに託して,戦争の勝利を確信していたようです。しかし,4月に入って,もはやドイツの勝利は不可能になったと悟り,ダッハウ強制収容所にいたエルザーを密かに処刑するように指示したのです。

写真(右):1941年4月,総統本営となった鉄道車両,陸軍総司令官ヴァルター・フォン・フォン・ブラウヒッチュ元帥と国防軍総司令部OKW幕僚長ヴィルヘルム・カイテル元帥と話し合うアドルフ・ヒトラー総統:鉄道客車を改装した総統用移動式司令部で,作戦用の大型地図を前にして会談する。
1941年4月4日,ヒトラーと日本の松岡洋右外相が会談し,日独同盟について話し合った。日独伊三国軍事同盟は,前年1940年9月に調印されている。松岡外相は,1941年3月13日,三国同盟成立慶祝を名目に,まずイタリア統領ベニート・ムッソリーニと会談,法王にも謁見している。それから,列車で,ドイツに向かった。ドイツからの帰途,モスクワに立ち寄り,4月13日,日ソ中立条約を調印。
第二軍団最高司令官フォン・ヴァイヒスは,セルビアの反ドイツの抵抗運動を鎮圧するために,セルビア人に報復の布告をした。1941年4月28日,ドイツ人兵士が殺害されれば、ひとりにつき100人のセルビア人の人質を殺すと告示したのである。
Aus dem Führerhauptquartier. - Der Führer bespricht mit dem Oberbefehlshaber des Heeres, Generalfeldmarschall von Brauchitsch, und dem Chef des Oberkommandos der Wehrmacht, Generalfeldmarschall Keitel, die Operationen auf dem südöstlichen Kriegsschauplatz. PK-Aufnahme: Frentz April 1941 "Fr" OKW Archive title: Adolf Hitler, Walther von Brauchitsch und Wilhelm Keitel vor einer Karte bei Besprechung in einem Eisenbahnwagen des Führerhauptquartiers Dating: April 1941 Photographer: Frentz, Walter Origin: Bundesarchiv .
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1943年3月13日には,東部戦線を視察したヒトラーの乗った飛行機に,スモクレン飛行場で,時限爆弾を仕掛けました。中央軍集団参謀のヘニング・フォン・トレシュコウ(Henning von Tresckow)大佐(当時)と同志で副官フェビアン・シュラーブレンドルフ中尉が,ヒトラー搭乗機を酒ビンに仕掛けた時限爆弾をしかけ,それを友人の参謀本部編成課長シュティーフ(Hellmuth Stieff)大佐との賭けの商品だと,参謀本部のハインツ・ブラント中佐に機内への持込を頼んだのです。

つまり,同志シュティーフ大佐への贈り物として,酒ビンに時限爆弾を仕込んで,ヒトラー暗殺計画を,実行に移したのですが,このときは爆発は起きず,ヒトラー搭乗機は無事に,東プロイセンのラステンブルクに帰着しています。ロシア上空の寒さのためか,信管が起動しなかったためと思われます。

この酒ビンに仕掛けた事件爆弾は,シュラーブレンドルフがすぐに回収に行きました。まちがった酒をシュティーフに送ってしまったといって,爆弾を取り戻したのです。

1943年3月21日には,ベルリンでの英雄記念日式典に訪れたヒトラーを,鹵獲兵器展示場で自爆攻撃する計画が実行されました。これも,ルドルフ・フォン・ゲルスドルフ大佐が時限式自爆装置を起動させたのですが,ヒトラーが,展示に興味を見せず,あっさりと通り過ぎてしまい失敗でした。自爆による暗殺を試みたゲルスドルフは,あわてて場所を探して,時限装置を解除して,何とか助かりました。


4.クラウス・フォン・シュタウフェンベルクの動向

写真(右)1926-1936年,バンベルク第17騎兵連隊時代のクラウス・フォン・シュタウフェンベルクClaus Schenk Graf von Stauffenberg
Der Gestapo-Spitzel Lübke und der Goebbels-Journalist Lemmer, der im "Pester-Lloyd" die Hinrichtung Stauffenbergs und seiner Gruppe begrüßte, wollen jetzt die Opfer des 20. Juli 1944 "würdigen" und als Vorbilder für ihre Revanche-Politik benutzen. 37jährig, als Oberst und Stabschef des Ersatzheeres wurde Stauffenberg hingerichtet, weil er mit seiner Gruppe einen Ausweg aus der tiefen Krise suchte, die das faschistische Regime seit den katastrophalen Niederlagen der Hitler-Wehrmacht an der deutsch-sowjetischen Front erfaßt hatte. Unser Bild zeigt Stauffenberg beim 17. Reiterregiment in Bamberg. Archive title: Claus Schenk Graf von Stauffenberg mit Stahlhelm auf Pferd des 17. Reiterregiments in Bamberg Dating: 1926/1934 ca.
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

  クラウス・フォン・シュタウフェンベルク大佐は,1941年7月,独ソ戦開始の直後,ソ連東部戦線で,トレシュコウ少将,その副官シュラーブレンドルフ少尉と初めて対面します。トレシュコウは,シュタウフェンベルクが,ヒトラーとナチスの危険性を見抜いていると悟りました。

写真(右)1941年6-7月,ソビエト連邦の南、"バルバロッサ作戦"に従事するドイツ軍兵士:灼熱の草原を行軍中のドイツ軍歩兵。
Sowjetunion-Süd, "Unternehmen Barbarossa".- Deutsche Infanterie auf dem Marsch in Schützenlinie; PK 637 Dating: 1941 Juni - Juli Photographer: Harschneck撮影。 Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。  

1941年6月22日,ドイツ軍は,独ソ不可侵条約を反故にして,ソ連に侵攻します。このドイツ軍によるソ連攻撃バルバロッサBarbarossa作戦が発動された理由は,次のようのものです。

?バルバロッサとは,神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)のこと。ナチスは,ハプスブルク家の皇帝標章をオーストリアからドイツに持ち帰り,第三帝国を設立し,帝国以来の伝統を引継いだと主張します。そして,東方ソ連を植民化するために,ソ連を攻撃しました。ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪する,このようにして,大ドイツ繁栄の基礎となる生存圏を形成しようとしたわけです。

?ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ反英の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要がありました。

?フランス降伏後,英国が孤立しても戦っている理由は,米国と並んでソ連を頼りにしているからだとヒトラーは考えます。。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕きこうとします。

写真(右)1941年6月-7月,ソ連侵攻,砂埃を巻き上げて突進するドイツ陸軍?号突撃砲:24口径7.5センチ砲を装備した火力支援のための戦車。
突撃砲,自走砲は,既存の戦車の回転式砲塔を取り除いて,そこに余裕のある固定式戦闘室を儲け,大型の火砲を装備した戦闘車両である。突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。
Sowjetunion, deutsches Sturmgeschütz auf dem Marsch über staubige Straßen; PK 689 Dating: 1941 Juni - Juli Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。  

ソ連侵攻バルバロッサ作戦用のドイツ陸軍兵力は,三個の軍集団,320万人,戦車3500両,火砲7000門が投入されました。

?北方軍集団(司令官リッター・フォン・レープ元帥):2個軍,1個装甲集団によってバルト地区のソ連軍を撃滅,レニングラードを攻略する。

?中央軍集団(司令官(フォン・ボック元帥):3個集団軍,第2装甲集団(グーデリアン大将),第3装甲集団(ヘルマン・ホート大将)によって,ブレスト=ウィルナ=スモレンスクのソ連軍主力の撃破。

?南方軍集団(フォン・ルントシュテット元帥):3個軍,1個装甲集団によってガリチア,ウクライナ西部からキエフを攻略。

ドイツ空軍は,東部戦線に四個航空軍を配備,第一線機1280機を揃えた。内訳は,ハインケルHe-111,ユンカースJu-88など双発爆撃機510機,ユンカースJu87など急降下爆撃機290機,メッサーシュミットMe109単発戦闘機440機,Me110双発駆逐機40機,長距離偵察機120機を配備しました。ソ連空軍の半分の航空機で,性能,習熟度に優れるドイツ軍機は優位を保てると考えました。 

