◆欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料
写真(上)1937‐1940年、イギリス空軍ハンドレページ (Handley Page)ハンプデン(Hampden)爆撃機;初飛行は1936年7月21日、全長: 17.32 m、全幅:21.08 m、翼面積: 63.9 m2、空虚重量: 5,790 kgkg、最大離昇重量: 10,206 kg、ブリストル(Bristol)ブリストル・ペガサス17 空冷9気筒1,000 hp (750 kW) 2基、最高速力:398 km/h、航続距離:2,770 km、爆弾搭載量は最大4,000 lb (1,800 kg)。。
15_002575 Handley Page Hampden
Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft."
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写真は,SDASM Archives 引用。
写真(上)1937‐1940年、イギリス、イギリス空軍ホーカー(Hawker)ハリケーン(Hurricane)戦闘機;1935年11月6日初飛行、初期Mk. Iはロールス・ロイス マーリンエンジン Mk. II液冷エンジン1,030 hp (768 kW) 搭載、7.7mmブローニング機関銃8丁装備し、1937年12月から部隊配備が開始
15_002595 Hawker Hurricane
Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft."
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SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は,SDASM Archives
引用。
写真(上)1939年8月、イギリス、編隊飛行するイギリス空軍第69飛行隊所属のスーパーマリン(Supermarine)スピットファイア(Spitfire)Mk.I戦闘機:イギリス空軍は、ドイツ空軍と同様、大戦初期から明細塗装を施していたが、折れ線明細ではなく雲形明細を採用した。
Supermarine, Spitfire
Catalog #: 01_00088563
Manufacturer: Supermarine
Official Nickname: Spitfire
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives・引用。
1.欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料
― 昭和16年5月24日 ,第181回 例會講演
陸軍航空技術研究所 陸軍大佐今里隆 1941年 20 巻 7 号 pp. 631-641
1)第一次大戦後に於ける英國の空軍
私は昭和13年の丁度今頃向ふに参り,昨年の暮に歸つて参りました。其の間2年半向ふ に居つた譯てありますか,初めの半分はまた戦争の始まる前,丁度居りました半分の時に戦争か始まつて,戦争か始つてから1年2〜3ケ月居つた譯てありますか,偖て考へて見ます と,餘りお話申上けることもありませんし,また私のお話も相當舊聞に属するやうになりました。
それに私は,燃料に關しましては全くの素人でこさいます。從つて餘り面白い話 は出來ない と思ひますか,私か向ふて見ました空軍の活躍の状況と,それから欧洲の一般 情勢將來の判断と云ふやうなものに付て申上けたいと思ぴます。順序として,第一次大戦後に於ける英國の一般の情勢を,主として空軍的にお話申上けたいと思ひます。
英國の空軍は前大戦に於て其の終期には22萬の飛行機と3萬の將校,飛行機の月産2,500と云ふ大空軍を擁しまして,世界最初の空軍の猫立を断行致したのてありますか,一朝ヴェルサイユ會議[パリ講和会議]の曙光を浴ぴますると,見る影もなく小さな空軍に縮少致しました。
勿論陸軍も縮少致しましたか,空軍は傳統かないのと基準がない爲に,非常な縮少を見たのてあります。
其の後,英國の國際聯盟に於ける態度は空軍の縮少を以て重點と致しまして,後に英國の政權を握りましたロイド・ジョ一ジ[David Lloyd George]、ボールドウィン(Stanley Baldwin)等の内閣は,歴代空軍軍縮に非常に力を入れたのてあります。
何の爲 に空軍軍縮に力を入れたのかと云ふことを考へて見ますると,海軍はなかなか一朝一夕に充實せしめることは出來ないのて,傳統的に優秀な海軍を持つてゐる英國としては他の國に追つ付かれることはない。
併し外國の空軍には追つ付かれると云ふ心配か多分にあるのて,これか爲に英國の代表は屡々空軍の軍縮をやらう,勿論其の標傍する所は爆撃か非常な惨害を非戦闘員に迄及ほすと云ふことを主張は致して居りますけれども,其 の内實は含む所かあつたやうに考へられます。
1922年になるとフランスは俄然空軍の擴張を行ひましたのて,英國はそれに対してして第一次の空軍擴張をやることに決心を致しました。そして是は1928年に終る筈てございましたか,遅延いたしまして,1938年迄にやらうと云ふ最後の土壇場迄行つたのてあります。
其の理由は,當時世界を吹きまくつた處の経濟不況,聯盟の依存主義,なほ,大戦の慘害を眼のあたり見た連中か澤山生き残つて居りまして,さう云ふ關係からフランスに対するる軍備擴張は出來ないのであります。
元來英國は狡い國てありまして,平和會議後ドイツが空軍を制限され,陸軍も非常に縮少をされ,海軍も非常な制限を受けると云ふ場合に,フランスに対してのみ假想敵國として考へて居つたのてあります。
處か1929年ヒットラーか政權を獲得致しましてから,ドイツはチェンバレン[Neville Chamberlain]に於て禁止せられて居るのにも拘らず,軍用飛行機を作りかけましたのて,英國の参謀本部も捨てゝ置けなくなりまして,1934年に第二次の空軍擴張の計畫を致したのてあります。
翌1935年になると例のヒットラーの再軍備宣言があり,其の翌年にはエチオピア戦争も終りを告げましたので,益々空軍の必要を感するやうになつたのてあります。
そこて英國に於ても愈愈第二次の空軍擴張をやるやうになりまして,是もいさござがあつて,1937年になつて初めて五ケ年の計畫を致したのてありますか,此の時に於ては,もう英國空軍の技術,能力,生産力竝に空軍の戦術,思想,さう云ふものは空軍先進國に5年も6年も遅れて居つたのてであります。
英國は,今申したやうに空軍を擴張して,英國の國防を海軍の國防から漸次空軍の國防へと移しつゝあつたのであります。其の状況は第1圖の通り豫算の關係て解ります。即ち1933年に於ては10億磅程度てありますか,1939年になると一番突破致しまして22億磅位になりました。是は私か参りました直後でございます。
写真(右)1936年頃、ドイツ、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 17 E 爆撃機の機首(D-AJUN):ドイツで発行されたポストカード。ドイツ空軍ドルニエDo 17 E-1 爆撃機は1938年に初飛行、発動機はBMW VI 7.3D液冷エンジン750 PS 2基装備、最高速力 330km/h、実用上昇限度 5,500 m、 爆弾搭載量は500 kgとドイツ爆撃機としては少ない。搭乗員は4人で、操縦手,爆撃手,航法手(射手兼務)、偵察員(射手兼務)である。Do17は各種合計2,139機もが量産された。
Photo Dornier Do 17 Kampfflugzeug, D-AJUN, Baujahr 1936 Foto, ca. 12 x 17 cm,
写真はAkpool.co.jp No 2.647.495引用。
写真(右)1939年頃、ドイツのポーランド侵攻の時期、ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機初期型の機首:ドイツで発行されたポストカード。ドイツ空軍ドルニエDo-17 M 爆撃機は1938年に初飛行、発動機はブラモ(Bramo)323 A「ファフニール」"Fafnir"空冷星型9気筒エンジン(排気量 26.82L) 900 PS(888 hp; 662 kW)2基搭載で、これは最終型Do17 Z爆撃機と同じである。爆弾搭載量は、それ以前の旧型の2倍の1,000 kgまで搭載可能になった。搭乗員は4人で、操縦手,爆撃手,航法手(射手兼務)、偵察員(射手兼務)である。Do17は各種合計2,139機もが量産された。
Postcard Dornier Do 17 Kampfflugzeug der Luftwaffe, Gefechtsstand mit Soldaten
写真はAkpool.co.jp No 2.647.495引用。
2)粘り強い英国民性
次そこて英國としては1938年の9月チェノコの問題に端を發した欧洲のクライシスに於ては非常な決心をして益々軍擴を急いだのてでさいますか,從來怠けて居つた軍擴 はなかなか捗々しく行かない。そこてチェンバレン(Neville Chamberlain)が3囘も老躯を提けてミュンヘンに飛んて参りまして,やつと事なきを得たと云ふやうな状態てでさいました。併し英國民は大體か根強い國民性て,此のクライシスが終つても致々として各種の戦争準備 をやつたのてあります。
勿論デモクラティノクな國てありますから,國民全體 を引つ張つて戰争の氣分に迄もつて行く爲には1年も或はそれ以上も掛ると云ふやうなことかございます のて,ドイツなどのやうにヒットラーか右と言へば右,左と言へば左と云ふやうに簡單にば参らないのてありますか,其の點指導者の指導宜しきを得,また國民も傳統的に非常に粘り強い性質を有つて居りましたのて,1938年のチェノコのクライシスは,英國に取つて戰争準備を早めた原因となつて居ります。
併し乍ら英國は大陸に非常に近くもありますし,殊にロンドンの如きは英國のエネルギーの1/3を持つて居ると言はれますので,英獨か開戰した場合には必す最初に,而も開戰後數時間にしてドイツ大爆撃を蒙らなければならぬと云ふことを覺悟致したのてあります。そこて是に封しては色々な方法を準備致して居ります。
英國は戰争をする時に,英國の空軍は何を目的にして戰争をするかと云ふことか議論になりまして,此の時英國の保守黨の領袖てあるアメリーか「ドイツをして防禦の爲 に飛行機と石油を使はせ,それにより資材消耗戰を強いるのてある」と議會て申して居 ります。飜つ,英國の方はどう云ふ状態 にあるかと云ふことを大體に書いたのが 第1表でありまして,恐らく1939年の終り,1940年から英國は是だけの石油資源を持つて居る。年に約5,000萬tは取れると云ふことを國民に發表して,其の意氣を擧けさしたのてあります。
第2表 英 ・獨 石 油 消 費 量(單位萬t)
【備 考 】 ドイツの1938年は國内人造石油生産高は220萬t。1941年以後に於ける350萬t,
從來使つて居る石油はどの位であつたかと申しますと,第2表にあ りますやうに1936年 ドイツは416萬t,1938年は716萬tであります。此の内には國 内 にて生産される ものも入つて居りまして,其の數は220萬tであります。1939年の前半期の輸入が270萬tとなつて居りますか,後半期と合すれば是は恐らく800萬t位にはなると思います。
是に対して英國は1936年が1,200萬t,1937年が1,100萬t,1938年が1,200萬t,1939年の前半期か626萬tであります。併此の数字は英國で調べたものてすから,或は違つて居るかも知れません,其の點お含み置き願ぴ度いと思ぴます。
写真(右)1939年12月26日、アメリカ、カリフォルニア州、サンフランシスコ郊外、リンドバーグ・フィールド(Lindbergh Field)、試験飛行を準備するアメリカのコンソリデーテッド(Consolidated)XB-24爆撃機:1938年、アメリカ陸軍航空隊からボーイングB-17の委託生産を依頼されたコンソリデーテッド社は、それを断り、既存のモデル31飛行艇(XP4Y)を原型にした爆撃機モデル32を開発を提案し、アメリカ陸軍航空隊は、1939年2月に試作型XB-24を1機を発注し、さらに4月に増加試作機YB-24を7機、8月には先行量産型B-24Aを38機発注した。試作1号機XB-24の初飛行は、その後の1939年12月29日である。1941年12月には、高空性能向上のためにB-17同様に発動機にターボチャージャーを搭載したB-24C爆撃機9機が生産され、1942年にはB-24D爆撃機が開発され、大量生産が開始された。
Consolidated XB-24 Details: Liberator Tests Date: 12/26/1939
PictionID:44400746 - Title:Consolidated XB-24 Details: Liberator Tests Date: 12/26/1939 - Catalog:14_011310 - Filename:14_011310.TIF - - - - - - Image from the Convair/General Dynamics Astronautics Atlas Negative Collection. The processing, cataloging and digitization of these images has been made possible by a generous National Historical Publications and Records grant from the National Archives and Records Administration---Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives 引用。
写真(右)1939年12月29日以降、アメリカ、カリフォルニア州、サンフランシスコ郊外、リンドバーグ・フィールド(Lindbergh Field)、試験飛行するアメリカのコンソリデーテッド(Consolidated)XB-24爆撃機:コンソリデーテッド(Consolidated)の四発重爆撃機試作1号機のXB-24は、1939年12月29日にリンドバーグ・フィールド(現在のサンフランシスコ国際空港)で初飛行し、アメリカ陸軍航空隊に、B-24リベレーター(Liberator)として制式された。1943年、B-24リベレーター爆撃機は、ルーマニアの首都ブカレスト北80キロのプロエシュチ(Ploesti)油田を空襲した。
Consolidated XB-24
SDASM.CATALOG: 01_00093019
SDASM.TITLE: Consolidated XB-24
SDASM.CORPORATION NAME: Consolidated
SDASM.DESIGNATION: B-24SDASM.OFFICIAL NICKNAME: Liberator
SDASM.ADDITIONAL INFORMATION: Consolidated XB-24
SDASM.TAGS: Consolidated XB-24
PUBLIC COMMONS.SOURCE INSTITUTION: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives 引用。
写真(右)1943年8月1日、ルーマニア、ブカレスト北80キロ、アメリカ陸軍航空隊のコンソリデーテッド(Consolidated)B-24リベレーター(Liberator)爆撃機が空襲時に撮影したプロエシュチ(Ploesti)油田の航空写真:ルーマニアの首都ブカレスト北80キロのプロエシュチ(Ploesti)油田の原油は、ドイツの航空機、車両の燃料として重要な資源だった。1942年6月11日にアメリカ陸軍航空隊のコンソリデーテッドB-24リベレーター(Liberator)爆撃機13機でプロエシュチ(Ploesti)油田を初空襲した。しかし戦果が乏しかったため、1943年8月1日、B-24リベレーター179機でプロエシュチ(Ploesti)油田を再度空襲した。これが戦略爆撃作戦タイダルウェーブ(Operation Tidal Wave)である。
Ploesti Raid
Catalog #: 10_0019911
Title: Ploesti Raid
Date: 1941-1945
Additional Information: World War Two
Tags: Ploesti Raid , World War Two, 1941-1945
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives 引用。
