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◆フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授
写真(上)1931年2月23日、フィンランド南部、ヘルシンキに到着したヴァイノ・ブレーマー(Wäinö Bremerin)大尉のドイツ製ユンカース(Junkers)A50スポーツ機(登録コード: OH-ABB)
:1932年3月19日から5月21日にかけて、彼はA.20軽飛行機でフィンランドのヘルシンキから、南アフリカ連邦のケープタウンまでの往復飛行を成功させた。
Väinö Bremer Junkers A50 Väinö Bremer lentokoneensa vieressä, taustalla yleisöä Pietinen, kuvaaja 1931 fyysinen kuvaus: vaaka sisällön kuvaus: Bremerin lentokone on Junkers A50 Junior, tunnus OH-ABB, tuli Suomeen 23.2. 1931. Nykyään tämä lentokone on Helsinki-Vantaan lentoaseman T2-terminaalissa katosta riippuvana näyttelyesineenä. sisällön kuvaus: 28.5.-6.6.1931 Bremer lensi pitkän Euroopan-lennon: Helsinki (Santahamina)-Tallinna-Riika-Königsberg-Stolp-Berliini-Hannover-Köln-Antwerpen-Lontoo-Pariisi-Lyon-Marseille-Albenga-Milano-München-Dessau-Praha-Wien-Budapest-Krakova-Varsova-Königsberg-Riika-Tallinna-Helsinki (Santahamina), seitsemässä päivässä 7000 km. Bremer osallistui Pariisissa Harmon-konferenssiin.Subject place Suomi, Helsinki Subject date 07.06.1931
図は、ETH-Bibliothek Zürich・ LBS_SR04-034253引用。


写真(上)1933-1939年、スイス、チューリッヒ郊外、デューベンドルフ飛行場でタキシングするドイツ・フルとハンザ航空ユンカース(Junkers)G.38 (登録コード:D-2500)
:プロペラはいずれも4翅の後期である。
EN: JUNKERS G 38, D-2500 OF LUFTHANSA (DLH) ON THE GROUND AT DÜBENDORF TAKING OFF/LANDING
ecord Name LBS_SR02-20021 Photographer Swissair Dating 1933-1941 Physical description Fotografie : Nitratnegativ Format 6 x 8 cm Colour schwarz/weiss
写真は, ETH-Bibliothek Zürich・引用。


1.ユンカース社創設者フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)

フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)は、1859年、ライン地方ヴェストファーレン州ライトで、繊維産業を営む父ハインリヒ・ユンカース(Heinrich Junkers)の 7人中3番目の子供として生まれた。地元ライトの中学校を卒業後、ブレーメンの専門学校で学び、1878年19歳で卒業した。10月にベルリン工科大学(Technical University of Berlin)に入学して、1881年冬にアーヘン工科大学(Rheinisch-Westfälische Technische Hochschule Aachen)でも学び、1883年5月に24歳で建築士“Baufuehrer”の称号を得た。そして、父の繊維工場で働く傍ら、アーヘンの機械工場での仕事を得た。1887年6月にベルリン工科大学で建築マイスター“Baumeister”の称号をえた。しかし、11月に父がガス漏れの事故で亡くなり、長男マックス(Max)が継いだので、フーゴはベルリンに戻り、研究機関で電気機械、貿易の講義を担当した。1888年、ザクセン州デッサウ (Dessau) のドイツコンチネンタルガス社(Deutsche Continental Gasgesellschaft)の技師としての職をて、ガス駆動発動機の開発に携わった。そして、1889年末に退社したフーゴは、ガスエンジンを開発していたウィルヘルム・エッケルホイザー(Wilhelm von Oechelhaeuser)とともに、1890年にザクセン州デッサウ (Dessau) はにガスエンジン実験室(Versuchsanstalt fuer Gasmotore von Oechelhaeuser und Junkers)を作った。

写真(右)1915-1920年、ドイツ、ユンカース(Junkers)社フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)社長(1859年2月3日 - 1935年2月3日):ユンカースは1919年にそれまで提携していたフォッカー社から独立して、ユンカース飛行機工場(Junkers Flugzeugwerke AG)を設立し、最初の自社開発 F.13単発輸送機を販売し、大成功した。
Bain News Service,, publisher.
Hugo Junkers [between ca. 1915 and ca. 1920]
1 negative : glass ; 5 x 7 in. or smaller. Format: Glass negatives.
Repository: Library of Congress, Prints and Photographs Division, Washington, D.C. 20540 USA, hdl.loc.gov/loc.pnp/pp.print 
Call Number: LC-B2- 4573-15 Source Hugo Junkers (LOC)
写真はSmugMug+Flickr The Library of CongressおよびWikimedia Commons, Category:Hugo Junkers・File:Hugo Junkers LOC 26246792363.jpg引用。


1919年に第一次世界大戦に敗北したドイツは、ヴェルサイユ条約で講和し、常備軍を10万人都とし、戦車、大型火砲、軍用機の保有を禁止され、軍備の大幅縮が行われた。そこで、航空機の開発も、軍用機の開発禁止だけではなく、軍用機に転換が容易な機体の開発も禁じられた。しかし、存続を許されたドイツ共和国軍は、スウェーデンやスイス、のちにはソ連でも兵器の開発を行った。さらに、敗北後のドイツでは、優秀な技術者や労働者が残っただけではなく、航空機工場など工場設備も残っていた。第一次世界大戦での空爆は小規模であり、ドイツ本土では戦時の地上戦はなかったために、軍需工場も含め資本や工場設備は残っていた。

絵葉書(右)1920年代中頃、ドイツ東部、ザクセン州ドレスデン、オラミタバコ工場(Orami Zigarettenfabrik)、ユンカース(Junkers)社主フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)(1859年2月3日 - 1935年2月3日教授と妻マルガ・フォン・エッツドルフ(Marga von Etzdorf):1923年4月6日初飛行のユンカースA.20の模型を手にしているので1920年代中頃の撮影と思われる。1919年にそれまで提携していたフォッカー社から独立して、ユンカース飛行機工場(Junkers Flugzeugwerke AG)を創立し世界的な飛行機メーカーに成長させた。
Sammelbild Helden der Luft, Serie G Bild 186, Marga von Etzdorf, Prof. Junkers - Orami Zigarettenfabrik Dresden Nr. 10.731.994 Zustand, siehe Scan, ungelaufen ca 6 cm X 4 cm
写真は、akpool.co.uk, online shop for old postcards 引用。


フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)のユンカース飛行機・発動機株式会社Junkers Flugzeug- und Motorenwerke AG)の開発した思の航空機

J 1:単発単葉実験機(1915年12月)1機
J 2:初の全金属製単発単葉戦闘機(1916年7月)6機
J 4(J.I):単発複葉偵察襲撃機(1917年1月)227機
J 9(D.I):単発単葉戦闘機
J 10(CL.I):単発単葉複座爆撃機
J 11 (CLS.I) :水上機
F 13:単発単葉輸送機(1919年6月)322機
K 16:単発輸送機(1921年3月)17機
T 19 Trihoch:練習機
A 20:単発単葉複座練習機(1922年3月)186機
T 21:練習機
G 23:三発単葉輸送機(G24として生産)
G 24:三発単葉輸送機(1924年9月)
F 24:単発単葉輸送機
A 25:高速連絡機(1925年)
K 30(R 42):三発爆撃機(G.24軍用仕様)(1926年)
G 31:三発単葉旅客機(1926年)13機
A 32:通信機
W 33:単発単葉輸送機(1926年6月)199機
W 34:単発単葉輸送機 / 偵察機(W33の改良型:1926年)2124機
A 35:高速連絡機(A 20改良型:1926年)24機
K 37:双発単葉爆撃機(1927年9月)2機
G 38:四発単葉大型輸送機(1929年11月)2機
K 47:爆撃機
A 48:スポーツ機
A 50 Junior:単葉単発軽スポーツ機
K 51:爆撃機(日本陸軍キ20三菱九二式重爆撃機)
Ju 49:高高度単発実験機
Ju 52/3m:三発輸送機/爆撃機
EF61:高高度実験機
Ju 86:双発爆撃機 / 輸送機

写真(右)1928年7月、ドイツ、ライン地方アーヘン(Dessau) 、市庁舎正面階段、ユンカース飛行機工場の社主フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授(1859年2月3日 - 1935年2月3日)がアーヘン市の名誉市民に選ばれた。ユンカース氏(中央)、左端はブレーメンの有名な操縦士ハウプトマン・コール(蝶ネクタイと帽子)、前右はヒュネフェルトとアーヘン市議。
Signatur Bild 102-06220 Originaltitel Prof. Dr. Junkers, Ehrenbürger der Stadt Aachen! Prof. Dr. Junkers (Mitte) nach seiner Ernennung zum Ehrenbürger der Stadt Aachen auf der Freitreppe des Rathauses. Ganz links im Bilde, der berühmte Bremenflieger Hauptmann Köhl [mit Fliege und hellem Hut], rechts vorn Hünefeld, sowie Senatoren der Stadt Aachen. Datierung Juli 1928
写真は BundesarchivおよびWikimedia Commons, Category:Hugo Junkers・File:Bundesarchiv Bild 183-R14718, Dessau, Junkers-Werke.jpg引用。


ユンカース社は、航空技術と並んで、ドイツ共和国の影の国防軍の育成、秘密再軍備政策の下で、ユンカース社は民間機と軍用機メーカーとして成長していった。

ユンカース社は、様々な研究機関や生産施設を擁したが、それを組み合わせて、グループ化したうえで、総合的な視点から資金が投入された。そして、新製品のテストが行​​われ、実用化・量産化が検討された。世界市場で競争力のある高品質の製品を生産するために、部品一つ一つを検討することが基本方針だった。1929年の世界大恐慌、1933年のヒトラー政権下での国家当局からの圧力も、ヒューゴ・ユンカース教授の信念を揺るがすことはなかった。

しかし、ドイツ政府と国防軍によるユンカースに対する軍事的要請は、独立した私企業としてフーゴ・ユンカースHugo Junkers)が取り仕切るユンカースの航空機開発に対する制約を課し、経営の自由度を脅かすことにもなった。

写真(右)1928年、ドイツ、ベルリン南西80km、ザクセン州デッサウ (Dessau) 、ユンカース(Junkers)デッサウ「飛行機工場の航空写真と社主フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)(1859年2月3日 - 1935年2月3日):ユンカースは1919年にそれまで提携していたフォッカー社から独立して、ユンカース飛行機工場(Junkers Flugzeugwerke AG)を設立し、最初の自社開発 F.13単発輸送機を販売し、大成功した。
Photographer Unknown author Title Dessau, Junkers-Werke Info non-talk.svg Deutschland 1928 Junkers-Werke in Dessau und Porträt des Begründers der Werke, Prof. Junkers. 22393-28 Depicted people Junkers, Hugo Prof.: Flugzeugkonstrukteur, Deutschland (GND 118776525) Depicted place Dessau Date 1928 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Accession number Bild 183-R14718
写真は BundesarchivおよびWikimedia Commons, Category:Hugo Junkers・File:Bundesarchiv Bild 183-R14718, Dessau, Junkers-Werke.jpg引用。


1933年1月末にナチ党アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)政権が成立後、航空産業の経営に対する介入は、いっそう強化され、空軍力を早急に充実させようとする政府と国防軍の要求は、強制的な色彩を帯びるようになり、1933年5月に設置された航空省の下で空軍力の整備を積極的に推進していくことになる。

他方、フーゴ・ユンカースHugo Junkers)は、自ら設立したユンカース飛行機の経営権を維持しようとし、空軍力強化を命じるアドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)のドイツの航空行政に従属しようとはしなかった。

そこで、この自由主義的な経営を一挙に打ち倒し、国家社会主義の下に組み込むために、ヒューゴ・ユンカース教授の持ち株譲渡が命じられ、強行されたのである。

アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)政権下のドイツ政府は、自由主義的な経営、資本主義を良しとはせずに、フーゴ・ユンカースHugo Junkers)が社主を務めるユンカース社は国有化されることとなった。


2−1.ユンカース(Junkers)F.13輸送機

写真(右)1923年3月7日,ライプチッヒのユンカースJunkers F.13 旅客輸送機:乗員:2名、乗客数:4名。
全長:9.59 m、全幅:14.8 m、全高:3.50 m、翼面積:34.50平方メートル。
空虚重量:951 kg、ペイロード:320 kg、最大離陸重量:1,640 kg。出力荷重:14.05 kg/kW
エンジン:メルセデス D.IIIa、118 kW (160馬力)
最高速度:173 km/h (107 mph)、巡航速度:160 km/h (100 mph)。航続距離:1,400 km (870 miles)、巡航高度:5,000 m。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-00007 Original title: info Flugzeugreise des Reichspräsidenten zur Leipziger Messe am 7. März 1923. Start des Flugzeuges mit dem Reichspräsidenten auf dem Tempelhofer Feld. Archive title: Berlin-Tempelhof.- Flugzeug Junkers F-13 von Reichspräsident Friedrich Ebert Dating: 7. März 1923 Photographer: Pahl, Georg 撮影。 Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・引用


