◆独ソ戦スターリングラード攻防戦:Battle of Stalingrad
写真(上):1942年8月,ソ連ドン地方,シラミをとる住民(母と娘?)を眺めるドイツ兵士;右の二人のドイツ軍兵士は,リラックスしてロシアの家族を眺めているが,住民もドイツ軍兵を受け入れているように見える。ドイツのプロパガンダかもしれないが,当時,ロシアの田舎の人々とドイツ人が出会う機会なかった。ドイツ人にとっては,世界旅行のような気分に陥ったかもしれない。人種民族的な偏見や迫害よりも,好奇心や暖かな視線を感じることができる。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug Signature: Bild 169-06443 Original title: info Die Einwohner entlausen sich gegenseitig Dorf am Don, August 1942 Archive title: Sowjetunion, Ortschaft am Don.- Zivilbevölkerung bei Entlausung (?) Dating: August 1942 Photographer: o.Ang.
写真(右):1942-43年,長砲身5センチ砲装備の?号戦車;1941年夏の撮影とドイツ連邦アーカイブの解説にあるが,右端の?号戦車は,長砲身43口径75ミリ砲を装備しており,1942年後半以降の撮影であろう。当初,ドイツ軍には75ミリ以上の長砲身の対戦車砲はなかった。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-748-0089-10
Archive title: Ruߥland.- Soldat auf Panzer III Ausf. J der 14. Panzerdivision; PK Ob. d. H.
Dating: 1942/1943
Photographer: Schmidt/Geyer 撮影。
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
◆1941年6月22日,ドイツ軍はバルバロッサ作戦に則って,ソ連に侵攻した。これは,中央軍集団によるモスクワ方面への中央突破,ソ連軍撃滅を企図した作戦だった。しかし,1941年末には,ソ連軍の頑強な抵抗を受けて,攻撃は停滞,ソ連軍の冬季攻勢を受けて,敗走する部隊も出始めた。ヒトラーは,ドイツ軍に補給も陣地が整っていない現状では,撤退を始めれば,敗走が続き,殲滅されると考えた。そこで,現地死守を命じた。
◆鳥飼行博研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではありません。アーカイブに直接登録,許可を得て引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
◆2009年9月8日(火)20時,12日(土),15日(火),NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
◆2011年9月2日・9日(金)午後9時からNHK-BS歴史館「側近がみた独裁者ヒトラー」でRudolf Hess ルドルフ・ヘス及びLeni Riefenstahl レニ・リーフェンシュタールにゲスト出演。再放送は9/4(日)12時、9/7(水)24時及び9/11(日)12時、9/13(水)24時。
序.ボリシェビキ・スラブ人への憎悪:「こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだ」
東方ソ連に対しては,共産主義ボリシェビキが支配している地域として,その土地,資源,人民をドイツの支配下におこうとした。
ソ連占領の目的は,東方ソ連をドイツの生存と繁栄のための生存圏とし,ボリシェビキを殲滅して,ドイツ第三帝国を千年安泰ならしめるためである。1941年クリスマスに側近に「こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから」と本心を覗かせている。
<ヒトラー卓上談話(テーブル・トーク)>
ナチ党官房長官マルチン・ボルマンは,ヒトラーが側近に語りかけた会話を記録をとらせ,これに解説を加えて『ボルマン覚書』として保管した。これがHitler's Table Talk である。
写真(右)1942年,ベルリンで演説するアドルフ・ヒトラー総統:ヒトラーのテーブル・トークを読むと,ヒトラーが,何事も人種民族,イデオロギーの上から解釈し,弱肉強食の自然淘汰の自然の摂理の中で,ドイツ人だけを支配者にすることを優先していたことがわかる。
Reichsgebiet, Berlin.- Adolf Hitler bei Rede (Porträt); Prop. Ers. Abt. (PEA) Potsdam
Dating: 1942
Photographer: Wagner
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年12月25日のヒトラー卓上談話:「(1939年1月30日の)帝国議会の演壇で私はユダヤ人に予言した。戦争が不可避であるからには,ユダヤ人はヨーロッパから消え去れなくてはならない。この罪の人種には,第一次大戦の死者200万人と現在の死者数十万人の責任がある。-----われわれがユダヤ人絶滅を計画しているという噂は,悪くない。恐怖はなかなかいいものだ。ユダヤ人国家を作る試みは失敗に終わるであろう。
----ボルシェビキ支配が今後二百年も続けば,われわれの作品がどのくらい子孫に残せるだろうか。偉大な人物が忘れ去られるか,犯罪者やならず者のように扱われるだろう。
-----ユダヤ人に関しては,まだ十分でないと思っている。-----時節到来を待っている人間は,行動にいっそう磨きがかかるものだ。------こちらに力があればこそ,マルクス主義に最終決戦を仕掛けたのだから。」(『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(上)』三交社,1994年 参照)
◆後方の下等人種・劣等民族が団結すれば,反ドイツの動きが起こり危険である。したがって,下等人種・劣等民族に連帯,団結する契機を与えてはならない。ウクライナ人,チェチェン人,ロシア人に,自治や独立を与えることは,絶対に認められない。
つまり,バルバロッサ作戦,ブラウ作戦は,現地のスラブ人,チェチェン人にとって,決してボリシェビキからの解放,スターリン圧政からの自由に繋がることはなかった。
1941年11月5日,ヒトラー卓上談話:「----この戦争の終結は,ユダヤ民族の絶滅を意味する。---奴らは言葉をもてあそぶだけだ。他人を言いくるめるのだけは,実に上手い。----ユダヤ人は自分たちの人種思想に宗教的カモフラージュを施したのだ。奴らのやることなすことすべて,嘘に立脚している。
----ユダヤ人が生きるための戦いは,嘘こそが武器だった。ユダヤ人は有能だというが,奴らの能力は,他人のものを弄び騙し取ることだけだ。
----私が言いたかったのは,ユダヤ人が被創造物の中で,最も悪魔的かつ愚鈍だということなのだ。」
◆ナチスは,アーリア人の血を受け継ぐ優秀なドイツ民族は,世界の覇権を握るべきで,人種汚染して,ドイツを滅ぼそうとするユダヤ,スラブの下等劣等人種は,排除すべきであるとした。
◆人種は,生物学的特長による遺伝・DNAなど先天的要因,民族は出自・家庭・教育・国籍が支配する後天的要因による区分というが,人種も民族も,連続的に変化し,DNAを踏まえれば,人「種」ではなく,亜種Subspeciesを区分できるに過ぎない。
◆人種民族差別は,為政者の裁量を基準にしており,似非科学な偏見,恣意的なプロパガンダに基づいている。為政者は,人種・民族を自分の意図に都合よく定義,特定の人種民族を差別,迫害する。
1941年12月1日ヒトラー卓上談話:「全ての生き物は,互いに食うか食われるかという関係にあるというと眉をしかめる向きもあるだろうが,これは自然の法則だ。----私に許容できる十戒があるとすれば,第一は“汝,種を保全せよ”だ。」
写真(右)1941年10月,オーストリア・リンツ郊外マウトハウゼン収容所のソ連軍捕虜.:1941年6月22日,独ソ戦が始まると,ドイツ軍は,半年もたたないうちに,数十人の捕虜を得た。ドイツ軍は,捕虜に,十分な食料,収容施設を与えるつもりはなかった。収容所への移送途上で多数が死亡。さらに,この収容所でも,飢餓,懲罰,処刑によって大半が殺害。ガス室を備えた絶滅収容所が建設される以前から,すでに収容所では多数の囚人が死亡していた。Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener im Lager Gusen, Oktober 1941
Dating: Oktober 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年12月13日:「全ての人間が自分の種族のために生き,そして死ぬということを知っている社会の実現,それが私の夢だ。そして主のために尽くしたものこそ最高の栄誉を受けるに値する,という思想を広めることが私の仕事である。」
◆ドイツ軍には,ボリシェビキ圧制に反発していたソ連軍捕虜を厚遇し,反ソ宣伝,親ドイツ軍を編成する動きがあった。しかし,多数の親衛隊,ドイツ軍将兵がスラブ人を下等人種,劣等民族として虐待した。ボリシェビキ,共産主義者は排除,殲滅の対象だった。
ソ連の肥沃な大地は,ドイツ人,民族ドイツ人の植民地となり,スラブの住民は農奴として使役された。ウクライナの独立,ロシアの自由を求める運動は,ドイツ軍の圧制を前に,衰退し,替わって反ドイツのパルチザン活動が起こった。
写真(右)1941年6月27日,東部戦線,独ソ戦開戦1週間後のソ連軍捕虜:開戦直後に捕虜になったソ連兵の笑顔は,何を意味しているのだろうか。プロパガンダか,それとも,元気に生き残れて助かったと喜んでいるのか。当時のソ連軍の兵士は過酷だった上に,スターリン支配,共産党独裁による圧制に反発した住民も多かった。Text: Uetrecht
Ort: b. Radum
Datum: 27.6.41
Text: Ein besonders schöner Vertreter seines Stammes - in Sowjet-Diensten.
Dating: 27. Juni 1941
Photographer: Bauer, Erich撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1942年1月23日ヒトラー卓上談話:「ユダヤ人は、ヨーロッパから消えてなくなるべきである。さもないと,われわれヨーロッパが相互理解に達しえなくなる。ユダヤ人は,何事にも障害となっている。
------だが,自由意志で彼らが出ていかなければ、絶滅があるだけだ。なぜユダヤ人をロシア人捕虜とは違ったものとしなければならないのか。捕虜収容所では,多くのものが死んでいる。それは私の責任ではない。戦争も捕虜収容所も私が望んだわけではない。ユダヤ人によって,この状況に追い込まれたのだ。」
◆人種汚染・人種民族差別は,独ソの過酷な殲滅戦、占領地における治安悪化が結びついた。さらに日米開戦を契機とした対ユダヤ人世界戦争の開始が,ヒトラーに,本格的なヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅政策を強行させた。なぜなら,ユダヤ人がドイツに戦争を引き込んだからである。
◆スラブ人もアジア人の下等劣等人種とみなしていた。そのために,フランス,イギリス人の捕虜よりも,ソ連の捕虜への取り扱いは,過酷だった。
1942年4月12日ヒトラー卓上談話:「特にこの戦争では,負ければすべてを失うということを明記しなければならない。だからスローガンは唯一“勝利”である。」
1942年5月22日:「(東部の)戦場では理想主義者が次々に死んでゆくのに,銃後で犯罪者どもを野放しにしておけば,わが国の人種政策は逆行してしまう。第一次大戦の教訓を忘れてはいけない。私の結論は次の通りだ。兵士は死ぬ可能性がある。犯罪者は確実に死ななければならない。-----銃後のドイツ国民が劣等人種に成り果てることがないように監視することこそ,私の義務であると心得ている。」
1942年8月30日ヒトラー卓上談話:「ロシアでは共産主義が本性を現している。我々は1メートルごとに掃討作戦を展開し,即決裁判を行わざるを得なかった。テロリストとの戦いは,過酷な戦いである。エストニアとラトビアでは反抗は収まった。が,ゲリラの情報を担うユダヤ人を殲滅しない限り,我々の責務は完了しない。」ユダヤ人が反ドイツ謀略戦争を仕掛けているので,殲滅すべきだと考えていた。
◆ヒトラーは,共産主義者・国際金融界の劣等人種ユダヤ人が,第一次大戦を敗北させたとして,犯罪者と決め付けており,世界大戦で,ドイツの敵となる劣等人種・ボリシェビキのユダヤ人を抹殺することを決意した。
『ヒトラーのテーブル・トーク1941-1944(下)』三交社,1994年 参照
◆1942年7月14日,総統大本営「狼の巣」で,ヒトラーからユダヤ人問題の最終解決を命令された親衛隊国家長官ヒムラーは,運輸省に,停滞気味を鉄道運行を正常化し,ユダヤ人を迅速に輸送することを求めた。7月17日、ヒムラー長官は,アウシュビッツ収容所を視察し,オランダ・ユダヤ人のガス殺に立ち会った。
この時期,独ソ戦でドン川西岸にあったドイツの南方軍集団が,ロストフから,カフカスに南下し,スターリングラードに東進していた。ソ連で「ブラウ」作戦が発動した時期,ユダヤ人絶滅政策が本格的に始動した。ユダヤ人絶滅は,ソ連のボリシェビキ殲滅戦闘と並行して進行した。
1.ソ連侵攻バルバロッサ作戦
写真(右)1942年夏,破壊されたソ連の都市から避難するソ連難民:Rußland.- Frauen auf Straße in Stadt, beschädigte Gebäude, Spätsommer 1942; PK 670
Dating: 1942 Sommer
Photographer: Weidner
撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年6月22日,ドイツ軍によるソ連侵攻バルバロッサ作戦が実行されたのは,次のような理由からだった。
?ドイツ人,民族ドイツ人が東方ソ連に入植して土地と現地住民を支配し,石油・鉄鉱石,農作物など資源エネルギー・食料を略奪することで,大ドイツ繁栄の基礎を固めようとした。
?ボリシェビキが支配する東方ソ連は,ドイツ繁栄の脅威であり,イデオロギー上も,ソビエトを攻撃,壊滅する必要があった。
?フランス降伏後も,ヨーロッパで孤立しても英国が戦っている理由は,米国とソ連がドイツを威嚇しているからだった。そこで,ヒトラーは,英国の士気を高めているソ連軍を壊滅させ,英国の希望を砕こうとした。
ヒトラーは,ソ連軍を弱体化していると見ていた。対ソ戦は,「腐った納屋を蹴り飛ばすようなもの」であり,1941年中に,8週間程度で決着がつくと考えていた。
◆ドイツ軍によるポーランド侵攻とソ連侵攻の共通する暗部は,ユダヤ人を初めとする敵性住民を即決処刑したことである。独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持(パルチザン処刑),ユダヤ人虐殺を担当した。
独ソ戦開戦時のドイツ軍主力戦車は,?号戦車(重量22トン,46.5口径3.7センチ砲 KwK 36装備)と?号戦車(重量22トン,24口径7.5センチ砲KwK 37 L/24装備)だった。この戦車は,長砲身3.7センチ砲あるいは短砲身5センチ砲装備の対歩兵支援戦車だった。ポーランド,フランス侵攻の時の?号戦車(重量7.2トン,55口径2センチ砲KwK 30 L/55装備),チェコ38t戦車(重量9.8トン,48口径3.7センチ砲Kw.K.38(t) L/48.7装備も,独ソ戦に投入された。
独ソ戦には,回転式砲塔をもたず,固定式の戦闘室に,大型火砲を装備した戦闘車両が多数投入された。
突撃砲は,密閉された装甲戦闘室を備え,前線から突撃するときに使用された。
自走砲は,開放式の戦闘室で,榴弾砲など装備し遠距離射撃を第一とするが,対戦車戦闘にも投入された。
写真(右)1942年8月,ソ連中部,降伏したソ連軍T-26軽戦車と搭乗員:1930年代前半に開発され,BT快速戦車と同じような大型砲塔のT-26軽戦車は,長砲身37ミリ砲を装備,重量9トン,8000台量産された。独ソ戦開戦の時,ソ連の主力戦車だった。装甲が薄いために,対戦車戦闘能力は低かった。フィンランド冬戦争で,フィンランド軍は多数のT-26戦車を鹵獲,自軍の主力戦車とした。
Sowjetunion-Mitte.- russischer Panzersoldat in leichtem Panzer T-26 B ergibt sich mit erhobenen Händen in Kriegsgefangenschaft; PK 697
Dating: August 1941
Photographer: Friedrich 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。
装甲師団の前進は,ドイツ参謀本部が,ソ連軍による側面攻撃を心配したために中断させられた。マンシュタイン将軍には,前進停止,ドウィンスク橋頭堡確保の命令が出たためである。装甲師団は6日間,前進できなかった。
ドイツ軍第16装甲師団司令官フーベ少将(1890-1944)の狙撃兵旅団(自動車移動の歩兵旅団)は,3.7センチ対戦車砲でソ連軍T-34戦車を砲撃した。が,T-34は20発以上の命中弾を跳ね返した。
写真(右)1941-42年,ドイツ軍に撃破されたソ連軍T-34戦車:76.2ミリ戦車砲は、出現当初の戦車としては世界最大級の火砲で、ドイツ軍は5センチ戦車砲した当初は装備していなかった。軟弱な地盤でも幅の広いキャタピラと強力なディーゼルエンジンのために機動性が高かった。生産コストに配慮して,量産向きだっために,1942年以降,ソ連軍の主力戦車となった。
Rußlandfeldzug.- Brennender Kampfpanzer T-34
Dating: 1941/1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ソビエト連邦の新鋭T-34中戦車は,全長6メートル,全幅3メートル,重量26トンで,長砲身30口径76.2ミリ(3インチ)砲を装備,車体前面装甲45mmだった。T-34戦車は,1939年に試作車が完成,12月に制式,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34/85戦車は2万台以上が生量された。
写真(右)1942-1944年,ソ連、泥濘の悪路を兵士を載せて進撃する武装親衛隊第3装甲師団「髑髏」"Totenkopf"所属のドイツ軍1トン牽引車(Zugkraftwagen 1t :Sd.Kfz. 10):鉄道輸送に加えて前線には自動車輸送が使われたが、このような悪路になれば車輪しかはいていない自動車輸送は困難である。東部戦線では、キャタピラを履いた貨物自動車も投入されている。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 146-1977-143-15
Archive title: Sowjetunion.- Soldaten, zum Teil verwundet, der 3. SS-Panzer-Division "Totenkopf" auf leichtem Zugkraftwagen 1t (Sd.Kfz. 10) in Fahrt durch schlammiges Gelände
Dating: 1942/1944 ca.
撮影者不詳。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1977-143-15引用(他引用不許可)。
写真(右)1942-1944年,山岳地を武装親衛隊騎兵部隊が馬匹を使って火砲の観測機材を運搬している。:ソ連南部のカフカス地方の山岳地を踏破しているのなら、1942年夏から秋に撮影されたはずだ。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 146-1991-068-34
Original title: info Die Karstschulungsstätte Pottenstein/Oberfranken
Ein Bilderatlas mit Erläuterungen
Zusammengestellt von SS-Standartenführer Dr. Brand.
Der Karstkampf erfordert eine geschulte, leichtbewegliche Artillerie
Archive title: Alpen.- Ausbildung von Soldaten des SS-Karstwehr-Bataillons
Dating: 1942/1944 ca.
Photographer: o.Ang.撮影者不詳。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1991-068-34引用(他引用不許可)。
写真(右)1943-1944年,武装親衛隊第12装甲師団「ヒトラーユーゲント」"Hitlerjugend" 所属と思われる武装親衛隊が7,5cmPak40対戦車砲を操作する。:武装親衛隊は現代にも通じる迷彩服を着用しヘルメットにも偽装のための迷彩カバーを掛けている。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen
Signature: Bild 146-1992-005-23
Old signature: Bild 146-1993-029-00A
Archive title: Waffen-SS, Übung [der 12.SS-Panzer-Division "Hitlerjugend"?], Bedienung an einer
7,5 cm -Panzerabwehrkanone
Dating: 1943/1944 ca.
Photographer: o.Ang. 撮影者不詳。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1992-005-23引用(他引用不許可)。
1941年6月22日ソ連侵攻バルバロッサ作戦では,6月30日までの間,ドイツ軍兵士8886人が死亡した。
2.人種殲滅戦争の側面
ドイツ国防軍司令部は,ソビエト連邦(Soviet Union)侵攻バルバロサ作戦の発動直前,ソ連共産党がソ連軍兵士の政治教育のために派遣していた政治委員(コミサール)を捜索・拘束,殺害する命令を出した。
写真(右)1941年7月,ソ連モギリョフ,市街の戦災処理を強要されるユダヤ人:ユダヤの星のマークをつけさせられ,片付ける雑物を背負っている老人。大きなユダヤの星のマークをつけさせられ,清掃の使役を命じられたユダヤ人。しかし,親衛隊の目的は,市街の戦禍復旧ではなく,使役を名目にユダヤ人を登録することだった。使役をこなせば,家族の安全も保障されるという偽りに騙されて,ユダヤ人は家族の氏名,住所まで情報を提供した。これをもとに,親衛隊はユダヤ人を集めて,強制収容所に移送したり,処刑したりした。これは,ポーランド・ユダヤ人にも既に実施した手馴れた姦計だった.
