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日本軍捕虜POW:Prisoners of War 2006
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◆日本軍捕虜:POWの死亡率◇Prisoners of War
写真(左):敗戦後、横須賀海軍基地で降伏した日本海軍将兵;1945年8月30日、米軍が横須賀で撮影。Japanese personnel stand in formation, during the surrender of the Yokosuka Naval base to U.S. Navy and Marine Corps forces, 30 August 1945. Photographed by Lieutenant Dewey Wrigley.
図(右):スタンディシュ・バックス Standish Backus 「日本の客人」Recent Guests of Japan;対日戦勝利後、横浜で解放された英国海軍捕虜の印象。You could see them up at Yokohama almost any day for the first few weeks of the occupation, at the POW processing center down on the docks. They came in by trainload and would be bathed, deloused, reclothed, medically examined and interviewed by nurses. Those who were ill or very low in weight were separated and put aboard hospital ships (Army, Navy, British) which were alongside. The rest were flown out to Manila. Their appearance varied from the unhealthy rotundity of beri-beri to mere skeletons. They had the fine features of girls; the constant urge to keep eating small tid bits and a short endurance which kept them lying down or sleeping most of the time while waiting for the next move.


写真(右):南京で捕虜を刺殺する日本軍兵士
(1938年ごろ);日本軍は,掃討戦と称して,便衣兵,敗残兵,逃亡兵を捜索し,捕虜としたが、日本軍兵士は,中国人蔑視の感情に加えて,捕虜収容の準備不足のために,捕虜を収容し続けることはできなかった。大日本帝国に逆らった叛徒の重罪人として処刑してしまう。しばしば公開処刑も行われた。

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写真解説:米国の兵力動員:陸軍・海兵隊・民間防衛軍の増強 

沖縄戦・特攻・玉砕文献】/【戦争論・平和の文献
◆2011年8月の1カ月間で、1505人のアクセスがあった。捕虜の問題は戦後66年たっても忘れられていないことを知ることができた。
◆2011年8月伊江島で謝花悦子女史の沖縄戦と捕虜の話を伺った。
◆20世紀の戦争を,『写真・ポスターで見る戦争の百年』(青弓社)で分析しました。

1.戦争で捕らえられ、交戦国(敵)の支配下に置かれた軍人・民兵などの武装集団の構成員を捕虜あるいは俘虜と呼称する。1899年「ハーグ陸戦協定」、1929年「俘虜の待遇に関するジュ一ネーブ条約」は,捕虜の人道的待遇を細部にわたって定めた。日本は,調印したが,軍部は俘虜たることは予期せざるものとし反発したために,条約に批准することはなかった。日本政府は,ジュネーブ条約の準用を約束したが,日本軍による連合軍捕虜に対する取扱いは,過酷であった。

俘虜の待遇に関する1929年ジュネーブ条約は,1949年に改正され,次のような規定を定めた。
捕虜の待遇に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第三条約)

第一編 総則

第一条〔条約の尊重〕 締約国は、すべての場合において、この条約を尊重し、且つ、この条約の尊重を確保することを約束する。

第二条〔条約の適用〕 平時に実施すべき規定の外、この条約は、二以上の締約国の間に生ずるすべての宣言された戦争又はその他の武力紛争の場合について、当該締約国の一が戦争状態を承認するとしないとを問わず、適用する。
この条約は、また、一締約国の領域の一部又は全部が占領されたすべての場合について、その占領が武力抵抗を受けると受けないとを問わず、適用する。
紛争当事国の一がこの条約の締約国でない場合にも、締約国たる諸国は、その相互の関係においては、この条約によって拘束されるものとする。更に、それらの諸国は、締約国でない紛争当事国がこの条約の規定を受諾し、且つ、適用するときは、その国との関係においても、この条約によって拘束されるものとする。

第三条〔国際的性質を有しない紛争〕 締約国の一の領域内に生ずる国際的性質を有しない武力紛争の場合には、各紛争当事者は、少くとも次の規定を適用しなければならない。

(1) 敵対行為に直接に参加しない者(武器を放棄した軍隊の構成員及び病気、負傷、抑留その他の事由により戦闘外に置かれた者を含む。)は、すべての場合において、人種、色、宗教若しくは信条、性別、門地若しくは貧富又はその他類似の基準による不利な差別をしないで人道的に待遇しなければならない。このため、次の行為は、前記の者については、いかなる場合にも、また、いかなる場所でも禁止する。

(a) 生命及び身体に対する暴行、特に、あらゆる種類の殺人、傷害、虐待及び拷問
(b) 人質
(c) 個人の尊厳に対する侵害、特に、侮辱的で体面を汚す待遇
(d) 正規に構成された裁判所で文明国民が不可欠と認めるすべての裁判上の保障を与えるものの裁判によらない判決の言渡及び刑の執行

(2) 傷者及び病者は、収容して看護しなければならない。
 赤十字国際委員会のような公平な人道的機関は、その役務を紛争当事者に提供することができる。
 紛争当事者は、また、特別の協定によって、この条約の他の規定の全部又は一部を実施することに努めなければならない。
 前記の規定の適用は、紛争当事者の法的地位に影響を及ぼすものではない。

第四条〔捕虜
A この条約において捕虜とは、次の部類の一に属する者で敵の権力内に陥ったものをいう。
?紛争当事国の軍隊の構成員及びその軍隊の一部をなす民兵隊又は義勇隊の構成員
?紛争当事国に属するその他の民兵隊又は義勇隊の構成員(組織的抵抗運動団体の構成員を含む。)で、その領域が占領されているかどうかを問わず、その領域の内外で行動するもの。但し、それらの民兵隊又は義勇隊(組織的抵抗運動団体を含む。)は、次の条件を満たすものでなければならない。
(a)  部下について責任を負う一人の者が指揮していること。
(b)  遠方から認識することができる固着の特殊標章を有すること。
(c)  公然と武器を携行していること。
(d)  戦争の法規及び慣例に従って行動していること。
正規の軍隊の構成員で、抑留国が承認していない政府又は当局に忠誠を誓ったもの
実際には軍隊の構成員でないが軍隊に随伴する者、たとえば、文民たる軍用航空機の乗組員従軍記者、需品供給者、労務隊員又は軍隊の福利機関の構成員等。但し、それらの者がその随伴する軍隊の認可を受けている場合に限る。このため、当該軍隊は、それらの者に附属書のひな型と同様の身分証明書を発給しなければならない。
紛争当事国の商船の乗組員(船長、水先人及び見習員を含む。)及び民間航空機の乗組員で、国際法の他のいかなる規定によっても一層有利な待遇の利益を享有することがないもの
占領されていない領域の住民で、敵の接近に当り、正規の軍隊を編成する時日がなく、侵入する軍隊に抵抗するために自発的に武器を執るもの。但し、それらの者が公然と武器を携行し、且つ、戦争の法規及び慣例を尊重する場合に限る。

第二編 捕虜の一般的保護
第十二条〔捕虜の待遇の責任〕 捕虜は、敵国の権力内にあるものとし、これを捕えた個人又は部隊の権力内にあるものではない。抑留国は、個人の責任があるかどうかを問わず、捕虜に与える待遇について責任を負う。
 捕虜は、抑留国が、この条約の締約国に対し、当該締約国がこの条約を適用する意思及び能力を有することを確認した後にのみ、移送することができる。


写真(右):戦後の東京収容所(1945年8月25日撮影); 米軍航空機による緊急物資の空輸が行われ,捕虜たちがそれを受け取るために,庭に出ている。既に,日本軍の捕虜管理者は,戦後の責任追及を恐れて,捕虜に対する拷問や過酷な取り扱いはしていない。

第十三条〔捕虜の人道的待遇〕 捕虜は常に人道的に待遇しなければならない。抑留国の不法の作為又は不作為で、抑留している捕虜を死に至らしめ、又はその健康に重大な危険を及ぼすものは、禁止し、且つ、この条約の重大な違反と認める。特に、捕虜に対しては、身体の切断又はあらゆる種類の医学的若しくは科学的実験で、その者の医療上正当と認められず、且つ、その者の利益のために行われるものでないものを行ってはならない。
 また、捕虜は、常に保護しなければならず、特に、暴行又は脅迫並びに侮辱及び公衆の好奇心から保護しなければならない。
 捕虜に対する報復措置は、禁止する。

第十四条〔捕虜の身体の尊重〕 捕虜は、すべての場合において、その身体及び名誉を尊重される権利を有する。
 女子は、女性に対して払うべきすべての考慮をもって待遇されるものとし、いかなる場合にも、男子に与える待遇と同等に有利な待遇の利益を受けるものとする。  捕虜は、捕虜とされた時に有していた完全な私法上の行為能力を保持する。抑留国は、捕虜たる身分のためやむを得ない場合を除く外、当該国の領域の内外においてその行為能力に基く権利の行使を制限してはならない。

第十五条〔捕虜の給養〕 捕虜を抑留する国は、無償で、捕虜を給養し、及びその健康状態に必要な医療を提供しなければならない。

第十六条〔平等な待遇〕 階級及び性別に関するこの条約の規定に考慮を払い、また、健康状態、年令又は職業上の能力を理由として与えられる有利な待遇を留保して、捕虜は、すべて、抑留国が人種、国籍、宗教的信条若しくは政治的意見に基く差別又はこれらに類する基準によるその他の差別をしないで均等に待遇しなければならない。


写真(右):戦後の東京収容所(1945年8月29日撮影); 696名の連合軍捕虜が解放された。その後,東京湾に停泊している米国の病院船に運ばれ,本国に帰国した。

第三編 捕虜たる身分
第一部 捕虜たる身分の開始
第十七条〔捕虜の尋問〕 各捕虜は、尋問を受けた場合には、その氏名、階級及び生年月日並びに軍の番号、連隊の番号、個人番号又は登録番号については答えなければならない。
 捕虜は、故意に前記の規定に違反したときは、その階級又は地位に応じて与えられる特権に制限を受けることがあるものとする。
 各紛争当事国は、その管轄の下にある者で捕虜となることがあるもののすべてに対し、その氏名、階級、軍の番号、連隊の番号、個人番号若しくは登録番号又はそれらの番号に相当する事項及び生年月日を示す身分証明書を発給しなければならない。
 捕虜からいかなる種類の情報を得るためにも、これに肉体的又は精神的拷問その他の強制を加えてはならない。回答を拒む捕虜に対しては、脅迫し、侮辱し、又は種類のいかんを問わず不快若しくは不利益な待遇を与えてはならない。
 肉体的又は精神的状態によって自己が何者であるかを述べることができない捕虜は、衛生機関に引き渡さなければならない。
 捕虜に対する尋問は、その者が理解する言語で行わなければならない。


写真(右):戦時中の横浜収容所(1944年12月撮影); 国際赤十字からクリスマスの特別な食料が配給になった。しかし,この後,何品かの食料は日本軍の監視員に略奪されたという。

第十八条〔捕虜の財産〕 すべての個人用品(武器、馬、軍用装具及び軍用書類を除く。)及び金属かぶと防毒面その他の身体の防護のために交付されている物品は、捕虜が引き続いて所持するものとする。捕虜の衣食のために用いられる物品も、正規の軍用装具に属するかどうかを問わず、捕虜が引き続いて所持するものとする。
 捕虜は、常に身分証明書を携帯しなければならない。抑留国は、身分証明書を所持していない捕虜に対しては、これを与えなければならない。
 階級及び国籍を示す記章、勲章並びに主として個人的又は感情的価値のみを有する物品は、捕虜から取り上げてはならない。
 捕虜が所持する金銭は、将校の命令によってでなければ、且つ、金額及び所持者の詳細を特別の帳簿に記入し、並びに受領証発行人の氏名、階級及び部隊を読みやすく記載した詳細な受領証を発給した後でなければ、取り上げてはならない。
 抑留国は、安全を理由とする場合にのみ、捕虜から有価物を取り上げることができる。
 前記の有価物は、捕虜から取り上げた金銭で抑留国の通貨でなく、且つ、所持者からその両替を要請されなかったものとともに、抑留国が保管し、及び捕虜たる身分の終了の際原状で捕虜に返還しなければならない。


写真(右):名古屋伏木収容所; 1942年初頭に,フィリピン・グアム島で捕虜になった米軍捕虜156名,マレー半島などで捕虜になったオーストラリア軍や英軍の兵士など合計300名が収容されていた。It is called Branch 10, Nagoya Main Camp, and is located near the small town of Fusiki, on the West Coast of Honsu, Japan. Of the 300 prisoners in the camp, 156 were American soldiers, sailors, and marines, all of them captured more than three-and-one-half years ago at Bataan, Corregidor, and Guam. The remaining prisoners were Dutch, British, Aussie, Javanese, Indian, captured at Singapore, Malaya, Java, Hong Kong.

