写真(右):大元帥昭和天皇;満州事変,日中戦争,太平洋戦争と昭和期の日本陸海軍の総司令官,統帥権の保持者として,戦争指導を行った。幼いときから一流の帝大教授,将軍に直接学び,帝王学を身につけた。日本で最高の教育を受け,中国国家主席大元帥蒋介石,独総統ヒトラー,英首相チャーチル,米大統領ルーズベルトに匹敵する以上の一級の頭脳を持つ軍最高司令官である。
1889年2月11日公布の大日本帝国憲法は,「皇朕レ謹ミ畏ミ 皇祖 皇宗ノ神霊ニ誥ケ白サク皇朕レ天壌無窮ノ宏謨ニ循ヒ惟神ノ宝祚ヲ継承シ旧図ヲ保持シテ敢テ失墜スルコト無シ」という告文で始まり,「朕国家ノ隆昌ト臣民ノ慶福トヲ以テ中心ノ欣栄トシ朕カ祖宗ニ承クルノ大権ニ依リ現在 及将来ノ臣民ニ対シ此ノ不磨ノ大典ヲ宣布ス」「国家統治ノ大権ハ朕カ之ヲ祖宗ニ承ケテ之ヲ子孫ニ伝フル所ナリ」との憲法発布勅語が続いている。つまり,天孫降臨の神勅を引き継いだ天皇は,神格化され,現人神(あらひとがみ)として統治を宣言した。日本臣民は,天皇の赤子となった。このような重要なお言葉を無視した憲法の解説は,法学としてはともかく,日本の基盤「国体」を捨象しているといえる。
第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス 」とし,第四条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」とした。大臣,陸軍参謀総、海軍軍令部長らは,天皇の統治権・統帥権を補弼するにすぎない。天皇は,立法・司法・行政の三権を総攬し、大元帥として陸海軍の統帥権を持つ絶対的存在だった。
軍事について,天皇の権威は絶対である。第十一条「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」,第十二条「天皇ハ陸海空軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム」,第十三条「天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス」として,国軍の統帥権,軍の編成権,軍事予算の決定権を保持し,宣戦布告と講和の全権を握っていた。立憲君主制のような議会中心,国民主権の統治形態,軍のシビリアンコントロールのような事態は想定されていない。
しかし,第三条で,「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」として,天皇無答責を定めた。国内法によれば天皇に戦争責任は及ばないことになる。
日本国憲法の天皇と戦争に関する条項は,次の通り。
第一条【天皇の地位・国民主権】「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」とされた。
第三条【天皇の国事行為と内閣の責任】「天皇の国事に関するすべての行為には、内閣の助言と承認を必要とし、内閣が、その責任を負ふ。」
第四条【天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任】「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」
第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。
国民統合を具現する天皇の役割は,国家儀礼に限定し、国政に関しない「象徴天皇制」が確立された。
日本で軍神顕彰など戦意高揚のプロパガンダが徹底されたのは、日中全面戦争以来、総力戦に突入したためである。そして、日米開戦によって一層の兵士,兵器,資源,輸送手段、労働力が求められるようになり、その物資・人員を総動員する必要がうまれた。総力戦は、前線の戦闘部隊だけでなく後方、すなわち銃後の国民によっても戦われている。これは、兵器生産,資源節約,食糧増産、兵員供給、物資運搬など、国民生活のあらゆる方面に関連したという意味で「総力戦」である。
軍属や看護学徒を顕彰するのも、その総力戦に必要な世論を形成するためである。
偉勲をあげた自己犠牲の戦士、すなわち軍神がつくられ,それを至高の存在,英霊を生み出することで世論操作,世論形成が進み,国民の士気向上にも結びつく。戦時の靖国参拝,戦死者の合祀には,このような総力戦における世論形成,大元帥昭和天皇の下での国民統合の目的があった。戦後に,靖国神社参拝にどのような意味を感じるか,持たせるかは,広く議論すべきではあるが,議論をすればするほど,戦争を巡る価値観の衝突,政治的混乱が顕著になる可能性がある。
日本国の最高指導者,あるいは靖国神社の最高監督としては,中国,韓国,米国などの国際関係の安定が崩れることを避け,さらに国民統合のあり方とその方法を巡って混乱すること,世論が紛糾することも避けなくてはならない。靖国神社参拝という問題で,国民統合が崩れ,世論が紛糾することは,決して,国家神道のためにも,国体護持のためにもならない。国体護持,国民統合,世論の安定を図るには,価値観の衝突,国民と世論の混乱を引き起こす靖国問題を強行解決する愚を犯してはならない。靖国神社と戦没者追悼に関しては,さまざまな意見を表明する言論の自由,信仰を拘束せず,特定の宗教の国家庇護を認めない宗教の自由を維持して,長期的に議論すべきであると考える。
10.古くから,世界各地には,戦争犠牲者追悼,平和祈願の場が設けられている。そこは,宗教施設のようでもあるが,国家施設,国営記念碑のようでもある。宗教的意義よりも,国家的意義,ナショナリズム,イデオロギーなど様々な大義が,表彰されている。場合によっては,大義を戦没者追悼によって,強化し,喧伝しているようにも見える。
台湾にある中正記念堂:蒋介石を記念して1980年に建設された。記念堂の三方には花崗岩の階段が84段あります。正面の階段5段を加えると89段になり、これは蒋介石の享年89歳を表現している。中正ギャラリー,文物展示室も完備している。
女学生も母親も、学童・児童すらも総力戦にあっては「戦争をしている」のである。
総力戦は,日本だけでなく、敵連合国、米国でも同様である。女子の労働力を純授産業に大量投入し,黒人労働力・黒人兵士も導入した。男子大学生だけでなく、女子大生も、学徒動員されあるいは、軍事訓練を施されていた。米国は民主主義を標榜していたが、ファシズムの「大日本帝国」と同じように,総力戦のための物資/人員の動員が協力に推し進められ,そのためのプロパガンダが,文化人,芸術家を動員して徹底的に行われた。
中華民国でも,軍官学校で厳しい訓練を行っていたが,蒋介石総統に兵士が忠誠心を寄せるように教育した。その際,中核となるのは,農民反乱の思想的根拠になった仏教・道教ではなく,ナショナリズムと並んで,孫文,蒋介石,毛沢東への個人崇拝や国民党絶対,共産党絶対といった一党支配の構図であった。そこで,中国軍将兵の士気を高める擬似宗教装置として,孫文の中山廟,中正記念堂が作られた。