使役をこなしたユダヤ人はこれで解放されたと思ったであろう。が,家族の氏名,住所まで登録した後,しばらくしてから,親衛隊はユダヤ人を拘束し,収容所に移送した。ドイツは,労働に従事しているかどうかにかかわりなく,ユダヤ人を拘束した。
Sowjetunion-Mitte, Mogilew.- Alter Mann mit aufgenähtem Judenstern und Gepäck auf Dorfstraße; PK 689
Dating: Juli 1941
Photographer: Kessler, Rudolf 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
独ソ戦に際して,ユダヤ人と同じく,共産党員,ソ連赤軍に配属された政治委員(コミサール)などボリシェビキ分子も排除の対象となった。ドイツ国防軍は,パルチザンやボリシェビキに容赦をしなかった。
ドイツ軍,ソ連軍ともに,敵の捕虜に対しては,厳しく取り扱った。どちら側の兵士も,頑強に戦い続け,容易に投降することはなかった。お互いに捕虜となればどんな運命が待ち受けているか,容易に想像できた。
◆1941年6月22日にドイツ国防軍がソ連を攻撃すると,それまで反共産主義の立場を表明していた英国,米国は即座にソビエト連邦(Soviet Union)の支援を公言した。イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill:1874-1965)は,英本土航空決戦,大西洋の対潜水艦戦争,そして米国の参戦を引き出すことに懸命だった。しかし,独ソ戦の勃発に,英国の危機は遠のいたと大喜びした。
写真(右)1942年,ソ連パルチザンの処刑:ユダヤ人,反ドイツ活動容疑者などは,確かな罪状の可否にかかわらず,容疑者と疑われただけで,処刑されることがあった。予防戦争では,敵や潜在的な敵対者を弱体なうちに始末することが推奨された。また,反ドイツ的な人物を公開処刑して,現地住民に恐怖を巻き起こし,ドイツに逆らうことをためらわせる,すなわちテロによる支配を強行した。このようなテロが,元来,反共産主義,反ボリシェビキ(anti-Bolshevist)、スターリン批判者だったソ連人たちをも,反ドイツへと追いやった。Sowjetunion.- An einem kahlen Baumstamm erhängter Partisan; PK KBK Lw 1
Dating: 1942
Photographer: Hennig 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツは,ユダヤ人を把握するために姦計を用いた。ユダヤ人に戦争で荒廃した市内を清掃させるために,ユダヤ人を登録した。ユダヤ人登録や使役の監督作業には,親衛隊,ドイツ警察だけではなく、ソビエト連邦(Soviet Union)の共産主義やスターリンの独裁に抑圧されていたウクライナ人,反ユダヤの現地住民も協力した。こうして,登録したユダヤ人一家を一網打尽にして,処刑したり,強制収容所に移送したりした。
◆アドルフ・ヒトラーによれ、ユダヤ人は,アーリア人を人種汚染し,共産主義者がソ連を,国際金融資本家・マスメディア経営者がアメリカを操って,ドイツに戦争を仕掛けている。戦局悪化,物資不足で,ユダヤ人を追放すべき場所は,ポーランド総督領しかいない。東方ソビエト連邦(Soviet Union)のユダヤ人,スラブ人が,強制収容所や東方労働者として,ポーランドやドイツに連行され,迫害された。
◆ナチス指導者,一般市民は,ユダヤ人やスラブ人の運命を察することができた。が,誰もその責任を取りたくなかった。誰もユダヤ人がどうなったのかを知りたくなかった。これが,「仕方がない」という無責任なニヒリズム,不当な現実を受け入れてしまう不当現実主義である。不当現実主義者は,戦後,戦争責任をヒトラー,親衛隊SSに転嫁した。
反ユダヤ主義のポスター(右)1943年,「ユダヤ人、戦争の煽動者であり、戦争の首謀者だ。」:ドイツに戦争を仕掛けてくる黒幕は、下等人種・列島民族のユダヤ人であり、ドイツ人はそれを打倒するとの反ユダヤ主義(アンチセミティズム)が表現されている。
Der Jude Kriegsanstifter Kriegsverlängerer
Dating:1943
Designer:Mjölnir; [Schweitzer, Hans]
Origin: Bundesarchiv
写真はPlak_003-020-022,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は,ボリシェビキとユダヤ人の勝利ではなく、ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラーは,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。
ユダヤ人・ソ連軍捕虜抹殺・奴隷労働化の方針は,最高機密だったが,それは,迫害が知れれば次のような支障が生じるからである。
?ユダヤ人,ソビエト連邦(Soviet Union)の捕虜が迫害されていることがわかれば,彼らは反抗する。そこで,抵抗を予防するために,東方への移送,労働すると偽り,強制収容所やその支所(労働キャンプ)に移送した。
?ユダヤ人・ソ連捕虜、ボリシェビキ派の大量処刑という残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,処刑は秘匿する必要があった。
?後方・前線のドイツ人にとって,ユダヤ人・ソ連軍捕虜の処刑は,人倫に悖ると反感を買う恐れがあった。そこで,ドイツ人にも処刑を秘匿した。
写真(右)1943年1月,ソ連側住民・パルチザンの絞首刑:背景には、ドイツ軍兵士だけでなく民間人が見えるが,これは見せしめのためであろう。パルチザン(ゲリラ)の処刑(銃殺,縛り首)がドイツ連邦アーカイブに何枚も保管されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-031-2436-03A
Archive title: Sowjetunion.- Erhängte Partisanen / sowjetische Männer.- Am Galgen Schilder "Wir sind Banditen, wir haben nicht nur deutsche Soldaten, sondern auch russische Bürger ermordet und ausgeplündert" (Text deutsch und russisch) und "Fotografieren verboten!" (Aufnahme von der Rückseite, Schilder nicht lesbar). Im Hintergrund deutsche Soldaten und Zivilbevölkerung; PK 666
Dating: 20. Januar 1943
Photographer: Koch, Helmut撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◆一度隔離した敵ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜は,労働可能であっても,解放することは考えられない。強制収容所に拘束したユダヤ人,ソ連軍捕虜は,奴隷労働者として使い捨てにするか,ホロコーストの対象として殺戮することになった。
ユダヤ人,ソビエト連邦(Soviet Union)のパルチザンや捕虜の大量殺戮には,次のような障害があった。
?殺戮に伴う処刑者の精神的負担
?資源・労力をあまり要しない大量殺戮・死体処理の方法の開発・施設整備
?大量殺戮発覚によるユダヤ人・スラブ人などの抵抗勢力の増大
したがって,以上の障害を克服できる条件が整うまで,一時的にユダヤ人やソ連軍捕虜を収容したが,ゲットー・強制収容所では,食糧など物資不足,病気などによって,多数の住民・囚人がすでに死亡していた。ガス室がない状態でも,強制収容所では,大量殺戮が事実上行われていた。
ドイツ国防軍将官,東部戦線勤務の指揮官の一部は,アインザッツグルペの虐殺を知っていた。ソ連軍捕虜やユダヤ人の虐殺に反発した兵士も,自ら後方治安維持作戦を支援した兵士もいた。
多数のドイツ人が,ユダヤ人虐殺、ホロコーストの情報に接していたが,虐殺の事実を明確に認めようとはしなかった。不確実なことは認めたくなかった。自ら現実肯定の無力なニヒリズムに陥ったのは,虐殺の責任やその心理的負担を回避するためでもあった。
3.ハリコフ・クリミアを巡る戦い
写真(右)1942年,ソ連ハリコフ,ドイツ軍のサイドカー:ハリコフで修復後、車両報告をしているところ。当時のドイツ軍オートバイ部隊は,連絡・伝令のほか,偵察任務などにもついたようだ。BMW R75やツェンダップ Zündapp KS750は,排気量750ccの大型車だった。
Krad-Meldefahrzeug nach der Reparatur in Charkow
Archive title: Sowjetunion, Charkow.- Soldaten neben bzw. auf Seitengespann (Motorrad mit Transportkiste auf Beiwagen)
Dating: 1942 ca.
撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年12年から1942年1月,ドイツ軍は,ソビエト連邦(Soviet Union)に攻め入り、レニングラード,モスクワの戦いでソ連軍に敗退した。南部では,ハリコフ方面がソ連軍の攻撃を受けた。1941年12月26日,ソ連軍はクリスマス攻勢によって,黒海のケルチ半島西部に逆上陸,橋頭堡を築いた。
写真(右)1942年,ソ連,ハリコフ,ドイツ軍の接取したビルからの眺め:上のカラー写真の続きで,自動車,二輪オートバイなどを修理した工場があった建物と思われる。
Blick aus einem Quartiersfenster (Charkow)
1942 Archive title: Sowjetunion, Charkow.- Blick auf die Stadt aus einem Quartier
Dating: 1942 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1942年1月初頭,ドイツ軍のグラーフ・シュポネック(Hans Emil Otto Graf von Sponeck)中将は,ケルチ半島西部に上陸したソ連軍に後方を遮断されては半島を1個師団で守り通すことはできないと判断,東部から西部へ撤退を開始した。
マンシュタインは援軍を派遣する時間を稼ごうと,グラーフ・シュポネックに撤退中止命令を返電したが,返事はなかった。
マンシュタイン元帥の命令に反したグラーフ・シュポネック(Hans Emil Otto Graf von Sponeck)は,後に軍法会議にかけられ,死刑を宣告された。が,ヒトラーは禁固7年に減刑した。ただし,1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件に連座したとして処刑。
写真(右)1942年6-7月,ソ連ハリコフ北東ドン河畔ヴォロニェシでロケット弾を半装軌装甲車(Sd.Kfz.251)に装填する第24装甲師団の兵士:半装軌装甲車の車体両側に木製ランチャーを取り付け,そこに28センチ・ロケット弾,32センチロケット弾装填する。ソ連赤軍のロケット弾「カチューシャ」「スターリンのオルガン」に苦しめられたドイツ陸軍が開発したロケット弾。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-216-0417-06
Archive title: Russland, bei Woronosch.- Soldaten bei Montage eines schweren Wurfrahmens 40 an einem mittleren Schützenpanzerwagen (Sd.Kfz. 251 der 24. Panzerdivision?) und Beladen mit Munition (Wurfkörpern); PK 694
Dating: 1942 Juni - Juli
Photographer: Dieck撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ゲルト・フォン・ルントシュテット(Gerd von Rundstedt)元帥に代わって,第六軍司令官から南方軍集団司令官に就任したフォン・ライヘナウ元帥は,シュポネック裁判を受けて,彼の指揮下にあって撤退した第46師団の師団長,連隊長の栄誉を剥奪,昇進を差し止めると命令した。
写真(左)1942年6-7月,ソ連ハリコフ北東ドン河畔ヴォロニェシでロケット弾を装甲車Sd.Kfz.251に装填する第24装甲師団の兵士:半装軌装甲車の車体両側に木製ランチャーを取り付け,そこに28センチ・ロケット弾,32センチロケット弾装填する。Russland, bei Woronosch.- Soldaten bei Montage eines schweren Wurfrahmens 40 an einem mittleren Schützenpanzerwagen (Sd.Kfz. 251 der 24. Panzerdivision?) und Beladen mit Munition (Wurfkörpern); PK 694
Dating: 1942 Juni - Juli
Photographer: Dieck撮影。
写真(右)1942年夏,ドン=スターリングラード方面を進撃する第24装甲師団の装軌装甲車:小型のSd.Kfz. 250/3 と大型のSd.Kfz. 251がある。ボンネット上のドイツ国旗(ナチ党鍵十字スワスチカ)は,航空機に対する識別表。制空権を欠いている証拠でもある。
Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- Kolonne von leichten und mittleren Schützenpanzern (vorne Sd.Kfz. 250/3 Ausf. A und Sd.Kfz. 251) der 24. Panzer-Division in Fahrt, vorderer Schützenpanzer mit Hakenkreuzflagge auf Motorhaube; PK 694
Dating: 1942 Sommer
Photographer: Dieck撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(左)1941年冬,ソ連中南部,ドイツ第六軍司令官フリードリヒ・パウルス大将(1890年9月23日-1957年2月1日):1942年1月大将に昇進後,飛行機事故が原因で急死したライヒェナウ元帥の後任として第六軍司令官に抜擢。ハリコフ包囲戦でソ連軍を包囲,殲滅し軍功を挙げた。1942年6月のブラウ作戦に則って,スターリングラードを攻撃したが,11月にはソ連軍に逆包囲された。スターリングラードで捕虜となった後,反ナチスの立場を表明し,戦後は東ドイツに住んだ。
Sowjetunion-Süd/Mitte.- Friedrich Paulus, Oberbefehlshaber der 6. Armee, Porträt; PK 637
Dating: 1941 Winter
Photographer: Mittelstaedt, Heinz
撮影。
写真(右)1942年,ウクライナ南部クリミヤ半島南端ヤルタに到着したドイツ陸海軍幹部:黒海に面した港で,幹部を出迎えるドイツ軍水兵。黒海に臨むヤルタは,「岸辺」を意味する。なだらかな丘陵に,リバディア宮(1945年ヤルタ会談が開催地)がある。
当時から黒海沿岸の保養地だった。気候はロシアにあっては温暖で,平均気温は冬でも4度,降雪はほとんどない。夏の平均気温24度で暖かい。ヤルタを占領したドイツ軍にとっても,ここは戦争を忘れて保養したい場所だったに違いない。同じクリミア半島南端(ヤルタの西)にセバストポリ(Sevastopol)要塞があった。
Jailagebirge, Jalta.- Ankunft von Offizieren und Begrüßung durch salutierende Matrosen
Dating: 1942 ca.
Photographer: Grund, Horst 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年,ソ連、ドイツ空軍地上部隊の兵士が操作する5センチ Pak 38 対戦車砲:独ソ戦当初,ドイツ軍には3.7センチ対戦車砲しかなかったが,T-34戦車には「聴診器」程度の役しかたたなかった。そこで,新たに5センチ対戦車砲が導入された。また,地上軍を充実するために,ドイツ本土にあった高射砲対空部隊などから,陸軍に協力する地上部隊が編成され,独ソ戦に投入された。
ドイツ空軍は,ヘルマン・ゲーリング元帥の強い影響力のおかげで,人員,資材の上で,優遇されていた。対ソ戦に地上軍としても協力した「ヘルマン・ゲーリング」師団のような部隊は,装甲師団として編成された。海軍が,敵前上陸部隊や港湾・航空基地警備のために「海兵隊」「陸戦隊」を保有することはあるが,空軍による装甲師団編成は,ドイツ軍だけだろう。
Sowjetunion.- Soldaten der Luftwaffe an Panzerabwehrkanone (5-cm Pak 38 oder 7,5-cm Pak 97/38?); PK Lfl 1
Dating: 1942
Photographer: Kunstmann撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツは,8週間でソ連軍とボリシェビキ派(Bolshevist)を壊滅させる予定でバルバロッサ作戦を開始したが,セワストポリ要塞のソ連軍は頑強に抵抗を続け,ドイツ軍を跳ね返した。1941年末に,ケルチを奪回したソ連軍は,セバストポリ(Sevastopol)への援軍となった。
ソ連地上軍は3個軍(歩兵17個師団,歩兵2個旅団,騎兵2個師団,機甲4個師団),ソ連黒海艦隊は,黒海に囲まれたケルチ半島の防備を固めた。このためにドイツ第十一軍(フォン・マンシュタイン司令官)は,側面攻撃を恐れて,ボルガ川,カフカス方面への進撃に踏み切れなかった。
1942年初頭,モスクワ前面でドイツ軍の主力だった中央軍集団は撃退され,ソビエト連邦(Soviet Union)南部クリミアでも,ゲルト・フォン・ルントシュテット(Gerd von Rundstedt:1875〜1953)指揮下のドイツ南方軍集団第十一軍が,セワストポリ手前に停止していた。
他方,ヒトラーは,ソビエト連邦(Soviet Union)の黒海に面したクリミア半島を,ルーマニアのプロエシュチ油田を攻撃範囲におさめる航空基地として警戒していた。プロエシュチ油田は、ドイツの戦争経済に不可欠なものだった。クリミア半島の航空基地から,黒海を渡って,ルーマニアの油田を空襲,破壊されるのは、なんとしても避けたかった。
写真(右)1942年2月,ソ連スモレンスク・クルスク,ドイツ空軍ユンカースJu-88A爆撃機:機首にエリコン20ミリMG-FF機銃,操縦席前方に7.92ミリMG-17機銃を装備。白色の冬季迷彩を施している。急降下爆撃もできる双発機で,大戦後半にはハインケルHe-111を上回る配備数を誇り,ドイツの主力爆撃機となった。
Sowjetuion (Smolensk/Kursk).- Flugzeug des Typs Junkers Ju 88; KBK Lw8
Dating: Februar 1942
Photographer: Heidrich撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年6-7月、バルバロッサ作戦でソ連軍の航空基地攻撃に大活躍したドイツ空軍だったが,1942年の東部戦線では,スターリングラード(Stalingrad)空輸作戦以外,大軍をまとめて投入することはなくなった。
1942年,ドイツ空軍爆撃機は,東部戦線各地の個別の戦術的な地上支援に使用され,敵の工業地帯,発電所,交通中枢への戦略爆撃は行わなかった。モスクワ空襲も,少数機が散発的に行っただけだった。
写真(右)1942年,ソ連,ドイツ空軍ユンカースJu-87B爆撃機:機首のプロペラの点検をする第3急降下爆撃航空団のユンカースJu-87。白色の冬季迷彩を施しているが,機体側面はエンジン排気煤煙で汚れている。Ju-87は、大戦後半,東部戦線では,3.7センチ機関砲を両翼に吊り下げて,対戦車戦闘に投入されたり,夜間襲撃機として爆撃に使用されたりした。
Sowjetunion.- Sturzkampfflugzeug Junkers Ju 87 "Stuka" der III./Sturzkampfgeschwader 1 (St.G.1; Kennung J9+ und Wappen der Trägergruppe 186) auf Feldflugplatz. Mechaniker bei Arbeiten am Propeller; KBK Lw 4
Dating: 1942 Anfang
Photographer: Reiners
撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ空軍の爆撃機は,モスクワ攻防戦にほとんど登場してこないが,これは装甲師団の進撃が早すぎて,後方の航空基地整備が遅れたこと,厳寒・悪天候による飛行および飛行機整備の困難,補給不足が原因と考えられる。いずれにせよ,航空支援を得られないまま行ったモスクワ攻撃は、失敗に終わった。
1941年8月,モスクワまで100キロと迫ったドイツ国防軍の中央軍集団に対して,主力となる装甲師団を南下させた。この目的は,
?南方のソ連軍から中央軍集団の側面を防備し,ハリコフでソ連軍を包囲撃滅すること,
?ソ連の戦争経済に必要なウクライナの穀物地帯,鉄鉱石鉱山,工業地帯を占領し,カフカスの油田からの石油輸送を停止させること,?クリミア半島を占領し,ルーマニアに対する黒海を利用した航空攻撃,海軍の策動を抑えること,
の3点だった。
1942年初頭のドイツ側は,南部での大攻勢目指し,4月,「ブラウ」(青)作戦が決まった。この目標は,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)によって,ソ連軍の防衛力を打ち砕き,スターリングラード(Stalingrad)を制圧,ついでカフカスの油田など戦争経済資源を奪取することとされた。これは、モスクワ攻略に失敗したドイツ軍には、欲張った目標だった。
写真(上左)1942年夏,スターリングラードに進撃する途上,炎上する建物:ドイツB軍集団第六軍は,カラーチでドン川を渡河し,ボルガ川河畔のスターリングラード(Stalingrad)に向かった。しかし,カフカスを攻撃した主力のA軍集団に補給が優先的にまわされ,燃料不足となり,進撃が遅れた。その進撃が遅れた期間,ソ連軍は兵力を動員,投入して,スターリングラードの防衛力を高めることができた。
Brennende Häuser kennzeichnen die Kämpfe der 6. Armee auf dem Vormarsch in Richtung Stalingrad
Sommer 1942
Archive title: Sowjetunion.- Gebäude in Flammen
Dating: 1942 Sommer
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(上右):1942年夏,東部戦線ソ連のドイツ武装親衛隊「ヴィーキング」(バイキング)師団の?号戦車:戦車右のキャタピラー泥除けに「ヴィーキング」の標章が描かれている。この武装親衛隊には,ノルウェー,スウェーデンなど北欧の反ボルシェビキ派(anti-Bolshevist)、反共産主義者などが対ソ連戦に志願していた。
ノルウェーは,ドイツに占領され,クィスリング(元国防省)の傀儡政権が樹立された。ノルウェーの自立と強化を目指すために,あるいは仕事や出世の機会を得るために,武装親衛隊に参加したノルウェー人などがいた。
Sowjetunion, Panzer III der Division "Wiking" der Waffen-SS beim Vormarsch; SS-PK
Dating: 1942 Sommer
Photographer: Altstadt撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右):1942年8-9月,武装親衛隊「ヴィーキング」(バイキング)師団の対戦車自走砲マーダーIII:Sowjetunion-Süd.- Division "Wiking" der Waffen-SS der beim Vorstoß zum Kaukasus; 2 SS-Männer vor Jagdpanzer "Marder III"
Dating: 1942 August - September
Photographer: Möbius撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Moebius-117-27引用(他引用不許可)。
1941年当時,ソ連軍は命令を厳格に実行しようとするあまり,迅速な撤退ができなかった。また,撤退時に施設・物資の破壊も不徹底だった。
第二次大戦前,1937年のソ連軍内部のトハチェフスキ粛清によって,ソ連軍の軍事専門家の指導力は低下し,共産党による軍の管理,政治委員(政治将校)コミサールCommissarsによる介入が強まった。
党の支配するボルシェビキの軍隊「ソ連赤軍」では,命令服従が第一となり,臨機応変な措置,軍司令官の裁量の余地は制限された。
ソ連赤軍の硬直性が現れた戦術的失敗の事例が,1941年8-9月のハリコフKharkov包囲の殲滅戦だった。
写真(右)1942年夏中部,クルスク、ドイツ陸軍の15センチ榴弾砲(15cm sFH 18: 15-cm schwere Feldhaubitze 18):15センチ榴弾砲(15cm sFH 1819)は、1934年に開発されたドイツ軍砲兵の代表的野戦中榴弾砲で、1945年までに5,400門が生産された。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-078-3073-23A
Archive title: Sowjetunion, Kursk.- Deutsche Soldaten mit Geschütz (15-cm schwere Feldhaubitze 18); PK 670
Dating: 1942 Sommer
Photographer: Pincornelly撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-078-3073-23A.引用。
写真(右)1942年8-9月,ソ連南部ステップを進むドイツ軍半装軌式装甲車Sd.Kfz. 251(ハーフトラック):Sowjetunion-Süd.- Mittlerer Schützenpanzer (Sd.Kfz. 251) auf offenem Feld; PK 694
Dating: 1942 August - September
Photographer: Geller撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-217-0494-34引用。
1941年9月19日,ドイツ第六軍がウクライナの中心都市キエフを占領,9月26日までにソ連5個軍を壊滅,2個軍を半壊滅させた。このときソ連軍100万人が,包囲され,殲滅あるいは捕虜になった。
しかし,1942年には,ソ連軍は,ボルシェビキの教条主義を改め、戦略的な後退を行い,焦土作戦を完遂した。焦土作戦とは,撤退する際に陣地,施設,物資を全て破壊しつくし,的に引き渡すものは焦土だけとすることである。住民も強制疎開させられ,住んでいた家屋も自軍によって火をかけられた。このような住民強制移住は,ボルシェビキがロシア革命以来、クラーク(富農)や地主の追放や農業集団化を長年実施してきたことから見れば、容易な決断だった。
写真(右)1942年9月,スターリングラードに進撃途上のドイツ軍兵士が7.92ミリ槓桿式モーゼル小銃を構えてポーズをとっている。小銃に照準器を装着しているので狙撃手なのか。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußandfeldzug
Signature: Bild 169-0525
Original title: info Scharfschütze in seiner Stellung, September 1942, 6. Armee vor Stalingrad
Archive title: Sowjetunion, vor Stalingard.- Soldat mit Gewehr und Zielfernrohr beim Zielen (Scharfschütze)
Dating: September 1942
Photographer: o.Ang.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0525引用(他引用不許可)。
ドイツ帝国が、第一次世界大戦の時に配備していた主力小銃は,モーゼル98式歩兵銃(Gewehr 98)で7.92ミリ弾を使用する槓桿式ボトルアクション小銃だった。この小銃を若干小型、軽量にしたのがドイツ陸軍のモーゼル98式騎銃(騎兵用小銃:Karabiner 98 Kurz;Kar98k)である。歩兵銃の銃身を短くして扱いやすくした槓桿式ボルトアクション小銃で、1935年に制式となった。
写真(右)1942年9月,スターリングラードに進撃途上のドイツ軍兵士が槓桿式7.92ミリモーゼル小銃を構えてポーズをとっている。小銃に照準器を装着しているので狙撃手なのか。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußandfeldzug
Signature: Bild 169-0526
Original title: info Scharfschütze in seiner Stellung, September 1942, 6. Armee vor Stalingrad
Archive title: Sowjetunion, vor Stalingard.- Soldat mit Gewehr und Zielfernrohr beim Zielen (Scharfschütze)
Dating: September 1942
Photographer: o.Ang.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0526引用(他引用不許可)。
第二次世界大戦を通じてモーゼル98式騎兵銃(Kar98k)は、ドイツ国防軍の最有力小銃であり、前線から後方まで大量に配備され、開戦当初から終戦まで広く使用され続けた。使用する銃弾は、薬莢がリムレスの7.92x57mmモーゼル弾(7.92×57mm Mauser)で、原型は1905年に開発された。7.92x57mmモーゼル弾(7.92×57mm Mauser)の頭部は、尖頭弾であり、重さ9.9g(153gr)、無煙火薬で発射し、初速は820 m/sである。
写真(右)1942年9月,スターリングラードに進撃途上のドイツ軍兵士がモーゼル7.92ミリMG34機関銃を構えてポーズをとっている。ヘルメットには迷彩のカバーがかかっていて、双眼鏡を手にしている。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußandfeldzug
Signature: Bild 169-0485
Original title: info MG-Schütze in der HKL; Riegelstellung vor Stalingrad
Oktober 1942
Archive title: Sowjetunion.- Schlacht bei Stalingrad, MG-Schütze in der Hauptkampflinie.
