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◆アメリア・パットナム(Amelia Putnam)とハワード・ヒューズ(Howard Hughes)のロッキード(Lockheed)機による世界一周飛行の比較検討
写真(上)1937年、アメリカ、アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)と愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)
:プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)「ワスプ」空冷星形エンジン2基搭載の双発高速旅客機にの客席部分を燃料タンクに改造、長距離飛行を可能にした。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00040 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, San Diego Air and Space Museum ArchiveLibraries 引用。


図(上)1938年、アメリカ、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)の内部構造

Date Digitized 2013-09-11
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier 引用。


写真(上)1938年7月10日、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)、世界一周早回りに旅立つハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra)(登録コード NX18973)

Date 1938-07-14
Date Digitized 2013-10-02
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier 引用。

Amelia  <アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)五部作>
女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)
アメリア(Amelia)のフォッカー( Fokker F.VII)大西洋横断
アメリア(Amelia)のロッキード(Lockheed Vega)大西洋単独横断
アメリア(Amelia)のオートジャイロ飛行
アメリア(Amelia)のロッキード(Lockheed)世界一周飛行 

<ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)八部作>
飛行事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)
ヒューズ(Hughes)H-1レーサー(Racer)世界最速記録
ロッキード(Lockheed)14スーパーエレクトラ(Super Electra)世界一周
ヒューズ(Hughes) XF-11 試作偵察機
ヒューズ(Hughes) H-4 ハーキュリーズ(Hercules)飛行艇の開発 
現存するヒューズ(Hughes) H-4 ハーキュリーズ(Hercules)飛行艇
アメリア・パットナム(Amelia Putnam)とハワード・ヒューズ(Howard Hughes)のロッキード(Lockheed)機による世界一周飛行の検討
ヒューズ(Hughes)のロッキード(Lockheed)コンステレーション(Constellation)

1.ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の生き方

写真(右)1938年6月、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス北、バーバンク飛行場(Floyd Bennett Field)、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の世界一周飛行に挑戦するロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973):尾部を上げ水平な状態で、羅針儀等機材を調整・整備ているのであろう
Date 1938-06 Description An exterior view of the Lockheed 14 airplane outside a hangar at Union Air Terminal in Burbank, California.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000608 Physical Identifier 0373_0327引用。
Howard Hughes

ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)は、「古き良き」アメリカ繁栄の時代を代表する実業家兼飛行家で、巨万の富を生かして、飛行技術を習得しただけではなく、特徴ある世界記録をもつ機体を開発した。

ハワード・ヒューズHoward Hughes)は、1905年12月24日、テキサスのヒューストンの名望家の家に生まれた。ハーバード大学に学んだが、偏向的な性格で、地道な学びや勤労を忌避して中退した。そして、スピード、名声をこのむ性格だったようだ。若干18歳で親を失い孤児となるも、膨大な遺産を受け継いで、派手な生活を演出した。

有名になりたかったハワード・ヒューズHoward Hughes)の進出したのが映画作成の分野で、自らの資金で自らの監督指導で映画を撮影し、スポンサーの影響を完全に排除した。そして、映画の専門家はハリウッド(Hollywood)で雇い入れ、1920年代後半から、大予算映画を作成した。その初の映画がサイレントの『暴力団』(The Racket) (1928)でハリウッドのパラマウント映画が配給した。ヒューズの反抗的傾向を反映し、警察と行政の腐敗、暴力を描いてた問題作である。


写真(上)1938年6月、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス北、バーバンク飛行場(Floyd Bennett Field)、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の世界一周飛行に挑戦するロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)

Date 1938-06 Description An exterior view of the Lockheed 14 airplane outside a hangar at Union Air Terminal in Burbank, California.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000614 Physical Identifier 0373_0333引用。
フォッカー(Fokker)D.VII 若くして両親を亡くし孤児となったヒューズは、同族企業のヒューズ・ツール社(Hughes Tool Company)の経営権を得て、若干22歳で映画作成を自ら手掛け飛行機を使った航空映画を撮影した。第一次大戦のドイツ軍パイロットの悲劇を描いた映画『地獄の天使(Hell’s Angels)』を1930年に公開した。

映画と航空機という名声を獲得したヒューズは、飛行機操縦ライセンスも取得し、映画でも自ら飛行機を操縦し、その後も、航空界での目立った派手な行動を楽しんだ。ヒューズは、ヒューズ航空を設立し、自ら開発した飛行機を初飛行し、飛行世界記録を樹立した。

飛行家ハワード・ヒューズHoward Hughes)の作成した代表的映画といえば、1927年からヒューズがカリフォルニア州で自ら作成に当たった航空映画『地獄の天使』 Hell’s Angels(1930年公開)である。実機のイギリス軍S.E.5A戦闘機、ドイツ軍フォッカー(Fokker)D.VII戦闘機を使用した。また、その時期にアメリカン航空の航空便輸送をこなして、飛行技術を習得した。

Hughes  <ヒューズのプロデュースした映画一覧>
1927 Two Arabian Knights 監督
1930 Hell's Angels 監督
1931 The Front Page 
1932 Sky Devils
1932 Scarface
1943 The Outlaw 監督
1943 Behind the Rising Sun
1947 The Sin of Harold Diddlebock
1950 Vendetta
1951 His Kind of Woman
1952 Macao
1955 Son of Sinbad
1956 The Conqueror
1957 Jet Pilot

1932年、ヒューズ(Hughes)は自らの名を関した航空製造会社ヒューズ・エアクラフト社(Hughes Aircraft Company)を,それまで親から引き継いできたヒューズ・ツール社(Hughes Tool)から独立させた。この会社は、アメリカ軍用飛行機を回収して、飛行機レースに参加させることが仕事だった。

写真(右)1938年7月4日、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)あるいはグランドセントラルターミナル(Holmes Airport = Grand Central Air Terminal)に到着したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)を歓迎する1939年ニューヨーク万博"New York World's Fair 1939"組織委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen:1886–1962):ヒューズは、ロッキード(Lockheed)モデル Model14-N3「スーパーエレクトラ」(登録コード NX18973, 製造番号:c/n 1419)で世界一周最速飛行の出発する。
Photograph of Howard Hughes and Grover Whalen, July 4, 1938
Description Howard Hughes being greeted by Grover Whalen at either Floyd Bennett Field or Holmes Airport.
Date 1938-07-04
Date Digitized 2013-09-06
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000651 Physical Identifier 0373_0371引用。


しかし、すぐに、既存飛行機の改造だけではなく飽き足らなくなり、革新的な飛行機を自ら開発することを夢見るようになり、航空機開発という専門的な最先端分野に進出した。つまり、イノベーションを重視した航空機開発の企業となったのである。そして、ヒューズエアクラフトが、新技術を取り入れた新型機を開発するように技術者たちに発破をかけた。

1933年、ヒューズは商務省(Commerce Department)を説得して、自分の飛行機操縦パイロット・ライセンス番号4223を80に引き下げて登録させた。これは、資金力にものを言わせたゴリ押しかもう知れないが、パイロット登録番号80と古くからのパイロットであることを認めさせて、気分の良くなったヒューズは、自ら航空機開発に乗り出した。

  写真(右)1938年7月4日、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)あるいはグランドセントラルターミナル(Holmes Airport = Grand Central Air Terminal)に到着したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)を歓迎する1939年ニューヨーク万博"New York World's Fair 1939"組織委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen:1886-1962):ヒューズは、ロッキード(Lockheed)モデル Model14-N3「スーパーエレクトラ」(登録コード NX18973, 製造番号:c/n 1419)で世界一周最速飛行に出発する。機首に機体固有名称(愛称)「1939年ニューヨーク万博」"New York World's Fair 1939"のロゴが描かれている。
Photograph of Howard Hughes and Grover Whalen, July 4, 1938
Description Howard Hughes being greeted by Grover Whalen at either Floyd Bennett Field or Holmes Airport.
Date 1938-07-04
Date Digitized 2013-09-13
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000652 Physical Identifier 0373_0372引用。


同じ1933年にヒューズは、素性を隠してアメリカン航空(American Airways)の副操縦士(co-pilot)と働いたが、この時の偽名はチャールズ・ヒューズ(Charles W. Howard)でこの偽名は明らかに、ニューヨーク=パリ間の大西洋横断飛行を成功させたチャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh)を真似したものである。しかし、素性はすぐに明らかになり、話題にされるのを嫌ったヒューズは、アメリカン航空をやめてしまった。

ヒューズは、その後の人生のほとんど航空に関心を持ち続け、飛行機の開発と製造にかかわり、1930年代には飛行速度の世界最速記録、アメリカ大陸横断最速記録を打ち立てている。

ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、H-1レーサー、H-4巨人飛行艇を開発し、自ら初飛行した。飛行機の映画を作成し、飛行機の操縦を覚え、さらに飛行機開発にまで乗り出したのである。こんな道楽ができたのはヒュ―ズが富豪だった、という理由だけではない。根っから、時代の変革、新技術への関心、不可能への挑戦が自分の人生だと決めていたからであろう。ヒューズH-1レーサーで陸上機の世界最高速記録を樹立、ヒューズH-4飛行艇を操縦し世界最大の飛行艇を初飛行させた。

写真(右)1938年7月9日、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)の格納庫内、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)ロッキード(Lockheed)モデル Model14-N3「スーパーエレクトラ」(登録コード NX18973, 製造番号:c/n 1419):翌日7月10日、ヒューズの操縦で、世界一周早回りをするために、ニューヨークから第一目的地のパリに向かう。
Photograph of the Lockheed 14 aircraft in a hangar in New York, New York, July 9, 1938 Description The black and white view of the Lockheed 14 aircraft in a hangar in New York, New York. Typed on a piece of paper attached to the image: ""Readying Hughes' plane for Paris flight-- Mechanics hastened to put Howard Hughes's Lockheed 14 monoplane in shape for a flight from Floyd Bennett Airport herem to Paris. Motor trouble forced postponement and helpers were working under injunction to have the ship ready for a takeoff, July 9, ""at the earliest possible moment."" Photo shows: Mechanics working on the plane inside the hangar at Floyd Bennett Field. Credit Line (ACME) 7/9/1938."" Date 1938-07-09 Date Digitized 2013-09-04
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries whh000639 Physical Identifier 0373_0359引用。



2.ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が投影された芸術作品

ハワード・ヒューズ ハワード・ヒューズHoward Hughes)は、1905年12月24日、テキサスのヒューストンの名望家の家に生まれた。ハーバード大学に学んだが、偏向的な性格で、地道な学びや勤労を忌避して中退した。そして、スピード、名声を好んで正確だったようだ。若干18歳で親を失い孤児となるも、膨大な遺産を受け継いで、派手な生活を演出した。

ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアHoward Robard Hughes Jr.:1905年12月24日 - 1976年4月5日)は、「古き良き」アメリカ繁栄の時代を代表する実業家兼飛行家で、巨万の富を生かして、飛行技術を習得しただけではなく、特徴ある世界記録をもつ機体を開発した。

バットマンはDCコミックスの黒騎士ともいえる闇の仕置人がバットマンである。クリストファー・ノーラン監督のバットマン三部作『バットマン ビギンズ』『ダークナイト』『ダークナイト ライジング』でバットマンを演じたのは、クリスチャン・ベイルだが、バットマンの正体は、大富豪ブルース・ウェインである。

バットマン バットマン、すなわち大富豪ブルース・ウェインは、父の建設したゴッサム・シティ(ニューヨーク市の暗喩)を腐敗させる悪漢を、独自の正義の基準で排除しようと、資金と技術を投じた秘密兵器を使い、一人で行動する。行政も警察も組織的腐敗が蔓延しているが、鬱々とし堕落した都市に活を入れるのがバットマンで、彼は決して希望を捨てずに、自分の愛するものを救うために奮闘する。この独自の思考と一匹オオカミの孤高の意志が、経済力を従えているというのがヒューズとバットマンの共通点である。

アメリカのマーベル (Marvel)コミック刊行『アイアンマン』の主人公アンソニー・"トニー"・スタークTony Stark)は、大富豪で、機械製造の天才であり、最新科学技術を導入してスーパーマン「アイアンマン」となり、大活躍する。この実在のモデルが、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)である。

アンソニー・"トニー"・スターク(Tony Stark)は、軍需生産を「スタークインダストリーズ」の社主であり、経営よりも、技術導入を図って強力な最新兵器を作るのに熱意を傾け、その新兵器を自ら使用することに快感を覚える偏向的な天才として描かれている。トニーは、アイアンマンを着用して、巨悪を退治する強いヒーローとして活躍するがこれは、ハワード・ヒューズを念頭に置いた設定であろう。

写真(右)1938年7月9日(?)、アメリカ、ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)(?)、飛行機格納庫前、世界一周早回りに出発する前と思われるハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)と思われる。:主翼後方で作業を見ているのは、ハット、スーツ姿の長身のヒューズのようだ。機体の前にあるロープあるいはホースは、牽引するロープを主脚に掛けるのか、それとも燃料用のホースなのか。 胴体中央部上面に方向探知ループアンテナのカバーが設けられている。後方にはたくさんの見物人が写っている。
Photograph of Howard Hughes in New York, July 1938 Description A view of crowds watching Howard Hughes arrive at Floyd Bennett Field in New York. Date 1938-07
Date Digitized 2013-10-04
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000883 Physical Identifier 0373_0599引用。