それからドイツに於ては1年の石油消費の増加量か140〜150萬t,英國は50萬t位で,英國で當時豫想して居つたドイツの石油貯藏量は多くて600萬t,是に封して英國の方はどの位あつたかと申しますと,はつきりは解りませんか,色々な本て調べましたところ約300萬tであります。而も其の貯藏してゐる所は英國自體はかりてなく,フランスのボルトーの南の方にも貯藏して居れば,又ブリストルの北方,ウエールスの南のスワンシー,カーチフと云ふやうに,各空軍の基地等に貯藏をして居る。
當時英國でば戰争になつたらドイツはどの位石油を使ふたらうかと云ふことに付ては色々説かありました。ハーバート大學のフルシーホノパーはドイツの石油に付て相當の情報源を持つて居つた人ですが此の人は1,250萬tと言つて居りました。又英國の化學工業の權威者たるタウィノト・フラウンは2,000萬tと言つ て居りました。
写真(右)1944年5月11日、ルーマニア、ブカレスト北80キロ、アメリカ陸軍航空隊が撮影したプロエシュチ(Ploesti)油田の航空写真:ルーマニアの首都ブカレスト北80キロのプロエシュチ(Ploesti)油田の原油は、ドイツの航空機、車両の燃料として重要な資源だった。この原油不足分を、ドイツは1941年6月のソ連侵攻以前は、ソ連から調達していた。1939年8月の独ソ不可侵条約のなかで、ドイツの技術提供とソ連の資源・食料提供の相互協定が結ばれたためである。
しかし、1941年6月22日、独ソ開戦後、ドイツはソ連のバクー油田を占領することまでできず、原油不足分を、ドイツ国内石炭の液化技術によって精製した合成燃料によって補うしかなかった。ただし、石炭液化には、石炭を加熱するために燃料となる石炭が必要であり、合成燃料の生産の効率は著しく低く、十分なガソリンを供給することはできなかった。
Reconnaissance Photo Aerial View Ploesti Romania
Catalog #: 10_0020569
Title: Reconnaissance Photo Aerial View Ploesti Romania
Date: 1941-1945
Additional Information: World War Two
Tags: Reconnaissance Photo Aerial View Ploesti Romania, World War Two, 1941-1945
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives 引用。
写真(右)1944年5月11日、ルーマニア、ブカレスト北80キロ、アメリカ陸軍航空隊が撮影したプロエシュチ(Ploesti)油田の航空写真:その上、アメリカ・イギリス連合国軍は、ドイツの石油液化施設のある化学プラントを優先的な戦略爆撃の目標とした。また、ドイツ頼りにしていたルーマニアのプロエシュチ油田を空襲した。これが、1943年8月1日、アメリカ陸軍第8航空軍・第9航空軍のコンソリデーテッド B-24 リベレーター(Liberator)爆撃機179機を投入した「タイダルウェーブ(津波)作戦」によるプロエシュチ油断空襲である。
アメリカ軍爆撃部隊のプロエシュチ空爆の経路は、北アフリカのイタリア植民地リビア北岸のベンガジから地中海を北上してギリシャのコルフ(ケルキラ)島から、ユーゴスラビア経由でルーマニア上空に入り、レーダーを避けるために低空飛行でプロイェシュティ油田を爆撃した。こうして、ドイツは、石油の絶対的な欠乏状態に陥った。
Reconnaissance Photo Aerial View Ploesti Romania
Catalog #: 10_0020570
Title: Reconnaissance Photo Aerial View Ploesti Romania
Date: 1941-1945
Additional Information: World War Two
Tags: Reconnaissance Photo Aerial View Ploesti Romania, World War Two, 1941-1945
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives 引用。
英國は非常に自己満足的な状況判断をすることか好きてありまして,ドイツに対しては,ドイツは石油が無い,少くとも戰争するには2,000萬t要る。たからソ聯或はルーマニアから是を取らなければどうしても足りない。ルーマニアやソ聯は,果してドイツに對しそれだけの好意を持つたらうかと云 ふやうなことを盛に論して居りました。勿論ソ聯は戦争開始前にはドイツの味方に引入れることか出來ると云ふやうに考へて居つたのてあります。
写真(右)1943−1944年、ルーマニア、ブカレスト南80キロ、ドナウ川沿いのジュルジュ市ジュルジュ港と石油貯蔵タンク:ブカレスト北80キロのプロエシュチ(Ploesti)油田の原油は、ドイツの航空機、車両の燃料として重要な資源だった。ドナウ川を遡上すれば、ベオグラード(旧ユーゴスラビア)、ブタペスト(ハンガリー)、ブラチスラバ(スロヴァキア)、ウィーン(オストマルク)、ニュルンベルクまで船舶輸送が可能である。原油不足分を、ドイツは石炭液化により補ったが、石炭液化自体に燃料の石炭が必要であり、エネルギー効率が悪かった。
Reconnaissance Photo Aerial View Ploesti Romania
Catalog #: 10_0020571
Title: Reconnaissance Photo Aerial View Ploesti Romania
Date: 1941-1945
Additional Information: World War Two
Tags: Reconnaissance Photo Aerial View Ploesti Romania, World War Two, 1941-1945
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
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Nonsense , Iron Gates, Giurgiu Oil storage tanks by 15th AF
写真はSDASM Archives 引用。
3)石油輸入の方法
飜つて英國の方を見ますると,英國は最近年1,200萬t位輸入して,自給量は殆ど25%位しかございません。そこて資源は先程申しましたやうに,5,000萬tも年に取れると云ふ所 がごさいますか,全部是を國内に輸送しなけれはなりません。輸送の爲にはタンカーを必要としますから,タンカーを掻き集めると云ふことは相當にやりました。
第3表 各國油槽船の勢力
其 のタンカーの状 態 は私共の調べた所ては大體 第3表の如くてございます 。1938年の夏現在ては約300萬噸てすか,1939年の夏現在でば5〜6萬噸殖えて居ります。是はどう云ふ風にして得たかと申しますと,自分の方の造船能力だけては タンカーを是だけ殖やすことは出來ませんか,イタリー,オランダ邊りのガソリンの無い所の造船力を利用して其のタンカーとガソリンとを取り替へると云ふ方法で手に入れたらしいのてあります。
一方又是等のタンカーに依つて運ふ其の經路を調べて見ますと第4表の如くてありまして,英國にはスエズを通つ て來 るものが相當なパーセンテーヂ(18%)を占めて居ります。黒海及び地中海を通つて來るものか14%,兩方で32%,約1/3位かスエズと地中海を通つて來ることになりますので,將來陸上武力戰か英獨の間に發展する時には スエズを,中東(ミドル・イーストー日本では近東と言つて居ります) ,此の方面に進行して行くのてはないかと云ふことを私は當時考へて居りました。かやうな状態て戰争か始つたのてございます。
図(右)1943年、アメリカのタンカー「ハマー」「ハッマック」(S.S. "Hamer" "Hammac")の内部図解:第一次世界大戦末期に、アメリカでタンカー大量生産の計画がなされ、そのために急造可能な「ハマー」「ハッマック」(S.S. "Hamer" "Hammac"
)型量産タンカー「プロキオン」の設計が行われた。1918年4月30日発注、サンフランシスコ近郊ポトレオ(Potrero)、ベツレヘム造船所(Bethlehem Shipbuilding Corp)1920年11月30日進水、1921年5月25日竣工の総トン数6,900トン、全長435.0 feet (132.6 m) 全幅 56.2 feet (17.1 m) 、吃水 33.5 feet (10.2 m)、機関422 nhp(3,100 ihp ;2,300 kW)速力11ノット。石油336万9,862ガロンを運搬可能。1923年船名を「エミディオ」(Emidio)に変更した。1941年12月18日、太平洋岸シアトル(Seattle)に積み荷を降ろした後、日本海軍伊17潜水艦の14 cm砲の警告射撃で、停船を命じられた。しかし、船員を救命艇で脱出させ、その前にアメリカ海軍に救援無電を送信した。伊17潜水艦は、搭載した14 cm砲を射撃し5発を命中させた。そして、魚雷1本を発射し、タンカー「エミディオ」を撃沈した。
Author
Unknown author or not provided
Record creator U.S. Shipping Board. Emergency Fleet Corporation. 4/16/1917-1927
Title
Capacity Plan of S.S. "Hamer" and "Hammac"
Date 1917 – 1927
Collection
National Archives and Records Administration Blue pencil.svg wikidata:Q518155
National Archives at College Park - Archives II (College Park, MD)
Record ID
NARA Logo created 2010.svg the National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 84785942
写真はWikimedia Commons, Category:Tankers File:Capacity Plan of S.S. "Hamer" and "Hammac" - NARA - 84785942.jpg
引用。
写真(右)1938年7月1日、イギリス中部東岸、サンダーランド、ウェア川河口、ジェームズラング造船所(Sir James Laing & Sons Ltd)で建造・進水したノルウェーのウェストファリア・ラーセン(Westfal-Larsen)海運のタンカー「アイダンガー」(‘Eidanger’):空荷のために軽量でで吃水が海上に露出して船腹が広がっている。ウェストファリア・ラーセン(Westfal-Larsen)は、ノルウェーのベルゲンに本拠地を置く海運会社である。タンカー「アイダンガー」(‘Eidanger’)は、戦時中はイギリスとカナダを結ぶONS-67船団に配置されていたが、1942年2月24日、ドイツ潜水艦 U-558 (Günther Krech)によって、ニューファウンドランド島東方1000km、北大西洋上で撃沈された。
English: View of the tanker ‘Eidanger’ afloat on the River Wear after launch, built by Sir James Laing & Sons Ltd, 1 July 1938 (TWAM ref. DS.LG/4/PH/3/1 pg23).
Tyne & Wear Archives is proud to present a selection of images from its Sunderland shipbuilding collections. The set has been produced to celebrate Sunderland History Fair on 7 June 2014. It's a reminder of the thousands of vessels launched on the River Wear and the many outstanding achievements of Sunderland’s shipyards and their workers.
These photographs reflect Sunderland’s history of innovation in shipbuilding and marine engineering from the development of turret ships in the 1890s through to the design for SD14s in the 1960s. The Sunderland shipbuilding collections are full of fascinating stories. Some of these are represented in this set, such as the ‘Rondefjell’, launched in two halves on the River Wear by John Crown & Sons Ltd and then joined together on the River Tyne.
The set also shows the vital part that Sunderland’s shipbuilding industry played during the First World War. William Doxford & Sons Ltd built Royal Naval destroyers such as HMS Opal, which served in the Battle of Jutland, while other yards constructed cargo ships to help keep these shores supplied.'Tyne & Wear Archives & Museums'
Date 2 May 2014, 13:39:15
Author Tyne & Wear Archives & Museums
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Sunderland launches
Flickr pools
City Of Sunderland Ship,ship,ship Classic Merchant Shipping MAGNIFICENT SHIPS
Sunderland Shipbuilding Sir James Laing & Sons Ltd Ship launches Cargo ship Deptford Sunderland Shipyard River Wear
写真はWikimedia Commons, Category:Tankers File:Launch of the 'Eidanger' (13901976538).jpg
引用。
写真(右)1943年、スウェーデン船籍のタンカー「サンナンブリス」(‘Sunnanbris’):タンカー「プロキオン」PROCYONとしてスウェーデンのマルメ(Malmö)で1931年進水、1932年に就航した。総トン数8,614トン、乾燥重量Deadweight:
13.625トン、機関Engine
M.A.N.、、全長
Length:
482.5フィート、全幅Beam:
61.9フィート、吃水
Draft:
28.5フィート、速力12.5ノット。第二次大戦中の1941年にはドイツのチャーター船として運航したが、1943年1月に売却されて、船名が「サンナンブリス」(‘Sunnanbris’)に変更された。戦後、1960年にはパナマ船籍の「YAMANAMI」と船名を変更したが、1968年に台湾でスクラップにされた。
Manufacturer Lauritz Osgaard & Sophus Olsen modellbyggeri
Object type Fartygsmodell
Description
Svenska: Fartygsmodell: Blockmodell av trä, fullt utrustad, tankmotorfartyget SUNNANBRIS av Stockholm, ex. PROCYON, (b. 1932 i Malmö, SE 1943). Skrov med rak stäv och kryssarakter, två propellrar, back, brygga midskepps, maskinrum akter.