Dating: Oktober 1942
Photographer: o.Ang.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0485引用(他引用不許可)。
1942年5月8日,マンシュタイン将軍は,ケルチ北部で陽動捜索をかけつつ,南部に歩兵5個師団,装甲1個師団で攻撃した。これをリヒトフォーヘンの第八航空軍と重砲部隊が援護するのである。黒海には,歩兵を乗せた舟艇が準備された。
1942年5月16日,ドイツ軍は,ケルチ半島を奪還し,捕虜17万人,鹵獲・破壊した火砲1133門,戦車258両の大戦果をあげた。
1942年5月12日,ハリコフ南方で突出していたソ連軍は,チモシェンコ元帥の指揮の下で,ハリコフのドイツ第六軍を挟撃する攻撃を仕掛けた。これは,ドイツ軍が「フレデリック」作戦によって,ハリコフ正面の敵を挟撃しようとしたのを諜報機関が察知して,「フレデリック」作戦発動前に奇襲攻撃を仕掛けたのかもしれない。
ハリコフ北からは,歩兵・騎兵16個師団,戦車3個旅団,自動車化2個師団のソ連第二十八軍が,ハリコフ南からは歩兵26個師団,騎兵18個師団,機構14個師団のソ連第六軍・第57軍が攻撃した。1942年5月16日,南部から侵攻したソ連軍騎兵がハリコフ後方100キロのポルタワに迫った。
4.「ブラウ」作戦
写真(右):1942-43年,ソ連,工兵部隊が架橋した鉄橋を渡る「グロス・ドイッチェラント」師団の?号戦車:ソ連侵攻の翌年には?号戦車とならんで装甲師団の主力戦車となっていた。が,5センチ戦車砲では,ソ連軍の主力戦車となりつつあったT-34戦車に対抗できなかった。
Rußland.- Panzer IV kurz der Divison "Großdeutschland", mit Besatzung fahren über eine Brücke; ObdH
Dating: 1942/1943
Photographer: Kempe 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-748-0099A-38引用(他引用不許可)。
ハリコフでソ連赤軍の攻撃を受けていたドイツ軍は,5月17日,「フリデリクス」作戦を発動。これは,元来,ハリコフ南方のソ連赤軍を挟撃する計画だったが,発動時期は,ソ連軍の攻撃1週間後と遅れた
しかし,ドイツ軍は,装甲師団の進撃によって,包囲攻撃を行ったソ連赤軍を逆包囲することに成功した。ドイツは,捕虜23万人,鹵獲・破壊火砲2026門,戦車1250台の大戦果を挙げた。
写真(右)1942年,ソ連、クリミヤ,水辺で馬の世話をするドイツ軍兵士:ソ連に侵攻したドイツ軍は、鉄道、道路を利用して補給物資を前線に送った。その時、最前線まで軍需品を輸送したのは、自動車だけでなく、馬匹も大きな役割を担っていた。
Inventory: N 1603 Bild - Grund, Horst.- Bildbestand
Signature: N 1603 Bild-112
Old signature: Bild 160-112
Archive title: Sowjetunion, Krim.- Erholung von der Front, Pferdewäsche, Soldaten am Strand
Dating: 1942 ca.
Photographer: Grund, Horst 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・N_1603_Bild-112_Russland-Krim_Pferdewsche引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年7月,クリミア,ソ連軍セバストポリ要塞のコンクリート製砲台のカノン砲:砲身2本が見えるが,上を向いた砲身には,多数の窪み弾痕が残っている。ドイツ軍の砲撃がいかに激しかったか,ドイツ軍がいかに多数の火砲,豊富な砲弾をセバストポリ要塞の攻略に準備していたかがわかる。
セバストポリのソ連軍は頑強に抵抗して勇戦した,とドイツ軍兵士が語る時,それは自らの強さを,敵を引き立たせ,誇示する気持ちがあるのかもしれない。マンシュタインの戦略というより,強力な火砲と航空機を準備すれば,動かない固定砲台を制圧するのは容易なのではないか。
Sowjetunion, Krim, Sewastopol.- Zerstörungen in der Festung Maxim Gorki, schwere Zwillingsgeschütze
Dating: Juni 1942 ca.
Photographer: Grund, Horst撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・N_1603_Bild-118引用(他引用不許可)。
セバストポリ要塞は,1941年からソ連軍が立て篭もって抵抗を続けていた。セバストポリ(Sevastopol)のソ連軍守備隊は,兵員10万人,火砲600門で,コンクリート防御施設トーチカを多数配置していた
写真(右)1942年7月,クリミヤ,破壊されたセワストポリの港:ソ連軍小艦艇が半分沈没し,陸に機帆船が2隻見える。セワストポリは陥落したが,黒海北東岸の諸港はソ連側の手にあったので,黒海艦隊も健在だった。
Sowjetunion, Krim, Sewastopol, Krim.- Zerstörungen im Hafen
Dating: Juli 1942 ca.
Photographer: Grund, Horst撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
バルバロッサ作戦以来持ちこたえていたセバストポリ(Sevastopol)要塞は,ソ連赤軍によるケルチ半島奪回によって救出を期待していたに違いない。
写真(右)1942年7月,ソ連、クリミヤ,破壊されたセワストポリの港:ソ連軍の掃海艇のような小艦艇が横倒しとなり、遠方では黒煙が上がっている。手前のドイツ軍兵士は、ヘルメットに偽装用の布野を被せている。セワストポリは陥落したが,黒海北東岸の諸港はソ連側の手にあったので,黒海艦隊は健在だった。
Inventory: N 1603 Bild - Grund, Horst.- Bildbestand
Signature: N 1603 Bild-262
Old signature: Bild 160-262
Archive title: Sowjetunion, Sewastopol.- Versenkter sowjetischer Krim.- Zerstörungen im Hafen , im Hintergrund Rauchwolken / Einschläge in einem Gebäude, links deutscher Soldat
Dating: Juli 1942 ca.
Photographer: Grund, Horst 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
6月3日,ドイツ軍は引き続いて,クリミアの要衝セワストポリ要塞をロケット弾,クルップ16口径42センチ「ガンマ」臼砲(重量140トン,射程14キロ),モーゼル60センチ「カール」臼砲(重量124トン,10キロ),クルップ80センチ「ドーラ」列車砲(重量1350トン,射程38キロ)を含む1300門の火砲で砲撃した。
1942年6月3日以降、マンシュタイン将軍は,5日間もセバストポリ(Sevastopol)要塞に対して砲撃を加え,リヒトフォーヘンの空軍は連日延べ1000-2000機を投入した。パウル・カレル『バルバロッサ作戦』は,マンシュタイン将軍の戦術を高く評価している。セワストポリのソ連赤軍は頑強に抵抗して勇戦した,とドイツ軍兵士が語る時,それは自らの強さを,敵を引き立たせ,誇示する気持ちがあるのかもしれない。マンシュタインの戦略というより,強力な火砲と航空機を準備すれば,動かない固定砲台を制圧するのは容易なのではないか。事実、クリミアのドイツ軍は、制空権を把握し物量を誇っていた。
写真(右)1942年夏,スターリングラード手前のステップにある風車小屋:風車小屋に寄せて,ドイツ軍用車両が樹木で隠蔽してある。
Eine Mühle in der Steppe vor Stalingrad
September 1942
Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Windmühle
Dating: September 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
「赤い皇帝」スターリンのソ連赤軍は,南部で援軍,航空支援を得ることはできなかった。1942年初めにハリコフ方面で攻撃をする予定で,ケルチ半島への上陸は,その陽動作戦だったのかもしれない。クリミア半島先端のセワストポリ要塞は,ドイツ軍を拘束するための捨石とも言える。
1年経たないうちに,スターリングラード「要塞」ドイツ第六軍も壊滅する。これも,カフカスに攻め入ったドイツA軍集団を撤退させる時間稼ぎに,ソ連赤軍を拘束した捨石作戦だったとも解釈できる。
パウル・カレル『バルバロッサ作戦』では,第11軍マンシュタイン元帥の知略を評価する。しかし,火砲・航空機の圧倒的な優位を得たドイツ軍が,ソ連軍に攻撃される心配はなかった。
セワストポリ要塞のソ連軍守備隊に対して,ドイツ軍は猛砲撃と空襲をし,その援護の下に,セワストポリ要塞を,1942年7月3日,攻略した。スターリングラード守備隊ドイツ第六軍降伏の7ヶ月前のことだった。
写真(右)1942年6-7月,I号戦車にIG-33歩兵砲を搭載したI号15センチ自走砲:旧式な小型戦車でも,砲塔を撤去してしまえば,強力な火砲を車体に搭載すれば,まだ独ソ戦でも使用できた。
?号突撃砲は、短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24搭載で、?号15センチ自走砲よりも、火力は小さい。しかし、歩兵への火力支援用でも、突撃砲の戦闘室は密閉、装甲を施されており、全高も低い。そこで、自走砲よりも突撃砲の防御力の法が高かった。
Sowjetunion.- Getarntes, 15cm schweres Infanterie-Geschütz 33 auf Fahrgestell Panzer I Ausführung B; PK 694
Dating: 1942 Juni - Juli
Photographer: Gellert撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用。当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
南方軍集団の司令官は,独ソ開戦時,フォン・ルントシュテット元帥だったが,1941年のによる冬季攻勢を受けて敗退したため,12月3日,フォン・ライヘナウ元帥に代わった。
ドイツ軍の新任の南方軍集団司令官ヴァルター・フォン・ライヘナウ(Walther Von Reichenau)元帥は,
1942年1月17日,飛行機不時着後死亡した。その翌日,フェードア・フォン・ボック(Fedor von Bock)元帥が南方軍集団司令官に就任した。
ライヘナウ元帥からボック元帥への司令官交代はケルチ半島逆上陸によって、命令を無視して撤退したシュポネック中将の責任を取る形になった。
フェードア・フォン・ボック元帥(Fedor von Bock:1885-1945)は,中央軍集団の北方軍集団司令官として1939年ポーランド戦参加,B軍集団司令官として1940年フランス戦に参加し,軍功をあげて,元帥に昇格した。
フェードア・フォン・ボック(Fedor von Bock)元帥は、1941年6月のソ連侵攻バルバロッサ作戦では,主力となった中央軍集団司令官に就任,当初は大戦果を挙げたが,12月17日,モスクワの戦いで敗北,解任された。中央軍集団司令官の後任はクルーゲだった。
しかし,1942年1月18日,飛行機事故で死亡したヴァルター・フォン・ライヘナウ(Walther Von Reichenau)元帥の後任として元中央軍集団司令官フェードア・フォン・ボック(Fedor von Bock)元帥が、南方軍集団司令官に再び就任した。フェードア・フォン・ボック(Fedor von Bock)軍司令官は,半年後の7月14日,南方軍集団を分割するヒトラーに反対して再び解任された。日本軍では行わないような大幅な人事変更は,ドイツ軍,ソ連赤軍,米軍でも頻繁にあった。これは、統帥に従うだけではなく、現地の軍司令官が自分の戦略を主張できたからである。
写真(右):1942年9月,スターリングラードに進撃するIII号突撃砲初期型:搭載している短砲身24口径7.5センチ砲 StuK 37 L/24 は,歩兵への火力支援用だが,戦闘室は密閉されてい,全高が低いために,防御力も高かった。そこで,前線に歩兵などとともに突撃する火砲として,突撃砲と呼ばれた。したがって,歩兵支援を前提としたものだったが,対戦車戦闘能力もあった。
Kampf um Stalingrad.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter Schröter-Altvater (Sch)
o.Nr. "Fr" OKW "Fr.f.D." Sept. 42 [Herausgabedatum]
Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Sturmgeschütz III (StuG III)
Dating: September 1942
Photographer: Schröter撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドイツ軍の戦車は,大口径,長砲身の対戦車砲を搭載していなかった。そこで,1942年春には,対戦車用に43口径7.5センチ砲StuK 40 L/43を装備した突撃砲が開発された。この突撃砲の主砲は,1942年秋には,48口径7.5センチ砲StuK 40 L/48へと強化され,事実上「駆逐戦車」となった。
写真(右)1942年8-9月,マーダーII自走砲:チェコ製のスコダ38t戦車の砲塔を取り除き,開放式戦闘室を設けて,そこにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲(7.62cmPak36(r))を装備した対戦車自走砲。全長 5.9メートル,全幅2.2メートル,全高 2.5メートル,重量10.7トン。占領国チェコ製の車体に,ソ連製の火砲をつけたハイブリッド型の戦闘車両だった。
Sowjetunion-Süd.- Soldaten auf Jagdpanzer Marder 2 (Sd.Kfz. 132); PK 694
Dating: 1942 August - September
Photographer: Scheffler撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
他方,ハリコフ挟撃を企図するソ連軍セミョーン・コンスタンチーノヴィチ・チモシェンコ(Semyon Timoshenko)元帥率いるソ連赤軍による攻撃を受けて,6月28日,ドイツ南方軍集団司令官フェードア・フォン・ボック(Fedor von Bock)元帥は,ソ連軍を逆包囲し,1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号に則って,スターリングラード(Stalingrad),カフカスを目指すブラウ作戦を開始した。ハリコフ北方で,ドイツ軍の反撃が開始され,激戦の結果,ソ連軍は逆包囲され敗北した。
1942年4月5日の極秘命令・総統指令41号では,作戦目的は,「東部作戦当初の原則を維持しつつ、中部では現状を守り、北部ではレニングラートを占領して,フィンランド軍と陸路連絡をつけ、南部ではカフカス地区へ突入する。冬期戦終了後でもありこの目標は集めうる兵力、資材および輸送事情により、段階的に達成されるものとする。そのためまず全兵力を南部戦区の主要作戦にむけ、ドン前面の敵を掃討し、ついで,カフカス(コーカサス)の油田およびカフカス山脈の道路を奪取するものとする。」とされた。
写真(右)1942年夏,対ソ戦2年目になっても,東部戦線のドイツ軍にはII号戦車が使用されていた。:第14装甲師団所属と思われる。II号戦車は,主力となるIII号戦車までの過渡的な戦車として,1937年から量産された。全長4.8メートル,全幅2.2メートル,全高 2.0メートル,重量7.2トン。 2センチ砲装備。エンジン140馬力,乗員3人。ポーランド進攻からフランス侵攻まで,主力となったが,ソ連侵攻では,III号戦車,IV戦車の補助的存在として投入された。開戦当初から,対戦車戦闘は考慮されていなかったが,戦車の集団用法によって,電撃戦に貢献した。
Deutsche Panzer in Bereitschaft in einem Dorf der Kalmücken
Archive title: Sowjetunion, Kalmükien.- Zwei Panzer II (14. Panzerdivision ?) in einer Ortschaft
Dating: 1942 Sommer
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
2004年9月、ロシア南部で,チェチェン人テロリストによる学校占拠事件が起きた。生徒など1200人以上が人質となり,300人以上が死亡した事件である。この地方こそ,カフカス(コーカサス)でブラウ作戦の目標である。黒海,カスピ海,カフカス山脈南北に広がる40万平方キロの土地である。
南方軍集団(司令官フェードア・フォン・ボック(Fedor von Bock)元帥)は,アゾフ海に注ぐドン川の渡河地点を確保し,スターリングラード(Stalingrad)方面に進撃することになった。ソ連軍は後退し,ヒトラーはこれをソ連軍の士気阻喪,崩壊と考えた。そこで,7月13日,南方軍集団(司令官フォン・ボック元帥)を二分して,ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥のA軍集団とマクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)大将のB軍集団に分けた。第六軍指揮官はフリードリヒ・パウルス(Friedrich W. Paulus)上級大将で、B軍集団の隷下にあった。
写真(右)1942年9月,ソ連南部ドン川,ソ連軍の放棄した貨物馬車:西のハリコフと東のスターリングラードの中間に流れる大河で,スターリングラード(Stalingrad)に向けて湾曲して接近したところがカラーチ。ここを連軍は拠点として,遅滞戦を戦い,スターリングラード防衛のための時間を稼いだ。
Don-Fluß, September 1942, zurückgelassene Fahrzeuge der Sowjets
Dating: September 1942
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ドン川を渡河してカフカスの油田を攻略するA軍集団は,ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥率いる第17軍,第1装甲軍など兵力100万人だった。
他方,ドン川沿いに進撃してスターリングラード(Stalingrad)を目指すヴァイクス大将率いる第2軍,第6軍,第4装甲軍,それとイタリア第8軍,ハンガリー第2軍,ルーマニア第3軍・第4軍など兵力30万だった。
写真(右)1942年9月,ソ連南部ドン川,ソ連軍が棄したトラックと85ミリ高射砲:左端はドイツ軍自動車キューベルワーゲン。ロケット砲「カチューシャ」も1942年10月のスターリングラード攻防戦に投入されている。
Don-Fluß, September 1942, zurückgelassene Fahrzeuge der Sowjets
Dating: September 1942
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・/Bild_169-0004.引用(他引用不許可)。
ドイツ南方軍集団司令官フェードア・フォン・ボック(Fedor von Bock)元帥は南方軍集団の分割に反対し,解任させられた。A軍集団は,カフカスに向かうことになり,マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)大将のB軍集団だけがスターリングラードに進撃することになった。
写真(右)1942年8-9月,ソ連南部戦線のドイツ・ハノマーク社の半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz. 250/3):路外でも兵員を迅速に輸送できるハーフトラック。背景の建物は燃えている。
Sowjetunion-Süd.- Offizier mit Karte in leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3), Plane auf Funkantenne; PK 694
Dating: 1942 August - September
Photographer: Geller撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-217-0493-22引用(他引用不許可)。
大戦中,4人乗りの半装軌式小型装甲車Sd.Kfz. 250は6000台,10人乗りの半装軌式中型兵員輸送装甲車Sd.Kfz. 251は1万5000台以上生産された。装甲師団の歩兵(猟兵)に優先的に配備されたが,ドイツ軍には,軍用トラックのほか馬,馬車の輸送部隊も多かった。
写真(右)1942-1943年,ソ連南部戦線、ドイツ陸軍「大ドイツ」(グロースドイッチュラント)装甲擲弾兵師団の半装軌式無線指揮装甲車Sd.Kfz. 250/3の戦闘室に搭載された無線指揮装置:
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-748-0100A-11
Archive title: Russland, bei Achtyrka.- Soldaten (Panzertruppe, Nachrichtentruppe) in leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250/3, Funk-panzerwagen) der Panzer-grenadierdivision "Großdeutschland" an FunkgerSät; PK ObdH
Dating: 1942/1943
Photographer: Kempe 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-748-0100A-11.引用(他引用不許可)。
ソ連の「赤い皇帝」スターリンは,1942年7月12日,セミョーン・コンスタンチーノヴィチ・チモシェンコ(Semyon Timoshenko)元帥にスターリングラード(Stalingrad)正面軍の編成を明示,スターリングラード死守を命じた。予備兵力を投入,防備を固めようとしたが,問題は時間が足りないことだった。
1942年7月23日,総統大本営(総司令部)の一つでウクライナに設置された「ヴェアヴォルフ」で,陸軍参謀総長フランツ・ハルダー大将は,ヒトラーにソ連軍が計画的に退却しているとの推論を伝えた。が,ヒトラーはソ連軍が崩壊一歩手前にあると確信していた。
ハルダー参謀総長は、ヒトラーの戦略に従わなかったために、非協力的と判断される。二ヵ月後の1942年9月24日、ハルダー上級大将は参謀総長を更迭、予備役編入。後任の陸軍参謀総長はクルト・ツァイツラー少将で、就任時には大将に特進。スターリングラード攻防戦を担い、ソ連赤軍のセミョーン・チモシェンコ(Semyon Timoshenko)将軍と対峙することになる。
写真(右)1942-1943年,ロシア東部戦線、道路を補強しながら進む「大ドイツ」装甲擲弾兵師団の半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz. 250) :1941年6月21日,バルバロッサ作戦開始の前日の,ドイツ軍東部戦線配備兵力
兵員300万人,戦車3580両,火砲7184門,車両60万台,ウマ75万頭。航空機1830機。
対峙するソ連軍は,兵員450万人,10個軍だった。Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-748-0100A-07
Archive title: Russland, bei Achtyrka.- Soldaten bei Wegeausbesserung-sarbeiten vor leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) der Panzer-grenadierdivision "Großdeutschland"; PK ObdH
Dating: 1942/1943
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-748-0100A-07引用(他引用不許可)。
カスピ海に注ぐボルガ川河畔スターリングラード(Stalingrad)に向かう第六軍用の燃料は,カフカス戦線に回された。そのため,マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs:1881-1954)大将のB軍集団隷下の第六軍によるスターリングラード進撃は停滞してしまった。ソ連軍はこの時間を利用して,ドン川西岸カラーチに防衛線を張り,スターリングラードへの兵力集中が可能になった。
写真(右)1942年夏,ロシア,ウクライナ、ステップ(草原)を進撃してきたドイツ軍第14装甲師団のIV号戦車F/E 型で43口径7.5センチ砲搭載型と24口径7.5センチ戦車砲を搭載型の新旧二種類が並んでいる。戦車の前面には、キャタピラを装着して、補助装甲板の役割を持たせている。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0117
Original title: info Deutsche Panzer in Bereitschaft vor dem Angriff
Ukraine
Sommer 1941
Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Panzersoldaten auf Panzer IV (lang und kurz) der 14. Panzer-Division sitzend; ca. 1942
Dating: 1942 ca.