写真(右)1938年7月9日(?)、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)(?)、飛行機格納庫前、世界一周早回りに出発する前と思われるハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)と思われる。: 胴体中央部上面に方向探知ループアンテナのカバーが設けられている。後方にはたくさんの見物人が写っている。機体を後ろ向きに押して、飛行機格納庫に収納しようとしているようだ。
Photograph of the Lockheed 14 aircraft, New York, 1938 Description A view of the Lockheed L-14 Super Electra surrounded by crowds in New York. Date 1905-04-21
Date Digitized 2015-06-26
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000884 Physical Identifier 0373_0600引用。


Great Gatsby 1925年のアメリカ小説『グレート・ギャツビー』The Great Gatsby)は, スコット・フィッツジェラルドFrancis Scott Key Fitzgerald: 1896年9月24日 -1940年12月21日心臓発作で急死)の近代小説だが、このドイツ系アメリカ人の主人公ジェームズ・ギャッツ(James "Jimmy" Gatz)もヒューズを彷彿とさせる。禁酒法の下、酒の密輸を始め、富豪となったジェイ・ギャツビーだが、大邸宅の豪華な暮らしと高慢な性格の裏で、実は虚飾に満ち孤独で悲劇的な状況に陥っている。

『グレート・ギャツビー』The Great Gatsby)主人公ジェイ・ギャツビーは、作者 スコット・フィッツジェラルドFrancis Scott Key Fitzgerald)の投影された姿で、作者自身が破天荒な人生の中で、豪華で荒んだ生活を送っていた。アメリカの「ロストジェネレーション(失われた世代)」を具現したようなスコット・フィッツジェラルド、その主人公ギャツビーは、豪邸に高級車で豪勢なパーティを開催していて、彼の近づきになりたいとたくさんの軽薄な男女が集ってくる。しかし、ギャッツビーは、かつての思いを取り戻し手に入れるために、贅を尽くしていたのであって、孤独で偏向的な性格が悲劇を招くのは必定だった。

アメリカの繁栄と栄光の中で、個人として、その流行に飽き足らず、不満を抱え、時に憎悪と怒りをもって接し、最後には破綻してしまうのである。ギャッツビーは、結局、周囲の連中に食い物にされていたのであって、女性問題では轢き逃げ犯殺人の嫌疑をかけられ、殺されてしまう。彼の葬儀には、それまでこぞって近寄ってきた軽薄な連中はだれ一人やってこなかった。ヒューズの思いと同じく、引き裂かれた状況のなかで、真実を誠実に示すことが如何に困難かを見せつける小説である。


3.ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)と双肩する大富豪

Richard Branson イギリス、ヴァージンアトランティック航空Virgin Atlantic Airway)のリチャード・ブランソンRichard Branson:1950年生)は、イギリスで高校中退だったが、レコードを中心に音楽業界で成功をおさめ、そこから航空業界に参入する。

リチャード・ブランソンは、1984年のヴァージンアトランティック航空Virgin Atlantic Airway)の設立で、ボーイング747をリースして運用し始め、国際航路にも参入して、超大型機エアバスA380を採用し注目を集め、格安航空会社も傘下に収めるなど斬新で派手な経営方針を打ち出した。

サーの称号を得たリチャード・ブランソンRichard Branson)は、21世紀にはフォーミュラ1のスポンサーとなって、スピードの世界の先頭を目指した。メディアでも大活躍し、世界一周無着陸飛行、熱気球世界一周飛行、民営宇宙旅行企画に参加している。

イギリス人リチャード・ブランソンRichard Branson)も、アメリカ人ハワード・ヒューズを念頭に置いて、空の冒険を好み、冒険家・大富豪経営者として積極的な活躍をしているのであろう。

Richard Branson リチャード・ブランソンRichard Branson)は、音楽業界に進出レコード販売、ヒットメーカーになり、出版から、映画、ビデオ、クラブに進出した。特に、1984年には、ヴァージンアトランティック航空Virgin Atlantic Airway)の本格的な国際路線第1便として、ロンドン=ニューヨーク間の運航を始め、1989年に、日本航路も開拓した。

さらに、宇宙旅行ビジネスを開始し、たが、それ以前の1987年には、自ら気球による大西洋横断飛行を、1991年には太平洋横断飛行に成功している飛行冒険家でもある。1997年には、気球による無着陸世界一周飛行に挑戦し失敗したが、1998年には再挑戦し、再び失敗している。

リチャード・ブランソンRichard Branson)このような活動が契機となって、2000年、イギリスでナイト爵位を叙せられた。によって、 ヴァージンアトランティック航空Virgin Atlantic Airway)は、イギリスの大手航空会社として、国際路線でも世界的な航空会社となったものの、2020年8月4日にアメリカで倒産し、経営再建を図る途上にある。このような積極的事業の失敗も、ハワード・ヒューズが繰り返したことだった。

ハワード・ヒューズが公言したわけではないが、自ら憧憬に値する人物がすでに近くに存在していたと考えられる。これが、アメリカの出版実業家・富豪ジョージ・パットナムGeorge Palmer Putnam :1887-1950)である。 1975年にアメリカで設立されたマイクロソフト社をビル・ゲイツと共に創業したポール・ガードナー・アレン(Paul Gardner Allen: 1953-2018)も、飛行機や戦争から宇宙への挑戦などへの関心が高く、自ら飛行機を集め整備するとともに、それを公開している。

Richard Branson ポール・アレン(Paul Allen)は、ワシントン州ペインフィールド空港にフライング・ヘリテージ・コレクション(Flying Heritage Collection )を設置し、 カナダ空軍ホーカー・シーハリケーン(Hawker Sea Hurricane)Mk XII、イギリス空軍スーパーマリン・スピットファイア、カーチス(Curtiss)P-40C戦闘機、リパブリック(Republic)P-47D-40 サンダーボルト(Thunderbolt)、ノースアメリカン(North American)P-51D ムスタング(Mustang)、グラマンF6F-5 ヘルキャット(Hellcat)艦上戦闘機、 メッサーシュミット(Messerschmitt)Bf 109E-3戦闘機、メッサーシュミットMe 163ロケット戦闘機、フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw 190 A-5/U3戦闘機、ポリカルポフ(Polikarpov)I-16戦闘機(24型)、イリューシン(Ilyushin)Il-2M3襲撃機、日本陸軍キ43中島一式I型乙戦闘機、ノースアメリカンB-25J ミッチェル(Mitchell)爆撃機、ポリカルポフ Po-2初等練習機、中国空軍南昌 初教六型(Nanchang ChuJiao-6)練習機などを買い取り、整備し保管している。また調査船オクトパス(Octopus)、ペトレルを所有し、海底に沈没していた第二次大戦中の軍艦の探査を大金と人員を投入して実施し、日本海軍戦艦「武蔵」イギリス海軍巡洋戦艦「フッド」、アメリカ海軍重巡洋艦「インディアナポリス」、アメリカ海軍航空母艦「レキシントン (CV-2)」などを発見、記録画像を撮影、公開している。

2004年6月、スケールド・コンポジッツのスペースシップワン(SpaceShipOne)が高度100 kmの宇宙空の弾道飛行に史上初の民間有人宇宙飛行船に成功すると、ポール・ガードナー・アレンは2004年10月、弾道飛行宇宙船スペースシップワンへ投資した。そして、2011年12月、民間宇宙企業ストラトローンチ・システムズの創業を発表し、2015年4月、自らの投資会社バルカン(Vulcan)を基盤にバルカン・宇宙飛行(Vulcan Aerospace)を発足させて、宇宙旅行の大衆化事業を開始した。

他方、スペースシップワンの成功を受け、ヴァージングループにも宇宙旅行会社ヴァージン・ギャラクティックが設立され、スペースシップツーを製造して、史上初の宇宙旅行ビジネスを開始することを発表した。


4.アメリア・イヤハート・パットナム(Amelia Earhart Putnam)の世界飛行

写真(右)1928年6月8日、アメリカ、マサチューセッツ州(Massachusetts)ボストン(Boston)、大西洋横断飛行直前、海上に待機するフォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」 "Friendship" 三発水上輸送機(登録コード:NX-4204, 製造番号:c/n 5028)に乗り込むためにボートに乗り換えたアメリカ女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)(右端)、正操縦士ウィルマー・スタールズ(Wilmer Stultz)とパトロンのジョージ・パットナム(George Palmer Putnam)(左2人目)
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00131 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


Charles Lindbergh 1927年のチャールズ・オーガスタス・リンドバーグ(Charles Augustus Lindbergh: 1902-1974)は、1927年5月20日0552、 ライト(Wright)J-5C ヴィールウィンド(Whirlwind)空冷星型9気筒エンジン223 hp (166 kW)搭載のライアン(Ryan)NYPスピリットオブセントルイス(Spirit of St. Louis)を単独操縦し、ニューヨーク・ロングアイランド島ルーズベルト飛行場を離陸、翌日5月21日2221、パリのル・ブルジェ空港に到着した。

この時、リンドバーグは若干25歳、飛行距離5,810kmを33時間半で飛翔して、ニューヨーク=パリ間を無着陸飛行のオルティーグ賞2万5,000ドルを得で、世界中で人気が沸騰した。

この1927年のリンドバーグの大西洋横断飛行の話題性に着目した大富豪ジョージ・パットナム(George Palmer Putnam)は、1928年、、フォッカーF.VIIb3m三発水上輸送機「フレンドシップ」を使って、カナダ東端のニューファウンドランド島から、イギリスまで、大西洋を無着陸横断飛行する冒険飛行に、アメリカ女性飛行家アメリア・イアハートAmelia Earhart:1897-1937)を同乗させた。

写真(右)1928年6月8日、アメリカ、マサチューセッツ州(Massachusetts)ボストン(Boston)、大西洋横断飛行直前のフォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」 "Friendship" 三発水上輸送機(登録コード:NX-4204, 製造番号:c/n 5028)乗り込んだアメリカ女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)と正操縦士ウィルマー・スタールズ(Wilmer Stultz)が、フロート上のパトロンのジョージ・パットナム(George Palmer Putnam)から見送りを受けている。
Amelia Earhart and Wilmer Stultz in the "Friendship" with George Putnam, before the Transatlantic Flight, June 8, 1928/ Amelia Earhart became the first woman to fly across the Atlantic Ocean in 1928, but only as a passenger. Wilmer Stultz and Louis Gordon did the actual piloting. The trio made their crossing in a Fokker F.VII Tri-Motor named Friendship. Their successful flight took them from Trepassey Harbour, Newfoundland, to Burry Port, South Wales, in 20 hours and 40 minutes. Subject Date 08 June 1928 .Dimensions Height: 8 in Width: 10 in
写真はCollections of The Henry Ford THF255793 引用。


1928年6月8日、フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」 "Friendship" 三発水上輸送機(登録コード:NX-4204, 製造番号:c/n 5028)に搭乗するアメリア・イヤハート、主操縦士ウィルマー・スタールズ(Wilmer A. Stultz: 1900-1929)、副操縦士兼機関士(エンジニア)ルイス・ゴードン(Lewis Edward Gordon: 1901-1964)を、パトロンのジョージ・パットナム(George Palmer Putnam)が最後の見送りをした。

写真(右)1929年、ピッツバーグの飛行クラブを辞去するアメリカ女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)と事実上の夫で出版実業家の富豪ジョージ・パットナム(George Palmer Putnam):33歳になっていたアメリアは独身(ミス)だったが、久しく婚約者がいた。二人は過去の自らの関係を清算して、1931年に正式に結婚した。
Amelia Earhart and George Putnam Leaving the Aero Club of Pittsburgh, 1929.
In 1928, publisher and publicist George Palmer Putnam began to heavily promote aviatrix Amelia Earhart through a book, lecture tours, and product endorsements. These activities not only provided Earhart's chief source of income, but also enhanced her fame. Putman and Earhart's partnership flourished, both professionally and personally--in February 1931, they married.
Clipping (Information artifact) Subject Date 1929.
Height:9.875 in Width: 8 in Credit From the Collections of The Henry Ford.
写真はThe Henry Ford, Benson Ford Research Center THF121572引用。


ジョージ・パットナムGeorge Putnam)は身長6フィート、180センチ以上でグリーンランド探検にも参加したことがある活動的なビジネスマンの資産家であり、アメリア・イアハートAmelia Earhart)も180センチ近くある長身で、自分の飛行機を保有できる財産があった。飛行機好きのヒューズが二人に注目していたとみるのが自然であろう。女性初の大西洋初横断飛行を成功させたジョージ・パットナム、アメリア・イアハートを大々的に宣伝した。