写真(右) 1942年夏 ,ソビエト連邦の南,ドン地方、スターリングラードに進撃するドイツ陸軍?号戦車の縦隊:未舗装道路を進撃する戦車の前面には,予備のキャタピラが置かれている。この鉄製の帯は,装甲版を増強したのと同じ効果があったため,敵の砲弾が命中しやすい車体前面に装着された。
?号戦車は,1941年から本格的な主力戦車配備され,3.7センチ砲を搭載していた。開発当初は,42口径5センチ砲を搭載していたが,ヒトラーは対戦車戦闘能力を重視し,さらに長砲身の60口径砲を搭載するように指示した。しかし,陸軍当局は,重量増加による機動性低下を嫌い,42口径砲のまま量産してしまう。60口径砲への転換が始まったのは,1941年4月にヒトラーが命令無視を知って以降である。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Panzer III in Fahrt auf unbefestigter Straße; PK 694 Dating: 1942 Sommer Photographer: Geller撮影。 Origin: Bundesarchiv
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1941年,ソ連侵攻が順調に進んでいた時期,シュタウフェンベルクは,ヒトラーの打倒を考えませんでした。戦争に勝ってから,政権交代を実現すればよいと楽観していたようです。彼が,トレシュコウと反ヒトラーフーデター計画を腹を割って話しあったのは,1943年夏,スターリングラードのドイツ軍敗北以降のことでした。

写真(右):1942年9月,ソビエト連邦,ドイツ警察部隊によって逮捕されたパルチザン:独ソ開戦当初から,ユダヤ人は戦禍の後片付けや物資運搬など使役,食料・物資・資材の提供をさせられた。居住地を追放され,強制収容所に移送されたり,処刑されたりしたユダヤ人も少なくなかった。特に,親衛隊の特別行動部隊(アインザッツグルッペ)は,戦線の後方で,ユダヤ人など敵性住民を,パルチザンとみなして,逮捕,処刑していった。
Sowjetunion Sowjetische Partisanen werden von Angehörigen einer deutschen Polizei-Einheit in die Gefangenschaft abgeführt. Shitomir, September 1942. [Scherl Bilderdienst] Datierung: September 1942 Fotograf: o.Ang. Agentur: Scherl Quelle: Bundesarchiv.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

しかし,東部戦線では,ユダヤ人射殺,ソ連赤軍の政治委員(コミサール)の処刑,赤軍捕虜の虐待など,悲惨な処遇が行われており,シュタウフェンベルクは,これを知って,ナチスに反感を抱き初めていたのです。

実際,独ソ戦開始3ヶ月前の1941年3月,ヒトラーは,国防軍司令官,部隊指揮官を前に「対ロシア戦争は,騎士道精神で戦うことはできない。これは,世界観と人種対立のたたかいであり,かつてないほどの無慈悲な厳しさをもって遂行しなければならない」と力説しています。

1941年5月13日,ヒトラーは,戦時裁判権行使に関して,「国防軍に属する者,その随員が,敵性住民に対してとる行動に対しては,いかなる訴追義務も生じない。その行為が,軍事上の犯罪および違反行為であっても同様である」と命じています。これは,国防軍と親衛隊に,軍法に一切縛られずに,敵性住民を断固排除すべきことを推奨した指示です。

写真(右)1941年9月,ソ連北部でパルチザン容疑者を銃殺した瞬間のドイツ国防軍兵士:硝煙が上がる中,凄惨な銃殺刑が撮影された。撮影したThiedeは,どのような意図で写真撮影したのであろうか。残酷な処刑と考えたのか,極悪なテロリストの排除と考えたのか。
銃殺を行うドイツ軍兵士には,アルコール類が特別配給されたが,処刑の精神的な負担が大きかった。相手が,女子供であれば「パルチザン」として平然と処刑することはできないだろう。
後にユダヤ人絶滅収容所でガス殺をし,遺体をユダヤ人囚人からなるゾンダーコマンドに処理させたが,これは処刑者の精神的負担を軽減するためだった。
Sowjetunion-Nord.- Erschießung von Männern ("Partisanen"), Erschießungskommando bei der Exekution von sechs Männern; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ヒトラーの指示を受けて,1941年5月19日,国防軍総司令部カイテル元帥は,ロシアでの軍の行動指針として,「ボルシェビズムは,国家社会主義ドイツ国民にとって,不倶戴天の敵である。この腐敗せる世界観とその担い手こそ,ドイツは戦いを挑む必要がある。この戦いが要求するのは,ボルシェビキ扇動者,パルチザン,破壊工作員,ユダヤ人に対し,情け容赦なく,精力的に断固たる措置をとることと,能動的であれ,受動的であれ,いかなる抵抗をも根こそぎにすることである」と明確に述べていました。

写真(右)1941年8-9月,ソ連,ドイツ軍による4人のパルチザンの絞首刑:絞首刑された男性パルチザンは,吊るされて,公衆の目にさらされた。恐怖によって,反対派を黙らせようとするテロによる支配は,住民の嫌悪感を高め,パルチザンの側に追いやった。ドイツ軍兵士の中にも,頻繁な処刑に,反感を抱いたものも少なくなかった。
ヒトラーの戦争の本質は、開戦当初から定まっていました。それは、下等人種・劣等民族の排除を正当化するエセ優生学に基づいてた。
Original title: Erhängte Partisanen Archive title: Sowjetunion.- Einsatz der Polizei-Division an der Ostfront.- Vier erhängte Männer; Aug./Sept. 1941 Dating: 1941 August - September Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

1941年6月19日,陸軍総司令部は,ソ連赤軍に共産党から送り込まれた政治委員(コミサール)を原則,銃器によって排除すべきというコミサール抹殺命令を出しています。これは,世界観と人種対立のもたらした殲滅戦を,軍紀の乱れ(軍紀紊乱)が生じないように,遂行するための正規命令でした。

参謀本部にいたシュタウフェンベルクも,対ロシア戦の指針,コミサール抹殺命令も,当然知っていたはずです。

写真(右)1944年8月10日,ベルリン,反逆罪で人民裁判にかけられたベルトルト・フォン・シュタウフェンベルク(Berthold Schenk Graf von Stauffenberg):軍籍を剥奪され,平服(右)の被告となったベルトルト・フォン・シュタウフェンベルクは,1905年生まれで,クラウス・フォン・シュタウフェンベルクClaus Schenk Graf von Stauffenberg 大佐の2歳年上の兄。クラウス左に着席している平服被告4人は不詳。
Berthold Schenk Graf von Stauffenberg Archive title: Berlin-Plötzensee.- Berthold Schenk Graf von Stauffenberg und andere Angeklagte am 10. August 1944 beim Prozess gegen die Hitler-Attentäter des 20. Juli 1944 vor dem "Volksgerichtshof", zwischen Polizisten sitzend Dating: 10. August 1944
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。  

1941年の夏,シュタウフェンベルクの双子の兄クリフトフとベルトルトは,反ヒトラーグループのモルトケ伯爵の同士だったので,弟クラウスに同志に加わるように話しました。しかし,クラウスの返事は,「まず戦争に勝たなくてはいけない,戦争中にそういったことはすべきではない,特にボルシェビキとの戦争中はだめだ。けれども国に帰ってからなら,褐色のペスト(突撃隊の制服の色)を一掃しよう」と語っています。

写真(右)1941年10月-11月 ,ソビエト連邦の中部,"バルバロッサ作戦"が頓挫した冬のドイツ軍半装軌式装甲車(Sd.Kfz.253)と?号突撃砲:キャタピラを装備した車両でも,泥と雪の道は走行が困難だった。タイヤ装備の自動車の輸送は,はるかに困難だったであろう。ドイツ軍は,8週間,遅くとも冬の到来までに,電撃戦によってソ連軍を壊滅させるつもりでいた。そこで,冬に備えた衣服,機械,輸送の準備が不十分なままだった。
Rußland-Mitte.- leichter Beobachtungspanzer (Sd.Kfz. 253) vor Sturmgeschütz III im Schnee; PK 689 Dating: 1941 Oktober - November Photographer: Plenik, Bruno撮影。 Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。  

1941年から1942年にかけての冬の寒波の中,モスクワ手前で,ソ連赤軍の反抗を受け,ドイツ軍は壊滅的な打撃を受けます。この後,クラウス・フォン・シュタウフェンベルク少佐は,ヒトラーを止めるには,方法は一つしかない,「殺すのだ」と口にします。1942年5月,外務省のヘアヴァルトが,東部戦線の後方で行われているユダヤ人大量虐殺の詳細を報告したとき,彼は,「ヒトラーを殺さなくてはいけない」と即座に応じました。

神聖なる国家が破滅の危機に陥れられようとしている,ヒトラーに祖国を託すことはできない,こう考えたシュタウフェンベルクは,1942年から東部戦線視察のときに,B軍集団参謀長,第40装甲軍団長に反ヒトラーグループに加わるように説得しています。

1943年1月26日には,ドン軍集団司令官エーリヒ・フォン・マンシュタイン元帥をその司令部に訪ね,反ヒトラーの抵抗グループの指揮を引き受けてくれないか,話を切り出しました。しかし,マンシュタインは,「今すぐこの話を止めなければ,私は貴官を逮捕させる」と,激昂します。