第十九条〔捕虜の後送〕 捕虜は、捕虜とされた後できる限りすみやかに、戦闘地域から充分に離れた危険の圏外にある地域の収容所に後送しなければならない。
?負傷又は病気のため、後送すれば現在地にとどめるよりも大きな危険にさらすこととなる捕虜に限り、これを一時的に危険地帯にとどめることができる。
 捕虜は、戦闘地域から後送するまでの間に、不必要に危険にさらしてはならない。

第二十条〔後送の条件〕 捕虜の後送は、常に、人道的に、且つ、抑留国の軍隊の移駐の場合に適用される条件と同様の条件で行わなければならない。  抑留国は、後送中の捕虜に対し、食糧及び飲料水を充分に供給し、且つ、必要な被服及び医療上の手当を与えなければならない。
 捕虜が後送中に通過収容所を経由しなければならない場合には、その収容所における捕虜の滞在は、できる限り短期間のものとしなければならない。

第二部 捕虜の抑留
第一章 総則
第二十一条〔移動の自由の制限〕 抑留国は、捕虜を抑留して置くことができる。抑留国は、捕虜に対し、抑留されている収容所から一定の限界をこえて離れない義務又は、その収容所にさくをめぐらしてある場合には、そのさくの外に出ない義務を課することができる。刑罰及び懲戒罰に関するこの条約の規定を留保し、捕虜は、衛生上の保護のために必要な場合を除く外、拘禁してはならない。
 捕虜は、その属する国の法令により許される限り、宣誓又は約束に基いて不完全又は完全に解放することができる。
 各紛争当事国は、敵対行為が始まったときは、自国民が宣誓又は約束に基いて解放されることを受諾することを許可し、又は禁止する法令を敵国に通告しなければならない。

第二十二条〔抑留場所及び抑留条件〕 捕虜は、衛生上及び保健上のすべての保障を与える地上の建物にのみ抑留することができる。捕虜は、捕虜自身の利益になると認められる特別の場合を除く外、懲治所に抑留してはならない。
 不健康な地域又は気候が捕虜にとって有害である地域に抑留されている捕虜は、できる限りすみやかに一層気候の良い地域に移さなければならない。
 抑留国は、捕虜の国籍、言語及び習慣に応じて、捕虜を二以上の収容所又は収容所内の区画に分類収容しなければならない。但し、捕虜が同意しない限り、その者が捕虜となった時に勤務していた軍隊に属する捕虜と分離してはならない。

写真(右):福井県の六呂師収容所(1945年撮影?); 山中の収容所のバラックの様子。戦後の撮影らしい。

第二十三条〔捕虜の安全〕 捕虜は、いかなる場合にも戦闘地域の砲火にさらされる虞のある地域に送り、又は抑留してはならず、捕虜の所在は、特定の地点又は区域が軍事行動の対象とならないようにするために利用してはならない。
 捕虜は、現地の住民と同じ程度に空襲その他の戦争の危険に対する避難所を利用する権利を有する。
 抑留国は、利益保護国の仲介により、関係国に対し、捕虜収容所の地理的位置に関するすべての有益な情報を提供しなければならない。
 捕虜収容所は、軍事上許される場合にはいつでも、昼間は、空中から明白に識別することができるPW又はPGという文字によって表示しなければならない。

第二十四条〔常設通過収容所〕 通過又は審査のための常設的性質を有する収容所には、この部に定める条件と同様の条件で設備を施さなければならず、それらの収容所にある捕虜は、他の収容所にある場合と同一の待遇を受けるものとする。

第二章 捕虜の営舎、食糧及び被服
第二十五条〔営舎〕 捕虜の宿営条件は、同一の地域に宿営する抑留国の軍隊についての宿営条件と同様に良好なものでなければならない。
 捕虜の個人的又は集団的使用に供する建物は、完全に湿気を防止し、並びに充分に保温し、及び点燈しなければならない。
 女子の捕虜が男子の捕虜とともに宿泊する収容所においては、女子のために分離した寝室を設けなければならない。


写真(右):新潟収容所の日本軍監視員(1944年撮影); 収容所長佐藤中佐と医療スタッフなど。

第二十六条〔食糧〕 毎日の食糧の基準配給の量、質及び種類は、捕虜を良好な健康状態に維持し、且つ、体重の減少又は栄養不良を防止するのに充分なものでなければならない。
 抑留国は、労働する捕虜に対し、その者が従事する労働に必要な食糧の増配をしなければならない。
 捕虜に対しては、飲料水を充分に供給しなければならない。喫煙は、許さなければならない。
 捕虜は、できる限り、その食事の調理に参加させなければならない。
? 捕虜に食堂として使用させるため、適当な場所を提供しなければならない。
 食糧に影響を及ぼす集団的の懲戒は、禁止する。

第二十七条〔被服〕 抑留国は、捕虜が抑留されている地城の気候に考慮を払い、捕虜に被服、下着及びはき物を充分に供給しなければならない。
 抑留国は、前記の物品の交換及び修繕を規則的に行わなければならない。

第二十八条〔酒保〕 すべての収容所には、捕虜が食糧、石けん及びたばこ並びに通常の日用品を買うことができる酒保を設備しなければならない。それらの価額は、現地の市場価額をこえるものであってはならない。
 収容所の酒保が得た益金は、捕虜のために用いなければならない。
 収容所が閉鎖された場合には、前記の特別の基金の残額は、その基金を積み立てた捕虜と同一の国籍を有する捕虜のために用いられるように、人道的な国際機関に引き渡さなければならない。


写真(右):戦後の九州福岡第三戸畑収容所(1945年9月14日撮影);

第三章 衛生及び医療
第二十九条〔衛生〕 抑留国は、収容所の清潔及び衛生の確保並びに伝染病の防止のために必要なすべての衛生上の措置を執らなければならない。
 捕虜に対しては、日夜、衛生上の原則に合致する設備で常に清潔な状態に維持されるものをその用に供しなければならない。女子の捕虜が宿営している収容所においては、女子のために分離した設備を設けなければならない。
 また、捕虜に対しては、収容所に設備することを必要とする浴場及びシャワーの外、身体の清潔及び被服の洗たくのために水及び石けんを充分に供給しなければならない。

第三十条〔治療〕 各収容所には、捕虜がその必要とする治療及び適当な食事を受けることができる適当な病舎を備えなければならない。
 重病の捕虜又は特別の治療、外科手術若しくは入院を必要とする状態にある捕虜は、その送還が近い将来に予定されている場合にも、適当な処置をする能力がある軍又は軍以外の医療施設に収容しなければならない。身体障害者、特に、盲者に与えるべき救護及びその更生については、その者の送還までの間、特別の便益を与えなければならない。
 捕虜は、なるべくその属する国の衛生要員、できれば自己と同一の国籍を有する衛生要員によって治療を受けるものとする。
 捕虜に対しては、診察を受けるために医療当局に出頭することを妨げてはならない。
 治療の費用(捕虜を良好な健康状態に保つために必要なすべての器具、特に、義歯その他の補装具及びめがねの費用を含むJは、抑留国が負担しなければならない。


写真(右):戦後の名古屋収容所(1945年9月6日撮影);

第三十一条〔身体検査〕 捕虜の身体検査は、少くとも月に一回行わなければならない。その検査は、各捕虜の体重の測定及び記録を含むものでなければならない。その検査は、特に、捕虜の健康、栄養及び清潔状態の一般的状態を監視し、並びに伝染病、特に結核、マラリヤ及び性病を検出することを目的としなければならない。

第三十二条〔医療上の業務に従事する捕虜〕 抑留国は、軍隊の衛生機関に属さない捕虜で医師、歯科医師、看護婦又は看護員であるものに対し、同一の国に属する捕虜のために医療上の業務に従事することを要求することができる。

The Wiener Library Institute of Contemporary History引用。

戦地にある軍隊の傷者及び病者の状態の改善に関する千九百四十九年八月十二日のジュネーヴ条約(第一条約)

俘虜処罰法(昭和18年法律第41号)

俘虜収容所令(昭和16年勅令第1182号)

2.統計の整理されている米英連合軍捕虜の死亡率は、ドイツ軍に捕まった捕虜よりも日本軍に捕まった捕虜で高い。これは、日本軍での捕虜管理計画が未整備だったためと思われる。しかし、旧連合軍関係者の間では、日本軍あるいは日本人の残虐性が発揮された結果、米英の捕虜の死亡率が高かった、辛酸をなめさせられたと考えられている。

写真(右)1939年10月20日,ポーランド,ボーセンにおけるナチス親衛隊SS特別機動部隊によるポーランド人銃殺:ポーランド侵攻「白」(ヴァイス)作戦の第十軍司令官フォン・ライヘナウ大将,参謀長パウルス少将の先鋒である第十六軍団司令官は,エーリヒ・ヘプナー中将で,第1,第2装甲師団を擁していた。北方軍集団(フォン・ボック大将)は,クルーゲ大将の第四軍,キュヒラー対象の第三軍,あわせて22個師団からなる。北方軍集団は,ドイツ領の東プロイセンから前進した。1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻「白の事例」作戦の時に,保安警察特務部隊を投入,独ソ戦では親衛隊アインザッツグルッペンEinsatzgruppen(特別行動部隊)が,後方の治安維持,ユダヤ人虐殺を担当した。ナチス親衛隊は,ポーランドの反ドイツ活動を弾圧しようと,パルチザン容疑者を即決銃殺した。Exekution von polnischen Geiseln durch SS-Einsatzgruppe am 20.10.1939 in Kóruik/Kursnik (1939-45: Burgstadt), Krs. Schrimm?, Reichsgau Posen/Wartheland Dating: 20. Oktober 1939 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右):1940年4月29日、ノルウェー、トロンハイム近郊、ドイツ軍の捕虜となったイギリス軍兵士の行進。右側ではドイツ兵が監視・護送の任についている。ドイツ軍はデンマークへの侵攻と並行して4月9日にオスロ、トロンハイムなどへ一斉に上陸したが、イギリス首相ウィンストン・チャーチル(Winston Churchill)はドイツを撃破してノルウェーの要港ナルヴィクに侵攻し橋頭保を築いた。ナルヴィクの戦いは、1940年4月9日から6月8日まで続いたが、フランスでの敗北につづいて、6月10日にはドイツ軍によってイギリス軍はノルウェー全土から排除された。
Description: Near Drontheim, Norway, German troops marching with 20 English prisoners. All are unidentified. From a series of captured German photographs. Date: April 29, 1940 Related Collection: John M. Redding Papers ARC Keywords: Prisoners of war; Soldiers; World War, 1939-1945 HST Keywords: Norway; World War II - General File 写真はHarry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-549引用。


写真(右)1940年5-6月,フランス,ドイツ軍の捕虜となったフランス植民地軍兵士の行進:1940年の対独戦だけでも,フランス植民地のセネガル兵1万7,000人が死傷あるいは捕虜POWとなった。これは,英軍のアフリカ出身兵士「アスカリ」と同じく,植民地からも兵力が動員されたためである。
フランス降伏後に設立された自由フランス亡命政府の自由フランス軍の中核も,フランス人ではなく,フランス植民地出身の兵士であった。植民地兵士は,セネガル兵など西アフリカの出身者が多く,モロッコ兵、アルジェリア兵も動員された。
Marsch in deutsche Gefangenschaft Archive title: Frankreich (?).- Kriegsgefangene französische Soldaten (Kolonialsoldaten) unter Bewachung bei Marsch auf Landstraße; ca. Mai/Juni 1940 Dating: 1940 Mai - Juni 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1940年5-6月,西部戦線でドイツ軍の捕虜となったフランス軍兵士の行進: 1940年5月、フランスに侵攻したドイツ軍の主力は,ファン・ルントシュテット総司令官が率いるA軍集団で,フォン・クライスト将軍が率いる装甲集団が,ルクセンブルク,セダンを突破して,マール川を超え,ソンム川北岸をダンケルクに向かって突進した。ベルギーにあった連合軍は,退路を遮断されるのを恐れて退却を開始したが,A軍集団の装甲軍集団は,「電撃戦」というに相応しい機動力を発揮して,連合軍がフランス本土,パリへ退却するのを阻止してしまった。そこで,連合軍は,英仏海峡に面したダンケルクへと追い詰められた。
Frankreich.- kriegsgefangene französische Soldaten auf dem Marsch; PK 670 Dating: 1940 Mai - Juni Photographer: Weber, Robert 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右):1941年ごろ,オーストリア,マウトハウゼン収容所に到着したユーゴスラビア軍兵士の捕虜: 1941年4月,ユーゴスラヴィア反独クーデターが勃発,三国同盟を破棄したわけではないが,これを無視するかのように,ソ連と友好不可侵条約を結んだ。1941年4月6日,ドイツ軍は即座に,ユーゴスラヴィアに侵攻し,4月13日,1週間でユーゴは降伏した。ドイツ軍は,ソ連との同盟を図ったユーゴスラビアを懲罰するために,ユーゴスラヴィアを武力で占領した。マウトハウゼン強制収容所には,この後,1941年6月22日に,独ソ戦が勃発すると,ドイツ軍の捕虜となったソ連軍兵士が大量に送り込まれた。ドイツ軍は,ユーゴスラビアで,ドイツ傀儡軍として武装親衛隊の志願兵を募ったが,セルビア人などスラブ系民族を蔑視していた。そして,ドイツに反抗したユーゴスラビア軍兵士を,強制収容所に収監し,過酷に扱った。彼らも,石切り場の重労働を課せられ,食糧不足,病気の蔓延,体罰・懲罰によって,殺害されたと思われる。
Inventory: Bild 192 - Sammlung KZ Mauthausen Signature: Bild 192-082 Archive title: Österreich, Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft, vermutlich jugoslawische Häftlinge im KZ Mauthausen Dating: 1941/1944 ca. Photographer: o.Ang. Origin: Bundesarchiv 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年6月,ギリシャ、クレタ島、ドイツ軍に降伏したイギリス軍の捕虜:ドイツ軍によるギリシャ、クレタ島空挺作戦は,1941年4月25日,総統指令第28号として発動,1941年5月20日,ドイツ空軍の空襲に続いて,0800,クレタ島マレメとチャニア近郊にドイツ軍降下猟兵の第一波がパラシュート降下,レティムノンとイラクリオンに第二派が降下した。しかし,降り立った降下猟兵は,広範囲に拡散してしまし,集合することがなかなかできず,守備するイギリス軍の反撃によって,大損害を受けた。しかし、ドイツ空軍が、イギリス海軍艦艇を撃破して、クレタ島へのイギリス軍の増援を遮断し、クレタ島内のイギリス軍を包囲、降伏させた。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L19113 Original title: info Auf Kreta gefangene Briten werden abgeführt. Sie haben der überlegenen Gefechtsführung der deutschen Fallschirmjöger und Luftlandetruppen nicht standhalten kännen und sich ergeben. PK-Jesse 11.6.1941 [Herausgabedatum] "Fr" OKW Dating: Juni 1941 Photographer: Jesse 撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右):1941年6月2日,エーゲ海ギリシャのクレタ島を占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン(partisan)容疑者のコンドマリ村男性住民23-25名の拘束:1941年5月31日,エーゲ海クレタ島のイギリス軍は末期的抵抗を続けていたが,クレタ島北岸西部にあるコンドマリではパルチザン(partisan)により,ドイツ軍降下猟兵が殺害された。翌日,部隊はパルチザンの捜索,報復を企図した。この報復は,村の燃焼,全地域の男性の排除を考慮していたが,手続きの上では,軍事法廷など特別裁判所を通すことなしに早急に決められた。1941年6月2日、コンドマリの村の男性23-25名が裁判所の審理なしに銃殺された。村は破壊された。青年,中年男性(右奥)はパルチザン容疑者とされ,並んで座るように申し渡された。その周囲を小銃で武装したドイツ降下猟兵が囲んでいる。身に覚えのないドイツ兵士の襲撃の罪をきせらたからか,住民の表情は,不安げである。しかし,まさかこの直後に,銃殺されるとは思っていなかったであろう。
Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690 Dating: 2. Juni 1941 Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右):1941年6月1日,クレタ島コンドマリでドイツ降下猟兵により銃殺処刑されたコンドマリのパルチザン容疑者の男性住民23-25名:ドイツ降下猟兵によるコンドマリの住民虐殺は,1945年11月11日のニュルンベルク軍事法廷においても取り上げられ,当時の写真を多数撮影したWeixler, Franz Peterによって,証言がなされている。このFranz Peter Weixler証言によって,少なくとも42枚の写真がこのときにもネガから現像されていることがわかる。ギリシャ、クレタ島コマンドリの青年,中年男性はドイツ軍将兵を襲撃したパルチザン,テロリストとして,ドイツ軍降下猟兵によって、特別な裁判手続きを経ることなく処刑された。
Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690 Dating: 2. Juni 1941 Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右):1941年6月1日,エーゲ海ギリシャのクレタ島コンドマリを占領したドイツ降下猟兵によるパルチザン容疑者の銃殺処刑:クレタ島空挺作戦は,1941年4月25日,総統指令第28号として発動され,5月16日が開始日とされた。1941年5月20日,ドイツ空軍の空襲に続いて,0800,クレタ島マレメとチャニア近郊にドイツ軍降下猟兵の第一波がパラシュート降下,レティムノンとイラクリオンに第二派が降下した。しかし,降り立った降下猟兵は,広範囲に拡散してしまし,集合することがなかなかできず,守備する英軍の反撃によって,大損害を受けた。このような状況で、1941年6月1日,クレタ島コマンドリの青年,中年男性23-25名はパルチザン(partisan)容疑者として銃殺された。
Griechenland, Kreta, Kondomari.- Ermordung von griechischen Zivilisten (Männer) durch deutsche Fallschirmjäger, links Oberleutnant Horst Trebes; PK 690 Dating: 2. Juni 1941 Photographer: Weixler, Franz Peter撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