台湾にある中正記念堂のメインホール:蒋介石の銅像が安置されており,24時間,警護の衛兵がついている。台座には蒋介石の遺言が刻まれており、像の上方には倫理、民主、科学、すなわち三民主義の本質であり蒋介石の基本政治理念が記されてる。また両側には蒋介石の名言「生活の目的は人類全体の生活を向上させるためであり、生命の意義は宇宙が継承する生命を創造することである」が刻まれている。
中華民国(台湾)の台北市に宮殿陵墓建物がある。これは,国民党総統だった蒋介石を追悼する中正記念堂である。「中正」は,蒋介石の本名で,堂は蒋介石の生誕90年に当たる1976年10月31日に起工され、1980年3月31日に完成した。三層からなり,階段部分、建造物本体、屋根まで合計70メートルの高さがある。入り口は,青銅鋳造で高さが16メートル、 階段を上ると、目の前には、蒋介石の銅像が衛兵に衛兵に警護され鎮座している。像の上方には蒋介石の基本政治理念であった「倫理、民主、科学」という(孫文の主張した)三民主義の本質が書かれている。
国家指導者や軍上層部にとって,芸術などプロパガンダに従事する侍女(はしため)に過ぎない。しかし,芸術家にとって,戦争は自分の活躍の場を誇示し,あるいは作品を通じて自己表現をする場と認識されているのかもしれない。ともに,死者の名誉を称え,追悼すると同時に,残された指導者が自己の正当性を維持し,大義を確固とするために故人の遺徳を利用しているようにも感じられる。
ワシントンDCのジェファーソン記念堂を正装して訪れた米海軍婦人部隊WAVEs:ジェファーソン記念堂は、生誕200年にあたる1943年12月に4年間をかけて落成した。基礎をうったのは、フランクリン・ルーズベルト大統領で、巨大な青銅製のジェファーソンの像は1階にあったが、今は堂内に移転されている。周囲には,1912年に日本から送られた「ワシントンの桜」が植えられているのが悲しい。The memorial was dedicated in 1943 on the 200th anniversary of Jefferson's birth, four years after President Franklin Roosevelt laid the cornerstone. The memorial appears at its most beautiful in early spring when the Japanese cherry trees are in bloom. The trees were presented as a gift from the city of Tokyo to the city of Washington in 1912.
宗教と政府が一致している祭政一致では、天皇・神道の受容が忠誠の表明となる。米国では、国家とキリスト教が合体することを認めていない「宗教の自由」があるので,祖国に対する忠誠は、国旗、歴史的記念物、墓地などで示される。
米国のワシントンDCのジェファーソン記念堂(Jefferson Memorial)は、アメリカ合衆国の第3代大統領Thomas Jefferson(1743-1826)を記念する国立の記念建造物は,ジェファーソンを記念するモニュメントである。ジェファーソンは、独立宣言を起草した英雄である。キリスト教では、人間が神になることはないが、偉人は死後に、英霊として尊敬され,国家顕彰の対象となることがある。ジェファーソン記念堂は、生誕200年にあたる1943年12月に4年間をかけて落成した。基礎をうったのは、フランクリン・ルーズベルト大統領で,まさに戦時中に民主主義の最前線で戦うアメリカを演出しようとしたのかと思えてくる。つまり,偶像崇拝を禁じているとか,キリスト教になじまないとかは,国家的要請の前にはいかようにも解釈できるし,第一義的なことではない。
図(右):第一次大戦の戦没者を追悼するために建設された米国の「無名戦士の墓」;第二次大戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争の戦没者も埋葬されている。Sailor and girl at the Tomb of the Unknown Soldier, Washington, D.C.1943年5月。"Here Rests
In Honored Glory
An American Soldier
Known But To God" とある。
米国には,有名なアーリントン国立墓地Arlington National Cemeteryの「無名戦士の墓」The Tomb Of The Unknownsがある。1946年4月6日からは,24時間,衛兵が警護している。これは,1921年3月に連邦議会が,第一次世界大戦で戦死した米軍将兵の葬儀をアーリントン国立墓地の追悼場で行なう旨決議し,11月11日にフランス戦線での戦死者が埋葬されたのが契機となっている。ここには,第一次大戦,第二次大戦,朝鮮戦争,ベトナム戦争の無名戦士が眠っている。
戦没者を追悼する施設・芸術には,経済的収入,マーケティングに配慮したものもある。これは市場経済の影響を受けており,戦没者追悼とならんで,あるいはそれを大義名分にして,興行収入,観光振興など経済的利益を目指すこともある。
戦争記念施設や戦争・特攻を扱った芸術には,戦没者追悼の意図を持ってものも多い。しかし,同時に経済的な意味合いやマーケティングをも配慮し,資金,技術,人員を投入していることがある。
故人や遺族の視点からは,戦没者追悼とは死者霊魂を慰める異例の儀礼であり,戦死者の記憶を純化して,遺族の苦悩や悲しみを癒すという重要な役目がある。宗教的に,死者の魂をおくるために必要不可欠であると考える。遺族や戦友たちの「こころ」は亡くなった人々への哀悼でり,「靖国神社を悪く言う人々は、他人事なのです」という意見にも一理ある。
写真(右):アーリントン国立墓地ARLINGTON NATIONAL CEMETERYの無名戦士の墓:アーリントン国立墓地は,バージニア州の小高い丘の上にある国立墓地。約200エーカーの広大な墓地<で,独立戦争やベトナム戦争などアメリカのために命を犠牲にした兵士たち17万5000人や国民的英雄など、23万人以上の名前が墓碑に刻まれている。
しかし,戦没者追悼も,国家的指導者や軍上層部にとっては,政治的に邪推し,メディアリテラシーに注目すれば,全く別の意味をも持ってくる。
偽りの戦没者追悼とは,自分が仕掛けたあるいは受けて起った戦争で,将兵・軍属などが命を失い,戦争の犠牲になっても,それは戦争指導者の責任ではないということを示すもの,あるいは回航手段としてのジェスチャーとして形だけ取り繕う「ヤラセ」である。戦没者は犠牲者というよりも,立派な英雄であり,彼らを追悼したり,崇めたりすることで,戦争責任は回避される。国体護持,民主主義の擁護,祖国防衛,民族自立,民族解放など戦争の大義のために殉じた英霊たちが粛然として存在する,姿を現す。英霊を社会的に認識させた厳粛な儀式,荘厳な施設・宗教儀礼・プロパガンダの前には,戦争責任の問題は霞んだちっぽけな問題になりさがる。戦争における大量殺戮・大量破壊の責任など存在しなくなる。