シュタウフェンベルクは,このような反ヒトラーの働きかけをしていたためか,1943年2月3日,北アフリカ戦線のドイツ軍アフリカ軍団第10装甲師団主席参謀として,チュニジアへ異動を命じられます。2月14日,ミュンヘンからナポリ経由で,チュニスに飛行機で到着。しかし,2年以上も参謀本部で勤務していたために,激烈な最前線,それも制空権を失った戦場はなれていなかったようです。2ヵ月後,4月7日,英空軍戦闘機の機銃掃射を受け,重要を追ってしまいます。装甲師団参謀長として赴任したチュニジアで,銃撃によって,シュタウフェンベルクは,右腕,左手の指2本,右目を失ってしまいました。

1943年4月中ごろ,シュタウフェンベルクは,最後となった病院船で,チュニジアからシシリー島リヴォルノに航行,ローマ経由でミュンヘンの病院に搬送されました。ここで前線での勇敢な行動が,陸軍参謀総長ツアイツラーに評価され,「金賞傷痍軍人賞」を授与されたます。治療・療養の後,1943年7月初めに担任したシュタウフェンベルクは,家族のいるラウトリンゲンの屋敷で静養します。

1943年8月ベルリンでドレシュコウと,国内予備軍副司令官オルブリヒト(Olbricht)大将と面会し,3月に決行したヒトラー暗殺計画が2件失敗に終わったことを告げられます。これ以降,シュタウフェンベルクは,トレシュコウとともに,反ヒトラー政権の樹立を念頭に置いた暗殺計画を準備します。

1943年9月15日,シュタウフェンベルクは,参謀本部の一般軍務局参謀長に任命され,精力的にクーデターを準備します。17ある軍管区のうち15ヵ所に反ヒトラー派連絡将校を獲得しています。秋には,元SPD(社会民主党)のユリウス・レーバーやヴィリヘルム・ロイシュナー,さらに政治家のカール・ゲルテラーやヨハネス・ポピッツなどと対面し,反ヒトラー政権の構想を固めてゆきます。

写真(右)1944年8月,ヒトラー暗殺事件の人民裁判で裁かれる被告のヘルムト・フォン・モルトケ伯爵(Helmuth von Moltke:1907/3/11-1945/1/23処刑) :1938年のズデーテンラント併合以降,ヒトラーによる対外膨張政策をが,ドイツを戦争に引き込んでしまうと危惧したグループが生まれた。これが,クライザウ・サークルKreisau Circleで,モルトケ伯爵らは,ヒトラー総統を排除して,新政府を樹立使用とした。
しかし,親衛隊ゲシュタポは,反ヒトラーの抵抗運動を調査していた。
1944年7月20日,総統本営ヴォルフスシャンツェでヒトラー暗殺が決行されたが,、ヒトラーは軽傷で済んだ。モルトケ伯爵も,ローラント・フライスラー主宰の人民法廷によって死刑を宣告され,1945年1月,処刑された。
戦後,彼らも,反ナチス・レジスタンスとして英雄視された。
Berlin.- Volksgerichtshof, Prozess zum 20. Juli 1944.- Helmuth James Graf von Moltke; Jan. 1945 Dating: Januar 1945 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

モルトケ伯爵と連絡を取り,モルトケの同志であった聖職者,ベルリン司教コンラート・フォン・プライジング伯爵,イエズス会管区長レッシュ,福音派牧師ペルハウとも知り合いになります。

シュタウフェンベルクは,軍部が単独で行動するのではなく,ヒトラー後の新政権の樹立を睨んで,広範囲のレジスタンスグループが協力して,クーデターに参加することでした。シュタウフェンベルクは,ヒトラーを排除した後,連合国,特に英国と和平交渉に入り,講和を実現しようと考えます。もちろん,連合国は単独講和しないことを,開戦当初から宣言していますから,ドイツが米英の西側連合国とだけ講和して,ソ連と戦い続けるといった構想は,非現実的だったのですが。


5.ワルキューレ作戦

1944年5月,シュタウフェンベルクは,国内予備軍フロム上級大将,副司令官オルブリヒト大将の下で,国内予備軍参謀長に就任することが決まります。

国内予備軍は,兵力維持と治安維持を担当する部署で,任務の一環として準備していた万が一の反乱鎮圧のための「ワルキューレ作戦」によってヒトラー暗殺後の政権奪取を計画します。

1944年夏,クーデター派同志の中でヒトラーに面会が可能だったのは,シュティーフ将軍,フェルギーベル将軍の二人だけでした。しかし,将官たちは,命と名誉をかけて,ヒトラー暗殺を実行するだけの勇気と粗暴さが足りません。そこで,国内予備軍参謀長としてヒトラー主催の総統大本営作戦会議に出席できるシュタウフェンベルクが,暗殺実行犯として名乗りを上げます。

1944年6月7日,ベルクホーフの総統本営にいるヒトラーの下に,シュタウフェンベルク大佐は,国内軍司令官フロム上級大将とともに,召喚されました。これが,初めてのヒトラーとの面会でした。会議は,密閉コンクリートの会議室で,ここにシュタウフェンベルクも参加してたのです。7月6日にも,ベルクホーフの作戦会議に出席し,ワルキューレ作戦についてヒトラーに,説明しています。

しかし,1944年7月14日,ヒトラーは会議の場所を,ラステンブルクの総統本営ヴォルフスシャンツェに移します。翌15日,シュタウフェンベルク大佐は,会議に召喚され,暗殺を実行しようとします。しかし,シュティーフ将軍,フェルギーベル将軍も,最高指導者に戴くベック将軍も,親衛隊長官ヒムラーが同席しないのであれば,暗殺を中止するようにと指示します。

写真(右)1939-44年,国内軍参謀長シュタウフェンベルク大佐の副官だったへフテン中尉:1944年7月のヒトラー暗殺計画にも,シュタウフェンベルク大佐と同行,総統本営に行き,時限爆弾への信管セットを手伝った。一個仕掛けることができなかったプラスチック爆弾を,ラステンブルク飛行場に向かう自動車から投げ捨てた。これをバックミラーで,運転手が見ていて,後で爆弾が回収された。ベルリンの国内予備軍司令部で,フロム大将による即決裁判によって,シュタウフェンベルクら3名とともに銃殺された。
Porträt Werner Karl von Haeften Dating: 1939/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

1944年7月20日の作戦会議は,夏場で暑かったため,会議の場所は,窓の開いたバラック兵舎に変更されました。そのために,シュタウフェンベルクが仕掛けた時限爆弾の爆発威力がそがれてしまいました。テーブルの頑丈な脚が爆風を遮ったともいわれます。爆弾も二個(2kg)用意しましたが,一個(1kg)しかカバンに入れることができませんでした。

そもそも,手と目が不自由なシュタウフェンベルクが,暗殺とクーデター指揮の二役をこなす事に無理がありました。
また,反乱軍の将校たちは,大変な能力と教養を持っていたために,合法的にヒトラーの権威を引き継ぐことにこだわりました。無法な暗殺を実行するには,粗暴さが足りませんでした。ワルキューレ指令に逆らう者すべてを制圧する断固たる意思と,敵を処刑できる冷酷さがあれば,ヒトラー暗殺に成功しなくとも,新政権樹立のチャンスはありました。実際,ウィーンとパリでは,クーデターは成功しています。

しかし,シュタウフェンベルクは自分の意図を明確に述べれば,副官のヘフテン中尉のようにに,相手を納得させる真理があると信じていました。彼は軍の上司たちが,礼儀正しく,暗殺には直接関与できないことは知っていましたが,戦争終結のためなら,命を懸けてくれると信じたかったのではないでしょうか。

しかし,将軍たちの多くは,ヒトラーが生き残っていることを知ると,クーデター派を見捨ててしまいました。

暗殺が成功していれば,大義名分を得た国防軍の将軍たちが,こぞって,新政権の側にはせ参じたはずです。そうすれば,兵力に劣る親衛隊は,国防軍に従ったでしょう。

ヒトラーが自殺し、ナチスドイツが降伏するのが暗殺未遂から9ヵ月後の1945年5月です。連合国は,1942年の国連共同宣言以降,繰り返し単独講和をしないことを公言していますから,やはり,ドイツ新政権も,無条件降伏するしかなかったでしょう。

けれども,8月末には戦争に終止符が打たれたはずです。これによって,ソ連占領地域から逃避・追放されたドイツ系住民の犠牲者は,遥かに少なくなっくなったでしょうし,東西両戦線,ドイツ本土空襲の犠牲者,強制収容所のユダヤ人の多くも死なずに済んだと思います。アンネ・フランク一家も,まだオランダに収監されている時,アウシュビッツに送られる前に解放されたでしょうし,もしかすると,ソ連も1945年早々に対日戦に参加し,太平洋戦争も原爆完成前に終わったかもしれません。