写真(右)1931年頃、アメリカ女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937)と1931年に結婚したジョージ・パットナム(George Palmer Putnam:1887-1950)
Earhart and George Palmer Putnam
Portrait of NY publicist George Palmer Putnam and his wife, Amelia Earhart, c. 1930s in the Purdue University archives Date circa 1930 s Source Purdue University Author Official family photographer c. 1930s .
写真は Wikimedia Commons,National Portrait Gallery, Smithsonian Institution  File:GP Putnam and AE.jpg引用。


1928年6月、フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」 "Friendship" 三発水上輸送機で大西洋横断飛行をした初の女性アメリア・イアハートAmelia Earhart:1897-1937)は、当時、31歳独身(ミス)だったが、久しく婚約者がいた。アメリアを大西洋横断飛行に誘った実業家ジョージ・パットナム(George Putnam:1887-1950)は41歳で妻ドロシー(40歳)との間に息子が2人いた。

アメリア しかし、女流飛行家アメリア・イアハートと彼女の飛行を支えた大富豪ジョージ・パットナム(George Putnam)の二人は、1928年には惹かれあっており、1929年末にはカップルとなっていた。

ジョージ・パットナム(George Putnam)には,妻ドロシー(Dorothy Binney)があり、さらに彼女との間に2人の息子がいた。しかし、パットナムは、ドロシーと離婚し、アメリアを新しい妻に、1931年に再婚したのである。

女性飛行家アメリア・イアハートAmelia Earhart:1897-1937)が大きな話題になったり理由は、彼女が若くスタイルが良くインテリだったこともあるが、同時に彼女のパトロンの大富豪で1931年に正式に結婚し夫となるジョージ・パットナム(George Putnam)の後押しによるところも大きかった。

独身だった女性飛行家アメリア・イアハートAmelia Earhart)は婚約者はいたものの、ジョージ・パットナム(George Putnam)と彼の家族と親しい付き合いをしており、個人的にも好感を抱かれていた。

写真(右)1932年初頭、ロッキード社格納庫前で、ロッキード社から愛機とするロッキード・ベガ5B (Lockheed Model 5B Vega :登録コードr/n NR7952) を提供されたアメリカ女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937):ロッキードにとって、アメリアは広告塔として利用価値があったし、アメリアも自己実現のために、自分を売った。また1931年に結婚したジョージ・パットナム(George Palmer Putnam:1887-1950)の、ロッキードにとって、メディアへの露出を増やす機会と考えられた。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00129 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


女性飛行家アメリア・パットナム・イアハートAmelia Earhart)操縦のロッキード・ベガ 5BLockheed Vega 5B:登録コードr/n NR7952)は、1927年のリンドバーク同様の単独大西洋横断を目指して、1932年5月21日、カナダ、ニューファウンドランド州(Newfoundland)ハーバーグレース(Harbour Grace)の飛行場を1932年5月20日に離陸した。

写真(右)1932年5月21日、イギリス連合王国、北アイルランド北岸のロンドンデリー州(Londonderry) ロンドンデリー(現在はデリーとも)郊外カルモア (Culmore)の牧場に不時着したアメリカ女性飛行士アメリア・イヤハート(amelia earhart)と愛機ロッキード・ベガ5B (Lockheed Model 5B Vega :登録コードr/n NR7952) 胴体に燃料タンクを増設したため、コックピットへは機首左側に付けられた足掛けでコックピット上部に登り、天蓋の蓋を開けて乗り込む不便な構造となった。
Amelia Earhart Arrives In Ireland
Amelia Earhart, dressed in flying suit, standing on steps on left side of nose of her Lockheed 5B Vega amidst a crowd of people at Culmore, North Ireland after her historic solo flight across the Atlantic from Harbour Grace, Newfoundland, c. May 21, 1932. .
Copyright/Owner: Smithsonian Institution .
写真はSmithsonian Institution.Smithsonian's National Air and Space Museum ID #:86-10744引用。


このカナダ、ニューファウンドランド州(Newfoundland)ハーバーグレース(Harbour Grace)飛行場は、1928年にメイベル・ボル(Mabel Boll)のライト・ベランカ WB-2「コロンビア」で大西洋横断を企てた時に整備された新しい飛行場で、閑散とした場所だった。1932年5月21日、離陸後、大西洋を単独横断飛行したアメリアは、フランスのパリに向かったが、途中で機体不調でイギリス連合王国、北アイルランド北岸のロンドンデリー州(Londonderry) ロンドンデリー(現在はデリーとも)郊外カルモア (Culmore)の牧場に不時着した。本人アメリア・イアハートAmelia Earhart)愛機のロッキード・ベガ5C も無事で、女性初の大西洋単独横断飛行に成し遂げ、突然の空からの訪問者として、地元でも大歓迎され、メディアの取材もすぐにやってきた。

写真(右)1932年11月頃、アメリカ、ワシントンDCホワイトハウス、第31代ハーバート・クラーク・フーヴァー(Herbert Clark Hoover:1874‐1964)からアメリカ地理学会金メダル(Gold Medal of the National Geographic Society)を授与され、初の大西洋単独横断飛行士の名誉を讃えられた時のアメリア・イヤハート(Amelia Earhart):左端の地理学会長ギルバート・グローヴナー(Gilbert Grosvenor:1899–1954)博士は、雑誌『ナショナルジオグラフィック』の初編集長となった。1928年6月17-18日に、フォッカー(Fokker)F.VIIb-3m「フレンドシップ」 "Friendship" 三発水上輸送機(登録コード:NX-4204, 製造番号:c/n 5028)に乗客として搭乗し、カナダからアイルランドまで大西洋を無着陸横断した。次いで1932年5月20日に女性飛行士として初めてロッキード・ベガに単身搭乗、大西洋単独横断飛行(Solo Flight Across Atlantic)を成功させた。これは女性初の快挙だった。
Title: [Herbert Hoover presenting the National Geographic Society medal to Amelia Earhart; with Dr. Gilbert Grosvenor, at left. White House, Washington, D.C.] Creator(s): Harris & Ewing, photographer Date Created/Published: [1932 June 21] Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Reproduction Number: LC-DIG-hec-36879 (digital file from original negative) Rights Advisory: No known restrictions on publication. For more information, see Harris & Ewing Photographs - Rights and Restrictions Information
Call Number: LC-H2- B-5256 [P&P] Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller
写真は, Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA Library of Congress Reproduction Number: LC-DIG-hec-36879 引用。


1932年5月21日、アメリカ女性飛行士アメリア・パットナム・イアハートAmelia Putnam Earhart)は、突然の空からロッキード・ベガ 5BLockheed Vega 5B)の訪問者として、緊急にイギリス連合王国、北アイルランド北岸のロンドンデリー州(Londonderry) ロンドンデリー(現在はデリーとも)郊外カルモア (Culmore)に不時着した。有名人だったアメリアの大西洋単独横断を成し遂げた女性として、地元住民は大歓迎した。

写真(右)1932-1936年頃、アメリカ東岸、ニューヨーク州ニューヨーク市(?)、ニューヨーク州選出の上院議員ロイヤル・S・コープランド(Royal S. Copeland)と懇談する、初の大西洋単独横断飛行士アメリア・イヤハート(Amelia Earhart):ロイヤル・S・コープランド(Royal S. Copeland :1868-1938)は、ミシガン大学で医学を学び、1895年から1908年にミシガン医学校教授、1923年から1938年6月まで、ニューヨーク州選出アメリカ上院議員(United States Senator from New York)を務めたベテラン政治家だった。1932年5月20日に女性飛行士として初めてロッキード・ベガに単身搭乗、自ら全行程を操縦して大西洋を横断した。
Title: [Royal S. Copeland, left; Amelia Earhart, right] Creator(s): Harris & Ewing, photographer Date Created/Published: [1936] Medium: 1 negative : glass ; 4 x 5 in. or smaller Reproduction Number: LC-DIG-hec-40746
Call Number: LC-H2- B-10060 [P&P] Repository: Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540
写真は, Library of Congress Prints and Photographs Division Washington, D.C. 20540 USA Library of Congress Reproduction Number: LC-DIG-hec-40746引用。


地元イギリスの警察も丁寧に突然の来訪者アメリア・パットナム・イアハートAmelia Putnam Earhart)を処遇しており、密入国者を疑うそぶりは全くなかった。後方は愛機のロッキード・ベガ(Lockheed Vega)で、カナダ、ニューファウンドランド州(Newfoundland)ハーバーグレース(Harbour Grace)の飛行場から出発、北アイルランドにまで到着し、世界初の女性大西洋横断単独飛行を成功させたことで、リンドバーグに次いで、世界にアメリカの強さを見せつけた大成果となった。1932年、アメリカ連邦議会がアメリア・イアハートAmelia Earhart)に殊勲飛行十字章Distinguished Flying Cross)を授与したのも当然である。

写真(右)1932‐1937年頃、女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937)とジョージ・パットナム(George Palmer Putnam:1887-1950)
AL-73C Luqueer Album Image _00278 From the Frank S. "Luke" Luqueer Photo Collection The Frank S. "Luke" Luqueer Photograph Collection is composed of 4 large albums covering from the 1920s to the 1950s. The albums contain historic photos and correspondences from many important historical figures such as Jack Frye, Pat Amelia Earhart, Wiley Post, Howard Hughes, Hap Arnold, Jimmy Doolittle, Art Goebel, Charles Lindbergh, Douglas McArthur, and Ruth Elder to name a few. Many of the images have been autographed. Frank Luqueer is a notable aviation photographer. He bought his first camera in 1903 and devoted much of his life to taking photos of historic personalities and events in aviation history. .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1932‐1937年頃、、飛行場滑走路の脇で話し合う女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Earhart Putnam:1897-1937)とハット・スーツ・ネクタイ姿のジョージ・パットナム(George Palmer Putnam:1887-1950):アメリア・パットナムと公称されたが、実際には「アメリア」と呼ばれることも多かったようだ。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00130 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


1927年5月20−21日のリンドバークによる大西洋横断成功に次ぎ、アメリア・イアハートAmelia Earhart)は、1928年6月に女性の大西洋横断飛行を成功させ「ミス・リンディ」(女流リンドバーク)として有名になった。

写真(右)1932‐1937年頃、飛行場滑走路の脇で話し合う女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Earhart Putnam:1897-1937)と奥のハット・スーツ・ネクタイ姿のジョージ・パットナム(George Palmer Putnam:1887-1950):アメリア・パットナムと公称されたが、実際には「アメリア」と呼ばれることも多かったようだ。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00128 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


パトロンとは、国王、貴族から政治家、富豪など芸術家やスポーツ選手などを支援する存在だが、これは文化・芸術の振興だけではなく、パトロンの威信強化、寄付控除による節税対策などの目的もある。しかし、パトロンの存在によって、自分の夢を追求できたのは、アメリア・パットナム・イアハートAmelia Putnam Earhart)も同じだった。

写真(右)1932‐1937年頃、、飛行場滑走路の脇で話し合う女流飛行家アメリア・パットナム(Amelia Earhart Putnam:1897-1937):アメリア・パットナムと公称されたが、実際には「アメリア」と呼ばれることも多かったようだ。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00127 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


他方、ハワード・ヒューズは、自ら十分な資産を有していたので、パトロン探しをしたり、パトロンに媚びえつらう必要はなかった。そのため、ヒューズは自由人であるとも評価された反面、手懐けることのできない暴れ者アウトローのような強気があり、それが政治家・将軍・事業家から反感を持たれたことも少なくなかったようだ。

写真(右)1937年、アメリカ、世界一周飛行に出発準備中と思われる愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)後部と飛行女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00115 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


 アメリアは、アメリカ大統領や上院議員と会っても、礼儀正しく振舞っていたが、ヒューズは、権力にも権威にも、経済的報酬にもに迎合することはしなかった。反対に、権威や経済力をもって組み伏せようとすれば、その相手を敵として逆に叩こうとした。ヒューズの持つ芯の強さ、すなわち自己の思いへいつまでも拘泥し、それを本当に実現してしまう経済力、意志の強さは、庶民にとっては、それができないゆえに、たまらなく魅力的なのである。

写真(右)1937年、アメリカ、カリフォルニア州ロサンゼルス北、バーバンク(Burbank)飛行場、世界一周飛行前の女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937):アメリアは、1937年7月2日、再開した第二回目の世界一周赤道飛行では愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)をバーバンクのロッキード飛行機工場で受け取った。真新しい尾翼方向舵に登録コードNR16020が大きく記入している。1931年に大富豪の冒険家ジョージ・パットナム(George Palmer Putnam:1887-1950)と結婚したので、パトロンは夫である。
Amelia Earhart by aircraft Title: Amelia Earhart by aircraft Catalog #: WOF_00002 Date: 1937 Location: Burbank Airport Additional Information: Taken by Filmland's Photographer Albert Bresnik Item Location: Women of Flight Box 1 Collection: Women of Flight Special Collection Tags: Women of Flight Photo, Amelia Earhart by aircraft , 1937 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive3 and devoted much of his life to taking photos of historic personalities and events in aviation history. .
写真は ,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