芸術家,学者,宗教家など有名な文化人が動員され,かれらの知的能力を発揮した宗教的あるいは擬似宗教的な国家的英霊崇拝の具象化は,とても美しく厳粛に彩られるものである。問題はその理念を受け入れるかどうかという心情,認識,事実判断であろう。形には惑われやすいものだ。
11.西暦73年の第一次ユダヤ・ローマ戦争では,マサダ要塞に立て篭もったユダヤ人が,徹底抗戦した後,集団自決し,玉砕したという伝説がある。そこで,マサダ要塞は,現在のイスラエル軍にとっても,民族の誇りが具現した場所として聖地となっている。有名作家曽野綾子は,マサダ要塞の玉砕者の英霊としての認識に比較して,1945年3-6月の沖縄戦における「住民集団死」について,玉砕者の名誉を汚す解釈がなされていると批判する。沖縄住民集団死は,祖国を守る日本軍に後の憂いを残さないように,潔く身を処置し玉砕した結果であるという。しかし,このような住民の集団死の多くは,捕虜になることへの恐怖が第一の要因である。
<マサダの集団自決の神話>
住民を巻き込んだ戦いは、古代からあるが、有名な集団自決の伝説は、紀元73年の第一次ユダヤ・ローマ戦争におけるマサダMasadaの要塞でのものである。これは、ローマの大軍に包囲されたユダヤ兵士・住民960人が集団自決collective suicideした事件で、ローマ市民権を持つ歴史家ヨセフスJosephus Flaviusのあらわした『ユダヤ戦記』The Jewish Warが唯一の文献証拠である。
ローマ軍は70年にエルサレムを攻略し、ユダヤ人の叛乱は鎮圧し、抵抗したユダヤ人は、捕虜になった後、殺害された。一説には、ユダヤ人が宝石や金を飲み込んでいると思われ,腹を裂かれた。ティトゥス将軍はローマへと凱旋したが、エルサレム以外で抵抗を続けた兵士・住民は、難攻不落といわれたマサダの要塞に2年間籠城したといわれる。
写真(左):マサダの要塞;73年にユダヤ人960名が集団自決したとされ、イスラエルの聖地(世界遺産)になっている。The summit of Masada sits 190 feet (59 m) above sea level and about 1500 feet (470 m) above the level of the Dead Sea. The mountain itself is 1950 feet (610 m) long, 650 feet (200 m) wide, 4250 feet (1330 m) in circumference, and encompasses 23 acres.
死海の西にあるマサダの要塞は、470メートルの丘上の街で、宮殿、貴族の家、シナゴーク、食糧庫、町をまもる軍事施設、展望台があり、岩をくりぬいて作った貯水槽には4万トンの水を蓄えることが出来た。
マサダ集団自決のの悲劇とは、マサダ要塞に篭城した兵士・住民960人が、ローマ軍の2年間の兵糧攻めに合い、集団自決したという伝説である。マサダの司令官Elazar ben Yairの最後の演説は、次のようであったという。
“Since we long ago resolved never to be servants to the Romans, nor to any other than to God Himself, Who alone is the true and just Lord of mankind, the time is now come that obliges us to make that resolution true in practice...We were the very first that revolted, and we are the last to fight against them; and I cannot but esteem it as a favor that God has granted us, that it is still in our power to die bravely, and in a state of freedom.”我々にはまだ勇敢に死ぬ力があり、自由の国にとどまっている。
マサダ要塞では、ユダヤ人男性が妻子を殺害した後,お互いの命を絶った。(この自決の仕方は,沖縄戦も同じ。)その自決の様子を、洞窟に隠れていた女2人、子供5人が生き残り、ヨセフスに伝えたという。
マサダの集団自決committed suicide は、捕虜とならずに自決した潔さから、民族独立の戦いの尊さを示し、ユダヤの美談と名誉の象徴となった。現在のイスラエルにとっても、祖国存続の基盤となる物語である。イスラエル軍入隊宣誓式は、マサダ要塞上で国旗掲揚、旧約聖書ヨシュア記朗読の中で行われる。そして、「マサダは二度と陥落しない」と誓う。Masada symbolizes the determination of the Jewish people to be free in its own land. まさに,マサダ要塞は,祖国防衛の宗教的象徴として,聖地の扱いを受けている。
曾野綾子(2003)「沖縄戦集団自決をめぐる歴史教科書の虚妄」『正論』平成十五年九月号所収で、次のように述べた。
「イスラエルでは今でもこの地を民族の歴史の誇りとして扱う。----同じような悲劇を持つ沖縄では、自決した人たちの死は軍から強制されたものとすることに狂奔した。それは死者たちの選択と死をおとしめるものであろう。イスラエルと日本のこの違いはどこから来るのか。私はそのことの方に関心が深いのである。」
沖縄戦における住民集団自決は,祖国への住民の熱き思いがこもっている玉砕であり,悲劇的な美談として理解すべきであるという。軍民一体の徹底抗戦を強調する文化人は,日本軍守備隊の足手まといにならないように自決した,あるいは敢闘したあと,捕虜となることが名誉を汚すので,潔く自決したとの軍国神話を信じ,流布している。
写真(右):マサダの要塞;Masada today is one of the Jewish people's greatest symbols. Israeli soldiers take an oath there: "Masada shall not fall again." Next to Jerusalem, it is the most popular destination of Jewish tourists visiting Israel. As a rabbi, I have even had occasion to conduct five Bar and Bat Mitzvah services there. It is strange that a place known only because 960 Jews committed suicide there in the first century C.E. should become a modern symbol of Jewish survival.