写真(右)1941年9月,ソ連、ウクライナ、ドイツ軍に降伏したソ連赤軍兵士が武装解除され、ひきたてられている。ヘルメットもベルトも全て取り上げられみすぼらしい姿で、徒歩で移動を命じられている。ドイツは,ソビエト連邦のユダヤ人,共産党員,ボリシェビキ,インテリ,将校、パルチザン(partisan)などを占領地から排除したがった。そこで,敵性住民,潜在的な敵対者は拘束されたり,迫害されたりした。このような住民弾圧的な軍政は,反ボリシェビキだった住民も,反ドイツの側に立たせることになった。スラブ人もユダヤ人同様,下等劣等人種と見下した人種民族的な偏見は,テロ容疑者やパルチザン(partisan)を捕らえたという名目で正当化された。が,これがドイツ敗北の一つの要因となった。
Inventory: Bild 101 I - Propagandakompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-187-0203-06A Archive title: Ukraine bei Lemberg.- Kolonne kriegsgefangener sowjetischer Soldaten neben Straßengraben marschierend; PK 691 Dating: Juli 1941 Photographer: Gehrmann, Friedrich撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ国防軍司令部は,1941年6月のソ連侵攻バルバロサ作戦Unternehmen Barbarossaの発動直前,ソ連共産党がソ連軍兵士の政治教育のために派遣していた政治委員コミサールを捜索・拘束,殺害するよう命令を出した。

ドイツ軍,ソ連軍ともに,敵の捕虜に対しては,厳しく取り扱った。どちら側の兵士も,頑強に戦い続け,容易に投降することはなかった,といわれるが,これはお互いに捕虜となればどんな運命が待ち受けているか,容易に想像できたからだろう。

写真(右)1941年9月,ソ連北部でドイツ国防軍に降伏し捕虜になった3000名のソ連赤軍兵士:イギリス首相ウィンストン・チャーチルWinston Churchill)は,1944年6月22日、独ソ戦の勃発に,英国の危機が遠のいたと大喜びした。そして,チャーチルは,反共産主義だったが,即座にソ連に軍事援助を申し出た。ネヴィル・チェンバレンNeville Chamberlain)英首相と親密なルーズベルト米大統領も,ソ連を武器貸与法の対象とした。
Signature: Bild 183-L19828 Original title: info Unser Bild zeigt einige der 3000 Gefangene, die bei den Kämpfen umd Balta gemacht wurden. PK-Brunnengräber, Scherl 14.8.41 [Herausgabedatum] Dating: August 1941 Photographer: Brunnengräber 撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ヒトラー総統は,大戦直前,1939年1月30日のドイツ国会演説で、国際金融界のユダヤ人が、諸国民を再び大戦に引き込めば、その結果は、ボルシュビキとユダヤ人の勝利ではなく、欧州ユダヤ人の絶滅である,と予言していた。
 最高機密のユダヤ人絶滅は口頭命令だったが,ヒトラー総統は,1939年1月の国会演説,1941年12年11日の対米宣戦布告、1945年4月の政治的遺書など,ユダヤ人,ボリシェビキへの殲滅戦争を公言している。

写真(右)1941年,ソ連、東部戦線でドイツ軍の捕虜となったソ連赤軍の兵士たち:彼らが手にしているのは、与えられた食料であろうか。ドイツ軍は1944年6月22日、ソ連に侵攻したが、すぐにフィンランド、ハンガリー、ルーマニアが参戦しソ連に攻め入った。
Inventory: Bild 146 - Sammlung von Repro-Negativen Signature: Bild 146-1989-063-30A Original title: info Russland - Shitomir, Ukraine 24.7.1941 [Herausgabedatum] Russische Kriegsgefangene im Lager. Heeresfilmstelle, Negativ-Nr.: M.229/9a Dating: 1941 Photographer: Paris, Hans Joachim撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ国防軍将兵は,独ソ戦の時期,ユダヤ人や政治委員コミサールの殺害が最高位からの命令(ヒトラーの命令)と知ると,治安維持任務の責任を親衛隊特別行動部隊(アインザッツグルッペンEinsatzgruppen)に任せ,国防軍として市民殺害には直接関与しないように,親衛隊やナチス党幹部にユダヤ人の処置を委ね,不名誉な行為にかかわらないで,国防軍の名誉が守られると考えたのである。
しかし,これは,軍の責任回避だった。ドイツの軍政、ドイツ軍による占領地弾圧によって、親ドイツ、反スターリン、反ボリシェビキだった現地の住民やソ連軍捕虜も、ドイツ軍を憎むようになった。

写真(右)1941年8月,ソ連、スモレンスク近郊、ドイツ軍に降伏し捕虜となったソ連赤軍兵士1万6000名:ドイツ中央軍集団は、モスクワへ進撃をする途上、1941年7月6日、交通の要衝スモレンスクでソ連赤軍の反撃を受けた。しかし、グデーリアン将軍の第2装甲軍は南方から迅速に反撃し、7月16日にはスモレンスクを占領。北方からは、ホート将軍率いる第3装甲軍が挟撃した。ソビエト赤軍は、包囲された30万名が降伏、捕虜となったが、20万名は包囲を脱して退却できた。
Inventory: Bild 183 - Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild Signature: Bild 183-L28726 Original title: info An der Sowjetfront: Unübersehbar sind die Mengen der Sowjetgefangenen in einem Durchgangslager bei Smolensk. Zirka 16.000 Gefangnen sind in diesem Lager und täglich kommen neu hinzu aus dem großen Kessel bei Smolensk. PK-Aufnahme: Markwardt, Scherl Aug. 41 7920-41 Archive title: Sowjetunion, bei Smolensk.- Kriegsgefangene sowjetische Soldaten in einem Kriegsgefangenenlager Dating: August 1941 Photographer: Markwardt撮影。写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


1941年6月22日以降のドイツのバルバロッサ作戦Operation Barbarossa)は,ユダヤ人など下等劣等人種殲滅戦争の第二段階だった。

既に,バルカンの戦いにおいて,1941年4月27日,「あらゆる抵抗が仮借ない厳格さで打ち砕かれること」と求める命令が出されていた。また,1941年4月28日,第二軍団マクシミリアン・フォン・ヴァイクス(Maximilian von Weichs)司令官の命令書では,「襲撃が起きた危険地域では、プラカードを出し,住民に過酷な結果が生じることを公示せよ。」とされ,「セルビア人よ,卑劣で陰険な襲撃により,ドイツ兵士が死亡した。ドイツ人の忍耐は切れた。罰として,全住民の1000人が射殺された。今後,セルビア側からの襲撃によってドイツ兵士が死亡すれば,一人に付き100人のセルビア人が射殺されることになる。」このようなテロによる支配が公然と示されていた。

写真(右)1941年9月,ソ連北部でパルチザン容疑者を銃殺した瞬間のドイツ国防軍兵士:硝煙が上がる中,凄惨な銃殺刑が撮影された。銃殺を行うドイツ軍兵士には,アルコール類が特別配給されたが,処刑の精神的な負担が大きかった。相手が,女子供であればパルチザン(partisan)として平然と処刑することはできないだろう。
後にユダヤ人絶滅収容所でガス殺をし,遺体をユダヤ人囚人からなるゾンダーコマンドに死体の処理させたが,これは処刑者の精神的負担を軽減するためだった。
Sowjetunion-Nord.- Erschießung von Männern ("Partisanen"), Erschießungskommando bei der Exekution von sechs Männern; PK 694 Dating: September 1941 Photographer: Thiede 撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


19416月22日のバルバロッサ作戦Operation Barbarossa)の時期でも,ドイツのソ連侵攻2週間前,1941年6月6日,ドイツ軍は,ソ連赤軍の政治委員コミサール射殺命令(「政治役員の追跡と粛清に関する指針」)を出している。これは,残虐なボリシェビキ,野蛮なアジア人に対する殲滅戦の開始だった。ソ連共産党員の軍隊派遣政治将校のコミサールは,パルチザンあるいはその扇動者として,処刑されるべきこととされた。

写真(右)1941年10月,オーストリア・リンツ郊外マウトハウゼン収容所のソ連軍捕虜.:1941年6月22日,独ソ戦が始まると,ドイツ軍は,半年もたたないうちに,数十人の捕虜を得た。ドイツ軍は,捕虜に,十分な食料,収容施設を与えるつもりはなかった。収容所への移送途上で多数が死亡。さらに,この収容所でも,飢餓,懲罰,処刑によって大半が殺害。ガス室を備えた絶滅収容所が建設される以前から,すでに収容所では多数の囚人が死亡していた。Österreich.- Konzentrationslager Mauthausen, Neuankunft sowjetischer Kriegsgefangener im Lager Gusen, Oktober 1941 Dating: Oktober 1941 写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。

写真(右)1943年1月,ソ連側住民・パルチザンの絞首刑:背景には、ドイツ軍兵士だけでなく民間人が見えるが,これは見せしめのためであろう。パルチザン(ゲリラ)の処刑(銃殺,縛り首)がドイツ連邦アーカイブに何枚も保管されている。
Inventory: Bild 101 I - Propaganda-kompanien der Wehrmacht - Heer und Luftwaffe Signature: Bild 101I-031-2436-03A Archive title: Sowjetunion.- Erhängte Partisanen / sowjetische Männer.- Am Galgen Schilder "Wir sind Banditen, wir haben nicht nur deutsche Soldaten, sondern auch russische Bürger ermordet und ausgeplündert" (Text deutsch und russisch) und "Fotografieren verboten!" (Aufnahme von der Rückseite, Schilder nicht lesbar). Im Hintergrund deutsche Soldaten und Zivilbevölkerung; PK 666 Dating: 20. Januar 1943 Photographer: Koch, Helmut撮影。
写真は,ドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ドイツ総統アドルフ・ヒトラーの1941年12月11日の対米宣戦布告の国会演説においては、独ソ戦で獲得した380万人余の捕虜,2万台余の戦車,1万7 機余の飛行機の破壊ないし戦利品としての獲得といった戦果を誇ると同時に,ドイツの戦死者16 万人余,負傷者57万人余,行方不明者3万3千人余も明らかにした。

1941年12月12日、ナチ党幹部(大管区指導者など)を集めた会議で総統アドルフ・ヒトラーは,ユダヤ人抹殺を正当化する論理を展開した。ゲッベルスの日記が1941年12月13日に書き留めたところによれば,総統アドルフ・ヒトラーは,「ユダヤ人に同情を示してはならず,ドイツ民族にのみ同情を持たなければならない」「ドイツが東部戦線で16万人の死者を犠牲に供した」「この血の紛争をひきおこしたものに責任を命で購わせなければならない」「命で償わせる」とした。