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
西のウクライナのハリコフと東のロシアのスターリングラード(Stalingrad)の中間を流れるドン川(Don)は,モスクワ南東トゥーラからのヴォロネジへ向かって流れ、その後、南西へ向かいアゾフ海に至る2000キロメートルの大河である。スターリングラード(Stalingrad)に向けてドン川が湾曲して接近したところがカラーチである。カラーチ戦では,ソ連軍は大量の装備と,構築したトーチカなど陣地を失った。しかし,ドイツ軍の包囲攻撃による兵員の大量喪失という損害は免れた。ソ連軍の指揮は,当初は硬直的で,死守命令を繰り返し,包囲攻撃を受けて大損害を被っていた。しかし,1942年になると,臨機応変に撤退し,損害を小さくしつつ,持久戦を戦うことを心がけるように方針が変更された。
写真(右)1942年秋,ロシア,ポルタワ、ステップ(草原)を進撃してきたドイツ軍のIII号戦車G/J 型で42口径5センチ戦車砲を搭載している。戦車の前面には、キャタピラを装着して、補助装甲板の役割を持たせている。しかし、攻撃力が不足しており、ソ連赤軍のT-34 戦車に苦戦した。III号戦車の生産は1943年には中止され、III号突撃砲の生産に振り替えられた。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0288
Original title: info Deutsche Panzer werden überholt und Vorräte aufgefüllt
Poltawa
Herbst 1942
Archive title: Rußland, Poltawa.- Panzer III werden mit Vorräten versorgt. Im Hintergrund einer zerstörte Kirche
Dating: 1942 Herbst
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年9月,ロシア,ポルタワ、ステップ(草原)をスターリングラードに向かって進撃するドイツ軍のIV号戦車(Panzer IV)G/J 型。短(kurz)24口径7.5センチ戦車砲を搭載。戦車の前面には、キャタピラを装着して、補助装甲板の役割を持たせている。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0028
Original title: info In der Steppe vor Stalingrad
September 1942
Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Panzersoldaten auf Panzer IV (kurz) vor strohgedecktem Haus stehend, davor Wehrmachts-PKW
Dating: September 1942
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年9月,ソ連,スターリングラード近郊、ステップ(草原)を進撃してきたドイツ軍が,現地家屋を接収して休息をとっているようだ。ソ連軍は,撤退するときに,ドイツ軍に役に立ちそうな工場,家屋,交通機関を破壊した。場合によっては,その地域の住民を,強制的に移送した。当該地域を占領した敵が,そこから資源,材料,食料,居住空間,労働力を得られないように破壊してから撤退する戦法を「焦土作戦」という。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0021
Original title: info In der Steppe vor Stalingrad hat der Gegner die kleinen Dörfer fast kampflos geröumt
September 1942
Archive title: Sowjetunion, Bei Stalingrad.- Soldat auf Eingangstreppe eines Gebäudes in einer Ortschaft sitzend
Dating: September 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年9月,ソ連,スターリングラード近郊。ステップ(草原)を進撃してきたドイツ軍が,現地家屋を接収して休息をとっているようだ。ソ連軍は,撤退するときに,ドイツ軍に役に立ちそうな工場,家屋,交通機関を破壊した。場合によっては,その地域の住民を,強制的に移送した。当該地域を占領した敵が,そこから資源,材料,食料,居住空間,労働力を得られないように破壊してから撤退する戦法を「焦土作戦」という。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0022
Original title: info In der Steppe vor Stalingrad hat der Gegner die kleinen Dörfer fast kampflos geröumt
September 1942
Archive title: Sowjetunion, Bei Stalingrad.- Soldat auf Eingangstreppe eines Gebäudes in einer Ortschaft sitzend
Dating: September 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ソ連軍は,スターリングラード(Stalingrad)手前のカラーチでは敗れたが,その間,ソ連赤軍のセミョーン・チモシェンコ(Semyon Timoshenko)将軍はスターリングラードの防衛を固めることができた。カラーチ戦を戦い抜いたドイツB軍集団フリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus)上級大将指揮する第六軍は,1942年8月末になって,スターリングラード正面に到着した。
写真(右)1942年8月,スターリングラードを前にしたドイツ軍B集団第六軍パウルス大将:この指揮官たちの会合を主催したのは,ドン川西岸のカラーチ攻略戦を開始する直前かもしれない。ドイツ南方軍集団司令官フェードア・フォン・ボック(Fedor von Bock)元帥の南方軍集団は、A軍集団とB軍集団に分けられた後だった。Treffen der Kommandeure bei Paulus, Ort unbekannt
August 1942, vor Stalingrad
Dating: August 1942
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
他方,ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥率いるA軍集団は,7月25日,黒海北のアゾフ海入口にあるロストフを占領した。この日,ヒトラーの「総統指令45号」がA・B軍集団に届いたが,ここではドイツ軍の包囲を逃れドン川に達したのは,ソ連のチモシェンコ軍の一部に過ぎず,A軍集団に黒海沿岸の諸港を占領し,カスピ海沿いのバクーを占領すること,B軍集団は第六軍(フリードリヒ・パウルス(Friedrich W. Paulus)上級大将)にスターリングラードを占領,ボルガ川沿いにカスピ海のアストラハニにまで前進することを命じた。
これは,まずスターリングラードを攻略,その後,カフカスに進出し,油田地帯を押さえるという「ブラウ」作戦を大修正するものだった。スターリングラード,カフカスを同時に攻撃目標としてしまったのである。
写真(右)1942年夏,スターリングラードを前にした部隊指揮官:あと三ヶ月で,夏には想像できないようない厳寒の冬を迎えるが,スターリングラードに逆包囲されたドイツ軍将兵は,僅かな空中補給しか受けることはできなくなった。早期に撤退する機会はあったが,燃料不足,防衛命令に拘束され,撤退できなかったという。
しかし,包囲するソ連軍の強大さを考えれば,防衛陣地を離れて撤退することは難しかったであろう。となれば,撤退しようとしても,防衛線が崩壊すれば,殲滅されると熟考し,スターリングラードにとどまったのかもしれない。ヒトラーの死守命令に拘束された結果,脱出する機会を逃したと,決めつめることはできない。
しかし,スターリングラードにまでは,概ね順調に進撃していたドイツ軍は,逆包囲され,物資に欠乏すると悲観に暮れたが,これはそれまで包囲,殲滅あるいは捕虜にしてきたソ連軍兵士が経験したことでもあった。ソ連軍は,報復のために,降伏したドイツ軍捕虜を虐待した。
Lagebesprechung in der Kalmückensteppe vor Stalingrad zwischen dem Kompaniechef und einem Zugführer
Spätsommer 1942
Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Besprechung zwischen Oberleutnant und Leutnant (vlnr)
Dating: 1942 Sommer
撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右):1942年秋,スターリングラードを攻めるドイツ軍兵士:
Sowjetunion, Schlacht um Stalingrad.- Deutsche Infanteristen in Stellung, Spätherbst 1942; PK
Dating: 1942 Herbst
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1971-107-40引用(他引用不許可)。
ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥率いるA軍集団は,8月10日までの16日間で,ロストフからクバニまで300キロを走破しカフカスのトルコ系住民チェチェン人から歓迎された。ボルシェビキによる集団農場,強制移住,イスラム教への抑圧など圧制からの解放者としてナチス・ドイツ軍を迎えたのである。
ソ連軍は,カフカスでは,渡河地点など拠点で抵抗後,すばやく撤退し,包囲されることはなかった。8月9日,第13装甲師団は,カフカス山脈南麓マイコプに突入し,8月22日には第1・第4山岳兵師団のアルピニストが,カフカス山脈最高峰エルブルス山(5633メートル)にドイツ国旗,師団旗を立てた。
ドイツ陸軍ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥率いるA軍集団は,8月末,黒海に臨むノボロシスクを攻撃し,9月10日には,それを占領した。しかし,9月に入ると,補給能力不足からカフカス山脈北西のクバニ,北東のチェレクの間で,戦線は膠着した。
写真(右)1942年夏,ドン川=スターリングラードを進撃する3.7センチ砲装備のIII号戦車Sd.Kfz.141:占領した家屋の近くで休憩しているようだが,後方には木の枝を置いてカモフラージュしている。大型砲塔にはそぐわない3.7センチ砲を装備している。居住性,操作性はよいが,攻撃力が不足だった。
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).-Panzer III; PK 694
Dating: 1942 Sommer
Photographer: Klintzsch 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-218-0522-13引用(他引用不許可)。
ヒトラーは,戦争当初から対戦車戦闘で有利な長射程の長砲身5センチ砲を装備するように命じていた。
しかし,保守的なドイツ参謀本部は,対戦車戦闘には3.7センチ砲で十分だと考えた。チェコのスコダ社やフランス軍は既に47ミリ対戦車砲を開発していたから,電撃戦で名をはせたといえども,ドイツ軍戦車の火砲は、貧弱だった。
写真(右)1942年夏,ソ連南部、スターリングラード、ドン川に到着したドイツ陸軍の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を搭載したIII号戦車G/J型:手前のドイツ軍兵士は、塹壕のあって双眼鏡を手に対岸スターリングラード市街を偵察している。
Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-218-0528-31
Archive title: Sowjetunion-Süd (Don/Stalingrad).- Schlacht um Stalingrad.- Soldaten in Stellung, dahinter Panzer III; PK 694
Dating: 1942 Sommer
Photographer: Thiede撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-218-0528-31引用(他引用不許可)。
1940年夏以降,ドイツ軍戦車にも長砲身60口径5センチ砲が装備された。しかし,実戦参加が遅れ,重装甲,76.2ミリ砲装備のT-34戦車より劣っていた。
ドイツ軍の戦車は,決して強力な攻撃力・防御力を持っていたわけではない。戦車の集団用法,強力な砲兵部隊と地上支援空軍を組み合わせた電撃によって大きな戦果を収めたのである。
マイコープの精油施設は破壊されたため,ドイツ軍は油田で燃料不足に悩まされたことをカレル『バルバロッサ作戦』は指摘し,補給路が伸びきってしまい,攻撃速度が低下したと説明する。
しかし,ブラウ作戦に則って,順調に進撃してきたドイツ軍が燃料不足になるのだろうか。敵の燃料を奪うことを計算にいれていたのか。激戦や地理的障害のため,燃料消費が予想を上回ったのか。いずれにしても、補給を重視するドイツ軍が「予想外の快進撃」によって攻撃が頓挫したというのは納得できない。バルバロッサ作戦の進撃は,より速く,より広範だった。バルバロッサとは、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ一世(1152-1190)のことで、「赤ひげ」として第3回十字軍に参戦して死亡した。ソ連侵攻バルバロッサ作戦の失敗は、「赤ひげ」が遠征途上であっさりと死んだ因縁なのか。
攻略目標のカフカス油田まで進攻距離がわかっている以上,攻撃が進むにつれて,補給路は伸びる。補給が伸びきっても,それを支えるだけの輸送力を確保できなくなった,燃料不足が生じたというのであれば,それは作戦計画の破綻を意味している。
あるいは、敵ソ連軍の頑強な抵抗がドイツ軍の進撃を頓挫させたと考えられる。
写真(右)1942年,ロシア南部,ドン川=スターリングラードの間,撃破されたソ連軍T-70軽戦車とドイツ軍の半装軌式軽装甲車(Sd.Kfz. 250) :ドイツ軍歩兵が身を隠しているのは,ソ連軍T-70軽戦車で,キャタピラ(装軌)が外れている。
T-70は,46口径45ミリ砲20Kmを装備,重量は9.5トン。1942年初夏にT-70軽戦車として制式、ゴーリキー自動車工場(GAZ)で生産。
T-70軽戦車は,1942年4800台,1943年3000台以上が量産された。
Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- deutsche Infanteristen in Deckung hinter einem zerstörten sowjetischen Panzer (T-70 ?) neben leichtem Schützenpanzer (Sd.Kfz. 250) mit Aufschrift "Struckmann" (?); PK 694
Dating: 1942
Photographer: Klintzsch撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-218-0503-19引用(他引用不許可)。
3.7センチ砲を装備していたIII号戦車Pz.Kpfw.III(Sd. Kfz. 141)は,1941年後半,ソ連軍T-34に対抗するために,60口径5センチKw.K.39 L/60に換装した。しかし,それでもIII号戦車は,ソ連赤軍T-34戦車に対抗できず,生産中止。車体は,対戦車戦可能な43口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 40)を搭載したIII号突撃砲に転換生産され,1万台もが大量生産された。
写真(右)1942年6月,進軍するドイツ陸軍24口径7.5センチ砲装備のIV号戦車:III号戦車よりも大きな砲塔を搭載し,大口径装備が可能だったIV号戦車は終戦までドイツ軍の主力戦車となった。突撃砲は少数で終わったが、駆逐自走砲戦車は量産された。これは、48口径あるいは70口径7.5センチ砲を搭載し,対戦車戦闘能力を向上したものである。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-216-0445-18
Archive title: Sowjetunion.- Soldaten auf Panzer IV.; PK 694
Dating: Juni 1942
Photographer: Seibold
撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-216-0445-18引用(他引用不許可)。
短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 37 L/24 )装備のIV号戦車は,1942年末から長砲身43口径40年式7.5センチ戦車砲に換装された。終戦まで生産続行。
写真(右)1942年秋,キャタピラを修理する60口径5センチ砲装備のIII号戦車:III号戦車を改造して,歩兵に随伴して火力支援する突撃砲があった。これは車台上に,短砲身24口径7.5センチ砲を搭載し,対戦車戦闘能力を向上したものである。
Im Osten.- Ausbildung, Kettenwechsel bei einem Panzer III; PK Eins Kp Lw zbV
Dating: 1942 Anfang
Photographer: Nowak撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-639-4262-04引用(他引用不許可)。
重戦車開発に遅れをとったドイツは,を実用化した。ティーガー戦車の初の実戦参加は,1942年9-12月のレニングラード戦だった。スターリングラード攻防戦にVI号戦車は投入されていない。
⇒ドイツ装甲師団の戦車を見る。
ソ連の住民も,勝者のドイツ軍をスターリン共産党による圧制からの解放者と受け入れたり,ドイツ軍兵士の暴行・物資徴発を防ぐために,ドイツ軍を歓迎したりした。現地住民が,正面から占領軍に反抗することは,どこの国にもない。占領軍と占領地住民の交歓を映し出すプロパガンダは,常に批判的に扱うべきである。
現代,紛争が激化しているチェチェンだが,民族紛争は,ロシア帝国,第一次大戦,第二次大戦でも起こった。しかし,ドイツ軍はソ連の民族対立,イデオロギー対立を利用するどころか,ソ連の団結を強化するような過酷な占領政策を強行した。
ドイツの東方ソ連占領が、現地住民の支持を継続して受けられた可能性がある,とシュペール軍需大臣は回顧録に記している。
しかし、ナチスは,当初から,スラブ人、アジア人を野蛮な下等人種・劣等民族として、アーリア人の農奴、労働者として,貶めた。諸民族の独立も一切認めなかった。東方ソ連は、ドイツの生存圏としてのみ価値があったのであって,多様な文化の共存は,認めらなかった。
写真(右)1942年夏,ドイツ軍東部戦線で撃破されたソ連軍KW-1重戦車:ソ連軍のKB-1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,第二次大戦が始まった1939年から生産開始,戦車の名前は,国防相クリメント・ボロシロフ元帥にちなんだもの。
KB-1重戦車の30口径76.2ミリ砲は,当時の全てのドイツ軍戦車を撃破できるものだった。
Abgeschossene sowjet. Panzer
Archive title: Schwerer russischer Panzer KW-1
Dating: 1942 Sommer
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0012引用(他引用不許可)。
ソ連軍のKB-1(ドイツはKW-1,英国はKV-1と表記)重戦車は,1939年開発,T-34中戦車と同じ76.2mm砲を装備していた。重装甲で重かったが,ディーゼルエンジンも550馬力あった。独ソ戦当初、最強の戦車で,1942年までに3000両生産。砲塔装甲は前面90ミリ,側面75ミリと厚く,ドイツの37ミリ対戦車砲を問題としなかった。
しかし,重量45トンという重さのため,トランスミッションの不具合が生じやすかった。
写真(右)1942年夏,スターリングラード近郊で撃破されたソ連軍KW-1重戦車:ソ連軍は,KV-1重戦車を秘密兵器扱いし,フィンランド冬戦争には,T-34と同じく投入していない。フィンランドとの国境に近いレニングラードの工業で製造していたにもかかわらずである。
1941年6月22日,ソ連に侵攻したドイツ軍は,国境近くでKB-1重戦車に直面し苦戦した。ドイツ軍がティーガー重戦車を投入したのは,これから2年後と遅い。
Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zerstörter sowjetischer Panzer KW-1
Dating: August 1942
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0443引用(他引用不許可)。
ソ連軍は,KW−1重戦車を秘密兵器扱いし,フィンランド冬戦争には,T-34と同じく投入していない。フィンランドとの国境に近いレニングラード(Leningrad)の工業で製造していたにもかかわらずである。
1941年6月22日,ソ連に侵攻したドイツ軍は,国境近くで,KB−1重戦車に直面し苦戦した。ドイツ軍がティーガー重戦車を投入したのは,これから2年後と遅い。
写真(右)1942年8月,対ソ戦、スターリングラードへ侵攻するドイツ軍が南部のステップで撃破したソ連赤軍KW-1重戦車の前部左側面:砲塔・車体の右側面には20か所もの弾痕があるが、左側面には特に命中弾、弾痕はないように見える。
Original title: info Bilder nach der Panzer-Schlacht vor Stalingrad im August 1942 in der Steppe vor der Stadt
Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zerstörter sowjetischer Panzer KW-1
Dating: August 1942
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0441引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年8月,対ソ戦、スターリングラードへ侵攻するドイツ軍が南部のステップで撃破したソ連赤軍KW-1重戦車の砲塔:20か所もの弾痕があるが、貫通したのは数発だけにとどまっているようだ。
Original title: info Bilder nach der Panzer-Schlacht vor Stalingrad im August 1942 in der Steppe vor der Stadt
Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zerstörter sowjetischer Panzer KW-1
Dating: August 1942
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikipedia-commons;Bundesarchiv Bild 169-0444引用(他引用不許可)。
KW−1重戦車の諸元
重量 43,5トン
全長 6,80 m、全幅 3,35 m、全高 2,70 m
装甲: 35-90 mm
兵装: 76,2mm-L/41 F-32 戦車砲
車載機銃3丁 × 7,62mm-DP28軽機関銃(発射速度:500-600発/分、初速:840m/s、有効射程:800m)
エンジン:V-12-ディーゼル W-2K 550 馬力
最高時速: 35 km/h、航続距離 335 km(路上)
乗員 5名
KB-2(ドイツはKW-2,英国はKV-2と表記)重戦車は,1939年開発,20口径152ミリM10榴弾砲を装備。152mm榴弾砲は,弾頭50キロで,薬莢は分離していたので,装填手は2人,乗員は6人だった。全長7メートル,装甲は砲塔前面110ミリ,側面75ミリでもあった。重量52トンでディーゼルエンジン550馬力は力不足だった。
KV-2は独ソ戦当初、最大級の重戦車だったが,砲弾の装填,路外走行に難点があり,1940-41年に200台が生産されたに過ぎない。
写真(右)1942年10月,撃破されたソ連軍T-34中戦車:T-34戦車は,BT快速戦車を引き継ぐもので,クリスティー戦車方式のサスペンションだった。1939年に試作車が完成,12月に制式となり,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34/85戦車は2万台以上が生量された。
ドイツ連邦アーカイブには,撃破された全く同じT-34のカラー写真が2台分6枚も保管されている。長砲身76.2ミリ砲を装備した頑丈なソ連軍戦車に感歎して撮影したようだ。T-34戦車に対抗できるドイツ軍戦車は,1942年夏はなかった。その後まもなく,ティーガーVI号戦車が実線投入されたが,数的不利は続いた。ティーガー重戦車は,1942年8月から1944年8月まで,僅か1300台しか生産されていない。
Abgeschossene sowjet. Panzer
Archive title: Mittlerer russischer Panzer T-34
Dating: 1942 Sommer