ニューヨークの出版実業一家に生まれた資産家ジョージ・パットナム(George Palmer Putnam:1887-1950)は、、極地探検にも自ら参加しており、1928年、大西洋横断飛行をアメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)に持ち掛けたのが縁となって、1931年に彼女と再婚した。その後、ジョージ・パットナム(George Palmer Putnam)は、アメリアを妻とした後も、彼女をメディアで喧伝した。

写真(右)1937年、アメリカ、世界一周飛行を目指したロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)を背景にした飛行女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937)とジョージ・パットナム(George Palmer Putnam:1887-1950):1937年アメリアのロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)第2回世界一周飛行が実施される。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00111 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


ジョージ・パットナム(George Palmer Putnam)は、アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)の冒険への熱情や飛行機操縦の体験生かそうと、世界一周赤道飛行を計画した。これには産学の協力も不可欠で、大学より最新鋭機のロッキード・エレクトラを寄贈してもらうこともできた。大西洋横断飛行についで、世界一周赤道飛行も、アメリアに惚れこんだ夫パットナムの企画といってよいであろう。

アメリア・プットナム・イヤハートAmelia Putnam Earhart)の世界一周赤道飛行の企図は、
1)大西洋横断飛行で有名なアメリアを冒険飛行に引き続き参加させて、夫としての力量を見せる、
2)アメリアの出版・記事・写真を使って、自らの出版業を興隆させる、
3)アメリアをブランドとして、衣料・バッグなど女性用商品を開発し、その広告収入を得て、自らの出版業界に寄与させる、
という3点が考えられる。

写真(右)1937年、世界一周飛行の出発前、愛機のプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340-49ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジン(排気量1,344 in³ :22 L)の前でポーズをとるアメリア・イヤハート(Amelia Earhart):アメリアが世界一周飛行に使ったロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)は、エンジン強化、燃料タンク増設、新型航法装置設置の特殊長距離仕様だった。
Earhart , Amelia Catalog #: Catalog #: BIOE00065 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: BIOE00065引用。


アメリア・プットナム・イヤハートAmelia Putnam Earhart)は、1932年、ロッキード・ベガを単身操縦士の大西洋無着陸横断飛行を成功させた。当時、 1933年3月4日、民主党の大統領フランクリン・D・ルーズヴェルトが就任した。その大統領夫人エレノア・ルーズベルトAnna Eleanor Roosevelt:1884-1962)は、女性の地位改善など人権を重視したファーストレディで、彼女はアメリアを後押しし、赤道を回る世界一周旅行を推奨した。

1937年にアメリア・プットナム・イヤハートAmelia Putnam Earhart)は、世界一周に愛機ロッキード・エレクトラ10E の改良型ロッキード・エレクトラ14N(Lockheed Model 14-N Super Electra)で飛び立ったが、途中で遭難、行方不明になった。そして、翌1938年7月にアメリカの大富豪ハワード・ヒューズHoward Hughes:1905-1976)の愛機として世界一周に成功している。

写真(右)1937年、飛行機格納庫の女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937):後方には、アメリアが世界一周飛行に使ったロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)の尾翼が見える。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00089 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive引用。


アメリア・プットナム・イヤハートAmelia Putnam Earhart)のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード;NR16020)による第1回目の世界一周赤道飛行は、カリフォルニア州オークランド発、ハワイ諸島オアフ島ホノルル、アメリカ領ホーランド島(Howland Island)、ニューギニア(オーストラリア信託統治領)ラエ(Lae)、オーストラリア北端ダーウィン、オランダ領バタビア、イギリス領シンガポール、イギリス領ビルマのラングーン、イギリス領インドのアラーハーバード(Allahabad)、インド(パキスタン)のカラチ(karach)、アラビア半島南部アデン(Aden)、イギリス領スーダンのハルツーム(Khartoum)、フランス領チャドのフォール・ラミ(Fort-Lamy)、フランス領ニジェールのニアメー(Niamey)、フランス領ダカール(Dakar)、ブラジルのナタール(Natal)、ブラジルのセアラー州フォートレーザ(Fortaleza)、ベレン(Belem)、トリニダード島ポートオブスペイン(Port of Spain)、パナマ(Panama)、グァテマラシティー、メキシコシティー、ロスアンゼルス、オークランド帰着の経路を予定していた。

写真(右)1937年、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島ホノルル、第1回目の世界一周飛行の途上で不時着したロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)と飛行女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937):1937年アメリアは、ロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)で第2回世界一周飛行に再挑戦するが、途上で遭難して行方不明になった。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00120 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


アメリア・プットナム・イヤハートAmelia Putnam Earhart)は、1936年7月24日の39歳の誕生日に、ロッキード・エレクトラ10ELockheed 10E Electra Special)登録コードNR16020を受け取り、登録コードNR16020の愛機を使って、世界一周赤道飛行を計画した。長距離の危険な飛行のため、機体には燃料タンクを増設し、新型の無線航法装置を導入した。また、単独飛行は困難なので、航法士・副操縦士フレデリック・フレッド・ヌーナン(Frederick Joseph "Fred" Noonan:1893-1937)が搭乗員として加わった。

写真(右)1937年、アメリカ、ハワイ諸島オアフ島ホノルル、第1回目の世界一周飛行の途上で不時着したロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)と飛行女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937):1937年アメリアは、ロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)で第2回世界一周飛行に再挑戦するが、途上で遭難して行方不明になった。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00155 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


西回り世界一周を目指すアメリア・プットナム・イヤハートAmelia Putnam Earhart)は、他の3人の搭乗員とともに1937年3月17日にロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード;NR16020)でカリフォルニア州オークランドを離陸し、ハワイのホノルルに着地した。しかし、ホノルルで故障したために、アメリカ本土に船で戻った。そして、機体を修理してから、今度は東回り世界一周を企図し、1937年7月1日にオークランドを飛び立った。

写真(右)1937年6月28日、オーストラリア北端、第2回目の世界一周飛行で事故を起こして破損したアメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)前方正面
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00159 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


通常型ロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)10E(Lockheed Model 10E Electra )の諸元
空虚重量(Empty Weight): 6,454 ポンド(pounds)
全長(Length): 38 feet, 7 inches
全高(Height): 10 feet, 1 inch
発動機:プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340「ワスプ」Wasp SH31空冷星形9気筒エンジン600馬力2基
巡航速力(Cruise speed): 時速190-194マイル(mph)
最高速力(Max Speed): 時速202マイル(mph)
航続距離(Range): 619 マイル(nautical miles)
実用上昇限度(Service Ceiling): 19,400 feet

写真(右)1937年、アメリカ、世界一周飛行を目指したロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)に搭乗した飛行女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart):「レディーバード、今どこにいるの?」とあるので1937年アメリアがロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)第2回世界一周飛行の途上で遭難してから書き込まれたものであろう。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00120 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


女性初の飛行家というわけではないが、資産家のパートナー・夫パットナムのメディアへの影響力もあって、アメリアは、1928年6月17日女性として初めて大西洋横断飛行した女性とされた。実際は、優秀な搭乗員のフォッカー F.VII水上機に同乗しただけだったが、女性という立場を前面に出したメディア戦略がアメリカ大衆に受けた。こうして有名な女性飛行家というブランドを手に入れたアメリアは、たしかに魅力はあり人気を博したが、本人はそれに迎合しなかった。1932年5月21日には女性飛行家としてロッキード・ベガ5B (Lockheed Model 5B Vega)を操縦し、女性初の大西洋横断単独飛行に成功している。

こうして、1937年、アメリアとナビゲーターのフレッド・ヌーナンは、世界一周赤道飛行にロッキード・エレクトラ10Eで挑戦した。

アメリア アメリア・プットナム・イヤハートAmelia Putnam Earhart)の愛機Lockheed ロッキード・エレクトラ10ELockheed 10E Electra Special)登録コードNR16020の特別仕様
1)燃料タンクを主翼と胴体に増設、追加し、主翼に6個、胴体に6個の燃料タンクを装備。合計燃料容積は 1,150ガロン(4,353L)に増加し、巡航速力で20時間以上飛行可能になった。ただし、コックピットには、胴体に燃料タンクを増設したために、胴体後部の扉からは入れなくなり、主翼の上から機首のコックピット上の天蓋にのぼって入らなければならない。

2)遠距離飛行のため、通信・航法危機を改良し、より強力なウエスタン・エレクトリック(Western Electric)のより強力な無線機(radio)を搭載、当時の先端技術を使ったベンディックス(Bendix)無線方位装置(radio direction finder)、弱いモールス信号( Morse code)でも検出可能な振幅発振回路(Beat Frequency Oscillator:BFO)を搭載した。

写真(右)1937年6月28日、オーストラリア北端、ダーウィン(Darwin)飛行場に待機するアメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)後左面:複座式の操縦席は、左が主操縦士・右が副操縦士でともに半円形扇型の操縦桿を採用した。正面には、大型ガラス風防があり、その上下にメーター器機が配置されている。大量的に並んだメーターは、双発エンジン2基の貝単数・圧力などを示すもので、1基に2個1対が配置されている。エレクトラは、エンジン2基の大型双発機であり、エンジンや機械の調整、航法、無線、天候観測などを考慮すると、搭乗員2人では少なすぎると思われる。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00167 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


1937年3月、アメリア・イアハートと航法士・副操縦士フレデリック・フレッド・ヌーナン(Frederick Joseph "Fred" Noonan)の搭乗したロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード;NR16020)は、ハワイのホノルル、ウィーラー飛行場(Wheeler Field)に着陸した時に、潤滑油や降着装置に問題が起きたために、真珠湾のアメリカ海軍基地内フォード島(Ford Island)ルーク飛行場(Luke Field)に運ばれ、格納庫の中で整備を受けた。

整備には時間がかかり、予定より3日間遅れて整備がなり、ルーク飛行場(Luke Field)を離陸しようとした。

しかし、ルーク飛行場(Luke Field)滑走路で、アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)愛機愛機ロッキード・エレクトラ10ELockheed 10E Electra Special)登録コードNR16020のは、グラウンドループ(滑走中のスピン)を起こし、機体・降着装置を大きく破損した。

アメリア愛機の特別仕様ロッキード・エレクトラ10ELockheed 10E Electra Special:NR16020)は、ハワイ諸島オアフ島ホノルル、ウィーラー飛行場(Wheeler Field)に着陸したが、潤滑油と降着装置の不調から、予定を変更して、真珠湾のアメリカ海軍基地で修理を行った。

写真(右)1937年6月28日、オーストラリア北端、ダーウィン(Darwin)飛行場に待機するアメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)後左面:主翼下面には、登録コード:NR16020が大きく記入されている。これは、飛行中に地上から見上げても視認できる大きさである。赤道上の世界一周飛行で、南米から大西洋を横断し、アフリカ大陸に到着した。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00168 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


しかし、1937年3月にハワイで大破したアメリア・イアハートの特別仕様ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed 10E Electra Special:NR16020)を修理するのは、現地では困難であり、これからの孤島への飛行は、無線・航法の正確さやプラット・アンド・ホイットニーPratt & Whitney)「ワスプ」空冷星形エンジンの信頼性がなおさら求められる危険な経路であった。そこで、大破したロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード;NR16020)による世界一周赤道飛行はリスクが高いと判断され、計画は一時断念することになった。そしてし、大破した機体を、アメリカ本土にまで船舶輸送し、ロッキード・バーバンク(Lockheed Burbank)工場で、本格的に修理して、出直すことにしたのである。

写真(右)1937年6月28日、オーストラリア北端、ダーウィン(Darwin)飛行場上空を飛行するアメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)後方: プロペラは2翅であるが、その後、エンジン出力が増加し、プロペラ長が長くなると、3翅プロペラが導入されるようになった。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00166 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


1937年3月17日のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード;NR16020)による第1回目の世界一周赤道飛行は、カリフォルニア州オークランド発、ハワイ諸島オアフ島ホノルルに到着したところで離陸に失敗、飛行機が大破して中止となった。

次は、第二回目のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード;NR16020)による挑戦で、飛行経路は、第一回目と反対にアメリカ本土カリフォルニア州オークランドからフロリダ州マイアミ経由で、中南米、アフリカへと東回りの世界一周赤道飛行の計画である。

写真(右)1937年6月28日、オーストラリア北端、ダーウィン(Darwin)を離陸しようとするアメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)操縦のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020):第2回目の世界一周飛行に飛び立つ、この写真が最後で、アメリアのロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)の最後の写真になった。ニューギニア島東部、ラエ(Lae)飛行場についた。1937年7月2日1000、ラエ飛行場から、ハワイ諸島南方の孤島ハウランド島(Howland Island)に向かって飛び立ったが、途中で、遭難して行方不明になった。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00170 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


アメリア 1932年、プラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)ワスプ(Wasp) SC-1空冷星型9気筒エンジン450 hp搭載のロッキード・ベガ単発機(1927年に初飛行)で女性初の大西洋単独横断飛行に成功したアメリア・イアハートは、世界一周赤道飛行をするにあたって、ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed 10E Electra Special:NR16020)を選択したが、これはロッキード社の意向と便宜を受けての事であろう。

