◆ナチスとユダヤ人虐殺の参考文献リスト鳥飼行博研究室TorikaiLab
写真(上)1936-1940年,帝国人種優生学研究センターによる下等人種・劣等民族のサンプル採取:帝国人種優生学研究センターの白いコートを着たエバ・ユ−スティンEva Justin(?)がジプシー/ロマの頭部石膏模型を作っている。
Rassehygienische und Kriminalbiologische Forschungsstelle des Reichsgesundheitsamtes.- zwei Frauen mit weißem Kittel (Krankenschwestern, u.a. Eva Justin?) beim Abformen des Gesichts eines Mannes (Sinti/Roma?)
Dating: 1936/1940 ca.
Photographer: o.Ang.
Origin: Bundesarchiv 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用
◆当研究室掲載のドイツ連邦アーカイブ Bundesarchiv写真は,Wikimediaに譲渡された解像度の低い写真ではなく,アーカイブに直接,届出・登録をした上で引用しています。引用は原則有料,他引用不許可とされています。
写真(右)1934年9月5-10日,ナチ党ニュルンベルク大会四で点呼のため整列するヒトラーユーゲント:「ニュルンベルク党大会の団結と力を誇示するナチ党のヒトラーユーゲント」。巨大なニュルンベルク・スタジアムで指導者アドルフ・ヒトラーの前に忠誠を誓う。 Der Reichsparteitag der NSDAP in Nürnberg 1934.
Hitlerjugend im Nürnberger Stadion angetreten zum Appell vor ihrem Führer Adolf Hitler
Archivtitel: Nürnberg.- Reichsparteitag der NSDAP "Reichsparteitag der Einheit und Stärke", Appell von Hitler-Jugend, 5.-10. September 1934
Datierung: September 1934
Agentur: Aktuelle-Bilder-Centrale Georg Pahl
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
The Digital Picture Archives of the Federal Archives (Das Bundesarchiv)
The picture archives of the Federal Archives
The Federal Archives keeps approx. 11 million still pictures, aerial photographs and posters from modern German history. First photographs date from the 1860ties. Most pictures show events and/or persons, in particular from the
•Weimar Republic (1919-1933; among others Group "Bild 102 Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl")
•Nazi Reich (1933-1945; especially war pictures taken by propaganda companies of the German army (Wehrmacht, Group "Bild 101")
•GDR (German Democratic Republic:1945/49-1990; among others pictures of the central press agency (Group "Bild 183 Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst ADN-Zentralbild") and "everyday photography" ("Bild 226 Nachlass Hans Martin Sewcz", "N 1648 Bild Sammlung Beier")
•Federal Republic of Germany (from 1945/49 onwards; among others Group "B 145 Bild Federal Press and Information Office")
As of now, more than 180,000 pictures representing the variety of available images in the Federal Archives (Bundesarchiv) are kept in the database. Since November 2008 also photos of the Federal Press and Information Office (Bundespresseamt) are integrated in this databae. Additional pictures will be continuously imported into this database. You can find these pictures by full-text retrieval, extensive search or research by subject, person or locality.