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0010引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年10月,撃破されたソ連軍T-34中戦車:ロケット砲「カチューシャ」も1942年10月のスターリングラード攻防戦に投入されている。
Provisorischer Ofen in dem Erdreich eines Baikas einer Stalingrad-Einwohnerin
Oktober 1942
Dating: Oktober 1942
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
戦線膠着の責任は,A軍集団司令官ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥にあるとされ,9月7日,総統大本営から国防軍総司令部統帥部長アルフレート・ヨーゼフ・フェルディナント・ヨードル(Alfred Josef Ferdinand Jodl)大将がA軍集団に派遣され,ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)軍司令官に説明を求めた。
国防軍総司令部統帥部長アルフレート・ヨードル(Alfred Jodl)大将はヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥の攻撃停滞を納得したが,ヒトラーは,国防軍総司令部統帥部長アルフレート・ヨードル(Alfred Jodl)大将の説明に憤慨し,将軍たちが自分の出した命令を遵守していない,と非難した。こうして,9月9日にA軍集団司令官リスト元帥が,9月25日にはハルダー参謀総長が解任された。A軍集団の後任司令官は,11月22日,クライスト大将が就任するまで,ヒトラーが直接指揮した。
写真(右)1942年10月,スターリングラード攻防戦でドイツ軍に撃破されたソ連軍T-34戦車:長砲身76.2ミリ(3インチ)砲を装備した攻撃力,機動力,防御力のバランスのとれた戦車だった。ただし,搭乗員のための車内空間は狭く,砲塔も小さいので,居住性や砲塔操作性は良くなかった。
Zeugen schwerster Kämpfe in Stalingrad
Die Straßen von Stalingrad scheinen völlig ausgestorben. Zerschossene Panzer und Ruinen kennzeichnen das Bild. Doch hinter den Mauerresten hält sich der Feind verborgen, um in heimtückischer Kampfesweise immer wieder erneut herauszubrechen.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter Herber (Sch)
8.10.42 [Herausgabedatum]
Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Abgeschossener sowjetischer Panzer T-34
Dating: Oktober 1942
Photographer: Herber撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-B22359引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年,対ソ連東部戦線、道路上で撃破されたソ連軍T-34/76中戦車をドイツ陸軍IV号ティーゲル重戦車が牽引している。T-34戦車のキャタピーラーは全て外されているが、大きな損傷は見えないようだ。
Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Zwei deutsche Soldaten stehend auf Panzer VI "Tiger I", rechts daneben beschädigter russischer Panzer T-34 ohne Ketten auf einer Straße stehend; PK Lfl 1
Dating: 1942
Photographer: Kamm, Richard
Origin: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・wikimedia・commons;Bild 101I-457-0065-36引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年10月,対ソ連東部戦線、スターリングラード攻防戦でドイツ軍に撃破されたソ連軍T-34戦車:Zeugen schwerster Kämpfe in Stalingrad
Die Straßen von Stalingrad scheinen völlig ausgestorben. Zerschossene Panzer und Ruinen kennzeichnen das Bild. Doch hinter den Mauerresten hält sich der Feind verborgen, um in heimtückischer Kampfesweise immer wieder erneut herauszubrechen.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter Herber (Sch)
8.10.42 [Herausgabedatum]
Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Abgeschossener sowjetischer Panzer T-34
Dating: Oktober 1942
Photographer: Herber撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他所引用不許可)。
ソ連の新鋭T-34中戦車は,全長6メートル,全幅3メートル,重量26トンで,長砲身30口径76.2ミリ(3インチ)砲を装備,車体前面装甲45mmだった。T-34戦車は,BT快速戦車を引き継ぐもので,米軍クリスティー戦車式のサスペンションだった。1939年に試作車が完成,12月に制式となり,1940年から量産開始。大戦中,76.2ミリ砲装備T-34/76戦車は3万台,85ミリ砲装備T-34/85戦車は2万台以上が生量された。
写真(右)1942年秋,対ソ連東部戦線、スターリングラード攻撃時期、撃破されたソ連赤軍T-34戦車の前で塹壕で待機するドイツ軍歩兵:
Archive title: Sowjetunion, Schlacht um Stalingrad.- Deutsche Infanterie im Schützenloch, gedeckt durch das Wrack eines russischen Panzers T 34, Herbst 1942; PK
Dating: 1942 Herbst
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 146-1971-107-24引用(他所引用不許可)。
T-34戦車以降のソ連戦車は、大型転輪を採用しており、キャタピラー(履帯)上部に小型転輪を装備してはいない。懸架装置(サスペンション)は、接地している大型転輪を一つずつ車体側面に設けたコイル・スプリングで独立懸架させたクリスティー式サスペンションである。
写真(右)1942年6-7月,装甲自動車Sd.Kfz. 221を先頭に行進するドイツ軍第24装甲師団:マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs:1881-1954)大将のB軍集団第4装甲軍は,第24装甲師団などによって,1942年8月後半,スターリングラード(現ヴォルゴグラード)南部でソ連軍イェレメンコ大将の第1機甲軍,第64軍,民兵が立て篭もるトーチカ,鉄条網,対戦車バリケード,塹壕で固められた陣地を攻撃し,9月2日,ソ連軍を包囲寸前まで追い込んだ。
しかし,イェレメンコ大将は,陣地を放棄,軍を率いて撤退し,包囲を免れた。
装甲自動車Sd.Kfz. 221は,1935年開発の旧式な四輪駆動偵察装甲車。無限軌道ではなく車輪装備なので,路外走行は制限された。
Sowjetunion.- Fahrzeugkolonne der 24. Panzerdivision in Fahrt auf unbefestigter Straße, vorne Spähpanzer (Sd.Kfz. 221); PK 694
Dating: 1942 Juni - Juli
Photographer: Dieck撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-216-0401-25引用(他引用不許可)。
いずれにせよ、黒海と黒海北東岸の都市の制圧,カフカス油田の攻略というブラウ作戦の目標は達成不可能になった。他方,副次的目標だったスターリングラード付近での比較的順調だった。8月24日,ソ連赤軍のセミョーン・チモシェンコ(Semyon Timoshenko)将軍も守備する,,ヴォルゴグラード)北端の工場街スパルタコフカを,ドイツ地上軍と空軍部隊は攻撃。
写真(右)1942年6-7月,装甲自動車Sd.Kfz. 221を先頭に行進するドイツ軍第24装甲師団:マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs:1881-1954)大将のB軍集団第4装甲軍は,第24装甲師団などによって,1942年8月後半,スターリングラード南部でソ連軍イェレメンコ大将の第1機甲軍,第64軍,民兵が立て篭もるトーチカ,鉄条網,対戦車バリケード,塹壕で固められた陣地を攻撃し,9月2日,ソ連軍を包囲寸前まで追い込んだ。
しかし,イェレメンコ大将は,陣地を放棄,軍を率いて撤退し,包囲を免れた。
装甲自動車Sd.Kfz. 221は,1935年開発の旧式な四輪駆動偵察装甲車。無限軌道ではなく車輪装備なので,路外走行は制限された。
Sowjetunion.- Fahrzeugkolonne der 24. Panzerdivision in Fahrt auf unbefestigter Straße, vorne Spähpanzer (Sd.Kfz. 221); PK 694
Dating: 1942 Juni - Juli
Photographer: Dieck撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-217-0493-27引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年,ソ連、ドン・スターリングラードの枢軸国側ルーマニア軍兵士:湾曲したヘルメット、ショルダーバック式雑嚢、四角の飯盒(?)など装備が分かるが、小銃など火器は写っていない。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-218-0501-27
Archive title: Sowjetunion, Süd.- Don/Stalingrad.- Rumänische Soldaten; PK 694
Dating: 1942
Photographer: Lechner
Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 101I-218-0501-27引用(他引用不許可)。
しかし,イェレメンコ大将と政治委員コミサールのニミータ・フルシチョフ(後のソ連首相)は,スターリングラードの防備を固めて陣地を死守した。スターリングラード・トラクター工場(ジェルジンスキー工場)からは,完成したばかりのT-34戦車が出動した。
ソ連軍は米軍の武器貸与法に基づく軍事物資を,北海を越える輸送船団あるいはイランを抜けるトラック輸送によって,受け取っていた。
写真(右)1942年秋,ソ連スターリングラードに続くステップを行く鹵獲ジープ:ソ連軍が米軍から貸与されたバンタム・ジープを,ドイツ軍が戦利品として奪って使用している。ドイツ軍兵士が,ステップ大草原を観測しているが,米国製造のソ連向けジープは,ドイツ軍のキューベルワーゲンよりも乗り心地が良かったのであろうか。
Steppenbrand vor Stalingrad
Herbst 1942
Archive title: Sowjetunion.- Deutsche Soldaten in einem erbeuteten sowjetischen Jeep aus amerikanischer Produktion bei Beobachtung eines Steppenbrands
Dating: 1942 Herbst
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ソ連軍は,スターリングラード(現ヴォルゴグラード)を最終防衛線として死守するつもりで後退していたから,9月2日のドイツ第六軍によるスターリングラード前面での包囲攻撃から脱出することができた。B軍集団司令部は,パウルス将軍にスターリングラードの市内突入を命じ,9月14日,先鋒部隊が市内に突入,ドン川まで進撃した。
写真(右)1942年5月,ソ連,ハリコフ,ドイツ軍が鹵獲したソ連軍の45口径122mm カノン砲M1931/37(A-19)とM3スチュアート軽戦車(M3 Stuart):45口径122mm カノン砲M1931/37(A-19)は、第二次世界大戦前の1937年にソビエト連邦が開発したカノン砲で、1939年の対フィンランド冬戦争から、第二次大戦全期間を通じて使用された。砲弾:口径122 × 785 mm. R、全長:8.18m(牽引時)、全幅:2.35m、重量:7,250kg(戦闘時)/7,905kg(牽引時)、砲身長:5,485mm、最大俯角:2度、最大仰角65°、旋回範囲:58度、発射速度:3-4発/分、射程距離:2万m、製造数:1936年-1946年に2,926門。M3軽戦車は米国製で武器貸与法37(レントアンドリース :Lend-Lease-Act)によって,米国からソ連に軍事援助されたもの。しかし,軽戦車で榴弾砲を牽引しようとしたが,野外の砂地では牽引力不足で,放棄されたようだ。
米英からソ連への援助ルートは,ペルシャ湾・黒海からからロシア南部に入るルートと,ノルウェー北岸から,ロシア北部に入るルートがあった。
Aufnahmen aus den Bereichen der Kesselschlacht am Charkow, Mai 1942, Nr. 26 = Panzerspähwagen mit Film-PK-Berichter
Archive title: Sowjetunion, bei Charkow.- Sowjetischer Panzer aus amerikanischer Prodution (Lend-Lease-Act) Panzer M3 Stuart mit angehängtem Geschütz
Dating: Mai 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0423引用(他引用不許可)。
ヒトラーは,ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥率いるA軍集団のカフカスの戦いが膠着している時期だったので,B軍集団のスターリングラード(現ヴォルゴグラード)突入を喜んだ。ボルガ川の交通を遮断し,米国からソ連への軍事物資ルートや,カフカスの石油などの輸送ルートを寸断し,爾後のカフカス攻撃の側面防壁にしようとした。
ヒトラーは,交通の要衝でもあり「スターリン」の名前を冠したスターリングラードの攻略に高い優先順位を与えた。国防軍総司令部統帥部長アルフレート・ヨードル(Alfred Jodl)大将は、軍事の専門家ではあったが、政略的な観点からのヒトラーの方針には強く反論した形跡がない。
写真(右):1942年秋,ソ連軍のイリューシンIℓ-2地上襲撃機シュトルモビク:1938年イリューシンらの設計になるイリューシン Iℓ-2地上襲撃機シュトルモビクは、頑丈な胴体構造をそのまま装甲板とした構造で,エンジン,乗員,燃料タンクに重装甲を施した。1940年10月に初飛行したので,独ソ戦勃発時期には配備されていなかった。1941年から,3万5000機以上が量産された。
シュトルモビクとはロシア語の「襲撃機」である。
イリューシン Iℓ-2地上襲撃機シュトルモビクは,全長11.7メートル,全幅14.6メートル,翼面積38.5平方メートル,重量6360キロ,最高速度410キロ(高度1500メートル),航続距離800キロ,兵装 23ミリ機関砲2門,12.7ミリ旋回機銃1丁,7.62ミリ機銃2丁,爆弾600キロまたはロケット弾装備。
Abgeschossener und notgelandeter sowjet. Flieger, Herbst 1942, Ukraine
Archive title: Russisches Schlachtflugzeug Ilyushin Il-2 "Stormovik"
Dating: 1942 Herbst
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0066引用(他引用不許可)。
写真(右):1942年秋,鹵獲したソ連空軍イリューシンIℓ-2地上襲撃機に乗り込み記念写真を撮ったドイツ軍兵士:ドイツ空軍の地上襲撃機は,爆弾と大型機関砲あるいは火砲を武器としたが,ソ連軍は,RSロケット弾を大戦当初から実用化していた。ロケット弾には,小型のRS-82と大型のRS-132があり,命中精度は低かったが,多数機による集中攻撃によって命中率を補った。
RS-82ロケット弾は,直径82ミリ,重量6.8キロ。RS-132ロケット弾は,直径132ミリ,重量23キロ。
機首エンジン装備架から胴体・主翼付け根が装甲式骨格として機体構造の中心となっていたために,重装甲の割には重量を抑えることができた。総生産数3万6,000機で世界最高生産数を誇った。
戦利品として鹵獲した飛行機に搭乗して,記念撮影をした。当時,どこの国の地上軍兵士にとっても,飛行機に乗る機会はほとんどないので,操縦席(コックピット)に乗ってみたくなるのも無理はない。
Posieren im Pilotensitz einer sowjetischen Iljuschin-Maschinen
Herbst 1942
Dating: 1942 Herbst
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0276引用(他引用不許可)。
5.スターリングラードでの敗北
写真(右)1941-1942年,ソ連、ドイツ空軍の爆撃を受けるスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の巨大な工場施設。ボルガ川沿いに整然と並んだ工場施設から白煙が立ち上っている。下側の左右に映っているのは、工場労働者の居住アパート群であろうか。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-B22437
Original title: info Die Panzer-Groß
fabrik Dserschinski
Eine der bedeutendsten Verteidigungsanlagen der Sowjets im heißumkämpften Stalingrad war das Traktorenwerk Dserschinski, das schon im Frieden mit die besten Sowjetpanzer produzierte und seit Kriegsbeginn vollständig auf den Panzerkampfwagenbau umgestellt wurde. Das Werk war während des Kampfes um Stalingrad zu einer gewaltigen Bastion umgestaltet worden und wurde von den Bolschewisten mit größ
ter Verzweiflung verteidigt. Nun ist es im Verlaufe eines erbitterten Ringens von den deutschen Truppen erobert worden.- Unsere Luftaufnahme, die bereits vor längerer Zeit von unseren Aufklärern gemacht wurde, zeigt einen Überblick über die gewaltige Anlage der Panzer-Großfabrik Dserschinski.
PK-Luftwaffe (Sch)
17.10.42 [Herausgabedatum] (5250)
Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Luftaufnahme. Traktorenwerk "Dserschinski"
Dating: 1941/1942 ca.
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-B22437引用(他引用不許可)。
写真(右):1942年10月2日,上空から見たドイツ空軍機に空襲されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)市街:ボルガ川河畔にある都市で,1942年11月19日,ソ連軍の反撃が開始された。第六軍は,脱出の機会はあったが,燃料不足の上に負傷者1万5000人を運搬することは困難だった。また,ボルガ川西岸のソ連軍の攻撃によって,脱出中の敗残兵と化した第六軍が壊滅する危険もあった。そこで,パウルス司令官は,このスターリングラードに立て篭もり,空中補給を受けることを決意した。
Raum von Stalingrad - 2.10.1942
Serie: Wir stürzen auf Stalingrad.
Wir beobachten im Abfliegen die Wirkung unserer Bomben
"Frei" O.K.W. Freigegeben Bildpresse: 19.10.1942
5853/42
ADN-Bildarchiv
II. Weltkrieg 1939-45
An der Front in der Sowjetunion; Oktober 1942
Angriff von Sturzkampfflugzeugen "Ju 87" der deutschen Luftwaffe am 2.10.auf Stalingrad - im Abflug wird die Wirkung der Bomben beobachtet
Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad
Dating: 2. Oktober 1942
Photographer: Klose撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-1992-0903-504引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年10月,スターリングラード上空を飛ぶドイツ空軍ユンカースJu-87B急降下爆撃機スツーカ:第4航空軍司令官ファン・リヒトフォーヘン大将の隷下の第8航空航空軍団マルチン・フィービフ中将の下には,第2急降下爆撃航空団があり,スターリングラード近くのカルポフカに基地を持っていた。ハンス・ウルヒリ・ルーデル中尉は,そこの第1飛行中隊長だった。彼は,東部戦線で2500回以上出撃,後にドイツ空軍最高の鉄十字章を授与された。
An der Sowjetfront: Stuka über Stalingrad.- Die Maschine des Kommandeurs, der seine Gruppe führt.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter Opitz (Sch)
5703-42 "Fr.Fr.OKW" Oktober 1942 [Herausgabedatum]
Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Luftangriff mit Flugzeug Junkers Ju 87 "Stuka"
Dating: Oktober 1942
Photographer: Opitz
Agency: Scherl撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年8月23日,ソ連,スターリングラード(現ヴォルゴグラード),1930年に煉瓦で建築されたスターリングラード1号駅前広場の泉(Barmaley Fountain)に設置されたダンスする少年少女像。。撮影者のエマヌイル・ノエヴィチ・エヴゼリヒン(Emmanuil Evzerikhin:1911年7月22日- 1984年3月28日)は、フォトジャーナリスト。駅前広場のバルマレイの泉(Barmaley Fountain)は、彫刻家ロムアルド・イォドコがコンクリートで作成したワニを中心にしたダンスする6人の少年少女の像で有名だった。バルマレイの泉(Barmaley Fountain)の少年少女の像は1951年に撤去されたが、現在は2013年に旧駅前広場に復元された像と近くの製粉所跡のレプリカ像がある。
Description
English: Children’s Dance fountain in Stalingrad. This photo was taken on August 23, 1942, by legendary Soviet photographer and frontline reporter Emmanuil Yevzerikhin.
Date 23 August 1942
Source http://eng.kremlin.ru/photo/2023
Author Emmanuil Yevzerikhin.