写真(右)1943年7-8月,ソ連中部で少年パルチザンを捕まえた武装親衛隊:十歳代中ごろの少年が,パルチザンとして武装親衛隊に逮捕され,後手に縛られ連行される。下等劣等人種スラブ人は,卑怯な破壊工作やスパイ活動,ドイツ兵士の闇討ちも辞さないと危険視された。テロ容疑者は,その疑いだけで処罰される予防戦争が戦われた。
Sowjetunion-Mitte.- Soldaten der Waffen-SS bei der Gefangennahme von Partisanen; SS-PK Dating: 1943 Juli - August Photographer: Niquille 撮影。写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用(他引用不許可)。


ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺・虐待は,秘匿されてきたが,それは,殺戮を行っていることが知れれば次のような支障が生じるからである。

?敵は殺害されると知れば,抵抗をやめない。そこで,抵抗を弱めるために,姦計を弄して,処刑した。

?残虐行為は,連合国の戦争遂行理由を正当化する。そこで,ユダヤ人・パルチザン・ソ連軍捕虜の虐殺は,連合国にも秘匿する必要があった。

?後方・前線のドイツ人にとって,非人間的な虐殺・虐待は,士気を低下させる恐れがあった。そこで,ドイツ人にも虐殺・虐待を秘匿する必要があった。 

写真(右)ポーランド、ワルシャワ蜂起における親衛隊・ドイツ国防軍の治安維持・ポーランド人狩り:ユーゲン・シュトロープ(1895-1952)将軍の蜂起鎮圧報告書に張られた写真。戦争初期のユダヤ人・敵性住民の捕縛。1943年4-5月のワルシャワ・ゲットー(ユダヤ人居住区)蜂起の鎮圧から1年後、ソ連軍がヴィスワ側にまで迫り、ドイツ支配からの解放の契機が訪れたため、ポーランド国内軍(レジスタンス)とワルシャワ住民による対独蜂起が起こされた。これを鎮圧した武装親衛隊は、婦女子を追い立てて,強制収容所に移送した。反乱を起こした男子住民は,銃殺されたものもあった。シュトロープは、大戦直前までハンブルク、次いでカールスバートの親衛隊連隊(SS-Standarte)におり、 ポーランド侵攻直後の1939年10月、ポーゼンにあった。1941年7月から9月には、第3SS装甲師団「髑髏」に配属され、1941年12月から1942年10月までソビエト占領地の治安任務に就いた。1943年4月19日、急遽、ワルシャワ・ゲットー蜂起の鎮圧に駆り出され、ワルシャワ・ゲットーを破壊し、蜂起したユダヤ人を排除した。戦後、ポーランドに引き渡され、ポーランド法廷で、ワルシャワ・ゲットー蜂起鎮圧の責任を問われ、死刑判決を受けた。1951年9月8日にワルシャワで刑死。

写真(右):1944年12月,アルデンヌ攻勢によってバルジの戦いで捕虜にしたアメリカ軍兵士と脇を進撃するドイツ陸軍VI号重戦車ティーガーII(Panzer VI "Tiger II" Königstiger; Sd.Kfz. 182)B型ヘンシェル型砲塔。71口径8.8センチ戦車砲を装備。Description: A German tank drives past American prisoners marching in the opposite direction. Unknown location in Belgium. All soldiers are unidentified. From a group of captured German photographs. Date: ca. 1944 Related Collection: John M. Redding Papers ARC Keywords: Prisoners of war; Roads; Soldiers; Tanks (Military science); World War, 1939-1945 HST Keywords: Belgium; World War II - General File People Pictured: Rights: As far as the Library is aware, this item can be used freely without further permission. 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-625引用。

写真(右):1944年12月,アルデンヌ攻勢によってバルジの戦いで捕虜にしたアメリカ軍兵士と脇を進撃するドイツ陸軍VI号重戦車ティーガーII(Panzer VI "Tiger II" Königstiger; Sd.Kfz. 182)B型ヘンシェル型砲塔。車体後方・砲塔後方が見える。
Description:Unidentified American prisoners are marched down the side of a road while a tank and and two motorcycles drive past. All others are unidentified. Somewhere in Belgium. From a group of captured German photographs. Date: ca. 1944 Related Collection: John M. Redding Papers ARC Keywords: Prisoners of war; Roads; Soldiers; Tanks (Military science); World War, 1939-1945; Motorcycles HST Keywords: Belgium; World War II - General File 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-691引用。


写真(右):1944年12月,アルデンヌ攻勢によってバルジの戦いでドイツ軍の捕虜になったアメリカ軍兵士。1944年12月16日、ドイツ軍は西側連合軍のヨーロッパ侵攻の兵站基地アントワープを攻撃目標として、親衛隊機甲師団を含む3個軍を北フランスのアルデンヌに駐屯していたアメリカ軍に攻勢をかけた。アメリカ軍は、ドイツ軍の奇襲攻撃を全く予期していなかった上に、アルデンヌに駐留させたのは実戦経験がほどんどない兵士や損傷を受けて休養を必要としていた舞台であった。構成時期には、濃霧・降雪など悪天候により、連合軍航空部隊の活動は抑制され、地上支援もできない状態だった。しかし、アメリカ軍は増援部隊を派遣し、バストーニュの部隊も現在地を死守して降伏しなかった。こうして、12月25日には、ドイツ軍はミューズ川手前で連合軍に攻勢を阻止された。このドイツ軍の突出部「バルジ」に対して、1945年に入るとアメリカ軍は航空機による地上支援を含む反撃を開始、ドイツ軍を排除した。
American Prisoners
Description: American prisoners, led by German soldiers, being marched through the muddy roads of a town in Belgium. All are unidentified. From a group of captured German photographs. Date: ca. 1944 Related Collection: John M. Redding Papers ARC Keywords: Prisoners of war; Roads; Soldiers; World War, 1939-1945 HST Keywords: Belgium; World War II - General File 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-624引用。


写真(右):1944年12月,アルデンヌ攻勢によってバルジの戦いでドイツ軍の捕虜になったアメリカ軍兵士。ドイツ軍によるアルデンヌ攻勢の中で北部を攻撃したのはヨーゼフ・ディートリヒSS大将が指揮する第6SS装甲軍で、その中の第1SS装甲師団(ライプシュタンダルテ・アドルフ・ヒトラー師団)の先鋒突進部隊を指揮したのがヨアヒム・パイパー(Joachim Peiper:1915-1976)SS中佐だった。パイパー戦闘部隊は兵士4,800名、車輛600両があり、連隊規模だった。このアルデンヌ侵攻の時期に起こったのが、12月17日に生じたマルメディ虐殺事件Malmedy massacre)である。これは、ドイツ軍のヨアヒム・パイパー(Joachim Peiper:1915-1976)SS中佐の指揮する突進部隊がマルメディ近郊でアメリカ第285砲兵観測大隊と戦闘し、降伏させた。パイパーはアメリカ軍兵士150人を武装解除し捕虜とした。しかし、捕虜を後送する車輛はなく、結局はアメリカ軍捕虜は射殺された。捕虜の即時射殺は東部戦線では普通に行われていたが、西部戦線では抑制されていた。しかし、マルメディ虐殺事件Malmedy massacre)を知った西側連合軍は、親衛隊に対する報復を行った。親衛隊が射殺されることも多くなった。戦後になって、パイパーSS中佐は捕らえられマルメディ事件の責任を問う戦争裁判にかけられ、絞首刑による死刑が宣告された。しかし、アメリカ軍による報復的なドイツ軍兵士射殺の事実もあり、マルメディ虐殺事件の被告の多くは懲役刑に減刑された。ヨアヒム・パイパーは11年6ヶ月の刑期を受け、1956年12月31日に仮釈放された。
American Prisoners Description: Captured Americans being marched through the road in an unknown town in Belgium. All are unidentified. From a group of captured German photographs. Date: ca. 1944 Related Collection: John M. Redding Papers ARC Keywords: Prisoners of war; Roads; Soldiers; World War, 1939-1945 HST Keywords: Belgium; World War II - General File 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-649引用。


写真(右):1944年12月,アルデンヌ攻勢によってバルジの戦いでドイツ軍の捕虜になったアメリカ軍兵士。ヨアヒム・パイパー(Joachim Peiper)SS中佐など武装親衛隊員74名は、1946年5月、マルメディ虐殺事件Malmedy massacre)の容疑で裁判にかけられた。 しかし、捕虜殺害命令をパイパーらドイツ軍が出したことが立証できず、武装親衛隊には死刑判決が出たものの、多くは減刑され1956年までに全員が釈放された。釈放されたパイパーも、フランスに隠匿し生活していたが、1976年に、正体を見破った何者かに火炎瓶を自宅に投げ込まれて焼死した。
American Prisoners Description: Captured American soldiers being marched through the streets of a town in Belgium. All are unidentified. From a group of captured German photographs. Date: ca. 1944 Related Collection: John M. Redding Papers ARC Keywords: Prisoners of war; Roads; Soldiers; World War, 1939-1945 HST Keywords: Belgium; World War II - General File 写真は Harry S. Truman Library & Museum Accession Number: 63-666引用。


日本の連合軍捕虜 POWs of the Japanese:


国籍別の死亡率

米国 American
POWs合計: 25,600
POW 死亡: 10,650
死亡率:    41.6%

British英国、オーストラリア、インド
POWs合計: 130,000
POW 死亡:   8,100
死亡率:     6.2%

オランダ
POWs合計: 37,000
POW 死亡:  8,500
死亡率:     23%

強制労働者(オランダ領インドシナ、現インドネシア)
労務者:    300,000
労務者死亡: 230,000
死亡率:     76.6%

第二次大戦中の米国POWs

軍人捕虜

合計で、米軍捕虜は 130,201名である。2000念1月1日現在, 38,114名画生存しているが、生存率は29.2%である。日本軍の捕虜となった米兵は合計 36,260名で、2000年1月1日現在 5,745名が生存している。生存率は15.8%であるが、これは、ドイツ軍につかまった米軍捕虜の生存率47.6%よりもかなり低い。           

 ドイツ軍捕虜   %   日本軍捕虜 %

第二次大戦中の米軍POW:

93,941

---

36,260

---

死亡したPOW:

1,121

1.1%

13,851

38.2%

2000年1月現在生存中のPOW:

44,773

47.6%

5,745

15.8%

民間人捕虜

第二次大戦中の米国民間人の捕虜は 18,745名で、2000年1月1日現在 3,018名が生存している。生存率は16.1%である。日本軍の捕虜は, 13,996名で、1999年1月1日現在の生存者は、僅か1,497名で生存率は10.7%である。軍人同様、民間人の捕虜も、ドイツでより、日本でのほうが生存率が低い。

  ドイツ軍   %   日本軍  %

米国民間人捕虜

4,746

---

13,996

---

死亡した捕虜

168

3.5%

1,536

11%

2000年1月1日の生存者:

1,521

32%

1,497

10.7%

Source: AXPOW Association, March 15, 2000

"The Veterans Administration reports that 46,417 ex-prisoners-of-war were alive as of January 1, 2001. The numbers of living Ex-POWs is dwindling rapidly. The number living as of January 1, 1998, was 55,999. Clearly our numbers are decreasing at well over 3000 per year and this rate is accelerating." -- Wally Nelson, EX-POW Bulletin, June 2001

太平洋戦線の米国 POWs

地域別の捕虜人数
Philippines: 22,000
Wake Island :1,555
Java (Indonesia): 890
Guam: 400
Japan & elsewhere :300
Celebes (Indonesia): 255
China: 200
Total :25,600

殺害・死亡した捕虜人数
Philippines: 5,135
On prison ships: 3,840
Japan: 1,200
Manchuria (China): 175
Burma: 130
Wake Island: 100
Korea: 70
Total :10,650

解放されたPOWs(解放地域別)
Japan: 11,400
Philippines: 1,500
Manchuria (China): 1,200
Burma-Thailand: 480
Celebes (Indonesia): 200
Korea: 150
China: 20
Total: 14,950

Source: Surrender and Survival: The Experience of American POWs in the Pacific by E. Bartlett Kerr, 1985

日本側の米国POW統計

国・地域  POWs合計  POW 死亡   死亡率 (%) 
Britain

50,016

12,433

24.8%

Holland

37,000

8,500

22.9%

Australia

21,726

7,412

34.1%

United States

21,580

7,107

32.9%

Canada

1,691

273

16.1%

New Zealand

121

31

25.6%

合計

132,134

35,756

27.1%

Source: Horyo Saishu Ronkoku Fuzoku-sho B, Feb. 19, 1948

ソ連に捕虜・抑留された日本人は、 575,000名であり、そのうち 55,000名が死亡した。死亡率は 9.6%である。.


POWs 統計については、 Prisoners of the Japanese in World War II -- "Out of about 1 million captives, well over one-third died -- a needlessly and tragically high figure."、Statistics Of Japanese Democide -- Estimates, Calculations, And Sources. の Table を参照。

戦後すぐの報告された公式報告から推計すると、合計でPOWの死亡者は 138,000 である。日本軍につかまった米国POWの 29%が死亡している。.



写真(上):1942年にバターン半島で降伏した米軍兵士の捕虜
;満足な食事,医療もないままに飛行場建設作業に酷使されたとして,日本軍の捕虜経験者は,日本を恨んだ。POWs carry a load of rocks while building runways on a work detail. 5ガロンの水の入った石油缶2個を二人で運ばされる米軍捕虜。POWs share the load by carrying two five gallon cans of water on a pole on the camp farm. The guard in the background looks at them as if they are crazy.