写真(右)1941年,ベルギー、オステンドから西に通信用ケーブルを敷設する強制労働: Belgien.- Verlegung eines Kabels von Ostende nach Westende; Arbeitseinsatz von Zwangsarbeitern
Datierung: 1941
Fotograf: Herrmann, Ernst
Quelle: Bundesarchiv 写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
ナチス・ドイツとは,国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP:ナチ党)政権下にあった1933年1月から1945年5月のドイツのことで,「第三帝国」とも呼ぶことができる。
ヒトラーは,ドイツ・ワイマール共和国を否定し,962-1806年の神聖ローマ帝国(ハプスブルク帝国を含む),1871-1918年の第一帝政を引き継ぐ新しい「第三帝国」(Drittes Reich:Third Reich)として,ドイツを認識していた。これは,ドイツ周辺(ポーランド,チェコスロバキアなど)の民族ドイツ人を包含し,ドイツ人を支配民族として,ロシア人,スラブ人など東方諸民族を隷属させる大ドイツの建国を意味していた。
ヒトラーは,1933年のうちに,憲法を無視する全権委任法を制定,ナチ党以外の政党を解散させ,ワイマール共和国を解体した。こうして生まれたナチ党独裁国家の第三帝国は,世襲制の皇帝が統治する帝国ではないが,独裁者の下でドイツの栄光と領土拡大・生存圏(Lebensraum)確立を目指すという意味で「帝国」である。
1933年9月,第六回ニュールンベルク党大会では,同年3月に併合したオーストリアから,ハプスブルク帝国に引き継がれていた神聖ローマ帝国の宝剣など皇帝標章をドイツに持ち帰った。そして,ナチ党大会を「ドイツ大会」と称して,第三帝国は千年続くと公言した。副総統ヘスは,「党はヒトラーであり,ヒトラーはドイツである。ドイツがヒトラーである。」と演説した。
ヒトラーは,ドイツ人を支配民族として,その生存圏を東方に確立し,大ドイツを建国しようとした。これを,神の摂理と妄信し,そのための戦争を決意していた。ドイツ人を人種汚染(混血・遺伝子汚染)し,国際金融界,マスメディア,ボリシェビキ(共産主義)を操って,ドイツに戦争を仕掛けてくるユダヤ人を,完全に排除しようとした。
◆ドイツ連邦アーカイブは,自ら犯した歴史を示すような画像を多数保管している。鳥飼行博研究室は,アーカイブに登録,画像の公開を認められた。一方で,日本国内外で,ドイツ軍の写真集,特に兵器,軍装,戦歴に関する写真集が,たくさん刊行されている。その多くは,ドイツ連邦アーカイブの所蔵になり,商業的に利用されているが,誰でも無料で閲覧できる。ただし,外部での利用は,有料の場合がある。
【アジア太平洋戦争インデックス】:鳥飼研究室の戦史一覧
【本など商品Net購入】/【カテゴリ別の本Link】
/【沖縄戦・特攻・玉砕の文献】/【戦争論・平和論の文献】 ◆2009年9月8日(火)20時,9月12日(土)13時,9月15日(火)14時,NHKプレミアム8『世界史発掘!時空タイムス編集部 新証言・ヒトラー暗殺計画』に出演。
1.参考文献一覧
ヒトラー,ナチ党,ゲットー,「アンネの日記」,ユダヤ人虐殺(ホロコースト),ナチズム,第二次世界大戦に関しては,主に次の資料を利用した。
[1]アンネ・フランク(1994)深町眞理子訳『アンネの日記 完全版』文芸春秋
[2]ヴィクトール・E・フランクル(1985)『夜と霧−ドイツ強制収容所の体験記録』みすず書房
[3]John Cornwell(1999)Hitler's Pope: The Secret History of Pius XII Penguin Books
[4]オイゲン・コーゴン(1974)2001年林功三訳『SS国家−ドイツ強制収容所のシステム』ミネルヴァ書房
[5]ハインツ・ヘーネ(1981)『髑髏の結社・SSの歴史』フジ出版
[6] ルドルフ・ヘス(1999)『アウシュヴィッツ収容所』 講談社学術文庫
[7]グイド・クノップ(2004)『ホロコースト全証言−ナチ虐殺戦の全体像』原書房
[8]グイド・クノップ(2004)『アドルフ・ヒトラー五つの肖像』原書房
[9]グイド・クノップ(2004)『ヒトラーの親衛隊』原書房
[10]プリーモ・レーヴィ(1980)『アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察』朝日選書
[11]リチャード・ブライトマン(1998)2000年川上光訳『封印されたホロコースト−ローズヴェルト,チャーチルはどこまで知っていたか』大月書店
[12]ジョン・トートランド(1990)『アドルフ・ヒトラー』1〜4,集英社文庫
[13]デヴィッド・アービング(1988)『ヒトラーの戦争』1〜3,ハヤカワ文庫
[14}栗原優(1997)『ナチズムとユダヤ人絶滅政策−ホロコーストの起源と実態』ミネルヴァ書房
[15]永岑三千輝『ホロコーストの力学−独ソ戦・世界大戦・総力戦の弁証法』青木書店