写真(右)1920年代(?)、ユンカース(Junkers)F.13 単発輸送機(方向舵:2):ユンカース(Junkers)F.13 輸送機は、北ヨーロッパでは、 エストニアアエロノート(Aeronaut)、 フィンランド航空(アエロ・オイ)、スウェーデン、アイスランド航空、リトアニア、ソ連アビアティカ(Aviaarktika)が採用している。
AL61A-210 Junkers, F-13 (JL-6) Images from an Album (AL-61A) which belonged to Mr. Lowry and was donated to the Leisure World Aerospace Club. Repository: San Diego Air and Space Museum Archive.
写真は,SDASM Archives: San Diego Air and Space Museum Archive. "PictionID: 40964623"引用。


第一次世界大戦中の1915年、ドイツ帝国のヒューゴ・ユンカースは、主翼の新構造を打ち出した。それは、主翼を支柱や張金を張って主翼を支えるのではなく、それらを取り去り、空気抵抗を減少させた片持式主翼である。また、胴体の堅牢性を高めるために、内部骨格を減少させ重量軽減図る波型の金属外板を開発した。この片持式の低翼・単葉、波板の構造を活用し、戦後ユンカースが開発したのが、ユンカース(Junkers)F.13旅客輸送機だった。

写真(右)1921年,ドイツ、デッサウのユンカース航空機製造所で生産中のユンカース(Junkers)F.13旅客輸送機。格納庫の中に主翼を胴体左右にこれから取り付けるのか、奥には主翼が立てかけてある。右の機体の胴体と後方の主翼にある登録コードが D-272であれば、これは製造番号C/N:660「ジルバーメーヴェ」”Silbermowe”(セグロカモメ)で1921年7月23日完成、ドイツ・ルフトハンザ航空Deutsche Lufthansa)で使用された。しかし、1926年7月26日に墜落し、5名が死亡した。
Dresden, Wasserflugzeugbau Kaditz
Datensatz 80546690 Serie: Sarrasanis Sioux-Indianer - Junkers-Verkehrsflugzeug
Location: Dresden
Datensatz 70058761
写真は,SLUB / Deutsche Fotothek・Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0305207引用。


写真(右)1919年10月10日,ドイツ、ユンカース(Junkers)F.13旅客輸送機のキャビン(客室):座席には、肩当付きのシートベルが装着されている。機体後方は、貨物室となっている。
Photographer: Junkers
Title: Flugzeug Junkers F-13
Caption: Passagierflugzeug, Passagierraum, 2 Einselsitze, Sitzbank im Fond, Deutschland
Dating: 10.10.1919
Special Size: 12 x 17 cm
Impressum: Physical Description:
Photography : paper print, mounted on cardboard
Colour: black and white Categories: 1919, View Collection, Junkers, Junkers F 13, Product photography, Propeller-driven aircraft, Germany, Cabin
Record Name: Ans_05035-443.
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05035-443引用。


ユンカース(Junkers)F.13旅客輸送機キャビン(客室)の内装は、高級感のある座席で、肩当付きのシートベルが装着されている。ユンカース(Junkers)F.13輸送機の客室の大きなガラス窓は、視界が良く、遮光用のカーテンもついている。天井には、照明塔が備わっている。天井左右上方には、荷物棚はないが、機体後方に貨物室がある。

写真(右)1921年頃、ユンカース(Junkers)F.13 輸送機:波板状ジェラルミンを使い外板を強化したために、胴体は鋼管フレームで直方体に仕上げることができた。そのため、搭載容積を増やし、客室底面を水平にするのが容易になった。
Junkers F 13 Collection: Jim Hester Collection Repository: San Diego Air and Space Museum Archive Catalog #: JH1054
写真は,SDASM Archives(San Diego Air and Space Museum): "Catalog #: JH1054"引用。


ユンカース(Junkers)F.13輸送機の発動機
F.13a:BMW IIIa (185 hp)直列6気筒液冷エンジン ;原型は1917年開発、第一次大戦末期のドイツ軍のフォッカー D.VII複葉戦闘に装備され、優れた高高度飛行性能、格闘性能を発揮した。
F.13ba, ca, da, fa:ユンカース(Junkers)L2 (200 hp)液冷エンジン
F.13be, ce, de, fe:ユンカース(Junkers)L5 (310 hp)直列6気筒液冷エンジン;原型は1927年開発、シリンダーボア 160 mm、ストローク 190 mm、エンジン排気量 22,92L、全長 1750 mm、全幅 650 mm、全高 1265 mm、重量 334 kg
F.13dle, fle, ge, he:ユンカース(Junkers)L5 (310 hp)液冷エンジン
F.13bi, ci, di, fi: BMW IV (250 hp) 液冷エンジン
F.13co, fo:BMW Va (310 hp)液冷エンジン


写真(右)1929年5月,ユンカース(Junkers)G31輸送機(右)とF.13輸送機(左)の生産ライン
:右手前には、主翼が前縁を下にして二枚あわせて設置されている。主翼は、胴体の左右に別々の取り付ける構造である。F13輸送機のエンジンマウントは、機体構造と一体化されている。1926年初飛行、乗客15人名で13機生産された。1930年初飛行のju-52輸送機(乗客18名)の4年前に完成している。
Title: Montagehalle der Firma Junkers, mit Flugzeugen und Flugzeugteilen (Typ F 13 und Typs G 31)
Besteller: Leopold Karner, ETH-Professor für Baustatik, Hoch-und Brückenbau in Holz und Eisen. Reproduktion eines Papierabzugs
Dating: 5/1929 Reproduction photography : glass-plate negative Format: 9 x 12 cm
Categories: Photographisches Institut der ETH Zürich, ETH, Photographical Institut, 1929, Junkers G 23[風防の形状からG31の誤り], Junkers F 13, Aircrafts, Aircraft construction, Product photography, Propeller-driven aircraft, Buildings of the machinery-, metalworking-, electical- and automotive industries Record Name: PI_29-B-0168.
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・PI_29-B-0168引用。


ユンカース(Junkers)F.13旅客輸送機の1919年から1929年までの生産機数は、ドイツ93機、ソ連49機、アメリカ26機、コロンビア17機、ポーランド16機、イタリア12機、日本・ボリビア各8機、フランス・フィンランド・オーストリア各7機、イギリス・ハンガリー・ペルシャ各6機、スウェーデン・スイス各5機、中国・トルコ各4機、ベルギー・スペイン・ラトビア・アルゼンチン各3機、ルーマニア・ブルガリア・オーストラリア・チリ各1機などとユンカース(Junkers)F.13輸送機は世界で300機以上生産・組み立てられている。

写真(右)1927年、ドイツ、ユンカース(Junkers)F.13輸送機とユンカース社主フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授(1859年2月3日 - 1935年2月3日):ユンカース(Junkers)F.13は1919年 6月25日に初飛行した全長9.59 m 、全幅14.8 m、翼面積34.50 m² 、発動機 メルセデス(Mercedes) D.III液冷6気筒エンジン(排気量14.8 L)120 kW (160 PS)、空虚重量951 kg、最大離陸重量1,640 kgの単発輸送機で乗員2名、乗客4名、2機のみ製造され、第二次世界大戦緒戦ではバルカン方面への輸送に使用された。
Signatur Bild 183-1985-0529-541 Originaltitel ADN-Bildarchiv Hugo Junkers, Flugzeugkonstrukteur, geb.: 3.2.1859 in Rheydt, gest.: 3.2.1935 in Gauting bei München; Junkers baute als erster Ganzmetallflugzeuge mit freitragenden Flügeln (1915: "J I"), 1919 das erste Ganzmetall-Verkehrsflugzeug ("F 13");
Junkers nach der Ankunft in Dessau. 22007-27; Aufnahme 1927 [Scherl Bilderdienst] Archivtitel Dessau.- Porträt Hugo Junkers Datierung 1927 Bild 102-08683
写真は BundesarchivおよびWikimedia Commons, Category:Hugo Junkers・File:Bundesarchiv Bild 183-1985-0529-541, Hugo Junkers.jpg引用。


ユンカース(Junkers)F.13輸送機の年間生産機数は、1919年2機、1920年26機、1921年26機、1922年21機、1923年47機、1924年39機、1925年68機、1926年13機、1927年25機、1928年29機、1929年18機と、11年間に合計314機が量産された。

ヒューゴ・ユンカース教授の目標は、自社の研究を利用して人々の生活の質(QOL)を改善しようというもので、そのための製品を開発することだった。そのために、実験研究機関を設立し、そこでは幅広い問題に取り組んだが、そこには、熱量計、ガス風呂ヒーター、耐空性のある世界初の全金属飛行機、実用性の高い民間旅客機、世界初の航空機用ディーゼルエンジンなどがある。

図(上)1921年頃、ドイツ、ユンカース(Junkers)F.13 輸送機の図解:陸上機の車輪装備型だが、このほかに水上機の浮舟(フロート)2本を装備した方もあった。
Junkers, F-13 (JL-6) Catalog #: 01_00081777Title: Junkers, F-13 (JL-6) Corporation Name: Junkers Additional Information: Germany Designation: F-13 (JL-6)
写真は,SDASM Archives(San Diego Air and Space Museum): "Catalog #: 01_01_00081777"引用。


図(右)1919年,ユンカース(Junkers)F13L輸送機の三面図と内部スケッチ:全長9.590m、全幅17.750m、全高3.130m、水平時4.080m。垂直尾翼は、鋭角の魚のひれ状になっているが、他のタイプもある。
Title: Abbildungen und Typenzeichnungen von Junkers, F-13 (JL-6) (184) Dating: ca. 1919 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Photography : paper print, mounted on cardboard Categories: View Collection, Junkers F 13, Plans + Sketches, Unknown, Product photography, Propeller-driven aircraft Record Name:Ans_05338-01-165-AL-FL .
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-01-165-AL-FL 引用。



写真(右)1919年,完成直後のユンカース(Junkers)F.13旅客輸送機(登録コード:D-291)胴体左側にある乗員・乗客搭乗口とキャビンの前方
:扉の外側に、把手があって、不慣れな乗客が主翼を上りやすいように配慮している。操縦席は、密閉式で、キャビンからコックピットに入る。液冷エンジンを機首に1基搭載した小型輸送機。
Title: Abbildungen und Typenzeichnungen von Junkers F 13 (184) Dating: ca. 1919 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Photography : paper print, mounted on cardboard Categories: View Collection, Junkers F 13, Unknown, Product photography, Propeller-driven aircraft Record Name: Ans_05338-01-173-AL-FL .
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-01-173-AL-FL 引用。


写真(上)1921年頃、ドイツ、ドイツ・ルフトハンザ航空のユンカース(Junkers)F.13 水上輸送機(登録コード:D-207):陸上機の車輪に代わって、水上機として浮舟(フロート)二つを胴体中央に装着した。
Junkers, F-13 (JL-6) Catalog #: 01_00081730
Title: Junkers, F-13 (JL-6) Corporation Name: Junkers Additional Information: Germany Designation: F-13 (JL-6)
写真は,SDASM Archives(San Diego Air and Space Museum): "Catalog #: 01_00081730"引用。



2−2.ユンカース(Junkers)W33輸送機

写真(右)1926年、ドイツ、湖沼に着水寸前のユンカース(Junkers)W.33水上輸送機:水上機は、二つのフロートで空気抵抗が大きく、飛行安定性も悪くなる。このW.33水上輸送機には登録コードは記入されていないが、次の2枚の写真と同じ場所で、同じ機体(D-927)と思われる。
Title: Junkers W 33 auf Schwimmern Dating:ca. 1926 Is Part Of: Photography : paper print, mounted on cardboard Colour: black and white Orientation: Horizontal Categories: View Collection, Unknown, Reportage photography, Propeller-driven aircraft, Junkers W 33, Hydroplanes Record Name: Ans_05338-02-307-AL-FL
写真はETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv ・Ans_05338-02-307-AL-FL引用。


ユンカースJunkers W 33は1926年に完成した。乗員: 2人、Junkers L5エンジン228 kW(310馬力)1基搭載、全幅: 17,75 m.、全長: 10,50 m、全高: 2,90 m、主翼面積 43平方メートル、最高速度: 197 km/h.、重量:2100 kg。


写真(上)1926年、ドイツ、湖沼に待機中のユンカース(Junkers)W.33水上輸送機(D-927)
:水上機は、二つのフロートで空気抵抗が大きく、飛行安定性も悪くなる。他方、尾輪の必要がなく、機体が水面上で水平になる。そのために、垂直尾翼が下方に延長され、左右の安定性を保つようになっている。
Title: Junkers W 33 auf Schwimmern Dating: ca. 1926 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Photography : paper print, mounted on cardboard Colour: black and white Orientation: Horizontal Format: Other size Special Size: ohne Angabe Categories: View Collection, Unknown, Reportage photography, Propeller-driven aircraft, Junkers W 33, Hydroplanes Record Name: Ans_05338-02-308-AL-FL
写真はETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv ・Ans_05338-02-308-AL-FL引用。


ユンカースのベストセラーになったF13単発輸送機をベースに、大型化したのがユンカース(Junkers)W.33輸送機であり、原型はユンカースL5液冷エンジン1基を装備し1926年6月17日に初飛行している。しかし、輸出向けには、普及していた空冷星形9気筒エンジンに変換したタイプが開発されている。

写真(右)1926年、ドイツ、ユンカース(Junkers)W.33水上輸送機(登録コード:D 921):水上機は、二つのフロートで空気抵抗が大きく、飛行安定性も悪くなる。F13輸送機をベースに、大型化したのがW33輸送機であり、これらの機体は量産性を考慮して共通部品が多かったようだ。
Title: Junkers W 33 auf Schwimmern Dating: ca. 1926 Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Photography : paper print, mounted on cardboard Colour: black and white Orientation: Horizontal Categories: View Collection, Unknown, Reportage photography, Propeller-driven aircraft, Junkers W 33, Hydroplanes Record Name: Ans_05338-02-306-AL-FL
写真はETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv ・Ans_05338-02-306-AL-FL 引用。