3.日本国内にあった連合軍捕虜収容施設は,戦後,連合国航空機による物資補給を受けた。その後,1945年8月末から9月ごろに解放された。その時の様子は,詳細に記録された。


写真(右):戦後の大森収容所(1945年8月29-30日ごろ撮影); Omori Main Camp

東京地区収容所群:Tokyo Division Camps ;横浜の「もう一つの外人墓地」の英連邦戦死者墓地には,第二次大戦中、日本に連行されて死亡した連合軍捕虜1700人余りが眠る。

ロバート F. ゴールズワーズィー(B29搭乗員として,1944年12月3日捕虜)の捕虜体験談
東京の中島飛行機工場を爆撃後,サイパンに帰還するべく南下中,高度約1万メートルで,日本軍戦闘機に攻撃され燃料タンクに被弾,プロペラ損傷,火災が発生。非常脱出用酸素ボンベを未装着で脱出。

畑に着地し、間もなく日本兵や日本民衆に囲まれた。私は縛られ目隠しされた。私は54年経った後でその時、何が起こったのかを初めて知った。地域のリーダー格のある日本人が、群集が私を殴り殺そうとしているのを見たのだ。彼は群集を止めて言った。「駄目だ、彼を殺してはいけない」と。数十年後に私はこの日本人に会った。彼は89歳であったが私を歓迎する漢詩を詠み色紙に書いて贈ってくれた。

1944年12月3日、この夜、私は東京に連行され憲兵隊の独房に入れられた。私はまたひどく殴られ、服を脱がされ、8x10(2.5mx3.5m)の小さな木造小屋に入れられた。両手は火傷していた、夏の飛行服のまま、暖房の無い冬の寒い部屋、食事は一日三食、殆ど一口に収まるほどの少量のご飯だ。天候は非常に寒くなり4枚の毛布にくるまるだけであった。

私はB-29について尋問された。真っ赤な嘘をついた。ばれないで済んだこともあるが殴られたこともある。日本人の看守が手にする剣道クラブをもう二度と見たくない。その後、両手の火傷が悪化し一人の医者が私の独房に連れて来られ,2〜3ヶ月で両手の火傷は治った。私は憲兵隊の独房に1945年4月までいた。衣服には蚤と虱がいっぱいたかり、飢餓的ダイエットは体重を85ポンド(39kg)にまで減らした。平常の体重は175ポンドであったから私はこの独房の中で死ぬのかと思った。

私は裁判にかけられ、2月のある日私は、裁判が終結したこと、捕獲された私のクルーのうち何人かは終身刑を受けたことを、告げられた。機の指揮官であった私は処刑されるという。翌日の朝、私は独房から刑務所裏の空き地に連れて行かれた。そこでは多くの動きがあった。しばらくして私は独房に連れ戻された。ロープと目隠しはされたままだった。そして私はまた外に連れ出された。激しいやりとりと職員たちの右往左往。遂に私は二度も独房に戻された。2〜3時間経って彼らがやってきて目隠しを外しロープも解いた。私はこの件に関しその後一切、何も聞いていない。


写真(右):戦後,大森収容所で米軍に解放された英米軍捕虜(1945年8月29-30日撮影);東京俘虜収容所本所

然し、翌年の4月、私は東京郊外の大森捕虜収容所に移された。そこで私は初めてアメリカ人の仲間たちと一緒になれた。食料割り当ては僅かながら増量し、結局私はこれで生き残れるのではないかという感じがした。キャンプ職員たちは非常に厳格でルールを破って殴り倒されるのは極たやすいことであった。春と夏が来て、私は日本人の側面を見ることができた。

我々はB29の爆撃で破壊された現場の後片付けや菜園に野菜を植える仕事等をやらされた。一つ例をあげれば「ハニーバケツ」(トイレ汲み取り)作業の話だ。大森にある我々の小さな村(捕虜収容所)に帰る道すがら我々はその近辺に住む人々からたくさんの親切を受けたのだ。こっそりと食べ物を差し入れてくれた。一人の婦人はHapと私に数粒の炒り豆をくれた。7粒。命の恩人だ。もう一人の婦人は温かいお湯と小さな石鹸を差し出した。我々はもう6−7ヶ月も顔さえ洗ったことが無かった。我々は日本人も飢えていたことを知っていたし、彼らも必需品のみの生活レベルに落ちていて、彼らが隠れて渡してくれた物品は彼ら自身の必需品を割愛してくれたものなのだ。

我々は一日ずつ、一週間ずつ、一ヶ月ずつ、生き延びた。そして突然に、戦争が終わり我々は解放された。東京湾に停泊している病院船に乗った。船上まで運び込んで貰わなければならなかったが、手すりによろけながらつかまって大森の方を振り返り言った、You.…, I beat you.(捕虜:日米の対話の捕虜体験談を引用)

仙台地区収容所群:Sendai Division Camps
函館収容所
名古屋地区収容所群:Nagoya Division Camps
大阪地区収容所群:Osaka Division Camps

4.1937年の日中全面戦争以来、日本軍将兵による中国兵捕虜、便衣隊(ゲリラ)容疑者などの処刑が行われた。日本に武力反抗し、日本人(将兵)を殺した重罪人、叛徒とみなして、積極的に処刑したこともあった。潜在的敵対者を釈放することは出来ないとして、ゲリラ戦を予防するために掃討戦の延長として、民間人,ゲリラ容疑者を処刑したこともあった。捕虜収容施設、捕虜のための食料、監視兵力に関わる負担が重く、この負担を回避するための処刑もあった。


写真(右):ドイツ軍兵士とその協力者の民兵に殺害されるユダヤ人(1940-43年);衣類,持ち物,貴重品を略奪するためか,裸にして殺害する場合が多い。 潜在的な敵対者がまだ弱体のうちに殲滅してしまおうとする「予防戦争」として、ユダヤ人・共産党シンパ虐殺を理解することもできる。両親を殺された子供は、大人になれば敵意を持って反抗してくるであろう。そこで、子供も除命することなく処刑することになる。ドイツ兵の中には、このような「残虐行為」に耐えられなくなったものもいて、転属願いも出されたようだ。しかし、大半の兵士は、特別行動部隊(アインザッツグルッペン:Einsatzgruppen)として、敵性住民の処刑、公開処刑を遂行し続けた。従来の人間性や博愛の精神を「弱さ」として否定し、新たな強い大ドイツ国家を建設するための「強靭な精神力」を滋養しようとしたのが、親衛隊SSである。捕虜の処刑についても、人道的観点から助命するのは、敵を慢心させることであり、そのような憐憫の感情は「弱さ」であるから、ドイツの兵士からは一掃しなくてはならない、と考えられた。そして、捕虜処刑の特別任務は、ドイツ国防軍に黙認されあるいは(補給)支援されて、遂行された。大量殺戮に関しては、武装親衛隊/民兵だけではなく、ドイツ国防軍も連座しているという見解が有力になった。Source: "The Undeniable Holocaust." From Himmler, Reichsfuhrer-SS, by P. Padfield, Henry Holt & Co., New York, 1990.

日本軍兵士の大半は,敵兵捕虜の取り扱いについて,教育を受けたことはなかったはずだ。日本軍は,日中戦争の初期に,捕虜のための食糧,収容施設も準備してはいない。日中戦争初期の通達にも,食糧など補給について,1938年9月29日の支那派遣部隊補充員戦用糧秣供給の件では,「食糧を捕虜のために交付する必要はない」と命令している。日本軍兵営のための食糧も補給が不十分であったのだから。そこで,兵士たちは,補給を補うために,中国の農家。都市で,現地調達,徴発を行う。支払いをしたり,支払いを約束する手形を書いたりしたこともあったが,略奪の場合も多かったのである。


写真(右):捕虜のように民間人を使役し、荷物を運搬させる日本軍兵士
(1937年毎日新聞社撮影);日本軍は,掃討戦と称して,便衣兵,敗残兵,逃亡兵を捜索し,捕虜とし処刑した。しかし,民間人を生かして、私物や略奪品を運搬させることも多かった。トラックなど機械化した輸送手段に乏しかった日本軍は、普通であれば15キロの荷物を自ら背嚢などに詰めて運搬したが、長期行動に際しては30-40キロと、運搬の限界にまで荷物を運ぶように要請された。そこで、荷物運搬に中国住民を使役することも頻繁に行われた。

現地の日本軍にも,戦友を殺害した敵の捕虜へ食料を支給するつもりはなかったであろう。食料がなくては,捕虜を生かしておくことはできない。捕虜を縛りつけ,殴り,暴行し虐待しているとの認識も生まれようがない。

支那派遣部隊補充員戦用糧秣供給の件(昭和13年「陸支密大日記 64号」)
 作成者: 留守第八師團長 淺川一衙
 作成年月日: 1938年9月29日
軍事機密 陸軍省受領 陸支密受第11051号
弘經動第六六号支那派遣部隊補充員戰用糧株供給ノ件
報告 昭和13年9月29日 留守第八師團長 淺川一衛
陸軍大臣 板垣征四郎殿
昭和十二年十月陸支密第一、三九七号ニ基ク首題ノ件別紙ノ通報告ス
本表@@爲十三年四月三十日陸文發一、三六五号シヨリ交付シタルモノヲ充当シタル
捕虜ノ為メ交付ヲ要セス


写真(右):南京で遺体を焼却
(1937年12月);南京で大量の捕虜や便衣兵を殺し,遺体を償却しようと石油をかけて燃やした。これは,?無抵抗な捕虜を大量に処刑する行為は,国際法違反に問われかねないと,日本軍の指揮官が危惧したこと,?銃撃で死亡したかどうかの確認のために,木綿服を着た中国人に火をかけて確かめたこと,?殺害の責任追及・報復を回避するために,死体の身元確認を困難にすること,が理由として考えられる。南京には,スタンダード石油なども営業していたので,鹵獲した石油を遺体にかけた。貴重なガソリンであるが,帳簿外の戦利品であり,本部に(獲られてしまう)ガソリンを運搬するために手間隙をかけたくはなかった。日本全体の戦略を下に行動するのではなく,自分の所属する部隊の利益を優先する部隊エゴイズムを踏まえれば,鹵獲したガソリンを死体処理に使用するのことは,十分に考えられる。

第十六師団長中島今朝吾日記(所収『南京戦史資料集1』pp.219-220または『南京戦史資料集』旧版pp.325-326)(中島今朝吾日記(第十六師団長・陸軍中将)引用) 
十二月十三日 天気晴朗
一、中央大学、外交部及陸軍部の建築内には支那軍の病院様のものあり 支那人は軍医も看病人も全部逃げたらしきも 一部の外人が居りて辛ふじて面倒を見あり
  出入禁止しある為物資に欠乏しあるが如く 何れ兵は自然に死して往くならん
  此建築を利用せるは恐くは外人(数人あり)と支那中央部要人との談合の結果なるべし
  依りて師団は 使用の目的あれば何れへなりと立除(退)くことを要求せり
  又日本軍が手当することは自軍の傷者多き為手がまわり兼ぬるとして断りたり

一、斯くて敗走する敵は大部分第十六師団の作戦地境の森林村落地帯に出て又一方鎮江要塞より逃げ来るものありて到る処に捕虜を見到底始末に堪えざるなり

一、大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)共千五千一万の群集となれば之が武装を解除することすら出来ず
 唯彼等が全く戦意を失ひぞろぞろついて来るから安全なるものの之が一端掻(騒)擾せば始末に困るので
  部隊をトラツクにて増派して監視と誘導に任じ 
  十三日夕はトラツクの大活動を要したりし 乍併戦勝直後のことなれば中々実行は敏速に出来ず
 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり

一、後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約一万五千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約一三〇〇其仙鶴門附近に集結したるもの約七八千あり尚続々投降し来る

一、此七八千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず
 一案としては百二百に分割したる後適当のけ(か)処に誘きて処理
する予定なり

一、此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従つて師団は入城だ投宿だなど云ふ暇なくして東奔西走しつつあり

一、兵を掃蕩すると共に一方に危険なる地雷を発見し処理し又残棄兵キ(器)の収集も之を為さざるべからず
兵キ(器)弾薬の如き相当額のものあるらし
 之が整理の為には爾後数日を要するならん


写真(左):1937-38年
:『南京大屠殺与国際救援図集』p65。「侵略した日本軍が虐殺した中国難民の死体の山」後手に縛られ,左を向いて崩れているために,並ばされて殺害されたと思われる(引用)。

第十六師団第三十旅団長佐々木到一少将『ある軍人の自伝』勁草書房(pp.334-335)には次の記述があるという(佐々木到一「ある軍人の自伝」より引用)。 
 (1937年)十二月二十六日、宣撫工作委員長命ぜらる。城内の粛清は土民にまじる敗兵を摘出して不穏分子の陰謀を封殺するにあるとともに我軍の軍紀風紀を粛清し民心を安んじすみやかに秩序と安寧を回復するにあった。予は峻烈なる統制と監察警防とによって概ね二十日間に所期の目的を達することができたのである。

 (1938年)一月二日、敵機五機大校飛行場を空襲。損害なし。

 一月五日、査問会打切り。この日までに城内より摘出せし敗兵約二千、旧外交部に収容。外に宣教師の手中にありし支那傷病兵を俘虜として収容。
 城外近郊にあって不逞行為をつづけつつある敗残兵も逐次捕縛。下関において処分せらるもの数千に達す
 南京攻略戦における敵の損害は推定約七万にして、落城当日までに守備に任ぜし敵兵力は約十万と推算せられる。

5.降伏したとはいえ、中国兵捕虜は,日本兵・日本人居留民を殺害した暴虐な敵兵である。したがって,中国兵捕虜を公開処刑することが,残虐行為であるとの認識は,当時の日本軍の中では、ほとんどなかった。かえって,敵を打ち滅ぼす勇ましい行為,刀剣の一流の使い手として、誇るべきものとされた。

刀剣による斬首,銃剣による刺殺など日本では決して実践できない処刑が,支那と蔑視されていた中国では,日本兵によって行われた。殺害の規模については,さまざまな数値が議論されている。