写真(右)1933年,ヴェルナー・ローレンツ(Werner Lorenz) (1891/10/02-1974/03/13) :親衛隊は,軍帽の正面にドクロの紋章をつけた。
ローレンツは,1929年,ナチ党に入党,1931年,親衛隊SS入隊。1933年11月,親衛隊中将に昇進。1943年,親衛隊大将。VOMI長官として外国在住のドイツ系民族(フォルクス・ドイッチュ)の帰還運動を実行したローレンツは,ナチス親衛隊SSの大将(SS-Obergruppenführer)で,欧州のドイツ系民族(フォルクス・ドイッチュ)を帝国に集める任務に当たった。
1948年3月,ニュルンベルク裁判で,懲役20年の刑。
Scherl Bilderdienst Berlin Lorenz, Werner, SS-Brigadeführer 23497-33 Fotograf: Fritz Krauskopf, Königsberg, 1933 Archive title: Werner Lorenz, SS-Brigadeführer, Porträt Dating: 1933 Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

7月20日(ワルキューレ)の反乱は、暗殺の成否ではなく、暗殺の背景,反ナチスのドイツ人が行動した理由こそが問われるべき事件ではないでしょうか。

戦前,ドイツからオランダに亡命していたユダヤ人アンネ・フランクは,7月21日の日記に,ヒトラー暗殺がドイツ人の将軍,若い伯爵によって計画されたことに,希望を沸き立たせています。暗殺は失敗しても,10月には学校の机に向かっているかもと,喜んでいます。

当時,無法な暗殺未遂に憤慨するドイツ人は少なくなかったのですが,平和を望んでいたドイツ人からは,大佐は評価されていました。戦後の反ナチス,民主化の動きは,ドイツ人の内面にあったものが顕在化したのであって,決して,占領軍に強要されたり,洗脳されたりした結果ではないと思います。

戦時中から,ドイツ国民の中に,戦争が速く終わってほしいという思いが強くなっていたことは確実です。戦争がもたらす領土拡大,資源と市場の獲得,名誉と栄光などといった国益は,人間の命や健康的な生活を踏みにじってまで,正当化することはできなからです。

殺さなければ殺される,このような戦争では,戦うことをやめることは困難です。が,殺さなけいから殺されない,ほうがよいと思う人々が増えてゆきました。戦争を続けたくないという厭戦気分が高まり,戦争指導者に対する反発や不満が渦巻いてきます。

1934年,「長いナイフの夜」で,シュライヒャー前首相など元軍人が無法に殺害されたことを知った国防軍ヴェツレーベン将軍は,調査の必要性を訴えました。また,1938年2月,ヒトラーの膨張主義に反対した陸軍総司令官フォン・フリッチュ将軍がスキャンダルで,追い落とされたときも,ナチスを非難しています。そこで,1938年のズデーテンラント併合要求に際しては,陸軍のベック参謀総長、カナリス国防軍諜報部長,ヘプナー中将,シュチルプナーゲル参謀次長,ハルダー将軍などの反ヒトラー派将軍とともに,にヒトラーを追放するクーデターを計画しました。

しかし,英仏が,ミュンヘン会談でヒトラーの領土要求を承認すると,ヒトラーの国内外の評価は高まり,クーデターは取りやめになってしまいます。

写真(右)1944年8月,ヒトラー暗殺事件の民族裁判Volksgerichtshofesに立たされたエルウィン・ヴェツレーベン(Erwin Witzleben)将軍:軍籍を剥奪され,民間人として処断された。ヒトラーは,反逆者を豚のように処刑することを命じていた。これをフライスラー裁判長が裁いた。裁判ではフライスラー裁判長の暴言を耐えた。ヴェツレーベンは,冷静に対応したが,裁判終了後,すぐにハリガネで絞首刑にされた。
Original title: Zentralbild 15.2.1959 Geheimer Nazifilm enthüllt: Jetziger Generalinspektor der Bonner Bundeswehr, der ehemalige Nazi-General Heusinger verriet Offiziere des 20.7.1944 an die GESTAPO Die Arbeitsgemeinschaft ehemaliger Offiziere übergab ADN das sensationelle Ergebnis sorgfältiger Untersuchungen über den Verrat, durch den der heutige Generalinsprekteur der Bonner Bundeswehr, Heusinger, Teilnehmer des Attentats auf Hitler vom 20. Juli 1944 der GESTAPO auslieferte. U.B.z.: Ein Ausschnit aus dem geheimen Nazi-Film: Generalfeldmarschall von Witzleben beim Verhör durch den Vorsitzenden des "Volksgerichtshofes" Freisler. Der Generalfeldmarschall wurde unmittelbar nach der Verurteilung hingerichtet. Archive title: Berlin.- Volksgerichtshof, Prozess zum 20. Juli 1944.- Erwin von Witzleben als Angeklagter; 7./8. August 1944 Dating: August 1944 Photographer: o.Ang.
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1939年9月,第二次世界大戦が勃発すると,ヴィツレーベン大将は,第1軍司令官として,西部戦線に参戦,1940年5月開始のフランス侵攻作戦では,第1軍を指揮して,フランス軍のマジノ要塞を突破しました。この功績で,7月19日,騎士鉄十字章を授与されています。。そして,フランス降伏後の戦勝祝いとして,多くの将官とともに,元帥に昇進しました。1941年には,西部方面総司令官に任命されています。

しかし,1941年6月22日,ソ連侵攻バルバロッサ作戦が開始され,ドイツがモスクワ前面でソ連軍の反撃に壊滅しそうになると,ヴェツレーベン元帥は,ヒトラーの死守命令を批判し,病気を理由に更迭されてしまいます。

1944年7月20日のヒトラー暗殺後のワルキューレ作戦において,ヴィツレーベン元帥は,新政権の国防軍総司令官に就任する予定でした。実際,ワルキューレ作戦に伴う親衛隊,ナチ党への拘束命令は,ヴィツレーベン元帥の名によって発令されています。ヴェツレーベン元帥は,国内軍司令部に,7月20日の20時にやってきました。

しかし,ヒトラー暗殺が失敗し,クーデターの成功の見込みが低いことを悟ると,ヴィツレーベン元帥は,クーデターへの参加を拒否し,1時間足らずで「帰営する」として,退去してしまいます。彼は,よく21日潜伏先で逮捕されます。


6.1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件

1944年7月19日,ヒトラー総統は,東部戦線に新たな2個師団を調達するために,プロイセン州のドイツ人から民兵の国民突撃隊を調達することを命じました。

国内予備軍は,1944年7月20日,国内軍の状況を報告するように求めら,国内予備軍参謀長シュタウフェンベルク大佐が,7月20日,副官ヘフテン中尉を伴ってラステンブルクの総統大本営Wolfsschanze作戦会議室に出頭しました。

ラステンブルクの総統大本営における作戦会議は,ムッソリーニの訪問があるために,急遽,30分繰り上げ7月20日1230に開始されることになります。国防軍最高司令部総長ウィルヘルム・カイテルWilhelm Keitel将軍は,少したってから,国内軍(司令官フロム将軍)参謀長シュタウフェンベルク大佐を,ヒトラー総統に紹介しました。作戦会議室には24名いた。シュタウフェンベルクは時限爆弾入りの黄色い折カバンを作戦会議室のテーブルの下に置きます。そして,素早く会議室を立ち去ったのです。
7月20日1242,爆弾はほぼ予定通り爆発。

写真(右)1940-1944年,ヒトラー爆殺未遂事件当時,国内軍司令官エーリヒ・フロム大将:東プロイセン総統大本営ヴォルフスシャンツェ作戦会議室における大爆発でヒトラーが死亡したとして,オルブレヒト副司令官から「ワルキューレ作戦」の発動を要請された。しかし,フロム大将は,総統本営からヒトラー総統は生きているとの情報を得たために,作戦発動をためらった。国内軍参謀長シュタウフェンベルク大佐が総統本営からベルリンに帰ってくると,国内軍司令部の一室に換金された。その後,部下に解放され,反乱者幹部将校4名を即決裁判で銃殺した。
Fromm, Friedrich General der Artillerie Archive title: Porträt Generaloberst Friedrich Fromm mit Ritterkreuz (verliehen am 6. Juli 1940) Dating: 1940/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
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ヒトラー総統は,爆発で吹き飛ばされましたが,作戦地図を広げた厚い木製テーブルのためか,軽傷でした。廊下から,カイテル将軍に支えられて,外に出ました。従兵のオットー・ギュンシェに付き添われ,総統地下壕に戻っていまた。従僕が侍医モレルを呼びに行っています。爆発当初,ヒトラーは,航空機の爆撃かと思いましたが,航空機は発見されておらず,トート組織の建設労働者による爆弾テロに遭遇したと言い放ちます。爆発現場の検証,ゲッペルス宣伝相への連絡,そして爆発事件についての秘密厳守も命じました。