したがって、初めての世界一周赤道飛行の挑戦で、ハワイで機体を損傷したからといって、ロッキードの名誉にかけて、途中退場は許されない。再挑戦は、当然の帰結だった。

アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)による1937年3月17日の第1回目の世界一周赤道飛行は、ハワイ諸島オアフ島ホノルルに到着したところで離陸に失敗、飛行機が大破して中止となった。

そこで、捲土重来、第2回目の世界一周の挑戦がなされた。世界一周の飛行経路は、第一回目と反対にアメリカ本土カリフォルニア州オークランドからフロリダ州マイアミ経由で、中南米、アフリカへと東回りの世界一周赤道飛行の計画である。

写真(右)1937年、アメリカ、第2回目の世界一周飛行に飛び立つロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)と飛行女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937):1937年アメリアは、ロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)で第2回世界一周飛行に再挑戦するが、途上で遭難して行方不明になった。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00170 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


1937年5月21日、女性飛行家アメリア・パットナム(AmeliPatnam)m)は、愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)に搭乗し、航法士フレデリック・ヌーナン(Noonan)とともに、赤道上世界一周飛行に向かって、アメリカ西岸、カリフォルニア州オークランドを飛び立った。ルートは、オークランドからマイアミに飛び、そこから中米、南アメリカを経て、大西洋を越えてアフリカ大陸に渡った。

アフリカから、インド洋を超えて、1937年6月29日、ニューギニア島東北部海岸ラエ(Lae)に到着した。ニューギニア東部は、当時、オーストラリア委任統治領だった。ここまでの飛行距離は、2万2000マイルで、世界一周赤道飛行の完遂まで残すところ7000マイルだった。

写真(右)1937年6月28日、オーストラリア北端、ダーウィン(Darwin)を離陸しようとするアメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)操縦のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)後左面:第2回目の世界一周飛行に飛び立つ、この写真が最後で、アメリアのロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)の最後の写真になった。ニューギニア島東部、ラエ(Lae)飛行場についた。1937年7月2日1000、ラエ飛行場から、ハワイ諸島南方の孤島ハウランド島(Howland Island)に向かって飛び立ったが、途中で、遭難して行方不明になった。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00171 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


アメリア 当時、ニューギニア島はラエLae)のある東部はオールトラリア委任統治領、西部はオランダ領だった。次の目的地は、南太平洋の南洋諸島で、ここは日本の委任統治領だったが、無人島のハウランド島(Howland)だけはアメリカ領だった。そこで、アメリカは、アメリア・イアハートを支援する目的で、無人島のハウランド島にアメリカ沿岸警備隊(U.S. Coast Guard)巡視船「アイタスカ」(Itasca)を派遣している。

 巡視船「アイタスカ」(Itasca)は、1929年11月竣工、1930年7月就役、排水量2,108 t、全長76 m、GE社の3,350馬力(2,500 kW)タービン、巡行速力 14.8ノット、最高速力17.5ノット、乗員 97人、5インチ単装砲1門、爆雷投下装置2条の新鋭艦だった。

アメリアが向かったハウランド島(Howland)は無人島で、そのままではアメリアが立ち寄っても、燃料補給も機体点検もできない。そこで、アメリカは海軍艦艇を派遣し、アメリアの世界赤道一周を支援したのである。

写真(右)1937年6月28日、オーストラリア北端、ダーウィン(Darwin)飛行場に待機するアメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)後方:第2回目の世界一周飛行に飛び立つ、この写真が、アメリアのロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)の最後の写真になった。ニューギニア島東部、ラエ(Lae)飛行場についた。1937年7月2日1000、ラエ飛行場から、ハワイ諸島南方の孤島ハウランド島(Howland Island)に向かって飛び立った。ハウンドランド島は無人島だが、アメリカ艦船がアメリアの世界一周を支援するために停泊していた。しかし、アメリアのロッキード10Eは、途中で、遭難し行方不明になった。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00172 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1937年6月28日、オーストラリア北端、ダーウィン(Darwin)を離陸しようとするアメリア・イヤハート(Amelia Earhart)操縦のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)左側面:第2回目の世界一周飛行に飛び立つ、この写真が最後で、アメリアのロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)の最後の写真になった。ニューギニア島東部、ラエ(Lae)飛行場についた。1937年7月2日1000、ラエ飛行場から、ハワイ諸島南方の孤島ハウランド島(Howland Island)に向かって飛び立ったが、途中で、遭難して行方不明になった。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00173 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は San Diego Air and Space Museum Archive 引用。


写真(右)1937年、世界一周飛行の出発前、愛機のプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340-49ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジン(排気量1,344 in³ :22 L)の2翅プロペラを点検するアメリア・イヤハート(Amelia Earhart)と整備士:アメリアが世界一周飛行に使ったロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)は、エンジン強化、燃料タンク増設、新型航法装置の環状ループアンテナ設置の長距離特殊仕様だった。
Amelia Earhart by propeller Title: Amelia Earhart by propeller
Catalog #: WOF_00004
Date: 1937 Location: Burbank Airport
Additional Information: Taken by Filmland's Photographer Albert Bresnik
Item Location: Women of Flight Box 1
Collection: Women of Flight Special Collection
Tags: Women of Flight Photo, Amelia Earhart by propeller , 1937 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: BIOE00052引用。


1937年5月21日、女性飛行家アメリア・イアハート(Amelia Earhart)は、愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)に搭乗し、航法士フレデリック・ヌーナン(Frederick J. Noonan )とともに、第二回目の赤道上世界一周飛行に挑戦を始めるために、慣れ親しんだアメリカ西岸カリフォルニア州オークランド(Oakland)を飛び立ち、バーバンク(Burbank)飛行場、アリゾナ州南東ツーソン(Tucson)、ルイジアナ州南岸ニューオーリーンズ(New Orleans)経由して、フロリダ州マイアミ(Miami)飛行場に着いた。

写真(右)1937年、世界一周飛行の出発前、愛機のプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340-49ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジン(排気量1,344 in³ :22 L)の前でポーズをとるアメリア・イヤハート(Amelia Earhart):アメリアが世界一周飛行に使ったロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)は、エンジン強化、燃料タンク増設、新型航法装置設置の特殊長距離仕様だった。しかし、1937年7月2日1000、ラエ飛行場から、ハワイ諸島南方の孤島ハウランド島(Howland Island)に向かって飛び立ったが、途中で、遭難して行方不明になった。
Earhart , Amelia
Catalog #: Catalog #: BIOE00051
Last Name: Earhart
First Name: Amelia
Notes: Alone, w/ Planes and Portraits
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: BIOE00051引用。


アメリア・パットナム(Amelia Putnam)は、マイアミでは、飛行場の民間航空のスタッフの協力を得て、機体整備をした。その整備中、アメリアは、世界一周赤道飛行を再開したことを公表している。捲土重来を期して、世界一周を成し遂げるのは、夫パットナムやロッキード社のためではなく、アメリアの飛行家としての強い希望だったのであろう。

アメリア・パットナム(Amelia Putnam)の生きがいは、結婚や幸せな家庭生活ではなく、パイオニアとして未知の空を飛ぶことだったのであるから。

写真(右)1937年、カリフォルニア州ロサンゼルス(Los Angeles)、バーバンク(Burbank)飛行場、滑走路上で、赤道一周旅行のために愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)も搭乗口でポーズをとった女性飛行家アメリア・イアハート(Amelia Earhart):手にした鞄には、工具が入っているようだ。
Amelia Earhart by aircraft Title: Amelia Earhart by aircraft
Catalog #: WOF_00001 Date: 1937
Location: Burbank Airport Additional Information: Taken by Filmland's Photographer Albert Bresnik
Item Location: Women of Flight Box 1 Collection: Women of Flight Special Collection Tags: Women of Flight Photo, Amelia Earhart by aircraft , 1937 Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr,SDASM Archives・引用。


ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)による世界一周赤道飛行のルートは、カリフォルニア州オークランドから、フロリダ州マイアミに到着時点に大々的に公開され、マイアミからメキシコ湾を超えて、中米、南アメリカを経て、大西洋を越えてアフリカ大陸に渡った。

そして、インド洋を超えて、南東に針路をとり、6月29日、ニューギニア島東北部海岸ラエLae)に到着した。当ここまでの飛行距離は、2万2000マイルで、残すところ7000マイルだった。

写真(右)1937年、滑走路上で、赤道一周旅行のために愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)尾翼前でポーズをとった女性飛行家アメリア・イアハート(Amelia Earhart):胴体に扉が開いている。双尾翼式なので、垂直尾翼・方向舵は2枚備わっている。アメリアは、1927年のリンドバーク同様、1932年アメリア・イアハートはベガで女性初の大西洋単独横断飛行に成功した。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00060 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr,SDASM Archives・引用。


1937年5月21日、女性飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart)は、愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)に搭乗し、航法士フレデリック・ヌーナン(Noonan)とともに、赤道上世界一周飛行に向かって、アメリカ西岸、カリフォルニア州オークランドを飛び立った。

ルートは、オークランドからマイアミに飛び、そこから中米、南アメリカを経て、大西洋を越えてアフリカ大陸に渡った。

アフリカから、インド洋を超えて、1937年6月29日、ニューギニア島東北部海岸ラエ(Lae)に到着した。ニューギニア東部は、当時、オーストラリア委任統治領だった。ここまでの飛行距離は、2万2000マイルで、世界一周赤道飛行の完遂まで残すところ7000マイルだった。

写真(右)1937年、世界一周飛行の出発前、愛機のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)胴体右後方側面でポーズをとるアメリア・イヤハート(Amelia Earhart):アメリアが世界一周飛行に使ったは、エンジン強化、燃料タンク増設、新型航法装置設置の特殊長距離仕様だった。
Earhart , Amelia
Catalog #: BIOE00052
Last Name: Earhart First Name: Amelia
Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: BIOE00052引用。


1937年7月2日7:20 AM, アメリア・イアハートはロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)がハウランド島南西20マイルにある と無電連絡し、7:42 AM,巡視船「アイタスカ」(Itasca)に入電した。その後、巡視船上空にあるらしいが、目視出来ず、燃料低下、無電受けることできず、高度1000フィート"We must be on you, but we cannot see you. Fuel is running low. Been unable to reach you by radio. We are flying at 1,000 feet." という843AMの無電が最後になった。

アメリア・イアハート(Amelia Earhart)と愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)は、この無線交信の後に行方不明となり、消息を絶ったままとなった。

写真(右)1937年、世界一周途上で、ニューギニア島ラエからハウランド島に飛び立ったが、遭難し行方不明になった女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Mary Earhart:1897-1937)の新聞記事:アメリアが世界一周飛行に使ったロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)は、新鋭機で長距離・無線航法仕様の特別機だった。
Earhart , Amelia Catalog #: BIOE00123 Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive .
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: BIOE00123引用。


アメリアが世界一周飛行に使ったロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)は、燃料タンクを増設した長距離仕様だが、このニューギニア島東部、ラエ(Lae)飛行場から孤島ハウランド島(Howland Island)の行程での航続距離には十分な余裕はなかった。アメリカ海軍による海上、空中からの捜索が行われたが、機体の残骸も発見することはできなかった。

写真(右)1936‐1937年、世界一周飛行の出発前、愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)のプラット・アンド・ホイットニー(Pratt & Whitney)R-1340-49ワスプ(Wasp)空冷星型9気筒エンジン(排気量1,344 in³ :22 L)の前でポーズをとるアメリア・イヤハート(Amelia Earhart)とスタント・パイロットのポール・マンツ(Paul Mantz:1903-1965):ポール・マンツは、1931年に映画パイロット協会(Associated Motion Picture Pilots、AMPP)に加盟し、映画のスタント飛行を受け持って、その高度に危険な飛行テクニックを示して有名になった。1937年に世界一周飛行を計画していたアメリア・パットナムに長距離飛行・航路確定の技術指導をし、その世界一周に副操縦士として同乗する可能性もあった。1938年、1939年のエアレース「ベンディックス・トロフィー」にロッキード オライオンで出場し、ロサンジェルスからクリーブランドへの大陸横断飛行では、第3位に入賞した。
Amelia Earhart Paul Mantz pictionid70164293 - catalog02e-00509 - title-amelia earhart--paul mantz and amelia earhart - filename02e-00509.tif--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum .
写真は Wikimedia Commons, San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: BIOE00051引用。


アメリア 女流飛行家アメリア・イアハートAmelia Earhart:1897-1937)とジョージ・パットナム(George Putnam)は、1928年の大西洋横断飛行の計画を共に進める中で、急速に仲が進展し、大西洋横断成功後も、二人の親密な関係は続いた。アメリアとの結婚を決意したのか、実業家ジョージ・パットナム(George Putnam)は1929年に妻ドロシーと離婚し、過去を清算し、アメリアと事実上の夫婦となった。そして、1931年には、アメリアと正式に結婚したのである。