Depicted ship: SUNNANBRIS
Original caption Benämning: Fartygsmodell
Beskrivning: Blockmodell av trä, fullt utrustad, tankmotorfartyget SUNNANBRIS av Stockholm, ex. PROCYON, (b. 1932 i Malmö, SE 1943). Skrov med rak stäv och kryssarakter, två propellrar, back, brygga midskepps, maskinrum akter
Ämnesord: Motorfartyg, Tankfartyg, Tankmotorfartyg
Medium wood
Collection
Maritime Museum Blue pencil.svg wikidata:Q1647895
Accession number
S 6293
Source/Photographer Karolina Kristensson / Sjöhistoriska museet
写真はWikimedia Commons, Category:Tankers File:Launch of the 'Eidanger' (13901976538).jpg
引用。
写真(右)1942年、大西洋上でドイツ海軍潜水艦Uボートの雷撃を受けて撃沈される西側連合国のタンカー:チャーチルは、1940年からの海上交通確保のための対Uボート戦争を大西洋の戦い(Battle of the Atlantic)と呼んで、イギリスの死活を制するものだと考えた。ドイツ海軍潜水艦艦隊司令官カール・デーニッツ提督は、護衛された大船団に対して、複数の潜水艦を集団で哨戒・攻撃させる群狼作戦(Wolfsrudeltaktik)で戦った。Uボートの基地は、北ドイツのヴィルヘルムスハーフェン、キールなどの港湾のほか、1940年5月に占領したノルウェー、6月に降伏させたフランスの沿岸である。特に、北フランスのブレスト、ロリアン、ラ・パリス、ラ・ロシェルの港に防空用のコンクリート製潜水艦退避壕ブンカーが建設され、そこが主たる潜水艦基地となった。しかし、1943年になると、多数の護衛空母を含む対潜水艦用の護衛艦艇が就役し、航空機により対潜哨戒、精度の高いマイクロレーダーが普及したために、ドイツ潜水艦の活動は大きく制約され、戦火はあまり挙がらなくなった。
Record creator Department of Defense. Department of the Navy. Naval Photographic Center. (09/18/1947 - ?)
Title
Allied tanker torpedoed in Atlantic Ocean by German submarine. Ship crumbling amidship under heat of fire, settles toward bottom of ocean.
Description
General notes: Use War and Conflict Number 1316 when ordering a reproduction or requesting information about this image.
Date 1942
Collection
National Archives at College Park
National Archives and Records Administration, cataloged under the National Archives Identifier (NAID) 520607.
写真はWikimedia Commons, Category:Tankers File:Launch of the 'Eidanger' (13901976538).jpg
引用。
写真(右)1943年、ノルウェー船籍タンカー「チャールズ・ラシーン」(‘M/T Charles Racine’):デンマークのオーデンセ鋼鉄造船所ミルズ(Odense Staalskibsværft ved A.P. Møller,)で1931年進水、1937年に就航した。総トン数9957トン、全長151.17m x 全幅20.14m x 吃水8.721m '、機関5350bhp '、速力12ノット。第二次大戦中の1940年にはカリブ海のトリニダード、ラス・ぺエデラス、バミューダ(Bermuda)、リバプールを航行した。1941年にはハリファックス、ニューヨークをHK船団(コンボイ: Convoy)で航行した。1942年3月9日、雷撃を受けた。
Norsk bokmål: M/T Charles Racine (b. 1937, Odense Staalskibsværft ved A.P. Møller, Odense)
Date circa 1937
Source Norsk Maritimt Museum: image no. NSM.2106-038,
Author Unknown author
写真は, Norsk Maritimt Museum
M/T Charles Racine (b.1937, Odense Staalskibsværft ved A.P. Møller, Odense)IDENTIFIER NSM.2106-038引用。
4)英 國 に 於 け る 空 襲 封 策
先程申したやうに英國はドイツの猛烈なる爆撃を豫想なければならぬので,是に對しては萬全の策を講したと申しましたか,偖て其 の策はどんなものてあつたかと申しますと,御存じのやうにマスクを造る,トレンチを澤山造る,或市民 の避難移動をやる。此の移動は全國では200萬位てありまして,其の中ロンドンの子供だけても50萬,是も3日間に移すと云ふやうな大きな計畫て實際やりました。又消防を強化する。
燈火管制は戰争か始まつた9月3日の晩から非常管制てあります。絶封に燈を洩らしてはいけない。明りを洩らした者は罰金を取られる。日本人も大分罰金を取られました 明りが洩れます と紙に書いた注意書を机の上に置いて行きます。それには,あなたの部屋から昨晩何時何十分頃明りか洩れた,將來は國家の爲明りが洩れないやうにして呉れと云ふことか書いてあります。2囘目なると否應なしに罰金を取ると云ふやうな非常にシビヤーなやり方てありました。それから毒ガスの検知板を町の角々に200m位の間隔を置いて配置した,其のほか防護團の訓練等をやりまして,1938年だけに内務省か使つた豫算のみでも7,000萬磅(約12億 圓)てあります。
5)今 次 大 戰 初 期 の 状 況
それて愈々戰争を始めたのてありますか,戰争を始めまして1ケ月足ららずでポーランドの作戰か終りました。英國てはポーラントは3ケ月は持ち耐へると考へて居りましたか,豈圖らんや僅か18日間でポーランドは潰れた,我々から考へると,何故イギリスの空軍はドイツのポーランド作戰中全力を擧げてドイツの背後を衝かかつ たか と考へたのてあ ります。其の力が無かつたのかフランスの方に 飛行團約2個を送りましたが,一向手 出しをしないて宣傳 ビラばかり撒いて居りました。1,300萬 枚をドイツの國 内に撒いたと云ふ のてすから,殆ど一軒に1枚行き亙る位撒いた譯てあります。紙切れを撒いて戰争をして居 りました。(笑声)
写真(右)1939年9月、ポーランド中部、ビャウィストク(Białystok)西20km、クルピキ(Kurpiki)近くのナフレ(ナリュー)川を強行突破したドイツ陸軍II号戦車:第二次大戦の緒戦、ポーランド侵攻で、ドイツ軍は新型のIII号、IV号戦車の不足から、主力を担って奮戦したのがII号戦車とチェコ38(t) 戦車である。本来は試作用・訓練用に開発された軽戦車だが、口径55口径55口径30式2センチ戦車砲(2cm KwK 30 L/55)を搭載し速射力が高かった。
Deutsch: Panzer 2 kommen zur Sicherung nach der Erzwingung des Narew-Überganges bei Kurpiki.
Date 19 September 1939
Source Archiv Döhler
Author Joachim Döhler
写真はWikimedia Commons, Category:German invasion of Poland of 1939
File:Panzer 2 nach Narewübergang.jpg引用。
写真(右)1939年9月、ポーランド中部、ワルシャワ南方80km、ラドム近郊で渡河するドイツ陸軍の兵士と将校用らしいメルセデス:橋は破壊されているので、新たにドイツ工兵部隊が架橋したようだ。1939年9月1日,ドイツ軍ポーランド侵攻の2日後,9月3日,英首相ネヴィル・チェンバレン(Neville Chamberlain)は,相互援助条約を結んだポーランドを軍事支援するとして対独宣戦布告をした。
Photographer
Unknown photographer
Description
Polski: Przeprawa niemieckiej kolumny wojskowej przez rzekę w okolicach Radomia. Widoczne ruiny zniszczonego mostu i samochód Mercedes.
Date September 1939
Medium photograph
Collection
Narodowe Archiwum Cyfrowe Blue pencil.svg wikidata:Q11789677
Wydawnictwo Prasowe Kraków-Warszawa
Accession number
2-58
写真はWikimedia Commons, Category:German invasion of Poland of 1939 File:Przeprawa wojsk niemieckich przez rzekę w okolicach Radomia (2-58).jpg引用。
写真(右)1939年9月、ドイツ、ポーランド侵攻時のドイツ空軍メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E戦闘機と腹ごしらえをする戦闘機パイロットたち軍兵士:Bf109は、1935年5月28日に試作1号機が初飛行。ダイムラー・ベンツ DB 601液冷倒立V型12気筒を搭載したMe109戦闘機E型(Emil:エーミール)は、発動機はダイムラー・ベンツ (DB601A) で、E-1は機首上面・左右主翼に7.92ミリMG17機関銃4丁を搭載しただけで、火力は軽微だった。Bf109E-2型は、当初の計画通り、エンジンを貫通し、プロペラ軸から発射する20ミリ機関銃 (MG FF)を搭載するモーターカノンを装備するはずだったが、大口径機関銃の振動のために、モーターカノンは実用化できなかった。
Description Lot-3951-8: WWII: German Invasion of Poland, September 1939. Translated German reads, “German aviators have an outdoor lunch in the east.” Courtesy of the Library of Congress. (2017/05/05). Photographed through Mylar sleeve.
Date September 1939
Source Lot-3951-8
Author National Museum of the U.S. Navy
写真はWikimedia Commons, Category:German invasion of Poland of 1939 File:Lot-3951-8 (34341822551).jpg引用。
写真(右)1939‐1940年頃(?)、欧州西部、編隊飛行するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju 87Bスツーカ急降下爆撃機の左前方側面:Ju87の諸元 全長: 11.10 m (36 ft 5 in)
全幅: 13.805 m (45 ft 3.5 in)
全高: 4.01 m (13 ft 2 in)
主翼面積: 31.900 m2 (343.37 sq ft)
空虚重量: 2,712 kg (5,980 lb)
最大離陸重量: 4,336 kg (9,560 lb)
発動機: ユモ(Jumo)211Da V-12液冷エンジン890 kW (1,200 hp)
最高速力: 339.6 km/h (211.0 mph, 183.4 kn) /海面上
383 km/h (238 mph; 207 kn) /高度4,087 m (13,410 ft)
航続距離: 595.5 km (370.0 mi, 321.5 nmi) / 500 kg爆弾
兵装: 2× 7.92 mm MG 17固定機関銃, 1× 7.92 mm MG 15旋回機関銃
爆弾: 1× 250 kg (550 lb)、 4× 50 kg
Junkers, Ju.87
Catalog #: 01_00081646
Title: Junkers, Ju.87
Corporation Name: Junkers
Additional Information: Germany
Designation: Ju.87
Tags: Junkers, Ju.87
写真はSDASM Archives引用。
写真(右)1940年頃(?)、欧州西部、編隊飛行するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju 87Bスツーカ急降下爆撃機の上面:1935年9月17日初飛行のJu87は、1939年9月のポーランド侵攻、1940年5月の西方侵攻、1940年夏のイギリス本土航空決戦(バトル・オブ・ブリテン)に投入された。制空権のないイギリス空爆では、イギリス空軍スピットファイア、ハリケーン戦闘機の迎撃を受けて大きな損害を出した。
355fg foe Ju 87's on D-Day [unknown]
Image from the Bill Marshall Collection, which focuses on the 355th Fighter Group in World War Two. Please do not use this photo without permission. --Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives引用。
ポーラント戰か終るとお互に多少の空爆をやつて居りました。勿論ポーランド戰か始 る前,戰争か始ると英國も有名なウイルヘルムスハーフェン[Wilhelmshaven]を,次てキールを爆撃致しました。何れも十機乃至十數機の小さな編隊か爆撃して居 ります。ドィツの一番やつたのはエヂンバラのファス・オフ・フォースと云ふ大きな橋,それからスコットランドの北方のスカパフロー,斯う云ふ所を数機,十數機と云ふ編除て爆撃致しま した。實際兩交戰國共ちびりちびりとした空襲 しかやりませ ん。
ロンドンの日本人は私の顔を見ると,何たちつともやらぬちやないか と,私のせいのやうに言つて居られ ま したか(笑聲),私もドイツから數千,少くとも數百機の大編隊か來ると云ふやうに考へて居りました。
處かホーラント戰が終つても依然として沈黙を守つて居る。さうして漸次英國は御存しの霧の時期に入って参りました。此の時期になると殆ど日の照る日かない と云ふやうな天候てありますのて,空軍の活動は益々困難になると云ふやうな状態てありました。
相變らすドイツは沈黙を守つて居りました。其の沈黙は非常に無氣味な沈黙てはありましたか,英國では是に就て色々な臆測かなされ ました。即ちトイツの沈黙と云ふものは何に原因するか,先つ第一は石油の不足だと云ふことを一般の人か唱るものは,抑も千機或は数百機編隊と云ふ様な大きな爆撃は未た曾てやつたことはない,だからゲーリング[Hermann Göring]もそれへたのてあります。
それから ドイツは思つた程に飛行機 を持たないのちやないか と云ふ説も有力てありました。また或だけの大爆撃をやつて果して效果かあるかないか肚か決つてないのた,と云ふ可なり穿つたのもございます。
一寸輕はすみなのは,英國の空軍の強いと云ふことか解つたのて,よう來ないのだらうと云ふ,相當なセルフコムプラセンシー[self-complacency]てありますか,斯う云ふの もございました。併し石油の不足と云ふものは第一に擧けられたのてあります。
是は後て聽いたのてございますか,當時のドィツは戰争開始後8ケ月間に約600萬t使つて居つたと云ふて居りますか,さう致しますと殆どストックの大部分を使つて居ることになるのてございます。
當時 ラインラント[Rheinland]からロンドンを爆撃するのに双發の飛行機て往復的1 .5tの油を要した。それから考へて數千機の編除て爆撃を毎日やると云ふことは油の上から一寸出來にくいと言ふやうな判断を當然致したのてあります。
ポーランド戰後さう云ふ風に油を消費して,然らは爾後どう云ふやうに手を入れるたらうかと云ふことを英國は臆測を致しました。もう其の頃はタニューヴ河は凍つて居る。戰前タニューヴ河ては毎月11〜12萬tしか入つて居りません。さうして11月の終りから12月の初めになるとダニューウ河は凍ります。汽車に依る輸送量は月に8,000tと英國では観測して居りました。
從つてポーランド戰後ブタペストとフカレストとの間の鐵道線を一生懸命に補強してルーマニアの石油を運んだとは申して居りますか,矢張り石油が足りないのたと云ふことか英國人には信せられるやうになつて参つ たのてあります。其のうちに段々歐洲の寒い國に於ても雪が融 けて参 ります。
写真(右)1940年4月13日、ノルウェー北部西岸、ナルビク(Narvik)のオフォト・フィヨルドを遊弋するイギリス海軍ウィリアム・ジョック・ホイットワース中将(1884-1973)隷下の駆逐艦隊:イギリス海軍空母「フューリアス」搭載の艦上機からの撮影。イギリス艦隊は戦艦「ウォースパイト」を旗艦とに駆逐艦ベドウィン、コサック、エスキモー、パンジャビ、ヒーロー、イカラス、キンバリー、フォレスター、フォックスハウンドの9隻が、1940年4月13日、フォト・フィヨルドに侵入し、在泊中のドイツ海軍エリッヒ・バイ中佐隷下の駆逐艦エーリッヒ・ケルナー、ゲオルク・ティーレ、ヘルマン・キュンネ、エーリッヒ・ギーゼ、ディーター・フォン・レーダーなど8隻を撃沈した。
The Second British Naval Action Off Narvik. 13 April 1940, Aerial Photographs From a Fleet Air Arm Aircraft.