ヒトラーの個人秘書トラウデル・ユンゲによれば,爆発音が不安を感じたのは,爆破の大音響のためではありません。総統本営では,銃や高射砲の射撃訓練,工事なので騒音に慣れていたからです。しかし,従兵が必死で使者を呼んでおり,「爆弾が爆発した。たぶん総統ブンカーだ」との情報に接して,動揺と恐怖のどん底に陥れられた。個人秘書シュレーダーが「ヒトラーが死んだら私たちはどうなるの」と聞くので,総統ブンカーと隣のバラックに向かいました。

国防軍統帥部長ヨードル将軍の顔は血だらけでカイテル元帥の副官ヴァイツネッカーの軍服にも赤いしみがついていました。道の先は通行禁止になっていて秘書は追い返されます。ヒトラーが死んだら,彼の後を継ぐのはヒムラー,ゲーリング,ゲッペルス? 彼らはヒトラーに照らされる月であり,無理だろう。ヒトラーの敵が新政権を樹立するのか。

ユンゲは,好奇心から総統ブンカーに向かい,髪の毛が全て逆立って,腰蓑のようなズボンをまとっているヒトラ-を見て,吹き出しそうになりました。

ヒトラーの個人秘書トラウデル・ユンゲ(1920年3月16日 - 2002年2月10日)は,ヒトラー愛人エヴァ・ブラウンに容姿・性格が似ていて,ヒトラーの気に入っていたミュンヘン出身者だったために,秘書に採用されました。彼女は,爆破直後のヒトラーが,腰蓑のようになったズボンを履いていたことを証言しています。

ヒトラーは,これほどの損害を与えた爆発でも,軽症ですんだヒトラーは,右手を軍服のボタンの間に入れ,左手で挨拶した。「さあ,ご婦人方,今度もうまくいきました。やはり私は,天命を授かった人間なのですね。そうでなければ,この世にはもういませんよ。

ヒトラーは爆発の原因について「卑怯者が企てた暗殺計画だ」「爆弾を仕掛けたのはトート機関の技師だ。他の可能性は考えられない」と述べています。

総統侍従ハインツ・リンゲが,時計を見ながら「総統,ズボンを履き替えにならないと。1時間以内にドゥーチェ(ムソリーニ)がいらっしゃいます。」ヒトラーは,背筋を伸ばして部屋に戻っていっいきました。

ヒトラーが部下たちと暗殺事件について話していた時,シュタウフェンベルク大佐がその場にいなかった唯一の将校で,彼が電話をしに外に出たことに言及されてました。その時。電話係のアダム上等兵が,「総統,シュタウフェンベルク大佐は爆発直前に会議実を出ましたが,電話をしようとしたのではなりません。バラックを出て行ったのです。私は,彼が犯人だということもありうるとご忠告申し上げたいと思います」と述べたのです。

しばらく沈黙が支配した。誰もそれまでドイツ国防軍の将校,それもヒトラースタッフが,暗殺未遂実行犯だとは疑っていなかったからです。ヒトラーは,訝しげにシュタウフェンベルクを取り調べるように命じました。(トラウデル・ユンゲ『私はヒトラーの秘書だった』pp.191-195草思社参照)

7月20日1315,新しい制服に包帯をしたヒトラー総統は,大本営の通信責任者ルドルフ・サンダー大佐を呼びにやり,ドイツ国民にできるだけ早く自らの声を聞かせる準備をさせました。放送用の自動車がケーニヒスベルクから派遣されることになりました。

写真(右)1944年7月20日,ヒトラー暗殺未遂事件で死亡した空軍のギュンター・コルテンGunther Korten上級大将:1939年撮影。
Original title: Zentralbild II. Weltkrieg 1939 - 1945 Oberst Günther Korten, der Generalstabschef der Luftflotte 4 die am Überfall der faschistischen Wehrmacht auf Polen beteiligt war. 13757-39 Dating: 1939 Herbst Photographer: o.Ang. Agency: Scherl
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

1944年7月20日1242,総統大本営の作戦会議室における爆発によって,ギュンター・コルテンGunther Korten上級大将(7月22日死亡),ドイツ国防軍副官ルドルフ・シュムントRudolf Schmundt少将(大将昇進後10月1日死亡), 参謀本部ハインツ・ブラントHeinz Brandt大佐(7月22日死亡), 速記者ハインリヒ・ベルガーHeinrich Berger(7月20日死亡)の4名が殺害。

そして,ヴァルター・シェルフ,Walter Scherff少将(敗戦後1945年5月24日自決), 海軍副官プットカーマーKarl-Jesco von Puttkamer提督(1900-1981) , ボルクマンHeinrich Borgmann大佐(1945年4月6日空襲で戦死),空軍参謀総長ボーデンシャッツ Karl Bodenschatz大将(1890-1979),参謀本部作戦部長アドルフ・ホイジンガーAdolf Heusinger中将(1897-1982)が負傷。


7.ヒトラー暗殺失敗の理由


(1)暗殺が失敗したテクニカルな理由:
?シュウタンフェンベルク大佐は,総統大本営で,作戦会議の直前,カバンに爆弾を詰め,信管をセットしたが,作戦会議時間がムソリーニ来訪のために繰り上がり,用意した爆弾2個のうち1個しかカバンに詰めることはできなかった。
?ヒトラーの足元近くに爆薬入りのカバンを置いて,電話を掛けることを口実に会議室を出たが,その後,カバンがぶつかったブラント大佐がカバンを奥に押しやり,テーブルの分厚い脚の陰に入ってしまった。
?会議室の窓が開け放たれていて,爆風が戸外に出て,爆発威力が削がれた。

写真(右)1944年7月,西部方面軍総司令官ギュンター・フォン・クルーゲ(Günther von Kluge)元帥 (1882年10月30日-1944年8月19日自決):ドイツ赤十字社の病院を視察し,看護婦と握手する。クルーゲ元帥は,ヒトラー暗殺計画に誘われていたが,消極的な支持にとどまった。東部戦線にいたときのドレシュコウ参謀が,誘ったが,彼らを逮捕したり,密告したりはしなかった。
ノルマンディー上陸後,連合軍に敗退し,総統本営と通信が取れなくなった。これが,反ヒトラーのクーデター参加を疑われることになる。ゲシュタポは,クルーゲ元帥を,反ヒトラー派と考えており,ヒトラーも,8月17日,クルーゲから西部方面軍司令官の職を解いた。そして,ベルリンに召喚したが,不名誉な裁判を恐れたクルーゲ元帥は,その途中,自決。ヒトラーへの遺書では,忠誠を誓った。
Generalfeldmarschall von Kluge im Westen Der neuernannte Oberbefehlshaber West, Generalfeldmarschall von Kluge, befand sich in den letzten Tagen auf einer Besichtigungsfahrt an der Kanalküste. Er besuchte die dort eingesetzten Divisionen und informierte sich über den Stand der Verteidigungs- und Abwehrmaßnahmen im Falle einer erneuten Landung des Feindes. Der Generalfeldmarschall, in dessen Begleitung sich ein Divisionskommandeur befindet, verabschiedet sich in einem Soldatenheim von einer DRK-Schwester. Dating: Juli 1944 Photographer: Scheck Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

しかし,このようなテクニカルな理由は,ヒトラー暗殺の本質ではありません。これは,反乱将軍たちが,断固たる決意を持ってヒトラー暗殺の行動をとれなかったことに由来します。

(2)優柔不断だった将軍たち:
1944年7月20日1242,総統大本営の会議室で轟音とともに爆発が起き,シュタウフェンベルク大佐も,吹き飛んだ作戦会議室の中でヒトラーは死んだと確信しました。爆発後の作戦会議室は,壁が壊れ,家具が散乱するなど,大損害を受けています。

当時の携帯用の小型時限爆弾技術を使って,ヒトラーを確実に暗殺することは困難でした。ヒトラーの行動が的確に予測できない上に,厳重な警護がされているからです。しかし,暗殺者がその場にいないで,ヒトラーを殺害できる確証は得られなかったはずです。