写真(右):捕虜を刺殺する日本兵(1937-1938年頃):刀剣は,日本軍が支給したのではなく,兵士が自弁して,持参した(これは拳銃も同じ)。他方、銃剣は「制式兵器」であるから、小銃に装着できるように、日本軍が部隊に配備した。日本刀は,武士の魂として認識されていたが,実戦での使用は、銃剣のほうが多いであろう。使用後に手入れをするときの気分はどのようなものなのか、現在の視点からはよくわからない。

支那と蔑視していた対中国戦線であれば,内地と違い、軍刀による斬首,銃剣による刺殺が可能だったために,腕を試す,腕を磨く兵士がいた。戦友が殺害され,日本人が暴行されたとして,中国人に対する憎悪を抱いた日本軍兵士にとって,敵兵への報復は,残虐行為とは認識されない。荒廃した戦場を経て,斬首や刺殺を行うことができる精神状態になった兵士もいた、度胸試しとして,刺殺を強要された日本軍兵士もいた。

南京から退却しようとした中国兵の中には,長江に沿って西進したり,対岸に渡ろうとしたりした逃亡兵も多かった。敗残中の逃亡兵を殺害する行為も,戦闘による殺害に含めることは可能である。

写真(左):南京の公開斬首(1938年頃);捕虜をいつまでも収容することは,収容施設の不備,食費の負担,監視兵力の不足から日本軍にとってできない。また,戦友を殺害した敵兵を釈放することも,敵への憎悪からできない。したがって,捕虜の大多数は,処刑するしかないという結論になる。第一次上海事変でも中国軍から頑強な抵抗を受けた日本兵は,二中戦争でも、日本人の戦友を殺したであろう敵兵捕虜に対して,敵意を抱いていた。報復の意味もあって,容赦なく処刑したのである。これは、敵の殲滅が英雄行為として称賛された戦時にあって、「残虐行為」として非難されるべき非人道的な振る舞いとは言えなかった。当時、戦争の時代、今日の平時の感覚で、捕虜の処刑の善悪を判断すると、時代感覚のずれに気づかないまま、歴史的事実を受け入れることができなくなってしまう。

しかし,降伏して捕虜にした中国軍の兵士,中国民間人の服を着た便衣兵容疑者なども,銃剣による刺殺、銃による射殺など様々な手段によって殺害された。日本軍は,捕虜収容施設,食糧を準備していなかったから,数千人に達する捕虜を得たものの,やむをえず捕虜を処刑するという選択をしたようだ。

また,捕虜の処刑が国際法違反であると感じた指揮官もいたし、自らが便衣隊の暗殺テロの標的になることを恐れ,捕虜の処置を,部下任せにした責任回避も行われたようだ。また,食糧物資の補給も不足したまま過酷な戦闘を強いられた日本軍兵士の中には,戦友を殺害した中国兵への報復の感情も高まっていた。

 公開斬首でも,銃剣刺殺でも対象は成人男子の中国兵(容疑者)である。女子を試し切りにしても,刀剣・軍刀の一流の使い手,武人とは認められないからである。しかし,抵抗できない捕虜を惨殺しても,刀剣・軍刀の一流の使い手,武人とは認められない、と感じた日本人もいたに違いない。

6.中国に出征した日本軍兵士のなかには、中国で無税で安価に高級カメラを購入し、出征記念写真を撮ったり、他の兵士に販売したりしたものがあった。勇敢な行為、敵撃滅などの写真が、中国の写真店で現像・焼き増しされた際に、現地雇用された中国人が、残虐行為を告発するつもりで無断で焼き増しすることもあった。こうして、中国における「日本軍の残虐行為の写真が、列国に流出した。

 1937-1938年頃に、日本軍兵士・従軍カメラマンによって自らの残虐写真が撮影された理由は,どのようなものだったのか。これについて,兵士の写真熱として,専門的に解説されている研究者もいる。この考察に値する議論を引用して,残虐行為の写真撮影について,解説してみよう。

中国戦線にカメラを持参した日本人としては,第一に,従軍カメラマンがあげられる。例えば,村瀬守保カメラマンは,『私の従軍中国戦線』を公刊できるだけの写真を撮影していた。さらに,日本軍兵士自らが,カメラを持参して撮影した写真も多数ある。これについては,研究者によれば,麻生徹男(1983)『上海より上海』石風社(pp.72-74)に,次の記述があるという。

写真(左):南京の公開斬首:従軍カメラマン以外にも,中国で安価に購入したり,略奪したりした写真機を持つ日本兵もいた。度胸を示す行為として,刀剣の一流の使い手の証明として,斬首を撮影することに抵抗はなかったようだ。

南京陥落の頃、上海では、高級カメラが日本の3分の1の値段で買うことができ、しかも、カメラの購入が勧められていた。自らのあるいはカメラを持たない大半の兵士にも,「出征記念帳」が販売されていた。

 昭和十二年の暮、南京は既に陥落し、当時上海に在った私達は、これで戦争も終った、もうすぐ内地帰還と、凱旋気分に浮々していた。そして何が土産物に相応しいかと血眼であった。そのためには何と云ってもカメラが第一であり、陸軍武官府経理部に行って、一枚のガリ版刷りの免税用紙を手にすれば、高級カメラが日本内地の三分の一ぐらいの値段で、容易に買い取れた。

 従って在上海の部隊長達も、若い連中が金を使って悪い遊びをするより、この方が余程よいと云ってカメラ購入を奨励されていた。然しこのカメラ熱も、後程、上海地区警備担当の、東京百一師団が、九州師団と交代した頃で終り、以後はカメラの機種に、身分相応の但書きがつき、私達見習士官では新鋭高級機は及びもつかなくなり、又、免税証の入手も困難に成ってしまった。

?写真現像の場所
 上海のカメラ店と言えば、先ず第一に千代洋行で、本店は蘇州河の彼方(川向い)の南京路にあって、日本軍の占領地域外の為、日本軍人は到底行ける所ではなかった。
 聞けば田中君は千代洋行の暗室作業をしていられるので呉淞路の同店に行けば分るとのこと。そして行って見ると店の前と後は兵隊の黒山である。カメラ漁りの群集の他に、店の裏にある風呂屋に集る内地や北支から転進して来た兵たちで一ぱい。

 この一角のアパートの一階の住宅が、田中君の作業場で、大きな木製の風呂桶が、定着タンクになって沢山のフィルムが処理されていた。田中君は、本来なら陸戦隊本部の前にある完備した暗室にて、自動処理仕上げが出来るのだがと、些かぼやいていられ、当時兵隊さんの依頼するDPに、正視に耐えない残酷なものが多くて困るとも、洩らされていた。


写真(右):南京郊外の公開斬首(1938年撮影);複数の日本兵がカメラを持ち,さまざまな角度で写真撮影を行った。これらの写真を現像した写真店の中国人がこれらの写真を無断で焼き増しして「写真帳」として秘蔵していたために,同じ場所の写真が何枚も残っている。

『浅羽町史近現代資料編』に掲載された軍事郵便に,天津や南京攻略のときのゲリラ討伐・敗残兵狩りを記述した次の手紙がある(南京大虐殺と軍事郵便 引用)。

兵士は軍事郵便を、天津→杭州湾上陸地点→南京→安慶→漢口で書いており、それは同時に兵士の属する部隊の移動コースでもあった。そして,研究者が『支那事変第二軍兵站関係書類』の移動コースと部隊長名から第三師団第二陸上輸卒隊の所属と判明した。

  第三師団第二陸上輸卒隊の行動は,次の通りである。
1937年7月20日〜10月18日:天津;軍需品の輸送業務・鉄道警備
1937年10月20日〜1938年2月18日:天津より華中の金絲娘橋上陸。南京へ。南京では鋤柄兵站司令部に所属。
1938年2月18日〜7月7日:南京・安慶作戦;病馬廠の業務援助。
1938年7月7日〜1939年1月25日:武漢攻略作戦;戦間、安慶で池田龍兵站司令部に所属。漢口攻略直後、漢口へ。
1939年1月25日〜3月8日:漢口から復員(帰郷)

写真(左):辱められ殺害された中国女性;1937-38年撮影。日本軍にも婦女暴行罪はあったが,軍紀の弛緩した部隊では,処罰されない場合が多かったようだ。

第三師団第二陸上輸卒隊兵士の出した軍事郵便
 「今いるところは天津であるが、毎日天津より南西の二十里位の所の列車警備に行くのですが、実弾がビューと音立てて走って来るのですこぶる気持ちが悪いよ。-----天津でも毎日毎日便衣隊が我々の手に捕われるのですが、道路上で皆銃殺してしまいます。幾日も幾日も置いて紫色にくさった様を見て、初めは食事もとれませんでした。しかし今は何とも思いません。故郷の方でも相当騒いだことでしょう。天津の戦いは、大きな建物は我が空軍の為に全部破壊されまして見るも哀れな姿です。---」

 「このころは毎日、保定永定河近くに自動車にて残兵狩に出ています。今いる自分等のところから近いので、自分等の夜も安心するように毎日出ていくのです。毎日五人や十人くらい殺して帰ります。中には良人も殺しますが、何分気が立っているので、いる者は皆殺しです。哀れな者さ、支那人なんて全く虫だね。」

 「杭州から南京まで百里の余りも毎日毎日行軍で苦労したよ。全くこの時ほど国のためにはこんな苦労もするのかと思ったよ。米なぞも都合悪く、汽車の便もないので内地から来ず、毎日生塩に南京米の腐ったようなものを食べて十日も暮らしたよ。」

 「自分等のいるところは此の城外である。城外でも揚子江の沿岸で中国銀行。家は五階であるが、三階までは焼けている。自分等のいる隊は乙兵站部で、隊長は青木少佐であって良い人です。兵站部は食糧等の分配をして各部隊にやるところである。揚子江を船で来る全全部の荷物が自分等の所に来るのです。沢山な荷物を五十人足で歩哨に立つのでなかなか苦労は多いよ。去年の三十一日まで支那兵の捕まえたのを、毎日揚子江で二百人ずつ殺したよ。川に、手を縛って落としておいて、上から銃で撃ったり刀で首を切ったりして殺すが、亡国の民は実に哀れだね。まるで鶏でも殺すような気がするよ。十二月二十七日の夜は、兵站部に食糧を盗みにきたので七人捕まえて銃剣で突き殺したが面白いものだったよ。全く内地にては見られない惨状だよ。」


写真(右):南京近郊の揚子江に漂着した中国兵捕虜の死体
(1937-1938年頃):捕虜に対しては,戦友を殺害し,日本人居留民を虐待し,東アジアの平和を撹乱した中国人として,情け容赦なく処刑した。死体処分のために、揚子江に投棄したと考えられる。

 「平和になった南京市には南京市民が続々と帰ってくるよ。来てもだね、夜が来ても寝るところも無し。此の寒さにふるえて死んでいく者も一日に何百人ですよ。哀れな支那人ですね。」(1938年1月年賀状

 「俺達の居る南京地方は、此の頃は暖かになりました。一週間前は雪が降っていたが、此の頃は毎日春だよ。襦袢一枚で毎日暮らしているよ。もう支那兵の死人が暖かになって腐るので、悪臭が鼻を切るように匂ってくるよ。全く戦地だね。揚子江の隅には死人の山で□の如くだよ。一寸内地の人が見たら驚くね。腐ってどろどろになって居るよ。」

日本刀を戦場に持参した兵士も多かった。そこで,武士の作法として,あるいは勇猛さを誇示するために,敵兵を斬首した。斬首には度胸とワザがいるから,何回も試し切りの練習を必要とする。斬首を公開し,戦友・同僚に誇示したいと感じた日本兵もいたであろう。戦場における勇ましさを尊ぶ心理が,ゆがんだ形で具現した。

戦場に来ても,敵兵が斬殺されるところを見たことがある日本軍兵士は,少ない。そして,斬首を日本で見ることはできないのであるから,戦地に来た記念に,1回ぐらい「凄い見もの」を見物することも,後学のためになる,あるいは土産話になる。このように,考えた物見高い日本兵もいたに違いない。

日本軍の残虐行為の写真が公表されたのは、1938年というが,China Weekly Review 1938年10月29日号以降は、新しい写真が雑誌や新聞に掲載されなくなったという。この理由は,既に研究者の検証がなされている。そこで,その議論を踏まえて,残虐行為の写真について考えてみた。


写真(左):南京郊外での紅卍会による葬儀
(1938年ごろ);

 残虐行為の写真が1938年に入ってから掲載され始めた理由は、南京が陥落し、戦闘が一段落して写真を撮影したり現像する余裕が生まれためである。大日本帝国の敵であり,東アジアの平和を撹乱する暴虐な中国兵を処刑することは,当時の感覚では,それほど残虐ではない。斬首は,刀剣の慣れた使い手でないと,上手にはできない。そこで,斬首できれば,一流の刀剣の使い手として認められた。

戦場にあって,武器をとって反抗した敵兵の斬首・刺殺は,残虐行為ではなく,それができれば,一流の刀剣・銃剣の使い手として認められた。日本では,日本兵・日本人に対する斬首・刺殺は,軍法における処刑手続き・方法のの遵守,国民団結を阻害し,天皇の赤子という意識のためにまず不可能である。しかし,中国で中国人相手であれば,日本兵は,同情の余地なく,斬首・刺殺を行うことができた。そこで,今まで斬首・刺殺の経験がない日本兵の中に,持参した武士の魂を映す刀剣で,天皇に叛旗を翻す暴虐な敵重罪人を試し切りにしたくなった。これは,銃剣による刺殺も同様である。現在の視点では、残虐行為と映る斬首や視察など捕虜の処刑は、戦争当時、英雄的行為であり、決して忌避されるべきものではなかった。この時代状況の理解できない者は、日本軍はそんな残虐行為をするような習慣はなく、冷血漢ではないとの反感から、捕虜処刑の事実を認められないでいる。