ユンカース(Junkers)W33輸送機が後に搭載したユンカース(Junkers)L2液冷エンジンは、ユンカース社が初めて実用化した液冷エンジンで6気筒、で200馬力、ユンカース F 13輸送機、ユンカース G 23輸送機、ユンカース G 24輸送機、ユンカース W 33輸送機が装備している。58台が生産されたにとどまったが、これは後継のユンカースL5が開発されたためである。

写真(右)1927年8月,ザクセン・アンハルト州デッサウ、ユンカース(Junkers)W 33 輸送機: ユンカースJunkers W 33は1926年に完成した。乗員: 2人、Junkers L5エンジン228 kW(310馬力)1基搭載、全幅: 17,75 m.、全長: 10,50 m、全高: 2,90 m、主翼面積 43平方メートル、最高速度: 197 km/h.、重量:2100 kg。
Inventory: Bild 102 - Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl Signature: Bild 102-00395
Archive title: Dessau.- Arbeiten an einem Junkers Ozeanflugzeug Dating: August 1927 Anfang
Photographer: Pahl, Georg Origin: Bundesarchiv
写真はドイツ連邦アーカイブBundesarchiv登録・Bild 102-00395引用


ユンカース(Junkers)L2液冷エンジン諸元
ボア(Bore): 150 mm
ストローク(Stroke): 180 mm
排気量(Displacement): 19.1 L
全長(Length): 1.58 m
全幅(Width): 0.555 m
全高(Height): 1.085 m
乾燥重量(Dry weight): 310 kg
出力(Power output): 巡航時 195 hp (145 kW)/回転数1,550 rpm
離昇出力(take-off) 230 hp (171 kW)

写真(右)1929-1935年、ユンカース(Junkers)W.33 水上輸送機の客室内部:ジュラルミン製波板外板は1枚のみで、内側に張っていないので、外板の内側が波板壁になっている。ドアの奥には、コックピットで、操縦桿(ハンドル式)と計器盤が確認できる。天井にも四角のガラス窓があるが、これは明り取りの窓である。床板は外されているが、このスペースに荷物を積み込む。
Junkers W.33:n lisäpolttoainesäiliöt Junkers W.33:n lisäpolttoainesäiliöt pitkän matkan lentoa varten.
Aineistotyyppi Valokuva Organisaatio Suomen Ilmailumuseo
Kokoelma Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar Inventaarionro SIM VK 533:159 Mitat Vedos Kuvaustiedot: 1929-1935 IFA
写真は,Museot Finna: "M016-19809"引用。


 今日の旅客機では、客室内の気圧は、高度が上が手も低下しない。それは、客室が密閉され、室内に空気が注ぎ込まれているからで、これはジェットエンジンを使ってコンプレッサー(圧力器)を駆動させればよい。

しかし、ピストンエンジンのプロペラ機では、ジェットエンジンと異なりコンプレッサー(圧力器)を駆動するために別途動力を搭載するのが一般的だった。ドイツでは、第二次大戦中に与圧室を実現したものの、本格的に長時間高高度を飛行する偵察機・爆撃機の与圧室は、最後まで実用化が困難だった。コンプレッサー用のエンジンを別途装備すればよいが、これでは重量増加、飛行性能の低下が招来されてしまうのである。

また、高空になるほど室内と外気との気圧差が大きくなるため、密閉するとしても、圧力差に耐えられるだけの耐久性・堅牢性が必要となる。室内構造を頑丈にすれば、重量が嵩んでしまうので、簡単に与圧室を実用化することはできなかった。

ユンカース(Junkers)W.33製造に用いたジュラルミン製波板状外板は、平面の物よりもはるかに強度が高く、堅牢である。そこで、鋼管フレームで直方体形状を作り、それを胴体骨格として、その外板にジュラルミン真美板をはった。そこで、胴体の形状は、家屋と同じように直方体となり、円筒状の一般的な飛行機よりも胴体容積を無駄なく使うことができた。

写真(右)1926年,完成直後のユンカース(Junkers)W33輸送機(登録コード:D-291):操縦席は、開放式で、液冷エンジンを機首に1基搭載した小型輸送機。エンジンの排気管を1本の集合排気管にまとめて、コックピットの後ろで機外に排出しているが、これは排気煙によって操縦士の視界が妨げられないようにするためである。
Photographer: Unbekannt Title: Junkers W 33, Landflugzeug
Dating: ca. 1926
Is Part Of: Junkers Flugzeugwerke AG, [1917-1925]. 2 Alben mit 659 Bildern (alle digitalisiert) Photography : paper print, mounted on cardboard
Colour: black and white Orientation: Horizontal Format: Other size Special Size: ohne Angabe
Categories: View Collection, Unknown, Product photography, Propeller-driven aircraft, Junkers W 33
Record Name: Ans_05338-02-309-AL-FL .
写真は,The ETH-Bibliothek Zürich, Bildarchiv・Ans_05338-02-309-AL-FL引用。


ユンカース(Junkers)W 33 (Junkers)W 33輸送機の諸元
発動機(Triebwerk): Junkers L 5
出力(Leistung:kW): 228 kW
初飛行(Baujahr): 1926年
全幅(Spannweite): 17,75 m
全長(Länge): 10,50 m
全高(Höhe): 2,90 m
翌面積(Flügelfläche): 43,00 qm(平方メートル)
総重量(Startmasse): 2100 kg
最高速力(Höchstgeschwindigkeit): 197 km/h
搭乗員(Besatzung): 2名

1932年(昭和7年)9月24日、午前5時37分、機長本間清海軍中佐、馬場英一操縦士、井上智義機関士の3名が搭乗するユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)は、青森県三沢市淋代海岸を離陸して、アメリカの本土を目指して、太平洋横断無着陸飛行に発進した。

ユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)の発動機は、ユンカースL5液冷エンジン(310馬力)で、燃料満タンで全重量4.5トンで、離陸速度160kmだった。午前11時過ぎ「エトロフ島南方を通過」の無線が入ったあと、ユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」は消息を絶った。それから捜索が行われたが機体は見つからないままだった。帝国飛行協会は、1932年12月、「横断飛行断念」の声明を出した。

写真(右)1932年、太平洋横断飛行に挑戦した日本のユンカース(Junkers)W.33輸送機「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB):本間清機長、馬場英一郎操縦士,井下知義通信士の搭乗で羽田飛行場を出発,淋代で燃料を満載して離陸した。
2 Fantastic RARE ORIGINAL 1932 B/W ( THESE ARE NOT COPIES OR REPRODUCTIONS OF ANY TYPE-THEY ARE 100% ORIGINAL PERIOD DEVELOPED PHOTOGRAPHS ) ACME Newspictures news photographs showing the Japanese crew of Junkers W33 f registration number J-BFUB named the No.3 Hochi - Nichi - Bei before their ill-fated non-stop trans-pacific flight of September 1932. While Clyde Pangborn and Hugh Herndon Jr. had made the first non-stop trans-pacific flight in 1931 flying their Bellanca monoplane " Miss Veedol ", it had always been a dream of the Japanese to successfully fly a trans-pacific flight. I have been unable to ascertain any information regarding the flight of the Hochi other than it was lost somew near Sabishiro Beach during the flight on or about September 24th 1932.
写真はDiscover Worth, Worthopedia引用。


1932年9月10日に羽田飛行場において、報知新聞社が購入したユンカースW33「第三報知日米号」(登録コード:J-BFUB)の太平洋横断飛行出発式が開催された。この時は、帝国飛行協会のユンカースW33「オイローパ」EUROPA(登録記号:J-BAWG)も参加している。それから2週間後の1932年9月24日に、ユンカースW33「第三報知日米号」(登録記号:J-BFUB)は、淋代を出発したが、千島列島付近で行方不明となった。


2−3.ユンカース(Junkers)W34輸送機

写真絵葉書(右):1935-1945年頃?、スウェーデン、スウェーデン空軍ユンカース(Junkers)W34輸送機(赤十字マーク);軍用 K43のスウェーデン軍仕様Tp 2A 患者輸送機 :原典にはJunkers W33とあるがW34の誤りであろう。
Inglasat foto på Tp 2 Junkers W 33.
Type: Tavla , Object Subject: Kulturhistoria , Kontor
Identifier: FVM.149950 Institution: Flygvapenmuseum Provider: Swedish Open Cultural Heritage | K-samsök
Providing country: Sweden First published in Europeana: 2016-05-13
写真は,Flygvapenmuseum 登録・Dataset: 916113_Ag_SE_Flygvapenmuseum 引用。


 スウェーデン軍は、フィンランド軍と同じく、ユンカース(Junkers) W34輸送機の実用性の高さ、運用コストの低さに注目して、W34の軍用型K43輸送機に注目した。ただし、任務は患者輸送用要とされたために、武装を施しておらず赤十字社の記章を大きく描いているので、白色塗りの患者輸送機Tp 2Aとなった。つまり、ユンカース(Junkers)W34を民間輸送機ではなく、軍用の患者輸送機・救難機であり、軍事物資・兵力の輸送は行わず、運航も事前に相手国に届けを出しているので、秘密の運航はしない機体である。当然のことながら、敵との交戦は想定していないから、機関銃など武装も一切していない。

写真絵葉書(右):1933-1945年、スウェーデン、スウェーデン空軍ユンカース(Junkers)W34水上輸送機(赤十字マーク);軍用 K43のスウェーデン軍仕様Tp 2A 患者水上輸送機 :スウェーデン軍は、フィンランド軍と同じく、ユンカース(Junkers)W34輸送機の実用性の高さ、運用コストの低さに注目して、W34の軍用型K43輸送機に注目した。ただし、このユンカース(Junkers) W34任務は患者輸送機・救難機とされたために、武装を施しておらず赤十字社の記章を大きく描いているので、白色塗りの患者輸送機Tp 2Aとなった。
Inglasat foto på Tp 2A - Junkers Flugzeug-und Motorwerke JU W 34 1933-1945 Type: Tavla , Object
Subject: Kulturhistoria , Kontor , http://vocab.getty.edu/aat/300193782
Identifier: FVM.149835 Institution: Flygvapenmuseum
Swedish Open Cultural Heritage | K-samsök Providing country: Sweden First published in Europeana: 2016-05-13
写真は,Flygvapenmuseum 登録・Dataset: 16113_Ag_SE_Flygvapenmuseum 引用。



写真(上):1933-1953年、スウェーデン、湖面を滑走中のスウェーデン空軍ユンカース(Junkers)W34水上輸送機(赤十字マーク);スウェーデン軍仕様TP 2A 患者水上輸送機
:白色塗りではなく、明細塗装をしたまま軍用の正規患者輸送機として使用されたのであろうか。患者輸送機は、軍事物資・兵力の輸送は禁止され、機関銃など武装も許されない。
Flygplan TP 2A flygambulans vid landning på vatten vid F 2 Hägernäs.
Identifier: FVMF.002219
Avbildad - namn: Roslagens flygflottilj F 2 (1926 - 1974) Avbildad, ort: Sverige Uppland Hägernäs Fotografering 1933 - 1953 Ursprunglig fotografering Institution: Flygvapenmuseum Date published: December 2, 2014 Date updated: May 7, 2019 DIMU-CODE: 021015595419 UUID: BA931FC4-68BE-4691-A52B-7559B9886DA4
写真は,Flygvapenmuseum 登録・Dataset: FVMF.002219 引用。


写真絵葉書(右):1933-1945年、スウェーデン、スウェーデン空軍ユンカース(Junkers)W34水上輸送機(赤十字マーク);軍用 K43のスウェーデン軍仕様Tp 2A 患者水上輸送機 :スウェーデン軍は、フィンランド軍と同じく、ユンカース(Junkers)W34輸送機の実用性の高さ、運用コストの低さに注目して、W34の軍用型K43輸送機に注目した。ただし、このユンカース(Junkers) W34任務は患者輸送機・救難機とされたために、武装を施しておらず赤十字社の記章を大きく描いているので、白色塗りの患者輸送機Tp 2Aとなった。
Fotografiet finns i fotoalbumet "Nils Kindbergs fotoalbum 1 - Svenska Fpl (S, J, B, TP) 1912-" Fotografering - 1933 — 1938
IDENTIFIER FVMF.006092 PART OF COLLECTION Flygvapenmuseums arkivsamling OWNER OF COLLECTION Flygvapenmuseum INSTITUTION Flygvapenmuseum DATE PUBLISHED December 17, 2021
写真は,Flygvapenmuseum 登録・Dataset:  FVMF.006092 引用。


1933-1953年に、スウェーデン空軍ユンカース(Junkers)W34水上輸送機(赤十字マーク)は、スウェーデン軍ではTRP 2A患者水上輸送機として、白塗りの患者輸送機Tp 2Aと呼称された。つまり、民間輸送機ではなく、スウェーデン軍の国際赤十字の正規患者輸送機として制式された。

国際赤十字の患者輸送機は、軍事物資・兵力の輸送は禁止され、戦時では敵国に対しても運航を事前に届けを出して患者輸送機として運行した。秘密の運航はしない機体であり、当然のことながら、敵との交戦は想定していないから、機関銃など武装も一切し装備していない。