マサダで集団自決した兵士・住民は,ローマ軍によってエルサレムが陥落された時の住民虐殺、投降し捕虜となった場合の恐怖を抱いた。長期間徹底抗戦した後に捕虜になっても、残虐行為を受けるしかない。それよりは,自ら死んだほうがましであるとの恐怖があった。つまり,マサダ要塞のユダヤ人は,ローマ軍に虐待,処刑される恐怖の前に,自決したと考えられる
マサダの集団自決の悲劇自体に、歴史学から疑問が呈されている。
・戦争はエルサレム攻略でほぼ終了し辺地のマサダで大規模戦闘はきていない、
・1000人のユダヤ人を1万人のローマ軍団が3年も包囲する必要がない,
・ヨセフス『ユダヤ戦記』の集団自決の証言は、生き残りの女性からの口伝とされている、
・口伝律法を6世紀頃まとめたタルムードTalmud/には、「マサダの悲劇」について言及がない(→Talmudを読む)
・ユダヤの律法では自殺を禁じており,同朋殺害も美徳とは認められない、
このような反証がされているが、マサダの悲劇は、「民族国家のために死ぬまで戦うという名誉」というメッセージを伝える者にとって、あるいは現在のイスラエルにとって、重要な国家的意義を表す伝説であり,兵士・住民の集団自決の美談は語り継がれねばならない。960人のユダヤ人集団自決(マサダの悲劇)は、証拠不十分で、立証できていない。しかし,歴史的事実の真偽は,祖国の強固な一体感を確保するという愛国心,ナショナリズムの前には,重要なことではない。After all, the heroism in the Masada narrative and in the context is not at all self evident or understood.
12.侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館(南京大虐殺記念館)は,南京市の共産党委員会と人民政府によって,1985年8月15日、南京の地に「血で書かれた歴史」を永遠に刻むため、江東門の「万人坑」跡地に建設された。1937-38年の南京事件を記念,追悼するとともに,日本の侵略行為,残虐行為を非難する。
写真(右):侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館のニューメモリアル;2005 The memorial hall of the victims in Nanjing massacre by Janpanese invaders
侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館は,広場陳列、遺骨陳列、史料陳列からなっているが、史料陳列では日本軍による残虐行為の写真が並ぶ。広場に入ると、建物正面の佇まいに圧倒されるが、そのまん前には、斬り落とされた首の彫刻が据えられ、左側には生き埋めにされたと人の腕が大地から突き出ている。南京攻略戦に伴う中国側の戦没者は,30万人と公認され,その数字が大きく掲げられている。(「人権と教育」月刊307号(1999.6.20)引用)
しかし,最大の意義は,Gao Wenbin,Dai Baoyu,Li Famingなど南京事件の中国側生き証人の記録を,写真,手形,足形を含めて,次のように整理し,次世代に伝える資料としたことであろう。
写真(右):侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館のZha Fukuiの手形と足形;2005 The memorial hall of the victims in Nanjing massacre by Janpanese invaders
Zha Fukui Male Born on Feb. 27,1915
Age when making handprints and footprints: 87
In December 1937, the Japanese invaders did a massacre in Nanjing.One day at the end of December, Japanese soldiers broke into our courtyard,and i was stabbed by them at 5 places,two serious wounds and three minor wounds.I fainted in blood,and escaped from death with the help of my family.In our courtyard,five people were killed by Japanese soldiers by stabbing.The scars of stabbing can still be seen on my body,and I will never forget this huge debt of blood.