[16]芝健介(2000)『ヒトラーのニュルンベルク−第三帝国の光と闇』吉川弘文館 [17]マイケル・ベーレンバウム(1996)『ホロコースト全史』創元社
[18]ジョン・H・ウォラー(2005)『ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争』鳥影社
[19]平井正(1991)『ゲッペルス−メディア時代の政治宣伝』中公新書
[20]カーユス・ベッカー(1974)『攻撃高度4000』フジ出版
[21]カプラン,A.ハイム(2007)『ワルシャワ・ゲットー日記―ユダヤ人教師の記録』The Warsaw Diary of Chaim A. Kaplan
風行社
[22]グイド・クノップ(2008)高木玲訳『ドキュメント ヒトラー暗殺』原書房
[23]
ロジャー・ムーア(2007)高儀進訳『ヒトラー暗殺』白水社
[24]アルバート・シュペール(1980)品田豊治訳『ナチス狂気の内幕−シュペールの回想録』読売新聞社(『第三帝国の神殿にて−ナチス軍需相の証言』中公文庫)
[25]
金森誠也(2002)『ゲーリング言行録−ナチ空軍元帥おおいに語る』荒地出版社
[26]ルパート・バトラー(2006)田口未知訳『ヒトラーの秘密警察−ゲシュタポ・恐怖と狂気の物語』原書房 [27]カール・ボイド(1999)左近充尚敏訳『盗まれた情報−ヒトラーの戦略情報と大島駐独大使』原書房
[28]アニタ・ラスカーニ=ウォルフィシュ(2003)藤島淳一訳『チェロを弾く少女アニタ−アウシュビッツを生き抜いた女性の手記』原書房 [29]エマヌエル・リンゲブルム(2006)ジェイコブ・スローン編・大島かおり訳『ワルシャワ・ゲットー−捕囚1940-42ノート』みすず書房 [30]ヒュー・R・トレヴァー=ローパー(2000)『ヒトラーの作戦指令書−電撃戦の恐怖』東洋書林
写真(右)1941年12月,ドイツ海軍宣伝班の軍用車:ドイツ連邦アーカイブには,ホルストの撮影したカラー写真が数十枚保管されている。 Sowjetunion.- Partisanenüberfall, durchschossene Windschutzscheibe eines PKW einer Marine-Propgandakompanie
Dating: Dezember 1941 ca.
Photographer: Grund, Horst
撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◎当サイトでは、引用・参考文献を必ずしも明示していません。これは,論文ではなく,一般向け解説を意図していること,引用が煩雑になるのを避けることを有せ印したためです。しかし,論文ではなくとも,本来は引用・参照できるようにしたほうが信頼性が高まります。論文・書籍など資料を明示したほうが,これから調べてみようとする人たちには便利です。そこで,簡単な形で,引用文献一覧あるいは参考文献リストをここに作成しました。
写真(右):1941年,ソ連中部あるいは南部で,井戸を背景に拳銃を操作する宣伝班ホルスト・グント:1941年6月,バルバロッサ作戦によってソ連に侵攻したドイツ軍に従軍したホルストは,ハリコフ,クリミア,スターリングラード方面で撮影したカラー写真を残している。 ホルストが手にしているピストルは,米軍制式のコルト・ガバメントM1911のようだが,そうであれば,米国の武器貸与法によってソ連に援助された鹵獲兵器であろう。
ドイツ連邦アーカイブには,ホルストの撮影したカラー写真が数十枚保管されている。ホルストは,独ソ戦に宣伝班として参加,映画や写真撮影を行っていたが,人物写真とともに,風景写真を多数残している。戦争従軍宣伝班というより,個人的にロシア・ウクライナ旅行を楽しんでいるようだ。これは,独ソ戦初期,ドイツ軍が優勢だった戦線後方だから可能な「旅行」だった。 Sowjetunion.- Horst Grund mit seiner Pistole ("Zimmerflak") vor einem Brunnen Dating: Dezember 1941 ca. 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
◎参考文献リストは,執筆者氏名をABC順に並べるのが普通です。けれども,このサイトでは,頻繁に資料を追加しているために,リストは,ランダムに記載しました。並べた順序は,参考文献の重要さを意味するものではなりません。また,参考文献と筆者の見解が一致することを保障するものではありませんが,いずれも読み応えがあります。
2.過去の歴史を知るのは,恐ろしいことなのか。
1)世界が協力し持続可能な社会を目指すには,過去の戦争を踏まえた平和人権の視点も必要だと考えます。
2)マスメディアによるプロパガンダに対抗してメディア・リテラシー,平和を望む市民の知性を重視します。
3)戦争俗説,戦争観を動員,総力戦の視点で再検討します。
4)過去の歴史に無知であれば,それを恐れるあまり,歴史を捏造しプロパガンダを展開するしかありません。自国の歴史を洗脳された,陰謀だと他人のせいにし不平を言うしかありません。このような責任転嫁は,妄想をたくましくして,未知の歴史の亡霊を恐れるからではないでしょうか。