写真(右):1933 - 1953年、スウェーデン、湖沼の上空を飛行するスウェーデン空軍ユンカース(Junkers)W34水上輸送機(赤十字マーク);スウェーデン軍仕様TRP 2 A患者水上輸送機5号機 :双フロートは、黒っぽい色で塗装されている。機体赤十字マークの後の「5」は機体番号。
Flygplan TP 2A flygambulans märkt nummer 5 flyger över kustlinje..
FVMF.002218
Fotograf: Okänd fotografFotografering 1933 - 1953 Institution: Flygvapenmuseum Date published: December 2, 2014 k
DIMU-CODE: 021015595415 UUID: 33EA5BBD-3130-4F38-B0E1-34336A0FE5BB
写真は,Flygvapenmuseum 登録・Identifier: FVMF.002218 引用。


写真(右):1934 - 1941年、スウェーデン、格納庫前でスウェーデン軍兵士と記念撮影したスウェーデン空軍ユンカース(Junkers)W34水上輸送機(赤十字マーク);スウェーデン軍仕様TRP 2 A患者水上輸送機5号機 :左端の兵士は、右の双フロートにまたがっている。黒っぽい色で塗装されたフロートは、陸上では車輪のついた台座に乗せられて、移動しやすくしている。機体赤十字マークの後の「5」は機体番号。
Flygplan Trp 2 framför hangar. Tre militärer vid flygplanet.
FVMF.002071
Fotograf: Okänd Fotografering 1934 - 1941 Date published: December 21, 2016 DIMU-CODE: 011015057848 UUID: 2D1F1CA5-01ED-447B-BBA5-6DBAFBB9641F
写真は,Flygvapenmuseum 登録・Identifier: FVMF.002071 引用。


写真(右):1934 - 1948年、スウェーデン、スウェーデン空軍ユンカース(Junkers)W34水上輸送機(赤十字マーク);スウェーデン軍仕様TRP 2 A患者水上輸送機5号機 :着水に失敗したのか、横転事故を起こし、クレーンで回収されている。主翼上面の赤十字記章がよくわかる。
Ambulanslygplan TRP 2 A märkt nr. 5 bärgas av en kran på en pråm. Folksamling på bygga framför kranen.
Identifier: FVMF.001436
Avbildad - namn: Roslagens flygflottilj F 2 (1926 - 1974) Avbildad, ort: Sverige Uppland Hägernäs Fotografering 1934 - 1948 Institution: Flygvapenmuseum Date published: March 20, 2014 k
DIMU-CODE: 011013013377 UUID: 6C532D73-FAD4-49C8-8546-184AB84610D5
写真は,Flygvapenmuseum 登録・Identifier: FVMF.001436 引用。


スウェーデンは、第一次世界大戦、第二次世界大戦にも加わらずに、その後も非同盟中立を堅持し続けた。他方、1926年には、航空兵力の重要性を認識し、それまでスウェーデン陸軍航空隊と海軍航空隊に分かれていた航空兵力を、あらたにスウェーデン空軍(Flygvapnet)を創設して、統合した。また、北欧スカンジナビアの平和に配慮して、中立を前提としながら、ロシアから独立したフィンランドへの支援、フィンランド内戦での反共産主義青軍の支援に義勇兵を派遣している。スウェーデンには、19世紀末から反共産主義の動きが活発で、政治的にも自由主義を擁護してきた伝統がある。


2−4.ユンカース(Junkers)G.23輸送機


写真(右)1930年代(?)、ドイツ、ベルリン、テンペルホーフ飛行場、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)ユンカース(Junkers)G-24三発輸送機 (登録コード: D-879)の左側面
:1924年9月19日初飛行、ユンカース(Junkers)L5液冷直列6気筒エンジン230 kW (310 hp) 3基搭載、乗員: 2名、乗客 14名、全長: 15.8 m (51 ft 10 in)、全幅 29.37 m (96 ft 4 in)、主翼面積 99 m2 (1,070 sq ft)、空虚重量: 4,330 kg (9,546 lb)、総重量 7,200 kg (15,873 lb)、最高速力 210 km/h (130 mph, 110 kn)、巡行速力 170 km/h (110 mph, 92 kn)、航続距離 660 km (410 mi, 360 nmi)。生産機数は72機、スェーデンで軍用仕様K30を含めて43機。
Photo Walter Hahn Dresden, Berlin Tempelhof Airport, Junkers Ju G-24, Airport No 10.326.239 Foto, ca. 13 x 18 cm, excellent condition
写真Die Firma akpool GmbHは, akpool 引用。


ドイツのユンカース(Junkers)G.23輸送機の試作機(プロトタイプ)は、1924年9月18日に初飛行した。操縦席は、密閉式で、液冷エンジンを機首・主翼に合計3基搭載。単発のユンカース(Junkers)F.13輸送機を大型化し、エンジンを左右主翼に各々1基追加した機体構造になっている。

ユンカース(Junkers)G. 23輸送機は、3基のユンカース(Junkers)L2エンジン(195馬力:145 kW)を搭載していた。しかし、第一次大戦後のベルサイユ条約の軍備制限を受けていたドイツに対して、ユンカースG23輸送機は高性能であり、軍用機として使用される恐れがあるとして圧力がかかり、G23輸送機のエンジン馬力を低下させることが求められた。こうして、民間輸送機としてG23のエンジン出力を低下させた性能低下型がユンカースG24輸送機である。

写真(右)1924 - 1927年、フィンランド、マルミ飛行場、フィンランド航空ドイツ製ユンカース(Junkers)G-24「スオミ」"Suomi"(登録コード: K-SALC)の左側面:以前はユンカース(Junkers)G-24W三発輸送機水上機(登録コード:OH-ALC)だった。
Vesitaso, Junkers G 24 W (Aero oy:n omistama sisällön kuvaus: Vesitaso, Junkers G 24 W (Aero oy:n omistama. Myöh. OH-ALC) K - SALC Katajanokan lentosatamassa. Taustalla Suomenlinnan Aleksanteri Nevskin kirkko.
ORGANISATION Helsinki City Museum IDENTIFIER N35034 MEASUREMENTS mitat, 9x12 18x24 CREATED kuvausaika 1924 - 1927 Materiaali, lasi paperi Foto Roos, valokuvaaja
写真は, Finna.fi 引用。



写真(上)1928年、フィンランド、マルミ飛行場沖、海上に待機するフィンランド航空ドイツ製ユンカース(Junkers)G-24三発輸送機水上機仕様「スオミ」"Suomi" (登録コード: K-SALC)の左側面

AERO:n Junkers G 24 K-SALC "Suomi" Helsingin Katajanokalla vuonna 1928.
ORGANISATION Finnish Aviation Museum COLLECTION Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar IDENTIFIER SIM VK 533:69 MEASUREMENTS Vedos CREATED 1928 Sirius Helsinki, Katajanokka
写真は, Finna.fi 引用。


写真(右)1928年7月、ドイツ、ザクセン州デッサウ、花飾りで歓迎されたユンカース(Junkers)G.24輸送機の長距離世界飛行記録樹立の搭乗員2名とユンカース社主フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授(1859年2月3日 - 1935年2月3日):ドイツで65時間半上回る長距離飛行の世界記録を樹立した。デッサウで特別映像レポーターがその記録をとり報道に使用した。世界長距離飛行記録をだしたパイロットであるリスチッツ氏(左)とツィンマーマン氏(右)と世界記録機を樹立した飛行機開発者フーゴ・ユンカース教授(中央)。ユンカース(Junkers)G24輸送機による世界飛行記録は、周回飛行距離2,020 km (1,560 マイル)を、ペイロード 1,000 kg 、飛行時間14時間 23分、平均速力140 km/hというものである。
Der Weltrecord im Dauerfliegen mit 65 1/2 Sunden vorn Deutschland zurückerobert! Aufnehmen unseres nach Dessau, entsandten Sonder-Bild-Berichterstatters! Die Weltrecordpiloten Risticz (links) und Zimmermann (rechts) mit Prof. Junkers (in der Mitte) dem Construkteur des Weltrecord-Flugzeuges, blumengeschmückt nach ihrer glücklichen Landung um 10 Uhr abends in Dessau.
Der General-Construkteur Prof. Junkers (x) mit seinen Mitarbeitern vor dem neuen Riesen-Flugzeug G. 38.
Archivtitel Dessau.- Weltrekord im Dauerfliegen.- Vlnr.: N.N., Johann Risticz, Hugo Junkers, Zimmermann mit Blumen Datierung Juli 1928 Fotograf/in Pahl, Georg
写真は BundesarchivおよびWikimedia Commons, Category:Hugo Junkers・File:Bundesarchiv Bild 102-06198, Dessau, Weltrekord im Dauerfliegen.jpg引用。


第一次世界大戦にドイツが敗北し、1919年ベルサイユ条約で航空機開発に大きな制約が課された後も、ドイツ・ワイマール共和国の時代から、先端的な航空機メーカとして成長していった。その代表作が、ユンカース社創立直後に開発したユンカースF.13単発輸送機、W.33輸送機などで、その後は、ユンカースG.24三発輸送機、G.38四発輸送機のような大型輸送機も生産するようになった。

1928年7月、ユンカース(Junkers)G24輸送機は飛行距離2,020 km (1,560 マイル)をペイロード 1,000 kg で14時間 23分で飛行し、平均速力140 km/hという世界記録を達成した。周回飛行をした後、デッサウに午後22時に無事着陸をし、花飾りで迎えられた。


2−5.ユンカース(Junkers)S 36/K 37偵察爆撃機

写真(右)1927‐1930年頃,ドイツ(?)、雪上に待機している固定式主輪にスキーを装着したユンカース(Junkers) S.36輸送機:エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)が設計した双尾翼式の双発機で、ベルサイユ条約でドイツが軍用機保有が禁止されていたために、民間郵便輸送機として公開された。しかし、後にドイツからスウェーデンに飛行し、そこで、軍用仕様に改修された。まだ機首と胴体に銃座は設けられていない。しかし、後に機首銃座、胴体銃座を設け、K.37偵察爆撃機に改修された。
JJunkers S36 before conversion to K37 PictionID:44219317 - Title:Junkers S36 before conversion to K37 - Catalog:16_005364 - Filename:16_005364.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.--
写真は, San Diego Air and Space Museum引用。


ユンカース(Junkers) S.36輸送機は、ドイツ、ユンカース社の技師エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)が設計した双尾翼式の双発機で、ベルサイユ条約でドイツが軍用機保有が禁止されていたために、民間郵便輸送機として公開された。S.36の初飛行は、1927年9月5日であるが、試作2機のみで終わった。しかし、後にドイツからスウェーデンに飛行し、そこで、機首銃座、胴体銃座を設け、K.37偵察爆撃機に改修された。

写真(右)1927年12月以前,スウェーデン、スウェーデン空軍の国籍記章を垂直尾翼に描いたユンカース(Junkers) S.36 偵察爆撃機 (登録コード: S-AABL)の左後方 :奥の前方の機体では、飛行服・革製日飛行帽を被った搭乗員3名が手を挙げて合図をしている。ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載した。前作G.24輸送機改修の軍用仕様K.30三発偵察爆撃機とは異なって、機首に発動機がない双発機としてK.37は開発された。1927年9月5日に初飛行したが、試作2機のみで終わった。フランスのL'Aéronautique December,1927に掲載された写真。
Description English: Junkers S 36 photo from L'Aéronautique December,1927 Date 1 December 1927 Source gallica.bnf.fr /ark:/12148 /bpt6k65680291 /f58.item Author L'Aéronautique magazine
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers S 36 left rear L'Aéronautique December,1927.jpg引用。


ベルサイユ条約でドイツに課された軍用機開発禁止条項から免れるために、ドイツのユンカース飛行機は、子会社として、スウェーデン、マルメにAB飛行機産業(AB Flygindustri)を設立した。ユンカース社のエルンスト・チンデル(Ernst Zindel)技師が設計したユンカースS.36輸送機は、前作G.24三発輸送機改修の軍用仕様K.30三発偵察爆撃機とは異なって、機首に発動機がない。つまり、S.36は、左右主翼に空冷星形エンジンを搭載した双発機として開発された。

写真(右)1927年12月以前,未舗装滑走路上のスウェーデン空軍のユンカース(Junkers) S.36 偵察爆撃機:機首には銃座がなく、機首ガラス窓もついていないが、胴体後方には、飛行服・革製日飛行帽を被った搭乗員3名が手を挙げて合図をしている。1927年9月5日に初飛行したが、S.36とK.37と合わせて試作2機で終わっているが、機体の改修が繰り返されていたようだ。
Junkers K 30[→S 36] Junkers Flugzeugwerken vuosina 1925-1927 valmistama Junkers K 30 -pommikone.
Aineistotyyppi Valokuva
Organisaatio Suomen Ilmailumuseo
Kokoelma Finnair Oyj / Ståhle, Gunnar
Tunniste SIM VK 533:148
Mitat Vedos
Valmistus 1924-1929 IFA
写真は,Finna Fl・SIM VK 533:148引用。


そこで、スウェーデンのユンカース子会社では、民間仕様のS.36双発輸送機を、軍用仕様のK.37双発偵察爆撃機に改修した。第一次大戦敗戦国ドイツでは軍用機の開発・保有は英仏連合国によって禁止されていたが、外国での軍用機の開発はかのうであり、そこで生産した軍用機の販売(事実上の輸出)も会社に利益をもたらした。