にもかかわらず,ヒトラー暗殺に時限爆弾を使ったのは,ヒトラーに近づいて,暗殺し,無事にその場を離れることが不可能に近かったからです。

ヒトラー総統の従兵が警護する中,その場に暗殺者がいれば,即座に逮捕あるいは処刑されてしまいます。つまり,暗殺者は,その場で死ぬ覚悟が必要となります。

写真(右)1941年秋,カール=ハインリヒ・フォン・シュチルプナーゲル(Carl-Heinrich von Stülpnagel)将軍(1886年1月2日-1944年8月30日絞首刑):開戦時,陸軍参謀本部次長の大将で,独ソ戦には,東ガリシアに侵攻。1942年2月から,パリに駐留,軍政長官となる。シュタウフェンベルク大佐らの反ヒトラーのクーデターに参加し,パリでは反乱を成功させた。西部方面司令官クルーゲ元帥にもクーデター参加を要請したが,暗殺失敗を知ったクルーゲはそれを拒否し,逃亡を勧めた。その後,シュチルプナーゲルは逮捕され,フライスラー裁判長の人民法廷で死刑判決。ベルリンのプレッツェンゼー監獄で,ハリガネにより絞首刑にされた。
Polen.- General Karl Heinrich von Stülpnagel; PK 666 Dating: 1941 Anfang Photographer: Koch撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

シュタウフェンベルク大佐は,ヒトラー暗殺のために犠牲を厭いませんでしたが,暗殺後のワルキューレ作戦による政権奪取の中心人物でもありました。また,新政権誕生後は,官房長官の要職を務めることになっていました。したがって,シュタウフェンベルクは,ヒトラーを殺して,その場で死ぬわけにはかなかったのです。

総統大本営では,国防軍通信連絡局長エーリッヒ・フェルギーベル大将も,ヒトラーに用意に接近可能でした。また,将官クラスなら,ヒトラーに自ら面会を求めて接近することも十分にできたはずです。しかし,反乱将軍たちは,いずれも新政権における要職に就くことを重視し,ヒトラー暗殺に命を懸けることはできませんでした。偉い軍人ほど,臆病なのかもしれません。

親衛隊国家保安本部SDも,反ヒトラー(反体制)グループの将官や政治家については,既に多くのことを知っていました。保守的官僚カール・ゲルテラー(Carl Goerdeler)と退役将校ベック大将のグループ,キリスト者と社会主義者からなるヘルムート・フォン・モルトケ伯らのクライザウ・サークルについて,反ヒトラー行動を監視,警戒していたのです。

反ヒトラーの将軍,退役軍人,政治家など重鎮たちは,1938年以来,ヒトラーに対する謀略を長く続け過ぎました。そして,有名人だったために目をつけられやすかったために,クラウザウ・サークルの動向は,親衛隊国家保安本部SDに察知されていました。

写真(右)1941-1944年,騎士十字鉄十字章をつけたカール・ハインリヒ・シュチルプナーゲル大将(Carl-Heinrich Rudolf Wilhelm von Stülpnagel:1886年1月2日-1944年8月30日処刑):騎士十字鉄十字章は,1941年8月21日に授与された。ヒトラー暗殺計画に加担,パリでクーデターを実行に移すが,ヒトラーが生きていることを知ったクルーゲ元帥に協力を拒否され,軍の動員には失敗した。
シュチルプナーゲルは逮捕され,拳銃自殺を試みた。しかし,失敗し,フライスラーの人民法廷で裁かれ,死刑を宣告された。協力していたホーファッカーと同じく,1944年8月30日,ベルリン・プレッツェンゼー監獄で絞首刑。
Porträt Karl Heinrich von Stülpnagel als General der Infanterie mit Ritterkreuz des Eisernen Kreuzes (verliehen am 21.08.1941); ca. 1941/44 Dating: 1941/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
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シュチルプナーゲル将軍は,1940年まで,陸軍参謀本部次長で,1940年6月,フランスが降伏すると,対仏交渉に当たり,第17軍司令官に就任した。

1941年6月22日,ソ連侵攻バルバロッサ作戦にも第17軍司令官として参戦,ウクライナを攻略。1942年3月,パリ駐留のフランス軍政長官に就任。フランス軍政部には,シュタウフェンベルクの従兄カエザル・フォン・ホーファッカー(Caesar von Hofacker)がいて,シュチルプナーゲルを補佐していて,彼が,ベルリンの反ヒトラーグループとパリの連絡係となりました。

1943年夏以降,パリでも,米英連合国と講和できるか,どうすれば西側と和平が結べるかが議論されました。実際,ドイツの密使として,外務省トロット・ツール・ゾルツは,中立国経由で,米英に和平交渉を打診していたのです。しかし,連合国は,単独講和拒否,無条件降伏要求で固まっていて,交渉は一切拒否されたています。

1944年5月15日,シュチュルプナーゲル将軍は,エルヴィン・ロンメル将軍と対談しました。シュチュルプナーゲルの参謀長コスマン大佐の子供の洗礼式に便乗して,コスマン大佐の邸宅で,西側連合軍と講和して,ドイツ軍を後方に撤退させる計画に合意しました。ロンメルは,自分の名声を李朝して,米英と休戦協定を結ぼうと考えます。そして,西部方面のクーデター派の指揮は,ロンメル元帥にゆだねられることになりました。

ロンメルは,自分を元帥に昇格させたヒトラーに恩義を感じ,さらにヒトラーの人を圧倒する名状しがたい魔力にとらわれていたために,ヒトラー暗殺には,懐疑的でした。でも,ホーファッカーらは,ロンメルを反ヒトラー派の象徴的存在として,担ぎ出したかったのです。彼らは,米英連合軍がヨーロッパ大陸に上陸する前に,和平交渉に入りたかった。これは,敗者は幸福を強要され,和平交渉の相手にされないと考えたからです。しかし,米英連合国は,ドイツを敗北させることができると確信していましたから,無条件降伏を求めます。反ヒトラー派軍部の考えているような,和平交渉は,不可能な状況だったのです。

ロンメル元帥は,1943年,西部方面軍の北部フランス防衛担当であるB軍集団司令官に就任。ノルマンディーで連合軍上陸部隊を水際反撃する計画を主張しました。。これは,いったん連合軍が上陸してしまえば,制空権の下,橋頭堡を築かれてしまい,追い落とすことは不可能だと考えていたからとされています。しかし,ロンメルは,この時期,西側との和平交渉に入ることを希望しており,前線でドイツ軍の防衛力の強さを見せ付けて,連合軍のヨーロッパ進行が困難であると諭し,和平交渉に入る計画だったとも考えられます。海岸にコンクリート防御の砲台やトーチカを構築し,上陸障害物を並べたのは,連合軍に「大西洋の壁」の防備が硬いことを見せつけ,講和の契機をつかもうとした演出だったのかもしれません。

写真(右)1944年5月,フランス,エルヴィン・ロンメル(Erwin Rommel)将軍とフォン・ルントシュテット元帥(右),ヨハネス・ブラスコビッツ大将(左):カール・フォン・ルントシュテット(Karl von Rundstedt)元帥(1875年12月12日-1953年2月24日)は,1939年9月の第二次世界大戦勃発により現役復帰した。ポーランド侵攻には南方軍集団司令官として参加。1940年5月のフランス侵攻では、かつてルントシュテットの参謀長だったフォン・マンシュタインのアルデンヌ突破作戦が採用,ルントシュテットは,A軍集団司令官として参戦。
1940年7月,元帥に昇進。1940年10月,フランス占領軍を統括する西部方面軍総司令官に就任。1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦では,南方軍集団司令官を務めた。そのとき,部隊を独断後退させたために,12月,予備役に降格。
しかし,1942年3月,西部方面軍総司令官に再任。フランス沿岸に大西洋の壁を建設したが,ルントシュテットは,連合軍を上陸させた後,艦砲射撃の射程外の内陸で反撃する計画だった。他方,配下となるB軍集団司令官ロンメル元帥は,敵航空機による攻撃が困難な水際で反撃すること主張。
1944年7月,ヒトラー暗殺未遂事件にかかわった将校を不名誉除隊させた。反乱将校たちは,軍事法廷ではなく,フライスラー長官の人民法廷で裁かれることとなった。しかし,1945年3月、レマーゲン鉄橋を失ったために,再度,罷免された。
Frankreich, Paris.- Generalmajor Erwin Rommel mit Stahlhelm und Orden Pour le Merite bei Siegesparade nach dem Westfeldzug 1940 Dating: Juni 1940 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

しかし,ロンメルは,上陸当日の1944年6月6日,妻の誕生日を祝うために休暇中で,故郷シュワーベンに滞在していました。連合軍のノルマンディー上陸を知らされると,ロンメルはパリ北70キロのラ・ロシュ・ギヨンの西部方面総司令部に戻ります。続々上陸してくる連合軍地上部隊,激しい空襲と艦砲射撃に,ドイツ軍はもちこたえることができなくなります。