写真 (右):日本兵による中国軍捕虜の公開刺殺
1938年7月から1年間、南京の兵站病院で衛生伍長として勤務した日本兵が撮影。

日本国内にあって,銃剣突撃,白兵戦は,あくまで模擬的な精神的鍛錬・肉体的鍛錬であり,人間を標的にした訓練は行わない。しかし,中国の戦場では,敵兵の捕虜があり,それを刺殺したり,試し切りにしたりすることは,当時の日本軍にあっては許される場合があった。

「試し斬り」「そえ物斬り」という冷酷な表現もあったようだが,実際の斬殺・刺殺経験者は,ほとんどいるわけがない。現実には機会もなく,まず不可能な経験であるからこそ,実行するに値する。斬首や刺殺は,勇猛さ,度胸を誇示でき,刀剣・銃剣の一流の使い手の証明にもなる。このように考えた日本兵がいたのである。

残虐な日本兵が斬首や刺殺を,楽しんで行っていたという思い込みでは,単に残虐行為を心理上の問題としてしまう。日本兵を(戦闘で)殺した中国兵は,報復するべき敵兵であり,それを処刑することで,処刑者の勇猛さ,度胸,腕前が高く評価される。1938年後半までは,「百人斬り」のような今日で言えば残虐行為でしかない新聞記事も,勇敢な日本軍将兵の手柄話として報道された。百人斬りは,日本軍の検閲にかかることもなく,全国的に公開されていたのである。このような処刑・殺害・敵国人の人権に対する認識から,現在の視点からは「残虐行為」である斬首・刺殺,裁判無しの捕虜の銃殺が,平然と遂行されたと考えられる。1942年にシンガポールを陥落させたときも「敵兵の屍山血の河」といった新聞見出しが平然と出されている。

写真(右):暴虐な中国兵捕虜を刺殺する日本兵(1938年頃):刺殺を命じられ,拒否すれば差別待遇をされたり,私的制裁(リンチ)を受けることを覚悟しなくてはならない。したがって,刺殺命令を拒否できる日本兵はほとんどいなかった。刺殺は道義に反すると考えた日本兵で「臆病なので刺殺できない」と装って刺殺を免れたものは、極めて少数だった。

 したがって,当時,敵兵の処刑は,多くのあるいは一部の日本兵にとって「残虐行為」とは認識されていない。残虐なのは,日本兵や日本の民間人を殺した中国兵である。アジアの平和構築を妨害する中国人には,懲らしめが必要であると,日本政府も主張していた。第二次大戦においては,米英豪の捕虜の斬首も行われたが,これも憎むべき敵の処刑あるいは戦闘の延長として行われたらしい。

敵兵を捕虜にしたり,処刑したりすることは,勇敢な行為として褒められるべきである。捕虜のや戦利品の獲得,憎むべき敵兵の処刑は,名誉,勇猛さの誇示のために,記念写真として,記録するに値する。

このように,敵兵への報復を記念写真として,記録し,土産物にしようとした日本兵は,写真撮影を自ら行い,あるいは他の兵士や日本人居留民に撮影を依頼した。そして,中国人や日本人の経営する中国写真店に現像・焼き増しを依頼した。

しかし,中国人処刑の写真を見た中国人は,日本兵による残虐行為として,日本兵への嫌悪感,憎悪が沸き起こったであろう。そこで,写真店で働く中国人の中には,日本軍の残虐行為を世に知らしめるためにも,依頼者の日本人に無断で写真を複製し残したものがいた。

写真(右):刺殺終了後の日本兵(1938年ごろ):

 当時,海外旅行は一般人には不可能であったから,中国に出征した記念に,戦地での写真を購入した日本兵も多い。そこで,このような写真も残虐行為とは認識されずに,記念写真として販売されていたようだ。つまり,自分の出征記念写真としてだけでなく,写真を販売すれば,儲かるので,収益を目的にした記念写真撮影も行われていたのである。

1938年10月末以降,新たな残虐写真が公開されなくなった理由は,日本軍が残虐行為を行っているとの反日プロパガンダに対抗するためである。米英のメディアは,日本軍の中国での残虐行為の写真を新聞・雑誌に掲載し,公開したが,これは,列国の対日感情を大いに悪化させた。そこで,日本政府・日本軍も,残虐行為の取り締まりと並んで,残虐行為の撮影。残虐行為を映した写真の公開を規制強化した。上海でニューズキャスターをしていた Carroll Alcott(1943)My War With Japan, NY,Henry Holt And Company, p.304では、日本軍によって残虐写真の販売が禁止され、ついで撮影も禁止されたと述べている。

写真(左):中国兵に日本刀を振り下ろそうという日本兵(1937年頃);日本から中国に派遣された兵士たちは,中国兵を降伏させ,敵を打ち滅ぼす。捕らえた敵兵に対する人権は,全く考慮されない。日本兵は国際法の教育も受けたことはなかった。

 1938年10月24日軍人軍属寫眞撮影製作取締規定では,軍機漏洩を警戒するとともに, 残虐性、軍紀違反、国際法違反と思われる恐れのある写真を撮影禁止にしている。また,写真の流布を管理するために,指定邦人の写真店で日本人が処理することを定めている。残虐行為の写真が,写真店から流布していたことは,日本軍も感づいていたようだ。

 写真器材店は1932年と1937年の上海事変の戦場写真を、いそがしく商っていた。
 彼らは、彼らの軍隊が引き起こした破壊だけでなく、彼ら自身の軍隊によって行われた残虐行為の写真を売ることも躊躇しなかった。 
 米国の刊行物に掲載された日本軍の残虐行為の写真の多くは、日本兵自身、あるいは日本のカメラマンのどちらかによって撮影されたものである。
 私が上海で購入したこの手の写真のほとんど全ては、日本のカメラマンのために働いていた浪人によって、私に売られたものである。ひざまずいた中国人の首に刀を振り下ろしている日本軍の部隊の写真、あるいは縛られた捕虜の背中に狙いをつけている写真は日本軍自身によって撮影されたものである。------(引用終わり)

写真(右):中国人生き埋め公開処刑を見物する日本兵(1938年):Pictorial Review1943年10月1日号Five Chinese Prisoners are Buried Alive in this, one of the most gruesome of all wartime pictures. Enraged by the stoic calm with which the Chinese defenders are meeting their attack, the Japanese are more determined than ever to bring them to their knees. This war, now in its third year, is one of the most brutal in history.

 日本人カメラマンは、頻繁に戦地や捕虜が捕らえられている後方を移動し、このような写真を、兵士達から料金を取って撮影した。しかし、多くの場合、兵士達は自分自身のカメラを持っていて、現像と焼付けのために、フィルムを日本人のカメラ店に持ち込んだ。店はネガやプリントを作り、更に余分に焼付けをして売りに出した。

 写真が反日宣伝として世に出るまで、日本軍司令部は、この悪習を止めさせる努力をしなかった。(写真が反日宣伝に使われた)このことは特異なことであり、そのような写真の販売を即時停止する命令が出された。軍人であろうと民間人であろうと、違反したカメラマンは厳しい処罰で脅かされた、そして、当局は一歩進んで、そのような写真を兵士が撮影することを禁止して、日本人の習わしに干渉した。
(引用) [Carroll Alcott, "My War With Japan", NY, 1943, Henry Holt And Company, pp.302-304]


写真(上):1937-38年の南京事件の犠牲者の埋葬地
;左は、中華門外の両花台から花神廟までの一帯の埋葬地。右は,莫中門外と解説されている。

戦場における勇ましさを尊ぶ心理が,ゆがんだ形で具現した。

現在の視点では「残虐行為」でしかない斬首,刺殺は,当時の日本軍兵士,日本国民にとって,兵士の勇猛果敢さを示す行為であり,八紘一宇を実現しようとする萬世一系の天皇制=国体を破壊しようとする反逆者や鬼畜米英への処罰でもあった。死刑と同じく,捕虜処刑は,残虐行為とは認識していなかった。

また,多数の捕虜を収容施設で管理しようとすれば,収容所の建設・運営,捕虜のための水・食糧の準備,捕虜の糞尿処理まで,大変な費用と資金がかかる。戦友や爆撃して市民を殺害した(であろう)敵兵の生命を保障することは感情的にもできない。このような認識は,日本臣民でも,沖縄県民のでもさして変わりはない。

日本軍が敵の捕虜を処刑しているうえに,軍のプロパガンダ、日本軍兵士の戦場体験とその伝聞が広まっていたために,日本人が鬼畜米英の捕虜となれば,暴行され,処刑されるとの認識は,沖縄の日本軍将兵・住民に、広くいきわたっていた。八紘一宇など絵空事に過ぎないと日本人も理解していた。こうして,捕虜になり処刑されるより,集団死を選択したようだ。


写真(上左):日本兵士に暴行されたフィリピン女性
;暴行は、暴行罪に当たる事もあるが、証拠を見つけて処罰するのは困難である。日本では、民間人に恐れられた憲兵であるが、軍人に対する犯罪捜査の権限があっても、日本軍兵士の軍紀取締りには活躍できなかったようだ。
写真(上右):銃剣で刺されたフィリピン女性
:女性を斬首しても、一流の刀剣の使い手とはみなせない。暴行した女性が、婦女暴行罪で訴えることが、万が一にもないようにで黙らせ、脅す手段として、発砲音のしない銃剣による刺殺、殺傷があった。また、敵への情報提供、物資徴発の妨害、労役拒否など、反日的行動を理由に処罰されるかもしれない。


写真(左):日本兵に辱められる中国女性;1937-38年撮影。獲得した戦利品として,記念写真を撮る。一人の人間の人権を蹂躙している。暴行が露見し厳しい処罰を受けるのであれば,暴行も記念撮影もできない。このような婦女暴行は,明日の命をも知れない兵士には世界共通に起こることだという識者も多い。日本軍将兵の体験談を漏れ聞いていた日本の女性たちも,沖縄戦に際しては,自分たちが同じ暴行にあうと考えた。

1931年の満州事変,日中戦争以来,日本でも作戦や兵器の軍事機密はもちろん,残虐行為や戦争の悲惨さを訴える反政府的な記事・写真を差し止める報道管制がしかれており,報道の自由など認められたことはなかった。対照的に,中国,米英独など列国の外交官や報道関係者は,日本軍の報道管制の下にはない。当時の米英のマスメディア(新聞,雑誌,ラジオ放送)は,日本軍の残虐行為を非難していた。反日プロパガンダも盛んに行っていた。しかし、中国,米英のメディアで報道されたような婦女暴行、捕虜処刑のニュースを耳にしたり、そのような外国の雑誌、写真を目にした民間人はほとんどいないであろう。 

写真(右):1945年日、琉球諸島、沖縄、アメリカ海軍の戦車揚陸艦LST-767から物資陸揚げを手伝う沖縄住民。アメリカ軍に投降し保護された住民が、自分たちにも供給される食料など日用品を運搬するのを手伝っている、あるいは使役されているのであろう。アメリカ軍の後方に沖縄住民・民間人の捕虜収容所が設置されたが、それは避難民キャンプのようなものであり、住民たちの生命は保証されていた。住民は、アメリカの捕虜となれば、暴行を受け、残虐に殺されると伝えられており、捕虜となるより死を選べと教育されていた。しかし、実際にアメリカ軍の捕虜になると、そのような日本の教えが誤りであると気づかされた。アメリカ軍に協力しようという姿勢は、日本人による洗脳教育の裏返しであり、日本軍に騙されていたという思いからでもある。
Title: USS LST-767 Description: Beached at Okinawa in 1945, with local residents carrying supplies ashore. Courtesy of Barry Reynolds, 1990, from the collection of Jean Stewart Reynolds. U.S. Naval History and Heritage Command Photograph.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #:NH 99140 USS LST-767引用。


写真(右):1945年、琉球諸島、沖縄本島、アメリカ軍に投降した沖縄女性がアメリカ軍兵士たちの洗濯をした。アメリカ軍の後方部隊が進出する前に、沖縄女性が、アメリカ人たちの洗濯の用を足してくれた解説されている。沖縄住民は、捕虜になる事を恐れるあまり、集団自決に追い込まれたが、投降した住民の多くは、捕虜として生き延びることができた。ただし、アメリカ軍に投降し、その庇護を受けていた住民の中には、戦い続けていた日本軍兵士からスパイの容疑をかけられ、処刑された男女もあった。
Title: UA 474.20 Naval Historical Collection Caption: Collection Photo # UA 474.20.01 "Okinawa wash woman washed our clothes before Quartermaster Laundry took over." Description: Eighteen photographs of Okinawa in 1945. Photographs show residents and various buildings, including a church.
写真はNaval History and Heritage Command Catalog #:UA 474.20 Naval Historical Collection引用。


しかし,日本軍将兵の暴行・強姦の体験談が,男同士で話されているのを漏れ聞いていた日本の女性たちは多かったし,沖縄戦に際しては,日本軍将兵が,自分たちの暴行体験・目撃体験から,住民に警告していた。「捕虜となれば残虐な取り扱いを受けるから、死んだほうがよい」と。

戦争初期は弱い腰抜け米英軍であったが、末期には、鬼畜米英のプロパガンダが徹底し、兵士と民間人の敵愾心をあおっていた。政府・軍からの公式情報を信じた住民は,捕虜となれば,暴行・処刑されると考えていた。捕虜となることは,命をあっさり失う以上の,苦痛,辱め,苦しみ,恐怖そのものであった。


死は、軍の足手まといにならないための、犠牲的精神の発露というと透明感がある。しかし、現場ではは、米兵にかかって無残に殺されるか、家族・友人とともに集団で死ぬかという恐怖であり、どちらを選択するのも、死の苦しみを覚悟しなくてはならない。

写真:日本将兵向けの米軍投降票;121-J-1. I cease resistance. Dropped over Cagayan in the Philippine Islands on 27 April 1945.
25-J-1. I cease resistance. No photograph of prisoners on the front. Instead, a hand holds a safe conduct pass on a stick. The back has text, "Your comrades in arms who are on the road to rebirth" and "Yesterday we were enemies, today we are friends." This leaflet depicts the life of Japanese prisoners of war in Allied camps.