図(右)1928年8月,スウェーデン、スウェーデン空軍のユンカース(Junkers) S.36偵察爆撃機の三面図:ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、胴体上面の開放式コックピット、機首上面と胴体後方上面に2カ所の銃座を設けた。発動機2基の双発機でS.36と次のK.37とはほぼ同型。試作1号機は、1927年9月5日に初飛行したが、S.36とK.37の試作2機のみで量産されずに終わった。ただし、1933年5月初飛行の日本陸軍キ2三菱九三式双発軽爆撃機は、輸入したK.37の波板構造と形状を引き継いで開発され、174機が量産されている。フランスのLe Document aéronautique August,1928に掲載された図解。
English: Junkers S 36 3-view drawing from Le Document aéronautique August,1928
Date 1 August 1928
Source gallica.bnf.fr/ ark:/12148 /bpt6k9767758z /f500.item
Author Le Document aéronautique
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers S 36 3-view Le Document aéronautique August,1928.png引用。


写真(右)1929年10月以前,スウェーデン、未舗装滑走路上のスウェーデン空軍のユンカース(Junkers)K.37偵察爆撃機 (登録コード: SE-ABP) :ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機K.37が開発された。1927年9月5日に初飛行したが、試作1機のみで終わった。アメリカのNACA Aircraft Circular No.104に掲載された写真。
English: Junkers K.37 photo from NACA Aircraft Circular No.104 Date 1 October 1929 Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090376.pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K.37 right side photo NACA Aircraft Circular No.104.jpg引用。


第一次世界大戦に敗北したドイツは、1919年のベルサイユ条約で、空軍の保有も軍用機に転用可能な飛行機の開発も禁じられた。そこで、ユンカース(Junkers)社は、子会社として、スウェーデン、マルメにAB飛行機製造(AB Flygindustri)を設立して、そこで軍用機の開発をした。ユンカース(Junkers)K.37偵察爆撃機は、エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計になる。左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機として完成した。K.37試作機は1927年9月5日に初飛行したが、試作1機のみで量産されずに終わった。

写真(右)1929年10月以前,スウェーデン、離陸したスウェーデン空軍のユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機 (登録コード: SE-ABP)の左側面 :機首銃座に単装7.7mm旋回機関銃を装備。ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した固定脚、双発爆撃機。エンジンナセル(カバー)はついていない。アメリカのNACA Aircraft Circular No.104に掲載された写真。
English: Junkers K.37 photo from NACA Aircraft Circular No.104 Date 1 October 1929 Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090376.pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K.37 flight photo NACA Aircraft Circular No.104.jpg引用。


写真(右)1929年2月以前,スウェーデン、ドラム缶から燃料補給中のスウェーデン空軍のユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機 (登録コード: SE-ABP)の機首左側 :機首銃座に連装7.7mm旋回機関銃を装備。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機K.37が開発された。1927年9月5日に初飛行したが、 K.37と合わせて試作2機のみで終わった。フランスのL'Aéronautique December,1927に掲載された写真。
Description English: Junkers K-37 photo from L'Aéronautique February,1929 Date 1 February 1929 Source https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k65549538/f130.item Author L'Aéronautique magazine
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K-37 L'Aéronautique February,1929.jpg引用。



写真(右)1929年10月以前,スウェーデン、未舗装滑走路上のスウェーデン空軍のユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機 (登録コード: SE-ABP)の機首右側
:ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機K.37が開発された。1927年9月5日に初飛行したが、試作1機のみで終わった。NACA Aircraft Circular No.104,1929に掲載された写真。
English: Junkers K.37 photo from NACA Aircraft Circular No.104 Date 1 October 1929 Source https://ntrs.nasa.gov/archive/nasa/casi.ntrs.nasa.gov/19930090376.pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K.37 nose photo NACA Aircraft Circular No.104.jpg引用。



写真(右)1935年頃(?),スウェーデン(?)、雪上に待機している固定式主輪にスキーを装着したスウェーデン空軍ユンカース(Junkers)K.37偵察爆撃機試作機 (登録コード: D-1252)
:ユンカース(Junkers)社の子会社として、スウェーデン、マルメに設立されたAB飛行機製造(AB Flygindustri)が開発した。エルンスト・チンデル(Ernst Zindel)の設計で左右主翼に空冷星形エンジンを搭載し、双尾翼式、機首に発動機がない双発機K.37が開発された。1927年9月5日に初飛行したが、S36とK37の試作2機のみで終わった。
Junkers K37 about 1935 Nowarra photo PictionID:43265072 - Title:Junkers K37 about 1935 Nowarra photo - Catalog:16_003768 - Filename:16_003768.TIF - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation --- ---Please Tag these images so that the information can be permanently stored with the digital file.--
写真は, San Diego Air and Space Museum・Filhttps://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Junkers_K_37e:Junkers K 37.jpg引用。


図(右)1929年10月,スウェーデン、スウェーデン空軍のユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機の三面縮尺図・銃座射界:アメリカのNACA Aircraft Circular No.104, October 1929に掲載された図解。
Description English: Junkers K.37 3-view drawing from NACA Aircraft Circular No.104 Date 1 October 1929 Source ntrs.nasa.gov/ archive/nasa/ casi.ntrs.nasa.gov /19930090376 .pdf Author NACA Aircraft Circular
写真は Wikimedia Commons, Category:Junkers K 37・File:Junkers K.37 3-view NACA Aircraft Circular No.104.jpg引用。


ユンカース(Junkers) K.37偵察爆撃機の諸元
全長 37 ft 5 in (11.40 m)
全幅 65 ft 9 in (20.05 m)
全高 15 ft 1 in (4.60 m)
主翼面積 583 sq ft (54.2 m2)
空虚重量 5,720 lb (2,600 kg)
総重量 9,900 lb (4,500 kg)
発動機 ジーメンス(Siemens)製のブリストル・ジュピター(Bristol Jupiter) VI空冷星形9気筒エンジン590 hp (440 kW)2基
最高速力224 km/h
航続距離850 km
実用上昇限度7,000 m
兵装: 7.7 mm旋回機関銃3丁
爆弾搭載量 500 kg。


2−6.ユンカース(Junkers)G. 31輸送機

写真(右)1930年代(?)、ドイツ、ベルリン、テンペルホーフ飛行場、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)ユンカース(Junkers)G-31三発輸送機 (登録コード: D-879)の左側面:1926年初飛行、(Pratt & Whitney Hornet)L5液冷直列6気筒エンジン230 kW (310 hp) 3基搭載、乗員: 2名、乗客 15名、全長: 16.50 m、全幅 30.50 m、主翼面積 102.0 m2、空虚重量: 5,250 kg、総重量 8,500 kg、最高速力 210 km/h (130 mph, 110 kn)、巡行速力 170 km/h (110 mph, 92 kn)、航続距離 850 km。生産機数は13機。
Ansichtskarte / Postkarte Junkers Ganzmetallflugzeug G 31 Nr. 10.665.306 Zustand, siehe Scan, ungelaufen ca 14 cm X 9 cm
写真Die Firma akpool GmbHは, akpool 引用。


増田好純(2010)「ナチ・ドイツにおける労働動員 : ドイツ人、外国人、強制収容所囚人:ユンカース航空機・発動機製作所を事例に」によれば、1930年代、ドイツ最大の航空機メーカーだったユンカース社は、1900年代初頭、フーゴ・ユンカースHugo Junkers)によって創設され、航空技術開発が進展する中で、第一次世界大戦の勃発を契機に軍用機開発を進めた。

写真(右)1920年代−1933年、ドイツ、ザクセン州、ドレスデン飛行場、ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH)ユンカース(Junkers)G-31三発輸送機 (登録コード: D-879)の左側面:コックピット上方にあるのは小型風力発電機。エンジンカウリングはないが、エンジンの放熱には都合がよかった。生産機数は13機。
Foto Junkers G31 Flugzeug Hermann Köhl, Flughafen Dresden HellerNr. 10.326.721Foto, ca. 12 x 18 cm, sehr guter Zustand »Zufriedenheitsgarantie!«
写真Die Firma akpool GmbHは, akpool 引用。


ヒトラー首相の下で、ドイツ政府は、軍備強化のために、ハインリヒ・コッペンベルクHeinrich Koppenbergの意向に沿うようにユンカース・グループの拡大させ、1936年半ばには、ユンカース機体と発動機を製造する2会社が合併し、ユンカース飛行機・発動機工場(JFM) が設立され。短期間のうちに航空機生産はドイツ最大の産業分野に発展し、1937年にはユンカース グループの 11工場で4万人の労働者職員が雇用されるようになった。

1938年9月30日、空軍大臣・空軍総司令官のヘルマン・ゲーリングはハインリヒ・コッペンベルク(Heinrich Koppenberg)をドイツ空軍の主力爆撃機Ju 88製造の特別代表に任命した。これにより、コッペンベルクはナチ党政権にあって、軍需工場最大の個人経営者となった。つまり、会社組織というより、ナチ党主要幹部との個人的コネクションの大きな影響の下で、ドイツの主な航空機、軍用機の生産が進むことになったのである。

第二次世界大戦が1939年9月に始まると、ユンカース飛行機・発動機工場(JFM)は、多数の囚人・捕虜・外国人の強制労働やユダヤ人など強制収容所の囚人を含む労働力を親衛隊SSの監視の下で受け入れた。そして、ユンカース飛行機・発動機工場(JFM)では、主に中央ドイツに位置する24か所の拠点工場・作業所が、強制労働者を動員し、非人道的な条件で働かせた。

ユンカース社を創設したフーゴー・ユンカースは、グローバルな競争的市場経済の中で航空機メーカーを経営し、成功してきたため、航空関連企業を秘密再軍備戦略の一環に組み入れようとするドイツ政府・国防軍と微妙な緊張関係にあり、1933年1月にナチ党アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)政権が成立すると同時に影響力を奪われ、ユンカース社は影でドイツ再軍備German rearmament)を実現する担う国策会社として再出発することになる。


3.ユンカース社を追放されたフーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)

1933年4月、リーザ (後にベルリン) にある製鉄複合企業ミッテルシュタールとして知られるミッテルドイチェ シュタールヴェルケ AG (1926 〜 1945)の社主フリードリヒ・フリックは、ミッテルシュタールとしても知られるミッテルドイチェ シュタールヴェルケ AG (1926-1945)は、幹部のハインリヒ・コッペンベルク(Heinrich Koppenberg)に指示して、ドイツ帝国航空省の企業家カール・フリードリヒ・フォン・ジーメンス、アルベルト・ベーグラー、フリッツ・ティッセンらとの会議に出席した際、航空機生産を3倍に増加した。

写真(右)1929年、ドイツ、ユンカース(Junkers)社フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)社長(1859年2月3日 - 1935年2月3日):ユンカースは1919年に設立したユンカース飛行機工場の株式を譲渡させられ、経営から退陣、国営化されたユンカース社は、コッペンベルクの手に渡った。
Deutsch: Hugo Junkers, 1929, Silbergelatine, 23,2 x 16,8 cm. Foto von Hugo Erfurth Date 1929
Author Hugo Erfurth (1874–1948)
写真はWikimedia Commons, Category:Photographs by Hugo Erfurth・File:Hugo Junkers, 1929 - Foto Hugo Erfurth.jpg引用。


ユンカー社主フーゴ・ユンカースHugo Junkers)の抵抗は排除され、1933年のうちに、フーゴ・ユンカースHugo Junkers)は自ら保有する株式をドイツ帝国政府に売却するよう強制され、国有化されたユンカースグループのゼネラルマネージャーにハインリヒ・コッペンベルクHeinrich Koppenberg)が任命された。1934年初頭には、コッペンベルクはフリードリヒ・フリックとともに取締役を務めていたアルゲマイネ交通機関(ATG)をユンカース・グループに統合する計画を立てた。

1933年10月、ユンカース社の大株主フーゴ・ユンカースHugo Junkers)はドイツ政府によって経営権を奪われ、ハインリヒ・コッペンベルクHeinrich Koppenberg:1880−1960)が国営ユンカース社長の就任した。

写真(右)1927−1935年、ドイツ、ユンカース(Junkers)社創設者フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)(1859年2月3日 - 1935年2月3日):ユンカースは1919年にユンカース飛行機工場を設立し発展させたが、ヒトラー政権が成立した1933年に株式譲渡を命じられ会社から追放された。ユンカース社は、国営化され、社主にコッペンベルクが派遣された。
Svenska: Hugo Junkers Date 26 May 2020, 16:05:41
Source Flygbragder och bragdflygare, Harald Victorin 1948 Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Photographs by Hugo Erfurth・File:Hugo Junkers 1859-1935.jpg引用。


永岑 三千輝(2020)「航空機開発戦略と国際主義: ユンカースとデートマンの闘い」『横浜市立大学論叢』71 (1)によれば、「総括的に言って、彼[フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)]の 1918 年11月革命への共感、ドイツ民主党員としての貢献、民主主義的共和制・ワイマール体制の支持者としての基本的態度を重要視し、彼の国際的世界的活動の基盤となる民主主義的国際主義、民主主義的民族主義を確認した。

そして、それは、ナチ党に代表されるワイマール体制の根底的批判者の潮流、「匕首伝説」を流布し「十一月の犯罪」を糾弾する排他的抑圧的な帝国主義・人種主義の潮流の対極にあるものであった。