HM Ships approaching Narvik.
Date between 1939 and 1945
This is photograph A 33 from the collections of the Imperial War Museums. Flag of the United Kingdom.svg
Author Royal Navy official photographer
写真はWikimedia Commons, Category:Norwegian Campaign File:The Second British Naval Action Off Narvik. 13 April 1940, Aerial Photographs From a Fleet Air Arm Aircraft. A33.jpg引用。
写真(右)1940年4月13日、ノルウェー北部西岸、ナルビク(Narvik)のオフォト・フィヨルド最奥にイギリス海軍戦艦・駆逐艦隊に追い詰められ、撃破されたドイツ艦船:イギリス海軍ウィリアム・ジョック・ホイットワース中将(1884-1973)隷下の戦艦「ウォースパイト」、駆逐艦9隻は、1940年4月13日、フォト・フィヨルドでドイツ海軍エリッヒ・バイ中佐隷下の駆逐艦エーリッヒ・ケルナー、ゲオルク・ティーレ、ヘルマン・キュンネ、エーリッヒ・ギーゼ、ディーター・フォン・レーダーなど8隻を撃沈した。イギリス海軍の損害は、駆逐艦3隻損害だった。5月28日に連合国軍は、ナルビクを奪回したが、フランス本国での大敗のために、5月24日にナルビク撤退が決まり、連合国軍は6月8日にナルビクを撤退した。海外にあったノルウェー船は西側連合国の側について海上輸送に従事したが、本国ではノルウェー国防大臣だったキスリングが親ドイツ政権を樹立し、ドイツ潜水艦用の基地が設けられた。
English: The wrecks of German supply ships sunk or left derelict at Narvik in Norway after the Royal Navy's attack on 13 April 1940.
Narvik Harbour showing the wrecks of German supply ships sunk or left derelict after the raid of the Second Destroyer Flotilla on 13 April 1940, the second British naval action off Narvik.
Date between 1939 and 1945
This is photograph A 42 from the collections of the Imperial War Museums. Flag of the United Kingdom.svg
Author Royal Navy official photographer
写真はWikimedia Commons, Category:Norwegian Campaign File:The wrecks of German supply ships sunk or left derelict at Narvik in Norway after the Royal Navy's attack on 13 April 1940. A42.jpg引用。
写真(右)1940年6月17日、ノルウェー北部西岸、スタイン(Stien)、ドイツ軍の捕虜となったノルウェー派遣のイギリス陸軍兵士:ノルウェー南部で、ドイツ軍は優勢だったが、フィヨルドの良港を擁するトロンハイム、ナルヴィクは、イギリス海軍の勢力下にあり、長らく抵抗をつづけた。
Norsk bokmål: Engelske krigsfanger etter kampene ved Stien
Tittel / Title: Engelske fanger - Etter kampene ved Stien Dato / Date: 17.05.1940 Fotograf / Photographer: Ukjent/Unknown Sted / Place: Stien, Nordland, Norge Eier / Owner Institution: Arkiv i Nordland Lenke / Link: Arkiv i Nordland Arkivreferanse /Archive reference: AIN.NA143.0131
Fra Dag Skogheims Privatarkiv
Tekst bak på bildet: Gefangene engländer dem kampf bei Stien
Date 28 July 2011, 15:48:33
写真はWikimedia Commons, Category:Norwegian Campaign File:English POWs after the battle of trail Stien in 1940.jpg引用。
写真(右)1940年5月31日、イギリス北部西岸、スコットランド、ガロック(Gourock)、ノルウェー北部沿岸に上陸するために勢ぞろいしたイギリス遠征軍:ドイツ軍の機先を制してノルウェーに侵攻する計画は失敗に終わり、1940年4月9日未明、ドイツ軍は、ヴェーザー演習作戦を発動、ノルウェー、デンマークに侵攻、それに対抗して、イギリス。フランス連合軍もノルウェーに遠征軍を派遣した。
English: British troops lined up at Gourock in Scotland before embarking for Norway, 20 April 1940.
Troops lined up at Gourock waiting to embark for Norway, 20 April 1940.
Date between 1939 and 1945
N 3 from the collections of the Imperial War Museums
Part of War Office Second World War Official Collection
写真はWikimedia Commons, Category:Norwegian Campaign File:British troops lined up at Gourock in Scotland before embarking for Norway, 20 April 1940. N3.jpg
引用。
写真(右)1940年6月5日、ノルウェー北部西岸、ナルビク郊外、ビェルクビク(Bjerkvik)に上陸するフランス軍兵士たち:ノルウェー南部で、ドイツ軍は優勢だったが、フィヨルドの良港を擁するナルヴィクは、イギリス海軍戦艦、駆逐艦が制圧し、ドイツ海軍駆逐艦隊を完全に排除した。
English: The French Army in the Norwegian Campaign, 1940
The landings at Bjerkvik during the battle of Narvik after fierce bombardment by British ships. French troops massed in boats under machine gun fire from the rocks and shore.
Date 5 June 1940 (Second World War)
HU 91803 from the collections of the Imperial War Museums.
Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Norwegian Campaign File:The French Army in the Norwegian Campaign, 1940 HU91803.jpg引用。
6)ノ ル ウ ェ ー 作 戰
4月になると大擧してドイツはノルウェーの作戰をやつたのてあります 。其の直前4月4日てありましたか,チェンバレンは英國の國防に付て非常に劃期的な聲明を發表致しました。それは,英國は今や開戰當初に比して國防力は10倍加したといふのであ ります。是に依つて英國の氣勢をぐつと引上けたのであります。世界に向つてそう云ふ聲明を致したのてありますか,其の舌根の乾かない4月9日にはノルウェーの作戰をやつたのであります。
ドイツは,殆ど主力を擧けてスカゲラックを抑へ,英國の海軍か寄り附けないや うに して置 いて輸送機 てどんどんノルウェーに兵隊を輸送致しました。當時全輸途兵 力は20萬と言はれましたか,是に封して英國は2個師團半,約5萬 位しか持つて行つて居りません。從つて英佛聯合軍は終に退却の 已む なきに至りまして,1ケ月経つた5月7日には愈々ノルウェーの撤退を終つたのであります。
此の時に於きましてもドイツのやり方は非常に素速く,何 か徴候が現れそうなものてありますか,誰も知らなかつた と云ふ状態でありまして,英國てすらも是を知らない。當時英國の用兵部ては大あわてに狼狽て々,ノルウェー語の亂書を民間から掻き集めて,ノルウェー語を習つて上陸作戦をやらう(笑聲),斯う云ふ遽て方をやりました。
上陸作戰と云ふのは皆さん御存しのやうに,何囘も何囘もそれに似たやうな状況の下に兵を訓練して,萬全の策を執つて始めて成功するものてあります。ドイツかノルウェーに行つたから,今からノルウェー語を研究して行かうと云ふやうなやり方ては成功しないのか當然てあります。飛行機も古い型のグラジェーターの1個中隊を此の邊に持つて行きましたか,そんなものは何の役にも立ちませ ん。
写真(右)1938年頃(?)、イギリス、編隊飛行するグロスター(Gloster)グラジエーター(Gladiator)複葉戦闘機(KG130,131,142,144):全長 8.4 m、全幅 9.8 m、全高 3.2 m、主翼面積 30m2、空虚重量 1,560 kg、運用重量 2,205 kg、発動機 ブリストル・マーキュリーVIII AS空冷星形エンジン830 hp(緊急出力840 hp)、最高速力 414 km/h/高度4,500 m、航続距離 710 km。
Gloster, Gladiator
Catalog #: 01_00080669
Title: Gloster, Gladiator
Corporation Name: Gloster
Official Nickname: Gladiator
Additional Information: UK
Tags: Gloster, Gladiator
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真はSDASM Archives引用。
写真(右)1938年頃(?)、イギリス、編隊飛行するグロスター(Gloster)グラジエーター(Gladiator)複葉戦闘機(N5517):1934年初飛行、最高速力は389km/hを発揮し、1935年7月に制式、1937年1月から部隊での運用開始。後継機となる単葉のホーカー ハリケーンは1937年12月から部隊配備されている。
15_002574 Gloster Sea Gladiator N5517
Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft."
PLEASE TAG this image with any information you know about it, so that we can permanently store this data with the original image file in our Digital Asset Management System.
写真はSDASM Archives引用。
写真(右)1939年12月26日、フランス、ドイツのフランス侵攻時、ミューズ川の戦いに参加したイギリス遠征軍の低空飛行するビッカース(Vickers)ウェリントン(Wellington)Mk.I爆撃機の右側面と飛行場に待機する3機のホーカー(Hawker)ハリケーン(Hurricane)戦闘機:ウェリントン(Wellington)爆撃試作1号機の初飛行は、1936年6月15日で、量産型Mk.Iは1937年12月に初飛行した。運用開始は1938年10月。総生産数は1万1,464機。鋼管羽布張りのホーカー ハリケーンは、イギリス空軍省の1934年の仕様で、8挺もの7.7mm機関銃を装備する引込み脚高速戦闘機F.5/34として競争試作された選ばれた。要求仕様は、1935年1月にはF.36/34に改定されたが、1935年10月にホーカー社シドニー・カム技師のハリケーン試作機が完成し、11月に初飛行、504km/hという高速を達成した。
Permann RAF vs LW Album Image43 074
Scanned image from the Permann Collection from the "RAF vs LW" album--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives 引用。
写真(右)1940年4-6月、フランス、低空飛行するイギリス空軍ビッカース(Vickers)ウェリントン(Wellington)Mk.I爆撃機の正面と見上げるフランス市民:ビッカース(Vickers)ウェリントン(Wellington)Mk.I爆撃機の諸元:全長:19.68 m
全幅:25.26 m
全高:5.31 m
全備重量:12,910 kg
発動機:ブリストル・ペガサス17空冷9気筒エンジン1000 hp2基
最高速力:378 km/h
実用上限限度:5,500m
航続距離:3,540 km
兵装:7.7mm機銃×6挺、爆弾2,000kg、搭乗員 6名。
Permann RAF vs LW Album Image43 017 Vickers Wellington Mk.I
Scanned image from the Permann Collection from the "RAF vs LW" album--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives 引用。
写真(右)1940-1941年頃、欧州、2機で編隊飛行するイギリス空軍ビッカース(Vickers)ウェリントン(Wellington)爆撃機の左前方上面:胴体、主翼はヴィッカースが開発した大圏構造で、籠状の金属骨組みに羽布張りの軽量で堅牢な構造である。被弾にも損傷個所が限定されるので、耐弾防御も期待できた。
Vickers, Wellington
Catalog #: 01_00089572
Manufacturer: Vickers
Title: Vickers, Wellington
Tags: Vickers, Wellington, UK
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
Official Nickname: Wellington
写真はSDASM Archives 引用。
写真(右)1940年4月、イギリス、西ロンドン、ノーソルト、イギリス空軍第604爆撃飛行隊のブリストル(Bristol)ブレニム (Blenheim)Mk.I型爆撃機:初飛行は、1935年4月12日。全幅 17.17 m、全長 12.12m、翼面積 84.0 m2、自重4,441 kg、総重量 6,532 kg
発動機ブリストル(Bristol) マーキュリー (Mercury)空冷星形9気筒エンジン840 hp2基、
最高速力 418 km/h、航続距離 1810 km、乗員3名、兵装 7.7 mm 機関銃2丁、爆弾搭載量1,000 ポンド (450 kg) 。1,552 機生産。胴体後上方にボールトンポール回転銃塔に7.7mm機関銃を搭載している。初飛行1935年4月12日のブレニムMK.Iは、1937年10月から部隊配備、1939年までに1351機生産。ブレニム爆撃全形式合計で4,422機量産された。
生産開始:1935年9月
運用開始:1937年3月10日。
English: RAF Fighter Command
Bristol Blenheim Mk 1Fs of No. 604 (County of Middlesex) Squadron at Northolt, April 1940. L6798 closest to camera.
Date between 1939 and 1945
Source HU 2303 comes from the collections of the Imperial War Museums.