1945年3月30日には,沖縄本島上陸も必至となったため,米軍に使用させない目的で,沖縄守備隊は、沖縄本島西岸の北・中・南の3飛行場を自ら破壊しようとした。しかし,爆薬不足のため,破壊できなかった。4月1日読谷海岸に上陸した米軍は,日本軍の抵抗が弱いと分かると,飛行場を手に入れるために,地上兵力を急速に展開していった。そして,軍政を敷くとともに,日本の将兵・住民に対する投降を勧告し,投降勧告ビラを撒いた。

米軍は上陸と同時に,日本軍と住民に対して,投降を促し,拡声器を使った誘導,投降勧告と投降票の撒布をした。当初,投降勧告ビラは効果がないと思われていたが,沖縄では住民,民間人に対する投降勧告と併用して実施された。軍政を敷くための要員,資材,ノウハウを準備した米軍は,日ごろ,日本兵の投降関心のない米軍将兵にも,敵が降伏すれば,米軍将兵の命が救われると説得した。

1944年11月,日本兵100名の死者につき日本兵捕虜の比率だったが,2ヵ月後には 60:1になり,その三ヶ月後には 30:1と捕虜の比率が高まった。1945年7月までに日本兵の死者7名につき捕虜1名の比率となった。1945年初頭, フィリピン戦で捕まった捕虜の46%は,連合軍のプロパガンダ・リーフレット に影響されて投降した。

約6万枚のリーフレット(大きさは 5 x 8 インチ)が,敵に示された。 敵が実際に見た投降リーフレットは1万枚で,配布したものの15%に達したようだ。


写真(上左)コンソリデーティッドConsolidated C-87 Liberator Express輸送機(B24Link)「マッターホルン作戦」で、B-29に空輸する「ハンプ越え」をし、インドのカルカッタ・中国の成都のを空輸した。C-87輸送機は、B-24 Liberator重爆を改造した四発大型輸送機。生産工程は同じ工場内にあった。(C87Link):Consolidated/Fort Worth工場(アリゾナ州)で287機生産。但し,B24爆撃機としては1万8800機生産。写真(上右)アメリカ軍コンソリデーティッドC-87四発輸送機の主翼を水平にして4支柱で支えての作業:Consolidated Liberator Bomber, Consolidated Aircraft Corp. plant, Fort Worth, Texas


写真(右):投降する沖縄住民
;1944年8月のサイパン戦でも,住民の玉砕が伝えられていたが,実際には生き残り,米軍に保護されたり,捕虜となった住民のほうが遥かに多かった。しかし,日本国内の報道では,住民も日本軍人とともに玉砕したと虚偽の報道が行われた。


読谷村の住民の一部は,北部の国頭村へ避難していたが,未だに数千人が村に残っており,上陸時には溶岩洞窟「ガマ」や亀甲墓などに避難していた。その中から,集団死,集団自決に追いやられた人々がいた。決して,日本軍の足手まといになってはいけないという理由から,自己犠牲的な愛国心を発揮して,命を潔く絶ったのではない。

福岡市東野利夫医師は,2008年11月29日、九州大医学部における日本生命倫理学会で講演し、1945年5-6月,米軍の九州上陸作戦への恐怖,B-29空襲への怒りの状況の中で,九州帝国大学医学部教授らが,米軍捕虜の内臓を摘出した様子などを証言した。九州大医学部は,生体解剖について「本学部としては直接関係がない」(「百年史」)との立場だが,当時、医学部の学生だった東野さんは1945年5-6月、合計計4回の解剖手術のうち2回を目撃した。血液の代用として食塩水を捕虜に注入した実験も行ったという。米軍の本土上陸の危機が高まっていた恐怖の状況のことだったことを指摘し,「戦争は悲惨と愚劣しか残さない。戦争の苦しみを2度と味わいたくない」と強調した。(2008/11/29 【共同通信】引用)

東野利夫(1979)『汚名―「九大生体解剖事件」の真相 』によると、1945年5月5日にマリアナ基地から出撃したB-29爆撃機が、久留米市の太刀洗飛行場を空襲帰投中,日本機によって撃墜された。搭乗員11名がパラシュート降下,村人が猟銃、竹槍、草刈鎌・鍬を持ち出し、報復に向かった。B-29搭乗員1名は自決、1名は警防団の銃撃で死亡、1名は樹に引っ掛かって負傷、9名が捕虜として,福岡市西部軍司令部に護送された。

防空担当加藤直吉参謀の元に、東京から,東京の俘虜収容所は一杯なので敵機搭乗員のうち情報価値のある機長だけ送り,残りは各軍司令部で適当に処置すべき事を伝える電文がきた。加藤参謀は,九大医学部出身の大森軍医に,「いずれにせよ、捕虜の奴らが銃殺になるのは時間の問題。医学のほうで何か役に立てる方法はないか」と相談した。こうしてB-29の捕虜8名は,九州大学解剖実習室で,5月17日から6月3日の間に、2名、2名、1名、3名の順に生体解剖された。肺、心臓、肝臓などを切除、他の諸器官とともに標本としたという。

執刀は大森軍医、九大医学部第一外科の石村教授と5名の助手。解剖される米兵を,将校,見習い士官が見守った。津村看護婦長は,手術の器具を手渡した。

1946年7月12日、GHQは、九州大学生体解剖事件の関係者逮捕令を通告,石村教授は逮捕後の18日午前零時、独房で縊死。遺書に「オロカナ馬鹿なことをしたことを許してください。(略)一切は軍の命令、責任は余にあり。(助手の)××は、余の命令にて動く。願わくば速やかに釈放されたし。(解剖実習室の)××君、すまぬ」とあったという(北沢杏子の今月の一言引用)。


<いのち雑感>
◆戦時中、日本軍の将官・佐官が、部下に「降伏命令」を出したことはない。大元帥昭和天皇の聖断(降伏命令)が唯一のものである。対戦初期の米英軍は、現地司令官が、部下に降伏命令を出した。大戦中盤から、ドイツ軍も集団投降したが、これは現地司令官が敵に降伏し、部下に降伏命令を出したためである。つまり、捕虜とは、軍司令官・指揮官の命令によって、大量に生じた。

◆日本軍の捕虜は、前線の将兵が個々に投降したり、収容されたりしたことで、個別に生じたものである。一般将兵は、最前線で戦い、玉砕しあるいはやむを得ず捕虜となった。しかし、軍上層部は、作戦指導の失敗、敗戦責任を覆い隠すのに「玉砕」した将兵・民間人を賞賛した。彼らの立派な忠勇を無為にするなと訴えることで、作戦の失敗、敗戦の責任を追及されることをかわすことができた。遺族としては、無謀な作戦で犬死だったなどとは考えたくない。立派に義務を果たし、死んだのだから。しかし、犠牲者を盾にとった指導者の作戦失敗も敗北も追及できなくなった。彼らは、捕虜の存在、投降の事実を黙殺し「玉砕戦」だけを喧伝した。1945年1月に「一億総特攻」、すなわち本土玉砕戦を最高戦略として決定した。

◆1945年沖縄戦の集団自決について、軍の関与が裁判で争われた。確かに、民間人がなぜ手榴弾を配布されたのかを思えば、兵器を管理している日本軍の関与は明らかである。しかし、「捕虜となるくらいなら自決せよ」との言葉は、部下に対してでなく、民間人、軍属に対してはどのように認識すべきか。「捕虜となれば虐待、処刑される。それよりも自ら死んだほうがましだ」ということを、自らの経験から、伝えたかったのかもしれない。捕虜となった場合に受ける残虐行為を恐れる余りの忠告だったのか。自決命令を出したという日本将兵は、小型特攻艇の部隊に所属していた。死が目前にあった特攻隊の将兵は、自決をどのように考えたのか。軍民共死がとなえられたが、住民も、将兵も、捕虜になり、生き残ることができた人たちがいた。彼らが争うことになっては悲しい。

◆フィリピンのルソン島近くのルバング島で、終戦後も投降しなかった中野学校(軍諜報員養成機関)出身者は、終戦を信じずに、戦争を戦い続けたと主張する。本来、大元帥昭和天皇から降伏命令が出ている状況で、それを信じずに戦っていたのであれば、軍律違反である。戦後、フィリピン住民の生命、財産を奪ったのであれば、殺人、強盗で刑罰の対象である。戦時中の戦闘行為の継続という名目が無ければ、処罰を受けずに日本に帰国することはできなかった。当時の日本には、終戦、投降、武装解除、捕虜収容、復員の経験者が多かった。戦い続けた勇士を賞賛するものもいたが、戦闘継続の虚構性を見やぶった人もいた。

◆米国領グアム島で、終戦を知らずに、27年以上、山中に隠れ住んでいた日本兵がいた。彼は、物資輸送・調理係だった。彼は、人には見つからないように、隠れて暮らしていた。住民の物資を奪って暮らしたのではなく、存在を知られないようにサバイバル技術・精神を身に着けていた。発見され帰国できたとき、「恥ずかしながら生き永らえて帰って参りました」と述べた。日本政府が、終戦の不徹底さを恥じるべきだったかもしれない。彼の場合、本当に終戦を知らなかったのであるから、敵を殺傷しても、やむをえなかった。万が一、傷つけていたのであれば、日本政府が補償するべきであった。しかし、戦闘を回避して、ひっそり暮らしていた彼は、誰も傷つけなかった。

◆若いころ、グアム島の輜重兵は軟弱だ、ルバング島の将兵は勇敢だ、と感じていた。今にして思えば、この浅はかな思い違いはとても恥ずかしい。終戦後の生き方として、どちらも感ずるところがある。いまさら投降できず、山中を部下とともに「残留諜報戦」を続けるのは苦闘である。他人の生命と財産を侵すことなく山中で一人で暮らすのも困難で孤独である。二人に共通しているのは、日本軍将兵として、捕虜になれば、投降すればどうなるかを、日本軍の伝統・経験の中で思い描いて、恐れていたことである。

◆突撃せよと命令するものにとって、死は他人事であり、死を恐れないのは当然である。しかし、前線にたった兵士は、戦意の高い忠義の士であっても、やはり死を恐れたという。死の恐怖を乗り越えようと、ひたすら思いつめた将兵もあった。死を忘れようとする将兵もあった。しかし、勇士たちは、死そのものからは、容易に逃れられないのを知っていた。勇士にも死を恐れる理由があった。

◆戦争は、祖国、家族あるいは正義、民主主義を守るための戦いかもしれない。しかし、大量破壊と大量殺戮を伴う総力戦は、恐ろし。自らの破壊と殺戮を回避しようとして、敵を壊し殺すことが正当化される。憎悪と報復を煽るプロパガンダが展開される。ひとたび始まった総力戦を止めるのは、敵の徹底的な破壊と殺戮が実現した後である。

◆生き延びようとした前線の将兵は、戦い続けたり、逃避生活を送ったりした。投降し、捕虜になった。ともに、大儀のためというよりも、自らの生命を守るため手段のように思えてくる。諜報将校も、炊事係りの兵も、ともに生への渇望が見て取れる。とにかく、生き残れるだけで助かった、生き残っただけでよかったと思えるときがある。
◆毎日新聞「今週の本棚」に,『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,戦争捕虜、市民虐殺など戦争の暗部と正義の聖戦を対比させて分析しました。
序章 戦争の二十世紀
第1章 二十世紀初頭の戦争
第2章 第一次世界大戦前半
第3章 第一次世界大戦後半――アメリカ参戦以降
第4章 スペイン内戦(一九三六年七月―三九年三月)
第5章 日中戦争(一九三七年七月―四五年八月)
第6章 第二次世界大戦初期(一九三九年九月―四一年十一月)
第7章 太平洋戦争前期(一九四一年十二月―四二年三月)
第8章 第二次世界大戦中期――アメリカの兵士動員 
第9章 第二次世界大戦中期――アメリカの銃後の動員 
第10章 第二次世界大戦――ヨーロッパ戦線後期
第11章 太平洋戦争後期
第12章 二十世紀後半の戦争
終章 二十一世紀を戦争の百年にしないために
参考文献・引用資料
 「戦争の表と裏」を考え「戦争は政治の延長である」との戦争論を見直し、「捕虜となるのは恥辱」「潔く死を選んだ」「国難に準じた」などの建前を乱用して人命・人権を軽視する思想に対抗したいと考えました。
◆戦争にまつわる資料,写真など情報をご提供いただきますれば幸いに存じます。よろしくご協力をお願い申し上げます。
自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
ヒトラー:Hitler
ヒトラー総統の最後:The Last Days of Hitler
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊

サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250/251:ハーフトラック
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad
ソ連赤軍T-34戦車
VI号ティーガー重戦車
V号パンター戦車
ドイツ陸軍1号戦車・2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車・突撃砲
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
イギリス軍マチルダMatilda/バレンタインValentine歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス軍クルーセーダーCrusader/ カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス陸軍クロムウェル/チャレンジャー/コメット巡航戦車
アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
アンネの日記とユダヤ人
与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機/Ju388高高度偵察機
ルフトハンザ航空フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw200コンドル輸送機
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機/夜間戦闘機
ドイツ空軍(Luftwaffe)メッサーシュミット戦闘機
ドイツ空軍フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-190戦闘機
ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
ハンセン病Leprosy差別

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東海大学HK社会環境課程 鳥飼 行博
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