写真(右)1929年12月、ドイツ、アメリカの自動車王ヘンリー・フォード(JHenry Ford)とユンカース社フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)社長(1859年2月3日 - 1935年2月3日):フーゴ・ユンカースは、ユンカースの航空技術であるとして、単葉の主翼構造、波板コルゲート構造の金属製胴体、波板コルゲート構造の金属製主翼をフォードが無断で侵害したとして、アメリカの自動車王ヘンリー・フォード(右)に対して訴訟を起こした。
Photographer Unknown Title Hugo Junkers und Henry Ford Original caption Junkers verklagt Ford! Der deutsche Flugzeugconstrukteur Prof. [Hugo] Junkers (links) hat gegen den amerikanischen Automobilkönig Henry Ford (rechts) einen Prozess wegen Verletzung dreier ihm geschützter Ideen betreffend: den freitragenden Eindecker, den Wellblechrumpf und den Tragflügeln mit Wellblrechdecke, angestrengt. Depicted people Ford, Henry (Autofabrikant), USA (GND 118534300) Junkers, Hugo Prof. (Flugzeugkonstrukteur), Deutschland (GND 118776525) Date December 1929 Collection German Federal Archives Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-08867
写真は BundesarchivおよびWikimedia Commons, Category:Hugo Junkers・File:Bundesarchiv Bild 102-08867, Hugo Junkers und Henry Ford.jpg引用。


フーゴ・ユンカースから株式を強制的に譲渡させ、社主に収まったハインリヒ・コッペンベルク(Heinrich Koppenberg)は、航空機製造の経験がなかった半面、自己の航空省とのつながりの強さを誇示し、航空業界への影響力を強化しようと、ドイツの主要航空機メーカーだったハインケル、ユンカース、ドルニエにも打診した。しかし、航空機増産計画の承認は得られなかった。特に、ユンカース飛行工場 AG とユンカース発動機(モトーレンバウ)の社主フーゴ・ユンカースは、国家社会主義ナチ党政権の再軍備政策が企業家の自由を奪い、民間活力を抑制するとして反対したようだ。

フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)の社会的地位を引き継いだハインリヒ・コッペンベルク(Heinrich Koppenberg)は、航空機製造とはそれまで直接関係はなかったが、1933年12月6日、ユンカース飛行機製造株式会社・監査役会議長、ユンカース発動機製造有限会社(Junkers Motorenbau G. m. b. H. Jumo)支配人、ユンカース社(JunkersWerke)航空大臣全権に任命された。ヒトラーが秘密裡にドイツ再軍備を促進する中で、べルサイユ体制の航空機開発規制やマーケティング制約に縛られず、国家財政が航空機産業に投下され、ユンカース社も大量受注を受けた。そして、需要拡大よりも、供給拡大のための生産能力の増強が過大となったのである。

写真(右)1930−1933年、ドイツ、ユンカース(Junkers)社主フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)(1859年2月3日 - 1935年2月3日):ユンカースは、ベルリン工科大学、アーヘン工科大学で学び、技師として、電気機械、ガスエンジンの開発にもかかわっただけではなく、経済・経営にも精通していた。1919年にユンカース飛行機工場を設立し、会社を世界的飛行機メーカーに成長させた。
Svenska: Hugo Junkers Date 5 June 2020, 10:34:37
Source Mot svarta himlar, Sixten Rönnow, 1946 Author Unknown author
写真はWikimedia Commons, Category:Photographs by Hugo Erfurth・File:Hugo Junkers.jpg引用。


1933年のヒトラー政権誕生で軍事国家化に直面したドイツ航空機産業は、アドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)による1935年3月16日のドイツ再軍備宣言Aufrüstung der Wehrmacht)後、設立された新生ドイツ空軍大臣ヘルマン・ゲーリングHermann Wilhelm Göring)や次官エアハルト・ミルヒに仕切られるようになる。

そして、軍需に依存する軍事化した航空産業は、国防軍や航空省の「合理的な計画」にではなく、官僚の頭越しにナチ党指導層と結合し「ナチズムの申し子」になったという。市場の需給バランスではなく、政治的軍事的な意向を優先した経営が航空業界の軍事化を急速に進展させたといえる。(増田好純(2010)「ナチ体制下ドイツ航空機産業における「労働動員」」参照)

1933年10月、航空省エアハルト・ミルヒ(Erhard Milch; 1892-1972)次官は、補助爆撃機としてユンカース(Junkers)Ju 52/3m三発機を400機を発注したが、会社経営は、従来の民間需要喚起、国内外の市場開拓、営業活動とは全く異なるものとなった。そこで、1933年までのフーゴ・ユンカースの下で作成されたユンカース社文書の多くが、不要書類として、追放されたフーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)の下に送り付けられた。(永岑 三千輝(2019)「フーゴー・ユンカースとドイツ民主党」『横浜市立大学論叢』70 (1), pp.125-162参照)

写真(右)1941年、ドイツ、ユンカース社ハインリヒ・コッペンベルク(Heinrich Koppenberg)社長(1880-1960):
Porträt Dr. h.c. Heinrich Koppenberg Title Heinrich Koppenberg Original caption For documentary purposes the German Federal Archive often retained the original image captions, which may be erroneous, biased, obsolete or politically extreme. Info non-talk.svg Dr. h. c. Heinrich Koppenberg 60 Jahre Am 15. März d. J. begeht eine der markantesten Persönlichkeiten der deutschen Wirtschaft, Dr. h. c. Heinrich Koppenberg, Wehrwirtschaftsführer und Generaldirektor der Junkers Flugzeug- und Motorenwerke AG. seinen 60. Geburtstag. Depicted people Koppenberg, Heinrich Dr.: Wehrwirtschaftsführer, Generaldirektor der Junkers Flugzeugwerke, Deutschland Date 1941 Collection German Federal Archives Blue pencil.svg wikidata:Q685753 Current location Allgemeiner Deutscher Nachrichtendienst - Zentralbild (Bild 183) Accession number Bild 183-2005-0331-502
写真は BundesarchivおよびWikimedia Commons, Category:Heinrich Koppenberg・File:Bundesarchiv Bild 183-2005-0331-502, Heinrich Koppenberg.jpg 引用。


フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)は、1933年10月17日、ユンカース会から追放され、本拠地デッサウ立ち退きを命じられた。それから1年半たたず、1935年2月3日、フーゴ・ユンカース(76歳)は、ミュンヘン、ガウティングで死去した。

1935年には、ハインリヒ・コッペンベルク(Heinrich Koppenberg)は、フリードリヒ・フリックが所有していたマックスヒュッテAG、ミッテルドイツ・シュタールヴェルケAG、リンケ・ホフマン・ラウホハンマーAGの監査委員にも選出された。しかし、ハインリヒ・コッペンベルクHeinrich Koppenberg)は航空機生産の知識も経験もほとんどなかった。エルンスト・ハインケルErnst Heinkel)では、ユンカースを自分の会社に見立てて、他社を蹴落としてドイツ航空界を支配する野望を抱いた独占欲の強い人物として描いている。


4.フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授の国葬

写真(右)1935年2月9日、ドイツ、バイエルン、ミュンヘン、ヴァルトフリートホーフ、フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授の国葬
Am 9. Februar 1935 fand auf dem Münchner Waldfriedhof ein bemerkenswertes Staatsbegräbnis statt. Die zahlreichen Trauergäste waren zum großen Teil von weit hergereist. Sie kamen aus dem anhaltinischen Dessau und waren Direktoren, Angestellte und Arbeiter der Junkerswerke, die ihrem ehemaligen Arbeitgeber Professor Hugo Junkers das letzte Geleit geben wollten. Angeordnet hatte dieses prunkvolle Begräbnis Reichskanzler Hitler persönlich. Sein Stellvertreter Rudolf Hess legte nun einen Kranz an dem Grab ausgerechnet des Mannes nieder, der vorher monatelang von den Nationalsozialisten als Staatsfeind verfolgt und um sein Lebenswerk gebracht worden war.
写真は Der Mensch Hugo Junkers.・Junkers Kalenderblätter Nr. 32 [Februar 2010]引用。


1935年2月3日にヒューゴ・ユンカース教授が亡くなると、1935年2月9日、バイエルン、ミュンヘン、ヴァルトフリートホーフで国葬が行われた。多くの弔問客はデッサウか来たユンカース工場の取締役、従業員、労働者であり、ユンカースの生みの親で育ての親でもあるヒューゴ・ユンカース教授に最後の別れを告げた。この盛大な葬儀はヒトラー首相自らが手配した。ヒューゴ・ユンカース教授は、国家社会主義の敵として何か月もドイツ政府から迫害され、生涯の仕事を奪われたが、その国家社会主義ドイツのヒトラー副官ルドルフ・ヘスが、自由を愛したヒューゴ・ユンカース教授の墓前に花輪を捧げたのである。

写真(右)1935年2月9日、ドイツ、バイエルン、ミュンヘン、ヴァルトフリートホーフ、フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授の国葬
Doch das durfte die Öffentlichkeit nicht erfahren. Nach außen hin musste der Anschein gewahrt werden, dass die Junkers Flugzeug- und Motorenwerke auch unter staatlicher Leitung das Erbe des weltberühmten Forschers und Industriellen bewahren und weiterführen würden. Unter dem Deckmantel des Verkehrsflugzeugbaues würde es gelingen, einen modernen und leistungsfähigen Rüstungsbetrieb aufzubauen..Mit seinen innovativen Ingenieuren und hervorragend ausgebildetem Personal boten diese Werke die besten Voraussetzungen dazu, leistungsfähige Kriegsflugzeuge in Serie zu produzieren. Lange Zeit gab es nur ein Hindernis bei der Umsetzung dieses Plans: der Inhaber der Werke, Prof. Hugo Junkers.
写真は Der Mensch Hugo Junkers.・Junkers Kalenderblätter Nr. 32 [Februar 2010]引用。


フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授の盛大な葬儀は、ヒトラー首相自らが手配し、副官ルドルフ・ヘスは、墓前に花輪を捧げた。しかし、フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授は、新ドイツ政府から国家の敵とされ、国家社会主義に反攻する人物として、ユンカース社を取り上げられて、飛行機開発という生涯の仕事を奪われた。しかし、ドイツ国民は、フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授が迫害された事実を知らされず、ユンカースの死が、対外的なプロパガンダとして利用されたことにも気づかなかった。つまり、国家社会主義者たちは、ユンカースの航空機・エンジン工場が、国家管理の下におかれ、順調に発展していること、国営工場では、設備と世界的な技術者・研究者を引き継いで、新たな経営体制で順調に発展している印象を喧伝したのである。

ヒトラーの元で、再軍備宣言前から、民間航空機の建設を隠れ蓑にして、近代的で強力な兵器工場を設立したのである。このための大きな障害が、ユンカース社の自由主義的な経営方針とそれを旨とした社主フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授だった。そこで、ユンカースは迫害され、ユンカース工場を取り上げられてしまったのである。

写真(右)1935年2月9日、ドイツ、バイエルン、ミュンヘン、ヴァルトフリートホーフ、フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授の国葬に花輪を捧げたヒトラー副官ルドルフ・ヘス(Rudolf Hess)
Dessen Lebensziel war es nämlich, Forschung zu betreiben und mit Hilfe dieser Forschung Produkte zu entwickeln, die den Menschen das Leben erleichtern und verschönern sollten. Zu diesem Zweck hatte er bereits in der Mitte seines Lebens eine Versuchs- und Forschungsanstalt gegründet, die sich mit vielfältigen Problemen beschäftigte und zahlreiche innovative Produkte wie das Kalorimeter, den Gasbadeofen, das erste flugfähige Metallflugzeug, das erste reine Verkehrsflugzeug und den ersten Dieselflugmotor hervorbrachte. Diese Forschungsanstalt wurde finanziert von den zu einem Konzern zusammengefaßten verschiedenen Produktionsstätten, in denen die Produkte auf ihre Serien- und Praxistauglichkeit getestet und weiterentwickelt wurden. Forschung und Produktion bildeten nach Auffassung des Gründers eine Einheit. Um Qualitätserzeugnisse hervorzubringen, die auf dem Weltmarkt konkurrenzfähig seien, dürfe kein Teil von dem anderen getrennt werden. Von dieser Überzeugung brachten ihn weder wirtschaftliche Tiefschläge noch der Druck staatlicher Behörden ab..
写真は Der Mensch Hugo Junkers.・Junkers Kalenderblätter Nr. 32 [Februar 2010]引用。


1929年のミュンヘン一揆の首謀者、アドルフ・ヒトラーは、有罪判決を受け、ランツベルク刑務所に収監された。同志のルドルフ・ヘスも同じく収監されたが、そこにヘスのミュンヘン大学時代恩師で地政学者ハウスホーファー教授が面会にしばしば訪問し、そこからヒトラーは後年に『わが闘争』として刊行される著作の口述筆記を始めるようになる。このヒトラーの口述筆記に当たったのが文才もあったルドルフ・ヘスだった。

ルドルフ・ヘスは、ランツベルク刑務所から釈放された後、ミュンヘン大学でハウスホーファーの助手を経て、ナチ党アドルフ・ヒトラーの個人秘書としての生きがいを得た。アドルフ・ヒトラーの権力基盤はナチ党だったが、そこには組織だった官僚機構ではなく、ヒトラーの意志を代弁する組織であったため、ルドルフ・ヘスがナチ党幹部の肩書はなくとも、ヒトラーの側近として大きな権威を認められていた。wikipediaに「1932年までヘスにはナチ党内で公式の肩書は何もなく、ヒトラーの個人的な秘書にすぎなかった」とあるが、これはヘスの権威を過小評価する誤解を招く表現である。