この事件は、飛行家を目指していた長身の若き大富豪ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニア(Howard Robard Hughes Jr.)の対抗心を掻き立てたに違いない。飛行機への思いは、彼らより俺が上だと。

ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、ヒューズ・ツール社の社主で大富豪、自らヒューズ飛行機工場をおこし、さらにTWAトランスコンチネンタル航空を買収して社主におさまったほどで、アメリアのような冒険飛行家とは異り、航空実業家だった。ただし、ヒューズも自ら飛行機を操縦したし、新型試作機の初飛行までもこなしていた、また、アメリアの夫は大富豪のジョージ・パットナムで、アメリアのパトロンとなって資金支援していた。

1937年4月頃、ニューヨークHerald Tribune記事:1937年、愛機ロッキード・エレクトラ(Lockheed Electra)10E(登録コード:NR16020)の機首の前でポーズをとったアメリカ女性飛行士アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)を配した第二回目の挑戦となるアメリカ本土カリフォルニア州オークランドからハワイへと西回りの世界一周赤道飛行の予定経路図: プロペラは2翅であるが、その後、エンジン出力が増加し、プロペラ長が長くなると、3翅プロペラが導入されるようになった。
Earhart , Amelia Last Name: Earhart First Name: Amelia Notes: Alone, w/ Planes and Portraits Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はflickr,SDASM Archives・Catalog #: BIOE00185引用。


アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)のロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)による1937年3月17日の第一回目の世界一周赤道飛行は、ハワイに到着したところで離陸に失敗、飛行機が大破して中止となった。これは、第二回目の挑戦で、飛行経路は、第一回目と反対にアメリカ本土カリフォルニア州オークランドからフロリダ州マイアミ経由で、中南米、アフリカへと東回りの世界一周赤道飛行の計画である。


5.ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の北回り世界一周飛行

図(右)1938年7月10日−14日、アメリカ、ニューヨーク州、フロイド・ベネット飛行場からのハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)世界一周高速飛行の予定ルート:1937年7月の世界一周飛行経路は、アメリカ、ニューヨーク市フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)から、パリ、モスクワまでは実際に飛行したが、シベリヤでは、イルクーツクではなく、オムスク(Omsk)、ヤクーツク(Yakutsk)にストップオーバーした。アメリカのアラスカのフェアバンクスの後は、カナダのエドモントではなく、実際には、ミネソタ州ミネアポリスが最後のストップオーバーした。
Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Catalog #: 10_0015712 Title: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Date: 1938 Additional Information: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed Tags: Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , Howard Hughes Around the World Flight Lockheed , 1938
写真は,San Diego Air and Space Museum Archive引用。


写真(右)1938年7月10日、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン(Brooklyn)、ロングアイランド西端、バレン島(Barren Island)、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)に到着したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)「ニューヨーク万博1939年」"New York World's Fair 1939"の空撮:北半球一周早回り飛行の準備に入った。機首先端には照明灯2個が設置されていて、左エンジンだけ稼働させている。
Photograph of the Lockheed 14 aircraft, July 10, 1939 Creator: Press Association Inc. DThe black and white view of the front of the Lockheed 14 aircraft before takeoff. Date 1939-07-10
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000655 Physical Identifier 0373_0375引用。


写真(右)1938年7月10日、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン(Brooklyn)、ロングアイランド西端、バレン島(Barren Island)、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)に到着したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)「ニューヨーク万博1939年」"New York World's Fair 1939":北半球一周早回り飛行のために左のタンクローリーから燃料を搭載するのであろう。.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh000654 Physical Identifier 0373_0374引用。

ヒューズ ヒューズ(Howard Hughes Power)らは、当初、1937年の世界一周飛行経路は、アメリカ、ニューヨークから、パリ、モスクワ、シベリヤのイルクーツク、アラスカのフェアバンクス、カナダのエドモントにストップオーバーし、ニューヨークに戻ってくるルートを公開していた。しかし、実際には、7月10日夜にニューヨーク市フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)を離陸したヒューズのロッキード14は、パリ、モスクワと進んだが、シベリヤのイルクーツクではなく、オムスク(Omsk)、ヤクーツク(Yakutsk)にストップオーバーした。そして、アメリカのアラスカのフェアバンクスによってから、カナダのエドモントではなく、実際にはミネソタ州ミネアポリスを最後のストップオーバーとして、給油・整備をし、ニューヨークに到着した。

ヒューズ(Howard Hughes)のロッキード・スーパーエレクトラ14(Lockheed Model 14-N2 Super Electra)による北半球ルートは、国際公認記録となる世界一周(アメリアの地球赤道一周飛行)よりはるかに短く、1938年7月の世界一周早回りとは、未公認であり、メディアとアメリカ政府が喧伝したために、大ニュースになったのである。

しかし、このロッキード・スーパーエレクトラ14(Lockheed Model 14-N2 Super Electra)による北回り航路は、1937年当時、アメリアの挑戦した世界一周赤道飛行よりもはるかに経済的に重要な意味を持っていた。北極圏の飛行ができなかった当時、ニューヨーク、パリ、モスクワとアメリカとヨーロッパを結ぶ空路はまだ、十分に発達しておらず、空の旅のリスクもあった。また、ヨーロッパから、中国・インド・日本への空路もさらにアメリカ大陸西岸とつなげることができれば、アラスカ経由だったとしても、太平洋横断と同じであり、航空輸送にとって画期的な意義があったのである。

写真(右)1938年7月10日、アメリカ、ニューヨーク市フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)、モーターバイク警備隊員に囲まれて世界一周早回りに出発するハワード・ヒューズ(Howard Hughes)操縦の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra "New York World's Fair 1939":登録コード NX18973)"New York World's Fair 1939":ニュージャージー州ニューアーク( Newark)空港を起点に世界一周(round-the-world flight.)早回りに挑むために、ニューアー空港に向けて飛び立った。次は、フランスのパリ、ソビエト連邦のモスクワ空港に飛行する。
Photograph of Howard Hughes and the Lockheed 14, July 3, 1938 Creator: Press Association Inc. Date 1938-07-03 Description Howard Hughes in the Lockheed 14. Typed on a piece of paper attached to the image: "Howard Hughes, lifting his plane and headed for , on the first leg of his flight to Newark, N.J. from where he will hop-off for Paris."
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000626 Physical Identifier 0373_0345引用。


女流飛行家アメリア・イアハート(Amelia Earhart)は、再開した第二回目の世界一周赤道飛行の最終段階で、1937年7月2日、愛機ロッキード・エレクトラ10E(Lockheed Model 10-E Electra:登録コード NR16020)に搭乗したまま、行方不明となった。こうなれば俺がと、ヒューズは、世界一周を最速で実現してやると決意した。これは、国際航路の世界周遊というもので、ニューヨーク、パリ、モスクワ、(本来なら上海あたりを経由したいが)、シベリア、アラスカ(フェアバンクス)、ミネアポリス、を回って、ニューヨークに帰還する北半球ルートだった。

写真(右)1938年7月11日、フランス、パリ郊外、ル・ブルジェ空港(Aéroport Le Bourget、 Le Bourget Airport)飛行機格納庫内のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)"New York World's Fair 1939"と警護のピケ帽のフランス警官と見物人:、世界一周(round-the-world flight.)早回りの最初のストップオーバー・パリの次は、ソビエト連邦モスクワ空港に飛んだ。
Photograph of the Lockheed 14 in a hangar at Le Bourget Airfield, France, July 1938 Date 1938-07 Description Description printed on photograph's accompanying strip of paper: "Howard Hughes' plane heavily guarded leaves hangar at Le Bourget Field, Paris, for the hop to Moscow."
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000736 Physical Identifier 0373_0456引用。


写真(右)1938年7月11日、フランス、パリ郊外、ル・ブルジェ空港(Aéroport Le Bourget、 Le Bourget Airport)、世界一周(round-the-world flight.)早回りの最初のストップオーバーに立ち寄ったハワード・ヒューズ(Howard Hughes)が愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)"New York World's Fair 1939"の尾部の方向舵・尾端の点検作業をするハワード・ヒューズ(Howard Hughes):固定式尾輪は移っていない。ニューヨーク、パリ、モスクワ、シベリア、アラスカと飛んで、ミネアポリスからニューヨークに帰還した。これは、世界一周ではなく、北半球一周といったほうが正確である。パリの次は、ソビエト連邦のモスクワ空港にストップオーバーした。
Photograph of Howard Hughes behind his plane at Le Bourget Airfield, France, July 1938 Date 1938-07 Description Description printed on accompanying strip of paper: "Howard Hughes inspects his machine on arrival at Le Bourget, France, on his round-the-world flight."
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000733 Physical Identifier 0373_0453引用。


Hughes  女流飛行家アメリア・イヤハート(Amelia Earhart)の世界一周は、国際航空連盟(Fédération Aéronautique Internationale: FAI)の規定通りに、赤道付近を地球周回するという公式の世界一周だったのに対して、飛行事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の世界一周は、ニューヨーク、パリ、モスクワ、シベリア、(戦争で不可能だったが上海・東京)、アラスカと北半球の世界国際周回飛行であり、公式の「世界一周」ではない。アメリアもヒューズも、ロッキード(Lockheed)機による世界一周飛行を行ったが、その目的が異なっていたからである。

アメリアは、女流飛行家として、女性の自己実現として、世界一周の公式記録を樹立したかった。ジェンダー不平等、LGBT差別へ反抗するリベラルな意図も見えてくる。

他方、飛行事業家ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、ヒューズ飛行機工場の社主・TWAトランスコンチネンタル・ウェスト航空(Transcontinental & Western Air)オーナーとして、国際航路の実現を企図していたのであろう。ヒューズにとって、国際航空連盟(Fédération Aéronautique Internationale: FAI)の公認の世界一周というお墨付きは不要だった。大富豪で、政治家も軍人にも影響力があったヒューズは、公認にはこだわらず、グローバル・ビジネスにつながる国際航空運輸、特に国際旅客輸送によるグローバル化を夢見ていたのである。



Lockheed Aircraft Promo Film - 1940
Film from the Rick Prelinger Archives. Going way back to 1940 for this one; neat scenes inside the Burbank plant, including Lodestars, Model 10 & 12 Electras, Vega, P-38, etc. Be sure to check my channel for the best in VINTAGE & RARE airliner videos!

ロッキード 10 エレクトラ(Lockheed Model 10 Electra )の発動機を強化し、若干大型化した発展型がロッキード 14 スパー・エレクトラ(Lockheed Model 14)輸送機で、1937年7月29日初飛行、354機が生産された。その軍用仕様がロッキード・ハドソン(Lockheed Hudson)爆撃機で、1938年12月10日初飛行で、2,941機生産された。

ロッキード 14 スパーエレクトラ輸送機の胴体を 5 feet 6 inches (1.68 m)延長し、乗客を増やし、発動機を強化したのが、ロッキード 18 ロードスター(Lockheed Model 18 Lodestar)輸送機で、1939年9月21日初飛行し、625機が生産された。そのロードスターの軍用仕様がロッキード・ベンチュラ(Lockheed Ventura)PV-1哨戒爆撃機で、1941年7月31日初飛行で、3,028機生産された。

ロッキード・PV-1ベンチュラの主翼 551 ft2 (51.2 m2) を 686 ft2 (63.7 m2)に大型化し、武装を強化した改良型が、ハープーン(Harpoon)PV-2哨戒爆撃機で、1943年12月3日初飛行で、ある。しかし、PV-2ハープーン(Harpoon)は、PV-1ベンチュラと同一の発動機一であり、飛行性能は重量増加で若干低下した。生産機数は470機生産されたほか、改造型としてPV-2C練習機が30機、武装強化型PV-2Dが35機生産された。つまり、ハープーン(Harpoon)PV-2は総計535機が生産されたが、ベンチュラPV-1の1,600機に比して、3分の1である。

⇒写真集Album:ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)輸送機を見る。   


写真(上)1938年7月12日、アラスカ、フェアバンクス飛行場で燃料補給をするハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)
:アラスカからミネアポリス、さらにニューヨークに向かう。
Photograph of the Lockheed 14 landing in Fairbanks, Alaska, July 1938 Description A view of the Lockheed 14 aircraft in a Fairbanks, Alaska airfield. Date 1938-07
Date Digitized 2013-10-02
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries  引用。


写真(右)1938年7月14日、ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン(Brooklyn)、ロングアイランド西端、バレン島(Barren Island)、フロイド・ベネット飛行場(Floyd Bennett Field)に到着したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)「ニューヨーク万博1939年」"New York World's Fair 1939"と出迎える人々:北半球一周早回り飛行から帰国したヒューズ一行は大歓迎された。
Photograph of the landing of Howard Hughes' Lockheed 14 aircraft, New York, July 14, 1938 Creator: Press Association Inc. Date 1938-07-14 Description The black and white, view of Howard Hughes' Lockheed 14 aircraft performing its final landing on the Round the World flight at Floyd Bennett Airport, New York. Typed onto a piece of paper attached to the image: "Scene at Floyd Bennett Field as Howard Hughes and his crew landed after completing a round the world flight..... 7-14-38. (Press Association)"
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000810 Physical Identifier 0373_0527引用。