5)冷静に歴史を知り,殺害された人々,殺害した人々の苦渋にも思いを馳せることで,真実の姿が見えてくるのではないでしょうか。錯誤,罪の範囲が,光明が見えてくれば,どんな過去でも恐れることはないのです。
3.デジタル画像資料の引用
写真とポスターは、主に下記の機関が作成、保管、公開しているデジタル画像資料を引用した。
[1]英国立公文書館:The National Archives [2]国防総省U.S. Department of Defense [3]帝国戦争博物館コレクション:Imperial War Museum Collections
[4]トルーマン大統領図書館:The Harry S. Truman Library and Museum [5]フランクリン・ルーズベルト図書館(FDR図書館):The Franklin D. Roosevelt Presidential Library and Museum
[6]米海軍歴史センター:The Naval Historical Center [7]米議会図書館印刷写真局:The Library of Congress、Prints & Photographs Division [8]米国立公文書館記録管理局(NARA):The U.S. National Archives & Records Administration [9]United States Holocaust Memorial Museum. Holocaust Encyclopedia. (米国ホロコースト記念博物館ホロコースト・エンクロペディア)
[10]ヤド・バシェム Yad Vashem (ホロコースト記念館)
[11]アンネ・フランクの家/アンネ・フランク博物館Anne Frank Stichting [12]ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv(連邦公文書館)
Research on the Nazi era
Personal research in the holdings on the Nazi era generally yield good results if the person sought:
was employed in one of the top or higher agencies of the German Reich,
worked in the judicial service (even in a junior position) during the years 1934 - 1945, or was involved in proceedings before the court of the Reich or another higher German court,
showed visible opposition to the Nazi regime and/or was exposed to acts of discrimination and persecution,
was of Jewish descent, which is shown on the supplementary cards to the national census records of 1939,
fell victim to the centrally controlled "Euthanasia" programme from 1939 to the summer of 1941,
was a Sinti or Roma subjected to tests carried out in the Criminal Biology Research Unit of the Reich Health Office
belonged to the NSDAP, its structures – especially the SS – and affiliated associations or was active in the cultural sphere during the era of the "Third Reich" and must have therefore belonged to the Reich Chamber of Culture,
was a so-called Volksdeutscher [ethnic German] who was resettled from a residential area in central, eastern or south-eastern Europe to Reich territory or to the occupied eastern territories, and who underwent a naturalisation procedure at the central migration office (EWZ).
The Digital Picture Archives of the Federal Archives
4.生き残ったものたちの思い