1944年6月17日,ヒトラーは,パリ北東90キロの総統本営ヴォルフスシュルフト?まで出向き,西部方面総司令官ルントシュテット元帥,B軍集団司令官ロンメル元帥を戦況報告に召喚しました。この時,ロンメルは,戦局は絶望的で「西部戦線は壊滅します。」と予告し,ヒトラーに戦争終結を求めましたが,ヒトラーは,腹立たしげにロンメルを叱責しました。

1944年7月15日,ロンメルは最終的な建白書をしたため,再度,西部戦線の壊滅的状況を説明して,ヒトラーに戦争終結を要求しようとします。しかし,同日,7月17日,ロンメル乗用車が英空軍スピットファイア戦闘機に機銃掃射され,ロンメルは重傷を負ってしまいます。その直後,7月20日,シュタウフェンベルク大佐のヒトラー暗殺が失敗すると,ロンメルも,反ヒトラーのクーデターの関与を疑われます。

実際,B軍集団参謀長ハンス・シュパイデル中将は,パリ軍政長官フォン・シュチルプナーゲル大将らと,西部方面で,英仏連合軍と講和しようとしていました。

1944年10月,ヒトラーはロンメルに使者を派遣,自決するか裁判を受けるか選択せよと通牒しました。すでに,ヒトラー暗殺事件を裁く人民裁判の非情さを知っていたロンメルは,反逆罪で裁判を受けるよりも,家族を守るために,自決を決意します。そして,1944年10月14日,クーデター関与を弁明せずに服毒自決しました。

(3)ヒトラーの妄信した神の摂理

ヒトラーの個人秘書の一人だったトラウデル・ユンゲTraudl Jungeは,ズボンが裂けて腰蓑のようだったヒトラーが,元気だったのを目撃しています。ヒトラーは,戦局悪化に不安感を高めていたが,「どでかい幸運」をもたらしたとムッソリーニにも話しました。(ムッソリーニはドイツ語を理解します。)生かされているという天の摂理を身をもって感じたヒトラーは,自分の戦争が正しいものであり,ドイツの勝利を再び確信を固めました。

連合軍相手に徹底抗戦し,東西対立が生じて,米英あるいはソ連と和平,同盟関係に入ることができると信じ込んでいました。これは,反ヒトラー派の将軍たちと同じです。

フリードリヒ大王Friedrich II.が七年戦争Siebenjähriger Kriegの敗北直前,ロシアでピョートル3世即位という政変がおきました。これによって,ロシアが戦線を離脱したために,プロイセンは,オーストリアとも講和できました。ヒトラーは,七年戦争の逆転勝利を念頭に置いた「歴史的確信」を抱きます。これは,神の摂理が自分を加護しているという過信があったからです。

写真(右)1941年,国家元帥ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring )(1893年1月12日-1946年10月15日服毒自殺):ポーランド侵攻のとき,1939年9月1日の国会演説で,ゲーリングを継者に指名した。ヒトラーは自分が倒れれば,ゲーリングがそれに続くと演説したのである。ゲーリングが倒れれば,ルドルフ・ヘス副総統がそれに続くこととされた。
1945年4月20日,ヒトラー総統は,国防軍最高司令部をオーバーザルツベルクに移すことを許した。ここには,総統本営ベルクホーフ,ゲッベルスやゲーリングの別荘があった。、そこで,ゲーリングは,ベルリンにとどまったヒトラー総統に,1941年の総統布告に基づく権限委譲の確認を求める打電をした。しかし,この電報を受け取た総統官房マルチン・ボルマンは,ゲーリングがヒトラーを裏切るつもりであると,ヒトラーに密告した。これを信じたヒトラーは,ゲーリングの逮捕とすべての役職からの除名を命じた。
Hermann Göring übergab Bergarbeitern das Kriegsverdienstkreuz mit Schwertern. - 568 Bergleute aus allen Revieren des deutschen Bergbaues, und 57 Arbeiter der Reichswerke Hermann Göring waren am Sonnabend nachmittag einer Einladung des Reichsmarschalls Göring in das Haus der Flieger in Berlin gefolgt, wo der Reichsmarschall ihnen das vom Führer und Obersten Befehlshaber der Wehrmacht verliehene Kriegsverdienstkreuz übergab. 67 von ihnen erhielten für ihren tapferen Einsatz das Kriegsverdienstkreuz mit Schwertern. Als Parole für die kommende Zeit betonte der Reichsmarschall in seiner Rede, dass wir rüsten und kämpfen müssten. Unser Bild zeigt Reichsmarschall Hermann Göring bei der Ankunft im großen Festsaal des Hauses der Flieger, als er durch das Spalier der Bergleute schritt. PK-Lange Scherl Dating: 1941 Photographer: Langer撮影。 Agency: Scherl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ヒトラーの個人秘書クリスタ・シュレーダーChrista Schroeder(1908-1984) は,暗殺未遂の直後,総統と食事をともにした。彼女によれば,総統は「事件はドイツの転機になる。事態は好転する。卑しい連中の仮面が剥がれたのが嬉しい」と言い放ちました。

ドイツ軍が敗退を続けたのは,自分ヒトラーの戦略・戦術の失敗ではなく,国防軍内部に救っていた謀反人が,自分の命令を実行しなかった,敵に情報を漏洩していたからだ,とヒトラーは考えました。敵に内通する裏切り者を抹殺すれば,再びドイツが勝利するはずだと,ヒトラーは妄想を逞しくし,元気を取り戻しました。ドイツ敗退の原因が,陸軍の将軍たちの謀反にあったことが判明して,ヒトラーは喜びます。

1944年7月20日(暗殺未遂当日)1430,ベニート・ムッソリーニ Benito Mussolini(ドイツ語ができる)をラステンブルク鉄道駅に出迎えたヒトラー総統は,生涯で最大限の幸運を手に入れたとに語りかけました。列車から降り立ったイタリアのムッソリーニと自動車で作戦会議室まで行き,自ら現場を案内しています。

ヒトラー総統は,神が世界の歴史を作るために自分を選んだと確信し,強気になった。神に逆らう反乱者を根絶やしにしてやると,報復を宣言します。女子供も強制収容所にぶち込んでやると喚きだしました。


8.反ヒトラー派の鎮圧と報復の人民裁判

ベルリン防衛軍ハーゼ司令官は,部下のベルリン警護大隊長レーマー少佐にベルリンのナチ党事務所,親衛隊を占拠するように命じました。しかし,兵力が過小で,ベルリンを押さえることはできなかった。ベルリン放送局,啓蒙宣伝省,ゲシュタポ本部も事実上,放置されたままでした。

ヒトラー総統は,親衛隊と陸軍が対決し,内乱となることを絶対に避けることを厳命します。そして,新聞局長を呼び,「総統を爆弾で殺そうとする試みが今日なされた。小さな火傷と打ち身のほかは総統に怪我はなかった。

総統は再び執務をとられ,予定通りドゥーチェを迎えて,長時間会議を行った。」というコミュニケをラジオ放送せよと命じました。
7月20日1828,総統暗殺未遂のコミュニケが,ニュース速報として突然流されます。

<ベルリン警護隊レーマー少佐によるベルリン反乱鎮圧>
ベルリンの宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルス大臣も,ヒトラーの死後,新政権に参加するべきか迷ったかもしれません。しかし,ヒトラー総統から直接電話を受けると,一転して,断固たる態度で,反乱鎮圧を指導し始めます。反乱軍に組み入れられ,ワルキューレ(Valkyrie)作戦の一環として,ゲッペルス逮捕命令を受けてやってきたオットー・レーマーOtto-Ernst Remer(1912-1997)少佐に,ヒトラーと直接電話で会話させました。

レーマー少佐は,樫葉付き鉄十字勲章をヒトラーから直接授与されたこともあったので,ヒトラー総統から直々に,その場でベルリンにおける反乱鎮圧を遂行する全権を与えられました。ベルリン警護隊レーマー少佐は,上官を裏切って,迅速に反乱鎮圧の行動を開始しました。

◆ドイツ陸軍ベルリン防衛軍ハーゼ中将隷下の警護大隊長オットー・レーマー少佐は,反乱側から体制側に寝返ってしまいます,この変化によって,ドイツ陸軍自ら陸軍の反乱を鎮圧することができました。陸軍と親衛隊の対立,内乱に至る心配はなくなったのです。