覇業遂に成りて輝くヒューズ機 : 翼下に地球を短縮 : 世界一周に3日19時17分 前記録の二分の一!
大阪朝日新聞 夕刊 1938-07-16

一部既報【フロイド・ベネット飛行場(ニューヨーク郊外)特電十四日発】
ヒューズ機の世界早廻り覇業が成った、百万長者、スポーツマン、飛行家、映画製作者など数々の肩書を持つヒューズ(Howard Hughes)氏は今や全米の英雄となった、
アメリカ東部標準時十四日午前九時十分(日本時間同日午後十一時十分)アメリカのミネアポリスを出発しゴールのニューヨークに驀進した同機はアメリカ東部標準時十四日午後一時三十七分(日本時刻十五日午前三時三十七分)去る十日壮途についたニューヨーク市東郊フロイド・ベネット飛行場に輝く双輪を印した、
一万四千八百二十四マイルの世界一周の航程を純飛翔時間七十一時間十五分、総所要時間三日十九時間十七分の輝かしい新記録で翔破、ポスト氏の記録を二分一短縮した、
なおポスト氏の世界記録は航程一万五千五百九十六マイル、純飛行時間百十五時間三十六分二分の一、総所要時間七日十八時間四十九分二分の一である

今や全米の英雄 歓呼のベネット飛行場

【ニューヨーク特電十四日発】
全米はさきのリンバーグ(Charles Lindbergh)大佐の凱旋の時以上に沸き立っている、
ヒューズ(Howard Hughes)氏の「一九三九年ニューヨーク世界博号」が十四日蒸暑い曇日の午後一時三十七分ニューヨークの東郊その名にちなんだ一九三九年世界博覧会会場に近いフロイド・ベネット飛行場に帰還した時、熱狂した群衆は一千百名の警官隊の警戒線を突破して飛行機を取巻いてしまいヒューズ(Howard Hughes)氏は辛うじてマイクロホンに近寄って「四日間の飛行の間で今日のこの群衆ほど私を吃驚させたものはありません、その他にはいうことはありません」と語った、
同氏は疲れているので間もなく自動車に乗って何処かへ休息のために逃避してしまった、十五日の朝ニューヨークに帰り目抜の街を凱旋行進するはずである

ヒューズ機の性能

【同盟ニューヨーク十四日発】
ヒューズ(Howard Hughes)氏の使用機はロックヒード会社の最新鋭機ロックヒード十四型双発単葉機であるが、今回の世界一周飛行のためヒューズ氏の特別注文で製作したもので主なる性能左の如し

重量二五・〇〇〇ポンド △発動機(五五〇馬力)二基△機体全幅一九・九五米、全長一三・四米、全高三・四九米、翼面積五一・二〇平方米△速度最大速力時速四二六キロ、巡航時速三八六キロ、上昇率毎秒五一八米搭載力、乗務員のほか乗客十二名、燃料搭載量一、七五〇ガロン、無電装置二個

なお今度の飛行にはヒューズ(Howard Hughes)氏のほかに左の四名が搭乗している 航空士ハリー・コンナー、操縦士トーマス・サーロー、機関士エドワード・ルンド、アメリカR・C・A無電技師リチャード・ストッダード

写真(右)1938年7月15日、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市街地を凱旋パレ―ドするハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の一行:ヒューズ一行は、愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)でニューヨーク起点に北半球早回りをし、アメリカ独立記念日7月14日に帰国した。そして、翌日市内パレードに繰り出した。オープンカーの中央にヒューズが乗っている。ヒューズ右手側の黒服は、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)、左手側の白服はアル・ロドウィック(Al Lodwick)。
Photograph of a parade procession, New York, July 15, 1938 Date 1938-07-15 Description An overhead view of a parade procession celebrating Howard Hughes' completion of his round-the-world flight.
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000924 Physical Identifier 0373_0639引用。


”もう真平だ”苦悩を語る五勇士

【同盟フロイド・ベネット飛行場十四日発】
世紀の記録を樹立してフロイド・ベネット飛行場に降り立ったハーワード・ヒューズ(Howard Hughes)氏はまずたばこだと旨そうに一服しながら三日間地球征服の印象を語る

ともかく首尾よくニューヨークへ帰れた嬉しさで一杯だ、途中着陸した至るところで非常な歓待を受け感謝に堪えない、何分荒涼な土地の上ばかり飛び続けたので相当苦労はしたがその割に大した苦痛はなかった

次いで新聞記者団から『どうですもう一度世界一周飛行をやりませんか』と質問したのに対し五人の空の英雄らは早廻り飛行の辛さを痛感した口調で『もう真平だね』と微笑しながらお互に顔を見合せた
覇業遂に成りて輝くヒューズ機 : 翼下に地球を短縮 : 世界一周に3日19時17分 前記録の二分の一!引用終わり)

写真(右)1938年7月15日、アメリカ、ニューヨーク州ニューヨーク市街地を凱旋パレ―ドするハワード・ヒューズ(Howard Hughes)の一行:ヒューズ一行は、愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)でニューヨーク起点に北半球早回りをし、アメリカ独立記念日7月14日に帰国した。そして、翌日市内パレードに繰り出した。オープンカーの中央にヒューズが乗っている。ヒューズ右手側の黒服は、1939年ニューヨーク万博 "New York World's Fair 1939"組織委員会委員長グローヴァ・ウェーレン(Grover Aloysius Whalen)、左手側の白服はアル・ロドウィック(Al Lodwick)。
Photograph of Grover Whalen, Howard Hughes, and Al Lodwick during a parade procession for the completion of Hughes' Round-the-World flight.
Date 1938-07-15
Description Photograph of Grover Whalen, Howard Hughes, and Al Lodwick during a parade procession for the completion of Hughes' Round-the-World flight.
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh000949 Physical Identifier 0373_0664引用。


ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、1938年7月10−14日、愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)で北半球早回りを成功させ、飛行家としての快挙を成し遂げた。翌日1938年7月15日、ニューヨーク市内に凱旋し、そのご実力を示した名士として、巨大輸送飛行艇の開発に取り組んでいる。民間航空路線についても、自ら大手航空会社T&WA(後のTWA/トランスワールド航空)を買収し、社主として、新型機の導入を祖先して進めた。第二次大戦後には、国際航空路線にも大々的に進出し、グローバル化に一役買ったのである。

写真(右)1938年7月29日、アメリカ、イリノイ州(State of Illinois)シカゴ(Chicago)、シカゴ市営空港(Chicago Municipal Airport)の飛行機格納庫外のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973):ヒューズ一行は、シカゴ市内を凱旋パレードした。
Photograph of Howard Hughes and the Lockheed 14, Chicago, 1938 Description A view of Howard Hughes standing with others in front of the Lockheed 14 aircraft after landing it in Chicago.
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001090 Physical Identifier 0373_0805引用。


写真(右)1938年7月29日、アメリカ、イリノイ州(State of Illinois)シカゴ(Chicago)、シカゴ市営空港(Chicago Municipal Airport)の飛行機格納庫のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973):ヒューズ一行は、シカゴ市内を凱旋パレードした。
Photograph of the Lockheed 14, Chicago, 1938 Date 1938 Description A view of the Lockheed 14 surrounded by a small crowd while resting inside a hangar in Chicago.
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001091 Physical Identifier 0373_0806引用。


写真(右)1938年7月29日以前、アメリカ、イリノイ州(State of Illinois)シカゴ(Chicago)、世界一周最速記録を樹立して、シカゴに凱旋し観衆の歓声に応えて手を振るハワード・ヒューズ(Howard Hughes):7月14日にニューヨークに到着して世界一周最速記録を達成し、ニューヨークで凱旋パレードに出た。その後、カリフォルニア州ロスアンゼルスに帰る途中、シカゴによって、凱旋パレードに参加した。
Photograph of a parade for Howard Hughes, Chicago, 1938 Description Howard Hughes sitting in a car and waving at a crowd during a parade held for Hughes. Date 1905-04-21
Date Digitized 2013-11-05
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital Identifier whh001111 Physical Identifier 0373_0826引用。


写真(右)1938年7月29日以前、アメリカ、イリノイ州(State of Illinois)シカゴ(Chicago)、愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)で世界一周最速記録を樹立して、シカゴに凱旋したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)一行のパレード:ヒューズ一行は、愛機ロッキード・スーパーエレクトラ14N(Lockheed Model 14-N2 Super Electra:登録コード NX18973)でニューヨーク起点に北半球早回りをし、アメリカ独立記念日7月14日に帰国した。そして、ヒューズの住むカリフォルニア州に帰郷する途中に、シカゴにも立ち寄った。
Photograph of a parade for Howard Hughes, Chicago, 1938 Date 1938 Description A view of the procession of a parade in Chicago held for Howard Hughes and his flight crew.
.写真は, University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001116 Physical Identifier 0373_0831引用。


1938年7月10−14日に世界一周早回りを果たしたハワード・ヒューズのロッキード・スーパーエレクトラ14N-N2機首に大小2台の白熱灯式照明器が設けられているが、これは夜間降着陸用である。機首に機体固有名称(愛称)「1939年ニューヨーク万博」"New York World's Fair 1939"のロゴが描かれている。無塗装で、耐久性よりも空気抵抗減少を優先した。

⇒写真集Album:ヒューズ(Hughes)のロッキード(Lockheed)スーパーエレクトラ(Super Electra)世界一周を見る。   


6.ヒューズ(Hughes)好みの高速長距離旅客空輸ビジネス

写真(右)1938年7月7日、アメリカ、ワシントン州シアトル、世界一周早回りに出発する前のハワード・ヒューズ(Howard Hughes)とボーイング社の技士エドモンド・アレン(Edmund T. Allen):シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)のテスト飛行前の記念撮影。
Photograph of Howard Hughes and Edmund T. Allen, Seattle, Washington, July 7, 1938 Description Date 1938-07-07 Description Description given with photograph: "Howard Hughes tests the Hughes plane. Seattle--Howard Hughes (right), millionaire aviation enthusiast and record holder, shown with Edmund T. Allen, Boeing test engineer, before they made a recent test flight in a Boeing-built Stratoliner. The huge machine was equipped with extra fuel tanks for the test. Hughes did not reveal the reasons for his interest in the four-motored, 30 passenger plane, designed for substratosphere flight."
写真は University of Nevada, Las Vegas. Libraries  Digital ID whh001215 Physical Identifier 0373_0930引用。


シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)は、与圧客室キャビンを備えた初めての旅客機で1938年12月31日に初飛行した。

その後、1939年初めに、KLMオランダ航空が導入を決めたものの、9月1日に第二次世界大戦が勃発し、オランダは、民間機ではなく、軍用機の導入を図ることとなり、ボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)購入はキャンセルされた。

写真(右)1938‐1939年、アメリカ、ワシントン州シアトル、舗装滑走路から離陸するための滑走に入ったボーイング 307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)試作1号機(NX19901):飛行する前に地上でのエンジンや操縦機システムのテストをしているのであろうか。
Boeing : 307 : Stratoliner Catalog #: 00061636 Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は, San Diego Air and Space Museum Archive  引用。


他方、中立国だったアメリカでは、1940年3月にパンアメリカン航空がアメリカ大陸横断路線、南米航路に導入した。ヒューズのTWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空も採用したが、1941年12月のアメリカの第二次世界大戦の参戦を契機に、資源・労力のかかる大型民間機の生産は中止された。生産機数は僅か10機のみに終わったが、ハワード・ヒューズは自家用機として使用した。

写真(右)1940−1941年頃、アメリカ、ワシントン州シアトル、ヒューズのTWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空ボーイング307(Boeing Model 307):シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング 307ストラトライナーは、KLMオランダ航空が採用したものの、世界大戦で就役できずに終わった。
English: Catalog #: 01_00090339 Manufacturer: Boeing Official Nickname: Stratoliner Designation: 307 Notes: USA Title: Boeing, 307, Stratoliner Tags: Boeing, 307, Stratoliner, USA Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 11 November 2011
.写真はWikimedia Commons, Category:NC19905 File:TWA Boeing SA-307B NC19905 'Comanche' fleet number 400.jpg引用。


シアトルのボーイング飛行機工場で製造されたボーイング30B(Boeing Model 307)は、世界大戦でKLMオランダ航空の運航はかなわなかったが、ヒューズのTWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空では、気圧の低い高空でも快適に過ごせる与圧式客席キャビンを備えた、大型四発高速旅客機として採用された。

写真(右)1940年5月17日以降、アメリカ、ワシントン州シアトル、発動機不調で不時着、破損したヒューズのTWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空ボーイング307Bストラトライナー(Boeing Model 307 Stratoliner)登録コード NC19905
English: Catalog #: 00061646 Manufacturer: Boeing Designation: 307 Official Nickname: Stratoliner Notes: Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Date 26 September 2008, 12:05:14 Source https://www.flickr.com/photos/sdasmarchives/4589674075/ Author SDASM Archives
.写真はWikimedia Commons, Category:NC19905 File:TWA Boeing SA-307B NC19905 on 17 May 1940 after the engines iced up and it made a belly landing.jpg引用。