写真はWikimedia Commons Category:Bristol Blenheim Mk.I of the Royal Air Force File:RAF Fighter Command HU2303.jpg引用。
図(右)1939年12月、フランス北東部、アルザス、コルマール北12km、フランス軍マジノ線コンクリート製トーチカ内部の居住区と待機するフランス陸軍兵士:マジノ線(Ligne Maginot: Maginot Line)は、ドイツ国境のフランス側に構築された要塞地帯で、フランス陸軍大臣アンドレ・マジノ(André Maginot:1877-1932)に因んで命名された。イタリア国境にも、同様のアルパイン線(Alpine Line)が構築された。要塞地帯の構築は、第一次大戦の塹壕戦を反映したものだが、ベルギー国境には要塞地帯は未整備だったので、大きな欠点があったといえる。
マジノ線が完成したのは、1936年で160億フランの建設費と、140億フランの管理費がかかった。しかし、1940年5月に、ドイツ軍はマジノ線を完全に迂回して、中立国オランダ、ベルギー、ルクセンブルクから西方侵攻を開始し、主力をアルデンヌ林を突破させる電撃戦を発動した。
フランスに勝機があったとすれば、1939年9月に勃発した第二次大戦緒戦で、イギリス・フランス連合軍が、マジノ線の奥に少数の兵士で守備をして、対兵力を投入してドイツのジークフリート線を迂回し、心臓部ラインラントの工業地帯を攻撃することだったであろう。実際には、マジノ線に立て籠った兵士は、ドイツ軍の迂回攻撃でなすところなく降伏した。
escription
Français : Illustration issue de L'Écho de Bétonville, journal du 164e RIF. Image du réveillon de Noël.
Date December 1939
Author R.W., 164e RIF
図はWikimedia Commons, Category:Maginot Line historical images File:Réveillon de décembre 1939 dans la ligne Maginot.jpg引用。
写真(右)1940年5-6月、フランス北東部、破壊放棄されたフランス軍マジノ線のコンクリート製トーチカを見物に来訪したドイツ軍将校と敬礼して迎えるドイツ軍将兵たち:上部には、明細塗装が施されている。弾痕が見えるが、マジノ線に立て籠っての抵抗はなかった。1940年5月10日、「黄作戦」(ファル・ゲルプ:Fall Gelb)が発動、ドイツ軍右翼B軍集団は、オランダ・ベルギーへ進撃、そして、イギリス遠征軍とフランス軍の注意を引き付けていた時、アルデンヌ森を経て西方に侵攻した。しかし、5月23日にドイツ軍は進撃停止を命じられ、ダンケルクに包囲されたイギリス遠征軍、フランス軍34万人は、イギリス海峡を越えて、イギリス南岸ドーヴァー、ポーツマスなどに撤退できたのは、ドイツ軍が、6月5日までダンケルクを占領しなかったからである。
Maginot-Linie, Besichtigung eines Werkes
Dienstreise Generalleutnant Kurt Daluege unmittelbar nach dem Beginn des Frankreich- Feldzuges, Route: Saarbrücken, Straßburg, Westwall, Verdun, Dijon (Paraden und Besichtigungen)
Title
Westwall, Besichtigung, Maginot-Linie Info non-talk.svg
Original caption
For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg
Westwall, Maginot-Linie, Besichtigung eines Werkes
Depicted place Westwall
Date May 1940
Collection
German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753
Current location
Sammlung Adolf von Bomhard (Bild 121)
Accession number
Bild 121-0364
写真はWikimedia Commons, Category:Maginot Line historical images File:Bundesarchiv Bild 121-0364, Westwall, Besichtigung, Maginot-Linie.jpg引用。
写真(右)1940年5-6月、フランス北東部、アルザス、フランス軍マジノ線のコンクリート製トーチカを配置したシェーネンブール要塞:上部には、動力回転式砲塔が左右に配置されている。1935年に4年間の工事を経て旧ドイツ領アルザス北部を防衛するため、630人を収容できた。 地下にはキッチン、発電所、医務室があり、最深部は地下30mあった。弾痕が見えるが、マジノ線に立て籠った兵士へのドイツ軍の攻撃はほとんどなかったようだ。
Frankreich.- Beschädigte Befestungsanlage (Bunker) der Maginot-Linie; ca. Mai/Juni 1940
Title
Frankreich, Maginotlinie Info non-talk.svg
Original caption
For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg
Maginot-Linie
Depicted place France
Date May 1940
Collection
German Federal Archives
Current location
Sammlung Adolf von Bomhard (Bild 121)
Accession number
Bild 121-0485
写真はWikimedia Commons, Category:Maginot Line historical images File:Bundesarchiv Bild 121-0485, Frankreich, Maginotlinie.jpg引用。
7)フ ラ ン ス 作 戰
それか終ると引績きオランタ駸入をやりました。此の時も我々は恐らくマジノ線、ジークフリード線の突破には少くとも6ケ月か7ケ月か掛ると云ふやうに考へて居りました。私は此のヘルギーフランスの國境のリール附近を丁度戰争直前に通りましたか,別に大した要塞 と云ふものもございません。トーチカなど私の見た範團内てはありませんで した。
併しなから戰争開始後8ケ月を經過して居ますので,英國の軍隊は少くとも此處に50萬 近く來て居りますので,全力て穴を掘つただけでも戰車の障碍物 か出來る位てあります。それ故マジノの延長線の突破 はさう容易くは出來ない。從つて是は非常な長期戰になると云ふやうに我々は考へたのでありますか,豈圖らんやマジノ線の一角セダンの突破の如 き殆 と1日,さうして,大擧してフランスに駸入して,6月の初めには既にソンムの北の線に入つたのてあります。ヘルギー軍は殆 ど降参 を致 しま したが,6月の終りから撤退を始 めた英佛聯合軍の一部 は6月4日 にダンケルクの撤退を終つたのであります。ダンケルクの撤退も色々面白い,又 我々が專門的に見て色々話かございます。
写真(右)1939‐1940年前半(?)、フランス、フランス空軍主力戦闘機モラーヌ・ソルニエ(Morane-Saulnier) Ms.406):MS.406戦闘機の諸元:1935年8月8日に初飛行、全長:8.15m
全幅:10.71m
全高:2.84m
主翼面積:16.0m2
空虚重量:1,893kg
運用時重量:2,426kg
総重量:2,720kg
発動機:イスパノ・スイザ(Hispano-Suiza)12Y31液冷V型12気筒エンジン619 kW (830 hp)、最高速力:490km/h/高度4,500m、巡航速力:400km/h(5,000m)、
航続距離:800km、実用上昇限度:9,500m、上昇時間:5,000mまで6分、兵装:20mm機ヒスパノスイザ(Hispano-Suiza)HS.404 機関砲1門(プロペラ軸)、7.5mmMAC 1934機関銃2丁。生産機数1176 機。
Ray Wagner Collection Image
PictionID:45937075 - Catalog:16_007104 - Title:Morane-Saulnier Ms.406 - Filename:16_007104.TIF - Image from the Ray Wagner collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation -----Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives引用。
写真(右)1940年5月、フランス北岸、ダンケルク、イギリス本土へのイギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」に投入されたイギリス海軍V級駆逐艦「ヴィヴァシャス」Vivacious (D36)とその手前でドイツ軍機に撃沈されたトローラー船:V級駆逐艦「ヴィヴァシャス」Vivacious (D36)は、1917年12月竣工・就役の第一次大戦型旧式駆逐艦で、1930年中ごろには、現役から除かれていたが、第二次大戦勃発直前の1939年8月に再就役した。基準排水量1,272–1,339 tons、全長300 ft (91.4 m) 、全幅26 ft 9 in (8.2 m)、吃水9 ft (2.7 m) 、2軸2万7,000 shp、速力 34 kt、航続距離 燃料320–370トンで3,500 マイル/15 kt, 乗員110名、兵装:4 × QF 4 インチ速射砲Mk.V (102 mm L/45)、2 × QF 2ポンド Mk.II ポンポン"pom-pom" 対空機関砲(40 mm L/39) 、魚雷発射管4門 (2基x2連装)/ 21インチ(53?)魚雷。
English: Dunkirk 1940
The Royal Navy destroyer HMS VIVACIOUS VANQUISHER alongside a sunken trawler at Dunkirk, 1940.
Date Taken in May 1940
Source
http://media.iwm.org.uk/iwm/mediaLib//14/media-14093/large.jpg
This is photograph HU 1149 from the collections of the Imperial War Museums.
Author Unknown author
Permission
(Reusing this file) Part of Westfold J (mr)
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:Dunkirk 1940 HU1149.jpg引用。
写真(右)1940年5月26-29日、イギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」最中、フランス北岸、ダンケルクから、イギリス南岸ドーヴァーに帰り着いたイギリス海軍駆逐艦から下船するイギリス軍とフランス軍の兵士たち:艦船上手前には、21インチ(53?)魚雷発射管、救命ボート、艦載ボート吊下げダビッド、観測塔が見える。
English: English: Dunkirk 26-29 May 1940
British troops disembark from a destroyer at Dover.
Date between 1939 and 1945
This is photograph H 1685 from the collections of the Imperial War Museums. Flag of the United Kingdom.svg
Author Console A (Captain), War Office official photographer
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:Dunkirk 26-29 May 1940 H1685.jpg
引用。
図(右)1940年6月、フランス北岸、ダンケルク、イギリス本土へのイギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」を描いた絵画:撤退するイギリス軍兵士、撤退に参加した民間船、イギリス海軍艦艇が手前に、上空には、空襲するドイツ空軍機とイギリス軍の対空射撃によって撃墜されるドイツ機が描かれている。
English: The Withdrawal from Dunkirk, June 1940
image: On the left of the painting stretch sand-dunes covered with groups and long lines of khaki-dressed troops. Small boats loaded with troops move out from the sea shore towards larger vessels to the right of the work. Across the centre troops queue along a makeshift jetty towards the waiting ships. In the left background huge black smoke clouds from the town fill the sky. Aircraft fly
amongst explosions from anti-aircraft fire, one plane plummeting towards the right horizon.
Date 1940 (Second World War)
This is photograph Art.IWM ART LD 305 from the collections of the Imperial War Museums. Flag of the United Kingdom.svg
Author Cundall, Charles Ernest
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:The Withdrawal from Dunkirk, June 1940 Art.IWMARTLD305.jpg引用。
写真(右)1940年6月、フランス北岸、ダンケルク、イギリス本土へのイギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」最中のイギリス艦船に小舟をつたわって乗船しようとする撤退中のイギリス軍兵士:後方では、双尾翼式のイギリス空軍ハドソン哨戒爆撃機(アメリカ製で輸入したもの)が不時着している。当時の中立国アメリカで放映されたプロパガンダ映像からの編集写真。
British troops escaping from Dunkirk in lifeboats (France, 1940). Screenhot taken from the 1943 United States Army propaganda film Divide and Conquer (Why We Fight #3) directed by Frank Capra and partially based on, news archives, animations, restaged scenes and captured propaganda material from both sides.
Date 1940 (event), 1943 (film)Author Frank Capra (film)
Source Divide and Conquer (Why We Fight #3) Public Domain (U.S. War Department):
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:British troops lifeboat dunkerque.png引用。
写真(右)1940年6月、フランス北岸、ダンケルク、イギリス本土へのイギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」に参加したイギリス艦船と撤退するイギリス軍兵士の群れ:艦船上では、野戦用7.7mmルイス対空機関銃を配備した兵士が射撃している。当時の中立国アメリカで放映されたプロパガンダ映像からの編集写真。
British troops escaping from Dunkirk (France, 1940). Screenshot taken from the 1943 United States Army propaganda film Divide and Conquer (Why We Fight #3) directed by Frank Capra and partially based on, news archives, animations, restaged scenes and captured propaganda material from both sides.
Date 1940 (event), 1943 (film)Author Frank Capra (film)
Source Divide and Conquer (Why We Fight #3) Public Domain (U.S. War Department):
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:British troops retreat dunkerque.png引用。
ダンケルクの撤退の時にはもう陸軍の兵はぴようぴようになつて,飯盒も剣も銃 も皆大陸に置いて参りました。全く裸一貫の態てへとへとになつて居りましたか,流石は英國の傳 統 を有つ海軍(マリーノ)てあります。是 か迎へに行つて英國の港に揚けてやる時 に,「しつかりせい」と言つて肩を叩いて押し揚けたと言ふ話てあります。
歸つた來た兵は少し氣狂じみて居りましたのて,約1週 間位はコンセントレーションキャムプに入れて,精神状態の落つくのを待つて家へ歸しました。其の頃色々な奴を捉へて情報を得たのてこさいますか,勿論非常に消氣て居る。先づ英國民か消氣たのは数日年來初めてだらうと云ふ位消氣たのてあります。
写真(右)1940年5月31日、イギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」最中、フランス北岸、ダンケルクから、イギリス南岸ドーヴァーに帰還したイギリス海軍駆逐艦と乗艦しているイギリス軍敗残兵:艦船上手前には、機雷掃海用具のパラベーン、奥には120mm単装砲塔が見える。1930年から就役を始めたAあるいはB級駆逐艦のようだが、それなら基準排水量1350トン、全長98.4m、全幅9.83m、45口径12cm単装砲4門、基機関ギアードタービン2軸推進3万4,000shp、最高速力35 ノット、乗員138名(戦時194名)である。
English: Troops evacuated from Dunkirk on a destroyer about to berth at Dover, 31 May 1940.
Evacuated troops on a destroyer about to berth at Dover, 31 May 1940.
Date Taken on 31 May 1940
H 1637 from the collections of the Imperial War Museums.