(Investigated and recorded by Heng Zongqin,Gu Shunqin and Liu Zhenxi)
1995年の拡張工事に続いて、2002年12月には900平方メートルの新しい展示ホールが建設された。巨大な標志碑の上端には大虐殺が発生した日を示す「1937.12.13−1938.1」、記念館正面入り口には犠牲者数をあらわした「300000」のモニュメントなどがある。2004年3月1日からは、政府による入館料の全額補助により無料開放された。これに伴い、見学者数が激増。1月足らずの間に見学者数は20万人を超えた。(「現代中国ライブラリィ/現代中国事典」南京大虐殺記念館引用)
南京大虐殺記念館は今回、南京大虐殺史研究会の初代会長を務めた故・高慶祖教授、記念館に400万香港ドルを寄付した香港の実業家・陳君実氏、南京大虐殺の証拠を20年間探し続けている日本・大阪府の小学校教師・松岡環氏、「ザ・レイプ・オブ・南京」を著した中国系アメリカ人の故アイリス・チャン氏ら4人に、「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館特別貢献賞」を授与した。(「人民網日本語版」2005年8月16日引用。)
写真(右):侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館の「南京事件犠牲者の遺骨」 ;Some of the victims'bones. 2005 The memorial hall of the victims in Nanjing massacre by Janpanese invaders
「平和甦る南京」の写真特集 田中正明では,次のように侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館を非難する。
侵華日軍南京大屠殺記念館が建設され、入り口正面に中国語・英語・日本語で、「30万遭難者」と大書したが、この記念館の創設を進言したのは、日本社会党の有力者、田辺誠である。更に、記念館の中に飾られた写真の多くは、日本から持ち出されたものである。ガラスケースの中に入れられた大量の人骨は、本多記者の言う、「万人抗」や「死体橋」から発掘されたものではなくて(だいたいそんなものは存在してない)、近くの新河鎮の戦闘で戦死した中国兵の遺骨である。
記念館の建設の前後には本多、洞、藤原氏ら、例の虐殺派の「南京事件を考える会」のメンバーがそろって訪中しており、開館式には日本の総評(現、連合の前身)代表2名が参列している。極端な表現を許してもらうならば、南京戦に参加していない中国共産党政府には、南京の史料などほとんどありようはずがなく、結局、日本人が創作し、日本人の脚色・演出によるシロモノ。(引用終わり)
◇⇒検証:南京事件参照。
中国の南京市では、2005年12月13日、各界と国内外の平和を愛好する友好人士3000人が、南京大虐殺で受難した30万人を悼む集会を開催した。南京市でサイレンが響き,数十人の南京大虐殺生存者を含む中国各界の人々と日本広島平和交流団など内外の友好人士は、南京大虐殺遭難同胞記念広場で追悼儀式を盛大に行い、黙祷と花輪を捧げ、犠牲者に対する哀悼の意を表した。これは,68年前の1937年12月13日、日本軍が当時の中国の首都南京を占領した日である。(China Radio International:2005-12-13 16:05:14引用)
南京大虐殺記念館は、南京事件の史実を伝えることを大義名分とした公的機関ではあるが、特定の宗教によって統一されているのもではない。しかし、南京大虐殺記念館の荘厳なモニュメントは、犠牲者の追悼と加害者への非難という役割を持った国家的な「擬似宗教装置」でもある。
博物館、図書館、資料館としての機能を重視するのであれば、不必要な「記念碑」が存在する以上、南京大虐殺記念館や靖国神社遊就館に限らず、何らかの意図を持った「モニュメントによる顕彰・糾弾」がなされているといってよい。また、展示品自体を、何らかの意図を持った「遺品・聖人遺骸・英霊の御霊」として認識し、それによる宣伝を図っているのかもしれない。こうなれば、モニュメントも遺品などの展示品も、荘厳な擬似宗教的装置として機能し、「プロパガンダ」を担っているともみなすことができる。ただし、プロパガンダであるから、事実・史実でないとは限らないのであって、プロパガンダの善悪・正当性にかかわらず、政府や軍というものは、世論形成のためにプロパガンダを行うものだとの認識を持つことは、必要であろう。
マサダ要塞の集団自決の美談は、歴史の一コマではない。南京事件の虐殺者数・戦没者数についてについても。数万から30-40万人まで,実際の人数の確定は非常に困難である。しかし,一国の国家の戦略、民族の栄光に直結する重要事項に関しては,歴史的事実認識以上の高度な政治的国家宗教的判断が要求される。マサダでのユダヤ人集団自決も、南京事件の虐殺者数30万人も,歴史的事実の認定以上の高度の政治的国家宗教的判断から、認定がされている。歴史的事実の真偽は,国家的要請の前に二の次とされている。
日本の靖国神社は,軍国主義精神の表れのように理解する識者も多いが,国家を神道的に統合する宗教的祭礼装置としても位置づけられる。経典,教義が確立していない神道は,祭礼,儀式,寺院・偶像などの宗教装置そのものが,「宗教」とみなすこともできる。そうなれば,これは歴史的事実の問題ではない。また,マサダ要塞の悲劇,南京虐殺についても,さらに沖縄戦の住民集団自決,特攻作戦,玉砕戦についても,議論の余地は残っている。
戦争を宗教,国家戦略の枠組みの中で扱うという「政治的」態度に対して,歴史的事実を基にした論争は,かみ合わないのであって,最終的には,個人評価・認識に伴う価値判断が求められる。鳥飼研究室としては,戦争の大義,イデオロギー,宗教,国家戦略の前に,戦争実態が見えにくくなったり,プロパガンダが行われたりする事実を認識し,戦争が、大儀やイデオロギーの当否にかかわらず、大量破壊、大量殺戮をもたらすという帰結を冷静に把握したいと思う。