1940年5月17日、TWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空ボーイング307Bストラトライナー(Boeing Model 307 Stratoliner)登録コード NC19905発動機の余熱で高空での氷結・着氷を防止する機器をテストする飛行をした。客室キャビンが与圧式なので、高空での運行も可能だったが、航空では機器、ガラス風防の氷結が問題になっていたのである。この時、TWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空ボーイング307Bストラトライナー(Boeing Model 307 Stratoliner)登録コード NC19905は、4基のエンジンのうち3基が故障し、1基も出力が低下する事故が発生した。そこで、緊急不時着を試みて、機体は損傷した。

TWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空ボーイング307Bストラトライナー(Boeing Model 307 Stratoliner)登録コード NC19905は破損したが、回収され、キャブレター(Carburetor)ヒーターを装着して問題を解決し、復帰することができた。つまり、損傷の程度が低かったために、不時着した機体は回収され、キャブレター・ヒーターを改良して、正常化し、再び修復、TWA航空で就役し、旅客輸送に使用された。

ヒューズは、アメリアのような冒険飛行家・パイオニアというよりも、新型機を開発して、空の夢をかなえる、そしてその夢は、飛行機による安全で高速・快適な空の旅というグローバルな国際旅客輸送、大空のビジネスの実現だったといえる。


写真(上)1946年頃、アメリカ、TWAトランス・コンチネンタル・ウェスト航空ボーイング307(Boeing Model 307)(登録コード: NC19907)と白い制服を着た34名のスチュワーデスの整列

English: Title: Stewardess in front of Stratoliner Catalog #: WOF_00105 Item Location: Women of Flight Box 3 Collection: Women of Flight Special Collection Tags: Women of Flight Photo, Stuardesses in front of Stratoliner Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
.写真はWikimedia Commons, Category:NC19906 (aircraft) File:TWA Boeing Sa-307B NC19906 'Cherokee' fleet number 401 marked as NC1940 in flight.jpg引用。


⇒写真集Album:ボーイング307(Boeing Model 307)ストラトライナー(Stratoliner)を見る。   

1939年に、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は自分が社主を務めるトランス・ワールド航空(TWA)で採用する与圧客室キャビン装備の高速長距離旅客輸送機を開発することとし、ロッキードのカリフォルニア州バーバンク工場で「L-49」と命名した新鋭機の開発を始めた。これが、ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)である。

写真(右)1943−1946年、アメリカ、滑走路でTWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)左後方側面昇降扉に掛けられた稼働式ステップで降機したハワード・ヒューズ(Howard Hughes)と出迎えた要人
Photograph of Howard Hughes and others, circa 1943 ate 1942 to 1944 Description A view of Howard Hughes standing with an unidentified man after the landing of Trans World Atlantic (TWA) transcontinental plane.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001308 Physical Identifier 0373_1018引用。


ロッキード(Lockheed) L-1049スーパーコンステレーション(Super Constellation)旅客輸送機の原型は、1943年初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)でボーイング(Boeing)B-29超空の要塞(Superfortress)と同じライト(Wright)R-3350デラックス・サイクロン(Duplex-Cyclone)空冷星形2200馬力4基を装備、巡航速力555 km/hを誇り、乗客60-81名の与圧キャピン(高高度でも客室気圧は低地と同じ)を持っている。

ロッキード(Lockheed) C-121 コンステレーションConstellation)輸送機は、1947年3月14日初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)の軍用仕様で、1948年11月から、アメリカ陸海軍の航空隊に採用された。民間機としては、戦時中、1942年に初飛行したダグラスDC-4輸送機が量産中で、コンステレーションは高価で量産されなかった。

写真(右)1943−1946年、アメリカ、軍用仕様ロッキード C-69 コンステレーション(Lockheed Constellation)輸送機の正面:TWAトランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー航空(Transcontinental & Western Air)採用の民間仕様は、第二次大戦中に使用程度で終わり、主たる生産型は軍用輸送機だった。それでも、ダグラスDC-4大型輸送機のような主力輸送機とはならず、要人輸送機のような効果で豪華な飛行機の使われ方をした。
In 1939, the top brass of the Lockheed Corporation—president Robert Gross, chief engineer Hall Hibbard, and chief research engineer Kelly Johnson—scheduled a key meeting with a VIP, a man with deep pockets who had recently shown an interest in buying not just one or a handful of new planes but a fleet of them. The customer’s request had been ambitious. He hoped to hire Lockheed to design a revolutionary aircraft capable of comfortably shuttling 20 passengers and 6,000 pounds of cargo across the United States, offering commercial aviation’s first coast-to-coast, non-stop service.
写真は, Lockheed Martin Corporation How the Constellation Became the Star of the Skies引用。


TWAトランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー航空(Transcontinental & Western Air)は、1950年2月22日には国際路線拡充に乗り出し、社名もTWAトランスワールド航空(Trans World Airlines)に変更している。ただし、第二次大戦中のTWAトランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー航空(Transcontinental & Western Air)は、民間航空需要の低迷から、活躍できなかった。本格的に民間航空旅客輸送を担うようになったのは、1946−1947年から、特に国際民間航路の運航に先駆けた功績が認められる。ヒューズ自身、アメリカ大陸横断トランスコンチネンタル(Transcontinental)は重視してきたところだが、戦後は、国際航空が重要だと考えていた。そこで、社名も同じTWAを残しつつも、TWAトランス・ワールド・エアライン (Trans World Airlines: TWA航空)と変更した。

正規の社名変更は、1950年だが、TWAの略称は変わらない。そこで、1946年頃にはすでにTWA機の機体には、TWA Trans World Airlines と赤字で記入している。それまで、TWA航空の機体は、トランスコンチネンタル & ウエスタン・エアー(Transcontinental & Western Air)と記入していたが、それをTWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)と書き換えたのである。つまり、正規の社名変更前に、宣伝的な機体の塗装に、TWA航空トランス・ワールド航空(TWA Trans World Airlines)を先んじて取り入れたのではないかと考えられる。 

アメリカの富豪ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は、1938年7月10-14日、愛機ロッキード・エレクトラ14(登録コード:NX18973)を自ら操縦士、世界一周早回りの記録を達成した。 それから8年後、1946年2月15日、アメリカ西岸バーバンク(Burbank)飛行場からアメリカ東岸ニューヨーク(New York)、ラガーディアン空港(La Guardia Field)まで、ヒューズは、TWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)を操縦し、アメリカ大陸をノンストップで8時間38分で横断飛行した。これは、商業的旅客運航の長距離化、高速化の先駆けとなったのである。

写真(右)1947年5月頃、アメリカ軍のロッキード C-69 コンステレーション(Lockheed Constellation)輸送機のテスト準備をする機首左の正操縦席に座ったハワード・ヒューズ(Howard Hughes):TWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空は、1950年2月22日には社名をTWAトランスワールド航空(Trans World Airlines)に変えている。
Photograph of Howard Hughes in cockpit, New York, February 15, 1946 Date 1947 Description A view of Howard Hughes preparing to fly the Air Force test plane.
写真は,University of Nevada, Las Vegas. Libraries Digital ID whh001477 Physical Identifier 0373_1184引用。


1947年5月3日、ヒューズの開発した機上搭載型新型レーダーを搭載したコンステレーションのテストが行われた。ここで新型アレーダーは、山脈などの飛行障害には2000フィート(609.6m)、着陸用には500フィート(152.4m)で反応し、操縦席の計器で示すことができた。つまり、この新型レーダーによって、悪天候や暗闇で操縦席からの視界が制限されても旅客機の安全運航が可能になったといえる。

1928年創設トランスコンチネンタル・エアー・トランスポートは、大西洋横断飛行を成功させたチャールズ・リンドバーグを顧問に迎えた。そして、1930年10月1日、他社を吸収して、TWAトランスコンチネンタル・ ウェスタン航空Transcontinental & Western Air)として飛躍した。 そして、1932年には、全金属製、低翼単葉、引込み式膠着装置のダグラス DC-1を導入、その改良型ダグラス DC-2、DC-3を配備した。しかし、1939年、社主ジャック・フライの友人だったハワード・ヒューズが買収し、1965年まで社主を務めた。戦時中に民間旅客需要は見込めなくなっていたが、戦後、社主のヒューズ自らがアメリカ大陸無着陸横断飛行が可能な大型旅客機ロッキード・コンステレーションの開発を促し、1950年2月22日には国際路線拡充に乗り出し、社名もTWAトランスワールド航空(Trans World Airlines)として世界有数の航空会社を目指した。

1939年に、ハワード・ヒューズ(Howard Hughes)は自分が社主を務めるトランス・ワールド航空(TWA)で採用する与圧客室キャビン装備の高速長距離旅客輸送機を開発することとし、ロッキードのカリフォルニア州バーバンク工場で「L-49」と命名した新鋭機の開発を始めた。これが、ロッキード コンステレーション(Lockheed Constellation)である。

ロッキード(Lockheed)C-121コンステレーション(Constellation)の改良型がロッキード(Lockheed) L-1049スーパーコンステレーション(Super Constellation)旅客輸送機で、この原型も1943年初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)である。コンステレーションが登場した時期、戦時中であり、前年の1942年に初飛行したダグラスDC-4輸送機が生産されていた。そこで、戦時中、コンステレーションは量産されることはなかった。

しかし、日本本土空襲をしたボーイング(Boeing)B-29超空の要塞(Superfortress)と同じライト(Wright)R-3350デラックス・サイクロン(Duplex-Cyclone)空冷星形2200馬力4基を装備、巡航速力555 km/hを誇り、 乗客60-81名の与圧キャピン(高高度でも客室気圧は低地と同じ)が評価された。ロッキード・コンステレーション(Constellation)のうち1951年7月14日初飛行のL-1049スーパーコンステレーションは、民間259機、軍用320機と生産機数の大半を占めている。

ロッキード(Lockheed) C-121 コンステレーションConstellation)輸送機は、高性能と斬新でスタイルの良いデザインが評価されて、ダグラス・マッカーサー将軍、ドワイト・アイゼンハワー大統領の要人輸送機としても採用された。生産機数は、輸送機、早期空中警戒機など332機に達した。


写真(右):1952年、アメリカ、カリフォルニア州サンフランシスコ、TWAトランスワールド航空(Trans World Airlines :TWA)ロッキード(Lockheed) L-749コンステレーション(Lockheed Constellation)輸送機 (N91210)の左側面

Description San Francisco 1952. Date 11 March 2010, 16:57 Source Lockheed 749 TWA n91210 Author Bill Larkins
写真はWikimedia Commons, Category:Lockheed Constellation at San Francisco International Airport File:Lockheed L-749 Constellation, Trans World Airlines (TWA) N91210 (4426389692).jpg引用。


ロッキード(Lockheed) C-121 コンステレーションConstellation)輸送機は、1947年3月14日初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)の軍用仕様で、1948年11月から、アメリカ陸海軍の航空隊に採用された。民間機としては、戦時中、1942年に初飛行したダグラスDC-4輸送機が量産中で、コンステレーションは高価で量産されなかった。C-121 コンステレーション輸送機の装備した発動機は、日本本土空襲をしたボーイング(Boeing)B-29超空の要塞(Superfortress)と同じライト(Wright)R-3350デラックス・サイクロン(Duplex-Cyclone)空冷星形2200馬力4基、4翅プロペラ装備で、最高速力537km/h(334 mph)、巡航速力521 km/h(324 mph)、実用上昇限度7450mを誇った。搭乗員4名で、乗客97-107名の与圧客室キャピン(高高度でも客室気圧は低地と同じ)である。

ロッキード(Lockheed) L-1049スーパーコンステレーション(Super Constellation)旅客輸送機の原型は、1943年初飛行のロッキード・コンステレーション(Constellation)でボーイング(Boeing)B-29超空の要塞(Superfortress)と同じライト(Wright)R-3350デラックス・サイクロン(Duplex-Cyclone)空冷星形2200馬力4基を装備、巡航速力555 km/hを誇り、乗客60-81名の与圧キャピン(高高度でも客室気圧は低地と同じ)を持っている。

第34代アメリカ大統領ドワイト・“アイク”・アイゼンハワーDwight "Ike" Eisenhower)専用機もロッキードSuper Constellation)「コロンバインIII」Colombine III (53-7885)はアメリカ海軍仕様R7V-1輸送機(BuN 131650)として製造されていた機体を改修して、大統領専用機とした。1954年アメリカ空軍にVC-121E 53-7885 "Columbine III" (製造番号:c/n 4151)として引き渡された。

⇒写真集Album:ヒューズのロッキード(Lockheed)コンステレーション(Constellation)を見る。 

⇒写真集Album:ロッキード(Lockheed)スーパーコンステレーション(Super Constellation)を見る。   



2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

アメリアフィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇


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