写真(右)1939年9月,ポーランド、東プロイセンの民間ユダヤ人の親子か:1939年9月のナチスのポーランド侵攻で,大量のユダヤ人が拘束され,ゲットーに強制移送された。下等人種劣等民族とし扱われ,厳しい処置をされた。 Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), Mann mit Kind; PK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard撮影。 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
浜谷正晴(1985)「生き残る意味の探求と調査への旅立ちー『ホロコーストの子供たち』に寄せる」『一橋論叢』第93巻第4号に次のようにある。
『ホロコーストの子供たち』の主題は,《ホロコーストを生き残った人びとの子供たち、すなわち生命のカが破壌カをしのいだ証としての新しい葉たちが、その自身は決して生きたことのない歴史にとらえられた生を、どのようにして生き抜いていくか》にある。
ここに紹介されたホロコーストを生き残った子供の証言に「鉄の箱」におしこめられたものは、
?「小さな女の子ならだれでも見てはならないもの」血と、砕けたガラス、山と積まれた骸骨、肉片がこびりついて黒ずんだ鉄条網、子供の靴、鞭、長軍靴、針
?「七番街行きローカル電車が、ポーランドに向かう家畜列車に姿をかえる」恐怖
?焼きつくされ、いまは根株をとどめるのみになった「家族樹」の墓
?600万人のユダヤ人がナチの手によって殺害されたという「歴史的事実」
同時に、鉄の箱には「父と母のために温室のようにぽかぽかと暖かい特別室」があった。ヘレン(1947年プラハ生まれ)の両親は、強制収容所を生きのび、生き残った「七万五千人に満たない人々」のうちの二人であった。
「両親が死の淵を越えてきたこと、それぞれたった一人で、それを越えてきたことには気がついていた。私が両親にとっての最初の伸間であり、新しい葉っぱであること、そしてこの葉は、まじりけ・なしの生命そのものでなければならないことも知っていた。この新しい葉は生命のカが被壊カをしのいだという証拠であり、両親の生命が尽きずに生きのびたという証だった。」
写真(右)1939年9月-10月,ワルシャワ,ドイツ軍の宣伝部隊の救援物資配給:ワルシャワのポーランド人に,無償で食糧などを提供している様子。情報戦に使用するプロパガンダ写真を撮影している。啓蒙宣伝省あるいはドイツ軍による,ポーランド占領後の宣撫工作。ワルシャワに自動車で乗りつけ,物資を配っている。同じ場面の宣伝写真が,ドイツ連邦アーカイブに10枚ほど保管されている。 Polen, Warschau.- Verteilung von Propagandamaterial. Auto mit deutschen Soldaten umringt von Bewohnern; PK 501
Dating: 1939 September - Oktober
Photographer: Rieger, Alfons 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
「歴史の本が、ある時代を説明しようと意図しているのに、その記述を読んでいる私にはさっぱり理解できないのはなぜか」「もしぽくらが、心の問題を抜きにして、ホロコーストについて研究することになったら、ぼくらが次の世代に伝え得るのは、その統計の数字だけになってしまう」
◆ホロコーストの「心の問題」とは、「平和条約が結ぱれた時点でびたりとおさまるわけにはいかない『破壌』」の人間的な意味であり、それを思想化しようとする人間の意思であり、実践である。」
写真(右)1941年7月,ドイツ軍が占領したロシア,ミンスクで移住を余儀なくされる民間人:ナチスは,政権獲得直後のドイツにダッハウなどに強制収容所を解説したが,ソ連占領地では,ユダヤ人を処刑あるいは強制収容所に収監した。ロシア人,ウクライナ人でも,ドイツ本国に連行,強制労働に従事させられた。また,反抗的な人物・パルチザン容疑者を処罰・処刑し,恐怖による威嚇,テロ支配を行った。 ドイツに設置された強制収容所は,ガス室を備えた絶滅収容所ではない。しかし,囚人は,食糧不足,不衛生な環境,虐待,奴隷労働,処刑によって,多数が死亡した。トレブリンカ,ゾビブル,アウシュビッツのようなユダヤ人絶滅収容所は,ダッハウ収容所の運営経験を踏まえ,1941年以降,ポーランドに設置された。 Russland, Minsk-Weissrussland
Geflüchtete Zivilisten kehren nach Minsk zurück.
Neg.Nr.: U.D. 4/7 von H.F. [Heeresfilmstelle]
Dating: 5. Juli 1941
Photographer: Weidner 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
写真(右)1942-44年,モーゼル小銃に銃剣を装着して待機するドイツ軍武装親衛隊の兵士: Grenadiere der Waffen-SS in Bereitstellung, im Vordergrund Soldat mit Gewehr mit aufgepflanztem Bajonett, eine Zigarette rauchend
Dating: 1942/1944 ca.