Author Puttnam (Mr) and Malindine (Mr), War Office official photographer
Permission
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Part of War Office Second World War Official Collection
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:Troops evacuated from Dunkirk on a destroyer about to berth at Dover, 31 May 1940. H1637.jpg
引用。
写真(右)1940年5月31日、イギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」最中、フランス北岸、ダンケルクから、イギリス南岸ドーヴァーに帰り着いたイギリス海軍駆逐艦と乗艦しているイギリス軍敗残兵:艦船上には、ポムポム多連装対空機関銃が見える。
English: The British Army in the UK- Evacuation From Dunkirk, May-june 1940
Destroyers filled with evacuated British troops berthing at Dover, 31 May 1940.
Date Taken on 31 May 1940 H 1640 from the collections of the Imperial War Museums.
Author Puttnam (Mr) and Malindine (Mr), War Office official photographer
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Part of War Office Second World War Official Collection
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:The British Army in the UK- Evacuation From Dunkirk, May-June 1940 H1640.jpg
引用。
写真(右)1940年5月31日、イギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」最中、フランス北岸、ダンケルクから、イギリス南岸ドーヴァーにイギリス艦船から上陸しているイリス遠征軍撤収者:港に上陸する兵士は、兵器のほか手荷物を多数保持しておる。1943年のガダルカナル島を撤退した日本敗残兵は、乗船前に小銃など兵器も放棄していたから、それに比べれば、何とか兵士らしい威厳を保っているといえる。手前には、鉄路があり、貨物や人員輸送に便利なことが窺われる。
English: The British Army in the UK- Evacuation From Dunkirk, May-june 1940
Destroyers filled with evacuated British troops berthing at Dover, 31 May 1940.
Date Taken on 31 May 1940 H 1686 from the collections of the Imperial War Museums.
Author Puttnam (Mr) and Malindine (Mr), War Office official photographer
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Part of War Office Second World War Official Collection
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:The British Army in the United Kingdom- Evacuation From Dunkirk, May-June 1940 H1686.jpg引用。
写真(右)1940年5月31日、イギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」最中、フランス北岸、ダンケルクから、イギリス南岸ドーヴァーにイギリス艦船から上陸したイギリス軍敗残兵:列車で移動するまで、待機しているが、兵士たちの疲労感が漂ってくる。無事帰国して、喜んでもいいはずだが、大敗北に意気消沈しているのであろうか。
English: The British Army in the UK- Evacuation From Dunkirk, May-june 1940
Destroyers filled with evacuated British troops berthing at Dover, 31 May 1940.
Date Taken on 31 May 1940 H 1647 from the collections of the Imperial War Museums.
Author Puttnam (Mr) and Malindine (Mr), War Office official photographer
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Part of War Office Second World War Official Collection
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:The Evacuation From Dunkirk, May - June 1940 H1647.jpg
引用。
写真(右)1940年5月31日、イギリス遠征軍撤退「ダイナモ作戦」最中、フランス北岸、ダンケルクから、イギリス南岸ドーヴァーにイギリス艦船から上陸したイギリス軍敗残兵が飲食のもてなしを受けている。:列車で移動するまで、飲食が振舞われて安堵した表情を浮かべている。この敗残兵が、イギリス本土防衛に充当され、1941年以降は、北アフリカ戦線での攻撃に生かされることになる。
English: The British Army in the UK- Evacuation From Dunkirk, May-june 1940
Destroyers filled with evacuated British troops berthing at Dover, 31 May 1940.
Date Taken on 31 May 1940 H 1632 from the collections of the Imperial War Museums.
Author Puttnam (Mr) and Malindine (Mr), War Office official photographer
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Part of War Office Second World War Official Collection
写真はWikimedia Commons, Category:Operation Dynamo File:Troops evacuated from Dunkirk enjoying tea and other refreshments at Addison Road station in London, 31 May 1940. H1632.jpg
引用。
此の撤退に付ては色々お話かございます。例へば遠征軍の總指揮官てあるゼネラル ゴート[John Standish Vereker:ゴート子爵(Viscount Gort)]が動章を貰ふか(笑聲),我々の常識では考へ得られないことかごさいます。
又向ふの情報課の連絡將校(リエーノノ・オフィサー)にカーライルと云ふ少佐か居りましたか此の人は平常は會社の重役をやつて居つて非常な金持ちでありますか,召集され てリエーソンオフィサーになつた。
此のカーライルに今武官て英國へ行つて居る日本の辰巳[栄一]少將が會つたら,非常に悄氣て居つたので,どうして悄氣て居るのかと訊いたら,息子かダンケルクて行方不 明になつた とのことなのて,それはお氣の毒だ と云ふ譯て分れた。
それから1週 間程経つて又辰巳[栄一]少將か會つたら,今度 は非常 に ニコニコして居て,近寄つて來るなり,ジェネラル タツミ喜んて呉れと言つたさうてす。どうしたのかと訊いたら,自分の息子の在所か解つた。 それは宜かつた。何虞に居つ たのか。ドイツの捕虜になつて居つた(笑聲)。斯う云ふ落語みたいな實話もこさいました。こゝらあたりも我々の常識ては考へにくい所でごさいます。
写真(右)1938‐1940年頃(?)、イギリス、イギリス空軍ボールトンポール (Boulton Paul)デファイアント (Defiant)複座単発戦闘機の右側面:1937年8月11日初飛行、全長:10.77m
全幅:11.99m
全備重量:3,900kg
エンジン:ロールスロイス・マーリン3(1,030馬力)
最高速力:489km/h
航続距離:750km
武装:7.7mm機銃×4丁。1939年12月に第264飛行中隊に12機を配備、1940年以降、イギリス海峡の哨戒任務にあたった。
15_002574 Gloster Sea Gladiator N5517
Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft."
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写真はSDASM Archives引用。
写真(右)1941‐1945年頃(?)、イギリス、イギリス空軍ボールトンポール (Boulton Paul)デファイアント (Defiant)複座単発戦闘機(N1671)の左側面:奥は、イギリス軍が鹵獲したドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju87D急降下爆撃機。デファイアントは、前方固定機関銃がなく、複座で運動性能が低かったために、昼間戦闘ではドイツ空軍の軽快なBf109戦闘機に対抗できなかった。特に、飛行しながら、加速、遠心力、重力の作用する中で、旋回機関銃を操作し、命中させるのは至難の業であった。その後、夜間戦闘機として爆撃機迎撃に投入され、さらに複座であることを生かして、射撃訓練など練習機、あるいは標的曳航機として使用され、スピットファイアやハリケーンと同じロールスロイス液冷エンジンを装備しているにもかかわらず、合計1000機が生産された。
Permann_20 012 AI Gadgets Album
Scanned image from the Permann Collection from the "AI Gadgets" album--Please tag these photos so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository: San Diego Air and Space Museum Boulton Paul Defiant Mk.I, RAF Serial N1671. This aircraft is still extant. It has recently been restored and placed on exhibit at the RAF Museum at Cosford.
写真はSDASM Archives引用。
写真(右)1939‐1940年頃(?)、イギリス、イギリス空軍ホーカー(Hawker)ハリケーン(Hurricane)戦闘機(313)左側面:1937年から生産が始まったハリケーンMk.Iは、胴体は鋼管骨組み、胴体前半が金属外皮、後半が羽布張りという当時一般的な構造だったが、スピットファイアとBf109は、全面金属外皮だった。しかし、堅牢な構造で、第二次世界大戦の前に部隊編成ができていたハリケーンは、フランスの戦いに投入され、次のバトル・オブ・ブリテンでもスピットファイアを上回る配備で、主力戦闘機として活躍した。1940年5月、ドイツのフランス侵攻時、大陸派遣のイギリス遠征軍として、ハリケーン装備の第1、第73、第85、第87飛行隊あった。そして、ドイツの西方侵攻後に、第3、第79、第501、第504、第607、第615飛行隊が増派された。つまり、イギリス空軍戦闘機司令官ヒュー・ダウディング大将は、ハリケーン戦闘機配備の26個飛行隊から合計10個飛行隊をフランスに派遣したのである。
15_002535 Boulton Paul Defiant
Image from the Charles Daniels Photo Collection album "British Aircraft."
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写真はSDASM Archives引用。
8)ダンケルク敗走後
偖て此のダンケルクの戰争の後に,英國か數百年來の危機に遭遇したのてあります。言ぴ忘れましたか,其の前の5月10日にドイツ軍かオランダに侵入するとチェンバレンは責めを負ふて辭職してチャーチル内閣か成立を致しました。そしてチャーチルはダンケルクの撤退後、陸海室軍の首腦部を招集 して,此の後 の庭置を如何にすへきかと云ふこ とを相談致したのてありますか,此の時に断じて上陸作戦を行はせないと言つたのは海軍の艦隊司令長官であります。
陸軍は責任を負はれぬ,非常に弱腰てす。空軍は大體出來るかも知れない,出來ぬかも知れない,と云ふ位の所てありました。こ々でも海軍は相當の傳統的精神を有つてゐると云ふことか解りますか,此の一言に力を得て,チャーチルは非常な力を以て英國民 を引つ張つて來のてあります。南の海岸には要塞に等しいトーチカを作る。國内の全部の飛行場乃至廣場は ドイツの空襲部 除に封て防禦をする。ゴルフ・リンクは穴だらけにして,叉木を切つて倒したり,古い自動車を其處へ放つて置いたり,ありとあらゆることをやりまた。此の頃私達が田舎の方をドライヴ致しますと,よぼよほのお爺さん豫備の將校てありますか,制服を着て其處等あたりの子供,青年を指導しなからトーチカを作つ てゐる。或は土嚢 を積 んて防禦線を作つてゐる,と云ふやうな状景を澤山見たのであります。
写真(右)1939‐1940年頃(?)、イギリス、急旋回するイギリス空軍ホーカー(Hawker)ハリケーン(Hurricane)戦闘機(313):1935年11月6日初飛行、初期Mk. Iはロールス・ロイス マーリンエンジン Mk. II液冷エンジン1,030 hp (768 kW) 搭載、7.7mmブローニング機関銃8丁装備し、1937年12月から部隊配備が開始。第二次世界大戦の勃発した1939年9月1日には飛行隊(戦闘機中隊)19個に配備されイギリス空軍主力戦闘機だった。英国本土航空決戦後も北アフリカ、マルタ島など地中海方面や、ビルマ・インド方面に配備され、地上支援にも活躍した。ホーカー ハリケーン戦闘機は、登要とされる戦局に間に合い投入され、時期にあった活躍ができた殊勲機である。