ルドルフ・ヘスはヒトラーのとナチ党の宣伝のために、航空機を用いることに熱心だっただけではなく、自ら飛行技術を習得しており、飛行機の操縦もできた。そこで、ヒトラーの飛行巡回演説に同行、対外宣伝に積極的に参加した。1931年、対立する社会民主党の集会に、ヘスの搭乗する飛行機が低空威圧飛行を仕掛けたこともある。

1932年12月3日に首相に就任した国防軍出身クルト・フォン・シュライヒャー(Kurt von Schleicher)将軍は、ナチ党全国指導者グレゴール・シュトラッサー(Gregor Straßer)に副首相の地位を餌に抱き込んで、ナチ党を敵対勢力として弱体化しようとした。しかし、入閣ではなくあくまでも首相の座を求めるヒトラーは、ナチ党の分裂を許さず、シュトラッサーはナチ党を追われることになった。その後1932年12月、シュトラッサーのナチ党指導者の地位をヒトラー秘書ルドルフ・ヘスと労働組織指導者ロベルト・ライに分割して分け与えた。中央政治局長の地位を与えられたルドルフ・ヘスは、ナチ党の監督者となった。

1934年8月2日、ドイツ大統領パウル・フォン・ヒンデンブルクが86歳で没すると、首相だったアドルフ-ヒトラーは、大統領職を事実上兼任する総統となり、一党独裁の下、軍事国家を樹立した。つまり、1935年3月16日にアドルフ・ヒトラー総統が、べルサイユ条約の軍事制限条項を破棄し、ドイツの再軍備を宣言する前から、ドイツ再軍備、空軍力の育成は開始されており、はやい速度で軍備を充実させていたのである。

 このように、ナチ党の独裁的支配を確立していたヒトラーにとって、軍需産業っを掌握するためには、企業がヒトラーに従属することが求められた。そこで、企業の主体的な自由を重視するフーゴ・ユンカースのような経営者は存続を許されなくなったのである。

増田好純(2010)「ナチ体制下ドイツ航空機産業における「労働動員」」によれば、国策会社ユンカースのハインリヒ・コッペンベルクHeinrich Koppenberg:1880−1960)は、航空省による最初の発注として1933年10月、Ju52爆撃機400機を受け「ドイツ航空界のパイオニア」として世界的名声を得たが、1935年5月の全国統計局工業生産統計173億マルクの0.2%相当の3750万マルクを占めるのみだった。航空機産業として計279部門中97位だった。

しかし、ユンカース社は1933/34年度受注高は8700万マルクだったが、1937年12月にJu88爆撃機の受注を勝ち取り、流れ作業によってJu88爆撃機の大量生産を行うことになった。1937/38年度のJu88爆撃機を含む受注高は5億5000万マルクに達した。ユンカースの従業員は、1933年3098名から1938年の4万6942名の15倍もの増加を見せている。(増田好純(2010)「ナチ体制下ドイツ航空機産業における「労働動員」」引用終わり)


4.ユンカース(Junkers)Ju 86 輸送機


図(右)1936年頃、ドイツ、飛行場で待機するドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 試作5号機V-5爆撃機(D-HAOE)の左側面
:Ju86は1934年11月4日初飛行で、後にJu86A−1爆撃機として制式された。機首には旋回機関銃座、胴体下面に引込み式銃座、胴体後上方旋回機関銃座を設けている。
Junkers Ju 86V-5 Prototype of Junkers Ju 86A-1 series PictionID:44219417 - Title:Junkers Ju 86V-5 Prototype of Junkers Ju 86A-1 series - Catalog:16_005372 - Filename:16_005372.TIF - - - - - - - Image from the Ray Wagner Collection. Ray Wagner was Archivist at the San Diego Air and Space Museum for several years and is an author of several books on aviation Repository: San Diego Air and Space Museum Archive
写真は, SDASM Archives 引用。


ドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)は、第一次大戦敗北の荒廃から復興したドイツで、1926年1月に設立された国策会社である。出資は、ドイツ政府26%、ドイツ地方自治体19%と財政に支えられた公営企業で、ドイツの国内外の航路運航を独占した。し1945年5月、ドイツが第二次世界大戦で再び敗戦すると、ルフトハンザ航空は解散された。

1949年5月23日に西ドイツ(ドイツ連邦共和国)が成立し、1953年には再建が決まり、1954年8月に「ルフトハンザドイツ航空」の名称で復活を遂げた。ヨーロッパ、アメリカ、アフリカ、アジアをカバーするグローバル・ビジネスに繋がるつながる国際航空運輸、国際旅客輸送にドイツ・ルフトハンザ航空(DLH:Deutsche Lufthansa AG)は大きな役割を果たすことになった。この旅客輸送を支えたのが、ユンカース社の輸送機に体現されたドイツ航空技術と飛行機生産だった。

1934年、ドイツ航空省は、双発高速旅客輸送機/双発爆撃機の開発をハインケル社とユンカース社に要請した。1935年3月16日にアドルフ・ヒトラーAdolf Hitler)によるヴェルサイユ条約の軍事制限条項を破棄、すなわちドイツ再軍備宣言のなされる1年前ではあるが、ヒトラー政権前のワイマール共和国時代から、闇の国防軍が秘かに組織されていたドイツでは、軍用機の秘かな開発は当たり前のことだった。

ユンカースJu86 abl爆撃機試作1号機の初飛行は1934年11月4日、ハインケルHe111爆撃機の初飛行は1935年2月24日である。

ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju86 D 爆撃機は 爆弾搭載量800 kg (16発 × SC 50キロ爆弾)。機首は長く、先端に銃座を設けている。全長17,87 m、全幅22,50 m、全高5,06 m、主翼面積82m2,発動機は、ユンカース ユモ205C (Junkers Jumo 205C) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン(diesel engine)600 PS (447 kW)を装備。総重量8.200 kg、最高速力325 km/h (3000 m)、航続距離1500km、爆弾搭載量 800 kg (16 × SC 50)、上昇限度5900 m

ユンカース社が開発したユンカース(Junkers)Ju86 E 爆撃機は、1939年9月に勃発した第二次世界大戦でも初期にドイツ空軍双発爆撃機として実戦配備されていた。発動機は、従来のユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンの信頼性が不足していたために、Ju52輸送機にも搭載されており、ドイツで普及し整備しやすかった信頼性の高いBMW132空冷星形エンジンに換装されている。

⇒写真集Album:ユンカース(Junkers)Ju 86 K 爆撃機を見る。

ユンカースJu86は、1934年11月に爆撃機仕様の試作1号機V1を初飛行させ、1935年1月には民間輸送機仕様の試作2号機V2を初飛行させた。発動機は、軍用/民間仕様ともにジーメンスSh 22空冷星型9気筒エンジン2基である。

1934年11月4日初飛行のユンカース(Junkers)Ju86は、民間航空仕様とドイツ空軍爆撃機仕様の双方に使用できる高速双発機として開発された。発動機は、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジンで、ガソリンエンジンよりも重かったが、燃費が良かった。

写真(右)2010年9月、ドイツ、コブレンツ国防技術博物館 (Wehrtechnische Studiensammlung (WTS) Koblenz)、ユンカース(Junkers)Ju86 E 爆撃機の装備したのと同じユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine):このエンジンは、ドルニエ(Dornier)Do 26四発飛行艇が搭載していた。Ju86は、BMW 132 F空冷星型9気筒エンジンに換装し、輸出用のJu86も発動機は、諸外国で入手しやすいアメリカ製、イギリス製の空冷星型エンジンを装備した。
English: Junkers Jumo 205 aircraft engine, manufactured by Germany between 1938 and 1940 for the Dornier Do 26 A flying boat. A six-cylinder single-row liquid-cooled engine with opposed pistons. (Cross-section.)
Slovenčina: Letecký motor Junkers Jumo 205, vyrábaný Nemeckom v rokoch 1938-1940 pre lietajúci čln Dornier Do 26 A. Šesťvalcový radový vodou chladený motor s protibežnými stojatými piestami. (Prierez.)
Date 4 September 2010, 13:38:07 Source Own work Author ZemplinTemplar
写真はWikimedia Commons, Category:Junkers Jumo 205 File:Jumo205 cutview 02.jpg引用。


ユンカース社は自ら新型のユンカース液冷6気筒ディーゼルエンジンを開発し、燃費の良さを活かそうと、Ju86の試作機に搭載した。飛行性能は、ハインケルHe 111と比べると劣ったが、量産性に優れていたために、爆撃機仕様と輸送機仕様はともに採用された。

写真(右)2007年8月、ドイツ、コブレンツ国防技術博物館 (Wehrtechnische Studiensammlung (WTS) Koblenz)、ユンカース(Junkers)Ju86 E 爆撃機の装備した発動機ユンカース(Junkers)ユモ(Jumo)205ディーゼルエンジン(diesel engine)のカットモデル:内部構造がわかるようにシリンダーもカットされている。
English: 1940 Blohm & Voss BV 138 Junkers Jumo 205 2-stroke Diesel engine photographed at the Louwman museum. Date 13 January 2017, 12:35:21 Source Own work Author Alf van Beem
写真はWikimedia Commons, Category:Junkers Jumo 205 File:1940 Blohm & Voss BV 138 Junkers Jumo 205 2-stroke Diesel engine photo1.JPG引用。


ドイツ製ユンカース(Junkers)Ju86 B 双発輸送機の発動機は、ユンカース ユモ205 (Junkers Jumo 205) 2ストローク対向12ピストン式直列6気筒液冷ディーゼルエンジン(diesel engine)600 PS (441 kW)で、ガソリンエンジンよりも重かったが、燃費が良かった。ただし、成層圏飛行のような高度12kmもの高空には上昇できない。


7.ユンカースG.38巨人輸送機

写真(右)1929年11月、ドイツ、ユンカース(Junkers)G.38旅客機とユンカース社主フーゴ・ユンカース(Hugo Junkers)教授(1859年2月3日 - 1935年2月3日):ユンカース(Junkers)G.38は1929年 11月6日に初飛行した全長23.21 m、全幅44 m、全備重量24,000 kgの四発大型輸送機で2機のみ製造され、第二次世界大戦緒戦ではバルカン方面への輸送に使用された。
Photographer Unknown Title Hugo Junkers mit Mitarbeitern Original caption Das "fliegende Haus", das grösste deutsche Landflugzeug der Welt!
Der General-Construkteur Prof. Junkers (x) mit seinen Mitarbeitern vor dem neuen Riesen-Flugzeug G. 38.
Depicted people Junkers, Hugo Prof.: Flugzeugkonstrukteur, Deutschland (GND 118776525) Date November 1929 Collection German Federal Archives Current location Aktuelle-Bilder-Centrale, Georg Pahl (Bild 102) Accession number Bild 102-08683
写真は BundesarchivおよびWikimedia Commons, Category:Hugo Junkers・File:Bundesarchiv Bild 102-08683, Hugo Junkers mit Mitarbeitern.jpg引用。


写真(右)1934年6月、ドイツ、ザクセン州ドレスデン飛行場、ドイツ・ルフトハンザ航空ユンカースG38大型輸送機と新鋭ボーイング(Boeing)247 輸送機(登録コード:D-AGAR):垂直尾翼にはドイツの国章としてナチ党鍵十字黒のスワスチカ卍が赤帯白丸に描かれている。
Flugplatz Dresden-Heller, Rollfeld mit Boing 247 und Großflugzeug Junkers G38 "Generalfeldmarschall von Hindenburg" Foto: Hahn, Walter, 1934.06 Datensatz 70058794 Hahn, Walter: Flugplatz Dresden-Heller, Rollfeld mit Boing 247 und Großflugzeug Junkers G38 "Generalfeldmarschall von Hindenburg", 1934.06Dresden Google-Maps-Lokalisierung: Stadt: Dresden, Provinz: Sachsen, Land: Deutschland KEYWORDS / CLASSIFICATION: Technikgeschichte, Flughafen, Flugverkehr.
写真はSLUB / Deutsche Fotothek Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309799引用。


写真(右)1934年6月、ドイツ、ザクセン州ドレスデン飛行場、ドイツ・ルフトハンザ航空ユンカースG38大型輸送機と新鋭ボーイング(Boeing)247 輸送機:垂直尾翼にはドイツの国章としてナチ党鍵十字黒のスワスチカ卍が赤帯白丸に描かれている。
Dresden. Flugplatz Dresden-Heller. Rollfeld mit Verkehrsflugzeugen Junkers G-38 "generalfeldmarschall von Hindenburg", Boeing 247 und Junkers Ju-60. Blick zum Abfertigungsgebäude mit Kontrollturm Foto: Hahn, Walter, 1934.06 Dresden Google-Maps-Lokalisierung: Stadt: Dresden, Provinz: Sachsen, Land: Deutschland KEYWORDS / CLASSIFICATION: Technikgeschichte, Flughafen, Flugverkehr.
写真はSLUB / Deutsche Fotothek Aufn.-Nr.: df_hauptkatalog_0309800引用。




2011年7月刊行の『写真・ポスターに見るナチス宣伝術-ワイマール共和国からヒトラー第三帝国へ』青弓社(2000円)では、反ユダヤ主義、再軍備、ナチ党独裁、第二次世界大戦を扱いました。ここでは日本初公開のものも含め130点の写真・ポスターを使って、ヒトラーの生い立ち、第一次大戦からナチ党独裁、第二次大戦終了までを詳解しました。