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
『ホロコーストの子供たち』の著者ヘレンは,が成長するにつれて,鉄の箱が「消化しきれないものでぎゅうぎゅう詰めになり、ついには無視し続けることが出来なくなっ」た。「この中を一緒にのぞいてくれる伸間が、私の心の中に貯めこんできたと思っているものは実在する、でっちあげたものではないとうけあってくれる仲間がほしかった」という。
こうして,ヘレンは,「世界のあちこちに散らぱった」、「独自の鉄の箱をもれぞれの心に抱いて生きている人たち」を探し「その人たちにさまざまな質問を投げかけ」、「その話に耳を傾け、収集するために。」
◆《両親が喋ることは、すべて生か死か、忠誠か裏切りか、といったことが絡む話だった。戦争が巨大な津波のように押し寄せてくるのが見え、自分の悩みなんか縮んで、どうということもなくなってしまった。私の心の鉄の箱は、そんなとき、怒りを燃やし尽くしてエネルギーを生み出す熔鉱炉になった。その吐け口が見つからないときは、かっとなって喧嘩を始めた。その怒りの感情は、私の中に開じ込められ、とぐろを巻いていた----。
自分の人生が自分のものでないような気がした。私という人間を通して、何百人もの人如生きている。私の生命は譲られた人生なのだ。》(『ホロコーストの子供たち』pp.157-159引用)
写真(右)1941年7月,ソ連,ウクライナ,リヴィウのユダヤ人の顎鬚を切り落として楽しんでいるドイツ軍兵士:ユダヤ人の風体を軽蔑し,老人をいじめている屈強なドイツ軍将兵は,楽しそうに笑っている。 Ukraine, bei Lemberg.- Deutsche Soldaten beim Abschneiden des Bartes eines alten jüdischen Mannes (Rasur); PK 691
Datierung: Juli 1941
Fotograf: Gehrmann, Friedrich
Quelle: Bundesarchiv
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism ⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism ⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics ⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck ⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発 ⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto ⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏 ⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1) ⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz ⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
⇒ヒトラー:Hitler
⇒ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ ⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒VI号ティーガー重戦車 ⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車 ⇒イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車 ⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank ⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail ⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒アンネの日記とユダヤ人 ⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇 ⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機 ⇒ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
⇒ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒ハンセン病Leprosy差別
写真(右)1940-43年,フランス,パリ,ドイツ軍の「大パリ司令官附属将兵用カフェ」:右にフランス民間人男女,カフェの入り口前に,白衣のドイツ人看護婦と略帽を被ったドイツ軍将兵,左2人はドイツ軍将校(あるいは下士官)と思われる。
1940年6月,敗色が濃くなったフランスは,パリを無防備都市として開放した。戦禍に曝したくなかったからである。 6月22日,フランス降伏後,フランス南部内陸のヴィシー政権を除くフランス国土の大半が,ドイツの軍政の下におかれた。ヴィシーの国家主席は,第一次大戦の英雄ペタン元帥だった。彼は,共和制が個人主義を強調しすぎて軟弱となり,戦意を低下させたと考えていた。そこで,「国民革命」を唱えて,フランスの国家・家族という伝統的な価値観を復活しようとした。