Hawker, Hurricane
Catalog #: 01_00081096
Title: Hawker, Hurricane
Corporation Name: Hawker
Official Nickname: Hurricane
Additional Information: UK
Tags: Hawker, Hurricane
写真はSDASM Archives引用。
写真(右)1939年5月、イギリス、イギリス空軍第19飛行隊スーパーマリン(Supermarine)スピットファイア(Spitfire)Mk.I戦闘機:1936年3月5日初飛行、初期Mk. Iは全幅 11.23m、全長 9.12m、全高 3.02m、主翼面積 22.48m2、正規全備重量 2,692kg、ロールス・ロイス マーリンエンジン Mk. II液冷エンジン1,030 hp (768 kW) 搭載、最高速力 582km/h、航続距離 680km、兵装 7.7mmブローニングAN/M2 Mk.II機関銃8丁(携行弾数各350発)装備。Mk.Iは、1938年1,000機追加発注、1939年650機とMk.I2,160機の発注を得た。
1938年中頃から、生産されたMk.Iの引き渡しが始まり、1938年8月4日に第19飛行隊に初めて配備された。
Supermarine Spitfire Mk.I, 19 Sqd., Duxford, May39
Filename: 01_00092400
TITLE: Supermarine Spitfire Mk.I, 19 Sqd., Duxford, May39
CORPORATION NAME: Supermarine
DESIGNATION: Spitfire Mk.I
OFFICIAL NICKNAME: Spitfire
写真はSDASM Archives引用。
写真(右)1939年8月、イギリス、編隊飛行する雲形明細塗装のイギリス空軍第69飛行隊のスーパーマリン(Supermarine)スピットファイア(Spitfire)Mk.I戦闘機:イギリス空軍は、1940年7月のバトル・オブ・ブリテン開始時には、19個の飛行隊にスピットファイアを、27個の飛行隊がハリケーンを配備していた。そして、爆撃機迎撃戦の火力強化のために、20mm 機関砲2門、7.7mm機関銃4丁を装備のMk.Ibが開発され920機が生産された。そこで、初期の7.7mm機関銃8丁搭載型は1,549機が生産されたが、Mk.Iaと命名された。
Supermarine, Spitfire
Catalog #: 01_00088563
Manufacturer: Supermarine
Official Nickname: Spitfire
Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は、SDASM Archives・引用。
さうして6月7日になるとドイツはソンム河北岸の線から南方に前進 を開始したのであります。此の時に英國の國民は一時非常に安心の色か見えました。丁度此のソンムの北側の線は此の前の大戦ても長い間封峙致しましたが,フランスの此の附近 は高地 て防禦するには適當な地であります。從つてドイツか此のソンム[Somme]の線を抑へて一擧英本國に封し上陸作戦 をやつたな ら-當時ダンケルクから歸つて來た英兵は35萬と言つて威張つて居つたか,實際は極く僅かてあります。歸つて來たのは鐵砲を持たない無鐵砲な奴ばかりてあります(笑聲)。後に残つて居る者は女,子供,訓練を經ない所の兵 隊てあります。
それて我々は,10ケ師團て2週間位もあれば全英國を蹂躙し得ると云ふやうに考へたのてありますか,ドイツは惜しい哉,此のソンムの線から南の方に下つて來て,英國に向つては何にも手を着けなかつた。英國民は非常にほつと致しました。今から考へます と,ドイツがソンムの線から南に下つたことに依つて英國に立ち直る機會 を與へたと云 ふことは戦略 的にみて非常に失態 てはなかつたかと云ふ風にも考へられます。併しそれは我々の淺はかな考てありまして,實は上陸作戦用の資材か殆どなかつたと云ふことか後になつて解りました。
又西方の戰場は今占領したばかりてありまして,上陸作戰をやる爲には飛行場,其の他色々な基地 の整備をやらなけれはならない。又西方て使つた飛行機のオーヴァーホールをやらなければならぬ。機械化部隊のオーヴァー・ホールもやらなければならない。或は潜水艦も一時行動を止めてオーヴァーホールをしなければならない。是に要する時間は1ケ月か2ケ月掛ると云ふことは後て我々も氣がついたのてあります。
西方戰場に使つた飛行機の数は約5,000でありまして,當時毎日使ったガソリンの量 は飛行機の第一線部隊に於て約3,000t,機械化部隊の第一線部隊に於て約3,000t,計 約6,000t位を第一線部隊だけて使つて居ります。少くとも國内の後方勤務て要る量 はそれの10倍位の毎日約6萬t位も用びたと思はれます。
それ故10日間ては60萬t位,1ケ月に180萬t,かこれ200萬t近くのガソリンを使はなければならないやうな状態てあ りますのて,今直ぐ上陸作戦をやらうとしても,後方の連絡はとれない,ガソリンの集積はない,船はない,と云ふのて,非常に慎重な態度を執る所のヒトラーとしては,やらなかつたと云ふやうに考へられるのてあります。
ヒットラーのやり方を前から見て居ると,決して彼は二正面作戦をやらない。ポーランドをやるならばポーランドを衝くことだけしかやらない。詰り鶏を割くのに牛刀を以てする。さうして攻撃を集中すると云ふやり方を皆やつて居ります。ポーランドに封しても,ノルウェーに対してしても二兎を追はないと云ふやうなやり方をやつて居ります。
フランスか降服すると大體今の休戰協定を設定して,占領地帯と非占領地帯とに分けて,英國に封する攻 撃 を準 備 したのてありますか,當時 ドイツは空軍次官のミルス(Erhard Milch)大將自ら出て,飛行機の整備,後方機關の整備をやる,船集める,船はダニューウからゲーリングキャナルを通り,ラインを下つて持て参つて居ります。當時ブーローニ ュ,カレー,オステンド等に作つた飛行 場の数は,私が色々な情報で数へた所だけでも140-150はございました。
図(右)1940‐1941年頃、イギリス本土航空決戦の時期、海上でイギリス空軍スピットファイア戦闘機を躱すドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do 17 Z爆撃機とライフジャケット救命胴衣を着た搭乗員たち:1942年使用のドイツで発行されたポストカード。ドイツ空軍ドルニエ(Dornier)Do-17 Z 爆撃機の諸元
初飛行 1934年11月23日
全長 16.3メートル
全幅 18メートル
翼面積 86.5平方メートル
全備重量7650キロ
エンジン:ブラモ(Bramo)323 A「ファフニール」"Fafnir"空冷星型9気筒エンジン(排気量 26.82L) 900 PS(888 hp; 662 kW)2基
最高速力: 420km/h
巡行速力: 300 km/h/8,837 kg/高度 4,000 m
戦闘航続距離(Combat range): 660 km / 燃料 1,540 L 爆弾1,000 kg 搭載
1,010 km / 燃料 2,435 L / 爆弾500 kg
実用上昇限度: 8,200 m
兵装 7.92ミリMG15機関銃5丁
爆弾搭載量:最大1トン
乗員4人(操縦手,爆撃手,航法手(射手兼務)、偵察員(射手兼務)の合計4人)
生産機数:2,139機
Postcard 6 Spitfire begegnen einer Dornier 17, Kampfflugzeug, Luftwaffe, II WKNo 10.685.782Condition, see Scan, postally used, 1942 ca 15 cm X 10 cm
写真はAkpool.co.jp引用。
写真(右)1940年夏ー秋、イギリス、ロンドン、蛇行するテームズ川上空を飛行するドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111 H爆撃機の上面:1935年2月24日初飛行のHe111は、1939年9月のポーランド侵攻、1940年5月の西方侵攻、1940年夏のイギリス本土航空決戦(バトル・オブ・ブリテン)に投入された。制空権のないイギリス空爆では、イギリス空軍スピットファイア、ハリケーン戦闘機の迎撃を受けて大きな損害を出した。
40-Heinkel-He-111-bomber-flies-over-Thames-River-London-autum-1940-01 SDASM Image
Please tag this photo so information can be recorded.---Note: This material may be protected by Copyright Law (Title 17 U.S.C.)--Repository:an Diego Air and Space Museum
写真はSDASM Archives引用。
写真(右)1940‐1941年頃、地中海方面、飛行場で待機するドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He 111 H爆撃機と曲がって損傷している左3翅金属製プロペラを確かめるライフジャケット救命胴衣を着た搭乗員:イギリス海峡を越えて、イギリス本土爆撃を行った帰投したとき、無事基地に着陸できて淀混んでいるときに撮影されたようだ。
He111H初期型の諸元:全長: 16.4 m 、
全高: 3.9 m、翼幅: 22.5 m、
翼面積: 86.5 m2、
空虚重量: 7,720 kg 、
最大離陸重量: 14,075 kg 、発動機: ユモ 211 F-1 液冷V型12気筒エンジン986 kW (1,300 hp)2基、
最高速力: 400 km/h、航続距離: 2,800 km兵装:7.92mm MG15機関銃 7丁、爆弾搭載量:2000kg(胴体爆弾倉2個に小型爆弾、胴体下面に500?以上の大型爆弾懸架)
Perma_000752 Permann Collection Image
Heinkel He 111 --Perman Collection Image--Repository: San Diego Air and Space Museum
写真はYour online shop for old postcards
Solution Graphics No 10.685.782引用。
9) ロ ン ド ン 爆 撃
それで愈々英國の空襲の始つたのは7月の終りから8月の初めと云ふ頃てありまして,此の頃になるとフランスの方は大體6月の終り迄に片附き,約 1ケ月を終つて居るのて,相當の力を以て空襲を始めたのてあります。最初にやつたのは7月の終りだつたと思ぴます。
先つ南方に封してプリマス、ポートランド、ポーツマスの3軍港を始め,コノボイ及ドーヴァー[Dover]、ラムスケートの飛行場をとんとん攻撃 し,此の附近のラムスケートの後の飛行場、ドーヴァーの後のマンストノの飛行場,其 の南方カンタべリーの飛行場,ホーキンクの飛行場を爆撃しましたのて,英國の空軍は漸次ロンドンの南の方に向つ て退却 を致しま した。8月15日頃 になると,英國とドイツとの空軍の勢力のバランスする鮎かロンドンの南端 附近 迄参つて居ります。
写真(右)1943年8月26日、イギリス南部、ポーツマス港(Category:Portsmouth Harbour)、帰投したイギリス海軍潜水艦「アンブロークン」(HMS Unbroken (P42) )と出迎えるイギリス海軍兵士と女性海軍補助兵 (Women's Royal Naval Service:WRENS):ビッカース・アームストロング(Vickers Armstrong)造船所で1940年12月30日起工、1941年11月4日進水、1942年1月29日就役、排水量 540 トン、全長 58.22 m (191 ft 0 in)、全幅4.90 m (16 ft 1 in)、吃水4.62 m (15 ft 2 in)、ディーゼル615 / 825 hp2軸、水上速力11.25 knots (20.8 km/h) 、水中速力10 knots (19 km/h) 乗員27-31名、魚雷発射管4門、21 inch (533 mm) 魚雷 8 - 10基搭載、3-インチ(76.2 mm)砲1門。
English: Hm Submarine Unbroken Returns To Portsmouth, 26 August 1943
Ratings on shore watch the UNBROKEN as she enters Portsmouth harbour.
Date 1943
A 18913 from the collections of the Imperial War Museums. Flag of the United Kingdom.svg
Author Pelman L (Lt), Royal Navy official photographer
Part of Admiralty Official Collection.
写真はWikimedia Commons, Category:Portsmouth Harbour File:HM Submarine Unbroken Returns To Portsmouth, 26 August 1943 A18913.jpg
引用。
写真(右)1938年、イギリス、南部、ロンドン近郊、クロイドン飛行場(Croydon Airport)の飛行機格納庫とその前に待機するイギリスのデハビラント(De Havilland)DH.89 ドラゴンラピード輸送機3機、ビッカース(Vickers)ウェルズレイ(Wellesley)偵察爆撃機2機:クロイドン空港(EGCR)は、ロンドン南に1920年開設され、1932年にはインペリアル航空がクロイドン − 南アフリカのケープタウン − インドのデリーを結ぶ長距離空路を運行し始めた。ロンドン郊外であったために、イギリス最大の民間旅客基地となった。航空管制塔、旅客専用ターミナルビルなどもこの飛行場がモデルとなった。
Magyar: Croydon repülőtér.
English: Croydon Airport
Location: United Kingdom
Tags: airport, airplane, De Havilland-brand, Vickers-Armstrongs-brand, British brand
Title: Croydon repülőtér.
Date 1938
Source http://www.fortepan.hu/_photo/download/fortepan_54183.jpg archive copy
Author FOTO:Fortepan — ID 54183: Home pagePictureInformation page
Adományozó/Donor: Nagy Gyula.
archive copy.