Permission
(Reusing this file)
Kremlin.ru
写真はWikimedia Commons, Category: Emmanuil Evzerikhin File: Children’s Dance fountain in Stalingrad, 23 August 1942.jpeg引用不許可)。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の列車の残骸。:スターリングラードは、道路、鉄道、ヴォルガ川の水運を利用してソ連南部の交通の要衝として重要で、南部の穀倉地帯の農産物やバクー油田からの石油が集まっていた。ヒトラーもこの交通、経済的価値に注目して、スターリングラードの攻略を命じた。トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Snapshot of Destruction near a Railroad, Taken from Captured German Soldiers
Description: Snapshot of destruction near a railroad possibly near Stalingrad, taken from captured German soldiers. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: Accession Number: 2009-2675引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビルとその前の路面電車。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Block of Buildings Destroyed by German Bombs in Stalingrad
Description: Two tramcars sit in front of a block of four story buildings destroyed by German bombs in Stalingrad. A few people can be seen on the sidewalk behind the tram. This snapshot was retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: Accession Number: 2009-2703
Block of Buildings Destroyed by German Bombs in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Bombed Building in Stalingrad
Description: Snapshot of a bombed three story building in Stalingrad with part of the facade still standing. Inside the building is a pile of rubble. A smokestack and telephone poles remain standing. A few people can be seen on what had been the sidewalk. This photo was retrieved from a German prisoner of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: Accession Number: 2009-2694; Bombed Building in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Street Scene Showing Destruction of Stalingrad Buildings
Description: Street scene beside railroad or streetcar tracks showing destruction of five story Stalingrad buildings after bombing by the Germans. This photo was retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: Accession Number: 2009-2705 Street Scene Showing Destruction of Stalingrad Buildings 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Destroyed Buildings in Stalingrad
Description: This snapshot of a number of destroyed five story buildings taken from the street shows a few civilians standing in the grass in the foreground. The man on the left may possibly be a soldier. This photo, taken in Stalingrad, was retrieved from a captured German prisoner of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: Accession Number: 2009-2689引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Buildings in Stalingrad Damaged by German Bombs
Description: This snapshot of a number of destroyed five story buildings taken from the street shows a few civilians standing in the grass in the foreground. The man on the left may possibly be a soldier. This photo, taken in Stalingrad, was retrieved from a captured German prisoner of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2687引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Snapshot of Destroyed Buildings in Stalingrad
Description: This snapshot of a number of destroyed five story buildings taken from the street shows a few civilians standing in the grass in the foreground. The man on the left may possibly be a soldier. This photo, taken in Stalingrad, was retrieved from a captured German prisoner of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2691;Snapshot of Destroyed Buildings in Stalingrad引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Bombed Buildings in Stalingrad
Description: This snapshot of a number of destroyed five story buildings taken from the street shows a few civilians standing in the grass in the foreground. The man on the left may possibly be a soldier. This photo, taken in Stalingrad, was retrieved from a captured German prisoner of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2686引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Large Building in Stalingrad Destroyed by German Bombing
Description: Large building at least six stories high with columns and balconies in Stalingrad destroyed by German bombing. A few men and woman are outside on the street. This snapshot was retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2702; Large Building in Stalingrad Destroyed by German Bombing引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Destroyed Buildings in Stalingrad during World War II
Description: Corner view of a block of destroyed buildings in Stalingrad during World War II seen from a distance. A number of people can been seen in the street. This is from a series of similar photos, 2009-2671 to 2713, 2009-2735, and 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2711引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Street Scene Showing Destruction of Stalingrad Buildings
Description: Street scene beside railroad or streetcar tracks showing destruction of five story Stalingrad buildings after bombing by the Germans. This photo was retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2705引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Devastation in Stalingrad During World War II
Description: Photo taken from a captured German soldier of devastation near a river in Stalingrad, Russia during World War II. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; Rivers; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2680引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Snapshot of Destruction of Buildings in Stalingrad
Description: Snapshot of destruction of a large number of buildings in Stalingrad seen from across a waterway after German bombing. Photos were retrieved from captured German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; Rivers; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2690引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビルの残骸。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Snapshot of Destroyed Buildings in Stalingrad
Description: Snapshot of destruction of five story buildings with only parts of a few walls left standing in Stalingrad after German bombings. Photos were retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2699;Snapshot of Destroyed Buildings in Stalingrad引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Destruction of Buildings after German Bombings in Stalingrad
Description: Snapshot showing destruction of buildings as large as five stories seen from a distance after German bombings in Stalingrad. Photos were retrieved from captured German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2688引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Snapshot of Destroyed Building in Stalingrad
Description: Snapshot of a destroyed building with only columns or pillars standing in Stalingrad during World War II. This photo was retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2712
Snapshot of Destroyed Building in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Building in Stalingrad Bombed by German Forces
Description: Building, possibly a synagogue, in Stalingrad bombed by German forces. The outside of the building still stands, but the interior is reduced to rubble. This snapshot was retrieved from a German prisoner of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2707
Building in Stalingrad Bombed by German Forces 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Building in Stalingrad Gutted by German Bombs
Description: Substantial two story building in Stalingrad gutted by German bombs during World War II. A man walks by on the street in front of the building. This snapshot was retrieved from a German prisoner of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2706
Building in Stalingrad Gutted by German Bombs 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
A Block of Buildings Destroyed by German Bombing in Stalingrad
Description: A block of buildings that appear to be newer than others shown in photos in this series destroyed by German bombing in Stalingrad. This snapshot was retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2704
A Block of Buildings Destroyed by German Bombing in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Snapshot of Destroyed Buildings in Stalingrad
Description: Snapshot of a row of buildings, some at least five stories high, with only one wall standing after German bombing in Stalingrad during World War II. Photo was retrieved from captured German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2691
Snapshot of Destroyed Buildings in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビルの残骸。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Snapshot of Destruction in Stalingrad after German Bombing
Description: Snapshot of total destruction in Stalingrad after German bombing. This photo was retrieved from captured German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2698
引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビルの残骸。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Destroyed Building in Stalingrad
Description: A man looks through the rubble in the internal doorway of a destroyed building in Stalingrad. He may be on the ground floor, but appears to be higher up. Part of a roof hangs dangerously over him. This snapshot was retrieved from a captured German prisoner of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2695
Destroyed Building in Stalingrad引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビルと大通り。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Blocks of Destruction in Stalingrad
Description: Looking down the street at blocks of destruction in Stalingrad after German bombing. This snapshot was retrieved from a captured German prisoner of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2696
引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Destruction of a Building in Stalingrad
Description: Snapshot shows destruction of a long four story building with only one outside wall and parts of a few inside walls remaining in Stalingrad after bombing by Germans. This photo was retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2700
Destruction of a Building in Stalingrad引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ空軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Destroyed Buildings in Stalingrad
Description: Snapshot of a five story or higher building destroyed by German bombing in Stalingrad shown from across the street. Photo was retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2697
Snapshot of a Building Destroyed by German Bombing in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)の舗装道路。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Photograph of a Destroyed Road in Stalingrad During World War II
Description: Photograph taken from a captured German soldier of a destroyed road, possibly leading to a bridge in Stalingrad, Russia during World War II. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Roads; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2681
Photograph of a Destroyed Road in Stalingrad During World War II 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍の空襲によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のソ連空軍機。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Photograph of Devastation at Stalingrad during World War II
Description: Photograph taken from captured German soldiers of devastation at Stalingrad, Russia during World War II. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2679引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)の穀物倉庫のエレベーター:ソ連では、スターリン統治下の1930年代に自作農家や大地主の土地を集団化した。トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Grain Elevator in Stalingrad
Description: This grain elevator in Stalingrad has sustained some damage, but is still standing after German bombing. This snapshot was retrieved from German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Buildings; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2701 Grain Elevator in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、スターリングラード(現ヴォルゴグラード)の近郊でソ連赤軍が鹵獲したドイツ陸軍の76.2ミリ砲装備のマーダー III 38(t)対戦車自走砲。:後方には、76.2ミリ砲を装備したソ連赤軍のT-34中戦車が見える。トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。つまり、ソ連軍から鹵獲した76ミリ師団砲M1936(F-22)をチェコ製戦車の車体に搭載した即製の自走砲だが、それをソ連軍が鹵獲して撮影した。その写真をスターリングラードに侵攻したドイツ軍が鹵獲し、それを打ち破った連合軍が再びソ連軍の撮影した写真を取り返した。
German Tanks Near Stalingrad, Taken from Captured German Soldiers
Description: Snapshot of German tanks with soldiers in a field taken from captured German soldiers. Snapshot was with some photos taken near Stalingrad. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Cities and towns; Rivers; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2676 German Tanks Near Stalingrad, Taken from Captured German Soldiers 引用。
マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、対二次大戦直前、1939年3月のチェコ併合によってドイツ軍に配備されるようになった旧チェコ陸軍の制式戦車LT-38、すなわちドイツ軍の38(t)戦車(Panzerkampfwagen 38 (t))の車体をベースにした対戦車戦闘可能な自走砲である。38(t)戦車は小型で、4.7センチ砲の搭載しかできなかったが、砲塔を撤去して大型の戦闘室を設け、そこに対ソ戦で大量に鹵獲したソ連軍の76ミリ師団砲M1936(76 mm Divisional Gun M1936 (F-22))を搭載したのが、 Sd Kfz 139 マルダーIIIである。
ソ連軍の76ミリ師団砲M1936(76 mm Divisional Gun M1936 (F-22))は、3インチ砲弾だったが、ドイツ軍は自国の7.5センチ弾・薬莢も装填できるように、砲尾の薬室を回収し、それを7.62cm対戦車砲PaK 36(r)と命名した。(r)はロシア兵器の鹵獲であることを示す。ソ連軍の76.2mm弾とドイツ軍の7.5cm弾は口径がわずかに異なる上に、薬莢も異なったが、間に合わせ兵器として、砲の精度を度外視して、実用化し、実戦に大量投入された。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)で死者を埋葬するソ連の住民。:トルーマン図書館の解説によると、ドイツ兵と民間人の女性がスターリングラードの廃墟に佇んでいるとし、脇の像はスターリン像ではないかという。しかし、兵士はソ連軍兵士のようなので、この写真自体、スターリングラードに入城したドイツ軍が市内で鹵獲し、それをさらにドイツ軍兵士を捕虜とした連合軍兵士が鹵獲したのではないか。
German soldiers and a Civilian Woman Amid Destruction in Stalingrad
Description: Photo taken from captured German soldiers of German soldiers and a civilian woman standing by a statue, possible of Stalin, amid destruction in Stalingrad, Russia during World War II. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad; World War II - General file
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2682
German soldiers and a Civilian Woman Amid Destruction in Stalingrad引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)で負傷したソ連軍兵士(?)。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Russian Civilians Burying Their Dead in Stalingrad
Description: This snapshot, which was retrived from German prisoners of war, shows Russian civilians burying their dead after the Germans attacked Stalingrad. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad; World War II - General file
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2671
Photo of Casualties in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)で死者を埋葬するソ連の住民。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Russian Civilians Digging a Grave in Stalingrad
Description: Russian civilians, most of whom are women, are digging a grave in this snapshot retrieved from captured German prisoners of war after they attacked Stalingrad. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2735, 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad; World War II - General file
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2685
Russian Civilians Digging a Grave in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)で死者を埋葬するソ連の住民。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Russian Civilians Burying Their Dead in Stalingrad
Description: Russian women burying their dead after Stalingrad was bombed by the Germans. They have shovels with them indicating that they had to dig the graves themselves. Photos were retrieved from captured German prisoners of war. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and 2009-2736.Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad; World War II - General file
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2735
Russian Women Burying their Dead in Stalingrad 引用。
写真(右):1942年,ソビエト連邦西南部、ドイツ軍によって破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)で死者を埋葬するソ連の住民。:トルーマン図書館の解説によると、捕虜となったドイツ軍兵士から押収した写真。
Photo of Casualties in Stalingrad
Description: Photo of casualties in Stalingrad, taken from captured German soldiers. This series includes photos 2009-2671 to 2009-2713 and photos 2009-2735 and 2009-2736.
Date: ca. 1942
Related Collection: Edwin A. Locke, Jr. Papers
ARC Keywords: Soldiers; World War, 1939-1945; War damage
HST Keywords: Russia - Stalingrad; World War II - General file
写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 2009-2684
Russian Civilians Burying Their Dead in Stalingrad 引用。
写真(右)1942年夏,ソ連,スターリングラード(現ヴォルゴグラード),ソ連が撤退時に焦土戦術を使って破壊した建物の破片を片付ける。ソ連軍は,撤退するときに,ドイツ軍に役に立ちそうな工場,家屋,交通機関を破壊した。場合によっては,その地域の住民を,強制的に移送した。
当該地域を占領した敵が,そこから資源,材料,食料,居住空間,労働力を得られないように破壊してから撤退する戦法を「焦土作戦」という。
Originaltitel: Stadtteil von Stalingrad
Sommer 1942
Archivtitel: Sowjetunion, Stalingrad.- Russen beim Beseitigen von Trümmern eines beschädigten Gebäudes
Datierung: 1942 Sommer
Fotograf: o.Ang.
Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年秋,スターリングラード南部,破壊された工場か(?):Stalingrad-Süd
Herbst 1942
Dating: 1942 Herbst
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0902引用(他引用不許可)。
スターリングラード市は、「赤い10月」製鉄工場,大砲を製造していたバリカドイ「バリケード」工場,トラクター「ジェルジンスキー」工場など,重要産業の拠点であると同時に,ボルガ川水運の要衝であり,米国から貸与された軍需物資の輸送路の一つだった。
ソ連スターリングラードの工場の多くの設備は,ドイツ軍の攻撃を避けるために,疎開されていたが,多数の労働者が兵士として動員され,ソ連赤軍のセミョーン・チモシェンコ(Semyon Timoshenko)元帥は、最後の防衛拠点として防備を固めていた。
1942年8月23日からスターリングラードを空襲したドイツ空軍は,市街を廃墟にしていったが,廃墟は瓦礫ブロックによって防衛陣地化された。スターリングラード正面軍ソ連赤軍のセミョーン・チモシェンコ(Semyon Timoshenko)元帥,その後任アンドレイ・イェレメンコ(Andrey Yeryomenko)大将は,ドイツ軍が二分され,弱体化したB軍集団が燃料不足もあって進撃が遅れている間に,スターリングラードに兵力を集中し,防衛を強化した。
写真(右)1942年秋,破壊されたスターリングラード南部: 現在のヴォルゴグラードには、「ママイの墳丘基記念施設」が建築されスターリングラード攻防戦の英雄の記念碑となっている。
Blick auf Stalingrad-Süd
Herbst 1942
Archive title: Sowjetunion, Stalingrad-Süd.- Blick auf beschädigte Gebäude
Dating: 1942 Herbst
撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0882引用(他引用不許可)。
B軍集団司令官マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)大将隷下で、1942年8月末まで,カラーチの包囲攻撃をしていたパウルス大将の第六軍は,9月中旬からスターリングラード(Stalingrad)を攻撃し,10月末には,市街の大半を占領することができたが,ソ連軍は市街地で抵抗を続けていた。スターリングラードの完全占領はできなかったのである。
1942年11月中旬,ドン川湾曲部から南下するソ連軍とスターリングラード(Stalingrad)南部から西進するソ連軍の包囲攻撃が始まった。目標は,カラーチだった。11月23日,カラーチが陥落し,スターリングラードのドイツ軍第六軍は,ソ連軍に包囲されてしまった。
写真(右)1942年10月,破壊されたスターリングラード(現ヴォルゴグラード)のビル風景:現在でもヴォルゴグラードには、古い製粉所が大祖国戦争(1941-1945)の記念碑として保存されている。
Stadtbilder von Stalingrad
Oktober 1942
Datierung: Oktober 1942
Fotograf: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0498引用(他引用不許可)。
1942年11月23日1145,ドイツ第六軍司令官フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス(Friedrich Wilhelm Ernst Paulus:1890 - 1957)上級大将は,アンドレイ・イェレメンコ(Andrey Yeryomenko)率いるソ連軍によってスターリングラード(Stalingrad)に逆包囲されたことを悟り,B軍集団司令官マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)大将に突破撤退を要請,軍司令官ヴァイクスは突破を許可した。23日2345,第六軍司令官パウルス将軍は,ヒトラーにも,突破する行動の自由を許可を願い出た。
1942年11月23日,第六軍司令官フリードリヒ・パウルス(Friedrich W. Paulus)上級大将は,スターリングラード(Stalingrad)撤退を許可するように連絡を取った。しかし,ヒトラー総統は,パウルス上級大将からの撤退要請を拒否,11月24日0838,戦線死守を命じ,補給物資を包囲陣に空輸することを伝えた。
写真(右)1942-43年,スターリングラードのソ連軍兵士(?):冬季白色迷彩服を着ている。手前に斃れているのは,ドイツ軍兵士のようだ。スターリングラードには,1942年11月には30万人の兵士がいた。Die Stalingrader Schlacht begann im Juli 1942.