13.1945年3-6月の沖縄戦における「住民集団死」など,沖縄戦は住民も巻き込んだ悲惨な戦闘で戦没者は,20万名に達した。日本の軍民は,潔く身を処置し玉砕した結果であるとの主張があるが,住民の集団死は,捕虜になることへの恐怖が第一の要因である。住民や兵士の苦悩と恐怖を思うと,戦没者が英霊であるとか,今日の日本の繁栄の基礎を築いたと主張されても,心穏やかではいられない。戦没者追悼や慰霊のために,戦跡/平和祈念公園に沖縄平和祈念堂や「平和の礎」などの施設が作られた。
写真(左):渡嘉敷島の住民集団自決;1944年9月8日 鰹漁船乗組員130人軍需部漁労班に徴用。村営航路船嘉進丸、軍船舶隊に徴用。日本軍基地隊、鈴本少佐以下1,000有余人駐屯部落内民家、小学校々舎を隊員宿舎に駐屯。9月20日 赤松嘉次大尉を隊長とする特幹船舶隊130人入村、渡嘉敷、渡嘉志久、阿波連に駐屯。 10月 防衛隊員79名現地徴集。1945年1月 青年会、婦人会に徴用令。学童6年生以上軍に協力。鈴木部隊沖縄本島へ移動、朝鮮人軍夫220人入村。3月27日米軍渡嘉敷島上陸、翌3月28日の住民集団自決で329人死亡。渡嘉敷村全戦没者日本兵76人、軍属87人防衛隊41人、住民368人。(→渡嘉敷村の沿革(1/3))
米国陸軍公式戦史『沖縄−最後の戦い』Seizure of the Kerama Islands
大田昌秀・前沖縄県知事講演「戦後沖縄の挑戦」
渡嘉敷島の沖縄戦による戦没者数は,日本軍将兵 76人,軍属 87人,民間人から徴集された防衛隊員 41人,一般住民 368人とされる。一般住民368名の犠牲ののうち,集団自決あるいは追い詰められての集団死の犠牲者329名とされる(→渡嘉敷村史資料編)。
「渡嘉敷村の歴史」戦争体験に記載された渡嘉敷島の少年(当時14歳)による住民集団自決体験談
写真(上):沖縄戦で戦死した日本兵(左)と米軍に収容された沖縄の婦女子(右)
慶良間列島に配備された海上挺身(水上特攻艇)隊員の言葉
「防衛召集兵の人たちが、軍人として戦いの場にいながら、すぐ近くに家族をかかえていたのは大変だったろうと思います。----当時、日本人なら誰でも、心残りの原因になりそうな、或いは自分の足手まといになりそうな家族を排除して、軍人として心おきなく雄々しく闘いたいという気持はあったでしょうし、家族の側にも、そういう気分があったと思うんです。
つまり、あの当時としてはきわめて自然だった愛国心のために、自らの命を絶った、という面もあると思います。死ぬのが恐いから死んだなどということがあるでしょうか。」(⇒『ある神話の背景』赤松大尉指揮下の第二中隊長富野稔元少尉の言葉引用)
防衛庁の防衛研究所戦史室の記録は、「この集団自決は、当時の国民が一億総特攻の気持ちにあふれ、非戦闘員といえども敵に降伏することを潔しとしない風潮が、きわめて強かったことがその根本的理由であろう。…小学生、婦女子までも戦闘に協力し、軍と一体となって父祖の地を守ろうとし、戦闘に寄与できない者は小離島のため避難する場所もなく、戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた。」
<60年目の証言 沖縄戦「集団死」の真実>
沖縄キリスト教短大金城重明名誉教授は、沖縄戦で住民が互いに殺しあう『集団死』を体験した。
1945年3月26日、金城さんが住む渡嘉敷島に米軍が上陸。圧倒的な兵力を前に成す術がない住民たち。旧日本軍から見放され、行き場所をなくし極限状態の彼らは捕虜となったら死ぬ以上の苦しみを受けると教えられ、米軍を恐れていた住民は集団死に追い込まれた。「紐を使ったり棍棒を使ったり刃物で頚動脈を切ったり…何でも手に取る物は凶器になった」
当時16歳だった金城さんは、両手に持った石を何度も母親の頭に打ち下ろした。妹と弟の命も自らの手で絶った。「自分たちだけ生き残ったらどうしようと。早く死ななくちゃ、という状況で、ある一人の少年がここでこんな死に方するよりは米兵に切り込んで死のう、と」。棒切れ一つで米兵に挑んだ金城さん、しかし、捕虜となり生延びることとなった。
中国捕虜の刺殺;1938年2-3月に,津浦線沿いに南下した北支那方面軍は,台児荘で中国軍に反撃され後退。このような日本軍の苦戦の中で,三八式小銃の先につけた銃剣で捕虜を刺殺した。捕虜の刺殺は,度胸試し,弾薬節約,見せしめなどの効果を期待して行われた。日本に抵抗したり,天皇を否定したりする敵に対して,処刑は当然であり,残虐行為とは認識されていなかった。これは,大阪毎日新聞の収集した写真で,日本陸軍報道部が検閲した結果,不許可になった写真のうち一枚である。捕虜は無残に処刑されると恐怖していた沖縄住民は,自決用の手榴弾,小銃が欲しいと思った。同時に,日本軍によって,利敵行為となる米軍への投降を事実上禁じられていたという心理的負担も大きい。
1957年、旧厚生省援護局も現地で聞き取り調査を行い、日本軍の命令による集団自決だったと認定した。集団自決した住民は準軍属とみなされ、遺族らには援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)に基づく年金が支給された。(⇒「集団自決」神話の真相引用)
宮城晴美(2000)『母の遺言』高文研では, 「『玉砕』は島民の申し出 援護法意識した『軍命』証言」として, 戦傷病者戦没者遺族等援護法(援護法)の適用を受ける目的が述べられている。(→母の遺言 宮城晴美女史引用)
戦後1946年,GHQの命令で軍人恩給が停止されたが,サンフランシスコ講和条約後の1952年戦傷病者戦没者遺族等援護法が成立し、1953年以降,軍人軍属や戦傷者などを対象に,障害年金、障害一時金、遺族年金、遺族給与金又は弔慰金が支給されることとなったが,これは軍人恩給の事実上の復活である。同法では「公務傷病の範囲」を広く解釈している。