写真はWikimedia Commons, Category:Aircraft at Croydon Airport File:Croydon repülőtér. Fortepan 54183.jpg
引用。
さうして8月15日に最初にやつたのはクロイドン[Croydon]の飛行場の攻撃てあります。2日置いて18日にも亦クロイドンの攻撃をやりま した。其の他南の方に於ける飛行場,其の他をやりまして,非 常 な效果を搴けたのてあります。
一番激しかつたのは9月であ ります。9月は初 めから非常な勢てやつて,9月7日の爆撃 の如きは物凄く,7,8,9と3日3晩,ロンドンの町は一時に明るくなる位 焼かれたやうな状 態てありました。それから18日の晩は 日本大使館 や我我 の居つたホテルもやられまして,我々は外 に逃げ出さなけれはならないと云ふやうな ことにりま した。9月の終りから10月に入ると,其 の爆撃 の 目標か長期載的な傾向-貧民街,官庁街,繁 華街をやるやうな軍事目標から漸次長期戦的な傾向を帯びるやうになりました。
9月の爆撃の状況を詳しく申上けられる時間かないのて残念てありますか,當時を同顧してみますると,殆と空襲警報に明けて空襲警報に暮れると云ふ有様て,1日の空襲警報時間が20時間に亙ると云ふ長時間て,其の頃は我々は何處へ行つても空襲 を受けるのて,寧ろ諦めると云ふやうな考てありまして,日本人は殆ど逃ける者もこさいませんでした。弾か當つたら積悪の報いと諦める云ふ程度て我慢を致して居りました(笑聲)。其の爆撃 の效果も向ふて多少調べて参りましたが、家の倒壊,人間の死傷,其の他各種の施設-ガス,水道等の被害なども相當なものてあります。
是を例へばベルリン等と較べると,(ベルリンから蹄つた人と一緒になり話をきゝましたか)まるて比較にならぬ程 ロンドンの被害は甚大なものてあります。其爆撃の状態は蹄朝後の新聞を見ますと,最近承可なり績いて居ります。
10)英独何れか勝つか
將來此の英・獨の戦争かどう績いて行くたらうかと云ふことは非常に興味のある問題てありますか,詳細に申上けることは時間もありませんから止めますか,大體に於て三つの部面に依つて進行すると思はれます。是は私蹄つた當時から申してゐる ことて あ りますか,先つ英國の上空に於ける空中戦,是か漸次強化されて行く。それから近東・バルカン方面の陸上武力戦も漸次強化されて参ります。大西洋及び地 中海に於ける通商破壊戦,是か相當に強化されて参ります。
此の三者から判断をして大體に於て英國は勝目がないと言ふことか言へるのでありますか,然らは勝目はどの位の邊になるか,七分三分か,四分六分か,是は観る人に依つて違ふと思ぴます。
併し乍ら英國民は私か蹄ります當時迄とう考へて居つたかと申しますと,一人と難も負けると考へ る人はないのてあります。是は英國の國民性の然らしむる所てありますし,又チャーチル,イーデン(Anthony Eden)あたりの心臓の強いのか引つ張つてる爲てあります。さうして一般大衆は愚てあると云ふやうな色々な関係から,全く盲滅法に信してゐる。
偖て然らは英國の勝目は何處にあるかと申しましても,それは解らない。歴史か證明すると言ふたけてあります。「最後に勝つ迄は負ける」と云ふのか英國民の信條てあります。勝つ迄は負けて居 る。是はナポレオン戦争でも,前大戦ても,其の歴史か證明するのだと言つて居ります。結局現在の英國は斯う云ふた大なる戦争の爲に経濟力を消耗して居ります。其の載費は私か蹄つて参ります頃は1日1,500萬磅,年額50億磅(邦貨850億圓)であります。
國民の所得から考へても此の戦費に幾 ら金持の英國でもどれたけ堪へるか,是は非常な問題かありまして,英國の経濟力を相當に信して居つた日本の財界方面の人も,悲 観的な観方を致して居ります。從つて英 國は現在 非常 なる統制やらなけれは立つていけないと云ふことになつて,其の統制のやり方はさつき申したやうに一寸したことても非常な罰金を取る嚴罰主義,一つは大衆を釣る所の懐柔の手段と爾々相侯つて統制をやつて居ります。
マグナカルタ以來700年の間世界 最初の憲法國として自由民権を誇つた英國は,今此の峻嚴なる統制の下に,殆ど生命財産も自分のものてなく,一に國家社會主義的な體制をとりまして,此の大戦に勝利を得むと努力してゐるのであります。
日・英の関係を考へて見ますると,日露戦争後,東洋に於けるソ聯の進出を防く爲に日本と同盟を致しましたか,其 の必要かなくなるや弊履を捨つる如く日本と手を切つてさうして自分自身の利益の爲に外交政策を遂行致しまして,日本人に封する感情は極度に悪く,我々日本人の最後の避難船の如きはまるて罪人の扱ぴてごさいました。
我々は未 曾有の難局に處しまして,斯ふ云ふ國家の間違つた考を徹底的に是正致しまして,東亜の共榮圏を確立 し,八紘一宇の精神を顯揚したい と考へる次第でございます。甚た簡軍てございましたが,之を以て私のお話を終ります。(以上)
出所)欧洲大戦に於ける空軍の活躍と燃料:― 昭和16年5月24日 ,第181回 例會講演
陸軍航空技術研究所 陸軍大佐今里隆 1941年 20 巻 7 号 pp. 631-641、引用終わり。
2.英空軍の現勢 : 月産三千機が精一杯 : 急降下爆撃機なく輸送機不足
大阪朝日新聞
Vol: 第 54巻
Page: 88
出版年
1943-04-02
【リスボン茂木特派員三十一日発】英空軍の現有勢力は北阿上陸前の発表によると英本土に約五千機、ジブルタルラ[Gibraltar]二百機、マルタ[Malta]百五十機、キプロス島百機西アフリカ数十機、北阿千三百機、東アフリカ五十機、西亜四百機、印度三百機といわれていたが、現在その配置の上に相当変更が加えられていることは勿論だ、しかしこの数字から英空軍がいなかる点に重点をおいているかは一見してわかる、英本土防衛と欧大陸爆撃は依然として彼らの主要任務であり、北阿は彼らの主要戦場である独ソ戦以来独空軍の主力が東方戦場に出動し対英爆撃が下火となるとともに英本土にある五千機の主要任務は本土防衛から大陸爆撃に移った観があり、殊に独潜水艦基地や独本土のブレーメン、ウィルヘルムスハーフェン[Malta]また潜水艦工場所在地たるニュールンベルグ、コペンハーゲン等に爆撃を集中しつつある
戦闘機重視主義修正
今までとって来た英空軍の戦闘機重視主義もやや修正を見て、爆撃機にも戦闘機同様力瘤を入れ出したのは注目される、英空軍は開戦以来敗戦に追われつつ質的、量的向上に猛烈なスピードをかけざるを得なかった
大体フランスの降伏までは対空防禦もフランス任せの観が強く戦闘機の如きもフランスに引摺られていたといってよい、フランス降伏以来一九四〇年夏あのドイツの対英爆撃が頂点に達し、いわゆる英本土の危機に逢着して英国は初めて戦闘機の増産に努力を傾け出したのである、以来米国の参戦を経て今日まで英空軍の戦闘機第一主義は原則として変らず、生産の上においても現在米国は爆撃機、英国は戦闘機という分業が行われているわけだが、最近では更に爆撃機特に奇襲用昼間軽爆撃機[1940年11月25日初飛行]『モスキートーC[de Havilland Mosquito]』の如きものの製造に熱中しつつある
英空軍を生産の方面から見ると、月産額は昨年九月頃には二千四百機といわれ、本年六月生産が頂点に達する場合はその数三千機になると称している、ただしこの中には練習機も相当に含まれているから三千機というのはまず英飛行機生産能力の限度と見てよい、もともと一九三七年の軍備拡張以来例の「影の工場」によってモリス、オースチンなど五大自動車会社に飛行機の部分品製造を請負わせ、空軍拡張に乗出したのだが、いざ大戦となって蓋を開けてみると生産能力は月産六百という心細い有様であった、そこで飛行機だけは特別に独立に飛行機生産省を設置し、増産にこれ努めた結果、昨年に至ってようやく当初の四倍の月産二千四百機に漕ぎつけ、米国よりの輸入量の約三倍方をソ連並に西亜へ廻すようになって来たというわけである
米の資本に頼る生産
生産上最も注目される点は米英側の軍需生産のすべてがそうであるが、飛行機についても英国の生産だけを切離しては考えられず、資本、経営、技術すべて米国との協力のもとに行われているということだ、フランスを同盟国としている間はフランスを頼りフランス敗れた後には米国の資本に頼っているのが英空軍である、
このほかカナダの飛行機生産も馬鹿にならぬ、昨年十一月の発表では生産額約五千機と称している、但しカナダは英空軍の操縦士の訓練を一手に引受けているから主として練習機を製造しているが、本年の分は余裕が出来たので軍用機にも手をのばすといわれている、一方米国の飛行機生産は最近の発表では月産五千四百九十機というから米、英、カナダを合せ練習機をも含めて月産約八千九百機という勘定になる
第一 戦闘機
大戦当初においては僅かに三八年型スピットファイヤー[Supermarine Spitfire]を持っていたのみであったが、その後スピットファイヤーには最新式の九型というのが出来、その他ハリケーン二B、ハリケーン二C[Hawker Hurricane Mk. IIC]、さらに夜間戦闘機には長距離機として英国が世界最優秀と自称するボーファイター[Bristol Beaufighter]が出来ている、現在戦闘機で最も問題とされているのは如何にして搭載の機関銃の数を増し、如何にしてその口径を大にするかという問題、いいかえると敵爆撃機の装甲の厚さとの競争である、機関銃の数の競争では最初スピットファイヤーは独仏の六挺に対し四挺を持つにすぎなかったが、開戦後直に改良して八挺となった、これが独空軍の猛爆を防ぎ得た主要原因とされている、現在のハリケーン二C型[Hawker Hurricane Mk. IIC]は機関銃十六挺を備えている、機関銃の数の競争では最初スピットファイヤーは独仏の六挺に対し四挺を持つにすぎなかったが、開戦後直に改良して八挺となった、これが独空軍の猛爆を防ぎ得た主要原因とされている、現在のハリケーン二C型は機関銃十六挺を備えている、機関銃の数の競争から口径の大きさに移ったのはこれも一九四〇年夏ドイツの対英爆撃を境としている、つまり英国のスピットファイヤーの機関銃に対して独爆撃機の装甲が次第に厚くなるとともに英国でも十二ミリから十五ミリ、二十ミリ、更に三十七ミリ機関砲まで飛出すことになったのである、今日ではもはや二十ミリ機関砲は戦闘機の常識でありスピットファイヤ三型は二十ミリ機関砲二門、機関銃四挺、ハリケーン二Cは二十ミリ機関砲四門、ボーファイターは二十ミリ機関砲四門、機関銃四挺を備えている、これに対しドイツのメッサーシュミット一一〇は二十ミリ機関砲二門、機関銃四挺、メッサーシュミット一〇九F一は二十ミリ機関砲一門、メッサーシュミット二〇九は十五ミリ機関砲四門、機関銃二挺である、但し速力ではメッサーシュミットが断然英国機を圧している
第二 爆撃機
前述の如く独爆撃機に対し守勢に立った英国は戦闘機第一主義で今日まで来たのであるが、爆撃機でも今日では相当の域に達している、重爆としてはランカスター[Avro Lancaster]、ハリファックス[Handley Page Halifax]、スターリング[Short Stirling]、米国製のボーイングB一七型[Boeing B-17]の四種を主としているが、このうちランカスターは爆弾搭載力八トンといわれ英国が世界最優秀重爆と自称するものである、ところがこれらの重爆のうち前三者は夜間爆撃機で欧大陸爆撃のためには夜の短い期間活動ができないし、米国のB一七型「空の要塞」[B-17 Flying Fortress]は、大戦闘機部隊を伴わねばならぬという不便がある、そこで最近英国が力を入れ始めたのが、昼間大爆撃機モスキートーC[de Havilland Mosquito]だ、これは軍用機としては珍しく全木製で、重量軽く、速力が速いので昼間の奇襲的空爆に適しており、最近のベルリンの昼間空襲はこのモスキートーC[de Havilland Mosquito]でやっている
漸く独空軍の水準に
大体以上の如く戦闘機においても爆撃機においても大戦後三年にしてどうやら独空軍の水準に達し得たのであって、それは特にフランス敗戦以来国家の存亡を賭して死物狂いで空軍増強に努めた結果にほかならぬ、北阿英第八軍の攻勢ができたのも、英空軍の強化によるものと英国人は信じている、今日彼らがなおドイツに及ばざる点として挙げているのは、第一に輸送機の不足で、これが北阿上陸後直ちにチュニジア作戦を開始し得なかった主因として地団駄踏んでいる、第二には急降下爆撃機をもたぬことで、これについては米国から供給を受けることになっているが、まだ英国には入っていないようである
空、海軍両省の摩擦
英空軍の組織は空軍省のもとに英本国司令部と海外駐屯軍とに分れ、前者の下に爆撃機隊、戦闘機隊、沿岸防空隊、陸軍協力隊、海軍協力隊、飛行訓練隊、技術訓練隊、地上勤務隊、気球部隊、北アイルランド部隊等が所属し、海外駐屯軍はマルタ、パレスチナ、トランスヨルダン、西アフリカ、イラン、アデン印度の諸□□地区に分れている、組織上で大戦以来の問題は空軍省と海軍省との摩擦である、即ち海軍省側では、機材も操縦士も空軍省の命令下にあるのは海軍独自の作戦上非常に困ると再三苦情を述べ、その結果操縦士は海軍の指揮下に入ることとなったが、それでも海軍は承知せず、議会でも未だに問題を蒸し返しているが今のところまだ海軍空軍が独立するまでの空気は見えていない(英空軍の現勢 : 月産三千機が精一杯 : 急降下爆撃機なく輸送機不足引用終わり)
2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。
⇒ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
⇒ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
⇒ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
⇒ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
⇒ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
⇒ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
⇒ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
⇒ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
⇒ハンセン病Leprosy差別
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
⇒ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
⇒ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
⇒ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
⇒ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
⇒アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
⇒ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
⇒アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
⇒マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen
◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。
⇒与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
⇒石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
⇒魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
⇒文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
⇒戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
⇒統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答
⇒ポーランド侵攻:Invasion of Poland
⇒バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
⇒バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
⇒スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)
⇒自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
⇒ハワイ真珠湾奇襲攻撃
⇒ハワイ真珠湾攻撃の写真集
⇒開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
⇒サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
⇒沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
⇒沖縄特攻戦の戦果データ
⇒戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
⇒人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
⇒人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
⇒海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
⇒日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」
⇒日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
⇒フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
⇒ソ連赤軍T-34戦車
⇒ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
⇒ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov
⇒フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
⇒ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
⇒ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
⇒ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
⇒ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
⇒ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
⇒ドイツ陸軍2号戦車
⇒ドイツ陸軍3号戦車
⇒ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
⇒ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
⇒ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
⇒ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
⇒ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
⇒ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
⇒VI号ティーガー重戦車
⇒ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
⇒V号パンター戦車
⇒ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車
⇒イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
⇒イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
⇒イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
⇒イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
⇒M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
⇒イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
⇒イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
⇒英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
⇒イギリス陸軍コメット巡航戦車
⇒アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
⇒アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
⇒アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
⇒シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail
⇒フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
⇒シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
⇒ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
⇒ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
⇒ボーイング(Boeing)247旅客機
⇒ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
⇒ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
⇒ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
⇒ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
⇒アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機
⇒ユンカース(Junkers)F.13輸送機
⇒ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
⇒ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
⇒ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
⇒ユンカース(Junkers)K43f水上機
⇒巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)G.31輸送機
⇒ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
⇒ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
⇒ハインケル(Heinkel)He111輸送機
⇒ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
⇒ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機
⇒フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
⇒カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
⇒NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
⇒軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
⇒NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
⇒サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
⇒ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
⇒ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
⇒スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
⇒シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
⇒マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
⇒ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"
⇒フィンランド内戦:Finnish Civil War
⇒フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
⇒ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
⇒フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
⇒第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
⇒第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
⇒ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
⇒ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
⇒フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
⇒フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
⇒フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
⇒フィンランド軍の防空監視哨
⇒ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
⇒ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
⇒ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
⇒ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
⇒ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
⇒ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
⇒アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
⇒ブロームウントフォッスBV138飛行艇
⇒ブロームウントフォッスBV222飛行艇
⇒ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
⇒ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
⇒ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
⇒ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
⇒ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
⇒フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
⇒ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
⇒ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
⇒ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
⇒メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
⇒メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
⇒フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
⇒ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
⇒ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
⇒ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
⇒ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
⇒ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
⇒ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
⇒ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機
⇒ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
⇒エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
⇒ムッソリーニ救出作戦
⇒イタリア独裁者ムッソリーニ
⇒独裁者ムッソリーニ処刑
⇒ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
⇒マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」
⇒サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
⇒カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
⇒カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
⇒サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
⇒サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
⇒フィアット(Fiat)G.18V輸送機
⇒フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
⇒サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
⇒フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
⇒サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
⇒カント(CANT)Z.1007爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
⇒カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
⇒ピアジオP.108重爆撃機
⇒マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
⇒マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
⇒マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機
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