In erbitterten, beiderseits verlustreichen Kämpfen wehrte die Rote Armee das weitere Vordringen der faschistischen Truppen ab. Während der sowjetischen Gegenoffensive im November 1942 wurden über 300 000 Mann eingeschlossen. Die Reste dieser Verbände, etwa 91 000 Mann, kapitulierten am 31.1. und 2.2.1943
Mit einer roten Fahne (r.), die sie am höchsten Punkt befestigen wollen, stürmen Rotarmisten eine Ruine am zentralen Platz in Stalingrad.
Zentralbild
II. Weltkrieg 1939-1945
Schlacht um Wolgograd (Stalingrad) 1942-43. Straßenkämpfe in Wolgograd
Dating: 1942/1943
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-R76619引用(他引用不許可)。
写真(右)1943年3月18日,東部戦線を視察したヒトラー総統を飛行場に出迎えたエーリッヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)元帥:マンシュタイン元帥(1887年11月24日 - 1973年6月10日)は,スターリングラードで,第六軍救出に失敗したが,ドン軍集団司令官としてハリコフ防衛,クルスクの戦車戦を戦った。しかし、戦線後退を食い止めることができず,1年後の1944年3月,軍司令官を解任された。独ソ戦当初,エーリッヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)が司令官をしていた第十一軍のアインザッツグルッペD(指揮官オーレンドルフSS中将)は,パルチザン掃討と称して、ユダヤ人,共産党員,ロマ(ジプシー)などを銃殺した。マンシュタイン元帥は,この戦争犯罪責任を問われて,戦後の軍事法廷で禁固18年の刑を宣告された。
Hitler begrüßt Generalfeldmarschall von Manstein auf einem Feldflugplatz im Osten 1943
[freigegeben am 18.3.1943]
Archive title: Ostfront.- Adolf Hitler beim Händeschütteln mit Erich von Manstein; rechts: General d. Flieger Wolfram von Richthofen
Dating: März 1943
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1995-041-23A引用(他引用不許可)。
1942年12月中旬,フリッツ・エーリッヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン(Fritz Erich von Lewinski genannt von Manstein)元帥は,フランスから到着した第6装甲師団(戦車136台配備)とカフカスからの第23装甲師団(戦車96台配備)という援軍を投入して,スターリングラード(Stalingrad)に包囲されている第六軍27万人の救出作戦「冬の嵐」を実施した。しかし,援軍は,スターリングラードに迫ったものの,100キロの距離のうち,12月19日,50キロまで開放することができた。
そこで,エーリッヒ・フォン・マンシュタイン(Erich von Manstein)スターリングラードの第六軍が,脱出するようにパウルスに命じたが,パウルスはヒトラーの死守命令を守った。燃焼不足や負傷兵の搬送困難から,脱出の成功はおぼつか無いと判断したためであろう。
写真(左)1942年,ソ連クリミア半島ヤルタ,ドイツ軍の軍用列車:Russland, auf der Krim, Jalta.- Oberst Hans von Ahlfen bei der Besichtigung eines Panzerzugs, Gruppenbild der Soldaten des Zus auf Artilleriewagen
Dating: 1942
写真(右)1942年,ドイツ軍ゴータGo242グライダーに乗り込む兵士と搭乗員:チョルムにまで物資・人員輸送するゴータ社のグライダーで,爆撃機He111が牽引して滑空飛行する。
スターリングラード(Stalingrad)に包囲された20万人には1日1000トンの物資が必要だが,パウルス将軍は,最低限1日300トン,のちに500トンを空輸要請した。ゲーリング空軍元帥はこれを承諾した。リヒトフォーヘンは本国の輸送機,爆撃機をも動員して空輸を行ったが,1日300トンを目標に空輸を開始した。しかし,順調な時でも100-200トン程度しか空輸することはできなかった。
Sowjetunion, Kessel von Cholm.- Transport von Soldaten mit Lastensegler Gotha Go 242. Soldaten beim Besteigen des Flugzeugs; PK 501
Dating: 1942 Anfang
Photographer: Muck, Richard撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-004-3633-06引用(他引用不許可)。
写真(右)1943年3月,雪の東部戦線で負傷したドイツ軍兵士:冬季白色迷彩服を着ているのは,ヘルメットの親衛隊SS徽章から武装親衛隊のようだ。
Versorgung eines Schwerverwundeten in der Schlacht um Charkow, März 1943
Dating: März 1943
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-1973-084-35引用(他引用不許可)。
他方,1942年12月16日,ロストフ奪回を企図するソ連軍の攻撃によって,カフカスにあった南方軍集団の主力である,ヴィルヘルム・リスト(Wilhelm List)元帥率いるA軍集団150万人がソ連軍による包囲の危機に陥った。
12月末,ヴァイクスのA軍集団は撤退することができた。このA軍集団撤退成功の要因は,スターリングラード(Stalingrad)のB軍集団(司令官マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)大将)隷下の第六軍を包囲するためにソ連軍が拘束されたため,A軍集団を攻撃する軍を割けなかったことを指摘できる。フリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus)率いるドイツ第六軍は,自らの脱出成功の可能性が低いと考え,戦線維持の命令を守った。同時に,第六軍が持久抵抗を続けたのは,カフカスのA軍集団の撤退を助けるためだったとも解釈できる。
1942年11月がら、ソ連南部のスターリングラード攻防戦が始まり、フリードリヒ・パウルス上級大将の指揮する第六軍は、ソ連軍によってスターリングラードに孤立、包囲されてしまった。この時、空軍総司令官ゲーリング国家元帥は、スターリングラード包囲下の第六軍に対する空輸補給作戦に自信があるとして、第6軍はスターリングラードの死守を命じられ、パウルスは1943年1月30日、元帥に昇進させられた。
写真真(右)1942年1-2月,ソ連南部、ドイツ空軍のユンカースJu-52タンテ輸送機:雪原の飛行場に着陸しているが,離着陸も飛行機の整備も厳寒の中では困難だった。当時の飛行機は,悪天候になれば,飛行できなかった。しかし,ユンカースJu-52輸送機は,稼働率が高く,スターリングラード(Stalingrad)に包囲されたドイツ第六軍に対する冬季空中補給作戦を敢行している。1942年11月24日,ヒトラーは,第六軍パウルス将軍に対して,スターリングラードからの退却を禁じたが,空軍のゲーリング国家元帥に第六軍への空中補給を命じた。ゲーリングは,第六軍に1日500トンの補給物資を空輸することは可能であると請合った。
Sowjetunion-Süd.- Flugzeug Junkers 52 bei Landung im Schnee; XI. Fliegerkorps
Dating: 1942 Januar - Februar
Photographer: Pirath, Helmuth 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-540-0403-09引用(他引用不許可)。
第4航空軍司令官ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン (Wolfram Freiherr von Richthofen)大将の隷下の第8航空航空軍団マルチン・フィービフ中将は,1941年11月20日,退路を断たれたフリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus)将軍の第六軍参謀長アルツゥール・シュミット少将に電話した。
シュミット参謀長が,スターリングラードに陣を構えると述べた時,軍の補給について,一個軍を空輸で支えることは無理なことを伝えていた。また,フィービヒ中将は,上官のリヒトフォーヘン大将に,スターリングラード(Stalingrad)の空輸要請は,実施困難なことを伝えた。
ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン (Wolfram Freiherr von Richthofen)大将は,フィービヒ中将からの連絡によって,スターリングラード(Stalingrad)空輸の話を聞き,空軍参謀総長イェショネクに,空中補給は不可能で,そのような要請を引き受けられないとの判断を伝えた。しかし,第六軍25万人を空中補給する方針が,ヒトラーと空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥によって決まった。
しかし、スターリングラード空中補給は、全く不十分であり、1943年1月30日から2月2日、第六軍守備隊は、ソ連赤軍に降伏、投降してしまう。これは、ドイツ軍始まって以来の大敗北であり、戦局打開のために、ドイツ国内では、本格的な国家総動員が求められた。1943年2月18日、何ドイツの直面した困難を率直に示し、国民の最大限の努力を求める総力戦大演説をぶったのは国民啓蒙宣伝相ヨーゼフ・ゲッペルス博士であり、総動員に対しても、戦局好転に対しても、何ら寄与できないゲーリングの政治的地位は低下した。
写真(右)1943年1-2月,ソ連、ドイツ空軍ユンカースJu-52タンテ輸送機:未舗装滑走路に着陸し,燃料タンク車から航空燃料の補給を受けている。1942年11月30日,初めてスターリングラードに100トン以上の補給を届けることができた。空輸任務にはユンカース輸送機180機以上が配備されたが,天候や補給不足,ソ連軍の対空射撃によって,稼働率は低下した。1942年12月24日-1943年1月31日まで,スターリングラード輸送任務によって,ユンカースJu-52輸送機266機,He-111爆撃機165機など合計488機が失われた。
Sowjetunion.- Auf einem Feldflughafen, Betanken einer Junkers Ju 52; KBK Lw1
Dating: 1943 Januar - Februar
Photographer: Pfeiffer撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1943年1月9日,ソ連はB軍集団(司令官マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)大将)第六軍フリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus)に降伏勧告をしたが,第六軍の兵士は救出の希望を持って,スターリングラード(Stalingrad)の陣地を守った。フリードリヒ・ヴィルヘルム・エルンスト・パウルス(Friedrich Paulus)将軍は,第六軍がソ連軍を拘束し,カフカスのA軍集団の撤退を間接的に援護しようとしたのであろう。これは、フィリピン、沖縄、硫黄島で弱体化した日本軍が本土決戦の準備のために時間稼ぎをするという持久戦継続あるいは降伏拒否の理由と同様である。
1943年1月10日,ソ連軍は総攻撃を開始した。フリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus)率いる第六軍への空輸に使用されていたスターリングラード(Stalingrad)の飛行場が,ソ連軍に占領され,第六軍(フリードリヒ・パウルス(Friedrich W. Paulus)上級大将の指揮するB軍集団第六軍はヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン (Wolfram Freiherr von Richthofen)の指揮する輸送機によるパラシュート空輸以外,物資補給を受けられなくなった。
1943年1月30日,第六軍フリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus:1890ー1957)大将は,ヒトラーからの無電で元帥に昇進したことをしった。ドイツ国防軍元帥が降伏したことは一度もないという,ヒトラーからの無言の圧力は,パウルス元帥にはもはや通用しなかった。
写真(右)1943-1944年,ソ連,東部戦線の飛行場、冬季迷彩を施したハーフトラック半装軌式兵員輸送軽装甲車Sd.Kfz.250を使って物資を運搬するドイツ軍:後方には、同じく冬季迷彩を施したユンカースJunkers Ju 52輸送機が駐機している。右には荷車が物資を積んでいる。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-578-1946-25
Archive title: Sowjetunion.- Transport von Verwundeten mit leichtem Schützenpanzer, Weitertransport mit Flugzeug Junkers Ju 52; PK Fs AOK
Dating: 1943/1944
Photographer: Biedermann撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年11月22日,パウルス将軍は,空路,包囲されていたスターリングラード北西グムラに飛んだ。が,翌23日,カラーチが陥落した。そこで,パウルス将軍は,直ぐにヴァイクスB軍集団に西方に,強行突破し,脱出する許可を求めた。しかし,翌24日,ヒトラーは,第六軍にスターリングラードを維持することを命じた。
ピトムニク飛行場は,1942年1月14日,ソ連軍の手に落ちた。ヴォルフラム・フォン・リヒトホーフェン (Wolfram Freiherr von Richthofen)は、もはやスターリングラードに包囲されたパウルス第6軍に空輸するには、パラシュートに頼るしかなかった。パラシュート空輸任務にもユンカース輸送機180機以上が配備されたが,天候や補給不足,ソ連軍の対空射撃によって,稼働率は低下した。
ドイツ空軍は、1942年12月24日-1943年1月31日まで,スターリングラード空中輸送任務によって,ユンカースJu-52輸送機266機,He-111爆撃機165機、Ju290など合計488機を失うという大損害を被った。
写真(右)1942年1月初旬,ソ連スターリングラードの飛行場の第六軍パウルス司令官:後方はユンカースJu-52輸送機の胴体中央部。スターリングラードのピトムニク飛行場は,ドイツ空軍の輸送機部隊によって,第六軍への空中補給が行われていた。この写真は,1月8-9日,フーベ将軍がヒトラーの総統大本営で戦況報告をして,包囲陣に戻ってきた時に撮影したようだ。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-021-2081-31A
Original title: info Scherl:An der Sowjetfront: General der Panzertruppe Paulus auf einem Feldflughafen.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter: Mittelstaedt
3416-42 "Fr" "Fr.OLF" Jan 42
[bei]Poltawa
Archive title: Rußland-Süd/Mitte.- Herbst Winter 1941; Paulus vor Junkers Ju 52; PK 637
Dating: Januar 1942
Photographer: Mittelstaedt, Heinz撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-021-2081-31A引用(他引用不許可)。
1943年1月31日,フリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus)元帥は,元帥昇進翌日,第六軍としてではなく,司令部要員だけを連れて降伏,投降した。そして,2月3日までに部隊ごとの降伏が続いた。
写真(右)1942-43年,スターリングラードで戦うソ連赤軍兵士:1943年1月31日から2月2日までにドイツ兵9万1000人がソ連軍に投降,降伏した。Russland, Kesselschlacht Stalingrad
ADN-ZB/Archiv/ II. Weltkrieg 1939-45 Die Stalingrader Schlacht begann im Juli 1942. In erbitterten, beiderseits verlustreichen Kämpfen wehrte die Rote Armee das weitere Vordringen der faschistischen Truppen ab. Während der sowjetischen Gegenoffensive im November 1942 wurden über 300 000 Mann eingeschlossen. Die Reste dieser Verbände, etwa 91 000 Mann, kapitulierten am 31.3. und 2.2.1943
Rotarmisten bekämpfen vom Dach eines Hauses in Stalingrad den Gegner, Januar 1943
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録 Datei:Bundesarchiv Bild 183-E0406-0022-001, Russland, Kesselschlacht Stalingrad.jpg引用。
ソ連軍は、スターリングラード方面で、1943年1月10日から29日までに,ドイツ軍兵士1万6800人を捕虜とし,それから2月3日までにさらに,9万1000人を捕虜とした。
1942年11月中旬,第六軍フリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus)大将指揮下には23万3000人のドイツ兵士,同盟国兵士がいたが,降伏時は10万7800人だった。1963年までに故国に戻ったのは6000人という。
写真(右)1942年,ソ連,チョルム,遺体を橇で運ぶ二人のソ連の婦人:戦渦に巻き込まれたのか,病気なのかはわからないが,独ソ戦では,処刑,迫害,追放,食糧不足など,現地の住民は多大な戦禍を被った。ソ連本土を占領され,物資略奪,強制労働などの過酷な軍政による支配が背景にあった。スターリングラードのドイツ軍が大損害を被って,捕虜も悲惨な目にあった,とドイツ側がソ連軍の捕虜取り扱いを非難する声もある。が,ソ連側から見ると,それは失われたソ連人民のいのち,被った物的被害に比べることはできない,と主張される。
Sowjetunion, Kessel von Cholm.- Zwei Frauen transportieren auf einem Schlitten einen Toten, Ende Januar - Anfang Mai 1942, PK 501
Dating: 1942 Anfang
Photographer: Muck, Richard
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-004-3648-21A引用(他引用不許可)。
第二次大戦の最大規模の決戦であるスターリングラード攻防戦で,ドイツ国防軍は,大敗した。第六軍フリードリヒ・パウルス(Friedrich Paulus)将軍は,スターリングラード死守を命じられ,元帥に昇進させられた。しかし,その後,空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング(Hermann Göring)国家元帥の約束した空中補給の約束は果たされず、孤立し、ソ連に降伏してしまった。多数のドイツ兵が死亡し捕虜になった。ドイツ国防軍の栄光は失われた。
◆ヒトラーは,スターリングラードの敗北で,多数のドイツ兵士が死亡し捕虜になった時期,ゲットーや収容所でユダヤ人やソ連軍捕虜が生きながらえていることに,耐えられなかったに違いない。親衛隊ヒムラー長官に,全ユダヤ人を殲滅する口頭命令を下した。
6.1942-1943年の戦車
写真(右)1942年5月、ソビエト連邦、東部戦線、クリミアのドイツ陸軍マーダー Marder III 対戦車自走砲 (Sd. Kfz. 139) :ソ連軍から鹵獲した51口径76.2ミリ師団砲(野砲)M1936を改造した7.62 cm PaK 36(r)を搭載。
Inventory: B 145 Bild - Presse- und Informationsamt der Bundesregierung - Bildbestand
Signature: B 145 Bild-F016217-0015A
Original title: info Krim, Anfang Mai 1942
Aufmarsch zum Angriff auf die Halbinsel Kertsch
Archive title: Sowjetunion, Krim.- Panzerjäger Marder III (Sd. Kfz. 139)
Dating: Mai 1942
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv.
写真はウィキメディア・コモンズ (Wikimedia Commons) ドイツ連邦アーカイブ (Deutsches Bundesarchiv) ・File: Bundesarchiv Bild 101I-022-2949-28, Russland, Jagdpanzer "Marder".jpg引用。
38(t)対戦車自走砲マーダーIII(Jagdpanzer Marder III)はチェコ陸軍制式のチェコシュコダ38(t)戦車(Panzerkampfwagen 38 (t))の砲塔を取り除き,開放式戦闘室を設けて,そこにソ連軍から鹵獲した76.2ミリ野砲7.62cmPak36(r)を装備した対戦車自走砲である。全長 5.9メートル,全幅2.2メートル,全高 2.5メートル,重量10.7トン。占領国チェコ製の車体に,ソ連製の火砲をつけたハイブリッド型の戦闘車両だった。
写真(右)1942年夏,76.2ミリ砲装備のマーダー III 38(t)対戦車自走砲Jagdpanzer Marder III (Sd. Kfz. 139):
Sowjetunion-Süd (Don,Stalingrad).- Jagdpanzer Marder III ; PK 694
Dating: 1942 Sommer
Photographer: Seibold撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-218-0526-28引用(他引用不許可)。
初期のドイツ陸軍マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から鹵獲した51口径76.2ミリ師団砲(野砲)M1936を改造した7.62 cm PaK 36(r)を搭載し、車体もチェコ製造の38(t)戦車だった。つまり、火砲も車体もドイツが設計、生産したものではなく、借り物だった。しかし、後期型のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダーIII対戦車自走砲M型(Sd.Kfz. 138)は、ドイツ軍の46口径7.5センチ対戦車砲(7.5 cm PaK 40 )を搭載した。
マーダー III 対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、チェコ38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))の砲塔と上部構造を撤去して、戦闘室を設けて周囲を11mm厚保の装甲板で覆った。ただし、戦闘室の後方と上面は開放されており、防御力は弱い。また、装甲が薄いだけでなく、大きな戦闘室を車体上面に設けたために車高が高くなり、隠匿性が低くなり、敵の目標になりやすかった。しかし、車体前面装甲は、チェコ38(t)戦車(Czech Panzer 38(t))と同じく50mm厚で、当時の戦車としては強固だった。
初期のドイツ陸軍マーダーIII対戦車自走砲(Sd.Kfz.139 Panzerjäger 38 Marder III )は、ソ連軍から鹵獲した76.2ミリ砲を改造して搭載し、車体もチェコ製造の38(t)戦車だった。しかし、後期型のマーダーIII対戦車自走砲H型(Sd.Kfz. 138)とマーダー III 対戦車自走砲M型(Panzerjäger Marder III Ausf. M Sd.Kfz. 138)は、チェコ38(t)戦車G/H型の車台を流用して7.5cm砲Pak40を搭載した。マーダー III 対戦車自走砲H型(Panzerjäger Marder III Ausf. H Sd.Kfz. 138)はM型とは異なり、車体中央にトップヘビーに対戦車砲を搭載しており、アンバランスな感がある。ソ連軍から鹵獲した7.62cm Pak36野砲を搭載したのはマーダーII自走砲およびマーダーIII自走砲である。
写真(右)1942年3-4月,ソ連、ヴィスマの泥濘の道を歩兵を随伴して進む、短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)搭載のIV号戦車 (Panzer IV):
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-269-0211-10
Archive title: Sowjetunion bei Wjasma.- Panzer IV mit Soldaten auf verschlammtem Waldweg; PK 697
Dating: 1942 März - April
Photographer: Böhmer
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-269-0211-10引用(他引用不許可)。
ドイツ軍のIV号戦車 (Panzer IV)は、設計当初から24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載することを前提としていたため、車体の全幅は、大型砲塔を搭載できる余裕があり、砲塔を収めるターレットリング(砲塔回転盤)の直径は、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の搭載を前提としていたIII号戦車よりも大きかった。そのためん、戦前の設計でありながら、43口径の長砲身7.5センチ戦車砲を搭載することもでき、終戦までIV号戦車の生産は続行された。
他方、III号戦車の砲塔に搭載できる火砲は5センチ砲が最大だったために、大戦後半には対戦車戦闘能力が不足したために生産は中止された。しかし、砲塔を撤去して大型戦闘室を設けた突撃砲であれば、長砲身43口径あるいは48口径7.5センチ戦車砲を搭載できたため、突撃砲として終戦まで生産された。
写真(右)1942年9月,ソ連、スターリングラードに進撃するドイツ軍の短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載したIII号突撃砲(Sturmgeschütz III)C/D型:III号戦車の砲塔を撤去して、車体上面に大きな戦闘室を設けそこに7.5センチ砲を搭載した火力支援戦車。後期G型では、砲塔に43口径7.5センチ戦車砲を装備して対戦車戦闘能力を強化している。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild
Signature: Bild 183-J18797
Original title: info An der Sowjetfront: Kampf um Stalingrad.- Die ersten Sturmgeschütze dringen in das hartumkämpfte Stalingrad ein.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter Gebauer (Sch)
5263-42 "Fr. Fr. OKW" September 1942 [Herausgabedatum]
Archive title: Sowjetunion.- Schlacht um Stalingrad.- Sturmgeschütz III in Fahrt auf staubiger Landstraße
Dating: September 1942
Photographer: Gebauer
撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_183-J18797引用(他引用不許可)。
III号突撃砲C/D型((Sturmgeschütz III)諸元
全長: 5.40m
全幅: 2.95m
全高: 1.96m
全備重量:22t
乗員: 4名
エンジン:マイバッハHL120TRM V型12気筒液冷ガソリンエンジン
最大出力: 300hp/3,000rpm
最高速度: 路上40km/h
航続距離: 165km
武装: 24口径7.5cm戦車砲 (携行砲弾数44発)、7.92mmMG34機関銃 (携行銃弾数600発)
装甲: 10〜50mm
ドイツ国防軍のIII号突撃砲(Sturmgeschütz III:StuG III)は、歩兵への火力支援車両として大型の24口径7.5センチ戦車砲(7,5 cm KwK 37 L/24)を搭載する突撃砲として、III号戦車の車台を流用して開発された。その後III号戦車が威力不足で前線で使用できなくなる、その車体の大型戦闘室を活かして43口径7.5センチ戦車砲を搭載して、対戦車用の突撃砲としても使用されるようになった。
III号戦車では全幅が制約のために、大型砲塔を搭載できなかった。そこで、III号戦車から砲塔を撤去して、大型戦闘室を設け,そこに装甲板を設けて7.5センチ砲を装備したのがIII号突撃砲(Sturmgeschütz III)である。このIII号突撃砲は、終戦までドイツ軍の主力突撃砲となり、火力支援だけでなく、対戦車戦闘にも活躍した応急の陸戦兵器だったが、実用性も量産性も高かったために、III号突撃砲(Sturmgeschütz III:StuG III)は終戦までに1万両が生産され、第二次世界大戦中のドイツ軍の装甲戦闘車輛のうちで最多の生産台数を誇っている。
写真(右)1942-1943年,ソ連、スターリングラード戦時期の武装SS親衛隊騎兵師団の擲弾兵とドイツ陸軍の長砲身60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60) を搭載したIII号戦車J/L型(Panzer III):戦車の全面には三段にもわたって覆帯(キャタピラ)を設置して補助装甲としている。
J型の搭載砲は、42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)で、砲弾99発を携行できた。大型砲が搭載不可能なIII号戦車は、1943年には生産が中止された。そして、III号戦車の車体を改造した7.5センチ戦車砲搭載のIII号突撃砲の量産に資源を集中することになった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-610-1979-23
Archive title: Sowjetunion.- Panzer III passiert auf dem Marsch eine sandige Dorfstraße; PK KBK Lw zbV
Dating: 1942
Photographer: Henkels 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-610-1979-23引用(他引用不許可)。
ドイツ軍のIII号戦車J型は設計に変更を加えて、搭載予定がなかった長砲身60口径5センチ砲を搭載した型である。実際、ドイツ軍は、ソ連の戦車の防御力が強く、予定していたラインメタル社の42口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)を改造した42口径5センチ戦車砲(5 cm Kampfwagenkanone 38 L/42) では威力不足であると感じていた。しかし、実は独ソ戦勃発の前年、1940年後半には、ヒトラーは、当時III号戦車に搭載する42口径5センチ砲(5 cm Panzerabwehrkanone 38)では威力不足であると直観し、より強力なライメタル社の60口径5センチ対戦車砲(5 cm Panzerabwehrkanone 39)を搭載することを要求していた。
しかし、対戦車砲は、砲尾が水平に開閉する構造で狭い砲塔の中での薬莢が飛び出して使用は不可能だった。戦車砲は、砲尾が垂直に開閉するように改造する必要があった。また、当時、ドイツ陸軍は最新の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)の威力は十分あると判断していたために、長砲身60口径5センチ対戦車砲(5 cm PaK 38)をIII号戦車に搭載することに消極的だった。
独ソ戦を準備していたヒトラーは、1941年春になっても、III号戦車には60口径5センチ対戦車砲が搭載されていないことを知り、42口径ではなく60口径砲への換装を厳命した。こうして、急遽、対戦車砲の戦車砲への改造が始まり、独ソ戦勃発後、半年近くも経った1942年末、60口径5センチ戦車砲(5cm Kampfwagenkanone 39 L/60)を搭載したIII号戦車J型が登場した。
写真(右)1942-1943年,ソ連、スターリングラード戦時期の武装SS親衛隊騎兵師団の擲弾兵とドイツ陸軍の短砲身24口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 37 L/24)を搭載したIV号戦車D型(Panzer IV Ausf. D):戦車の全面には三段にもわたって覆帯(キャタピラ)を設置して補助装甲としている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-748-0096-37
Archive title: Sowjetunion.- Besatzung eines Panzer IV Ausf. D auf Panzer stehend und mit Ferngläsern beobachtend; PK OKH
Dating: 1942/1943
Photographer: Kempe撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-748-0096-37引用(他引用不許可)。
ドイツ陸軍のIV号戦車はJ型以降は、長砲身60口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 39)を搭載し、対戦車戦闘を念頭に置いていた。他方、IV号戦車はD型でも、火力支援車である突撃砲でもクルップ社の砲身長1768ミリの24口径7.5センチ戦車砲(7.5 cm KwK 37 L/24)を搭載していたが、対ソ戦初期にソ連赤軍のT-34戦車に直面したドイツ軍は、その防御力の高さと長砲身76.2ミリ戦車砲の威力に衝撃を受けた。
そこで、ヒトラーの長砲身砲採用の命令もあって、1942年春から対戦車戦能力の向上のためIV号戦車とIII号突撃砲には長砲身43口径の7.5センチ戦車砲(7.5cm-KwK 40 L/43)が装備されることになった。しかし、陸軍は保守的で、長砲身砲の生産も順調ではなっかようで、実際に対戦車戦闘能力が強化されたIV号戦車が登場するのは、1942年後半になってしまった。
写真(右)1942-1943年冬,ソ連、スターリングラード戦時期の武装SS親衛隊騎兵師団の擲弾兵とドイツ陸軍の42口径5センチ戦車砲(5 cm KwK 38)を搭載したIII号戦車G/J型第301号車。戦車の全面には覆帯(キャタピラ)を設置して補助装甲としている。雪原を歩く武装親衛隊、白色の冬季迷彩塗装の外套をきている。42口径7.5センチ戦車砲搭載のJ型は1941-1942年に1,500両、60口径砲搭載のJ型は1941-1942年に1,000両が生産されている。スターリングラードで敗北を喫したドイツ軍は、1943年の夏、城塞作戦によってクルスク突出部のソ連軍を挟撃する大作戦を決行した。
Inventory: Bild 101 III - Propagandakompanien der Wehrmacht - Waffen-SS
Signature: Bild 101III-Bueschel-090-39
Old signature: Bild 146-2000-013-21A
Archive title: Sowjetunion.- Grenadiere der Waffen-SS-Kavallerie-Division im Infanterieeinsatz mit Panzer-unterstützung, Panzer III
Dating: 1942/1943 Winter
Photographer: Bü
schel
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Bueschel-090-39引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年8月23日,ソ連南部ドン川、スターリングラード戦、ドイツ軍第16装甲師団の八輪重装甲車Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231 8-Rad) :55口径2 cm KwK 30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関銃を密閉砲塔に搭載した。四輪駆動、独立サスペンションの贅沢な構造で密閉式の砲塔に2センチ対空機関砲を改造した55口径2 cm KwK 30戦車砲と同軸の7.92mmMG34機関砲を装備している。操縦席は前後に2席あるから、戦地や市街地で交通渋滞や隘路に直面した場合、ゲリラ兵に襲撃された場合でも緊急に方向転換が可能だった。
Inventory: RH 20-6 Bild - Armeeoberkommando 6.- Bildbestand
Signature: RH 20-6 Bild-00216-017
Old signature: RH 20-6/216
Original title: info Erster Blick auf die Wolga Pz. Spähwg. 16. Pz. hat nördlich Stalingrad die Wolga erreicht 23.8.1942
Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad, Wladimirowka / Spartanowka (?).- Schlacht um Stalingrad.- Panzerspähwagen (Sd.Kfz. 231) der 16. Panzer-Division an der Wolga
Dating: 23. August 1942
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivから"RH 20-6 Bild-00216-017"引用。
写真(右)1942-1943年,ロシア東部戦線、ウクライナ、アフトゥイルカ、装甲師団「グロス・ドイッチェラント」の四輪偵察装甲車Sd.Kfz. 222と八輪無線指揮重装甲車Sd.Kfz. 263:Sd.Kfz. 263は。偵察重装甲車Sd Kfz 232から2センチ砲を搭載した砲塔を撤去し、車体上部に戦闘室を拡大し、大型無線機を搭載、車体上部にフレーム式アンテナを設けている。Sd.Kfz. 263の兵装は、車体前部の7.92mm機MG34機関銃1丁のみ。後方には、半装軌式兵員輸送軽装甲車Sd.Kfz. 250/1と半装軌式無線指揮軽装甲車Sd.Kfz. 250/3も隊列に加わっている。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-748-0100A-16
Archive title: Russland, bei Achtyrka.- Motorisierte Truppen der Panzergrenadierdivision "Großdeutschland", u.a. leichte Schützen-panzer (Sd.Kfz. 250/1, Sd.Kfz. 250/3 Funkpanzerwagen, Spähpanzer Sd.Kfz. 222, Sd.Kfz. 263); PK ObdH
Dating: 1942/1943.