沖縄住民の集団死あるいは集団自決は,「崇高な犠牲的な精神の発露」であり,差別されていた沖縄県民が臣民としての忠誠を尽くした証拠とみる説がある。しかし,当時の住民は,鬼畜米英という日本のプロパガンダを信じ,日本軍が中国・フィリピンでしたように,捕虜となれば虐待・処刑されると考えていた。投降も事実上禁じられていた。捕虜になり無残に処刑されるくらいなら,自決したほうがよいと,恐怖に支配されてやむをえず死を選んだ。
慶良間列島の日本軍の特攻艇による特攻隊員からみて,戦意・士気の萎えた住民は,敵に寝返るスパイとして嫌悪されたかもしれない。敵性住民に対しては,非国民,裏切り者,スパイとして処断しようとする気持ちが出ても不思議ではない。
沖縄の日本軍は,戦闘の時に,住民が食糧確保の障害になるだけではなく,利敵行為をすることを恐れた。これは,敵への情報提供,捕虜になり,道案内・通訳として働くこと,日本軍の配備上方をもらすこと,捕虜となり生き延びうることが日本軍将兵に知れ渡り,士気が低下すること,などである。日本軍は,「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」との考えを,住民にも警告的に流布していた。
日本軍による中国やフィリピンでの捕虜・敵性住民の虐待・処刑の経験から,「鬼畜米英」も日本人捕虜を処刑し、女を辱めると信じ込んだ。この認識の下で,自らの手で家族,友人とともに死ぬ集団死はせめてもの慰めとなった。これは異常な状況である。
写真(右):沖縄で米軍に収容された住民;米軍は3月26日に慶良間列島上陸時に軍政を敷いた。そして,沖縄の民間人を収容所やキャンプに隔離,収容した。食糧などを支給したことをもって,保護したとも言える。沖縄は焦土と化した---とも言われるが,日本本土が焦土と化したというのと同じく,戦災を免れた集落もある。
実は,沖縄戦で自殺した日本人は少数派である。大半の民間人は,米軍に疲れきって,汚れて,米軍にばらばらに収容された。結局,米陸軍第77師団は,慶良間列島で1,195名の日本の民間人と121名の日本軍将兵を捕虜とした。26名の朝鮮人の集団は,座間味島で白旗を掲げて投降した。
阿嘉島では,日本軍中尉が自発的に投降した。5月後半,座間味島の米軍パトロールに,日本軍少佐が捕虜となり,慶良間列島に残っている日本人を降伏させることに協力した。
沖縄戦初期の1945年4月末の段階で,沖縄住民12万人以上が,米軍による軍政の下で生活していた。これは,日本軍上層部の心情からいって,敵への大量投降,集団降伏にも等しい状況であり,非国民,卑怯者という謗りを免れないのであって,公表されたことは無かった。かえって,沖縄の軍民は潔く玉砕したとの偽りの報道がなされた。(
⇒沖縄戦の住民と軍政)
写真(右):戦跡/平和祈念公園(沖縄平和祈念堂);沖縄平和祈念堂は、沖縄県民はじめ全国民の平和願望、戦没者追悼の象徴として建設された。堂内には、沖縄県下の各町村及び学童による募金活動の支援を受けて、芸術家山田真山の沖縄平和祈念像が安置され,胎内には「平和の礎刻銘者名簿」が納められている。西村計雄画伯の絵画「戦争と平和」(20点連作,各300号)が堂内の壁面を飾り、敷地内には彫刻家佐藤忠良のブロンズ製の「少年」の像をはじめ、 祈念堂の理念に賛同された日本画壇の第一線で活躍する画家から贈られた大作を展示する美術館などを設置。沖縄平和祈念堂は、“美と平和の殿堂” として訪れる人々に戦没者を追悼する役割を果たすと共に沖縄戦終焉の地・摩文仁(まぶに)から世界に向けて恒久平和の実現を訴える。
平和祈念公園
沖縄戦跡国定公園内、糸満市摩文仁(まぶに)地区に所在。付近一帯は摩文仁の丘とも呼ばれる。園内には、平和祈念資料館・国立沖縄戦没者墓苑・平和の礎(いしじ)・黎明之塔などの慰霊・平和祈念施設がある。
沖縄平和祈念堂では,毎年のように8月15日,沖縄宗教者の会主催「祈りと平和の集い」が,各宗教・宗派の代表,来賓,関係者,信者等約700名が参加して執り行われる。この行事は,県内の各宗教・宗派15団体で構成する沖縄宗教者の会が,それぞれの信仰を尊重し,互いに協力し合わなければ真の平和は築けないとして「沖縄から世界へひろげよう平和の祈り」のスローガンのもと一堂に集い,先の大戦で犠牲になった沖縄戦戦没者と南方海域に眠るすべての御霊を慰め,世界の平和実現を訴えるために開催している。(平和祈念祈念堂第15回「祈りと平和の集い」引用)
平和祈念資料館の設立趣旨に「沖縄戦の何よりの特徴は、軍人よりも一般住民の戦死者がはるかに上まわっていることにあり、その数は10数万におよびました。ある者は砲弾で吹き飛ばされ、ある者は追い詰められて自ら命を絶たされ、ある者は飢えとマラリアで倒れ、また、敗走する自国軍隊の犠牲にされるものもありました。私たち沖縄県民は、想像を絶する極限状態の中で戦争の不条理と残酷さを身をもって体験しました。」
「私たちは、戦争の犠牲になった多くの霊を弔い、沖縄戦の歴史的教訓を正しく次代に伝え、全世界の人々に私たちのこころを訴え、もって恒久平和の樹立に寄与するため、ここに県民ここの戦争体験を結集して、沖縄県平和祈念資料館を設立いたします。」とある。
1994年7月起工式をした「平和の礎」建設の趣旨
沖縄県の歴史と風土の中で培われた「平和のこころ」を広く内外にのべ伝え、世界の恒久平和の確立に寄与することを願い、国籍及び軍人、民間人を問わず、沖縄戦などで亡くなったすべての人々の氏名を刻んだ記念碑「平和の礎(いしじ)」を建設する。
写真(右):沖縄戦などの戦没者を追悼する「平和の礎」;沖縄の「平和の心」を世界に伝えようと、沖縄戦終結50年を祈念し、1995年に摩文仁丘に落成した。沖縄戦で亡くなった全ての人々の名前を刻んだ碑。軍人,民間人をはじめ,アメリカや韓国,中国など外国の人々の名前も刻まれている。24万名以上の氏名が刻まれている。ただし、沖縄県民については、沖縄戦に限らず、全戦没者を対象としている。強制連行され死亡した朝鮮人慰安婦の遺族の中には、周囲の差別や日本人と同列視されることへの反発から、石碑への刻銘を拒否した者もあった。