ナチ党ヒトラー独裁政権の成立:NSDAP(Nazi);ファシズムの台頭
ナチ党政権によるユダヤ人差別・迫害:Nazis & Racism
ナチスの優生学と人種民族:Nazis & Racism
ナチスの再軍備・人種差別:Nazism & Racism
ドイツ国防軍のヒトラー反逆:Ludwig Beck
ゲオルク・エルザーのヒトラー暗殺未遂:Georg Elser
ヒトラー暗殺ワルキューレ Valkyrie作戦: Claus von Stauffenberg
ナチスT4作戦と障害者安楽死:Nazism & Eugenics
ハンセン病Leprosy差別
ポーランド侵攻:Invasion of Poland;第二次大戦勃発
ワルシャワ・ゲットー写真解説:Warsaw Ghetto
ウッジ・ゲットー写真解説:Łódź Ghetto
ヴィシー政権・反共フランス義勇兵:Vichy France :フランス降伏
ワルシャワゲットー蜂起:Warsaw Uprising
アンネ・フランクの日記とユダヤ人虐殺:Anne Frank
ホロコースト:Holocaust;ユダヤ人絶滅
アウシュビッツ・ビルケナウ収容所の奴隷労働:KZ Auschwitz
マウトハウゼン強制収容所:KZ Mauthausen

◆毎日新聞「今週の本棚」に『写真・ポスターから学ぶ戦争の百年 二十世紀初頭から現在まで』(2008年8月25日,青弓社,368頁,2100円)が紹介されました。ここでは,第二次大戦,ユダヤ人虐殺・強制労働も分析しました。

与謝野晶子の日露戦争・日中戦争
石川啄木を巡る社会主義:日清戦争・日露戦争から大逆事件
魯迅(Lu Xun)の日本留学・戦争・革命・処刑
文学者の戦争;特攻・総力戦の戦争文学
戦争画 藤田嗣治のアッツ島玉砕とサイパン島玉砕
統帥権の独立から軍閥政治へ:浜田国松と寺内寿一の腹切り問答

ポーランド侵攻:Invasion of Poland
バルカン侵攻:Balkans Campaign;ユーゴスラビア・ギリシャのパルチザン
バルバロッサ作戦:Unternehmen Barbarossa;ソ連侵攻(1)
スターリングラード攻防戦;Battle of Stalingrad :ソ連侵攻(2)

自衛隊幕僚長田母神空将にまつわる戦争論
ハワイ真珠湾奇襲攻撃
ハワイ真珠湾攻撃の写真集
開戦劈頭の「甲標的」特別攻撃隊
サイパン玉砕戦:Battle of Saipan 1944
沖縄玉砕戦と集団自決:Battle of Okinawa 1945
沖縄特攻戦の戦果データ
戦艦「大和」天1号海上特攻 The Yamato 1945
人間爆弾「桜花」Human Bomb 1945
人間魚雷「回天」人間爆弾:Kaiten; manned torpedo
海上特攻艇「震洋」/陸軍特攻マルレ艇
日本陸軍特殊攻撃機キ115「剣」

日本陸軍八九式中戦車・九一式重戦車
フランス軍シャール 2C(FCM 2C)・イギリス軍ヴィッカースA1E1・日本陸軍九一式重戦車
ソ連赤軍T-34戦車ソ連赤軍T-35多砲塔重戦車
ソ連赤軍KV-1重戦車・KB-2重自走砲;Kliment Voroshilov

フィアット(FIAT)アウトブリンダ(Autoblindo)AB41装甲車
ドイツ軍Sd.Kfz. 221-4Rad四輪装甲車/Sd.Kfz. 231-6Rad六輪装甲車
ドイツ軍の八輪偵察重装甲車 Sd.Kfz. 231 8-Rad
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.250ハーフトラック
ドイツ軍装甲車Sd.Kfz.251ハーフトラック
ドイツ陸軍I号戦車/47mm対戦車自走砲
ドイツ陸軍チェコ38(t)戦車:Panzerkampfwagen 38(t)
ドイツ陸軍2号戦車
ドイツ陸軍3号戦車
ドイツ陸軍4号戦車・フンメル自走砲
ドイツ陸軍マーダー対戦車自走砲 Panzerjäger 38(t) Marder
ドイツ陸軍ヘッツァー駆逐戦車 Jagdpanzer 38(t) 'Hetzer'
ドイツ陸軍III号突撃砲 Sturmgeschütze III
ドイツ陸軍IV号戦車(Panzerkampfwagen IV:Pz.Kpfw.IV)
ドイツ陸軍ナースホルン,フンメル自走砲,IV号駆逐戦車,ブルムベア突撃砲
VI号ティーガー重戦車
ドイツ陸軍VI号キングタイガー"Tiger II" /ヤークトティーゲル駆逐戦車"Jagdtiger"
V号パンター戦車
ドイツ陸軍V号ヤークトパンター(Jagdpanther)駆逐戦車

イギリス軍マチルダMatilda歩兵戦車
イギリス陸軍A22 チャーチル歩兵戦車: Churchill Infantry Tank Mk IV
イギリス陸軍バレンタイン(Valentine)歩兵戦車
イギリス陸軍クロムウェル(Cromwell)巡航戦車
M10ウォルブリン(Wolverine)/アキリーズ(Achilles)駆逐自走砲GMC
イギリス軍クルーセーダーCrusader/カヴェナンター/セントー巡航戦車
イギリス軍M4A4シャーマン・ファイアフライ Sherman Firefly戦車
英軍M10ウォルブリン/アキリーズ駆逐自走砲GMC
イギリス陸軍コメット巡航戦車

アメリカ軍M3Aスチュアート軽戦車/M3グラント/リー中戦車
アメリカ軍グラント(Grant)/リー(Lee)中戦車
アメリカ陸軍M4シャーマン中戦車Sherman Tank
シャーマン・クラブフライル地雷処理戦車 Sherman Crab Flail

フォッカー(Fokker)F.VIIb-3mトライモーター三発輸送機
シェルバ(Cierva)/ピトケイアン(Pitcairn)/ケレット(Kellett)のオートジャイロ
ロッキード(Lockheed)モデル 10 エレクトラ (Electra)輸送機
ロッキード14スーパーエレクトラ(Super Electra)/ロードスター(Lodestar)輸送機
ボーイング(Boeing)247旅客機
ダグラス(Douglas)DC-1旅客輸送機
ダグラス(Douglas)DC-2輸送機
ダグラス(Douglas)DC-3輸送機
ダグラス(Douglas)DC-4E旅客機
ダグラス(Douglas)C-39軍用輸送機
ダグラス(Douglas)C-47スカイトレイン(Skytrain)輸送機
アメリカ陸軍ダグラス(Douglas)C-54 スカイマスター(Skymaster)輸送機
アメリカ海軍ダグラス(Douglas)R5D スカイマスター(Skymaster)輸送機

ユンカース(Junkers)F.13輸送機
ユンカース(Junkers)W33輸送機「ブレーメン」(Bremen)大西洋横断飛行
ユンカース(Junkers)A50軽飛行機「ユニオール」"Junior"
ユンカース(Junkers)W.33輸送機/W.34水上機
ユンカース(Junkers)K43f水上機
巨人機ユンカース(Junkers)G38輸送機/九二式重爆撃機
ユンカース(Junkers)G.24輸送機/K30(R42)水上偵察爆撃機
ユンカース(Junkers)G.31輸送機
ユンカース(Junkers)Ju52/3m輸送機
ハインケル(Heinkel)He70高速輸送機ブリッツ(Blitz)
ハインケル(Heinkel)He111輸送機
ルフトハンザ航空フォッケウルフFw200輸送機/ドイツ空軍コンドル哨戒偵察機
ルフトハンザ航空ユンカース(Junkers)Ju90輸送機

フィリックストウ(Felixstowe)F2/F3/ポート(Porte)/フューリー(Fury)/F5 飛行艇
カーチス(Curtiss)H-16/海軍航空工廠(NAF)F.5L 双発飛行艇
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
軍航空工廠(NAF)F.5L/ カーチス(Curtiss)H-16飛行艇の生産
NAF H-16民間仕様エアロマリン(Aeromarine)75飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)サザンプトン(Southampton)双発飛行艇
サンダース・ロー(Saunders-Roe)A.19 / A.29 クラウド(Cloud)双発飛行艇
ブラックバーン(Blackburn)アイリス(Iris)/ パース(Perth)飛行艇
ショート(Short)シンガポール(Singapore)四発飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ウォーラス(Walrus)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)シーオッター(Sea Otter)水陸両用飛行艇
スーパーマリン(Supermarine)ストランラー(Stranraer)飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-36水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-38水陸両用飛行艇
シコルスキー(Sikorsky)S-40飛行艇「アメリカン・クリッパー」"American Clipper"
シコルスキー(Sikorsky)S-42飛行艇アメリカン・クリッパー"American Clipper"
マーチン(Martin)M-130チャイナ・クリッパー/M-156四発飛行艇
ボーイング(Boeing)314飛行艇クリッパー"Clipper"

フィンランド内戦:Finnish Civil War
フィンランド対ソ連 1939‐1940年「冬戦争」Talvisota
ソ連フィンランド第二次ソ芬継続戦争Continuation War
フィンランド空軍の対ソ連1939年「冬戦争」1941年「継続戦争」
第二次ソ芬継続戦争のフィンランド海軍(Merivoimat)
第二次対ソビエト「継続戦争」1944年流血の夏、フィンランド最後の攻防戦
ブレダ1916/35年式76ミリ海軍砲(Cannon 76/40 Model 1916)
ブレダ20ミリ65口径M1935機関砲(Breda 20/65 Mod.1935)
フィンランド軍の対空機関銃◇Anti-aircraft machineguns
フィンランド軍の高射砲;Anti-aircraft Guns
フィンランド海軍の対空火器◇Anti-aircraft firearm:Fin Navy
フィンランド軍の防空監視哨

ドルニエ(Dornier)Do-Jワール/スパーワール飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-X 飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do18飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do24飛行艇
ドルニエ(Dornier)Do-26四発高速飛行艇
ブローム・ウント・フォス(Blohm & Voss)BV222バイキング/BV238飛行艇
ハインケル(Heinkel)He 59 救難機/水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He 60 複葉水上偵察機
ドルニエ(Dornier)Do-22偵察爆撃機
ハインケル(Heinkel)He 114 艦載水上偵察機
ハインケル(Heinkel)He115水上偵察機
アラド(Arado)Ar-196艦載水上偵察機
ブロームウントフォッスBV138飛行艇
ブロームウントフォッスBV222飛行艇

ドイツ空軍ルフトバッフェ(Luftwaffe)Bf110,FW58,Go242
ヘンシェル(Henschel)Hs129地上攻撃機
ウルフ(Focke-Wulf)Fw 58 ワイエ"Weihe"練習機
ジーベル(Siebel)Fl 104/ Si 204/ C2A 連絡機
ヘンシェル(Henschel)Hs-126近距離偵察機
フィーゼラー(Fieseler)Fi-156シュトルヒ連絡機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw-189偵察機ウーフー"Uhu"
ブロームウントフォスBlohm & Voß BV-141偵察機
ハインケル(Heinkel)He-51複葉戦闘機/アラド(Arado)Ar68
ハインケル(Heinkel)He 100(He 113)戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 E/F 戦闘機
メッサーシュミット(Messerschmitt)Me-109 G/K 戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190戦闘機
フォッケウルフ(Focke-Wulf)Fw190D戦闘機
ハインケル(Heinkel)He280/He162ジェット戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-87スツーカ急降下爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17 爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 215偵察機
ドルニエ(Dornier)Do 217爆撃機
ドルニエ(Dornier)Do 17/215/217 カウツ(Kauz)夜間戦闘機
ドイツ空軍ハインケル(Heinkel)He111爆撃機
ドイツ空軍ユンカース(Junkers)Ju-88爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 D偵察機/S高速爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju88 C/R/G夜間戦闘機
ユンカース(Junkers)Ju-188爆撃機
ユンカース(Junkers)Ju388高高度偵察機

ドイツ空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥
エルンスト・ハインケル(Ernst Heinkel)教授
ムッソリーニ救出作戦
イタリア独裁者ムッソリーニ
独裁者ムッソリーニ処刑
ウィンストン・チャーチル Winston Churchill 首相
マンネルヘイム(Mannerheim)元帥のフィンランド対ソ連「冬戦争」「継続戦争」

サヴォイア=マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.73輸送機
カント(CANT)Z.501ガビアーノ(Gabbiano)飛行艇
カント(CANT)Z.506アイローネ(Airone)水上機
サヴォイア=マルケッティSM.75 Marsupial(有袋類)輸送機
サヴォイア・マルケッティSM.82カングロ輸送機
フィアット(Fiat)G.18V輸送機
フィアット(Fiat)G.12/G.212三発輸送機
サボイア・マルケッティ(Savoia Marchetti)SM.79爆撃機
フィアット(Fiat)BR.20/イ式重爆撃機
サヴォイア・マルケッティ(Savoia-Marchetti)SM.84爆撃機
カント(CANT)Z.1007爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.135爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.310偵察爆撃機
カプローニ(Caproni)Ca.311軽爆撃機
ピアジオP.108重爆撃機
マッキ(Macchi)MC.200サエッタ戦闘機
マッキ(Macchi)MC.202フォゴーレ"Folgore"戦闘機
マッキ(Macchi)MC.205Vべルトロ"Veltro"戦闘機


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