他方,フランスの大半は,パリなど大都会を中心に,進駐しているドイツ軍将兵相手の商売が盛んになった。フランス人の中には,フランスの存続,反ボリシェビキ,政権への野心などから,ドイツと協力する「対独協力」の動きが強まってきた。
しかし,大戦末期,ドイツの選挙区が悪化すると,1944年7月20日,ヒトラー暗殺未遂事件が起こった。これには,多数のドイツ国防軍の将軍たち,政府高官もかかわっていた。ドイツの将軍の多くは,フランスなど西部方面軍に配属されており,ノルマンディ侵攻前の6月まで,東部戦線に比べて,のんびりとした恵まれた生活を送っていた。 1944年6-7月,ノルマンディーに上陸してきた米英を中心とする連合軍地上部隊の進撃をドイツ軍は阻止できなかった。侵攻してきた米英軍に敗北を喫すると,戦争の行く末に不安を感じたドイツ陸軍将校たちは,米英との和平を期待して,ヒトラーにそむく決心をした。 写真は,World War in clor引用。
写真(右)1943-44年,北フランスのドイツ軍海岸砲台B軍集団司令官ロンメル将軍は,上陸してくるであろう連合軍を,海岸の水際で攻撃すること主張,海岸防備を固めた。B軍集団司令官として,海岸防備を固めたが,その発想は,コンクリート防空壕・退避豪(ブンカー)の整備,砲台建設,上陸障害物の構築など,敵軍が陣地正面に上陸しない限り,役に立たないものが多かった。 しかし,フランスの海岸をすべてに防衛陣地を構築するのは不可能である。実際,Dデイ(1944年6月6日の連合軍ノルマンディ上陸)では,オマナ・ビーチ以外,上陸した連合軍部隊の被害はほとんどなかった。ルンテシュテットKarl Rudolf Gerd von Rundstedt元帥は,内陸に引き込んでの機動戦を主張した。しかし,これも米英空軍の制空権下で,戦闘爆撃機(ヤーボ)によって,地上軍が撃破されるという結果を招いた。海岸水際で反撃してする作戦,内陸に引き込む機動戦ともに,制空権を失い,劣勢なドイツ軍にはか勝ち目のない戦いだった。遅滞戦を戦うのであれば,内陸に地下陣地を多数構築すべきだったかもしれない。写真はWorld War in clor引用。
写真(右)1942-43年,北アフリカ戦線のチュニジアのドイツ・アフリカ軍団ロンメルErwin Rommel将軍とネーリングWalther Kurt Nehring
中将(大将)(1892-1983):ロンメル将軍(1891-1944)は,ヒトラー暗殺未遂事件に関与したために,1944年10月14日,服毒自殺を強要された。その後,名誉の戦死として,盛大な国葬が営まれた。 ロンメル将軍は,1940年5月のフランス侵攻に,第7装甲師団長として参加。1941年2月6日,イタリア軍を支援するため北アフリカ戦線に参加。ドイツ・アフリカ軍団Deutsches Afrikakorpsを指揮し,トブルク攻略,エジプトに迫った。
1942年10月,ベルリンで最年少の元帥に任じられたが,カイロ攻略には失敗した。将軍の欺瞞戦術,機動奇襲作戦とならんで,連合軍捕虜を人道的に扱い,治安対策として住民・ゲリラ虐殺をしなかったことは評価される。1943年3月,チュニジアを脱出。2ヵ月後,アルニムArnim将軍率いるドイツ・アフリカ軍団は降伏。英雄の誇りを敗北で汚さないうちに脱出を許されたロンメル元帥は,西部戦線のB軍集団司令官として,北フランス海岸の陣地を防衛することになった。 ヒトラーのナチ党と親衛隊がユダヤ人虐殺を行ったのであり、ドイツ国防軍はホロコーストとは無関係であるという「国防軍神話」を証明する将軍として現在でも高い評価を得ている。 写真は,World War in clor引用。
写真(右)ドイツ陸軍のハインツ・グーデリアンHeinz Guderian将軍(1888-1954)(左二人目)ワイマール共和国は,ベルサイユ条約によって,兵力10万名を限度とされ、戦車・航空機・潜水艦の保有も禁止されていた。1935年のドイツ再軍備宣言後、機械化部隊の人養成を理解していたヒトラー総統は,装甲師団を編成することを決める。グーデリアンは,第2装甲師団長に任命。大戦中,フランスとソ連への侵攻で活躍。1943年7月21日、陸軍参謀総長。 1944年7月のヒトラー暗殺未遂,ワルキューレ(Valkyrie)作戦にかかわった将軍たちを軍事法廷の場で,軍籍から除籍し,民族法廷の場に立たせることに貢献した。1945年3月28日解任。戦後,電撃戦の立役者として高く評価されている。しかし,装甲師団指揮官に引き立ててくれたヒトラー総統への妄信ぶり,民族法廷(人民法廷)における国防軍同僚将官への手厳しい仕打ちは,言及されることがない。 ヒトラーのナチ党と親衛隊がユダヤ人虐殺を行ったのであり、ドイツ国防軍はホロコーストとは無関係であるという「国防軍神話」を代表する将軍でもある。 写真は,World War in clor引用。
<ユダヤ人差別を否定するカトリック>
リチャード・ウィリアムソン(
Richard Williamson )司教は,「ガス室は存在しなかった」と公言するなどホロコーストを史実と認めず,ユダヤ人の罪悪がホロコーストを誘発したと受け取れる発言をした。そこで,20年前に教皇から破門された。しかし,2008年12月にも,同様の発言をTV放送で行っていた。 しかし,2009年初頭,リチャード・ウィリアムソンの破門が解除された。
ローマ法王への非難高まる、ホロコースト否定司教の破門解除で(2009年2月5日:AFPベルリン)と題する次のAFPのweb記事がある。
1927年4月16日、ドイツ・ワイマール共和国バイエルン州マルクトル・アム・インに生れた前教皇庁教理省長官ヨーゼフ・ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)枢機卿が2005年にローマ法王ベネディクト16世(Pope Benedict XVI)に就任した際、同法王の地元ドイツは国をあげての歓迎ムード一色だった。