1995年6月に完成した「平和の礎」の基本理念
○戦没者の追悼と平和祈念:沖縄戦で亡くなった国内外の20万余のすべての人々に追悼の意を表し、御霊を慰めるとともに、今日、平和を享受できる幸せと平和の尊さを再確認し、世界の恒久平和を祈念する。
○戦争体験の教訓の継承:沖縄は第2次世界大戦において、国内で唯一の住民を巻き込んだ地上戦の場となり、多くの尊い人命、財産を失った。このような過去の悲惨な戦争体験を風化させることなく、その教訓を後世に正しく継承していく。
○安らぎと学びの場 :戦没者の氏名を刻銘した記念碑のみの建設にとどめず、造形物を配して芸術性を付与し、訪れる者に平和の尊さを感じさせ、安らぎと憩いをもたらす場とする。また、子供たちに平和について関心を抱かせるような平和学習の場としての形成を目指す。
沖縄県出身の戦没者
ア 満州事変に始まる15年戦争の期間中に、県内外において戦争が原因で死亡した者
イ 1945年9月7日後、県内外において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者(ただし、原爆被爆者については、その限りではない。)
他都道府県及び外国出身の戦没者
ア 沖縄守備軍第32軍が創設された1944年3月22日から1945年3月25日までの間に、南西諸島周辺において、沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した者
イ 1945年3月26日から同年9月7日までの間に、沖縄県の区域を除く南西諸島周辺において、沖縄戦に関連する作戦や戦闘が原因で死亡した者
ウ 1945年9月7日後、沖縄県の区域内において戦争が原因でおおむね1年以内に死亡した者
沖縄県民14万7000名,沖縄県以外の日本人7万3000名,朝鮮人133名,台湾人28名,米国人1万4000名,合計23万4000名の戦没者の名前が刻まれている。(沖縄県出身戦没者統計)
沖縄守備隊の海軍根拠地隊司令官大田實少将が海軍次官あてに出した6月13日最終報告「大田少将 決別の辞」では,次のように述べている。
沖縄戦の開始以来,陸海軍は防衛戦闘に専念していたため,県民を殆ど顧みることがなかった。しかし,県民は,青少年を全部を防衛召集に捧げ,家屋と家財を焼却させられ,残る老人幼児婦女子も軍の作戦に差し支えのない小防空壕に避難した。若き婦人も看護婦,炊事婦は元より,砲弾運び,挺身斬込み隊へ申し出るものもあった。所詮,敵来たりなば,老人子供は殺され,婦女子は後方に送られ毒牙に供せられるから,親子生き別れて,娘を軍の衛門に捨てる親もあった。
「日本陸海軍部隊が沖縄に進駐して以来,勤労奉仕,物資節約を強要せられて,一部は悪評なきにしもあらざるも,日本人としてご奉公の護りを胸に抱き,沖縄島は焦土化せん。沖縄県斯く戦へり。県民に対し後世特別ご高配を賜らんことを。」
写真(右):戦跡/平和祈念公園「平和の礎」;沖縄の「平和の心」を世界に伝えようと、沖縄戦終結50年を祈念し、1995年に摩文仁丘に落成した。並んだ石碑には国籍、軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で亡くなったすべての人々の氏名が刻まれている。ただし、沖縄県民については、沖縄戦に限らず、全戦没者を対象としている。強制連行され死亡した朝鮮人慰安婦の遺族の中には、周囲の差別や日本人と同列視されることへの反発から、石碑への刻銘を拒否した者もあった。
「生きて虜囚の辱めを受けることなかれ」といった戦陣訓の認識が,日本人にあった。これは,勇猛果敢に戦い,決して降伏しないという決意を固めさせるものである。負の側面は,降伏して捕虜となれば,過酷な扱い,残虐行為を受け,場合によっては,処刑されるという恐怖の心理によって,叩き込まれた。決して降伏しない,潔く玉砕した日本人は,自己犠牲的な愛国心の発露というには,あまりにも苦痛に満ちている。非常に苦悩した末の,恐怖の選択であったと思う。
しかし,潔く自決,自殺できなかったからといって,生き残った捕虜を責めることはできない。沖縄住民は,生き残った捕虜が多数派であり,それは決して恥ずべきことではなく,人間として,家族として当然の選択だったのであるから。
「戦死者」「戦没者」を勇士・今日の繁栄を築いた人々として崇め,英霊として顕彰することだけが,追悼ではないだろう。空襲犠牲者など「戦闘参加者でない」死者,戦後になって亡くなった病死者,敵国・占領地の犠牲者,捕虜を含む戦争の時代を生き延びた人々のことも忘れるわけにはいかない。靖国神社と戦没者追悼のあり方を考えるときに,参拝問題だけではなく,追悼の範囲とその追悼の意味づけが,より重要な課題となるのではないかと考える。
戦争,特に民間人も動員される総力戦がもたらした惨状に向き合うことなく、自己の主張する大義を説いても,戦争の本質はつかめないであろう。死後の世界・滅亡と永遠の世界・至福との関連で,殺し,殺されること,破壊し,破壊されることの意味を心の奥底で考えさせ,有意義な回答を与えるのが,宗教とそれを体化した宗教施設の役割ではないか。(味方の戦死者だけではなく)「戦争に関わった人々を追悼する」ことを視野に入れた施設があっても良い。これは,擬似宗教的な国家施設となるであろうが,戦争の経緯や兵器だけではなく,大量破壊,大量殺戮の実態を伝え,総力戦に巻き込まれ,動員された全ての人々の心を,思い起こさせる施設であるべきだろう。
⇒文化人と戦争画:戦争芸術
戦争を正当化する大義を認めれば,お互いが自己の大義を振りかざすだけで,殺害が正当化される。宗教は,あくまでも純粋な平和の理念,理想の追求,個人の一生涯の目標,死後の世界を語るべきであろう。