Photographer: Kempe撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchivが譲渡したWikimedia Commonsから"Bild 101I-792-0138-21A"引用。
7.1942年、ウクライナを訪ねたドイツ人
写真(右)1942年8月,ソ連ドン地方,老婆のシラミを取る女性を眺めるドイツ軍兵士:農家に上がりこんだドイツ軍兵士は,現地女性のシラミ取りを,興味深げに見守っている。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0645
Original title: info Die Einwohner entlausen sich gegenseitig
Dorf am Don, August 1942
Archive title: Sowjetunion, Ortschaft am Don.- Zivilbevölkerung bei Entlausung (?)
Dating: August 1942
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0645引用(他引用不許可)。
ドイツ軍兵士は,ソ連ウクライナの住民に親近感を抱いて,警戒することもなかったかもしれない。ウクライナの住民も,侵攻してきたドイツ軍兵士を前に緊張していたかもしれないが,教養あるドイツ人には,不信感を抱かせないようにと,歓迎したり、家に迎え入れたりしたこともあったかもしれない。ドイツ軍兵士は,一人の人間として、住民に暖かい視線も持って見守ったかもしれない。
後に、白バラ通信で反ナチス抵抗運動をはじめたショル、シュモレなどドイツ国防軍の若い兵士たちがそうだった。彼らは、反スラブ、反ユダヤの人種衛生学の教育を受けていたけれども、実際にそれらの人種民族差別を受け入れたわけではなかった。
しかし、ドイツ人の個々の思いを無視して、ヒトラーはスラブ人を下等劣等人種として位置づけ,貧相な身なりを軽蔑し,文化程度が低いと決め付け、ソ連占領地をドイツの植民地、生存圏として支配しようとした。スラブ人は,交通標識がわかる程度の教育を授けるたけで十分で,ドイツ人の農奴,下僕として使役させるつもりだった。
写真(右)1942年8月,ソ連ドン地方,老婆のシラミを取る女性を眺めるドイツ軍兵士:農家に上がりこんだドイツ軍兵士は,現地女性のシラミ取りを,興味深げに見守っている。
ドイツ軍兵士は,住民に親近感を抱いて,警戒することもない。住民も,多少緊張していたかもしれないが,教養あるドイツ人には,不信感を抱かせないようにと,家に上げたのかもしれない。このドイツ軍兵士は,住民と交流したいと思っているようだ。
けれども,ヒトラーはスラブ人を下等劣等人種として位置づけ,貧相な身なりを軽蔑し,文化程度が低いと決め付けた。スラブ人は,交通標識がわかる程度の教育を授けるたけで十分で,ドイツ人の農奴,下僕として使役させるつもりだった。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0644
Original title: info Die Einwohner entlausen sich gegenseitig
Dorf am Don, August 1942
Archive title: Sowjetunion, Ortschaft am Don.- Zivilbevölkerung bei Entlausung (?)
Dating: August 1942
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0644引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年8月,ソ連ドン地方,老婆のシラミを取る女性を眺めるドイツ軍兵士:農家に上がりこんだドイツ軍兵士は,現地女性のシラミ取りを,興味深げに見守っている。
ドイツ軍兵士は,住民に親近感を抱いて,警戒することもないのであろうか、住民もドイツ軍兵士を受け入れているように見える。
しかし、ヒトラーはアーリア人、ドイツ民族のみが文明の担い手であると盲信して、スラブ人などを人間以下の存在として人権をm気留めるつもりは全くなかった。ドイツの生存圏を支える労働力としてのみ存在を許した。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0646
Original title: info Die Einwohner entlausen sich gegenseitig
Dorf am Don, August 1942
Archive title: Sowjetunion, Ortschaft am Don.- Zivilbevölkerung bei Entlausung (?)
Dating: August 1942
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年8月,ソ連ドン地方,老婆のシラミを取る女性を眺めるドイツ軍兵士:農家に上がりこんだドイツ軍兵士は,現地女性のシラミ取りを,興味深げに見守っている。ドイツ軍兵士にとっては、初めてのロシア旅行だったのかもしれない。戦いの合間の平和なひと時を大切にしたのであろうか。住民に暖かい視線も持って見守っているようにも感じられる。
Die Einwohner entlausen sich gegenseitig
Dorf am Don, August 1942
Dating: August 1942
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0647引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年夏,ソ連ウクライナで水辺で日光浴するビキニのウクライナ女性:少女は写真をドイツの男に写真を撮られるのを恥ずかしがって,困惑しているようだ。しかし,ドイツ人に恐怖しているわけではない。クリミヤ半島南端ヤルタは,夏のリゾートあるいは避寒地として,スターリンの社会主義時代にも賑わっていた。ここは,ウクライナの内陸のようだが,湖沼や河川で泳いで,日光浴下のであろう。
当時から斬新なビキニの水着をウクライナ女性が着ていた。それをドイツ軍兵士が眺め,カラー写真に撮影したようが,ウクライナを蔑視する視線で撮られたものではないようだ。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0480
Original title: info Ukrainerinnen beim Sonnenbaden
Sommer 1942
Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Frauen mit Bikini beim Sonnenbaden
Dating: 1942 Sommer
Photographer: o.Ang.
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0480引用(他引用不許可)。
第一次世界大戦の最中の1917年のロシア革命でニコライ2世統治下の帝政ロシアが滅亡し、ロシアに臨時革命政府が樹立された。しかし、臨時政権は安定せず、デニキン将軍など帝政ロシア派の白軍との内戦、ウクライナ独立を目指す民族主義者の反乱がおきた。そして、1920年には、第一次大戦後に独立したポーランドがソ連に侵攻してきた。ウクライナにポーランド軍が侵入し、主要都市のキエフもポーランド軍に占領されてしまった。こうして、ウクライナ西部とベラルーシ(白ロシア)西部がポーランドに併合された。ロシアは、内政に意を注ぎ、1922年にロシア、ウクライナ、ベラルーシ、カフカスなどの旧ロシア帝国領の国々はソヴィエト社会主義共和国連邦を樹立する。
1930年代に共産党の実権を掌握したスターリンは、農業の集団化、重工業化を強行し、ウクライナでは、土地を奪われた農民は抵抗したが、抑圧、排除された。その過程でウクライナに大飢饉が生じ、数百万人が死亡した。
1941年6月、ドイツ軍がソ連に侵攻した当初、ウクライナでは、それまでのソ連政府の圧政、農業集団化への反感から、ドイツ軍を歓迎するものもあった。破竹の進撃を続けるドイツ軍は、1941年11月中に全ウクライナを占領した。ウクライナ人は、スターリンの支配を逃れ、新しい国づくりが可能になるのではないかと期待した。
写真(右)1942年8月,ソ連、ウクライナ,日光浴をするウクライナの女性:農家に上がりこんだドイツ軍兵士は,現地女性のシラミ取りを,興味深げに見守っている。
ヒトラーはスラブ人を下等劣等人種として位置づけ,貧相な身なりを軽蔑し,文化程度が低いと決め付けた。スラブ人は,交通標識がわかる程度の教育を授けるたけで十分で,ドイツ人の農奴,下僕として使役させるつもりだった。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0481
Original title: info Ukrainerinnen beim Sonnenbaden
Sommer 1942
Archive title: Sowjetunion, Ukraine.- Frauen mit Bikini beim Sonnenbaden
Dating: 1942 Sommer
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
1941年6月、ドイツ軍はソ連に侵攻し、破竹の進撃を続け、11月中に全ウクライナを占領した。ヒトラーは、東方ソ連を占領して、共産主義・ボルシュビズムを打倒して、農産物や地下資源の豊富なウクライナをドイツの生存圏として植民地化しようとした。その過程で、当初は、反スターリン、反農業集団化、反共産主義だったウクライナの国民も、ドイツ軍による虐殺、略奪、徴用、強制労働、強制連行の対象となった。失望したウクライナ人は、ドイツにロシア人以上に憎悪をたぎらせるようになった。
写真(右)1942年9月,ソ連、スターリングラード近郊、ドイツ軍兵士を歓迎するウクライナ人:普段着で水と食料を与えている。ウクライナ人は,ドイツ軍進駐初期には,ボリシェビキ圧制から解放され,第一次大戦末期と同じく,ウクライナ独立が期待された。
ドイツ軍兵士の中には,ウクライナの自由のために共産主義と戦うと考えたまじめな兵士もいたに違いない。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0023
Original title: info In der Steppe vor Stalingrad hat der Gegner die kleinen Dörfer fast kampflos geräumt
September 1942
Archive title: Sowjetunion, bei Stalingrad.- Zwei deutsche Soldaten beim Essen aus Kochgeschirr / "Henkelmann" vor einem kleinen Gebäude mit russischer Frau in einem Dorf sitzend, Gläser und Töpfe auf dem Zaun
Dating: September 1942
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0023引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年3-4月、ドイツ占領地のソビエト連邦から鉄道で、ドイツに送られ労働に従事するか強制疎開させられるソ連の住民:男女が別の列車の貨車に荷物を手にして乗り込んでいる。ドイツに移送される労働者は、工場や農場で「オストアルバイター(東方労働者)」として働かされた。当初は、外国人労働者の出稼ぎ扱いだったが、強制連行による動員も行われた。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-146-1542-10A
Archive title: Sowjetunion.- Evakuierung / Deporation [?] sowjetischer Zivilisten, Männer und Frauen beim Besteigen von Güterwagen auf einem Bahnhof; PK 689
Dating: 1942 März - April
Photographer: Menzendorf撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年夏,ソ連、ウクライナ、スターリングラード攻防戦の時期、ウクライナから鉄道列車に載せられて、労働のためにドイツに送られると思われるウクライナ女性と見送りの人々:ドイツの軍需産業、食糧生産は、徴兵制の強化によって労働力不足に陥っていた。そこで、ドイツは占領したポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの住民を徴用あるいは強制連行して動員した。彼らは、ドイツでは「オストアルバイター(東方労働者)」と呼ばれた。
Inventory: B 145 Bild - Presse- und Informationsamt der Bundesregierung - Bildbestand
Signature: B 145 Bild-F016197-0017
Archive title: Ruß land, Ukraine.- Abtransport von Zivilisten (Deportation?) mit der Eisenbahn, vermutlich Sommer 1942
Dating: 1942 Sommer
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・B_145_Bild-F016197-0017引用(他引用不許可)。
写真(右)1942年夏,スターリングラード攻防戦の時期、ウクライナから鉄道で、ドイツに送られ労働に従事するウクライナ人と見送りする女性たち:労働需要が高まっていたドイツに派遣される労働者は、工場や農場で働いた。これが、ドイツの「オストアルバイター(東方労働者)」である。当初は、外国人労働者の出稼ぎだったが、強制連行による動員も行われた。しかし、東部占領地のポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの住民は、スラブ人として下等人種扱いされる場合が多く、過酷な取り扱いを受けることになる。
Inventory: B 145 Bild - Presse- und Informationsamt der Bundesregierung - Bildbestand
Signature: B 145 Bild-F016197-0018
Archive title: Ruß land, Ukraine.- Abtransport von Zivilisten (Deportation?) mit der Eisenbahn, vermutlich Sommer 1942
Dating: 1942 Sommer
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・B_145_Bild-F016197-0018引用(他引用不許可)。
第二次大戦下にあって徴兵が強化されたドイツ、とくに産業界では労働力不足に陥り、東部占領地のポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの住民を、ドイツでの製造業や農業に従事させる「オストアルバイター(東方労働者)」として動員した。当初は、外国人労働者の出稼ぎだったが、強制連行による動員も行われた。下等劣等人種だ見下されていたスラブ人,ユダヤ人は、奴隷のように酷使された。
写真(右)1943年3月,ソ連方面、ソ連占領地に住民を残さないようにトラックで強制移送するドイツ軍。東部占領地のポーランド、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアの住民は、いったんドイツに占領されたが、スターリングラード戦以降は、徐々にソ連赤軍によって解放された。しかし、ドイツ軍に消極的にでも協力していたことが判明すれば、過酷な取り扱いを受けることになる。それを恐れて、ドイツ軍とともに脱出する住民も少しはいたようだ。いずれにせよ、家屋、土地、不動産、家畜などの資産を残したまま疎開することは容易に決断できるものではない。しかし、強制移送とあれば従うしかない。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe
Signature: Bild 101I-151-1798-03
Original title: info Scherl:
An der Sowjetfront: Die Ortschaften [Slobodka] werden geräumt. Die Zivilbevölkerung will nicht noch einmal unter der Sowjetherrschaft leben. Die deutsche Wehrmacht stellt ihnen Lkw zur Verfügung.
PK-Aufnahme: Kriegsberichter Götzke
März 1943
Dating: März 1943
Photographer: Götzke撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101I-151-1798-03引用(他引用不許可)。
◆ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。ユダヤ人絶滅を口頭で命じたため,命令書はないが,この開戦直前の国会演説から,1945年の政治的遺書まで,明確にユダヤ人殲滅戦争を遂行することを公言している。
◆1941年12月7日(日本8日)の太平洋戦争開始の4日後,12年11日、ヒトラーは,国会におけドイツの対米宣戦布告の大演説で,「ルーズベルトを操っているのは誰か,それは時が来たと調子に乗っているユダヤ人だ」と反ユダヤ戦争を米国とも戦うことを宣言した。
写真(右)1943年3月,ソ連中央部、ソ連占領地に住民を残さないよう強制移送するナチス親衛隊SS旅団の兵士。家屋、土地のような不動産、家畜や農業機械など動産を残したまま疎開することは容易にできるものではないが、強制移送とあればやむを得ず服従うするしかない。
Inventory: Bild 121 - Sammlung Adolf von Bomhard
Signature: Bild 121-1847
Old signature: Bild 146-1993-024-17
Archive title: Sowjetunion-Mitte.- Einsatz der Kampfgruppe des SS-Brigadeführers Generalmajor Schimana im Kampfraum (ohne Ortsangaben).- Soldaten / Ordnungspolizisten und Zivilisten beim Marsch über einem Feld
Dating: 1943 Sommer
Photographer: May 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_121-1847引用(他引用不許可)。
ヒトラーの1941年12月11日の対米宣戦布告の国会演説においては、独ソ戦で獲得した380万人余の捕虜,2万台余の戦車,1万7 機余の飛行機の破壊ないし戦利品としての獲得といった戦果を誇ると同時に,ドイツの戦死者16 万人余,負傷者57万人余,行方不明者3万3千人余も明らかにした。
1941年12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議でヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした---。
写真(右)1943年7-8月,ソ連中部で少年パルチザンを捕まえた武装親衛隊:十歳代中ごろの少年が,パルチザンとして武装親衛隊に逮捕され,後手に縛られ連行される。下等劣等人種スラブ人は,卑怯な破壊工作やスパイ活動,ドイツ兵士の闇討ちも辞さないと危険視された。テロ容疑者は,その疑いだけで処罰される予防戦争が戦われた。
Sowjetunion-Mitte.- Soldaten der Waffen-SS bei der Gefangennahme von Partisanen; SS-PK
Dating: 1943 Juli - August
Photographer: Niquille
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_101III-Niquille-067-21引用(他引用不許可)。
ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺・虐待は,秘匿されてきたが,それは,殺戮を行っていることが知れれば次のような支障が生じるからである。
?敵は殺害されると知れば,抵抗をやめない。そこで,抵抗を弱めるために,姦計を弄して,処刑した。
?残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人,パルチザン,ソ連軍捕虜の虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。
?後方・前線のドイツ人にとって,非人間的な虐殺・虐待は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にも虐殺・虐待を秘匿する必要があった。
写真(右)1943年3月,ソ連中部、モギリョフ、ドイツ軍に協力する地元民兵部隊:占領地の治安維持のために現地住民をもとにした東方占領省大臣・全国指導者のローゼンベルクの名前を冠したローゼンベルク特捜隊が編成された。しかし、その部隊は少数だった。
Inventory: Bild 131 - Einsatzstab Reichsleiter Rosenberg
Signature: Bild 146-2004-230
Original title: info Mogilew, März 1943
Einheimische Miliz wird ausgebildet.
Einsatzstab Reichsleiter Rosenberg für die besetzten Gebiete - Hauptarbeitsgruppe Ostland
Film: 45/17
Archive title: Sowjetunion-Mitte, Mogilew.- Männer einer einheimischen Milizeinheit
Dating: März 1943
Photographer: Walter
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_146-2004-230引用(他引用不許可)。
1940年5月20日付けの機密文書「東欧の異人種取り扱い」の中で,親衛隊国家長官ハインリヒ・ヒムラーは,「東欧の非ドイツ人には,初等教育4年間までの教育で十分である。算数は500以上の数を使わない簡単な計算だけ,国語は自分の名前が書ければよい。そして,ドイツ人に服従することは神によって定められた法であるという原則を教える。」と述べていた。
写真(右)1942年9月,ロシア,スターリングラードの住民が、破壊された家屋で生活している。占領されても、土地家屋を全て放棄して転居できる住民は多くはない。財産を守ろうと思えば、そこに、占領軍とともに暮らすしかない。住民の多くは、スターリンの出した焦土作戦の命令に反発を叔母得たに違いない。
Inventory: Bild 169 - Sammlung zum Rußlandfeldzug
Signature: Bild 169-0369
Original title: info Stalingrad-Bewohnerin beim Kochen auf ihrem provisorischen Ofen, Vorort von Stalingrad
September 1942
Dating: September 1942
Photographer: o.Ang.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0369引用(他引用不許可)。
ボック元帥指揮下の南方軍集団は,A集団とB集団に戦力を二分されてしまい,各々がカフカスとスターリングラードと言う別個の目標を追うことになった。古来,戦力の分散は戒められてきたが,側面防御を重んじ,ソ連軍の抗戦力を軽視したための結果であろう。スターリングラードで包囲され,1943年1月31日,マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)大将率いるB軍集団の第六軍指揮官フリードリヒ・パウルス(Friedrich W. Paulus)元帥が,ソ連に降伏した。
写真(右)1942年10月,スターリングラードで野外調理する女性:住居が破壊されたためか,野外の仮オーブンで食料を調理する。戦禍を被った民間人に対する同情的な視点が感じられる。ドイツ軍兵士も興味深そうに現地の風土をカラー写真で撮影したようだ。
コミュニケーションをはかり,現地の風土の面白さ,現地住民のたくましさや親切を身に染みてわかれば,下等劣等人種だとしてスラブ人,ユダヤ人を奴隷化するような発想は生まれてこないであろう。
Provisorischer Ofen in dem Erdreich eines Baikas einer Stalingrad-Einwohnerin
Oktober 1942
Dating: Oktober 1942
撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0351引用(他引用不許可)。
1943年2月3日まで,第六軍は,部隊ごとにソ連軍に降伏したが,降伏するまで生き残れたのは,11月にいた兵士30万人のうち,11万人弱だった。そして,ソ連軍捕虜となった後,過酷な収容生活のために,帰国できたのは6000人だったという。武運長久,すなわち戦いに勝って無事に故郷に帰ることを願ったドイツ軍兵士たちも,大半はその願いが,叶えられることはなかった。B軍集団第六軍指揮官フリードリヒ・パウルス(Friedrich W. Paulus)元帥は、戦後釈放され、東ドイツに帰り、1957年にドレスデン(Dresden)で亡くなった。
写真(右)1941年12月24日,ソ連でクリスマス礼拝を行うドイツ第六軍の将兵:ステージ上に司祭がいる。モミの木(クリスマスツリー)も置いてある。
Weihnachtsfeier in der Etappe der 6. Armee am 24.12.1941, irgendwo in Rußland
Archivtitel: Sowjetunion.- Weihnachtsfeier, Geistlicher auf Bühne, davor Tannenbäume (Weihnachtsbäume)
Datierung: 24. Dezember 1941
Fotograf: o.Ang. 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild_169-0875引用(他引用不許可)。
◆虐殺・虐待という忌むべき行為は,人々にとって,歓迎される情報ではない。人間とは,自分に都合のよい情報を知りたがり,信じたがるものである。バルバロッサ作戦,スターリングラード攻防戦の背後には,ユダヤ人,パルチザン,捕虜の組織的な虐殺の問題があった。たくさんのいのちが非人間的に失われたことを,激戦の一環として済ませるわけにはいけないであろう。
◆過去の歴史に無知であれば,それを恐れるあまり,歴史を捏造しプロパガンダを展開するしかなくなってしまう。自国の歴史を洗脳された,陰謀だと他人のせいにし不平を言うしかなくなってしまう。このような責任転嫁は,妄想をたくましくして,未知の歴史の亡霊を恐れるからだ。
しかし,冷静に歴史を知り,殺害された人々,殺害した人々の苦渋にも思いを馳せることで,真実の姿が見えてくる。錯誤,罪の範囲が,光明が見えてくる。そうすればどんな過去でも恐れることはない。
写真(右)1942年8月,スターリングラードを前にしたドイツ軍B軍集団の野外祈祷:
Feldgottesdienst vor Stalingrad
August 1942
Dating: August 1942. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。
ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
バルカン侵攻、パルチザン掃討戦、東方生存圏、ソ連侵攻も解説しました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ
⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒アンネの日記とユダヤ人
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
2009年2月10日開設、2017年2月5日増補改訂の鳥飼研究室へのご訪問ありがとうございます。データ引用の際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただけますお方のご協力をいただきたく,お願い申し上げます。
ご意見等をお寄せ下さる際はご氏名,ご連絡先を明記してくださいますようお願い申し上げます。
連絡先:
torikai007@yahoo.co.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1
東海大学社会環境課程HK 鳥飼 行博
TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292
Fax: 0463-50-2078
東海大への行き方|How to go
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 6000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials
from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the
URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai
Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright © Torikai Yukihiro, Japan. 2009/2017 All Rights Reserved.