だが、ヨーゼフ・ラッツィンガー(Joseph Ratzinger)法王がナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の存在を否定する発言をした司教らを復権させたことで、一転国民は面目をつぶされた格好となった。
写真(右)1939年,ポーランド,ドイツ軍が集合させたユダヤ人(?)の老人:1939年9月のドイツ軍ポーランド侵攻直後,国家保安本部ハイドリヒは,ユダヤ人をゲットーに隔離することを命じていた。また,ポーランド侵攻には5個中隊分のアインザッツグルッペ(特別行動部隊)が国防軍に付帯され,ユダヤ人,教員,聖職者,官僚など反ドイツ容疑者を拘束,処刑した。 Polen, Reichsgebiet Ostpreußen.- Porträt polnischer Zivilisten (Juden?), alte Mann mit Bart; PK Lw 1
Dating: September 1939
Photographer: Amphlett, Eduard 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。
問題となっているのは、英国のリチャード・ウィリアムソン(Richard Williamson)司教。同司教はスウェーデンのテレビ番組で、ユダヤ人を虐殺するために使われたとされるガス室は存在しなかったと発言していた。
ドイツで最大部数を誇るビルト(Bild)紙は3日、社説で「法王は重大な間違いを犯した。何よりも、法王がドイツ人だということが問題だ」と指摘し、「ベネディクト16世は、世界におけるドイツのイメージを著しく損ねている。600万人のユダヤ人を殺害したことを否定する発言をした人間は、ドイツでは訴追される」と強調した。
ローマ法王が同司教の破門を解除したのは、ナチス・ドイツのアウシュビッツ(Auschwitz)強制収容所解放64周年記念日のわずか数日前のことだった。
ドイツ国民の多くにとってベネディクト16世のローマ法王就任は、ドイツが行ってきた、暗い過去を償い、国際社会への完全な復帰を果たすための60年間にわたる取り組みの1つの頂点だったといえる。だが、ベネディクト16世は法王就任以来、イスラム教徒や女性、ネイティブ・インディアン、ポーランド人、同性愛者、さらには科学者について、不用意な問題発言をくりかえして怒りを買った。そして今回のウィリアムソン司教の破門解除は、ドイツでは特に問題視されている。
法王は「英国人司教の言動を、知らされていなかった」と釈明し,2月12日「ホロコーストを否定し,矮小化することは犯罪行為に等しく,耐え難いこと」と述べ,事実上謝罪した。
ローマ法王べネディクト16世の新著『ナザレのイエス』第2部が2011年3月10日、公表。そこではイエスの十字架殺人に対する「ユダヤ民族の連帯罪」説を否定している。1965年10月28日、第2バチカン公会議は、公会議公文書「キリスト教徒と非キリスト教の姦計に関係についての宣言」(Nostra Aetate:DECLARATION ON
THE RELATION OF THE CHURCH TO NON-CHRISTIAN RELIGIONS)の中で「教会は、われわれの平和であるキリストが.十字架を通してユダヤ人と異邦人を和解させ,両者を自分のうちにひとつにしたことを信じている」として、ユダヤ教とカトリックの宗教的絆を強調た。そして、「ユダヤ人の権力者と,その追従者がキリストに死を迫ったが、無差別にその当時のすべてのユダヤ人に,また今日のユダヤ人に,キリストの受難の際に犯されたことの責任を負わせることはできない」としてユダヤ人の「神殺し」を拒否している。
◆『写真・ポスターに見るナチス宣ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社でドイツ政治を詳解し、ユダヤ人迫害、ポグロム、ホロコースト、反ユダヤ主義(アンチセミティズム)についても検討を加えました。
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
2008年1月31日開設の当サイトへのご訪問ありがとうございます。 写真,データなどを引用する際は,出所を明記するか,リンクをしてください。
連絡先:
torikai@tokai-u.jp
〒259-1292 神奈川県平塚市北金目4-1-1 東海大学教養学部人間環境学科社会環境課程 鳥飼 行博 TORIKAI Yukihiro, HK,Toka University,4-1-1 Kitakaname,Hiratuka,Kanagawa,Japan259-1292 Fax: 0463-50-2078
Thank you for visiting our web site. The online information includes research papers, over 5000 photos and posters published by government agencies and other organizations. The users, who transcribed thses materials
from TORIKAI LAB, are requested to credit the owning instutution or to cite the
URL of this site. This project is being carried out entirely by Torikai
Yukihiro, who is web archive maintainer.
Copyright (C) 2008 Torikai Yukihiro, Japan. All Rights Reserved.
|
|