写真(右)1944年8月,ヒトラー暗殺事件の民族裁判長官ローラント・フライスラー博士:カイテル将軍,グーデーリアン将軍らは,反乱に関与した将官たちの軍籍を剥奪した。そして,反逆者の民間人として処断された。ヒトラーは,反逆者を豚のように処刑することをフライスラー裁判長に命じた。フライスラーは,人民裁判で反逆者を辱めたが,これは,正面後ろのナチ党旗「ハーケンクロイツ」に仕掛けられた映写機によって録画された。フライスラー裁判長の暴言は,被告の冷静さと対照的だったために,映像公開は中止された。
1945年2月3日,連合軍機によるベルリン空襲で2万名が死亡したが,フライスラーもそのひとりとなった。ただし,人民裁判所の裁判官・検事258人のうち,95人は戦後の西ドイツの司法界に復帰している。
Berlin.- Volksgerichtshof, Prozess nach dem 20. Juli 1944 . Dr. Roland Freisler Dating: 1944 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
ドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

ヒトラー暗殺未遂事件における将官の処罰・進退
国内予備軍副司令官フリードリヒ・オルブリヒトFriedrich Olbricht大将:1944年7月21日0015,銃殺
元ドイツ参謀本部参謀総長ルートヴィヒ・ベックLudwig August Theodor Beck上級大将:1944年7月21日0015,拳銃自決
元第四装甲軍司令官エーリヒ・ヘプナーErich Hoepner上級大将:1944年8月8日,絞首刑
ベルリン防衛軍司令官パウル・フォン・ハーゼPaul von Hase中将:1944年8月8日,絞首刑
国防軍通信連絡局長エーリッヒ・フェルギーベルFritz Erich Fellgiebel大将:1944年9月4日,絞首刑
中央軍集団第二軍参謀長ヘニング・フォン・トレスコウHenning von Treskow少将:1944年7月21日,手榴弾自決
国内予備軍司令官 フリードリヒ・フロムFriedrich Fromm上級大将:1945年3月12日,銃殺刑
西部方面軍B軍集団司令官エルウィン・ロンメルErwin Rommel元帥:1944年10月14日,服毒自殺
西部方面軍司令官ギュンター・フォン・クルーゲGuenther von Kluge元帥:1944年8月19日,服毒自殺
砲兵総監フリッツ・リンデマンFritz Lindemann 大将:1944年9月22日,銃撃戦後死亡
陸軍主計総監エドワルト・ワーグナーEduard Wagner大将:1944年7月23日,自決
元西部方面軍司令官エルウィン・フォン・ヴィッツレーベンErwin von Witzleben元帥:1944年8月8日,絞首刑
フランス軍政長官フォン・シュチルプナーゲルCarl-Heinrich von Stülpnagel大将:1944年8月30日,絞首刑
参謀本部編成課長ヘルムート・シュティーフ Hellmuth Stieff少将:1944年8月8日,絞首刑
国防軍諜報部長カナリス Wilhelm Franz Canaris提督:1945年4月9日,絞首刑
ベルリン警視総監フォン・へルドルフWolf-Heinrich Graf von Helldorf伯爵:1944年8月15日,絞首刑
刑事警察局長アルトゥール・ネーベArthur Nebe中将:1945年3月21日,絞首刑

写真(右)1943年2月,親衛隊SS中尉の家族:息子は,ヒトラーユーゲントの制服を着ている。
反乱罪で銃殺されたシュタウフェンベルク大佐の家族は,全員逮捕された。妊娠中の妻ニナは,ラーベンスブリュック女性用強制収容所に収監された。子供たちは,親衛隊の児童・孤児施設で再教育を受けさせられた。しかし,全員戦後まで生き残ることができた。
ナチス最後の空軍総司令官に任命されたグライムは,女流飛行家ハンナ・ライチュの操縦するフィーゼラーFi156連絡機「シュトルヒ」でソ連軍に包囲されたベルリンのヒトラーの元に飛来,感激したヒトラーは,グライムをゲーリングの後任にするとともに,元帥に叙した。彼が第三帝国最後の元帥となった。
Archive title: aus: SS-Leitheft 9/2 Februar 1943 Mutter mit zwei Mädchen und einem Jungen in HJ-Uniform Dating: Februar 1943 Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブ Bundesarchivに登録・引用(他引用不許可)。

家族共同責任によって、シュタウフェンベルク夫人ニナ(Nina von Lerchenfeld)は、次女となるコンスタンツェ(Konstanze von Schulthess)を妊娠している時でしたが、レーベンスブリュック強制収容所に収監されます。

長男ベルトルト(Berthold Maria Schenk Graf von Stauffenberg)、次男フランツ(Franz Ludwig Schenk Graf von Stauffenberg)などシュタウフェンベルクの4人の子供たちは、ナチスの児童施設に拘束され、ナチスの再教育を受けることになります。しかし、一家は戦後に解放され、再会することもできた。

シュタウフェンベルク夫人ニーナ・シェンクNina Schenk Gräfin von Stauffenbergは,シュタウフェンベルク23歳の誕生日に婚約,3年後の1933年9月結婚,1934年から1945年にかけて5人の子供をもうけました。

ヒトラー暗殺事件翌日の7月21日,彼女はゲシュタポに逮捕,収監されます。シュタウフェンベルク大佐の子供たちは,幼かったために孤児院に送られます。シュタウフェンベルクの家族は収監されていたが,生き残ることができた。収監中に出産したのが、次女のコンスタンツェ(Konstanze von Schulthess)です。

Nina Schenkは, 2006年4月2日,バイエルン州バンベルク (Bamberg)で死去。92歳。

人種民族差別や戦争は、権威を握る人間が、プロパガンダによって,意図的に人々を煽動しながら始めるものですが,多数の国民の支持,資源,資金がない限り継続することはできません。決して,一握りの政治家たち,軍人たちが,政治を左右できるわけではないのです。その意味で,世論と兵士、資金、生産を担う国民一人ひとりが、人種民族差別撤廃と平和の主導権を握っているといえます。

写真(右)1945年4月,ブーヘンヴァルト強制収容所:アメリカ人記者の報道は、世界を震撼させた。これが,解放後の政治犯への厳重処罰に繋がった。 ワイマールの近郊には約35の外部収容所(支所)があった。
強制収容所の囚人は,体力がなく労働不能者に選別されれば,処刑,懲罰の対象となり,栄養・衛生状態がますます悪化させられた。囚人たちは,親衛隊員に,自分たちは労働するだけの能力がある,体力がある,規律・命令を遵守するということを,身をもって示さなければ,収容所を生き抜くことはできなかった。
1945年5月5日,米第11機甲師団がマウトハウゼン収容所を解放した時,1万5,000の死体があり,数週間のうちに,飢餓・重態にあった囚人3000名が死亡した。1939-1945年に,ここで看守を務めた親衛隊SSは1万名を超えたが,氏名が判明しているのは818名に過ぎない。1946年3月7日のダッハウ裁判では,親衛隊58名が死刑,3名が終身刑を宣告された。捕まった全ての看守が有罪だったわけではない。
Zentralbild Das berüchtigte hitlerfaschistische Konzentrationslager Buchenwald auf dem Ettersberg nördlich von Weimar ( mit etwa 135 Außenkommandos). Am 11.4.1945 befreite die militärische Organisation des Internationalen Lagerkomitees Buchenwald von S3 - Mördern. UBz: eine Aufnahme eines amerikanischen Reporters mit Bergen von Leichen erschossener politischer Häftlinge nach der Befreiung. Dating: April 1945 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

ヒトラーは,ベルサイユ体制打破,無能なワイマール共和国の否定を唱え,第一次大戦の敗戦を,戦争を煽動するユダヤ人に責任転嫁し,東方にドイツの生存圏を拡張し,大ドイツを復活すべきだと主張しました。ユダヤ人・スラブ人を下等人種・劣等民族として迫害したドイツ人だが,習俗・言語の違いこそ,人類の文明・文化を多様な豊かなものにします。敵性住民・下等劣等人種として,迫害しても,そこで生まれるのは,報復と,自分を貶める人間性の喪失だけでしょう。戦争は政治の延長だというクラウゼビッツの教えに,ヒトラーは政治的遺書で言及し,ユダヤ人に対する戦争を継続することを命じました。この遺言は,ヒトラーの死後,無視されたのは,当然です。

総力戦では,軍人も民間人も動員され,戦争に協力し,その結果,軍民を区別しない大量破壊,大量殺戮が起こりました。それを食い止めようと命を懸けた軍人がいたわけです。

野蛮な戦争を犯罪であると認識し,行動することは,持続可能な平和の構築につながると思います。一人でヒトラーの戦争をやめさせようとした職人のエルザーや,反戦ビラ「白バラ通信」をまいた大学生のショル兄妹についても,関心を広げてもらいたいです。

  ◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。


ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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